日々のつながり……2019.2.22

昨夜(2019年2月21日21時22分)、北海度でまた大きな地震があったというニュースで沈みました。

今朝の「はやぶさ2の小惑星着陸成功」という知らせにまたココロが上向きになったような感じです。

昨日(21日)の午後1時頃……つまり、富山に向かう途中の呉羽のパーキングで、メニューボタンを誤って押してしまい、出てきた “エビ天玉子うどん+鮭入りおにぎり” を食べ終えたあたりです(ちなみに本命は “かき揚げうどん+鮭入りおにぎり” だった)。

その頃、はやぶさ2は、小惑星「リュウグウ」の上空20kmから降下をはじめたとのことでした。

そして、今朝8時少し前に着陸。

途中からは地球からのコントロールを切り離し、自力で着陸に成功したとのことです。

もともと特に強い関心はなかったのですが、なんとなく昨日の昼から接してきたニュースだったので、着陸のニュースになんとなくホッとしていました。

何はともあれ、凄いなあと思います。

はやぶさ2が「リュウグウ」へとゆっくり(多分)降下していた頃、会社の富山支店で会議があり、その後、久しぶりに富山県庁へと行ってきました。

今進めている仕事の担当課への表敬訪問です。

富山県庁舎は非常に雰囲気のある建物です。かつての石川県庁舎(今の「しいのき迎賓館」)を思い出させてくれます。

すり減った廊下やきしんだ木製ドアなどに触れていると、昔、広坂の石川県庁へと毎日のように通っていた頃のことが甦ってきました。

富山県庁もそのうち新しくなるのでしょうが、当然場所もいいので絶対に残っていく建物になるのは間違いありません。そんなことを思いながら、まわり道をして庁舎内を歩いてきました。

北海道の地震はもちろん、どこでも地震は起こってほしくない。地震だけでなく、すべての災害が同じです。そして、はやぶさ2は元気に地球に帰ってきてほしい。

北海道から思いは宇宙へと飛び、そして富山に。何かよくは分からないまでも、とにかく自分の中ですべてが繋がっていると感じた、そんな2日間でした……

常識は普通の上にある?

AIの非常識を笑えるか?

 AIの勉強会に参加したことがあった。AIによって仕事を効率化している人たちが増えたという定番のテーマである。一応基本的に学習しておかなければならないテーマであり、さらにホテルの弁当が出るという少人数の会だったので、素直に参加案内を出しておいた。

 そこでまず感じたのは、ある意味の〝安心〟だった。つまり、周囲もほとんどが本質まで理解が行っていない人たちばかりで、弁当が目当てではないにしろ、なんとなく世の中の空気に浸りに来ているといった雰囲気だった。

 講師の先生は某公共機関から来た方で、話がうまかった。最初から本気じゃないことが見透かされている聴講生を前にして、AIをうまく興味深いものにさせようとしていた。

 そして話は、AIはまだまだ課題があるということで、短絡的に導入しても失敗するだけだから、そのまだまだな点について知っておこうみたいな感じで始まった。

 まず何と言っても、AIは単一的な仕事に対しては圧倒的に高い効率性を発揮するということ。しかし、得意とする部分が超・特化されているだけで、それ以外は融通の利かないカタブツらしいということ。

 たまに人でもそういうのと遭遇するが、応用力がないとか周囲に溶け込めないなど… 課題があるみたいだった。

 言い換えれば、独りよがりなのですと先生は言った。ちょっとチカラが入った感じがして、日常の周辺が垣間見えたりする。

 ボクはすかさず「AI」のくせに「愛」はないのか…と、得意のギャグで応酬した。

 先生が、なぜそうなるか?… について説明する。AIには、人間の世界でいう「常識がない」からだそうだ。なるほどと思いながら、ちょっと分かり易すぎて戸惑う。

 例え話が出る。普通「三つ目の信号」というと、「三番目にある信号」と解釈するのが常識だと思うと先生。しかし、AIの中には、「目を三つ持った信号」というふうに解釈する場合がある…と。核心へと向かう切り口を示しているかのように、先生の目が光った…ように見えた。

 解釈としては間違っていない。確かに「目を三つ持った信号」でも間違ってはいない。先生は、そこでAIの方も“何か文句ある?”みたいな反応を示すのだと言った。

 その開き直りに対してギャフンと言わせるキーワードは、「普通」だった。それがないから「次元」というのが分からない。常識での解釈という尺度がない。そこがAIの弱点。自分の解釈も付け加えて、とりあえず納得した。

 さらに先生が姿勢を正し、ひと言。どんなに優れた能力を持っていても、「常識」がなくては安心して使えない…と。

 ニンゲンも同じだな。そう思うと、AIが急に平凡な存在になったが、正直まだAIと正式に相対していない身としては、どう付き合っていけばいいのかよく分からないのも事実で、とりあえず、AIよりは常識を持とうということにし、出てきた弁当に箸をつけ舌鼓を打っていたのである………

古いレコードが思い出させてくれた ジャズ少年だった頃のこと

この間まで黴臭かったレコードや本たちには、ホント申し訳ないことをした……

 この春(2020年)に実家の物置から古いジャズのレコードが20枚ほど出てきた。断捨離の一環の産物で、ついでにジャズに関する本なども出てきて、その後手入れにかなりの時間をかけた。ただレコードは今は機械(プレーヤー)がなく、まだ聴きなおしていない。

 それはそれとして、出てきたレコードにはちょっと勘違いをしていたものが多く、見つけた時にはかなり驚いた。それらは大学時代に東京へと持っていき、そのまま東京の友人の部屋に置いてきたと思っていたのだ。なんだか拍子抜けだった。

 その中の最も古いレコードは、15か16の頃に買ったものだ。日本コロムビアから出た「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」など。

 ジャズを聴くようになった本当のきっかけは、正直定かではないが、とにかく幼くして洋画のサントラ盤などに馴染まされたことからの延長線上にある。クラシックにも、名盤というものにはなぜか無理やり馴染もうとしていたきらいがあるが、平凡がいやで、むずかしそうなモノゴトへの無邪気で挑戦的な意識が強かったのはまちがいない。ついでに書くと、それは大人になっても続いた。

 それと小学生の頃から、自分が音楽関係の道に進んでいくような予感があって、中学時代にはジャズが地球上で最も優れた音楽ではないかと考えていた気がする。その直接的なきっかけは何だったか、自分でも諸説があって分からないが、片田舎の身の程知らずな少年にしては凄いことを思い描いていたことだけは間違いない。

 東京の音楽大学の付属高校に入学し、そこで基礎を学んでジャズを軸にした音楽家になる。考えていたのはプレーヤーではなく、コンポーザーのようなもの。今から思えばなんと図々しい思いだったろうか。幼いころから手にしていたギターをとおして、当時としてはかなり先を言っていたつもりだが、ギターでどこまで音楽を広げられるのかと考え過ぎていたのも事実で、とにかくどうすればいいのかと答えを探していた。ただ、何となくややこしくなってくると面倒臭くなるところもあり、そのあたりが今日の自分を見ればよく分かるところなのだろう。

 音楽について思い描いたことをもう少し詳細に書くと、小学校高学年の頃のノートには、裏表紙に必ずギターの絵などを描いていた。中学時代の美術の時間では、大阪万博に向けたポスターの課題が出ていたので、ジャズのクインテットを影絵にしたようなものをメインに描いている。カレンダーを作るという課題があった時にも、楽器をいっぱいに描きこんで、ポニーテールが可愛かった美術のA木先生からお褒め?の言葉をいただいた。絵自体が上手かったのかどうかは別にして、この時代からボクはアイデアで生きていたのだ…… (念のために言うと、ボクは下絵が上手かった。色を付ける段階になると、雑さ加減が著しく出てしまうというタイプ?で、常に損をしていたのだ。)

 ポスターを描いた時のボクのジャズに対する認識は、メンバーがそれぞれの個性でバラバラ(自由)にやっているように聴こえるが、ちゃんと決まりごとの中に納まっていて、しかも高度に融合し……などといったものだった。そのことをポスターの趣旨みたいなカタチで、画用紙の裏に書いていた。

 そんな男子であったから、ジャズはマジメに筋をとおして勉強した。学校の勉強よりもはるかにチカラを入れていたから吸収力もきわめて高かった。

 そのおかげもあって、あのようなレコードを買っているのだ。ジャズについて詳しい人なら、特にチャーリー・クリスチャンのものを15か16で買っていたという事実をそれなりに評価してくれるだろう。

 金沢片町のレコード店でそれを見つけた時の嬉しさと胸の高まりは、今もぼんやりと覚えている。特に胸の高まりの方は、ちょっと普通と違い、どこか怖さのようなものが一緒にあった。自分がこんなレコードを買っていいのかなあといった思いに近いものがあった。

 レコード店のきれいなおねえさんのところへ持って行くと、それから常連になるこの少年を優しく、大袈裟だが天使のような笑顔で迎えてくれた。

 常連になっていく少年ではあったが、実はほとんどが試聴なのである。当然ながら先立つモノが乏しい。一応、家業の手伝いで小遣い稼ぎはしていたが、レコードにはなかなか厳しかった。毎週木曜のFMラジオでのジャズ番組で欲求を満たさなければならなかったのだ。

 もう少しこの優しいおねえさんの話をすると、このおねえさんがボクを、金沢の老舗ジャズ喫茶「YORK」へと導いてくれた。といっても、当然手を引いて連れて行ってくれたのではない。YORKの存在そのものと、片町の牡丹堂というカメラ屋の横の狭い階段を上るという場所と、今風に言えば店内のシステム(というほどでもなかったが)についてきめ細かく教えてくれたのである。あのおねえさんがいなかったら、ボクの人生は大きく違っていたかもしれない。

 レコードの話をしよう。「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」。今更だが、それはモダンジャズ黎明期の歴史的名盤で、ボクが買ったのは日本コロムビアの再発盤だ。御大、今は亡き油井正一氏のライナーノーツに雄々しくこの名盤のすばらしさが語られている。パーカーのものもそうだが、とにかくありがたく聴けと言わんばかりの筆力で迫ってくる。まだまだ青臭いというレベルにも至っていないジャズ少年には、それだけでも買った甲斐があった。

 レコードに針を落としてしばらくした後、ふと思ったことがある。

 それは、日本が軍国主義一色に染まっていった頃、アメリカでは音楽に自由を求める若者たちが、アフターアワー・セッションに身も心も(「body and Soul」)捧げていられた……という事実だった。誰かの文章で読んでいたが、そんなことを思い出している自分が不思議でもあった。録音は、1941年(昭和16)だ。

 マイク一本を中央に立て、簡易な機材で録音された、何夜かのジャムセッション。

 A面1曲目の「スイング・トゥ・バップ」で聴こえてくる(演奏の途中からまさに徐々に音量が上がってくる感じ)、ギターのあの丸みのある音も、シンプルなアドリブソロもとても印象深い。ジャムセッションとはこういうことなのかと、ジャズ少年の興奮度は時間と共に一気に駆け上がっていく。自分もギターでそれなりにコピーしていた。

 もうすでにウエス・モンゴメリーをはじめとする、ジャズ界の名ギタリストの音を聴いていたが、この簡易録音のギターの音はなんとも新鮮だった。当時めずらしいアンプを使った増幅された音は、外からだとサックスの音にも聴こえたという話を読んだことがある。嘘だろうと思ったりしたが、それもあったかもしれない。

 書いていくとキリがないが、このセッションに、ドン・バイアスというテナーサックス奏者が参加していた。その伝説の人と言える彼の姿と演奏を、たぶん一年後か二年後、金沢市観光会館でボクは聴いている。アート・ブレーキ―&ジャズメッセンジャーズの一員で来日し、金沢に来ていたのである。

 名物司会で有名な、いそのてるお氏が彼を紹介した時、なぜかあたたかいものが込み上げてきたのを覚えている。当たり前だが、家に戻ってレコードを確認すると、しっかりと名がクレジットされていた。特に目立った活躍をしたわけではなかったが、ドン・バイアスという人はその後ボクにとって忘れることのないジャズマンの一人になった。ちなみにミントンハウスの中では、「スターダスト」を吹いている。

 セロニアス・モンクが参加していたのは有名だが、アル・ヘイグというピアニストにも親しみを感じていた。彼は白人だった。ライナー・ノーツの中にはピアノに向かい笑顔を浮かべる彼の写真も掲載されていて、白人のミュージシャンがアフターアワーで、黒人に交じりプレイしているということも、当時のボクには新鮮だったのである。

 このようなジャズに関する話はまだまだたくさんあるような気がするが、またどこかで書くことになるだろう。

 さて、とりあえずここまでで思うこと。それはYORKの奥井進さんの生き方を「ジャズ的人生」と名付けたのはボクだが、そんなボクも少年時代からジャズ的な生き方に走っていたのかもしれない。いやそうにまちがいだろうと思う………

中平穂積さんとお会いしたこと

 at YORK 2018.11

 大学時代、紀伊國屋で本を買うと、だいたい裏のジャズ喫茶「DUG」でその本を開いていた。知的で落ち着いた雰囲気とおしゃれな感じのする素敵な店だった。

 そのオーナーで、ジャズマンを撮る写真家としても著名な中平穂積さんに、2018年の11月お会いした。

 写真展で金沢を訪れていた際のことだ。ずっと書いておこうと思っていたが、書きそびれていた。もう一昨年のことになっていて驚いている。

 最初の夜は、私的に金沢香林坊のYORKで懐かしい話をさせていただき、2日目は、野々市市図書館のイベントスペースで開催されたトークショーを拝聴した。

 ジャズマンとのさまざまなエピソード、特に素顔のセロニアス・モンクやニューポートでのコルトレーンの話など、ボク自身の中に積み上がっていたジャズの世界の知識と重なるところが多くあり、マジメ?にジャズと接していた時代が懐かしく思い出された。

 今もそれなりのマジメさで聴いているが、俗に言うモダンジャズという世界はすでに遠くなってしまっている。これもジャズという音楽の特性なのだろうと思いつつ、ジャズの創造性というものに敏感でいようと思っているのでもある。

 1936年生まれの中平さん。ボクにとってのDUGでのエピソードは、好きなレコードがかかったので思わず指を鳴らし、店員さんから人差し指を口に当てる仕草をされたこと。そのことを話すとにこにこと笑っておられた。

 当時はみんなジャズをきちんと聴いていたし、文章とか活字とか、絵や写真などと音楽(特にジャズとクラシック)というのはとてもいい関係にあった。まあ何となくそんな気がする。

 そして、ジャズ喫茶のマスターというのは、いろいろな意味で存在感の豊かな人が多かった。

 「今度はDUGで待ってるよ」と言われたので、初めて入った時にかかっていたあのレコードをリクエストしてみようと思ったが、あまりにも定番過ぎてやめにすることにした。

 DUGどころか、東京が遠い場所になっている今、中平さんとお会いするのは至難の業だ。もうご高齢だし、ご自愛されることを願うばかりである。

独りよがりの頃

  ここまで強調するほどでもないが……
振り返ると、それなりに偉そうなコトを言っている自分がいる。

 会社にいながら、自分のやり方で他の人より多く働き成果を出す人がいる。ボク自身もついこの前まではその部類に入っていたなと、図々しくも思っている。

 自分なりに働いて結果を出し、そのことによる自信と成長を感じているという、若く、熱く、そして青き時代があった。

 しかし、自から社内にチームをつくり、リーダーとして仕事をするようになると、その状態、つまり自分のやり方だけで長続きさせてはダメだということを感じ始める。

 チーム外のエキスパートたちとコラボすること。元気のいい若手に委ねてみること。全体を見渡して、しっかりとした指示を出すこと。コトが終わったら、皆で打ち上げをやること…など。

 そうしたサイクルを楽しみ、皆が理解してくれると、アシスタント的なスタッフから逆に煽られたりして、新鮮な頼もしさを感じるようにもなっていく。そして、その結果として、価値観や興味などを共有できる人間関係も作れるようになっていったと言っていい。

 しかし、チームで仕事をすることがしっくりといかず、自分のやり方を通すことしか出来ない人もいた。

 成果を、自分の価値観や費やした時間と比例させ、自己評価していく寂しさがそんな人にはあった。さらに、より独善的になっていくのも寂しさの極みに見えていた。

 周囲からの助言や手助けを必要としなくなると、逆に周囲から浮き上がる存在にもなる。どんどん我が道を行ってしまう。

 そして、おかしなことに、自分と同じようにやっていない人たちを軽視したり、時には蔑視したりしていく。

 そこまで来ると、何事にも楽しめないでいる自分の存在が、自分でもいやに思えてくるにちがいない。

 若い頃、自分が否定されたりすることに、どこまで耐えられたか?

 その答は個人によってちがうだろうが、例えば自分では最高だなとか、素晴らしいと確信していた思いやアイデアが、周囲に受け入れられなかった時、そのことに素直に納得できたろうか?

 ボクの場合は、はっきり〝NO〟であり、今振り返れば、まずはそれでいいとも思っている。社会に出て、これまでとはちがう明確な敗北感を受け入れる準備が、その年代では十分に出来ていないからだ。スポーツの試合で負けるのとも、それなりにちがっている。泣いてすっきりしたという単純なことでは済まされない。第三者的理由を探し出したりして勝手に自分を有利にしようともしている。

 そして、どれだけかの時をおいた後、そのようなことが受け入れられるようになっている自分に気が付く。

 どれだけかの時が過ぎていく間に、周囲にいる人やモノやコトなどが、自分の中に何かをもたらしてくれるからだ。言葉であったり、光景や空気感であったり、出来事や物語などが自分の周囲に無数に存在している。

 それは気が付かない何かである可能性が大きい。しっかりと掴みとれない何かであるかもしれない。しかし、確実にそれは生きている。

 どんなに頑張っても、今の自分には乗り越えられない壁があるということを知って、とにかくコーヒーでも飲んで、おしゃべりでもして時を過ごせば、そのうち何かが見えてくるということなのだろうと思う。乗り越えられない壁があることは普通だし……

 だから、ボクは本を読んだり、旅をしていたりしていれば、何かカタチが見えてくると思っていたにちがいない。そして、実際何とかなった…と、図々しくも思っている。もちろん、本も旅も殊の外好きだったけど。

心は 密でいい

「感染」と「繋がり」 群れの中の 生命と心……

 新型コロナウィルス感染予防のための自粛が、その程度を変えつつも続いている。少しずつ数値的な改善が見え始め、自粛の締りが緩み始めてもいるが、これから先がどうなるのか、心配のタネは一向に減っていかない。

 グッとズームインしてみると、この自分もまた忌まわしいウィルスにペースを狂わされている。いや、ペースなんてものではなく、もっと言えばニンゲンらしさみたいなものまでが試されているような感覚になり、気分は当然よくない。

 今回のことで、自分が「ヒト」という、地球に生きる生物の一種で、その単なる一個体であったのだということを認識させられた。

 言葉の使い方が正しいかどうか自信はないが、これはある意味新鮮なことでもあった。が、別な意味で、自分の生命の小ささというか、いつ消えてもおかしくない脆弱な生命体(細胞)のもとに生かされているんだ…という認識にも繋がっていった。

 群れを成して生きる動物たちのように、ニンゲンも群れを成して生きている。どう見ても、家族はもちろん、町や村などにいるニンゲンたちが群れを成していることは間違いない。

 都会は孤独だぜ…と言いながら、とてつもない群れの中で窮屈さを楽しむかのようにして生きている、そんな都会人の認識とは何なのか? 余計なお世話に近いことなども思わずアタマに浮かんでくる。

 サバンナのライオンは、群れを成したシマウマなどを襲う。猛禽類も、無数の鳥の群れの中に突っ込んでいき、その中から一羽だけを絞り追い続け獲物にする。こうした群れを成し獲物になる側の動物たちと、今回の騒動の中のニンゲンとが、どこかで結び付いているように思えてきた。

 自分が狙われているということに、群れの中の獲物は最初は気が付かない。気が付くと、なんでオレなんだよと焦るだろうが、それまではまさか自分がとか、そうなったらそうなった時ぐらいしにしか考えていないのだろう。そこもよく似ている。

 しかし、ライオンの餌食になるシマウマの場合と、ウイルスに感染する今回のニンゲンの場合との違いは、シマウマは群れの中の一頭だけだが、ウイルスにやられるニンゲンは群れの中の集団になることだ。もちろんシマウマだってウイルスに感染すれば集団でやられるのは言うまでもない。

 群れを成しているということは、一個一個が繋がっているということでもある。今回「感染」という言葉から学んだこととして、生命とは繋がっているものなんだという認識がある。正直、この「感染」という言葉から「繋がる」という言葉を連想したくはなかったが、生きものとして自覚する上では当然のことだと思った。

 ところで、ニンゲンの世界には心が繋がるという美しい言葉があったが、生命が繋がるという言葉はあまり聞いたことがなかった。そして今思うのは、ニンゲンの世界では生きるということよりも死ぬということの方に、生命の繋がりは強いものを感じさせるということだ。そう思った時、少しさびしい気持ちになってしまった。

 しかし、生きものたちは群れでいることを絶対に捨てない。ずっとそうしてきたように、群れそのものを維持しながら、生命を守る方法をこれから先もずっと考えていく。

 もちろん、ニンゲンもだ。家族があり、学ぶ場があり、働く場があり、遊ぶ場がありと、群れでいることは日常でもある。

 戦争で、相手の生命を奪うことでしか、自分たちの生命を守れないと考えているニンゲンたちも、この機会に改めてくれればいい。自分たちは大きな群れの中にいる。心が繋がっていることはもちろん、生命も繋がっているということを認識しなければならないのだと。そして、それはイコールなのだと。

 そして、さらに、その生命はみなで守っていく、いや守り合っていくべきものなのだということだ。殺し合っている場合ではないのだ。それがニンゲン、いや強いて書き直せば「人間」なのだ。

 そして最後に、生命を守るために働く医療従事者たちや、ワクチンなどの開発研究者たち。コロナ禍によって追い込まれた弱者を、さまざまな形で励まそうと活動している人たちなど。そんな直接間接を問わない熱い行動が湧き上がってくるのは、生命の繋がりのための心の繋がりを、人間はしっかりと知っているということを意味している。

 心はやはり密であっていい………

ところで、ソーシャルディスタンスは、わずか2メートルほど。 心の繋がりを心配するほどの間隔ではない。

子供時代の購読漫画と 草叢に消えたカメラ

立川談志『努力とは馬鹿に恵(あた)えた夢である』
(新潮社)より

 手塚治虫はやはり凄いんだなあ……と、立川談志師匠の本や、クラシックのラジオ番組の中の話からあらためて感じている。

 両者の話を少し書くと、まず談志師匠の本には、「手塚治虫」という名前に「かみさま」というルビが打たれていた。ラジオ番組の中では、手塚治虫はクラシックの大音量の中で仕事をしていたとか、ピアノが上手くてショパンの曲なんかを弾きこなしていたというエピソードが紹介されていた。その他諸々あるのだが、これ以上ボクが語っても仕方ないので省略する。とにかく手塚治虫は凄かった。

 さて、本題は手塚治虫の話ではなくて、そんなことがあってから、漫画本に関していくつか思い出したことがある…という話である。

 はじまりは、子供の頃、家で『少年』と『冒険王』という二大漫画月刊誌を買ってもらっていたことだ。今から思えば、かなり贅沢なことだったのかもしれない。それほどうちは裕福でもなかっただろう。その分、かなり大事に読み込んでいたという記憶はあるが……

 その二冊のうち、ボクは『冒険王』の方が好きだった。その理由は何だったのか?

 『少年』には「鉄腕アトム」や「鉄人28号」といった、今では漫画界の超レジェンド的な作品が連載されていた。この二作品は、ボクの生まれる前後から始まっていたというのだから、これまた凄い。ちなみにボクが生まれたのは、1950年代の中頃だ。

 一方『冒険王』の方は、「じゃじゃ馬くん」とか「ゼロ戦レッド」といったタイトルの作品が連載されていた。とても懐かしい。そう思うのは、『少年』の二作品のように今では普通に見ることができないからだろう。

 それで、なぜ後者の『冒険王』の方が好きだったのかということになるのだが、こうして連載作品を並べてみてもよく分からない。むしろ、この目線からだと『少年』の方が圧倒的にいいということになってしまう。

 それでも『冒険王』が好きだったのは、まずその名前が気に入っていたからにちがいない。そういった傾向が自分にはあるような気がする。その点『少年』だと、どこか〝ワル〟の臭いがする。少年Aとか、Bとか…。その頃の自分にそのような感覚などあるはずはないのから、これは理由にはならないだろう。

 ひとつぼんやりと思い出すのは、冒険王の二作品の作者がそれぞれ、関谷ひさし、貝塚ひろしという爽やか系の名前だったのに対し、少年の方は手塚治虫、横山光輝という感じで、どこかむずかしそうなおじさんをイメージさせていた…ということもあった…ような気がする。要は、子供にとって冒険王の方が、取っつきやすかった…ということなのかもしれないのだ。

 もうひとつは、「じゃじゃ馬くん」が野球漫画であったことが大きく影響しているのかもしれない。ボクも野球少年だったし、金沢に昔あった兼六園球場レフトスタンド(芝席)で、若き長嶋茂雄が放った弾丸ライナー性ホームランの、その打球落下地点付近にいたという稀有な体験を持っていた。「じゃじゃ馬くん」には、後の「巨人の星」みたいな余計なお世話的要素は全くなく、中学の軟式野球部(だったと思う)を舞台にして爽やかなスポーツドラマが展開されていたという印象がある。そこがすんなりと安心して親しめたのだと思う。

 冒険王のよさは、おもしろい付録はもちろん、プラモデルやモデルガンみたいなものを販売する、それらしきページがあったことでもあった。

 詳しくは覚えていないが、そのページは実に魅力的で、小学生のオトコの子にとっては好奇心を揺さぶるインパクトがあり、いつもワクワクしながら見ていた。

 実は映画や音楽など、かなりませた少年であったボクは、なんとなく周りの子供たちとは違った感性をもっていたようなフシがある。

 西部劇が好きだったので、カウボーイが持つピストルにはちょっとした関心を持っていた。コルトとかリボルバー、ボナンザとかよく分からないままに、そんな名前を見つけると本の中に載っている写真を見て、かっこいいなあと思っていた。

 冒険王との忘れられない思い出として上げなければならない重要なことを、今突発的に思い出した。それは懸賞に当たったことで、その賞品で小型のカメラをもらったことだ。

 モデルガンのようなものは、いくら好きでも買ってもらえるわけがなかった。値段もそれなりで、当時ボクには小遣いなどなく、たまに親戚からちょっとまとまった小遣いをもらったりすると、それはすぐにレコードに消えた。ビートルズのシングル盤が1枚330円だったかの時代だ。だから、漫画雑誌の懸賞は、ボクにとって夢を叶える貴重な手立てだったのだ。

 しかし、その小型カメラは、すぐに悲劇に見舞われる。

 ボクは写真にも興味を持っていた。海外航路の船乗りになったばかりだった多趣味の兄の影響を受けて、先に書いた映画(特に洋画)や、音楽(特に映画音楽)に目覚め、さらに兄が持っていた当時としてはかなり高価だったはずのカメラなどにも触れていた。

 しかし、いくら写真に興味があっても、自分で撮影できるカメラを持つことは不可能で、その懸賞でもらったカメラは願ってもない相棒になるはずだった。ところがだ。

 カメラが届いた翌日、学校から帰ってひとりで遊んでいた時、そのカメラを失くしてしまった。斜面になった草叢で、特に何をしていたわけでもなく、気が付いた時にはカメラはなかった。

 ジャンパーかなんかのポケットから落としてしまったのだろう。当然だが必死になって探した。草叢は子供の膝上あたりまで伸び、しかも隙間のないほどに茂っていた。さらに斜面である。ボクは暗くなるまで夢中で探し回った。

 次の日も、その次の日も、友だちには気づかれないようにしながら探した。しかし、結局カメラはボクのもとに戻ってこなかった。この衝撃は、当時のボクにとって長く尾を引く痛恨事となり、思い出すたびに悔しさがこみ上げてきた。

 ただ、時間がたつにつれ、あんなカメラで本当に写真が撮れたのかといった疑問も生まれ、それが忘れることを後押ししてくれるようにもなった。兄のカメラを見ていたりしていると、作りも粗末なあんなカメラなんかと思えてきたのだ。

 普通のフィルムは使えそうになかった。一応写真は撮れるということになっていたが、特殊なフィルムを新たに購入するため、別にお金がかかるものだった。早い話が、子供相手の怪しい品ものだったのだと思う。

 その後何年もして、兄からコダック社の四角いカメラをもらった。アメリカで買ったものらしかったが、カートリッジのフィルムを使うカメラだった。おしゃれでカッコよく、カチッカチッという軽いシャッター音も新鮮だった。

 さらにその後、もう古くなったというニコンももらった。これは本格的なもので無作為に写真を撮るという楽しみを知った。兄が新しいカメラを買ったあとだ。ただ、うちで現像したりはできたが、結構カネがかかり長続きさせることは難しかった。

 とは言え、いい加減ながら今も写真が好きな傾向は、こうした時代の延長上にある。

 手塚治虫から始まって、少年漫画雑誌の話に至り、カメラの話になった。そもそもは談志師匠の本の話からだ。相変わらず好きなコトや、好きなモノの話はおもしろく結びついていく………

 あ、忘れていたことがもう一つあった。それは冒険王だったか、少年だったか忘れたが、漫画ではなく、本格的な挿絵付きの読み物があったことだ。今でもはっきり覚えているのは、アフリカかその辺りのジャングルをめぐる探検物語で、テントの中で寝ていた探検隊員の顔の傷口に大きなクモが卵を産みつけ、その後に悲惨な出来事が起こるといった話だった。そこだけはっきり覚えているのは、挿絵がリアルだったからにちがいない。こういう探検、冒険ものは大好きだった。

携帯電話は歩いて使わないと勿体ないのか?などについて

 ある事務所(営業オフィス)で見た光景だが、スタッフの何人かが電話で話す際に席を立ち、そのまま事務所から出ていく。もちろん携帯電話の場合であって、固定電話では座ったまま話している。

 不思議に思ったが、これは電車の中などで注意を喚起される、現代人のクセというか習慣みたいなものと繋がっているのかもしれない。ひょっとすると、ボクが一応外部のニンゲンだからという理由なのかなとも思うが、いつも十分にぎやかだし、それは当たっていないだろう。

 しかし、そこまでしなくてもいいのではないかと思うほどに、よく席を立っていく。最初は何となくどうしようかナといった雰囲気で立ち上がり、机の周辺をうろうろする。そして、少し話が長引きそうになると、もう間違いなくドアの方へと歩き出す。

 その事務所にできた特有の空気なのだろう。それは、常に事務所というのは静かに仕事をする場所なのだということを強制しているようにも見える。かつては、電話が鳴りっぱなしで、やや大きな声を張り上げて話す雰囲気が、活気に満ちたいい事務所みたいに思われていたようだが、今はそうではないのだろう。

 ところでボクは、電車の中で普通に電話による会話の声が聞こえても、それほど気にはしない。もちろん大声を張り上げたりされるのは問題外だが、普通に会話しているだけだと、その人がとなりの席の知人と話しているようなものとしか感じないのだ。だから、ほとんど気にならないと言っていい。

 会社の事務所の中もそれに近い。そもそも携帯電話は、あの着信音がまずうるさいのであって、あれが突発的に発せられるところから不快感が始まるのである。それに輪をかけて大声で話したりするから否定される…。

 こんなストーリーではないだろうか。そう考えると、まずはマナーモード、そして普通に話す。この習慣づけで充分席を立たなくてもいいように思ったりする。

 ただそれだと、せっかく携帯電話という持って歩きながら話ができるという機能を放棄していることになるのでややこしい……

 さらに少しだけ付け加えると、ボクの感覚だが、だいたい携帯電話の会話において煩く感じさせる人の多くは、古い型式のもの、つまりガラケーを使っている…ような気がする。もちろん業務用だ。

 ある街で遭遇した夕方の光景は、まさにそのとおりで、ごく普通のいかにも営業マンらしき男性が声を張り上げて話し込んでいた。もちろん?ガラケーである。仕事上の話なのだろうが、信号待ちをしていた周囲の人たちなど全く気にしていないかのように喋りまくっていて、はっきり言って煩かった。

 一方、また同じ場所に戻ってきた時に、たまたま横に立った男性は全く大声を発することなく静かに電話で話していた。最初は電話で話していることに気が付かなかったくらいだ。もちろん耳に当てているのはスマホであった。

 話の内容に左右されることは当然だが、だいたいはスマホの方が静かである。スマホの方が音がやわらかくて聞きやすいのはも事実だ。もっと分かりやすく?書くと、品がいい。それが話し方に影響を与えているのだろう。オーディオにも共通することだが、やはりいい音はいい感性につながる…ということか? 

 話は緩やかに飛んだが、かつてオーディオ評論家の某氏から教えていただいたことだ。事実、ジャズのイベントをやっていた頃に使用していたスーパーオーディオでは、かなりの音量になっても不愉快な感覚がなかった。実験的に和太鼓の競演(CD)をスピーカーの前に立って聞いたが、カラダ全体が少し揺れたくらいで、思わず耳をふさぐといった感覚はなかった。

 もう少しジャズ的かつ具体的に書くと、トニー・ウイリアムスが叩く超ハイスピードのシンバル音も心地よくカラダ中で受け止められた。もしかしてあの感覚がスマホの感覚なのか?

 ますます話がそれていきそうなので、また別の機会にしようと思う…………

見本品はレジを通れない

コロナ禍での買い物ハプニング

 ドラッグストアのレジ。日曜の午前10時半。9時半開店?で、その日の第一次レジ組であろう人たちが押し寄せてきている。

 あの忌まわしいウィルスに翻弄されていながらの買いもの。トイレ用紙は落ち着いてきたが、マスクや消毒液は棚にない。玄関には、すでにそれらはないですよと念押しポップが貼られている。こちらもそんなことぐらい分かっているさ…という顔で見て見ぬふりをする。

 そして、いろいろと普通に買い込み、家人と二人でレジ前の通路に普通に並んでいる。いや、普通よりもちょっと間隔を空けてだ。そして、ついに、いよいよわれらの番になった。

 手際のよい店員さんのおかげで、レジ作業は順調に進み、最後にボクの顔用化粧品(もちろんオトコ用)がカゴに残っていた。

 が、そこまできて妙な空気が漂い始める。店員さんが小さくため息をついたような気がした。何かおかしい。湧き上がってくる得体のしれない緊張感。次の瞬間……

 見本品ですね…と彼女が小さな声で呟く。小さな声だからこそ呟きなのだろうが、こちらにははっきりと聞き取れた。そして、また次の瞬間、店員さんは意を決したかのように走り出していた。換えてきますよ、というこちらの声は届かなかったのか……。

 彼女(店員さん)がレジからいなくなると、当然ながら、周辺にさっきよりもはるかに奇妙な空気が流れる。奇妙というのはこちらの都合のいい表現で、周辺からの〝ムッとした〟に近い空気圧が背中に重くのしかかってきた。

 われわれの後ろには三組ほどの買い物客が並んでいた。この時期である。どの客もたくさんの品物をカートに詰め込んでいた。そこを店員さんがとにかくまっしぐらに走っていったのである。まさかこのような展開になるとは……。

 恥ずかしいわね……と家人。もういいですと言えばよかったと、こちらも激しく後悔する。

 店員さんはすぐに戻ってきたが、それでもこちらにとっては長い時間だった。もし自分で交換に行っていたら、まず売り場を探すところから始まり、店員さんの数倍の時間を要しただろう。

 こちらが悪いのだから仕方ない。レジが終わると、なんとなく二人ともうつむき加減でショッピングバッグに商品を詰め、さっさと帰路に就いた。

 家に帰って商品を見てみたが、見本品にはたぶん「見本」や「サンプル」などと記した張り紙などがしてあったのだろう。それになぜ気が付かなかったのか?

