自分記


本当は中居寿であることと、ふるさと内灘とジブン

中居ヒサシです。生意気にも本を出したりしたせいでペンネーム表記するようになりました。もうひとつ、N居・コトブキという変な名前もあったりしますのでご注意?ください。

1954年4月21日、ボクは金沢市に隣接する内灘という村に生まれました。今は人口28000人ほどの大きな町になっている内灘ですが、当時は今の半分も人は住んでいなかったと思います。日本海と河北潟に挟まれた小さな細長い村で、かつて多くの住民の生活の糧であり、祖父たちの世代が築いた漁業の繁栄も衰退の一途をたどっていました。

そして、50年代のはじめに住民の大反対をおして強行された内灘海岸の米軍試射場使用(これは『内灘闘争』と呼ばれた当時の全国的大事件でした)の補償が、その後の村の発展の源になるという皮肉な時代のいたずらに翻弄された村でもありました。それだけ何もなかった村だったと言うことでしょう。

内灘は60年代のはじめに町になっていますが、その後の発展、変貌ぶりは全国でも稀なスピードと内容を誇っていたと思います。校歌の歌詞にも出てくる河北潟は、3分の2ほどが干拓され、少なくともボクにとっては味気ない陸地になっています。海岸線の美しい砂浜も浸食され、さらに道路建設によって「権現森」と呼ばれた豊かな自然の産物も消えてしまいました。代わりに住居地域が拡張され、当然のこととして道路も立派になり、さまざまな施設が県内の町村の中でもいち早く整備されて、住む人の半数以上は転入者になっていきました。

ボクはそんな内灘の黒津船(くろつぶね)という最も小さな地区に生まれています。言わば“ネイティブ”です。変わった名前ですが、黒舟神社という鎮守様があり、その神社の直轄地のような位置づけにあったらしい地区でした。黒舟といっても、幕末の頃のネーミングではなく、もっと古い時代からある名前なのです。その黒津船も後に隣接する宮坂という地区と合併し、今は宮坂が全体の呼称となっています。

そんな田舎で育ったボクは、東京での学生生活を経て、金沢で就職し、結婚後も数年金沢で暮らし、その後現在まで内灘の住人を続けています。こんなことを冒頭に書いているのは、たぶん歳喰ったせいでしょう。

ませガキのジブン

6人兄弟の末っ子だったボクは、田舎育ちのわりには進んでいた兄たちの影響を受け、物心ついた頃には、洋画を中心とした映画そのものや、映画音楽、ポピュラー音楽などの話題が絶えない環境にいました。我が家にテレビが定着した頃、ボクの大好きな番組は『シャボン玉ホリデー』でした。親戚からもらった小遣いで、ビートルズのシングル盤を買ってきて、「もっと子供らしいもの買ってこい」と、母親から叱られたのを今でも覚えています。

小学生の頃から映画館では字幕付きのものばかり見せられました。ジョン・ウェインは偉大で、グレゴリー・ペックはかっこいい存在でした。かなり後にはポール・ニューマンが好きになりましたが、その頃見ていたものの多くが西部劇で、子供でも分かる簡潔明瞭なストーリーでよかったのだと思います。それから家にあった映画雑誌(かなりマニアックなものもあった)で見た『ローマの休日』のオードリーには、幼心に清楚とか乙女とか、なんだか訳の分からない強烈な印象を持ったのを覚えています。

しかし、そのうち東宝の喜劇映画、特に植木等の無責任シリーズなどにもよく連れていかれました。冬休みの課題の図画に、正月映画で見た植木等やクレージー・キャッツの面々の顔を書いて出していたほどです。

8歳の頃からギターも手にするようになりましたが、あの時代、周囲にそんな子供はいませんでした。

中学の後半頃から音楽はFM放送のジャズに傾き始め、周囲とはちょっと違った感性を持つ少年になっていったと思います。そして、同時期に石原慎太郎の青春小説などにも触れてしまったボクは、生徒会の役員に選ばれたりして体制派?を装いながら、腹の底のさらにその隅っこの方で、“青春とはなんだ!?”的な問題提起も続けていたのでした。そして、ますます“ませガキ”路線に入っていったようです。そのあたりのことは、ちょっと気恥ずかしいことだらけで、詳しくは書きません。ただ言えるのは、中学でのそのような出会いは、将来においてかなり危険な匂いがしていたということです。

 

スポーツとジブン

しかし、そんな中で小さい頃から野球少年でもあったボクは、一時、将来の夢はプロ野球選手しかないと、真面目に思っていたこともあります。野球はボクの芯から抜けていくことなく、結局大学まで続けました。

