カテゴリー別アーカイブ: 季節の話編

朽木街道を行く

 久しぶりに京都・大原の里をゆっくり歩き、翌日も奥嵯峨の方まで足を延ばして来よう…という旅に出た。

 と言っても、その上り下りの道中は、30年ぶりぐらいの「朽木(くつき)街道」であって、どちらかと言えば、その道中の方 に重きがあったと言ってもいいかも知れない。もちろん、そのようなことは助手席の家人にも言っておいた……

 「朽木街道」を知らない人でも、「鯖街道」と言えば知っているにちがいない。かつて、越前から京へと鯖が運ばれた道だ。

 最初に朽木街道のことを知ったのは、今から40年以上前である。この雑文集にも再々出てくる司馬遼太郎の『街道をゆく』でだ。この街道をめぐる紀行は、19711月から週刊朝日で連載が始まったが、その3・4回目が朽木街道の話だったと思う。

 当然、その時をリアルタイムに知っているわけはなく、その後に文庫本の第1号が出てから知ったのである。

 そして、当初この街道への関心は、京都大原に抜けられるという話から始まった。大原や比叡山の方に、金沢から日帰りができるというのが魅力だった。

 京都へつながるというのは、かつて織田信長が浅井・朝倉軍に敗れ、家来たちを置いて逃げ走ったという話で有名?であり、信長嫌いのボクとしては、その意味でも痛快な道であった。司馬遼太郎もこの話を詳しく書いている。

 ボクはその話よりも、深い谷の道とか、街道らしい美しい水の流れがあるということに惹かれていた。

 当時(40年前)の道は今のように整備されていなかった。観光道路ではなかった。大型車とすれ違う時などは少し怖い思いをしたし、もちろん道の駅などもあるはずがない。

 ただ、静かで、季節感にあふれた道だった。

 そんな道(朽木街道)を何度も走った。これも『街道をゆく』からの影響だが、大原から鞍馬街道へ抜け、あちこちをめぐりながら、最後は嵐山に宿をとったこともあった。鞍馬への途中には杉木立の中の細い道があり、林業の人たちにご迷惑をかけまいと、ひたすらアクセルを踏み続けていたのを覚えている。そう言えば、あの時も今のように新緑が美しい季節だった。

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 金沢から高速をつなぎ、若狭街道と名付けられている道を走ると、滋賀県に入る前、つまりここはまだ福井県なんだなと思うあたりに熊川宿がある。

 先はまだあるからと、宿場のはずれにある道の駅でわずかな休憩をとるのみにする。

 ご高齢ライダーたちが、こうしないとカッコが付かないのだよ…と言わんばかりに煙草を口にくわえている。その集団を横目にトイレへと行かねばならない。

 こういう時よく使うギャグが、タバコ吸ってもいいけど、吐いちゃダメだよというセリフだ。特に、吸っていいすか?と問われた時などには、よく受ける………

 まだ昼には時間がたっぷりある。その日は気温が30度を超えるらしいと聞いていたが、このあたりもすでに陽射しが強く新緑が眩しかった。

 熊川宿を過ぎるとすぐに滋賀県に入り、若狭街道から分岐していよいよ朽木街道へと入っていく。

 ところで、一般の地図上には朽木街道という表記はなかったような気がする。『街道をゆく』の中にあった地図には、明確に記されているが、その堂々とした表記がいい感じでよかった。

 クルマに加えてオートバイが多いのは、この道の気持ちのよさのせいだろうと思うが、京都の人たちが海に出るのに便利な道であることも想像できる。奈良はもちろん、京都の中心部も海とは縁遠いイメージがあって、高貴な歴史文化には海とつながる道が必要なのだ…と、勝手に思ったりした。

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 朽木の中心部であると思われる「市場」という町の中でクルマを止めた。

 朽木の杣人(木こり)たちが四方の山々からこの市場へと降りてくる…と、司馬遼太郎が書いていたように、ここには現在の高島市の支所や学校、商店などが集まっている。道の駅もあった。

 その古い家々が並ぶ光景は実に不思議な世界で、百貨店と名付けられたユニークな外観のお店や旧商家、郵便局なども目を引き何度となくカメラを構えさせる。家人もクルマを降り、この古い町並みを楽しんでいた。

 大原までの道はここからさらに山深くなっていく感じで、それにしては道がいいなあと思っていると、見下ろす集落の中に延びている狭い道が、かつて自分が走っていた道なんだろうと想像させた。

 「花折」という懐かしい地名が出てくるのは、その名のついたトンネルに入る時だ。琵琶湖大橋まで通じているという道と分かれるのが「途中」。この地名も見覚えがあり懐かしい。

 峠を過ぎて道は当然下りになり、しばらく行くと美しい白い花たちに迎えられる。林間のゆるやかなカーブが続く、快適な道が待っていた。

 もう京都府にいる。

 それからまたしばらく行くと、果てしなく青い空の下に、大原の里が広がっていた……… 

 ※続編『朽木街道を帰る』『朽木街道で大原へ』へと続く予定……

 

 

冷やしビールと 冷やしたビールの違いについて

 

 メールで送った文章の中に脱字がありましたよ…と言われた。らしくないですね…とも言われた。

 たしかにこうした形式が多くなってから、文章が雑になっていると感じたりする昨今である。印刷されるものの時はもっと丁寧だったような気がする。

 偉そうで申し訳ないが、それは読み返しの度合いなどでもはっきり違っているし、出来上がってからでも直すことが簡単にできる分、安直な対応に終始しているのは間違いない。

 ところで、その脱字とは「冷やしビール」という表現であった。これはボクにとって何ら問題のない表現である。

 仕事用のメールに使ったもので、大雪時の“雪どかし”も、冷たいビールを楽しみにしてやれば少しは励みになるでしょう…という意味を込めていた。

 多分、受信者は「冷やしビール」ではなく「冷やしたビール」だと言いたかったのであろう。たしかに言われることは分かるのだが、ここはやはり前者にするのがボクのやり方なので………

 それにしても、あらためて言われると実に面倒臭い。この微妙な感覚についてはなかなか説明が出来ないのである。だいたい説明をしなければならないのかという観点からしても微妙なのだが、一度こうして疑問が投げかけられると右往左往してしまう始末だ。

 しかも、そういう人に限ってどれだけ説明しても絶対に分かってくれない。いや、分からないというか、多分そうした感覚そのものを体内に宿していないに違いない。

 だが、この感覚を何とかして説明しようとしている。厄介なことになったなあと思いながら、どうもこれでは気が済まないといった心境にある。もちろん相手は自分自身だ。

 

 さて、ボクの中での「冷やしビール」というのは、「冷やしトマト」とか「冷やしきゅうり」などと同じだ。表現として一般的かどうか分からないが、農家の前に置かれたり、山小屋や観光地の店先などで売られている果物や野菜たちの部類である。

 器に湧水を溜め、その中で冷やされている。冷たいきゅうりなどは、割り箸のような棒に刺して売られていて、特に真夏などは爽やかで美味い。山の帰り、上高地の明神館で喰らいついた「冷やし青りんご」(これは勝手に命名)も格別であった。

 ボクの中での「冷やしビール」は同じ仲間なのだ。つまり、冷蔵庫の中できちんと並べられ冷やされたビールではなく、無造作に、しかも科学のチカラなど借りずに自然の状況で冷たくなったビールのことを言う………?

 そして、この場合のビールは缶ビールだ。ただ、先ほどの雪どかしの後のビールという点では、どうしてもこういう経緯で冷やされたビールでなければならないのかというと、決してそうでもない。冷たければ何でもいいことだけはたしかだ。

 ただ強いて言えば、雪どかしをしながら山スキーの時のように缶ビールを雪の中に埋めておき、一作業終わった段階で取り出して飲む……といったカタチもいいかなと思ったりする。

 なぜ、そこまで表現にこだわるかなのだが、どうもボクの表現手法(そんな大げさなもんでもないが)の中には、「冷やしたビール」ではなく「冷やしビール」といった具合に、一括名詞型に丸め込んでしまうというクセ?みたいなのがあって、それが自分の好きな表現方法(そんな大げさなもんでもないが)として確立されてしまっているように思える。

 こういう話をすると、必ずまた突っ込みがあって、「冷やし中華」と一緒ですね?と言われそうである。

 しかし、それは違う。どこが違うかというと、「冷やし中華」は決して「冷やした中華」ではないということであり、本来「冷やし中華」という呼び名は一商品として個別に作られたものである。そもそも「中華」では大雑把すぎる。その点、「冷やしビール」は正真正銘「冷やしたビール」であり、ビールという具体的な飲み物をさしている点で「冷やし中華」のようないい加減さはない。このことを混同してはいけない……と思うのである?

 話がややこしくなっていく。このあたりで終わりにしておいた方が逃げ切れそうなのであるが、どうも説明し切れていないな…といったもどかしさもある。

 そういうわけで、とにかく「冷やしビール」的な響きをずっと大事にしてきた。本来ならば、どっちでもいいと言ってやり過ごすが、もう少し時間をかけて考えてみようかと思う。

 ただ、といいながらも、このコーナーが『風にゆれるビールの泡のような雑文集』であるという点も踏まえ(?)、まあそこまでいかなくてもいいのではないか…などとも考えるのである………

 

湯けむりの中で口笛を吹く

 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………

この正月の日常……

 過ぎてしまえば、やはり慌ただしく時間は流れていたのだと思う。正月とは、だいたいそういうものなのかも知れない。

 元旦の午前中から仕事関係の会合に出かけ、午後の遅い時間に戻り、堅苦しい洋服を脱いで、それから正月らしくあろう…と、酒を飲み始める。

 だが、長続きはしない。酔いを追うようにしてやってきた眠気が、酔いを飲み込んで、目を開けているために必要なエネルギーを抜き取っていく。

 その間、家人は翌日迎える娘たち夫婦への料理づくりでずっとキッチンに居た。

 そして、その翌日。昼過ぎ着の電車で大阪からやって来る次女夫婦を、K駅へと迎えに行った。

 駅周辺は、初売りで大混雑。ちょっと離れた駐車場を利用して、自分の好判断に満足した。

 家に戻ると、地元K市に住む長女夫婦もやって来て、家の中が久しぶりににぎやかになった。

 この二組の夫婦は、去年の春と晩秋に出来たばかりで、俗に言う新婚である。

 ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒… みなよく飲む。さらに、テレビでは箱根駅伝と大学ラグビー準決勝。

 飲み食いとお喋りの間に、それぞれ母校の勝利のための声援が入り、当方は母校ラグビー部の久しぶりの決勝進出に酒の味が急上昇し、当然さらに進んだ……

 そして、気が付くと、三日目の朝であった。

 娘たち夫婦はその日の午後、それぞれの住処へと帰って行った。

 おまけの話は、宴の最中に大学ラグビーの決勝戦に行くことが決まったことである。最近はチケット購入も電車の予約も簡単になった。一月七日、朝の新幹線で東京へ。

 家人と超アクティブ派の長女夫婦が同行し、何年ぶりかの秩父宮ラグビー場に胸が躍った。

 ゲームは一点差の敗戦だったが、セーターの上から紫紺と白のTシャツを着て、久しぶりに校歌を熱唱し、ひたすら大声で叫び、雄叫びも一回。そして、本気のガッツポーズを何回もした。

 四人とも手のひらが充血していた。

 大好きなラグビーの面白さをあらためて認識した一日であり、その夜の丸の内における打ち上げ会も観戦談で盛り上がり、最終の新幹線で帰ってきた。

 正直、これが今年の正月のハイライトだったみたいだ。

 慌ただしく時間は流れていたのは間違いないが、やはり正月とはそういうものでなければならないと痛感したのである……

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

ノーサイドの後も、ゲームの余韻に……

蕎麦畑のそばにて


 蕎麦の花が咲き広がる風景というのは、山村にひっそりと存在するものだと思っていた。

 そして先日、富山の南砺市で出合った風景によって、その思いは変わった。

 その蕎麦畑は、とても新鮮だった。単なるボクのせまい見識の中でのことだったのかも知れないが、その爽やかに広がった風景は、まるで昔話の世界のように感じた。

 普通の道をクルマで走ってきた。そして、なんとなくアタマの中に予感が来た次の瞬間、周囲が蕎麦の花だらけになった。

 人家もあり、神社もあり、当然その鳥居もあり、おまけに青空があって、水の流れもあった。

 蕎麦の花にこれほど惹かれたのは初めてだった。

 すぐに細い脇道へとハンドルを切り、しばらくしてエンジンを切った。カメラを持って来ていてよかったと心の底から(と言うと、ちょっと大げさだが)思った。

 辺りをうろつきながら、何枚も写真を撮る。通り過ぎていくクルマの人たちが、不思議そうに見ていたりするのが分かる。

 しかし、こっちはその人たちの視線に構ってはいられない。

 時間にすると、二十分ほどいただけだろうか。

 蕎麦の花から、「ざるそば」や「もりそば」、ましてや「おろしそば」などを想像することはできない。まったく別モノだ。

 花は「蕎麦」という漢字で表現する方がよくて、食べるときは「そば」とひらがながいい。

 恥かしながら(と言うべきか?)、ボクと蕎麦との出合は、小田急沿線の駅にあった立ち食いの『箱根そば』であった。

 ただ、それは名称としての「そば」との出合であり、実際に食べていたのは「うどん」だった。一杯が百数十円の「たぬきうどん」が定番メニューだったのである。

 カネがなくなると、一日三食「たぬきうどん」だったこともある。

 富山のブラックラーメンの上をいくような濃い汁が、セーシュンの味だった。

 店員は無造作な仕草で、天かすをどっさりとうどんの上にかけてくれた。これもまたセーシュンの味であり、うどんと一緒に口の中で混ざり合った時の満ち足りた瞬間は、セーシュンの味の絶妙なインタープレイ体験(?)だったのである。

 正真正銘の「そば」との出合はいつだったのだろうか?

 たぶん、大学を卒業して社会人になり、金沢のそば屋さんで食べた「にしんそば」が最初だっただろうと思う。

 人生のナビゲーターの一人である、ヨーク(金沢ジャズの老舗)の亡き奥井進さんと、金沢のそば屋と言えば的存在であった『砂場』で食べたのである。

 どういう状況でそうなったかは忘れたが、ヨークがまだ片町にあった頃の遅い昼飯だったか…?

 奥井さんが店員に「にしんそば」と言った時、ボクも同じく…と言った。正直、本当は「いなりそば」あたりにしたかったはずだが、あの頃は奥井さんに追随する気持ちが強く、これも人生経験みたいな感じで注文したのだった。

 しかし、「そば」はボクにとって、その後しばらく強く望むような食べ物ではなかった。

 「そば」好きになったのは、いつの頃からか分からない。

 

 食材に恵まれなかった山あいの人たちが蕎麦を作っていたという話も、二十代の中頃、信州へ頻繫に出かけていた頃に知った。

 あの頃食べていたそばは、今ほど美味くはなかったような気がするが、単なる味音痴の的外れな話かもしれない。

 今は、あたたかい「いなりそば」か、冷たい「おろしそば」が好きである。ただ、そのことと蕎麦の花の風景とは特に何ら関係はない………

 

晩夏っぽい初秋の白川郷雑歩

 

 思い立ったように、家人と白川郷へと向かう。

 若い頃の思い立ったという状況には、ときどきクルマを走らせてから咄嗟に決めるということがあったが、齢を食うと、そんなことはほとんどない。

 今回は、なんとなくアタマの中でどこへ行こうかと迷いつつ、前夜のうちにほぼ決めていた。ただ、なかなか踏ん切りがつかず、一応朝決めたみたいな状況になったために、“思い立ったように”と書いたまでである。

 そういうことはどうでもよくて、久しぶりの白川郷は、まずとにかく暑かった。

 木陰も気持ちよかったが、歩いている途中で見つけた休憩所になった旧民家の畳の間も気持ちよくて、横になっていると、そのまま浅い昼寝状態に落ちていった。

 最初は我々だけだった。しかし、我々の気持ちよさそうな姿を見つけた往来の観光客たちは、当然のように、しかも怒涛の如くなだれ込んで来て(ややオーバーだが)、しばらくすると、かなりの混み具合になっていたのだ。

 さすがに世界遺産・白川郷なのである。

 今回も金沢から福光へと抜け、城端から五箇山へと山越えし、岐阜県に入ったり富山県に戻ったりを繰り返した。途中、五箇山の道の駅「ささら館」で昼飯を食べた。

 ささら館の店では久しぶりに岩魚のにぎり寿しを食べたのだが、早めに入ったおかげで、ゆとりのある昼食タイムになった。あとからあとからと客が入って来て、一時ほどではないにしろ、相変わらず高い人気であることがうかがえる。

 初めて来たのは、NHKの人気番組で紹介された後だった。あまりの客の多さに、店員さんたち自身が怯えているように見えたほどだった。

 白川郷に着いても、特に焦って動くほどでもなく、駐車場の奥の方にあったスペースにクルマを置いてゆっくりと歩きだす。

 庄川にかかる長い吊り橋には相変わらずすごい人が歩いている。真ん中が下がって見えるから、人の多さに吊り橋が緩んでいるのかと錯覚してしまうほどだ。言うまでもないが、実際にはそんなことはない。

 9月の終わりだからコスモスが目立つ。

 最近見なくなっていると、自分の尺度で珍しがっている。

 街なかの住宅地の空き地にコスモスが植えられていると、そのことが「しばらくここには家は建ちません」といったお知らせ代わりになっている…そんな話をこの前聞いた。

 コスモスはやはり高原とか、畑地に咲いているといったイメージがあり、ボクにはそうした場所で見るコスモスに強い親しみを感じたりする。だから、住宅地に無理やり凝縮型に植えられたコスモスを想像すると、なんだか情けなく感じる。

 そういえば、いつか能登の道沿いで出会ったコスモスのいっぱい咲く畑に居たおばあさんはまだ元気だろうか……と、白川郷のおばあさんを見ながら、能登のおばあさんのことを思い出したりした。

