カテゴリー別アーカイブ: 好きな風景編

上高地に初めて泊まる

 40年ほど前から何度も足を踏み入れてきた上高地で、この夏初めて一泊した。

 家人と昨秋嫁いだ長女という妙な組み合わせだったが、その一ヶ月ほど前、突然決まったのだ。

 自分にとっての上高地初期時代、つまりマイカーで入ることができた頃はいつも日帰りだった。

 そして、その後山に入るようになる頃には、日帰りではなくなり、朝早く足早に通り過ぎていく場所であったり、また疲れ切って帰りのバス乗り場へと歩き過ぎていくだけの場所であったりした。

 ところで、超が付くほどの人気観光地となった上高地だが、何かの拍子にそこで泊まるということが知られると、すぐにあのホテルか?と聞かれる。お世辞めいた質問だと知りつつ、とんでもないと否定する。

 もちろん、上高地で一泊と言っても、河童橋の下や小梨平でツェルトにくるまって寝るわけではないのであって、あのホテルではないホテルに泊まった。

 一応、あのホテルも確認の対象になっていたのだが、夏山シーズン最盛期の土日、しかも一か月前に部屋が取れるわけがなかった…と、言い訳にしている……

 しかし、たまたま空き室と遭遇したホテルもよかった。さすがに上高地である。これを書くとすぐに分かってしまうだろうが、上高地の代名詞である某池のほとりに建つホテルだった。

 午前のうちに上高地入りした一日目は、河童橋から明神を経て徳沢まで歩き、帰り道は明神から右岸の道に変え、そのまままた戻ってきた。

 上高地は一応1500メートルほどの標高なのだから、少しは涼しいはずと思っていたが、今年の夏は上高地でも異常だった。

 ホテルでチェックインする時に、フロントでそのことを強調されたが、部屋に入った時の室温の凄さに驚いたほどだ。当然、山岳地では冷房などないのが当たり前だ。ただ、部屋にはしっかりと扇風機が置かれていた。

 だが、窓を開けていても一向に部屋は涼しくはならず、山岳地であることを意識させてくれたのは、夜も更けてからだった。

 梓川左岸の道を久しぶりに歩いた。木立の中を歩いているときは、暑さも少しは和らぐ。

 明神館の前までは思いの外速いペースで歩いた。

 途中の明神岳を見上げる川原で足を止め、強い日差しの中でお決まりのように顔を上げる。明神岳は正面から見上げると、ゴリラの顔のようなカタチをしている。ずっと何十年も思っていたことを、今更のようにして長女に話すと、今はすっかり山ウーマンになっている長女が頷いていた。

 明神館前のベンチで当たり前のように休憩した。

 単に上高地を歩いていた(今はトレッキングというが)だけの頃は、ここは休憩しなければならないという場所だった。

 しかし、さらに奥の本格的な山岳地帯に入っていくようになると、この場所も通り過ぎるだけになった。この次にある徳沢でも休憩せず、梓川沿いでは横尾でザックを一度下す程度で、そこからは例えば涸沢ぐらいであればノンストップで登った。

 今は本格的な山行は自重しているからそれどころではないが、単独行の頃の馬力はどこへ行ってしまったのだろう。いや、自覚とか諦めとかが足りないだけかも知れない。

 明神から徳沢への道にはサルたちが大勢出てきていた。非常に友好的にというか、まったく気兼ねすることもなく我々の前を歩いていたりした。同じ祖先をもつということに、サルたちの方が深い理解を持っているのかも知れない。

 生まれてまだ日の浅い子ザルが、母ザルにしっかり抱き着いている姿も数組見た。幼いサルの顔というか、特に目にはさわやかに惹きつけられるものを感じた。

 サルたちとの並行(と言ってもほとんど蛇行であったが)は、かなり続いた。外国人のトレッカーたちも興味深げに彼らを見ていた。

 別に不思議なことでもないが、徳沢は変わっていた。

 いや、そう見えただけなのかもしれない。記憶などはいい加減なものだが、しかし、やはり変わって見えた。

 徳沢ではカレーを食べることになっていた。長女が決めていたのだが、やはり山岳地の昼飯はカレーで文句ない。しかも、徳沢のカレーは今有名らしく、こちらも一度は食べてみたいと思っていた。

 かっこいい食堂の隅っこのテーブルに、カレーライスが三皿並ぶ。長女は当然生ビールのジョッキも置きたかったと思うが、こちらが帰路の足への影響を考え自重したために遠慮したみたいだった。

 その代わり? カレーの食後にアイスクリームを追加した。これも徳沢の人気メニューらしい。そう言えば、徳沢は昔から牧場だった場所だ。食事を終えたテーブルの上を、徳沢の木立ちを抜けてきた風が流れる。

 結局、ビールは河童橋まで戻ったあと、閉店間際の店の前でいただいた。当然、美味であった………

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 ずっと以前に、徳沢を歩きながら、こんなところまでどうやって牛たちを運んだのだろうと考えていたことがある。上高地の歴史に興味を持ち出した頃で、松本藩の材木を管理する役人たちや杣人たちの日常なども思い浮かべたりした。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人なども重要な想像世界の登場人物の一人だった。

 

 暑苦しくて眠れない山小屋の思い出は、この上高地から登った涸沢ヒュッテでの一夜である。

 それこそ、35年ほど前の初穂高山行だった。

 横尾の小屋の前で、母の握り飯を頬張りながらラーメンを作っていた時、小屋のアルバイトらしき青年が、二階の窓から梅雨が明けましたァと叫んだ。

 周辺にいた人たちがおおッと声を上げ、熱気が動いたように感じた。

 その日は、上高地を出発した時からとにかく暑いと感じていて、梅雨明けの予感は十分あった。

 そして、横尾から一気に涸沢まで登った後、小屋の予約を早々に済ませたが、その人の多さに少々気後れした。

 案の定、眠れなかった。11時半頃には窮屈な寝床から這い出し、ザックを持って廊下に出ていた。それからどうしていたかは覚えていない。その後テラスに出て、4時前にコーヒーを沸かしクラッカーで朝食にした。どうでもいいが、商品名でいうと「リッツ」だ。それを三枚だけ食べた。小屋の朝食には行かず、外のトイレだけ借りて歩き始めていた。

 夜中、着込んではいたせいもあってか、全く寒さを感じなかった。

 

 上高地の眠れない夜は、早朝4時半頃で終わりにした。窓辺に立つと、対岸の焼岳山頂付近に朝日が当たっている。見下ろすと、某池のほとりに人の姿も見える。

 すぐにカメラを手に外に出ることにした。なんと立地条件に恵まれたホテルだろうと今更ながらに思う。

  上高地に来るようになって40年ほど。この美しい光景は、見てみたいけども、どうしてもというわけではない…… といったいい加減さでやり過ごしてきた。

 しかし、実際にこの目で見てしまうと、そんないい加減だった自分を悔いた。初めて上高地に足を踏み入れた時の、梓川の美しさに圧倒された時の自分を思い出していた。

 

 日が昇り、上高地はまた暑くなった。

 大きなザックを担いだ長女と、小さなリュックを担ぐ家人が並んで歩いていく。その後ろ姿を見ながら、歳月の経過を思う。

 いつものことだが、今回もまた、近いうちにまた来ようと歩きながら考えていた。

 河童橋の周辺は相変わらずのにぎわいで、岳沢から穂高の稜線にかけては薄い雲がかかっている。河原に下りて、梓川の水に手を入れた。

 もう少し静かになったら、顔を出してやるよ…… そんな奥穂高のぼやきが聞こえる。

 いや、聞こえたような気がした………

 

自分なりの旅について…の2

 ひとつの旅が、その人の生き方を変えてしまったという話を聞くと、正直言って少しうらやましくなる。ボクにはそれほど激しい思いを残した旅はない。

 しかし、その分、数日だろうが日帰りだろうが、ちょっとした旅の中にでも、自分自身をいつも研ぎすませていたような確かな思いがある。

 山を登るということに固執し始める前だが、ボクは日本の山の聖地である信州の上高地へと頻繁に出かけている。ちょうど20代の真ん中あたりの頃だ。

 今あの衝動が何だったのかと振り返ってみても、どこか不思議な感じがしてはっきりとはしない。ただ上高地が書かれた多くの本を読み耽り、そして毎日、上高地へ出かけることを楽しみにしている自分がいた。自分が上高地を歩いていることをはっきりと想像できた。

