北越に加賀藩士たちの墓

 新潟県長岡市の郊外にある不動院という寺の前に着いたのは、午後2時を少し過ぎた頃だった。

 6月の初め、辺りの雰囲気がすでに夕方近くのように感じられたのは、小高い山並みの間に入って来たせいだろう。日陰となった場所の空気は少しひんやりとしていた。

 静かだなと思った瞬間に、横の広場で遊ぶ子供たちの声が聞こえた。男の子と女の子が仲良さそうに遊んでいる。懐かしい光景のように感じられ、気持ちが晴れやかになった。

 この寺には、戊辰戦争最後の激戦と言われる北越戦争で命を落とした、加賀藩士たちの墓がある。この寺だけでなく、他にも加賀藩士の墓があることは知っているが、いちばん歴史観に浸れそうな気がしたのでこの寺に行こうと思った。その狙いは、周囲の落ち着いた雰囲気を感じ、当たった。

 今年が明治維新から150年であることは、昨年能登のある町の古くて小さな資料館に入った時、そこに展示してあった維新時の高札を見て知った。村からの出入りについて厳しく禁止するといった新政府からのお達しが、太い文字で書かれていた。

 それからしばらくして、金沢の兼六園の横にある博物館の先生から、いきなり「北越、南会津のこと詳しかったよね?」といった電話が入り、にわかに明治維新の四文字がアタマを駆け巡ることになる。

 南会津が詳しいというか、秘境と言われる檜枝岐村(福島県)について仕事で昨年出かけており、その空気感は認識していた。もちろん新潟北越あたりも同じくといった感じだった。

 先生が言うには、明治維新と石川県という企画展をやるんだが、北越戦争の話は面白いよ… せっかくあっちのこと詳しいんだから行って来たら…という提言みたいな電話だったのだ。

 それから数ヶ月後、仕事のお手伝いもさせていただき、その企画展は始まった。あらかじめ電話を入れて出かけると、先生直々で特別じっくりと解説していただいた。実に楽しい時間だった。

 そして、それからまた時間が過ぎ、ようやく長岡行きのチャンスがやってきたのだ。

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 子供たちの声を耳にとどめながら、寺の左側に延びる道をゆっくり登っていく。

 道の左側が切れ落ち、その下に子供たちの遊ぶ広場がある。気持ちのいいカーブと、登りつつ見る素朴な山里風景に心がなごむ。こういうのに弱い。

 気が付くと、右手の斜面に解説文の入った看板が見えた。「加賀藩士の墓」と記載され、その奥に短い石段。そして、その上にいくつかの墓石が見えている。

 石段を上ると、左右に広がった墓石の列に驚いた。この寺だけでも藩士41名と人夫12名が葬られたとあるが、見渡すとかなりの列であることが分かる。

 刻まれた文字は読み取りにくいが、よく見ていくと、富山の「砺波」の文字などが確認できる。

 石川と富山の若い藩士たちが犠牲者であり、幕末の混乱期に、加賀藩の優柔不断さがもたらした新政府軍からの当てつけみたいな出兵命令だったらしい。

 元来、幕府側にいた加賀藩だが、新政府側の圧倒的な力に朝敵になることを恐れ立ち位置を変える。そんなことだから、もともと信頼を得ていない加賀藩は当然出兵に応じざるを得なかっただろう。思いは、大久保利通が元加賀藩士に暗殺されたりした事件に繋がっていったりもする……

 約7600名が藩の強力な軍備品とともに出兵し(させられ)、103名が戦死した。死者の中には十代の若者もいたという。

 ふと、会津の白虎隊のことを思い出した。彼らが自決した場所に立ち、そこから彼らも見た城の方向に目をやった時のもどかしさみたいなものが蘇ってきた。

 明治維新とは何だったのかな? そんな疑問がたまに起きる。薩長が権力を握り、それから半世紀あまりを経て、あの忌まわしい大戦争に突入していった事実と、明治維新は繋がっているのではと思ってしまう。

 日本という国はまだ本当の意味の維新を達成しないまま、アメリカという一国によって都合のいいように作り変えられていったのでは……… そんなむずかしい話は置いておこう。

 ゆっくりと素朴な墓石のひとつひとつを見ていた。それからさらに奥へと上り、北越のこの小さな寺の風情を感じ取ろうと歩いたりした。

 ひたすら静かだった。それもそのはずで、もう子供たちの姿はなくなっている。木陰の中にいるからだろうか、空気はさっきよりさらにひんやりと感じられた。

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 話は飛ぶ。

 金沢・卯辰山にも、この戦死者たちを祀った招魂社というのが建てられた。その後、西南戦争や日清、日露などの戦死者たちも祀られていったが、その後移転する。現在は兼六園奥にある護国神社にまとめられた感じだ。卯辰山には、当初の趣旨を残すようにその記念碑と墓石が雑木の中に建っている。

 長岡に行ってから三ヶ月後、つまり9月の初め、雨上がりの卯辰山に出かけ、久しぶりに苔むした石段を登った。

 そこで、独りの外国人と三人の日本人学生と遭遇した。これはかなりの驚きだった。

 彼らになぜここへ?と尋ねると、特に深い理由もなく来たということだったが、学生の一人がこの上にある卯辰三社に興味があったと語った。

 不思議だが、人気の波に一度乗ると一気に広がりが生まれる。今の金沢にはそんな力が宿り始めた。卯辰三社など、かつてはほとんど訪れる人はいなかった。

 生半可にちょっと知識があるものだから、いろいろな話をしてみた。彼らは楽しそうに話に乗ってきてくれた。そして、やはり金沢らしいですねみたいなことを語った。金沢の奥の深さを認識させたみたいな、少し誇りたい気持ちにもなり、しばらくして、いや、でしゃばるでないと自戒したりもした。

 かつて観光企画の仕事でここへ外国人を連れてきた時、彼らは竹林の雰囲気などに大いに感激していた。もちろん招魂碑のことなど興味もないだろうと説明もしなかった。

 しかし、今の内外の観光客はどうだろう? 彼らのように、ひょっとして強い関心を持ってくれるかも知れない。

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 ところで、北越戦争で越後軍が新政府軍を苦しめたのは、越後に河井継之助という偉い人物がいたからだ。彼のことは地元の人たちが誇らしげに語る。上杉謙信と河井継之助は越後の英雄だ。

 彼の記念館は長岡市と福島の只見町にあるが、両方とも行っていない。特に只見の方はすぐ近くまで行ったにも関わらず、早く家に帰りたくてハンドルを切る勇気が出てこなかった記憶がある。情けないことだとずっと反省している。

 ちなみに、その河井継之助を主人公にした司馬遼太郎の名作『峠』の映画化が決まったらしい。主人公役は、役所広司。『蜩ノ記』が印象深いが、監督も同じ小泉尭史だという。

 実はこの話を最初に聞いたのも新潟の友人からだが、なかなかいいニュースだ。

 ちょうど今、大河ドラマは『西郷どん』。あのややこしい時代の出来事に対する大げさな表現にいつも首をかしげてしまうが、それは自分の感想であって、ドラマとしては面白い(これも感想)。

 ただ、金沢にいて思うのは、江戸時代に作られた文化によって、今金沢の魅力は成り立っているわけで、維新後のモタモタを思うと、やはり明治維新というド派手な出来事はなくてもよかったのではないかなあ…ということ。

 あのままでも日本はそれなりに変わっていったのではと思ったりする。あのままでもジャズと出会っていただろうし、ベースボールもサッカーもラグビーも、映画もファッションも、とにかくそれなりに受け入れていったのではと思う(…個人的な感想ですが)。

 そんなわけで、今金沢は江戸文化のおかげで人気を博しているということを考えさせられたのでもあった。それにしても、こうした旅の面白さは果てしない………

日常に句点を打つ

 日常の中に、句点をうつ……… 誰かが言っていた言葉だ。

 ニュアンスはちょっと違っているかも知れないが、句点つまり「。」をつけると、ひとつのことにケリが付く。

 逆にそれができないでいると、いつまでもだらだらと引きずってしまう。

 つまり、読点しか付けられない日常になってしまうというのだ。

 なかなかいい言葉だと思った。初めて聞いたとき、すぐにその意味がピンときたし、心地よくアタマを刺激し心に響いた。

 ボクには自分がよく考えるタイプのニンゲンだなと思える時と、そうは思えない時とがある。

 ひらめき重視の度合いが非常に高いと思うが、そのひらめきを上手く活用できているのかは疑わしい。

 答を先に設定しておく方が思考にレールが出来てやりやすい。

 もちろん、それには危険も伴うが、なんとなく、とにかくこのまま行ってみよう…という前向き姿勢?があるように思える……

 本音で言えば、ひらめいた瞬間に句点というよりも、「!」マークを付けて終わりにできるのがいいが、実際にはそんな具合にコトが片付くことはない。再考の時間に入っていく。

 再考は繰り返され、再々考され、さらに再々々考になっていったりして、そのまま思考の迷路に入っていったりもする。石橋を叩きすぎて石橋自体を壊してしまい、せっかくのチャンスを失うこともある。

 多くの人が言うように、世の中にはそういったケースが少なくない。しかし、実際のところはそうやって出てきた、つまり再考を繰り返して出てきたのがベストに近い結論なのだよ…と、世の中は指導している。

 話がずれてきた。

 日常というのは流れの中にある。日常の延長は一応無限だ。だから、日常は基本的に読点で構成されているようにも思えたりする。

 それほどむずかしく考えたり、話をねじらせたりする必要もなく、ちょっとコーヒータイム的に句点を打つ…… それくらいがいいのであろう。

 ボクにとって、こうして雑文を無作為に書き綴っているのも、ややこしい日常の中に句点を打っている合間である。

 ただそう言いながらも、この雑文集のほぼすべてが「……」という曖昧な終わり方をしているのはなぜか? それは余韻というやつ………

上高地に初めて泊まる

 40年ほど前から何度も足を踏み入れてきた上高地で、この夏初めて一泊した。

 家人と昨秋嫁いだ長女という妙な組み合わせだったが、その一ヶ月ほど前、突然決まったのだ。

 自分にとっての上高地初期時代、つまりマイカーで入ることができた頃はいつも日帰りだった。

 そして、その後山に入るようになる頃には、日帰りではなくなり、朝早く足早に通り過ぎていく場所であったり、また疲れ切って帰りのバス乗り場へと歩き過ぎていくだけの場所であったりした。

 ところで、超が付くほどの人気観光地となった上高地だが、何かの拍子にそこで泊まるということが知られると、すぐにあのホテルか?と聞かれる。お世辞めいた質問だと知りつつ、とんでもないと否定する。

 もちろん、上高地で一泊と言っても、河童橋の下や小梨平でツェルトにくるまって寝るわけではないのであって、あのホテルではないホテルに泊まった。

 一応、あのホテルも確認の対象になっていたのだが、夏山シーズン最盛期の土日、しかも一か月前に部屋が取れるわけがなかった…と、言い訳にしている……

 しかし、たまたま空き室と遭遇したホテルもよかった。さすがに上高地である。これを書くとすぐに分かってしまうだろうが、上高地の代名詞である某池のほとりに建つホテルだった。

 午前のうちに上高地入りした一日目は、河童橋から明神を経て徳沢まで歩き、帰り道は明神から右岸の道に変え、そのまままた戻ってきた。

 上高地は一応1500メートルほどの標高なのだから、少しは涼しいはずと思っていたが、今年の夏は上高地でも異常だった。

 ホテルでチェックインする時に、フロントでそのことを強調されたが、部屋に入った時の室温の凄さに驚いたほどだ。当然、山岳地では冷房などないのが当たり前だ。ただ、部屋にはしっかりと扇風機が置かれていた。

 だが、窓を開けていても一向に部屋は涼しくはならず、山岳地であることを意識させてくれたのは、夜も更けてからだった。

 梓川左岸の道を久しぶりに歩いた。木立の中を歩いているときは、暑さも少しは和らぐ。

 明神館の前までは思いの外速いペースで歩いた。

 途中の明神岳を見上げる川原で足を止め、強い日差しの中でお決まりのように顔を上げる。明神岳は正面から見上げると、ゴリラの顔のようなカタチをしている。ずっと何十年も思っていたことを、今更のようにして長女に話すと、今はすっかり山ウーマンになっている長女が頷いていた。

 明神館前のベンチで当たり前のように休憩した。

 単に上高地を歩いていた(今はトレッキングというが)だけの頃は、ここは休憩しなければならないという場所だった。

 しかし、さらに奥の本格的な山岳地帯に入っていくようになると、この場所も通り過ぎるだけになった。この次にある徳沢でも休憩せず、梓川沿いでは横尾でザックを一度下す程度で、そこからは例えば涸沢ぐらいであればノンストップで登った。

 今は本格的な山行は自重しているからそれどころではないが、単独行の頃の馬力はどこへ行ってしまったのだろう。いや、自覚とか諦めとかが足りないだけかも知れない。

 明神から徳沢への道にはサルたちが大勢出てきていた。非常に友好的にというか、まったく気兼ねすることもなく我々の前を歩いていたりした。同じ祖先をもつということに、サルたちの方が深い理解を持っているのかも知れない。

 生まれてまだ日の浅い子ザルが、母ザルにしっかり抱き着いている姿も数組見た。幼いサルの顔というか、特に目にはさわやかに惹きつけられるものを感じた。

 サルたちとの並行(と言ってもほとんど蛇行であったが)は、かなり続いた。外国人のトレッカーたちも興味深げに彼らを見ていた。

 別に不思議なことでもないが、徳沢は変わっていた。

 いや、そう見えただけなのかもしれない。記憶などはいい加減なものだが、しかし、やはり変わって見えた。

 徳沢ではカレーを食べることになっていた。長女が決めていたのだが、やはり山岳地の昼飯はカレーで文句ない。しかも、徳沢のカレーは今有名らしく、こちらも一度は食べてみたいと思っていた。

 かっこいい食堂の隅っこのテーブルに、カレーライスが三皿並ぶ。長女は当然生ビールのジョッキも置きたかったと思うが、こちらが帰路の足への影響を考え自重したために遠慮したみたいだった。

 その代わり? カレーの食後にアイスクリームを追加した。これも徳沢の人気メニューらしい。そう言えば、徳沢は昔から牧場だった場所だ。食事を終えたテーブルの上を、徳沢の木立ちを抜けてきた風が流れる。

 結局、ビールは河童橋まで戻ったあと、閉店間際の店の前でいただいた。当然、美味であった………

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 ずっと以前に、徳沢を歩きながら、こんなところまでどうやって牛たちを運んだのだろうと考えていたことがある。上高地の歴史に興味を持ち出した頃で、松本藩の材木を管理する役人たちや杣人たちの日常なども思い浮かべたりした。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人なども重要な想像世界の登場人物の一人だった。

 

 暑苦しくて眠れない山小屋の思い出は、この上高地から登った涸沢ヒュッテでの一夜である。

 それこそ、35年ほど前の初穂高山行だった。

 横尾の小屋の前で、母の握り飯を頬張りながらラーメンを作っていた時、小屋のアルバイトらしき青年が、二階の窓から梅雨が明けましたァと叫んだ。

 周辺にいた人たちがおおッと声を上げ、熱気が動いたように感じた。

 その日は、上高地を出発した時からとにかく暑いと感じていて、梅雨明けの予感は十分あった。

 そして、横尾から一気に涸沢まで登った後、小屋の予約を早々に済ませたが、その人の多さに少々気後れした。

 案の定、眠れなかった。11時半頃には窮屈な寝床から這い出し、ザックを持って廊下に出ていた。それからどうしていたかは覚えていない。その後テラスに出て、4時前にコーヒーを沸かしクラッカーで朝食にした。どうでもいいが、商品名でいうと「リッツ」だ。それを三枚だけ食べた。小屋の朝食には行かず、外のトイレだけ借りて歩き始めていた。

 夜中、着込んではいたせいもあってか、全く寒さを感じなかった。

 

 上高地の眠れない夜は、早朝4時半頃で終わりにした。窓辺に立つと、対岸の焼岳山頂付近に朝日が当たっている。見下ろすと、某池のほとりに人の姿も見える。

 すぐにカメラを手に外に出ることにした。なんと立地条件に恵まれたホテルだろうと今更ながらに思う。

  上高地に来るようになって40年ほど。この美しい光景は、見てみたいけども、どうしてもというわけではない…… といったいい加減さでやり過ごしてきた。

 しかし、実際にこの目で見てしまうと、そんないい加減だった自分を悔いた。初めて上高地に足を踏み入れた時の、梓川の美しさに圧倒された時の自分を思い出していた。

 

 日が昇り、上高地はまた暑くなった。

 大きなザックを担いだ長女と、小さなリュックを担ぐ家人が並んで歩いていく。その後ろ姿を見ながら、歳月の経過を思う。

 いつものことだが、今回もまた、近いうちにまた来ようと歩きながら考えていた。

 河童橋の周辺は相変わらずのにぎわいで、岳沢から穂高の稜線にかけては薄い雲がかかっている。河原に下りて、梓川の水に手を入れた。

 もう少し静かになったら、顔を出してやるよ…… そんな奥穂高のぼやきが聞こえる。

 いや、聞こえたような気がした………

 

自分なりの旅について…の2

 ひとつの旅が、その人の生き方を変えてしまったという話を聞くと、正直言って少しうらやましくなる。ボクにはそれほど激しい思いを残した旅はない。

 しかし、その分、数日だろうが日帰りだろうが、ちょっとした旅の中にでも、自分自身をいつも研ぎすませていたような確かな思いがある。

 山を登るということに固執し始める前だが、ボクは日本の山の聖地である信州の上高地へと頻繁に出かけている。ちょうど20代の真ん中あたりの頃だ。

 今あの衝動が何だったのかと振り返ってみても、どこか不思議な感じがしてはっきりとはしない。ただ上高地が書かれた多くの本を読み耽り、そして毎日、上高地へ出かけることを楽しみにしている自分がいた。自分が上高地を歩いていることをはっきりと想像できた。

 まだマイカーでも入れる期間があった頃、多い時で一ヶ月に4回ほど通っている。そして、早朝の河童橋あたりから明神、徳沢、横尾へと足を延ばし、上高地というひとつのエリアについてはかなり精通したニンゲンになっていた。

 当時も多くの人たちが上高地を訪れていたが、大正池や河童橋周辺を抜けてしまうと、あとは静かな散策ができた。ボク自身、まだヤマ屋スタイルでもなかったが、歩くことにはまったく問題を持っていなかった。

 ボクは上高地に、すでに藩政の時代から多くの杣人たちが入っていたという事実を知り、すごく心を動かされていた。

 たとえば、梓川の流れを底辺にして、岳沢からせり上がっていく穂高の稜線を、すでにその人たちはその時代に見ていたのだということが、何だかとてもすごいことのように思えていた。

 考えてみれば、海に面した村の人々が海にその恵みを求めるのと同じように、山に抱かれた村の人々は山へと入っていく。そんな当たり前のことが、この上高地でもなされていたというだけなのだが。

 しかし、ボクはこんなことも考えていた。自分たち現代人が現代の街などの風景を知りつつ見る上高地と、昔の杣人たちが閉ざされた山村の風景しか知らないで見た上高地の違いは何か。

 そんなことを考えていくと、昔の杣人たちへの興味はどんどんと膨らんでいった。この地で、どのようにして彼らの日常が組み立てられ、そして流れていったのか。

 旅は非日常を求めていくものだなどといった決まり文句があったが、ボクは自分自身の非日常よりも、かつてそこに住んでいたとか、暮らしていたとかといった昔の人たちの日常を考えるのが好きだった。もちろん、そのことが自分自身の非日常にも繋がっていたのだが。

 史実として知る部分と自分の想像をはたらかす部分とを重ね合わせていくと、上高地というひとつの地理的空間が、歴史的な世界へと広がっていくような気がしていた。

 特に上高地の深遠な美しさは、想像することの愉しみを倍増させた。

 《時空を超える》という言葉が、雄大で動かしがたい自然の中では生きているような気がした。

 ボクは梓川左岸の道を歩き、時折河原に下りて、岩の上にすわった。広い河原に出ると、目に見えるのはどの時代の風景なのか判らなくなった。

 自分はひょっとして、数百年前の上高地にタイムスリップしているのかも知れない。そして、今振り返ると、あの杣人たちが煙管を吹かしながら語り合う光景に出会えるのかも知れない。そんなことを身体中で感じたりした。

 特に梅雨の晴れ間や秋空の下で、鋭く冴えわたった清々しい風に吹かれた時などは、今自分の周囲にある空気全体が、現代のものではないような錯覚に陥った。

 (……実は、翌朝上高地入りする予定でいる)

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 ボクの旅は、いつもこのような感覚の中で成立していたような気がしている。

 好奇の目によって見据えられたものは、すぐに旅の対象となり、その周辺を知りたいという軽い願望を生んでいった。

 それは衝動というほどではなかったが、例えば風景や歴史や生活という文字、響きそのものに心を奪われ、さまざまにそれらを巡ったりした。そして、キーワードが変わると、それまでにも何度か訪れたことのある土地が違って見えてくる感覚も味わった。

 例えば、それまで漠然と見ていた道沿いの一本の木にも、かつての街道という視点で見ると大切な要素が見えてきた。そこに何らかの《ものがたり》が想像されたりし、そしてまた、道から眺める山里の風景にも、街道という言葉が生きていた時代の風を感じさせた。

 実はボクにはずっと前から、見ているだけでグッと胸が締め付けられるような、そんな風景の存在がある。

 それらは、ほとんどが民家の散在する山里で、背後に小高い山並みがあり、またはその山並みに囲まれ、そして、手前には深くえぐられた谷川が流れている。

 ボクは必ず川の対岸にいて、時折息をとめながら、じっとその風景を見つめる。風以外には動いているもののない風景なのだが、風が動いているのははっきりと見ている。

 そんな風景を思い浮かべると、それらのすべてがボクの旅の産物なのかと思う。そして、その反面で、ひょっとして、自分は自分の前世を旅の中で見ているのかも知れないゾ…などと、考えたりもするのである。

 今もそうしたものを求める小さな旅を続けている。たぶん、まだ当分は続くと予想しているのだ……… 

 

 ※古い文章に加筆した……

 

 

自分なりの旅について…の1

 旅というものを考える機会があって、自分なりに“自分の旅”について思いを巡らしていた。すると、自分の旅というのはどちらかと言えば地味で、当然今風でもなくて、人に勧めてもあまり乗ってこないものなのだということが改めて分かってきた。

 旅が好きだと言っても、恥ずかしながら海外経験は二回だけ。定番のような新婚旅行と、仕事の研修旅行だけだ。

 こんな状態なのであるから、所謂、旅は海外しかないというニンゲンたちと旅談義などをしていても何だか落ち着かなくなり、敢えてこちらからは話に入っていかないようにしてきた…… 実は周囲に、ボクのことを世界の観光地に行き慣れたニンゲンだと勘違いする人が数人いた。そういった何の根拠もない勘違いは、ボクにとってはある意味非常に迷惑であり、そこでまた余計な言い訳なんぞを求められたりするのが嫌だった。

 ボクはただセーヨーの都よりも、ニッポンの田舎の方が好きだったのだ。

 そんな中で、いつも旅のスタイルは大切にしていた。どんなところへ出かける時でも、できるだけ自分が求める旅のスタンスを基本において、主たる目的が仕事であろうと何であろうと、自分の中の旅というものに結び付けていた。

 その基本は、歩くことだった。そして、それはその土地の歴史などといった要素に直結することもあったが、土地そのものをただ漠然と見て歩くだけということでもあった。

 振り返ってみると、そのきっかけとなったのは、学生時代に上州のある山間の温泉場へ行った時、ふらふらと周辺を歩いたことだったように思う。まだ二十歳の頃で、しかもその時は大学の体育会の行事かなんかで行っていた記憶があり、旅情を求めるなんてことはない。しかし、漠然と歩いていながら、今まで全く知らなかった空気を感じた。

 晩春だったが、気が付くと土埃をかぶった雪がまだ残っていた。突き刺すような冷たい風が吹く朝に、元気に登校していく子供たちを見た。足元の雪解け水の激しい流れに身体を震わせながら、野菜を干す老婆の手にはめられた軍手に妙な温もりを感じた。

 そういうものたちが目に焼き付いていた。あれはいったい自分にとって何だったのか。

 その年の暮れだったろうか、年末のアルバイトを終えたあと、ボクは新宿から松本を経由して金沢に向かう帰省の計画をたて、その途中寄り道をして、木曽街道を歩こうと決めていた。島崎藤村を読み耽ったあとということもあり、木曽は憧れの土地でもあった。しかし、中途半端な年の暮れ、寒さと寂しさが身に沁みた旅だった。

 翌年から年末の帰省はこのルートにし、松本で三時間半ほどの時間を作って、まち歩きや好きな喫茶店での本読みに充てた。これはなかなかのリッチなひと時であった。そして、大糸線松本発金沢行き(糸魚川で新潟行きとに分かれる)の急行列車に揺られ、時折無人駅のホームで、長い停車時間が与えられるという出来事なども楽しみながらの上品極まりない旅であったのだ。

 大学卒業の春には京都・奈良へと出かけ、旅の締めくくりに柳生街道をカンペキに歩いた。一日がかりの山歩きといった感じだったが、最後に高台(峠)から夕暮れが近づく柳生の里を見下ろした時の胸の高まりは今も忘れていない。

 柳生の里ではすっかり日が落ち、奈良市内へ戻るバスを待つ間、地元のやさしい酒屋さんの店先で休ませてもらったのを覚えている。

 その四ヶ月後に出かけた同じ奈良の山辺の道は、しっかり二日がかりの歩き旅だった。

 入ったばかりの会社を三ヶ月ほどでやめ、ふらふらしていた頃で、気持ちとしては完全な解放状態とは言えなかった。しかし、のちに山へも頻繫に出かけるようになる親友Sとの最初の旅が山辺の道であり、その後のドタバタを予感させるに十分な愉しさに満ちていた。

 大きな古墳のある町で予約していた旅館。たしか道中には、他にユースホステルしかなく、そっちはいろいろ面倒だからと、その旅館に予約を入れておいた。

 歩き疲れて旅館に着くと、ボクたちには三つの部屋が与えられ、食事はここ、寛ぐのはここ、寝るのはここと案内された。

 ボクたちが行ったのは九月。宿帳が出され記帳しようとすると、ボクたちの前は六月の日付が記されていた。

 ゆっくりしようとクーラーのスイッチを入れると、白い埃とともにカッツンという音がし、クーラーはそのまま止まった。寛ぐ部屋は使用不可となり、食事する部屋へと移動。こちらのクーラーは問題なかった。

 トイレに行くと紙が置かれていないので当然もらいに行く。風呂は浴槽となる大きな桶が真ん中にドスンと置かれ、それ自体はもちろん、セメントの床もカラカラに乾いていた。もちろん湯は入っていない。どうすればよいかと聞きに行くと、自分で入れてくださいと言われた。ボクたちは当然浴室掃除もした……

 その反動もあってか、夕食時間は二人で異様に盛り上がった。その旅館は本業が仕出し屋さんで料理は質量ともに申し分なく、しばらくすると飲めや歌えとなり、床の間に置かれてあった太鼓と三味線までが持ち出された。Sが太鼓でボクが三味線を受け持ってのジャムセッション……ところが、乗ってきてトレモロ弾きをしたところで三味線の糸が切れてしまった。なぜか異様におかしく、二人してただ笑い転げていた。

 そのうち、立ち上がろうとして浴衣の裾を踏みつけると、下半分が切れ落ちてしまうなど、とにかく何が何だか分からなくなったが、それでもひたすら笑っていた。その後、隣の寝る部屋へとなだれ込んだのだろうが覚えていない……

 その後、再就職も決まって日々に落ち着きが生まれると、ボクの旅も少しずつ色を変えていった。歴史系からどんどん自然系に走っていった。しかし、道中の街道探訪や土地歩きなども欠かさず、旅に出ているという気持ちのあり方は今でも変わっていない。ディスにーランドへ行くというのを旅だとは思わないが、その道中は十分に旅にできる。そんなふうに考えられるようにもなったのである………

 

※古い文章に少しだけ加筆した……

 

 

朽木街道を行く

 久しぶりに京都・大原の里をゆっくり歩き、翌日も奥嵯峨の方まで足を延ばして来よう…という旅に出た。

 と言っても、その上り下りの道中は、30年ぶりぐらいの「朽木(くつき)街道」であって、どちらかと言えば、その道中の方 に重きがあったと言ってもいいかも知れない。もちろん、そのようなことは助手席の家人にも言っておいた……

 「朽木街道」を知らない人でも、「鯖街道」と言えば知っているにちがいない。かつて、越前から京へと鯖が運ばれた道だ。

 最初に朽木街道のことを知ったのは、今から40年以上前である。この雑文集にも再々出てくる司馬遼太郎の『街道をゆく』でだ。この街道をめぐる紀行は、19711月から週刊朝日で連載が始まったが、その3・4回目が朽木街道の話だったと思う。

 当然、その時をリアルタイムに知っているわけはなく、その後に文庫本の第1号が出てから知ったのである。

 そして、当初この街道への関心は、京都大原に抜けられるという話から始まった。大原や比叡山の方に、金沢から日帰りができるというのが魅力だった。

 京都へつながるというのは、かつて織田信長が浅井・朝倉軍に敗れ、家来たちを置いて逃げ走ったという話で有名?であり、信長嫌いのボクとしては、その意味でも痛快な道であった。司馬遼太郎もこの話を詳しく書いている。

 ボクはその話よりも、深い谷の道とか、街道らしい美しい水の流れがあるということに惹かれていた。

 当時(40年前)の道は今のように整備されていなかった。観光道路ではなかった。大型車とすれ違う時などは少し怖い思いをしたし、もちろん道の駅などもあるはずがない。

 ただ、静かで、季節感にあふれた道だった。

 そんな道(朽木街道)を何度も走った。これも『街道をゆく』からの影響だが、大原から鞍馬街道へ抜け、あちこちをめぐりながら、最後は嵐山に宿をとったこともあった。鞍馬への途中には杉木立の中の細い道があり、林業の人たちにご迷惑をかけまいと、ひたすらアクセルを踏み続けていたのを覚えている。そう言えば、あの時も今のように新緑が美しい季節だった。

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 金沢から高速をつなぎ、若狭街道と名付けられている道を走ると、滋賀県に入る前、つまりここはまだ福井県なんだなと思うあたりに熊川宿がある。

 先はまだあるからと、宿場のはずれにある道の駅でわずかな休憩をとるのみにする。

 ご高齢ライダーたちが、こうしないとカッコが付かないのだよ…と言わんばかりに煙草を口にくわえている。その集団を横目にトイレへと行かねばならない。

 こういう時よく使うギャグが、タバコ吸ってもいいけど、吐いちゃダメだよというセリフだ。特に、吸っていいすか?と問われた時などには、よく受ける………

 まだ昼には時間がたっぷりある。その日は気温が30度を超えるらしいと聞いていたが、このあたりもすでに陽射しが強く新緑が眩しかった。

 熊川宿を過ぎるとすぐに滋賀県に入り、若狭街道から分岐していよいよ朽木街道へと入っていく。

 ところで、一般の地図上には朽木街道という表記はなかったような気がする。『街道をゆく』の中にあった地図には、明確に記されているが、その堂々とした表記がいい感じでよかった。

 クルマに加えてオートバイが多いのは、この道の気持ちのよさのせいだろうと思うが、京都の人たちが海に出るのに便利な道であることも想像できる。奈良はもちろん、京都の中心部も海とは縁遠いイメージがあって、高貴な歴史文化には海とつながる道が必要なのだ…と、勝手に思ったりした。

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 朽木の中心部であると思われる「市場」という町の中でクルマを止めた。

 朽木の杣人(木こり)たちが四方の山々からこの市場へと降りてくる…と、司馬遼太郎が書いていたように、ここには現在の高島市の支所や学校、商店などが集まっている。道の駅もあった。

 その古い家々が並ぶ光景は実に不思議な世界で、百貨店と名付けられたユニークな外観のお店や旧商家、郵便局なども目を引き何度となくカメラを構えさせる。家人もクルマを降り、この古い町並みを楽しんでいた。

 大原までの道はここからさらに山深くなっていく感じで、それにしては道がいいなあと思っていると、見下ろす集落の中に延びている狭い道が、かつて自分が走っていた道なんだろうと想像させた。

 「花折」という懐かしい地名が出てくるのは、その名のついたトンネルに入る時だ。琵琶湖大橋まで通じているという道と分かれるのが「途中」。この地名も見覚えがあり懐かしい。

 峠を過ぎて道は当然下りになり、しばらく行くと美しい白い花たちに迎えられる。林間のゆるやかなカーブが続く、快適な道が待っていた。

 もう京都府にいる。

 それからまたしばらく行くと、果てしなく青い空の下に、大原の里が広がっていた……… 

 ※続編『朽木街道を帰る』『朽木街道で大原へ』へと続く予定……

 

 

ジャズは読書の友なのである

 街なかの珈琲屋さんなどで、独り本を読む人がいたりすると何となく嬉しくなる。しかも、それが若者だったりすると、なお嬉しい。

 昔は当たり前のような光景だったと思うが、今はスマートホンを覗いたりするのが圧倒的多数派になっていて、恥ずかしながら自分も手持ちのものが何もない時は、それに頼ったりすることがたまにある。

 本を読むためだけに珈琲屋さんに入るというのは、学生時代であれば普通で、たとえば紀伊國屋さんで何か買った後には、裏手のジャズの店「D」などに直行した。

 そのまま中央線で吉祥寺のジャズの店「F」へということもあったが、後者の方は書店直行というより、いつでも文庫本一冊ポケットに突っ込んで行くというスタイルだった。

 金沢でも片町のうつのみやさんで本を買ったりすると、すぐ近くのジャズの店「Y」へと行くのが、正しい書店退店後の習慣だった。

 「Y」は言うまでもなく、「YORK(ヨーク)」である。マスター奥井氏と買ってきた本について語るのも、楽しいひとときであった。そう言えば、うつのみやさんもYORKも、片町から今は香林坊に移っている。

 ジャズは読書の偉大なる、いやそんな大げさではなく、かけがいのない友だった。

 今から思えば、やはりジャズという音楽のもつ多様な感性の集合体みたいな要素が、いかに日々の重要なスパイスになっていたかが分かる。

 特に学生時代の濫読状況とジャズを聴く時間というのは絶妙なマッチングだったと思う。

 ジャズの店に入って、2~3時間。コーヒーカップはとっくに下げられているが、LPレコードで言えば、片面で4~6枚分ぐらいは聴いていたことになる。

 聴き流しているといった感じでもあるが、あの空気感があるからこそ、文章読みも進んだに違いない………

 今年から、ある小さな協会の機関誌で巻頭エッセイみたいなものを書いているが、最初の号では年の初めの一冊の大切さみたいなことを短く綴った。

 その年の一冊目がその年の読書事情を左右するという、自分のことを書いた小文だ。

 その中で最近の読書について、仕事のためが多くなり、文章を読むという素朴な楽しみが薄れてきた……といったことを書いている。

 著者(というよりも作者とか書き手という方が好きだが)の表現の仕方が、本来文章そのものを面白くし、読むことの楽しみを創り出しているという思いがあるからだ。

 そうした情緒的に響いてこない文章は、正直言って読み甲斐がない。

 ジャズと一緒に追っていた文章が面白かったのは、そういう感性が瑞々しく、どんどん磨かれていたからなのだろう。

 最近、妙な読み方というか、ちょっとハマっているのが、図書館で短編集を借りてくることだ。

 読みだして、面白いなあと思う作品だけ読む。そして、飽きてくるとすぐに図書館へ行き、返却してそのまままた新しいものを借りてくる。

 すでに一ヶ月で、五冊以上は借りてきた。あまりいい傾向だとは思わないが、何となく日々の潤いをそうした読書に求めているような気もする。

 と言っても、きちんと書店買いもしており、やはりここぞというやつは自分のモノにしておく。

 そういう類のモノは、最近 YouTube で流れるジャズと一緒に読んだりするのである………

小さな山行の思い出

「あるトレッキングにて」

あまりにも雄大で そして美しすぎた世界を前に

その人はどうしても涙をとめられないでいた

深く濃い青の空 雪と氷におおわれた緩やかな峪(たに)

雄大さも美しさも すべてが信じられないまま

ここまでの道を歩いてきたのだろう

そして今 この場所に自分がいるという事実に

その人の心は 大きく動かされていたに違いなかった

すべてを映しこんだサングラスの縁から涙が流れ落ちる

こんなところに自分がいるなんて と言う

ここへ来ることを許してくれた者たちすべてに

感謝しなければ とも言う そしてこの世界のすべてを

いつか必ず その者たちにも見せてあげたい……

涙声のまま その人は話し出した

日常は すべてにおいて自分を敗者にし哀れんだ

それは現実という意味では仕方のないことだった しかし

自分自身もそれらによって狭く そして

息を殺して生きていくことに馴らされていく

そんなふうに生きていくしか 道はないのだと思い込んでいく

この空の青さも この雪の白さも そしてすべての雄大さも

それらは知る術もなければ知る必要もなかった しかし

まちがいなく来てよかったと思った

そんな単純な表現では追い付かないくらいに心が動いた

こんな自分でも さも当たり前のように 大自然は

迎えてくれるんだという嬉しさがカラダ中から湧き上がってきた

何千年 何万年と続いてきたこの場所の時の流れの中に

ちっぽけな自分の存在がだぶっていく そしてその人は

視線の方向を変えた もう一度この場所へ来るために

自分らしくやっていこうと思う と言った

サングラスの奥の目は きっと笑っていたに違いなかった

 

 この小文は、2000115日発行の「ヒトビト」第8号に掲載したものだ。北アルプスの某山へ数人の山仲間と一緒に登った時、連れの中に初めての山という人がいて、その人の言動をもとに書いた。いろいろとつらい時期にいたらしい人で、突然の涙を見たときは正直びっくりした。山はその人に再び生きる勇気を与えた。犠牲にしてきた家族が行って来たらいいと送り出してくれたという。あの時のことを思うと、こちらもなんだか切なくなる。 

 山にはいくつもの思い出があるが、今でもときどき振り返る話だ………

 

三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も徐々に不要な人物が出てくるほど続いている。

 今回は生粋の勝沼人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空…… 納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

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 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

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 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

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 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

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 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

 

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

冷やしビールと 冷やしたビールの違いについて

 

 メールで送った文章の中に脱字がありましたよ…と言われた。らしくないですね…とも言われた。

 たしかにこうした形式が多くなってから、文章が雑になっていると感じたりする昨今である。印刷されるものの時はもっと丁寧だったような気がする。

 偉そうで申し訳ないが、それは読み返しの度合いなどでもはっきり違っているし、出来上がってからでも直すことが簡単にできる分、安直な対応に終始しているのは間違いない。

 ところで、その脱字とは「冷やしビール」という表現であった。これはボクにとって何ら問題のない表現である。

 仕事用のメールに使ったもので、大雪時の“雪どかし”も、冷たいビールを楽しみにしてやれば少しは励みになるでしょう…という意味を込めていた。

 多分、受信者は「冷やしビール」ではなく「冷やしたビール」だと言いたかったのであろう。たしかに言われることは分かるのだが、ここはやはり前者にするのがボクのやり方なので………

 それにしても、あらためて言われると実に面倒臭い。この微妙な感覚についてはなかなか説明が出来ないのである。だいたい説明をしなければならないのかという観点からしても微妙なのだが、一度こうして疑問が投げかけられると右往左往してしまう始末だ。

 しかも、そういう人に限ってどれだけ説明しても絶対に分かってくれない。いや、分からないというか、多分そうした感覚そのものを体内に宿していないに違いない。

 だが、この感覚を何とかして説明しようとしている。厄介なことになったなあと思いながら、どうもこれでは気が済まないといった心境にある。もちろん相手は自分自身だ。

 

 さて、ボクの中での「冷やしビール」というのは、「冷やしトマト」とか「冷やしきゅうり」などと同じだ。表現として一般的かどうか分からないが、農家の前に置かれたり、山小屋や観光地の店先などで売られている果物や野菜たちの部類である。

 器に湧水を溜め、その中で冷やされている。冷たいきゅうりなどは、割り箸のような棒に刺して売られていて、特に真夏などは爽やかで美味い。山の帰り、上高地の明神館で喰らいついた「冷やし青りんご」(これは勝手に命名)も格別であった。

 ボクの中での「冷やしビール」は同じ仲間なのだ。つまり、冷蔵庫の中できちんと並べられ冷やされたビールではなく、無造作に、しかも科学のチカラなど借りずに自然の状況で冷たくなったビールのことを言う………?