 もう何度も来ているから、白川郷のほとんどの場所は行き尽くしている。見学できる有料の合掌家屋なども、世界遺産になる以前に入っていたりするから、今さらながらだ。

 そんな中でまだ入ったことのない(であろう)一軒の家屋を見つけた。

 今回は特にメインの道というよりも、田んぼの畦に近いような脇道を歩いていたせいだろうか、その家屋はふと今まで見たことのなかった視界にあった。

 地元の人ではないような?… 都会的な匂いのするスタッフがいた。てきぱきと受け答えをし、忙しそうだったが、この家が生活の場でもあると確認し、ああやっぱり白川郷だなあと思った。

 世界遺産になって初めて訪れた時、こんなにも違うのかと、目を疑うほど観光客が増えていたのに驚いた。ちょうど今回と同じような夏の終り頃だったと思う。

 そして、集落の中を歩いていた時、部活から帰ってきたらしい中学生の女の子が、畑にいた母親の手伝いをしに行く様子を見た。

 すぐそこにあるといった日常の光景だった。

 周囲には自分も含めた観光客たちが、かっこよく言うと非日常を求め彷徨っている。しかし、その母娘の姿はまぎれもない白川郷の日常だった。

 もともと、日常が見えるからこそ旅は面白いのだという感覚があった。この集落を歩く時にも、なんとなく地元の人たちの日常を探すようになっていた。

 ずいぶん前のことだが、年の瀬の木曽で、年の瀬らしい日常を見せつけられ、独り淋しい旅の夜を過ごしたことがあった。学生時代の帰省と合わせた旅であったから、そこで見せられた民宿の中の日常の光景に望郷の念(大袈裟だが)が高まったのかもしれない。

 若かったが、冷たい冬の空気が体の芯にまで沁みていた夜だった。

 旅人が非日常を求めるというのは、そこで暮らす人たちの日常を見るということだとよく言われたが、それはさりげなくであるのがいい。

 ただ、自然などの普遍的なものとともにある生活様式も、時代とともに変化して当然だ。

 中学生の女の子が着ていた、どこででも見るような体操着。母親のおしゃれな帽子。どれもが日常である。

 暑さも増した午後、水田では稲刈りが普通に行われていた。

 こちらはただその場を通り過ぎていくというだけでいい。なんとなく感じるものがある。

 白川郷でいつも新鮮な思いを抱かせてくれるのが“水”だ。特に暑い日には、道端のその流れの様子そのものが爽やかさを伝えてくれる。

 道端の水が勢いよく流れているのを目にすると、その土地の豊かさを感じる。どこの山里でも同じで、それは単に農業や生活への恵みなどといったものを超越した豊かさのように思える。水の持つパワーは偉大なのだ。

 何気なくといった感じで、白川郷を訪れ、何気なくといった感じで白川郷を後にした。

 いつも立ち寄っていたコーヒー屋さんが閉まっていたのを、行くときに見ていたので、どこかで新しいコーヒー屋さんを見つけようと思っていたが、果たせなかった。

 国道を走ると、高速への分岐を過ぎたところで喧騒が消える。

 走っているクルマは極端に少なくなる、特に五箇山方面は。

 静かな五箇山の、村上家の近くで、ソフトクリームを食った。

 家人は「美味しい」を連発していた。自分もまあそれなりに美味いと思い、適当に相槌を打っていた。

 神社ではお祭りの準備が整っている。こきりこの祭りだ。 

 慌ただしそうで、それなりにのんびりとした時間が流れているなあと思っていた………

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

北信濃・温泉町のひまわり

 夏、北信濃の湯田中温泉のある古い宿に泊まった。家族と一緒だった。宿に入ってすぐ地震があって、短い時間だがかなり揺れた。なんとそこが震源地だった。生まれてはじめて、震源地で地震を体験したのだった。

 その宿は風呂場がトテツもなく凄かった。なにしろ有形文化財の指定を受けており、豪壮な木造建築がそのまま浴場になったような感じで、とにかくトテツもなかったのだ。

 そして、翌朝早く、朝飯前の単独行(散歩)で出合ったひまわりにも感激した。

 それは当然文化財ではなかった(…と思う)が、質素に静かに温泉町らしい空気感を醸し出していた。

 最近では、ひまわりを広く団体で植えて迷路を作ったりするのが流行っていて、ああいうのもそれなりにいいのだが、今回出合ったそのひまわりは、数本の仲間とともに、趣のある和風の家の庭から咲き出していて、特に板塀の上から、こちらを逆に覗き込もうとしている様子がよかった。

 出合ってすぐ「おはようございます」と、あいさつをされているような気分にもなり、ひまわり特有の天然の明るさに親しみを感じた。

 そして、しばらく佇んで見ていると、さらにまた何か話しかけられているような、そんな気もしてくるのであった。

 板塀がいいと思った。それも竹で作られたような板塀で、都会にあるようなイメージのものではなく、やはり北信濃らしいというか、素朴な材料が使われている感じがしていいと思った。

 その奥に建つ家屋も非常に雰囲気が良くて、そこに住んでいる人たちの、麗しい夏の生活が目に浮かんでくるような気がした。

  一度だけ、我が家でもひまわりを植えたことがあったことを思い出していた。

 一気に10本ほどのひまわりが咲いてくれたが、自分から見て美しく咲いてくれたのはわずかで、多くは美しい咲き方をしてくれなかった。

 成長していくスピードにムラがあって、大きさもアンバランスだった。

 満開になってからの数日はそれなりに嬉しかったが、だんだんみすぼらしくなっていくと、人に見られるのも嫌な気がして早めに切ってしまった。あれ以来、ひまわりは他の誰かが植えたものを見るようになる。

 そして、夏の終わりごろの、かなり落ちぶれたひまわりを見ては、こうなる前に何とかしてやればよかったのにと思うようにもなっていた。

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 泊まった宿は温泉町の奥深いところに位置していて、宿の周辺は静かな住宅地といっていいような雰囲気だった。俗に言う「温泉街」ではなかった。

 ひまわりに出合う前、すぐ近くにあった寺に寄った。

 小林一茶の句碑がある…

 子ども等が雪喰いながら湯治哉

 草履もない貧しい農家の子供らの、温泉に入りに行く楽しみ…… そんな光景を詠んだ句とか……… なんとなく目に浮かんできて切なくなる。

 一茶の気持ちを少しだけ理解した思いで、本堂の前に立ち手を合わせた。

 境内を出て、少し歩き、高台から見下ろす夜間瀬川の方向と反対側の小高い山並みを見た。そして、特に目引くものはないなあと思いながら引き返して、宿の前を通り過ぎた。

 夜間瀬川は「よませがわ」と読む…ということを後で知った。

 それからしばらく歩いて、一本脇道に入ったあたりで、ひまわりと出合ったのだ。

 こうした旅の際にときどき思うのだが、この脇道に入るといった感じが大切だ。

 特にどうということもない生活空間だが、旅のニンゲンからすればあくまでも非日常の空間である。

 必ずと言っていいほど、得した気分になれるシーンがある。だから、勇気を出して(というほどでもなく)足を踏み入れるのがいい。空気感だけでも、心に響くのだ……

 ひまわりの家の前あたりから、細い道はゆるやかに曲がっていく。

 曲がった先は見えず、さらに歩いていくと、またその先もゆるやかに曲がっていた。

 明け方だろうか、少しだけ降った雨の水たまりがある。

 空き地に不規則に建つ民家が、静けさを一層助長しているように見えている。

 どこかで感じた空気の匂いがしたが、ここでは思い出せず……

 その後、二十代の頃、信州方面の行き当たりばったり旅で、泊まるところがなく、山あいの湯治場の宿に入れてもらった時のことを思い出した。

 少し違ったが、あの時、日が暮れた山村の道をクルマで走らせながら見ていた風景は、あんな感じだったかもしれない。

 ほんの一瞬のことだったろうが、かなり寂しい風景だった。

 ただ、そんな風景も翌朝見た時には夏の強烈な朝日を受けて輝いていた。

 

 これはいつか深く書きたいと思っているが、「信州」というこの二文字に弱い。二十代の頃から、この二文字を目にするとなぜかココロが躍った。

 ココロが焦ることもあった。その焦りは異常なほどに膨れ上がって、胸を苦しめたりもした。

 ときどきどこかで書いているが、山岳や高原や森や林や田園や河原や山里や…、自分の好きなものがすべて信州にあった。

 今こうして家族旅行で訪れた温泉町も、どこかにそんな思いがあって選んだ場所なのだと思う。

 

 ぐるりと回って、またひまわりの前に来ると、さっきよりもいくらか明るくなった気配の中に、ひまわりも少し姿勢をよくしているように見えた。

 見ていて飽きないが、家の中の人から見ると怪しい通行人の存在にちがいないだろう。

 しかし、このひまわりは、どこか他のひまわりと違う… そう思えてならなかった。

 とにかくどこか大らかで、やさしくて、ものに動じないような逞しさもあって、信州の北信濃の美しい風に揺られながら、夏の一日一日を楽しく過ごしているのだろうと思えた。

 離れがたかったが、その場を去る時が来た。

 そして、大げさすぎる思いを、もう一度ひまわりへの視線に託した。

 もうお会いすることもないでしょうが、お元気で。

 ひまわりがそう言っているような気がして、なんだか寂しかったのである……

風鈴の音が……

 風鈴を買ってきて窓際にぶら下げたが、なかなか鳴らない。

 真鍮製のおしゃれなデザインで、値段も風鈴を買うという自分のイメージからすると、それなりのものだったのだが、鳴らないので物足りない気分でいる。

 最初は、下げた場所の問題かと思ったが、どうやらそれだけではないのではと考えるようになった。たぶん下に付いている紙の部分の形状ではないかと思ったからだ。

 風を受けるには下の紙が細すぎるような……

 この紙のことを短冊と呼ぶのだそうだが、このネーミングからするとやはりデザイン性も重視されて仕方ないのかもしれない。

 が、しかし、やはり風鈴は鳴ることに意味がある。

 しかも、やさしい風というか、わずかな空気の動きにも敏感に反応してくれるものの方が価値は高いのではと。

 真鍮というテイストからすれば、そう捉えても不思議はないだろうと思う。

 今のところ(買ってから一週間ほどが過ぎて)、自然の風では一度も音を発していない。

 短冊は微妙に揺れたりするが、よく見ると回転しているだけだったりもして、役割を十分に果たしていないような感じにも見えたりする。

 ときどき、いい風が家の中に入ってきたりすると、十分に涼しさを感じているにも関わらず、風鈴が鳴らないことでその涼しさが半減したり…… 不信感はさらに深まり、どうも納まりが悪い。

 対策としては、短冊を作り替えるしかないかと………

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 世の中では風鈴は夏のものと決まっていて、その機能は涼しさの演出というところだろう。

 音で涼しさを感じさせるなんて、ちょっと不思議で凄い機能のような気もする。

 そもそも音で涼しさを感じるというニンゲンの感覚そのものも凄い。

 生(ナマ)で聞くせせらぎの音や、木の葉の擦れ合う音などが、涼しさを感じさせる代表格と思うが、そこには視覚的なイメージが付いている。

 かき氷機の氷を削る音などもあるが、鼻の付け根の奥あたりに激痛が走ることを想像してしまうのであまり好きではない。

 風鈴はそうした意味でいうと、音の素が焼物やガラスや金属などだから、奇妙な存在だ。まさに音そのものの中に涼しさの要素を秘めている。

 風鈴の音を聞き、風鈴が揺れているのを目にすると、「暑いなあと思っていたけど、それなりに涼しいのでは…」と、つい思ってしまうような。

 しかし…… しっかりと外から風が吹き込んで、部屋中が涼しく満たされているのに、風鈴だけが自らの使命を忘れて鈍感な態度をとっているとなると、やはりおかしい。

 風鈴が鳴らないという現実によって、豊かな感性を持っているはずのニンゲンの尊厳が失われかねない。

 そういうことで、風鈴は姿かたちももちろん重要だが、やはり音が出やすくなっているということにも存在意義があるのではと思うのだ。

 かつて、商店街の夏の行事で風鈴をやたらと吊り下げるという企画があったが、正直言ってあれはうるさ過ぎた。音もガチャガチャといった感じだけで、風情が逆になくなってしまっていた。

 そういう意味では、ちょうどいい具合に上品に鳴ってくれるくらいがいいのだが、そこがまたむずかしいところなのだろう。

 ところで、風鈴は夏と言うが、音を楽しむということからすれば、秋でもいい。秋風と風鈴という組み合わせの方が、日本的な気がしないでもない。

 蚊取り線香がなくならないで、ずっと愛されていると聞く。蚊は夏だからいいとして、風は年がら年中吹くものだから、風鈴もそれなりに鳴っていてもいいのではないかと思ったりする。

 わが家の真鍮製風鈴も、そうした存在でいてもらおう……

 

 

白いワンピースの少女

 海につながる道にさしかかると、よくドキドキした。

 今は全くそういうことはない。

 かつて、誰かの小説に、白いワンピースに麦藁帽子をかぶった清楚な少女が海辺から歩いてくる…といった内容の話があり、はるか以前、つまり小学校の頃、同じような少女にわがゴンゲン(権現)森の浜で出会ったことがあって、この一致があって以来、どうもそのような場所には白いワンピースの少女がいそうな気がしていた。

 出会ったその少女も、白いワンピースがかなり似合っていた。

 余計なお世話的に書いておくと、ワンピースはフォーマルっぽいのではない。風にひらひらと靡くようなものだった。

 しかし、はっきり言って、廃れ果てた魚捕りの孫的少年には、身分や育ちやその他モロモロの違いが歴然としており、半径約五メートル以内にはなかなか入っていけなかった。

 少女はボクよりいくつか年上だったように思う。街の子であることは間違いなく、一緒にいたお母さんも完ぺきに街のお母さんだった。

 なにしろ、おやつのお菓子を持っていた。

 われわれ(急に構える)みたいに、海に潜って採ってきた貝を、砂の上で焼き、熱いのをそのまま海水に浸して頬張るなどといった輩とは違った。

 ふかふかして見えるハンカチも持っていた。それを額にあてたりしながら、ちょっとまぶしそうな顔をすると、その表情が天使の可愛い怒りのようにも見えた。

 もちろん彼女は怒っていたわけではない。

 街から来たであろうと思われる海水浴の少年少女たちは、たまに海の中でやや臆病そうな素振りを見せたりした。すると、われわれは近づいて行き、わざとバタ足でしぶきを上げ、そして、そのまま周辺に潜ったりした。

 こうした街の子たちは、浜茶屋が出来た頃から自家用車に乗って、わがゴンゲン森海水浴場にも来るようになっていた。当時のボクには新鮮な存在だった。

 が、そんな中でも、白いワンピースの少女は別格だったような気がする。彼女は、それまでの十年ほどに及ぶボクの人生の中で、最も輝いていた女性だったと言っていい………?

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 そんなわけで、八月の下旬のよく晴れた暑い午後、いつもの志賀町図書館で用事を済ませた帰路、柴垣の海に出る細い道に入り、そのまま海岸までクルマで乗り入れさせていただいた。

 その途中にあった海に出るあたりの光景が、なぜかとても懐かしく、ちょうど西に傾きかけていた陽光もまだまだ鋭くて、やっぱり夏だなあといった心持にさせてくれた。

 腰紐をうしろで縛った白いワンピースの清楚な少女が、両手を軽く腹の前あたりで重ねながら歩いてきても不思議ではないと思ったが、当然そんなことはなかった。

 砂浜に革靴で立つ…… 海を見る。空を見る。白い雲たちが好き勝手に流れ、実にアヴァンギャルドな光景を描いている。

 青い海に白い波、青い空に白い雲、夏は青と白でできている。

 海で育った少年時代の思い出の中に、白いワンピースのちょっと大人っぽい少女の姿があるのも、たしかに正当な存在なのであるなあと納得する。

 砂浜に立っていたのは、ほんの五分ほど。白いワンピースの少女の思い出は、その後すぐに、寂しく消えていった………

 

夏はいつも凄かったのだ。

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金沢と能登をつなぐ「のと里山海道」が、

まだ「能登有料道路」と呼ばれていた頃の話だ。

終点穴水の少し手前で、道路上に光る黒い点を見つけた。

次の瞬間、その光る点は放射線状に広がったように見え、

すぐに弱い光になった。

バックミラーで後続車のいないことを確認すると、

ボクはゆっくりとブレーキを踏み、そしてクルマを停めた。

黒く光った物体は静かに、そしてかすかに動いていた。

クワガタだと分かるまでには、それほどの時間も要せず、

敢えて近づこうともせず、

その黒くて弱い光のゆっくりとした動きを見ていた。

夏は凄いなあ………

その時、そんな言葉がアタマに浮かんだ。

熱いアスファルトの上をクワガタが動いてゆく。

そのクワガタが、光を放っている。

そして、ボクはその光景を見ている。

その先には陽炎が、はっきりと目に見える。

額には、うっすらと汗がにじんでいる。

照り返しがきつい。

目をずっと開けているのは少しつらかった。

やっぱり、夏は凄いと思った。

そして、なぜか嬉しくなった。

足を開き、膝に両手をおいた。

熱くなったカラダが、またさらに熱くなっていく。

しかし、それを楽しんでもいる。

やっぱり、夏は凄いのだ。

夏の凄さが、静かにだが、ココロを躍らせている。

 

あれからもう何年も過ぎてしまった。

ただ、ずっと昔の、夏の一瞬がまだ生きている………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

まぶしいほどの新緑の中で夏を考えた

 静かな沼の脇にあるベンチに腰かけ、まぶしいほどの新緑に浸っていると、ふと、そろそろまた夏が来て、その夏が去っていく頃、また少し寂しいというか、空虚な気持ちになるのかもしれないなあと考えている。

 まだまだ夏は来ないのだが、それでも来るのは確実に決まっている。そして、そのままずうっと夏が続くのではなく、去ってゆくのも確実に決まっているのである。

 その夏に対して、何ら計画もなく、ただ薄らぼんやりと過ごしてしまう予感が今年もある。

 しかし、実行できないのはかなりの確率で予感できるのだが、まだ春の余韻の中にいる時季だから少し自分らしい夏について考えてみようと思ったりもする。

 夏は若者のイメージだから、夏に執着するのはオトッつぁんらしくないが、少し違う何かが自分の中にあったりするものだから、敢えて考えてみるのである。

 

