「みねさんは、やっぱ、ドルフィーだ・・・」

on 2012年1月28日

 

 1月28日土曜の北國新聞朝刊に、「一調一管」の乃莉(のり)さんと、峯子さんが紹介されていた。以前にもNHKが制作した番組で二人のことが紹介され、その反響も大きく英訳されて世界で放映されたというから凄い。

 今更必要ないかとも思うが、県外の読者の皆さんのために書いておこう。

 この二人は、金沢のにし茶屋街で茶屋を営む間柄であり、それぞれが鼓と横笛の名手でもある。

 「一調一管」というのは、打楽器と笛とのデュオ(二重奏)をさすが、二人の演奏は凄まじいくらいの緊張感にあふれていて、最近金沢の街中で開催されているジャズ何とかの連中のよりも、はるかに“ジャズ的音楽”である。いっそのこと、そのジャズ何とかに出てもらって、金沢のジャズ的感性の粋を街の人たちに感じてもらうのもいいかもしれない。

 特に峯子さんは、まるでE・ドルフィーであって、彼のフルートに負けないくらい、峯子さんの横笛の音には全身を凍らせるようなシャープさがある。

 

 ボクにとって、その峯子さんには懐かしい思い出がある。

 それは、にし茶屋街に平成8年(1996)にオープンした「金沢西茶屋資料館」の仕事に関わっていた頃のことだ。

 その資料館では、一階で大正時代、20歳にして『地上』という大ベストセラー小説を発表し、一躍時代の寵児的地位にのし上がった島田清次郎の生涯を紹介している。

 清次郎の祖父がかつて茶屋を営んでいたところで、現在の白山市美川に生まれた清次郎が、父を失い、まだ幼い頃に母と二人この茶屋に移り住んだ場所だ。検番の隣り、甘納豆のかわむらさんのお向かいさんになる。

 清次郎のことは最近になってそれなりに知られるようになっているが、ドロドロしたところは不鮮明なままだ。

 極貧から這い上がり英雄になったはずの清次郎は、『地上』による大出世後の傲慢な言動などから、世の中を敵に回すようになり、最後は狂人扱いされたまま、31歳の若さで死ぬ。

 清次郎研究の第一人者である小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)は、最後に収容(監禁)されていた保養院から出した手紙(徳富蘇峰あて)に、清次郎の思いがすべて凝縮されているとされた。ボクもそう思った。

 清次郎はもう一度、世の中に戻って頑張りたかったのだと……

 そのことが展示ストーリーに色濃く映し出されている。

 実を言うと、ボクは学生時代、東京で『地上』を読んでいた。本好きだった金沢の友人が、読んでみない?と貸してくれたのだ。しかも、その後、清次郎の生涯を題材にして書かれた『天才と狂人の間』(七尾市出身の杉森久英著で直木賞受賞)という本まで貸してくれて、ボクは非常に稀な清次郎通になっていた。

 そのことに小林先生も驚かれ、今でもボクのことを可愛がってくれているきっかけになったのだ。

 

 ところで、清次郎の歪んだ精神には、幼い頃から見てきた茶屋での芸者たちの扱いなども反映していると言われるが、そのことを頭に置きつつ、実際に現在の茶屋の女将から話を聞くというのは複雑だった。

 資料館の二階には、茶屋の雰囲気が再現された一室がある。

 その部屋の手前に、木板の上に記されたちょっと長めの文章があるが、それはボクが当時、峯子さんから聞き取った話をもとに書いたものだ。

 今84歳の峯子さんは、あの頃68歳。今もお元気そうだが、あの頃は当然さらにお元気で、峯子さんのお店である「美音」へ行く際に同行してくれる市役所の担当者の方も、よくやり込まれておろおろになっていた。

 峯子さんのことは、ミネさんと呼んでいて、何度もお邪魔し、展示したいものを借りられないかとか、開館セレモニーの際の詳細な打ち合わせなどをさせてもらった。

 ボクはずっと、資料館二階の部屋の壁に物足りなさを感じていて、そこに扇子を何本か置きたいと思っていたのだが、なかなか思うようなものは手に入らずにいた。

 仕方なく、練習用だという扇子を三本壁に置き、それらしい雰囲気を醸し出そうとやってみた。もともとボクにはそういうものを愛でる趣味もなかったせいか、何となくそれらしく見え、ボクはもうこのままいこうと思っていたのだ。

 すると、ある時、峯子さんが二階に上がってきて、

 「あんな安物(もん)出しといたらダメや。あんたに開館からしばらくだけ、これ貸すさけえ、ちゃんと盗られんように展示しとけんぞ」

 と、上等そうな扇子を三本置いていってくれた。眼鏡の奥の目が最後に愛らしく笑っていたのを、ボクは忘れない。

 そして、前に書いた、峯子さんの話をもとに書いたという文章なのだが、この企画は展示の仕事も終わりに近い付いた頃、ボクが思いつきで言い出したことだった。

 それは、昔のにし茶屋街の風情を、下働きの少女の日常生活をとおして伝えようというもので、峯子さんから話を聞くのがベストだとボクは思った。

 しかし、そのことを市役所の担当の方に話すと、そういう話はなかなか難しいのではないかと言われた。しかも、そういう世界では、複雑な事情もあるかも知れないと。

 結局、ボクが直接峯子さんにお願いすることになり、恐る恐る問い合わせた。返事はとりあえずOKだった。

 「美音」の居間に置かれた長火鉢を囲んで、いつものように鉄瓶から注がれたお湯が急須に渡り、そして熱いお茶が前に置かれた。

 それから40分間ほど、峯子さんの話を聞いた。

 峯子さんは、たしか幼い頃東京から来たと言った。戦前のことだが、当然、その事情は聞けなかった。

 朝早く起き、いろいろと仕事が待っていたが、その頃は、小学校(野町)に行けることが嬉しくて、小学校にいる間は、店の仕事のことを忘れられるから楽しかったなどと、茶目っ気たっぷりに話してくれた。

 もともとが童顔の愛くるしい峯子さんだから、そう言う話を聞いていくうちに、幼い頃の峯子さんが想像できた。本人は淡々と話していたが、あの時ボクは妙にセンチメンタルになっていたかも知れない。

 