 まだマイカーでも入れる期間があった頃、多い時で一ヶ月に4回ほど通っている。そして、早朝の河童橋あたりから明神、徳沢、横尾へと足を延ばし、上高地というひとつのエリアについてはかなり精通したニンゲンになっていた。

 当時も多くの人たちが上高地を訪れていたが、大正池や河童橋周辺を抜けてしまうと、あとは静かな散策ができた。ボク自身、まだヤマ屋スタイルでもなかったが、歩くことにはまったく問題を持っていなかった。

 ボクは上高地に、すでに藩政の時代から多くの杣人たちが入っていたという事実を知り、すごく心を動かされていた。

 たとえば、梓川の流れを底辺にして、岳沢からせり上がっていく穂高の稜線を、すでにその人たちはその時代に見ていたのだということが、何だかとてもすごいことのように思えていた。

 考えてみれば、海に面した村の人々が海にその恵みを求めるのと同じように、山に抱かれた村の人々は山へと入っていく。そんな当たり前のことが、この上高地でもなされていたというだけなのだが。

 しかし、ボクはこんなことも考えていた。自分たち現代人が現代の街などの風景を知りつつ見る上高地と、昔の杣人たちが閉ざされた山村の風景しか知らないで見た上高地の違いは何か。

 そんなことを考えていくと、昔の杣人たちへの興味はどんどんと膨らんでいった。この地で、どのようにして彼らの日常が組み立てられ、そして流れていったのか。

 旅は非日常を求めていくものだなどといった決まり文句があったが、ボクは自分自身の非日常よりも、かつてそこに住んでいたとか、暮らしていたとかといった昔の人たちの日常を考えるのが好きだった。もちろん、そのことが自分自身の非日常にも繋がっていたのだが。

 史実として知る部分と自分の想像をはたらかす部分とを重ね合わせていくと、上高地というひとつの地理的空間が、歴史的な世界へと広がっていくような気がしていた。

 特に上高地の深遠な美しさは、想像することの愉しみを倍増させた。

 《時空を超える》という言葉が、雄大で動かしがたい自然の中では生きているような気がした。

 ボクは梓川左岸の道を歩き、時折河原に下りて、岩の上にすわった。広い河原に出ると、目に見えるのはどの時代の風景なのか判らなくなった。

 自分はひょっとして、数百年前の上高地にタイムスリップしているのかも知れない。そして、今振り返ると、あの杣人たちが煙管を吹かしながら語り合う光景に出会えるのかも知れない。そんなことを身体中で感じたりした。

 特に梅雨の晴れ間や秋空の下で、鋭く冴えわたった清々しい風に吹かれた時などは、今自分の周囲にある空気全体が、現代のものではないような錯覚に陥った。

 (……実は、翌朝上高地入りする予定でいる)

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 ボクの旅は、いつもこのような感覚の中で成立していたような気がしている。

 好奇の目によって見据えられたものは、すぐに旅の対象となり、その周辺を知りたいという軽い願望を生んでいった。

 それは衝動というほどではなかったが、例えば風景や歴史や生活という文字、響きそのものに心を奪われ、さまざまにそれらを巡ったりした。そして、キーワードが変わると、それまでにも何度か訪れたことのある土地が違って見えてくる感覚も味わった。

 例えば、それまで漠然と見ていた道沿いの一本の木にも、かつての街道という視点で見ると大切な要素が見えてきた。そこに何らかの《ものがたり》が想像されたりし、そしてまた、道から眺める山里の風景にも、街道という言葉が生きていた時代の風を感じさせた。

 実はボクにはずっと前から、見ているだけでグッと胸が締め付けられるような、そんな風景の存在がある。

 それらは、ほとんどが民家の散在する山里で、背後に小高い山並みがあり、またはその山並みに囲まれ、そして、手前には深くえぐられた谷川が流れている。

 ボクは必ず川の対岸にいて、時折息をとめながら、じっとその風景を見つめる。風以外には動いているもののない風景なのだが、風が動いているのははっきりと見ている。

 そんな風景を思い浮かべると、それらのすべてがボクの旅の産物なのかと思う。そして、その反面で、ひょっとして、自分は自分の前世を旅の中で見ているのかも知れないゾ…などと、考えたりもするのである。

 今もそうしたものを求める小さな旅を続けている。たぶん、まだ当分は続くと予想しているのだ……… 

 

 ※古い文章に加筆した……

 

 

自分なりの旅について…の1

 旅というものを考える機会があって、自分なりに“自分の旅”について思いを巡らしていた。すると、自分の旅というのはどちらかと言えば地味で、当然今風でもなくて、人に勧めてもあまり乗ってこないものなのだということが改めて分かってきた。

 旅が好きだと言っても、恥ずかしながら海外経験は二回だけ。定番のような新婚旅行と、仕事の研修旅行だけだ。

 こんな状態なのであるから、所謂、旅は海外しかないというニンゲンたちと旅談義などをしていても何だか落ち着かなくなり、敢えてこちらからは話に入っていかないようにしてきた…… 実は周囲に、ボクのことを世界の観光地に行き慣れたニンゲンだと勘違いする人が数人いた。そういった何の根拠もない勘違いは、ボクにとってはある意味非常に迷惑であり、そこでまた余計な言い訳なんぞを求められたりするのが嫌だった。

 ボクはただセーヨーの都よりも、ニッポンの田舎の方が好きだったのだ。

 そんな中で、いつも旅のスタイルは大切にしていた。どんなところへ出かける時でも、できるだけ自分が求める旅のスタンスを基本において、主たる目的が仕事であろうと何であろうと、自分の中の旅というものに結び付けていた。

 その基本は、歩くことだった。そして、それはその土地の歴史などといった要素に直結することもあったが、土地そのものをただ漠然と見て歩くだけということでもあった。

 振り返ってみると、そのきっかけとなったのは、学生時代に上州のある山間の温泉場へ行った時、ふらふらと周辺を歩いたことだったように思う。まだ二十歳の頃で、しかもその時は大学の体育会の行事かなんかで行っていた記憶があり、旅情を求めるなんてことはない。しかし、漠然と歩いていながら、今まで全く知らなかった空気を感じた。

 晩春だったが、気が付くと土埃をかぶった雪がまだ残っていた。突き刺すような冷たい風が吹く朝に、元気に登校していく子供たちを見た。足元の雪解け水の激しい流れに身体を震わせながら、野菜を干す老婆の手にはめられた軍手に妙な温もりを感じた。

 そういうものたちが目に焼き付いていた。あれはいったい自分にとって何だったのか。

 その年の暮れだったろうか、年末のアルバイトを終えたあと、ボクは新宿から松本を経由して金沢に向かう帰省の計画をたて、その途中寄り道をして、木曽街道を歩こうと決めていた。島崎藤村を読み耽ったあとということもあり、木曽は憧れの土地でもあった。しかし、中途半端な年の暮れ、寒さと寂しさが身に沁みた旅だった。

 翌年から年末の帰省はこのルートにし、松本で三時間半ほどの時間を作って、まち歩きや好きな喫茶店での本読みに充てた。これはなかなかのリッチなひと時であった。そして、大糸線松本発金沢行き(糸魚川で新潟行きとに分かれる)の急行列車に揺られ、時折無人駅のホームで、長い停車時間が与えられるという出来事なども楽しみながらの上品極まりない旅であったのだ。

 大学卒業の春には京都・奈良へと出かけ、旅の締めくくりに柳生街道をカンペキに歩いた。一日がかりの山歩きといった感じだったが、最後に高台(峠)から夕暮れが近づく柳生の里を見下ろした時の胸の高まりは今も忘れていない。

