カテゴリー別アーカイブ: やや嬉しかった話編

上高地に初めて泊まる

 40年ほど前から何度も足を踏み入れてきた上高地で、この夏初めて一泊した。

 家人と昨秋嫁いだ長女という妙な組み合わせだったが、その一ヶ月ほど前、突然決まったのだ。

 自分にとっての上高地初期時代、つまりマイカーで入ることができた頃はいつも日帰りだった。

 そして、その後山に入るようになる頃には、日帰りではなくなり、朝早く足早に通り過ぎていく場所であったり、また疲れ切って帰りのバス乗り場へと歩き過ぎていくだけの場所であったりした。

 ところで、超が付くほどの人気観光地となった上高地だが、何かの拍子にそこで泊まるということが知られると、すぐにあのホテルか?と聞かれる。お世辞めいた質問だと知りつつ、とんでもないと否定する。

 もちろん、上高地で一泊と言っても、河童橋の下や小梨平でツェルトにくるまって寝るわけではないのであって、あのホテルではないホテルに泊まった。

 一応、あのホテルも確認の対象になっていたのだが、夏山シーズン最盛期の土日、しかも一か月前に部屋が取れるわけがなかった…と、言い訳にしている……

 しかし、たまたま空き室と遭遇したホテルもよかった。さすがに上高地である。これを書くとすぐに分かってしまうだろうが、上高地の代名詞である某池のほとりに建つホテルだった。

 午前のうちに上高地入りした一日目は、河童橋から明神を経て徳沢まで歩き、帰り道は明神から右岸の道に変え、そのまままた戻ってきた。

 上高地は一応1500メートルほどの標高なのだから、少しは涼しいはずと思っていたが、今年の夏は上高地でも異常だった。

 ホテルでチェックインする時に、フロントでそのことを強調されたが、部屋に入った時の室温の凄さに驚いたほどだ。当然、山岳地では冷房などないのが当たり前だ。ただ、部屋にはしっかりと扇風機が置かれていた。

 だが、窓を開けていても一向に部屋は涼しくはならず、山岳地であることを意識させてくれたのは、夜も更けてからだった。

 梓川左岸の道を久しぶりに歩いた。木立の中を歩いているときは、暑さも少しは和らぐ。

 明神館の前までは思いの外速いペースで歩いた。

 途中の明神岳を見上げる川原で足を止め、強い日差しの中でお決まりのように顔を上げる。明神岳は正面から見上げると、ゴリラの顔のようなカタチをしている。ずっと何十年も思っていたことを、今更のようにして長女に話すと、今はすっかり山ウーマンになっている長女が頷いていた。

 明神館前のベンチで当たり前のように休憩した。

 単に上高地を歩いていた(今はトレッキングというが)だけの頃は、ここは休憩しなければならないという場所だった。

 しかし、さらに奥の本格的な山岳地帯に入っていくようになると、この場所も通り過ぎるだけになった。この次にある徳沢でも休憩せず、梓川沿いでは横尾でザックを一度下す程度で、そこからは例えば涸沢ぐらいであればノンストップで登った。

 今は本格的な山行は自重しているからそれどころではないが、単独行の頃の馬力はどこへ行ってしまったのだろう。いや、自覚とか諦めとかが足りないだけかも知れない。

 明神から徳沢への道にはサルたちが大勢出てきていた。非常に友好的にというか、まったく気兼ねすることもなく我々の前を歩いていたりした。同じ祖先をもつということに、サルたちの方が深い理解を持っているのかも知れない。

 生まれてまだ日の浅い子ザルが、母ザルにしっかり抱き着いている姿も数組見た。幼いサルの顔というか、特に目にはさわやかに惹きつけられるものを感じた。

 サルたちとの並行(と言ってもほとんど蛇行であったが)は、かなり続いた。外国人のトレッカーたちも興味深げに彼らを見ていた。

 別に不思議なことでもないが、徳沢は変わっていた。

 いや、そう見えただけなのかもしれない。記憶などはいい加減なものだが、しかし、やはり変わって見えた。

 徳沢ではカレーを食べることになっていた。長女が決めていたのだが、やはり山岳地の昼飯はカレーで文句ない。しかも、徳沢のカレーは今有名らしく、こちらも一度は食べてみたいと思っていた。

 かっこいい食堂の隅っこのテーブルに、カレーライスが三皿並ぶ。長女は当然生ビールのジョッキも置きたかったと思うが、こちらが帰路の足への影響を考え自重したために遠慮したみたいだった。

 その代わり? カレーの食後にアイスクリームを追加した。これも徳沢の人気メニューらしい。そう言えば、徳沢は昔から牧場だった場所だ。食事を終えたテーブルの上を、徳沢の木立ちを抜けてきた風が流れる。

