カテゴリー別アーカイブ: シミジミ書いた編

自分なりの旅について…の1

 旅というものを考える機会があって、自分なりに“自分の旅”について思いを巡らしていた。すると、自分の旅というのはどちらかと言えば地味で、当然今風でもなくて、人に勧めてもあまり乗ってこないものなのだということが改めて分かってきた。

 旅が好きだと言っても、恥ずかしながら海外経験は二回だけ。定番のような新婚旅行と、仕事の研修旅行だけだ。

 こんな状態なのであるから、所謂、旅は海外しかないというニンゲンたちと旅談義などをしていても何だか落ち着かなくなり、敢えてこちらからは話に入っていかないようにしてきた…… 実は周囲に、ボクのことを世界の観光地に行き慣れたニンゲンだと勘違いする人が数人いた。そういった何の根拠もない勘違いは、ボクにとってはある意味非常に迷惑であり、そこでまた余計な言い訳なんぞを求められたりするのが嫌だった。

 ボクはただセーヨーの都よりも、ニッポンの田舎の方が好きだったのだ。

 そんな中で、いつも旅のスタイルは大切にしていた。どんなところへ出かける時でも、できるだけ自分が求める旅のスタンスを基本において、主たる目的が仕事であろうと何であろうと、自分の中の旅というものに結び付けていた。

 その基本は、歩くことだった。そして、それはその土地の歴史などといった要素に直結することもあったが、土地そのものをただ漠然と見て歩くだけということでもあった。

 振り返ってみると、そのきっかけとなったのは、学生時代に上州のある山間の温泉場へ行った時、ふらふらと周辺を歩いたことだったように思う。まだ二十歳の頃で、しかもその時は大学の体育会の行事かなんかで行っていた記憶があり、旅情を求めるなんてことはない。しかし、漠然と歩いていながら、今まで全く知らなかった空気を感じた。

 晩春だったが、気が付くと土埃をかぶった雪がまだ残っていた。突き刺すような冷たい風が吹く朝に、元気に登校していく子供たちを見た。足元の雪解け水の激しい流れに身体を震わせながら、野菜を干す老婆の手にはめられた軍手に妙な温もりを感じた。

 そういうものたちが目に焼き付いていた。あれはいったい自分にとって何だったのか。

 その年の暮れだったろうか、年末のアルバイトを終えたあと、ボクは新宿から松本を経由して金沢に向かう帰省の計画をたて、その途中寄り道をして、木曽街道を歩こうと決めていた。島崎藤村を読み耽ったあとということもあり、木曽は憧れの土地でもあった。しかし、中途半端な年の暮れ、寒さと寂しさが身に沁みた旅だった。

 翌年から年末の帰省はこのルートにし、松本で三時間半ほどの時間を作って、まち歩きや好きな喫茶店での本読みに充てた。これはなかなかのリッチなひと時であった。そして、大糸線松本発金沢行き(糸魚川で新潟行きとに分かれる)の急行列車に揺られ、時折無人駅のホームで、長い停車時間が与えられるという出来事なども楽しみながらの上品極まりない旅であったのだ。

 大学卒業の春には京都・奈良へと出かけ、旅の締めくくりに柳生街道をカンペキに歩いた。一日がかりの山歩きといった感じだったが、最後に高台(峠)から夕暮れが近づく柳生の里を見下ろした時の胸の高まりは今も忘れていない。

 柳生の里ではすっかり日が落ち、奈良市内へ戻るバスを待つ間、地元のやさしい酒屋さんの店先で休ませてもらったのを覚えている。

 その四ヶ月後に出かけた同じ奈良の山辺の道は、しっかり二日がかりの歩き旅だった。

 入ったばかりの会社を三ヶ月ほどでやめ、ふらふらしていた頃で、気持ちとしては完全な解放状態とは言えなかった。しかし、のちに山へも頻繫に出かけるようになる親友Sとの最初の旅が山辺の道であり、その後のドタバタを予感させるに十分な愉しさに満ちていた。

 大きな古墳のある町で予約していた旅館。たしか道中には、他にユースホステルしかなく、そっちはいろいろ面倒だからと、その旅館に予約を入れておいた。

 歩き疲れて旅館に着くと、ボクたちには三つの部屋が与えられ、食事はここ、寛ぐのはここ、寝るのはここと案内された。

 ボクたちが行ったのは九月。宿帳が出され記帳しようとすると、ボクたちの前は六月の日付が記されていた。

 ゆっくりしようとクーラーのスイッチを入れると、白い埃とともにカッツンという音がし、クーラーはそのまま止まった。寛ぐ部屋は使用不可となり、食事する部屋へと移動。こちらのクーラーは問題なかった。

 トイレに行くと紙が置かれていないので当然もらいに行く。風呂は浴槽となる大きな桶が真ん中にドスンと置かれ、それ自体はもちろん、セメントの床もカラカラに乾いていた。もちろん湯は入っていない。どうすればよいかと聞きに行くと、自分で入れてくださいと言われた。ボクたちは当然浴室掃除もした……

 その反動もあってか、夕食時間は二人で異様に盛り上がった。その旅館は本業が仕出し屋さんで料理は質量ともに申し分なく、しばらくすると飲めや歌えとなり、床の間に置かれてあった太鼓と三味線までが持ち出された。Sが太鼓でボクが三味線を受け持ってのジャムセッション……ところが、乗ってきてトレモロ弾きをしたところで三味線の糸が切れてしまった。なぜか異様におかしく、二人してただ笑い転げていた。

 そのうち、立ち上がろうとして浴衣の裾を踏みつけると、下半分が切れ落ちてしまうなど、とにかく何が何だか分からなくなったが、それでもひたすら笑っていた。その後、隣の寝る部屋へとなだれ込んだのだろうが覚えていない……

 その後、再就職も決まって日々に落ち着きが生まれると、ボクの旅も少しずつ色を変えていった。歴史系からどんどん自然系に走っていった。しかし、道中の街道探訪や土地歩きなども欠かさず、旅に出ているという気持ちのあり方は今でも変わっていない。ディスにーランドへ行くというのを旅だとは思わないが、その道中は十分に旅にできる。そんなふうに考えられるようにもなったのである………

 

※古い文章に少しだけ加筆した……

 

 

二冊のうちの一冊を閉じて

二冊の本

眠気と闘いながら本屋で本を選ぶというのは実にきつい作業だ。

ただ漠然と本棚の前に立ち、タイトルと作家の名前を見比べながら、少しでも興味が湧きそうな本がないかと目を這わせる。

こんな場合、ほとんどは平積みになった表紙の見える本に目が集中し、背表紙しか見せていない棚の中の本には、目が行っても神経は届かない。

しかも、もともと探している本などなく、行き当たりばったりで選ぼうとしているのだから、平積みの本にさえも集中力はそれほど高くはならない。

ましてや、今は眠いのだ。

二冊で千円ちょっとという文庫を買ったのは、ほとんど居直り型衝動買いといってよかった。

早く帰りたかったのだ。だったら、真っ直ぐ帰ればいいのに…なのだが。

クルマに戻って、二冊の本をそれぞれ開いてみるが、それほど興味深いというほどのものではないことにあらためて納得した。

特に一冊はカンペキにそうだった。

大正生まれで文章表現が実に巧みと言われる某作家の作品だ。

当然知ってはいたが、初体験である。

その本をなぜ買ったのかというと、いつもの気まぐれで、巧みな表現と言われる文章を機械的に読んでみようという思いからだ。

かつて活字中毒という言葉が流行ったが、その菌に侵されていた頃はどんな本でも、読んでいれば何事も知識や思いや考え方や表現などに繋がっていき楽しかった。

まあ、世の中そのものが楽しかったのだ。

しかし、今は違う。

世の中が、少なくとも自分の周辺がそれほど楽しくないから、せめて本には楽しいことを期待する。

いや、楽しくなくてもいい。

日常から離れて、どうでもいいような話にのめり込んだり、何か小さな発見や納得みたいなものを得ることが出来たらいい。

この本に求めた小さな納得は、文章表現の巧みさの実感だった。

こっちを先にしようと、その夜から読み始めた。

機械的に読んだ。感情にほとんど動きが生じないまま読み進んだ。

そして、短編の一話を読み終えた時思った……もう読むのはやめようと。

文章表現の巧みさだけでは、やはり楽しくなかった。

やはり今自分に当てはめた時の何かが足りない。

 

もう一冊の方は、よく読んできた作家の作品だ。

そう言えば、この間またN賞を逃した。

全くのなんとなく的意見だが、この人にはN賞は似合わないような気がしている。

受賞できればそれなりに凄いことだが、この人の文章はN賞ッぽくないような気がしてならない。

そもそもN賞っぽいとは何かと言われても巧く言えないし、いい加減なことは言えないが、この作家はそういうものと一線を引くところにいるということがいいのだと思っている。

いろいろあるが、これ以上書くとボロが出そうだ。

この人の場合、新作はまったく読んでいない。

どちらかというと、小説よりもエッセイの方が好きで、小説も若い頃のモノしか読んでいない。

ただ、だいたい雰囲気は熟知しているつもりなので、こちらは安心して相対することができる。

この本も同時進行で読み始めた。

相変わらずの、淡々とした、そして軽快な文体で行が進んでいく。

このスピード感は文章読みの楽しさの大きな要素であると思う。

もちろん、スピード感は軽快さだけではない。

スローというスピード感もいい。

問題は、心地いいかだ。

文章の中の時空の流れなどと、文章そのものとが一体化して伝わってくるものは、とにかく心地いい。

だから、話がややこしくなってきても、何となく読み続けようとしてしまう。

ここを乗り越えれば、また話は面白くなるだろうと勝手に思い込む。

そんなわけで、先の一冊は途中棄権し、この一冊に集中することにした。

読み進むと、やはりサイクルが合ってくる。

音楽で言えば、適度に転調していくように、話題がスムーズに移動してモチベーションが新しく作り出されていく……

この作家の文章から離れていくきっかけとなったある小説のことを思い出す。

あれはなんと、昔会社の女の子の バレンタインデー・プレゼントでもらった一冊だった。

ああいうのを本命というのかどうか知らないが、ああいうプレゼントは最高に嬉しくなるものだ。

ちょうど新作が出て、ボクがその本を買おうとしているのを知ってくれてたんだろう。

しかし、あの小説は面白くなかった。

ボクにはなんとなく、書くのに飽きていたのか、もしくは行き詰まっていたのかと思わせる内容だった。

読者というのも、自分勝手でいい加減なものだ。

この作家と出会う前の話だが、ジャズと映画と本の話を自由気ままに書き綴る某氏の本に傾倒していた時代がある。

主に東京にいた頃だ。

いろいろなモノゴトを吸収したが、その頃に文章の読み方としての心地よさみたいなものを知ったような気がする。

その頃から自分も好きなことを好きなように文章にしていいいのだなあと思い始めた。

ただ才能が凡庸だっただけだ。

その頃のような、見境なしの濫読時代は二度と訪れないだろう。

しかも今は仕事の上での読み物たちが周囲で自分を見張っているような状況でもある。

だから、せめて趣味の世界では、無理してややこしい本は手にしないようにしていこうと思う。

書くことも、ゆったりと構えていけばいい。

二冊のうちの一冊を閉じて、心地よさを取り戻し、とりあえず気が楽になった………

 

疲れた夜によくある雑想

スポットを浴びたような新緑

久しぶりに訪ねた友人の事務所に、山の本が、文字どおり山積みになって置かれていた。

彼は、その本を通販で、しかも古本で買う。

ジャズのCDは新品(輸入盤が多い)で買うが、本はほとんどが中古本である。

自宅ではなく、事務所に届くという点が羨ましい。

彼はその事務所で、軽くジャズを流しながら仕事をし、仕事の合間に好きな本を開いて、その世界に自分を置いたりする…のだろう。

そのような世界は、若かりし頃の自分にも憧れとしてあったものだ。

そして、そろそろ時間の先取り的に“リタイア”した後の自分を考えたりする時、少しだけ現実味を帯びてくることでもある。

しかし、あと何年かは、ひたすら微量の脳ミソをかき混ぜながら、一途にやっていかねばならないポジションにもある。

元来、性分が「やり始めると、とことんやってしまう」というタイプなので、ある意味ではかなり損をしてきたところもある。

しかし、今さら悔やんでも仕方がない。

学生時代、将来は八ヶ岳山麓に住まいして、そこでカッコよく仕事をしながら過ごそうと考えていた話は、ずっと以前この雑文集で書いた。

そこまでの回帰はないが、やはりどうせなら、山があって(見えて)、家を出たらすぐに自然があるといった環境がいい。

雪も降り、リビングから、いや縁側からでもいいが、すぐにスキーを付けて歩き出せるくらいでないといけない。

朝日でも夕日でもいいから、家に差し込んでくることもそれなりに重要だ。

庭でコーヒーを淹れ、家の中から聴こえてくるラルフ・タウナーのギターや、ヨーヨー・マのチェロなどにボーっとすると言うのも、かなり心地よいことだろう。

本も読み、文章も書き、カメラを持って歩きまわりもする。

どこかにそんな人が何人かいた。

ただ、ボクが考えるシンプルさとはちょっと違っていた。

だから、自分自身が求めることも、どこまでが真実なのか不明でもある。

誰かが何か言ってくれても、自分自身がどれだけ踏ん張っても、人生の時間的な制約は変えられない。

だからこそ、今自分が置かれている立場でとにかくやるだけやり、その後は自分を出来るかぎり解放させてやりたいと思う。

 

どっと疲れた仕事の帰り。

一杯のコーヒーにホッとしながら、こんな文章を書いている自分に、今気付いた……

雪国の車中で、星野道夫と植村直己を思う

 2000年3月のはじめ、ボクは新潟の直江津から長野に向かう快速列車の中にいた。

 前夜からの大雪のためダイヤは乱れていたが、ボクはそのことを幸運に思っていた。

 星野道夫の本が手元にあったからだ。遠いアラスカの話を、信州の雪原を眺めながら読む…… そんな状況を楽しみにしていた。

 列車が走り出してしばらくすると、雪の降り方が一段と激しさを増した。

 屋根のない吹雪のホームで、ヤッケの帽子に雪をのせて突っ立っている人たちがいた。

 雪をつけた裸木が重なる樹林地帯。

 そして視界はそれほど深くはないが、雪原は永遠のような広がりを感じさせている。

 晴れた日、ヒールフリーのスキーで駆けめぐったら愉しいだろうな…などと考える。

 雪の中の軌道を走って行く独特の静けさが懐かしかった。

 そしてボクは、その中で星野道夫の飾らない素顔が車窓の風景に溶け込んでいく心地よさを感じつつ、ゆっくりとその文章を追っていったのだ。

 その四年前、星野道夫はすでにこの世を去っていたが、それまでのボクは、星野道夫という人間を、知性派の、凄く特異な動物カメラマンとしてしか見ていなかったような気がする。

 たしかに、彼の写真から伝わってくるものには、アラスカという地域の特異性や、撮影に費やされた計画の特異性などが感じられ、自然を相手にした写真家としての、かなりしっかりとしたこだわりのようなものを好きになっていたと思う。

 しかし、ある日、本屋で何気なく手にした彼の一冊の文庫本によって、ボクにとっての星野道夫観はすっかり変えられてしまった。

 と言うよりも、それは一気に大きく膨らみ始め、気が付くと原形をとどめないくらいになっていたと言っていい。

 文章にして彼が伝えてきたものは、アラスカという遠く離れた土地の大自然の美しさや厳しさだけではなかった。

 そこにはアラスカそのものがあり、何よりも星野道夫そのものがあった。

 彼が一人の少年としてどのような感性をもち、どのような青春時代を生き、その後、日本はもちろんのこと、アラスカでどのような人間たちと出会って、そしてどれだけ満ち足りた日々を過ごしてきたか。

 そして、それらのことが星野道夫にとってどれだけ素晴らしいことだったか。

 写真家としての作品だけからは知る由もなかった多くのことを、文章の中の彼の言葉が教えてくれた。

 星野道夫の多くの本と出会ってから、植村直己のふるさと兵庫県日高町に出かけた時のことが、よく思い出されるようになった。

 あの時、胸に迫ってきた何かが、星野道夫の言葉の中からも同じように伝わってくるような気がした。

 星野道夫と植村直己は、静と動の両極にあったと思う。

 しかし、二人とも大きな意味で共通した動機をもっていた。

 安らげる、自分らしくいられる、そんな場所を求めていたのだ。

 生命の脆さも、互いに違った形で知っていた。

 北米の最高峰・マッキンリーのどこかに植村直己が眠っており、毎日のようにその山並みを眺めていた星野道夫は不思議な気持ちになったという。

 あの植村直己でさえ、脆い生命のもとに生きてきたのだ。

 自然を征服するのではない冒険。日本人らしいやさしさの中で培われた自然との接し方。

 そして、何よりもヒトとヒトとの関わり方、すべてのことが今は亡き二人の素顔から見えてきた。

 快速列車が、夕刻近くの長野駅に近付いていく。

 もう雪の世界はとっくに通り抜け、星野道夫の本も、カバンの中へと放り込んだ……

 ※2000年に書いた文章の一部に加筆。

石川さゆりを、また聴く

  

 昨年暮れ、能登を舞台に作られた歌のことを知る機会があり、突然CDをもらった。

 その中で、坂本冬美の『能登はいらんかいね』と、石川さゆりの『能登半島』がとても印象に残り、特に後者については、ググッと迫るものを感じて何度も聴き入ってしまった。

 ボクのことをよく知っている人たちは、ボクが幼少より洋楽に親しみ、中学生の頃からは、ジャズ的音楽にハゲしく共感するようになったと認識している。

 なのになぜ、今更演歌の話題を持ち出すのかと疑問を感じられるかも知れない。

 しかし、さらにボクのことをよく知っている人たちは、かつて片町の「YORK」というジャズ喫茶で、閉店後、秘かに『津軽海峡冬景色』なる名曲を、名器ALTECが発する大音響とともに合唱していた(と言っても、マスターと二人でだが)という事実も、このエッセイ集をとおして認識されているはずだ。

 つまり、『津軽海峡冬景色』のシリーズである、この『能登半島』にボクが強く共感することには、深いワケとか事情とかもあったわけだ。

 デューク・エリントンが言ったように、世の中には、いい音楽と悪い音楽の2種類があり、今話題にしているのはもちろん前者の類の話なのである。

 さらに先に言っておくと、歌のタイトルや内容が能登を舞台にしていることとは、あまり関係はない。

 夜明け間近 北の海は 波も荒く

 心細い旅の女 泣かせるよう

 ほつれ髪を 指に巻いて ためいきつき

 通り過ぎる 景色ばかり 見つめていた

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 ここにいると 旅の葉書 もらった時

 胸の奥で何か急に はじけたよう

 一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり

 熱い胸に とびこみたい 私だった

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 すべて すべて投げ出し 駈けつける

 夏から秋への 能登半島

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 『能登半島』の歌詞である。

 作詞は、われらが阿久悠。作曲は、三木たかし。詩も曲も、素晴らしくいい。トランペットのかなり定番的イントロから入っていくが、それも何ら問題ない。

 そして、もちろん若き石川さゆりの熱唱には、ほぼカンペキにやられてしまう。

 歌詞にもだぶるが、たぶん、二十歳頃のレコーディングだろう。

 夜明け間近の海を見ている主人公は、上野発の夜行列車で金沢に向かったのだろうか。このあたりは、阿久悠作、まるで『津軽海峡冬景色』と同じだ。

 東京発だとすれば、ボクも経験があるが、親不知あたりの海を見ているに違いない。

 『津軽海峡…』の場合は、下りた「青森駅は雪の中」だったが、『能登半島』の場合は、夏から秋にかけてで、日の出は早いのだ。

 主人公は、十九歳。それまで恋を知らなかったが、つい最近になって恋を知ったらしい。

 この静かにサビに入っていく歌い方には、若き石川さゆりの健気さを感じる。

 二十歳とは思えない気持ちの入れ様と、そして歌の巧さだ。

 余計なお世話だが、今どきの安売り軽薄ジャズとは違う。

 ここで聴き逃していけないのは、歌の背景に流れる一本のバイオリンの切ない響きだ。

 1コーラス目では、なかなかキャッチできないが、2コーラス目ではしっかりとキャッチできる。

 そのことに気が付くと、思わず編曲者の名前を探したりする。

 そして、若草恵という男だか女だか分からない名前に戸惑ってしまうが、まあどっちでもいいやと早めに歌の世界に戻るのがいい。

 石川さゆりは、「あなた、あなた訪ねてェ、行く旅は~」と熱唱に入っていく。

 ここの聴きどころは、“行く旅は”のあたりで、行くの“ゆ”から“く”へと流れていく表現(歌唱)は、尋常ではない。

 文字化するのはむずかしく、強いて書けば“ゆ・くゅう”、いや“ゆ・ぅ・く”か?

 とにかく、“く”の後半の音(声)は、上下の歯を軽く閉じ、口ではなく鼻の中で響いているような感じなのだ。

 石川さゆりの歌への思いと、歌の巧さとが見事に合体していき、歌のチカラというものを体感させる。

 後半の歌詞は、阿久悠の世界に、石川さゆり自身が融け込んでゆくような切なさがたまらない。

 「一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり  熱い胸に 飛び込みたい 私だった…」

 「すべて すべて投げ出し 駈けつける  夏から 秋への 能登半島…」

 十九才の真っ直ぐな気持ちが、文字どおり真っ直ぐに伝わってきて、どうしていいか分からなくなり、つい周囲を見回したりする。

 そんなわけで、ボクは最近、出勤時クルマを出すとすぐにコレを三回連続して聴く。

 それから一気に、マイルスの60年代後半あたりに切り替えて、自分をクールダウンさせながら会社へと向かう。この切り替えがまた実に気持ちいい。

 少し偉そうなことを平気で言うが、演歌と言うよりも、世の中に流れていた歌を“流行歌”と呼んでいた時代の感覚は、実に日本人的な気がする。

 作家の五木さんや、伊集院さんもよく語っているが、この感覚をもう一度見つめ直す必要があるのではないかと思ったりする。

 切ないとか、寂しいとか、やるせないとか、そういったものをみんな忘れてしまったのだろうか。

 そこから、本当のやさしさとか思いやりとかが生まれてくることもあるのだということを、しっかりと知る必要がある。

 “情緒”というものなのだろう。

 そんな意味で、とりあえず、「石川さゆりを聴く」のである……

雪のある、東京の思い出

東京に大雪が降って、銀座の街に雪ダルマの姿があった。

もう何年も前のニュース映像の中の記憶だ。

異様な光景ではあったが、何となく東京人の雪への思いを知った気がした。

そして、東京に降る雪も金沢に降る雪も同じはずだが、東京の雪の方がオシャレに見えたのはなぜだろうか、と考えていた。

もう35年ほども前だが、大学の卒業式が終わった夜のことだ。

当然のように、親友たちと飲んでいた。場所は中野。足もとから底冷えのする夜だった。

その数日前、東京に季節外れの大雪が降った。

ほとんどは融けてなくなっていたが、それでも所々に凍り付いたままの雪が残っていた。

かなり酔っ払った後、ボクたちは線路沿いに出ていた屋台でラーメンを食う。

酔っ払っていたのと寒かったのとで、そのラーメンは感動的にウマかった。

ボクたちはドンブリを持ったまま、ウロウロと歩き回ったり、何だか訳の分からない奇声を上げたりしながら、そのラーメンを食っていたのだった。

突然、そんなボクたちの横を轟音とともに中央線の電車が通り過ぎて行った。

まさに不意を突かれたといった感じで、そのときのボクたちの周囲にあったすべてのものが、一度に吹き飛ばされてしまったように感じた。

事実、その轟音によってボクたちのラーメンに対する感動はコッパ微塵にブチ壊され、冷たい風がボクたちの全身から温もりさえも奪い去っていったのだ。

ふっと訪れた白々しい静寂。ドンブリから上がっていた湯気さえも、虚しそうに冷気の中へと吸い込まれていく。

ああ、東京ともこれでお別れか……と、急にセンチメンタルな気分に襲われ、胸が痛くなってくる。

残されたラーメンの麺をすすろうとすると、カジかんだ手から割り箸が落ちた。

ふと見下ろすと、足元に小さな雪のかたまり。

東京の雪はすべてがアスファルトの上に積もっているのだなあと、その時何気なく思った。

東京では、雪融けが春を告げるものではないのだとも思った。

雪そのものも冬の風物詩ではなく、単なる冬の間の一時に訪れる珍客に過ぎないとも思った。

東京の雪は交通をマヒさせることはあっても、生活様式を変えてしまうようなものではない。

それが、あの銀座の雪ダルマに象徴されていたと思う。

当たり前だが、雪に埋もれた日々を送る人たちが持っている雪への思いと、東京の人たちが持っている雪への思いは違うのである。

そろそろ、こちらでは本格的に雪が積もり始める時節。そして、新年のあいさつにと東京の仕事先へ出向く頃でもある。

東京の冬は、やはり青空が似合う。東京で、雪は見たくない……

松井秀喜から学んだ野球文化

4月15日のメジャーリーグ。プレイする選手たちの背番号が「42」だった。

黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューした日のメモリアルである。

また、21日には、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの100周年記念試合で、Rソックスとヤンキースの選手たちは、背番号のない100年前のユニホームを着てプレーした。

日常の試合の中でも、メジャーリーグには大胆で印象深いシーンが数多く見られる。

野球に対する何かが、そのパフォーマンスに表れている。

ボクはこういうのを『野球文化』と呼んでいる。

もちろん、ボクが言い出した言葉ではない。

しかし、ボクはある時から確信を持って、この言葉を口にするようになった。

そのある時とは…、野球人・松井秀喜と出会った時だ。

 

2005年12月8日、石川県能美市に『松井秀喜ベースボール・ミュージアム』がオープンした。

松井選手がアメリカに渡り、大活躍した二年目のシーズンオフ初冬だ。

ボクはそのミュージアム全体の展示計画を担当し、具体的に展示品や資料を調べ選択し、松井選手の人物史はもちろん、数々のエピソードなども独自に取材して文章化した。

映像のシナリオも書いた。松井選手と所縁のある多くの人たちとも交流した。

滅多に触れることのできない貴重な品々も手にした。

オープニングイベントはもちろん、その後のミュージアムが主催するイベントも企画し、スタッフたちと実行してきた。

そんな数多い貴重な経験の中で感じ取ったのが、野球が醸成してきた文化というものだった。

単純な言葉で言えば、野球文化とは、野球をすることを楽しみ、野球を観ることを楽しむ文化だ。

もっと単純に言うと、打者がホームランを打った時の喜びや、投手が三振を取った時の喜び、ファンがホームランを打った選手を称賛する喜びや、三振を取った投手を称賛する喜びだ。

ファインプレーをした時の喜びも、その選手を称賛する喜びもある。

さらに、野球を観ながら冷たいビールを飲むとか、美味しいハンバーガーを食べるというのもそうであることは言うまでもない。

そして、そういう風にして育まれてきた、もっと強い文化……、たとえば、日本の高校野球に見られる地域などへの思いなども野球文化のひとつだ。

今春の選抜大会、甲子園球場のホームプレート前から発せられたあの選手宣誓の言葉に、心を揺さぶられた人は無数にいたに違いない。

野球をとおして培われ、発せられる思いが、多くの人たちに感動や勇気を与えるということを、あの宣誓があらためて教えてくれた。

偉大な野球文化の結晶なのだ。

 

実は、ボクにはアメリカでメジャーリーグの観戦をした経験がない。

いつかいつかと思いながら、松井選手がNYヤンキースを去ってからは、その思いも薄れてきた。

しかし、松井選手関係のさまざまな、そして生々しい資料や写真や映像などを多く見る機会に恵まれていたから、臨場感のある野球文化を普通の人以上にかなり感受できたと思っている。

展示計画を進めていくうち、ボクは一枚の写真と出会った。

そして、その写真が大好きな一枚になった。

それは、ヤンキースタジアムでホームランを打ち、三塁ベースをまわってホームへと向かう松井選手を捉えた写真だ。

背景にはファンが総立ちになり、松井選手を讃えている姿が写っている。

ほとんどの人たちが拍手をしたり、両腕を突き上げ歓声を上げている。

金髪の若い女性は、口を目いっぱい開けて何かを叫んでいる。

髭のオジサンも、若者も少年も、みなが喜びを精一杯に表している。

しかし、松井選手は目を足元に落とし、その歓声に照れているような、その歓声に戸惑っているような、そんな素振りでホームへと向かっている。

この一枚のショットが、ボクのアタマの中に強く残った。

野球という試合の中で遭遇する期待を込めた緊張感。

チャンスが訪れた時の高まる気持ちが、ホームランを打ってくれたことへの喜びと称賛に変わる。

こんな素朴で爆発的な喜びは、日常の中でも滅多にない。

この場に遭遇した、あるいはテレビで観戦したりした者だけにしか味わえないものだ。

松井選手は下を向いてゆっくりと走っているが、その姿にも観衆はさらにまた違う何かを感じていると思える。

野球そのものを楽しむ自然発生的な喜びの表現。

ファンそれぞれが、それぞれの個性で表現する、それらももちろん野球文化なのだ。

 

ところで、メジャーリーグの試合で見られる七回の「7th inning Stretch」などは、テレビ中継を見て初めて知った。応援スタイルも日本とは全く違う。

野球はまず楽しみながら観戦するというスタンスが明解になっている。

その延長上に、応援というスタイルがあるような感じがする。

スタンディング・オベーションの文化=讃える文化もメジャーには基本的に生きていて、選手への敬意も忘れていない。

野茂英雄やイチロー、そして松井秀喜と続いた日本人メジャーリーガーの活躍を経て、日本のプロ野球に少し違和感を持った人たちも多かったはずだ。

 

しかし、大袈裟な言い方で気恥ずかしいが、ボクにはどうしても伝えていかなければならないと思う野球文化が、もうひとつある。

それは、松井選手にもイチロー選手にも共通することだが、打者がボールを捉えるという感覚的な、そして技術に関する文化だ。

松井選手のことをいろいろと調べていくうちに、ボクは松井選手がアウトコースの投球を強く左に打つという表現に注目していた。

左バッターの場合、アウトコースは軽く当てて流し打ちするというのが、これまでの普通の感覚だったのではないか?

そう思った時、こういう小さな発見が多くの野球少年たちやファンに何かをアピールするような気になった。

松井選手の言葉はメジャーに挑戦し、さらに実感したものだったに違いない。

メジャーデビュー戦で三遊間にタイムリーヒットを打っているが、まさにあのバッティングはそのことの始まりだったような気がする。

そして、MVPをとったあのワールドシリーズ。

DHのない敵地で代打で登場し、レフトへ豪快なホームランを打ったバッティングなどは、その理想形だったような気がしている。

ボクはこのようなこともまた、野球文化の象徴だと思い始めた。

伝統工芸の名工たちが身に付けた技術や気構えと同じものがあると思っている。

将来、プロを目指す少年たち、高校野球の選手たち、特にスラッガーたちには、この松井選手の言葉は新鮮に響くに違いない。

さらに、どういう思いで打席に入り、どういう思いでボールを待ち、どういう思いでバットを振りにいくか…から、日常をどう過ごすかに至るまで、この継承には意味がある。

まだまだ書き足りていないが、すべてのことが野球文化に通じていく。

 

ミュージアムの企画がスタートする時、そのコンセプトを

「松井秀喜という野球人をとおして、野球文化を伝える…」とした。

そのためには、すでに実感していた松井選手のニンゲン的な凄さを、きっちり伝える必要があると思い、人物評伝みたいことに力を注いだ。

著名な方々からも話を聞き、そのことをさらに強く感じていた。

たとえば、松井選手のバットを作り続けていた名人・久保田五十一氏を、岐阜県養老町にあるミズノバット工場に訪ねた時も、よく一緒に行ったという近くの食堂で、久保田氏から松井選手のバットに対する信頼感について聞かされた。

一年間、自分のバットを信じて絶対に途中で手を加えなかったという話には、自分自身の感覚や技術、フォームなどを第一に考えた松井選手の強い意志を感じた。

野球の直接的な関係者ばかりでなく、篠山紀信氏や阿久悠氏、さらに伊集院静氏などが表した松井選手の人物評価も、ボクをさらに後押しした。

メジャーリーグ機構が、松井選手のニンゲン的な魅力を高く評価してくれたことも嬉しく心強かった。

ミュージアム構想に賛同し協力してくれたことは、展示計画に大きなバックボーンとなっている。

現在、ミュージアムで流れている映像などは、メジャーリーグの協力支援なくしては完成しなかったものだ。

 

ミュージアムの企画に関わらせてもらった長い時間は、何もかも夢のように過ぎていったような気がする。

オープンの前夜、松井選手は最終便で帰郷し、そのまま空港からミュージアムに立ち寄った。

あまり表情を変えずに館内を歩いていたが、今から思えば、かなり照れ臭かったのだろう。

そして、翌朝…。北陸の空はまさに冬の到来そのものだった。

取材オファーは、180社を超えていた。

館内でのセレモニーを終え、テープカットのために松井選手が外に出る。

ボクは中からエスコートした。その時だった・・・

不思議なことに雲が切れ、その隙間から太陽の光が流れ出しミュージアムを照らした。

このことは、今でも関わってきたスタッフたちの語り草となっている、“松井ミュージアムの奇跡”だ。

長かったその日のすべてが終わり、ボクは運営に携わってきた多くの関係者たちを前にして礼を言った。

ボクの横には、大きな松井選手がときどき口元を緩ませながら立っていた。

ボクはもちろん、十分に誇らしげだったに違いない。

 

オープン後の最初の休日だったろうか。外にはパトカーも巡回し、最高の入館者数に達した日のことだ。

ボクは、ずっと一人の入館者に注目していた。すぐにかなりの高齢と分かるおばあさんだった。

少し離れながら後方を付いていくと、おばあさんはあるコーナーで立ち止まり、人ごみの中で曲がった背筋をぐっと伸ばした。その姿は凛々しくも見えた。

おばあさんに近寄っていき、大丈夫ですか?と声をかける。

腕章に気が付いたのか、おばあさんが語りかける。

「この子(松井選手)はね、ほんと偉かったんですよねえ…」

おばあさんの視線の先には、スポーツニッポンから贈られた「五打席連続敬遠」を伝える新聞一面のパネルがあった。

大阪から娘さんと来たというおばあさん。娘さんもすでにおばあさんの域にあった。

星稜高校時代の五打席連続敬遠の試合を見てから、松井選手が大好きになり、それ以後、ずっと松井選手に関する新聞記事をスクラップしてきたと言う。

手を添える娘さんも、母はここへ来るのを本当に心待ちにしていたんですと言って笑った。

野球が生んだ物語が、またもうひとつの物語を生む。

その物語こそ、文化なのだ・・・・・・・

こういう仕事を続けてきて、世の中に存在し、人々から愛されてきたものには、すべてに「文化」があるのだと思えるようになった。

逆に言えば、文化がないものは、仮に存在はしていても愛されることはないのだと思うようになった。

奇を衒ったり、無理に衆目を引こうと考える必要は特にない。

それよりも、じっと見つめ深く掘り下げていく過程を大事にする方がいい。

いろいろな機会をいただき、ボクはこういう話を何度もした。松井選手を横にして話したこともある。

今、現在も、関わっている仕事のすべてがそんな思いに支えられている。

そう言えば、最近、野球が面白くないのは、松井秀喜がグラウンドに立っていないからなのだ……

山に雪が来た日の想い出

初冬の山の気配が好きだ。そこには独特な空気が漂い、緊張感をも含んだ山らしい世界がある。

本格的な山となれば、十月には間違いなく初雪が来る。記憶に強烈に残っているのは、十月の半ば二、三時間のうちに五十センチくらい降られた経験だ。

北アルプス・薬師岳の最後の登りに入る小屋(薬師岳山荘)の前で停滞中だった。

朝、登山口である折立にいた頃は、冷え込みながら空は晴れていた。昼過ぎに太郎平小屋を出た後だ。途中から降り始めた雪が積もりはじめ、このままでは危ないということになった。

降りしきる雪の中、薬師岳山荘までは来たが、閉められた小屋の外に吊るされた温度計はもう計測不能状態になっている。山仲間たちはみな元気だったが、とにかくリーダーの指示を待っていた。

薬師岳を閉山する毎年最後の山行だ。頂上を目指したのは十数名のパーティだったが、その時の一般登山者の中に、経験を偽って参加していた人がいた。

拠点である太郎平小屋で、この時季の三千メートル級の経験がある人だけというのが登頂同行者の条件にされたが、その人はその条件を無視か、意味が分からなかったか? とにかくパーティに入って来たのだ。

三十代後半くらいの女性だった。すでに唇は紫色に近く、顔から表情が消えていた。

顔が痛い。まつ毛どころか涙が凍る。気温は氷点下十度以下だと誰かが言う。

ボクは一応、その時のサポートスタッフの一人だった。リーダーが言った。

「この人連れて、太郎小屋まで戻ってくれや」

一瞬耳を疑ったが、太郎平小屋の五十嶋博文マスターからの指示でもあった。そのサポートがボクになった。

残りのメンバーは、雪の中頂上を目指すことになっていた。

勝手知ったる登山道とはいえ、この雪の中を経験がほとんどない、しかも女性をサポートして下るのはかなり重大なこと。

特に小屋までの後半の下りは、雪のない時季でも急な歩行となり、バランスを崩して転んだ人を二度見ていた。そこを降ったばかりの雪を踏みながら下りるのだ。

雪は完璧なパウダーで、岩の上などに膝あたりまで積もっていた。さすがに標高が下がれば降雪は少なくなるが、それでも安心などできない。

ボクは足で軽い雪を払いのけ、岩肌や土の表面を出すようにしながら前進した。幸い登りの段階からスパッツを装着していたのが役に立った。

しかし、寒さは半端ではなかった。声をかけてもほとんど返事をしない女性は、ただ無心に崖を下った。土の上はまだいいが、大きな岩の上を伝ったりする時にはほとんど座ったまま下りなければならない。雪でほとんどが真っ白になっていた。

午後の三時半頃だろうか。時計も見ず、時折思い出したように降り始める細かな雪と湿ったガスの中を歩いた。

薬師峠という夏はテントが張られるところまで下ると、ほっと息が抜けた。そこからは急な登り返しが続くのだが、身体が冷えている分、登りになって体温が回復する方がいいと思った。

登り切ってしばらく行くと、太郎平小屋の明かりがはっきりと見えてくる。あとは平らな道が続く。下界は雲の下だ。その時になって初めて「ありがとうございました」と、その女性が口をきいた。

自分が何を言い返したのかは忘れたが、夏の立山を登った経験があったことだけは分かった。たしかに立山は三千メートル級だ……

小屋に着いて、三十分もしないうちに頂上へ向かったはずのメンバーも小屋に戻ってきた。登頂はあきらめ引き返したという。まだ時間は早かったが、周囲はすっかり暗くなっていた。

リーダーがボクを見つけて、「途中で雪に埋まっとらんでないかと、心配しながら下りて来たがやぞ」と言って笑った。

その夜は、太郎平小屋の食堂で一年の無事を感謝し、ドンチャン騒ぎをし、二階の大部屋に静かに集まり、かなりのほろ酔い状態で冷たい布団にもぐり込んだ。

夜中に用足しに起きると、上下の歯が激しくガタガタと鳴った。

いや実際には噛み合わずに鳴っていなかったかも知れない。ただ、顎は痛くなった。

用足し中は、目の前が見えないくらいの湯気?に包まれ、このまま天国にでも行ってしまうのではないかと焦ったりもした。

薄く凍りついた窓ガラスを指でこすると、星が無数に光っているのが見える。

そして翌朝は、予想どおり見事な青空だった。身支度を整え外に出ると、二日酔いもあっという間に吹っ飛んだ。

小屋周辺の積雪は大したことない。その分、霜柱が大きいもので十センチ近い高さで立っている。童心に帰ったように、そこら中を歩き回ったりした。

黙々と、ひたすら足を前へと出していくだけの下山。

ふと昨夜の酒の場や、布団にもぐり込んだ直後の会話を断片的に思い出す。

剣沢の小屋で、かつて大学山岳部の一年生が合宿中に逃げ込んできたとか、自然を守るというのはオレたちの意識や感覚にはないけど、同化していれば自ずとそうなっているんじゃないかとか…。

