カテゴリー別アーカイブ: 好きなモノ・コト編

山里歩きの独り言

  

 ただ山里を歩きたいという衝動(欲求)に駆られる。

 誰もなぜ?と聞いてこないので、こちらも敢えて説明することはないのだが、普通そんな衝動に駆られることはないであろうことは十分承知している。

 衝動とまではいかなくても、いつ頃からそういった方面に興味を持つようになったのだろうかと考えると、10年近く前に遡ることになる。
 根本的なきっかけは、それまで続けてきた本格的な山行や旅などに出かけられなくなったからだ。仕事が徐々に私的な時間に入り込み、大事な楽しみを邪魔しはじめていた。邪魔という表現は自分勝手なものだが、心情的にはそれに近かった。

 それでも半日、いや二三時間の隙間を見つけると、とにかく自然の中の道を求めて出かけた。幸いにも家からクルマで20分ほどのところに森林公園があり、そこは微かながらも欲求のはけ口に なってくれた。

 しかし、山との付き合いはそんな簡単に諦められるほど希薄なものではなかった。ハイキングみたいなお出かけに5年ほど甘んじてきたが、やっぱり山へ行こう、いや行かねばなるまいという気持ちは抑えきれなかった。
 そして、思い切って出かけた勝手知ったる北ア薬師岳方面への一泊山行。5年ぶり…、だがそこで事件は起こった。

 下りで、カラダ全体が硬直したようになり足が前に出なくなった。登りも調子が良かったわけではないが、すっかり親父を抜いて山女になりきっている長女に、なんとか引っ張ってもらった。そして、結局その長女に重いリュックを二つも持たせ、情けない姿かたちで下山したのだ。

 そのことでどうやら本格的な山行は無理なのかもしれないと思うようになった。
 正直、現在もまだあきらめてはいないが、現実的には登る山から、少しだけ登って懐かしく眺める山に志向が変わろうとしている。それは確かである。

(しかし、しつこいが、来年は「MILLET」のリュックを新調するつもりだし、テレマークのブーツなども……と考えている)

***************************

 話は長くなったが、そういうことで今、山里歩きが主になり、有り余ったエネルギーが衝動を起こしているのである。

 しかし、山里はボクにとってネガティブな存在ではない。
 山里そのものに強い興味を覚えたのは、はるか昔だ。すでに20代の初めには自分の中の好きな風景として、高原や山里は高い存在感をもっていた。
 まず強く意識するようになったのは、山里自体にある背景的な歴史だった。歴史的な背景ではなく、背景的な歴史である。
ひたすら歴史の舞台といったことがモノを言った。カタチで残っていれば、その関心度はより高まった。

 そんな意味で、今でもなになにの里というと、まず京都の大原を思い浮かべてしまう。
 40年以上も前に敦賀から山越えし出かけた初めての大原は、強い印象を残した。
 すでに別の雑文でも綴っているので控えるが、清々しい開放感と高貴な静寂に包まれていた。
 歩く時も観光の地であることに甘えながら、足音を忍ばせることは怠らなかった。

 同じ頃に出かけた奈良の柳生の里も印象深かった。春日大社の裏?から滝坂の道を登り、そのまま山越えしたが、体力勝負の充実した道のりだった。

 今は、背景的な歴史をそれほど重要視してはいない。
 いつからかそこで暮らす人たちの暮らしの匂いのようなものの方が、より深い何かを語りかけてくれるように感じ始めた。
 素朴な自然風景や家々の佇まい、森や林や田畑や川や橋や道や、それらの季節や一日の時の推移によって変わっていく表情に敏感になっていった。
 
ほとんどは名もない小さな山里だった。近くで言えば、石川県内や富山県の西部、岐阜県の飛騨地方、石川で言えば特に能登の山里など心に沁みる場所が多い。

 ただつらいのは、山里から人の姿が消えていくことである。この夏も、奥能登のわずか数軒しかない里で、一軒の大きな家が完全に閉めきられたようすを目にした。庭先から周辺一帯に雑草が生い茂り、かすかにタイヤの跡だけが残っていた。そこは春先に訪れた山里だった。こういう状況を目の当たりにするたび、平凡な言い方だが心が痛む。
 だから、特に何も要求しない。してはいけないと思うようになっていく。ときどき、現代の上塗りや合理性に小さな落胆を覚えたりしたが、それも今は静かに頷けるようになっている。
 そこにも現代の生活がある。むしろ、スクールバスから体操着を着て、イヤホンで音楽を聴きながら降りてくる女子中学生の姿を見た時などは、なぜかホッとした。

 いつもクルマの中ではジャズを流し、歩いている時はアタマの中で目に映る風景を言葉に変えようとしている。自分の中で情景とか光景という言葉に敏感になっていくのは、風景が心にまで染み入るようになったからだ。

 不思議なことだが、本格的な山行の時などはクマへの恐怖心など持ったことはなかった。が、今は森の中にいるとその恐怖心を感じる。情報が多くなってきたからだろうか。山は多くが単独行だった。体力にも自信があったから、独りがちょうどよかった。山里歩きも独りがいい。わざわざ一緒に行こうなんて言うやつは誰もいないだろうし……

*****************************

 今ふと思い返してみると、きっかけは歴史と旅という意味での、司馬遼太郎の『街道をゆく』であり、心的な面で大きく自分を煽ったのは『旅に出る日』や『山村を歩く』などの岡田喜秋の本たちであったと思う。さらに辻まことや星野道夫や、その他時代や環境を超えて無数の人たちが残してくれた自然とヒトとの繋がりを綴った本たちが、ボクを動かしていた。

 だから…、できるだけ山里は歩くのである。特に名もない山里になればなるほど、なんでもない場所にクルマを置き、よそ者が歩いていてはおかしいと思える道を歩くのである。もちろん主たる道は幹線道路だから、たまにクルマが行き来し、すれ違ったり追い越したりして行く。ドライバーたちの不審げな表情を想像できたりするが、それには無頓着を装う。地元の人かなと思えば、小さく会釈する。

 そして、できれば集落の人に一度は声を掛ける。声を掛けられる時もある。カメラを持っていることが話のきっかけになる場合も多い。不思議がられながらも、そこで交わす言葉によって、山里の本当の姿をより感じるのである

 ところで、最近「里山に暮らしています」という人に出会うことがある。が、「里山」に暮らしているというのは変で、「山里」に暮らしているというのが正解に近い。以前にも書いたが、里山という新しい(しかも響きのいい)言葉が出現したことによって、勘違いしている人が多くなってしまった。どうでもいい話だが、つい言いたくなったので。

 最後にいつも思うことがあるので書いておく。それは山里行きの多くの場合、自分がどこにいるのか分からなくなる…ということだ。

 目的地を特定して出かけるわけではなく、せいぜいでどこどこ方面くらいだ。そして、なんとなくこの辺りで歩き始めようと思う。だから、そこから山の奥へと入っていけばいくほど、具体的な居場所が本当に分からなくなっていく。スマホのマップでも本当にアバウトになる。そして、そんな時に思うことがある。それは、オレがこんなところにいるなんて、家族が知ったら何て言うだろうか…ということだ。もしここで何らかの事故によって死んだとしても、家族は探しようもないだろう。そういう意味で、クルマは幹線道路沿いの小さなパーキングや公民館の前などに置くようにしているのだが……

 この前もたまたまパトロールしていたというミニパトカーの若いおまわりさんが、わざわざ地図を出してきて詳しく周辺の説明をしてくれた。やはり、カタチはしっかりとしたトレッキングスタイルなのだが、場所的なことから想像される実態としてはかなり怪しく映っているのかもしれない………

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

  

 

三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も徐々に不要な人物が出てくるほど続いている。

 今回は生粋の勝沼人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空…… 納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

 “””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 

 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

***************************

 

 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

**************************

 

 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

****************************

 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

 

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

湯けむりの中で口笛を吹く

 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

***************************** 

 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

 *****************************

 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

蕎麦畑のそばにて


 蕎麦の花が咲き広がる風景というのは、山村にひっそりと存在するものだと思っていた。

 そして先日、富山の南砺市で出合った風景によって、その思いは変わった。

 その蕎麦畑は、とても新鮮だった。単なるボクのせまい見識の中でのことだったのかも知れないが、その爽やかに広がった風景は、まるで昔話の世界のように感じた。

 普通の道をクルマで走ってきた。そして、なんとなくアタマの中に予感が来た次の瞬間、周囲が蕎麦の花だらけになった。

 人家もあり、神社もあり、当然その鳥居もあり、おまけに青空があって、水の流れもあった。

 蕎麦の花にこれほど惹かれたのは初めてだった。

 すぐに細い脇道へとハンドルを切り、しばらくしてエンジンを切った。カメラを持って来ていてよかったと心の底から(と言うと、ちょっと大げさだが)思った。

 辺りをうろつきながら、何枚も写真を撮る。通り過ぎていくクルマの人たちが、不思議そうに見ていたりするのが分かる。

 しかし、こっちはその人たちの視線に構ってはいられない。

 時間にすると、二十分ほどいただけだろうか。

 蕎麦の花から、「ざるそば」や「もりそば」、ましてや「おろしそば」などを想像することはできない。まったく別モノだ。

 花は「蕎麦」という漢字で表現する方がよくて、食べるときは「そば」とひらがながいい。

 恥かしながら(と言うべきか?)、ボクと蕎麦との出合は、小田急沿線の駅にあった立ち食いの『箱根そば』であった。

 ただ、それは名称としての「そば」との出合であり、実際に食べていたのは「うどん」だった。一杯が百数十円の「たぬきうどん」が定番メニューだったのである。

 カネがなくなると、一日三食「たぬきうどん」だったこともある。

 富山のブラックラーメンの上をいくような濃い汁が、セーシュンの味だった。

 店員は無造作な仕草で、天かすをどっさりとうどんの上にかけてくれた。これもまたセーシュンの味であり、うどんと一緒に口の中で混ざり合った時の満ち足りた瞬間は、セーシュンの味の絶妙なインタープレイ体験(?)だったのである。

 正真正銘の「そば」との出合はいつだったのだろうか?

 たぶん、大学を卒業して社会人になり、金沢のそば屋さんで食べた「にしんそば」が最初だっただろうと思う。

 人生のナビゲーターの一人である、ヨーク(金沢ジャズの老舗)の亡き奥井進さんと、金沢のそば屋と言えば的存在であった『砂場』で食べたのである。

 どういう状況でそうなったかは忘れたが、ヨークがまだ片町にあった頃の遅い昼飯だったか…?

 奥井さんが店員に「にしんそば」と言った時、ボクも同じく…と言った。正直、本当は「いなりそば」あたりにしたかったはずだが、あの頃は奥井さんに追随する気持ちが強く、これも人生経験みたいな感じで注文したのだった。

 しかし、「そば」はボクにとって、その後しばらく強く望むような食べ物ではなかった。

 「そば」好きになったのは、いつの頃からか分からない。

 

 食材に恵まれなかった山あいの人たちが蕎麦を作っていたという話も、二十代の中頃、信州へ頻繫に出かけていた頃に知った。

 あの頃食べていたそばは、今ほど美味くはなかったような気がするが、単なる味音痴の的外れな話かもしれない。

 今は、あたたかい「いなりそば」か、冷たい「おろしそば」が好きである。ただ、そのことと蕎麦の花の風景とは特に何ら関係はない………

 

アラン・ドロンよりも ジョン・ウエインだった

 アラン・ドロンが現役を引退するというニュースを聞いて、なぜかいろいろなことがアタマの中に蘇ってきた。

 小さい頃から洋楽・洋画の世界が身近にあったせいで、かなりませた田舎少年へと成長していったのだが、アラン・ドロンという存在はどうも苦手で、家にいつもあった映画雑誌に写真が出てくると(大概必ず出ていた)、なぜか目をそらしたり、すぐにページをめくったりしていた。

 それは、彼には必ず女優の匂い(こんなの田舎少年の実感ではないが)が付きまとい、そこら辺のところで、まだ小学生の身にはちょっと正視できない雰囲気があったからだと思う。

 そして、“したり顔”で二枚目を誇っているような様子などで、ひたすら不健全なイメージしか持ちようがなかった。

 アラン・ドロン系のことでいい印象というと、『太陽がいっぱい』のテーマ音楽だ。

 あのサウンド・トラックだけはよく聴いた。シングル盤だったと思うが、子供心にも、三拍子のリズムがキラキラと輝く海面と、その上で揺れ動くヨットを思い浮かべさせた。自分が海で育ったせいだろうか。『地下室のメロディ』のテーマなんかも家ではよくかかっていたような気もする。

 ついでに書くと、この手の音楽では『鉄道員』というかなり切ない映画のテーマも好きだった。いや、好きだったかどうかは分からないが、よく聴かされていて、耳に馴染んでいくうちに少年のココロにもそれなりに何かが届くようになっていったのかもしれない。

 最近ほとんど聴く機会はないが、ボクにとっての切ない系音楽の代表格と言えるかもしれない。懐かしい。

 『太陽がいっぱい』も『鉄道員』も、映画そのものは見ていなかったが、ストーリーは読み込んでいて、子供ながらもそれなりに理解していたつもりだった。

 アラン・ドロンから始まったが、本来フランスの俳優(映画も)にまったく興味がなかったのは、西部劇を中心にして活劇ものばかりを見ていたからだ。

 もちろん兄の影響があってのことだが、ボクの最大のヒーローはジョン・ウエインだった。

 つまり、強くて、頑固で、口下手で、女なんか面倒臭せえ…みたいな、最近そういう人物像を描いても全く受けないであろうことは十分に予測できるが、そうしたジョン・ウエインの役どころが好きだった。

 ちょっと高めのハット、しかめっ面で、首に巻いていたあれはバンダナだろう、チョッキには保安官バッチが光り、ライフルをだらりと下げ、やや肩を傾けながら歩く姿は全くカンペキにかっこよかった。

 本場アメリカの西部劇が、ただ分かりやすいだけの単純な活劇から脱皮していく過程で、マカロニ・ウエスタンなるものが西部劇を変えるようになっていくが、ボクが西部劇に求めていた要素のひとつは、スクリーンに広がる壮大な風景描写でもあった。

 アメリカでのロケがむずかしくなり、スペインなどで撮ったという話もあったが、あの広々とした大地での活劇そのものが、ボクにとっての西部劇の魅力だったのだと思う。

 音楽もマカロニ・ウエスタンになってからは、一層濃くなった。いや個性的になったと言うべきかもしれない。

 ハリウッド時代の西部劇テーマも名作ばかりで、うちにはほとんどのレコードがあった。そして、それらはほとんどが先に音楽だけを聴いていて、実際の映画は大学生になってから見たり、テレビの洋画劇場で見るしかなかったものもあった。

 マカロニの方が流行り始めた頃のエンニオ・モリコーネの音楽は、最近でもたまにラジオから流れてきたりすると嬉しくなる。

 マカロニの俳優では、イーストウッドよりも、ジェンマよりも、フランコ・ネロが好きだった。

『真昼の用心棒』のフランコ・ネロは、少し弱さも併せもったガンマンの役で、そういう意味ではジェンマにも共通するものがあったが、ネロの方がはるかに人間臭く、男臭く、役者的匂いも強力だった。ついでに言うと、ネロは顔も凛々しくて好きだった。

 最後にアラン・ドロンについて、自分の中の数少ないエピソードをもうひとつ書くと、三船敏郎、チャールズ・ブロンソンと共演した異色の西部劇『レッド・サン』で、ボクのイメージに合ったドロンらしい役を演じていたが、あの中での最も軽い存在感には充分納得したのを覚えている。

 ただ、なんとなくあのあたりからドロンに対する偏見(?)は、急激に修まっていったような気がする。

 まったく西部劇的ではないとするドロンを思いながら、そう言えば、武士役で出ていた三船などもカンペキに西部劇的ではないな……と、当たり前のように考えていくと、やはり映画の世界での大物俳優たちの存在感は共通するものなのだと、子供の時に感じたことを引きずってきた自分を反省した。

 しかし、アラン・ドロンの出演した映画は、結局『レッド・サン』しか見ていない。正式に言うと、映画館でということだが、あの『太陽がいっぱい』も、BSの映画劇場で見ただけだった。

 本来、アラン・ドロンについて考えても、つまるところはジョン・ウエインなどの話になってしまう、そういうことなのだろうと思う………

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

甲州ブドウが信玄本を導く

img_1982

大河ドラマ『真田丸』で、ついに真田昌幸が死んだ。

(タイトル写真は真田昌幸 『戦国大名武田氏の家臣団』より)

幻覚の中、馬の嘶きと近づいてくる蹄の音に起き上がり、「おやかたさまァ」と叫んだ後、そのまま息を引き取るという、グッとくるような演出であった。

草刈正雄の野性味の効いた演技もよかったと思う。

死に場所は真田からほど遠い九度山だったが、信濃の山野を駆け巡った戦国武将らしい最後だったようにも感じられた。

そして、昌幸が叫んだ「お館様」こそが、あの武田信玄であり、信玄によって戦略家・智将としての才能を開花された昌幸の、信玄への思いがあの場面に描かれていたのだ。

ただ、このあたりの背景表現については、『真田丸』は全く中途半端だったのではと思う。

昌幸は七歳の時に信玄のもとへと人質に出されている。

つまり、真田は元来、信玄から本当の信頼を得てはいなかった。

しかし、信玄は昌幸を大切に扱った。

その結果、昌幸は信玄の下でその才能を開花させ、国衆の三男坊から武田家譜代の家臣として取り立てられるまでになる。

信玄が死んだ後も、武田と真田のために踏ん張った。

本気で甲斐の国を再興させようとしていたのではないか………

と、ここまで書くと、ついこの前、武田信玄について書いていたのに、またその話かよ~と思う人もいるかもしれない。

今頃、気がついても遅い。実は、そうなのである。

しかし、今回はむずかしい話ではない。

*****************************

今年もまた、山梨県甲州市勝沼に住む親友Mからブドウ便が届いた。

9月のはじめ、いつもよりちょっと早い到着であったが、今年は猛暑のせいか収穫が少し早くなったらしい。

いつも畑で採れたものをすぐに箱詰めして送ってくれるもので、柄の部分はきれいな緑色をしている。

もちろんバツグンに美味い。

持つべきものは、よい友だちだ… ついでに書くと、静岡県三ケ日のみかん農家の次男坊も学生時代の親友で、こちらも初冬には採れたてが送られてくる…………

信玄本の記事

それで、今回勝沼から届いた箱の中に敷かれていた地元・山梨日日新聞。

いつもこういう新聞には必ず目をとおす。

土地柄のニュースが載っていたりして、なんとなく楽しい気分にさせてくれるからだ。

そして、今回も興味をそそるニュースが載っていた。

地元ゆかりの出版物を紹介する記事だ。

まず、「武田家臣団の構造解説」という見出しに注目させられ、丸島和洋氏の名前も目に止まった。

丸島氏と言えば、武田家と真田家に詳しい研究家だ。

『真田丸』の歴史考証も担当している。

これはすぐに買い込んで、読まねばなるまいと気持ちが昂る。

そして、すぐに買ったが、正直言うと、こちらの書店にはどこにも置いてなく、通販を利用させてもらった(なぜか、通販だと何となく申し訳ない気持ちになるのである)。

すぐに読みたかった。

二十代の頃、武田信玄に関する本をひたすら読み込んだが、その時の衝動が甦ってきた感じだった。

噛りついて読んでいるわけではないが、じっくりと今も読み続けている。

ところで、『真田丸』を見ていて感じる人もいると思うが、主人公の信繁(のちの幸村)と同じように、昌幸の方も面白い物語になると思うのである。

本音で言えば、昌幸の方が信玄との絡みが多くあって戦国の物語としては絶対内容は濃くなるはずだ。

秀吉やら家康、その周辺には深いストーリーが感じられない。

だから、幸村のようなヒーローが出来上がったような気もする。

秀吉・家康なら、今回のようにコメディっぽいのがちょうどいいくらいで、今回もそれが面白い要素になっていたりする。

まあどちらにしても、勝沼のブドウが一緒に届けてくれたような一冊の本が、今は実に愛おしく、ときどき気持ちをぐっと引き上げてくれるような気がして嬉しいのである…………

img_1981

 

秋のはじめのジャズ雑話-2

popeye-3

『POPEYE』の9月号が、「ジャズと落語」という特集を組んでいて、能登へ仕事で行った時に、トイレを借りに入った商業施設の中の書店でほぼ衝動的に買いこんだ。

眠い目をこすりながらも、ゆっくりと時間をかけて(なかなか読む時間もなく)読んでいくと、それなりに面白い。

ジャズと落語は同時に聴けないが、スタンダードなひとつの曲が演奏者によってさまざまに変化していくような要素などは、落語にも共通する楽しみかも知れない・・・などと書いてある。

どこかのページに誰かも書いていたが、ボクもやはりジャズ喫茶の大音量の中で、じっくりと本を読むという時間が好きだった。

音がうるさくて本など読んでいられるかという理論(というほどもないが)は、ジャズ喫茶の中では通用しない。

むしろジャズという音楽がつくりだす空気感は、すぐれた文章の抑揚などとも合っていたのかもしれない。

もちろん声を発するのは厳禁だった。

70年代初め頃のジャズ喫茶は大音量が当たり前で、ボクはそうした中、外見からは想像できないような近代の純文学を読み耽っていた。

今から思えば、明治の青年たちの苦悩みたいなものを、ニューヨークの黒人たちが、自由と束縛との葛藤の中で創造する音楽に浸りながら理解しようとしていたわけだ……

そんな大げさな話でもないか。

特に吉祥寺の老舗「F」が多かったが、たまに新宿の「D」などにも出かけた。

「F」は密室に近い空間で、視野に入ってくるスピーカーの図体を見ただけで怖気づくが、「D」はそれに比べるとややのびのびとしたイメージがあり、好きなレコードがかかると思わずちょっと足を鳴らしたりする。

すると、店員さんがこっちを向いて、人差し指を口にあてる仕草を見せるのである。

「D」に入る時は、だいたいすぐ近くの紀伊國屋に先に寄っていて、真新しい文庫本なんぞを持っていた。

そうした一冊を、「D」で読み始めるという楽しみ方もあったのだ。

ところで、POPEYE-9月号を読んでいて最も意気消沈したのが、JJこと植草甚一の本についての記事だ。

そこに紹介されていた10冊ほどの著書は、学生の頃にすべて持っていたはずだったが、今はどこへ行ったのか分からないでいる。

そんな部類の本などは無数にあり、今になって、もう一度読み返したいなどと都合のいいことを思ったりするのだが、当然それはできない話になっている。

最近よく、ある時期から自分の中に“無風期”ができていたのだなあということを思う。

無風期というのは、文字どおり何の楽しみもない平凡な時期とで言おうか。

そういう時期に、大切なものがどんどん自分から離れていったような気がしている。

偏屈ともとれるコダワリみたいなものが、日々を愉快にしていた。

時々、少しでも戻ってみようかなという思いがふっと湧いてくる。

ジャズと本読みも、そのシンボル的存在の一部なのだが、別にそれらに限っているわけでもない。

以前にも書いたことがあるが、60歳を過ぎて感受性にまた火がつくというのは本当なのだ。

ところで、ジャズと落語なのだが、無理やり接点を求めようとすると、どこか言い訳じみて納得感が生まれない。

お寺やお茶屋さんでジャズをやったりしていることと、同じようなことを言われても、100パーセント同調できないし、見た目ではない部分がやはり大切な要素なのだろうと思う。

ジャズも好きだし、落語も好き。それでいいのでは…ということにする。

そんなわけで、今更モダンジャズがどうのこうのと語ったりするのもいやだから、キースの『生と死の幻想~Death & Flower』に身を委ねつつ、かつて、志ん生の「火焔太鼓」に爆笑していた自分を振り返ったりしているのである………

秋のはじめのジャズ雑話-1

img_0525

前にも書いたことがあるが、久しぶりにまたマイルスが聴きたい症候群がやって来て聴き込んだ。

一年に数回か… こうしたことが起きる。

9月の金沢ジャズストリートに、再びチック・コリアが来るというニュースを聞いたのはかなり前のことだったと思う。

今回はトリオ編成だし、ニューヨークの若手を連れてくるのだろうから行ってみようかなと思っていたが、8000円と聞いてやめにした。

そこまで払って行く気はしなかった。

ギターのリー・リトナーも来ていたが、昔、渡辺貞夫と来た時に聴いたことがあって、関心はありつつ、結局チックに行かずにリトナーだけ行くというのもなんだからとやめにした。

チックのコンサート時間には、家で昔の演奏を聴いていた。

少なくとも今よりはるかに若いし、しかもベースはミロスラフ・ヴィトウスで、ドラムスはロイ・ヘインズだから見劣り、いや聴き劣りはしない。

それどころか、圧倒的にこっちの方がいいに決まっているだろうと音量も高めにしてライブ感を出し、かなりのめり込んで聴いたように思う。

その後、続けてサークル時代のパリ・コンサートを聴いたが、「ネフェルティティ」だけ聴いてやめた。

何となく空虚になり、その後は一転して(?)なぜかレスター・ヤングになったのだ。

*****************************

ジャズストリートがあった9月の連休最終日には、朝から『巨匠たちの青の時代』(NHK-BS)の再々(だったと思う)放送があって、これもまた久しぶりに新鮮だった。

ジャズの巨匠と言えば、マイルス。

いや待て、エリントンもパーカーもコルトレーンも、ロリンズもかと心は揺れ動いたが、やはりマイルスだった。

マイルスについては、2003年に金沢でぶち上げたイベントの企画をとおして、かなりの研究家(もどき)になっていたが、その時に仕込んださまざまなデータも、今はもうテーブル板の下に眠っている。

ただ、その時の多様な出来事は、私的イベントとしての自己ベストに位置づけられる。この雑文集にもその時の話は何度か書かせてもらった。

ボクが最初にマイルスにやられたのは、『フォア&モア』の、「ソー・ホワット」と、間髪入れずの二曲目「ウォーキン」だ。

急カーブを、タイヤを軋ませながら走り抜けてゆく… マイルスのトランペットソロはそんな感じで、ジャズ少年の血を燃え上がらせた。

まだ高校生になったばかりで、ジャズを聴き始めて二年目くらいの頃だったが、最初に出会ったコルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」以来の衝撃だったと思う。

とにかくそれから後はマイルス中心に聴き込んでいったような覚えがある。

話はテレビの方に戻るが、番組の最後に流れたマイルスの最後の演奏と言われる「ハンニバル」は、一時周辺でも話題になった記憶がある。

ボクは正直どうでもよかったが、音だけ聴いていると、やはり何となく押し寄せてくるものがあって… 切なかった。

駆け出しの頃のマイルスが、憧れであったディジー・ガレスピの演奏スタイルから離れ、自身のスタイルを創り上げていく…… その物語がぼんやりと思い起こされる音だなと思えたのも事実だった。

マイルスは、少年時代に森の中(だったか)で聞いた女性の歌声が自分にとって永遠に求めていた音だったと語っていたらしいが、そんな話はなんだかマイルスらしくない(と、ボクは勝手に思っている)。

マイルスは反骨もあったし、だからこそ力強いビートも求め、アフリカ的な音世界に自分を置くなどして、空に向かい(70年代にはよく下を向いていたが)叫び(吹き)まくっていたのだとも思う。

高校時代、授業中にマイルスの音楽についてノートに書き綴っていたことがある。

今でも覚えているが、『ビッチェズ・ブリュー』の中の「スパニッシュ・キー」という曲について、リズムがリズムだけでメロディにもなり、リズムだけで強いメッセージになっている。さらに、曲全体をとおして高まったり抑えられたりしていくサウンドに、どこか遠い世界へと連れて行かれるような錯覚を覚える………と。

こんな生意気なことを本当に思っていたのであるから、ボク自身の当時の感性もそれなりのものだったのかもしれないが、かなりはっきりと覚えているから衝撃も大きかったのだろう。

ちなみに、マイルスのトランペットはタイトルどおりスペイン的であったが、ボクが想像した遠い世界とは、当然?アフリカであった……

※マイルスの雑文は、以下でも書いている。

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

電車に乗ると

電車

電車に乗ると、やはり基本は窓の外の風景を見ることだと思う。

風景は流れ去っていくもの。

本の中の活字や写真はいつでも見ることができるが、風景は待ってくれない。

最近特に、昼間の車中では本を読まないようにしている。

懐かしい風景や、意外な風景などに出会う瞬間を見逃さないよう気にかけている。

北陸新幹線が開業して、トンネルが多すぎるという声をよく聞くようになった。

が、あれはどうやら風景を見ることができないことへの不満ではないらしい。

電話やネットが使えないことへの不満らしいのだ。

さびしい話なのである……

焚火休日のときの流れ

焚き火1

久しぶりの焚火である。

と言っても、焚火そのものを楽しむものではなく、裏の空き地に放置されているものを焼却するという、れっきとした家事仕事だ。

ただ、楽しくないのかと言えば、それはそれで十分というか、かなり激しく楽しい。

今回は何年ぶりというくらい久々度は高く、最近ではご近所さんへの配慮などもあって回数も減った。

何と言っても、休日にはできなくなった。

その日も連休の間にポツンと残された“普通の日”をお休みにさせていただいてやったのだ。

焚き火場は、家を建ててからそのままになっている、いつもの後ろの空き地。

もともと「多目的空き地」と位置付けていたが、最近では「無目的空き地」と虚しく呼ぶ。

砂や雑草との熾烈な闘いもあるが、とにかく何もしないまま放置しているのがよくない。

 

今回のメイン材料(燃やす対象)は、ずっと前から置きっ放しになっていたオープンデッキの解体残だ。

その前に雑草取りから、鍬を手に花でも植えようかという分だけ土をおこす。

少し前から悩まされている腱鞘炎とテニス肘(と医者は言うが、ボクはテニスをしない)のせいで、鍬は長時間持てなかった。

この鍬は亡き母の形見で年季が入っている。

着火は9時ごろ。

いつものように木を組み、その下に乾燥した草などを置き、丸めたチラシに火を点けて差し込む。

木材に移った火が安定してくると、しばらくそのままにする。

ちょっと一息…… ポケットに入れたラジオ(スマホ)から、高橋源一郎と清水ミチコの楽しいトークが聞こえてきて、ときどき周囲を見ながら笑ったりする。

幸いにも、周囲には誰もおらず、安心して笑っていられる。

途中何度も木材を足したりするが、それ以外は特にこれといって格別なこともなく、こういう時は、“焚火読書”だったと、家の中へと読みかけ本を取りに行ったりした。

持ってきたのは、磯崎憲一郎の『電車道』。

あと残り50ページほどだったのが、いい機会に読み終えることができた。

ただ感想はというと、やや首を傾げている。

インタビューなどで著者が好きになったのだが、作品は自分のサイクルに合わない。

やや苦しかった分、読み終えてホッとした。

当然、こちらの方が悪いのだが、こういうことが最近はよくある。

作家がテレビやラジオなどによく出るからなのだろう。

高橋源一郎もそんな一人だ。

そう言えば、読みかけ本はまだ数冊あったなあと思い出した。

 

焚火の炎を見ていると、いろいろなことを考えたりするから不思議だ。

炎の動きが、視覚をとおして脳を刺激するのだろうか。

気が付くと、仕事のことやらモロモロ考えていたことが、残像みたいにアタマの中で浮遊しているのが分かる。

ただ、どれも実体がないようで、摑みどころがない。

まだ若そうなハチが一匹、すぐ近くの小さな花にとまろうとしているのが見えるが、なかなかとまれそうになく、何度も試みながらあきらめて飛び去って行った。

足元には、見慣れたアリジゴクの落とし穴(と呼んでいいのかな?)。

砂丘地の町だから、アリジゴクは大してめずらしくもないが、小さい頃、初めて砂の穴を崩し、出てきたアリジゴクを手のひらにのせた時の感触はまだ覚えている。

意外にも、ただくすぐったいだけだった。

そう言えば、手のひらに砂の山をつくると、アリジゴクはその砂の中にももぐり込んでいこうとしていた。

朝から雲ったままの我が家上空に、ヒバリが一羽飛来。

曇り空にヒバリは似合わないが、泣き方はあくまでもヒバリらしく、羽のばたつかせ方もヒバリらしい。

いつかどこかで見た、空で鳴いているヒバリをじっと見上げていた猫のことを思い出した。

 

炎がだんだん小さくなってきている。

材料ももう尽きている。

ラジオはとっくに正午のニュースを終えた。

家族は出勤日。

これからモロモロの片づけをし、家に入ってシャワーを浴び、独り冷蔵庫にある残りものなどをいただく。

それから、コーヒーを淹れ、BSで『ダーティ・ハリー』を観るのだ。

こんな時間の流れ方も、いかにも焚火的なのである………

 

明治ラグビーの復活… 早明戦の復活

2015の早明戦は近年にない白熱した好ゲームだった。

明治ラグビー復活の道筋は、監督・丹羽政彦と、今シーズンから就任したFWコーチ・阮申騎(げん・しんき)が作ったと言えるかもしれない。

コンタクトの強さを前面に出す明治らしい選手がいなくなった…と嘆いていた阮。

しかし、しっかりと新しい明治らしさを見た気がした。

そして、そのことで早明戦の本当の姿を復活させてくれたと思った。

試合終了間際、ゴールライン付近での攻防は、かつての早明戦の定番だった。

ただかつては、FWで執拗に攻める明治に対して必死に守る早稲田というパターン。

しかし今年は、攻める早稲田に守る明治……

 

攻守は入れ変わったが、両チームの懸命な姿勢は変わっていなかった。

かつて国立を満員にした早明戦、その人気を、いや大学ラグビーそのものの人気を失墜させたのは明治だ。

明治が弱くなったからだ。

一年の終わりの早明対決を楽しみにしてきたファンを裏切ってきたのも明治だ。

早稲田の関係者たちから、明治が強くならないとダメだと言われながらも、明治は復活の道を見つけられないでいた。

ようやく前監督(吉田義人)によって陽は差しはじめ、そして、現監督(丹羽政彦)が現実のものにしていく。

40年あまり、最初は国立だったが、その後はほとんどテレビ観戦で応援し続けてきた早明戦。

説明のつかない切迫感と、歓喜と落胆を繰り返す80分間。

勝てば心の底から喜び、負ければ虚しさのどん底へと落とされる。

特に負けた時には、まるで自分の価値観が握りつぶされたような、そんな絶望に似た苦痛が迫ってきた。

そんなことを毎年繰り返してきたのだ。

テレビの前でも、国立のスタンドにいるように立ち上がり、大声を出して突進する選手に檄を飛ばす。

互いのチームカラーがはっきりと違っているからこそ、互いが自分たちのスタイルで勝つことにこだわる姿が美しかった。

これから正月に向けて、明治ラグビーは新しい時代へのチャレンジャーにならなくてはならない。

これまで代表に多くのOB選手の名を連ねてきたように、もう一度明治ラグビーの魂に火をつけてほしい。

これまでの空白の時間を埋めてくれなくてもいい。

これからの時間を楽しませてくれればいい。

今だから言う、はっきり言ってW杯は勝っても負けてもどうでもよかった。

日本のラグビーが世界に羽ばたいても、早明戦がかつてのように白熱し、強いて自分の都合で言えば、明治が早稲田に勝てばそれでよかった。

大学ラグビーらしい必死さ、そして爽快感を久々に味わった12月6日。

来年の早明戦を、かつてのように優勝を争う一戦にしてほしい。

心からそう思っている……

キゴ山で雪に遊ばれた日

雪平線

二月最後の日は土曜日で、それまでの忙(せわ)しなさと、それからの間違いなく訪れる慌ただしさに挟まれた、完全休みの一日だった。

二月の終わりという響きも何となくいい感じで、加えて天気もそれなりによさそうな雰囲気になっており、数日前から自然(特に雪)の中へと出かけようと決めていた。

しかし、そう思いつつも、二三日前になると、よく予定が埋まっていく。

しかも、一日のうちの二、三時間という埋まり方もあったりして油断はできない。

その日も前日の昼間はおとなしくしていて、夜家に戻ってからも静かに酒を飲んで過ごしていた。

そして、当日の朝。まだ電話、メールはない。

家人がめずらしく出勤の日となっていて、しかも半ドンの後、お友達とランチに行く予定だと言う。

家人も最近の亭主のお疲れ度というか、楽しみの不足度について理解を示していたので、ここは大好きな雪の山なんぞへ行って来た方が、心身共によいのよと言ってくれた。

ところがである……

家人が出かけた後、速やかに準備に入ったところで、スキーのストックがいつもの位置にないことに気が付く。

二畳半の自分の部屋に、整然とカッ詰められている山の道具のうち、テレマークスキー用の皮のブーツに差し込んである(はずの)ストックがないのだ。

物置なども念のために見てみるがない。

そして、思い出した。

昨年の夏、薬師岳でのトレーニング不足による苦闘の際に、ストックに頼りすぎて、繋ぎ目などを壊していたのだ。

その壊したストックはどこへやったのか……?

