「風が吹く河北潟干拓地にて・・・」

on 2012年5月13日

 

 最近は、休日時間があると河北潟干拓地によく足を運ぶ。

 今まで近くに居ながら、夏のウォーキングや冬のスキーハイクに行くくらいで、特にそれほど深い愛着があったというわけではなかったのだが、今は変わった。

  ボクらが覚えている河北潟は、広くて大らかで、嵐の時などは時々怖かったりもしたが、ひたすらのんびりとした印象だった。

 だから、干拓によって失われたものはとても大きく、そうしたこと自体、過ちだったと今も思っている。

 しかし、そうなったことを考えるより、今これほどまでに美しい風景として蘇っているということを思うようになった。

 そう思うことで、自分の中にある河北潟への思いを忘れないようにしているのかもしれない。

 今日の河北潟干拓地は、天気はいいのだが風が吹いている。

 広々とした麦畑では、穂が大きく揺れ、じっと見ていると吸いこまれそうになる。

 夏には「ひまわり村」になる一帯には、赤い花が無数に咲いていた。

 どんな場所にいても、ここに広々と水面を輝かせていた河北潟があったのだと、いつも思う・・・・・・

 

「山には、悲劇も喜劇もある・・・」

on 2012年5月8日

 今年の春も北アルプスで何人かの登山者が死んだ。

 厳冬期の遭難事故は少なくなったように感じられるが、春山での事故は一向に減っていないのではないだろうかと思ったりもする。

 それになんと言っても、最近は高齢登山者の事故だ。

 冬に比べれば、当然春の方が安定しているのは間違いない。

 しかし、その分、春の山には大きな落とし穴が待っているということだ。

 体感的には、真夏と真冬が同時に来ると言ってもいい。

 そんな中での冷静な判断や体力などは、生死を分ける分岐点上にある。

 

 この本は、25年ほど前に山と渓谷社から出版されたものだ。

 その頃のボクは、この本の中に出てくる富山県警山岳パトロールの人たちや、薬師岳方面遭難対策協議会の人たちとよく山で出会い、一緒に歩く機会もたびたびあった。

 だから、登場人物の名前はだいたい分かる。

 実際に本の中に記されている救助活動の話もナマで聞いた。

 山小屋で停滞する時などは、よくそういう話になり、信じられないような遭難救助の実態を知らされた。

 吹雪の中、腕を中空に突き上げ硬直したままの遺体や、もう衣服だけが辛うじて残った遺体、発狂したように叫びだす大学山岳部の青年、雪に埋もれたパートナーの横で財布の中のお金を数えていたという女性登山者、稜線から転落死した父の下山を待つ幼い兄弟…

 今思い出すことのできる話だけでも、無数にある。

 しかし、そんな中で、ホッとさせられた話がひとつあった。

 生きとるぞーッ! 救助に向かった現場で遭難者がまだ生きていると分かった時の、何としてでも助けようという思いが遭難救助の原点にあるという話だった。

 実際に大雨による黒部源流の濁流の中で繰り広げられた救助活動の話は、よく知っている人たちの体験であったせいもあり、固唾をのんで聞き入った。

 救助隊員自身も死と相対しながらの決死の活動だったという。

 とにかく山での話は、想像をはるかに超えた過酷さに驚かされる。

 

 大好きな太郎平小屋のオヤジ・五十嶋博文さんも、高校を出て小屋の手伝いをするようになり、二十代半ばで山でやっていこうと決めた…と、いつか話してくれた。

 日本の山岳史上最大の事故となった、昭和38年(1963)正月の愛知大学パーティの遭難が、そのきっかけだった。

 猛吹雪の薬師岳稜線で進むべき方向を誤り、パーティ全員が遭難した。

 死者13名。最後の遺体を発見したのがその年の10月。

 オヤジさんはまだ新婚だったが、最後の遺体発見まで山を歩き回った。

 当時は遭難者の遺体は山で荼毘にされていた。

 しかし、荼毘そのものよりも、人がこの美しい山で死ぬという事実の方が衝撃だったとオヤジさんは言った。

 そして、それ以降、50年に及ぶ山小屋のオヤジとしての日々の中で、一体何人の遭難者、ケガ人を背負ってきたことだろう。

 山には、喜劇と悲劇が同居するとボクは思っている。

 楽しいことはとことん楽しい。酒を飲んで陽気に語り合うこともあれば、しみじみと顔を寄せ合い語ることもある。

 ひたすら美しく、雄々しく、そして永遠を感じさせる風景の中にいるだけで、どれだけ大らかにいられることか…。

 しかし、悲しい出来事もまた待っている。それが山だ。

 特に何かを告げたいわけではなく、ただ、新聞やニュースで報道される遭難事故に、かつての想い出話がだぶったという、それだけの話なのだ……

「伝えることの大切さ・・・について」

on 2012年5月7日

 

 先日、県庁で開かれた「ブランディング」に関するセミナーに参加して、ふと思ったことがある。

 講師の女性の感性と自分の感性とに妙な共通点があるような気がして、その裏にある共通の何かを探ろうと話に聞き入った。

 ちなみに、連れは和菓子屋ご主人兼ジャズトランペッターのカーさん。プランナー兼野外活動家のアーさんなどで、眠気との戦いを念頭において一緒に参加しようと提案したのだった…

