ゴンゲン森・・・へのメッセージ「感想編」~「蛇足編・・・あるいは大人編」

 

 

●感想編

『 僕が子どものときの庭には海はありませんでしたが、物語に出てくる子どもたちが感じていることを僕も感じていただろうと思います。僕は一度団地に住んでいたことがあって、その周り全てが遊び場でした。友達と自転車置き場の屋根の上に登ってボールを投げ合ったり、団地の周りを競争したり。そこには好きな女の子がいて、むかつく奴がいて、兄弟の友達はなんだか大人でした。公園に行くと友達がいて、みみずの怪我を治してあげたり、水たまりに自転車を突っ込んで水車にしたりしていました。そば屋のジュースを盗もうとしてお店の人にしかられたこともあれば、買い食いが見つかって母に怒られたこともあります。そういう挙げようと思えばいくらでも挙げられる、土と汗と涙の感じがする思い出の大切さをやんわりと気づかされました。』

●蛇足編・・・あるいは大人編

『 過去に大人たちが犯してしまった過ち、それはオーカミの水を飲ませた老人を非難し居場所を奪ったことにあると思います。そうして、ユーイチがミツオのことを非難したとき、同じ過ちが繰り返されようとしたのだとも思います。でも、彼らは同じ過ちを繰り返しませんでした。じゃあ、それで全てがまるく収まるかというとそうはいきません。ミツオではなく、逆にユーイチの居場所が無くなってしまったからです。

 僕は彼らはどうするだろうかと思いながら読み進めていきました。ユーイチを円のなかに戻してあげられるだろうかと不安になりながら読みました。もし、ユーイチについて触れられないまま物語が終わってしまったら、このことについては誰にも言うまいとも思いました。

 でも、そんなことは勝手な気苦労でした。子どもたちは色々とわがままなところや、ずるいところを持っていたりしますが、どんな色に染まろうとも”すきとおった”純粋さを持ち続けていました。そういうところを素直に書ける内灘という舞台と中居ヒサシさんの想いに少し憧れてしまいました。』

 今春、金大大学院に入学し、先日の古本市で『ゴンゲン森…』を買ってくれたS君の読後感想が、彼のブログに記されている。彼の許可をいただき掲載させていただいた。

 札幌出身で 京都から金沢へ移ってきたというS君だが、拙著を計3冊購入してくれ、札幌の図書館に勤務されているお母さんにも送ってくれたという。お母さんが勤務する図書館にも置かれるかも知れないと…

 彼の素朴な感想文を読ましていただき、ボク自身が救われた。それは、少年たちの世界に共通する何かを知らされたからだ。

 時代や環境などとは関係なく、少年たちは、いつでも純粋に生きている。ボクと彼との年齢差は、たぶん33歳ほど。でも、そんな彼が語ってくれた言葉に、とてつもない勇気を得た気がする・・・・・・

「 JAZZ AT 紺屋坂(1) やや硬い話編・・・」

 去年に引き続いて二回目となった「JAZZ AT 紺屋坂」。金沢市の中心部で始まった「金沢ジャズストリート」に合わせて始めたものだ。

 本体である後者のスタート時にも少し関わり、大学ビッグバンドを呼ぶことを提案させてもらったが、初回の大好評の割りには、今年の二回目には主なビッグバンドは参加していなかった。それは多分、東京などの大学ビッグバンドを呼ぶと、人数と距離の関係で経費がかさむからだったのだろう。ボク自身にとっては、母校のビッグバンドの連中と交わした約束は見事に破れていってしまい、大変申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、去年のことでよく理解できたが、やはり、大学ビッグバンドの優秀な連中を集めることは、今風のジャズの息吹を知る上で重要なのではないだろうか?と、ボクは思っている。国際的なジャズイベントを目指すならいざ知らず、国内の、いや県民や市民を対象として、街なかの賑わいを図るという趣旨であれば、わざわざアメリカなどからプロを呼ばなくても、大学生の意気のいいビッグバンドの演奏で十分だ。と言うよりその方が最も適している。

 「ジャズストリート」の話を初めて聞かされた時、金沢は“学都”とか“文化都市”と、自分たちから名乗っているわけだから、ジャズをきちんと勉強するような、そんな環境も作ればどうかとも提案した。それによって、全国で金太郎飴みたいに広がっているジャズなどの音楽イベントに、金沢らしい特色を付けられるのではないかとも思った。

 ところが、答えは“ノー”だった。そんな難しいことはどうでもよくて、普段あまりジャズなど聴く機会のない人たちにも、楽しく聴いてもらい、街に賑わいを作ることが主目的なのだとあらためて聞かされた。

 つまり、ジャズがどういう歴史的背景の中から生まれ、ジャズメンたちがどのようにしてジャズを今日のような最も創造的な音楽(せいぜい80年代までかな?)にまで成長させたかなどについてはどうでもよくて、とにかく街なかで何かやっていれば人が集まって来る── それがジャズだとかと言っておくと、“なんかカッコよさそうでない? 行って見っかいね”といった人たちが寄って来るし、マスコミも騒いで、街なかが賑やかになった、よかった、よかった的に話がまとまる── といった感じだったのだ。

 だからこそ、大学ビッグバンドがよいと、ボクは思ったのだが、どうも“ジャズ的ジャズ”を感じ取れない人たちには、その辺のところが理解されにくいのだと諦めるしかなかった。

 こうなったら、その路線を貫いてやろう。それほど大袈裟な話でもないが、いい年をしてボクは心を決めた。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、そんなボクの思いを背景にして第二回目を迎えたのだ。金沢城兼六園商店会という組織の主催であり、商店街活性化事業のお金を主にして実現しているのだが、こういう時こそ、公私混同型の潜在的能力を有したニンゲンの勝負になるとボクは思っている。そのとおりやっていくための原動力がそこにある。こういう類のイベントに自分が積極的に関わっていくなど、つい一年ほど前まで考えてもみなかった。やりたいという思いは少しあったが、自分自身の徒労ばかり考えていた。しかし、いい助監督との出会いがボクの背中を押した。やれそうな気がしてきた。ボクは一歩前に出ることができ、その勢いのまま歩き始めた。今はもう助監督はいなくなったが、背中にあった支えが外れたのに気が付かないふりをして、とにかくやっている。

 というわけで、ボクはこのイベントをこれから発展させていきたいと考えている。むずかしく考えるのはやめにして、自分自身も試しながら? それなりにやっていく。

 実を言うと、今ちょっと関心を持っているのが、10月10日に明治大学周辺で開催される「お茶の水ジャズ」だ。実行委員会と明治大学が主催し、地元の商店街などが協力している。2008年から始まっているが、イベントとしての質も非常にいいものだと聞いた。しかし、今年こそ行って来ようと計画していたのに、先客があった。関西の学生たちが自主的に企画運営するクラシックの音楽祭に行くことにしてあったのだ。

 東京と金沢ではスケールが違い過ぎるが、「東京ジャズ」という国際的なジャズイベントが行われている中で、「お茶の水ジャズ」という、さらに小さな単位のジャズイベントも行われているという点に注目している。なかなかいい感じだ。

 ところで、11月の紅葉シーズン、兼六園の無料開放時期に合わせて、今年もう一回、一晩きりの「JAZZ AT 紺屋坂」をやるつもりだ。

 ちょっと肌寒くて、演奏者も辛いかも知れないけど、聴いてくれる人たちの心をホットにする自信はある。柄にもなく、キザなことを言ってしまった…

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……

『もう少し、夏ものがたりを…』

 

 

 8月の終わり近く、久々に立山山麓への道沿いにある鉄橋が見たくてクルマを走らせた。これからいよいよ本格的に山麓に入っていこうかという辺り、常願寺川の河原に付けられた鉄橋だ。

 いつの間にかこの鉄橋のある風景が好きになっていた。かつて、信州から八ヶ岳山麓方面に何年も通っていた頃、清里や野辺山あたりで小海線の線路を見ていると、何だか強く、夏だなあ…と感じたことがあった。小海線は日本の最も標高の高いところを走っている鉄道だ。最高駅は野辺山駅で、最高地点もその近くにあった。

 その時ボクは初めて線路から立ち上がる陽炎(かげろう)をマジマジと見た。映画のワンシーンを見ているような気分になり、真っすぐに伸びた線路に強烈なエネルギーを感じた。線路の上を歩きたくなった。そして実際にそうしてみると、靴底から伝わってくる熱が、足の裏からすぐにカラダ全体に広がっていくのが分かった。

 ボクはその時の感触が恋しくなると、この鉄橋のある場所にやって来る。八ヶ岳山麓までは遠いが、立山山麓はそれほどでもない。小さな駐車場があり、クルマを置いてぶらぶらするにもちょうどいい。その日も相変わらずの強い日差しであったが、それがまた鉄橋や線路というものに熱いエネルギーを注入しているように思わせた。ボクにとって、鉄は夏の季語なのかも知れない。

 そこからクルマでしばらく行くと、「あるぺん旅行村」の奥の原っぱに、数頭の牛たちが放たれていた。クルマを降りて、草むらの中の道をとぼとぼと歩いて行くと、牛たちがいた。牛たちも暑いのか、木陰に寄り添い、静かに午後のひと時を過ごしているかのようだった。

 この光景は、二年前だろうか、妙高高原の笹ヶ峰牧場で目にしたものと似ていた。もちろん笹ヶ峰の方が圧倒的に大スケールで、牛のデカさも比較にならないのだが、そののんびりしたムードは同じだった。笹ヶ峰は夏よりも春先の豊かな残雪のシーズンによく出かけているが、夏の光景の方が本来の姿なのだろうなあと、つくづく感じた。空の美しさ、緑の美しさ、水の美しさ、どれをとっても心の底から嬉しくなるものばかりだった。

 立山山麓は、ボクにとってかなり慣れ親しんだエリアだ。場所もそうだが、そこにいる人たちとの交流もかつては盛んだった。山の世界の人たちはもちろん、山麓でペンションを経営している人たちのところへも、よく足を運んだ。個性的な人たちが多く、楽しい時間が過ごせた。

 金沢に近くて、藩政時代で言えば、ほとんど金沢色に染まっていたと言っていいかもしれない高岡に行ってきた…のは、暑い暑いある日の昼だった。

 毎日暑いから、暑い日というだけでは特別なこととは言えなかった今年の夏。毎日暑いのだから、そんなこと話題にしなければいいのにと思っていたが、ニュースのトップはほとんど毎日「今日も暑い一日となりました…」だった。夏は暑いに決まっているのに。

 そんなことは置いといて、高岡にはよく行くが、それほど詳しいわけではない。と言うよりも、ただ漠然と行ってしまうクセ?があり、何気なく自分の行きたいところだけは確保しているといった感じなのだ。

 その日も仕事で砺波まで行く時間を活用し、高岡の古い町を見て来ようと思った。何度も見てはいるが、具体的に参考にしたいという仕事なんぞがあった時には、この目とこの足などを通して積極的に感受して来ようという気になる。高岡の古い町の再生は、この辺りではなかなかそれなりによいものだとボクは思っているし、関わってきた人たちも知っているから、その人たちのハートが分かるような気になれる。

  それにしても一時間弱歩いて、汗まみれになった。顔の鼻から上が痛い。アスファルトの上の一時間弱は、お好み焼きの鉄板の上の何分に該当するか?などと考えてはみたが、途中で考えるのもイヤになった。しかし、ボクは夏の子なんで、そんなことぐらいでは潰(つぶ)れない。積極的に歩き、蔵がモチーフになって生まれた街のパワーみたいなものを、あらためて感じ取ろうとした。

 強い日差しの中で、古い建物の黒壁がより凄みを放っているように感じた。レンガ造りの銀行は、かえって涼しそうなイメージを創り出しているのかも知れないな…とも思った。

  帰りの高速で、トイレに行った時だ。ふと用を足しながら目にしたサインが、ほのぼのとした気持ちにさせてくれた。

 暑さをもぶっ飛ばす富山弁の朴訥(ぼくとつ)さは、いつも心に沁みるのだった。

 甲州ブドウの勝沼(甲州市)から、採れたて「ピオーネ」が届き、今年もいよいよ、ブドウやワインの季節が始まるのだなあと感じたのが、九月のアタマだった。

 送り主で親友のMは、母校が久々の甲子園出場を果たしたにも関わらず、ブドウの仕事が忙しくて応援には行けなかったと言っていた。そこまでして育てたブドウだ、じっくり味わおうと気合を入れ堪能させてもらった。さすがに美しくて、うまかった。いつも申し訳ないが、買うといい値段なのだ。

 偶然というか、それからすぐに能登の穴水町で、交流している同じ山梨県の南アルプス市の特産市があり、それに出かけてきた。勝沼と同じように、美しい風景が広がる南アルプス市には合併で市になった直後、仕事でお邪魔した。秋の快晴の空の下で、澄んだ空気を腹一杯に吸い込んできた記憶がある。

 穴水での特産市はあらかじめ知っていて、特に訪問時に知り合った人たちが来ているというわけではなかったが、何となく行ってみようと考えていた。

 行ってみると、小さな会場が人でごった返していた。その人たちのお目当ては、なんと無料で配られるブドウ、それもまた「ピオーネ」だった。当然“最後尾こちら”のプラカードを持った係の人の前に入り、一房入手。なんかブドウづいているな…と、強く感じさせてくれた。

 ところで、夏の暑かったことも忘れて、秋も普通になった頃には、勝沼では甲州ブドウが一斉に実りの時期を迎える。そして、楽しみなのが甲州ワインだ。Mにゴマすっておかねば……

                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

初めての山は剣岳だった

この写真は、山岳専門誌『山と渓谷』1986年6月号に掲載された、ボクの投稿紀行だ。

本格的な山行として初めて登った剣岳との再会を記したものだが、初の雪山の感動と、剣岳との再会を喜ぶボクの心情が、恥ずかしいくらい単純明快に綴られていて懐かしい。その後も何度か読者紀行というページに投稿させていただいたが、剣岳の話はこれ以外にも、もう一度掲載されている。剣岳が初山行の山であったことは、ボクにとって大きな誇りでもあった。

北アルプス大日岳への登り途中で。左が自分、右はいつも一緒だった親友・S 

 『剣岳 点の記』のDVDをこの一週間に三回観た。

 二回目からは特に山岳シーンは巻き戻して見たりして、ストーリーよりも山の世界の描写にばかり注目していた。

根本的な理由は明白だった。今夏本格的な山に行けなかったからだ。今夏どころか今春も昨秋もそのまた前の夏も春も冬も…という具合に、ボクのヤマ屋的エキスが希薄になっていき、ボクはただ悶え続けるだけだったのだ。山に入ってきた人間には、普通の空気だけではなく、ちょっと酸素が薄めの山の空気も時々必要なのだろう。この息苦しさはそのことの証に違いない。

そんなわけで、ボクは『剣岳 点の記』を食い入るように観た。そして、唸った。時々いいものに出会うとボクは唸るのだ。唇を噛みしめ、顔を右方向に三度くらい揺すりながら口の奥の方でウゥーッと声を出す。なぜ右の方にだけ揺するのかは自分ではわからない。この前、あることで唸った時に、偶然そのことに気が付いた。

『剣岳 点の記』である。ストーリーを詳しく説明するような野暮なことはやめよう。それよりも剣岳という日本を代表する厳しい山に挑んだ人たちを描く上での、その厳しさの描写にボクは独り拍手を送りたい。

  ( TV画面より)

スタッフや俳優さんたちの努力にも拍手を送りたい。それにも理由がある。それはボク自身も本格的な山として初めて挑んだのが剣岳であり、今の俳優さんたちのように、初体験として厳しい山行を強いられた記憶がまざまざと甦ってくるからだ。

 

大学を卒業して二、三年が過ぎた頃だったろうか。今の会社の当時富山営業所長をされていたTさんがリーダーとなって、剣岳に登ろうという話が持ち上がっていた。Tさんは山岳関係者の多い旧大山町(現富山市)の方で、剣岳や薬師岳などを中心に北アルプス北部方面に足繁く通っている山男だった。ちなみに『剣岳 点の記』の主人公の一人・宇治長次郎も大山の人だ。

集まったメンバーは総勢6名。Tさんともう一人富山の山男以外はみな初心者。今思えば何とも無謀なパーティだったと言えた。Tさんの呼びかけ方もいい加減だった。

ハイキングに毛が生えた程度のもんやからよ… あの映画を観た人なら、その言葉の無責任さが分かるだろう。そして、そのいい加減さがその後の悲劇?を生む ───

メンバーの中では圧倒的に若く、そして大学体育会上がりのボクにとって体力だけは誰にも負けない自信があった。予想どおりそれはすぐに実証される。登山口である番場島から急なルートとして知られる早月尾根を登り始めて三十分、そして一時間と時間が経過するにつれ、歩く速度に大きな差が生じ始めた。しかも、Tさんたち山のベテランでさえ、ボクのスピードについて来れなくなっていた。もちろんボクの歩き方そのものも、ただ早過ぎるだけだったのかも知れない。

何度目かの休憩の時に、Tさんが背負っていた大きなリュックを交換してくれと言った。その時ボクが背負っていたリュックは、友人から借りてきたもので、まさにピクニックかハイキングレベルのものだったが、Tさんのものは本格的なキスリングザックで、アルミパイプの背負子(しょいこ)に結んで背負うものだった。

ズシリと重い感覚が両肩にかかった。ザックにはポリタンクに詰められた日本酒も入っていた。山小屋か頂上で乾杯しようと持ってきたらしい。重くはなったが、背負子のおかげでバランスが良くなり、背中に馴染み始めると何だか充実感みたいなものまで生まれ始めた。

一度に自分が本格的な登山者になったような気分になった。そして、Tさんに言われた、お前は自分のペースでどんどん行け。とにかく登っていけば山小屋にぶつかっから、そこでオレの名前言って、先に小屋に入っとりゃいい…… その言葉どおりに、ボクは歩き始めた。正直、その時のボクには疲れなどほとんどなかった。

みるみるうちに後続の姿が消えた。深い樹林帯の中の急な登りが続いていた。樹林帯の中は“草いきれ”がすごい。しかもまだ梅雨真っ盛りの時季で、湿度も高く、想像をはるかに超える汗が吹き出していた。

そして、そのうち暗い樹林帯に大粒の雨が落ち始めた。雨は一気に本降りとなり、そのまま止む気配など見せずに降り続く。山の経験を積むと、落ち着いて雨具を身に着けることぐらい普通の行動なのだが、ボクにはそんな余裕などなかった。余裕がないというよりは、そのことの必要性そのものを感じていなかったという方が当たっていた。

その時の服装は、白いTシャツに首にタオルを巻き、コーデュロイの半ズボンに普通のソックス。そして足には底のやや厚いシューズ(オニツカタイガー製)を履いていた。

雨は一向に止む様子はなく強い勢いのままだった。道は川のようになった。靴がそのまま雨水の流れの中に隠れた。帽子も被っていない。頭から雨が流れ落ちてくる。全身がびしょぬれ状態になり、そのまま歩き続けていくと、ボクの中に奇妙な思いが生まれた。

厳しい山の世界に、今自分はいるんだなあ。ヒーローになった気分だった……

しかし、その思いは山小屋に着いた途端に完璧に打ち消される。

尾根に建つ伝蔵小屋(現在の早月小屋)の玄関に立ったボクの姿を見て、アルバイトで、間違いなくボクよりも年下であろう若いスタッフが、いかにも軽蔑するような顔をした。それが山へ来るかっこうかよ、といった目をしていた。

びしょ濡れになりながらも、元気よく、お願いしますと入っていった出鼻は完璧にくじかれ、ボクは力なくTさんの名前を告げた。畳が敷かれただけで、布団などが無造作に積まれた四角い部屋に案内された。若いスタッフは、服をすぐに着替えて、身体冷えてるだろうから毛布でも巻いていてくださいと言った。

しかし、ボクのリュックはTさんが背負っていて、ボクの着替えはなかった。小屋に入ってから、身体が一気に冷え始めていくのが分かった。ボクは思い切って素っ裸になり、直に毛布を身体に巻きつけることにした。

待つこと約二時間。Tさんたちが到着した頃にはボクは浅い眠りに落ちていた。

雨と風が翌日の出発を躊躇させたが、Tさんの強い判断でボクたちは次の日無事剣岳の頂上に立った。しかし、誰もボクのキスリングの中に入っていた日本酒を飲もうとはしなかった。山の恐ろしさが身に染みていた。

反対側の剣沢へ下山する途中の“カニの横ばい”と呼ばれる岩場の難所付近では、ボクはTさんの肩に足を載せて下ることができた。雨降り状況の中の岩場の恐ろしさを知らされた。すべてはボクが履いていった、役に立たないシューズのせいだった。

ほとんど昼食らしきものをとらずにいたボクたちは、雨の岩場で缶詰を開け、汚れた手をズボンなどで拭きながら無造作にむさぼり食った。近くでヘリコプターのエンジン音が聞こえていたが、あとで聞くと、転落者の搬送に上がってきていたらしかった。

ボクたちはその後、先頭と最後尾とに大きな差をのこしたまま、剣御前から雷鳥沢を下り、室堂平に再び登り返して無事全員下山した。体力不足か、半分死にかけたような人が一名いたが、何とか無事だった。

この剣岳山行は、ボクに大きなインパクトを与えた。まず、二度と山など登らないと決意させた。しかし、その後ボクは北アルプスの山々に入っていくことになる。初めは友人と二人の山行、その後は単独での山行。そしてその後は、単独であったり、集団であったりと。

なぜ山行を続けるようになったのかと考えると、やはり山への憧れがあったからなのだろうか。

剣岳の登山口である番場島には、「試練と憧れ」と記された碑が建っているが、本来の憧れるという感覚は、普通の観光地などにはなく、やはり山などを対象にした時に生まれるものだと思う。

『剣岳 点の記』の中でも語られる、「自然の美しさは厳しさの中にしかない」という感覚は、そういう意味で試練と憧れを象徴している。そして、「人は淋しさに耐えながら生きている」といった言葉もまた、そのことを意味しているのだと思う。

山には人の生き方みたいなものが凝縮されているということを、山に入って15年ぐらい過ぎた頃になって初めて実感した。教えてくれたのは、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんだった。ただ心を落ち着かせて歩いていれば、必ずいつか目標地点にたどり着けるし、そこには雨も雪も風もあるが、それらも冷静に受け止められると。その時五十嶋さんと一緒に歩いていて、全く苦しさを感じなかった。そして、その後の山行を、ボクは自分自身のペースで力んだりせずにこなせるようになっていたのだ。

それから後も、山ではさんざん厳しい目に合わされた。しかし、山はよかった。ただ、それだけだった……

ゴンゲン森と・・・へのメッセージ

 

娘に会いに久しぶりに金沢へ行った電車の中で

本を読み終わりました。 

年とったせいか、とお~い昔の自分の子供の頃の情景を思い出し、

最後の別れのところ、涙が出てしまいました。

一回読み終わったも、また読んでみたくなりました。

 良い思い出の本、書いてもらってありがとうございます。

カバンに入れて持ち歩いていたので

表紙がボロボロになっていました。 

うれしいような、さみしいような。

 

嬉しいメールありがとうございました。

尊敬する伊集院静氏の『機関車先生』にも、先生と生徒たちの別れがあります。

ボクは子供たちの別れには、必ず再会があるという文庫解説者の言葉に勇気づけられ、ボクの話の中にも別れを堂々と描こうと考えました。

子供たちに限らず、再会を信じられる別れこそが本当の別れだと、ボクは考えています。

だから力一杯手を振れるし、涙を流せるのだとも考えています。

第2作目はそういう話にしてみたいですね。

水かけ神輿と一箱古本市

8月最後の日曜日は、猛暑もなんのその、とにかくひたすら慌ただしい一日であった。

まず、10時に始まる『第1回一箱古本市』に出店するために、九時半頃、主計町の源法院という小さな寺に出かけた。

この古本市は、2005年、今注目を浴びている東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まり、金沢のあうん堂さんたちがこちらにも呼ぼうと企画したものだ。駅弁売り用の木箱が一個千円で配られ、それに古本などを好きなだけ並べるだけという、シンプルを絵に描いたような売り方をする。谷根千のさまざまな面白いコト・モノに興味を持ち始めてきた最近、あうん堂のご主人Hさんからご案内いただき、まずこれを取っ掛かりにしようと決めたのだ。

主たる店番担当のKは、ボクより少し遅れて会場に到着した。彼の友人であるOクンも後から来ることになっていた。しかし、ボクはゆっくりとはしていられない。すぐに主計町から柿木畠へと移動しなければならなかった。というのも、柿木畠の人たちが数年前から始めた「水かけ神輿まつり」の様子も窺いに行かねばならなかったからだ。

KとHさんに、場を離れることを告げ、ボクはすぐに歩き出した。

主計町から柿木畠。金沢を知る人であれば、それほど近い距離でないことはすぐに分かるだろう。しかも、すでに気温は猛暑と呼ぶにふさわしいあたりまで達している。案の定、大手町あたりでTシャツは汗でびっしょりになった。かなりの早歩きのせいもあるが、日向も日蔭も関係なく熱風に全身が包まれていく。

柿木畠に着いたが、神輿の姿はなかった。そうかと納得し、広坂の石浦神社へと向かう。歴史はないとは言え、神輿は神輿、神社でお祓いをした上で街に繰り出すのが正しい道だ。こちらがちょっと遅れたせいもあり、神輿とは21世紀美術館で遭遇した。お祓いをすませ、戻りの途中だった。いつもの面々が先頭を歩いていて、手を上げて挨拶してくれる。Mさん、Iさん、Gくんなど、いつもとはちょっと違う出で立ち(Iさんは同じか)で、勇ましい。まだ勢いは付いてないが、これから街に繰り出して水の掛け合いになるのだ。

 柿木畠は、ボクにとって商店街仕事の原点みたいなところで、楽しく元気に、そしてセンスよくやりましょう…の精神でやってきた大好きなところでもある。そして、何よりも公私混同が実を結んでいった典型的なパターンの代表なのだった。

当時、21世紀美術館がオープンするのに合わせて進めた企画は、かなり自信をもってお薦めできたものだった。商店街の皆さんが凄い勢いで頑張ったし、今は亡き当時のN理事長さんやMさんにはアタマが上がらなかった(今もそうだが…)。そして、企画はさらにその後も広がっていったのだ。

 水かけ神輿は21世紀美術館から知事公舎へとまわって一暴れ(水かけ)し、広坂通りを通って、香林坊アトリオ前、東急ホテル前でも水かけして、せせらぎ通りへと移動していった。その間には何人もの知り合いと出会い、挨拶などを交わした。

