カテゴリー別アーカイブ: 音楽絡みの話編

ジャズは読書の友なのである

 街なかの珈琲屋さんなどで、独り本を読む人がいたりすると何となく嬉しくなる。しかも、それが若者だったりすると、なお嬉しい。

 昔は当たり前のような光景だったと思うが、今はスマートホンを覗いたりするのが圧倒的多数派になっていて、恥ずかしながら自分も手持ちのものが何もない時は、それに頼ったりすることがたまにある。

 本を読むためだけに珈琲屋さんに入るというのは、学生時代であれば普通で、たとえば紀伊國屋さんで何か買った後には、裏手のジャズの店「D」などに直行した。

 そのまま中央線で吉祥寺のジャズの店「F」へということもあったが、後者の方は書店直行というより、いつでも文庫本一冊ポケットに突っ込んで行くというスタイルだった。

 金沢でも片町のうつのみやさんで本を買ったりすると、すぐ近くのジャズの店「Y」へと行くのが、正しい書店退店後の習慣だった。

 「Y」は言うまでもなく、「YORK(ヨーク)」である。マスター奥井氏と買ってきた本について語るのも、楽しいひとときであった。そう言えば、うつのみやさんもYORKも、片町から今は香林坊に移っている。

 ジャズは読書の偉大なる、いやそんな大げさではなく、かけがいのない友だった。

 今から思えば、やはりジャズという音楽のもつ多様な感性の集合体みたいな要素が、いかに日々の重要なスパイスになっていたかが分かる。

 特に学生時代の濫読状況とジャズを聴く時間というのは絶妙なマッチングだったと思う。

 ジャズの店に入って、2~3時間。コーヒーカップはとっくに下げられているが、LPレコードで言えば、片面で4~6枚分ぐらいは聴いていたことになる。

 聴き流しているといった感じでもあるが、あの空気感があるからこそ、文章読みも進んだに違いない………

 今年から、ある小さな協会の機関誌で巻頭エッセイみたいなものを書いているが、最初の号では年の初めの一冊の大切さみたいなことを短く綴った。

 その年の一冊目がその年の読書事情を左右するという、自分のことを書いた小文だ。

 その中で最近の読書について、仕事のためが多くなり、文章を読むという素朴な楽しみが薄れてきた……といったことを書いている。

 著者(というよりも作者とか書き手という方が好きだが)の表現の仕方が、本来文章そのものを面白くし、読むことの楽しみを創り出しているという思いがあるからだ。

 そうした情緒的に響いてこない文章は、正直言って読み甲斐がない。

 ジャズと一緒に追っていた文章が面白かったのは、そういう感性が瑞々しく、どんどん磨かれていたからなのだろう。

 最近、妙な読み方というか、ちょっとハマっているのが、図書館で短編集を借りてくることだ。

 読みだして、面白いなあと思う作品だけ読む。そして、飽きてくるとすぐに図書館へ行き、返却してそのまままた新しいものを借りてくる。

 すでに一ヶ月で、五冊以上は借りてきた。あまりいい傾向だとは思わないが、何となく日々の潤いをそうした読書に求めているような気もする。

 と言っても、きちんと書店買いもしており、やはりここぞというやつは自分のモノにしておく。

 そういう類のモノは、最近 YouTube で流れるジャズと一緒に読んだりするのである………

イーストウッドも ボクもジャズ的だったのだ

 <大それたタイトルに自問しつつ……>

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く姿を、先日初めて見た。

 NHKの、親しみやすくてとてもいい番組でのことだ。アーカイブだから、かなり前の番組だったと思う。そして、彼のピアノは驚くほどの腕前のように見えた。

 後方に、デューイ・レッドマンの息子であるジョシュア・レッドマンなどが立っていて、イーストウッドは長身の体を捻じるようにしながら軽快に鍵盤を叩いていた。

 高校時代、家の近くの店でジャズピアノを弾き、家計を助けていたという。

 そんなエピソードが、イーストウッドをさらに好きにさせた。

 ボクは『荒野の用心棒』で彼のファンになった。細めた目で短く細い葉巻を噛む表情がたまらなかった。まだ小学生だったが、あの表情を真似しようとしていたことは事実だ。

 それから『ダーティ・ハリー』でも、あらためて彼を好きになり、彼のトラッドファッションに強く憧れた。腰を屈めて銃を構える定番ポーズも、裾を萎めたスラックス姿にまず目がいったほどだ。