 柳生の里ではすっかり日が落ち、奈良市内へ戻るバスを待つ間、地元のやさしい酒屋さんの店先で休ませてもらったのを覚えている。

 その四ヶ月後に出かけた同じ奈良の山辺の道は、しっかり二日がかりの歩き旅だった。

 入ったばかりの会社を三ヶ月ほどでやめ、ふらふらしていた頃で、気持ちとしては完全な解放状態とは言えなかった。しかし、のちに山へも頻繫に出かけるようになる親友Sとの最初の旅が山辺の道であり、その後のドタバタを予感させるに十分な愉しさに満ちていた。

 大きな古墳のある町で予約していた旅館。たしか道中には、他にユースホステルしかなく、そっちはいろいろ面倒だからと、その旅館に予約を入れておいた。

 歩き疲れて旅館に着くと、ボクたちには三つの部屋が与えられ、食事はここ、寛ぐのはここ、寝るのはここと案内された。

 ボクたちが行ったのは九月。宿帳が出され記帳しようとすると、ボクたちの前は六月の日付が記されていた。

 ゆっくりしようとクーラーのスイッチを入れると、白い埃とともにカッツンという音がし、クーラーはそのまま止まった。寛ぐ部屋は使用不可となり、食事する部屋へと移動。こちらのクーラーは問題なかった。

 トイレに行くと紙が置かれていないので当然もらいに行く。風呂は浴槽となる大きな桶が真ん中にドスンと置かれ、それ自体はもちろん、セメントの床もカラカラに乾いていた。もちろん湯は入っていない。どうすればよいかと聞きに行くと、自分で入れてくださいと言われた。ボクたちは当然浴室掃除もした……

 その反動もあってか、夕食時間は二人で異様に盛り上がった。その旅館は本業が仕出し屋さんで料理は質量ともに申し分なく、しばらくすると飲めや歌えとなり、床の間に置かれてあった太鼓と三味線までが持ち出された。Sが太鼓でボクが三味線を受け持ってのジャムセッション……ところが、乗ってきてトレモロ弾きをしたところで三味線の糸が切れてしまった。なぜか異様におかしく、二人してただ笑い転げていた。

 そのうち、立ち上がろうとして浴衣の裾を踏みつけると、下半分が切れ落ちてしまうなど、とにかく何が何だか分からなくなったが、それでもひたすら笑っていた。その後、隣の寝る部屋へとなだれ込んだのだろうが覚えていない……

 その後、再就職も決まって日々に落ち着きが生まれると、ボクの旅も少しずつ色を変えていった。歴史系からどんどん自然系に走っていった。しかし、道中の街道探訪や土地歩きなども欠かさず、旅に出ているという気持ちのあり方は今でも変わっていない。ディスにーランドへ行くというのを旅だとは思わないが、その道中は十分に旅にできる。そんなふうに考えられるようにもなったのである………

 

※古い文章に少しだけ加筆した……

 

 

朽木街道を行く

 久しぶりに京都・大原の里をゆっくり歩き、翌日も奥嵯峨の方まで足を延ばして来よう…という旅に出た。

 と言っても、その上り下りの道中は、30年ぶりぐらいの「朽木(くつき)街道」であって、どちらかと言えば、その道中の方 に重きがあったと言ってもいいかも知れない。もちろん、そのようなことは助手席の家人にも言っておいた……

 「朽木街道」を知らない人でも、「鯖街道」と言えば知っているにちがいない。かつて、越前から京へと鯖が運ばれた道だ。

 最初に朽木街道のことを知ったのは、今から40年以上前である。この雑文集にも再々出てくる司馬遼太郎の『街道をゆく』でだ。この街道をめぐる紀行は、19711月から週刊朝日で連載が始まったが、その3・4回目が朽木街道の話だったと思う。

 当然、その時をリアルタイムに知っているわけはなく、その後に文庫本の第1号が出てから知ったのである。

 そして、当初この街道への関心は、京都大原に抜けられるという話から始まった。大原や比叡山の方に、金沢から日帰りができるというのが魅力だった。

 京都へつながるというのは、かつて織田信長が浅井・朝倉軍に敗れ、家来たちを置いて逃げ走ったという話で有名?であり、信長嫌いのボクとしては、その意味でも痛快な道であった。司馬遼太郎もこの話を詳しく書いている。

 ボクはその話よりも、深い谷の道とか、街道らしい美しい水の流れがあるということに惹かれていた。

 当時(40年前)の道は今のように整備されていなかった。観光道路ではなかった。大型車とすれ違う時などは少し怖い思いをしたし、もちろん道の駅などもあるはずがない。

 ただ、静かで、季節感にあふれた道だった。

 そんな道(朽木街道)を何度も走った。これも『街道をゆく』からの影響だが、大原から鞍馬街道へ抜け、あちこちをめぐりながら、最後は嵐山に宿をとったこともあった。鞍馬への途中には杉木立の中の細い道があり、林業の人たちにご迷惑をかけまいと、ひたすらアクセルを踏み続けていたのを覚えている。そう言えば、あの時も今のように新緑が美しい季節だった。

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 金沢から高速をつなぎ、若狭街道と名付けられている道を走ると、滋賀県に入る前、つまりここはまだ福井県なんだなと思うあたりに熊川宿がある。

 先はまだあるからと、宿場のはずれにある道の駅でわずかな休憩をとるのみにする。

 ご高齢ライダーたちが、こうしないとカッコが付かないのだよ…と言わんばかりに煙草を口にくわえている。その集団を横目にトイレへと行かねばならない。

 こういう時よく使うギャグが、タバコ吸ってもいいけど、吐いちゃダメだよというセリフだ。特に、吸っていいすか?と問われた時などには、よく受ける………

 まだ昼には時間がたっぷりある。その日は気温が30度を超えるらしいと聞いていたが、このあたりもすでに陽射しが強く新緑が眩しかった。

 熊川宿を過ぎるとすぐに滋賀県に入り、若狭街道から分岐していよいよ朽木街道へと入っていく。

 ところで、一般の地図上には朽木街道という表記はなかったような気がする。『街道をゆく』の中にあった地図には、明確に記されているが、その堂々とした表記がいい感じでよかった。

 クルマに加えてオートバイが多いのは、この道の気持ちのよさのせいだろうと思うが、京都の人たちが海に出るのに便利な道であることも想像できる。奈良はもちろん、京都の中心部も海とは縁遠いイメージがあって、高貴な歴史文化には海とつながる道が必要なのだ…と、勝手に思ったりした。

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 朽木の中心部であると思われる「市場」という町の中でクルマを止めた。

 朽木の杣人(木こり)たちが四方の山々からこの市場へと降りてくる…と、司馬遼太郎が書いていたように、ここには現在の高島市の支所や学校、商店などが集まっている。道の駅もあった。

 その古い家々が並ぶ光景は実に不思議な世界で、百貨店と名付けられたユニークな外観のお店や旧商家、郵便局なども目を引き何度となくカメラを構えさせる。家人もクルマを降り、この古い町並みを楽しんでいた。

 大原までの道はここからさらに山深くなっていく感じで、それにしては道がいいなあと思っていると、見下ろす集落の中に延びている狭い道が、かつて自分が走っていた道なんだろうと想像させた。

 「花折」という懐かしい地名が出てくるのは、その名のついたトンネルに入る時だ。琵琶湖大橋まで通じているという道と分かれるのが「途中」。この地名も見覚えがあり懐かしい。

 峠を過ぎて道は当然下りになり、しばらく行くと美しい白い花たちに迎えられる。林間のゆるやかなカーブが続く、快適な道が待っていた。

 もう京都府にいる。

 それからまたしばらく行くと、果てしなく青い空の下に、大原の里が広がっていた……… 

 ※続編『朽木街道を帰る』『朽木街道で大原へ』へと続く予定……

 

 

三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も徐々に不要な人物が出てくるほど続いている。

 今回は生粋の勝沼人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空…… 納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

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 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

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 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

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 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

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 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

 

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

昼から夕方にかけての山村谷歩き

 