 そして、この場合のビールは缶ビールだ。ただ、先ほどの雪どかしの後のビールという点では、どうしてもこういう経緯で冷やされたビールでなければならないのかというと、決してそうでもない。冷たければ何でもいいことだけはたしかだ。

 ただ強いて言えば、雪どかしをしながら山スキーの時のように缶ビールを雪の中に埋めておき、一作業終わった段階で取り出して飲む……といったカタチもいいかなと思ったりする。

 なぜ、そこまで表現にこだわるかなのだが、どうもボクの表現手法(そんな大げさなもんでもないが)の中には、「冷やしたビール」ではなく「冷やしビール」といった具合に、一括名詞型に丸め込んでしまうというクセ?みたいなのがあって、それが自分の好きな表現方法(そんな大げさなもんでもないが)として確立されてしまっているように思える。

 こういう話をすると、必ずまた突っ込みがあって、「冷やし中華」と一緒ですね?と言われそうである。

 しかし、それは違う。どこが違うかというと、「冷やし中華」は決して「冷やした中華」ではないということであり、本来「冷やし中華」という呼び名は一商品として個別に作られたものである。そもそも「中華」では大雑把すぎる。その点、「冷やしビール」は正真正銘「冷やしたビール」であり、ビールという具体的な飲み物をさしている点で「冷やし中華」のようないい加減さはない。このことを混同してはいけない……と思うのである?

 話がややこしくなっていく。このあたりで終わりにしておいた方が逃げ切れそうなのであるが、どうも説明し切れていないな…といったもどかしさもある。

 そういうわけで、とにかく「冷やしビール」的な響きをずっと大事にしてきた。本来ならば、どっちでもいいと言ってやり過ごすが、もう少し時間をかけて考えてみようかと思う。

 ただ、といいながらも、このコーナーが『風にゆれるビールの泡のような雑文集』であるという点も踏まえ(?)、まあそこまでいかなくてもいいのではないか…などとも考えるのである………

 

湯けむりの中で口笛を吹く

 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

この正月の日常……

 過ぎてしまえば、やはり慌ただしく時間は流れていたのだと思う。正月とは、だいたいそういうものなのかも知れない。

 元旦の午前中から仕事関係の会合に出かけ、午後の遅い時間に戻り、堅苦しい洋服を脱いで、それから正月らしくあろう…と、酒を飲み始める。

 だが、長続きはしない。酔いを追うようにしてやってきた眠気が、酔いを飲み込んで、目を開けているために必要なエネルギーを抜き取っていく。

 その間、家人は翌日迎える娘たち夫婦への料理づくりでずっとキッチンに居た。

 そして、その翌日。昼過ぎ着の電車で大阪からやって来る次女夫婦を、K駅へと迎えに行った。

 駅周辺は、初売りで大混雑。ちょっと離れた駐車場を利用して、自分の好判断に満足した。

 家に戻ると、地元K市に住む長女夫婦もやって来て、家の中が久しぶりににぎやかになった。

 この二組の夫婦は、去年の春と晩秋に出来たばかりで、俗に言う新婚である。

 ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒… みなよく飲む。さらに、テレビでは箱根駅伝と大学ラグビー準決勝。

 飲み食いとお喋りの間に、それぞれ母校の勝利のための声援が入り、当方は母校ラグビー部の久しぶりの決勝進出に酒の味が急上昇し、当然さらに進んだ……

 そして、気が付くと、三日目の朝であった。

 娘たち夫婦はその日の午後、それぞれの住処へと帰って行った。

 おまけの話は、宴の最中に大学ラグビーの決勝戦に行くことが決まったことである。最近はチケット購入も電車の予約も簡単になった。一月七日、朝の新幹線で東京へ。

 家人と超アクティブ派の長女夫婦が同行し、何年ぶりかの秩父宮ラグビー場に胸が躍った。

 ゲームは一点差の敗戦だったが、セーターの上から紫紺と白のTシャツを着て、久しぶりに校歌を熱唱し、ひたすら大声で叫び、雄叫びも一回。そして、本気のガッツポーズを何回もした。

 四人とも手のひらが充血していた。

 大好きなラグビーの面白さをあらためて認識した一日であり、その夜の丸の内における打ち上げ会も観戦談で盛り上がり、最終の新幹線で帰ってきた。

 正直、これが今年の正月のハイライトだったみたいだ。

 慌ただしく時間は流れていたのは間違いないが、やはり正月とはそういうものでなければならないと痛感したのである……

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

ノーサイドの後も、ゲームの余韻に……

娘たちを再び送り出す

 今年の春のはじめと冬のはじめに、娘たち二人が結婚した。

 春のはじめは次女で、冬のはじめは長女だった。

 次女は京都の大学を出て、そのまま関西で就職し、大阪の人となった。長女も京都の大学を出たが、こちらに戻って就職し金沢の人になっている。

 同じ年に二人の娘を嫁に出すのは大変だったろうと言われるが、実感としてはそれほど大変だったと感じていない。

 そのわけの一つに、仕事のことできりきり舞いしていたということもあるが、それよりもなんとなくコトが過ぎていったという実感の方が強い。

 淋しさとかもそれほどではない。

 そう言うと必ず、やせ我慢して…などと突っ込みをかける人たちがいたが、これはかなりの本音だ。むしろ、これからの自分自身に残された時間の乏しさがより明白になり、強く感じるようになったことの方が切ない。

 それは時に強烈な焦燥感を伴って迫ってきたりもする。

 母親の方はお金のことも含め大変だったろうと思う。淋しさも大きかったはずだ。

 

 娘たちは二つ違いで、大学在学は二年重なった。

 二人のうち一人だけがいた時期も合わせれば六年京都と縁があったわけだ。いや、次女が卒業後も京都が赴任地だったことがあり、なんだかんだで京都は今も我が家にとって大切な街になっている。

 二人の娘を京都へ送り出すという父親の心境というのは、実に微妙だった。

 最初は特に京都にこだわっていたわけではない。

 しかし、長女が京都の大学に合格し、そこへ行かせてほしいと言ってきた時、こちらの気持ちとしてはほぼそれで固まっていたと言っていい。

 次女が受験でややもたついていた時も、京都で決めようと励ました。

 いろいろあったが、二人とも京都を楽しんだようだし、何よりも京都でたくさんの友人を得たことがよかったと思う。

 親としても、おかげで京都への旅を何回も重ね、一応名所的なところはほとんど足を運んだ。夏休みなどは、京都で観光した後、家族四人で家路につくという旅程が新鮮だった。  

 

 今から思えば、結婚する娘たちを送り出す時よりも、大学生活を始める京都へと娘たちを送り出す時の方が(正直)淋しかった。

 引っ越しは早朝にクルマで出発し、長女の時は、母親を残し独りだけ先に帰らなければならず、気持ちを抑えるのに苦労しながら夜の高速を飛ばしていた記憶がある。

 次女の時は、淋しさに涙する母親の横顔を心配しながらの帰路だった。多くの親たちが経験したことだろうが、どちらにしても、実に切ない時だった。 

 結婚はしたが、娘たちはいなくなったというわけではない。そして、自分もまだ生きていかなくてはならない。生きていくというよりも、自分らしくやっていきたいと思う。

 ……… この文章を走り書きしているボクの前で、若いカップルが実に楽しそうに語り合っている。

 特に女の子の方は、明るく爽やかに笑顔を振りまいている。バカでかい声でゲラゲラ笑っているのでなく上品である。

 だからどうなのだということではないが、日々に少しでも潤い…なのだろう。

 外では雪が舞いはじめた。なんだか、また切なくなってきて、危ないのである………

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

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 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

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 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

奥能登・珠洲でやってよかった

 

 奥能登・珠洲を舞台にした「奥能登国際芸術祭2017」。

 今も心に残る、ひとつのメッセージがある。

 旧飯田駅のホームに停められた貨物車両の中。

 うす暗い空間の壁いっぱいに埋め尽くされた言葉たち。

 どれもみな、力強く、あたたかく、やさしい。

    その中に…… 「また来ますね」。

 思わず足と、息が止まった。心が震えてきた。

 手書きの文字が踊っている。

 これを書き残していった人のことなどを考えた。

 そして、しばらく見つめ……、思った。

 やっぱり奥能登の、この珠洲でやってよかったんだと。

 明日が最終日という、切なさがいっぱいに詰まった午後。

 誰もが、その切なさと淋しさを追い払おうとしている。

 見馴れた珠洲の風景が、今までとは違う風に揺れているように見えた……

 

 *これもよかった……

昼から夕方にかけての山村谷歩き

 

 山村歩きをしながら、必ず考えてしまうのが「シャンソン」のことである。

 どうでもいいようなダジャレなのだが、昔流行ったギャグである「新春シャンソン・ショー」をもじって、「山村シャンソン・ショー」とアタマの中で呟いている。

 アタマの中だから、結構派手に両手を広げショーの司会者ぶった言い方もしたりする。客席からの拍手なども聞こえてきて、アタマの中はかなり盛り上がるのだ。

 しかし…、実際の山村はいつも静まり返っている。

 鳥の鳴き声がたまに聞こえたり、もっとたまにクルマのエンジン音が遠くに聞こえたりするくらいだ。

 しっかりと、それなりの気合を入れて山村歩きを楽しむのは三ヶ月ぶりだろうか。

 地域的には二度目で、富山県の山田村あたりだろうと、いい加減に位置付けている。ちょうど一年前ほど前、もう少し秋が深まっていたような時季に初めてこの辺りを訪れた。

 その時のことは実は書いていない。とても感動的だったのだが、なぜか書く気にならず、結局書こうとすらしなかった。

 とても感動したから、気力が湧いてこないと書けないことがある。このあたりは、いくら雑文と言えども情けないくらいに心が折れ、書き切れなかったことを悔やむのである。

 

 今回はやや遅い時間の出発だった。

 前回は最初からクルマで少し登り、それから深い谷に下りて、視線の先に浮いているような水田(稲刈りは終わっていた)を見ながら、畦の上で「握り飯」と「いなり寿司」(双方ともコンビニ)を食するという贅沢なランチタイムだったが、今回は道路脇のちょっと歩道が膨らんだようなスペースにクルマを置き、同じものを慌ただしく呑み込んでいた。

 歩き始めたのはちょうど昼頃だったろうか。

 相変わらず、ほとんど先を見越していない山村歩きだ。いつでも引き返す心の準備は出来ている。

 登り口からすぐに急な道になったが、民家が道沿いに数軒並んでいる。

 白山麓の白峰にあるように、このあたりの民家にも屋号が付けられている。地元の文化を愛する人たちが住んでいるのだろうと推測できる。少し奥まったところの民家の庭では、十人ほどの人たちが集まって、何らかの会合が開かれてもいた。

 いきなりの坂道を、まだ調子の出ない足取りで登った。

 本格的な山行から遠ざかること数年。もう足元はトレッキングシューズばかりとなり、生涯四足目?のまだ新しい登山用ブーツは、部屋の中でずっと眠っている。

 かなり以前、太郎平小屋までの道で足に馴染んでいた靴(高かった)の底がはがれ、翌朝、太郎の小屋から薬師沢へ向かう際に、小屋の五十嶋マスターのゴム長靴を借りていったことがある。軽かったが、やはり石だらけの道では足の裏が痛かった。

 結局、帰路、登山靴はテーピングによってほとんど白一色になったまま、登山口の折立まで辛うじて持ったが、手入れがされていないといくら高価な靴でもダメなのだ…ということを、その時思い知らされた。マスターの長靴を一日履かせてもらったという喜びとともに、どこか虚しい記憶でもある。

 そういうことを思い出しながらのスタートだった。

 畑が過ぎたあたりからの道は、しっかりと整備された林道のイメージとなった。畑の中にトランジスターラジオがまるで巣箱のようにしてカッコよく置かれていた。クマ除けだと思うが、農作業しながらラジオを楽しむというセンスの良さみたいなものも感じられて、こちらもスマホに納めてある音楽を鳴らした。

 もちろんイヤホンなどは使わない。ズボンの後ろポケットに差し込んで、ここはやはりいつものベイシー・オーケストラで、クマを近づけないようにと配慮?した。

 木立に挟まれながらまっすぐに坂道が延び、その後左の方へと折れていく。天気はとてもよいというわけではないが、十分に汗をかかせてくれそうだ。

 いつも思う。こういう場所を歩いている理由を聞かれたら、なんて答えようかと。

 一応、カメラをぶら下げているから写真家とか、研究家とか、そうした類のニンゲンだと思ってくれるかもしれない…。そんなことを考えているのである。

 歩き始めから見れば、かなり登ったかなと思えるほどの道を歩いていた。

 林の中にぽつんと畑があったりする。何か観光的に造られたのではないかと思えるバンガローのような小さな建物もあったりする。

 どちらにしても、いつものように静かな歩きだ。スイングしまくるベイシー・オーケストラはすでに消してある。クマには遭いたくないが、静けさもやはり大事なのである。

  三十分ほど来たところで道が分岐した。

 一方は高い方へと延びていたが、谷に下る方へと向かう。なんとなく上の道は予測できた。これを行ってしまうと、今日の帰りは相当遅くなるかもしれない、そう判断した。それとずっと先には前回歩いた道が繋がっているはずだった。一年前、道がなくなるところまで登ったことを思い出した。

 それを理由にして、ゆっくりと下ってゆく道をたどった。正解だったのは、その先に美しい森があったことだ。

 下って行くと、奥にポツンと一軒だけが立つ民家を見上げながらの明るい道に出た。左手は、急な傾斜となって下っている。真下には鳥居が見える。栗の木があるのは、民家の方が植えたものだろう。

 グッと下って、水田の道を歩き、さらにしばらくして森に入って行く道をたどる。

 森と言っても、歩いて行く道はしっかりと舗装されている。ただ、地元の農家の人たちが通るだけの道だろうから、それらしく暗くて、通り過ぎてゆくクルマなどない。路上は落ち葉でいっぱいだ。

 一段と静まり返る森の中で、美しい緑色の何かが映えていた。よく見ると、切り株の上に生えた苔の緑だった。

 道から森の中へと足を踏み入れ、しばらく枯れ草の感触を味わう。湿った空気が一気にカラダ全体を包み込むような、そんな感じだ。汗ばんでいたのが、少し涼しくなった。あたりも静まり返り、息を殺すように足を進めては立ち止まる。

 愉しい森歩きはしばらくして終わった。

 そして、森を抜けると、のどかな風景が広がった。

 それもまた、見事だったのだ。

 蕎麦の花が咲いている。奥行きの深い谷あいに広々とした空間があり、思わず深呼吸をしてしまうくらいの正しいのどかさだ。

 ぽつんと人家らしきものがあったりするが、実際に人が住んでいるのかは分からない。農作業の休憩所を兼ねた別荘みたいな存在なのかもしれない。

 気持ちのいい開放感に浸りながら、のんびりとした気分で下ってゆく。相変らず人影は全くない。

 人家が見える。だから山村であり、山里なのだとアタマの中で呟いている。

 こうしたことが山村歩きの楽しみだ。本格的な山の世界から遠のいたあと、こうした楽しみに救いを求めたようだが、本来は街道歩きのように、こうしたスタイルも嫌いではなかったのだ。むしろ好きでもあったわけだ。最近テレビでよく見る“ロングトレイル”なるものへの興味も、こういうことの延長上にあるのだろうと、自分で思っている。

 しかし、日常しか見ていない人は、こういうボクの姿を見たらなんて言うだろうか?

 いや、待て…、家族ですらボクがこんな場所でうつつを抜かしていることなど想像もしていないだろう。

 かつて、岡田喜秋氏の本を読んでほくそ笑んだ記憶がよみがえってきた。

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 下って、さらに下って、先が分からないような谷の中で“単独”を楽しむ。

 “孤独”ではない。“単独”なのである。

 相変わらず、イノシシたちの行儀の悪さをいたる所で見た。しかし、この山村に住む誰かが植えたのであろう素朴な花々が、そんな傷跡など構うことなしに咲いている。

 もう道は下るばっかりになっていった。少し外れて、道草をする余裕も出てきた。

 ふと蕎麦の花が咲き広がる平地を見つけたりする。木々の隙間に、傾斜を登る細い道が見えたりもする。すでに、二時間半ほど歩き、さらにまた下った。

 もう一度幹線道路に戻って、また新しい道を探すのもいい。一瞬そう思ったが、今から登り返す元気はなかった………

 

 

 

 

 

 

 

蕎麦畑のそばにて


 蕎麦の花が咲き広がる風景というのは、山村にひっそりと存在するものだと思っていた。

 そして先日、富山の南砺市で出合った風景によって、その思いは変わった。

 その蕎麦畑は、とても新鮮だった。単なるボクのせまい見識の中でのことだったのかも知れないが、その爽やかに広がった風景は、まるで昔話の世界のように感じた。

 普通の道をクルマで走ってきた。そして、なんとなくアタマの中に予感が来た次の瞬間、周囲が蕎麦の花だらけになった。

 人家もあり、神社もあり、当然その鳥居もあり、おまけに青空があって、水の流れもあった。

 蕎麦の花にこれほど惹かれたのは初めてだった。

 すぐに細い脇道へとハンドルを切り、しばらくしてエンジンを切った。カメラを持って来ていてよかったと心の底から(と言うと、ちょっと大げさだが)思った。

 辺りをうろつきながら、何枚も写真を撮る。通り過ぎていくクルマの人たちが、不思議そうに見ていたりするのが分かる。

 しかし、こっちはその人たちの視線に構ってはいられない。

 時間にすると、二十分ほどいただけだろうか。

 蕎麦の花から、「ざるそば」や「もりそば」、ましてや「おろしそば」などを想像することはできない。まったく別モノだ。

 花は「蕎麦」という漢字で表現する方がよくて、食べるときは「そば」とひらがながいい。

 恥かしながら(と言うべきか?)、ボクと蕎麦との出合は、小田急沿線の駅にあった立ち食いの『箱根そば』であった。

 ただ、それは名称としての「そば」との出合であり、実際に食べていたのは「うどん」だった。一杯が百数十円の「たぬきうどん」が定番メニューだったのである。

 カネがなくなると、一日三食「たぬきうどん」だったこともある。

 富山のブラックラーメンの上をいくような濃い汁が、セーシュンの味だった。

 店員は無造作な仕草で、天かすをどっさりとうどんの上にかけてくれた。これもまたセーシュンの味であり、うどんと一緒に口の中で混ざり合った時の満ち足りた瞬間は、セーシュンの味の絶妙なインタープレイ体験(?)だったのである。

 正真正銘の「そば」との出合はいつだったのだろうか?

 たぶん、大学を卒業して社会人になり、金沢のそば屋さんで食べた「にしんそば」が最初だっただろうと思う。

 人生のナビゲーターの一人である、ヨーク(金沢ジャズの老舗)の亡き奥井進さんと、金沢のそば屋と言えば的存在であった『砂場』で食べたのである。

 どういう状況でそうなったかは忘れたが、ヨークがまだ片町にあった頃の遅い昼飯だったか…?

 奥井さんが店員に「にしんそば」と言った時、ボクも同じく…と言った。正直、本当は「いなりそば」あたりにしたかったはずだが、あの頃は奥井さんに追随する気持ちが強く、これも人生経験みたいな感じで注文したのだった。

 しかし、「そば」はボクにとって、その後しばらく強く望むような食べ物ではなかった。

 「そば」好きになったのは、いつの頃からか分からない。

 

 食材に恵まれなかった山あいの人たちが蕎麦を作っていたという話も、二十代の中頃、信州へ頻繫に出かけていた頃に知った。

 あの頃食べていたそばは、今ほど美味くはなかったような気がするが、単なる味音痴の的外れな話かもしれない。

 今は、あたたかい「いなりそば」か、冷たい「おろしそば」が好きである。ただ、そのことと蕎麦の花の風景とは特に何ら関係はない………

 

晩夏っぽい初秋の白川郷雑歩

 

 思い立ったように、家人と白川郷へと向かう。

 若い頃の思い立ったという状況には、ときどきクルマを走らせてから咄嗟に決めるということがあったが、齢を食うと、そんなことはほとんどない。

 今回は、なんとなくアタマの中でどこへ行こうかと迷いつつ、前夜のうちにほぼ決めていた。ただ、なかなか踏ん切りがつかず、一応朝決めたみたいな状況になったために、“思い立ったように”と書いたまでである。

 そういうことはどうでもよくて、久しぶりの白川郷は、まずとにかく暑かった。

 木陰も気持ちよかったが、歩いている途中で見つけた休憩所になった旧民家の畳の間も気持ちよくて、横になっていると、そのまま浅い昼寝状態に落ちていった。

 最初は我々だけだった。しかし、我々の気持ちよさそうな姿を見つけた往来の観光客たちは、当然のように、しかも怒涛の如くなだれ込んで来て(ややオーバーだが)、しばらくすると、かなりの混み具合になっていたのだ。

 さすがに世界遺産・白川郷なのである。

 今回も金沢から福光へと抜け、城端から五箇山へと山越えし、岐阜県に入ったり富山県に戻ったりを繰り返した。途中、五箇山の道の駅「ささら館」で昼飯を食べた。

 ささら館の店では久しぶりに岩魚のにぎり寿しを食べたのだが、早めに入ったおかげで、ゆとりのある昼食タイムになった。あとからあとからと客が入って来て、一時ほどではないにしろ、相変わらず高い人気であることがうかがえる。

 初めて来たのは、NHKの人気番組で紹介された後だった。あまりの客の多さに、店員さんたち自身が怯えているように見えたほどだった。

 白川郷に着いても、特に焦って動くほどでもなく、駐車場の奥の方にあったスペースにクルマを置いてゆっくりと歩きだす。

 庄川にかかる長い吊り橋には相変わらずすごい人が歩いている。真ん中が下がって見えるから、人の多さに吊り橋が緩んでいるのかと錯覚してしまうほどだ。言うまでもないが、実際にはそんなことはない。

 9月の終わりだからコスモスが目立つ。

 最近見なくなっていると、自分の尺度で珍しがっている。

 街なかの住宅地の空き地にコスモスが植えられていると、そのことが「しばらくここには家は建ちません」といったお知らせ代わりになっている…そんな話をこの前聞いた。

 コスモスはやはり高原とか、畑地に咲いているといったイメージがあり、ボクにはそうした場所で見るコスモスに強い親しみを感じたりする。だから、住宅地に無理やり凝縮型に植えられたコスモスを想像すると、なんだか情けなく感じる。

 そういえば、いつか能登の道沿いで出会ったコスモスのいっぱい咲く畑に居たおばあさんはまだ元気だろうか……と、白川郷のおばあさんを見ながら、能登のおばあさんのことを思い出したりした。

 もう何度も来ているから、白川郷のほとんどの場所は行き尽くしている。見学できる有料の合掌家屋なども、世界遺産になる以前に入っていたりするから、今さらながらだ。

 そんな中でまだ入ったことのない(であろう)一軒の家屋を見つけた。

 今回は特にメインの道というよりも、田んぼの畦に近いような脇道を歩いていたせいだろうか、その家屋はふと今まで見たことのなかった視界にあった。

 地元の人ではないような?… 都会的な匂いのするスタッフがいた。てきぱきと受け答えをし、忙しそうだったが、この家が生活の場でもあると確認し、ああやっぱり白川郷だなあと思った。

 世界遺産になって初めて訪れた時、こんなにも違うのかと、目を疑うほど観光客が増えていたのに驚いた。ちょうど今回と同じような夏の終り頃だったと思う。

 そして、集落の中を歩いていた時、部活から帰ってきたらしい中学生の女の子が、畑にいた母親の手伝いをしに行く様子を見た。

 すぐそこにあるといった日常の光景だった。

 周囲には自分も含めた観光客たちが、かっこよく言うと非日常を求め彷徨っている。しかし、その母娘の姿はまぎれもない白川郷の日常だった。

 もともと、日常が見えるからこそ旅は面白いのだという感覚があった。この集落を歩く時にも、なんとなく地元の人たちの日常を探すようになっていた。

 ずいぶん前のことだが、年の瀬の木曽で、年の瀬らしい日常を見せつけられ、独り淋しい旅の夜を過ごしたことがあった。学生時代の帰省と合わせた旅であったから、そこで見せられた民宿の中の日常の光景に望郷の念(大袈裟だが)が高まったのかもしれない。

 若かったが、冷たい冬の空気が体の芯にまで沁みていた夜だった。

 旅人が非日常を求めるというのは、そこで暮らす人たちの日常を見るということだとよく言われたが、それはさりげなくであるのがいい。

 ただ、自然などの普遍的なものとともにある生活様式も、時代とともに変化して当然だ。

 中学生の女の子が着ていた、どこででも見るような体操着。母親のおしゃれな帽子。どれもが日常である。

 暑さも増した午後、水田では稲刈りが普通に行われていた。

 こちらはただその場を通り過ぎていくというだけでいい。なんとなく感じるものがある。

 白川郷でいつも新鮮な思いを抱かせてくれるのが“水”だ。特に暑い日には、道端のその流れの様子そのものが爽やかさを伝えてくれる。

 道端の水が勢いよく流れているのを目にすると、その土地の豊かさを感じる。どこの山里でも同じで、それは単に農業や生活への恵みなどといったものを超越した豊かさのように思える。水の持つパワーは偉大なのだ。

 何気なくといった感じで、白川郷を訪れ、何気なくといった感じで白川郷を後にした。

 いつも立ち寄っていたコーヒー屋さんが閉まっていたのを、行くときに見ていたので、どこかで新しいコーヒー屋さんを見つけようと思っていたが、果たせなかった。

 国道を走ると、高速への分岐を過ぎたところで喧騒が消える。

 走っているクルマは極端に少なくなる、特に五箇山方面は。

 静かな五箇山の、村上家の近くで、ソフトクリームを食った。

 家人は「美味しい」を連発していた。自分もまあそれなりに美味いと思い、適当に相槌を打っていた。

 神社ではお祭りの準備が整っている。こきりこの祭りだ。 

 慌ただしそうで、それなりにのんびりとした時間が流れているなあと思っていた………

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

イーストウッドも ボクもジャズ的だったのだ

 <大それたタイトルに自問しつつ……>

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く姿を、先日初めて見た。

 NHKの、親しみやすくてとてもいい番組でのことだ。アーカイブだから、かなり前の番組だったと思う。そして、彼のピアノは驚くほどの腕前のように見えた。

 後方に、デューイ・レッドマンの息子であるジョシュア・レッドマンなどが立っていて、イーストウッドは長身の体を捻じるようにしながら軽快に鍵盤を叩いていた。

 高校時代、家の近くの店でジャズピアノを弾き、家計を助けていたという。

 そんなエピソードが、イーストウッドをさらに好きにさせた。

 ボクは『荒野の用心棒』で彼のファンになった。細めた目で短く細い葉巻を噛む表情がたまらなかった。まだ小学生だったが、あの表情を真似しようとしていたことは事実だ。

 それから『ダーティ・ハリー』でも、あらためて彼を好きになり、彼のトラッドファッションに強く憧れた。腰を屈めて銃を構える定番ポーズも、裾を萎めたスラックス姿にまず目がいったほどだ。

 

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く。

 そのことと、映画監督としての共通点について彼は語っていた。そして、そのことが自分にも当てはまっているなと感じ嬉しくなった。

 イーストウッドが語っていたのは、映画を作る上で大切にしている「直感性」と「即興性」が、ジャズをやってきたことの影響かもしれないということだった。

 この言葉は、ガツンと胸を突いた。胸を突いてから、いい意味で胸を苦しくした。

 久しぶりに味わう名言だった………

 

 ジャズを聴くようになったのは中学生の頃だ。まわりにはそういう友達はいなかった。

 その後もずっとジャズを聴き、ジャズ的に趣味の幅を広げ、ジャズ的な価値観を軸にして生きてきたように思う。

 自分には他の連中とは異なる感覚みたいなものがあると今も思っているし、どれだけ頑張ってもカンペキな同調など求められないと感じるケースがよくある。

 そして、ジャズ的感性はニンゲン関係やそこから発展していった趣味・嗜好の世界、そして、仕事の世界でも存分に威力を発揮してきたと思う。

 面白い発見もあれば戸惑う場面などもたくさんあったが、それらはボクのそうした感性がもたらしたものではないかと思ったりする。

 そして、趣味の世界ではそれをコントロールできても、仕事の世界では何度もマズかったかな?という場面に遭遇した。

 

 何年か前、あるイベントでパネルディスカッションを任された時だ。

 つまり、よくあるコーディネーター役をやってくれと頼まれたのだが、ボクは一週間前のパネラーたちとの打ち合わせに紙切れ一枚の資料しか持参しなかった。

 そして、堅苦しいネーミングをやめ、「トークセッション」とし、自分の役割も「ナビゲーター」としてくださいと主催者に告げた。

 なんとなく、そんな感じがよかった。そして、いつも通って(入り浸って)いた「香林坊ヨーク」というジャズの店の、奥井進マスターとのやりとりをアタマに描いていた。

 トークを「遠く」と重ね、“ 近くでトーク ”などと表現したりしていた。

 打合せで、全く説明らしきものもないまま、自分はこんなスタンスで進めていくので、皆さんにはその場の雰囲気でお答えいただければ…みたいなことを話した。

 すぐに主催者側からクレームが出た。もう少し詳しい説明をお願いします…などと怪訝そうな顔つきで言われた。

 が、ボクは通常の仕事でパネルディスカッションというものの“つまらなさ”を実感していたこともあり、説明はそれ以上しなかった。

 実はこの役目は私的にオファーがあったもので、ボクはかなり挑戦的でもあった。

 ゲストたちも自分で選んだ金沢のクリエイターたちで、そんな彼らが持っているであろう感性に期待し、本番ではシナリオなどのない臨場感に満ちたトークを求めていた。

 そして、彼らは期待に応えてくれ、本番はそれなりの思いを残してフィナーレを迎えた。

 打ち上げの時、普段あまり褒めてくれることのない某大学教授が、真っ先にビールを注ぎに来てくれた。

 しかし、その時のトークセッションは、今カタチになって残っていたりはしない。

 それはN居というナビゲーターが、たいした地位になかったからに過ぎず、もしそれなりの地位にある人が同じことをやっていたら、活字化されたりして広がっていたかもしれないと思う。

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 あの時のことを振り返ると、自分はジャズ的だったなあ…とはっきりと意識する。

 そして、今も当然変わりようはないのだが、そういう感覚をいつも好意的に受け入れてきたという認識もない。

 いや、逆に人生の重要なポイントみたいなところでは、その感覚によって損をしていたかもしれない。先を見て生きていくということが得意ではなかった。

 しかし、それがジャズ的だった…なのだ。

 エリントンが、レコーディングのやり直しを迫るコルトレーンに、ジャズは即興だから…と諭したというエピソードがすべてを物語っている。

 ボクはずっとジャズ的だ。今は亡きヨークの奥井さんにつけたキャッチ……「ジャズ人生からジャズ的人生へ」の意味を、今まさに自分に当てはめている。

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾いていたこと。

 直感的に、即興的に…… 何の意味もない創作話をこしらえたり、今こうして、自分のなんでもない周辺話を綴っているのも、まさにジャズ的なのだと思う…………

北信濃・温泉町のひまわり

 夏、北信濃の湯田中温泉のある古い宿に泊まった。家族と一緒だった。宿に入ってすぐ地震があって、短い時間だがかなり揺れた。なんとそこが震源地だった。生まれてはじめて、震源地で地震を体験したのだった。

 その宿は風呂場がトテツもなく凄かった。なにしろ有形文化財の指定を受けており、豪壮な木造建築がそのまま浴場になったような感じで、とにかくトテツもなかったのだ。

 そして、翌朝早く、朝飯前の単独行(散歩)で出合ったひまわりにも感激した。

 それは当然文化財ではなかった(…と思う)が、質素に静かに温泉町らしい空気感を醸し出していた。

 最近では、ひまわりを広く団体で植えて迷路を作ったりするのが流行っていて、ああいうのもそれなりにいいのだが、今回出合ったそのひまわりは、数本の仲間とともに、趣のある和風の家の庭から咲き出していて、特に板塀の上から、こちらを逆に覗き込もうとしている様子がよかった。