とにかく、これでテレマークは出来ないことが分かった。

こうなったら、登りに行くだけだと腹を括る。

行き先も曖昧なままクルマを走らせた……

***************************

時計は9時半をまわっている。

一番行きたいのは立山山麓だが、今からではきつい。

しかもスキーが出来ないのであれば意味もなく、近くの低山を登り歩いて来るくらいでいいだろう。

というわけで、医王山方面へととりあえずクルマを走らせることにした。

医王山の手前に位置するキゴ山には金沢市営のスキー場がある。

その駐車場にクルマを置いて、キゴ山のてっぺんまで登って来ようと決めた。

新雪の木々雪の中の小屋

裸木には、うっすらと雪が載っている。

昨夜は冷え込んだから、いくらかの降雪があったみたいで、雪面の白さも強烈だ。

一応、軽い雪中行軍の出で立ちになって歩き始めた。

そして、除雪された道から奥へと進もうとしていたが、すぐにいつものクセでいきなり雪の中へ。

足跡

たしかに近道ではあるが、スキーもカンジキも持っていないのはかなり辛い。

予想していた以上に積雪も多く、しかもアップダウンもあったりして思いのほか苦戦を強いられる。

時間的には無意味に近かったが、一応、距離的には大幅にショートカットして、再び登りの除雪された道に出た。

このすぐ上で、キゴ山スキー場の最上部から滑り降りてくる林道コースと出合う。

このコースは市民スキー場らしく、超ファミリー向けで超ゆったりしているのが特徴だ。

登り口トレイル

案内板があり、その横にカンジキによる踏み跡を見つけた。

コースに沿って歩かずに、直登している二人組のカンジキ跡だ。

シメたと思って、その踏み跡をトレースさせていただくことに。

しかし、最初の傾斜の緩いところは良かったが、徐々に傾斜がきつくなってくると、足の取られ方が予想以上に激しくなっていく。

一歩ごとに深く、膝どころか太腿あたりまで潜り込んでしまうと、身動きもとれなくなる始末だ。

まだ先は長そうだと覚悟を決めて行く。

ようやく一旦コースに飛び出して、一息つく。

上から幼い女の子を従えてのママさんスキーヤーが降りてきた。

女の子が奇声を上げたりすると、ガマンよガマンよと振り返りもせずに叫ぶ。

こっちの姿に驚いたのか、女の子が転んだ。

こういう場合、手を差し伸べてあげるべきかどうか迷うが、厳しい母親に叱られそうなのでやめにした。

その代り、ニコリと笑って頑張れと小声で女の子に伝える。

女の子は倒れたまま戸惑っていた……

コースはほんのわずかに登ったところで右に大きくカーブしていて、その真正面にまた直登の踏み跡が見えた。

そこへ着くまで迷っていたが、そこまで来てしまうと、足が自然と直登の方へと動き出す。

しかし、そこからの直登はさっきよりも一段ときつくなり、途中で引き返しコースを歩こうかと思った。

だが、なかなかそう簡単に自分自身が許してくれない。

芽吹き1大木と雪

まるで人生そのものだ……などと、半分諦めながら直登を繰り返す。

膝辺りまで潜ってしまうくらいはほとんど平気だが、それ以上に足が入り込んでしまうと、それから抜け出すたびに片方の足が深く潜り込む。

木の幹や枝などが手元にあればまだいいが、何もない場所では拳を雪面に突っ込んでチカラを入れる。

なぜ、カンジキを持って来ないのだと、山に理解のある人は必ず言うだろうなあと思いながら、情けない登りが続いた。

そんなところへ、上の方から話し声が聞こえてきた。

姿はまだ見えないが、ひょっとするとこの踏み跡の持ち主たちかも知れない。

そう思いながら、悪戦苦闘しているうちに、上品そうな熟年夫婦が下りて来た。

カンジキが心地よく雪面をとらえて快適に下山中といった雰囲気だ。

互いの距離が10mを切った辺りになって、トレースさせてもらったこと、その踏み跡を穴だらけにしてしまったことなどを詫びた。

ご夫人の方からは、寛大なお許しの言葉をいただき、ご主人の方からは、「ゴボッって、大変でしょう」と、嬉しい励ましの言葉をいただいた。

特にご主人からの「ゴボる」という言葉にはホッとした。

自分自身の状況を、「カンジキがないと、やはりゴボりますねえ」と伝えたかったのだが、その地元言葉が通じるかと懸念していたのだ。

安心して「こんなにゴボるとは、甘くみてました…」と答える。

気持ちを入れ直して、最後の短い急登へ。

雪原と青空医王山

久しぶりにたどり着いたキゴ山のてっぺんは、予想以上に晴れ渡り、金沢市内も日本海も、医王山の山並みも美しく見渡せた。

雪に半分ほど埋もれた展望台に登って、コンビニおにぎり三個で昼飯。

そしてコーヒーと、デザートは小さなドーナツと柿の種一袋。

山で食う柿の種は、なぜかコーヒーにもよく合う。

靴で踏み固めた雪上ベンチは快適だったが、長く座っているとケツが冷たくなる。

“凍ケツ(結)”状態になる前に立ちあがり、雪が凍って滑りそうな階段をゆっくりと下った。

ウサギ足跡縦断ウサギ足跡横断

あとは、台地上になっている雪野原を思い切り歩きまわるだけ。

何年か前に来た時は、テレマークスキーを履いてここまで登り、そのまま奥まで入って、そこで雪上ランチを作って食べた。

そのあたりまで行ってみようと、とりあえず緩やかな雪原を下ることにする。

しばらくして、下りは上りに変わり、ここでも雪は深く、ミニラッセル状態だ。

てっぺんの足跡遠いスキーヤーと青空

近くで自分を見た人は、こんなオッサンだったのかと驚くに違いないと思う。

それほどまでに気持ちははしゃいでいる。

しゃがみ込んでカメラを構えたり、大きく背伸びしたり、本人はとにかく楽しくて仕方がない。

まだまだ楽しもうと足を踏み込んでいった矢先、遠くから独りの山スキーオトコが近付いてくるのが見えた。

蛇の道は蛇。一目でそれと分かる同類の匂いがプンプンしてくる。

しかし、彼はこっちを同類と見てくれなかったみたいだ。

距離はあるが、こっちの視線を無視してすれ違って行く。

それもそのはず、こんな雪原をカンジキもスキーも履かずに彷徨っているなど正気の沙汰ではない。

彼のツンと吊り上ったようなクロカンスキーの先端が凛々しく見えた。

まっさらな雪原に残した自分のズタズタなトレイルを振り返りながら、彼の雄々しい姿も見つめた。

縄張り争いに負けた狼のような気分だ。

青空とクロスカントリークロスカントリーの男

休み明け、ストックを買いに行くことをその場で決めた。

*****************************

下山はまた樹林帯に入っていった。

コースをのんびり下ればいいのにと、もう一人の自分が言っているのだが、もう一人の自分は、いやもう一度難コースへ行けと言っていたのだ。

ニンゲン、ふたつの道が目の前にあったら、より険しい方の道を行けと誰か偉い方が言っていたのを思い出した。

そんな青年向けの言葉を真に受けなくても…と、またもう一人の自分が言っていたが、もう引き返すこともできなかった。

太陽と雪平原

下山の途中、荒い息を弾ませながら、湯涌ゲストハウス自炊部へ電話を入れると、番頭・Aが洗い物中ですとのこと。

彼の淹れてくれる美味いコーヒーが飲みたくて、雪を踏む足にチカラを込めたのだが、時間短縮には全く至らなかった………

雪の上の影

 

勝沼~ブドウとワインと友のこと

勝沼ワイン

今から35年ほど前の話である。

大学時代の親友Mの実家のある山梨県勝沼町(現甲州市)で、貴重な体験をした。

彼の実家には現役時代にも何度もお邪魔していたが、卒業してからも毎年夏になると出かけていた。

勝沼と言えば、ブドウである。

と言っても、学生時代に彼と会わなかったら、そんな知識も希薄なものだっただろう。

初めて中央線の勝沼駅に降り立った時の驚きは今でも忘れない。

眼下に広がった勝沼の町は、ブドウ畑で覆われていた。

ブドウ畑の棚の隙間に家々の屋根が見えているといった感じだった。

南アルプスの逞しく美しい姿にも圧倒された。

当たり前だが、彼の家へ行けば必ずブドウ酒が出た。

彼の家もまた、ブドウ栽培の農家であった。

まだワインという呼び方も定番ではなかったと思う。

何度目かの訪問の時、そのブドウ酒一升瓶6本入の木箱を予約し、石川の自分の実家へ送ったこともある。

市場では一本が千円あまりで、飲みやすいブドウ酒だった。実家でも好評で、それから何度か送っていた。

大学を卒業してから、毎年夏には信州から八ヶ岳山麓へと出かけるようになった。

そして、その際にはいつもMの家に寄り、同行もよくしていた。

その最初か二回目あたりだったと思う。勝沼に着いた日にMから、夜、地元の愛好家たちで結成されている「ワインの会?」に一緒に出ないかと誘われた。

彼の家に独りでいるわけにはいかない。面倒だが行くことにした。

勝沼町内のペンションが会場だった。そのペンションには数年後に泊まったこともある。

昼間は暑さの厳しい甲府盆地だが、夜になると涼しい風が吹き始め、グッと過ごしやすくなる。その夜もそんな感じだった。

ペンション一階のレストランには、大きなテーブルに向かう十人ほどのワイン愛好家たちがいた。

年齢はばらばら、知的な匂いが漂う若い女性も独りだけだがいた。

天井では優雅にプロペラがまわっている。

今なら普通であろうが、その頃にワインの会と聞かされると緊張度は異常に高まるのだ。

嫌な予感どおり、ボクはテーブルの真ん中あたりに座らされ、金沢からのスペシャルゲストのような紹介をされた。

たしかにゲストではあっただろうが、その後の情けない行動からすれば、実にみじめな数時間のスタートであった。

テーブルの真ん中に、ハムや新鮮な野菜などが並べられていた。

そして、会の代表らしき男性が話し始める。これから十種類ほどのワインを飲み、ランク付けをする……というのだ。

何? ボクはたしか左横にいたMの顔を見た。彼は笑いながら、まあまあといった顔をしている。

困った。お遊びでやっていい会なのかどうなのかと、Mに問おうとしたが、彼は相変わらず楽しそうに笑っている。

ワインが、いやボクの認識ではブドウ酒がどんどんグラスに注がれて運ばれてくる。

グラスの下に番号が書かれたカードが置かれていて、その番号をランク表に記入していくのだ。

何だかよく分からないうちに、ひと通り口に運んだ。そして、ランク表に何とか数字を入れた。

慣れていないせいもあって、どれも酸味が強く感じられた。正直、積極的に飲みたいと思ったものはなかった。

その中で、なんとか口に合ったブドウ酒がひとつだけあった。

全く口に合わないブドウ酒も明解に自覚できた。

先に後者(つまり最下位)から言うと、恥ずかしながら、それはボルドーの最高級ワインらしかった。

赤のフルボディ、うま味など全く感じ取れなかった。

そして、前者、つまり口に合った唯一のブドウ酒が地元勝沼産。

例の一升瓶で販売されているブドウ酒だったのである。

正直言って、赤のフルボディは“まずい”とさえ感じた。

咽喉を通すのもかなりの労力と勇気を必要とした(少なくとも当時の自分には)。

さすがに、地元の人たちはボクが最下位にしたワインを一番にしていた。

見た目だけで判別がつくくらいの人たちばかりだった。

紅一点、大学で日本文学を専攻していたという女性も、柔らかな物腰のイメージを吹き飛ばすほどの酒豪、いやワイン通であった。

その利き酒会的なイベントの終わりに、代表の方がやさしく言った。

たぶん、今日のゲストであるボクの感覚(無知か未知かの)が、今の日本人の平均的なワイン感覚なのであろうと。

救われたのか、いやその逆なのかと一瞬戸惑いながら、グラスに残ったままの高級赤ワインを見た。

Mが横で笑っていた。

甲州シュールリーアジロン

話は一気にその数年後に飛ぶ。

クリスマス・イブの夜、金沢の行きつけになっていたバーで、ワイン・パーティをやることにした。

その店はマスターの高齢化でとっくに閉じられているが、初めてシングルモルトの美味さを教えてもらった店で、その後ボクにとっては貴重な場所でもあった。

パーティのことはマスターに一任した。

すると、テーブルの真ん中にワインの入った小さな樽が置かれるという、なかなかオシャレな趣向になっていて、マスターに感謝した。

参加者である会社の同僚たちも喜んでいたが、ワインなどほとんど飲む機会はない。正直企画した者としては大いに不安でもあったのだ。

樽はお店用の簡易な水道栓が付いたもので、中の小さなタンクが取り外し可能になっている。

空っぽになったら、マスターがそのタンクを裏へと持って行きワインを補充するのだ。

小さめのグラスにワインが注がれると、皆珍しそうにその“ 液体 を眺めている。

そして、乾杯。全員が美味いとか、飲みやすいとか、とにかく初めてのワインに驚きの声を上げた。

ボクはちょっと誇らしげだった。皆のグラスにどんどんワインが注がれていく。

マスターの作ってくれる料理との相性もいいみたいだ。

そして、ワイン補充の頻度も高くなってきた。

手の回らないマスターに言われて、ボクが裏へと入りそのタンクを取りに行くことになる。

そして、カウンターを抜けて裏へと入った時、そこにあったワイン、いやブドウ酒を見て驚いた。

あの懐かしい勝沼の一升瓶がそこにあった。

しかも、我が家に送ったこともある木箱に入っていた。

その時、思った。

あの夏の日の、勝沼のペンションでの感覚は決して間違いではなかったのだな……と。

たしかに日本においても、昔から高級ワインを飲んでいる人たちはいただろうが、平たく言えば、普通の日本人にはこのブドウ酒が“最も馴染めるワイン”の味なのかも知れない……と。

そして、あの会で代表の方が最後に言ってくれた言葉をあらためて思い出していた………。

それから後、いつの間にか一気にワインブームが来た。

誰もがワイン愛好家になっていた。

昔の勝沼の想い出話をしても、誰も信じてくれないような時代になった。

それどころか、半分バカにされたりもする始末だ。

若い女性たちが、ワイン評論家になる時代なのだ。

シトラス甲州シャトーメルシャンの甲州

今勝沼のワインは、「甲州」というブランドでヨーロッパでも非常に高い評価を得ている。

Mは大学卒業後、地元公務員になり、20代の頃から勝沼のワインを普及するための研究に力を注いできた。

ヨーロッパやアメリカ西海岸などの産地に渡り、そこでの成果を地元の農家やワイナリーの人たちとの研究材料にもしていた。

若かった彼が記したそれらのレポートには、単にブドウ栽培やワインづくりの話ばかりではなく、ブドウ畑が作り出す美しい自然景観の話などが活き活きと綴られている。

ついでに書くと、ボクがかつて出していた『ヒトビト』という雑誌にも、彼は創刊から協力してくれ、勝沼からの季節感あふれるレポートを送ってくれていた。

その文章も、今風に言えば、ふるさと愛に満ちた温かく素晴らしい内容のものだった。

実際、勝沼におけるブドウの存在は完全に地域の文化だ。

今のワインブームの中では忘れられがちな、土地(地域)の匂いのようなものが伝わってくる。

それは、8世紀とか12世紀とかいう発祥説が物語る、勝沼のブドウの歴史そのものでもあるからだ。

勝沼グラス

そして、明治の初め、ワインづくりのためにフランスへ若者二人を送り込んだという剛健な気質にも、それは示されている。

その気候風土に合った文化を継承するワイナリーオーナーたちも見識が高い。

今、テレビをとおして国産ウイスキーの物語が人気を博しているが、ブドウづくりとワインづくりの歴史にも、多くの物語があったに違いない。

もうそろそろ5年前のことになるが、ボクは金沢の茶屋で甲州ワインを飲む会を催した。

そのために勝沼にMを訪ね、何軒かのワイナリーを巡ったが、あらためて感じ入ったのは、それぞれのワイナリーが実に個性的(平凡かつ軽薄な表現で恥ずかしいが)であったことだ。

そして、とても日本的であった?ということにも驚かされた。

明治の農村にあった「和と洋」。

……というとまた違っているかもしれないが、その独特の空気感は初めて味わうものだったのだ。

それもまた、ブドウやワインと言う日本国内では特殊な性格をもつ産物のせいとも言えた。

会は一応盛況だった。勝沼で買い込んだ数種類の甲州ワインを順番に出した。

ボクはMからもらった資料をもとに、勝沼の土地柄などの話を交えながら会をナビゲートした。

すでに世の中ワイン通だらけで、今さら国産ワインなどと言う人も多くいたが、一口飲んだだけで皆その口当たりの良さに驚いていた。

ただ、その時失敗したと思ったのは、茶屋という場を意識しすぎて、妙な高級感が出てしまったことだ。

口当たりが良くて、食べ物も進み、おしゃべりも弾むという、そんな生活感のあるワインの場にするべきだった。

それが自分が知っている勝沼らしい魅力の発信に繋がっただろうに…と、ずっと後悔している。

日本酒ももちろんだが、国産ワインにもその土地の個性がある。

こと国産ワインについて言えば、勝沼ほどそれが顕著な場所はないだろうと思う。

ブドウ畑が作り出すのどかな風景は、その第一の要素だ。

だから、本当のことを言えば、やはり甲州ワインは勝沼の地で楽しむのが一番いいと思う。

あのブドウ畑が広がる風景や、ワイナリーの新旧の香りが漂う佇まいなどを目にすると、ワインの味が確実に大きく広がっていくのは間違いない。

最近は我が家でも外国産のワインが普通になっているが、やはり甲州ワイン、いや勝沼のワインは別モノだ。

ボクにとっては、たくさんの大事なものが詰まっている、特別なモノであることは間違いない。

ここまで書いてきたら、飲みたくなってきたのだ………

ルバイヤート甲州勝沼の甲州

※使った写真は、たまたま最近飲んだ銘柄のもの。

勝沼ボトル

 

 

 

ある古い洋風の家

袋町の洋館だ

子供の頃、この家に友だちがいて、中で遊んどったことがあるよ……

近所にお住まいの、七十才を過ぎたある方がそう言った。

板壁の塗装は褪色し、木肌も傷み、窓の飾りもいくつか朽ち落ちている。

何よりも傾きが気になると、その方は屋根を見上げていた。

ある著名な作家さんも、偶然この家を見つけて、何とか残して活かせればいいと言ったそうだ。

かつて金沢の街並みを取材する仕事で、このような洋風の家がいくつも残っていることを知った。

しかし、歴史と絡んだテーマが主であったから、あまり大きく取り上げられなかった。

この家もそのひとつだ。

あの時よりも、はるかに傷みはひどくなっていた。

今から思えば、町家もいいが、こんな洋風の家も捨てがたい。

私的感覚で言えば、無理して畳の上でジャズをやっているより、フローリングの床でやってくれる方がいいように、このような建物には新たなそれらしい使い道を見つけてやるべきなのだろう。

いろいろと課題もあるだろうが、まずは柔軟に、普通に、当たり前に思い描くのがいいのかもしれない。

ボクもその方も、かなり大雑把な方なのでこれ以上は言わない。

隣りにある、江戸時代の建物を補強したという古風で小さな店の二階で、お昼ご飯をいただいた後、一部に陽の当たった洋風の家の前で、その方と長く立ち話をした。

話はこの建物から始まって、京都の町家の方向へと流れた。

そして、もう一度この家の話に戻り、ではまた…ということになった。

狭い路地に、秋の風が一筋、二筋と吹いていたのだ………

袋町の洋館

 

 

 

アジフライと、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」と

マイルス

 店名のわりにはそれほど入り口の戸が大きくないなあと思うある店で、夏メニューだという“アジフライ定食”を食べた。

 実は中学二年の夏頃から、にわかにアジフライ好きになり今日に至っている。

 今は亡き母が、突然アジフライを作るようになった。

 もともとが漁師の家だから、アジなどは簡単に手に入ったのかもしれないが、よく大皿に山のように盛られた小ぶりのアジフライが出てきたものである。

 中学三年の時、野球の試合中にケガをし二ヶ月ほど入院したことがあるが、その時、退院間近になって食欲も出てきた頃の母の差し入れはアジフライだった。

 それも大量に持ってきて、同室のご近所さんたちに配ったりしていた。

 大人になってからも、漁港のある町などで食堂に入ったりすると、アジフライ定食の存在が気になった。

 最近では金沢市内にある小さな大衆食堂と、ちょっと足を伸ばし、県境越えをしたあたりにある某所のアジフライ定食が特に好きだ。

 それで、店名のわりには入り口の戸がそれほど大きくないある店のアジフライなのだが、これもまたそれなりにいい感じだなと思った。おしゃれなアジフライだった。

 ソースがユニークで、洋風と和風の二種類が楽しめるようになっている。

 最初は洋風で食べ始めたが、途中から和風に切り替えると、その新鮮な食感に納得した。夏メニューの意味が理解できた。

 早い話が見た目は大根おろしなのだ。が、味は大根なます。つまり醤油ではなく酢が味の決め手になっている感じだ。

 それをアジフライの上にふわりと乗せて、オオ~ッと、といった具合に口に運ぶ。

 この場合のオオ~ッとは、こぼしちゃいけないという意味で出てくる感じである。

 ただひとつ残念だったことがあった。それは開きのフライでなかったことだ。

 やはりアジフライは、大らかに開かれたシンメトリー的形状のもので、箸にあのふっくら感が伝わってくるものが自分にとっては基本になっている。

 というわけで、待つこと数分で夏のアジフライ定食が届けられた。

 開きでないことでの違和感は拭い去れないが、二種類のソースに興味が移る。

 健康のためにと最近家人からも言われているので、まず“野菜の先食い”からだ。

 そして、ひと切れ目のアジフライを先程の要領で…… 味には十分満足。

 そして、食べ終えた時のことだ。

 店内に流れるBGMが聴覚をじわりと刺激した。一応味覚の後でよかったとも言える。

 やや聴きづらいながらも、懐かしきそのサウンドは鼓膜を震わせカンペキに脳まで伝わってくる。

 マイルスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」だ。

 最近はどこでもジャズブームで、ジャズを流さないと世間体が悪いのだろうか。

 それはいいとして、あのミュートソロを聴覚で意識しながら、一方で大根なますを乗せたアジフライを、味覚の方でエンジョイする。これはなかなかむずかしい。

 しかも、ほとんど覚えてしまっているメロディラインだから、どんどん先走って脳ミソがソロでハミングしていく。

 気が付くと、アジフライは知らぬ間に(?)二切れ減っていた。

 気を取り直して、最後の一切れに集中したが、やはりうまくいっていない。

 それに、あのクールで研ぎ澄まされたマイルスのミュートソロが終わって、豪放なコルトレーンのテナーに移るあたりで、またしても脳が活性化した。

 そう言えば、マイルスのぐっと抑えたソロのあと、あのアンサンブルはないわナア~と、かつて周辺の偏屈ジャズ通たちは語っていたのだ。そのことが俄かに蘇ってくる。

 マイルスからコルトレーンへのソロの繋ぎ。曲はモンクの名作「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」。

 レッド・ガーランドのピアノがシンプルに響いたあと、ここであのチャッ、チャッ、チャー、チャッ、チャッはなア~なのだ。

 それほどまでに、想定内の、さらにその中心に近いあたりの平凡な展開で、時間がなかったのか、あまり考慮のあとを感じさせない編曲であった……

 そのあたりのところ、もしレコードやCDのない方は、香林坊・ヨークや、尾山町・穆然、柿木畠・もっきりや、さらに湯涌ゲストハウス・自炊部あたりで確かめてもらえればいい。

 ただ、モダンジャズが誕生して15年ほど、これからジャズが一気に音楽性を高めていく時代の歴史的転換期を示す演奏と知れば、それも納得できる。

 演奏は聞けるが、湯涌ゲストハウス・自炊部はもちろん、その他の店にもアジフライがないことは了解しておこう……

 話は戻る。コルトレーンのソロが始まると少し解放感に浸れて、気分的にも肉体的にも楽になったような気がしてきた。

 しかし、せっかくのアジフライが十分に堪能できないまま胃の中へと行ってしまったことで、やや消化不良の感。

 この場合、もしアジフライが開き状態で来ていたら、様子は変わったかも知れないなと振り返る。

 明確にアジフライを意識させ、箸でコロモと身を裂きながらという本来の食べ方の習性が活かされていれば、もう少し集中できたに違いないのだ。

 それに開きの場合には、骨に注意するなどのことも求められるし、集中力はさらに増す。

 気が付くと、またマイルスのソロに戻って、そして静かにゆっくりと演奏は消えていった。

 残されたわずかな味噌汁とお新香と、それにひと掻きほどのご飯をランダムにいただいて、夏のアジフライ定食は終了した。

 ただ、出だしに感じたあの爽やかな夏の風味は忘れていなかった。

 あとから近くに座ったご婦人たちの一人も、夏のアジフライ定食を注文している。

 しっかりと気をそらさないように食べなくちゃダメですよと、余計なお世話的に思う。

 自分ももう一回来てみようと思った。

 レジを済ませて外へと出た。体中を包み込む夏の熱気が凄まじい。

 もう、店の戸の大きさのことは忘れていた………

 

 

地下40mにあった夏の夢・JR筒石駅

駅名サイン

 上越の海岸線、国道八号線を時速五十キロほどで走っている。

 砂浜にはところどころに海水浴場があり、駐車場へ誘導しようとするお兄さんたちと目を合わさないようにしながらの運転だ。

 朝の海は穏やかながら、気温は三十五度を超える予想。まだ九時前だが、その予想をフロントガラスに広がる青い空と日差しが裏付けている。

 しばらく快適なドライブが続いた。そして、そろそろ左へ進路を変える頃に。

 目的地は、JRの筒石(つついし)という駅。

 そこから汽車に乗って、旅に出ようというのではない。

 地下四十メートルにあるという、その駅のホームを見てみたかった。数年前から考えていたことだ。

 そのホームの存在は新潟への出張時、特急「北越」の車窓からかすかに確認していた。同じ特急でも、上越新幹線と繋がる「はくたか」では速すぎて、ほとんど分からない。

 どちらにせよ、そのホームの存在を知り、さらにそのホームの駅舎が急峻な崖道を登ったところにあって、改札から長いトンネルの階段を下りてホームに出るということを知ってからは、いつか必ず出かけなくてはならないなと考えてきた。

 そして、チャンスは意外にも身近な月一予定の歪みから生まれた。

 クルマでの新潟出張の帰路、翌日富山県某町のイベントに立ち寄ることにしていたが、その付近にホテルがなく手前の上越市にホテルをとった。

 あとで上越市ではなく、糸魚川市にとった方が得策だったと気付いたが仕方ない。

 夜の八時半頃、上越のホテルに着き、部屋の弾力のないベッドに腰を下ろしたところで急に閃いた。

 明日少し早く出れば、あの筒石の駅に立ち寄ることができるかも……

 パソコンを開いてすぐに間違いないことを確認すると、星ひとつ半だったホテルが三ツ半くらいにまでに変わる………

 翌朝は快晴。分厚いカーテンを透して日差しの熱が伝わってきた。

 窓が東側に向いているのは間違いなく、カーテンをちょっとだけ開けてみて、思わずウッと唸っていた。

 ナビが言うように「筒石駅」の表示が目に入ってくる。

 えっと思うほどの急な進路変更。少なくともそう感じた。さらに入り込んだところは、洗濯ものだらけの家並みが続く狭い道だった。

 しばらくゆっくり走ったところで、漁港らしき雰囲気となり、道は左へと曲がる。そして、クルマを止めた。

 ナビはこのまま真っ直ぐ行けと言っている。しかし、どう見てもこのまま真っ直ぐ行っていいのか戸惑うのが普通だろう。急な斜面に家々が並び、その隙間を縫うように狭い道が上に向かって一気に延びている。

 クルマを下りてみると、上から電動車イスに乗ったおばあさんが下りて来た。

 筒石駅へはこの道を登ればいいんですかと聞いてみると、普通にそうですよと答える。

 何を聞くのかと思ったら、なあんだ、そうなこと? といった顔だ。

 これ上がると小学校があって、そこからどうのこうのとかで、すぐだと言う。

 皆さんここ登って行くんですか?と、執拗にもう一回聞くと、そうそうと、こちらの心配を察したかのように笑って答えてくれた。

 坂道は短いが、急で狭かった。が、その急で狭い坂を過ぎると、地元小学校の脇を通り、一気に山の中の道といった雰囲気になる。このあたりの、海岸から一気に突き上がった地形を肌で感じとることができる。

 しばらく進むと、左手に筒石駅を示す看板があった。

駅舎

 下りて行くと、すでに写真で見ていたが、駅舎の味気ない建ち方に改めて消沈。しかし、ここまで来るまでの焦燥と期待感を思えば、そんなことに落胆などしてはいられない。

 クルマを止め外に出ると、一気に真夏の熱気に身体中が包み込まれた。

 しかし、その感触は懐かしい何かとの再会を思わせ、吸い込んだ空気の匂いもそのことを煽るものだった。

 まずは駅舎の写真をと道に戻ってみる。深い緑の中の小さな、そして平凡な駅舎がぼんやりと夏を思わせる。

 そうだ、さっき懐かしく感じたのは、夏の空気のことだったのかと思う。

 駅舎に入ると、中は小さな待合室といった感じだ。若者カップルが一組。電車の待ち時間なのだろうか。女の子の方はかなり疲れ気味で、ベンチに座ってうな垂れていた。

 さっそく入場券を買おうと窓口に立つが、誰もいない。横に回ってみて奥に駅員がいるのを確認して声をかけた。

 そうこうしているうち、振り返ると待合室にまたもう一組の若者カップルがいた。彼らは地下のホームの方から上がってきたみたいだ。 彼らも少し疲れている。

 入場券と入場証明書も兼ねた絵ハガキをもらい、自分も下のホームへと向かう。

 しばらく歩き、すぐに足が止まった。凄いのだ…… 想像を超える凄さなのだ。

最初の階段

 目が慣れ始めると、撮影道具を背負った青年が独り、階段をゆっくり登って来るのが見えた。こっちはカメラを構えたが、彼を焦らせてはいけないと、ゆっくりでいいよと声をかける。

 さっき待合室で見た若者たちの疲れた様子が、ここで理解できた。彼らもこの階段を登ってきたんだ。

 撮影道具を担いで上がってきた青年はかなりの量の汗を浮かべ、いやあ、ここは凄いですと話しかけてきた。

 実はこの青年との出会いがなかったら、この“探検”はかなり味気ないものになっていたかもしれない。この鉄道マニアの青年が、その後いろいろと教えてくれたおかげで、これからの一時間足らずが、とても素晴らしい時間になったのだ。

 では、行ってきます。そう言って青年と離れ、ボクは階段を下りた。

 階段は決して高くはなく、むしろ登る人のためにか低く造られていた。

 それにしても深い。しかも、真っ直ぐに下って行くトンネル壁面のラインが、より一層落ちてゆくイメージをデフォルメする。

 誰ひとりすれ違うこともなく、登ってきた人を見送った自分としては、何となく淋しい気持ちにもなるが、その分楽しみも増えていく。

 トンネルに向かって、トンネルを下る。地下鉄の駅に向かって階段を下るのとは、完全に何かが違っている。

 下り切ると、左にまたトンネルが延びる。「富山・金沢方面」と「直江津方面」の乗り場が案内されている。このふたつの乗り場(ホーム)は、向かい合って造られていない。何か理由があるのだろう。

のりば案内ガスの通路

 ガスが通路、いやトンネルの奥でうごめいている。まるで映画の世界だなと、平凡な感慨に耽った。

 遠い方から先に行って来ようと、富山・金沢方面のホームへと向かった。

 ホームへ出るには、また一段と深い急な階段を下りなければならない。一度下り切ったと思ったら、さらにまた左に折れてまた下る。

 そこにはイスが並び、出口戸はしっかりと閉じられていた。電車はここで待つのだ。

ホームへの階段

 少し躊躇しながらも、すぐに戸を開けてみる。

 そこは非日常的で、異次元的で、何もかもすべて失われたような、多くは閉鎖的だが、ある意味開放的で、そして、ただ素朴に暗くて静かな……そんな空間だった。不思議な空気感が漂っていた。

ホーム

 稲見一良の小説に出て来るように、廃線になった線路の上を走ってくる幻の蒸気機関車が、今にも飛び出して来そうな気配が漂う。

 ホームは狭い。黄色い線の内側などと言っていたら、すぐに壁にぶつかってしまいそうな感じだ。

 端から端まで歩いてまた椅子の並んだ空間に戻り、今度は急な階段を登り返した。

 地上が暑かった分、中は快適過ぎるくらいの気温となっている。冬は逆に暖かいのだろうと想像する。

 このホームを利用する多くは地元の生徒たちだと聞いたが、彼らの日常はなんとドラマチックなんだろうと勝手に思ったりしている。

 次は直江津方面のホームだ。階段を登り、ほぼ平坦なトンネル通路を戻って行くと、ホームへ下る階段の手前に、さっきの鉄道マニア青年が立っていた。

 もうすぐ、「北越」がホームを通過しますと言う。その言葉になぜか一瞬動揺し、この絶好の機会を見逃すわけにはいかないと思う。

 ボクと青年はホームに出た。若い女性駅員がいて、思わず、コンチワと挨拶。

 ちなみに、筒石駅には大きさの割に多くの駅員さんが働いている。事情は十分理解できる。

 さっきのホームとほとんど区別がつかない風景が眼前に広がっていた。いや左右に延びていたと言う方が正しい。

 「北越」は反対側の線路を通過すると青年が教えてくれた。そして、青年は三脚を用意し始めた。

 ボクは彼から二十メートルほど離れた場所で、カメラをテストする。鼓動が少し小刻みになったのが分かる。久々の緊張感。青年と何度 も目を合わせたように思うが、実際は暗くてよく見えていない。

 青年があらためてこっちを見た。その時だ。

北越が来た北越通過

 風が、いや空気の波のようなものがトンネルを通して流れ込んでくるのを、しっかりと全身で感じた。いや、感じたなどという生易しいものではなかった。大きな空気のうねりに全身が襲われた。恐怖感のようなものが、いや恐怖感そのものが背中を走った。

 次の瞬間、線路を滑りながら近づいてくる大きな物体の音が重なった。ライトが光っている。それだけを見ているとそれほどのスピード 感ではなかったが、目の前を通り過ぎる頃にはかなりの速さで流れ去って行った。

 いい歳をしたオトッつぁんの言うセリフではないが、夢のように「特急北越」は過ぎ去っていったのだ。さらに加えれば、銀河鉄道のようにとも言えた。

 ここは、やはり凄いです。青年が言う。こちらは写真撮影どころではなかった。

 そしてすぐに、今度は「はくたか」が来ますとも言った。さらに、今度はこのホームを通過するから、凄い迫力ですよとも言った。ボクはまた動揺した。

はくたかが来た

 「はくたか」の通過は、これまでの人生の中で片手に入るくらいのド迫力だった。

 「北越」の時を上まわる空気のうねりがあり、大音響があり、そして乗っていた人たちの顔など全く認識できないほどのスピードがあった。

 ただひたすら、身体をホームの壁側に傾け、風圧に耐えていなければならなかった。

 青年が言ったように、それはまさにこの駅だからこそ体験できる冒険だった。さっきの「北越」と比べると、スピードの違いが歴然としていて、「はくたか」の車窓からこのホームが確認しにくいということをあらためて理解した。

 青年に近寄ると、青年はまた、ここは凄いですと言った。

 そして、しばらく興奮を慰め合うと、あと何分後かに、今度は普通列車がここで停車しますよと、とんでもないことを口にしたのだ。

 それはもう至れり尽くせりのプレゼントだった。これこそ、筒石駅の“おもてなし”だ。

 その電車に乗ろうとする若者たちも下りてきて、にわかにホームはにぎやかになる。といっても、総勢十名足らずなのだが。

 さっきまでの特急と違って、普通列車は落ち着いた素振りでホームに入ってきた。乗客たちの中にはこの不思議な光景に一度下車する人もいた。

普通電車が来た

 若い母親が、周囲を見回している子供たちを促し出口へと向かう。

 旅人らしき中年夫婦が、しきりに感嘆の声を上げている。

 そして、普通列車が去って行くと、ホームはまた静かになった。

 青年が、ではお先に上がりますと、この駅らしい表現で出て行く。

 ボクは最後までホームに留まり、女性駅員さんになぜか礼を言って出口へと向かった。

 このトンネルの名が「頚城トンネル」であるということは、あとから知った。

 JR能生駅と名立駅の間、11,353メートルがすべてトンネルであり、筒石駅は、そのトンネルの中にホームをもつのだ。分かったようで、分かっていないような話だ。

 かつて地滑りによって、急な崖の下に造られていた筒石駅は何度も破壊されたという。

 しかし、1963年3月から1966年9月にかけてのトンネル工事とともにホームが完成。

 トンネルの中にあるホームへと下りるためのトンネルは、工事用に掘られたトンネルを、そのまま使っているとのことだ。

 地上から四十メートル下に造られたホームというより、地下ホームから四十メートル上の地上に造られた駅というのが本来のような気がする。

 後ろ髪を引かれるような思いのまま、最後の長い階段を見上げた。

帰りの上り

 そして、空気が変わったと思った。地上の熱気が流れ落ちてきていた。

 外に出ると、さっきの普通列車で下車した母子を、子供たちの祖母らしき婦人が迎えに来ていた。これから楽しい夏休みなのだろう。海が待っている。

 一緒に下りたソロの若者は、大きなリュックを担ぎ、そのまま徒歩で海沿いの町へと下るみたいだ。

 中年夫婦は、駅員にこの辺りで食事できる場所はないかと尋ねている。駅員が、ここは観光地ではないので…と説明している。

 鉄道マニアの青年はと言うと、すでにその姿は見えなくなっていた。

 まだ午前中だと言うのに、日差しはすでにピークに近く感じた。

 夏だなあと思う。ずっと昔のことだが、いつもこんな夏があったんだと思う。

 何かを思い出させてくれた、夏の、五十数分間の、胸躍る大冒険だったのだ………

水滴

 

新緑がいい

上高地の森

 この齢になって新緑の素晴らしさを語ったりしたら、加齢の仕業のように言われた…と同年代のある人が話していた。

 その人は、齢を食うと季節に敏感になっていくからイヤだねと、ただそれだけの理由で納得していたようだったが、少なくとも自分は違うなと思っていた。

 自然の移り変わりというか、季節の表情がいろいろと変わっていく様子というのは、人それぞれの感性や経験などによって違うのであり、その両方に明確な覚えのある者にとってはそんな単純な理由に納得できるはずがない。

 ボクと新緑との付き合いは、二十代初めの信州上高地から始まった。

 まだマイカー規制が緩かった時代、夏山真っ盛り期の前にはかなりクルマで入れる期間があり、そのチャンスを利用して頻繁に上高地に通った。

 その頻度は自分でも異様に感じるほどで、多い時には一ヶ月に五回ほど出かけていたこともある。

 上高地は四月の後半に一応開かれるが、飛騨方面からだと今と違って安房峠越えという厳しい条件があった。

 だから、少し落ち着く五月の連休明け頃から入り、ウエストン祭の頃から先の目覚め始めた大自然を満喫した。

 頻度に比例して上高地の隅々まで歩くようになり、それから後、上高地を通過点にして山の世界に入っていったのだが、秋の紅葉の時季よりも圧倒的に春から初夏にかけての新緑の時季が好きだった。

 ボクはそれまで、新緑に対する認識(大袈裟だが)というもののを感じたことはなかった。

 しかし、上高地という特別な環境がそうさせたのは間違いなく、梓川の桁外れな清流と穂高の圧倒的な山岳景観などが、新緑という何気ない自然の産物にも魅力を感じさせたのだろう。

田代池 (1)

 上高地での体感以来、ボクにとって新緑はどんな場所においても大事なものになっていく。

 そして、新緑は最もシンプルな季節的シンボルのひとつであって、自然の中でいちばんテンションを高揚させるエキスをもつものだと思うようになった。

 たしかに真っ青な空も入道雲も、晴天の日の雪原なども見ていて元気をくれるが、新緑とはどこかが違った。

 新緑にはこれからまた物事がスタートしていく時の期待感、いやちょっと違うか…、もっとシンプルで、具体性のない何かに対する“楽しみ”を煽るような、そういうものが潜んでいるような気がする。

 そして何よりも美しいし、清々しい。

 田んぼが水田になり、苗が植えられ、その後しばらく鏡のようになって空や山々を映し出す時季、新緑も負けじとその本領を発揮していく。

 風に揺れながら波のように色を変化させたりする様子は、新緑期ならではの目の保養になる。

 ボクにとっては、“シンリョク”という響きも、“新緑”というこの二文字の組み合わせもなかなかにいい感じだ。

 そんなわけで、できれば一年中新緑が続いてくれたらと思うが、それじゃダメなのも分かっていて、とにかく出来るだけ、“今の新緑”を楽しもうと考えるのだ……

緑陰1

緑陰3

92年秋の薬師岳閉山山行

 ※この文章は、『山と渓谷』1993年3月号に掲載された「薬師如来感謝祭 快晴の秋山行」に加筆したものです……

薬師

 北アルプス・薬師岳に初めて出かけたのは、もう10年近く前のことだ。

 恒例になっている夏山開きの登頂会に参加し、雨の中をひたすら歩いた記憶がある。

 翌日の快晴を期待しながら、太郎平小屋での豪勢な夕食と酒に酔っている間に、天気はますます悪化し、結局登頂は断念させられた。そして翌日、そのまま雨の中を下ったのだ。

 それから何年も、薬師岳はボクにとって遠い存在になってしまった。

 薬師岳の頂上に立てなかったことに対する思い残しも、いつの間にか消え失せていた。

 そして、二年前の夏山開山祭に参加するまで、ボクにとっての薬師岳は雨の中の記憶だけが残った山であった。

 それまでも、そう多くの山を登ってきたわけではなかったが、なんとなく山慣れしてきた自分にも自信のようなものが芽生え始めていた。雨の中の登行も、それなりに楽しめるという思いもあったのである。

 しかし、何年ぶりかの薬師は、またしても激しい雨の中の登行を強いてきた。仲直りの握手を求めて差し出した手を、思い切り振り払われたようなそんな仕打ちにも思われた。

 ボクは、ほとんど山は初めてという会社の同僚5人を誘い、彼らに山の素晴らしさを教えてやろうと意気込んでいた。しかし、あまりの厳しい条件に内心不安でいっぱいになっていた。

 ところが、その翌日は、見違えるような青空がボクたちを待っていてくれた。

 残雪を踏みながら、みるみる切れていく白い雲に目をやっていると、はじめに槍の穂先が姿を現した。有頂天になったボクは、パーティのみんなに「見ろ、あれが槍ヶ岳だ」と指さし、正真正銘のほがらか人間へと変身していたのだ。

 ボクの薬師岳に対する思いは、このときをきっかけにして大きく変わった。

 山は晴れてくれさえすれば素晴らしいところという自分勝手さによって、単純に薬師もボクにとっては、好きな山ということになってしまったのだった。

 それから2年後の今年、好きになった山・薬師岳に、また出かけることとなった。

 今度は夏山ではなく、10月の秋深き山行であり、なによりも薬師岳の地元・大山町山岳会が中心となった「薬師岳如来感謝祭」という記念登行会であった。

 夏のはじめに行われる開山祭で、地元・大川寺の住職が頂上に納めた薬師如来を、秋の山小屋閉鎖と同時に大川寺に戻す。その役目を地元の山岳会が担っているのだ。

 開山祭との違いは、何と言っても参加人員の少なさである。当然のことながら山では10月中旬といえば厳しい環境に見舞われる。中途半端な登山者にとっては、思わぬ事故に巻き込まれる危険性もあり、そのあたりは地元山岳会の適切なチェックがされていた。

 ボクは一般参加という立場にあったが、山岳会の会員で会社の大先輩であるTさんに連れられての参加であった。

 出発の二日前、Tさんから防寒具などの確認の電話が入った。一応準備は整っていたのだが、Tさんの入念な確認に、ボクもそれなりの対応をした。

 10月中旬の本格的な山行は何年ぶりかのことであり、かつて涸沢で味わった切ない記憶を蘇らせながら、予備の衣類などに気を配った。

 下界の天気予報では、山行予定の二日間とも雨。

 こうなれば、我慢の登行を強いられるのは覚悟しなければならない。

 ただ、今回の山行に対して、ボクはあまり天候を気にしなかった。それは、漠然としていたが、開山祭と違って少数の、しかも山慣れした人たちとの山行であるという別の意味の緊張感によるものだったのかも知れない。

 出発の朝の空は、二日前の予報に反して快晴だった。

 剣・立山・薬師のシルエットが朝焼けの空にくっきりと浮かび上がり、晴れ上がったにしてはさほど冷え込みも感じられない。絶好の秋山日和となった。

 大山町の役場の前でタバコを吹かしていると、いかにも山慣れした雰囲気の男たちがぽつぽつと集まってくる。山岳会のリーダー的存在であるKさんが、登山口までの車の配分を決めるために忙しく動き回っている。

 ボクとTさんは、大阪からやって来たカメラマン・Mさんのワゴンカーに便乗させてもらうことになった。Mさんは一見スリムで、山とは縁遠い人のように思えたが、途中の車の中での会話で、想像をはるかに超えた山屋さんであることがわかり、意外なことでつい嬉しくなった。

 登山口である折立に着くと、先発隊がすでに出発したあとだった。折立の小屋の前には、Kさんと太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんが立っている。Mさんの都合でちょっと遅くなってしまったボクたちを、ふたりは待っていてくれたのだった。

 「じゃあ、ぼちぼち行こうか……」 Kさんが余裕のある声で言った。枯葉が落ちた樹林帯の登り道は、まさに秋山の静かな雰囲気に満たされていた。

 真夏の草いきれなど忘れさせるような冷気が心地よいくらいに漂い、歩きながら交わされている五十嶋さんとKさんとの素朴な会話も耳に快く届いてくる。

 登り始めてしばらくのところで先発隊に追いつくと、一団はにわかに賑やかになった。山岳会のナンバーワンアタッカーと思われるEさんは、どうやら会のムードメーカー的存在でもあり、十一月にヒマラヤへ行くという健脚ぶりをいかんなく発揮している。Eさんの身のこなしを見ていると、もうほとんど平地との区別がないように感じられ、年齢的にはまだ若いボクを驚かせた。

 森林限界を越えた三角点のすぐ上で休憩をとり、ゆっくりと剣・立山の眺望を楽しむ。なんとなくよそ者的な自分を感じながらタバコを吹かし、会のメンバーの会話を聞いていた。