時間は限界だった。Kに電話すると「いい雰囲気です」と、なんだか微妙な返事。柿木畠の面々に挨拶し、大和デパ地下で弁当を買いこみ、すぐに主計町の古本市会場へ戻ることに。

バスを利用し主計町にたどり着くと、古本市会場はそれなりに賑わっていた。

 「売れてます」とK。「えっ」と箱を覗くと、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』が減っている。基本的には古本市であったが、新刊に近いものもよいというお墨付きがあったので置かせてもらった。Kいわく、「皆さん興味があるらしく、真っ先に手にとってくれるんですヨ」とのことだ。拙著は、たまたまクルマに置いてあった四冊という中途半端な数だったが、早い時間に完売してしまった。こう言う場所へ来るお客さんたちはよい感性を持っている、さすがだなあ……と、数が少なかったことを悔いた。

山関係の本が結構売れた。売れて困った。こんな本買う人はいないだろうと思って、ダシに使っていた『槍・穂高連峰』(山と渓谷社)というかなり古い本が売れた。いや、売れてしまった。しかも最近山好きになったという、若い女性が買っていったらしかった。東大山岳部の部員たちが書いた、かなり滑稽で面白い本だった。冬山の体験などが実に笑える内容で綴られていて、ボクは素朴な装丁とともに愛読書のひとつにしていた。しかし、売れてしまったのでは仕方ない。

そう言えば、スポーツサイクルで颯爽(さっそう)と登場したOクンもまた、最近山を始めたと言っていた。Oクンには、『北アルプス山小屋物語』という山小屋のオヤジの話が満載された本をあげた。

 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』という、表装がなく薄汚くなった本も売れた。『剣岳・点の記』でまた人気が復活した新田次郎だが、実は富士山の気象観測所で働いていたことは有名で、気象庁の仕事の傍ら小説を書いていた。そんな新田次郎が有名作家になった後で書いた自伝ということで、ボクは当時異常な関心を持ってこの本を読んだ。というのも、自分自身がサラリーマンをしながら作家になることを夢に描いていたからだ。しかし、ボクはその後になって、この本を読んだことを後悔した。そんな甘いものではなかったと思い始めたからだ。この本を読んでいなければ、ボクは貧乏しながらも一応作家を目指して、頑張ったかも知れない。そんな思いに揺れ動いてもいたのだ。自分勝手なものだ。

新しいものでは辻仁成の小説本も売れた。これは内容がまったく自分に合ってなく途中でやめたものだ。売れて別に文句はないのだが、帯付きのピカピカの本だったのに、Kのやつがなんと200円で売ってしまった。そのことがちょっとショックだった。

 そんなこんなで、箱の中はかなり隙間が目立ち始め、それなりに売り上げがあったが、ボクにとっては、東京千駄木から来ていた「不思議」という店の店主Hさんとの出会いもまた楽しかった。「不思議」と書いて「はてな」と呼ぶ。千代田線千駄木駅からブラブラ歩いてくださいねという古本・古道具の店。Hさんの風貌も親しみやすく、おしゃべり自体も実に面白い。

 ボクは何気に置かれていた『東京文学散歩下町編』という定価100円の本を、300円で買った。今見てもほとんどよくは分からないのだが、1955年発行というところに魅かれて買ってしまった。

それと何と言っても興味を惹いたのが“ガラスペン”だった。竹製の年代がかった柄の部分と、ガラスで作られたペン先とがアンバランスながらに釣り合い、独特なムードを醸し出していた。旅行者風の若い女の子が「ええっ、なぜこんなところにガラスペンがあるの?」と声を上げ、Hさんが千駄木から来ていることを告げると、その女の子は納得した表情を見せた。谷根千の威力をまざまざと見せつけられた瞬間だった。

ボクは釣られるようにガラスペンを買った。包装はペン先がティッシュで包帯のように包まれただけのシンプルさで、それがまた“谷根千的”でいい味を出していた。

狭い境内とその前の狭い道に、人だかりができ、話し声や笑い声が絶えない。

暑い暑い夏の、午後の遅い時間。ちょっとお疲れ気味の店主たちは、それぞれの場を離れたりしながら語り合っていた。女性だけのグループ型、小さな子供を連れた家族型、単独オトッつぁん・オッカさん型など、さまざまな店主の形態があったが、みなそれぞれ立派な個性のもとに輝いていた。

古本市は楽しい。じっとしているのは辛いが、また今度も参加したり、自分で企画してみたりしようかと、秘かに思い始めてしまった。

帰り際、浅野川大橋のたもとに立っていると、西日がもろに顔に当たった。目を開けていられないほどだったが、その眩しさが妙に嬉しかった……

「甦った試合……」

 八月後半の三日間ほど、ボクはソワソワしていた。ソワソワだけではなく、ワクワクもしていたし、ドキドキもしていた。だが、総体的には、一応イキイキしていたとも言えた。

 大学時代、ボクは体育会の準硬式野球部に四年間籍を置き、小田急線の生田にある合宿所で生活していた。準硬式野球というのは、分かりやすく言うと、硬式のボールの表面だけが軟式のようにラバーになっているボールを使う野球のことだ。今では大学だけでやっているジャンルだと思う。使用するグローブやバットなどは硬式と同じだが、ルール的なことで言うと、大学の硬式野球リーグでは、木製バットを使用するのに対し、準硬式野球リーグでは金属バットが使える。ここが大きな違いだ。

 前置きが長くなった。今夏金沢で全日本選抜大会が開かれ、母校明治大学の準硬式野球部が出場していたのだ。

 明治は初戦と二戦目を順当に勝って、ベスト4に残ったが、準決勝で九州の大学に敗れた。ちなみにそのチームが最終的に優勝した。

 初戦の市民球場ではそれなりに観戦した。そして県立球場の二試合目は少しだけだが顔を出し、三試合目は、もし負けた場合のことを考え、打ち上げの場所・時間などを確認しておかねばなるまいと、途中から最後まで見ていた。

 OB会長でもある長老K大先輩が直々に来ていて、また在学中に世話になった前監督のK先輩も、東京から一週間休暇をとっての応援。さらに現監督が二年後輩のO君だ。応援に行かないわけにはいかない。伝統の血は、こういう時に騒ぐのが当たり前なのだ。

 ボクたちも現役時代には三度全日本に出た。しかも選抜大会ではなく、選手権大会という大学日本一を決める本大会の方だ。

 特に四年生の時の全日本は、六大学リーグで優勝できず、全日本への出場権を得るには、関東選手権を制覇するしかないという厳しい条件下にあった。なんとか準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出をかけた相手は同じリーグ(東京六大学)の覇者・早大だった。普段から仲の良かった早大はすでに全日本出場を決めており、完全に戦力ダウンしたメンバーで臨んできた。しかし、ボクたちはその相手にも手こずった。なんとか勝つには勝ったが、情けないくらいに無様な勝ち方だった。

 こんな試合をしていて、全日本に出る資格があるのか?と、チーム全体にみじめな思いが充満していた。試合を終えて、キャプテンだったMと二人、新宿西口の喫茶店にいた。真面目に“クソ”が付くくらいのMは、その試合の責任をすべて自分で負っていた。時折、涙さえ浮かべていた。

 「オレ、キャプテン辞めるわ」何度もその言葉を口にし、その度に「今辞めてどうする」と、ボクは彼に言った。電車の中では、横に並んで立ったまま、ほとんどしゃべらなかった。

 合宿所に戻り、ミーティングが開かれたが、重い空気は翌日のゲーム(決勝戦)に決して明るい展望をもたらさなかった……

 西武新宿線・東伏見。早大東伏見球場はリーグ戦でも使用しており、勝手知ったる場所だ。決勝の日、その東伏見に雹(ひょう)が降った。雷が鳴り、真黒な雲が球場の空を覆った。試合開始は二時間ほど遅れただろうか。

 決勝の相手は、東都リーグの強豪・専修大学だった。春のオープン戦やその他の交流戦などでも、ほとんど勝ったことのない相手だった。

 しかし ────

 明治は、5対0で快勝した。エースのSが相手の強力打線を抑え、バックもしっかり守った。打線は準決勝まで打ち込まれることの全くなかった相手エースから、コツコツと5点を奪った。いつもながら地味な、明治らしい試合、明治らしい勝ち方だった。みなが、勝つことに集中していた。

 四年間の中でもベストゲームで、明治は優勝した。試合後のベンチ前でのキャッチボール。Mが、ボクの投げるボールを受け取るたびに、嬉しくてたまらないといった顔を見せた。笑いたくてウズウズしている。その笑いを抑えるのに懸命になっている。あんなに楽しいキャッチボールも初めてのことだった。

 その年の全日本は、北海道釧路市。

 早大と一緒に羽田を発ち、早大と一緒に札幌から特急に乗った。そして、同じ日、早大と一緒に初戦敗退した。一応、両校とも優勝候補に上げられていたのだ。

 その後の二週間は、北海道にいた。釧路出身で、知床の小さな町で中学の英語教師をしていたI先輩の住まいとクルマを借り、道東を駆け巡っていた。七時には家の明かりが消えてしまう小さな漁村の、先輩の住まいでは、近所の人が調理した魚を届けてくれたりした。合宿所で同部屋だったこともあり、ボクはI先輩が好きだったのだ。

  ずっと前の出来事が、金沢で活躍する後輩たちの姿から甦ってくる。ユニフォームやポロシャツやシューズなどに記された、“meiji” のロゴが元気をくれる。ベンチ上のスタンドの金網には、新調されてはいたが、懐かしい部旗が張り付けられていた。

  準決勝の夜、現役4年生も含めて飲みに出た。たくましく礼儀正しい現役たちがまぶしかった。また来いよ、後輩たち。再来年、全日本選手権が金沢で開かれるとのことだ……

 ※タイトル写真左から、キャプテン古城君(横浜高校選抜優勝メンバーでナイスガイ) 監督・大竹君 オレ エースの西君(春季リーグ戦最優秀投手賞)  県立球場にて

「夏のハーフタイム的雑感~その2…」

 

 旧盆の休暇は、特に何をするでもなく、天候不順という最低な条件にも左右されて不満足な出来であった。昼間は独りでいることが多く、そうめんを作ったり、冷奴の試し食いなどに、微かな喜びを見出したりしながらやり過ごした。

 冷奴はシンプルなのがいちばんと前に書いたが、富山県八尾から某スーパーに入って来る「絹ごしどうふ」が、何となく健気(けなげ)で、心をそっと揺さぶってきたりしている。京都から、いかにも工夫しとりますゥ的雰囲気満載の豆腐が入ってきたりもして、そんな言葉の誘惑に負けそうになったりもするが、八尾という名前にも、尊敬する奥井進氏の生まれ故郷であることもあってか、ぐっとくるものがあるのだ。

 八尾の豆腐は四角だ。豆腐は四角で当たり前で、近年のやたら丸かったりしている輩には、まずもって不信感から入ってしまうのはボクだけだろうか…(そうだろうなァ) しかし、そのシンプルな味に共鳴している。

 そうめんはいつも適当に作る。冷蔵庫の扉に貼り付いているタイマーのようなものを一応セットしたりするが、ほとんどは見た目でいく。冷水にさらす時も指の感触で決める。食べる時は生姜あるのみ。30年前に奈良で三輪のそうめんに出会って以来、そうめんに目覚めてしまったボクとしては、そうめんはあくまでも、大切な食材のひとつなのだ。『ゴンゲン森・・・』の中で、ナツオが食べていた、あの時代のそうめんは一体何だったのか? 一説によると冷麦だったのではとの話もある。だから、どうなのかと言われてもボクは、その意味を理解していないのだが……

 フットサルの話を書いたが、能登島で合宿中の高校チーム同士のゲームを見た。言葉から推測するに関西のチームらしかった。凄いハイレベルのゲームで、選手たちが輝いて見えた。夏合宿で伸びる選手と、伸び悩む選手とがはっきり分かれていく。猛暑の炎天下、申し訳ないので、ボクも木陰に入らず、熱くなった木製のベンチに腰を下ろしていた。

 そういえば、山梨県旧勝沼町で、兼業でブドウ作りをやっているMくんの母校が30年ぶりに甲子園に出た。試合当日の朝、「今、応援バスの中か? 応援してるぞ」とメールしておいたが、昼近い頃になって、「ブドウ畑も忙しくて、今日はテレビで応援だ」と返信が来た。野球部熱血OBとしては、さぞかし応援に行きたかっただろうにと思っていたが、相手も強豪校でMくんの母校は久しぶりの甲子園を勝利で飾れなかった。夜のメールでは、「悔いの残る試合だった…」と。悔しい思いが綴られていた。話は変わるが、今年の秋には、Mくん自家製の甲州ブドウとワインを楽しみにしている…

 本格的な山には一度も行けないまま、夏はハーフタイムを迎えた。ラグビーで言えば、ノートライ、ペナルティゴールが辛うじて一本決まったという程度だ。上高地から穂高や、いつもの太郎小屋周辺をアタマに描いていたのだが、時間がボクを許してくれない。そんな中、前にも書いたが『笑顔の冒険家・植村直己』(NHK教育)が充分に楽しませてくれている。一回わずか25分のドキュメンタリーだが、今度が最終週となってしまった。第2回目のエベレスト登頂の話は、植村さんの真実を伝えるいい内容だった。

 もうひとつ、民放でやっていた『剣岳・点の記』もよかった。測量士の柴崎芳太郎もよかったが、案内人・宇治長次郎(うじちょうじろう)もいい描かれ方だった。山案内人であった長次郎の銅像が立っている場所を知っている人は少ないだろう。旧富山県大山町(現富山市)の立山山麓家族旅行村の入り口にある。もっと分かりやすく言えば、ゴンドラスキー場の入り口。分かりやすくもないかな… 一緒に連れて行ってあげた人でさえ、覚えていないと言うかもしれない。

 宇治長次郎は山の案内人として剣岳登頂に貢献したが、もう一人この旧大山町からは日本の山岳史上偉大な人物が出ている。それは、北アルプスの盟主と呼ばれる槍ヶ岳を開いた播隆上人(ばんりゅうしょうにん)で、百姓から僧侶になり、笠ケ岳、そして最も難しいと言われた槍ヶ岳を開いた。播隆の物語も『剣岳・点の記』と同様、新田次郎によって小説化され、『槍ヶ岳開山』のタイトルで広く読まれている。ついでに言うと、新田次郎の山岳小説は『孤高の人』、『栄光の岩壁』など、どれも昔最高に面白く読んだ。

 本と言えば、『ゴンゲン森・・・』でも大変お世話になっている、うつのみやさんの百番街店で、実にもって嬉しいかぎりの文庫のレイアウトを見つけてしまった。なんと、椎名誠氏の『岳物語』と伊集院静氏の『機関車先生』とが並んで置かれていたのだ。これは集英社文庫の企画らしく、同じ装丁デザインで特別販売されているシリーズなのだそうだ。サイトのプロフィールにも書いているが、ボクの尊敬する二人の作家の、しかも『ゴンゲン森・・・』という作品では、ボクが手本したといっていい二作品なのだ。

 なんてことだろう…と、ボクは大いに驚き、そしてゾクゾクと背中を縮み上がらせてしまった。嬉しかったが、なんだか怖くもあった。こんな感性がやっぱりまだまだ生きているんだ…、だとしたら、このまま『ゴンゲン森・・・』を眠らせていくわけにはいかないなあ…と、大いに思ったりもした(思わず店内で小型カメラによる撮影もしてしまった)。

 そういえば、盆休暇直前日の夕暮れ時、独りで待っていた我が家に、「地デジ」がやってきた。ところで、ウォシュレットの出現により、だいぶ前に「キレぢ」が去ってから十何年が過ぎたが、両者はなんら関係ない。言葉の響きによっては、同類に聞こえたりするので誤解を招きやすいが、全く関係ないのだ。地デジによって、我が家のテレビ文化はかなり変わるであろうが、なにしろかなりの衝動買いであったため、その支払いなどの条件も、我が家の生活文化を変えそうだ。番組では、特に天気予報が見やすく分かりやすくなり、買った甲斐があった。

 しみじみとした夏のハーフタイムには、古いお寺を訪ねたりするのが良かったりする。加賀大聖寺の山の下寺院群は、かつてボクがルートづくりをさせていただいたところだが、久しぶりに行ってみると、一段とやさしい雰囲気に包まれていた。ちょっと休めるところがあったらいいなあと感じながら、人のいないことに中途半端な安ど感…… 暑いからだろうなあと思いつつ、もっと多くの人に知ってもらい、来てもらうためにはどうしたらいいのか? 深田久弥・山の文化館でも、必ずその話題になったりする。

 カフェで、独り静かにかわいいカバーを付けた文庫本を読む女性がいた。カバーもやたらと目を引いたが、アイスコーヒーのストローにも夏を感じていたんだなあ…

その3につづくかもしれぬ……

「夏のハーフタイム的雑感~その1……」

 

 ある休日の夕方、美しい夕焼けが窓から見えていたので、カメラを手にしてふらっと外に出てみた。そして、数枚の写真を撮影した後、あることに気がついた。

 それは、夏の夕暮れ時というのが、これほどまでに静かなものだったのか…ということだった。鳥のさえずりと、ヒグラシの鳴き声だけが遠くから聞こえてくるだけ。ごくごく日常的なことでありながら、いつもはゆっくり夕焼けなど見ていられることがない分、その日の夕焼けは美しさとともに静けさを、強く感じさせた。

 そういえば、その何日か前、夜の打ち合わせが加賀であり、高速の帰り道、海を見ていたことがあった。SAの自販機でブラックコーヒーでも飲もうと思ったのだが、小銭入れのカネがわずか10円足りず、コーヒーを諦めて夜の海を見ていたのだ。なかなかコーヒーへの恨みは消えなかったが、それを癒してくれるに十分な夜の海の美しさだった。

 海も山もそうだが、人だかりでごった返す雰囲気は好きではない。ボクの思いの中には、その両者ともが、独りでボーっとする場として位置付けられている。だから砂浜なんかに、小さな舟が一艘だけ繋がれているのを見つけたある日の風景などには、惜し気もなく自分自身の感性をリンクさせようとし、出来るだけその風景の中に自分を同化させるための努力をしていた。

 必ずしも近づいて行こうとは思わない。ちょうどいい距離を見つけて、その空間の中でいい気持ちになれる瞬間を探す。カメラのピント合わせの感覚に似ているのかもしれないし、レンズを動かしている時の感覚にも似ているかもしれない。

 暑い夏には、やはり入道雲が似合う。

 今年の夏の入道雲は、8月に入って気合が入ってきた。入道雲が怒っている(とボクには見える)時は、夏がいい夏であることを証明している。だから、子供の時の夏は、やはりいい夏だったのだと思ったりする。真っ黒に日焼けしたボクたちの肩や腕や足や、そして首や顔などと、入道雲はぴったりの相性を誇っていた。

 仕事で立ち寄った金沢市民芸術村で、正装した高校の吹奏楽部だろうか、練習を終えて全員がぞろぞろ炎天下を歩いて来るのを見た。その光景と芸術村の赤レンガと黒瓦の建物、そしてその上に、純青の空と、怒りを露(あら)わにした入道雲を見た時には、思わず心が騒いだ。声を上げたくもなった。無性に誰かにこの凄さを伝えたくなったが、誰に伝えていいのか分からないまま高ぶりを抑えるのに苦労した。

 

 今夏でも、めったに自分からは食べない「カキ氷」が出された時には、心の中で“しまったなあ…”と思うことがあった。ボクは極度に冷たいものはあまり好きではない。適度に冷たいものは好きだが、極度はダメなのだ。なぜかというと、アタマの前方付近に突如やってくる、あの刺激的痛みに襲われやすいタイプなのだ。だから今年も、極力、極度に冷たいものとは付き合わないようにしてきた。

 しかし、夏のイベントの打合せで兼六園下の坂道をオロオロと歩きまわっていた後、ついにその商店会の会長さんのお店、詳しく言うと、店舗二階の階段付近にあるL字型応接セットのテーブルの上にその「カキ氷」は届けられ、“見た目”的には爽快感満点のソレを思い切りよく口へと運び、その後、三度ばかり激痛に襲われ、眉をしかめ、唇を噛み、鼻の穴をおっ広げては耐えに耐えた。

 そのおかげもあってか、旧盆直前に催した打ち水イベントは大成功で、県内各紙と各局が取材に来てくれ、NHKは全国ニュースでも流してくれた。

 そういえば、自分がクーラーも好きではないということを、今夏あらためて認識した。特に暑いのと冷えたのとを繰り返すのが嫌いだし、局部的に冷やそうとするカーエアコンなども好きではない。暑いのなら暑いだけのところで、暑いままいる方がいい。

 何日だったか、小松で全国一の気温(37.7度)になった日があった。その日の夜、小松在住の一級建築士兼フラメンコ・ダンサー及びスパニッシュ系ミュージシャンの“m”さんに、日本一おめでとうございますとメールした。ボクとしては、非常にうらやましい話で、何年も前に一度京都で40度近い気温を体験したが、最高気温日本一になった感想とその体感の喜びの声が聞きたかったのだ。しかし、夜遅くなって、いよいよメールが返されてきたが、「運よく、小松にいなかったので、よかったです…」的お言葉だけで、ボクの期待はカンペキに裏切られた、のであった。

 その2につづく……

加賀のサッカー少年が、サッカー青年になって、子供たちに伝えていくこと…

8月の始めに、加賀市の国道8号線沿いに出来たフットサルコート『AUPA』を初めて訪ねた。8月1日オープンしたばかり、すべてが新しい施設だった。

すべては新しかったが、何よりもカンペキに新鮮だったのは、施設運営会社の代表取締役である、八嶋将輝(やしま しょうき=タイトル写真)さんの存在だった。“さん”付けで呼ぶよりは、“クン”付けで呼びたいくらいにすがすがしい存在感をもった若者だったのだ(失礼)。

輪島の廃校の話でも書いたが、ボクにとって、ワクワクさせてくれる“何か”との出会いは、いつも行動の原点にある。私的な場合は、その出会いから自分の楽しみを感じ取り、仕事の場合は、相手が求めるものを探し、創り上げていくことに、いつも気持ちを注いできた。八嶋さんとの出会いは正式には後者であったが、いつもの公私混同型思考がベースだ。そして、それ以降のつながりは続いている。

八嶋さんは、来年の1月に30歳になるというセーネンであり、まだ1歳になっていないという子供を持つ父親でもある。サッカーに情熱を注ぎ、海外でも修行してきたという筋金入りだが、言葉や表情からその自信が感じ取れる。そして、スポーツマンらしい謙虚さもまたいい感じだ。地元に戻って、NPO法人スポーツクラブ「リオペードラ加賀」を立上げ、少年サッカーの指導者はもちろん、スポーツイベントの企画運営に携わっている。そして、このボクもそんな中に、少しは入れてもらえそうになってきた。

 初めて訪問した日、夕方になっても激しい暑さが続いていた。西に傾いた陽の光を受けながら、多くの少年たちがコートの中でボールを蹴っていた。額というより、顔中から吹き出た汗が首筋を流れていく、その様がはっきりと感じ取れるくらいの熱気が周囲を被っていた。

スポーツはいつも何かを感じさせてくれる。

少年たちの汗と真剣な表情を見ていると、世代は違うが、大学時代の夏合宿のことを思い出した。体育会の準硬式野球部に所属していたボクは、四年の間に一度だけ夏の強化合宿を経験している。その他の三年は運よく全日本大会に出場していて、その遠征のために夏の強化合宿はなかった。しかし、三年生の時は全日本に出場できず、地獄の夏合宿が待っていたのだ。

場所は、なんと石川県の小松だった。小松末広球場が練習グラウンドになり、寝泊まりは体育館の中の宿泊施設を利用した。食事は近くの店だったろうか、仕出し料理が届けられていた。

一週間くらいの日程だったが、雨どころか、曇りの日もまったくなかった。激しい日差しの下での強化合宿。朝の6時から夕方の6時まで、朝食と昼食の時間がそれぞれ一時間はあったが、それ以外は球場にいて、ひたすら練習に明け暮れた。外野手だったボクは、個人ノックになると、ボールに飛びつくようにして、わざと芝生の上に倒れ込むのを楽しみにしていた。いや、楽しみなんて言えるほどではなく、せいぜいそれをすることによって、ほんの一瞬でもカラダを休められるということに愚かな喜びを感じていた。それほど思考能力も失っていたのかも知れなかった。

昼飯をかき込むようにしてすませると、球場の外にある松林だったろうか、とにかくかすかに日陰があり、風が通りそうな場所を求めては、少しでも有意義な休息時間を過ごすことに専念した。カラダはパンパンに張り、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。球場のちょっとした階段を昇るのもきつく、春合宿とはまったく違う夏合宿の厳しさに参っていたのを覚えている。

最終日、練習は早めに切り上げられ、みなで銭湯へと歩いて行った。狭い宿舎の風呂とは違い、解放感いっぱいの銭湯であるはずだったが、誰もしゃべる元気がなく異様な静けさだった。その夜の打ち上げでは、一瞬にして気配が逆転したのは言うまでもないが…

  ジュニア野球の監督をしている後輩も言っていたが、今の子供たちは健康第一に育てられていて、練習中の水分補給も当たり前になっている。だから、ときどき腹の中でポチャポチャと音をさせながら走っている子供もいたりするらしい。7月に金沢で開かれたジュニア野球の大会で来ていた、愛知県のチームの指導者も同じようなことを言っていて、いろんな意味での精神力は、昔の子供たちの方がはるかに強いでしょうと話していた。水が飲めない辛さを、今の子供たちは知らないのだ。便所の水や田んぼの水を口に含む…そんなスリルいっぱいの美味さ?も知らないのだ。

いつものように話はそれてきたが、スポーツはたしかにスマートになった。着ているものもかっこいいし、プレーも上手い。しかし、何かがおかしくもなっている。松井秀喜選手に関する仕事をさせてもらっていて、ある著名な高校野球指導者の方とゆっくり話をさせてもらったことがあるが、たとえば選手たちの親たちの方に気を使わなければならないなどは論外だ、と思う。いろんな意味でのサポートは必要だが、スポーツ自体の厳しさとか虚しさとかといった“耐える部分”を、もうちょっと含んでいかないとダメなんではないだろうか…と、思ったりするのだ。