 出合ってすぐ「おはようございます」と、あいさつをされているような気分にもなり、ひまわり特有の天然の明るさに親しみを感じた。

 そして、しばらく佇んで見ていると、さらにまた何か話しかけられているような、そんな気もしてくるのであった。

 板塀がいいと思った。それも竹で作られたような板塀で、都会にあるようなイメージのものではなく、やはり北信濃らしいというか、素朴な材料が使われている感じがしていいと思った。

 その奥に建つ家屋も非常に雰囲気が良くて、そこに住んでいる人たちの、麗しい夏の生活が目に浮かんでくるような気がした。

  一度だけ、我が家でもひまわりを植えたことがあったことを思い出していた。

 一気に10本ほどのひまわりが咲いてくれたが、自分から見て美しく咲いてくれたのはわずかで、多くは美しい咲き方をしてくれなかった。

 成長していくスピードにムラがあって、大きさもアンバランスだった。

 満開になってからの数日はそれなりに嬉しかったが、だんだんみすぼらしくなっていくと、人に見られるのも嫌な気がして早めに切ってしまった。あれ以来、ひまわりは他の誰かが植えたものを見るようになる。

 そして、夏の終わりごろの、かなり落ちぶれたひまわりを見ては、こうなる前に何とかしてやればよかったのにと思うようにもなっていた。

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 泊まった宿は温泉町の奥深いところに位置していて、宿の周辺は静かな住宅地といっていいような雰囲気だった。俗に言う「温泉街」ではなかった。

 ひまわりに出合う前、すぐ近くにあった寺に寄った。

 小林一茶の句碑がある…

 子ども等が雪喰いながら湯治哉

 草履もない貧しい農家の子供らの、温泉に入りに行く楽しみ…… そんな光景を詠んだ句とか……… なんとなく目に浮かんできて切なくなる。

 一茶の気持ちを少しだけ理解した思いで、本堂の前に立ち手を合わせた。

 境内を出て、少し歩き、高台から見下ろす夜間瀬川の方向と反対側の小高い山並みを見た。そして、特に目引くものはないなあと思いながら引き返して、宿の前を通り過ぎた。

 夜間瀬川は「よませがわ」と読む…ということを後で知った。

 それからしばらく歩いて、一本脇道に入ったあたりで、ひまわりと出合ったのだ。

 こうした旅の際にときどき思うのだが、この脇道に入るといった感じが大切だ。

 特にどうということもない生活空間だが、旅のニンゲンからすればあくまでも非日常の空間である。

 必ずと言っていいほど、得した気分になれるシーンがある。だから、勇気を出して(というほどでもなく)足を踏み入れるのがいい。空気感だけでも、心に響くのだ……

 ひまわりの家の前あたりから、細い道はゆるやかに曲がっていく。

 曲がった先は見えず、さらに歩いていくと、またその先もゆるやかに曲がっていた。

 明け方だろうか、少しだけ降った雨の水たまりがある。

 空き地に不規則に建つ民家が、静けさを一層助長しているように見えている。

 どこかで感じた空気の匂いがしたが、ここでは思い出せず……

 その後、二十代の頃、信州方面の行き当たりばったり旅で、泊まるところがなく、山あいの湯治場の宿に入れてもらった時のことを思い出した。

 少し違ったが、あの時、日が暮れた山村の道をクルマで走らせながら見ていた風景は、あんな感じだったかもしれない。

 ほんの一瞬のことだったろうが、かなり寂しい風景だった。

 ただ、そんな風景も翌朝見た時には夏の強烈な朝日を受けて輝いていた。

 

 これはいつか深く書きたいと思っているが、「信州」というこの二文字に弱い。二十代の頃から、この二文字を目にするとなぜかココロが躍った。

 ココロが焦ることもあった。その焦りは異常なほどに膨れ上がって、胸を苦しめたりもした。

 ときどきどこかで書いているが、山岳や高原や森や林や田園や河原や山里や…、自分の好きなものがすべて信州にあった。

 今こうして家族旅行で訪れた温泉町も、どこかにそんな思いがあって選んだ場所なのだと思う。

 

 ぐるりと回って、またひまわりの前に来ると、さっきよりもいくらか明るくなった気配の中に、ひまわりも少し姿勢をよくしているように見えた。

 見ていて飽きないが、家の中の人から見ると怪しい通行人の存在にちがいないだろう。

 しかし、このひまわりは、どこか他のひまわりと違う… そう思えてならなかった。

 とにかくどこか大らかで、やさしくて、ものに動じないような逞しさもあって、信州の北信濃の美しい風に揺られながら、夏の一日一日を楽しく過ごしているのだろうと思えた。

 離れがたかったが、その場を去る時が来た。

 そして、大げさすぎる思いを、もう一度ひまわりへの視線に託した。

 もうお会いすることもないでしょうが、お元気で。

 ひまわりがそう言っているような気がして、なんだか寂しかったのである……

風鈴の音が……

 風鈴を買ってきて窓際にぶら下げたが、なかなか鳴らない。

 真鍮製のおしゃれなデザインで、値段も風鈴を買うという自分のイメージからすると、それなりのものだったのだが、鳴らないので物足りない気分でいる。

 最初は、下げた場所の問題かと思ったが、どうやらそれだけではないのではと考えるようになった。たぶん下に付いている紙の部分の形状ではないかと思ったからだ。

 風を受けるには下の紙が細すぎるような……

 この紙のことを短冊と呼ぶのだそうだが、このネーミングからするとやはりデザイン性も重視されて仕方ないのかもしれない。

 が、しかし、やはり風鈴は鳴ることに意味がある。

 しかも、やさしい風というか、わずかな空気の動きにも敏感に反応してくれるものの方が価値は高いのではと。

 真鍮というテイストからすれば、そう捉えても不思議はないだろうと思う。

 今のところ(買ってから一週間ほどが過ぎて)、自然の風では一度も音を発していない。

 短冊は微妙に揺れたりするが、よく見ると回転しているだけだったりもして、役割を十分に果たしていないような感じにも見えたりする。

 ときどき、いい風が家の中に入ってきたりすると、十分に涼しさを感じているにも関わらず、風鈴が鳴らないことでその涼しさが半減したり…… 不信感はさらに深まり、どうも納まりが悪い。

 対策としては、短冊を作り替えるしかないかと………

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 世の中では風鈴は夏のものと決まっていて、その機能は涼しさの演出というところだろう。

 音で涼しさを感じさせるなんて、ちょっと不思議で凄い機能のような気もする。

 そもそも音で涼しさを感じるというニンゲンの感覚そのものも凄い。

 生(ナマ)で聞くせせらぎの音や、木の葉の擦れ合う音などが、涼しさを感じさせる代表格と思うが、そこには視覚的なイメージが付いている。

 かき氷機の氷を削る音などもあるが、鼻の付け根の奥あたりに激痛が走ることを想像してしまうのであまり好きではない。

 風鈴はそうした意味でいうと、音の素が焼物やガラスや金属などだから、奇妙な存在だ。まさに音そのものの中に涼しさの要素を秘めている。

 風鈴の音を聞き、風鈴が揺れているのを目にすると、「暑いなあと思っていたけど、それなりに涼しいのでは…」と、つい思ってしまうような。

 しかし…… しっかりと外から風が吹き込んで、部屋中が涼しく満たされているのに、風鈴だけが自らの使命を忘れて鈍感な態度をとっているとなると、やはりおかしい。

 風鈴が鳴らないという現実によって、豊かな感性を持っているはずのニンゲンの尊厳が失われかねない。

 そういうことで、風鈴は姿かたちももちろん重要だが、やはり音が出やすくなっているということにも存在意義があるのではと思うのだ。

 かつて、商店街の夏の行事で風鈴をやたらと吊り下げるという企画があったが、正直言ってあれはうるさ過ぎた。音もガチャガチャといった感じだけで、風情が逆になくなってしまっていた。

 そういう意味では、ちょうどいい具合に上品に鳴ってくれるくらいがいいのだが、そこがまたむずかしいところなのだろう。

 ところで、風鈴は夏と言うが、音を楽しむということからすれば、秋でもいい。秋風と風鈴という組み合わせの方が、日本的な気がしないでもない。

 蚊取り線香がなくならないで、ずっと愛されていると聞く。蚊は夏だからいいとして、風は年がら年中吹くものだから、風鈴もそれなりに鳴っていてもいいのではないかと思ったりする。

 わが家の真鍮製風鈴も、そうした存在でいてもらおう……

 

 

白いワンピースの少女

 海につながる道にさしかかると、よくドキドキした。

 今は全くそういうことはない。

 かつて、誰かの小説に、白いワンピースに麦藁帽子をかぶった清楚な少女が海辺から歩いてくる…といった内容の話があり、はるか以前、つまり小学校の頃、同じような少女にわがゴンゲン(権現)森の浜で出会ったことがあって、この一致があって以来、どうもそのような場所には白いワンピースの少女がいそうな気がしていた。

 出会ったその少女も、白いワンピースがかなり似合っていた。

 余計なお世話的に書いておくと、ワンピースはフォーマルっぽいのではない。風にひらひらと靡くようなものだった。

 しかし、はっきり言って、廃れ果てた魚捕りの孫的少年には、身分や育ちやその他モロモロの違いが歴然としており、半径約五メートル以内にはなかなか入っていけなかった。

 少女はボクよりいくつか年上だったように思う。街の子であることは間違いなく、一緒にいたお母さんも完ぺきに街のお母さんだった。

 なにしろ、おやつのお菓子を持っていた。

 われわれ(急に構える)みたいに、海に潜って採ってきた貝を、砂の上で焼き、熱いのをそのまま海水に浸して頬張るなどといった輩とは違った。

 ふかふかして見えるハンカチも持っていた。それを額にあてたりしながら、ちょっとまぶしそうな顔をすると、その表情が天使の可愛い怒りのようにも見えた。

 もちろん彼女は怒っていたわけではない。

 街から来たであろうと思われる海水浴の少年少女たちは、たまに海の中でやや臆病そうな素振りを見せたりした。すると、われわれは近づいて行き、わざとバタ足でしぶきを上げ、そして、そのまま周辺に潜ったりした。

 こうした街の子たちは、浜茶屋が出来た頃から自家用車に乗って、わがゴンゲン森海水浴場にも来るようになっていた。当時のボクには新鮮な存在だった。

 が、そんな中でも、白いワンピースの少女は別格だったような気がする。彼女は、それまでの十年ほどに及ぶボクの人生の中で、最も輝いていた女性だったと言っていい………?

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 そんなわけで、八月の下旬のよく晴れた暑い午後、いつもの志賀町図書館で用事を済ませた帰路、柴垣の海に出る細い道に入り、そのまま海岸までクルマで乗り入れさせていただいた。

 その途中にあった海に出るあたりの光景が、なぜかとても懐かしく、ちょうど西に傾きかけていた陽光もまだまだ鋭くて、やっぱり夏だなあといった心持にさせてくれた。

 腰紐をうしろで縛った白いワンピースの清楚な少女が、両手を軽く腹の前あたりで重ねながら歩いてきても不思議ではないと思ったが、当然そんなことはなかった。

 砂浜に革靴で立つ…… 海を見る。空を見る。白い雲たちが好き勝手に流れ、実にアヴァンギャルドな光景を描いている。

 青い海に白い波、青い空に白い雲、夏は青と白でできている。

 海で育った少年時代の思い出の中に、白いワンピースのちょっと大人っぽい少女の姿があるのも、たしかに正当な存在なのであるなあと納得する。

 砂浜に立っていたのは、ほんの五分ほど。白いワンピースの少女の思い出は、その後すぐに、寂しく消えていった………

 

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

 旅ごころが自分の中に根付いたきっかけは何だったのか? 

 この古い本は最近になってヤマケイ文庫で復刻したものだが、その中に懐かしい答えがあったような気がした。

 90歳を越えた著者の青春時代の出来事を綴ったエッセイが、旅と人生とをつなぐ素朴な何かの存在を教えてくれる。

 いくつかの作品に心を動かされたが、特に『常念岳の黙示』という短い文章から感じ取ったものは、かなり心の奥にまで届いているように思う。

 東京人の著者が、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだ理由が、どこか清々しく、そして、なぜか切なくもあって、読んでいる者(つまりボクだが)の心に迫るのだ。

 それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしたのかもしれないと考えさせたりする。

 そして、“自分に黙示してくれるもの”として常念岳を見つめていた著者の姿を想像し、どこか切迫感に襲われたりもするのだ。

  『常念岳の黙示』の中で、特に山に傾倒していく著者の、山は動かない…つまり、山は黙ってすべてを分かってくれている…そうした解釈と、そのことによる安堵の心境表現がとても好きだ。

 山を含め、風景にはこのような黙示のチカラがある。

 星野道夫もどこかで書いていたが、このチカラが何かの決断に作用することもある。ヒトの心情を動かし、さらにヒト自身の形成に影響を及ぼすとさえ思える。

 そして、ヒトが旅をするのは、そうしたチカラに促されるからなのだろうと思う。

 ボクは人に自慢できるような大それた旅など経験していないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。だからこそ、風景(や情景)などに素直に向き合おうとしていたのだと思う。

 風景にはすべてが止まったままで、動きがないということはありえない。上空の雲たちや、山里の家並みからのぼる炊事の煙や川の流れも形を変えていく。時間の経過などから、その色や陰影をかえていくことも普通の現象だ。

 しかし、底辺にはやはり動かないものがあり、それ自体にまず大きなチカラを感じ取るのだと思う。

 二十代のはじめ、上高地を初めて訪れ、穂高の連峰を見上げた時の感動は今でも忘れないが、その根底にあったのは圧倒される山岳風景の偉大さだったのだろう。そして、あの時から確かに自分の中の何かが変わっていった。

 ボクはあの時以降、本格的に山に向かうようになった。山に登るだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ちだした。

 すでにずっと購読していたジャズ誌に加え、『山と渓谷』も購読し始めた。

 さらに、街にいて仕事をしていても、山のことを考えるようになり、実行できなかった計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送っていた。

 今から振り返ると、仕事で様々なことをやらかしてきたが、何をやっていても山の世界に憧れてばかりいるニンゲンという認識を持たれていたとも思う。

 山はそうした意味で、奥深く、やはりあこがれの対象になり得たのだ。

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 常念岳から黙示された著者も、あくまでも山=常念岳そのものを見た。

 常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたというラストには純粋に感動を覚える。

 「黙示」の意味を考えながら、久しぶりに何度も読み返した。そして、またあらためて旅について考えようとしていた。しかし、なぜかアタマの中が整理できなくなり、ついには山のことに対する後悔ばかりを考えるようになってしまった。

 ただ、今自分が毎日の煩わしい時間の隙間に実行している、山里歩きや森林歩きなどを思うと、その素朴な楽しみが旅の延長上にあったのかもしれないと思う。

 そして、こういう心持に決して今の自分は満足していないということも事実で、またそのうち、北アルプスのどこかに自分という存在を置いてみたいと考えてもいる。

 何がそうさせるのかは分からないが、とにかくあこがれが絶えることは自分にはないような気がするのである………

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※岡田喜秋氏は、月刊誌「旅」の元編集長。ボクにとっての氏の存在は、『山村を歩く』から始まった。氏の話にはとても付いていけないスケール感もあったりするが、ボクが求めている小さな旅心みたいなものと共通する何かもあって、最近では、大体手の届くところに氏の本が置かれていたりしているのだ………

夏はいつも凄かったのだ。

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金沢と能登をつなぐ「のと里山海道」が、

まだ「能登有料道路」と呼ばれていた頃の話だ。

終点穴水の少し手前で、道路上に光る黒い点を見つけた。

次の瞬間、その光る点は放射線状に広がったように見え、

すぐに弱い光になった。

バックミラーで後続車のいないことを確認すると、

ボクはゆっくりとブレーキを踏み、そしてクルマを停めた。

黒く光った物体は静かに、そしてかすかに動いていた。

クワガタだと分かるまでには、それほどの時間も要せず、

敢えて近づこうともせず、

その黒くて弱い光のゆっくりとした動きを見ていた。

夏は凄いなあ………

その時、そんな言葉がアタマに浮かんだ。

熱いアスファルトの上をクワガタが動いてゆく。

そのクワガタが、光を放っている。

そして、ボクはその光景を見ている。

その先には陽炎が、はっきりと目に見える。

額には、うっすらと汗がにじんでいる。

照り返しがきつい。

目をずっと開けているのは少しつらかった。

やっぱり、夏は凄いと思った。

そして、なぜか嬉しくなった。

足を開き、膝に両手をおいた。

熱くなったカラダが、またさらに熱くなっていく。

しかし、それを楽しんでもいる。

やっぱり、夏は凄いのだ。

夏の凄さが、静かにだが、ココロを躍らせている。

 

あれからもう何年も過ぎてしまった。

ただ、ずっと昔の、夏の一瞬がまだ生きている………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

笑顔について

 最近、ちょっと笑顔をつくることに慣れてきたような気がしている。

 家族で旅行したり、ちょっとした行事があったりすると写真を見せつけられるので、これまでのように(?)無粋な表情ではややまずいなと、(今更のように)反省するようになったのだ。

 笑顔は、そう簡単につくれるものではない。

 二度三度と、口元を横に引っ張ったりしながら(もちろん手などは使わない)、少し練習し、いよいよ本番というところで、思い切り笑顔ですという顔をつくるのである。

 しかし、実際に上がった写真を見ても、それほど笑っていない自分がいたりする時もある。それどころか、ほとんど笑っていないだろうと思われる場合もあったりして面倒なのだ。

 若い頃の写真にはよく笑っているのがあるが、年齢とともに笑顔が減ってきたのだろう。

 笑い自体は大好きだし、本当はいつも笑っていたい……

 

 笑顔で思い出すのは、小学校、中学校と同じだった某クンのことだ。

 某クンは、いつも笑顔だった。少なくとも、いつも顔は笑っているように見えた。

 笑顔と特に関係はないが、某クンは足も速かった。

 笑いながら走っていたかどうかは記憶にないが、とにかく回転の速いピッチで運動場を駆け回っていた。

 そして、いつも笑っているように見えたから、某クンを嫌いになる者はいなかった。

 その某クンが本当に笑うと、その笑顔はますます濃い笑顔になる。

 そうでないときの顔が本当は笑顔でなかったのかもしれないと不安にもなる。

 実際に、いつもの笑顔が少し薄れただけで、某クンはとても真剣そうに見えた。時には、深刻そうにも見え、ますます心配になっていくのである。

 しかし、元気がなくなったのかなと思わせたその直後に、また平常通り(?)の笑顔に戻ると、また激しく嬉しい気分になった。

 つまり、某クンの笑顔はボクにとってとても大切な存在だったということだ。

 もう何十年も会っていないが、今でも某クンは笑顔でいるのだろうか。

 

 ところで、高校生の頃の古い話だが、まさしくバレンタインデーの夕方、街(片町の旧うつのみや前あたり)で背中に何かを感じた。

 振り返ると、突然「これを受け取ってください」と、その日の定番的プレゼントであるところの、そのモノが入っているであろうと予測される美しい箱が差し出され、恥ずかしそうにその女子(当然だが、高校生)が下を向いていた。

 それから、急に真剣な顔でボクを見て…、その後どうなったかは忘れたが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。

 自分が笑いかけようとして笑えなかったことである。すると、その女子(たぶん年下の高校生)が、こう言った。

 「笑っているより、真剣な顔しているのがいいです……」と。

 そして、彼女はそのまま軽快に駆け出し、歩道の雑踏の中に消えていったのだ。

 と、誰かが昔の話をしていたのを思い出した。

 なぜか、冷汗が出てきたので終わりにする………

 

 

 

アラン・ドロンよりも ジョン・ウエインだった

 アラン・ドロンが現役を引退するというニュースを聞いて、なぜかいろいろなことがアタマの中に蘇ってきた。

 小さい頃から洋楽・洋画の世界が身近にあったせいで、かなりませた田舎少年へと成長していったのだが、アラン・ドロンという存在はどうも苦手で、家にいつもあった映画雑誌に写真が出てくると(大概必ず出ていた)、なぜか目をそらしたり、すぐにページをめくったりしていた。

 それは、彼には必ず女優の匂い(こんなの田舎少年の実感ではないが)が付きまとい、そこら辺のところで、まだ小学生の身にはちょっと正視できない雰囲気があったからだと思う。

 そして、“したり顔”で二枚目を誇っているような様子などで、ひたすら不健全なイメージしか持ちようがなかった。

 アラン・ドロン系のことでいい印象というと、『太陽がいっぱい』のテーマ音楽だ。

 あのサウンド・トラックだけはよく聴いた。シングル盤だったと思うが、子供心にも、三拍子のリズムがキラキラと輝く海面と、その上で揺れ動くヨットを思い浮かべさせた。自分が海で育ったせいだろうか。『地下室のメロディ』のテーマなんかも家ではよくかかっていたような気もする。

 ついでに書くと、この手の音楽では『鉄道員』というかなり切ない映画のテーマも好きだった。いや、好きだったかどうかは分からないが、よく聴かされていて、耳に馴染んでいくうちに少年のココロにもそれなりに何かが届くようになっていったのかもしれない。

 最近ほとんど聴く機会はないが、ボクにとっての切ない系音楽の代表格と言えるかもしれない。懐かしい。

 『太陽がいっぱい』も『鉄道員』も、映画そのものは見ていなかったが、ストーリーは読み込んでいて、子供ながらもそれなりに理解していたつもりだった。

 アラン・ドロンから始まったが、本来フランスの俳優(映画も)にまったく興味がなかったのは、西部劇を中心にして活劇ものばかりを見ていたからだ。

 もちろん兄の影響があってのことだが、ボクの最大のヒーローはジョン・ウエインだった。

 つまり、強くて、頑固で、口下手で、女なんか面倒臭せえ…みたいな、最近そういう人物像を描いても全く受けないであろうことは十分に予測できるが、そうしたジョン・ウエインの役どころが好きだった。

 ちょっと高めのハット、しかめっ面で、首に巻いていたあれはバンダナだろう、チョッキには保安官バッチが光り、ライフルをだらりと下げ、やや肩を傾けながら歩く姿は全くカンペキにかっこよかった。

 本場アメリカの西部劇が、ただ分かりやすいだけの単純な活劇から脱皮していく過程で、マカロニ・ウエスタンなるものが西部劇を変えるようになっていくが、ボクが西部劇に求めていた要素のひとつは、スクリーンに広がる壮大な風景描写でもあった。

 アメリカでのロケがむずかしくなり、スペインなどで撮ったという話もあったが、あの広々とした大地での活劇そのものが、ボクにとっての西部劇の魅力だったのだと思う。

 音楽もマカロニ・ウエスタンになってからは、一層濃くなった。いや個性的になったと言うべきかもしれない。

 ハリウッド時代の西部劇テーマも名作ばかりで、うちにはほとんどのレコードがあった。そして、それらはほとんどが先に音楽だけを聴いていて、実際の映画は大学生になってから見たり、テレビの洋画劇場で見るしかなかったものもあった。

 マカロニの方が流行り始めた頃のエンニオ・モリコーネの音楽は、最近でもたまにラジオから流れてきたりすると嬉しくなる。

 マカロニの俳優では、イーストウッドよりも、ジェンマよりも、フランコ・ネロが好きだった。

『真昼の用心棒』のフランコ・ネロは、少し弱さも併せもったガンマンの役で、そういう意味ではジェンマにも共通するものがあったが、ネロの方がはるかに人間臭く、男臭く、役者的匂いも強力だった。ついでに言うと、ネロは顔も凛々しくて好きだった。

 最後にアラン・ドロンについて、自分の中の数少ないエピソードをもうひとつ書くと、三船敏郎、チャールズ・ブロンソンと共演した異色の西部劇『レッド・サン』で、ボクのイメージに合ったドロンらしい役を演じていたが、あの中での最も軽い存在感には充分納得したのを覚えている。

 ただ、なんとなくあのあたりからドロンに対する偏見(?)は、急激に修まっていったような気がする。

 まったく西部劇的ではないとするドロンを思いながら、そう言えば、武士役で出ていた三船などもカンペキに西部劇的ではないな……と、当たり前のように考えていくと、やはり映画の世界での大物俳優たちの存在感は共通するものなのだと、子供の時に感じたことを引きずってきた自分を反省した。

 しかし、アラン・ドロンの出演した映画は、結局『レッド・サン』しか見ていない。正式に言うと、映画館でということだが、あの『太陽がいっぱい』も、BSの映画劇場で見ただけだった。

 本来、アラン・ドロンについて考えても、つまるところはジョン・ウエインなどの話になってしまう、そういうことなのだろうと思う………

金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など

 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 

まぶしいほどの新緑の中で夏を考えた

 静かな沼の脇にあるベンチに腰かけ、まぶしいほどの新緑に浸っていると、ふと、そろそろまた夏が来て、その夏が去っていく頃、また少し寂しいというか、空虚な気持ちになるのかもしれないなあと考えている。

 まだまだ夏は来ないのだが、それでも来るのは確実に決まっている。そして、そのままずうっと夏が続くのではなく、去ってゆくのも確実に決まっているのである。

 その夏に対して、何ら計画もなく、ただ薄らぼんやりと過ごしてしまう予感が今年もある。

 しかし、実行できないのはかなりの確率で予感できるのだが、まだ春の余韻の中にいる時季だから少し自分らしい夏について考えてみようと思ったりもする。

 夏は若者のイメージだから、夏に執着するのはオトッつぁんらしくないが、少し違う何かが自分の中にあったりするものだから、敢えて考えてみるのである。

 

 かつて、『ポレポレ通信』という無分別書き下ろし型プライベート紙(誌ではない)を出していた頃、よく夏のことを書いた。

 夏に向けての計画についても、夏の終わりのレポート的雑文なども書いていた。ただ今と違うのは、当時はほとんどが実現する(した)話だったのだ。

 普通(上辺は)のサラリーマンであったボクには、普通に夏休みの時間があり、普通にそして身軽に何でもできる環境があった。基本的にほぼ自分のやりたいように夏は組み立てられていた……と言っていい。

 その頃の夏は、たとえば八ヶ岳山麓や、信州の高原などの自然の中で過ごす一週間などに賭けていた。そこでの夏休みは、今でも最高のもので、社会人になって以降、秘かに(近い)将来ここに住もうと考えていたほどだ。

 そう言えば、今年の夏はその八ヶ岳山麓に行きたい…と、正月あたりだったか、誰かに語っていた記憶がある。

 なぜ八ヶ岳山麓への思いが再燃したのかははっきりしないが、たしかに“再び八ヶ岳へ”へと、自分の中に旅行代理店の「八ヶ岳キャンペーン」みたいな風が吹いていたのだ。

 しかし、今年の夏にはすでに予定があって、その構想は実現に至らないことも予想している。

 その予定というのは信州方面への家族旅行である。その意味では文句など言ったら罰が当たるといった類のものだから、素直にというか前向きに受け止めなければならない。

 それに八ヶ岳は無理としても、うまくいけば上高地あたりのワンディ散策くらいは実現するかもしれない。

 楽しい夏になる可能性はそれなりにかなり高いのである。

 そう思って振り返ると、去年の夏は旧軽井沢にて美酒に酔い、かなりクリエイティブな早朝森林歩きでアタマとカラダの浄化を果たしてきた。

 本格的な山行から遠ざかる日々の中、山里歩きや森林歩きなどはより深みを増していると強く感じるが、かつて吸い込んでいた信州や八ヶ岳周辺の空気が、自分に何かいいものを残していてくれたのだろう。

 そんな風に考えながら、もう一度夏について考えてみると、今の下品な日々などもかなり払拭されていく。

 まだまだ成長途中の新緑の中で、夏への思いも同じように中途半端でいいのだと、今は自分に言い聞かせている。

 日差しが強くなり、緑の草が放つ夏らしい匂いを感じるようになってきた………

 

喫茶・Eでのひさびさの時間

 紺屋坂を上りきると、兼六園と金沢城公園への入り口である石川門とで方向は左右に分かれる。

 実際は左右という感覚ではないし、四方に道が伸びているといった感じだ。

 その中の左に直角に曲がる道を歩いていくと、いくつかの店を過ぎたところに喫茶・Eがある。

 タクシーが並び、公衆トイレも昔からあってよく利用させてもらったが、やはり喫茶・Eの存在の方が当然のように麗しい。

 喫茶・Eには久方ぶりに入った。

 クルマを止めておいた駐車場の方へ近道をしようと歩いていた時、前を通ったのだ。

 ボクのアタマの中では、喫茶・Eは店じまいをしたというイメージがあった。

 しかし、今は白く塗られた壁の中の窓から見える店内には明かりがつけられ、女性客二人が笑い合っている様子が見えた。

 玄関には「珈琲」と書かれたアナログ看板も立てられてある。

 なぜか少し躊躇しつつ、店に入った。

 そして、さらになぜか「よろしいですか?」と声を発した。

 すぐに眼鏡をかけた店の方が出てきてくれ、どうぞどうぞ……

 お時間はありますか?と問われる。

 コーヒーは豆を挽いてからなので、お急ぎの方はちょっと…ということなのだ。

 こっちは少々時間がかかるぐらい問題ではなく、これから畑へ行って豆を採ってきますと言われると考えたかもしれないが、豆を挽く時間など惜しくはなかった。

 外から見えた二人連れは、入れ違いに出て行った。

 店はボクの独占状態になったが、コーヒーを注文してからしばらくすると、今度は観光客らしいミドルの五人組女性グループが入ってきた。

 ちょっとウルサくなるなと思ったが、ちょっとどころではなく、かなりウルサくなった。

 時間もたっぷりあるらしく、雑誌やらを広げて芸能界のどうでもいいようなニュースを話題にして盛り上がっていく。

 わざわざ金沢でこんな話をと思うが、聞き流すことに専念する。

 店に入ったところで、自分が来たのは四十年ぶりぐらいだということを店の方に告げた。

 すると、やさしいまなざしの店のお母さんが、店はできてから五十年くらいになりますかねと答えてくれる。

 ということは、開店後十年あたりからの数年間に何度となくお邪魔していたことになる。

 

 読みかけの文庫本を取り出して読み始めるが、なかなか軌道に乗らない。

 ようやく少し活字に目が慣れた頃になってコーヒーが来た。

 横にはデザートみたいなものが… 手作りだそうだ。

 店のお母さんの醸し出す雰囲気が、こうしたものを連想させるに十分だった。

 コーヒーも美味い、いやこの場合は、「美味しい」だ。

 

 記憶では、この店にいたのはいつも冬の寒い夜だったような気がする。

 いや、思い違いかもしれない。なにしろ四十年ほど前の話だ。

 外の階段を上って、二階の店内に多くいたような……

 一階はいつもいっぱいで、にぎやか過ぎたような……

 タバコを吸っていた。セブンスターという銘柄だった。

 ZIPPOのライターを使い、使い終わった後の蓋の閉め方には一応こだわっていた。

 当時、喫茶・Eにはどんな音楽が流れていただろうか?

 クラシックだったような気もするし、そうでなかったような気もするが、記憶は完全に曖昧だ。

 

 そして、ボクはここで活字を追っていた。

 と言っても、神経質な読書家ではなかった。

 その頃、ボクが読んでいたのは何だったか?