 NHKの放送で見た時、当たり前だが、たしかに峯子さんはその年齢に相応していた。自分の芸も謙遜しながら語っていた。

 茶屋などはまったく縁がないから行けないが、機会があれば、また生で聴いてみたい。

 ボクはジャズプレイヤー・峯子さんの大ファンなのである……

「タサイであったことについて・・・」

on 2012年1月26日

 気が付くと、多くの人から“タサイなニンゲン”と呼ばれるようになっていたのである。タに濁点は付けないでほしい。

 この“タサイ”とは、“多彩”とか“多才”のことであって、当然ながら“多妻”のことではない。

 ただ自分としては、一応“多彩”に留めておくくらいが適当だと思っており、それでもまだ自分を過大評価しているように聞こえるかも知れないが、そうでないとも言い切れない。

 “多彩”を敢えて“多才”としないのも、そのとおりだからだ。両者は似ているようで異なる。それに、多才には一定レベルの評価がなければならない。

 

 自分自身の多感とか、多趣味とか、そういうことをしっかりと意識し始めたのは18歳の頃である。

 その頃から生まれた自分の中の矛盾にも、時折苦しめられた。

 今の時代は、みなが多彩のように見える。そういられることが羨ましい面もある。

 多彩であっても、何らおかしなことでなく、正々堂々と清く正しく多彩でいたりしている。

 もし今の時代の多彩さが真実だとすれば、ボクはかなり進んだニンゲンだったと思う。

 やってきたことは周辺の同世代人よりは、かなり前にも横にも斜めにも行っていた。

 しかし、そんな多彩さとは一体何だったのだろう?

 

 ボクが持ち出した例ではないが、サッカーの中田英寿を見ていると、今の彼にはサッカー選手だった頃とは全く方向の違う生き方が見える。

 生き方というと同じになるかもしれないが、少なくとも関心の対象が変わった(変えた?)ことによって、その日常も周辺も変わってきた。

 彼は優秀な、そして人気サッカー選手だったことによって、自分の存在を広く知ってもらった上で、新しい自分をまた見せようとしているのだろうと思う。

 そして、ボクたちが今見ている彼は、風貌などは変わらないにしろ、どこか可能性を秘めた新しいニンゲンにも見えている。

 彼の感性から、今まで気が付かなかった何か新しいものが発見できるのかも知れないと、多くの人が思うようになっている。

 彼のその多彩さにも、彼なりの多感さなどが大きなモチベーションとして存在しているのは間違いない。

 彼の中にあったものが、サッカーという、ある意味仕事的なものから解放されて表に出てきたのだろう。

 ただ正直なところ、彼らの世界の多彩さや多才さはよく理解できない…

 

 で……

 ここ最近、よく自分のことを整理してみたら…みたいなことを言われるようになった。

 それが、“タサイなニンゲン”と呼ばれることからの、殺し文句みたいになっている。

 整理せよというのは、世の中にアピールせよということだ。

 社会の中では、ボクは単なる地方の中小企業の中の、一人のニンゲンに過ぎないから、それだけでいるとN居の存在はまだまだ活かされないと言ってくる人たちがいる。

 今の立場で、いろいろとやってきたのだから、素になって、そのことを本気で整理してみたらいいと言うのだ。

 もっと、自分からオープンにしていけよという意味なのだろう…。

 多感性多趣味エキスが、まるで樽の口から落ちる「いしる」の最後の一滴のようにポトリポトリと音を立てている。

 残りわずかなエキスをどうするか…?

 日々、ダラダラと考えている………

 

「東京で、志賀の油揚げを考えた・・・」

on 2012年1月18日

 これは、東京・新丸の内ビルディング、通称「新丸ビル」の一階にあり、東京駅の煉瓦造りの建物を眺めながらコーヒーが飲める、天井が高くてガラス張りになった某カフェの中で走り書きしている文章である。

 念のために言っておくと、東京駅の駅舎はまだ工事中で、仮設のプレハブや仮囲いで覆われていて、ほんの一部しか見えない。ただし、見えている部分はそれなりにかっこいい。

 いつの間にか、このあたりはかなり歩き慣れてきた。さっきも道を尋ねられたが、なぜかすらすらと伝えられるから不思議だ。

 一年に五、六回しか入らないであろうこの店も、陽の当たり具合とかが分かるようになっていて、直射日光を避けられる隅っこの席を確保したりする。

 で…、ここで、東京駅前の人通りを眺めながら書くのは、石川県能登半島の志賀町にあった小さな豆腐屋さんがやめてしまったことについての、かなりセンチメンタルな雑感および雑想である。

 なのだが…、本題に入る前に、やむなく不幸にもこのページへと来てしまった読者の皆さんのために、予備知識的な話をしておかなければならない。

 (と、ここまで書いたところで約束時間となり、続きはまた後にする…)

 

 (続きは、有楽町国際フォーラムの、だだっ広いカフェでとなった…)

 それ(つまり、予備知識的な話)は、ボクがいかに豆腐屋さんの作り出す食材と親しく付き合ってきたかだ。

 モノ心が付いた頃、ボクは自分の家の親戚に豆腐さんがあることを何となく知った。

 それはUノ気という隣町にあり、歩いても走っても行けるところではなかったが、時々バスに乗って、母と出かけることがあった。

 親戚はH田さんと言った。その家に着くと、ぷゥ~んといい匂いが漂ってくる。ボクはすぐにおろおろと豆腐づくりの現場をうろついたりした。

 居間に上がると、お菓子が出ていたが、そんなお菓子よりも、店の商品の方に強く激しく魅かれていたのだ。

 行くと、帰りには必ず新聞紙にくるまれ、さらにそれをビニール袋に入れたおみやげが渡された。

 H田のおばちゃんが愛想よく笑いながら、母に渡すのだ。すると、母はすぐにそれをボクに回す。

 それとは、油揚げだった。何度も書いてきたし話もしてきたが、ボクは小さい頃から、油揚げが大好きな子供だったのだ(小さい頃から子供だったというのは妙だが、ここは思い入れの強さが露見したということで理解してもらうしかあるまい……)。

 その好きさ加減としては、たとえば正月のおせち料理に、我が家では油揚げが大量に煮られたが、その約九十五パーセントはボクが食っていた。おかずと空食いの比率は六:四くらいで、純粋に油揚げの味を理解していた証と言える…?