 かつて、『ポレポレ通信』という無分別書き下ろし型プライベート紙(誌ではない)を出していた頃、よく夏のことを書いた。

 夏に向けての計画についても、夏の終わりのレポート的雑文なども書いていた。ただ今と違うのは、当時はほとんどが実現する(した)話だったのだ。

 普通(上辺は)のサラリーマンであったボクには、普通に夏休みの時間があり、普通にそして身軽に何でもできる環境があった。基本的にほぼ自分のやりたいように夏は組み立てられていた……と言っていい。

 その頃の夏は、たとえば八ヶ岳山麓や、信州の高原などの自然の中で過ごす一週間などに賭けていた。そこでの夏休みは、今でも最高のもので、社会人になって以降、秘かに(近い)将来ここに住もうと考えていたほどだ。

 そう言えば、今年の夏はその八ヶ岳山麓に行きたい…と、正月あたりだったか、誰かに語っていた記憶がある。

 なぜ八ヶ岳山麓への思いが再燃したのかははっきりしないが、たしかに“再び八ヶ岳へ”へと、自分の中に旅行代理店の「八ヶ岳キャンペーン」みたいな風が吹いていたのだ。

 しかし、今年の夏にはすでに予定があって、その構想は実現に至らないことも予想している。

 その予定というのは信州方面への家族旅行である。その意味では文句など言ったら罰が当たるといった類のものだから、素直にというか前向きに受け止めなければならない。

 それに八ヶ岳は無理としても、うまくいけば上高地あたりのワンディ散策くらいは実現するかもしれない。

 楽しい夏になる可能性はそれなりにかなり高いのである。

 そう思って振り返ると、去年の夏は旧軽井沢にて美酒に酔い、かなりクリエイティブな早朝森林歩きでアタマとカラダの浄化を果たしてきた。

 本格的な山行から遠ざかる日々の中、山里歩きや森林歩きなどはより深みを増していると強く感じるが、かつて吸い込んでいた信州や八ヶ岳周辺の空気が、自分に何かいいものを残していてくれたのだろう。

 そんな風に考えながら、もう一度夏について考えてみると、今の下品な日々などもかなり払拭されていく。

 まだまだ成長途中の新緑の中で、夏への思いも同じように中途半端でいいのだと、今は自分に言い聞かせている。

 日差しが強くなり、緑の草が放つ夏らしい匂いを感じるようになってきた………

 

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

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 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

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 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

冬の朝の小さな奇跡

2011年12月24日の朝。

こういう言い方が正しいのか分からないが、クリスマス・イブの朝である。

冷え込み、目覚めると天気予報どおりに雪がうっすらと積もっていた。

土曜の朝でもあった。

いつもより遅く起き、階下の居間のカーテンを開ける。

そして、外の光景に一瞬目を奪われた。

そして、しばらくなぜこのような光景が起きているのかと考えた。

と言っても、ほんの数秒のことだった。

すぐに状況を飲み込むことができたのだ。

カメラを手にすぐに外へ出る。

わが家の方へと差し込む朝日は、ずっと東方へと目を向けた北アルプス北部の稜線から放たれてくるものだ。

富山平野の上空をまっすぐに伸びて、石川との県境の山並みも軽く通り越し、河北潟干拓地の平原上を経てやってくる。

夜明けからはすでに三十分ほどが過ぎていただろう。

朝の太陽は稜線の少し上へと昇っているが、それでも十分なくらいの鋭い角度で光を放っている。

その時の空は、ほとんど黒に近い濃いねずみ色に全体を被われていた。

そして、稜線上にはわずかな雲の隙間。

朝の太陽はちょうどその隙間の真ん中にいて、日差しを送ってきている。

遠く北アルプスの上空から届いた光が、わが家の後ろにある雪をかぶった斜面だけを照らし出し、暗い冬の朝に幻想的な光景を生み出している。

雪のついた電柱が光の中に立ち、電線もまた白くその存在を高めている。

しばらくして、周囲はまた一気に暗くなった。

太陽が雲の中へと吸い込まれていくようにして消えてしまったからだ。

もう寒さに耐えながら立っている必要もなくなっていた。

五分もいなかっただろう。

ただ、朝のほんのちょっとした光景だったにも拘わらず、どこか荘厳で異次元の世界にいたような気分だった。

 

冬になると、今でもこの写真をよく見る。

しかし、あれからもう何年も過ぎているのに、あの時ほどの美しい生の光景とは再会していない。

ときどき、それらしき朝すぐにカーテンを開けてみたりするが、なかなかああいう具合のシーンには遭遇しないのだ。

大げさだが、あれはわが家周辺における奇跡的光景だったのかもしれない………

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

雪は“どかす”もの

NHK昼のニュースが「大雪で地元の人たちは雪かきに追われ……」と伝えている。

しかし、テレビに映っているのは我々の地方ではない。

一月に入って、我々の地方ではわずかな雪しか降っていない。

我々の地方というのは、何を隠そう(と言うほどでもないが)北陸・石川である。

その北陸・石川のニンゲンが、わざわざ“わずかな”と言うのであるから、いくらかの申し訳ない気持ちがそこに含まれている。

つまり、山陰や滋賀の彦根や高島あたりでも大雪が降っているという状況に対して、雪のメッカ的地域であるはずの北陸がこのザマでは示しがつかない。

北陸のメンツに賭けても、雪にはしっかりと降ってもらわないと立つ瀬がない………?

そんな中、大雪が降った地域からのニュースが流れていた時、ふとあることに気が付いた。

正式には、古い話を思い出したというのが適切で、かつて『ポレポレ通信』なる私的小冊子を、周囲三百名ほどの皆さまにまき散らしていた頃、冬のある号に書いた話を思い出したのだ。

それは雪をスコップ(今はスノーダンプなど多彩だが)ですくい、そのまま放り投げたりする行為を何と呼ぶかということで、今から二十年以上も前、そのことについて深く考察(?)していた。

ニュースでは“雪かき”と伝えられていたが、ボクが当時取り上げた表現は、“雪すかし”についてであった。

たとえば、家人は昔から“雪すかし”という表現を普通に使い、ボクもいつの間にかそう表現するようになっていた。

そして、その当時は“雪かき”などといった上品な表現なんぞあり得ないと思っていたのだが、かと言って“雪すかし”についても文句なしに賛同していたわけではない。

実際にドカ~ッと降った雪の中でのその行為は、雪すかしでもピンとこなかった。

雪かきは、雪を熊手みたいなもので文字どおり掻き集めるみたいな感じだし、雪すかしについても、すくなどというのは空間を作っているだけみたいでイメージは軽い。

両者とも大雪に見舞われた人たちの重労働を理解した表現とは思えなかった。

そして、最近になって、あらためて思い出した言葉がある。

それは、“雪どかし”だ。

幼い頃から、ボクたちの周辺ではスコップで除雪することを確かにそう呼んでいた。

家人からは、そんなお下品な…などと笑われたが、たしかに我ら宮坂全ガキ連、もしくは麗しきゴンゲン森の少年たちの間では、“雪どかし”だったのである。

そして、そのことは冷静に考えてみれば、すぐに納得できることでもあった。

先にも書いたように、大量の雪、しかも我らの地域は湿った重い雪が定番だ。

その雪を扱うのに、“かき”も“すく”もありえない。

ズバリッ、“どかす”なのである。

そういうわけで、かなりチカラが入ったのであったが、最近の軟弱な冬のせいもあって、我々の地域ではまだ“雪かき”程度で済んでいる。

それを喜ぶべきかどうか、今でも雪が大好きなニンゲンとしては微妙なところなのである………

奥能登・珠洲蛸島を歩く

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奥能登・珠洲蛸島の入り組んだ町の中を歩いてきた。

暦で見れば秋も深まり、しかも能登半島の先端に近いとくれば、そぞろ歩きなどあまり適さないと思う人もいるだろう。

しかし、そんなことを言っていては能登の空気感は分からない。

粋がって言えば、これからが本当の能登の味が分かる季節なのだ。

と、やはり軽薄に粋がって言っているが、その日は特に肌寒さを感じることもなく、至ってのどかな、冬に向かう奥能登とは思えないほどの日であったことも事実だった。

クルマを旧蛸島駅前に止め、まず入っていいのかどうかさえはっきりしない、廃墟的なホームに出てみようと思った。

この小さな駅はかつての能登線終着駅だ。

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珠洲の街のはずれ(?)に、なつかしい黄色と黒の車両が置かれている場所があるが、この季節に見るとその姿はなんとなく哀愁を帯びていた。

ホームの方も今は当然草が伸び放題で、レールがその草の中から見え隠れしている。

しかし、その先に広がる畑地は、真夏、ここで下車した人たちの心を躍らせたにちがいないと思わせる広がりをもっていた。

この場所からは海は見えないが、海の匂いは十分すぎるほど感じられるからだ。

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詳しいことは忘れたが、蛸島(たこじま)という地名には、文字どおりタコにまつわる伝説があるらしい。

普通に考えれば、タコがよく採れたという話で済むのだが、人食い大ダコの話などもあって、やはりそうだろうなあと妙に納得したりする。

実は、一ヶ月ほど前、仕事で珠洲に来ていた。

そして、クルマで蛸島の町の中を慌ただしく見ていた。

もちろん初めてではなかったが、記憶に残っていた光景もほとんどなく、もう一度ゆっくり見ておこうと思っていたのだ。

駅舎の前から歩こうと考えていたが、クルマを港の方に運び、海辺から歩くことにした。

青空の中に白い薄い雲がたなびいている。

ゆるやかに、家々の屋根の上で踊っているようにも見える。

人の姿はなく、こちらも静かに細い道へと足を踏み入れてゆく。

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漁業や海運などでにぎわいを誇っていた雰囲気が漂い、立派な家屋の姿に目を奪われながら、知らず知らずのうちに先を急ぎたくなっていく。

今は閉められている風呂屋の玄関先に立つと、桶と手ぬぐいを手に、火照った顔付きで出てくる日焼けした漁師たちの姿が想像された。

流れが止まったような小さな川を渡ると、しばらくして勝安寺という寺のあたりに出た。

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一部に蔦が絡んだ廃屋の土壁に陽が当たって、一帯をより明るくしているように見える。

小さいながらも形のいい山門があり、その脇にこれも形のいい大木が立つ。

山門をくぐり境内に足を踏み入れると、のどかな空間が広がっていた。

再び山門をくぐって、そのまま直線的に高倉彦神社へと向かう。

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海沿いに建てられたこの神社では、日本遺産という「蛸島キリコ祭り」が行われ、能登で最も美しいと言われる16基のキリコが町なかをまわるのだそうだ。

そして、境内の舞台では、「早船狂言」という伝統芸能の披露も行われている。

境内のその先には草地を経て砂浜が見える。

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その先には当然日本海が静かに広がっていた。

この季節にしてはおだやか過ぎる海辺の気配に、ここが奥能登であるということを忘れるほどだ。

ぼーっと海を眺め、もう一度町の中の道へと戻り、しばらく歩いてから左へと折れた。

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このあたりの家並みも美しい。

空き地もそれなりに意味を成しているように思えてくる。

さっきの川をもう一度渡りながら、水面のおだやかさに、なぜか足を止めたりもしている。

この町の得体の知れない魅力(というと平凡だが)に取りつかれたか?

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それから後は、ただひたすら淡々と歩いた。

小さな家内工業の作業場があったりするが、人の気配には遭遇しない。

そして、それからしばらくして、ようやく狭い道端で午後のおしゃべりタイムを楽しんでいる、ややご高齢の女性二人組と出会うことになった。

夏であれば、もっとのんびりした空気感が漂っているのであろうが、暖かいとはいえ、やはり秋だ。

道端の段に腰かけている二人の姿にも、なんとなく少し体を丸める仕草が見える。

聞きたいことがあった。港の方に行く近道だ。

狭い路地は日陰になっていた。

「海はこの道まっすぐ行って、突き当ったら右やわ。それからはね……」

空き地を照らしている斜めの日差しが太陽の場所を想像させ、当然西の方向が海、つまり港の方になる。

女性は右に折れた後は、またまっすぐ行って、それから先はまた聞いてみてと言った。

歩いてゆくと、なんとなく日差しが明確になり、人に聞くこともなく海の方向が察知できた。

聞きたいと思っても、人影はなかったのだ。

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クルマを止めた辺りまで戻り、あらためて海の方を見る。

まだ十分に陽は差しているが、少し雲が出て、水平線から長く帯状に流れている。

船が係留されているところまで歩くと、わずかに風が冷たく感じられた。

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何年か前の夏、旧門前町の黒島という美しい場所で、能登地震によって傷ついた北前船主の館を復興する仕事に関わった。

仕事が終わりに近づいた頃の、暑い昼間、黒島の海に突き出た防波堤をずっと歩いてゆき、その先端あたりから黒島の町を撮影した。

そこは、かつて突然の嵐に見舞われ、海草採りをしていた地元の人たちが命を落とした場所だった。

海の中の岩場に供養碑が建てられていた。

そして、本当はそれを撮影するのが目的だったのだが、撮影後に見た陸地に広がる黒い屋根瓦の町に目を奪われた。

ただ青いとしか言いようのない空と、その下に広がる緑と、段違いに組み合わされた屋根瓦が美しかった。

海岸から数百メートルといった防波堤からでさえそうなのだから、漁から帰ってきた漁師たちが見る“自分たちの町”の美しさは格別だろうと想像した。

蛸島も同じだろう………

防波堤の先まで行く時間はなかったが、ほとんど波打つこともない港の水面を見ていると、気持ちが空白になっていくのが分かる。

それからしばらくして、蛸島の魅力とは何だろうか?と、俗っぽいことを考えている自分に気が付いた。

なかなか答えの糸口が見えなかったが、最近ちょっと、それらしき光明が見えてきた気がしている。

きりのない話だが、そんなことを考えてしまうのも、“日常の中の非日常的楽しみ…?” のひとつなのだ………

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秋は山里歩きなのであった

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自分の住んでいる内灘という町と、河北潟干拓地でつながっている津幡という町は、石川県河北郡に残った二つの同朋みたいな町である…と、勝手に思っている。

残ったというのは、かつての河北郡にはさらに三つの町があったのだが、その三つの町は徒党を組んで?「かほく市」という新しいグループを作り、我々から離れていったからだ。

当然残ったのには妥当な理由があり、何といっても内灘と津幡は他の三つの町よりも財政的に余裕があり、ステータスも高かったからだ…と、勝手に思ってもいる。

しかし、内灘と津幡には大きな違いがある。

それは、内灘が日本海の海岸線に沿って伸びる砂丘台地上の小さな町であるのに対し、津幡は富山県や他の市町との境をもつスケールの大きな町であるという点だ。

だから、ボクにとって津幡は果てしなく冒険心を煽る町である。

山里が深く続いていて、その風景の大らかさにいつも癒されてきた。

きっかけとなったのは、瓜生(うりゅう)という地区を訪れたことだった。

輪島市門前にある總持寺ゆかりの、峨山という名僧の生まれたところが瓜生であり、門前で建設された「櫛比の庄・禅の里交流館」という資料館の展示計画をやっていた時、瓜生まで石碑の撮影に出かけた。

予想をはるかに越える深い山里に入っていき、最後はこの先クルマは入れないといった感じのところまで行った。

田んぼや畑には人影はあったが、たまに見る家屋の周辺では全く人を見ることはなかった。

初めてが仕事絡みだったせいか、その後にゆっくりと山里の空気感に浸りたくて休日にも出かけるようになる。

そして、津幡の山里の不思議な魅力に少しずつ惹かれていったのだ。

廃校になった小学校校舎や、その向かいの高台に上って眺める風景なども気に入った。

ゆるやかな起伏が続く水田と畑が広がった丘陵地なども、大好きな眺めになった。

そして、いつの間にか、そんな風景の中を歩いてみたいという思いが生まれてきた。

前置きが長くなったが、今回のKという地区の周辺も、そんな中で好きになった場所だ。

このあたりは、午後から出かけ、太陽が西に傾いていくのに合わせながら、風景の変化を楽しむのに適している。

人の生活感が漂う山村よりも、自然だけの山里の方が歩くのには気軽でいいと思っていたのだが、いつの間にか、そんなことに気を使わなくなっている。

もともとの好きな風景にはいつも人家の存在があったようにも思う。

ただ、遠望として見る方に傾倒していたに過ぎない。

ところで、最近は水田や畑の中の道でもほとんどが舗装されていて、土の上を石や草を踏みながら歩くことが少ない。

軽トラが走れるように、そして機械が入れるようにと道は固められている。

しかし、そんな舗装の道もひび割れなどが激しくなると、それがまた自然の中の風景のように見えてくるからおもしろい。

今回歩いた道は、緩い登りをゆっくり三十分も行けばキャンプ場に出る。

夏にはにぎわうのかも知れないが、11月の初めともなればまったく人の気配はなく、池に冬鳥たちが浮かんでいるくらいしか生き物の存在を感じない。

そんな雰囲気の中、あちこちに目を向けながら歩いている自分の姿を第三者の感覚で想像すると、妙に落ち着けなくなったりもする。

いつもの、自分がなぜここにいるのかを説明しなければならない的症候群に襲われたりもする。

ここでもしクマに襲われたりしても、自分が悪いだけで、山でよく考えていたクマの目を指で刺し、その隙に逃げるといった意味不明な作戦までも考えている。

しかし、あたりは静まり返ったままで、そのうちススキの穂先に差し込む陽光にぬくもりを感じたりして、ほのぼのとしてくるのだ。

登りの道に架かった水道橋や、道から見下ろしたところにある小さな池とそのほとりに建つ小屋、そして、そこから視線をわずかに上げたところに見える枯れ木たち。

楽しませてくれるものはいっぱいある。

西日の角度が徐々に強くなるにつれ、山里の家並みがより浮かび上がってきた。

影が濃くなり、畑の畝ひとつひとつも鮮明になっていく。

とにかく説明のつかない何かに惹かれながら、なぜかこうした道を歩いている。

そして、不思議だが、とてつもなく満たされている………

瓜生(うりゅう)までの道

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甲州ブドウが信玄本を導く

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大河ドラマ『真田丸』で、ついに真田昌幸が死んだ。

(タイトル写真は真田昌幸 『戦国大名武田氏の家臣団』より)