 そんなことを考えていると、そもそもなぜ見本品を置くのだろうと余計なところまで思いが及ぶ。お試し品だったのか。スーパーの試食なら分かるが、オトコは化粧品なんか試さないだろうと、さらに思いは深みにはまっていく。

 だいたい化粧品には賞味期限もない。さっさとカゴに入れ、そういう場所に長居しようという気もないからすぐに立ち去る。それが普通であろう…… と思う。

 見本品が置いてなければ、こちらも間違うことなく、あの健気でお客思いにちがいない店員さんに、いやな思いをさせることもなかった。後ろに並びながら、怪訝そうな視線を放射していた(であろう)他のお客の皆さんにも迷惑をかけずにすんだ。

 それにしても、あれだけ一目散に店員さんが売り場へと走っていったのには、それなりの理由があったにちがいない。こちらは面倒だから、あの商品のひとつぐらい今度でもいいかなと思える。しかし、店員さんはそうは思わない。いや、思ってはいけない。お客様へのサービスと、もうひとつ深読みして、少しでも売上の向上に繋げるということが徹底されていたのだろう。

 だが、もうひとつ忘れてはならないことがあるような…… そんな気がしないでもない。というか…してきた。

 それは、やはり見本品はああいうところにおいてはダメだという意見が、店員さんたちの一部にあったのではないか…ということだ。

 あの店員さんはその賛同者、いや提唱者だったのかもしれない。そして、今回のことで心配していたことが現実となり、だから言わんこっちゃないのよと、いきなり走り出したのかもしれない。

 そう思って振り返ると、表情のどこかに提唱者らしい厳しさがあったように思えてきた。50メートルを6分代後半で走っていたであろう学生時代の走力も、彼女のあの咄嗟の行動を止められなかった要因だった…と想像もできる。

 どちらにせよ、ウィルス感染拡大対策でやかましい中、レジへ見本品を持って行ったりすると、とてもややこしいことになる…ということなのであった。気を付けよう。

スプリング・イズ・ヒア…3.11

 春になりかけの風景を見たり、そんな話題を耳にしたりすると、なんとなく頭に浮かんでくるメロディがある。メロディというよりもタイトルそのものと言った方が正しい。

 『スプリング・イズ・ヒア』という曲である。

 ボクの中では、ビル・エバンス・トリオの名演として存在しているが、曲が作られたのは1939年と古く、その20年後にリリースされた代表的なアルバムのひとつ『ポートレート・イン・ジャズ』に収録されている。

 ボクはそのまた15年後くらいに初めて聴いたと思う。当時のボクにとって、ビル・エバンスはインパクトのある存在ではなかった。だから、この曲もついでに流れていたという程度だっただろう。とにかくほとんど記憶になかった。

 半世紀前の話というと、とんでもない昔のことのように思うが、ビル・エバンスは15歳くらいの頃に初めて聴いた。ラジオのジャズ番組だった。ちなみにその時に流れていたのは、彼の代表曲「ワルツ・フォー・デビ―」だ。リクエスト特集だったせいか、有名な曲ばかりがかかり、その時の「マイ・フェバリット・シングス」(もちろん J・コルトレーン『セルフレスネス』)で、ボクの前にジャズの世界が広がった。

 その番組は、毎回本気で聴いていた。録音もして何度も聴き返したりもした。

 御大・油井正一がたまに出て、メインは児山紀芳、そして本多俊夫、青木啓らが順番にやっていた。特に児山紀芳が担当する夜は、最新の情報や新譜が紹介されたりして、かなり前のめりになって聴いていた。

 最初は単なるませたジャズ・ビギナー(中学生)だったボクにとって、この番組がなかったら、その後のジャズ傾倒もなかったのはまちがいない。今、名を挙げた人たちはもうこの世になく、ボクはまだまだ燻っているジャズ的な感性に自分自身を委ねながら、もう少しジャズを前向きに聴いていこうと最近また思い始めている。

 話を戻すと、『スプリング・イズ・ヒア』は、3月に入ってから何度聴いただろうか。ついさっきも、イヤホンをとおして脳みそに送り、そこから生まれる何かを左胸のあたりにまで届けていたように思う。

 古くから聴いていたに違いないが、左胸あたりに沁み込み始めたのはつい5,6年前のことでしかない。特に春を意識すると、聴き方が変わった。

 そうなったきっかけは単純ではない。敢えて簡単に言うと、3.11だ。

 発生から何年目かを迎えた日の数日後、クルマの中に流れてきた覚えのある曲に、自分の中の何かがすーっと静まり返っていくような感覚を得た。

 もちろんボクは、その演奏がビル・エバンス・トリオのものであることを知っている。タウンホールのライブ録音であることも知っている。しかし、不意に曲のタイトルを問われても、答えられなかったにちがいない。

 当たり前すぎる、ビル・エバンスのビル・エバンスらしいピアノとバッキング。音量を上げ、もう一度聴き直した。

 車内のディスプレイに『Spring is Here』と曲名が出ていた。恥ずかしながら、改めて確認した曲名だった。アルバムは違っていたが、まさしく『スプリング・イズ・ヒア』だった。

 3月も後半に入ろうとしていた頃だ。クルマから降りると、春らしい陽射しの下に、雪解けから時間を経た山吹色の草地が見えた。ところどころにあざやかな緑も混ざっていた。

 冬枯れの終わりを告げる風景と、まだ残る空気の冷たさがこの時季らしいと思わせた。

 時を経ていたが、3.11の話題は絶えず人々の中にあった。そうした話と目の前の風景に、『スプリング・イズ・ヒア』のメロディが重なる。不思議と落ち着いていく。

 『スプリング・イズ・ヒア』は、もともとミュージカルの中の甘いラブソングだという。原曲は聴いたことがない。ただ、ボクの中では、素朴な春の風景を思い起こさせる、シンプルな一曲である。どんな春にも溶け込む。

 そして、ビル・エバンスの演奏は、春が来ているのをこっそりと教えてくれているような、そんな響きを持つ。小声で春が来てるよ…といった感じなのである。

 2011.3.11周辺の日々は、東北では冬だった。まだまだ春を感じさせなかった。こんな甘いラブソングなど聴いていられるはずもなかった。

 しかし、今、ボクの中の『スプリング・イズ・ヒア』は、大袈裟だが春そのものだ。

 春の風景は、冬のすべてと繋がっていて、冬のあとにやって来るからこそ待ち望まれる。それは素朴であればあるほど心を打つ。そんな日本の春の風景に、なぜか『スプリング・イズ・ヒア』が重なっていく。そして、説明はうまくできないが、この感覚は新鮮でもある。

 そのすべての根拠が、3.11にあるのかもしれない。そのことをこの春も感じているのである………

追記:エリック・ドルフィーもこの曲を演っていたことを、恥ずかしながらその後に知って聴いたが、ピンとこなかった…

創作/ホワイトデー

Why today?

なぜ、今日、私にクッキーをくれるの? 

クラスメイトのシンキチからクッキーを渡されようとした時、

ロスからの留学生ナンシーが戸惑ったような顔で尋ねた。

この間のお返しだよ。シンキチは答えた。

この間って? 

一ヶ月前のチョコレートのお返しさ。

ナンシーは、淋しい気持ちになった。

一ヶ月も過ぎているのに…と思った。

お返しなんか要らない・・・

あのときすぐに、私の気持ちに答えてほしかった・・・・・・

ナンシーは、3日後にロスに帰ることになっていた。

一年間の留学。シンキチと出会って、

付き合い始めて10ヶ月が過ぎていた。

そして、もうすぐ別れが。

ずっと、あなたの言葉を待っていた。

本当の気持ちが知りたかった・・・・・・

そう言うと、ナンシーの目から涙があふれた。

シンキチは驚いた。

ナンシー。ごめん。ナンシー。ごめんよ……。

その日は、3月14日だった。

アメリカ育ちのナンシーにとって、

一ヶ月前にチョコレートを贈ったことも、

日本の習慣を知り、バレンタインデーでの初めての経験だった。

その上に、一ヶ月後のクッキーのことなど知るすべもない。

シンキチもアメリカ人であるナンシーが、

その意味を知らないはずがないと思っていた。

アメリカには…というよりも、

日本以外にはこうした気持ちの表現がないことを

二人はその時初めて知った。


この日米の若い男女が交わした言葉が、

いつの間にか日本の菓子業界の関係者に広がった。

なぜ、今日…? Why Today…? 

それが後に、“ White Day ”になった。

まだ、3月14日にはっきりとした名も付いていなかった頃の話だ……

二人はもちろんその後結ばれ、今も日本で幸せに暮らしているとか。

[N居雑記ノート~1998.3.13の日付メモに加筆]~時代考証はほとんど深くはない。

バナナの話

 信号待ちで停車中、何気なくとなりの車を見ると、助手席の中年男性がまっすぐ前を見てバナナを食べている。

 なぜか真剣に食べているように見え、そういう風に食べなくてはならない理由を瞬時に考えたが、助手席の人だから特に思い当たることはなかった。

 その後すぐに、子供の頃に見たある光景を思い出した。目の前で近所のあるおじさんが、バナナ一本をバクバクと三秒ほどで食べ尽くした光景だ。こういうのを光景というかどうかは置いといて、ボクはそれを少し怯えながら見ていたような記憶がある。

 息もせずというのではなく、鼻で荒くはっきりと息をしながら、さらにうう~と唸り声を上げて食べていたような気がする。

 その人は、ボクの中では昔よくいた面白おじさんの代表格の一人である。その人はよく家に遊びに来ていた。別段用事があるような様子もなく、ふらりとやって来るという感じだった。冬の記憶だが、どっぷり掘り炬燵に入り込み、キセルを吸い、どうでもいいような話をしてよく笑った。かつていた面白おじさんというのは、とにかく笑うのであった。

 ただ、それもまたなぜか面白かった。キセルは、うちでは祖父が吸っていたような記憶がある。あの独特な匂いも覚えている。真似して口に咥えてみたこともあった。金属の歯触りが異様に感じられ、年寄りの匂い?がしたような……

 その人の特技?は、とにかく何でもよく食べることだったのかもしれない。兄たちに言わせると、他のお客さんに出しておいたお菓子も、いつの間にか一人で食べてしまうという人だったらしい。そんな光景?を、一度くらいは自分でも目にしていたかもしれない。

 そのおじさんは、物知りで話がうまかったようにも思う。多分、若い頃にいろいろと世の中を渡り歩いてきたのだろう。真実は分からないが、ボクのそれまでの人生(わずか十年ほどだが)の中で、話題の豊富さはいちばんだったかもしれない。そう感じるようになったのは、もう小学校高学年になった頃だろうけど。

 そんな頃には、バナナを食べることに特別な感覚なんぞもなくなっていたはずだ。もともとバナナを食べるという機会がそう豊富にあったわけでもない。

 小学校に入る前までのボクの家庭では、バナナは身近ではなかった。みかんやりんごや柿までが普通で、スイカは畑で作っていたから不自由しなかった。さらに、砂丘に植えられていたグミや雑木林の中の桑の実なども、それなりの満足度で存在していた。 かつて、バナナが文化度のバロメーターのように語られていた時代があったように思うが、小学校の遠足にバナナを持っていった記憶があるので、その頃は一応平均的になっていたのだろう 。

 ところで、根っからの海のオトコで、漁業を生業とし、山陰から北海道にかけての海で稼ぎまくっていた明治生まれの祖父は、バナナのことを「バナ」と呼んでいた。

 「ナ」を一文字省略して呼んでいたことになる。理由はよく分からないが、祖父らにとっては全く手の届かなかったバナナに対する畏敬の念か、その逆の蔑視か、あるいは照れ隠しのようなものだったのかもしれない。やはり文化度のバロメーターとしてのバナナのチカラだったのだろうか。祖父が皺だらけの手でバナナを食べているシーンの記憶はかすかにあるが、決して美味そうな顔をしていなかった。

 ところで、バナナはいつしかパフェの一員になったりして、おしゃれに食べるものになり、ヨーグルトといっしょにという健康的な食べ方なども普通になっている。皮をむき、そのままパクリということが少なくなり、最初からカットされていたりもする。ということは、自分で皮をむくという行為がなくなりつつあるのかもしれない。

 なぜか、バナナの話はまだまだ続きそうな予感がしてきた。このあたりで一度終わりにしておこう。もうすでに、こんな話もあったとか、あんな話もあるなあと、いろいろなことを思い起こしている………

夢の中で埋められる……

 あることで不意に思い出したことがある。正月早々に泥の中に埋められるという奇妙な夢を見ていたことだ。罪人か、とにかく囚われの身であったのは確かで、夢の中の時代は戦国、ボクは当時の百姓のような身なりをしていた。周囲には何人かの同類のような人たちがいて、その人たちも同じような身なりだった。長くヒゲが伸び、ボクは痩せていた。そして、若かったような気がする。ひょっとして、一揆の首謀者だったのかもしれない。

 梅雨時らしかった。雨が上がったばかりでじっとりした空気感があった。濡れた竹藪の中を歩き、最後に滑りやすい坂道を下った。裸足だった。

 埋められるのであろう場所で肩をつかまれ、ボクは立ち止った。水を抜いたばかりの水田のような、柔らかく粘っこい土の感触があった。そして、横を見ていると、すぐそこに細い穴が簡単に掘られた。

 なぜかすぐに身長分ぐらいの穴が掘られ、絶対そんな簡単には中に入れないはずなのに、ボクはあっさりと真っすぐ穴の中に押し込められた。まるで泥の中に杭を差し込むようにだ。

 首の下あたりまで埋められ、腕の自由も利かない状態で目の前の泥を見ていた。すると、見る見るうちに泥は乾いていった。

 夢なんだから、自然の法則など意味を成さないのは分かるが、あっという間に泥は固まった。

 それに伴って完全に身動きがとれなくなった。

 しかし、そこからボクは妙に冷静にもなった。

 あることを思い出していた。もちろん、夢の中でだ。それは若き漫才コンビ・ツービートの、「うんこ地獄」というネタのことだ。

 かなり下品なので詳細は控えるが、とにかく汚くて臭いのは仕方ないとして、顔を出してタバコが吸えるという地獄なのだからと、罪人ビートたけしはいろいろな地獄を見てきて、その中からここがいいと決める…

 しかし、いざ身を沈めてタバコを吸い終えると、はい、休憩終了。潜れ~。

 当時のツービートのギャグでいちばん好きなやつだ。ついでだが、その次が、オレの親父はまじめな男で〝模範囚〟と呼ばれていた…云々。

 夢の中の冷静なボクが、そこまで思っていたかどうか分からないが、またとにかく目の前の土の表面に目をやる。さっきまでの雨が嘘だったように土、いや泥は硬さを増していた。その中でもう全く身動きがとれなくなっている。

 夢の中の出来事をそんなに詳しく覚えていられるものか分からないが、夢の振り返りはさまざまな体験や想像も被さって成り立っているものだと思う。

 だから、ややこしい話だが、その夢の中の自分も、夢の外の自分の想像の域に入っているのかもしれない。

 完全に夢の外にいる今の自分からすれば、自然の道理に当てはまらない周辺の出来事が、逆に夢の中の自分を冷静にさせているのだとも思わせる。

 そんなことはどうでもよくて、やはりというか、いよいよというか、だんだんと息苦しさに耐えられなくなってきた。

 土の中に埋められているということと、身動きが取れないということの関係が少しずつ認識できつつあった…と、後日、夢の外の自分が分析した。

 ここで夢は夢らしい都合のよさで勝手に場面を変える。全く違う時空に、フェードアウトもフェードインもなくボクを運んだ。

 そこには幼い頃の次女がいた。若い頃の家人もいた。二人が何をしていたか、その場面の詳細は分からないが、とにかく幸せな空気が満ちていた。手前のテーブルの上に美しい絵皿が置いてあり、その色合いの美しさだけが記憶に残った。

 ところで、話を戻すと、穴に埋められるという奇妙さ抜群の夢を見たということが何を示唆するのか?だ。

 恥ずかしながら、ちょっと調べてみると、意外にも吉運を示す話が最初に目に留まった。金運が上昇していることを意味するとか……。

 しかし、当然よくない話もある。何かに失敗した自分を消し去りたいなど、自信を失っている時に見がちな夢だともいう……。そう言えば、穴があったら入りたいなどといった言葉もあるなあと思う。

 穴に埋められることと金運がよくなることの結びつきは、どこか胡散臭いが、自分を消し去りたいという話はなんとなく結びつくから恐ろしい。

 それは置いといて、冒頭にあることでこの夢を思い出したと書いた。実は、あることとは文中にあったツービートの「うんこ地獄」のことだ。ただ、なぜ「うんこ地獄」の話を思い出したのかは分からない。ときどき何の前触れもなくアタマに浮かんできたりしている。

 とにかく、不意にそれを思い出した時、たまたまこれも不意に、そのネタを思い出した夢を見た…ということを思い出したのである。

 ややこしいが、事実である。事実は小説より奇なり…というほどではないにしろ、夢の話だから、やはりどこかややこしい。さらに付け加えると、最近本当にリアルに思い出せる夢をよく見る。物語性は乏しいが、登場人物たちはとても思いがけないカタチで現れるので面白い。

 ついこの前も、ずっと長髪で服装もラフだったある知り合いが、突然坊主頭で、しかもスリムなスーツなんぞを着て現れたので驚いた。ジャズ喫茶を改造し新しいビジネスを始めたという事務所には、知った顔だらけで、皆で開所祝いでもしているような雰囲気だった。不思議だが、その知り合いは十年以上前にすでに他界している。

 それにしても、この夢劇場はいつまで続くのだろうか………

冬枯れ

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 季節がどんどん既成の感覚を壊し始めた。

 夏はまだ、〝暑い〟を〝物凄く暑い〟に変えているだけで、寒くなっているわけではない。

 だが、冬はたまに厳しい寒さをもたらすこともあるが、このところ平均すると〝寒い〟とあるべきところを〝暖かい〟に変えたりしている。

 自分なりの感覚の中にも小さな変化がもたらされている。

 そのひとつが「冬枯れ」のイメージだ。

 冬枯れという言葉の響きと、はっきりとはしないが、冬枯れという言葉に形容される風景が気に入っていた。

 それは自分なりの解釈というか、感覚の中だけの偏見なのかもしれないが、雪と共に冬枯れがあったからだ。

 ボクの中にある冬枯れは、秋が終わって冬に入っていくときだけの空気感ではない。

 どちらかと言えば、冬にしっかりと雪が降り、その雪が融けたあとに再び出てくる風景や空気感の方が、本当の冬枯れだというイメージがある。

 だから、秋が終わったら冬が来るのではなく、秋が終わり、雪が降り積もって初めて冬が来るという感覚が強いのである。

 自分の中の冬枯れという印象を初めて認識したのは、三月の初めに長野県・姥捨に行った時だ。

 本格的な山から遠のき、誰もいない山里や山村歩きへと下ったニンゲンだが、そういう〝情景〟にはもともと敏感だった。そして、姥捨はそうした情緒に訴える冬枯れそのものをしっかりと見せてくれた場所だった。

 もの寂しい冬の風景という印象が、高台から姥捨を見た時すぐに浮かんだ。

 残雪があった。情景という言葉が、冬枯れには合うと思った。

 秋から冬に移り、草木の枯れた草原や田園がより一層無機質に見えていく。

 さらに雪が冬そのものの情景をつくり、そして、その雪が消えた後に、もう一段深い風景への感情が生まれてくる。それが自分なりの「冬枯れの情景」だ。

 しかし、今年の冬枯れは、秋の終わりからあまり変化を見せずにいた。

 それどころか、枯れた草木が生き生きとして見えてくるような感覚もあった。

 山吹色の雑草たちが輝いて見える。裸木たちもそのアバンギャルドさに磨きがかかって、凛々しくもあった。

 そして、いつもと同じような風景を目にしていながら、自分の考える冬枯れとは何かが違っているということに気が付いたのは、ようやく雪らしきものが、気持ち程度に降ってくる直前のことだ。

 北国とか雪国と呼ばれている土地へ行っても、暖冬だ、雪がないという話ばかりで、人々はだんだん雪のない不安を語るようになってきた。

 地球温暖化などという大儀な話を背景に語ることなどできないが、冬枯れに対する自分本位の感覚すらも、冬の寒さや冷たさ、そして何よりも雪そのものの存在を大きくする。

 今、定期的に利用する信越の山裾を走る列車も、雪煙をまき散らすほどではなく、車窓の風景も物足りない。

 もうすぐ二月も半分ほどになる。冬の時間が少なくなる。

 ボクの中の冬枯れは、言葉どおりの寂しいものになりそうな気がしている………

年末におけるラグビーの高熱

 年も明けたのにまだラグビーの話かよと言われるかもしれない。が、今も冷汗をかきながら書き下ろしている筆者にとっては、今(年末)がラグビー熱・最高潮の時であることをご理解いただきたい。生意気ながら、このようなことは俄かラグビーファンという方には分かってもらえないだろう。

 結論を言うと、大学ラグビーが佳境に入っている時だからである。特にボクのような、かなり年季の入ったM大出は、ラグビーへの愚直な入れ込み方は並ではない。在学中から45年ほどの間、毎年冬になると激しく一喜一憂を繰り返している。

 ご存知W大にもそんなOBが身近にいる。例えば、仕事のお客様でありW大出の某社長氏は、12月第一日曜の両校対決の時が近づくと、いつの間にかスクールカラーのネクタイを締めていたりして、さりげなく(と言っても明解だが)挑発してくる。特にここのところWは強く(というよりもMがモタモタしていた)、形勢はよくなかった。しかし、ようやくMも目覚め始め、往年の逞しさが戻ってきた。

 ところで、大学選手権の決勝が新国立競技場で行われるというニュースに驚いた人がいた。そこでシャシャリ出ていき、そんなことは昔から当然でして……と、熱く語りたくもなったが、ぐっと抑えた。旧国立の時代から、年末は有名なMW対抗戦。正月も決勝は旧国立だったからである。

 地方のニンゲンだから、最近はテレビ観戦が多くなった。家の中では絶叫、歓声、嘆息、その他諸々のテンションは少し落ちる。しかし、窓辺には、さりげなく(と言っても明解だが)、母校のジャージとフラッグが掲げられていたりする。

 ところで、W杯が終わった頃から部屋にあったラグビーに関する本を何冊も読み返した。なんと10冊ほどもあった。われらが北島忠治御大ものから、大西鐵之祐氏、松尾雄治氏から上田昭夫氏、平尾誠二氏、そして清宮克幸氏など。もちろん雑誌なんかもあって多彩に楽しめた。

 中でも新鮮だったのは、松尾雄治氏の『常勝集団』という一冊で、かつて語っていた日本ラグビーへの提言が、今現実のものになろうとしているということに嬉しくなったりした。今、清宮克幸氏らが進めようとしている新しい日本ラグビーのイメージなんかも、松尾氏が35年以上前すでに訴えていたことだったことを再確認した。松尾氏は偉業の後いろいろあって、ラグビーの表舞台に戻れていないが、M大の黄金期や新日鉄釜石での偉業をリアルタイムで体感していた者として、彼には日本ラグビーをもっと引っ張ってほしかった。

 そして、ジャパンの監督として、かつて歯が立たなかったイングランドを僅差まで追い詰めるまでに強化した大西鐵之祐氏の、戦術とチームづくりに関する話も胸を熱くするものだった。W杯でのジャパンが凄かった分、日本ラグビーの苦悩の歴史と、関わってきた多くのラガーマンたちのハートの熱さには、あらためて心が動かされた。

 そして、古いファンも、もう一度生まれ変わる時なのかもしれない……と思う。だが、また、やはり大学ラグビーは死ぬまでこの状態でボクを一喜一憂させ続けるのだろうとも思う。まあ仕方がない……

煮込みうどんについて

 たまに行く煮込み専門のうどん屋さんがある。鉄の器ではなく焼き物の器で出てきて、自分の評価軸だが、風味も明確に“ 煮込みらしい ”と思っている。

 先日、そこではない店で煮込みうどんを食べた。味は生意気ながらまあまあだったと感じたが、ひとつだけ大きな難点?があり、そう言えば、煮込みうどん界ではよくあることかもしれないなあと振り返ったりした。今風に言えば“煮込みうどん・あるある”というところか。

 それは何かというと、たまにとてつもなく長い麺が入っていることだ。大げさだが、立ち上がらないと食べられないのではないかというくらいに長いのがある。普通のいなりうどんなどにはほとんど入っていないが、なぜ鍋焼き系になると突然?出てくるのだろうか。

 あれは興醒めというか、かなりの度合いで煮込みうどんの評価を下げてしまう要素になっているのではないか…と余計なお世話的に思う。特に女性には厳しい評価を心の内に持たせてしまっているような気がしてならない。

 特に一度小鉢に入れて食べるのが標準化されたような煮込みうどんであるから、食べる時というよりも、小鉢への移動の段階が厳しい。かなりの熟練した技術が要る?

 一杯には、うどんの長いのが数本あったりする。たまにこれは意図的なのか、それとも何ともし難い事情があってのことなのかと考えたりするが、今だ真実は知らない。

 うんと若い頃、能登の某地に煮込みうどん屋があって、勤務先の先輩と能登方面へ出かける際に、よく寄っていた。特に真夏にその店へ行き、だらだらと汗をかきながら食べるのが好きだった。ただそんな時は、小鉢に移していたといった記憶はなく、長いのを食べるのに苦労したといった覚えもない。

 単純に言えば若気の至りで、ただ食べることだけに集中していたということだったのかもしれない。どちらにせよ、今はうどんの長さが気になる。掬った麺の端がなかなか表面に出てこない時には、ああ、やってしまったと、瞬間まるで罰ゲームを当てたような気持ちになる。

 そして、何とかせねばと焦るうちに、せっかく掬い上げた麺を鍋の中に落としてしまう。運が悪い時には、ハネ上がったスープが洋服につくといった状況も招く。

 また、腕を上方へと伸ばして、何とかうどん本体を引き上げたのに、小鉢に移そうとして、テーブルの上へずるずると落としてしまうというケースもたまにある。

 こうなってくると、煮込みうどんを食べていることの楽しさは、一瞬半分ほどに縮小され、そのまま何となく心から楽しめないまま時を過ごさなければならなくなっていく。

 しかし、美味い煮込みうどんは、何がどうであれ美味いことに変わりはない。

 だから、もし不慮の事故に見舞われることになったとしても、楽しもうという気持ちを忘れていけない。カレーうどんがもたらす事故に比べれば、その被害度、衝撃度はわずかなものだ。

 こうして時々、煮込みうどんを食べている。個人的事情だが、最近の憂鬱な日々に、煮込みうどんを掬う時の緊張感がいい活性材になっているような気もしないではない……

病中読書の贈りもの

 詳しくは分からないが、カラダの真ん中、いや腹と胸の境目あたりに重いものが潜んでいて、ふとしたことでそれが息をしだす。  胸から背中あたりまでゆっくりと流れていく。イメージでは、それは比重の高そうな気体だ。

 その正体はストレスというやつである。仕事上の下品なやつだ。こんな状態が、少なくとも自分の中では一か月以上続いていて、現時点でまだ治まっていない。

 こうしたことを文章にするというのは、普通過去形で綴るもの……つまり、解決した後に振り返って書くというのが正しいのかもしれない。しかし、書下ろしが好きな自分としては状況真只中で書くことになる。

 コトの途中経過みたいなもの…そう考えると安っぽくなるが、もともとがそんなものかもしれない。

 こうした状況での新鮮な発見としては、読書である。読書そのものというよりも、その中に描かれているストーリーというべきか。

 むずかしいことを書こうとしている自分を抑えながら、それでも敢えて書いてしまうが、人と人との関係を素朴な日常とともに描いたストーリーなどは、しみじみとまっすぐ心に届いてくる。

 ………… 悲しい境遇を強いられた主人公の若者がいて、彼に何か光を与えてあげたいと思う自分がいる。そのことに気が付くのは三分の一ほど読み終えた頃だ。

 その若者の心情を理解しているつもりになって、彼の行動を気持ちで後押ししている。

 そして、彼にかすかな光が当たり始めると、ますます強く応援するようになる。が、それなのにというか、こちらの予想を裏切って、彼は将来の自分のために敢えて厳しい道を選択する。

 まだ三分の二ぐらいのところだったので、このまま終わるわけはないと思っていたが、また彼をつらい目に合わせるのかと先が心配になっていく。

 しかし、ますます応援しようという気持ちが高まり、ページは進むのである。そして、若者の決断を支持し、前途に期待を込めながらフィナーレを迎え、ストーリーとしてはとてつもなく大きな余韻を残して終わるのである。少し間をおいて本を閉じる。

 ……… 勝手にあれこれ書いているが、本のタイトルや作家名は敢えて書かない。ハードカバーの分厚い本だったが、ほぼ一日半で読み終えた。これも久々の快挙的珍事であった。

 もともと家人が読み終え、そのまま居間の本が何冊も積まれた場所にあった。その存在は知っていたが、まさか自分がそれを読むとは思わなかった。いや、手に取ることも想像できなかったと言っていい。

 最近は物語(小説類)をほとんど読んでなく、エッセイ的なものを多く読んでいた。その傾向はもうかなり前からのことで、それも自分よりもかなり年上の人(故人も多い)のものが多かった。しかし、詳しく見てないが、この書き手は若手と言われる作家にまちがいない。

 読み終え、なぜか分からないが自分自身の中にあった懐かしい何かに触れた気がした。ニンゲンの心の在り方として、そういうことを感じたということが新鮮で、照れ臭くなったり嬉しくなったりした。無理だと分かっていながら、若い頃の潤いがたっぷりあった時代に戻りたいとも思った。そして、当然なのかもしれないが、今の自分の情けない日常をしっかりと感じ取った。

 これからあの若者のように生きるなど、とんでもない妄想だが、残された時(そんな大げさな話でもない)をどう過ごしていくか、いや何を目当てにしていくかなどは改めて考えた。

 読書のBGMは、パット・メセニーの「LAST TRAIN HOME」になっていた。しかも1時間ぶっ続けのリピート版を何度も繰り返し流していた。スネアを叩くブラシの軽快な音がSLの疾走感と、レールの伸びた広い大地を想像させ、読書も軽快に進んだのだ。完全に青臭さを取り戻していたかのように………

図書館にて

 仕事をしようと思って、会社近くの図書館にいた。

 仕事ができる図書館がある。ちょっと広めの図書館であれば、そうしたスペースが用意されていて、かなり快適に仕事ができたりする。ただ、そうは言っても、その時の気の持ちようで、モチベーションはかなり違ったりする。

 午前10時半頃に図書館に入り、中のカフェでコーヒーを飲みながら、翌日の会議の資料を作る… そんな目的でその日はやって来た。カフェには当方一人だけで、仕事の方もそれなりにはかどっていた。そこへ二人組の少女たちが入って来る。中学生ぐらいだろうか? そう言えば夏休みだなと思う。

 彼女たちは、よりによってと言うと自分勝手だが、いくつもある中からボクの横のテーブルを自分たちの勉強場所にした。どのテーブルを選ぶかは、彼女たちの自由であり文句は言えない。その理由も明白で、要するに店の隅っこにしようというボクと同じ考えに基づいていたのは分かっている。

 しかし、それからのボクのペースは一気に狂い始めた。スマホの受信音が鳴る。それもほとんど耳慣れない奇妙な音だ。慌てて止めようとしているが、こっちが考えている以下の怠慢な対応でなかなか音は止まらない。その状況にこちらのサイクルのどこかが支障をきたす。

 さらに彼女たちがひそひそ話を始める。多分、さっきの受信音についてだろうと思う。少しだけ話すと、決まってクスクス笑う。それが背後から聞こえてくるから、こちらとしては状況的によくない。

 セルフサービスの水を汲みに行こうと立ち上がりながら、こういう場合は“汲みに行く”という表現が正しいのかと余計なことまで考えている。山ではないのだから。

 立ち上がったついでに彼女たちを見る。二人ともテーブルの上にいろいろと広げて、とにかく一応勉強はしている気配だ。夏休みの宿題なんだろうか?

 少し時間は早いが、ボクはそのままカウンターまで行って、昼のカレーを注文した。量的にも質的にも自分として満足できないことを推察しつつ、深い考えもないままエビフライをトッピングする。そのまま自分の席まで戻ると、店員がしばらくして届けてくれた。

 彼女たちの気配を背中に感じながら、やや急ぎ気味にカレーを食べる。当方にとっては異様に細長く感じられるエビフライが食べにくい。尻尾を手に持って、そのままガブリといきたいところだが、背後の気配がそうさせてくれない。落ち着かないままカレーを腹の中に流し込んだ。

 それからまた水を汲み?に行き、荷物(パソコンなど)を片付けた。仕事は途中である。しかも、それなりに調子に乗っていた。このまま図書館を出てしまうのも勿体ない。カフェを出ると、館内に入り階段を上って二階フロアに向かった。

 本棚の奥、カウンター式に横に並んだテーブルとイス、目の前はガラスの衝立、その先はなく、見下ろすと一階のフロアが見え、そこには赤ちゃんと若い母親たちが遊ぶ。そんな場所に腰を据えた。

 視線の先には外の風景(芝の広場と住宅)も見えていたりする。椅子の座り心地も悪くない。ここで続きをやることに決めた。

 図書館はボクにとって二つの顔を持つ。ひとつは本に囲まれて、そこから一冊、読みたいなというか、読んでみようかなという本を取り出して、とりあえず行き着くところまで読んでみようとする場所。もうひとつはこうして仕事やモノ書きなどのために使わせていただく場所だ。もちろん本を借りる場所でもある。

 前にも書いたことがあるが、ボクの場合、図書館の本の借り方はかなり雑である。とりあえず借りていき、面白くなかったら(なくなったら)即座に返すというやり方が多い。当然、借り出す前にチラリと読んだりするのだが、その時には面白そうだと感じながら、外で読み直すともう一つだったというのが多かったりする。

 その原因は、図書館における本というものの存在の仕方にあると思っている。多くの本があるから、手当たり次第に何でも読むことができるという甘え?が生まれるのである。ちなみに借りた本のうち完読したのはほんの一部しかない。

 これは非常によくないことだと思うが、図書館はある意味そういうことを許すことで、存在価値を維持していける施設なのだとも思う。逆に面白いと思った本は、当日か翌日にでも返しに行き、その足で本屋へ向かったり、通販サイトを開いたりするのである。

 実用性という視点ではなく、図書館そのものというか、その雰囲気で好きだなと感じている図書館は、かなり遠いところにあったりする。だから頻繫には行けないが、その図書館などは外から見ていたり、中でただぼんやりしているだけでもいい。

 とにかく図書館にはさまざまな顔があり、特有の空気があり、それらを自分の感覚に合わせていくと、ひたすら快適な場所になるのである。

 そういうわけで、何か大事なことを書き忘れたままになっているという心残りがあるが、まず自分としては仕事を仕上げなければならない…という状況にあるのであった。

3月 安曇野 常念は見えず

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 考えてみると、実に久しぶりに安曇野にいた。

 何年か前に大町まで来たことがあるし、松本にもごく最近行っている。しかし、じっくりと安曇野の地に立ったのはとにかく久しぶりだった。

 半月ほど前、つまり3月のアタマに甲府まで鉄道でのんびりと出かけていた。そして、長野からの篠ノ井線の車窓から安曇野を強く意識して眺めていた。

 何度か書いているが、岡田喜秋の『旅に出る日』にある「常念岳の黙示」を読んだ後の余韻などがまだまだ強く残っていて、安曇野への思いは高ぶり続けていたように思う。

 そして、甲府に着く前の客車の中で、今度は家人を連れ、姥捨(うばすて)の風景をじっくりと見てから松本で一泊し、帰り道に安曇野に寄ろうという新しい計画を立てていた。

 もうひとつ安曇野には別な目的場所があった。田淵行男の記念館だ。さらに、定番の碌山美術館もあったが、実は 「常念岳の黙示」にある、“安曇野から常念岳を見る” という大きなテーマも心に重く位置づけられていたのだ。

 話はまず、姥捨から始めよう。そんな大袈裟なストーリーでもないが。姥捨のことは前にも書いている。最近、ちょっと意識するようになった場所である。いや、ちょっとではないかもしれない。

 上越自動車道で長野を過ぎ、松本までの間にあるインターで下りる。国道403号線で山道へと入っていく。篠ノ井線が高地を走っているのと同じように、403号線も安曇野から松本へと山越えする道だ。その途中に姥捨がある。まずは基本としてJR姥捨駅に向かわねばならない。

 「姥捨の棚田」というのは、日本三大車窓風景に選ばれているというくらいだから、鉄道目線を意識するのは当然だろう。実際そのとおりで、403号線から細い道に外れ、高台から少しずつ下っていくと、その小さな駅があった。

 実は自分が何度も見てきた車窓の姥捨は、この駅に入ってくる電車からではない。ややこしい話で説明的に書くのもちょっと面倒だが、この駅に入ってくるのは普通電車で、自分が乗っていたのは特急列車だった。

 特急は駅の方への線路に入らず、駅の上をまっすぐ通り過ぎていくのである。つまり専門用語で言うと、姥捨駅は「スイッチバック」というシステムの駅なのである。このことも最近ではめずらしいらしく、鉄道ファンには人気になっているという。

 ということで、誰もいない姥捨駅のホームに立ち、その空気にしばし浸り、すぐにまた道を下った。

 途中にあったのは、姥捨公園。シーズンオフのようなこの時季、広い駐車場には一台のクルマもいない。いくら人気のある場所といえども、こんな季節に訪れる人は少ないのだろう。

 道を挟んで古い寺が建っている。崖っぷちに大きな岩があり、それを登ると眼下に姥捨の棚田が見渡せる。

 残雪もある大好きな “冬枯れの風景” が広がっていて、しばらくじっと目を凝らしていた。動くもののほとんどない風景が、冬枯れを描いた絵画のようで、その色合いに満足していた。

 水田に水が張られた季節に映る月を眺めるのが、この姥捨の絶景らしいが、その頃に来ることができる保証などない。それよりも純粋な山里・山村風景好きとしては、風景が見える昼間の方がよく、月見などはそれほどの興味ももっていない。

 寒かったが、車窓のガラス越しではない冬枯れの姥捨をじっくり眺めることができた。

 国道403号線に戻り、山越えしていく途中にあった展望台からの善光寺平風景も、哀愁が漂う。千曲川にかかる冠着(かむりき=この名前が好きで)橋が印象的だった。

 松本までは残雪を時折見ながらの山越えだった。しかし、ボクにとってはとても上品な雰囲気で好きな道であったのだが、ひとつ問題があり、そのことを家人から鋭く突っ込まれ窮地に陥る。

 原因は昼メシ時間真っ只中にいたにも関わらず、全くそれらしきお店などと遭遇しない道であったことだ。いや何ケ所かはあったが、なんとなく気乗りせず通過した…

 結局、その問題は長い時間を経たのち国道19号線で解決した。明科で見つけたラーメン屋さんで列をつき(普段はめったに列にはつかない)、待った甲斐のあるそれなりの昼食にありつけたからだ。店の周辺ののどかな風景と美味しい味噌ラーメンが収穫であった。

 松本に着くと、クルマを一度駅近くの駐車場に入れた。コーヒーが飲みたかった。それも街なかをぶらつきながら、なんとなく雰囲気のいいカフェで飲もうと決めていた。

 かつて松本はかなり勝手知ったる街だったが、最近はあまり自信がない。結局コーヒーを飲んだのは、松本駅の建物内にあるスターバックスでだった。店の造りが気に入った。広く伸び伸びとしていて、我々もそれなりに伸び伸びとしながら、コーヒーとおやつの菓子をいただいた。

 予約しておいた宿は、こじんまりした上品な和風旅館だった。我々ともう一組しか宿泊客はおらず静かだった。旅館までの最後のアプローチがちょっと分かりづらかったが、狭い坂道を上っていくと駐車場があり、そこから少し歩いて下ったところに古い小さな門があった。ご高齢な女将と建物内の造りに、旅館の気品のようなものを強く感じた。

 翌朝は、松本市美術館にまず立ち寄った。展示を見るというよりも建物をみることが目的だった。それまで写真で見たことはあったが、実物を見るのは初めて。施されている色の美しさに納得して、早々にクルマを出した。