 結局、ビールは河童橋まで戻ったあと、閉店間際の店の前でいただいた。当然、美味であった………

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 ずっと以前に、徳沢を歩きながら、こんなところまでどうやって牛たちを運んだのだろうと考えていたことがある。上高地の歴史に興味を持ち出した頃で、松本藩の材木を管理する役人たちや杣人たちの日常なども思い浮かべたりした。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人なども重要な想像世界の登場人物の一人だった。

 

 暑苦しくて眠れない山小屋の思い出は、この上高地から登った涸沢ヒュッテでの一夜である。

 それこそ、35年ほど前の初穂高山行だった。

 横尾の小屋の前で、母の握り飯を頬張りながらラーメンを作っていた時、小屋のアルバイトらしき青年が、二階の窓から梅雨が明けましたァと叫んだ。

 周辺にいた人たちがおおッと声を上げ、熱気が動いたように感じた。

 その日は、上高地を出発した時からとにかく暑いと感じていて、梅雨明けの予感は十分あった。

 そして、横尾から一気に涸沢まで登った後、小屋の予約を早々に済ませたが、その人の多さに少々気後れした。

 案の定、眠れなかった。11時半頃には窮屈な寝床から這い出し、ザックを持って廊下に出ていた。それからどうしていたかは覚えていない。その後テラスに出て、4時前にコーヒーを沸かしクラッカーで朝食にした。どうでもいいが、商品名でいうと「リッツ」だ。それを三枚だけ食べた。小屋の朝食には行かず、外のトイレだけ借りて歩き始めていた。

 夜中、着込んではいたせいもあってか、全く寒さを感じなかった。

 

 上高地の眠れない夜は、早朝4時半頃で終わりにした。窓辺に立つと、対岸の焼岳山頂付近に朝日が当たっている。見下ろすと、某池のほとりに人の姿も見える。

 すぐにカメラを手に外に出ることにした。なんと立地条件に恵まれたホテルだろうと今更ながらに思う。

  上高地に来るようになって40年ほど。この美しい光景は、見てみたいけども、どうしてもというわけではない…… といったいい加減さでやり過ごしてきた。

 しかし、実際にこの目で見てしまうと、そんないい加減だった自分を悔いた。初めて上高地に足を踏み入れた時の、梓川の美しさに圧倒された時の自分を思い出していた。

 

 日が昇り、上高地はまた暑くなった。

 大きなザックを担いだ長女と、小さなリュックを担ぐ家人が並んで歩いていく。その後ろ姿を見ながら、歳月の経過を思う。

 いつものことだが、今回もまた、近いうちにまた来ようと歩きながら考えていた。

 河童橋の周辺は相変わらずのにぎわいで、岳沢から穂高の稜線にかけては薄い雲がかかっている。河原に下りて、梓川の水に手を入れた。

 もう少し静かになったら、顔を出してやるよ…… そんな奥穂高のぼやきが聞こえる。

 いや、聞こえたような気がした………

 

この正月の日常……

 過ぎてしまえば、やはり慌ただしく時間は流れていたのだと思う。正月とは、だいたいそういうものなのかも知れない。

 元旦の午前中から仕事関係の会合に出かけ、午後の遅い時間に戻り、堅苦しい洋服を脱いで、それから正月らしくあろう…と、酒を飲み始める。

 だが、長続きはしない。酔いを追うようにしてやってきた眠気が、酔いを飲み込んで、目を開けているために必要なエネルギーを抜き取っていく。

 その間、家人は翌日迎える娘たち夫婦への料理づくりでずっとキッチンに居た。

 そして、その翌日。昼過ぎ着の電車で大阪からやって来る次女夫婦を、K駅へと迎えに行った。

 駅周辺は、初売りで大混雑。ちょっと離れた駐車場を利用して、自分の好判断に満足した。

 家に戻ると、地元K市に住む長女夫婦もやって来て、家の中が久しぶりににぎやかになった。

 この二組の夫婦は、去年の春と晩秋に出来たばかりで、俗に言う新婚である。

 ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒… みなよく飲む。さらに、テレビでは箱根駅伝と大学ラグビー準決勝。