幻覚の中、馬の嘶きと近づいてくる蹄の音に起き上がり、「おやかたさまァ」と叫んだ後、そのまま息を引き取るという、グッとくるような演出であった。

草刈正雄の野性味の効いた演技もよかったと思う。

死に場所は真田からほど遠い九度山だったが、信濃の山野を駆け巡った戦国武将らしい最後だったようにも感じられた。

そして、昌幸が叫んだ「お館様」こそが、あの武田信玄であり、信玄によって戦略家・智将としての才能を開花された昌幸の、信玄への思いがあの場面に描かれていたのだ。

ただ、このあたりの背景表現については、『真田丸』は全く中途半端だったのではと思う。

昌幸は七歳の時に信玄のもとへと人質に出されている。

つまり、真田は元来、信玄から本当の信頼を得てはいなかった。

しかし、信玄は昌幸を大切に扱った。

その結果、昌幸は信玄の下でその才能を開花させ、国衆の三男坊から武田家譜代の家臣として取り立てられるまでになる。

信玄が死んだ後も、武田と真田のために踏ん張った。

本気で甲斐の国を再興させようとしていたのではないか………

と、ここまで書くと、ついこの前、武田信玄について書いていたのに、またその話かよ~と思う人もいるかもしれない。

今頃、気がついても遅い。実は、そうなのである。

しかし、今回はむずかしい話ではない。

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今年もまた、山梨県甲州市勝沼に住む親友Mからブドウ便が届いた。

9月のはじめ、いつもよりちょっと早い到着であったが、今年は猛暑のせいか収穫が少し早くなったらしい。

いつも畑で採れたものをすぐに箱詰めして送ってくれるもので、柄の部分はきれいな緑色をしている。

もちろんバツグンに美味い。

持つべきものは、よい友だちだ… ついでに書くと、静岡県三ケ日のみかん農家の次男坊も学生時代の親友で、こちらも初冬には採れたてが送られてくる…………

信玄本の記事

それで、今回勝沼から届いた箱の中に敷かれていた地元・山梨日日新聞。

いつもこういう新聞には必ず目をとおす。

土地柄のニュースが載っていたりして、なんとなく楽しい気分にさせてくれるからだ。

そして、今回も興味をそそるニュースが載っていた。

地元ゆかりの出版物を紹介する記事だ。

まず、「武田家臣団の構造解説」という見出しに注目させられ、丸島和洋氏の名前も目に止まった。

丸島氏と言えば、武田家と真田家に詳しい研究家だ。

『真田丸』の歴史考証も担当している。

これはすぐに買い込んで、読まねばなるまいと気持ちが昂る。

そして、すぐに買ったが、正直言うと、こちらの書店にはどこにも置いてなく、通販を利用させてもらった(なぜか、通販だと何となく申し訳ない気持ちになるのである)。

すぐに読みたかった。

二十代の頃、武田信玄に関する本をひたすら読み込んだが、その時の衝動が甦ってきた感じだった。

噛りついて読んでいるわけではないが、じっくりと今も読み続けている。

ところで、『真田丸』を見ていて感じる人もいると思うが、主人公の信繁(のちの幸村)と同じように、昌幸の方も面白い物語になると思うのである。

本音で言えば、昌幸の方が信玄との絡みが多くあって戦国の物語としては絶対内容は濃くなるはずだ。

秀吉やら家康、その周辺には深いストーリーが感じられない。

だから、幸村のようなヒーローが出来上がったような気もする。

秀吉・家康なら、今回のようにコメディっぽいのがちょうどいいくらいで、今回もそれが面白い要素になっていたりする。

まあどちらにしても、勝沼のブドウが一緒に届けてくれたような一冊の本が、今は実に愛おしく、ときどき気持ちをぐっと引き上げてくれるような気がして嬉しいのである…………

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わが家の 妙に気になる木

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我が家周辺における近年の夏は、ただ暑いだけで、どこか今一つ情緒的なものに欠けているなと思っていた。

そんなことを思ってしまっている自分自身にも原因はあったのだろうが、やはり何となく我が家周辺には無機質な夏しかなくなったと感じていた。

そして、その原因が分かった。

蝉の鳴き声が聞けなくなっていたのだ(……鳴いていたのに気が付いていなかったのかもしれないのだが)。

そんなある暑い日の午後、外出から帰ってきた時に、我が家の周辺で蝉が鳴いているのを聞いた。

そして、小さな花壇に水を撒くため夕方外へ出たときには、その声が、かなり鮮明に(例えばデジタル音的に)耳に届いてきた。

かつて、家の背後の斜面はニセアカシアだらけの林だった……

そこにはキジの親子が時折姿を見せたりもし、夏になれば蝉などは当たり前のように鳴き声を響かせていた。

そして、その林が整理されて、ただの美しい斜面と化してからは、蝉たちも止まる木を失い、それも当然のようにして遠ざかっていったのだ。

 

この家を建てた直後(約二十年前)、今は亡き義父が庭からサツキを植え替えにやってきてくれた。

何もなかった空き地がそれらしく彩られると、こちらもその気になってプランターで花を育てるなど、これまでの人生では考えられなかったような行動に出ていた。

ある時、植えられたサツキの間から、まったく別な木が伸びているのを見つけた。

全く異質な葉をつけるその木は、違和感をもたせるに十分だった。

しかし、その木はみるみるうちに大きくなっていった。

「ジャックと豆の木」の話があるが、子供の頃、あれを読んで、そんなバカなと思ったりしたことを思い出したくらいだった。

膝上くらいしかないサツキは、アッと言う間に追い抜かれてしまった。

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最初は細くすべすべで緑色だった幹の部分が、少しずつホンモノの(?)木のような質感で変形していく。

これも自然界と言うか、植物界における摂理のひとつなのかと不思議な思いで見ていたが、さらにグングンと大きくなっていくのを見ていると、なんだか気持ち悪くもなってくる。

そして、一階の窓を覆うようになり、目隠しやら日陰になっていいかなと思っていたら、いつの間にか二階の屋根に届くようにもなっていた。

二十年の歳月の中で、十倍以上の成長をとげてきた。

 

そして、今年になって気が付いたが、その木に蝉たちがやって来てくれることになっていたのだ。

数年前、緑の葉っぱが青虫に喰い尽されそうになったこともあったが、殺虫剤(たしか家にあったキンチョールだったと思う)をまき散らし、地面を青虫の死骸だらけにしたこともあった。

葉っぱはすぐに回復していった。

そして今や、この木は我が家のシンボルツリーと言ってもいいほどに存在感を示している。

実は、この木の幹のすぐ横には、また別な木が伸びている。

なんとも不思議な生命力を持つ木々たちが、我が家の脇で共生生活を送っているのだ。

もう一本の木は細いが、幹は美しく白く、まっすぐに伸びようとしている。

絡まれる枝たちの中で、姿勢を正そうと懸命になっている。

いずれ、その木は別な場所に移してやりたいと思っているが、今のところ予定はない。

木の名前も知らない。ここでも敢えて調べようとも思っていない。

ただ、蝉の声を取り戻してくれたこの木に、とりあえず感謝なのである………

 

今日も水をまきながら、時折、その水を空に向けている。

緑の葉っぱたちに、少しでも涼んでもらおうと、愚かなことをしている………

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夏・森の朝の匂い


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朝の五時過ぎに風呂に行き、六時頃だろうか、カメラを持って旅館を出た。

小さなロビーには人影もなく、静かに玄関を出て、目の前に止めさせてもらったクルマから歩き用の履物を出す。

外に出た瞬間、空気の冷たさに多少驚いたが、ここは避暑地なのだと納得。

山の朝はもちろん、高原や山麓の朝も体験しているが、避暑地と呼ばれる場所の朝というのは、なぜか特別な響きを感じさせる。

そういう場所に不似合いなニンゲンだからなのだろうとも思う。

前日は、江戸時代の浅間山大噴火で出来た「鬼押出し」へと二十年ぶりくらいに出かけ、以前とはかなり様相が変わったみたいだなあ…などといった感想なんぞを抱いたのだが、その頃の記憶もいい加減なもので、最近はこうした感想を抱きつつ首を傾げたりすることが多くなった。

ただ、雲に一部被われていた浅間山の裾野の美しさは記憶も明快に残っていて、多少見えなくても十分想像できたのがうれしかった。

それでとにかく前日の午後、かつて多くの文人たちに愛されたという老舗の某旅館に入り、なんだかんだでそのまま翌朝を迎えたというわけである。

 

玄関前から右手に緩く道は下っている。

逆の言い方をすれば、左手に緩く上っていることになる。

両サイドに個性的なお店が並ぶ下りの通りは、明治時代からの開業というところも多くあるそうで、この辺りでは人気のエリアになっている。

昨日の午後の人だかりも凄かった。別荘地の代名詞になっている理由がよく分かる。

まだまだ早朝の静寂の中にあるその通りをちらりと見下ろしてから、こちらは左側のやや上りになった道に足を進めた。

「旧中山道」である。冴えた空気感が漂う。山道への入り口といった感じで、ちょうど旅館がその境目にある。

かつて加賀藩の参勤交代行列はここを歩いた。

旅館の中にそのルート全体を描いた絵が掲示されてあったが、出発地である金沢周辺の絵に、自分の住んでいる場所も描かれていた。

しばらく歩くと、右手の小さな流れに架けられた橋を渡ったところに、ひっそりとした一軒の店が見える。見えると言っても、木立に中に隠れながらだ。

昨夜の晩餐の場所だった。

静かにライブレコーディングのジャズが流れていた。

ガイドブックやネットなんかに載っていないイタリア料理の店(普段はほとんど興味がない)なのだが、その店が素晴らしく良い店だったのだ。

店の造りも広いわりにはシンプルで、料理にもシェフの思いが伝わってくる感じがした。

そして、それだけではなく、店に入った時に、ここをどうやって知ったんですか?と、問いかけられたこともなぜかとても新鮮だった。

当然、出発前に予約しておいたのだが、この店を見つけたのは長女であり、長女もとにかくひたすら深く切り込んでいったらしい。

夜は予約数をかなり限定しているような感じで、最初はあまり積極的ではなかったようだ。しかし、ちょっと早めの時間であれば何とか対応してくれるというので、とにかくそうさせてもらうことにした。

シェフは独りで切り盛りしながらの奮闘だったみたいだ。

実を言うと、今回は定番型の“夏のかぞく旅”であると同時に、ちょっとした意味深い背景もあったりする旅でもあった。

だから、長女も忙しい中、わずかな隙間をついてこの店まで辿り着いてくれたのだ。

 有名な礼拝堂のあたりを過ぎてからは、濃い緑の世界に包まれていく。

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特に意味はなかったが、とりあえずこの道を上ったところにある「室生犀星碑」のあたりまで行ってみることにした。

避暑地とはいえ、昼間は三十度超えの暑さになるのだが、果たして今は何度ぐらいだろうかと考える。

日差しが全く遮られた場所では涼しいを通り越す。Tシャツに半ズボンの軽装を悔やむほどだ。

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たまにすれ違う人たちが、観光の人か地元あるいは別荘の人なのかということも少しずつ分かってくる。

自分と同じ方向に歩いている一般観光客はほとんどなく、分岐のところで、人のかたまりは今自分が歩いている道ではない方向へと流れている。

だから、今歩いている道ですれ違うわずかな人は、なんとなく地元か別荘の人だということなのだ。

決定づけるのは、たとえば連れている犬などの種類や着ているモノ、そしてさらに、すれ違った後に残ったりする香水の匂い。

これは間違いなく別荘のお方だという風に決めつけられる。

流れを左に見下ろすようになってからしばらくで、一応目当てにしていた犀星碑のサインと出合った。

流れの方へと斜めに下っていくと、碑があった。写真で何度も見ているが、初めてナマを見た。

崖面に付けられたレリーフの詩は、かつてなんとなく好きだったもので、今読み返すと、なぜか今の方がグサリとくる感じがして驚く。

“我は張りつめたる氷を愛す……”というやつだ。

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そう言えば、今春、卒論のテーマが犀星だったという学芸員の大卒女子が入社した。

犀星については、こちらはあくまで金沢への切ない思いと重なる人物像にばかり目を向けてきたが、そんな感覚はどうも自分の独特なものだということが最近になって分かってきている。

特に学芸員さんたちのような世界ともなると、作品そのものからいろいろと究めていくことが普通みたいで、素性や育った環境なんかは語られないのでさびしいのだ。

ただ、それでは犀星のニンゲン物語はつまらないと思う。

こんな別荘地で穏やか過ぎるような日々を過ごしていた犀星には、あまり興味がない。

そんなこともついでに思いながら、レリーフの詩を二度読み返してその場を去った。

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せせらぎの音と森の奥から届く野鳥たちの声。

もちろんそんな絵に描いたような世界ばかりではなく、時折クルマのエンジン音なんかも聞こえるのだが、自分の中にある“森が好きだ感”のはっきりと反応している様子が掴みとれる。

それにしても緑の深さがいい。広がりもいい。新緑が深緑に変わっていく頃、よく緑しかない世界に遭遇したりするが、今感じている緑感もカンペキに凄まじいのだ。

そして時折、木漏れ日が夏草の上や苔むした石の上などに強烈に差し込んでいたりすると、ああ夏だなァ…と思う。

そんな瞬間との出合いを、いつも憧れをもって待っていた自分がいた。

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戻り道で外国人の女性とすれ違った。薄手のコートをはおり、さっそうと坂道を上ってきた。

すれ違う際、おはようございま~す…という、美しい日本語の響きを聞き、木漏れ日を受けた笑顔を見た。

ただそれだけだったが、気分がより爽やかになった。

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もう一時間ほど歩いている。

別荘の小窓に明かりが灯り、人影が動く。

下ってくると、もう多くの人たちがボクが上がったのとは違う方向へ列を作り歩いていた。そちらの方がポピュラーなのだろう。

かなり下ると、流れの反対側に昨夜の店がまた見えてくる。

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この角度から見ると、本当にひっそりと建つという表現が似合う。樹木などが適度に店の全景を隠しているのだ。

そう言えば、最初はテラスを用意していてくれたのだが、外の空気の冷たさを知り店内のテーブルにしてもらったのだった。

せせらぎの音が異様なほど近くに感じられたわけは、今見ている光景から理解できる。

店を出る時に、シェフとほんの短い時間話した。

山梨県小淵沢出身のシェフは、今年の秋に小淵沢に戻り、新しいことを始めるらしい。

今も休みには小淵沢に戻り、地元の野菜などをもとに料理を出しているらしいが、一人でやりくりしていくのは大変らしく、故郷でじっくりやりたい様子だった。

こちらも山梨には友人もいるし、甲州ワインなどにもかなり親しんでいるなどと切り出すと話がはずんだ。

小淵沢にも何度も行った。牧場が多く、大河ドラマの合戦シーンなどにも使われるいいところだ。

名刺ももらい、こちらの住所を残してきた。

出来れば、来夏には行ってみたいと思う。

今回の“夏のかぞく旅”には特別な事情があったからでもあり、そして、この店やシェフとの出合いが、そんな今回の旅に特別な色を添えてくれたような気がするからでもある。

秋に届くであろう便りが楽しみになった………

もう避暑地の朝歩きは終わっている。

旅館の前まで戻ると、通りに少しだけ人の塊が見えた。

あと二時間ほどすれば、ゆっくり歩けないほどの数になるのだろう。

旅館に戻って、朝飯なのであった…………

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長女が奥穂高へ行く前の日に思い出したこと

玄関

朝靄に朝日が差し込み、夏の朝らしい気配をカラダ全体で感じとる。

かつて飛騨から信州へと抜ける道すがら、上宝という村で見ていた風景だ。

何でもない早朝の山間(やまあい)。その一帯に漂う空気感に包まれながら、ラジオ体操を終えた少年たちが、石垣の上に腰を下ろし、さも当たり前のように漫画を読んでいた。

そのややダラーっとした並び方がよかった。夏休みらしい、のんびりとした空気感が漂っていた。

まだ暗いうちに家を出た。

助手席には、カメラとアルミホイールに包まれた握り飯が三個。

後部座席にはリュック。足元にはひたすら重い登山靴がある。

握り飯は、山へ行くとき、旅に出るとき、母が前の晩にいつも作ってくれた。

道と平行して流れる川のほとりに出て、その握り飯を食べる。

朝靄がまだわずかに残っているが、日差しから逃げられない空間はすでに夏らしい熱気に包まれ始めている。

家を出て2時間以上が過ぎていた。

今日が梅雨の明ける日になるかもしれない……

なんとなくそんな予感がしている。

空は文句なしの青一色だし、もう梅雨をイメージさせるものは何もない。

再びクルマを走らせ、かつての平湯温泉バスターミナルから満員のバスに揺られて上高地に入った………

長女が、翌日から奥穂高へ行くという日………

あれこれと準備している長女を見ながら、自分が初めて奥穂高を登った夏の暑い日のことを思い出している。

その年の梅雨は、その日の正午頃に明けた。

横尾の山荘の前で、昼飯のためのお湯を沸かしていた時、布団干しをしていた小屋のアルバイトらしき青年が、大きな声で叫んだのだ。

梅雨が明けました~

梓川の輝きと大きな歓声の響きを今も覚えている…………

 

 