そんなむずかしい話ばかりではないが、とにかく断片的過ぎて記憶が繋がっていかない。

そして、そんな時になって初めて、大部屋の真ん中に小さな電気炬燵が置いてあったのを思い出し、布団にもぐる前にその炬燵で暖まっていたのだと振り返る。

何人かが無言のまま、炬燵に体を突込み、丸まっていた……。

あの時のあの沈黙が懐かしい。

廊下の下駄箱に並んだ汚れた登山靴、無造作に置かれたリュック、着込んだヤッケの擦れる音、どこからか聞こえてくる笑い声、それらが胸に記憶となって刻まれている。

冬を迎え入れた山の空気の感覚は、あの時の切なさみたいなものなのかもしれない。夏とは違った空気に、山のもうひとつの顔が見えてくる。

街にいるある瞬間に、ふとそういったことを思い出すのがクセだったような気がする。

今は少し症状も薄れてきているが、そのクセはおそらく死ぬまで直らないのだろうと思う……

小屋閉め間近の風景【写真:太郎平小屋・河野一樹さん】

疲れると、青空と雲を見る

仕事でちょっと眼が疲れたりすると、席を離れ大きな窓のある部屋へ行く。

晴れた日には、そこから青空を見上げ、雲を見る。

しばらく見ていると眼の疲れが少しずつ癒されていくのが分かり、首筋から肩にかけて重い何かが抜けきったような感覚に浸れる。

山にいても、同じようなことを感じることがある。

山では眼だけが疲れるわけではなく、全身、つまり足の先から頭のてっぺんまでが完璧に疲れるのだが、そんな時にも空が癒してくれたりする。

特に好きなのは、北アルプス・太郎平小屋から黒部五郎岳方面に登り、北ノ俣(きたのまた)岳頂上直下の平らになった稜線で見上げる空だ。

この空にはただ美しく濃い青があるだけでなく、北アルプス最奥部の美しい稜線が、パノラマで空を切り抜いたような光景を見せてくれる。

このようなことは、山では当たり前なのだが、特にボクはその場所が気に入っているのだ。

ちなみに、ビールは空に十分匹敵する癒やし品なのだが、ここでは横に置いておく・・・

ところで、最近までこの癒し感覚は青空のせいだと思ってきた。

空の青さが癒やしをもたらしてくれるのだろうと思っていた。

しかし、ここへきてそれが少し違っていることに気付いている。

もちろん、青空は元気の源だし、この世には永遠になくならないものがあるんだということを教えてくれるすべてのようにも思う。

しかし・・・、疲れを癒すという意味では、雲の存在の方が大きな力になっていることを最近知った。

特に、秋のカツーンとくる(人によってはスカーンもあるらしい)ような青空の中に浮かぶ雲は、絶好の特効薬になっていたりする。

その要因は何か?と言うと、やはり雲には“ボーっとできる”エキスが漂っているということだ。

そしてそれは、雲自身がボーっとしているからに他ならない。雲は実にボーっとしている。

この季節のふんわりと柔らかそうな白い雲を見れば、十分納得できる。

どのような模様にでもすぐに変身してしまうこの時季の雲は、ひたすらのんびりしているようにも見えてくる。自主性がない。

目を凝らしていなければ分からないような弱い動きを、それほど目を凝らさずに見てみる。

すると、雲の動きの“ボーっと”につられたように、見ている眼もボーっとしてくるから不思議だ。

そして、眼がボーっとしてくると、いつの間にかカラダ全体もボーっとしてくる。この状態が凄くいい。

悟りの境地とはこの時の状況なのかも知れないと思う。

今年の秋は、理由があってよく眼が疲れ、そのために空と雲を見る機会が多っくなった。

しばらくは、そのボーっとに救われる日々が続きそうだ・・・

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

門前黒島の 素晴らしき人たち

かなり性格が歪んでいたと思われる台風6号の影響が消え去りつつあった日。旧門前町(輪島市)黒島の空には、久しぶりの夏の青空があった。金沢は一日曇りだったり、雨もチラついたらしいが、ボクたちはとにかく汗を拭きながらの状況下で仕事に追われていた。

といっても、仕事は屋内での映像の収録で、まだ我慢のしようがあったが、午前午後合わせて五時間近く緊張が続いた。話していると唇が渇いた。話が面白くて、何度も仕事を忘れた。何度も書いている、「角海家」の展示に使う地元の人たちの思い出話を収録するという作業だった。

午前は男性六名、午後は女性五名。最高齢は九十歳、最も若い人で八十歳という凄まじい布陣だ。男性の部では後半から、女性の部は最初からとボクも直接参加してナビゲーター役をさせていただいた。高齢化が極端に進んでいる黒島には、その分元気な老人たちが多い。しかも、江戸時代は天領であり、北前船による廻船業で財をなした地域である。誇りもある。

廻船業の衰退後も漁業を続けたり、その子孫たちは働く場を海に求め、ほとんどの男たちは海外航路の船員となって広く活躍してきた。今回集まっていただいた男性陣も、角海家のご当主さん以外は全員そんな船員OBである。中には商船大学を出られ、大型船の船長をされていた方もいる。そういう意味で、その時語られていたことの多くは、黒島の“船員文化”みたいなものだった。

父親の背中を見、海で育ってきた少年たちにとって、海で働くことは至極当然のことであったろう。戦前から昭和の中頃過ぎまでは、給料も非常によかったらしく、家を長期にわたって留守にしながら、男たちは船の上で働いてきた。家には外国からの土産で買ってきた品々が今でも多く残っていると言う。

同じ旧門前町剣地という地区で住職をされ、今回の展示解説についてアドバイスをいただいているK越先生から、こんな話をお聞きしたことがある。

子供の頃に、黒島の子供が「ドックへ行く」というのをよく聞かされ、自分は船員の子供でなかったから、その子たちが凄く羨ましかったという話だ。ドックとは造船所のことだ。定期的に受けなければならない点検のために船は、そのドックへ入れられる。その間に船員である父親に会いに、横浜や神戸などの都会へ家族で出かけるという習慣があったというのである。

都会へ行くということは、よい洋服を着せてもらえる。美味しいものも食べれる。流行などの生活感覚も吸収する。特に黒島という地区は先にも書いたとおり、廻船問屋の子孫が多くいたりして気概も高かった。周辺の地区の人たちもそういう目で見ていた。

今回集まっていただいた人たちは、そういう意味で黒島の中でもさらに上流の皆さんということになる。しかし、さまざまな生活習慣などをとおして語られることの多くは、“奥能登のひとつの村”である黒島を舞台にしたものばかりだった。大正から昭和の初めにかけて生まれた人たちにとって、多感だった時代は戦前戦中になる。そして、朝から夜まで“よく働く母親”を見てきた。家の主がいない中で、母親たちは、何でもやりこなさなければならなかったという。団結する村の人たちも見てきた。自分たち子供もまた、縦と横のバランスのとれた環境下で、兄貴分たちの言うことに服従し、友達同士のつながりを深めていたという。

最近はどこにでもある話だが、黒島でも祭りの衰退が悲痛な問題となっている。黒島には有名な「天領祭り」と、「船方祭り」というふたつの祭りが受け継がれてきたが、かつては多くの若者が祭りだということで故郷に戻っていた。たとえば行列に配置される役割などをみても、贅沢なほど豊かだった。若い娘たちは地毛で日本髪を結うために髪を伸ばし、着飾ったという。ある方から一枚の写真を見せていただいたが、十七歳という娘時代の姿に思わず見惚れてしまった。黒島ではなく、京都の祇園だと言ってもいいような雰囲気が漂っていた。

昔は、黒島同士の縁組が多く、そのことが黒島を維持していくことのできた理由でもあったという。「昨日の晩、どこどこの娘もろうたわいや…」というような話が、当たり前のようにあったと聞かされた。新郎が船乗りで、海外航路から帰っておらず、新婦だけが家に入るということもあったとらしい。ある日、突然知らない男が家に入って来て、それが自分の夫であったと初めて知った・・・そんなこともあったとか。

嫁入りする時の風習なども面白かった。特に嫁ぎ先の家の前に何本も縄が張られ、花嫁を家に入れないようにする風習があったという。そして、その縄をといてもらうには縄を張っている人たちにお金を渡さなければならなかったというのだ。

黒島の人たちは、かつての繁栄やその後の海外航路の船員という職業をとおして、自分の子供や孫に高い教育を受けさせるようにあっていく。そして、船乗りの仕事がアジアなどの船員たちの進出によって低収入化していくと、船員になる子供たちもいなくなった。多くが都会の大学などに進み、そのまま戻らなくなった。もちろん、奥能登に職場がないことも大きな理由のひとつだった。

都会へと出ていった黒島の次世代たちは、そこで結婚相手と出会い、そこで家庭を築く。別にどうということもない当たり前の現象だ。しかし、お嫁さんが黒島や、黒島でなくても能登や石川県の人であればまだいいが、全く異郷の人だと黒島は見向きもされない。先に書いた、昔は黒島同士の縁組が多かったということの意味がそこにある。最近、娘が婿を連れて帰郷してくるという現象が多くなっていると言うが、黒島の場合、やはりそれも定年後の移住などが今のところ考えられる最高のことでしかない。

実は、男性陣の取材の最後に、九十歳の最高齢だった方が、来春神奈川の息子さんのところへ行くことにした・・・と、淋しく語られた。その他の人たちにも、その時初めて話されたような気配だった。終始、俯きながら話す様子に、そう選択せざるを得なかった無念さが伝わってきて、その場がしんみりとした。

やはり、思ってしまう…、こんな素晴らしい黒島を、このままにしておくことは許せない…。 “能登はやさしや土までも”という言葉がある。土までもがやさしい…ということは、人はもっともっと、ハゲしくやさしい・・・ということだ。今回の取材だけでなく、そのことは最近になってまた多くの場面で認識させられる。

取材の終わり際、ボクは皆さんに自分の思いを少し語らせてもらった。角海家をとおして黒島を知ってもらい、黒島をとおして能登の一画を知ってもらう。能登の原点は自然と一体化した歴史や風土であるということだ。そのことをもう一度しっかり認識しなければ、能登という大きな地域性は中身のない空虚なものになってしまう。小さなことから始めないと・・・なのだと。

皆さんを、今回の会場になった旧嘉門家という廻船問屋の屋敷跡から見送る際、是非角海家に足を運んでくださいと告げた。この人たちの魅力が角海家や黒島の魅力を語ってくれると、ボクは何となく思っていた。

お世辞でもまったくなく、ボクは、正直あまりにも皆さんが快活で、知的で、そして楽しい人たちばかりであったことに感動した。

帰る前に、角海家を見に行く。中に入って、いちばん好きな、海の見える古いガラス窓の部屋に足を踏み入れる。それから外に出て、黒島の小さくなった砂浜に下りたり、周辺を少し歩いたりした。復元された佇まいと、海へとつながる石畳の道を見つめながら思ったのは、自分に何が出来るのだろうか・・・ということだった。今日お会いした素晴らしい人たちに、どうやって報いたらいいのか、はっきりと答えは見えなかったが、さらに入りこんでみる好奇心は確実に感じた。

まだ、あの人たちから離れて二十四時間も過ぎていないが、もういちど皆さんにお会いしたい・・・・・

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……

 

カーネーションと古い鍬と母のこと

 赤いカーネーションが、窓辺に置かれている。ボクにはもう母親はいないが、子どもたちが自分たちの母親のために買ってきたものだ。

 ふと、母が死んでから何年が過ぎただろうか…と思った。実は、ボクは人が死んでから何年が過ぎたかということに関して、非常に記憶力の弱いニンゲンだ。

 父のことも母のことも、実兄のことも、義兄のことも、後輩のことも確かな答えが出てこない。およそ何年ぐらい前というのは分かるが、どうしても正式な年月は出てこないのだ。ただ、そうかといって、当然のことながら、その人たちのことを忘れていることはなく、いつもボクの中には大切な存在として残っている。

 母の日にカーネーションを贈ったりするようになったのは、結婚してからだ。それまではほとんど何もしたことはなく、畑仕事の際に使う麦藁帽子のようなものを買ってあげたことがあったが、母はそれをほとんど使わなかった。恥ずかしかったのだろう。

 母が一般的に言うおしゃれとかをしている姿を、ボクは一度も見たことはなかった。ボクは母が四十歳の時に生まれた子で、元来漁師だった家に嫁に来た気丈夫な母の姿しか知らなかった。小さい頃はただ一日中働きっ放しの母しか知らず、世の母親とはすべてこんなものなんだろうと思っていた。

 ところが、ある時、友達の母親を見てショックを受けた。その母親は化粧をしていた。当たり前と言えばそれまでだが、母親というものは化粧などする人種ではないと思っていたので、完璧に驚いていた。

 母は、たぶん友人たちの母親の中でも最も齢を食った一人だったかもしれない。化粧どころか、手もカサカサで顔はしっかり日焼けしていた。着ているものも女らしいというか、そういう類の小ぎれいなものではなかった。

 授業参観に母が来ると、何人かの友達が“ばあちゃんが来とらんか?”と聞いてきた。中学の時、骨盤骨折で入院していた時も、母が来ると同部屋のおじさんたちから、“ばあちゃん来たぞ”と言われた。今ではそれも仕方なかったろうと思うが、その当時は何となくイヤだった。恥ずかしかった……

 東京の大学に行くようになって、ボクの母親像は変わる。日常的に身近にいなくなることによって変わっていくというのは皮肉だが、現実はそういうものなのかも知れない。一年に何回しか顔を見ない母の存在は、自分でも驚くほどに大きなものになっていく。子供の頃に母に求めていたものが、何気ないことから蘇ってきたりする。

 周辺の状況はほとんど覚えていないが、まだ保育所に行くようになったばかりのことだろうか…。

 ある日、家からかなり離れたところで遊んでいたボクは、目の前を走り過ぎていくトラックの荷台に母の姿を見つけた。何人かの女の人たちと一緒に母もボクを見ていた。

 ボクは母がどこか遠くへ行ってしまうと思ったに違いない。とにかく一目散に走りだした。わんわんと泣き喚きながら、トラックを追いかけはじめていた。その当時のトラックだから、それほどスピードが出ることもなかったのだろう。ボクはそれから百メートル以上走った。

 トラックが止まった。運転手がボクを見つけたのか、荷台にいた誰かが運転手に止まるように頼んだのか、とにかくトラックはボクのかなり前で止まり、ボクは何人かの人に担ぎあげられるようにして荷台に立っていた。

 母たちは、金沢の大野港に水揚げされる魚の処理などで動員されていたのだろうと思う。かつて一時代を築いた漁業の達人たちの村・内灘だ。大漁の知らせが入ると、魚の処理に慣れた女たちが召集され、港へと運ばれていったのだろう。

 それからどうなったかは、とにかく断片的にしか覚えておらず、ボクは港の近くの知り合い(ボク自身は全く知らなかったが)の家に置いて行かれた。はっきりと覚えているのは、その家のそれほど明るくない居間で、同じ年頃の娘さんらしき少女と、タマゴごはんをひたすら食べていたことだ。湿った冷やご飯にかけられた生タマゴの味も忘れてはいない。

 大人になってから、母の存在はこの話が原点になった。あの時ボクは真剣に母がいなくなると思っていたに違いない…と思うようになった。母を追って必死に走っていた自分を、生来の甘えん坊なのだと思うようにしていたのかも知れない。

 母は、ばあさんになってからやさしくなった。もともと持ち合わせていたのかも知れないが、見た目にも、はっきりとやさしさが感じられるようになった。いつもニコニコするようになり、照れ隠しのような笑い方なのだが、ボクはその表情にはじめて母の幸福感を思ったりした。朝から晩まで働き続け、何の楽しみもなかったような母にようやく静かな日々が訪れたのだ。

 母が体調不良を訴えたのは、父の初七日のあくる日だったと思う。休日の病院へ運び、翌日の朝、様子を見に行った兄から母の異常が知らされてきた。そして、そのまま母は半身不随になり、二度と立ち上がることも歩くこともできなくなった。

 しかし、それからまた母は母なりに長い年月を必死に生き、最期を迎えるまでの間、ボクは完璧に母の子供に戻ることが出来たと思う。そして、亡骸(なきがら)となった母が家を去る日、ボクにとっては最初で最後の、化粧をした母を見ることも出来た……

 ボクの家の物置には、古ぼけた一本の鍬(くわ)が入っている。

 ほとんどの物が現代の道具類である中、その鍬だけが丸みを帯びた木の柄の部分や、朽ちかけた刃の部分に時代がかったものを感じさせている。

 連休の終わり、ボクは二年ぶりに家の周りの空き地に花を植えようと思い、その鍬を持ち出していた。

 母が昔から使ってきた鍬だ。内灘の砂丘が一面の畑だった頃、時々母に連れられて遠くの畑まで歩いた。乾いた畑で鍬を打つ母を常に視界に入れながら、まだ幼かったボクは映画か漫画のヒーローを自演する遊びをしていたように思う。

 空にはヒバリが飛んでいた。ヒバリは巣のある場所から離れたところに降り、そこから地上を走って巣のある場所へと移動する。そうやって、巣の在りかをカムフラージュしているのだということを、ボクはその頃どういうわけか知っていた。母が教えてくれたのかどうかははっきりしないが、ボクは母と一緒にいた畑で、羽を細かく動かしながら鳴くヒバリを見上げていたのだ。

 それからもう少し大きくなり、小学校の高学年くらいになると、ボクがその鍬を持って畑の土をおこすようになっていた。小さいながらも、畑全体を何等分化する線を足で引き、その線に合わせて畑の土を耕していく。それはかなりの労力を要する作業で、ボクはいつも途中でダウンしそうになっていたように思う。

 ボクの担当はきれいな砂の場所で、土をおこすのも無理なくできたが、母が鍬を打つ場所では、たまに雑草や小さな木の根っこが混ざっていた。そんな時には、鍬の手を一度止め、耕した砂の中から草や木の根っこなどを取り出し放り投げる。

 今、自分の家の荒れ気味になった空き地を耕すとき、ボクはかつて母がやっていた、その仕草を自分がやっていることに気付く。そして、ちょっと不思議な感覚で、もう一度鍬を持ち直し、その柄の部分に母の手の感触を感じたりする。

 母はよく言われる苦労人という人種だ。あの時代の人には、よくあるパターンなのかも知れない。大正四年に生まれ、高等小学校を出て神戸の大学教授の家に奉公に出され、うちに嫁に来て、戦争、漁業の衰退による貧困、そして病による夫との死別を経験した。そして、まだ若かった母は、義父(ボクの祖父)に説得され、亡き夫の弟(ボクの父)と再婚する。させられたと言うべきか…。その時代の田舎では、よくある話だとも言われる。

 そんな母だったが、気丈夫な一面だけでひたすら頑張ってきたのだろう。一度だけ、祖父母の前で泣く母を見たことがあったが、幼かったボクはただぽつんと横に座っていた。ボクの存在は大したものでもなかったのだろうが、今でもその時の母の泣き声は、はっきりと耳に残っている。母はまた、祖父にとっても頼りになる存在だったようだ。

 母は、この世での最後の夜を、ボクの長姉である自分の長女と過ごした。すでにその時が来ていると聞かされてからは、兄弟姉妹が交代で付き添っていたのだが、長姉だけは事情があって戻れず、ようやく駆け付けたのだった。

 すでに意識のない母だったが、これで安心したのだろう。早朝、静かに息を引き取った。93歳の秋だった………

港の駅ができた

かねてより意気盛んな動きを見せていた羽咋滝町の“郷士”たちが、ついにその意志を形にしてしまった。

五月五日、子供の日。羽咋滝港を目の前にした、と言うよりも、滝港の中にといった感じで「港の駅」がオープンしたのだ。もともと毎週日曜にやっていたテント市が母体なのだが、常設の販売所を持ちたいという地元の人たちの強い意志が、立派にそのことを成し遂げてしまった。倉庫を改装した、小さいながらもそれなりにカッコいい店で、地域の手作り品などが並ぶ。近くにはこの港の駅のオープンによって派生しそうな勢いも見えている。この日は、地元の意気盛んなオトッつァん・おっかさんたちが集まり、子供のように目を輝かせていたことだろう。

ボクは翌日のもう夕方近く、旧富来町へ行っていた帰りに立ち寄った。実は前にも紹介した、このあたりの大親分・福野勝彦さんにお会いして、おめでとうございますを言いたかったのだ。しかし、福野さんは春先から金沢の病院に入院しており、オープン当日には来ていたが、すぐにまた病院の方に戻ったらしかった。入院中の福野さんとは何度かメールのやりとりをし、例の折口信夫関連のことなどを進めようとしていたのだが、五月に入ったら退院できるから、その頃にしようということになっていた。しかし、四月の終わりになって、港の駅オープンには何とか抜け出すが、入院はもう少し延びると連絡が来た。

そしてやはり、福野さんは港の駅のオープンに駆け付けていた。新聞にも福野さんが挨拶したという記事が載っている。

港の駅で迎えてくれたのは、『地域活性化団体・「創性・滝」』の理事長・折戸利弘さんだった。一度、福野さんの自宅ですれ違ったことがあるが、ほとんど初対面だった。福野さんと堅くタッグを組む、弟分のような存在なのだろうと感じた。嬉しいことに、折戸さんはボクの拙著『ゴンゲン森と・・・少年たちのものがたり』を読んでくれていた。

店では売り物になっているコーヒーを、折戸さんがわざわざ淹れてくれ、いただく。美味しいコーヒーだった。ボクだけベンチに座らせてもらい、もう閉店時間がきている雰囲気の店内で折戸さんとしばらく話した。話しているうち、脱サラして生まれ故郷に戻ったという折戸さんの言葉や表情から、この場所で、この地域の人たちと何とか楽しくやっていきたいという思いが伝わってきた。自分だけではなく、周辺の人たちにも、故郷である地域そのものにも、何らかの発信を求めている気持ちが、よく分かった。

“姫丸の一夜干し”という珍味を出している地元の東寿郎さんとも会い、しばらく話す。姫丸とは、明治からつい数年前まで大きな漁業を営んできた船の名前らしく、一夜干しは姫丸の歴代ばあちゃんたちが受け継いできた食文化とのことだ。今、こういう形の食文化が至る所で芽吹いている。差別化も大変だろうと思う。“活〆”の輪島の刀祢さんや、“こんかこんか”の金沢の池田さんなど、ボクの周辺にもいろいろな人たちが絡み合う。このような珍味と酒屋さんとかが、さらに絡めばもっと相乗的な拡がりや深みが増すのではないだろうか…と、それほど真剣ではないが、それでもそれなりに考えたりもしている。

ところで、東さんの自宅(お店)は美術館でもあり、カフェや食事処にもなっているらしい。このあたりの文化度はやはり相当高いぞ…とあらためて思ったりもし、折口信夫ゆかりの藤井家の佇まいのこともアタマを過(よ)ぎった。

話し込んでいるうちに、新しい来客があり外に出た。港の気配に夕方の匂いがしてくる。夏だったら、もっと凄いだろうなあと、夏の夕暮れ時の光景がアタマに浮かんできた。子供たちが走り回り、黒く日焼けしたオトッつァんたちがタバコをふかしながら語り合う。おっかさんたちは身体を揺すりながら笑い合っている。

福野さんが描いている生まれ故郷の町の姿はどんなんだろうか? ふと、そんなことも思ったりしたのであった………

むなしき誕生日の目論みであった

別に待っていたわけではないが、先日、五十七回目の誕生日が来た。

数日前から来ることは知っていて、その日は残雪深き立山の雪原にテレマークスキーを履いて立ち、そこでノンアルコール・ビアーでも飲みながら、しみじみとこれまでの人生を振り返り、さらに、これからの人生における正しい(余生の)過ごし方などについても考えてみようかな…と、目論んでいた。

週間天気予報の晴れマークを見ながら、“晴れマーク 心もはずみ テレマーク”と、我ながらなかなかいいキャッチコピー的一句も浮かんだ。モチベーションは日々高まっていたのだ。

ところが…だった。前日になって、ボクのこの小さな楽しみはあっさりと打ち砕かれてしまった。どうしても朝一番に会社へ顔を出さねばならない用事ができてしまったのだ。

どうするかな…と、一応考えた。結局、その用事を済ませてから早退し、そのまま立山へ一直線、ひたすらまっしぐらに向かおうと決めた。立山駅からのケーブル。美女平からのバス。昼には弥陀ヶ原に着ける…。少々甘いところもあったが、何とかなるだろうという気持ちと何とかせねばという気持ちが、手に手を取って協力し合う中、ボクはその朝とにかく会社へとやってきた。

ところが…だった(二度目だ)。こともあろうに、一旦出社してしまうと、別の用事がまたボクを待ち受けていた。

あのォ~、今日のォ~、午前中いっぱいまでにィ~、例の書類をォ~、提出してェ~、いただきたいのですがァ~

……昔、小松政夫がこんな言い回しでボケていたのを思い出す。

よく考えてみると、いやよく考えるまでもなく、誰も今日がボクの誕生日だなんて知らないのであった。ましてや、誕生日だからと会社を休んで山へと出かけ、そこでしみじみ考え事でもしようと目論んでいるなんぞ知る由もなく、ボクはごくごく当たり前の日常の中で、ごくごく当たり前に出社しているに過ぎない…と思われても仕方のない存在になっていた。

それでもボクは、午前中いっぱいとは言わず、昼の一時間くらい前、つまり十一時頃には、この例の書類とやらを片づけてやる…と心に決めていた。そうすれば、それからとにかく一直線。二時頃には、弥陀ヶ原の大雪原に立っていられると思った。

ところが…だった(三度目だ)。こともあろうに、その仕事はなかなか出口の見えない、ボクにとっては極めて緻密な対応…、具体的に言えば、数字の計算を求められる内容のものだった。

“緻密対応型数字計算”。この漢字九文字によって構成される作業は、ボクが完璧に不得手としている行為であった。もし、この世から無くなってほしいものを十項目出しなさいと言われたら、たぶんこの“緻密対応型数字計算”は確実に圏内に入れるだろうと確信をもって言えた。

ところで、この場合の“緻密対応型”とはどういうものなのかについてだが、分かりやすく言うと、エクセルの計算式をこしらえながら進めていくものを指している。なあんだ、そんなもんかァ~と、バカにしてはいけない。ボクの場合、そのような行為自体がすでに自分自身の標準仕様から外れている。

誤解のないように言っておくと、ボクは数字が苦手ではない。感覚的な数字の捉え方は子供の頃から人並み以上に優れていたと思っている。小学校五年生の時、S水T彦先生と言う風変わりな理数系の担任がいて、その先生によく算数テストというのをやらされた。

裏表にびっしりと、たし算や引き算、掛け算や割り算の素朴な問題が並べられた紙が渡され、それをエイ、ヤッ、タァーッと気合で解いていくのだ。ずっと、足したり、引いたり、掛けたりしていったら、最後にゼロで割るという意地悪な問題もあった。結構スリル満点で、楽しい?テストだったのだ。

そんなテストの時は、いつも一番か二番でボクは解答用紙を提出していた。答を間違ったこともなかった。今でも数字の並び方の形とかで何となく答えが見えてくるものがあったりするのは、その時の感覚が残っているせいなのかもしれない。

しかし、そういった算数が、高度な数学に変わっていったりすると、ボクの中にあった数字に強いという感覚は何(なん)の役にも立たなくなっていって…しまった。一旦いじけ出すと、ポテンシャル自体も希薄化していく。

「ごめん、実を言うと、ボクは、数字よりも、文字の方が好きなんだ」

そして、ついにボクは数字に対してそう告げた。もう数字のことを好きになれない…。だから、ボクのことは忘れてほしい…。こうしてボクは、数字とサヨナラをしたのだ。高校一年の夏の終わり頃だったろうか……。

……そういうわけで、誕生日だと言うのに、会社に残ったボクはこの緻密な計算(略した)にその後振り回されることになる。自分のデスクでは集中できず、会議室の大きな机にパソコンと書類を並べ、自販機からコーヒーを買ってきて、腰を据えはじめた。午前十一時どころか、昼になっても一向に目途は立たず、昼休み返上などしても何ら意味のないことも分かってきたので、昼飯は金沢の有名なカレー屋さんで、Lカツカレーを食ってきた。久しぶりに美味かった。

それからボクは、しっかりと昼休みをとり、午後の部へと英気を養ったりしてしまったのだった。

その緻密な計算作業が終了しようとしている頃、時計は三時半を回っていた。今から行けば、午後七時までには弥陀ヶ原に着ける…、そんなバカな事を考えたりは当然しなかった。

四月とはいえ、標高二千メートルを超える山では、夜はまだまだ冬だ。晴れていたりすれば、冷え方も半端ではない。かつて、雪原に独りテントを張り、一晩過ごしたことがあったが、その時のことを思い出す。ウイスキーの小瓶と柿の種とクラッカーとアーモンドチョコ。主食はカップめん。ヘッドランプで文庫本の小さな文字を追っていた。当たり前だが寒かった。

早朝のコーヒーに立つ湯気は、幸せ気分の象徴のように見えた。間違いなく完璧な冷え方だったが、ボクは幸せだった…。

再び現実に戻る……。いきなり(大概そうだ)机の上の携帯電話がブルブル震え出した。所謂、バイブは携帯電話を生き物のようにするから好きではない。が、音出しはもっと嫌いだ。

あのォ~、もおォ~、出来ましたでしょうかァ~

電話をポケットに入れて、ボクはすぐにパソコンを自分の机まで運び、待っている相手にメールした。緻密な計算がされた…であろう書類は、アッという間に送信済みフォルダに放り込まれた。

それからすぐに、春の医王山の雪景色が背景となったデスクトップに戻し、アア~ッと、小さいとは言えない声を上げて背伸びをした。疲れて、ぐったりし、放心状態になった。そして、再び、立山の雪原が夕陽に染まる光景が浮かんでくると、今度は激しい焦燥感に襲われる。昼間の、真っ白な山肌と真っ青な空もまた強烈に迫ってくる。“オレには、時間がねえんだぞ・・・”と、小さく胸の中で吠えた。

そう言えば、先日、今年還暦を迎えるという俳優の大杉漣が、六十歳になるということで初めて自分の“死”を考えるようになったという意味の話をしていた。余生というものは、単に時間の長さ(短さ)だけで測れるものではないのだという言葉も印象深かった。だからどうなんだと言われても困るが、つまりその、早い話が、やれるうちにやりたいことはやっておこうという、極めて単純明快なことなのだと、ボクは思っている。

そういうわけで、五十七歳にもなり、もう緻密さなんて要らないボクとしては、青空の下で思いっきり背伸びやら深呼吸やらをし、ひたすらしみじみとしたかった……という、そんな欲求を奪われた悔しさにボーゼンとするのみであったのだ。

第五十七回誕生日の一日は、こうして静かにとは言えずに黄昏ていったのである………

春の、ある金曜の夜

 金曜の夜、主計町で篠笛と一人芝居を鑑賞した後、その場で軽くビールやワインなどをいただき、早々に香林坊まで歩こうと外に出た。

 前日に見た検番前の桜の花は、かなり開き始めており、その開花の早さに驚かされる。小雨の中とはいえ、茶屋街の外灯に浮かび上がる桜の木の姿は、やはり色っぽかった。

 大手町の裏筋から、店じまいしている夜の近江町市場の中を通る。特に大手町の裏筋には、古い佇まいも多くあったりして歩くこと自体も楽しい。近江町では居酒屋だけがぽつんと営業していたりしている。曇ったガラス越しに、かなり飲み、語り疲れたようなサラリーマンたちの顔がいくつも見えていた。

 武蔵ヶ辻に出ると、バス停に着いたばかりのバスに飛び乗った。香林坊まで、武蔵から乗ると百円ですむ。しかし、百円で得したと思うよりも、香林坊までの時間を短縮できたことの方が大きい。香林坊に着くと、すぐに日銀裏へと足を早めた……

 ヨークには、若い男二人がカウンターにいた。ビッグバンドでサックスを吹いている常連クンと、その友人だとすぐに分かった。久しぶりに顔を見たと思ったが、ボクの方が店に来る頻度が低いだけだ。めずらしく、マイルス・デイビス晩年のCDが流れている。

 二人がしばらくして出て行くと、その後にこれも懐かしいA木さんが入ってきた。ボクと同じく、どこかの飲み会帰りという様子だった。

 ボクの場合、かつては会社がすぐ下にあり、六時頃から夜中までヨークで過ごすという時もあったが、今はもうそんなことはなくなった。できなくなった。夜中までとは言わなくても、夕方から夜の始め頃までの時間を、しみじみと過ごすのが、かなり日常に近かった。

 A木さんは、金沢でも無類のジャズ愛好家であり、その温厚そうな顔付きや物腰からは想像できないほどのマニアだ。スーツ姿もさり気なく決まっている。

 かつて、マイルス・デイビスの金沢公演を再現しようというイベントを企画した際、最も有効で最も意味のある音源を貸してくれたのがA木さんだった。奥井さんの七回忌のライブ(スガ・ダイロー・トリオ)の時にも、ボクらと並んでカウンターの中からその演奏を熱心に聴いていた。

 ついでに書くと、ボクの拙本(「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」)の良き読者であり、理解者でもいてくれる素晴らしい人でもある。

 そんなA木さんと、その夜は寄席の話で盛り上がった。数日前あたりか、立川志の輔の落語を聞いたとかで、落語や漫才などは生(らいぶ)を聞かなきゃダメという点で意見がまとまった。

 ボクはかつて、先代の円楽の人情噺をしみじみ聞いたことがあるが、あれはまさに芸であったと今でも思っている。こんなことは敢えてボクのような者が言うセリフでもないだろうが、あの凄さは聞いた者でないと分からないだろう。高座から伝わって来る熱いものは並ではなかった。

 NHKラジオの「真打登場」の収録が、何年も前に寺井町(現能美市)であって、奥井さんと二人で行った時の話もした。ボクらも笑ったが、ボクらの前の席にいた熟年夫婦が周囲も気にせずに大笑いしていた。休憩時間に奥さんの方が、「寄席って、こんなに面白いもんやて知らんかったわ」と大喜びしていた光景は忘れない。

 やっぱり、生の演芸だからだネ…と、A木さんも言う。分かりきっていた落ちに、待ってましたとばかりに笑いを送る、そんな空気を感じて、幸せな気分になれるのが寄席なのである。

 そろそろ帰り支度(と言っても別に何もすることはないのだが)をしようとすると、本の方はどう?と聞かれた。特に大きな変化はないのだが、東京の方から、先日読み終えて、爽やかな気分になれたといった意味のお便りをもらった話をした。東日本地震の被災者の人たちに読んでもらいたいと思う…といった趣旨のことも書かれていて、ボクとしても、それが叶うならやりたいと思っていますと答えると、A木さんもそれはいいねと言ってくれた。

 北陸鉄道浅野川線の最終電車は、午後十一時。それに乗るために香林坊日銀前のバス停で、なかなか来ない金沢駅行バスを待つ……。

 その間、午後、浅野川・梅の橋沿いに建つ徳田秋聲記念館に、K先生を訪ねたことを思い返していた。

 先生としっかり一時間近く話をしたというのは、何年ぶりのことだっただろう。夢二館の館長時代は、館長室で時々ゆっくりとお話ができたが、脳梗塞で倒れてからは、あまりボクも訪ねて行かなくなった。

 昨年まで関わっていた、旧富来町(現志賀町)出身の作家・加能作次郎関係の仕事では、本来K先生と一緒にやるべきことも多かったのだが、結局先生との接点は地元の皆さんに任せてしまっていた。

 先生は七十九歳になられたという。島田清次郎の「にし茶屋資料館」をやった時からだから、もう十六年ほどのお付き合いになる。あの頃よりはかなりスマートになった感じだが、透析を続けての先生の活動には本当に頭が下がる思いだ。

 今回は、羽咋市にゆかりのある民俗学者で、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)でもある折口信夫に関することを教えていただきたくて時間をいただいた。先生はかつて、折口信夫のことで、近代文学館の館長だったSさんと動いたことがあったと言われた。

 現在は空き家となっている藤井家という旧家を、記念館として残すべきと考えられたらしい。しかし、実現どころか、藤井家にあった貴重な資料の多くが國學院大學に移されたということに、大きなショックを受けたと言われていた。

 藤井家を記念館にという話は、ボクも地元の人から聞いている。その価値と実現の可能性を先生に聞きたかったのだ。先生は、むずかしいが、地元に意欲のある人がいるなら、大いにやってみたらと言われた。そして、五月の初めに、地元の有志と藤井家見学に行くことになっていると話すと、その報告を楽しみに待っているよと目を輝かせた。

 そろそろ透析に行かなければならない時間。雨の中をタクシーがやって来る。

 ゆっくりと立ち上がりながら、こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね…と先生。こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ…と答える。

 「いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ…」別れ際の言葉がまた胸に染みていた。

 それにしても、バスはなかなか来なかった。接近マークは二つ手前で点滅したままで、小雨が降り続く中、ビニール傘を開かなければならなくなってもいた。

 “ 咲ききらぬ サクラ並木に 夜の雨 ”

 イライラの中の、久々の一句であった……

薄雪・湯涌水汲みの朝

カーテンを開けると、前夜からの冷え込みで、家の周りの土の部分に薄っすらと雪が積もっている。ほとんどが土の部分だから、薄っすらとした雪の白さが柔らかそうで、しばらくボーっと眺めていたくなった。

休日の朝は、のんびりと起きることができ、外の様子などにもゆったりと目をやることができるからいい。仕事の日の朝は、今の季節だとまだ暗い。会社まで平均四十五分ほどの通勤時間を要する身としては、明るくなる前の起床もやむを得ないのだ。

その点、休日の朝はいつもよりかなり明るく平和な感じがして、陽が差していたりすると、かなり得をした気分にもなれる。

三月はまだまだ冬と決めているボクとしては、その日の朝の、新雪の薄化粧も、当たり前の真ん中のちょっと横くらいのもので、全く驚くほどのことではなかった。ただ、少し頭をよぎったのは、午前中に決行しようと心の片隅で決めていた、恒例のお勤め“湯涌の水汲み”に無事行けるだろうかということで、前にも最後の山道に入ろうかという場所で前進を拒まれたことを思い出していた。

しかし、ボクは決めた。今は亡き写真家・星野道夫が、悠久を思わせるアラスカの空を見上げた時のように…とはいかないが、内灘町字宮坂上空から、医王山、さらに県境の山々を経て白山などに続く青い空を見上げた時、ボクは「そうだ。やはり湯涌へ水を汲みに行こう!」と、短い睫毛を揺らせながら決めたのだった。

前週は“氷見のうどん”を食べに行こうと決め、やや勇んで出かけた。が、いざ氷見に着いてみると、気が変わって刺身と焼き魚のセットになった定食を食べてしまった。その時も、風は冷たかったが天気は良く、絶好のドライブ日和となり、帰り道は七尾湾の方へと迂回した。春を思わせる日本海はひたすらのどかで美しかったが、眠気との戦いがきつい試練だった。この話は、特に今回のこととは関係ない…。

十時少し前だろうか、水入れ容器をいつものようにクルマに積み込む。二十リットルのポリ容器が二個。二リットルのペットボトルが約十五本。それに一リットルから五百ミリリットルのペットボトルなどが無数……。とにかく家にあるモノは何でも積んで行って、ひたすらそれらに水を入れ、一滴もこぼさぬようにして家まで持ち帰るのである。

家を出ると、まず河北潟干拓地の端に造られた真っ直ぐな道を、ただそのとおりに進む。途中干拓地の中心部に向かう道二本を無視し、競馬場方面への長い橋にも目もくれないで進む。さらにクルマを走らせ、右手に曲がる橋を渡って津幡町西端の団地の中へと入っていく。

しばらくして高架化された八号線に乗り、すぐに山側環状道路へと車線変更する。ボクの理想としては初めの景色のように、そのまま山の中へと吸い込まれていけるといいのだが、この道はそのうち杜の里付近の明るくにぎやかな街の中の混雑に吸い込まれてしまう。そこからしばらく進んでから医王山・湯涌方面の道に入って行くのだが、そこまで来てボクはいつもホッするのだ。

実は出かける前、湯涌の善良なる住人・A立Y夫青年(かつての)にメールを入れ、今から水汲みに行く旨を伝えておいた。いつも水汲みに行く際には、地元の住人である彼に連絡している。ただ行くよとだけ連絡するのだが、何となくよそ者が黙って水汲みに行くことに申し訳なさを感じていて、ただ一人知っているA立青年(かなり前の)に一報を入れるのだ。彼も湯涌の水の愛飲者であるのは言うまでもない。

彼からは、“薄雪の医王山きれいですぜ”という返事が届いていた。その日は仕事らしく、かなり気合が入ってるみたいだナ…と、文面から察せられるものがあった。

クルマを走らせながら、彼のメッセージを確かめるように、湯涌の山里の雪景色に目をやる。見慣れてはいるのだが、小さな風景ながらの新鮮な感動に浸れる。この辺りも、ボクがずっと親しんできた場所のひとつなのである。

すうっと伸びていく青の空。どこからかただ流されてきただけのような柔らかな白い雲。それらが春に近い冬の晴れ間らしい空気を山里に漂わせていて、ついつい目線を上の方へと持っていかれる。眩しいが我慢する。

山王線という最後の山道に入るところで、またしてもたじろいだ……

道に雪が残っている。今朝の新雪が重なっている。細い山道はすぐに左に大きくカーブするのだが、その先まで雪が残っていて、先の見えない道筋に大きな不安がよぎった。

しかし、今日は何だかそんなに悪いことは起きそうにないみたいだという安易な思い込みがあり、ドアを開けて雪を手で触ってみたあと、特に躊躇(ちゅうちょ)することもなくボクは山道へとクルマを乗り入れた。

しばらくすると、道の雪はタイヤの踏み跡部分だけ消えた状態になり、微かな不気味さの中をゆっくりと静かに進んで行く。対向車が来たらどうするかな?と、のんびりと考えていたが、当然何とかなるだろうぐらいにしか思っていなかった。

そのとおりに何もないまま水場にたどり着く。誰も来ないうちにと、タイヤを滑らせながらクルマをUターンさせ、バックで雪に被われた水場の脇へともぐり込む。

空気が冷たい。新雪を両手ですくい上げると、その冷たい感触が心地よく、その塊を斉藤祐樹のピッチングフォームで、約二十メートル先まで投げてみた。塊は途中で空中分解し、身体の硬さだけが実感として残った。思わず、笑ってしまった。

この水場は、しっかりとした水道栓になっていて非常に便利になっている。ここまで整備してくれた地元の人たちに感謝しなければならない。そのおかげで、内灘くんだりから来ている我々でも恩恵が受けられるのだ。奥に立つお地蔵さんに、では汲ませていただきますと手を合わせて、いよいよ水汲み開始だ。

二つある水道栓を使って、手際よく容器を入れ替えていく。水は出しっ放しにしておき、容器を順番に置き換えていくのである。しかし、時間がたってくると、素手にかかる水の冷たさが徐々に厳しく感じられてきて、かなりしんどい状況になる。指の辺りはピンク色になってきて、そのうち感覚も鈍っていく。白い息を手にかけるが、全く効果はない。

しかし、当然のことながら、そんなことに気を留めているわけにもいかないのである。

二十リットル容器に入れる時は少し余裕もあり、周囲の雪景色などを眺めていたり、カメラを構えたりもできるが、ペットボトルになると、そんなのんびりとはしていられない。どんどん水を入れては、蓋をしての連続となる。かといって何も考えてないわけではなく、一連の単調な動きの中でも、ふと前夜ビデオで見たNHK-BSの『仏像の魅力』のワンシーンを思い返したりしている。