 山村歩きをしながら、必ず考えてしまうのが「シャンソン」のことである。

 どうでもいいようなダジャレなのだが、昔流行ったギャグである「新春シャンソン・ショー」をもじって、「山村シャンソン・ショー」とアタマの中で呟いている。

 アタマの中だから、結構派手に両手を広げショーの司会者ぶった言い方もしたりする。客席からの拍手なども聞こえてきて、アタマの中はかなり盛り上がるのだ。

 しかし…、実際の山村はいつも静まり返っている。

 鳥の鳴き声がたまに聞こえたり、もっとたまにクルマのエンジン音が遠くに聞こえたりするくらいだ。

 しっかりと、それなりの気合を入れて山村歩きを楽しむのは三ヶ月ぶりだろうか。

 地域的には二度目で、富山県の山田村あたりだろうと、いい加減に位置付けている。ちょうど一年前ほど前、もう少し秋が深まっていたような時季に初めてこの辺りを訪れた。

 その時のことは実は書いていない。とても感動的だったのだが、なぜか書く気にならず、結局書こうとすらしなかった。

 とても感動したから、気力が湧いてこないと書けないことがある。このあたりは、いくら雑文と言えども情けないくらいに心が折れ、書き切れなかったことを悔やむのである。

 

 今回はやや遅い時間の出発だった。

 前回は最初からクルマで少し登り、それから深い谷に下りて、視線の先に浮いているような水田(稲刈りは終わっていた)を見ながら、畦の上で「握り飯」と「いなり寿司」(双方ともコンビニ)を食するという贅沢なランチタイムだったが、今回は道路脇のちょっと歩道が膨らんだようなスペースにクルマを置き、同じものを慌ただしく呑み込んでいた。

 歩き始めたのはちょうど昼頃だったろうか。

 相変わらず、ほとんど先を見越していない山村歩きだ。いつでも引き返す心の準備は出来ている。

 登り口からすぐに急な道になったが、民家が道沿いに数軒並んでいる。

 白山麓の白峰にあるように、このあたりの民家にも屋号が付けられている。地元の文化を愛する人たちが住んでいるのだろうと推測できる。少し奥まったところの民家の庭では、十人ほどの人たちが集まって、何らかの会合が開かれてもいた。

 いきなりの坂道を、まだ調子の出ない足取りで登った。

 本格的な山行から遠ざかること数年。もう足元はトレッキングシューズばかりとなり、生涯四足目?のまだ新しい登山用ブーツは、部屋の中でずっと眠っている。

 かなり以前、太郎平小屋までの道で足に馴染んでいた靴(高かった)の底がはがれ、翌朝、太郎の小屋から薬師沢へ向かう際に、小屋の五十嶋マスターのゴム長靴を借りていったことがある。軽かったが、やはり石だらけの道では足の裏が痛かった。

 結局、帰路、登山靴はテーピングによってほとんど白一色になったまま、登山口の折立まで辛うじて持ったが、手入れがされていないといくら高価な靴でもダメなのだ…ということを、その時思い知らされた。マスターの長靴を一日履かせてもらったという喜びとともに、どこか虚しい記憶でもある。

 そういうことを思い出しながらのスタートだった。

 畑が過ぎたあたりからの道は、しっかりと整備された林道のイメージとなった。畑の中にトランジスターラジオがまるで巣箱のようにしてカッコよく置かれていた。クマ除けだと思うが、農作業しながらラジオを楽しむというセンスの良さみたいなものも感じられて、こちらもスマホに納めてある音楽を鳴らした。

 もちろんイヤホンなどは使わない。ズボンの後ろポケットに差し込んで、ここはやはりいつものベイシー・オーケストラで、クマを近づけないようにと配慮?した。

 木立に挟まれながらまっすぐに坂道が延び、その後左の方へと折れていく。天気はとてもよいというわけではないが、十分に汗をかかせてくれそうだ。

 いつも思う。こういう場所を歩いている理由を聞かれたら、なんて答えようかと。

 一応、カメラをぶら下げているから写真家とか、研究家とか、そうした類のニンゲンだと思ってくれるかもしれない…。そんなことを考えているのである。

 歩き始めから見れば、かなり登ったかなと思えるほどの道を歩いていた。

 林の中にぽつんと畑があったりする。何か観光的に造られたのではないかと思えるバンガローのような小さな建物もあったりする。

 どちらにしても、いつものように静かな歩きだ。スイングしまくるベイシー・オーケストラはすでに消してある。クマには遭いたくないが、静けさもやはり大事なのである。

  三十分ほど来たところで道が分岐した。

 一方は高い方へと延びていたが、谷に下る方へと向かう。なんとなく上の道は予測できた。これを行ってしまうと、今日の帰りは相当遅くなるかもしれない、そう判断した。それとずっと先には前回歩いた道が繋がっているはずだった。一年前、道がなくなるところまで登ったことを思い出した。

 それを理由にして、ゆっくりと下ってゆく道をたどった。正解だったのは、その先に美しい森があったことだ。

 下って行くと、奥にポツンと一軒だけが立つ民家を見上げながらの明るい道に出た。左手は、急な傾斜となって下っている。真下には鳥居が見える。栗の木があるのは、民家の方が植えたものだろう。

 グッと下って、水田の道を歩き、さらにしばらくして森に入って行く道をたどる。

 森と言っても、歩いて行く道はしっかりと舗装されている。ただ、地元の農家の人たちが通るだけの道だろうから、それらしく暗くて、通り過ぎてゆくクルマなどない。路上は落ち葉でいっぱいだ。

 一段と静まり返る森の中で、美しい緑色の何かが映えていた。よく見ると、切り株の上に生えた苔の緑だった。

 道から森の中へと足を踏み入れ、しばらく枯れ草の感触を味わう。湿った空気が一気にカラダ全体を包み込むような、そんな感じだ。汗ばんでいたのが、少し涼しくなった。あたりも静まり返り、息を殺すように足を進めては立ち止まる。

 愉しい森歩きはしばらくして終わった。

 そして、森を抜けると、のどかな風景が広がった。

 それもまた、見事だったのだ。

 蕎麦の花が咲いている。奥行きの深い谷あいに広々とした空間があり、思わず深呼吸をしてしまうくらいの正しいのどかさだ。

 ぽつんと人家らしきものがあったりするが、実際に人が住んでいるのかは分からない。農作業の休憩所を兼ねた別荘みたいな存在なのかもしれない。

 気持ちのいい開放感に浸りながら、のんびりとした気分で下ってゆく。相変らず人影は全くない。

 人家が見える。だから山村であり、山里なのだとアタマの中で呟いている。

 こうしたことが山村歩きの楽しみだ。本格的な山の世界から遠のいたあと、こうした楽しみに救いを求めたようだが、本来は街道歩きのように、こうしたスタイルも嫌いではなかったのだ。むしろ好きでもあったわけだ。最近テレビでよく見る“ロングトレイル”なるものへの興味も、こういうことの延長上にあるのだろうと、自分で思っている。

 しかし、日常しか見ていない人は、こういうボクの姿を見たらなんて言うだろうか?