初夢から解かれる

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1月も半分が過ぎたので、初夢の話を書く。

と言っても、いい夢ではなかったので、内容はあまり書きたくない。

ちょっとだけ書くと、仕事上のトラブルが発生して関係者に謝罪に行くという情けないものだ。

夢の中で、これは夢じゃないかなあと思っている自分がいた。

それほどモヤモヤしたいい加減な空気が漂った夢だった。

しかし、見てしまった以上、今更それを消してしまうわけにはいかない。

自分としては、それが「2016年の初夢」だっのたかも知れなかった…ということが情けなかった。

ただ、最近になってあることに気付いている。

それは、その夢が果たして本当に「初夢」だったのかということで、よくよく考えてみると、夢から覚めた時がもう明け方だったことから考えると、それ以前に見ていた夢があり、その夢が初夢に当たるのではないか……ということだった。

たしかに元旦の夜から、2日の朝にかけてのことだが、夢にも昔の映画のように“三本立て”とかがあって不思議ではない。

だから、自分が見たあの不快な夢の前に、すでに一本目や二本目を見ていた可能性がある。

その一本目が初夢にあたるのだ。

ひょっとするとその夢は、道を歩いていたら風が吹いてきて、その風と一緒にビール券が無数に飛んできた……とかいう “ 幸せいっぱいな夢 ” だったかもしれない。

少なくとも、はじめに書いたようなあの下品極まりない夢ではなかっただろう。

そんなわけで、ボクは今、初夢だったと思っていた不快な夢からようやく解放されようとしている。

新年になって初めて、短い時間だが自分の部屋で過ごした。

そして、出がけに、新築した20年ほど前、板壁に張り付けた一枚の写真をじっくりと見た。

真っ青な空に、いくつもの白い雲が浮かんでいる写真だ。

雲たちは浮かんでいるだけでなく、動いているように見える。

またひとつの年が始まったのだなと、漠然と思っていた……

 

 

 

 

 

岳沢~晴れときどき曇らずの秋

 奥穂から前穂

上高地については、かなりうるさかった。

20代の中頃に行きはじめてから、多い時には一年に10回以上行っていたこともある。

それも最初の頃は登山のための通過点ではなく、上高地そのものを目的地に行っていたので隅々まで歩き込んでいた。

上高地に関する本もかなり読み込んだ。

「上高地」という名前や字面、その組み合わせのカタチ、そして「かみこうち」という名前の響きなど、何もかもが好きになっていた。

風景はもちろんだが、最初は歴史の話などに強く惹かれていたように思う。

里から登った杣人や岩魚を採る人々の日常を想像した。

そして、槍ヶ岳を開いた播隆上人、上高地と言えばのウオルター・ウエストンや上条嘉門次、内野常次郎、小林喜作、木村殖など、上高地を舞台にして活躍した山人たちの話に、今から思えば自分でも不思議なくらいのめり込んでいく。

上高地に入って最初に登ったのが、現代のように釜トンネルのない時代の徒歩ルート・徳本(とくごう)峠だったということからも、歴史からのアプローチにこだわっていたことが少しは理解してもらえるだろう。

古い話だが、かつて一緒に仕事させていただいた某広告代理店の、某大学山岳部OBの方との酒の席で、徳本峠の話で盛り上がったことがある。

こちらは20代、その方は40歳くらいだったろうか。

冬の上高地でのテント生活や、同じく槍ヶ岳で岩にヘバリ付いたまま一睡もせず過ごした話など、その人の話に若い自分はかなり強い刺激を受けた。

そして、そんな話の中で、この前徳本峠に登ってきましたと口にした時だ。

ええっ、穂高に登る前に、徳本に登っちゃったの? 凄いねぇ。

山のベテランが目を丸くして驚きの視線を送ってきた。

名古屋のちょっとオシャレなバーのカウンターで、生々しい山の話に花が咲いたのだ……

夕方河童橋

上高地に入り始めの頃はマイカー規制のない時期があった。

釜トンネルは今のようなきれいなものではなく、ただ削り掘っただけの岩盤むき出しで、路面も舗装されておらず、中では交差できないから手前で待機という場面によく遭遇した。

そして、そんな時期にはよく出かけていたのだが、マイカー規制がオールシーズンになってからは、八ヶ岳方面に向かう回数が増えて行く。

今の上高地は異常に近い感じの人の数で、もう静かに梓川や穂高の山並みを眺めるといった感じではない。

多分、徳沢から横尾あたりまで行けばまだ静かな雰囲気に浸れるのだろう。

思い切って季節外れのウィークデーを狙うのもいいのかも知れない。

二三年前に晩秋の上高地に入ったが、その時はさすがに人の数は少なかったように思う。

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河童橋付近から岳沢

なかなか本文に入れないでいたが、ここからが本文………

上高地の岳沢を終着点とする登山者はまずほとんどいないだろう。

涸沢までならいるかも知れないが、岳沢となると登って来たという実感も生まれにくい。

涸沢は奥が深く、周囲の風景も圧倒的だ。

しかし、時間的ゆとりがないとか、カラダに支障があって無理が出来ないという場合、岳沢も決して悪くないということを今回改めて知らされた。

今回出かけてきたのは、まさにその二つの因果関係からの選択だ。

あと強いて言えば、パートナーである家人の体力・経験も関係しており、その上で穂高の山岳風景をしっかりと見ることができるという場所を選んだ。

いつものように平湯の「あかんだ駐車場」からバスに乗る。

座席は最後尾……混んでいる。

話はまた飛ぶ………

昔、薬師岳の閉山山行に行っていた頃、空調もよくなく、全く快適ではないバスの最後尾に座らされたことがあった。

雪混じりの雨が降る冷え切った下山時で、バスの中は異様なくらいに暖められていた。

そして、有峰林道のくねくねした細い下りである。

ほとんどの人が車酔いし、バスを下りると道端に嘔吐していた。

そんなどうでもいいようなことを思い出したが、今のバスは違う。

しかも、今の上高地行バスは、安房峠のあの超ジグザグ道を通らないのであるから素晴らしく快適なのだ。

上高地に着くと、予想していたとおりのヒトの山だった。

トイレを済ませてすぐに河童橋へと向かう。時計は10時過ぎだったろうか。

河童橋を渡って梓川の右岸にまわり、写真を数枚撮ってから歩き出した。

自分の感覚では、この右岸側の木道は新しい上高地だ。

だからかどうか、しばらく歩いて行くうちに、目的にしている岳沢への登り口がどこなのか分からなくなった。

湿地のあたりで確認できたが、30年以上前に岳沢方面に入って以来、今まで足を踏み入れていないことに気が付く。

相変わらず遊歩道の木道には多くの人たちが、国籍も入り交えて歩いている。

かつては、道行く人たちの間で交わされていた「こんにちは」の声も今はほとんど聞くことはなくなった。

これだけの人たちと挨拶していたら、声も枯れてしまうだろうし、日本語で言っていいのかも問題だ。

登り口の池1

いつ見ても美しい湿地の風景を眺めた後、岳沢への登りに入るとまったく空気が変わった。

すぐに、自分の息づかいも感じ取れるくらいの静寂に包まれはじめる。

葉を落とし始めた大木の隙間から木洩れ日が差し込み、多くの倒木や苔などに注がれている。

登り口の苔

不意に驚かされるほどの野鳥たちの鳴き声や飛び立つ羽音、そして嘴で幹を突く音などが響く。

道は適度にアップダウンを繰り返し、ところどころに木道や簡易な木の階段なども備えられてある。

登山道3

山の人たちの心配りが嬉しい。

どこか神聖な気持ちになって足を運んでいる。

ほとんど人の声がしないまま登って行くと、はじめて上から下りてくる人影が見えた。

外国人の、いかにも自然好きといった男が独り歩いてきた。

上にある岳沢の小屋に泊まっていたのだろうか。

軽装だから、穂高からの下山のようには見えない。

静かに挨拶を交わすと、家人が「やっと人に遭ったね」と言った。

上高地の喧騒を経て来ると、この静けさは寂しさにも通じるのかも知れない。

時々、樹林の切れ間があると、西穂高の山並みが見えたりする。

途中にある「風穴」も、文字どおり斜面の石と石の間から冷気を感じて楽しい。

風穴

岳沢の小屋までではなく、その手前の展望のきくところまでを目的にしていた。

予想タイムでは一時間半もあれば到着する。

家人もそろそろ疲れはじめたかと思った頃、今度は若者が独り軽快に下りて来た。

その雰囲気から、小屋のアルバイトあたりではないだろうかと勝手に思う。

森林限界は近い?というような聞き方で、樹林帯から抜けるまでの距離を確認したかったのだが、彼は首を傾げてすぐには答えてくれなかった。

こちらが岳沢の先端の展望が開けるところと言い換えると、ああ、それならすぐですと明快な答えが返ってくる。

このあたりの森林限界と言われると、どこなのかよく分からないので…と彼は言った。

なるほど、彼の言うとおりだった。

展望1

そして、若者に言われたとおり、少し急な上りになった先に岳沢の先端部分が見えてきた。

思わず声が出るくらいに、見事な、文句なしの青空が待ち構えている。

石ころだらけの岳沢をあらためて認識しながら、西穂高と奥穂高を見上げる。

色付いている木々の葉も山岳風景の大きなアクセントとなり、しばらく感動の目で周囲を見回していた。

黄色の木

今流行の山ガール二人組の先客がいた。

ピカピカの道具を出して、お湯を沸かしている。

コンニチハの代わりに、サイコーですね!が挨拶になった。

彼女たちを通りこして、より高いところへと登った。

ここは登山ルートではない。ルートは樹林帯の中に延びていて、そのまま岳沢小屋へと繋がっていく。

適当な場所で、ランチタイムとした。

朝作ってくれた握り飯も玉子焼きも格別に美味い。

彼女たちのように温かいものを作ろうと最初は道具を用意したのだが、前夜の段階でそこまではいいかということになった。

リュックも小さいものにしていた。

だが、無理してでも持ってくれば良かったかなと後悔………

家人は、下った後の「五千尺」のコーヒーとケーキに思いを馳せている。

ランチの後、家人を残しボクはさらに大きな石の上を登った。

特に風景が変わるというほどではなかったが、それでも少しずつ近付いて来る穂高の壁が気持ちを高ぶらせる。

西穂と木

二年前の秋、久々の本格的な山行で自分の膝がおかしくなっていることを悟った。

同行した娘の厄介になりながらの無残な下山だった。

少しずつ馴らしていこうという企みもなかなか順調とは言えず、かつての通過地点が今の自分には目的地点になっていることに納得した。

今夏の美ヶ原も、秋の始めの八方尾根もそんな山行である。

ただ、目に届くものは本格的な山を感じさせるものにしたいと思っていた。

そういう意味で、岳沢はさすがに上高地を出発点とする山の世界を実感させてくれた。

こんな山岳風景を見るのは今年最後だろうなあと思いながら、カメラのシャッターを切る。

奥穂の肌

振り返って見下ろすと梓川と上高地のバスターミナルあたりが霞んで見えている。

そして、目線を上げると霞沢岳方面の山並み。

あの山並みの延長に徳本峠がある…… ふとそんなことを思った。

何十年も前の独身時代、徳本峠へ登った。

その時のパートナーは、今岳沢の岩の上に座っている家人だった。

今と違って登山中すれ違う人もなく、古い徳本峠小屋には、ヒマラヤ帰りでたまたま留守番をしているという男が独りいた。

何もなかったが、丸太によって支えられた上高地の歴史の中の小屋に来ることができただけで自分は満足していた。

しかし、今から思えば、いくら自分の趣味や憧れとは言え、あのような場所へうら若き乙女を連れて行くのは普通ではなかったのかも知れない。

上高地見おろし

そんなことを考えていると、上高地の方からゆるやかに風が一団昇ってきた。

大きな薄い布を広げて、その上を風が吹きあがって来るような感じだった。

昔のことなのだなあと思い、上高地が好きだったのだなあと思う………

再び樹林帯の道に戻って下り、そして、遊歩道に出て雑踏の中を明神まで歩いたが、そこで感じた俗っぽさにはかなり落胆した。

上高地をそのように思うのはよくない……

自分自身にそう言い聞かせながら、さらに長い歩きの時間に耐えなければならなかった。

そして、来年は春の上高地から始めたい…と思ったりもしていたのだ。

植物1梓川1木々

 

 

先生がやって来て、ボクは空振りした。

真夏の青空と雲

小学校に行き始めた頃だろうか、いやもっと前かも知れない。

「ギョーセードーロ」という言葉を何気に覚えていた。

それは、今普通に県道と呼ばれている道路のことで、昔はそう呼ばれていた。

「ギョーセードーロ」とは「行政道路」のことで、ボクが生まれた町の史上最大の事件であった米軍試射場問題(1950年代前半)の補償で造られたという道路だった。

町の東側は河北潟というそれなりに大きい潟、西側は日本海。

町はその水域に挟まれ、家並みは河北潟の岸辺に沿い南北に延びていた。

面積で言えば、とても小さな町だった(今も同じだが)。

で、行政道路なのだが、ボクたちの住む小さな地区では、河北潟の岸辺を埋めて盛土をし、その上に砂利を敷いて造られていた。

それが出来た頃の話は知らないので、河北潟の端っこを埋めて造ったというのは後から知った。

今それを確認しようとしても、ほとんどその面影は残っていない。

ただ、まだカンペキに田舎のハナタレ小僧(仮の表現である)であった頃、家の前の細い道を行くと家と家の間にまた細い道があった。

その細い道の両側は小さな水田になっていて、最後に葦に被われた小さな登りを過ぎると砂利の敷かれた立派な道(路)に出る。

それが行政道路で、路線バスはそこを走っていた。

水田になっていた所は、かつて河北潟の岸辺だったのかも知れない。

そのことも確認のしようがないが、行政道路に繋がる細い道は今でも残っている。

ただ、平坦になっているだけだ。

走るクルマの数は少なかった。

そう思うのは、何となくいつも静かだったという記憶が残っているからだ。

たまに走ってくるクルマが砂利を弾き、弾かれた砂利が道の反対側に残る水路みたいな川みたいな部分に飛び込むと、ドブンという鈍い音を響かせた。

ここでよく、“独り野球”をやった。

木の棒か竹の棒を持ち、適当な大きさの石を拾ってノックのようにして打つ。

それをするのに適した場所は、潟の中に出島のように造らえた水田と道路との間の水路の、特に広くなった部分で、打った石が水路を越えて出島の方に入るとホームラン。

あとは適当に内野のラインを水面に決めて、石を打つのだ。

なかなか説明しても理解してもらえないが、河北潟というのはその頃今よりはるかに大きくて、そのすぐ後から徐々に小さくなっていく。

干拓が始まったからだ。

ついでに書くと、ボクたち全ガキ連にとっては、干拓も初めは「カンタク」であった。

独り野球は試合形式で、カードはいつも巨人・阪神戦だった。

当然、四番サード・長嶋の打順の時は、何回打ち直してもいいことになっていた。

長嶋は何度も四打席連続ホームランを打ち、ほとんどが長嶋のサヨナラ・ホームランで巨人が勝つというパターンだったように思う。

小学校三年の時だ。

夏休みが終わって、二学期が始まったばかりの午後の遅い頃だ。

担任だったN先生(もちろん美人先生)が、ボクが独り野球に興じている横を、ホンダ・カブで走り抜けていったことがあった。

あまりクルマの走らない道だったから、バイクが来ただけでもすぐにエンジンの音で分かる。

しばらくして、学校から帰宅するN先生であることも分かったが、どうしたらいいのか分からない。

ボクはそのまま分からないふりをしてやり過ごそうとした。

先生はすでに結婚されていたが、学校では他の追随を許さない美しさとやさしさと、時折見せるはにかんだような仕草や表情などで圧倒的な人気を誇っていた(と記憶する)。

それはともかく、先生のバイクが近付いて来ていた。

その時、ボクのアタマにマヌケな考えが浮かんだ。

先生にいいところを見せようという、男の子から少年になろうという頃合いならではの(?)余計な思いが浮かんだのだった。

緊張しながら、ボクはちょうど手にしていた適度な大きさの石を見た(と思う)。

そして、いつもより少し余裕を持った感じでその石を上げた(とも思う)。

まだ先生のバイクは先にいたが、先生の視界にはクッキリとボクが入っているはずだった。

そして、ボクは長嶋茂雄風にバットを振った。

見事な空振りだった。

それも長嶋茂雄風と言えば言えなくもないが、ここではそれは許せないことだった。

ボクは思わず体を先生の方に向けた。

“さよならァ~”

白いヘルメットを被り、運転の緊張のせいだろうか、いつものやさしい表情は消えていたが、先生の澄みきった声が色の付いた風のようにボクの顔の前を通り過ぎていった。

ボクは先生の背中に、サヨナラ~と告げた。

先生に空振りを見られたくはなかったが、先生も自分がバイクに乗っている姿を見られたくなかったのかも知れないと思った。

ボクにとって、その日は何か特別な日になった。

先生と互いのヒミツを共有したような気持ちになっていた。

見上げた空はまだ夏のようだったが、赤とんぼが数えきれないほど浮かんでいた。

翌日、教室で見た先生の顔は、いつもと同じだった。

ボクはなぜか少しガッカリしたが、先生のあの色の付いたような声を思い出し、ひとり幸せな気持ちに浸っていたのだった・・・・・・・・・

 

夏の朝について

朝靄の田園

去年、晩秋の空の下で見た風景を、今年は初夏の空の下で見た。

前は夕方だったが、今度は朝方だった。

当たり前だが、その風景には違った空気感があった。

そして、その空気感をしばらく楽しんでから、自分が夏の朝が特に好きであるということについて考えていた。

二十代の夏、八ヶ岳山麓に出かけていた初期の頃まで、朝の風景にそれほど心を動かされるということはなかったと思う。

しかし、ある時、新しい何かが生まれた。

それは空気感というもので、その時には意識していたか分からないが、肌に感じる何かによって朝への気持ちの向き方が変わった。

素朴に夏草が露に光っていたり、湖面に朝日が反射したりしている光景も、その空気感をより一層敏感にさせていたように思う。

木立に差し込む朝日も、森や林の空気感を印象深くさせていた。

これまでに、いろいろな場所でいろいろな夏の朝を見てきた。

自然は自然なりの、夏の美しい朝や穏やかな朝などを見せてくれた。

そして、今でも、山里の道沿いに続く石垣の上に、ラジオ体操を終えた少年たちが並んで座り、皆で漫画を読んでいる風景を特に思い出したりするのは、夏の朝が最も生気に満ちていると感じるているからなのだろう。