 さらについでの話をすると、ボクのために空けておいてくれた席には、なぜかセミナーとは全く無関係の「モンタレー・ジャズ・フェスティバル in NOTO」のチラシが置かれていた。

 粋な計らいは、カーさんの仕業だったのは間違いない。

 で、共通点のことなのだが、しばらく聞いているうちに、“ストーリーをどう伝えるか?ということが大切だ”という話に至って、案外簡単に、あッそうか!と理解できた。

 女史は、自分はもの書きだと言った。事実、某大手企業の社員でありながら著書が多い。

 ボクもまた、某中小企業のプランナー兼役員でありながら、もの書きをしている。

 正式に名前の明記された本は一冊しか出していないが、公私混同型で、あちこちさまざまなメディアに書きまくってきた。

 伝えることの重要性というのは、その対象となるモノやコトに秘められたストーリーを知ってもらうことであり、そうすることによって、そのモノやコトにより深い趣を添えられるということだ。

 つまり、その先生も同じようなことを言っていたのだ。

 この場合、ボクの方が先生より後発ではないと自信を持って言えるのだが、世の中はそういう風には見てくれないので余計なことは言わない(そのことが余計かな?)。それに“レディ・ファースト”という言葉もある。

 

 「松井秀喜から学んだ野球文化…」の中でも書いたが、ボクはストーリーをかなり重要視するタイプだ。

 無理やり人目を引こうなどとは考えずに、そのことそのものをしっかりと伝えることだけを考える。

 すると、不思議にその核心は確実に得られる。

 例え話をすると、知り合いの山岳写真家の写真展を企画する時、その写真家の詳しいプロフィールと山への入り方、写真を撮る時のスタンスや、実際にこの写真はこういう状況で撮ったということを伝える(文章で)と、観ている人たちはとても感動してくれる。

 アマチュア写真家や山好きの人たちは、ちょっとした自分との共通点、そして非共通点に納得し、そのことを喜んでくれる。

 金沢21世紀美術館の展覧会のレセプションなんかに参加してもよく分かることがある。

 それは作家の意図らしきものを学芸員から聞くだけで、作品への愛着が思った以上に膨らむということだ。

 やはり、理解できたという思いはかなり強く作用するのだ。

 A元館長から、いくら“感じてください”と言われても、その感じ方そのものに自信が持てない時もある。

 

 ところで、今の世の中、モノ・コトはかなり経済で価値判断されるようになっている。しかし、その度合いの良し悪しもまたむずかしい。

 経済の観念が大きくなり過ぎて、嫌気がさし、去って行ったという人も知っている。

 ここでいう経済とは、社会的な知名度も含むような気がする。

 その時に感じるのが、それを求める露骨な話には、ちょっと大きかったり、嘘っぽかったりする要素が多いということだ。

 広告屋的には、モノ・コトすべて肯定的な視点が必要なのだが、それだけではなくなってきた感もある。

 特に3.11からは、問題提起しないと世の中から置いてきぼりにされてしまうと思い込んだ人たちが多くなったようだ。

 事象が似ていても、根本的に違うこともある。

 昨年の9.11の時、3.11と同じ次元で語っているニンゲンを何人か見たが、あれは大いなる間違いだと思う。

 そういう間違いが問題提起型ニンゲンには多いようなのだ。

 社会的な問題提起に多くの力を注ぐ必要はそれほどないと思う。

 自分自身のスタンスをしっかりと持っていれば、まったく不自然さはない。

 少なくとも、ボク自身もまた何人かの被災者を大切な友人としてもち、その彼らに対する思いだけでも自分自身を高揚できるし、純化できている。

 しっかりと彼らのことを考えていれば、自分のやらなければならないことも素直に見えてくる。

 話がちょっと固くなったが、このことは地域づくりからお店づくりなど、また商品開発などにも応用されるし、博物館や資料館をつくる上でも絶対的に必要なものになる。

 ないものを作り上げる努力も大事だが、あるものやあったものを探し出す(光をあてる)努力もまた価値は高いとボクは思っている。

 ずっと生きてきて、仕事をし、それなりに考え、音楽を聴いたり、旅をしたり、本を読んだり、その他モロモロ興味を抱くものを、人よりはちょっと多く持ってきた。

 まだまだ結論を出せるような域には至っていないが、モノ・コトに潜んでいる臭いにはかなり敏感になっている。

 講師の話が終わることになって、そんなことがはっきりと分かってきた気がしていた…

「松井秀喜から学んだ野球文化…」

on 2012年5月2日

 

 4月15日のメジャーリーグ。プレイする選手たちの背番号が「42」だった。

 黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューした日のメモリアルである。

 また、21日には、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの100周年記念試合で、Rソックスとヤンキースの選手たちは、背番号のない100年前のユニホームを着てプレーした。

 日常の試合の中でも、メジャーリーグには大胆で印象深いシーンが数多く見られる。

 野球に対する何かが、そのパフォーマンスに表れている。

 ボクはこういうのを『野球文化』と呼んでいる。

 もちろん、ボクが言い出した言葉ではない。

 しかし、ボクはある時から確信を持って、この言葉を口にするようになった。

 そのある時とは…、野球人・松井秀喜と出会った時だ。

 