 飲み食いとお喋りの間に、それぞれ母校の勝利のための声援が入り、当方は母校ラグビー部の久しぶりの決勝進出に酒の味が急上昇し、当然さらに進んだ……

 そして、気が付くと、三日目の朝であった。

 娘たち夫婦はその日の午後、それぞれの住処へと帰って行った。

 おまけの話は、宴の最中に大学ラグビーの決勝戦に行くことが決まったことである。最近はチケット購入も電車の予約も簡単になった。一月七日、朝の新幹線で東京へ。

 家人と超アクティブ派の長女夫婦が同行し、何年ぶりかの秩父宮ラグビー場に胸が躍った。

 ゲームは一点差の敗戦だったが、セーターの上から紫紺と白のTシャツを着て、久しぶりに校歌を熱唱し、ひたすら大声で叫び、雄叫びも一回。そして、本気のガッツポーズを何回もした。

 四人とも手のひらが充血していた。

 大好きなラグビーの面白さをあらためて認識した一日であり、その夜の丸の内における打ち上げ会も観戦談で盛り上がり、最終の新幹線で帰ってきた。

 正直、これが今年の正月のハイライトだったみたいだ。

 慌ただしく時間は流れていたのは間違いないが、やはり正月とはそういうものでなければならないと痛感したのである……

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

ノーサイドの後も、ゲームの余韻に……

3月のありがとう

3月

  「3月のありがとう」はいつもより少し重い。

 高校生の間、通勤がてら二人の娘をほぼ毎朝学校の近くまで乗せていった。

 ほとんど会話らしきものはなかったが、当たり前の日課だった。

 そして、二人とも3月の初めのある朝、「3年間ありがとう」と照れ臭そうに父に言って車を降りて行った。

 家人から事前に聞いてはいたが、知らなかったふりをした。

 そして、わざとらしく「おっ、そうやったっけ」と、とぼけた。

 二人とも高校を出ると、京都へと巣立った。

 長女の引っ越しの時は、母親を残して独りで先に帰らねばならず、こっちも敢えて急を装うようにして帰ってしまった。

 翌日、母親を京都駅まで送った長女は、バスに乗ろうとした母親に「お母さん、いろいろありがとう」と礼を言ったという。

 バスの中、涙が止まらなかったと母親が言った。

 … 二年後、次女を京都に置いてくる時も、車で立ち去る直前になって「いろいろ、ありがとね」と言われた。

 ただそれだけの言葉だったが、母親の目には涙があふれていた。不覚にもこっちもグッときた……

 今朝、父と高校生の娘らしき二人が車で通り過ぎていくのを見た。

 かつての「3月のありがとう」を思い出し、そろそろ、あの父娘にも同じような「3月のありがとう」が訪れるのだろうなと思ったのだ……

不思議なモノを見た

不思議なもの1

100メートルもないその先に、それがあった。

それを発見した時、思わずドキッとした。

北三陸的に言えば、ジェジェッである。

すぐ目の前にコンテナがあり、それを撮影していた時だ。

半信半疑のまま歩きだし、右斜め後方に目をやりつつ、

ゆっくりとクルマに戻る。

何のためか、敢えて落ち着いているのだというふりをしている。

窓越しに、もう一度それを確認。エンジンをかけた。

少し登った。そして、それの30メートルほど手前で、またクルマを下りる。

山間はもう日が陰っている。空気も涼しい。

そこは北陸のK市中心部からクルマで約30分。

推測だが、馬だとゆっくりで2時間くらいか。

牛だと半日はかかるかも知れない。

これでこの場所は知られてしまうだろう。

しかし、それでもかまわない。

歩いて、すぐ目の前まで来た。

塗装の剥がれていない部分はまだ美しくも見える。

正面のライトは片方だけだが、しっかりと残っている。

ひょっとして遊園地などで使われていたのだろうかと想像する。

とにかく、この不思議なモノが、この場所にあるということに心が揺れている。

不思議なモノの左面

いつ、どうやって、なにゆえにこの場所に運ばれて来たのか?

かつて、ここには鉄道が走っていたのだろうか?

ひょっとして、旧盆の深夜、突然汽笛が遠くから鳴り響くと、

霧の中、草を分けるように線路が浮かび上がってくるのかも知れない。

そして、この不思議なモノが、

生気を再び得たかのように、ゆっくりと動き出すのかも知れない。

子供たちは、その後を追い、見えなくなるまで力いっぱい手を振る。

そして、この不思議なモノが落としていった、

おもちゃや菓子などをみんなで拾い合うのだ……

 

