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自分なりの旅について…の1

 旅というものを考える機会があって、自分なりに“自分の旅”について思いを巡らしていた。すると、自分の旅というのはどちらかと言えば地味で、当然今風でもなくて、人に勧めてもあまり乗ってこないものなのだということが改めて分かってきた。

 旅が好きだと言っても、恥ずかしながら海外経験は二回だけ。定番のような新婚旅行と、仕事の研修旅行だけだ。

 こんな状態なのであるから、所謂、旅は海外しかないというニンゲンたちと旅談義などをしていても何だか落ち着かなくなり、敢えてこちらからは話に入っていかないようにしてきた…… 実は周囲に、ボクのことを世界の観光地に行き慣れたニンゲンだと勘違いする人が数人いた。そういった何の根拠もない勘違いは、ボクにとってはある意味非常に迷惑であり、そこでまた余計な言い訳なんぞを求められたりするのが嫌だった。

 ボクはただセーヨーの都よりも、ニッポンの田舎の方が好きだったのだ。

 そんな中で、いつも旅のスタイルは大切にしていた。どんなところへ出かける時でも、できるだけ自分が求める旅のスタンスを基本において、主たる目的が仕事であろうと何であろうと、自分の中の旅というものに結び付けていた。

 その基本は、歩くことだった。そして、それはその土地の歴史などといった要素に直結することもあったが、土地そのものをただ漠然と見て歩くだけということでもあった。

 振り返ってみると、そのきっかけとなったのは、学生時代に上州のある山間の温泉場へ行った時、ふらふらと周辺を歩いたことだったように思う。まだ二十歳の頃で、しかもその時は大学の体育会の行事かなんかで行っていた記憶があり、旅情を求めるなんてことはない。しかし、漠然と歩いていながら、今まで全く知らなかった空気を感じた。

 晩春だったが、気が付くと土埃をかぶった雪がまだ残っていた。突き刺すような冷たい風が吹く朝に、元気に登校していく子供たちを見た。足元の雪解け水の激しい流れに身体を震わせながら、野菜を干す老婆の手にはめられた軍手に妙な温もりを感じた。

 そういうものたちが目に焼き付いていた。あれはいったい自分にとって何だったのか。

 その年の暮れだったろうか、年末のアルバイトを終えたあと、ボクは新宿から松本を経由して金沢に向かう帰省の計画をたて、その途中寄り道をして、木曽街道を歩こうと決めていた。島崎藤村を読み耽ったあとということもあり、木曽は憧れの土地でもあった。しかし、中途半端な年の暮れ、寒さと寂しさが身に沁みた旅だった。

 翌年から年末の帰省はこのルートにし、松本で三時間半ほどの時間を作って、まち歩きや好きな喫茶店での本読みに充てた。これはなかなかのリッチなひと時であった。そして、大糸線松本発金沢行き(糸魚川で新潟行きとに分かれる)の急行列車に揺られ、時折無人駅のホームで、長い停車時間が与えられるという出来事なども楽しみながらの上品極まりない旅であったのだ。

 大学卒業の春には京都・奈良へと出かけ、旅の締めくくりに柳生街道をカンペキに歩いた。一日がかりの山歩きといった感じだったが、最後に高台(峠)から夕暮れが近づく柳生の里を見下ろした時の胸の高まりは今も忘れていない。

 柳生の里ではすっかり日が落ち、奈良市内へ戻るバスを待つ間、地元のやさしい酒屋さんの店先で休ませてもらったのを覚えている。

 その四ヶ月後に出かけた同じ奈良の山辺の道は、しっかり二日がかりの歩き旅だった。

 入ったばかりの会社を三ヶ月ほどでやめ、ふらふらしていた頃で、気持ちとしては完全な解放状態とは言えなかった。しかし、のちに山へも頻繫に出かけるようになる親友Sとの最初の旅が山辺の道であり、その後のドタバタを予感させるに十分な愉しさに満ちていた。

 大きな古墳のある町で予約していた旅館。たしか道中には、他にユースホステルしかなく、そっちはいろいろ面倒だからと、その旅館に予約を入れておいた。

 歩き疲れて旅館に着くと、ボクたちには三つの部屋が与えられ、食事はここ、寛ぐのはここ、寝るのはここと案内された。

 ボクたちが行ったのは九月。宿帳が出され記帳しようとすると、ボクたちの前は六月の日付が記されていた。

 ゆっくりしようとクーラーのスイッチを入れると、白い埃とともにカッツンという音がし、クーラーはそのまま止まった。寛ぐ部屋は使用不可となり、食事する部屋へと移動。こちらのクーラーは問題なかった。

 トイレに行くと紙が置かれていないので当然もらいに行く。風呂は浴槽となる大きな桶が真ん中にドスンと置かれ、それ自体はもちろん、セメントの床もカラカラに乾いていた。もちろん湯は入っていない。どうすればよいかと聞きに行くと、自分で入れてくださいと言われた。ボクたちは当然浴室掃除もした……

 その反動もあってか、夕食時間は二人で異様に盛り上がった。その旅館は本業が仕出し屋さんで料理は質量ともに申し分なく、しばらくすると飲めや歌えとなり、床の間に置かれてあった太鼓と三味線までが持ち出された。Sが太鼓でボクが三味線を受け持ってのジャムセッション……ところが、乗ってきてトレモロ弾きをしたところで三味線の糸が切れてしまった。なぜか異様におかしく、二人してただ笑い転げていた。

 そのうち、立ち上がろうとして浴衣の裾を踏みつけると、下半分が切れ落ちてしまうなど、とにかく何が何だか分からなくなったが、それでもひたすら笑っていた。その後、隣の寝る部屋へとなだれ込んだのだろうが覚えていない……

 その後、再就職も決まって日々に落ち着きが生まれると、ボクの旅も少しずつ色を変えていった。歴史系からどんどん自然系に走っていった。しかし、道中の街道探訪や土地歩きなども欠かさず、旅に出ているという気持ちのあり方は今でも変わっていない。ディスにーランドへ行くというのを旅だとは思わないが、その道中は十分に旅にできる。そんなふうに考えられるようにもなったのである………

 

※古い文章に少しだけ加筆した……

 

 

ジャズは読書の友なのである

 街なかの珈琲屋さんなどで、独り本を読む人がいたりすると何となく嬉しくなる。しかも、それが若者だったりすると、なお嬉しい。

 昔は当たり前のような光景だったと思うが、今はスマートホンを覗いたりするのが圧倒的多数派になっていて、恥ずかしながら自分も手持ちのものが何もない時は、それに頼ったりすることがたまにある。

 本を読むためだけに珈琲屋さんに入るというのは、学生時代であれば普通で、たとえば紀伊國屋さんで何か買った後には、裏手のジャズの店「D」などに直行した。

 そのまま中央線で吉祥寺のジャズの店「F」へということもあったが、後者の方は書店直行というより、いつでも文庫本一冊ポケットに突っ込んで行くというスタイルだった。

 金沢でも片町のうつのみやさんで本を買ったりすると、すぐ近くのジャズの店「Y」へと行くのが、正しい書店退店後の習慣だった。

 「Y」は言うまでもなく、「YORK(ヨーク)」である。マスター奥井氏と買ってきた本について語るのも、楽しいひとときであった。そう言えば、うつのみやさんもYORKも、片町から今は香林坊に移っている。

 ジャズは読書の偉大なる、いやそんな大げさではなく、かけがいのない友だった。

 今から思えば、やはりジャズという音楽のもつ多様な感性の集合体みたいな要素が、いかに日々の重要なスパイスになっていたかが分かる。

 特に学生時代の濫読状況とジャズを聴く時間というのは絶妙なマッチングだったと思う。

 ジャズの店に入って、2~3時間。コーヒーカップはとっくに下げられているが、LPレコードで言えば、片面で4~6枚分ぐらいは聴いていたことになる。

 聴き流しているといった感じでもあるが、あの空気感があるからこそ、文章読みも進んだに違いない………

 今年から、ある小さな協会の機関誌で巻頭エッセイみたいなものを書いているが、最初の号では年の初めの一冊の大切さみたいなことを短く綴った。

 その年の一冊目がその年の読書事情を左右するという、自分のことを書いた小文だ。

 その中で最近の読書について、仕事のためが多くなり、文章を読むという素朴な楽しみが薄れてきた……といったことを書いている。

 著者(というよりも作者とか書き手という方が好きだが)の表現の仕方が、本来文章そのものを面白くし、読むことの楽しみを創り出しているという思いがあるからだ。

 そうした情緒的に響いてこない文章は、正直言って読み甲斐がない。

 ジャズと一緒に追っていた文章が面白かったのは、そういう感性が瑞々しく、どんどん磨かれていたからなのだろう。

 最近、妙な読み方というか、ちょっとハマっているのが、図書館で短編集を借りてくることだ。

 読みだして、面白いなあと思う作品だけ読む。そして、飽きてくるとすぐに図書館へ行き、返却してそのまままた新しいものを借りてくる。

 すでに一ヶ月で、五冊以上は借りてきた。あまりいい傾向だとは思わないが、何となく日々の潤いをそうした読書に求めているような気もする。

 と言っても、きちんと書店買いもしており、やはりここぞというやつは自分のモノにしておく。

 そういう類のモノは、最近 YouTube で流れるジャズと一緒に読んだりするのである………

冷やしビールと 冷やしたビールの違いについて

 

 メールで送った文章の中に脱字がありましたよ…と言われた。らしくないですね…とも言われた。

 たしかにこうした形式が多くなってから、文章が雑になっていると感じたりする昨今である。印刷されるものの時はもっと丁寧だったような気がする。

 偉そうで申し訳ないが、それは読み返しの度合いなどでもはっきり違っているし、出来上がってからでも直すことが簡単にできる分、安直な対応に終始しているのは間違いない。

 ところで、その脱字とは「冷やしビール」という表現であった。これはボクにとって何ら問題のない表現である。

 仕事用のメールに使ったもので、大雪時の“雪どかし”も、冷たいビールを楽しみにしてやれば少しは励みになるでしょう…という意味を込めていた。

 多分、受信者は「冷やしビール」ではなく「冷やしたビール」だと言いたかったのであろう。たしかに言われることは分かるのだが、ここはやはり前者にするのがボクのやり方なので………

 それにしても、あらためて言われると実に面倒臭い。この微妙な感覚についてはなかなか説明が出来ないのである。だいたい説明をしなければならないのかという観点からしても微妙なのだが、一度こうして疑問が投げかけられると右往左往してしまう始末だ。

 しかも、そういう人に限ってどれだけ説明しても絶対に分かってくれない。いや、分からないというか、多分そうした感覚そのものを体内に宿していないに違いない。

 だが、この感覚を何とかして説明しようとしている。厄介なことになったなあと思いながら、どうもこれでは気が済まないといった心境にある。もちろん相手は自分自身だ。

 

 さて、ボクの中での「冷やしビール」というのは、「冷やしトマト」とか「冷やしきゅうり」などと同じだ。表現として一般的かどうか分からないが、農家の前に置かれたり、山小屋や観光地の店先などで売られている果物や野菜たちの部類である。

 器に湧水を溜め、その中で冷やされている。冷たいきゅうりなどは、割り箸のような棒に刺して売られていて、特に真夏などは爽やかで美味い。山の帰り、上高地の明神館で喰らいついた「冷やし青りんご」(これは勝手に命名)も格別であった。

 ボクの中での「冷やしビール」は同じ仲間なのだ。つまり、冷蔵庫の中できちんと並べられ冷やされたビールではなく、無造作に、しかも科学のチカラなど借りずに自然の状況で冷たくなったビールのことを言う………?

 そして、この場合のビールは缶ビールだ。ただ、先ほどの雪どかしの後のビールという点では、どうしてもこういう経緯で冷やされたビールでなければならないのかというと、決してそうでもない。冷たければ何でもいいことだけはたしかだ。

 ただ強いて言えば、雪どかしをしながら山スキーの時のように缶ビールを雪の中に埋めておき、一作業終わった段階で取り出して飲む……といったカタチもいいかなと思ったりする。

 なぜ、そこまで表現にこだわるかなのだが、どうもボクの表現手法(そんな大げさなもんでもないが)の中には、「冷やしたビール」ではなく「冷やしビール」といった具合に、一括名詞型に丸め込んでしまうというクセ?みたいなのがあって、それが自分の好きな表現方法(そんな大げさなもんでもないが)として確立されてしまっているように思える。

 こういう話をすると、必ずまた突っ込みがあって、「冷やし中華」と一緒ですね?と言われそうである。

 しかし、それは違う。どこが違うかというと、「冷やし中華」は決して「冷やした中華」ではないということであり、本来「冷やし中華」という呼び名は一商品として個別に作られたものである。そもそも「中華」では大雑把すぎる。その点、「冷やしビール」は正真正銘「冷やしたビール」であり、ビールという具体的な飲み物をさしている点で「冷やし中華」のようないい加減さはない。このことを混同してはいけない……と思うのである?

 話がややこしくなっていく。このあたりで終わりにしておいた方が逃げ切れそうなのであるが、どうも説明し切れていないな…といったもどかしさもある。

 そういうわけで、とにかく「冷やしビール」的な響きをずっと大事にしてきた。本来ならば、どっちでもいいと言ってやり過ごすが、もう少し時間をかけて考えてみようかと思う。

 ただ、といいながらも、このコーナーが『風にゆれるビールの泡のような雑文集』であるという点も踏まえ(?)、まあそこまでいかなくてもいいのではないか…などとも考えるのである………

 

湯けむりの中で口笛を吹く

 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

娘たちを再び送り出す

 今年の春のはじめと冬のはじめに、娘たち二人が結婚した。

 春のはじめは次女で、冬のはじめは長女だった。

 次女は京都の大学を出て、そのまま関西で就職し、大阪の人となった。長女も京都の大学を出たが、こちらに戻って就職し金沢の人になっている。

 同じ年に二人の娘を嫁に出すのは大変だったろうと言われるが、実感としてはそれほど大変だったと感じていない。

 そのわけの一つに、仕事のことできりきり舞いしていたということもあるが、それよりもなんとなくコトが過ぎていったという実感の方が強い。

 淋しさとかもそれほどではない。

 そう言うと必ず、やせ我慢して…などと突っ込みをかける人たちがいたが、これはかなりの本音だ。むしろ、これからの自分自身に残された時間の乏しさがより明白になり、強く感じるようになったことの方が切ない。

 それは時に強烈な焦燥感を伴って迫ってきたりもする。

 母親の方はお金のことも含め大変だったろうと思う。淋しさも大きかったはずだ。

 

 娘たちは二つ違いで、大学在学は二年重なった。

 二人のうち一人だけがいた時期も合わせれば六年京都と縁があったわけだ。いや、次女が卒業後も京都が赴任地だったことがあり、なんだかんだで京都は今も我が家にとって大切な街になっている。

 二人の娘を京都へ送り出すという父親の心境というのは、実に微妙だった。

 最初は特に京都にこだわっていたわけではない。

 しかし、長女が京都の大学に合格し、そこへ行かせてほしいと言ってきた時、こちらの気持ちとしてはほぼそれで固まっていたと言っていい。

 次女が受験でややもたついていた時も、京都で決めようと励ました。

 いろいろあったが、二人とも京都を楽しんだようだし、何よりも京都でたくさんの友人を得たことがよかったと思う。

 親としても、おかげで京都への旅を何回も重ね、一応名所的なところはほとんど足を運んだ。夏休みなどは、京都で観光した後、家族四人で家路につくという旅程が新鮮だった。  

 

 今から思えば、結婚する娘たちを送り出す時よりも、大学生活を始める京都へと娘たちを送り出す時の方が(正直)淋しかった。

 引っ越しは早朝にクルマで出発し、長女の時は、母親を残し独りだけ先に帰らなければならず、気持ちを抑えるのに苦労しながら夜の高速を飛ばしていた記憶がある。

 次女の時は、淋しさに涙する母親の横顔を心配しながらの帰路だった。多くの親たちが経験したことだろうが、どちらにしても、実に切ない時だった。 

 結婚はしたが、娘たちはいなくなったというわけではない。そして、自分もまだ生きていかなくてはならない。生きていくというよりも、自分らしくやっていきたいと思う。

 ……… この文章を走り書きしているボクの前で、若いカップルが実に楽しそうに語り合っている。

 特に女の子の方は、明るく爽やかに笑顔を振りまいている。バカでかい声でゲラゲラ笑っているのでなく上品である。

 だからどうなのだということではないが、日々に少しでも潤い…なのだろう。

 外では雪が舞いはじめた。なんだか、また切なくなってきて、危ないのである………

蕎麦畑のそばにて


 蕎麦の花が咲き広がる風景というのは、山村にひっそりと存在するものだと思っていた。

 そして先日、富山の南砺市で出合った風景によって、その思いは変わった。

 その蕎麦畑は、とても新鮮だった。単なるボクのせまい見識の中でのことだったのかも知れないが、その爽やかに広がった風景は、まるで昔話の世界のように感じた。

 普通の道をクルマで走ってきた。そして、なんとなくアタマの中に予感が来た次の瞬間、周囲が蕎麦の花だらけになった。

 人家もあり、神社もあり、当然その鳥居もあり、おまけに青空があって、水の流れもあった。

 蕎麦の花にこれほど惹かれたのは初めてだった。

 すぐに細い脇道へとハンドルを切り、しばらくしてエンジンを切った。カメラを持って来ていてよかったと心の底から(と言うと、ちょっと大げさだが)思った。

 辺りをうろつきながら、何枚も写真を撮る。通り過ぎていくクルマの人たちが、不思議そうに見ていたりするのが分かる。

 しかし、こっちはその人たちの視線に構ってはいられない。

 時間にすると、二十分ほどいただけだろうか。

 蕎麦の花から、「ざるそば」や「もりそば」、ましてや「おろしそば」などを想像することはできない。まったく別モノだ。

 花は「蕎麦」という漢字で表現する方がよくて、食べるときは「そば」とひらがながいい。

 恥かしながら(と言うべきか?)、ボクと蕎麦との出合は、小田急沿線の駅にあった立ち食いの『箱根そば』であった。

 ただ、それは名称としての「そば」との出合であり、実際に食べていたのは「うどん」だった。一杯が百数十円の「たぬきうどん」が定番メニューだったのである。

 カネがなくなると、一日三食「たぬきうどん」だったこともある。

 富山のブラックラーメンの上をいくような濃い汁が、セーシュンの味だった。

 店員は無造作な仕草で、天かすをどっさりとうどんの上にかけてくれた。これもまたセーシュンの味であり、うどんと一緒に口の中で混ざり合った時の満ち足りた瞬間は、セーシュンの味の絶妙なインタープレイ体験(?)だったのである。

 正真正銘の「そば」との出合はいつだったのだろうか?

 たぶん、大学を卒業して社会人になり、金沢のそば屋さんで食べた「にしんそば」が最初だっただろうと思う。

 人生のナビゲーターの一人である、ヨーク(金沢ジャズの老舗)の亡き奥井進さんと、金沢のそば屋と言えば的存在であった『砂場』で食べたのである。

 どういう状況でそうなったかは忘れたが、ヨークがまだ片町にあった頃の遅い昼飯だったか…?

 奥井さんが店員に「にしんそば」と言った時、ボクも同じく…と言った。正直、本当は「いなりそば」あたりにしたかったはずだが、あの頃は奥井さんに追随する気持ちが強く、これも人生経験みたいな感じで注文したのだった。

 しかし、「そば」はボクにとって、その後しばらく強く望むような食べ物ではなかった。

 「そば」好きになったのは、いつの頃からか分からない。

 

 食材に恵まれなかった山あいの人たちが蕎麦を作っていたという話も、二十代の中頃、信州へ頻繫に出かけていた頃に知った。

 あの頃食べていたそばは、今ほど美味くはなかったような気がするが、単なる味音痴の的外れな話かもしれない。

 今は、あたたかい「いなりそば」か、冷たい「おろしそば」が好きである。ただ、そのことと蕎麦の花の風景とは特に何ら関係はない………

 

晩夏っぽい初秋の白川郷雑歩

 

 思い立ったように、家人と白川郷へと向かう。

 若い頃の思い立ったという状況には、ときどきクルマを走らせてから咄嗟に決めるということがあったが、齢を食うと、そんなことはほとんどない。

 今回は、なんとなくアタマの中でどこへ行こうかと迷いつつ、前夜のうちにほぼ決めていた。ただ、なかなか踏ん切りがつかず、一応朝決めたみたいな状況になったために、“思い立ったように”と書いたまでである。

 そういうことはどうでもよくて、久しぶりの白川郷は、まずとにかく暑かった。

 木陰も気持ちよかったが、歩いている途中で見つけた休憩所になった旧民家の畳の間も気持ちよくて、横になっていると、そのまま浅い昼寝状態に落ちていった。

 最初は我々だけだった。しかし、我々の気持ちよさそうな姿を見つけた往来の観光客たちは、当然のように、しかも怒涛の如くなだれ込んで来て(ややオーバーだが)、しばらくすると、かなりの混み具合になっていたのだ。

 さすがに世界遺産・白川郷なのである。

 今回も金沢から福光へと抜け、城端から五箇山へと山越えし、岐阜県に入ったり富山県に戻ったりを繰り返した。途中、五箇山の道の駅「ささら館」で昼飯を食べた。

 ささら館の店では久しぶりに岩魚のにぎり寿しを食べたのだが、早めに入ったおかげで、ゆとりのある昼食タイムになった。あとからあとからと客が入って来て、一時ほどではないにしろ、相変わらず高い人気であることがうかがえる。

 初めて来たのは、NHKの人気番組で紹介された後だった。あまりの客の多さに、店員さんたち自身が怯えているように見えたほどだった。

 白川郷に着いても、特に焦って動くほどでもなく、駐車場の奥の方にあったスペースにクルマを置いてゆっくりと歩きだす。

 庄川にかかる長い吊り橋には相変わらずすごい人が歩いている。真ん中が下がって見えるから、人の多さに吊り橋が緩んでいるのかと錯覚してしまうほどだ。言うまでもないが、実際にはそんなことはない。

 9月の終わりだからコスモスが目立つ。

 最近見なくなっていると、自分の尺度で珍しがっている。

 街なかの住宅地の空き地にコスモスが植えられていると、そのことが「しばらくここには家は建ちません」といったお知らせ代わりになっている…そんな話をこの前聞いた。

 コスモスはやはり高原とか、畑地に咲いているといったイメージがあり、ボクにはそうした場所で見るコスモスに強い親しみを感じたりする。だから、住宅地に無理やり凝縮型に植えられたコスモスを想像すると、なんだか情けなく感じる。

 そういえば、いつか能登の道沿いで出会ったコスモスのいっぱい咲く畑に居たおばあさんはまだ元気だろうか……と、白川郷のおばあさんを見ながら、能登のおばあさんのことを思い出したりした。

 もう何度も来ているから、白川郷のほとんどの場所は行き尽くしている。見学できる有料の合掌家屋なども、世界遺産になる以前に入っていたりするから、今さらながらだ。

 そんな中でまだ入ったことのない(であろう)一軒の家屋を見つけた。

 今回は特にメインの道というよりも、田んぼの畦に近いような脇道を歩いていたせいだろうか、その家屋はふと今まで見たことのなかった視界にあった。

 地元の人ではないような?… 都会的な匂いのするスタッフがいた。てきぱきと受け答えをし、忙しそうだったが、この家が生活の場でもあると確認し、ああやっぱり白川郷だなあと思った。

 世界遺産になって初めて訪れた時、こんなにも違うのかと、目を疑うほど観光客が増えていたのに驚いた。ちょうど今回と同じような夏の終り頃だったと思う。

 そして、集落の中を歩いていた時、部活から帰ってきたらしい中学生の女の子が、畑にいた母親の手伝いをしに行く様子を見た。

 すぐそこにあるといった日常の光景だった。

 周囲には自分も含めた観光客たちが、かっこよく言うと非日常を求め彷徨っている。しかし、その母娘の姿はまぎれもない白川郷の日常だった。

 もともと、日常が見えるからこそ旅は面白いのだという感覚があった。この集落を歩く時にも、なんとなく地元の人たちの日常を探すようになっていた。

 ずいぶん前のことだが、年の瀬の木曽で、年の瀬らしい日常を見せつけられ、独り淋しい旅の夜を過ごしたことがあった。学生時代の帰省と合わせた旅であったから、そこで見せられた民宿の中の日常の光景に望郷の念(大袈裟だが)が高まったのかもしれない。

 若かったが、冷たい冬の空気が体の芯にまで沁みていた夜だった。

 旅人が非日常を求めるというのは、そこで暮らす人たちの日常を見るということだとよく言われたが、それはさりげなくであるのがいい。

 ただ、自然などの普遍的なものとともにある生活様式も、時代とともに変化して当然だ。

 中学生の女の子が着ていた、どこででも見るような体操着。母親のおしゃれな帽子。どれもが日常である。

 暑さも増した午後、水田では稲刈りが普通に行われていた。

 こちらはただその場を通り過ぎていくというだけでいい。なんとなく感じるものがある。

 白川郷でいつも新鮮な思いを抱かせてくれるのが“水”だ。特に暑い日には、道端のその流れの様子そのものが爽やかさを伝えてくれる。

 道端の水が勢いよく流れているのを目にすると、その土地の豊かさを感じる。どこの山里でも同じで、それは単に農業や生活への恵みなどといったものを超越した豊かさのように思える。水の持つパワーは偉大なのだ。

 何気なくといった感じで、白川郷を訪れ、何気なくといった感じで白川郷を後にした。

 いつも立ち寄っていたコーヒー屋さんが閉まっていたのを、行くときに見ていたので、どこかで新しいコーヒー屋さんを見つけようと思っていたが、果たせなかった。

 国道を走ると、高速への分岐を過ぎたところで喧騒が消える。

 走っているクルマは極端に少なくなる、特に五箇山方面は。

 静かな五箇山の、村上家の近くで、ソフトクリームを食った。

 家人は「美味しい」を連発していた。自分もまあそれなりに美味いと思い、適当に相槌を打っていた。

 神社ではお祭りの準備が整っている。こきりこの祭りだ。 

 慌ただしそうで、それなりにのんびりとした時間が流れているなあと思っていた………

風鈴の音

 風鈴を買ってきて窓際にぶら下げたが、なかなか鳴らない。

 真鍮製のおしゃれなデザインで、値段も風鈴を買うという自分のイメージからすると、それなりのものだったのだが、鳴らないのでかなり物足りない気分でいる。

 最初は、下げた場所の問題かと思ったが、どうやらそれだけではないのではと考えるようになった。

 たぶん下に付いている紙の部分の形状ではないかと思ったからだ。

 風を受けるには下の紙が細すぎるような……

 この紙のことを短冊と呼ぶのだそうだが、このネーミングからするとやはりデザイン性も重視されて仕方ないのかもしれない。

 が、しかし、やはり風鈴は鳴ることに意味がある。

 しかも、少し優しめの風というか、わずかな空気の動きにも敏感に反応してくれるものの方が価値は高いのでと。

 真鍮というテイスト(…?)からすれば、そう捉えても不思議はないだろうと思う。

 今のところ(買ってから一週間ほどが過ぎて)、自然の風で一度も鳴っていない。

 短冊は微妙に揺れたりするが、よく見ると回転しているだけだったりもして、役割を十分に果たしていないような感じにも見えたりする。

 ときどき、いい風が家の中に入ってきたりすると、十分に涼しさを感じているにも関わらず、風鈴が鳴らないことでその涼しさが半減したり…… 不信感はさらに深まり、どうも納まりが悪い。

 対策としては、短冊を作り替えるしかないかと………

 

 世の中では風鈴は夏のものと決まっていて、その機能は涼しさの演出というところだろう。

 音で涼しさを感じさせるなんて、ちょっと不思議で凄い機能のような気がする。

 そもそも音で涼しさを感じるというニンゲンの感覚そのものも凄い。

 生(ナマ)で聞くせせらぎの音や、木の葉の擦れ合う音などが、涼しさを感じさせる代表格と思うが、そこには視覚的なイメージが付いている。

 かき氷機の氷を削る音などもいいが、鼻の付け根の奥あたりに激痛が走ることを想像してしまうのであまり好きではない。

 風鈴はそうした意味でいうと、音の素が焼物やガラスや金属などだから、奇妙な存在だと言える。

 まさに音そのものの中に涼しさの要素を秘めている。

 風鈴の音を聞いて、風鈴が揺れているのを目にすると、「暑いなあと思っていたけど、それなりに涼しいのではないだろうか」と、つい思ってしまうのかもしれない。

 しかし…… しっかりと外から風が吹き込んで、部屋中が涼しく満たされているのに、風鈴だけが自らの使命を忘れて鈍感な態度をとっているとなると、やはりおかしい。

 風鈴が鳴らないという事象によって、豊かな感性を持つニンゲンの尊厳が失われかねなくなる。

 そういうことで、風鈴は姿かたちももちろん重要だが、やはり音が出やすくなっているということにも存在意義があるのではということだ。

 かつて、商店街に風鈴をやたらと吊り下げたことがあったが、正直言ってあれはうるさ過ぎた。音もガチャガチャといった感じ、風情が逆になくなってしまっていた。

 そういう意味では、ちょうどいい具合に上品に鳴ってくれるくらいがいいのだが、そこがまたむずかしいところなのだろう。

 風鈴は夏と言うが、音を楽しむということからすれば、秋でもいい。秋風と風鈴という組み合わせの方が、日本的な気がしないでもない。

 蚊取り線香がなくならないで、ずっと愛されていると聞くが、蚊は夏だからいいとして、風は年がら年中吹くものだから、風鈴もそれなりに鳴っていてもいいのではないかと思うのである。

 わが家の真鍮製風鈴も、そうした存在でいてもらおうと思っている………

 

 

笑顔について

 最近、ちょっと笑顔をつくることに慣れてきたような気がしている。

 家族で旅行したり、ちょっとした行事があったりすると写真を見せつけられるので、これまでのように(?)無粋な表情ではややまずいなと、(今更のように)反省するようになったのだ。

 笑顔は、そう簡単につくれるものではない。

 二度三度と、口元を横に引っ張ったりしながら(もちろん手などは使わない)、少し練習し、いよいよ本番というところで、思い切り笑顔ですという顔をつくるのである。

 しかし、実際に上がった写真を見ても、それほど笑っていない自分がいたりする時もある。それどころか、ほとんど笑っていないだろうと思われる場合もあったりして面倒なのだ。