 ボクは母から回された油揚げの入った袋を膝にのせて、バスの座席に座っていた。

 ほのかな温もりはボクを幸せにしてくれた。が、大好きなあの匂いはすぐにバスの中に漂い始め、それがかなりの範囲に行き渡っているなと感じられた時には、ちょっと恥ずかしくもなった。

 今何かに活かされているというものではないが、貴重な体験だった。

 相変わらず前置きが非常に長いが、そんな油揚げ大好きニンゲンにとって、昨年羽咋市滝町の「港の駅たき」(当時の名)で見つけた一品の美味さは格別で、ボクの情報を入手した金沢柿木畠・「ヒッコリー」のマスター、M野K一さんが激しく反応したという話は、昨年の重大ニュースのひとつになっている。もちろんヒッコリー内部でのことで、カウンター席周辺で大いに話題になったものだ。

 ヒッコリー・M野K一さんといえば、ご存じあの「大洋軒の焼き飯」を復活させた人だ。

 人のやさしさと庶民の味に敏感なM野さんが、あの油揚げの味に飛び上がったのも当然で、それから何度も愛用のオートバイで風を切りながら(かどうか知らないが)、頻繁に出かけていたのである。

 その油揚げこそが、志賀町の田舎にあった某豆腐屋さんで作られていたもので、材料も吟味されたいいものを使い、油揚げらしい素朴な風味を余すところなく出した絶品だったのである。

 先日、「汐風の市場滝みなと」(これが港の駅たきの新名称)に立ち寄った時、棚にはその油揚げが並んでいなかった。

 豆腐を入れる四角いビニール容器に、小さく三角に切った油揚げを無作為に入れたものだが、歯応え十分、口の中に残るあの雑然とした感触は、素朴な油揚げの象徴でもある。

 厚揚げの方がもてはやされている今日(「こんにち」と読んでほしい))では、あの感触はなかなか味わいにくい。

 棚になかったのを確認した時、夕方だったこともあって、もう売り切れたのだろうと普通に思っていた。

 その代りに(でもないが)、地元の元潜水夫さんが目の前の防波堤付近に潜って採ってきたという「寒ナマコ」がバケツに入れて置いてあり、店のO戸さんとの話はそっちの方に多く時間を割いていたのだ。

 そして結局、豆腐屋さん営業取りやめのニュースは、後日ヒッコリーで聞くに至ったのだった。

 ボクはカウンターの椅子から落ちそうになった。

 M野さんの話では、その豆腐屋さんは決して営業的に行き詰ったというわけではないらしかった。

 もちろん生活に困窮しているわけでもなく、むしろ豆腐屋稼業は一種こだわりの中でやってきたものであって、原材料の確保などで無理があったのかも知れない。

 ただ言えるのは、油揚げや豆腐を生活の中の大切な友としてきた者たち(たとえば、ボクのような)は、これから先一体どうすればいいのだろう…?ということである。

 

 誰か志賀町で、あの豆腐屋さんのあとを継ぐような青年はいないだろうか?

 青年でなくてもいい。オトッつァんでも許す。当然おっかさんでもいいのだ。

 テメエがやりゃいいじゃねえかという人もいるかも知れないが、どうも朝早く起きれる自信がないし、出来たものをついつい摘み食いばかりしてしまいそうな予感がする。

 ボクには豆腐屋になる適性はない…。食べる方の適性は完璧にあるが……

 それにしても、あの油揚げがこの世から消えていくことは、能登の文化のひとつの損失である…と言えるかもしれない。

 ボクの知る限り、穴水や輪島には、美味いいなりそば(うどん)を食べさせてくれる店がまだまだ存在しているが、どうも「いしる」などと同じように、自家製っぽさの風土が消えていきそうな危機感がある。

 よそ者の、都合のいい戯言なのだが、なんかセンチメンタルなのである………

http://htbt.jp/?p=2558  「B級風景と港の駅の油揚げ・・・」

 

「内灘が町になって五十年・・・の雑想」

on 2012年1月14日

 生まれたところであり、今住んでいるところでもある「内灘」が、今年町制五十周年なのである。

 まだ五十年しか経っていないのかと意外に思われるのだが、内灘は町になってまだ半世紀の歴史しかもたない、今の時代で言えばまだ若い町と言える。

 不覚にも今や五十七歳となっているボクが生まれた時には、内灘はまだ村だった。七歳、つまり小学校一年の時に内灘村は内灘町になり、ボクはもう一人の友人と一緒に記念式典で剣舞をやらされた記憶がある。

 その時は何のための式典だったのかも認識できないまま、古い小学校の講堂の舞台で凛々しく(たぶん)舞ったのだ。

 ボクの記憶では、うちは経済状態もそれほどよくなかったのか、剣舞にふさわしい着衣を自前で用意できず、もう一人の裕福な友人宅からボクの分も借りたような気がする。刀だけは、どこかで買ってもらったおもちゃのやつがあり、子供心にもちょっと貧相な印象だったが、愛用のものを使った。

 ところで、町制五十周年というと当然記念事業が行われ、それを検討する委員会が編成される。その委員会に、ちょっと変則的な形で去年の夏頃から参加してきた。

 そして、ふと思ったのが、今や内灘はボクたち原住民の子孫たちだけの町ではなく、外から転入して来た多くの人たちやモノゴトによって動かされている町なのだということだった。町外からの転入者は、人口の半分どころか、かなりの割合を占めているという。

 内灘は、全国的に見ても戦後大きく変貌した町の代表格にあると思っている。金沢のベッドタウンという位置づけは、昨年、市になった野々市よりもいい印象で捉えられていたのではないだろうか。

 砂丘台地の畑や林がなくなり、道路と団地ができ、さらに医科大学病院などの大規模な施設が出来ていった過程は、気が付けばいつの間に?といったイメージがある。もちろん、そんな一朝一夕の出来事ではなかったが、内灘の変貌はそれに近いものだった。

 

 しかし、内灘の歴史は、町になった以降の五十年だけではない。

 何度も書いてきたが、内灘の歴史の重みは、町になる前にあったと思う。

 実際にその時代のことを肌で感じてきた世代ではないが、ボクはやはり内灘の歴史の中のイメージは“貧しい村”という言葉で集約されると思っている。

 祖父たちが築いていた強い漁業の時代が過ぎてから、陸に上がらざるを得なくなった海の男たちの、ある意味“みじめな姿”が、内灘という村の象徴であったような気がする。

 ボクの中では、祖父は偉大な人物であり、さまざまなエピソードから尊敬できる身内なのだが、晩年近くで感じていた存在感も幼心に不動の強さを持っていたように思う。

 しかし、そんな祖父たちがかつての繁栄を失い、日々の食い扶ちのために砂丘にサツマイモを作り、それを河北潟の向かい岸にある、豊かな米どころの町に売りに行かなければならなかった状況は、まさにその時代の内灘の象徴であっただろう。