 五十嶋さんの言った、「今日でこの道歩くの今年18回目だよ……」という言葉が耳に残っていた。

 今回の山行はかなりハードな行程が組まれていた。太郎平小屋に着いて昼食をとった後、すぐに頂上を目指すという計画であって、とにかくその日のうちに薬師如来を小屋まで下ろすことが目標になっていたのだった。

 Tさんは、しんどかったらやめりゃいいさと軽く言ってはいたが、そう言われれば言われたなりに、やはり頂上へと言ってきたいと思ってしまう。休憩のあと、ちょっと出遅れて出発したボクは、やや焦る気持ちとは裏腹にゆっくりと歩くことにした。

 太郎平小屋に着いたのは正午過ぎだった。EさんやKさんはもうかなり前に着いていたらしく、外のテーブルの上には空っぽになったビールの缶が二、三本置かれている。Kさんは時計を見ながら、もう頂上へ向かう段取りをしているようだ。

 慌ただしく昼食をすませると、防寒具一式をリュックから取り出し、着込んだ。

 Kさんを先頭に頂上へと向かう。一旦、キャンプ場のある谷に下り、そこからは一気の急登となる。ボクは、キャンプ場に新しくできたばかりの真新しいトイレに立ち寄ったために、またしても遅れをとることになった。

 ようやく先行の一団に追いつきはしたが、休憩も思うように取れないまま登り続けなければならなかった。

 しばらく行くと、数日前に降り積もった雪の上の登行が待っていた。「肩の小屋」と会の人たちが呼ぶ薬師岳山荘で一息ついたが、さらにまた雪上の直登が待つ。ここはさらに切なかった。

 「往年の馬力はなくなったなあ……」と、Tさんがボクに言う。たしかにTさんがボクの前を歩くなど、これまでなかったことだった。

 やっとの思いで頂上に辿り着くと、Kさんが相変わらずの余裕の顔で迎えてくれた。

 祠の戸が開けられ、薬師如来像を直に見ながら合掌する。何度も山に登っているが、こんな経験は初めてのことだ。

 Tさんが呼ばれた。実はTさんは閉山祭にはなくてはならない存在なのだ。それはTさんが山岳会の中で、唯一お経の読める人だからであり、会では秘かに「権化さん」と呼ばれている。

 その権化さんが詠む般若心経が厳かに響きはじめると、薬師岳山頂付近が急に聖地に化した。読経が進むと、お神酒代わりのブランデーがまわってきた。小さなボトルのキャップ一杯だが、実に美味かった。

 早々に下山に移る。下りに入るとさっきまでのつらさも忘れ、今年から始めたテレマークスキーの真似事に興じた。

 太郎平に着いたのは、雲海が夕陽に染まり始めた頃だった。

 その夜、太郎平小屋は今年最後のにぎわいに沸いた。開山祭とは比べものにならない豪勢な料理が、テーブルを片付け、畳を敷いた食堂に並んでいた。中央には祭壇が作られ、再びTさんがお勤めをしたあと、全員で焼香した。

 にぎやかな語らいの中で、五十嶋さんの満足そうな顔が印象的だった。

 夜が更けても、空は明るく、かすかに薬師岳の稜線が見えていた。

 

今回の京都(4/4) ここでお終いにしよう

大徳寺の境内

 四条まで歩いて地下鉄に乗る。京都駅に戻ると、もう夕暮れ時だった。

 伊勢丹の地下、つまり「デパ地下」でおかずを調達し、コンビニでビールも揃えてホテルへと向かう。

 京都ではめずらしいワイルドなディナーになりそうでワクワクする。家人も心の底から楽しそうだ。

   ホテルのロビーは多国籍宿泊者で、昼来た時以上に混雑状態。持ち込み荷物を極力控えめに抱え、満員のエレベーターに乗り込んだ。

 翌朝は、桂の次女宅へ。そして、次女も連れてまず広隆寺へと向かった。

 例の弥勒菩薩(半跏思惟像)さんに会いたかったのだ。ただ、実際に宝物館に入ってみると、心を奪われたのは弥勒菩薩さんよりも、大きな千手観音さんたちであった。

 ここでも合掌しながら「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟く自分がいた。

 見上げる視線の先に、見下ろす仏様の高貴な目がある。すべてを見透かされているかのようなその目の奥へと、自分の中にある何かが吸い上げられていく力を感じる。じっと見つめていれば、その吸い上げられていく何かが「自分自身の悪」のようなものにも感じられて、しばらくじっと目を離せなくなる。

 特にかなり傷みの激しい巨大な坐像には、ひたすら従順になるしかなかった。

 こういうところに立たされていると、素直に仏の力は偉大なのだと感じる。何を教えられてきたわけでもないのに、その目に見えない説得力に自分を押さえてしまう作用がはたらく。そして、何だか急に自分自身を反省したり、未来を安泰にしたがったりするのである。

 そして、さらに言うならば、日本人にとっての仏様という存在は、世界中のどんな宗教環境においても、最も静かで奥ゆかしいものではないかと勝手に思ったりする。

 見つめるとか、合掌するといった行為の美しさを、我々日本人はもっと大切に受け止めるべきなのかも知れないのだ。

 外は前日に続いて快晴。空が眩しい。

 大徳寺へと向かう。大徳寺は、北区の紫野(むらさきの)という美しい名の付いた町にある。

 このサイトの名前にもなっている『ヒトビト』という雑誌を出していた頃、京都の出版社に勤務する女性ライターが寄稿してくれていた。その彼女が住んでいたのが、この紫野で、大徳寺のすぐ近くだとよく語っていたのを思い出す。

 背がかなり高く、酒もかなり強く、言葉にかなりチカラがあり、今風に言えば、かなりのアナログ派で、自然の成り行きなどを素直に受け入れながら優雅に生きている人だった。

 もう一人、同僚の女性も寄稿してくれていたが、この二人が揃うと実にパワフルであった。二人とも、もうかなりのおばさんのはずだ。

 大徳寺は二度目だ。一度目は、金沢の前田家についての仕事をしていた時。大徳寺の中にある、おまつさんの芳春院を見に来た。ただ、その時は中に入ることもできずに、外観だけを見て帰ったのを覚えている。

 今回は、大徳寺の多くの塔頭が公開されていた。一応目的場所にしていたのが高桐院(こうとういん)という小さな寺。

 細川家の菩提寺であり、ガラシャさんの墓があることで有名らしいが、こちらはそのことをあまり期待していたわけではない。何となくこじんまりとした寺の雰囲気などに浸りたいだけだった。

 しかし、京都の連休、しかも塔頭が公開されているという大徳寺。静かな散歩などは望むべくもなく、ましてや落ち着いて庭を眺めるなどといった贅沢も期待してはいけない。

 それでも広い境内の中の道を歩いて行くと、まず大徳寺という寺の凄さが感じられてきた。広さだ。前に来た時に全く感じなかった不思議さを思いながら、足を進める。ずっと奥に、めざす高桐院があった。

 高桐院はアプローチが美しい。その美しさを一度は見ておきたいと思ってきた。境内の道から少し入ったところで、左に折れながら門をくぐる。すでに見えているが、その奥の竹林が美しく、門をくぐってすぐにまた右に曲がる。距離は全く短い。

 その道がこじんまりとまとめられた、何とも言えない美しさを醸し出している。目で見ているだけの美しさではない、何か体で感じ取るような美しさだ。多くの人が列を作って進んでいく。中には写真を撮るために立ち止まり、列の流れを止める人もいる。せっかく来たのだから、写真ぐらい撮らせてやろうと思う。

 そういう自分もちょっと脇に外れる場所があったので、そこからゆっくりとカメラを構えさせてもらった。人がいない時のイメージが強く、かなりがっかりしているが、贅沢は言えない。

高桐院参道

 中へ入ると、これまた凄い人。昔のこの古い佇まいでは、入場制限でもしないと床が抜けたりはしないのだろうかと余計なお世話に思いがゆく。

 少なくとも、自分の周囲にいる多くの人たちはアジア系だ。京都が、アメリカの旅行雑誌が選んだアジア第一の観光都市であるということを裏付ける光景だ。中国か台湾の観光客たちが、中国の影響を強く受けた日本人の絵画や書を見るというのは、どういう感情なんだろうと、また余計なことを考えた。

 高桐院の庭は質素で、一旦体を庭の方に向け腰を下ろしてしまうと、妙に落ち着いた。

高桐院庭

 灯篭が立つが、ガラシャの墓を模したものだという。本物はさらに奥、庭に下りてすぐのところにある。

 詩仙堂でも感じたが、この小さな佇まいと、それを囲む想像以上に広い庭のバランスがいい。しかも樹木に被われた庭は一望できずに、その奥行き感は歩いてみないと分からない。

 かつてここに住んでいた人たちは、その奥行き感を当然知っていて、隅々にまで神経を注ぎ花々などを楽しんだのだろうと想像する。もちろん、もうすぐ訪れるであろう紅葉のあざやかさも、降り積もる雪がもたらす静寂の中の空気感も楽しんでいたことだろう。

 今はとてもそのような状況ではないが、ひたすらゆっくりと自分を制し、想像力を働かせるしかない。

 次女が空腹を訴え始めるが、何とか宥めて、せっかくだからとあと二つ三つ見て来ようということになった。

 緩やかな斜面に並ぶ塔頭の間の真っ直ぐな長い道を、ゆっくりと歩く。学生時代にこの辺りを歩いたことがあるという次女も、ここがこれほど広かったのかと不思議がっている。

 我々三人は、それから割りとこじんまりとした寺院ばかりを選んで中に入った。そして、そのどこでも美しい庭や質素な佇まいと出会った。

 京都は頑固に思いを整えてくれば、やはりそれなりに楽しみを提供してくれる。今回はこじんまりとした寺にこだわってきた。建仁寺のように単体として大きなところもあったが、お目当ての一品や庭などに的を絞れば、それもまたこだわりであった。

 腹が減った我々は、それから北山の方へとクルマを走らせ、青空の下で京野菜の畑が並ぶ中に建つ、地元健康食材が売り物らしきこじんまりとしたレストランで、ガーリックライスのランチとしたのである………

ガラシャの墓高桐院屋根石の鉢・龍院の庭・龍院の小さな庭

今回の京都(3/4)今日の終いは、建仁寺

建仁寺の瓦

 今日はまだ終わっていない。

 強い日差しを受けながら、詩仙堂・小有門のちょっと上にある駐車場まで戻り、クルマでとりあえずホテルに向かうことにした。クルマの運転から解放されたいのだ。

 当然すぐにでも昼ご飯を食べなくてはならない。全く当てもなく坂道を下っていくと、突然小さな看板が目に入った。いかにも京都らしいメニュー写真。

 “中谷”という歴史のあるお菓子屋さんだった。お菓子屋さんにカフェがあり、昼ご飯セットもある。咄嗟に隣席の家人が、駐車場のあることを確認した。狭い駐車場の三台のうちの一台が空いていた。食事中か買い物中のお客さんを待つタクシーの運転手が、わざわざスペースを空けてくれる。京都の“おもてなし”だ。

 お粥と餅の入った味噌味?の吸い物と、豆腐と…、それから食後は栗のモンブランと上品な味のコーヒーをいただいた。この店は、和洋両方の菓子を製造販売している。

 いい気分になれる店だった。若い何代目かのご主人も、いかにもお菓子屋さんの跡取りといった柔らかな雰囲気で家人を喜ばせていた。

 さて、駅近くのホテルにとりあえずチェックイン。目的はクルマを置きたいだけだったが、大きなホテルだけあって人が大勢いる。クルマを横づけにして、ボーイさんに聞いてみると、クルマはすぐ目の前のかなり幸運な場所に停めることが出来た。時間が異様に早かったので、そのことが却ってよかったみたいだ。

 再びホテルを出たのが、3時半頃だったろうか。もうひとつ楽しみにしている寺があった。禅寺・建仁寺だ……

 場外馬券の売り場も隣接し、人でごった返す花見小路の方から入り、いきなり法堂で本日の目玉と対面。

 撮影は自由ですと、敢えて大きな声で案内を受ける。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』が正面に見え、その左手前にダウン症の女流書道家・金澤翔子さんの書『風神雷神』が展示されている。

風神雷神・屏風風神雷神

 最新のデジタルプリント技術によって複製された屏風の美しさに見入る。金箔のテイストが本物以上に金という色の特性を現しているような、もちろん本質的なことは分かっていないのだが、そんな錯覚?に陥った。

 自分の仕事柄や、何人かの友人たちにこのような関係の仕事をする者がいるが、自分としては、これは正しいやり方だと思っている。作品の素晴らしさを製作時の雰囲気と合わせて伝えることには、文句なしに意味があると思う。

 本物の展示は、時として本質を伝えていない時がある。特に褪色や傷み防止などに厳しい条件が付けられ、明るさの制限など、鑑賞する者にとっては決して望ましい状況でないことが多い。

 しかし、この屏風にはそんな心配は要らないのだ。前に立って、堂々とカメラを構え、鑑賞することよりも撮影することだけを目的にしたような人たちも大勢いた。

 人の波が一度静かになったところで、ゆっくりとカメラを手にした。真正面にしゃがんでカメラを構えると、とりあえず瞬間的に人は入って来られなくなる。何度もシャッターを押した。レプリカとは言え、国宝に向かってこれだけシャッターを押せるなど滅多にない。

 さて、金澤翔子さんの書である。屏風の絵をそのまま書で表現したような文字のレイアウトに“なるほど”と、まず唸る。それから表現された筆致について、“ふむ”と考えた。

 もう一度、屏風に目をやり、そして“そうか”と納得。この筆致は、雷神・風神という二人の神の表情や動作などがインスパイア-されたものだと確信した。

 800年を越えた臨済宗の本山。京都という都市の中で生かされていく、偉大な寺院のポテンシャルというのはこういうものなのだろうかと思う。奥へ進もう。

 人の数に京都の、しかも連休の初日を思った。これまでにも何度もこういった状況の中で京都を楽しんできた。無理して二人の娘を京都の大学に送り込んだことで、我々は京都にかなり慣れ親しんでいる。親としては、それなりに“してやったり?”なのかも知れない。

 さて、建仁寺は庭もいい。それも中庭がいいと聞いている。

 四方から眺められる「潮音庭」が気に入った。人の多さにじっくりと座れるまでには時間を要したが、中央に「三尊石」と呼ばれる庭石を眺めるのは格別だった。その隣には「座禅石」。まだ紅葉には早いが、質素で頑固な禅庭のイメージを強く意識させられる。ぐるりと回って回廊を下るあたりも上品で、脇の小さな部屋で写経する人たちの押し殺した息が伝わってくるようだ。

庭石を見る庭と回廊回廊退き

 建仁寺はまだ終わらない。もう西日が色濃く差しはじめ、空気もやや冷たく感じられるようになった頃、法堂であの天井画と初の対面だ。

 入ってすぐに、大きな柱の間から10年ほど前に作られたという巨大な双竜の図を見上げる。開創800年を記念しての一大事業。こうしたことが現代において実行されているのが京都の凄いところなのだ。やはり都だ。やはり、日本に京都があって良かった。

天井画と明かり

 足を進めていくと、正面奥に釈迦如来坐像が光り輝いていた。自分でもこの建仁寺に今まで来ていなかったことを不思議に思いながら、ゆっくりと合掌した。

 生まれて初めて、「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟いた。一瞬だが、まわりの人の声も聞こえなくなった気がした。今回の京都は、まだ終わらない……

勅使門木魚と屋根庭石と日差し天井画庭を見ている人たち天井画と仏像

今回の京都(2/4) そして、曼殊院門跡へ

曼殊院門跡前

 詩仙堂から15分も歩けば、曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)に着く。

 15分というのは大した時間ではないが、この日は10月の半ばだというのに30度位の気温があり、日差しも強く、さらに空腹も手伝ってか、思った以上にきつく感じた。

 道は山裾の住宅地のはずれをゆく。右手が小高い傾斜になっていて、左手には見下ろすというほどではないにしろ、京都の街並みが見えている。途中にも寺などがあったりして、静かな場所だ。

 最後の曼殊院道に出て坂道をしばらく行くと、両側に木立が並び参道の雰囲気が濃くなった。左手の神社で、幼い子供が父親と一緒に遊んでいる。この近所に住んでいるのだろうかと想像するだけで、その環境のよさに羨ましさが募った。

勅使門

 奥の石段の上に山門が見える。由緒正しさが伝わる凛々しい勅使門だ。何しろ「門跡」というのは、皇族・貴族などが出家して居住した寺院のことをさすのだから、凛々しいのは当たり前だ。

 その勅使門前を左に折れ、さらに右に折れると通用口。入り口になる庫裡は重要文化財だという。

 曼殊院がこの地に移ったのは江戸のはじめの明暦2年(1656)。8世紀におこり、12世紀のはじめに現在の名を称するようになった。

 虎の間で、狩野永徳筆の虎の絵が描かれた襖などを薄らぼんやりと眺めた後、奥へと進む。ガラス張りのぽかぽかする回廊を通って、大書院へ。江戸時代初期の代表的書院建築というだけあって、バランスの良さに心地よさを感じる。

 庭園を見るその視界の構成がいい。レベルの高い京都の寺では、こうしたことが当たり前のように出来ていて、だからこそ飽きさせないのだと思ったりする。

 大書院には、本尊の阿弥陀如来さんが静かに立たれていた。

 縁側には赤い毛氈が敷かれていて、その赤さが日差しを受けて眩しいくらいに際立つ。すぐには座ろうとはせず、先の小書院の方にも足を向けてみた。やや寂れた感じが、この京の中心からかなり離れた位置関係とも合うような気がして、余計に心を落ち着かせる。

 もう名前も忘れてしまったが、大学を出たばかりの頃、奈良の山寺に出かけたことがあった。バスに乗り、一日にひとつの寺しか行けないような行程だったが、とても満足したことをよく覚えている。今はクルマで自由に動けるが、その時はそれが精一杯だった。そして、それがよかった。

 ほんの短い時間、そんな思いに浸った。そして、あらためてゆっくりと庭を眺める。

 水の流れのような白砂の美しさなのである。樹齢400年という五葉の松は、鶴をかたどり、地を這うように幹を伸ばしているのである。

 日差しは強く、空は普通に青い。白くて柔らかそうな雲たちが、甍の上を流れていく。

 しかし、何とも言えない幸福感に文句などないはずなのだが、如何せん、無情にも、ただひたすら腹が減っていたのだ。

 曼殊院という名前の響きから、白くて中にあんこの入った、あの丸い和菓子を想像してしまった自分にも責任はあったのだが、このことは致命的だった……

曼殊院門跡庭白砂五葉の松曼殊院門跡廊下甍と雲

今回の京都(1/4) 詩仙堂から

小有洞

 今回の京都は、詩仙堂の小さな門から、いきなり始まったような気がする。

 京都東インターから山科あたりの混雑も、南禅寺周辺の慌ただしい気配も、一乗寺という土地に近付いていくうちに、何となく目的地への予感みたいなものに変わっていた。そして、狭い道へと右折して登りに差しかかった頃からは、それは現実のものとなった。

 小有洞(しょうゆうどう)の門というのが正式らしいが、その小さな門は苔むした屋根にさらに夏草を茂らせ、背景の緑と溶け込んで見える。門の奥へと緩く登る石段の参道もシンプルで美しい。

 時計は午前11時過ぎ。まだ人もまばらだと石段を登る。石段を登ってすぐに通路は直角に折れ、さらに門をくぐって堂の中へ。

 人はまばらと思っていたが、やはりそれなりにいた。小さな、そして至って質素な庭に向かい座っている。

 凹凸窠(おうとつか)というのが全体の名称であり、詩仙堂というのはその一室のことをさす……ということが、パンフレットを開けてすぐに分かった。凹凸窠というのは、で こぼこした土地に建つ住いを意味するのだそうだ。

 そのことは、庭に下りてみるとよく分かる。堂は小さいが、庭は意外にも広い。しかも堂から離れれば離れるほど、下っていくことになっている。小さな堂は、庭木に阻まれて屋根が見える程度だ。

 獅子おどしの音が痛快に響き渡っていて、10月半ばとはいえ、秋にはほど遠い完璧な緑の中に吸い込まれていく。ところどころに咲く花たちも上品だ。

 もともとは徳川家の臣であった、石川丈山(じょうさん)という人が造営した。人生の最後を、と言っても30余年という長い年月を、清貧の中に文人として過ごし、90歳まで生きたとある。隷書、漢詩の大家、煎茶の開祖とも紹介されている。

 そんな丈山の生きざまは、もう一度堂に戻り、庭を見た時に薄っすらと想像できた。座敷の細く見える柱も、小さな灯篭も、清貧の中で学ぼうとする丈山そのものに見えてくる。

 書き忘れていたが、造営されたのは江戸初期の寛永18年(1641)。丈山、59歳の時。まさに今の自分と同じ歳。

 愚かにも、今からの30年をこれほどに濃いものにできるかと自問するが、答は当然、できませんだ。

 帰りにもう一度、小有洞の門の外から石段を振り返る。また静かな時に来いと、丈山が言ってくれているような、いないような……、とにかくどちらにせよ、また行くことになるのは間違いないとだけ思った……

堂

石垣上品な花獅子おどし花の道灯篭と柱庵質素な庭

ドラマー少年だった頃

stick

 小学校高学年の頃、我が家の後ろに繋がる撚糸工場の空きスペースに、ギターのアンプやドラムセットが置かれていた。高校生だった兄が“エレキバンド”をやり始めた頃で、休みになると、そのスペースが練習場になっていた。

 エレキバンドはそれなりにどころか、かなりうるさく、練習場を探すだけでもむずかしい。今ならスタジオを借りれば済むが、時代的(60年代中頃)にも地理的にも、当然そんな場所など身近ではない。だから、撚糸工場という盆と正月以外一年中機械が動いている場所は、ある意味、バンドの音を吸収してくれる格好の練習場でもあったのだ。

 ギターはもの心付く頃から触っていたが、ドラムセットを初めて見た時は胸がときめいた。バスドラの正面に描かれた「Pearl」の文字もカッコよかった。だから、叩いてみたくて仕方がない。

 当然、誰もいない時を見つけて軽く叩いてみる。ませガキだったので、見よう見まねで何とか形になる。もともと家には洋楽ばかり流れていたが、当時の兄はとにかくベンチャーズだった。聴いているだけの頃は、ビートルズだったのだが、自分がギターを弾き出すとベンチャーズになった。当然のごとく、ボクの耳にも自然にベンチャーズが入り込むようになる。

 バンドをやっているせいか、ベンチャーズを聴くのは特にライブ盤が多かった。当時は“実況録音盤”と言っていたが、スタジオ録音と比べると全く音質が違う。ライブになるとギターがFUZZを使った重い音になってサウンドが厚くなるのである。

 兄は金沢やその周辺でのコンサートには欠かさず行っていて、よく話を聞かされた。ベンチャーズはとにかく巧い。四人がステージ上、横一列に並ぶ。うろうろと歩き回ったりせず、ただひたすら、余裕さえ感じさせながら名演を披露する。そんな感じだった。

 ステージのパフォーマンスとして、兄が興奮しながら話していたのが、ベースの弦をドラムのスティックで叩きながらの演奏で、その様子を伝える写真や音は、じっと聴き入ったのを思い出す。このパフォーマンスは、ベンチャーズの十八番だったのだ。

 ボクはその頃(小学校の高学年)に、兄の友人に連れられて、アストロノウツというバンドのコンサートに行った経験がある。兄が急に行けなくなり、代わりに連れて行ってもらったのだ。『太陽の彼方』という超ビッグヒットをもつバンドだったが、その時の生エレキサウンドのインパクトは凄かった。

 話を戻そう。

 いつの間にか、それなりに、ボクはドラムの基礎中の基礎を身に付けていった。

ventures220002-1

 ある時、兄が弾くギターに合わせて叩いてみるチャンスが訪れる。曲はエレキサウンズのバイブルとも言うべき、『パイプライン』だった。自分でも驚くほどに“サマ”になって?いた。兄のバンドのリード・ギターリストMさんがやって来て、セッション風の練習が始まった。Mさんは、ちょっと長髪のカッコいいお兄さんだったが、ギターも抜群に巧かった。

 ベースはいなかったが、リードとリズムの二本のギターが揃うだけで、音は一気に厚みを増す。アンプもかなり大きめのものを使っていたので、初めて二人まとめたギターの音を聴いた時は耳が痛くなった。

 もう一度『パイプライン』が始まる。所謂“テケテケ”なのだが、ライブのイメージでは“ズグズグ”といった感じで重い。そのあとにお決まりのフレーズが繰り返され、コードをジャーン、ジャーンと弾いてMさんがお馴染みのメロディを弾きはじめた。

 参加していいのかどうか分からないまま、スティックを持って二人を見ていると、兄が顔をこちらに向けて催促してくる。邪魔してはいけないと思いつつも、それなりに自信をもっている自分がいることも事実だった。

 兄の顔がちょっときつくなり、早く入って来いという目付きになった。恐る恐る右手のスティックでシンバルを小刻みに叩きながら、左手のスティックはスネアに。何秒かして、兄の顔を見ながらMさんがかすかに笑った。いや、笑ってくれた。

 このことが勇気づけた。ベンチャーズは、いつもライブ盤しか聴いていないから、スタジオ録音の『パイプライン』のように、柔らかいサウンドは馴染んでいない。だから、ボクもライブ盤で聞こえてくるように、シンバルにもスネアにも力を入れた。

 “ン、タタ、ン、タ”のリズムに、タイミングよく“タカタンタ”を入れたりして調子が出てきた。

 Mさんの表情がまた緩んだ。やったなと思うと、バスドラにもハイハットのリズム感にも自信が出てくる。曲が『ダイヤモンドヘッド』に変わっても、基本はほとんど変わらない。

 こうして、ボクの影武者ドラマー体験は始まった。

DSC_0792

 再び、突然影武者ドラマーのオファーがかかったのは、それから3年後だったろうか。時間的感覚が鈍っているが、中学の二年生だった…はずだ。兄のバンドは、いつの間にかローリング・ストーンズのコピーバンドに変身していて、地元ではそれなりに売れている雰囲気だった。そして、ドラムの人がケガか何かで叩けなくなったのだ。

 グループサウンズの時代、ボクはその頃からジャズも聴き始めていたのだが、いきなり連れて行かれた町はずれの砂取り場の、壊れたバスの中でドラムを叩くことになった。

 ボクの生まれ育った町は砂丘地にあり、今から振り返れば、とてつもなく広い砂取り場が周囲にあった。その奥の一画に古びたバスが置かれていて、その中がバンドの練習場だったのである。もともと砂取り作業に来ている人たちの休憩場所だったのだろう。

 それは本当に突然やって来た時間で、兄から言われるまま(実際、兄には逆らえなかった)に、晩飯を終えると、その砂取り場のバスへと向かった。

 今でもはっきり覚えているが、最初に始めた曲はストーンズの『テルミー』だった。

 それなりに明るくされたバスの中で、縦に独りずつ並び、ドラムが最奥。その前にボーカルが立ち、その後ろにベースとギターが二人。みなドラムの方、つまりボクの方を向いていた。

 『テルミー』という曲を知っている人なら分かるが、原曲ではイントロにアコースティックな音のギターが入り、すぐ後にドラムが入る。静かな曲なのだが、やはりここでもライブ感覚がベース。

 兄がギターを弾きながら力いっぱい叩けと言う。曲が進んでいっても、ドラムが弱いと何度も言われた。すぐに感覚的に分かってきたが、とにかくスネアにスティックを叩きつけるのである。そして連打のところでも、思い切りよく叩くのだ。

 『サティスファクション』でも、最初は同じように言われたが、すぐに感覚が体に沁みてきた。ドラムセットが大きく揺れるほどになってくると、ようやく合格点だった。その頃はかなり音楽にのめり込んでいたので、自分のドラムがバンドの勢いを生んでいるみたいな感覚が分かった。レコードで原曲のドラムを聴くより、自分の感覚で叩く方がいいような気がしていた。

 暗闇の中に怪しい明かりを洩らすバスというのは、中学二年の中途半端な男の子にとって、かなりスリリングな世界でもあった。なにしろ、野球部の丸坊主アタマ、しかもその頃、どういうわけか生徒会の副会長なんかもやっていて、一応品行方正っぽい印象を放っていた。

 実体は、その頃から石原慎太郎なんぞを読み始め、世界を斜視するような、一種のヒロイズムみたいなものに憧れる扱いにくい少年だった。そんな少年だったから、ドラムの世界には自分を満たしてくれる何かがあるような気がしていたのかも知れない。

 一週間もやれば、自分でもほとんど違和感がなくなり、かなり決まってきたなという感じになった。そして、そんな時、突然、兄から次の土曜日、となり町の体育館で演奏会やるから出ろと言われた。さすがにびっくりだ。

 練習のための影武者ドラマーとして軽く考えていたので、驚いて当然なのだ。ボクはすぐに出られないと答えたが、兄の論理では、皆そのために練習してきた、お前の勝手は許さん…だった。しかし、兄の要請は絶対に受けられなかった。実はその日は生徒会が開催される予定になっていたのだ。生徒会のために部活も遅れていくという、そのことにも気後れがあったのに、生徒会も出ないで、小さな町の体育館でドラムを叩いているなどは、とてもできることではなかった。

 結局、その話が出てから、ボクは影武者ドラマーを首になった。兄のバンドが演奏会に出たのかは知らないままだった。

 ふと体がドラムを叩いていた頃の動きをすることに気が付くことがある。今もメンバーを変えて活動を続けるベンチャーズの演奏をテレビで見て、CD(廉価盤500円)を購入。名曲『十番街の殺人』が流れてくると、イントロのタムタム、フロアタム(かつてはバスタムタムと呼んでいたような)を同時に叩く動作が自然に出てきた。

 生意気に、子供の頃からドラムを叩いていたという話だが、その頃の印象を言葉にすると、“スリル”という表現がぴったり合っていたと思う。スリルとは演奏そのものと、当時のバンドをやっているニンゲンたちへの視線みたいなものとが合体したイメージだ。

 ただ、そんなスリルを味わいながら、それ以上の楽しさをも感じ取っていたことだけは間違いない……と、しておこう。

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

不思議なモノを見た

不思議なもの1

100メートルもないその先に、それがあった。

それを発見した時、思わずドキッとした。

北三陸的に言えば、ジェジェッである。

すぐ目の前にコンテナがあり、それを撮影していた時だ。

半信半疑のまま歩きだし、右斜め後方に目をやりつつ、

ゆっくりとクルマに戻る。

何のためか、敢えて落ち着いているのだというふりをしている。

窓越しに、もう一度それを確認。エンジンをかけた。

少し登った。そして、それの30メートルほど手前で、またクルマを下りる。

山間はもう日が陰っている。空気も涼しい。

そこは北陸のK市中心部からクルマで約30分。

推測だが、馬だとゆっくりで2時間くらいか。

牛だと半日はかかるかも知れない。

これでこの場所は知られてしまうだろう。

しかし、それでもかまわない。

歩いて、すぐ目の前まで来た。

塗装の剥がれていない部分はまだ美しくも見える。

正面のライトは片方だけだが、しっかりと残っている。

ひょっとして遊園地などで使われていたのだろうかと想像する。

とにかく、この不思議なモノが、この場所にあるということに心が揺れている。

不思議なモノの左面

いつ、どうやって、なにゆえにこの場所に運ばれて来たのか?

かつて、ここには鉄道が走っていたのだろうか?

ひょっとして、旧盆の深夜、突然汽笛が遠くから鳴り響くと、

霧の中、草を分けるように線路が浮かび上がってくるのかも知れない。

そして、この不思議なモノが、

生気を再び得たかのように、ゆっくりと動き出すのかも知れない。

子供たちは、その後を追い、見えなくなるまで力いっぱい手を振る。

そして、この不思議なモノが落としていった、

おもちゃや菓子などをみんなで拾い合うのだ……

 

振り返ると、近くの農家の人だろうか、こっちを胡散臭そうに見ていた……

不思議なモノの正面

疲れた夜によくある雑想

スポットを浴びたような新緑

久しぶりに訪ねた友人の事務所に、山の本が、文字どおり山積みになって置かれていた。

彼は、その本を通販で、しかも古本で買う。

ジャズのCDは新品(輸入盤が多い)で買うが、本はほとんどが中古本である。

自宅ではなく、事務所に届くという点が羨ましい。

彼はその事務所で、軽くジャズを流しながら仕事をし、仕事の合間に好きな本を開いて、その世界に自分を置いたりする…のだろう。

そのような世界は、若かりし頃の自分にも憧れとしてあったものだ。

そして、そろそろ時間の先取り的に“リタイア”した後の自分を考えたりする時、少しだけ現実味を帯びてくることでもある。

しかし、あと何年かは、ひたすら微量の脳ミソをかき混ぜながら、一途にやっていかねばならないポジションにもある。

元来、性分が「やり始めると、とことんやってしまう」というタイプなので、ある意味ではかなり損をしてきたところもある。

しかし、今さら悔やんでも仕方がない。

学生時代、将来は八ヶ岳山麓に住まいして、そこでカッコよく仕事をしながら過ごそうと考えていた話は、ずっと以前この雑文集で書いた。

そこまでの回帰はないが、やはりどうせなら、山があって(見えて)、家を出たらすぐに自然があるといった環境がいい。

雪も降り、リビングから、いや縁側からでもいいが、すぐにスキーを付けて歩き出せるくらいでないといけない。

朝日でも夕日でもいいから、家に差し込んでくることもそれなりに重要だ。

庭でコーヒーを淹れ、家の中から聴こえてくるラルフ・タウナーのギターや、ヨーヨー・マのチェロなどにボーっとすると言うのも、かなり心地よいことだろう。

本も読み、文章も書き、カメラを持って歩きまわりもする。

どこかにそんな人が何人かいた。

ただ、ボクが考えるシンプルさとはちょっと違っていた。

だから、自分自身が求めることも、どこまでが真実なのか不明でもある。

誰かが何か言ってくれても、自分自身がどれだけ踏ん張っても、人生の時間的な制約は変えられない。

だからこそ、今自分が置かれている立場でとにかくやるだけやり、その後は自分を出来るかぎり解放させてやりたいと思う。

 

どっと疲れた仕事の帰り。

一杯のコーヒーにホッとしながら、こんな文章を書いている自分に、今気付いた……

石川さゆりを、また聴く

  

 昨年暮れ、能登を舞台に作られた歌のことを知る機会があり、突然CDをもらった。

 その中で、坂本冬美の『能登はいらんかいね』と、石川さゆりの『能登半島』がとても印象に残り、特に後者については、ググッと迫るものを感じて何度も聴き入ってしまった。

 ボクのことをよく知っている人たちは、ボクが幼少より洋楽に親しみ、中学生の頃からは、ジャズ的音楽にハゲしく共感するようになったと認識している。

 なのになぜ、今更演歌の話題を持ち出すのかと疑問を感じられるかも知れない。

 しかし、さらにボクのことをよく知っている人たちは、かつて片町の「YORK」というジャズ喫茶で、閉店後、秘かに『津軽海峡冬景色』なる名曲を、名器ALTECが発する大音響とともに合唱していた(と言っても、マスターと二人でだが)という事実も、このエッセイ集をとおして認識されているはずだ。

 つまり、『津軽海峡冬景色』のシリーズである、この『能登半島』にボクが強く共感することには、深いワケとか事情とかもあったわけだ。

 デューク・エリントンが言ったように、世の中には、いい音楽と悪い音楽の2種類があり、今話題にしているのはもちろん前者の類の話なのである。

 さらに先に言っておくと、歌のタイトルや内容が能登を舞台にしていることとは、あまり関係はない。

 夜明け間近 北の海は 波も荒く

 心細い旅の女 泣かせるよう

 ほつれ髪を 指に巻いて ためいきつき

 通り過ぎる 景色ばかり 見つめていた

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 ここにいると 旅の葉書 もらった時

 胸の奥で何か急に はじけたよう

 一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり

 熱い胸に とびこみたい 私だった

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 すべて すべて投げ出し 駈けつける

 夏から秋への 能登半島

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 『能登半島』の歌詞である。

 作詞は、われらが阿久悠。作曲は、三木たかし。詩も曲も、素晴らしくいい。トランペットのかなり定番的イントロから入っていくが、それも何ら問題ない。

 そして、もちろん若き石川さゆりの熱唱には、ほぼカンペキにやられてしまう。

 歌詞にもだぶるが、たぶん、二十歳頃のレコーディングだろう。

 夜明け間近の海を見ている主人公は、上野発の夜行列車で金沢に向かったのだろうか。このあたりは、阿久悠作、まるで『津軽海峡冬景色』と同じだ。

 東京発だとすれば、ボクも経験があるが、親不知あたりの海を見ているに違いない。

 『津軽海峡…』の場合は、下りた「青森駅は雪の中」だったが、『能登半島』の場合は、夏から秋にかけてで、日の出は早いのだ。

 主人公は、十九歳。それまで恋を知らなかったが、つい最近になって恋を知ったらしい。

 この静かにサビに入っていく歌い方には、若き石川さゆりの健気さを感じる。

 二十歳とは思えない気持ちの入れ様と、そして歌の巧さだ。

 余計なお世話だが、今どきの安売り軽薄ジャズとは違う。

 ここで聴き逃していけないのは、歌の背景に流れる一本のバイオリンの切ない響きだ。

 1コーラス目では、なかなかキャッチできないが、2コーラス目ではしっかりとキャッチできる。

 そのことに気が付くと、思わず編曲者の名前を探したりする。

 そして、若草恵という男だか女だか分からない名前に戸惑ってしまうが、まあどっちでもいいやと早めに歌の世界に戻るのがいい。

 石川さゆりは、「あなた、あなた訪ねてェ、行く旅は~」と熱唱に入っていく。

 ここの聴きどころは、“行く旅は”のあたりで、行くの“ゆ”から“く”へと流れていく表現(歌唱)は、尋常ではない。

 文字化するのはむずかしく、強いて書けば“ゆ・くゅう”、いや“ゆ・ぅ・く”か?

 とにかく、“く”の後半の音(声)は、上下の歯を軽く閉じ、口ではなく鼻の中で響いているような感じなのだ。

 石川さゆりの歌への思いと、歌の巧さとが見事に合体していき、歌のチカラというものを体感させる。

 後半の歌詞は、阿久悠の世界に、石川さゆり自身が融け込んでゆくような切なさがたまらない。

 「一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり  熱い胸に 飛び込みたい 私だった…」

 「すべて すべて投げ出し 駈けつける  夏から 秋への 能登半島…」

 十九才の真っ直ぐな気持ちが、文字どおり真っ直ぐに伝わってきて、どうしていいか分からなくなり、つい周囲を見回したりする。

 そんなわけで、ボクは最近、出勤時クルマを出すとすぐにコレを三回連続して聴く。

 それから一気に、マイルスの60年代後半あたりに切り替えて、自分をクールダウンさせながら会社へと向かう。この切り替えがまた実に気持ちいい。

 少し偉そうなことを平気で言うが、演歌と言うよりも、世の中に流れていた歌を“流行歌”と呼んでいた時代の感覚は、実に日本人的な気がする。

 作家の五木さんや、伊集院さんもよく語っているが、この感覚をもう一度見つめ直す必要があるのではないかと思ったりする。

 切ないとか、寂しいとか、やるせないとか、そういったものをみんな忘れてしまったのだろうか。

 そこから、本当のやさしさとか思いやりとかが生まれてくることもあるのだということを、しっかりと知る必要がある。

 “情緒”というものなのだろう。

 そんな意味で、とりあえず、「石川さゆりを聴く」のである……

休日はアイロンだ

 休日、自分でカッターシャツにアイロンをかける。

 家人がいない時を見計らって座布団の上に正座をし、左手にシャツ、右手にアイロンを徐(おもむろ)に持って、その特に右手を動かす。

 どうしてもアイロンがうまくできないシャツはクリーニングに出すが、簡単に出来そうなものは自分でやる。

 その仕分けは、多分シャツの素材などにあるのだろうと思うが、むずかしいことは分からない。

 アイロンが好きになったわけは、たぶん無心になれるからだ。

 焚火やギターなんかと同じで、一点集中型の無心状態になって、軽くて落ち着いた気分になる。

 軽いという表現は100パーセント言い得ていないが、カラダもアタマも何だか解放されたような感じになり、ヒトとしていい状態になっていくのだ。

 アイロンはそれ自体が、スーッとシャツの上を滑っていくという、あの感触がたまらない。

 その時には、口で軽く「スーッ」と言ったりもする。

 長嶋茂雄が、バットを振る時はシューッときたボールに、パシーンとバットを当てる…などと言っていたように、アイロンもシャツをパッと広げたら、その上にアイロンをサッと置き、そのままスーッと滑らせていく…なのだ。

 不思議なことには、この時に無心状態が生まれ、まるで悟りが開けていくような面持ちになっている。

 今頃の季節ならば、ほんわかとしたスチームもいい味を出す。

 この温もりや湿り気は、ちょっとイガラッぽくなっている喉なんかにも按配がよく、風邪防止の役割も果たすという重宝者でもある。

 だいたいこういった場合は、ヨーヨー・マあたりのチェロ独奏なんかをBGMにするのがいい。やはり弦楽器の弓弾きのように滑る音がマッチする。

 普段はジャズばかり聴いているが、ジャズのようにシンコペーションが強い音楽は、アイロンには向かない。オオッといきなりブレーキを掛けられたのでは、せっかく伸びたシャツの皺もまたぶり返すことになる。

 つまりアイロンには、リズムがない音楽がよく、これは無心状態をつくる上でも大切な要素と言える。

 シャツは本来ならば三枚ぐらいが適当だ。しかし、一週間のうち働きに出る日は最低五日ある。時には五枚一度にアイロン…ということになったりもする。

 長期戦になるかなと思う時は、途中にハンカチ・タイムを挟むのがいい。

 ハンカチは実にコンパクトで、その成果もすぐに表れるし、かなりの度合いで癒されたりする。

 四枚目に入ってしばらくすると、思いがけず無心になれている。こういった場合の無心には、特別な意味があったりもして嬉しくなる……?