 2005年12月8日、石川県能美市に『松井秀喜ベースボール・ミュージアム』がオープンした。

 松井選手がアメリカに渡り、大活躍した二年目のシーズンオフ初冬だ。

 ボクはそのミュージアム全体の展示計画を担当し、具体的に展示品や資料を調べ選択し、松井選手の人物史はもちろん、数々のエピソードなども独自に取材して文章化した。

 映像のシナリオも書いた。松井選手と所縁のある多くの人たちとも交流した。

 滅多に触れることのできない貴重な品々も手にした。

 オープニングイベントはもちろん、その後のミュージアムが主催するイベントも企画し、スタッフたちと実行してきた。

 そんな数多い貴重な経験の中で感じ取ったのが、野球が醸成してきた文化というものだった。

 単純な言葉で言えば、野球文化とは、野球をすることを楽しみ、野球を観ることを楽しむ文化だ。

 もっと単純に言うと、打者がホームランを打った時の喜びや、投手が三振を取った時の喜び、ファンがホームランを打った選手を称賛する喜びや、三振を取った投手を称賛する喜びだ。

 ファインプレーをした時の喜びも、その選手を称賛する喜びもある。

 さらに、野球を観ながら冷たいビールを飲むとか、美味しいハンバーガーを食べるというのもそうであることは言うまでもない。

 そして、そういう風にして育まれてきた、もっと強い文化……、たとえば、日本の高校野球に見られる地域などへの思いなども野球文化のひとつだ。

 今春の選抜大会、甲子園球場のホームプレート前から発せられたあの選手宣誓の言葉に、心を揺さぶられた人は無数にいたに違いない。

 野球をとおして培われ、発せられる思いが、多くの人たちに感動や勇気を与えるということを、あの宣誓があらためて教えてくれた。

 偉大な野球文化の結晶なのだ。

 

 実は、ボクにはアメリカでメジャーリーグの観戦をした経験がない。

 いつかいつかと思いながら、松井選手がNYヤンキースを去ってからは、その思いも薄れてきた。

 しかし、松井選手関係のさまざまな、そして生々しい資料や写真や映像などを多く見る機会に恵まれていたから、臨場感のある野球文化を普通の人以上にかなり感受できたと思っている。

 展示計画を進めていくうち、ボクは一枚の写真と出会った。

 そして、その写真が大好きな一枚になった。

 それは、ヤンキースタジアムでホームランを打ち、三塁ベースをまわってホームへと向かう松井選手を捉えた写真だ。

 背景にはファンが総立ちになり、松井選手を讃えている姿が写っている。

 ほとんどの人たちが拍手をしたり、両腕を突き上げ歓声を上げている。

 金髪の若い女性は、口を目いっぱい開けて何かを叫んでいる。

 髭のオジサンも、若者も少年も、みなが喜びを精一杯に表している。

 しかし、松井選手は目を足元に落とし、その歓声に照れているような、その歓声に戸惑っているような、そんな素振りでホームへと向かっている。

 この一枚のショットが、ボクのアタマの中に強く残った。

 野球という試合の中で遭遇する期待を込めた緊張感。

 チャンスが訪れた時の高まる気持ちが、ホームランを打ってくれたことへの喜びと称賛に変わる。

 こんな素朴で爆発的な喜びは、日常の中でも滅多にない。

 この場に遭遇した、あるいはテレビで観戦したりした者だけにしか味わえないものだ。

 松井選手は下を向いてゆっくりと走っているが、その姿にも観衆はさらにまた違う何かを感じていると思える。

 野球そのものを楽しむ自然発生的な喜びの表現。

 ファンそれぞれが、それぞれの個性で表現する、それらももちろん野球文化なのだ。

 

 ところで、メジャーリーグの試合で見られる七回の「7th inning Stretch」などは、テレビ中継を見て初めて知った。応援スタイルも日本とは全く違う。

 野球はまず楽しみながら観戦するというスタンスが明解になっている。

 その延長上に、応援というスタイルがあるような感じがする。

 スタンディング・オベーションの文化=讃える文化もメジャーには基本的に生きていて、選手への敬意も忘れていない。

 野茂英雄やイチロー、そして松井秀喜と続いた日本人メジャーリーガーの活躍を経て、日本のプロ野球に少し違和感を持った人たちも多かったはずだ。

 

 しかし、大袈裟な言い方で気恥ずかしいが、ボクにはどうしても伝えていかなければならないと思う野球文化が、もうひとつある。

 それは、松井選手にもイチロー選手にも共通することだが、打者がボールを捉えるという感覚的な、そして技術に関する文化だ。

 松井選手のことをいろいろと調べていくうちに、ボクは松井選手がアウトコースの投球を強く左に打つという表現に注目していた。

 左バッターの場合、アウトコースは軽く当てて流し打ちするというのが、これまでの普通の感覚だったのではないか?