 ボクの中にも、母に連れられ祖父が操縦する小さな舟に乗り、水田の中の水路みたいなところを遡って行った記憶がかすかに残っている。そして、その中の最も強烈な記憶は、サツマイモが米と交換されることだった。

 毎日食べているご飯のどれだけかが、こうやって交換された米を炊いたものだったと知ったことと、それを腰を折り、頭を下げながら受け取る祖父の姿が印象的だった。

 ボクが生まれてすぐ後に、長兄は高校へ進学したが、同級生で高校へ進んだ者は一握りしかいなかったという。長兄も高校進学をあきらめていたが、成績が優秀だったこともあって、中学の担任が親を説得しに訪れ、渋々そうさせたと聞いた。

 同僚などいない長兄は、時々金沢の学校から内灘の家まで歩いて帰ったらしい。交通費もままならなかった頃のことだ。

 

 米軍による内灘砂丘の接収も、今更言うまでもなく重要な出来事だった。

 さんざん書いてきたから、敢えてまた繰り返したくはないが、やはりあの出来事の本質の中に、内灘の貧しさがあったのは否定できない。

 事実、あの後内灘は貧しさの沼から足を脱け出し、それ以後の発展へとひたすら突っ走ることになる。あの出来事による恩恵が、今の内灘の土台になった。

 ボクは自分の拙著にも子供の視点から書いたつもりだが、貧しかった時代に生きた親を持つ子供たちであったからこそ、のびのびと生きてこられたのではないかとも思っている。

 

 生まれて六年間、ボクは内灘村で育った。そして、内灘町になってからもそんなことには全く無頓着に生きてきた。たぶん、同じ世代の内灘の人たちもいっしょだったろう。

 最近になって思うのは、人が住む町としての内灘のよさについてだ。

 能登や白山麓など、厳しい環境にあるさまざまな土地を見てきた中で、内灘がもっている、そして植えつけてきたその優れた要素を、絶対活かさなければならない責任があるということだ。

 たとえば、内灘には能登の人たちが多く転入しているらしいが、その人たちが単に金沢にも近く、能登にもアクセスしやすいという地理的なメリットを感じるだけではない何かを、内灘として創り出していく責任だ。

 ユニークな視点で内灘を見てくれている人たちの存在もある。内灘は空が美しいという友人のクリエイターは、内灘のファンでもある。

 明日の記念式典に案内状が届いている。かつて、町制施行記念式典で、剣舞をやったハナ垂れ少年が、その五十年後の式典に参加する。何だか妙な、不思議な思いに揺れている……

 

http://htbt.jp/?cat=28 『祖父のこと・・・』

 

「天気晴朗なれど、波も高く風もまた強しであった・・・」

on 2012年1月11日

 

 正月が過ぎたあとにまたやって来た連休。その中日。

 内灘で言うと海の方の空が、みるみる明るくなっていく。

 しばらくすると、海の上の空が青で占められるようになっていた。

 カメラを持ち、フリースを羽織っただけで外に出る。

 まずは放水路付近からの海岸を眺め、そのあとにゴンゲン森の浜辺におりた。

 風が強い。海は荒れて、波しぶきが舞う。浜では砂が飛んで顔に当たる。

 カメラを構えると、体が揺れた。

 なかなか安定した態勢が取れなまま、我慢しきれずにシャッターを押してしまう。

 黒いマントのようなものを着たオトコが一人、砂浜をずっと歩いていた。

 激しい風にあおられて、マントが翻ったりしている。

 身体が右へ左へと傾き、時々大きく態勢を崩したりしている。

 一時間ぐらいいただろうか? 

 頬も耳も手の指先も、みんな冷たくなっている。

 今年初めて、海と相対した午後だった……

 

「今年の正月における、今年の正月的雑感・・・」

on 2012年1月9日

 

 

 今年も、正月が“それなりに”やってきた。 “それなりに”やってきて、“それなりに”去っていった。

 最近の正月は“厳(おごそ)かに”やってこなくなった。

 一月は単に一年の最初の月であって、大晦日から元旦にかけての、あの独特な空気にも鈍感と言うか疎くなっている。

 独特な空気って何ですか? と言われても簡単に説明はできないが、かつては、「そうか、いよいよ新しい年が来たのだナ」とか、「日本の正月はいいなあ」といった感慨みたいなものがあったのが、そういうものが最近はあまりない。

 なぜなのだろうか?と考えていると、まず思ったのが、NHKの超年末年始番組『ゆく年くる年』を見なくなったことである。

 テレビは娘たち中心に流されていて、紅白歌合戦も最近ではよくて二画面の片方。しかも歌番組なのに音無しで映されていて、聞きたい歌のところになると一画面になるといった具合だ。

 さらに、紅白の勝負など問題ではなく、好きな歌が終わったらすぐにお笑いの方に戻る。一応こちらも嫌いではないので、それなりにその方向のものを楽しんでいたりもするので始末が悪い。

 『ゆく年くる年』を「超年末年始番組」と位置付けるのは、まさに大晦日の切羽詰まった時間から始まり、名刹・古刹の寺で鳴らされる除夜の鐘の音(ね)を聞きながら、そのまま静かに新年の空気の中に染み入っていくあの演出が、「超」に値すると思うからだ。

 実に全くカンペキなまでに、日本の正月風景(情)が、あの番組からは伝わってくる。

 今年の大晦日も見れないなと録画予約をしようと思ったが、あれを録画で見ても特に意味はないだろうとやめにした。

 