 アイロンがすべて終わる頃には、両足ともにかなりのシビレ状態になっているのが普通だ。

 しかし、このシビレこそが、無心に、アイロン一筋に精神を統一してきた証であり、敢えて下品に足をパンパンと叩いたりなどしない。

 立ち上がって、窓外の風景に目をやり、窓を開けて冷気に触れていると足のシビレがいつの間にか消えていくのだ。

 そして、またいつの間にか、自分がアイロンをかけていたという事実すらも忘れていく。

 これが、アイロンの凄さなのだろうと思う。

 特に大したことをしでかしたわけでもないのに、この充実感は何なのだろうとも思う。

 そして、もう何十年も使ってきたアイロンに、感謝なのだ……

ビールは体育実技だ

もう一ヶ月も前になるんだと思いながら、7月30日の深夜、京都四条の某ホテル8階817号室で綴っていた文章を読み返している。

狭い机に向かって、『ビールの科学』という本の読後感想文を書こうとしていて、途中でやめた。

その一時間ほど前まで、高台寺の近くの「T界」という、いかにも京都らしい古い佇まいのお店で、ひたすら冷たいビールと好奇心をくすぐるクリエイティブな料理をいただいていた。

案内してくれたのは、F見クンというクリエイターで、その店は彼の会社の社長さんがオーナーらしかった。

F見クンは、店内の襖や壁、座布団などに施されている、非常に繊細なプリントを手掛けていた。

金沢美大に入った頃から大学院を卒業するまでは、ボクの会社でアルバイトをしている。

なかなか機転が利いて、突っ込みも鋭い優秀なスタッフだったが、本業が染色という特異な分野だったこともあり、結局その能力を活かせる会社に就職した。

それ以来だから、もう十年近く会っていなかったことになるが、「T界」から八坂神社を抜け、四条通を烏丸まで語りながら歩いた。いい時間だった。

彼の創作や実直で子煩悩な人柄については、また今度4000字ほどに簡単にまとめて書くことにしよう。

 

ホテルに戻ってシャワーをすると、37度の猛暑に耐えてきた体が汗臭さから解放された。

それにしても、午後三時すぎ、烏丸御池から四条烏丸まで歩いた時に見た人々の表情たるや、あれはすでに苦痛を通り越し、最早、どうにでもしてよ的茹だり顔であった。さすが京都だ。

これからビールのことを書こうとしているのだからと、外から買って来た缶ビールをまず一本開ける。

缶の半分ほどを飲んでから、風呂上がりの汗をもう一度拭き、さらにまた缶ビールを手にすると、あっという間に一本が空になった。

昔、今日みたいな猛暑の京都で、四条のビルの屋上広告塔に付いていたデジタル温度表示が40℃を示しているのを見て驚いたことがある。

四条大橋の上から、何人かの人がその表示を指さしていた。

その時のボクは、四条通りのN村証券京都支店の前で「からくり時計」をじっくり観察した後だった。

当時、金沢の某商店街に提案しようとしていた「からくり時計」については、その時も伏見の商店街へ行ったりして、なぜか京都が先進地だったのだ。

で、四条大橋を渡った後、八坂神社に向かい、八坂から高台寺などを経て、清水寺まで歩いた。

ここまで来れば、最早観光でしかなく、仕事成果はカメラの中にしっかり納まっていたのだ。

とにかく暑かった。扇子を一つ持ってはいたが、扇いでも熱風が顔に当たるぐらいで、とても涼気を感じるなどといった雰囲気ではなかった。

ただ、その頃のボクは、野球と山岳と失恋とで鍛えた体力と忍耐力(根性)には自信があり、生半可なことではヘコたれることもなかったのだ。

そのことを支えていた大きな力?のひとつに、“汗をかけばビール”という安直だが心強い依存物があった。

これは、山でもよくあることで、例えば朝四時に麓の小屋を出発し、同九時近くに中継点の山小屋に着くと、そこでまず缶ビールを空けた。

喉が渇けばビールといった感じで、飲み物=ビールが普通になった。

しかし、一旦飲むと、その後が辛くなってくる。

特に長い行程を歩くときや、岩場の連続などといった時は、ビールを飲んだことを後悔したりした。

京都でも同じだった。

午前中からではなかったが、特に高台寺から清水にかけては、赤い大きな和傘が見えてくると、毛氈の敷かれた床几に腰を下ろし、中ジョッキの生を注文する。

傘があっても、具合悪く日陰になっていない所もあったりするが、それでもとりあえず中ジョッキだった。

当然、アタマはカンペキにボーッとしていた。

 

そんなことを思い出しながら、『ビールの科学』をもう一度手に取った。

そして、表紙を見ながらじっと考えた。

結局、この本はボクにとって何だったのだろうか?

何となく覚えているのは、コクとキレのこと。

ウグウグッ、ウッグゥ~と喉を鳴らしながら飲みこんで、胃にまですべて到着したかなと思った瞬間に、ウッ、ウップァァァ~と濃い息を吐く。

このウグウグがコクで、ウパ~がキレだということで、これがビールの決め手だということだった。

なるほどとかなり激しく納得した。

あとは、皆で楽しくやる時にはビールがいいということ。

シャンパンも炭酸が入っているから、乾杯に使われるが、ビールはいかにもめでたい系や、憂さ晴らし系にもってこいだということ。

これもひたすら納得した。

それ以外は、ホップがどうのこうのとか、麦芽がどうだとかと言われても、大いなる納得には結び付かなかった。

つまり、途中からかなり読むのも辛くなり、とりあえず一応…的に読み終えたが、アタマには何も残っていない。

ボクは思うのだが、ビールはしみじみ飲むものでもないから、何も考えなくてもいいのではないかと。

それに、ビールには科学は似合わないのではないかとも。

ビールに合うのは、科学ではなく、体育実技とか英会話ではないかとも。

そんなわけで、『ビールの科学』の読後感想文は、やはり書けないと言う結論に至り、これから体育実技的に、缶ビールを思いっきり力強く開けようかと思った次第なのであった………

 

詩人・大野直子さん

 大野直子さんが第22回日本詩人クラブ新人賞を受賞された。凄い。

以前に中日新聞で見ていたのだが、先日、日本経済新聞の北陸欄(写真)にも紹介されていて、お顔も久しぶりに拝見した。

ボクとの交流だけで言うと、大野さんは、小誌『ヒトビト』の大変重要なエッセイストで、その文章はボク中心のガサツな文体ばかりの中にあって、爽やかな光を放っていた。

創刊号を出した時、どこで見つけたのか、わざわざ家まで来てくれて、一年分の予約と、こういうのが出るのを待っていたんです…、私も是非参加させてください!といった強いメッセージをくれた。

当時、大野さんの存在はもちろん、その非凡なる才能にも、お茶目な性格にも全く無知だったボクは、少し面倒臭かったので適当な返事をした。

しかし、大野さんはその後、積極的に寄稿され、『ヒトビト』知性及び情操担当局長的なポジションで、無くてはならない存在となっていく。

ただ、大野さんの本当の文章の凄さは、『ヒトビト』なんかよりも、それ以外の雑誌でのエッセイ風の読み物やご自身の詩集などで発揮されていった。

ボクがお願いしたものでは、金沢市発行の「金沢のにしを歩く」という小冊子での文章がまず燦然と輝いている。

西茶屋街を起点にして旅する多感な女性になりきり、好奇心旺盛な心情が伝わる美しくて、そして、どこか逞しさを感じさせる文章だった。

ボクはそのテキストを読ませてもらった時、何だか妙に落ち着きを失ってしまったのを覚えている。

それは、それまで日常的な、主婦的な視点で周囲を見つめ、言葉を編んできた大野さんとは、まったく違う何かを感じたからだ。

演技という表現手法があるが、文章によって大野さんは役者(女優)になりきっているように感じた。

演技力と文章力は似ている。文章が演技になっている…? 大野さんの好きな鏡花の世界に似ているではないか…?

何だかよく分からないまま、ボクはこうして大野さんの凄さに圧倒されていく。

その後の、金沢を中心にして発行されている雑誌などにおける文章でも、大野さんらしい、やさしくて研ぎ澄まされた文体がとてもよいと感じた。

処女詩集『寡黙な家』は、北陸現代詩人奨励賞、中日詩賞新人賞、日本海文学大賞で佳作を受賞している。

そんな意味では、あの無責任雑誌『ヒトビト』などでの執筆に対し、大野さんの名を汚し、かなり申し訳なく情けない気分でいたのも確かなのだった。

大野さんは最近まで、お母上、お父上の看病・介護に日常の多くの時間を費やしてきた。

しかし、その中で物書きとしての本性は失ってはいなかった。それが今回の受賞になっているからだ。

ただ、今回の『化け野』と、一作目の『寡黙な家』とでは、大きく周辺環境が違っていた。

『寡黙な家』の方は、日常的で平和な主婦的視点で編まれた詩集だったが、『化け野』では、死に向かう両親を支え、見守りながらの娘的視点が色濃く映る。

いや、映るなどといった曖昧な表現ではない。しっかりと刻み込まれているといった方がいい。

これらの苦痛や絶望や怒りや、その他多くの悲観的な要素の中での創作には、あらためてアタマが下がる。

そして、大野さんは間違いなく強いオンナであり、強いヒトになっているに違いない。

勝手な期待はいけないのだろうが、まだまだ、かつての大野直子調で綴ってもらいたい“もの”や“こと”が、この世の中にはたくさんあるような気がしている。

しかし、それはあくまでも小さな、控えめな期待だ。

家のポストに入っていた、ちょっと膨らんだ茶封筒。

中を開けると、一冊の本。もちろん『化け野』だった。

雨の中、わざわざ届けてくれたみたいだった。

後ろから、そして、そのままランダムに読んでみる……。

しかし、当然、自分の中では取掛かりになる言葉すら見つかっていない。

ひょっとすると、永遠に見つからないのかも知れない。

とても重いものが、深いものが、濃いものが、遠いものが、言葉ひとつひとつに託されているように感じる。

だから、これ以上は書かない。

とりあえずとして、大野さんには、もう一度「やっぱ、凄いなあ」とだけ言っておこう……

奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ

この文章は、1998年5月に創刊したプライベート誌『ヒトビト』に綴ったものだ。ほんのちょっとだけ加筆した。

「ヨーク」のマスターとして、多くの人たちに愛された奥井サンが、亡くなる五年前に語ってくれた自分自身の一部だ。

暗い開店前の店で、途中からノリが悪いからとビールを飲みながらのセッションになった。

6月17日は、奥井サンの命日だ。そして、奥井さん夫妻の結婚記念日でもあった……

**************

「ジャズ人生から ジャズ的人生へ」 ~ 近くでトーク

●八尾に生まれる……

金沢の東部にある神宮寺という町から、奥井サンは歩いて香林坊の自分の店へとやって来る。所要時間は約一時間、ひどい雨降りや特別なことがないかぎり、とにかく歩くことにしている。

ただ歩いとるだけや

と、奥井サンは言う。見る方からしても、いかにもただ歩いているだけのように見えるから、やはりただ歩いているだけなのかも知れない。

しかし、実は意外(失礼だが)とそうでもないのだ。やはりと言うか、さすがにと言うか、とにかく、奥井サンはただ歩いているだけではないのであった。

奥井サンは、昭和19年(1944)10月22日、富山県婦負郡保内村字松原に生まれた。風の盆で有名な現在の八尾町である。ちなみにイチローと同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山市内に出た頃からジャズに染まり始め、それ以後、今日に至るまで、ジャズとの付き合いが続いている。

『 オレも小さい頃は子供やったんや。電気も水道もない、山の中の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。

 東京で、和菓子職人の修業をしていたおやじが、体が弱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった土地を譲り受け、そこに家を建てた。

 そこら辺は、引き揚げ者や農家の次男坊、街からの入植者などが開いた所やったんやな。

 電気がないから、ランプ生活。水は手押しポンプの井戸やった。スイカやトマトが冷たくて美味かったわ。

 晴れ渡ると、目の前に立山連峰が広がって、毎日その雄大な景色を見とったせいで、視力は4.0やった(当然測っていない)。今も目はいいんや。

 小さい頃、何をして遊んでいたか覚えとらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。下(の村)まで行かないと、子供もいなかったし…。小学校に入るまで、字は読めんかった。

 町に近い所におふくろの里があったんやが、そこまではアイスキャンデー屋が来た。そこまで来るんやけど、そこでみんな売り切れてしまって、うちまでは来ないんや。だから、夏おふくろの里へ行くのが楽しみやったなァ。

 魚の行商というのも来たわ。朝の早くに町を出て昼頃にうちの辺りへ来るんやねェ。それでうちが最後やから、売れ残ったもん全部置いていくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べとったな。魚の行商人は、それからうちで弁当を食べるんや。そして食べ終わると、夕方近くまで昼寝をした。そして目が覚めると、「あんやと~」と言って帰って行く。

 なんか、今から考えると、のんびりとした時代やったんやねェ。おやじの小学校の同級生に、町で床屋をやっている人がいて、その人が二ヶ月に一回ぐらい村にやって来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登って来るんやね。今で言うボランティアだったんか、それとも商売だったんかは知らんけど、とにかく、そんなとこでオレは育ったんやわ。

 初恋? そんな相手もおらんがいね…… 』

***************

17歳で富山市へと出た奥井サンは、ジャズと出会う。当時ジャズファンの間で人気のあったNHK・FMの「ジャズ・フラッシュ」という番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の中で育った奥井少年にとって、ジャズとは一体何だったのだろうか?

『 ジャズが好きになったってことだけやね。何となく、自然に身に付いとった。もう死んでしまった巨匠たちが、その頃は現役のバリバリやったしね。

 ニューポート(富山市のジャズ喫茶)に出入りするようになり、常連になっていくうちに、何となく店を手伝うようになったんやわ。それで、そのまま従業員として働くようになって……』

奥井サンは、当時住み込みである仕事をしていたが、どうもそちらには本腰が入ってなかったらしい。ジャズとの出会いは、そんな奥井サンにとって、新しい何かの発見だったのかも知れない。

『 もともと何か目的があったという訳でもないし、そういうものがあったとしたら、富山ではなく、東京へ行ってたかも知れんね…』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコードを持っていたという。すでにかなりのジャズ通になっていたようだ。

そして、24歳の時、「ニューポート」が金沢に店を出すことになり、その店の店長として金沢へ行くことになったのである。

「ヨーク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのジャズ人生がスタートする。

*************

●金沢のジャズのメッカへ

ヨーク片町の開店は、1969年の12月22日。マイルス・デイビスが歴史的な名作「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、ジャズ界が大きな転換期を迎えようとしていた年だ。

もちろん、そんなこととヨークの開店とがリンクしているのではないが、とにかくジャズがハゲしく熱気を帯び続けていた時代、そんな時代に、ヨークは金沢に新しい風を吹き込んだのである。

当時、金沢には「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ヨークより二年前にオープンした聴かせ派の店で、狭い店内にJBLの名器から弾き出されたジャズが蔓延する、密室っぽい雰囲気に満ちた店だった。

ヨーク片町もまた、当時のそんなジャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば百人は入れる広いスペースを持っていた。ライブをやる時には、テーブルの間に丸椅子を置き、立ち見も入ると、立錐の余地もないほどまでに客で膨れ上がった。

『 片町時代は。完全なリスニングルームやった。当時はやはりジャズを聴く人間がたくさんおって、コーヒー一杯で二、三時間というのが普通やったね。メニューの種類なんてコーヒーとコーラ、それに紅茶とミルクぐらいや。酒はビールぐらいやったな。

 今みたいに、客としゃべったりする必要もなかったから、カウンターの中のターンテーブルの前で本ばっかり読んどったわ。活字中毒になったのも、そんなとこからかも知れん。純文学はもちろん、手当たり次第、何でも読んどったって感じやね… 』

片町時代の奥井サンには、突っ張った一面があった。リクエスト・アルバムのA面・B面が指定されていないと、敢えてB面をかけたりした(筆者もやられたことがある)。

70年代の中頃に、ジャズファンのみならず広く大ヒットし、その後のソロピアノ・ブームの火付けとなったキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」などは、あまりのリクエストの多さに、そのレコード自体を店に置かないことにしてしまった。それでもファンは集まったのだ。

『 昔のジャズファンと言うのは、ジャズ一辺倒が多かった。一旦、オレはジャズファンだと言ってしまうと、後へは退けないという雰囲気があった。

 他のジャンルの音楽を聴いとっても、聴き方が違うんやね。特に当時の若い連中には、そんなコダワリが強かったわ。(ジョン・)コルトレーンのハゲしいのを聴いていながら、歌謡曲なども聴いてた者もおったやろけど、何でか、ジャズになると皆それなりに一生懸命やった。だから、こっちも突っ張れたんや。

 オレは、決して啓蒙的なマスターじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざと反対の意見を言ったりしたこともあったしね…… 』

当時の店ではよくライブが行われた。特に山下洋輔トリオは、オリジナルの最強メンバーでヨークへ乗り込んできては、とてつもなくハゲしく、そして徹底的に愉しいコンサートで盛り上げてくれた。

コンサートホールでのライブも、今とは比較にならないほど行われており、あのマイルス・デイビスが金沢の観光会館ホールで繰り広げた圧倒的な演奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そして、そんなコンサートがあると、ミュージシャンたちの多くがヨークを訪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな彼らとの写真はおろか、サインなども全く残されていない。

●香林坊へ

1984年12月、ヨークは香林坊の日銀裏へと移転した。十五年を経ての移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ジャズをガンガン聴かせると言う雰囲気も薄くなっていった。営業主体も夜型へと移行した。

若者だったジャズファンは結婚し、家庭をもち、ヨーク(ジャズ)から離れていかざるを得ない者もいた。そして、ジャズというよりも、ジャズを受け入れる社会そのものもまた、はっきりと様相を変えようとしていた。

『 まだジャズの店やっとるという強い意識を持っとったけど、昔ほどではなかった。突っ張っても返ってくるものもなくなったしね。客商売としての難しさも見えてきたんやわ。ジャズファンも含めて、軟弱になっていったんやねェ。

 突っ張り学生も来なくなった。生意気なのもね。サラリーマンとなって、仕事に追われ、家庭サービスにも気を遣うようになっていくと、気持ちがジャズ的ではなくなるんやね。

 金沢の大学にいた時によく来てたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たまに出張で金沢に来ると、必ず寄ってくんやね。そして、決まってリクエストするんやわ。家に持っとるレコードなんにね。

 要するに、家はジャズを聴く場ではなくなったということなんやな。ところが面白いことに、そうやって比較的若い人たちよりも、さらに年配になってくると、子離れもすんでゆとりが生まれてくる。今更カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう一度ジャズでも聴いてみようかといった人たちも出てくるんやね。

 仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次会や三次会のあと、ひとりになってやって来るんやわ。そして、たまに部下なんかも連れてきて、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ジャズのこととか、学生運動時代のこととかね…… 』

香林坊に移ってから、ヨークはコミュニケーションの場的匂いを強めていく。奥井サン自身も、ジャズ的な感覚で得られるさまざまな愉しみなどに手を広めていった。

『 シャイな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ジャズもおかしな風に流されていったように感じるんやね。ジャズって下種(ゲス)な音楽やったもんや。それが何だか、気取って、大人ぶって聴かなければならんものになってしまったもん。

 何にも分かっちゃいない連中が、ジャズを変な風に解釈してるんやわ。ジャズが好きやから、ジャズなら何でもいいと言うのとは違うんやけど、どうもそこらへんがおかしいんやね。

 だから、最近金沢でやってるジャズのコンサート行っても感動せん。ジャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でジャズを語りたくもないけど…

 ジャズの店には、ジャズの店にしかないことってあるんやねェ。例えばレコードのジャケットを見せることとか。ジャズの話を始めたカップルがいると、ちょっと変わったものをかけてみる。ジャケットを見ることで話も弾むんやわ…… 』

*************************

●ジャズ的人生の始まり

ヨークには個性的なニンゲンが集まる。特に香林坊に移ってからは、ジャズそのものよりも奥井サンとのコミュニケーションを求めて来る客が多くなった。個性的なマスターに、個性的な客が集まるという典型だ。

『 毎日、同じ日がないという愉しみを知ったね。同じ客が来ても、同じ愉しさは生まれないけど、別な愉しさは生まれる。毎日がジャムセッションなんやね。

 でも、最近、若い女の子があまり来なくなったな。昔の娘さんばっかり。現役の娘さんが来なくなって、古いのばっかりやね……』

奥井サンの雑学博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、記憶力もかなり凄まじい。活字中毒がもたらした知識の蓄積と、興味をもったものに対する飽くなき追究……?

『 だいたい五時半頃に店開けるんやけど、始めの時間帯って客も来ないわね。そんな時、独りでカウンターの椅子に座って、本読んどるんやけど、そのままなかなか誰も来ない時がたまにあるんやわ。

 そんな時は、活字中毒に火がつく。とにかく何でも読むんやわ。棚に置いてあるものを引っ張り出してね。

 広辞苑だろうが、植物図鑑だろうが、とにかく何でも、広辞苑は飽きないし、読み尽くすということがないからいいねェ。

 読むものは古いとか新しいとか、和洋など問わないで、とにかく面白いと思った本を買って読むんやね。時折、中味が難しすぎて、一日数ページしか進めなかったということもあるけど、それもまたいいんやわ…… 』

黒髪をアップで束ね夏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやってきた。俳号は「酔生虫」という。これは「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉からとったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、また夢を見ているように、無意味に一生を送ること」ということだ。

しかし、実に全くこんなに的を射たネーミングはないと思ってしまう。言葉の意味はもちろんのこと、こんな言葉を探し出してきた奥井サンらしさに敬服してしまうからだ。

『 俳句は、きちんとした会の中で始めた。その後は、店の中で客たちとやるようになったけど、とんでもない理屈こきが多くてね。先生の言うことなんか全然聞こうともせん。ほんとにまあ、たちの悪い門下生ばっかりやわ。

 ここ十年ぐらいの間に、いろんなことをやるようになったね。山野草にも相当のめり込んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きとるね。母親からもいろいろな名前を教わっていたせいか、目に見える花の名前は、ほとんど知っとったもんね…… 』

奥井サンは、よく酔っ払う。

店のマスターなのに、かなりハゲしく酔っていたりして、客なのかマスターなのか区別がつかなくなったりする。だから二日酔いの日も必然的に多くなる。

しかし、奥井サンは奥さんと一緒によく近場の低山へと出かけているのだ。バードウォッチングへの傾倒も、その延長線上にあったものだろう。

『 ヨークは、自然に趣味の話が出来る場になっとったねェ。別にグループを作って、何かやろうというのではなく、各個人のこととしてね。

 今、カメラやっとるけど、あれも奥が深いわ。最近あんまり撮れんようになった。前は何でも撮っとったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし…… 』

奥井サンの写真には、何か独特な雰囲気がある。それが一体何なのかというと難しいのだが、技術などといった俗な評価軸では済ましたくない。そして、それもまた、少年時代の奥井サンに沁み込んだままの何かなのかも知れない。

『 基本的にあるもんは、自分で愉しむってことなんやわ。それができんかったら、何も意味ないわね。他人に強制したりもせんしね、面倒くさいことも、とにかくしない…… 』

あの人は、現代の仙人みたいや…と、奥井サンのことを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街という煩雑な空間の中に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに左右されない何かが潜んでいる。

『 休みかあ…、そんなもん考えたことないなあ。毎年、大晦日から元旦の朝にかけてオールナイトやって、元旦の夜だけは店閉めるけど、あとは全く休まんね。休みという感覚そのものがないんやわ。

 旅行なんてものも、ほとんどしたことない。新婚旅行も行ってないし、大阪(奥さんの実家がある)へも、結婚後一回も行っとらん…… 』

金沢に来て三年後、27歳の時に奥井サンは結婚している。優秀な息子が二人。当然二人とも成人している。

『 分かるやろけど、とにかく父親らしいことはしてないんやわ。教育なんて認識はナシ。夜は全く家にいないし。行楽などもない。

 母親の教育が良かったんやろと思うけど、父親を軽蔑するような息子たちではなかったね。意見がましいことも言わんし、そんな意味じゃ、二人とも男でよかったわ。

 「お父さんは、のんびりしてていいねえ…」なんて生意気なこと言うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡まれて大変なんやぞ。だから、それを紛らすのに酒を飲むんや」などと、言い返したりする。説得力なしやけどね。

 でも、「お父さんは好きなことやってればいいよ」なんて、いいこと言うしねェ。やっぱ、頭が上がらんわ…… 』

来年(1999)の12月で、ヨークは30年になる。今でも新しい客が訪れ、潜在的な部分でヨークは確実に変化している。

奥井サンは今53歳。いつもオープンな店でいたいと言う。“個性派の集まり”という店の個性も奥井サン自身が作り上げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどといったも考えていない。にじみ出てくるものというのは、単なる店の内装だとかといった単純なものからではないということを、奥井サンが教えてくれる。

『 元気なうちは店をやっていく。でも、そんなことも考えたくないね。ジャスを広めたいという気持ちもないし、息子たちにもそんなこと求めんわ。

 ジャズの店はもう再生しないと思うんや。音を絞ったりして聴くジャズは、やっぱりちょっと違うんやね。ライブでもパワーが感じられない演奏を、皆がそんなもんかと聴いとるわね。あれはもうオレにはジャズじゃない。

 もっきりや(ヨークの二年後にオープンした金沢柿木畠のジャズの店)は頑張ってるけど、やっぱり昔みたいに、大きなホールで、バリバリなのがコンサートやるようにならんと、金沢のジャズシーンは元に戻らんわ。それも、むずかしい話やけど…。

 これから? 

 これからは、ますます趣味の世界やし、死んだら終わりやけど、死ぬまでは店もやる。毎日は愉しいね…。やっぱ、ジャズ・フィーリングなんやねェ。

 いつやったか、もう店やっとるのがイヤになったことがあるんやわ。

 その時、(山下)洋輔さんから、「毎日、違うお客さんが来て、毎日、アドリブですね。そういうことを愉しみながら、毎日、エヘラエヘラとやっていけばいいんじゃないですか。金沢にヨークがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第一、儲けようなんて思ってないでしょ…」なんて言われてね。

 金はあった方がいいけど、たまに若い女の子も来るから、また頑張るかなって思った。

 あんまり、面白い話にならんかったねェ…… 』 (終わり)

・・・・・・・ いつも普通に話していたのだが、その日の会話は特別なものだった。

二時間半の、特別な時間。そして、セッションは終わったのだ……

ヨークは、今も香林坊日銀裏で奥井サンの妻・禎子さんによって営業を続けている・・・・・・

笹ヶ峰~残雪の上で書き下ろす

 恒例になった毎春の笹ヶ峰スキートレッキング。

 ちょっと空白があったが、二年前に復活して、その時から現地書き下ろしを始めた。

 だから、今もボクは笹ヶ峰の雪原の岩の上に座り、ノートを広げているのだ。

 快晴である。暖かくて、雪面の照り返しもきつい。

 今のところ、前方に見える山の頂上付近に、綿をちぎったような白い雲が緩やかに浮いているだけで、空は全くの青。

 文句の付けようのない日になっている。

 昼飯を終え、雪の上に置いたノンアルコール・ビールの残りを飲みながら、ノートを広げた。

 時間は12時45分。

 8時半、いや9時近くだったろうか、いつもとちょっと違う場所にクルマを停めてスキーを履いた。

 白樺の樹林帯を抜けて、雪原に出ると、いつものように宇棚の清水と呼ばれる湧水のせせらぎに沿って登る。

 澄んだせせらぎの脇に水芭蕉が咲いていて、何度も足を止めてはカメラを手にした。

  今年は去年より雪も多いような気がする。

 昼飯の定位置となっていた大きな岩もまだ雪の中に埋まっているのか、見つからなかった。

 だから、今年はいつもと違うちょっと低めの岩を腰掛け代わりにしている。

 それにしても、相変わらず見事なくらいに静かだ。

 聞こえてくるのは遠くの鳥のさえずりや沢のせせらぎぐらいで、ノートの上を滑るペンの音さえが鮮明に聞き取れる。

 暖かいせいか、雪もやわらかい。

 しかも、例年と比較すると雪が新しい感じがして、スキーの滑りも何となくよかったりするのだ。

 下界の最高気温が25度と言っていたくらいだから、防寒着など全く不要だ。

 いつものようにスキーで笹ヶ峰牧場を隅から隅まで歩き、登り、滑る。

 この広々とした雪原を、今日は自分が独占しているといった感じで、申し訳ない気にもなる。

 たしかにクロスカントリーの練習コースになっているところには、何人かのスキーヤーがいたが、そこを抜けるとまったく人影は見えなくなった。

 例年なら四五人程度だが、人影を見るのだ。

 山の方に入る時、車道を横切ったが、その時に三人組の運転手が手を上げて挨拶して行った。

 サングラスで顔はよく分からなかったが、ニコリと笑っていた。

 ジープの屋根にはボクと同じテレマークスキーが三セット載せられていて、同じ仲間という感覚で手を上げてくれたのだろう。

 こっちも手を上げて笑い返した。

 ただ、彼らのテレマークはボクのとは違い、新しいスタイルのものだったな。

 コンビニおにぎりには相変わらず苦戦したが、ゆったりと昼飯を食い終えた。

 そして、ゆっくりコーヒーでもと思っていたのだが、持ってくるのを忘れて白湯で我慢。

 このことはかなりテンションを下げてしまった。だが、仕方ない。

 これから、下の方に滑り下りて、清水ヶ池から樹林帯を通ってクルマの方へと戻るが、クルマを置いた周辺にも広く開けた雪原があり、そこでも一登り・一滑りをして来ようと思っている。

 日焼け止めは、妙高高原ICで下りてから、いつものコンビニで買った。

 しかし、今日みたいな日は日焼けするぐらいでいいのだ。

 それにしても、こんなにのんびり穏やかな気分でいられるのは、笹ヶ峰に通うようになってから初めてかも知れない。

 雪の中に突き刺しておいたスキーの雪も、とっくに乾いている。

 時計は、13時5分。そろそろスタートしょうかな……

森林公園をテレマークで

 

津幡町にある石川県森林公園には、家から河北潟干拓地の道を縦断して、20分もあれば着く。

もちろんクルマでであって、公園の南口にあるインフォメーションセンター前駐車場までは、何とか入っていける。

そこにクルマを置き、スキーを片手に林道までわずかに歩くと、あとはもうずっと雪道と雪野原と木立の中の雪原だ。

スノーシューなどで雪上歩行を楽しむ人たちもいるみたいで、道の真ん中には踏み跡がある。

そのトレールをたどって行けば、多少ガタつきながらもスキーはそれなりに滑ってくれる。

踏み跡のない雪原に出ると、ブーツの半分ぐらいは埋まるが、こちらもそれなりに楽しいウォーキングとなる。

午後から家を出たので、今回は軽く小手調べといったところ。

何となく雰囲気だけ掴んで、次回からは本格的に道なきところまで行ってみようと考えてきた。

正味2時間ぐらいだったが、出会った人は一人だけ。朝のうちに引き上げてしまったのだと思われる。

しかし、家から20分でこんな静かな世界に来れるのが嬉しい。

鳥たちの囀りや、枝から雪が落ちる音ぐらいしか聞こえてこない。

時折、薄雲に太陽は陰るが、基本的に日差しがあって気持ちよかった。

次回はクルマを途中にデポして、自由に走り回るつもり。楽しみが増えた・・・・・・

東京で志賀の油揚げを考えた

これは、東京・新丸の内ビルディング、通称「新丸ビル」の一階にあり、東京駅の煉瓦造りの建物を眺めながらコーヒーが飲める、天井が高くてガラス張りになった某カフェの中で走り書きしている文章である。

念のために言っておくと、東京駅の駅舎はまだ工事中で、仮設のプレハブや仮囲いで覆われていて、ほんの一部しか見えない。ただし、見えている部分はそれなりにかっこいい。

いつの間にか、このあたりはかなり歩き慣れてきた。さっきも道を尋ねられたが、なぜかすらすらと伝えられるから不思議だ。

一年に五、六回しか入らないであろうこの店も、陽の当たり具合とかが分かるようになっていて、直射日光を避けられる隅っこの席を確保したりする。

で…、ここで、東京駅前の人通りを眺めながら書くのは、石川県能登半島の志賀町にあった小さな豆腐屋さんがやめてしまったことについての、かなりセンチメンタルな雑感および雑想である。

なのだが…、本題に入る前に、やむなく不幸にもこのページへと来てしまった読者の皆さんのために、予備知識的な話をしておかなければならない。

(と、ここまで書いたところで約束時間となり、続きはまた後にする…)

 

(続きは、有楽町国際フォーラムの、だだっ広いカフェでとなった…)

それ(つまり、予備知識的な話)は、ボクがいかに豆腐屋さんの作り出す食材と親しく付き合ってきたかだ。

モノ心が付いた頃、ボクは自分の家の親戚に豆腐さんがあることを何となく知った。

それはUノ気という隣町にあり、歩いても走っても行けるところではなかったが、時々バスに乗って、母と出かけることがあった。

親戚はH田さんと言った。その家に着くと、ぷゥ~んといい匂いが漂ってくる。ボクはすぐにおろおろと豆腐づくりの現場をうろついたりした。

居間に上がると、お菓子が出ていたが、そんなお菓子よりも、店の商品の方に強く激しく魅かれていたのだ。

行くと、帰りには必ず新聞紙にくるまれ、さらにそれをビニール袋に入れたおみやげが渡された。

H田のおばちゃんが愛想よく笑いながら、母に渡すのだ。すると、母はすぐにそれをボクに回す。

それとは、油揚げだった。何度も書いてきたし話もしてきたが、ボクは小さい頃から、油揚げが大好きな子供だったのだ(小さい頃から子供だったというのは妙だが、ここは思い入れの強さが露見したということで理解してもらうしかあるまい……)。

その好きさ加減としては、たとえば正月のおせち料理に、我が家では油揚げが大量に煮られたが、その約九十五パーセントはボクが食っていた。おかずと空食いの比率は六:四くらいで、純粋に油揚げの味を理解していた証と言える…?

ボクは母から回された油揚げの入った袋を膝にのせて、バスの座席に座っていた。

ほのかな温もりはボクを幸せにしてくれた。が、大好きなあの匂いはすぐにバスの中に漂い始め、それがかなりの範囲に行き渡っているなと感じられた時には、ちょっと恥ずかしくもなった。

今何かに活かされているというものではないが、貴重な体験だった。

相変わらず前置きが非常に長いが、そんな油揚げ大好きニンゲンにとって、昨年羽咋市滝町の「港の駅たき」(当時の名)で見つけた一品の美味さは格別で、ボクの情報を入手した金沢柿木畠・「ヒッコリー」のマスター、M野K一さんが激しく反応したという話は、昨年の重大ニュースのひとつになっている。もちろんヒッコリー内部でのことで、カウンター席周辺で大いに話題になったものだ。

ヒッコリー・M野K一さんといえば、ご存じあの「大洋軒の焼き飯」を復活させた人だ。

人のやさしさと庶民の味に敏感なM野さんが、あの油揚げの味に飛び上がったのも当然で、それから何度も愛用のオートバイで風を切りながら(かどうか知らないが)、頻繁に出かけていたのである。

その油揚げこそが、志賀町の田舎にあった某豆腐屋さんで作られていたもので、材料も吟味されたいいものを使い、油揚げらしい素朴な風味を余すところなく出した絶品だったのである。

先日、「汐風の市場滝みなと」(これが港の駅たきの新名称)に立ち寄った時、棚にはその油揚げが並んでいなかった。

豆腐を入れる四角いビニール容器に、小さく三角に切った油揚げを無作為に入れたものだが、歯応え十分、口の中に残るあの雑然とした感触は、素朴な油揚げの象徴でもある。

厚揚げの方がもてはやされている今日(「こんにち」と読んでほしい))では、あの感触はなかなか味わいにくい。

棚になかったのを確認した時、夕方だったこともあって、もう売り切れたのだろうと普通に思っていた。

その代りに(でもないが)、地元の元潜水夫さんが目の前の防波堤付近に潜って採ってきたという「寒ナマコ」がバケツに入れて置いてあり、店のO戸さんとの話はそっちの方に多く時間を割いていたのだ。

そして結局、豆腐屋さん営業取りやめのニュースは、後日ヒッコリーで聞くに至ったのだった。

ボクはカウンターの椅子から落ちそうになった。

M野さんの話では、その豆腐屋さんは決して営業的に行き詰ったというわけではないらしかった。

もちろん生活に困窮しているわけでもなく、むしろ豆腐屋稼業は一種こだわりの中でやってきたものであって、原材料の確保などで無理があったのかも知れない。

ただ言えるのは、油揚げや豆腐を生活の中の大切な友としてきた者たち(たとえば、ボクのような)は、これから先一体どうすればいいのだろう…?ということである。

 

誰か志賀町で、あの豆腐屋さんのあとを継ぐような青年はいないだろうか?