 目的地はもちろん安曇野である。松本からは近い。かなり久しぶりとなる碌山美術館で、まずゆっくりと時間を過ごした。

 この時季の安曇野らしいと言えばそれまでかもしれないが、空気は肌寒く、待望していた常念などの山並みは雲に隠れていた。

 当然、碌山美術館の敷地の中もそんな晩冬の空気に包まれており、いくつかの展示建物を経ながら最後に入った建物の中でストーブの暖か味に出会ってからは、しばらく外に出る気をなくした。はじめは先客がいたが、誰もいなくなるとそこは快適な空間となった。

 1958年、地域の人たちが皆で協力し、この美術館を造り上げたというストーリーに今更ながら感動し、萩原碌山が実際に生きた当時(明治)の安曇野の古い写真などに見入った。こうした古い写真への興味はそれなりに深い。特に安曇野ともなれば格別だ。

 家人はストーブの横に座り静かに文集を読み始めている。かなり興味を持ったようだ。熱心に読みふけっている。

 窓から外を見ていて不思議に思ったのは、若い頃に初めてこの美術館を訪れた時と比べると、自分の受け止め方に大きな変化が生じているということだった。

 当たり前の話で、今更何を言うのかということでもあるが、こんな風に地域とひとつの美術館のつながりというか、そのことを歴史という時間軸でとらえた場合の感動の深さというか、とにかく若い頃にただトレンドに近い形で追っかけていたようなものが、今は全く違った形で自分の目の前にあるような気がした。ちょっと恥ずかしいようで、それがまた自分の中では妙に新鮮だった。ニンゲンとしてのいい意味?での青さが、まだ自分には残っているのだろうと、いい風に思った。

 駐車場に戻ると、ちょうど大糸線の電車がやって来るところだった。家人は先にクルマの中で待つことになり、こちらは一人で線路脇に立って電車が来るのを待った。

 学生時代の冬の帰省にはよく大糸線を使った。早朝新宿から松本まで行き、松本で三時間半ほどの時間を作って街を散策した。駅前の山小屋という喫茶店は最後にいつも入る店だった。

 その後、卒業してから山に入るようになり、あの時の喫茶店が西穂高山荘と同じ経営者であるということを知った。そして、八ヶ岳方面へ出かけていた頃に一度立ち寄ってみたが、その頃には松本の街は再開発で大変身しており、喫茶・山小屋もおしゃれで大きな店に変わっていた。

 八月の半ば、真夏・真っ昼間のカレーが美味かった。大盛だった。食後のホットコーヒーの味は忘れたが、なぜかとても充実したお昼タイムであったことだけは覚えている。

 話が松本に戻ってしまったが、金沢までの大糸線初冬の旅は実にドラマチックで、どこか別のところで書いた記憶がある。姫川沿いを走る糸魚川までの車窓の風景や、長時間停車する無人駅のホームから眺めた風景などは、二十歳を過ぎたばかりの若者には強烈すぎた。

 話はかなり寄り道。だが、いよいよ田淵行男記念館へと向かう。初めて訪れる場所だ。

 山の世界では田淵行男は特別な存在だが、広くはあまり知られていないような気がする。

 ボクにとっては、日本百名山の深田久弥よりも興味深くて面白そうな人だった。ただやはりその存在を知ったのはそんなに古い話ではない。

 明治38年(1905)鳥取生まれで、平成元年(1989)没。東京高等師範を卒業し、富山や東京で教壇に立った後、映画会社に勤務し、その後昭和20年(1945)疎開で安曇野に移ってから高山蝶の研究に没頭。当然山に入り浸るようになったのであろう。

 昭和26年(1951)には、山岳写真集を出した。田淵の写真で有名なのは浅間山を撮ったもので、一度は目にしたことのある人も多いだろう。

 ずうっと前に初めて植村直己冒険館を訪れた時と、どこか似たような期待感があった。

 あの時、兵庫県の日高町は暖かな春雨に煙っていて、途中、川沿いの桜たちが柔らかそうな雨に打たれながら出迎えてくれた。

 それに引き換え、田淵行男記念館のある安曇野は冷え冷えとしていたが、安曇野であることが十分な答えだった。

 家人が入館料を払っている間に、すでに中にいた………

 写真はモノクロ。写真の中の風景をとおして、山の文化や当時山に入って人たちの服装や装備などを想像させる。想像するのがクセになっている。

 その始めはやはり上高地だったと思う。

 田淵のトレードマークであった黄色いテントが、愛用の道具などと共に、さも当たり前のようにして展示されていた。

 黄色いテントは、彼の著書のタイトルになっている。そういえば自分のテントも黄色でなかったろうかと思ったが、田淵と比べると使っている頻度が違いすぎて申し訳ないくらいだ。そもそもモノグサだから、テントを張ったり片付けたりすることが面倒だった。

 田淵行男著の『黄色いテント』は、読み応え十分の長編だ。

 元来、高山蝶などの自然生物の探索に山へ入るのが主なのだが、当然のこととして、山にいるときのさまざまな出来事などが紹介されている。

 正直、蝶の話にはちょっと付いていけないところもあるが、現代とは違って、ほとんどテント張りに規制もなかった時代の自由な山行の雰囲気が伝わってくる。

 田淵の研究心旺盛な性格が山行のための道具づくりなどにも表れていて、なるほどと感心してしまうことも多い。

 そういえば、何年か前にNHKでドラマ化されていた。田淵のまじめさと、理解の深い奥さんの姿が印象的に描かれていた。

 小さな記念館にいつの間にか多くの人たちがいた。

 すべては、安曇野だなあとあらためて思った。

 すべては、安曇野なのだ。

 外へ出て、晴れていれば見えるはずの北アルプスの方に目をやり、すべては、安曇野だからと、また思う。

 田淵行男も、岡田喜秋も、そして、萩原碌山も、さらに言えばこのN居も、安曇野の果てしのないチカラにやられたのだ。

 思い出したが、今回は特に常念岳が見てみたかったのだった。

 岡田喜秋が綴った常念岳からの黙示とその心境を感じてみようとしていた。

 しかし、それも虫のいい話だということに気が付いた。もうかなりご高齢である氏が大学生の頃の話だ。

 今の自分がそんな若者の心境を感じ取ってみたいというのは、無理なのではあるまいか? 

 また近いうち、必ず訪れるであろう安曇野に、しばしの別れだった……

甲府行き (3)甲府周辺~佐久車中 の書き下ろし

この前に、当然「甲府行き(2)」「甲府行き(1)」があります。

 あっという間に帰路である。

 と言っても、前日金沢から長野、長野から塩尻、塩尻から甲府に着き、甲府の街と武田神社周辺を見て回って、それから甲府郊外の某温泉施設に行き、飲んで食べた後、いわゆる研修施設みたいなところへ移動してまた飲み語り合い、静かに?寝た……

 そして、早朝に目覚めてからまた風呂に入り、質素な朝食をいただいてから友人のクルマで近くの町を巡った。

 途中にリニアモーターカーのレールというのか、とにかくそういう施設的なものを上から見下ろせる場所があった。個人的な予報に反して小雨が降り寒かったが、それなりに珍しモノを見たという思いがあった。ただ、あれは本当に必要なのだろうか?

 古い造り酒屋にも行った。当然一本買い求めてきたが、それよりも朝から飲めなかったコーヒーに在りつけたことの方が大きかった。店の中に古いテーブルが置かれていた。酒屋さんでコーヒーというのも、なかなかいい。

 それからすぐに、市川大門という身延線の駅に向かった。そこで連れたちと別れて20分ほど電車待ち。最終的にホームには二人の男子高校生と一人の女子高校生、そして、普通の中年男性と自分とがいた。

 そこから三月の旅の帰路編が始まったわけである……

 さも当たり前のように各駅停車に揺られながら甲府まで約40分。

 甲府に着くと、改札口近くのパン屋さんで軽いランチ。これは地元のM君からのアドバイスだった。この後の行程では、あと4時間ほどは食事にありつけそうにないと予測。

 もう一人の地元K君からは、乗り換える小淵沢で美味いそばが…という話もあったが、時間が厳しそうで、とにかく軽く済ませるのが一番なのだと決めた。何よりも車内でガツガツ・モグモグと食べたりすることが得意ではない。

 パンばっかり食っていて味気ない旅だと思われるかもしれないが、甲府での昼はきちんと「ほうとう」をいただいた。当然だが、夜はワインもありで甲州的特産にはいつも超が付くほど恵まれた旅をさせてもらっている。

 前日にも乗った中央本線各駅停車で小淵沢へと向かう。

 途中、高架化された韮崎の駅に停車した際、去年の帰り道、このホームで電車を待っていたことを思い出していた。今回は小雨交じりだが、去年はカンペキな青空の広がるぽかぽか陽気の春の午後だった。見下ろす町の風景が爽快な気分にさせてもくれた……

 ところどころに、梅の花があと少しの満開に向けて、文字どおり満を持しているように見える。

 武田家の虚しい最後につながる、「新府」という名の駅を過ぎたあたりの風景がなぜか印象に残っていた……

 今は、「小海線」が13時13分に小淵沢を発ってから20分ほどが過ぎた頃。

 さっき「甲斐大泉」を出たところだ。次は「清里」である。

 ボクは先程からノートを取り出し、今回の旅を振り返りながら走り書きを始めている。

 小海線らしい窓外の風景は、ほとんどないに等しい。木立と地面を覆う笹のコントラストをずっと見続けている。

 それも小海線らしいと言えばそれまでだが、あいにくのどんよりとした空気の中、八ヶ岳どころか200メートル先の風景をも靄の中に隠している。

 四人がけの席を独占していると、予想したとおり清里から乗ってきた小グループのうちの夫婦連れが、前の席に腰を下ろした。

 …… よくある“ちょい乗り”だった。昔、自分もやろうとしたことがある。

 クルマだったので、清里で乗り、野辺山駅で降りて、また引き返してくるというパターンだ。実際にはやらなかったが、こうして今も観光体験乗車みたいなことが行われている。

 夫婦連れは他の人たちと一緒に野辺山駅で降りた。途中、国内では最も空に近いという鉄路を走る。そして、同じく最も空に近い駅・野辺山に静かに到着するのである。

 かつて、真夏の野辺山の駅前に立った印象は、レールからゆらゆらと立ち昇る陽炎に象徴されるような場所だった。

 真っ青な空に入道雲があった。太陽の眩しい光の中だったが、目の前の世界はなぜか暗く感じられた。逆光をまともに受けていたせいだったのかもしれない。

 Tシャツに短パン姿でずっと陽を受けていた。その感覚がとても好きだった。

 さすがに標高が高くなったと見えて、残雪が目に付く。

 その雪も凍り付いたままであることが分かる。もう午後なのに。

 無人駅が、今は殺伐とした山麓風景の中にあったりする。通り過ぎていきながらも、その風景全体がアタマのどこかに残っているのが分かる。

 自分が好きな風景だからだろう……

 今更だが、「小諸」行きである。小淵沢から2時間の、ゆったり旅だ。

 松原湖…、馬流(まながし)…、佐久穂…、八千穂…、かつてはクルマで巡った懐かしい名前が車内アナウンスで告げられる。

 町があり、村があり、古い家があり、堂々とした蔵のような建物があり、道があり、畑があり、川があり、木立がある………

 佐久平から広がり始める視界に、逆に寂しい思いを抱いたりするのはなぜか?

 この旅の終わりが近いことを知ったからか?

 地表の色、枯草の色、木々の色、屋根の色、クルマの色、靄の中ですべての色はかすんでいる。

 小淵沢からずっと眠り込んでいた、一人席の少女が目を覚ましている。酸っぱい香りがすると思っていたら、床に置いたカバンの中からグレープフルーツのような?果物を出し、静かに食べ始めていた。

 白いセーターに長いストレートの髪。髪で顔はよく見えない。

 佐久平駅が近づいている。そこから長野新幹線。そして、北陸新幹線に。だが、身延線の市川大門から甲府、小淵沢・佐久平・長野・金沢と今日はすべて各駅停車。

 そして、小海線の旅はあと10分ほどで終わる……… 

甲府行き (2) 長野を出て 姨捨~塩尻 車中書き下ろしは続く

一年前の車窓より「姥捨」あたり…

 長野に着いた。金沢から1時間半ほど。

 新幹線なのだから特別なことでもないが、今回は「はくたか」だから、北陸新幹線としては一応各駅停車なのである。何となく“各駅停車”という言葉に弱い。

 篠ノ井線に乗り換えている。特急「ワイドビューしなの」である。「しなの」の前に「ワイドビュー」が付いていることの意味は、この路線上にある有名なビューポイントのせいであろうか。

 そのことももちろんだが、この路線にいい印象を持つのは他にも理由がある。と言っているうちに、そのことがすぐに証明された。

 アナウンスの響きがいいのである。去年も同じことを感じていた(実は去年のノートにもそう書いてある)。録音されたアナウンスであるが、どこかあたたかくて懐かしい。ただ何がそうなんだろう…と考えてみるが、答は出てこない。

 窓外の風景がゆっくりと流れていく。

 と言いながら、当然また実況ナマ書き体勢に入っている。

 耳からのダイレクトな音楽はやめた。ここからは風景に神経を向けていなければならないと思っている。

 だから、途中でこの書きなぐりも一時ストップするに違いない。音楽も、今日は多分もうこれ以上聴くこともないだろうと思う。

 心の準備もないままに、最初の篠ノ井駅に着いた。少し落ち着こう。

 この列車もそれほど混んではいない。指定をとっているからそう感じるのかもしれないが、この空気感がいい。

 この前、上越妙高から新潟へと向かう特急「しらゆき」の車内でも感じた。ローカル線の特急たちには、やはりのどかな空気が満ちている。そう言えば、金沢と大阪を結ぶ「サンダーバード」にそれを感じないのはなぜだろうか。仕事で使っているからか……

 どうでもいいことまで考え始めたので、金沢駅で買ってきた「加賀棒茶」の小さなペットボトルを開ける。相変わらず素朴ないい味だ。

 通路を挟んで反対側の窓際席に、外国人の若者がいて、静かに本を読んでいる。その姿がいい。辛うじて見えるが本の表紙の文字は英語だ。

 薄着でシンプルないで立ち、不精っぽいがそれなりに整っても見えるヒゲ、いかにも静かでやさしそうで、知的な雰囲気を若いながらに漂わせている。薄着と思っていたが、棚にはビッグサイズのリュックとともに無造作に置かれたダウンジャケットがあった。

 ……篠ノ井線の人気スポットに差し掛かり始めている。

 広大な善光寺平を眼下にして高台を走るというこのシーンでは、書きなぐりの文字もさらにズタズタになるだけだろうから、しばらく休筆……

 落ち着いて振り返る。

 そこは日本三大車窓のひとつ、“姥捨(おばすて)の棚田”と呼ばれるところだ。とにかく凄い。しかし、本来は特急の車窓から見るのがベストではなく、同じ篠ノ井線の普通列車に乗って見るか、もしくは「姥捨駅」で降りて散策すべき場所だ。

 実はかなり前のことだが、何も知らずにその辺りへ来たことがある。クルマでだが、美しい風景に激しく感動した。

 ただ、その頃は棚田というものをそれほど意識しなかったと思う。去年同じ車窓から見た後、そこが人気のスポットになっているということを知ったのであるから不覚であった。

 どちらにせよ、この恐ろしい名の付いた「姥捨」という場所へは、近いうちに改めてクルマで来ようと思っている。

 実はこの辺りでもう一つ注目していることがある。「姥捨」の次の駅の名前だ。無人の小さなホームの看板には「冠着」と記されてある。

 “かむりき”と読むのであるが、去年この駅を通り過ぎた時に眼に焼き付けられた駅名だ。そして、駅そのもののいいが、辺りの田園風景もまた素晴らしく、去年から特に好きになった。

 と思ったりしながら、先程の外国人青年にまた目をやる。

 彼も小さなノートを前の席から倒したテーブルの上に乗せ、何やら書き始めている。明るいブルーのインクの入ったペンによって、ノート上に文字が綴られていくのが分かる。

 彼もこの美しい日本の風景を記録に残そうとしているのだろうかと想像する。

 しばらくボーッとしていたら、外国人青年は大きな上半身を窮屈そうに屈め、リュックの中からビニール袋を取り出している。

 そして、なんと“おにぎり”を手にした。手づくり感いっぱいの、やや大きめの“おにぎり”である。

 窓外に広がる日本の美しい風景をおかずに、海苔に巻かれた美味そうな“おにぎり”を頬張る外国人青年。

 なんと美しい光景だろうか。

 ふと思い浮かべたのは、ボクのリュックに放り込まれてある、朝コンビニで買ったパンのこと。チョコチップの入った細長い一斤120円(税別)也の、特に深い意味などもないパンを、ボクは信州のこの窓外の風景を見ながら、しかもコーヒーとともに後で食べようとしている。

 せめて、あの青年が下車するまで我慢しようと思う。

 次の松本駅までまだ少し時間がある。

 美しい田園地帯にも、太陽光発電のパネルが並んでいる。これらも時代の流れとともに風景の一部として認知されていくのか?…と考えた。

 少し眠っておかねばならない。今夜は一年ぶりの友人たちと酒宴だ。

 聖高原を過ぎ、安曇野に入って明科駅あたりから燕・常念岳などの北アルプスの山並みを意識する。

 岡田喜秋氏の名著『旅に出る日』に収められた、「常念岳の黙示」という短編の文章を思い出す。

 安曇野に立ち、ボクも常念岳に黙示されたいという計画を立てている。実行は再来週あたりだ。今年は冬にチカラがなかったから、春への気配が満開になっているかもしれない。桜が咲く頃よりも、咲く前や散った後の空気感が好きなのは、気持ちが落ち着けるからだ。

 自分は海のそばで生まれ育ったが、いつの間にか山やその周辺の文化風土を愛するようになった。自分の中ではそうなっていくきっかけのようなものを認識しているつもりでいるが、まだまだそれには確信がない。岡田氏の文章を読んだとき感じた自分の軽薄さに、何かで終止符を打ちたいと思っている。それが、安曇野で常念岳を見てみるという行為に繋がっているとも思う。まだまだ青臭い。

 雪の山並みが美しい。

 旅はどんどん想像を膨らませ、それをいつか必ず実現させようと仕向ける。

 枯草を燃やす煙が、安曇野の平野に靄のように広がっている。  

 春になっていく空気感がある。また世の中も人々も慌ただしくなっていくのだろうと、切なさも募る。

 松本に近づき、車内アナウンスには、大糸線や上高地線などの懐かしい名前が出て来た。

 外国人青年が降りる身支度を始めている。ボクはこの電車で塩尻まで行く。

 そこで中央本線に乗り換えるが、塩尻から甲府までは各駅停車だ。そして、塩尻からはひとりの友人と合流する。

 松本を過ぎたら、パンとコーヒーで少し腹を満たしておこうと思う……

 旅はまだまだ続くが、この雑文の続きは「3月の旅~終末編」になる……

甲府行き (1) 金沢を出て 車中書き下ろし

今年の甲斐駒ヶ岳はどうだろうか…と想像しながら、
北陸新幹線「はくたか」に乗った……
写真は一年前の甲斐駒。

 3月初めの土曜の朝。北陸新幹線「はくたか」の7号車7番C席にいる。

 ちょっと前に動き始めた客車内はかなり空いていて、さっそくいつもの質素なノートを取り出した。つまり、ナマ書きを始めている。

 レベルやその他カンペキな違いはあるにせよ、自分が“モノ書き”の端くれであることを実感する時でもある。

 耳のアナからアタマの奥の方へと送られてくる、フレッド・ハーシュのピアノの音そのものと、ほぼ即興的なメロディラインがいい感じだ。

 ドビュッシーだの何だのと言われても、やはり彼のようなジャズ的ピアニストたちが醸し出す世界が自分にはフィットすることを認識させられる。

 外の風景を中央の席から見て、すぐにまた視線を戻す。

 本が好きだとか、モノ書きの端くれを自認しつつも、元来、旅は風景をながめることにこそ面白みがあると言ってきた。昼間の道中は、本など読んでいる場合でないとも言っている。

 しかし、状況による。今はガラガラの座席に安心しながら、好きなようにペンを走らせていられる。しかも、フリータイム。ネクタイにジャケットなどといういで立ちでもなく、文字どおり自由なのだ。

 今、これを読んでくれている人たちには分かるとおり、何を書くというテーマなどなく、こうして成りゆきを文章にしているということそのものが楽しい。

 昔よく、山の岩の上や、高原のベンチやテーブルの上、そして原っぱの草むらに腹ばいになって書き流していた時のような、それらに近い感覚だ。

 仕事上のこともあるが、実際には自分なりにいろいろと書いておきたいことと、それなりに書いておかなければならないことが山積している。

 先週久々に近くの山里から奥の里山を歩いてきた、ああいうことも早めに書き記しておきたい。

 よくある出来事などは、いつでも書けるという妙な安心感からか放りっぱなしになっていく。そんなことだから、まとまったものが書けなくなっているのだと、“こんなもの”を書きながら嘆いているのも実に情けない話だ。

 写真もだんだんスマートフォンで済ませてしまうようになっているし、残された?人生を思うと、これらは憂慮すべきことである。いったい何をしているのだ、N居よ……

 ところで、今日はこれから新幹線で長野まで行き、長野から篠ノ井線で塩尻に出て、甲府へと向かう。

 塩尻から甲府へは完全に各駅停車だ。

 実は一年前にも全く同じルートで、甲府の先の勝沼まで行った。一日違い。今年の方が一日早いのかな……

 中央本線の窓外の風景は、八ヶ岳や甲斐駒、北岳などの南アルプスの山容によって、ボクにとってのすべてが構成されていると言っていい。

 というわけで、当然話はこの先、断片的に続くはずである……

 昨年見た甲斐駒の威容は、各駅停車の窓外ならではのものだった。

 ゆったりとした時間の流れを、甲斐駒の微動だにしない姿(当たり前だが)が一段と明確に教えてくれたような気がした。

 もちろん、三月とは思えないほどの激しく快い青空も見事だった。果たして今日はどうだろうか……? 

 新幹線はようやく最初の停車駅・新高岡に着きそうな辺りであるが、想像は、はるか彼方に富んでいる……

おしぼり

コンビニ。棚からサンドイッチを持ってレジへと行く。 

ビニール袋に詰め込まれる際に、「おしぼり使われますか?」と問われる。

「ハイ」と答える。が、ホントのところはどうでもいい。

別におしぼりがなくてもサンドイッチの味は変わらないと思っている。

大勢に影響はないと思っている。

ただ、どちらでもいいですという選択肢はないし、「いいえ」と答えるのも変かなと思うので「ハイ」と答えている。

そのようなやりとりから感じたことがある。

おしぼりは、否応なしに付けといてくれればいいんじゃないかなということ。

そうしてくれた店もあった。

なぜそう思ったか?

それは、「おしぼり使われますか?」に、

あなた、おしぼり使うほどには見えませんけど… といった思いが隠されているように感じられたからだ。

こうなれば、自ずとハイと答えるしかなくなる。

一応ジャケットにネクタイをして仕事スタイルである。

これから会社に戻ってコーヒーを淹れ(自力でだ)、サンドイッチをいただくのである。

侘しいと思われるのかもしれないが、それなりの時間を過ごそうとしているのである。

だが、普通のティッシュペーパーぐらいはあっても、ウエットティッシュなど置いてないし、当然持ち歩いてもいない。

だから、「使います」は省略するが、ハイとだけ答える。

真意で言えば「当然です」を付け加えてもいい。

「お願いします」もいいだろう。

そういうわけで、昼めしなのである………

※この文章は某団体の機関誌に寄稿したものの、ほぼ原文にあたるものです。

1月 書き始め

 1月がもうカンペキに後半に入ったあたりの日曜日の午前。

 居間の窓辺に置かれた小さな机に向かっている。音楽は、キース・ジャレットのピアノソロ。かなり以前から、YouTubeで「マイソング」のいくつかのバリエーションを聴くようになった。自分の中のいろいろな状況に応じて、この曲との接点が多くある。

 ついでだが、コルトレーンの「コートにすみれを」もそれに近い。短い演奏だから、本当に聴こうとする時はリピートしたりして聴く。

 今朝は薄く雪が積もった。一年前はとんでもない雪の量だったが、今年の冬は今のところまだおとなしい。大阪にも雪が降ったという連絡が来ていたが、楽しそうにそういう話が出ている間はいいのだ。

 窓から日差しが入ってきている。雪があるせいで、外の明るさが気持ちいい。冬の楽しみのひとつが、こういう光景だ。陽を受けた雪面は、かすかにだが、昔見ていた雪山のすばらしさを思い起こさせてくれる。世の中が春だ花見だと騒ぎ始めても、敢えて残雪を求めて行動していた頃のことも、ちょっとだけ思い出させてくれる。子供のようだと言われた。

 あらためて… 冬ののどかな晴れ間なのである。

 1月は明治大学ラグビー部の復活がすべてであった。この喜びは一年間の支えになる。今年も新チームの動向を追い、またどこかのテストマッチなんかを観戦に行くだろう。今年は夏の菅平に出かけてみたいと思う。懐かしい “ラガー麺” もまた食いたいし。

 話は戻るが、1月2日の大学選手権準決勝で、対抗戦で負けた早稲田に雪辱し、12日の決勝で天理に勝った。昨年と違い、今年はテレビでの応援しかできなかった。そのことは予測できていたので、昨年末の準々決勝は大阪まで応援に行った。

 ときどき小雨が落ちてくる長居のスタジアムだったが、なんとか試合開始ぎりぎりに到着し、選手たちの躍動を目に焼き付けてきた。隣にいたボクよりもかなり若いOBの熱い声援のせいで、こちらとしてはかなりクールに試合を見ていたような気がした。

9番はスクラムハーフ、キャプテン福田クン。
一年間ずっとカバンに付けてきた。

 ワールドカップの年だろうが何だろうが、こうして毎年ラグビーに熱を上げるようになってから45年ほどが過ぎていることを今年再認識したような気がする。そして、これは死ぬまで続くのだろうとも確信をもって思っている。

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 平成最後の年であるという話をさんざん聞かされている。

 これからまだまださまざまに会合が予定されていて、たぶん、いや間違いなく、多くの人がこの話を持ち出すことだろう。仕方がないことだと聞き流すことにしている。

 昭和が終わる時、正確に言うと、昭和が終わるかもしれないといった状況にあった時だが、金沢である大きなイベントに関わっていた。それなりに責任のあるポジションにもいたせいで、イベントの開催中にこうした事態になったらどう対処するか…… という対策を考えさせられた。その時は、年号が変わるということではなく、天皇にもしものことが…… という視点であったのだが、非常に高い緊張を強いられたことを覚えている。

 その点、平成が終わるというのはとても平和な感じだ。新しい年号を期待するという動きにもそれを感じる。

 外の日差しが弱くなってきたなと思っていたら、もう全く消えてなくなってしまった。

 やはり、このあたりの冬はこんなものなんだろうと思うしかない。温もりも一気に消えて、再びエアコンのスイッチを入れる。

 キースのソロも、1976年の日本ツアー「サンベアコンサート」の中の京都での演奏に変わった。

 このツアーは、東京NHKホールでのソロコンサートを聴いている。若いボクにとっては、演奏そのものに特別すごい印象はなかった。あの大きなステージの中央で、キースが苦悩しているようにさえ見えた。あれ以降、小さな空間で聴くソロピアノのよさが、自分の基準になっていったと思う。

 もう昼に近い。今年最初で、久しぶりの雑文書きだった……

言葉の不思議

 

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 何人かで語り合っていると、自分の奥底に眠っていた思いというか、考えや感覚…いやもっと複雑で説明しにくい何か…、とにかくそういうものが、不意に浮かび上がってくる時がある。

 そういう時には、ふと自分が自分でないような感覚に襲われたりもする。不思議な感覚だが、ことによっては小さな恐怖に発展したりもして少し黙るのである。

 先日もある新聞広告の打ち合わせに参加していて、自分の口から、全く用意されていなかった言葉がどんどん出ていくのを感じた。不思議な感覚に襲われ、語りながら、まるで第三者からの懐かしい言葉を聞いている別の自分がいるような気分になった。

 しかし、当然だが、それはすべて自分の言葉だった。自分の中に眠っていたと思われる言葉だった。忘れかけていた、いや完全に忘れ去っていた言葉だったと言える。

 そして、そのことでなぜか自分が救われたような気になった。言葉はやはりアタマの中で、そして時間をかけて沁み込んだものなどから作られているのだとも思った。それまでのさまざまな経験をとおして溜めこまれたものしか、言葉になって出てこない…そんな思いを新たにしたのだ。 

 そういうことがあった後は、自分がこれまでに付き合ってきたさまざまなモノゴトを考えたりする。理由などまとまらないが、考えているだけで楽しくなれるのだけはまちがいない。

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 ひとつの言葉は、他の言葉と繋がっていく。

 その上で文章も会話も成り立っていく。言葉が繋がることによって、あらゆるモノゴトが広がり深まる。そうした何でもない言葉から生まれる思いがけない話の展開に、思わず笑ったり考え込んだりしてしまうことは常に自分の周囲にあった。

 だから、こうして拙い文章を綴っていながらも、とにかく言葉によって何かを伝えようとしている小さな努力に、それなりの楽しさを感じたりするのだろう。

 伝えたい何かを言葉にするというのは簡単ではない。もっと言えば、伝えたい何かにそれだけの価値があるのかを先に考え、言葉を投げやりにしてしまうこともある。しかし、口頭であろうが、文字であろうが、常に言葉を繰り出していれば何とかなる。

 やはり言葉になって出ていく自分自身や、言葉になって出てきた相手がそこに見えてくるのだろう。言葉の中に自分がいる。今流行りの「インサイト」の極意かもしれない…?

 そう思うと、日々もっと気持ちを込めて生きていかねば……と、深く反省させられるのである。

※某協会機関誌に寄稿した文章の原文。

10月のミイラの肖像画と仏像について

 部屋の床に、一冊の本が落ちていた。朝の光が、斜めに並んだ二つの小さな窓から差し込み、瞬間的にミステリーの始まりを予感させる…… しかし、妄想は2秒半ほどで終わった。見ると、据え付けのテーブル板に不安定なカタチで積まれていた本の中の一冊だったということが、すぐに分かった。何かの拍子に滑り落ちたのだろう。

 取り上げ、表紙を見た。そして思わず、「すみません」と、もちろん口には出さず、カラダの中のどこか(多分胸のあたりだったのでは)で呟いた。つまり、その本に謝ったのだ。仏像の写真が装丁に使われていたからだろう

 それまで一応目の付くところに置いてあったのだが、特に意識はしていなかったようだ。しかし、床に落としてしまうと、その存在(の大きさ)がはっきりと戻ってくる。

 あらためて見てみると、表紙にあったのは薬師寺の聖観世音菩薩立像だ。国宝である。数年前の展覧会で実際にあの美しい姿を見た記憶もあった。

 しかし、咄嗟に謝ったりするところは我ながら信心深く、清楚な気持ちの表れだったのだろうかと思う。ついでに言うと、自室の据え付けテーブルの正面壁には、宇治平等院の国宝「雲中供養菩薩」という横笛を吹く仏像の写真が置いてある。平等院で買ったカードだが、ジャズのエリック・ドルフィーを連想させるところが気に入っていて、ポーズがとても美しく好きである……

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 ところで、本題のタイトルにある写真だが、今年のルーブル美術館展のカレンダーに掲載されていたものである。10月のページだから今まだ現役だ。

 2世紀あたりのエジプトの女性の肖像画である。知られたことだが、古代エジプトでは死者の亡骸を、来世でまた生を受けることを確約するためにとミイラにした。そして、板の上に描いた死者の肖像画でミイラの顔を覆っていたらしい。この絵がまさにそれだ。この時代の肖像画はかなり写実的であったらしく、そのとおりだとしたらとても美しい女性であったことが想像できる。

 ちなみに、さらに古い時代ではミイラの顔にマスクを被せていたらしいが、それほど美しくなかった女性でもそれなりにマスクの顔を美化して描いていたという。余計なお世話だが、事実だとすると、本当に美しかった女性はかわいそうだ。

 このカレンダーは会社の部屋の壁、しかもボクの左側頭部から1m足らずしか離れていないところに太く長いピンで留められてある。

 それまで、つまり1月から9月までもあまり注意深く見ることはなかったが、この写真が出てきた10月に入っても、大した意識などせずカレンダーとしての数字ばかり見ていた。ちなみに数字が目線にあり、写真はややその上にある。

 ところが、10月に入って数日が過ぎた頃、何かの拍子にふと目に留まった。と言っても、手の届くようなところにあるから立ち上がればすぐに目に入ってくる。立ち上がったまま電話で話をしていた。そして、その間の分ぐらいだろうか、まるで村上春樹の小説に出てくる主人公のように、ずっとボクは彼女の顔を見ていたような気がする(…まったくボクのイメージだが)。

 どれも同じだが、ボクはこの手の絵画にも詳しいわけではない。むしろカンペキに素人だ。感じるのはせいぜいで、アラブのお姫様だろうか?といった程度である。

 電話が終わったあと、あらためて下に記されている解説を読んだ。ミイラになった女性の肖像画か…… と言われてもピンとこないが、可愛らしさも含んだ顔立ちにどこか親しみを覚えた。

 それからというもの、毎朝出社すると彼女の顔を見るようになった。垂れ気味の大きな瞳はポール・マッカートニーに少し似ていると感じた。太い眉とせまい額が凛々しさや逞しさも漂わせていた。

 いつの間にか10月も半分が過ぎ、後半のさらにまた後半に入ってきた。そして、当然ながら10月はそのうち終わるのである。そう思うと、彼女の存在というか、カレンダーの中のこの顔の存在が気になり始めた。

 約1900年前に生きていた女性の顔がというよりも、その時ミイラになった女性の顔がすぐ横にあるというのはなかなか複雑だ。仕事の邪魔にはならないにしても、立ち上がったりすると必ず目が行く。気があるのかもと思われかねない。

 見慣れてきた頃から、その顔の裏側に実際にはミイラ化した女性の顔があるということを想像するようになっていた。カレンダーをめくっても11月と12月のページがあるだけだが、ミイラの方の想像はかなり具体的になった。

 ちなみに残された2カ月の写真を見てみたが、それほど期待はできそうになかった。このカレンダーは10月で十分その役割を果たすであろうと思った。

 ところで、京都や奈良などで仏像と相対する時、ボクたちは信仰の対象としてその前に立っているのだろうか? それとも美術品として、あるいは歴史的資料として捉え、その前に立っているのだろうか? その両方もあるだろう…… ふと、そんなことを考えた。

 特に展覧会などになると完全に後者のスタンスになり、ボクたちは鑑賞者になっている。もちろん鑑賞することにより、仏像のもつチカラを実感することも多い。四方から見るとか、普通ではできない相対し方でより仏像の実態を感じ取っている。

 ミイラの女性肖像画は、美術品になって今日人々の前に公開されている。普通、絵画の中のモデルとなった女性(男性もだが)たちは、画家からの申し入れなどを受け、完成後さまざまな場所で人目に触れられることを了解している(と思う)。しかし、ミイラの女性は当然、いや多分了解などしていないだろう。

 約1900年も前のことだから、そんなこと知るかとなるが、どうもボクはそのようなことにこだわりを持っているに違いない。

 勝手に公開しやがってということではなく、彼女には彼女なりの人生があって、そのことを彼女はボクたちに想像させようとしているように思える。メッセージがあるような気がしている。名前どころか素性も知らないひとりの人物の、亡骸の上に覆われた肖像画………

 ボクが日常その写真に目向けるのは、多分そうしたメッセージを感じるからだろう。ただ、美しく保存されていたからとか、描かれていた女性が美人だったからというだけではない(…ということも強調しておく必要がある)。

 そういうわけで、床に落ちた一冊の本と、10月のカレンダーに現れた一枚の写真から発展した話だ。残された数日間、彼女の人生について考えて(想像)みようと思っているのだが………

 

 

山里歩きの独り言

  

 ただ山里を歩きたいという衝動(欲求)に駆られる。

 誰もなぜ?と聞いてこないので、こちらも敢えて説明することはないのだが、普通そんな衝動に駆られることはないであろうことは十分承知している。

 衝動とまではいかなくても、いつ頃からそういった方面に興味を持つようになったのだろうかと考えると、10年近く前に遡ることになる。
 根本的なきっかけは、それまで続けてきた本格的な山行や旅などに出かけられなくなったからだ。仕事が徐々に私的な時間に入り込み、大事な楽しみを邪魔しはじめていた。邪魔という表現は自分勝手なものだが、心情的にはそれに近かった。

 それでも半日、いや二三時間の隙間を見つけると、とにかく自然の中の道を求めて出かけた。幸いにも家からクルマで20分ほどのところに森林公園があり、そこは微かながらも欲求のはけ口に なってくれた。

 しかし、山との付き合いはそんな簡単に諦められるほど希薄なものではなかった。ハイキングみたいなお出かけに5年ほど甘んじてきたが、やっぱり山へ行こう、いや行かねばなるまいという気持ちは抑えきれなかった。
 そして、思い切って出かけた勝手知ったる北ア薬師岳方面への一泊山行。5年ぶり…、だがそこで事件は起こった。

 下りで、カラダ全体が硬直したようになり足が前に出なくなった。登りも調子が良かったわけではないが、すっかり親父を抜いて山女になりきっている長女に、なんとか引っ張ってもらった。そして、結局その長女に重いリュックを二つも持たせ、情けない姿かたちで下山したのだ。

 そのことでどうやら本格的な山行は無理なのかもしれないと思うようになった。
 正直、現在もまだあきらめてはいないが、現実的には登る山から、少しだけ登って懐かしく眺める山に志向が変わろうとしている。それは確かである。

(しかし、しつこいが、来年は「MILLET」のリュックを新調するつもりだし、テレマークのブーツなども……と考えている)

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 話は長くなったが、そういうことで今、山里歩きが主になり、有り余ったエネルギーが衝動を起こしているのである。