 いや、待て…、家族ですらボクがこんな場所でうつつを抜かしていることなど想像もしていないだろう。

 かつて、岡田喜秋氏の本を読んでほくそ笑んだ記憶がよみがえってきた。

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 下って、さらに下って、先が分からないような谷の中で“単独”を楽しむ。

 “孤独”ではない。“単独”なのである。

 相変わらず、イノシシたちの行儀の悪さをいたる所で見た。しかし、この山村に住む誰かが植えたのであろう素朴な花々が、そんな傷跡など構うことなしに咲いている。

 もう道は下るばっかりになっていった。少し外れて、道草をする余裕も出てきた。

 ふと蕎麦の花が咲き広がる平地を見つけたりする。木々の隙間に、傾斜を登る細い道が見えたりもする。すでに、二時間半ほど歩き、さらにまた下った。

 もう一度幹線道路に戻って、また新しい道を探すのもいい。一瞬そう思ったが、今から登り返す元気はなかった………

 

 

 

 

 

 

 

晩夏っぽい初秋の白川郷雑歩

 

 思い立ったように、家人と白川郷へと向かう。

 若い頃の思い立ったという状況には、ときどきクルマを走らせてから咄嗟に決めるということがあったが、齢を食うと、そんなことはほとんどない。

 今回は、なんとなくアタマの中でどこへ行こうかと迷いつつ、前夜のうちにほぼ決めていた。ただ、なかなか踏ん切りがつかず、一応朝決めたみたいな状況になったために、“思い立ったように”と書いたまでである。

 そういうことはどうでもよくて、久しぶりの白川郷は、まずとにかく暑かった。

 木陰も気持ちよかったが、歩いている途中で見つけた休憩所になった旧民家の畳の間も気持ちよくて、横になっていると、そのまま浅い昼寝状態に落ちていった。

 最初は我々だけだった。しかし、我々の気持ちよさそうな姿を見つけた往来の観光客たちは、当然のように、しかも怒涛の如くなだれ込んで来て(ややオーバーだが)、しばらくすると、かなりの混み具合になっていたのだ。

 さすがに世界遺産・白川郷なのである。

 今回も金沢から福光へと抜け、城端から五箇山へと山越えし、岐阜県に入ったり富山県に戻ったりを繰り返した。途中、五箇山の道の駅「ささら館」で昼飯を食べた。

 ささら館の店では久しぶりに岩魚のにぎり寿しを食べたのだが、早めに入ったおかげで、ゆとりのある昼食タイムになった。あとからあとからと客が入って来て、一時ほどではないにしろ、相変わらず高い人気であることがうかがえる。

 初めて来たのは、NHKの人気番組で紹介された後だった。あまりの客の多さに、店員さんたち自身が怯えているように見えたほどだった。

 白川郷に着いても、特に焦って動くほどでもなく、駐車場の奥の方にあったスペースにクルマを置いてゆっくりと歩きだす。

 庄川にかかる長い吊り橋には相変わらずすごい人が歩いている。真ん中が下がって見えるから、人の多さに吊り橋が緩んでいるのかと錯覚してしまうほどだ。言うまでもないが、実際にはそんなことはない。

 9月の終わりだからコスモスが目立つ。

 最近見なくなっていると、自分の尺度で珍しがっている。

 街なかの住宅地の空き地にコスモスが植えられていると、そのことが「しばらくここには家は建ちません」といったお知らせ代わりになっている…そんな話をこの前聞いた。

 コスモスはやはり高原とか、畑地に咲いているといったイメージがあり、ボクにはそうした場所で見るコスモスに強い親しみを感じたりする。だから、住宅地に無理やり凝縮型に植えられたコスモスを想像すると、なんだか情けなく感じる。

 そういえば、いつか能登の道沿いで出会ったコスモスのいっぱい咲く畑に居たおばあさんはまだ元気だろうか……と、白川郷のおばあさんを見ながら、能登のおばあさんのことを思い出したりした。

 もう何度も来ているから、白川郷のほとんどの場所は行き尽くしている。見学できる有料の合掌家屋なども、世界遺産になる以前に入っていたりするから、今さらながらだ。

 そんな中でまだ入ったことのない(であろう)一軒の家屋を見つけた。

 今回は特にメインの道というよりも、田んぼの畦に近いような脇道を歩いていたせいだろうか、その家屋はふと今まで見たことのなかった視界にあった。

 地元の人ではないような?… 都会的な匂いのするスタッフがいた。てきぱきと受け答えをし、忙しそうだったが、この家が生活の場でもあると確認し、ああやっぱり白川郷だなあと思った。

 世界遺産になって初めて訪れた時、こんなにも違うのかと、目を疑うほど観光客が増えていたのに驚いた。ちょうど今回と同じような夏の終り頃だったと思う。

 そして、集落の中を歩いていた時、部活から帰ってきたらしい中学生の女の子が、畑にいた母親の手伝いをしに行く様子を見た。

 すぐそこにあるといった日常の光景だった。

 周囲には自分も含めた観光客たちが、かっこよく言うと非日常を求め彷徨っている。しかし、その母娘の姿はまぎれもない白川郷の日常だった。

 もともと、日常が見えるからこそ旅は面白いのだという感覚があった。この集落を歩く時にも、なんとなく地元の人たちの日常を探すようになっていた。

 ずいぶん前のことだが、年の瀬の木曽で、年の瀬らしい日常を見せつけられ、独り淋しい旅の夜を過ごしたことがあった。学生時代の帰省と合わせた旅であったから、そこで見せられた民宿の中の日常の光景に望郷の念(大袈裟だが)が高まったのかもしれない。

 若かったが、冷たい冬の空気が体の芯にまで沁みていた夜だった。

 旅人が非日常を求めるというのは、そこで暮らす人たちの日常を見るということだとよく言われたが、それはさりげなくであるのがいい。

 ただ、自然などの普遍的なものとともにある生活様式も、時代とともに変化して当然だ。

 中学生の女の子が着ていた、どこででも見るような体操着。母親のおしゃれな帽子。どれもが日常である。

 暑さも増した午後、水田では稲刈りが普通に行われていた。

 こちらはただその場を通り過ぎていくというだけでいい。なんとなく感じるものがある。

 白川郷でいつも新鮮な思いを抱かせてくれるのが“水”だ。特に暑い日には、道端のその流れの様子そのものが爽やかさを伝えてくれる。

 道端の水が勢いよく流れているのを目にすると、その土地の豊かさを感じる。どこの山里でも同じで、それは単に農業や生活への恵みなどといったものを超越した豊かさのように思える。水の持つパワーは偉大なのだ。

 何気なくといった感じで、白川郷を訪れ、何気なくといった感じで白川郷を後にした。

 いつも立ち寄っていたコーヒー屋さんが閉まっていたのを、行くときに見ていたので、どこかで新しいコーヒー屋さんを見つけようと思っていたが、果たせなかった。

 国道を走ると、高速への分岐を過ぎたところで喧騒が消える。

 走っているクルマは極端に少なくなる、特に五箇山方面は。

 静かな五箇山の、村上家の近くで、ソフトクリームを食った。

 家人は「美味しい」を連発していた。自分もまあそれなりに美味いと思い、適当に相槌を打っていた。

 神社ではお祭りの準備が整っている。こきりこの祭りだ。 

 慌ただしそうで、それなりにのんびりとした時間が流れているなあと思っていた………

白いワンピースの少女

 海につながる道にさしかかると、よくドキドキした。

 今は全くそういうことはない。

 かつて、誰かの小説に、白いワンピースに麦藁帽子をかぶった清楚な少女が海辺から歩いてくる…といった内容の話があり、はるか以前、つまり小学校の頃、同じような少女にわがゴンゲン(権現)森の浜で出会ったことがあって、この一致があって以来、どうもそのような場所には白いワンピースの少女がいそうな気がしていた。

 出会ったその少女も、白いワンピースがかなり似合っていた。

 余計なお世話的に書いておくと、ワンピースはフォーマルっぽいのではない。風にひらひらと靡くようなものだった。

 しかし、はっきり言って、廃れ果てた魚捕りの孫的少年には、身分や育ちやその他モロモロの違いが歴然としており、半径約五メートル以内にはなかなか入っていけなかった。

 少女はボクよりいくつか年上だったように思う。街の子であることは間違いなく、一緒にいたお母さんも完ぺきに街のお母さんだった。

 なにしろ、おやつのお菓子を持っていた。

 われわれ(急に構える)みたいに、海に潜って採ってきた貝を、砂の上で焼き、熱いのをそのまま海水に浸して頬張るなどといった輩とは違った。

 ふかふかして見えるハンカチも持っていた。それを額にあてたりしながら、ちょっとまぶしそうな顔をすると、その表情が天使の可愛い怒りのようにも見えた。

 もちろん彼女は怒っていたわけではない。

 街から来たであろうと思われる海水浴の少年少女たちは、たまに海の中でやや臆病そうな素振りを見せたりした。すると、われわれは近づいて行き、わざとバタ足でしぶきを上げ、そして、そのまま周辺に潜ったりした。

 こうした街の子たちは、浜茶屋が出来た頃から自家用車に乗って、わがゴンゲン森海水浴場にも来るようになっていた。当時のボクには新鮮な存在だった。

 が、そんな中でも、白いワンピースの少女は別格だったような気がする。彼女は、それまでの十年ほどに及ぶボクの人生の中で、最も輝いていた女性だったと言っていい………?