 若い頃の写真にはよく笑っているのがあるが、年齢とともに笑顔が減ってきたのだろう。

 笑い自体は大好きだし、本当はいつも笑っていたい……

 

 笑顔で思い出すのは、小学校、中学校と同じだった某クンのことだ。

 某クンは、いつも笑顔だった。少なくとも、いつも顔は笑っているように見えた。

 笑顔と特に関係はないが、某クンは足も速かった。

 笑いながら走っていたかどうかは記憶にないが、とにかく回転の速いピッチで運動場を駆け回っていた。

 そして、いつも笑っているように見えたから、某クンを嫌いになる者はいなかった。

 その某クンが本当に笑うと、その笑顔はますます濃い笑顔になる。

 そうでないときの顔が本当は笑顔でなかったのかもしれないと不安にもなる。

 実際に、いつもの笑顔が少し薄れただけで、某クンはとても真剣そうに見えた。時には、深刻そうにも見え、ますます心配になっていくのである。

 しかし、元気がなくなったのかなと思わせたその直後に、また平常通り(?)の笑顔に戻ると、また激しく嬉しい気分になった。

 つまり、某クンの笑顔はボクにとってとても大切な存在だったということだ。

 もう何十年も会っていないが、今でも某クンは笑顔でいるのだろうか。

 

 ところで、高校生の頃の古い話だが、まさしくバレンタインデーの夕方、街(片町の旧うつのみや前あたり)で背中に何かを感じた。

 振り返ると、突然「これを受け取ってください」と、その日の定番的プレゼントであるところの、そのモノが入っているであろうと予測される美しい箱が差し出され、恥ずかしそうにその女子(当然だが、高校生)が下を向いていた。

 それから、急に真剣な顔でボクを見て…、その後どうなったかは忘れたが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。

 自分が笑いかけようとして笑えなかったことである。すると、その女子(たぶん年下の高校生)が、こう言った。

 「笑っているより、真剣な顔しているのがいいです……」と。

 そして、彼女はそのまま軽快に駆け出し、歩道の雑踏の中に消えていったのだ。

 と、誰かが昔の話をしていたのを思い出した。

 なぜか、冷汗が出てきたので終わりにする………

 

 

 

金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など

 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 

喫茶・Eでのひさびさの時間

 紺屋坂を上りきると、兼六園と金沢城公園への入り口である石川門とで方向は左右に分かれる。

 実際は左右という感覚ではないし、四方に道が伸びているといった感じだ。

 その中の左に直角に曲がる道を歩いていくと、いくつかの店を過ぎたところに喫茶・Eがある。

 タクシーが並び、公衆トイレも昔からあってよく利用させてもらったが、やはり喫茶・Eの存在の方が当然のように麗しい。

 喫茶・Eには久方ぶりに入った。

 クルマを止めておいた駐車場の方へ近道をしようと歩いていた時、前を通ったのだ。

 ボクのアタマの中では、喫茶・Eは店じまいをしたというイメージがあった。

 しかし、今は白く塗られた壁の中の窓から見える店内には明かりがつけられ、女性客二人が笑い合っている様子が見えた。

 玄関には「珈琲」と書かれたアナログ看板も立てられてある。

 なぜか少し躊躇しつつ、店に入った。

 そして、さらになぜか「よろしいですか?」と声を発した。

 すぐに眼鏡をかけた店の方が出てきてくれ、どうぞどうぞ……

 お時間はありますか?と問われる。

 コーヒーは豆を挽いてからなので、お急ぎの方はちょっと…ということなのだ。

 こっちは少々時間がかかるぐらい問題ではなく、これから畑へ行って豆を採ってきますと言われると考えたかもしれないが、豆を挽く時間など惜しくはなかった。

 外から見えた二人連れは、入れ違いに出て行った。

 店はボクの独占状態になったが、コーヒーを注文してからしばらくすると、今度は観光客らしいミドルの五人組女性グループが入ってきた。

 ちょっとウルサくなるなと思ったが、ちょっとどころではなく、かなりウルサくなった。

 時間もたっぷりあるらしく、雑誌やらを広げて芸能界のどうでもいいようなニュースを話題にして盛り上がっていく。

 わざわざ金沢でこんな話をと思うが、聞き流すことに専念する。

 店に入ったところで、自分が来たのは四十年ぶりぐらいだということを店の方に告げた。

 すると、やさしいまなざしの店のお母さんが、店はできてから五十年くらいになりますかねと答えてくれる。

 ということは、開店後十年あたりからの数年間に何度となくお邪魔していたことになる。

 

 読みかけの文庫本を取り出して読み始めるが、なかなか軌道に乗らない。

 ようやく少し活字に目が慣れた頃になってコーヒーが来た。

 横にはデザートみたいなものが… 手作りだそうだ。

 店のお母さんの醸し出す雰囲気が、こうしたものを連想させるに十分だった。

 コーヒーも美味い、いやこの場合は、「美味しい」だ。

 

 記憶では、この店にいたのはいつも冬の寒い夜だったような気がする。

 いや、思い違いかもしれない。なにしろ四十年ほど前の話だ。

 外の階段を上って、二階の店内に多くいたような……

 一階はいつもいっぱいで、にぎやか過ぎたような……

 タバコを吸っていた。セブンスターという銘柄だった。

 ZIPPOのライターを使い、使い終わった後の蓋の閉め方には一応こだわっていた。

 当時、喫茶・Eにはどんな音楽が流れていただろうか?

 クラシックだったような気もするし、そうでなかったような気もするが、記憶は完全に曖昧だ。

 

 そして、ボクはここで活字を追っていた。

 と言っても、神経質な読書家ではなかった。

 その頃、ボクが読んでいたのは何だったか?

 いろいろ濫読の時期だったから、具体的にはわからないが、この店の当時の雰囲気からすると、日本の近代文学ものを中心に気合十分で読んでいたに違いない。

 いや、それも卒業し、紀行ものやさまざまなドキュメンタリーものを読んでいたかもしれない。

 体育会系のブンガク及びジャズ・セーネンであったボクは、それなりに緊張感のある、それでいて趣味の世界などでは、それなりに楽しい日々を過ごしていたような気もする。

 

 喫茶・Eでのことは、そんな日々の一部でしかない。

 しかし、ある意味で、この店の中にいた自分の奥の方には、なぜか今から振り返っても深いものが潜んでいたのだと思う。

 人生というと大げさだが、それなりに考えなければならないことがあった。

 その答えを出せないまま、少しというか、かなり投げやり状態になっていた。

 そのことが、いつも冬の夜だったという印象になっている感じもする。

 少し青が色褪せ始めたセーシュンの日々であった………

  

 そんなわけで、今回二階には上がれなかったが十分だった。

 窓の外には、新緑の木の葉がいっぱいに生い茂り、少しだけ開けられた窓から入ってくる風が心地いい。

 ウグイスの啼き声が聞こえたりもする。

 それなりにとてもいい時間を過ごせた気がした。

 今度はしっかりと活字を追うことにして店を出ると、うしろから、またどうぞの声。

 春の日差しがまぶしかった………

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

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 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

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 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

内灘の風景~河北潟放水路周辺のこと

 今さらのような話を先にすると、ボクが生まれ育ち、今も住んでいる石川県の内灘というところは、南北に細く長く伸びた小さな町なのである。

 なぜ南北に細く長く伸びているかというと、東西に河北潟と日本海という水圏があり、それらに挟まれた砂地の上にできているからだ。

 地学かなんかで習ったとおりだが、ずうっと大昔、海水によって陸の土が削られた後、沖合に堆積され細長い陸地ができた。

 つまりそうした事情により、内灘は南北にしか伸びようのなかった町なのであり、ついでに言うと、河北潟も砂丘が形成されていくのに合わせ、海水の抜け道がなくなり、そのまま淡水化してできたという水圏なのである。

 昭和の中頃、諸般の事情を経て河北潟干拓という一大事業がスタートしたが、それによって河北潟はそれまでの三分の一くらいの大きさになってしまった。

 歴史などという感覚を通り越す、気の遠くなるような時の積み重ねを経て出来上がった河北潟が、それに費やされた時の積み重ねとは比べようもならないくらいの微かな瞬間に小さくなった。

 その時、河北潟に流れ込んでいた河川からの水を捌くために日本海に抜ける水路、つまり今の放水路が造られたのである。

 

南北に伸びた町の真ん中(あたり)に放水路ができ、なんとなく町が二分されたような空気が漂った……かどうかは知らない。少なくとも少年だったボクには、放水路ができようができまいが、どうでもいいことであったのは間違いない。

 ただ、今砂丘台地の道路をつないでいる「サンセット・ブリッジ」という橋ができるまで、放水路周辺に対して積極的な仕掛けや施しなどはなかったように思う。

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 もともと放水路について、あれこれ思いを巡らせていたわけではない。

 放水路ができていく過程のことも、あまりにも時間がかかっていて薄らぼんやりとしか認識がない。

 少年のボクにとって、干拓と放水路は別物であり、干拓工事の中の遊び場は水っぽく、放水路工事の中の遊び場は砂っぽかった。そして、どちらにせよ、非常に稀な環境の中にいるという自覚などあるはずもなく、たぶん町の人たちの中にも(風景的なこととして)大した思いを抱いていた人はいなかっただろう。

 

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 出来てからもう何十年も経っている河北潟放水路に、あらためて足を運んでみるようになったのはたまたまだ。

 正直、内灘の風景が全国に誇れる魅力を持っているなどとはカンペキに思っていない。

 さまざまな風景に強い憧れを抱いてきた自分にとって、それを満たしてくれるだけの強くて心地よい要素が内灘にあるとも感じていない。

 内灘の風景と言えばずっと海だった。それが当たり前だった。

 ただ海では、能登には勝てない。別に勝負するわけではないが、能登の海にあるような普遍的な要素は内灘の海にはない。

 魚を追い求めたボクの祖父たちのように、海を生きるための場としてきたオトコたちもいなくなった。

 海を軽視するのではないが、そろそろ内灘の新しい風景論みたいなものが見えてきたのではないか 自分の故郷としての風景(もちろん良質のだ)を、とりあえずマジメ(素直)に見つめてみるのもいいのではないか そう思う。

 内灘の今の姿は、自分が子供の頃に想像していたもの(大した想像でもないが)を超えているとボクは思う。

 開発とはこうしたものなのだろうが、生活の場が拡大していくと町の風景そのものも変わっていくことを、内灘というところは特に強く物語る。

 内灘では生活の場が砂丘台地上に広がっていくにつれ、風景も根本的に変わっていったのだ。

 南北に伸びた高台、つまり砂丘地が激変し、そこから眺める東西の風景がより魅力的になった。

 北アルプスの稜線から昇る朝日と、日本海に沈む夕日………

 よく使われてきた内灘の情景表現だが、かつて生活の場が砂丘台地の東側斜面下、つまり河北潟沿岸にしかなかった頃にはあまり味わえなかった風景だろう。

 砂丘地の畑などではところどころから見ることができたかも知れないが、しかし日常の生活の場ではなかった。

 そういう風景のことをあらためて思い、もし河北潟が干拓されいなかったらと考えた人たちがいたことも当然だ。

 しかし、今は敢えてそんなことは蒸し返さない。

 人がその土地の特徴を語る時、一番先に出てくるのが風景であるとボクは思う。

 当たり前だが、風景は普遍的要素の最たるものだと。

 人の営みは繋がれていくものだが、風景の土台にあるものはじっとしている。

 だから、風景に敏感であるということは、その土地の魅力を知る第一歩に違いないとも思う。

 河北潟周辺、放水路を含めた一帯の風景は、まちがいなく稀有であり美しいと言えないか…………

 二月終わりの休日。陽が少し高く昇り始めた頃………

 河北潟に張り出すように造られた「蓮湖渚公園」の駐車場にクルマを置き、公園の道から放水路に付けられた道へと歩いた。

 蓮湖とは河北潟のかつての名前であり、この名前の方がなんとなく好きだ。

 水際の道は気持ちがいい。

 湖面がおだやかに揺れ、宝達山、医王山、犀奥と呼ばれる山域のの山並みや白山、さらにはるか東方の奥に雪を頂いた北アルプスの稜線が見えている時などは、風景に心が押されている自分に焦燥のようなものを覚える。

 

 そして、空の広さや深さがそれにまた追い打ちをかける。

 心の中で微かに声を出している自分が分かる。

 このあたりに、美味いコーヒーが飲める店があったらいいと思うようになったのはつい最近のことだが、この眺望なら、コーヒーの味には文句は言わない……かも知れない。

 

 サンセット・ブリッジが近くに迫ってくると、公園から離れ、県道を横切り、いよいよ放水路横の道へと入っていく。

 全国的に見て、特に大きい部類に入る橋なのかどうかは知らないが、真下あたりに来ると、やはりその威圧感はすごい。

 もし「全日本デカ橋をひたすら見上げる会」というのがあるとしたら、たぶん多くの会員たちは歓声を上げるに違いないと思ったりもする。

 橋は本来、上から眺める風景に価値を見出すものだろうが、サンセット・ブリッジには残念ながらその機能がない。

 だから、せめて下から見上げて、オオ~などと感動の声を上げてやりたいと思うのである………

 

 二月の終わりにしては暖かい午前だった。

 橋の陰になった放水路の水面に冬鳥たちが多くいるが、彼らも少し陽気がよすぎて日陰に集まっているのだろうか。

 放水路横の道は、厳密に言うとわずかにカーブがあるが、ほぼまっすぐに伸びている。

 川とは違うが、水が河北潟から日本海の方へと流れるのだから、今は左岸を歩いていることになるなどと考えている。

 水辺だから時折冷たい風を感じたりするが、すでにカラダは十分に出来上がっていて快調な足の運びなのだ。

 歩いていることよりも、放水路の地形を楽しんでいるということの方にアタマがシフトしているのも分かる。

 一般的に放水路と言えば、単に河川の流れを分散させるようなイメージではないだろうかと想像する。

 だから、そこにある風景は川のイメージだろう。

 しかし、ここは違う。ここは、標高50mほどの砂丘が削られたその最下部なのだ。

 急角度の斜面(専門的には法面)が両岸に広がっている。

 風景としては非常に稀な特徴をもっている。

 ただ、今ははっきり言って放水路の斜面は雑である。

 裸木と枯れたままの雑草が放置状態になっていて、特に道端の草の中に散乱するゴミも捨てられ方が遠慮がちではない。

 目線をできるだけ水平以上にしてさらに歩く………

 

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 ここは、今最も内灘を魅力的に伝えることのできるスポットかも知れないと、ふと思う。

 風景は眺望だ。視覚からココロに入り込むものだ。

 その要素にこの場所は適っている。

 さらに、広い空を繋いで振り返ると、日本海がすぐそこにあるという恵まれた環境を加えれば、かなりいい感じがする。

 言い換えれば、これはこの場所の個性なのだと思う。

 周辺のストーリーもドラマチックではないだろうか……と、勝手に想像が膨らむ。

 河北潟が干拓され放水路ができたということは、土地の表情が変わったということだ。

 つまり、内灘の風景がその時に変わったのだ。

 そして、もともと住んでいた内灘人たちが思いもしなかった、新しい眺望が生まれたのである。

 内灘はもともと何もなかった小さな漁村だったのだから、特に粋がる必要もない。できあがった風景を素直に楽しめばいいと、ここに立てば思える。

それを眺めて、ココロを休めればいい。

………むずかしい話になってきたので、クールダウンしよう。

 

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左岸を歩いていくと、右岸斜面の上に立つ風車が常に目に入ってくる。

      

 澄み切った青い空に、静止したままのスリムで白い姿が美しい。かすかに聞こえてくるのは、そのすぐ横にある「恋人の聖地」の鐘の音だ。誰かが鳴らしているのだろうが、その奥に自転車競技場があり、そこで鳴らされるラスト一周の鐘の音かも知れないと、余計なことを考えたりもしている。

 

 

 海へと出ると、砂浜は冬の風物詩とも言えるゴミの山だった。

 この季節、浸食された砂浜を見ると心が揺れるが、冬の日にしては海の風が気持ちよかった。

 放水路に戻り、今度は右岸をサンセット・ブリッジに向かって歩く。舗装されていない、水たまりだらけの道からのスタートだ。たまにクルマなどがやって来ると、ちょっと面倒なことになる。しかし、すぐに舗装された道に出た。

 放水路の水の流れに逆行していることになるが、水面は風になびいているだけで流れているわけではない。

      

 しばらく行くと、風車の下の斜面に細い階段が造られており、一気に斜面の上まで登れるようになっている。

 上から下りたことはあったが、初めて下から登ってみた。

 斜面の中間部は草が刈られていて、地元の高校生たちがお花畑を作っていると誰かから聞いた。

 佇んでみると、ここからの眺めもそれなりにいい。

 放水路斜面の中間部には、ずっとテラスのようになった平地が続いている。これはまさに中間部の散策路候補だ。

 もったいないゾ…… 腹の中でそう思って空を見上げた………

 

 空に浮かんだ雲たちが自由に遊んでいる。

 オマエもたまにはのんびりしろと言われているみたいだ。

 この前医者にも言われたが、副交感神経を思い切り休ませてあげなさいと諭されているようだ。

 手持無沙汰なまま、とりあえず背伸びをしてみた。

 首をひねり、肩をぐるぐる回し、両腕を前後に振った。

 カラダの四分の三ほどを覆っている日常が、放水路の風に乗って空へと抜けていった……かどうか?

 

 階段を下り、また歩き始め、また放水路周辺について考え始めた。

 人造湖という湖も、いつの間にか自然の中の一部になっている。

 放水路もそれと同じではないか……と、短絡的に考えている。

 すでに数十年がたち、これからもこの放水路はこの土地に、さも当たり前のように存在していくのである。そして、この土地の象徴的な風景として親しまれてもいくだろう。

 そう思えば、積極的に風景としての放水路周辺を見つめ直すことにも意味がある。それ以上に、磨きをかけてやらなければならないかも知れない。

 先にも書いたが、風景ができあがるまでの物語なども紹介していかなければならないかも知れない。

 内灘は海だとずっと思ってきた人たちも、海ばかりでない内灘に目を向けてくれるだろう。

 「内灘・河北潟放水路周辺」というキーワードで再考か……

 

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 そんなわけで、蓮湖渚公園から放水路両岸の道を往復すれば約6キロの距離だった。あとは、海岸に出たり斜面の上り下りなどのおまけもあり、それらもそれなりによかったりする。

 道の駅もあるし、ちょっとクルマで河北潟干拓地まで移動すれば、牛乳やアイスクリームなどで大人気のH牧場さんもある。

 忘れてはいけない温泉「ほのぼの湯」も、きれいになってこの春再開される。

 砂丘台地の美しいニュータウン「白帆台」も、将来の生活設計のために見ておくことをお薦めしたい。

 最後は何だか町の定住促進キャンペーンや、不動産屋の広告みたいになってしまったが、サンセット・ブリッジや金沢医科大学病院のモニュメント的建造物も合わせて、このあたりには多面的な顔があふれている。

 あとは、文化を生み出そうというヒトビト的ココロ……かな?

 ということにして、ひとまず中締めとするのであった………

 

冬の朝の小さな奇跡

2011年12月24日の朝。

こういう言い方が正しいのか分からないが、クリスマス・イブの朝である。

冷え込み、目覚めると天気予報どおりに雪がうっすらと積もっていた。

土曜の朝でもあった。

いつもより遅く起き、階下の居間のカーテンを開ける。

そして、外の光景に一瞬目を奪われた。

そして、しばらくなぜこのような光景が起きているのかと考えた。

と言っても、ほんの数秒のことだった。

すぐに状況を飲み込むことができたのだ。

カメラを手にすぐに外へ出る。

わが家の方へと差し込む朝日は、ずっと東方へと目を向けた北アルプス北部の稜線から放たれてくるものだ。

富山平野の上空をまっすぐに伸びて、石川との県境の山並みも軽く通り越し、河北潟干拓地の平原上を経てやってくる。

夜明けからはすでに三十分ほどが過ぎていただろう。

朝の太陽は稜線の少し上へと昇っているが、それでも十分なくらいの鋭い角度で光を放っている。

その時の空は、ほとんど黒に近い濃いねずみ色に全体を被われていた。

そして、稜線上にはわずかな雲の隙間。

朝の太陽はちょうどその隙間の真ん中にいて、日差しを送ってきている。

遠く北アルプスの上空から届いた光が、わが家の後ろにある雪をかぶった斜面だけを照らし出し、暗い冬の朝に幻想的な光景を生み出している。

雪のついた電柱が光の中に立ち、電線もまた白くその存在を高めている。

しばらくして、周囲はまた一気に暗くなった。

太陽が雲の中へと吸い込まれていくようにして消えてしまったからだ。

もう寒さに耐えながら立っている必要もなくなっていた。

五分もいなかっただろう。

ただ、朝のほんのちょっとした光景だったにも拘わらず、どこか荘厳で異次元の世界にいたような気分だった。

 

冬になると、今でもこの写真をよく見る。

しかし、あれからもう何年も過ぎているのに、あの時ほどの美しい生の光景とは再会していない。

ときどき、それらしき朝すぐにカーテンを開けてみたりするが、なかなかああいう具合のシーンには遭遇しないのだ。

大げさだが、あれはわが家周辺における奇跡的光景だったのかもしれない………

雪は“どかす”もの

NHK昼のニュースが「大雪で地元の人たちは雪かきに追われ……」と伝えている。

しかし、テレビに映っているのは我々の地方ではない。

一月に入って、我々の地方ではわずかな雪しか降っていない。

我々の地方というのは、何を隠そう(と言うほどでもないが)北陸・石川である。

その北陸・石川のニンゲンが、わざわざ“わずかな”と言うのであるから、いくらかの申し訳ない気持ちがそこに含まれている。

つまり、山陰や滋賀の彦根や高島あたりでも大雪が降っているという状況に対して、雪のメッカ的地域であるはずの北陸がこのザマでは示しがつかない。

北陸のメンツに賭けても、雪にはしっかりと降ってもらわないと立つ瀬がない………?

そんな中、大雪が降った地域からのニュースが流れていた時、ふとあることに気が付いた。

正式には、古い話を思い出したというのが適切で、かつて『ポレポレ通信』なる私的小冊子を、周囲三百名ほどの皆さまにまき散らしていた頃、冬のある号に書いた話を思い出したのだ。

それは雪をスコップ(今はスノーダンプなど多彩だが)ですくい、そのまま放り投げたりする行為を何と呼ぶかということで、今から二十年以上も前、そのことについて深く考察(?)していた。

ニュースでは“雪かき”と伝えられていたが、ボクが当時取り上げた表現は、“雪すかし”についてであった。

たとえば、家人は昔から“雪すかし”という表現を普通に使い、ボクもいつの間にかそう表現するようになっていた。

そして、その当時は“雪かき”などといった上品な表現なんぞあり得ないと思っていたのだが、かと言って“雪すかし”についても文句なしに賛同していたわけではない。

実際にドカ~ッと降った雪の中でのその行為は、雪すかしでもピンとこなかった。

雪かきは、雪を熊手みたいなもので文字どおり掻き集めるみたいな感じだし、雪すかしについても、すくなどというのは空間を作っているだけみたいでイメージは軽い。

両者とも大雪に見舞われた人たちの重労働を理解した表現とは思えなかった。

そして、最近になって、あらためて思い出した言葉がある。

それは、“雪どかし”だ。

幼い頃から、ボクたちの周辺ではスコップで除雪することを確かにそう呼んでいた。

家人からは、そんなお下品な…などと笑われたが、たしかに我ら宮坂全ガキ連、もしくは麗しきゴンゲン森の少年たちの間では、“雪どかし”だったのである。

そして、そのことは冷静に考えてみれば、すぐに納得できることでもあった。

先にも書いたように、大量の雪、しかも我らの地域は湿った重い雪が定番だ。

その雪を扱うのに、“かき”も“すく”もありえない。

ズバリッ、“どかす”なのである。

そういうわけで、かなりチカラが入ったのであったが、最近の軟弱な冬のせいもあって、我々の地域ではまだ“雪かき”程度で済んでいる。

それを喜ぶべきかどうか、今でも雪が大好きなニンゲンとしては微妙なところなのである………

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

やはり “山里”を歩いているのだと思う

農村に対して漁村という言葉はあるが、山村に対する海辺の村を表現する言葉を知らない。

最近、山里(あるいは山村)歩きをかなり本気になって楽しんでいるが、そんな中から気が付いたことがある。

それは海辺に対して、山中にはかなり閉鎖的な印象があり、そのことがわずかな民家によって形成される、特有の村のイメージを作りやすくしているのではないかということだ。

ボクの目には、海辺の村はそれなりに家の数も多く、海に面している点で開放的に見える。

だから、山里のようなイメージは希薄なのだと思える。

山里が閉鎖的というのは、単なる地形的な面からの印象に過ぎない。

逆に言えば、こんなところにも人の生活(営み)があるという驚きと安堵みたいなものが、暖かい気持ちにさせてくれたりもするのである。

 

最近になって「里山」とか「里海」という言葉が多く使われるようになった。

前にも書いたことがあるが、ボクには「里山」より「山里」の方がピンとくるものがあって、ずっとこの表現を使っている。

そして、この言葉に対する「海里(うみざと)」という言葉がなかったことにも納得している。

今「里山・里海」という言葉を使い、山と海を同じ扱いにしようとしている背景には、「山里」をそのままにして「山里・海里」にしたのでは、後者が“かいり”という別の意味の言葉になるという、ややこしい事情があったのだろう。

特にどうでもいい話ではあるが、「山里」は山の中の村(人)に軸を置いた言葉であり、「里山」は村に隣接する森林などを意味する言葉だ。

大して変わらないようにも読み取れるが、後者には“かつて人と深い関わりがあった…”という意味深な形容が付いてくる。

そのあたりに、実は少し、いやかなり違和感をもつのである。

 

ボクの歩いているところには、人の息吹がまだまだ残っている。

水田があり、畑があり、水が引かれ、木も植えられ、墓が立ち、道の舗装が進み、時にはコーヒーのいい香りなども漂ってきたりする。

だから、ボクは間違いなく“「山里」歩き”をしていると思っている。

甲州ブドウが信玄本を導く

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大河ドラマ『真田丸』で、ついに真田昌幸が死んだ。

(タイトル写真は真田昌幸 『戦国大名武田氏の家臣団』より)

幻覚の中、馬の嘶きと近づいてくる蹄の音に起き上がり、「おやかたさまァ」と叫んだ後、そのまま息を引き取るという、グッとくるような演出であった。

草刈正雄の野性味の効いた演技もよかったと思う。

死に場所は真田からほど遠い九度山だったが、信濃の山野を駆け巡った戦国武将らしい最後だったようにも感じられた。

そして、昌幸が叫んだ「お館様」こそが、あの武田信玄であり、信玄によって戦略家・智将としての才能を開花された昌幸の、信玄への思いがあの場面に描かれていたのだ。

ただ、このあたりの背景表現については、『真田丸』は全く中途半端だったのではと思う。

昌幸は七歳の時に信玄のもとへと人質に出されている。

つまり、真田は元来、信玄から本当の信頼を得てはいなかった。

しかし、信玄は昌幸を大切に扱った。

その結果、昌幸は信玄の下でその才能を開花させ、国衆の三男坊から武田家譜代の家臣として取り立てられるまでになる。

信玄が死んだ後も、武田と真田のために踏ん張った。

本気で甲斐の国を再興させようとしていたのではないか………

と、ここまで書くと、ついこの前、武田信玄について書いていたのに、またその話かよ~と思う人もいるかもしれない。

今頃、気がついても遅い。実は、そうなのである。

しかし、今回はむずかしい話ではない。

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今年もまた、山梨県甲州市勝沼に住む親友Mからブドウ便が届いた。

9月のはじめ、いつもよりちょっと早い到着であったが、今年は猛暑のせいか収穫が少し早くなったらしい。

いつも畑で採れたものをすぐに箱詰めして送ってくれるもので、柄の部分はきれいな緑色をしている。

もちろんバツグンに美味い。

持つべきものは、よい友だちだ… ついでに書くと、静岡県三ケ日のみかん農家の次男坊も学生時代の親友で、こちらも初冬には採れたてが送られてくる…………

信玄本の記事

それで、今回勝沼から届いた箱の中に敷かれていた地元・山梨日日新聞。

いつもこういう新聞には必ず目をとおす。

土地柄のニュースが載っていたりして、なんとなく楽しい気分にさせてくれるからだ。

そして、今回も興味をそそるニュースが載っていた。

地元ゆかりの出版物を紹介する記事だ。

まず、「武田家臣団の構造解説」という見出しに注目させられ、丸島和洋氏の名前も目に止まった。

丸島氏と言えば、武田家と真田家に詳しい研究家だ。

『真田丸』の歴史考証も担当している。

これはすぐに買い込んで、読まねばなるまいと気持ちが昂る。

そして、すぐに買ったが、正直言うと、こちらの書店にはどこにも置いてなく、通販を利用させてもらった(なぜか、通販だと何となく申し訳ない気持ちになるのである)。

すぐに読みたかった。

二十代の頃、武田信玄に関する本をひたすら読み込んだが、その時の衝動が甦ってきた感じだった。

噛りついて読んでいるわけではないが、じっくりと今も読み続けている。

ところで、『真田丸』を見ていて感じる人もいると思うが、主人公の信繁(のちの幸村)と同じように、昌幸の方も面白い物語になると思うのである。

本音で言えば、昌幸の方が信玄との絡みが多くあって戦国の物語としては絶対内容は濃くなるはずだ。

秀吉やら家康、その周辺には深いストーリーが感じられない。

だから、幸村のようなヒーローが出来上がったような気もする。

秀吉・家康なら、今回のようにコメディっぽいのがちょうどいいくらいで、今回もそれが面白い要素になっていたりする。

まあどちらにしても、勝沼のブドウが一緒に届けてくれたような一冊の本が、今は実に愛おしく、ときどき気持ちをぐっと引き上げてくれるような気がして嬉しいのである…………

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語りながら自分を振り返る

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8月最後の休みの日、能登のN町U公民館で語る機会があった。