振り返ると、近くの農家の人だろうか、こっちを胡散臭そうに見ていた……

不思議なモノの正面

湯涌江戸村「ケムダシ」談

 金沢の山里・二俣で、19世紀の初めに建てられたという旧S田家屋敷。

 今でも二俣で続けられている大らかな紙漉きの、その源を示すお屋敷だ。

 まだ公開されていないが、かつて旧江戸村時代に隅々まで見せていただいていて、今回化粧直しをしたその外観に驚いた。

 さらに驚いたのは、屋根の正面に作られているソレ(写真)。

 曲線的な、というより、カンペキに曲線形の優雅な美しさに見惚れる…

 新築の頃にはこんな風だったのかと思うと、200年近く前の二俣辺りの空気が欲しくなる。

 で、村長のT屋先生に「アレは、何て言うんですか?」とお尋ねした。

 アレとは、つまりソレのことである。

 すると先生が、「ケムダシだよ…」と言われる。

 「それって、煙を出すという意味の…?」 「そう…」。

 はっきり言って、あまりにも安直な答えだったので、こっちは半信半疑気味。

 このまま引き下がってはいけないのだと思い、もう一度お聞きした。

  「あそこから煙を出すから、煙出し(ケムダシ)なんだよ…」

 先生は何でもないような顔で、何回同じことを聞くのだと言わんばかりに答えられた。

 そう言われれば、何でもないことなのだ。

 煙を出すから「ケムダシ」で別に悪いわけではない。

 文句があるなら、表へ出ろ! と言われる前に、すでに表にいる。

 そんなわけで、世のモノゴトは至って簡単な仕組みで出来ているのである…ということを、あらためて痛感させられた、春の晴れたある日の、午後のやや遅い時間の、ほんのひと時の出来事であったのだ。

能登黒島・旧嘉門家跡

 このエッセイを読んでいただいたという、北海道の方からメールが来た。

 お名前が嘉門さんと言って、詳しいことは全く分からないが、亡き祖父が旧門前黒島の出らしいとのことだった。

 石川からは鰊漁が盛んだった頃、多くの人たちが北海道に渡っている。

 実を言うと、ボクの祖父も北海道の海へ出漁し、それなりの規模の漁業をやっていた。

 門前黒島の嘉門家と言えば、ブリヂストン美術館の館長されていた嘉門安雄氏が有名だ。

 嘉門家に限らず、黒島からは優秀な人たちが多く輩出され、かつての天領、そして北前船で栄えた地域性を物語っている。

 今ある旧嘉門家(平成11年に町に寄付)の跡は、能登地震の後に火災で焼失したのを受け、トイレの付いたきれいな板塀で被われた駐車場になっている。

 かつては、一段高くなったところに蔵が並び、壮観であったと言われる。

 角海家の展示関係の仕事に携わっていた頃、旧嘉門家の一画に残された小さな庵のような建物の一室で、地元の人たちに昔の思い出などを語ってもらった。

 久しぶりに嘉門家跡に足を踏み入れ、石段を登ってみると、春の日差しを受けて海が柔らかく光っていた。

 通りかかった地元の人からも話を聞いたが、やはり黒島の文化の趣は他と異なり、今現在が何かもどかしいような思いにさせる。

 自分など考えても仕方ないことなのだが、やはりどこか寂しいのだ……

紀伊國屋に立ち寄る

 新宿へ行ったついでに、何年ぶりかで紀伊國屋に立ち寄った。

 前を通るとちょうど開店したばかりで、吸い込まれるように二階へのエスカレーターに乗っていた。

 思えば、大学に行くために東京生活を始めた二日目の午後、初めて新宿の街に出た。

 目指したのは紀伊國屋だった。なぜか、東京へ出たら紀伊國屋と、FUNKY(吉祥寺にあったジャズ喫茶)と、神宮球場へ行かねばならぬという強い使命感があり、まず手始めとして新宿へ乗り込み、紀伊國屋で本に埋もれてみようと思った。