八嶋さんと話していて、八嶋さんが直接そのようなことを口にしたわけではないが、ボクは彼のもつ、スポーツをやるニンゲンとしてのすがすがしさから、スポーツを楽しむエキスみたいなものを感じ取った。泥臭く努力してきたニンゲンでないと、本当の楽しさは伝えられない。そのエキスが八嶋さんには全身に詰まっている。そんな気がした。

ボクたちが苦しかった合宿の話などで、今でも盛り上がり、互いにケナし合ったり、褒め合ったり(あまりないが)できる楽しさを維持しているのも、あの極限的な過酷さがあったからだろう。時代は変わったが、スポーツから厳しさや虚しさをとったら、やはり何も残らない。

  ところで、うちの会社には、元だが、優秀なサッカー選手もいたり、中途半端に若くて威勢だけはいいという輩もいるので、ここはひとつフットサルチームなんぞを作り、『AUPA』に乗り込んでみようかと思うのだが、どんな按配だろうか。あのサッカー少年たちから笑われるだけかな……

輪島の暑い夏と廃校

 

 夏らしい活動が復活し始めている。そんなことをはっきり感じ取る瞬間がある。気持ちの上でも、自分らしいなあと思うことがあったりして、図々しながらも10歳以上若返ったような、我田引水型の錯覚に陥(おちい)ったりする。

 何か考えてくれないか… ボクの仕事の中では、このような問いかけは日常茶飯事のことと言っていいのだが、ここ最近はどうも仕事的匂いがプンプンし過ぎていて面白くなかった。しかし、ここへきて、少しその匂いが変わってきた気がしている。と言うよりも、何だか以前に戻っていくような気がして、N居的アドレナリンがかつてのように騒ぎ始めてきたといった感じなのだ。

それは、ボクの前に現れてくる人やモノや、物語などが、新鮮であったり、奥深かったり、好奇心に満ちていたり、ワクワクさせてくれたりするからで、こういう状況にいると、ボク自身もどんどんその世界へと身体を乗り出していってしまう。ずっとそうやって、仕事的な中にも自分を融け込ませてきた。

 能登半島の先端、輪島の市街地を離れた海沿いの道には、海と人里との深い結びつきを伝える“能登らしい”風景が続く。

真夏の日差しの中、その風景を楽しみながら進んでいくと、小さな高校のグラウンドと校舎が見えてきた。

2002年の春に廃校になった旧県立町野高校だ。グラウンドは雑草がかなりの大きさにまで伸び、かつてプロ野球選手まで輩出した野球部の名残りであるバックネットも錆びついている。

目的地はその場所ではなかったが、その場所を活用できないかというある人の話を聞くために出かけてきた。しかし、その場所をじっくりと眺めてみて、そのあまりの状況に心の方までもが寂しくなってしまった。

話はとても興味深かった。お会いした地元の方は、廃(すた)れ気味になっているこの辺りの活性化に、この廃校の活用をと考えていた。この辺りとは、能登半島ではかなりの人気スポットである「曽々木海岸」のことで、かつてはホテルや旅館、民宿などが数多く営業していたが、今はぐっと数が減っている。古い看板だけが残ったような建物を見ていくと、その状況が想像できる。重い現実感が、明るい真夏の日差しの中なのに、はっきりと目に焼き付いてくる。

しかし、ボクはいつも思っているのだが、地元の人たちが楽しい顔をしていなければ、やって来る人たちも楽しくなれないはずだから、まずは自分たちが楽しくなれることを、どんどんやってみることから始めるべきだと。そのために旧町野高校の校舎やグラウンドを活用させてもらおうという発想から始めれば、最も素直で素朴な意見として切り口が作れる。そう思い、その人にそう話した。

その人は、ボクなんかよりも人生の大先輩にあたり、かなり大局的な見地でモノゴトを考えるタイプの人だった。出来あがりの理想形がすでに頭の中に描かれている雰囲気だった。ボクは“オイラたちやアタイたち”レベルでの活動に、まず活路を見出すべきではないかと思ったのだが、そのことがどれだけ伝わったのかは微妙だった。

紙に描いた絵や綴った文章だけでは、なかなかうまくいかない。それも根本的には大事だが、小さな活動からでもいいから、自分たちが楽しくやれることをやってみればいい。そのためのお手伝いならナンボでもやりますよと、ボクは告げた。告げた後で、ちょっと後悔なんぞもしたが、まあ何とかなるだろう…とも思った。

帰り際に、もう一度、今度はじっくりとグラウンドとその奥の校舎を眺めた。

そうだ、草むしりから始めよう。草むしりは除草(じょそう)だから、男ばかりで女装(じょそう)してやったりするのもいいな。タイトルには「女装で除草大会」的なんだぞの表現を入れて、コンテスト形式にしてもいいなあ。そして、その後、みんなで魚や肉なんぞを冷たいビールなんぞと一緒にいただいたりするのもいいなあ……と思った。

学校の建築物には、耐震のことやらでむずかしい課題があり、再利用というのには厳しい条件が付いて回ることは理解している。しかし、かといって、今のようなままで放置?されていたのでは、周囲のせっかくの美しい風景も蝕(むしば)まれてしまうような感じがする。

ここはひとつ、来年の夏に向けた宿題として、頭の右隅あたりに常に在庫しておこうかと思っている。活きのいい若者とまではいかなくても、元気いっぱいのオトッつァんやオッカさんあたりで、考えていきたい話だ。適度に、そして、それなりに絡ませていただく……

植村直己は、なぜ“どんぐり”だったのか…

8月某日、NHKテレビで興味深い番組がふたつ放送された。

ひとつが、総合テレビの“冷奴のおいしい食べ方”についてをテーマにした『ためしてガッテン』。そして、もうひとつが、教育テレビの『こだわり人物伝~笑顔の冒険家・植村直己~どんぐりからの脱却』だった。両方とも見たという人は少ないと思う。

前者は、名前負けの、何ら得るもののない無意味な番組だった。冷奴はどのようにしたら美味いかなど、考えるだけムダで、そのまま生姜を少々のせて醤油をかけ食べる。できれば、少し砕き気味にして食べるとなお美味い。それだけだから、5分もあれば番組は終わってしまうくらいのものだったが、それをクドクドと45分もやった。当然ボクは途中で見るのをやめた。その点、さすがに後者の内容は濃く、嬉しく懐かしく、しっかりと見た。

植村さんが北米の最高峰・マッキンリーで消息を絶ってから何年が過ぎたんだろう? なかなか思い出せない。“まさか、あの植村直己が…”と、誰もが疑った冬の遭難。

当時、植村さんはどこかで生きているということを、多くの人が思った。こんなことぐらいで死ぬわけがないと。しかし、植村さんはそのまま帰って来なかった。

学生時代、大学の先輩にあたる植村さんが、北極圏の極点を目指したとき、ボクたち現役学生も多くのカンパをした。一口1000円だった。そして世界初の成功をおさめた時には、お茶の水の大学正門前で振る舞い酒が出たのを覚えている。

それ以来、植村さんはボクの中でのヒーローの一人となった。

 植村さんの足跡はすごい。29歳で世界の5大陸の最高峰すべてに登頂。日本人最初のエベレスト登頂者という栄誉も得ている。また、アマゾン川を筏(いかだ)で下ったり、犬ぞりで北極の極点に単独で立つなど、登山家・冒険家としての地位は世界でもナンバーワンだった。

そんな植村さんだったが、学生時代は山岳部の落ちこぼれで、あだ名が「どんぐり」だったという話は有名だ。とにかく田舎者を絵に書いたような素朴な青年で、山では全く弱かったという。

しかし、合宿で自分の弱さを知ってからの努力は凄まじいものがあり、植村さんは自分を力強く鍛え上げていった。毎日9キロのランニング。冬の立山連峰に単独で入り、テントを使わず、雪洞を掘って過ごしながら縦走するという離れ業も成し遂げた。

卒業後は就職もせず、アメリカに渡って果樹園でのアルバイト生活。最終目的はヨーロッパ・アルプスに行くことだった。そして、ヨーロッパ・アルプスではスキー場で働きながら山歩きに没頭した。ヨーロッパの最高峰モンブランに登頂。南米の最高峰アコンガグア、アフリカの最高峰キリマンジャロなどにも登った。

もうかなり前になるが、植村さんの生まれ故郷である兵庫県日高町に出かけたことがある。

春の暖かい雨の降る午後だった。日高川の穏やかな流れと、川沿いに咲く桜の並木に目をやりながら、ボクはめざす「植村直己冒険館」へ思いを馳せていた。そして、そこで見たり聞いたりした植村直己の世界に強い衝撃を受けてもいた。無線で叫んでいる植村さんの声は、いつまでも耳から離れなかった。

植村さんは負けず嫌いだった。それも無類の負けず嫌いで、さらにそのことをあまり表には出さなかった。そして、人並み外れた努力家でもあった。

番組の中で案内役を務めた登山家・野口健は、植村さんの著書『青春を山にかけて』で登山家を目指すようになったという。高校を中退して人生の迷路に立っていた時期だった。

植村さんもまた、山の世界へと足を踏み入れていく中で、決してそのことをすべて肯定していたわけではなかった。植村さんには、自分が世の中の普通の流れに乗って行けない人間であるという、大きな不安がのしかかってもいた。同僚たちがサラリーマンとして会社勤めをする中、自分はアメリカに渡り、ヨーロッパに渡り、定職にも付かず、山で暮らしている。そのことは“どんぐり”植村直己にとって、ある意味許せないことだったのかも知れなかった。それほど、植村さんは“真面目”でもあったのだ。

番組のサブタイトルは、「どんぐりからの脱却」であったが、ボクは、植村さんは“どんぐり”のままだったと思っている。ずっと、どんぐりのまま、世界の5大陸最高峰の最初の登頂者にもなり、北極点にも立ったのだと思っている。

だからこそ、「笑う冒険家」だったのだ。笑うこと、つまり“笑顔とどんぐり”には共通するものがあり、その素朴さの中に本当の強さが隠されているのだとボクは思う。

 ところで、この番組は続いているのだ……

※写真は、我が家に来たての50インチTV~NHK教育の画面より…

「金沢まちづくりサロンにゲスト参加…」

 こんなことを書くと、怒られてしまうが、金澤かずえまち茶屋ラボ二階和室に集まった、あやしい面々。

 なんと、金沢市のM副市長をはじめ、古い付き合いの市役所O田さん、S大学のS先生と、B大学のS本先生に、まちづくりプランナーのRさんと、Y江さんなどのお歴々がずらり。N居の顔も見える。O田さんの顔が見えないのは、カメラを持っているから。

 N居は心なしか緊張の面持ち。それもそのはず、「金沢まちづくりサロン」メンバーに囲まれての一夜だったのである。

 で、ゲストであるN居はそこで何を語ったか? 気が向いたときに今度じっくり書くことにする……

 

「月曜の朝、山からメールがきた…」

 「おはようございます。

  今、焼岳山頂にいます。穂高~槍~笠が岳のパノラマが圧巻です。

      今度冷たいBを是非とも。」

 友人で建築家のKさんから携帯メールが届いた。驚いた。羨ましくなった。そして、嬉しくなった。

 いつもニュートラルなKさんの生き方は、ボクに素朴なメッセージとなって響いてくる。

 ちなみに文中に「B」とあるのは、もちろんビールのことなのだ……

冷奴のことについて…

 拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中に、夏休みの昼ごはんの定番として素麺が出てくるが、初期のもともとの話には、冷奴も入っていた。

冷奴だったら、自分一人でも食べられるのにといった、主人公ナツオのイラつきが描かれていた。あとでカットしてしまった文章なのだが、早く飯を済ませて連れの二人と海へ行きたいナツオにとって、冷奴は便利なおかずだったのだ。

今年の夏も、ボクは冷奴をほとんど毎日のように食べている。いや、夏だから食べているといった安直さではない。冬も春も食べてきた。もちろん便利だからではなく、美味いからだ。そして、秋になっても毎日のように食べるし、また冬がきても食べるし、とにかく命のある限りずっと食べ続けることにしている。

先日、一緒に仕事を終えた中途半端に若い二人と、金沢片町にめずらしく飲みに出た。洋風居酒屋とでも言うのか、洋食屋さん的居酒屋風の店(同じか)に入りメニューを見た。注文は中途半端に若い二人に任せていたが、冷奴だけは先に言っておいた。しかし、冷奴の表記がないと二人は言う。そんなバカなことがあるかと、自分でもチェックしてみたが、二人の言うようにやはりない。

笑顔がいっぱいの店員さんが、注文を聞きにやってきて、すかさず冷奴はないの?と聞くと、一応ないんですが、出来ないこともないと思います… と中途半端な答えが返ってきた。

では、お願いしますと伝えて、ついでに上には何ものっけないでね、と念を押した。笑顔がいっぱいの店員さんは、ちょっとどころか、かなりびっくりしたような顔をしていた。一応ないんですが、出来ないこともないと思います… 当たり前だ。豆腐を置いてない店なんて、日本中どこを探してもないだろう。その豆腐をそのまま持ってくればいいだけなんだから。

何も、のっけなくていいんですか…? 豆腐だけで…? と、二回ほど同じことを笑顔がいっぱいの店員さんは聞いた。

ボクはこの笑顔がいっぱいの店員さんが、ひょっとしてかなりの知性の持ち主ではないか? とその時思っていた。それは、広辞苑に、冷奴は「豆腐を冷水でひやし、醤油と薬味とで食べる料理…」としっかり書かれているからで、もし、そのことをこの笑顔がいっぱいの店員さんが知っていて聞いているのだとしたら、ボクの方が分が悪くなる… そう思ったのだった。

しかし、ボクは素知らぬ顔で、うん、いいんですよ、と明解に答えた。あっ、醤油は要るけどね… と付け加えて。

すると、豆腐一丁が皿の上に静かにのっただけの、正しき冷奴が目の前に届けられた。ちょっと感動した。何ものせなくていいという注文によって、冷奴は本来の、冷奴としての素朴さ、つまり自分は豆腐以外の何者でもないんだという、さわやかな自覚を取り戻しているかのようだった。

ボクの好きな冷奴は、せいぜい生姜がのるだけだ。ネギは少しならいい。いちばん要らないのが“カツオぶし”だ。特に最近は、豆腐が見えないくらいカツオぶしをのせてくる店が多かったりして、見た瞬間に絶望的になったりする。薬味とかいう言い方で、なくてはならないもののように思われがちだが、あれだけのせられたのでは豆腐の味がしない。キムチや明太子などは問題外だ。ああいう類は、冷奴と言う名前すら使わないでほしい。

豆腐自体にも、いろいろなものが出てきた。最近では、どれが本来の豆腐の味だったか分からなくなってしまう始末で、できるだけシンプルなものにこだわったりしている。

そんな時、ふと思い出したのが、冷奴の食べ方だった。今は何となく上品な食べ方を皆さんしているように感じている。だいたい、食べる時の量もそのことを物語ってはいないだろうか?

子供の頃、冷奴は豆腐一丁丸ごと食べていた。波線形の刃物のようなものでいくつかに切られていて、それに醤油をかけて食べていたが、ボクの食べ方としては、まず豆腐を箸で砕くことから始まった。つまり、ボクは子供の頃、今のように豆腐を箸で割った塊(かたまり)で食べるのではなく、箸で砕いて、かなりドロドロ状態に近くしてから食べていたのだ。

そして、少し前、そのことをもう一度実践してみた。そして、やはりその方が美味いということに納得した。中途半端に若い二人の前でも、当然そのことを実践して見せた。二人は驚いていたが、なんとなくボクの思いは理解してくれたみたいだった。

冷奴という名前は、大名行列の奴が着ていた半纏(はんてん)に四角の紋が入っていて、その四角が豆腐の形と同じだからと、「奴豆腐」と言うようになり、そこから「冷奴」とも言うようになった… らしい。それにしても、「冷たい奴」とは情けない。

温かい豆腐は「湯豆腐」と書かれ、いかにもほのぼのと温かそうな… 喉元を通り過ぎていく時に、ホクホク・ドキドキと胸をときめかせるようなイメージがあるのに、冷やすと「冷たい奴」になる。これでいいのだろうか……

そう言えば、ヨークの奥井さんも、店の小さな黒板に冷奴を「冷たい奴」と書いていた。ついでに言うと「乾きもの」は、「乾いたもの」だった。考えてみると、こんなユーモアにニタニタしていられるのも、豆腐の持つ大衆性なのだろう。ボクもずっと普通の冷奴を食べ続けていきたい、と思うことにしようッと……

富山の入道雲とチャンポンめん

 石川県で見る入道雲は、富山県などの北アルプス上空で生まれたものを見ているのだということを、滋賀県の長浜市大手門通りにある珈琲専門店で考えていた。

 7月某日の猛暑の日。富山県上市町を訪れ、見上げた入道雲のボリュームにあらためて納得したのだ。金沢から東の空を眺め、最近の入道雲の迫力のなさに憂いていたのだが、富山へ来て少しは気が晴れていた。

 上市といえば、ご存じあの剣岳の登山口、泣く子も黙る“馬場島(ばんばじま)”のあるところだ。「試練と憧れ」の碑が山の厳しさを伝えるかのように建つ。空気が澄んでいれば、あの逞(たくま)しく、雄々しい剣岳の姿を見ることができるのだが、今日は白い雲の中に隠れている。しかし、ボクには想像だけで剣岳の存在を感じとることができる。もう目に焼き付いていると言ってもいい。それに何と言っても、剣岳は、ボクの山の出発点だったのだ。美しさも恐ろしさも教えてくれたのだ。

 上市に入ったところで、入道雲に納得しつつも、昼飯を食べるところがなくウロウロしていた。すると小さな中華屋さんの看板が目に入ってきた。訪問先との約束時間を考えると、もうここで食べるしかない。狭い駐車場に無理やりクルマを突っ込み、店の中へ。カウンターの真ん中あたりに座った。メニューをしばらく見つめ、ひとつ隣の席でスポーツ新聞を見ながら、美味そうにラーメンをすすっているサラリーマン風の男性を見た。そのラーメンがそれなりに美味そうに見えた。

 あれは、チャンポンめん(だろう)! 勝手にそう思い込み、厨房の奥さん(だろう)に、“チャンポンめん!”と告げる。が、届けられたのは隣の男性が食べているものとは明らかに違っていた。

 しかしだ。ボクが自信を持って注文したチャンポンめんは、実に素朴でやさしい味がした。塩味のスープと野菜などの具と麺とが、ぎこちなくも親密に、そして互いを認め合うように身を寄せ合っている印象だった。当店の“チャンポンめん”です。そう言ってくれたわけではないが、やさしい表情の奥さん(だろう)が、最後になくなったコップの水を足してくれる… スープをいつもより多めにすすり、コップの冷たい水も一気に飲み干す。その日の昼食を終えたボクを、富山県上市町の猛暑がまた待ち受けていた。

 富山はやはり天気予報士さんの言うとおり暑いのだ。外に出ると、フーッと軽く息を吐き、もう一度空に目をやった。

 入道雲がますます増幅していくように見えていた。いい姿だなあ、と思った。美味いチャンポンめんだったなあ、とも思った。

 入道雲とチャンポンめん。なかなかやるなあ、とも思い、やっぱり富山は偉い… と、何気に嬉しくなった。

 北アルプスが育むのは豊かな水などばかりでなく、入道雲をつくり出すエネルギーでもあるのだ。そう思うと、なかなかいい気分がした……

なんとなく、コーヒーのことについて

 富山へ行くと、ときどき立ち寄るコーヒー屋さんがある。

 ごくごく普通の、本屋さんの中に間借りしているコーヒー屋さんのひとつなのだが、そこは独立店舗なのがよく、国道沿いとかでもない分、落ち着ける。こういう店に入ると、大概の時間は本を読んでいるか、落書き帳を出して雑文を書いているかだ。気の張らない文章を書いていたりするのには最適な環境だ。

四、五人の主婦グループが、子供会の行事に関する打合せをやっているような雰囲気の中で、ときどきバカ笑いをしたところで、こちらも動じない。そんなことぐらいで、オレのペンは止まらないよと意気がったりもできる。

コーヒーはたまにいちばん大きいサイズのTallを頼んだりする。「Tallなんて飲んでたら、胃を壊しますよ」などという人もいるが、ゆっくり、しみじみと口に含んでいればそれでいいのだ。それに、その店のコーヒーは決して不味くはない。最近ファミレスのドリンクバーで飲まされるコーヒーなどは、ちょっと遠慮しがちになるが、その店のコーヒーは合っている。

家では何年もの間、ある店のある銘柄を徹してきた。しかし、それがどこの国の豆なのかということには無頓着で、要するに何となく主観的に、これはなかなか美味いではないか…と納得していた。

いつだったか専門店で、試しにとアフリカ系のコーヒーを飲んだことがあったが、それが実に美味かった。それから何となく、コーヒーはやっぱァ、アフリカ系に限るな… などと分かったようなことを考えていた。そして、かつて知り合ったケニアでボランティア活動をしているという若者が、リュックの中に持っていたコーヒー豆一袋を、その場で千円で買ったのを覚えている。何グラム入っていたかなど問題ではなかったが、若者が随分と喜んでいたのだけははっきりと覚えている。たぶんかなり安かったのだろう。

そのコーヒーは素朴な美味さだった。自分の中のアフリカ系コーヒーのイメージとしては、さっぱりし過ぎていたが、それがまた乾燥したケニアの草原地帯を連想させ(なんでも勝手に連想してしまうが)、新鮮な感動を呼んだ。ちなみに、うちのコーヒーはアフリカ系ではない……

話はさらにそれていく。

コーヒーをブラックで飲むようになったのは、わが師の一人、今は亡き奥井進さんと出会ってからだ。いや正式には、出会って数年経ってからだ。

奥井さんとは、言うまでもなく金沢のジャズ喫茶の老舗(表現が平凡だな…)「YORK」のマスターで、16歳の冬に初めて会って以来、奥井さんが亡くなるまでの30年間、縦横無尽にお付き合いさせていただいた。ボクよりも10歳年上、そろそろボクは奥井さんが死んだ歳に近づいているのだ……

それはさておき、その奥井さんがかつて金沢の寺町に居を構えていた頃、ときどき家に遊びに行った。大学を卒業し、金沢のある会社に入った頃だ。

店では当然ジャズしか聞かないのだが、奥井さんはボクが行くと、よく落語のカセットテープを聞かせてくれた。もともとボクも落語が大好きだったので、爆笑もので有名な古今亭志ん生の『火焔太鼓』などを聞いては、二人で大笑いしていた。

そんな時、奥井さんはブラックコーヒーを白いコーヒーカップに注いで、何気にそれをボクに手渡すのだ。今ではごく当たり前のような感覚があるが、その当時、コーヒーをブラックで飲めるといったら、超スケスケのアメリカンコーヒーぐらいで、普通のコーヒーはなかなか飲めなかった。飲みたいとも思ってなかった。

それがいきなり手渡され、さも当たり前のように飲まなければならない状況になる。そんなところから、ボクのブラックコーヒー歴は始まった。今では普通にブラック、もしくはミルクのみパターンでやっているが、ブラックコーヒーとの出会いは、当時のボクの世代としてはかなり早かっただろう。同じことが奥井さんとの出会いにも言えたかも知れない。話せばキリがないくらいに、奥井さんとの出会いによって目覚めてしまったことも多いいのだ。

そういうわけで、ボクは暑い夏でもアイスは滅多に飲まない。冷し中華も食べないし、よほどでない限り、ざるそばなども注文しない。そうめんは家だけで食べる。ついでに言うと、つけ麺などはもっての外(ほか)で、暑くてもスープはどんぶりを両手で持って飲むか、スープすくいで飲むかだ。まったく関係ない話になってしまったかな…

コーヒーは毎朝飲むが、ほとんど同じ味になるとは限らない。一日一日が微妙に違うテンションで、微妙に違うフィーリングで、微妙に違うサイクルで動くように、コーヒーの味も微妙に違う。それが、またいいのかも知れない。コーヒーは日常のものだから……

なりたての夏に、奈良を歩く(2)

 興福寺は東大寺のすぐ近くにあり、奈良公園を散策しながら移動できる。人の列と時間の乏しさから、有名な阿修羅(あしゅら)像のある国宝館には入らなかったが、五重塔や東金堂など、見せ場はたっぷり堪能した。

 最近は金沢でもアジア系の観光客が激増しているが、ここ奈良でも当然のこととして中国語やハングル語が普通に耳に届いてくる。さらにフランス語やロシア語、そしてちょっと聞いただけでは判別できない言語なども飛び交っていて、国際色豊かな…などといった、一昔前の俗な表現では追いつかないものを感じる。

そして、ボクの前を歩いていたフランス人のカップルなどは、何だか修行僧と尼さんみたいな雰囲気で、クール(そうに見えた)に会話を交わしていた。日本の文化を彼らの方がよく享受(きょうじゅ)しているように感じたのは、彼と彼女がそれぞれ端正な顔立ちをしていて、非常に礼儀正しく映ったからだ。最近の弱々しい、上っ面だけの日本の若者たちにはないものを感じた。

それにしても暑い。しかし、否定的に言っているのではない。この暑さは決してボクにとって、歓迎しない暑さではないのだ。額や鼻のアタマがヒリヒリし始めている。一年間待っていた、夏の暑さだ。奈良へ来て、そのことを実感しているなんて、なんと凄いことだろうかと嬉しくなる。

興福寺から猿沢の池へと下る。ゆっくり周囲を歩きながら、日陰のベンチに腰を下ろす。浴衣を破いた(その1に詳細記載)旅館はどのあたりだったろうかと見廻したりするが、かなり前のことで思い出せそうにもない。池には亀がたくさんいて、石の上などで甲羅干し中の者や、水面から顔を出している者など数えきれないくらいだ。エサを与えられるせいだろうか、水の中にいる亀はみな、歩道に近いところにかたまって顔を上に向けている。亀はいったい何が好物なのだろうか。

木立の上に興福寺の五重塔が見えている。若い夫婦連れが横に座って、会話が始まった。日常の他愛ない話だったが、旅先で耳に入ってくる日常会話は新鮮だ。

ここまで来れば、「ならまち」と商店街を歩いて来なければならない。狭い通りの両側に、これもまた間口の狭いお店などが並ぶ。かつて、間口の広さで税金が決められていたために、こういう形状の家並みになったという。面白い。

出来たてのギャラリーをちょっと覗いてみた。木彫の若い作家さんが出展していて、本人から説明を受けながら、ゆっくり散策といった具合だ。金沢でこんなことを期待されているボクとしては、大いに興味があったのだが、運営そのものの話などは野暮だと思い切り出さなかった。こんなところが、ボクの公私混同の遺産?なのだナ……(意味分かる?)