小さな会の少人数の場であったが、与えられたタイトルが男の趣味を云々というカッコよすぎるもので初めは躊躇した。

だが、地元の古い知り合い・Sさんからの要請でもあり、やらせていただくことにしたのだ。

かなり前のことだが、N町のあるプロジェクトに関わらせていただいた。その後、隣の町村と合併し町は大きくなったのだが、本質は変わっていないと思っている。

そのプロジェクトの時の町の担当者が、現在のU公民館長であるSさんだった。

静かに故郷を見つめる、素朴な姿勢が頼もしかった。

役場を退職後、今はあごひげを実にかっこよく伸ばし、渋みを増している。

U公民館は、図書館や観光情報センター、特産品の販売ショップなどが一体化された施設の一画を占める。

 

趣味の話など、ひたすらN居さんの好きなようにやってもらえたらいいんですよ………

最初に電話をもらった時、Sさんがそう言った。

そう言われても、戸惑うのは当の本人だ。

公的にはたまにやってきたが、私的一本でいいと言われたことはない。

たしかに公的にやっていても、終わる頃になると、私的な匂いに包まれていくというパターンもあった。

だが、私的でいいというのは、やはり申し訳ないというか……

最大の理由は、自分の“品質”で、そうした堅気の皆さんのお役に立てるのかどうかという疑問である。

かつて、“私的エネルギーを追求する!”などと吠えていた時代、周囲にいたニンゲンたちは、自分のことをそれなりに知ってくれていた。

だからそれなりに好きなようにやってこれたのだが………

最近、特に感じていたことがあった。

この雑文集を読んでいただいている人たちからの突然のメールなどに、やっぱり文章が自分の基本だなと思うようになっていたことだ。

できれば多くの人たちに読んでもらいたいが、それと同じように、自分でも死に近づいた床の中で、じっくりと読み返してみるのもいいなあと思うようになった。

とにかくなんだか急に、そして、おかしなくらいに「自分回帰」(大袈裟だが)みたいな思いが湧いてきていたのだけは事実だった。

そして、今回N町での話のテーマは、こうしたことに対する自分の気付きから始まったと言っていい。

このサイトの中にある「自記・中居ヒサシ論」という長文プロフィールの中から、わずかに話をピックアップし、仕事の上での「黒子」という立ち位置から離れた、自己表現の場としての「書く」という世界にのめり込んでいった経緯などを取っ掛かりにした(またややこしいことを書いている…)。

 

本題に入る前、「最近、自分という存在の、その一部を自覚させてくれる出来事がありました…」と、ややまじめに切り出す。

それは自分がかつて書いていた、稲見一良という作家に関する話に触れられた方からお便りをいただいたことだった。

素晴らしい経歴をもつその方からの言葉が、何か刺激のようなものをもたらしたように感じた。

稲見一良という作家に共鳴した自分の感性をストレートに理解してくれる人がいたということなのだが、その作家自身の、そして作品自体の魅力について、この雑文集の中以外で、あまり誰かに語ろうとしていたわけではなかった。

無理に「大人のココロ」を持とうとしていた少年が、そのまま中途半端な大人へと成長し、そして、さらにその中途半端さに磨きのかかった大人へとハマり込んでいく中で、初めて自分の中の「少年のココロ」に気が付く……

これは今の自分のことである。そして、そんな人生の機微(の一部)みたいなものを、稲見一良の作品は教えてくれていた。

そして、話は進んだ。

稲見一良だけでなく、辻まことや椎名誠、そして、星野道夫など…… 歴史や音楽などの世界と違ったカタチで、感性をぶるぶると震わせてくれた人たちのことを話していくうちに、どんどん自分自身も見えてくる。

その他のさまざまな物事に対して費やしてきた時間の話などを絡めていくと、自分自身を説明していくのは却ってむずかしくなるばかりだが、今自分の中に生きている人たちの話から、逆に自分が理解してもらえるということが掴めてくるのである。

そんな話をきっかけにして、黒子としてやってきた様々な仕事のことなどにも話が広がった。

自分では絶対に同一視したくなかったのだが、自分の中の私的エネルギーが、多分に仕事の取り組み方にも影響していたのは間違いなく、聞き手の皆さんも十分にそのことを感じ取ってくれたみたいだった。

いろんなことに興味を持ってきたが、行動という意味では何もかもが中途半端だったことは否定できない。

満足できたことは、まったくなかったように思う。

第三者に自分のことを語りながら、そのことを強く認識している自分自身がおかしくさえもあった。

そして、少年時代のことをただ思い返すのはノスタルジーだが、青年時代に考えていたことを振り返るのはまだいいのでは……と思えるようになっていると語った。

なぜなら、青年時代には少しだけだが、現実を踏まえた将来のことを考えていたからだ。

 

帰り道、美しい海の風景を見ながら、久しぶりにカラダの中がきれいになっていくのを感じていた。

もう残された時間は少ないし、エネルギーも乏しくなっていくばかりだが、昔の合言葉だった「ポレポレ」(スワヒリ語~のんびり、ゆっくり)という言葉がアタマをよぎっていく。

あの時代の自分が懐かしい………

わが家の 妙に気になる木

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我が家周辺における近年の夏は、ただ暑いだけで、どこか今一つ情緒的なものに欠けているなと思っていた。

そんなことを思ってしまっている自分自身にも原因はあったのだろうが、やはり何となく我が家周辺には無機質な夏しかなくなったと感じていた。

そして、その原因が分かった。

蝉の鳴き声が聞けなくなっていたのだ(……鳴いていたのに気が付いていなかったのかもしれないのだが)。

そんなある暑い日の午後、外出から帰ってきた時に、我が家の周辺で蝉が鳴いているのを聞いた。

そして、小さな花壇に水を撒くため夕方外へ出たときには、その声が、かなり鮮明に(例えばデジタル音的に)耳に届いてきた。

かつて、家の背後の斜面はニセアカシアだらけの林だった……

そこにはキジの親子が時折姿を見せたりもし、夏になれば蝉などは当たり前のように鳴き声を響かせていた。

そして、その林が整理されて、ただの美しい斜面と化してからは、蝉たちも止まる木を失い、それも当然のようにして遠ざかっていったのだ。

 

この家を建てた直後(約二十年前)、今は亡き義父が庭からサツキを植え替えにやってきてくれた。

何もなかった空き地がそれらしく彩られると、こちらもその気になってプランターで花を育てるなど、これまでの人生では考えられなかったような行動に出ていた。

ある時、植えられたサツキの間から、まったく別な木が伸びているのを見つけた。

全く異質な葉をつけるその木は、違和感をもたせるに十分だった。

しかし、その木はみるみるうちに大きくなっていった。

「ジャックと豆の木」の話があるが、子供の頃、あれを読んで、そんなバカなと思ったりしたことを思い出したくらいだった。

膝上くらいしかないサツキは、アッと言う間に追い抜かれてしまった。

妙な木2

最初は細くすべすべで緑色だった幹の部分が、少しずつホンモノの(?)木のような質感で変形していく。

これも自然界と言うか、植物界における摂理のひとつなのかと不思議な思いで見ていたが、さらにグングンと大きくなっていくのを見ていると、なんだか気持ち悪くもなってくる。

そして、一階の窓を覆うようになり、目隠しやら日陰になっていいかなと思っていたら、いつの間にか二階の屋根に届くようにもなっていた。

二十年の歳月の中で、十倍以上の成長をとげてきた。

 

そして、今年になって気が付いたが、その木に蝉たちがやって来てくれることになっていたのだ。

数年前、緑の葉っぱが青虫に喰い尽されそうになったこともあったが、殺虫剤(たしか家にあったキンチョールだったと思う)をまき散らし、地面を青虫の死骸だらけにしたこともあった。

葉っぱはすぐに回復していった。

そして今や、この木は我が家のシンボルツリーと言ってもいいほどに存在感を示している。

実は、この木の幹のすぐ横には、また別な木が伸びている。

なんとも不思議な生命力を持つ木々たちが、我が家の脇で共生生活を送っているのだ。

もう一本の木は細いが、幹は美しく白く、まっすぐに伸びようとしている。

絡まれる枝たちの中で、姿勢を正そうと懸命になっている。

いずれ、その木は別な場所に移してやりたいと思っているが、今のところ予定はない。

木の名前も知らない。ここでも敢えて調べようとも思っていない。

ただ、蝉の声を取り戻してくれたこの木に、とりあえず感謝なのである………

 

今日も水をまきながら、時折、その水を空に向けている。

緑の葉っぱたちに、少しでも涼んでもらおうと、愚かなことをしている………

妙な木1

雨の日の草刈り

細かな雨の降る中、家のまわりの草刈り。

山用のややごついTシャツ。

作業用にしている、これもまたごついパンツ。

これらは細かい粒子のような雨くらいなら負けない。

それに気温も高いから、ちょっと濡れるぐらいがちょうどいい。

ポケットから聞えてくるのは、スマホが発する「Basie in London」。

これはポケットから聞えてくるというのがいい。

イヤホーンではいけない。

ズボンの後ろポケットから、いかにもアナログ的、モノラル的に聞こえてくるのがいいのだ。

だから、流すのもカウント・ベイシー・オーケストラなのでもある。

ただ単に、尻(ケツとも言う)の感触もいいだけではなく、なぜかベイシーサウンドに押されて、作業もはかどっているような感覚にもなったりする。

それにしても、久しぶりに雨に濡れるという感覚を味わった。

これは驚異的な久しぶり度合いだと思い、ニンゲンらしく生きていない近年の日々のことを思ったりしながら草を刈った。

60年に及ぶ人生で、最も激しく雨に濡れたというのは、あの「剣岳・梅雨ド真ん中豪雨逆上山行」(このタイトルは今考えた)の時だろうと振り返ったりもしている。

初めての本格山行だったが、若き日の「憧れと試練」が入り混じった思い出だ。

番場島から当時の伝蔵小屋までの登りで、パンツの中までずぶ濡れになった。

まさにカラダの芯が冷えてしまうくらいのずぶ濡れ度だった。

これには深い事情があって、同行者たちよりもはるかに体力的優位さを持っていた自分が、その時のリーダーから日本酒の入ったポリタンを担がされ、自分自身の荷物は他のメンバーに分配されていたのだ。

つまり、自分の雨具を携帯していなかった。ついでに書くと、ポリタンはキスリングの大きなリュックに入れられ、パイプの背負子で背負っていた。

この大量の日本酒は、その夜少しだけ減ったが、翌日は剣の登り下りで誰も口にしようなどとは言わなくなり、結局下山するまでほとんどが残っていた。

そんなことを思い出しながら作業していると、最初は適当なところでやめにしておこうと考えていた思いが徐々に薄れていき、じっくり腰を据えてやっていくスタンスに変わっていく。

そのことに気が付くと、これもまた雨の中をひたすら黙々と歩いていた山行と同じだなと思ったりする。

雨で草が重くなっていた。

最後にかき集めながら一ヶ所に寄せていく作業は、なかなかチカラが要る。

ポケットからのベイシーは、ボーカルが加わってますます元気がよくなっている感じだ。

そういえば、ベイシー・オーケストラは二度コンサートに行ったなあと思い出す。

今年の金沢のジャズイベントに、またチック・コリアが来るらしいことも思い出し、今年はトリオだから行ってみるかなと考えていることも思い出した。

この間、何かの拍子にチックのソロピアノが耳に飛び込んできて、そのタイミングの良さもあってか、チックのピアノにまた興味を持ち始めている。

「CIRCLE」なんかも、なぜか最近たまに聴き直している。

こういうことは良い傾向だなと思っているうちに、雨が激しさを増してきた。

そろそろフィニッシュに向けて仕上げなければならない。

最後はやや雑になったが、なんとか終わった。

顔や腕なんかの濡れ具合もいい感じになってきていた。

それにしても、隣の空き地は草ボウボウなのである………

 

下品な日々

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前にも書いたことがあるが、香林坊日銀裏でかつて繰り返されてきた、今は亡き奥井進さんとの会話の中に、「下品やねぇ」という言葉がたまに使われていた。

ボクたちは、ただひたすら自分のために時間を過ごしている状態を「上品」と呼び、仕事のことしか今は考えられないなどといった時間の過ごし方を「下品」と呼んでいたのだ。

一週間ほど店に顔を出さないと、「どうしとったん?」と問われ、「ちょっと忙しくてね」と答えると、「そうなん、下品やねぇ」と言われる。

「私的エネルギーの追求」などといったテーマで雑誌を発行し、ひたすら自分らしくいられる時間を得ようと、静かに息巻いていた時代だった。

今から思えば、ただ中途半端であっただけで、それ以外に何とも表現できないさびしい時でもあった。

でも、今でもアタマの中でこの「下品やねぇ」を使うことがある。

第三者に言っても仕方がないので、自分だけに言うのだが、ただそういう場合は、余計にクールな響きになったりして虚しい。

上品でいたければ、会社なんか辞めて好きなことをやっていればよかったんだよとも言われそうだが、そこがまた「ニンゲンの意外性」などといった別なテーマも掲げたりしたものだから、仕事をしながら私的エネルギーを燃やし続けているということにも、意味を持たせていたわけである。

結局、話をややこしくしていたのは自分自身であり、上品であるとか、下品であるとか、表現の遊びみたいなことをとおして自分をかばっていただけかもしれない。

そう言えば、最近、楽しいという感覚が分からなくなってるなあと思う。

単純に言えば、楽しいと感じる時間がないからなのだろうが、これは一種の病気だ。

NHKの『とと姉ちゃん』を見ていると、雑誌作りに情熱を燃やす主人公に自分を重ねたりして、その純真さみたいなものに刺激されている。

胸が痛くなるような、諦めと羨望が混ざる感覚だ。

あれが家族を養っていくための手段だとする主人公の思いとはちょっと違うが、それでもよい雑誌を作りたいという気持ちは同じなのかもしれない。

結局、8号までしか出せなかったわが『ヒトビト』(雑誌の名前)だが、あの時の気恥ずかしさや気怠さも混じった妙な楽しさはしっかりと胸に刻まれている。

最近、一旦あきらめかけた絵本作家への道に、もう一度チャレンジしようと決意した、ある図書館司書の女性の話を聞いたり読んだりしたが、その再び立ち上ろうというエネルギーに爽やかで、すがすがしいものを感じたりもしている。

自分のことは半分あきらめて、そういう人たちをわずかながらでも応援しているだけで、少し満足出来たりもする。

4月に鳥羽まで電車の一人旅をやった。

現地で昔の大学の友人たちと合流したのだが、あの電車の旅はそれなりによかったような気がする。

車窓の景色とか、最近特に目を凝らして見るようにしていて、なぜか懐かしい楽しさを感じ取っていた。

休みの日、かつて仕事で出かけていた土地に、敢えて私的に出かけるということの新鮮な感覚も味わったりした。

「上品な日々」は、自分の意識次第ですぐ目の前に現れたりするのかもしれない。

そんなことを束の間思いながらの「下品な日々」が続いている……

 

焚火休日のときの流れ

焚き火1

久しぶりの焚火である。

と言っても、焚火そのものを楽しむものではなく、裏の空き地に放置されているものを焼却するという、れっきとした家事仕事だ。

ただ、楽しくないのかと言えば、それはそれで十分というか、かなり激しく楽しい。

今回は何年ぶりというくらい久々度は高く、最近ではご近所さんへの配慮などもあって回数も減った。

何と言っても、休日にはできなくなった。

その日も連休の間にポツンと残された“普通の日”をお休みにさせていただいてやったのだ。

焚き火場は、家を建ててからそのままになっている、いつもの後ろの空き地。

もともと「多目的空き地」と位置付けていたが、最近では「無目的空き地」と虚しく呼ぶ。

砂や雑草との熾烈な闘いもあるが、とにかく何もしないまま放置しているのがよくない。

 

今回のメイン材料(燃やす対象)は、ずっと前から置きっ放しになっていたオープンデッキの解体残だ。

その前に雑草取りから、鍬を手に花でも植えようかという分だけ土をおこす。

少し前から悩まされている腱鞘炎とテニス肘(と医者は言うが、ボクはテニスをしない)のせいで、鍬は長時間持てなかった。

この鍬は亡き母の形見で年季が入っている。

着火は9時ごろ。

いつものように木を組み、その下に乾燥した草などを置き、丸めたチラシに火を点けて差し込む。

木材に移った火が安定してくると、しばらくそのままにする。

ちょっと一息…… ポケットに入れたラジオ(スマホ)から、高橋源一郎と清水ミチコの楽しいトークが聞こえてきて、ときどき周囲を見ながら笑ったりする。

幸いにも、周囲には誰もおらず、安心して笑っていられる。

途中何度も木材を足したりするが、それ以外は特にこれといって格別なこともなく、こういう時は、“焚火読書”だったと、家の中へと読みかけ本を取りに行ったりした。

持ってきたのは、磯崎憲一郎の『電車道』。

あと残り50ページほどだったのが、いい機会に読み終えることができた。

ただ感想はというと、やや首を傾げている。

インタビューなどで著者が好きになったのだが、作品は自分のサイクルに合わない。

やや苦しかった分、読み終えてホッとした。

当然、こちらの方が悪いのだが、こういうことが最近はよくある。

作家がテレビやラジオなどによく出るからなのだろう。

高橋源一郎もそんな一人だ。

そう言えば、読みかけ本はまだ数冊あったなあと思い出した。

 

焚火の炎を見ていると、いろいろなことを考えたりするから不思議だ。

炎の動きが、視覚をとおして脳を刺激するのだろうか。

気が付くと、仕事のことやらモロモロ考えていたことが、残像みたいにアタマの中で浮遊しているのが分かる。

ただ、どれも実体がないようで、摑みどころがない。

まだ若そうなハチが一匹、すぐ近くの小さな花にとまろうとしているのが見えるが、なかなかとまれそうになく、何度も試みながらあきらめて飛び去って行った。

足元には、見慣れたアリジゴクの落とし穴(と呼んでいいのかな?)。

砂丘地の町だから、アリジゴクは大してめずらしくもないが、小さい頃、初めて砂の穴を崩し、出てきたアリジゴクを手のひらにのせた時の感触はまだ覚えている。

意外にも、ただくすぐったいだけだった。

そう言えば、手のひらに砂の山をつくると、アリジゴクはその砂の中にももぐり込んでいこうとしていた。

朝から雲ったままの我が家上空に、ヒバリが一羽飛来。

曇り空にヒバリは似合わないが、泣き方はあくまでもヒバリらしく、羽のばたつかせ方もヒバリらしい。

いつかどこかで見た、空で鳴いているヒバリをじっと見上げていた猫のことを思い出した。

 

炎がだんだん小さくなってきている。

材料ももう尽きている。

ラジオはとっくに正午のニュースを終えた。

家族は出勤日。

これからモロモロの片づけをし、家に入ってシャワーを浴び、独り冷蔵庫にある残りものなどをいただく。

それから、コーヒーを淹れ、BSで『ダーティ・ハリー』を観るのだ。

こんな時間の流れ方も、いかにも焚火的なのである………

 

股引について

芽吹き1

恥ずかしながら、たまァに今風の股引(ももひき)を穿くようになった。

が、自分の感覚では、それを穿いても決して暖かいといった感じがしない。

それどころか、余計に足がヒンヤリとした感じになる場合が多く、穿いてしまったことを悔いたりする。

そもそも、股引については中途半端な思いを抱いてきた。

中途半端ではない思いというのも説明できないが、冒頭にも書いたように、股引にはどこか羞恥心みたいなものを抱かせる性格があり、そのことによって積極的に利用したくないといった思いがあった気がする。

たしかに、最近の股引はデザインもそれなりに施されていて、昔とはかなり違う(つまり、ラクダの・・・ではない)受け止め方がされているみたいだ。

だがどうしても、股引を穿いているという状態はよろしくない。

どうやっても股引だからだ。

その名も、何となく侘しい。

ももひき…という音の響きは侘しく、そして、せつないのである。

さらに、漢字では「股(また)を引く」と書くところにも奇妙な感じを受ける。

たしかに、「股」には「もも」という読み方もあるようだが、この場合の「もも」と言えば、太腿などの「腿」を連想するのが普通だろう。

だから、本来ならば「腿引」という漢字にするか、もしくは「またひき」という呼び方になっていてもよかったわけだ。

それがなぜ、股引(ももひき)なのだろうか。

 

ところで、股引の話題を出すと、必ず突っ込まれるのが、小倉百人一首のあの歌である。

「ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」

この歌の出だしの「ももしきや…」に、思わず赤面してしまったとか、吹き出しそうになったという経験を持つ人は多いだろう。

これは、「ももしき」が、宮中の意味であることを知っていれば何でもないのに、その響きから「ももひき」と聞き間違えたり、またはモロに「股引」そのものだと勘違いしてしまったことが原因である。

ちなみに、この「ももしき」は「百敷」と書くのだそうだ。

多くの石が敷かれているというとかで、宮中とか御所とかを表す。

そういうわけで、少し寒さも和らいできたせいか、股引を穿くことはほとんどなくなった。

そのことで、なんだかアタマの中のモヤモヤが取れたような、奇妙な思いも抱いたりしている。

なくなったから、堂々と股引に関する思い(不信に近い)も書いていられるのだろう。

また寒さがぶり返した時にはどうするかだが、今のところまず穿く予定はない………

ガムとインフルエンザ

ガム

ガムについて考えたのは、インフルエンザが流行し始めたぞというニュースが、会社内に流れた日の夜のことだ。

社内に感染患者が数名発生し、予防に関する情報が各自のパソコンに送られていた。

その中のたくさんの項目の中に、“ガムを噛む、飴を舐めて口に潤いを!”とあった。

ガムがこのような効能を持っているということについては、実はずっと前から知っていたのだが、実際にこうして公式(?)な文書として出ているのを見ると嬉しくなった。

自分の場合、知っていたというより経験していたという方が正しく、そのこと自体の精度の高さについてもかなり自信を持っていたのだ。

しかし、そのことは(少なくとも周辺では)なかなか信じてもらえなかった。

ガムには何と言っても虫歯のモトだとか、所詮、二日酔いの朝の臭い消し(特にニンニク対策)といった偏見があり、潤いという言葉との関連性を受け入れるのは難しかったのかも知れない。

 

自分には、春頃になると軽い喘息のような症状が訪れる。

花粉症みたいなものだが、お医者さんからもお墨付きをもらった“れっきとした持病”らしく、かなり長いこと欝な思いをしていた時があった。

よくある目を充血させ、カラダを捩じりながら烈しく咳き込むというのとは違うが、ただ風邪を引いて咳が出始めると、ダラダラと続くということがあるのだ。

乾燥してくるとテキメンであった。

だから、根本的に喉にはそれなりの注意を払ってもきた。

とにかく咳が出ない状況を維持していくことが肝心だった。

そして、そんな中で発見したのがガムの効能だ。

口とか咽を潤すというと、誰もが水やお茶を飲むと考えるだろう。

しかし、本当にムズムズが昂じてくると、たった一秒か二秒くらいの快感ではすまなくなる。

ずっと、その快感(と言っても普通のことだが)が継続的であってほしいという強い欲求が生まれる。

そんな時、ふとガムを噛もうと思った。

ガムを噛んでいれば唾液が出る。

その唾液を定期的に喉の方へと送る。

この場合のガムはキシリトールである。

ついでに書くと、ボクの場合は、ガムに味はなくてもいい。

かつて最初から味のないガムが存在していたが、ボクはそういうのが気に入っていた。

今もあるのだろうか?

キシリトールガムにも、本当は味は要らない。

 

この唾液が喉を通っていくことだけで、ボクの咳はほとんどカンペキに出鼻をくじかれていた。

もちろん喉が真っ赤に腫れてしまっている時などはむずかしいが、たとえば朝クルマの中で、小さなガム一個を口に放り込むだけで、起き始めの頃から気にしていたムズムズ(イガイガとも言う)感は見事に消え去った。

さらに、いい意味の副作用もあり、唾液が送られた胃はその活動を活発にし、昼飯を美味しくしてくれたりもした(ようだ)。

こうして、ガムとの信頼関係は深く結ばれていったのである。

今もバッグの中やクルマの中にガムがある。

 

ところで、ガムと一緒に取り上げられていた飴についてだが……

まず、飴にはそれほど期待していない。

やはり飴はどうしても甘すぎる。

あの甘さは、本気でないように思えて信用できない。

あの甘味で喉をやさしく包み込んでいるかのごとき印象を持つが、喉自身を錯覚させているように思えるだけだ。

その点、ガムには唾液を出すという重要な働きをしながら、なんとか噛み手の役に立とうという姿勢が見えたりするのである。

そういうわけで、とにかくやはり、何と言うか…

“喉にはガム派”なのであった………

感受性を取りもどす年頃に

緑の葉っぱ

去年は還暦の翌年だった。

この場合の「翌年」は「よくとし」と読んでもらいたい。

と言いつつ、今自分のライフワークと位置付けている某ミュージアムで、4作目の短編ムービーを作らせていただいているのだが、先日ナレーションの録音で同じ「翌年」を、「よくねん」と読んでくれるようナレーターに指示していた。

シナリオを書いていた時の自分がそう読んでいて、それでないと納得できなかった。

そんなことがよくある………

 

それで、予想以上の早さで還暦の翌年(よくとし)が過ぎ、還暦の翌々年(よくよくとし?)になったという話だ。

そんな年頃(これも変な響きだが、プレーオン!)になってくると、妙にさまざまな区切りみたいなものを作りたくなる。

この場合の「区切り」とは定年があったりすることからくる日常の転換だったりもするのだが、やはり「人生のやり残し」的なモノゴトに、もう一度相対してみようという場合の再スタートを意味しているように思える。

ボクの場合は仕事が継続し、その立場にすべてが束縛されてしまったような思いに陥ったが、最近ではやや開き直り気味でもある。

後悔するのが分かっているとしたら、とにかくそうしない方向へ気持ちを向けておこうと考えるのは普通だろう。

だから、むずかしいことは考えずに、目の前にあることを片付けている。

 

そんな中、年が改まって人生の「やり残しリスト」というのを作ってみようかと思った。

これまでの人生でやり残してきたことを並べていくというやつだ。

別に表などを作るわけではないが、クルマを運転している時などに、思いつくままアタマの中で中身を埋めていく。

内容の濃さは別にして、もともと何でもやってきたニンゲンなものだから、やり残しは山ほど出てくる。

しかし、ふと思った。

やり残しという定義づけがややこしいのだ。

だいたい、やり残していない、つまり、すべてやり尽くしたということなどあり得るのだろうか?

そう腹の底から言えるニンゲンが果たしているのだろうか?

少なくともボクの観点からはいないということが分かってきた。

そして、考える角度を変えた。

何をやり残してきたか?よりも、何をやってきたか?を考える方が前向きだと思えてきた。

つまり、「やり残しリスト」から、「やってきたリスト」に切り替えたのだ。

 

これまでの人生の中で、自分が熱中したり、興味を持ったりしたことを振り返るのは楽しい。

時間軸で追いかけていくと、小さな自分史みたいなものが出来上がっていきそうだ。

しかも、現在進行形でそれらがどこかに生きているということを発見したりすると、自分の人生もそれなりに充実していたのではないかと思えたりもする。

それに、やり残しよりは、もっとはるかに「ゼロからの再スタート」という気持ちになれる気がした。

カッコよく言えば、脈々と自分の中に生き続けてきたものを振り返るといった感じなのだ。

 

先日あるラジオ番組で、ゲストが還暦を過ぎて若い頃の感受性の強かった自分に戻っている……というようなことを話していた。

とても共鳴できる話だった。

いい言葉だなあと、耳から脳に行き、それから心に静かに届いた。

そのゲストは役者だから、特にそういう言い方が似合うのだろうが、普通のオトッツァンやオッカサンでも、感受性を再生させることぐらいむずかしいことではないのではと思った。

人それぞれだが、ボクの場合は少年期に感受したモノゴトに強いインパクトを受けた。

当時はちょっと周囲と違っていたから、プラスにもマイナスにも作用したと思う。

しかし、それだけが自分のすべてではない。

そこからさらにまた時を経て、さまざまに広がっていったものがある。

それらすべてがどこかで繋がっているような気もする。

そして、今の自分が出来上がっていった…のだから仕方ない……?