 

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く。

 そのことと、映画監督としての共通点について彼は語っていた。そして、そのことが自分にも当てはまっているなと感じ嬉しくなった。

 イーストウッドが語っていたのは、映画を作る上で大切にしている「直感性」と「即興性」が、ジャズをやってきたことの影響かもしれないということだった。

 この言葉は、ガツンと胸を突いた。胸を突いてから、いい意味で胸を苦しくした。

 久しぶりに味わう名言だった………

 

 ジャズを聴くようになったのは中学生の頃だ。まわりにはそういう友達はいなかった。

 その後もずっとジャズを聴き、ジャズ的に趣味の幅を広げ、ジャズ的な価値観を軸にして生きてきたように思う。

 自分には他の連中とは異なる感覚みたいなものがあると今も思っているし、どれだけ頑張ってもカンペキな同調など求められないと感じるケースがよくある。

 そして、ジャズ的感性はニンゲン関係やそこから発展していった趣味・嗜好の世界、そして、仕事の世界でも存分に威力を発揮してきたと思う。

 面白い発見もあれば戸惑う場面などもたくさんあったが、それらはボクのそうした感性がもたらしたものではないかと思ったりする。

 そして、趣味の世界ではそれをコントロールできても、仕事の世界では何度もマズかったかな?という場面に遭遇した。

 

 何年か前、あるイベントでパネルディスカッションを任された時だ。

 つまり、よくあるコーディネーター役をやってくれと頼まれたのだが、ボクは一週間前のパネラーたちとの打ち合わせに紙切れ一枚の資料しか持参しなかった。

 そして、堅苦しいネーミングをやめ、「トークセッション」とし、自分の役割も「ナビゲーター」としてくださいと主催者に告げた。

 なんとなく、そんな感じがよかった。そして、いつも通って(入り浸って)いた「香林坊ヨーク」というジャズの店の、奥井進マスターとのやりとりをアタマに描いていた。

 トークを「遠く」と重ね、“ 近くでトーク ”などと表現したりしていた。

 打合せで、全く説明らしきものもないまま、自分はこんなスタンスで進めていくので、皆さんにはその場の雰囲気でお答えいただければ…みたいなことを話した。

 すぐに主催者側からクレームが出た。もう少し詳しい説明をお願いします…などと怪訝そうな顔つきで言われた。

 が、ボクは通常の仕事でパネルディスカッションというものの“つまらなさ”を実感していたこともあり、説明はそれ以上しなかった。

 実はこの役目は私的にオファーがあったもので、ボクはかなり挑戦的でもあった。

 ゲストたちも自分で選んだ金沢のクリエイターたちで、そんな彼らが持っているであろう感性に期待し、本番ではシナリオなどのない臨場感に満ちたトークを求めていた。

 そして、彼らは期待に応えてくれ、本番はそれなりの思いを残してフィナーレを迎えた。

 打ち上げの時、普段あまり褒めてくれることのない某大学教授が、真っ先にビールを注ぎに来てくれた。

 しかし、その時のトークセッションは、今カタチになって残っていたりはしない。

 それはN居というナビゲーターが、たいした地位になかったからに過ぎず、もしそれなりの地位にある人が同じことをやっていたら、活字化されたりして広がっていたかもしれないと思う。

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 あの時のことを振り返ると、自分はジャズ的だったなあ…とはっきりと意識する。

 そして、今も当然変わりようはないのだが、そういう感覚をいつも好意的に受け入れてきたという認識もない。

 いや、逆に人生の重要なポイントみたいなところでは、その感覚によって損をしていたかもしれない。先を見て生きていくということが得意ではなかった。

 しかし、それがジャズ的だった…なのだ。

 エリントンが、レコーディングのやり直しを迫るコルトレーンに、ジャズは即興だから…と諭したというエピソードがすべてを物語っている。

 ボクはずっとジャズ的だ。今は亡きヨークの奥井さんにつけたキャッチ……「ジャズ人生からジャズ的人生へ」の意味を、今まさに自分に当てはめている。

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾いていたこと。

 直感的に、即興的に…… 何の意味もない創作話をこしらえたり、今こうして、自分のなんでもない周辺話を綴っているのも、まさにジャズ的なのだと思う…………

秋のはじめのジャズ雑話-2

popeye-3

『POPEYE』の9月号が、「ジャズと落語」という特集を組んでいて、能登へ仕事で行った時に、トイレを借りに入った商業施設の中の書店でほぼ衝動的に買いこんだ。

眠い目をこすりながらも、ゆっくりと時間をかけて(なかなか読む時間もなく)読んでいくと、それなりに面白い。

ジャズと落語は同時に聴けないが、スタンダードなひとつの曲が演奏者によってさまざまに変化していくような要素などは、落語にも共通する楽しみかも知れない・・・などと書いてある。