昼飯は「とうへんぼく&豆豆菜菜」という、夜はカンペキ居酒屋さんという雰囲気の店で、非常にヘルシーな定食をいただいた。豆腐が美味い店みたいな雰囲気だったのだが、定食のおかずに“冷奴”が入っていない… 当然そこは一品を冷奴とトレードしてもらい、味・食感は普通(それでいい)だったが、しっかり賞味してきた。

腹ごしらえをして、もちいどのセンター街という商店街に繰り出す。「もちいどの」とは「餅飯殿」と正式には書くらしいが、1100年以上も昔の話が地名の由来というから恐れ入る。センター街という名前がついていて、とってもモダンな商店街といったイメージなのだが、実際はそうではない。というか、非常にユニークだ。個性的だ。面白い。楽しい。

商店街の新しい要素が詰め込まれているといった印象を受け、何度もシャッターを切った。“撮影ご遠慮ください”と看板の出ていた店もあったが、金沢からはるばる来たのだから、ご遠慮などしてられるかと、シャッターを切りまくった。

かなりしっかりとした歴史や文化をもち、そのことを、かなりしっかりと受け継いでいる地域では、すべてが、かなりしっかり伝わっている。そんなことをあらためて認識させられる、さわやかな商店街だった。

法隆寺へ行こう。

再び、169号線に乗って、緑がカンペキに美しい道を走る。法隆寺まではすぐだった。なつかしい雰囲気だった。素朴な風景の中に建っているといったイメージを強く持っていたが、そのイメージはあまり変わっていなかった。これが奈良の寺なのだなあと嬉しくなる。

法隆寺にも多くの人が訪れていた。玄関にあたる南大門付近ではそれほどの広さを想像させないが、実際に中に足を踏み入れ、移動していくうちに、その広さを実感する。

世界最古の木造建築。京都の寺と違うのは、何となく感じさせる古さのようなもの。京都の寺には完成された優美な美しさというものを感じるが、奈良の古い寺にはどこか完成されていないものを感じる。それが唐の時代の模倣(もほう)であったからなのかどうかは知らないが、そのようなことをずっと以前から感じていた。日本的な美的センスというものは、京都の寺づくりから洗練されていったのかと、奈良の古い寺を見ていると思うのだが、もちろん素人の浅はか解釈的意見に過ぎない。

最近は仏像ブームとかで、若い女性が仏像をじっと見つめていたりする光景をよく目にするが、次々と国宝や重要文化財に出会える法隆寺は、そういう意味では緊張を強いられる場でもある。こんなボクでも、無心になれるまで見つめていたいという、何か今までとは違うものをもって、神仏に相対するようになった。

「金銅釈迦三尊像」や「百済観音像」などは、どうしてもそんな思いで見てしまった。かつて一度だけ座禅の真似事を経験したことがあるが、雲水さんに言われるままにしていくと、いつの間にか頭の中から雑念が消えていった。あの感覚をいつも甦(よみがえ)らそうと苦心する。ボクにとっては、とにかく無心になることが最もいいことのように思える。

こんなに広かったのかと思いつつ、法隆寺の境内を歩いていた。かつて石川の仏壇研究をさせられていた頃思いを馳せていた、「玉虫厨子(たまむしのずし)」にも久しぶりに再会した。こんなに大きかったっけと、自分自身の記憶との食い違いに驚いたりしながら、仏壇の起源と言われていた「玉虫厨子」の懐かしさに嬉しくなったりもしていた。

外へ出てコーヒーブレイク。カフェは常に満席状態で、ひっきりなしに客が入って来ていた。外は暑かったが、それなりに美味いホットコーヒーだった。慌ただしかった思いと、それとは逆のじっくり相対してこれたみたいな思いとが重なった。奈良はやっぱりいい。そして、自分の中に何か物足りなさがあるのは、やはりもっといろんな所を見たいという思いが残っているからだと分かった。

ゆっくり振り返ると、やはり奈良はいいのだ。そうだ、あの「三輪のそうめん」だって食べていなかった。物足りないわけだ……

 

 

 

なりたての夏に、奈良を歩く(1)

 梅雨が明けた翌日の未明、東大寺と法隆寺をめざして奈良へと向かった。

 4時半過ぎに自宅を出て、5時には北陸道に乗り、9時前にはしっかり奈良公園に着いていた。

 本当は、法隆寺に先に立ち寄る予定だったが、「なら博」の真っ只中、会場に近い東大寺周辺の混雑を考えると、法隆寺をあとにまわして東大寺に先に行く方が得策だと判断した。そして、それは正解だった。

 西名阪自動車道の法隆寺インターを一旦通り越し、天理インターから国道169号線で奈良公園へと真っすぐ向かう。天理や桜井といった地名がハゲしく懐かしい。

 奈良公園はまだ朝の静けさの中にあった… と言いたかったが、そうは問屋が卸さない。さすがに世界遺産、日本の歴史の原点をなす場所だ。三連休のド真ん中、朝から静かなわけがない。もうすでに多くの観光客が公園の中を歩いている。

 駐車場の選択に少し時間を費やしたが、奈良県庁近くの都合がよさそうな場所にクルマを入れた。クルマを降りて、すかさず東大寺への近道を聞いている先客たちの声に耳を立ててみると、係の人が指をさしながらその道を示していた。当然ながらその指示に従う。

 空は文句なしの青空。そして、その青空に、まるで文様のような白い雲が浮かんでいた。

 日本の歴史の原点である奈良では、空までもが奈良なのだなあ~と、訳の分からない思いを抱き、そして、そのままボォーっと空を食い入るように眺めながら、息をひとつ吐いたりする。オレは今、古(いにしえ)の空気の中におるのだぞ。土塀ひとつもまた、古の手触りだった。

 奈良の大仏さんを見上げるのは三度目だ。当然見下ろしたことは一度もない。

 ここではまず大仏殿に圧倒されるのが普通だ。東大寺金堂とも呼ばれる大仏殿は、料金所を過ぎ、もぎりのおじさんの前を通るまでの、回廊を歩いている間の眺めが素晴らしい(タイトル写真)。唸る。一般成人で、だいたい平均して三度は唸ると思われる。背景の青空もまた素晴らしく、駆け引きなし・ド真ん中へのストレート一本勝負で迫ってくる。

 大仏殿を正面に相対すると、さらに気持ちも引き締まり、いよいよ大仏さんとの対面に向かうのだなという緊張感が漂ってきた。なにしろ久しぶりに見上げるのだ。

 初めて見上げた時の感動などというのは忘れたが、二度目の時、近くの旅館で、着ていた浴衣(ゆかた)を真っ二つに引き裂いたことは覚えている。それもかなり鮮明に。

 朝起きがけに、浴衣の下半分を踏みつけたまま立ち上がろうとしてしまった。次の瞬間、浴衣は上下に見事な勢いで分裂し、立ち上がった時には上半身に奇妙なカタチで浴衣の半分だけが引っ掛かっていた。紐もとれ、浴衣の下にチェックのトランクスが露(あら)わになっている。一緒にいたのは、無二の親友Sで、ボクとSは二秒半ほどの間、茫然とその光景を見たあと、ドドッと吹き出し笑いをした。おかしすぎて、涙が果てしなく流れ落ちた(…そんなことはない)。

  そんな話はまったくどうでもいいのだが、とにかく大仏殿に向かって石の敷かれた道が真っすぐ伸びていた。

 大仏殿も国宝だが、当然大仏さんも国宝だ。国宝級なのではなく、国宝そのものなのだ。盧舎那(るしゃな)大仏と正式には言う。日本史で覚えさせられた。

  ところで、ボクは日本史が好きで、英語とともに好きな科目のひとつだった(と言っても他に好きな科目はなかったのだが)。この時代のことでも、結構それなりに知っているつもりでいる。が、それは実際にこの土地に来て見たのとは違っていた。

 ただ、自分がこの時代に何かを感じていたからこそ、かつて何度も奈良に足を運んだのだろう。そのことは確かだ。

 京都よりも奈良によく出かけたのは、奈良の風景が素朴だったことにもよる。寺のある風景もそうだったが、何となく想像を豊かにする趣が、京都よりも奈良に強く感じられた。

 二日がかりで歩いた三輪山の麓の“山の辺の道”もそうだが、それ以外でも室生寺や長谷寺、さらには、もうすでに名前すら忘れてしまった幾つかの寺など、それらがあった一帯の風景は、京都のような都市型ではない、山里の風情がそのまま残っていた。そして、ボクははっきりと後者の方が好きだった。

 静かな山里の寺をめぐっていた自分には、何か研ぎ澄まされた、そしてかつ柔軟な感性が生きていたように思う。コンテンポラリーなジャズを聴きながら、古い寺への道を急いでいたようにだ。

 目に見えるはずのない歴史の空気を、自分自身で想像し、思い切りそれに浸ってみようとする。それは歴史ばかりではなく、自然や日常の営みにまで発展した。

 奈良の山里や、信州の山里には、そういう自分の中の極めつけの風景があった。

 大仏さんは黒かった。そして、やはりデカかった。14.7mもあるという。

 向かって左側前方からゆっくりと見上げられるスペースがあるが、そこからは奥行き感のある大仏さんの威容を感じ取ることができる。

 広げた手の中指が少し前に折れているのも鮮明に見てとれたりする。あれは何を意味するのかと思ったりもするが、まあどうでもいいかと開き直り、自分でも真似してみると、何となくそれも自然なのではないかと思ったりした。

 暑い。大仏殿を出ると、容赦ない真夏の日差しが待っていた。

 暑いのは好きだが、何事もほどほどがいい。ビールも冷え過ぎていては本来の美味さが逃げてしまうように、真夏の太陽も、あまり熱くなり過ぎては逆に嫌われてしまうのだ。

  奈良公園と言えば、鹿だ。

 実際には聞いていないが、係の人に「奈良公園には、他に動物はいないのですか?」と聞いてみると、「はい、鹿しかいません」などと答えるに違いない。精一杯のユーモアかも知れないが、逆にそのことを、よその土地からやって来て「くだらねえシャレ言いやがって」とか逆上的に言うのも正しくない。

 係の人たちにしても、強いて言いたくもないシャレなのかも知れないし、聞く方としても、それを敢えて言ってくれているのだと解釈するのが正しいだろう。

 南大門に向かって歩いていくと、無数の鹿たちが道に出ている。そんな中に、柵の外には出てはいけないみたいな鹿の親子がいた。小鹿が三頭いて、そのうちのいちばん小さい鹿が一生懸命?可愛い声で鳴いていた。腹を空かせているのだろうかと思っていると、母鹿らしいのがボクの方に近づいてくる。シカ煎餅を持っていて、それを与えようとしている…と思ったのかも知れなかった。

 しかし、ボクはシカ煎餅を持っていなかった。こんなところで慈悲深いかどうかなど判断してほしくはなかったが、母鹿はボクをそういう風に見ていたに違いない。

 その証拠に、ボクに煎餅を与えようとする意思がないことを認識すると、ボタボタと例の丸い糞(ふん)を惜しげもなく噴出し、そのあとおまけに小水、つまりオシッコも放水して立ち去って行ったのだ。

  そこまでしなくてもいいんでないの…? 掃除するおばさんたちも大変なんだろうから…

 なりたての夏の日の、午後の出来事だった……  (つづく)

 

 

梅雨が明け、聴山房にてペンを走らせた…

またしても加賀市大聖寺を訪れ、

またしても旧大聖寺川沿いの道を歩き、

またしても深田久弥山の文化館の門をくぐった。

道を歩きながら、どこからか聞こえてくる、

優しい笛の音が気になっていた。

そして、門をくぐって足を進めたところで、

その笛の音が、この場所から聞こえていたことを知った。

オカリナの音色だった。

 今日告げられた梅雨明けの空の下、

木立の日陰の中に、オカリナ奏者のKさんが立ち、

その前に何人かの人たちが、そのやさしい音色に耳を傾けていた。

ボクはその人たちから一人離れた場所に立ち、そのミニコンサートのようすを観察し、

それから、先日お会いした事務長のMさんに挨拶した。

演奏が終わると、奥の聴山房(ちょうさんぼう)で、

里山の自然観察と名付けられた写真展を見、美味しいアイスコーヒーをいただいた。

汗が吹き出るほどの暑さに、夏が来たんだということを再認識しながら、

庭の木に止まっているセミたちの、

まだ力強いとは言えない鳴き声を聞いていた。

最後にいただいた、山中の奥から汲んで来たという水もまた、

喉ごしのいい、やさしい味だった… 

       

梅雨どきの雑感

 梅雨が好きだという人をあまり知らない。あまりと言うより、ほとんど知らない。たまにいるかも知れないが、そんなことを大きな声で言うと、周囲から妙な目で見られるかも知れないので、そのような人たちはこの時季、静かにしていると思われる。

周囲に、最近妙に言葉が少ないなあという人がいたら、そっと聞いてみよう…

「あなた、ひょっとして、梅雨のこと好きなんでしょう?」そう言った後、その人がポーッと頬を赤らめたりしたら、間違いなく梅雨に好意をもっている。両手で顔を覆ってしまったとしたら、好意以上、つまり梅雨に恋している、もしくは梅雨に愛を感じていると思っていい。だから、どうなんだと言われても困るが……

 しかし、梅雨は決して悪者ではないことだけは知っておこう。梅雨にはまったく悪気はない。

 梅雨が来なければ、われわれ日本人は主食である米を手に入れることができず、米がないと、われわれの食生活は大いに狂ってしまうのである。

 たとえば、カレーライスはカレーだけになるし、オムライスはオムだけになったり、ハヤシライスにいたってはハヤシだけになって、書いている方も何だかよく分からなくなってしまうが、楽しみが半減から四分の三ほど減ってしまう。つまり、梅雨があるからこそ、雨が農作物に恵みを与え、その結果われわれは豊かな食生活を満喫できるということなのだ。だから、梅雨を一方的に嫌いだと言ってしまうのはまずいかなあ、ともボクは思う。

 ところで、梅雨は嫌いだが、雨は嫌いではないという人がいる。ボクの場合も、自分の都合と合わせてしまうが、家でのんびりしたいなァと思ったりした時は、雨がいい。何か用事があって外出できない時や、家で仕事や書きものをしたいという時なども、雨がいい。しかし、外へ出たがりのボクとしては、基本的に晴れているのがいちばんいいから、一年を平均したりすると、圧倒的に雨に対してはダメにしてしまう。

 今年も石川県では六月の中頃にしっかり梅雨入りし、七月も下旬に入ろうかという頃には、何だか梅雨明けしそうな雰囲気になっている。週間予報でも、かなり定番的なパターンになっていて不信もあるが、西日本の雨の状況など見ていると、やはり石川の梅雨明けも微妙だ。

 七月に入って、ようやく梅雨らしくなった。

 中旬のある日、ボクは用事があって、金沢・本多の森にある歴史博物館へと出かけた。その日は、梅雨の合間の晴れの日で、ときどき目にしていた紫陽花の花を撮影した。帰り際に、クルマまでカメラを取りに戻っての撮影だった。

 それから数日後、引き続きの用事があって、また歴史博物館へと出かけた。その日は、梅雨の合間の晴れ間と晴れ間の間…… つまり正しい梅雨そのものの日で、ズボンの下の方がビショビショになるくらいの、激しい雨が時折降ってきた。用事を済ませた後、ボクは先日晴れた日に撮影した紫陽花を、もう一度撮ろうと思っていた。今度は最初からカメラを担いでいた。仕事のためだが。

 紫陽花は、木立の下に咲いているせいか、それほど雨に濡れているという印象はなかった。紫陽花の背後に、歴史博物館の赤レンガの外壁が木立の新緑の間に見え、いい雰囲気だった。

 雨の中で写真を撮るというのはあまりやらないが、雨を撮ろう、雨のある情景を撮ろうという思いが、その時強くボクの中に生まれていた。それは初めてのことだった。

 学生時代、日本文学の先生が、「日本の雨の情景がうまく表現された作品が、まだ世に出ていない…」というような意味の話をしていたことを思い出していた。その時は、なんと大胆なことを言う先生だと思ったが、その言葉を、なぜかボクは、それからずっと長い間忘れないでいた。

 ある時、兼六園の茶店の軒下で雨宿りする機会があり、その時、庇(ひさし)から落ちてくる雨粒を見ながら、これが日本の雨の情景かと思ったりした。別所の竹林に降る雨にも、同じことを感じた。しかし、雨の情景というのは、もっと心情に訴えかけてくるものであろうと勝手に思い込んでいたボクは、どうしてもその程度では納得できなかった。そこから生まれてくる物語が、ボクには何もなかったからだ。

 今年の梅雨は、なぜだか雨の情景をよく撮っている。

 山に入りかけの若い頃、雨が大嫌いで、山で降られるとすべてがゼロになったように落ち込み、訳も分からず怒ったりもした。なんで雨なんか降るんだろうとか。しかし、それから何年もの間、山に通ううち、雨の中をひたすら歩くことにも、何らかの喜びを感じるようになった。喜びとは大袈裟で、楽しみ程度といってもいいかもしれない。

 雨の情景は、見えているはずの雄大な山岳景観にベールをかけてしまうが、ベールをかけることによって、別な情景を生むことも分かった。そして、何よりも、その情景から得られる精神的な何かに気付くようにもなった。

 ただ、ひたすら歩く。黙ったまま、時折顔を上げるが、ほとんど足元に目を落として歩く。それはじっと耐えながら、ひとつの目標に向かって進む強い心の象徴のようにも思えた。山は、雨や風や雪の中にこそ、その神髄(しんずい)があるのだということを、その頃から意識するようになっていた。

 「梅雨が、明けましたァ~」 初めての北アルプス奥穂高岳… 頂上に立つ前日の正午過ぎだったろうか、上高地・横尾山荘の従業員が大声で登山者たちに梅雨明けを告げた。一斉に歓声が上がり、手持ちの鍋でラーメンをすすっていたボクも、思わず近くにいた見ず知らずの人たちと顔を見合わせ笑った。

 その日は朝から抜けるような青空が広がり、梓川の流れが一段ときれいに感じられた日だった。

 あんな嬉しい梅雨明けは、あの時以来ない。

 今年もそれほど嬉しがることはないだろうが、それよりも、雨の情景に心を揺れ動かされている自分に言ってやろう。

 「ちょっとは、大人になったみたいだな」と…

久しぶりに深田久弥・山の文化館を訪ねると…

  七夕の日の午後、一年ぶりぐらいに“深田久弥・山の文化館”に立ち寄った。

福井からの帰り道、加賀インターチェンジで高速を降りて、加賀市役所に向かった。しかし、何年ぶりかで会おうとしていたお目当てのYさんが予定外の外出中で、ちょっと考えた末に、ここはやはり山の文化館へ行くべきだろうということにした。

山の文化館も実は仕事のターゲットのひとつなのだが、なにしろ、山をやる人で深田久弥を知らない人はいないし、自分自身もそんな一人として、その日も敢えて仕事のスタンスを柔らかめにしていた。それぐらいでないと、この施設には逆に足が向けられない。

加賀市は、大袈裟に言うと、ボクの仕事史では非常に重要なまちで、今から20年くらい前に市全域の観光CIみたいなことをやらせていただいた。観光地の調査をし、観光ルートをつくり、観光のブランドデザインを整理した上でサイン計画を作った。その中には観光ポイントそれぞれの紹介文などを日英2ヶ国語で整備するなど、文章づくりや写真撮影の仕事も含まれ、そのための取材もあって市内の多くの地を訪れたりしたのだ。この計画はその後実施され、ボクのその後の道を開く大きな事業となった。ボクがプランナーという仕事のポジションを認識した最初の仕事だったのだ。

当時は地域のそういう事業が盛んに始められた時期だったが、加賀市は石川県どころか、全国的に見ても先進的に取り組んだ都市だった。その基本プランを、なんとこのボクが作ったのだから、それはもう“大変なことをしでかしてしまう…”みたいなものだった。

ボクはそのために約5年にわたって加賀市に足を運んだ。

加賀海岸の遊歩道や、城下町大聖寺の山の下寺院群や古い街並み、温泉街やその周辺などを歩きまわり、それこそ加賀市の隅から隅までを知り尽くした感があった。鴨料理のフルコース?もその頃初めて食わせてもらったし、どこのランチが美味いとか、どこのコーヒーがいい味出しているなどといったことはもちろん、白山を眺めるならあそこだとか、ちょっと木陰で昼寝するならあそこがいいといった情報などもかなり仕込んでいた。

そして、加賀市の成果が発端となり、次が羽咋市に呼ばれ、そして富山の旧大山町、さらに能登の旧能都町、白山麓の広域ユニット「白山連峰合衆国」、志賀町などへと出向いた。むずかしかったが、楽しい時期でもあった。

加賀市へ通っていた頃、市役所観光課の担当だったのがYさんで、元気ハツラツのYさんとボクは、地図やパンフレットなどを持って走り回っていた。ヤンチャ坊主がそのまま大人になったというパターンの見本みたいなYさんは、いつも愛車パジェロの自慢話ばかりしていた。一本数十万円のタイヤがどうのこうのと言いながら、きれいな道しか走らない主義?で、クルマが汚れるのを最も気にしているのではないかという、変わった4WDフリークだったのである。

勝手知ったる加賀市だ。特に古くからの街並みが続く辺りは、好きだし、詳しい。

ボクは旧大聖寺川の対岸から、よくパンフレットなどで見る長流亭の上品な姿を久しぶりに見て、そのまますぐ近くの駐車場にクルマを停めた。背後は錦城山だ。

 そのまま江沼神社の境内へと進み、長流亭の前を通った。置かれたサインの文章は、ボクが書いたもののはずだが… と読み返すが思い出せない。長流亭は、旧大聖寺藩主の休憩所として建てられたもので、国の重要文化財だ。対岸からの眺めは素晴らしい。江沼神社の境内には、深田久弥の文学碑があるが、久しぶりの対面だった。

裏口から入って正面に抜けようとすると、鳥居の下で草取りをするおばあさんがいた。

 「おばあちゃん、暑いのにお疲れさんですね」通り抜けながら声をかけると、おばあさんは驚いたように顔を上げ、「あ、はい、どうも…」と、上品そうなやさしい笑顔で答えてくれた。いい気持ちがした。おばあさんの可愛い目が何となく印象的だった。

小さな橋を渡り、しばらく静かな住宅地の道を行くと、左に小道が伸びる。その道へと折れると、旧大聖寺川沿いに道はさらに蛇行して伸びている。

 大好きな文句なしの青空とまではいかないが、梅雨の合間の晴天日としては充分な暑さがあった。大きな木立の間からは旧大聖寺川の水面が見える。梅雨時のせいだろうか、水は決してきれいとは言えない。しかし、歩いていること自体気持ちがよく、それはあまり気にならなかった。木陰に入ると、わずかだが涼しい風も感じられた。

大して歩かずに、館の方に通じる橋の手前に着く。

ふと見下ろすと、流し舟が繋がれている。乗船料千円。11月から2月まで以外は、いつでも乗れるみたいだ。桜の頃は賑わうんだろうなあと、その情景を思い浮かべた。

 橋を渡りながら、もう一度流し舟の繋がれた場所を見る。ごく自然な風情を残す旧大聖寺川に、しばらく見入っていると、日傘をさした女性が足早に脇を通り過ぎて行った。

“こんな暑いところで、何をボーッと見てるんですか?”とでも言いたそうな早足だったので、“舟はボート。ボーッとボート見てるんです”とアタマの中で答えて、身体の向きを変えた。

 山の文化館の周囲は塀で囲われている。その塀に沿ってまっすぐ進むと立派な門があり、何となくそこで一度息を整えた。門は、国の登録有形文化財になっている。

門の中は木立の日蔭だ。左手の庭にある木板のデッキらしきものが目を引いた。以前からこういう場所があっただろうか? と考えてみたが、しっかりとした記憶はなかった。

 まあ、どっちでもいいと思い、足を向ける。そのとき、「いらっしゃいませ」と、不意に声をかけられた。スーツ姿の女性が館の前に立っていた。立っていたことは分かっていたが、声をかけられるとは思わなかった。

ボクが戸惑っていると、「こちらは展示場になっています」と、さらに女性は続け、昨日で絵画展が終わり、今は何もないが、きれいな庭を見ることができるからとボクを案内してくれた。

「聴山房(ちょうさんぼう)」と名付けられた古い建物がデッキの奥にあった。入ってすぐのところが、喫茶室になっており、奥が畳の敷かれたギャラリーになっている。ガラス戸を透して庭が見えた。それほど広いスペースではないが、なかなかいい雰囲気だ。

「前に一度、お目にかかってますよね…」

突然そう尋ねられたが、答えようがない。ボクにはまったく記憶はなかった。しかし、この加賀市ではボクはかつてかなりの人たちと出会っている。その中にその人がいたとしても不思議ではない。その旨と、自分自身がこういう施設の企画運営に関する仕事もしているということを告げると、さらに納得したみたいだった。

なんと、その人はあのYさんのかつての同僚で、どの学校だったか聞き洩らしたが、同級生だと言った。元市の職員で、そう考えれば、かつてどこかでお会いしていても不思議ではなかった。そしてさらには、ボクが自分の公私分別のない仕事やモロモロについて語っていくと、ますます興味をもたれたのか、「ここのコーヒーは美味しいですから、どうぞ召し上がっていってください」と強く勧められた。

一応、名刺交換をしなければならない気配になっていた。しかし、その時、ボクは名刺を持っていなかった。こんなつもりはなかったので、上着をクルマの中に置いてきていたのだ。

一旦クルマに戻ることにした。そのことを告げ、すぐに出ようとすると、「コーヒー淹れて、お待ちしてます」との声。ボクは門を出て、橋を渡ったあたりから走った。

結局、クルマごと戻って来て、館の前の駐車場に停めた。

女性は、Mさんと言った。Yさんの同級生ということは、ボクよりも数歳上である。肩書は「事務長」さん。しっかりとした口調で対応され、気配りのできる、そして仕事のできる女性とみた。

  リラックスして、Mさんと喫茶室で話し合っているうちに、この施設の活用などについて、その可能性を問われるようになった。

ボクにとっては、こういう場所は大好きだし、自分でも得意だと自負しているので、少しずつ自然に力が入っていくのが分かる。

外に出て、デッキに立つ。大木を見上げ、木板デッキの足裏の感触を再確認する。さらに木(敢えて、「もく」と読む)のテーブルに手を触れる。いい感じだ。

こういうシチュエーションに直面して、ワクワクしないなどということはボクにはあり得ない。アイデアが湧いてくる… イメージが膨らむ…「いいではないですか」思わず上ずりそうになる声を抑え、ボクはクールに答えた… つもりだった。