しかし、自己形成史というのは、ひたすら前へと進んでいくだけではないのかも知れない。

 

あまり遠くを見ないよう気を付けながら、これから春に向かおうとする時季に向けて、「やってきたリスト」や「やってきたヒストリー」をボーっと考えていく。

やはり、なかなか楽しそうだ………

初夢から解かれる

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1月も半分が過ぎたので、初夢の話を書く。

と言っても、いい夢ではなかったので、内容はあまり書きたくない。

ちょっとだけ書くと、仕事上のトラブルが発生して関係者に謝罪に行くという情けないものだ。

夢の中で、これは夢じゃないかなあと思っている自分がいた。

それほどモヤモヤしたいい加減な空気が漂った夢だった。

しかし、見てしまった以上、今更それを消してしまうわけにはいかない。

自分としては、それが「2016年の初夢」だっのたかも知れなかった…ということが情けなかった。

ただ、最近になってあることに気付いている。

それは、その夢が果たして本当に「初夢」だったのかということで、よくよく考えてみると、夢から覚めた時がもう明け方だったことから考えると、それ以前に見ていた夢があり、その夢が初夢に当たるのではないか……ということだった。

たしかに元旦の夜から、2日の朝にかけてのことだが、夢にも昔の映画のように“三本立て”とかがあって不思議ではない。

だから、自分が見たあの不快な夢の前に、すでに一本目や二本目を見ていた可能性がある。

その一本目が初夢にあたるのだ。

ひょっとするとその夢は、道を歩いていたら風が吹いてきて、その風と一緒にビール券が無数に飛んできた……とかいう “ 幸せいっぱいな夢 ” だったかもしれない。

少なくとも、はじめに書いたようなあの下品極まりない夢ではなかっただろう。

そんなわけで、ボクは今、初夢だったと思っていた不快な夢からようやく解放されようとしている。

新年になって初めて、短い時間だが自分の部屋で過ごした。

そして、出がけに、新築した20年ほど前、板壁に張り付けた一枚の写真をじっくりと見た。

真っ青な空に、いくつもの白い雲が浮かんでいる写真だ。

雲たちは浮かんでいるだけでなく、動いているように見える。

またひとつの年が始まったのだなと、漠然と思っていた……

 

 

 

 

 

先生がやって来て、ボクは空振りした。

真夏の青空と雲

小学校に行き始めた頃だろうか、いやもっと前かも知れない。

「ギョーセードーロ」という言葉を何気に覚えていた。

それは、今普通に県道と呼ばれている道路のことで、昔はそう呼ばれていた。

「ギョーセードーロ」とは「行政道路」のことで、ボクが生まれた町の史上最大の事件であった米軍試射場問題(1950年代前半)の補償で造られたという道路だった。

町の東側は河北潟というそれなりに大きい潟、西側は日本海。

町はその水域に挟まれ、家並みは河北潟の岸辺に沿い南北に延びていた。

面積で言えば、とても小さな町だった(今も同じだが)。

で、行政道路なのだが、ボクたちの住む小さな地区では、河北潟の岸辺を埋めて盛土をし、その上に砂利を敷いて造られていた。

それが出来た頃の話は知らないので、河北潟の端っこを埋めて造ったというのは後から知った。

今それを確認しようとしても、ほとんどその面影は残っていない。

ただ、まだカンペキに田舎のハナタレ小僧(仮の表現である)であった頃、家の前の細い道を行くと家と家の間にまた細い道があった。

その細い道の両側は小さな水田になっていて、最後に葦に被われた小さな登りを過ぎると砂利の敷かれた立派な道(路)に出る。

それが行政道路で、路線バスはそこを走っていた。

水田になっていた所は、かつて河北潟の岸辺だったのかも知れない。

そのことも確認のしようがないが、行政道路に繋がる細い道は今でも残っている。

ただ、平坦になっているだけだ。

走るクルマの数は少なかった。

そう思うのは、何となくいつも静かだったという記憶が残っているからだ。

たまに走ってくるクルマが砂利を弾き、弾かれた砂利が道の反対側に残る水路みたいな川みたいな部分に飛び込むと、ドブンという鈍い音を響かせた。

ここでよく、“独り野球”をやった。

木の棒か竹の棒を持ち、適当な大きさの石を拾ってノックのようにして打つ。

それをするのに適した場所は、潟の中に出島のように造らえた水田と道路との間の水路の、特に広くなった部分で、打った石が水路を越えて出島の方に入るとホームラン。

あとは適当に内野のラインを水面に決めて、石を打つのだ。

なかなか説明しても理解してもらえないが、河北潟というのはその頃今よりはるかに大きくて、そのすぐ後から徐々に小さくなっていく。

干拓が始まったからだ。

ついでに書くと、ボクたち全ガキ連にとっては、干拓も初めは「カンタク」であった。

独り野球は試合形式で、カードはいつも巨人・阪神戦だった。

当然、四番サード・長嶋の打順の時は、何回打ち直してもいいことになっていた。

長嶋は何度も四打席連続ホームランを打ち、ほとんどが長嶋のサヨナラ・ホームランで巨人が勝つというパターンだったように思う。

小学校三年の時だ。

夏休みが終わって、二学期が始まったばかりの午後の遅い頃だ。

担任だったN先生(もちろん美人先生)が、ボクが独り野球に興じている横を、ホンダ・カブで走り抜けていったことがあった。

あまりクルマの走らない道だったから、バイクが来ただけでもすぐにエンジンの音で分かる。

しばらくして、学校から帰宅するN先生であることも分かったが、どうしたらいいのか分からない。

ボクはそのまま分からないふりをしてやり過ごそうとした。

先生はすでに結婚されていたが、学校では他の追随を許さない美しさとやさしさと、時折見せるはにかんだような仕草や表情などで圧倒的な人気を誇っていた(と記憶する)。

それはともかく、先生のバイクが近付いて来ていた。

その時、ボクのアタマにマヌケな考えが浮かんだ。

先生にいいところを見せようという、男の子から少年になろうという頃合いならではの(?)余計な思いが浮かんだのだった。

緊張しながら、ボクはちょうど手にしていた適度な大きさの石を見た(と思う)。

そして、いつもより少し余裕を持った感じでその石を上げた(とも思う)。

まだ先生のバイクは先にいたが、先生の視界にはクッキリとボクが入っているはずだった。

そして、ボクは長嶋茂雄風にバットを振った。

見事な空振りだった。

それも長嶋茂雄風と言えば言えなくもないが、ここではそれは許せないことだった。

ボクは思わず体を先生の方に向けた。

“さよならァ~”

白いヘルメットを被り、運転の緊張のせいだろうか、いつものやさしい表情は消えていたが、先生の澄みきった声が色の付いた風のようにボクの顔の前を通り過ぎていった。

ボクは先生の背中に、サヨナラ~と告げた。

先生に空振りを見られたくはなかったが、先生も自分がバイクに乗っている姿を見られたくなかったのかも知れないと思った。

ボクにとって、その日は何か特別な日になった。

先生と互いのヒミツを共有したような気持ちになっていた。

見上げた空はまだ夏のようだったが、赤とんぼが数えきれないほど浮かんでいた。

翌日、教室で見た先生の顔は、いつもと同じだった。

ボクはなぜか少しガッカリしたが、先生のあの色の付いたような声を思い出し、ひとり幸せな気持ちに浸っていたのだった・・・・・・・・・

 

観葉植物と「卒業」と抜歯と

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居間に観葉植物を置いてから一ヶ月ほどして、その木が「ベンジャミン」という名前であることを知った。

なぜ知ろうとしたのかというと、あまりに落葉が多く、その対処法を調べるために木の名前が必要だったからだ。

そして、落葉に対する処置はすぐに分かったのだが、その「ベンジャミン」という木の名前が気に入ってしまった。

ベンジャミンは、映画『卒業』でダスティン・ホフマンが演じた主人公の名前だ。

たしかベンジャミン・ブラドック。スペルは、Benjamin Bruddockだったろうか?

何を隠そう(と言うほどでもないが)、大学一年になったばかりの6月だったと思う、

ボクは新宿の小さな映画館(たぶん「名画座ミラノ」?)でその『卒業』を見た。

それまでああいう系統の映画にはほとんど興味を持てなかったのだが、何となく大学生になったのだからみたいな感じで見てしまった。

その後、何を血迷ったか、紀伊國屋へ行き、洋書コーナーで原作を買い、辞書なし読みをした。

英会話をマスターして大学を出ようと、当時は真剣に考えていて、この時の真摯な気持ちが続いていたら人生変わっていたかもしれない。

一本300円くらいだったと思う。

ボクはそこで寅さんシリーズを、一度に6本連続して見たことがある。

5本目あたりから、同じ失恋ばかり繰り返す寅さんのどうしようもないバカぶりが許せなくなり、7本目の途中で帰った。

『男はつらいよ』10本立てという、今では考えられない企画で、10本立てでも値段は大して変わらなかったと思う。

ついでにそういう映画館の話をする。

兄弟が多く、しかも末っ子だったボクは幼い頃から洋画好きの兄の影響を受け、映画雑誌「スクリーン」や「映画の友」「キネマ旬報」などからませた情報を数多く入手していた。

小学生だった頃から、リアルタイムに上映されていた映画は連れて行ってもらっていた。

たとえば、バート・ランカスターなど錚々たる俳優たちが揃った『プロフェッショナル』とか、ジョン・ウエインの『リオ・ロボ』、それにクリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロらのマカロニウエスタン。ゲイリー・ルイスのコメディ。数えあげたらきりがないほどの映画を見ている。

しかし、もうすでに上映期が終わっていたものは、兄からストーリーや、サウンドトラックなどを聞かされるだけで、それでも好奇心旺盛の少年には強く心に響くものがあったのだ。

そんな話だけ聞いていた映画の数々を、学生時代に実際に見て回った。

特に兄が大好きだった西部劇などのアクションものは、その頃初めて見に行き、初めて見るのに懐かしさを覚えると言った不思議な感覚になっていたのを覚えている。

『シェーン』や『OK牧場の決斗』、『真昼の決闘』、『リオ・ブラボー』など、数えたら切りがないほどだが、幸か不幸かほとんどストーリーを先読みできた。

さらにあの『ローマの休日』もその頃、300円で見た記憶がある。

あれはひょっとして二度目だったかもしれない。

ただ、自分が生まれた年に初上映された映画の中の、オードリー・ヘプバーンのあの容姿、声、話し方、仕草、そして、グレゴリー・ペックとのラストのキスシーンなど、すべてが胸に迫るばかりだった。

ボクの人生観を変えるほどだった(…かも知れない)とも言っていい(…かも知れない)。

話を『卒業』に戻そう。

と思ったが、本題は観葉植物である「ベンジャミン」である……

ベンジャミンのよく落ちる葉が気になり始めた頃、ボクの歯医者行きが決まった。

葉っぱの「は」と、虫歯の「は」が繋がった…のかもしれない。

予約から10日ほどが過ぎた休日明けのお昼前、ボクは金沢竪町のMさんという歯科医院を訪ねていた。

虫歯になってから放置してきた親知らずが、原形を崩してギザギザ状(それほど大袈裟ではないが)になり、それが舌に触れて痛かった。

その場でギザギザを少し削り、それから数日後、その歯つまり親知らずを抜いた。

親も知らないほどの奥歯なのだが、持ち主の本人も初めてその姿を見た。

どこがどうなっているのか? 説明を聞きたいと思った。

しかし、その惨めな姿と対面した時にはもうどうでもよくなっていた。

こんなふうになるまで見捨ててきた自分の罪深さを恥じたのだ……

映画『卒業』の中で、ラストに教会から一緒に逃げ出すエレーヌ(キャサリン・ロス)は、ベンジャミンのことを「ベン」と呼んでいた。

突然また話が戻ったが、ベンが教会のガラスを叩きながら、「エレーヌ、エレーヌ」と泣き叫ぶと、エレーヌも「ベン」と答える… 感動的なラスト・シーンへと向かう場面だ。

しかし、我が家では居間のベンジャミンのことを「ベン」とは呼んでいない。

実は今日あたりからそうしようかと思っているのだが、家人たちの反応が気になっている。

そんなわけで、ベンジャミンの葉っぱ落としグセも、処置後はだいぶよくなってきた。

初夏に向けて、新しい葉っぱの色も爽やかな緑で気持ちいい。

照れ臭いが、今夜から「ベン」と呼んでやろうかな………

 

 

“ I Want MILES ”のとき

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一年に数回はこのアルバムを聴く。

最初の「ジャンピエール 」と、最後の「キックス 」だけだが。

この前の休日もそうだった。

何の前兆もなく? 何となくCDを取り出すと、いつものように大きめの音で聴いた。

いつも先に「キックス」を聴く。

イントロから懐かしい気分になってくる。

30年ほど前、このアルバムがNHK-FMのジャズ番組で紹介された時、DJでスイング・ジャーナル編集長だったKK氏が、マイルスの復活を告げた。

70年代中頃から、マイルスは病気療養のため引退状態にあった。

だから、流れてきた「キックス」はKK氏の言葉を裏付けるものだった。

聴きながら熱くなった。

マイルスが、マイルスらしくトランペットを吹いている。

特に、後半(12分あたり)からのソロは痛快だ。

ハイテンポのバックに乗せられながら、マイルスのトランペットが伸び伸びと歌い始める。

マイルスの普通のスタイルからすれば、たいして目新しいわけではないが、それでもその時は嬉しかった……

カラダが前へ前へといく……

マイルスはこのアルバムで、ボクに対して何度目かの“偉大さ”を示した。

今でもマイルスは別格である。

マイルスに初めて感化された時、ボクは15歳の終わり頃で、その5年前(64年)に録音された「フォア&モア 」というライブアルバムに狂っていた。

振り返ってみると、その一年前、FMラジオで、コルトレーンの「マイ フェバリット シングス」(「セルフレスネス」)と、エバンスの「ワルツフォーデビー」を同時に聴き、ジャズへ本格的になだれ込み始めていた。

考えてみれば、両方ともライブ録音だった。

今でもジャズは特にライブ録音(もちろん名演)がいい。

そして、マイルスがセッションやライブ録音によるアルバムのみに移っていったことにも、ボクとしては十分納得できるわけを感じていた。

話を戻す。

「フォア&モア」に狂っていた頃、リアルタイムのマイルスはすでに「ビッチェズ・ブリュー 」(69年)を世に出し、ジャズに新しい息吹を植え付け始めていた。

ボクはそれから何とかリアルタイム(5年先)のマイルスに追い付こうとし、そうすることに成功する。

特に「ビッチェズ・ブリュー」を本気で聴いた時には、かなり感動的な気分になっていた。

そして、「ライブ・イビル」(70年)やその他のアルバムも実に見事だった。

あれはやはり、バックに「ビッチェズ・ブリュー」のメンバーたちが残っていたせいだろう。

(1973年の金沢初コンサートで目の当たりにしたマイルスサウンドには、正直後ずさり……)

「アガルタ 」(75年)や「パンゲア 」(同年同日)にも完璧に納得。

そして、「 We Want MILES 」(81年)だ。

マイルスはトランペット奏者のジャズマンではなく、ミュージシャン、コンポーザーになっていたが、このアルバムで、もう一度トランペット奏者に戻っていた。

しかし…、ボクにとってのマイルスはそこまでだった。

仕方ないが、マイルスもまた年齢と共に衰えていくしかなかった。

ただ、このようなことを語れるのは、ジャズシーンの中でもマイルスしかいなかったとボクは思っている。

別にマイルスのようなやり方をしなくても、ジャズは多くの人たちに愛されてきたのだ。

たとえば、ドルフィーやコルトレーンの寿命がもっと長かったらと考えてみても仕方がない。

60年代の演奏スタイルとして際立っていた彼らの個性は、その後どのように発展していっただろうか。

想像してみるのは楽しいが、当然楽しくない結末もあったかもしれない。

マイルスはたまたま長生きした。

そして、自分がマイルスから離れていったのは、進化や変化や挑戦などといった形容が相応しかったマイルスだったからだ。

ボクにとって「キックス」という曲は、そうしたマイルスとの付き合いの中で、一度だけ体験した救いの一曲だったような気がする。

マイルスについては、いつまでも書ききれないもどかしさがある。

ジャズがとても身近な音楽になっている今だから、なおさら語るのが難しくなってきた。

何だかさびしくて、疲れる話だ……

二冊のうちの一冊を閉じて

二冊の本

眠気と闘いながら本屋で本を選ぶというのは実にきつい作業だ。

ただ漠然と本棚の前に立ち、タイトルと作家の名前を見比べながら、少しでも興味が湧きそうな本がないかと目を這わせる。

こんな場合、ほとんどは平積みになった表紙の見える本に目が集中し、背表紙しか見せていない棚の中の本には、目が行っても神経は届かない。

しかも、もともと探している本などなく、行き当たりばったりで選ぼうとしているのだから、平積みの本にさえも集中力はそれほど高くはならない。

ましてや、今は眠いのだ。

二冊で千円ちょっとという文庫を買ったのは、ほとんど居直り型衝動買いといってよかった。

早く帰りたかったのだ。だったら、真っ直ぐ帰ればいいのに…なのだが。

クルマに戻って、二冊の本をそれぞれ開いてみるが、それほど興味深いというほどのものではないことにあらためて納得した。

特に一冊はカンペキにそうだった。

大正生まれで文章表現が実に巧みと言われる某作家の作品だ。

当然知ってはいたが、初体験である。

その本をなぜ買ったのかというと、いつもの気まぐれで、巧みな表現と言われる文章を機械的に読んでみようという思いからだ。

かつて活字中毒という言葉が流行ったが、その菌に侵されていた頃はどんな本でも、読んでいれば何事も知識や思いや考え方や表現などに繋がっていき楽しかった。

まあ、世の中そのものが楽しかったのだ。

しかし、今は違う。

世の中が、少なくとも自分の周辺がそれほど楽しくないから、せめて本には楽しいことを期待する。

いや、楽しくなくてもいい。

日常から離れて、どうでもいいような話にのめり込んだり、何か小さな発見や納得みたいなものを得ることが出来たらいい。

この本に求めた小さな納得は、文章表現の巧みさの実感だった。

こっちを先にしようと、その夜から読み始めた。

機械的に読んだ。感情にほとんど動きが生じないまま読み進んだ。

そして、短編の一話を読み終えた時思った……もう読むのはやめようと。

文章表現の巧みさだけでは、やはり楽しくなかった。

やはり今自分に当てはめた時の何かが足りない。

 

もう一冊の方は、よく読んできた作家の作品だ。

そう言えば、この間またN賞を逃した。

全くのなんとなく的意見だが、この人にはN賞は似合わないような気がしている。

受賞できればそれなりに凄いことだが、この人の文章はN賞ッぽくないような気がしてならない。

そもそもN賞っぽいとは何かと言われても巧く言えないし、いい加減なことは言えないが、この作家はそういうものと一線を引くところにいるということがいいのだと思っている。

いろいろあるが、これ以上書くとボロが出そうだ。

この人の場合、新作はまったく読んでいない。

どちらかというと、小説よりもエッセイの方が好きで、小説も若い頃のモノしか読んでいない。

ただ、だいたい雰囲気は熟知しているつもりなので、こちらは安心して相対することができる。

この本も同時進行で読み始めた。

相変わらずの、淡々とした、そして軽快な文体で行が進んでいく。

このスピード感は文章読みの楽しさの大きな要素であると思う。

もちろん、スピード感は軽快さだけではない。

スローというスピード感もいい。

問題は、心地いいかだ。

文章の中の時空の流れなどと、文章そのものとが一体化して伝わってくるものは、とにかく心地いい。

だから、話がややこしくなってきても、何となく読み続けようとしてしまう。

ここを乗り越えれば、また話は面白くなるだろうと勝手に思い込む。

そんなわけで、先の一冊は途中棄権し、この一冊に集中することにした。

読み進むと、やはりサイクルが合ってくる。

音楽で言えば、適度に転調していくように、話題がスムーズに移動してモチベーションが新しく作り出されていく……

この作家の文章から離れていくきっかけとなったある小説のことを思い出す。

あれはなんと、昔会社の女の子の バレンタインデー・プレゼントでもらった一冊だった。

ああいうのを本命というのかどうか知らないが、ああいうプレゼントは最高に嬉しくなるものだ。

ちょうど新作が出て、ボクがその本を買おうとしているのを知ってくれてたんだろう。

しかし、あの小説は面白くなかった。

ボクにはなんとなく、書くのに飽きていたのか、もしくは行き詰まっていたのかと思わせる内容だった。

読者というのも、自分勝手でいい加減なものだ。

この作家と出会う前の話だが、ジャズと映画と本の話を自由気ままに書き綴る某氏の本に傾倒していた時代がある。

主に東京にいた頃だ。

いろいろなモノゴトを吸収したが、その頃に文章の読み方としての心地よさみたいなものを知ったような気がする。

その頃から自分も好きなことを好きなように文章にしていいいのだなあと思い始めた。

ただ才能が凡庸だっただけだ。

その頃のような、見境なしの濫読時代は二度と訪れないだろう。

しかも今は仕事の上での読み物たちが周囲で自分を見張っているような状況でもある。

だから、せめて趣味の世界では、無理してややこしい本は手にしないようにしていこうと思う。

書くことも、ゆったりと構えていけばいい。

二冊のうちの一冊を閉じて、心地よさを取り戻し、とりあえず気が楽になった………

 

音楽はそれなりの音で聴く

21美のラッパ

珈琲屋さんで、小うるさいオッカさんたち、いや、賑やかなご婦人たちと隣席になった時などには、潔くイヤホンで音楽を聴く。

本を読んだり、考え事をする程度なら少しは我慢するが、仕事の書類を作ったり、私的に文章を書いていたりする場合は、カンペキに耳の穴をふさぐことにしている。

この前も、運悪くそれなりの四人組が横に座り、株の話かなんかで盛り上がってしまった。

その中の一人(いちばん派手な)が株で当てたらしく、まるで人生に勝ち誇ったような口ぶりなのだ。

他の三人に、夢を叶えるには、ずっと毎日夢を描いていなければダメなのよと、いかにも成金的雰囲気丸出しでけしかけている。

そのあたりまで、くっきりスッキリと耳に届いてきて、ついにイヤホンを取り出すことにした。

こういう時はデヴィッド・マレーでも聴くのがいいと思ったが、一週間ほど前に中身を入れ替えていて、それなりに優しい音楽ばかりにライブラリーが変わっている。

仕方なく、残っていたロイ・ヘインズ・トリオをと思い、いつもより少し音量を上げて聴きはじめる。

そして、にわかに嬉しくなった。

それは、ご婦人たちの声が聞こえなくなったからだけではなく、久々に聴いたR・H3の演奏が実に良かったからだ。

そして、音量を上げて聴くというのは、音楽を聴く上でとても重要なことなのだというのを思い出した。

ジャズ喫茶の大音量に耳が慣れていた時代、音を聴いているという感覚よりも、音に包まれているといった感覚が強かったような気がする。

ハイテンポのスティックに弾かれるシンバルの微動、ベースの弦のしなり、スネアに叩きつけられるブラシの抑制された躍動感など、あげれば切りがないくらいの音的感動があった。

音楽イベントをいくつか企画運営したが、その中でいつも思ったのが、大きくて鮮明な音で音楽を聴くことの大切さだった。

金沢芸術村での音楽イベントで、ある著名な音楽関係者の方とトークセッションをすることになり、ステージに上がっていただく前、ツェッペリンの『胸いっぱいの愛』をかけた。

スーパー・オーディオで再生するのであるから、音としての質的な意味では、生で聴いているよりは鮮明に響いていたはずだった。

そして、ステージに上がったその方はこう言った。

「この曲には、パーカッションが入ってたんですね…」

プロでもこういうことがある。

ましてや、普通の人たちにとって、こういうことはごくごく日常的な感覚でしかない。

言うまでもなく、ツェッペリンは四人組のロックバンド。

ギター、ベース、ドラムにボーカル。基本的にパーカッションは入っていない。

だから、先入観が働けば聴こえなくても仕方ない。

しかし、音の厚みなどをこのパーカッションが担っていたのは間違いのない事実だった。

だからどうなのだ?と言われても困るが、一応そういうことなので、出来れば音楽は大きい音で聴いた方がいいよということなのである。

ボクが46年程聴いてきたジャズは個性を大切にする音楽である。

つまり、演奏メンバーが誰であるかということを重視する。

それは演奏者の個性を大切にしているからであり、ジャズは個性の集まりによって創られるということを、大切な楽しみ方の要素にしている音楽なのだと思う(表現が難解?)。

だから、ベースは誰だ?とか、ドラムは誰?などといったことが知りたくなる。

この人のベースの方が、あの人のベースより好きだとか、このグループに合っているといった感覚が生まれる。

昔、金沢片町の某ジャズ喫茶で、そこのマスターがこう言った。

「音楽は大きな音で聴いてあげないと、ミュージシャンに失礼だよ。少なくとも、生で聴いているくらいの音量で聴いてあげないとねえ………」

誰かも言っていたが、録音の技術がなかった時代には、音楽はすべて生だった。

レコードやCDが出来てオーディオが発達して、当たり前のように自分自身で音量を調節出来るようになった。

BGMといった音楽も生まれたし、自分自身もそれ系のものにお世話になることも多い。

珈琲屋さんで隣席となった賑やかご婦人たちの話から大きく脱線して、音楽はそれなりの音量で聴くべし的話題へと移行したが、書いている自分自身もそれなりに納得した内容となってきた(ホントは尽きてきた)ので、ここらへんでやめておこうと思う……

しばらく行ってない珈琲屋

ブラジル倶楽部

しばらく行っていない珈琲屋さんがある。

JR松任駅から真っ直ぐ。

二つ目の交差点で、カックンと右に曲がったところにある本当に小さな珈琲屋さんだ。

椅子は11脚しかないが、それがまた丁度いい。

知ったかぶりをしているが、三度しか行ったことはない。

二度目の時に、「有機栽培 鈴木さん」という銘柄の珈琲を淹れてもらった。

鈴木さんとは、ブラジルで有機JAS認証コーヒーを生産する有名な人だ。

店ではそのままの名前で豆を販売している。

それがまた新鮮でよかった。

もちろんいい味だったので、100gだけ挽いてもらった。

たしかに家で飲んでも美味しかった。

細長くて狭い店には、金沢美大生の作品などもさり気なく展示されている。

店は飾らない女性主人が切り盛りしているらしく、客はご近所の、ちょっと立ち寄ったという人ばかりのようにも思える。

なかなか四度目に至っていないのは、こっちが慌ただしくしているせいだ。

心地よく過ごせるいい店だと気に入っているから、しばらく顔を出さないでいると余計に行きにくくなる。

こういうことは時折あって、次に行く頃合いがむずかしいのだ。

ただ、夏も終わりかけているし、そろそろ足を運んでもいい頃だと、少し焦り始めているのも事実なのだ………

 

 

金沢湯涌ゲストハウスにて

GH外観

 今年も数日間の旧盆休暇がやってきた。

 我が家では、この時期にちゃんとした連休があるのは自分だけで、あとの家族はみなカレンダーどおりに仕事をしている。

 だから、申し訳ないが休暇期間中のウィークデーは自分一人の時間となるわけだ。

 と言っても、自由を満喫するなどといった余裕があるわけではない。

 初日は、先日在庫切れとなった山の水を補充にと、いつもの湯涌までやって来た。

 夏なので大量に持って帰っても保存が大変なので、今は40リットルほどを汲んで帰る。

 気候が涼しくなれば、その倍くらいは汲む。

 かなり蒸し暑かったが、水を汲んでいる時は涼感たっぷりで爽快である。

 最後にいただく一杯も、相変わらずいい味だった。

 湯涌まで来れば、当然「湯涌ゲストハウス」に立ち寄り、番頭さんのA立クンと語らって行くことになる。

 あらかじめ連絡を入れておいた。なにしろ多くの関心が集まり、なかなか好調なスタートらしいのだ。

 午後一時近くに行ってみると、すでに泊まり客は帰っていたが、予約なしの飛び込み客が多くて、嬉しいながらも困ったナ的表情をしていた。

 一応自炊だから、食料の仕込みとかは特に必要ないみたいだが、やはり布団を用意したりするなど飛び込みではきついらしい。

 それに今はまだ不慣れな上に、独りでやり繰りしなければならないから大変だろう。

 たぶんこんな状態の中で客数が増えていき、そのうちやり方も安定していくのだろうなあ…などと勝手に思ってしまった。

 忙しいのは、何よりいいことだ。

 聞いていたが、しばらくして地元テレビ局の若いディレクターが来店。

 近々、現場からの中継をやってくれるという話だ。さすがに注目度は高い。

 軽い雰囲気の打ち合わせが始まったので、勝手知ったるなんとか、ボクは購買部の部屋に隠れる。

購買部

 実はこの雑文、その六畳ほどの部屋で書下ろし中なのだ。

 購買部といっても、それらしきものは奥の小さなショーケースにあるカップ麺とオリジナルタオルくらいか。

 やたらとジャズのCDと山関係の本がカッ詰まっていたり、カヌーのパドルなどもあったりで、十分にそれらしくない。

 しかし、そこがこの湯涌ゲストハウスのいいところで、購買部はボクの大好きな空間となっている。

 欲を言えば、イスとテーブル、さらにオーディアがあればと思う。

 床に座って小さなちゃぶ台のようなテーブルに向かうのは、ちょっときつかったりする。

 このような場所は、ある意味いい仕事場にもなる。

 昔、バリバリに現場で頑張っていた頃には、企画書を書き下ろすのにこういう場所をよく使わせてもらった。

 金沢市内にある某ビルの一室では、共同で金(もちろん自前)を出し合い、空いている時にはいつでも使えるというシステムで利用していたことがある。

 ちょっと郊外にある自然の中の展望のいい、そして人が滅多に来ない東屋みたいなところで、涼しい風を受けながらのお仕事タイムもあった。

 怖いのは熊ぐらいで、コーヒーもその場で淹れるという用意周到さだった。

 さすがに今はそんな大胆な?ことはしないが、私的な部分ではまだまだ感覚はそれに近かったりする。

 だから、この湯涌ゲストハウスの存在は重要なのだが、たぶんそのうちゆっくりできなくなるだろう。

 ボクにとっては、泊りよりも休日の昼間にちょっと長めの滞在をさせてもらうというシステムがいい。

 眺望はないが、A立クンが淹れてくれるコーヒーも美味いし、ジャズも聴こえてくるし、至れり尽くせりなのである。もちろん有料だ。

 ところで、まだ整理できていないまま書いてしまうが、この湯涌ゲストハウスの個性というのは土地柄はもちろん、A立クンというニンゲンの存在にかかっているような気がしている。

 前にも書いたが、湯涌は「山里の農村」なのである。そして、今風に言えば「里山の遊び場」なのでもある。

 街なかのゲストハウスとの違いを明確にしていけば、自然遊びにも通じたA立クンのチカラははますます発揮されていくだろう。

 もちろん歴史があり温泉があるが、音楽や文学や、その他趣味・雑学の話題にも事欠かないゲストハウスがいい。

 そんなゲストハウスになってくれたらいいなあ…と、これも勝手に思っている。

 創作の森も、夢二館も、江戸村も、そして、その他のさまざまな活動団体もあって文化度も低くない。

 表の幕に記されている「Micasa,Tucasa」は、「私の家は、あなたの家」という意味らしい。

 あまり伝わっていないが、これからこのキャッチの意味が活かされていくことだろう。

 打ち合わせはそろそろ終盤に入っているらしく、A立クンの吸うたばこの匂いが漂ってきた。

 そろそろこっちも、体勢に疲れてきたところ。

 コーヒーをもう一杯いただきに、向うへ移ることにする………

幕湯涌ゲスト音

 

 

 

石段

トマソン的石段

 金沢観光の仕事にチカラを入れ始めた頃、「ひがし」はまだそれほどでもなかった。

 今の「ひがし」ではなく、「東山界隈」というイメージを重視していたくらいだった。

 しかし、「ひがし」の人気が急激に上昇し始めると、実は西もなかなかいいのだヨ的空気が漂い始めた。

 依頼されて文学をベースにしたストーリーを作り、室生犀星から始まって、島田清次郎、松尾芭蕉、それに中原中也などといったゆかりの文人たちをめぐるコースを企画した。

 タイトルは「金沢のにしを歩く」にした……。

 室生犀星が育った雨宝院の前から、にし茶屋街の方向へ抜ける狭い道がある。

 左手に高い石垣が続く、なかなか雰囲気のいい道だ。

 そして、その道に入ってしばらく歩いたところにこの石段はあった。

 しばらく眺めていると、あやしげな曲がり方をした手すりにも、微妙な組み合わせで成立してしまっている石段そのものにも、誰かの思いが込められているような気がしてきた。

 かつて、一度だけこの石段を上ってみようと思ったことがある。

 しかし、これは鑑賞のためにあるのだと自分に言い聞かせてやめた……

梅雨のせいではないモタモタについて

枝の小鳥

ここ最近は、アタマの中がモタモタである。

決して悪い意味のモタモタではないのだが、とにかくモタモタであるという状況に対しては決してよくないと思っている。

このようなモタモタ期には、ひたすら焦っている自分がいる。

冷静さもそれなりに持っているから、尚更焦りもしっかり自覚していたりする。

こういう場合、いったいどうすればいいかなのだが、やはりボクの場合はこのモタモタの中でずっとやり過ごしていくしかないと思っている。

決して悪い状態ではないのだから、そのうちモタモタそのものは消え失せていくだろうと思っている。

やらねばならないことと、やりたいことが、またまた目の前に山積み状態となってきた感じだ。

それはいくらかは仕事であり、いくらかは自分自身の楽しみでもあり、いくらかは自分の課題(使命?…そんなわけないか)でもある。

だから焦り自体も、何となく嬉しかったりして、これを忘れてしまってはいけないのだと自分に言い聞かせてもいる。

梅雨に入って、スカッとした朝や昼や夕方などがなくなっている。

やはりちょっと物足りないが、まあ今は、モタモタしていることに満足していることにしよう……

自分なりのクリエイティブ

 先日、あるお偉い方から、N居さんって、結構クリエイティブな世界でやってきたんですってね…と、突然言われた。

 ボクが関わってきたことを何かで知られたらしく、いきなりそんな話になったみたいだ。

 しかし、ボクとしてはかなりの違和感があり、クリエイティブな世界にいたという認識などない。

 そもそもクリエイティブとは何なんだろう?

