感受性を取りもどす年頃に


緑の葉っぱ

去年は還暦の翌年だった。

この場合の「翌年」は「よくとし」と読んでもらいたい。

と言いつつ、今自分のライフワークと位置付けている某ミュージアムで、4作目の短編ムービーを作らせていただいているのだが、先日ナレーションの録音で同じ「翌年」を、「よくねん」と読んでくれるようナレーターに指示していた。

シナリオを書いていた時の自分がそう読んでいて、それでないと納得できなかった。

そんなことがよくある………

 

それで、予想以上の早さで還暦の翌年(よくとし)が過ぎ、還暦の翌々年(よくよくとし?)になったという話だ。

そんな年頃(これも変な響きだが、プレーオン!)になってくると、妙にさまざまな区切りみたいなものを作りたくなる。

この場合の「区切り」とは定年があったりすることからくる日常の転換だったりもするのだが、やはり「人生のやり残し」的なモノゴトに、もう一度相対してみようという場合の再スタートを意味しているように思える。

ボクの場合は仕事が継続し、その立場にすべてが束縛されてしまったような思いに陥ったが、最近ではやや開き直り気味でもある。

後悔するのが分かっているとしたら、とにかくそうしない方向へ気持ちを向けておこうと考えるのは普通だろう。

だから、むずかしいことは考えずに、目の前にあることを片付けている。

 

そんな中、年が改まって人生の「やり残しリスト」というのを作ってみようかと思った。

これまでの人生でやり残してきたことを並べていくというやつだ。

別に表などを作るわけではないが、クルマを運転している時などに、思いつくままアタマの中で中身を埋めていく。

内容の濃さは別にして、もともと何でもやってきたニンゲンなものだから、やり残しは山ほど出てくる。

しかし、ふと思った。

やり残しという定義づけがややこしいのだ。

だいたい、やり残していない、つまり、すべてやり尽くしたということなどあり得るのだろうか?

そう腹の底から言えるニンゲンが果たしているのだろうか?

少なくともボクの観点からはいないということが分かってきた。

そして、考える角度を変えた。

何をやり残してきたか?よりも、何をやってきたか?を考える方が前向きだと思えてきた。

つまり、「やり残しリスト」から、「やってきたリスト」に切り替えたのだ。

 

これまでの人生の中で、自分が熱中したり、興味を持ったりしたことを振り返るのは楽しい。

時間軸で追いかけていくと、小さな自分史みたいなものが出来上がっていきそうだ。

しかも、現在進行形でそれらがどこかに生きているということを発見したりすると、自分の人生もそれなりに充実していたのではないかと思えたりもする。

それに、やり残しよりは、もっとはるかに「ゼロからの再スタート」という気持ちになれる気がした。

カッコよく言えば、脈々と自分の中に生き続けてきたものを振り返るといった感じなのだ。

 

先日あるラジオ番組で、ゲストが還暦を過ぎて若い頃の感受性の強かった自分に戻っている……というようなことを話していた。

とても共鳴できる話だった。

いい言葉だなあと、耳から脳に行き、それから心に静かに届いた。

そのゲストは役者だから、特にそういう言い方が似合うのだろうが、普通のオトッツァンやオッカサンでも、感受性を再生させることぐらいむずかしいことではないのではと思った。

人それぞれだが、ボクの場合は少年期に感受したモノゴトに強いインパクトを受けた。

当時はちょっと周囲と違っていたから、プラスにもマイナスにも作用したと思う。

しかし、それだけが自分のすべてではない。

そこからさらにまた時を経て、さまざまに広がっていったものがある。

それらすべてがどこかで繋がっているような気もする。

そして、今の自分が出来上がっていった…のだから仕方ない……?

しかし、自己形成史というのは、ひたすら前へと進んでいくだけではないのかも知れない。

 

あまり遠くを見ないよう気を付けながら、これから春に向かおうとする時季に向けて、「やってきたリスト」や「やってきたヒストリー」をボーっと考えていく。

やはり、なかなか楽しそうだ………


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