🖋自分の中の言葉と言葉の中の自分
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何人かで語り合っていると、自分の奥底に眠っていた思いというか、考えや感覚…いやもっと複雑で説明しにくい何か…、とにかくそういうものが、不意に浮かび上がってくる時がある。
そういう時には、ふと自分が自分でないような感覚に襲われたりもする。不思議な感覚だが、ことによっては小さな恐怖に発展したりもして少し黙るのである。
先日もある新聞広告の打ち合わせに参加していて、自分の口から、全く用意されていなかった言葉がどんどん出ていくのを感じた。不思議な感覚に襲われ、語りながら、まるで第三者からの懐かしい言葉を聞いている別の自分がいるような気分になった。
しかし、当然だが、それはすべて自分の言葉だった。自分の中に眠っていたと思われる言葉だった。忘れかけていた、いや完全に忘れ去っていた言葉だったと言える。
そして、そのことでなぜか自分が救われたような気になった。言葉はやはりアタマの中で、そして時間をかけて沁み込んだものなどから作られているのだとも思った。それまでのさまざまな経験をとおして溜めこまれたものしか、言葉になって出てこない…そんな思いを新たにしたのだ。
そういうことがあった後は、自分がこれまでに付き合ってきたさまざまなモノゴトを考えたりする。理由などまとまらないが、考えているだけで楽しくなれるのだけはまちがいない。
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ひとつの言葉は、他の言葉と繋がっていく。
その上で文章も会話も成り立っていく。言葉が繋がることによって、あらゆるモノゴトが広がり深まる。そうした何でもない言葉から生まれる思いがけない話の展開に、思わず笑ったり考え込んだりしてしまうことは常に自分の周囲にあった。
だから、こうして拙い文章を綴っていながらも、とにかく言葉によって何かを伝えようとしている小さな努力に、それなりの楽しさを感じたりするのだろう。
伝えたい何かを言葉にするというのは簡単ではない。もっと言えば、伝えたい何かにそれだけの価値があるのかを先に考え、言葉を投げやりにしてしまうこともある。しかし、口頭であろうが、文字であろうが、常に言葉を繰り出していれば何とかなる。
やはり言葉になって出ていく自分自身や、言葉になって出てきた相手がそこに見えてくるのだろう。言葉の中に自分がいる。今流行りの「インサイト」の極意かもしれない…?
そう思うと、日々もっと気持ちを込めて生きていかねば……と、深く反省させられるのである。
※某協会機関誌に寄稿した文章の原文。
声を出して読むとますますそのリズムのよさのわかる文章です。
失礼します。