青年でなくてもいい。オトッつァんでも許す。当然おっかさんでもいいのだ。

テメエがやりゃいいじゃねえかという人もいるかも知れないが、どうも朝早く起きれる自信がないし、出来たものをついつい摘み食いばかりしてしまいそうな予感がする。

ボクには豆腐屋になる適性はない…。食べる方の適性は完璧にあるが……

それにしても、あの油揚げがこの世から消えていくことは、能登の文化のひとつの損失である…と言えるかもしれない。

ボクの知る限り、穴水や輪島には、美味いいなりそば(うどん)を食べさせてくれる店がまだまだ存在しているが、どうも「いしる」などと同じように、自家製っぽさの風土が消えていきそうな危機感がある。

よそ者の、都合のいい戯言なのだが、なんかセンチメンタルなのである………

http://htbt.jp/?p=2558  「B級風景と港の駅の油揚げ・・・」

 

雪を待つ・・・

山に雪が来た…などというニュースを見聞きすると、毎年必ずやることがある。

それは、自分の二畳半の部屋に置かれてあるテレマークスキーの道具類に目を向けることだ。

目を向けるというのは、まさに言葉のとおりで、何気なくモノの存在を確認するといった方が正しいかもしれない。

そして、さらに強いてやることと言えば、それらに軽く手を触れ、「やあ」とかというふうに声掛けするくらいだ。

ボクがテレマークスキーに、文字どおり乗り換えたのはもう二十年ほど前だ。

それ以前は普通のゲレンデスキーをやっていたのだが、山や雪野原を駆けめぐるという、ただひたすら楽しそうな誘惑に負けて(そんなに受身的ではなかったが)、切り替えた。

買った時のことははっきりと覚えている。一月の会社の社員旅行(ハワイ行き)のために積み立ててあった金を、そのまま道具一式の費用にまわしたのだ。

もちろん社員旅行には参加しなかった。今がチャンスと思い、十一月の終わり頃から、当時住んでいた金沢のアパートの近くにあったK-ジツ(今はない)へと通っていた。

店長のNさんとは山系グッズの買い物などですでに顔見知りになっていて、テレマークの買い物の時も当然いろいろとアドバイスをくれた。

会社の連中が何グループかに分かれてハワイへと旅立っていく頃、ボクはその店では八人目のテレマークスキー購入者になった。Nさんが言った。

「どうせ、他では売ってないから、たぶんナカイさんが石川県で八番目のテレマーカーでしょう…」

それはなかなかいい響きで、ボクは当然、そうか、やはりそうなのかと納得した。

スキーの板に素朴なビンディング、伸縮ストックに革製のブーツ。それにツアーの登りに板の裏側に張り付けるシール。ついでにツアー用のザック。なかなか心強い道具たちが揃った。

しかし、それからテレマーク独特の技術を習得していくまでは、苦労とは言わないまでも、それなりに大変な日々が続く。

なにしろお手本というのは、ヤマケイなどの山岳雑誌に出ている写真だけ。教則本を注文すると二週間は要し、それまでは家の畳の上で感触を確認し、そして肝心の雪を待った。

教則本が届くとじっくりとイメージをつくる。初体験は忘れもしない白山一里野スキー場だった。

ゲレンデの端。ほとんどスキーヤーの入って来ない場所を選んで、そこを練習場にする。頭の上をリフトが通っていて、その視線は気になるが、贅沢は言えない。

教則本のコピーをクリアファイルに挟んで持ち込み、上部の雪の上に置く。そしてひたすらイメージを頭に叩き込んでから、ゆっくりと滑り降りてみる。

板が細く、軽い。その分不安定な感じもする。テレマークスキーは、簡単に言うと後方にある足の踵を浮かせて、膝を曲げながらターンする。ジャンプ競技の着地の時の姿勢をテレマークというが、それと同じだ。ついでに言うと、踵がフリーであるということは歩行をより有利にしてくれるということでもある。

何度か滑っていくうちに、テレマークターンができるようになった。大袈裟に言えば、テレマークターンが決まった。ゆっくりと曲がっていったあの時の感触は、今もはっきりと覚えている。

それからひたすらスキー場の端っこへと通った。しかし、当然休日しか来れない。街にいても、横断歩道で信号待ちしていると膝が曲がった。ちょっとした坂道を下りる時でも、蛇行するような歩き方をして、テレマークターンのイメージを身体に沁み込ませていた。もちろん無意識にやっていた場合が多い。

そんなこんなで、何とか滑れるようになると、今度は教則本の止まった写真ではなく、実際に生のテレマーカーを見たいと思うようになった。

赤倉に行けば、動くテレマーカーを見ることができると知ると、早速赤倉へと向かった。そこで見たテレマーカーたちは凄かった。まだそれほど人数も少なかった頃だが、想像をはるかに超える自在さで、いろいろな斜面、そして雪質にも対応していく姿を目の当たりにして、かなりビビった。

あれからもう二十年近くの歳月が過ぎている。その間に立山、白山、白馬、妙高、そして地元の医王山や立山山麓の雪原に出かけたが、どこへ行っても満足した経験はない。それは常に、技術や安全との背中合わせだったからだろう。

数百メートルの急な斜面をゆっくり大きな弧を描いて下りて(行かざるを得ない)行く時のスリル。ほとんど凍っている表面の雪を割るようにして進む勇気。今思い出しても、ゾーッとする。単独が多かったせいもあって、寒風の中で立ち往生していた自分を想像するだけで、妙に恥ずかしくなったりもする。

そんな時の救いは、岩陰で沸かした一杯のコーヒーの味や、雪と戯れる雷鳥の姿だったりした。

最近は妙高笹ヶ峰の高原をスキーで歩き、走り、滑るのが唯一の楽しみなのだが、今年は雪が来ると、まず津幡の森林公園に出かけてみようと思っている。去年くらいの雪が降ってくれれば、森林公園は格好のフィールドになる。

板はもちろん、ブーツにもかなり痛みがあり、もうそれほど長い期間は使えないことが分かってきた。その手入れのことを聞きに、今度Nに会いに行くつもりだ。久しぶりに昔の話でもしようかと思う。

この話は、まだ続きそうな予感がする……

秋はまだ始まったばかり

某ショッピングセンター内の書店で面白そうだと手に取った一冊の本。チラチラと読んでいくと、予想どおり面白い。立ち読みは辛いので周囲を見回すと、本棚の角、いいところに椅子がある。腰を据え、ほとんど走り読みながらも七割ほどは読み終えてしまった。

談志師匠の最新本(にあたるだろう)だと思う。といっても、去年出た本だ。帯にもあるが、買うのはよしたほうがいいと言っているので、とにかく走り読みに徹しようと思っていた。しかし、三割を残して制限時間いっぱい、店を出なければならないこととなった。しかも走り読みだから、中身ももうひとつ体にというかアタマにというか沁み込み方が足りないまま・・・

帰ってから飯を食っていても、歯を磨いていても気になり、寝床に入ってからも気になっていたので、ついに我慢できなくなり、翌日、某デパート内の書店で買ってしまった。本はやはり自分のものにして読むのがいちばん。かつては本とレコードと洋服、そして山の道具と小さな旅のために金を使ってきた。今は少ないが、本のためにいちばん金を使っているかもしれない。

買ってからじっくりと二回読んだ。「やかん」というのは落語の題目だが、『世間はやかん』というタイトルは単なるゴロ合わせだろうか。全編にわたって、長屋のご隠居と住人・八っつあんとの対話形式で進んでいく。べらんめえ調の文章だから、読み方もべらんめえ調になる。内容は一言で言っていい加減。しかし、そのいい加減さが徹底されて、そこに真実が見えてくる・・・と言えば大袈裟か? とにかく立川談志の世界なのである。

短いジョークがいい。ひとつだけ紹介すると・・・

「ねえ、おにぎり恵んでくださいよ。ここ三年ばかり、満足にコメの味、味わってェないんですよ」 「心配するな、変わってねぇから」

おまけに、もうひとついく。

「お前はいつも電話が長いね。一時間二時間平気で喋ってんだから。でも今日は短かったじゃないか、三十分だったよ。だれだったの、電話?」 「間違い電話」

まあ、こんな具合にというか、矢継ぎ早にジョークが弾んでいく。弾け砕けながらの約二百ページだ。

去年だろうか、NHKの夜のラジオ番組にレギュラーで出ていた談志師匠は、声もやっと出るくらいの調子で、言っていることはおかしくてたまらないのだが、言葉少なで可哀想だった。

一九三六年生まれだから、もう七十五歳。若い頃は正直言って、どこか憎たらしい感じもあったが、今では自分も談志師匠とほぼ同類科に属しているような感覚にもなっていて、大いに親しみを感じているのだ。

そんなわけで秋の始まりを感じている。

秋晴れの午後、いい気分で、お向かいの津幡町にある森林公園へ歩きに出かけた。しかし、コース選択を間違えて予定をはるかに上回る時間を要してしまった。山で鍛えられたから普通ならそれくらい平気なのだが、歩き始めが遅かったので、駐車場の閉鎖時間に間に合わないかと焦ってしまった。

原因は、サイクリングロードを歩いたからだ。道は舗装されているが、歩行コースよりははるかに長い。当たり前だが、そこを歩くということは時間がかかるということだった。

冷え込み始めた山間の向こうから、超低質なスピーカーをとおして『蛍の光』が聞こえていた。最初は重機の異常音かなんかだと思ったが、よく聞いていくと『蛍の光』だと分かった。ただ、分かってからは焦りが増したのは言うまでなく、そのおかげもあってか、何とか駐車場にたどり着くことができたのである。

しかし、音響システムも悪いが、案内システムもよくないのではないかと思ってしまった。現在地が分からない森は、慣れない人にとってパニックになる恐れがある・・・と、思う。

森林公園には「どんぐりの道」というエリアがある。まだ九月の下旬、道にはぽつぽつとどんぐりが落ちていたが、まだまだ半熟状況で、大きさも色ももうちょっとといった具合だった。

それよりもどんぐり以上に目立ったのがカマキリだ。いたる所に待ち構えていて、アスファルトの路上まで危険な狩りに出ていた。中には蜂をカマに刺した雄々しいのもいて、秋の勇者は健在だった。ただ数があまりに多くて、「どんぐりの道」よりも、「カマキリの道」にした方がいいのではと、余計なこともついでに考えてしまったのである。前にも書いたことがあるが、ボクはカマキリが好きだ。木板張りの我が家の壁にも、カマキリたちは卵を産む。そして、そこから無数の子供たちが巣立っていく。

若いファミリーが歩いて来て、若いお父さんが一匹のカマキリを捕まえた。小さな男の子に、これが本当のカマキリだよと見せている。本当のカマキリとはどういう意味なのだろう? ちょっと考えたが、面倒臭いのでそのまま考えるのをやめた。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

空も秋になりつつあった。帰路、河北潟干拓地の道から内灘の空が赤く染まっているのを遠く眺める。中空に雲が薄く浮かんで見えて、何か爽やかで尊いものを見ているような気持ちになった。

砂丘の公園にある展望台に向かい、その階段を昇った。内灘の海に落ちていく太陽を追って、多くの人がやって来ていた。皆が海の方を向いている中、ボクは反対側に見える北アルプス北部の山並みに目をやっていた。剣岳がごつごつした山容をくっきりと浮かび上がらせている。そう言えば、来月は薬師岳の閉山だったことを思い出した。

夏や冬は焦るが、秋は焦らないで過ごせるからいい。談志師匠のスタンスで、今年の秋はやり過ごしてみようかと思う・・・・・・

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

富来から門前への道~その1

旧富来町から旧門前町に通じる道にはいくつかあるが、最も知られていないのが、今回のこの道なのではないだろうか…、と秘かに思い、嬉しくなった。

一般的に富来から門前への道と言えば、国道二四九号線だろう。能登観光のルートとしては、増穂浦から西海、ヤセの断崖などを通る道もある。このルートは観光用途であり、最終的に門前に入る時には前者と合流する。

旧門前黒島に堂々と復原された角海家の仕事のために、八月に入ってからもよく門前行きを続けた。始めの頃は、同時に富来というか、志賀町図書館の仕事も並行していて、富来経由門前行きというパターンも数回あった。

初めてこの道を走った日は、富来で行きつけとなった超大衆食堂・Eさん(前に正式名で紹介したような気もするが…)で、いつもの「野菜ラーメン」を、いつも付けている「おにぎり」を付けずに食べてから、ふと考えてクルマを走らせた。

いつも同じ道から門前へと向かっているが、たまには違う道から行ってみたいと思った。そして、ある話を思い出した。

それは角海家の仕事で地元の歴史・民俗に関する文章のチェックをお願いしている、門前のK先生が言われていたことだ。ボクが能登の農村風景が好きだと話していた時、先生が富来から中島(現七尾市)に抜ける道にある農村風景は、特に素晴らしいよと語ってくれた。ボクは門前もかなりいい線いっていると思っていたのだが、先生の言葉にはかなりの説得力があり、是非一度そのことの再確認に出掛けてみたいと思った。

再確認としたのは、何年も前にその道を走ったことがあったからだ。しかし、記憶には残っていない。多分行ってみると、懐かしさに心を震わせたりするのかも知れないが、どうもピンときてはいなかった。

実際に走る道は、中島へ抜ける道から門前の馬場・剱地方面へと分岐していくのだが、その雰囲気は味わえるかも知れない…と思った。それに新しい道というのは、知ってしまうといつも好奇心をくすぐる。さらに、ボクには特別な意味合いもある。

しかし、初めての日は慌ただしかった……

二度目は、富来を代表する超大衆食堂・Eさんが休みで、かねてより少しだけ気になっていた、町の中心部にある古い佇まいの大衆食堂(名前が出てこない…)で、「カツ丼」を食べてからクルマを走らせた。

古い佇まいの食堂では、テレビももうすでに地デジ放送になったのを知らないかのように、夏の甲子園をハレーション化していた。小さなお子さんたちにはかなり目に悪いのではないだろうかと思われたが、そんなお子さんたちがやって来るような店でもないからと安心して、「カツ丼」を注文。

玉子とじ状況が予想をはるかに超えるくらいに著しく過激な「カツ丼」が届いた頃には、ボク以外にまだ誰も他の客はいなかった。が、すぐに、一人また一人と入って来ては、それぞれが四人掛けのテーブルに一人ずつ座っていく。ボクが食い終わらないと、次に入ってくる客は相席となり、当然このままでは順番からしてボクの前に座ることになるであろう。そのことは明白だった。

ボクはそのような空気の中で、とりあえず普通にその「カツ丼」を平らげ、残っていたミョウガとアサリの味噌汁を飲み干して外に出た。素朴に美味かった。これだから富来は凄いのだ……。

味噌汁が効いたのか、汗が胸と背中に均等に流れ落ちていった。いや、どちらかと言えば、背中の方がやや多かったかもしれない。ゴツい造りの店内を見回し、店のお母さんに勘定を払う。“ありがとねェ”と親しみをいっぱいに感じさせる言葉が返って来た。

その言葉がエネルギーとなり、ボクは熱気ムンムンのクルマに乗り込んだ。そう言えば誰かが言っていたなあ。黒いクルマは熱いんだと……。でも仕方がないではないか。

今日は、あの道を究めよう。気温は三十五度近くまで上がっているに違いない。アスファルトが白く見える。

住宅地を抜け広々とした田園地帯に出ると、進行方向の低い山並みの上に見事な入道雲。その先端が、風に揺らされ靡いている。ゆっくりとした動きが感じ取れる。クルマを止めカメラを構えた。〈タイトル写真〉

トラックが通り過ぎていき、熱気が右から左へと移動していく。質量とも半端ではない。鼻のアタマがあっという間にヒリヒリし始めた。いきなりいい場面に遭遇できたことに嬉しくなった。

道は山越えバージョンに入って行く。

能登は海なのだが、能登は山でもある。今風に言えば、里海でもあり里山でもあるという優等生なのである。実はボクにはそのことに関して、ずっと持って来た自分なりの思いがあるのだが、今ここで書くかは分からない。なりゆきでいこう……

陸上をひたすら進んでいくには、真っ直ぐな道がいいに決まっている。昔は海運の発達で海辺にある村が発展するのだが、山里の人たちはそのような海辺の村に行くためにただ山道を歩いていった。

ただ、山道はときどきいくつにも分岐しているから、逆にいろいろな方向へと行けるメリットがあった。海沿いの道には全く分岐がないのを見れば分かるだろう。片側が海だから十字路など存在しない。

しばらく走ると、例えば北海道や信州の山道の何分の一かのスケールで、見事なダウン・アンド・アップの直線道が現れる。本当はカナダやアラスカなどの壮大な例えを出したいのだが、新婚旅行のハワイと万国博の上海しか行ったことのない、幅の狭いボクにはそんな例えが精一杯だ。

しかし、実に爽快なドライブ感覚でもある。下りはアクセルを踏まなくても一〇〇キロ近くまで出た。しばらくは人の生活感を全く感じさせない人工的な道が続いた。次第にあまりにも味気ないので退屈になる。対向車もかなりまばらで、沿線の草は伸び放題になっていた。

待ちに待った山里らしき気配、農村風景への期待が高まってきたのは、下りがずっと続いた後だった……

※後篇につづく……

久しぶりに上高地を歩く

かなり久しぶりに上高地に行ってきた。盆の休みに入る前、どこか予定は?と聞かれ、何もないと軽く答えたら、それはナカイらしくないと言われた。その言葉がグサリと胸に突き刺さった。やはりそうだよなと軽率な返答を反省し、それなら久しぶりに上高地にでも行くかなと、五秒ぐらいの間に決めた。

上高地は最近ずっと気になっていた場所だ。二十代の頃には春の終わりから本格的な夏の始まりの頃合いを見て、いつも足を運んでいた。多いときには、一ヶ月に五回ほどは通った。それくらい上高地が好きだった。

初めは上高地の平らなエリアを歩きまわり、梓川の美しさと樹林帯の静寂、穂高連峰など山々の圧倒的な姿に酔いしれた。平らなエリアだけでも、ほぼすべて歩いて元の位置に戻るまでには、八時間くらいかかる。早朝に着いて、夕方に上高地を出る。当時はマイカー規制のない期間があり、その期間を中心にして精力的に出かけていた。楽しい時間だった。

慣れてくると、歩きまわることよりも、どこかでゆっくりと時間を過ごすことの方に楽しみを感じるようになっていった。

特に誰もいない梓川の河原に出て、せせらぎを聞きながら山並みを眺めている時間は最高だった。想像を働かせていると、江戸時代、上高地で働いていたという樵(きこり)たちの声が聞こえてくるような気がした。新田次郎の『槍ヶ岳開山』に出てくる、槍ヶ岳の初登頂者・播隆(ばんりゅう)上人たちの一行が、近くを通り過ぎていくような気配を感じ、思わず振り返ったりもした。

それらをもたらしていたのは、空気だった。あの時ボクの周りにあった空気は、時代や日常という感覚を超越していたように思う。ボク自身が過敏になり、それを求めていたということもあろうが、そういう空気を自分が歓迎していたことは間違いない。

上高地に通ううち、途中から山深くに入るようになり、上高地は通過点みたいになっていく。それでも早朝や夕方の上高地は新鮮だった。朝は快調に早足で河童橋を出発し、そして疲れ切った翌日の夕方は、開き直りの早足で横尾からの道を戻った。

忘れもしない穂高初山行の時には、梅雨明け直後の晴天の下、一泊二日では厳しいスケジュールにも関わらず、無理やり睡眠時間を短縮して歩きとおし、放心状態で下山してきた。梓川の水が憎たらしいほど美しかった。

横尾から徳沢という場所までの道すがら、ボクは真剣に靴もソックスも脱いで、川の中に入って行き、そのまま河童橋付近までザブザブと歩いて行きたいと考えていた。今で言う熱射病に近い症状だったのだろうが、確かに飲み物というとビールとコーヒーばかりで利尿効果抜群、体内にはあまり水分は残っていなかったのだろう。冷静な思考力などおこるはずがない。

完璧なヤケクソ状態のまま河童橋までたどり着いた。が、休憩はせず、そのままバスターミナルまで進んだ。その頃のボクは休まない登山者だった。たとえば、三、四時間くらいであれば、一度も休まずに歩くということは全く普通だった。

だいたいコースには決まって休憩地点がある。しかし、そこには決まっていくつかのグループがいる。単独であるボクは、ついついそんな場所を避け、もうちょっと先で気ままに休もうと思うのだが、なかなかそんないい場所はない。そのうち休憩などどうでもいいと思うようになり、どんどん行ってしまう。そんなことを繰り返すうちに、ボクは休憩しない登山者になった。しかし、これはよくない。体力を消耗するだけだ。

上高地の思い出にはきりがない。自分でもおかしく思えるくらいに、ひとつひとつが鮮明だ。そしてもうひとつ大切で鮮明なのは、上高地周辺での思い出だ。忘れられないのが、上高地への長野県側からの入り口である沢渡(さわんど)の土産物屋さん。かつて毎年のように立ち寄っていたその店は、いつの間にか店じまいしていた。

長身で上品そうな店の奥さん(その頃からおばあさんだったが)の顔は、今でも何となく覚えている。初めて店に入った時、タバコ吸ってもいいですか?と、ボクが聞いたことから会話が始まった。そのことを奥さんはずっと覚えてくれていた。旦那さんが亡くなり、店の営業範囲が狭くなり、それから数年したら店は閉じられていたと記憶する。

そして、上高地への岐阜県側からの入り口、平湯温泉までの道にある上宝村の風景もまた忘れられない。今回もその素朴な風情に触れてきた。

久しぶりにやって来た上高地は、やはり美しかった。人が多いこと以外は、文句のつけようがないくらいに素晴らしく、さすが上高地だなあと嬉しくなった。河童橋横の五千尺さんは見事に今風に変身していて、今では「いなりうどん」を頼むような野暮なことは言えず、と言っても、登山者のニーズに応えるかのような「山賊定食」などを提供するあたり、これもさすがだなあと思ったりした。

とりあえず定番のような大正池~河童橋コースを歩かせていただいた。どこかによそよそしさを感じたりしたのは、いつも大きなザックを背負い歩いていた自分とは違う身軽さのせいだったのだろうか。何となく、穂高連峰が遠い存在に思えた。

ただ、少しずつ雲が出始めた空を見上げ、雨の気配を感じ、バスターミナルまで急いだあたりは、まだまだ山の感覚が残っていると嬉しくなったりもした。バスターミナルに着いた途端、山特有のスコールがやって来たのだ・・・・・・

ひまわりが咲いた

ひまわりが咲いた。家の南側後方に十五本ほど植えてあるうちの、七本が蕾を開いた。家の前方付近にもかなり植えてあるが、こちらはまだ背も低く蕾も固い。しかし、背丈は関係なく、咲くやつは小さいままでも咲いてしまうみたいだ。

同じ場所に植えても、前方か後方かで蕾の向きは違う。前号で太陽は西にあるのに花は東に向いたままだと書いたが、花は十分な重みを持っているから、一旦どちらかに向いてしまうと、なかなか方向転換は出来ないのだろう。うちのひまわりたちも東向きと西向き、一部南向きなど、それぞれに性格や生き方があるのか方向が異なっている。

ひまわりは、漢字で書くと“向日葵”になる。

漢字の方がかっこいいが、うちのは敢えて、ひらがなにしたい。何となく漢字にしてしまうと、何か大きな深い意味を持ち合わせてしまい、素朴な感じがなくなるように思う。

たとえばゴッホのひまわりは、「向日葵」でもいいのだろうが、うちのひまわりは「ひまわり」のままで、敢えて漢字変換しなくていい。カマキリの赤ん坊に葉っぱを好きなだけ食わせてしまったことでもあるし、そのボロボロなイメージは、向日葵という表記にふさわしくない。

昔、「バラが咲いた」というフォークソングが大ヒットした。その中に“寂しかった僕の庭が明るくなった”という意味の歌詞があった。

ひまわりもまさにそうだなとボクは思う。特定の目的もなく、ただ薄らぼんやりと存在していた砂の空き地(ボクはそこを“多目的空地”と呼んでいる)に、ひまわりが咲いて、空き地がというか家の周囲が明るくなった。辺り一面除草し、枯草を燃やしたのも功を奏したが、ひまわりがもたらしてくれる目に見えないウキウキ感は計り知れない。

ただ、ここ最近のはっきりしない夏の様子や、ゲリラ的豪雨をもたらす異常気象は、この平和なひまわり感に影を落としてもいる。ひまわりたちも、開花のスピードを落とされ、申し訳なさそうに見えていたのは気のせいか・・・。

しかし、やはりひまわりは夏の情緒をカンペキに表現する花だと思う。敢えて情緒としたのも、ただ単なる見た目だけの要素ではない何かが、あの黄色と茶色の花全体に凝縮されていると感じるからだ。

文句のつけようがない清々しさがある。堂々として潔く、物事に動じないような大らかさがある。だから、見ている者に勇気を与え、今日を頑張ろうとか、明日への活力などといった美しい響きの言葉を連想させたりするのだ。

ところで、今は亡き酔生虫先生の俳句でボクが最も好きなものに、「黒髪をアップで束ね夏野ゆく」というのがある。その句の中では、かっこいい女の子が闊歩していく草原の道の脇に、美しいひまわりが立っているという情景が、ボクのイメージだ。とにかくひたすら元気を発信する、ひまわりなのだ。

そんなわけで、ボクの家のひまわりは咲いたのだが、賢明な読者の皆さんには、あのライバル?N西さんちの畑に植えられたひまわりは一体どうなったか? さぞかし気になっていることだろう。

実はほぼ同時に花は開いたと言っていい。しかし、N西さんちのひまわりは、うちよりもちょっと小ぶりの、花の色もレモンイエローに近かった。ちょっと明朗さに欠ける・・・。うちのはイエローそのものだ。しかも花は大型ではなく中型。よく大型で、だらりと花自体を垂らしているだらしないのを目にするが、あそこまでいかない精悍さを持っている。直立した姿も凛々しく映る。

そういう意味で、やはり僕の住む石川県内灘町宮坂南部エリアにおいては、うちのひまわりが最も上品に出来ていると言えるのではないだろうか。

咲き始めてから二日後、咲いた中では最も背の低いやつをハサミで切り取り、食卓の上に置いてやった。食卓に黄色の花が映えて、なかなか食事に集中できなくなった。ビールなどは、気が付いたら空っぽになっていたりして、ついついまたもう一本と本数が増えていく。横を向いていたりすると、ちょっとすねているみたいで、どうしたんだよ・・・などと、声をかけてやりたくもなる。

また夏が再燃しそうだが、我が家周辺のひまわりたちも、これから先ますます花数を増やしつつ、元気を発信していくのだろう。そう言えば、久しぶりに河北潟干拓地の中のジョギングを再開した。これも、ひまわりのパワーのおかげかな・・・・・・

※「ひまわりを待つ・・・」も読んでくれ。 http://htbt.jp/?p=2765

門前黒島の 素晴らしき人たち

かなり性格が歪んでいたと思われる台風6号の影響が消え去りつつあった日。旧門前町(輪島市)黒島の空には、久しぶりの夏の青空があった。金沢は一日曇りだったり、雨もチラついたらしいが、ボクたちはとにかく汗を拭きながらの状況下で仕事に追われていた。

といっても、仕事は屋内での映像の収録で、まだ我慢のしようがあったが、午前午後合わせて五時間近く緊張が続いた。話していると唇が渇いた。話が面白くて、何度も仕事を忘れた。何度も書いている、「角海家」の展示に使う地元の人たちの思い出話を収録するという作業だった。

午前は男性六名、午後は女性五名。最高齢は九十歳、最も若い人で八十歳という凄まじい布陣だ。男性の部では後半から、女性の部は最初からとボクも直接参加してナビゲーター役をさせていただいた。高齢化が極端に進んでいる黒島には、その分元気な老人たちが多い。しかも、江戸時代は天領であり、北前船による廻船業で財をなした地域である。誇りもある。

廻船業の衰退後も漁業を続けたり、その子孫たちは働く場を海に求め、ほとんどの男たちは海外航路の船員となって広く活躍してきた。今回集まっていただいた男性陣も、角海家のご当主さん以外は全員そんな船員OBである。中には商船大学を出られ、大型船の船長をされていた方もいる。そういう意味で、その時語られていたことの多くは、黒島の“船員文化”みたいなものだった。

父親の背中を見、海で育ってきた少年たちにとって、海で働くことは至極当然のことであったろう。戦前から昭和の中頃過ぎまでは、給料も非常によかったらしく、家を長期にわたって留守にしながら、男たちは船の上で働いてきた。家には外国からの土産で買ってきた品々が今でも多く残っていると言う。

同じ旧門前町剣地という地区で住職をされ、今回の展示解説についてアドバイスをいただいているK越先生から、こんな話をお聞きしたことがある。

子供の頃に、黒島の子供が「ドックへ行く」というのをよく聞かされ、自分は船員の子供でなかったから、その子たちが凄く羨ましかったという話だ。ドックとは造船所のことだ。定期的に受けなければならない点検のために船は、そのドックへ入れられる。その間に船員である父親に会いに、横浜や神戸などの都会へ家族で出かけるという習慣があったというのである。

都会へ行くということは、よい洋服を着せてもらえる。美味しいものも食べれる。流行などの生活感覚も吸収する。特に黒島という地区は先にも書いたとおり、廻船問屋の子孫が多くいたりして気概も高かった。周辺の地区の人たちもそういう目で見ていた。

今回集まっていただいた人たちは、そういう意味で黒島の中でもさらに上流の皆さんということになる。しかし、さまざまな生活習慣などをとおして語られることの多くは、“奥能登のひとつの村”である黒島を舞台にしたものばかりだった。大正から昭和の初めにかけて生まれた人たちにとって、多感だった時代は戦前戦中になる。そして、朝から夜まで“よく働く母親”を見てきた。家の主がいない中で、母親たちは、何でもやりこなさなければならなかったという。団結する村の人たちも見てきた。自分たち子供もまた、縦と横のバランスのとれた環境下で、兄貴分たちの言うことに服従し、友達同士のつながりを深めていたという。

最近はどこにでもある話だが、黒島でも祭りの衰退が悲痛な問題となっている。黒島には有名な「天領祭り」と、「船方祭り」というふたつの祭りが受け継がれてきたが、かつては多くの若者が祭りだということで故郷に戻っていた。たとえば行列に配置される役割などをみても、贅沢なほど豊かだった。若い娘たちは地毛で日本髪を結うために髪を伸ばし、着飾ったという。ある方から一枚の写真を見せていただいたが、十七歳という娘時代の姿に思わず見惚れてしまった。黒島ではなく、京都の祇園だと言ってもいいような雰囲気が漂っていた。

昔は、黒島同士の縁組が多く、そのことが黒島を維持していくことのできた理由でもあったという。「昨日の晩、どこどこの娘もろうたわいや…」というような話が、当たり前のようにあったと聞かされた。新郎が船乗りで、海外航路から帰っておらず、新婦だけが家に入るということもあったとらしい。ある日、突然知らない男が家に入って来て、それが自分の夫であったと初めて知った・・・そんなこともあったとか。

嫁入りする時の風習なども面白かった。特に嫁ぎ先の家の前に何本も縄が張られ、花嫁を家に入れないようにする風習があったという。そして、その縄をといてもらうには縄を張っている人たちにお金を渡さなければならなかったというのだ。

黒島の人たちは、かつての繁栄やその後の海外航路の船員という職業をとおして、自分の子供や孫に高い教育を受けさせるようにあっていく。そして、船乗りの仕事がアジアなどの船員たちの進出によって低収入化していくと、船員になる子供たちもいなくなった。多くが都会の大学などに進み、そのまま戻らなくなった。もちろん、奥能登に職場がないことも大きな理由のひとつだった。

都会へと出ていった黒島の次世代たちは、そこで結婚相手と出会い、そこで家庭を築く。別にどうということもない当たり前の現象だ。しかし、お嫁さんが黒島や、黒島でなくても能登や石川県の人であればまだいいが、全く異郷の人だと黒島は見向きもされない。先に書いた、昔は黒島同士の縁組が多かったということの意味がそこにある。最近、娘が婿を連れて帰郷してくるという現象が多くなっていると言うが、黒島の場合、やはりそれも定年後の移住などが今のところ考えられる最高のことでしかない。

実は、男性陣の取材の最後に、九十歳の最高齢だった方が、来春神奈川の息子さんのところへ行くことにした・・・と、淋しく語られた。その他の人たちにも、その時初めて話されたような気配だった。終始、俯きながら話す様子に、そう選択せざるを得なかった無念さが伝わってきて、その場がしんみりとした。

やはり、思ってしまう…、こんな素晴らしい黒島を、このままにしておくことは許せない…。 “能登はやさしや土までも”という言葉がある。土までもがやさしい…ということは、人はもっともっと、ハゲしくやさしい・・・ということだ。今回の取材だけでなく、そのことは最近になってまた多くの場面で認識させられる。

取材の終わり際、ボクは皆さんに自分の思いを少し語らせてもらった。角海家をとおして黒島を知ってもらい、黒島をとおして能登の一画を知ってもらう。能登の原点は自然と一体化した歴史や風土であるということだ。そのことをもう一度しっかり認識しなければ、能登という大きな地域性は中身のない空虚なものになってしまう。小さなことから始めないと・・・なのだと。

皆さんを、今回の会場になった旧嘉門家という廻船問屋の屋敷跡から見送る際、是非角海家に足を運んでくださいと告げた。この人たちの魅力が角海家や黒島の魅力を語ってくれると、ボクは何となく思っていた。

お世辞でもまったくなく、ボクは、正直あまりにも皆さんが快活で、知的で、そして楽しい人たちばかりであったことに感動した。

帰る前に、角海家を見に行く。中に入って、いちばん好きな、海の見える古いガラス窓の部屋に足を踏み入れる。それから外に出て、黒島の小さくなった砂浜に下りたり、周辺を少し歩いたりした。復元された佇まいと、海へとつながる石畳の道を見つめながら思ったのは、自分に何が出来るのだろうか・・・ということだった。今日お会いした素晴らしい人たちに、どうやって報いたらいいのか、はっきりと答えは見えなかったが、さらに入りこんでみる好奇心は確実に感じた。

まだ、あの人たちから離れて二十四時間も過ぎていないが、もういちど皆さんにお会いしたい・・・・・

ひるがの高原・夏

 

ふらりと、「ひるがの高原」へ行ってきた。不覚にも初めてだった。

東海北陸自動車道を一つ手前の荘川インターで下りて、道の駅に寄り、そこから一旦何を思ったか逆コースに走り出し、途中のガソリンスタンドのやさしそうなご主人に教えられて正しい方向に戻ることができた。早朝の道の駅には、多くの人たちが採れたて野菜などを求めに来ていたが、夏の朝らしい、ボクの大好きな光景だった。

夏はやはり高原だ。海の近くの村に生まれたにも関わらず、いつの間にか平坦な海を眺めているより、起伏にあふれた山並みを見る方が好きになっていた。

高原という場所のよさを知ったのは、三十年くらい前に八ヶ岳山麓に通い始めた頃、信州の車山高原に行ったことがきっかけだった。その後立て続けに足を運ぶようになった美ヶ原高原も、雄大な景色と、広くて青い空や真っ白な入道雲を満喫するためには最高の場所で、夏になると絶対に行かねばならぬといった、妙な使命感?に後押しされていたと思う。

そんなわけで、今年は特に震災の影響を受けた節電対策もあり、暑ければ高原へ行こうというかつての思いが俄かに再燃した。日帰りで、簡単に行って来ることができる高原…。そして思い立ったのが、岐阜郡上の「ひるがの高原」だったのだ。

東海北陸自動車が開通して以来、五箇山や白川、高山などがかなり至近距離化した。それまでのことを思うと、あっという間に着いてしまうといった感じだ。さらに荘川村やひるがの高原あたりも同じ感覚で、特に白川から荘川へ抜けるまでの道(国道一五六号)は、走ること自体と風景を楽しむゆとりがないと走れなかった。

この辺りでは清見村も大好きだった。前にも何かで書いたが、オークビレッジの工房にふらりと立ち寄っては、適当に気に入ったものを買って帰ったりした。しかし、ひるがの高原まではなかなか足を延ばす気になれなかった。距離が中途半端で、日帰りをベースに考えると、どうもそれほど魅力を感じなかったのかも知れない。

 ひるがの高原の名前が、頻繁にボクの耳に入ってくるようになったのは、ひるがの高原に別荘ブーム?が起こった頃だろうか…。

もう退会したが、かつて北アルプスの薬師岳・奥黒部方面を中心に活動していた「大山町山岳会」の一員だった頃、その会の会長をされていたE山さんという豪傑から、「ひるがの高原に家(別荘)を建てっからよ、遊びに来られや!」と誘われた時だ。

E山さんといえば苦くて懐かしい思い出がある。強靭な肉体と、口の悪さが合体した、自然児そのものといった山オトコだった。ヒマラヤでの失敗もあってか、山では厳しかった。一度山スキーツアーでルートから外れ、皆を四十分ほども待たせてしまったボクは、E山さんからこっぴどく叱られたことがある。しかし、その後雪の上で肉を焼いて食っていたとき、ボクのとっていたルートに雪崩の兆候が見えていたから叱ったのだと、缶ビールを呷りながら語ってくれた。笑うと、少年のような顔になる。ボクはそんなE山さんが大好きだった。

そのE山さんが、ひるがの高原に別荘を建てるからと誘ってくれたが、ボクにはピンとこなかった。ひるがの高原の名前は当然知っていた。が、身近に感じられる場所ではなかったと思う。しかし、やはり高速道路の開通は大きい。別荘開発も当然、そのことが要因で始まったのだろうが、E山さんから話を聞いた時には、高速が出来ることなど、はるか彼方先のことだという感覚しかなかったのだ。

 荘川村から、ひるがの高原には二十分くらいで着いてしまう。あたりが何となくそれらしい雰囲気になってくると、国道沿線にクルマや人影が目に付き始める。わずかな予備知識しかない訪問者としては、とにかくどこかに寄って情報収集が必要だ。

牛乳やチーズ、アイスクリームなどを売っている店の前に、人だかりがあり、その店に入ってみることにする。ソフトクリームを買い、情報源となる簡単なマップが店の入ってすぐの場所にあったので一枚もらい出た。

マップはウォーキングコースのものだった。七キロというコースがマップ上に線描きされてある。歩きたいと思うのだが、今日は日帰りだ。クルマでも廻れそうだと判断。まず、すぐ目の前にある「分水嶺公園」という場所に行ってみることにした。

 その気になれば深く入って行けそうな道が伸びていたが、人が歩いたような気配は、もう何年も前に消えてしまったような雰囲気だ。水場に石碑があった。太平洋と日本海、長良川と庄川という意味だろう。流れが、ひるがの高原の奥にそびえる大日岳という山を源流にして、ここで分流しているのだという。

日差しを遮る木立の存在感が夏らしさを強調していた。

 クルマで源流のあたりまで行こうとして、途中で引き返した。どうも道に同化してない。ウォーキングコースであるということも、モチベーションを下げる要因になっていた。おろおろと国道に戻り、近くの「夫婦滝」に向かうことにした。国道から二百メートルとマップに書いてある。

その数字のとおり、夫婦滝にはあっけないくらい簡単にたどり着いた。もうちょっと歩きたいなあ…と、勝手なことを思ったりもする。

 しかし、滝は美しかった。高度感などは大してないが、静かにはまっている感じだ。夫婦滝の名のとおり、二本の滝が並ぶ。その間の岩場に紫陽花の花が咲いているのが見える。

 滝に着いて、岩の上を飛びながら奥へと渡った。滝つぼに最接近できる辺りまで来ると、水の美しさは格別だった。飛沫が顔にあたって、涼しい。

 せっかくひるがの高原へ来たのだから、当然高原歩きの気分を味わいたい。もともと歩くことを目的にきたのだ。そんな時、植物公園の案内を見つけ、躊躇することなく入ってみることにした。それほど広くはないが、眺望がいい。水辺の花々も美しい。短い時間だったが、太陽をいっぱいに浴びて歩いている間は幸せだった。

 そのあとも、クルマで移動してはぽつぽつと歩く。木曽馬の牧場に足を踏み入れたりしながら、ふと見上げる空が青くて、眩しくて、嬉しくなる。高原歩きはこうでなくてはならない・・・などと、大して歩いてもいないくせに一応納得している。しかし、ひるがの高原には、もう一度必ず、近いうちに来なければならないなあとも思っている。美ヶ原のような圧倒的な解放感はないが、落ち着ける何かがある。それを正しく感じ取るには、やはりしっかりと歩く準備をしてこなければならないのだ。ぶらりとやって来るだけではもったいない。

 帰り道。高速は使わず、ゆっくりと庄川に沿って国道一五六号線を走った。荘川から白川、白川では久しぶりに「AKARIYA」さんで美味いコーヒーもいただき、五箇山、福光を経て帰った・・・・・・。

翌朝は、三時半に起床。もちろん、なでしこたちの応援のためだ。疲れなど、どこにも残ってなかった・・・・・・

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

油揚げを枕に柿木畠のヤキメシ

能登の羽咋で買ってきた油揚げが美味いと書いたら、それを読んでくれた金沢・柿木畠の喫茶「ヒッコリー」のマスター・水野弘一さんもそれを買い求めに出掛けられ、そして大量に買い込み、大変美味かったとコメントをくれた。

とにかく美味いのだから仕方がない。それに前には書かなかったが、姿形もいい。

油揚げらしい“ふくよかさ”があって、煮汁をたっぷり吸いこんでいけるだけの“器の大きさ”を感じさせている。

そのことを感じ取ってくれた水野さんは、行動力も凄いが、嗅覚も凄かった。

水野さんにはもうひとつ大きなニュースがあった。それは、二十五年以上も前に、金沢香林坊にあった洋食屋「大洋軒」という店の看板メニューを受け継いだことだ。

その店は、今の香林坊109が建つ場所にあった、本当に小さな店で、数人しか座れない狭いカウンターがあるだけだった。

ボクは高校生の頃に親友のSとよく一緒に行った。店に入ると、ほとんど横歩き状態で、カウンター客の背中を擦りながら奥へと進む。

定番メニューは「焼き飯」だ。

カウンターを挟んだ厨房に夫婦が入り、おっかさんがご飯を渡すと、受け取ったおとっつあんがフライパンにあけ、ほぐしながら激しく煽る。フライパンとお玉のぶつかり合う音が響き、時折上がる炎に、オオッとのけ反ったりした。

出来上がった焼き飯は、所謂“洋食屋の焼き飯”で、ちょっと脂ぎった飯の上に目玉焼きが乗っかっていた。

飯の盛り方がボコボコしていて、ボクとSは決まって目玉焼きの真上、つまり黄身のど真ん中からソースをかけるのだが、そのソースはすぐに目玉焼きから流れ落ち、飯に沁み込んでいく。

本当はこうなることぐらい分かっていたのに、仕方がないな~と、飯をクシャクシャと混ぜながら目玉焼きもついでにクシャクシャにしていき、黄身が完全に崩れる頃を見計らってスプーンで掬うと、そのまま一気に口に運ぶのだ。

ほくほくとした、しかし中華の所謂「チャーハン」とは違う風味が口の中に広がる。

味はソースが効いてシャープだった。特に夏の暑い日には、汗をタラタラかきながら焼き飯をモゴモゴと食った。

食後の口の中には、何となくというよりは、はっきりとしたヒリヒリ感も残っていたりして、とにかく美味かったなあという喜びと、ワレワレはついに食ったのだという満足感があった。

そんな焼き飯は、香林坊の再開発と同時に店じまいし、その後某所において続けられてきたらしいが、一般には接することは出来ないままいた。

そして、その某所での継続も終わり、かつての大洋軒の二代目さんから、なんと水野さんに継いでもらいたいという依頼があったということだ。

水野さんは、敢えて自分に白羽の矢が立ったのは、自分が半プロみたいな存在だったからだろうと言っていた。

焼き飯は、今流行の「B級グルメ」を代表するメニューだ。だから、とんでもない一流には逆に出せない味だという意味なのだろう。それと水野さんの人柄を知る者には、何となく納得できる話でもある。

始めたばかりの、その焼き飯を先日いただいた。美味かった。懐かしかった。

ヒッコリーという店が昔の大洋軒でないことを除き、あの脂ぎったような風味は逆に出せないことを考慮してボクは味わった。ご飯粒よりも大きくはしないという具たち。焼き飯はご飯がすべてという思いが込められていた。でも、やはり庶民の味なのである。

人気が出過ぎると逆効果になって、水野さんは自分の首を絞めることになるのだが、このニュースは、六月二十二日の地元紙で報道されることになっている。

ちょっとだけ余計な心配をしたりしながらも、次はいつ行くかなと考えたりもするのだった……

稲見一良… オトコ、そして少年のこころ

稲見一良という作家の存在は、広く知られているというわけではないだろう。だいたい、「一良」と書いて「いつら」と読むこともめずらしく、ほとんどの人はそのとおりに読めないに違いない。知っていればこそ読める名前なのだ。

ボクと稲見一良との出会いは、もう二十年くらい前になる。神田・三省堂本店の一階フロアで手に取った一冊の本から、ボクにとっては稀なケースと言える付き合いが始まった。

その本が『ダック・コール』である。タイトル写真にあるのは文庫で、ボクは当時出たばかりの単行本を買って、すぐに近くの喫茶店に入り、そのまま出張帰りの新幹線の中でも読み耽った。特に買おうと思った理由というのは、その中の第一話『望遠』の出だしに気持ちを奪われたからだ。

“ 腕時計のアラームが、フィルムの空缶の上で躍るように鳴った。若者は、たった今まで熟睡していたとは思えない素早い動きで、寝袋から腕を伸ばしてアラームを止めた。「四時半」若者は夜光の文字盤を読み、頭をおこしてまずカメラの方を見た。ゆっくりと起きだした。…………………”

ボクの頭の中でもアラームが躍るように鳴っていた。そして予感は予感を呼び、これは絶対に面白いと、ボクは勝手に決め込んでいた。やはり予感どおりだった。そのストーリーはボクの単細胞にストレートな衝撃を与えた。

まだ一人前とは言えない映像カメラマンの若者が、大プロジェクトの中のワンシーンの撮影を任される。それは、三年前に撮影されたと同じ月日、同じ時刻の日の出を撮り、街の変貌を伝えるという内容の企画だった。そして、若者の仕事と言うのは、絶対動かしてはいけない固定されたカメラのスイッチを単に入れるだけのことだったのだが、若者はその直前にカメラの向きを変えてしまう。若者が向けたカメラの先には、幻の鳥と言われる「シベリヤ・オオハシシギ」がいた……

プロダクションの中などの人間模様と、正義感や理想に燃える純粋な若者との葛藤もそれほど濃くもなく表現されており、この話は圧倒的にボクの胸を打った。こうして、一応ボクと稲見一良との付き合いは始まったのだが、どんどん読み続けていくと言うほど作品はなく、断片的な付き合いだったと言える。

それから何年かが過ぎた頃のこと、いつもの香林坊YORKで、マスターの故奥井進さんから一冊の本を見せられた。これ面白いよと言ってカウンターに置かれたのが、なんと『ダック・コール』の文庫本だった。ボクの記憶では、三省堂で買って帰った後日、ボクはたしかに奥井さんにその本を見せていたと思う。奥井さんとは、ほとんど互いに読んでいる本のことは知っていたはずだった。

ボクはすぐに、その本のことを話したが、奥井さんは覚えていなかった。ただ、同じ本を奥井さんがボクに勧めるなんて、やはり共通の好みがあるなあと嬉しくなったりもした。

そして、その後、奥井さんもボクも、稲見一良の本を何となく気が付いた頃になると読んでいたということを繰り返していく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

稲見一良の物語には、大人の男の世界に少年の世界が深く沁み込んでいて、読んだ後夢を見ていたような気持ちになったりする。どこにそれを実証するものがあるのだろうと現実を考えたりするが、それは当然創作であり、幻想の世界でもあるのだと納得しながら楽しまなければならない。

たとえば、『セント・メリーのリボン』に収められている『花見川の要塞』という物語には、現代から戦時中へとタイムスリップしていくカメラマンの話が綴られているが、その非現実性は、まさに少年の心があるからこそ受け入れられるものだ。かつて敷かれていたという軍用列車が、深夜、白煙を上げながら夏草や蔓に被われた現在の花見川の土手に現れる……。

どこかで聞いたような話ではあるが、稲見一良のストーリーには、自然風景はもちろん、銃や機関車やカメラなどの詳細な解説・描写が絡み、どんどんと読者をリードしていく何かがある。好奇心を煽るような、ウキウキさせてくれるパワーに酔わされていく。

『花見川のハック』という同じ花見川の名を冠した短編があるが、ハックという冒険好きで、正義感が強く、そして心優しい少年が、花見川でアヤメという少女と出会い、最後はお婆ちゃんが待つ京都へ旅立つという話だ。なんの変哲のない話に見えるが、ハックとアヤメはゴンドラに乗って京都へ行く。そのゴンドラを運ぶのが、なんとナス(野菜の)なのである。面倒なので詳しくは書かないが、そんな結末を聞かされると、かえって読む気も起きなくなるかもしれない。しかし、実際読んでいくと、これがまた実に楽しくなり、嬉しくなっていくから不思議だ。

このような世界こそが、ボクにとっての稲見一良の素晴らしき世界なのだ。自然や趣味や男臭さや少年の心や、空想や理想や夢やこだわりやと、とにかくたくさんのものが凝縮されている。

稲見一良の世界から、ボクは多くの記憶を蘇らせることができた。

十歳くらいのことだろう。裏の雑木林の斜面を登った所に、木の板で組んだ隠れ家みたいなものを作り(作ってもらったのかも)、そこで漫画本を読み、お菓子を食べ、そして友達が家から持ってきたタバコを吸ったりしていた。クワの実やグミなどを採って来ては、そこでみなで食べた。

砂浜に埋まっていた不発弾を掘り起こし、三人がかりで抱えて友達の家の裏に埋め、自衛隊が回収に来たこともあった。自慢したくて学校で口が滑ってしまったことがボクたちだけの大騒動につながった。もちろん、もし爆発の危険性があったら、ボクたちだけの大騒動で済んでいなかったのだ。

カモの子を河北潟かどこかで生け捕りにし、使われなくなった鳩小屋に入れて飼おうとした。そのカモに餌として与える虫などを、必死になって採りに行っていたことなども鮮明に思い出した。音楽やら映画やらいろいろとませたことも身につけていたが、こういう遊びは絶対的な事としてなくなることはなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本当は最初に書くべきことなのかも知れないが、稲見一良は自らが癌に侵されていることを知ってから、敢えて作家になったという稀な人なのだ。一九八五年に発癌しデビューしたとのことだ。そして、その後一九九四年に亡くなるまでの短い作家活動で、稲見一良の独特な世界を作り上げている。

ボクは今、稲見一良のファンであると公言できるが、これまで本当にそうであったのかというと、正直どこかに単発的なファンみたいな自覚しかなかったように思う。しかし、今年に入ってから、再び無性に稲見一良の作品、いや物語を読みたくなった。

何がそうさせたのかは分からないが、自分自身を純粋に見据えていくためとか、自分の素性や血を知るためとか、どこかそういうものに近い何かが自分を動かしたように思う。

少年、男気…。自然、夢、憧れ…。趣味、余計な気苦労…? そんな青臭い何かが、やはりどこかに生きていないと、ニンゲン、特に男はダメなのではあるまいか?

