湯けむりの中で口笛を吹く


 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………


「湯けむりの中で口笛を吹く」への1件のフィードバック

  1. 東北の山の中で、
    時々読ませていただいております。
    風呂場での口笛か、
    今度やってみたくなりました。
    ただ曲が決まりません。
    自然に出てくるんでしょうかねえ。
    読んでいて温かくなりました。

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