3月 安曇野 常念は見えず


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 考えてみると、実に久しぶりに安曇野にいた。

 何年か前に大町まで来たことがあるし、松本にもごく最近行っている。しかし、じっくりと安曇野の地に立ったのはとにかく久しぶりだった。

 半月ほど前、つまり3月のアタマに甲府まで鉄道でのんびりと出かけていた。そして、長野からの篠ノ井線の車窓から安曇野を強く意識して眺めていた。

 何度か書いているが、岡田喜秋の『旅に出る日』にある「常念岳の黙示」を読んだ後の余韻などがまだまだ強く残っていて、安曇野への思いは高ぶり続けていたように思う。

 そして、甲府に着く前の客車の中で、今度は家人を連れ、姥捨(うばすて)の風景をじっくりと見てから松本で一泊し、帰り道に安曇野に寄ろうという新しい計画を立てていた。

 もうひとつ安曇野には別な目的場所があった。田淵行男の記念館だ。さらに、定番の碌山美術館もあったが、実は 「常念岳の黙示」にある、“安曇野から常念岳を見る” という大きなテーマも心に重く位置づけられていたのだ。

 話はまず、姥捨から始めよう。そんな大袈裟なストーリーでもないが。姥捨のことは前にも書いている。最近、ちょっと意識するようになった場所である。いや、ちょっとではないかもしれない。

 上越自動車道で長野を過ぎ、松本までの間にあるインターで下りる。国道403号線で山道へと入っていく。篠ノ井線が高地を走っているのと同じように、403号線も安曇野から松本へと山越えする道だ。その途中に姥捨がある。まずは基本としてJR姥捨駅に向かわねばならない。

 「姥捨の棚田」というのは、日本三大車窓風景に選ばれているというくらいだから、鉄道目線を意識するのは当然だろう。実際そのとおりで、403号線から細い道に外れ、高台から少しずつ下っていくと、その小さな駅があった。

 実は自分が何度も見てきた車窓の姥捨は、この駅に入ってくる電車からではない。ややこしい話で説明的に書くのもちょっと面倒だが、この駅に入ってくるのは普通電車で、自分が乗っていたのは特急列車だった。

 特急は駅の方への線路に入らず、駅の上をまっすぐ通り過ぎていくのである。つまり専門用語で言うと、姥捨駅は「スイッチバック」というシステムの駅なのである。このことも最近ではめずらしいらしく、鉄道ファンには人気になっているという。

 ということで、誰もいない姥捨駅のホームに立ち、その空気にしばし浸り、すぐにまた道を下った。

 途中にあったのは、姥捨公園。シーズンオフのようなこの時季、広い駐車場には一台のクルマもいない。いくら人気のある場所といえども、こんな季節に訪れる人は少ないのだろう。

 道を挟んで古い寺が建っている。崖っぷちに大きな岩があり、それを登ると眼下に姥捨の棚田が見渡せる。

 残雪もある大好きな “冬枯れの風景” が広がっていて、しばらくじっと目を凝らしていた。動くもののほとんどない風景が、冬枯れを描いた絵画のようで、その色合いに満足していた。

 水田に水が張られた季節に映る月を眺めるのが、この姥捨の絶景らしいが、その頃に来ることができる保証などない。それよりも純粋な山里・山村風景好きとしては、風景が見える昼間の方がよく、月見などはそれほどの興味ももっていない。

 寒かったが、車窓のガラス越しではない冬枯れの姥捨をじっくり眺めることができた。

 国道403号線に戻り、山越えしていく途中にあった展望台からの善光寺平風景も、哀愁が漂う。千曲川にかかる冠着(かむりき=この名前が好きで)橋が印象的だった。

 松本までは残雪を時折見ながらの山越えだった。しかし、ボクにとってはとても上品な雰囲気で好きな道であったのだが、ひとつ問題があり、そのことを家人から鋭く突っ込まれ窮地に陥る。