 いろいろ濫読の時期だったから、具体的にはわからないが、この店の当時の雰囲気からすると、日本の近代文学ものを中心に気合十分で読んでいたに違いない。

 いや、それも卒業し、紀行ものやさまざまなドキュメンタリーものを読んでいたかもしれない。

 体育会系のブンガク及びジャズ・セーネンであったボクは、それなりに緊張感のある、それでいて趣味の世界などでは、それなりに楽しい日々を過ごしていたような気もする。

 

 喫茶・Eでのことは、そんな日々の一部でしかない。

 しかし、ある意味で、この店の中にいた自分の奥の方には、なぜか今から振り返っても深いものが潜んでいたのだと思う。

 人生というと大げさだが、それなりに考えなければならないことがあった。

 その答えを出せないまま、少しというか、かなり投げやり状態になっていた。

 そのことが、いつも冬の夜だったという印象になっている感じもする。

 少し青が色褪せ始めたセーシュンの日々であった………

  

 そんなわけで、今回二階には上がれなかったが十分だった。

 窓の外には、新緑の木の葉がいっぱいに生い茂り、少しだけ開けられた窓から入ってくる風が心地いい。

 ウグイスの啼き声が聞こえたりもする。

 それなりにとてもいい時間を過ごせた気がした。

 今度はしっかりと活字を追うことにして店を出ると、うしろから、またどうぞの声。

 春の日差しがまぶしかった………

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

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 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

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 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

内灘の風景~河北潟放水路周辺のこと

 今さらのような話を先にすると、ボクが生まれ育ち、今も住んでいる石川県の内灘というところは、南北に細く長く伸びた小さな町なのである。

 なぜ南北に細く長く伸びているかというと、東西に河北潟と日本海という水圏があり、それらに挟まれた砂地の上にできているからだ。

 地学かなんかで習ったとおりだが、ずうっと大昔、海水によって陸の土が削られた後、沖合に堆積され細長い陸地ができた。

 つまりそうした事情により、内灘は南北にしか伸びようのなかった町なのであり、ついでに言うと、河北潟も砂丘が形成されていくのに合わせ、海水の抜け道がなくなり、そのまま淡水化してできたという水圏なのである。

 昭和の中頃、諸般の事情を経て河北潟干拓という一大事業がスタートしたが、それによって河北潟はそれまでの三分の一くらいの大きさになってしまった。

 歴史などという感覚を通り越す、気の遠くなるような時の積み重ねを経て出来上がった河北潟が、それに費やされた時の積み重ねとは比べようもならないくらいの微かな瞬間に小さくなった。

 その時、河北潟に流れ込んでいた河川からの水を捌くために日本海に抜ける水路、つまり今の放水路が造られたのである。

 

南北に伸びた町の真ん中(あたり)に放水路ができ、なんとなく町が二分されたような空気が漂った……かどうかは知らない。少なくとも少年だったボクには、放水路ができようができまいが、どうでもいいことであったのは間違いない。

 ただ、今砂丘台地の道路をつないでいる「サンセット・ブリッジ」という橋ができるまで、放水路周辺に対して積極的な仕掛けや施しなどはなかったように思う。

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 もともと放水路について、あれこれ思いを巡らせていたわけではない。

 放水路ができていく過程のことも、あまりにも時間がかかっていて薄らぼんやりとしか認識がない。

 少年のボクにとって、干拓と放水路は別物であり、干拓工事の中の遊び場は水っぽく、放水路工事の中の遊び場は砂っぽかった。そして、どちらにせよ、非常に稀な環境の中にいるという自覚などあるはずもなく、たぶん町の人たちの中にも(風景的なこととして)大した思いを抱いていた人はいなかっただろう。

 

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 出来てからもう何十年も経っている河北潟放水路に、あらためて足を運んでみるようになったのはたまたまだ。

 正直、内灘の風景が全国に誇れる魅力を持っているなどとはカンペキに思っていない。

 さまざまな風景に強い憧れを抱いてきた自分にとって、それを満たしてくれるだけの強くて心地よい要素が内灘にあるとも感じていない。

 内灘の風景と言えばずっと海だった。それが当たり前だった。

 ただ海では、能登には勝てない。別に勝負するわけではないが、能登の海にあるような普遍的な要素は内灘の海にはない。

 魚を追い求めたボクの祖父たちのように、海を生きるための場としてきたオトコたちもいなくなった。

 海を軽視するのではないが、そろそろ内灘の新しい風景論みたいなものが見えてきたのではないか 自分の故郷としての風景(もちろん良質のだ)を、とりあえずマジメ(素直)に見つめてみるのもいいのではないか そう思う。

 内灘の今の姿は、自分が子供の頃に想像していたもの(大した想像でもないが)を超えているとボクは思う。

 開発とはこうしたものなのだろうが、生活の場が拡大していくと町の風景そのものも変わっていくことを、内灘というところは特に強く物語る。

 内灘では生活の場が砂丘台地上に広がっていくにつれ、風景も根本的に変わっていったのだ。

 南北に伸びた高台、つまり砂丘地が激変し、そこから眺める東西の風景がより魅力的になった。

 北アルプスの稜線から昇る朝日と、日本海に沈む夕日………

 よく使われてきた内灘の情景表現だが、かつて生活の場が砂丘台地の東側斜面下、つまり河北潟沿岸にしかなかった頃にはあまり味わえなかった風景だろう。

 砂丘地の畑などではところどころから見ることができたかも知れないが、しかし日常の生活の場ではなかった。

 そういう風景のことをあらためて思い、もし河北潟が干拓されいなかったらと考えた人たちがいたことも当然だ。

 しかし、今は敢えてそんなことは蒸し返さない。

 人がその土地の特徴を語る時、一番先に出てくるのが風景であるとボクは思う。

 当たり前だが、風景は普遍的要素の最たるものだと。

 人の営みは繋がれていくものだが、風景の土台にあるものはじっとしている。

 だから、風景に敏感であるということは、その土地の魅力を知る第一歩に違いないとも思う。

 河北潟周辺、放水路を含めた一帯の風景は、まちがいなく稀有であり美しいと言えないか…………

 二月終わりの休日。陽が少し高く昇り始めた頃………

 河北潟に張り出すように造られた「蓮湖渚公園」の駐車場にクルマを置き、公園の道から放水路に付けられた道へと歩いた。

 蓮湖とは河北潟のかつての名前であり、この名前の方がなんとなく好きだ。

 水際の道は気持ちがいい。

 湖面がおだやかに揺れ、宝達山、医王山、犀奥と呼ばれる山域のの山並みや白山、さらにはるか東方の奥に雪を頂いた北アルプスの稜線が見えている時などは、風景に心が押されている自分に焦燥のようなものを覚える。

 

 そして、空の広さや深さがそれにまた追い打ちをかける。

 心の中で微かに声を出している自分が分かる。

 このあたりに、美味いコーヒーが飲める店があったらいいと思うようになったのはつい最近のことだが、この眺望なら、コーヒーの味には文句は言わない……かも知れない。

 

 サンセット・ブリッジが近くに迫ってくると、公園から離れ、県道を横切り、いよいよ放水路横の道へと入っていく。

 全国的に見て、特に大きい部類に入る橋なのかどうかは知らないが、真下あたりに来ると、やはりその威圧感はすごい。

 もし「全日本デカ橋をひたすら見上げる会」というのがあるとしたら、たぶん多くの会員たちは歓声を上げるに違いないと思ったりもする。

 橋は本来、上から眺める風景に価値を見出すものだろうが、サンセット・ブリッジには残念ながらその機能がない。

 だから、せめて下から見上げて、オオ~などと感動の声を上げてやりたいと思うのである………

 

 二月の終わりにしては暖かい午前だった。

 橋の陰になった放水路の水面に冬鳥たちが多くいるが、彼らも少し陽気がよすぎて日陰に集まっているのだろうか。

 放水路横の道は、厳密に言うとわずかにカーブがあるが、ほぼまっすぐに伸びている。

 川とは違うが、水が河北潟から日本海の方へと流れるのだから、今は左岸を歩いていることになるなどと考えている。

 水辺だから時折冷たい風を感じたりするが、すでにカラダは十分に出来上がっていて快調な足の運びなのだ。

 歩いていることよりも、放水路の地形を楽しんでいるということの方にアタマがシフトしているのも分かる。

 一般的に放水路と言えば、単に河川の流れを分散させるようなイメージではないだろうかと想像する。

 だから、そこにある風景は川のイメージだろう。

 しかし、ここは違う。ここは、標高50mほどの砂丘が削られたその最下部なのだ。

 急角度の斜面(専門的には法面)が両岸に広がっている。

 風景としては非常に稀な特徴をもっている。

 ただ、今ははっきり言って放水路の斜面は雑である。

 裸木と枯れたままの雑草が放置状態になっていて、特に道端の草の中に散乱するゴミも捨てられ方が遠慮がちではない。

 目線をできるだけ水平以上にしてさらに歩く………

 

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 ここは、今最も内灘を魅力的に伝えることのできるスポットかも知れないと、ふと思う。

 風景は眺望だ。視覚からココロに入り込むものだ。

 その要素にこの場所は適っている。

 さらに、広い空を繋いで振り返ると、日本海がすぐそこにあるという恵まれた環境を加えれば、かなりいい感じがする。

 言い換えれば、これはこの場所の個性なのだと思う。

 周辺のストーリーもドラマチックではないだろうか……と、勝手に想像が膨らむ。

 河北潟が干拓され放水路ができたということは、土地の表情が変わったということだ。

 つまり、内灘の風景がその時に変わったのだ。

 そして、もともと住んでいた内灘人たちが思いもしなかった、新しい眺望が生まれたのである。

 内灘はもともと何もなかった小さな漁村だったのだから、特に粋がる必要もない。できあがった風景を素直に楽しめばいいと、ここに立てば思える。

それを眺めて、ココロを休めればいい。

………むずかしい話になってきたので、クールダウンしよう。

 

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左岸を歩いていくと、右岸斜面の上に立つ風車が常に目に入ってくる。

      

 澄み切った青い空に、静止したままのスリムで白い姿が美しい。かすかに聞こえてくるのは、そのすぐ横にある「恋人の聖地」の鐘の音だ。誰かが鳴らしているのだろうが、その奥に自転車競技場があり、そこで鳴らされるラスト一周の鐘の音かも知れないと、余計なことを考えたりもしている。

 

 

 海へと出ると、砂浜は冬の風物詩とも言えるゴミの山だった。

 この季節、浸食された砂浜を見ると心が揺れるが、冬の日にしては海の風が気持ちよかった。

 放水路に戻り、今度は右岸をサンセット・ブリッジに向かって歩く。舗装されていない、水たまりだらけの道からのスタートだ。たまにクルマなどがやって来ると、ちょっと面倒なことになる。しかし、すぐに舗装された道に出た。

 放水路の水の流れに逆行していることになるが、水面は風になびいているだけで流れているわけではない。

      

 しばらく行くと、風車の下の斜面に細い階段が造られており、一気に斜面の上まで登れるようになっている。

 上から下りたことはあったが、初めて下から登ってみた。

 斜面の中間部は草が刈られていて、地元の高校生たちがお花畑を作っていると誰かから聞いた。

 佇んでみると、ここからの眺めもそれなりにいい。

 放水路斜面の中間部には、ずっとテラスのようになった平地が続いている。これはまさに中間部の散策路候補だ。

 もったいないゾ…… 腹の中でそう思って空を見上げた………

 

 空に浮かんだ雲たちが自由に遊んでいる。

 オマエもたまにはのんびりしろと言われているみたいだ。

 この前医者にも言われたが、副交感神経を思い切り休ませてあげなさいと諭されているようだ。

 手持無沙汰なまま、とりあえず背伸びをしてみた。

 首をひねり、肩をぐるぐる回し、両腕を前後に振った。

 カラダの四分の三ほどを覆っている日常が、放水路の風に乗って空へと抜けていった……かどうか?

 

 階段を下り、また歩き始め、また放水路周辺について考え始めた。

 人造湖という湖も、いつの間にか自然の中の一部になっている。

 放水路もそれと同じではないか……と、短絡的に考えている。

 すでに数十年がたち、これからもこの放水路はこの土地に、さも当たり前のように存在していくのである。そして、この土地の象徴的な風景として親しまれてもいくだろう。

 そう思えば、積極的に風景としての放水路周辺を見つめ直すことにも意味がある。それ以上に、磨きをかけてやらなければならないかも知れない。

 先にも書いたが、風景ができあがるまでの物語なども紹介していかなければならないかも知れない。

 内灘は海だとずっと思ってきた人たちも、海ばかりでない内灘に目を向けてくれるだろう。

 「内灘・河北潟放水路周辺」というキーワードで再考か……

 

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 そんなわけで、蓮湖渚公園から放水路両岸の道を往復すれば約6キロの距離だった。あとは、海岸に出たり斜面の上り下りなどのおまけもあり、それらもそれなりによかったりする。

 道の駅もあるし、ちょっとクルマで河北潟干拓地まで移動すれば、牛乳やアイスクリームなどで大人気のH牧場さんもある。

 忘れてはいけない温泉「ほのぼの湯」も、きれいになってこの春再開される。

 砂丘台地の美しいニュータウン「白帆台」も、将来の生活設計のために見ておくことをお薦めしたい。

 最後は何だか町の定住促進キャンペーンや、不動産屋の広告みたいになってしまったが、サンセット・ブリッジや金沢医科大学病院のモニュメント的建造物も合わせて、このあたりには多面的な顔があふれている。

 あとは、文化を生み出そうというヒトビト的ココロ……かな?

 ということにして、ひとまず中締めとするのであった………

 

冬の朝の小さな奇跡

2011年12月24日の朝。

こういう言い方が正しいのか分からないが、クリスマス・イブの朝である。

冷え込み、目覚めると天気予報どおりに雪がうっすらと積もっていた。

土曜の朝でもあった。

いつもより遅く起き、階下の居間のカーテンを開ける。

そして、外の光景に一瞬目を奪われた。

そして、しばらくなぜこのような光景が起きているのかと考えた。

と言っても、ほんの数秒のことだった。

すぐに状況を飲み込むことができたのだ。

カメラを手にすぐに外へ出る。

わが家の方へと差し込む朝日は、ずっと東方へと目を向けた北アルプス北部の稜線から放たれてくるものだ。

富山平野の上空をまっすぐに伸びて、石川との県境の山並みも軽く通り越し、河北潟干拓地の平原上を経てやってくる。

夜明けからはすでに三十分ほどが過ぎていただろう。

朝の太陽は稜線の少し上へと昇っているが、それでも十分なくらいの鋭い角度で光を放っている。

その時の空は、ほとんど黒に近い濃いねずみ色に全体を被われていた。

そして、稜線上にはわずかな雲の隙間。

朝の太陽はちょうどその隙間の真ん中にいて、日差しを送ってきている。

遠く北アルプスの上空から届いた光が、わが家の後ろにある雪をかぶった斜面だけを照らし出し、暗い冬の朝に幻想的な光景を生み出している。

雪のついた電柱が光の中に立ち、電線もまた白くその存在を高めている。

しばらくして、周囲はまた一気に暗くなった。

太陽が雲の中へと吸い込まれていくようにして消えてしまったからだ。

もう寒さに耐えながら立っている必要もなくなっていた。

五分もいなかっただろう。

ただ、朝のほんのちょっとした光景だったにも拘わらず、どこか荘厳で異次元の世界にいたような気分だった。

 

冬になると、今でもこの写真をよく見る。

しかし、あれからもう何年も過ぎているのに、あの時ほどの美しい生の光景とは再会していない。

ときどき、それらしき朝すぐにカーテンを開けてみたりするが、なかなかああいう具合のシーンには遭遇しないのだ。

大げさだが、あれはわが家周辺における奇跡的光景だったのかもしれない………

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

雪は“どかす”もの

NHK昼のニュースが「大雪で地元の人たちは雪かきに追われ……」と伝えている。

しかし、テレビに映っているのは我々の地方ではない。

一月に入って、我々の地方ではわずかな雪しか降っていない。

我々の地方というのは、何を隠そう(と言うほどでもないが)北陸・石川である。

その北陸・石川のニンゲンが、わざわざ“わずかな”と言うのであるから、いくらかの申し訳ない気持ちがそこに含まれている。

つまり、山陰や滋賀の彦根や高島あたりでも大雪が降っているという状況に対して、雪のメッカ的地域であるはずの北陸がこのザマでは示しがつかない。

北陸のメンツに賭けても、雪にはしっかりと降ってもらわないと立つ瀬がない………?

そんな中、大雪が降った地域からのニュースが流れていた時、ふとあることに気が付いた。

正式には、古い話を思い出したというのが適切で、かつて『ポレポレ通信』なる私的小冊子を、周囲三百名ほどの皆さまにまき散らしていた頃、冬のある号に書いた話を思い出したのだ。

それは雪をスコップ(今はスノーダンプなど多彩だが)ですくい、そのまま放り投げたりする行為を何と呼ぶかということで、今から二十年以上も前、そのことについて深く考察(?)していた。

ニュースでは“雪かき”と伝えられていたが、ボクが当時取り上げた表現は、“雪すかし”についてであった。

たとえば、家人は昔から“雪すかし”という表現を普通に使い、ボクもいつの間にかそう表現するようになっていた。

そして、その当時は“雪かき”などといった上品な表現なんぞあり得ないと思っていたのだが、かと言って“雪すかし”についても文句なしに賛同していたわけではない。

実際にドカ~ッと降った雪の中でのその行為は、雪すかしでもピンとこなかった。

雪かきは、雪を熊手みたいなもので文字どおり掻き集めるみたいな感じだし、雪すかしについても、すくなどというのは空間を作っているだけみたいでイメージは軽い。

両者とも大雪に見舞われた人たちの重労働を理解した表現とは思えなかった。

そして、最近になって、あらためて思い出した言葉がある。

それは、“雪どかし”だ。

幼い頃から、ボクたちの周辺ではスコップで除雪することを確かにそう呼んでいた。

家人からは、そんなお下品な…などと笑われたが、たしかに我ら宮坂全ガキ連、もしくは麗しきゴンゲン森の少年たちの間では、“雪どかし”だったのである。

そして、そのことは冷静に考えてみれば、すぐに納得できることでもあった。

先にも書いたように、大量の雪、しかも我らの地域は湿った重い雪が定番だ。

その雪を扱うのに、“かき”も“すく”もありえない。

ズバリッ、“どかす”なのである。

そういうわけで、かなりチカラが入ったのであったが、最近の軟弱な冬のせいもあって、我々の地域ではまだ“雪かき”程度で済んでいる。

それを喜ぶべきかどうか、今でも雪が大好きなニンゲンとしては微妙なところなのである………

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

やはり “山里”を歩いているのだと思う

農村に対して漁村という言葉はあるが、山村に対する海辺の村を表現する言葉を知らない。

最近、山里(あるいは山村)歩きをかなり本気になって楽しんでいるが、そんな中から気が付いたことがある。

それは海辺に対して、山中にはかなり閉鎖的な印象があり、そのことがわずかな民家によって形成される、特有の村のイメージを作りやすくしているのではないかということだ。

ボクの目には、海辺の村はそれなりに家の数も多く、海に面している点で開放的に見える。

だから、山里のようなイメージは希薄なのだと思える。

山里が閉鎖的というのは、単なる地形的な面からの印象に過ぎない。

逆に言えば、こんなところにも人の生活(営み)があるという驚きと安堵みたいなものが、暖かい気持ちにさせてくれたりもするのである。

 

最近になって「里山」とか「里海」という言葉が多く使われるようになった。

前にも書いたことがあるが、ボクには「里山」より「山里」の方がピンとくるものがあって、ずっとこの表現を使っている。

そして、この言葉に対する「海里(うみざと)」という言葉がなかったことにも納得している。

今「里山・里海」という言葉を使い、山と海を同じ扱いにしようとしている背景には、「山里」をそのままにして「山里・海里」にしたのでは、後者が“かいり”という別の意味の言葉になるという、ややこしい事情があったのだろう。

特にどうでもいい話ではあるが、「山里」は山の中の村(人)に軸を置いた言葉であり、「里山」は村に隣接する森林などを意味する言葉だ。

大して変わらないようにも読み取れるが、後者には“かつて人と深い関わりがあった…”という意味深な形容が付いてくる。

そのあたりに、実は少し、いやかなり違和感をもつのである。

 

ボクの歩いているところには、人の息吹がまだまだ残っている。

水田があり、畑があり、水が引かれ、木も植えられ、墓が立ち、道の舗装が進み、時にはコーヒーのいい香りなども漂ってきたりする。

だから、ボクは間違いなく“「山里」歩き”をしていると思っている。

奥能登・珠洲蛸島を歩く

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奥能登・珠洲蛸島の入り組んだ町の中を歩いてきた。

暦で見れば秋も深まり、しかも能登半島の先端に近いとくれば、そぞろ歩きなどあまり適さないと思う人もいるだろう。

しかし、そんなことを言っていては能登の空気感は分からない。

粋がって言えば、これからが本当の能登の味が分かる季節なのだ。

と、やはり軽薄に粋がって言っているが、その日は特に肌寒さを感じることもなく、至ってのどかな、冬に向かう奥能登とは思えないほどの日であったことも事実だった。

クルマを旧蛸島駅前に止め、まず入っていいのかどうかさえはっきりしない、廃墟的なホームに出てみようと思った。

この小さな駅はかつての能登線終着駅だ。

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珠洲の街のはずれ(?)に、なつかしい黄色と黒の車両が置かれている場所があるが、この季節に見るとその姿はなんとなく哀愁を帯びていた。

ホームの方も今は当然草が伸び放題で、レールがその草の中から見え隠れしている。

しかし、その先に広がる畑地は、真夏、ここで下車した人たちの心を躍らせたにちがいないと思わせる広がりをもっていた。

この場所からは海は見えないが、海の匂いは十分すぎるほど感じられるからだ。

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詳しいことは忘れたが、蛸島(たこじま)という地名には、文字どおりタコにまつわる伝説があるらしい。

普通に考えれば、タコがよく採れたという話で済むのだが、人食い大ダコの話などもあって、やはりそうだろうなあと妙に納得したりする。

実は、一ヶ月ほど前、仕事で珠洲に来ていた。

そして、クルマで蛸島の町の中を慌ただしく見ていた。

もちろん初めてではなかったが、記憶に残っていた光景もほとんどなく、もう一度ゆっくり見ておこうと思っていたのだ。

駅舎の前から歩こうと考えていたが、クルマを港の方に運び、海辺から歩くことにした。

青空の中に白い薄い雲がたなびいている。

ゆるやかに、家々の屋根の上で踊っているようにも見える。

人の姿はなく、こちらも静かに細い道へと足を踏み入れてゆく。

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漁業や海運などでにぎわいを誇っていた雰囲気が漂い、立派な家屋の姿に目を奪われながら、知らず知らずのうちに先を急ぎたくなっていく。

今は閉められている風呂屋の玄関先に立つと、桶と手ぬぐいを手に、火照った顔付きで出てくる日焼けした漁師たちの姿が想像された。

流れが止まったような小さな川を渡ると、しばらくして勝安寺という寺のあたりに出た。

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一部に蔦が絡んだ廃屋の土壁に陽が当たって、一帯をより明るくしているように見える。

小さいながらも形のいい山門があり、その脇にこれも形のいい大木が立つ。

山門をくぐり境内に足を踏み入れると、のどかな空間が広がっていた。

再び山門をくぐって、そのまま直線的に高倉彦神社へと向かう。

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海沿いに建てられたこの神社では、日本遺産という「蛸島キリコ祭り」が行われ、能登で最も美しいと言われる16基のキリコが町なかをまわるのだそうだ。

そして、境内の舞台では、「早船狂言」という伝統芸能の披露も行われている。

境内のその先には草地を経て砂浜が見える。

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その先には当然日本海が静かに広がっていた。

この季節にしてはおだやか過ぎる海辺の気配に、ここが奥能登であるということを忘れるほどだ。

ぼーっと海を眺め、もう一度町の中の道へと戻り、しばらく歩いてから左へと折れた。

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このあたりの家並みも美しい。

空き地もそれなりに意味を成しているように思えてくる。

さっきの川をもう一度渡りながら、水面のおだやかさに、なぜか足を止めたりもしている。

この町の得体の知れない魅力(というと平凡だが)に取りつかれたか?

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それから後は、ただひたすら淡々と歩いた。

小さな家内工業の作業場があったりするが、人の気配には遭遇しない。

そして、それからしばらくして、ようやく狭い道端で午後のおしゃべりタイムを楽しんでいる、ややご高齢の女性二人組と出会うことになった。

夏であれば、もっとのんびりした空気感が漂っているのであろうが、暖かいとはいえ、やはり秋だ。

道端の段に腰かけている二人の姿にも、なんとなく少し体を丸める仕草が見える。

聞きたいことがあった。港の方に行く近道だ。

狭い路地は日陰になっていた。

「海はこの道まっすぐ行って、突き当ったら右やわ。それからはね……」

空き地を照らしている斜めの日差しが太陽の場所を想像させ、当然西の方向が海、つまり港の方になる。

女性は右に折れた後は、またまっすぐ行って、それから先はまた聞いてみてと言った。

歩いてゆくと、なんとなく日差しが明確になり、人に聞くこともなく海の方向が察知できた。

聞きたいと思っても、人影はなかったのだ。

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クルマを止めた辺りまで戻り、あらためて海の方を見る。

まだ十分に陽は差しているが、少し雲が出て、水平線から長く帯状に流れている。

船が係留されているところまで歩くと、わずかに風が冷たく感じられた。

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何年か前の夏、旧門前町の黒島という美しい場所で、能登地震によって傷ついた北前船主の館を復興する仕事に関わった。

仕事が終わりに近づいた頃の、暑い昼間、黒島の海に突き出た防波堤をずっと歩いてゆき、その先端あたりから黒島の町を撮影した。

そこは、かつて突然の嵐に見舞われ、海草採りをしていた地元の人たちが命を落とした場所だった。

海の中の岩場に供養碑が建てられていた。

そして、本当はそれを撮影するのが目的だったのだが、撮影後に見た陸地に広がる黒い屋根瓦の町に目を奪われた。

ただ青いとしか言いようのない空と、その下に広がる緑と、段違いに組み合わされた屋根瓦が美しかった。

海岸から数百メートルといった防波堤からでさえそうなのだから、漁から帰ってきた漁師たちが見る“自分たちの町”の美しさは格別だろうと想像した。

蛸島も同じだろう………

防波堤の先まで行く時間はなかったが、ほとんど波打つこともない港の水面を見ていると、気持ちが空白になっていくのが分かる。

それからしばらくして、蛸島の魅力とは何だろうか?と、俗っぽいことを考えている自分に気が付いた。

なかなか答えの糸口が見えなかったが、最近ちょっと、それらしき光明が見えてきた気がしている。

きりのない話だが、そんなことを考えてしまうのも、“日常の中の非日常的楽しみ…?” のひとつなのだ………

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秋は山里歩きなのであった

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自分の住んでいる内灘という町と、河北潟干拓地でつながっている津幡という町は、石川県河北郡に残った二つの同朋みたいな町である…と、勝手に思っている。

残ったというのは、かつての河北郡にはさらに三つの町があったのだが、その三つの町は徒党を組んで?「かほく市」という新しいグループを作り、我々から離れていったからだ。

当然残ったのには妥当な理由があり、何といっても内灘と津幡は他の三つの町よりも財政的に余裕があり、ステータスも高かったからだ…と、勝手に思ってもいる。

しかし、内灘と津幡には大きな違いがある。

それは、内灘が日本海の海岸線に沿って伸びる砂丘台地上の小さな町であるのに対し、津幡は富山県や他の市町との境をもつスケールの大きな町であるという点だ。

だから、ボクにとって津幡は果てしなく冒険心を煽る町である。

山里が深く続いていて、その風景の大らかさにいつも癒されてきた。

きっかけとなったのは、瓜生(うりゅう)という地区を訪れたことだった。

輪島市門前にある總持寺ゆかりの、峨山という名僧の生まれたところが瓜生であり、門前で建設された「櫛比の庄・禅の里交流館」という資料館の展示計画をやっていた時、瓜生まで石碑の撮影に出かけた。

予想をはるかに越える深い山里に入っていき、最後はこの先クルマは入れないといった感じのところまで行った。

田んぼや畑には人影はあったが、たまに見る家屋の周辺では全く人を見ることはなかった。

初めてが仕事絡みだったせいか、その後にゆっくりと山里の空気感に浸りたくて休日にも出かけるようになる。

そして、津幡の山里の不思議な魅力に少しずつ惹かれていったのだ。

廃校になった小学校校舎や、その向かいの高台に上って眺める風景なども気に入った。

ゆるやかな起伏が続く水田と畑が広がった丘陵地なども、大好きな眺めになった。

そして、いつの間にか、そんな風景の中を歩いてみたいという思いが生まれてきた。

前置きが長くなったが、今回のKという地区の周辺も、そんな中で好きになった場所だ。

このあたりは、午後から出かけ、太陽が西に傾いていくのに合わせながら、風景の変化を楽しむのに適している。

人の生活感が漂う山村よりも、自然だけの山里の方が歩くのには気軽でいいと思っていたのだが、いつの間にか、そんなことに気を使わなくなっている。

もともとの好きな風景にはいつも人家の存在があったようにも思う。

ただ、遠望として見る方に傾倒していたに過ぎない。

ところで、最近は水田や畑の中の道でもほとんどが舗装されていて、土の上を石や草を踏みながら歩くことが少ない。

軽トラが走れるように、そして機械が入れるようにと道は固められている。

しかし、そんな舗装の道もひび割れなどが激しくなると、それがまた自然の中の風景のように見えてくるからおもしろい。

今回歩いた道は、緩い登りをゆっくり三十分も行けばキャンプ場に出る。

夏にはにぎわうのかも知れないが、11月の初めともなればまったく人の気配はなく、池に冬鳥たちが浮かんでいるくらいしか生き物の存在を感じない。

そんな雰囲気の中、あちこちに目を向けながら歩いている自分の姿を第三者の感覚で想像すると、妙に落ち着けなくなったりもする。

いつもの、自分がなぜここにいるのかを説明しなければならない的症候群に襲われたりもする。

ここでもしクマに襲われたりしても、自分が悪いだけで、山でよく考えていたクマの目を指で刺し、その隙に逃げるといった意味不明な作戦までも考えている。

しかし、あたりは静まり返ったままで、そのうちススキの穂先に差し込む陽光にぬくもりを感じたりして、ほのぼのとしてくるのだ。

登りの道に架かった水道橋や、道から見下ろしたところにある小さな池とそのほとりに建つ小屋、そして、そこから視線をわずかに上げたところに見える枯れ木たち。

楽しませてくれるものはいっぱいある。

西日の角度が徐々に強くなるにつれ、山里の家並みがより浮かび上がってきた。

影が濃くなり、畑の畝ひとつひとつも鮮明になっていく。

とにかく説明のつかない何かに惹かれながら、なぜかこうした道を歩いている。

そして、不思議だが、とてつもなく満たされている………

瓜生(うりゅう)までの道

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白山麓~ 尾口の想い出話

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白山麓の最奥部・旧白峰村の一つ手前にあったのが、旧尾口村である。

季節がはっきり夏から秋へと切り替わった頃、久しぶりに出かけてきた。

尾口は、白山麓の1町5村の中でいちばん思い入れが強かった地域だったかもしれない。

仕事でお付き合いさせていただいた人たちへの思いも、それなりに深かったような気がする。

白山麓の1町5村では最も小さな自治体であり、そのことがどこかに親しみみたいなものを感じさせていたのだろう。

頻繁に出向いていた頃の村の人口は、800人ほどだったのではないだろうか。

しかし、接点を持った人たちは皆、高い地域感覚とやさしさを持ち合わせていた。

そんなひとりが、Mさんだ。

今は道の駅になっている、瀬女(せな)の施設の仕事がお付き合いの始まりだった。

地元の伝統工芸であった桧細工で、大きなオブジェを天井から吊るしたいという提案をした。

それを喜んでくれたのが、当時村の収入役であったMさんで、すぐに協力していただけることになった。

Mさんが連れて行ってくれたのは、地元の名人だった深瀬地区のKさんという方のお宅で、お会いした早々そこで意外な事実が判明した。

実はKさんはその何年か前まで同じ会社で働いていた女性社員のお母さんだったのだ。

そんなこともあってか、Kさんはいろいろと無理を聞いてくれたが、最後まで制作費用を受け取ってはくれなかった。

それまで作ったことがないというとんでもない大きな作品だったにも関わらず、しかも打合せにお邪魔するたびに、養殖されていたイワナの稚魚の甘露煮(だったと思う)をどんぶりに一杯いただいていたにも関わらず…だ。

それにしても、あれはとても美味だった。

一緒に行った若いデザイナーたちがどんどん手を伸ばしていくのですぐになくなるのだが、打合せをしながら指をなめていたあの時のあの味は忘れられない。

Kさんの家は白峰に通じる国道沿い、手取川を見下ろす谷間の傾斜地にあった。

かつての深瀬の村は、道を下った川の底に眠っている。

昭和53年(1979)に完成した手取川ダムによって水没していた。

当時、村には50戸あまり、200~300人ほどが暮らしていたというが、多くの人たちが旧鶴来町へと下りている。

残ったのは5戸だけらしく、Kさんの家もこの土地を離れなかった。

イワナの養殖と関係があったのかは分からないが、同じように水没した白峰の桑島地区では、地区ごと高台に移り住んだような印象があり、深瀬はその点やはりどこか寂しい感じが拭い去れなかった。

制作途中を広い居間で何度か見せていただいた。

夏だったと思うが、涼しい風が吹き抜けていたような記憶がある。

そして、素晴らしい作品が出来上がっていったのだ。

それはどこかに力強さや逞しさみたいなものを匂わせ、普段はやさしい表情のKさんが作り出しているということを忘れさせた。

Kさんの畳の上に広げた作品を見る表情が印象的だった。

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桧細工のオブジェが吊るされたその施設では、地元の産物が並べられ売られた。

二階は狭い空間だったが、地元出身の画家の作品を展示した。

そして、仕事はとにかく楽しかった。

現地にいる間には近くにカモシカが現れたり、サルの集団が木立を揺すったりして野性味にあふれた毎日が続いた。

工事で掘り出された岩を、知り合いだった業者の親方に頼んで家まで運んでもらったりもした。

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尾口村との付き合いは長く続けさせてもらった。

白山麓全体を一つの観光エリアとして建国された「白山連峰合衆国」のサイン計画にも関わっていたおかげで、とにかく頻繁に山域に入ることが多かったのだ。

自然はもちろん、季節ごとに空気感が変わっていく小さな集落の情景を見るのも好きだった。

すでに金沢市内に日常の住まいを移しておられたMさんが、実家があるという尾添という地区の話をしてくれたことがあった。

そして、それからしばらくしたある日、その尾添にいた。

真夏の強い日差しが地区の中の坂道を照らしていた。

Mさんの言葉どおり、本当に静かだった。

誰一人ともすれ違ったりはしなかった。

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今回も尾添でクルマを止め、ぶらぶらと地区の中を歩いてきた。

秋らしい(?)花が咲き、栗が道端に落ちていた。

実がしっかり入っているものもあり、そのまま拾っていってもいいのだろうかと思ったりしたが、さすがにそこまではしなかった。

とちの実が干されてあったり、野菜を洗うための水道(地下水だろう)が出しっ放しになっていたりと、生活の匂いがある。

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下った先にある神社には、終わったばかりの祭りの残り香も漂っていた。

せせらぎの音が聞こえている。

この辺りも、人形浄瑠璃「でくのまい」の芝居小屋がある東二口、さらに女原(おなはら)なども、山村らしい独特の空気感をもつ。

相当前だが、生暖かい強風が吹き荒れるこのあたりの道で、黒い大きなヘビを見たことを思い出した。

木々の枝が揺れ、葉っぱが舞い、草が波打っていた。

その中を緩く動いていくヘビの表面が、異様に渇いているように見えたことも思い出した。

夜には台風が通過するという日の午後だった。

自分には、山里などという言葉に対して異常なほどに反応するセンサーが備わっていると、ずっと思っている。

最近さらにその感度が高くなったような気もしている。

旧尾口村の中の小さな情景は、まさにそんな自分にとってのモチーフみたいな存在となっているのかもしれない。

 

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白山麓~ 白峰の想い出話

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かつて白山麓には一つの町と五つの村があり、最も奥にあったのが白峰村で、その手前が尾口村であった。

そして、そのあたりは山麓というよりは、もう山域の奥深くに入ったような場所で独特の空気感を持っていた。

もちろんその空気感は今も変わらないが、白山市という、ごくごく普通の地名の中に吸収されてしまってからは、以前のような特異性を感じなくなった気がして少し寂しい。

思い出すと懐かしい。三十年以上も前、真冬の白峰村役場を朝一番に訪れた時、開口一番に言われた(怒られた)のが、「N居さん、このあたりをなめたらダメやわ」という一言だった。

不覚にも「短い靴」を履いていた。一応、ビブラム底のゴツイやつだったのだが、役場のYさんの目には問題外の装備に映っていた。

その朝は前夜からの雪で、白峰の村には一メートルほどの新しい積雪があった。金沢を出る時にも当然雪はあったのだが、全く次元が違っていた。

Yさんが村の中の道を、雪を蹴散らすようにして歩いていく。ボクは、その後ろを雪を踏むようにして歩いていた。

その時に見たのが、二階の屋根まで伸びた、大きくて無骨な梯子だった。

多くの家が軽量なアルミ製の段梯子というのを家屋に固定していて、いつでも屋根の雪下ろしに上がれるようにしてあったが、そんな中に丸太を縦に切り分け、その間に太い鉄筋を何本も嵌めて作られた梯子を目にした。

すでに使われていないようにも見えたが、まるで家そのものを支えているように堂々としていた。

地元の山で切り出したトチの木で作られているらしいと聞いた。そんな話が雄々しさを一段と高めるような気がして、しばらくその梯子を見上げていた。

それから、この梯子の階段の部分も、昔はトチの木で作られていたなどという話を聞き、興味はますます高まっていった。

形状が上から見ると「H」の変形になるなあとか、どうでもいいようなことまで考えたりするようになり、この地域の村並づくりのサイン計画に関わった時には、この梯子の特徴をデザインに反映させたら面白いだろうなあと思ったりしていた。

白峰は、言うまでもなく白山登山のメインの入り口である。

ボクにとって、二十代の馬力だけで山を登っていた頃には白山は対象外の山だった。

初めて登ったのが春の残雪期で、その後もずっと雪のある時季だけ、それも日帰りの単独山行だったような気がする。

それから夏に二度ほど、珍しく山ビギナーを連れて登ったが、また北アルプス中心の山行へと戻っていき、そのまま白山はあまり感慨のない山になってしまった。

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話がそれたが、白峰の、特に白峰地区にはまだまだ特有の個性が残っていて、歩いていても楽しい。かつて白峰型住宅(だったと思う)と呼んで整備された家々が美しい村並の風景を作っている。

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その間に建つ寺院なども立派で、全国に広がった白山信仰の起点らしい風格がある。

家々の前に吊るされた屋号が記された札などもいいアイデアだ。

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最近ではスキー場がダメになり、総湯が移転して様子が変わったが、名物の「とちもち」は相変わらず美味い。若い頃には一パック買って、昼飯にしていた。

もう一つの名物である堅豆腐を使った「堅豆腐かつ丼」なども、新しい白峰の味になっていてかなり満足できる。

ボクとしては、特に後者が非常に気に入っているのだ。

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白峰からは、前述のとおり白山登山の入り口となる市ノ瀬・別当出合へ向かう道が伸びているが、もうひとつ福井の勝山へとつながる立派な道も通っている。

最近では高速道路を使うことが多くなってきたが、かつては勝山の平泉寺はもちろん、永平寺に行くのにもその道を利用していた。

10年以上も前だろうか、石川県の仏壇に関する仕事をさせられていた時、白峰のあるお宅を数人の調査団(?)で訪問したことがある。

そして、そこで見せていただいた仏壇の立派さに皆驚かされたが、それ以上に心を打ったのは、その仏壇をかつて勝山の里から峠(谷峠)を越え、白峰の自宅まで担いで運んできたという、信じられないような話だった。