自分の冷たく腫れ上がった指を見ながら、仏像の手は赤ん坊の手のようにふっくらと作られていて、特に指先の爪などは、まったく赤ん坊のものとそっくり同じに作られているという話を思い出したりしている。

仏像の手の指の爪は、赤ん坊のものと同じように反っている。仏様は赤ん坊と同じく純粋無垢な存在であり、ニンゲンたちに赤ん坊のような無垢な気持ちを持ちなさいというメッセージになっているものらしい。なんと、素晴らしい話だろうかと、前夜ボクはますます仏像が好きになっていく予兆に気持ちを高ぶらせていた。ときどき爪を立てたりする大人(特に女の)もいるが、赤ん坊の時は爪は立てられない。そして仏様のように穏やかな心を持った人は、爪を立てない…(話が飛んだ?)。

あれよこれよとオロオロ・モタモタしているうちに、ようやくすべての容器に水が入り切ると、クルマの荷台に運ぶ作業に移る。無理やりクルマを水場近くまで潜り込ませておいたのが功を奏して、快適なうちに積み込みは終了。

登りの対向車が来ないようにと思いながら、雪の坂道を下る。街道に出ると、ホッと一息つき、当然のことながら、このまま帰ってしまう手はないと帰路の逆方向へとハンドルを切っている。

しばらく走って、「創作の森」への登り口あたりにクルマを止めて歩き出した。何となく、その反対側の風景が昔から好きで、何となくそのあたりを歩いてしまう。足元の履物はトレッキング用の浅い靴なので、ちょっと失敗したなあと後悔したりしているが、せっかくの好天の下、歩かないのは損だと思っていた。

青空が気持ちよかった。何がどうなんだと聞かれても、うまく答えることはできないが、とにかく青空があり、その下に雪の山里があるということに満足していれば文句ないではないかと自分自身に語っている。

ボクには、いつもではないが、自分が今感動していることをどう表現して人に伝えようかと考えるクセがある。その時もふと、そんな思いに襲われ、ちょっと戸惑っていたが、そんなことを思うより前に、青空があっさりとその思いに勝ってしまった。

木の枝から、融けた雪のしずくが数滴落ちてきて、雪の上に小さなあとをつけるのを見た。残雪の下に垂れ下がったツララからも、ひっきりなしに水滴が流れ落ちている。

新雪が降ったとはいえ、雪融けは確実に進んでいて、自分自身が寒さを感じなくなっていることにも気付かないでいる。

カメラを遠くの小高い山並みに向けたり、ジェット機が飛ぶ空に向けたり、ぽっかりと雪融けでできた穴から見える緑の草に向けたり、何だか慌ただしくなった。しばらくカメラのシャッターを押し続け、そのあとはのんびりと雪景色をまた眺める。

う~む・・・と唸った。水汲みに来る湯涌には、まだまだ魅力がいっぱいあるなあ・・・とも、あらためて満足。これから先、どれだけこの場所を眺めるのかと、ふと思ったりし、ゆっくりと帰路に就いたのは午後ののどかな時間帯だった……

八ヶ岳山麓に憧れていた・・・

本棚の隅っこから、また懐かしい本が出てきた。レコードとか本とかはすでにかなり多くのものが手元から離れていて、時々本屋や図書館などで、これはかつて自分が持っていたものだと気が付いたりすることがある。

今回出てきたこの本の存在も、すでに遠く忘れ去られていたもののひとつだった。

著者の加藤則芳氏。ボクより五歳年上の尊敬すべき人だ。

かつて感覚やスタンスの違いを見せつけられ、一種の絶望感とともにこの本を読んでいた記憶がある。今から二十年ほど前のことだ。

そのさらに十年ほど前だろうか、加藤氏は八ヶ岳に移り住み『ドンキーハウス』というペンションを始めていた。

それまで東京の大手出版社に勤務し都会の雑踏の中にいたという、その180度の転換ぶりに、ボクは激しい羨望や嫉妬?を感じていた。当時のボクからすれば、氏はあまりにも簡単に自分のやりたかったことを実現させてしまった人だったのだ。

しかし、氏のことをボクがさらに尊敬していったのは、この本を出した後、人気のあったペンションをさっぱりと止めてしまったことだった。

経営的に行き詰まったというのではない。逆に多くの人に愛されていたペンションだった。その辺りのことは、この本を読めばよく分かる。

ペンション経営自体が、もともと氏の性格には合わず、氏の目的ではなかったということに過ぎない。このあたりも、自分に当てはまる話であると、奥歯で歯ぎしりしながら読んでいた。

氏はその後、八ヶ岳を生活のベースにしながら自然をテーマにした執筆活動を続けてきた(現在は横浜市在住らしい)。

また国内外でのさまざまな自然の場における活動などは、出版ばかりでなく、テレビなどでも広く紹介されてきた。細かいことは書き切れないが、もっと知りたい人は「加藤則芳」で検索してみてほしい。

去年の三月と四月、ボクは久々に八ヶ岳山麓に足を運んでいた。といっても、甲州市の友人と会うために出掛けた際、ちょっと立ち寄ったというくらいの滞在時間で、しかも清里周辺の超安全地帯をぶらぶらしただけだった。

清里周辺は両日とも雨や雪が降っていた。気温も低く人影も少なかった。特に清泉寮のあたりは全くと言っていいほど人の姿はなく、個性的な木工品が並ぶショップの中を遠慮がちに歩いてきた。夏の賑わいが嘘のような静けさだった。

遠望の山々も霞む中、小海線の清里駅にクルマを止め、日本の最高地点を走る車両を見ようと思った。

かつて日本で最も標高の高い駅である野辺山駅に立ち寄り、入場券を買ってホームに入った時のことを思い出していた。

列車が来ると、何気にその列車の写真を撮った。特に鉄道ファンでもなかったが、その時に見た列車はそれまでに自分が見てきたものの中でも深い印象として残った。

夏のきつい日差しの中で、熱を帯びた線路から舞い上がる陽炎も目に焼き付いていた。

ホームに入ってきた車両は、かつて見たものとは大きく違いカラフルで美しかった。

ただ見過ごしていたが、車両が走り去った後、どうせなら、一駅だけでも乗ってくればよかったと後悔していた。相変わらず思い切りが悪い……

二十代の多くの夏、ボクはこの本のタイトルみたいなわけではないが、八ヶ岳山麓で一週間近い夏休みを過ごしていた。

旧盆の休みとかに敢えて仕事をして、その分の振替え休暇を八月二〇日前後にとる。そんなことを当時は平気でやっていた。そして、その時間はボクの日常の中に非日常をもたらす、夏の恒例行事でもあった。

はじめは、特に八ヶ岳を意識していたわけではない。白樺湖の雑踏を抜け、車山高原からのビーナスラインを走り、途中の湿原地帯や高原の道をトレッキングするというスタイルだった。

ただ、もうすでに山の世界に足を突っ込んでいたボクは、もう少しハードなものを求めるようにもなっていた。

八ヶ岳の麓に来ると、十分にそれを満たすというほどではないにしろ、何となく自然と一体となれる瞬間があった。それは瑞々しい感覚で、樹木一本、野草一つが持っている目に見えないパワーみたいなものが伝わってくる気がした。

森の中を歩いていると、自分自身がそれまでとは違う何かに引き寄せられてでもいるかのように感じられた。

実際、当時のボクは、北アルプスの北部や上高地を起点とする山域に足を運び始めていたが、南アルプスや中央アルプスなどの山域の空気を知らないでいた。

ひょっとすると、その空気というのは、今感じているものなのかもしれない…、ボクはそんなことを思ったりもしていた。北と比べると、南の方はジメジメしていない、爽やかな印象があった。どこか垢抜けしていてセンスもいいような感じがした。

ボクは結局、八ヶ岳には一度も登らなかった。じっくりと腰を据えているといった印象もなく、いつもただ慌ただしく移動し、歩き回っていただけだった。

今の自分の家が出来つつあったとき、ボクはわざわざ八ヶ岳山麓を訪れ、地元のクラフト作家たちのアトリエを見て回った。

何年ぶりかのことだった。そして、そのとき、家を建てている自分のことを振り返り、ふと思った。

オレッて、かつてはこの土地に、家を建てようとしていたのではなかったっけ……と。

そんな思いはすぐに消え去っていったが、ボクは懐かしい森の中に、ちょっとだけ足を踏み入れ、車内に積み込んだ多くの品とともに、そこで切られていた白樺の木の枝を一本もらってきた。

ボクにとっては、それがその日一番の収穫だったような気がした。

しかし、それからまたボクは少し虚しい気分に落ちていく自分を感じた。

妥協したんだなあ…。いやあ、妥協なんてもんじゃないだろう…。

今は十分に落ち着いて振り返られるが、その時のボクは、二度と戻ることのない時代への激しい後悔に襲われていた。

この後、“私的エネルギーを追求する”などといった、胡散臭いコンセプトの雑誌を出していくひとつのきっかけが、その時のボクの感情の中にあったことは間違いないだろう。そんなことぐらいでお茶を濁していこうとしている自分も情けなかった。

ボクは自分の性分が、かなりの楽天主義で、さらに面倒臭いことにはできる限り関わらずに生きていこうとしているタイプであった…ということを、四十になろうかという頃、確信した。

その少し前から、そうなんではあるまいかと薄々認識し始めていたのだが、どうやらそれが正しいのだなあと悟った。

振り返ると、いろいろなことに深い関心をもち、人一倍好奇心と知識とを持とうとし、さらに行動にも移していたと思っていたが、そんな自己満足は何の意味も持っていなかった。

自分が本当に求めていたものは、目には見えないものであるということを忘れていた。

ニンゲンそんなに簡単に目的は果たせない。そんなことは分かっている。しかし、その目的を果たすための思い入れや、努力や、思い切りまでもを忘れてしまっていた自分が情けなかった。

“八ヶ岳”という名前、いや文字の形を見るだけで、今でもボクは気恥ずかしい気持ちになる。ましてや、加藤則芳氏のように、自然体で八ヶ岳を自分のものにし、そしてそこからまた羽ばたいていった人を見ると、もう自分自身の小ささが腹立たしくもなる。

そんなことを振り替えさせられた苦い味の一冊だった、と、また読み返しているのであった……

ストーブ当番の思い出

夢の中で誰かにハゲしくブン殴られた。夢の中だが、頬の骨に拳が当たって、顔全体が瞬間的にネジ曲がったような気がした。そして、その痛み(のようなもの)がしばらく感覚の中に残っていた。

その朝、ボクは通勤のクルマの中で、中学の頃の、「ストーブ当番」の日の出来事を思い出していたのだ………

ストーブ当番というのは、別名、石炭当番ともいった。石炭ストーブが当たり前だったボクたちの時代には、毎日二名ずつが当番にあてられていた。

役割はというと、石炭が置かれている倉庫のようなところから一日に何回か石炭を運び、ストーブの状況を見ながら、その石炭を補充することだった。もちろん授業が終わった後の灰の始末もあった。それとバケツに消火用の水を入れておくことも重要な仕事だった。

ちょうどその時は、バケツにわずかに石炭が残っているだけで、次の休み時間には石炭を補充に行かなければならないという状況にあった。そして、そのわずかに残っている石炭が無性に邪魔に感じられていた。

しかし、ボクはストーブの中がいっぱいなのを確認して、面倒くさいと思いつつも、その残りをそのままにしておくことにしていたのだ。

ところが、当番のもう一人の相棒というのは、短絡的というかいい加減というか、ついでに言うと、とにかく音痴で、しかも足が臭くて、当然女の子にもモテるわけもなく、その上に牛乳ビン底型レンズ付きメガネなどまでかけているといった、個人的には好きでも、ストーブ当番の相棒としては問題の多いヤツだった。

ボクが石炭バケツをそのままにしていた理由に気が付かず、単に、バケツを空にするということだけしか考えられない…魚で言えばアンコウみたいな、ただひたすらウスラボンヤリとしているだけのヤツだったのだ(、それくらいイイやつでもあった……)。

彼は、その休み時間の終了間際、余計なお世話にも関わらず、ストーブ当番としての責務に気付いてしまった。ボクにしては、ちょっとした油断、彼にすれば、自分も当番なのだという参加意識のようなものだったのだろう。

ボクは彼が石炭の残りをストーブの中に放り込んだという事実を知らないまま、次の授業を迎えることになったのである。

次の授業は社会だった。しかも運悪くというか、ボクが所属していた野球部の顧問のO野先生が担当の授業だった。

授業が始まってしばらくは平穏無事な時間が過ぎた。しかし、それも束の間……。

いつしか教室には石炭独特の黒い煙が立ち込み始め、教室の至る所からゴホンゴホン、あるいはエホンオホン、はてまたアハンウフンといった咳やうめき声などが聞こえるようになっていった。

先生が教室内の異変に気付くまでには、さほどの時間を要しなかった。

立ち上る黒煙は、単にストーブの石炭投入口からという生易しい段階をはるかに越え、煙突のつなぎ目などからもハゲしく吹き出ていた。

教室の天井付近に黒い煙が怪しくうごめいていくと、皆の目がその方向へと移り、不安や恐怖の表情が色濃く見えてくるのだった。とにもかくにも尋常ではない段階に入っていたのだ。

はじめは、ボクもその光景をいたって冷静に見ていた。というのも、ボクにはいくらストーブ当番という役目があったにせよ、今起こっている事態には当番としての責任はないと思っていたのだ。

しかし、情勢はボクを平穏に守ってくれる段階をすでに過ぎており、ボク自身にもそのことはヒシヒシと伝わってきていた。そして、表面的には冷静を装っていたが、すでにかなり動揺もし始めていた。

「当番は、いったいどいつだッ!」

先生の吐き捨てるような声が、ついに教室中に響き渡った。突き出た下唇が、荒い息づかいと一緒のリズムで揺れていた。

右手に持った石炭を汲むミニスコップ(シャベルというべきか)が小刻みに震え、それがあてがわれた投入口から、ボクには覚えのない石炭がガラガラと取り出されていく。

O野先生というのは、体重が九十キロ、いや百キロはあるかも知れない巨漢だった。そんなバカでかい体を、ホンダカブに無理やり乗せて通勤していた。

ホンダカブに乗っていたわりには、質実剛健を絵に描いたようなタイプであり、狭い額の上で、オールバックにされたテカテカの太い黒髪と、黒ブチ眼鏡(敢えて漢字にしている)が威嚇的で、丸みを帯びた下唇を突き出しながら独特な叱り方をした。

ボクは野球部員であり、先生とは毎日グラウンドで接していたから、先生が今どういう精神状態でいるかぐらいすぐに解った。

覚悟を決めて立ち上がった。相棒も立ち上がっていた。

「こんだけ石炭入れりゃ、どうなるかぐらい解るやろがァ、アホッ! 前へ出ろッ」

前へ出ろが何を意味するのか、当然解っている。もはやジタバタできる状況でもなく、すでに次の指令までもが予測できた。

「そこに立てッ」ボクと相棒はストーブの横に突っ立ち、ボクは意識的に顔を上の方に向けて、先生を見た。

「歯を食いしばれッ」待ってましたと、半ばヤケクソ気味に頭の中でつぶやく。先生の殴る時の決まり文句だったのだ。

ビシッ、ベタン。それからすぐだった。ボクの頬は一瞬のうちに熱を帯びた。身体もでかいが、当然手もでかい。体がでかい分、パワーも凄い。

最初に左の頬にマヌケなくらいの衝撃が走り、そのすぐ後に右の頬が大きく窪んだ気がした。顔がネジ曲がったかのようだった。

この哀れな出来事は、いつもこの季節になると思いだす。先生は、元気だろうか………

◆この文章は、ヒトビト第5号「編集長 冬の思い出を語る…『ストーブ当番の思い出』」に、ちょこっとだけ加筆したものです。

動橋川 冬の朝

滅多にない機会が突然訪れるというのはいいことだ。しかも、思い描くことすらなかった機会となるとワクワクする…。

二月も後半に入ろうかという好天の朝、ボクは野暮用で小松の某温泉地にいた。満月に近い美形の月が、まだ完全な明るさには至っていない空に堂々と浮かんでいた。好天であり、大気は冷え込んでいる。

早く出たせいもあって用事までには四十分ほど時間があった。その時、ふと思い立つ。近くに法皇山古墳跡がある…と。前にも書いたが、その辺りはボクにとって“いい気分になれる場所”のひとつである。しかも、冬の晴れた朝などという条件は、それこそが“滅多にない機会”そのものだった。

こういうことは、とにかくすぐに行動に移すのがいい。道はすぐに加賀市へと入り、左手奥に小高い山並みを見ながら進む。程なく見慣れた町の風景となって、すぐに法皇山古墳跡の駐車場へとクルマを乗り入れる。資料館はまだ冬季閉鎖中。駐車場にはボク以外のクルマはない。バッグの中のカメラの存在を確認したが、なかった。

ハーフコートを着込み、動橋(いぶりばし)川に架かる橋まで歩いた。ちょっと下流側の堤に入って、朝霞の中の白山やその周辺の山並み、それから川の流れに目をやる。相変わらずの水の美しさに安堵したりしながら、もう一度山並みに目を戻すと、山の霞み具合が余計に濃くなったような錯覚に陥る。

今、橋の上流の方、右岸の堤にはきれいな道が作られている。去年の終わり頃に来た時、何だか工事が始まりそうだなと感じていたのだが、今回来てみて、すでに堤の上が道らしくなっていることを確認できた。ここに道が出来れば、その奥にある洞窟のような場所まで、気持ちよく行けるようになる。これまではあまり気持ちよくは行けなかった。靴やズボンの裾がかなり汚れた。

この洞窟のような場所というのは、実に神秘的…とまではいかないが、少なくとも予備知識がない身としては、興味津々といった心境になれる場所だ。法皇山という歴史的な匂いが漂うこともあり、来た人の目を楽しませるだけでなく、好奇心などをそそるものになるだろう。ただ、ボクとしては、この整備がきっかけとなって、自分だけ(?)の世界が失われていくことになるかも知れないことに危惧もしている。ちょっと大袈裟だが……。

橋を渡り、川の左岸を上流方向へと向けて歩く。法皇山の低いながらも急な山肌を左手に見ながら、道は川沿いを右の方へとゆっくり曲がっていく。もちろん川が曲がっているから道が曲がっているのであり、低い山並みが曲がっているから川も曲がっている。

道沿いには桜の木が植えられている。当然、今は裸木状態だ。朝靄の中、その立ち方がいいなあと納得したりする。春先には思わず赤面したくなるくらいの花を咲かせるのだろうが、そういう頃にはあまり来たくはない。桜そのもので、この場所を評価したくないといった、いつもの我が儘だ。

それにしても川の流れがとてつもなく美しい。川面からはかすかに湯気も上がっている。空気がきっちりと冷えている証拠だ。農道のような(なのかもしれない)道の脇にある草むらには霜が降りていて、それに朝日が当たった光景も美しい。

この道はどこまで続いているのか知らないが、いつか完全踏破してみたい道だなあ…とあらためて思ったりしている。なにしろ、もう二十年以上も前から知っている風景なのだ。

それにしても、後半とはいえ、まだ二月なのに春の匂いがプンプンしてくる。山里でも木立の深い場所ではまだ深い残雪があるが、水田地帯では雪解けが進み、顔を出してきた水面が春の光を浴びたかのように輝いていたりする。毎年同じようなことを言っているが、やはりもう少し冬でいていいのではないかと思う。ついこの前まで、雪すかしは大変だとかという話題で盛り上がって(?)いたのに、ちょっと性急すぎる。もう一回ぐらい、雪すかししてやってもいいよと言いたくもなる。そういえば去年の今頃、誰かから“道沿いの雪が眩しいです”という内容のメールをもらったことを思い出した。山里を走る道沿いの雪が、まだまだしっかりと存在している光景こそ、今どきの正しい風景なのだと思う。

クルマに戻って、また元の道を引き返すことにした。橋の上からもう一度川の中を見下ろし、魚でもいないかと目を凝らしてみるが、動くものは何も見えない。夏だったら団体行動で泳ぎまくっている魚たちも、冬の冷たい水の中でじっとしているのだろうか。猫も炬燵で丸くなるように、魚たちもそうなのだろう…と、どうでもいいことを考えたりした。

クルマの中からだが、少しずつ白山の姿が見え始めている。霞の中に光を受けた雪面だけが浮かび上がり、なかなか幻想的だ。いくつかの自分なりのビューポイントを持っているが、そこを通るたびに目をやっている。

ニコンもコンタックスも持ち合わせていなくて、携帯電話のカメラしか使えないことを激しく後悔した。最近ちょっと写真の手抜きがはなはだしい。もっと執拗にカメラを持ち出さねば。

こんな滅多にない機会をもらったのに…と、自分を叱りつつ、もう一度動橋川沿いの道に思いを馳せたりしているのだった……

祖父のこと

  何だか物騒な見出しの新聞記事。実はこの記事の中にボクの祖父の名前が出ている。逮捕者の一人として…。

昭和28年(1953)の事件だったと思う。

この記事を見つけたのは昨年の秋。内灘にある歴史民俗資料館「風と砂の館」で開催されていた企画展・『写真で見る内灘闘争』の中で、だ。一緒に行っていた相棒が、「ナカイトクタロ―って名前出てますけど、知ってる人ですか?」と、何気に聞いてきた。

そこには、内灘の漁民たちが逮捕されたという記事があり、その逮捕された八人の中に、祖父の名前があったのだ。

「オレの祖父さんだよ」なぜか誇らしげに、ボクは答えた。

身内に逮捕歴のある者がいるなどというのは、どう考えても尋常ではない。しかし、ボクはこの事件を知っていた。かつて自分たちの海を、国の政府を通じて米軍に奪われた男たちが、一泡吹かせようととった行動。その行動を犯罪と呼ぶのは、あまりにも安直過ぎた。だから、ボクはいくらか微笑ましいという感覚ももちながら、その記事の内容を追っていた。

記事によれば、米軍に接収された内灘の海岸に強行出漁した地元(内灘村黒津船・宮坂地区)の漁師が、国警石川県本部捜査課、河北地区署の捜査により逮捕されたとあり、地元民100人が釈放を求めて河北地区署に押し寄せたと記されている。逮捕された者たちは、取り調べが終わると、翌日釈放されたらしい。その中に当時61歳だった祖父の名前があった。

ボクの祖父は、中居徳太郎という。明治19年(1886)に生まれ、昭和47年(1972)まで生きた。

生まれた時代はようやく明治維新の混乱から安定期に入った頃で、新生日本に初代総理大臣(伊藤博文)が誕生した一年後だ。大日本帝国憲法が発布される三年前でもある。日本がかなりの勢いで強国に近付こうともがいていた頃なのだ。もちろん、祖父がそんなことに絡んでいたわけでもないし、日本はどうなるのか…?などと考えていたなんてこともあろうはずがないが、その後の祖父の生き方やらを思うと、漁業という生業の中で、自由に伸び伸びと力を発揮していった背景が見えないでもない。

話が中途半端に展開しているが、祖父はなぜ逮捕されたかだ。それには、厄介だが、まず「内灘闘争」という事件を説明しなければならない。

………昭和25年(1950)6月、朝鮮半島で戦争が起こった。国連軍の主力を成していた米軍は、戦争で使用する砲弾の製造を石川県の某企業に依頼するが、そこで製造された砲弾を試射する場が必要だった。そこで目をつけたのが、なんと当時貧しい漁村だった内灘なのだ。

政府がそのことを決めるや、当然のごとく村中が大騒ぎとなり、その抵抗運動は新聞報道や労働団体、学生たちの動きもあって全国へと広がった。地元住民たちにとっては、細々と続けてきた沿岸での漁業を奪われる死活問題でもあった。

しかし、昭和28年3月には試射が開始される。住民たちは大反対し、その年の6月には座り込みなどの抗議活動が激しくなっていく。しかし、結局当時の日本経済が朝鮮戦争による特需の恩恵を受けていたということや、貧しい内灘にさまざまな補償の話がもたらされていく中、試射場の使用は続けられ、昭和32年(1957)に返還されるまで続いた……

この出来事は、ある人たちから、今沖縄などで起きている米軍基地問題の走りとか先駆けなどとも言われ、日本で起きた最初の対米軍闘争という位置づけもされている。これまで、そういう難しい視点に縛られたくなかったこともあり、ボクは五木寛之氏初期の小説『内灘夫人』などで表現された青春小説の中の内灘の姿などに目を向けてきた。しかし、最近になって、この出来事にあるような住民たちの当時の日常などに関心が高まっている。

拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』のあとがきにも書いたが、自分の身近な人たちが、あのとき何をしていたか、何を考え、何を感じていたか…などについて、深く思いを馳せるようになっている。

もうこの世にはいないが、当時若い母親だった叔母は、すぐ近くで砂煙を上げながら炸裂する砲弾が怖くて、座り込みに行くのがいやだったと言った。幼かった兄は、親が座り込みに行っている間、大学生たちがギターやアコーディオンで歌を歌ってくれたり、紙芝居を見せてくれたりして楽しかったと振り返った。日常の生活は、このようにしてごく普通に流れていたのだ。

祖父の話に戻ろう。この頃、祖父は何をしていたのだろう。たぶんすでに衰退していた遠征漁業からは手を引き、河北潟や日本海沿岸での地引網などで、辛うじてかつての海の男としての面目を保持していたと思う。

戦前から祖父は、いや祖父たちは、漁船を駆使して日本海を北上したり南下したりして魚を追っていた。わずかに残っている若い頃の写真からは、逞しい体つきをした祖父の姿を見ることができる。

幼い頃から寝起きしていた生家の座敷には、北海道の“松前水産組合”という組織から送られた、中居徳太郎あての感謝状が飾られていた。すでにかなり時代がかった色になっていたが、その内容は漁獲方法の指導や改良などの貢献に対するものだったと記憶している。その堂々とした筆跡や大きな額は、見ているだけでも気持ちを高ぶらせてくれた。

誰からも、祖父は凄い男だったという話も聞かされていた。祖父たちは漁業で財をなしていた。親分肌であったろうボクの祖父もまた、魚を獲るということに関しては天才的な感覚をもち、人一倍の努力を惜しまなかったことだろう。早く漁場へたどり着くために、いち早く最新のエンジンを導入したりすることも忘れなかった。そのような話は『内灘町史』にも名前入りで出てくる。

一度、金沢から家まで乗ったタクシーの年配の運転手さんがこんなことを言っていた。「私の父親が、昔、黒津船の人の船に乗っていたらしいですがね。あの辺の男たちはとにかく、キッツイ(強い)者ばかりやったと言ってましたわ」と・・・

先に書いたボクの生まれた家は、祖父が大工を呼び、現金を目の前に積んで「これで頼む」と建てさせたと聞いた。二階の“あま”という屋根裏空間には、網などの漁具と一緒に数多くの火鉢やお膳などが並んでいた。かつて家の座敷から居間にかけての広い空間で、宴会などがよく行われていたのかも知れない。

ボクが生まれたとき、祖父は62歳か63歳だった。まだまだ元気だったが、かつてのような逞しさは影を潜め、無口で力持ちでモノに動じない、そしてやさしい祖父さんだった。ボクは祖父のことを“ジジ”と呼んでいた。最近、同じような呼び方が流行っているみたいだが、少しニュアンスが違う。

最近のは“ジィジィ”だ。見ての通り前にも後ろにも小さな“イ”が入っている。口にしてみるとすぐに分かるが、最近の呼び方には、“甘さ”がにじみ出ている。ちょっと語尾を延ばすことで“ねえねえ”みたいな甘ったるさが見えてくる。最近のおじいさんたちは、おしゃれでカッコよくて、孫のためなら何でも言うことを聞くらしいので、それでいいのかも知れない。

しかし、ボクの祖父さんは語尾を延ばしてはいけなかった。“ジジ”と、シンコペーションを効かすくらいでしか、あの武骨でクソ真面目で飾り気のない老人を呼ぶ方法はなかった。ちなみに、祖母は“バァバ”と呼んだ。小さな“ア”が一個だけ付くのが、ジジとは違う愛着の表れだったのかも知れない。

忙しかった母の代わりに、ボクは祖父に子守をしてもらって育った。大きな背中に背負われたボクのことを、近所の人たちは大木に縛られているみたいだと言っていた…と、よく聞かされた。まだ保育所にも入る前だろうか、近くの寺の報恩講などに連れていかれ、寺の近くにあった駄菓子屋でキャラメルか何かを買ってもらい、祖父の横に小さくなって座っていたのを、かすかな記憶として覚えている。昔の、五右衛門風呂をコンクリートで固めた、今となってはどう表現していいのかと悩んでしまう我が家の風呂にも、祖父と一緒に入っていた。子供にはかなり高い階段を二段ほど上って浴槽に入るという、ますます複雑怪奇な風呂場であったが、ある時祖父はその浴槽の縁から後ろ向きに落ちた。が、何食わぬ顔で起き上がると、何事もなかったかのようにして、また浴槽に体を沈めていた。

祖父は毎晩コップ一杯の日本酒を飲んだ。そのコップを出すのがボクの役割だった。時々、祖父のその酒をボクは舐めたりもした。

その頃、祖父は未明に河北潟に舟を出し、細々とした漁を繰り返していた。もちろん、河北潟が今のように干拓される前のことで、その頃は内灘の名が示すとおり、前にも後ろにも大きな水域があった。漁ではハネと呼ばれた淡水魚が多く獲れ、家の前まで運ばれた網を広げて、早朝家族で魚を網から外す作業が行われていた。近所の人たちが小さな鍋や籠のようなものを持って集まり、その場で一匹いくらかで買って帰っていった。

魚がすべて網から外され、きれいに整理されて箱詰めにされると、それは隣の地区にある漁協に運ばれる。運ぶのは姉の仕事だった。姉は中学生ぐらいだったろうか。自転車の荷台に箱を縛り付け、15分ほどかけて、いやもっと時間がかかったかも知れないが、とにかく漁港へと向かった。その自転車にはボクも便乗していた。姉の息を頭のてっぺんで感じながら、ボクは必死にハンドルにしがみ付いていたが、当時まだ道路は舗装されておらず、その乗り心地は凄まじいものだった。

魚はその場で現金決済されたのだろうか。といっても、ほんのわずかな金であったことは間違いなかった。しかし、そのお金の中からだろう、姉はボクに必ず何かお菓子を買ってくれた。今から思えば、ボクはとにかくみんなから可愛がられていたのだ…

ところで、ハネという魚は子供の記憶でもはっきりと覚えているほど、激しく美味い魚であった。醤油で煮たやつは、いつも食卓に出ていたが、ハタハタに目覚める前はこのハネに惚れていたように思う。幼い頃の初恋のようなものか…

祖父のことで最も印象深く覚えているのは、河北潟の対岸の町にさつまいもを売りに行った時のことだ。この話は『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中でも書いている。

当時の内灘の砂丘地では、さつまいもがよく作られていた。他にもいろいろあったように記憶するが、現金収入の乏しかった時代、このさつまいもが唯一よそへ持って行っても何とか売れるものだったのかもしれない。

祖父の小舟に笊に入れられたさつまいもが積まれ、祖父が操縦して対岸の町へとひたすら真っ直ぐ向かう。舟には母と親戚の叔母だったろうか、とにかく何人かが乗っていた。そして、ボクはその舟の先端の尖ったあたりに背中を押し付け、早く陸にたどり着けと願いつつ、静かにまたしても便乗していた。

舟は行くときは大して揺れなかったが、帰りにはそれなりに揺れた。あんな潟の水面なのだが、夕暮れ時の風には小舟は敏感だった。

ボクがそこで見た光景は、後にかなり物事が分かるようになってからひとつの感慨となって残ったものだ。小説の中では、主人公のナツオがその場で感じたように書かれているが、ボクは当時その光景を、ただぼんやりと見ていたに過ぎない。しかし、後に感じたことは、自分でも不思議なくらいに切なく悲しいものだった。

人生の最も華やかな時代を海の男としてならした祖父が、さつまいもごときを売り歩くためにペコペコと頭を下げていた。額に汗を浮かべ、その汗を首に巻いた手拭いで拭く姿は、かなり疲れているようにも見えた。対岸の町と言えば、水田が広がり米の多く獲れるところだった。米を作っている人たちの、どこか落ち着いた、もっと言えば品の良さそうな表情が、ボクには眩しく映っていた。その町の人の中には金ではなく米で支払う人もいたが、その頃の自分たちが、それほどまでに貧しかったのかと、それから後に思い返したりもしていた。

ボクはあの時の祖父の姿に何か特別な思いを持っている。それほど深い意味はないと言ってしまえばそれまでだし、たしかに自然体な祖父からすれば、さつまいもを売り歩くこともひとつの人生だったのかも知れない。しかし、ボクはそんな祖父にどこか虚しいものを感じて仕方がなかった。

祖父はボクが18歳の時に死んだ。全く病気などしたことはなく、老衰と言う祖父らしい自然体の死に方で息を引き取った。ボクが生まれて初めて体験する身内の死でもあった。

高校三年であったボクは、帰宅した時に祖父の死を知った。普通の家では信じられないと思われるかも知れないが、ボクには祖父の死は知らされなかった。だから、バス停から歩いて家の近くまで来た時、家の前が異様に明るいのに気付き、そのことを察知したのだ。わざわざ学校を早退してまで帰って来なくてもいいという、当時の田舎の素朴な生活感覚が匂ってきて、この話にはボク自身も違和感がないから不思議だ。

祖父の屍が焼かれようとしている時、母が何か一言口にして泣き顔になった。母はかなり苦労した人であったが、その心の支えとなったのが祖父だったのは明白で、どっしりと構えた義父としての祖父の存在が、母をずっと勇気づけてきたことは間違いなかった。

ボクは、祖父が煙となって空に昇っていくのを斎場の脇から見上げていた。ボクの前にはすぐ上の兄がいた。肩が震え、今にも嗚咽が聞こえてきそうだった。涙は出なかったが、ボクはその時はじめて、自分の祖父の存在と、その祖父の死を実感したように思っていた。

祖父の名は、中居徳太郎。大らかないい名前だ……

雪のある東京の思い出

これから読んでもらうのは、何年も前に書き、かつて『ポレポレ通信』(第44号)というプライベート紙に掲載した短いエッセイだ。今の季節に、ふと思ったりすることを書いた。少し書き直してみようかとも思ったが、とりあえずそのまま読んでもらおうと思う。

「雪のある、東京の思い出…」。

東京に雪が降って、銀座の街に雪ダルマの姿があった。異様な光景ではあったが、何となく東京人の洒落っ気を思い、心憎ささえ感じてしまった。

そして、東京に降る雪の方がオシャレに見えたのはなぜだろうか、とボクは考えていた。

すると古い話だが、親友たちと飲みふけっていた大学の卒業式の夜のことが思い浮かんできた。場所は中野だったと思う。底冷えのする寒い夜だった。

その数日前、東京に季節外れの雪が降った。ほとんどは融けてなくなっていたが、それでも所々に凍り付いたままの雪が残っていた。

かなり酔っ払った後、ボクたちは線路沿いに出ていた屋台でラーメンを食う。酔っ払っていたのと寒かったのとで、そのラーメンは感動的にウマかった。

ボクたちはドンブリを持ったままウロウロと歩き回ったり、何だか訳の分からない歓声を上げたりしながら、そのラーメンを食っていたのだった。

突然、そんなボクたちの横を轟音とともに電車が通り過ぎて行った。まさに不意を突かれたといった感じで、そのときボクたちの周囲にあったすべてのものが、一度に吹き飛ばされてしまったように感じた。

事実、その轟音によってボクたちのラーメンに対する感動はコッパ微塵にブチ壊され、冷たい風がボクたちの全身から温もりさえも奪い去っていったのだ。

ふっと訪れた冷たく白々しい静寂。ドンブリから上がっていた湯気さえも、虚しそうに冷気の中へと吸い込まれていく。

ああ、東京ともこれでお別れか……と急にセンチメンタルな気分に襲われ、胸が痛くなってくる。

残されたラーメンの麺をすすろうとすると、カジかんだ手から割り箸が落ちた。

ふと見下ろすと、足元に小さな雪の塊。

東京の雪はすべてがアスファルトの上に積もっているのだなアと、その時ボクは何気なく思った。当たり前のことだが、東京では雪融けが春を告げるものでないのだとも思った。

雪そのものも冬の風物詩ではなく、単なる冬の間の一時に訪れる珍客に過ぎないとも思った。

東京の雪は交通をマヒさせることはあっても、生活様式を変えてしまうようなものではない。それがあの銀座の雪ダルマに象徴されていたとボクは思う。

当たり前だが、雪に埋もれた日々を送る人たちが持っている雪への思いと、東京の人たちが持っている雪への思いは違うのである。

二月の終わり、何となく春めいていく日々の中で、雪への思いが逆に募っていく……(終わり)

ボクはとにかく雪が好きだ。雪のある山里の風景には涙が出るくらい感動するし、雪の世界に足を踏み入れていく遊びには、かなりポジティブになれる。雪のある場所をわざわざ選んで歩くことも無性に好きだ。よく、子供みたいだと言われた。

石川県に戻ってから、東京に雪が降り都内の交通がストップした時、はっきり“ざまァ見ろ”と思ったことがある。大人げない話だが、その時ボクは完璧にそう思った。

北欧や南太平洋の国々などは別にして、どこの国に行っても寒い地域と暖かい地域のあるのは普通だ。そのどちらかに人は住みつき生きている。ボクはたまたま雪の降る土地に生まれ、雪の降らない土地にしばらく住んだ後、また雪の降る土地に戻った。雪が降るとか、雪があるというのは当たり前のことで、雪のない土地のことを羨ましく思ったことはない。

なのに、なぜ“ざまァ見ろ”と思ったのか。答えは簡単だった。その時、あの人たちは雪で遊べない人たちなんだと感じたからだった。かつて見た銀座の雪ダルマはたしかにオシャレであったが、それだけでしかなかったと思った。

雪で苦労するというのは、そんな生易しいものではない。ボクたちはそのことを体中に染み付けながら、敢えて雪を楽しむ術も知っている。ボクはそんな雪国に生まれてよかったと思っている……

八重洲で、もの想い・・・

八重洲にある某巨大ビルの一階に、シンプルな木調の内装と大きなガラス張りが特徴の、日当たりのいいコーヒー屋さんがある。コーヒーが特に気に入っているわけではないが、何気にその店の雰囲気が好きになり、出張帰りの新幹線待ちの時間に30分ほど余裕を持たせて入ったりする。

一月のアタマ、相変わらず冬の太平洋側らしい晴れの日、工事中の東京駅周辺をぼんやり眺めていると、歩道のあたりで写真の撮影をしている一団が目に入った。撮影されているのは、ロックバンドのメンバーのような連中だ。分かる人には分かるのだろうが、こっちは分かるはずもない。しばらく見ていると、連中は歩道に座ったり、カメラに向かって決めポーズをとったりして、かなり悪乗り的な雰囲気になってきた。見ている方が恥ずかしくなってきたが、彼らには彼らなりの思いやらスタンスがあるのだろうとも思い、それからは敢えて見ないようにしていた。

・・・・・話は一気に飛ぶが、初めて北アルプスの穂高に登った時、単独行のボクは缶詰め状態になった涸沢ヒュッテの小屋の中で妙に落ち着かないでいた。夕食が終わり宿泊部屋に集まると、山小屋のスタッフが、一人ひとり名前を呼び、寝る順番と言うか、位置を示していく。畳一枚に三人が寝るという、夏山ピーク時にはよくある光景だが、ボクの名前だけが呼ばれなかった。

「まだ名前呼ばれてない方いらっしゃいますか?」 ハイと手を上げると、当然、名前を聞かれた。しかし、「ナニさんですか?」と聞かれたので、思わず「ナカイさんです」と答えてしまった。アッと言う間に首から上が熱くなり、その場のシラッとした空気のすべてが自分のせいだという思い込みと、恥ずかしさに潰されそうになった。

“ホントは、こんなこと言うオトコじゃないんですよ、皆さん” ボクは必死にその場の空気を入れ替えようとしたのだったが、すでに遅かった。スタッフは事務的にボクの位置を決め、では皆さんよろしくお願いしまあすと言って去って行った。

ボクは結局、自己嫌悪と人いきれの熱気の中で眠りにつけなくなり、12時頃には山小屋を出て、1時には冷え込んだ外の岩の上でコーヒーを沸かし、携帯食のリッツを出して、それまでの生涯で最も早目の朝食にした。この自己記録はもちろん今でも破られていない。そして雨具などを着込み、岩に寄りかかって仮眠して、3時半にはザイテングラートと呼ばれる急峻な登山道に向けて歩き始めていた。二泊三日コースを家からの往復時間も含めて一泊二日でやっつけようという、当時のボクとしては、当たり前の真ん中のちょっと横といった感じの山行スケジュールだったのだ。当然のごとく、かなりしんどい思いをしていた。

今でも、あの「ナカイさんです」は痛恨の極みだ。野球には痛恨の一球というのがあるが、痛恨の一言というのはああいうことを言うのだろうと思う。旅の恥はかき捨てとも言われる。しかし、あの時の状況は、そのまま皆さんと一緒に寝ることを許さなかったのだ。

話は相変わらず寄り道だらけになったが、八重洲の連中を見ていた時に、ボクはそんなことを思い出していた。もちろんそうしたくもなかったのだが、そうなってしまった。何が共通していたのだろうか。あの連中のはしゃぎ方が、ボクの「ナカイさんです」にどう繋がっていたのだろうか。少なくとも、ボクが両者を同類項にしていたのは間違いなかった。

ボクは、はしゃぐのは得意ではない。“ボケ”は得意だが、根本的にはしゃぐのは不得手だ。別な言い方をすれば、自分をしっかり出すというやり方しかできない。たとえば最近流行りのネット社会における匿名文化みたいなものにも、どうも感覚的についていけない。名前や素性を隠して、意見を述べたりするのは性に合わないし、そういう言葉を、じっくり読もうという気持ちもボクには起きない。もちろんTPO に応じての使い分けは理解できているが。