 しかし、山里はボクにとってネガティブな存在ではない。
 山里そのものに強い興味を覚えたのは、はるか昔だ。すでに20代の初めには自分の中の好きな風景として、高原や山里は高い存在感をもっていた。
 まず強く意識するようになったのは、山里自体にある背景的な歴史だった。歴史的な背景ではなく、背景的な歴史である。
ひたすら歴史の舞台といったことがモノを言った。カタチで残っていれば、その関心度はより高まった。

 そんな意味で、今でもなになにの里というと、まず京都の大原を思い浮かべてしまう。
 40年以上も前に敦賀から山越えし出かけた初めての大原は、強い印象を残した。
 すでに別の雑文でも綴っているので控えるが、清々しい開放感と高貴な静寂に包まれていた。
 歩く時も観光の地であることに甘えながら、足音を忍ばせることは怠らなかった。

 同じ頃に出かけた奈良の柳生の里も印象深かった。春日大社の裏?から滝坂の道を登り、そのまま山越えしたが、体力勝負の充実した道のりだった。

 今は、背景的な歴史をそれほど重要視してはいない。
 いつからかそこで暮らす人たちの暮らしの匂いのようなものの方が、より深い何かを語りかけてくれるように感じ始めた。
 素朴な自然風景や家々の佇まい、森や林や田畑や川や橋や道や、それらの季節や一日の時の推移によって変わっていく表情に敏感になっていった。
 
ほとんどは名もない小さな山里だった。近くで言えば、石川県内や富山県の西部、岐阜県の飛騨地方、石川で言えば特に能登の山里など心に沁みる場所が多い。

 ただつらいのは、山里から人の姿が消えていくことである。この夏も、奥能登のわずか数軒しかない里で、一軒の大きな家が完全に閉めきられたようすを目にした。庭先から周辺一帯に雑草が生い茂り、かすかにタイヤの跡だけが残っていた。そこは春先に訪れた山里だった。こういう状況を目の当たりにするたび、平凡な言い方だが心が痛む。
 だから、特に何も要求しない。してはいけないと思うようになっていく。ときどき、現代の上塗りや合理性に小さな落胆を覚えたりしたが、それも今は静かに頷けるようになっている。
 そこにも現代の生活がある。むしろ、スクールバスから体操着を着て、イヤホンで音楽を聴きながら降りてくる女子中学生の姿を見た時などは、なぜかホッとした。

 いつもクルマの中ではジャズを流し、歩いている時はアタマの中で目に映る風景を言葉に変えようとしている。自分の中で情景とか光景という言葉に敏感になっていくのは、風景が心にまで染み入るようになったからだ。

 不思議なことだが、本格的な山行の時などはクマへの恐怖心など持ったことはなかった。が、今は森の中にいるとその恐怖心を感じる。情報が多くなってきたからだろうか。山は多くが単独行だった。体力にも自信があったから、独りがちょうどよかった。山里歩きも独りがいい。わざわざ一緒に行こうなんて言うやつは誰もいないだろうし……

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 今ふと思い返してみると、きっかけは歴史と旅という意味での、司馬遼太郎の『街道をゆく』であり、心的な面で大きく自分を煽ったのは『旅に出る日』や『山村を歩く』などの岡田喜秋の本たちであったと思う。さらに辻まことや星野道夫や、その他時代や環境を超えて無数の人たちが残してくれた自然とヒトとの繋がりを綴った本たちが、ボクを動かしていた。

 だから…、できるだけ山里は歩くのである。特に名もない山里になればなるほど、なんでもない場所にクルマを置き、よそ者が歩いていてはおかしいと思える道を歩くのである。もちろん主たる道は幹線道路だから、たまにクルマが行き来し、すれ違ったり追い越したりして行く。ドライバーたちの不審げな表情を想像できたりするが、それには無頓着を装う。地元の人かなと思えば、小さく会釈する。

 そして、できれば集落の人に一度は声を掛ける。声を掛けられる時もある。カメラを持っていることが話のきっかけになる場合も多い。不思議がられながらも、そこで交わす言葉によって、山里の本当の姿をより感じるのである

 ところで、最近「里山に暮らしています」という人に出会うことがある。が、「里山」に暮らしているというのは変で、「山里」に暮らしているというのが正解に近い。以前にも書いたが、里山という新しい(しかも響きのいい)言葉が出現したことによって、勘違いしている人が多くなってしまった。どうでもいい話だが、つい言いたくなったので。

 最後にいつも思うことがあるので書いておく。それは山里行きの多くの場合、自分がどこにいるのか分からなくなる…ということだ。

 目的地を特定して出かけるわけではなく、せいぜいでどこどこ方面くらいだ。そして、なんとなくこの辺りで歩き始めようと思う。だから、そこから山の奥へと入っていけばいくほど、具体的な居場所が本当に分からなくなっていく。スマホのマップでも本当にアバウトになる。そして、そんな時に思うことがある。それは、オレがこんなところにいるなんて、家族が知ったら何て言うだろうか…ということだ。もしここで何らかの事故によって死んだとしても、家族は探しようもないだろう。そういう意味で、クルマは幹線道路沿いの小さなパーキングや公民館の前などに置くようにしているのだが……

 この前もたまたまパトロールしていたというミニパトカーの若いおまわりさんが、わざわざ地図を出してきて詳しく周辺の説明をしてくれた。やはり、カタチはしっかりとしたトレッキングスタイルなのだが、場所的なことから想像される実態としてはかなり怪しく映っているのかもしれない………

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

  

 

「…で」と「…が」について

 仕事場近くにできた図書館に、よく出入りするようになった。

 自分にとってはちょっと大きくて、且つおしゃれすぎて、元来の素朴な図書館そのものが好きという自分なりの感覚からすると、少し違和感のある施設だ。蔵書の数もそれほど多いという印象はない。

 しかし、なぜか面白い本と出合ったりするので、ちょっと外出する際に寄ったりする。館内にいる時間は長くても15分くらい。読んでみようと思った本を見つけるとすぐに手続き(機械だ)し、そのまま出る。

 これが本屋だとそう簡単なわけにはいかない。もともと決めてある本なら早いが、いい本がないかなあと探しながらだと、仮に遭遇したとしてもすぐに購入には至らない。やはり、あれこれと別な本を探してみたりすることが多い。決めていた本でも、本屋で立ち読みしているうちにやめようかなということにもなったりする。

 図書館はその点便利で、ボクの場合は借りてきて面白くなかったらすぐに交換に行く。

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 今借りているのが、『珈琲が呼ぶ』という片岡義男の比較的というか、かなり新しいエッセイ本だ。今まで縁のなかった作家だが、たぶんこのタイトルが目に入って来なかったら手に取ることもなかっただろうと思う。

 出だしから面白かった。めずらしく延長して読み続けるのではないかと思っている。ときどき、図書館で借りた本が面白くなり、すぐに返却して本屋へ買いに行くということもあったが、たぶん今回はそこまでしないだろうと思う。

 この本の最初の方に、『「コーヒーでいいや」と言うひとがいる』というタイトルの話がある。

 この話がなかったら、ごく普通に読み流していくだけだったかもしれないが、まずこれにハマった。いや、ハメられたというべきか…

 たとえば喫茶店でコーヒーを注文する際や、訪問先で飲み物をいただく際に、「コーヒーでいい」と言うのと、「コーヒーがいい」と言う場合のニュアンスの違い。

 文の内容について書き始めると長くなるので省略するが、興味深い分析?で、ここに出てくる「で」と「が」の違いや、「いい」について解説されている。正直言ってかなり好きなパターンであり、その意味でも何度か読み返してしまった。

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 ときどき我が家でもこれに近い出来事が発生する。

 それは晩飯前のやりとりで、酒かご飯かと聞かれ、たまに「ご飯でいい」と答えてしまうと、空気が一瞬のうちに変わるという出来事である。

 ご飯とコーヒーとは違いもありそうだが、言葉の表現は簡単そうでむずかしい。

 「ご飯でいい」ではなく、「ご飯がいい」と言うべきだ…とガツンとやりこめられてしまう。

 自分でも納得するが、ご飯の後ろが「で」の場合、そこにはどこか投げやりでネガティブな一面が潜んでいると思われる。

 本当は飲みたいけど、仕方なくご飯にするというココロのぶれがにじみ出ている。そして、そのことは完全に否定できない。

 しかし、「が」の場合は、最初から当然ご飯にしようと思っていたのだというポジティブさが歓迎され、はっきりと対応が違うのである。

 ご飯は日本人の主食でもあり、これは正しい感覚なのかもしれない。

 先日もそうした失敗をしたあと、「やっぱり、ご飯がいいなあ」と言い直したら、「別に飲んでもいいよ」と言われた。   

 しかし、この場合、「じゃあ、飲むかな」にはならない。

 話は変わるが、今乗っているクルマのETCは、エンジンをかけると「カードが挿入されていません」と“普通に”語りかけてくる。そして、こちらとしてはその語りかけに対して、やや強い調子で思わず「分かっています」とか、「承知の上です」と答えたりする。

 この場合、ETC側としては、カードは挿入されていて当たり前だという立場にあるみたいだが、そうは思わない。カードを使わない時は挿入されてなくてもいいと思う。

 だから、正式には「カードは挿入されていません」と語りかけるべきだ。この場合は、「が」と「は」の違いだが、受け取り方は随分ちがう。それ以上に、今この時にそのことを語り掛けるべきであるかを考える必要がある。

 余計なお世話的に付け加えると、本来ETCの場合は、「これから高速道路を利用される場合は、カードを挿入してくださいネ」といった具合で「を」を使うべきだろう。最後の「ネ」はどうでもいいが…… 

 ついでに付け加えると、カードを挿入したままエンジンを切ると、「カードが残っています」と語りかけてくるのもおかしい。では、やはり入っていない状態が正常と認めていることになるのではないか?

 なんだかややこしくなってきたが、そういうわけで、一冊の本から始まった妄想が、楽しい時間を創り出してくれた?という話だったのであった…………

北越に加賀藩士たちの墓

 新潟県長岡市の郊外にある不動院という寺の前に着いたのは、午後2時を少し過ぎた頃だった。

 6月の初め、辺りの雰囲気がすでに夕方近くのように感じられたのは、小高い山並みの間に入って来たせいだろう。日陰となった場所の空気は少しひんやりとしていた。

 静かだなと思った瞬間に、横の広場で遊ぶ子供たちの声が聞こえた。男の子と女の子が仲良さそうに遊んでいる。懐かしい光景のように感じられ、気持ちが晴れやかになった。

 この寺には、戊辰戦争最後の激戦と言われる北越戦争で命を落とした、加賀藩士たちの墓がある。この寺だけでなく、他にも加賀藩士の墓があることは知っているが、いちばん歴史観に浸れそうな気がしたのでこの寺に行こうと思った。その狙いは、周囲の落ち着いた雰囲気を感じ、当たった。

 今年が明治維新から150年であることは、昨年能登のある町の古くて小さな資料館に入った時、そこに展示してあった維新時の高札を見て知った。村からの出入りについて厳しく禁止するといった新政府からのお達しが、太い文字で書かれていた。

 それからしばらくして、金沢の兼六園の横にある博物館の先生から、いきなり「北越、南会津のこと詳しかったよね?」といった電話が入り、にわかに明治維新の四文字がアタマを駆け巡ることになる。

 南会津が詳しいというか、秘境と言われる檜枝岐村(福島県)について仕事で昨年出かけており、その空気感は認識していた。もちろん新潟北越あたりも同じくといった感じだった。

 先生が言うには、明治維新と石川県という企画展をやるんだが、北越戦争の話は面白いよ… せっかくあっちのこと詳しいんだから行って来たら…という提言みたいな電話だったのだ。

 それから数ヶ月後、仕事のお手伝いもさせていただき、その企画展は始まった。あらかじめ電話を入れて出かけると、先生直々で特別じっくりと解説していただいた。実に楽しい時間だった。

 そして、それからまた時間が過ぎ、ようやく長岡行きのチャンスがやってきたのだ。

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 子供たちの声を耳にとどめながら、寺の左側に延びる道をゆっくり登っていく。

 道の左側が切れ落ち、その下に子供たちの遊ぶ広場がある。気持ちのいいカーブと、登りつつ見る素朴な山里風景に心がなごむ。こういうのに弱い。

 気が付くと、右手の斜面に解説文の入った看板が見えた。「加賀藩士の墓」と記載され、その奥に短い石段。そして、その上にいくつかの墓石が見えている。

 石段を上ると、左右に広がった墓石の列に驚いた。この寺だけでも藩士41名と人夫12名が葬られたとあるが、見渡すとかなりの列であることが分かる。

 刻まれた文字は読み取りにくいが、よく見ていくと、富山の「砺波」の文字などが確認できる。

 石川と富山の若い藩士たちが犠牲者であり、幕末の混乱期に、加賀藩の優柔不断さがもたらした新政府軍からの当てつけみたいな出兵命令だったらしい。

 元来、幕府側にいた加賀藩だが、新政府側の圧倒的な力に朝敵になることを恐れ立ち位置を変える。そんなことだから、もともと信頼を得ていない加賀藩は当然出兵に応じざるを得なかっただろう。思いは、大久保利通が元加賀藩士に暗殺されたりした事件に繋がっていったりもする……

 約7600名が藩の強力な軍備品とともに出兵し(させられ)、103名が戦死した。死者の中には十代の若者もいたという。

 ふと、会津の白虎隊のことを思い出した。彼らが自決した場所に立ち、そこから彼らも見た城の方向に目をやった時のもどかしさみたいなものが蘇ってきた。

 明治維新とは何だったのかな? そんな疑問がたまに起きる。薩長が権力を握り、それから半世紀あまりを経て、あの忌まわしい大戦争に突入していった事実と、明治維新は繋がっているのではと思ってしまう。

 日本という国はまだ本当の意味の維新を達成しないまま、アメリカという一国によって都合のいいように作り変えられていったのでは……… そんなむずかしい話は置いておこう。

 ゆっくりと素朴な墓石のひとつひとつを見ていた。それからさらに奥へと上り、北越のこの小さな寺の風情を感じ取ろうと歩いたりした。

 ひたすら静かだった。それもそのはずで、もう子供たちの姿はなくなっている。木陰の中にいるからだろうか、空気はさっきよりさらにひんやりと感じられた。

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 話は飛ぶ。

 金沢・卯辰山にも、この戦死者たちを祀った招魂社というのが建てられた。その後、西南戦争や日清、日露などの戦死者たちも祀られていったが、その後移転する。現在は兼六園奥にある護国神社にまとめられた感じだ。卯辰山には、当初の趣旨を残すようにその記念碑と墓石が雑木の中に建っている。

 長岡に行ってから三ヶ月後、つまり9月の初め、雨上がりの卯辰山に出かけ、久しぶりに苔むした石段を登った。

 そこで、独りの外国人と三人の日本人学生と遭遇した。これはかなりの驚きだった。

 彼らになぜここへ?と尋ねると、特に深い理由もなく来たということだったが、学生の一人がこの上にある卯辰三社に興味があったと語った。

 不思議だが、人気の波に一度乗ると一気に広がりが生まれる。今の金沢にはそんな力が宿り始めた。卯辰三社など、かつてはほとんど訪れる人はいなかった。

 生半可にちょっと知識があるものだから、いろいろな話をしてみた。彼らは楽しそうに話に乗ってきてくれた。そして、やはり金沢らしいですねみたいなことを語った。金沢の奥の深さを認識させたみたいな、少し誇りたい気持ちにもなり、しばらくして、いや、でしゃばるでないと自戒したりもした。

 かつて観光企画の仕事でここへ外国人を連れてきた時、彼らは竹林の雰囲気などに大いに感激していた。もちろん招魂碑のことなど興味もないだろうと説明もしなかった。

 しかし、今の内外の観光客はどうだろう? 彼らのように、ひょっとして強い関心を持ってくれるかも知れない。

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 ところで、北越戦争で越後軍が新政府軍を苦しめたのは、越後に河井継之助という偉い人物がいたからだ。彼のことは地元の人たちが誇らしげに語る。上杉謙信と河井継之助は越後の英雄だ。

 彼の記念館は長岡市と福島の只見町にあるが、両方とも行っていない。特に只見の方はすぐ近くまで行ったにも関わらず、早く家に帰りたくてハンドルを切る勇気が出てこなかった記憶がある。情けないことだとずっと反省している。

 ちなみに、その河井継之助を主人公にした司馬遼太郎の名作『峠』の映画化が決まったらしい。主人公役は、役所広司。『蜩ノ記』が印象深いが、監督も同じ小泉尭史だという。

 実はこの話を最初に聞いたのも新潟の友人からだが、なかなかいいニュースだ。

 ちょうど今、大河ドラマは『西郷どん』。あのややこしい時代の出来事に対する大げさな表現にいつも首をかしげてしまうが、それは自分の感想であって、ドラマとしては面白い(これも感想)。

 ただ、金沢にいて思うのは、江戸時代に作られた文化によって、今金沢の魅力は成り立っているわけで、維新後のモタモタを思うと、やはり明治維新というド派手な出来事はなくてもよかったのではないかなあ…ということ。

 あのままでも日本はそれなりに変わっていったのではと思ったりする。あのままでもジャズと出会っていただろうし、ベースボールもサッカーもラグビーも、映画もファッションも、とにかくそれなりに受け入れていったのではと思う(…個人的な感想ですが)。

 そんなわけで、今金沢は江戸文化のおかげで人気を博しているということを考えさせられたのでもあった。それにしても、こうした旅の面白さは果てしない………

日常に句点を打つ

 日常の中に、句点をうつ……… 誰かが言っていた言葉だ。

 ニュアンスはちょっと違っているかも知れないが、句点つまり「。」をつけると、ひとつのことにケリが付く。

 逆にそれができないでいると、いつまでもだらだらと引きずってしまう。

 つまり、読点しか付けられない日常になってしまうというのだ。

 なかなかいい言葉だと思った。初めて聞いたとき、すぐにその意味がピンときたし、心地よくアタマを刺激し心に響いた。

 ボクには自分がよく考えるタイプのニンゲンだなと思える時と、そうは思えない時とがある。

 ひらめき重視の度合いが非常に高いと思うが、そのひらめきを上手く活用できているのかは疑わしい。

 答を先に設定しておく方が思考にレールが出来てやりやすい。

 もちろん、それには危険も伴うが、なんとなく、とにかくこのまま行ってみよう…という前向き姿勢?があるように思える……

 本音で言えば、ひらめいた瞬間に句点というよりも、「!」マークを付けて終わりにできるのがいいが、実際にはそんな具合にコトが片付くことはない。再考の時間に入っていく。

 再考は繰り返され、再々考され、さらに再々々考になっていったりして、そのまま思考の迷路に入っていったりもする。石橋を叩きすぎて石橋自体を壊してしまい、せっかくのチャンスを失うこともある。

 多くの人が言うように、世の中にはそういったケースが少なくない。しかし、実際のところはそうやって出てきた、つまり再考を繰り返して出てきたのがベストに近い結論なのだよ…と、世の中は指導している。

 話がずれてきた。

 日常というのは流れの中にある。日常の延長は一応無限だ。だから、日常は基本的に読点で構成されているようにも思えたりする。

 それほどむずかしく考えたり、話をねじらせたりする必要もなく、ちょっとコーヒータイム的に句点を打つ…… それくらいがいいのであろう。

 ボクにとって、こうして雑文を無作為に書き綴っているのも、ややこしい日常の中に句点を打っている合間である。

 ただそう言いながらも、この雑文集のほぼすべてが「……」という曖昧な終わり方をしているのはなぜか? それは余韻というやつ………

上高地に初めて泊まる

 40年ほど前から何度も足を踏み入れてきた上高地で、この夏初めて一泊した。

 家人と昨秋嫁いだ長女という妙な組み合わせだったが、その一ヶ月ほど前、突然決まったのだ。

 自分にとっての上高地初期時代、つまりマイカーで入ることができた頃はいつも日帰りだった。

 そして、その後山に入るようになる頃には、日帰りではなくなり、朝早く足早に通り過ぎていく場所であったり、また疲れ切って帰りのバス乗り場へと歩き過ぎていくだけの場所であったりした。

 ところで、超が付くほどの人気観光地となった上高地だが、何かの拍子にそこで泊まるということが知られると、すぐにあのホテルか?と聞かれる。お世辞めいた質問だと知りつつ、とんでもないと否定する。

 もちろん、上高地で一泊と言っても、河童橋の下や小梨平でツェルトにくるまって寝るわけではないのであって、あのホテルではないホテルに泊まった。

 一応、あのホテルも確認の対象になっていたのだが、夏山シーズン最盛期の土日、しかも一か月前に部屋が取れるわけがなかった…と、言い訳にしている……

 しかし、たまたま空き室と遭遇したホテルもよかった。さすがに上高地である。これを書くとすぐに分かってしまうだろうが、上高地の代名詞である某池のほとりに建つホテルだった。

 午前のうちに上高地入りした一日目は、河童橋から明神を経て徳沢まで歩き、帰り道は明神から右岸の道に変え、そのまままた戻ってきた。

 上高地は一応1500メートルほどの標高なのだから、少しは涼しいはずと思っていたが、今年の夏は上高地でも異常だった。

 ホテルでチェックインする時に、フロントでそのことを強調されたが、部屋に入った時の室温の凄さに驚いたほどだ。当然、山岳地では冷房などないのが当たり前だ。ただ、部屋にはしっかりと扇風機が置かれていた。

 だが、窓を開けていても一向に部屋は涼しくはならず、山岳地であることを意識させてくれたのは、夜も更けてからだった。

 梓川左岸の道を久しぶりに歩いた。木立の中を歩いているときは、暑さも少しは和らぐ。

 明神館の前までは思いの外速いペースで歩いた。

 途中の明神岳を見上げる川原で足を止め、強い日差しの中でお決まりのように顔を上げる。明神岳は正面から見上げると、ゴリラの顔のようなカタチをしている。ずっと何十年も思っていたことを、今更のようにして長女に話すと、今はすっかり山ウーマンになっている長女が頷いていた。

 明神館前のベンチで当たり前のように休憩した。

 単に上高地を歩いていた(今はトレッキングというが)だけの頃は、ここは休憩しなければならないという場所だった。

 しかし、さらに奥の本格的な山岳地帯に入っていくようになると、この場所も通り過ぎるだけになった。この次にある徳沢でも休憩せず、梓川沿いでは横尾でザックを一度下す程度で、そこからは例えば涸沢ぐらいであればノンストップで登った。

 今は本格的な山行は自重しているからそれどころではないが、単独行の頃の馬力はどこへ行ってしまったのだろう。いや、自覚とか諦めとかが足りないだけかも知れない。

 明神から徳沢への道にはサルたちが大勢出てきていた。非常に友好的にというか、まったく気兼ねすることもなく我々の前を歩いていたりした。同じ祖先をもつということに、サルたちの方が深い理解を持っているのかも知れない。

 生まれてまだ日の浅い子ザルが、母ザルにしっかり抱き着いている姿も数組見た。幼いサルの顔というか、特に目にはさわやかに惹きつけられるものを感じた。

 サルたちとの並行(と言ってもほとんど蛇行であったが)は、かなり続いた。外国人のトレッカーたちも興味深げに彼らを見ていた。

 別に不思議なことでもないが、徳沢は変わっていた。

 いや、そう見えただけなのかもしれない。記憶などはいい加減なものだが、しかし、やはり変わって見えた。

 徳沢ではカレーを食べることになっていた。長女が決めていたのだが、やはり山岳地の昼飯はカレーで文句ない。しかも、徳沢のカレーは今有名らしく、こちらも一度は食べてみたいと思っていた。

 かっこいい食堂の隅っこのテーブルに、カレーライスが三皿並ぶ。長女は当然生ビールのジョッキも置きたかったと思うが、こちらが帰路の足への影響を考え自重したために遠慮したみたいだった。

 その代わり? カレーの食後にアイスクリームを追加した。これも徳沢の人気メニューらしい。そう言えば、徳沢は昔から牧場だった場所だ。食事を終えたテーブルの上を、徳沢の木立ちを抜けてきた風が流れる。

 結局、ビールは河童橋まで戻ったあと、閉店間際の店の前でいただいた。当然、美味であった………

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 ずっと以前に、徳沢を歩きながら、こんなところまでどうやって牛たちを運んだのだろうと考えていたことがある。上高地の歴史に興味を持ち出した頃で、松本藩の材木を管理する役人たちや杣人たちの日常なども思い浮かべたりした。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人なども重要な想像世界の登場人物の一人だった。

 

 暑苦しくて眠れない山小屋の思い出は、この上高地から登った涸沢ヒュッテでの一夜である。

 それこそ、35年ほど前の初穂高山行だった。

 横尾の小屋の前で、母の握り飯を頬張りながらラーメンを作っていた時、小屋のアルバイトらしき青年が、二階の窓から梅雨が明けましたァと叫んだ。

 周辺にいた人たちがおおッと声を上げ、熱気が動いたように感じた。

 その日は、上高地を出発した時からとにかく暑いと感じていて、梅雨明けの予感は十分あった。

 そして、横尾から一気に涸沢まで登った後、小屋の予約を早々に済ませたが、その人の多さに少々気後れした。

 案の定、眠れなかった。11時半頃には窮屈な寝床から這い出し、ザックを持って廊下に出ていた。それからどうしていたかは覚えていない。その後テラスに出て、4時前にコーヒーを沸かしクラッカーで朝食にした。どうでもいいが、商品名でいうと「リッツ」だ。それを三枚だけ食べた。小屋の朝食には行かず、外のトイレだけ借りて歩き始めていた。

 夜中、着込んではいたせいもあってか、全く寒さを感じなかった。

 

 上高地の眠れない夜は、早朝4時半頃で終わりにした。窓辺に立つと、対岸の焼岳山頂付近に朝日が当たっている。見下ろすと、某池のほとりに人の姿も見える。

 すぐにカメラを手に外に出ることにした。なんと立地条件に恵まれたホテルだろうと今更ながらに思う。

  上高地に来るようになって40年ほど。この美しい光景は、見てみたいけども、どうしてもというわけではない…… といったいい加減さでやり過ごしてきた。

 しかし、実際にこの目で見てしまうと、そんないい加減だった自分を悔いた。初めて上高地に足を踏み入れた時の、梓川の美しさに圧倒された時の自分を思い出していた。

 

 日が昇り、上高地はまた暑くなった。

 大きなザックを担いだ長女と、小さなリュックを担ぐ家人が並んで歩いていく。その後ろ姿を見ながら、歳月の経過を思う。

 いつものことだが、今回もまた、近いうちにまた来ようと歩きながら考えていた。

 河童橋の周辺は相変わらずのにぎわいで、岳沢から穂高の稜線にかけては薄い雲がかかっている。河原に下りて、梓川の水に手を入れた。

 もう少し静かになったら、顔を出してやるよ…… そんな奥穂高のぼやきが聞こえる。

 いや、聞こえたような気がした………

 

自分なりの旅について…の2

 ひとつの旅が、その人の生き方を変えてしまったという話を聞くと、正直言って少しうらやましくなる。ボクにはそれほど激しい思いを残した旅はない。

 しかし、その分、数日だろうが日帰りだろうが、ちょっとした旅の中にでも、自分自身をいつも研ぎすませていたような確かな思いがある。

 山を登るということに固執し始める前だが、ボクは日本の山の聖地である信州の上高地へと頻繁に出かけている。ちょうど20代の真ん中あたりの頃だ。

 今あの衝動が何だったのかと振り返ってみても、どこか不思議な感じがしてはっきりとはしない。ただ上高地が書かれた多くの本を読み耽り、そして毎日、上高地へ出かけることを楽しみにしている自分がいた。自分が上高地を歩いていることをはっきりと想像できた。

 まだマイカーでも入れる期間があった頃、多い時で一ヶ月に4回ほど通っている。そして、早朝の河童橋あたりから明神、徳沢、横尾へと足を延ばし、上高地というひとつのエリアについてはかなり精通したニンゲンになっていた。

 当時も多くの人たちが上高地を訪れていたが、大正池や河童橋周辺を抜けてしまうと、あとは静かな散策ができた。ボク自身、まだヤマ屋スタイルでもなかったが、歩くことにはまったく問題を持っていなかった。

 ボクは上高地に、すでに藩政の時代から多くの杣人たちが入っていたという事実を知り、すごく心を動かされていた。

 たとえば、梓川の流れを底辺にして、岳沢からせり上がっていく穂高の稜線を、すでにその人たちはその時代に見ていたのだということが、何だかとてもすごいことのように思えていた。

 考えてみれば、海に面した村の人々が海にその恵みを求めるのと同じように、山に抱かれた村の人々は山へと入っていく。そんな当たり前のことが、この上高地でもなされていたというだけなのだが。

 しかし、ボクはこんなことも考えていた。自分たち現代人が現代の街などの風景を知りつつ見る上高地と、昔の杣人たちが閉ざされた山村の風景しか知らないで見た上高地の違いは何か。

 そんなことを考えていくと、昔の杣人たちへの興味はどんどんと膨らんでいった。この地で、どのようにして彼らの日常が組み立てられ、そして流れていったのか。

 旅は非日常を求めていくものだなどといった決まり文句があったが、ボクは自分自身の非日常よりも、かつてそこに住んでいたとか、暮らしていたとかといった昔の人たちの日常を考えるのが好きだった。もちろん、そのことが自分自身の非日常にも繋がっていたのだが。

 史実として知る部分と自分の想像をはたらかす部分とを重ね合わせていくと、上高地というひとつの地理的空間が、歴史的な世界へと広がっていくような気がしていた。

 特に上高地の深遠な美しさは、想像することの愉しみを倍増させた。

 《時空を超える》という言葉が、雄大で動かしがたい自然の中では生きているような気がした。

 ボクは梓川左岸の道を歩き、時折河原に下りて、岩の上にすわった。広い河原に出ると、目に見えるのはどの時代の風景なのか判らなくなった。

 自分はひょっとして、数百年前の上高地にタイムスリップしているのかも知れない。そして、今振り返ると、あの杣人たちが煙管を吹かしながら語り合う光景に出会えるのかも知れない。そんなことを身体中で感じたりした。

 特に梅雨の晴れ間や秋空の下で、鋭く冴えわたった清々しい風に吹かれた時などは、今自分の周囲にある空気全体が、現代のものではないような錯覚に陥った。

 (……実は、翌朝上高地入りする予定でいる)

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 ボクの旅は、いつもこのような感覚の中で成立していたような気がしている。

 好奇の目によって見据えられたものは、すぐに旅の対象となり、その周辺を知りたいという軽い願望を生んでいった。

 それは衝動というほどではなかったが、例えば風景や歴史や生活という文字、響きそのものに心を奪われ、さまざまにそれらを巡ったりした。そして、キーワードが変わると、それまでにも何度か訪れたことのある土地が違って見えてくる感覚も味わった。

 例えば、それまで漠然と見ていた道沿いの一本の木にも、かつての街道という視点で見ると大切な要素が見えてきた。そこに何らかの《ものがたり》が想像されたりし、そしてまた、道から眺める山里の風景にも、街道という言葉が生きていた時代の風を感じさせた。

 実はボクにはずっと前から、見ているだけでグッと胸が締め付けられるような、そんな風景の存在がある。

 それらは、ほとんどが民家の散在する山里で、背後に小高い山並みがあり、またはその山並みに囲まれ、そして、手前には深くえぐられた谷川が流れている。

 ボクは必ず川の対岸にいて、時折息をとめながら、じっとその風景を見つめる。風以外には動いているもののない風景なのだが、風が動いているのははっきりと見ている。

 そんな風景を思い浮かべると、それらのすべてがボクの旅の産物なのかと思う。そして、その反面で、ひょっとして、自分は自分の前世を旅の中で見ているのかも知れないゾ…などと、考えたりもするのである。

 今もそうしたものを求める小さな旅を続けている。たぶん、まだ当分は続くと予想しているのだ……… 

 

 ※古い文章に加筆した……

 

 

自分なりの旅について…の1

 旅というものを考える機会があって、自分なりに“自分の旅”について思いを巡らしていた。すると、自分の旅というのはどちらかと言えば地味で、当然今風でもなくて、人に勧めてもあまり乗ってこないものなのだということが改めて分かってきた。

 旅が好きだと言っても、恥ずかしながら海外経験は二回だけ。定番のような新婚旅行と、仕事の研修旅行だけだ。

 こんな状態なのであるから、所謂、旅は海外しかないというニンゲンたちと旅談義などをしていても何だか落ち着かなくなり、敢えてこちらからは話に入っていかないようにしてきた…… 実は周囲に、ボクのことを世界の観光地に行き慣れたニンゲンだと勘違いする人が数人いた。そういった何の根拠もない勘違いは、ボクにとってはある意味非常に迷惑であり、そこでまた余計な言い訳なんぞを求められたりするのが嫌だった。

 ボクはただセーヨーの都よりも、ニッポンの田舎の方が好きだったのだ。

 そんな中で、いつも旅のスタイルは大切にしていた。どんなところへ出かける時でも、できるだけ自分が求める旅のスタンスを基本において、主たる目的が仕事であろうと何であろうと、自分の中の旅というものに結び付けていた。

 その基本は、歩くことだった。そして、それはその土地の歴史などといった要素に直結することもあったが、土地そのものをただ漠然と見て歩くだけということでもあった。

 振り返ってみると、そのきっかけとなったのは、学生時代に上州のある山間の温泉場へ行った時、ふらふらと周辺を歩いたことだったように思う。まだ二十歳の頃で、しかもその時は大学の体育会の行事かなんかで行っていた記憶があり、旅情を求めるなんてことはない。しかし、漠然と歩いていながら、今まで全く知らなかった空気を感じた。

 晩春だったが、気が付くと土埃をかぶった雪がまだ残っていた。突き刺すような冷たい風が吹く朝に、元気に登校していく子供たちを見た。足元の雪解け水の激しい流れに身体を震わせながら、野菜を干す老婆の手にはめられた軍手に妙な温もりを感じた。

 そういうものたちが目に焼き付いていた。あれはいったい自分にとって何だったのか。

 その年の暮れだったろうか、年末のアルバイトを終えたあと、ボクは新宿から松本を経由して金沢に向かう帰省の計画をたて、その途中寄り道をして、木曽街道を歩こうと決めていた。島崎藤村を読み耽ったあとということもあり、木曽は憧れの土地でもあった。しかし、中途半端な年の暮れ、寒さと寂しさが身に沁みた旅だった。

 翌年から年末の帰省はこのルートにし、松本で三時間半ほどの時間を作って、まち歩きや好きな喫茶店での本読みに充てた。これはなかなかのリッチなひと時であった。そして、大糸線松本発金沢行き(糸魚川で新潟行きとに分かれる)の急行列車に揺られ、時折無人駅のホームで、長い停車時間が与えられるという出来事なども楽しみながらの上品極まりない旅であったのだ。

 大学卒業の春には京都・奈良へと出かけ、旅の締めくくりに柳生街道をカンペキに歩いた。一日がかりの山歩きといった感じだったが、最後に高台(峠)から夕暮れが近づく柳生の里を見下ろした時の胸の高まりは今も忘れていない。

 柳生の里ではすっかり日が落ち、奈良市内へ戻るバスを待つ間、地元のやさしい酒屋さんの店先で休ませてもらったのを覚えている。

 その四ヶ月後に出かけた同じ奈良の山辺の道は、しっかり二日がかりの歩き旅だった。

 入ったばかりの会社を三ヶ月ほどでやめ、ふらふらしていた頃で、気持ちとしては完全な解放状態とは言えなかった。しかし、のちに山へも頻繫に出かけるようになる親友Sとの最初の旅が山辺の道であり、その後のドタバタを予感させるに十分な愉しさに満ちていた。

 大きな古墳のある町で予約していた旅館。たしか道中には、他にユースホステルしかなく、そっちはいろいろ面倒だからと、その旅館に予約を入れておいた。

 歩き疲れて旅館に着くと、ボクたちには三つの部屋が与えられ、食事はここ、寛ぐのはここ、寝るのはここと案内された。

 ボクたちが行ったのは九月。宿帳が出され記帳しようとすると、ボクたちの前は六月の日付が記されていた。

 ゆっくりしようとクーラーのスイッチを入れると、白い埃とともにカッツンという音がし、クーラーはそのまま止まった。寛ぐ部屋は使用不可となり、食事する部屋へと移動。こちらのクーラーは問題なかった。

 トイレに行くと紙が置かれていないので当然もらいに行く。風呂は浴槽となる大きな桶が真ん中にドスンと置かれ、それ自体はもちろん、セメントの床もカラカラに乾いていた。もちろん湯は入っていない。どうすればよいかと聞きに行くと、自分で入れてくださいと言われた。ボクたちは当然浴室掃除もした……

 その反動もあってか、夕食時間は二人で異様に盛り上がった。その旅館は本業が仕出し屋さんで料理は質量ともに申し分なく、しばらくすると飲めや歌えとなり、床の間に置かれてあった太鼓と三味線までが持ち出された。Sが太鼓でボクが三味線を受け持ってのジャムセッション……ところが、乗ってきてトレモロ弾きをしたところで三味線の糸が切れてしまった。なぜか異様におかしく、二人してただ笑い転げていた。

 そのうち、立ち上がろうとして浴衣の裾を踏みつけると、下半分が切れ落ちてしまうなど、とにかく何が何だか分からなくなったが、それでもひたすら笑っていた。その後、隣の寝る部屋へとなだれ込んだのだろうが覚えていない……

 その後、再就職も決まって日々に落ち着きが生まれると、ボクの旅も少しずつ色を変えていった。歴史系からどんどん自然系に走っていった。しかし、道中の街道探訪や土地歩きなども欠かさず、旅に出ているという気持ちのあり方は今でも変わっていない。ディスにーランドへ行くというのを旅だとは思わないが、その道中は十分に旅にできる。そんなふうに考えられるようにもなったのである………

 

※古い文章に少しだけ加筆した……

 

 

朽木街道を行く

 久しぶりに京都・大原の里をゆっくり歩き、翌日も奥嵯峨の方まで足を延ばして来よう…という旅に出た。

 と言っても、その上り下りの道中は、30年ぶりぐらいの「朽木(くつき)街道」であって、どちらかと言えば、その道中の方 に重きがあったと言ってもいいかも知れない。もちろん、そのようなことは助手席の家人にも言っておいた……