そんなところまで考えてしまっているのである………

医王・湯涌水汲みツアーの休日

 

湯涌街道を温泉街には向かわずまっすぐ進み、福光方面への道にも折れずにまっすぐ行くと、医王山の裏手の山道へと入っていく・・・。

湯涌の住人・足立泰夫クンと後者の分岐のあたりで待ち合わせ、いつもよりグレードアップした特別編の水汲みツアーに出かけた。

八時には行くよと言っておきながら、十分ほどの遅刻。六時半に起床して、花に水をやったりしながらの慌ただしい朝だったが、前夜買ってきた“つぶ餡マーガリン”入りパンを頬張りながら新聞を読んでいたら時間が押してしまった。

というのも、最近連載が始まった日経の「私の履歴書」…現在書いているのがあの山下洋輔(ジャズピアニストです)で、ついつい今朝も読み耽ってしまった。特に今朝はまた、その下の欄の「交遊抄」が椎名誠のミニエッセイときていたから、活字拾いに忙しかった。

ところで話はそのまま脱線していくが、ボクの場合、日経などはその本来の趣旨記事から外れて、日経的に言うと番外編みたいなところばかりに目がいってしまう癖がある。かつて「日経デザイン」という同じ系列の雑誌を購読(会社で)していたが、巻頭の赤瀬川原平のエッセイが何よりも楽しみだった。実に飄々として、経済やらデザインやら難しいことは後回しにして、とにかくこれ読みなさい…と、氏が言ってくるものだから、はいそうですね・・・と、こちらも本文ページは後回しにしていた。日経はそういう意味で、なかなかボクのハートを掴んで離さない渋い存在である。かつて、松井秀喜のことを書いたある記者の本も、素晴らしく核心をついた内容でよかった。

分岐で待っていた足立クンと合流して、久々の道へと入っていく。すぐ先の集落に、かつて足立クンが住んでいた家があり、そこには小誌『ヒトビト』第八号(打止め号)のインタビュー取材で訪れたことがある。大木に囲まれた大きな家の前に愛用のカヌーが積まれていて、彼は岩魚釣りに出かけていた。すぐ目の前を流れる沢の奥に入り込み、数匹の釣果を家の前で見せてくれたのを覚えている。あの時はちょうど土砂崩れがあった翌日で、道が塞がれていたが、住民の道だけは確保されていた。

 今回の水汲みは、かつて足立クンが県の観光パンフレット制作のために取材した貴重な水場情報に基づくもので、湯涌・医王山方面の“美味しい水”を是非紹介したいという、彼の誘いに甘えさせてもらった。彼はカヌーに始まり、根っからのアウトドア青年(かつての)であった。山の世界とかではボクの方に一日の長はあったが、水の世界では若い頃からノメリ込み方が尋常ではなかった。さすらいのカヌーイスト・野田知如を崇拝し、カヌーツーリングというカッコいい遊びをこなし、水面に釣り糸を垂らしては川魚を燻製にするなどして、その楽しみを満喫してきた。もちろんそれだけではなく、ジャズや活字などにも傾倒し、その繋がりも長く付き合ってきた理由になっている。

そんな彼であったから、湧水のある場所なら、たとえ火の中水の中(例えが変かな)、ひたすらまっすぐに訪ね歩くことも何ら問題なかったのだ。

前置きがやたらと長いが、そんなわけでボクたちはとにかく医王山の裏側方向へと回り込みながら、最後は一気に高度を稼ぐように登って、「行き止まり」と書かれた案内板の方向へとクルマを走らせた。そして、文字どおり行き止まりとなった所にある水場にたどり着く。着くまでに、狭く急な道で先導の足立クンが迷走するというシーンもあり、また何度も切り返しを繰り返さなければならないなど、スリルも大いに味わった。

ところで、その場所について詳しく書かないのには理由がある。実はこの水場、足立クンが取材したパンフレットには周辺をぼかした形で掲載されているのだ。それはこの水場がこの直下の集落の人たちの飲料水となっているからで、それをとにかく無闇に取りに来られては困るという配慮があった。だったら、おめえらも行くなと言われそうだが、年に数回だけいただくということで、来ている人もごくごく少ないということだった。

水は岩がゴロゴロする山肌の窪みから湧き、取水用には二本のパイプをとおして勢いよく流れ出していた。足立クンでは水温十一度。実際、家に戻ってからもまだ容器のまわりには水滴が付いたままだった。冷たい証拠だ。

クルマからポリ容器やペットボトルなどを出す。総量としては結局八十リットルくらいになっていただろうか。最初の二十リットル容器に水がいっぱいになる時間で驚いた。いつもよりはるかに早い。勢いも量も半端ではない。あっという間に二十リットルがいっぱいになり、慌てて持ち上げようとして右腰に違和感・・・。おまけだった。

とにかくどんどん汲んでいく。足元はシューズもパンツもびしょ濡れになっている。路上では、自分の分を汲み終えた足立クンが、クルマからコンロとコッヘルやらを出してきて、新しい水を沸かし始めている。すっかりコーヒータイムの準備が整っている様子だ。

足立クンから、少しペットボトルを残しておいて、別の水場にも行ってみようという提案が出た。すぐに賛成して、クルマのダッシュボックスから、山用のマイマグを持ってくる。いい香りが山間に漂い始めると、カメラも持ち出して撮影タイム。

 コーヒーはマンデリン。足立クンご自慢?のドリッパーで、ご立派~に出来あがっていた。実に上品な味がした。今朝はこのためにと、家を出る前にコーヒーは飲んでこなかったのだ。

 かなり山深いなあと感じながら、ゆっくりと周囲を見回す。山装備をした夫婦連れらしき二人が、大きな木の下あたりの道らしきところを登っていく。近づいて、その道は奥医王の頂上に繋がっているのかと聞くと、そうだと答えてくれた。久しく奥医王には行ってない。かつては北アルプスなどに入る前には必ず医王山で足慣らしをしていったものだ。

後片付けをして山道を一気に下り、湯涌方面への抜け道である王道線を走る。頭にイメージしている距離感より長く感じる道だ。この道も好きな風景がつづく。樹林の間から見える山並みものどかだし、森も深く感じられて神秘的な雰囲気さえある。

 

湯涌街道に出る前にある、いつもの水場で小さなペットボトル二本に水を入れる。さっきの水の冷たさがはっきり感覚に残っていて、この場所の水が温く感じられた。今日二つ目の水場だった。

 さらに足立クンの案内は湯涌街道に出て金沢市街方面に向かい、すぐに左に折れた。橋を渡り、ゆっくりと水田に挟まれた狭い道を走り続ける。道は途中で山間に入って行き、美しいせせらぎと並行して進んでいく。

また小さな橋を渡ると、そこでまた急旋回の狭い道の登りになった。通常の感覚ではクルマの通る道ではない。車幅いっぱいの狭い道を登って行くと、またしても狭い中でのヘアピンまがいのカーブに出くわす。足立クンのやや小さめのクルマは難なく曲がり切ったが、ボクのクルマではちょっと面倒だ。考える間もなく、カーブする反対方向の土の中にクルマを突っ込み、バックで登ることにした。幸いにも、すぐ先に目的の場所があった。

クルマから降りてびっくり。そして、ニンマリ。そこには、いかにも手造りといった何とも言えない風情の家が建っていた。足立クンが、家の前にある石の上に腰を下ろしている。手巻きタバコがいかにも足立クンらしく、この場所の雰囲気にも激しく合っている。

 この場所は地元の知り合いの“別荘”とのことだ。いつでも水は持って行っていいと言われているらしい。よく見ると、本当にいろいろなモノが組み合わされて、ひとつの家が出来ていることが分かる。意外なところに、ステンドグラスが嵌められたりしていて、手造りの楽しさがしみじみと伝わってくる。

水場は、玄関先に綺麗なカタチで整えられていた。残りの小さなペットボトル五本ほどにまた水を入れた。石の腰かけは整然と並べられていて、真ん中にある石のカタマリがテーブルになっている。

足立クンが、またコーヒーの準備を始めた。今度はグアテマラ(タイトル写真)。さっきの山の中よりもさらに落ち着いて、その分コーヒーの味もゆっくり楽しめた。なんとも贅沢な時間だ。心地よい風の吹き方も、静けさも、ちょうどよくて文句のつけようがない。新緑と呼ぶべきか、若葉と呼ぶべきか、周囲はそんな活き活きとした生き物たちの息吹に包まれている。

ボクたちは、そんなやさしい空気の中で、いろいろな話をした。とりとめのない話ばかりだったが、久しぶりにゆっくりと会話が楽しめた時間だった。今日、三か所目の水場だ。

足立クンでは、今日の三か所は、湯涌・医王山周辺ではベストスリーなのだそうだ。彼が言うのだから間違いない。金沢でそうだと言ってもとおるのだろう。ボクの場合、やはり自然の水汲みなどはちょっとした冒険心をくすぐってくれないと意味がない。だから、水汲みを理由にして、こういう場所へ来れるというのは最高なのだ。

時計を見ると、もう昼近く。コーヒーの香りも樹間を吹く風とともに流されていき、周囲にはただ前のように静けさだけが残されていた。足立クンは、午後から事務所へ行って広告用の原稿を一本書かねばならぬとのこと。それを聞いて、ボクも二本目の創作が、五十枚くらいのところで止まっているのを思い出す。

文句なく楽しかった。これからまだまだこういうことを続けていけたらいいなあと、若葉を見上げながら思う。日本は、日本の経済は、自分たちの生活は、これから一体どうなっていくのだろうか。そんなことも一応アタマに浮かんできた。だが、すぐに腹が減っていることに思考は動く。素麺だ。今日は素麺しかあるまい。湯涌の里に下りると、広々と水田が光っていた……

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……

 

笹ヶ峰のスキートレッキング

 

一年ぶりの妙高・笹ヶ峰である。正確に言うと、一年と一日ぶりで笹ヶ峰に来ている。

朝は、それほどよい天気とは言えず、一時は雨が来るかも知れないと覚悟させられたが、その心配もなく、昼になった今は風はわずかにあるものの、陽も照って気持ちがいい。

ついさっき、リュックからノートと万年筆を取り出した。ノートは九十七年の夏に岐阜県清見村のオークビレッジで買ったもので、表装が木の板で出来ている。その時同じようなボールペンも買った。ペンはなくなってしまったが、ノートはずっと本棚に入れておいた。昨年の笹ヶ峰行きに久々に持ち出し、岩の上でペンを走らせた。その時が十年ぶりに開いたという具合で、ボクはずっとこのノートとはご無沙汰していたのだ。何となく、今年もこのノートをリュックに入れてきた。だから、この文章は笹ヶ峰での現地書き下ろしなのである・・・・・

八時半過ぎにスキーを履いた。去年とは少し違うコースを歩き、走り、滑って来た。今年はスキーの滑りがいい。ワックスを入念に塗ってきたというわけでもないのに、思っていた以上にスキーが前へと出る。笹ヶ峰グリーンハウスの建物や周辺の雪原を会場にして、クロスカントリースキーのセミナーが始まったばかりで、数十人の競技スキーヤーたちがコースを走っていた。ボクもそのコースに最初に入れさせてもらったが、そのせいでスキーが滑るのかも知れない。いきなり、百メートルはある直滑降となり、危うく少年スキーヤーたちの前で転ぶところだったのだ。

よく滑るスキーに乗ってコースを外れ、緩やかな雪の斜面に大木が並ぶ笹ヶ峰牧場の方へと移動。いつものように、“岩棚の清水”からの湧水が流れる沢の音が聞こえるようになり、沢に沿ってやさしい流れを見ながら緩い登りに入って行く。去年は岩棚の清水でスキーを外し下りてみたが、水中の草を押し流すかのように透明な水がたっぷりと流れていた。ボクとしては真夏に見たこの流れに最も感動したのだが、残雪期の流れも春の躍動みたいなものを感じさせてよかった。

少し登ったところで、岩棚の清水を見下ろしながら回り込むように横に進むと、牧場の上部に出る。一度牧場の最も下まで一気に滑り降りる。一気にと言っても、春の雪の上だ。軽快にとはいかず、時折雨水が川となって流れた雪面の溝に阻まれたりして、立ち止まらなければならない。

雪解け水や沢の水が注ぎ込む清水ヶ池まで来ると、ぽつんと釣り人が独り糸を垂らしていた。邪魔をしないようそのまま樹林帯の中へとスキーを進ませる。まだ開き切らない水芭蕉が、大小いくつかの水場で目についた。

今年はやはり雪が多い。途中の山道でも両脇の雪の多さは近年にないのではと感じた。そう言えば、去年昼飯を食った大岩も今年はまだ雪に埋まっていて、先端が少し見えているだけだった。

去年、その岩の上でボクはコンビニおにぎりの包装ビニールと格闘し、その苦闘の最中に、せっかく沸かしたお湯をカップヌードルに入れておきながら、カップごとひっくり返してしまうという失敗をしでかした。風が突然吹いて、手にしていたおにぎりの包装ビニールがめくり上がったのだ。

カップヌードルは半分ほどが辛うじて残り、何とか腹の中に入れることが出来たが、それ以上に笹ヶ峰の雪をカップヌードルのスープで汚してしまったことの方が虚しかった。そしてボクは、あれ以来というか、実は前々からだったが、コンビニおにぎりの包装に関する余計なお世話的外し方について、疑問を露わにしたのだった。

わざわざあんな面倒臭い外し方にしなくてもいいのではあるまいか…と、久しぶりに、そして真面目に、どうでもいいことを真剣に考えてしまった。海苔もあんなにパリパリしてなくてもいいのではないかとも思った。

立山山麓にあるコンビニ風の店では、その日の朝、店のお母さんが握ったというおにぎりが売られていた。でかくて、何よりもサランラップに巻いて置いてあった。食べる時はペロンとはがすだけだ。コンビニおにぎりにある順番①とか②とか③とかがない。①があるだけ。おにぎりは元来、おふくろ、またはお母さんの味とかが基本である。それにはパリパリ海苔など全く完璧に必要ない。そして、そのために考案されたのであろう、あの包装についても、特に意味を感じていないのである。あれを考案したニンゲンはさぞかし鼻高々だろうが……

そんなことを言っておきながら、今年もまたボクは昼用にとコンビニおにぎりを買ってきてしまった。鮭と昆布の二個で、おかずは家の冷蔵庫から持って来た魚肉ソーセージ一本だけにした。コンロも持たずに軽量化に踏み切ったのだ。コッヘルもないからリュックも小さめで済ました。ただひとつ、去年と変えたのは、リュックの隅っこに、なんとノンアルコールビールを入れてきたことだった。

これは今年の笹ヶ峰スキートレッキングにおける最重要研究テーマなのだ。山行におけるビールの重要性を強く訴え続けきた?ボクにとって、特に日帰り山行において、ノンアルコールがその満足度に近づけるかということが最大の関心事であった。

昼飯タイムに入る前、ボクは車道を越えた山の斜面に入っていた。スキーを脱ぎ、雪に埋もれて斜めになったままの木の幹に腰かけ、ぼんやりとそのことを考えていた。気になり始めると、ますます早めに味見したくてウズウズしてくる。目の前の樹林帯への陽の照り方も強く感じられるようになると、ボクはすぐにスキーを履き直した。そしてまた下って、車道を渡り牧場の雪原へと戻っていた。

少し滑り降りて、手頃な岩を見つけた。夏ならば、黒や茶色などの大きな牛たちが、ゴロンとしながら午後のひと時を過ごしている場所だ。日差しと木陰との明暗バランスも見事に調和していて、緑と空の青さ、雲の白さなど高原の夏の美しさを実感させてくれる。

 ボクはすぐにリュックからノンアルコールを出し、雪の中に缶の三分の二ほどを埋め、そして指先でその缶を素早く回転させる。これは『伊東家の…』(テレビ番組)でやっていた裏ワザだ。これだと、温い缶でも五分もかけずに冷やすことが出来る。雪のある山では、ボクはよくこの手を使う。ノンアルコールはすぐに“かなりの状態”になった。早速、実験に入る・・・

結論から言えば、やはりノンアルコールは、ビールではなかった。当たり前と言えばそれまでだが、大きな期待をしてはいけないことを知った。ただ、口に入れた時の感触的にはビールに似たものがあり、後味さえ無頓着でいれば、それなりにウーロン茶を飲んでいるよりもはるかに満足度は高いことも知った。

それほど落胆するほどのこともなく、ボクは魚肉ソーセージを片手に缶に記されたノンアルコールの成分を眺めていた。アルコールが入っていないということは、即ち酔うこともないということなのだが、喉元を通り過ぎていく時に、もう少しビールらしい後味があればと思っていた。

ノンアルコールの一口目を仰ぐようにして飲んだ時だった。アタマの上まで来ていた太陽が目に入った。太陽の周りに円状の薄い虹の輪が出来ていた。

それからボクは、コンビニおにぎりを、去年の因縁も忘れ穏やかな気持ちで口にした。パリパリ海苔が一部崩れ、雪の上に飛散していったことが残念だったが、それでものどかな気分でいられた。ボクは成長していたのだ。

 目の前にそびえる、地蔵山が朝よりも少しだけ鮮明さを増しているように見える。右手には、さらに高い焼山や火打山、後方には三田原山と妙高山。標高二千メートルを越す山々に囲まれたここ笹ヶ峰は、かつて湖の底だったらしい。ボクは今その場所で、山肌の残雪の上に漂う春の空気にのんびりと浸っている。東日本で大きな地震と津波が起き、多くの人たちが苦悩の日々を送っている。ボクはボク自身の中で、そのことについても思った……

……これからどうしようかと、時計を見る。一時少し前だ。この場所にいられる時間は約六時間。六時間を楽しむために、往復六時間をかけてやって来る。何とも贅沢な一年に一度の楽しみだ。と思いつつも、来年からはテント持参、または下の民宿かロッジでもいいから一泊にしようかとも考えている。

もういちど、下部まで下りて行ってみることにした。樹林帯をできるだけ深く探検してみたくなった。とにかく、時間がもったいないのだ………

※ノートに走り書きした文章に少しだけ加筆・・・・・

春の残雪テレマーク

 

四月の第二日曜あたりと言うと、だいたい春めき方にも気合が乗り、セーターは当然として、コーデュロイのパンツなんかも思わず躊躇してしまうくらいになっている。そのような頃合いに、全く躊躇することもなく、朝からテレマークスキーを担いで医王山へと出かけるというのは、ボクにとって、ごくごく当然のことであった。

朝からというのは少々オーバーで、実際は九時頃であった。担いで出かけたというのもかなりオーバーで、実際はクルマで出かけたのだから担いでなんかいない。クルマまでは担いだのではと気を遣っていただけるかも知れないが、テレマークスキーの特徴は軽いことであり、担ぐというほどの大袈裟な行為は必要ないのだ。ただ、背中のリュックやらの関係で担ぐことはあるから、担ぐ必要がないというのは正しくない。

相変わらずそんなことは全くどうでもよくて、今シーズン初めてのミニ山スキーツアーに出かけたのである。今冬のドカ雪の時期に、家の周辺を人目をはばかりながら駆け回ったことはあったが、今度は全くはばかる必要はない。それどころか、どこでひっくり返ろうが、喚(わめ)こうが、こっちの勝手だ。それが山スキーツアーの醍醐味なのだ(敢えて強調するほどのことでもない…)。

そういうわけで、わが内灘から最も近い手頃なフィールドしては、まずこの金沢市と福光町との県境に伸びる医王山周辺がピックアップされるのである。

しかし、最近は雪が少なく楽しみがなかった。医王山の春は、襟裳岬みたいに何もない春だった。ところがだ。今年の冬は久しぶりに気合の入った雪が降り、医王山周辺の白さが際立っていた。戸室山も白兀(しらはげ)山も奥医王山(最高地点)も白さが強かった。特に白兀山は、頂上近くに岩や土が露出した場所があり、その場所が冬の降雪で完璧に白くなるところから、そう呼ばれている。

今年はまさにその白兀(しらはげ)だったのだ。逆に言えば、その樹林帯の切れた場所の白さ具合で積雪も把握できるということであり、樹林帯でも低木たちは雪の下にあるということだった。十年ほど前までは、それが普通だったとも思う…。

 山麓のスキー場や放牧場あたりでも、想像したとおり四月としてはかなりの積雪があった。陽光を受けて光る雪原を目にすると心が躍る。それもかなり激しく躍るので、抑えるのに苦労する。

何年も前、仕事で立山山麓に出掛けた時にも、もう営業を終えた粟巣野スキー場で心が躍った。当時、立山山麓の大山町(現富山市)のまちづくり的な仕事をしていたのだが、太郎のマスター・五十嶋さんに委員になってもらい、ボクとしては最高の舞台だった。その日はスキー場のロッジ経営者たちと会合があり、夕方からの会合前の時間に、ふらふらと周辺を散策していた…と記憶する。

粟巣野スキー場というのは、立山山麓のスキー場の中で、最も奥にあり、そこから先は道もない。ボクは駐車場から、まだたっぷり雪が残っているゲレンデを見上げていたのだが、そのうち我慢が出来なくなり、そのまま雪の中へと足を踏み入れて行った。

その頃は、普段でも山靴に近いものを履いていたので、雪原歩きはちょっと注意すれば大丈夫だった。雪もこの季節になるとある程度締まっていて、埋まったりする心配はない。

気が付くと、ボクはかなり奥まで来ていた。始めはゲレンデの中央部を歩き、途中からは出来るだけ登りの緩い斜面を登ろうと脇の方へと移動した。本格的な登山靴を持っていれば、とてつもない快適な雪山歩行が楽しめたが、贅沢は言えない。

ちょっと大きめの斜面を登り切って、緩やかな雪原に出た時だった。大木が並んだ(と記憶するが)場所を歩いていると、いきなり木の陰から山スキーヤーが現れた。何となく、ゆっくりと滑り降りてくる緩いエッジの音が聞こえているような感覚があったのだが、目の前に現れたスキーヤーにボクは驚いた。

しかし、ボク以上に驚いたのは、そのスキーヤーだったに違いない。彼はボクを上から下までじっくりと見てから、コンニチワと普通に挨拶した。ボクも答えた。サイコーですねと付け加えたが、彼はそれには答えなかった。

小さなリュックを背負ったスキーヤーの後姿を追いながら、ボクはさっきの彼の視線を思い返した。そして、自分の着ているものにハッと気が付いた。ネクタイを締めジャケット姿のビジネスマン・スタイル…、TPOを全く逸脱したそのスタイルは実に奇妙に映ったに違いない。ひょっとして、自殺者とでも思われたかも知れないと、ボクは自分自身にゾッとした。

 スキー場の前の道路の横に、わずかばかりの空き地があり、そこにクルマを止める。

リアドアを開け荷台に腰を下ろし、ブーツを履き、スパッツを装着する。今では骨董品みたいな革製のブーツは出がけに防水処理はしてきたが、日頃の手入れが行き届いてなくて乾いた感じだ。帰ったら、たっぷりオイルを塗って上げようと心に誓う。

傷だらけのスキーも痛々しいが、これは宿命だと毅然とした姿勢を示す。木の枝があろうと石ころがあろうと、雪の上であればとにかく進む。時にはアスファルトの上でも、面倒くさいから行っていいよと、かつて読んだ『スキーツアーのすすめ』というガイドブックには書いてあった。立山の超長い下りや笹ヶ峰牧場辺りでは実際にそうしたこともある。

 ゲレンデには、朝から来ているのだろう競技選手っぽい二人がいた。この時季、彼らにとってもゲレンデは天国だ。ポールを立て、互いにビデオを撮って練習をしていたが、ボクがスキーを付けて歩き始めた頃には、その二人も片づけを開始していた。

 去年コンビニで買った日焼け止めクリームを、顔と手の甲に塗った。たしか三百円ほどのものだったが、結構効果があった。UVカットのリップクリームも、割かし丁寧に塗る。これは二百円ほどだが、昔からの愛用品。

 そしていよいよ、雪の上をひたすら歩き回ったり、走り回ったりを開始。ゲレンデの斜面を途中まで登っては滑り下りること数回。その間には二三回転んだ。いや、三回転んだ。どうも右回りの時に、内側のスキーを強く後ろに引いていない…。つまりテレマーク姿勢が出来ていないのだ。もう歳なのだから、無理するなということか。テレマークは片方の膝を曲げながら滑るのが特徴。それでバランスをとる。だから、その形が出来ていないとバランスが崩れるのは当然なのである。

スキーに慣れてくると、さらに奥へと進み、広い台地上の場所で、何の脈略もないまま動き回る。ここはたぶん畑だろうと、しばらくして分かる。高台の端に行き当たると、急な樹林帯の斜面を下って遊具の並んだ公園に出たりもした。そこはもう夏になると、小さな子供のいる家族連れが楽しそうに遊んでいたり、弁当を広げたりしている場所だ。この季節だと歩くスキーの格好のフィールドになる(している)。

 雪融けが進んでいる場所では、露出した草の上を透明な水がさらさらと流れていた。陽の光を受けて眩しい。リュックから冷たくない湯涌の水を取り出し、口に含む。ほっと一息。

再び登りかえして、スキー場の方へと向かう頃には、じっとりと汗ばんできた。こんなことをもう何年も続けてきたんだなあ…と、我ながらちょっと恥じらいなどを感じたが、だからどうなんだとすぐに開き直る。

ゲレンデの方に戻るようにかなり滑り歩いて、木立の中にあった石の上で大休止。ゲレンデを見上げながら至福のひと時を過ごしているうちに、若い夫婦連れ(だと思う)の山スキーヤーが大きなリュックを背負って登って行く。

途中、振り返ってコンニチワと言葉をかけてきた。雪の上に刺してあったボクのスキーを見たのだろう。テレマークですか?と聞いてくる。そうです!と答えると、ヘェーッと言ってのけ反って見せた。どういう意味なのだろうか……

うちの向かいの若いお父さんも、実は昨年あたりから本格的に山を始めて、今シーズンからは山スキーにも熱を上げ始めていた。学生時代は相撲部にいたという豪傑なのだが、でかいリュックを背負う姿はなかなか決まっている。

 そう言えば、彼もボクがテレマークだと言ったら、強い関心を示していた。ただ、どうやら自分には適さないと思ったらしく、それはテレマークのあの独特な滑り方にあるのだろうとボクは勝手に推測した。かなり柔軟さが必要と感じているのだろうか…。さっきの若いスキーヤーも、たしかに体がごつかった。

スキーを履いてからちょうど三時間。適度に疲れも出てきて、そろそろラスト一本決めに行くかと、また斜面を登り始めた。こういう時は、なかなかしぶといのがボクの信条だ。

しかし、なかなか…、とにかく疲れ切っているから、すぐに足が止まる。休んでばかりいる。大息をついて、体の向きを変えると斜面の下に向かって咳まで出た。行くか…

真っ直ぐに滑り降りはじめ、左にテレマークターンを一発決め、そのまま深いテレマーク姿勢を保って、すぐに次のターンに。いい感じで締め括れそうだと気が緩んだところでまたまた態勢が崩れそうになる。何とか辛うじて転ぶことはなく下方へ。ゆっくりとスキーを滑らせながらクルマの位置を確認し、スキーの方向を変えた。

スキーが止まって、フーッと長い息を吐く。今日はこれで終わりだが、これからまた楽しい季節にしよう。そう思うと、またしても心が躍った。それにしても…、太陽が、眩しいなあ……

帰り、山麓の道の脇には、桜が咲き始めてもいた……

主計町の春

 

久しぶりに、主計町の「茶屋ラボ」に行ってきた。

あまり気持ちよいとは言えないくらいの生温い風が、やや強めに吹いていて、埃っぽく、上着をはおる気分にはなかなかなれない午後だった。

大手町の駐車場にクルマを置き、新町通りに出て、久保市乙剣神社から暗がり坂を下る。神社の境内に入ると、不思議に風を感じなくなり、暗がり坂に差しかかると、さらに強い温もりだけを受けるようになった。

木立や主計町の狭い道には風も入って来れないのだろう。少し霞み気味の日差しも強くなったように感じる。坂を下った検番の前に立つ桜の木は、まだ蕾(つぼみ)状態だが、それはそれなりの雰囲気を持っていて、相変わらず姿形もいい。

去年の春、ボクはこの木から無数に散っていく桜の花びらを見た。路面に敷き詰められたような花びらはそれなりに綺麗だったが、あの無数の花びらたちはあの後どこへ行ったのか……。桜の季節の後半になると、いつもそんなことを考えている。今はまだいいが、後で心配事が増えるので、やはり桜には心を許せない。

そう言えば、今年の桜はかなり遅い方だ。ボクがこんなこと言っても仕方がないが、桜は早く来て、ある程度の期間咲き続け、散り始めたら早く行ってくれればいい。桜の騒々しさはそんなに長い時間要らない。と言いつつ、今年は何とか哲学の道を桜を眺めながら歩きたいと思っているのだが、タイミング的に無理だろうか。今年がだめなら来年があるが。

そんなこんなで主計町の細い道をL字型に曲がって、浅野川沿いの道に出るとすぐ左に「茶屋ラボ」はある。もう何度も通っている道だ。と言っても、ひょっとすると今年初めてかも知れない…と一瞬冷や汗。去年の今頃は、こけら落としの「和傘と甲州ワイン」のコラボイベントで奔走していた。

新聞にも大きく取り上げられて、この先大変なことになるのでは…と、ビビってしまったのをはっきりと覚えている。本番はなかなかの内容だったが、それをベースにしてやっていくのには、やはり少々無理があったみたいだ。あれ以来、ぽつりぽつりとイベントをやってはきたが、積極さがなくなり、少しずつオーナーさんとの距離も遠くなっていってしまった。しかし、一時、管理をある人物に委ねるような話もあったが、今はまたフリーな状態に戻っている。

待ち合わせをしていたN川クンはまだ来ていなかった。

手に抱えた上着のポケットから鍵を取り出し、いつも開けにくい格子戸の鍵穴に差し込む。意外なほどに簡単に開いて拍子抜けだったが、以前はよく苦労したから気分がよくなった。

格子戸を開けると、何となく懐かしい匂いがして、すぐに中へと足を踏み入れる。奥にある分電盤のブレーカーを上げて、さっそくトイレを拝借。

このトイレは決まって、来客者に驚いてもらえるところだ。トイレをはじめとして、金沢で活躍する鬼才建築家・平口泰夫氏がデザインした内装は、建築賞も受賞した抜群のセンスで構成されている。茶屋の伝統の中に現代的な感性が息づいているといった、ちょっと定番的な表現しかできないが、まさにそうなのだから仕方がない。

一階のテーブルの上にバッグを置き、押入れの扉を開くと冷蔵庫がある。まさかと思って開けてみると、懐かしい「ハラモワイン」のラベルが付いたワインボトルが三本。フルーティな味が特徴的な美味いワインが寝かせて?ある。冷蔵庫は電源が入っていないから、ちょうどいい具合に寝かせられているのも知れない。そう言えば、少し前だがオーナーから、冷蔵庫のワイン飲んでいいかと電話があったが、その時には飲んでいないのだろうか・・・。

冷蔵庫のワインを見て、これは明日飲めるぞ…とニタリ。実は次の日の晩はここで久々のイベントなのだ。

コンニチワ。外から耳慣れた声が聞こえた。N川クンだ。横に立っているのは、大きなマスクながら見覚えがある。O澤さんです…とN川クンが言う前に、ボクはその正体を見破っていた。O江町でS屋さんを営むO澤さんだった。ちなみにSは魚ではない。

さっそく、この場所のことなら、そしてこの場所の活用のことなら何でもゴザレの説明に入る。

一階の設備をひととおり説明終えると、いよいよ二階への階段へと差しかかる。急で狭くて、しかも直角に曲がる階段は、下る際には要注意。何人かこけるのを見た。すれ違う時には、目と目で見つめ合ってしまうような微妙な距離にもなる。

一階でも感嘆の声が絶えなかったが、二階に上がるとその声は一階の三倍半くらいの頻度になった。

浅野川に面した窓からは、その流れと共に、蕾がそろそろ膨らみ始めそうな桜の木の枝が、手が届きそうなところで風に揺れている。いいではないですか…と言いたいながらも、そんな安直な言葉では表現できないと言った思いが、はっきりと伝わってきた。浅野川のさざ波が光っている。

O澤さんは、茶屋ラボで楽しいことを企んでいるらしい。その楽しいことに、さらに楽しいことを注入しようとボクも考え始めた。ここでやろうとしていることは、普通にありふれたことなのではあるが、その中に個性的な何かを付加していく。それが茶屋ラボ的な趣向なのだ…と、ボクはかつて新聞で語っていた(らしい)。

と、今は粋がっていても仕方ないので、いろいろ説明したり案内したりしながらの三十分ほどだろうか。なかなか有意義で楽しい時間が過ぎていった。

ここへ人を連れてくるといつも感じるのだが、皆さん、それなりによいイメージをもってくれる。当たり前のようで、素直な感想だと思うが、だからこそ、こちらとしても中途半端なことは言えない。管理自体にもそれなりに責任があるし、やはり茶屋建築には注意が必要なのだ。

今回のO澤さんのような個性的で、信頼できる人(ヒトビト的)たちには大いに利用してもらいたい。

二人を見送り、戸締りをして茶屋街の道に出た。浅野川を背にして建物外観をしみじみと見る。

そう言えば、「茶屋ラボ」という呼び方もこのまま続けていいのか…と、思ったりする。次の日の夜、ここで篠笛と一人芝居を鑑賞し、そのあとそれなりにビールやワインなんぞを飲むのだろうが、その時に、ボーっと考えてみようかとも思う。

帰り道、暗がり坂で、もう一度蕾の桜の木を見上げてみようと思った。が、おばさんたちの集団に圧倒されて、しばし我を見失っていた。そうか、春なのであった……

春のランナーたちがいた

春になるといつの間にかたくさんの人たちが外に出て、飛んだり跳ねたりするようになっている。そんな激しい人たちばかりでなく、適当に歩いたり、ベンチに腰を下ろしてボーっとする人たちも当然多い。

春休みのスポーツ公園は、高校生たちの凛々しい姿や表情に見惚れたりする格好の場所だ。アンツーカーのトラックを正統派のランニングフォームで走り抜けていく彼らの姿や表情からは、清々しさとメリハリの利いた元気が伝わってくる。富山の国道四十一号線、ます寿しミュージアムの奥にある、広々としたスポーツ公園・・・・・・

春だからいいのかも知れない。夏だと猛暑の中、バテ気味のランナーたちからは息苦しさと気の毒さと、それから、自分だけが楽しているみたいな罪悪感と、とにかくさまざまに複層した思いが重なって、ついつい見て見ないふりをしてしまうこともある。

 かつて、八ヶ岳山麓で合宿していた某実業団陸上部チームのランナーが、ランニング中にコースから外れ、隠れてパイプから流れていた湧き水を飲んでいるところを見たことがある。あとでコーチから激しく叱られていた時の様子は実に惨めなものだった。今だと練習中に水を補給するのは正しいことなのだが、それでも真夏の炎天下ではその過酷さの方が勝ってしまう。実を言うと、そのランナーは当時結構有名な選手だった。だからよく覚えている。

春先のランナーたちは生き生きとしていて、気持ちのよい存在だ。体のキレもシャープに見える。それほど汗をかいていないせいもあるだろう。

中距離か、長距離のランナーたちだろう、ボクの前をかなりのスピードで駆け抜けていった。勢いはコーナーから直線に入っても衰えない。速い選手がどんどん前へと出ていく。一周したところでスピードダウンし、ぐっとペースダウンする。ほとんど歩いているようなスピードになって、見ているこちらの方もホッとしたりしている。しかし、彼らはまた徐々にスピードを上げていき、そのうちまたトップスピードになった。

またボクの前を走り抜けていく。今度は息遣いも聞こえた気がした。瞬間、彼らが引っ張ってきた緊張感がボクにも伝わってくる。先頭のランナーは背の低い坊主頭の、いかにも頑張り屋という顔付きをしている。彼の気迫が後続のランナーたちを引っ張っているようにも見える。

実はボクも中学時代は中距離と長距離の選手だった。選手と言っても、本来は野球部員であり、たまたまその方面の足が速かったから大会があると駆り出されていたのだ。河北郡という単位の大会で、八百メートル一位、二千メートル二位という成績だった。駅伝大会ではアンカーを任されていた。

しかし、今の選手たちとはかなり力の差があるのは間違いない。ボクたちは、あんなに綺麗なフォームで走ってはいなかった。走るということ自体は完璧に自己流であって、小さい頃、柿を盗もうとして見つかり、力いっぱいひたすら走っていた時のフォームとほとんど変わりはなかったと思う。

ただ、戦略的(大袈裟だ)には後半まで抑えて行けとかいう指示はあった。八百メートルの時は、ラスト二百メートルまでスピードを抑え、ラストスパートで一気にトップに出て、そのままゴールのテープを切った。前半を抑えていた分、自分でも全く疲れを感じない完璧なレースであったと今でも思う。その前の大会では、それの逆をやって、その他大勢の一人になったこともある。優勝して以来、ボクはいつもラストでパワー全開するスタイルに徹した。高校の持久走でも学年でトップになったが、やはりラスト二百メートルがボクの花道だった。それ以来、誰言うとなく“ラストスパートのナカイ”と呼ばれるようになった……かと言うと、当然そんなわけはない。