Mさんが裏庭にも案内してくれる。この場所の活用についても話してくれた。フムフムと頷(うなず)きながら、アタマの中では深田久弥との関連、山の文化からの関連、そして加賀市との関連など、どこにどのような接点を見出していけばよいか…などと考えていた。といっても、そんなにむずかしいことを思っているわけではなく、この場所に相応しい行事とは何か?というくらいで、ここに集まってくる人たちが、何で楽しめるかということを、いろいろと想像してみる。

当たり前のように、音楽を聴く、お話を聞く、美味しいものを食べる、自由に語り合う…などといったイメージが見えてくる。それらをいかに特徴づけていくか、“らしく”させていくかといったことが、思いの中で広がっていく。どんなスタッフが必要か、どんな趣向が必要か、いろいろと“そもそも的なこと”を考えていく。

Mさんから、今度、館の関係者が全員揃う時に是非来てくださいという話が出た。嬉しいことだ。何かやらせていただけるなら、やってみたいと思う。

 再び正面に戻り、展示室を見せていただくことにした。その前に正面玄関の前で、建物を見上げる。明治43年に建てられた織物会社の事務所だった建物だ。昭和50年代半ばまで実際に操業していたという。二階の窓ガラスの半分は昔のガラスで、よく見ると、少し波打っているのが分かる。展示室につながる回廊の屋根などには赤い瓦が使われているが、昔のものを再利用したものだ。

 Mさんに導かれて玄関へ。ちょっと気が引き締まるような空気を味わい、料金300円を払う。左には、山に関するさまざまな本を集めた図書室があるが、あとで寄ることにして、廊下を右に折れて展示室へと向かった。

 パイプをくわえた深田久弥の写真と、その横の窓外の様子とがマッチして、ボクの好きな空間を作り出している。何度も訪れているから、だいたい展示内容は分かっているが、また敢えて見てしまうのが不思議だ。上がったことはないが、この建物の二階には「談話室」と名付けられた畳敷きの部屋がある。そこでは山に関するミニ講演会などが行われているらしく、その活用などもかなりしっかりと行われていると、Mさんは言っていた。

Mさんの話を聞きながら、震災で大きな被害を受けた、旧門前町(現輪島市)の総持寺前の通りにある「旧酒井家」の建物を思い出した。あの建物も蔵のホールがあったり、開放するとちょっとした広さになる座敷などがあったりして、素晴らしい施設だと思っている。最近は、地元の人たちによって活用が盛んに行われているとのことだ。自分が金沢の主計町で直接関わっている「茶屋ラボ」など、世の中にはまだまだ、よくは知られていない“いいところ”がいっぱいあるのだ。

この山の文化館も、やさしい大聖寺の街並みや川のイメージなどと融け込み、人を惹きつける魅力をたくさん持っているなあ…と、あらためて感じさせる。

人はもともとこういう何かに引き寄せられる生き物でもあるから、そういった場所に集った人たちは、安心して自分自身を自然体にしようとする。だから、よりそうなれる時間を提供してあげることができれば、その空間は活きているということになるのだと、ボクは思っている。

ボクたちの仕事もそんなものなんだろうと思っている。

図書室で短い時間を過ごした後、ボクは外に出た。

木立による日影の空間が、一段と色を落としたように感じた。

 「これから、何かご一緒にできればいいですね」Mさんがしっかりと手を前に組み、直立不動に近い姿勢のままで、ボクに言ってくれた。「是非、よろしくお願いいたします」ボクもそれに答えた。

門を出ると、再び日差しの下だった。Mさんが、クルマを出すまで門の前で待っていてくれ、最後は丁重に見送ってくれた。クルマの窓から、流し舟が見えた。

そして、静かな住宅地の中をゆっくりとクルマを走らせながら、加賀のまちとの結びつきを考えていると、懐かしい人たちの顔がいくつも浮かんできた。

やっぱり晴れてるのがいいなあ。

ボクはフロントガラスからの日差しの中で、素直にそう思った……

上海紀行・やっと最終章 上海の夜は更けて…… 

 

 万博2日目の日が、実質の上海滞在最後の日と言ってよかった。翌日の上海出発は朝早かったからだ。

 万博会場を午後2時に脱け出したボクたちは、朝、北ゲート近くのバスを降りた地点まで戻り、そこでタクシーを拾った。

 「ユ・ユエン(豫園)」 前回は伝わらなかったが、今回は一発で伝わる。少しずつ発音が中国人っぽくなってきたのだろうか。

 なぜまた、豫園(よえん)に行くことになったのか? それはみやげを買うにあたって、いろいろと見てきたが、ガラクタも含め、あの辺りがいちばん面白いのではないかと考えたからだった。そして、豫園に寄ってから、そのまま新天地という上海の新しい人気スポットへ行き、そこでビールでも飲みながら、上海最後の夜をしみじみと過ごそうではあるまいかと決めていた。それにはおまけがあり、豫園から新天地までの歩きの時間もまた楽しみのひとつになっていた。

 豫園に着くと、またしても、とてつもなき人の波に呑みこまれた。前に来た時に、だいたいのところは歩き尽くしていたと思っていたのだが、今回来てみると、また新しい道を歩いていることに気付かされる。

 ボクにはどうしても一度行ってみたい工芸品の店があった。そして、真っ先にその店に向かった。その店さえ行ければ、あとはどうでもよかったのだが、それでも歩いているうちに、面白そうな店があると、何度も立ち寄った。

 Sは、球状のガラス玉がどうのこうのと言って、怪しい店に入って行っては、思うようなものはなかったとガッカリして出て来ていた。そして、半分あきらめつつ、豫園のはずれまで来た頃、その辺りに急に増え始めた得体の知れない店ばかりが集まる一画で、ついに求めていた物体?と出くわした、みたいだった。

 若いのか年寄りなのか、よくは分からないオトッつぁんが、しきりにSに対して石を見せていた。Sも分かったような顔をしながら、それを手に取り、そのうちのひとつに興味を示すと、即決で買い求めた。

 “30元(約450円)”と値が付けられていた。Sが値切ったつもりで10元札を2枚出すと、オトッつぁんが1枚だけ持っていく。Sがきょとんとしていると、オトッつぁんは手を顔の前で横に振りながら、ニコニコしているだけだった。値引き過ぎでねえか?と、一瞬思ったが、もともとの30元が異様に高かっただけなのかも知れなかった。

 その一画には面白そうな店がいくつかあり、ボクはその中の石碑のパーツばかり集めたような店で、しばらく時間を過ごした。

 パーツばかりというのは、つまり石仏の頭部だけとか手だけとか、そんなものばかりが目立っていたからで、頭部と言っても1メートル近いものがあったりして、全体を創造すると、とんでもないものなんだと驚いたりしていた。現実的に自分が買い求めるなど思いも付かないが、絶対こういうのを買っていく欧米人のモノ好きがいるのだ。運賃も高いだろうなあと想像したが、かつて縄文遺跡をもつ奥能登のある町で、モニュメントを計画した際、中国で製作されたものが、日本国内で製作されたものよりもはるかに安かったということを思い出した。これらもそれほど高価ではないのかも知れなかった。あの時聞いた値段は、輸送船の運賃も含めても日本国内の製作費を下回っていた。さっきの石の最終的な値段も考え合わせると、何となく納得できる。そんなややこしい話はどうでもいいのだが、とにかくボクはしばし、その中途半端な石像たちと向き合い、それなりに有意義な時間を過ごせたのだった。

    豫園から新天地までの歩きは、途中で通るであろう下町の商店街の空気に触れることが、楽しみのひとつであった。そして、実際にそういう空気の中に浸ってみると、自分が異なる国のニンゲンなんだなあということを、うすらぼんやりと実感した。ただ不思議なことに、どこかついこの間まで自分たち、いや自分たちよりももう一つ上の世代の人たちが、同じような空気の中にいたのかも知れないなと思ったりもした。それは万博会場でも同じだった。見るからに地方から出てきたと想像できる家族連れなどは、40年前の大阪万博の日本人の姿だろうなと思った。

  

    商店街は活気に満ちていて、往来するトラックやオートバイも活気を煽(あお)るかのようにクラクションを連発しながら走っていた。とにかくうるさい。人も車道にあふれていて、茹でたての湯気を上げるザリガニの山や、美しい肌色をした豚の頭部の明解なディスプレイなどに目を奪われる。かと思えば、将棋のようなゲームに興じるオトッつぁんグループが、のんびり店先に腰を下ろしたりと、自分たちのペースで面白おかしく、そして愉しくいい時間を送っているのだ。

    日本からわざわざやって来て、こういう風景に見入っている自分が不思議に思えてくる。ある意味、情けなくもある。残された人生、オレはこんなことでいいのか? と空を見上げようとするが、空はほとんど見えず、代わりに3階の窓から棒を出して無造作に干されていた、デカいブリーフだけが目に入った。そのデカさも異様だったが、黄ばみも一目瞭然で、思わず上海にも進出している“ユニクロ”のことを思ったり、そういえば、“しまむら”はどうなんだと余計なことに気を配ったりしてしまった。

 

     商店街を抜けると、静かな住宅地…… というか、これから何かが建てられるのであろう、だだっ広い空き地に沿った細い道を歩いた。ずっと塀が張り巡らされている。空き地の中央に、中途半端に残されたままの建物がぽつんとあって、その解体状況の中途半端さが、余計に興味をひいた。政治の体制が違うと、ここまで変わるものなのかということを、いろいろ教えさせられたが、街なかの大型ビジュアルによる広告や、さまざまな工事の姿などを見ていくと、個人の力ではどうしようもないことが、いとも簡単に具現化されていることを実感させられる。これがひとつの理想郷なのかどうか、よくは分からないが、少なくとも何らかの大きな魅力をもっていることには変わりはない。

 

     金沢の片町にも同じ名前の飲み屋街があるが、上海の新天地は歴史が新しく、とにかく都会的な匂いをプンプンさせた、おしゃれな、大人のための一画だった。

ここでは無愛想な店員はおらず、何もかも中華づくしといった雰囲気もない。物販の店も中国であることをそれほど強調したイメージはなく、歩いている人たちも欧米系が多かった。もちろん日本人もかなり多くて、ボクとSが入った店では、すぐ横のテーブルから「私は、生まれも育ちも石川なんです」「ボクは長崎です」という会話が聞こえてきたし、少し離れたテーブルに集まっていた10人ほども、日本の大学の研究会かなんかで来ていたグループだった。

   ボクたちは、まだ明るいうちは裏通りの探検や店回りなどして時間を過ごし、薄暗くなって、まず最初の店で、ジョッキで飲むドイツビールを楽しんだ。店はほとんどが屋外にテーブルを用意していて、中よりも外で飲み食いする客の方が多かった。店は広くもない道の両側にあり、通路はとても狭くなっている。もともと照明も少ないのか、明るくはなく、テーブルの上のキャンドルが目立つほどだった。

    ドイツビールの後はまたブラブラし、腹ごしらえのためにまた別の店に入った。といっても戻ってきた場所の、さっき入った店の二軒となり。店と店との境もよく分からず、店員もよく見ないと間違えてしまう。実際、ボクたちも間違った。

    まずまたハイネケンを注文すると、Sがパスタを食べませんかと提案。グルメではないボクとしては、何でもよかったのでSの提案に賛成した。

    万博会場で食った昼食のカツカレーは胃袋にはなかったが、脳ミソの味覚記憶ボックスには残っていた。それもかなり鮮明に… それを打ち消したいという思いが強かったわけではないが、上海の最後の夜のメニューはパスタだったというのも悪くない。店員さんに注文メニューを告げると、何だか妙に気持ちが軽くなった。

     そういえば、何年か前の出張の時に、昼も夜もマクドナルドを食べたという、史上稀(まれ)にみる情けない記録を残したことがあった。クルマでの日帰り出張で、時間がなく、とにかく慌てて移動していたことを覚えている。訪問先のある町への道中で往きは昼飯抜き状態で仕方なくマックに入り、夜は早く帰りたくて、とにかくマックに入った。ドライブスルーなどというシステムに惑わされたようなものだったが、さすがに夜の部ではもらった瞬間、匂いを嗅いだだけでハゲしい後悔に襲われたのを覚えている。上海最後の夜に、なぜかそんなことを思い出した。

 それにしても、金沢でもめったに食べないくせに、なぜパスタを選んだのか。いや選べたのか。後で考えてみて分かったのは、やはり中華はもうイヤ、ということだけだった。

     パスタはなかなかいい味だった。腹も適度に膨れて、ボクたちはイスから立ち上がると、新天地からホテルまでをまた歩くことにした。

    小さな公園を横切り、大きな横断陸橋を上り下りし、明るいウインドーが並ぶ通りをまっすぐ進むと、少しずつだが街が落ち着き出す。交通量にも、人の数にも慣れてくる。スーパーに寄り道し、ボクたちのような一般庶民が買い求める食品などを見て回っていると、何だかこの街にずっと住んでいるかのような気持ちになってくる。店員さんと意味不明な会話をしたり、商品に手を触れてみたり。しかし、ボクたちのような服装をした、しかも男が二人では、店員さんたちも客だとは思っていないみたいだ。ほとんど無視されている。

    ウインドーのディスプレイも仕事柄大いに気になった。面白そうなものがあると、素材は何かとか、照明の光源はどこだとかと言って覗(のぞ)きこんだりしていた。

    ああ、こうして、上海の夜は更けていくのだなァ~そんなことを思い始めると、並木のイルミネーションの輝きや、すれ違う人たちの表情に、うすら淋しい思いも重なる。

そう言えば、本当は行きたくはないのだが…と初めは言っていたな。仕事だから仕方なしに行くなどと言っていた。

しかし、いざ帰りが近づくと、今の日本に、今の金沢に戻っても何が待っているというのだ!? 待っているのは、ただ梅雨の湿気と絶望の日々だけではないか!?などと、妙に「日本帰還反対論」を唱(となえ)えたりし、いっそのこと、このまま残っても何とかやっていけるのではないだろうかといった、「上海永久定住説」も、頭の中で整理し出す始末だった。

     しかし、日本に帰ろう!と、ハゲしく思った。日本に帰らねばならない!と、ボクはハゲしく思っていた。日本に帰って、アサヒ・スーパードライも、サントリー・モルツも、サッポロ・黒ラベルも、キリン・ラガーも、その他も、正しく飲み直そうと思った。甲州の白ワインも、まだ飲み尽くしていないではないか。そして、それらの横には、きちんと冷奴(生姜以外は何ものせないやつ)や厚揚げ(これも同様)を置こう。それらがなくなれば、当然柿の種も置かねばならない。

     そして、何よりも『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の著者が中国に移住したでは、シャレにもならないだろう。

    そんなわけで、ボクの上海紀行は終わりを迎えつつあった。サヨナラ、上海……

  長くこの上海紀行にお付き合いいただき感謝。

     しかし、書いている当方もいい加減疲れてました……

  

                       

上海紀行その4 さらりと万博二日目編

 万博二日目は10時頃に会場入りした。

 天候は上海の梅雨時にしては申し分のない晴れ。あまりよくは見られないという青空が薄くだが一面に見えている。北ゲートへと歩いて行くだけでもう汗が滲んだ。

 この日は初めから自由行動となっていた。ボクとSは北ゲートから入ると、そのまま黄浦江(こうほこう)の対岸にある会場へと移ろうと決めていて、すぐにフェリー乗り場へと急いだ。フェリーは大して大きいものではなかったが、頻繁に行き来していた。もちろん船内は満員で、ボクたちは大勢の観客と一緒に、強い日差しを受けながら甲板に立っていた。

 対岸に上陸すると、日本企業館に足を運んだ。日本館は長蛇の列で初めから予定に入れていなかった分、日本企業館には行ってみようと決めていた。

 行ってみると、それなりに充実した内容となっていて、中国人の若い女の子たちが興味深そうに展示物を見ていた。やはり日本に関するものは人気があるのだなと実感し、そういう中国の人たちの前では、意図的に大きな声で日本語を話したりした。韓国の同じようなパビリオンにも入ったが、日本の方が洗練されていたように思う。

 その日の昼食はカツカレーになった。もう中華はいいなと二人で話し合っていたが、飲食店が集合する建物の中でカツカレーの写真を見た時には、暗黙の了解のようにその店を選んでいた。しかし、やはり味が…… ご飯が根本的に違う。ボクはすべて食べたが、Sはカツとカレーだけ食べて、ご飯をほとんど残していた。厨房の中はまるで高校生のような女の子たちの集まりだった。みな気合が空回りか、もしくは入っていない。仕方ないのかも知れないが、万博仕様ではないことを実感して、こちらが却って申し訳ない気持ちになってしまった。これから頑張るんだよ、彼女たち。

 会場内を走るシャトルバスで快適に移動し、再びフェリーに乗る。

 もとの会場のぐっと奥の方に上陸。ここで行くところというのは、アフリカ連合館。

 愛知万博には三回行ったが、三回ともアフリカ館でひたすら時間を費やしていた。今回も興味津々で、二日目には必ず行こうと決めていた。ボクはどうもああいう雰囲気に弱い。ピカピカ光るものよりも、渋く落ち着いているものの方に心が惹(ひ)かれる。愛知万博の時は、昼飯もアフリカ館で食べていた記憶があり、打楽器なんかも触らせてもらっていた。素朴なところが何と言ってもいい。博覧会は先進的なものが集まってくるものなんだろうが、そんな中でアフリカの大地を思わせる素朴な展示にはホッとすることが多い。そこがまた変な感じながらも面白いのだ。

  アフリカ連合館を出て、またブラブラ。列のないパビリオンがあると、ちょっと入ってみる。

 ますます空の青さが鮮明になってきて、暑さはピークに達してきた。30度は超えているだろうなあと心の中ではかなり嬉しくなっている。

 ボクたちは、会場を縦断するような広くて長い通路をひたすら歩いた。万博の空気というのは、どこで開催されようとも同じなんだなと、その時初めて感じた。

  時計はまだ2時。実は、ボクたちは博覧会会場から、その時間に脱け出そうと決めていた。やはり街歩きがしたかった。

 北ゲートはどっちだ……

上海紀行その3 いよいよ万博初日編

 いよいよ今回のツアーの本命、上海万博視察初日の朝を迎えた。

 天ぷらで言えばカボチャやサツマイモやイカとかを食い終えて、一旦息を整え、さあこれからエビに箸をつけようかという時…。図体はでかいが、果たして身の詰まったエビ天なのかどうか、そんな期待と不安を胸一杯に秘めての出発の朝だった……なんてことはないか。前の日歩きまわっていたせいか、足がだるい。ふくらはぎから足首、下って足の甲から指先、そしてさらにぐるっと回って足の裏。久々にだるさが充満している。これが山だったら、膝や太腿や股関節に至ったりもするのだが、さすがにそこまではいかない。しかし、とにかくそのだるさは最近ではかなり重い方だった。

  万博会場には昼頃に着くことになっていた。何とのんびりしたヤツらだと、また視察旅行に対するお遊び志向的批判が聞こえてきそうだが、これにはちゃんとした理由があった。つまり、朝一番に到着したところで、ゲートで長い列をつかなければならず、結局会場内に入るまでには相当の時間がかかる。それだったら、いっそのこと遅めに会場入りした方が得策だ…と、例の陳さんが言っていた。陳さんについては、上海紀行その2を読んでいただけれると、プロフィールをほぼ知ることができる。それと、どうせ昼頃会場入りするなら、その前にどこか面白い場所へ寄って行こうという合理的な配慮もあって、ボクたちは外灘の対岸にある地上101階の高層ビル「上海ワールドフィナンシャルセンター」(森ビル・上海ヒルズ)に上って、世界一高いという展望台から、上海の空に向かって歌を歌おうではないかということになった。しかし、その時の掛け声はもちろん“シャン、ハイ”で決まったのだが、歌うべく歌が決まらなかった。だから、やむなく歌はやめにし、ひたすら高いところから、ひたすら上海の街を見渡してみようというところで落ち着いたのだった(そんなことはないのは当然だ)。

 そういうわけでボクたち視察団(総勢30名ほどだったかな?)は、ホテル前に9時45分に集合。バスでまず上海ワールドフィナンシャルセンターを目指すこととなった。

 天気はまあまあ。約一時間弱の街なかドライブ。車窓から見る上海の街に、やはり独特の雰囲気を感じながらの時間だった。古さと新しさ― と言っても日本で言えば、明治・大正と平成みたいなものか― その組み合わせが新鮮に目に映る。東京みたいでもなく、金沢みたいでもなく、内灘みたいでもない。

 特に金沢を考えると、前者の時代の建物をことごとく壊してきた経緯を持つ。仕方ないと言えばそれまでだが、何でもかんでもM田家の遺産に頼っていてはいけないのだなあ…と、そんなことを考えたりして、やっぱり街歩きは楽しいものだと妙なところへ思いが落ち着いたりした。

 上海ワールドフィナンシャルセンター(長いので以下は「上海ヒルズ」でいく)にも、先着の小団体がいくつも列をなしていた。横浜のランドマークタワーや、六本木ヒルズなどと同じで、老若男女が高みをめざす。エレベーター乗り場に行くために列。エレベーターに乗るために列。世界一高いところにある展望台は100階。その下94階と97階にも展望台がある。100階の展望台は、「スカイウォーク100」と呼ばれて、床の一部がガラス張りになっていた。外を見る壁も全面ガラス張り。しかも外から見るとオーバーハング気味に反っているから、中からは身体を外に出すようにして覗(のぞ)かなければならない。

 実際に覗いてみると、はっきり言って怖い。この不況の時代、何も怖いものはないわいと吠える日本のサラリーマンでも、ここでは素直に怖~いと言えたりする。眼下のビル群がみんな曲がって見えたりするくらいに、異様な高さの感覚だ。言い忘れたが、ビル全体の高さは492mで、これでも世界第3位なのだそうだ。ついでに言うと、ドバイにある世界一高いビルは、828m。そんなもん造って何するの?と聞いてみる気もさらさらないが、よく造ったね、ご苦労さんと言う気も全くない。それにボクはドバイ語も話せない。

 列についてボーッとしたまま動いていると、何となく時間が過ぎていき、気がつくとビル前のアスファルトの上を歩いていた。振り返って見上げると首が痛いなんてものではない。振り返るのをやめて正しく正面を向いてから見上げる。それでも首は楽ではなかった。

   さて、バスが上海ヒルズや周辺の超高層ビルの間を縫うようにして出発した。ようやく万博である。

 ボクたちはいくつもあるゲートのうち、北ゲートの近くでバスを下され、そこからゲートまで当然だが歩いた。そして、ほとんど待ち時間もなく会場入り。かなり入念なボディチェックがあったが、係の青年たちはみな笑顔がさわやかで一生懸命に職務に励んでいた。見ている方も気持ち良くなる光景だった。

  当然だが会場は広い。おかげさまで?仕事柄、博覧会というものには普通の人たちよりは馴染んでいる。驚いて腰を抜かすようなことはないが、いつも思うのは体力勝負であるということ。体力のない人は博覧会には向いていない。ボクたちは一旦解散することになっていたのだが、次に集合する場所まで行って、そこで解散となった。その解散場所が中国館の前だった。つまり再集合の場所も中国館の前。実はなんと、ボクたちは午後4時から、その中国館入場の予約がとれていたのだ。中国館と言えば、通常待ち時間4時間。館内での滞留時間と、館外での昼飯や休憩、買物時間などと合わせると、普通はほとんど中国館を見るだけで帰るみたいなスケジュールになる。それが予約で入れるということになると、滞留時間のみを計算すればよいのだ。これはなかなかいい企画だと、周囲を見ながら納得した。

 一時解散である。集合時間まで3時間ほどある。いや、3時間しかないと考えるべきか。そんなことも考えているだけムダで、ボクたちはとにかく昼飯にあり付くことだけを考えた。ここからのボクたちと言うのは、Sとぼくのことだ。

 ところが歩いていてもなかなか食いたいと思うものがない。というよりも、はっきり言って、ビールさえ出してくれれば他は何も要らないのだが、そんな店がない。ムダに30分ほどの時間を費やしながら、前日の豫園(よえん)のように、ボクたちはまた途方に暮れた。上海へ来て途方に暮れるのは二度目だったが、二度ともがビールがないことによるものであったことを思い、この街に長く居てはいけないのだということを、うすらぼんやりと悟りつつもあった。 しかし、努力は必ず報われる。夢は必ず叶う。日はまた昇る。

  ついにボクたちはアメリカンポップスがガンガン流れ、フライドチキンの匂いをプンプンまき散らす店に出くわした。ここにビールがないはずはない。俺たちに明日はないかも知れないが、ここには必ずビールがある。そう確信したのだった。しかし、出てきたビールは決して美味くはなかった。バドワイザーに氷を入れてさらに薄めたような、ひたすら冷たく泡の出ないビールで、ポテトやチキンなど脂ギトギトものとのセットで食ったが、何だか文字どおりの後味の悪いランチとなった。

  店を出たボクたちは、中国館を見ることができるということに安堵していたのか、それから特に目的もなくただブラブラした。会場内の通路の両側は、休憩する中国の人たちの姿であふれている。簡単な食事をする人たちや疲れ切った顔でしゃがんでいる人たちがいた。その人の集団にも息苦しさを感じた。

  で、いきなりだが、中国館なのである。

 中国館は少し手続き?に時間を要したものの、大変恵まれた待遇を受けながらの入館となった。VIP用のエントランスみたいなところから入っていくと、すらりとして知的な匂いを漂わせる、黒スーツ姿の女性スタッフたちがきびきびと動き回っていた。すぐにエレベーターで映像シアターへと案内される。ドドッと大集団が一斉になだれ込み、座席に着く。ボクは面倒くさくて後ろで立見と決めていた。円形のスクリーンに幸せな家族をイメージしたような映像が流れる。特権階級の美しすぎる家庭円満ドラマのようで、見ている方には、特に日本人であるボクにはどこか無理があった。

 しかし、それから後もスケールの大きい展示が続いていた。開催国としてのやる気がムンムンと伝わる内容だった。ボクには職業柄、見るものの仕組みや構造などが想像できる。しかし、それらを凝視している中国人たちを見ていると、その表情が楽しげであり、誇らしげでもあった。

 たしかに面白かった。ただ、愛知万博と比べて、どこかテーマ性が似ていなかったか、それと、ちょっと何を伝えたいのかよく分からないゾーンなどもあった。余計なことなのだが…