 そう思った時、こういう小さな発見が多くの野球少年たちやファンに何かをアピールするような気になった。

 松井選手の言葉はメジャーに挑戦し、さらに実感したものだったに違いない。

 メジャーデビュー戦で三遊間にタイムリーヒットを打っているが、まさにあのバッティングはそのことの始まりだったような気がする。

 そして、MVPをとったあのワールドシリーズ。

 DHのない敵地で代打で登場し、レフトへ豪快なホームランを打ったバッティングなどは、その理想形だったような気がしている。

 ボクはこのようなこともまた、野球文化の象徴だと思い始めた。

 伝統工芸の名工たちが身に付けた技術や気構えと同じものがあると思っている。

 将来、プロを目指す少年たち、高校野球の選手たち、特にスラッガーたちには、この松井選手の言葉は新鮮に響くに違いない。

 さらに、どういう思いで打席に入り、どういう思いでボールを待ち、どういう思いでバットを振りにいくか…から、日常をどう過ごすかに至るまで、この継承には意味がある。

 まだまだ書き足りていないが、すべてのことが野球文化に通じていく。

 

 ミュージアムの企画がスタートする時、そのコンセプトを

「松井秀喜という野球人をとおして、野球文化を伝える…」とした。

 そのためには、すでに実感していた松井選手のニンゲン的な凄さを、きっちり伝える必要があると思い、人物評伝みたいことに力を注いだ。

 著名な方々からも話を聞き、そのことをさらに強く感じていた。

 たとえば、松井選手のバットを作り続けていた名人・久保田五十一氏を、岐阜県養老町にあるミズノバット工場に訪ねた時も、よく一緒に行ったという近くの食堂で、久保田氏から松井選手のバットに対する信頼感について聞かされた。

 一年間、自分のバットを信じて絶対に途中で手を加えなかったという話には、自分自身の感覚や技術、フォームなどを第一に考えた松井選手の強い意志を感じた。

 野球の直接的な関係者ばかりでなく、篠山紀信氏や阿久悠氏、さらに伊集院静氏などが表した松井選手の人物評価も、ボクをさらに後押しした。

 メジャーリーグ機構が、松井選手のニンゲン的な魅力を高く評価してくれたことも嬉しく心強かった。

 ミュージアム構想に賛同し協力してくれたことは、展示計画に大きなバックボーンとなっている。

 現在、ミュージアムで流れている映像などは、メジャーリーグの協力支援なくしては完成しなかったものだ。

 

 ミュージアムの企画に関わらせてもらった長い時間は、何もかも夢のように過ぎていったような気がする。

 オープンの前夜、松井選手は最終便で帰郷し、そのまま空港からミュージアムに立ち寄った。

 あまり表情を変えずに館内を歩いていたが、今から思えば、かなり照れ臭かったのだろう。

 そして、翌朝…。北陸の空はまさに冬の到来そのものだった。

 取材オファーは、180社を超えていた。

 館内でのセレモニーを終え、テープカットのために松井選手が外に出る。

 ボクは中からエスコートした。その時だった・・・

 不思議なことに雲が切れ、その隙間から太陽の光が流れ出しミュージアムを照らした。

 このことは、今でも関わってきたスタッフたちの語り草となっている、“松井ミュージアムの奇跡”だ。

 長かったその日のすべてが終わり、ボクは運営に携わってきた多くの関係者たちを前にして礼を言った。

 ボクの横には、大きな松井選手がときどき口元を緩ませながら立っていた。

 ボクはもちろん、十分に誇らしげだったに違いない。

 

 オープン後の最初の休日だったろうか。外にはパトカーも巡回し、最高の入館者数に達した日のことだ。

 ボクは、ずっと一人の入館者に注目していた。すぐにかなりの高齢と分かるおばあさんだった。

 少し離れながら後方を付いていくと、おばあさんはあるコーナーで立ち止まり、人ごみの中で曲がった背筋をぐっと伸ばした。その姿は凛々しくも見えた。

 おばあさんに近寄っていき、大丈夫ですか?と声をかける。

 腕章に気が付いたのか、おばあさんが語りかける。

 「この子(松井選手)はね、ほんと偉かったんですよねえ…」

 おばあさんの視線の先には、スポーツニッポンから贈られた「五打席連続敬遠」を伝える新聞一面のパネルがあった。

 大阪から娘さんと来たというおばあさん。娘さんもすでにおばあさんの域にあった。

 星稜高校時代の五打席連続敬遠の試合を見てから、松井選手が大好きになり、それ以後、ずっと松井選手に関する新聞記事をスクラップしてきたと言う。

 手を添える娘さんも、母はここへ来るのを本当に心待ちにしていたんですと言って笑った。

 野球が生んだ物語が、またもうひとつの物語を生む。

 その物語こそ、文化なのだ・・・・・・・

 こういう仕事を続けてきて、世の中に存在し、人々から愛されてきたものには、すべてに「文化」があるのだと思えるようになった。

 逆に言えば、文化がないものは、仮に存在はしていても愛されることはないのだと思うようになった。

 奇を衒ったり、無理に衆目を引こうと考える必要は特にない。

 それよりも、じっと見つめ深く掘り下げていく過程を大事にする方がいい。

 いろいろな機会をいただき、ボクはこういう話を何度もした。松井選手を横にして話したこともある。

 今、現在も、関わっている仕事のすべてがそんな思いに支えられている。

 そう言えば、最近、野球が面白くないのは、松井秀喜がグラウンドに立っていないからなのだ……

 

