ℕ…自分について


中居ヒサシ 〈中居 寿〉  🏳 ライター プランナー  

石川県内灘町生まれ~今も在住。東京で野球とジャズと本とその他モロモロにまみれ、アンバランスながらも愉快な大学生活を過ごした後、小さな業界新聞の会社に就職。しかし、その年の梅雨が終わりかけ、いよいよ夏だなあという頃、何かの拍子?で退社。周囲に迷惑をかけつつ、その後約1年間アルバイトや旅などで肥しづくり?をし、腹をくくり始めていた翌年の春の終わり、金沢の広告会社(ヨシダ宣伝株式会社)に拾っていただく。沁み込んでいた何かが幸いしてか、プランナーとしての自覚症状に気が付き、多くの事業に関わることに。自ら立ち上げたプランニングセンターのチーフ~常務取締役~代表取締役。退任後相談役。そして、約40年ほどお世話になり、2021年暮れに正式退職。

今は、所謂モノ書きと企画屋を私的時間の中に折り込んでやっています。

●やってきた事業(の一部)

〇ヨシダ宣伝株式会社(1979~202)時代

・金沢湯涌夢二館

・金沢西茶屋資料館(「島田清次郎の世界」「茶屋の風情」)

・金沢三寺院群(卯辰山山麓・小立野・寺町各寺院群)をめぐるガイド

・金沢市足軽資料館

・金沢文芸館(金沢五木寛之文庫)

・金沢市文化再発見シリーズ「金沢のまちなみ編」

・能登半島「みどりの一里塚」サイン計画

・いしかわ動物園デザイン計画 ・兼六園周辺文化の森サイン・ガイドライン

・石川県・金沢市・加賀市・羽咋市・志賀町・能都町・白山連峰合衆国・尾口村・白峰村・大山町他VIサイン計画

・松井秀喜ベースボールミュージアム

・輪島市櫛比庄禅ノ里交流館

・輪島天領黒島・角海家復元

・石川ルーツ交流館

・新潟県三和村民俗資料館

・砺波市曳山会館

・内灘町「砂丘フェスティバル」基本企画構想

・志賀町加能作次郎記念館 ・記念誌等

・内灘町砂丘フェスティバル

・地域活性化事業(金沢市内商店街他)

・その他 地域観光企画・業界振興企画など


・「30th memorial MILES DAVIS in KANAZAWA」(2001~03)

・金沢市民芸術村 音楽イベント「ジャズピアノ編」「ジョン・コルトレーン編」・「音故知新」 

・トークセッション「脱領域ハイブリッドな交歓~私たちが描く金澤とKANAZAWA」(2010) ※ナビゲーター

・石川県デザイン展「コミュニケーションデザイン部門」審査員

・図書館協議会委員(志賀町)(内灘町)

・内灘町図書館建設検討委員会委員/同観光ビジョン検討会委員他

・プライベート誌『ポレポレ通信』『私的エネルギー追求誌・ヒトビト』発行

・創作話『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』出版

・N舎想庫 htbt.jpにて、「栞紐のない雑文集」を掲載中(エッセイと写真)

・マンガ『加能作次郎ものがたり』原作・脚本・編集


子供の頃から、純田舎育ちのくせにそれなりに物知りで多感でした…… あっ、すいません、プロフィールを書き始めています。よくある齢の離れた兄たちの影響やその他モロモロがあって、たとえば小学校に入る頃から映画や映画音楽(特にアメリカ映画)に親しみを持ちはじめます。まわりにたくさんのレコードや雑誌などがあったからです。

自分のお金で最初に買ったレコードは、ビートルズの『恋する二人』でした。10歳くらいの時です。齢の離れた長姉の、嫁ぎ先のおばあちゃんから小遣いをもらい、帰りにレコード屋(山蓄)へ寄って買ったのです。が、家に帰ると母親から大目玉を食らいます。「もっと子供らしいもの買ってこい」ということでした ────

音楽の話で言えば、その後いろいろあって、中学の中頃に自力でジャズの世界へとたどり着きます。ジャズとの出会いは刺激的で、自分の中にあったものがすべてジャズ的に動きはじめました。それって何だと言われても困りますが、ヒラメキ型で、何でも自分流に解釈していくということでもあったのでしょうか? 