 原因は昼メシ時間真っ只中にいたにも関わらず、全くそれらしきお店などと遭遇しない道であったことだ。いや何ケ所かはあったが、なんとなく気乗りせず通過した…

 結局、その問題は長い時間を経たのち国道19号線で解決した。明科で見つけたラーメン屋さんで列をつき(普段はめったに列にはつかない)、待った甲斐のあるそれなりの昼食にありつけたからだ。店の周辺ののどかな風景と美味しい味噌ラーメンが収穫であった。

 松本に着くと、クルマを一度駅近くの駐車場に入れた。コーヒーが飲みたかった。それも街なかをぶらつきながら、なんとなく雰囲気のいいカフェで飲もうと決めていた。

 かつて松本はかなり勝手知ったる街だったが、最近はあまり自信がない。結局コーヒーを飲んだのは、松本駅の建物内にあるスターバックスでだった。店の造りが気に入った。広く伸び伸びとしていて、我々もそれなりに伸び伸びとしながら、コーヒーとおやつの菓子をいただいた。

 予約しておいた宿は、こじんまりした上品な和風旅館だった。我々ともう一組しか宿泊客はおらず静かだった。旅館までの最後のアプローチがちょっと分かりづらかったが、狭い坂道を上っていくと駐車場があり、そこから少し歩いて下ったところに古い小さな門があった。ご高齢な女将と建物内の造りに、旅館の気品のようなものを強く感じた。

 翌朝は、松本市美術館にまず立ち寄った。展示を見るというよりも建物をみることが目的だった。それまで写真で見たことはあったが、実物を見るのは初めて。施されている色の美しさに納得して、早々にクルマを出した。

 目的地はもちろん安曇野である。松本からは近い。かなり久しぶりとなる碌山美術館で、まずゆっくりと時間を過ごした。

 この時季の安曇野らしいと言えばそれまでかもしれないが、空気は肌寒く、待望していた常念などの山並みは雲に隠れていた。

 当然、碌山美術館の敷地の中もそんな晩冬の空気に包まれており、いくつかの展示建物を経ながら最後に入った建物の中でストーブの暖か味に出会ってからは、しばらく外に出る気をなくした。はじめは先客がいたが、誰もいなくなるとそこは快適な空間となった。

 1958年、地域の人たちが皆で協力し、この美術館を造り上げたというストーリーに今更ながら感動し、萩原碌山が実際に生きた当時(明治)の安曇野の古い写真などに見入った。こうした古い写真への興味はそれなりに深い。特に安曇野ともなれば格別だ。

 家人はストーブの横に座り静かに文集を読み始めている。かなり興味を持ったようだ。熱心に読みふけっている。

 窓から外を見ていて不思議に思ったのは、若い頃に初めてこの美術館を訪れた時と比べると、自分の受け止め方に大きな変化が生じているということだった。

 当たり前の話で、今更何を言うのかということでもあるが、こんな風に地域とひとつの美術館のつながりというか、そのことを歴史という時間軸でとらえた場合の感動の深さというか、とにかく若い頃にただトレンドに近い形で追っかけていたようなものが、今は全く違った形で自分の目の前にあるような気がした。ちょっと恥ずかしいようで、それがまた自分の中では妙に新鮮だった。ニンゲンとしてのいい意味?での青さが、まだ自分には残っているのだろうと、いい風に思った。

 駐車場に戻ると、ちょうど大糸線の電車がやって来るところだった。家人は先にクルマの中で待つことになり、こちらは一人で線路脇に立って電車が来るのを待った。

 学生時代の冬の帰省にはよく大糸線を使った。早朝新宿から松本まで行き、松本で三時間半ほどの時間を作って街を散策した。駅前の山小屋という喫茶店は最後にいつも入る店だった。

 その後、卒業してから山に入るようになり、あの時の喫茶店が西穂高山荘と同じ経営者であるということを知った。そして、八ヶ岳方面へ出かけていた頃に一度立ち寄ってみたが、その頃には松本の街は再開発で大変身しており、喫茶・山小屋もおしゃれで大きな店に変わっていた。

