秋のはじめのジャズ雑話-2


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『POPEYE』の9月号が、「ジャズと落語」という特集を組んでいて、能登へ仕事で行った時に、トイレを借りに入った商業施設の中の書店でほぼ衝動的に買いこんだ。

眠い目をこすりながらも、ゆっくりと時間をかけて(なかなか読む時間もなく)読んでいくと、それなりに面白い。

ジャズと落語は同時に聴けないが、スタンダードなひとつの曲が演奏者によってさまざまに変化していくような要素などは、落語にも共通する楽しみかも知れない・・・などと書いてある。

どこかのページに誰かも書いていたが、ボクもやはりジャズ喫茶の大音量の中で、じっくりと本を読むという時間が好きだった。

音がうるさくて本など読んでいられるかという理論(というほどもないが)は、ジャズ喫茶の中では通用しない。

むしろジャズという音楽がつくりだす空気感は、すぐれた文章の抑揚などとも合っていたのかもしれない。

もちろん声を発するのは厳禁だった。

70年代初め頃のジャズ喫茶は大音量が当たり前で、ボクはそうした中、外見からは想像できないような近代の純文学を読み耽っていた。

今から思えば、明治の青年たちの苦悩みたいなものを、ニューヨークの黒人たちが、自由と束縛との葛藤の中で創造する音楽に浸りながら理解しようとしていたわけだ……

そんな大げさな話でもないか。

特に吉祥寺の老舗「F」が多かったが、たまに新宿の「D」などにも出かけた。

「F」は密室に近い空間で、視野に入ってくるスピーカーの図体を見ただけで怖気づくが、「D」はそれに比べるとややのびのびとしたイメージがあり、好きなレコードがかかると思わずちょっと足を鳴らしたりする。

すると、店員さんがこっちを向いて、人差し指を口にあてる仕草を見せるのである。

「D」に入る時は、だいたいすぐ近くの紀伊國屋に先に寄っていて、真新しい文庫本なんぞを持っていた。

そうした一冊を、「D」で読み始めるという楽しみ方もあったのだ。

ところで、POPEYE-9月号を読んでいて最も意気消沈したのが、JJこと植草甚一の本についての記事だ。

そこに紹介されていた10冊ほどの著書は、学生の頃にすべて持っていたはずだったが、今はどこへ行ったのか分からないでいる。

そんな部類の本などは無数にあり、今になって、もう一度読み返したいなどと都合のいいことを思ったりするのだが、当然それはできない話になっている。

最近よく、ある時期から自分の中に“無風期”ができていたのだなあということを思う。

無風期というのは、文字どおり何の楽しみもない平凡な時期とで言おうか。

そういう時期に、大切なものがどんどん自分から離れていったような気がしている。

偏屈ともとれるコダワリみたいなものが、日々を愉快にしていた。

時々、少しでも戻ってみようかなという思いがふっと湧いてくる。

ジャズと本読みも、そのシンボル的存在の一部なのだが、別にそれらに限っているわけでもない。

以前にも書いたことがあるが、60歳を過ぎて感受性にまた火がつくというのは本当なのだ。

ところで、ジャズと落語なのだが、無理やり接点を求めようとすると、どこか言い訳じみて納得感が生まれない。

お寺やお茶屋さんでジャズをやったりしていることと、同じようなことを言われても、100パーセント同調できないし、見た目ではない部分がやはり大切な要素なのだろうと思う。

ジャズも好きだし、落語も好き。それでいいのでは…ということにする。

そんなわけで、今更モダンジャズがどうのこうのと語ったりするのもいやだから、キースの『生と死の幻想~Death & Flower』に身を委ねつつ、かつて、志ん生の「火焔太鼓」に爆笑していた自分を振り返ったりしているのである………


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