どこかのページに誰かも書いていたが、ボクもやはりジャズ喫茶の大音量の中で、じっくりと本を読むという時間が好きだった。

音がうるさくて本など読んでいられるかという理論(というほどもないが)は、ジャズ喫茶の中では通用しない。

むしろジャズという音楽がつくりだす空気感は、すぐれた文章の抑揚などとも合っていたのかもしれない。

もちろん声を発するのは厳禁だった。

70年代初め頃のジャズ喫茶は大音量が当たり前で、ボクはそうした中、外見からは想像できないような近代の純文学を読み耽っていた。

今から思えば、明治の青年たちの苦悩みたいなものを、ニューヨークの黒人たちが、自由と束縛との葛藤の中で創造する音楽に浸りながら理解しようとしていたわけだ……

そんな大げさな話でもないか。

特に吉祥寺の老舗「F」が多かったが、たまに新宿の「D」などにも出かけた。

「F」は密室に近い空間で、視野に入ってくるスピーカーの図体を見ただけで怖気づくが、「D」はそれに比べるとややのびのびとしたイメージがあり、好きなレコードがかかると思わずちょっと足を鳴らしたりする。

すると、店員さんがこっちを向いて、人差し指を口にあてる仕草を見せるのである。

「D」に入る時は、だいたいすぐ近くの紀伊國屋に先に寄っていて、真新しい文庫本なんぞを持っていた。

そうした一冊を、「D」で読み始めるという楽しみ方もあったのだ。

ところで、POPEYE-9月号を読んでいて最も意気消沈したのが、JJこと植草甚一の本についての記事だ。

そこに紹介されていた10冊ほどの著書は、学生の頃にすべて持っていたはずだったが、今はどこへ行ったのか分からないでいる。

そんな部類の本などは無数にあり、今になって、もう一度読み返したいなどと都合のいいことを思ったりするのだが、当然それはできない話になっている。

最近よく、ある時期から自分の中に“無風期”ができていたのだなあということを思う。

無風期というのは、文字どおり何の楽しみもない平凡な時期とで言おうか。

そういう時期に、大切なものがどんどん自分から離れていったような気がしている。

偏屈ともとれるコダワリみたいなものが、日々を愉快にしていた。

時々、少しでも戻ってみようかなという思いがふっと湧いてくる。

ジャズと本読みも、そのシンボル的存在の一部なのだが、別にそれらに限っているわけでもない。

以前にも書いたことがあるが、60歳を過ぎて感受性にまた火がつくというのは本当なのだ。

ところで、ジャズと落語なのだが、無理やり接点を求めようとすると、どこか言い訳じみて納得感が生まれない。

お寺やお茶屋さんでジャズをやったりしていることと、同じようなことを言われても、100パーセント同調できないし、見た目ではない部分がやはり大切な要素なのだろうと思う。

ジャズも好きだし、落語も好き。それでいいのでは…ということにする。

そんなわけで、今更モダンジャズがどうのこうのと語ったりするのもいやだから、キースの『生と死の幻想~Death & Flower』に身を委ねつつ、かつて、志ん生の「火焔太鼓」に爆笑していた自分を振り返ったりしているのである………

秋のはじめのジャズ雑話-1

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前にも書いたことがあるが、久しぶりにまたマイルスが聴きたい症候群がやって来て聴き込んだ。

一年に数回か… こうしたことが起きる。

9月の金沢ジャズストリートに、再びチック・コリアが来るというニュースを聞いたのはかなり前のことだったと思う。

今回はトリオ編成だし、ニューヨークの若手を連れてくるのだろうから行ってみようかなと思っていたが、8000円と聞いてやめにした。

そこまで払って行く気はしなかった。

ギターのリー・リトナーも来ていたが、昔、渡辺貞夫と来た時に聴いたことがあって、関心はありつつ、結局チックに行かずにリトナーだけ行くというのもなんだからとやめにした。