 もうひとつ正月が厳かにやってこなくなった理由を上げるとすれば、やはり正月に仕事関係のスケジュールが入ってきたことだろうか。

 会社に長くいると、そのうちちょっとばかり偉い立場になっていき、その後に妙な役割が巡ってきたりするから、会社長くなってきたなあ~と思う人は気を付けた方がいい。

 正月がいつのまにか窮屈な日々になってきたのは、そんな影響からなのだろうと最近思っている。

 時々、正月なんか来なくてもいいなあと思ったりもする。来てもいいけど、すぐに去っていってほしいなあとも思ってしまう。こうなると重症と言えるかもしれない。

 酒が入ると、俄かにそんなことは忘れてしまうくせにだ…… 

 今年の正月も当然そのパターンがやってきた。元旦の午前中から礼服を着て出かける。  

 「あれ?オレって経済人だったの? いやたしか文化人だったはずなんだけど…」と、ネクタイを締めながらマヌケなことを考えたりしている。

 そんなことは特別なことではなく、世の中には正月から働いている人もたくさんいるのだから、深く考える必要はないのです……と、言われそうだが、こちらとしても深く考えているわけではない分、余計に浅くボーっと思い耽ったりしてしまうのだ。

 

 元旦の昼前、ある儀式的会合で一緒だった古い親友・A木クンと街に出た。ちなみに、A木クンは今や金沢では大手になる会社の“やり手”社長さんだ。大学時代には、少林寺拳法部の主将を務め、試合前の練習中に日本武道館のでかい(高い)ガラスを割ってしまったという愉快なエピソードを持つ。

 二人でニューGホテルからブラブラ歩き、東QホテルのSタバに入ろうと思ったが、そこは休み。斜め向かいのミスDにするかと互いに顔を見合わせたが、どうもなあという表情……。結局、竪町の入り口まで歩いて、Mックに入ることになった。

 若者や、ちょっと大人の夫婦連れだろうか、そういう客層の中で礼服を着たオトッつァん二人が、コーヒーとフライドポテトを口にしながら語り合う。店はいっぱいで、その雰囲気には、全く今が正月真只中という匂いもない。

 何となくその空気がさびしかったなあと思いつつ店を出ると、コンビニなども客が入っていて賑やかだった………

 

 話は一気に飛ぶ……。

 学生時代、北海道釧路市出身で文学部英文学科の三年だったI松さんという先輩が、東京で年を越そうとした。

 ボクとその先輩は某体育会クラブの寮で、当時同部屋だった。とても面白い先輩で、卒業後は釧路に戻って高校の英語の教師になり、今はどこかの校長先生をしていると聞いている。

 お父上がまた破天荒的ユニークな人生を歩んだ人で、本当はかつて釧路でサントリーレッドに顔をしかめながら聞いた話などに脱線したいのだが、容量不足になりそうなのでやめとく……。

 で、ボクはその年、暮れの二十八日まで麻布十番でバイトをし、二十九日の電車で帰省した。しかし、先輩は東京で正月を迎えると言って、帰省しなかった。

 そして、年が明け、また学校が始まる頃、寮に戻ってみると先輩がいない。

 翌日になって、大きなバッグを持って戻ってきた。釧路へ帰っていたという。

 先輩は大晦日の深夜までバイトをしていた。そして、正月は布団にもぐり込んで昼を過ぎても寝ていたらしい。

 当然腹が減ってくる。部屋にも食堂にも食べるものは何もない。せいぜいお湯を沸かしてインスタントコーヒーかお茶を飲むくらいだ。

 とりあえず駅の方まで歩いて、どこかで何か食べて来ようと思った。

 ところがだ……。駅前などにある飲食店は軒並み休みだ。商店なども完全閉店状態。飲食店には、新年営業開始は早くて三日からといった貼り紙が出ていた。

 今と違ってコンビニなどまだ広まっていない。せいぜい、たすと18になる数字が名前となって、なぜか“いい気分”になるよとコマーシャルしてる店が都内に出始めた頃だ。小田急線生田という小さな駅前の商店街などには、まだその匂いすらも感じることはなかった。

 先輩は電車に乗って、すぐ近くの駅にも下りてみたという。しかし、どこも店はやっていなかった。

 寮に戻ると、すごい危機感みたいなものを感じたらしい。大袈裟に言えば、このままここにいたら、野垂れ死にするかもしれないみたいな……。

 それですぐに荷造りし、翌日羽田からキャンセル待ちで勝ち取ったチケットを手に、釧路へと帰ったのだと……。

 

 今だったらカップ麺くらい用意しておけば、何とか越年はできただろうにと思う人も多いだろう。それが普通のニーズであることも間違いない。さらに新宿まで、いや下北沢まで行けば、なんかあったのではないかと思うかもしれない。

 しかし、先輩はそれ以上動かなかった。正月からみじめな思いをしたくなかったのだろうと思う。気持ちは分かる……

 

 最近よく、正月になると先輩のこのエピソードを思い出す。

 あの時代頃までは、やはり正月に、特に元旦にわざわざ外出するなどということはあまり考えなかった。

 

 

 正月二日も午前中から初売りを始めたお店などへのあいさつ回りに出た。

 着替えながら、朝のテレビで特集されていた京都・修学院の美しい姿に、しばし“厳かさ”を感じた。

 そのすぐ後、正月型の顔に矯正しながら街を歩く。街はかなりの賑わいだ。

 数字をたすと10になり、かけると0になるという渋谷系の某商業施設では、十代らしき若い女の子たちでごった返していた。

 「おお、あけおめ~」「いやあん、あけおめ~」と、十メール半ほどの距離をおいて新年のあいさつが交わされる。

 こっちは、ついつい「なんだ、おめ~」と言いそうになった。

 責任転嫁せず、今年はしっかり『ゆく年くる年』を見なければならない。正月は、やはり、好きなのだ………

 

「この冬の、白い世界から始まるもの・・・」

on 2011年12月23日

 去年まで、五年ほど続けて京都駅の大きなクリスマスツリーを見てきたのに、今年は見ていない。

 別にそのツリーを見るために京都へ行っていたのではないが、もうクリスマスも間近になってしまった今頃になって、何となく後悔のような淋しい気持ちになっている。

 去年の今頃書いた文章には、クリスマスについての自分の思いを書き、自分たちのバカバカしさみたいなことと、単なるロマンチックなイメージづくりへの皮肉みたいなことを綴った。