仏壇を運んだという何代か前のご当主の写真が座敷に飾られ、その時に使った背負子も床の間に置かれてあったと記憶する。

峠を越えて村に近づくと、村人たちは道沿いに並んで読経し迎えたという話も聞いた。

強力(ごうりき)という山男たちのことを知っているが、やはり白峰の山男も凄かったのである。

あの梯子と、仏壇を背負って峠を越えてきたという男……

どこかに共通するものがあるように思う。

白峰にはさまざまな出合いがあったが、やはり「このあたりをなめたらダメやぞ」の魂が、どこかにしっかりと根ざしている、そんな気がするのだ………

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井波の小散歩と小雑想

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富山の井波といえば、よく知られた彫刻の町だ。

最初に立ち寄ったのはまだウラ若き青年の頃だったが、二度目か三度目あたりの、やや埃をかぶった世代の頃には、余裕も持って近くの高瀬神社に寄ったりもしてした。

ただ、立ち寄ると言っても、大抵ぶらりと来てしまったというケースが多かった。

井波の町の面白さを知ったのは、仕事絡みで訪れるようになってからだ。

それはやはり地元人との出会いがあったからで、そのおかげで一気に井波ファンになっていた。

いずれも彫刻家で、いずれも面白い話を聞かせてくれる人たちだった。

工房にお邪魔して話を聞いたり、井波の代名詞である瑞泉寺の隅々までを案内してもらったりと、その人たちとの出会いがなければできない経験もさせてもらった。

特に瑞泉寺の中の見学は楽しい時間だった。

それからもちょっとした仕事にかこつけて、ぶらりと訪れたりすることがあり、仕事を片付けた後、町の中を無作為に歩くことが多くなった。

メイン通りはほとんど通らず、裏道から裏道へと狭い道を歩く。

瑞泉寺の横に城があったことはそんな時に知った。

一向一揆の拠点であった瑞泉寺が佐々成政に攻められ、その後その家臣によって寺の横に小さな城が整備された。16世紀の後半、まだ戦国時代のことだ。

その後、その城は前田利家によって取り壊された。

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9月中頃のある日の午後、近くまで来ていたのでまた井波の町に寄った。

豪壮な瑞泉寺の山門は見るだけにして、石垣沿いの道を左に行くと、石垣はすぐに終わるが、石と石の間にきれいな花が咲いていたりして、山里の空気感を味わいながらの散策を始める。

井波のメインストリートであるそこまでの参道は、ただ何も考えずに歩いていた気がする。

右に折れてから、高台の方へと緩い傾斜を登っていくと、すぐ先に、大きな神社へとつながる石段が見える。井波八幡宮だ。

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道はYの字型になって左右に分かれていくのだが、その間の石段の前に立つと、鳥居越しに堂々とした社殿が見えてきて、深呼吸などをする。正しく気持ちが引き締っている証拠だ。

境内に入ると、鬼気迫る表情の狛犬に目がいく。

いろいろな狛犬を見てきたが、ここの狛犬は独特の個性を持っている。

タイトル写真にあるように、苔だけではなく、体のあちこちから草が生えていたりしているのだ。

“ガラパゴスから来た狛犬”と名付けたが、なかなかのネーミングだと自画自賛した。

白いクルマが一台止められているが、人の気配はない。

本殿にお参りし、それほど広くもない苔に覆われた境内を歩き、脇から抜けた。

右手が石垣、左手が板塀になったいい雰囲気の道がある。

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石垣の方には門があり、中に入ると臼浪水(きゅうろうすい)と呼ばれる霊泉がある。

瑞泉寺の名前はこの湧水からきているとのことだ。

これといって特別な思いもないが、道に戻ると曇り空の下の空気が少し冴えてきたように感じた。

まっすぐ前が古城公園と呼ばれ、二の丸の跡らしい。

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ヤマトタケル(だと思う)の立派な像が、周囲とうまくバランスを取りながら建っている。

それにしても静か。初めてではないのに、なぜか新鮮な感覚に陥っている。

一応、奥に建つ招魂社まで足を運び、そのまま戻ることに。

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途中、太い幹をまっすぐに伸ばした大杉が立っている。

周囲はやはり城跡であることを思わせる石垣や土塁が続く感じで、家々の間の空き地にも特有の空気感が漂っている。

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さらに行くと、井波らしいアートとして創られた彫刻が置かれた公園がある。

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ようやく犬と散歩する高齢の女性と出会った。

こんにちわと、よそ者である自分の方からあいさつすると、やさしい笑顔で答えてくれた。

やはり文化度の高い土地の人たちには気品があるなあと、知ったかぶりで感心する。

思わず足も軽くなったように感じたが、逆に言えば、よそ者であることに強い自覚が生まれて、その場を早く立ち去りたいという気持ちになったのかもしれない。

特に観光客などがあまり足を運ばない所でのよそ者は、なぜ今自分がこの場所にいるのかを説明しなければならないような思いを抱いてしまう。

このことは自分の中での永遠のテーマ(大袈裟だが)みたいなものだ。

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今は南砺市という括りでまとめられたこの地域には、個性的な町が多い。

五箇山から白川、さらに荘川、そして郡上八幡へと繋がっていくのだから誰も文句は言えない。

ある意味、日本を象徴するエリアなのである。

道そのものもそうだが、その道から少しそれていくと現れる素朴な風景にも、飽きない面白さがある。

ただ、そうした場所には、もう一度行こうかと思っても、なかなか行けなかったりするから厄介なのだ。

このあたりに来ると、まだまだ自分には知らない風景や、味わったことのない空気感が残されていることをいつも思う。

そして、若い頃にやたらと感動していた山域の風景にもう一度出会いたいと、自分に熱いものを吹き込もうとしたりしている。

その日の帰りは、瑞泉寺の前まで戻りはしたものの、参道は下らず、もちろん境内にも入らず、そのまままっすぐ進み、途中から右に折れて家々の間の道を歩いてきた。

空は曇ったまま、空気はいつの間にかまた静かに湿気を含み始め、町なかがひんやりと、そしてしっとりと落ち着いていく感じがした。

自分の最も好きなスタイルに近い町歩きが、ここ井波にもある。

それはどんな小さなカタチでもよくて、ただ歴史の匂いと素朴な風景と人の生活感があることだ。

あらためてそんな思いを抱きながら、駐車場のトイレに立ち寄り、井波を後にしたのである………

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甲州ブドウが信玄本を導く

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大河ドラマ『真田丸』で、ついに真田昌幸が死んだ。

(タイトル写真は真田昌幸 『戦国大名武田氏の家臣団』より)

幻覚の中、馬の嘶きと近づいてくる蹄の音に起き上がり、「おやかたさまァ」と叫んだ後、そのまま息を引き取るという、グッとくるような演出であった。

草刈正雄の野性味の効いた演技もよかったと思う。

死に場所は真田からほど遠い九度山だったが、信濃の山野を駆け巡った戦国武将らしい最後だったようにも感じられた。

そして、昌幸が叫んだ「お館様」こそが、あの武田信玄であり、信玄によって戦略家・智将としての才能を開花された昌幸の、信玄への思いがあの場面に描かれていたのだ。

ただ、このあたりの背景表現については、『真田丸』は全く中途半端だったのではと思う。

昌幸は七歳の時に信玄のもとへと人質に出されている。

つまり、真田は元来、信玄から本当の信頼を得てはいなかった。

しかし、信玄は昌幸を大切に扱った。

その結果、昌幸は信玄の下でその才能を開花させ、国衆の三男坊から武田家譜代の家臣として取り立てられるまでになる。

信玄が死んだ後も、武田と真田のために踏ん張った。

本気で甲斐の国を再興させようとしていたのではないか………

と、ここまで書くと、ついこの前、武田信玄について書いていたのに、またその話かよ~と思う人もいるかもしれない。

今頃、気がついても遅い。実は、そうなのである。

しかし、今回はむずかしい話ではない。

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今年もまた、山梨県甲州市勝沼に住む親友Mからブドウ便が届いた。

9月のはじめ、いつもよりちょっと早い到着であったが、今年は猛暑のせいか収穫が少し早くなったらしい。

いつも畑で採れたものをすぐに箱詰めして送ってくれるもので、柄の部分はきれいな緑色をしている。

もちろんバツグンに美味い。

持つべきものは、よい友だちだ… ついでに書くと、静岡県三ケ日のみかん農家の次男坊も学生時代の親友で、こちらも初冬には採れたてが送られてくる…………

信玄本の記事

それで、今回勝沼から届いた箱の中に敷かれていた地元・山梨日日新聞。

いつもこういう新聞には必ず目をとおす。

土地柄のニュースが載っていたりして、なんとなく楽しい気分にさせてくれるからだ。

そして、今回も興味をそそるニュースが載っていた。

地元ゆかりの出版物を紹介する記事だ。

まず、「武田家臣団の構造解説」という見出しに注目させられ、丸島和洋氏の名前も目に止まった。

丸島氏と言えば、武田家と真田家に詳しい研究家だ。

『真田丸』の歴史考証も担当している。

これはすぐに買い込んで、読まねばなるまいと気持ちが昂る。

そして、すぐに買ったが、正直言うと、こちらの書店にはどこにも置いてなく、通販を利用させてもらった(なぜか、通販だと何となく申し訳ない気持ちになるのである)。

すぐに読みたかった。

二十代の頃、武田信玄に関する本をひたすら読み込んだが、その時の衝動が甦ってきた感じだった。

噛りついて読んでいるわけではないが、じっくりと今も読み続けている。

ところで、『真田丸』を見ていて感じる人もいると思うが、主人公の信繁(のちの幸村)と同じように、昌幸の方も面白い物語になると思うのである。

本音で言えば、昌幸の方が信玄との絡みが多くあって戦国の物語としては絶対内容は濃くなるはずだ。

秀吉やら家康、その周辺には深いストーリーが感じられない。

だから、幸村のようなヒーローが出来上がったような気もする。

秀吉・家康なら、今回のようにコメディっぽいのがちょうどいいくらいで、今回もそれが面白い要素になっていたりする。

まあどちらにしても、勝沼のブドウが一緒に届けてくれたような一冊の本が、今は実に愛おしく、ときどき気持ちをぐっと引き上げてくれるような気がして嬉しいのである…………

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秋のはじめのジャズ雑話-2

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『POPEYE』の9月号が、「ジャズと落語」という特集を組んでいて、能登へ仕事で行った時に、トイレを借りに入った商業施設の中の書店でほぼ衝動的に買いこんだ。

眠い目をこすりながらも、ゆっくりと時間をかけて(なかなか読む時間もなく)読んでいくと、それなりに面白い。

ジャズと落語は同時に聴けないが、スタンダードなひとつの曲が演奏者によってさまざまに変化していくような要素などは、落語にも共通する楽しみかも知れない・・・などと書いてある。

どこかのページに誰かも書いていたが、ボクもやはりジャズ喫茶の大音量の中で、じっくりと本を読むという時間が好きだった。

音がうるさくて本など読んでいられるかという理論(というほどもないが)は、ジャズ喫茶の中では通用しない。

むしろジャズという音楽がつくりだす空気感は、すぐれた文章の抑揚などとも合っていたのかもしれない。

もちろん声を発するのは厳禁だった。

70年代初め頃のジャズ喫茶は大音量が当たり前で、ボクはそうした中、外見からは想像できないような近代の純文学を読み耽っていた。

今から思えば、明治の青年たちの苦悩みたいなものを、ニューヨークの黒人たちが、自由と束縛との葛藤の中で創造する音楽に浸りながら理解しようとしていたわけだ……

そんな大げさな話でもないか。

特に吉祥寺の老舗「F」が多かったが、たまに新宿の「D」などにも出かけた。

「F」は密室に近い空間で、視野に入ってくるスピーカーの図体を見ただけで怖気づくが、「D」はそれに比べるとややのびのびとしたイメージがあり、好きなレコードがかかると思わずちょっと足を鳴らしたりする。

すると、店員さんがこっちを向いて、人差し指を口にあてる仕草を見せるのである。

「D」に入る時は、だいたいすぐ近くの紀伊國屋に先に寄っていて、真新しい文庫本なんぞを持っていた。

そうした一冊を、「D」で読み始めるという楽しみ方もあったのだ。

ところで、POPEYE-9月号を読んでいて最も意気消沈したのが、JJこと植草甚一の本についての記事だ。

そこに紹介されていた10冊ほどの著書は、学生の頃にすべて持っていたはずだったが、今はどこへ行ったのか分からないでいる。

そんな部類の本などは無数にあり、今になって、もう一度読み返したいなどと都合のいいことを思ったりするのだが、当然それはできない話になっている。

最近よく、ある時期から自分の中に“無風期”ができていたのだなあということを思う。

無風期というのは、文字どおり何の楽しみもない平凡な時期とで言おうか。

そういう時期に、大切なものがどんどん自分から離れていったような気がしている。

偏屈ともとれるコダワリみたいなものが、日々を愉快にしていた。

時々、少しでも戻ってみようかなという思いがふっと湧いてくる。

ジャズと本読みも、そのシンボル的存在の一部なのだが、別にそれらに限っているわけでもない。

以前にも書いたことがあるが、60歳を過ぎて感受性にまた火がつくというのは本当なのだ。

ところで、ジャズと落語なのだが、無理やり接点を求めようとすると、どこか言い訳じみて納得感が生まれない。

お寺やお茶屋さんでジャズをやったりしていることと、同じようなことを言われても、100パーセント同調できないし、見た目ではない部分がやはり大切な要素なのだろうと思う。

ジャズも好きだし、落語も好き。それでいいのでは…ということにする。

そんなわけで、今更モダンジャズがどうのこうのと語ったりするのもいやだから、キースの『生と死の幻想~Death & Flower』に身を委ねつつ、かつて、志ん生の「火焔太鼓」に爆笑していた自分を振り返ったりしているのである………

秋のはじめのジャズ雑話-1

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前にも書いたことがあるが、久しぶりにまたマイルスが聴きたい症候群がやって来て聴き込んだ。

一年に数回か… こうしたことが起きる。

9月の金沢ジャズストリートに、再びチック・コリアが来るというニュースを聞いたのはかなり前のことだったと思う。

今回はトリオ編成だし、ニューヨークの若手を連れてくるのだろうから行ってみようかなと思っていたが、8000円と聞いてやめにした。

そこまで払って行く気はしなかった。

ギターのリー・リトナーも来ていたが、昔、渡辺貞夫と来た時に聴いたことがあって、関心はありつつ、結局チックに行かずにリトナーだけ行くというのもなんだからとやめにした。

チックのコンサート時間には、家で昔の演奏を聴いていた。

少なくとも今よりはるかに若いし、しかもベースはミロスラフ・ヴィトウスで、ドラムスはロイ・ヘインズだから見劣り、いや聴き劣りはしない。

それどころか、圧倒的にこっちの方がいいに決まっているだろうと音量も高めにしてライブ感を出し、かなりのめり込んで聴いたように思う。

その後、続けてサークル時代のパリ・コンサートを聴いたが、「ネフェルティティ」だけ聴いてやめた。

何となく空虚になり、その後は一転して(?)なぜかレスター・ヤングになったのだ。

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ジャズストリートがあった9月の連休最終日には、朝から『巨匠たちの青の時代』(NHK-BS)の再々(だったと思う)放送があって、これもまた久しぶりに新鮮だった。

ジャズの巨匠と言えば、マイルス。

いや待て、エリントンもパーカーもコルトレーンも、ロリンズもかと心は揺れ動いたが、やはりマイルスだった。

マイルスについては、2003年に金沢でぶち上げたイベントの企画をとおして、かなりの研究家(もどき)になっていたが、その時に仕込んださまざまなデータも、今はもうテーブル板の下に眠っている。

ただ、その時の多様な出来事は、私的イベントとしての自己ベストに位置づけられる。この雑文集にもその時の話は何度か書かせてもらった。

ボクが最初にマイルスにやられたのは、『フォア&モア』の、「ソー・ホワット」と、間髪入れずの二曲目「ウォーキン」だ。

急カーブを、タイヤを軋ませながら走り抜けてゆく… マイルスのトランペットソロはそんな感じで、ジャズ少年の血を燃え上がらせた。

まだ高校生になったばかりで、ジャズを聴き始めて二年目くらいの頃だったが、最初に出会ったコルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」以来の衝撃だったと思う。

とにかくそれから後はマイルス中心に聴き込んでいったような覚えがある。

話はテレビの方に戻るが、番組の最後に流れたマイルスの最後の演奏と言われる「ハンニバル」は、一時周辺でも話題になった記憶がある。

ボクは正直どうでもよかったが、音だけ聴いていると、やはり何となく押し寄せてくるものがあって… 切なかった。

駆け出しの頃のマイルスが、憧れであったディジー・ガレスピの演奏スタイルから離れ、自身のスタイルを創り上げていく…… その物語がぼんやりと思い起こされる音だなと思えたのも事実だった。

マイルスは、少年時代に森の中(だったか)で聞いた女性の歌声が自分にとって永遠に求めていた音だったと語っていたらしいが、そんな話はなんだかマイルスらしくない(と、ボクは勝手に思っている)。

マイルスは反骨もあったし、だからこそ力強いビートも求め、アフリカ的な音世界に自分を置くなどして、空に向かい(70年代にはよく下を向いていたが)叫び(吹き)まくっていたのだとも思う。

高校時代、授業中にマイルスの音楽についてノートに書き綴っていたことがある。

今でも覚えているが、『ビッチェズ・ブリュー』の中の「スパニッシュ・キー」という曲について、リズムがリズムだけでメロディにもなり、リズムだけで強いメッセージになっている。さらに、曲全体をとおして高まったり抑えられたりしていくサウンドに、どこか遠い世界へと連れて行かれるような錯覚を覚える………と。

こんな生意気なことを本当に思っていたのであるから、ボク自身の当時の感性もそれなりのものだったのかもしれないが、かなりはっきりと覚えているから衝撃も大きかったのだろう。

ちなみに、マイルスのトランペットはタイトルどおりスペイン的であったが、ボクが想像した遠い世界とは、当然?アフリカであった……

※マイルスの雑文は、以下でも書いている。

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

語りながら自分を振り返る

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8月最後の休みの日、能登のN町U公民館で語る機会があった。

小さな会の少人数の場であったが、与えられたタイトルが男の趣味を云々というカッコよすぎるもので初めは躊躇した。

だが、地元の古い知り合い・Sさんからの要請でもあり、やらせていただくことにしたのだ。

かなり前のことだが、N町のあるプロジェクトに関わらせていただいた。その後、隣の町村と合併し町は大きくなったのだが、本質は変わっていないと思っている。

そのプロジェクトの時の町の担当者が、現在のU公民館長であるSさんだった。

静かに故郷を見つめる、素朴な姿勢が頼もしかった。

役場を退職後、今はあごひげを実にかっこよく伸ばし、渋みを増している。

U公民館は、図書館や観光情報センター、特産品の販売ショップなどが一体化された施設の一画を占める。

 

趣味の話など、ひたすらN居さんの好きなようにやってもらえたらいいんですよ………

最初に電話をもらった時、Sさんがそう言った。

そう言われても、戸惑うのは当の本人だ。

公的にはたまにやってきたが、私的一本でいいと言われたことはない。

たしかに公的にやっていても、終わる頃になると、私的な匂いに包まれていくというパターンもあった。

だが、私的でいいというのは、やはり申し訳ないというか……

最大の理由は、自分の“品質”で、そうした堅気の皆さんのお役に立てるのかどうかという疑問である。

かつて、“私的エネルギーを追求する!”などと吠えていた時代、周囲にいたニンゲンたちは、自分のことをそれなりに知ってくれていた。

だからそれなりに好きなようにやってこれたのだが………

最近、特に感じていたことがあった。

この雑文集を読んでいただいている人たちからの突然のメールなどに、やっぱり文章が自分の基本だなと思うようになっていたことだ。

できれば多くの人たちに読んでもらいたいが、それと同じように、自分でも死に近づいた床の中で、じっくりと読み返してみるのもいいなあと思うようになった。

とにかくなんだか急に、そして、おかしなくらいに「自分回帰」(大袈裟だが)みたいな思いが湧いてきていたのだけは事実だった。

そして、今回N町での話のテーマは、こうしたことに対する自分の気付きから始まったと言っていい。

このサイトの中にある「自記・中居ヒサシ論」という長文プロフィールの中から、わずかに話をピックアップし、仕事の上での「黒子」という立ち位置から離れた、自己表現の場としての「書く」という世界にのめり込んでいった経緯などを取っ掛かりにした(またややこしいことを書いている…)。

 

本題に入る前、「最近、自分という存在の、その一部を自覚させてくれる出来事がありました…」と、ややまじめに切り出す。

それは自分がかつて書いていた、稲見一良という作家に関する話に触れられた方からお便りをいただいたことだった。

素晴らしい経歴をもつその方からの言葉が、何か刺激のようなものをもたらしたように感じた。

稲見一良という作家に共鳴した自分の感性をストレートに理解してくれる人がいたということなのだが、その作家自身の、そして作品自体の魅力について、この雑文集の中以外で、あまり誰かに語ろうとしていたわけではなかった。

無理に「大人のココロ」を持とうとしていた少年が、そのまま中途半端な大人へと成長し、そして、さらにその中途半端さに磨きのかかった大人へとハマり込んでいく中で、初めて自分の中の「少年のココロ」に気が付く……

これは今の自分のことである。そして、そんな人生の機微(の一部)みたいなものを、稲見一良の作品は教えてくれていた。

そして、話は進んだ。

稲見一良だけでなく、辻まことや椎名誠、そして、星野道夫など…… 歴史や音楽などの世界と違ったカタチで、感性をぶるぶると震わせてくれた人たちのことを話していくうちに、どんどん自分自身も見えてくる。

その他のさまざまな物事に対して費やしてきた時間の話などを絡めていくと、自分自身を説明していくのは却ってむずかしくなるばかりだが、今自分の中に生きている人たちの話から、逆に自分が理解してもらえるということが掴めてくるのである。

そんな話をきっかけにして、黒子としてやってきた様々な仕事のことなどにも話が広がった。

自分では絶対に同一視したくなかったのだが、自分の中の私的エネルギーが、多分に仕事の取り組み方にも影響していたのは間違いなく、聞き手の皆さんも十分にそのことを感じ取ってくれたみたいだった。

いろんなことに興味を持ってきたが、行動という意味では何もかもが中途半端だったことは否定できない。

満足できたことは、まったくなかったように思う。

第三者に自分のことを語りながら、そのことを強く認識している自分自身がおかしくさえもあった。

そして、少年時代のことをただ思い返すのはノスタルジーだが、青年時代に考えていたことを振り返るのはまだいいのでは……と思えるようになっていると語った。

なぜなら、青年時代には少しだけだが、現実を踏まえた将来のことを考えていたからだ。

 

帰り道、美しい海の風景を見ながら、久しぶりにカラダの中がきれいになっていくのを感じていた。

もう残された時間は少ないし、エネルギーも乏しくなっていくばかりだが、昔の合言葉だった「ポレポレ」(スワヒリ語~のんびり、ゆっくり)という言葉がアタマをよぎっていく。

あの時代の自分が懐かしい………

わが家の 妙に気になる木

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我が家周辺における近年の夏は、ただ暑いだけで、どこか今一つ情緒的なものに欠けているなと思っていた。

そんなことを思ってしまっている自分自身にも原因はあったのだろうが、やはり何となく我が家周辺には無機質な夏しかなくなったと感じていた。

そして、その原因が分かった。

蝉の鳴き声が聞けなくなっていたのだ(……鳴いていたのに気が付いていなかったのかもしれないのだが)。

そんなある暑い日の午後、外出から帰ってきた時に、我が家の周辺で蝉が鳴いているのを聞いた。

そして、小さな花壇に水を撒くため夕方外へ出たときには、その声が、かなり鮮明に(例えばデジタル音的に)耳に届いてきた。

かつて、家の背後の斜面はニセアカシアだらけの林だった……

そこにはキジの親子が時折姿を見せたりもし、夏になれば蝉などは当たり前のように鳴き声を響かせていた。

そして、その林が整理されて、ただの美しい斜面と化してからは、蝉たちも止まる木を失い、それも当然のようにして遠ざかっていったのだ。

 

この家を建てた直後(約二十年前)、今は亡き義父が庭からサツキを植え替えにやってきてくれた。

何もなかった空き地がそれらしく彩られると、こちらもその気になってプランターで花を育てるなど、これまでの人生では考えられなかったような行動に出ていた。

ある時、植えられたサツキの間から、まったく別な木が伸びているのを見つけた。

全く異質な葉をつけるその木は、違和感をもたせるに十分だった。

しかし、その木はみるみるうちに大きくなっていった。

「ジャックと豆の木」の話があるが、子供の頃、あれを読んで、そんなバカなと思ったりしたことを思い出したくらいだった。

膝上くらいしかないサツキは、アッと言う間に追い抜かれてしまった。

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最初は細くすべすべで緑色だった幹の部分が、少しずつホンモノの(?)木のような質感で変形していく。

これも自然界と言うか、植物界における摂理のひとつなのかと不思議な思いで見ていたが、さらにグングンと大きくなっていくのを見ていると、なんだか気持ち悪くもなってくる。

そして、一階の窓を覆うようになり、目隠しやら日陰になっていいかなと思っていたら、いつの間にか二階の屋根に届くようにもなっていた。

二十年の歳月の中で、十倍以上の成長をとげてきた。

 

そして、今年になって気が付いたが、その木に蝉たちがやって来てくれることになっていたのだ。

数年前、緑の葉っぱが青虫に喰い尽されそうになったこともあったが、殺虫剤(たしか家にあったキンチョールだったと思う)をまき散らし、地面を青虫の死骸だらけにしたこともあった。

葉っぱはすぐに回復していった。

そして今や、この木は我が家のシンボルツリーと言ってもいいほどに存在感を示している。

実は、この木の幹のすぐ横には、また別な木が伸びている。

なんとも不思議な生命力を持つ木々たちが、我が家の脇で共生生活を送っているのだ。

もう一本の木は細いが、幹は美しく白く、まっすぐに伸びようとしている。

絡まれる枝たちの中で、姿勢を正そうと懸命になっている。

いずれ、その木は別な場所に移してやりたいと思っているが、今のところ予定はない。

木の名前も知らない。ここでも敢えて調べようとも思っていない。

ただ、蝉の声を取り戻してくれたこの木に、とりあえず感謝なのである………

 

今日も水をまきながら、時折、その水を空に向けている。

緑の葉っぱたちに、少しでも涼んでもらおうと、愚かなことをしている………

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夏・森の朝の匂い


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朝の五時過ぎに風呂に行き、六時頃だろうか、カメラを持って旅館を出た。

小さなロビーには人影もなく、静かに玄関を出て、目の前に止めさせてもらったクルマから歩き用の履物を出す。

外に出た瞬間、空気の冷たさに多少驚いたが、ここは避暑地なのだと納得。

山の朝はもちろん、高原や山麓の朝も体験しているが、避暑地と呼ばれる場所の朝というのは、なぜか特別な響きを感じさせる。

そういう場所に不似合いなニンゲンだからなのだろうとも思う。

前日は、江戸時代の浅間山大噴火で出来た「鬼押出し」へと二十年ぶりくらいに出かけ、以前とはかなり様相が変わったみたいだなあ…などといった感想なんぞを抱いたのだが、その頃の記憶もいい加減なもので、最近はこうした感想を抱きつつ首を傾げたりすることが多くなった。

ただ、雲に一部被われていた浅間山の裾野の美しさは記憶も明快に残っていて、多少見えなくても十分想像できたのがうれしかった。

それでとにかく前日の午後、かつて多くの文人たちに愛されたという老舗の某旅館に入り、なんだかんだでそのまま翌朝を迎えたというわけである。

 

玄関前から右手に緩く道は下っている。

逆の言い方をすれば、左手に緩く上っていることになる。

両サイドに個性的なお店が並ぶ下りの通りは、明治時代からの開業というところも多くあるそうで、この辺りでは人気のエリアになっている。

昨日の午後の人だかりも凄かった。別荘地の代名詞になっている理由がよく分かる。

まだまだ早朝の静寂の中にあるその通りをちらりと見下ろしてから、こちらは左側のやや上りになった道に足を進めた。

「旧中山道」である。冴えた空気感が漂う。山道への入り口といった感じで、ちょうど旅館がその境目にある。

かつて加賀藩の参勤交代行列はここを歩いた。

旅館の中にそのルート全体を描いた絵が掲示されてあったが、出発地である金沢周辺の絵に、自分の住んでいる場所も描かれていた。

しばらく歩くと、右手の小さな流れに架けられた橋を渡ったところに、ひっそりとした一軒の店が見える。見えると言っても、木立に中に隠れながらだ。

昨夜の晩餐の場所だった。

静かにライブレコーディングのジャズが流れていた。

ガイドブックやネットなんかに載っていないイタリア料理の店(普段はほとんど興味がない)なのだが、その店が素晴らしく良い店だったのだ。

店の造りも広いわりにはシンプルで、料理にもシェフの思いが伝わってくる感じがした。

そして、それだけではなく、店に入った時に、ここをどうやって知ったんですか?と、問いかけられたこともなぜかとても新鮮だった。

当然、出発前に予約しておいたのだが、この店を見つけたのは長女であり、長女もとにかくひたすら深く切り込んでいったらしい。

夜は予約数をかなり限定しているような感じで、最初はあまり積極的ではなかったようだ。しかし、ちょっと早めの時間であれば何とか対応してくれるというので、とにかくそうさせてもらうことにした。

シェフは独りで切り盛りしながらの奮闘だったみたいだ。

実を言うと、今回は定番型の“夏のかぞく旅”であると同時に、ちょっとした意味深い背景もあったりする旅でもあった。

だから、長女も忙しい中、わずかな隙間をついてこの店まで辿り着いてくれたのだ。

 有名な礼拝堂のあたりを過ぎてからは、濃い緑の世界に包まれていく。

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特に意味はなかったが、とりあえずこの道を上ったところにある「室生犀星碑」のあたりまで行ってみることにした。

避暑地とはいえ、昼間は三十度超えの暑さになるのだが、果たして今は何度ぐらいだろうかと考える。

日差しが全く遮られた場所では涼しいを通り越す。Tシャツに半ズボンの軽装を悔やむほどだ。

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たまにすれ違う人たちが、観光の人か地元あるいは別荘の人なのかということも少しずつ分かってくる。

自分と同じ方向に歩いている一般観光客はほとんどなく、分岐のところで、人のかたまりは今自分が歩いている道ではない方向へと流れている。

だから、今歩いている道ですれ違うわずかな人は、なんとなく地元か別荘の人だということなのだ。

決定づけるのは、たとえば連れている犬などの種類や着ているモノ、そしてさらに、すれ違った後に残ったりする香水の匂い。

これは間違いなく別荘のお方だという風に決めつけられる。

流れを左に見下ろすようになってからしばらくで、一応目当てにしていた犀星碑のサインと出合った。

流れの方へと斜めに下っていくと、碑があった。写真で何度も見ているが、初めてナマを見た。

崖面に付けられたレリーフの詩は、かつてなんとなく好きだったもので、今読み返すと、なぜか今の方がグサリとくる感じがして驚く。

“我は張りつめたる氷を愛す……”というやつだ。

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そう言えば、今春、卒論のテーマが犀星だったという学芸員の大卒女子が入社した。

犀星については、こちらはあくまで金沢への切ない思いと重なる人物像にばかり目を向けてきたが、そんな感覚はどうも自分の独特なものだということが最近になって分かってきている。

特に学芸員さんたちのような世界ともなると、作品そのものからいろいろと究めていくことが普通みたいで、素性や育った環境なんかは語られないのでさびしいのだ。

ただ、それでは犀星のニンゲン物語はつまらないと思う。

こんな別荘地で穏やか過ぎるような日々を過ごしていた犀星には、あまり興味がない。

そんなこともついでに思いながら、レリーフの詩を二度読み返してその場を去った。

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せせらぎの音と森の奥から届く野鳥たちの声。

もちろんそんな絵に描いたような世界ばかりではなく、時折クルマのエンジン音なんかも聞こえるのだが、自分の中にある“森が好きだ感”のはっきりと反応している様子が掴みとれる。

それにしても緑の深さがいい。広がりもいい。新緑が深緑に変わっていく頃、よく緑しかない世界に遭遇したりするが、今感じている緑感もカンペキに凄まじいのだ。

そして時折、木漏れ日が夏草の上や苔むした石の上などに強烈に差し込んでいたりすると、ああ夏だなァ…と思う。

そんな瞬間との出合いを、いつも憧れをもって待っていた自分がいた。

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戻り道で外国人の女性とすれ違った。薄手のコートをはおり、さっそうと坂道を上ってきた。

すれ違う際、おはようございま~す…という、美しい日本語の響きを聞き、木漏れ日を受けた笑顔を見た。

ただそれだけだったが、気分がより爽やかになった。

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もう一時間ほど歩いている。

別荘の小窓に明かりが灯り、人影が動く。

下ってくると、もう多くの人たちがボクが上がったのとは違う方向へ列を作り歩いていた。そちらの方がポピュラーなのだろう。

かなり下ると、流れの反対側に昨夜の店がまた見えてくる。

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この角度から見ると、本当にひっそりと建つという表現が似合う。樹木などが適度に店の全景を隠しているのだ。

そう言えば、最初はテラスを用意していてくれたのだが、外の空気の冷たさを知り店内のテーブルにしてもらったのだった。

せせらぎの音が異様なほど近くに感じられたわけは、今見ている光景から理解できる。

店を出る時に、シェフとほんの短い時間話した。

山梨県小淵沢出身のシェフは、今年の秋に小淵沢に戻り、新しいことを始めるらしい。

今も休みには小淵沢に戻り、地元の野菜などをもとに料理を出しているらしいが、一人でやりくりしていくのは大変らしく、故郷でじっくりやりたい様子だった。

こちらも山梨には友人もいるし、甲州ワインなどにもかなり親しんでいるなどと切り出すと話がはずんだ。

小淵沢にも何度も行った。牧場が多く、大河ドラマの合戦シーンなどにも使われるいいところだ。

名刺ももらい、こちらの住所を残してきた。

出来れば、来夏には行ってみたいと思う。

今回の“夏のかぞく旅”には特別な事情があったからでもあり、そして、この店やシェフとの出合いが、そんな今回の旅に特別な色を添えてくれたような気がするからでもある。

秋に届くであろう便りが楽しみになった………

もう避暑地の朝歩きは終わっている。

旅館の前まで戻ると、通りに少しだけ人の塊が見えた。

あと二時間ほどすれば、ゆっくり歩けないほどの数になるのだろう。

旅館に戻って、朝飯なのであった…………

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ふと、星野道夫に。

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新聞の広告に『星野道夫』という四つの文字列を見つけた瞬間、これは買いに行こうと決めていた。

懐かしさとか、そういった思いも確かにあったが、なんだか出合ってしまった以上は必ず読まなければならないという気持ちの焦りみたいなものも感じていたのだ。

今更、星野道夫のことを語るつもりはないが、少なくともこの人はボクに大きな影響を与えた一人だ。

写真家であったが、ボクは文章家としての星野道夫を慕っていた。

著書のほとんどを読んでいたが、これまで自分が出合ってきた文章の中で、この人の文章が最も自分を動かしたかも知れないと思っている。

こんなにも飾り気のない文章が書けるニンゲンの、その背景みたいなものに嫉妬していたとも言える。

その背景とは言うまでもなくアラスカという大自然だ。

そして、そこへ行き着くまでの星野道夫のプロセスだ。

もちろん、星野道夫の感性もまた忘れてはいけない。

親友を山で失い、東京の電車の中から北海道のヒグマの今を想像し、信州の田舎でアラスカのある村のことを知り……

思いつくままにただ書いているが、星野道夫のプロセスは並外れていた。

そして、この並外れていた感性が、ボクにとっては最も心惹かれたところでもあった。

こんなにさりげなく、自分の思いを遂げていっていいのかと思った。

真似のできないニンゲンが、ただひたすら星野道夫にすがっている。

しかし、そんな情けない思いを強いられながらも星野道夫の何かに救われてもきたのだ。

それは、自分自身の中にもあった星野道夫的感性に気が付いた時だった。

ニンゲンは何かの前に立ち、それを見つめながら別な何かを考えたり感じたりできる。

そして、その二つの何かの中に共通するものを見出すことに自然でいられるのだ。

風に揺れる草を見ながら、空に浮かぶ雲を見ながら、自分も時折星野道夫的になり、自分自身を見つめてきたように思う。

ここまで走り書きした。

もう人生の終盤に向かおうとしている今だからこそ、そんな感性にふと敏感になったりするのだろうと思う。

星野道夫が他界して長い時間が過ぎた。

しかし、星野道夫が残していった文章があるから、まだ星野道夫的感性を意識していられるのだ………

 