「今年の笹ヶ峰は凄かった・・・・・・」

on 2012年4月29日

 恒例になった毎春の笹ヶ峰スキートレッキング。

 ちょっと空白があったが、二年前に復活して、その時から現地書き下ろしを始めた。

 だから、今もボクは笹ヶ峰の雪原の岩の上に座り、ノートを広げているのだ。

 快晴である。暖かくて、雪面の照り返しもきつい。

 今のところ、前方に見える山の頂上付近に、綿をちぎったような白い雲が緩やかに浮いているだけで、空は全くの青。

 文句の付けようのない日になっている。

 昼飯を終え、雪の上に置いたノンアルコール・ビールの残りを飲みながら、ノートを広げた。

 時間は12時45分。

 8時半、いや9時近くだったろうか、いつもとちょっと違う場所にクルマを停めてスキーを履いた。

 白樺の樹林帯を抜けて、雪原に出ると、いつものように宇棚の清水と呼ばれる湧水のせせらぎに沿って登る。

 澄んだせせらぎの脇に水芭蕉が咲いていて、何度も足を止めてはカメラを手にした。

  今年は去年より雪も多いような気がする。

 昼飯の定位置となっていた大きな岩もまだ雪の中に埋まっているのか、見つからなかった。

 だから、今年はいつもと違うちょっと低めの岩を腰掛け代わりにしている。

 それにしても、相変わらず見事なくらいに静かだ。

 聞こえてくるのは遠くの鳥のさえずりや沢のせせらぎぐらいで、ノートの上を滑るペンの音さえが鮮明に聞き取れる。

 暖かいせいか、雪もやわらかい。

 しかも、例年と比較すると雪が新しい感じがして、スキーの滑りも何となくよかったりするのだ。

 下界の最高気温が25度と言っていたくらいだから、防寒着など全く不要だ。

 いつものようにスキーで笹ヶ峰牧場を隅から隅まで歩き、登り、滑る。

 この広々とした雪原を、今日は自分が独占しているといった感じで、申し訳ない気にもなる。

 たしかにクロスカントリーの練習コースになっているところには、何人かのスキーヤーがいたが、そこを抜けるとまったく人影は見えなくなった。

 例年なら四五人程度だが、人影を見るのだ。

 山の方に入る時、車道を横切ったが、その時に三人組の運転手が手を上げて挨拶して行った。

 サングラスで顔はよく分からなかったが、ニコリと笑っていた。

 ジープの屋根にはボクと同じテレマークスキーが三セット載せられていて、同じ仲間という感覚で手を上げてくれたのだろう。

 こっちも手を上げて笑い返した。

 ただ、彼らのテレマークはボクのとは違い、新しいスタイルのものだったな。

 コンビニおにぎりには相変わらず苦戦したが、ゆったりと昼飯を食い終えた。

 そして、ゆっくりコーヒーでもと思っていたのだが、持ってくるのを忘れて白湯で我慢。

 このことはかなりテンションを下げてしまった。だが、仕方ない。

 これから、下の方に滑り下りて、清水ヶ池から樹林帯を通ってクルマの方へと戻るが、クルマを置いた周辺にも広く開けた雪原があり、そこでも一登り・一滑りをして来ようと思っている。

 日焼け止めは、妙高高原ICで下りてから、いつものコンビニで買った。

 しかし、今日みたいな日は日焼けするぐらいでいいのだ。

 それにしても、こんなにのんびり穏やかな気分でいられるのは、笹ヶ峰に通うようになってから初めてかも知れない。

 雪の中に突き刺しておいたスキーの雪も、とっくに乾いている。

 時計は、13時5分。そろそろスタートしょうかな……

「誕生日の暖かい午後に焚き火など・・・」

on 2012年4月22日

 

 58回目の誕生日となった日は、朝から美しく晴れ渡り、空気もほんわかと暖かくて、当事者としてはまるで人徳がそのまま表現されたのかと、錯覚を起こしてしまいそうな一日であった。

  午前中は会社で会議があり、苦虫をつぶしたような顔でとおしたが、帰り際には草津で働き始めた次女から誕生日定番型のメールが届いていたりもして、一気に気持ちも緩んだ。

  今日は何をするのかと聞いてきたが、そのときは天気もいいので歩きにでも行くかなと答えておいた。

  誕生日だからと言っても、特に変わったことがあるわけではない。

  午後になり、歩きに行くよりも、昨年から裏の無目的空き地に放置されてある、解体したオープンデッキの廃材を処分しなければなるまいと思いたつ。

  処分すると言うのは、燃やすことである。

  そして、同じく昨年枯らしてしまった木も、いっしょに燃やそうと考えた。

  その木は、内灘のこの地に家を建てる時、母が隣地との境界線に沿って植えてくれたものだった。

  母はその木を「モクデ」と読んでいたが、詳しいことは知らない。

  隣りの畑が駐車場になる際に、どうしても移植しなければならなくなり、かなりきつかったが半日がかりでやった。

  しかし、その時のやり方か、後の処置がよくなかったのだろう。両方もありうる。

  移植一年目は葉も茂り、白い花も咲かせたが、翌年つまり昨年には全く葉も出なくなり、あっという間に生気を失っていった。

  専門家に頼んでおけば問題なかったのだろうが、母もどこかから枝を切ってきて挿し木しただけのものだったから、安易に考えてしまったのだ。

  四月の初めに、ただ無残に立ち尽くしているだけのその木を根元から切り落とした。

  ひょっとして、また新たな芽が吹き出し、そこから元のように葉を茂らせてくれたらと秘かな期待もしている。

  細かく折っておいたその木にまず火をつけた。

  心の中で、母にすみませんと謝り、それから、それらがすべて灰になるのを見極めて、デッキの廃材を組み合わせていった。

  20度を超える乾燥した空気の中で、焚火はすぐに大きくなり、デッキの廃材も半分以上は燃やし尽くした。

  まだ半分は残っているが、なかなか一度に燃やせる量ではない。

  この家に住むようになってから、よく焚火をした。

  今はうしろの斜面も美しく整備されているが、かつてはニセアカシヤの雑木林であり、その枝が大きく被さってきていて、弱いニセアカシアの枝は強風のあとなど折れて落ちてきた。