 「朽木街道」を知らない人でも、「鯖街道」と言えば知っているにちがいない。かつて、越前から京へと鯖が運ばれた道だ。

 最初に朽木街道のことを知ったのは、今から40年以上前である。この雑文集にも再々出てくる司馬遼太郎の『街道をゆく』でだ。この街道をめぐる紀行は、19711月から週刊朝日で連載が始まったが、その3・4回目が朽木街道の話だったと思う。

 当然、その時をリアルタイムに知っているわけはなく、その後に文庫本の第1号が出てから知ったのである。

 そして、当初この街道への関心は、京都大原に抜けられるという話から始まった。大原や比叡山の方に、金沢から日帰りができるというのが魅力だった。

 京都へつながるというのは、かつて織田信長が浅井・朝倉軍に敗れ、家来たちを置いて逃げ走ったという話で有名?であり、信長嫌いのボクとしては、その意味でも痛快な道であった。司馬遼太郎もこの話を詳しく書いている。

 ボクはその話よりも、深い谷の道とか、街道らしい美しい水の流れがあるということに惹かれていた。

 当時(40年前)の道は今のように整備されていなかった。観光道路ではなかった。大型車とすれ違う時などは少し怖い思いをしたし、もちろん道の駅などもあるはずがない。

 ただ、静かで、季節感にあふれた道だった。

 そんな道(朽木街道)を何度も走った。これも『街道をゆく』からの影響だが、大原から鞍馬街道へ抜け、あちこちをめぐりながら、最後は嵐山に宿をとったこともあった。鞍馬への途中には杉木立の中の細い道があり、林業の人たちにご迷惑をかけまいと、ひたすらアクセルを踏み続けていたのを覚えている。そう言えば、あの時も今のように新緑が美しい季節だった。

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 金沢から高速をつなぎ、若狭街道と名付けられている道を走ると、滋賀県に入る前、つまりここはまだ福井県なんだなと思うあたりに熊川宿がある。

 先はまだあるからと、宿場のはずれにある道の駅でわずかな休憩をとるのみにする。

 ご高齢ライダーたちが、こうしないとカッコが付かないのだよ…と言わんばかりに煙草を口にくわえている。その集団を横目にトイレへと行かねばならない。

 こういう時よく使うギャグが、タバコ吸ってもいいけど、吐いちゃダメだよというセリフだ。特に、吸っていいすか?と問われた時などには、よく受ける………

 まだ昼には時間がたっぷりある。その日は気温が30度を超えるらしいと聞いていたが、このあたりもすでに陽射しが強く新緑が眩しかった。

 熊川宿を過ぎるとすぐに滋賀県に入り、若狭街道から分岐していよいよ朽木街道へと入っていく。

 ところで、一般の地図上には朽木街道という表記はなかったような気がする。『街道をゆく』の中にあった地図には、明確に記されているが、その堂々とした表記がいい感じでよかった。

 クルマに加えてオートバイが多いのは、この道の気持ちのよさのせいだろうと思うが、京都の人たちが海に出るのに便利な道であることも想像できる。奈良はもちろん、京都の中心部も海とは縁遠いイメージがあって、高貴な歴史文化には海とつながる道が必要なのだ…と、勝手に思ったりした。

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 朽木の中心部であると思われる「市場」という町の中でクルマを止めた。

 朽木の杣人(木こり)たちが四方の山々からこの市場へと降りてくる…と、司馬遼太郎が書いていたように、ここには現在の高島市の支所や学校、商店などが集まっている。道の駅もあった。

 その古い家々が並ぶ光景は実に不思議な世界で、百貨店と名付けられたユニークな外観のお店や旧商家、郵便局なども目を引き何度となくカメラを構えさせる。家人もクルマを降り、この古い町並みを楽しんでいた。

 大原までの道はここからさらに山深くなっていく感じで、それにしては道がいいなあと思っていると、見下ろす集落の中に延びている狭い道が、かつて自分が走っていた道なんだろうと想像させた。

 「花折」という懐かしい地名が出てくるのは、その名のついたトンネルに入る時だ。琵琶湖大橋まで通じているという道と分かれるのが「途中」。この地名も見覚えがあり懐かしい。

 峠を過ぎて道は当然下りになり、しばらく行くと美しい白い花たちに迎えられる。林間のゆるやかなカーブが続く、快適な道が待っていた。

 もう京都府にいる。

 それからまたしばらく行くと、果てしなく青い空の下に、大原の里が広がっていた……… 

 ※続編『朽木街道を帰る』『朽木街道で大原へ』へと続く予定……

 

 

小さな山行の思い出

「あるトレッキングにて」

あまりにも雄大で そして美しすぎた世界を前に

その人はどうしても涙をとめられないでいた

深く濃い青の空 雪と氷におおわれた緩やかな峪(たに)

雄大さも美しさも すべてが信じられないまま

ここまでの道を歩いてきたのだろう

そして今 この場所に自分がいるという事実に

その人の心は 大きく動かされていたに違いなかった

すべてを映しこんだサングラスの縁から涙が流れ落ちる

こんなところに自分がいるなんて と言う

ここへ来ることを許してくれた者たちすべてに

感謝しなければ とも言う そしてこの世界のすべてを

いつか必ず その者たちにも見せてあげたい……

涙声のまま その人は話し出した

日常は すべてにおいて自分を敗者にし哀れんだ

それは現実という意味では仕方のないことだった しかし

自分自身もそれらによって狭く そして

息を殺して生きていくことに馴らされていく

そんなふうに生きていくしか 道はないのだと思い込んでいく

この空の青さも この雪の白さも そしてすべての雄大さも

それらは知る術もなければ知る必要もなかった しかし

まちがいなく来てよかったと思った

そんな単純な表現では追い付かないくらいに心が動いた

こんな自分でも さも当たり前のように 大自然は

迎えてくれるんだという嬉しさがカラダ中から湧き上がってきた

何千年 何万年と続いてきたこの場所の時の流れの中に

ちっぽけな自分の存在がだぶっていく そしてその人は

視線の方向を変えた もう一度この場所へ来るために

自分らしくやっていこうと思う と言った

サングラスの奥の目は きっと笑っていたに違いなかった

 

 この小文は、2000115日発行の「ヒトビト」第8号に掲載したものだ。北アルプスの某山へ数人の山仲間と一緒に登った時、連れの中に初めての山という人がいて、その人の言動をもとに書いた。いろいろとつらい時期にいたらしい人で、突然の涙を見たときは正直びっくりした。山はその人に再び生きる勇気を与えた。犠牲にしてきた家族が行って来たらいいと送り出してくれたという。あの時のことを思うと、こちらもなんだか切なくなる。 

 山にはいくつもの思い出があるが、今でもときどき振り返る話だ………

 

三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も二度めのものを記入したり、もう空欄になっていたりする者が出るほど長く続いている。

 今回は生粋の甲州勝沼の人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空と柔らかな白い雲…… それらに納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

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 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

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 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

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 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

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 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

冷やしビールと冷やしたビールの違いについて

 

 メールで送った文章の中に脱字がありましたよ…と言われた。らしくないですね…とも言われた。

 たしかにこうした形式が多くなってから、文章が雑になっていると感じたりする昨今である。印刷されるものの時はもっと丁寧だったような気がする。

 偉そうで申し訳ないが、それは読み返しの度合いなどでもはっきり違っているし、出来上がってからでも直すことが簡単にできる分、安直な対応に終始しているのは間違いない。

 ところで、その脱字とは「冷やしビール」という表現であった。これはボクにとって何ら問題のない表現である。

 仕事用のメールに使ったもので、大雪時の“雪どかし”も、冷たいビールを楽しみにしてやれば少しは励みになるでしょう…という意味を込めていた。

 多分、受信者は「冷やしビール」ではなく「冷やしたビール」だと言いたかったのであろう。たしかに言われることは分かるのだが、ここはやはり前者にするのがボクのやり方なので………

 それにしても、あらためて言われると実に面倒臭い。この微妙な感覚についてはなかなか説明が出来ないのである。だいたい説明をしなければならないのかという観点からしても微妙なのだが、一度こうして疑問が投げかけられると右往左往してしまう始末だ。

 しかも、そういう人に限ってどれだけ説明しても絶対に分かってくれない。いや、分からないというか、多分そうした感覚そのものを体内に宿していないに違いない。

 だが、この感覚を何とかして説明しようとしている。厄介なことになったなあと思いながら、どうもこれでは気が済まないといった心境にある。もちろん相手は自分自身だ。

 

 さて、ボクの中での「冷やしビール」というのは、「冷やしトマト」とか「冷やしきゅうり」などと同じだ。表現として一般的かどうか分からないが、農家の前に置かれたり、山小屋や観光地の店先などで売られている果物や野菜たちの部類である。

 器に湧水を溜め、その中で冷やされている。冷たいきゅうりなどは、割り箸のような棒に刺して売られていて、特に真夏などは爽やかで美味い。山の帰り、上高地の明神館で喰らいついた「冷やし青りんご」(これは勝手に命名)も格別であった。

 ボクの中での「冷やしビール」は同じ仲間なのだ。つまり、冷蔵庫の中できちんと並べられ冷やされたビールではなく、無造作に、しかも科学のチカラなど借りずに自然の状況で冷たくなったビールのことを言う………?

 そして、この場合のビールは缶ビールだ。ただ、先ほどの雪どかしの後のビールという点では、どうしてもこういう経緯で冷やされたビールでなければならないのかというと、決してそうでもない。冷たければ何でもいいことだけはたしかだ。

 ただ強いて言えば、雪どかしをしながら山スキーの時のように缶ビールを雪の中に埋めておき、一作業終わった段階で取り出して飲む……といったカタチもいいかなと思ったりする。

 なぜ、そこまで表現にこだわるかなのだが、どうもボクの表現手法(そんな大げさなもんでもないが)の中には、「冷やしたビール」ではなく「冷やしビール」といった具合に、一括名詞型に丸め込んでしまうというクセ?みたいなのがあって、それが自分の好きな表現方法(そんな大げさなもんでもないが)として確立されてしまっているように思える。

 こういう話をすると、必ずまた突っ込みがあって、「冷やし中華」と一緒ですね?と言われそうである。

 しかし、それは違う。どこが違うかというと、「冷やし中華」は決して「冷やした中華」ではないということであり、本来「冷やし中華」という呼び名は一商品として個別に作られたものである。そもそも「中華」では大雑把すぎる。その点、「冷やしビール」は正真正銘「冷やしたビール」であり、ビールという具体的な飲み物をさしている点で「冷やし中華」のようないい加減さはない。このことを混同してはいけない……と思うのである?

 話がややこしくなっていく。このあたりで終わりにしておいた方が逃げ切れそうなのであるが、どうも説明し切れていないな…といったもどかしさもある。

 そういうわけで、とにかく「冷やしビール」的な響きをずっと大事にしてきた。本来ならば、どっちでもいいと言ってやり過ごすが、もう少し時間をかけて考えてみようかと思う。

 ただ、といいながらも、このコーナーが『風にゆれるビールの泡のような雑文集』であるという点も踏まえ(?)、まあそこまでいかなくてもいいのではないか…などとも考えるのである………

 

湯けむりの中で口笛を吹く

 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

この正月の日常……

 過ぎてしまえば、やはり慌ただしく時間は流れていたのだと思う。正月とは、だいたいそういうものなのかも知れない。

 元旦の午前中から仕事関係の会合に出かけ、午後の遅い時間に戻り、堅苦しい洋服を脱いで、それから正月らしくあろう…と、酒を飲み始める。

 だが、長続きはしない。酔いを追うようにしてやってきた眠気が、酔いを飲み込んで、目を開けているために必要なエネルギーを抜き取っていく。

 その間、家人は翌日迎える娘たち夫婦への料理づくりでずっとキッチンに居た。

 そして、その翌日。昼過ぎ着の電車で大阪からやって来る次女夫婦を、K駅へと迎えに行った。

 駅周辺は、初売りで大混雑。ちょっと離れた駐車場を利用して、自分の好判断に満足した。

 家に戻ると、地元K市に住む長女夫婦もやって来て、家の中が久しぶりににぎやかになった。

 この二組の夫婦は、去年の春と晩秋に出来たばかりで、俗に言う新婚である。

 ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒… みなよく飲む。さらに、テレビでは箱根駅伝と大学ラグビー準決勝。

 飲み食いとお喋りの間に、それぞれ母校の勝利のための声援が入り、当方は母校ラグビー部の久しぶりの決勝進出に酒の味が急上昇し、当然さらに進んだ……

 そして、気が付くと、三日目の朝であった。

 娘たち夫婦はその日の午後、それぞれの住処へと帰って行った。

 おまけの話は、宴の最中に大学ラグビーの決勝戦に行くことが決まったことである。最近はチケット購入も電車の予約も簡単になった。一月七日、朝の新幹線で東京へ。

 家人と超アクティブ派の長女夫婦が同行し、何年ぶりかの秩父宮ラグビー場に胸が躍った。

 ゲームは一点差の敗戦だったが、セーターの上から紫紺と白のTシャツを着て、久しぶりに校歌を熱唱し、ひたすら大声で叫び、雄叫びも一回。そして、本気のガッツポーズを何回もした。

 四人とも手のひらが充血していた。

 大好きなラグビーの面白さをあらためて認識した一日であり、その夜の丸の内における打ち上げ会も観戦談で盛り上がり、最終の新幹線で帰ってきた。

 正直、これが今年の正月のハイライトだったみたいだ。

 慌ただしく時間は流れていたのは間違いないが、やはり正月とはそういうものでなければならないと痛感したのである……

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

ノーサイドの後も、ゲームの余韻に……

娘たちを再び送り出す

 今年の春のはじめと冬のはじめに、娘たち二人が結婚した。

 春のはじめは次女で、冬のはじめは長女だった。

 次女は京都の大学を出て、そのまま関西で就職し、大阪の人となった。長女も京都の大学を出たが、こちらに戻って就職し金沢の人になっている。

 同じ年に二人の娘を嫁に出すのは大変だったろうと言われるが、実感としてはそれほど大変だったと感じていない。

 そのわけの一つに、仕事のことできりきり舞いしていたということもあるが、それよりもなんとなくコトが過ぎていったという実感の方が強い。

 淋しさとかもそれほどではない。

 そう言うと必ず、やせ我慢して…などと突っ込みをかける人たちがいたが、これはかなりの本音だ。むしろ、これからの自分自身に残された時間の乏しさがより明白になり、強く感じるようになったことの方が切ない。

 それは時に強烈な焦燥感を伴って迫ってきたりもする。

 母親の方はお金のことも含め大変だったろうと思う。淋しさも大きかったはずだ。

 

 娘たちは二つ違いで、大学在学は二年重なった。

 二人のうち一人だけがいた時期も合わせれば六年京都と縁があったわけだ。いや、次女が卒業後も京都が赴任地だったことがあり、なんだかんだで京都は今も我が家にとって大切な街になっている。

 二人の娘を京都へ送り出すという父親の心境というのは、実に微妙だった。

 最初は特に京都にこだわっていたわけではない。

 しかし、長女が京都の大学に合格し、そこへ行かせてほしいと言ってきた時、こちらの気持ちとしてはほぼそれで固まっていたと言っていい。

 次女が受験でややもたついていた時も、京都で決めようと励ました。

 いろいろあったが、二人とも京都を楽しんだようだし、何よりも京都でたくさんの友人を得たことがよかったと思う。

 親としても、おかげで京都への旅を何回も重ね、一応名所的なところはほとんど足を運んだ。夏休みなどは、京都で観光した後、家族四人で家路につくという旅程が新鮮だった。  

 

 今から思えば、結婚する娘たちを送り出す時よりも、大学生活を始める京都へと娘たちを送り出す時の方が(正直)淋しかった。

 引っ越しは早朝にクルマで出発し、長女の時は、母親を残し独りだけ先に帰らなければならず、気持ちを抑えるのに苦労しながら夜の高速を飛ばしていた記憶がある。

 次女の時は、淋しさに涙する母親の横顔を心配しながらの帰路だった。多くの親たちが経験したことだろうが、どちらにしても、実に切ない時だった。 

 結婚はしたが、娘たちはいなくなったというわけではない。そして、自分もまだ生きていかなくてはならない。生きていくというよりも、自分らしくやっていきたいと思う。

 ……… この文章を走り書きしているボクの前で、若いカップルが実に楽しそうに語り合っている。

 特に女の子の方は、明るく爽やかに笑顔を振りまいている。バカでかい声でゲラゲラ笑っているのでなく上品である。

 だからどうなのだということではないが、日々に少しでも潤い…なのだろう。

 外では雪が舞いはじめた。なんだか、また切なくなってきて、危ないのである………

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

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 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

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 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

奥能登・珠洲でやってよかった

 

 奥能登・珠洲を舞台にした「奥能登国際芸術祭2017」。

 今も心に残る、ひとつのメッセージがある。

 旧飯田駅のホームに停められた貨物車両の中。

 うす暗い空間の壁いっぱいに埋め尽くされた言葉たち。

 どれもみな、力強く、あたたかく、やさしい。

    その中に…… 「また来ますね」。

 思わず足と、息が止まった。心が震えてきた。

 手書きの文字が踊っている。

 これを書き残していった人のことなどを考えた。

 そして、しばらく見つめ……、思った。

 やっぱり奥能登の、この珠洲でやってよかったんだと。

 明日が最終日という、切なさがいっぱいに詰まった午後。

 誰もが、その切なさと淋しさを追い払おうとしている。

 見馴れた珠洲の風景が、今までとは違う風に揺れているように見えた……

 

 *これもよかった……

昼から夕方にかけての山村谷歩き

 

 山村歩きをしながら、必ず考えてしまうのが「シャンソン」のことである。

 どうでもいいようなダジャレなのだが、昔流行ったギャグである「新春シャンソン・ショー」をもじって、「山村シャンソン・ショー」とアタマの中で呟いている。

 アタマの中だから、結構派手に両手を広げショーの司会者ぶった言い方もしたりする。客席からの拍手なども聞こえてきて、アタマの中はかなり盛り上がるのだ。

 しかし…、実際の山村はいつも静まり返っている。

 鳥の鳴き声がたまに聞こえたり、もっとたまにクルマのエンジン音が遠くに聞こえたりするくらいだ。

 しっかりと、それなりの気合を入れて山村歩きを楽しむのは三ヶ月ぶりだろうか。

 地域的には二度目で、富山県の山田村あたりだろうと、いい加減に位置付けている。ちょうど一年前ほど前、もう少し秋が深まっていたような時季に初めてこの辺りを訪れた。

 その時のことは実は書いていない。とても感動的だったのだが、なぜか書く気にならず、結局書こうとすらしなかった。

 とても感動したから、気力が湧いてこないと書けないことがある。このあたりは、いくら雑文と言えども情けないくらいに心が折れ、書き切れなかったことを悔やむのである。

 

 今回はやや遅い時間の出発だった。

 前回は最初からクルマで少し登り、それから深い谷に下りて、視線の先に浮いているような水田(稲刈りは終わっていた)を見ながら、畦の上で「握り飯」と「いなり寿司」(双方ともコンビニ)を食するという贅沢なランチタイムだったが、今回は道路脇のちょっと歩道が膨らんだようなスペースにクルマを置き、同じものを慌ただしく呑み込んでいた。

 歩き始めたのはちょうど昼頃だったろうか。

 相変わらず、ほとんど先を見越していない山村歩きだ。いつでも引き返す心の準備は出来ている。

 登り口からすぐに急な道になったが、民家が道沿いに数軒並んでいる。

 白山麓の白峰にあるように、このあたりの民家にも屋号が付けられている。地元の文化を愛する人たちが住んでいるのだろうと推測できる。少し奥まったところの民家の庭では、十人ほどの人たちが集まって、何らかの会合が開かれてもいた。

 いきなりの坂道を、まだ調子の出ない足取りで登った。

 本格的な山行から遠ざかること数年。もう足元はトレッキングシューズばかりとなり、生涯四足目?のまだ新しい登山用ブーツは、部屋の中でずっと眠っている。

 かなり以前、太郎平小屋までの道で足に馴染んでいた靴(高かった)の底がはがれ、翌朝、太郎の小屋から薬師沢へ向かう際に、小屋の五十嶋マスターのゴム長靴を借りていったことがある。軽かったが、やはり石だらけの道では足の裏が痛かった。

 結局、帰路、登山靴はテーピングによってほとんど白一色になったまま、登山口の折立まで辛うじて持ったが、手入れがされていないといくら高価な靴でもダメなのだ…ということを、その時思い知らされた。マスターの長靴を一日履かせてもらったという喜びとともに、どこか虚しい記憶でもある。

 そういうことを思い出しながらのスタートだった。

 畑が過ぎたあたりからの道は、しっかりと整備された林道のイメージとなった。畑の中にトランジスターラジオがまるで巣箱のようにしてカッコよく置かれていた。クマ除けだと思うが、農作業しながらラジオを楽しむというセンスの良さみたいなものも感じられて、こちらもスマホに納めてある音楽を鳴らした。

 もちろんイヤホンなどは使わない。ズボンの後ろポケットに差し込んで、ここはやはりいつものベイシー・オーケストラで、クマを近づけないようにと配慮?した。

 木立に挟まれながらまっすぐに坂道が延び、その後左の方へと折れていく。天気はとてもよいというわけではないが、十分に汗をかかせてくれそうだ。

 いつも思う。こういう場所を歩いている理由を聞かれたら、なんて答えようかと。

 一応、カメラをぶら下げているから写真家とか、研究家とか、そうした類のニンゲンだと思ってくれるかもしれない…。そんなことを考えているのである。

 歩き始めから見れば、かなり登ったかなと思えるほどの道を歩いていた。

 林の中にぽつんと畑があったりする。何か観光的に造られたのではないかと思えるバンガローのような小さな建物もあったりする。

 どちらにしても、いつものように静かな歩きだ。スイングしまくるベイシー・オーケストラはすでに消してある。クマには遭いたくないが、静けさもやはり大事なのである。

  三十分ほど来たところで道が分岐した。

 一方は高い方へと延びていたが、谷に下る方へと向かう。なんとなく上の道は予測できた。これを行ってしまうと、今日の帰りは相当遅くなるかもしれない、そう判断した。それとずっと先には前回歩いた道が繋がっているはずだった。一年前、道がなくなるところまで登ったことを思い出した。

 それを理由にして、ゆっくりと下ってゆく道をたどった。正解だったのは、その先に美しい森があったことだ。

 下って行くと、奥にポツンと一軒だけが立つ民家を見上げながらの明るい道に出た。左手は、急な傾斜となって下っている。真下には鳥居が見える。栗の木があるのは、民家の方が植えたものだろう。

 グッと下って、水田の道を歩き、さらにしばらくして森に入って行く道をたどる。

 森と言っても、歩いて行く道はしっかりと舗装されている。ただ、地元の農家の人たちが通るだけの道だろうから、それらしく暗くて、通り過ぎてゆくクルマなどない。路上は落ち葉でいっぱいだ。

 一段と静まり返る森の中で、美しい緑色の何かが映えていた。よく見ると、切り株の上に生えた苔の緑だった。

 道から森の中へと足を踏み入れ、しばらく枯れ草の感触を味わう。湿った空気が一気にカラダ全体を包み込むような、そんな感じだ。汗ばんでいたのが、少し涼しくなった。あたりも静まり返り、息を殺すように足を進めては立ち止まる。

 愉しい森歩きはしばらくして終わった。

 そして、森を抜けると、のどかな風景が広がった。

 それもまた、見事だったのだ。

 蕎麦の花が咲いている。奥行きの深い谷あいに広々とした空間があり、思わず深呼吸をしてしまうくらいの正しいのどかさだ。

 ぽつんと人家らしきものがあったりするが、実際に人が住んでいるのかは分からない。農作業の休憩所を兼ねた別荘みたいな存在なのかもしれない。

 気持ちのいい開放感に浸りながら、のんびりとした気分で下ってゆく。相変らず人影は全くない。

 人家が見える。だから山村であり、山里なのだとアタマの中で呟いている。

 こうしたことが山村歩きの楽しみだ。本格的な山の世界から遠のいたあと、こうした楽しみに救いを求めたようだが、本来は街道歩きのように、こうしたスタイルも嫌いではなかったのだ。むしろ好きでもあったわけだ。最近テレビでよく見る“ロングトレイル”なるものへの興味も、こういうことの延長上にあるのだろうと、自分で思っている。

 しかし、日常しか見ていない人は、こういうボクの姿を見たらなんて言うだろうか?

 いや、待て…、家族ですらボクがこんな場所でうつつを抜かしていることなど想像もしていないだろう。

 かつて、岡田喜秋氏の本を読んでほくそ笑んだ記憶がよみがえってきた。

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 下って、さらに下って、先が分からないような谷の中で“単独”を楽しむ。

 “孤独”ではない。“単独”なのである。

 相変わらず、イノシシたちの行儀の悪さをいたる所で見た。しかし、この山村に住む誰かが植えたのであろう素朴な花々が、そんな傷跡など構うことなしに咲いている。

 もう道は下るばっかりになっていった。少し外れて、道草をする余裕も出てきた。

 ふと蕎麦の花が咲き広がる平地を見つけたりする。木々の隙間に、傾斜を登る細い道が見えたりもする。すでに、二時間半ほど歩き、さらにまた下った。

 もう一度幹線道路に戻って、また新しい道を探すのもいい。一瞬そう思ったが、今から登り返す元気はなかった………

 

 

 

 

 

 

 

蕎麦畑のそばにて


 蕎麦の花が咲き広がる風景というのは、山村にひっそりと存在するものだと思っていた。

 そして先日、富山の南砺市で出合った風景によって、その思いは変わった。

 その蕎麦畑は、とても新鮮だった。単なるボクのせまい見識の中でのことだったのかも知れないが、その爽やかに広がった風景は、まるで昔話の世界のように感じた。

 普通の道をクルマで走ってきた。そして、なんとなくアタマの中に予感が来た次の瞬間、周囲が蕎麦の花だらけになった。

 人家もあり、神社もあり、当然その鳥居もあり、おまけに青空があって、水の流れもあった。

 蕎麦の花にこれほど惹かれたのは初めてだった。

 すぐに細い脇道へとハンドルを切り、しばらくしてエンジンを切った。カメラを持って来ていてよかったと心の底から(と言うと、ちょっと大げさだが)思った。

 辺りをうろつきながら、何枚も写真を撮る。通り過ぎていくクルマの人たちが、不思議そうに見ていたりするのが分かる。

 しかし、こっちはその人たちの視線に構ってはいられない。

 時間にすると、二十分ほどいただけだろうか。

 蕎麦の花から、「ざるそば」や「もりそば」、ましてや「おろしそば」などを想像することはできない。まったく別モノだ。

 花は「蕎麦」という漢字で表現する方がよくて、食べるときは「そば」とひらがながいい。

 恥かしながら(と言うべきか?)、ボクと蕎麦との出合は、小田急沿線の駅にあった立ち食いの『箱根そば』であった。

 ただ、それは名称としての「そば」との出合であり、実際に食べていたのは「うどん」だった。一杯が百数十円の「たぬきうどん」が定番メニューだったのである。

 カネがなくなると、一日三食「たぬきうどん」だったこともある。

 富山のブラックラーメンの上をいくような濃い汁が、セーシュンの味だった。

 店員は無造作な仕草で、天かすをどっさりとうどんの上にかけてくれた。これもまたセーシュンの味であり、うどんと一緒に口の中で混ざり合った時の満ち足りた瞬間は、セーシュンの味の絶妙なインタープレイ体験(?)だったのである。

 正真正銘の「そば」との出合はいつだったのだろうか?

 たぶん、大学を卒業して社会人になり、金沢のそば屋さんで食べた「にしんそば」が最初だっただろうと思う。

 人生のナビゲーターの一人である、ヨーク(金沢ジャズの老舗)の亡き奥井進さんと、金沢のそば屋と言えば的存在であった『砂場』で食べたのである。

 どういう状況でそうなったかは忘れたが、ヨークがまだ片町にあった頃の遅い昼飯だったか…?

 奥井さんが店員に「にしんそば」と言った時、ボクも同じく…と言った。正直、本当は「いなりそば」あたりにしたかったはずだが、あの頃は奥井さんに追随する気持ちが強く、これも人生経験みたいな感じで注文したのだった。

 しかし、「そば」はボクにとって、その後しばらく強く望むような食べ物ではなかった。

 「そば」好きになったのは、いつの頃からか分からない。

 

 食材に恵まれなかった山あいの人たちが蕎麦を作っていたという話も、二十代の中頃、信州へ頻繫に出かけていた頃に知った。

 あの頃食べていたそばは、今ほど美味くはなかったような気がするが、単なる味音痴の的外れな話かもしれない。

 今は、あたたかい「いなりそば」か、冷たい「おろしそば」が好きである。ただ、そのことと蕎麦の花の風景とは特に何ら関係はない………

 

晩夏っぽい初秋の白川郷雑歩

 

 思い立ったように、家人と白川郷へと向かう。

 若い頃の思い立ったという状況には、ときどきクルマを走らせてから咄嗟に決めるということがあったが、齢を食うと、そんなことはほとんどない。

 今回は、なんとなくアタマの中でどこへ行こうかと迷いつつ、前夜のうちにほぼ決めていた。ただ、なかなか踏ん切りがつかず、一応朝決めたみたいな状況になったために、“思い立ったように”と書いたまでである。

 そういうことはどうでもよくて、久しぶりの白川郷は、まずとにかく暑かった。

 木陰も気持ちよかったが、歩いている途中で見つけた休憩所になった旧民家の畳の間も気持ちよくて、横になっていると、そのまま浅い昼寝状態に落ちていった。

 最初は我々だけだった。しかし、我々の気持ちよさそうな姿を見つけた往来の観光客たちは、当然のように、しかも怒涛の如くなだれ込んで来て(ややオーバーだが)、しばらくすると、かなりの混み具合になっていたのだ。

 さすがに世界遺産・白川郷なのである。

 今回も金沢から福光へと抜け、城端から五箇山へと山越えし、岐阜県に入ったり富山県に戻ったりを繰り返した。途中、五箇山の道の駅「ささら館」で昼飯を食べた。

 ささら館の店では久しぶりに岩魚のにぎり寿しを食べたのだが、早めに入ったおかげで、ゆとりのある昼食タイムになった。あとからあとからと客が入って来て、一時ほどではないにしろ、相変わらず高い人気であることがうかがえる。

 初めて来たのは、NHKの人気番組で紹介された後だった。あまりの客の多さに、店員さんたち自身が怯えているように見えたほどだった。

 白川郷に着いても、特に焦って動くほどでもなく、駐車場の奥の方にあったスペースにクルマを置いてゆっくりと歩きだす。

 庄川にかかる長い吊り橋には相変わらずすごい人が歩いている。真ん中が下がって見えるから、人の多さに吊り橋が緩んでいるのかと錯覚してしまうほどだ。言うまでもないが、実際にはそんなことはない。

 9月の終わりだからコスモスが目立つ。

 最近見なくなっていると、自分の尺度で珍しがっている。

 街なかの住宅地の空き地にコスモスが植えられていると、そのことが「しばらくここには家は建ちません」といったお知らせ代わりになっている…そんな話をこの前聞いた。

 コスモスはやはり高原とか、畑地に咲いているといったイメージがあり、ボクにはそうした場所で見るコスモスに強い親しみを感じたりする。だから、住宅地に無理やり凝縮型に植えられたコスモスを想像すると、なんだか情けなく感じる。

 そういえば、いつか能登の道沿いで出会ったコスモスのいっぱい咲く畑に居たおばあさんはまだ元気だろうか……と、白川郷のおばあさんを見ながら、能登のおばあさんのことを思い出したりした。

 もう何度も来ているから、白川郷のほとんどの場所は行き尽くしている。見学できる有料の合掌家屋なども、世界遺産になる以前に入っていたりするから、今さらながらだ。

 そんな中でまだ入ったことのない(であろう)一軒の家屋を見つけた。

 今回は特にメインの道というよりも、田んぼの畦に近いような脇道を歩いていたせいだろうか、その家屋はふと今まで見たことのなかった視界にあった。

 地元の人ではないような?… 都会的な匂いのするスタッフがいた。てきぱきと受け答えをし、忙しそうだったが、この家が生活の場でもあると確認し、ああやっぱり白川郷だなあと思った。

 世界遺産になって初めて訪れた時、こんなにも違うのかと、目を疑うほど観光客が増えていたのに驚いた。ちょうど今回と同じような夏の終り頃だったと思う。

 そして、集落の中を歩いていた時、部活から帰ってきたらしい中学生の女の子が、畑にいた母親の手伝いをしに行く様子を見た。

 すぐそこにあるといった日常の光景だった。

 周囲には自分も含めた観光客たちが、かっこよく言うと非日常を求め彷徨っている。しかし、その母娘の姿はまぎれもない白川郷の日常だった。

 もともと、日常が見えるからこそ旅は面白いのだという感覚があった。この集落を歩く時にも、なんとなく地元の人たちの日常を探すようになっていた。

 ずいぶん前のことだが、年の瀬の木曽で、年の瀬らしい日常を見せつけられ、独り淋しい旅の夜を過ごしたことがあった。学生時代の帰省と合わせた旅であったから、そこで見せられた民宿の中の日常の光景に望郷の念(大袈裟だが)が高まったのかもしれない。

 若かったが、冷たい冬の空気が体の芯にまで沁みていた夜だった。

 旅人が非日常を求めるというのは、そこで暮らす人たちの日常を見るということだとよく言われたが、それはさりげなくであるのがいい。

 ただ、自然などの普遍的なものとともにある生活様式も、時代とともに変化して当然だ。

 中学生の女の子が着ていた、どこででも見るような体操着。母親のおしゃれな帽子。どれもが日常である。

 暑さも増した午後、水田では稲刈りが普通に行われていた。

 こちらはただその場を通り過ぎていくというだけでいい。なんとなく感じるものがある。

 白川郷でいつも新鮮な思いを抱かせてくれるのが“水”だ。特に暑い日には、道端のその流れの様子そのものが爽やかさを伝えてくれる。

 道端の水が勢いよく流れているのを目にすると、その土地の豊かさを感じる。どこの山里でも同じで、それは単に農業や生活への恵みなどといったものを超越した豊かさのように思える。水の持つパワーは偉大なのだ。

 何気なくといった感じで、白川郷を訪れ、何気なくといった感じで白川郷を後にした。

 いつも立ち寄っていたコーヒー屋さんが閉まっていたのを、行くときに見ていたので、どこかで新しいコーヒー屋さんを見つけようと思っていたが、果たせなかった。

 国道を走ると、高速への分岐を過ぎたところで喧騒が消える。

 走っているクルマは極端に少なくなる、特に五箇山方面は。

 静かな五箇山の、村上家の近くで、ソフトクリームを食った。

 家人は「美味しい」を連発していた。自分もまあそれなりに美味いと思い、適当に相槌を打っていた。

 神社ではお祭りの準備が整っている。こきりこの祭りだ。 

 慌ただしそうで、それなりにのんびりとした時間が流れているなあと思っていた………

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

イーストウッドも ボクもジャズ的だったのだ

 <大それたタイトルに自問しつつ……>

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く姿を、先日初めて見た。

 NHKの、親しみやすくてとてもいい番組でのことだ。アーカイブだから、かなり前の番組だったと思う。そして、彼のピアノは驚くほどの腕前のように見えた。

 後方に、デューイ・レッドマンの息子であるジョシュア・レッドマンなどが立っていて、イーストウッドは長身の体を捻じるようにしながら軽快に鍵盤を叩いていた。

 高校時代、家の近くの店でジャズピアノを弾き、家計を助けていたという。

 そんなエピソードが、イーストウッドをさらに好きにさせた。

 ボクは『荒野の用心棒』で彼のファンになった。細めた目で短く細い葉巻を噛む表情がたまらなかった。まだ小学生だったが、あの表情を真似しようとしていたことは事実だ。

 それから『ダーティ・ハリー』でも、あらためて彼を好きになり、彼のトラッドファッションに強く憧れた。腰を屈めて銃を構える定番ポーズも、裾を萎めたスラックス姿にまず目がいったほどだ。

 

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く。

 そのことと、映画監督としての共通点について彼は語っていた。そして、そのことが自分にも当てはまっているなと感じ嬉しくなった。

 イーストウッドが語っていたのは、映画を作る上で大切にしている「直感性」と「即興性」が、ジャズをやってきたことの影響かもしれないということだった。

 この言葉は、ガツンと胸を突いた。胸を突いてから、いい意味で胸を苦しくした。

 久しぶりに味わう名言だった………

 

 ジャズを聴くようになったのは中学生の頃だ。まわりにはそういう友達はいなかった。

 その後もずっとジャズを聴き、ジャズ的に趣味の幅を広げ、ジャズ的な価値観を軸にして生きてきたように思う。

 自分には他の連中とは異なる感覚みたいなものがあると今も思っているし、どれだけ頑張ってもカンペキな同調など求められないと感じるケースがよくある。

 そして、ジャズ的感性はニンゲン関係やそこから発展していった趣味・嗜好の世界、そして、仕事の世界でも存分に威力を発揮してきたと思う。

 面白い発見もあれば戸惑う場面などもたくさんあったが、それらはボクのそうした感性がもたらしたものではないかと思ったりする。

 そして、趣味の世界ではそれをコントロールできても、仕事の世界では何度もマズかったかな?という場面に遭遇した。

 