 今身近にとてもお世話になっていて、その物腰や言葉の柔らかさが大好きな先生がいらっしゃるが、その先生や華やかなデザイナーの人たちこそが、俗に言うクリエイティブ・ニンゲンなのだと思っている。

 と、ここまで書いて思い出した。

 まだ20代の終わり頃だったと思うが、会社の中に企画部門を立ち上げ、「クリエイティブ・チーム」などといった図々しい名を付けていた時代がある。

 その後に、少し自重して「プランニング室」、その後ちょっと成長して「プランニングセンター」という名前で現在も続けているが、やはり「クリエイティブ」には遠慮があった。

 広告やデザイン、モノづくり・コトづくりなどの世界には、どうしても「クリエイティブ」が要る。

 しかし、ボクの進んでいった道は少しずれていたように思う。

 敢えて、そう呼ばれたくない道に進んでいったようにも感じる。

 ボクをクリエイティブだと言ってくれた方の感じ方には、やはりボクがやってきたことへの肯定的な認識があったのは間違いない。

 さまざまなことに首を突っ込んできたのはたしかだ。

 しかし、ただボクはやはり中途半端にやり過ごしてきた。

 ある計画に関わり、そのグループのまとめ役みたいな立場に置かれてたことが何度かある。

 あるボスからはこう言われた。

 「これを成功させれば、N居さん、凄い実績になるよ…。いよいよこれから大飛躍だね」

 たしかに成功はしたと思うが、ボクはその事業が終わりに近付けば近付くほど表側から身を引くようにして、結局最後はほとんど自分の影を残さないようにしてきた気がする。

 それは、一会社の一企画屋という、他人が言うには少しよそよそしい認識でいたからで、一個人としての立場があれば、もっと違った主張をしていたかもしれない。

 このような経験は、覚えているだけでそれから数回あった。

 しかし、ボクは同じようなスタンスでやり過ごしている。

 仕事の上で考えると、デザイナーの人たちにはクリエイティブ、特に言葉としてのクリエイティブは必要なのだろうが、自分のように中途半端な立ち位置のニンゲンには表面的にそうあるべき理由はない。

 ただ、今回このクリエイティブについて、某氏に言われてから少し考え方が変わった。

 もっと平凡に日常の中で考えていけば、ボクは十分にクリエイティブなのだと思う。

 デザインや広告などといった、クリエイティブが商売道具として使われている世界ではないところで、ボクはボクなりのクリエイティブを駆使してきたと思うのだ。

 潜在的なクリエイティブとでも言うか、モノゴトの接し方そのものがクリエイティブであったという自覚が、少しは芽生えた。

 だからこそ、クリエイティブな世界にいたと言われるのだと思えるようになった。

 生意気なことを書いているなあという思いに揺れつつ、クリエイティブについて、今もなお表面的ではないのだぞと自分自身に言い聞かせている……

アイドルを逃がせ !!

 クルマで移動中、久しぶりに聞いたNHKラジオの“ 午後マリ ”。

 その日のゲストは YA(さん=省略)。アイドルなどとはあまり関わりのない人生を送ってきたつもりだが、恥ずかしながら、このYAだけには思い出がある。

 と言っても、ファンクラブに入っていたとかではなく、当然全国追いかけまわしていたというのでもない。

 1988年、金沢で『食と緑の博覧会いしかわ』という大きなイベントが開催された。

 地方博というのが盛んに行われていた頃で、そのような博覧会には決まって人寄せコンサートみたいのが付いていた。今でも同じかな。

 金沢の博覧会もご多聞に漏れず、会場となった西部緑地公園特設ステージにおける最大イベントが、YAのコンサートだったのだ。

 YAと言えば、泣く子も黙る当時の超売れっ子(らしかった)。

 博覧会の立ち上げから運営にまで関わっていたボクや仲間たちは、その超売れっ子を守るため警備補助の仕事を課せられた。

 警備補助とは、コンサートが終わったのに帰らないお兄ちゃんたちが、Yちァ~んなどと叫びながら柵を越えて来た場合、力づくで押さえつけ、テメェ、コノヤロー、逮捕すっどというもので、実際数名が芝生の上にねじ伏せられたりしていた。

 ボクはその様子を、博覧会テーマ館の正面エントランスから見ていた。

 ボクの横には事務局スタッフ。そして、恐ろしく機嫌の悪いYAの関係者……?

 そして、さらにもう一人……小柄な…YA…本人。帽子を深くかぶり顔はほとんど見えない。

 その数日前のこと。

 ボクは、コンサート終了後、YA様ご一行を速やかに会場から外へ出すための秘密誘導員係を告げられていた。

 ほとんど耳元でのささやきに近いカタチでだった。

 しかし、コトは順当には動いていなかった。お兄ちゃんたちのほとんどが帰らずにいたからだ。

 不機嫌な関係者のオトッツァンが、事務局の段取りの悪さ?にどんどん表情をこわばらせていく。

 いつ怒りの罵声が吐き散らされるか分からない。

 段取りがどこかでズレ始め、怪訝な空気がエントランスに漂う。

 その時、「タクシーをテーマ館の裏に付けたから、テーマ館の中を通って行ってくれ」

 と、事務局の人がボクに言った。今回も耳元でのささやきに近かった。

 その手で行くのか…… とボクは首を縦に振った。つまり肯いたのだ。

 不機嫌なオトッツァンにも同じことが告げられていた。

 オトッツァンは、よく聞き取れない声で何ごとか発したが、すぐに体を回転させた。

 振り返ると、奥にYAがいる。

 えっ?と思って横を見ると、ここにもYA…だ?

 全く姿カタチの同じ少女が、ボクの周囲半径約5.0m以内に二人いる。

 驚いている暇はなかった。影武者かと考えている暇なんぞもない。

 オトッツァンが腹の底からダイレクトに響くような声で、早くしろ!と言った(ような記憶がある)。

 ボクはホンモノのYAらしき少女とオトッツァンを引き連れて、人のいない静まり返ったテーマ館の展示ゾーンの中を走った。

 何だかディズニーの映画みたいだなと思ったような、思わなかったような、必死なわりには楽しい時間であったような、なかったような。

 裏にある搬入口の大きなシャッターが半分ほど開けられていた。

 タクシーの運転手が、何かあったんですかといった顔で迎える。

 いえ特に何もないですといった顔で応えようとしたが、多分オトッツァンの雰囲気で、運転手は何かあったに違いないと思ったことだろう。

 タクシーが見えなくなるのを待って、フーッと息を吐き、スタッフの人たちの顔を見た。

 みなそれ相応の安堵顔だった…………

 何年も経ってから、YAの存在を知る機会があると、そのことを思い出すようになった。

 今日も、ラジオから聞こえてきた、もうお母さんだというYAの声を聞きながら、なぜか一方的に身近な存在になってしまってるなあと思ったりした。

 もともとの芸能界入りのきっかけは、応募したオーディションの副賞が真っ赤なラジカセで、それが欲しかったからとか。

 素朴な、どこにでもいる女の子だったのだと、あの日見た小さな姿を思い返す。

 今、幾分衰えつつ?ある感性にムチ打って、ミュージカルの稽古中だとラジオで話していた。

 そうか、ガンバレ、Yちゃん。なんかあったら、オレがまた、誘導してやるから………?

山里の陽だまりと、読本と、春眠と

福光の道

 福光からの帰り道、持って出ていた本を読もうとクルマを止める。

 日差しも温もりも春の兆し。

 運転しながら、瞬間的に目に飛び込んできた光景が、まさにその雰囲気に合う場所であると感じさせた。

 早春の陽だまりを求めての、三連休最後の日に訪れた短い自分時間。

 できるだけそれらしい雰囲気を自分自身にも課して、短い時間を楽しもうとしている。

 久しぶりだった医王山富山県側山麓の道も、飛越の山並みにまだまだ残雪が光っていて、手前の青麦畑やこれから始動する水田とのコントラストが美しかった。

青麦と残雪の山水田と残雪の山

 IOX-AROSAのゲレンデにも十分な残雪。

 来週は、立山山麓へ出かけるつもりでいる…と、敢えて自分に言い聞かせたりする。

 無造作に部屋の壁に立てかけられ、静かに息を殺しているテレマークの板たちのことを思う。

 彼らにはまだ十分な楽しみを与えていない。

 ただでさえ古い道具たちだ。

 このまま老いていかせるには勿体なく、自分自身を責めたりもする。

 陽はかなり西に傾いてきたが、さすがに春が近づいていると見えて、一日は確実に長くなっている。

 クルマのエンジンを切って、まずは周辺を散策する。

早春風景

 小川が流れ、そこに付けられたコンクリートの橋を渡ると、広くはないが美しい水田の空間がある。

 その手前には素朴な小屋が建てられていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。

 ただ近くまで来ると、トタン葺きだったりして少しがっかりした。

 畦道の草はまだ秋に枯れたままの状態で、雪の下で冬を過ごしてきたものたちだ。

 雪の重みに耐えた後の乾いた草の感触もなぜか懐かしい。

 しばらく歩き、写真も撮って、何度か振り返りながらクルマに戻る。

 フロントガラスいっぱいに、今見ていた風景が広がるようにクルマを移動。

北への旅

 シートをゆったりめにして、先日買った三冊のうちの一冊、『北への旅』(椎名誠著)を開く。

 分厚い。さらに、文庫だが紙質が重く手応えも心地よい。

 五十二ページまで一気にいく。といっても、四十二ページまでが写真。

 カメラマン・シーナ氏のちょっとクールで温かい写真に集中してしまった。

 話は、いや文章は津軽半島から始まり、いつものようにテンポよく進む。

 本当はキルギスへ行く予定だったが、なぜか津軽へと向かう。

 そのあたりの事情は読めば分かるので省略。

 五能線というローカル線で、五所川原に着いたところから本題に入っていくが、そのあたりのことも読めば分かるので省略したい。

 とにかく、夜になってコンビニのあんちゃんから聞いたうまいラーメン屋で体を温め、その温もりが冷めないうちにホテルに戻って寝たというところで序章は終わった。

土手の青草

 一段落したところで休憩。最近疲れ気味の目を休めようと、フロントガラスの光景をもう一度眺める。

 そして、そのまま眠ってしまった。

 春の陽だまりの中で活字(写真もだが)を追うというのは、最終的にこうなるのが正しい。

 しばらくだったが、目が覚めるとかすかに汗をかいていた。

 時計は五時少し前。クルマを降りて、身体を伸ばす。

 空気は少し冷えてきた。が、春がそこにあって気持ちが柔軟になっているのは間違いない。

 冬はすでに遠い空の果てから宇宙のどこかへと消え去っていったのだと、宮沢賢治的?に思ったりもする。

 やはり、春はいいのかも知れないのである……

南砺の里

2014.3.11 母の声

浅沼さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014.3.11 追悼式。

遺族代表として最初に言葉を述べられた浅沼ミキ子さん。

元気に避難誘導にあたっていたという25歳の亡き息子へ、

あなたを誇りに思いますと語りかける。

その瞬間、母としてのやさしい思いが堪えていたものを崩れかけさせたが、

浅沼さんは気丈に言葉をつないだ……

聞き終わった後、平凡な言い方だが立派な母親だと思った。

同じ年頃の子供を持つ親として、

自分にはこの人のような気骨はあるのだろうか?とも思った。

日常のいとしさ、かけがえのなさ……

これもまた平凡な言い方だが、大切なものを、

浅沼さんの言葉が思い出せてくれた気がした……

3月のありがとう

3月

  「3月のありがとう」はいつもより少し重い。

 高校生の間、通勤がてら二人の娘をほぼ毎朝学校の近くまで乗せていった。

 ほとんど会話らしきものはなかったが、当たり前の日課だった。

 そして、二人とも3月の初めのある朝、「3年間ありがとう」と照れ臭そうに父に言って車を降りて行った。

 家人から事前に聞いてはいたが、知らなかったふりをした。

 そして、わざとらしく「おっ、そうやったっけ」と、とぼけた。

 二人とも高校を出ると、京都へと巣立った。

 長女の引っ越しの時は、母親を残して独りで先に帰らねばならず、こっちも敢えて急を装うようにして帰ってしまった。

 翌日、母親を京都駅まで送った長女は、バスに乗ろうとした母親に「お母さん、いろいろありがとう」と礼を言ったという。

 バスの中、涙が止まらなかったと母親が言った。

 … 二年後、次女を京都に置いてくる時も、車で立ち去る直前になって「いろいろ、ありがとね」と言われた。

 ただそれだけの言葉だったが、母親の目には涙があふれていた。不覚にもこっちもグッときた……

 今朝、父と高校生の娘らしき二人が車で通り過ぎていくのを見た。

 かつての「3月のありがとう」を思い出し、そろそろ、あの父娘にも同じような「3月のありがとう」が訪れるのだろうなと思ったのだ……

壁時計が消えて知ったこと

花1

 居間の壁から時計がなくなって、もう三週間ほどが過ぎた。

 なんと、ある日突然…、まるで昔の歌のタイトルのようにその時計は落下した。

 真っ直ぐに落ちて、文字盤を被っていた透明のガラスを割った。

 たぶん、年末の大掃除の時にいい加減に取り付けたのだろう。

 落ちたところがテレビの裏側だったので、ガラスが飛び散ることはなかったが、その破壊的な音の響きには正直驚いてしまった。

 時計は一辺が30センチの正方形をしていた。

 木製フレームの形としては非常にオーソドックスなもので、どこといって特徴があったわけではない。

 ただその分、見やすくて時計の本来の機能からすれば、文句のつけようはなかった。

 当然のように次の休みには時計を買いに出かけた。

 しかし、思うようなものとの出会いはなかった。

 そのうち、だんだん見に行くのも億劫になってきて、居間のそこら中に置時計を散在させるようになると、壁の時計はなくても、何となく時間は分かるようになる。

 これでいいんじゃないのと、家族たちもしばらくはそう思ったみたいだ。

 しかし、何気なく壁を見る癖は、二十年近い我が家の歴史とともに家族全員に植え付けられたもの。

 目線の先にあるべき時計がないということに、不便さ以上のものを思い知らされていく。

 ちょっと腹が減ったなと目をやる癖。寝ようかと立ち上がりながら目をやる癖。日々の癖は留まることを知らない。

 そして、その癖は限りなく身体に染みつき、簡単には抜けきらない。

 やはり、日常は時間(時計)とともに動いているのだなあと思った。

 そろそろ真面目に、あるべきものを壁に戻さなければならないとも思いはじめた。

 これまで壁にあったのは、時計という道具ではなく、時間という大袈裟にいえば“安心”みたいなものだったのかも知れない。

 次の休みには、絶対に時計を、いや時間という安心を買いに行こうと思う……

東向きは神々しい

朝日のさす部屋

 小雪のちらつく休日の朝。

 用足しに寝室を出ると、少し開いた自分の部屋のドアの隙間から、オレンジ色の明かりが洩れている。

 ドアを開けると、三段になった小さな窓がオレンジ色の光で膨張しているように見えた。

 足を踏み入れ、小さな窓から外を見れば、雪雲の中に横に広がる明るい空間がある。

 そして、遠く東に聳える北アルプスの剣・立山・薬師の稜線がちょうど見え隠れしている。

 出てきたばかりの朝日がその細長い空間にあって、真っ直ぐに部屋へと光を差し込んでいるのだ。

 むかし、NHKの『知られざる古代』という番組に夢中になり、出版局が出した同名の分厚い本を買って読んだ。

 そして、神仏は東か南に向いているということを知り、日本の仏様も大陸の仏様も同じ向きに置かれているということに激しく感動したが、そのことを思い出していた。

 例えば、太平洋の水平線に向いた日本の寺院の仏像の顔に朝日が当たる。

 それは当然大陸からの教えに倣ったことであり、大陸でも同じように仏像の顔に朝日が当たるようになっていた。もちろん、暦上などの何らかのことと関係してだったと思う…

 このような話を、具体的に、そしてドラマチックに証明していくこの番組の凄さは、当時の自分の中では格別な冒険ドラマ的存在だった。

 そして、この番組と本との出会いによって、その後奈良の「山の辺の道」を歩き、さらに京などの古寺を探索するという上質な旅にも駆り出されていく。

 そこまでその時思い出していたかは曖昧だが、とにかく自分の部屋の、あまりの“神々しさ”に、部屋にあったカメラでそれを撮影しようと思ったのは当然であった。

 そう言えば、我が家も東に向いていたのだと、あらためて思った。

 家を建てるなら、やはり東側に向けて建てるべきだなとも思った。

 やはり、何と言ってもそれなりに神々しいのだ。

 ただ残念なことには、年末に瞬間物置状態になってからの自分の部屋は、年が明けてもまだその状況を改善していなかった。

 だから、その日明るくなるにつれ、明け方の畏れ多き神々しさは徐々に化けの皮がはがれていき、朝飯が終わった頃には、古代からのロマンなんぞも一気に失せていったのである……

風邪ひき午後の味噌煮込みうどん

yagi

 年の始めからの過密?スケジュールが災いしたのか、一月の終わりになって風邪をひいてしまった。

 今の風邪は、ちょっと治ったかなと思っても会社などからは来なくていいと言われるので、その辺で喜んでいいのかどうか浮ついたりするのである。

 しかし、知り合いが風邪で休んでいたりすると、しっかりクスリを飲んで寝て、いいモノを食い、いい音楽といい文章に囲まれていれば、すぐに風邪なんか飛んで行ってしまうのだよ……とカッコいいことを言っているが、いざ自分の番になると、なかなかそんな美しい境遇には恵まれなくなる。

 予測なく鼻水がタラ~ッと出て来そうな雰囲気の時などには、いい音楽もいい文章もあったものではない。

 ましてや、咳に上半身を煽られ、体全体が熱に冒され始めたりすると、音も活字も神経を逆撫でする補助凶器にさえなってしまうのだ。

 昨日早退、本日お休みとなった今など、一応昨日医者にも行ってきたので、ひたすらじっとしているといったことなどが要求されている。

 しかし、人間、そうじっとしてはいられないし、たまには体を動かすことも求められる。

 そういう時に、忘れていたものとの再会や、また大きな発見などもあったりするのだ。

 そんなわけで、先ほど冷蔵庫にあったうどん一袋にネギその他を放り込み、味噌煮込みうどんを作って食った。

 もともとは醤油煮込み味だったのだが、そのスープは引き出しにしまって、味噌汁用の味噌を使った。

 味噌の量が少し多過ぎて塩っぽさが強調されたが、タマゴの絶妙な崩れ具合が、自分としてもかなりの満足度だったので、まあまあ良しとしておくことにした。

 かつて白山麓・O村にあった小さな食堂の味噌ラーメンは、家庭の味噌の味だった。

 ボクはその味噌ラーメンが大好きで、20~30代の頃は、月に二度以上は食っていたような気がする。

 それは家庭の味噌汁のような風味のラーメンだった。

 北海道でも、東京吉祥寺でも同じような味噌ラーメンと出会ったことがあるが、その店のものは「素朴度」が違った。

 飾らない正真正銘の“味噌”でスープが作られていたに違いない。

 あれ以来、味噌ラーメンの懐かしさは、あの味に還ることになってしまう。

 そして、今日ボクは風邪で休ませていただいたおかげで、そのことを再確認する機会を得た。

 味噌煮込みうどんのあとは、家人が用意してくれた伊予かんなども食った。

 味噌煮込みと一緒に、昨夜のおかずの残り、肉じゃがも食っていたので、もう腹はいっぱいだ。

 さらに見渡せば、正月明けのせいか、我が家にはさまざまな食材が散在していることも発見。

 現代日本における、雑食文化の煽りを実感。反省しつつ、賞味期限ギリギリ待ったなし状態の金沢伝統和菓子も、ついでにいただいた。

 この満腹感は、風邪で休ませていただいている者としてはどうも心苦しい。

 アタマはボーっとしているが、満腹過ぎて、すぐベッドに入るのも少し控えなければならないほどだ。

 この無作為な文章も、腹ごなしのつもりで打っているのだが、どうも収拾がつかなくなってきたので、このあたりで終わりにしよう……

星は星の数ほどある

KICX7336

 ジャズや文学や落語やその他、日々のどうでもいいようなことを語り合ってきた今は亡き酔生虫(俳号)さんは、かつてこう言ったのだ。 「星は、星の数ほどある」と。

 経緯は忘れたが、当然何らかの流れの中から星の数についての話題に移っていった時のことだったろう。

 ボクもこう切り返した。 「と言うことはやはり、山は、山ほどあるんやろね」

 東京からの帰りの、特急「はくたか」の中・・・・

 イヤホーンから耳へと入ったキース・ジャレットとチャーリー・ヘイデンのデュオが、そのさらに奥へと静かに響いていき、生まれつきわずかに内蔵されてきた脳ミソに安らぐとはこういうものぞと教えている。

 窓外の景色はすでに闇の中だが、様々な明かりが小さく刻まれた雪景色を浮かび上がらせていた。

 相変わらずオレは疲れているんだと思う。そう思いながら、でも気のせいかも知れないぞと自分に言い聞かせてもいる。そうやってここまで来てしまったのだとも考えている。

 人生には、世の中には考えなきゃならないことがたくさんある。 普通に言えば、山ほどあるということになる。

 ボクは山が大好きだが、日本に山というものがいくつあるのかは知らない。とにかくたくさんあることになっている。

 しかし、星の数ほどはないのだから少し安心しよう。

 座席シートの暖房が強く、背中から眠気がやってくる。 もう少しだけ活字を追って、そのまま潔く眠ることにする……

まみむMEMO・書きくけこ

note

 会社勤めになって、25年くらいはメモ帳として大学ノートを使ってきた。

 仕事柄、“メモ魔”的な部分が大きく、大学ノートは重宝した。

 それ以前は若気の至りで、カッコいい手帳型などを使っていたが、元来が公私混同の走り書き屋なので不相応だった。

 だいたい季節が二つ過ぎると一冊が終わる。

 ノートにはタイトルがあった。初期の頃は『モロモロ・ノート』としていた。

 その後、何気にペンを走らせていてあることに気付く。それは「memo書き」と記した直後のことだった。

 「メモ」は、「まみむ・メモ」につながり、「書き」は「書き・くけこ」につながるという、言葉遊びが好きな自分としては、かなり “うれしい法則?” の発見だった。

 こうして、ボクのノートは『まみむ~MEMO書き~くけこノート』という、歯切れは悪いが、その分ニタニタとしながら呼んでもらえる名前が付けられたのである。

 メモ用という域をはるかに超越したこのノートたちは、まさしく自分の分身になっていく。書いている内容も見境がなくなり、ほとんど人には見せられないことも多くなってきて、厳重なる機密ノートになっていった(…というほど大袈裟ではないが)。

 ところが、数年前からボクの好きだった大学ノートが店頭から消え始めた。

 形状としては似ていても、もう前のような分厚さがなくなっていた。ボクにとって、あの分厚さこそがノートの大切な要素だったから、薄っぺらな大学ノートには興味がなくなっていく。

 そして、ついに大学ノートの使用はやめにしたのだ。

 新しいノートは、かなり上品になった。結局走り書きしているだけの中身なのだが、上品すぎて、時々戸惑うこともある。

 メモの内容自体も少しずつ変わってきて、“ 感情 ”が入らなくなっている。そんなもん入れる必要もないだろうと言う御方もいらっしゃるかも知れないが、そんなこともなく、ボクとしては感情が入っていないメモには、何となく淋しさのようなものすら感じてしまうのだ。

 そんなわけで、分厚い大学ノートの再来に少しだけ期待しつつ、今はその上品なノートと素っ気ない付き合い方をしていくのである……

秋、山の文化館に立寄る

吊るし柿2

 久しぶりに訪れた「深田久弥山の文化館」で、20年ほど前に書いた自分の文章三篇を見つけた。

 山の話を書くのが好きだったことを、あらためて思い出した。

 秋の色が染み込んだ館の回廊には、柿が吊るされている。庭に柿の木があって、今年はたくさん実を付けたらしい。

 案内してくれた館の女性が、「渋柿なんですよ」と、楽しそうに教えてくれた。

 以前は、この館にはよく知っているスタッフがいて、ゆっくりと話などをしたのだが、今は時折訪れても、何となく時間を過ごすだけだ。

 それでも、この場所はいい。周辺の気配も館の佇まいもグッとくる。ほんとは、もっとゆっくりできるというか、ボーっとできるくらいのスペースがあってもいいなあなどと思ったりするのだが、贅沢だ。

ミニコ~2

 数年前の暑い夏の日だった。

 太陽が照りつける旧大聖寺川沿いの道を歩いていると、どこからかオカリナらしき音色が聞こえてきた。

 特に興味があったわけではないが、その音色が山の文化館の方から聞こえてくるような気がしたので、やはり行ってみることにした。

 一緒にいたのは、ボクシングに挫折し、俳句とジャズに自身の日常を求めていた一人の青年だった。

 ボクはこの青年の持つ独特の感性に興味を抱き、彼にいろいろなモノ・コトを体感させようとしていた。

 彼は悪く言えば、世間知らずでもあった。

 しかし、そのことがまた、ボクの興味に火をつけた。そして、彼は中途半端だったそれまでの日々に終止符を打ち、一応社会人として人の役に立つことを覚え始める。

 その後、やさしくて、可愛くて知性に溢れた一人の女性と知り合い結婚もした。

 数ヶ月後には子供の親にもなる……

 夏の日差しを受けながら、山の文化館の門を過ぎると、左手のデッキにオカリナ奏者の姿が見えた。

 わずか数人の聴き手しかいなかったが、それがまたこの場所にふさわしい雰囲気を作り出し、ボクらも静かに聴き入ることにする。

 気が付くと、彼は数歩前に歩み寄っている。そして、何かに取りつかれたようなその姿を見たとき、ボクはこのニンゲンはホンモノだなと感じた。

 いつも前向きでなくては世の中面白くないということを、彼は今もボクに教えてくれている……

吊るし柿4

体験活動中の少女

 

この前入ったと同じ、某店の同じカウンター。

ひとつ置いた次の席のおばちゃんが、塩ラーメンと

ギョーザとおにぎり(とろろ)を、

さらりと、時間にすれば2秒半ほどで注文した。

たくさん食うんだなあ~と感心していたら、

それを伝票に書き込んでいる店員さんが、

では、ギョーザセットとおにぎりにしておきますねと、

さらに1秒半ほどで答え、丁寧にお辞儀をする。

おばちゃんも、そうかあ~と嬉しそうだ。

そこまでのやり取りもいい感じだったが、

さらにまた横にいた店員さんを見て、ちょっと驚く。

どう見ても幼いのだ。名札が見える。

目の前にいる店員さんは、「猪熊とら子」(仮名)と

正しい名前が書かれているが、幼い彼女の名札には

「体験活動中」と書かれている。

この場合、「体験活」が姓で、「動中」が名ではないことは明白だ。

一応解説すると、

彼女は地元の中学生で、所謂、職業体験みたいなことをやっているのである。

少し緊張気味の様子だが、用事を言われるとキビキビと動く。

猪熊とら子(仮名)さんが、××をお願いと言うと、

はいッと気持ちよく答える。

その様子を、忙しいはずの厨房からご主人だろうか、心配そうに見ている。

最近は、味はなかなかだが、食べている最中に、

アタマの上で店員に怒鳴られるラーメン屋が増えてきた。

それで嫌いになっているわけではないが、

やはり、ラーメン屋さんには、店員の声のデカさを

決め手にしていない客もいるということを知っていただきたい。

そんなわけで、当方のBセットも滞りなく食べ終え、

いい気分だったせいか、思わずラーメンのスープも

いつもより、やや多めに啜ったりした。

頑張れ、動中ちゃん! 巨匠と呼ばれる日まで………?

ボクらの浜のゴミ拾い

砂浜

6月最後の日曜日は、6月最後の日でもあった。

が、そんなこととは特に関係ないと思うが、わが内灘町では、町の代名詞とも言える海岸の一斉清掃に、朝から町民たちは汗を流していたのだ。

と言っても、当然ながら内灘28000人の町民が全員海岸に押しかけたのではない。

もし、内灘町民全員が海岸に集まってしまったら、砂浜は立錐の余地もなくなり、ゴミ拾いどころか、身動きもとれない状態になってしまって大変なのだ。

そんなわけで、有志と各種団体、家族連れなどが参加し、それでもかなりの人数で賑々しく砂浜のゴミ拾いが続けられたのである。

公式開始時間は、午前7時。

しかし、ボクなどの地区役員はなぜか6時集合と聞かされていた。

ボクたちの拠点となるのは、権現(ゴンゲン)森海水浴場だ。

小さな海水浴場だが、夏真っ盛りの頃になると、それなりに金沢などから客が来る。

会社などのレクリエーションなどにも使われるケースが多く、人気がある。

海水浴場はというか、最初の浜茶屋がボクが小学生だった頃、地元のよく知っている人たちによって作られたと記憶する。

それまでは何にもない、ただの広い砂浜だった。

海水浴場が作られる時、権現森に一台のブルドーザーが入り込んで、まるでバリカンでアタマを刈るようにしながら森の中に一本の道を造ったのだ。

あの時代は、自然保護がどうのこうのなどと言う人もいなかったのだろう?