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 そんなわけで、八月の下旬のよく晴れた暑い午後、いつもの志賀町図書館で用事を済ませた帰路、柴垣の海に出る細い道に入り、そのまま海岸までクルマで乗り入れさせていただいた。

 その途中にあった海に出るあたりの光景が、なぜかとても懐かしく、ちょうど西に傾きかけていた陽光もまだまだ鋭くて、やっぱり夏だなあといった心持にさせてくれた。

 腰紐をうしろで縛った白いワンピースの清楚な少女が、両手を軽く腹の前あたりで重ねながら歩いてきても不思議ではないと思ったが、当然そんなことはなかった。

 砂浜に革靴で立つ…… 海を見る。空を見る。白い雲たちが好き勝手に流れ、実にアヴァンギャルドな光景を描いている。

 青い海に白い波、青い空に白い雲、夏は青と白でできている。

 海で育った少年時代の思い出の中に、白いワンピースのちょっと大人っぽい少女の姿があるのも、たしかに正当な存在なのであるなあと納得する。

 砂浜に立っていたのは、ほんの五分ほど。白いワンピースの少女の思い出は、その後すぐに、寂しく消えていった………

 

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

 旅ごころが自分の中に根付いたきっかけは何だったのか? 

 この古い本は最近になってヤマケイ文庫で復刻したものだが、その中に懐かしい答えがあったような気がした。

 90歳を越えた著者の青春時代の出来事を綴ったエッセイが、旅と人生とをつなぐ素朴な何かの存在を教えてくれる。

 いくつかの作品に心を動かされたが、特に『常念岳の黙示』という短い文章から感じ取ったものは、かなり心の奥にまで届いているように思う。

 東京人の著者が、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだ理由が、どこか清々しく、そして、なぜか切なくもあって、読んでいる者(つまりボクだが)の心に迫るのだ。

 それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしたのかもしれないと考えさせたりする。

 そして、“自分に黙示してくれるもの”として常念岳を見つめていた著者の姿を想像し、どこか切迫感に襲われたりもするのだ。

  『常念岳の黙示』の中で、特に山に傾倒していく著者の、山は動かない…つまり、山は黙ってすべてを分かってくれている…そうした解釈と、そのことによる安堵の心境表現がとても好きだ。

 山を含め、風景にはこのような黙示のチカラがある。

 星野道夫もどこかで書いていたが、このチカラが何かの決断に作用することもある。ヒトの心情を動かし、さらにヒト自身の形成に影響を及ぼすとさえ思える。

 そして、ヒトが旅をするのは、そうしたチカラに促されるからなのだろうと思う。

 ボクは人に自慢できるような大それた旅など経験していないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。だからこそ、風景(や情景)などに素直に向き合おうとしていたのだと思う。

 風景にはすべてが止まったままで、動きがないということはありえない。上空の雲たちや、山里の家並みからのぼる炊事の煙や川の流れも形を変えていく。時間の経過などから、その色や陰影をかえていくことも普通の現象だ。

 しかし、底辺にはやはり動かないものがあり、それ自体にまず大きなチカラを感じ取るのだと思う。

 二十代のはじめ、上高地を初めて訪れ、穂高の連峰を見上げた時の感動は今でも忘れないが、その根底にあったのは圧倒される山岳風景の偉大さだったのだろう。そして、あの時から確かに自分の中の何かが変わっていった。

 ボクはあの時以降、本格的に山に向かうようになった。山に登るだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ちだした。

 すでにずっと購読していたジャズ誌に加え、『山と渓谷』も購読し始めた。

 さらに、街にいて仕事をしていても、山のことを考えるようになり、実行できなかった計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送っていた。

 今から振り返ると、仕事で様々なことをやらかしてきたが、何をやっていても山の世界に憧れてばかりいるニンゲンという認識を持たれていたとも思う。

 山はそうした意味で、奥深く、やはりあこがれの対象になり得たのだ。

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 常念岳から黙示された著者も、あくまでも山=常念岳そのものを見た。

 常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたというラストには純粋に感動を覚える。

 「黙示」の意味を考えながら、久しぶりに何度も読み返した。そして、またあらためて旅について考えようとしていた。しかし、なぜかアタマの中が整理できなくなり、ついには山のことに対する後悔ばかりを考えるようになってしまった。

 ただ、今自分が毎日の煩わしい時間の隙間に実行している、山里歩きや森林歩きなどを思うと、その素朴な楽しみが旅の延長上にあったのかもしれないと思う。

 そして、こういう心持に決して今の自分は満足していないということも事実で、またそのうち、北アルプスのどこかに自分という存在を置いてみたいと考えてもいる。

 何がそうさせるのかは分からないが、とにかくあこがれが絶えることは自分にはないような気がするのである………

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※岡田喜秋氏は、月刊誌「旅」の元編集長。ボクにとっての氏の存在は、『山村を歩く』から始まった。氏の話にはとても付いていけないスケール感もあったりするが、ボクが求めている小さな旅心みたいなものと共通する何かもあって、最近では、大体手の届くところに氏の本が置かれていたりしているのだ………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

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 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

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 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

内灘の風景~河北潟放水路周辺のこと

 今さらのような話を先にすると、ボクが生まれ育ち、今も住んでいる石川県の内灘というところは、南北に細く長く伸びた小さな町なのである。

 なぜ南北に細く長く伸びているかというと、東西に河北潟と日本海という水圏があり、それらに挟まれた砂地の上にできているからだ。

 地学かなんかで習ったとおりだが、ずうっと大昔、海水によって陸の土が削られた後、沖合に堆積され細長い陸地ができた。

 つまりそうした事情により、内灘は南北にしか伸びようのなかった町なのであり、ついでに言うと、河北潟も砂丘が形成されていくのに合わせ、海水の抜け道がなくなり、そのまま淡水化してできたという水圏なのである。

 昭和の中頃、諸般の事情を経て河北潟干拓という一大事業がスタートしたが、それによって河北潟はそれまでの三分の一くらいの大きさになってしまった。

 歴史などという感覚を通り越す、気の遠くなるような時の積み重ねを経て出来上がった河北潟が、それに費やされた時の積み重ねとは比べようもならないくらいの微かな瞬間に小さくなった。

 その時、河北潟に流れ込んでいた河川からの水を捌くために日本海に抜ける水路、つまり今の放水路が造られたのである。

 

南北に伸びた町の真ん中(あたり)に放水路ができ、なんとなく町が二分されたような空気が漂った……かどうかは知らない。少なくとも少年だったボクには、放水路ができようができまいが、どうでもいいことであったのは間違いない。

 ただ、今砂丘台地の道路をつないでいる「サンセット・ブリッジ」という橋ができるまで、放水路周辺に対して積極的な仕掛けや施しなどはなかったように思う。

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 もともと放水路について、あれこれ思いを巡らせていたわけではない。

 放水路ができていく過程のことも、あまりにも時間がかかっていて薄らぼんやりとしか認識がない。

 少年のボクにとって、干拓と放水路は別物であり、干拓工事の中の遊び場は水っぽく、放水路工事の中の遊び場は砂っぽかった。そして、どちらにせよ、非常に稀な環境の中にいるという自覚などあるはずもなく、たぶん町の人たちの中にも(風景的なこととして)大した思いを抱いていた人はいなかっただろう。

 

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 出来てからもう何十年も経っている河北潟放水路に、あらためて足を運んでみるようになったのはたまたまだ。