チックのコンサート時間には、家で昔の演奏を聴いていた。

少なくとも今よりはるかに若いし、しかもベースはミロスラフ・ヴィトウスで、ドラムスはロイ・ヘインズだから見劣り、いや聴き劣りはしない。

それどころか、圧倒的にこっちの方がいいに決まっているだろうと音量も高めにしてライブ感を出し、かなりのめり込んで聴いたように思う。

その後、続けてサークル時代のパリ・コンサートを聴いたが、「ネフェルティティ」だけ聴いてやめた。

何となく空虚になり、その後は一転して(?)なぜかレスター・ヤングになったのだ。

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ジャズストリートがあった9月の連休最終日には、朝から『巨匠たちの青の時代』(NHK-BS)の再々(だったと思う)放送があって、これもまた久しぶりに新鮮だった。

ジャズの巨匠と言えば、マイルス。

いや待て、エリントンもパーカーもコルトレーンも、ロリンズもかと心は揺れ動いたが、やはりマイルスだった。

マイルスについては、2003年に金沢でぶち上げたイベントの企画をとおして、かなりの研究家(もどき)になっていたが、その時に仕込んださまざまなデータも、今はもうテーブル板の下に眠っている。

ただ、その時の多様な出来事は、私的イベントとしての自己ベストに位置づけられる。この雑文集にもその時の話は何度か書かせてもらった。

ボクが最初にマイルスにやられたのは、『フォア&モア』の、「ソー・ホワット」と、間髪入れずの二曲目「ウォーキン」だ。

急カーブを、タイヤを軋ませながら走り抜けてゆく… マイルスのトランペットソロはそんな感じで、ジャズ少年の血を燃え上がらせた。

まだ高校生になったばかりで、ジャズを聴き始めて二年目くらいの頃だったが、最初に出会ったコルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」以来の衝撃だったと思う。

とにかくそれから後はマイルス中心に聴き込んでいったような覚えがある。

話はテレビの方に戻るが、番組の最後に流れたマイルスの最後の演奏と言われる「ハンニバル」は、一時周辺でも話題になった記憶がある。

ボクは正直どうでもよかったが、音だけ聴いていると、やはり何となく押し寄せてくるものがあって… 切なかった。

駆け出しの頃のマイルスが、憧れであったディジー・ガレスピの演奏スタイルから離れ、自身のスタイルを創り上げていく…… その物語がぼんやりと思い起こされる音だなと思えたのも事実だった。

マイルスは、少年時代に森の中(だったか)で聞いた女性の歌声が自分にとって永遠に求めていた音だったと語っていたらしいが、そんな話はなんだかマイルスらしくない(と、ボクは勝手に思っている)。

マイルスは反骨もあったし、だからこそ力強いビートも求め、アフリカ的な音世界に自分を置くなどして、空に向かい(70年代にはよく下を向いていたが)叫び(吹き)まくっていたのだとも思う。

高校時代、授業中にマイルスの音楽についてノートに書き綴っていたことがある。

今でも覚えているが、『ビッチェズ・ブリュー』の中の「スパニッシュ・キー」という曲について、リズムがリズムだけでメロディにもなり、リズムだけで強いメッセージになっている。さらに、曲全体をとおして高まったり抑えられたりしていくサウンドに、どこか遠い世界へと連れて行かれるような錯覚を覚える………と。

こんな生意気なことを本当に思っていたのであるから、ボク自身の当時の感性もそれなりのものだったのかもしれないが、かなりはっきりと覚えているから衝撃も大きかったのだろう。