実を言うと、我々「悪ガキ隊」(もしくは「全ガキ連」とも言う)は、いち早くそのニュースをキャッチしていた。

そして、工事の始まるその日、すぐに権現森の手前にあったニセアカシヤの林の入り口へと走っていたのだ。

真新しいブルドーザーに跨り(実際、運転席に座っていたのは言うまでもないが)、颯爽と道を切り開いていく運転手のお兄さんとは、すぐに仲良しとなっていた。

それからは、毎日学校が終わると権現森に出かけ、ブルドーザーにも乗せてもらったりした。

その日の作業が終わり、開いた道を戻る時に乗せてもらったのだと思う。

樹木や雑草などで暗く薄気味悪かった権現森が、明るく開放的なイメージになり、もうビクビクしながら森の細い道を歩いて行かなくていいと思うと、高いブルドーザーの席から勝ち誇ったような気持ちで森を見下ろしていた。

本題とはあまり関係ないが、そんなわけで、とにかく権現森海水浴場は出来たという話である。

時計は6時半になっていた。しかし、ボクを入れて四人が集まっているだけで、あとは誰も来ない。

どうせ7時からだし、みんなはまだだろうと思っていると、後から来た一人が手にゴミ袋を持って砂浜に下りて行った。

聞くと、海水浴場駐車場のずっと手前で、ゴミ袋が渡されているという。

つまり、我々は事務局よりもちょっと早く来すぎていたのだ。

一人がわざわざゴミ袋を取りに戻ってくれた。

いよいよ浜茶屋あたりから砂浜に下り、ゴミ拾いをしながら進んで行くと、先の方には大勢の人だかりが見える。

あの集団はいい時間に来たので、そのままゴミ袋を手にゴミ拾いを始めていた。

早く来ていながら不覚をとったと、川中島の合戦における武田軍の山本勘助になった心境でいる……(それほど深くはない)

ゴミは無数に、しかも時折悪意のようなものを匂わせながら、ボクたちの足元に落ちていた。

しかも砂浜だから、ほとんどは砂に埋まっている。

ハングル文字の入ったものも多くある。

悪意を感じるのは、四駆車が入り込んできたあとに散乱しているペットボトル類だ。

大きなものが、海浜植物の隙間に多く散乱している様は、目にしただけでも気分が悪くなる。

と言っても、ゴミ拾いの面々は地元の仲間だ。やらねばならぬ的にやるしかないと思っている。

7時を過ぎてからか、雲が切れ、本格的に太陽が出はじめた。

海の朝はそれなりに空気も冷たいが、東からの陽光を受けるようになると一気に暑くなる。

鼻が高いせいだろうか、いつの間にか鼻のアタマに熱気を感じるようにもなっていた。

数百メートルにわたって、人のかたまりが動いて行く。

清掃部隊に少し遠慮しがちな釣り人たちも増えてきた。

ところどころに設置された、ゴミの集積場に流木などと一般的なゴミなどが分けられ、その量は見る見るうちに増えていく。

見た目に分かるほどに、砂浜はきれいになった。

そして、そろそろゴミも目途が立ち、少し身体も疲れてくると、そこかしこに立ち話チームが出てきた。

昨日の夜は一緒に飲んでいたという人たちもいれば、久しぶりに会ったということで会話が弾んでいるグループもある。

役場の中の委員会に参加したりして、かなりストレスが溜まったりするケースもあるのだが、こういった場はむずかしく考えなくていいから楽だ。

クルマに戻ろうと、砂浜をずっと歩いて行くと、砂の上に朽ち果てた椰子の実があった。

実は朝一番に目に付き、これはゴミではないと自分で決めていた椰子の実だった。

誰もこれをゴミ袋に入れようとしなかったことに、なぜかホッとした。

陽が出る前は、小さく波打っていたような海面が、今はもう穏やかに揺れている。

すぐには帰らずに、海浜植物の群れの中を高台に登ってみた。

かつては、完全に砂の山で、一気に浜へ駆け下りるといった醍醐味があったが、今は植物が執拗に拒む。

狭く小さくなった砂浜を見下ろしたが、特に何の感慨もなかった。

沖には小さなボートが浮かび、釣り人の赤いウエアがあざやかに浮かび上がっている。

小さかった頃は、毎日のようにこのあたりで遊んでいたような気がするが、こうして海岸清掃という行事をとおして来てみると、地元の人たちの顔もあってか、急にその思い出も濃くなったような気がする。

よくは分からないが、とにかく不思議なものだ……

狭くなった海岸海を背景にしたスコップヤシの実穏やかな海に釣り船砂の感触

控えめな黒子でなかった

せせらぎのミニ公園

 

ドイツの黒ビールを前にして、ある大先輩から、

「アンタも私も、基本は黒子(くろこ)なんやて…」と言われた。

ボクはその時、たまたま同じドイツの白ビールという、

よく分からないものを飲んでいたのだが、

あらためて振り返って見ると、それは間違いないことでもあった。

仕組みが出来ていなかった時代、

いろいろと悩み考え、試行していたことは、

正式に仕組みが出来上がった段階で

初めて世の中に認められるようになる。

そして、その仕組みだけが走り続けていく。

そんなことが、よく知らないところで起きていた。

今更そんなことをア~だコ~だと言いたいわけでもないが、

何にも知らない人たちが、正論(仕組み)だけで

語り合っているのを横で聞いているのも、

それなりに辛かったりするものだ……

 

カンペキに余談だが、

広辞苑には、「くろこ」という言葉は載っていない。

自分が今書いた意味の「くろこ」は、

「黒衣(くろごう)」のことをさす。

もともとの意味は分かるだろう。

漢字の「黒子」では、「こくし」とか「ほくろ」。

ほくろはそのままだが、

とても小さなものの例え…みたいなものに使われるらしい。

そんなことを、また改めて知ってしまうと、

黒子的存在感は、ますます惨めなものになっていく。

高級食材となってデカい面してる「白子」と比較しても、

黒子は、やはりちょっと寂しいのであった……V

不思議なモノを見た

不思議なもの1

100メートルもないその先に、それがあった。

それを発見した時、思わずドキッとした。

北三陸的に言えば、ジェジェッである。

すぐ目の前にコンテナがあり、それを撮影していた時だ。

半信半疑のまま歩きだし、右斜め後方に目をやりつつ、

ゆっくりとクルマに戻る。

何のためか、敢えて落ち着いているのだというふりをしている。

窓越しに、もう一度それを確認。エンジンをかけた。

少し登った。そして、それの30メートルほど手前で、またクルマを下りる。

山間はもう日が陰っている。空気も涼しい。

そこは北陸のK市中心部からクルマで約30分。

推測だが、馬だとゆっくりで2時間くらいか。

牛だと半日はかかるかも知れない。

これでこの場所は知られてしまうだろう。

しかし、それでもかまわない。

歩いて、すぐ目の前まで来た。

塗装の剥がれていない部分はまだ美しくも見える。

正面のライトは片方だけだが、しっかりと残っている。

ひょっとして遊園地などで使われていたのだろうかと想像する。

とにかく、この不思議なモノが、この場所にあるということに心が揺れている。

不思議なモノの左面

いつ、どうやって、なにゆえにこの場所に運ばれて来たのか?

かつて、ここには鉄道が走っていたのだろうか?

ひょっとして、旧盆の深夜、突然汽笛が遠くから鳴り響くと、

霧の中、草を分けるように線路が浮かび上がってくるのかも知れない。

そして、この不思議なモノが、

生気を再び得たかのように、ゆっくりと動き出すのかも知れない。

子供たちは、その後を追い、見えなくなるまで力いっぱい手を振る。

そして、この不思議なモノが落としていった、

おもちゃや菓子などをみんなで拾い合うのだ……

 

振り返ると、近くの農家の人だろうか、こっちを胡散臭そうに見ていた……

不思議なモノの正面

ボクらの不発弾事件

不発弾

先日の、東京・不発弾処理の記事。

不発弾のことなら、黙っていられない。

早速、本題に入る……小学校四年の頃のことだ。

その十数年前、ボクたちの育った内灘の砂浜は、

アメリカ軍の砲弾試射場として接収されていた。

特にわがゴンゲン(権現)森の海岸は、着弾地点になっていて、

そこでは座り込む地元の母ちゃんたちのそばで、

轟音、そして地響きとともに砂塵が舞っていたのだ。

この事件は、日本中を揺るがし、当時の貧乏な漁村は一躍有名になった。

しかし、ボクらはそんなことなど、な~んにも知らないまま育ち、

一応子供としての社会的地位?を得るようになると、

ごくごく普通に砂浜で遊ぶようになっていた。

夏休み終わりがけのある日。

ボクと、一つ年上のTと、もうひとつ年上のYは、

砂浜に埋まっていた不発弾を見つける。

信じてもらえないかもしれないが、ボクたちの砂浜には、

このような不発弾がいっぱい?埋まっていて、

ボクらはこれらを「バクダン」と呼んでいた。

今から思えば、当たり前すぎる呼び方だが、

その響きは、子供心にもなかなか痺れるものがあった。

ボクたちが見つけたバクダンは、いつも見るものとは

少し変形?して見えていた。

後部の方が抜け落ち、そこには芯棒のようなものがあった。

その棒が、子供心にも持ち運びの利便性を認識させていたのだった。

夏休みの終わり頃と言うのは、

少年たちにとって、夢や希望が一度に消え失せ、

もうすぐ訪れる二学期への疑念や、極度の脱力感に襲われる時だ。

……誰言うとなく、このバクダンを持って帰ろうということになる。

ボクたちは代わる代わる持つところを変えながら、

ゴンゲン森を抜け、砂丘の畑の中を歩いた。

当然だが、何度も何度も足を止め、バクダンを砂の上に放り投げ、

自分たちもその度にドスンと座り込んでいた。

普通であれば、三十分ほどの行程が、その何倍もの時間を要した。

そして、夕暮れ近くになって、ようやくYの家の後ろの崖に辿り着き、

そこにバクダンを埋めたのだった。

数日後、全く何事も無かったかのように二学期が始まった。

しかし、学校で久しぶりに友人たちの顔を見てしまうと、

あの“偉業”について、黙ってはいられなくなった……。

そのまた数日後、Yの家の前に二台の軍用トラックが止まる。

数人の自衛隊員が、ボクたちが埋めたバクダンを調べている。

そして、バクダンは、そのままトラックに載せられて行ってしまった。

当然、当たり前のように、ボクたちは超大目玉を喰らった。

もし、もし、あれがああなって、こうなっていたらと考えると、

今でも背筋が寒くなるのである。

ついでに、最近知った話だが、昔使われていたバクダン、

いや砲弾にはテスト用に砂が詰められていたものもあったそうだ。

それには、SANDの頭文字「S」と記されていたらしい……

砂浜の枯草-1024x685

疲れた夜によくある雑想

スポットを浴びたような新緑

久しぶりに訪ねた友人の事務所に、山の本が、文字どおり山積みになって置かれていた。

彼は、その本を通販で、しかも古本で買う。

ジャズのCDは新品(輸入盤が多い)で買うが、本はほとんどが中古本である。

自宅ではなく、事務所に届くという点が羨ましい。

彼はその事務所で、軽くジャズを流しながら仕事をし、仕事の合間に好きな本を開いて、その世界に自分を置いたりする…のだろう。

そのような世界は、若かりし頃の自分にも憧れとしてあったものだ。

そして、そろそろ時間の先取り的に“リタイア”した後の自分を考えたりする時、少しだけ現実味を帯びてくることでもある。

しかし、あと何年かは、ひたすら微量の脳ミソをかき混ぜながら、一途にやっていかねばならないポジションにもある。

元来、性分が「やり始めると、とことんやってしまう」というタイプなので、ある意味ではかなり損をしてきたところもある。

しかし、今さら悔やんでも仕方がない。

学生時代、将来は八ヶ岳山麓に住まいして、そこでカッコよく仕事をしながら過ごそうと考えていた話は、ずっと以前この雑文集で書いた。

そこまでの回帰はないが、やはりどうせなら、山があって(見えて)、家を出たらすぐに自然があるといった環境がいい。

雪も降り、リビングから、いや縁側からでもいいが、すぐにスキーを付けて歩き出せるくらいでないといけない。

朝日でも夕日でもいいから、家に差し込んでくることもそれなりに重要だ。

庭でコーヒーを淹れ、家の中から聴こえてくるラルフ・タウナーのギターや、ヨーヨー・マのチェロなどにボーっとすると言うのも、かなり心地よいことだろう。

本も読み、文章も書き、カメラを持って歩きまわりもする。

どこかにそんな人が何人かいた。

ただ、ボクが考えるシンプルさとはちょっと違っていた。

だから、自分自身が求めることも、どこまでが真実なのか不明でもある。

誰かが何か言ってくれても、自分自身がどれだけ踏ん張っても、人生の時間的な制約は変えられない。

だからこそ、今自分が置かれている立場でとにかくやるだけやり、その後は自分を出来るかぎり解放させてやりたいと思う。

 

どっと疲れた仕事の帰り。

一杯のコーヒーにホッとしながら、こんな文章を書いている自分に、今気付いた……

能楽堂で脳しんとうの話

兼六園の周辺を見てまわる用事があって、本多の森にある能楽堂付近にも足を運んだ。能楽堂前の小さな広場の、その隅っこ。

新緑に囲まれ、「杜若(かきつばた)」像がひっそりと建っている。

この像はかつて、金沢駅前にあったのだが、駅前広場の整備でこの場所へと移設された。

今、金沢駅前には「鼓門」が建つが、金沢と能とのつながりは永遠に不滅なのだ。

数年前の冬の終わり頃。仕事で能楽堂を訪れ、この杜若像を見つけた。

周囲にはまだ残雪が散在していたが、なぜか嬉しくなり、写真をバシャバシャと撮った。

そして、いざ帰ろうとした時だ。

ちょっと高くなっている広場から、直接脇の細い道に出ようと、小さな斜面を下ろうとした…その時。

凍って固くなったままの雪の上に足を載せた瞬間、仰向けに体ごとひっくり返ってしまった。

午後の時間だったが、気温は低く残雪は緩んでいなかった。

雪か芝かに後頭部を強く打った。

視界が真っ暗に?なり、一瞬何が起きたのか分からない。

まずいッと、ただそれだけ思った。

朦朧としたまま、ゆっくりと立ち上がるが、数少ない脳ミソがすべて前方へと移動したような気がして不気味だ。

思わず、自分の名前を口にした。住所も血液型も口にしていた。

好きな食べ物はと自問し、ハタハタと油揚げと、これはアタマの中だけで答えた。

立山周辺での単独スキーツアーの時の事故を思い出す。

岩と岩の窪みの上に積もっていた雪を踏み抜き、尾テイ骨を激しく打って動けなくなったことがあった。ケツとアタマの違いを真面目に考えてしまう。

その夜の家人の警告もあり、翌朝、脳神経外科へ向かったのは言うまでもない。

輪切りにされたアタマの写真を見せられたが、特に異常は見当たりませんねえと、先生は面倒臭そうに答えた。

ボクもそれ以上は考えないことにした。そして、今に至っている。

普通に生活できているのだから、何ともなかったのだろう。

久しぶりに杜若像と再会し、思い出してしまった話だ……

私的エネルギーが希薄になってきた

毎年恒例にしてきた、妙高・笹ヶ峰エリアでのスキーハイク。

今年はどうやら行けそうにないことがはっきりしてきた。

かなり以前から、何となくそんな気配が漂い始め、自分自身がすでにあきらめムードに入っていたと言っていい。

唐突だが、こういう日々のことを、30年以上前から“下品な日々”と呼んできた。

そして、今は“かなり”が付くくらいの“下品な日々”であって、自分史上、最悪に近い下品さかもしれないと思っている。

では、“上品な日々”とはどういう日々を言うかなのだが、この場合簡単に言うと、自分の楽しみをしっかり確保している日々ということになる。

つまり、どんなに仕事が忙しかろうが、自分のための時間をしっかりと持って、それなりに有意義に、楽しく過ごしているという日々が“上品な日々”なのである。

そして、その源を、「私的エネルギー」と呼んできた。

対語である公的エネルギーが、仕事などのためのエネルギーだとすれば、私的エネルギーは趣味などのためのエネルギーであって、その両者のバランスが崩れては、ヒトは正しく生きていけないのだとハゲしく思ってきたのだ。

それも、かなり入れ込んだ私的エネルギーがボクは好きだった。

しかし、世の中にはこの私的エネルギーの意味を理解してくれる人は多くない。

この四月から、住んでいる小さな地区の役員になってしまったのだが、初めての会合で、これからの会合には欠席しないようにと、しつこく要請された。

「N居さんは、本まで書いている人だから、時間はたっぷりあるんでしょ?」などと言われ、当然ながらカチン!ときた。

文章を書いているということ=時間のある人と解釈できるアタマの構造を疑った。

ボクには私的エネルギーによって日々活動してきたことがたくさんあり、そのことをイチイチ説明したりすることは難しいのだが、かと言って、公的エネルギーもふんだんに使っている。

だから、当然のように時間は乏しいのだ。

物理的?に言えば、カラダはひとつしかないから一ヶ所にしか居られないが、アタマ(の中身)は、それなりにあちらこちらへと行ける。

だから、いろいろなことにアタマを突っ込ませて、何となくいろいろな場で、ああだこうだと言っていられたりもする。

しかし、そんなことで、N居さんには時間のゆとりがあるのね…などと思われては困る。

ボクのこの忙しさ?を、本当に理解しているのはほんのわずかな人たちだけだ。

そんなわけで、好きな山へ出かけ、雪の上にいっぱい何やら広げて、ビールをあおりながらボーッとしていたって、それはそれなりに忙しい時間なのであり、それはそれなりに意味のある、つまり“上品な日々”のための時間なのだということを強調し、今回の話を締めることにする…

ああ、危険運転なのである

 前号「信号無視…」の続編みたいな話。

 カンペキに“携帯メールをしながらの運転”だと分かる、前のクルマ。

 かなり不安定な走行をしている。

 こっちも運転しながら、もちろん携帯デンワで警察へ通報してやろうかと考えるが、その場合の自分の行為にも嫌疑がかけられる。

 なにしろ、当方(なぜか、急に謙虚になる)、ついこの前、信号無視(実際は軽視)で捕まり、長年無事故無違反だったゴールド免許に泥を塗ったばかりだ。

 メールもそうだが、運転中の危険行為としては他にも数多くある。

 中でも万人が認めるのは、“コンビニおにぎりの包装を取りながら運転”だろう。

 あれは極めて危険であり、携帯メールに十分匹敵する。面倒でもあり、海苔が散乱するというおまけまで付く。

 このことについては今までいろいろと書いてきたし、詳しく書くと、また原稿用紙30枚ほどになりそうなので省略するが、それでも強いて言えば、せめて「運転中の包装紙めくりはやめましょう」ぐらいの表示が、包装紙の表面あたりにあってもいいかも知れない。

 変わったところでは、運転中の“シンガー気取り歌唱”も危険な場合がある。

 かつて、金沢市内のあるT字路で信号が赤になり停車した瞬間、若奥さま風の上品そうな女性が運転する、白いクルマがボクの横をすーっと走り抜けていった。

 おやっと思ったら、後ろからサイレンが聞こえ、白バイが無情にも?その白いクルマを止めた。

 その時は全くカンペキに赤信号で、あの若奥さま風女性は、カンペキに信号無視をしたのだ。軽視でもないし、蔑視でもないだろう。

 横を通り過ぎた時、あの若奥さま風女性が、カンペキに歌を歌っていたのをボクは見た。

 それも、まるで松田聖子にでもなり切っているかのように顔を少し斜めに傾け、口の開け方もそれらしく歌っていたのを確実に見た。

 やはり、ああいうのも危険なのだろう。

 まだまだたくさんありそうな危険運転の話なのだ…

信号無視ではなく、軽視だった

 いい歳をして、信号無視で捕まった。

 ゆっくり走っているダンプカーの後方にいて、信号が黄色になると思ったところで加速して付いていったのだが、すぐそこに警察官が立っていた。

 そしてその彼は、信号が赤なのに交差点へ侵入してきたと判断した。

 ゴールドの免許証を持つ清く正しいドライバーで通してきたが、一度に前科者、世の中のあぶれ者となってしまった。

 たしかに彼の判断は正しかったのかも知れない。しかし、彼や彼の同僚たちは、全くこちらの事情を聴き取ろうとせず、一刀両断に罪人にしていく。

 「信号無視!」

 どこからか大きな声がした。

 待ってくれ。こっちは信号無視なんかしていない。

 途中まではっきりと信号は見ていて、最後も見ようとしたが、ダンプのすぐ後ろだったので見にくかった。無視なんてとんでもない。

 もちろん、そんな言い分は聞いてもらえるとも思っていない。

 せいぜいで、仕事の約束時間を10分ほど過ぎていたという状況に同情だけはしてくれた。

 「最近、死亡事故がとても増えておりまして、取り締まりも厳しくなってるんです」と、若い真面目そうな警官が言う。

 しかし、同情はあくまでも同情。罰金が二割引きとかポイントが三倍付くとかではない。

 若い警官の同情に慰められているわけにもいかず、諸々の手続きを済ませると、当然だがすぐにその場を離れた。

 激しく自虐的になりつつ運転に戻ると、不意にあることがアタマに浮かぶ。

 それは、かつてコント・レオナルドという、文字どおりの名コント・コンビがあって、彼らのネタに「信号無視」を題材にしたものがあったということだった。

 このコンビは、今は亡きレオナルド熊と、現在役者として渋い脇役をこなす石倉三郎との絶妙なやりとりが人気を博していた。

 ボクが好きだったのは、おまわりと運転手のやりとりという定番的なネタで、その中に信号無視した運転手(熊)と警官(石倉)とが押し問答するシーンがあった。

 「今、信号無視したでしょ?」

 「なにィ? 俺は信号無視なんかしてないよ」

 「だって、今、信号無視したじゃないか」

 「俺は信号無視はしてない。信号はちゃんと見ていた」

 「だったら、余計悪いじゃないか」

 このようなやりとりが続くのだが、レオナルド・熊のとぼけた演技が堪らなく笑えて素晴らしかったのだ。

 心が少し和らいだ。それから、ボクはしみじみと今回の不祥事について考え始めた。

 レオナルド・熊が演じた運転手とは違うが、自分も信号無視はしていなかった。

 だが、ちょっと甘く見ていたのかも知れない。

 強いて言えば、信号無視ではなく、信号軽視だったのだ。

 信号のやつ、もう少し黄色で待ってくれているだろうと勝手に解釈し、その分気持ちを大きくしていたのかも知れない。

 ニンゲン、どこでどうなるか分からない。自分は特別無茶な運転をするドライバーではないし、それどころか、どちらかと言えばおとなしい方に位置付けられると思ってきた。

 しかし、これからは初心に戻り、正しく“更生の道”を歩もうと思う。

 社会のルールというやつは、そんなに甘くはないのだ……

“寿”のテーブルに座る

 全くもってカンペキに、どうでもいい話だ。

 実を言うと、ボクの正式な名前は「寿(ひさし)」と書く。

 世の中的には、かなりおめでたい場合に使われている漢字なのである。

 昔、寿司屋の寿だからと、「中居・す」さんと呼ばれたことがある。

 言った本人もかなり困窮していただろう。

 これがホントの「呼び捨て」だと、その時発作的に思った。

 ところで、宴席に出ると、よく「寿」のテーブルというのがある。

 しかし、これまでその名のテーブルには、一度も当たったことがなかった。

 それが、つい先日のことだ。

 苦節?五十数年、生まれて初めて、自分の名前を冠したテーブルに着くことになった。

 くじ引きみたいなことをさせられたわけではなく、事前に決められていたのだ。

 ひょっとすると、ボクの名前を見て、この人は是非「寿」のテーブルについてもらおうと考えたのだろうか。

 いや、そのようなことはありえない。

 そんなことを薄らぼんやりと考えながら、三回ほど名札の紙切れを確認した。

 そして、テーブルを見つけると、一応、さりげない顔をして椅子を引いた。

 座っている間も、テーブル上に無造作に置いた名札が、やたらと気になった。

 何度、目をやったことだろう。

 幸いにも、その上に何かがこぼされたりすることもなく、白い紙きれは、閉宴まで置かれたところにじっとしていたのだ。

 帰り際…、その名札をそっとポケットにしまったのは言うまでもない。

 その名札を家人に見せ、家人からバカにされたのも言うまでもない。

 ニンマリしながら飲み直したのも言うまでもなく、

 数日たった今、まだ我が家のテーブルの隅に置かれているのも、当然、言うまでもないのである……

ちょっと真面目な正月

 今年の正月は、例年になく真面目な数日間であった。

 その兆候は年末から続いており、大晦日に年賀状を何とか完成させ、毎年恒例となっている浴室の掃除はもちろん、神棚についても、何となくいつもと違うチカラの入れ方だったと思うのである。

 もちろん年が明けてからも、仕事先への挨拶まわりなどに意欲的に出かけ、親戚でいただくお酒も素直におよばれになった。

 元旦の早朝に、地元の黒船神社に初詣に行ったというのも、ここ最近では珍事であった。

 神社の中には区内の役員の面々が揃っていたが、幼馴染みをはじめ、皆顔見知りばかりで落ち着くのである。

 ここ最近は、二日や三日あたりにのそのそと神社へ出向くものだから、こういう雰囲気を味わっていなかった。

 これがやはり大きかったのかも知れない。一気に正月型心持ちに包まれ始め、正月なんだなあとしみじみ思えるようになっていったのだろう。

 そんなわけで、2013年はどことなくいつもと違った展開で動き始めたのだが、どんな一年になることやら…なのであった……

休日はアイロンだ

 休日、自分でカッターシャツにアイロンをかける。

 家人がいない時を見計らって座布団の上に正座をし、左手にシャツ、右手にアイロンを徐(おもむろ)に持って、その特に右手を動かす。

 どうしてもアイロンがうまくできないシャツはクリーニングに出すが、簡単に出来そうなものは自分でやる。

 その仕分けは、多分シャツの素材などにあるのだろうと思うが、むずかしいことは分からない。

 アイロンが好きになったわけは、たぶん無心になれるからだ。

 焚火やギターなんかと同じで、一点集中型の無心状態になって、軽くて落ち着いた気分になる。

 軽いという表現は100パーセント言い得ていないが、カラダもアタマも何だか解放されたような感じになり、ヒトとしていい状態になっていくのだ。

 アイロンはそれ自体が、スーッとシャツの上を滑っていくという、あの感触がたまらない。

 その時には、口で軽く「スーッ」と言ったりもする。

 長嶋茂雄が、バットを振る時はシューッときたボールに、パシーンとバットを当てる…などと言っていたように、アイロンもシャツをパッと広げたら、その上にアイロンをサッと置き、そのままスーッと滑らせていく…なのだ。

 不思議なことには、この時に無心状態が生まれ、まるで悟りが開けていくような面持ちになっている。

 今頃の季節ならば、ほんわかとしたスチームもいい味を出す。

 この温もりや湿り気は、ちょっとイガラッぽくなっている喉なんかにも按配がよく、風邪防止の役割も果たすという重宝者でもある。

 だいたいこういった場合は、ヨーヨー・マあたりのチェロ独奏なんかをBGMにするのがいい。やはり弦楽器の弓弾きのように滑る音がマッチする。

 普段はジャズばかり聴いているが、ジャズのようにシンコペーションが強い音楽は、アイロンには向かない。オオッといきなりブレーキを掛けられたのでは、せっかく伸びたシャツの皺もまたぶり返すことになる。

 つまりアイロンには、リズムがない音楽がよく、これは無心状態をつくる上でも大切な要素と言える。

 シャツは本来ならば三枚ぐらいが適当だ。しかし、一週間のうち働きに出る日は最低五日ある。時には五枚一度にアイロン…ということになったりもする。

 長期戦になるかなと思う時は、途中にハンカチ・タイムを挟むのがいい。

 ハンカチは実にコンパクトで、その成果もすぐに表れるし、かなりの度合いで癒されたりする。

 四枚目に入ってしばらくすると、思いがけず無心になれている。こういった場合の無心には、特別な意味があったりもして嬉しくなる……?