 春を迎えたばかりの新宿駅東口は人が溢れ、雑然としていた。

 人が厚い層を成し、その人の波が一気に横断歩道を揺れながら流れるように渡って行く。

 その時あらためて、東京を感じた。

 何となく地理的には理解していた紀伊國屋に向けて緩い坂を上る。

 しかし、紀伊國屋を見つけたと同時に、ボクはその向かい側にあった洋服屋に入っていた。

 MITSUMINEだ。衝動的に、白と、からし色のボタンダウンのシャツ2枚を買った。

 店員さんとのスピーディな会話も楽しく、衝動買いの要因はそこにもあった。

 今はもうその店はないが、MITSUMINEとの関係はシンプルに続いている。

 金沢でも二年ほど前に店はなくなり、なかなか新しいモノを買う機会はなくなった。

 だが、20~30代の頃に買い、今も着ている洋服には、MITSUMINEのロゴの入ったモノがいくつかある。

 そのロゴを見るたびに、新宿のあの店を思い出すのだ。

 仕事の合間の紀伊國屋だから、久しぶりと言え時間はほんのわずかしかない。

 いきなり安部公房の『題未定』が目に飛び込んできたが、ぐっと堪える。

 結構分厚い未発表の短編集で、読んでみたいと思っていたものだ。

 だが、帰りの電車の中で読み切れるくらいの本にしようと、何となく決めていた。

 慌ただしく奥へ奥へと進んで行くと、最も奥に「ハルキ文庫」という小さなコーナーがあった。

 「ハルキ」は、角川春樹氏の「ハルキ」である。

 本の種類は少ないが、梶井基次郎の『檸檬(れもん)』がある。

 梶井は大正後期から昭和初めにかけていくつかの短編を残した人だ。31歳の若さで早死にしている。

 『檸檬』は、梶井の代名詞的短編で、ボクはこの本を金沢の友人に教えてもらった。

 その友人は、ボクに金沢出身の島田清次郎も教えてくれたのだが、梶井も島田も同じような時代に早死にしていた。

 しかし、ボクは圧倒的に梶井の方が好きになった。島田のことを知っている人なら、その理由はよく理解できるだろう。

 それに、もうひとつ大きな決め手があった。

 それは、顔だ。梶井のあの男臭い顔立ちが好きだったのだ。

 そんなことを思い出しながら、一冊しかなかったので、誰かに先を越されるとまずいと思い、すぐに『檸檬』を本棚から抜き取った。

 値段の安さに驚く。税別267円。

 こんな安い本を一冊だけ買って帰るのは申し訳ないと他に探すが、時間がなく気持ち的に慌ただしいだけだ。

 開店したばかりというのに、店の中にはそれなりの人がいた。

 客の一人が何だかマニアックな本の名前を言って、店員さんを困らせて?いる。

 しばらくすると、ようやく見つけたらしく、客の方へと店員が小走りに駆け寄っていった。

 若い店員の嬉しそうな顔が何とも言えない。書店員としての誇りなのだろう。さすがというべきか。

 学生時代はここで多くの本を買った。大学生協の書籍部でもかなり買ったが、今も変わらないあのブックカバーが決め手になっていたかも知れない。

 最近は、上京すると三省堂や丸善にも時間があれば立ち寄る。

 やはり本の種類が豊富で、何とも言えず愉しい。

 金沢では絶対に遭遇しなかったであろうと思われる本を手にした時の喜びは、普通ではない。

 そう言えば、かつて紀伊國屋で本を買った後は、近くにあったnewDUGというジャズ喫茶に寄って、その本を読んだりした。

 ボクは体育会系の文学青年で、いつも最低二冊以上は同時進行で読んでいた。

 外出時には必ずポケットに文庫本を入れていき、ジャズ喫茶にも必ず本を持ちこんだ。読む本は何でもよかった。

 活字中毒という言葉はあまり好きではないが、今でも手元に読む本があると安心できる。

 ところで、一応曲がりなりにも“著書をもつ者”としては、地元の書店の温もりも忘れていないのは当然だ。

 地元の作家を応援するのは、地元の書店として当たり前ですと、広告を出してくれたり、店頭の話題の本のコーナーに並べたりしてくれた書店のありがたさは身に染みている。

 全く置いてくれなかった近県出の書店(例えば、県庁近くの)もあったが、本をただ商品としてしか見ることができないというのも淋しい気がする。

 だんだんいい歳になってくると、書店の本棚を見ているのがつらくなってきた。

 それは、目が疲れるとか腰がだるくなるという意味ではない。

 新しい本ではないが、まだまだ読みたいものがいっぱい残っているのに、時間がどんどんなくなっていく焦りみたいなものだ。

 音楽、特にジャズも文学も、新しいものに興味もなく期待もしていない。

 ただそんな時に、ちょっといい書店に入って味わう感覚が、とても懐かしかったり、ホッとできたりするというのも、素直に受け入れられる事実なのだ……

“寿”のテーブルに座る

 全くもってカンペキに、どうでもいい話だ。

 実を言うと、ボクの正式な名前は「寿(ひさし)」と書く。

 世の中的には、かなりおめでたい場合に使われている漢字なのである。

 昔、寿司屋の寿だからと、「中居・す」さんと呼ばれたことがある。

 言った本人もかなり困窮していただろう。

 これがホントの「呼び捨て」だと、その時発作的に思った。