話は一気に現在に飛びますが、ボクはメジャーリーガー・松井秀喜選手のベースボール・ミュージアム(石川県能美市)の展示プランやイベントなどの仕事を手掛けさせていただいています。その幸運を授かっている要因の中にも、ボクの野球に対する愛着が強く息づいていると感じています。そのことはつい最近も、松井選手の恩師である山下智茂氏(星稜高野球部総監督)と話していて言われました。2010年暮れに制作した『MVPへの軌跡』という映像のシナリオを書いている時も、ボクは不思議な野球との縁を感じていたのです。

スポーツは野球だけでなく全般的に何でも好きで、何でも大抵はやっていました。中学時代メインはもちろん野球部でしたが、陸上の中長距離選手として郡の大会に出、二種目で優勝と準優勝という結果を残してしまいました。その実力?を見込まれて??駅伝代表もやりました。

観る方では、大学時代から今もラグビーが大好きです。特に大学ラグビーは母校が明治であったために、国立での明早戦などには何度か足を運んでいます。最近は明治の低迷が続いていますが、ボクたちの時代には明治が圧倒的に強く、よく“燃えるような応援”をしました。今でも毎年12月の最初の日曜日はテレビの前から動き(け)ません。

明治のラグビーが負けることは、ボクにとって何か、一途な思いが否定されるような、そんなものなのです……

話はそれましたが、学生時代には、そんな自分と、ジャズや映画や活字などにのめり込む自分がゴチャ混ぜとなり、時間と共に程よく?ブレンド熟成されて、体育会系の文学青年的特異体質が磨かれていったとも言えます。

 

ジャズとジャズ的なジブン

ボクは真面目なジャズファンでした。今はそれほど真面目とは言えませんが、かつては自分で勉強し、自分で開拓し、自分の感性に基づいてリスナーをやっていました。自分でも、昔から愛用のクラシックギターでジャズ的演奏を楽しみ、かなり独創的な世界を作っていたと思っています。

もちろん師もいました。かつて金沢片町に、現在は香林坊日銀ウラに店を構える「ヨークYORK」のマスター、今は亡き奥井進さんです。奥井さんとは十六の冬からの付き合いです。ボクは奥井さんとの長い付き合いの中で、ジャズだけでなく、いろいろなことを得ました。特に奥井さんが人生の後半に入ったあたりからは、奥井さんの浮世離れした生き方、日々の過ごし方に共鳴し、自分自身の体内にも奥井さん的空気を存分に吸い入れてきました。「ポレポレ通信」という私的エネルギー追求誌を出し始めたのも、奥井さんとの時間がもたらした何かがきっかけだったと思っています。

ボクが名付けた、「奥井進のジャズ的人生」には、ボクがある意味憧れていた要素がふんだんにありました。街や野山を歩き、カメラを構え、本に親しみ、俳句をひねり、コーヒーの香りとタバコの煙の中で物思いにふける…… 全くどうでもいいような話を延々と楽しんでいける奥井さんとのひとときは、ボクにとって日々のオアシスでした。だから、奥井さんが亡くなって以来、当然ながらボクにはそういうひとときがなくなったのです。

 

文学と旅とジブン

ボクは東京へ行くのと同時に純文学に染まり始めました。取っ掛かりは、ちょっと変なホームシック?で、金沢出身の室生犀星などの作品を片っ端から読みふけっていきました。東京の雑踏の中で読むと、金沢の風景描写などに激しく心を動かされました。金沢は何かがある街なのだと激しく納得していたのです。

このことは後の仕事にも大きなエネルギーになっていきます。たとえば、金沢の文学少女的友人が貸してくれた島田清次郎の『地上』と、それに関連した本を学生時代に読んでいたという経験は、島田清次郎に関する資料を展示した「金沢にし茶屋資料館」の仕事で役立ちました。監修された小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、ボクが(この顔で)二十歳過ぎの頃、島田清次郎を読んでいたという事実に驚いていました。

そんなことからボクの無分別文学遍歴がスタートしています。金沢ゆかりの作家はすぐに卒業し、近代文学の有名作家たちはほとんど大学二年の頃に読み尽くしていました。それから現代ものや海外のもの、そして歴史ドキュメント的なものや旅紀行もの、冒険ものなど読書エリアが広がり、とにかくひたすら文章を追っかける日々が続きました。それがきっかけで旅にもよく出かけるようになりました。自分の世界にはなかったさまざまな考え方や感じ方を知っていくことが面白く、知識欲も旺盛になり、ひたすらマニアックなものに没頭した時もあります。

特に印象に残るものとして、司馬遼太郎氏の『街道をゆく』の連載(週刊朝日)もの、NHK出版から出た『新日本紀行』や『知られざる古代』の、テレビ番組からのシリーズものにも強く惹かれ、それらが旅を誘発するモチーフとなっていた時もありました。

しかし、その頃同時に椎名誠氏などの本との出会いによって、ボクの中に解放的な心の動きも目立つようになっていきます。それらはもともと、ボクの中にあったものでした。そして、たとえば歴史的な匂いが強かった旅への興味が、自然の風景や、まちの風景、そして人との出会いなどを楽しむようなものへと移っていきました。