  それらを拾い集め、家の紙系のゴミなどと一緒に燃やした。

  もともとが焚火大好きニンゲンでもあったので、月一回ぐらいの楽しみにもなった。

  じっくり火と向き合っていると、アタマの中からすべてがなくなったり、逆にアイデアがいろいろと浮かんだりと楽しい体験ができる。

  焚火をする時には、必ずポケットに文庫本を一冊差し込んでおくことも忘れない。

  今回は、今ずっと読み続けて四冊目に入っている、民俗学の宮本常一のものを読みながら火の番をした。

  焚火の前で、昔の山村の暮らしを読み、思い浮かべるのはなかなかいいものだ。

  三時間ほどして、一応一区切り。

  いつも思うのだが、あれだけの木片が、燃えてしまうとこれほどまでに少なくなってしまうのかと不思議さを感じる。

 

 うちの無目的空き地にも隣地にも、だいこんの花が咲きまくっていた。

  じっくり見てみると、白やうす紫の花びらが素朴に美しい。

  中には立派な大根が地上から顔を出しているものもある。

  放っておいても何かが生まれてくる“自然さ”を感じる。

  そして、春はもうひとつ、嬉しいものを届けてくれた。

  家の横でひっそりと存在する、膝くらいの丈しかない木々に花が咲き始めていたのだ。

  これも母が植えてくれていたものだった。

  家が建ってから、家の横の砂場にどっしりと座り込んで作業をしていた母の姿が懐かしい。

  ボクもそれから、せめて花くらいは家の周りに植えようと思うようになり、そうしている。

  この木は大事に育てていかなければならない。

  ところで、この前気が付いたのだが、この文章で「無目的空き地」と書いている裏の場所なのだが、ついこの前まで「多目的空き地」だったはずで、いつの間にか変わってしまっている。

  自分がそうしているだけなのだから、今更何を?なのだが、つまり、何となく近頃は無目的と多目的との境目が難しくなっている…、そんな気がするのだ。

  まあ、それはそれとして、誕生日に焚火をする。それだけでもなかなかいいものなのであった……

 

 

 

 

 

「誕生日3日前の雑感・・・」

on 2012年4月19日

 

 もうすぐ誕生日なのである。

 具体的に言うと三日前であり、その日が来ると58歳になる。

 もう58年分を生きてきて、これから先はとりあえず59年目に向けて生きていくわけだ。

 生きているというのは、当たり前だが、進行形である。

 それが進行形でなくなるというのは、つまり死ぬということであり、ニンゲンは、と言うより、生物は生きていくしか進行形を維持できないのだ。

 58歳になろうとしているオトッつぁんが、何をマヌケなことを語っているのだと思われるかも知れない。

 しかし、すでにかなり汚れたエネルギーを燃やしつつ今を生きているオトッつぁんには、ただひたすら進行形でいるということの切なさと共に、安直な開き直り感もあったりして、それなりに苦悩しているのでもある。

 ある人が言っていたが、50代も後半になってきたら、早く60歳になりたいと思うようになる…と。

 最近、その言葉の意味が少し分かるようになってきた。

 そのこと自体もちょっとウスラ寂しい感じがしないでもないが、時間を先取りしていく方がいいなどと言う人もいるから、どこかに真実もあるのかも知れない。

 しかし、ホントにそうなのだろうか?

 若い頃は、時間を先取りしていっても、まだまだ先がいっぱいあったからよかったが、今はあまり先取りしてしまうと、残りがなくなっていく。

 残り物には福があると言うのも、この段階では心細い。

 いざ、58歳になるからといって、今さしあたってどうのこうのとは考えていない。

 何が欲しいとか、何がしたいとかもない。

 今までどおりしていたいというのが大半を占めている。

 こうして思いを綴ったり創作したり、いろいろなところへ出かけ、写真を撮ったり、人と話したり、それなりに美味いモノを食ったり、酒をいただいたり、それから、いい音楽を聴いたり、ギターを爪弾いたり、面白い本を読んだりなど、今までどおりの時間が、今までどおりにあればそれでいいのかも知れない。

 だから強いて言えば、あまり誕生日のことは触れてほしくない。

 好きではないのだ。

 この歳になると、誕生日は身内だけのことでよくて、家族とくに子供たちから、なんだかんだと言われているくらいがいいのかも知れない。

 どうしても何か贈りものをしたいなどという人の厚意は、当然無碍にしないが……

 そんなわけで、58歳になる三日前、それもかなり二日前に近付いた三日前における「もうすぐ誕生日的雑感」なのであった……

「雨の千寿ヶ原で・・・・・・」

on 2012年4月17日

 土曜の朝、立山山麓へと向かう。

 お手伝いをしている太郎平小屋のパンフが出来上がり、それを届けに行くというのが直接的な目的だった。

 第一弾を作ってから、もう何年過ぎただろうと考えながらクルマを走らせたが、結局確たる記憶が戻らぬまま、高速道路から道は谷あいに入って行き、そのまま気が付いた頃には立山大橋を渡っていた。