今、目の前で見ているような、しっかりとした練習なんかもやったことはなかった。ただ、走っていた。今でも思い出すのは、トラックを蹴っていくときの足の裏の感触とか、特に直線コースに入った時に感じた焦りみたいなものだ。不思議だが、直線に入るとなかなか足が前に出ていかないような感覚があった。

 ところで、山に行くようになってから、とにかく黙って歩いていれば、そのうち目的地にたどり着くという感覚を知った。ただそういう心境は、山に入ってから十年ぐらいが過ぎてからで、それまではただひたすら早く目的地に着こうということばかり考えていた。それは大学時代のクラブの仲間で、長距離に強かったやつの考え方に影響を受けたからだ。

しんどいことは、早く終わらせよう。早く楽になろう。長距離のランニングとかは、早く走って早くゴールすれば早く休めるし、後続がゴールするまでゆっくり体を休めることができる。実際、二、三十キロのランニングとかになると、早くゴールしておけば三十分以上は楽していられた。軽く柔軟運動などをやりながら体を休める。この考え方で、ボクは山に入っていた。もちろん早くビールが飲めるということも重要だったが。

マラソン選手なんかは、一定のフォームで長時間効率よく走れるということが理想だろう。速く走ろうとすることばかりが、早く走れることにつながるわけでもないに違いない。

高校生たちの凛々しいランニングフォームを見ていると、いろいろなことが頭の中を過(よぎ)っていく。

 帰ろうと思い、両腕を延ばして目いっぱい背伸びをした。目の前が真っ暗になったのか、真っ白になったのかよく分からないまま、体全体が硬直したように震えた。運動不足…。こんな言葉は自分に似合わないと、ずっと思ってきたのに、最近は完璧に似合っている。

まだまだ色のついていない芝生の上を歩き出すと、すぐにちょっと速足になる。ふと、数メートル先の芝の間に小さな茶色の物体を見つける。

 どんぐりだった。ずっと深い雪の下で冬を過ごしてきたのだろう。まだ表面には艶がある。ちょっと拾い上げて指で感触を確かめ、またすぐに芝の上に戻した。

 駐車場の方に戻る途中には、緑地に青い小さな花が無数に広がっている。美しい光景だった。何だか至れり尽くせりだなあと思う。

もう一度背伸びをする。ついでに声も出て、富山の空の青さが目に染みた……

永光寺の開創七百年

羽咋市の古刹・永光寺(ようこうじ)が、開創七百年の特別拝観を始めた。四月一日から十一月末までの長期開催だ。

昨年の秋に訪れ、そのことは聞いていたが、二日土曜日の新聞にもちょっと大きく取り上げられていて、早速三日の日曜日に出かけてきた。

晴れてはいたが、風が冷たかった。真面目に下にクルマを止め、いつものように石畳の坂道を、まだまだ咲きそうにもない“千年桜”の枝先にちらりと目をやったりしながら歩いた。鯉たちが泳ぐ四角い池は、いつになく透きとおっていて、鯉たちも元気そうに見えた。花粉をいっぱい貯め込んだような杉たちの群れが不気味だった。

山門の下の急階段も、いつものように休息することなく昇った。いつもより息が切れてる気がしたが、空気が冷えているせいにして、仁王像たちと数ヶ月ぶりの再会の挨拶をする。そしてすぐに受付へと向かった。

いつもより高い拝観料を払い終えると、今説明が始まったばかりだからと奥へと案内される。一番奥の部屋の襖が開けられ、中に入ると先客が二組いた。

その奥に弱い照明の当てられた透明の箱が置いてある。その中にお目当ての「毘沙門天坐像」が見えた。既に説明は進んでいて、先客の四人は真剣にそれに聞き入っている。

毘沙門天と言うと、ボクにとってはすぐに上杉謙信が頭に浮かぶ。普通は立っているものだが、坐った毘沙門天というのは珍しい。それは永光寺を開いた瑩山(けいざん)禅師の意志が反映されたものらしく、実際に禅師が最初の一刀と最後の三刀を刻んだと伝えられているらしい。黒々としていて表情は見づらいが、凛々しい顔をしている。説明によると、全体の中で、顔だけが緻密に彫られているということだった。写真撮ってもよろしいんでしょうか?と尋ねると、撮影禁止という注意書きもありませんし、そっと撮ってもらっても構いませんよ的な言葉が返ってきた。ストロボをたかずに、少し離れてシャッターを三度だけ押した。七百年の歴史で初公開ということだった。

それから一旦外に出て、今度は廻廊の階段を上り、伝燈院で開山・瑩山禅師の坐像を見せていただいた。これも今回の企画だ。堂に入る前に小さな釣鐘があり、その鐘を先客の一人が撞いた。軽やかないい音だった。この鐘を鳴らしてから入る決まりになっているらしいのだが、そのことの説明がユーモアに富んでいて面白おかしかった。

瑩山禅師の坐像と言うと、実は輪島門前の総持寺で同じものを見たことがある。禅の里交流館の展示計画をやらせてもらっていた時、能登半島地震後の総持寺で秘蔵物の撮影をしたのだが、本堂にあたる場所の奥に並べられた坐像数体を撮影した。前にも書いたかもしれないが、蚊に食われながらの貴重な体験だった。言うまでもないが、総持寺の開創は永光寺の後であり、開山は同じ瑩山禅師である。ただ、寺宝の写真集で見たイメージと、今回遠目ながらも見させていただいたイメージから、やはり永光寺のものの方が立派に見える。ボクなりの素直な感想だ。

周辺を歩き、また部屋に戻って熱いお茶とお菓子をいただく。冷え切っていた身体に熱いお茶が沁みていく。 本堂にお参りし、帰り際に事務長さんに挨拶。はじめて名刺を交わした。総持寺関係の仕事の際、間接的にお世話になった話と、かなり前に羽咋市の観光の仕事で見学に来た話などを、今頃になって長々と説明させてもらった。向こうも驚いて、また資料を用意してくださるとのことだった。

お世辞抜きにして、ボクはこの永光寺の素晴らしさは絶対広く知ってもらうべきだと思っている。個人的にはひっそりと楽しみたい気もしているが、そのことをまた認識した日だった。今度は桜が咲く頃に来るかな…と考えながら、ゆっくりと石畳の道を帰路についた午後だった・・・・

ジャズはジャズ的に聴く

三月下旬のNHK-BSで、上原ひろみがピアノを弾きまくっていた。

七九年生まれだから、もう三十歳は過ぎたのに、相変わらず可愛い笑顔をトレードマークにして、本当に楽しくて、楽しくてたまらないのです!というふうに鍵盤を叩きまくっていた。スタジオのインタビューでは、地震被災者たちのことを気遣いながら……

初めて彼女の演奏を聴いたのは彼女がまだ十代の頃だ。十七歳であのチック・コリアと協演している。明らかに普通のジャズピアニストにはない何かを彼女は持っていた。そして、彼女の音楽スタイルは、彼女の成長そのものよりも急角度で高度に、広角になり、ボクが最も好きなタイプのひとつともなって、いつ聴いても心も身体も解放させてくれる輝きを持つようになっていった。

それはピアニストとしての技術はもちろんだが、メロディやリズムを生み出す楽想や感性、演奏時のパフォーマンス(体の動きや表情)、そして即興性の追求など、すべてボク自身のサイクルを刺激するものであったということだ。

そして、それらの中でも、彼女が言うところの即興性というコトがボクには凄く重要で、即興でしか伝わらないスリルみたいなものは、いつもボクを刺激していた。彼女の演奏には、ボクの大好きな「単なるジャズではない、ジャズ的音楽」のエキスを感じたりする瞬間がたくさんあった。

「ジャズよりも、ジャズ的音楽の方が、よりジャズなのだ」と、自分でもよく分からないことをボクは考えたりしているが、最近ではラーメン屋でも居酒屋でもジャズ(一般的に言うモダンジャズだ)を聴かされているから、もうかつてジャズが醸し出していた濃いエキスは、豚骨スープや筋煮込み汁などの中に吸い込まれていき、かなり薄められている。

それも別に聴きたくもないシチュエーションでのジャズだから、どんどん垂れ流し的聞き流し的状況になっていくのである。

そんなときに聴く上原ひろみの演奏は刺激的で、ジャズは瞬間的に生まれる感性によって創造されるものなのだということを、あらためて教えてくれた。背筋がピンと伸びて、再び希望の道を与えられた迷い人の心境に近いものを感じたりした。

ボクにとって、ジャズは“ライブ”なのだ。特に冒険的なライブ感が感じられないとジャズ的ではない。だからスタジオ録音が悪いというのではないが、ライブ感があるかないかで、少なくともボクの評価は全く異なってしまう。

こんなことを言っていると、今世の中で一般的に愛されているジャズの評価とは全くかけ離れた話をしているように聞こえるかも知れない。街角で流れているジャズには人を普通に癒してくれるスイング感があるし、そのどこが悪いのだと言われると答えに窮する。それはそれでいいとしか言えない。

しかし…、なのだ…。

ジャズの世界では有名なエピソードだが、ジョン・コルトレーンとデューク・エリントンとのレコーディング時のやり取りが、ジャズのジャズたる所以を物語る……

自分のソロ演奏に満足できないで、何度もやり直したいと言うコルトレーンを、師匠格にあたるエリントンが、窘(たしな)めるという話である。

ジャズは即興性の強い音楽であり、その時その時の感じ方や演奏者の個性によってスタイルが変わっていっても不思議ではない。と言うよりも、そうだからこそジャズである。ところがコルトレーンは、再生テープを聴きながらやり直したいと言い出した。エリントンが答える…、そのままの演奏でいいのだよと。

もちろんコルトレーンだって、頭の中ではそんなことが分かっていないはずはない。ただ、エリントンの知性にあふれた強い個性に対して、当時の自分にはまだまだ満足できないもどかしさがあったのだろう…と、ボクは思っている。自分自身が許せなかった。超マジメに音楽を追究したジョン・コルトレーンという、後の泣く子も黙る偉大なミュージシャンは、こうして完成していったのかもしれない。

ところで、今では偏屈者と位置づけされるであろうジャズ愛好家が、ボクの周囲には何人もいる。自分では気が付いていないが、その偏屈ぶりは実に鮮明である。

今は金沢香林坊日銀ウラにある「ヨーク」の、亡き奥井進マスターにヘバリ付いていた連中(自分も含め)などは、その偏屈ぶりを今でも保持している。先日も、金沢市C岡町在住のY稜という偏屈者と久々に語ったが、彼はこの21世紀の世に、セシル・テイラーという超レアなジャズピアニストを聴いていると言っていた。ジャズの歴史には燦然と輝く異色の巨匠ではあるが、今では化石みたいな存在(言い過ぎか)として、久々に耳にした名だった。近いうちにCDを借りようと思っている。

ヨークの正面の壁には、今は亡き奥井進さんの写真が飾られてある。

雑誌掲載用に撮影された、よそ行きスタイルの奥井さんが店の椅子に腰を下ろしてレコードジャケットを見ている写真なのだが、持っているレコード自体が凄い。

サン・ラという、ジャズ界の奇才とも言えるミュージシャンのレコードなのである。そんなことはあり得ないが、若い娘だったら、サン・ラが好きと口にしただけで縁談も断られるであろう。逆に言えば、そういう音楽にカラダが慣れてしまっている自分たちも危ないのだが・・・・・・

奥井さんは何かレコードを持ってというカメラマンのリクエストに、なんとそのサン・ラを選んだ。もともと好きだったのは間違いないが、こういう時、普通のジャズ喫茶のマスターだったら、俗にいう名盤を手にするだろう。しかし、奥井さんは違っていた。

そう言えば、ジャズ的…と言う言葉は、ボクが奥井さんのために造った言葉だった。ジャズ的音楽、ジャズ的日常、ジャズ的人生……。自由に、のびのびと自分の個性を生き方(日常)に反映させていく奥井さんらしい言葉だと、ボクは我ながらのネーミングに満足していた。

一見ミーハーにも見える上原ひろみのピアノから、久しぶりに感じた心地よい刺激が、いろいろなものを思い起こさせてくれたのだった………

※上原ひろみのショットは、NHK-BSテレビジョンより

薄雪・湯涌水汲みの朝

カーテンを開けると、前夜からの冷え込みで、家の周りの土の部分に薄っすらと雪が積もっている。ほとんどが土の部分だから、薄っすらとした雪の白さが柔らかそうで、しばらくボーっと眺めていたくなった。

休日の朝は、のんびりと起きることができ、外の様子などにもゆったりと目をやることができるからいい。仕事の日の朝は、今の季節だとまだ暗い。会社まで平均四十五分ほどの通勤時間を要する身としては、明るくなる前の起床もやむを得ないのだ。

その点、休日の朝はいつもよりかなり明るく平和な感じがして、陽が差していたりすると、かなり得をした気分にもなれる。

三月はまだまだ冬と決めているボクとしては、その日の朝の、新雪の薄化粧も、当たり前の真ん中のちょっと横くらいのもので、全く驚くほどのことではなかった。ただ、少し頭をよぎったのは、午前中に決行しようと心の片隅で決めていた、恒例のお勤め“湯涌の水汲み”に無事行けるだろうかということで、前にも最後の山道に入ろうかという場所で前進を拒まれたことを思い出していた。

しかし、ボクは決めた。今は亡き写真家・星野道夫が、悠久を思わせるアラスカの空を見上げた時のように…とはいかないが、内灘町字宮坂上空から、医王山、さらに県境の山々を経て白山などに続く青い空を見上げた時、ボクは「そうだ。やはり湯涌へ水を汲みに行こう!」と、短い睫毛を揺らせながら決めたのだった。

前週は“氷見のうどん”を食べに行こうと決め、やや勇んで出かけた。が、いざ氷見に着いてみると、気が変わって刺身と焼き魚のセットになった定食を食べてしまった。その時も、風は冷たかったが天気は良く、絶好のドライブ日和となり、帰り道は七尾湾の方へと迂回した。春を思わせる日本海はひたすらのどかで美しかったが、眠気との戦いがきつい試練だった。この話は、特に今回のこととは関係ない…。

十時少し前だろうか、水入れ容器をいつものようにクルマに積み込む。二十リットルのポリ容器が二個。二リットルのペットボトルが約十五本。それに一リットルから五百ミリリットルのペットボトルなどが無数……。とにかく家にあるモノは何でも積んで行って、ひたすらそれらに水を入れ、一滴もこぼさぬようにして家まで持ち帰るのである。

家を出ると、まず河北潟干拓地の端に造られた真っ直ぐな道を、ただそのとおりに進む。途中干拓地の中心部に向かう道二本を無視し、競馬場方面への長い橋にも目もくれないで進む。さらにクルマを走らせ、右手に曲がる橋を渡って津幡町西端の団地の中へと入っていく。

しばらくして高架化された八号線に乗り、すぐに山側環状道路へと車線変更する。ボクの理想としては初めの景色のように、そのまま山の中へと吸い込まれていけるといいのだが、この道はそのうち杜の里付近の明るくにぎやかな街の中の混雑に吸い込まれてしまう。そこからしばらく進んでから医王山・湯涌方面の道に入って行くのだが、そこまで来てボクはいつもホッするのだ。

実は出かける前、湯涌の善良なる住人・A立Y夫青年(かつての)にメールを入れ、今から水汲みに行く旨を伝えておいた。いつも水汲みに行く際には、地元の住人である彼に連絡している。ただ行くよとだけ連絡するのだが、何となくよそ者が黙って水汲みに行くことに申し訳なさを感じていて、ただ一人知っているA立青年(かなり前の)に一報を入れるのだ。彼も湯涌の水の愛飲者であるのは言うまでもない。

彼からは、“薄雪の医王山きれいですぜ”という返事が届いていた。その日は仕事らしく、かなり気合が入ってるみたいだナ…と、文面から察せられるものがあった。

クルマを走らせながら、彼のメッセージを確かめるように、湯涌の山里の雪景色に目をやる。見慣れてはいるのだが、小さな風景ながらの新鮮な感動に浸れる。この辺りも、ボクがずっと親しんできた場所のひとつなのである。

すうっと伸びていく青の空。どこからかただ流されてきただけのような柔らかな白い雲。それらが春に近い冬の晴れ間らしい空気を山里に漂わせていて、ついつい目線を上の方へと持っていかれる。眩しいが我慢する。

山王線という最後の山道に入るところで、またしてもたじろいだ……

道に雪が残っている。今朝の新雪が重なっている。細い山道はすぐに左に大きくカーブするのだが、その先まで雪が残っていて、先の見えない道筋に大きな不安がよぎった。

しかし、今日は何だかそんなに悪いことは起きそうにないみたいだという安易な思い込みがあり、ドアを開けて雪を手で触ってみたあと、特に躊躇(ちゅうちょ)することもなくボクは山道へとクルマを乗り入れた。

しばらくすると、道の雪はタイヤの踏み跡部分だけ消えた状態になり、微かな不気味さの中をゆっくりと静かに進んで行く。対向車が来たらどうするかな?と、のんびりと考えていたが、当然何とかなるだろうぐらいにしか思っていなかった。

そのとおりに何もないまま水場にたどり着く。誰も来ないうちにと、タイヤを滑らせながらクルマをUターンさせ、バックで雪に被われた水場の脇へともぐり込む。

空気が冷たい。新雪を両手ですくい上げると、その冷たい感触が心地よく、その塊を斉藤祐樹のピッチングフォームで、約二十メートル先まで投げてみた。塊は途中で空中分解し、身体の硬さだけが実感として残った。思わず、笑ってしまった。

この水場は、しっかりとした水道栓になっていて非常に便利になっている。ここまで整備してくれた地元の人たちに感謝しなければならない。そのおかげで、内灘くんだりから来ている我々でも恩恵が受けられるのだ。奥に立つお地蔵さんに、では汲ませていただきますと手を合わせて、いよいよ水汲み開始だ。

二つある水道栓を使って、手際よく容器を入れ替えていく。水は出しっ放しにしておき、容器を順番に置き換えていくのである。しかし、時間がたってくると、素手にかかる水の冷たさが徐々に厳しく感じられてきて、かなりしんどい状況になる。指の辺りはピンク色になってきて、そのうち感覚も鈍っていく。白い息を手にかけるが、全く効果はない。

しかし、当然のことながら、そんなことに気を留めているわけにもいかないのである。

二十リットル容器に入れる時は少し余裕もあり、周囲の雪景色などを眺めていたり、カメラを構えたりもできるが、ペットボトルになると、そんなのんびりとはしていられない。どんどん水を入れては、蓋をしての連続となる。かといって何も考えてないわけではなく、一連の単調な動きの中でも、ふと前夜ビデオで見たNHK-BSの『仏像の魅力』のワンシーンを思い返したりしている。

自分の冷たく腫れ上がった指を見ながら、仏像の手は赤ん坊の手のようにふっくらと作られていて、特に指先の爪などは、まったく赤ん坊のものとそっくり同じに作られているという話を思い出したりしている。

仏像の手の指の爪は、赤ん坊のものと同じように反っている。仏様は赤ん坊と同じく純粋無垢な存在であり、ニンゲンたちに赤ん坊のような無垢な気持ちを持ちなさいというメッセージになっているものらしい。なんと、素晴らしい話だろうかと、前夜ボクはますます仏像が好きになっていく予兆に気持ちを高ぶらせていた。ときどき爪を立てたりする大人(特に女の)もいるが、赤ん坊の時は爪は立てられない。そして仏様のように穏やかな心を持った人は、爪を立てない…(話が飛んだ?)。

あれよこれよとオロオロ・モタモタしているうちに、ようやくすべての容器に水が入り切ると、クルマの荷台に運ぶ作業に移る。無理やりクルマを水場近くまで潜り込ませておいたのが功を奏して、快適なうちに積み込みは終了。

登りの対向車が来ないようにと思いながら、雪の坂道を下る。街道に出ると、ホッと一息つき、当然のことながら、このまま帰ってしまう手はないと帰路の逆方向へとハンドルを切っている。

しばらく走って、「創作の森」への登り口あたりにクルマを止めて歩き出した。何となく、その反対側の風景が昔から好きで、何となくそのあたりを歩いてしまう。足元の履物はトレッキング用の浅い靴なので、ちょっと失敗したなあと後悔したりしているが、せっかくの好天の下、歩かないのは損だと思っていた。

青空が気持ちよかった。何がどうなんだと聞かれても、うまく答えることはできないが、とにかく青空があり、その下に雪の山里があるということに満足していれば文句ないではないかと自分自身に語っている。

ボクには、いつもではないが、自分が今感動していることをどう表現して人に伝えようかと考えるクセがある。その時もふと、そんな思いに襲われ、ちょっと戸惑っていたが、そんなことを思うより前に、青空があっさりとその思いに勝ってしまった。

木の枝から、融けた雪のしずくが数滴落ちてきて、雪の上に小さなあとをつけるのを見た。残雪の下に垂れ下がったツララからも、ひっきりなしに水滴が流れ落ちている。

新雪が降ったとはいえ、雪融けは確実に進んでいて、自分自身が寒さを感じなくなっていることにも気付かないでいる。

カメラを遠くの小高い山並みに向けたり、ジェット機が飛ぶ空に向けたり、ぽっかりと雪融けでできた穴から見える緑の草に向けたり、何だか慌ただしくなった。しばらくカメラのシャッターを押し続け、そのあとはのんびりと雪景色をまた眺める。

う~む・・・と唸った。水汲みに来る湯涌には、まだまだ魅力がいっぱいあるなあ・・・とも、あらためて満足。これから先、どれだけこの場所を眺めるのかと、ふと思ったりし、ゆっくりと帰路に就いたのは午後ののどかな時間帯だった……

八ヶ岳山麓に憧れていた・・・

本棚の隅っこから、また懐かしい本が出てきた。レコードとか本とかはすでにかなり多くのものが手元から離れていて、時々本屋や図書館などで、これはかつて自分が持っていたものだと気が付いたりすることがある。

今回出てきたこの本の存在も、すでに遠く忘れ去られていたもののひとつだった。

著者の加藤則芳氏。ボクより五歳年上の尊敬すべき人だ。

かつて感覚やスタンスの違いを見せつけられ、一種の絶望感とともにこの本を読んでいた記憶がある。今から二十年ほど前のことだ。

そのさらに十年ほど前だろうか、加藤氏は八ヶ岳に移り住み『ドンキーハウス』というペンションを始めていた。

それまで東京の大手出版社に勤務し都会の雑踏の中にいたという、その180度の転換ぶりに、ボクは激しい羨望や嫉妬?を感じていた。当時のボクからすれば、氏はあまりにも簡単に自分のやりたかったことを実現させてしまった人だったのだ。

しかし、氏のことをボクがさらに尊敬していったのは、この本を出した後、人気のあったペンションをさっぱりと止めてしまったことだった。

経営的に行き詰まったというのではない。逆に多くの人に愛されていたペンションだった。その辺りのことは、この本を読めばよく分かる。

ペンション経営自体が、もともと氏の性格には合わず、氏の目的ではなかったということに過ぎない。このあたりも、自分に当てはまる話であると、奥歯で歯ぎしりしながら読んでいた。

氏はその後、八ヶ岳を生活のベースにしながら自然をテーマにした執筆活動を続けてきた(現在は横浜市在住らしい)。

また国内外でのさまざまな自然の場における活動などは、出版ばかりでなく、テレビなどでも広く紹介されてきた。細かいことは書き切れないが、もっと知りたい人は「加藤則芳」で検索してみてほしい。

去年の三月と四月、ボクは久々に八ヶ岳山麓に足を運んでいた。といっても、甲州市の友人と会うために出掛けた際、ちょっと立ち寄ったというくらいの滞在時間で、しかも清里周辺の超安全地帯をぶらぶらしただけだった。

清里周辺は両日とも雨や雪が降っていた。気温も低く人影も少なかった。特に清泉寮のあたりは全くと言っていいほど人の姿はなく、個性的な木工品が並ぶショップの中を遠慮がちに歩いてきた。夏の賑わいが嘘のような静けさだった。

遠望の山々も霞む中、小海線の清里駅にクルマを止め、日本の最高地点を走る車両を見ようと思った。

かつて日本で最も標高の高い駅である野辺山駅に立ち寄り、入場券を買ってホームに入った時のことを思い出していた。

列車が来ると、何気にその列車の写真を撮った。特に鉄道ファンでもなかったが、その時に見た列車はそれまでに自分が見てきたものの中でも深い印象として残った。

夏のきつい日差しの中で、熱を帯びた線路から舞い上がる陽炎も目に焼き付いていた。

ホームに入ってきた車両は、かつて見たものとは大きく違いカラフルで美しかった。

ただ見過ごしていたが、車両が走り去った後、どうせなら、一駅だけでも乗ってくればよかったと後悔していた。相変わらず思い切りが悪い……

二十代の多くの夏、ボクはこの本のタイトルみたいなわけではないが、八ヶ岳山麓で一週間近い夏休みを過ごしていた。

旧盆の休みとかに敢えて仕事をして、その分の振替え休暇を八月二〇日前後にとる。そんなことを当時は平気でやっていた。そして、その時間はボクの日常の中に非日常をもたらす、夏の恒例行事でもあった。

はじめは、特に八ヶ岳を意識していたわけではない。白樺湖の雑踏を抜け、車山高原からのビーナスラインを走り、途中の湿原地帯や高原の道をトレッキングするというスタイルだった。

ただ、もうすでに山の世界に足を突っ込んでいたボクは、もう少しハードなものを求めるようにもなっていた。

八ヶ岳の麓に来ると、十分にそれを満たすというほどではないにしろ、何となく自然と一体となれる瞬間があった。それは瑞々しい感覚で、樹木一本、野草一つが持っている目に見えないパワーみたいなものが伝わってくる気がした。

森の中を歩いていると、自分自身がそれまでとは違う何かに引き寄せられてでもいるかのように感じられた。

実際、当時のボクは、北アルプスの北部や上高地を起点とする山域に足を運び始めていたが、南アルプスや中央アルプスなどの山域の空気を知らないでいた。

ひょっとすると、その空気というのは、今感じているものなのかもしれない…、ボクはそんなことを思ったりもしていた。北と比べると、南の方はジメジメしていない、爽やかな印象があった。どこか垢抜けしていてセンスもいいような感じがした。

ボクは結局、八ヶ岳には一度も登らなかった。じっくりと腰を据えているといった印象もなく、いつもただ慌ただしく移動し、歩き回っていただけだった。

今の自分の家が出来つつあったとき、ボクはわざわざ八ヶ岳山麓を訪れ、地元のクラフト作家たちのアトリエを見て回った。

何年ぶりかのことだった。そして、そのとき、家を建てている自分のことを振り返り、ふと思った。

オレッて、かつてはこの土地に、家を建てようとしていたのではなかったっけ……と。

そんな思いはすぐに消え去っていったが、ボクは懐かしい森の中に、ちょっとだけ足を踏み入れ、車内に積み込んだ多くの品とともに、そこで切られていた白樺の木の枝を一本もらってきた。

ボクにとっては、それがその日一番の収穫だったような気がした。

しかし、それからまたボクは少し虚しい気分に落ちていく自分を感じた。

妥協したんだなあ…。いやあ、妥協なんてもんじゃないだろう…。

今は十分に落ち着いて振り返られるが、その時のボクは、二度と戻ることのない時代への激しい後悔に襲われていた。

この後、“私的エネルギーを追求する”などといった、胡散臭いコンセプトの雑誌を出していくひとつのきっかけが、その時のボクの感情の中にあったことは間違いないだろう。そんなことぐらいでお茶を濁していこうとしている自分も情けなかった。

ボクは自分の性分が、かなりの楽天主義で、さらに面倒臭いことにはできる限り関わらずに生きていこうとしているタイプであった…ということを、四十になろうかという頃、確信した。

その少し前から、そうなんではあるまいかと薄々認識し始めていたのだが、どうやらそれが正しいのだなあと悟った。

振り返ると、いろいろなことに深い関心をもち、人一倍好奇心と知識とを持とうとし、さらに行動にも移していたと思っていたが、そんな自己満足は何の意味も持っていなかった。

自分が本当に求めていたものは、目には見えないものであるということを忘れていた。

ニンゲンそんなに簡単に目的は果たせない。そんなことは分かっている。しかし、その目的を果たすための思い入れや、努力や、思い切りまでもを忘れてしまっていた自分が情けなかった。

“八ヶ岳”という名前、いや文字の形を見るだけで、今でもボクは気恥ずかしい気持ちになる。ましてや、加藤則芳氏のように、自然体で八ヶ岳を自分のものにし、そしてそこからまた羽ばたいていった人を見ると、もう自分自身の小ささが腹立たしくもなる。

そんなことを振り替えさせられた苦い味の一冊だった、と、また読み返しているのであった……

動橋川 冬の朝

滅多にない機会が突然訪れるというのはいいことだ。しかも、思い描くことすらなかった機会となるとワクワクする…。

二月も後半に入ろうかという好天の朝、ボクは野暮用で小松の某温泉地にいた。満月に近い美形の月が、まだ完全な明るさには至っていない空に堂々と浮かんでいた。好天であり、大気は冷え込んでいる。

早く出たせいもあって用事までには四十分ほど時間があった。その時、ふと思い立つ。近くに法皇山古墳跡がある…と。前にも書いたが、その辺りはボクにとって“いい気分になれる場所”のひとつである。しかも、冬の晴れた朝などという条件は、それこそが“滅多にない機会”そのものだった。

こういうことは、とにかくすぐに行動に移すのがいい。道はすぐに加賀市へと入り、左手奥に小高い山並みを見ながら進む。程なく見慣れた町の風景となって、すぐに法皇山古墳跡の駐車場へとクルマを乗り入れる。資料館はまだ冬季閉鎖中。駐車場にはボク以外のクルマはない。バッグの中のカメラの存在を確認したが、なかった。

ハーフコートを着込み、動橋(いぶりばし)川に架かる橋まで歩いた。ちょっと下流側の堤に入って、朝霞の中の白山やその周辺の山並み、それから川の流れに目をやる。相変わらずの水の美しさに安堵したりしながら、もう一度山並みに目を戻すと、山の霞み具合が余計に濃くなったような錯覚に陥る。

今、橋の上流の方、右岸の堤にはきれいな道が作られている。去年の終わり頃に来た時、何だか工事が始まりそうだなと感じていたのだが、今回来てみて、すでに堤の上が道らしくなっていることを確認できた。ここに道が出来れば、その奥にある洞窟のような場所まで、気持ちよく行けるようになる。これまではあまり気持ちよくは行けなかった。靴やズボンの裾がかなり汚れた。

この洞窟のような場所というのは、実に神秘的…とまではいかないが、少なくとも予備知識がない身としては、興味津々といった心境になれる場所だ。法皇山という歴史的な匂いが漂うこともあり、来た人の目を楽しませるだけでなく、好奇心などをそそるものになるだろう。ただ、ボクとしては、この整備がきっかけとなって、自分だけ(?)の世界が失われていくことになるかも知れないことに危惧もしている。ちょっと大袈裟だが……。

橋を渡り、川の左岸を上流方向へと向けて歩く。法皇山の低いながらも急な山肌を左手に見ながら、道は川沿いを右の方へとゆっくり曲がっていく。もちろん川が曲がっているから道が曲がっているのであり、低い山並みが曲がっているから川も曲がっている。

道沿いには桜の木が植えられている。当然、今は裸木状態だ。朝靄の中、その立ち方がいいなあと納得したりする。春先には思わず赤面したくなるくらいの花を咲かせるのだろうが、そういう頃にはあまり来たくはない。桜そのもので、この場所を評価したくないといった、いつもの我が儘だ。

それにしても川の流れがとてつもなく美しい。川面からはかすかに湯気も上がっている。空気がきっちりと冷えている証拠だ。農道のような(なのかもしれない)道の脇にある草むらには霜が降りていて、それに朝日が当たった光景も美しい。

この道はどこまで続いているのか知らないが、いつか完全踏破してみたい道だなあ…とあらためて思ったりしている。なにしろ、もう二十年以上も前から知っている風景なのだ。

それにしても、後半とはいえ、まだ二月なのに春の匂いがプンプンしてくる。山里でも木立の深い場所ではまだ深い残雪があるが、水田地帯では雪解けが進み、顔を出してきた水面が春の光を浴びたかのように輝いていたりする。毎年同じようなことを言っているが、やはりもう少し冬でいていいのではないかと思う。ついこの前まで、雪すかしは大変だとかという話題で盛り上がって(?)いたのに、ちょっと性急すぎる。もう一回ぐらい、雪すかししてやってもいいよと言いたくもなる。そういえば去年の今頃、誰かから“道沿いの雪が眩しいです”という内容のメールをもらったことを思い出した。山里を走る道沿いの雪が、まだまだしっかりと存在している光景こそ、今どきの正しい風景なのだと思う。

クルマに戻って、また元の道を引き返すことにした。橋の上からもう一度川の中を見下ろし、魚でもいないかと目を凝らしてみるが、動くものは何も見えない。夏だったら団体行動で泳ぎまくっている魚たちも、冬の冷たい水の中でじっとしているのだろうか。猫も炬燵で丸くなるように、魚たちもそうなのだろう…と、どうでもいいことを考えたりした。

クルマの中からだが、少しずつ白山の姿が見え始めている。霞の中に光を受けた雪面だけが浮かび上がり、なかなか幻想的だ。いくつかの自分なりのビューポイントを持っているが、そこを通るたびに目をやっている。

ニコンもコンタックスも持ち合わせていなくて、携帯電話のカメラしか使えないことを激しく後悔した。最近ちょっと写真の手抜きがはなはだしい。もっと執拗にカメラを持ち出さねば。

こんな滅多にない機会をもらったのに…と、自分を叱りつつ、もう一度動橋川沿いの道に思いを馳せたりしているのだった……

居ても立っても・・・テレマーク

2月最初の日曜日は、春がそろそろやって来そうだなと思わせるほどの暖かさだった。前日は昼間から酒の入る会合があり、その酒を抜くために夕方近くから雪かきをした。まだまだカチカチに凍ったままの雪を、金属製のスコップで割っていくのはきつい作業で、効率もさほどではなかった。

そして、晴れた日曜の朝、今日は今年最初の水汲みだと決めていた。朝のうちは緩み始めた雪をあらためてまた割ったりしながら過ごし、家の前に凍結状態で残っていた雪の多くをかき出した。そして、いつもの湯涌へと向かう。クルマには20リットルの容器2個と、2リットルのペットボトル20本ほどを積む。とにかく年が明けて昨年末に汲んで来た水がなくなり、スーパーの水と水道水で繋いできた。が、やはり何となく湯涌の水でないと物足りない。

しかし、この雪だ。水場まで無事にたどり着けるのかどうか分からない。雪かきをした後でもあり、クルマの中では体がポカポカしている。うっすらと汗もかいてきた。内灘からは河北潟の道路を横断し、山側環状道路に乗って湯涌方面へと向かう。

湯涌はさすがに雪が多かった。路肩に残る雪は1メートル以上ある。無理かも知れんなあと思いながら、水場の方へと登る道に差し掛かった。周辺ではブルドーザーが2台、忙しそうに動き回っている。

狭い登りの道は雪で覆われていた。入口にはクルマが止められ侵入を阻止していた。除雪作業をする人に聞いてみたが、行くのは無理だと言う。もう戻るしかない。水は来週まで我慢となった。

 

帰りのクルマの中でずっと考えていたのは、そろそろテレマークで雪の上を歩きまわりたいなあということだった。河北潟の干拓地にするか、津幡の森林公園まで足を伸ばすか、そんなことばかりを考えながら、ハンドルを握っていた。

しかし、家に戻ると、ますます雪が緩んできているのを実感し、昼食後には再びスコップを手に雪かきに汗を流し始めた。埋もれていたゴミ箱を掘り起こし、駐車場のスペースを広げる。スコップのささり具合も快調だった。

雪かきを終えると、時計は3時を過ぎていた。焦っている。しかし、今からでは時間が中途半端で、スキー歩行に行くには時間がない。それでも何とかしたい。我慢できなくなった。

二階の部屋へと、ブーツと板とストックとスパッツを取りに駆け上がる。玄関からは出ないで、居間からスキーを投げ出し、ブーツを履き、スパッツを付けて雪の上に出た。

家の周辺と言っても、狭い空間だ。しかも、こんなところでクロスカントリーみたいなスキーをやっているニンゲンなんていない。こっちに来たばかりの頃、一度だけスキー歩行をしたことはあったが、もう十年以上前のことだ。

テレマークを付けて雪の上に立つと、やけに嬉しくなった。滑る感触がたまらない。ちょっと人目を気にしながらの、コソコソ歩行だが、家の裏側300メートルほどを五往復した。

また汗が噴き出してきた。久しぶりで息が切れてくる。自分はやっぱり、こういうことに歓びを感じるのだなあと納得している。陽が西に傾き、日陰になった頃にスキーを脱いだ。雪かきも含めた筋肉痛の予感がまた嬉しかった……

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

金沢・中央公園で思い出したこと

金沢・片町にある「宇宙軒」で「豚バラ定食大(ご飯大盛り)」を食ってから、香林坊のホテルで開かれる「中心市街地活性化フォーラム」まで30分以上時間があったので、久々に中央公園へと足を運んだ。

特別な目的があったわけではない。何となく、宇宙軒におけるご飯の大盛りが心残りとなり、朝、大和さんの地下で青汁の試飲をして身体にいいことをしたばかりだったのにと、小さな罪悪感に心を痛めていたのだった。

せめて中央公園にでも行って、色づき始めた木々を眺めるふりをしながら、カロリーを消費させよう・・・。そう思っていた。

そういう安直な思いでやって来たのだったが、思いがけなく、あまりにも色づいた木々が美しいのにボクは驚いてしまった。

あまりにも思いがけなかったので、驚きはかすかな喜びに変った。そして、かすかな喜びは果てしない郷愁へと変化し、ボクは青春時代の自分の姿を、その郷愁の中に見つけていたのだった。

何だか、昔の堀辰雄の文章みたいな雰囲気になってきたが、大学一年の夏、ボクはこの中央公園で見た光景を原稿用紙20枚にまとめた。それは初めてのエッセイらしきもので、ハゲしく志賀直哉大先生から五木寛之御大に至るまでの大作家たちの文体を真似た一品だった。

体育会系文学青年の走りだったその頃、ボクは経営学を専攻しながら、日本文学のゼミにも顔を出していた。先生は、奈良橋・・・(下の名前が出て来ない)という名で、作曲家の山本直純を若くし、さらに髭を剃って、二日半ほど絶食したような顔をしていた。果てしないヘビースモーカーで、ゼミの間は煙草が絶えることはなかった。

夏休み前の最後の授業の時に、先生はヤニで茶に近い色になった歯をむき出しにしながら、「夏休みの間に、何でもいいから、ひとつ書いてきなさい」という意味のことを言った。もちろんボクにだけ言ったのではなく、15人ほどいた学生全員に言ったのだ。

ボクはその言葉を忘れないでいた。しかし、夏合宿が始まり、精も魂も尽き果てていく日々の中で、そんなことはどうでもよくなっていった。

そんなある日、ボクは練習で腰を悪くした。もともと中学三年のとき、野球部に在籍しながら陸上部に駆り出されていた時の疲労が溜まり、身体に無理をさせたことが原因となって右の骨盤を骨折したことがあった。それがまた腰に負担をかける原因にもなり、ボクは時々腰が異様に重くなるような症状を感じていた。

久々に感じた症状だった。しかし、一旦それを感じてしまうと、身体はどんどん硬くなっていった。というより重くなっていったという方が当たっている。その年、チームは四国で行われる全日本選手権に出場することになっていたが、その出発の一週間ほど前に、ボクは石川に帰らされた。一度身体を休めて、遠征に向かう新幹線でまた合流しろというキャプテンの指示だった。

帰省してからの日々は退屈だった。金もない。ただボクは身体を休めることもせず、街をぶらぶらしていた。文庫本一冊を綿パンの後ろポケットに入れて、中央公園へとよく行った。

芝生に寝転がって本を読む。今では考えられないかも知れないが、当時の中央公園の芝はきれいだった。たくさんの人たちが芝に腰を下ろしていた。

 ある時、仰向けになり両手で持ち上げるようにして本を読んでいると、足元にボールが飛んできた。ボクはそのボールを起き上がって投げ返したが、そのままもう一度本の方に戻る気になれずにいた。そして、身体を横向きにして、また芝の上に寝転んだのだ。

ずっと向こうに近代文学館(現四高記念館)の赤レンガの建物があった。芝も木々の葉も緑だったが、同じ緑ではなかった。

そして、ボクはその中に小さな男の子と、涼しそうなワンピースを着た母親の姿を見つけた。見つけたというより、目に入ってきたという方が合っていたが、ボクは何度も転びそうになりながら走り続けている男の子の姿を目でしっかりと追っていたのだった。

どんな動きだったのかはもう覚えていないが、ボクはその時のことを文章にした。今から思えば、エッセイというよりは超短編小説といった方がいいかもしれない。なにしろ、その中のボクは「榊純一郎」という名前を付けられていたのだ。純一郎は、どこかに脱力感を漂わせる青年だった。その純一郎が、純粋な子供の仕草と母親の動きに目を奪われ、そこから何かを感じ取る・・・・。そんな話だったのだ。その時の自分に何があったのかは分からない。

帰省している間に、ボクはそれを書き終えた。そして、夏休みが終わって、学校が始まると(といっても10月だが)、最初のゼミの時間に先生に渡した。先生は驚いたような顔をしていたが、じっくりと読ませてもらうよと、また茶に近い色の歯を見せて笑っていた。

そして、次の授業の時間、先生がボクに近づいてきて言った。「なかなか見る目を持っているよ。こういうことをしっかり見て文章にできるということが大事なんだ。どんどん書きなさい」 この言葉は今でも忘れていない。