 何年か前、あるイベントでパネルディスカッションを任された時だ。

 つまり、よくあるコーディネーター役をやってくれと頼まれたのだが、ボクは一週間前のパネラーたちとの打ち合わせに紙切れ一枚の資料しか持参しなかった。

 そして、堅苦しいネーミングをやめ、「トークセッション」とし、自分の役割も「ナビゲーター」としてくださいと主催者に告げた。

 なんとなく、そんな感じがよかった。そして、いつも通って(入り浸って)いた「香林坊ヨーク」というジャズの店の、奥井進マスターとのやりとりをアタマに描いていた。

 トークを「遠く」と重ね、“ 近くでトーク ”などと表現したりしていた。

 打合せで、全く説明らしきものもないまま、自分はこんなスタンスで進めていくので、皆さんにはその場の雰囲気でお答えいただければ…みたいなことを話した。

 すぐに主催者側からクレームが出た。もう少し詳しい説明をお願いします…などと怪訝そうな顔つきで言われた。

 が、ボクは通常の仕事でパネルディスカッションというものの“つまらなさ”を実感していたこともあり、説明はそれ以上しなかった。

 実はこの役目は私的にオファーがあったもので、ボクはかなり挑戦的でもあった。

 ゲストたちも自分で選んだ金沢のクリエイターたちで、そんな彼らが持っているであろう感性に期待し、本番ではシナリオなどのない臨場感に満ちたトークを求めていた。

 そして、彼らは期待に応えてくれ、本番はそれなりの思いを残してフィナーレを迎えた。

 打ち上げの時、普段あまり褒めてくれることのない某大学教授が、真っ先にビールを注ぎに来てくれた。

 しかし、その時のトークセッションは、今カタチになって残っていたりはしない。

 それはN居というナビゲーターが、たいした地位になかったからに過ぎず、もしそれなりの地位にある人が同じことをやっていたら、活字化されたりして広がっていたかもしれないと思う。

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 あの時のことを振り返ると、自分はジャズ的だったなあ…とはっきりと意識する。

 そして、今も当然変わりようはないのだが、そういう感覚をいつも好意的に受け入れてきたという認識もない。

 いや、逆に人生の重要なポイントみたいなところでは、その感覚によって損をしていたかもしれない。先を見て生きていくということが得意ではなかった。

 しかし、それがジャズ的だった…なのだ。

 エリントンが、レコーディングのやり直しを迫るコルトレーンに、ジャズは即興だから…と諭したというエピソードがすべてを物語っている。

 ボクはずっとジャズ的だ。今は亡きヨークの奥井さんにつけたキャッチ……「ジャズ人生からジャズ的人生へ」の意味を、今まさに自分に当てはめている。

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾いていたこと。

 直感的に、即興的に…… 何の意味もない創作話をこしらえたり、今こうして、自分のなんでもない周辺話を綴っているのも、まさにジャズ的なのだと思う…………

北信濃・温泉町のひまわり

 夏、北信濃の湯田中温泉のある古い宿に泊まった。家族と一緒だった。宿に入ってすぐ地震があって、短い時間だがかなり揺れた。なんとそこが震源地だった。生まれてはじめて、震源地で地震を体験したのだった。

 その宿は風呂場がトテツもなく凄かった。なにしろ有形文化財の指定を受けており、豪壮な木造建築がそのまま浴場になったような感じで、とにかくトテツもなかったのだ。

 そして、翌朝早く、朝飯前の単独行(散歩)で出合ったひまわりにも感激した。

 それは当然文化財ではなかった(…と思う)が、質素に静かに温泉町らしい空気感を醸し出していた。

 最近では、ひまわりを広く団体で植えて迷路を作ったりするのが流行っていて、ああいうのもそれなりにいいのだが、今回出合ったそのひまわりは、数本の仲間とともに、趣のある和風の家の庭から咲き出していて、特に板塀の上から、こちらを逆に覗き込もうとしている様子がよかった。

 出合ってすぐ「おはようございます」と、あいさつをされているような気分にもなり、ひまわり特有の天然の明るさに親しみを感じた。

 そして、しばらく佇んで見ていると、さらにまた何か話しかけられているような、そんな気もしてくるのであった。

 板塀がいいと思った。それも竹で作られたような板塀で、都会にあるようなイメージのものではなく、やはり北信濃らしいというか、素朴な材料が使われている感じがしていいと思った。

 その奥に建つ家屋も非常に雰囲気が良くて、そこに住んでいる人たちの、麗しい夏の生活が目に浮かんでくるような気がした。

  一度だけ、我が家でもひまわりを植えたことがあったことを思い出していた。

 一気に10本ほどのひまわりが咲いてくれたが、自分から見て美しく咲いてくれたのはわずかで、多くは美しい咲き方をしてくれなかった。

 成長していくスピードにムラがあって、大きさもアンバランスだった。

 満開になってからの数日はそれなりに嬉しかったが、だんだんみすぼらしくなっていくと、人に見られるのも嫌な気がして早めに切ってしまった。あれ以来、ひまわりは他の誰かが植えたものを見るようになる。

 そして、夏の終わりごろの、かなり落ちぶれたひまわりを見ては、こうなる前に何とかしてやればよかったのにと思うようにもなっていた。

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 泊まった宿は温泉町の奥深いところに位置していて、宿の周辺は静かな住宅地といっていいような雰囲気だった。俗に言う「温泉街」ではなかった。

 ひまわりに出合う前、すぐ近くにあった寺に寄った。

 小林一茶の句碑がある…

 子ども等が雪喰いながら湯治哉

 草履もない貧しい農家の子供らの、温泉に入りに行く楽しみ…… そんな光景を詠んだ句とか……… なんとなく目に浮かんできて切なくなる。

 一茶の気持ちを少しだけ理解した思いで、本堂の前に立ち手を合わせた。

 境内を出て、少し歩き、高台から見下ろす夜間瀬川の方向と反対側の小高い山並みを見た。そして、特に目引くものはないなあと思いながら引き返して、宿の前を通り過ぎた。

 夜間瀬川は「よませがわ」と読む…ということを後で知った。

 それからしばらく歩いて、一本脇道に入ったあたりで、ひまわりと出合ったのだ。

 こうした旅の際にときどき思うのだが、この脇道に入るといった感じが大切だ。

 特にどうということもない生活空間だが、旅のニンゲンからすればあくまでも非日常の空間である。

 必ずと言っていいほど、得した気分になれるシーンがある。だから、勇気を出して(というほどでもなく)足を踏み入れるのがいい。空気感だけでも、心に響くのだ……

 ひまわりの家の前あたりから、細い道はゆるやかに曲がっていく。

 曲がった先は見えず、さらに歩いていくと、またその先もゆるやかに曲がっていた。

 明け方だろうか、少しだけ降った雨の水たまりがある。

 空き地に不規則に建つ民家が、静けさを一層助長しているように見えている。

 どこかで感じた空気の匂いがしたが、ここでは思い出せず……

 その後、二十代の頃、信州方面の行き当たりばったり旅で、泊まるところがなく、山あいの湯治場の宿に入れてもらった時のことを思い出した。

 少し違ったが、あの時、日が暮れた山村の道をクルマで走らせながら見ていた風景は、あんな感じだったかもしれない。

 ほんの一瞬のことだったろうが、かなり寂しい風景だった。

 ただ、そんな風景も翌朝見た時には夏の強烈な朝日を受けて輝いていた。

 

 これはいつか深く書きたいと思っているが、「信州」というこの二文字に弱い。二十代の頃から、この二文字を目にするとなぜかココロが躍った。

 ココロが焦ることもあった。その焦りは異常なほどに膨れ上がって、胸を苦しめたりもした。

 ときどきどこかで書いているが、山岳や高原や森や林や田園や河原や山里や…、自分の好きなものがすべて信州にあった。

 今こうして家族旅行で訪れた温泉町も、どこかにそんな思いがあって選んだ場所なのだと思う。

 

 ぐるりと回って、またひまわりの前に来ると、さっきよりもいくらか明るくなった気配の中に、ひまわりも少し姿勢をよくしているように見えた。

 見ていて飽きないが、家の中の人から見ると怪しい通行人の存在にちがいないだろう。

 しかし、このひまわりは、どこか他のひまわりと違う… そう思えてならなかった。

 とにかくどこか大らかで、やさしくて、ものに動じないような逞しさもあって、信州の北信濃の美しい風に揺られながら、夏の一日一日を楽しく過ごしているのだろうと思えた。

 離れがたかったが、その場を去る時が来た。

 そして、大げさすぎる思いを、もう一度ひまわりへの視線に託した。

 もうお会いすることもないでしょうが、お元気で。

 ひまわりがそう言っているような気がして、なんだか寂しかったのである……

風鈴の音が……

 風鈴を買ってきて窓際にぶら下げたが、なかなか鳴らない。

 真鍮製のおしゃれなデザインで、値段も風鈴を買うという自分のイメージからすると、それなりのものだったのだが、鳴らないので物足りない気分でいる。

 最初は、下げた場所の問題かと思ったが、どうやらそれだけではないのではと考えるようになった。たぶん下に付いている紙の部分の形状ではないかと思ったからだ。

 風を受けるには下の紙が細すぎるような……

 この紙のことを短冊と呼ぶのだそうだが、このネーミングからするとやはりデザイン性も重視されて仕方ないのかもしれない。

 が、しかし、やはり風鈴は鳴ることに意味がある。

 しかも、やさしい風というか、わずかな空気の動きにも敏感に反応してくれるものの方が価値は高いのではと。

 真鍮というテイストからすれば、そう捉えても不思議はないだろうと思う。

 今のところ(買ってから一週間ほどが過ぎて)、自然の風では一度も音を発していない。

 短冊は微妙に揺れたりするが、よく見ると回転しているだけだったりもして、役割を十分に果たしていないような感じにも見えたりする。

 ときどき、いい風が家の中に入ってきたりすると、十分に涼しさを感じているにも関わらず、風鈴が鳴らないことでその涼しさが半減したり…… 不信感はさらに深まり、どうも納まりが悪い。

 対策としては、短冊を作り替えるしかないかと………

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 世の中では風鈴は夏のものと決まっていて、その機能は涼しさの演出というところだろう。

 音で涼しさを感じさせるなんて、ちょっと不思議で凄い機能のような気もする。

 そもそも音で涼しさを感じるというニンゲンの感覚そのものも凄い。

 生(ナマ)で聞くせせらぎの音や、木の葉の擦れ合う音などが、涼しさを感じさせる代表格と思うが、そこには視覚的なイメージが付いている。

 かき氷機の氷を削る音などもあるが、鼻の付け根の奥あたりに激痛が走ることを想像してしまうのであまり好きではない。

 風鈴はそうした意味でいうと、音の素が焼物やガラスや金属などだから、奇妙な存在だ。まさに音そのものの中に涼しさの要素を秘めている。

 風鈴の音を聞き、風鈴が揺れているのを目にすると、「暑いなあと思っていたけど、それなりに涼しいのでは…」と、つい思ってしまうような。

 しかし…… しっかりと外から風が吹き込んで、部屋中が涼しく満たされているのに、風鈴だけが自らの使命を忘れて鈍感な態度をとっているとなると、やはりおかしい。

 風鈴が鳴らないという現実によって、豊かな感性を持っているはずのニンゲンの尊厳が失われかねない。

 そういうことで、風鈴は姿かたちももちろん重要だが、やはり音が出やすくなっているということにも存在意義があるのではと思うのだ。

 かつて、商店街の夏の行事で風鈴をやたらと吊り下げるという企画があったが、正直言ってあれはうるさ過ぎた。音もガチャガチャといった感じだけで、風情が逆になくなってしまっていた。

 そういう意味では、ちょうどいい具合に上品に鳴ってくれるくらいがいいのだが、そこがまたむずかしいところなのだろう。

 ところで、風鈴は夏と言うが、音を楽しむということからすれば、秋でもいい。秋風と風鈴という組み合わせの方が、日本的な気がしないでもない。

 蚊取り線香がなくならないで、ずっと愛されていると聞く。蚊は夏だからいいとして、風は年がら年中吹くものだから、風鈴もそれなりに鳴っていてもいいのではないかと思ったりする。

 わが家の真鍮製風鈴も、そうした存在でいてもらおう……

 

 

白いワンピースの少女

 海につながる道にさしかかると、よくドキドキした。

 今は全くそういうことはない。

 かつて、誰かの小説に、白いワンピースに麦藁帽子をかぶった清楚な少女が海辺から歩いてくる…といった内容の話があり、はるか以前、つまり小学校の頃、同じような少女にわがゴンゲン(権現)森の浜で出会ったことがあって、この一致があって以来、どうもそのような場所には白いワンピースの少女がいそうな気がしていた。

 出会ったその少女も、白いワンピースがかなり似合っていた。

 余計なお世話的に書いておくと、ワンピースはフォーマルっぽいのではない。風にひらひらと靡くようなものだった。

 しかし、はっきり言って、廃れ果てた魚捕りの孫的少年には、身分や育ちやその他モロモロの違いが歴然としており、半径約五メートル以内にはなかなか入っていけなかった。

 少女はボクよりいくつか年上だったように思う。街の子であることは間違いなく、一緒にいたお母さんも完ぺきに街のお母さんだった。

 なにしろ、おやつのお菓子を持っていた。

 われわれ(急に構える)みたいに、海に潜って採ってきた貝を、砂の上で焼き、熱いのをそのまま海水に浸して頬張るなどといった輩とは違った。

 ふかふかして見えるハンカチも持っていた。それを額にあてたりしながら、ちょっとまぶしそうな顔をすると、その表情が天使の可愛い怒りのようにも見えた。

 もちろん彼女は怒っていたわけではない。

 街から来たであろうと思われる海水浴の少年少女たちは、たまに海の中でやや臆病そうな素振りを見せたりした。すると、われわれは近づいて行き、わざとバタ足でしぶきを上げ、そして、そのまま周辺に潜ったりした。

 こうした街の子たちは、浜茶屋が出来た頃から自家用車に乗って、わがゴンゲン森海水浴場にも来るようになっていた。当時のボクには新鮮な存在だった。

 が、そんな中でも、白いワンピースの少女は別格だったような気がする。彼女は、それまでの十年ほどに及ぶボクの人生の中で、最も輝いていた女性だったと言っていい………?

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 そんなわけで、八月の下旬のよく晴れた暑い午後、いつもの志賀町図書館で用事を済ませた帰路、柴垣の海に出る細い道に入り、そのまま海岸までクルマで乗り入れさせていただいた。

 その途中にあった海に出るあたりの光景が、なぜかとても懐かしく、ちょうど西に傾きかけていた陽光もまだまだ鋭くて、やっぱり夏だなあといった心持にさせてくれた。

 腰紐をうしろで縛った白いワンピースの清楚な少女が、両手を軽く腹の前あたりで重ねながら歩いてきても不思議ではないと思ったが、当然そんなことはなかった。

 砂浜に革靴で立つ…… 海を見る。空を見る。白い雲たちが好き勝手に流れ、実にアヴァンギャルドな光景を描いている。

 青い海に白い波、青い空に白い雲、夏は青と白でできている。

 海で育った少年時代の思い出の中に、白いワンピースのちょっと大人っぽい少女の姿があるのも、たしかに正当な存在なのであるなあと納得する。

 砂浜に立っていたのは、ほんの五分ほど。白いワンピースの少女の思い出は、その後すぐに、寂しく消えていった………

 

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え 

 旅ごころが自分の中に根付いたきっかけは何だったのか? 

 この古い本は最近になってヤマケイ文庫で復刻したものだが、その中に懐かしい答えがあったような気がした。

 岡田喜秋著『旅に出る日』。90歳を越えた著者の青春時代の出来事を綴ったエッセイが、旅と人生とをつなぐ素朴な何かの存在を教えてくれる。

 いくつかの作品に心を動かされたが、特に『常念岳の黙示』という一編から感じ取ったものは、今も心の奥に届いたままになっている。

 東京人の著者が、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだ理由が、どこか清々しく、そして、なぜか切なくもあって、読んでいる者(つまりボク)の心に迫る。

 それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしたのかもしれないと考えさせる。

 そして、安曇野に立ち、“自分に黙示してくれるもの”として常念岳を見つめていた著者の姿を想像すると、どこか切迫感に襲われたりもするのだ。

  『常念岳の黙示』の中で、特に山に傾倒していく著者の、山は動かない…つまり、山は黙ってすべてを分かってくれている…そうした解釈と、そのことによる安堵の心境表現がとても好きだ。

 山を含め、風景にはこのような黙示のチカラがある。

 星野道夫もどこかで書いていたが、このチカラが何かの決断に作用することもある。ヒトの心情を動かし、さらにヒト自身の形成に影響を及ぼすとさえ思える。

 そして、ヒトが旅をするのは、そうした風景のチカラに促されるからなのだろうとも思う。

 ボクは人に自慢できるような大それた旅など経験していないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。だからこそ、風景(や情景)などに素直に向き合おうとしていたのだと思う。

 風景にはすべてが止まったままで、動きがないということはありえない。上空の雲たちや、山里の家並みからのぼる炊事の煙や川の流れも形を変えていく。時間の経過などから、その色や陰影をかえていくことも普通の現象だ。

 しかし、底辺にはやはり動かないものがあり、それ自体にまず大きなチカラを感じ取るのだと思う。

 二十代のはじめ、上高地を初めて訪れ、穂高の連峰を見上げた時の感動は今でも忘れないが、その根底にあったのは圧倒される山岳風景の偉大さだったのだろう。そして、あの時から確かに自分の中の何かが変わっていった。

 ボクはあの時以降、本格的に山に向かうようになった。山に登るだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ちだした。

 すでにずっと購読していたジャズ誌に加え、『山と渓谷』も購読し始めた。

 さらに、街にいて仕事をしていても、山のことを考えるようになり、実行できなかった計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送っていた。

 今から振り返ると、仕事で様々なことをやらかしてきたが、何をやっていても山の世界に憧れてばかりいるニンゲンという認識を持たれていたとも思う。

 山はそうした意味で、奥深く、やはりあこがれの対象になり得たのだ。

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 常念岳から黙示された著者も、あくまでも山=常念岳そのものを見た。常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたというラストには純粋に感動を覚える。

 「黙示」の意味を考えながら、久しぶりに何度も読み返した。そして、またあらためて旅について考えようとしていた。しかし、なぜかアタマの中が整理できなくなり、ついには山のことに対する後悔ばかりを考えるようになってしまった。

 ただ、今自分が毎日の煩わしい時間の隙間に実行している、山里歩きや森林歩きなどを思うと、その素朴な楽しみが旅の延長上にあったのかもしれないと思う。

 そして、こういう心持に決して今の自分は満足していないということも事実で、またそのうち、北アルプスのどこかに自分という存在を置いてみたいと考えてもいる。

 何がそうさせるのかは分からないが、とにかくあこがれが絶えるということは、自分にはまだまだないような気がする。黙示する何かをずっと探し続けていくような、そんな気がするのである………

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※岡田喜秋氏は、月刊誌「旅」の元編集長。ボクにとっての氏の存在は、『山村を歩く』から始まった。氏の話にはとても付いていけないスケール感もあったりするが、ボクが求めている小さな旅心みたいなものと共通する何かもあって、最近では、大体手の届くところに氏の本が置かれていたりしているのだ………

夏はいつも凄かったのだ。

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金沢と能登をつなぐ「のと里山海道」が、

まだ「能登有料道路」と呼ばれていた頃の話だ。

終点穴水の少し手前で、道路上に光る黒い点を見つけた。

次の瞬間、その光る点は放射線状に広がったように見え、

すぐに弱い光になった。

バックミラーで後続車のいないことを確認すると、

ボクはゆっくりとブレーキを踏み、そしてクルマを停めた。

黒く光った物体は静かに、そしてかすかに動いていた。

クワガタだと分かるまでには、それほどの時間も要せず、

敢えて近づこうともせず、

その黒くて弱い光のゆっくりとした動きを見ていた。

夏は凄いなあ………

その時、そんな言葉がアタマに浮かんだ。

熱いアスファルトの上をクワガタが動いてゆく。

そのクワガタが、光を放っている。

そして、ボクはその光景を見ている。

その先には陽炎が、はっきりと目に見える。

額には、うっすらと汗がにじんでいる。

照り返しがきつい。

目をずっと開けているのは少しつらかった。

やっぱり、夏は凄いと思った。

そして、なぜか嬉しくなった。

足を開き、膝に両手をおいた。

熱くなったカラダが、またさらに熱くなっていく。

しかし、それを楽しんでもいる。

やっぱり、夏は凄いのだ。

夏の凄さが、静かにだが、ココロを躍らせている。

 

あれからもう何年も過ぎてしまった。

ただ、ずっと昔の、夏の一瞬がまだ生きている………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

笑顔について

 最近、ちょっと笑顔をつくることに慣れてきたような気がしている。

 家族で旅行したり、ちょっとした行事があったりすると写真を見せつけられるので、これまでのように(?)無粋な表情ではややまずいなと、(今更のように)反省するようになったのだ。

 笑顔は、そう簡単につくれるものではない。

 二度三度と、口元を横に引っ張ったりしながら(もちろん手などは使わない)、少し練習し、いよいよ本番というところで、思い切り笑顔ですという顔をつくるのである。

 しかし、実際に上がった写真を見ても、それほど笑っていない自分がいたりする時もある。それどころか、ほとんど笑っていないだろうと思われる場合もあったりして面倒なのだ。

 若い頃の写真にはよく笑っているのがあるが、年齢とともに笑顔が減ってきたのだろう。

 笑い自体は大好きだし、本当はいつも笑っていたい……

 

 笑顔で思い出すのは、小学校、中学校と同じだった某クンのことだ。

 某クンは、いつも笑顔だった。少なくとも、いつも顔は笑っているように見えた。

 笑顔と特に関係はないが、某クンは足も速かった。

 笑いながら走っていたかどうかは記憶にないが、とにかく回転の速いピッチで運動場を駆け回っていた。

 そして、いつも笑っているように見えたから、某クンを嫌いになる者はいなかった。

 その某クンが本当に笑うと、その笑顔はますます濃い笑顔になる。

 そうでないときの顔が本当は笑顔でなかったのかもしれないと不安にもなる。

 実際に、いつもの笑顔が少し薄れただけで、某クンはとても真剣そうに見えた。時には、深刻そうにも見え、ますます心配になっていくのである。

 しかし、元気がなくなったのかなと思わせたその直後に、また平常通り(?)の笑顔に戻ると、また激しく嬉しい気分になった。

 つまり、某クンの笑顔はボクにとってとても大切な存在だったということだ。

 もう何十年も会っていないが、今でも某クンは笑顔でいるのだろうか。

 

 ところで、高校生の頃の古い話だが、まさしくバレンタインデーの夕方、街(片町の旧うつのみや前あたり)で背中に何かを感じた。

 振り返ると、突然「これを受け取ってください」と、その日の定番的プレゼントであるところの、そのモノが入っているであろうと予測される美しい箱が差し出され、恥ずかしそうにその女子(当然だが、高校生)が下を向いていた。

 それから、急に真剣な顔でボクを見て…、その後どうなったかは忘れたが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。

 自分が笑いかけようとして笑えなかったことである。すると、その女子(たぶん年下の高校生)が、こう言った。

 「笑っているより、真剣な顔しているのがいいです……」と。

 そして、彼女はそのまま軽快に駆け出し、歩道の雑踏の中に消えていったのだ。

 と、誰かが昔の話をしていたのを思い出した。

 なぜか、冷汗が出てきたので終わりにする………

 

 

 

アラン・ドロンよりも ジョン・ウエインだった

 アラン・ドロンが現役を引退するというニュースを聞いて、なぜかいろいろなことがアタマの中に蘇ってきた。

 小さい頃から洋楽・洋画の世界が身近にあったせいで、かなりませた田舎少年へと成長していったのだが、アラン・ドロンという存在はどうも苦手で、家にいつもあった映画雑誌に写真が出てくると(大概必ず出ていた)、なぜか目をそらしたり、すぐにページをめくったりしていた。

 それは、彼には必ず女優の匂い(こんなの田舎少年の実感ではないが)が付きまとい、そこら辺のところで、まだ小学生の身にはちょっと正視できない雰囲気があったからだと思う。

 そして、“したり顔”で二枚目を誇っているような様子などで、ひたすら不健全なイメージしか持ちようがなかった。

 アラン・ドロン系のことでいい印象というと、『太陽がいっぱい』のテーマ音楽だ。

 あのサウンド・トラックだけはよく聴いた。シングル盤だったと思うが、子供心にも、三拍子のリズムがキラキラと輝く海面と、その上で揺れ動くヨットを思い浮かべさせた。自分が海で育ったせいだろうか。『地下室のメロディ』のテーマなんかも家ではよくかかっていたような気もする。

 ついでに書くと、この手の音楽では『鉄道員』というかなり切ない映画のテーマも好きだった。いや、好きだったかどうかは分からないが、よく聴かされていて、耳に馴染んでいくうちに少年のココロにもそれなりに何かが届くようになっていったのかもしれない。

 最近ほとんど聴く機会はないが、ボクにとっての切ない系音楽の代表格と言えるかもしれない。懐かしい。

 『太陽がいっぱい』も『鉄道員』も、映画そのものは見ていなかったが、ストーリーは読み込んでいて、子供ながらもそれなりに理解していたつもりだった。

 アラン・ドロンから始まったが、本来フランスの俳優(映画も)にまったく興味がなかったのは、西部劇を中心にして活劇ものばかりを見ていたからだ。

 もちろん兄の影響があってのことだが、ボクの最大のヒーローはジョン・ウエインだった。

 つまり、強くて、頑固で、口下手で、女なんか面倒臭せえ…みたいな、最近そういう人物像を描いても全く受けないであろうことは十分に予測できるが、そうしたジョン・ウエインの役どころが好きだった。

 ちょっと高めのハット、しかめっ面で、首に巻いていたあれはバンダナだろう、チョッキには保安官バッチが光り、ライフルをだらりと下げ、やや肩を傾けながら歩く姿は全くカンペキにかっこよかった。

 本場アメリカの西部劇が、ただ分かりやすいだけの単純な活劇から脱皮していく過程で、マカロニ・ウエスタンなるものが西部劇を変えるようになっていくが、ボクが西部劇に求めていた要素のひとつは、スクリーンに広がる壮大な風景描写でもあった。

 アメリカでのロケがむずかしくなり、スペインなどで撮ったという話もあったが、あの広々とした大地での活劇そのものが、ボクにとっての西部劇の魅力だったのだと思う。

 音楽もマカロニ・ウエスタンになってからは、一層濃くなった。いや個性的になったと言うべきかもしれない。

 ハリウッド時代の西部劇テーマも名作ばかりで、うちにはほとんどのレコードがあった。そして、それらはほとんどが先に音楽だけを聴いていて、実際の映画は大学生になってから見たり、テレビの洋画劇場で見るしかなかったものもあった。

 マカロニの方が流行り始めた頃のエンニオ・モリコーネの音楽は、最近でもたまにラジオから流れてきたりすると嬉しくなる。

 マカロニの俳優では、イーストウッドよりも、ジェンマよりも、フランコ・ネロが好きだった。

『真昼の用心棒』のフランコ・ネロは、少し弱さも併せもったガンマンの役で、そういう意味ではジェンマにも共通するものがあったが、ネロの方がはるかに人間臭く、男臭く、役者的匂いも強力だった。ついでに言うと、ネロは顔も凛々しくて好きだった。

 最後にアラン・ドロンについて、自分の中の数少ないエピソードをもうひとつ書くと、三船敏郎、チャールズ・ブロンソンと共演した異色の西部劇『レッド・サン』で、ボクのイメージに合ったドロンらしい役を演じていたが、あの中での最も軽い存在感には充分納得したのを覚えている。

 ただ、なんとなくあのあたりからドロンに対する偏見(?)は、急激に修まっていったような気がする。

 まったく西部劇的ではないとするドロンを思いながら、そう言えば、武士役で出ていた三船などもカンペキに西部劇的ではないな……と、当たり前のように考えていくと、やはり映画の世界での大物俳優たちの存在感は共通するものなのだと、子供の時に感じたことを引きずってきた自分を反省した。

 しかし、アラン・ドロンの出演した映画は、結局『レッド・サン』しか見ていない。正式に言うと、映画館でということだが、あの『太陽がいっぱい』も、BSの映画劇場で見ただけだった。

 本来、アラン・ドロンについて考えても、つまるところはジョン・ウエインなどの話になってしまう、そういうことなのだろうと思う………

金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など

 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 

まぶしいほどの新緑の中で夏を考えた

 静かな沼の脇にあるベンチに腰かけ、まぶしいほどの新緑に浸っていると、ふと、そろそろまた夏が来て、その夏が去っていく頃、また少し寂しいというか、空虚な気持ちになるのかもしれないなあと考えている。

 まだまだ夏は来ないのだが、それでも来るのは確実に決まっている。そして、そのままずうっと夏が続くのではなく、去ってゆくのも確実に決まっているのである。

 その夏に対して、何ら計画もなく、ただ薄らぼんやりと過ごしてしまう予感が今年もある。

 しかし、実行できないのはかなりの確率で予感できるのだが、まだ春の余韻の中にいる時季だから少し自分らしい夏について考えてみようと思ったりもする。

 夏は若者のイメージだから、夏に執着するのはオトッつぁんらしくないが、少し違う何かが自分の中にあったりするものだから、敢えて考えてみるのである。

 

 かつて、『ポレポレ通信』という無分別書き下ろし型プライベート紙(誌ではない)を出していた頃、よく夏のことを書いた。

 夏に向けての計画についても、夏の終わりのレポート的雑文なども書いていた。ただ今と違うのは、当時はほとんどが実現する(した)話だったのだ。

 普通(上辺は)のサラリーマンであったボクには、普通に夏休みの時間があり、普通にそして身軽に何でもできる環境があった。基本的にほぼ自分のやりたいように夏は組み立てられていた……と言っていい。

 その頃の夏は、たとえば八ヶ岳山麓や、信州の高原などの自然の中で過ごす一週間などに賭けていた。そこでの夏休みは、今でも最高のもので、社会人になって以降、秘かに(近い)将来ここに住もうと考えていたほどだ。

 そう言えば、今年の夏はその八ヶ岳山麓に行きたい…と、正月あたりだったか、誰かに語っていた記憶がある。

 なぜ八ヶ岳山麓への思いが再燃したのかははっきりしないが、たしかに“再び八ヶ岳へ”へと、自分の中に旅行代理店の「八ヶ岳キャンペーン」みたいな風が吹いていたのだ。

 しかし、今年の夏にはすでに予定があって、その構想は実現に至らないことも予想している。

 その予定というのは信州方面への家族旅行である。その意味では文句など言ったら罰が当たるといった類のものだから、素直にというか前向きに受け止めなければならない。

 それに八ヶ岳は無理としても、うまくいけば上高地あたりのワンディ散策くらいは実現するかもしれない。

 楽しい夏になる可能性はそれなりにかなり高いのである。

 そう思って振り返ると、去年の夏は旧軽井沢にて美酒に酔い、かなりクリエイティブな早朝森林歩きでアタマとカラダの浄化を果たしてきた。

 本格的な山行から遠ざかる日々の中、山里歩きや森林歩きなどはより深みを増していると強く感じるが、かつて吸い込んでいた信州や八ヶ岳周辺の空気が、自分に何かいいものを残していてくれたのだろう。

 そんな風に考えながら、もう一度夏について考えてみると、今の下品な日々などもかなり払拭されていく。

 まだまだ成長途中の新緑の中で、夏への思いも同じように中途半端でいいのだと、今は自分に言い聞かせている。

 日差しが強くなり、緑の草が放つ夏らしい匂いを感じるようになってきた………

 

喫茶・Eでのひさびさの時間

 紺屋坂を上りきると、兼六園と金沢城公園への入り口である石川門とで方向は左右に分かれる。

 実際は左右という感覚ではないし、四方に道が伸びているといった感じだ。

 その中の左に直角に曲がる道を歩いていくと、いくつかの店を過ぎたところに喫茶・Eがある。

 タクシーが並び、公衆トイレも昔からあってよく利用させてもらったが、やはり喫茶・Eの存在の方が当然のように麗しい。

 喫茶・Eには久方ぶりに入った。

 クルマを止めておいた駐車場の方へ近道をしようと歩いていた時、前を通ったのだ。

 ボクのアタマの中では、喫茶・Eは店じまいをしたというイメージがあった。

 しかし、今は白く塗られた壁の中の窓から見える店内には明かりがつけられ、女性客二人が笑い合っている様子が見えた。

 玄関には「珈琲」と書かれたアナログ看板も立てられてある。

 なぜか少し躊躇しつつ、店に入った。

 そして、さらになぜか「よろしいですか?」と声を発した。

 すぐに眼鏡をかけた店の方が出てきてくれ、どうぞどうぞ……

 お時間はありますか?と問われる。

 コーヒーは豆を挽いてからなので、お急ぎの方はちょっと…ということなのだ。

 こっちは少々時間がかかるぐらい問題ではなく、これから畑へ行って豆を採ってきますと言われると考えたかもしれないが、豆を挽く時間など惜しくはなかった。

 外から見えた二人連れは、入れ違いに出て行った。

 店はボクの独占状態になったが、コーヒーを注文してからしばらくすると、今度は観光客らしいミドルの五人組女性グループが入ってきた。

 ちょっとウルサくなるなと思ったが、ちょっとどころではなく、かなりウルサくなった。

 時間もたっぷりあるらしく、雑誌やらを広げて芸能界のどうでもいいようなニュースを話題にして盛り上がっていく。

 わざわざ金沢でこんな話をと思うが、聞き流すことに専念する。

 店に入ったところで、自分が来たのは四十年ぶりぐらいだということを店の方に告げた。

 すると、やさしいまなざしの店のお母さんが、店はできてから五十年くらいになりますかねと答えてくれる。

 ということは、開店後十年あたりからの数年間に何度となくお邪魔していたことになる。

 

 読みかけの文庫本を取り出して読み始めるが、なかなか軌道に乗らない。

 ようやく少し活字に目が慣れた頃になってコーヒーが来た。

 横にはデザートみたいなものが… 手作りだそうだ。

 店のお母さんの醸し出す雰囲気が、こうしたものを連想させるに十分だった。

 コーヒーも美味い、いやこの場合は、「美味しい」だ。

 

 記憶では、この店にいたのはいつも冬の寒い夜だったような気がする。

 いや、思い違いかもしれない。なにしろ四十年ほど前の話だ。

 外の階段を上って、二階の店内に多くいたような……

 一階はいつもいっぱいで、にぎやか過ぎたような……

 タバコを吸っていた。セブンスターという銘柄だった。

 ZIPPOのライターを使い、使い終わった後の蓋の閉め方には一応こだわっていた。

 当時、喫茶・Eにはどんな音楽が流れていただろうか?

 クラシックだったような気もするし、そうでなかったような気もするが、記憶は完全に曖昧だ。

 

 そして、ボクはここで活字を追っていた。

 と言っても、神経質な読書家ではなかった。

 その頃、ボクが読んでいたのは何だったか?