言葉は、その人の素性などが背後にあってこそ生きたものになるのではないか。写真や絵画、音楽や文学、さらにスポーツ……たとえば、アジア杯決勝で素晴らしいゴールを決めた日本代表の李忠成。まだ若いながら在日から帰化の道を選んだ彼のこれまでの生き方を知ることで、余計にあの一本のシュートの重みを感じ取れるのではないか。涙を流して喜んだという彼の母親の思いもまた分かるのではないか。彼の放ったあのボレーシュートもまた、彼の言葉だったのだ。そう考えるから、言葉はその人の素性や根本的な考え方に裏付けされているものなのだと思える。

むずかしく考える必要はないだろうが、ふと目にしたなんでもない出来事から、自分自身の思いの一端をあらためて考えさせられたような気がした。

2月のアタマにも、ボクはまた、あのガラス張りのコーヒー屋さんで、短いながらも、ゆったりとした温もりの時間を一冊の本と共に過ごしていた。他にも客はたくさんいたが、それぞれがそれぞれの空間を大切にしているように見えた。

窓の外には、速足で歩いていくビジネスマンや、楽しそうに笑いながら歩いていくご婦人たちの姿が見えていた。

ボクはひたすらのんびり構えようとしていた。歳を食っても、自分流の考え方や感じ方の中に、まだまだ整理のつかないことがあるのだということを、ほんのちょっとだけだが、また考えていた。そんなもんだろう・・・・・・・

マグカップと寝る前の読書と

今年に入ってから、身の回りに新しいモノや新しいコトが始まっている。他愛のないモノやコトなのだが、自分の気持ちが動いている分、それなりに新鮮な気持ちになったりもしてよかったりする。

そのひとつが、久しぶりに立ち寄った「ノリタケの森」で購入したマグカップの存在だ。一月の中旬、名古屋駅の近くでお世話になっているクライアントの新年会合があった。本番は1時間半程度で、当然日帰りのシンプルな出張なのだが、その会場を出たところで「ノリタケの森」を案内するサインを見つけた。

一昨年だろうか、初夏の爽やかな日に初めて訪ねていた。そのときはクルマだったが、駅に近いという印象が強く残っていて、今回の会場を地図で確認した時に、もしやと期待していたのだ。予想どおり、歩いて数分で懐かしい赤レンガ造りの建物が見えてきた。

ノリタケは食器づくりで100年の歴史を刻む。そして、「ノリタケの森」は、その歴史の中で培ってきた技術や、育まれてきた文化を伝える場として広く親しまれている。赤レンガの建物は1904年に建てられたもの。ミュージアムなどのカルチャーゾーンと、ショップなどのコマーシャルゾーンに分けられ、それぞれがかなり精度の高い雰囲気を持っている。屋外を散策したり、ベンチに腰をおろしてボーっとしているだけでもそれなりに意味がある。

 

しかし、季節外れの「ノリタケの森」には、ほとんど人はいなかった。晴れてはいたが風は冷たく感じられた。レストランの窓からは何組かの女性グループの姿が見えた。が、外にも広がるカフェなどは当然営業してなく、辛うじて数人の人影が構内を散策しているという感じだった。

一昨年に来た時は、ミュージアムなどの展示場もすべて見て回り、とてつもない上質のものが多いことに驚いた。手入れされた樹木や芝や水の流れとともに、レンガ造りの建物が美しかった。人気だというアウトレット・ショップにはたくさんの買い物客がいた。

そして、今回はほとんど人のいないショップで、ボクはゆっくりと商品を見て回り、そのマグカップと出会うことが出来た。

ボクが買ったマグカップは、何の変哲もない普通のものだ。誰が見ても、やはり普通だというに違いない。しかし、ボクがひとつのこだわりとして抱いてきたものを、そのマグカップは備えていた。それは“重さ”だった。しかも、シンプルでいて重いという微妙な我が儘を満たしてくれるものだった。このマグカップを手にした時、ボクは自分が抱いてきたこだわりを思い出した。そんな大袈裟な話でもないが、手にした瞬間に、自分がいつもマグカップに対して求めていたものが明解に分かったのだ。

シンプルさというのは、色と形だ。特に色はシンプルさというよりも、普通であるということの方に魅かれた。実は他に何色かあり悩んだのだが、普通であるということで濃いブラウンにした。その時に、おしゃれさを求めなかった自分自身に、ちょっと納得したりもした。

コーヒー好きのボクは、コーヒーに対して一種の敬意を持っている。特に美味しいというか、丁寧に淹れられたなあと感じるコーヒーと出会うといい気分になれる。それはきれいにたたまれたマフラーを首に巻くのと似ている。そして、そのことをさらに意味深くしてくれるのが、コーヒーカップの個性だと思ってきた。

ただ、コーヒーはマグカップで飲むのがいちばん合っていると思う。おしゃれなカップはどうも性に合わない。持つところの細い上品なものなどは、コーヒーの味を変えてしまうくらいに窮屈さを感じさせたりする。その点マグカップは、堂々とした大きさでもって安心感をもたらしてくれるから、コーヒーをより身近なものにしてくれているのだ。家や職場でマグカップを使うのは、少々欠けてもいいとか、そのコーヒーが低ランクだとか、そんな理由ではない。ただ、じっくりコーヒーが飲みたいからだ。

もうひとつ、年が新しくなってから俄かに始めたのは、“夜寝る前の読書”だ。

年末に買っておいた『 yom yom 』という文芸雑誌がいい刺激になって、夜の読書習慣が始まった。といっても、だらだらと読みふけるのではなく、眠くなったら即中止といったペースだから、いい加減さにも正当性があってほどよい感じだ。せいぜい長くても10ページ、短い時は、1ページも読ま(め)ずに寝る。

文芸雑誌と言うのもよくて、短編の小説やエッセイなどは意外なほどに楽しませてくれる。これは久しぶりの体験で、さまざまな書き手の話が読めてそれなりに楽しい。それに、ストーリー自体にいつの間にか自分が入り込んでいるというのも忘れかけていた感覚だ。毎日の身近な生活の中に、いかにさまざまなストーリーが隠されているか、そんな感覚もあらためて教えてくれている。

こういう状況は、心のゆとりを求めている証拠だとも言われるが、ボク自身もある意味そうなんだろうなあと思う。事実、その時は凄く安らいでいる。やはり活字追求に明け暮れていた頃の自分を思い出すようで、ボクとしては精神衛生上もかなりいい感じなのだ。

ところで、寝る前の読書というのは学生時代の日常だった。消灯時間のある体育会の寮生活では、11時にはメインの電気が消された。そのあとはみんなが各自のベッド部屋(据付の二段ベッドだった)に入り、カーテンを閉め、スタンドの明かりのもとで本や雑誌や新聞、漫画などを読む。時には彼女に手紙を書いたり、勉強したりということもある。

そんな自分だけの世界と夜の読書は繋がっているのだろう。前に夢のことを書いたが、あれだけたくさんの夢を見続けているのも、この読書が影響しているのかも知れない。しかし、夢の話の奇抜さを思うと、本の中の世界はいたって日常的なのだ。

今夜も、“つばらつばら”と読んで、夜が明けたら、シンプルでやや重いマグカップに美味いコーヒーを注ぎ、ちょっとした満足を楽しもうかな…などと、かなりキザに近いことなんかを思ってしまうのであった……

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

部屋の整理をしていたら、懐かしいものが出てきた。2002年12月21日の日付が記されたカセットテープ。

当時2年がかりでやっていた自主企画・自主運営イベントを紹介するNHK-FMの録音テープだ。翌年の本番に向けたイベントの準備などを追って、ボクを取材してくれていたNHK金沢放送局のT野アナともう一人女性アナ(名前忘れた)の番組に、ボクがゲスト出演し30分ほど語っている。土曜午後の東海北陸向けの特別番組で、録音してくれたのは、金沢・柿木畠、喫茶「ヒッコリー」のマスター水野弘一さんだ。

 ボクが企画していたのは、ジャズ界のリーダー、マイルス・デイビスが1973年7月1日に金沢で行ったコンサートを振り返り、常にジャズシーンをリードしてきたマイルスが、当時金沢でどのような演奏をしていたのかを再確認しよう!というイベントだった。

簡単に書いてしまったが、たぶん、ジャズのことなんか知らないの…という人には、どうでもいい話だろうし、自分でもこのことをきちんと伝えることのむずかしさは骨の髄まで痛感している。最近ジャズが好きになったの…という人にも全く解りづらいだろう。つまり、ボクはそんなことをやろうとしていた。

30年前のコンサートを再現するようなイベントというと、誰でもコピーバンドを入れたらいいと思うに違いない。しかし、コピーバンドではダメだった。マイルス・デイビスそのものでないとダメだった。しかし、マイルスはもうすでにこの世にいない。もし生きていたとしても、もう演奏スタイルは違うし、それに根本的にボクがマイルスを金沢へ呼ぶなんてことは不可能だった。

で、どうするかと言うと、残されたレコードやCDをとおして、当時の演奏を再確認するしかないのだが、1973年の日本公演ツアーは“正規”録音がされていなかった。だから、その前後の録音モノから金沢での演奏スタイルを想像するしかなかった。

話は、ますますややこしくなる…… なんで、録音が残されていないか? そんなこと知るか…と、ここまできて開き直るのも申し訳ないから、もうちょっと書こう。


マイルス・デイビスというミュージシャンは、とてつもない創造者だった。常に変化し続けていた。マイルスの音楽は、いつも先を行っていて、実験的で批評しにくく、ライブ自体が彼の創造活動になっていて、スタジオでの録音ですらも即興型のライブ形式で出来上がっていた。それも73年あたりでは、もうスタジオでの録音はほとんどなくなっていたのだ。つまり、マイルスはもうステージでの演奏でしか、自分の音楽を表現できなくなっていて、一曲が何十分にも及ぶ演奏で、聴き手にメッセージをぶつけていたと言っていい。ちょっと、一休みしよう…

*****************************

マイルスが金沢にやってきた当時、ボクは午前中家の手伝い(アルバイト)をし、午後からは、当時大手町にあった市立図書館で受験勉強に打ち込むという、刑務所で言えば模範囚に値する優良浪人生だった。

余談だが、この頃のボクの切り替えの素早さには、自分でも凄いものを感じていた。アタマを丸刈りにし(といっても、元野球部だったから特に傍目の違和感はなかっただろうが)、裾が閉まった綿パンにTシャツ、素足にサンダル履きというスタイルで、時間をキッチリと配分し毎日を過ごしていた。図書館での勉強スタイルも予備校組よりはるかに効率的にこなしていたし、勉強時間は昼から夕方までと決めていて、帰りにYORKに寄ったりすることは、ボクの中では正しい息抜き兼充電のひとときでもあった。マスターの今は亡き奥井進さんとは、その頃すでに親しくなっていたから、YORKではかなりのんびりできたと言っていい。

      ※コンサートの夜のことを語る奥井さん

実はマイルスのコンサートを振り返る時、奥井さんが地元紙の夕刊に書いたコンサート評の記事がボクにとって貴重な資料となった。当時ボクはジャズがかなり解り始めた頃だったから、マイルスがロック志向に走っていることに大いに不満を持っていた。分かりやすく言うと、ロックはガキの音楽なのに、なぜ偉大なマイルスがロック志向になっているのか…などと、生意気なことを思っていたのだ。実際には、マイルスの演奏スタイルはロックをベースにしたサウンドになってはいたが、そんな安直な解釈だけでは説明できないものだった。さらに高い次元の音楽が創造されていたのだ。

そのことを、われらが奥井さんは見抜いていた。そして、素直にあのコンサートでのマイルスのサウンドに驚いたことを新聞に書いていた。

何のMCもないオープニング。緞帳が上がるのと同時に始まった演奏。大音量が音の風になって、最前列ど真ん中にいたボクの顔面にぶち当たり吹き抜けていく。一気に緊張を強いられたボクは、そのまま金縛りにあったかのようにして時間を忘れていた。

ボクはかつての感触を蘇らせた。奥井さんのコンサート評から、たしかにそうだったと振り返ることができた。

奥井さんは、ボクが企画したイベントのプレの第1回目に出演してくれて、ボクとトークセッションをやってくれている。二人で語ると、普段はほとんど漫才みたいになるのだが、この時だけは妙に真面目にやっていて、後で可笑しくなったのを覚えている。プレの2回目にも、観客席の真ん中に腰を据えて、金沢のジャズシーンの中心人物らしく、ボクのやっていることを見守ってくれていた。

しかし、本番まであと3週間ほどという日の夕刻だった。

2003年6月17日、ボクを残して奥井さんは帰らぬ人となってしまった。食道ガンだった。“絶対、本番には会場に来てや”“行けるか、分からんぞ”そんな会話が最後になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりの話は、73年7月初めからの朝日新聞金沢版の『金沢アンダンテ』というコーナーに一週間連載で寄稿した。奥井さんの死とボクのこのイベントへの思いは、とにかく頑張っていた自分の中で、深く繋がっていたと言っていい。

カセットテープの中では、ボクは30年前のコンサートのことを話している。そして、その再体験をしようとするイベントについても、その目的ややり方などについて語っている。ついでに書いておくが、我ながらいい声だ。女性アナウンサーからもそう言ってもらえた。

30年前の音を再現しようという試みは、想像していた以上に広く多くの人たちの共感を呼んだみたいだった。自分自身でも努力したが、1973年7月初め前後のマイルス音楽が録音された、俗にいう“海賊版”CDなどが手に入ってきた。当時のコンサートの写真(隠し撮り)も出てきた。凄かったのは、名古屋のジャズクラブ(店ではなく、愛好家の集まり)の方から企画を評価していただき、当時のライブ映像が入ったDVDや写真、パンフレット類などが届いたことだった。

YORKの仲間たちのネットワークも強力で、手伝ってくれるメンバーも増えてきていた。そして、なんといってもイベントのもうひとつの目玉になったのが、スーパーオーディオの存在だった。マイルスの圧倒的な音を再現するには、生半可なオーディオでは不十分で、しかもいいオーディオを揃えると言っても物理的に不可能なことだった。

会場は、閉館となった映画館を改造して運営し始めていた「香林坊ハーバー」。実はボクのイベントが本格的な使い始めと言ってもよかった。不備だらけだった。

映画館にはもともとスピーカーがある。しかも「ALTEC」というとてつもなく高級メーカーのものが残されていた。しかし、ボクのイベントでは、それをはるかに凌ぐスーパーオーディオが準備された。高岡にある「audio shop abc」のオーナー飴谷太さんが、その名の通りの太っ腹で無料レンタルしてくれたのだ。メーカーはマッキントッシュ。総額2000万は超えるであろうマッキントッシュのスーパーな機材がステージに並んだ。

『マイルスを訊(き)け』という、マイルス・デイビスのバイブルとも言える本の著者中山康樹氏からも激励と、金沢公演での裏話が詰まった長いメールをいただいた。

さらに、本番の数日前、今度は全国版のNHKラジオ番組でインタビューを受け、それが放送されると、全国そして、アメリカ在住の日本人ジャズファンの方からも電話が入った。みな、やろうとしていることに驚いていると異口同音に話してくれた。

会場のロビーには、写真や当時のコンサートグッズなどが展示され、受付を担当してくれる仲間たちがいた。缶ビールなどの飲み物も出した。入場は無料だったが、協力金みたいな名目で飲み物を買ってもらった。飲み物は家から持ってきてくれたものも含めて、カンパされたものばかりだった。

本番は、2003年の7月5,6日、二日間にわたって行われた。初日がマイルスの名盤を時間軸で流し、特にトークは入れずにただひたすら聴くという趣向にした。二日目はボクがステージに立ち、マイルス音楽の遍歴やコンサートのことなどを話した。時効だから言うが、ステージでは突発的に、金沢へ来る一週間ほど前の新宿厚生年金ホールでの映像も流した。これにはみなも唖然とした表情で見入っていた。

香林坊ハーバーは、前年のプレも含めてのべ4日使ったが、定員60名のところに、毎日160名ほどの人たちが来てくれた。皆、こんなイベントがなぜできたのかと不思議がっていた。

ボク自身も実に不思議な感覚だった。もっと注目されてもいいんじゃないかとも思ったりしたが、このあたりが自分自身のキャパだろうと納得していた。

 書くのを忘れていたが、イベントのタイトルは「30th memorial- MILES DAVIS  in KANAZAWA」。他人から見ればどうでもいいようなことに没頭し、自ら企画して自ら制作して、自ら進行運営をやってしまった、自分の原点にあったようなイベントだった。そして、奥井進という、ボクにとっては何だか分からないけども重要なニンゲンの存在を失うことへの恐ろしさから、逃避するために一生懸命になっていた日々でもあった…のかも知れない。

この後、ボクはジャズを中心にしたいくつかのイベントを企画した。その中で多くの人たちと出会った。ただ、今、ボクの中にある冷め切らない熱は、あのマイルスの時に温められたものに違いないと思っている……

 

マイルスの話は以下にも。

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

秋のはじめのジャズ雑話-1

五十嶋博文さんとの、今年最後の時間だった・・・・

越後湯沢で上越新幹線からほくほく線に乗り換えると、空が少しずつ灰色に変化していった。二日間いた東京は晴れていた。寒くなりそうとは言っていたが、やはりまだそれほどでもない。それに晴れていれば、それなりに気分は明るくいられる。

電車が進むにつれ、空はますます暗くなり、学生時代の冬の帰省時、いつもそんな体験をしていたのを思い出した。別にそのことで損をしているとかは思わなかったが、それが故郷へ帰ることのひとつの習わしのようであり、窓外の吹雪の風景などは、気持ちも引き締まる思いがした。

上越の山々はすでに白く薄化粧を始めている。少し前だったらもう今頃はもっと雪が積もっていただろうにと思うが、この景色も悪くないと窓外に目をやったりしていた。

 12月の始め、久しぶりに北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文マスターを訪ねていた。もちろん山小屋は今閉じられていて、立山山麓の店を拠点に相変わらず忙しい毎日を過ごされている。素晴らしく天気のいい午後の遅い時間で、連絡せずに行ったのだが、五十嶋さんは事務所とお店がいっしょになったご自宅にいらっしゃった。

奥さんがたい焼きと美味いお茶を淹れてくださり、その素朴な組み合わせに唸っていると、奥からマスター(五十嶋さんは若い頃から、そう呼ばれている)が出てこられた。「おお、ナカイさん、久しぶりだねえ…」

今年最後に山を下りてから、もう一ヶ月半くらいだろうか。この時期のマスターの顔はいつも穏やかに見える。事務所のソファに向かい合って座っているだけで、大きな安心みたいなものが生まれる。初冬ののどかな立山山麓の風景の中で、マスターといられる時間というのが貴重で嬉しい。

 マスターとは約三十年前に初めてお会いした。ボクは駆け出しの登山青年で、やたらと無邪気に山に入ろうとしていた。しかし、前にも書いたが、ボクの山デビューは剣岳でさんざんな目に遭い、決して将来に期待の持てるものではなかった。そして、次に出かけたのが、マスターの太郎平小屋をベースにする薬師岳だったのだが、それも大雨に降られて登頂できず、小屋で一日停滞して、そのまま下山するという有り様だった。

ボクは当時から、五十嶋博文という北アルプスの名物おやじの存在を知っていた。初めて太郎平小屋の中で、マスターと面と向かったとき、必要以上に緊張したのを今でもはっきりと覚えている。その時は当然特に話すこともなく、ただ、こんにちはと普通のあいさつをしたに過ぎない。

しかし、それから後、毎年のように薬師岳へ行くようになり、しかも地元の町づくりのことでマスターと仕事ができるという幸運にも恵まれて、急激にその距離が縮まった。毎年秋の閉山山行のことを書いたエッセイは、専門誌『山と渓谷』に掲載され、マスターにも喜んでもらえた。

 そうこうしているうちに、太郎平小屋のパンフレットやロッジのパンフレット、絵はがきやTシャツなど、直接多くの企画に参画させていただくようにもなっていった。もちろん手弁当の仕事だ。現在使われているパンフレットは、ボクの写真と文章、そして地図などをボク自身でデザインしたものだ。一部写真の提供を受けているが、自分で山に入り撮影したものが多い。撮影で山に入った時、長く履いてきた登山ブーツの底がはがれ、マスターの長靴を借りて歩き回ったこともある。

来年はパンフレットを増刷する時期だ。マスターが新しい写真に代えなくてはならないところが多いから、「来年は、夏に山来んなんぞ、ナカイさん」と言われた。嬉しいお誘いだった。

 マスターが奥から一冊の本を持ってこられた。マスターのお兄さんである五十嶋一晃氏が書かれた『山案内人 宇治長次郎』という本だった。長次郎とは、ご存じ『剣岳・点の記』で測量隊の登頂をサポートした山案内人だ。本には、地元出身で優れた山岳技術と人間性を誇った長次郎のことが、実に詳しく記されている。特に癖のある人が多かったという山案内人の中で、長次郎については悪く書かれた資料が全く残っていないらしい。それが安心して頼める山案内人としての長次郎の評価になっていたと、マスターも話しておられた。

一晃氏とは、数年前に現在のパンフレットの撮影で山に入っていたとき、太郎平小屋のさらに奥になる薬師沢小屋で出会った。ついでに書くと、さらに奥にある高天原山荘(たかまがはら)、そしてもうひとつスゴ乗越小屋という四つの山小屋がマスターの経営下にある。北アルプスのド真ん中の、奥黒部を含む静かな一帯がエリアなのだ。

ボクは初めてだったのだが、一晃氏のことを“お兄さん”と呼ばせていただいた。お兄さんは、太郎の小屋の誕生の時、建設資材を背中に担ぎ、裸足で麓から登ったという人だ(下の写真)。当時の写真は、パンフレットの冒頭部にも使わせていただいている。法政大学山岳部OBで、卒業後は製薬会社に入られ、山岳部に所属。最後は取締役として会社を去っておられる。日本山岳会会員でもいらっしゃる。

 当然だが、山のことは詳しい。厳しさも並はずれていて、ボクがお会いした時も、これからの山小屋のあり方や山との接し方など熱く語っておられた。特に女性に優しい山小屋にならないとダメだと力説されていたのを覚えている。今はシーズンになると、山に入り小屋の仕事を手伝っておられるらしい。

それにしても、この本の内容は実に綿密な記録の集大成だ。まだすべてを読み尽くしていないが、興味のあるところから先に読んでいる。山の記録と言うのは、さまざまな想像の中で楽しめる。街の記録とは違い、その場所に簡単に行けないからこそ、面白味が増す。

五十年の歴史を通り越した太郎平小屋だが、マスターでは『50年史』を出した後、これからは毎年その年のこと記した冊子を出していこうとの思いもあるようだった。もちろんそういうことなら、なんでもお手伝いさせていただきますと答えた。

一昨年ボクは、会社の行事でマスターのトークを企画し、ボクがナビゲーターとなってやらせていただいた。山小屋のオヤジさんとして安全をどう考えるかという、堅苦しいテーマだったが、マスターが若くして経験された、薬師岳での愛知大学生遭難事故(昭和38年冬に起きた山岳史上最大の事故で、死者13名)をとおして、山小屋のオヤジとはどうあるべきかを語っていただいた。

その時のことが、マスターも好印象で残っているらしく、ああいうことを他の小屋の人たちも入れてやりたいと言われた。そんな企画も頼まれた。実はボクも、是非やってみたいと考えてきた。素朴な人たちの、素朴な話を、ただひたすら素朴に聞く。そこから生まれてくるものは、厳しくもやさしい、ニンゲンと自然とのドラマだ。むずかしいことを考える必要はない。マスターたちに、ただのんびりと語ってもらうことがすべてだ。

 それにしても、季節としては暖かく、のどかな立山山麓の夕方だった。マスターにお会いする時は、いつも帰り際で物足りない気持ちになってしまう。もちろん自分自身に対してで、もっともっといろんな話がしたいと思ってしまうのだ。

外はまだまだ肌寒さを感じるというほどでもなかった。

来年は忙しくなりそうですね・・・。ボクがそう言うと、マスターが、そうやね・・・と言って笑った。

立山山麓はすっかり夕焼けに染まっていた。帰りは急ぎ足になったが、岩肌を赤くした初冬の剣岳の姿だけは、しっかり目に焼き付けておこうと、何度も振り返っていた・・・・

メダカとツリーと地ビール&つばらつばら

尼崎市にある三菱電機の研究所で、石川県産業創出機構が主催する“技術提案展示会”があり、その会場づくりを受け持った。一ヶ月ほど前に大阪の日立造船所でもやってきたが、いろいろと情報を得たりできて、思いがけない出会いもあったりする。

大阪で久々にお会いし、尼崎でもご一緒できた大西健吾さんは、現在の石川県大阪事務所長さんで、大阪では知事に同行もされていた。大西さんとは実はかなり古い付き合いになる。石川県で国体が開かれた時の重要スタッフのお一人で、未知の仕事に一生懸命力を注いでおられた。かなりしんどい要求もあったが、大西さんの一生懸命さに負けて、ボクもひたすら頑張ったような気がする。大阪でも尼崎でも、ゆっくりお話はできなかったが、こちらに戻った後に、すぐ電話もいただいて、ボクとしては恐縮しているのだ。

尼崎はポカポカを通り越したような、かなりのんびりとした陽気だった。大阪から、JR宝塚線の猪名寺(いなでら)という駅で降り、線路沿いに10分ほど歩くと三菱電機の研究所の正門前に着く。と言っても、その敷地はとてつもなく広くて、駅の隣からすでにダァーんと研究所の施設が並んでいる。正門前が踏切になっているのも面白い。正門までの普通の道自体が研究所の敷地内らしい。写真撮影はできないという注意サインがあったりした。

 ポカポカを通り越しているのだから、歩いているだけでも首筋が何となく汗ばむ感覚がある。今の季節としては、さらに雪国ニンゲンとしては、思わず違和感を持ってしまうような状況なのだが、なんとも、ありがたいことであるまいか・・・と自分に言い聞かせて足を進める。

それに道の横を流れる小さな用水のような流れの中に、きらきらと光る小さな魚影なども見えたりして、それ自体も、なんでこんなところに、美しい小魚たちが泳いでいるのだろうと疑問を持たせつつ、和らいだ気分にさせてくれていた。

あとで分かったのだが、三菱電機では水の浄化に関する研究開発が進んでいる。一見、生活用水の流れる側溝(そっこう)と言ってもいいようなところを、小魚たちの棲める完璧に清らかな水の流れの場に変えていくのは、その成果の現れなのだろう。構内に入って、さらに何でもない小さな流れの中にメダカたちの姿を見つけた時は、足を止めて、しばらく懐かしい光景に見入ってしまった。撮影禁止だったので、写真で見せられないのがちょっと残念だ。

帰りに京都に寄り、夕方に近い頃、京都駅で冬のイルミネーション装飾を見てきた。駅だけで見ると、特に毎年変わったことをやっている気配はないのだが、毎年見てきただけに、どうしても続けて見たくなる。ある意味仕事的視点で見てしまうことに抵抗は感じるのだが、まず見なければコトは始まらない。相変わらず美しいツリーだった。

 ボクにとって、クリスマスツリーというのは、美しいものを見るという視点で存在しているしかない・・・というものだ。へそ曲がり屋的視点からだと、真実味のない“西洋かぶれ”の象徴みたいで、キリスト教徒でもないアジアのニンゲンが、よくここまでやれるなあと思ってしまうのだが、美しいものを見てうっとりするとか、夢を描くとか、そういう視点からは、それなりの存在価値があると思う。ジャズを聴くとか、イタリアンを食べるとかとは、かなり違う意味で。

最近ますます興味を深くしているのは、日本の仏教美術の凄さだ。特に仏像には果てしない力が備わっていると、あらためて感じるようになってきた。京都駅の階段状になった例のスペースから、大きなツリーを眺めている、あるいは見つめている老若男女たちも、家へ帰ると仏壇が置いてあるにも関わらず、うっとりとその美しさに見とれている。たぶん、その中に何かしらの自分を投影したり、誰かのことを投影したりしているのだろう。そういう意味で、ツリーが街に登場する時は、一年の終わりでもあり、何かを考えさせるシンボルにもなっているのかも知れない。

 数日前に、柿木畠の「広坂ハイボール」で、元気親分がつくる、ハイボールの合間に長野県志賀高原産の地ビールを飲んだ。美味かった。柄にもない表現をさせていただくと、“フルーティな美味しさ”のビールだった。今や世界に羽ばたく甲州ワインにも、同じような感覚に誘われるようなものがあるが、何となくそれを思い出した。ビールにも、日本的な解釈が生まれ、日本人好みのビールが出来上がったのだろうが、さらに日本でしかできない味で楽しめるビールが出来ていくというのはいいことだ。日本人的解釈は無限なのだし、そこにも自分が発見できる何かがあるかも知れない・・・・

尼崎で見たメダカたち、京都駅で見ているツリー、その時に思い出した長野県志賀高原産の地ビール・・・ 何だかアタマの中が整理出来ていないまま、伊勢丹地下の「鶴屋吉信」で『つばらつばら』という菓子を買った。特に強い意志などなく、何となく名前が気に入って買ってしまった。

 「つばらつばら」とは、“しみじみと、心ゆくままに、あれこれと”といった意味の万葉言葉であるとのこと。万葉集で大伴家持が詠んだ句に、物思いにふける様子として、この言葉が使われているらしいのだ。味よりも、このネーミングが優先した。ボクは、こういう言葉に弱い。

「ポレポレ=pole pole」もそうだった。スワヒリ語で“のんびり、ゆっくり”ときた。受け入れざるを得なかった。参ったと思った。あとで店の名前やホテルの名前にも登場してきたが、自分では相当前から注目していた言葉で、ご存知?『ポレポレ通信』の名は、そこから生まれたのだった・・・・・

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

朝から大気が澄みわたったままの、完璧な秋の青空だった。

どこかのどかで、冷たさを感じさせない気持ちのよい風の流れもあった。

普通なら午後になると大気は霞みはじめるのだが、ひたすら澄んだままで、素朴に秋なのだ…と思わせる。

かつて砂丘だった内灘の高台から、はるか東方に聳える北アルプス北部の山並みがくっきりと見えていた。陽の当たり具合もちょうどよく、急峻で雪が付きにくい剣岳以外は、毛勝(けがち)三山も、立山連峰も、そして薬師岳も白く輝いていた。

一年に何度見ることができるだろうかという、素晴らしい光景だ。この季節ならではということもあり、クルマを止めて車窓から眺めている人もいる。ボクは仕事で内灘の役場へ向かっていたが、まだ時間があったので役場を通り過ぎ、近くの公園の展望台の階段を少しだけ登って“鑑賞”した。

生まれ育った内灘が、再来年1月1日で町制50周年を迎えるという。そう言えばと振り返ると、町になったのは小学一年の時で、その記念式典(元旦だった)の仰々しい舞台の上で剣舞を踊ったのを思い出した。ボクとN村君という同じ学年の男子二人だけの剣舞だった。実は、その時何が行われていたのか、小学一年生のボクは理解できていない。三年生ぐらいになって初めて知ったと思う。

歳も喰い、その内灘でボクは記念事業の仕事に関わろうとしている。「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」という話を本にし、図らずも、内灘という自分のふるさとを再認識することになった。だからというわけではないが、少し内灘についてやってやろうではないか…とも思い始めている。

その週末、さらにまたポカポカとした陽気の休日…

家の周囲に下品さ極まりなく広がっていた雑草を刈った。

もう生気も失っている乾いた雑草を刈りとり、以前に『今年いちばんのコスモスだった…』の話で紹介した多目的空地の一角に集め、夏に壊したオープンデッキの残材とともに火をつけた。

かつて、家の後ろがニセアカシヤの林だった頃にはよくやったが、久しぶりの焚火(たきび)だった。

 ……今から13年前、内灘に家を構え、しっかり者の姉さん女房と、生まれたばかりの息子の三人で幸せな暮らしを始めていた男が死んだ。玉谷長武(おさむ)という男だ。27歳という若さで、彼を死に追いやったのは胃ガンだった。

奥能登・門前町に生まれた彼は、明治大学で日本文学を専攻し、大手旅行代理店に就職した後、退職し金沢へ来た。縁あってボクのいる会社の子会社に入り、一緒に何度か仕事もした。

大学では石川啄木や太宰治に親しみ、本をよく読んだ。カラオケでは、テレサ・テンを歌った。時には、これ面白かったです、読んでみてください…と、『ユリイカ』などのマニアックな雑誌をボクの机の上に置いていった。風貌は若々しかったが、20代にして老成した雰囲気を持った彼は、その勢い?で多くの客をつかむ独特の力を潜在させていた。清々しい青年の顔と、人生を見つめるような老成した顔の両方を持ち合わせていた。もちろん、ボクにはいい“助監督”だった。

彼のそういった個性には、高校まで野球部にいたという一面も作用していた。少なくともボクはそう思っていた。ときどき出会うことのある、意外性に富んだニンゲンのいい見本だった。

大学の後輩であり、ボクが当時『ポレポレ通信』というお遊び冊子を出していたこともあって、彼はボクに関心を持ってくれた。文章はまだまだだったが、ボクは彼に大学時代に体験した、東京から門前までの徒歩旅行の話を書けと告げた。彼はなんだかんだと言いながら、結構嬉しそうだった。

かなり手直しをしてから彼の紀行文を載せた。タイトルは「東京~モンゼン・徒歩ホの旅」、ボクが付けた。この紀行文は「ポレポレ通信」創刊以来の“つづきもの”で、それは彼の人懐っこい図々しさが遺憾なく発揮されたものだった。彼はその顔に似合わない図々しさで、ページをジャックすると、「ナカイさんも、いつまでもこんなもんやってないで、ちゃんとしたもの書けばいいじゃないですか」と、ボクに言った。そのあとで、「いいもの書けるんだから」とも言った。いとしの「ポレポレ通信」を、“こんなもん”と言った。

表面的には元気だったが、入退院を繰り返すうち、彼の体はかなり決定的なところまで追い込められていた。今度入院したら(転移が見つかったら)、もうダメだと言われてます…。彼は笑いながらそう言った。夏が過ぎ、秋も過ぎて、一年が終わろうとしていた。

御用納めの大掃除の日。彼はなぜか出社していない二人の先輩の分も含めて、自分たちの部屋の片づけをしていた。昼飯に誘いに行くと、疲れているはずなのに元気な素振りを見せ、行きましょうと答えた。

その日、ボクはあることを彼に告げようと思っていた。傘をさし、冷たい雨の降る年の瀬の街へと出る。彼が広島風のお好み焼きが食べたいと言った。

柿木畠にその店はあった。彼は一人前を頼んだが、ほんのちょっとしか残っていない彼の胃には、それはあまりにも多過ぎた。彼はもう、わずかに舌の上で味を楽しむことしかできなかった。ボクが半分以上を食べ、彼は会社に戻ってからトイレへと行き、そこで食べたものを吐き出すのだ。

お好み焼き屋を出ると、同じ柿木畠の喫茶ヒッコリーで話を切り出した。体を重視して、彼をボクの部署に異動させようという話だった。しかし、話は中途半端になり、夕方また時間を作ることにした。

そして、六時半ごろだったろうか…、ボクたちは香林坊・日銀裏のYORKのカウンターにいた。

「年が明けたら、オレんとこへ来るか」 少しぶっきらぼうな言い方をした。もう話し尽くしていて、気怠さが漂っていた。彼は正面を向いたまま「入れていただけますか」と静かに答えた。そのやりとりだけで、すべてが解決したような思いがした。少しでも体が回復するなら、どんなことでもやろうと決めていた。

ボクたちはまた雨の降る街へと出ると、しばらく歩いてから、“じゃあ、年が明けたら…”“はい、よろしくお願いします”と言葉を交わし、別れた。

しかし、年が明けた新年の顔合わせの式に彼の姿はなかった。ボクたちが年末に交わした約束など誰も知らない。それにボクたちは一対一の会話ばかり繰り返してきたから、会えなくなると彼の近況を知ることもできない。今と違って携帯電話もそれほど身近な存在ではなかった。

結局、彼が正式に入院したという知らせは、二週間近くが過ぎたある日耳に届いた。すぐに病院へ会いに行ったが、彼は疲れたのかぐっすり休んでいると奥さんから言われた。話しているうちに、奥さんの目には涙が滲みはじめていた。そして、“悔しいです…”と、唇をかむと、それ以上言葉は出なくなった。

聞くと、前日、早明の対決となった大学ラグビーの決勝戦を、早稲田OBの友人と見ていて、明治の勝利に凄く喜んでいたとのことだった。そうか、まだそんな元気があるのかと、ボクは少し嬉しくなった。

それから何度か見舞いに行った。が、結局彼とは話せないままだった。二月に入り、また病院へと出かけた。ナースセンターで様子を聞くと、「お母さんがいらっしゃいますから、聞いてきます」とのことだった。容態の悪さが察知できた。ほどなく、お母さんが来られた。寝ているが、起こすから会ってやってくださいと言われた。そのあとで、調子がいいみたいなんですとも言われた。

しかし、その一言がボクを油断させた。調子がいいなら、明日また来ればいい。せっかく休んでいるんだから起こさないでやってほしい。調子がいいという言葉が、ボクにまた少し元気をくれた。「明日また来ますよ。彼にそう言っておいてください」ボクはそう言って病院をあとにした。

次の日、彼は息を引き取った……

彼の亡骸(なきがら)を追って、家まで急ぎ行ってみたが、家は真っ暗だった。薄く降り積もった霰(あられ)の上に、真新しいタイヤの跡がくっきりと残っていた。

翌日の通夜には、午後の早い時間から門前町剱地(つるぎじ)の大きな寺の本堂にいた。彼が家へ遊びに来たときに撮った写真を奥さんに渡した。彼から借りていた「宮沢賢治詩集」も渡そうとしたが、それはナカイさんが持っていてくださいと戻された。

葬儀の日も早い時間から寺へと向かった。しかし、彼の棺が出るとすぐに、ボクは誰よりも早く帰路についていた。寒かったが、能登の空は晴れていた。

昼過ぎだったろうか。家に着くなり、ボクは居間の丸柱に背中を押しつけて泣いた。大粒の涙が自然に出てきた。こんな簡単に涙は出るものなのかと、なぜかその時思った。当然だが、二度と彼と言葉を交わすことはないのだとも思った。彼が座っていたソファを見た。彼が立っていたオープンデッキも見ていた……

夕闇が迫ってあたりが暗くなってくると、焚火の炎がより鮮明になってくる。オープンデッキの残材も乾いていたせいか、すぐに火がつき勢いよく燃え出す。

玉谷長武のことは時々こうして思い出すのだ。彼はよく言っていた「なんか、こうスカッとするようなことって、ないすかネエ~」と。背伸びしながら、遠くを見るような目でそう言った。その声がまだ聞こえてくる。生きていれば、一緒に内灘の仕事もできただろうにと思う。

焚火は暗くなっても続いた。炎で明るくなった空間に、灰色の煙が上っていくのが見えた。そういえば、来年のボクの歳は、YORKのマスター奥井さんが死んだ歳と、青年期を外国航路の船員として過ごし、ボクに大きな影響を与えた兄の死んだ歳と同じになる。二人とも普通に言えば若くして死んだのだが、ボクももうそんなことを考える歳になったのだ…

翌日はまた晴れた。しかし、北アルプス北部の山々は見えなかった。

夕方、海に落ちていく太陽を見た。振り返ると、東の空にきれいな満月があった。

贅沢な風景だなあと思いながら、今年もあと一ヶ月になったのだという現実も忘れなかった……

涸沢の秋の冷たい思い出

 

数年前まで、紅葉というと自然の中ばかりで見てきていた。

自然の中というのは、早い話が山の世界であって、山の世界では、単純に紅葉を見に行くというイメージとはかけ離れてしまうことも多かった。当然見に行くまでが楽ではなかったし、紅葉を見るつもりが、いきなり雪を見てしまうということにもよくなった。

初めて秋深い山に出かけたのは、北アルプスの涸沢(からさわ)だ。下界では、少し秋めいてきたかなといった時季。全面的にひたすら紅葉と黄葉の世界となっていた上高地から、言わずと知れた清流・梓川左岸の道を詰め、横尾の分岐点で橋を渡り本格的な登りの道に入っていく。

天候はすでに小雨状態だった。気温は完璧に10度を下回っている。この季節の、こんな日になぜ山に入ったのかと問われても、弱冠25歳半ほどの若者には特に理由など見つけられない。ただ、とにかく行きたかったから来た…と言うしかなかった。

樹林帯の登りに入ると、雨はしっかりとした降り方になった。歩いている分、身体は辛うじて暖かいが、気分はかなり落ち込んでいる。

まだまだ“ニンゲン”が出来ていない(今もさほど変わってないが)から、雨を降らせている雲上の神様かなんかを恨んでいるのだ。それと天気予報のオジサンなんかにも、「昨日の夜、明日は晴れるよと軽く言ってくれてたら、雲たちも、ああそうなんかなあ?と、勘違いして晴らしてくれたかも知れんのによォ…」と、怒(いか)ったりしている。

上高地から歩いて約5時間弱。ほとんど休憩なしで、穂高の登山基地である、初冬の涸沢に着く。写真で見るようなとてつもなく美しい紅葉風景は全く見えない。ガス状になった雲がすぐ手の届きそうなところから、山肌を経て空へと繋がっているだけだ。

濡れた石段の道を登り詰め、2軒ある山小屋のひとつ、涸沢ヒュッテに入った。ほとんど登山客のいない、当たり前といえば当たり前の静けさだった。

玄関に入り、リュックを置き、白い息を吐きながら、上りに腰掛ける。スタッフが出てきて、「こんにちは」と山の定番的あいさつを済ませた。雨宿りと休ませてもらうのだから、何か頼もうと思ったが、咄嗟(とっさ)に何も出てこない。思わず、“ビール”と言ってしまった。