 それはそれで自分の感じ方なのだから仕方ないのだが、今年は少し違っている。

 それは、やはりあの震災があったからで、こういう状況下でのクリスマスには、違った意味のようなものを感じている。

 サンタクロースも、そのサンタが届けてくれるプレゼントも、ツリーの明かりも、それらがすべて、今はそれなりに必要なものなのだと思っている。

 先週、銀座や有楽町などで見たイルミネーションの光などにも、ボクは特別な何かを感じてしまった。

 節電への無配慮とか空虚な演出みたいな思いもあったのだが、それは不思議と消えていた。

 職業柄、ああいうものにはいつも敏感でいるのだが、あんなに見入ったのは初めてだったかも知れない。

 そのことを力強く意味づけたのは、何よりも子供たちの笑顔だった。そして、それを見て喜ぶ大人たちの表情だった。

 雪が舞い始めて、年の瀬の慌ただしさとクリスマスの賑やかさに拍車をかける。

 家の前の馬繋ぎと、その周辺の枯れ草たちにも雪がうっすらと乗った。

 雪は何もかもを覆い隠すように白い世界を作ってくれる。

 この冬が、もういちど新しい何かを生み出してくれるターニングポイントになればいいと思う。

 すべてを白くしたあと、また新しい色を塗りたくっていくのは、絆で繋がれた日本人であるボクたち自身だ………

「ヤマケイと山人の歴史を読む・・・」

on 2011年12月15日

 今しみじみと、わずかにしたり顔をしながら読んでいる本がある。

 『山と渓谷1.2.3復刻撰集』という、ちょっとマニアックで厚めの文庫だ。

 ご存じのように、『山と渓谷』というのは日本の由緒正しい山岳専門誌のことである。山に興味のない人でもその名前くらいは知っているだろう。そんな雑誌であるから、山に興味のあるボクのようなニンゲンにはとても大切な存在でもあった。

 過去形で書いているのは、二十代の中頃から続けてきた購読を、数年前にやめたからだが、その存在の大きさは変わっていない。もちろん立ち読みなどでのチェックは欠かしたこともない。

 以下、愛称の「ヤマケイ」で行こう…

 この文庫本は、ヤマケイの創刊号、つまり第一号から第三号までの掲載内容を、文庫に再編集したものとなっている。

 ヤマケイ創刊は、一九三〇(昭和五)年五月。二号は七月、三号は九月に出ている。

 その時代に出版されたものを複写したのがこの本で、印刷の汚れなどはそのまま。書体も時代を感じさせるものだ。当然それぞれの文体や言い回しなども時代がかった味がある。

 そんなノスタルジックな印象もいいのだが、やはり何と言っても凄いのはその内容だ。

 昭和初期の山での滞在記や紀行。思いを綴ったエッセイ。ようやく誕生し始めた山小屋に関するレポート。さらに山に関する出版物の書評など、まとめて言ってしまうと今とそれほど変わってはいないみたいだが、やはりその内容が実に激しくいいのだ。

 創刊号の冒頭に、発刊の「信条」が書かれている。

 “要は「正しきアルピニズムの認識」を前提として真面目に「人と山との」対象を思索して行かねばならぬと信じます。”と…

 当時の山岳界の在り様や、山を愛する人たちのさまざまなアプローチなどが語られ、昭和初期にしてすでに、これほどまでに登山は人々に親しまれようとしていたのかと驚かされる。

 昭和の初めというと、もうすでに当時の近代登山が隆盛を極めていて、大学山岳部や一般社会人の山岳会の活動は活発だった。

 当時の紀行の中に、たとえば甲州の山へと向かう人たちを乗せた新宿駅発の列車がいっぱいであることが記されていたりもする。

 それ以前の信仰登山と違い、登山は文字どおり登ることそのものに意味を見出すようにもなっていた。

 たとえば、冬季の山ではスキー山行なども行われていた。当時の大学生たちには、それなりの家庭に育った者が多かっただろうし、山に入れることはそれなりにステータスを持っていたことが分かる。

 この本の中にも出てくるが、厳冬期における初登頂を競い合う大学山岳部のそうした活動は、時として互いに登攀技術や安全のための重要事項をオープンにしない動きに流れていったのだろう。

 ヤマケイは、そういうことを広く一般に広めるためという目的をもって発行されたとある。また、さまざまなスタイルで山を楽しむ姿勢を、ニュートラルに受け入れる柔軟さも示している。高価な書を入手できない登山者たちのために、廉価で山の情報を提供するという目的も持っていた。

 ところで、こういう読み物に接していると、いつも不思議な思いに流されていく。

 それは、山という厳しい世界の中での人間の感覚と、使われてきた道具類の進化についてだ。

 たとえば厳冬期の山行における道具類、さらに山小屋の安全性など、この本の中に記されている時代の人たちは、なんと大らかにそれらを享受していたことかと感心させられる。

 そういうものしかなかったのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そうであったが故の強靭さやのどかさにホッとしたりもする。

 黒部渓谷を歩きとおし、その成果を世に紹介したことで有名な冠松次郎が書いた北アルプス蓮華岳付近の山小屋での話などは、完璧に痛快で面白い。

 十月の山小屋で寒さに震えながら眠っているうちに、屋根がめくれたのだろうか、天井から雪が入ってきて、そのうち部屋のあちこちに白い雪が砂糖のように積もっていく…。

 “蒲団の上食卓の上を嫌はずに降り積る、雪を掃くのがまるで粉末でも掃き落すよう溶けないだけ始末がよい。”と、こんな調子だ。

 そして、そういう状況にありながらも、蒲団に入って寝ていられることを彼は喜んでいる。

 今ではそんな山小屋の存在も考えられないが、冠氏はさらにその後も、外に出てその雪の中に大便をするなどした話につなげている。大便が雪の中に沈んでいく時の表現は完璧すぎて、ちょっとここでは書けない……。

 また冬季の上高地・徳沢あたりをベースにして行われる、涸沢や岳沢あたりでの大学山岳部のスキー山行記などを読んでいると、ボクなどは当時の道具類でよくそこまでやれるものだと驚いてしまう。

 最も驚くべきは、単純に寒さに対する強さなのかもしれないと思ったりもする。

 それほど本格的ではないが、自身のわずかな雪山体験からも、温度計の赤い棒が下にめり込んでしまうような寒さの中では、もうかなりニンゲンは消耗してしまうものだと実感できる。

 雪と共に突風が吹き荒れ、身体の体温が一気に下がっていく感覚は今も昔も変わらないだろう。

 あの時代の人たちの使っていた道具類は、今とは比較にならないほど寒さなどに弱かったはずだ。スキーのビンディングにしても安定感は乏しかったろう。ブーツは皮だろうし、それに何と言ってもウエアなどは、今とは全く比較にならないものだったはずだ。ブーツの中の指先が冷たくなっていく感覚など、今の時代ですらも当然感じるものだ。