久々に来た短い時間だったが、ボクは中央公園でのことを思い出した。どんどん書きなさいと言われた言葉は、今の自分にも当てはまっていると思った。今、ただひたすら書くことによって安らいでいられる。思ってもみなかった中央公園での時間が、そのことを納得させてくれたのだった・・・・・

野菜ラーメンを運ぶおばあさんと文学好きのおじいさんたち

 

O野先生から検査入院されているという知らせを受けた数日後、富来図書館へと向かった。

七尾の病院だが、午後からなら外出してもいいので、都合のいい時間に来てくださいとのことだった。

いつものように、ちょっと早めに着き、国道249号から富来の町中への入り口にある、超大衆食堂「Eびす屋」さんに入る。いつものように適度な数の客が散在し、いつものようにうるさくもなく、かといって静かでもなく、のどかだが、それなりに緊張感も漂うといった店内に入った。

 Eびす屋さんは、何と言ってもフロア担当のおばあさんで持っている・・・・とボクは思っている。“それなりの緊張感”というのも、このおばあさんあってのことだからだ。

実は、ボクはこの店で“野菜ラーメン”と“おにぎり”以外のものを食ったことがない。いや、少し前、魔がさして?“塩ラーメン”を注文してしまったのだが、味はほとんど同じようなものだった。だから、ボクの感覚では同じラーメンなのだ。

ところで、“それなりの緊張感”についてだが、このフロアチーフ(担当から昇格)のおばあさんは、注文を聞いた後1分以内に、もう一回確認に来るということがしばしばある。当然、何となく注文したものが届くまでに不安が走る。その、「いくらなんでも、二度聞いたものを間違うはずがない」といった決め付け感に自信がなくなっていくあたりが・・・・“それなりの緊張感”なのである。

それにしても、Eびす屋さんの客は、よく野菜ラーメンを注文する。その日も来る客来る客と、野菜ラーメンを注文し、いかに野菜ラーメンが人気メニューなのかが分かる。そして、これでいくらなんでもボクの注文も間違うことはないだろうと、完璧に確信できたりもするのであった。

かなりの安堵感とともに新聞を読んでいると、そこへ打ち合わせメンバーのお一人で、地元の民話に詳しいH多先生が入ってこられた。ひとことふたこと言葉を交わすうちに、さっきフロアチーフに昇格したばかりのおばあさんがやって来て、お茶を置く。「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」とH多先生が言う。確信のない他人事のような言い方ではあったが、またしても野菜ラーメンの注文が入った。H多先生もいつも野菜ラーメンを注文しているに違いなかった。メニューなど全く見ていない。しかも、あの「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」の語尾のあたりに、やや照れながらも充分言い慣れた雰囲気が漂っていた。

それから数分後、ボクの前に間違いなく野菜ラーメンとおにぎりが置かれた。いつもように素朴に美味かった。7月のエッセイ 『富山で入道雲を見て、ちゃんぽんめんを食ったことについて・・・』 でも書いたが、なんでもない普通の食堂で出てくる、ある意味的個性派ラーメンには逸材が多い。

このラーメンもその代表格にあたる。この富来の町にあるからこそ、このラーメンには味がある。これが金沢のK林坊Sせらぎ通りあたりにあったのでは、この味が出ない。それにこのフロアチーフの存在だ。

1時、富来図書館。いつものメンバーが待っている、と思ったが、H中さんがいない。用事でちょっと遅れるとのこと。しかし、しばらくしてH中さんはすぐに来られた。

O野先生は、気のせいか少し元気がないように見えた。先生によると、身体の栄養バランスが崩れていて、点滴を打っているとのこと。夏バテもあるのだろう。それでも書庫へ行って、本を探して来るだの、コピーを取って来るだのと忙しく動き回っている。さすがに、先生あまり動かなくていいですよと言ってしまった。

この三人は、年齢を合計すると200歳を軽く超えているはずで、普通だったらしんみりとした雰囲気にもなったりするのだが、それぞれ個性的に活躍されており、こちらとしてもそれなりに楽しくなったりする。書き忘れたが、H中さんは地元の由緒正しき旅館「湖月館」のご主人で、なんと日本最高峰の某芸術大学を卒業されたアーチストでもあるのだ。毎日、カメラを持って自転車で町を走りまわり、撮影した写真をホームページに掲載されている。富来の今を知る人なのである。

ああだこおだと打合せが順調にフィナーレを迎えた頃、O野先生が、ああ、また退屈な病院へ戻らなきゃならんのやな・・・・と呟(つぶや)かれた。まわりから、いい機会だからよく体を休めておいた方がいいという声が盛んに上がり、O野先生も帰り支度を始められた。

これから加能作次郎文学賞の発表など、まだまだ忙しいスケジュールが詰まっている。大事をとって自重していてもらわないと、あとが大変だ。そんなことぐらい分かっているよと先生は言うだろうが、分かっているなら余計に“ご自愛”いただきたいのだ。

 久しぶりに記念室に入り、図書館を出たのが3時少し前。天気はそれほどでもなかったが、増穂浦は相変わらず美しい。

それにしても、Eびす屋のフロアチーフのおばあさん、および野菜ラーメン。そして、あの知的好奇心旺盛なご老体3名。富来には濃い“味”がしみじみと溢れているのであった・・・・・・・・

※タイトル写真 左から O野先生 H多先生 H中さん

「 JAZZ AT 紺屋坂(1) やや硬い話編・・・」

 去年に引き続いて二回目となった「JAZZ AT 紺屋坂」。金沢市の中心部で始まった「金沢ジャズストリート」に合わせて始めたものだ。

 本体である後者のスタート時にも少し関わり、大学ビッグバンドを呼ぶことを提案させてもらったが、初回の大好評の割りには、今年の二回目には主なビッグバンドは参加していなかった。それは多分、東京などの大学ビッグバンドを呼ぶと、人数と距離の関係で経費がかさむからだったのだろう。ボク自身にとっては、母校のビッグバンドの連中と交わした約束は見事に破れていってしまい、大変申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、去年のことでよく理解できたが、やはり、大学ビッグバンドの優秀な連中を集めることは、今風のジャズの息吹を知る上で重要なのではないだろうか?と、ボクは思っている。国際的なジャズイベントを目指すならいざ知らず、国内の、いや県民や市民を対象として、街なかの賑わいを図るという趣旨であれば、わざわざアメリカなどからプロを呼ばなくても、大学生の意気のいいビッグバンドの演奏で十分だ。と言うよりその方が最も適している。

 「ジャズストリート」の話を初めて聞かされた時、金沢は“学都”とか“文化都市”と、自分たちから名乗っているわけだから、ジャズをきちんと勉強するような、そんな環境も作ればどうかとも提案した。それによって、全国で金太郎飴みたいに広がっているジャズなどの音楽イベントに、金沢らしい特色を付けられるのではないかとも思った。

 ところが、答えは“ノー”だった。そんな難しいことはどうでもよくて、普段あまりジャズなど聴く機会のない人たちにも、楽しく聴いてもらい、街に賑わいを作ることが主目的なのだとあらためて聞かされた。

 つまり、ジャズがどういう歴史的背景の中から生まれ、ジャズメンたちがどのようにしてジャズを今日のような最も創造的な音楽(せいぜい80年代までかな?)にまで成長させたかなどについてはどうでもよくて、とにかく街なかで何かやっていれば人が集まって来る── それがジャズだとかと言っておくと、“なんかカッコよさそうでない? 行って見っかいね”といった人たちが寄って来るし、マスコミも騒いで、街なかが賑やかになった、よかった、よかった的に話がまとまる── といった感じだったのだ。

 だからこそ、大学ビッグバンドがよいと、ボクは思ったのだが、どうも“ジャズ的ジャズ”を感じ取れない人たちには、その辺のところが理解されにくいのだと諦めるしかなかった。

 こうなったら、その路線を貫いてやろう。それほど大袈裟な話でもないが、いい年をしてボクは心を決めた。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、そんなボクの思いを背景にして第二回目を迎えたのだ。金沢城兼六園商店会という組織の主催であり、商店街活性化事業のお金を主にして実現しているのだが、こういう時こそ、公私混同型の潜在的能力を有したニンゲンの勝負になるとボクは思っている。そのとおりやっていくための原動力がそこにある。こういう類のイベントに自分が積極的に関わっていくなど、つい一年ほど前まで考えてもみなかった。やりたいという思いは少しあったが、自分自身の徒労ばかり考えていた。しかし、いい助監督との出会いがボクの背中を押した。やれそうな気がしてきた。ボクは一歩前に出ることができ、その勢いのまま歩き始めた。今はもう助監督はいなくなったが、背中にあった支えが外れたのに気が付かないふりをして、とにかくやっている。

 というわけで、ボクはこのイベントをこれから発展させていきたいと考えている。むずかしく考えるのはやめにして、自分自身も試しながら? それなりにやっていく。

 実を言うと、今ちょっと関心を持っているのが、10月10日に明治大学周辺で開催される「お茶の水ジャズ」だ。実行委員会と明治大学が主催し、地元の商店街などが協力している。2008年から始まっているが、イベントとしての質も非常にいいものだと聞いた。しかし、今年こそ行って来ようと計画していたのに、先客があった。関西の学生たちが自主的に企画運営するクラシックの音楽祭に行くことにしてあったのだ。

 東京と金沢ではスケールが違い過ぎるが、「東京ジャズ」という国際的なジャズイベントが行われている中で、「お茶の水ジャズ」という、さらに小さな単位のジャズイベントも行われているという点に注目している。なかなかいい感じだ。

 ところで、11月の紅葉シーズン、兼六園の無料開放時期に合わせて、今年もう一回、一晩きりの「JAZZ AT 紺屋坂」をやるつもりだ。

 ちょっと肌寒くて、演奏者も辛いかも知れないけど、聴いてくれる人たちの心をホットにする自信はある。柄にもなく、キザなことを言ってしまった…

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……

水かけ神輿と一箱古本市

8月最後の日曜日は、猛暑もなんのその、とにかくひたすら慌ただしい一日であった。

まず、10時に始まる『第1回一箱古本市』に出店するために、九時半頃、主計町の源法院という小さな寺に出かけた。

この古本市は、2005年、今注目を浴びている東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まり、金沢のあうん堂さんたちがこちらにも呼ぼうと企画したものだ。駅弁売り用の木箱が一個千円で配られ、それに古本などを好きなだけ並べるだけという、シンプルを絵に描いたような売り方をする。谷根千のさまざまな面白いコト・モノに興味を持ち始めてきた最近、あうん堂のご主人Hさんからご案内いただき、まずこれを取っ掛かりにしようと決めたのだ。

主たる店番担当のKは、ボクより少し遅れて会場に到着した。彼の友人であるOクンも後から来ることになっていた。しかし、ボクはゆっくりとはしていられない。すぐに主計町から柿木畠へと移動しなければならなかった。というのも、柿木畠の人たちが数年前から始めた「水かけ神輿まつり」の様子も窺いに行かねばならなかったからだ。

KとHさんに、場を離れることを告げ、ボクはすぐに歩き出した。

主計町から柿木畠。金沢を知る人であれば、それほど近い距離でないことはすぐに分かるだろう。しかも、すでに気温は猛暑と呼ぶにふさわしいあたりまで達している。案の定、大手町あたりでTシャツは汗でびっしょりになった。かなりの早歩きのせいもあるが、日向も日蔭も関係なく熱風に全身が包まれていく。

柿木畠に着いたが、神輿の姿はなかった。そうかと納得し、広坂の石浦神社へと向かう。歴史はないとは言え、神輿は神輿、神社でお祓いをした上で街に繰り出すのが正しい道だ。こちらがちょっと遅れたせいもあり、神輿とは21世紀美術館で遭遇した。お祓いをすませ、戻りの途中だった。いつもの面々が先頭を歩いていて、手を上げて挨拶してくれる。Mさん、Iさん、Gくんなど、いつもとはちょっと違う出で立ち(Iさんは同じか)で、勇ましい。まだ勢いは付いてないが、これから街に繰り出して水の掛け合いになるのだ。

 柿木畠は、ボクにとって商店街仕事の原点みたいなところで、楽しく元気に、そしてセンスよくやりましょう…の精神でやってきた大好きなところでもある。そして、何よりも公私混同が実を結んでいった典型的なパターンの代表なのだった。

当時、21世紀美術館がオープンするのに合わせて進めた企画は、かなり自信をもってお薦めできたものだった。商店街の皆さんが凄い勢いで頑張ったし、今は亡き当時のN理事長さんやMさんにはアタマが上がらなかった(今もそうだが…)。そして、企画はさらにその後も広がっていったのだ。

 水かけ神輿は21世紀美術館から知事公舎へとまわって一暴れ(水かけ)し、広坂通りを通って、香林坊アトリオ前、東急ホテル前でも水かけして、せせらぎ通りへと移動していった。その間には何人もの知り合いと出会い、挨拶などを交わした。

時間は限界だった。Kに電話すると「いい雰囲気です」と、なんだか微妙な返事。柿木畠の面々に挨拶し、大和デパ地下で弁当を買いこみ、すぐに主計町の古本市会場へ戻ることに。

バスを利用し主計町にたどり着くと、古本市会場はそれなりに賑わっていた。

 「売れてます」とK。「えっ」と箱を覗くと、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』が減っている。基本的には古本市であったが、新刊に近いものもよいというお墨付きがあったので置かせてもらった。Kいわく、「皆さん興味があるらしく、真っ先に手にとってくれるんですヨ」とのことだ。拙著は、たまたまクルマに置いてあった四冊という中途半端な数だったが、早い時間に完売してしまった。こう言う場所へ来るお客さんたちはよい感性を持っている、さすがだなあ……と、数が少なかったことを悔いた。

山関係の本が結構売れた。売れて困った。こんな本買う人はいないだろうと思って、ダシに使っていた『槍・穂高連峰』(山と渓谷社)というかなり古い本が売れた。いや、売れてしまった。しかも最近山好きになったという、若い女性が買っていったらしかった。東大山岳部の部員たちが書いた、かなり滑稽で面白い本だった。冬山の体験などが実に笑える内容で綴られていて、ボクは素朴な装丁とともに愛読書のひとつにしていた。しかし、売れてしまったのでは仕方ない。

そう言えば、スポーツサイクルで颯爽(さっそう)と登場したOクンもまた、最近山を始めたと言っていた。Oクンには、『北アルプス山小屋物語』という山小屋のオヤジの話が満載された本をあげた。

 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』という、表装がなく薄汚くなった本も売れた。『剣岳・点の記』でまた人気が復活した新田次郎だが、実は富士山の気象観測所で働いていたことは有名で、気象庁の仕事の傍ら小説を書いていた。そんな新田次郎が有名作家になった後で書いた自伝ということで、ボクは当時異常な関心を持ってこの本を読んだ。というのも、自分自身がサラリーマンをしながら作家になることを夢に描いていたからだ。しかし、ボクはその後になって、この本を読んだことを後悔した。そんな甘いものではなかったと思い始めたからだ。この本を読んでいなければ、ボクは貧乏しながらも一応作家を目指して、頑張ったかも知れない。そんな思いに揺れ動いてもいたのだ。自分勝手なものだ。

新しいものでは辻仁成の小説本も売れた。これは内容がまったく自分に合ってなく途中でやめたものだ。売れて別に文句はないのだが、帯付きのピカピカの本だったのに、Kのやつがなんと200円で売ってしまった。そのことがちょっとショックだった。

 そんなこんなで、箱の中はかなり隙間が目立ち始め、それなりに売り上げがあったが、ボクにとっては、東京千駄木から来ていた「不思議」という店の店主Hさんとの出会いもまた楽しかった。「不思議」と書いて「はてな」と呼ぶ。千代田線千駄木駅からブラブラ歩いてくださいねという古本・古道具の店。Hさんの風貌も親しみやすく、おしゃべり自体も実に面白い。

 ボクは何気に置かれていた『東京文学散歩下町編』という定価100円の本を、300円で買った。今見てもほとんどよくは分からないのだが、1955年発行というところに魅かれて買ってしまった。

それと何と言っても興味を惹いたのが“ガラスペン”だった。竹製の年代がかった柄の部分と、ガラスで作られたペン先とがアンバランスながらに釣り合い、独特なムードを醸し出していた。旅行者風の若い女の子が「ええっ、なぜこんなところにガラスペンがあるの?」と声を上げ、Hさんが千駄木から来ていることを告げると、その女の子は納得した表情を見せた。谷根千の威力をまざまざと見せつけられた瞬間だった。

ボクは釣られるようにガラスペンを買った。包装はペン先がティッシュで包帯のように包まれただけのシンプルさで、それがまた“谷根千的”でいい味を出していた。

狭い境内とその前の狭い道に、人だかりができ、話し声や笑い声が絶えない。

暑い暑い夏の、午後の遅い時間。ちょっとお疲れ気味の店主たちは、それぞれの場を離れたりしながら語り合っていた。女性だけのグループ型、小さな子供を連れた家族型、単独オトッつぁん・オッカさん型など、さまざまな店主の形態があったが、みなそれぞれ立派な個性のもとに輝いていた。

古本市は楽しい。じっとしているのは辛いが、また今度も参加したり、自分で企画してみたりしようかと、秘かに思い始めてしまった。

帰り際、浅野川大橋のたもとに立っていると、西日がもろに顔に当たった。目を開けていられないほどだったが、その眩しさが妙に嬉しかった……

冷奴のことについて…

 拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中に、夏休みの昼ごはんの定番として素麺が出てくるが、初期のもともとの話には、冷奴も入っていた。

冷奴だったら、自分一人でも食べられるのにといった、主人公ナツオのイラつきが描かれていた。あとでカットしてしまった文章なのだが、早く飯を済ませて連れの二人と海へ行きたいナツオにとって、冷奴は便利なおかずだったのだ。

今年の夏も、ボクは冷奴をほとんど毎日のように食べている。いや、夏だから食べているといった安直さではない。冬も春も食べてきた。もちろん便利だからではなく、美味いからだ。そして、秋になっても毎日のように食べるし、また冬がきても食べるし、とにかく命のある限りずっと食べ続けることにしている。

先日、一緒に仕事を終えた中途半端に若い二人と、金沢片町にめずらしく飲みに出た。洋風居酒屋とでも言うのか、洋食屋さん的居酒屋風の店(同じか)に入りメニューを見た。注文は中途半端に若い二人に任せていたが、冷奴だけは先に言っておいた。しかし、冷奴の表記がないと二人は言う。そんなバカなことがあるかと、自分でもチェックしてみたが、二人の言うようにやはりない。

笑顔がいっぱいの店員さんが、注文を聞きにやってきて、すかさず冷奴はないの?と聞くと、一応ないんですが、出来ないこともないと思います… と中途半端な答えが返ってきた。

では、お願いしますと伝えて、ついでに上には何ものっけないでね、と念を押した。笑顔がいっぱいの店員さんは、ちょっとどころか、かなりびっくりしたような顔をしていた。一応ないんですが、出来ないこともないと思います… 当たり前だ。豆腐を置いてない店なんて、日本中どこを探してもないだろう。その豆腐をそのまま持ってくればいいだけなんだから。

何も、のっけなくていいんですか…? 豆腐だけで…? と、二回ほど同じことを笑顔がいっぱいの店員さんは聞いた。

ボクはこの笑顔がいっぱいの店員さんが、ひょっとしてかなりの知性の持ち主ではないか? とその時思っていた。それは、広辞苑に、冷奴は「豆腐を冷水でひやし、醤油と薬味とで食べる料理…」としっかり書かれているからで、もし、そのことをこの笑顔がいっぱいの店員さんが知っていて聞いているのだとしたら、ボクの方が分が悪くなる… そう思ったのだった。

しかし、ボクは素知らぬ顔で、うん、いいんですよ、と明解に答えた。あっ、醤油は要るけどね… と付け加えて。

すると、豆腐一丁が皿の上に静かにのっただけの、正しき冷奴が目の前に届けられた。ちょっと感動した。何ものせなくていいという注文によって、冷奴は本来の、冷奴としての素朴さ、つまり自分は豆腐以外の何者でもないんだという、さわやかな自覚を取り戻しているかのようだった。

ボクの好きな冷奴は、せいぜい生姜がのるだけだ。ネギは少しならいい。いちばん要らないのが“カツオぶし”だ。特に最近は、豆腐が見えないくらいカツオぶしをのせてくる店が多かったりして、見た瞬間に絶望的になったりする。薬味とかいう言い方で、なくてはならないもののように思われがちだが、あれだけのせられたのでは豆腐の味がしない。キムチや明太子などは問題外だ。ああいう類は、冷奴と言う名前すら使わないでほしい。

豆腐自体にも、いろいろなものが出てきた。最近では、どれが本来の豆腐の味だったか分からなくなってしまう始末で、できるだけシンプルなものにこだわったりしている。

そんな時、ふと思い出したのが、冷奴の食べ方だった。今は何となく上品な食べ方を皆さんしているように感じている。だいたい、食べる時の量もそのことを物語ってはいないだろうか?

子供の頃、冷奴は豆腐一丁丸ごと食べていた。波線形の刃物のようなものでいくつかに切られていて、それに醤油をかけて食べていたが、ボクの食べ方としては、まず豆腐を箸で砕くことから始まった。つまり、ボクは子供の頃、今のように豆腐を箸で割った塊(かたまり)で食べるのではなく、箸で砕いて、かなりドロドロ状態に近くしてから食べていたのだ。

そして、少し前、そのことをもう一度実践してみた。そして、やはりその方が美味いということに納得した。中途半端に若い二人の前でも、当然そのことを実践して見せた。二人は驚いていたが、なんとなくボクの思いは理解してくれたみたいだった。

冷奴という名前は、大名行列の奴が着ていた半纏(はんてん)に四角の紋が入っていて、その四角が豆腐の形と同じだからと、「奴豆腐」と言うようになり、そこから「冷奴」とも言うようになった… らしい。それにしても、「冷たい奴」とは情けない。

温かい豆腐は「湯豆腐」と書かれ、いかにもほのぼのと温かそうな… 喉元を通り過ぎていく時に、ホクホク・ドキドキと胸をときめかせるようなイメージがあるのに、冷やすと「冷たい奴」になる。これでいいのだろうか……

そう言えば、ヨークの奥井さんも、店の小さな黒板に冷奴を「冷たい奴」と書いていた。ついでに言うと「乾きもの」は、「乾いたもの」だった。考えてみると、こんなユーモアにニタニタしていられるのも、豆腐の持つ大衆性なのだろう。ボクもずっと普通の冷奴を食べ続けていきたい、と思うことにしようッと……

富山の入道雲とチャンポンめん

 石川県で見る入道雲は、富山県などの北アルプス上空で生まれたものを見ているのだということを、滋賀県の長浜市大手門通りにある珈琲専門店で考えていた。

 7月某日の猛暑の日。富山県上市町を訪れ、見上げた入道雲のボリュームにあらためて納得したのだ。金沢から東の空を眺め、最近の入道雲の迫力のなさに憂いていたのだが、富山へ来て少しは気が晴れていた。

 上市といえば、ご存じあの剣岳の登山口、泣く子も黙る“馬場島(ばんばじま)”のあるところだ。「試練と憧れ」の碑が山の厳しさを伝えるかのように建つ。空気が澄んでいれば、あの逞(たくま)しく、雄々しい剣岳の姿を見ることができるのだが、今日は白い雲の中に隠れている。しかし、ボクには想像だけで剣岳の存在を感じとることができる。もう目に焼き付いていると言ってもいい。それに何と言っても、剣岳は、ボクの山の出発点だったのだ。美しさも恐ろしさも教えてくれたのだ。

 上市に入ったところで、入道雲に納得しつつも、昼飯を食べるところがなくウロウロしていた。すると小さな中華屋さんの看板が目に入ってきた。訪問先との約束時間を考えると、もうここで食べるしかない。狭い駐車場に無理やりクルマを突っ込み、店の中へ。カウンターの真ん中あたりに座った。メニューをしばらく見つめ、ひとつ隣の席でスポーツ新聞を見ながら、美味そうにラーメンをすすっているサラリーマン風の男性を見た。そのラーメンがそれなりに美味そうに見えた。

 あれは、チャンポンめん(だろう)! 勝手にそう思い込み、厨房の奥さん(だろう)に、“チャンポンめん!”と告げる。が、届けられたのは隣の男性が食べているものとは明らかに違っていた。

 しかしだ。ボクが自信を持って注文したチャンポンめんは、実に素朴でやさしい味がした。塩味のスープと野菜などの具と麺とが、ぎこちなくも親密に、そして互いを認め合うように身を寄せ合っている印象だった。当店の“チャンポンめん”です。そう言ってくれたわけではないが、やさしい表情の奥さん(だろう)が、最後になくなったコップの水を足してくれる… スープをいつもより多めにすすり、コップの冷たい水も一気に飲み干す。その日の昼食を終えたボクを、富山県上市町の猛暑がまた待ち受けていた。

 富山はやはり天気予報士さんの言うとおり暑いのだ。外に出ると、フーッと軽く息を吐き、もう一度空に目をやった。

 入道雲がますます増幅していくように見えていた。いい姿だなあ、と思った。美味いチャンポンめんだったなあ、とも思った。

 入道雲とチャンポンめん。なかなかやるなあ、とも思い、やっぱり富山は偉い… と、何気に嬉しくなった。

 北アルプスが育むのは豊かな水などばかりでなく、入道雲をつくり出すエネルギーでもあるのだ。そう思うと、なかなかいい気分がした……

なんとなく、コーヒーのことについて

 富山へ行くと、ときどき立ち寄るコーヒー屋さんがある。

 ごくごく普通の、本屋さんの中に間借りしているコーヒー屋さんのひとつなのだが、そこは独立店舗なのがよく、国道沿いとかでもない分、落ち着ける。こういう店に入ると、大概の時間は本を読んでいるか、落書き帳を出して雑文を書いているかだ。気の張らない文章を書いていたりするのには最適な環境だ。

四、五人の主婦グループが、子供会の行事に関する打合せをやっているような雰囲気の中で、ときどきバカ笑いをしたところで、こちらも動じない。そんなことぐらいで、オレのペンは止まらないよと意気がったりもできる。

コーヒーはたまにいちばん大きいサイズのTallを頼んだりする。「Tallなんて飲んでたら、胃を壊しますよ」などという人もいるが、ゆっくり、しみじみと口に含んでいればそれでいいのだ。それに、その店のコーヒーは決して不味くはない。最近ファミレスのドリンクバーで飲まされるコーヒーなどは、ちょっと遠慮しがちになるが、その店のコーヒーは合っている。

家では何年もの間、ある店のある銘柄を徹してきた。しかし、それがどこの国の豆なのかということには無頓着で、要するに何となく主観的に、これはなかなか美味いではないか…と納得していた。

いつだったか専門店で、試しにとアフリカ系のコーヒーを飲んだことがあったが、それが実に美味かった。それから何となく、コーヒーはやっぱァ、アフリカ系に限るな… などと分かったようなことを考えていた。そして、かつて知り合ったケニアでボランティア活動をしているという若者が、リュックの中に持っていたコーヒー豆一袋を、その場で千円で買ったのを覚えている。何グラム入っていたかなど問題ではなかったが、若者が随分と喜んでいたのだけははっきりと覚えている。たぶんかなり安かったのだろう。

そのコーヒーは素朴な美味さだった。自分の中のアフリカ系コーヒーのイメージとしては、さっぱりし過ぎていたが、それがまた乾燥したケニアの草原地帯を連想させ(なんでも勝手に連想してしまうが)、新鮮な感動を呼んだ。ちなみに、うちのコーヒーはアフリカ系ではない……

話はさらにそれていく。

コーヒーをブラックで飲むようになったのは、わが師の一人、今は亡き奥井進さんと出会ってからだ。いや正式には、出会って数年経ってからだ。

奥井さんとは、言うまでもなく金沢のジャズ喫茶の老舗(表現が平凡だな…)「YORK」のマスターで、16歳の冬に初めて会って以来、奥井さんが亡くなるまでの30年間、縦横無尽にお付き合いさせていただいた。ボクよりも10歳年上、そろそろボクは奥井さんが死んだ歳に近づいているのだ……

それはさておき、その奥井さんがかつて金沢の寺町に居を構えていた頃、ときどき家に遊びに行った。大学を卒業し、金沢のある会社に入った頃だ。

店では当然ジャズしか聞かないのだが、奥井さんはボクが行くと、よく落語のカセットテープを聞かせてくれた。もともとボクも落語が大好きだったので、爆笑もので有名な古今亭志ん生の『火焔太鼓』などを聞いては、二人で大笑いしていた。

そんな時、奥井さんはブラックコーヒーを白いコーヒーカップに注いで、何気にそれをボクに手渡すのだ。今ではごく当たり前のような感覚があるが、その当時、コーヒーをブラックで飲めるといったら、超スケスケのアメリカンコーヒーぐらいで、普通のコーヒーはなかなか飲めなかった。飲みたいとも思ってなかった。

それがいきなり手渡され、さも当たり前のように飲まなければならない状況になる。そんなところから、ボクのブラックコーヒー歴は始まった。今では普通にブラック、もしくはミルクのみパターンでやっているが、ブラックコーヒーとの出会いは、当時のボクの世代としてはかなり早かっただろう。同じことが奥井さんとの出会いにも言えたかも知れない。話せばキリがないくらいに、奥井さんとの出会いによって目覚めてしまったことも多いいのだ。

そういうわけで、ボクは暑い夏でもアイスは滅多に飲まない。冷し中華も食べないし、よほどでない限り、ざるそばなども注文しない。そうめんは家だけで食べる。ついでに言うと、つけ麺などはもっての外(ほか)で、暑くてもスープはどんぶりを両手で持って飲むか、スープすくいで飲むかだ。まったく関係ない話になってしまったかな…

コーヒーは毎朝飲むが、ほとんど同じ味になるとは限らない。一日一日が微妙に違うテンションで、微妙に違うフィーリングで、微妙に違うサイクルで動くように、コーヒーの味も微妙に違う。それが、またいいのかも知れない。コーヒーは日常のものだから……

「あうん堂にて…」   

  初めて「あうん堂」へ行ってきた。金沢東山三丁目、ひがし茶屋街の大通りを挟んだ反対側。一方通行の狭い路地に入って、やっと見つけられるような小さな店だ。きっかけとなったのは、ボクの本が置かれているという話と、ヨークで見つけた「そらあるき」という小冊子。その小冊子の編集スタッフの一人が、店主の本多博行さんで、その小冊子を直販しているのが、あうん堂だ。

もう少し詳しく?説明すると、あうん堂は、「出版と古本とカフェの」というキャッチコピーが付けられているように、「そらあるき」でも分かるような出版と、個性的な古本が並ぶ書店、そして、奥さんが淹(い)れてくれる美味しいコーヒーが飲めるカフェ、これらの三つで構成されている。そして、それぞれが力みもなく、自然体で成されているというところに、あうん堂の、あうん堂たる“空気”があるのだなあと感じた。いずれにしても、まだボク自身よく把握しきれていないのも事実。ただ、テレビ朝日の「人生の楽園」という人気番組で紹介されるなど、それなりに立派にやられていることは間違いないのだ。

日曜の昼に近い午前。家人と二人、近くにある駐車場にクルマを停め、雨の中を狭い玄関へと向かう。雨が本降りになってきて、気温も朝から上がっていない。GWの終わりに、急きょトンボ帰りで京都へ行ってきたが、その時と同じ紺のシャツと綿パン。その時はポカポカ陽気で、腕まくりをしながらだったのに、今日はそんなわけにはいかない。ひたすら冷えていた。ガラスの扉を開けて中へと入る。靴を脱いで、フローリングの店内に足を踏み入れると、右手に本棚が見えている。まるで図書館の一角を見る感じだ。店は奥に深く、狭いという印象をもつが、この狭さ?が、この店を訪れる人たちの個性を物語っているのだろうと感じた。先客が一人いたが、その客と本多さんが話している内容も、なんとなく、それを感じさせるものだった。

 

ボクはまず古本が整然と並ぶ本棚を見て回った。そして、すぐにウキウキしてきた。なんと、懐かしき晶文社の植草甚一シリーズ本、そして、われらが椎名誠の本などがいっぱいあるではないか。いくつか本に目をとおし、価格なども確認しながら、ふ~んと納得。こんな世界が金沢にもあったんだなあと嬉しくなった。

そして、奥のテーブルへと。コーヒーを注文してから、時計を見る。もう昼に近い。小腹も空いてきたので、めずらしくケーキセットに変更した。コーヒーも美味しく、生クリームと小豆が付いたやや大きめの抹茶シフォンケーキも充分満たしてくれた。

  ふと壁の方を見上げると、懐かしい絵が掛っている。沢野ひとしのイラストの入った額があった。「槍ヶ岳への道」とかいうタイトルがついていたが、この絵のどこが槍ヶ岳への道なのかなあ?と、余計なことを瞬間考えてしまう。しかし、そんなことはどうでもいい。ここに沢野ひとしの絵が飾られているということが凄いのだ。聞くと、沢野ひとしはたびたび訪れているということ。ついこの間まで、絵の展示会もやっていたとのことだった。

 そういえば、この冬、歴史博物館の前で、ボクは沢野ひとしと遭遇していたのだ。その時のことは鮮明に覚えている。ボクは向かい側から歩いてくる本人を確認すると、「沢野ひとしさんですよね?」と、すぐにたずねた。びっくりしたような顔した本人は、そうですよと答えたが、なんでオレなんか知ってるの?という顔をしていた。ボクは椎名誠らとの発作的座談会の話などをした。そして、なんだか物足りなさを感じながら、これからも頑張ってくださいと、定番的言葉を口にし、握手してもらって、その場を去った。そのすぐ後、無性になぜ沢野ひとしが歴史博物館にいたのだろうと気になり、歴史博物館の担当スタッフに確認したほどだった。しかし、よくは分からなかった。

「実は、私、ゴンゲン森…とかいう本を出したんですが、こちらの店に置かせていただいてると聞きまして……」

 しばらく沢野ひとしの絵を眺めてから、奥さんに言った。奥さんはびっくりしたような表情になり、「それを早く言ってくださいよ」と言ってカウンターから出て行った。そして、ご主人にそのことを告げると、また戻ってきて、「私は、すぐに読ませてもらいましたよ。とても面白かったですよ」と言ってくれた。方言の使い方が凄く楽しかったとも言ってくれて、店の本棚に並んでいるという場所を教えてくれた。

 それからボクは持参した「ヒトビト」1~8号を取り出し、渡した。ヒトビトにも高い関心を示してくれた。ヒトビトに出てくる共通の知人も多くいて、もう古くなった話で盛り上がったが、最後は、継続していく苦労話が締めだった。そして、ヒトビトもお店に置いてもらえることになった。ヒトビトは売り物と言うより、お客さんにコーヒーを飲みながら読んでもらうというスタンスが合う気がして、そう話すと、本多さんも納得してくれたみたいだった。

 一時間ほどいただろうか。最後は、本多さんと向かい合って、いろいろな話をした。ボクが、主計町の茶屋ラボの話をしだすと、本多さんもよく知っていてくれて、以前に展示会のようなものをやったらしく、近いうちに何かやりたいと考えていることも語ってくれた。

 ナカイさんとは、これからも何か楽しいことがやれそうですね。本多さんが名刺を出しながら、ボクに言った。そして、ボクが自分の名刺を渡す時に、「固い名刺なんですけど…」と言うと、本多さんは、「名刺は固く、やることは柔らかくですよ…」と答えて笑った。

 ボクはなんだか清々しい気持ちになっていた。平凡な言い方だが、いい出会いだなあとも思い、懐かしさに似た何かを感じていた。日々それなりに過ごしていけば、またそれなりにいいことがありそうな気がして、なぜか、このことを遠くにいる友人たちに伝えたいなあと思ったりもした。

外へ出ると、雨はまだまだ降り続いていた。駐車場に向かいながら、こんなところへクルマで来るなんて、と自分を叱りつつ、愉しい時間だったことに満足もしていたのだ……

笹ヶ峰でスキートレッキング

 5月1日、久しぶりに妙高・笹ヶ峰をテレマーク・スキーで駆け巡ってきた。

 朝の4時半過ぎに金沢を出て、スキーを履いたのが9時少し前。文句のつけようのない青空の下で、久しぶりのテレマークに戸惑いながら、夏には足を踏み入れることのできない雪に覆われた牧場と、その周辺を自由に移動していく。少々飽きてきた頃には、スキーをデポして三田原山への樹林帯の登りにも挑戦。一時間弱ほど登ってみたが、なかなか樹林帯を抜け切れず、途中で断念して下山した。  

 昼は、牧場のど真ん中にある岩をテーブル兼腰かけにしてランチタイム。牧場内に湧く「岩棚の清水」で汲んできた水でお湯をつくり、ランチを楽しんだ。焼山、火打山、妙高山などが美しく空の青とコントラストを描き、一面の雪原の中の大きな木立が凛々しい。

 ああ、これなんだなあ~と、ハゲしく納得。午後からも笑う膝に、笑うな、いや好きに笑ってろなどと、勝手なことを言いながら、ガンガン滑り(といっても、ほとんどスピードは出ないが)、また登り返し、歩き、走りと一応すべてやってきた。今回は、UVカットもしっかり顔面に塗り、毎度のごときの無残な黒焦げ状況も回避。ちょっと大人になったなあ~と、自分を褒めながらのスキートレッキングだった。しかし、駐車場に戻った時には、ほとんど放心状態。帰り道、コンビニで買ったコーラがとてつもなく美味く、そうか、そうかと唸りながら、久しぶりの贅沢に感謝していたのであった…

春山初山行の痛快編

数年前までは、ゴールデンウィークは山へ行くのが普通だった。

剣岳の圧倒的な山容を見るために、親友・Sと、山の先生・T本さんとの三人で出かけたのが初めての春山。

黒焦げになった上に擦り傷のついた顔と、ただれた唇。真っ赤になった目。

一見、何にもいいことがなかったみたいな容貌で下山してきたが、たぶん人生の中でも、あれだけの充実感は他になかったと思う。

未明の立山山麓、称名の滝へと続く道路。

その途中にクルマを置き、白い息を吐きながら、三人が歩く。

ベテランT本さんは、ボクらのような初心者に毛が生えた程度の若造に、このけわしい春山は厳しいと判断したのだろう。

いやいや、そんなことはない。

単に、久しぶりに春の雪山を楽しんできたいという、そんな思いに駆られただけかもしれない。

とにかく、ボクとSはウキウキしていた。なんとなく表情にも自信のようなものがあふれ、これからの登行を楽しみにしていた。

いよいよ、雪に覆われた急な斜面に差し掛かったところで、ベテランT本さんがその実力を発揮。

ボクたちには全く見当もつかないルートを、じっと見極めている。

そして、この方向に行け、と自信たっぷりに言った。

雪に覆われた急な斜面だ。

道などついていない。

そして、一歩その斜面に足を踏み出したところで驚いた。

全くケリが入らない。雪面は深くまでカチカチに凍っていた。

T本さんが先頭になって、一歩一歩慎重に足を運ぶ。

高く登れば登るほど、危険度は倍増していく。

下を見れば、ちょっとゾクッとする高度感だ。

しかも、足元はツルツルの氷のような雪。

徐々に斜面の角度が緩くなり、そこからまたかなりの時間を歩くと、大日平の雪原が目の前に広がった。

その奥に、目指す大日岳、奥大日岳の頂上がふたつ並んでいる。

空は真青。白い山々が、ただひたすら、とてつもなく美しい。

初めて快晴の朝であることを認識し、嬉しさで爆発しそうになる。

雪の上を歩くことが、こんなにも楽しいことだったのかと、我を忘れて戯(たわむ)れたくなった。

そして、いよいよ大日岳への登りに入った。

緩やかに伸びていく雪の大斜面に、簡易アイゼンを付けた靴が心地よく食い込む。

三人とも快調に進んだ。

しかし、半分ぐらい登った頃だろうか、ベテランT本さんが、突然、オレもう駄目だわ宣言。

お前ら若いんだから、二人だけで頂上行って来い…オレはここで昼飯作ってるから的リタイアとなった。

大きな岩の上にボクとSは、リュックを置き、身軽になってさらに頂上をめざす。

しかし、徐々にペースダウン。

Sは先行しながら、雪玉でケルンを作って、休憩のポイントにしていたが、そのペースが、最初は五十歩で休憩、三十歩で休憩となっていたのに、そのうち十歩で、五歩でと短くなっていった。

ボクが先頭を代わる。

辛かった。最後は一歩ごとに足を休め、大きく息をした。そして、急斜面が終わる最後の一歩のところで、ボクは歓声を上げた。

大日岳頂上直下の稜線に出たボクの目に、あの剣岳の雄々しい姿が飛び込んできたのだ。

言葉では語れない感動だった。

ボクとSは、肩を並べて、しばらく険しい剣岳の山肌と青い空とのコントラストに見入っていた。これがあるから、山はいいんだなあ。

頂上からの帰り道、ボクはもう一度剣岳と向き合った。

剣岳は、ボクが初めて本格的な登山を体験した山だった。

見下ろすと、中腹の大岩の上にいるT本さんの姿が小さく見えている。

鍋のようなものが置かれて、昼餉の準備が進んでいるようだ。

ボクとSは、にわかに覚えた尻セードという、早い話が、ケツで雪の斜面を滑り降りる方法で、一気にT本さんめがけ急下降した。

雪を入れたアルミカップに、ウイスキーを注いで乾杯。

昼餉は缶詰の魚や肉を煮直したりしたもので、かなり激しく美味かった。

日焼けした顔を見合い、笑い合う。

最後の下山では、雑穀谷のトラバースで足を取られ滑落した。

死ぬんではないかと、本気で思った……

もうすぐ、またそんな季節が来る。

どうしようかなあと考えている。

山は永遠なんだよと誰かが言ったが、ボクもそう思う。

空につながっているからだ。

ずっと、空まで導いてくれるような気がするからだ。

ただ、それだけなのだ…