こういう時は、何もかもが歯車の狂った状態になる。ボクの悪い癖?だった。

なんで、選(よ)りにも選ってビールなんか頼んだのだろうと、悔やむ。身体が冷え始め、一気に体温が下がっていくのが分かる状態だった。

さらに追い打ちをかけるような出来事が起きた。コンロでお湯を沸かし、インスタントのスープでも飲もうと思っていたのに、リュックの中にコンロのボンベが入っていない。ワンデイ、つまり日帰りの軽装備だから、リュックの中身はすぐに確認できた。

その日のランチのメインは、恥ずかしながら“ケンタッキー・フライド・チキン”だった。それも前の晩に金沢で買っておいたもので、当然ながら、冷えに冷え切っていた。

山に出かけるようになってからは、先に言っておくと、よく母が握り飯を作ってくれた。おかずはほとんど自炊のラーメンだったから、握り飯があれば十分で、前の晩に作ってくれるものでも、ほのぼのとした“味”を感じた。玉子焼きでも付いていたりすると、“母を訪ねて三千里”にほぼ近い、二千八百八十里ほどの愛なども感じとった。

しかし、今回は違った。前の晩、もう寝る頃になって「明日、山行く」と言っただけだった。どこの山へ行くかとかは、その頃は告げていなかったが、親も聞いてはこなかった。

ビールを仰ぐようにして喉に流し込むと、ボクはチキンを無造作に頬張った。味覚的なものは何も感じない。感じるのはその冷たさだけだ。

今度スタッフが近づいて来たら、コーヒーを頼もう。ボクはそう思い、そうなる時を密かに待つことにした。しかし、スタッフはなぜか忙しそうに動き回っていて、ボクの気持ちなど察してくれそうになかった。

ビールのせいで頬っぺただけが異様に熱い。寒さに震える傷心の青年が、独り山小屋の玄関で苦悩している…。しかし、たぶん間抜けな、ほんのり赤っぽい顔をしたボクの表情からは、そんなことなどカケラも感じ取れなかっただろう。

30分足らずで、ボクはまた外に出た。

涸沢は、前穂高岳、奥穂高岳、北穂高岳という、日本を代表する3000m級の山々に囲まれた、すり鉢状の場所だ。かなりの角度で見上げながら見回すと、ダイナミックな山岳景観が楽しめる。夏でもかなりの雪が残り、山の魅力的な要素がすべて存在する。

しかし、それは晴れている時の話で、今は自分の目線の少し上部あたりまでしか視界はない。奥穂高と北穂高の間にある、涸沢槍と呼ばれる峻険な岩峰(涸沢岳)も、当然だが見えてこない。

腕を組み、しばらく雨とガスの中に佇(たたず)んでいると、雨が霙(みぞれ)に変わってきた。そして、さらにしばらくすると、霙が明解な霰(あられ)になり、湿った雪にも変わっていく。

そろそろ下るか…。簡単に気持ちは決まった。長居する意味もない。新米の若造がいい加減な装備で、恐れ多くも涸沢へと来たのだから、こんなもんだろうと腹を括(くく)る。

湿った雪が激しく重く降り始めていた。涸沢の名物と言われるナナカマドの赤い実が、降り積もった雪の重みにじっと耐えている。

登山道の石の表面が滑り始める。いい加減にそろそろ手袋を出そうかと思ったが、リュックを下したりするのが面倒臭く、なかなか踏ん切りがつかない。

その時、ふと思い出した。ボンベはクルマの後部座席の紙袋の中だ。前の晩、忘れてはいけないと思ったボンベを、先にクルマに積んでおいたのだ。それなのに……

ボクは木の陰でリュックを下し、中から手袋を出して手にはめた。暖かいとは感じなかったが、冷たさが消えた感じがした。

上高地に戻ると、小雨は上っていた。身体が感じる気温も、はるかに高くなっていた。横尾から1時間半弱で明神(みょうじん)まで来ると、もう身体はポカポカになり、明神まで来る前に手袋を外した。

薄暗くなり始めた上高地だったが、そんな中で見る紅葉と黄葉の木々が美しい。河原の石も、やけに明るい色に見える。

のんびりと山に相対する…そんなことなどまだまだ出来もしないくせに、ボクはなぜか、いっぱしのヤマ屋になった気分だった。

それから何年かが過ぎた夏、“やらねばなるまい”的心情でもって、涸沢から奥穂高の頂上に立った。それ以前も、それから以降も、ずっと続けていく単独行で、なぜだか、ひたすら自分を苦しめていた時だった。

あれから先、未だに涸沢の紅葉は生(ナマ)で見ていないが、そのうち、見に行くことになるだろうと、秘かに思っている……

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

金沢・中央公園で思い出したこと

金沢・片町にある「宇宙軒」で「豚バラ定食大(ご飯大盛り)」を食ってから、香林坊のホテルで開かれる「中心市街地活性化フォーラム」まで30分以上時間があったので、久々に中央公園へと足を運んだ。

特別な目的があったわけではない。何となく、宇宙軒におけるご飯の大盛りが心残りとなり、朝、大和さんの地下で青汁の試飲をして身体にいいことをしたばかりだったのにと、小さな罪悪感に心を痛めていたのだった。

せめて中央公園にでも行って、色づき始めた木々を眺めるふりをしながら、カロリーを消費させよう・・・。そう思っていた。

そういう安直な思いでやって来たのだったが、思いがけなく、あまりにも色づいた木々が美しいのにボクは驚いてしまった。

あまりにも思いがけなかったので、驚きはかすかな喜びに変った。そして、かすかな喜びは果てしない郷愁へと変化し、ボクは青春時代の自分の姿を、その郷愁の中に見つけていたのだった。

何だか、昔の堀辰雄の文章みたいな雰囲気になってきたが、大学一年の夏、ボクはこの中央公園で見た光景を原稿用紙20枚にまとめた。それは初めてのエッセイらしきもので、ハゲしく志賀直哉大先生から五木寛之御大に至るまでの大作家たちの文体を真似た一品だった。

体育会系文学青年の走りだったその頃、ボクは経営学を専攻しながら、日本文学のゼミにも顔を出していた。先生は、奈良橋・・・(下の名前が出て来ない)という名で、作曲家の山本直純を若くし、さらに髭を剃って、二日半ほど絶食したような顔をしていた。果てしないヘビースモーカーで、ゼミの間は煙草が絶えることはなかった。

夏休み前の最後の授業の時に、先生はヤニで茶に近い色になった歯をむき出しにしながら、「夏休みの間に、何でもいいから、ひとつ書いてきなさい」という意味のことを言った。もちろんボクにだけ言ったのではなく、15人ほどいた学生全員に言ったのだ。

ボクはその言葉を忘れないでいた。しかし、夏合宿が始まり、精も魂も尽き果てていく日々の中で、そんなことはどうでもよくなっていった。

そんなある日、ボクは練習で腰を悪くした。もともと中学三年のとき、野球部に在籍しながら陸上部に駆り出されていた時の疲労が溜まり、身体に無理をさせたことが原因となって右の骨盤を骨折したことがあった。それがまた腰に負担をかける原因にもなり、ボクは時々腰が異様に重くなるような症状を感じていた。

久々に感じた症状だった。しかし、一旦それを感じてしまうと、身体はどんどん硬くなっていった。というより重くなっていったという方が当たっている。その年、チームは四国で行われる全日本選手権に出場することになっていたが、その出発の一週間ほど前に、ボクは石川に帰らされた。一度身体を休めて、遠征に向かう新幹線でまた合流しろというキャプテンの指示だった。

帰省してからの日々は退屈だった。金もない。ただボクは身体を休めることもせず、街をぶらぶらしていた。文庫本一冊を綿パンの後ろポケットに入れて、中央公園へとよく行った。

芝生に寝転がって本を読む。今では考えられないかも知れないが、当時の中央公園の芝はきれいだった。たくさんの人たちが芝に腰を下ろしていた。

 ある時、仰向けになり両手で持ち上げるようにして本を読んでいると、足元にボールが飛んできた。ボクはそのボールを起き上がって投げ返したが、そのままもう一度本の方に戻る気になれずにいた。そして、身体を横向きにして、また芝の上に寝転んだのだ。

ずっと向こうに近代文学館(現四高記念館)の赤レンガの建物があった。芝も木々の葉も緑だったが、同じ緑ではなかった。

そして、ボクはその中に小さな男の子と、涼しそうなワンピースを着た母親の姿を見つけた。見つけたというより、目に入ってきたという方が合っていたが、ボクは何度も転びそうになりながら走り続けている男の子の姿を目でしっかりと追っていたのだった。

どんな動きだったのかはもう覚えていないが、ボクはその時のことを文章にした。今から思えば、エッセイというよりは超短編小説といった方がいいかもしれない。なにしろ、その中のボクは「榊純一郎」という名前を付けられていたのだ。純一郎は、どこかに脱力感を漂わせる青年だった。その純一郎が、純粋な子供の仕草と母親の動きに目を奪われ、そこから何かを感じ取る・・・・。そんな話だったのだ。その時の自分に何があったのかは分からない。

帰省している間に、ボクはそれを書き終えた。そして、夏休みが終わって、学校が始まると(といっても10月だが)、最初のゼミの時間に先生に渡した。先生は驚いたような顔をしていたが、じっくりと読ませてもらうよと、また茶に近い色の歯を見せて笑っていた。

そして、次の授業の時間、先生がボクに近づいてきて言った。「なかなか見る目を持っているよ。こういうことをしっかり見て文章にできるということが大事なんだ。どんどん書きなさい」 この言葉は今でも忘れていない。

久々に来た短い時間だったが、ボクは中央公園でのことを思い出した。どんどん書きなさいと言われた言葉は、今の自分にも当てはまっていると思った。今、ただひたすら書くことによって安らいでいられる。思ってもみなかった中央公園での時間が、そのことを納得させてくれたのだった・・・・・

湯涌の水汲みで、秋山の雨を思った

関東に台風が近づいていた休日の朝、いつものお勤めである「湯涌の水汲み」に出かけた。ひと月に一回のお勤めだ。

内灘にある家からは、河北潟を横断して津幡から国道に乗り、途中から山側環状に移って、ひたすらそのまま走る。そして、途中から医王山・湯涌温泉方面への道へと向かうのだ。いつもの素朴な風景に和みながらの時間だ。

雨が降り出していた。水を汲み始める頃には本降りになってきた。よく整備された水場だから濡れることもなく、蛇口から勢いよく出る水を容器に入れていく。20ℓのポリ容器2個と、1ℓの容器10本ほど。時間にすれば20分ぐらいだろうか。

水を汲みながら、あることに気が付く。それは山の雨の匂いだった。秋も深まった山の空気に触れる雨が放つ匂いか、雨を受けた樹木の葉や幹や枝、もしくは雨が落ちてきた土の匂いか、何だかわからないが特有の匂いを発する秋山の雨を感じた。懐かしい匂いだと思った。

 ふと、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんの顔が浮かんだ。もう何十年ものお付き合いをさせていただいている北アルプスの名物オヤジさんと、何度も秋の山を歩かせていただいた。と言っても二人だけではなく、いろいろな人たちが一緒だったが、ゆっくりと山道を踏みしめるようにして登って行く五十嶋さんの後ろを歩くのは快適だった。

毎年10月の終わりには、薬師岳の閉山山行が行われる。太郎平小屋を経由して、すでに初冬と言っていい薬師岳の頂上をめざし、頂上の祠(ほこら)から、薬師如来像を下ろす。その夜は太郎平小屋での最後の宴となり、酒もいつもの数倍の量で飲み尽くす。

もちろん雪が舞ってもおかしくはない。今までにもわずか一、二時間で腰あたりまでの積雪になったことがあった。

しかし、登山口である折立(おりたて)付近ではまだ雪はなく、すでに紅葉は終わりかけているが、登山道に落ちたどんぐりの実などを見ながらの登行が続く。小雨が降り続く朝などは、上は雪だろうなあと話しながら行く。秋山の雨の匂いに包まれている。

そんなときに、いつも五十嶋さんはただ黙々と歩いていた。一年に何度も往復するという道だ。歩き慣れたという次元をはるかに超えた独特の雰囲気が漂う。背中に担いだリュックの下に手をまわし、少し前かがみでゆっくりと足を運ぶ。その姿を見ているだけで、こちらにも、心にゆとりが生まれたりする。

水場の雨は少しずつ強くなってきた。見上げると、大きな木の葉っぱから雨水が垂れてくるのが見える。

帰りを急ごうと思った・・・・・

※タイトル写真は、携帯電話で撮影。

今年いちばんの、コスモスだった

能登・志賀町の国道を走っていると、視界の隅っこに突然カラフルな空間らしきものが現れ、そのまますぐに後方へと流れ過ぎていった。

慌てて顔を向けると、それはコスモスの一群で、無造作な咲き方ではあったが、それなりの美しさで目を引いた。20mほど通り過ぎてから、クルマをバックさせ、写真を撮ろうと思った。今年はまだコスモスにカメラを向けていないことを、その数日前から漠然と考えていたのだ。

 クルマを止め、コスモスが咲く場所への入り口を探した。道路沿いに延びた白いフェンスによって、その場所へは簡単に行けなくなっている。しかし、ちょっと目を凝らすと、フェンスの先に入口らしき場所を見つけた。自転車がそこに停められていた。

道らしきものはなく、ちょっと深めの草の上を歩いていく。無造作にコスモスが咲いていると思った場所は一応畑になっていた。そして、コスモスが咲く中におばあさんが一人しゃがみ込み、草取りをしている姿が目に入った。

 背中を向けているおばあさんに、「こんにちわ」と声をかけると、不思議そうな顔をしながら向き直り立ち上がる。すかさず「コスモスの写真、撮らせてください」と言うと、さらに驚いたような顔になり、「こんなもん撮ったって、なんになるいね・・・」と答えた。

ボクはまた、「すごいキレイですよ」と言った。おばあさんは口元に少し笑みを浮かべているようだった。

しばらくウロウロと撮影していると、「どこから来なすったいね・・・」と、おばあさんの方から話しかけてきた。振り返ると、背中を向けたまま、両手でまた雑草を取っている。「内灘からです」と答えたが、おばあさんは「ほぉ」と言っただけで、手は休めない。

畑には、もう最盛期を過ぎたミニトマトと茄子がまだ実を付けていた。「ここは、おばあさんの畑なんけ?」 「そうやァ・・・、でももう歳やし、なんもできんがやわいね・・・」。

 おばあさんの話では、国道が整備されてから畑が分断され、今いるこの場所は、切り離されたような形になり、それ以降あまり力が入らなくなったということだ。

「今年また、久しぶりに畑しとるがや・・・」

前の年とその前の年、この畑には何も植えなかったらしい。娘さんが病気になり、その看病などで畑に出られなかったらしかった。娘さんの病気のことを聞こうかと思ったが、それ以上のことはやめにする。

おばあさんが顔を上げていた。手も休めている。カメラを向けようとすると、ダメダメと手を振り、すぐにまた手を動かし始める。

ボクは自分の母親も、身体を動かせる間はいつも家の後ろの畑に出て、砂の上にどさりと座り込み、草取りをしていたのを思い出していた。声をかけると、にこにこと笑い返し、小さい頃には見たこともなかったやさしい顔なった。そんな母が死んで10月で2年、三回忌をすませたばかりだ。

 そのようなことをおばあさんに話すと、「こんなことは年寄りの仕事やさけえねえ・・・」と答える。自転車に乗ってやって来るのだから、畑にいた頃のボクの母親よりは、まだまだ若いおばあさんだったが、どこかに淋しい気配も感じさせた。

「ばあちゃんの家、この近くけ?」「この辺の部落の外れやわいね・・・・」 それがどの辺りなのか全く見当もつかないが、一人ぽつんと、コスモスの花の中に埋もれて草取りを続ける姿は、余計なお世話ながら、やはり淋しいのだ。

ボクはもう一度カメラを手に、コスモスの方に足を向けた。背丈も伸び、大きな花びらをつけたコスモスが、秋の日差しと風を受けて、愉快そうに楽しそうに揺れている。その柔らかな身のこなしが、カメラを向けるボクをからかっているようにも見える。

そう言えばと、何年か前に我が家の南側側面をコスモスだらけにしたことを思い出した。圧巻的な光景だったが、台風が来て、ほとんどが倒れてしまった。しかし、コスモスは強かった。一度斜めに傾いたところから、また真っすぐに空に向かい始め、我が家周辺の“多目的空き地(ボクはそう呼んでいた)”は、L字型コスモスの一団で再び活気を取り戻した。

コスモスは可憐なだけではないということを、その時初めて知った。そして、それ以来、ボクはコスモスに一目置くようになった。

 シャッターを押していると、おばあさんが言う。「あんた、金沢の方に帰るんやろ? そんなんやったら、羽咋に休耕田利用してコスモス植えとるとこあっから、そこ行ってみっこっちゃ・・・」 「どの辺?」と聞くと、猫の目(柳田IC)から市内の方に向けて行き、歯医者さんの角を左に折れて・・・・と、説明を始めた。弥生時代の遺跡に造られた公園の近くということが分かった。それで場所は推測できた。

しかし、行っては見たが、おばあさんの畑のコスモスほど心を和ませてはくれなかった。

それからまた後日、砺波の夢の平へ、スキー場のゲレンデ一面に植えられたコスモスを見にも出かけた。たしかに壮観な風景だったが、ここも今ひとつだった。

志賀町のおばあさんの畑に勝てるコスモスはなかったのだ。カッコつけているわけでもなく、感傷に浸っているわけでもないが、今年は志賀町のおばあさんの畑のコスモスがナンバーワンだと決めてしまった。歴代でもかなり上位に入ると思った。

そういうことで、秋ののどかな一日であったのだった・・・・・・

夢の平のコスモス

永光寺と、今年初めてのどんぐり

大学の後輩に「明彦」と書いて「あきよし」と読む名前のやつがいた。初対面の人は必ず「あきひこ」と読んだ。ボクもそうだった。

 石川県羽咋市にある曹洞宗の名刹・永光寺。「永光寺」と書いていながら「ようこうじ」と読ませる。こちらも絶対的に「えいこうじ」と読まれる宿命にあるが、そうは読ませてくれない。しかもそのくせ、どれだけへそ曲がりな読み方をしようが、ボケて間違えたふりをしようが、絶対「ようこうじ」とは読めない。

永光寺と出会ったのは、今からちょうど20年前。地元羽咋市の観光サイン計画に取りかかった頃だ。当然「えいこうじ」と読んだ。さも当然のように、正々堂々と、自信たっぷりに「エーコージ」と読んだ。

そして、「ようこうじ」と読むのだということを知らされてから、いろいろと資料を調べていき、なんだか凄い寺らしいぞということが分かってくると、なぜか、「ようこうじ」と読む方が正しいように思えてきた。足を運ぶのが楽しみになった。

羽咋市内の、観光スポット評価のための見て歩きが始まった。羽咋市といえば、石川県で最多の文化財を誇るところであることも知り、なるほどと気多大社や妙成寺などの存在が頭に浮かんだ。しかし、名前も知らなかった永光寺の存在を教えられ、興味はかなり高まっていた。

 季節は、春と言うには暖かく、夏と言うには暑くない。かといって梅雨と言うには雨の気配は感じられず・・・、つまり初夏の日差しと爽やかな空気が、何とも心地よい頃だったように思う。

同じ羽咋市内にある名所、妙成寺などには観光客が大勢いた。観光バスが何台も入っていて、休憩所みたいなところも賑わっていた。しかし、永光寺にはボクとスタッフ、合わせて三人だけ。

どの辺りだったかは覚えていないが、駐車場にクルマを置き歩いた。たぶん、今の駐車場の位置と変わっていないだろう。国道159号線から山間の道に入り、意外にちょっと深く入るんだなと思い始めた頃に駐車場があった。クルマを降りて見上げると、木立の新緑が目を和ませてくれた。

しばらく歩くと、ここは凄いゾ…と、ボクの旅人エキスが波立ち始める。薄暗い登り道を、その先に何があるのか知らないまま歩いていくのは、奈良あたりの山寺に向かっていた時と似ていた。違うのは、そばに二人の連れがいるのと、一応仕事であるということ。それから着ているモノと履いているモノと……エトセトラ。

 山門を見上げる石段の、その手前にある小さな橋に立った時は、息を落として構えてしまった。写真では見ていたが、おお、こういう風にして迎えてくれるのかと嬉しくなってきた。石段を囲む木立ちも凛々しい。

急な石段を登り、山門をくぐって境内へと入る。仕事だ、と自分に言い聞かせる。まず挨拶をと思い勝手口のようなガラス戸を開けようとした。しかし、簡単には開かない。ようやく開いたが、中から返事がない。この大きな寺に誰一人いないのだろうかと不信に思ったが、しばらく待って諦めた。後で聞いたが、当時の住職さんは90歳を超える高齢とかで、かなり耳が遠くなっていたらしく、寺の管理もよくなかったらしかった。

寺は荒れていた。荘厳なイメージこそしっかりと残っていたが、視界に入ってくるものは、かなり傷んでいた。ベースにあるものを知っているから、ついつい舌打ちしてしまう。凄い寺なのに、なぜこんな状態になっているのだろうかと勝手に怒ったりもしている。

後日、市役所の担当の方に永光寺で感じた凄さを語った。まったく知らなかった存在。あの場所に、あのような寺があるという意外な事実がまた心を動かしていた。

市の担当の方に提言して、モニター調査をやりましょうということになった。ボクの周りにいた何組かの家族やカップルや個人、それにその頃いろいろと付き合っていたアメリカ人とドイツ人の友人のグループにも頼み、羽咋へ出かけてもらうことにした。

その結果は、妙成寺や気多大社、千里浜などと並んで、永光寺が最高得点のグループに入っていた。中には、永光寺を最高の場所として位置づける人も何人かいた。敢えて事前に永光寺について宣伝しておいたわけではなく、その結果にボク自身も驚き、納得した。

それからボクはそのことをまとめたレポートを書き、市役所に出したのだが、永光寺については寺としての歴史的価値だけでなく、周辺の自然と一体化した魅力について書いた。簡単なレポートだったような気がするが、その頃のボクは「法皇山古墳…」の話でも書いたように、自分自身の提言など具現化するものとは思ってもいなかった。だから、それなりに自分の理想みたいなことを、それらしく書いていた。

 ところが、二年ほどの羽咋における仕事が終わってからすぐ、永光寺周辺を整備する事業が始まっていた。国と県と市とが一緒に行う、かなり大きなスケールの事業だった。それから後、永光寺は今のような美しい姿となった。いや取り戻したというべきか…。単にタイミングが良かったのだろうが、ボクの考えもそれなりに活かされたのかも知れなかった。そして、美しい風景などに囲まれた歴史的な場所(法皇山古墳もそのひとつ)などは、周辺に魅力を付加することがいかに大切かということがよく分かってきた。

10月の中旬、いつもの富来行きの帰り、久々に永光寺に足を伸ばしてみた。約2年ぶりだったろうか。

午後の遅い時間でもあり、下の駐車場は空っぽだった。そのまま境内の近くまで登っていくクルマも多いから、寺には先客がいるかもしれないが、やはりウィークデーのこの時間ではあまり人はいないだろうと思った。

 まだまだ周辺の木々の紅葉は早い。しかし、空気は十分肌寒さを感じさせた。いつものように石柱を過ぎて中道門(ちゅうどうもん)を通り、ゆったりとした登り坂を歩く。相変わらずの静けさと薄暗さ、寺までの道はもうちょっと長くてもいいなあと、来るたびに余計なことを考えてしまう。

寺には一人だけ先客がいた。拝観見学というより、仕事絡みみたいな人で、座禅会の申し込みか何かの打ち合わせをしていた。

ボクも実はこの寺の魅力を何とか活かした催し(この場合短絡的にイベントという言葉は使わない)を、企画したいと考えている。京都で見た学生たちのまだ青臭い感性と、メチャクチャな体力と、奉仕精神いっぱいの意欲とが合体した活動をヒントに、借景とか目に見えない力みたいなものをテーマにした、大人にもグッとくるような催しをやってみたくなっていた。

 永光寺は、1312年の創建ということで、もうすぐ700年になる。詳しい話は置いとくが、とにかく来年の春から、永光寺ではその記念行事を行っていくらしいのだ。ボクが聞いたのでは、永光寺に残されている開祖などいくつかの名僧の坐像が公開される予定にもなっていて、実はボクはすでに一度拝見させてもらっているが、これは必見の価値がある。

ところで永光寺と、旧門前町(現輪島市)の總持寺とは同じ僧によって開かれており、歴史も同時期になる。かつて總持寺に関する仕事(禅の里交流館)をさせていただいた時、地震の被害が生々しい法堂の奥にある坐像の撮影を依頼された。狭くて真っ暗な空間に照明を持ち込んで、蚊に食われながらの撮影だったが、ほとんど一般の人には目にするどころか、足を踏み入れることもできない場所に入らせてもらった。そこで見た坐像も迫力があったが、その原本が永光寺のものらしく、永光寺のものは總持寺のものよりも製作年代もかなり古いものだということだった。

 お茶とお菓子をいただきながら、そんな話などをしていると、寺を使った催しについての話にもなり、ボクは自分が思い描いていることなどを簡単に語った。かつて、荒れていた時代に訪れ、その凄さを感じた話や、ついでにボクが訪れた前年に映画のロケにも使われていたというエピソードなどについても話すと、奥から昔のファイルが出されてきて、これのことですねと言われた。観光資源として活用するのであれば、その時が大きなチャンスであったのだが、荒れた寺のイメージで使われたとしたら、あまりいいものになるはずもなかった。

地道に心に染みることをやっていくには、永光寺は非常にいい条件を備えていると、ボクは生意気にもそう思っている。

 ひとりでゆっくりと寺の中を見て回った。もちろん仏さまの前に座り手も合わせた。ちょっと贅沢な時間だった。

今度また、ゆっくり来させてもらいます。そう告げてボクは寺を去った。空が薄暗くなり始めていた。木立の中の石畳の道で何度も振り返った。20年前の時のことを思い出そうと、かなり一生懸命になってはみたが、全くと言っていいほど具体的なことは甦ってこない。もうそんなことはいいのではないか…と、もう一人の自分に言う。そうだな…と、もう一人の自分が答える。 寺務所の人たちとの語らいに何かを見出しながら、またここへと戻ってくる時が楽しみになってきたのだった。

 帰りの道すがら、夕暮れに目線を落として何かを探しながら歩く親子を見かけた。すぐにどんぐり拾いをしているのだと分かった。

クルマを停め、足を運ぶ。見事に美しいどんぐりの実が道端の草の上に落ちていた。小さな女の子が手にしたどんぐりを見せながら、母親に“ママ、ドングリ好き?”と聞くと、母親が“うん”と答える。その小さな女の子と目が合った。

“おいちゃんも、いい歳してドングリ好きなの?”と聞かれたらどうしよう…と、考えてしまう。しかし、女の子は聞いてくれなかった。“うん、大スキだよ”と、答える準備が出来つつあったのに拍子抜けだった。

今では、永光寺を「えいこうじ」と読むことはない。逆に「永」という字が出てきたときに「よう」という読み方が頭に浮かぶことがあるくらいになった。「えいこう」という言葉を思い描くときにも、「栄光」よりも「永光」の方が意味が深いようなイメージを持つようになった。

助手席に無造作に置かれたどんぐりたちを見ながら、そんなことを思い返す帰り道だった……

法皇山横穴古墳群を活かす動橋川の風景

 

最近、かつての仕事人的旅人、いや旅人的仕事人かな? とにかくどちらでもいいが、そんなスタンスで、身近なところにあれやこれやと出かけている。そして、ふと懐かしい風景や人に出くわしたり、かつて見逃したり見過ごしたりしていたものなどに心を打たれたりもしている。

 金沢から国道8号線で加賀市に入り、しばらくして山中温泉方面へとつながる道に入ると、動橋(いぶりばし)川にかかる橋の手前に、「史蹟法皇山横穴古墳」と彫られた石柱が建っている。広い駐車場があり、奥に小さな建物があり、その背後に小高い丘のような山がある。名のとおり、国の史跡だ。

 6~7世紀の頃に造られたといわれ、山に横穴を掘り、家族集団の首長の人たちを葬った墓なのだそうだが、花山法皇(かざんほうおう)という方が、行脚(あんぎゃ)の途中、この地に立ち寄られ、大いに気に入られたと伝えられており、その花山法皇の墓なのでは?と伝えられたこともあった。しかし、大正時代の調査で、そうでないことが判った。ただ、その法皇さんとのゆかりを残した形で、今の名前となっているのだろう。

かつて、加賀市の観光の仕事に携わっていた頃、ボクはまず、観光資源の調査というのをやった。それは市が観光パンフレットなどで紹介しているポイントを自分の目で確かめ、客観的に評価してみようという試みだった。

そのことによって、ほとんど観光客には評価されないだろうと思われるポイントと、逆に大いに見てもらおうと積極的になれるポイントとを分類した。それは観光ルートをつくるという重要な作業に結び付くもので、そこで選ばれたポイントが、加賀市の観光ルートを形成し繋がっていくというストーリーになっていた。

 ただ、こういう場合、いちばん困るのが、この法皇山古墳のような場所だった。何しろ国の史跡だ。本来ならば、市として地元として大いに誇るべき資源なのだが、そうは簡単にいかない。それは、はっきり言って人を惹(ひ)きつける魅力に欠けるからだ。国の史跡と言っても、来て見れば、ただ小高い山があり、いくつか得体の知れない穴が開いているだけ。発掘された土器などが収蔵庫に収められているが、それとて特に目を引くものではない。しかも、解説もほとんどなくて、楽しめるとかタメになるとか、そのような要素もまったく期待できない。

ボクが初めてこの場所を訪れたのは、もう20年ほども前のことだ。駐車場で市の人と待ち合わせていたが、収蔵庫はカギがかかっていて入れなかった。市役所へ電話すると、開けてもらえるということが張り紙に書かれてあった。

 ところが、先日久しぶりに収蔵庫に行ってみると、扉が開いていた。こんにちはぁ、と言って入っていくと、奥の部屋から高齢だが、生真面目そうで、かなり知的な匂いのするご婦人が出てきた。入ってもいいですか?と尋ねると、どうぞどうぞ・・・と、答える。ボクは以前のことがあったので、ここはいつも開いているんですか?と、また聞いた。すると、ご婦人は忙しそうな素振りを見せながら、11月いっぱいは開いていて、12月から翌年の3月までは閉まっています、と、しっかりとした口調で答えた。前に来た時は閉まっていましたよと言うと、それは閉館期間中だったのでしょうと、またきっぱりと言う。

ボクは自分が初めてここへ来た頃とシステムが変わったのだろうと思い、これ以上この話は続けないことにした。そこへご婦人が逆に聞き返してくる。いつ頃、おいでになったんですか? ボクは20年ほど前です、と、妙に自信たっぷりに答えた。答えた後で、そんな前のだったら、ずっと閉まっていたのかも知れませんね・・・と、申し訳なさそうな顔をするご婦人を想像し、自信たっぷりに言ってしまったことに後悔した。しかし、私はそれ以前からここに来ていますから、と、さっきの3.5倍ほどのきっぱりさで言われた時は、横穴群の穴のひとつに身を隠したいような、そんな気分になっていたのだ・・・・・。

 ご婦人は、K上さんと言った。ボクがかつて、加賀市の仕事をさせていただき、ここへもたびたび来ていたことを話すと、会話の内容も、K上さんの表情も、口調も変わっていった。

国の史跡であるから、加賀市が手が出せないこと。収蔵庫という性格上、展示館のような演出ができないこと。K上さんは、市の担当から聞かされていることをボクに話してくれた。だが最後に、私は何にも分からないが、もう少し何とかならないのかと思いますよと本音も語ってくれた。聞くと、収蔵庫内の壁に貼ってある古墳の歴史などが書かれたコピーは、K上さんが自分で準備したものだそうだ。

だって、公開している意味ないでしょう ─── そのとおりだ。K上さんの言葉に力がこもっていた。

実は、この場所には別の意味での大切さを感じていた。

それは、感覚的な表現で言うと、“もどかしさ”に似ていて、単にボクが独りで勝手に思っていたに過ぎないことであった。それは、古墳の横を流れる動橋川のやさしい流れが織りなす素朴な風景が美しかったからで、その風景と一体化した古墳の在り方みたいな・・・、何だか自分でもよくは分からないことを、ただ漠然と好きな風にイメージしていたのだ。

かつて、橋の上から見下ろしていたり、堤を歩いて眺めていたりした川の風景は、心に染みついていた。20代の頃から、自分の中に息づいていた風景へのあこがれ・・・、その中のいくつかの要素が、そこにあったのだ。蛇行する流れと水の美しさ、そこで遊ぶ子供たちの姿、大きな遠景はないが、散策したくなる適度な広さがあった。それらがこの国の史跡である古墳の魅力を引き出す要素になる・・・。

 かつて、ボクは自分の仕事としての範囲を見究められないまま、何も提案しなかった。そのときはまだ、私的な思いや理想みたいなものを、仕事に重ね合わせることはそれほどできなかったのだ。今、特にそのことをどうのこうのと言うのではない。ただ何となくだが、自分自身の風景への思いを、仕事とのバランスの中で初めて意識させられたのが、この場所であったような気がしている。国の史跡なのだから、もっともっと多くの人たちに知ってもらいたいという思いと、そのためにはもっとその場所に魅力を創らなければならいという思い。その魅力の要素が、動橋川の風景にあったとボクは思っていた。仕事的に見ていくと、こういった課題?は、いたるところにある。

今流行りのB級グルメではないが、S級やA級にはない、B級風景の中にこそ本当に安らげる要素があったりする。S級やA級風景は、山岳などの自然や寺社などの歴史的なもので、日常ではなく、身近でもない。しかし、B級風景はすぐ近くにある。そして、それらが人それぞれによって、A級にも、S級にもなるのだ・・・・・

帰り際、閉館前にもう一度来ますと、K上さんに言った。K上さんは、どうぞ、またいらしてください。それと、市に何か提案してあげてくださいよと答えた。K上さんのご自宅は、駐車場の目の前。孫を遊ばせながらでも、できるんですから・・・ 最後にK上さんの笑顔を初めて見ることできて、何だかホッとした。

秋の気配も少しずつ深まっていくし、提案もアタマの中でうごめいている。そろそろ、また行ってこなくてはならないのだ・・・・・・・

  

 

 

 

 

 ※実は、ここでの思いは、後にある寺で、たまたま活かされた・・・・・

巨人 80歳のロリンズが語った

なになに界の巨人という呼び方はあまり好きではないが、今年80歳を迎えたというソニー・ロリンズは、やはりジャズ界の巨人の一人だ。しかも、ジャズ界をリードしてきたという意味では、現在生き残って活動している最後の巨人なのだ。

NHK-BSの深夜番組に、ソニー・ロリンズが出ていた。すでに来日回数は果てしない。実は前回の来日の時には金沢にも来ていて、歌劇座でコンサートを開いている。その時のパンフレットに文章を依頼されて書いたが、そのおかげで、最高の席のチケットをいただき聴いてきた(もちろん自分でも買っていくつもりだった)。

実は今回もこれが最後の日本公演になるかも知れないみたいな雰囲気を漂わせているが、前回もそうだった。特に金沢でのコンサートという意味では、かなり実感的に捉えていたと言っていい。だから、古いメンバーの一人、ベースのB・クランショーの今にも消え入りそうだった音色にも、それなりに納得して拍手を送っていた。あれから何年か過ぎたが、まだまだ元気なソニー・ロリンズはやはりタダものではないのだ。

ところで、ボクが敢えてここで書きたかったのは、ソニー・ロリンズというミュージシャンとしての素晴らしい人間性についてだ。

ジャズの世界では有名な話だが、ロリンズはかつていきなり表向きの音楽活動をとりやめ、ジャズシーンから隠れたことがある。自分の演奏スタイルに行き詰まり、突然活動を休止した。そして、独り黙々とテナーサックスの練習に励んでいたという。ひとつの楽器を究めていくというスタンスは、かつてのジャズマンたちにはよく見られた傾向だが、ロリンズもまた、そういう道を歩みつつ、さらに自分自身のスタイルを限りなく追求した一人だった。だから、彼が残してきた演奏には、妥協のない即興ソロがたくさんある。

番組は、ロリンズへのインタビューが中心だった。その中でロリンズは、どのような気持ちでテナーサックスを吹いているのかという質問に対し、“目の前にいる人が、どうしたら喜んでくれるかということを、常に考えながら演奏している”といった意味のことを答えていた。ジャズは即興演奏の結晶だ。豊かな楽想とテクニックに、気持ちや感情を織り交ぜてパフォーマンスする。それがジャズだ。ジャズ的音楽だ。同士であり、ライバルでもあったジョン・コルトレーンとは対局にあるが、コルトレーンとの違いはフリーに走らなかったことだ。つまり言い方を代えれば、常に分かりやすさを兼ね備えた即興演奏をメインにして、ジャズの主流に居続けた。

 今、80歳でありながら、彼は目標を、“もっと上の、みんなが喜んでくれる演奏”と語った。そして、人にとって大切なのは、“何かについて語り続けること、それが人それぞれに与えられた使命だ”とも言った。

インタビューの最後に司会の女性が、何か吹いてくれませんかと頼むと、何十年も使い続けているテナーサックスを、ソファーに座ったまま吹き始める。当然即興だ。表情豊かに、ロリンズらしい楽しさと感情のこもった音色、メロディが自由自在に飛び交っていく。

いつの間にか、聴いていた女性の目には涙があふれていた。演奏が終わると、その女性が言った。私はジャズとかまったく分からないのに、演奏を聴いているだけで、涙が出てきたと・・・・・・・

ジャズやジャズ的音楽とは本来そういうものなのだ。歌詞もない、楽器をとおしたメロディと音が、聴き手に何かを伝える。受け取る方は、何でもいい。自分の尺度で、自分の感性でそれに応えればいい。演奏者のメッセージと聴き手の感性とがコラボしているだけで、ジャズやジャズ的音楽は成り立っているに過ぎない。

ソニー・ロリンズはそのようなことを、易しく、そして自分流に示してきたのだ。ただ、何かについて語り続けていくこと。そのことを自分にあてはめていくと、それは、一体何なのだろう・・・・・ 見えているようで見えてこないもの、結局はそういうもので、だからこそ、語り続けるしかないのかも知れない・・・・・と、思う。

 番組が終わると、早速、ロリンズの代表作『セント・トーマス』を聴いた。夜中の静けさの中に、若きロリンズのメリハリのきいた音とメロディが流れ始めると、ボクの中には80歳のロリンズの顔は消えていた・・・・・・・・

※写真は、テレビ画面より

野菜ラーメンを運ぶおばあさんと文学好きのおじいさんたち

 

O野先生から検査入院されているという知らせを受けた数日後、富来図書館へと向かった。

七尾の病院だが、午後からなら外出してもいいので、都合のいい時間に来てくださいとのことだった。

いつものように、ちょっと早めに着き、国道249号から富来の町中への入り口にある、超大衆食堂「Eびす屋」さんに入る。いつものように適度な数の客が散在し、いつものようにうるさくもなく、かといって静かでもなく、のどかだが、それなりに緊張感も漂うといった店内に入った。

 Eびす屋さんは、何と言ってもフロア担当のおばあさんで持っている・・・・とボクは思っている。“それなりの緊張感”というのも、このおばあさんあってのことだからだ。

実は、ボクはこの店で“野菜ラーメン”と“おにぎり”以外のものを食ったことがない。いや、少し前、魔がさして?“塩ラーメン”を注文してしまったのだが、味はほとんど同じようなものだった。だから、ボクの感覚では同じラーメンなのだ。

ところで、“それなりの緊張感”についてだが、このフロアチーフ(担当から昇格)のおばあさんは、注文を聞いた後1分以内に、もう一回確認に来るということがしばしばある。当然、何となく注文したものが届くまでに不安が走る。その、「いくらなんでも、二度聞いたものを間違うはずがない」といった決め付け感に自信がなくなっていくあたりが・・・・“それなりの緊張感”なのである。

それにしても、Eびす屋さんの客は、よく野菜ラーメンを注文する。その日も来る客来る客と、野菜ラーメンを注文し、いかに野菜ラーメンが人気メニューなのかが分かる。そして、これでいくらなんでもボクの注文も間違うことはないだろうと、完璧に確信できたりもするのであった。

かなりの安堵感とともに新聞を読んでいると、そこへ打ち合わせメンバーのお一人で、地元の民話に詳しいH多先生が入ってこられた。ひとことふたこと言葉を交わすうちに、さっきフロアチーフに昇格したばかりのおばあさんがやって来て、お茶を置く。「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」とH多先生が言う。確信のない他人事のような言い方ではあったが、またしても野菜ラーメンの注文が入った。H多先生もいつも野菜ラーメンを注文しているに違いなかった。メニューなど全く見ていない。しかも、あの「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」の語尾のあたりに、やや照れながらも充分言い慣れた雰囲気が漂っていた。

それから数分後、ボクの前に間違いなく野菜ラーメンとおにぎりが置かれた。いつもように素朴に美味かった。7月のエッセイ 『富山で入道雲を見て、ちゃんぽんめんを食ったことについて・・・』 でも書いたが、なんでもない普通の食堂で出てくる、ある意味的個性派ラーメンには逸材が多い。

このラーメンもその代表格にあたる。この富来の町にあるからこそ、このラーメンには味がある。これが金沢のK林坊Sせらぎ通りあたりにあったのでは、この味が出ない。それにこのフロアチーフの存在だ。

1時、富来図書館。いつものメンバーが待っている、と思ったが、H中さんがいない。用事でちょっと遅れるとのこと。しかし、しばらくしてH中さんはすぐに来られた。

O野先生は、気のせいか少し元気がないように見えた。先生によると、身体の栄養バランスが崩れていて、点滴を打っているとのこと。夏バテもあるのだろう。それでも書庫へ行って、本を探して来るだの、コピーを取って来るだのと忙しく動き回っている。さすがに、先生あまり動かなくていいですよと言ってしまった。