長女が奥穂高へ行く前の日に思い出したこと

玄関

朝靄に朝日が差し込み、夏の朝らしい気配をカラダ全体で感じとる。

かつて飛騨から信州へと抜ける道すがら、上宝という村で見ていた風景だ。

何でもない早朝の山間(やまあい)。その一帯に漂う空気感に包まれながら、ラジオ体操を終えた少年たちが、石垣の上に腰を下ろし、さも当たり前のように漫画を読んでいた。

そのややダラーっとした並び方がよかった。夏休みらしい、のんびりとした空気感が漂っていた。

まだ暗いうちに家を出た。

助手席には、カメラとアルミホイールに包まれた握り飯が三個。

後部座席にはリュック。足元にはひたすら重い登山靴がある。

握り飯は、山へ行くとき、旅に出るとき、母が前の晩にいつも作ってくれた。

道と平行して流れる川のほとりに出て、その握り飯を食べる。

朝靄がまだわずかに残っているが、日差しから逃げられない空間はすでに夏らしい熱気に包まれ始めている。

家を出て2時間以上が過ぎていた。

今日が梅雨の明ける日になるかもしれない……

なんとなくそんな予感がしている。

空は文句なしの青一色だし、もう梅雨をイメージさせるものは何もない。

再びクルマを走らせ、かつての平湯温泉バスターミナルから満員のバスに揺られて上高地に入った………

長女が、翌日から奥穂高へ行くという日………

あれこれと準備している長女を見ながら、自分が初めて奥穂高を登った夏の暑い日のことを思い出している。

その年の梅雨は、その日の正午頃に明けた。

横尾の山荘の前で、昼飯のためのお湯を沸かしていた時、布団干しをしていた小屋のアルバイトらしき青年が、大きな声で叫んだのだ。

梅雨が明けました~

梓川の輝きと大きな歓声の響きを今も覚えている…………

 

 

電車に乗ると

電車

電車に乗ると、やはり基本は窓の外の風景を見ることだと思う。

風景は流れ去っていくもの。

本の中の活字や写真はいつでも見ることができるが、風景は待ってくれない。

最近特に、昼間の車中では本を読まないようにしている。

懐かしい風景や、意外な風景などに出会う瞬間を見逃さないよう気にかけている。

北陸新幹線が開業して、トンネルが多すぎるという声をよく聞くようになった。

が、あれはどうやら風景を見ることができないことへの不満ではないらしい。

電話やネットが使えないことへの不満らしいのだ。

さびしい話なのである……

雨の日の草刈り

細かな雨の降る中、家のまわりの草刈り。

山用のややごついTシャツ。

作業用にしている、これもまたごついパンツ。

これらは細かい粒子のような雨くらいなら負けない。

それに気温も高いから、ちょっと濡れるぐらいがちょうどいい。

ポケットから聞えてくるのは、スマホが発する「Basie in London」。

これはポケットから聞えてくるというのがいい。

イヤホーンではいけない。

ズボンの後ろポケットから、いかにもアナログ的、モノラル的に聞こえてくるのがいいのだ。

だから、流すのもカウント・ベイシー・オーケストラなのでもある。

ただ単に、尻(ケツとも言う)の感触もいいだけではなく、なぜかベイシーサウンドに押されて、作業もはかどっているような感覚にもなったりする。

それにしても、久しぶりに雨に濡れるという感覚を味わった。

これは驚異的な久しぶり度合いだと思い、ニンゲンらしく生きていない近年の日々のことを思ったりしながら草を刈った。

60年に及ぶ人生で、最も激しく雨に濡れたというのは、あの「剣岳・梅雨ド真ん中豪雨逆上山行」(このタイトルは今考えた)の時だろうと振り返ったりもしている。

初めての本格山行だったが、若き日の「憧れと試練」が入り混じった思い出だ。

番場島から当時の伝蔵小屋までの登りで、パンツの中までずぶ濡れになった。

まさにカラダの芯が冷えてしまうくらいのずぶ濡れ度だった。

これには深い事情があって、同行者たちよりもはるかに体力的優位さを持っていた自分が、その時のリーダーから日本酒の入ったポリタンを担がされ、自分自身の荷物は他のメンバーに分配されていたのだ。

つまり、自分の雨具を携帯していなかった。ついでに書くと、ポリタンはキスリングの大きなリュックに入れられ、パイプの背負子で背負っていた。

この大量の日本酒は、その夜少しだけ減ったが、翌日は剣の登り下りで誰も口にしようなどとは言わなくなり、結局下山するまでほとんどが残っていた。

そんなことを思い出しながら作業していると、最初は適当なところでやめにしておこうと考えていた思いが徐々に薄れていき、じっくり腰を据えてやっていくスタンスに変わっていく。

そのことに気が付くと、これもまた雨の中をひたすら黙々と歩いていた山行と同じだなと思ったりする。

雨で草が重くなっていた。

最後にかき集めながら一ヶ所に寄せていく作業は、なかなかチカラが要る。

ポケットからのベイシーは、ボーカルが加わってますます元気がよくなっている感じだ。

そういえば、ベイシー・オーケストラは二度コンサートに行ったなあと思い出す。

今年の金沢のジャズイベントに、またチック・コリアが来るらしいことも思い出し、今年はトリオだから行ってみるかなと考えていることも思い出した。

この間、何かの拍子にチックのソロピアノが耳に飛び込んできて、そのタイミングの良さもあってか、チックのピアノにまた興味を持ち始めている。

「CIRCLE」なんかも、なぜか最近たまに聴き直している。

こういうことは良い傾向だなと思っているうちに、雨が激しさを増してきた。

そろそろフィニッシュに向けて仕上げなければならない。

最後はやや雑になったが、なんとか終わった。

顔や腕なんかの濡れ具合もいい感じになってきていた。

それにしても、隣の空き地は草ボウボウなのである………

 

下品な日々

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前にも書いたことがあるが、香林坊日銀裏でかつて繰り返されてきた、今は亡き奥井進さんとの会話の中に、「下品やねぇ」という言葉がたまに使われていた。

ボクたちは、ただひたすら自分のために時間を過ごしている状態を「上品」と呼び、仕事のことしか今は考えられないなどといった時間の過ごし方を「下品」と呼んでいたのだ。

一週間ほど店に顔を出さないと、「どうしとったん?」と問われ、「ちょっと忙しくてね」と答えると、「そうなん、下品やねぇ」と言われる。

「私的エネルギーの追求」などといったテーマで雑誌を発行し、ひたすら自分らしくいられる時間を得ようと、静かに息巻いていた時代だった。

今から思えば、ただ中途半端であっただけで、それ以外に何とも表現できないさびしい時でもあった。

でも、今でもアタマの中でこの「下品やねぇ」を使うことがある。

第三者に言っても仕方がないので、自分だけに言うのだが、ただそういう場合は、余計にクールな響きになったりして虚しい。

上品でいたければ、会社なんか辞めて好きなことをやっていればよかったんだよとも言われそうだが、そこがまた「ニンゲンの意外性」などといった別なテーマも掲げたりしたものだから、仕事をしながら私的エネルギーを燃やし続けているということにも、意味を持たせていたわけである。

結局、話をややこしくしていたのは自分自身であり、上品であるとか、下品であるとか、表現の遊びみたいなことをとおして自分をかばっていただけかもしれない。

そう言えば、最近、楽しいという感覚が分からなくなってるなあと思う。

単純に言えば、楽しいと感じる時間がないからなのだろうが、これは一種の病気だ。

NHKの『とと姉ちゃん』を見ていると、雑誌作りに情熱を燃やす主人公に自分を重ねたりして、その純真さみたいなものに刺激されている。

胸が痛くなるような、諦めと羨望が混ざる感覚だ。

あれが家族を養っていくための手段だとする主人公の思いとはちょっと違うが、それでもよい雑誌を作りたいという気持ちは同じなのかもしれない。

結局、8号までしか出せなかったわが『ヒトビト』(雑誌の名前)だが、あの時の気恥ずかしさや気怠さも混じった妙な楽しさはしっかりと胸に刻まれている。

最近、一旦あきらめかけた絵本作家への道に、もう一度チャレンジしようと決意した、ある図書館司書の女性の話を聞いたり読んだりしたが、その再び立ち上ろうというエネルギーに爽やかで、すがすがしいものを感じたりもしている。

自分のことは半分あきらめて、そういう人たちをわずかながらでも応援しているだけで、少し満足出来たりもする。

4月に鳥羽まで電車の一人旅をやった。

現地で昔の大学の友人たちと合流したのだが、あの電車の旅はそれなりによかったような気がする。

車窓の景色とか、最近特に目を凝らして見るようにしていて、なぜか懐かしい楽しさを感じ取っていた。

休みの日、かつて仕事で出かけていた土地に、敢えて私的に出かけるということの新鮮な感覚も味わったりした。

「上品な日々」は、自分の意識次第ですぐ目の前に現れたりするのかもしれない。

そんなことを束の間思いながらの「下品な日々」が続いている……

 

焚火休日のときの流れ

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久しぶりの焚火である。

と言っても、焚火そのものを楽しむものではなく、裏の空き地に放置されているものを焼却するという、れっきとした家事仕事だ。

ただ、楽しくないのかと言えば、それはそれで十分というか、かなり激しく楽しい。

今回は何年ぶりというくらい久々度は高く、最近ではご近所さんへの配慮などもあって回数も減った。

何と言っても、休日にはできなくなった。

その日も連休の間にポツンと残された“普通の日”をお休みにさせていただいてやったのだ。

焚き火場は、家を建ててからそのままになっている、いつもの後ろの空き地。

もともと「多目的空き地」と位置付けていたが、最近では「無目的空き地」と虚しく呼ぶ。

砂や雑草との熾烈な闘いもあるが、とにかく何もしないまま放置しているのがよくない。

 

今回のメイン材料(燃やす対象)は、ずっと前から置きっ放しになっていたオープンデッキの解体残だ。

その前に雑草取りから、鍬を手に花でも植えようかという分だけ土をおこす。

少し前から悩まされている腱鞘炎とテニス肘(と医者は言うが、ボクはテニスをしない)のせいで、鍬は長時間持てなかった。

この鍬は亡き母の形見で年季が入っている。

着火は9時ごろ。

いつものように木を組み、その下に乾燥した草などを置き、丸めたチラシに火を点けて差し込む。

木材に移った火が安定してくると、しばらくそのままにする。

ちょっと一息…… ポケットに入れたラジオ(スマホ)から、高橋源一郎と清水ミチコの楽しいトークが聞こえてきて、ときどき周囲を見ながら笑ったりする。

幸いにも、周囲には誰もおらず、安心して笑っていられる。

途中何度も木材を足したりするが、それ以外は特にこれといって格別なこともなく、こういう時は、“焚火読書”だったと、家の中へと読みかけ本を取りに行ったりした。

持ってきたのは、磯崎憲一郎の『電車道』。

あと残り50ページほどだったのが、いい機会に読み終えることができた。

ただ感想はというと、やや首を傾げている。

インタビューなどで著者が好きになったのだが、作品は自分のサイクルに合わない。

やや苦しかった分、読み終えてホッとした。

当然、こちらの方が悪いのだが、こういうことが最近はよくある。

作家がテレビやラジオなどによく出るからなのだろう。

高橋源一郎もそんな一人だ。

そう言えば、読みかけ本はまだ数冊あったなあと思い出した。

 

焚火の炎を見ていると、いろいろなことを考えたりするから不思議だ。

炎の動きが、視覚をとおして脳を刺激するのだろうか。

気が付くと、仕事のことやらモロモロ考えていたことが、残像みたいにアタマの中で浮遊しているのが分かる。

ただ、どれも実体がないようで、摑みどころがない。

まだ若そうなハチが一匹、すぐ近くの小さな花にとまろうとしているのが見えるが、なかなかとまれそうになく、何度も試みながらあきらめて飛び去って行った。

足元には、見慣れたアリジゴクの落とし穴(と呼んでいいのかな?)。

砂丘地の町だから、アリジゴクは大してめずらしくもないが、小さい頃、初めて砂の穴を崩し、出てきたアリジゴクを手のひらにのせた時の感触はまだ覚えている。

意外にも、ただくすぐったいだけだった。

そう言えば、手のひらに砂の山をつくると、アリジゴクはその砂の中にももぐり込んでいこうとしていた。

朝から雲ったままの我が家上空に、ヒバリが一羽飛来。

曇り空にヒバリは似合わないが、泣き方はあくまでもヒバリらしく、羽のばたつかせ方もヒバリらしい。

いつかどこかで見た、空で鳴いているヒバリをじっと見上げていた猫のことを思い出した。

 

炎がだんだん小さくなってきている。

材料ももう尽きている。

ラジオはとっくに正午のニュースを終えた。

家族は出勤日。

これからモロモロの片づけをし、家に入ってシャワーを浴び、独り冷蔵庫にある残りものなどをいただく。

それから、コーヒーを淹れ、BSで『ダーティ・ハリー』を観るのだ。

こんな時間の流れ方も、いかにも焚火的なのである………

 

「武田信玄 TAKEDA SHINGEN」のこと

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この本を貪るように読んだのは、二十代の初め(今から40年近く前)の頃だ。

たまたま山梨(旧甲斐の国)出身の友人がいて、彼が熱く語る「武田信玄 TAKEDA・SHINGEN 」という戦国大名の存在が羨ましく思えていた時期だ。

敢えて英文字を併記したのは、その名前の響きも好きだったからに過ぎないが、そのことも今から思えば重要だったような気がする。

ただ、信玄や謙信などがそういう名前(響き)になったのは、出家したからなのだ。

自分の国(旧加賀)には、前田利家という殿さんがいたが、人物的インパクトの薄さと話題の乏しさに、口に出すのも恥ずかしさを覚えるほどだった。

 

ところで、実家の物置には今も“信玄本”が多く眠っていると思う。

自分で言うのもなんだが、かなりの信玄通だったとも思う。

 

今年になって、NHK大河ドラマの『真田丸』が始まり、甲斐武田家の話もまたクローズアップされ始めている。

真田を語るのに武田との関係は欠かせないからだ。

昌幸(草刈正雄)が口にするあの「お館(やかた)様」の響きは、信玄を慕う気持ちに満ちているように聞こえてきて、なぜかグッとくる。

信玄に仕えたことによって、真田の存在は大きくなり、その後に繋がっているのだ。

主人公の信繁という名も、信玄の実弟からきている。

ちなみに武田信繁は、兄を支えたナイス武将だった。

が、あの最も激しかった永禄4年の川中島合戦で討ち死にしている。

 

ところで、この本のタイトルは『定本武田信玄』という。1977年に出版されている。

定本というのは決定版とか、さまざまな説を整理したものと解釈しているが、この本を最初に探し出した時、この“定本”という文字の凛々しさや音の響きが気に入った。

著者は、当時の山梨大学教授・磯貝正義氏。

武田家の地元、山梨大学の由緒正しい先生であることもいい印象を持った。

著者が特に気負ったりせず、淡々と資料に基づく解説を綴っていく内容もそれなりにいいと思った。

後で分かったことだが、このような定本と名が付く戦国大名の本というのはあまり見ない。

家康のを見かけたことがあるが、あれは信玄のものと比べるとまだ新しい。

信玄については実はもうひとつ定本というのがあって、『定本武田信玄』が1977年に出た後、2002年にも新たに『定本武田信玄 21世紀の戦国大名論』というのが出ている。

戦国大名ブームの走り的産物なのかもしれないが、このシリーズには上杉謙信もあり、北条氏康のもあるみたいで、とにかく信玄については定本が二冊あるということになるのだ。

これは素人目に見ても凄いことなのだろうなあと勝手に納得している。

ついでに書くと、我らが前田利家などは研究者というほどの存在すらも知らない。

かつて、大河ドラマで『利家とまつ』が無理やりのように(?)作られた時、俄か地元前田利家研究者が、講演料稼ぎなどに奔走していたという印象しかない。

ボクも仕事で絡んだが、彼らに翻弄された。

大学を出てから、山梨の友人と一緒に信玄の所縁の場所をめぐった。

それ以前、卒業直後の旅で京都奈良に出かけた時、たしか新田次郎の『武田信玄』4巻シリーズを持参していたと記憶するが、すでにかなり信玄周辺の話に興味津々だったと思う。

塩山市の雲峰寺にある御旗や風林火山の旗指物なども、現物を見て興奮したのを覚えている。

かつて「躑躅崎(つつじがさき)の館」と呼ばれた武田家の居館跡に建つ武田神社や、武田の資料庫もある恵林寺などでは訪れる人も少なく(と言うか、恵林寺などでは全く人はいなかった)、じっくりと信玄に思いを馳せることができた。

もちろん川中島にも行った。子・勝頼が再起を賭けた新府城址なども。

京へと向かう途上に病(労咳)が重くなり、帰らぬ人となる信玄だが、そのあたりの話はかなり切ない。

甲斐という山々と、さらにそれ以上に面倒なライバルたちに囲まれた地から領国を拡張し、最後は最強の軍団を率いて天下に号令を発しようとした信玄の生涯は、あと数年命が長らえていれば何を成し遂げていたかと想像を膨らませる。

それは信玄が最強の戦略家であったばかりでなく、優れた政治家でもあったと言われるからだ。

信長の地位などはなかったかもしれない。もしくはもっと先に延びていただろう。

信玄が死に、謙信が死んで、信長は幸運にも命を拾った。

時のめぐり合わせもよかったのだろう。

たしかに地理的な有利さも大きく、大胆で先駆的な行動が信長を前進させたのだろうが、本来ならば信頼を厚く受けているはずの重臣に裏切られるという、愚かな(としか言いようのない)殿さんだった。

しかも、自分への憎しみが塊となった大逆襲を、まったく予見できなかったという情けなさだった。

ついでに言えば、比叡山焼き討ちなどがさも当たり前のように語られている現代だが、日本史上で無差別大量虐殺事件を起こしている唯一の存在が信長なのでもある。

こういうことを言うと、信長は別格ですからと返す輩が必ず出てくるのだが……

しかし、それはその後に信長さまさまで、より下品であった秀吉という存在が歴史を継承し、繕っていったからに過ぎない。

 

この本をとおして信玄のことを知れば知るほど、歴史の不思議さを思った。

そして、そのうちに一時的に歴史が面白くなくなってもいった。

一国の歴史が、「運」みたいなものに左右されるということに虚しさを感じてしまった。

それにしても、あの時代の大名たちは、とにかくそれしか知らなかったかのようにひたすら戦っている。

戦に明け暮れる日々の果てに、平穏が訪れると思っていたのか。

この本を読んでいても、信玄の足跡はやはり戦いなのだ。

 

だから、戦国時代なんだよと冷たく返されそうだが、やはりどこか寂しい気もするのである……

 

 

一枚の写真が思い出させてくれたとき

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10年以上前に撮った一枚の写真。

5月はじめの妙高・笹ヶ峰だ。

ゆるく傾斜した雪原で、美しいYの字形の倒木を見つけ、スキーを外し、リュックを下ろした。

半分凍らせておいた缶ビールを雪の中に埋め、カップ麺とコーヒーのための湯を沸かす準備をする。

にぎり飯二個とソーセージ一本を取り出し、頬張り始める。

もちろん、缶ビール一本も同時に栓が開けられている。

その頃から毎年のように春は笹ヶ峰に行っていたように思う。

そして、毎年のように同じメニューだったようにも思う。

それ以前は立山や白馬、乗鞍方面で、それなりのテレマークスキーを楽しんでいたが、笹ヶ峰に行くようになって、同じテレマークでも、滑るより走り回るといったイメージが強くなった。

倒木はちょっと細い感じがした。

が、それでも二股のあたりに座るといい感じだった。

静寂の中、鍋がシューシューと音を立て始め、ガスを止める。

蓋をとって、お玉で湯をすくい用意しておいたカップ麺に注ぐ。

飯が終わる頃になると、もう一度着火し湯を温めなおす。

この頃使っていたカメラは、EOS。もちろんデジタルではない。

コーヒーの粉は、いつも部屋のテーブルに転がっていたフィルムケースに入れて持って行った。

まだインスタントだった。

コーヒーを用意すると、もうあとは片づける。

そして、カップに湯を注ぐ。

“豊かな時間”が訪れていることに、自分自身がと言うか、カラダが気が付いている。

残雪の上にドスンと座りなおし、倒木に背中を預けると、ちょうどいい具合にリュックが枕になっていたりするから不思議だ。

そして、こんなシチュエーションが待っているとは予想していなかったが、とにかく山の中で読もうと思って持ってきた一冊を手に取っていた。

星野道夫の『アラスカ 風のような物語』だ。

星野道夫の本を片っ端から読み漁っていた時期だった。

写真家ではあったが、エッセイストとしての彼の文章がより好きだった。

ニンゲンとしての、いや、ヒトとしての魅力がこれほどまでに伝わってくる文章に出会ったことはない…とさえ思っていた。

彼のさまざまなエピソードはもちろん、周囲の友人たち、家族、さらにアラスカで遭遇した風景や生き物たち、そのすべてに対する思いが、ボクにとっては写真よりも文章から伝わってくる気がしていた。

この本はすでに多くを読み終えており、意図したことであったが、フィニッシュを笹ヶ峰の残雪の上で迎えた。

それから昇りつめた太陽のぬくもりを受けて、少し眠った……

この写真はスキャンして残しておいたものだ。

ずっとパソコンのかなり奥の方で保存されていた。

忘れ去られていたと言った方が当たっているかもしれない。

だから尚更、その時の短い時間の経過が鮮明に甦ってきたのだろうか。

今も時々使うアナログとデジタルが一緒になった腕時計は、12時52分53秒を表示。

気温は29度を示しているが、これはやや高めを示すクセになっていた………

ねじめ正一氏と玉谷長武クン

ユリイカ

1997年4月発行の『ユリイカ』。

161ページから169ページにかけて綴られた、ねじめ正一氏渾身(だと思う)のエッセイに心が撃たれた。

喫茶店でしか原稿が書けない氏が、喫茶店のトイレに「大」のために入るが、固体を出そうとして意図せず大きな音を伴う気体を出してしまったという焦りが、リアルに綴られていた。

音が出た後に期せずして起きた店内での笑い。

自分(の尻)が発した音と、その笑いの相関について悩む筆者……

喫茶店

このエッセイで、さらにねじめ氏が大好きになったボクは、1999年の金沢市観光協会50周年のイベントに氏を呼び、金沢市民芸術村のドラマ工房でトークショーをやっていただいた。

紡績工場を再利用した市民芸術村ドラマ工房は、特有の構造と空気感を持ち、会場入りしたばかりの氏が、「いい場所ですねえ」と言われたのを覚えている。

氏はそこで、商店街の魅力はさつま揚げの美味さで決まるとか、長嶋茂雄さんの職業は長嶋茂雄だとか、ひたすらねじめ節を語り、そして、創作中の長い詩を東京からFAXで送らせ、『詩のボクシング』風に即興で読んでくれたりした。

ボクがステージに用意したのは、かつての小学校の教室にあった小さな机と牛乳瓶に入れた一本の花だけ。

工房の道具部屋を見回し、ボクも発作的にそれに決めた。

知り合いも大勢来てくれて、なかなかいい企画だったと思う………

 

このことを今語りたいのは、あの時ボクの机の上にこの『ユリイカ』を置いていったある後輩の命日月が2月であったからだ。

玉谷長武(たまたにおさむ)という、奥能登門前町出身のナイスガイは、ボクに色々と余計なお世話的言葉を発しながら、27歳という若さでこの世を去った………

彼の稀有な存在を綴った拙文を、必ずこの時季に読み返す。

今でも、彼がもし生きていたら、自分の人生も途中から何らかの形で変わったのではないかと思ったりする。

それくらいに、彼が好きだった………

 

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

股引について

芽吹き1

恥ずかしながら、たまァに今風の股引(ももひき)を穿くようになった。

が、自分の感覚では、それを穿いても決して暖かいといった感じがしない。

それどころか、余計に足がヒンヤリとした感じになる場合が多く、穿いてしまったことを悔いたりする。

そもそも、股引については中途半端な思いを抱いてきた。

中途半端ではない思いというのも説明できないが、冒頭にも書いたように、股引にはどこか羞恥心みたいなものを抱かせる性格があり、そのことによって積極的に利用したくないといった思いがあった気がする。

たしかに、最近の股引はデザインもそれなりに施されていて、昔とはかなり違う(つまり、ラクダの・・・ではない)受け止め方がされているみたいだ。

だがどうしても、股引を穿いているという状態はよろしくない。

どうやっても股引だからだ。

その名も、何となく侘しい。

ももひき…という音の響きは侘しく、そして、せつないのである。

さらに、漢字では「股(また)を引く」と書くところにも奇妙な感じを受ける。

たしかに、「股」には「もも」という読み方もあるようだが、この場合の「もも」と言えば、太腿などの「腿」を連想するのが普通だろう。

だから、本来ならば「腿引」という漢字にするか、もしくは「またひき」という呼び方になっていてもよかったわけだ。

それがなぜ、股引(ももひき)なのだろうか。

 

ところで、股引の話題を出すと、必ず突っ込まれるのが、小倉百人一首のあの歌である。

「ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」

この歌の出だしの「ももしきや…」に、思わず赤面してしまったとか、吹き出しそうになったという経験を持つ人は多いだろう。

これは、「ももしき」が、宮中の意味であることを知っていれば何でもないのに、その響きから「ももひき」と聞き間違えたり、またはモロに「股引」そのものだと勘違いしてしまったことが原因である。

ちなみに、この「ももしき」は「百敷」と書くのだそうだ。

多くの石が敷かれているというとかで、宮中とか御所とかを表す。

そういうわけで、少し寒さも和らいできたせいか、股引を穿くことはほとんどなくなった。

そのことで、なんだかアタマの中のモヤモヤが取れたような、奇妙な思いも抱いたりしている。

なくなったから、堂々と股引に関する思い(不信に近い)も書いていられるのだろう。

また寒さがぶり返した時にはどうするかだが、今のところまず穿く予定はない………

ガムとインフルエンザ

ガム

ガムについて考えたのは、インフルエンザが流行し始めたぞというニュースが、会社内に流れた日の夜のことだ。

社内に感染患者が数名発生し、予防に関する情報が各自のパソコンに送られていた。

その中のたくさんの項目の中に、“ガムを噛む、飴を舐めて口に潤いを!”とあった。

ガムがこのような効能を持っているということについては、実はずっと前から知っていたのだが、実際にこうして公式(?)な文書として出ているのを見ると嬉しくなった。

自分の場合、知っていたというより経験していたという方が正しく、そのこと自体の精度の高さについてもかなり自信を持っていたのだ。

しかし、そのことは(少なくとも周辺では)なかなか信じてもらえなかった。

ガムには何と言っても虫歯のモトだとか、所詮、二日酔いの朝の臭い消し(特にニンニク対策)といった偏見があり、潤いという言葉との関連性を受け入れるのは難しかったのかも知れない。

 

自分には、春頃になると軽い喘息のような症状が訪れる。

花粉症みたいなものだが、お医者さんからもお墨付きをもらった“れっきとした持病”らしく、かなり長いこと欝な思いをしていた時があった。

よくある目を充血させ、カラダを捩じりながら烈しく咳き込むというのとは違うが、ただ風邪を引いて咳が出始めると、ダラダラと続くということがあるのだ。

乾燥してくるとテキメンであった。

だから、根本的に喉にはそれなりの注意を払ってもきた。

とにかく咳が出ない状況を維持していくことが肝心だった。

そして、そんな中で発見したのがガムの効能だ。

口とか咽を潤すというと、誰もが水やお茶を飲むと考えるだろう。

しかし、本当にムズムズが昂じてくると、たった一秒か二秒くらいの快感ではすまなくなる。

ずっと、その快感(と言っても普通のことだが)が継続的であってほしいという強い欲求が生まれる。

そんな時、ふとガムを噛もうと思った。

ガムを噛んでいれば唾液が出る。

その唾液を定期的に喉の方へと送る。

この場合のガムはキシリトールである。

ついでに書くと、ボクの場合は、ガムに味はなくてもいい。

かつて最初から味のないガムが存在していたが、ボクはそういうのが気に入っていた。

今もあるのだろうか?

キシリトールガムにも、本当は味は要らない。

 

この唾液が喉を通っていくことだけで、ボクの咳はほとんどカンペキに出鼻をくじかれていた。

もちろん喉が真っ赤に腫れてしまっている時などはむずかしいが、たとえば朝クルマの中で、小さなガム一個を口に放り込むだけで、起き始めの頃から気にしていたムズムズ(イガイガとも言う)感は見事に消え去った。

さらに、いい意味の副作用もあり、唾液が送られた胃はその活動を活発にし、昼飯を美味しくしてくれたりもした(ようだ)。

こうして、ガムとの信頼関係は深く結ばれていったのである。

今もバッグの中やクルマの中にガムがある。

 

ところで、ガムと一緒に取り上げられていた飴についてだが……

まず、飴にはそれほど期待していない。

やはり飴はどうしても甘すぎる。

あの甘さは、本気でないように思えて信用できない。

あの甘味で喉をやさしく包み込んでいるかのごとき印象を持つが、喉自身を錯覚させているように思えるだけだ。

その点、ガムには唾液を出すという重要な働きをしながら、なんとか噛み手の役に立とうという姿勢が見えたりするのである。

そういうわけで、とにかくやはり、何と言うか…

“喉にはガム派”なのであった………

感受性を取りもどす年頃に

緑の葉っぱ

去年は還暦の翌年だった。

この場合の「翌年」は「よくとし」と読んでもらいたい。

と言いつつ、今自分のライフワークと位置付けている某ミュージアムで、4作目の短編ムービーを作らせていただいているのだが、先日ナレーションの録音で同じ「翌年」を、「よくねん」と読んでくれるようナレーターに指示していた。

シナリオを書いていた時の自分がそう読んでいて、それでないと納得できなかった。

そんなことがよくある………

 

それで、予想以上の早さで還暦の翌年(よくとし)が過ぎ、還暦の翌々年(よくよくとし?)になったという話だ。

そんな年頃(これも変な響きだが、プレーオン!)になってくると、妙にさまざまな区切りみたいなものを作りたくなる。

この場合の「区切り」とは定年があったりすることからくる日常の転換だったりもするのだが、やはり「人生のやり残し」的なモノゴトに、もう一度相対してみようという場合の再スタートを意味しているように思える。

ボクの場合は仕事が継続し、その立場にすべてが束縛されてしまったような思いに陥ったが、最近ではやや開き直り気味でもある。

後悔するのが分かっているとしたら、とにかくそうしない方向へ気持ちを向けておこうと考えるのは普通だろう。

だから、むずかしいことは考えずに、目の前にあることを片付けている。

 

そんな中、年が改まって人生の「やり残しリスト」というのを作ってみようかと思った。

これまでの人生でやり残してきたことを並べていくというやつだ。

別に表などを作るわけではないが、クルマを運転している時などに、思いつくままアタマの中で中身を埋めていく。

内容の濃さは別にして、もともと何でもやってきたニンゲンなものだから、やり残しは山ほど出てくる。

しかし、ふと思った。

やり残しという定義づけがややこしいのだ。

だいたい、やり残していない、つまり、すべてやり尽くしたということなどあり得るのだろうか?

そう腹の底から言えるニンゲンが果たしているのだろうか?

少なくともボクの観点からはいないということが分かってきた。

そして、考える角度を変えた。

何をやり残してきたか?よりも、何をやってきたか?を考える方が前向きだと思えてきた。

つまり、「やり残しリスト」から、「やってきたリスト」に切り替えたのだ。

 

これまでの人生の中で、自分が熱中したり、興味を持ったりしたことを振り返るのは楽しい。

時間軸で追いかけていくと、小さな自分史みたいなものが出来上がっていきそうだ。

しかも、現在進行形でそれらがどこかに生きているということを発見したりすると、自分の人生もそれなりに充実していたのではないかと思えたりもする。

それに、やり残しよりは、もっとはるかに「ゼロからの再スタート」という気持ちになれる気がした。

カッコよく言えば、脈々と自分の中に生き続けてきたものを振り返るといった感じなのだ。

 

先日あるラジオ番組で、ゲストが還暦を過ぎて若い頃の感受性の強かった自分に戻っている……というようなことを話していた。

とても共鳴できる話だった。

いい言葉だなあと、耳から脳に行き、それから心に静かに届いた。

そのゲストは役者だから、特にそういう言い方が似合うのだろうが、普通のオトッツァンやオッカサンでも、感受性を再生させることぐらいむずかしいことではないのではと思った。

人それぞれだが、ボクの場合は少年期に感受したモノゴトに強いインパクトを受けた。

当時はちょっと周囲と違っていたから、プラスにもマイナスにも作用したと思う。

しかし、それだけが自分のすべてではない。

そこからさらにまた時を経て、さまざまに広がっていったものがある。

それらすべてがどこかで繋がっているような気もする。

そして、今の自分が出来上がっていった…のだから仕方ない……?