夏の朝はもう今年は来ないみたいだ。

来年の夏の朝を楽しみにしたい………

 

美ヶ原の夏歩き

美ヶ原の道

深田久弥は、『日本百名山』の中で、山には登る山と遊ぶ山があると書いていた(と思う)。

そして、遊ぶ山の代表格として霧ヶ峰や、この美ヶ原のことを書いていた(と思う)。

カッコ書きが続くのは、もう内容を忘れてしまったからで、その本自体もどこへいったか分からなくなっている。

そんなことを後で振り返りながら、8月の初め、30年ほどぶりに信州の美ヶ原へ出かけた話を書いている。

美ヶ原はカンペキな遊ぶ山だ。

その美ヶ原に、30年以上行っていなかった。

回数で言えば、3回以上は確実に出かけた記憶がある。

ただ、本格的な山行に出かけるようになってからは、美ヶ原は目的地の対象にならなくなっていた。

美ヶ原は、霧ヶ峰の延長にあるイメージだ。

白樺湖から車山高原へと上り、ビーナスラインを走り続けて霧ヶ峰から美ヶ原に辿り着く。

このルートは、20代の頃の夏のシンボルのひとつだったと言っていい。

真夏の高原道を歩いた記憶は、鮮明に残っている。

で、美ヶ原なのだが、今回は松本側から上がった。

上がったと書いたのは、もちろんクルマでだからだ。

松本の街中をスルーし、浅間温泉からのらりくらりと、そして何度も何度も深いカーブを曲がりながら、一気に高原地帯へと上がって行く。

申し訳ないくらいに楽をさせていただきながら、最後の駐車場からも、わずかに歩いただけでもう2000m近い山岳風景だ。

同じルートで一度美ヶ原に来たことがあったことを思い出したが、いつのことか覚えていない。

頂上

王ヶ鼻から、最高地点の王ヶ頭へ。

特に厳しくもない緩やかな登行だが、容赦なしの直射日光だけが難敵になってくる。

同行の家人は、今や父親を抜いて山の強者となりつつある長女の山ハットを深めにかぶり、360度に広がる高原風景に目をやりながら暑さに耐えている。

王ヶ頭へは途中からトレッキングルートに入り、出来るかぎり山歩き気分を保持しようということになった。

短い急登を経て、難なく王ヶ頭に到着。

汗を拭きながら、しばし眼下から目線高までの風景を楽しんだ。

一気にせり上がっているこの山域では、眼下に見える風景の立体感がとてもいい感じだ。

眼下のどかな草原風景と、削り落とされた壁に突き出る岩場のコントラストが山岳景観の醍醐味を感じさせる。

岩と眼下

楽(ラク)して、こんな風景に浸っていてはと申し訳ない思いもしないではない。

のんびり眺望を楽しんでいると、若い女性三人組からシャッター要請が来てますと家人。

スマホによる撮影は苦手だが、何とか無事済ませると、今度は向こうからお撮りしましょうか的返礼があった。

ではと、夫婦で石碑を挟み、お言葉に甘えることに。

山ではやはりいいニンゲンたちばかりだ……

夏の木立

美ヶ原そのものは、やはり台地状の高原に広がる牧場がメインイメージだろう。

すぐ横にあった山頂ホテルの脇を抜けて、その目抜き通り的道を歩くことにした。

昨年の9月(山ではもちろん深い秋だった)、北アルプスの薬師岳で痛めた両足の爪や膝や、その上の筋肉やら、さらに同行の長女にかけた迷惑による屈辱や自分自身への情けなさやらが、どれくらい克服されているか?

今回の美ヶ原行きにはそのチェック的意味合いも含まれていた。

しかし、歩き始める前、ベンチで一人一個ずつのおにぎりを頬張っているうち、こんなところで諸々の痛みと遭遇していたのでは問題外だなという思いが湧いた。

時間は昼過ぎくらいだったろうか。

いよいよ、これこそ美ヶ原そのものという空間へと歩き始めた。

人の数は案外少ない。後で分かるのだが、人はこれから増えることになっている……

牧場

牛たちが見えてきた。

歩きながらその牛たちを見ていると、黒牛が一頭グループから離れはじめ、そのうち歩きが走りに変わって、どんどん山の方へと登って行く。

黒牛のたて

なんだかおかしんじゃないかと家人と話していると、その黒牛はさらにスピードを上げ、テレビ塔がある最高地点にまでよじ登ろうとしていた。

多くの牛たちは、この楽園のような高原で、自分たちには食い尽くせないほどの牧草と水と塩さえあればいいと思っている……と思えるのだが、彼(彼女かも?)にはそれだけでは満足できない何かがあるのだろうか?

もはや小さな黒い点のようにしか見えなくなった。

そうこうしているうちに、急に対向してくる人の数が多くなったのを感じた。

そうか、やはり美ヶ原はビーナスラインからのお客さんが圧倒的に多いのだ。

かつて自分もそうだったように、ビーナスラインの上品な高原ドライブを経て、さらにこの美ヶ原の上品さに浸る……

それがより美ヶ原を魅力的に見せる演出になっているのかも知れない。

とまた、そんなことを考えているうちに、鐘の音がうるさいくらいに響き渡る「美しの塔」付近に到着。

うるさいくらいに聞こえるのは、鐘が壊れているからではなく、人が連続して鳴らしてゆくからだ。

特に子供たちが集まると、はっきり言ってかなりうるさい。

ようやく静かになり、昔、ここで撮った写真の情景を思い出している。

モデルチェンジしたホンダ・アコード(ハッチバック)を走らせていた頃だ…と、そんなことも思い出した。

一緒にいたのはM森という大学の親友で、彼の家がある山梨の町からこの辺りまでの山域を旅していた。

二十代の自分の旅趣味の中では、珠玉の類に位置される豪華なエリアであり、数日間のパラダイスだったのだ。

美しの塔から離れ、戻ることにした。

平凡な牧場の道より、トレッキングのコースの方がいいと家人が言う。

当然こちらもそう思っていた。

スポーツセンターに通っている家人は、最近メキメキと体力増進を図っていて心強くなっている。

左側がすっぱりと切れ落ちた崖の上に道が延びる…… と言うと大袈裟だが、一応地形上はそんな感じで、突き出た岩の方へと足を進めると、それなりにスリルがあったりする。

高山植物が美しく、蝶などもその上で上品に舞ったりしていて至れり尽くせりだ。

蝶1

 

かなり本格的に身を固めたトレッカーや、最近流行りの山を駆けめぐる青年たちもいて、美ヶ原のバリエーションに富んだ楽しみ方に納得した。

そう言えば、ビーナスライン方面から入った自転車チームは、美ヶ原を縦断し、反対側(松本方面)に下って行った。

美ヶ原が、遊ぶ山であることの証を見せつけられたような楽しい光景だった。

夏道1岩と眼下2風景

トレッキングコースは、気持ちのいいアップダウンを繰り返しながら谷を巻いて続いていた。

夏道2

かなり歩いたところで、また急登の道に出合い、そこを登って頂上のホテルへ。

遅くなったが、ちゃんとしたランチは、そのレストランのハヤシライスになった。

しかし、食後に考えていた、ちゃんとしたデザートとしてのソフトクリームは最後の歩きを考慮して、駐車場横にあった店でいただくことに。

食後はテラスの方に出て、標高2000mから見上げる久々の夏空を楽しむ。

入道雲と平坦な雲

入道雲が少しずつ形を変えていくのを、高原の風に吹かれながら眺めるという懐かしい時間が訪れていた。

ビーナスラインの方から入り、歩いてきた多くの人たちにとってはこの辺りが終着点だ。

ここから来た道を戻る。そのせいか、ほとんどの人たちがこの場所で大休止する。

花1

駐車場までの下りで、足先に少し痛みを感じた。

去年の長女のように、家人が先をどんどん下って行く。

今回の美ヶ原は、秋の北アルプス山行のための足慣らしと位置づけているが、果たして大丈夫だろうかと、家人のうしろ姿を見ながら不安な気持ちになる。

しかし、まあ何とかなるだろうと、いつものようにラッカン的思考に切り替えると、最後の木立の中の道の涼しさが予想以上に増したように感じた。

残念ながら、駐車場横の店にはソフトクリームはなく、家人は落胆しながら普通のカップアイスを食べていた。

午後の遅い時間。日差しはまだまだ強かった。

ゆっくりと下った先に浅間温泉があり、そこの小さな旅館に予約を入れてあった。

冷房が間に合わないくらい、盆地の熱にその小さな旅館は侵されていたが、その熱に対抗するくらいの熱湯温泉がまた痛快であった。

もちろん風呂上がりの冷やしビールも格別で、少し痛みの残る足先を指で揉みながら、秋の北アルプスに思いを馳せていたのだ………

オレ

無花果とミミズと少年の頃の夏

無花果

6月なのに、真夏のような熱気が支配する午後だった。

山里の田園風景をぼーっと眺めていると、急に無花果の匂いがしたような気がして周囲を見回した。

が、それらしきものはどこにもない。

無花果の匂いが脳を刺激すると、反射的に小学校の頃の夏休みを思い出す。

近所にあった無花果の木の下を小枝で掘って、ミミズをかき出し、魚釣りの餌にしていた。

ミミズは十匹くらい獲れると十分で、餌がなくなればそれで終わりという釣りだった。

今でも無花果があまり好きではない。

それは、木の根っこの部分に、ミミズがいっぱいいたからなのだろうと思う。

家を建ててからの最初の夏、朝になると砂の上に物凄い数のミミズたちがいるのを見た。

不規則に移動してきたその形跡が、砂の上にはっきりと残されていた。

特に二階から見下ろしていたから、それは鮮明でもあった。

しかし、彼らは徐々に昇ってくる太陽の存在を知らないでいたのか、気温の上昇とともに動かなくなり、そのまま干からびていく。

毎日それが繰り返されると、砂の上はミミズの干物だらけになった。

夥しい数に不快感が募り、休みになるとまた砂の中へと返したりしていた。

そんな夏は長く続かなかったが、それから何年かして、家人の実家から無花果の枝を一本もらうことになった。

挿し木しておくと、それは腰の高さほどまで伸び、その段階でついに実を一個だけつけた。

しかし、特に大事にしていたわけでもなく、いつの間にか木は弱っていき、その後何かの機会に切り倒している。

その小さな無花果の木を見る度にも、いつもミミズのことがアタマに浮かんでいた。

居なくなっていたミミズたちが、またその無花果の木の下に集まっているのではないだろうかと思ったりした。

 

無花果の匂いは、少年の頃の夏へとつながっている。

特に男の子から少年へと変わっていくことの、ひとつの証としても、ミミズを平気で手で掴み、ビニール袋に入れては河北潟へと通っていた思い出が強く残っているのだろうと思う。

それにしても、あの熱気の中で感じた無花果の匂いは、どこから来たのだろうか………

キゴ山で雪に遊ばれた日

雪平線

二月最後の日は土曜日で、それまでの忙(せわ)しなさと、それからの間違いなく訪れる慌ただしさに挟まれた、完全休みの一日だった。

二月の終わりという響きも何となくいい感じで、加えて天気もそれなりによさそうな雰囲気になっており、数日前から自然(特に雪)の中へと出かけようと決めていた。

しかし、そう思いつつも、二三日前になると、よく予定が埋まっていく。

しかも、一日のうちの二、三時間という埋まり方もあったりして油断はできない。

その日も前日の昼間はおとなしくしていて、夜家に戻ってからも静かに酒を飲んで過ごしていた。

そして、当日の朝。まだ電話、メールはない。

家人がめずらしく出勤の日となっていて、しかも半ドンの後、お友達とランチに行く予定だと言う。

家人も最近の亭主のお疲れ度というか、楽しみの不足度について理解を示していたので、ここは大好きな雪の山なんぞへ行って来た方が、心身共によいのよと言ってくれた。

ところがである……

家人が出かけた後、速やかに準備に入ったところで、スキーのストックがいつもの位置にないことに気が付く。

二畳半の自分の部屋に、整然とカッ詰められている山の道具のうち、テレマークスキー用の皮のブーツに差し込んである(はずの)ストックがないのだ。

物置なども念のために見てみるがない。

そして、思い出した。

昨年の夏、薬師岳でのトレーニング不足による苦闘の際に、ストックに頼りすぎて、繋ぎ目などを壊していたのだ。

その壊したストックはどこへやったのか……?

とにかく、これでテレマークは出来ないことが分かった。

こうなったら、登りに行くだけだと腹を括る。

行き先も曖昧なままクルマを走らせた……

***************************

時計は9時半をまわっている。

一番行きたいのは立山山麓だが、今からではきつい。

しかもスキーが出来ないのであれば意味もなく、近くの低山を登り歩いて来るくらいでいいだろう。

というわけで、医王山方面へととりあえずクルマを走らせることにした。

医王山の手前に位置するキゴ山には金沢市営のスキー場がある。

その駐車場にクルマを置いて、キゴ山のてっぺんまで登って来ようと決めた。

新雪の木々雪の中の小屋

裸木には、うっすらと雪が載っている。

昨夜は冷え込んだから、いくらかの降雪があったみたいで、雪面の白さも強烈だ。

一応、軽い雪中行軍の出で立ちになって歩き始めた。

そして、除雪された道から奥へと進もうとしていたが、すぐにいつものクセでいきなり雪の中へ。

足跡

たしかに近道ではあるが、スキーもカンジキも持っていないのはかなり辛い。

予想していた以上に積雪も多く、しかもアップダウンもあったりして思いのほか苦戦を強いられる。

時間的には無意味に近かったが、一応、距離的には大幅にショートカットして、再び登りの除雪された道に出た。

このすぐ上で、キゴ山スキー場の最上部から滑り降りてくる林道コースと出合う。

このコースは市民スキー場らしく、超ファミリー向けで超ゆったりしているのが特徴だ。

登り口トレイル

案内板があり、その横にカンジキによる踏み跡を見つけた。

コースに沿って歩かずに、直登している二人組のカンジキ跡だ。

シメたと思って、その踏み跡をトレースさせていただくことに。

しかし、最初の傾斜の緩いところは良かったが、徐々に傾斜がきつくなってくると、足の取られ方が予想以上に激しくなっていく。

一歩ごとに深く、膝どころか太腿あたりまで潜り込んでしまうと、身動きもとれなくなる始末だ。

まだ先は長そうだと覚悟を決めて行く。

ようやく一旦コースに飛び出して、一息つく。

上から幼い女の子を従えてのママさんスキーヤーが降りてきた。

女の子が奇声を上げたりすると、ガマンよガマンよと振り返りもせずに叫ぶ。

こっちの姿に驚いたのか、女の子が転んだ。

こういう場合、手を差し伸べてあげるべきかどうか迷うが、厳しい母親に叱られそうなのでやめにした。

その代り、ニコリと笑って頑張れと小声で女の子に伝える。

女の子は倒れたまま戸惑っていた……

コースはほんのわずかに登ったところで右に大きくカーブしていて、その真正面にまた直登の踏み跡が見えた。

そこへ着くまで迷っていたが、そこまで来てしまうと、足が自然と直登の方へと動き出す。

しかし、そこからの直登はさっきよりも一段ときつくなり、途中で引き返しコースを歩こうかと思った。

だが、なかなかそう簡単に自分自身が許してくれない。

芽吹き1大木と雪

まるで人生そのものだ……などと、半分諦めながら直登を繰り返す。

膝辺りまで潜ってしまうくらいはほとんど平気だが、それ以上に足が入り込んでしまうと、それから抜け出すたびに片方の足が深く潜り込む。

木の幹や枝などが手元にあればまだいいが、何もない場所では拳を雪面に突っ込んでチカラを入れる。

なぜ、カンジキを持って来ないのだと、山に理解のある人は必ず言うだろうなあと思いながら、情けない登りが続いた。

そんなところへ、上の方から話し声が聞こえてきた。

姿はまだ見えないが、ひょっとするとこの踏み跡の持ち主たちかも知れない。

そう思いながら、悪戦苦闘しているうちに、上品そうな熟年夫婦が下りて来た。

カンジキが心地よく雪面をとらえて快適に下山中といった雰囲気だ。

互いの距離が10mを切った辺りになって、トレースさせてもらったこと、その踏み跡を穴だらけにしてしまったことなどを詫びた。

ご夫人の方からは、寛大なお許しの言葉をいただき、ご主人の方からは、「ゴボッって、大変でしょう」と、嬉しい励ましの言葉をいただいた。

特にご主人からの「ゴボる」という言葉にはホッとした。

自分自身の状況を、「カンジキがないと、やはりゴボりますねえ」と伝えたかったのだが、その地元言葉が通じるかと懸念していたのだ。

安心して「こんなにゴボるとは、甘くみてました…」と答える。

気持ちを入れ直して、最後の短い急登へ。

雪原と青空医王山

久しぶりにたどり着いたキゴ山のてっぺんは、予想以上に晴れ渡り、金沢市内も日本海も、医王山の山並みも美しく見渡せた。

雪に半分ほど埋もれた展望台に登って、コンビニおにぎり三個で昼飯。

そしてコーヒーと、デザートは小さなドーナツと柿の種一袋。

山で食う柿の種は、なぜかコーヒーにもよく合う。

靴で踏み固めた雪上ベンチは快適だったが、長く座っているとケツが冷たくなる。

“凍ケツ(結)”状態になる前に立ちあがり、雪が凍って滑りそうな階段をゆっくりと下った。

ウサギ足跡縦断ウサギ足跡横断

あとは、台地上になっている雪野原を思い切り歩きまわるだけ。

何年か前に来た時は、テレマークスキーを履いてここまで登り、そのまま奥まで入って、そこで雪上ランチを作って食べた。

そのあたりまで行ってみようと、とりあえず緩やかな雪原を下ることにする。

しばらくして、下りは上りに変わり、ここでも雪は深く、ミニラッセル状態だ。

てっぺんの足跡遠いスキーヤーと青空

近くで自分を見た人は、こんなオッサンだったのかと驚くに違いないと思う。

それほどまでに気持ちははしゃいでいる。

しゃがみ込んでカメラを構えたり、大きく背伸びしたり、本人はとにかく楽しくて仕方がない。

まだまだ楽しもうと足を踏み込んでいった矢先、遠くから独りの山スキーオトコが近付いてくるのが見えた。

蛇の道は蛇。一目でそれと分かる同類の匂いがプンプンしてくる。

しかし、彼はこっちを同類と見てくれなかったみたいだ。

距離はあるが、こっちの視線を無視してすれ違って行く。

それもそのはず、こんな雪原をカンジキもスキーも履かずに彷徨っているなど正気の沙汰ではない。

彼のツンと吊り上ったようなクロカンスキーの先端が凛々しく見えた。

まっさらな雪原に残した自分のズタズタなトレイルを振り返りながら、彼の雄々しい姿も見つめた。

縄張り争いに負けた狼のような気分だ。

青空とクロスカントリークロスカントリーの男

休み明け、ストックを買いに行くことをその場で決めた。

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下山はまた樹林帯に入っていった。

コースをのんびり下ればいいのにと、もう一人の自分が言っているのだが、もう一人の自分は、いやもう一度難コースへ行けと言っていたのだ。

ニンゲン、ふたつの道が目の前にあったら、より険しい方の道を行けと誰か偉い方が言っていたのを思い出した。

そんな青年向けの言葉を真に受けなくても…と、またもう一人の自分が言っていたが、もう引き返すこともできなかった。

太陽と雪平原

下山の途中、荒い息を弾ませながら、湯涌ゲストハウス自炊部へ電話を入れると、番頭・Aが洗い物中ですとのこと。

彼の淹れてくれる美味いコーヒーが飲みたくて、雪を踏む足にチカラを込めたのだが、時間短縮には全く至らなかった………

雪の上の影

 