この三人は、年齢を合計すると200歳を軽く超えているはずで、普通だったらしんみりとした雰囲気にもなったりするのだが、それぞれ個性的に活躍されており、こちらとしてもそれなりに楽しくなったりする。書き忘れたが、H中さんは地元の由緒正しき旅館「湖月館」のご主人で、なんと日本最高峰の某芸術大学を卒業されたアーチストでもあるのだ。毎日、カメラを持って自転車で町を走りまわり、撮影した写真をホームページに掲載されている。富来の今を知る人なのである。

ああだこおだと打合せが順調にフィナーレを迎えた頃、O野先生が、ああ、また退屈な病院へ戻らなきゃならんのやな・・・・と呟(つぶや)かれた。まわりから、いい機会だからよく体を休めておいた方がいいという声が盛んに上がり、O野先生も帰り支度を始められた。

これから加能作次郎文学賞の発表など、まだまだ忙しいスケジュールが詰まっている。大事をとって自重していてもらわないと、あとが大変だ。そんなことぐらい分かっているよと先生は言うだろうが、分かっているなら余計に“ご自愛”いただきたいのだ。

 久しぶりに記念室に入り、図書館を出たのが3時少し前。天気はそれほどでもなかったが、増穂浦は相変わらず美しい。

それにしても、Eびす屋のフロアチーフのおばあさん、および野菜ラーメン。そして、あの知的好奇心旺盛なご老体3名。富来には濃い“味”がしみじみと溢れているのであった・・・・・・・・

※タイトル写真 左から O野先生 H多先生 H中さん

秋だから 椎名誠のトークが聞きたくなった

10月の下旬、丸善丸の内店とジュンク堂池袋店で、椎名誠さんのトークイベントなどがあると聞いた。今のところ、両方とも行けそうにないが、そんな情報を耳にした途端、椎名さんの顔が見たくてたまらなくなった。

このページのエッセイで、かつて椎名さんの著書『帰っていく場所』について書かせてもらったが、その続きを無印良品でいつも買っている、税込92円の落書き帳に綴っている。まだ納得したまとめになっていないから掲載してないが、それとは関係なく、66歳になった椎名さんの顔を見て、椎名さんの声を聞いて、その話にしみじみと懐かしく嬉しくなったりしたいと思っている。

椎名さんの顔を最後に見たのは、もう10年以上も前のことだ。椎名さんの大親友・沢野ひとしさんの顔を見たのはついこの前だが(歴史博物館前で偶然会った)、沢野さんの印象は歳食ったなあとは思わせなかった。しかし、最近写真なんかで見る椎名さんの顔は、皺(しわ)が増え、白髪も増え、歳食ったなあと思ってしまったのだ。自然の空気に晒し過ぎたせいもあるのだろうか。ボクもそうなるのかも…

ボクも人のことは言えないが、少なくとも椎名さんよりは10歳も若いわけで、同年代の人間たちよりも若さには自信を持っているが、あの椎名誠さんが想像以上に年を食っている様子を見て、なぜか焦った。まだまだ健在は続くだろうが、もう一度見ておきたいのだ。それも無性に。

そう言えば、BSハイビジョンで、久々に野田知如(ともすけ)さんの顔を見、声を聞いた。どうでもいいような番組だったが、懐かしくてただボーっと見ていた。野田さんと言うのは、日本の自然派カヌーイストのパイオニアで、アラスカのユーコン川をはじめとして、日本の川のほとんどをカヌーでやっつけてきたという人だ。椎名さんにとっても師みたいな存在であり、一時調子を崩していたような話だった(『帰っていく場所』にも書かれている)が、今は愛犬アレックス(だったかな)と一緒に四国の徳島県に住んでいる。野田さんの話では、徳島県はとても住みやすい所なのだそうだ。

自分もウイスキーのロックを飲みながら、野田さんの話を聞いていたが、カヌーのツーリングに焚き火の前で酒を飲む野田さんの、若い頃の姿が浮かんできた。ボクは本格的にカヌーはやらなかったが、自然派になろうという意識が強かったせいもあって、そのフィーリングは理解していたつもりだった。

話が少しそれてしまったが、椎名誠さんの語りを聞く機会にはこれから敏感になっていこうと思っている。金沢だと講演になってしまうが、東京だとトークになる。面倒臭さもあるが、この微妙なニュアンスの違いが大事だ。最高でも50名くらいの小さなフロアだと、椎名さんのリラックス度も違うだろう。

まあ、一応期待してみるかな……

シナリオ書きの後に映画原案の謎が蘇る

10月最初の日曜日は、朝から一日がかりの映像シナリオ書きに終始した。そして今、その流れでこの文章を打っている。

夏の間は冷房なしで無理だったが、メッキリと涼しい雰囲気になってきて、久々に自分の部屋にも籠もった。

経験的にそれほど数をこなしているわけではないが、ボクは映像などのシナリオを書くのが嫌いではない。むしろ好きな方だと思う。口語体の文章(と言っても、時には結構固いのもあるが)で綴っていくことは、たまに快感にさえなったりする。

そして、その作られた映像が多くの人たちに見られていると感じた時には、かなり素朴に嬉しくなったりもする。そういう場合は、映像を見ていながらも、それを見てくれている人たちの表情などに目を取られたりして、その反応に、こちらも反応していたりする。

ある資料館で、ジオラマにつける語りのシナリオを作った時は、方言に注文が付き、その勉強から始めた。昔、河原で遊びながら石拾いをしていた子供の頃の話を、かなり高齢の老人が振り返るという設定だった。

その時は、実際にその経験がある地元の人から話を聞き、しかも敢えて方言も交えて語ってもらった。しかし、その場で方言で話してくださいと言っても、なかなか一般の人にはすんなりできなかったりする。

そこで、それなりに話してもらったら、一度原稿を作り、その方の前で方言を真似しながら話してみるのだ。すると、聞き手はすぐに違うところを指摘してくれる。

それから内容が詰まっていくと、その方の直接指導で方言はどんどん磨きがかけられていく。方言と言っても、同じ県内のことだから、基本的にそれほど困難なことでもないのだ。

そのシナリオを書いている時は、どこかで自分も老人になっていた。でないと、息継ぎとか、間とかいうものが掴めない。老人になるというのは、子供になるよりも簡単だとボクは思っている。それは自分が老人に近いからではない。活字にしていく時には、なんとなく大人の方がやりやすいのだ。

生地の石川県内灘町・権現森を舞台にして書いた、『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』では、子供の気持ちを描写できたと思うが、第三者的になると、子供になっての表現はむずかしい気がする。

TVモニターで上映するミニドラマなどでも同じだが、たとえば俳優さんなんかを使う時には、その俳優さんの雰囲気などを知っていないとやりにくかったりする。地方の小さな話のそれほどでもないミニドラマだからと言って、ナメてはいけない。撮影期間なんかも、極端な例で言うと一日しかないという場合などは、意向など無視して仕上がってしまうケースもあり、予算が乏しい仕事などはやり直しがきかないまま、完成ということもあったのだ。

ところで、嘘みたいな話で信用してもらえないかも知れないが、幼い頃からかなりマセた環境に育ったボクは、中学生の頃、なぜだか「東宝映画友の会」というのに入会していた。そして、送られてくる機関誌を見ながら、映画の作られていく過程などの話を、分かったような顔をして読んでいた。

そんな会報の中に、毎号、新作映画のアイデアを募集するページがあった。ボクは自分でもそれなりにいろいろと考えていることがあったので、いつかこれに自分のアイデアを出してみようと考えていた。そして、ある時、ボクは自分の中にあった青春映画の小さなアイデアを膨らまし、それを原稿用紙に書いて送った。原稿用紙と言っても、わずか2枚か3枚程度のものだ。

そのアイデアはたしか次の号のコーナーに掲載された。自分が書いた文字数からすれば、その5分の1くらいに縮められていたが、ボクは掲載されたことに十分満足し、そのアイデアがその後どうなっていくのかとかには、まったく無頓着でいた。

そして、そんなこともとっくに忘れてしまった頃、つまり「東宝映画友の会」にも会費を払わなくなり、機関誌も届かなくなった頃、ある映画雑誌で、ボクは不思議な記事を見つけた。

それは『俺たちの荒野』という映画が近々上映されるというものだった。その記事を読んでいくうちに、ボクは心臓がバクバクと揺れ動くのを、息苦しくなるのと同時に感じ始めていた。

監督出目昌伸。主役は黒沢年男。相手役は酒井和歌子。さらに新人の男優(東山なんとか)・・・・・・・・ 金沢では上映されなかったと思う。

ボクがかつて出したアイデアは、米軍基地で働きながらジャズドラマ―を目指す青年を主人公に、青年の恋人になる女性と青年の弟を絡めた青春映画だった。ストーリーは敢えて書かないが、タイトルは『熱狂の荒野』。

舞台は砂塵が舞う基地。中学生の田舎者が、名前と写真だけでしか知らない基地を舞台にしたアイデアを出すなんて、今から思うと恥ずかしくて穴があったら入りたいほどだが、とにかくボクはそんなアイデアを記して送っていたのだった。

タイトルといい、舞台、登場人物の設定といい、表向きにはボクのアイデアだと言ってもおかしくはなかったと思う。しかし、やはり田舎者の、世間知らずの、ただ青臭いだけの少年にそれ以上の思いは生まれなかった。ボクは、世の中には同じことを考える人がいるんだなあと思っていただけだった。

それから5年ほどが過ぎ、大学に通っていた頃、神田の本屋さんでボクは映画の本を何気に立ち読みしていた。

その中に、映画は原作本からシナリオをおこして作られるとか、まったくゼロから原案を作り、そこから仕上げられるとか、そのような意味のことが書かれていた。そして、その文章を読んでいくうちに、ボクは自分が書いたアイデアと、あの映画のことを思い出してしまった。あれはやっぱり、オレのアイデアだろう・・・・ 何だか虚しくて、切ない思いもあったが、そのうち、オレも大したもんなんだなあと、思うようになった。

久々に部屋でシナリオ書きをしたことで、懐かしくて、情けなくて、バカバカしくて、恥ずかしい話を思い出してしまった。

ついでに、ひとつ書いておく。『俺たちの荒野』という映画の原案は、中井正という人物のものらしい。ボクの名は中居ヒサシ(寿)だ。ちなみに脚本は、重森孝子。

中井正という人物の記録はほとんど残ってなくて、最近のボクは、その人物が実存したのかも疑っている・・・・・・・・・

 

深田久弥山の文化館にて~初秋

 

クルマの中はまだ夏だったが、クルマを降りて、見上げた空は秋だった。九月の下旬だから、暑いと言ってもさほどではない。日陰に入れば、風も気持ちいい。

深田久弥山の文化館には約一ヶ月ぶりだろうか。一ヶ月前は、離れの喫茶室にいても、窓からは一切風らしきものは流れて来なかったのに、今は涼しい風が入ってくる。深田久弥の会の事務局長さんもしきりに、いつもの夏だったら風が入って涼しいんだけどねえ…と言われていたが、そんなことなど想像できないほどに、前回来た時はじっとしてもひたすら暑かった。

 デッキのテーブルが変わっていた。丸い大きなサイズのものに変っていて、ちょっとした会合や、大皿を並べた食事会でもやったのだろうかと想像させる。

今回は山中の方からの寄り道なのだが、同行しているM川にどうしても見せておきたくて来た。イベント会場づくりのプロであるM川に見せておくことで、今後主催者になるクライアントへサテライト会場としての提案もできるからだ。M川は早速、物置にある上品そうな椅子を見つけ、モノはあるとほくそ笑んでいた。

ギャラリー展示的な空間になっている「聴山房」も見せたが、えェーとか、うゥーとか言いながら、フムフムとそれなりに、ここはこうして、そこはああしてと、独り言らしきことをつぶやいていた。それにしても、聴山房の室内も涼しい。ガラス越しに見る庭も、今はゆっくりと心を落ち着かせて見回せる感じだ。一ヶ月前の冷房なし状況を思うと、今は極楽のような空間だと言っていい。畳の上に寝っ転がってみたい気持ちにもなったが、M川の手前やめた。

 その日は昼からの出勤になっていて会えなかったが、館の事務長・M出さんが前々から言っていた背後の広いスペースは、草刈りも済ませすっきりとした空間になっていた。大木が日陰を作ってくれて、そこでも何かできそうだ。イメージが湧いてくる。

しかし、イメージを膨らませながらも、小さな蚊にまとわり付かれて往生もした。身体のあちこちが痒かった。

 

 

山の文化館展示室につながる回廊も、何だか秋めいて落ち着いた雰囲気だった。 この場所は、これからだな…と実感した。

加賀市には残してきた宿題らしきものがたくさんある。忙しく走り回っていた20年ほど前に見ていたもので、その美しさやのどかさや、さらにうまく表現できないいくつかのものが、不意に目に飛び込んできたり、アタマに閃いてきたりする。そんな自分がどこか面白いとも思うが、それなりに自分らしい原点を思い返してくれそうでもあって、足を運びたくなる。

M出さんによろしくお伝えくださいと事務室にあいさつし、館の玄関でパンフレットやグッズなどを見ていたM川を促し、外に出る。

空はますます秋めいて、一層涼しげだった。が、クルマに乗ろうとすると、クルマの中にはまだ夏が潜んでいた・・・・・・

休みの朝 得したこと

ちょっと憂鬱な理由で休みをとった朝、NHKニュースの中で、秋を迎える北アルプスからの中継という企画があってしっかりと見た。

たまに休みをとると、こんないいことがあるんだと心を癒やしてくれた。今、眠気覚ましも兼ねてテキスト打ち中、ほとんどリアルタイムだ。いいなあ、こういうのも…

場所は、新穂高温泉から双六岳や槍ヶ岳へと向かう人気スポット・鏡平(かがみだいら)。小屋の近くにある鏡池に映る槍穂高連峰の姿が、かなり上品な美しさで有名だ。しかし、今朝は雨だった。しかもかなり激しく降っていた。中継のアナウンサーは、雨のおかげで山の静けさを余計に感じるとか言っていたが、決してそんなことは感じられないよと言いたくなるような雨の降り方だった。

晴れている風景(タイトル写真)は前日に撮影されたもので、やはりとてつもなく美しい。文句のつけようがないとは、こういう場合のことを言うのだと、あらためて納得させられたりする。それともうひとついい話だったのが、鏡平の山小屋で働く若い女の子たちの話だ。もちろん男の子もいるのだが、少ないスタッフで、一生懸命働いている姿は清々しい。

かつて、太郎平小屋で何人もの若者たちを見てきたが、さまざまな事情をもって皆働いていたのを思い出す。しかし、彼らは山の美しい景色と、小屋を訪れる人たちとの触れ合いの中で自分を自然体にしてくれるそんな環境を愛していたように思う。山へ入るボクたちのようなニンゲンも、そうだったに違いない。そんなわけで、いつか山で出会ったニンゲンたちのことを書きたいと思ってしまった。

そう言えば、今日はそんな日ではなかったのだった。

しばらくしたら町内にあるC谷医院へ行って、今度受けるS密K査の前の事前K査を受け、某県立C病院へのS介状を書いてもらうことになっているのであった。あとは家に戻って、某日本人メジャーリーガーのミュージアムに納める、新作映像のシナリオ原案をまとめなければならない。これは大仕事なので、家でじっくりやることに徹している。資料も膨大だ。昼頃には某デザイン展の作品審査にも顔を出さなければならない。それにしても、S密K査が憂鬱なのであった。ところで、話はまったくもって完璧に変わるが、ボクは憂鬱の「鬱」の字を自分が手書きできることを、先日知ったのだ。不思議なものだった。

さて、もう一度、北アルプス・鏡平のことを思い出そうかな・・・

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……

『もう少し、夏ものがたりを…』

 

 

 8月の終わり近く、久々に立山山麓への道沿いにある鉄橋が見たくてクルマを走らせた。これからいよいよ本格的に山麓に入っていこうかという辺り、常願寺川の河原に付けられた鉄橋だ。

 いつの間にかこの鉄橋のある風景が好きになっていた。かつて、信州から八ヶ岳山麓方面に何年も通っていた頃、清里や野辺山あたりで小海線の線路を見ていると、何だか強く、夏だなあ…と感じたことがあった。小海線は日本の最も標高の高いところを走っている鉄道だ。最高駅は野辺山駅で、最高地点もその近くにあった。

 その時ボクは初めて線路から立ち上がる陽炎(かげろう)をマジマジと見た。映画のワンシーンを見ているような気分になり、真っすぐに伸びた線路に強烈なエネルギーを感じた。線路の上を歩きたくなった。そして実際にそうしてみると、靴底から伝わってくる熱が、足の裏からすぐにカラダ全体に広がっていくのが分かった。

 ボクはその時の感触が恋しくなると、この鉄橋のある場所にやって来る。八ヶ岳山麓までは遠いが、立山山麓はそれほどでもない。小さな駐車場があり、クルマを置いてぶらぶらするにもちょうどいい。その日も相変わらずの強い日差しであったが、それがまた鉄橋や線路というものに熱いエネルギーを注入しているように思わせた。ボクにとって、鉄は夏の季語なのかも知れない。

 そこからクルマでしばらく行くと、「あるぺん旅行村」の奥の原っぱに、数頭の牛たちが放たれていた。クルマを降りて、草むらの中の道をとぼとぼと歩いて行くと、牛たちがいた。牛たちも暑いのか、木陰に寄り添い、静かに午後のひと時を過ごしているかのようだった。

 この光景は、二年前だろうか、妙高高原の笹ヶ峰牧場で目にしたものと似ていた。もちろん笹ヶ峰の方が圧倒的に大スケールで、牛のデカさも比較にならないのだが、そののんびりしたムードは同じだった。笹ヶ峰は夏よりも春先の豊かな残雪のシーズンによく出かけているが、夏の光景の方が本来の姿なのだろうなあと、つくづく感じた。空の美しさ、緑の美しさ、水の美しさ、どれをとっても心の底から嬉しくなるものばかりだった。

 立山山麓は、ボクにとってかなり慣れ親しんだエリアだ。場所もそうだが、そこにいる人たちとの交流もかつては盛んだった。山の世界の人たちはもちろん、山麓でペンションを経営している人たちのところへも、よく足を運んだ。個性的な人たちが多く、楽しい時間が過ごせた。

 金沢に近くて、藩政時代で言えば、ほとんど金沢色に染まっていたと言っていいかもしれない高岡に行ってきた…のは、暑い暑いある日の昼だった。

 毎日暑いから、暑い日というだけでは特別なこととは言えなかった今年の夏。毎日暑いのだから、そんなこと話題にしなければいいのにと思っていたが、ニュースのトップはほとんど毎日「今日も暑い一日となりました…」だった。夏は暑いに決まっているのに。

 そんなことは置いといて、高岡にはよく行くが、それほど詳しいわけではない。と言うよりも、ただ漠然と行ってしまうクセ?があり、何気なく自分の行きたいところだけは確保しているといった感じなのだ。

 その日も仕事で砺波まで行く時間を活用し、高岡の古い町を見て来ようと思った。何度も見てはいるが、具体的に参考にしたいという仕事なんぞがあった時には、この目とこの足などを通して積極的に感受して来ようという気になる。高岡の古い町の再生は、この辺りではなかなかそれなりによいものだとボクは思っているし、関わってきた人たちも知っているから、その人たちのハートが分かるような気になれる。

  それにしても一時間弱歩いて、汗まみれになった。顔の鼻から上が痛い。アスファルトの上の一時間弱は、お好み焼きの鉄板の上の何分に該当するか?などと考えてはみたが、途中で考えるのもイヤになった。しかし、ボクは夏の子なんで、そんなことぐらいでは潰(つぶ)れない。積極的に歩き、蔵がモチーフになって生まれた街のパワーみたいなものを、あらためて感じ取ろうとした。

 強い日差しの中で、古い建物の黒壁がより凄みを放っているように感じた。レンガ造りの銀行は、かえって涼しそうなイメージを創り出しているのかも知れないな…とも思った。

  帰りの高速で、トイレに行った時だ。ふと用を足しながら目にしたサインが、ほのぼのとした気持ちにさせてくれた。

 暑さをもぶっ飛ばす富山弁の朴訥(ぼくとつ)さは、いつも心に沁みるのだった。

 甲州ブドウの勝沼(甲州市)から、採れたて「ピオーネ」が届き、今年もいよいよ、ブドウやワインの季節が始まるのだなあと感じたのが、九月のアタマだった。

 送り主で親友のMは、母校が久々の甲子園出場を果たしたにも関わらず、ブドウの仕事が忙しくて応援には行けなかったと言っていた。そこまでして育てたブドウだ、じっくり味わおうと気合を入れ堪能させてもらった。さすがに美しくて、うまかった。いつも申し訳ないが、買うといい値段なのだ。

 偶然というか、それからすぐに能登の穴水町で、交流している同じ山梨県の南アルプス市の特産市があり、それに出かけてきた。勝沼と同じように、美しい風景が広がる南アルプス市には合併で市になった直後、仕事でお邪魔した。秋の快晴の空の下で、澄んだ空気を腹一杯に吸い込んできた記憶がある。

 穴水での特産市はあらかじめ知っていて、特に訪問時に知り合った人たちが来ているというわけではなかったが、何となく行ってみようと考えていた。

 行ってみると、小さな会場が人でごった返していた。その人たちのお目当ては、なんと無料で配られるブドウ、それもまた「ピオーネ」だった。当然“最後尾こちら”のプラカードを持った係の人の前に入り、一房入手。なんかブドウづいているな…と、強く感じさせてくれた。

 ところで、夏の暑かったことも忘れて、秋も普通になった頃には、勝沼では甲州ブドウが一斉に実りの時期を迎える。そして、楽しみなのが甲州ワインだ。Mにゴマすっておかねば……

                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

初めての山は剣岳だった

この写真は、山岳専門誌『山と渓谷』1986年6月号に掲載された、ボクの投稿紀行だ。

本格的な山行として初めて登った剣岳との再会を記したものだが、初の雪山の感動と、剣岳との再会を喜ぶボクの心情が、恥ずかしいくらい単純明快に綴られていて懐かしい。その後も何度か読者紀行というページに投稿させていただいたが、剣岳の話はこれ以外にも、もう一度掲載されている。剣岳が初山行の山であったことは、ボクにとって大きな誇りでもあった。

北アルプス大日岳への登り途中で。左が自分、右はいつも一緒だった親友・S 

 『剣岳 点の記』のDVDをこの一週間に三回観た。

 二回目からは特に山岳シーンは巻き戻して見たりして、ストーリーよりも山の世界の描写にばかり注目していた。

根本的な理由は明白だった。今夏本格的な山に行けなかったからだ。今夏どころか今春も昨秋もそのまた前の夏も春も冬も…という具合に、ボクのヤマ屋的エキスが希薄になっていき、ボクはただ悶え続けるだけだったのだ。山に入ってきた人間には、普通の空気だけではなく、ちょっと酸素が薄めの山の空気も時々必要なのだろう。この息苦しさはそのことの証に違いない。

そんなわけで、ボクは『剣岳 点の記』を食い入るように観た。そして、唸った。時々いいものに出会うとボクは唸るのだ。唇を噛みしめ、顔を右方向に三度くらい揺すりながら口の奥の方でウゥーッと声を出す。なぜ右の方にだけ揺するのかは自分ではわからない。この前、あることで唸った時に、偶然そのことに気が付いた。

『剣岳 点の記』である。ストーリーを詳しく説明するような野暮なことはやめよう。それよりも剣岳という日本を代表する厳しい山に挑んだ人たちを描く上での、その厳しさの描写にボクは独り拍手を送りたい。

  ( TV画面より)

スタッフや俳優さんたちの努力にも拍手を送りたい。それにも理由がある。それはボク自身も本格的な山として初めて挑んだのが剣岳であり、今の俳優さんたちのように、初体験として厳しい山行を強いられた記憶がまざまざと甦ってくるからだ。

 

大学を卒業して二、三年が過ぎた頃だったろうか。今の会社の当時富山営業所長をされていたTさんがリーダーとなって、剣岳に登ろうという話が持ち上がっていた。Tさんは山岳関係者の多い旧大山町(現富山市)の方で、剣岳や薬師岳などを中心に北アルプス北部方面に足繁く通っている山男だった。ちなみに『剣岳 点の記』の主人公の一人・宇治長次郎も大山の人だ。

集まったメンバーは総勢6名。Tさんともう一人富山の山男以外はみな初心者。今思えば何とも無謀なパーティだったと言えた。Tさんの呼びかけ方もいい加減だった。

ハイキングに毛が生えた程度のもんやからよ… あの映画を観た人なら、その言葉の無責任さが分かるだろう。そして、そのいい加減さがその後の悲劇?を生む ───

メンバーの中では圧倒的に若く、そして大学体育会上がりのボクにとって体力だけは誰にも負けない自信があった。予想どおりそれはすぐに実証される。登山口である番場島から急なルートとして知られる早月尾根を登り始めて三十分、そして一時間と時間が経過するにつれ、歩く速度に大きな差が生じ始めた。しかも、Tさんたち山のベテランでさえ、ボクのスピードについて来れなくなっていた。もちろんボクの歩き方そのものも、ただ早過ぎるだけだったのかも知れない。

何度目かの休憩の時に、Tさんが背負っていた大きなリュックを交換してくれと言った。その時ボクが背負っていたリュックは、友人から借りてきたもので、まさにピクニックかハイキングレベルのものだったが、Tさんのものは本格的なキスリングザックで、アルミパイプの背負子(しょいこ)に結んで背負うものだった。

ズシリと重い感覚が両肩にかかった。ザックにはポリタンクに詰められた日本酒も入っていた。山小屋か頂上で乾杯しようと持ってきたらしい。重くはなったが、背負子のおかげでバランスが良くなり、背中に馴染み始めると何だか充実感みたいなものまで生まれ始めた。

一度に自分が本格的な登山者になったような気分になった。そして、Tさんに言われた、お前は自分のペースでどんどん行け。とにかく登っていけば山小屋にぶつかっから、そこでオレの名前言って、先に小屋に入っとりゃいい…… その言葉どおりに、ボクは歩き始めた。正直、その時のボクには疲れなどほとんどなかった。

みるみるうちに後続の姿が消えた。深い樹林帯の中の急な登りが続いていた。樹林帯の中は“草いきれ”がすごい。しかもまだ梅雨真っ盛りの時季で、湿度も高く、想像をはるかに超える汗が吹き出していた。

そして、そのうち暗い樹林帯に大粒の雨が落ち始めた。雨は一気に本降りとなり、そのまま止む気配など見せずに降り続く。山の経験を積むと、落ち着いて雨具を身に着けることぐらい普通の行動なのだが、ボクにはそんな余裕などなかった。余裕がないというよりは、そのことの必要性そのものを感じていなかったという方が当たっていた。

その時の服装は、白いTシャツに首にタオルを巻き、コーデュロイの半ズボンに普通のソックス。そして足には底のやや厚いシューズ(オニツカタイガー製)を履いていた。

雨は一向に止む様子はなく強い勢いのままだった。道は川のようになった。靴がそのまま雨水の流れの中に隠れた。帽子も被っていない。頭から雨が流れ落ちてくる。全身がびしょぬれ状態になり、そのまま歩き続けていくと、ボクの中に奇妙な思いが生まれた。

厳しい山の世界に、今自分はいるんだなあ。ヒーローになった気分だった……

しかし、その思いは山小屋に着いた途端に完璧に打ち消される。

尾根に建つ伝蔵小屋(現在の早月小屋)の玄関に立ったボクの姿を見て、アルバイトで、間違いなくボクよりも年下であろう若いスタッフが、いかにも軽蔑するような顔をした。それが山へ来るかっこうかよ、といった目をしていた。

びしょ濡れになりながらも、元気よく、お願いしますと入っていった出鼻は完璧にくじかれ、ボクは力なくTさんの名前を告げた。畳が敷かれただけで、布団などが無造作に積まれた四角い部屋に案内された。若いスタッフは、服をすぐに着替えて、身体冷えてるだろうから毛布でも巻いていてくださいと言った。

しかし、ボクのリュックはTさんが背負っていて、ボクの着替えはなかった。小屋に入ってから、身体が一気に冷え始めていくのが分かった。ボクは思い切って素っ裸になり、直に毛布を身体に巻きつけることにした。

待つこと約二時間。Tさんたちが到着した頃にはボクは浅い眠りに落ちていた。

雨と風が翌日の出発を躊躇させたが、Tさんの強い判断でボクたちは次の日無事剣岳の頂上に立った。しかし、誰もボクのキスリングの中に入っていた日本酒を飲もうとはしなかった。山の恐ろしさが身に染みていた。

反対側の剣沢へ下山する途中の“カニの横ばい”と呼ばれる岩場の難所付近では、ボクはTさんの肩に足を載せて下ることができた。雨降り状況の中の岩場の恐ろしさを知らされた。すべてはボクが履いていった、役に立たないシューズのせいだった。

ほとんど昼食らしきものをとらずにいたボクたちは、雨の岩場で缶詰を開け、汚れた手をズボンなどで拭きながら無造作にむさぼり食った。近くでヘリコプターのエンジン音が聞こえていたが、あとで聞くと、転落者の搬送に上がってきていたらしかった。

ボクたちはその後、先頭と最後尾とに大きな差をのこしたまま、剣御前から雷鳥沢を下り、室堂平に再び登り返して無事全員下山した。体力不足か、半分死にかけたような人が一名いたが、何とか無事だった。

この剣岳山行は、ボクに大きなインパクトを与えた。まず、二度と山など登らないと決意させた。しかし、その後ボクは北アルプスの山々に入っていくことになる。初めは友人と二人の山行、その後は単独での山行。そしてその後は、単独であったり、集団であったりと。

なぜ山行を続けるようになったのかと考えると、やはり山への憧れがあったからなのだろうか。

剣岳の登山口である番場島には、「試練と憧れ」と記された碑が建っているが、本来の憧れるという感覚は、普通の観光地などにはなく、やはり山などを対象にした時に生まれるものだと思う。

『剣岳 点の記』の中でも語られる、「自然の美しさは厳しさの中にしかない」という感覚は、そういう意味で試練と憧れを象徴している。そして、「人は淋しさに耐えながら生きている」といった言葉もまた、そのことを意味しているのだと思う。

山には人の生き方みたいなものが凝縮されているということを、山に入って15年ぐらい過ぎた頃になって初めて実感した。教えてくれたのは、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんだった。ただ心を落ち着かせて歩いていれば、必ずいつか目標地点にたどり着けるし、そこには雨も雪も風もあるが、それらも冷静に受け止められると。その時五十嶋さんと一緒に歩いていて、全く苦しさを感じなかった。そして、その後の山行を、ボクは自分自身のペースで力んだりせずにこなせるようになっていたのだ。

それから後も、山ではさんざん厳しい目に合わされた。しかし、山はよかった。ただ、それだけだった……

水かけ神輿と一箱古本市

8月最後の日曜日は、猛暑もなんのその、とにかくひたすら慌ただしい一日であった。

まず、10時に始まる『第1回一箱古本市』に出店するために、九時半頃、主計町の源法院という小さな寺に出かけた。

この古本市は、2005年、今注目を浴びている東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まり、金沢のあうん堂さんたちがこちらにも呼ぼうと企画したものだ。駅弁売り用の木箱が一個千円で配られ、それに古本などを好きなだけ並べるだけという、シンプルを絵に描いたような売り方をする。谷根千のさまざまな面白いコト・モノに興味を持ち始めてきた最近、あうん堂のご主人Hさんからご案内いただき、まずこれを取っ掛かりにしようと決めたのだ。

主たる店番担当のKは、ボクより少し遅れて会場に到着した。彼の友人であるOクンも後から来ることになっていた。しかし、ボクはゆっくりとはしていられない。すぐに主計町から柿木畠へと移動しなければならなかった。というのも、柿木畠の人たちが数年前から始めた「水かけ神輿まつり」の様子も窺いに行かねばならなかったからだ。

KとHさんに、場を離れることを告げ、ボクはすぐに歩き出した。

主計町から柿木畠。金沢を知る人であれば、それほど近い距離でないことはすぐに分かるだろう。しかも、すでに気温は猛暑と呼ぶにふさわしいあたりまで達している。案の定、大手町あたりでTシャツは汗でびっしょりになった。かなりの早歩きのせいもあるが、日向も日蔭も関係なく熱風に全身が包まれていく。

柿木畠に着いたが、神輿の姿はなかった。そうかと納得し、広坂の石浦神社へと向かう。歴史はないとは言え、神輿は神輿、神社でお祓いをした上で街に繰り出すのが正しい道だ。こちらがちょっと遅れたせいもあり、神輿とは21世紀美術館で遭遇した。お祓いをすませ、戻りの途中だった。いつもの面々が先頭を歩いていて、手を上げて挨拶してくれる。Mさん、Iさん、Gくんなど、いつもとはちょっと違う出で立ち(Iさんは同じか)で、勇ましい。まだ勢いは付いてないが、これから街に繰り出して水の掛け合いになるのだ。

 柿木畠は、ボクにとって商店街仕事の原点みたいなところで、楽しく元気に、そしてセンスよくやりましょう…の精神でやってきた大好きなところでもある。そして、何よりも公私混同が実を結んでいった典型的なパターンの代表なのだった。

当時、21世紀美術館がオープンするのに合わせて進めた企画は、かなり自信をもってお薦めできたものだった。商店街の皆さんが凄い勢いで頑張ったし、今は亡き当時のN理事長さんやMさんにはアタマが上がらなかった(今もそうだが…)。そして、企画はさらにその後も広がっていったのだ。

 水かけ神輿は21世紀美術館から知事公舎へとまわって一暴れ(水かけ)し、広坂通りを通って、香林坊アトリオ前、東急ホテル前でも水かけして、せせらぎ通りへと移動していった。その間には何人もの知り合いと出会い、挨拶などを交わした。

時間は限界だった。Kに電話すると「いい雰囲気です」と、なんだか微妙な返事。柿木畠の面々に挨拶し、大和デパ地下で弁当を買いこみ、すぐに主計町の古本市会場へ戻ることに。

バスを利用し主計町にたどり着くと、古本市会場はそれなりに賑わっていた。

 「売れてます」とK。「えっ」と箱を覗くと、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』が減っている。基本的には古本市であったが、新刊に近いものもよいというお墨付きがあったので置かせてもらった。Kいわく、「皆さん興味があるらしく、真っ先に手にとってくれるんですヨ」とのことだ。拙著は、たまたまクルマに置いてあった四冊という中途半端な数だったが、早い時間に完売してしまった。こう言う場所へ来るお客さんたちはよい感性を持っている、さすがだなあ……と、数が少なかったことを悔いた。

山関係の本が結構売れた。売れて困った。こんな本買う人はいないだろうと思って、ダシに使っていた『槍・穂高連峰』(山と渓谷社)というかなり古い本が売れた。いや、売れてしまった。しかも最近山好きになったという、若い女性が買っていったらしかった。東大山岳部の部員たちが書いた、かなり滑稽で面白い本だった。冬山の体験などが実に笑える内容で綴られていて、ボクは素朴な装丁とともに愛読書のひとつにしていた。しかし、売れてしまったのでは仕方ない。

そう言えば、スポーツサイクルで颯爽(さっそう)と登場したOクンもまた、最近山を始めたと言っていた。Oクンには、『北アルプス山小屋物語』という山小屋のオヤジの話が満載された本をあげた。

 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』という、表装がなく薄汚くなった本も売れた。『剣岳・点の記』でまた人気が復活した新田次郎だが、実は富士山の気象観測所で働いていたことは有名で、気象庁の仕事の傍ら小説を書いていた。そんな新田次郎が有名作家になった後で書いた自伝ということで、ボクは当時異常な関心を持ってこの本を読んだ。というのも、自分自身がサラリーマンをしながら作家になることを夢に描いていたからだ。しかし、ボクはその後になって、この本を読んだことを後悔した。そんな甘いものではなかったと思い始めたからだ。この本を読んでいなければ、ボクは貧乏しながらも一応作家を目指して、頑張ったかも知れない。そんな思いに揺れ動いてもいたのだ。自分勝手なものだ。

新しいものでは辻仁成の小説本も売れた。これは内容がまったく自分に合ってなく途中でやめたものだ。売れて別に文句はないのだが、帯付きのピカピカの本だったのに、Kのやつがなんと200円で売ってしまった。そのことがちょっとショックだった。

 そんなこんなで、箱の中はかなり隙間が目立ち始め、それなりに売り上げがあったが、ボクにとっては、東京千駄木から来ていた「不思議」という店の店主Hさんとの出会いもまた楽しかった。「不思議」と書いて「はてな」と呼ぶ。千代田線千駄木駅からブラブラ歩いてくださいねという古本・古道具の店。Hさんの風貌も親しみやすく、おしゃべり自体も実に面白い。

 ボクは何気に置かれていた『東京文学散歩下町編』という定価100円の本を、300円で買った。今見てもほとんどよくは分からないのだが、1955年発行というところに魅かれて買ってしまった。

それと何と言っても興味を惹いたのが“ガラスペン”だった。竹製の年代がかった柄の部分と、ガラスで作られたペン先とがアンバランスながらに釣り合い、独特なムードを醸し出していた。旅行者風の若い女の子が「ええっ、なぜこんなところにガラスペンがあるの?」と声を上げ、Hさんが千駄木から来ていることを告げると、その女の子は納得した表情を見せた。谷根千の威力をまざまざと見せつけられた瞬間だった。

ボクは釣られるようにガラスペンを買った。包装はペン先がティッシュで包帯のように包まれただけのシンプルさで、それがまた“谷根千的”でいい味を出していた。

狭い境内とその前の狭い道に、人だかりができ、話し声や笑い声が絶えない。

暑い暑い夏の、午後の遅い時間。ちょっとお疲れ気味の店主たちは、それぞれの場を離れたりしながら語り合っていた。女性だけのグループ型、小さな子供を連れた家族型、単独オトッつぁん・オッカさん型など、さまざまな店主の形態があったが、みなそれぞれ立派な個性のもとに輝いていた。

古本市は楽しい。じっとしているのは辛いが、また今度も参加したり、自分で企画してみたりしようかと、秘かに思い始めてしまった。

帰り際、浅野川大橋のたもとに立っていると、西日がもろに顔に当たった。目を開けていられないほどだったが、その眩しさが妙に嬉しかった……

「甦った試合……」

 八月後半の三日間ほど、ボクはソワソワしていた。ソワソワだけではなく、ワクワクもしていたし、ドキドキもしていた。だが、総体的には、一応イキイキしていたとも言えた。

 大学時代、ボクは体育会の準硬式野球部に四年間籍を置き、小田急線の生田にある合宿所で生活していた。準硬式野球というのは、分かりやすく言うと、硬式のボールの表面だけが軟式のようにラバーになっているボールを使う野球のことだ。今では大学だけでやっているジャンルだと思う。使用するグローブやバットなどは硬式と同じだが、ルール的なことで言うと、大学の硬式野球リーグでは、木製バットを使用するのに対し、準硬式野球リーグでは金属バットが使える。ここが大きな違いだ。

 前置きが長くなった。今夏金沢で全日本選抜大会が開かれ、母校明治大学の準硬式野球部が出場していたのだ。

 明治は初戦と二戦目を順当に勝って、ベスト4に残ったが、準決勝で九州の大学に敗れた。ちなみにそのチームが最終的に優勝した。

 初戦の市民球場ではそれなりに観戦した。そして県立球場の二試合目は少しだけだが顔を出し、三試合目は、もし負けた場合のことを考え、打ち上げの場所・時間などを確認しておかねばなるまいと、途中から最後まで見ていた。

 OB会長でもある長老K大先輩が直々に来ていて、また在学中に世話になった前監督のK先輩も、東京から一週間休暇をとっての応援。さらに現監督が二年後輩のO君だ。応援に行かないわけにはいかない。伝統の血は、こういう時に騒ぐのが当たり前なのだ。

 ボクたちも現役時代には三度全日本に出た。しかも選抜大会ではなく、選手権大会という大学日本一を決める本大会の方だ。

 特に四年生の時の全日本は、六大学リーグで優勝できず、全日本への出場権を得るには、関東選手権を制覇するしかないという厳しい条件下にあった。なんとか準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出をかけた相手は同じリーグ(東京六大学)の覇者・早大だった。普段から仲の良かった早大はすでに全日本出場を決めており、完全に戦力ダウンしたメンバーで臨んできた。しかし、ボクたちはその相手にも手こずった。なんとか勝つには勝ったが、情けないくらいに無様な勝ち方だった。

 こんな試合をしていて、全日本に出る資格があるのか?と、チーム全体にみじめな思いが充満していた。試合を終えて、キャプテンだったMと二人、新宿西口の喫茶店にいた。真面目に“クソ”が付くくらいのMは、その試合の責任をすべて自分で負っていた。時折、涙さえ浮かべていた。

 「オレ、キャプテン辞めるわ」何度もその言葉を口にし、その度に「今辞めてどうする」と、ボクは彼に言った。電車の中では、横に並んで立ったまま、ほとんどしゃべらなかった。

 合宿所に戻り、ミーティングが開かれたが、重い空気は翌日のゲーム(決勝戦)に決して明るい展望をもたらさなかった……

 西武新宿線・東伏見。早大東伏見球場はリーグ戦でも使用しており、勝手知ったる場所だ。決勝の日、その東伏見に雹(ひょう)が降った。雷が鳴り、真黒な雲が球場の空を覆った。試合開始は二時間ほど遅れただろうか。

 決勝の相手は、東都リーグの強豪・専修大学だった。春のオープン戦やその他の交流戦などでも、ほとんど勝ったことのない相手だった。

 しかし ────

 明治は、5対0で快勝した。エースのSが相手の強力打線を抑え、バックもしっかり守った。打線は準決勝まで打ち込まれることの全くなかった相手エースから、コツコツと5点を奪った。いつもながら地味な、明治らしい試合、明治らしい勝ち方だった。みなが、勝つことに集中していた。

 四年間の中でもベストゲームで、明治は優勝した。試合後のベンチ前でのキャッチボール。Mが、ボクの投げるボールを受け取るたびに、嬉しくてたまらないといった顔を見せた。笑いたくてウズウズしている。その笑いを抑えるのに懸命になっている。あんなに楽しいキャッチボールも初めてのことだった。