 アイロンがすべて終わる頃には、両足ともにかなりのシビレ状態になっているのが普通だ。

 しかし、このシビレこそが、無心に、アイロン一筋に精神を統一してきた証であり、敢えて下品に足をパンパンと叩いたりなどしない。

 立ち上がって、窓外の風景に目をやり、窓を開けて冷気に触れていると足のシビレがいつの間にか消えていくのだ。

 そして、またいつの間にか、自分がアイロンをかけていたという事実すらも忘れていく。

 これが、アイロンの凄さなのだろうと思う。

 特に大したことをしでかしたわけでもないのに、この充実感は何なのだろうとも思う。

 そして、もう何十年も使ってきたアイロンに、感謝なのだ……

朝の珈琲屋さんにて

 雪の影響を心配して、早めに金沢駅まで来たが、電車はダイヤどおりに走っているとのこと。

 数年前には、東京に四時頃着の予定で金沢を出た電車が、夜の十時頃やっと着いたということもあり、そうなってからでは遅いのである。

 どこかにコーヒーが飲める店はないかと、心当たりを探っていくと、やはりあった。

 なんだかんだと、時々お世話になっているその店は、他の店はまだ開いてないのにやっている。多分、商売上手で熱心なオーナーの店なのだろうと納得しつつ、ブレンドコーヒーを注文。

 特に際立った特徴があるわけではないが、ボクにとっては何となく落ち着ける。それに、特に際立つ必要もないのかも知れないとも思う。

 電車の時刻までは、一時間弱ある。

 カバンのポケットから、ヤマケイのスペシャルブックカバー(大袈裟だ)に包まれた文庫本を取り出す。

 中身は、またしても出張の友にして持ってきた伊集院静氏のエッセイ集『ねむりねこ』だ。

 昨夜、積まれたままの蔵書の中から、何を持って行こうかと十五分ほど迷い、やはりという感じでこの本をさっきのブックカバーに包み直しカバンに入れた。

 もう一冊候補に上がったのは、椎名誠氏の『かえる場所』だったが、前者の方が短編集である点で有利だと判断した。

 しかし、双方とも朝の読み物としては、何というか少し、いやかなり重い感じがしないでもない。ちょっと切なく人生経験豊かな二人のエッセイを、モーニングコーヒーを飲みながら読み流すというのは、真意に沿わない。

 ただ、そんなむずかしいことを考えていても始まらないので、とにかく無作為に読み始める。

 あっという間に、三話ほどを読み終えると、真意に沿わないと言っておきながらの没頭読みにちょっと驚き、少し目を止めて、コーヒーカップに手を伸ばす。

 このまま読み進んでは、何だかいけないような気になってくる。

 この手の話は、夜のホテルや黄昏時か夜更けの静かな店、さらに帰りの電車の中などで読むのが正しいのだ。これまでもそうしてきた。

 それを朝から読んでいてはいけない。

 これから東京で仕事が待っているのに、椿は、花が落ちた後の姿がはかないから、花よりも葉の方が好きだとか、毎晩のように酒に明け暮れている…などといった話を読み耽っていてはいけないのだ。

 店の中を見渡してみた。いつの間にか、横の横の席には女子高生のような制服を着た女の子が座っている。

 学校はどうしたのだろうなどと、余計なお世話的雑念がアタマをよぎるが、深く考えないことにする。

 目の前の石風タイル貼りの柱を見上げると、三枚の額がかかっていた。中はよく見えないが、写真の切り抜きみたいな感じがする。なかなかいいレイアウトでもある。

 朝日が差し込んでもいる。その陽の当たり具合もいい感じで目にさわやかなのだ。

 朝の喫茶店に入り、いきなり本を読んで時間をつぶすというのは久しぶりだ。

 こんな時間がいいのだと、何だか妙に嬉しくなった……

漕艇場あたりの、のどかな風景

何度か書いてきた河北潟の話の中で、どちらと言えば、いつも干拓されてしまったことへのセンチメンタルな気持ちを綴ってきたように思う。

しかし、関心が全くなかった時は、その言葉どおり、どうでもよかったのだが、一度関心を持つようになるとスタンスは変わる。

河北潟を干拓地として見るようになったのも、そのことに拍車をかけ、最近は身近な存在として、そのいいところを探そうという気持ちにもなっている。

そんな中で、少しマンネリ化してきたかなと思っていた矢先に、漕艇場の存在を知った。

いや、知ったというのはかなり前からで、そこへ初めて行ってみたというのが正しい。

内灘からすれば対岸になる津幡町の、水路のように残された水域がその場所だ。

九月のはじめで、広い田園地帯では稲刈りが始まっていた。

その中のメイン道路から細い道に入ると、生産者の人たちのクルマが道の脇につながり、そこを通るにはかなりの遠慮が強いられる。

しかし、漕艇場に向かうという大義名分があるということを、生産者の人たちは認識されているのだろう。

誰も変な目でボクを見ない。それどころか、首から下げたタオルで汗を拭きながら、刈り取り作業に精を出しておられる。

学生たちが一生懸命に練習しているということも、あの人たちは十分に知っているのかも知れない。

意外と狭い駐車場にクルマを止め、外に出た。

稲刈機の音だとばかり思っていた、エンジン音が頭上からも聞こえる。

数台のクルマが止められたグラウンドの方で、ラジコンヘリだろうか、かなりのハイスピードで飛び回っている。

垂直に下降したりして、アクロバット的な飛行を楽しんでいるのだろう。

ちょっとした土手を上ると、芝生の広い空間が目の前に現れ、その向こうが漕艇コースの水域、そして高いものなど何もないその先には、すぐに白い雲を浮かべた青空がある。

思わず、オオッと小さく唸り、すぐに土手を駆け下りた。

一角に、釣り人が二人だけ。

さっきのヘリも無事着陸したのか、周辺は物音ひとつ聞こえない。

いや、厳密に言えば、何か音はしているのだが、それは音とは認識させない音なのだ。

水場や芝生などの植物のせいなのだろうか、音がみな水中や地中に吸収されたのではと思わせる。

ゆっくりと水場に近付く。

波のない静かな水面に白い雲を浮かべた青空がそのまま映っている。

釣り人たちの話し声が、ようやく微かに耳に届く。

それなりに大きな声で話しているようだが、不思議にもその声は聞き取れない。

 

いいところを見つけたと、すぐに思って、かなりの度合いで嬉しくなった。

さっそく、芝生の切れ目に沿って散策を開始。足元に白い小さな花が一輪。

気分は、稲見一良の小説「花見川のハック」に出てくる冒険少年。場所もピッタリだ。

それにしても暑い。気象用語的には「暑い」だろうが、感じられる空気は「熱い」の方が合っていると思う。

そんなことを考えながら、とにかく歩く。

芝生がかなり汚れているのは、数日前から続くゲリラ豪雨のような夕立があったからだろう。

水かさが芝の上まで上がったのに違いない。

その臭いが懐かしかった。

子供の頃、水の汚さでは定評があった河北潟。

今も決してきれいとは言えないだろうが、岸辺の土が漂わせる臭いは、こんなふうだったなあと思い出す。

それにしてもの暑さなのだが、静けさが暑さを少しだけ負かしてくれる。

と、思ったところへ、どこか遠くから声が聞こえた。

あたりを見回すが、すぐに声の主がわからない。

ようやくわかったのは、反対側の岸辺近くで五人乗りのボートが滑って行くのを見つけた時だ。

「そんなに後ろにのけ反らない方がいい。力はそんなに変わらないし、後半疲れるよ」

「さあ、ここから最後、気持ちを一つにして行こう」

コーチだろうか、最後尾に座ったメンバーが声を出している。

しかし、水をかく音など聞こえてこない。

ボートは静かに水面を滑っていき、そのうち視界のはるか遠くへと去って行った。

特に何をするでもなく、パーゴラのあるベンチに腰を下ろして、得意のボーっとする状態に入った。

何度も書くが、とにかく静かなのである。

音や声がしても、まるでTANNOYの大きなスピーカーで聴くチェロの演奏のような感じ(?)で、まろやかなのだ。

一時間はいただろうか、さらなる水路の奥への探検を次回のお楽しみにして、クルマに戻ろうとした。

ちょうど、学生たちの別のチームが水路に出るところだった。

実際に漕ぎ出すところを見たいと、土手の上から見つめた。

担いでいたボートが水面に置かれ、そのボートに向かって全員がアタマを下げ、何かの儀式が簡単に行われる。

いいなあと素朴に思い、彼らを見送った。

それにしても、暑かったが、そのことをカンペキにブッ飛ばす、いい時間だった………

梅雨の夜らしい雑想

 十八年が過ぎても、まだ板壁の木の香りが残る二畳半の部屋。

 テーブル台に向かう椅子はハゲしく固い。固い椅子は、次女が小学校入学の時に買った学習デスクに付いていたものだ。

 だから、すぐにかなりケツが痛くなり、長居は非常にむずかしいのだ。

 冷暖房不完備だから、そろそろ部屋にこもることのできない季節が訪れようとしている。

 そんなある日の夜なのだ……。

 かつて某シンクタンクの外部スタッフ(研究員と言うと恥ずかしいので)をやっていた頃、いつも背中の後ろの方から、得体の知れない重いものが覆いかぶさってくるのを感じていた。

 自分に求められているものが、“自分が求めていないもの”に引っ張られているということが、少しずつ分かってきて、このままでは自分が自分でなくなると思うようになっていた。

 「あんたの肩に、この・・・の成功はかかってるんだよ」とか、

 「これ成功させると、凄いパワーを付けることになるよ」などと声をかけられ、自分の中ではかなりの戸惑いが生じていた。

 しかし、端的に言えば、ボクは煮え切っていなかった。

 自分の置かれていくポジションが安定を失い、バランスを崩され、その先自分が自分に嘘をついていくような気がしていた。

 自分がやるべきことでもないと思うようになっている。

 ボクは学者ではなかった。会社では営業マンもやり、プランナーとしての足元は確実に固めていたが、力の及ぶ範囲は知っているつもりだった。

 それでも頑張って? ある一本の研究レポートと、金沢最大のまつりについての調査と企画を練り上げ、さらに提言と、その他モロモロの調査をまとめた。

 中には二年から三年越しの、心身ともに中途半端な作業もあった。

 それらの文章を今更読み返してみたいなどといった思いは全くない。それなりに自分としては苦心して書き上げたものといった思いがあるだけだ。

 ただ、それ以前に手掛けていた観光や文化施設づくり、イベントなどに関した仕事に比べると、カンペキに違う匂いが漂っていた。

 そのいちばんの違いは「思い入れ」だった…ような気がする。

 いい加減な言葉だ、「思い入れ」というのは。

 ただ、自分の中に見え始めていたものは、誰(何)のためにこの仕事をやってるんだろう?という素朴な疑問であり、そのことがあまりにも漠然としていた。

 青臭いことを…と言われるかも知れないが、ニンゲンは、特にボクのような情緒型ニンゲンは、そういうことを真面目に考えるのだ。

 ボクの場合、上司からの指示でそういう仕事に関わるということはほとんどなかった。

 ほとんどが直接のオファーであり、自分自身の段取りもかなり受け入れてもらっていた。

 ただ過分な評価がいつも心の負担になっていた。

 そして、ある段階で、きっぱりこういう世界から足を洗うことになる。

 逃げ出したみたいにも言われたが、正直ほとんどが面倒臭くなっていく。

 自分の守備範囲も見えてきていた。

 知っている人たちの間では、ボクの代名詞みたいになった「私的エネルギー」の世界。

 自分の大切なモノやコトのために費やすエネルギー。それをそう名付けた。共鳴してくれる人たちもたくさんできた。

 いろいろな余計なお世話が肩から抜けていった。交遊も身軽になり、ただひたすら楽しい時間が流れた。

 ようやく自分らしい空気の中に身を置けるようにもなっていったのだ。

 そして、いい歳になって、この私的エネルギーの存在こそが、自分の求めていないものを求められた時の、逆のエネルギーになるのだなということが分かってきた。

 家に帰って、自分の部屋に入れば、テーブル台の上にすべて読みさしの、文庫や新書が五、六冊必ず置かれている。

 そのテーマは、山岳エッセイ、民俗および歴史的紀行もの、お酒の話、ジャズの話、そしてビジネスの話など節操がない。

 最近、同年代で、やたらと古い名作を読んでいるという人を知ったが、あの手はとっくの昔に読んでいた。

 パソコンには、暇をみて書き続けている二作目の創作話が、三百七十枚を超える字数で保存されている。ただ、話はまだまだ佳境に入っていない……。

 手が届くところにある雑多な物体(家人からはゴミ扱いされているが)も、何気に手にしたりするのにちょうどよかったりする。

 ちょっと蒸してきた。瞼もやや重くなっている。

 ここまでの文章は、昭和初期に作られたというガラスペンで書き殴ったものだ。

 このガラスペンの書き心地は格別で、実はその爽快感は、このガラスペンでも書き尽くせないのだ……?

風景に焦る朝について

毎朝七時十五分から二十分頃には家を出る。

その時間に出ておいた方が、道も空いていて、それほど気分を害することもなく出社できるからだ。

我が家のある石川県内灘町から、勤務地のある同県野々市市堀内までは、とにかく近くはない。

今頃は、若干早起きして、プランターや直植えした花たちに水をやることもある。

早く帰ることが出来れば、暮れる直前に水やりも出来るのだが、それはなかなか至難の技(と言うほどでもないが)で、やはり朝の水やりが多くなる。

クルマで家を出て二百メートルほど行くと、小さな十字路を右折し、高台の方へと上っていく。

緩やかというか、本当はかなり角度があると思うのだが、距離が長いせいもあってか、なかなか気分のいい登り坂なのである。

説明すると長くなるので省略的に書くが、ここはずっと砂丘台地だったところだ。それが少しずつ削られ、平地が後方(海の方)へと広がっていった。

今我が家は平地に建っているが、その場所どころか、そこから五十メートル手前辺りまで、かつては砂丘台地だった。

紀元前三千年とかの話ではない。ほんの四十年ほど前までの話だ。

日本という国が元気だった時代の土木・建設ラッシュなどで、砂がワンサカと必要となり、そのために我が家周辺の砂たちも、お国のためにと採取されていったわけである。

と、こんな話をしても、ほとんど理解してもらえないだろうから、説明はこのあたりでやめとこう。

 

登り坂の半分ほど来たところで、右手には河北潟干拓地の、六月から七月初めにかけての今頃であれば、ウスラぼんやりと霞がかったような風景が目に入ってくる。

梅雨の晴れ間的朝であっても、すでに高く上がりつつある太陽の光を受けていれば、そのぼんやり度がいい按配的に美しかったりもする。

もう少し前であれば、刈り入れ前の麦畑もかなり美しい。毎朝、ううむと唸る。

と同時に、チキショー…と口にはしないまでも、腹の中では思ったりもする。

写真に収めたくなるからで、焦りはかなりハゲしく募るのだ。

五月から六月の初めにかけては、晴れている朝は、毎朝唸り、そして焦っていた。

高台の通りに出るところで、だいたい決まって信号待ちになる。

交差点の正面方向は、かつてのゴンゲン森と海。道は真っ直ぐに伸びている。

左折して大通りに出ると、河北潟干拓地はさらに高度感を増した眺望となって、ますます唸らせる。

ここ(白帆台)に家を建てた人たちが羨ましい。

「ここに、わしらの畑があってんぞ!」などと言ったところで、負け惜しみか…

今度は左手になった風景が凄い。

はるか東の方向に、北アルプス北部の山並みも見え、さらに南に目を移すと、霊峰白山なども視界に入って来る。こうなると、もうカンペキだ。

今自分が会社へ向かってクルマを走らせているということに、罪悪感さえ抱いてしまう。

しかし、ぐっと堪える。

この短い葛藤の時間が、朝の日課になっている……

メガネが壊れたこと

ヒトビト的エッセイ記念すべき第二〇〇話は、「壊れたメガネについて」である。

二〇〇話というと、野球で言えば名球会入りの数字に似ていて、それなりに感慨深く思ったりするのが正しいのだろうが、この場合はそれほどでもない。

ただ、だらだらと書いてきたら、いつの間にかそれに達したというだけのことだ。

それで、その本来ならば記念すべき話の内容を、なぜ壊れたメガネにしなければならなかったのかというと、これもたまたまで、書こうと思ってパソコンに向かったら、偶然二〇〇話目ということに気付いたに過ぎない。

今更、内容を変えるわけにもいかず、前置きもこれくらいにして、壊れたメガネの話を書こう。

 

ボクの場合のメガネというと、遠視用メガネ、呼び方は嫌いだが俗に言う老眼鏡をさす。雪山で使うサングラスも二種類持っているが、日常的にはほとんど使わないので、メガネといえば老眼鏡、いや遠視用メガネだ。

その老眼鏡、いや遠視用メガネのフレームと柄の部分というのか、つまり鼻に乗っけておく本体部分と、耳に引っ掛ける棒の部分との接点がおかしくなり、それは繋いでいる薄い金属が折れたということなのだが、当然耳には引っ掛けられなくなった。

一般的にメガネは、耳に引っ掛けておいて使用するものが普通で、なかなか鼻だけでそれを支えていくのはむずかしい。

幸い折れたのが左側の一本だけだったので、始めの頃はそれなりに右耳一本で何とか支えてきたのだが、どうも落ち着きがよくないのである。メガネ本体が微妙に右の方へと傾いていく。

それにメガネの耳引っ掛け用の棒が片方しかないというのは、あまり見た目にもよくなく、出来るかぎり人目に付かないようにして、さり気なく使わなければならなかった。

たとえば人前で使わなければならないことを考慮して、左に人が来ないような場所で使うようにするなどである。

喫茶店などでは左側に壁か窓のある場所に座る。電車の予約席も絶対「A」にする。実際には電車に乗ることはなかったが、これくらいに気を遣った。

ただ、何気なく使っていると、時々外そうとして左の棒の方を摑もうとした。そして、その棒がないことにハッと我に帰ったりもした。いつもメガネを外す時は、左手で外していたのだと、その時初めて知ったのである。これはそれなりに新鮮な発見であった。

そして、ついに、その不安定感や余計な気配りなどに嫌気がさし、先日メガネ屋さんに行くことにした。

実を言うと(というほどでもないが)、ボクの眼は乱視も入っていて、月などは毎晩最低三つくらい確実に見えていた。

月がひとつしかないと言うのは、当然知っているが、かつて見ていたひとつの月は、今は二度と確認できないものになっている。

視力検査でも、顕微鏡のような例の器械を覗き込むと、メチャクチャな結果を招くらしい。ここ三年ほどは、検査のおねえさんに促されて、普通に目に杓文字のようなものをあてる検査もしている。

顕微鏡のようなものだと、0.5とかは分かるのに、1.0が分からないとか、おねえさんたちの判定を惑わせているらしいのだ。

その点、杓文字は長年の付き合いのせいか妥当な判定が出る。

ちなみに、ボクの視力は昔から両方とも2.0で、両目では4.0であった。

そんなわけで、メガネのレンズそのものとも、すでに不適切な関係にあったのだった。

 

メガネ屋さんは、家から近いこともあり、かほくイオンにある店にした。実はイメージしていたのは別の店だったのだが、歩いているうちに先に目に付いた店へと入ってしまい、面倒だからとその店に入って即刻決めてしまった。

店員のおねえさんも手際がよく、ボクの弱点である乱視について、きめ細かくああだこうだとアドバイスをくれた。

納得いくまでというより、ボクの方はすぐにそうだ、そうなのだと積極的に納得モードに移っていき、おねえさんの差し出す提案に素早く反応していったのである。

かくして、壊れたメガネは、次回またメガネを買う時に下取りしてもらえるという幸運も得て、家に戻ってきた。

ところで、メガネを買い替えた途端、急に浮上してきたのが、CASIOの山岳用アイテム(アプリ)がビッシリと付いた腕時計の電池交換問題だ。

アナログ(針)とデジタルが両方付いたというやつで、もう販売していないのではないだろうか。

前は普通の時計屋さんで電池交換もやってくれたが、今は中が複雑だとかでやってくれなくなった。それに値段もボクにしては破格だ。度胸のある時計屋さんがいなくなったのだろうか?

メガネは再利用できなかったが、この時計には初冬の雪山で、気温マイナス10℃の中、じっと見つめ合っていたという思い入れもあり、また動いてもらおうと思い始めた。

そんな山などもう行くこともないだろうが、いつもいい気分でいられるのがいい。

というわけで、メガネの新調がもたらした、何となく恥ずかしいながらも、嬉しい気持ちになれた話なのであった……(おしまい)

誕生日~暖かい午後の焚き火

58回目の誕生日となった日は、朝から美しく晴れ渡り、空気もほんわかと暖かくて、当事者としてはまるで人徳がそのまま表現されたのかと、錯覚を起こしてしまいそうな一日であった。

午前中は会社で会議があり、苦虫をつぶしたような顔でとおしたが、帰り際には草津で働き始めた次女から誕生日定番型のメールが届いていたりもして、一気に気持ちも緩んだ。

今日は何をするのかと聞いてきたが、そのときは天気もいいので歩きにでも行くかなと答えておいた。

誕生日だからと言っても、特に変わったことがあるわけではない。

午後になり、歩きに行くよりも、昨年から裏の無目的空き地に放置されてある、解体したオープンデッキの廃材を処分しなければなるまいと思いたつ。

処分すると言うのは、燃やすことである。

そして、同じく昨年枯らしてしまった木も、いっしょに燃やそうと考えた。

その木は、内灘のこの地に家を建てる時、母が隣地との境界線に沿って植えてくれたものだった。

母はその木を「モクデ」と読んでいたが、詳しいことは知らない。

隣りの畑が駐車場になる際に、どうしても移植しなければならなくなり、かなりきつかったが半日がかりでやった。

しかし、その時のやり方か、後の処置がよくなかったのだろう。両方もありうる。

移植一年目は葉も茂り、白い花も咲かせたが、翌年つまり昨年には全く葉も出なくなり、あっという間に生気を失っていった。

専門家に頼んでおけば問題なかったのだろうが、母もどこかから枝を切ってきて挿し木しただけのものだったから、安易に考えてしまったのだ。

四月の初めに、ただ無残に立ち尽くしているだけのその木を根元から切り落とした。

ひょっとして、また新たな芽が吹き出し、そこから元のように葉を茂らせてくれたらと秘かな期待もしている。

細かく折っておいたその木にまず火をつけた。

心の中で、母にすみませんと謝り、それから、それらがすべて灰になるのを見極めて、デッキの廃材を組み合わせていった。

20度を超える乾燥した空気の中で、焚火はすぐに大きくなり、デッキの廃材も半分以上は燃やし尽くした。

まだ半分は残っているが、なかなか一度に燃やせる量ではない。

この家に住むようになってから、よく焚火をした。

今はうしろの斜面も美しく整備されているが、かつてはニセアカシヤの雑木林であり、その枝が大きく被さってきていて、弱いニセアカシアの枝は強風のあとなど折れて落ちてきた。

それらを拾い集め、家の紙系のゴミなどと一緒に燃やした。

もともとが焚火大好きニンゲンでもあったので、月一回ぐらいの楽しみにもなった。

じっくり火と向き合っていると、アタマの中からすべてがなくなったり、逆にアイデアがいろいろと浮かんだりと楽しい体験ができる。

焚火をする時には、必ずポケットに文庫本を一冊差し込んでおくことも忘れない。

今回は、今ずっと読み続けて四冊目に入っている、民俗学の宮本常一のものを読みながら火の番をした。

焚火の前で、昔の山村の暮らしを読み、思い浮かべるのはなかなかいいものだ。

三時間ほどして、一応一区切り。

いつも思うのだが、あれだけの木片が、燃えてしまうとこれほどまでに少なくなってしまうのかと不思議さを感じる。

うちの無目的空き地にも隣地にも、だいこんの花が咲きまくっていた。

じっくり見てみると、白やうす紫の花びらが素朴に美しい。

中には立派な大根が地上から顔を出しているものもある。

放っておいても何かが生まれてくる“自然さ”を感じる。

そして、春はもうひとつ、嬉しいものを届けてくれた。

家の横でひっそりと存在する、膝くらいの丈しかない木々に花が咲き始めていたのだ。

これも母が植えてくれていたものだった。

家が建ってから、家の横の砂場にどっしりと座り込んで作業をしていた母の姿が懐かしい。

ボクもそれから、せめて花くらいは家の周りに植えようと思うようになり、そうしている。

この木は大事に育てていかなければならない。

ところで、この前気が付いたのだが、この文章で「無目的空き地」と書いている裏の場所なのだが、ついこの前まで「多目的空き地」だったはずで、いつの間にか変わってしまっている。

自分がそうしているだけなのだから、今更何を?なのだが、つまり、何となく近頃は無目的と多目的との境目が難しくなっている…、そんな気がするのだ。

まあ、それはそれとして、誕生日に焚火をする。それだけでもなかなかいいものなのであった……

 

 

 

 

 

誕生日3日前の雑感・・・

もうすぐ誕生日なのである。

具体的に言うと三日前であり、その日が来ると58歳になる。

もう58年分を生きてきて、これから先はとりあえず59年目に向けて生きていくわけだ。

生きているというのは、当たり前だが、進行形である。

それが進行形でなくなるというのは、つまり死ぬということであり、ニンゲンは、と言うより、生物は生きていくしか進行形を維持できないのだ。

58歳になろうとしているオトッつぁんが、何をマヌケなことを語っているのだと思われるかも知れない。

しかし、すでにかなり汚れたエネルギーを燃やしつつ今を生きているオトッつぁんには、ただひたすら進行形でいるということの切なさと共に、安直な開き直り感もあったりして、それなりに苦悩しているのでもある。

ある人が言っていたが、50代も後半になってきたら、早く60歳になりたいと思うようになる…と。

最近、その言葉の意味が少し分かるようになってきた。

そのこと自体もちょっとウスラ寂しい感じがしないでもないが、時間を先取りしていく方がいいなどと言う人もいるから、どこかに真実もあるのかも知れない。

しかし、ホントにそうなのだろうか?

若い頃は、時間を先取りしていっても、まだまだ先がいっぱいあったからよかったが、今はあまり先取りしてしまうと、残りがなくなっていく。

残り物には福があると言うのも、この段階では心細い。

いざ、58歳になるからといって、今さしあたってどうのこうのとは考えていない。

何が欲しいとか、何がしたいとかもない。

今までどおりしていたいというのが大半を占めている。

こうして思いを綴ったり創作したり、いろいろなところへ出かけ、写真を撮ったり、人と話したり、それなりに美味いモノを食ったり、酒をいただいたり、それから、いい音楽を聴いたり、ギターを爪弾いたり、面白い本を読んだりなど、今までどおりの時間が、今までどおりにあればそれでいいのかも知れない。

だから強いて言えば、あまり誕生日のことは触れてほしくない。

好きではないのだ。

この歳になると、誕生日は身内だけのことでよくて、家族とくに子供たちから、なんだかんだと言われているくらいがいいのかも知れない。

どうしても何か贈りものをしたいなどという人の厚意は、当然無碍にしないが……

そんなわけで、58歳になる三日前、それもかなり二日前に近付いた三日前における「もうすぐ誕生日的雑感」なのであった……

自分の世界とは何なのかな?

この雑文を読んでくれているという人(30代オトコ)から、突然、「ナカイさんの世界が少し分かってきたような気がします…」などと言われた。

今までほとんど言葉も交わしたことのなかった人からそんなことを言われると、ちょっと動揺する。

さらに、ナカイさんの世界なんて言われるのも同じで、こういうことがあると、じっくり自分の世界とは何だったのかと考えたりする。

人にはそれぞれに世界というのがあるのだろうが、他人から言われると少しコソバユイ。

しかし、じっくりと考えていくと、すぐそれは何でもないことなのだとも思う。

周囲を見回すと、人それぞれに、人それぞれの世界があることの普通さが分かる。

ところが、ほとんど知らない人から、少しわかってきたような感じがします…といった表現で言われると、かなりニュアンスが変わってくるのも事実だ。

つまり、その人はボクに関心を持ってくれていて、それでこの雑文に接しながら、ボクの世界を知ってしまったのだ…などと、訳の分からないことを思ったりするのだ。

そして、そうなると何となくその世界とやらに責任みたいなものも感じてきて、その世界の責任者であるボクとしては、それなりに背筋を正したりしなければならないのである。

その彼は、この雑文ページのことを、Facebookを通じて知ったらしい。

最初は、写真に興味を持ってくれていたみたいだったが、時々リンクさせているサイトを読んだのだろう。

当然、こちらとしても読んでほしいからリンクさせるのだが、ストレートにそういう人が目の前に現れると、ちょっと戸惑うのも事実だ。

実は、このことを書くかも知れないよと彼には言ってある。

彼は楽しみにしています!と言ったが、そのこと自体もナカイの世界の一部と受け取るのだろうか。

何となく、無機質なトラック五周型持久走的日々を送る中で、ふと自分を見つめるひとときがあったような、そんな気もした時間だった……

語るのが疲れたとき

いろいろな人たちと会い、いろいろな視点からの話をする機会が多くある。

もちろん日常的には仕事に関連した話がほとんどであるが、ボクの場合は特に提案的な話が多い分、まわりくどいストーリーが必要だったりもする。

それが日常的なものだったり、非日常的なものだったりするのだが、聞き手になってくれている人たちの反応を感じるのも面白く、話がどんどんと盛り上がっていく時のアグレッシブさは、ジャズ的な音楽にも似た高揚感があったりする。

と言っても、よくは分からないと思うので、もう少し詳しく書くと、それなりに口調に抑揚がついたり、身振り手振りがついたり、擬声語や擬態語が入ったりなど、とにかく会話が活性化していくというわけだ。

先日ある新聞に、話す時の“手のカタチ”のことが書かれていた。

それによると、ロクロをまわす時の手のカタチがいいみたいだった。

何となく想像できるだろう。

話しながら、ロクロをまわす。いや、ロクロをまわしながら話す。そんな仕草がいいと書かれていた。

理由は知らない。見た目かも知れない。

自分はどうだろうか?