 中国館については、これから出かける人もいるだろうから、主観でべらべら書くのはやめておこう。

  中国館を出ると、もう夕刻だった。ボクたちはまたちょっと大きな集団となり、例の陳さんを先頭にして北ゲートへと歩き始めた。相変わらずまだまだ人は多かった。大声で誰か連れを呼んでいる中年女性がいた。声の大きさや吐き捨てるような話し方は、中国人独特です。でも、決して怒っているわけではありませんから安心してくださいね、と陳さんが言っていた。ちなみに陳さんのプロフィールについては、上海紀行その2で紹介している。

 こうして、万博視察初日は慌ただしく終了したのだった。二日目は10時頃に会場入りとなっていた…

夜10時の、東京からのメッセージ…

先ほど、帰りの山手線にて作品を完読しました。

最近、誉めることを忘れてしまった私ですが、この作品は楽しめました。

少年時代に半ズボンにランニングシャツ着て、

三角ベースボールをやったのが、なんとも懐かしく思い出されました。

帰宅と同時に届いた、東京の読者からのメール。うれしい。みんな分かってるんだな…

 

上海紀行その2~まち歩き編 『上海・街なか徒歩ホのホ』ツアー

 上海二日目の朝が、しみじみとやってきた。

 どういうのをしみじみとやってきたというのか、明解な答えはないが、とにかくホテル10階の窓のカーテンを開けると、相変わらずはっきりとしない街の風景が眼下に広がってきたのだった。

 前日、上海空港から市街地までの道すがらも目にしたが、とにかく上海は街づくりが今も盛んで主体は郊外に移っている感じもするが、道路工事や建築工事がどんどん進められている。だから、自動車の往来も激しく、埃(ほこり)っぽい。

 それと梅雨入り間近の湿っぽさも加わり、空はうすらぼんやりとしている。空というか、街全体がそのぼんやりの中にあるように見える。

 そういえば、地元ガイドで、日本語がぺらぺらで、年齢は20代後半だという陳(ちん)さんも、上海ではあまりきれいな青空を見ることはできないと言っていた。それを聞いて、ボクは自分がこの街には住めないニンゲンなのだということを悟ったりもした。

 というわけで、上海二日目の朝6時40分(日本時間7時40分)頃に起き上がったボクは、朝食をとりに1階レストランへと向かい、いつもよりちょっと多めに朝食を食った後、相棒のSと「上海・街なか・徒歩ホのホ」ツアーへと出かける準備に入ったのである。念のために言っておくと、このツアーはエージェントのオプションではない。ボクが勝手に名前を付けたオリジナル・プライベート・ツアーなのだ。

 それにしても、着いた翌日から自由行動とはおかしいではないかと思うだろう。ボクもそう思った。こういうことをするから、「視察旅行なんて大方遊びに行くようなもんよ」と言われるのだ。しかし、決められたことは仕方がない。本当は着いたらすぐにでも万博会場を訪れ、正しく見聞を広めて、あまり長くもない将来の役に立てようと思っていたのだが、決まりは決まり。その決まりを破るわけにはいかない…

 8時20分にホテルを出てから、まず田子坊(でんこうぼう)という場所へと向かった。西か東か、南か北かは知らない。とにかくホテルの門を出て左の方向へと進んだ。

 あまりおろおろと歩かない方がいいと、地元ガイドで、日本語がぺらぺらで、年齢は20代後半だという陳(ちん)さんから言われていた。だが、ボクとSは出かけるのなら歩いてという明解な基本方針を打ち立てていた。田子坊から次の豫園(よえん)という人気スポットまではさすがに距離があり、タクシー利用を決めていたが、それ以外はひたすら歩くことにしていたのだ。

 外は蒸していた。もう本当に梅雨入りしてもおかしくないという頃らしいので、こういう蒸し暑さは、ある意味懐かしくもあった。もちろんいい意味での懐かしさではなかったが、久々に梅雨を意識させられた。

 書き遅れたが、ホテルは花園飯店上海といって、1926年に建てられた内部装飾の美しい建物だった。フランスクラブという名で親しまれていたという。1990年から日本のオークラ系列ホテルとなった。部屋の窓からの風景も高層ビル群と緑の庭園とが上下に配置され、いい関係を形成していた。日本人観光客が多いわりには、末端の従業員のサービスがイマイチだったが、それも今はまだ仕方ないことなのだろう。

 ホテルを出てから15分くらいが過ぎると、いよいよ上海市民の生活の匂いが漂うあたりを歩くようになっていった。もう観光客を相手にするような店はなく、華やかなブランドショップももちろん消え失せていた。歩道を行き交う人たちも普段着の人ばかりとなり、上海では禁止されているらしいパジャマ姿の人たちも何人か目にした。クルマやオートバイ、自転車などが、まるで敢えて混雑を煽っているかのように道路を走り抜け、交差点へと飛び込んでいく。その一団が通り過ぎると、とくに脇道などはサァーッと静けさを取り戻す。

 枝をたっぷり伸ばしたプラタナスの木々が並ぶ通りは、いつでも薄暗く、夏の暑さをしのぐ役目を果たしているのであろうと思わせる。しかし、それにしても狭い道での並木がもたらす薄暗さは、日本ではちょっと考えられないほどだ。このままでは根クラな人間ばかりできそうで、もう少し陽が当たってもいいのではないかと余計なことを考えてしまった。

 田子坊には意外なほど早く着いた。というか、早く着き過ぎて、その一画に集まるユニークなギャラリーなどはまだ開いていなかった。狭い路地の空間を歩く。映画に出てきそうな怪しい雰囲気の中に面白そうな店が並び、すでにオープンしている店では、屋外のテーブルで朝食をとっているのであろう欧米人たちの姿もあった。そのすぐ脇を身体をよけながら通り過ぎていくと、ちょっと大きなスプーンを持ってスープらしきものを口に運んでいた白人女性が、ニコリと笑い返してきた。そう言えば、ボクたちもここでは外国人なのだと思ったが、日本人であることがすぐ見破られることが後日分かり、往生した話については、覚えていたら、どこかで書く…

 ギャラリーなど見たいと思っていたものが見られず、どうしようかとしばらくボーっとしていたが、また歩くことにした。途中でこれも経験と、道沿いにあったスタバに入って休憩。そう言えば、地元ガイドで、日本語がぺらぺらで、年齢は20代後半だという陳(ちん)さんが、上海にはスタバが多いと言っていたことを思い出した。店の中はかなり殺風景な雰囲気で、日本とはかなりイメージが違った。ただ、そこの場所の問題なのかも知れない。二階に上がると、マフィアの下っ端みたいなオトッつあんが、一人携帯電話を覗きながら、ふんぞり返っていた。イスやテーブルも含め何となく落ち着かなかった。

 ホテルの方へとまた戻るようにして歩き、そして大きな通りに出たところで、今度はすぐにタクシーを利用することにしていた。

 上海の有名な観光スポットである豫園(よえん)へ向かうためだ。ここはどうしてもタクシーを利用しなければダメですと、地元ガイドで、日本語がぺらぺらで、年齢は20代後半だという陳(ちん)さんが言っていたのだ。距離的な問題でだ。

 大通りに出て、Sが素早く停めた、とても綺麗とは言えないタクシーに乗り込む。豫園を中国語で正式に発音すると「ユ・ユエン」とか言うらしいが、Sがそう言っても伝わらず、結局紙に書いた豫園の文字を見せたら、すぐに伝わった。髪が短く誠実そうで、根性もあって、そのくせ優しそうな30代半ばぐらいの運転手さんがニコリと笑った。

 が、走り出すと、タクシーはアクセルに遊びがないかのような勢いで加速していった。小さな隙間を合理的に活用していき、というと聞こえはいいが、早い話が小さな隙間にどんどん自分のクルマを割り込ませていき、容赦ない陣取り合戦の中へと我が身を投じていくのである。

 だが、しかし、我が身と言っても、その一心同体の中にボクたちも一応含まれていて、そのことを知ってか知らずか、時折運転手さんの斜め横顔を見たりするが、髪が短く誠実そうで、根性もあって、そのくせ優しそうな30代半ばぐらいの運転手さんは、表情ひとつ変えずに、アクセルを踏み続けるだけなのであった。そのおかげもあって?ボクたちは少なくとも自分たちが思っていたよりも早く豫園に着いた…ような気分になれた。

 豫園に来て、ボクたちは上海の凄さを実感させられた。前日の外灘(ばんど)もそうだったが、この豫園に集まってきた人の数もハンパではなかった。

 豫園を紹介するとすれば、一大テーマパークだ。旅行ガイド的に言うと、16世紀の中頃に18年の歳月をかけて造られた庭園があり、それを囲むようにして明・清時代の街並みが復元されているというところなのである。しかし、こんな説明では豫園を紹介はできない。街並みが復元されているという一帯は「豫園商城」と呼ばれていて、食べたり土産物を買ったりするバカでかいエリアなのだ。

 ボクたちはここでとりあえず昼飯にありつくことにしていた。そして、その時に冷たいビールなんぞも飲めるであろうことに、当たり前のように望みを抱いていた。ところが、そこにはビールはなかった。それどころか楽しみにしていた中華B級グルメのレストランでも席をとれる状況ではなく、できたのは、ただひたすら途方に暮れることだけだった。とにかく人でごった返していた。飲茶の店に入ろうにも長い行列をつかなければならず、豫園までは来たが、そこまでして昼飯にありつこうとは思わなかった。

 そこでボクたちは、B級グルメを諦め、C級もしくはD、あるいはEでもまあいいか的なところで手を打つことにした。そんな店はいくつもあったが、とりあえず屋台テイクアウト型の店に的を絞った。そして、何が不満なのか、とにかく機嫌の悪そうなお姉さんやお母さんが座っている、微妙な店を見つけた。

 まず食べたのが、上海ガニの天ぷら。上海ガニと言っても、ほとんどが足だけしか原形をとどめておらず、天ぷらの衣でそのことをカムフラージュした代物だった。代金は15元。1元が約15円だ。脂っこいが、それなりの味だった。立ち食いでかぶりついていると、やはりビールが要ると実感。しかし、それは叶わない。

 空腹はそれだけでは満たされず、次の店に梯子することになった。すぐ近くで見つけたのは、日本で言う油揚げに似た食べ物だった。日本における豆腐屋さん系食品にはウルさいボクとしては、そのまま素通りのできない状況になっていた。日中の油揚げ対決を見届けていかないと気が済まなかった。

 しかし、ここでも愛想などとは全く縁のないようなお姉さんが、白い袋にその食べ物を詰めると、放り投げるようにボクに渡した。呆気に取られながら、ボクは「シェ・シェ」と礼だけは言った。ちなみに、「シェ・シェ」とは中国語で「ありがとう」の意味である。

 直径15センチぐらいだろうか。手に持つとかなり温かかった。思い切りまず一口かじりつく。ウッ? 食感が違う。そして、すぐに味も異なり、それが油揚げでないことが分かった。思わず、かなりガッカリした。決して不味いわけではなかったが、油揚げでなかったことで、買ってしまったことに対する後悔が生まれた。この油揚げもどきは、実はお好み焼きを揚げたようなもので、とにかく後で胸やけに襲われることを予感させたが、実際に食べ終えて、三十分ほどその症状に悩まされた。Sは、シューマイにストローを差した奇妙なものを、美味い美味いと吠えながら食べていた。

 人並みに押されながら豫園のはずれにあった露店でコーラを飲み込むまで、ボクの胸やけは続いた。ところでビールなのだが、ここでは昼間から酔っ払うのを嫌うらしく、酒類は出さないのだということだった。

 豫園からは、いろいろな場所へと行けるのだが、ボクたちは前日空港からちょっとだけ立ち寄った外灘(ばんど)に向かうことにした。方角だけ確認して、とにかくその方向に向かって歩くことにした。地図で距離を見ても大したことはなかった。

 外灘は、19世紀末から20世紀半ばにかけて建てられた、ヨーロッパ風の建築物が並ぶ独特の街だ。黄浦江(こうほこう)という大きな川の対岸には、100階部分に展望台(後日上ってきた)をもつ上海ヒルズ(森ビル)や、ユニークな形のテレビ塔などが並び、上海の古さと新しさが川の両岸にある。

 15年前はまだ対岸は畑だったと、地元ガイドで、日本語がぺらぺらで、年齢は20代後半だという陳(ちん)さんが言っていたが、前日見た夜景のスケールは圧巻だった。何もかもが光っていた。         

 外灘である。実はボクはこの外灘に強い関心というか、親しみを感じていた。というのも、ボクの生まれ育ったのが内灘で、外と内という相反する意味を持つ文字でつながった因縁を感じてしまったからだった。そのことを地元ガイドで、日本語がぺらぺらで、年齢は20代後半だという陳(ちん)さんに話してみたが、陳さんは「はぁ、そうですか」と、特に強い関心も示さず、いつものようにただニコニコしていただけだった。しかし、ボクは街で「外灘」という標識などを目にするたびに、日本海を挟んで、上海とわが内灘とは何か歴史的につながっていたのではないかと思いを馳せるのであった…

 外灘から北京東路という通りに入り、これまた多くの人たちで賑わう現代的な商業ゾーンへと足を向けた。途中から歩行者天国のような状態になり、ボクたちは静かに人の流れに呑みこまれていった。

 それから約一時間後だろうか。

 ホテルの近くまで戻った時、Sが、妙なラーメンを食いたいと言い出した。すぐ近くに店があるはずだと言い張るが、なかなか見つけられない。ボクはどうでもよくて、店も見つからなくていいやと思っていたのだが、不意に自分の立っている目の前に看板を見つけてしまった。ビルの4階にその店はあった。

 時間も中途半端だったが、店員も中途半端で、Sが求めていたラーメンがなかなか伝わらなかったが、何とかそのラーメンにありつけた。醤油味のネギと肉を油で炒めたものが乗っかった、それなりに美味いラーメンだった。店員の愛想は相変わらずだったが。

 そんなわけで、またブラブラと歩きながらホテルへと戻ったのが夕方。

 翌日からの万博視察に向けて、足の筋肉に余裕を残しておきたかったのだが、それは精神力の方でカバーすることにしたのである……

      

上海紀行~プロローグ編「飛行機はなぜ揺れたのか…」

   上海紀行の本編に入る前の「プロローグ編」なのである。つまり「序章」であり、上海に到着する前の、予習的ポジションにあたる部分なのであるが、ほとんど予習などやっていかなかったので、文字どおり、上海に到着するまでの話をプロローグとさせていただく。それで到着する前ということになると、必然的に?飛行機の中にいたわけで、その話を書いていこうと思っている。

 上海へは、“万博の視察”という大義名分があり、本当はあまり行きたくなかったが、仕事なのでとりあえず、まあ行って来るかなといった気分で行ってきた。

  周りの人たちにはほとんど何も言わずに出掛け、いつもの携帯電話もオフにしておいたものだから、帰って来た後は、「連絡がないから、毎朝、新聞の“おくやみ”欄で名前を探していたよ」などと言われた。一部の知っていた一派からは、「もう帰って来ないんだろうなあと思ってたのに」と、残念そうな顔で言われたりもした。

 万が一のことがあった時には、財産整理などどうするかと迷ったのだが、整理するものと言ったら、古いマックのパソコンと、ちょっといいテントと、甲州産の超美味白ワインぐらいしか頭に浮かばなかったので、とりあえず、それくらいなら誰かが何とかしてくれるだろうと思った。

 そういうわけで、そろそろ梅雨入り宣言(金沢では一時出なかったという話については、いずれどこかで詳しく語らねばならない)が出そうな、6月13日の日曜日。ボクの乗った中国東方航空558便は、昼一からちょっと時間を経た頃合いを見て、中途半端な空模様の小松空港を鋭く飛び立って行ったのだ。

 鋭く飛び立って行ったというのを説明すると、まず滑走路への移動が完了したかなと思ったと同時に鋭く加速し、そのまま出来る限りタイヤを滑走路面にへばり付けておきながら、最後はそのへばり付きを利用して、逆にまた鋭く機体を空へと向かわせた… つまり、その行程と離陸させたあのタイミングが、ボクにとってはなかなかカッコいい瞬間に感じられたということなのだ。ボクはその鋭さに対して、名前も顔も好きな食べ物も知らない機長に心の中で拍手を送っていた。しかし、ボクの心が機長の鋭さへの感動で小さく揺れたのに比べ、その後の飛行機の揺れた方は、圧倒的な幅で大きかった。機長のせいではないことぐらい分かっていたが、とにかく窓の外は雲に被われており、少しでも揺れを抑えようと自分自身もじっとしていたが、機体はじっとしてはいなかった。

 ボクとしては久々の飛行機なのであった。久々の飛行機の旅なのだから、そんなに揺れて欲しくはなかった。せいぜい揺れても、カタカタとか、ユラユラぐらいでよかった。しかし、ボクのその小さな願いは全くもってカンペキに叶えられず、何度も書くが、飛行機は大いに揺れた。カタカタどころか、ガタガタと揺れ、ユラユラどころかグラグラ、グラァ~と揺れた。時々は横軸から縦軸へと、揺れ方にもかなりのバリエーションを加えてきた。 

 本当は別に行きたくもない上海なのだ。仕事で仕方なしに行くのだ。山でなら喜んで死んでやるが、上海に向かう飛行機とともに日本海に沈んで死ぬなんぞごめんだ。だから、そう揺れるなよ…と、ボクは心の中で呟(つぶや)いていた。表面的には大らかに。

 空港で買ってきた缶ビールが、早く飲んでくれとボクに訴えていた。すでにその切実な要望に応えてもよかったのだが、一応遅い昼食となる機内食を待って飲もうと決めていた。しかし、飛行機はなかなか落ち着きを取り戻さず、旧名スチュワーデス、今はフライトアテンダントさんと呼ぶお姉さんたちのワゴンの出番も、それに合わせて足踏み状態にあった。

飛行機がガタガタ、グラグラ状況を脱け出すまでに、30分近く要しただろうか?

 ようやく窓の外が明るくなりかけ、ビールでも、ウーロン茶でも、ゴンゲン森の湧水でも、何でも飲んでいいッスよみたいな気配が見えてきた。機内食も届けられた。ボクは魚と肉の二種類の選択メニューの中から肉を選んだ。キャベツとポークとで淡泊に味付けされた、どこかはっきりしない中途半端なランチだったが、隣の席の相棒Sが魚を選んでいて、魚と言うのがウナギだったことを知ると、カンペキに騙(だま)されたとハゲしく後悔した。それでも、ようやくビールが飲めるという安堵感が心のゆとりになっていたのである。

 50代も半ばを過ぎたオトッつあんの告白だが、ボクは飛行機が苦手だ。いや好きではない。嫌いかと問われたら、嫌いにかなり近いと答える。その近さの距離は何メートルくらいだと問われたら、ちょっと考えてから、多分15メートルくらいでしょうと答えるだろう。それくらい嫌いに近い(世界標準は知らないが)?のである。かつて怖い経験があり、その時のショックから未だに完全脱出できないでいる。それまではまったく問題なかったのに、それ以来、少しでも揺れると、飛行機のような鉄のカタマリが宙に浮いていること自体に疑問を抱き始め、このまま地面めがけて真っ逆さまに落ちて行っても、なんら不思議なことではないと思うようになった。だからいつも覚悟を決めて飛行機に乗ってきた。特に離陸の直後は「ああ、もう足が地に着いていない…」と、すべてを失った心境に陥ってきたのだ。

 すべてを失ったのだから、あとはもうどうでもいい。機内食を食べ終えると、ボクはビールを追加した。ランチに付いてきた袋入りのピーナッツがなぜかとても美味かった。食後に本を読みかけると、そのまま眠りに落ちていきそうになり、そうなることを大いに歓迎した。しかし、いざ本も目も閉じてしまうと、飛行機はまた微妙に揺れ始める。まるで心の中を見透かされているかのようだ。

 で、ボクは思った。たまにこうして飛行機に乗ったりすることで、人生の、日常の未整理な部分を少しでも認識できて、出発前にはきちんと考えておけよということなのかも知れないし、無事帰ったあかつきには、もう一度じっくり見直してみろよと言ってくれているのかも知れない。誰が、かと言うと、やはり飛行機が、だ。あとで眺めてみて感じたが、あの旅客機の風貌には、それらしい大人の雰囲気が漂っている。機首の下あたりに立つと、親に諭される子供になったような気持ちになれる。空港で、時折機首を見上げながら涙している人を見かけたら、多分そのことを感じ取った人だと思えばいい。

 飛行機はそういうことを我々に伝えようと機体を揺らしてきたのだ。

 かすかに眠ったようだった。目が覚めると同時に、着陸態勢に入った旨のアナウンス。 

 5分ほどで、うすらぼんやりとした上海空港に、中国東方航空558便は着陸した。これまた、鋭い着陸であった……

                   

『かえっていく場所』を読んで、椎名誠についての1

 この文章は、めずらしく紙の上でペンを走らせ書いている。早い話がパソコンのキーボードで直接文章を入力しているのではなく、手持ちのレポート用紙みたいなやつに万年筆で書いているのだ。最近は、下書きだとかメモだとか言われたりもするが、ボクも本来このスタイルがいちばん好きだ。

 場所は金沢百番街の中にある某カフェで、ボクはその店の半円形になったテーブル席の、ちょっと高めになったイスに腰掛け、足をイスのバーに軽く乗せたりしながらペンを走らせている。この高さがちょうどよく、目の前に置かれているオリベッティOLIVETTIのタイプライターや、百科事典などの置き物、それに壁のレンガタイルも心地よく目を慰めてくれている。右手から入ってくる大きな窓からの光も、ちょうどいい具合だ。

 ボクはここで、ボクの大好きな椎名誠さんのことを書こうとしている。椎名さんなどというと、かなりの馴れ馴れしさと、よそよそしさとが混ざり合い奇妙な感じなのだが、ここではとりあえずそうしようと思っている。椎名さんのことを書くなんて、あまりにも漠然としていて、さらに書きたいことも無尽蔵にあって、自分でも無理だろう、いや無理に決まっていると思っているのだが、今日はどうしても書きたい。書きたくてウズウズ、かつドキドキしている。と言うのも、2003年に出された『かえっていく場所』という私小説の文庫を、最近になって読み返しはじめ、何だか無性に椎名さんへの熱い思いが甦ってきたように感じているからだ。

 ボクの中に、椎名さんを求める何かが、再び生まれているのかも知れない。

 ボクと椎名さんとの出会いは、少なくとも25年くらい前のことになる。最初は、『山と渓谷』という山岳専門誌での連載と接してからで、イラストレーター兼エッセイストの親友・沢野ひとしさんらとのさまざまな山行を、あの独特な表現で綴っていたエッセイは、ボクがそれまでに出会った中でも、最も自由で、愉快で楽しいものだった。“少年のような大人”のエッセイ、そして紀行文。ボクはこの出会いを見逃さなかった。ボクは椎名さん的に言うと、“かなり激しく”椎名ワールドにのめり込んでいき、生き方自体にも椎名さん的視点を取り入れていった。そのいちばんのお手本は、≪自然との付き合い≫であり、そこから生まれてくるさまざまな楽しみは、自分自身にもあてはまる部分が多かった。自然の中で、ただ歩くこと。ただボーッとすること。ただビールを飲むこと。ただ本を読むこと。ただ語り合うこと。ただ笑い合うこと…… その他モロモロ。

 ボクもとにかくそれらを楽しんだ。そして、何よりも椎名さんほどワールドワイドではないが、“旅”に対して強い憧(あこが)れをもっていた。

 ボクの中の椎名誠という人は、とても重要な存在だったが、その中でも最も魅力的だったのは、椎名さんが“作家”であるということだ。これは何よりも大切なことで、ボクの中の作家的在り方、作家的日常生活の過ごし方などにおいても、ほぼカンペキなまでに理想の道を歩んでいた人だった。

 実を言うと、かつてボクは20代のうちに自分の本を出すという、今から思えば無謀な夢を描いていたのだが、その夢が希薄になり始めた頃?椎名さん(の本)と出会ったと記憶している。ボクと椎名さんとは十歳違いなのだが、ボクは椎名さんの生き方を知り、“オレはこれではいけないんだ”と強く自分を責めたりしたのだ。しかし、椎名さんとボクとの差はあまりにも大きかった。当たり前といえばそれまでだが、ボクはスケールの小さな世界で、自分なりの小さな成功をおさめていただけだった。

 一応、そろそろ本題に入るかな。

 『かえっていく場所』を本屋さんで初めて手にしたとき、裏表紙にあった、“たくさんの出会いと別れとを、静かなまなざしですくいとる椎名誠私小説の集大成。”という文章に、思わずドキッとした。静かなまなざしですくいとる……… これまで椎名ワールドにこのような美しい解説的表現はあったであろうか?いや、なかった。あったとしても、ちょっと茶化し風につけられたものしかなかったと確信する。だからボクは、この本は絶対読まねばならないものなのだと強く思ったわけだ。

 そして読んだ。出だしから「桜の木が枯れました」という寂しいお話が始まり、いつもと違う椎名さんのちょっとセンチメンタルな文章が続いていった。しばらく進むと、「窓のむこうの洗濯物」という話になり、得意の旅モノ的お話となって、ほっと一息つく。日本の香辛料を追う取材旅行の話に入ると、ボクも少し気持ちが乗ってきた。そして、“辛味大根”を追い、中央線「あずさ」の中で繰り返される会話のやり方などでは、その軽妙さにかなり嬉しくもなったりしていた。

 しかし、ボクはこのいつもと違う椎名ワールドに、少しずつ不安を抱き始めてもいたのだ。海外旅行の話、いつも当たり前のように読まされている話なのに、どうもいつものような楽しさを感じない。自分がおかしいのかと、ついつい我に帰ろうとしてしまう。それがまた、変な具合に話の内容をゆがめていく…………

 今、ボクはその本を読み返している。さらに言うと、『コガネムシはどれほど金持ちか』というエッセイ集も傍(かたわ)らに置いて、いつでもどこでも態勢で読めるようにしている。むずかしく考えなければ、それなりに椎名ワールドは楽しく過ごせる時間を提供してくれるのだ。それにしても、ボクはなぜこの本(『かえっていく場所』)に大いなる興味を覚え、そして、読みながら寂しさと相対しなければならなくなったのだろう?今、こうしてまた読み返していることも、ボクにとっては、この本から何かを得ようとしている自分の存在を感じられる。大好きな椎名誠さんであるがゆえに、この寂しさはボクにとって、あり得ないものだったのだろうか?椎名さんから、そんな話聞きたくなかったなァという自分の勝手な思いもある。