 その年の全日本は、北海道釧路市。

 早大と一緒に羽田を発ち、早大と一緒に札幌から特急に乗った。そして、同じ日、早大と一緒に初戦敗退した。一応、両校とも優勝候補に上げられていたのだ。

 その後の二週間は、北海道にいた。釧路出身で、知床の小さな町で中学の英語教師をしていたI先輩の住まいとクルマを借り、道東を駆け巡っていた。七時には家の明かりが消えてしまう小さな漁村の、先輩の住まいでは、近所の人が調理した魚を届けてくれたりした。合宿所で同部屋だったこともあり、ボクはI先輩が好きだったのだ。

  ずっと前の出来事が、金沢で活躍する後輩たちの姿から甦ってくる。ユニフォームやポロシャツやシューズなどに記された、“meiji” のロゴが元気をくれる。ベンチ上のスタンドの金網には、新調されてはいたが、懐かしい部旗が張り付けられていた。

  準決勝の夜、現役4年生も含めて飲みに出た。たくましく礼儀正しい現役たちがまぶしかった。また来いよ、後輩たち。再来年、全日本選手権が金沢で開かれるとのことだ……

 ※タイトル写真左から、キャプテン古城君(横浜高校選抜優勝メンバーでナイスガイ) 監督・大竹君 オレ エースの西君(春季リーグ戦最優秀投手賞)  県立球場にて

「夏のハーフタイム的雑感~その2…」

 

 旧盆の休暇は、特に何をするでもなく、天候不順という最低な条件にも左右されて不満足な出来であった。昼間は独りでいることが多く、そうめんを作ったり、冷奴の試し食いなどに、微かな喜びを見出したりしながらやり過ごした。

 冷奴はシンプルなのがいちばんと前に書いたが、富山県八尾から某スーパーに入って来る「絹ごしどうふ」が、何となく健気(けなげ)で、心をそっと揺さぶってきたりしている。京都から、いかにも工夫しとりますゥ的雰囲気満載の豆腐が入ってきたりもして、そんな言葉の誘惑に負けそうになったりもするが、八尾という名前にも、尊敬する奥井進氏の生まれ故郷であることもあってか、ぐっとくるものがあるのだ。

 八尾の豆腐は四角だ。豆腐は四角で当たり前で、近年のやたら丸かったりしている輩には、まずもって不信感から入ってしまうのはボクだけだろうか…(そうだろうなァ) しかし、そのシンプルな味に共鳴している。

 そうめんはいつも適当に作る。冷蔵庫の扉に貼り付いているタイマーのようなものを一応セットしたりするが、ほとんどは見た目でいく。冷水にさらす時も指の感触で決める。食べる時は生姜あるのみ。30年前に奈良で三輪のそうめんに出会って以来、そうめんに目覚めてしまったボクとしては、そうめんはあくまでも、大切な食材のひとつなのだ。『ゴンゲン森・・・』の中で、ナツオが食べていた、あの時代のそうめんは一体何だったのか? 一説によると冷麦だったのではとの話もある。だから、どうなのかと言われてもボクは、その意味を理解していないのだが……

 フットサルの話を書いたが、能登島で合宿中の高校チーム同士のゲームを見た。言葉から推測するに関西のチームらしかった。凄いハイレベルのゲームで、選手たちが輝いて見えた。夏合宿で伸びる選手と、伸び悩む選手とがはっきり分かれていく。猛暑の炎天下、申し訳ないので、ボクも木陰に入らず、熱くなった木製のベンチに腰を下ろしていた。

 そういえば、山梨県旧勝沼町で、兼業でブドウ作りをやっているMくんの母校が30年ぶりに甲子園に出た。試合当日の朝、「今、応援バスの中か? 応援してるぞ」とメールしておいたが、昼近い頃になって、「ブドウ畑も忙しくて、今日はテレビで応援だ」と返信が来た。野球部熱血OBとしては、さぞかし応援に行きたかっただろうにと思っていたが、相手も強豪校でMくんの母校は久しぶりの甲子園を勝利で飾れなかった。夜のメールでは、「悔いの残る試合だった…」と。悔しい思いが綴られていた。話は変わるが、今年の秋には、Mくん自家製の甲州ブドウとワインを楽しみにしている…

 本格的な山には一度も行けないまま、夏はハーフタイムを迎えた。ラグビーで言えば、ノートライ、ペナルティゴールが辛うじて一本決まったという程度だ。上高地から穂高や、いつもの太郎小屋周辺をアタマに描いていたのだが、時間がボクを許してくれない。そんな中、前にも書いたが『笑顔の冒険家・植村直己』(NHK教育)が充分に楽しませてくれている。一回わずか25分のドキュメンタリーだが、今度が最終週となってしまった。第2回目のエベレスト登頂の話は、植村さんの真実を伝えるいい内容だった。

 もうひとつ、民放でやっていた『剣岳・点の記』もよかった。測量士の柴崎芳太郎もよかったが、案内人・宇治長次郎(うじちょうじろう)もいい描かれ方だった。山案内人であった長次郎の銅像が立っている場所を知っている人は少ないだろう。旧富山県大山町(現富山市)の立山山麓家族旅行村の入り口にある。もっと分かりやすく言えば、ゴンドラスキー場の入り口。分かりやすくもないかな… 一緒に連れて行ってあげた人でさえ、覚えていないと言うかもしれない。

 宇治長次郎は山の案内人として剣岳登頂に貢献したが、もう一人この旧大山町からは日本の山岳史上偉大な人物が出ている。それは、北アルプスの盟主と呼ばれる槍ヶ岳を開いた播隆上人(ばんりゅうしょうにん)で、百姓から僧侶になり、笠ケ岳、そして最も難しいと言われた槍ヶ岳を開いた。播隆の物語も『剣岳・点の記』と同様、新田次郎によって小説化され、『槍ヶ岳開山』のタイトルで広く読まれている。ついでに言うと、新田次郎の山岳小説は『孤高の人』、『栄光の岩壁』など、どれも昔最高に面白く読んだ。

 本と言えば、『ゴンゲン森・・・』でも大変お世話になっている、うつのみやさんの百番街店で、実にもって嬉しいかぎりの文庫のレイアウトを見つけてしまった。なんと、椎名誠氏の『岳物語』と伊集院静氏の『機関車先生』とが並んで置かれていたのだ。これは集英社文庫の企画らしく、同じ装丁デザインで特別販売されているシリーズなのだそうだ。サイトのプロフィールにも書いているが、ボクの尊敬する二人の作家の、しかも『ゴンゲン森・・・』という作品では、ボクが手本したといっていい二作品なのだ。

 なんてことだろう…と、ボクは大いに驚き、そしてゾクゾクと背中を縮み上がらせてしまった。嬉しかったが、なんだか怖くもあった。こんな感性がやっぱりまだまだ生きているんだ…、だとしたら、このまま『ゴンゲン森・・・』を眠らせていくわけにはいかないなあ…と、大いに思ったりもした(思わず店内で小型カメラによる撮影もしてしまった)。

 そういえば、盆休暇直前日の夕暮れ時、独りで待っていた我が家に、「地デジ」がやってきた。ところで、ウォシュレットの出現により、だいぶ前に「キレぢ」が去ってから十何年が過ぎたが、両者はなんら関係ない。言葉の響きによっては、同類に聞こえたりするので誤解を招きやすいが、全く関係ないのだ。地デジによって、我が家のテレビ文化はかなり変わるであろうが、なにしろかなりの衝動買いであったため、その支払いなどの条件も、我が家の生活文化を変えそうだ。番組では、特に天気予報が見やすく分かりやすくなり、買った甲斐があった。

 しみじみとした夏のハーフタイムには、古いお寺を訪ねたりするのが良かったりする。加賀大聖寺の山の下寺院群は、かつてボクがルートづくりをさせていただいたところだが、久しぶりに行ってみると、一段とやさしい雰囲気に包まれていた。ちょっと休めるところがあったらいいなあと感じながら、人のいないことに中途半端な安ど感…… 暑いからだろうなあと思いつつ、もっと多くの人に知ってもらい、来てもらうためにはどうしたらいいのか? 深田久弥・山の文化館でも、必ずその話題になったりする。

 カフェで、独り静かにかわいいカバーを付けた文庫本を読む女性がいた。カバーもやたらと目を引いたが、アイスコーヒーのストローにも夏を感じていたんだなあ…

その3につづくかもしれぬ……

「夏のハーフタイム的雑感~その1……」

 

 ある休日の夕方、美しい夕焼けが窓から見えていたので、カメラを手にしてふらっと外に出てみた。そして、数枚の写真を撮影した後、あることに気がついた。

 それは、夏の夕暮れ時というのが、これほどまでに静かなものだったのか…ということだった。鳥のさえずりと、ヒグラシの鳴き声だけが遠くから聞こえてくるだけ。ごくごく日常的なことでありながら、いつもはゆっくり夕焼けなど見ていられることがない分、その日の夕焼けは美しさとともに静けさを、強く感じさせた。

 そういえば、その何日か前、夜の打ち合わせが加賀であり、高速の帰り道、海を見ていたことがあった。SAの自販機でブラックコーヒーでも飲もうと思ったのだが、小銭入れのカネがわずか10円足りず、コーヒーを諦めて夜の海を見ていたのだ。なかなかコーヒーへの恨みは消えなかったが、それを癒してくれるに十分な夜の海の美しさだった。

 海も山もそうだが、人だかりでごった返す雰囲気は好きではない。ボクの思いの中には、その両者ともが、独りでボーっとする場として位置付けられている。だから砂浜なんかに、小さな舟が一艘だけ繋がれているのを見つけたある日の風景などには、惜し気もなく自分自身の感性をリンクさせようとし、出来るだけその風景の中に自分を同化させるための努力をしていた。

 必ずしも近づいて行こうとは思わない。ちょうどいい距離を見つけて、その空間の中でいい気持ちになれる瞬間を探す。カメラのピント合わせの感覚に似ているのかもしれないし、レンズを動かしている時の感覚にも似ているかもしれない。

 暑い夏には、やはり入道雲が似合う。

 今年の夏の入道雲は、8月に入って気合が入ってきた。入道雲が怒っている(とボクには見える)時は、夏がいい夏であることを証明している。だから、子供の時の夏は、やはりいい夏だったのだと思ったりする。真っ黒に日焼けしたボクたちの肩や腕や足や、そして首や顔などと、入道雲はぴったりの相性を誇っていた。

 仕事で立ち寄った金沢市民芸術村で、正装した高校の吹奏楽部だろうか、練習を終えて全員がぞろぞろ炎天下を歩いて来るのを見た。その光景と芸術村の赤レンガと黒瓦の建物、そしてその上に、純青の空と、怒りを露(あら)わにした入道雲を見た時には、思わず心が騒いだ。声を上げたくもなった。無性に誰かにこの凄さを伝えたくなったが、誰に伝えていいのか分からないまま高ぶりを抑えるのに苦労した。

 

 今夏でも、めったに自分からは食べない「カキ氷」が出された時には、心の中で“しまったなあ…”と思うことがあった。ボクは極度に冷たいものはあまり好きではない。適度に冷たいものは好きだが、極度はダメなのだ。なぜかというと、アタマの前方付近に突如やってくる、あの刺激的痛みに襲われやすいタイプなのだ。だから今年も、極力、極度に冷たいものとは付き合わないようにしてきた。

 しかし、夏のイベントの打合せで兼六園下の坂道をオロオロと歩きまわっていた後、ついにその商店会の会長さんのお店、詳しく言うと、店舗二階の階段付近にあるL字型応接セットのテーブルの上にその「カキ氷」は届けられ、“見た目”的には爽快感満点のソレを思い切りよく口へと運び、その後、三度ばかり激痛に襲われ、眉をしかめ、唇を噛み、鼻の穴をおっ広げては耐えに耐えた。

 そのおかげもあってか、旧盆直前に催した打ち水イベントは大成功で、県内各紙と各局が取材に来てくれ、NHKは全国ニュースでも流してくれた。

 そういえば、自分がクーラーも好きではないということを、今夏あらためて認識した。特に暑いのと冷えたのとを繰り返すのが嫌いだし、局部的に冷やそうとするカーエアコンなども好きではない。暑いのなら暑いだけのところで、暑いままいる方がいい。

 何日だったか、小松で全国一の気温(37.7度)になった日があった。その日の夜、小松在住の一級建築士兼フラメンコ・ダンサー及びスパニッシュ系ミュージシャンの“m”さんに、日本一おめでとうございますとメールした。ボクとしては、非常にうらやましい話で、何年も前に一度京都で40度近い気温を体験したが、最高気温日本一になった感想とその体感の喜びの声が聞きたかったのだ。しかし、夜遅くなって、いよいよメールが返されてきたが、「運よく、小松にいなかったので、よかったです…」的お言葉だけで、ボクの期待はカンペキに裏切られた、のであった。

 その2につづく……

加賀のサッカー少年が、サッカー青年になって、子供たちに伝えていくこと…

8月の始めに、加賀市の国道8号線沿いに出来たフットサルコート『AUPA』を初めて訪ねた。8月1日オープンしたばかり、すべてが新しい施設だった。

すべては新しかったが、何よりもカンペキに新鮮だったのは、施設運営会社の代表取締役である、八嶋将輝(やしま しょうき=タイトル写真)さんの存在だった。“さん”付けで呼ぶよりは、“クン”付けで呼びたいくらいにすがすがしい存在感をもった若者だったのだ(失礼)。

輪島の廃校の話でも書いたが、ボクにとって、ワクワクさせてくれる“何か”との出会いは、いつも行動の原点にある。私的な場合は、その出会いから自分の楽しみを感じ取り、仕事の場合は、相手が求めるものを探し、創り上げていくことに、いつも気持ちを注いできた。八嶋さんとの出会いは正式には後者であったが、いつもの公私混同型思考がベースだ。そして、それ以降のつながりは続いている。

八嶋さんは、来年の1月に30歳になるというセーネンであり、まだ1歳になっていないという子供を持つ父親でもある。サッカーに情熱を注ぎ、海外でも修行してきたという筋金入りだが、言葉や表情からその自信が感じ取れる。そして、スポーツマンらしい謙虚さもまたいい感じだ。地元に戻って、NPO法人スポーツクラブ「リオペードラ加賀」を立上げ、少年サッカーの指導者はもちろん、スポーツイベントの企画運営に携わっている。そして、このボクもそんな中に、少しは入れてもらえそうになってきた。

 初めて訪問した日、夕方になっても激しい暑さが続いていた。西に傾いた陽の光を受けながら、多くの少年たちがコートの中でボールを蹴っていた。額というより、顔中から吹き出た汗が首筋を流れていく、その様がはっきりと感じ取れるくらいの熱気が周囲を被っていた。

スポーツはいつも何かを感じさせてくれる。

少年たちの汗と真剣な表情を見ていると、世代は違うが、大学時代の夏合宿のことを思い出した。体育会の準硬式野球部に所属していたボクは、四年の間に一度だけ夏の強化合宿を経験している。その他の三年は運よく全日本大会に出場していて、その遠征のために夏の強化合宿はなかった。しかし、三年生の時は全日本に出場できず、地獄の夏合宿が待っていたのだ。

場所は、なんと石川県の小松だった。小松末広球場が練習グラウンドになり、寝泊まりは体育館の中の宿泊施設を利用した。食事は近くの店だったろうか、仕出し料理が届けられていた。

一週間くらいの日程だったが、雨どころか、曇りの日もまったくなかった。激しい日差しの下での強化合宿。朝の6時から夕方の6時まで、朝食と昼食の時間がそれぞれ一時間はあったが、それ以外は球場にいて、ひたすら練習に明け暮れた。外野手だったボクは、個人ノックになると、ボールに飛びつくようにして、わざと芝生の上に倒れ込むのを楽しみにしていた。いや、楽しみなんて言えるほどではなく、せいぜいそれをすることによって、ほんの一瞬でもカラダを休められるということに愚かな喜びを感じていた。それほど思考能力も失っていたのかも知れなかった。

昼飯をかき込むようにしてすませると、球場の外にある松林だったろうか、とにかくかすかに日陰があり、風が通りそうな場所を求めては、少しでも有意義な休息時間を過ごすことに専念した。カラダはパンパンに張り、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。球場のちょっとした階段を昇るのもきつく、春合宿とはまったく違う夏合宿の厳しさに参っていたのを覚えている。

最終日、練習は早めに切り上げられ、みなで銭湯へと歩いて行った。狭い宿舎の風呂とは違い、解放感いっぱいの銭湯であるはずだったが、誰もしゃべる元気がなく異様な静けさだった。その夜の打ち上げでは、一瞬にして気配が逆転したのは言うまでもないが…

  ジュニア野球の監督をしている後輩も言っていたが、今の子供たちは健康第一に育てられていて、練習中の水分補給も当たり前になっている。だから、ときどき腹の中でポチャポチャと音をさせながら走っている子供もいたりするらしい。7月に金沢で開かれたジュニア野球の大会で来ていた、愛知県のチームの指導者も同じようなことを言っていて、いろんな意味での精神力は、昔の子供たちの方がはるかに強いでしょうと話していた。水が飲めない辛さを、今の子供たちは知らないのだ。便所の水や田んぼの水を口に含む…そんなスリルいっぱいの美味さ?も知らないのだ。

いつものように話はそれてきたが、スポーツはたしかにスマートになった。着ているものもかっこいいし、プレーも上手い。しかし、何かがおかしくもなっている。松井秀喜選手に関する仕事をさせてもらっていて、ある著名な高校野球指導者の方とゆっくり話をさせてもらったことがあるが、たとえば選手たちの親たちの方に気を使わなければならないなどは論外だ、と思う。いろんな意味でのサポートは必要だが、スポーツ自体の厳しさとか虚しさとかといった“耐える部分”を、もうちょっと含んでいかないとダメなんではないだろうか…と、思ったりするのだ。

八嶋さんと話していて、八嶋さんが直接そのようなことを口にしたわけではないが、ボクは彼のもつ、スポーツをやるニンゲンとしてのすがすがしさから、スポーツを楽しむエキスみたいなものを感じ取った。泥臭く努力してきたニンゲンでないと、本当の楽しさは伝えられない。そのエキスが八嶋さんには全身に詰まっている。そんな気がした。

ボクたちが苦しかった合宿の話などで、今でも盛り上がり、互いにケナし合ったり、褒め合ったり(あまりないが)できる楽しさを維持しているのも、あの極限的な過酷さがあったからだろう。時代は変わったが、スポーツから厳しさや虚しさをとったら、やはり何も残らない。

  ところで、うちの会社には、元だが、優秀なサッカー選手もいたり、中途半端に若くて威勢だけはいいという輩もいるので、ここはひとつフットサルチームなんぞを作り、『AUPA』に乗り込んでみようかと思うのだが、どんな按配だろうか。あのサッカー少年たちから笑われるだけかな……

輪島の暑い夏と廃校

 

 夏らしい活動が復活し始めている。そんなことをはっきり感じ取る瞬間がある。気持ちの上でも、自分らしいなあと思うことがあったりして、図々しながらも10歳以上若返ったような、我田引水型の錯覚に陥(おちい)ったりする。

 何か考えてくれないか… ボクの仕事の中では、このような問いかけは日常茶飯事のことと言っていいのだが、ここ最近はどうも仕事的匂いがプンプンし過ぎていて面白くなかった。しかし、ここへきて、少しその匂いが変わってきた気がしている。と言うよりも、何だか以前に戻っていくような気がして、N居的アドレナリンがかつてのように騒ぎ始めてきたといった感じなのだ。

それは、ボクの前に現れてくる人やモノや、物語などが、新鮮であったり、奥深かったり、好奇心に満ちていたり、ワクワクさせてくれたりするからで、こういう状況にいると、ボク自身もどんどんその世界へと身体を乗り出していってしまう。ずっとそうやって、仕事的な中にも自分を融け込ませてきた。

 能登半島の先端、輪島の市街地を離れた海沿いの道には、海と人里との深い結びつきを伝える“能登らしい”風景が続く。

真夏の日差しの中、その風景を楽しみながら進んでいくと、小さな高校のグラウンドと校舎が見えてきた。

2002年の春に廃校になった旧県立町野高校だ。グラウンドは雑草がかなりの大きさにまで伸び、かつてプロ野球選手まで輩出した野球部の名残りであるバックネットも錆びついている。

目的地はその場所ではなかったが、その場所を活用できないかというある人の話を聞くために出かけてきた。しかし、その場所をじっくりと眺めてみて、そのあまりの状況に心の方までもが寂しくなってしまった。

話はとても興味深かった。お会いした地元の方は、廃(すた)れ気味になっているこの辺りの活性化に、この廃校の活用をと考えていた。この辺りとは、能登半島ではかなりの人気スポットである「曽々木海岸」のことで、かつてはホテルや旅館、民宿などが数多く営業していたが、今はぐっと数が減っている。古い看板だけが残ったような建物を見ていくと、その状況が想像できる。重い現実感が、明るい真夏の日差しの中なのに、はっきりと目に焼き付いてくる。

しかし、ボクはいつも思っているのだが、地元の人たちが楽しい顔をしていなければ、やって来る人たちも楽しくなれないはずだから、まずは自分たちが楽しくなれることを、どんどんやってみることから始めるべきだと。そのために旧町野高校の校舎やグラウンドを活用させてもらおうという発想から始めれば、最も素直で素朴な意見として切り口が作れる。そう思い、その人にそう話した。

その人は、ボクなんかよりも人生の大先輩にあたり、かなり大局的な見地でモノゴトを考えるタイプの人だった。出来あがりの理想形がすでに頭の中に描かれている雰囲気だった。ボクは“オイラたちやアタイたち”レベルでの活動に、まず活路を見出すべきではないかと思ったのだが、そのことがどれだけ伝わったのかは微妙だった。

紙に描いた絵や綴った文章だけでは、なかなかうまくいかない。それも根本的には大事だが、小さな活動からでもいいから、自分たちが楽しくやれることをやってみればいい。そのためのお手伝いならナンボでもやりますよと、ボクは告げた。告げた後で、ちょっと後悔なんぞもしたが、まあ何とかなるだろう…とも思った。

帰り際に、もう一度、今度はじっくりとグラウンドとその奥の校舎を眺めた。

そうだ、草むしりから始めよう。草むしりは除草(じょそう)だから、男ばかりで女装(じょそう)してやったりするのもいいな。タイトルには「女装で除草大会」的なんだぞの表現を入れて、コンテスト形式にしてもいいなあ。そして、その後、みんなで魚や肉なんぞを冷たいビールなんぞと一緒にいただいたりするのもいいなあ……と思った。

学校の建築物には、耐震のことやらでむずかしい課題があり、再利用というのには厳しい条件が付いて回ることは理解している。しかし、かといって、今のようなままで放置?されていたのでは、周囲のせっかくの美しい風景も蝕(むしば)まれてしまうような感じがする。

ここはひとつ、来年の夏に向けた宿題として、頭の右隅あたりに常に在庫しておこうかと思っている。活きのいい若者とまではいかなくても、元気いっぱいのオトッつァんやオッカさんあたりで、考えていきたい話だ。適度に、そして、それなりに絡ませていただく……

植村直己は、なぜ“どんぐり”だったのか…

8月某日、NHKテレビで興味深い番組がふたつ放送された。

ひとつが、総合テレビの“冷奴のおいしい食べ方”についてをテーマにした『ためしてガッテン』。そして、もうひとつが、教育テレビの『こだわり人物伝~笑顔の冒険家・植村直己~どんぐりからの脱却』だった。両方とも見たという人は少ないと思う。

前者は、名前負けの、何ら得るもののない無意味な番組だった。冷奴はどのようにしたら美味いかなど、考えるだけムダで、そのまま生姜を少々のせて醤油をかけ食べる。できれば、少し砕き気味にして食べるとなお美味い。それだけだから、5分もあれば番組は終わってしまうくらいのものだったが、それをクドクドと45分もやった。当然ボクは途中で見るのをやめた。その点、さすがに後者の内容は濃く、嬉しく懐かしく、しっかりと見た。

植村さんが北米の最高峰・マッキンリーで消息を絶ってから何年が過ぎたんだろう? なかなか思い出せない。“まさか、あの植村直己が…”と、誰もが疑った冬の遭難。

当時、植村さんはどこかで生きているということを、多くの人が思った。こんなことぐらいで死ぬわけがないと。しかし、植村さんはそのまま帰って来なかった。

学生時代、大学の先輩にあたる植村さんが、北極圏の極点を目指したとき、ボクたち現役学生も多くのカンパをした。一口1000円だった。そして世界初の成功をおさめた時には、お茶の水の大学正門前で振る舞い酒が出たのを覚えている。

それ以来、植村さんはボクの中でのヒーローの一人となった。

 植村さんの足跡はすごい。29歳で世界の5大陸の最高峰すべてに登頂。日本人最初のエベレスト登頂者という栄誉も得ている。また、アマゾン川を筏(いかだ)で下ったり、犬ぞりで北極の極点に単独で立つなど、登山家・冒険家としての地位は世界でもナンバーワンだった。

そんな植村さんだったが、学生時代は山岳部の落ちこぼれで、あだ名が「どんぐり」だったという話は有名だ。とにかく田舎者を絵に書いたような素朴な青年で、山では全く弱かったという。

しかし、合宿で自分の弱さを知ってからの努力は凄まじいものがあり、植村さんは自分を力強く鍛え上げていった。毎日9キロのランニング。冬の立山連峰に単独で入り、テントを使わず、雪洞を掘って過ごしながら縦走するという離れ業も成し遂げた。

卒業後は就職もせず、アメリカに渡って果樹園でのアルバイト生活。最終目的はヨーロッパ・アルプスに行くことだった。そして、ヨーロッパ・アルプスではスキー場で働きながら山歩きに没頭した。ヨーロッパの最高峰モンブランに登頂。南米の最高峰アコンガグア、アフリカの最高峰キリマンジャロなどにも登った。

もうかなり前になるが、植村さんの生まれ故郷である兵庫県日高町に出かけたことがある。

春の暖かい雨の降る午後だった。日高川の穏やかな流れと、川沿いに咲く桜の並木に目をやりながら、ボクはめざす「植村直己冒険館」へ思いを馳せていた。そして、そこで見たり聞いたりした植村直己の世界に強い衝撃を受けてもいた。無線で叫んでいる植村さんの声は、いつまでも耳から離れなかった。

植村さんは負けず嫌いだった。それも無類の負けず嫌いで、さらにそのことをあまり表には出さなかった。そして、人並み外れた努力家でもあった。

番組の中で案内役を務めた登山家・野口健は、植村さんの著書『青春を山にかけて』で登山家を目指すようになったという。高校を中退して人生の迷路に立っていた時期だった。

植村さんもまた、山の世界へと足を踏み入れていく中で、決してそのことをすべて肯定していたわけではなかった。植村さんには、自分が世の中の普通の流れに乗って行けない人間であるという、大きな不安がのしかかってもいた。同僚たちがサラリーマンとして会社勤めをする中、自分はアメリカに渡り、ヨーロッパに渡り、定職にも付かず、山で暮らしている。そのことは“どんぐり”植村直己にとって、ある意味許せないことだったのかも知れなかった。それほど、植村さんは“真面目”でもあったのだ。

番組のサブタイトルは、「どんぐりからの脱却」であったが、ボクは、植村さんは“どんぐり”のままだったと思っている。ずっと、どんぐりのまま、世界の5大陸最高峰の最初の登頂者にもなり、北極点にも立ったのだと思っている。

だからこそ、「笑う冒険家」だったのだ。笑うこと、つまり“笑顔とどんぐり”には共通するものがあり、その素朴さの中に本当の強さが隠されているのだとボクは思う。

 ところで、この番組は続いているのだ……

※写真は、我が家に来たての50インチTV~NHK教育の画面より…

冷奴のことについて…

 拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中に、夏休みの昼ごはんの定番として素麺が出てくるが、初期のもともとの話には、冷奴も入っていた。

冷奴だったら、自分一人でも食べられるのにといった、主人公ナツオのイラつきが描かれていた。あとでカットしてしまった文章なのだが、早く飯を済ませて連れの二人と海へ行きたいナツオにとって、冷奴は便利なおかずだったのだ。

今年の夏も、ボクは冷奴をほとんど毎日のように食べている。いや、夏だから食べているといった安直さではない。冬も春も食べてきた。もちろん便利だからではなく、美味いからだ。そして、秋になっても毎日のように食べるし、また冬がきても食べるし、とにかく命のある限りずっと食べ続けることにしている。

先日、一緒に仕事を終えた中途半端に若い二人と、金沢片町にめずらしく飲みに出た。洋風居酒屋とでも言うのか、洋食屋さん的居酒屋風の店(同じか)に入りメニューを見た。注文は中途半端に若い二人に任せていたが、冷奴だけは先に言っておいた。しかし、冷奴の表記がないと二人は言う。そんなバカなことがあるかと、自分でもチェックしてみたが、二人の言うようにやはりない。

笑顔がいっぱいの店員さんが、注文を聞きにやってきて、すかさず冷奴はないの?と聞くと、一応ないんですが、出来ないこともないと思います… と中途半端な答えが返ってきた。

では、お願いしますと伝えて、ついでに上には何ものっけないでね、と念を押した。笑顔がいっぱいの店員さんは、ちょっとどころか、かなりびっくりしたような顔をしていた。一応ないんですが、出来ないこともないと思います… 当たり前だ。豆腐を置いてない店なんて、日本中どこを探してもないだろう。その豆腐をそのまま持ってくればいいだけなんだから。

何も、のっけなくていいんですか…? 豆腐だけで…? と、二回ほど同じことを笑顔がいっぱいの店員さんは聞いた。

ボクはこの笑顔がいっぱいの店員さんが、ひょっとしてかなりの知性の持ち主ではないか? とその時思っていた。それは、広辞苑に、冷奴は「豆腐を冷水でひやし、醤油と薬味とで食べる料理…」としっかり書かれているからで、もし、そのことをこの笑顔がいっぱいの店員さんが知っていて聞いているのだとしたら、ボクの方が分が悪くなる… そう思ったのだった。

しかし、ボクは素知らぬ顔で、うん、いいんですよ、と明解に答えた。あっ、醤油は要るけどね… と付け加えて。

すると、豆腐一丁が皿の上に静かにのっただけの、正しき冷奴が目の前に届けられた。ちょっと感動した。何ものせなくていいという注文によって、冷奴は本来の、冷奴としての素朴さ、つまり自分は豆腐以外の何者でもないんだという、さわやかな自覚を取り戻しているかのようだった。

ボクの好きな冷奴は、せいぜい生姜がのるだけだ。ネギは少しならいい。いちばん要らないのが“カツオぶし”だ。特に最近は、豆腐が見えないくらいカツオぶしをのせてくる店が多かったりして、見た瞬間に絶望的になったりする。薬味とかいう言い方で、なくてはならないもののように思われがちだが、あれだけのせられたのでは豆腐の味がしない。キムチや明太子などは問題外だ。ああいう類は、冷奴と言う名前すら使わないでほしい。

豆腐自体にも、いろいろなものが出てきた。最近では、どれが本来の豆腐の味だったか分からなくなってしまう始末で、できるだけシンプルなものにこだわったりしている。

そんな時、ふと思い出したのが、冷奴の食べ方だった。今は何となく上品な食べ方を皆さんしているように感じている。だいたい、食べる時の量もそのことを物語ってはいないだろうか?

子供の頃、冷奴は豆腐一丁丸ごと食べていた。波線形の刃物のようなものでいくつかに切られていて、それに醤油をかけて食べていたが、ボクの食べ方としては、まず豆腐を箸で砕くことから始まった。つまり、ボクは子供の頃、今のように豆腐を箸で割った塊(かたまり)で食べるのではなく、箸で砕いて、かなりドロドロ状態に近くしてから食べていたのだ。

そして、少し前、そのことをもう一度実践してみた。そして、やはりその方が美味いということに納得した。中途半端に若い二人の前でも、当然そのことを実践して見せた。二人は驚いていたが、なんとなくボクの思いは理解してくれたみたいだった。

冷奴という名前は、大名行列の奴が着ていた半纏(はんてん)に四角の紋が入っていて、その四角が豆腐の形と同じだからと、「奴豆腐」と言うようになり、そこから「冷奴」とも言うようになった… らしい。それにしても、「冷たい奴」とは情けない。

温かい豆腐は「湯豆腐」と書かれ、いかにもほのぼのと温かそうな… 喉元を通り過ぎていく時に、ホクホク・ドキドキと胸をときめかせるようなイメージがあるのに、冷やすと「冷たい奴」になる。これでいいのだろうか……

そう言えば、ヨークの奥井さんも、店の小さな黒板に冷奴を「冷たい奴」と書いていた。ついでに言うと「乾きもの」は、「乾いたもの」だった。考えてみると、こんなユーモアにニタニタしていられるのも、豆腐の持つ大衆性なのだろう。ボクもずっと普通の冷奴を食べ続けていきたい、と思うことにしようッと……

なんとなく、コーヒーのことについて

 富山へ行くと、ときどき立ち寄るコーヒー屋さんがある。

 ごくごく普通の、本屋さんの中に間借りしているコーヒー屋さんのひとつなのだが、そこは独立店舗なのがよく、国道沿いとかでもない分、落ち着ける。こういう店に入ると、大概の時間は本を読んでいるか、落書き帳を出して雑文を書いているかだ。気の張らない文章を書いていたりするのには最適な環境だ。

四、五人の主婦グループが、子供会の行事に関する打合せをやっているような雰囲気の中で、ときどきバカ笑いをしたところで、こちらも動じない。そんなことぐらいで、オレのペンは止まらないよと意気がったりもできる。

コーヒーはたまにいちばん大きいサイズのTallを頼んだりする。「Tallなんて飲んでたら、胃を壊しますよ」などという人もいるが、ゆっくり、しみじみと口に含んでいればそれでいいのだ。それに、その店のコーヒーは決して不味くはない。最近ファミレスのドリンクバーで飲まされるコーヒーなどは、ちょっと遠慮しがちになるが、その店のコーヒーは合っている。

家では何年もの間、ある店のある銘柄を徹してきた。しかし、それがどこの国の豆なのかということには無頓着で、要するに何となく主観的に、これはなかなか美味いではないか…と納得していた。

いつだったか専門店で、試しにとアフリカ系のコーヒーを飲んだことがあったが、それが実に美味かった。それから何となく、コーヒーはやっぱァ、アフリカ系に限るな… などと分かったようなことを考えていた。そして、かつて知り合ったケニアでボランティア活動をしているという若者が、リュックの中に持っていたコーヒー豆一袋を、その場で千円で買ったのを覚えている。何グラム入っていたかなど問題ではなかったが、若者が随分と喜んでいたのだけははっきりと覚えている。たぶんかなり安かったのだろう。

そのコーヒーは素朴な美味さだった。自分の中のアフリカ系コーヒーのイメージとしては、さっぱりし過ぎていたが、それがまた乾燥したケニアの草原地帯を連想させ(なんでも勝手に連想してしまうが)、新鮮な感動を呼んだ。ちなみに、うちのコーヒーはアフリカ系ではない……

話はさらにそれていく。

コーヒーをブラックで飲むようになったのは、わが師の一人、今は亡き奥井進さんと出会ってからだ。いや正式には、出会って数年経ってからだ。

奥井さんとは、言うまでもなく金沢のジャズ喫茶の老舗(表現が平凡だな…)「YORK」のマスターで、16歳の冬に初めて会って以来、奥井さんが亡くなるまでの30年間、縦横無尽にお付き合いさせていただいた。ボクよりも10歳年上、そろそろボクは奥井さんが死んだ歳に近づいているのだ……

それはさておき、その奥井さんがかつて金沢の寺町に居を構えていた頃、ときどき家に遊びに行った。大学を卒業し、金沢のある会社に入った頃だ。

店では当然ジャズしか聞かないのだが、奥井さんはボクが行くと、よく落語のカセットテープを聞かせてくれた。もともとボクも落語が大好きだったので、爆笑もので有名な古今亭志ん生の『火焔太鼓』などを聞いては、二人で大笑いしていた。

そんな時、奥井さんはブラックコーヒーを白いコーヒーカップに注いで、何気にそれをボクに手渡すのだ。今ではごく当たり前のような感覚があるが、その当時、コーヒーをブラックで飲めるといったら、超スケスケのアメリカンコーヒーぐらいで、普通のコーヒーはなかなか飲めなかった。飲みたいとも思ってなかった。

それがいきなり手渡され、さも当たり前のように飲まなければならない状況になる。そんなところから、ボクのブラックコーヒー歴は始まった。今では普通にブラック、もしくはミルクのみパターンでやっているが、ブラックコーヒーとの出会いは、当時のボクの世代としてはかなり早かっただろう。同じことが奥井さんとの出会いにも言えたかも知れない。話せばキリがないくらいに、奥井さんとの出会いによって目覚めてしまったことも多いいのだ。

そういうわけで、ボクは暑い夏でもアイスは滅多に飲まない。冷し中華も食べないし、よほどでない限り、ざるそばなども注文しない。そうめんは家だけで食べる。ついでに言うと、つけ麺などはもっての外(ほか)で、暑くてもスープはどんぶりを両手で持って飲むか、スープすくいで飲むかだ。まったく関係ない話になってしまったかな…

コーヒーは毎朝飲むが、ほとんど同じ味になるとは限らない。一日一日が微妙に違うテンションで、微妙に違うフィーリングで、微妙に違うサイクルで動くように、コーヒーの味も微妙に違う。それが、またいいのかも知れない。コーヒーは日常のものだから……

なりたての夏に、奈良を歩く(2)

 興福寺は東大寺のすぐ近くにあり、奈良公園を散策しながら移動できる。人の列と時間の乏しさから、有名な阿修羅(あしゅら)像のある国宝館には入らなかったが、五重塔や東金堂など、見せ場はたっぷり堪能した。

 最近は金沢でもアジア系の観光客が激増しているが、ここ奈良でも当然のこととして中国語やハングル語が普通に耳に届いてくる。さらにフランス語やロシア語、そしてちょっと聞いただけでは判別できない言語なども飛び交っていて、国際色豊かな…などといった、一昔前の俗な表現では追いつかないものを感じる。

そして、ボクの前を歩いていたフランス人のカップルなどは、何だか修行僧と尼さんみたいな雰囲気で、クール(そうに見えた)に会話を交わしていた。日本の文化を彼らの方がよく享受(きょうじゅ)しているように感じたのは、彼と彼女がそれぞれ端正な顔立ちをしていて、非常に礼儀正しく映ったからだ。最近の弱々しい、上っ面だけの日本の若者たちにはないものを感じた。

それにしても暑い。しかし、否定的に言っているのではない。この暑さは決してボクにとって、歓迎しない暑さではないのだ。額や鼻のアタマがヒリヒリし始めている。一年間待っていた、夏の暑さだ。奈良へ来て、そのことを実感しているなんて、なんと凄いことだろうかと嬉しくなる。

興福寺から猿沢の池へと下る。ゆっくり周囲を歩きながら、日陰のベンチに腰を下ろす。浴衣を破いた(その1に詳細記載)旅館はどのあたりだったろうかと見廻したりするが、かなり前のことで思い出せそうにもない。池には亀がたくさんいて、石の上などで甲羅干し中の者や、水面から顔を出している者など数えきれないくらいだ。エサを与えられるせいだろうか、水の中にいる亀はみな、歩道に近いところにかたまって顔を上に向けている。亀はいったい何が好物なのだろうか。

木立の上に興福寺の五重塔が見えている。若い夫婦連れが横に座って、会話が始まった。日常の他愛ない話だったが、旅先で耳に入ってくる日常会話は新鮮だ。

ここまで来れば、「ならまち」と商店街を歩いて来なければならない。狭い通りの両側に、これもまた間口の狭いお店などが並ぶ。かつて、間口の広さで税金が決められていたために、こういう形状の家並みになったという。面白い。

出来たてのギャラリーをちょっと覗いてみた。木彫の若い作家さんが出展していて、本人から説明を受けながら、ゆっくり散策といった具合だ。金沢でこんなことを期待されているボクとしては、大いに興味があったのだが、運営そのものの話などは野暮だと思い切り出さなかった。こんなところが、ボクの公私混同の遺産?なのだナ……(意味分かる?)