ちなみに、マイルスのトランペットはタイトルどおりスペイン的であったが、ボクが想像した遠い世界とは、当然?アフリカであった……

※マイルスの雑文は、以下でも書いている。

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

音楽はそれなりの音で聴く

21美のラッパ

珈琲屋さんで、小うるさいオッカさんたち、いや、賑やかなご婦人たちと隣席になった時などには、潔くイヤホンで音楽を聴く。

本を読んだり、考え事をする程度なら少しは我慢するが、仕事の書類を作ったり、私的に文章を書いていたりする場合は、カンペキに耳の穴をふさぐことにしている。

この前も、運悪くそれなりの四人組が横に座り、株の話かなんかで盛り上がってしまった。

その中の一人(いちばん派手な)が株で当てたらしく、まるで人生に勝ち誇ったような口ぶりなのだ。

他の三人に、夢を叶えるには、ずっと毎日夢を描いていなければダメなのよと、いかにも成金的雰囲気丸出しでけしかけている。

そのあたりまで、くっきりスッキリと耳に届いてきて、ついにイヤホンを取り出すことにした。

こういう時はデヴィッド・マレーでも聴くのがいいと思ったが、一週間ほど前に中身を入れ替えていて、それなりに優しい音楽ばかりにライブラリーが変わっている。

仕方なく、残っていたロイ・ヘインズ・トリオをと思い、いつもより少し音量を上げて聴きはじめる。

そして、にわかに嬉しくなった。

それは、ご婦人たちの声が聞こえなくなったからだけではなく、久々に聴いたR・H3の演奏が実に良かったからだ。

そして、音量を上げて聴くというのは、音楽を聴く上でとても重要なことなのだというのを思い出した。

ジャズ喫茶の大音量に耳が慣れていた時代、音を聴いているという感覚よりも、音に包まれているといった感覚が強かったような気がする。

ハイテンポのスティックに弾かれるシンバルの微動、ベースの弦のしなり、スネアに叩きつけられるブラシの抑制された躍動感など、あげれば切りがないくらいの音的感動があった。

音楽イベントをいくつか企画運営したが、その中でいつも思ったのが、大きくて鮮明な音で音楽を聴くことの大切さだった。

金沢芸術村での音楽イベントで、ある著名な音楽関係者の方とトークセッションをすることになり、ステージに上がっていただく前、ツェッペリンの『胸いっぱいの愛』をかけた。

スーパー・オーディオで再生するのであるから、音としての質的な意味では、生で聴いているよりは鮮明に響いていたはずだった。

そして、ステージに上がったその方はこう言った。

「この曲には、パーカッションが入ってたんですね…」

プロでもこういうことがある。

ましてや、普通の人たちにとって、こういうことはごくごく日常的な感覚でしかない。

言うまでもなく、ツェッペリンは四人組のロックバンド。

ギター、ベース、ドラムにボーカル。基本的にパーカッションは入っていない。

だから、先入観が働けば聴こえなくても仕方ない。

しかし、音の厚みなどをこのパーカッションが担っていたのは間違いのない事実だった。

だからどうなのだ?と言われても困るが、一応そういうことなので、出来れば音楽は大きい音で聴いた方がいいよということなのである。

ボクが46年程聴いてきたジャズは個性を大切にする音楽である。

つまり、演奏メンバーが誰であるかということを重視する。

それは演奏者の個性を大切にしているからであり、ジャズは個性の集まりによって創られるということを、大切な楽しみ方の要素にしている音楽なのだと思う(表現が難解?)。

だから、ベースは誰だ?とか、ドラムは誰?などといったことが知りたくなる。

この人のベースの方が、あの人のベースより好きだとか、このグループに合っているといった感覚が生まれる。

昔、金沢片町の某ジャズ喫茶で、そこのマスターがこう言った。

「音楽は大きな音で聴いてあげないと、ミュージシャンに失礼だよ。少なくとも、生で聴いているくらいの音量で聴いてあげないとねえ………」

誰かも言っていたが、録音の技術がなかった時代には、音楽はすべて生だった。

レコードやCDが出来てオーディオが発達して、当たり前のように自分自身で音量を調節出来るようになった。

BGMといった音楽も生まれたし、自分自身もそれ系のものにお世話になることも多い。

珈琲屋さんで隣席となった賑やかご婦人たちの話から大きく脱線して、音楽はそれなりの音量で聴くべし的話題へと移行したが、書いている自分自身もそれなりに納得した内容となってきた(ホントは尽きてきた)ので、ここらへんでやめておこうと思う……

ドラマー少年だった頃

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 小学校高学年の頃、我が家の後ろに繋がる撚糸工場の空きスペースに、ギターのアンプやドラムセットが置かれていた。高校生だった兄が“エレキバンド”をやり始めた頃で、休みになると、そのスペースが練習場になっていた。

 エレキバンドはそれなりにどころか、かなりうるさく、練習場を探すだけでもむずかしい。今ならスタジオを借りれば済むが、時代的(60年代中頃)にも地理的にも、当然そんな場所など身近ではない。だから、撚糸工場という盆と正月以外一年中機械が動いている場所は、ある意味、バンドの音を吸収してくれる格好の練習場でもあったのだ。