その記事を読んだ後、ふと考えてみたが、よくは分からない。

何かやっているのはまちがいないが、ロクロはまわしていないような気がする。

言葉の意味と関連した仕草ぐらいはしているような気もするが、そんなこともよくは分からない。

基本的に、ボクにとってその仕草はどうでもいいのだろうと思う。

話し方や姿勢は少しずつ変わってきた。

もう若くないんだな…と思い始めた頃から、何となく前のめりに話すことを控えるようになった気がする。

責任のある話をしなければいけなくなってからは、必ず話のフィニッシュを考えておくようになったし、不思議なくらい、そのことが簡単にできるようにもなっている。

ジャズ的に生きてきた?から、アドリブ、インタープレイなどにも対応でき、どこからでも話をまとめていける感覚も身に付いたように思う。

自分で言うのも変だが、話している内容的には聞き手の興味をひくことが多いようだから、それなりに自分の世界や感覚の話をすればそれでいいところもある。

しかし、一昨日も昨日も今日もといった具合に、そういう会話の日々が続くと、正直落ち込むのが普通だ。

何かのアイデアについて語ったり、語り合ったりしていると、ついつい先の先まで読まざるを得なくなり、言葉の裏付けみたいなことをきちんと自分が用意しているかを考えたりしなければならない。

特に、言葉が具現化した時の行動を必ず想定しておかなければならないから、無責任なことも言えなくなる。

すごく正統なことを語ってるなと思っても、自分がそのとおり行動できないと思うと、少し引いてしまうのだ。

だから、そういう風な気のまわし方に疲れてくると、正しく落ち込んでいく。

時々、行き当たりばったりの会話を自覚したりするのはそういう状況の時なのだ。

 

それにしても、仕事上での会話について考えるなどというのは、ボクにとってめずらしいこと。

それを文章にしているのだから、これもまた不可思議な現象だ。

たぶん、今、カンペキに、会話に疲れているのだろうなあ………

 

3月が終わろうとしている頃の諸々話

三月は慌ただしく過ぎていき、気が付くともう月末(勝手を言いますが、「つきずえ」と読んでいただきたい……)と言った具合に終わりを迎えつつある。

次女の就職に伴う引っ越しや卒業式などといった身内的事情もあったが、この季節はやはり何かが動く時期で、それらに直面したりすると、とにかくひたすら慌ただしいと感じることになっているのである。

しかし、スケジュール表をあらためて見てみても、決して書き込みがすごいわけでもない。むしろ、一月や二月の方がぎっしりと予定が入っていた。

やはり、ちょっと気になることや心配を伴う予定があったりすると、ニンゲンは以前からそのことを気にかけるようになり、同時にまだ訪れていない慌ただしさも背負ってしまうのだろう。

三月も終わりに近づいて、玄関にはもうテレマークスキーの板もブーツもストックも用意されている。

長女のボードも置かれているが、あれは単なる片付け遅れで、こちらのテレマークとは立場が異なる。こちらはいよいよこれからが活動なのである。

三月も後半になると、少しずつ体が疼き始める。晴れる日が来そうになると、何はともあれ、会社を休むためのシミュレーションをすることにしていて、若い頃はそのとおりにできた。確実に休みをとっていたと言っていい。

しかし、最近では歳も喰ってきて、仕事もそれなりにズシリと肩から背中の真ん中あたりにのし掛かってくるものだから、ほとんどがシミュレーションで終わる。

家で、明日休んで行ってっかな…などと口にしても、家人は「日焼け止め、持って行かんなんよ」と言うくらいで、絶対に行けないと見透かしている。で、実際にはやはり行けないのである。

『四月になれば彼女が来る…』といったサイモン&ガーファンクルの名曲があったが、ボクにとっては四月になれば山へ行く・・・なのであった。

 

次女の引っ越しは、京都から草津(滋賀)という約一時間弱くらいの移動だった。

長女の時は京都から内灘(石川)で、引っ越し業界の雄・Sカイさんが見事なチームワークと気合の入れ方でコトを済ませてくれたが、今回の場合は就職先が提携している運送屋さんが独りでやってきて、ウ~とか、ア~とか言いながら、とにかく時間がないんです的に頑張っていた。

おかげでボクも荷物の積み降ろしを手伝い、久しぶりに鈍っていた体に緊張を与えることができたのは喜ばしいことだった。

休日の京都は、入るにも出るにも大いに時間がかかる。そこで、ひたすら時間がない運送屋さんが教えてくれたのは、比叡山を経て大津へと抜ける「山中越え」というルートだった。

我が家のマイカー史上、初の搭載となったカーナビゲーションとかいう文明の機器が威力を発揮した。と言っても自分のクルマではなく、家人のクルマのである。

京都はかなり行き尽くしていたが、「山中越え」を利用するのは初めてだった。

昔、朽木街道(今は鯖街道の方が名が通っているか)を経て大原へ行ったり、千日回峰という修験の道に興味を抱いて比叡山へ出かけたりしたことは何度もある。

さらに、大原から林業関係車両しか通らないような杉林の中の道を経て、最後は鞍馬まで行ったこともあった。しかし、「山中越え」の道の存在はなぜか知らなかった。

時々小雨が降ったりする山道は急カーブの連続で、ちょっと緊張が強いられた。

しかし、沿道の風情は時折ドキッとするくらいに気を引いたりもした。

 

草津という街は、国道1号線がズバッと突き抜けていて、一見分かりやすいところだった。

次女がこれから住む街だからと、それなりに思い入れも持ってきたつもりだったが、引っ越しの慌ただしさの中では当然そんなことに執着していることもできない。

ただ、生活していけるだけの空間づくりを手伝って買い出しに行き、スーパーの前にあった小さな洋食屋さんで昼飯を食い、それから持ち帰るものを積んだりしているうちに時間はなくなった。

それから一週間後には、また京都にいた。今度は卒業式だ。

長女は卒業後いつも京都行きに付いてくるが、ほとんど大学時代の友達と会うためで、交通費を浮かしている。今回も京都に着くとすぐ大阪にいる友人たちとのランチに向かっていた。

今回の京都行きにはそれなりに意味があった。

次女もいなくなれば、これから先京都への足も遠のくかと、思い切って町家の小さな旅館を予約したのだ。ところが、予約は何とかとれたが、当日の朝、その旅館を見つけるのに往生させられた。

すぐ近くに来ているにもかかわらず、見つけることができない。

近所のお店のお兄さんに聞いてようやく分かったが、想像した以上にひっそりと佇む宿だった。通りも歩行者と自転車だけが利用できるだけ。

客の半分ほどが外国人で、ボクが狭い階段付近で遭遇した三人の女性グループも、サンフランシスコから来たと言った。

「コンニチワ」と声をかけられ、顔が全く日本人だったので、カンペキに同朋だと思ったのだが、とにかく驚いた。

三畳間が二つくっ付いたような部屋で、四人家族が寝た。低い天井の梁には、少なくとも五回はアタマをぶつけた。バス・トイレ付だったが、着替えなどには気を遣った。

山小屋で狭い空間には慣れているが、そこは京都の宿だった。

夜は周辺を歩き回り、文句なしの京都を感じ取ってきた。もちろん、酒も飲んだ。

やはり、三月は慌ただしかったのだ。

四月になれば、この慌ただしさも何となく楽しみを伴うものに変わっていくだろう。

桜も咲けば、残雪も輝く。次女のことを時折思ったりしながら、三月が終わろうとしている……

 

 

山中の朝の自己嫌悪

山中温泉の最も奥にあるのかも知れない旅館で、冷え切った朝を迎えた。

風邪が完治していないのに、はずせない用事を理由に前日から来ていた。

夜の宴会が終わり、すぐに部屋に戻ると、その時初めて大きな部屋の奥にさらに小さな部屋があるのを見つけた。

そこにも一人分だけ寝床が用意されていた。風呂は翌朝にまわし、とりあえず寝ることにして、すぐに布団の中にもぐり込む。

しかし、そんなに簡単に寝付けるものではない。時計はまだ九時半を過ぎたばかりだ。

枕元のバッグから、先日新しく買ったばかりの『日本の村・海をひらいた人びと』を取り出し、身体を横にしたまま読み始めた。

民俗学者・宮本常一の二冊目だ。戦後、少年少女向けに書いた「日本の村」と「海をひらいた人びと」とを一緒にした文庫本。やさしい文体で綴られている。

“はじめに”で、父親から教えられたという旅の心得みたいなことが語られ、話はまず日本の家の形へと移っていく。

素朴で懇切丁寧な文章に、知識というだけではない何かが植えこまれていくような心持ちになっていく。そして、これが宮本常一の世界なのだなあと納得する。

四十ページほど読んで、消灯。

 

窓の外がようやく明るみを帯びたのは、朝風呂から帰った六時半頃だった。

明け方になって、また雪が降り出していた。

 

数日前、ある友人から手紙が届いた。

いろいろと波乱万丈っぽい人生を送ってきたその友人は、ボクのことをこのサイトで知り、そして近況を綴ってきたのだ。

その後、電話でも久しぶりに話した。元気そうだった。

詳しくは書けないが、彼は大袈裟に言うと人生をやり直そうとしている。

自分では淡々と話しているが、少なくともボクにはそう思えた。

ボクも素朴にそうした方がいいと話した。そのためにするべきことも伝えたつもりだった。

これから彼がどうやって自分を立ち直らせるのか? それなりに関心をもっている。

 

しかし、それから何となく自分のことにも思いが移った。

最近、おまえも随分時流からはずれているじゃないか・・・と自分に語りかけることが多くなった。

ボクに何らかの期待をしてくれている人たちに、自分は決して満足を提供できるニンゲンではないことも強く自覚するようになった。

それがいいことなのか、悪いことなのかは分からないが、自分は自分流の原理主義的発想の中で、コトを満足させていくしかないのだ・・・と、訳の分からないようなことを考えてもいる。

適合性が鈍ってきたニンゲンが陥る、一種の兆候なのかもしれない。

 

旅館の窓から見える、山里の冬の朝の風景から、ふんわりとマイナス思考の思いが膨らんだ。

そろそろ体調を戻して、雪の野原を駆けめぐって来ないといけないなあ。

雪野原で、熱いコーヒーでも淹れて、思い切り息を吐いてこないとダメだ。

やはり、あくまでも単純明快な原理主義的発想しかないのであった……

風邪の日の雑想と宮本常一

二月に入ったばかり、そのアタマから不覚にも風邪の餌食になってしまい、三十九度の熱を出してしまった。

そのために仕事にも行けず、自宅で隠遁中なのである。で、ハッキリ言ってヒマ…

朝、九時から始まる近くのC谷医院に三十分前から押しかけて、ひょっとすると、あのインフル…なんとかというやつではないかと先生に迫ったが、朝になって熱が三十七度後半にまで下がっているから、今のところ陰性とのことだった。

もちろん、鼻の穴にあの奇妙で怪しい物体が入れられ、なかなか鼻出んなあ~と、入れたり出したり数回往復させられたが、とにかくあの物体には参った。涙が滲んで仕方なかったのだ。

それにしても、今のところとはどういう意味なのか?

なんでも、また三十八度を超えるようになったら、すぐ来なさいと言う。再検査で、陽性になることもよくあるのだと。

実は、その一週間前にも腸炎を起こして先生に診てもらったばかりで、その時も風邪から来てるなと言われていた。

それに、風邪には全くもって完璧に縁のない存在だと思っていた、N良野マキ女史も先日それらしき魔物に取りつかれたという噂もあった……

ところで今回も思ったのだが、先生はここのところ見ていると、あまりヒゲをきれいに剃っていない。

面倒臭がりなのだろうか? こちらとしてはそういう先生の方が親しみがあっていいのだが…

薬をもらって医院を出たのが、十時少し前、凍結した路面に気をかけながらクルマを運転し、家に戻った。

すぐに横になる気にもなれず、ジョン・アバークロンビーの「OPEN LAND」を流しながら、宮本常一著「山に生きる人々」を読む。

何を聴こうかと迷ったが、何となくこういう時は、アバークロンビーになることが多い。なぜなのかは、自分でもよく分からない。

医院の駐車場や、待合室でも「山に生きる人々」は読んでいた。この本は、実に今のボクの心を捉えている。

企画屋兼野外活動家兼南米音楽及びジャズ愛好家である、友人のA立クンなどは、

「今までナカイさんが、宮本常一を読んでいなかったというのが不思議でありますナ…」

と、太い首をやや斜めにかしげたくらいに、ボクにとっては興味深い存在であったのだが、とにかく読むべく本が山ほどあった時代に、宮本さんにまでは手が伸びなかったということだ。

で、何がボクの心をつかんでいるかなのだが、それはひとことで言って、素朴な実録であることだろう。

当たり前と言えば、当たり前だが、やはり自身の足で全国を歩き取材してきた話は、ドラマチックで想像をかきたてる。

それに一九六四年に刊行されたという、この本の歴史性も惹かれる。

二十代から三十代の頃、異様なほど関心を持っていた旅紀行の読み物も思い出す。

その頃ボクは、司馬遼太郎の「街道をゆく」や、NHK出版局の「新日本紀行」「知られざる古代」などのシミジミ紀行モノから、椎名誠らに代表されるドタバタ紀行モノにいたるまで、何でも手当たり次第に読み耽っていた。

上高地の話でも書いたが、そんな中でも、山で暮らす人たちの歴史や生活には、なぜか強く興味が湧いた。もちろん現代においても、山里の風景には不思議と心が惹かれる。

 

しばらく鼻水の垂れるのも忘れて没頭していると、屋根雪の落ちる音で我に帰った。

うちの屋根は、このあたり半径五キロ周囲の中でも有数の勾配かも知れないので、雪が落ちる勢いもかなり激しかったりする。

今日は、太平洋側でも積雪があったとか。

それにしても、東京に雪が降った時には、民放テレビの朝の番組はほとんど首都圏の鉄道の遅れや、路面凍結などで時間を割いていた。

上越や東北の豪雪についても、ぬくぬくとしたスタジオの中で、アアだコウだと軽薄なことをコメンテーターたち が話している。

震災の時もそうだったが、なんかシックリこない。

 

しばらく風邪ひきオトッつァんであることを忘れていた。何となく、朦朧としてきてもいる。

C谷先生は、鼻はあまり出とらんなあ~と言っていたが、ボクにとっては、これだけ鼻水を意識するのはめずらしいのだ。

コーヒーでも飲むかと立ち上がると、加湿器が朝から気合を入れて頑張っていた……

 

冬晴れゴンゲン森の浜にて

正月が過ぎたあとにまたやって来た連休。その中日。

内灘で言うと海の方の空が、みるみる明るくなっていく。

しばらくすると、海の上の空が青で占められるようになっていた。

カメラを持ち、フリースを羽織っただけで外に出る。

まずは放水路付近からの海岸を眺め、そのあとにゴンゲン森の浜辺におりた。

風が強い。海は荒れて、波しぶきが舞う。浜では砂が飛んで顔に当たる。

カメラを構えると、体が揺れた。

なかなか安定した態勢が取れなまま、我慢しきれずにシャッターを押してしまう。

黒いマントのようなものを着たオトコが一人、砂浜をずっと歩いていた。

激しい風にあおられて、マントが翻ったりしている。

身体が右へ左へと傾き、時々大きく態勢を崩したりしている。

一時間ぐらいいただろうか?

頬も耳も手の指先も、みんな冷たくなっている。

今年初めて、海と相対した午後だった……

この冬、白い世界から始まるもの

去年まで、五年ほど続けて京都駅の大きなクリスマスツリーを見てきたのに、今年は見ていない。

別にそのツリーを見るために京都へ行っていたのではないが、もうクリスマスも間近になってしまった今頃になって、何となく後悔のような淋しい気持ちになっている。

去年の今頃書いた文章には、クリスマスについての自分の思いを書き、自分たちのバカバカしさみたいなことと、単なるロマンチックなイメージづくりへの皮肉みたいなことを綴った。

それはそれで自分の感じ方なのだから仕方ないのだが、今年は少し違っている。

それは、やはりあの震災があったからで、こういう状況下でのクリスマスには、違った意味のようなものを感じている。

サンタクロースも、そのサンタが届けてくれるプレゼントも、ツリーの明かりも、それらがすべて、今はそれなりに必要なものなのだと思っている。

先週、銀座や有楽町などで見たイルミネーションの光などにも、ボクは特別な何かを感じてしまった。

節電への無配慮とか空虚な演出みたいな思いもあったのだが、それは不思議と消えていた。

職業柄、ああいうものにはいつも敏感でいるのだが、あんなに見入ったのは初めてだったかも知れない。

そのことを力強く意味づけたのは、何よりも子供たちの笑顔だった。そして、それを見て喜ぶ大人たちの表情だった。

雪が舞い始めて、年の瀬の慌ただしさとクリスマスの賑やかさに拍車をかける。

家の前の馬繋ぎと、その周辺の枯れ草たちにも雪がうっすらと乗った。

雪は何もかもを覆い隠すように白い世界を作ってくれる。

この冬が、もういちど新しい何かを生み出してくれるターニングポイントになればいいと思う。

すべてを白くしたあと、また新しい色を塗りたくっていくのは、絆で繋がれた日本人であるボクたち自身だ………

鬼たちは、なぜ来年の話を笑うのか?

そろそろ来年のことを考えようと、「印は無いけど良い品」を売るという店で手帳を買った。

まともな手帳を買ったのは久しぶりのことだ。と言うのも、基本的に簡単なスケジュールだけメモっておければいいというタイプだから、これまで片手で簡単に丸めることができるくらいの超薄型手帳しか持っていなかったのだ。

手帳を入手すると、せっかくだから11月のページから使おうかなと思ったりもした。しかし、実際には12月から使い始めている。

その理由はと言うと、手帳用として使うための筆記具、つまりペンがなかったからだ。なぜか、そんな筆記具にはかなり激しいこだわりを持ったりする。手帳の紙質を見て、できるだけスムースに書けるものを選ぼうと思う。手がだるくなるような硬いペンは好かない。

そして、ようやく手帳購入後三週間にして一本のボールペンと出会った。出会ったと言っても、長女に買ってきてもらっただけなのだが、それなりに気に入った。よくは知らなかったが、ドイツのボールペンだということだ。

ボールペンと言えば、やっぱ、ドイツやろ…と、長女が言う。そう言えば、去年の春長女は旅行でドイツ辺りにいて、そこで買ってきてくれたボールペンは、ごくごく普通のものだったが、かなり書きやすく気に入っていた。

そんなこともあってか、ボクは新しいドイツ製のボールペンと早く打ち解けようと努力を始めた。最近、それが何となくうまくいっているような実感があり、手帳ともよい関係にある。

ところで、冒頭にも書いたように、手帳を買ったきっかけは来年のことを考えようと思ったからだ。

だが、いざ手帳を利用するようになると、あまり来年のことは考えなくなった。

予定を書き込んだりは当然するのだが、特に何かを考えているわけでもない。

来年のことを言うと、鬼が笑うと言われているからでも当然なかったのだが、なぜかそのことに興味が湧いた。

そう言えば、鬼は来年の話を聞くと、なぜ笑うのだろうか?(ようやく本題だ…)

 

 鬼たちは、来年の話のどの辺が可笑しいのだろう?

笑いにもいろいろなきっかけがあるだろうし、笑い方などにも違いがある。だいたい鬼たちが笑うのだから、頬にえくぼを作ってニッコリすることなどあり得ない。

一般的なイメージとしては、豪放に体をのけ反らせ、歯茎をむき出しにして笑うくらいが普通だ。

それに鬼たちはいつも酔っ払っているような印象があって、大声で笑いそうだ。

とすると、この場合でも、鬼たちは来年の話を聞いて体をのけ反らせ、歯茎をむき出しにして笑うのだ。よほど可笑しいことなのだろうと推測できる。

それほどまでにして笑える背景とは一体何なのか?

そのことの以前に、だいたい鬼たちの存在そのものを疑ってしまうのも仕方がないが、それはもうちょっと先に置いておくことにする。

 

考えついでに思うところを書こう…。

実を言うと、ボクは鬼たちには特に強い現実主義者が多いのではないかと思っている。

どちらかと言えば、悲観主義的で、顔に似合わない?ネガティブさを潜めている奴らが多いのではないだろうか。

ストレスの発散が苦手で、どんどん体内にそれを溜めているのかもしれない。

その証拠に、あの大きな角も、ストレスで出来た吹き出物みたいなものだと推測できる。

「全日本角型吹出物群研究学会」などといった学会があったとしたら、そのことはすでに発表されているだろう。そう思って、一応調べてみたが、Googleや、Yahooでは検索できなかった。

というわけで、だからなぜ鬼たちは来年の話を聞くと笑うかなのだが…

つまり、来年のことを楽しそうに語るニンゲンたちに、鬼たちは羨望や妬み、さらに不愉快さや息苦しさを感じ、とりあえず的に笑って済ませようとしているだけなのかも知れない。

あの能面なんかを見ても、怒りと笑いのちょうど中間にある表情だと見てとれる。

泣き笑いと言ってもいい。つまり鬼たちは切ないのだ。

だから、われわれニンゲンとしては、そんな鬼たちの心情をよく理解してやることにも配慮しなければならない。

とりあえず的に笑って済ませようとしているだけの鬼たちに対し、無意味に笑い返してもいけない。

われわれとしては、むしろ温かな気持ちをもち、鬼たちの笑いに対してちょっと首をすくめてやるくらいが丁度いいのだ。

そして、出来れば今年の話をしよう。去年の話でもいい。来年を通り越して、再来年の話などはもっての外だ。ついつい口を滑らすなどいうのも気を付けなければいけない。

そういうわけで、この時季は周囲に鬼がいないかを確認しながら、話をするように心掛けたいものなのである……のだろう。

※鬼の絵は、森田加奈子さんの作品

セルフのそば屋での出来事

久しぶりの東京だった。考えてみると三月の震災前に行ったきり。それまで月一回ペースで行っていたことを思うと、なんと長い間行ってなかったのだろう。

今回は両国で某業界団体の会合に出席して、それから某自治体の東京事務所を訪問し、懐かしい某氏と会って、某計画のことなどについて打ち合わせをする予定だった。

昼頃に東京に着き、すぐ両国へと向かったが時間がたっぷりある。一応まずは昼飯ということで、駅を出たところにあるセルフ方式のそば屋に入った。

スタッフは全員女性。表のメニュー板に出ていたお得っぽいセットものを選んで、自販機の食券を買った。

特に混んでいるというわけではなかったが、遠慮して入り口付近のカウンターに座る。

その段階で、ボクはちょっとした、いや大きなと言うべきか、とにかく情けない勘違いを犯していた。

自分が頼んだメニューを完璧に忘れていたのだ。セルフだから呼ばれたら取りに行く。ところが、この店のシステムでは、普通よくある番号制とかではなく、メニューそのものの名を呼ぶのである。

果たして…。ボクが食券を渡してから三分十五秒くらいが過ぎた頃、店内にコールがあった(そんな大袈裟なものではないが)。

「なんとかと、せいろそばの方~」

あ、ハイッ。自分の注文したものが呼ばれた(…と思った)ボクは、席を立ち、受け渡しカウンターへと向かう。

なんだ、随分早く出来るんだなあ~。こっちは時間が余ってるんだから、もっとたっぷりと時間かけて、今からそば打ちなんかしてもらっても良かったのになあ~と思っている。

席に戻って、余裕たっぷりに汁(つゆ)を器に注ぎ、ネギもさらさらといつもよりはゆっくり目に落として、わさびを溶かす。

味に関しては、多くは期待しないが、それでも少しは期待する。

それにしても、麺が思っていた以上に多くて、大盛りを頼まなくて正解だったと思う。お昼の間だけみたいだが、そばは大盛りを頼んでも同じ値段になっていて、わざわざ店員さんが大盛りにしなくてもいいですかと聞きに来たくらいだ。

そばの準備ができて、一緒に付いてきたというか、どちらかと言えばメインっぽい丼物の蓋を開ける。

やや?と首を傾げた。

何かイメージが違う。こんなものを自分が選ぶなんて考えられない。が、間違えて、ボタンを押してしまったということもある。

そばも準備万端整っているし、まあ仕方ないからこのまま食ってしまおうと思った…。その時だ。

「なんとかと、せいろそばの方~、お待たせしました~」との声。

一瞬、耳を疑う。いや耳を疑っても仕方がなく、自分自身の早合点的判断によって起きた、お店の人および、本来ボクの目の前にあるセットメニューを食すべき客人の怒りの表情が浮かんだ。

ボクはすぐに自販機を振り返った。

ボクが頼んだのが、今コールされた「親子丼・せいろそばセット」で、今、目の前約35センチ斜め下方にあるのが、「スタミナ丼・せいろそばセット」だった。

さらに受け渡し場の方に目をやると、呆然とする店員さんたちの表情。

オレ、間違えてますね…。絶対間違えてます…。申し訳ない…。

店員のうちの一人は、何となくボクが間違えて持って行ったのではないかと思っていたふうだったが、彼女もそれをボクに言えなかったのだろう。

それと死角になっていたボックス席に、先に入った客がいたことにボク自身も気が付いていなかった。

では、この間違って目の前まで持ってきてしまった「スタミナ丼・せいろそばセット」はどうなるのか?

しかも、そばつゆはボク好みに出来上がっている。量が多いと勝手に思っていたそばは、実際は大盛りだったのだ。不安がさらに募った。

その時、厨房から無言の人影が出て来た…かと思うと、いきなりボクの丼の蓋を戻し、丼には手を付けていませんね?と聞いた。

はいと答えると、では丼だけ交換させていただきます…との、明解な一言。

その数秒後には、ボクの目の前35センチ斜め下方に、ボクが指名した親子丼が置かれていたのだ。

もちろん、スタミナ丼を待っていた客人にも、無傷のそれが届けられた。

まさに大岡越前守忠相ばりの卓越したお裁き?であった。

おかげさまで、無事ことなきを得て、完食。そして退店。

一応、またお越しくださいませ~の声も聞こえたが、ボクとしては恥ずかしい思いをしたので二度と行く気はなく、これからセルフサービスの店に入る時には、必ず自分が選んだものを再確認しておこうと心に決めた。

そう言えば、東京は異様なくらいに暖かかったのだ……

どうでもいいようで、よくなかった話

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の春、金沢武蔵にある「Sタバ」とかいう茶店での出来事…。

店内は混んでいて、辛うじて確保したテーブルに、めずらしく娘といた…。

若い夫婦が赤ん坊をベビーカーに乗せて入って来る。ベビーカーをカウンター前に止めて、メニューか何かを見ていた。

突然赤ん坊がけたたましく泣いた。母親が赤ん坊に話しかける。だが、話しかけるだけ。赤ん坊は泣きやまない。その時間がちょっと長く感じられ、正直不愉快にもなった頃だ…。

「私は、本が読みたくてここへ来てるのよ」と、近くにいた老婦人が言った。細い銀縁の眼鏡をかけた、白髪の小柄なおばあさんだった。

言い方はまったく激しくはなく、むしろやさしかった。が、その言葉で店内はしーんと静まり返り、ボクと娘も顔を見合わせていた。

若い夫婦は、何か悪いことでもした? というような顔をしながら、混んでいたこともあってか、そのうち店を出て行った…。

そのことがあってから、なぜかそういうシーンに敏感になった。

たとえばMスドとか、Sタバのような店では時折そんなシーンに遭遇した。オトッつァんたちやオッカさんたちが話している時などは、まあまあ許せるが、ちょっと仕事や勉強などをしている人たちには堪ったもんじゃない。

ボクも原稿書きに時折使わせてもらっている。

先日見たシーンも、見るにも聞くにも耐えがたいものだった。

五人で入ってきた、いかにも若きスタイリッシュな母親たち。それぞれが一人ずつ小さな子供を連れている。ほとんどがようやく歩き始めたばかりといった、普通に言えば可愛くてたまらない子供たちだ。

しかし、五人も集まれば、まず母親たちが静でない。はっきり言って、うるさい。さらにそんな母親たちが子供たちをまったく見てないから、子供たちも解放的になり、うろうろと、いや、よちよちと店内を歩き回る。

歩いているだけならいいが、喚いたり、叫んだりもする。機嫌が悪くなると、当然泣いたりもして、店内はさらに騒々しくなる。

近くまで来れば、ちょっと愛想笑いもしなければならないし、気を使う。

しかし、母親たちはほとんど極限状態にならないと腰を上げず、ひどいのになると自分の席から、

「・・ちゃん、こっちおいで」とか、「静かにしてなきゃ、ダメでしょ」などと言うだけだ。

パソコンに向かってレポートでも書いていたのだろう、女子大生風の女の子は母親たちの方を一回睨んでから、イヤホーンを耳に当てた。

外国語の辞書か何かを広げていた女性も、それをバタンと閉じてフーッと息を吐く。

ここで、「おいコラッ、責任者出てこい!」などと、もう三十年も前に他界した、ぼやき漫才の人生幸朗(古い!)みたいにはボクも言えない。

思うのは、若いこうした親たちは、しばらくの間こういう店には出入りしない方がいいということだ。

子供たちがもう少し大きくなって、幼稚園でも行くようになるまで我慢なのだ…と。

他人に迷惑をかけているという意識をもたないといけないなと思う。

いくら子供でも・・・なのだ。

最近、ある町で企画しているイベントでは、「子育て」をテーマに進めていたが、途中から「親育て」にテーマが変わった。

今大切なのは、よい子供を育成していくために、よい親を育てなければならないということだった。

高校球界のある有名監督さんから、選手を育てる前に、親の方に神経を使っていたという話を聞かされたこともある。

たまたま、こっそり練習を見に来た母親が、自分の息子がファールグラウンドの草取りをしていたのを見て、学校に電話してきたという。

「うちの息子は、草取りをさせるために、そちらの学校に入れたのではありません」と。

草取りは当番制で、たまたまその日が当番の日だった。こういうことから野球、いやスポーツ、いや社会は始まるのではないか・・・。

どうでもいいようで、やはり自分の経験からしてもよくなかった話だった……

疲れると、青空と雲を見る

仕事でちょっと眼が疲れたりすると、席を離れ大きな窓のある部屋へ行く。

晴れた日には、そこから青空を見上げ、雲を見る。

しばらく見ていると眼の疲れが少しずつ癒されていくのが分かり、首筋から肩にかけて重い何かが抜けきったような感覚に浸れる。

山にいても、同じようなことを感じることがある。

山では眼だけが疲れるわけではなく、全身、つまり足の先から頭のてっぺんまでが完璧に疲れるのだが、そんな時にも空が癒してくれたりする。

特に好きなのは、北アルプス・太郎平小屋から黒部五郎岳方面に登り、北ノ俣(きたのまた)岳頂上直下の平らになった稜線で見上げる空だ。

この空にはただ美しく濃い青があるだけでなく、北アルプス最奥部の美しい稜線が、パノラマで空を切り抜いたような光景を見せてくれる。

このようなことは、山では当たり前なのだが、特にボクはその場所が気に入っているのだ。

ちなみに、ビールは空に十分匹敵する癒やし品なのだが、ここでは横に置いておく・・・

ところで、最近までこの癒し感覚は青空のせいだと思ってきた。

空の青さが癒やしをもたらしてくれるのだろうと思っていた。

しかし、ここへきてそれが少し違っていることに気付いている。

もちろん、青空は元気の源だし、この世には永遠になくならないものがあるんだということを教えてくれるすべてのようにも思う。

しかし・・・、疲れを癒すという意味では、雲の存在の方が大きな力になっていることを最近知った。

特に、秋のカツーンとくる(人によってはスカーンもあるらしい)ような青空の中に浮かぶ雲は、絶好の特効薬になっていたりする。

その要因は何か?と言うと、やはり雲には“ボーっとできる”エキスが漂っているということだ。

そしてそれは、雲自身がボーっとしているからに他ならない。雲は実にボーっとしている。

この季節のふんわりと柔らかそうな白い雲を見れば、十分納得できる。

どのような模様にでもすぐに変身してしまうこの時季の雲は、ひたすらのんびりしているようにも見えてくる。自主性がない。

目を凝らしていなければ分からないような弱い動きを、それほど目を凝らさずに見てみる。

すると、雲の動きの“ボーっと”につられたように、見ている眼もボーっとしてくるから不思議だ。

そして、眼がボーっとしてくると、いつの間にかカラダ全体もボーっとしてくる。この状態が凄くいい。

悟りの境地とはこの時の状況なのかも知れないと思う。

今年の秋は、理由があってよく眼が疲れ、そのために空と雲を見る機会が多っくなった。

しばらくは、そのボーっとに救われる日々が続きそうだ・・・