昼飯は「とうへんぼく&豆豆菜菜」という、夜はカンペキ居酒屋さんという雰囲気の店で、非常にヘルシーな定食をいただいた。豆腐が美味い店みたいな雰囲気だったのだが、定食のおかずに“冷奴”が入っていない… 当然そこは一品を冷奴とトレードしてもらい、味・食感は普通(それでいい)だったが、しっかり賞味してきた。

腹ごしらえをして、もちいどのセンター街という商店街に繰り出す。「もちいどの」とは「餅飯殿」と正式には書くらしいが、1100年以上も昔の話が地名の由来というから恐れ入る。センター街という名前がついていて、とってもモダンな商店街といったイメージなのだが、実際はそうではない。というか、非常にユニークだ。個性的だ。面白い。楽しい。

商店街の新しい要素が詰め込まれているといった印象を受け、何度もシャッターを切った。“撮影ご遠慮ください”と看板の出ていた店もあったが、金沢からはるばる来たのだから、ご遠慮などしてられるかと、シャッターを切りまくった。

かなりしっかりとした歴史や文化をもち、そのことを、かなりしっかりと受け継いでいる地域では、すべてが、かなりしっかり伝わっている。そんなことをあらためて認識させられる、さわやかな商店街だった。

法隆寺へ行こう。

再び、169号線に乗って、緑がカンペキに美しい道を走る。法隆寺まではすぐだった。なつかしい雰囲気だった。素朴な風景の中に建っているといったイメージを強く持っていたが、そのイメージはあまり変わっていなかった。これが奈良の寺なのだなあと嬉しくなる。

法隆寺にも多くの人が訪れていた。玄関にあたる南大門付近ではそれほどの広さを想像させないが、実際に中に足を踏み入れ、移動していくうちに、その広さを実感する。

世界最古の木造建築。京都の寺と違うのは、何となく感じさせる古さのようなもの。京都の寺には完成された優美な美しさというものを感じるが、奈良の古い寺にはどこか完成されていないものを感じる。それが唐の時代の模倣(もほう)であったからなのかどうかは知らないが、そのようなことをずっと以前から感じていた。日本的な美的センスというものは、京都の寺づくりから洗練されていったのかと、奈良の古い寺を見ていると思うのだが、もちろん素人の浅はか解釈的意見に過ぎない。

最近は仏像ブームとかで、若い女性が仏像をじっと見つめていたりする光景をよく目にするが、次々と国宝や重要文化財に出会える法隆寺は、そういう意味では緊張を強いられる場でもある。こんなボクでも、無心になれるまで見つめていたいという、何か今までとは違うものをもって、神仏に相対するようになった。

「金銅釈迦三尊像」や「百済観音像」などは、どうしてもそんな思いで見てしまった。かつて一度だけ座禅の真似事を経験したことがあるが、雲水さんに言われるままにしていくと、いつの間にか頭の中から雑念が消えていった。あの感覚をいつも甦(よみがえ)らそうと苦心する。ボクにとっては、とにかく無心になることが最もいいことのように思える。

こんなに広かったのかと思いつつ、法隆寺の境内を歩いていた。かつて石川の仏壇研究をさせられていた頃思いを馳せていた、「玉虫厨子(たまむしのずし)」にも久しぶりに再会した。こんなに大きかったっけと、自分自身の記憶との食い違いに驚いたりしながら、仏壇の起源と言われていた「玉虫厨子」の懐かしさに嬉しくなったりもしていた。

外へ出てコーヒーブレイク。カフェは常に満席状態で、ひっきりなしに客が入って来ていた。外は暑かったが、それなりに美味いホットコーヒーだった。慌ただしかった思いと、それとは逆のじっくり相対してこれたみたいな思いとが重なった。奈良はやっぱりいい。そして、自分の中に何か物足りなさがあるのは、やはりもっといろんな所を見たいという思いが残っているからだと分かった。

ゆっくり振り返ると、やはり奈良はいいのだ。そうだ、あの「三輪のそうめん」だって食べていなかった。物足りないわけだ……

 

 

 

なりたての夏に、奈良を歩く(1)

 梅雨が明けた翌日の未明、東大寺と法隆寺をめざして奈良へと向かった。

 4時半過ぎに自宅を出て、5時には北陸道に乗り、9時前にはしっかり奈良公園に着いていた。

 本当は、法隆寺に先に立ち寄る予定だったが、「なら博」の真っ只中、会場に近い東大寺周辺の混雑を考えると、法隆寺をあとにまわして東大寺に先に行く方が得策だと判断した。そして、それは正解だった。

 西名阪自動車道の法隆寺インターを一旦通り越し、天理インターから国道169号線で奈良公園へと真っすぐ向かう。天理や桜井といった地名がハゲしく懐かしい。

 奈良公園はまだ朝の静けさの中にあった… と言いたかったが、そうは問屋が卸さない。さすがに世界遺産、日本の歴史の原点をなす場所だ。三連休のド真ん中、朝から静かなわけがない。もうすでに多くの観光客が公園の中を歩いている。

 駐車場の選択に少し時間を費やしたが、奈良県庁近くの都合がよさそうな場所にクルマを入れた。クルマを降りて、すかさず東大寺への近道を聞いている先客たちの声に耳を立ててみると、係の人が指をさしながらその道を示していた。当然ながらその指示に従う。

 空は文句なしの青空。そして、その青空に、まるで文様のような白い雲が浮かんでいた。

 日本の歴史の原点である奈良では、空までもが奈良なのだなあ~と、訳の分からない思いを抱き、そして、そのままボォーっと空を食い入るように眺めながら、息をひとつ吐いたりする。オレは今、古(いにしえ)の空気の中におるのだぞ。土塀ひとつもまた、古の手触りだった。

 奈良の大仏さんを見上げるのは三度目だ。当然見下ろしたことは一度もない。

 ここではまず大仏殿に圧倒されるのが普通だ。東大寺金堂とも呼ばれる大仏殿は、料金所を過ぎ、もぎりのおじさんの前を通るまでの、回廊を歩いている間の眺めが素晴らしい(タイトル写真)。唸る。一般成人で、だいたい平均して三度は唸ると思われる。背景の青空もまた素晴らしく、駆け引きなし・ド真ん中へのストレート一本勝負で迫ってくる。

 大仏殿を正面に相対すると、さらに気持ちも引き締まり、いよいよ大仏さんとの対面に向かうのだなという緊張感が漂ってきた。なにしろ久しぶりに見上げるのだ。

 初めて見上げた時の感動などというのは忘れたが、二度目の時、近くの旅館で、着ていた浴衣(ゆかた)を真っ二つに引き裂いたことは覚えている。それもかなり鮮明に。

 朝起きがけに、浴衣の下半分を踏みつけたまま立ち上がろうとしてしまった。次の瞬間、浴衣は上下に見事な勢いで分裂し、立ち上がった時には上半身に奇妙なカタチで浴衣の半分だけが引っ掛かっていた。紐もとれ、浴衣の下にチェックのトランクスが露(あら)わになっている。一緒にいたのは、無二の親友Sで、ボクとSは二秒半ほどの間、茫然とその光景を見たあと、ドドッと吹き出し笑いをした。おかしすぎて、涙が果てしなく流れ落ちた(…そんなことはない)。

  そんな話はまったくどうでもいいのだが、とにかく大仏殿に向かって石の敷かれた道が真っすぐ伸びていた。

 大仏殿も国宝だが、当然大仏さんも国宝だ。国宝級なのではなく、国宝そのものなのだ。盧舎那(るしゃな)大仏と正式には言う。日本史で覚えさせられた。

  ところで、ボクは日本史が好きで、英語とともに好きな科目のひとつだった(と言っても他に好きな科目はなかったのだが)。この時代のことでも、結構それなりに知っているつもりでいる。が、それは実際にこの土地に来て見たのとは違っていた。

 ただ、自分がこの時代に何かを感じていたからこそ、かつて何度も奈良に足を運んだのだろう。そのことは確かだ。

 京都よりも奈良によく出かけたのは、奈良の風景が素朴だったことにもよる。寺のある風景もそうだったが、何となく想像を豊かにする趣が、京都よりも奈良に強く感じられた。

 二日がかりで歩いた三輪山の麓の“山の辺の道”もそうだが、それ以外でも室生寺や長谷寺、さらには、もうすでに名前すら忘れてしまった幾つかの寺など、それらがあった一帯の風景は、京都のような都市型ではない、山里の風情がそのまま残っていた。そして、ボクははっきりと後者の方が好きだった。

 静かな山里の寺をめぐっていた自分には、何か研ぎ澄まされた、そしてかつ柔軟な感性が生きていたように思う。コンテンポラリーなジャズを聴きながら、古い寺への道を急いでいたようにだ。

 目に見えるはずのない歴史の空気を、自分自身で想像し、思い切りそれに浸ってみようとする。それは歴史ばかりではなく、自然や日常の営みにまで発展した。

 奈良の山里や、信州の山里には、そういう自分の中の極めつけの風景があった。

 大仏さんは黒かった。そして、やはりデカかった。14.7mもあるという。

 向かって左側前方からゆっくりと見上げられるスペースがあるが、そこからは奥行き感のある大仏さんの威容を感じ取ることができる。

 広げた手の中指が少し前に折れているのも鮮明に見てとれたりする。あれは何を意味するのかと思ったりもするが、まあどうでもいいかと開き直り、自分でも真似してみると、何となくそれも自然なのではないかと思ったりした。

 暑い。大仏殿を出ると、容赦ない真夏の日差しが待っていた。

 暑いのは好きだが、何事もほどほどがいい。ビールも冷え過ぎていては本来の美味さが逃げてしまうように、真夏の太陽も、あまり熱くなり過ぎては逆に嫌われてしまうのだ。

  奈良公園と言えば、鹿だ。

 実際には聞いていないが、係の人に「奈良公園には、他に動物はいないのですか?」と聞いてみると、「はい、鹿しかいません」などと答えるに違いない。精一杯のユーモアかも知れないが、逆にそのことを、よその土地からやって来て「くだらねえシャレ言いやがって」とか逆上的に言うのも正しくない。

 係の人たちにしても、強いて言いたくもないシャレなのかも知れないし、聞く方としても、それを敢えて言ってくれているのだと解釈するのが正しいだろう。

 南大門に向かって歩いていくと、無数の鹿たちが道に出ている。そんな中に、柵の外には出てはいけないみたいな鹿の親子がいた。小鹿が三頭いて、そのうちのいちばん小さい鹿が一生懸命?可愛い声で鳴いていた。腹を空かせているのだろうかと思っていると、母鹿らしいのがボクの方に近づいてくる。シカ煎餅を持っていて、それを与えようとしている…と思ったのかも知れなかった。

 しかし、ボクはシカ煎餅を持っていなかった。こんなところで慈悲深いかどうかなど判断してほしくはなかったが、母鹿はボクをそういう風に見ていたに違いない。

 その証拠に、ボクに煎餅を与えようとする意思がないことを認識すると、ボタボタと例の丸い糞(ふん)を惜しげもなく噴出し、そのあとおまけに小水、つまりオシッコも放水して立ち去って行ったのだ。

  そこまでしなくてもいいんでないの…? 掃除するおばさんたちも大変なんだろうから…

 なりたての夏の日の、午後の出来事だった……  (つづく)

 

 

梅雨が明け、聴山房にてペンを走らせた…

またしても加賀市大聖寺を訪れ、

またしても旧大聖寺川沿いの道を歩き、

またしても深田久弥山の文化館の門をくぐった。

道を歩きながら、どこからか聞こえてくる、

優しい笛の音が気になっていた。

そして、門をくぐって足を進めたところで、

その笛の音が、この場所から聞こえていたことを知った。

オカリナの音色だった。

 今日告げられた梅雨明けの空の下、

木立の日陰の中に、オカリナ奏者のKさんが立ち、

その前に何人かの人たちが、そのやさしい音色に耳を傾けていた。

ボクはその人たちから一人離れた場所に立ち、そのミニコンサートのようすを観察し、

それから、先日お会いした事務長のMさんに挨拶した。

演奏が終わると、奥の聴山房(ちょうさんぼう)で、

里山の自然観察と名付けられた写真展を見、美味しいアイスコーヒーをいただいた。

汗が吹き出るほどの暑さに、夏が来たんだということを再認識しながら、

庭の木に止まっているセミたちの、

まだ力強いとは言えない鳴き声を聞いていた。

最後にいただいた、山中の奥から汲んで来たという水もまた、

喉ごしのいい、やさしい味だった… 

       

梅雨どきの雑感

 梅雨が好きだという人をあまり知らない。あまりと言うより、ほとんど知らない。たまにいるかも知れないが、そんなことを大きな声で言うと、周囲から妙な目で見られるかも知れないので、そのような人たちはこの時季、静かにしていると思われる。

周囲に、最近妙に言葉が少ないなあという人がいたら、そっと聞いてみよう…

「あなた、ひょっとして、梅雨のこと好きなんでしょう?」そう言った後、その人がポーッと頬を赤らめたりしたら、間違いなく梅雨に好意をもっている。両手で顔を覆ってしまったとしたら、好意以上、つまり梅雨に恋している、もしくは梅雨に愛を感じていると思っていい。だから、どうなんだと言われても困るが……

 しかし、梅雨は決して悪者ではないことだけは知っておこう。梅雨にはまったく悪気はない。

 梅雨が来なければ、われわれ日本人は主食である米を手に入れることができず、米がないと、われわれの食生活は大いに狂ってしまうのである。

 たとえば、カレーライスはカレーだけになるし、オムライスはオムだけになったり、ハヤシライスにいたってはハヤシだけになって、書いている方も何だかよく分からなくなってしまうが、楽しみが半減から四分の三ほど減ってしまう。つまり、梅雨があるからこそ、雨が農作物に恵みを与え、その結果われわれは豊かな食生活を満喫できるということなのだ。だから、梅雨を一方的に嫌いだと言ってしまうのはまずいかなあ、ともボクは思う。

 ところで、梅雨は嫌いだが、雨は嫌いではないという人がいる。ボクの場合も、自分の都合と合わせてしまうが、家でのんびりしたいなァと思ったりした時は、雨がいい。何か用事があって外出できない時や、家で仕事や書きものをしたいという時なども、雨がいい。しかし、外へ出たがりのボクとしては、基本的に晴れているのがいちばんいいから、一年を平均したりすると、圧倒的に雨に対してはダメにしてしまう。

 今年も石川県では六月の中頃にしっかり梅雨入りし、七月も下旬に入ろうかという頃には、何だか梅雨明けしそうな雰囲気になっている。週間予報でも、かなり定番的なパターンになっていて不信もあるが、西日本の雨の状況など見ていると、やはり石川の梅雨明けも微妙だ。

 七月に入って、ようやく梅雨らしくなった。

 中旬のある日、ボクは用事があって、金沢・本多の森にある歴史博物館へと出かけた。その日は、梅雨の合間の晴れの日で、ときどき目にしていた紫陽花の花を撮影した。帰り際に、クルマまでカメラを取りに戻っての撮影だった。

 それから数日後、引き続きの用事があって、また歴史博物館へと出かけた。その日は、梅雨の合間の晴れ間と晴れ間の間…… つまり正しい梅雨そのものの日で、ズボンの下の方がビショビショになるくらいの、激しい雨が時折降ってきた。用事を済ませた後、ボクは先日晴れた日に撮影した紫陽花を、もう一度撮ろうと思っていた。今度は最初からカメラを担いでいた。仕事のためだが。

 紫陽花は、木立の下に咲いているせいか、それほど雨に濡れているという印象はなかった。紫陽花の背後に、歴史博物館の赤レンガの外壁が木立の新緑の間に見え、いい雰囲気だった。

 雨の中で写真を撮るというのはあまりやらないが、雨を撮ろう、雨のある情景を撮ろうという思いが、その時強くボクの中に生まれていた。それは初めてのことだった。

 学生時代、日本文学の先生が、「日本の雨の情景がうまく表現された作品が、まだ世に出ていない…」というような意味の話をしていたことを思い出していた。その時は、なんと大胆なことを言う先生だと思ったが、その言葉を、なぜかボクは、それからずっと長い間忘れないでいた。

 ある時、兼六園の茶店の軒下で雨宿りする機会があり、その時、庇(ひさし)から落ちてくる雨粒を見ながら、これが日本の雨の情景かと思ったりした。別所の竹林に降る雨にも、同じことを感じた。しかし、雨の情景というのは、もっと心情に訴えかけてくるものであろうと勝手に思い込んでいたボクは、どうしてもその程度では納得できなかった。そこから生まれてくる物語が、ボクには何もなかったからだ。

 今年の梅雨は、なぜだか雨の情景をよく撮っている。

 山に入りかけの若い頃、雨が大嫌いで、山で降られるとすべてがゼロになったように落ち込み、訳も分からず怒ったりもした。なんで雨なんか降るんだろうとか。しかし、それから何年もの間、山に通ううち、雨の中をひたすら歩くことにも、何らかの喜びを感じるようになった。喜びとは大袈裟で、楽しみ程度といってもいいかもしれない。

 雨の情景は、見えているはずの雄大な山岳景観にベールをかけてしまうが、ベールをかけることによって、別な情景を生むことも分かった。そして、何よりも、その情景から得られる精神的な何かに気付くようにもなった。

 ただ、ひたすら歩く。黙ったまま、時折顔を上げるが、ほとんど足元に目を落として歩く。それはじっと耐えながら、ひとつの目標に向かって進む強い心の象徴のようにも思えた。山は、雨や風や雪の中にこそ、その神髄(しんずい)があるのだということを、その頃から意識するようになっていた。

 「梅雨が、明けましたァ~」 初めての北アルプス奥穂高岳… 頂上に立つ前日の正午過ぎだったろうか、上高地・横尾山荘の従業員が大声で登山者たちに梅雨明けを告げた。一斉に歓声が上がり、手持ちの鍋でラーメンをすすっていたボクも、思わず近くにいた見ず知らずの人たちと顔を見合わせ笑った。

 その日は朝から抜けるような青空が広がり、梓川の流れが一段ときれいに感じられた日だった。

 あんな嬉しい梅雨明けは、あの時以来ない。

 今年もそれほど嬉しがることはないだろうが、それよりも、雨の情景に心を揺れ動かされている自分に言ってやろう。

 「ちょっとは、大人になったみたいだな」と…

久しぶりに深田久弥・山の文化館を訪ねると…

  七夕の日の午後、一年ぶりぐらいに“深田久弥・山の文化館”に立ち寄った。

福井からの帰り道、加賀インターチェンジで高速を降りて、加賀市役所に向かった。しかし、何年ぶりかで会おうとしていたお目当てのYさんが予定外の外出中で、ちょっと考えた末に、ここはやはり山の文化館へ行くべきだろうということにした。

山の文化館も実は仕事のターゲットのひとつなのだが、なにしろ、山をやる人で深田久弥を知らない人はいないし、自分自身もそんな一人として、その日も敢えて仕事のスタンスを柔らかめにしていた。それぐらいでないと、この施設には逆に足が向けられない。

加賀市は、大袈裟に言うと、ボクの仕事史では非常に重要なまちで、今から20年くらい前に市全域の観光CIみたいなことをやらせていただいた。観光地の調査をし、観光ルートをつくり、観光のブランドデザインを整理した上でサイン計画を作った。その中には観光ポイントそれぞれの紹介文などを日英2ヶ国語で整備するなど、文章づくりや写真撮影の仕事も含まれ、そのための取材もあって市内の多くの地を訪れたりしたのだ。この計画はその後実施され、ボクのその後の道を開く大きな事業となった。ボクがプランナーという仕事のポジションを認識した最初の仕事だったのだ。

当時は地域のそういう事業が盛んに始められた時期だったが、加賀市は石川県どころか、全国的に見ても先進的に取り組んだ都市だった。その基本プランを、なんとこのボクが作ったのだから、それはもう“大変なことをしでかしてしまう…”みたいなものだった。

ボクはそのために約5年にわたって加賀市に足を運んだ。

加賀海岸の遊歩道や、城下町大聖寺の山の下寺院群や古い街並み、温泉街やその周辺などを歩きまわり、それこそ加賀市の隅から隅までを知り尽くした感があった。鴨料理のフルコース?もその頃初めて食わせてもらったし、どこのランチが美味いとか、どこのコーヒーがいい味出しているなどといったことはもちろん、白山を眺めるならあそこだとか、ちょっと木陰で昼寝するならあそこがいいといった情報などもかなり仕込んでいた。

そして、加賀市の成果が発端となり、次が羽咋市に呼ばれ、そして富山の旧大山町、さらに能登の旧能都町、白山麓の広域ユニット「白山連峰合衆国」、志賀町などへと出向いた。むずかしかったが、楽しい時期でもあった。

加賀市へ通っていた頃、市役所観光課の担当だったのがYさんで、元気ハツラツのYさんとボクは、地図やパンフレットなどを持って走り回っていた。ヤンチャ坊主がそのまま大人になったというパターンの見本みたいなYさんは、いつも愛車パジェロの自慢話ばかりしていた。一本数十万円のタイヤがどうのこうのと言いながら、きれいな道しか走らない主義?で、クルマが汚れるのを最も気にしているのではないかという、変わった4WDフリークだったのである。

勝手知ったる加賀市だ。特に古くからの街並みが続く辺りは、好きだし、詳しい。

ボクは旧大聖寺川の対岸から、よくパンフレットなどで見る長流亭の上品な姿を久しぶりに見て、そのまますぐ近くの駐車場にクルマを停めた。背後は錦城山だ。

 そのまま江沼神社の境内へと進み、長流亭の前を通った。置かれたサインの文章は、ボクが書いたもののはずだが… と読み返すが思い出せない。長流亭は、旧大聖寺藩主の休憩所として建てられたもので、国の重要文化財だ。対岸からの眺めは素晴らしい。江沼神社の境内には、深田久弥の文学碑があるが、久しぶりの対面だった。

裏口から入って正面に抜けようとすると、鳥居の下で草取りをするおばあさんがいた。

 「おばあちゃん、暑いのにお疲れさんですね」通り抜けながら声をかけると、おばあさんは驚いたように顔を上げ、「あ、はい、どうも…」と、上品そうなやさしい笑顔で答えてくれた。いい気持ちがした。おばあさんの可愛い目が何となく印象的だった。

小さな橋を渡り、しばらく静かな住宅地の道を行くと、左に小道が伸びる。その道へと折れると、旧大聖寺川沿いに道はさらに蛇行して伸びている。

 大好きな文句なしの青空とまではいかないが、梅雨の合間の晴天日としては充分な暑さがあった。大きな木立の間からは旧大聖寺川の水面が見える。梅雨時のせいだろうか、水は決してきれいとは言えない。しかし、歩いていること自体気持ちがよく、それはあまり気にならなかった。木陰に入ると、わずかだが涼しい風も感じられた。

大して歩かずに、館の方に通じる橋の手前に着く。

ふと見下ろすと、流し舟が繋がれている。乗船料千円。11月から2月まで以外は、いつでも乗れるみたいだ。桜の頃は賑わうんだろうなあと、その情景を思い浮かべた。

 橋を渡りながら、もう一度流し舟の繋がれた場所を見る。ごく自然な風情を残す旧大聖寺川に、しばらく見入っていると、日傘をさした女性が足早に脇を通り過ぎて行った。

“こんな暑いところで、何をボーッと見てるんですか?”とでも言いたそうな早足だったので、“舟はボート。ボーッとボート見てるんです”とアタマの中で答えて、身体の向きを変えた。

 山の文化館の周囲は塀で囲われている。その塀に沿ってまっすぐ進むと立派な門があり、何となくそこで一度息を整えた。門は、国の登録有形文化財になっている。

門の中は木立の日蔭だ。左手の庭にある木板のデッキらしきものが目を引いた。以前からこういう場所があっただろうか? と考えてみたが、しっかりとした記憶はなかった。

 まあ、どっちでもいいと思い、足を向ける。そのとき、「いらっしゃいませ」と、不意に声をかけられた。スーツ姿の女性が館の前に立っていた。立っていたことは分かっていたが、声をかけられるとは思わなかった。

ボクが戸惑っていると、「こちらは展示場になっています」と、さらに女性は続け、昨日で絵画展が終わり、今は何もないが、きれいな庭を見ることができるからとボクを案内してくれた。

「聴山房(ちょうさんぼう)」と名付けられた古い建物がデッキの奥にあった。入ってすぐのところが、喫茶室になっており、奥が畳の敷かれたギャラリーになっている。ガラス戸を透して庭が見えた。それほど広いスペースではないが、なかなかいい雰囲気だ。

「前に一度、お目にかかってますよね…」

突然そう尋ねられたが、答えようがない。ボクにはまったく記憶はなかった。しかし、この加賀市ではボクはかつてかなりの人たちと出会っている。その中にその人がいたとしても不思議ではない。その旨と、自分自身がこういう施設の企画運営に関する仕事もしているということを告げると、さらに納得したみたいだった。

なんと、その人はあのYさんのかつての同僚で、どの学校だったか聞き洩らしたが、同級生だと言った。元市の職員で、そう考えれば、かつてどこかでお会いしていても不思議ではなかった。そしてさらには、ボクが自分の公私分別のない仕事やモロモロについて語っていくと、ますます興味をもたれたのか、「ここのコーヒーは美味しいですから、どうぞ召し上がっていってください」と強く勧められた。

一応、名刺交換をしなければならない気配になっていた。しかし、その時、ボクは名刺を持っていなかった。こんなつもりはなかったので、上着をクルマの中に置いてきていたのだ。

一旦クルマに戻ることにした。そのことを告げ、すぐに出ようとすると、「コーヒー淹れて、お待ちしてます」との声。ボクは門を出て、橋を渡ったあたりから走った。

結局、クルマごと戻って来て、館の前の駐車場に停めた。

女性は、Mさんと言った。Yさんの同級生ということは、ボクよりも数歳上である。肩書は「事務長」さん。しっかりとした口調で対応され、気配りのできる、そして仕事のできる女性とみた。

  リラックスして、Mさんと喫茶室で話し合っているうちに、この施設の活用などについて、その可能性を問われるようになった。

ボクにとっては、こういう場所は大好きだし、自分でも得意だと自負しているので、少しずつ自然に力が入っていくのが分かる。

外に出て、デッキに立つ。大木を見上げ、木板デッキの足裏の感触を再確認する。さらに木(敢えて、「もく」と読む)のテーブルに手を触れる。いい感じだ。

こういうシチュエーションに直面して、ワクワクしないなどということはボクにはあり得ない。アイデアが湧いてくる… イメージが膨らむ…「いいではないですか」思わず上ずりそうになる声を抑え、ボクはクールに答えた… つもりだった。

Mさんが裏庭にも案内してくれる。この場所の活用についても話してくれた。フムフムと頷(うなず)きながら、アタマの中では深田久弥との関連、山の文化からの関連、そして加賀市との関連など、どこにどのような接点を見出していけばよいか…などと考えていた。といっても、そんなにむずかしいことを思っているわけではなく、この場所に相応しい行事とは何か?というくらいで、ここに集まってくる人たちが、何で楽しめるかということを、いろいろと想像してみる。

当たり前のように、音楽を聴く、お話を聞く、美味しいものを食べる、自由に語り合う…などといったイメージが見えてくる。それらをいかに特徴づけていくか、“らしく”させていくかといったことが、思いの中で広がっていく。どんなスタッフが必要か、どんな趣向が必要か、いろいろと“そもそも的なこと”を考えていく。

Mさんから、今度、館の関係者が全員揃う時に是非来てくださいという話が出た。嬉しいことだ。何かやらせていただけるなら、やってみたいと思う。

 再び正面に戻り、展示室を見せていただくことにした。その前に正面玄関の前で、建物を見上げる。明治43年に建てられた織物会社の事務所だった建物だ。昭和50年代半ばまで実際に操業していたという。二階の窓ガラスの半分は昔のガラスで、よく見ると、少し波打っているのが分かる。展示室につながる回廊の屋根などには赤い瓦が使われているが、昔のものを再利用したものだ。

 Mさんに導かれて玄関へ。ちょっと気が引き締まるような空気を味わい、料金300円を払う。左には、山に関するさまざまな本を集めた図書室があるが、あとで寄ることにして、廊下を右に折れて展示室へと向かった。

 パイプをくわえた深田久弥の写真と、その横の窓外の様子とがマッチして、ボクの好きな空間を作り出している。何度も訪れているから、だいたい展示内容は分かっているが、また敢えて見てしまうのが不思議だ。上がったことはないが、この建物の二階には「談話室」と名付けられた畳敷きの部屋がある。そこでは山に関するミニ講演会などが行われているらしく、その活用などもかなりしっかりと行われていると、Mさんは言っていた。

Mさんの話を聞きながら、震災で大きな被害を受けた、旧門前町(現輪島市)の総持寺前の通りにある「旧酒井家」の建物を思い出した。あの建物も蔵のホールがあったり、開放するとちょっとした広さになる座敷などがあったりして、素晴らしい施設だと思っている。最近は、地元の人たちによって活用が盛んに行われているとのことだ。自分が金沢の主計町で直接関わっている「茶屋ラボ」など、世の中にはまだまだ、よくは知られていない“いいところ”がいっぱいあるのだ。

この山の文化館も、やさしい大聖寺の街並みや川のイメージなどと融け込み、人を惹きつける魅力をたくさん持っているなあ…と、あらためて感じさせる。

人はもともとこういう何かに引き寄せられる生き物でもあるから、そういった場所に集った人たちは、安心して自分自身を自然体にしようとする。だから、よりそうなれる時間を提供してあげることができれば、その空間は活きているということになるのだと、ボクは思っている。

ボクたちの仕事もそんなものなんだろうと思っている。

図書室で短い時間を過ごした後、ボクは外に出た。

木立による日影の空間が、一段と色を落としたように感じた。

 「これから、何かご一緒にできればいいですね」Mさんがしっかりと手を前に組み、直立不動に近い姿勢のままで、ボクに言ってくれた。「是非、よろしくお願いいたします」ボクもそれに答えた。

門を出ると、再び日差しの下だった。Mさんが、クルマを出すまで門の前で待っていてくれ、最後は丁重に見送ってくれた。クルマの窓から、流し舟が見えた。

そして、静かな住宅地の中をゆっくりとクルマを走らせながら、加賀のまちとの結びつきを考えていると、懐かしい人たちの顔がいくつも浮かんできた。

やっぱり晴れてるのがいいなあ。

ボクはフロントガラスからの日差しの中で、素直にそう思った……

夜10時の、東京からのメッセージ…

先ほど、帰りの山手線にて作品を完読しました。

最近、誉めることを忘れてしまった私ですが、この作品は楽しめました。

少年時代に半ズボンにランニングシャツ着て、

三角ベースボールをやったのが、なんとも懐かしく思い出されました。

帰宅と同時に届いた、東京の読者からのメール。うれしい。みんな分かってるんだな…

 

中居ヒサシのワケについて

この写真は、拙著に自分の名前を書いているところだ。

つまり著者としてサインなんぞをしているという図々しい光景?なのである。

ここに書かれているのは、もちろん「中居ヒサシ」だ。

「中居寿」を、「中居ヒサシ」にした理由をときどき聞かれることがある。

なぜ、中居寿ではダメなのかとも聞かれる。なぜ、中居ヒサシがいいのかとは聞かれない。

どうも「中居寿」ではシャープさに欠けるようなイメージがあり、もともと少し物足りなく感じていた。

漢字三文字でいえば、椎名誠、村上龍、高倉健、北野武、加藤茶など、なんだか目で捉えただけで何かを感じさせる名前というのがあるが、ボクの場合はそんなイメージではない。

どこか締まりがない。「中居」も平坦で淡白だし、「寿」はおめでたいだけだ。

そして、繋げてみると、平坦で淡白でおめでたいということになり、そのことの意味することやイメージは、まったく自分の正体とかけ離れているではないかと感じていた。

それで、ボクは図々しくも本の著者という一応の立場として、「中居ヒサシ」を選んだわけだ。

拙著の読者からのメールには、“ 作家としての中居さんは名前がカタカナ(ヒサシ)だったんですね ”と、特別なメッセージがあったりした。

そういうのを読むと、“ そうか、そうだったんだよなあ~。ここはやっぱァ、カタカナのヒサシなんだよなあ~”と、妙に激しく納得せざるを得なかった。

ところで、ボクにはもうひとつ「N居・コトブキ」という名前もあったりして、実は中居ヒサシの登場以来、本名も含めて三つの名前ができたことになる。

N居・コトブキという名前は、ジャズ、活字、その他日々の雑話系で深い付き合いを続けているあるオトコが付けた。プライベート冊子の中で、そのオトコがボクのことをそう書いたのだ。

このネーミングはなかなか好評?で、実はボクも高校時代、持ち物にそのような書き方をしていたことがあった。

だから、特に違和感もなかったのだが、「・」が入って、そのあとに「コトブキ」が来るとは予想していなかった。

このネーミングに喜んだのは、当時(今から18年ほど前)のボクのスタッフたちだ。

今はもういいお母さんたちになっているが、その頃は感性豊かなクリエイターたちで、このネーミングの絶妙な組み合わせに、ひたすらニタニタしていたのを覚えている。

ボクもN居・コトブキを得てからは、文章の書き方を含めた、日々の過ごし方にバリエーションが増えた感じがして、知っている人は知っている、あのN居節を誕生させたのだ……と言っても何のことかよくはわからないだろうが。

その後、ちょっとだけまじめな?雑誌「ヒトビト」を出すようになってからは、雑誌としてのクオリティにも妙な自覚が生まれて、N居・コトブキ的表現だけでは済まされぬぞという、柄にもない理性を含んだ思いに追い込まれた。

N居・コトブキでないとすれば、中居寿しかない。そして、中居寿は、N居・コトブキをかすかに滲ませたりしながらも、その中間的ポジションを目指したのである。

今、中居ヒサシになったわけだが、中居ヒサシのポジションは、中居寿より上なのか、下なのか。右なのか、左なのか。とにかくまだよく分かっていない。

なにしろ、中居ヒサシは作家?なのであるから、一般的には最も上にいるのが普通だろう。

その点、中居寿はただの会社の人間だ。どう見ても、中居ヒサシの方が上になる。

こんなことを考えていると、人の名前というのは不思議なものだなと思う。

せっかくの「中居ヒサシ」なのである。

ますますこの目を鋭くし、脳ミソにはさらに柔軟剤を混入させ、指先の動きもシャープにして、雑文づくりに励もうと思う……

湯涌街道の素晴らしき普通さ

   湯涌街道を走る機会がよくある。もちろんクルマで。仕事では、湯涌夢二館へと出かける時に走る。プライベートでは、飲料用の湧水を汲みに出かける時に走る。頻度は水汲みの方が多いが、どちらもそれなりに、山里の風情を楽しみながら走るということに変わりはなく、ボクにとっては、車窓から見る風景に心を和ませながらの“小さな旅”になる。

まったくほぼカンペキに晴れ渡った五月のある日。久しぶりに仕事でこの道を走った。目的地は相変わらずの夢二館だ。新しい館長さんに挨拶にと出かけて行ったのだが、留守だった。三月に金沢美大を退職されたのだが、週一回だけ講義を続けているとのこと。ちょうど、その日がそうだったのだ。これ幸い?にと、名刺と拙著を一冊置いてきた。念のために言っておくが、ボクは新館長のO田S子大先生には、絶大なる信頼を得ている…と思っている。

用事を済ませて総湯の方へと足を向けると、真っ青な空がはるか彼方的に広がる頭上に、鯉のぼりが浮かんでいた。たいした風もないまま、決して元気もなく、ただゆらりゆらりと揺れている鯉のぼりたちを見上げていると、鼻の頭が焼けてくる感じがする。日差しが強かった。

ぶらぶらと歩いてみることにした。夏を思わせる雰囲気の温泉街は、ひっそりと静まり返り、日向のところと木立の日陰のところとが、アスファルトの上に鮮やかなコントラストを描いている。めずらしくクルマも走ってこない。総湯の前には多くのクルマが止まっていたが、皆さんまだ、風呂場でくつろぎ中なのだろう。こちらとしては、想像しただけで汗がどどっと溢れ出てきた。しばらくして、温泉街を離れる。

湯涌街道は、これといって際立った美しい風景がないところがいい。生活感と混ざり合った何でもない普通さに、魅力を感じる。それは金沢のまちに近いからかも知れない。金沢の市街地を出て、二十分もしないうちに、いきなり大峡谷が現れては、ちょっと心の準備が間に合わない。それになんだか信用できない風景になってしまう。自然が創り出した地形などといっても、嘘っぽい。建設重機を持ち込んで、人工的に作ったのではと疑われる。やはりそういう風景は、クルマで二、三時間、いや四、五時間走ってから現れてほしい。

    そういう点で、湯涌街道は自身の身分や素性、さらに言えば、家庭環境、家計状況までもをわきまえている。決して気取らず、奢(おご)らず、普通の風景でいることに徹している。みなで湯涌街道を褒めてやらなければならない。湯涌街道よ、あなたは偉いと。

そんなわけで、ボクは二~三週間に一回ぐらいのペースで湯涌街道を走っているわけなのだが、これからもこの風景の普通さに安堵しつつ、のんびりとハンドルを握っていくのだろうなあ、と思っている。ますます湯涌街道が好きになっていく、ボクなのである…

 

動物園で思った、考えた・・・・中居ヒサシ

 去年の正月、現エンジェルスの松井秀喜選手が、いしかわ動物園を訪問したが、あの時に同行して以来の動物園だった。目的は「トキ愛称命名式」。つまり、いしかわ動物園で飼育されているトキに愛称を募集し、その披露をするというセレモニーを見に行くためだった。もちろん仕事だ。で、仕事が終わり、園内を歩きながら考えた………。 人は、一生の間に何回動物園へ来るのかなあ、と。実はこの話、かつてこの動物園のサイン計画をしていた時、ある本を読んでいて出てきた話題でもあった。

 普通は、どうしても子供時代のことしか考えないが、実際はそうではない。結論的にいえば、幼児か児童・生徒の頃に最低一回は必ず来る。二回にしておこう。そして、大きくなってデートで来る(これは微妙)。結婚して子供と一緒に最低一回は来る。これも二回にする。さらに子供が結婚し、孫が出来ると、孫と一緒に来る。やはり、どう見ても五回以上は来ることになっているイメージだ。

 仕事に携わっていた頃には、一年間のうちの半分近く毎日来てたから、ボクはすでに何十人分か、何百人分かは来ているだろう。そして、夜中の動物園や早朝の動物園も見させてもらった。特に印象深かったのは、早朝だ。サバンナを復元したようなゾーンがあるが、夜明け後しばらくして、動物舎の扉が開けられた時、キリンが1頭、ボクが立っている通路側へと走って近づいてきた。そして、眼の前にあった水飲み場で、前足を横に広げ、首を真っすぐに下ろして水を飲み始めたのだ。朝のさわやかな空気の中で、キリンの躍動感のある動作が美しく、飲んでいた水がいかにも美味そうだったのをはっきりと覚えている。怖かったのは、ライオンだ。夜中のあの吠える声(音響だ)は、とても離れた場所にいるという安心感を生ませなかった。

愛媛のとべ動物園も行った。横浜のズーラシアにも行った。旭川はまだなかった。なつかしき、動物園の思い出だ。

しっかり者のやさしさに会った

 懐かしい人に会った。Kさんだ。何年ぶりだろうか。おそらく7,8年は会っていないだろう。それ以前は、ちょくちょく顔を合わす機会があり、他愛無い、日常の会話を繰り返していた。久しぶりに見たKさんは、子供たちを前にして本の読み聞かせをしていた。ボクは何気に子供たちの輪の外側の、さらにその奥に立ち、なるべく目立たないようにしていた。読んでいるものが、いったい何というお話なのか、知る由もなかった。

読み聞かせが終わると、拍手がおこり、Kさんは椅子から腰を上げ、照れ臭そうににっこり笑って会釈した。そして係りの人と、二言三言交わすと、すぐにボクの方に歩いてきた。

こんにちは、久しぶりやね。Kさんが、さっきまでのトーンとは違う、本来の地声でボクに声をかけてくる。なんだか、子供たちに語りかける声よりも、終わった後の声の方が子供っぽく聞こえた。ボクも一応にこりと笑い返し、びっくりしたなあと、とぼけた口調で答えると、Kさんはまた照れ臭そうに笑って、もう三年くらいやっとるげん…と言った。

ふーん、なかなかうまかったもんね。声も向いてるんじゃないの。ボクはそう言いながら、いい加減なことを言ったかな、と、ちょっと悔やんだりもした。

Kさんと近くにあったソファに座り、15分ほどだろうか、話す時間があった。Kさんは、額にちょっと汗を光らせ、ハンカチで顔を煽ぎながら、時々、そのハンカチで首筋を拭いたりしていた。そういえば、今日は暑い日なんだなと、ボクもあらためて思ったりした。

 最近のボクは、ちょっと元気がない部類に入っているのだが、Kさんは元気だ。少なくとも、元気がある部類の真ん中のちょっと横あたりにいる。ボクと同い年で、とにかくひたすら明快なのだ。

Kさんは、おもむろに携帯の中にある息子さんの写真を見せてくれた。彼、頑張っとるげんね、だから私も頑張らないと、と無邪気に言う。彼が、自分のすべてみたいな雰囲気が伝わってくる。彼は、27歳になっていた。6歳か7歳の時に一度見たことはあったが、当然、ボクの目には面影なんぞあるわけもない。ただ、表情の凛々しさは、Kさん譲りだなあと納得させられた。大阪の有名大学を出て、川崎にある米国系の大手企業で、なんだか難しい研究型の仕事をしているらしい。具体的なことを聞こうとしたが、聞いてもなんも分からんげ、とKさんはただ、にこにこしているだけだった。Kさんもなかなかの人なのだが、はっきり言って文化系の人で、理科系はチンプンカンプンなのだ…

Kさんと話していくうちに、ボクがいつも感じていた、“真っ直ぐな明るさ”みたいなものが、甦(よみがえ)ってきた。Kさんは、いつもそうだ。“しっかり者のやさしさ”を持っている。周囲の人たちに不快感を与えないように気を配れる人だ。言葉を大切にして、できるだけやさしく語りかけてくれる。

だからこそ、読み聞かせもこなせるのだろうし、その姿勢が、Kさんを周囲から認められる“やさしい人”に仕立て上げているのだろう。おもてなしと言う言葉が、最近やたらと流行っているが、言葉や仕草そのものから、そういった雰囲気を出せる人は少ない。

 短い時間の中で、ボクとKさんは、いろいろな話をした。まったく関連性などない、ボクの仕事の話とKさんの仕事の話。今でも超健在だというKさんのお母さんの話から、尊敬していたが、早くに亡くなった父親の話になり、Kさんは声のトーンを落とした。ボクの本の話は、先入観もちたくないからと封印させられた。

Kさんは、20代の終わりに大きな決断をして人生の方向性を変えてしまった人だ。その決断には、相当の覚悟と諦めと、そして開き直りがあったことは知っている。本人いわく、夢も希望も全くなくなったらしいが、しっかり者として漂わせる凛々しさがその決断を生んだのだなと、ボクは納得していた。しかし、Kさんは、私のことはいいわいねと、やさしい目で笑うが、その目の奥にあるものは、まだ生きているのだ。

Kさんには敵(かな)わないなあ。Kさんと話していると、なんでこんな話をしてるんだろうという、疑問すら湧いてこないから不思議だ。

N居クンの小説、これからバッチリ読ませてもらうね。楽しみやな。でも今、そんなに時間ある方じゃないから、ちょっと時間かかるかもしれん。感想はしばらく待っとってよ…

はい、ごゆっくりどうぞ。ボクはそう答えるだけで、ただただKさんには、やはり敵わないなあと思うばかりだった……