 ギターはもの心付く頃から触っていたが、ドラムセットを初めて見た時は胸がときめいた。バスドラの正面に描かれた「Pearl」の文字もカッコよかった。だから、叩いてみたくて仕方がない。

 当然、誰もいない時を見つけて軽く叩いてみる。ませガキだったので、見よう見まねで何とか形になる。もともと家には洋楽ばかり流れていたが、当時の兄はとにかくベンチャーズだった。聴いているだけの頃は、ビートルズだったのだが、自分がギターを弾き出すとベンチャーズになった。当然のごとく、ボクの耳にも自然にベンチャーズが入り込むようになる。

 バンドをやっているせいか、ベンチャーズを聴くのは特にライブ盤が多かった。当時は“実況録音盤”と言っていたが、スタジオ録音と比べると全く音質が違う。ライブになるとギターがFUZZを使った重い音になってサウンドが厚くなるのである。

 兄は金沢やその周辺でのコンサートには欠かさず行っていて、よく話を聞かされた。ベンチャーズはとにかく巧い。四人がステージ上、横一列に並ぶ。うろうろと歩き回ったりせず、ただひたすら、余裕さえ感じさせながら名演を披露する。そんな感じだった。

 ステージのパフォーマンスとして、兄が興奮しながら話していたのが、ベースの弦をドラムのスティックで叩きながらの演奏で、その様子を伝える写真や音は、じっと聴き入ったのを思い出す。このパフォーマンスは、ベンチャーズの十八番だったのだ。

 ボクはその頃(小学校の高学年)に、兄の友人に連れられて、アストロノウツというバンドのコンサートに行った経験がある。兄が急に行けなくなり、代わりに連れて行ってもらったのだ。『太陽の彼方』という超ビッグヒットをもつバンドだったが、その時の生エレキサウンドのインパクトは凄かった。

 話を戻そう。

 いつの間にか、それなりに、ボクはドラムの基礎中の基礎を身に付けていった。

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 ある時、兄が弾くギターに合わせて叩いてみるチャンスが訪れる。曲はエレキサウンズのバイブルとも言うべき、『パイプライン』だった。自分でも驚くほどに“サマ”になって?いた。兄のバンドのリード・ギターリストMさんがやって来て、セッション風の練習が始まった。Mさんは、ちょっと長髪のカッコいいお兄さんだったが、ギターも抜群に巧かった。

 ベースはいなかったが、リードとリズムの二本のギターが揃うだけで、音は一気に厚みを増す。アンプもかなり大きめのものを使っていたので、初めて二人まとめたギターの音を聴いた時は耳が痛くなった。

 もう一度『パイプライン』が始まる。所謂“テケテケ”なのだが、ライブのイメージでは“ズグズグ”といった感じで重い。そのあとにお決まりのフレーズが繰り返され、コードをジャーン、ジャーンと弾いてMさんがお馴染みのメロディを弾きはじめた。

 参加していいのかどうか分からないまま、スティックを持って二人を見ていると、兄が顔をこちらに向けて催促してくる。邪魔してはいけないと思いつつも、それなりに自信をもっている自分がいることも事実だった。

 兄の顔がちょっときつくなり、早く入って来いという目付きになった。恐る恐る右手のスティックでシンバルを小刻みに叩きながら、左手のスティックはスネアに。何秒かして、兄の顔を見ながらMさんがかすかに笑った。いや、笑ってくれた。

 このことが勇気づけた。ベンチャーズは、いつもライブ盤しか聴いていないから、スタジオ録音の『パイプライン』のように、柔らかいサウンドは馴染んでいない。だから、ボクもライブ盤で聞こえてくるように、シンバルにもスネアにも力を入れた。

 “ン、タタ、ン、タ”のリズムに、タイミングよく“タカタンタ”を入れたりして調子が出てきた。

 Mさんの表情がまた緩んだ。やったなと思うと、バスドラにもハイハットのリズム感にも自信が出てくる。曲が『ダイヤモンドヘッド』に変わっても、基本はほとんど変わらない。

 こうして、ボクの影武者ドラマー体験は始まった。

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 再び、突然影武者ドラマーのオファーがかかったのは、それから3年後だったろうか。時間的感覚が鈍っているが、中学の二年生だった…はずだ。兄のバンドは、いつの間にかローリング・ストーンズのコピーバンドに変身していて、地元ではそれなりに売れている雰囲気だった。そして、ドラムの人がケガか何かで叩けなくなったのだ。