 ところで、宴席に出ると、よく「寿」のテーブルというのがある。

 しかし、これまでその名のテーブルには、一度も当たったことがなかった。

 それが、つい先日のことだ。

 苦節?五十数年、生まれて初めて、自分の名前を冠したテーブルに着くことになった。

 くじ引きみたいなことをさせられたわけではなく、事前に決められていたのだ。

 ひょっとすると、ボクの名前を見て、この人は是非「寿」のテーブルについてもらおうと考えたのだろうか。

 いや、そのようなことはありえない。

 そんなことを薄らぼんやりと考えながら、三回ほど名札の紙切れを確認した。

 そして、テーブルを見つけると、一応、さりげない顔をして椅子を引いた。

 座っている間も、テーブル上に無造作に置いた名札が、やたらと気になった。

 何度、目をやったことだろう。

 幸いにも、その上に何かがこぼされたりすることもなく、白い紙きれは、閉宴まで置かれたところにじっとしていたのだ。

 帰り際…、その名札をそっとポケットにしまったのは言うまでもない。

 その名札を家人に見せ、家人からバカにされたのも言うまでもない。

 ニンマリしながら飲み直したのも言うまでもなく、

 数日たった今、まだ我が家のテーブルの隅に置かれているのも、当然、言うまでもないのである……

休日はアイロンだ

 休日、自分でカッターシャツにアイロンをかける。

 家人がいない時を見計らって座布団の上に正座をし、左手にシャツ、右手にアイロンを徐(おもむろ)に持って、その特に右手を動かす。

 どうしてもアイロンがうまくできないシャツはクリーニングに出すが、簡単に出来そうなものは自分でやる。

 その仕分けは、多分シャツの素材などにあるのだろうと思うが、むずかしいことは分からない。

 アイロンが好きになったわけは、たぶん無心になれるからだ。

 焚火やギターなんかと同じで、一点集中型の無心状態になって、軽くて落ち着いた気分になる。

 軽いという表現は100パーセント言い得ていないが、カラダもアタマも何だか解放されたような感じになり、ヒトとしていい状態になっていくのだ。

 アイロンはそれ自体が、スーッとシャツの上を滑っていくという、あの感触がたまらない。

 その時には、口で軽く「スーッ」と言ったりもする。

 長嶋茂雄が、バットを振る時はシューッときたボールに、パシーンとバットを当てる…などと言っていたように、アイロンもシャツをパッと広げたら、その上にアイロンをサッと置き、そのままスーッと滑らせていく…なのだ。

 不思議なことには、この時に無心状態が生まれ、まるで悟りが開けていくような面持ちになっている。

 今頃の季節ならば、ほんわかとしたスチームもいい味を出す。

 この温もりや湿り気は、ちょっとイガラッぽくなっている喉なんかにも按配がよく、風邪防止の役割も果たすという重宝者でもある。

 だいたいこういった場合は、ヨーヨー・マあたりのチェロ独奏なんかをBGMにするのがいい。やはり弦楽器の弓弾きのように滑る音がマッチする。

 普段はジャズばかり聴いているが、ジャズのようにシンコペーションが強い音楽は、アイロンには向かない。オオッといきなりブレーキを掛けられたのでは、せっかく伸びたシャツの皺もまたぶり返すことになる。

 つまりアイロンには、リズムがない音楽がよく、これは無心状態をつくる上でも大切な要素と言える。

 シャツは本来ならば三枚ぐらいが適当だ。しかし、一週間のうち働きに出る日は最低五日ある。時には五枚一度にアイロン…ということになったりもする。

 長期戦になるかなと思う時は、途中にハンカチ・タイムを挟むのがいい。

 ハンカチは実にコンパクトで、その成果もすぐに表れるし、かなりの度合いで癒されたりする。

 四枚目に入ってしばらくすると、思いがけず無心になれている。こういった場合の無心には、特別な意味があったりもして嬉しくなる……?

 アイロンがすべて終わる頃には、両足ともにかなりのシビレ状態になっているのが普通だ。

 しかし、このシビレこそが、無心に、アイロン一筋に精神を統一してきた証であり、敢えて下品に足をパンパンと叩いたりなどしない。

 立ち上がって、窓外の風景に目をやり、窓を開けて冷気に触れていると足のシビレがいつの間にか消えていくのだ。

 そして、またいつの間にか、自分がアイロンをかけていたという事実すらも忘れていく。

 これが、アイロンの凄さなのだろうと思う。

 特に大したことをしでかしたわけでもないのに、この充実感は何なのだろうとも思う。

 そして、もう何十年も使ってきたアイロンに、感謝なのだ……

朝の珈琲屋さんにて

 雪の影響を心配して、早めに金沢駅まで来たが、電車はダイヤどおりに走っているとのこと。

 数年前には、東京に四時頃着の予定で金沢を出た電車が、夜の十時頃やっと着いたということもあり、そうなってからでは遅いのである。

 どこかにコーヒーが飲める店はないかと、心当たりを探っていくと、やはりあった。

 なんだかんだと、時々お世話になっているその店は、他の店はまだ開いてないのにやっている。多分、商売上手で熱心なオーナーの店なのだろうと納得しつつ、ブレンドコーヒーを注文。