しかし、自己形成史というのは、ひたすら前へと進んでいくだけではないのかも知れない。

 

あまり遠くを見ないよう気を付けながら、これから春に向かおうとする時季に向けて、「やってきたリスト」や「やってきたヒストリー」をボーっと考えていく。

やはり、なかなか楽しそうだ………

初夢から解かれる

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1月も半分が過ぎたので、初夢の話を書く。

と言っても、いい夢ではなかったので、内容はあまり書きたくない。

ちょっとだけ書くと、仕事上のトラブルが発生して関係者に謝罪に行くという情けないものだ。

夢の中で、これは夢じゃないかなあと思っている自分がいた。

それほどモヤモヤしたいい加減な空気が漂った夢だった。

しかし、見てしまった以上、今更それを消してしまうわけにはいかない。

自分としては、それが「2016年の初夢」だっのたかも知れなかった…ということが情けなかった。

ただ、最近になってあることに気付いている。

それは、その夢が果たして本当に「初夢」だったのかということで、よくよく考えてみると、夢から覚めた時がもう明け方だったことから考えると、それ以前に見ていた夢があり、その夢が初夢に当たるのではないか……ということだった。

たしかに元旦の夜から、2日の朝にかけてのことだが、夢にも昔の映画のように“三本立て”とかがあって不思議ではない。

だから、自分が見たあの不快な夢の前に、すでに一本目や二本目を見ていた可能性がある。

その一本目が初夢にあたるのだ。

ひょっとするとその夢は、道を歩いていたら風が吹いてきて、その風と一緒にビール券が無数に飛んできた……とかいう “ 幸せいっぱいな夢 ” だったかもしれない。

少なくとも、はじめに書いたようなあの下品極まりない夢ではなかっただろう。

そんなわけで、ボクは今、初夢だったと思っていた不快な夢からようやく解放されようとしている。

新年になって初めて、短い時間だが自分の部屋で過ごした。

そして、出がけに、新築した20年ほど前、板壁に張り付けた一枚の写真をじっくりと見た。

真っ青な空に、いくつもの白い雲が浮かんでいる写真だ。

雲たちは浮かんでいるだけでなく、動いているように見える。

またひとつの年が始まったのだなと、漠然と思っていた……

 

 

 

 

 

ジャズと出合った頃に帰れる一冊

モンク2

10代の中頃から、“一気”にジャズを聴くようになった。

聴くだけじゃなく、ジャズの歴史やモダンジャズの代表的なミュージシャンたちのことを知ろうとしていた。

レコードは何枚も買えないから、FM放送とジャズ喫茶で聴き込んだ。

スイング・ジャーナルはもちろん購読し、歴史本も研究本も読んだ……

今この本をとおして、久しぶりにそんな時代に帰ったような気がしている。

分かったような顔をしてジャズを語っていた、若かりし自分がいたことを思い出している。

まったく行ったこともないニューヨークという街の片隅での話(出来事)を、遠く離れた日本の、北陸金沢の、さらにはずれの小さな町で読み耽っていた自分を見つけた。

しかも、自分が生まれる前や生まれた頃の話を……

この本の中に出て来るセロニアス・モンクという特異な(天才)ピアニストにまつわる、さまざまな書き手たちの話は興味が尽きない。

そして、何よりも編・訳の村上春樹自身が書いている最初の6ページの文章からは、かつてのジャズの世界(たとえばジャズ喫茶など)に流れていた、どこか説明のつかない懐かしさみたいなものが強烈に伝わってきて、その6ページは5回以上読み返した。

まだ半分ぐらいしか読み終えていないのは、そんな読み返しが多いからだ。

装丁の絵は、もちろん和田誠。

ただ中身は、装丁の雰囲気よりもかなり濃い。

今は、もうすぐモンクとコルトレーンの章になるのを楽しみにしているし、もちろん、モンクばかり聴いている……

 

金沢の高尾山を初冬らしく歩く

登山道1

12月中頃の土曜の午後、つまり初冬の休日の午後である。

金沢の奥座敷こと湯涌温泉から高尾山方面を歩いてきた。

特に計画らしきものもなく、いつもの湯涌ゲストハウスに立ち寄って、前に見せてもらっていた簡単なマップをもらっていこうと考えていた。

念のため、湯涌ゲストハウスの小屋番・A立クンに電話を入れると、相変わらず週末は客が殺到して、その準備に忙しいとのこと。

久しぶりの晴れ間の中、初冬にしてはやや温(ぬる)い空気が温泉街に漂っている。

邪魔にならないよう、マップをもらったらすぐに山入りしようと思っていたが、いつものように誘われるままカウンターに座ってしまい、彼の淹れてくれた美味い珈琲をいただくことに……

ピアノ・トリオの演奏が聞こえる中、しばらく世間話をし、マップのルートについて彼から話を聞いた。

高尾山…東京にある人気の低山と同名だがカンペキに違う。

湯涌温泉から旧江戸村跡地まで上がり、公園になっている場所の駐車場にクルマを置いた。

途中には、かつて東洋一の豪華さを誇ったと言われる「白雲楼ホテル」の跡地もあり、まだ営業していた時代(自分も20代だったろうか)に仕事で来ていたことを思い出す。

客として来たこともあって、風呂場へ行く道中が妙に怖かったのをぼんやりと覚えていた。

公園の駐車場にはクルマが一台、初冬らしき静寂の中、いかにも淋しそうに止まっていた。

ホントはもっと上までクルマで上がれて、そこから登山道が始まるらしいのだが、何となく長い時間歩きたいという気持ちもあったので、自分もそこにクルマを置くことにした。

A立クンも言っていたが、この季節はやはり早めの下山がお勧めだ。

最初の道2

路面は濡れた落ち葉が重なっているし、すでに陽は西の方に傾き始めている。

途中で引き返すこともアタマに置いて、舗装された道路を歩いた。

日陰に入ると、空気はさすがにひんやりとして顔のあたりにへばりつく。

フリースのファスナーを上げ切り、かなり早いペースで歩くことにする。

一応、小さなリュックにはもう一枚防寒着も。

炭焼き小屋炭焼き小屋の周辺

しばらくして登りと下りの分岐があり、そこを過ぎると炭焼き小屋が目に入ってきた。

もう冬季閉鎖中なのだが、小屋と言うには立派過ぎる。

周囲の木立の間には素朴なベンチも置かれていて、寛ぎのスペースといった上品さだ。

道から外れ、炭焼き小屋周辺の落ち葉の中をわざと音を立てながら歩きまわった。

道に戻ると、しばらくでこれまで登りの流れだったのが一気に下りに変わる。

やや躊躇しながらも、さらに暗くなっていく道を進んだ。

夏であれば、涼味が溢れるのであろうなあと思う。

そう思いながら、ここはまだ登山道ではないということを意識する。

そして、さらに進んで行ったところにある小さなスペースに、三台のクルマが止まっているのを見た時には少々拍子抜けがした。

やはり、ここまでクルマで来る人たちがいるのだ。

登山口の表示があった。

そうか、ここからが登山道なのかと納得するが、ここまでの道も登山道にしていいのではないかと、ふと思う。

そんなことはどうでもいいのだが、やはり土の上に出て山歩きらしくなったのは言うまでもない。

こじんまりとはしているが、それなりに急登もあったりして、なかなかやるじゃないかと気持ちも高ぶってくる。

最近、テレビでも“山番組”が多くあり、自分が忘れていた山歩きのバリエーションなどに懐かしさを感じたりするが、こういう山に来るとそれが肌で感じられる。

しかも、初冬の締まった空気のせいだろうか、余計にグッとくるのだ。

杉木立の道登山道2

急登の途中でようやくヒトと出会った。

意外にもやさしそうな若者だった。

両手にきれいに伐採された枝を持ち、ストック代わりなのだろう。

やや不安そうにこちらが上がって来るのを待っている様子だ。

山やっているナといった感じを受けない分、この山の身近さが伝わってくる。

簡単な言葉を交わして急登を過ぎると、今度はやや高齢な二人組と擦れ違った。

別に期待していたわけでもないが、コンニチワに頷いてくれただけだった。

最後に、今度は山やってます的雰囲気がたっぷり伝わってくる同年代(オトコ)と擦れ違う。

向うから開口一番、「今頃から登るんけ?」の声。

瞬間的にこのヒトは、この山のことを知っているナと感じる。

大概こういうヒトたちがこうした山を守ったり、広く案内したりしているのだ。

足を止め、ええ、行ってみようかと…と答え、そしてすぐに、早足のピッチに戻す。

3時間もあれば、最高地点(奥高尾山)まで行って下りて来ることができると考えていたが、それは登山口からのことで、自分はさらにその下から登っていたことを思い出した。

やや不安になってきた。

マップを見て、とりあえず前高尾山(763.1m)までにしようとほぼココロを決めた。

倒木

倒木が道をふさいだ急登の途中に、奥高尾山と前高尾山の分岐があった。

左上方に向かう滑りやすい不安定な斜面に足をかけ慎重に登った。

すぐに道は平坦になり、落ち葉が一層深くなっていく。

さらに行くと、今度は緩い下りになった。

そして、あれが前高尾かと木立の中の小さなピークを確認した時、前方が開けてきた。

前高尾のピークよりもこの稜線(と言っていいかどうか?)上にいた時の方が印象深いのは、どこかにあった焦りみたいなものが、ここからの眺めで和らいだからだろう。

谷間の風景遠景

まだ空は明るかったが、風は冷たかった。

山にいる実感が、その風の冷たさで湧いてきたような気がした。

もうかなり前のことだが、テレマークスキーで医王山の林の中を滑り降りたことがあった。

滑り降りたというとカッコいいが、実際は転がり下りて来たというのが正しく、最後はルートを誤り、スキーを外して登り返した。

そして、雪明りにほぼ助けられながら、何とか下山したことがあった。

その時も、登り返した場所で顔に当たる冷気が山にいることを実感させた。

カラダは汗をかいていたが、顔だけが冷たかった。

谷間の風景2

伐採され、分断された木がゴロゴロと一応並べられてある。

高くはないが、山域がそれなりの深さを持っていることが実感できる眺めだ。

カラダが一気にまた冷え込んできた。

尾根には初冬の風が吹いているなあと周囲を見回す。

谷間の葉っぱ2

下りも速足ピッチでスタートした。

しかし、さすがに落ち葉の上で何度も足を取られながらのやや難行だった。

特に急な場所では岩の上や泥の上の落ち葉が滑る。

朽ち果てようとしているかつての大木を見ていると、来年の春までこの木は残っているだろうかと余計なことを考えたりする。

辛うじて差し込んでくる木漏れ日の中で、木々が輝いていたりもする。

木洩れ日1 木洩れ日2

登山口までは、あっという間に戻れた。

アスファルトの道は、百名山を自力で完全踏破したアドベンチャー・田中ヨーキ君ばりに駆け足で進んだりもした(もちろん、ちょっとだけだが)。

駐車場に戻った頃には、もう夕暮れが始まっていた。

A立小屋番にメールしたが、返事がこないところをみると、湯涌ゲストハウスは、ゲストたちでにぎわっているのだろう。

湯涌ゲストハウスの美味珈琲をあきらめながら、こういうカタチの山歩きもそれなりに楽しいし、年齢やら体調やら、時間的余裕やらを考えると、もっとやっていこうかなと思ったりする。

初冬らしい締まった空気の中で、無理やり背伸びをしてやった……

西日落ち葉の道葉っぱ5-1葉っぱ6葉っぱ7葉っぱ8緑の葉っぱ

 

 

 

金沢文芸館~五木寛之文庫の仕事記

正面

金沢市尾張町にある「金沢文芸館」がこの11月で10年を迎えていた。

もっと歳月が過ぎているような感じだったのだが、意外だった。

そして、10年を迎えたすぐあと、数年ぶりにお邪魔させてもらっている。

館の建物は昭和4年(1929)に建設されたもので、かつては銀行だった。

平成17年(2005)に文芸館になるが、その前の年に国の有形文化財に登録されている。

工事に入る前に中を見せてもらったが、まるで映画のセットのようで面白かった。

特に2階のフロアから、階下のかつての店内を見下ろした時、なぜか西部劇に出て来る酒場を思い出した。

3階の窓からは金沢の素朴な街並み風景も見え、建物の存在自体にストーリーのようなものを感じたことを覚えている。

 

金沢文芸館での主たる仕事は、2階にある「金沢五木寛之文庫」の展示計画だった。

3階の「泉鏡花文学賞」のコーナーも含まれていたが、はっきり言って2階に比べれば“おまけ”に近かった。

この仕事も企画競争で勝ち取ったものだが、実を言うと、この仕事を他人に渡すようでは「おしまい」だと思っていた。

金沢に五木寛之に関する展示空間をつくるという話を聞いた時から、ボクは激しいプレッシャーに襲われた。

と言うより、自から自分にプレッシャーをかけていたように思う。

それは何と言っても、自分自身がかつて大の五木ファンであったからだ。

初期(自分が20代だった頃に読んだ)の小説やエッセイは、出た本すべて読んでいたと言っていい。

特に学生時代、東京で読む金沢の話などのエッセイは何とも言えずセンチメンタルで、ボクの中の金沢に対する印象に別な一面を作っていったと思う。

犀星の金沢世界も読み込んだが、時代も違い、五木氏のそれはまさに、“現代の、少し気だるい金沢”だった。

文芸館パンフ

そして、五木氏との接点で言えば、何よりも、自分があの内灘のニンゲンであるということを上げねばならない。

ボクは初期の代表作である『内灘夫人』の舞台となった、石川県河北郡内灘で生まれ育ったニンゲンだ

早稲田の学生だった五木氏が、初めて内灘の砂丘に立ったのはボクが生まれる2年ほど前。

五木氏は何かの中で、自分と内灘の関係を強く意識していることを書かれていた。

実は金沢文芸館の7年前、その内灘町で開催された「第1回内灘砂丘フェスティバル」(現在も継続)で、初めて五木氏に関わる仕事をした。

当時、内灘町では文学館建設の計画があり、その調査研究の仕事に関わっていた。

そして、その一環として文学に関するイベント事業の企画を上げ、その第1回目のゲストに五木氏を呼ぼうとしたのである。

ただ、「五木寛之論楽会」という名でそのイベントは開催されたが、正直言って全く関われる余地はなかった。

五木氏がすべてご自身で仕込まれた内容だったからだ。

唯一、ポスターとチラシの制作だけが全体予算の一部を削っていただいて我々にもたらされたに過ぎない。

その時の自分の企画はと言うと、町の文化会館を五木寛之一色にするというものだった。

五木氏のプロフィールを多面的に紹介し、内灘と五木氏との関係を広く知ってもらう最高の機会と位置付けた。

しかし、五木氏からあっさりとその企画は不採用とされた。

横浜、福岡、金沢(順番は忘れた)以外でこのような企画はやれないということだったが、それには素直に頷くしかなかった。

イベント内の冒頭のミニ講演会で、内灘との関わりについて五木氏自身の言葉で語っていただけたらと提案したことも、全くそうはならなかったと記憶している。

もちろん、天下の大作家にお願いをすること自体が無謀だったのだと反省もした。

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そんなことがあってからの、金沢文芸館だった。

企画提案の説明(プレゼン)には自信をもって臨んだ。

いつものように作品等よりも人物周辺を紹介するというスタンスを選び、手応えを十分に感じていた。

そして、採用の知らせを受けてから、五木氏との顔合わせと打ち合わせが決まった。

夜の品川プリンスホテル。

地下喫茶室のテーブルで、ボクは五木氏の真向かいにいた。

横には、ホテルで合流した金沢市の担当者と上司である課長さんが座っていた。

しかし、名刺交換は済ませたが、五木氏がマネジャー?の方とスケジュールなどの確認を行い、なかなか本題には入れない。

人気作家とはこういうものなんだと、ボクはその時漠然と思っていた。

やや長い時間が過ぎたあと、打ち合わせが始まった。

最初は企画の説明、そして、途中からは五木氏がご自身の考えを語り始め、こちらがその話の聞き手となっていく……

その時、ボクはあるモノをじっと見つめていた。

それは目の前で五木氏がメモを記す、ちょっと大きめなコースターだった。

万年筆の太いペン先で撫でるように記された“五木文字”が、ひっくり返されたコースターの上で踊っていた。

これは絶対いただいて帰ろう……

聞き覚えのあるあの声を聞き取り、自分のノートにメモをしながら、ボクはそのコースターの居場所をずっと追っていたのだ。

しかし、結論から言うと、このコースターは手に入らなかった。

打合せが本調子になってきた頃、ウエイトレスさんがやって来て、テーブルの上を綺麗にしていったのだ。

その時、ボクは資料か何かを出そうとして、床に置いたバッグの中を覗きこんでいた。

しかも、なかなか目当てのものを見つけられないでいた。

そして、気が付いた時には、すでにテーブルはすっきり……

時間にすれば3,40分の打合せであったが、五木氏の静かでやさしい語り口に終始リラックスしていられた。

今度は金沢でと言われ、テーブルの資料などを片付け終えた時だ。

思い切って五木氏に告げた。

「先生、私、内灘生まれの内灘育ちなんです」

最後に、この言葉を伝えようとずっと考えてきた。

特にそのこととこの仕事とが強くつながるわけではなかったが、とにかくボクは少し前のめりになりながらそう言った。

「え、そりゃあ、凄い人と一緒にやることになったなあ」

五木氏は少し照れたように笑った。

玄関まわり

それから数日後、新神戸駅前にあるアンチークの店にいた。

広い店内で、シンプルな椅子たちを見つめていた。

これらは採用されなかったが、当初、五木氏から聞かされていた展示室のイメージの椅子に近かった。

それからまたしばらくしたある日、東京・丸善丸の内店にもいた。

万年筆など執筆道具のディスプレイ方法を見るのが目的であった。

愛用した筆記用具類をどのように見せるかで、五木氏のお気に入りだった丸善のやり方を参考にさせてもらった。

現在設置されている展示什器のうち、いくつかは丸善からヒントを得ている。

玄関

五木氏のかなり細部にまでおよぶ指示の下、展示室のデザインが固まる頃、2階フロアだけとして「金沢五木寛之文庫」という名が付けられるということに、何か特別なものを感じた。

平凡だが、らしくて…いいなと思った。

特に「文庫」という二文字に愛着が湧いた。

そして、内装工事が終わると展示品が送り込まれ、それらは少しずつだが空間の構成に彩りを添えていった。

特に見覚えのある本の装丁やさまざまな写真などが気持ちを高ぶらせた。

最初の構想からはかなり変わってしまったが、ああ、いい仕事と出会えたなあと、柄にもそんなことを思ったりもした。

側面

2005年11月23日、オープン当日のことを書こう。

セレモニーは1階の小さなホールで、たしか昼の12時から挙行されることになっていたと思う。

狭い空間にそれなりの人たちが揃い、開始の時間を待っていた。

今でもはっきりと覚えている。

腕時計を見ると、セレモニーまであと10分ほどしかなかった。

しかし、五木氏はまだ2階にいて、自筆原稿のレイアウトなどについてずっと思案されている。

それまでにも何度も位置を変えたりしながら時間を要してきたが、もう残り時間はなく、さすがに階下から「先生、お時間ですので」の声がかかっていた。

「よし、これでいこうか」

最後の指示を確認し、スタッフたちが原稿を並べ直し、ショーケースの扉を閉じた。

そして、関係者たちがホッとした顔つきで佇む中、五木氏は狭い階段を下りて行った。

今でも、個人的には展示室自体、少し上品過ぎるような感じがある。

それは自分にとっての五木寛之像が、若い頃のイメージに沿っているからだ。

指示を受け、アンチークの家具などを探しに行った時には、そんな五木氏のイメージが自分の抱いていたものと合っていたように感じていたが、そうしたものは使用されず、実際に出来上がった展示空間はかなりピカピカしていている。

今から振り返れば、なぜか、そのあたりのことにずっと悩まされ続けた、むずかしい仕事だったようにも思う。

特にデザイナーたちは大変だっただろう。

そして、それ以前から関わり、同時進行していた別物件との両立で苦心した仕事だった。

恥ずかしながら、ボクはその五年後に内灘を舞台にした中途半端な物語~『ゴンゲン森と海と砂とを少年たちのものがたり』を本にした。

その本を出そうと決めた背景に、品川プリンスホテルでの五木氏との時間があったと、その本のあとがきで書いた。

久しぶりに文芸館にお邪魔したが、今更名乗るまでもなく、昔の一五木ファンとしてぶらぶらしてきた。

仕事は今でもスタッフの皆が、しっかりと繋いでくれている。

それにしても、まだ10年しか過ぎていない出来事だったのだ………

 

 

明治ラグビーの復活… 早明戦の復活

2015の早明戦は近年にない白熱した好ゲームだった。

明治ラグビー復活の道筋は、監督・丹羽政彦と、今シーズンから就任したFWコーチ・阮申騎(げん・しんき)が作ったと言えるかもしれない。

コンタクトの強さを前面に出す明治らしい選手がいなくなった…と嘆いていた阮。

しかし、しっかりと新しい明治らしさを見た気がした。

そして、そのことで早明戦の本当の姿を復活させてくれたと思った。

試合終了間際、ゴールライン付近での攻防は、かつての早明戦の定番だった。

ただかつては、FWで執拗に攻める明治に対して必死に守る早稲田というパターン。

しかし今年は、攻める早稲田に守る明治……

 

攻守は入れ変わったが、両チームの懸命な姿勢は変わっていなかった。

かつて国立を満員にした早明戦、その人気を、いや大学ラグビーそのものの人気を失墜させたのは明治だ。

明治が弱くなったからだ。

一年の終わりの早明対決を楽しみにしてきたファンを裏切ってきたのも明治だ。

早稲田の関係者たちから、明治が強くならないとダメだと言われながらも、明治は復活の道を見つけられないでいた。

ようやく前監督(吉田義人)によって陽は差しはじめ、そして、現監督(丹羽政彦)が現実のものにしていく。

40年あまり、最初は国立だったが、その後はほとんどテレビ観戦で応援し続けてきた早明戦。

説明のつかない切迫感と、歓喜と落胆を繰り返す80分間。

勝てば心の底から喜び、負ければ虚しさのどん底へと落とされる。

特に負けた時には、まるで自分の価値観が握りつぶされたような、そんな絶望に似た苦痛が迫ってきた。

そんなことを毎年繰り返してきたのだ。

テレビの前でも、国立のスタンドにいるように立ち上がり、大声を出して突進する選手に檄を飛ばす。

互いのチームカラーがはっきりと違っているからこそ、互いが自分たちのスタイルで勝つことにこだわる姿が美しかった。

これから正月に向けて、明治ラグビーは新しい時代へのチャレンジャーにならなくてはならない。

これまで代表に多くのOB選手の名を連ねてきたように、もう一度明治ラグビーの魂に火をつけてほしい。

これまでの空白の時間を埋めてくれなくてもいい。

これからの時間を楽しませてくれればいい。

今だから言う、はっきり言ってW杯は勝っても負けてもどうでもよかった。

日本のラグビーが世界に羽ばたいても、早明戦がかつてのように白熱し、強いて自分の都合で言えば、明治が早稲田に勝てばそれでよかった。

大学ラグビーらしい必死さ、そして爽快感を久々に味わった12月6日。

来年の早明戦を、かつてのように優勝を争う一戦にしてほしい。

心からそう思っている……

岳沢~晴れときどき曇らずの秋

 奥穂から前穂

上高地については、かなりうるさかった。

20代の中頃に行きはじめてから、多い時には一年に10回以上行っていたこともある。

それも最初の頃は登山のための通過点ではなく、上高地そのものを目的地に行っていたので隅々まで歩き込んでいた。

上高地に関する本もかなり読み込んだ。

「上高地」という名前や字面、その組み合わせのカタチ、そして「かみこうち」という名前の響きなど、何もかもが好きになっていた。

風景はもちろんだが、最初は歴史の話などに強く惹かれていたように思う。

里から登った杣人や岩魚を採る人々の日常を想像した。

そして、槍ヶ岳を開いた播隆上人、上高地と言えばのウオルター・ウエストンや上条嘉門次、内野常次郎、小林喜作、木村殖など、上高地を舞台にして活躍した山人たちの話に、今から思えば自分でも不思議なくらいのめり込んでいく。

上高地に入って最初に登ったのが、現代のように釜トンネルのない時代の徒歩ルート・徳本(とくごう)峠だったということからも、歴史からのアプローチにこだわっていたことが少しは理解してもらえるだろう。

古い話だが、かつて一緒に仕事させていただいた某広告代理店の、某大学山岳部OBの方との酒の席で、徳本峠の話で盛り上がったことがある。

こちらは20代、その方は40歳くらいだったろうか。

冬の上高地でのテント生活や、同じく槍ヶ岳で岩にヘバリ付いたまま一睡もせず過ごした話など、その人の話に若い自分はかなり強い刺激を受けた。

そして、そんな話の中で、この前徳本峠に登ってきましたと口にした時だ。

ええっ、穂高に登る前に、徳本に登っちゃったの? 凄いねぇ。

山のベテランが目を丸くして驚きの視線を送ってきた。

名古屋のちょっとオシャレなバーのカウンターで、生々しい山の話に花が咲いたのだ……

夕方河童橋

上高地に入り始めの頃はマイカー規制のない時期があった。

釜トンネルは今のようなきれいなものではなく、ただ削り掘っただけの岩盤むき出しで、路面も舗装されておらず、中では交差できないから手前で待機という場面によく遭遇した。

そして、そんな時期にはよく出かけていたのだが、マイカー規制がオールシーズンになってからは、八ヶ岳方面に向かう回数が増えて行く。

今の上高地は異常に近い感じの人の数で、もう静かに梓川や穂高の山並みを眺めるといった感じではない。

多分、徳沢から横尾あたりまで行けばまだ静かな雰囲気に浸れるのだろう。

思い切って季節外れのウィークデーを狙うのもいいのかも知れない。

二三年前に晩秋の上高地に入ったが、その時はさすがに人の数は少なかったように思う。

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河童橋付近から岳沢

なかなか本文に入れないでいたが、ここからが本文………

上高地の岳沢を終着点とする登山者はまずほとんどいないだろう。

涸沢までならいるかも知れないが、岳沢となると登って来たという実感も生まれにくい。

涸沢は奥が深く、周囲の風景も圧倒的だ。

しかし、時間的ゆとりがないとか、カラダに支障があって無理が出来ないという場合、岳沢も決して悪くないということを今回改めて知らされた。

今回出かけてきたのは、まさにその二つの因果関係からの選択だ。

あと強いて言えば、パートナーである家人の体力・経験も関係しており、その上で穂高の山岳風景をしっかりと見ることができるという場所を選んだ。

いつものように平湯の「あかんだ駐車場」からバスに乗る。

座席は最後尾……混んでいる。

話はまた飛ぶ………

昔、薬師岳の閉山山行に行っていた頃、空調もよくなく、全く快適ではないバスの最後尾に座らされたことがあった。

雪混じりの雨が降る冷え切った下山時で、バスの中は異様なくらいに暖められていた。

そして、有峰林道のくねくねした細い下りである。

ほとんどの人が車酔いし、バスを下りると道端に嘔吐していた。

そんなどうでもいいようなことを思い出したが、今のバスは違う。

しかも、今の上高地行バスは、安房峠のあの超ジグザグ道を通らないのであるから素晴らしく快適なのだ。

上高地に着くと、予想していたとおりのヒトの山だった。

トイレを済ませてすぐに河童橋へと向かう。時計は10時過ぎだったろうか。

河童橋を渡って梓川の右岸にまわり、写真を数枚撮ってから歩き出した。

自分の感覚では、この右岸側の木道は新しい上高地だ。

だからかどうか、しばらく歩いて行くうちに、目的にしている岳沢への登り口がどこなのか分からなくなった。

湿地のあたりで確認できたが、30年以上前に岳沢方面に入って以来、今まで足を踏み入れていないことに気が付く。

相変わらず遊歩道の木道には多くの人たちが、国籍も入り交えて歩いている。

かつては、道行く人たちの間で交わされていた「こんにちは」の声も今はほとんど聞くことはなくなった。

これだけの人たちと挨拶していたら、声も枯れてしまうだろうし、日本語で言っていいのかも問題だ。

登り口の池1

いつ見ても美しい湿地の風景を眺めた後、岳沢への登りに入るとまったく空気が変わった。

すぐに、自分の息づかいも感じ取れるくらいの静寂に包まれはじめる。

葉を落とし始めた大木の隙間から木洩れ日が差し込み、多くの倒木や苔などに注がれている。

登り口の苔

不意に驚かされるほどの野鳥たちの鳴き声や飛び立つ羽音、そして嘴で幹を突く音などが響く。

道は適度にアップダウンを繰り返し、ところどころに木道や簡易な木の階段なども備えられてある。

登山道3

山の人たちの心配りが嬉しい。

どこか神聖な気持ちになって足を運んでいる。

ほとんど人の声がしないまま登って行くと、はじめて上から下りてくる人影が見えた。

外国人の、いかにも自然好きといった男が独り歩いてきた。

上にある岳沢の小屋に泊まっていたのだろうか。

軽装だから、穂高からの下山のようには見えない。

静かに挨拶を交わすと、家人が「やっと人に遭ったね」と言った。

上高地の喧騒を経て来ると、この静けさは寂しさにも通じるのかも知れない。

時々、樹林の切れ間があると、西穂高の山並みが見えたりする。

途中にある「風穴」も、文字どおり斜面の石と石の間から冷気を感じて楽しい。

風穴

岳沢の小屋までではなく、その手前の展望のきくところまでを目的にしていた。

予想タイムでは一時間半もあれば到着する。

家人もそろそろ疲れはじめたかと思った頃、今度は若者が独り軽快に下りて来た。

その雰囲気から、小屋のアルバイトあたりではないだろうかと勝手に思う。

森林限界は近い?というような聞き方で、樹林帯から抜けるまでの距離を確認したかったのだが、彼は首を傾げてすぐには答えてくれなかった。

こちらが岳沢の先端の展望が開けるところと言い換えると、ああ、それならすぐですと明快な答えが返ってくる。

このあたりの森林限界と言われると、どこなのかよく分からないので…と彼は言った。

なるほど、彼の言うとおりだった。

展望1

そして、若者に言われたとおり、少し急な上りになった先に岳沢の先端部分が見えてきた。

思わず声が出るくらいに、見事な、文句なしの青空が待ち構えている。

石ころだらけの岳沢をあらためて認識しながら、西穂高と奥穂高を見上げる。

色付いている木々の葉も山岳風景の大きなアクセントとなり、しばらく感動の目で周囲を見回していた。

黄色の木

今流行の山ガール二人組の先客がいた。

ピカピカの道具を出して、お湯を沸かしている。

コンニチハの代わりに、サイコーですね!が挨拶になった。

彼女たちを通りこして、より高いところへと登った。

ここは登山ルートではない。ルートは樹林帯の中に延びていて、そのまま岳沢小屋へと繋がっていく。

適当な場所で、ランチタイムとした。

朝作ってくれた握り飯も玉子焼きも格別に美味い。

彼女たちのように温かいものを作ろうと最初は道具を用意したのだが、前夜の段階でそこまではいいかということになった。

リュックも小さいものにしていた。

だが、無理してでも持ってくれば良かったかなと後悔………

家人は、下った後の「五千尺」のコーヒーとケーキに思いを馳せている。

ランチの後、家人を残しボクはさらに大きな石の上を登った。

特に風景が変わるというほどではなかったが、それでも少しずつ近付いて来る穂高の壁が気持ちを高ぶらせる。

西穂と木

二年前の秋、久々の本格的な山行で自分の膝がおかしくなっていることを悟った。

同行した娘の厄介になりながらの無残な下山だった。

少しずつ馴らしていこうという企みもなかなか順調とは言えず、かつての通過地点が今の自分には目的地点になっていることに納得した。

今夏の美ヶ原も、秋の始めの八方尾根もそんな山行である。

ただ、目に届くものは本格的な山を感じさせるものにしたいと思っていた。

そういう意味で、岳沢はさすがに上高地を出発点とする山の世界を実感させてくれた。

こんな山岳風景を見るのは今年最後だろうなあと思いながら、カメラのシャッターを切る。

奥穂の肌

振り返って見下ろすと梓川と上高地のバスターミナルあたりが霞んで見えている。

そして、目線を上げると霞沢岳方面の山並み。

あの山並みの延長に徳本峠がある…… ふとそんなことを思った。

何十年も前の独身時代、徳本峠へ登った。

その時のパートナーは、今岳沢の岩の上に座っている家人だった。

今と違って登山中すれ違う人もなく、古い徳本峠小屋には、ヒマラヤ帰りでたまたま留守番をしているという男が独りいた。

何もなかったが、丸太によって支えられた上高地の歴史の中の小屋に来ることができただけで自分は満足していた。

しかし、今から思えば、いくら自分の趣味や憧れとは言え、あのような場所へうら若き乙女を連れて行くのは普通ではなかったのかも知れない。

上高地見おろし

そんなことを考えていると、上高地の方からゆるやかに風が一団昇ってきた。

大きな薄い布を広げて、その上を風が吹きあがって来るような感じだった。

昔のことなのだなあと思い、上高地が好きだったのだなあと思う………

再び樹林帯の道に戻って下り、そして、遊歩道に出て雑踏の中を明神まで歩いたが、そこで感じた俗っぽさにはかなり落胆した。

上高地をそのように思うのはよくない……

自分自身にそう言い聞かせながら、さらに長い歩きの時間に耐えなければならなかった。

そして、来年は春の上高地から始めたい…と思ったりもしていたのだ。

植物1梓川1木々

 

 

母の笠を吊るした足軽屋敷

足軽1

金沢長町の大野庄用水沿いに、二棟の足軽住宅がひっそりと佇んでいる。

二つを合わせて「金沢市足軽資料館」という。

1997年現在地へ移転され、足軽たちの生活や仕事などを紹介する展示計画をさせていただいた。

笠

今も玄関に吊り下げられている古い笠は、当時母が畑作業などで実際に使っていたものだ。

時代考証などというむずかしい話を通さないまま、生活感を出すための演出として笠を吊るした。

ちなみに横にある蓑については記憶がない。

母は、何も言わずに自分の笠を譲ってくれた。

しかし、後日代わりにとちょっとおしゃれな麦藁帽子を買って行ったが、結局一度もその帽子を被った母の姿を見ることはなかった。

老いた母にはやはり派手だったのだろうかと思った。

そして、何だか申し訳ない気持ちになったまま、それからしばらくして母は畑にも出られない身体となってしまった………

 

ところで、加賀藩の足軽たちは庭付きの一軒家に住んでいて、城下にはいくつかの足軽町が形成されていた。

庭があったのは野菜や果物などの食料を自給するためだ。

展示されている二棟は、清水家と高西家という。

特に屋敷道明先生と調査に出かけた清水家では、刀箪笥が現代まで使われていたり、古い証文などが見つかったりと楽しい思い出がある。

清水家の方は実際に住まわれていて、その分、資料が残されていたのだろう。

高西家からは展示資料らしきものは出てなく、展示は加賀藩の足軽に関する解説が主になった。

納戸

屋敷先生から教えていただいた足軽たちの日常は、まさに生活感が生々しいくらいに伝わってきて興味深かった。

内職などで何とか家計をやりくりしながらも、家族寄り添い平和な毎日を過ごしていた様子が想像できた。

納戸1

参考にと新潟県新発田市に残されていた足軽の住まいを見に行ったが、それはまさに長屋であり、加賀藩の足軽たちの境遇がいかに恵まれていたのかを知った。

そして、さらに驚いたのは、戦後の住宅がこの足軽屋敷の間取りなどを参考に造られたといった話だった。

たしかにオープン前日、周辺住民に公開された時、何人かの見学の方が「昔のうちもこんなんやったねえ」と語り合っていた。

納戸(なんど)などの部屋の呼び方も懐かしく、自分自身でも子供の頃の生活空間の温もりのようなものが蘇ってくるような気がしていた。

この後、近所の長屋門が残る高田家の仕事も続いた。

そして、長町の武家文化紹介に少しだけだが貢献できたような、そんな錯覚が今も続いているのだ………………

メモ

金沢城・江戸末期のビッグイベントと寺島蔵人のこと

寺島蔵人D

今から10年以上も前、毎年6月に開催される金沢最大の祭りの、その仕組み全般を見直すという仕事に3年間関わっていたことがある。

ほぼ無関心であったその祭りについて考えていくことは、いろいろな意味でかなりの苦痛を伴った。

山のようにある課題の中で、武者行列の行程や構成を変えて、最終的に城の中へ、しかもパフォーマンスを交えながらスムースに入れることが最大の難題だった。

それは苦労した甲斐もあって何とかなったが、ボクはさらに城の中を祭りのシンボルゾーン的な場所にすることも重要課題としていた。

同時期に、金沢城公園も完成していたから十分にその必然性もあった。

行列が城に入るというのは史実によって裏打ちされていて、祭りでも実際に「入城行列」とネーミングされていたのだ。

が、城内行事は何となく広場があるから、そうするのがいいだろうくらいの話で進んでいた。

それで特に問題があったわけではないが、自分としてはちゃんとした根拠(史実)が欲しかった。

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ある日、玉川図書館の近世史料館で、タイトル写真にある本の著者である長山直治先生に偶然お会いした。

先生はその頃、わざわざ定時制高校の教員に転向し、昼間は地元の歴史調査研究に没頭されていたのだ。

ボクはひさしぶりにお会いした先生に相談した。

実は先生は高校三年の時の担任だ。

恩師であり、歴史の面白さを教えてくれた人だ。

そんな話なら任せておきなさい……

そうは言わなかったが、先生は昔から変わらない眼鏡の奥の垂れ下がった目にチカラを込め、ボクを見た。

そして数日後あらためてお会いした時、この本の中に紹介されている、藩政末期の金沢城内における能の開催に関する話を聞かせてくれた。

それは驚きと同時に、しめたと思わせる内容のものだった。

文化8年(1811)、12代藩主・斉広(なりなが)が催した能の話だ。

その時の能は金沢城二の丸の再建と、斉広の家督相続と入国の祝いとして挙行された。

むずかしい話は省略するが、11日にわたり、藩士や宝円寺、天徳院の僧侶など、さらになんと庶民も白洲に招かれている。

その数、藩士・寺方で約2500人。白洲に造られた仮屋から見物した町方庶民は、ほぼ1万人だったという。

前者には料理が、後者にも赤飯や酒が振る舞われたらしい。

そして、この能のために出仕した徒歩や足軽たちも万単位の数となり、役者とともにその人たちにも賄が出ているとある。

これがなナカイ、かつて金沢で行われた最大のイベントやろな…と、先生は得意そうに、そして軽く言われた。

それ以前にも、能をこよなく愛した藩主たちによって、かなり盛大に開かれていたという。

ここまで話を聞いて、さすが金沢だなと思う前に、さすが長山先生だなとボクは思った。

いつも熱っぽく歴史を語っていた先生からこういう話が聞けたことも、また嬉しかった。

金沢と言えば、やはり能なんだわ……

そうなんですね……

ボクはかなり感動し、その後最終的にまとめた提言の中にも、この話を引用した。

ただ、かなりチカラを込めたつもりだったが、祭りの人気行事としての「薪能」は、特にそんな歴史的背景などどうでもよかったかのように、金沢城内で“普通”に開催された。

金沢城内での初回だけは、はるか後方からぼんやりと見た記憶があるが、それ以降は見ていない。

まだ仕事の真っ只中にいた頃、旧中央公園の舞台を特等席から見させていただいたことがある。

こっそりと蔭から見ていたら主催者の偉い方に見つけられて、テントの中へと入れられたのだ。

藩政時代で言えば、藩士の席から見ていたことになるのかも知れない。

ところで、この本の主題である「寺島蔵人(くらんど)」という藩士は、前田斉広の時代に側近として仕えたが、民を思うあまり藩政批判をし、能登島に流刑になった人だ。

流されて半年もしないうちに61歳で病死した。もちろん能登島でだ。

寺島門

大手町の静かな屋敷の佇まいが今は観光名所になっているが、かつては一本裏道の住民ですらその存在を知らず、観光客からクレームを聞いたこともある。

表通りの和菓子屋さんの二階から、鬱蒼とした庭木を見ることができるが、それもあまり知られていないようだ。

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藩政時代の金沢の祭りの取材から、長山先生と偶然再会し、金沢での能のポジションをあらためて知り、先生が寺島蔵人を研究されていることを知った。