 グループサウンズの時代、ボクはその頃からジャズも聴き始めていたのだが、いきなり連れて行かれた町はずれの砂取り場の、壊れたバスの中でドラムを叩くことになった。

 ボクの生まれ育った町は砂丘地にあり、今から振り返れば、とてつもなく広い砂取り場が周囲にあった。その奥の一画に古びたバスが置かれていて、その中がバンドの練習場だったのである。もともと砂取り作業に来ている人たちの休憩場所だったのだろう。

 それは本当に突然やって来た時間で、兄から言われるまま(実際、兄には逆らえなかった)に、晩飯を終えると、その砂取り場のバスへと向かった。

 今でもはっきり覚えているが、最初に始めた曲はストーンズの『テルミー』だった。

 それなりに明るくされたバスの中で、縦に独りずつ並び、ドラムが最奥。その前にボーカルが立ち、その後ろにベースとギターが二人。みなドラムの方、つまりボクの方を向いていた。

 『テルミー』という曲を知っている人なら分かるが、原曲ではイントロにアコースティックな音のギターが入り、すぐ後にドラムが入る。静かな曲なのだが、やはりここでもライブ感覚がベース。

 兄がギターを弾きながら力いっぱい叩けと言う。曲が進んでいっても、ドラムが弱いと何度も言われた。すぐに感覚的に分かってきたが、とにかくスネアにスティックを叩きつけるのである。そして連打のところでも、思い切りよく叩くのだ。

 『サティスファクション』でも、最初は同じように言われたが、すぐに感覚が体に沁みてきた。ドラムセットが大きく揺れるほどになってくると、ようやく合格点だった。その頃はかなり音楽にのめり込んでいたので、自分のドラムがバンドの勢いを生んでいるみたいな感覚が分かった。レコードで原曲のドラムを聴くより、自分の感覚で叩く方がいいような気がしていた。

 暗闇の中に怪しい明かりを洩らすバスというのは、中学二年の中途半端な男の子にとって、かなりスリリングな世界でもあった。なにしろ、野球部の丸坊主アタマ、しかもその頃、どういうわけか生徒会の副会長なんかもやっていて、一応品行方正っぽい印象を放っていた。

 実体は、その頃から石原慎太郎なんぞを読み始め、世界を斜視するような、一種のヒロイズムみたいなものに憧れる扱いにくい少年だった。そんな少年だったから、ドラムの世界には自分を満たしてくれる何かがあるような気がしていたのかも知れない。

 一週間もやれば、自分でもほとんど違和感がなくなり、かなり決まってきたなという感じになった。そして、そんな時、突然、兄から次の土曜日、となり町の体育館で演奏会やるから出ろと言われた。さすがにびっくりだ。

 練習のための影武者ドラマーとして軽く考えていたので、驚いて当然なのだ。ボクはすぐに出られないと答えたが、兄の論理では、皆そのために練習してきた、お前の勝手は許さん…だった。しかし、兄の要請は絶対に受けられなかった。実はその日は生徒会が開催される予定になっていたのだ。生徒会のために部活も遅れていくという、そのことにも気後れがあったのに、生徒会も出ないで、小さな町の体育館でドラムを叩いているなどは、とてもできることではなかった。

 結局、その話が出てから、ボクは影武者ドラマーを首になった。兄のバンドが演奏会に出たのかは知らないままだった。

 ふと体がドラムを叩いていた頃の動きをすることに気が付くことがある。今もメンバーを変えて活動を続けるベンチャーズの演奏をテレビで見て、CD(廉価盤500円)を購入。名曲『十番街の殺人』が流れてくると、イントロのタムタム、フロアタム(かつてはバスタムタムと呼んでいたような)を同時に叩く動作が自然に出てきた。

 生意気に、子供の頃からドラムを叩いていたという話だが、その頃の印象を言葉にすると、“スリル”という表現がぴったり合っていたと思う。スリルとは演奏そのものと、当時のバンドをやっているニンゲンたちへの視線みたいなものとが合体したイメージだ。

 ただ、そんなスリルを味わいながら、それ以上の楽しさをも感じ取っていたことだけは間違いない……と、しておこう。