 金沢ではすでに上がっていた雨が、まだ降り続いている。

 残雪から湧き上がる霧も深かった。

 かなり落胆した。間接的とはいえ、どちらかと言えば本命の目的だったスキーが出来ないのだ。

 テレマークスキーが、後部座席を半分倒したスペースに寝かされている。

 

 極楽坂スキー場下のロッジ太郎にまず寄って、モノを降ろす。

 ロッジの賢二さんが喫茶の方から出てきて、手伝ってくれた。

 みな千寿ヶ原に行ってると言う。モノを降ろすと、すぐにそっちの方へと向かうことにした。

 4月に入り、スキー場周辺は当然静まり返っている。

 まだまだ雪はたっぷり残っていて、この雪は我らのために残されているといった思いの強いボクとしては、この最高の時季を逃すわけにはいかないのである。

 しかし、しっかりとした雨だ。なおさらその静けさも際立つ。

 立山へ向かうケーブルの発着駅がある千寿ヶ原も、数日前に弥陀ヶ原まで開通したとは言え、やはり室堂までの全線開通までは静かだ。

 かつては、この短い期間を狙って、ガラガラのケーブルとバスを乗り継ぎ、弥陀ヶ原まで行った。

 それから先はスキー歩行で室堂まで頑張ったこともある。

 そこまで頑張らなくても、弥陀ヶ原の周辺を歩いたり滑ったりと自由に楽しんだり、そのままケーブルの駅まで滑り降りたこともあった。

 いろいろな思い出が蘇ってくる。

 缶ビールを忘れたまま山に入り、失意のどん底へと落とされていた時、一緒に上がった老夫婦が、ビニール袋に持っていたビールを分けてくれたことがあった。

 大袈裟だが、あの時の感動は今でも忘れることはない。

 あの時、ボクは、そのビールどこで買ったんですか?と尋ねた。

 当然、下で買って来ましたよと言われたが、その時のボクの表情が相当無念そうだったのだろう。

 夫婦は気持ちよく袋から二本取り出し、ボクに差し出した。お金も受け取らなかった。

 もう温くなっていた缶ビールは、その後すぐ雪の中に埋め、目印にブーツで大きな十字を雪面に描いておいた。

 そして、三時間あまりほどその場から離れた。

 汗だくで戻ってきた後の、部分的にシャーベット状になったビールもまた格別だった。

 

 立山カルデラ博物館の入口付近にある五十嶋商店の中で、五十嶋マスターと太郎平小屋の一樹さんとで談笑。

 本格的にカメラ撮影を始めている一樹さんの写真の話や、新しい山岳コースの話など、とりとめもなく時間が過ぎた。

 マスターの長年の思いが感じ取られる話にも興味が湧き、嬉しくもなった。

 たとえば今、木道の整備などが進められているが、あれは自然を壊すことなのか、自然を守ることなのか、その狭間で理論が分かれているという。

 一方からは、あれは自然破壊を助長するものだと言われている。

 しかし、マスターはあれを作らないともっと自然は破壊されると言った。

 木道を作ることで、歩いていいのはこの上だけだという意識づけができるというのである。登山者は確実に増えている。

 たしかに太郎平小屋から薬師沢小屋へ通じる道には木道が多い。

 かつて、木道がなかった頃は、単に歩きづらいということもあったが、道に外れて歩いていても平気だった。

 ひどいヤツらは、沢から入り込んだ場所にテントを張り、平気で残飯を流し、食器などを洗ったりしていた。

 しかし、木道は行動範囲をいい意味で規制させるはたらきをもつ。

 雨の日に靴底が滑りやすいという課題もあるが、それは岩の上も同じだ。個人の技術と気構えがものを言う。

 高齢者や山ガールなど、さまざまな人たちが山に入ってくる昨今では、小屋のスタッフたちが担う役割はさらに複雑になってきたという。

 夏のピーク時にケガ人が出たとしても、それを放っておくわけにはいかず、何らかの対応をしなければならないのは当然だ。

 そのために、二百人近くにもなる宿泊者たちの世話に支障をきたすわけにはいかない。

 しかし、食事が遅いとかクレームを付ける“登山客”が増えている。

 かつては、山に来るものは“登山者”だった。山小屋のオヤジの存在に憧れすら持っていたし、叱られてもそれがまた嬉しかった。

 これからの山小屋はどうなるのか? マスターの白髪も増えるわけだ。

 

 お昼には、油揚げが浮いた温かい素麺と炊き込みご飯をいただいた。

 五十嶋家でいただくものは、なんでも温かい。

 その温かさは単に湯気が上がっているという温かさだけではなく、素朴でありながらも心がこもった温かさだ。

 外はまだ雨が降り続いていた。

 スキー積んでるんか? と、マスターに聞かれて、ええと返事をし、今日はあきらめて写真でも撮って帰りますと答えた。

 お茶をいただき、また少し山の話をし、自分の失敗談ばかりが出始めた頃、そろそろ失礼しようと思った。

 忙しいやろけど、夏には、山、上がって来られ……。

 マスターがこの季節、必ずかけてくれる言葉だ。

 この人と出会ってなかったら、ボクはこれほどまでに山を好きにならなかっただろう。

 いつも、マスターと会うとそう思うのだ……

 

