ジャズは読書の友なのである


 街なかの珈琲屋さんなどで、独り本を読む人がいたりすると何となく嬉しくなる。しかも、それが若者だったりすると、なお嬉しい。

 昔は当たり前のような光景だったと思うが、今はスマートホンを覗いたりするのが圧倒的多数派になっていて、恥ずかしながら自分も手持ちのものが何もない時は、それに頼ったりすることがたまにある。

 本を読むためだけに珈琲屋さんに入るというのは、学生時代であれば普通で、たとえば紀伊國屋さんで何か買った後には、裏手のジャズの店「D」などに直行した。

 そのまま中央線で吉祥寺のジャズの店「F」へということもあったが、後者の方は書店直行というより、いつでも文庫本一冊ポケットに突っ込んで行くというスタイルだった。

 金沢でも片町のうつのみやさんで本を買ったりすると、すぐ近くのジャズの店「Y」へと行くのが、正しい書店退店後の習慣だった。

 「Y」は言うまでもなく、「YORK(ヨーク)」である。マスター奥井氏と買ってきた本について語るのも、楽しいひとときであった。そう言えば、うつのみやさんもYORKも、片町から今は香林坊に移っている。

 ジャズは読書の偉大なる、いやそんな大げさではなく、かけがいのない友だった。

 今から思えば、やはりジャズという音楽のもつ多様な感性の集合体みたいな要素が、いかに日々の重要なスパイスになっていたかが分かる。

 特に学生時代の濫読状況とジャズを聴く時間というのは絶妙なマッチングだったと思う。

 ジャズの店に入って、2~3時間。コーヒーカップはとっくに下げられているが、LPレコードで言えば、片面で4~6枚分ぐらいは聴いていたことになる。

 聴き流しているといった感じでもあるが、あの空気感があるからこそ、文章読みも進んだに違いない………

 今年から、ある小さな協会の機関誌で巻頭エッセイみたいなものを書いているが、最初の号では年の初めの一冊の大切さみたいなことを短く綴った。

 その年の一冊目がその年の読書事情を左右するという、自分のことを書いた小文だ。

 その中で最近の読書について、仕事のためが多くなり、文章を読むという素朴な楽しみが薄れてきた……といったことを書いている。

 著者(というよりも作者とか書き手という方が好きだが)の表現の仕方が、本来文章そのものを面白くし、読むことの楽しみを創り出しているという思いがあるからだ。

 そうした情緒的に響いてこない文章は、正直言って読み甲斐がない。

 ジャズと一緒に追っていた文章が面白かったのは、そういう感性が瑞々しく、どんどん磨かれていたからなのだろう。

 最近、妙な読み方というか、ちょっとハマっているのが、図書館で短編集を借りてくることだ。

 読みだして、面白いなあと思う作品だけ読む。そして、飽きてくるとすぐに図書館へ行き、返却してそのまままた新しいものを借りてくる。

 すでに一ヶ月で、五冊以上は借りてきた。あまりいい傾向だとは思わないが、何となく日々の潤いをそうした読書に求めているような気もする。

 と言っても、きちんと書店買いもしており、やはりここぞというやつは自分のモノにしておく。

 そういう類のモノは、最近 YouTube で流れるジャズと一緒に読んだりするのである………


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