 そういった当時の状況の中で、山そのものを、そして山にいる時間を愛する人たちの行動や思いが、この雑誌に込められている。

 ただ、そういう厳しい山行の記録ばかりが綴られているのでは当然ない。

 

 富山生まれで、ふるさとの山を愛し、多くの書を残した田部重治氏が綴る「山の想い出」という短い文章からは、のんびりとした山そのものを楽しむ思いが伝わってくる。

 幼い頃から見上げていた立山連峰など、山の存在が氏の生き方そのものを形作っていることを教えてくれる。山を歩くことが至福の時間であることを、氏は素朴に伝えているのだ。

 余談だが、ボクの大好きな太郎平小屋に掲げられている表札の文字は、この田部重治氏の書だ。

 

 まだ、完読していないが、この本に綴られている話を読んでいくと、いつも山のことを考えていた自分を思い出した。

 街を歩いていたり、クルマを運転していたり、どんな場面でも山のちょっとした情景を思い出せるチカラ?が、ボクにはあったように思う。

 森林の中のぬかるみ、縦走中の岩の上、木道のちょっとした滑り具合…。雨降り、強風、雪、そして抜けるような濃い青空。それらがいとも簡単に蘇ってくる。

 足の裏や、手のひらなどに山での感覚が再生される。さらには行ったこともない山のことも想像できた。

 山小屋のテラスやベンチで、ただボーっと眺めた景色は、どんな季節でも、ひたすら美しく浮かんできた。

 そして、もともとが歴史好きのニンゲンだったせいもあり、山の世界でもその歴史的な匂いをいつも嗅ぎまわっていたように思う。

 山は近代登山によって開かれたのではなく、先にも書いたが、信仰や、林業、イワナの採取など、その目的はいくつかあり、近代以前から開かれた山は数多くあった。

 何度か書いているが、もともとボクが山を登るきっかけとなったのは、社会人になった一年目の梅雨真っ盛りの頃に連れて行かれた剣岳山行である。

 土砂降りの中、川のようになった早月尾根の道を登って当時の伝蔵小屋(現早月小屋)に入り、翌朝も悪天の中、剣の岩場で情けない思いをしながら、何とか登頂を果たした。

 その時に残ったもののひとつが体力に対する自信だった。

 その後、北アルプスに頻繁に出掛けるようになり、体力任せのコースタイム破り山行に楽しみ?がシフトしていく。ただそれだけなのに、山でやれる自信は相当に深まった。

 しかし、その頃本当に山を好きになっていたのかどうかは、今でも分からない。いつも登りながら、辛い、苦しい、なんでこんなことやってるんだろ?と、そんなことばかり考えていたような気がする。

 山の本当の楽しさを知ったのは、薬師岳・奥黒部方面に出掛け、太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんと出会えたことによる。

 山をゆっくり登る。山でゆったり過ごす。適度に酒を飲む。ボーっとできる自分だけの場所があれば、頂上などどうでもよくなった。

 

 『山と渓谷』を購読し始めたのは、その方面への関心が高まった二十代の中頃だった。

 音楽をはじめとして、スポーツや文芸、歴史・自然紀行まで含め、これまでいろいろな雑誌を購読してきた。立ち読み型のものまで入れると、その数はかなりになると思う。

 その中でこの雑誌は、ロングラン購読のひとつだった。

 そして、ボクにとってヤマケイは、自分の文章で直接原稿料というものをいただいた最初の出版物でもある。2ページほどの紀行エッセイを三度掲載させてもらっている。

 そんな意味でも、ボクにとってやはり大切な存在なのである。

 

 ところで、この本の栞として使っているカードは、少し前に知り合った元ヤマケイスタッフだという某氏からいただいたものだ。

 上高地のインバウンド情報が詰め込まれたカードだ。外国人向けの多言語情報が入っている。

 ますます、山の世界にも新しい仕組みが導入されている現実を、この古い本を読みながら実感しているのだ……

「鬼たちは、なぜ来年の話を笑うのか?」

on 2011年12月8日

 そろそろ来年のことを考えようと、「印は無いけど良い品」を売るという店で手帳を買った。

 まともな手帳を買ったのは久しぶりのことだ。と言うのも、基本的に簡単なスケジュールだけメモっておければいいというタイプだから、これまで片手で簡単に丸めることができるくらいの超薄型手帳しか持っていなかったのだ。

 手帳を入手にすると、せっかくだから11月のページから使おうかなと思ったりもした。しかし、実際には12月から使い始めている。

 その理由はと言うと、手帳用として使うための筆記具、つまりペンがなかったからだ。なぜか、そんな筆記具にはかなり激しいこだわりを持ったりする。手帳の紙質を見て、できるだけスムースに書けるものを選ぼうと思う。手がだるくなるような硬いペンは好かない。

 そして、ようやく手帳購入後三週間にして一本のボールペンと出会った。出会ったと言っても、長女に買ってきてもらっただけなのだが、それなりに気に入った。よくは知らなかったが、ドイツのボールペンだということだ。

 ボールペンと言えば、やっぱ、ドイツやろ…と、長女が言う。そう言えば、去年の春長女は旅行でドイツ辺りにいて、そこで買ってきてくれたボールペンは、ごくごく普通のものだったが、かなり書きやすく気に入っていた。

 そんなこともあってか、ボクは新しいドイツ製のボールペンと早く打ち解けようと努力を始めた。最近、それが何となくうまくいっているような実感があり、手帳ともよい関係にある。

  ところで、冒頭にも書いたように、手帳を買ったきっかけは来年のことを考えようと思ったからだ。

 だが、いざ手帳を利用するようになると、あまり来年のことは考えなくなった。

 予定を書き込んだりは当然するのだが、特に何かを考えているわけでもない。

 来年のことを言うと、鬼が笑うと言われているからでも当然なかったのだが、なぜかそのことに興味が湧いた。

 そう言えば、鬼は来年の話を聞くと、なぜ笑うのだろうか?(ようやく本題だ…)

 

 鬼たちは、来年の話のどの辺が可笑しいのだろう?