 

「自分の世界を他人が知るということ・・・」

on 2012年4月13日

 この雑文を読んでくれているという人(30代オトコ)から、突然、「ナカイさんの世界が少し分かってきたような気がします…」などと言われた。

 今までほとんど言葉も交わしたことのなかった人からそんなことを言われると、ちょっと動揺する。

 さらに、ナカイさんの世界なんて言われるのも同じで、こういうことがあると、じっくり自分の世界とは何だったのかと考えたりする。

 人にはそれぞれに世界というのがあるのだろうが、他人から言われると少しコソバユイ。

 しかし、じっくりと考えていくと、すぐそれは何でもないことなのだとも思う。

 周囲を見回すと、人それぞれに、人それぞれの世界があることの普通さが分かる。

 ところが、ほとんど知らない人から、少しわかってきたような感じがします…といった表現で言われると、かなりニュアンスが変わってくるのも事実だ。

 つまり、その人はボクに関心を持ってくれていて、それでこの雑文に接しながら、ボクの世界を知ってしまったのだ…などと、訳の分からないことを思ったりするのだ。

 そして、そうなると何となくその世界とやらに責任みたいなものも感じてきて、その世界の責任者であるボクとしては、それなりに背筋を正したりしなければならないのである。

 その彼は、この雑文ページのことを、Facebookを通じて知ったらしい。

 最初は、写真に興味を持ってくれていたみたいだったが、時々リンクさせているサイトを読んだのだろう。

 当然、こちらとしても読んでほしいからリンクさせるのだが、ストレートにそういう人が目の前に現れると、ちょっと戸惑うのも事実だ。

 実は、このことを書くかも知れないよと彼には言ってある。

 彼は楽しみにしています!と言ったが、そのこと自体もナカイの世界の一部と受け取るのだろうか。

 何となく、無機質なトラック五周型持久走的日々を送る中で、ふと自分を見つめるひとときがあったような、そんな気もした時間だった……

「語るのが疲れたとき・・・」

on 2012年4月11日

 いろいろな人たちと会い、いろいろな視点からの話をする機会が多くある。

 もちろん日常的には仕事に関連した話がほとんどであるが、ボクの場合は特に提案的な話が多い分、まわりくどいストーリーが必要だったりもする。

 それが日常的なものだったり、非日常的なものだったりするのだが、聞き手になってくれている人たちの反応を感じるのも面白く、話がどんどんと盛り上がっていく時のアグレッシブさは、ジャズ的な音楽にも似た高揚感があったりする。

 と言っても、よくは分からないと思うので、もう少し詳しく書くと、それなりに口調に抑揚がついたり、身振り手振りがついたり、擬声語や擬態語が入ったりなど、とにかく会話が活性化していくというわけだ。

 先日ある新聞に、話す時の“手のカタチ”のことが書かれていた。

 それによると、ロクロをまわす時の手のカタチがいいみたいだった。

 何となく想像できるだろう。

 話しながら、ロクロをまわす。いや、ロクロをまわしながら話す。そんな仕草がいいと書かれていた。

 理由は知らない。見た目かも知れない。

 自分はどうだろうか?

 その記事を読んだ後、ふと考えてみたが、よくは分からない。

 何かやっているのはまちがいないが、ロクロはまわしていないような気がする。

 言葉の意味と関連した仕草ぐらいはしているような気もするが、そんなこともよくは分からない。

 基本的に、ボクにとってその仕草はどうでもいいのだろうと思う。

 話し方や姿勢は少しずつ変わってきた。

 もう若くないんだな…と思い始めた頃から、何となく前のめりに話すことを控えるようになった気がする。

 責任のある話をしなければいけなくなってからは、必ず話のフィニッシュを考えておくようになったし、不思議なくらい、そのことが簡単にできるようにもなっている。

 ジャズ的に生きてきた?から、アドリブ、インタープレイなどにも対応でき、どこからでも話をまとめていける感覚も身に付いたように思う。

 自分で言うのも変だが、話している内容的には聞き手の興味をひくことが多いようだから、それなりに自分の世界や感覚の話をすればそれでいいところもある。

 しかし、一昨日も昨日も今日もといった具合に、そういう会話の日々が続くと、正直落ち込むのが普通だ。

 何かのアイデアについて語ったり、語り合ったりしていると、ついつい先の先まで読まざるを得なくなり、言葉の裏付けみたいなことをきちんと自分が用意しているかを考えたりしなければならない。

 特に、言葉が具現化した時の行動を必ず想定しておかなければならないから、無責任なことも言えなくなる。

 すごく正統なことを語ってるなと思っても、自分がそのとおり行動できないと思うと、少し引いてしまうのだ。

 だから、そういう風な気のまわし方に疲れてくると、正しく落ち込んでいく。

 時々、行き当たりばったりの会話を自覚したりするのはそういう状況の時なのだ。

 

 それにしても、仕事上での会話について考えるなどというのは、ボクにとってめずらしいこと。

 それを文章にしているのだから、これもまた不可思議な現象だ。

 たぶん、今、カンペキに、会話に疲れているのだろうなあ………