 特に際立った特徴があるわけではないが、ボクにとっては何となく落ち着ける。それに、特に際立つ必要もないのかも知れないとも思う。

 電車の時刻までは、一時間弱ある。

 カバンのポケットから、ヤマケイのスペシャルブックカバー(大袈裟だ)に包まれた文庫本を取り出す。

 中身は、またしても出張の友にして持ってきた伊集院静氏のエッセイ集『ねむりねこ』だ。

 昨夜、積まれたままの蔵書の中から、何を持って行こうかと十五分ほど迷い、やはりという感じでこの本をさっきのブックカバーに包み直しカバンに入れた。

 もう一冊候補に上がったのは、椎名誠氏の『かえる場所』だったが、前者の方が短編集である点で有利だと判断した。

 しかし、双方とも朝の読み物としては、何というか少し、いやかなり重い感じがしないでもない。ちょっと切なく人生経験豊かな二人のエッセイを、モーニングコーヒーを飲みながら読み流すというのは、真意に沿わない。

 ただ、そんなむずかしいことを考えていても始まらないので、とにかく無作為に読み始める。

 あっという間に、三話ほどを読み終えると、真意に沿わないと言っておきながらの没頭読みにちょっと驚き、少し目を止めて、コーヒーカップに手を伸ばす。

 このまま読み進んでは、何だかいけないような気になってくる。

 この手の話は、夜のホテルや黄昏時か夜更けの静かな店、さらに帰りの電車の中などで読むのが正しいのだ。これまでもそうしてきた。

 それを朝から読んでいてはいけない。

 これから東京で仕事が待っているのに、椿は、花が落ちた後の姿がはかないから、花よりも葉の方が好きだとか、毎晩のように酒に明け暮れている…などといった話を読み耽っていてはいけないのだ。

 店の中を見渡してみた。いつの間にか、横の横の席には女子高生のような制服を着た女の子が座っている。

 学校はどうしたのだろうなどと、余計なお世話的雑念がアタマをよぎるが、深く考えないことにする。

 目の前の石風タイル貼りの柱を見上げると、三枚の額がかかっていた。中はよく見えないが、写真の切り抜きみたいな感じがする。なかなかいいレイアウトでもある。

 朝日が差し込んでもいる。その陽の当たり具合もいい感じで目にさわやかなのだ。

 朝の喫茶店に入り、いきなり本を読んで時間をつぶすというのは久しぶりだ。

 こんな時間がいいのだと、何だか妙に嬉しくなった……

春の、ある金曜の夜

 金曜の夜、主計町で篠笛と一人芝居を鑑賞した後、その場で軽くビールやワインなどをいただき、早々に香林坊まで歩こうと外に出た。

 前日に見た検番前の桜の花は、かなり開き始めており、その開花の早さに驚かされる。小雨の中とはいえ、茶屋街の外灯に浮かび上がる桜の木の姿は、やはり色っぽかった。

 大手町の裏筋から、店じまいしている夜の近江町市場の中を通る。特に大手町の裏筋には、古い佇まいも多くあったりして歩くこと自体も楽しい。近江町では居酒屋だけがぽつんと営業していたりしている。曇ったガラス越しに、かなり飲み、語り疲れたようなサラリーマンたちの顔がいくつも見えていた。

 武蔵ヶ辻に出ると、バス停に着いたばかりのバスに飛び乗った。香林坊まで、武蔵から乗ると百円ですむ。しかし、百円で得したと思うよりも、香林坊までの時間を短縮できたことの方が大きい。香林坊に着くと、すぐに日銀裏へと足を早めた……

 ヨークには、若い男二人がカウンターにいた。ビッグバンドでサックスを吹いている常連クンと、その友人だとすぐに分かった。久しぶりに顔を見たと思ったが、ボクの方が店に来る頻度が低いだけだ。めずらしく、マイルス・デイビス晩年のCDが流れている。

 二人がしばらくして出て行くと、その後にこれも懐かしいA木さんが入ってきた。ボクと同じく、どこかの飲み会帰りという様子だった。

 ボクの場合、かつては会社がすぐ下にあり、六時頃から夜中までヨークで過ごすという時もあったが、今はもうそんなことはなくなった。できなくなった。夜中までとは言わなくても、夕方から夜の始め頃までの時間を、しみじみと過ごすのが、かなり日常に近かった。