 いろいろ濫読の時期だったから、具体的にはわからないが、この店の当時の雰囲気からすると、日本の近代文学ものを中心に気合十分で読んでいたに違いない。

 いや、それも卒業し、紀行ものやさまざまなドキュメンタリーものを読んでいたかもしれない。

 体育会系のブンガク及びジャズ・セーネンであったボクは、それなりに緊張感のある、それでいて趣味の世界などでは、それなりに楽しい日々を過ごしていたような気もする。

 

 喫茶・Eでのことは、そんな日々の一部でしかない。

 しかし、ある意味で、この店の中にいた自分の奥の方には、なぜか今から振り返っても深いものが潜んでいたのだと思う。

 人生というと大げさだが、それなりに考えなければならないことがあった。

 その答えを出せないまま、少しというか、かなり投げやり状態になっていた。

 そのことが、いつも冬の夜だったという印象になっている感じもする。

 少し青が色褪せ始めたセーシュンの日々であった………

  

 そんなわけで、今回二階には上がれなかったが十分だった。

 窓の外には、新緑の木の葉がいっぱいに生い茂り、少しだけ開けられた窓から入ってくる風が心地いい。

 ウグイスの啼き声が聞こえたりもする。

 それなりにとてもいい時間を過ごせた気がした。

 今度はしっかりと活字を追うことにして店を出ると、うしろから、またどうぞの声。

 春の日差しがまぶしかった………

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

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 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

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 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

内灘の風景~河北潟放水路周辺のこと

 今さらのような話を先にすると、ボクが生まれ育ち、今も住んでいる石川県の内灘というところは、南北に細く長く伸びた小さな町なのである。

 なぜ南北に細く長く伸びているかというと、東西に河北潟と日本海という水圏があり、それらに挟まれた砂地の上にできているからだ。

 地学かなんかで習ったとおりだが、ずうっと大昔、海水によって陸の土が削られた後、沖合に堆積され細長い陸地ができた。

 つまりそうした事情により、内灘は南北にしか伸びようのなかった町なのであり、ついでに言うと、河北潟も砂丘が形成されていくのに合わせ、海水の抜け道がなくなり、そのまま淡水化してできたという水圏なのである。

 昭和の中頃、諸般の事情を経て河北潟干拓という一大事業がスタートしたが、それによって河北潟はそれまでの三分の一くらいの大きさになってしまった。

 歴史などという感覚を通り越す、気の遠くなるような時の積み重ねを経て出来上がった河北潟が、それに費やされた時の積み重ねとは比べようもならないくらいの微かな瞬間に小さくなった。

 その時、河北潟に流れ込んでいた河川からの水を捌くために日本海に抜ける水路、つまり今の放水路が造られたのである。

 

南北に伸びた町の真ん中(あたり)に放水路ができ、なんとなく町が二分されたような空気が漂った……かどうかは知らない。少なくとも少年だったボクには、放水路ができようができまいが、どうでもいいことであったのは間違いない。

 ただ、今砂丘台地の道路をつないでいる「サンセット・ブリッジ」という橋ができるまで、放水路周辺に対して積極的な仕掛けや施しなどはなかったように思う。

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 もともと放水路について、あれこれ思いを巡らせていたわけではない。

 放水路ができていく過程のことも、あまりにも時間がかかっていて薄らぼんやりとしか認識がない。

 少年のボクにとって、干拓と放水路は別物であり、干拓工事の中の遊び場は水っぽく、放水路工事の中の遊び場は砂っぽかった。そして、どちらにせよ、非常に稀な環境の中にいるという自覚などあるはずもなく、たぶん町の人たちの中にも(風景的なこととして)大した思いを抱いていた人はいなかっただろう。

 

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 出来てからもう何十年も経っている河北潟放水路に、あらためて足を運んでみるようになったのはたまたまだ。

 正直、内灘の風景が全国に誇れる魅力を持っているなどとはカンペキに思っていない。

 さまざまな風景に強い憧れを抱いてきた自分にとって、それを満たしてくれるだけの強くて心地よい要素が内灘にあるとも感じていない。

 内灘の風景と言えばずっと海だった。それが当たり前だった。

 ただ海では、能登には勝てない。別に勝負するわけではないが、能登の海にあるような普遍的な要素は内灘の海にはない。

 魚を追い求めたボクの祖父たちのように、海を生きるための場としてきたオトコたちもいなくなった。

 海を軽視するのではないが、そろそろ内灘の新しい風景論みたいなものが見えてきたのではないか 自分の故郷としての風景(もちろん良質のだ)を、とりあえずマジメ(素直)に見つめてみるのもいいのではないか そう思う。

 内灘の今の姿は、自分が子供の頃に想像していたもの(大した想像でもないが)を超えているとボクは思う。

 開発とはこうしたものなのだろうが、生活の場が拡大していくと町の風景そのものも変わっていくことを、内灘というところは特に強く物語る。

 内灘では生活の場が砂丘台地上に広がっていくにつれ、風景も根本的に変わっていったのだ。

 南北に伸びた高台、つまり砂丘地が激変し、そこから眺める東西の風景がより魅力的になった。

 北アルプスの稜線から昇る朝日と、日本海に沈む夕日………

 よく使われてきた内灘の情景表現だが、かつて生活の場が砂丘台地の東側斜面下、つまり河北潟沿岸にしかなかった頃にはあまり味わえなかった風景だろう。

 砂丘地の畑などではところどころから見ることができたかも知れないが、しかし日常の生活の場ではなかった。

 そういう風景のことをあらためて思い、もし河北潟が干拓されいなかったらと考えた人たちがいたことも当然だ。

 しかし、今は敢えてそんなことは蒸し返さない。

 人がその土地の特徴を語る時、一番先に出てくるのが風景であるとボクは思う。

 当たり前だが、風景は普遍的要素の最たるものだと。

 人の営みは繋がれていくものだが、風景の土台にあるものはじっとしている。

 だから、風景に敏感であるということは、その土地の魅力を知る第一歩に違いないとも思う。

 河北潟周辺、放水路を含めた一帯の風景は、まちがいなく稀有であり美しいと言えないか…………

 二月終わりの休日。陽が少し高く昇り始めた頃………

 河北潟に張り出すように造られた「蓮湖渚公園」の駐車場にクルマを置き、公園の道から放水路に付けられた道へと歩いた。

 蓮湖とは河北潟のかつての名前であり、この名前の方がなんとなく好きだ。

 水際の道は気持ちがいい。

 湖面がおだやかに揺れ、宝達山、医王山、犀奥と呼ばれる山域のの山並みや白山、さらにはるか東方の奥に雪を頂いた北アルプスの稜線が見えている時などは、風景に心が押されている自分に焦燥のようなものを覚える。

 

 そして、空の広さや深さがそれにまた追い打ちをかける。

 心の中で微かに声を出している自分が分かる。

 このあたりに、美味いコーヒーが飲める店があったらいいと思うようになったのはつい最近のことだが、この眺望なら、コーヒーの味には文句は言わない……かも知れない。

 

 サンセット・ブリッジが近くに迫ってくると、公園から離れ、県道を横切り、いよいよ放水路横の道へと入っていく。

 全国的に見て、特に大きい部類に入る橋なのかどうかは知らないが、真下あたりに来ると、やはりその威圧感はすごい。

 もし「全日本デカ橋をひたすら見上げる会」というのがあるとしたら、たぶん多くの会員たちは歓声を上げるに違いないと思ったりもする。

 橋は本来、上から眺める風景に価値を見出すものだろうが、サンセット・ブリッジには残念ながらその機能がない。

 だから、せめて下から見上げて、オオ~などと感動の声を上げてやりたいと思うのである………

 

 二月の終わりにしては暖かい午前だった。

 橋の陰になった放水路の水面に冬鳥たちが多くいるが、彼らも少し陽気がよすぎて日陰に集まっているのだろうか。

 放水路横の道は、厳密に言うとわずかにカーブがあるが、ほぼまっすぐに伸びている。

 川とは違うが、水が河北潟から日本海の方へと流れるのだから、今は左岸を歩いていることになるなどと考えている。

 水辺だから時折冷たい風を感じたりするが、すでにカラダは十分に出来上がっていて快調な足の運びなのだ。

 歩いていることよりも、放水路の地形を楽しんでいるということの方にアタマがシフトしているのも分かる。

 一般的に放水路と言えば、単に河川の流れを分散させるようなイメージではないだろうかと想像する。

 だから、そこにある風景は川のイメージだろう。

 しかし、ここは違う。ここは、標高50mほどの砂丘が削られたその最下部なのだ。

 急角度の斜面(専門的には法面)が両岸に広がっている。

 風景としては非常に稀な特徴をもっている。

 ただ、今ははっきり言って放水路の斜面は雑である。

 裸木と枯れたままの雑草が放置状態になっていて、特に道端の草の中に散乱するゴミも捨てられ方が遠慮がちではない。

 目線をできるだけ水平以上にしてさらに歩く………

 

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 ここは、今最も内灘を魅力的に伝えることのできるスポットかも知れないと、ふと思う。

 風景は眺望だ。視覚からココロに入り込むものだ。

 その要素にこの場所は適っている。

 さらに、広い空を繋いで振り返ると、日本海がすぐそこにあるという恵まれた環境を加えれば、かなりいい感じがする。

 言い換えれば、これはこの場所の個性なのだと思う。

 周辺のストーリーもドラマチックではないだろうか……と、勝手に想像が膨らむ。

 河北潟が干拓され放水路ができたということは、土地の表情が変わったということだ。

 つまり、内灘の風景がその時に変わったのだ。

 そして、もともと住んでいた内灘人たちが思いもしなかった、新しい眺望が生まれたのである。

 内灘はもともと何もなかった小さな漁村だったのだから、特に粋がる必要もない。できあがった風景を素直に楽しめばいいと、ここに立てば思える。

それを眺めて、ココロを休めればいい。

………むずかしい話になってきたので、クールダウンしよう。

 

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左岸を歩いていくと、右岸斜面の上に立つ風車が常に目に入ってくる。

      

 澄み切った青い空に、静止したままのスリムで白い姿が美しい。かすかに聞こえてくるのは、そのすぐ横にある「恋人の聖地」の鐘の音だ。誰かが鳴らしているのだろうが、その奥に自転車競技場があり、そこで鳴らされるラスト一周の鐘の音かも知れないと、余計なことを考えたりもしている。

 

 

 海へと出ると、砂浜は冬の風物詩とも言えるゴミの山だった。

 この季節、浸食された砂浜を見ると心が揺れるが、冬の日にしては海の風が気持ちよかった。

 放水路に戻り、今度は右岸をサンセット・ブリッジに向かって歩く。舗装されていない、水たまりだらけの道からのスタートだ。たまにクルマなどがやって来ると、ちょっと面倒なことになる。しかし、すぐに舗装された道に出た。

 放水路の水の流れに逆行していることになるが、水面は風になびいているだけで流れているわけではない。

      

 しばらく行くと、風車の下の斜面に細い階段が造られており、一気に斜面の上まで登れるようになっている。

 上から下りたことはあったが、初めて下から登ってみた。

 斜面の中間部は草が刈られていて、地元の高校生たちがお花畑を作っていると誰かから聞いた。

 佇んでみると、ここからの眺めもそれなりにいい。

 放水路斜面の中間部には、ずっとテラスのようになった平地が続いている。これはまさに中間部の散策路候補だ。

 もったいないゾ…… 腹の中でそう思って空を見上げた………

 

 空に浮かんだ雲たちが自由に遊んでいる。

 オマエもたまにはのんびりしろと言われているみたいだ。

 この前医者にも言われたが、副交感神経を思い切り休ませてあげなさいと諭されているようだ。

 手持無沙汰なまま、とりあえず背伸びをしてみた。

 首をひねり、肩をぐるぐる回し、両腕を前後に振った。

 カラダの四分の三ほどを覆っている日常が、放水路の風に乗って空へと抜けていった……かどうか?

 

 階段を下り、また歩き始め、また放水路周辺について考え始めた。

 人造湖という湖も、いつの間にか自然の中の一部になっている。

 放水路もそれと同じではないか……と、短絡的に考えている。

 すでに数十年がたち、これからもこの放水路はこの土地に、さも当たり前のように存在していくのである。そして、この土地の象徴的な風景として親しまれてもいくだろう。

 そう思えば、積極的に風景としての放水路周辺を見つめ直すことにも意味がある。それ以上に、磨きをかけてやらなければならないかも知れない。

 先にも書いたが、風景ができあがるまでの物語なども紹介していかなければならないかも知れない。

 内灘は海だとずっと思ってきた人たちも、海ばかりでない内灘に目を向けてくれるだろう。

 「内灘・河北潟放水路周辺」というキーワードで再考か……

 

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 そんなわけで、蓮湖渚公園から放水路両岸の道を往復すれば約6キロの距離だった。あとは、海岸に出たり斜面の上り下りなどのおまけもあり、それらもそれなりによかったりする。

 道の駅もあるし、ちょっとクルマで河北潟干拓地まで移動すれば、牛乳やアイスクリームなどで大人気のH牧場さんもある。

 忘れてはいけない温泉「ほのぼの湯」も、きれいになってこの春再開される。

 砂丘台地の美しいニュータウン「白帆台」も、将来の生活設計のために見ておくことをお薦めしたい。

 最後は何だか町の定住促進キャンペーンや、不動産屋の広告みたいになってしまったが、サンセット・ブリッジや金沢医科大学病院のモニュメント的建造物も合わせて、このあたりには多面的な顔があふれている。

 あとは、文化を生み出そうというヒトビト的ココロ……かな?

 ということにして、ひとまず中締めとするのであった………

 

冬の朝の小さな奇跡

2011年12月24日の朝。

こういう言い方が正しいのか分からないが、クリスマス・イブの朝である。

冷え込み、目覚めると天気予報どおりに雪がうっすらと積もっていた。

土曜の朝でもあった。

いつもより遅く起き、階下の居間のカーテンを開ける。

そして、外の光景に一瞬目を奪われた。

そして、しばらくなぜこのような光景が起きているのかと考えた。

と言っても、ほんの数秒のことだった。

すぐに状況を飲み込むことができたのだ。

カメラを手にすぐに外へ出る。

わが家の方へと差し込む朝日は、ずっと東方へと目を向けた北アルプス北部の稜線から放たれてくるものだ。

富山平野の上空をまっすぐに伸びて、石川との県境の山並みも軽く通り越し、河北潟干拓地の平原上を経てやってくる。

夜明けからはすでに三十分ほどが過ぎていただろう。

朝の太陽は稜線の少し上へと昇っているが、それでも十分なくらいの鋭い角度で光を放っている。

その時の空は、ほとんど黒に近い濃いねずみ色に全体を被われていた。

そして、稜線上にはわずかな雲の隙間。

朝の太陽はちょうどその隙間の真ん中にいて、日差しを送ってきている。

遠く北アルプスの上空から届いた光が、わが家の後ろにある雪をかぶった斜面だけを照らし出し、暗い冬の朝に幻想的な光景を生み出している。

雪のついた電柱が光の中に立ち、電線もまた白くその存在を高めている。

しばらくして、周囲はまた一気に暗くなった。

太陽が雲の中へと吸い込まれていくようにして消えてしまったからだ。

もう寒さに耐えながら立っている必要もなくなっていた。

五分もいなかっただろう。

ただ、朝のほんのちょっとした光景だったにも拘わらず、どこか荘厳で異次元の世界にいたような気分だった。

 

冬になると、今でもこの写真をよく見る。

しかし、あれからもう何年も過ぎているのに、あの時ほどの美しい生の光景とは再会していない。

ときどき、それらしき朝すぐにカーテンを開けてみたりするが、なかなかああいう具合のシーンには遭遇しないのだ。

大げさだが、あれはわが家周辺における奇跡的光景だったのかもしれない………

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

雪は“どかす”もの

NHK昼のニュースが「大雪で地元の人たちは雪かきに追われ……」と伝えている。

しかし、テレビに映っているのは我々の地方ではない。

一月に入って、我々の地方ではわずかな雪しか降っていない。

我々の地方というのは、何を隠そう(と言うほどでもないが)北陸・石川である。

その北陸・石川のニンゲンが、わざわざ“わずかな”と言うのであるから、いくらかの申し訳ない気持ちがそこに含まれている。

つまり、山陰や滋賀の彦根や高島あたりでも大雪が降っているという状況に対して、雪のメッカ的地域であるはずの北陸がこのザマでは示しがつかない。

北陸のメンツに賭けても、雪にはしっかりと降ってもらわないと立つ瀬がない………?

そんな中、大雪が降った地域からのニュースが流れていた時、ふとあることに気が付いた。

正式には、古い話を思い出したというのが適切で、かつて『ポレポレ通信』なる私的小冊子を、周囲三百名ほどの皆さまにまき散らしていた頃、冬のある号に書いた話を思い出したのだ。

それは雪をスコップ(今はスノーダンプなど多彩だが)ですくい、そのまま放り投げたりする行為を何と呼ぶかということで、今から二十年以上も前、そのことについて深く考察(?)していた。

ニュースでは“雪かき”と伝えられていたが、ボクが当時取り上げた表現は、“雪すかし”についてであった。

たとえば、家人は昔から“雪すかし”という表現を普通に使い、ボクもいつの間にかそう表現するようになっていた。

そして、その当時は“雪かき”などといった上品な表現なんぞあり得ないと思っていたのだが、かと言って“雪すかし”についても文句なしに賛同していたわけではない。

実際にドカ~ッと降った雪の中でのその行為は、雪すかしでもピンとこなかった。

雪かきは、雪を熊手みたいなもので文字どおり掻き集めるみたいな感じだし、雪すかしについても、すくなどというのは空間を作っているだけみたいでイメージは軽い。

両者とも大雪に見舞われた人たちの重労働を理解した表現とは思えなかった。

そして、最近になって、あらためて思い出した言葉がある。

それは、“雪どかし”だ。

幼い頃から、ボクたちの周辺ではスコップで除雪することを確かにそう呼んでいた。

家人からは、そんなお下品な…などと笑われたが、たしかに我ら宮坂全ガキ連、もしくは麗しきゴンゲン森の少年たちの間では、“雪どかし”だったのである。

そして、そのことは冷静に考えてみれば、すぐに納得できることでもあった。

先にも書いたように、大量の雪、しかも我らの地域は湿った重い雪が定番だ。

その雪を扱うのに、“かき”も“すく”もありえない。

ズバリッ、“どかす”なのである。

そういうわけで、かなりチカラが入ったのであったが、最近の軟弱な冬のせいもあって、我々の地域ではまだ“雪かき”程度で済んでいる。

それを喜ぶべきかどうか、今でも雪が大好きなニンゲンとしては微妙なところなのである………

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

やはり “山里”を歩いているのだと思う

農村に対して漁村という言葉はあるが、山村に対する海辺の村を表現する言葉を知らない。

最近、山里(あるいは山村)歩きをかなり本気になって楽しんでいるが、そんな中から気が付いたことがある。

それは海辺に対して、山中にはかなり閉鎖的な印象があり、そのことがわずかな民家によって形成される、特有の村のイメージを作りやすくしているのではないかということだ。

ボクの目には、海辺の村はそれなりに家の数も多く、海に面している点で開放的に見える。

だから、山里のようなイメージは希薄なのだと思える。

山里が閉鎖的というのは、単なる地形的な面からの印象に過ぎない。

逆に言えば、こんなところにも人の生活(営み)があるという驚きと安堵みたいなものが、暖かい気持ちにさせてくれたりもするのである。

 

最近になって「里山」とか「里海」という言葉が多く使われるようになった。

前にも書いたことがあるが、ボクには「里山」より「山里」の方がピンとくるものがあって、ずっとこの表現を使っている。

そして、この言葉に対する「海里(うみざと)」という言葉がなかったことにも納得している。

今「里山・里海」という言葉を使い、山と海を同じ扱いにしようとしている背景には、「山里」をそのままにして「山里・海里」にしたのでは、後者が“かいり”という別の意味の言葉になるという、ややこしい事情があったのだろう。

特にどうでもいい話ではあるが、「山里」は山の中の村(人)に軸を置いた言葉であり、「里山」は村に隣接する森林などを意味する言葉だ。

大して変わらないようにも読み取れるが、後者には“かつて人と深い関わりがあった…”という意味深な形容が付いてくる。

そのあたりに、実は少し、いやかなり違和感をもつのである。

 

ボクの歩いているところには、人の息吹がまだまだ残っている。

水田があり、畑があり、水が引かれ、木も植えられ、墓が立ち、道の舗装が進み、時にはコーヒーのいい香りなども漂ってきたりする。

だから、ボクは間違いなく“「山里」歩き”をしていると思っている。

奥能登・珠洲蛸島を歩く

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奥能登・珠洲蛸島の入り組んだ町の中を歩いてきた。

暦で見れば秋も深まり、しかも能登半島の先端に近いとくれば、そぞろ歩きなどあまり適さないと思う人もいるだろう。

しかし、そんなことを言っていては能登の空気感は分からない。

粋がって言えば、これからが本当の能登の味が分かる季節なのだ。

と、やはり軽薄に粋がって言っているが、その日は特に肌寒さを感じることもなく、至ってのどかな、冬に向かう奥能登とは思えないほどの日であったことも事実だった。

クルマを旧蛸島駅前に止め、まず入っていいのかどうかさえはっきりしない、廃墟的なホームに出てみようと思った。

この小さな駅はかつての能登線終着駅だ。

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珠洲の街のはずれ(?)に、なつかしい黄色と黒の車両が置かれている場所があるが、この季節に見るとその姿はなんとなく哀愁を帯びていた。

ホームの方も今は当然草が伸び放題で、レールがその草の中から見え隠れしている。

しかし、その先に広がる畑地は、真夏、ここで下車した人たちの心を躍らせたにちがいないと思わせる広がりをもっていた。

この場所からは海は見えないが、海の匂いは十分すぎるほど感じられるからだ。

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詳しいことは忘れたが、蛸島(たこじま)という地名には、文字どおりタコにまつわる伝説があるらしい。

普通に考えれば、タコがよく採れたという話で済むのだが、人食い大ダコの話などもあって、やはりそうだろうなあと妙に納得したりする。

実は、一ヶ月ほど前、仕事で珠洲に来ていた。

そして、クルマで蛸島の町の中を慌ただしく見ていた。

もちろん初めてではなかったが、記憶に残っていた光景もほとんどなく、もう一度ゆっくり見ておこうと思っていたのだ。

駅舎の前から歩こうと考えていたが、クルマを港の方に運び、海辺から歩くことにした。

青空の中に白い薄い雲がたなびいている。

ゆるやかに、家々の屋根の上で踊っているようにも見える。

人の姿はなく、こちらも静かに細い道へと足を踏み入れてゆく。

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漁業や海運などでにぎわいを誇っていた雰囲気が漂い、立派な家屋の姿に目を奪われながら、知らず知らずのうちに先を急ぎたくなっていく。

今は閉められている風呂屋の玄関先に立つと、桶と手ぬぐいを手に、火照った顔付きで出てくる日焼けした漁師たちの姿が想像された。

流れが止まったような小さな川を渡ると、しばらくして勝安寺という寺のあたりに出た。

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一部に蔦が絡んだ廃屋の土壁に陽が当たって、一帯をより明るくしているように見える。

小さいながらも形のいい山門があり、その脇にこれも形のいい大木が立つ。

山門をくぐり境内に足を踏み入れると、のどかな空間が広がっていた。

再び山門をくぐって、そのまま直線的に高倉彦神社へと向かう。

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海沿いに建てられたこの神社では、日本遺産という「蛸島キリコ祭り」が行われ、能登で最も美しいと言われる16基のキリコが町なかをまわるのだそうだ。

そして、境内の舞台では、「早船狂言」という伝統芸能の披露も行われている。

境内のその先には草地を経て砂浜が見える。

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その先には当然日本海が静かに広がっていた。

この季節にしてはおだやか過ぎる海辺の気配に、ここが奥能登であるということを忘れるほどだ。

ぼーっと海を眺め、もう一度町の中の道へと戻り、しばらく歩いてから左へと折れた。

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このあたりの家並みも美しい。

空き地もそれなりに意味を成しているように思えてくる。

さっきの川をもう一度渡りながら、水面のおだやかさに、なぜか足を止めたりもしている。

この町の得体の知れない魅力(というと平凡だが)に取りつかれたか?

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それから後は、ただひたすら淡々と歩いた。

小さな家内工業の作業場があったりするが、人の気配には遭遇しない。

そして、それからしばらくして、ようやく狭い道端で午後のおしゃべりタイムを楽しんでいる、ややご高齢の女性二人組と出会うことになった。

夏であれば、もっとのんびりした空気感が漂っているのであろうが、暖かいとはいえ、やはり秋だ。

道端の段に腰かけている二人の姿にも、なんとなく少し体を丸める仕草が見える。

聞きたいことがあった。港の方に行く近道だ。

狭い路地は日陰になっていた。

「海はこの道まっすぐ行って、突き当ったら右やわ。それからはね……」

空き地を照らしている斜めの日差しが太陽の場所を想像させ、当然西の方向が海、つまり港の方になる。

女性は右に折れた後は、またまっすぐ行って、それから先はまた聞いてみてと言った。

歩いてゆくと、なんとなく日差しが明確になり、人に聞くこともなく海の方向が察知できた。

聞きたいと思っても、人影はなかったのだ。

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クルマを止めた辺りまで戻り、あらためて海の方を見る。

まだ十分に陽は差しているが、少し雲が出て、水平線から長く帯状に流れている。

船が係留されているところまで歩くと、わずかに風が冷たく感じられた。

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何年か前の夏、旧門前町の黒島という美しい場所で、能登地震によって傷ついた北前船主の館を復興する仕事に関わった。

仕事が終わりに近づいた頃の、暑い昼間、黒島の海に突き出た防波堤をずっと歩いてゆき、その先端あたりから黒島の町を撮影した。

そこは、かつて突然の嵐に見舞われ、海草採りをしていた地元の人たちが命を落とした場所だった。

海の中の岩場に供養碑が建てられていた。

そして、本当はそれを撮影するのが目的だったのだが、撮影後に見た陸地に広がる黒い屋根瓦の町に目を奪われた。

ただ青いとしか言いようのない空と、その下に広がる緑と、段違いに組み合わされた屋根瓦が美しかった。

海岸から数百メートルといった防波堤からでさえそうなのだから、漁から帰ってきた漁師たちが見る“自分たちの町”の美しさは格別だろうと想像した。

蛸島も同じだろう………

防波堤の先まで行く時間はなかったが、ほとんど波打つこともない港の水面を見ていると、気持ちが空白になっていくのが分かる。

それからしばらくして、蛸島の魅力とは何だろうか?と、俗っぽいことを考えている自分に気が付いた。

なかなか答えの糸口が見えなかったが、最近ちょっと、それらしき光明が見えてきた気がしている。

きりのない話だが、そんなことを考えてしまうのも、“日常の中の非日常的楽しみ…?” のひとつなのだ………

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秋は山里歩きなのであった

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自分の住んでいる内灘という町と、河北潟干拓地でつながっている津幡という町は、石川県河北郡に残った二つの同朋みたいな町である…と、勝手に思っている。

残ったというのは、かつての河北郡にはさらに三つの町があったのだが、その三つの町は徒党を組んで?「かほく市」という新しいグループを作り、我々から離れていったからだ。

当然残ったのには妥当な理由があり、何といっても内灘と津幡は他の三つの町よりも財政的に余裕があり、ステータスも高かったからだ…と、勝手に思ってもいる。

しかし、内灘と津幡には大きな違いがある。

それは、内灘が日本海の海岸線に沿って伸びる砂丘台地上の小さな町であるのに対し、津幡は富山県や他の市町との境をもつスケールの大きな町であるという点だ。

だから、ボクにとって津幡は果てしなく冒険心を煽る町である。

山里が深く続いていて、その風景の大らかさにいつも癒されてきた。

きっかけとなったのは、瓜生(うりゅう)という地区を訪れたことだった。

輪島市門前にある總持寺ゆかりの、峨山という名僧の生まれたところが瓜生であり、門前で建設された「櫛比の庄・禅の里交流館」という資料館の展示計画をやっていた時、瓜生まで石碑の撮影に出かけた。

予想をはるかに越える深い山里に入っていき、最後はこの先クルマは入れないといった感じのところまで行った。

田んぼや畑には人影はあったが、たまに見る家屋の周辺では全く人を見ることはなかった。

初めてが仕事絡みだったせいか、その後にゆっくりと山里の空気感に浸りたくて休日にも出かけるようになる。

そして、津幡の山里の不思議な魅力に少しずつ惹かれていったのだ。

廃校になった小学校校舎や、その向かいの高台に上って眺める風景なども気に入った。

ゆるやかな起伏が続く水田と畑が広がった丘陵地なども、大好きな眺めになった。

そして、いつの間にか、そんな風景の中を歩いてみたいという思いが生まれてきた。

前置きが長くなったが、今回のKという地区の周辺も、そんな中で好きになった場所だ。

このあたりは、午後から出かけ、太陽が西に傾いていくのに合わせながら、風景の変化を楽しむのに適している。

人の生活感が漂う山村よりも、自然だけの山里の方が歩くのには気軽でいいと思っていたのだが、いつの間にか、そんなことに気を使わなくなっている。

もともとの好きな風景にはいつも人家の存在があったようにも思う。

ただ、遠望として見る方に傾倒していたに過ぎない。

ところで、最近は水田や畑の中の道でもほとんどが舗装されていて、土の上を石や草を踏みながら歩くことが少ない。

軽トラが走れるように、そして機械が入れるようにと道は固められている。

しかし、そんな舗装の道もひび割れなどが激しくなると、それがまた自然の中の風景のように見えてくるからおもしろい。

今回歩いた道は、緩い登りをゆっくり三十分も行けばキャンプ場に出る。

夏にはにぎわうのかも知れないが、11月の初めともなればまったく人の気配はなく、池に冬鳥たちが浮かんでいるくらいしか生き物の存在を感じない。

そんな雰囲気の中、あちこちに目を向けながら歩いている自分の姿を第三者の感覚で想像すると、妙に落ち着けなくなったりもする。

いつもの、自分がなぜここにいるのかを説明しなければならない的症候群に襲われたりもする。

ここでもしクマに襲われたりしても、自分が悪いだけで、山でよく考えていたクマの目を指で刺し、その隙に逃げるといった意味不明な作戦までも考えている。

しかし、あたりは静まり返ったままで、そのうちススキの穂先に差し込む陽光にぬくもりを感じたりして、ほのぼのとしてくるのだ。

登りの道に架かった水道橋や、道から見下ろしたところにある小さな池とそのほとりに建つ小屋、そして、そこから視線をわずかに上げたところに見える枯れ木たち。

楽しませてくれるものはいっぱいある。

西日の角度が徐々に強くなるにつれ、山里の家並みがより浮かび上がってきた。

影が濃くなり、畑の畝ひとつひとつも鮮明になっていく。

とにかく説明のつかない何かに惹かれながら、なぜかこうした道を歩いている。

そして、不思議だが、とてつもなく満たされている………

瓜生(うりゅう)までの道

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白山麓~ 尾口の想い出話

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白山麓の最奥部・旧白峰村の一つ手前にあったのが、旧尾口村である。

季節がはっきり夏から秋へと切り替わった頃、久しぶりに出かけてきた。

尾口は、白山麓の1町5村の中でいちばん思い入れが強かった地域だったかもしれない。

仕事でお付き合いさせていただいた人たちへの思いも、それなりに深かったような気がする。

白山麓の1町5村では最も小さな自治体であり、そのことがどこかに親しみみたいなものを感じさせていたのだろう。

頻繁に出向いていた頃の村の人口は、800人ほどだったのではないだろうか。

しかし、接点を持った人たちは皆、高い地域感覚とやさしさを持ち合わせていた。

そんなひとりが、Mさんだ。

今は道の駅になっている、瀬女(せな)の施設の仕事がお付き合いの始まりだった。

地元の伝統工芸であった桧細工で、大きなオブジェを天井から吊るしたいという提案をした。

それを喜んでくれたのが、当時村の収入役であったMさんで、すぐに協力していただけることになった。

Mさんが連れて行ってくれたのは、地元の名人だった深瀬地区のKさんという方のお宅で、お会いした早々そこで意外な事実が判明した。

実はKさんはその何年か前まで同じ会社で働いていた女性社員のお母さんだったのだ。

そんなこともあってか、Kさんはいろいろと無理を聞いてくれたが、最後まで制作費用を受け取ってはくれなかった。

それまで作ったことがないというとんでもない大きな作品だったにも関わらず、しかも打合せにお邪魔するたびに、養殖されていたイワナの稚魚の甘露煮(だったと思う)をどんぶりに一杯いただいていたにも関わらず…だ。

それにしても、あれはとても美味だった。

一緒に行った若いデザイナーたちがどんどん手を伸ばしていくのですぐになくなるのだが、打合せをしながら指をなめていたあの時のあの味は忘れられない。

Kさんの家は白峰に通じる国道沿い、手取川を見下ろす谷間の傾斜地にあった。

かつての深瀬の村は、道を下った川の底に眠っている。

昭和53年(1979)に完成した手取川ダムによって水没していた。

当時、村には50戸あまり、200~300人ほどが暮らしていたというが、多くの人たちが旧鶴来町へと下りている。

残ったのは5戸だけらしく、Kさんの家もこの土地を離れなかった。

イワナの養殖と関係があったのかは分からないが、同じように水没した白峰の桑島地区では、地区ごと高台に移り住んだような印象があり、深瀬はその点やはりどこか寂しい感じが拭い去れなかった。

制作途中を広い居間で何度か見せていただいた。

夏だったと思うが、涼しい風が吹き抜けていたような記憶がある。

そして、素晴らしい作品が出来上がっていったのだ。

それはどこかに力強さや逞しさみたいなものを匂わせ、普段はやさしい表情のKさんが作り出しているということを忘れさせた。

Kさんの畳の上に広げた作品を見る表情が印象的だった。

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桧細工のオブジェが吊るされたその施設では、地元の産物が並べられ売られた。

二階は狭い空間だったが、地元出身の画家の作品を展示した。

そして、仕事はとにかく楽しかった。

現地にいる間には近くにカモシカが現れたり、サルの集団が木立を揺すったりして野性味にあふれた毎日が続いた。

工事で掘り出された岩を、知り合いだった業者の親方に頼んで家まで運んでもらったりもした。

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尾口村との付き合いは長く続けさせてもらった。

白山麓全体を一つの観光エリアとして建国された「白山連峰合衆国」のサイン計画にも関わっていたおかげで、とにかく頻繁に山域に入ることが多かったのだ。

自然はもちろん、季節ごとに空気感が変わっていく小さな集落の情景を見るのも好きだった。

すでに金沢市内に日常の住まいを移しておられたMさんが、実家があるという尾添という地区の話をしてくれたことがあった。

そして、それからしばらくしたある日、その尾添にいた。

真夏の強い日差しが地区の中の坂道を照らしていた。

Mさんの言葉どおり、本当に静かだった。

誰一人ともすれ違ったりはしなかった。

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今回も尾添でクルマを止め、ぶらぶらと地区の中を歩いてきた。

秋らしい(?)花が咲き、栗が道端に落ちていた。

実がしっかり入っているものもあり、そのまま拾っていってもいいのだろうかと思ったりしたが、さすがにそこまではしなかった。

とちの実が干されてあったり、野菜を洗うための水道(地下水だろう)が出しっ放しになっていたりと、生活の匂いがある。

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下った先にある神社には、終わったばかりの祭りの残り香も漂っていた。

せせらぎの音が聞こえている。

この辺りも、人形浄瑠璃「でくのまい」の芝居小屋がある東二口、さらに女原(おなはら)なども、山村らしい独特の空気感をもつ。

相当前だが、生暖かい強風が吹き荒れるこのあたりの道で、黒い大きなヘビを見たことを思い出した。

木々の枝が揺れ、葉っぱが舞い、草が波打っていた。

その中を緩く動いていくヘビの表面が、異様に渇いているように見えたことも思い出した。

夜には台風が通過するという日の午後だった。

自分には、山里などという言葉に対して異常なほどに反応するセンサーが備わっていると、ずっと思っている。

最近さらにその感度が高くなったような気もしている。

旧尾口村の中の小さな情景は、まさにそんな自分にとってのモチーフみたいな存在となっているのかもしれない。

 

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白山麓~ 白峰の想い出話

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かつて白山麓には一つの町と五つの村があり、最も奥にあったのが白峰村で、その手前が尾口村であった。

そして、そのあたりは山麓というよりは、もう山域の奥深くに入ったような場所で独特の空気感を持っていた。

もちろんその空気感は今も変わらないが、白山市という、ごくごく普通の地名の中に吸収されてしまってからは、以前のような特異性を感じなくなった気がして少し寂しい。

思い出すと懐かしい。三十年以上も前、真冬の白峰村役場を朝一番に訪れた時、開口一番に言われた(怒られた)のが、「N居さん、このあたりをなめたらダメやわ」という一言だった。

不覚にも「短い靴」を履いていた。一応、ビブラム底のゴツイやつだったのだが、役場のYさんの目には問題外の装備に映っていた。

その朝は前夜からの雪で、白峰の村には一メートルほどの新しい積雪があった。金沢を出る時にも当然雪はあったのだが、全く次元が違っていた。

Yさんが村の中の道を、雪を蹴散らすようにして歩いていく。ボクは、その後ろを雪を踏むようにして歩いていた。

その時に見たのが、二階の屋根まで伸びた、大きくて無骨な梯子だった。

多くの家が軽量なアルミ製の段梯子というのを家屋に固定していて、いつでも屋根の雪下ろしに上がれるようにしてあったが、そんな中に丸太を縦に切り分け、その間に太い鉄筋を何本も嵌めて作られた梯子を目にした。

すでに使われていないようにも見えたが、まるで家そのものを支えているように堂々としていた。

地元の山で切り出したトチの木で作られているらしいと聞いた。そんな話が雄々しさを一段と高めるような気がして、しばらくその梯子を見上げていた。

それから、この梯子の階段の部分も、昔はトチの木で作られていたなどという話を聞き、興味はますます高まっていった。

形状が上から見ると「H」の変形になるなあとか、どうでもいいようなことまで考えたりするようになり、この地域の村並づくりのサイン計画に関わった時には、この梯子の特徴をデザインに反映させたら面白いだろうなあと思ったりしていた。

白峰は、言うまでもなく白山登山のメインの入り口である。

ボクにとって、二十代の馬力だけで山を登っていた頃には白山は対象外の山だった。

初めて登ったのが春の残雪期で、その後もずっと雪のある時季だけ、それも日帰りの単独山行だったような気がする。

それから夏に二度ほど、珍しく山ビギナーを連れて登ったが、また北アルプス中心の山行へと戻っていき、そのまま白山はあまり感慨のない山になってしまった。

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話がそれたが、白峰の、特に白峰地区にはまだまだ特有の個性が残っていて、歩いていても楽しい。かつて白峰型住宅(だったと思う)と呼んで整備された家々が美しい村並の風景を作っている。

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その間に建つ寺院なども立派で、全国に広がった白山信仰の起点らしい風格がある。

家々の前に吊るされた屋号が記された札などもいいアイデアだ。

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最近ではスキー場がダメになり、総湯が移転して様子が変わったが、名物の「とちもち」は相変わらず美味い。若い頃には一パック買って、昼飯にしていた。

もう一つの名物である堅豆腐を使った「堅豆腐かつ丼」なども、新しい白峰の味になっていてかなり満足できる。

ボクとしては、特に後者が非常に気に入っているのだ。

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白峰からは、前述のとおり白山登山の入り口となる市ノ瀬・別当出合へ向かう道が伸びているが、もうひとつ福井の勝山へとつながる立派な道も通っている。

最近では高速道路を使うことが多くなってきたが、かつては勝山の平泉寺はもちろん、永平寺に行くのにもその道を利用していた。

10年以上も前だろうか、石川県の仏壇に関する仕事をさせられていた時、白峰のあるお宅を数人の調査団(?)で訪問したことがある。

そして、そこで見せていただいた仏壇の立派さに皆驚かされたが、それ以上に心を打ったのは、その仏壇をかつて勝山の里から峠(谷峠)を越え、白峰の自宅まで担いで運んできたという、信じられないような話だった。

仏壇を運んだという何代か前のご当主の写真が座敷に飾られ、その時に使った背負子も床の間に置かれてあったと記憶する。

峠を越えて村に近づくと、村人たちは道沿いに並んで読経し迎えたという話も聞いた。

強力(ごうりき)という山男たちのことを知っているが、やはり白峰の山男も凄かったのである。

あの梯子と、仏壇を背負って峠を越えてきたという男……

どこかに共通するものがあるように思う。

白峰にはさまざまな出合いがあったが、やはり「このあたりをなめたらダメやぞ」の魂が、どこかにしっかりと根ざしている、そんな気がするのだ………

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井波の小散歩と小雑想

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富山の井波といえば、よく知られた彫刻の町だ。

最初に立ち寄ったのはまだウラ若き青年の頃だったが、二度目か三度目あたりの、やや埃をかぶった世代の頃には、余裕も持って近くの高瀬神社に寄ったりもしてした。

ただ、立ち寄ると言っても、大抵ぶらりと来てしまったというケースが多かった。

井波の町の面白さを知ったのは、仕事絡みで訪れるようになってからだ。

それはやはり地元人との出会いがあったからで、そのおかげで一気に井波ファンになっていた。

いずれも彫刻家で、いずれも面白い話を聞かせてくれる人たちだった。

工房にお邪魔して話を聞いたり、井波の代名詞である瑞泉寺の隅々までを案内してもらったりと、その人たちとの出会いがなければできない経験もさせてもらった。

特に瑞泉寺の中の見学は楽しい時間だった。

それからもちょっとした仕事にかこつけて、ぶらりと訪れたりすることがあり、仕事を片付けた後、町の中を無作為に歩くことが多くなった。

メイン通りはほとんど通らず、裏道から裏道へと狭い道を歩く。

瑞泉寺の横に城があったことはそんな時に知った。

一向一揆の拠点であった瑞泉寺が佐々成政に攻められ、その後その家臣によって寺の横に小さな城が整備された。16世紀の後半、まだ戦国時代のことだ。

その後、その城は前田利家によって取り壊された。

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9月中頃のある日の午後、近くまで来ていたのでまた井波の町に寄った。