 

山と自然とジブン

旅を続けるうち、ボクは信州の上高地を皮切りに八ヶ岳山麓へ毎年夏出かけるようになりました。20代の中頃からのことで、大きな自然の中に身を置く凄さを知りました。そして、いつしか興味は本格的な山に移っていき、北アルプスなどへの山行を繰り返すようになります。本格的な山は、剣岳。梅雨真っ盛り、超土砂降りの中での危険な初山行でした。初期の頃の山行は友人とのペアでしたが、そのうち単独行が主となり、ほとんど一人で山に入っていました。

早春の雪山を20代の後半に体験すると、その方面への傾倒が強くなり、晩冬から春にかけてのテレマークスキー山行にもよく出かけるようになりました。会社のハワイ旅行をキャンセルした金で買ったテレマークスキーセットは、ボクの宝ものでした。当時、コージツ某店店長から、たぶん石川県で八人目のテレマーカーですよと言われたのも、ぐっといい気分にさせてくれ、ボクは独りで黙々と練習に励んだのです。二週間かけて入手した教則本のコピーが唯一の先生でした。

雪の山では、スキー以外も含めて三度ほど死ぬ思いをしています。そのうちの一回は、かなりヤバい状況でした。そんなこともあってというわけではありませんが、今は妙高の笹ヶ峰などへゴールデンウィークのスキーハイクに出かける程度でお茶を濁しています。

山の世界では、太郎平小屋のオヤジさんこと、五十嶋博文マスターがボクの師です。もう30年以上お付き合いさせていただいています。自然体で何事にも動じない大らかさが大好きです。太郎平小屋周辺のガイドパンフの制作(取材・撮影・原稿・デザイン等)も任されており、マスターのためならエンヤコラァっと頑張ったりしているのです。

 

モノ書きでありたいジブン

ところでボクには、所謂モノ書きになりたいなあといった淡く密かな思いが、大学を出る頃からありました。しかし、どこか踏ん切りがつかないボクとしては、そのうちそのうち…という思いにまかせ、漠然と考えていた20代で本を出版するという目論みどころか、自分のめざすものを書くことすらもできないまま、情けない時間をやり過ごしてきたのです。

たしかに文章は書いていました、仕事で…。仕事の中で書いてきたものはこれまでにも無数にあります。しかし、それではいけないのだと自分に言い聞かせ、30代に入ってから、ひとつの活字発信活動を始めました。

先に書いた、私的エネルギー追求誌『ポレポレ通信』という黄色い紙の怪しい文集です。その後にちゃんと印刷製本された雑誌、同じく『ヒトビト』を発行するに至り、ボクはかなりの満足度を得ました(『ヒトビト』については、別ページで詳しく紹介しています)。

前者は48号、後者は8号まで出しました。特に後者は季刊誌でしたが、それなりに立派な体裁で出していたつもりで、その制作作業の煩雑さが致命的な結果を招いたとも言えます。なにしろ、70ページ、自分一人で編集作業をしていたので、時間は確実に足らなかったのです。もちろん経済的にも大変でした。ただ両者とも、未だに再開を望む声は聞こえています……

そして、2010年4月、ボクはついに一冊の本を世に出しました。

『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』という長いタイトルの小説です。原稿はその七年前にすでに完成していたのですが、結局本を出すというのは非常に煩わしく難しいことなのだという現実を知り、最終的には自費出版という形で出しました。その分、知名度的は低調で、周りから期待されたほどにはブレイクしてくれませんでした。出版記念会をやってくれるという書店さんからの提案を、恥ずかしいからと断ったりしたボクの浅はかさも原因でした。

しかし、多くの人たちから共感の声をいただき、作品としての存在価値はそれなりにあったと思えるようになりました。地元の地域色の強い話のように感じられがちですが、東京やその他地元以外の人たちからも、かつての子供たちの世界が伝わってくる爽やかな話だという言葉を多くいただいています(本の紹介ページをご覧ください)。さらにボクとしては、もっともっと多くの人たちに読んでもらいたく、それは少年少女たちからお年寄りに至るまでの広範囲を対象にしています。

ボクにとって、この小説はデビュー作です。デビュー作だということは、さらに新しい作品を書いていこうと考えている…ということでもあります。かつて、大手出版社の方からアドバイスいただいた言葉が、今頃になってようやく理解できるようになってきたのです。残り少ない人生、ホンモノを書きたいと思っています。

 