 八月の半ば、真夏・真っ昼間のカレーが美味かった。大盛だった。食後のホットコーヒーの味は忘れたが、なぜかとても充実したお昼タイムであったことだけは覚えている。

 話が松本に戻ってしまったが、金沢までの大糸線初冬の旅は実にドラマチックで、どこか別のところで書いた記憶がある。姫川沿いを走る糸魚川までの車窓の風景や、長時間停車する無人駅のホームから眺めた風景などは、二十歳を過ぎたばかりの若者には強烈すぎた。

 話はかなり寄り道。だが、いよいよ田淵行男記念館へと向かう。初めて訪れる場所だ。

 山の世界では田淵行男は特別な存在だが、広くはあまり知られていないような気がする。

 ボクにとっては、日本百名山の深田久弥よりも興味深くて面白そうな人だった。ただやはりその存在を知ったのはそんなに古い話ではない。

 明治38年(1905)鳥取生まれで、平成元年(1989)没。東京高等師範を卒業し、富山や東京で教壇に立った後、映画会社に勤務し、その後昭和20年(1945)疎開で安曇野に移ってから高山蝶の研究に没頭。当然山に入り浸るようになったのであろう。

 昭和26年(1951)には、山岳写真集を出した。田淵の写真で有名なのは浅間山を撮ったもので、一度は目にしたことのある人も多いだろう。

 ずうっと前に初めて植村直己冒険館を訪れた時と、どこか似たような期待感があった。

 あの時、兵庫県の日高町は暖かな春雨に煙っていて、途中、川沿いの桜たちが柔らかそうな雨に打たれながら出迎えてくれた。

 それに引き換え、田淵行男記念館のある安曇野は冷え冷えとしていたが、安曇野であることが十分な答えだった。

 家人が入館料を払っている間に、すでに中にいた………

 写真はモノクロ。写真の中の風景をとおして、山の文化や当時山に入って人たちの服装や装備などを想像させる。想像するのがクセになっている。

 その始めはやはり上高地だったと思う。

 田淵のトレードマークであった黄色いテントが、愛用の道具などと共に、さも当たり前のようにして展示されていた。

 黄色いテントは、彼の著書のタイトルになっている。そういえば自分のテントも黄色でなかったろうかと思ったが、田淵と比べると使っている頻度が違いすぎて申し訳ないくらいだ。そもそもモノグサだから、テントを張ったり片付けたりすることが面倒だった。

 田淵行男著の『黄色いテント』は、読み応え十分の長編だ。

 元来、高山蝶などの自然生物の探索に山へ入るのが主なのだが、当然のこととして、山にいるときのさまざまな出来事などが紹介されている。

 正直、蝶の話にはちょっと付いていけないところもあるが、現代とは違って、ほとんどテント張りに規制もなかった時代の自由な山行の雰囲気が伝わってくる。

 田淵の研究心旺盛な性格が山行のための道具づくりなどにも表れていて、なるほどと感心してしまうことも多い。

 そういえば、何年か前にNHKでドラマ化されていた。田淵のまじめさと、理解の深い奥さんの姿が印象的に描かれていた。

 小さな記念館にいつの間にか多くの人たちがいた。

 すべては、安曇野だなあとあらためて思った。

 すべては、安曇野なのだ。

 外へ出て、晴れていれば見えるはずの北アルプスの方に目をやり、すべては、安曇野だからと、また思う。

 田淵行男も、岡田喜秋も、そして、萩原碌山も、さらに言えばこのN居も、安曇野の果てしのないチカラにやられたのだ。

 思い出したが、今回は特に常念岳が見てみたかったのだった。

 岡田喜秋が綴った常念岳からの黙示とその心境を感じてみようとしていた。

 しかし、それも虫のいい話だということに気が付いた。もうかなりご高齢である氏が大学生の頃の話だ。

 今の自分がそんな若者の心境を感じ取ってみたいというのは、無理なのではあるまいか? 

 また近いうち、必ず訪れるであろう安曇野に、しばしの別れだった……


「3月 安曇野 常念は見えず」への1件のフィードバック

  1. 待ってました。
    これからも、どしどし書き下ろしてください。
    安曇野は一時期のトレンドのようにも感じていました。
    私も二度三度と出かけておりますが、
    碌山美術館の話はなぜか新鮮でした。
    また行きたくなりました。

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