豪壮な瑞泉寺の山門は見るだけにして、石垣沿いの道を左に行くと、石垣はすぐに終わるが、石と石の間にきれいな花が咲いていたりして、山里の空気感を味わいながらの散策を始める。

井波のメインストリートであるそこまでの参道は、ただ何も考えずに歩いていた気がする。

右に折れてから、高台の方へと緩い傾斜を登っていくと、すぐ先に、大きな神社へとつながる石段が見える。井波八幡宮だ。

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道はYの字型になって左右に分かれていくのだが、その間の石段の前に立つと、鳥居越しに堂々とした社殿が見えてきて、深呼吸などをする。正しく気持ちが引き締っている証拠だ。

境内に入ると、鬼気迫る表情の狛犬に目がいく。

いろいろな狛犬を見てきたが、ここの狛犬は独特の個性を持っている。

タイトル写真にあるように、苔だけではなく、体のあちこちから草が生えていたりしているのだ。

“ガラパゴスから来た狛犬”と名付けたが、なかなかのネーミングだと自画自賛した。

白いクルマが一台止められているが、人の気配はない。

本殿にお参りし、それほど広くもない苔に覆われた境内を歩き、脇から抜けた。

右手が石垣、左手が板塀になったいい雰囲気の道がある。

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石垣の方には門があり、中に入ると臼浪水(きゅうろうすい)と呼ばれる霊泉がある。

瑞泉寺の名前はこの湧水からきているとのことだ。

これといって特別な思いもないが、道に戻ると曇り空の下の空気が少し冴えてきたように感じた。

まっすぐ前が古城公園と呼ばれ、二の丸の跡らしい。

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ヤマトタケル(だと思う)の立派な像が、周囲とうまくバランスを取りながら建っている。

それにしても静か。初めてではないのに、なぜか新鮮な感覚に陥っている。

一応、奥に建つ招魂社まで足を運び、そのまま戻ることに。

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途中、太い幹をまっすぐに伸ばした大杉が立っている。

周囲はやはり城跡であることを思わせる石垣や土塁が続く感じで、家々の間の空き地にも特有の空気感が漂っている。

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さらに行くと、井波らしいアートとして創られた彫刻が置かれた公園がある。

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ようやく犬と散歩する高齢の女性と出会った。

こんにちわと、よそ者である自分の方からあいさつすると、やさしい笑顔で答えてくれた。

やはり文化度の高い土地の人たちには気品があるなあと、知ったかぶりで感心する。

思わず足も軽くなったように感じたが、逆に言えば、よそ者であることに強い自覚が生まれて、その場を早く立ち去りたいという気持ちになったのかもしれない。

特に観光客などがあまり足を運ばない所でのよそ者は、なぜ今自分がこの場所にいるのかを説明しなければならないような思いを抱いてしまう。

このことは自分の中での永遠のテーマ(大袈裟だが)みたいなものだ。

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今は南砺市という括りでまとめられたこの地域には、個性的な町が多い。

五箇山から白川、さらに荘川、そして郡上八幡へと繋がっていくのだから誰も文句は言えない。

ある意味、日本を象徴するエリアなのである。

道そのものもそうだが、その道から少しそれていくと現れる素朴な風景にも、飽きない面白さがある。

ただ、そうした場所には、もう一度行こうかと思っても、なかなか行けなかったりするから厄介なのだ。

このあたりに来ると、まだまだ自分には知らない風景や、味わったことのない空気感が残されていることをいつも思う。

そして、若い頃にやたらと感動していた山域の風景にもう一度出会いたいと、自分に熱いものを吹き込もうとしたりしている。

その日の帰りは、瑞泉寺の前まで戻りはしたものの、参道は下らず、もちろん境内にも入らず、そのまままっすぐ進み、途中から右に折れて家々の間の道を歩いてきた。

空は曇ったまま、空気はいつの間にかまた静かに湿気を含み始め、町なかがひんやりと、そしてしっとりと落ち着いていく感じがした。

自分の最も好きなスタイルに近い町歩きが、ここ井波にもある。

それはどんな小さなカタチでもよくて、ただ歴史の匂いと素朴な風景と人の生活感があることだ。

あらためてそんな思いを抱きながら、駐車場のトイレに立ち寄り、井波を後にしたのである………

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甲州ブドウが信玄本を導く

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大河ドラマ『真田丸』で、ついに真田昌幸が死んだ。

(タイトル写真は真田昌幸 『戦国大名武田氏の家臣団』より)

幻覚の中、馬の嘶きと近づいてくる蹄の音に起き上がり、「おやかたさまァ」と叫んだ後、そのまま息を引き取るという、グッとくるような演出であった。

草刈正雄の野性味の効いた演技もよかったと思う。

死に場所は真田からほど遠い九度山だったが、信濃の山野を駆け巡った戦国武将らしい最後だったようにも感じられた。

そして、昌幸が叫んだ「お館様」こそが、あの武田信玄であり、信玄によって戦略家・智将としての才能を開花された昌幸の、信玄への思いがあの場面に描かれていたのだ。

ただ、このあたりの背景表現については、『真田丸』は全く中途半端だったのではと思う。

昌幸は七歳の時に信玄のもとへと人質に出されている。

つまり、真田は元来、信玄から本当の信頼を得てはいなかった。

しかし、信玄は昌幸を大切に扱った。

その結果、昌幸は信玄の下でその才能を開花させ、国衆の三男坊から武田家譜代の家臣として取り立てられるまでになる。

信玄が死んだ後も、武田と真田のために踏ん張った。

本気で甲斐の国を再興させようとしていたのではないか………

と、ここまで書くと、ついこの前、武田信玄について書いていたのに、またその話かよ~と思う人もいるかもしれない。

今頃、気がついても遅い。実は、そうなのである。

しかし、今回はむずかしい話ではない。

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今年もまた、山梨県甲州市勝沼に住む親友Mからブドウ便が届いた。

9月のはじめ、いつもよりちょっと早い到着であったが、今年は猛暑のせいか収穫が少し早くなったらしい。

いつも畑で採れたものをすぐに箱詰めして送ってくれるもので、柄の部分はきれいな緑色をしている。

もちろんバツグンに美味い。

持つべきものは、よい友だちだ… ついでに書くと、静岡県三ケ日のみかん農家の次男坊も学生時代の親友で、こちらも初冬には採れたてが送られてくる…………

信玄本の記事

それで、今回勝沼から届いた箱の中に敷かれていた地元・山梨日日新聞。

いつもこういう新聞には必ず目をとおす。

土地柄のニュースが載っていたりして、なんとなく楽しい気分にさせてくれるからだ。

そして、今回も興味をそそるニュースが載っていた。

地元ゆかりの出版物を紹介する記事だ。

まず、「武田家臣団の構造解説」という見出しに注目させられ、丸島和洋氏の名前も目に止まった。

丸島氏と言えば、武田家と真田家に詳しい研究家だ。

『真田丸』の歴史考証も担当している。

これはすぐに買い込んで、読まねばなるまいと気持ちが昂る。

そして、すぐに買ったが、正直言うと、こちらの書店にはどこにも置いてなく、通販を利用させてもらった(なぜか、通販だと何となく申し訳ない気持ちになるのである)。

すぐに読みたかった。

二十代の頃、武田信玄に関する本をひたすら読み込んだが、その時の衝動が甦ってきた感じだった。

噛りついて読んでいるわけではないが、じっくりと今も読み続けている。

ところで、『真田丸』を見ていて感じる人もいると思うが、主人公の信繁(のちの幸村)と同じように、昌幸の方も面白い物語になると思うのである。

本音で言えば、昌幸の方が信玄との絡みが多くあって戦国の物語としては絶対内容は濃くなるはずだ。

秀吉やら家康、その周辺には深いストーリーが感じられない。

だから、幸村のようなヒーローが出来上がったような気もする。

秀吉・家康なら、今回のようにコメディっぽいのがちょうどいいくらいで、今回もそれが面白い要素になっていたりする。

まあどちらにしても、勝沼のブドウが一緒に届けてくれたような一冊の本が、今は実に愛おしく、ときどき気持ちをぐっと引き上げてくれるような気がして嬉しいのである…………

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秋のはじめのジャズ雑話-2

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『POPEYE』の9月号が、「ジャズと落語」という特集を組んでいて、能登へ仕事で行った時に、トイレを借りに入った商業施設の中の書店でほぼ衝動的に買いこんだ。

眠い目をこすりながらも、ゆっくりと時間をかけて(なかなか読む時間もなく)読んでいくと、それなりに面白い。

ジャズと落語は同時に聴けないが、スタンダードなひとつの曲が演奏者によってさまざまに変化していくような要素などは、落語にも共通する楽しみかも知れない・・・などと書いてある。

どこかのページに誰かも書いていたが、ボクもやはりジャズ喫茶の大音量の中で、じっくりと本を読むという時間が好きだった。

音がうるさくて本など読んでいられるかという理論(というほどもないが)は、ジャズ喫茶の中では通用しない。

むしろジャズという音楽がつくりだす空気感は、すぐれた文章の抑揚などとも合っていたのかもしれない。

もちろん声を発するのは厳禁だった。

70年代初め頃のジャズ喫茶は大音量が当たり前で、ボクはそうした中、外見からは想像できないような近代の純文学を読み耽っていた。

今から思えば、明治の青年たちの苦悩みたいなものを、ニューヨークの黒人たちが、自由と束縛との葛藤の中で創造する音楽に浸りながら理解しようとしていたわけだ……

そんな大げさな話でもないか。

特に吉祥寺の老舗「F」が多かったが、たまに新宿の「D」などにも出かけた。

「F」は密室に近い空間で、視野に入ってくるスピーカーの図体を見ただけで怖気づくが、「D」はそれに比べるとややのびのびとしたイメージがあり、好きなレコードがかかると思わずちょっと足を鳴らしたりする。

すると、店員さんがこっちを向いて、人差し指を口にあてる仕草を見せるのである。

「D」に入る時は、だいたいすぐ近くの紀伊國屋に先に寄っていて、真新しい文庫本なんぞを持っていた。

そうした一冊を、「D」で読み始めるという楽しみ方もあったのだ。

ところで、POPEYE-9月号を読んでいて最も意気消沈したのが、JJこと植草甚一の本についての記事だ。

そこに紹介されていた10冊ほどの著書は、学生の頃にすべて持っていたはずだったが、今はどこへ行ったのか分からないでいる。

そんな部類の本などは無数にあり、今になって、もう一度読み返したいなどと都合のいいことを思ったりするのだが、当然それはできない話になっている。

最近よく、ある時期から自分の中に“無風期”ができていたのだなあということを思う。

無風期というのは、文字どおり何の楽しみもない平凡な時期とで言おうか。

そういう時期に、大切なものがどんどん自分から離れていったような気がしている。

偏屈ともとれるコダワリみたいなものが、日々を愉快にしていた。

時々、少しでも戻ってみようかなという思いがふっと湧いてくる。

ジャズと本読みも、そのシンボル的存在の一部なのだが、別にそれらに限っているわけでもない。

以前にも書いたことがあるが、60歳を過ぎて感受性にまた火がつくというのは本当なのだ。

ところで、ジャズと落語なのだが、無理やり接点を求めようとすると、どこか言い訳じみて納得感が生まれない。

お寺やお茶屋さんでジャズをやったりしていることと、同じようなことを言われても、100パーセント同調できないし、見た目ではない部分がやはり大切な要素なのだろうと思う。

ジャズも好きだし、落語も好き。それでいいのでは…ということにする。

そんなわけで、今更モダンジャズがどうのこうのと語ったりするのもいやだから、キースの『生と死の幻想~Death & Flower』に身を委ねつつ、かつて、志ん生の「火焔太鼓」に爆笑していた自分を振り返ったりしているのである………

秋のはじめのジャズ雑話-1

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前にも書いたことがあるが、久しぶりにまたマイルスが聴きたい症候群がやって来て聴き込んだ。

一年に数回か… こうしたことが起きる。

9月の金沢ジャズストリートに、再びチック・コリアが来るというニュースを聞いたのはかなり前のことだったと思う。

今回はトリオ編成だし、ニューヨークの若手を連れてくるのだろうから行ってみようかなと思っていたが、8000円と聞いてやめにした。

そこまで払って行く気はしなかった。

ギターのリー・リトナーも来ていたが、昔、渡辺貞夫と来た時に聴いたことがあって、関心はありつつ、結局チックに行かずにリトナーだけ行くというのもなんだからとやめにした。

チックのコンサート時間には、家で昔の演奏を聴いていた。

少なくとも今よりはるかに若いし、しかもベースはミロスラフ・ヴィトウスで、ドラムスはロイ・ヘインズだから見劣り、いや聴き劣りはしない。

それどころか、圧倒的にこっちの方がいいに決まっているだろうと音量も高めにしてライブ感を出し、かなりのめり込んで聴いたように思う。

その後、続けてサークル時代のパリ・コンサートを聴いたが、「ネフェルティティ」だけ聴いてやめた。

何となく空虚になり、その後は一転して(?)なぜかレスター・ヤングになったのだ。

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ジャズストリートがあった9月の連休最終日には、朝から『巨匠たちの青の時代』(NHK-BS)の再々(だったと思う)放送があって、これもまた久しぶりに新鮮だった。

ジャズの巨匠と言えば、マイルス。

いや待て、エリントンもパーカーもコルトレーンも、ロリンズもかと心は揺れ動いたが、やはりマイルスだった。

マイルスについては、2003年に金沢でぶち上げたイベントの企画をとおして、かなりの研究家(もどき)になっていたが、その時に仕込んださまざまなデータも、今はもうテーブル板の下に眠っている。

ただ、その時の多様な出来事は、私的イベントとしての自己ベストに位置づけられる。この雑文集にもその時の話は何度か書かせてもらった。

ボクが最初にマイルスにやられたのは、『フォア&モア』の、「ソー・ホワット」と、間髪入れずの二曲目「ウォーキン」だ。

急カーブを、タイヤを軋ませながら走り抜けてゆく… マイルスのトランペットソロはそんな感じで、ジャズ少年の血を燃え上がらせた。

まだ高校生になったばかりで、ジャズを聴き始めて二年目くらいの頃だったが、最初に出会ったコルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」以来の衝撃だったと思う。

とにかくそれから後はマイルス中心に聴き込んでいったような覚えがある。

話はテレビの方に戻るが、番組の最後に流れたマイルスの最後の演奏と言われる「ハンニバル」は、一時周辺でも話題になった記憶がある。

ボクは正直どうでもよかったが、音だけ聴いていると、やはり何となく押し寄せてくるものがあって… 切なかった。

駆け出しの頃のマイルスが、憧れであったディジー・ガレスピの演奏スタイルから離れ、自身のスタイルを創り上げていく…… その物語がぼんやりと思い起こされる音だなと思えたのも事実だった。

マイルスは、少年時代に森の中(だったか)で聞いた女性の歌声が自分にとって永遠に求めていた音だったと語っていたらしいが、そんな話はなんだかマイルスらしくない(と、ボクは勝手に思っている)。

マイルスは反骨もあったし、だからこそ力強いビートも求め、アフリカ的な音世界に自分を置くなどして、空に向かい(70年代にはよく下を向いていたが)叫び(吹き)まくっていたのだとも思う。

高校時代、授業中にマイルスの音楽についてノートに書き綴っていたことがある。

今でも覚えているが、『ビッチェズ・ブリュー』の中の「スパニッシュ・キー」という曲について、リズムがリズムだけでメロディにもなり、リズムだけで強いメッセージになっている。さらに、曲全体をとおして高まったり抑えられたりしていくサウンドに、どこか遠い世界へと連れて行かれるような錯覚を覚える………と。

こんな生意気なことを本当に思っていたのであるから、ボク自身の当時の感性もそれなりのものだったのかもしれないが、かなりはっきりと覚えているから衝撃も大きかったのだろう。

ちなみに、マイルスのトランペットはタイトルどおりスペイン的であったが、ボクが想像した遠い世界とは、当然?アフリカであった……

※マイルスの雑文は、以下でも書いている。

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

語りながら自分を振り返る

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8月最後の休みの日、能登のN町U公民館で語る機会があった。

小さな会の少人数の場であったが、与えられたタイトルが男の趣味を云々というカッコよすぎるもので初めは躊躇した。

だが、地元の古い知り合い・Sさんからの要請でもあり、やらせていただくことにしたのだ。

かなり前のことだが、N町のあるプロジェクトに関わらせていただいた。その後、隣の町村と合併し町は大きくなったのだが、本質は変わっていないと思っている。

そのプロジェクトの時の町の担当者が、現在のU公民館長であるSさんだった。

静かに故郷を見つめる、素朴な姿勢が頼もしかった。

役場を退職後、今はあごひげを実にかっこよく伸ばし、渋みを増している。

U公民館は、図書館や観光情報センター、特産品の販売ショップなどが一体化された施設の一画を占める。

 

趣味の話など、ひたすらN居さんの好きなようにやってもらえたらいいんですよ………

最初に電話をもらった時、Sさんがそう言った。

そう言われても、戸惑うのは当の本人だ。

公的にはたまにやってきたが、私的一本でいいと言われたことはない。

たしかに公的にやっていても、終わる頃になると、私的な匂いに包まれていくというパターンもあった。

だが、私的でいいというのは、やはり申し訳ないというか……

最大の理由は、自分の“品質”で、そうした堅気の皆さんのお役に立てるのかどうかという疑問である。

かつて、“私的エネルギーを追求する!”などと吠えていた時代、周囲にいたニンゲンたちは、自分のことをそれなりに知ってくれていた。

だからそれなりに好きなようにやってこれたのだが………

最近、特に感じていたことがあった。

この雑文集を読んでいただいている人たちからの突然のメールなどに、やっぱり文章が自分の基本だなと思うようになっていたことだ。

できれば多くの人たちに読んでもらいたいが、それと同じように、自分でも死に近づいた床の中で、じっくりと読み返してみるのもいいなあと思うようになった。

とにかくなんだか急に、そして、おかしなくらいに「自分回帰」(大袈裟だが)みたいな思いが湧いてきていたのだけは事実だった。

そして、今回N町での話のテーマは、こうしたことに対する自分の気付きから始まったと言っていい。

このサイトの中にある「自記・中居ヒサシ論」という長文プロフィールの中から、わずかに話をピックアップし、仕事の上での「黒子」という立ち位置から離れた、自己表現の場としての「書く」という世界にのめり込んでいった経緯などを取っ掛かりにした(またややこしいことを書いている…)。

 

本題に入る前、「最近、自分という存在の、その一部を自覚させてくれる出来事がありました…」と、ややまじめに切り出す。

それは自分がかつて書いていた、稲見一良という作家に関する話に触れられた方からお便りをいただいたことだった。

素晴らしい経歴をもつその方からの言葉が、何か刺激のようなものをもたらしたように感じた。

稲見一良という作家に共鳴した自分の感性をストレートに理解してくれる人がいたということなのだが、その作家自身の、そして作品自体の魅力について、この雑文集の中以外で、あまり誰かに語ろうとしていたわけではなかった。

無理に「大人のココロ」を持とうとしていた少年が、そのまま中途半端な大人へと成長し、そして、さらにその中途半端さに磨きのかかった大人へとハマり込んでいく中で、初めて自分の中の「少年のココロ」に気が付く……

これは今の自分のことである。そして、そんな人生の機微(の一部)みたいなものを、稲見一良の作品は教えてくれていた。

そして、話は進んだ。

稲見一良だけでなく、辻まことや椎名誠、そして、星野道夫など…… 歴史や音楽などの世界と違ったカタチで、感性をぶるぶると震わせてくれた人たちのことを話していくうちに、どんどん自分自身も見えてくる。

その他のさまざまな物事に対して費やしてきた時間の話などを絡めていくと、自分自身を説明していくのは却ってむずかしくなるばかりだが、今自分の中に生きている人たちの話から、逆に自分が理解してもらえるということが掴めてくるのである。

そんな話をきっかけにして、黒子としてやってきた様々な仕事のことなどにも話が広がった。

自分では絶対に同一視したくなかったのだが、自分の中の私的エネルギーが、多分に仕事の取り組み方にも影響していたのは間違いなく、聞き手の皆さんも十分にそのことを感じ取ってくれたみたいだった。

いろんなことに興味を持ってきたが、行動という意味では何もかもが中途半端だったことは否定できない。

満足できたことは、まったくなかったように思う。

第三者に自分のことを語りながら、そのことを強く認識している自分自身がおかしくさえもあった。

そして、少年時代のことをただ思い返すのはノスタルジーだが、青年時代に考えていたことを振り返るのはまだいいのでは……と思えるようになっていると語った。

なぜなら、青年時代には少しだけだが、現実を踏まえた将来のことを考えていたからだ。

 

帰り道、美しい海の風景を見ながら、久しぶりにカラダの中がきれいになっていくのを感じていた。

もう残された時間は少ないし、エネルギーも乏しくなっていくばかりだが、昔の合言葉だった「ポレポレ」(スワヒリ語~のんびり、ゆっくり)という言葉がアタマをよぎっていく。

あの時代の自分が懐かしい………

わが家の 妙に気になる木

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我が家周辺における近年の夏は、ただ暑いだけで、どこか今一つ情緒的なものに欠けているなと思っていた。

そんなことを思ってしまっている自分自身にも原因はあったのだろうが、やはり何となく我が家周辺には無機質な夏しかなくなったと感じていた。

そして、その原因が分かった。

蝉の鳴き声が聞けなくなっていたのだ(……鳴いていたのに気が付いていなかったのかもしれないのだが)。

そんなある暑い日の午後、外出から帰ってきた時に、我が家の周辺で蝉が鳴いているのを聞いた。

そして、小さな花壇に水を撒くため夕方外へ出たときには、その声が、かなり鮮明に(例えばデジタル音的に)耳に届いてきた。

かつて、家の背後の斜面はニセアカシアだらけの林だった……

そこにはキジの親子が時折姿を見せたりもし、夏になれば蝉などは当たり前のように鳴き声を響かせていた。

そして、その林が整理されて、ただの美しい斜面と化してからは、蝉たちも止まる木を失い、それも当然のようにして遠ざかっていったのだ。

 

この家を建てた直後(約二十年前)、今は亡き義父が庭からサツキを植え替えにやってきてくれた。

何もなかった空き地がそれらしく彩られると、こちらもその気になってプランターで花を育てるなど、これまでの人生では考えられなかったような行動に出ていた。

ある時、植えられたサツキの間から、まったく別な木が伸びているのを見つけた。

全く異質な葉をつけるその木は、違和感をもたせるに十分だった。

しかし、その木はみるみるうちに大きくなっていった。

「ジャックと豆の木」の話があるが、子供の頃、あれを読んで、そんなバカなと思ったりしたことを思い出したくらいだった。

膝上くらいしかないサツキは、アッと言う間に追い抜かれてしまった。

妙な木2

最初は細くすべすべで緑色だった幹の部分が、少しずつホンモノの(?)木のような質感で変形していく。

これも自然界と言うか、植物界における摂理のひとつなのかと不思議な思いで見ていたが、さらにグングンと大きくなっていくのを見ていると、なんだか気持ち悪くもなってくる。

そして、一階の窓を覆うようになり、目隠しやら日陰になっていいかなと思っていたら、いつの間にか二階の屋根に届くようにもなっていた。

二十年の歳月の中で、十倍以上の成長をとげてきた。

 

そして、今年になって気が付いたが、その木に蝉たちがやって来てくれることになっていたのだ。

数年前、緑の葉っぱが青虫に喰い尽されそうになったこともあったが、殺虫剤(たしか家にあったキンチョールだったと思う)をまき散らし、地面を青虫の死骸だらけにしたこともあった。

葉っぱはすぐに回復していった。

そして今や、この木は我が家のシンボルツリーと言ってもいいほどに存在感を示している。

実は、この木の幹のすぐ横には、また別な木が伸びている。

なんとも不思議な生命力を持つ木々たちが、我が家の脇で共生生活を送っているのだ。

もう一本の木は細いが、幹は美しく白く、まっすぐに伸びようとしている。

絡まれる枝たちの中で、姿勢を正そうと懸命になっている。

いずれ、その木は別な場所に移してやりたいと思っているが、今のところ予定はない。

木の名前も知らない。ここでも敢えて調べようとも思っていない。

ただ、蝉の声を取り戻してくれたこの木に、とりあえず感謝なのである………

 

今日も水をまきながら、時折、その水を空に向けている。

緑の葉っぱたちに、少しでも涼んでもらおうと、愚かなことをしている………

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夏・森の朝の匂い


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朝の五時過ぎに風呂に行き、六時頃だろうか、カメラを持って旅館を出た。

小さなロビーには人影もなく、静かに玄関を出て、目の前に止めさせてもらったクルマから歩き用の履物を出す。

外に出た瞬間、空気の冷たさに多少驚いたが、ここは避暑地なのだと納得。

山の朝はもちろん、高原や山麓の朝も体験しているが、避暑地と呼ばれる場所の朝というのは、なぜか特別な響きを感じさせる。

そういう場所に不似合いなニンゲンだからなのだろうとも思う。

前日は、江戸時代の浅間山大噴火で出来た「鬼押出し」へと二十年ぶりくらいに出かけ、以前とはかなり様相が変わったみたいだなあ…などといった感想なんぞを抱いたのだが、その頃の記憶もいい加減なもので、最近はこうした感想を抱きつつ首を傾げたりすることが多くなった。

ただ、雲に一部被われていた浅間山の裾野の美しさは記憶も明快に残っていて、多少見えなくても十分想像できたのがうれしかった。

それでとにかく前日の午後、かつて多くの文人たちに愛されたという老舗の某旅館に入り、なんだかんだでそのまま翌朝を迎えたというわけである。

 

玄関前から右手に緩く道は下っている。

逆の言い方をすれば、左手に緩く上っていることになる。

両サイドに個性的なお店が並ぶ下りの通りは、明治時代からの開業というところも多くあるそうで、この辺りでは人気のエリアになっている。

昨日の午後の人だかりも凄かった。別荘地の代名詞になっている理由がよく分かる。

まだまだ早朝の静寂の中にあるその通りをちらりと見下ろしてから、こちらは左側のやや上りになった道に足を進めた。

「旧中山道」である。冴えた空気感が漂う。山道への入り口といった感じで、ちょうど旅館がその境目にある。

かつて加賀藩の参勤交代行列はここを歩いた。

旅館の中にそのルート全体を描いた絵が掲示されてあったが、出発地である金沢周辺の絵に、自分の住んでいる場所も描かれていた。

しばらく歩くと、右手の小さな流れに架けられた橋を渡ったところに、ひっそりとした一軒の店が見える。見えると言っても、木立に中に隠れながらだ。

昨夜の晩餐の場所だった。

静かにライブレコーディングのジャズが流れていた。

ガイドブックやネットなんかに載っていないイタリア料理の店(普段はほとんど興味がない)なのだが、その店が素晴らしく良い店だったのだ。

店の造りも広いわりにはシンプルで、料理にもシェフの思いが伝わってくる感じがした。

そして、それだけではなく、店に入った時に、ここをどうやって知ったんですか?と、問いかけられたこともなぜかとても新鮮だった。

当然、出発前に予約しておいたのだが、この店を見つけたのは長女であり、長女もとにかくひたすら深く切り込んでいったらしい。

夜は予約数をかなり限定しているような感じで、最初はあまり積極的ではなかったようだ。しかし、ちょっと早めの時間であれば何とか対応してくれるというので、とにかくそうさせてもらうことにした。

シェフは独りで切り盛りしながらの奮闘だったみたいだ。

実を言うと、今回は定番型の“夏のかぞく旅”であると同時に、ちょっとした意味深い背景もあったりする旅でもあった。

だから、長女も忙しい中、わずかな隙間をついてこの店まで辿り着いてくれたのだ。

 有名な礼拝堂のあたりを過ぎてからは、濃い緑の世界に包まれていく。

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特に意味はなかったが、とりあえずこの道を上ったところにある「室生犀星碑」のあたりまで行ってみることにした。

避暑地とはいえ、昼間は三十度超えの暑さになるのだが、果たして今は何度ぐらいだろうかと考える。

日差しが全く遮られた場所では涼しいを通り越す。Tシャツに半ズボンの軽装を悔やむほどだ。

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たまにすれ違う人たちが、観光の人か地元あるいは別荘の人なのかということも少しずつ分かってくる。

自分と同じ方向に歩いている一般観光客はほとんどなく、分岐のところで、人のかたまりは今自分が歩いている道ではない方向へと流れている。

だから、今歩いている道ですれ違うわずかな人は、なんとなく地元か別荘の人だということなのだ。

決定づけるのは、たとえば連れている犬などの種類や着ているモノ、そしてさらに、すれ違った後に残ったりする香水の匂い。

これは間違いなく別荘のお方だという風に決めつけられる。

流れを左に見下ろすようになってからしばらくで、一応目当てにしていた犀星碑のサインと出合った。

流れの方へと斜めに下っていくと、碑があった。写真で何度も見ているが、初めてナマを見た。

崖面に付けられたレリーフの詩は、かつてなんとなく好きだったもので、今読み返すと、なぜか今の方がグサリとくる感じがして驚く。

“我は張りつめたる氷を愛す……”というやつだ。

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そう言えば、今春、卒論のテーマが犀星だったという学芸員の大卒女子が入社した。

犀星については、こちらはあくまで金沢への切ない思いと重なる人物像にばかり目を向けてきたが、そんな感覚はどうも自分の独特なものだということが最近になって分かってきている。

特に学芸員さんたちのような世界ともなると、作品そのものからいろいろと究めていくことが普通みたいで、素性や育った環境なんかは語られないのでさびしいのだ。

ただ、それでは犀星のニンゲン物語はつまらないと思う。

こんな別荘地で穏やか過ぎるような日々を過ごしていた犀星には、あまり興味がない。

そんなこともついでに思いながら、レリーフの詩を二度読み返してその場を去った。

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せせらぎの音と森の奥から届く野鳥たちの声。

もちろんそんな絵に描いたような世界ばかりではなく、時折クルマのエンジン音なんかも聞こえるのだが、自分の中にある“森が好きだ感”のはっきりと反応している様子が掴みとれる。

それにしても緑の深さがいい。広がりもいい。新緑が深緑に変わっていく頃、よく緑しかない世界に遭遇したりするが、今感じている緑感もカンペキに凄まじいのだ。

そして時折、木漏れ日が夏草の上や苔むした石の上などに強烈に差し込んでいたりすると、ああ夏だなァ…と思う。

そんな瞬間との出合いを、いつも憧れをもって待っていた自分がいた。

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戻り道で外国人の女性とすれ違った。薄手のコートをはおり、さっそうと坂道を上ってきた。

すれ違う際、おはようございま~す…という、美しい日本語の響きを聞き、木漏れ日を受けた笑顔を見た。

ただそれだけだったが、気分がより爽やかになった。

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もう一時間ほど歩いている。

別荘の小窓に明かりが灯り、人影が動く。

下ってくると、もう多くの人たちがボクが上がったのとは違う方向へ列を作り歩いていた。そちらの方がポピュラーなのだろう。

かなり下ると、流れの反対側に昨夜の店がまた見えてくる。

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この角度から見ると、本当にひっそりと建つという表現が似合う。樹木などが適度に店の全景を隠しているのだ。

そう言えば、最初はテラスを用意していてくれたのだが、外の空気の冷たさを知り店内のテーブルにしてもらったのだった。

せせらぎの音が異様なほど近くに感じられたわけは、今見ている光景から理解できる。

店を出る時に、シェフとほんの短い時間話した。

山梨県小淵沢出身のシェフは、今年の秋に小淵沢に戻り、新しいことを始めるらしい。

今も休みには小淵沢に戻り、地元の野菜などをもとに料理を出しているらしいが、一人でやりくりしていくのは大変らしく、故郷でじっくりやりたい様子だった。

こちらも山梨には友人もいるし、甲州ワインなどにもかなり親しんでいるなどと切り出すと話がはずんだ。

小淵沢にも何度も行った。牧場が多く、大河ドラマの合戦シーンなどにも使われるいいところだ。

名刺ももらい、こちらの住所を残してきた。

出来れば、来夏には行ってみたいと思う。

今回の“夏のかぞく旅”には特別な事情があったからでもあり、そして、この店やシェフとの出合いが、そんな今回の旅に特別な色を添えてくれたような気がするからでもある。

秋に届くであろう便りが楽しみになった………

もう避暑地の朝歩きは終わっている。

旅館の前まで戻ると、通りに少しだけ人の塊が見えた。

あと二時間ほどすれば、ゆっくり歩けないほどの数になるのだろう。

旅館に戻って、朝飯なのであった…………

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ふと、星野道夫に。

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新聞の広告に『星野道夫』という四つの文字列を見つけた瞬間、これは買いに行こうと決めていた。

懐かしさとか、そういった思いも確かにあったが、なんだか出合ってしまった以上は必ず読まなければならないという気持ちの焦りみたいなものも感じていたのだ。

今更、星野道夫のことを語るつもりはないが、少なくともこの人はボクに大きな影響を与えた一人だ。

写真家であったが、ボクは文章家としての星野道夫を慕っていた。

著書のほとんどを読んでいたが、これまで自分が出合ってきた文章の中で、この人の文章が最も自分を動かしたかも知れないと思っている。

こんなにも飾り気のない文章が書けるニンゲンの、その背景みたいなものに嫉妬していたとも言える。

その背景とは言うまでもなくアラスカという大自然だ。

そして、そこへ行き着くまでの星野道夫のプロセスだ。

もちろん、星野道夫の感性もまた忘れてはいけない。

親友を山で失い、東京の電車の中から北海道のヒグマの今を想像し、信州の田舎でアラスカのある村のことを知り……

思いつくままにただ書いているが、星野道夫のプロセスは並外れていた。

そして、この並外れていた感性が、ボクにとっては最も心惹かれたところでもあった。

こんなにさりげなく、自分の思いを遂げていっていいのかと思った。

真似のできないニンゲンが、ただひたすら星野道夫にすがっている。

しかし、そんな情けない思いを強いられながらも星野道夫の何かに救われてもきたのだ。

それは、自分自身の中にもあった星野道夫的感性に気が付いた時だった。

ニンゲンは何かの前に立ち、それを見つめながら別な何かを考えたり感じたりできる。

そして、その二つの何かの中に共通するものを見出すことに自然でいられるのだ。

風に揺れる草を見ながら、空に浮かぶ雲を見ながら、自分も時折星野道夫的になり、自分自身を見つめてきたように思う。

ここまで走り書きした。

もう人生の終盤に向かおうとしている今だからこそ、そんな感性にふと敏感になったりするのだろうと思う。

星野道夫が他界して長い時間が過ぎた。

しかし、星野道夫が残していった文章があるから、まだ星野道夫的感性を意識していられるのだ………

 

長女が奥穂高へ行く前の日に思い出したこと

玄関

朝靄に朝日が差し込み、夏の朝らしい気配をカラダ全体で感じとる。

かつて飛騨から信州へと抜ける道すがら、上宝という村で見ていた風景だ。

何でもない早朝の山間(やまあい)。その一帯に漂う空気感に包まれながら、ラジオ体操を終えた少年たちが、石垣の上に腰を下ろし、さも当たり前のように漫画を読んでいた。

そのややダラーっとした並び方がよかった。夏休みらしい、のんびりとした空気感が漂っていた。

まだ暗いうちに家を出た。

助手席には、カメラとアルミホイールに包まれた握り飯が三個。

後部座席にはリュック。足元にはひたすら重い登山靴がある。

握り飯は、山へ行くとき、旅に出るとき、母が前の晩にいつも作ってくれた。

道と平行して流れる川のほとりに出て、その握り飯を食べる。

朝靄がまだわずかに残っているが、日差しから逃げられない空間はすでに夏らしい熱気に包まれ始めている。

家を出て2時間以上が過ぎていた。

今日が梅雨の明ける日になるかもしれない……

なんとなくそんな予感がしている。

空は文句なしの青一色だし、もう梅雨をイメージさせるものは何もない。

再びクルマを走らせ、かつての平湯温泉バスターミナルから満員のバスに揺られて上高地に入った………

長女が、翌日から奥穂高へ行くという日………

あれこれと準備している長女を見ながら、自分が初めて奥穂高を登った夏の暑い日のことを思い出している。

その年の梅雨は、その日の正午頃に明けた。

横尾の山荘の前で、昼飯のためのお湯を沸かしていた時、布団干しをしていた小屋のアルバイトらしき青年が、大きな声で叫んだのだ。

梅雨が明けました~

梓川の輝きと大きな歓声の響きを今も覚えている…………

 

 

ここには、一貫したテーマがないまま、ただ無作為に書いてきた文章が積み上げられてあります。今年中にタイトルを変えようと考えていますが、新しい名前はどうなるか分かりません。大雑把に言うと、いろいろなことの企画をやってきました。文章もさまざまな形態で書いてきました。硬いモノから柔らかいものまで、一応公に出てるものがたくさんあります。しかし、原点は私的な文章にあり、このサイトも私的な雑誌を発行していたことの延長線上にあります。自分本位に書き下ろしていくのが大好きです。ただ、印刷物になっていた時の方が、文章は丁寧に書いていたような気がしており、ときどき読み返しては直したりもしています。そんなことで、ここはボクの原点。どうせなら、じっくりと読み込んでいってください……… 文章と写真 中居ヒサシ