 ちょっと、深く入りすぎたのかな。

 一度外に出て、太陽にあたって来ようかな…(と思ったが、やめた)

 並行して読んでいる『コガネムシはどれほど金持ちか』の中で、椎名さんは生まれ故郷の東京の町より、少年時代を過ごした千葉県幕張町のことを、より強い印象で書いている。生まれたのは世田谷だから、もしそのまま世田谷で暮らしていたら、“今の椎名誠”は出来ていなかっただろうという意味のことを書いている。今、幕張メッセになってしまっている辺りは、かつて美しい砂浜だった。椎名さんはそこで少年時代を過ごしたのだ。

 つい十日ほど前のこと、ある古い知り合いから、“ナカイさんは、いつまでも少年のような心を持っているんだネ……”と言われた。照れ臭さ、恥ずかしさと同時に、どこか嬉しいような気分にもなれた。それはかつて、ボクが感じた椎名さんのイメージでもあったからだ。

 忘れてはいけないもの。とくにボクにとっての大切なものとは、そのことなのかも知れないと思ってしまった。

 椎名さんのこと、自分のこと、そして、椎名さんと自分のこと。

 ……… いずれまた続きを書こう……

奈良発のおもしろ本

平城遷都1300年記念事業が行われている奈良。この本もその事業の一環でつくられたものらしい。かつて、金沢美大大学院在学中、ボクの会社でアルバイトをし、その後京都で活躍するFクンが贈ってくれたものだ。Fクンもエディトリアル・スタッフとして参加している。『奈良で「デザイン」を考えてみました。』 というタイトルもいいが、内容もかなりいい。奈良という深くて神秘的な素材ということもあって、見応え、読み応え十分だ。興味のある方は、ボクに一報を。購入方法などお教えする。

なんとなく 六月について

 今年も六月がやってきた。五ヶ月前に年が明けてから、長かったのか短かったのか、自分でもよくは分からないまま、とにかく今年も五月の後に六月はやってきたのだ。

 家の近くの河北潟は、穏やかに水面を揺らし始めていた。家の前の全く手入れなどしていない花壇?には、今年も黄色い花(実は名前を知らない)が咲き始めている。周辺のニセアカシアの白い花も、また来たわよとばかりに、ワンサカと房を垂れている。

 そんな中、六月早々、二日に東京、三日に長岡へと出かけた。東京はビッグサイト。長岡は近代美術館など。前者が電車で、後者は自動車。正直、六月早々疲れた。天候にも恵まれて、文句を言うと罰が当たるが、身体は正直。身体が正直に訴える分、気持ちもそれに呼応するのは自然だ。健全な肉体に、健全な精神が宿ると言われるように、疲れた肉体には、疲れた精神が宿るのだ。

 今年は、二月、三月、四月、六月と、だいたい月始めには東京に行っている。二月の、雪が舞っていた東京の夜は印象的だったが、その時の冷え具合を思えば、六月の東京は天国のような爽快さに満ちていた。ビッグサイトの周辺に吹いていた海風も気持ちよかった。

 いつ頃だったか、東京へ出張した時、恵比寿の駅前あたりを汗だくになりながら歩いていたことがあった。なかなか目的地が見つからず、アタマは“いつも以上に”ボーッとし始めていた。昼少し前になって、もうこの時間にお邪魔しても昼休みになるなあ、と思ったところで、目的地のビルの前に立っていることが分かった。少し迷ったが、思い切ってビルの中へと駆け込む。しかし、エレベーターはなかなかやって来ない。五階までだから階段で行こうかと思い立った。が、これが間違いだった。

 階段を探すのにまた時間がかかり、それを上り始めると、一旦引こうかとしていた汗が、再び吹き出し始めた。しかも、階段の途中で、運送屋さんたちが、ロッカーを移動させているところに遭遇。なかなか思うように回転できないでいる。そのうち、親方風のオトッつァんが、キレ始めてきた。壁を叩き始めた。明らかに機嫌の悪そうな目付きになり、妙な開き直り系鼻歌を響かせ始める。スタッフたちの表情もうつろになっていた。ボクはこの異様な雰囲気を前にして、しばらくその場で待たなくてはならなくなり、そのまま腕時計の針が十二時をまわっていくのを、茫然(ぼうぜん)と見ているしかない状況に追い込まれていたのだ。そして、当然だが、ボクはあきらめて階段を下りた。誰ひとり、ボクにすいませんと言うやつはいなかった。その後、どうしたかは記憶にない。

 何でもないことなのだが、ボクはこの事件?のことを鮮明に覚えている。六月だった。梅雨入り前だったか、梅雨入りした後だったか忘れたが、とにかく六月の、猛暑・酷暑で、どうしま暑(ショ)…的な日だった。

 東京の暑さは、容赦(ようしゃ)しない。地方から出てきた者には、このアスファルト熱暑が難敵で、汗を拭きながらビルの谷間を歩く試練にやられる。

 六月には、沖縄、北海道を除く、日本列島の大半が梅雨入りすることになっているが、最近の異常気象傾向などからすると、空梅雨ということも大いに考えられ、その場合、俄かに喜んでいいのかどうなのかで、いつも迷ってきた。

 当然ながら、米や野菜、その他植物などへの影響などを考えれば、雨は絶対的に必要なものであるが、われわれ一般的な人間心理からすると、雨降りより雨降らずの方がいい。雷がゴロゴロと唸っているよりは、カラスがカァーカァーと啼いている方が、まだいいのだ。ビールなども心地よく喉を流れていくし、柿の種なども湿ったりせずに、バリボリと歯ごたえよく噛める。それに洗濯物も時間がくれば乾いていてくれるし、顔のシミも日焼けで見分けしにくくしてくれる。何も言うことはないのである。

 しかし、梅雨は大概間違いなくやってくるので、このようなことに期待してしまうようなことはやめた方がいい。東北地方では、梅雨には入ったが、そのまま明けなかったということもあり、その後の秋も冬も春も、常に梅雨に付きまとわれていてはかなわない。それなりに梅雨を受け入れて、時期が来れば、さっさと追い出せばいいのだ。まあ、何とかなる。

 また話は飛ぶが、暑かった東京からの上越新幹線での帰り道、またしても?ワゴン販売のおばさんと目が合った。おばさんが、しきりにビールはいかがでしょうか?と訴えている。こちらは、そのおばさんよりも、そのすぐ横に座っているお客さんが持つ、「鳩山首相辞任…」ニュースの新聞に目が行っているのだが、どうやら、おばさんはワゴンの缶ビールに注目していると勘違いしたらしい。

 いかがですか?と、自信たっぷりにまた聞く。いや、いいです。ときっぱり断ると、ノンアルコールもありますよ。とまた促す。いや、そっちは余計いらないです。おばさんは、ハイ分かりました。と立ち去った。

 やはりこのような日は、ビールを勧めるのがワゴン販売の正道なのだろう。あれはおばさんの思いやりだったのかも知れない。そう思うと、あのおばさんの申し出を簡単に拒絶してしまった自分が、安直で無粋なケチ野郎に思えてきた。こんな日は、ノンアルコールでもいいや!と、あのマズいやつを、さも美味そうに飲んでやるべきだったのか知れない。梅雨入り間近の六月だからと言って、イラついてはいけないのだ。

 それにしても、いよいよ六月だ。と言って、それがどうした?と聞かれても困るのだが、まだまだ今年は七ヶ月も残されており、梅雨が終わると、これから先夏のはじまり!と、真夏だ!と、夏の終わりがけ?、さらに秋かな?とか、秋だぞ!とか、秋も終わりかな?とかがあり、冬かもしれん?や、冬だ! といった時季が待っている。

 まだまだ慌ただしい人もいるだろうし、ボクもなんだか不安定な心持のまま、六月を迎えてしまった。たかが六月ぐらいで、喜んだり悲しんだりするはずもないのだが、妙に六月であることがせつなかったりする。

 えっ?長岡の話はどうなったって?ううん…、途中新緑がきれいだったなあ。空も青くて、澄んでいたし。小島屋のそば付きカツ丼も、まあまあ美味かった。どこかのフードコートで歓談していた、お母さんたちの表情も、やけに活き活きしていたなあ。ちょっと元気もらったんだった。

 まあ、そんなとこかなあ……

旧宮崎村の空と風景

 土曜日の夜、ふと思い立ち、“明日、福井の越前町へ行くかな”ということになった。ふと思い立ってというのは、正確に言うと嘘で、数日前から、思っていたことでもあった。だが、本気でそう思ったのは、間違いなく土曜の夜だったのだ。

 越前町と言っても、ボクの中では、“旧宮崎村”という方がぴったりくる。今から何年前だろうか、陶芸が盛んで、そのデザインを村づくりのシンボルにしている宮崎村へと出かけたのは… 記憶はまったく定かではないが、とにかく山里深く入って行ったのを覚えていた。越前町は、平成17年、宮崎村を含む4町村が合併してできた町なのだ。

 北陸自動車道・鯖江インターからクルマで30分。天候は煮え切らない、この先あまり多くを望んではいけないような曇り空。ところどころに、思い切りの悪い雲の切れ間はあるが、思い切りが悪いだけに、陽光など見えてこない。しかし、まあ、仕方ないかとクルマを走らせていると、そのうち、少しずつ前方が明るくなってきた。目指す方向に、思い切りのいい雲の切れ間… というより、カンペキに開き直ったような青空が見えてきた。視界が広がり、気分も冴えてくる。

 “ここは越前町なのです”というレンガ造りのサインが立っている。これはボクが昔見たものと同じはずだが、時間が経っているにも関わらず、とても綺麗だ。ということは、昔見たものと違うのかも知れない?そんなことを思っている間に、クルマは見覚えのある、大木が並んだ場所へとさしかかった。道路の真ん中に立つ二本の木。まっすぐに伸びた凛々しい高木(こうぼく)が迎えてくれる。

 曖昧(あいまい)だが、記憶がわずかに甦(よみがえ)ってきた。わざとらしいと自覚しつつ、おおっと声を出す。逆光の空を背景にして、二本の木のシルエットが眩しい。写真を撮りたいと思ったが、咄嗟(とっさ)のことでそのまま通過。どちらにせよ、クルマを停める場所がなかった。撮影は帰り道だ、と自分を納得させる。

 山間(やまあい)の道を、くねくねと緩やかに曲がりながら、そして緩やかに上下しながら走って行く。少しずつゆっくりと高度は上がっているのだろう。ところどころに、焼き物の町らしいレンガ風の建物が散在する。大きな公共の施設はもちろんのこと、バス停などの小さな建物もそれらしく整えられている。たまに木造のほんとに小さな建物があるが、それはゴミの集積場所かなと、勝手に想像。

 小高い山並みは、当たり前のように新緑であふれており、道沿いに植えられた色とりどりの花々も、かなり普通にやさしく、そして美しかった。

 道なりに進む… そして、かなり奥に入り込んだあたりで、越前陶芸村の入り口へと向かう道を左に折れる。「陶芸まつり」が開催中の村への道は大混雑していた。のろのろ走りながら、かなり離れた、田んぼの中の空き地に作られた駐車場にクルマを入れた。

 天候は空の半分ほどで晴れと曇りに分かれている。こういうのを気象予報士はなんて言うのだろう。晴れたり曇ったりでもなく、晴れ時々曇りでもない。今日の天気は、右を見たら晴れ、左を見たら曇りでしょう…… なんて言うのだろうか、そんなはずない。向きによっては、右が曇りで、左が晴れの人もいるから。まじめに考えてしまった……

 水田に囲まれたまっすぐな道を歩く。陶芸まつりの会場はテントでいっぱいだった。かなり本格的なイベントなのだ。ひととおり歩いてまわり、マグカップを一個購入。越前焼どころか、九谷焼にもそれほど関心のないボクだが、それなりに個性的な作品を目にしていると、自分自身でも時折手に取ったり、作家さんに声をかけたりする。作家さんの個性がどういうものかの方に、ボクの関心は高まってしまう。そして、サイクルが合っていたりすると、ボクはすごく嬉しくなる。その経過の中で、マグカップ購入のモチベーションも高まったのだ。タケノコごはん弁当一個500円也で、それなりに腹ごしらえ。それからまた会場の外れまでブラブラし、そしてクルマへと戻る。

 空は、いつの間にか半々から七・三で晴れが有利になっていて、体中がホカホカ状態であることを、しっかりと自覚した。

 ゆったりと戻りの道へ。集落の家々が、しみじみと目に焼き付けられていく。緑の木立を背景にして建ち並ぶ土蔵の美しい白壁が印象的だ。このあたりの家々は、昔から土蔵を持っていたのだろう。今は塗り替えられた明るい白が眩しい。畑にいた老人に話しかけると、土蔵には、かつて米が入れられてたんですと答えてくれた。穏やかな、温かい話し方をする老人だった。

 “もうずっと前になりますが、かつてこの村に来たことがありまして、その時のことを思い出そうとしてたんですが、なかなか決め手がないんですよ”ボクがそう言うと、老人は、“もともと、何もない村ですから”と答えて笑った。

 ふと思い出したのは、季節感だった。あの時は、紅葉の終わりの、これから冬に向かおうという時季だったことを思い出した。寒々としていて、どこかの公園みたいなところで、ドングリの実を拾っていたことが甦(よみがえ)ってきた。そうか…ボクはあまりにも今と違う風景の中にいたんだな。

 思い切り空を見上げた。自分の好きな季節がやって来ようとしている。そんな思いが瞬間的にアタマの中を通り過ぎて行った。

 なんだか変だなア~と思いながら、そんなことを感じさせてくれた、旧宮崎村の空と、旧宮崎村の風景とを、あらためて見回していたのだった……

中居ヒサシのワケについて

この写真は、拙著に自分の名前を書いているところだ。

つまり著者としてサインなんぞをしているという図々しい光景?なのである。

ここに書かれているのは、もちろん「中居ヒサシ」だ。

「中居寿」を、「中居ヒサシ」にした理由をときどき聞かれることがある。

なぜ、中居寿ではダメなのかとも聞かれる。なぜ、中居ヒサシがいいのかとは聞かれない。

どうも「中居寿」ではシャープさに欠けるようなイメージがあり、もともと少し物足りなく感じていた。

漢字三文字でいえば、椎名誠、村上龍、高倉健、北野武、加藤茶など、なんだか目で捉えただけで何かを感じさせる名前というのがあるが、ボクの場合はそんなイメージではない。

どこか締まりがない。「中居」も平坦で淡白だし、「寿」はおめでたいだけだ。

そして、繋げてみると、平坦で淡白でおめでたいということになり、そのことの意味することやイメージは、まったく自分の正体とかけ離れているではないかと感じていた。

それで、ボクは図々しくも本の著者という一応の立場として、「中居ヒサシ」を選んだわけだ。

拙著の読者からのメールには、“ 作家としての中居さんは名前がカタカナ(ヒサシ)だったんですね ”と、特別なメッセージがあったりした。

そういうのを読むと、“ そうか、そうだったんだよなあ~。ここはやっぱァ、カタカナのヒサシなんだよなあ~”と、妙に激しく納得せざるを得なかった。

ところで、ボクにはもうひとつ「N居・コトブキ」という名前もあったりして、実は中居ヒサシの登場以来、本名も含めて三つの名前ができたことになる。

N居・コトブキという名前は、ジャズ、活字、その他日々の雑話系で深い付き合いを続けているあるオトコが付けた。プライベート冊子の中で、そのオトコがボクのことをそう書いたのだ。

このネーミングはなかなか好評?で、実はボクも高校時代、持ち物にそのような書き方をしていたことがあった。

だから、特に違和感もなかったのだが、「・」が入って、そのあとに「コトブキ」が来るとは予想していなかった。

このネーミングに喜んだのは、当時(今から18年ほど前)のボクのスタッフたちだ。

今はもういいお母さんたちになっているが、その頃は感性豊かなクリエイターたちで、このネーミングの絶妙な組み合わせに、ひたすらニタニタしていたのを覚えている。

ボクもN居・コトブキを得てからは、文章の書き方を含めた、日々の過ごし方にバリエーションが増えた感じがして、知っている人は知っている、あのN居節を誕生させたのだ……と言っても何のことかよくはわからないだろうが。

その後、ちょっとだけまじめな?雑誌「ヒトビト」を出すようになってからは、雑誌としてのクオリティにも妙な自覚が生まれて、N居・コトブキ的表現だけでは済まされぬぞという、柄にもない理性を含んだ思いに追い込まれた。

N居・コトブキでないとすれば、中居寿しかない。そして、中居寿は、N居・コトブキをかすかに滲ませたりしながらも、その中間的ポジションを目指したのである。

今、中居ヒサシになったわけだが、中居ヒサシのポジションは、中居寿より上なのか、下なのか。右なのか、左なのか。とにかくまだよく分かっていない。

なにしろ、中居ヒサシは作家?なのであるから、一般的には最も上にいるのが普通だろう。

その点、中居寿はただの会社の人間だ。どう見ても、中居ヒサシの方が上になる。

こんなことを考えていると、人の名前というのは不思議なものだなと思う。

せっかくの「中居ヒサシ」なのである。

ますますこの目を鋭くし、脳ミソにはさらに柔軟剤を混入させ、指先の動きもシャープにして、雑文づくりに励もうと思う……

座って、釣りをするかかし…

 湯涌街道のことを書いたばかりだが、その湯涌街道で見つけた、おまけ的話もついでに書こうと思う。おまけという表現は、やや控えめにしたつもり……

 これもほぼカンペキに晴れ渡った五月のある日のことだ。あれと同じ日でないのと問われれば、はい同じ日ですと答えるしかない…… 湯涌街道は正式には「主要地方道金沢・湯涌・福光線」という。しかし、長くて面倒だから湯涌街道でいく。で、場所は金沢市東荒屋町地内なのだが、これもいったいどの辺りなのか見当もつかないだろうから、街道沿いのある場所にする。

 つまり、“湯涌街道の道沿いのある場所”に、かかしが立っていた。いや、座っていた。しかも足を組んでいて、釣竿を持っていた。晴れているのに雨合羽を着せられ、ちょっと暑苦しい感じだったが、遠目には、のんびり釣りを楽しんでいるようにも見えた。脅(おど)しというよりも、絶対にウケ狙い。それはいい。ただ、かかしという視点からすると、いくつかの疑問も生じてくる。だいたい、田植えが過ぎたばかりの田んぼに、かかしは必要なのだろうか?それに、こういう場合のかかしは、本来のかかしと呼んでいいのだろうか?かかしは座っていてもいいのか? かかしは釣竿を持っていてもいいのか?サングラスをかけていてもいいのか?

  晴れ渡って、新緑がきれいで、それでもって、クルマの流れもスムーズな、文句のつけようのないドライブ環境では、こういう場合クルマを降りて、じっくり見つめてみるのが普通だ。心のゆとりがそうさせるわけだが、もしそうしようという思いが起こらなかった場合は、敢えてクルマを停め、胸に手を当てて深呼吸をひとつしてみるのもいいだろう。かかしに対する関心が、まるで湯涌の温泉のように湧き出てくる。

 かつて、「ヒトビト」全盛時代(そんなのあったのかな)に、かかしに関する研究レポートをまとめようとしたことがあった。まったくの取材不足によるネタ欠乏で形を成さなかったのだが、そのとき、ボクは“かかしの語源”の仮説を立てた。かかしは、一本足である。少なくとも昔から見ているものは、竹か木の棒のようなものを地面に突き刺して立っているものだった。だから、ボクはかかしの立っている状態を、“片足(かたあし)”の状態と見た。そして、片足=かたあし→かかあし→かかし……と、その語源を推測したのだった。見事な推測だと自負した。どうだ、参ったか。と、周囲を見回した。誰もいなかったが。ボクはその仮説に、かなりの自信を持ってもいたのだ。誰かに話すと、「なるほどそうかも知れんねえ。まあ、どうでもいいけど」と、後半は別にして、前半の言葉だけみると、それなりに評価を得ていた。

  しかし、それから数ヶ月が過ぎたある日、ボクはある本の中で、かかしの語源に関する記述と出会う。唖然とさせられた。ボクの仮説はものの見事に崩される。まるで、ゴジラが東京の街をズタズタにしていったみたいに、ボクの「片足→かかし」論は、木端微塵(こっぱみじん)に粉砕(ふんさい)された。

 かかしの語源はもっと奥が深かった。かかしは「嗅がし」の意味ではあるまいか?という話だ。昔、獣の肉を焼いて串刺しにしたものを田畑に刺しておいた。その臭いを嗅がせて、鳥獣を退散させるためだ。農作物を荒らそうとする鳥獣を近寄らせないために、彼らの肉の臭いを嗅がせる……。もっともらしい。実にもっともらしい。もちろん、広辞苑にもそのことは書かれていた。

  「片足→かかし」論の軽薄さに気付くと、ボクは再び周囲を見回した。広辞苑には、かかしの意味について、こういう記述もあった。“みかけばかりもっともらしくて役に立たない人。みかけだおし。”ますます肩身が狭くなって、今度は周囲を見回すことも控えた。かかしの話は、実はこれだけでは終わらないのだが、今回はこれくらいにしてやめとこう……

うつのみやさんの広告に掲載

北國新聞26日夕刊。テレビ欄下の「うつのみや」さんの新刊案内に、堂々と、『ゴンゲン森…』が紹介されていた。ちょっと恥ずかしいながらも、ちょっと誇らし気でもあり、ますます気合を入れていかなきゃと、最近ベルトが使えなくなったくらいに痩せてきた腹に力を入れたりしている。

なにしろ、あの伊集院静氏の横に載っているのだ。 うつのみやさま、ありがとうございました。

湯涌街道の素晴らしき普通さ

   湯涌街道を走る機会がよくある。もちろんクルマで。仕事では、湯涌夢二館へと出かける時に走る。プライベートでは、飲料用の湧水を汲みに出かける時に走る。頻度は水汲みの方が多いが、どちらもそれなりに、山里の風情を楽しみながら走るということに変わりはなく、ボクにとっては、車窓から見る風景に心を和ませながらの“小さな旅”になる。

まったくほぼカンペキに晴れ渡った五月のある日。久しぶりに仕事でこの道を走った。目的地は相変わらずの夢二館だ。新しい館長さんに挨拶にと出かけて行ったのだが、留守だった。三月に金沢美大を退職されたのだが、週一回だけ講義を続けているとのこと。ちょうど、その日がそうだったのだ。これ幸い?にと、名刺と拙著を一冊置いてきた。念のために言っておくが、ボクは新館長のO田S子大先生には、絶大なる信頼を得ている…と思っている。

用事を済ませて総湯の方へと足を向けると、真っ青な空がはるか彼方的に広がる頭上に、鯉のぼりが浮かんでいた。たいした風もないまま、決して元気もなく、ただゆらりゆらりと揺れている鯉のぼりたちを見上げていると、鼻の頭が焼けてくる感じがする。日差しが強かった。

ぶらぶらと歩いてみることにした。夏を思わせる雰囲気の温泉街は、ひっそりと静まり返り、日向のところと木立の日陰のところとが、アスファルトの上に鮮やかなコントラストを描いている。めずらしくクルマも走ってこない。総湯の前には多くのクルマが止まっていたが、皆さんまだ、風呂場でくつろぎ中なのだろう。こちらとしては、想像しただけで汗がどどっと溢れ出てきた。しばらくして、温泉街を離れる。

湯涌街道は、これといって際立った美しい風景がないところがいい。生活感と混ざり合った何でもない普通さに、魅力を感じる。それは金沢のまちに近いからかも知れない。金沢の市街地を出て、二十分もしないうちに、いきなり大峡谷が現れては、ちょっと心の準備が間に合わない。それになんだか信用できない風景になってしまう。自然が創り出した地形などといっても、嘘っぽい。建設重機を持ち込んで、人工的に作ったのではと疑われる。やはりそういう風景は、クルマで二、三時間、いや四、五時間走ってから現れてほしい。

    そういう点で、湯涌街道は自身の身分や素性、さらに言えば、家庭環境、家計状況までもをわきまえている。決して気取らず、奢(おご)らず、普通の風景でいることに徹している。みなで湯涌街道を褒めてやらなければならない。湯涌街道よ、あなたは偉いと。

そんなわけで、ボクは二~三週間に一回ぐらいのペースで湯涌街道を走っているわけなのだが、これからもこの風景の普通さに安堵しつつ、のんびりとハンドルを握っていくのだろうなあ、と思っている。ますます湯涌街道が好きになっていく、ボクなのである…

 

「あうん堂にて…」   

  初めて「あうん堂」へ行ってきた。金沢東山三丁目、ひがし茶屋街の大通りを挟んだ反対側。一方通行の狭い路地に入って、やっと見つけられるような小さな店だ。きっかけとなったのは、ボクの本が置かれているという話と、ヨークで見つけた「そらあるき」という小冊子。その小冊子の編集スタッフの一人が、店主の本多博行さんで、その小冊子を直販しているのが、あうん堂だ。

もう少し詳しく?説明すると、あうん堂は、「出版と古本とカフェの」というキャッチコピーが付けられているように、「そらあるき」でも分かるような出版と、個性的な古本が並ぶ書店、そして、奥さんが淹(い)れてくれる美味しいコーヒーが飲めるカフェ、これらの三つで構成されている。そして、それぞれが力みもなく、自然体で成されているというところに、あうん堂の、あうん堂たる“空気”があるのだなあと感じた。いずれにしても、まだボク自身よく把握しきれていないのも事実。ただ、テレビ朝日の「人生の楽園」という人気番組で紹介されるなど、それなりに立派にやられていることは間違いないのだ。

日曜の昼に近い午前。家人と二人、近くにある駐車場にクルマを停め、雨の中を狭い玄関へと向かう。雨が本降りになってきて、気温も朝から上がっていない。GWの終わりに、急きょトンボ帰りで京都へ行ってきたが、その時と同じ紺のシャツと綿パン。その時はポカポカ陽気で、腕まくりをしながらだったのに、今日はそんなわけにはいかない。ひたすら冷えていた。ガラスの扉を開けて中へと入る。靴を脱いで、フローリングの店内に足を踏み入れると、右手に本棚が見えている。まるで図書館の一角を見る感じだ。店は奥に深く、狭いという印象をもつが、この狭さ?が、この店を訪れる人たちの個性を物語っているのだろうと感じた。先客が一人いたが、その客と本多さんが話している内容も、なんとなく、それを感じさせるものだった。

 