晩秋京旅・圧倒編その2

土塀屋根の紅葉

京・高雄方面は実に深いのである。

市の中心部からすると、その奥まり方はかなりな印象がある。

さらに、クルマを下りてからの道も、さらにまだ奥があったのかと思わせる。

急な石段登りは、断片的に登山に近い印象を与える。

晩秋京旅の二日目は高雄に決めていた。

予習資料には厳しい道とあった。

午前10時頃、阪急桂駅前で娘たちと合流した。

大阪豊中に住む次女のところに、前日一緒に来て、JR山科駅から電車に乗り換え大阪で友達と会っていた長女が泊まりに行き、その日の朝阪急で桂まで二人一緒に来た。

桂はこの前まで次女が住んでいた町だ。

こっちも少しは土地勘のあるところだったので、待ち合わせ地点になった。

到着が予定よりも一本遅れた電車になったのは、多分朝が早かったせいだろう。

久しぶりに四人が揃った… と言っても特に儀式などないが。

高雄までは道中が長い。

それに何しろ、晩秋京旅である。

しばらく走って、すぐに渋滞らしき雰囲気。

まあこんなもんだろうと覚悟を決める。

ところが、途中から交通事情は恐れたほどのこともなくスムーズになった。

周辺の風景は、高雄に向かっていることを少しずつ印象付けるものとなっていく。

この先はたしか周山街道と呼ばれる道だ。

かなり山間に入って、周辺が騒がしくなってきたあたりが神護寺へと向かう拠点だった。

無理やりのように、民家の庭がそのまま駐車場になったスペースにクルマを突っ込む。

このあたりの民家は、この時季いい稼ぎになるのだろうなあと余計なことを考える。

清滝川

神護寺へは混み合う道路をしばらく歩き、それから左に折れて清滝川沿いを行く。

清流を見下ろしながら歩くうちに、西明寺への道を右に見送ってまっすぐ進む。

西明寺は帰りに寄ることになる。

しばらく歩くと、左手に急な石段が延びている。

目にした瞬間から、家人が神妙な顔付きになった。

家人にとってはかなりきつそうな登りである。

山で鍛えている長女は、屁みたいなものといった顔で登り始め、毎日自分の住まいと駅とのアップダウンを自転車で往復している次女も同じように登り始めた。

家人をサポートしながら、次女の大学入学式の翌日(だったか)、三人で鞍馬山に登ったのを思い出した。

履物が適合しておらず、二人は苦労したみたいだったが、天候にも恵まれいい思い出になったという話題が出て懐かしかった。

神護寺への道は厳しい…というほどではないが、やはり普通に考えれば楽な道ではない。

笠

途中には休憩処が何軒かあり、その前を通るたびに出ているメニューを覗き込む。

昼に近い時間であるから、団子などのおやつ系よりも、うどんや丼物などのメシ系に目が行く。

秘かに「きつねうどん」に目を付けておいた。

ただ出来れば、「いなりうどん」の方がネーミングとしてはいい。

立ち寄るのは帰りだ。

楼門と呼ばれる、神護寺の正門が、最強に急な石段の向こうに見えてきた。

その前に、道から見下ろす休憩処の情景に目を奪われる。

モミジ食堂

強弱の光に包まれた全面紅葉の中に、食事する人たちの影が動いている。

あの人たちは自分たちの置かれた素晴らしい状況を理解した上で、食事をしているのだろうか?

もしそうでないとすれば、実に不幸なことかも知れない。

同じ状況下で後ほど食事をしようと考えている者としては、しっかりと今目に焼き付けておく必要があった。

神護寺正門

先を行く娘たちの後姿を追い、家人を励ましながら石段を登った。

ほどなく山門に辿り着く。

境内には山里の寺らしい、のどかな空気が流れていて、ふんわりと落ち着く。

金堂石段引き金堂より

当たり前だが、周囲に街中の寺でよく見られる現代建築などは見えず、そのことが新鮮に感じられる。

昔、街道探索などをしていた頃、視覚的な静寂というものを感じたことがあったが、まさにそれに近い感覚が蘇ってきた。

さらに石段を登ったところにある金堂を見上げていると、周囲の人たちの声も聞こえなくなった。

天気ののどかさが何よりだった。

金堂1神護寺境内2

神護寺は、約1200年前に出来たと言われる寺だ。

日本史に出てくる和気清麻呂(すぐに変換されて快感)ゆかりの寺で、後世では、空海や最澄とも深い縁があるらしい。

最も高い位置にある金堂前で、石段の下から写真を撮ってもらった。

家族四人の写真など久しぶりのことだ。

娘たちが進学で京都に移ってからは、そんなショットはすべて京都が舞台となっている。

ヒトは確かに多いのだが、前日の永観堂で見たうねりのような流れもなく、山寺の空気感もたまらなくいい。

金堂石段

金堂からの石段を下ると、またぶらぶらしたり、佇んだりを繰り返す。

だが、そのうち、例の「きつねうどん」のことが気になり始めた。

坂道を下りながら、上から数えて二軒目の店に入った。

屋根のあるテーブルと露天のテーブルが、それなりに整然?と並んでいて、すでに多くのテーブルが埋まっていた。

どのテーブルにも紅葉が舞い落ち、手元も足元も周囲は紅の斑模様だ。

きつねうどん

きつねうどんに、小さな松茸ご飯が付いた、上品な昼飯をいただく。

しかし、環境的にはそれなりにワイルドでもある。

京都らしい“はんなり”系の出汁が美味い。

そのやさしさを何かに例えようと考えたが、なかなかむずかしいので考えるのをやめた。

それくらいにやさしい味であるということにした。

大阪で独り住まいの次女だけが、とろとろ卵の親子丼を選び、残りの加賀の国内灘村からのお上り三人組はきつねうどんを食った。

何気なく、次女の日頃の食料事情について思う……

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再び清滝川沿いの道に下り、しばらくして西明寺への急坂を上る。

この急坂はかなりな角度である。

またしても家人の不安そうな顔に悩まされるが、ここは行くしかない。

あとで分かったのだが、最初に通り過ぎた分岐の道から上がるのが正しいアプローチらしかった。

だましだまし、いややさしく励ましながら、何とか急坂を上った。

想像していたよりも距離は短かった。

西明寺

西明寺は空海の弟子によって、9世紀の初め神護寺の別院として創建されたとある。

その後鎌倉時代に独立した寺になったらしい。

それほどの広さは感じないが、ここでも山里の空気感が存在感を高めている。

苔むした灯篭が並び、その上にふわりと乗っかった葉っぱたちが、どこか子供たちの無邪気に遊ぶ姿のようにも見えてくる。

灯篭に紅葉西明寺の下り

本堂にある釈迦如来さんたちは重要文化財であった。

本来の参道を逆に下って、現世とあの世との境目になるという橋を渡った。

この手の橋はよく渡っているので、何度もあの世に行ってきたことになるが、あの世の印象は全く残っていない。

茶屋のトイレを借りるかどうか、家族内でしばらく検討の時間があったが、まだ大丈夫ということで、もうひとつの目的地・高山寺へと向かう。

周山街道に戻って、さらに奥へと歩く。

少しずつヒトの数が減っていくのが分かる。

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高山寺石碑高山寺入り口

高山寺は「こうざんじ」や「こうさんじ」と呼ぶのだそうだ。

平安時代から山岳信仰の小さな寺が存在していたらしいが、鎌倉時代の明恵という僧によって開かれたとある。

街道から脇に登り始めた頃から、その凄さが予感できる空気感だ。

なぜか妙に懐かしさに駆られる。

参道に立つと、森の深さが静寂のためのエネルギーを醸し出しているのが分かる。

敷石

みな、声を落として話している。

しつこいが、境内は森の中であり、われわれが歩いている道は、その森の空気によって守られてきた聖なる道なのだ(と、神妙な思いが生まれた)。

どこかで味わった空気感だと何度も試みるが、やはり思い出せない。

家人に聞いたりもするが、知らないと言う。

その空気感は、ずっと若い頃に感じたものだったのかも知れなかった。

娘たちも、この空気感が気に入っている様子だった。

高山寺下石段高山寺

金堂への高い石段を上り、またその石段を下って、聖なる道を進む。

グッと現実に戻って、トイレにも立ち寄る。

そして、国宝の石水院へと足を向けた。

予習資料には、ここに置かれてある善財童子の像が美しく紹介されていた。

京都国立博物館で鳥獣戯画展が開かれていたが、その原本は高山寺所蔵のものだった。

(翌日、最終日のその展覧会行きを予定していたのだが、あまりの混乱に入館はやめにした)

石水院縁側

縁側に腰をおろし、晩秋の山並み風景に目をやるのは、かなりの贅沢さだった。

座敷の展示ケースの中に、申し訳なさそうに展示されていた「鳥獣戯画」も色あせて見えた。

善財童子の像は、屋久杉の床板が張られた“廂(ひさし)の間”に置かれてある。

童子童子2

床板は創建時(鎌倉初期)のものだそうだ。

高雄の山の深さとともに、その文化を生み育て、そして継承してきた人たちの思いの深さも感じる。

周囲の濃淡が続く晩秋の気配に包まれながら、中央に置かれた「善財童子」のシルエットに目を凝らした。

紅、橙、黄…… 石水院を出てからも、圧倒的な色のインタープレイに惑わされていた。

高山寺境内2案内板の屋根

池に紅葉樹間の紅葉

樹木に残った葉っぱたち、地上に落ちた葉っぱたち、その途中の何かの上に乗っかった葉っぱたち、それらが一帯を埋め尽くす彩は“圧倒的”という以外に表現言葉がないと思わせる(もちろん、ボクの場合であるが)。

今日めぐった三つの寺は、「三尾(さんび)の山寺」と言われるらしい。

この辺りが、高雄(高尾/たかお)・槇尾(まきのお)・栂尾(とがのお)と呼ばれるからだ。

たしかに見ごたえ十分な山寺めぐりだと感じた。

視覚だけでなく、カラダ全体が、もちろん精神も含めて、しっかりと充足感に浸れる場所だった。

大した足の疲れもなく、周山街道に戻った。

まだ晩秋の洛北の空は明るい。

歩きながらも、眩しいくらいの美しい大樹に長女がカメラを向けている。

家人と次女は何やら楽しそうに話し合っている。

午後のやや遅い時間。われわれはまた雑踏を求めて、京都市街のど真ん中へと向かった。家族四人で泊まる宿へと………

 

石水院からの紅葉

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編 その1

永観堂の日差しの中の紅葉

京都の歴史と季節感を、同時に楽しみに行くというのは壮大なプランである。

しかも圧倒的な紅葉の時季に訪ねるというのは、一種の冒険に近い。

京都はすでに人(観光客という種類の)の受け入れに相当な寛容さを持っている都市であるが、訪ねる方からすれば、その度を過ぎた(ような)人の波は簡単に受け入れがたい。

しかし、と言いつつ、いざ京都となると覚悟は決まる。

不思議だが、そこが京都のチカラの証だ。

少し前、「日本に京都があってよかった」というコピーがあったが、ボクは激しく同感している。

出だしで少しカッコつけたが、そんなわけで、一年と一ヶ月ぶりの京都なのであった。

めずらしく、最初の目的地は平安神宮近くの某カフェになっていた。

もちろん家人のリクエストであり、その店の何とかという洋菓子をいただくというので、開店直前の店の前で名前まで書かされ並ぶことになった。

最近はこうした列のできる店がステイタスを持っていて、客を並ばせることを喜びにしているように見えたりする。

「おもてなし」などと片方で言っておきながら、客を長時間待たせるのはどこかおかしいと思うので、ボクは単独の時は絶対にこうした列には加わらない。

ほどなく開店した店でいただいた菓子も珈琲もごくごく普通であった(少なくともボクには)。

この店が最初の目的地となったせい(?)で、近くの南禅寺と永観堂が今回の寺めぐりのスタートになった。

二つの寺とも名前のよく知られた名刹であるが、南禅寺は十年以上行っていないし、永観堂は恥ずかしながら初めてとなる。

クルマは岡崎公園の地下駐車場に入れた。

この平安神宮を含む一帯は、かつて次女が学生時代に参画していた「京都学生の祭典」という、学生の自主イベントとしてはとてつもないスケールのイベント会場になっていて、構造はそれなりに分かっていた。

その時、次女と待ち合わせした店もまだ健在で、スタッフジャンパーを着込み歩道に立っていた次女の姿が思い浮かぶ。

まだまだ幼いもんだと思っていた次女が、初めて逞しく見えた時だった。

南禅寺へ向かう道に、長蛇の列となった客たちを待たせる店がある。

まだ開店まで一時間ほどもあるというのに、歩道は完全に占拠されている。

こんな客たちを受け入れなければならない店側も、味を維持していくのは大変だろうなあと思うが、そんなこと気にしていても始まらない。

動物園の横を通って、川沿いの道を歩き、南禅寺へのアプローチ。

ヒトもクルマも半端ではない。

何とか境内に入って、早速山門に上ろうということになったが、階段もその上の展望台もヒトの波。

上から見下ろしてもヒトの波。紅葉ももちろんそれなりに美しい。

南禅寺山門から

この圧倒的なヒトと紅葉の融合が京都の京都たる所以なのだと、あらためて納得した。

七百年ほどの歴史を持つ南禅寺だが、百年ちょっと前に出来た、ご存じレンガ造りの水道橋の存在が大きい(少なくともボクにとっては)。

あれを見ると、南禅寺に来たなと思う。

水道橋

それに宗教には関係なく、しかも六百年ほどの時代の差があるというのに、水道橋はかなり南禅寺に馴染んでいるなとも思う。

レンガは不思議なチカラを持っているのだ。

南禅院の庭を見て歩いていると、地元人らしき老紳士の「もうピークは過ぎたなあ。この前来た時はもっと凄かった…」という独り言が耳に届いた。

観光客の前で、いくら地元とは言え、このような発言は軽率および無責任だ。

こちらはひたすら楽しんでいるのであるから。

それにしても池に映る紅葉は見事だった。

南禅院

時間の関係で、久しぶりに水道沿いの道を歩けなかったのが残念だったが、また今度ということにして永観堂へと向かう。

 

永観堂は、「禅林寺」という古刹の通称だとある。

今は京都を代表する紅葉の名所として高い人気を誇る。

それゆえ、歴史や宗教文化の遺産に加え、紅葉の凄さが備わったこの永観堂をゆっくりと堪能しようというのは浅はかな考えだ。

ヒトでごった返す総門を抜け、中門(券売所がある)に至るだけにも気合が要る。

人ごみ

あちこちで必要以上に(と思えるほどに)写真を撮りたがる人たちが、塀に体を擦りつけるようにしてカメラを向けている。

しかし、その姿はかなり醜く、アルバイトの俄か係員たちが大声で制止したりしている。

何事も度が過ぎるとよくないのだ。

葉っぱだけ撮るなら、近くの公園でもいいよとアドバイスしたくなる。

さすがに京都を代表する紅葉の名所、境内は圧倒的な混み具合だった。

混み具合も凄いが、やはり紅葉の美しさも凄い。

質的にも量的にも気合が入っている。

永観堂の紅葉

重なり合う部分の深さや、木の大きさなども心に響いてくる。

陽光を透かして見せる美しさなども唸らせるものがある。

ところで、永観堂には季節に関係なく、もうひとつ人々を惹きつけているものがあるのだ。

「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像(重要文化財)だ。

鎌倉時代に作られた仏像だが、写真などで紹介されているイメージからすると、かなり大きな像を想像する。

が、実際は(その小ささに)多少ガッカリさせられる。

家人などはかなりその度合いが強かったらしく、最初にボクが指さした時(不謹慎だが)には信じられないという顔をした。

名前のとおり顔を左横に向けて立つ仏像で、わざわざその方向に拝顔できる場を設けてある。

そこには当然列ができていた。

空に突き上げる紅葉

諸堂めぐりを終えてまた外に出ると、そこは前にも増してのヒトの数(量)。

放生池という紅葉を映す水面に、カメラが無数に向けられている。

日本の今夜のFacebookが、永観堂の紅葉で被い尽くされるのではないかと心配になる。

家人が、わざわざ空いている場所を見つけて手招きしてくれた。

ならばと、こちらもカメラを構えてシャッターを押した。

放生池の紅葉

振り返ると、茶店の広いスペースもヒトでいっぱいだ。

毛氈の敷かれた無数の床几に、ヒトがまた無数に腰掛け、顔を中空に向けている。

紅い葉蔭から差し込む柔らかな陽光に、その顔たちが揺れて見えている。

永観堂には、広い空間がない分、ヒトの密度も高くなっているのかも知れないと思う。

そして、それはちょっと当たっているような気がした。

落葉の黄色

 

十一月の下旬とは思えない、もったいないような日差し。

周辺はクルマが列を作り、その間隙をぬってヒトが動く。

岡崎公園の地下駐車場にクルマを入れたのは、大が三つ付くくらいの正解だった。

次女がイベントをやってくれたおかげだ。

戻ってくる途中には、さっきの店でいまだに長い行列を作っているヒトたちの姿を見た。

せっかく穏やかな晩秋の京都にいながら、他に行くところはないのだろうか?