 A木さんは、金沢でも無類のジャズ愛好家であり、その温厚そうな顔付きや物腰からは想像できないほどのマニアだ。スーツ姿もさり気なく決まっている。

 かつて、マイルス・デイビスの金沢公演を再現しようというイベントを企画した際、最も有効で最も意味のある音源を貸してくれたのがA木さんだった。奥井さんの七回忌のライブ(スガ・ダイロー・トリオ)の時にも、ボクらと並んでカウンターの中からその演奏を熱心に聴いていた。

 ついでに書くと、ボクの拙本(「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」)の良き読者であり、理解者でもいてくれる素晴らしい人でもある。

 そんなA木さんと、その夜は寄席の話で盛り上がった。数日前あたりか、立川志の輔の落語を聞いたとかで、落語や漫才などは生(らいぶ)を聞かなきゃダメという点で意見がまとまった。

 ボクはかつて、先代の円楽の人情噺をしみじみ聞いたことがあるが、あれはまさに芸であったと今でも思っている。こんなことは敢えてボクのような者が言うセリフでもないだろうが、あの凄さは聞いた者でないと分からないだろう。高座から伝わって来る熱いものは並ではなかった。

 NHKラジオの「真打登場」の収録が、何年も前に寺井町(現能美市)であって、奥井さんと二人で行った時の話もした。ボクらも笑ったが、ボクらの前の席にいた熟年夫婦が周囲も気にせずに大笑いしていた。休憩時間に奥さんの方が、「寄席って、こんなに面白いもんやて知らんかったわ」と大喜びしていた光景は忘れない。

 やっぱり、生の演芸だからだネ…と、A木さんも言う。分かりきっていた落ちに、待ってましたとばかりに笑いを送る、そんな空気を感じて、幸せな気分になれるのが寄席なのである。

 そろそろ帰り支度(と言っても別に何もすることはないのだが)をしようとすると、本の方はどう?と聞かれた。特に大きな変化はないのだが、東京の方から、先日読み終えて、爽やかな気分になれたといった意味のお便りをもらった話をした。東日本地震の被災者の人たちに読んでもらいたいと思う…といった趣旨のことも書かれていて、ボクとしても、それが叶うならやりたいと思っていますと答えると、A木さんもそれはいいねと言ってくれた。

 北陸鉄道浅野川線の最終電車は、午後十一時。それに乗るために香林坊日銀前のバス停で、なかなか来ない金沢駅行バスを待つ……。

 その間、午後、浅野川・梅の橋沿いに建つ徳田秋聲記念館に、K先生を訪ねたことを思い返していた。

 先生としっかり一時間近く話をしたというのは、何年ぶりのことだっただろう。夢二館の館長時代は、館長室で時々ゆっくりとお話ができたが、脳梗塞で倒れてからは、あまりボクも訪ねて行かなくなった。

 昨年まで関わっていた、旧富来町(現志賀町)出身の作家・加能作次郎関係の仕事では、本来K先生と一緒にやるべきことも多かったのだが、結局先生との接点は地元の皆さんに任せてしまっていた。

 先生は七十九歳になられたという。島田清次郎の「にし茶屋資料館」をやった時からだから、もう十六年ほどのお付き合いになる。あの頃よりはかなりスマートになった感じだが、透析を続けての先生の活動には本当に頭が下がる思いだ。

 今回は、羽咋市にゆかりのある民俗学者で、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)でもある折口信夫に関することを教えていただきたくて時間をいただいた。先生はかつて、折口信夫のことで、近代文学館の館長だったSさんと動いたことがあったと言われた。

 現在は空き家となっている藤井家という旧家を、記念館として残すべきと考えられたらしい。しかし、実現どころか、藤井家にあった貴重な資料の多くが國學院大學に移されたということに、大きなショックを受けたと言われていた。

 藤井家を記念館にという話は、ボクも地元の人から聞いている。その価値と実現の可能性を先生に聞きたかったのだ。先生は、むずかしいが、地元に意欲のある人がいるなら、大いにやってみたらと言われた。そして、五月の初めに、地元の有志と藤井家見学に行くことになっていると話すと、その報告を楽しみに待っているよと目を輝かせた。

 そろそろ透析に行かなければならない時間。雨の中をタクシーがやって来る。

 ゆっくりと立ち上がりながら、こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね…と先生。こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ…と答える。

 「いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ…」別れ際の言葉がまた胸に染みていた。

 それにしても、バスはなかなか来なかった。接近マークは二つ手前で点滅したままで、小雨が降り続く中、ビニール傘を開かなければならなくなってもいた。

 “ 咲ききらぬ サクラ並木に 夜の雨 ”

 イライラの中の、久々の一句であった……