祭りに関わった中で、この本との出会いがいちばんの出来事だったように今思ったりもする。

先日、何年ぶりかで寺島蔵人邸に入ったが、スタッフの方々が丁寧に対応されていて気持ちがよかった。

相変わらずの余計なお世話だが、少なくとも、長山先生の本から想像する寺島蔵人という人には大いに興味が湧く。

一、二年前に見た『蜩(ひぐらし)の記』という映画にとても感動したが、何となくああいう物語のイメージに近いものを感じたりもする。

せっかく屋敷も残っているのだから、もう少し取り上げられてもいい。

ところで、先生はお元気だろうか。

なかなか行けないが、たまに近世史料館に顔を出してみるとお会いできるかもしれない………

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自分の葬式に流す曲

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今年も「金澤ジャズストリート」は遠い存在で終わった。

連休初日の真昼間から、尾山町の「穆然Bokunen」でコルトレーンとドルフィーを聴いたら、もうどうでもよくなった。

今年は渡辺貞夫、山下洋輔、坂田明、それにスガダイローなど、昔よく聴きに行っていた人や、最近よく聴くようになった人などが来ていて、少しは関心があった。

しかし、わざわざ出かけるといった気持ちに至らないまま、穆然のスーパーサウンドで聴いたコルトレーンとドルフィーのライブ盤が十分に満たしてくれたのだった。

いきなり寂しい話だが、この夏、身近にいた60代のまだ若い先輩たちがこの世を去っていた。

中には、音楽をやっていた人もいて、その葬儀の会場に流れる音楽がとても印象に残った。

通夜に出る機会が二ヶ月間に十回近くあると、そんなことに敏感になったりもする。

そして、ついに自分の時には何を流すかにまで考えが及ぶようになると、読経の響きさえも意識から遠のいていくのだ。

実は通夜の会場に流す音楽のことを考える前に、遺影に関する話も以前に聞いていた。

お世話になっている方の奥さんが亡くなった時、その遺影が奥さんの決めていた写真であったという話を聞いたのだ。

奥さんは定期的に写真を撮ってもらっていて、それらは遺影用だったという。

さらに祭壇には自分が指定した花が飾られ、とても個性的な雰囲気を演出していた。

ニンゲン、いつ死ぬか分からない。

それから後、これから撮る写真はいつか遺影になると思うようになった。

だから、最近では、山で長女に写真を撮ってもらう時でも、「遺影にするかも知れんから、しっかり撮れよ」と言ったりする。

それもかなり本気で。

そして、音楽だ。

もう亡くなってから十年以上が経つ、YORKのマスター・奥井進サンの葬儀の時には、追悼のCDが作られ、その中の曲が会場に流された。

始まる前の焼香の時や出棺の時には、やはりそれなりの音量で流すのがいいが、奥井サンの時はそれがとても効果的でいい感じだった……と聞いた。

実は裏方をやっていたので、会場には出られなかったのだが、曲も演奏ももともと素晴らしかったのだ。

勿体ぶってきたが、今考えている自分の曲は、コルトレーンの「I want to talk about you」だ。

君のことを語りたい…… 自分のことを語ってくれるヒトビトが、それなりに来てくれたらいいなという思いもあるが、やはりコルトレーンの演奏が好きだからだ。

特にスタジオ録音より、50年ほど前のニューポート・ジャズフェスティバルでの豪放なライブ録音がいい。

一応、長女にもその曲を聴かせ伝えたが、CDに入れておいてと至って事務的な返事だった。

本当は、自分が十代半ばでジャズと出合った同じコルトレーンの「My favorite things」をやってほしいのだが、あれは烈しすぎて遺族も参列者も引いてしまうだろう。

ちなみに前の曲もこっちの曲も、同じ野外でのライブ録音だ。

前者は一応バラードなのだが、コルトレーンをモノクロ映像で初めて見た時、とてもバラード演奏とは思えないほどに烈しく吹きまくっている光景に感動した。

今ではオシャレなお店なんぞで流されているコルトレーンのバラードだが、当時、カルテットはダークスーツにネクタイで決めながら、吹き出る汗を拭こうともせず熱く煮えたぎっていたのだ。

そんなわけで(?)、今のところこの路線に落ち着きそうである。

それで、一曲じゃもたないから、もう一曲と言われたら、「Violets for your furs」。

邦題があって、「コートにすみれを」という同じくコルトレーンのバラードなのだが、こちらはスタジオでの素朴な演奏で、これも好きな曲だ。

ただ、最初の曲との繋がりで言えば、ちょっとテンションが異なるかも知れない。

しかし、この曲はピアノのレッド・ガーランドもよくて、通夜にはぴったり(?)なのである。

こんなことを考えていると、早く自分の番が来ないかなあと楽しみにしている自分に気付いたりする。

そして、現実に戻ると、これから本格的に歯の治療に入るのに今死んだのでは勿体ないないではないかとも考える。

そして、さらに思うのは、その場の臨場感を自分自身が味わえないのではないかという侘しさというか、怒りみたいなもの、いや虚しさか…… とにかくそういうものだ。

仮に棺桶の中でその音楽を聴いているにしても、その時の自分にはどういう感情が宿っているのだろう。

そんなこともちらりと思ったりしながら、今75年のマイルス「Agarta」を超デカ音で聴いているのである………

先生がやって来て、ボクは空振りした。

真夏の青空と雲

小学校に行き始めた頃だろうか、いやもっと前かも知れない。

「ギョーセードーロ」という言葉を何気に覚えていた。

それは、今普通に県道と呼ばれている道路のことで、昔はそう呼ばれていた。

「ギョーセードーロ」とは「行政道路」のことで、ボクが生まれた町の史上最大の事件であった米軍試射場問題(1950年代前半)の補償で造られたという道路だった。

町の東側は河北潟というそれなりに大きい潟、西側は日本海。

町はその水域に挟まれ、家並みは河北潟の岸辺に沿い南北に延びていた。

面積で言えば、とても小さな町だった(今も同じだが)。

で、行政道路なのだが、ボクたちの住む小さな地区では、河北潟の岸辺を埋めて盛土をし、その上に砂利を敷いて造られていた。

それが出来た頃の話は知らないので、河北潟の端っこを埋めて造ったというのは後から知った。

今それを確認しようとしても、ほとんどその面影は残っていない。

ただ、まだカンペキに田舎のハナタレ小僧(仮の表現である)であった頃、家の前の細い道を行くと家と家の間にまた細い道があった。

その細い道の両側は小さな水田になっていて、最後に葦に被われた小さな登りを過ぎると砂利の敷かれた立派な道(路)に出る。

それが行政道路で、路線バスはそこを走っていた。

水田になっていた所は、かつて河北潟の岸辺だったのかも知れない。

そのことも確認のしようがないが、行政道路に繋がる細い道は今でも残っている。

ただ、平坦になっているだけだ。

走るクルマの数は少なかった。

そう思うのは、何となくいつも静かだったという記憶が残っているからだ。

たまに走ってくるクルマが砂利を弾き、弾かれた砂利が道の反対側に残る水路みたいな川みたいな部分に飛び込むと、ドブンという鈍い音を響かせた。

ここでよく、“独り野球”をやった。

木の棒か竹の棒を持ち、適当な大きさの石を拾ってノックのようにして打つ。

それをするのに適した場所は、潟の中に出島のように造らえた水田と道路との間の水路の、特に広くなった部分で、打った石が水路を越えて出島の方に入るとホームラン。

あとは適当に内野のラインを水面に決めて、石を打つのだ。

なかなか説明しても理解してもらえないが、河北潟というのはその頃今よりはるかに大きくて、そのすぐ後から徐々に小さくなっていく。

干拓が始まったからだ。

ついでに書くと、ボクたち全ガキ連にとっては、干拓も初めは「カンタク」であった。

独り野球は試合形式で、カードはいつも巨人・阪神戦だった。

当然、四番サード・長嶋の打順の時は、何回打ち直してもいいことになっていた。

長嶋は何度も四打席連続ホームランを打ち、ほとんどが長嶋のサヨナラ・ホームランで巨人が勝つというパターンだったように思う。

小学校三年の時だ。

夏休みが終わって、二学期が始まったばかりの午後の遅い頃だ。

担任だったN先生(もちろん美人先生)が、ボクが独り野球に興じている横を、ホンダ・カブで走り抜けていったことがあった。

あまりクルマの走らない道だったから、バイクが来ただけでもすぐにエンジンの音で分かる。

しばらくして、学校から帰宅するN先生であることも分かったが、どうしたらいいのか分からない。

ボクはそのまま分からないふりをしてやり過ごそうとした。

先生はすでに結婚されていたが、学校では他の追随を許さない美しさとやさしさと、時折見せるはにかんだような仕草や表情などで圧倒的な人気を誇っていた(と記憶する)。

それはともかく、先生のバイクが近付いて来ていた。

その時、ボクのアタマにマヌケな考えが浮かんだ。

先生にいいところを見せようという、男の子から少年になろうという頃合いならではの(?)余計な思いが浮かんだのだった。

緊張しながら、ボクはちょうど手にしていた適度な大きさの石を見た(と思う)。

そして、いつもより少し余裕を持った感じでその石を上げた(とも思う)。

まだ先生のバイクは先にいたが、先生の視界にはクッキリとボクが入っているはずだった。

そして、ボクは長嶋茂雄風にバットを振った。

見事な空振りだった。

それも長嶋茂雄風と言えば言えなくもないが、ここではそれは許せないことだった。

ボクは思わず体を先生の方に向けた。

“さよならァ~”

白いヘルメットを被り、運転の緊張のせいだろうか、いつものやさしい表情は消えていたが、先生の澄みきった声が色の付いた風のようにボクの顔の前を通り過ぎていった。

ボクは先生の背中に、サヨナラ~と告げた。

先生に空振りを見られたくはなかったが、先生も自分がバイクに乗っている姿を見られたくなかったのかも知れないと思った。

ボクにとって、その日は何か特別な日になった。

先生と互いのヒミツを共有したような気持ちになっていた。

見上げた空はまだ夏のようだったが、赤とんぼが数えきれないほど浮かんでいた。

翌日、教室で見た先生の顔は、いつもと同じだった。

ボクはなぜか少しガッカリしたが、先生のあの色の付いたような声を思い出し、ひとり幸せな気持ちに浸っていたのだった・・・・・・・・・

 

夏の朝について

朝靄の田園

去年、晩秋の空の下で見た風景を、今年は初夏の空の下で見た。

前は夕方だったが、今度は朝方だった。

当たり前だが、その風景には違った空気感があった。

そして、その空気感をしばらく楽しんでから、自分が夏の朝が特に好きであるということについて考えていた。

二十代の夏、八ヶ岳山麓に出かけていた初期の頃まで、朝の風景にそれほど心を動かされるということはなかったと思う。

しかし、ある時、新しい何かが生まれた。

それは空気感というもので、その時には意識していたか分からないが、肌に感じる何かによって朝への気持ちの向き方が変わった。

素朴に夏草が露に光っていたり、湖面に朝日が反射したりしている光景も、その空気感をより一層敏感にさせていたように思う。

木立に差し込む朝日も、森や林の空気感を印象深くさせていた。

これまでに、いろいろな場所でいろいろな夏の朝を見てきた。

自然は自然なりの、夏の美しい朝や穏やかな朝などを見せてくれた。

そして、今でも、山里の道沿いに続く石垣の上に、ラジオ体操を終えた少年たちが並んで座り、皆で漫画を読んでいる風景を特に思い出したりするのは、夏の朝が最も生気に満ちていると感じるているからなのだろう。

夏の朝はもう今年は来ないみたいだ。

来年の夏の朝を楽しみにしたい………

 

加賀大介さんの写真

歌碑

100年目を迎えたという夏の甲子園大会が終わった。

多くの人たちが語っていたように、今年の大会は見応えのあるゲームが多かった。

先入観で考えがちな地域差のようなものが、今年の大会ではなくなっていたように思う。

かつての強豪校が、あれれと思うような学校(しかも公立校)に敗れていくなど、もうそういった感覚で高校野球は語れなくなったようだ。

もちろん野球留学が増えた影響も大であるが、野球そのものの質が高くなったことによる楽しみも大きくなったと思う。

石川で高校野球と言えば、星稜である。

その中でも特筆されるのは、やはり松井秀喜さんの存在だろう。

ところで、その松井秀喜さんのベースボール・ミュージアムも今年の12月で10年になる。

松井さん自身の甲子園物語は今更書くまでもないだろうが、ミュージアムの展示ストーリーを考えていく中で、特に高校編において強く残しておこうと思ったことがひとつあった。

それは夏の甲子園大会の大会歌『栄冠は君に輝く』の作詞者のことだ。

もうすでに多くの人に知られている、加賀大介さんである。

松井秀喜さんが育った石川県根上町(現能美市)の根上球場には、『栄冠は君に輝く』の歌碑が建つ。

歌碑全体

高校時代、松井さんはその球場の10周年記念試合で、愛工大名電の投手から2本のホームランを放っていた。

特に2本目はサヨナラホームランで、左中間側にあるスコアボードの上を鋭く越えていく特大ホームランだったらしい。

バックスクリーン

バックネット裏にはプロのスカウトたちが陣取っており、その豪快なホームランによって、松井秀喜の評価は固まったという話も聞いた。

ボクはその話を聞いたと同時に、松井秀喜さんと加賀大介さんとの間に目に見えない何かがあったのでないかという思いに襲われた。

もしかしたら、片足を失い野球選手としての道を断念した加賀さんの野球への思いが、松井秀喜さんにあのホームランを打たせたのかも知れないと思った。

同じ町で、しかも加賀さんの家は、松井秀喜さんも通った小学校の横にあった。

人一倍体が大きかった秀喜少年を、加賀さんはずっと空の上から見つめ続けていたのかも知れない。

そして、プロの選手としての道を決定づけるあのホームランを、ふるさとのあの球場で打たせたのかも知れなかった。

幸いにも、加賀さんの妻・道子さんは松井秀喜の大ファンであった。

同じ町内から出たヒーロー・松井秀喜のファンでなくして、加賀大介の妻は務まらないといった、気概付きのファンみたかった。

ある日、ボクはミュージアムで加賀さんと松井さんとの物語を紹介するため、加賀家を訪ねた。

すでにミュージアム資料の中にあった写真で道子さんのお顔は分かっていたが、初対面の時、その若々しさにびっくりした。

活き活きと、あの歌の詞のように生きてきた女性のカッコよさみたいなものを感じた。

あの加賀大介の妻なんだからと、気丈に生きる使命も持ち合わせていたのかも知れないと思った。

そして、何よりも道子さんはやさしさや知的さも兼ね備えた素敵な女性だった。

当時、ボクはこの仕事の上では、どこへ行ってもある程度の歓迎を受けていた。

多くの著名人との接点を導いてくれていた。

加賀大介さんの妻・道子さんは、とてもさり気なくボクを迎え入れてくれた。

夫と松井秀喜との関係をそんな風に捉えてくれたということを、とても喜んでくれているようだった。

ボクはいろいろなお話をさせていただきながら、最後に大介さんの作詞をされた当時の写真がないかと尋ねてみた。

道子さんは、自分も見たことはないと言われた。

そういうふうに言われても、はいそうですかと引き下がれないのが、こういう仕事をしてきたニンゲンの性分だ。

ボクは、よくあるパターンのひとつである仏壇の中のことを思った。

思い切って、仏壇の抽斗(ひきだし)とか探してみてもいいでしょうかと尋ねると、道子さんは快諾してくれた。

そして、その数分後になんと抽斗の中の一番下だったかに仕舞われてあった、若い頃の大介さんの写真を見つけたのだ。

加賀さん

 

その写真は、お経の本のようなものに挟んであった。

道子さんはとても喜んでくれた。

それまでの時間の中で見せてくれた写真は、それなりに年齢を重ねた頃のものばかりで、道子さんご自身も、こういう写真しか残っていないんですと話しておられたのだ。

自分で撮った球場の写真に、加賀さんの写真を組み合わせ、星稜高校の山下智茂前監督のもとでじっくり取材させていただいた、あのホームランにまつわる話を短い文章にまとめた。

そして、一枚のパネルが出来上がった。

パネル1

あの5打席連続敬遠のコーナーにある阿久悠氏の詩と共に、ボクはなぜかそのパネルの存在を自身で誇らしげに思った。

その後の伊集院静氏なども含め、松井秀喜という素晴らしい野球人にまつわる文人たちの存在が何か特別なものを意味していると思えたからだ。

今年の夏の大会では、特にこの大会歌の話が多く取り上げられていたような気がする。

加賀さんと大会歌の本も出たらしかった。

そんな話を聞くたびに、道子さんのことが頭に浮かんだ。

最近になって、ミュージアム館長からも中居さんの大切なエピソードだし、その写真を見つけたということがとにかく凄いことだったという言葉もいただいた。

いつかまた、加賀道子さんを訪ねてみたいと思っているが、10年という節目だから、それも許してもらえるかも知れない。

左中間から

……

美ヶ原の夏歩き

美ヶ原の道

深田久弥は、『日本百名山』の中で、山には登る山と遊ぶ山があると書いていた(と思う)。

そして、遊ぶ山の代表格として霧ヶ峰や、この美ヶ原のことを書いていた(と思う)。

カッコ書きが続くのは、もう内容を忘れてしまったからで、その本自体もどこへいったか分からなくなっている。

そんなことを後で振り返りながら、8月の初め、30年ほどぶりに信州の美ヶ原へ出かけた話を書いている。

美ヶ原はカンペキな遊ぶ山だ。

その美ヶ原に、30年以上行っていなかった。

回数で言えば、3回以上は確実に出かけた記憶がある。

ただ、本格的な山行に出かけるようになってからは、美ヶ原は目的地の対象にならなくなっていた。

美ヶ原は、霧ヶ峰の延長にあるイメージだ。

白樺湖から車山高原へと上り、ビーナスラインを走り続けて霧ヶ峰から美ヶ原に辿り着く。

このルートは、20代の頃の夏のシンボルのひとつだったと言っていい。

真夏の高原道を歩いた記憶は、鮮明に残っている。

で、美ヶ原なのだが、今回は松本側から上がった。

上がったと書いたのは、もちろんクルマでだからだ。

松本の街中をスルーし、浅間温泉からのらりくらりと、そして何度も何度も深いカーブを曲がりながら、一気に高原地帯へと上がって行く。

申し訳ないくらいに楽をさせていただきながら、最後の駐車場からも、わずかに歩いただけでもう2000m近い山岳風景だ。

同じルートで一度美ヶ原に来たことがあったことを思い出したが、いつのことか覚えていない。

頂上

王ヶ鼻から、最高地点の王ヶ頭へ。

特に厳しくもない緩やかな登行だが、容赦なしの直射日光だけが難敵になってくる。

同行の家人は、今や父親を抜いて山の強者となりつつある長女の山ハットを深めにかぶり、360度に広がる高原風景に目をやりながら暑さに耐えている。

王ヶ頭へは途中からトレッキングルートに入り、出来るかぎり山歩き気分を保持しようということになった。

短い急登を経て、難なく王ヶ頭に到着。

汗を拭きながら、しばし眼下から目線高までの風景を楽しんだ。

一気にせり上がっているこの山域では、眼下に見える風景の立体感がとてもいい感じだ。

眼下のどかな草原風景と、削り落とされた壁に突き出る岩場のコントラストが山岳景観の醍醐味を感じさせる。

岩と眼下

楽(ラク)して、こんな風景に浸っていてはと申し訳ない思いもしないではない。

のんびり眺望を楽しんでいると、若い女性三人組からシャッター要請が来てますと家人。

スマホによる撮影は苦手だが、何とか無事済ませると、今度は向こうからお撮りしましょうか的返礼があった。

ではと、夫婦で石碑を挟み、お言葉に甘えることに。

山ではやはりいいニンゲンたちばかりだ……

夏の木立

美ヶ原そのものは、やはり台地状の高原に広がる牧場がメインイメージだろう。

すぐ横にあった山頂ホテルの脇を抜けて、その目抜き通り的道を歩くことにした。

昨年の9月(山ではもちろん深い秋だった)、北アルプスの薬師岳で痛めた両足の爪や膝や、その上の筋肉やら、さらに同行の長女にかけた迷惑による屈辱や自分自身への情けなさやらが、どれくらい克服されているか?

今回の美ヶ原行きにはそのチェック的意味合いも含まれていた。

しかし、歩き始める前、ベンチで一人一個ずつのおにぎりを頬張っているうち、こんなところで諸々の痛みと遭遇していたのでは問題外だなという思いが湧いた。

時間は昼過ぎくらいだったろうか。

いよいよ、これこそ美ヶ原そのものという空間へと歩き始めた。

人の数は案外少ない。後で分かるのだが、人はこれから増えることになっている……

牧場

牛たちが見えてきた。

歩きながらその牛たちを見ていると、黒牛が一頭グループから離れはじめ、そのうち歩きが走りに変わって、どんどん山の方へと登って行く。

黒牛のたて

なんだかおかしんじゃないかと家人と話していると、その黒牛はさらにスピードを上げ、テレビ塔がある最高地点にまでよじ登ろうとしていた。

多くの牛たちは、この楽園のような高原で、自分たちには食い尽くせないほどの牧草と水と塩さえあればいいと思っている……と思えるのだが、彼(彼女かも?)にはそれだけでは満足できない何かがあるのだろうか?

もはや小さな黒い点のようにしか見えなくなった。

そうこうしているうちに、急に対向してくる人の数が多くなったのを感じた。

そうか、やはり美ヶ原はビーナスラインからのお客さんが圧倒的に多いのだ。

かつて自分もそうだったように、ビーナスラインの上品な高原ドライブを経て、さらにこの美ヶ原の上品さに浸る……

それがより美ヶ原を魅力的に見せる演出になっているのかも知れない。

とまた、そんなことを考えているうちに、鐘の音がうるさいくらいに響き渡る「美しの塔」付近に到着。

うるさいくらいに聞こえるのは、鐘が壊れているからではなく、人が連続して鳴らしてゆくからだ。

特に子供たちが集まると、はっきり言ってかなりうるさい。

ようやく静かになり、昔、ここで撮った写真の情景を思い出している。

モデルチェンジしたホンダ・アコード(ハッチバック)を走らせていた頃だ…と、そんなことも思い出した。

一緒にいたのはM森という大学の親友で、彼の家がある山梨の町からこの辺りまでの山域を旅していた。

二十代の自分の旅趣味の中では、珠玉の類に位置される豪華なエリアであり、数日間のパラダイスだったのだ。

美しの塔から離れ、戻ることにした。

平凡な牧場の道より、トレッキングのコースの方がいいと家人が言う。

当然こちらもそう思っていた。

スポーツセンターに通っている家人は、最近メキメキと体力増進を図っていて心強くなっている。

左側がすっぱりと切れ落ちた崖の上に道が延びる…… と言うと大袈裟だが、一応地形上はそんな感じで、突き出た岩の方へと足を進めると、それなりにスリルがあったりする。

高山植物が美しく、蝶などもその上で上品に舞ったりしていて至れり尽くせりだ。

蝶1

 

かなり本格的に身を固めたトレッカーや、最近流行りの山を駆けめぐる青年たちもいて、美ヶ原のバリエーションに富んだ楽しみ方に納得した。

そう言えば、ビーナスライン方面から入った自転車チームは、美ヶ原を縦断し、反対側(松本方面)に下って行った。

美ヶ原が、遊ぶ山であることの証を見せつけられたような楽しい光景だった。

夏道1岩と眼下2風景

トレッキングコースは、気持ちのいいアップダウンを繰り返しながら谷を巻いて続いていた。

夏道2

かなり歩いたところで、また急登の道に出合い、そこを登って頂上のホテルへ。

遅くなったが、ちゃんとしたランチは、そのレストランのハヤシライスになった。

しかし、食後に考えていた、ちゃんとしたデザートとしてのソフトクリームは最後の歩きを考慮して、駐車場横にあった店でいただくことに。

食後はテラスの方に出て、標高2000mから見上げる久々の夏空を楽しむ。

入道雲と平坦な雲

入道雲が少しずつ形を変えていくのを、高原の風に吹かれながら眺めるという懐かしい時間が訪れていた。

ビーナスラインの方から入り、歩いてきた多くの人たちにとってはこの辺りが終着点だ。

ここから来た道を戻る。そのせいか、ほとんどの人たちがこの場所で大休止する。

花1

駐車場までの下りで、足先に少し痛みを感じた。

去年の長女のように、家人が先をどんどん下って行く。

今回の美ヶ原は、秋の北アルプス山行のための足慣らしと位置づけているが、果たして大丈夫だろうかと、家人のうしろ姿を見ながら不安な気持ちになる。

しかし、まあ何とかなるだろうと、いつものようにラッカン的思考に切り替えると、最後の木立の中の道の涼しさが予想以上に増したように感じた。

残念ながら、駐車場横の店にはソフトクリームはなく、家人は落胆しながら普通のカップアイスを食べていた。

午後の遅い時間。日差しはまだまだ強かった。

ゆっくりと下った先に浅間温泉があり、そこの小さな旅館に予約を入れてあった。

冷房が間に合わないくらい、盆地の熱にその小さな旅館は侵されていたが、その熱に対抗するくらいの熱湯温泉がまた痛快であった。

もちろん風呂上がりの冷やしビールも格別で、少し痛みの残る足先を指で揉みながら、秋の北アルプスに思いを馳せていたのだ………

オレ

文章は志賀直哉から

志賀直哉

文章を書くのが趣味のひとつと、ずっと言ってきた。

この雑文集がそれだ。

一応、仕事でも数多くの文章を書いてきたから、比較してみると、意外と仕事で書いた文章の方が多いかもしれない。

が、仕事で書いてきた文章は、一部を除き自分自身ではない。

ところで、若い頃はもっと多趣味だったが、最近はそれらのいくつかが過去の遺物みたいに思えて、時々情けなくなることがある。

いくつかは体力的なものがあるが、多くは時間を作れないとか、やる気が湧いてこないという理由で、その理由そのものが情けないのだ。

文章は、そういう意味では肉体的に疲れることもなく、たいしたものも書いていないから、精神や神経を病むといったものでもない。

ボクに文章を書く面白さを教えてくれたのは、志賀直哉だ。

当然直接教わったのではないが、何となくいつの間にか志賀直哉の文章の潔さのようなものを手本にするようになった。

偉そうに言っているが、そのようなことは多くの作家たちが書いている。

文章ばかりではなく、その顔付きも気に入っていて、特に老いてからの風貌はきわめてかっこいいと勝手に思っているのである。

先日、駅のうつのみやさんで買い、何十年ぶりかで志賀作品を読んだ。

と言っても、長編大作の『暗夜行路』を再び読む気力には自信がなく、真骨頂と言える短編集だ。

二十歳くらいの頃に読んだものばかりで、その頃の本は当然行方知れずになっており、新しく買うしかなかった。もちろん、文庫だ。

代名詞になっている『城崎にて』は、自分自身も実際に城崎を訪れる直前に読み返していたが、それ以外はなんと四十年ぶりくらいの再読である。

そして、その再読は自分でも驚くほどのスピードで進んだ。

それが志賀作品なのだとあらためて思ったが、久しぶりに読中読後の爽快感を味わった。

今でも覚えているが、昔、『或る朝』という短編の半分ほどをそんぐりそのまま書き写したことがある。

志賀直哉の文章を自分自身の手で体感せよと、何かに書かれていたことを実践したのだ。

その作品は、何でもない朝の出来事(というほどのことでもない日常事)を淡々と綴ったものだが、紙と鉛筆があればそのまま文章にするという、素朴な楽しみを教えてくれた。

詩的な表現や、形容詞の段重ねといった技法もなく、そのままをそのままに書くという、スケッチのようなものだ。

そして、その夏。ボクは金沢の中央公園で見た若い母親と幼い女の子の何でもない姿を目に焼き付け、原稿用紙20枚の短文にした。

一般教養で受けていた日本文学の先生にそれを読んでもらうと、それなりの言い方で褒めてくれた。

筋がいいから、書きつづけなさいよ………

しかし、ボクはその後、さまざまな方向への道に言い訳を見つけ、自分自身の究極を詰めるといったことから逃避してしまう。

そして、志賀直哉の顔を見るたびに目を逸らしてきた。

ただ、今回作品を再読し、久しぶりにその顔を見て思い出したことがある。

それは、志賀直哉の顔付きに当時の文学青年たちの“ひ弱さ”を感じなかったということだ。

そのことはとても重要なことだった。

このようなことを書くと怒られそうだが、体育会系のやや異色の文学セーネンであったボクにとって、志賀直哉や梶井基次郎などは同朋的存在(失礼ながら)であったのだ。

 

この齢になって、再び志賀直哉への尊敬の気持ちと親しみとに気付かされるとは思ってもみなかった。

そして、このような感動らしき何かがまだ待っているんだナと思うと、もう少し緻密に毎日を過ごしていかなくてはならないぞ…とも考えてしまうのである。

無花果とミミズと少年の頃の夏

無花果

6月なのに、真夏のような熱気が支配する午後だった。

山里の田園風景をぼーっと眺めていると、急に無花果の匂いがしたような気がして周囲を見回した。

が、それらしきものはどこにもない。

無花果の匂いが脳を刺激すると、反射的に小学校の頃の夏休みを思い出す。

近所にあった無花果の木の下を小枝で掘って、ミミズをかき出し、魚釣りの餌にしていた。

ミミズは十匹くらい獲れると十分で、餌がなくなればそれで終わりという釣りだった。

今でも無花果があまり好きではない。

それは、木の根っこの部分に、ミミズがいっぱいいたからなのだろうと思う。

家を建ててからの最初の夏、朝になると砂の上に物凄い数のミミズたちがいるのを見た。

不規則に移動してきたその形跡が、砂の上にはっきりと残されていた。

特に二階から見下ろしていたから、それは鮮明でもあった。

しかし、彼らは徐々に昇ってくる太陽の存在を知らないでいたのか、気温の上昇とともに動かなくなり、そのまま干からびていく。

毎日それが繰り返されると、砂の上はミミズの干物だらけになった。

夥しい数に不快感が募り、休みになるとまた砂の中へと返したりしていた。

そんな夏は長く続かなかったが、それから何年かして、家人の実家から無花果の枝を一本もらうことになった。

挿し木しておくと、それは腰の高さほどまで伸び、その段階でついに実を一個だけつけた。

しかし、特に大事にしていたわけでもなく、いつの間にか木は弱っていき、その後何かの機会に切り倒している。

その小さな無花果の木を見る度にも、いつもミミズのことがアタマに浮かんでいた。

居なくなっていたミミズたちが、またその無花果の木の下に集まっているのではないだろうかと思ったりした。

 

無花果の匂いは、少年の頃の夏へとつながっている。

特に男の子から少年へと変わっていくことの、ひとつの証としても、ミミズを平気で手で掴み、ビニール袋に入れては河北潟へと通っていた思い出が強く残っているのだろうと思う。

それにしても、あの熱気の中で感じた無花果の匂いは、どこから来たのだろうか………

小林輝冶先生の想い出

小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……

観葉植物と「卒業」と抜歯と

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居間に観葉植物を置いてから一ヶ月ほどして、その木が「ベンジャミン」という名前であることを知った。

なぜ知ろうとしたのかというと、あまりに落葉が多く、その対処法を調べるために木の名前が必要だったからだ。

そして、落葉に対する処置はすぐに分かったのだが、その「ベンジャミン」という木の名前が気に入ってしまった。

ベンジャミンは、映画『卒業』でダスティン・ホフマンが演じた主人公の名前だ。

たしかベンジャミン・ブラドック。スペルは、Benjamin Bruddockだったろうか?

何を隠そう(と言うほどでもないが)、大学一年になったばかりの6月だったと思う、

ボクは新宿の小さな映画館(たぶん「名画座ミラノ」?)でその『卒業』を見た。

それまでああいう系統の映画にはほとんど興味を持てなかったのだが、何となく大学生になったのだからみたいな感じで見てしまった。

その後、何を血迷ったか、紀伊國屋へ行き、洋書コーナーで原作を買い、辞書なし読みをした。

英会話をマスターして大学を出ようと、当時は真剣に考えていて、この時の真摯な気持ちが続いていたら人生変わっていたかもしれない。

一本300円くらいだったと思う。

ボクはそこで寅さんシリーズを、一度に6本連続して見たことがある。

5本目あたりから、同じ失恋ばかり繰り返す寅さんのどうしようもないバカぶりが許せなくなり、7本目の途中で帰った。

『男はつらいよ』10本立てという、今では考えられない企画で、10本立てでも値段は大して変わらなかったと思う。

ついでにそういう映画館の話をする。

兄弟が多く、しかも末っ子だったボクは幼い頃から洋画好きの兄の影響を受け、映画雑誌「スクリーン」や「映画の友」「キネマ旬報」などからませた情報を数多く入手していた。

小学生だった頃から、リアルタイムに上映されていた映画は連れて行ってもらっていた。

たとえば、バート・ランカスターなど錚々たる俳優たちが揃った『プロフェッショナル』とか、ジョン・ウエインの『リオ・ロボ』、それにクリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロらのマカロニウエスタン。ゲイリー・ルイスのコメディ。数えあげたらきりがないほどの映画を見ている。

しかし、もうすでに上映期が終わっていたものは、兄からストーリーや、サウンドトラックなどを聞かされるだけで、それでも好奇心旺盛の少年には強く心に響くものがあったのだ。

そんな話だけ聞いていた映画の数々を、学生時代に実際に見て回った。

特に兄が大好きだった西部劇などのアクションものは、その頃初めて見に行き、初めて見るのに懐かしさを覚えると言った不思議な感覚になっていたのを覚えている。

『シェーン』や『OK牧場の決斗』、『真昼の決闘』、『リオ・ブラボー』など、数えたら切りがないほどだが、幸か不幸かほとんどストーリーを先読みできた。

さらにあの『ローマの休日』もその頃、300円で見た記憶がある。

あれはひょっとして二度目だったかもしれない。

ただ、自分が生まれた年に初上映された映画の中の、オードリー・ヘプバーンのあの容姿、声、話し方、仕草、そして、グレゴリー・ペックとのラストのキスシーンなど、すべてが胸に迫るばかりだった。

ボクの人生観を変えるほどだった(…かも知れない)とも言っていい(…かも知れない)。

話を『卒業』に戻そう。

と思ったが、本題は観葉植物である「ベンジャミン」である……

ベンジャミンのよく落ちる葉が気になり始めた頃、ボクの歯医者行きが決まった。

葉っぱの「は」と、虫歯の「は」が繋がった…のかもしれない。

予約から10日ほどが過ぎた休日明けのお昼前、ボクは金沢竪町のMさんという歯科医院を訪ねていた。

虫歯になってから放置してきた親知らずが、原形を崩してギザギザ状(それほど大袈裟ではないが)になり、それが舌に触れて痛かった。

その場でギザギザを少し削り、それから数日後、その歯つまり親知らずを抜いた。

親も知らないほどの奥歯なのだが、持ち主の本人も初めてその姿を見た。

どこがどうなっているのか? 説明を聞きたいと思った。

しかし、その惨めな姿と対面した時にはもうどうでもよくなっていた。

こんなふうになるまで見捨ててきた自分の罪深さを恥じたのだ……

映画『卒業』の中で、ラストに教会から一緒に逃げ出すエレーヌ(キャサリン・ロス)は、ベンジャミンのことを「ベン」と呼んでいた。

突然また話が戻ったが、ベンが教会のガラスを叩きながら、「エレーヌ、エレーヌ」と泣き叫ぶと、エレーヌも「ベン」と答える… 感動的なラスト・シーンへと向かう場面だ。

しかし、我が家では居間のベンジャミンのことを「ベン」とは呼んでいない。

実は今日あたりからそうしようかと思っているのだが、家人たちの反応が気になっている。

そんなわけで、ベンジャミンの葉っぱ落としグセも、処置後はだいぶよくなってきた。

初夏に向けて、新しい葉っぱの色も爽やかな緑で気持ちいい。

照れ臭いが、今夜から「ベン」と呼んでやろうかな………