 笑いにもいろいろなきっかけがあるだろうし、笑い方などにも違いがある。だいたい鬼たちが笑うのだから、頬にえくぼを作ってニッコリすることなどあり得ない。

 一般的なイメージとしては、豪放に体をのけ反らせ、歯茎をむき出しにして笑うくらいが普通だ。

 それに鬼たちはいつも酔っ払っているような印象があって、大声で笑いそうだ。

 とすると、この場合でも、鬼たちは来年の話を聞いて体をのけ反らせ、歯茎をむき出しにして笑うのだ。よほど可笑しいことなのだろうと推測できる。

 それほどまでにして笑える背景とは一体何なのか?

 そのことの以前に、だいたい鬼たちの存在そのものを疑ってしまうのも仕方がないが、それはもうちょっと先に置いておくことにする。

 

 考えついでに思うところを書こう…。

 実を言うと、ボクは鬼たちには特に強い現実主義者が多いのではないかと思っている。

 どちらかと言えば、悲観主義的で、顔に似合わない?ネガティブさを潜めている奴らが多いのではないだろうか。

 ストレスの発散が苦手で、どんどん体内にそれを溜めているのかもしれない。

 その証拠に、あの大きな角も、ストレスで出来た吹き出物みたいなものだと推測できる。

 「全日本角型吹出物群研究学会」などといった学会があったとしたら、そのことはすでに発表されているだろう。そう思って、一応調べてみたが、Googleや、Yahooでは検索できなかった。

 というわけで、だからなぜ鬼たちは来年の話を聞くと笑うかなのだが…

 つまり、来年のことを楽しそうに語るニンゲンたちに、鬼たちは羨望や妬み、さらに不愉快さや息苦しさを感じ、とりあえず的に笑って済ませようとしているだけなのかも知れない。

 あの能面なんかを見ても、怒りと笑いのちょうど中間にある表情だと見てとれる。

 泣き笑いと言ってもいい。つまり鬼たちは切ないのだ。

 だから、われわれニンゲンとしては、そんな鬼たちの心情をよく理解してやることにも配慮しなければならない。

 とりあえず的に笑って済ませようとしているだけの鬼たちに対し、無意味に笑い返してもいけない。

 われわれとしては、むしろ温かな気持ちをもち、鬼たちの笑いに対してちょっと首をすくめてやるくらいが丁度いいのだ。

 そして、出来れば今年の話をしよう。去年の話でもいい。来年を通り越して、再来年の話などはもっての外だ。ついつい口を滑らすなどいうのも気を付けなければいけない。

 そういうわけで、この時季は周囲に鬼がいないかを確認しながら、話をするように心掛けたいものなのである……のだろう。

※鬼の絵は、森田加奈子さんの作品

「自説“年の瀬”について・・・」

on 2011年12月7日

 

 静岡の三ケ日から、丹精込めて作られ、収穫されたばかりの新鮮なミカンが届いた。

 あの甘さを味わうと、今年もそろそろなのであるなあ~としみじみ思ったりするのが毎年の恒例だ。

 大学時代、クラブの同僚だったS水クンの実家から送っていただいているものだが、初めて送っていただいてからもう三十年ほどが過ぎた。

 ボクには幸運にも三ケ日のミカンとともに、甲州勝沼の葡萄農家(本業は公務員)の同僚もいて、秋口にはその幸にも恵まれていたりする。持つべきものはいい友人なのだ…

 

 ところで、年が押し迫った時期のことを“年の瀬(セ)”と呼んだりするが、その決まり事でいくと、今頃は“年の砂(サ)”にあたるということを知っているだろうか。

 そんな話聞いたことないという人のために説明しよう。

 昔の人は、十二月はその年の最後の月であるから、できるだけ細分化して時間を有効に使おうと考えた。

 昔と言うのははっきりしてないが、たぶん江戸中期から後期にかけてで、どちらかと言うと後期が正しいのではないかとボクは思っている。

 で、その昔の人たちが考えたのが、十二月を五分割にしようということだった。

 つまり、そうすることによって、その年の締めくくりや、新しい年を迎えるための準備がきっちりできるであろうと考えたのである。

 そこで考案したのが、“あいうえお”の応用。つまり五つの文字で分割した期間の呼び方を決めようとしたのだ。

 ただ、すんなりと決まらなかったのは言うまでもない。

“年の…(なんとか)”にしようというまではよかったが、“アカサタナハマヤラワ”の中からどれにするかだった。

 さらに、特に力の入る十二月の下旬に入っていくあたりを軸にして、しっかり決めようということになっていて、四番目(「え」の列)に出てくる言葉の響きを大事にしようということにした。

 最初はやはり元になるア行でどうかと考えた。が、“年のエ”では締まらない。

 次にカ行で考えてみたが、“年のケ”でボツ。サ行は飛ばして、続いてタ行も今ひとつ。ナ行も“年のネ”ではね~と、甘ったるいとされた。

 ハ行に至っては、“年のヘ”で問題外。

 マ行はそれなりに頑張ったが、やはり“年のメ”は弱かった。ヤ行には四番目はなかったし、ラ行は“年のレ”でどうも日本語的でないとされ、ワ行は初めから相手にしてもらえなかった。

 そんなわけで十二月は、残ったサ行を用いて分割されることになったのだ。

 その後、漢字をあてていき、“セ”を“瀬”にしたあたりなど、昔の人たちの粋な風流心に敬服せざるを得ない。

 年末に向けて、時が沢の瀬のように流れていく様子を当てたのだろうが、見事である。

 ところで、現代では、“年のセ”つまり“年の瀬”だけが残って使われているが、もちろん当時は、“年のサ”から“年のソ”までがあったのだろう。ただ、どういう漢字が当てられていたのかは分かっていない。

 自分なりに想像してみると、年の砂(サ)・年の思(シ)・年の守(ス)・年の瀬(セ)・年の甦(ソ)あたりでなかったろうかと思ったりする。

 砂のように揺れた年を思い、今年にかけた信念を守り続けてきたかを自問し、瀬のごとく流れ去っていく時の中で、見失いそうになる自分自身をもう一度甦らせようとする……

 やはり、サ行はなかなかいい感じなのだ。

 

 今年の十二月、つまりこの師走はすーっと音もなくやってきたという感じがしている。このまま音もなく今年が終わり、新しい年が来るのかというと、決してそんなことはないだろうが、この十二月への入り方は、どうも胡散臭い。

 今この文章を書いているのが十二月のアタマ。その胡散臭さを示唆するかのように、十二月には仕事の予定がどっさりと組み込まれた。

 なぜこんな時期にと、あちこち飛び回ることにもなっている。何とか“年の甦”まで生き延びねば……