野球少年でもあったので、体育会系と文科系が混在してもいきます。さらにそこに入ってきたのが本の世界です。そして、そんなことに影響されていくと、作文コンクールでの受賞があったり、映画の原案を投稿して某映画会社の機関誌に掲載されたり(これには秘話があります)、ジャズなどの音楽評論もどきや、コントの脚本なども書くようになっていきました。

あの頃見ていた世界は何だったのか…… 自分でも不思議ですが、アタマの中は混沌としていたようです。そんな状態ですから、中学入学時の学力テストでトップテンにいた(それ自体が間違いだったのかもしれませんが)のが、まるでヒマラヤの表層雪崩のように一気に下向きに。さらにそのまた下へと急下降。思考はきわめてアンバランスになっていき、中学の進路指導の先生からは、そんなこと考えるには早すぎる……と、言われていました。


自分のような職種は、自分の持っているもの、できることをすべて仕事の上で活かせると感じていました。すべてが私的な能力から自然に成立していったものだと思います。ただ、常に黒子でした。

むずかしい研究論文的なものや解説文的なものから、歴史や観光ガイド的なもの、さらに広告コピーでアタマをひねったりとか…。イベントなどでも企画運営からそのままナビゲーターまでやったり、ミュージアム施設の展示ムービー制作では、シナリオから演出まで自身でやったり…。今でも多くのものがカタチになって残っており、たまに見直したり読み直したりしては、嬉しくなったり恥ずかしくなったりしています。今から思えばいろいろとユニークなオファーもあり、会社からちょっと足を踏み出してしまいそうなこともありました。いくつかから、独立すれば仕事が頼みやすくなると言われたりしたのはそんな頃ですが、それなりに考えたのかどうかは分からないまま、結局会社に残った次第です。

現場型の思考・行動でやってきたニンゲンであることは間違いありません。そして、大雑把に言えば、仕事は与えられるものではなく、自ら創り出していくものだと感じていました。職種もまたそのギリギリな許容範囲の中にあったと思います。

最も得意だったのが、マジメな顔をして、バカバカしいことを考える、そして語る、書く。しかし、マジメな顔をしてマジメなことを考えたり、書くことに縛られていくと、自分らしさが薄れていくのは自然な流れです。そして、なんだかイヤになっていきます。

今でも、ニンゲンの面白さのひとつに〝意外性〟があると思っています。

私的な活動として執筆やイベント企画などを続けてきました。20代の中頃から雑誌への投稿などをはじめ、その後方向を見失いつつあった自分を取り戻そうと、日常の中に自分自身を再確認するというテーマで、「私的エネルギー追求紙・ポレポレ通信」という月刊雑文集を発行。さらにその後には一気にクオリティを上げた?「私的エネルギー追求誌・ヒトビト」という季刊誌を出していました。こういう活動ができた背景には、金沢香林坊日銀ウラにある某ジャズの店(ご存じ「YORK」です)の、素晴らしいヒトビトとの交流があります。ジャンルを問わない知的な話題?と、どうしようもないバカバカしさが融合するその空気が私を育ててくれました。しかし、「私的エネルギー追求誌・ヒトビト」仕事が過密化していく中、経済的な苦しさもあって虚しく8号で続行断念。

その後、暇を見てなんとかコツコツと書いてきた拙稿『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』を自費出版しましたが、ただ焦りだけで出してしまったようなその物語については深く反省をしており、新たなスタイルでの書き直しを進めています。その後また新しい長編物語も完成させており、依頼されているものも含め、ここへきて〝書き屋〟としての自分にようやく戻ったような感じがしています。

ところで、私的イベントで記憶に深く残っているのは、マイルス・デイビスの金沢公演を振り返る事業(3年がかり)を自主企画・自主運営したことです。これは大変な作業でしたが、本番でのナビゲーターも自分でやって、当時のNHK金沢放送局や朝日新聞金沢支局などでは、番組出演や連載出稿などをさせていただきました。その他、金沢市民芸術村でのジャズ関係イベントなどもやらせていただいたりしましたが、こうしたことが自分の立ち位置をより不明瞭にしていった要因だったのかもしれないと今思っています。基本的にいつも自分は〝黒子〟だったので。

好きなモノゴトや関心事は書き尽くせません。自分なりのさまざまな視点があって、それらが合体した上に自分がある…と、それなりに解釈してはいます。が、早い話自分が何者(だったのか)なのか分からなくなってきているのです。自分のコトは自分が一番知っている…なんていうのはまちがいですね…?

だから、取り巻きの環境がどんどん変わっていく中でも、ひたすら書いていようとしているのだと思います………

好きなことは、ジャズ的音楽の中にいること。ラグビーを見る(応援する)こと…ニワカではありせん。山・森・川べり、山里・山村を歩き考えたり、そこで放心したりすること… 本を読んでいること… 写真を撮ること… ギターを弾くこと… そしてもちろん、書いていること(順不同)です。

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※読んでいただきありがとうございます。こういうページについては、これまで掲載していたオリジナルのものは凄まじいほどの長編でした。読み返していくと、自分でも嫌になってきたので書き直しましたが、どうもこういうのはむずかしく上手くまとまりません………。サイトの中で感じ取っていただければと思います。よろしくお願いいたします。