最後の前にとてつもない公私混同とジブン

ボクは現在、ヨシダ宣伝株式会社(金沢本社)という従業員130名弱の会社の代表取締役社長です。しかし、もともとが企画屋で、これまで数多くの仕事を自分で企画し運用してきました(“仕事”のページをご覧ください)。その匂いが抜けていくことに、少々虚しい思いをしているのも事実です。さらに、ボクにはまだまだモノ書きへの夢(こだわり)があります。このブログをエッセイ集として継続しているのも、書くことを日常化しているからで、ボクから書くことを奪ったら、ボクはボクでなくなるのです。

そしてさらに、いい歳になってしまったボクにとって、これまで公私にわたって一応それなりにやってきたことが、一応それなりに社会で評価され、一応それなりにそれらも継続していかなければならないという状況もあります。

それらは一応それなりに苦しいことでもあり、一応それなりに大変なことなのですが、一応それなりに楽しいことでもあって、やはりやり甲斐とかも大きいのです。だから、これからもやっていこうと思っています。ひたすら頑張っている人たちとか、頑張っているようには見えないけど、ひたすら自分や誰かのために没頭している人たちを、ボクはとてつもなく好きになってしまうからです。それに地域色などがにじみ出ていたりすると、ボクは完全にその人たちに愛おしさのような思いを抱いてしまいます。

それが私的エネルギー追求誌『ヒトビト』に託した精神なのですが、ボクの根本にはいつまでも“私的エネルギー”が生き続けていくのだと思っています。

ニンゲンとはすべて“公私混同”の中で生きているものです。だから、そのことに素直でいようということです。もちろん半々なんていう中途半端さが最もよくない状況です。ある時は公が100%になるし、ある時は私が100%になります。しかし、公の中にも私が入って行くことがあります。ボクの場合、それを感じる時がいちばん充実した瞬間です。早い話が、やりたいことと、やらねばならないことを、ただひたすらやるだけということです。

 

最後に

こんな長い自己紹介なんて見たことないと思っている方も多いでしょう。ボクもまさかこんなふうになるとは思ってもいませんでした。そろそろエンディングです。

最後に、ボクの好きなコトを書きます。

ボクの好きなコトは、以下のとおりです……

旅に思いを馳せるコト、旅に出かけるコト、本を読むコト、文章を書くコト、音楽を聴くコト、ジャズを聴くコト、ギターを弾くコト、自然の中を歩くコト、自然の中で佇むコト、山を眺めるコト、山に登るコト、山でボーっとするコト、古いまちを歩くコト、古いまちに佇むコト、スポーツをするコト、スポーツで感動するコト、こだわり人間の話を聞くコト、年寄りと話すコト、写真を撮るコト、汗をかいてビールを飲むコト、ただ何となくモルトウイスキーを飲むコト、普通の日にワイン(特に甲州ワイン)を飲むコト、ピーナツの割合がやや高めの柿の種を手に一杯盛ってセーノで頬張りながら食うコト、青空と入道雲を見上げるコト、デザインの話をするコト、どうでもいいことを真剣に考えるコト、バカバカしいことを真剣に語り合うコト、焚き火をするコト、コーヒーを飲むコト、古い寺に行くコト、仏像を観るコト、冷奴を食うコト、油揚げの煮たやつを食うコト、大根と油揚げの味噌汁を食うコト、ハタハタの煮たやつを食うコト、サバの味噌煮を食うコト、しみじみとするコト、ウキウキとするコト、人の笑顔を見るコト、……

もっと、いろいろありそうですが、このあたりでやめにしようと思います。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

※追記をしないといけないのですが、なかなか時間がなく……


「自分記」への3件のフィードバック

  1. 自己紹介長すぎ~(−_−;)
    でもおもしろい内容でした☆

  2. はじめまして 私は北海道に住んでいる主婦です。。
    私の祖父はもう亡くなっているのですが、生前、輪島の出身で、裕福な家だったけれど、なにかの理由で貧しくなって、祖父は船のボイラー技士となり、北海道に移住した。そう言っていました。偶然こちらを開き、苗字が嘉門なので、もしかして旧嘉門家って関係があるのかなと、びっくりしました。祖父は五人兄弟の長男で、今北海道に住んでいる嘉門は皆親戚のようで、それ位珍しい名前なので可能性は高いような気がします。
    黒鳥町のお話が読めて、なんだか嬉しい気持ちになりました

  3. ご寄稿に気付くのが遅くなり、申し訳ありませんでした。奇遇なお話ですね。嘉門家は建物としてはほとんど残っていませんが、門や板塀などは立派に残っていて、威風堂々としています。今度、黒島でそのことを聞いてみたいと思います。

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ネガティブな日々のことを「下品な日々」と呼んでいます。かと言ってポジティブだから「上品な日々」とは呼びません。「上品な日々」は特になくてもいいと思っています。ごく普通にいられたらよいのではないかと。 そんな風な思いがこのような雑文になって書庫の中に積み上げられています。少し立ち読みでもしていっていただけたら嬉しいです……        文と写真:中居ヒサシ