 正直、内灘の風景が全国に誇れる魅力を持っているなどとはカンペキに思っていない。

 さまざまな風景に強い憧れを抱いてきた自分にとって、それを満たしてくれるだけの強くて心地よい要素が内灘にあるとも感じていない。

 内灘の風景と言えばずっと海だった。それが当たり前だった。

 ただ海では、能登には勝てない。別に勝負するわけではないが、能登の海にあるような普遍的な要素は内灘の海にはない。

 魚を追い求めたボクの祖父たちのように、海を生きるための場としてきたオトコたちもいなくなった。

 海を軽視するのではないが、そろそろ内灘の新しい風景論みたいなものが見えてきたのではないか 自分の故郷としての風景(もちろん良質のだ)を、とりあえずマジメ(素直)に見つめてみるのもいいのではないか そう思う。

 内灘の今の姿は、自分が子供の頃に想像していたもの(大した想像でもないが)を超えているとボクは思う。

 開発とはこうしたものなのだろうが、生活の場が拡大していくと町の風景そのものも変わっていくことを、内灘というところは特に強く物語る。

 内灘では生活の場が砂丘台地上に広がっていくにつれ、風景も根本的に変わっていったのだ。

 南北に伸びた高台、つまり砂丘地が激変し、そこから眺める東西の風景がより魅力的になった。

 北アルプスの稜線から昇る朝日と、日本海に沈む夕日………

 よく使われてきた内灘の情景表現だが、かつて生活の場が砂丘台地の東側斜面下、つまり河北潟沿岸にしかなかった頃にはあまり味わえなかった風景だろう。

 砂丘地の畑などではところどころから見ることができたかも知れないが、しかし日常の生活の場ではなかった。

 そういう風景のことをあらためて思い、もし河北潟が干拓されいなかったらと考えた人たちがいたことも当然だ。

 しかし、今は敢えてそんなことは蒸し返さない。

 人がその土地の特徴を語る時、一番先に出てくるのが風景であるとボクは思う。

 当たり前だが、風景は普遍的要素の最たるものだと。

 人の営みは繋がれていくものだが、風景の土台にあるものはじっとしている。

 だから、風景に敏感であるということは、その土地の魅力を知る第一歩に違いないとも思う。

 河北潟周辺、放水路を含めた一帯の風景は、まちがいなく稀有であり美しいと言えないか…………

 二月終わりの休日。陽が少し高く昇り始めた頃………

 河北潟に張り出すように造られた「蓮湖渚公園」の駐車場にクルマを置き、公園の道から放水路に付けられた道へと歩いた。

 蓮湖とは河北潟のかつての名前であり、この名前の方がなんとなく好きだ。

 水際の道は気持ちがいい。

 湖面がおだやかに揺れ、宝達山、医王山、犀奥と呼ばれる山域のの山並みや白山、さらにはるか東方の奥に雪を頂いた北アルプスの稜線が見えている時などは、風景に心が押されている自分に焦燥のようなものを覚える。

 

 そして、空の広さや深さがそれにまた追い打ちをかける。

 心の中で微かに声を出している自分が分かる。

 このあたりに、美味いコーヒーが飲める店があったらいいと思うようになったのはつい最近のことだが、この眺望なら、コーヒーの味には文句は言わない……かも知れない。

 

 サンセット・ブリッジが近くに迫ってくると、公園から離れ、県道を横切り、いよいよ放水路横の道へと入っていく。

 全国的に見て、特に大きい部類に入る橋なのかどうかは知らないが、真下あたりに来ると、やはりその威圧感はすごい。

 もし「全日本デカ橋をひたすら見上げる会」というのがあるとしたら、たぶん多くの会員たちは歓声を上げるに違いないと思ったりもする。

 橋は本来、上から眺める風景に価値を見出すものだろうが、サンセット・ブリッジには残念ながらその機能がない。

 だから、せめて下から見上げて、オオ~などと感動の声を上げてやりたいと思うのである………

 

 二月の終わりにしては暖かい午前だった。

 橋の陰になった放水路の水面に冬鳥たちが多くいるが、彼らも少し陽気がよすぎて日陰に集まっているのだろうか。

 放水路横の道は、厳密に言うとわずかにカーブがあるが、ほぼまっすぐに伸びている。

 川とは違うが、水が河北潟から日本海の方へと流れるのだから、今は左岸を歩いていることになるなどと考えている。

 水辺だから時折冷たい風を感じたりするが、すでにカラダは十分に出来上がっていて快調な足の運びなのだ。

 歩いていることよりも、放水路の地形を楽しんでいるということの方にアタマがシフトしているのも分かる。

 一般的に放水路と言えば、単に河川の流れを分散させるようなイメージではないだろうかと想像する。

 だから、そこにある風景は川のイメージだろう。

 しかし、ここは違う。ここは、標高50mほどの砂丘が削られたその最下部なのだ。

 急角度の斜面(専門的には法面)が両岸に広がっている。

 風景としては非常に稀な特徴をもっている。

 ただ、今ははっきり言って放水路の斜面は雑である。

 裸木と枯れたままの雑草が放置状態になっていて、特に道端の草の中に散乱するゴミも捨てられ方が遠慮がちではない。

 目線をできるだけ水平以上にしてさらに歩く………

 

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 ここは、今最も内灘を魅力的に伝えることのできるスポットかも知れないと、ふと思う。

 風景は眺望だ。視覚からココロに入り込むものだ。

 その要素にこの場所は適っている。

 さらに、広い空を繋いで振り返ると、日本海がすぐそこにあるという恵まれた環境を加えれば、かなりいい感じがする。

 言い換えれば、これはこの場所の個性なのだと思う。

 周辺のストーリーもドラマチックではないだろうか……と、勝手に想像が膨らむ。

 河北潟が干拓され放水路ができたということは、土地の表情が変わったということだ。

 つまり、内灘の風景がその時に変わったのだ。

 そして、もともと住んでいた内灘人たちが思いもしなかった、新しい眺望が生まれたのである。

 内灘はもともと何もなかった小さな漁村だったのだから、特に粋がる必要もない。できあがった風景を素直に楽しめばいいと、ここに立てば思える。

それを眺めて、ココロを休めればいい。

………むずかしい話になってきたので、クールダウンしよう。

 

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左岸を歩いていくと、右岸斜面の上に立つ風車が常に目に入ってくる。

      

 澄み切った青い空に、静止したままのスリムで白い姿が美しい。かすかに聞こえてくるのは、そのすぐ横にある「恋人の聖地」の鐘の音だ。誰かが鳴らしているのだろうが、その奥に自転車競技場があり、そこで鳴らされるラスト一周の鐘の音かも知れないと、余計なことを考えたりもしている。

 

 

 海へと出ると、砂浜は冬の風物詩とも言えるゴミの山だった。

 この季節、浸食された砂浜を見ると心が揺れるが、冬の日にしては海の風が気持ちよかった。

 放水路に戻り、今度は右岸をサンセット・ブリッジに向かって歩く。舗装されていない、水たまりだらけの道からのスタートだ。たまにクルマなどがやって来ると、ちょっと面倒なことになる。しかし、すぐに舗装された道に出た。

 放水路の水の流れに逆行していることになるが、水面は風になびいているだけで流れているわけではない。

      

 しばらく行くと、風車の下の斜面に細い階段が造られており、一気に斜面の上まで登れるようになっている。

 上から下りたことはあったが、初めて下から登ってみた。

 斜面の中間部は草が刈られていて、地元の高校生たちがお花畑を作っていると誰かから聞いた。

 佇んでみると、ここからの眺めもそれなりにいい。

 放水路斜面の中間部には、ずっとテラスのようになった平地が続いている。これはまさに中間部の散策路候補だ。

 もったいないゾ…… 腹の中でそう思って空を見上げた………

 

 空に浮かんだ雲たちが自由に遊んでいる。

 オマエもたまにはのんびりしろと言われているみたいだ。

 この前医者にも言われたが、副交感神経を思い切り休ませてあげなさいと諭されているようだ。

 手持無沙汰なまま、とりあえず背伸びをしてみた。

 首をひねり、肩をぐるぐる回し、両腕を前後に振った。

 カラダの四分の三ほどを覆っている日常が、放水路の風に乗って空へと抜けていった……かどうか?