ボクはまず古本が整然と並ぶ本棚を見て回った。そして、すぐにウキウキしてきた。なんと、懐かしき晶文社の植草甚一シリーズ本、そして、われらが椎名誠の本などがいっぱいあるではないか。いくつか本に目をとおし、価格なども確認しながら、ふ~んと納得。こんな世界が金沢にもあったんだなあと嬉しくなった。

そして、奥のテーブルへと。コーヒーを注文してから、時計を見る。もう昼に近い。小腹も空いてきたので、めずらしくケーキセットに変更した。コーヒーも美味しく、生クリームと小豆が付いたやや大きめの抹茶シフォンケーキも充分満たしてくれた。

  ふと壁の方を見上げると、懐かしい絵が掛っている。沢野ひとしのイラストの入った額があった。「槍ヶ岳への道」とかいうタイトルがついていたが、この絵のどこが槍ヶ岳への道なのかなあ?と、余計なことを瞬間考えてしまう。しかし、そんなことはどうでもいい。ここに沢野ひとしの絵が飾られているということが凄いのだ。聞くと、沢野ひとしはたびたび訪れているということ。ついこの間まで、絵の展示会もやっていたとのことだった。

 そういえば、この冬、歴史博物館の前で、ボクは沢野ひとしと遭遇していたのだ。その時のことは鮮明に覚えている。ボクは向かい側から歩いてくる本人を確認すると、「沢野ひとしさんですよね?」と、すぐにたずねた。びっくりしたような顔した本人は、そうですよと答えたが、なんでオレなんか知ってるの?という顔をしていた。ボクは椎名誠らとの発作的座談会の話などをした。そして、なんだか物足りなさを感じながら、これからも頑張ってくださいと、定番的言葉を口にし、握手してもらって、その場を去った。そのすぐ後、無性になぜ沢野ひとしが歴史博物館にいたのだろうと気になり、歴史博物館の担当スタッフに確認したほどだった。しかし、よくは分からなかった。

「実は、私、ゴンゲン森…とかいう本を出したんですが、こちらの店に置かせていただいてると聞きまして……」

 しばらく沢野ひとしの絵を眺めてから、奥さんに言った。奥さんはびっくりしたような表情になり、「それを早く言ってくださいよ」と言ってカウンターから出て行った。そして、ご主人にそのことを告げると、また戻ってきて、「私は、すぐに読ませてもらいましたよ。とても面白かったですよ」と言ってくれた。方言の使い方が凄く楽しかったとも言ってくれて、店の本棚に並んでいるという場所を教えてくれた。

 それからボクは持参した「ヒトビト」1~8号を取り出し、渡した。ヒトビトにも高い関心を示してくれた。ヒトビトに出てくる共通の知人も多くいて、もう古くなった話で盛り上がったが、最後は、継続していく苦労話が締めだった。そして、ヒトビトもお店に置いてもらえることになった。ヒトビトは売り物と言うより、お客さんにコーヒーを飲みながら読んでもらうというスタンスが合う気がして、そう話すと、本多さんも納得してくれたみたいだった。

 一時間ほどいただろうか。最後は、本多さんと向かい合って、いろいろな話をした。ボクが、主計町の茶屋ラボの話をしだすと、本多さんもよく知っていてくれて、以前に展示会のようなものをやったらしく、近いうちに何かやりたいと考えていることも語ってくれた。

 ナカイさんとは、これからも何か楽しいことがやれそうですね。本多さんが名刺を出しながら、ボクに言った。そして、ボクが自分の名刺を渡す時に、「固い名刺なんですけど…」と言うと、本多さんは、「名刺は固く、やることは柔らかくですよ…」と答えて笑った。

 ボクはなんだか清々しい気持ちになっていた。平凡な言い方だが、いい出会いだなあとも思い、懐かしさに似た何かを感じていた。日々それなりに過ごしていけば、またそれなりにいいことがありそうな気がして、なぜか、このことを遠くにいる友人たちに伝えたいなあと思ったりもした。

外へ出ると、雨はまだまだ降り続いていた。駐車場に向かいながら、こんなところへクルマで来るなんて、と自分を叱りつつ、愉しい時間だったことに満足もしていたのだ……

動物園で思った、考えた・・・・中居ヒサシ

 去年の正月、現エンジェルスの松井秀喜選手が、いしかわ動物園を訪問したが、あの時に同行して以来の動物園だった。目的は「トキ愛称命名式」。つまり、いしかわ動物園で飼育されているトキに愛称を募集し、その披露をするというセレモニーを見に行くためだった。もちろん仕事だ。で、仕事が終わり、園内を歩きながら考えた………。 人は、一生の間に何回動物園へ来るのかなあ、と。実はこの話、かつてこの動物園のサイン計画をしていた時、ある本を読んでいて出てきた話題でもあった。

 普通は、どうしても子供時代のことしか考えないが、実際はそうではない。結論的にいえば、幼児か児童・生徒の頃に最低一回は必ず来る。二回にしておこう。そして、大きくなってデートで来る(これは微妙)。結婚して子供と一緒に最低一回は来る。これも二回にする。さらに子供が結婚し、孫が出来ると、孫と一緒に来る。やはり、どう見ても五回以上は来ることになっているイメージだ。

 仕事に携わっていた頃には、一年間のうちの半分近く毎日来てたから、ボクはすでに何十人分か、何百人分かは来ているだろう。そして、夜中の動物園や早朝の動物園も見させてもらった。特に印象深かったのは、早朝だ。サバンナを復元したようなゾーンがあるが、夜明け後しばらくして、動物舎の扉が開けられた時、キリンが1頭、ボクが立っている通路側へと走って近づいてきた。そして、眼の前にあった水飲み場で、前足を横に広げ、首を真っすぐに下ろして水を飲み始めたのだ。朝のさわやかな空気の中で、キリンの躍動感のある動作が美しく、飲んでいた水がいかにも美味そうだったのをはっきりと覚えている。怖かったのは、ライオンだ。夜中のあの吠える声(音響だ)は、とても離れた場所にいるという安心感を生ませなかった。

愛媛のとべ動物園も行った。横浜のズーラシアにも行った。旭川はまだなかった。なつかしき、動物園の思い出だ。

プロの目からの映像化の提案

 通夜に出ていた最中にメールが来た。『ゴンゲン森・・・」が映画になったら、ああしよう、こうしようといった内容だった。ボクは芋売りの役で使ってくれるよう監督に頼んでやるよと返信した。それから一時間後、家に帰ってパソコンを立ち上げると、ブログの承認待ちのコメントが入っていた。

 その凄い内容が以下の文章だ。「ソバ屋のおやじさん的映像化・・・」に入ってきたコメントだが、表に出すことにする。

 フランスの映画監督ジャック・タチを敬愛する、某映画プロデューサーです。「ゴンゲン森‥‥」はそば屋のおじさんがいうように、素敵な映画になる可能性を秘めた話だと思います。内灘、河北潟の自然、昭和30年代の時代設定、「スタンドバイミー」を彷彿とさせるような少年群像、そしてナットキングコールの音楽‥‥、映像化の要素としてはバッチリです。原作本の拡がりと共に映像化したいという依頼は増えてくるのではと思います。
 「3丁目の夕日」以来、定着化してきているVFXの技術でもって、よしろうさんの言うように、干拓前の河北潟の風景や、当時の内灘砂丘の様子を見事に再現することも可能な時代になってきました。映像化困難といわれた「坂の上の雲」が快調に滑り出しているのも、スターウォーズのエピソード1、2、3が後からできたのも皆、そのCGの技術を待ったからでした。そういった意味でもこの「ゴンゲン森‥」は今だからこそ出来る映画なのだと思います。
 
 ただしそれをするのに莫大な金がかかるのは事実です。ちょっと本腰を入れて見積もってみようと思っています。

しっかり者のやさしさに会った

 懐かしい人に会った。Kさんだ。何年ぶりだろうか。おそらく7,8年は会っていないだろう。それ以前は、ちょくちょく顔を合わす機会があり、他愛無い、日常の会話を繰り返していた。久しぶりに見たKさんは、子供たちを前にして本の読み聞かせをしていた。ボクは何気に子供たちの輪の外側の、さらにその奥に立ち、なるべく目立たないようにしていた。読んでいるものが、いったい何というお話なのか、知る由もなかった。

読み聞かせが終わると、拍手がおこり、Kさんは椅子から腰を上げ、照れ臭そうににっこり笑って会釈した。そして係りの人と、二言三言交わすと、すぐにボクの方に歩いてきた。

こんにちは、久しぶりやね。Kさんが、さっきまでのトーンとは違う、本来の地声でボクに声をかけてくる。なんだか、子供たちに語りかける声よりも、終わった後の声の方が子供っぽく聞こえた。ボクも一応にこりと笑い返し、びっくりしたなあと、とぼけた口調で答えると、Kさんはまた照れ臭そうに笑って、もう三年くらいやっとるげん…と言った。

ふーん、なかなかうまかったもんね。声も向いてるんじゃないの。ボクはそう言いながら、いい加減なことを言ったかな、と、ちょっと悔やんだりもした。

Kさんと近くにあったソファに座り、15分ほどだろうか、話す時間があった。Kさんは、額にちょっと汗を光らせ、ハンカチで顔を煽ぎながら、時々、そのハンカチで首筋を拭いたりしていた。そういえば、今日は暑い日なんだなと、ボクもあらためて思ったりした。

 最近のボクは、ちょっと元気がない部類に入っているのだが、Kさんは元気だ。少なくとも、元気がある部類の真ん中のちょっと横あたりにいる。ボクと同い年で、とにかくひたすら明快なのだ。

Kさんは、おもむろに携帯の中にある息子さんの写真を見せてくれた。彼、頑張っとるげんね、だから私も頑張らないと、と無邪気に言う。彼が、自分のすべてみたいな雰囲気が伝わってくる。彼は、27歳になっていた。6歳か7歳の時に一度見たことはあったが、当然、ボクの目には面影なんぞあるわけもない。ただ、表情の凛々しさは、Kさん譲りだなあと納得させられた。大阪の有名大学を出て、川崎にある米国系の大手企業で、なんだか難しい研究型の仕事をしているらしい。具体的なことを聞こうとしたが、聞いてもなんも分からんげ、とKさんはただ、にこにこしているだけだった。Kさんもなかなかの人なのだが、はっきり言って文化系の人で、理科系はチンプンカンプンなのだ…

Kさんと話していくうちに、ボクがいつも感じていた、“真っ直ぐな明るさ”みたいなものが、甦(よみがえ)ってきた。Kさんは、いつもそうだ。“しっかり者のやさしさ”を持っている。周囲の人たちに不快感を与えないように気を配れる人だ。言葉を大切にして、できるだけやさしく語りかけてくれる。

だからこそ、読み聞かせもこなせるのだろうし、その姿勢が、Kさんを周囲から認められる“やさしい人”に仕立て上げているのだろう。おもてなしと言う言葉が、最近やたらと流行っているが、言葉や仕草そのものから、そういった雰囲気を出せる人は少ない。

 短い時間の中で、ボクとKさんは、いろいろな話をした。まったく関連性などない、ボクの仕事の話とKさんの仕事の話。今でも超健在だというKさんのお母さんの話から、尊敬していたが、早くに亡くなった父親の話になり、Kさんは声のトーンを落とした。ボクの本の話は、先入観もちたくないからと封印させられた。

Kさんは、20代の終わりに大きな決断をして人生の方向性を変えてしまった人だ。その決断には、相当の覚悟と諦めと、そして開き直りがあったことは知っている。本人いわく、夢も希望も全くなくなったらしいが、しっかり者として漂わせる凛々しさがその決断を生んだのだなと、ボクは納得していた。しかし、Kさんは、私のことはいいわいねと、やさしい目で笑うが、その目の奥にあるものは、まだ生きているのだ。

Kさんには敵(かな)わないなあ。Kさんと話していると、なんでこんな話をしてるんだろうという、疑問すら湧いてこないから不思議だ。

N居クンの小説、これからバッチリ読ませてもらうね。楽しみやな。でも今、そんなに時間ある方じゃないから、ちょっと時間かかるかもしれん。感想はしばらく待っとってよ…

はい、ごゆっくりどうぞ。ボクはそう答えるだけで、ただただKさんには、やはり敵わないなあと思うばかりだった……

ソバ屋のおやじさん的映像化…

会社近くの、よく行く蕎麦屋のおやじさんから、「ゴンゲン森…読みました」といきなり言われた。病院の検査帰り、朝から何も食っていない空腹状態で店に入ったのだが、カウンターに座るなりの左ストレートで膝がよろめいた。

「ワタシゃ感じたんだけど、あれは映画かドラマにしたらいいなあッ。うん、あれは、絶対いい映像になると思うよッ」

驚いた。  『ゴンゲン森と…』のイメージが、このおやじさんにも共通するものを持っていたなんて。当然、嬉しくなった。しかし、おやじさんは続けた。

「あの出だしのところは、まるで『雪国』(古いが、川端康成大先生の代表作)だねえ。意識してそうしたの?」

えっ、とんでもない。『雪国』など全くもってカンペキに頭にない。指先や踵に至ってもないし、鼻毛の先にも付着していない。それに、もしあったとしても、そんな作品の真似をするなど考えられない。そう答えたが、おやじさんは、よく似ていると思うんだけどねえっと、首を捻ってばかりいた。

『雪国』の出だしはどうでもいいのだが、映像にしたらいいねえという話は、なんだか知らないうちに一部で盛り上がってきた。胸が苦しくなってくるなあ~

自然体のコミュニケーションについて、軽く考えた・・・

 5月16日のサンデーモーニング。最後のコーナーである「風をよむ」は、“本のある生活”というテーマだった。iPadなるものが出現し、デジタルブックなるものに人目が集まる中、そこから逆説的に語られる本の価値観みたいなものに、ボクはハゲしく納得していた。デジタルブックの出現とともに、活字や言葉、そして本そのものに対する思い入れが深くなったような気がしてもいる。特に、携帯のメールや、ツイッターなどと呼ばれる手法だけでコミュニケーションをとっていては、本来自然に伝わるべきものも伝わっていかないと、こちらもハゲしく思っている。

 と言いつつ、今日金沢市内の某書店で、32種類ほどのツイッターの本が一堂に並べられたコーナーを発見してしまった。ショックで、思わずそのうちの3冊ほどを手にとって、不覚にも合計30ページほどを読んでしまった。ただ、よかったのは、内容がよく分からなかったことだ。

 最近ボクは、日常のコミュニケーションの中で、言葉が正しく伝わらず、そして聞き返そうともせず、互いに本来大事にしてきたモノを失っていったという人の話を聞いた。言葉足らずのメールだったがゆえに、言葉にないものを深読みしすぎてしまい、本来自然体であるべき関係にもヒビが入っていく、そんな状況に追い込まれたと、その人は言った。

 きちんと話しておかないと、きちんと文章にしておかないと、やはり大切なものが逃げていく。分かって当たり前ということも確かにあるが、人はやはり言葉を持っているのだし、表現する能力を持っているのだから、それを活かしてコミュニケーションするべきだ。自然体の関係とは、言葉も気持ちも自然にやりとりできるということだ、と、ボクはハゲしく思い始めている…のだが。

「水田のある風景」が好きであるということについて…

   水田が好きだという、ボクの秘かな思いを知っているのは、ごくごく一部の人だけだ。いや、誰も知らないかな。一人ぐらいいるだろうと思うのだが、もしいたとしても、そうだったっけ?と、首をかしげられるかもしれない。

 水田が好きだというのは正しい表現ではない。正式には、水田のある風景が好きだということなのだが、そんなややこしいことも、掲載した写真を見れば、一目瞭然に納得してもらえるだろう。それにしても、なぜ水田のある風景はこんなにも美しいのだろうか?

 ここでは、そんなこと考えたって仕方ないジャン…などと、妙にシティボーイっぽくなって欲しくはないのだが、どうしてもそうなってしまうという人は、荷物をまとめて去ってもらおう。

 そんなこともどうでもよくて、やはり、なぜ水田のある風景は美しいのか?なのだ。写真で一目瞭然と書いたが、やはり一目瞭然である。五枚あるから五目瞭然とも言え、五目ラーメンのように、いろいろな具が混ざって絶妙の味を醸し出している、とも言える。

  当たり前だが、水田は水があるからいい。しかも、今の季節は田植えが終わった後の、まだ水面が広々とした鏡のようなはたらきをしていて、新緑や、青空を映し出したりしているのがいい。そして、時折、風に水面が波立ったりするのもよかったりする。文句のつけようのない美しさだ。これを美しいと思わない人は、たぶん、こころのどこかに捻(ひね)くれた何かを持っている人か、素直に自分の気持ちを言えない人だ。われわれ美しき心の持ち主には、そんなことはあり得ない。上高地の梓川の清流を見た人で、美しいとは思わなかったという人はいないとよく言われるが、初夏、晴れた日の水田風景も、それに二歩半ほど及ばないものの、充分、正しい美しさを持っているのである。

 5月15日の午後、ボクは中能登のある町で、これらの写真を撮った。カメラを構えているボクの横を、地元のおじさんやおばさんたちが通り過ぎて行ったが、当然、誰も声をかけてくるわけでもなく、カメラを構える方向に、ちらりと視線を投げるだけだった。

 ボクが「水田オタク」ではないことは、みな承知だろうが、素朴な風景を好む人間としての、そのノメリ込み度は並みではない。その一環にある、「水田のある美しい風景」に出会った嬉しさを書いてみた…

「表紙がいいねえ・・・・」

「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」は、あの明るい、いかにも美しい海岸線や少年たちのシンプルな心が伝わってくるような表紙のデザインが持ち味となっている…… と、何人もの人から言われる。最初に手に取った段階では、内容を読んでいないから、第一印象としての表紙は、かなりのよい感触を得ているということだ。あの太陽の表現などは、アーだコーだとセッションを繰り返し、ゴンゲン森をビジュアル的にどう表現するかという点でも、スッたモンだを繰り返した。

そのイラスト、デザインを担当してくれたのは、奈良野マキさんだ。とてつもなく若いわけではないが、当然おばさんなんてとんでもない年齢の女性クリエイターだ。 一応今は独身。というとなんか出戻りみたいに聞こえるが、そうでないのは言うまでもない。

彼女はN居・コトブキ的モロモロに異常なほど関心を示し、N居・コトブキ的なところでしかボクを評価してくれない。なかなか“中年社会的責任もあり的オトコ”からすると、うるさい、いや手強い存在なのでもある。かつてやっていた私的エネルギー追求誌「ヒトビト」の中のボクが、彼女の基本ラインにあるのは間違いなく、ボクとしては嬉しいやら、くすぐったいやら、足がつるやら?で、ただひたすら、“ありがとう”と言うだけなのだ。ボクとしては、とにかくよい仲間に恵まれてる。

笹ヶ峰でスキートレッキング

 5月1日、久しぶりに妙高・笹ヶ峰をテレマーク・スキーで駆け巡ってきた。

 朝の4時半過ぎに金沢を出て、スキーを履いたのが9時少し前。文句のつけようのない青空の下で、久しぶりのテレマークに戸惑いながら、夏には足を踏み入れることのできない雪に覆われた牧場と、その周辺を自由に移動していく。少々飽きてきた頃には、スキーをデポして三田原山への樹林帯の登りにも挑戦。一時間弱ほど登ってみたが、なかなか樹林帯を抜け切れず、途中で断念して下山した。  

 昼は、牧場のど真ん中にある岩をテーブル兼腰かけにしてランチタイム。牧場内に湧く「岩棚の清水」で汲んできた水でお湯をつくり、ランチを楽しんだ。焼山、火打山、妙高山などが美しく空の青とコントラストを描き、一面の雪原の中の大きな木立が凛々しい。

 ああ、これなんだなあ~と、ハゲしく納得。午後からも笑う膝に、笑うな、いや好きに笑ってろなどと、勝手なことを言いながら、ガンガン滑り(といっても、ほとんどスピードは出ないが)、また登り返し、歩き、走りと一応すべてやってきた。今回は、UVカットもしっかり顔面に塗り、毎度のごときの無残な黒焦げ状況も回避。ちょっと大人になったなあ~と、自分を褒めながらのスキートレッキングだった。しかし、駐車場に戻った時には、ほとんど放心状態。帰り道、コンビニで買ったコーラがとてつもなく美味く、そうか、そうかと唸りながら、久しぶりの贅沢に感謝していたのであった…

春山初山行の痛快編

数年前までは、ゴールデンウィークは山へ行くのが普通だった。

剣岳の圧倒的な山容を見るために、親友・Sと、山の先生・T本さんとの三人で出かけたのが初めての春山。

黒焦げになった上に擦り傷のついた顔と、ただれた唇。真っ赤になった目。

一見、何にもいいことがなかったみたいな容貌で下山してきたが、たぶん人生の中でも、あれだけの充実感は他になかったと思う。

未明の立山山麓、称名の滝へと続く道路。

その途中にクルマを置き、白い息を吐きながら、三人が歩く。

ベテランT本さんは、ボクらのような初心者に毛が生えた程度の若造に、このけわしい春山は厳しいと判断したのだろう。

いやいや、そんなことはない。

単に、久しぶりに春の雪山を楽しんできたいという、そんな思いに駆られただけかもしれない。

とにかく、ボクとSはウキウキしていた。なんとなく表情にも自信のようなものがあふれ、これからの登行を楽しみにしていた。

いよいよ、雪に覆われた急な斜面に差し掛かったところで、ベテランT本さんがその実力を発揮。

ボクたちには全く見当もつかないルートを、じっと見極めている。

そして、この方向に行け、と自信たっぷりに言った。

雪に覆われた急な斜面だ。

道などついていない。

そして、一歩その斜面に足を踏み出したところで驚いた。

全くケリが入らない。雪面は深くまでカチカチに凍っていた。

T本さんが先頭になって、一歩一歩慎重に足を運ぶ。

高く登れば登るほど、危険度は倍増していく。

下を見れば、ちょっとゾクッとする高度感だ。

しかも、足元はツルツルの氷のような雪。

徐々に斜面の角度が緩くなり、そこからまたかなりの時間を歩くと、大日平の雪原が目の前に広がった。

その奥に、目指す大日岳、奥大日岳の頂上がふたつ並んでいる。

空は真青。白い山々が、ただひたすら、とてつもなく美しい。

初めて快晴の朝であることを認識し、嬉しさで爆発しそうになる。

雪の上を歩くことが、こんなにも楽しいことだったのかと、我を忘れて戯(たわむ)れたくなった。

そして、いよいよ大日岳への登りに入った。

緩やかに伸びていく雪の大斜面に、簡易アイゼンを付けた靴が心地よく食い込む。

三人とも快調に進んだ。

しかし、半分ぐらい登った頃だろうか、ベテランT本さんが、突然、オレもう駄目だわ宣言。

お前ら若いんだから、二人だけで頂上行って来い…オレはここで昼飯作ってるから的リタイアとなった。

大きな岩の上にボクとSは、リュックを置き、身軽になってさらに頂上をめざす。

しかし、徐々にペースダウン。

Sは先行しながら、雪玉でケルンを作って、休憩のポイントにしていたが、そのペースが、最初は五十歩で休憩、三十歩で休憩となっていたのに、そのうち十歩で、五歩でと短くなっていった。

ボクが先頭を代わる。

辛かった。最後は一歩ごとに足を休め、大きく息をした。そして、急斜面が終わる最後の一歩のところで、ボクは歓声を上げた。

大日岳頂上直下の稜線に出たボクの目に、あの剣岳の雄々しい姿が飛び込んできたのだ。

言葉では語れない感動だった。

ボクとSは、肩を並べて、しばらく険しい剣岳の山肌と青い空とのコントラストに見入っていた。これがあるから、山はいいんだなあ。

頂上からの帰り道、ボクはもう一度剣岳と向き合った。

剣岳は、ボクが初めて本格的な登山を体験した山だった。

見下ろすと、中腹の大岩の上にいるT本さんの姿が小さく見えている。

鍋のようなものが置かれて、昼餉の準備が進んでいるようだ。

ボクとSは、にわかに覚えた尻セードという、早い話が、ケツで雪の斜面を滑り降りる方法で、一気にT本さんめがけ急下降した。

雪を入れたアルミカップに、ウイスキーを注いで乾杯。

昼餉は缶詰の魚や肉を煮直したりしたもので、かなり激しく美味かった。

日焼けした顔を見合い、笑い合う。

最後の下山では、雑穀谷のトラバースで足を取られ滑落した。

死ぬんではないかと、本気で思った……

もうすぐ、またそんな季節が来る。

どうしようかなあと考えている。

山は永遠なんだよと誰かが言ったが、ボクもそう思う。

空につながっているからだ。

ずっと、空まで導いてくれるような気がするからだ。

ただ、それだけなのだ…

ある読者からのメッセージ

この物語は今から45年前の真夏、灼熱の日差しに炙られる内灘砂丘を駆け回る少年達が主人公である。
バックグラウンドをちょいと説明させていただくと、、、
内灘砂丘は、金沢市の北辺に隣接する『河北潟』という湖の現存する部分と、現在は干拓された部分の西側に60m以上の高さでそびえたち、日本海と少年達が住む町々とを隔てている。
全長約10km×幅1km。大きさでは日本で3番目に大きい砂丘である。
昭和20年代後半には米軍の試射場が設置され、それに反対する地元住民を応援する学生運動家が全国から集結し一躍全国的に注目されるようになったことがある。
五木寛之氏の『内灘夫人』はこの事件がモチーフとなっている。

http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.66038694&lon=136.65866889&ac=17365&az=&v=2&sc=7http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.66038694&lon=136.65866889&ac=17365&az=&v=2&sc=7
↑この地図を拡大していただくと砂丘の中に『権現森公園』という地名が現れるが、これがこの本のタイトルのゴンゲン森のことであり、
この森にまつわるオカルテックな寓話と、昔おきた不幸な事件の残像が小さな町に蘇り、少年達のみならず大人たちの心の中にさざ波を巻き起こしていく、、、

面白い! お世辞抜きでこれは面白い♪ヾ(^▽^)ノ
少年達を含め、登場人物たちが活きている。生き生きと描かれているのでその場面場面が鮮やかなイメージとして目の前に浮かび上がる。
読後感は、焦げ付くような真夏の日差しと砂埃、そして微かに生臭い少年達の汗、、、
お薦めです。

ネガティブな日々のことを「下品な日々」と呼んでいます。かと言ってポジティブだから「上品な日々」とは呼びません。「上品な日々」は特になくてもいいと思っています。ごく普通にいられたらよいのではないかと。 そんな風な思いがこのような雑文になって書庫の中に残されています。少し立ち読みしていっていただけたら嬉しいです……     文と写真:中居ヒサシ