 

 階段を下り、また歩き始め、また放水路周辺について考え始めた。

 人造湖という湖も、いつの間にか自然の中の一部になっている。

 放水路もそれと同じではないか……と、短絡的に考えている。

 すでに数十年がたち、これからもこの放水路はこの土地に、さも当たり前のように存在していくのである。そして、この土地の象徴的な風景として親しまれてもいくだろう。

 そう思えば、積極的に風景としての放水路周辺を見つめ直すことにも意味がある。それ以上に、磨きをかけてやらなければならないかも知れない。

 先にも書いたが、風景ができあがるまでの物語なども紹介していかなければならないかも知れない。

 内灘は海だとずっと思ってきた人たちも、海ばかりでない内灘に目を向けてくれるだろう。

 「内灘・河北潟放水路周辺」というキーワードで再考か……

 

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 そんなわけで、蓮湖渚公園から放水路両岸の道を往復すれば約6キロの距離だった。あとは、海岸に出たり斜面の上り下りなどのおまけもあり、それらもそれなりによかったりする。

 道の駅もあるし、ちょっとクルマで河北潟干拓地まで移動すれば、牛乳やアイスクリームなどで大人気のH牧場さんもある。

 忘れてはいけない温泉「ほのぼの湯」も、きれいになってこの春再開される。

 砂丘台地の美しいニュータウン「白帆台」も、将来の生活設計のために見ておくことをお薦めしたい。

 最後は何だか町の定住促進キャンペーンや、不動産屋の広告みたいになってしまったが、サンセット・ブリッジや金沢医科大学病院のモニュメント的建造物も合わせて、このあたりには多面的な顔があふれている。

 あとは、文化を生み出そうというヒトビト的ココロ……かな?

 ということにして、ひとまず中締めとするのであった………

 

冬の朝の小さな奇跡

2011年12月24日の朝。

こういう言い方が正しいのか分からないが、クリスマス・イブの朝である。

冷え込み、目覚めると天気予報どおりに雪がうっすらと積もっていた。

土曜の朝でもあった。

いつもより遅く起き、階下の居間のカーテンを開ける。

そして、外の光景に一瞬目を奪われた。

そして、しばらくなぜこのような光景が起きているのかと考えた。

と言っても、ほんの数秒のことだった。

すぐに状況を飲み込むことができたのだ。

カメラを手にすぐに外へ出る。

わが家の方へと差し込む朝日は、ずっと東方へと目を向けた北アルプス北部の稜線から放たれてくるものだ。

富山平野の上空をまっすぐに伸びて、石川との県境の山並みも軽く通り越し、河北潟干拓地の平原上を経てやってくる。

夜明けからはすでに三十分ほどが過ぎていただろう。

朝の太陽は稜線の少し上へと昇っているが、それでも十分なくらいの鋭い角度で光を放っている。

その時の空は、ほとんど黒に近い濃いねずみ色に全体を被われていた。

そして、稜線上にはわずかな雲の隙間。

朝の太陽はちょうどその隙間の真ん中にいて、日差しを送ってきている。

遠く北アルプスの上空から届いた光が、わが家の後ろにある雪をかぶった斜面だけを照らし出し、暗い冬の朝に幻想的な光景を生み出している。

雪のついた電柱が光の中に立ち、電線もまた白くその存在を高めている。

しばらくして、周囲はまた一気に暗くなった。

太陽が雲の中へと吸い込まれていくようにして消えてしまったからだ。

もう寒さに耐えながら立っている必要もなくなっていた。

五分もいなかっただろう。

ただ、朝のほんのちょっとした光景だったにも拘わらず、どこか荘厳で異次元の世界にいたような気分だった。

 

冬になると、今でもこの写真をよく見る。

しかし、あれからもう何年も過ぎているのに、あの時ほどの美しい生の光景とは再会していない。

ときどき、それらしき朝すぐにカーテンを開けてみたりするが、なかなかああいう具合のシーンには遭遇しないのだ。

大げさだが、あれはわが家周辺における奇跡的光景だったのかもしれない………

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

秋は山里歩きなのであった

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自分の住んでいる内灘という町と、河北潟干拓地でつながっている津幡という町は、石川県河北郡に残った二つの同朋みたいな町である…と、勝手に思っている。

残ったというのは、かつての河北郡にはさらに三つの町があったのだが、その三つの町は徒党を組んで?「かほく市」という新しいグループを作り、我々から離れていったからだ。

当然残ったのには妥当な理由があり、何といっても内灘と津幡は他の三つの町よりも財政的に余裕があり、ステータスも高かったからだ…と、勝手に思ってもいる。

しかし、内灘と津幡には大きな違いがある。

それは、内灘が日本海の海岸線に沿って伸びる砂丘台地上の小さな町であるのに対し、津幡は富山県や他の市町との境をもつスケールの大きな町であるという点だ。

だから、ボクにとって津幡は果てしなく冒険心を煽る町である。

山里が深く続いていて、その風景の大らかさにいつも癒されてきた。

きっかけとなったのは、瓜生(うりゅう)という地区を訪れたことだった。

輪島市門前にある總持寺ゆかりの、峨山という名僧の生まれたところが瓜生であり、門前で建設された「櫛比の庄・禅の里交流館」という資料館の展示計画をやっていた時、瓜生まで石碑の撮影に出かけた。

予想をはるかに越える深い山里に入っていき、最後はこの先クルマは入れないといった感じのところまで行った。

田んぼや畑には人影はあったが、たまに見る家屋の周辺では全く人を見ることはなかった。

初めてが仕事絡みだったせいか、その後にゆっくりと山里の空気感に浸りたくて休日にも出かけるようになる。

そして、津幡の山里の不思議な魅力に少しずつ惹かれていったのだ。

廃校になった小学校校舎や、その向かいの高台に上って眺める風景なども気に入った。

ゆるやかな起伏が続く水田と畑が広がった丘陵地なども、大好きな眺めになった。

そして、いつの間にか、そんな風景の中を歩いてみたいという思いが生まれてきた。

前置きが長くなったが、今回のKという地区の周辺も、そんな中で好きになった場所だ。

このあたりは、午後から出かけ、太陽が西に傾いていくのに合わせながら、風景の変化を楽しむのに適している。

人の生活感が漂う山村よりも、自然だけの山里の方が歩くのには気軽でいいと思っていたのだが、いつの間にか、そんなことに気を使わなくなっている。

もともとの好きな風景にはいつも人家の存在があったようにも思う。

ただ、遠望として見る方に傾倒していたに過ぎない。

ところで、最近は水田や畑の中の道でもほとんどが舗装されていて、土の上を石や草を踏みながら歩くことが少ない。

軽トラが走れるように、そして機械が入れるようにと道は固められている。

しかし、そんな舗装の道もひび割れなどが激しくなると、それがまた自然の中の風景のように見えてくるからおもしろい。

今回歩いた道は、緩い登りをゆっくり三十分も行けばキャンプ場に出る。

夏にはにぎわうのかも知れないが、11月の初めともなればまったく人の気配はなく、池に冬鳥たちが浮かんでいるくらいしか生き物の存在を感じない。

そんな雰囲気の中、あちこちに目を向けながら歩いている自分の姿を第三者の感覚で想像すると、妙に落ち着けなくなったりもする。

いつもの、自分がなぜここにいるのかを説明しなければならない的症候群に襲われたりもする。

ここでもしクマに襲われたりしても、自分が悪いだけで、山でよく考えていたクマの目を指で刺し、その隙に逃げるといった意味不明な作戦までも考えている。

しかし、あたりは静まり返ったままで、そのうちススキの穂先に差し込む陽光にぬくもりを感じたりして、ほのぼのとしてくるのだ。

登りの道に架かった水道橋や、道から見下ろしたところにある小さな池とそのほとりに建つ小屋、そして、そこから視線をわずかに上げたところに見える枯れ木たち。

楽しませてくれるものはいっぱいある。

西日の角度が徐々に強くなるにつれ、山里の家並みがより浮かび上がってきた。

影が濃くなり、畑の畝ひとつひとつも鮮明になっていく。

とにかく説明のつかない何かに惹かれながら、なぜかこうした道を歩いている。

そして、不思議だが、とてつもなく満たされている………

瓜生(うりゅう)までの道

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