余計なお世話的に、わざと珍しいものを見るような顔をして通り過ぎてやる。

ここへ来てあらためて分かったのだが、ボクは京都の紅葉を見に来ているのではなく、京都の文化を見に(感じに)来ているのだ。

だから、この行列も、ある意味、京都の文化が成したコトなのだろうと思う。

ずっと昔、都へ上った地方の人たちが、その様子に驚いたであろうヒトの波。

見上げる大きな神社仏閣や、豊かな物品など。

こうしたモノゴトに出会うのが京都の文化の感触のようにも思えてくる。

複雑な思いのまま、今日の宿がある烏丸あたりへ………

 

四角の石2

 

 

 

 

地下40mにあった夏の夢・JR筒石駅

駅名サイン

 上越の海岸線、国道八号線を時速五十キロほどで走っている。

 砂浜にはところどころに海水浴場があり、駐車場へ誘導しようとするお兄さんたちと目を合わさないようにしながらの運転だ。

 朝の海は穏やかながら、気温は三十五度を超える予想。まだ九時前だが、その予想をフロントガラスに広がる青い空と日差しが裏付けている。

 しばらく快適なドライブが続いた。そして、そろそろ左へ進路を変える頃に。

 目的地は、JRの筒石(つついし)という駅。

 そこから汽車に乗って、旅に出ようというのではない。

 地下四十メートルにあるという、その駅のホームを見てみたかった。数年前から考えていたことだ。

 そのホームの存在は新潟への出張時、特急「北越」の車窓からかすかに確認していた。同じ特急でも、上越新幹線と繋がる「はくたか」では速すぎて、ほとんど分からない。

 どちらにせよ、そのホームの存在を知り、さらにそのホームの駅舎が急峻な崖道を登ったところにあって、改札から長いトンネルの階段を下りてホームに出るということを知ってからは、いつか必ず出かけなくてはならないなと考えてきた。

 そして、チャンスは意外にも身近な月一予定の歪みから生まれた。

 クルマでの新潟出張の帰路、翌日富山県某町のイベントに立ち寄ることにしていたが、その付近にホテルがなく手前の上越市にホテルをとった。

 あとで上越市ではなく、糸魚川市にとった方が得策だったと気付いたが仕方ない。

 夜の八時半頃、上越のホテルに着き、部屋の弾力のないベッドに腰を下ろしたところで急に閃いた。

 明日少し早く出れば、あの筒石の駅に立ち寄ることができるかも……

 パソコンを開いてすぐに間違いないことを確認すると、星ひとつ半だったホテルが三ツ半くらいにまでに変わる………

 翌朝は快晴。分厚いカーテンを透して日差しの熱が伝わってきた。

 窓が東側に向いているのは間違いなく、カーテンをちょっとだけ開けてみて、思わずウッと唸っていた。

 ナビが言うように「筒石駅」の表示が目に入ってくる。

 えっと思うほどの急な進路変更。少なくともそう感じた。さらに入り込んだところは、洗濯ものだらけの家並みが続く狭い道だった。

 しばらくゆっくり走ったところで、漁港らしき雰囲気となり、道は左へと曲がる。そして、クルマを止めた。

 ナビはこのまま真っ直ぐ行けと言っている。しかし、どう見てもこのまま真っ直ぐ行っていいのか戸惑うのが普通だろう。急な斜面に家々が並び、その隙間を縫うように狭い道が上に向かって一気に延びている。

 クルマを下りてみると、上から電動車イスに乗ったおばあさんが下りて来た。

 筒石駅へはこの道を登ればいいんですかと聞いてみると、普通にそうですよと答える。

 何を聞くのかと思ったら、なあんだ、そうなこと? といった顔だ。

 これ上がると小学校があって、そこからどうのこうのとかで、すぐだと言う。

 皆さんここ登って行くんですか?と、執拗にもう一回聞くと、そうそうと、こちらの心配を察したかのように笑って答えてくれた。

 坂道は短いが、急で狭かった。が、その急で狭い坂を過ぎると、地元小学校の脇を通り、一気に山の中の道といった雰囲気になる。このあたりの、海岸から一気に突き上がった地形を肌で感じとることができる。

 しばらく進むと、左手に筒石駅を示す看板があった。

駅舎

 下りて行くと、すでに写真で見ていたが、駅舎の味気ない建ち方に改めて消沈。しかし、ここまで来るまでの焦燥と期待感を思えば、そんなことに落胆などしてはいられない。

 クルマを止め外に出ると、一気に真夏の熱気に身体中が包み込まれた。

 しかし、その感触は懐かしい何かとの再会を思わせ、吸い込んだ空気の匂いもそのことを煽るものだった。

 まずは駅舎の写真をと道に戻ってみる。深い緑の中の小さな、そして平凡な駅舎がぼんやりと夏を思わせる。

 そうだ、さっき懐かしく感じたのは、夏の空気のことだったのかと思う。

 駅舎に入ると、中は小さな待合室といった感じだ。若者カップルが一組。電車の待ち時間なのだろうか。女の子の方はかなり疲れ気味で、ベンチに座ってうな垂れていた。

 さっそく入場券を買おうと窓口に立つが、誰もいない。横に回ってみて奥に駅員がいるのを確認して声をかけた。

 そうこうしているうち、振り返ると待合室にまたもう一組の若者カップルがいた。彼らは地下のホームの方から上がってきたみたいだ。 彼らも少し疲れている。

 入場券と入場証明書も兼ねた絵ハガキをもらい、自分も下のホームへと向かう。

 しばらく歩き、すぐに足が止まった。凄いのだ…… 想像を超える凄さなのだ。

最初の階段

 目が慣れ始めると、撮影道具を背負った青年が独り、階段をゆっくり登って来るのが見えた。こっちはカメラを構えたが、彼を焦らせてはいけないと、ゆっくりでいいよと声をかける。

 さっき待合室で見た若者たちの疲れた様子が、ここで理解できた。彼らもこの階段を登ってきたんだ。

 撮影道具を担いで上がってきた青年はかなりの量の汗を浮かべ、いやあ、ここは凄いですと話しかけてきた。

 実はこの青年との出会いがなかったら、この“探検”はかなり味気ないものになっていたかもしれない。この鉄道マニアの青年が、その後いろいろと教えてくれたおかげで、これからの一時間足らずが、とても素晴らしい時間になったのだ。

 では、行ってきます。そう言って青年と離れ、ボクは階段を下りた。

 階段は決して高くはなく、むしろ登る人のためにか低く造られていた。

 それにしても深い。しかも、真っ直ぐに下って行くトンネル壁面のラインが、より一層落ちてゆくイメージをデフォルメする。

 誰ひとりすれ違うこともなく、登ってきた人を見送った自分としては、何となく淋しい気持ちにもなるが、その分楽しみも増えていく。

 トンネルに向かって、トンネルを下る。地下鉄の駅に向かって階段を下るのとは、完全に何かが違っている。

 下り切ると、左にまたトンネルが延びる。「富山・金沢方面」と「直江津方面」の乗り場が案内されている。このふたつの乗り場(ホーム)は、向かい合って造られていない。何か理由があるのだろう。

のりば案内ガスの通路

 ガスが通路、いやトンネルの奥でうごめいている。まるで映画の世界だなと、平凡な感慨に耽った。

 遠い方から先に行って来ようと、富山・金沢方面のホームへと向かった。

 ホームへ出るには、また一段と深い急な階段を下りなければならない。一度下り切ったと思ったら、さらにまた左に折れてまた下る。

 そこにはイスが並び、出口戸はしっかりと閉じられていた。電車はここで待つのだ。

ホームへの階段

 少し躊躇しながらも、すぐに戸を開けてみる。

 そこは非日常的で、異次元的で、何もかもすべて失われたような、多くは閉鎖的だが、ある意味開放的で、そして、ただ素朴に暗くて静かな……そんな空間だった。不思議な空気感が漂っていた。

ホーム

 稲見一良の小説に出て来るように、廃線になった線路の上を走ってくる幻の蒸気機関車が、今にも飛び出して来そうな気配が漂う。

 ホームは狭い。黄色い線の内側などと言っていたら、すぐに壁にぶつかってしまいそうな感じだ。

 端から端まで歩いてまた椅子の並んだ空間に戻り、今度は急な階段を登り返した。

 地上が暑かった分、中は快適過ぎるくらいの気温となっている。冬は逆に暖かいのだろうと想像する。

 このホームを利用する多くは地元の生徒たちだと聞いたが、彼らの日常はなんとドラマチックなんだろうと勝手に思ったりしている。

 次は直江津方面のホームだ。階段を登り、ほぼ平坦なトンネル通路を戻って行くと、ホームへ下る階段の手前に、さっきの鉄道マニア青年が立っていた。

 もうすぐ、「北越」がホームを通過しますと言う。その言葉になぜか一瞬動揺し、この絶好の機会を見逃すわけにはいかないと思う。

 ボクと青年はホームに出た。若い女性駅員がいて、思わず、コンチワと挨拶。

 ちなみに、筒石駅には大きさの割に多くの駅員さんが働いている。事情は十分理解できる。

 さっきのホームとほとんど区別がつかない風景が眼前に広がっていた。いや左右に延びていたと言う方が正しい。

 「北越」は反対側の線路を通過すると青年が教えてくれた。そして、青年は三脚を用意し始めた。

 ボクは彼から二十メートルほど離れた場所で、カメラをテストする。鼓動が少し小刻みになったのが分かる。久々の緊張感。青年と何度 も目を合わせたように思うが、実際は暗くてよく見えていない。

 青年があらためてこっちを見た。その時だ。

北越が来た北越通過

 風が、いや空気の波のようなものがトンネルを通して流れ込んでくるのを、しっかりと全身で感じた。いや、感じたなどという生易しいものではなかった。大きな空気のうねりに全身が襲われた。恐怖感のようなものが、いや恐怖感そのものが背中を走った。

 次の瞬間、線路を滑りながら近づいてくる大きな物体の音が重なった。ライトが光っている。それだけを見ているとそれほどのスピード 感ではなかったが、目の前を通り過ぎる頃にはかなりの速さで流れ去って行った。

 いい歳をしたオトッつぁんの言うセリフではないが、夢のように「特急北越」は過ぎ去っていったのだ。さらに加えれば、銀河鉄道のようにとも言えた。

 ここは、やはり凄いです。青年が言う。こちらは写真撮影どころではなかった。

 そしてすぐに、今度は「はくたか」が来ますとも言った。さらに、今度はこのホームを通過するから、凄い迫力ですよとも言った。ボクはまた動揺した。

はくたかが来た

 「はくたか」の通過は、これまでの人生の中で片手に入るくらいのド迫力だった。

 「北越」の時を上まわる空気のうねりがあり、大音響があり、そして乗っていた人たちの顔など全く認識できないほどのスピードがあった。

 ただひたすら、身体をホームの壁側に傾け、風圧に耐えていなければならなかった。

 青年が言ったように、それはまさにこの駅だからこそ体験できる冒険だった。さっきの「北越」と比べると、スピードの違いが歴然としていて、「はくたか」の車窓からこのホームが確認しにくいということをあらためて理解した。

 青年に近寄ると、青年はまた、ここは凄いですと言った。

 そして、しばらく興奮を慰め合うと、あと何分後かに、今度は普通列車がここで停車しますよと、とんでもないことを口にしたのだ。

 それはもう至れり尽くせりのプレゼントだった。これこそ、筒石駅の“おもてなし”だ。

 その電車に乗ろうとする若者たちも下りてきて、にわかにホームはにぎやかになる。といっても、総勢十名足らずなのだが。

 さっきまでの特急と違って、普通列車は落ち着いた素振りでホームに入ってきた。乗客たちの中にはこの不思議な光景に一度下車する人もいた。

普通電車が来た

 若い母親が、周囲を見回している子供たちを促し出口へと向かう。

 旅人らしき中年夫婦が、しきりに感嘆の声を上げている。

 そして、普通列車が去って行くと、ホームはまた静かになった。

 青年が、ではお先に上がりますと、この駅らしい表現で出て行く。

 ボクは最後までホームに留まり、女性駅員さんになぜか礼を言って出口へと向かった。

 このトンネルの名が「頚城トンネル」であるということは、あとから知った。

 JR能生駅と名立駅の間、11,353メートルがすべてトンネルであり、筒石駅は、そのトンネルの中にホームをもつのだ。分かったようで、分かっていないような話だ。

 かつて地滑りによって、急な崖の下に造られていた筒石駅は何度も破壊されたという。

 しかし、1963年3月から1966年9月にかけてのトンネル工事とともにホームが完成。

 トンネルの中にあるホームへと下りるためのトンネルは、工事用に掘られたトンネルを、そのまま使っているとのことだ。

 地上から四十メートル下に造られたホームというより、地下ホームから四十メートル上の地上に造られた駅というのが本来のような気がする。

 後ろ髪を引かれるような思いのまま、最後の長い階段を見上げた。

帰りの上り

 そして、空気が変わったと思った。地上の熱気が流れ落ちてきていた。

 外に出ると、さっきの普通列車で下車した母子を、子供たちの祖母らしき婦人が迎えに来ていた。これから楽しい夏休みなのだろう。海が待っている。

 一緒に下りたソロの若者は、大きなリュックを担ぎ、そのまま徒歩で海沿いの町へと下るみたいだ。

 中年夫婦は、駅員にこの辺りで食事できる場所はないかと尋ねている。駅員が、ここは観光地ではないので…と説明している。

 鉄道マニアの青年はと言うと、すでにその姿は見えなくなっていた。

 まだ午前中だと言うのに、日差しはすでにピークに近く感じた。

 夏だなあと思う。ずっと昔のことだが、いつもこんな夏があったんだと思う。

 何かを思い出させてくれた、夏の、五十数分間の、胸躍る大冒険だったのだ………

水滴

 

新緑がいい

上高地の森

 この齢になって新緑の素晴らしさを語ったりしたら、加齢の仕業のように言われた…と同年代のある人が話していた。

 その人は、齢を食うと季節に敏感になっていくからイヤだねと、ただそれだけの理由で納得していたようだったが、少なくとも自分は違うなと思っていた。

 自然の移り変わりというか、季節の表情がいろいろと変わっていく様子というのは、人それぞれの感性や経験などによって違うのであり、その両方に明確な覚えのある者にとってはそんな単純な理由に納得できるはずがない。

 ボクと新緑との付き合いは、二十代初めの信州上高地から始まった。

 まだマイカー規制が緩かった時代、夏山真っ盛り期の前にはかなりクルマで入れる期間があり、そのチャンスを利用して頻繁に上高地に通った。

 その頻度は自分でも異様に感じるほどで、多い時には一ヶ月に五回ほど出かけていたこともある。

 上高地は四月の後半に一応開かれるが、飛騨方面からだと今と違って安房峠越えという厳しい条件があった。

 だから、少し落ち着く五月の連休明け頃から入り、ウエストン祭の頃から先の目覚め始めた大自然を満喫した。

 頻度に比例して上高地の隅々まで歩くようになり、それから後、上高地を通過点にして山の世界に入っていったのだが、秋の紅葉の時季よりも圧倒的に春から初夏にかけての新緑の時季が好きだった。

 ボクはそれまで、新緑に対する認識(大袈裟だが)というもののを感じたことはなかった。

 しかし、上高地という特別な環境がそうさせたのは間違いなく、梓川の桁外れな清流と穂高の圧倒的な山岳景観などが、新緑という何気ない自然の産物にも魅力を感じさせたのだろう。

田代池 (1)

 上高地での体感以来、ボクにとって新緑はどんな場所においても大事なものになっていく。

 そして、新緑は最もシンプルな季節的シンボルのひとつであって、自然の中でいちばんテンションを高揚させるエキスをもつものだと思うようになった。

 たしかに真っ青な空も入道雲も、晴天の日の雪原なども見ていて元気をくれるが、新緑とはどこかが違った。

 新緑にはこれからまた物事がスタートしていく時の期待感、いやちょっと違うか…、もっとシンプルで、具体性のない何かに対する“楽しみ”を煽るような、そういうものが潜んでいるような気がする。

 そして何よりも美しいし、清々しい。

 田んぼが水田になり、苗が植えられ、その後しばらく鏡のようになって空や山々を映し出す時季、新緑も負けじとその本領を発揮していく。

 風に揺れながら波のように色を変化させたりする様子は、新緑期ならではの目の保養になる。

 ボクにとっては、“シンリョク”という響きも、“新緑”というこの二文字の組み合わせもなかなかにいい感じだ。

 そんなわけで、できれば一年中新緑が続いてくれたらと思うが、それじゃダメなのも分かっていて、とにかく出来るだけ、“今の新緑”を楽しもうと考えるのだ……

緑陰1

緑陰3

卯辰山の竹藪のこと

燃える竹

 枯れた竹が放置されたままの藪では、陽が差し込むと、突然その隙間に伸びていた新緑が輝き出す。

 春の始めだったりすると、その勢いも激しく、目がくらむというと大袈裟だが、ちょっとびっくりしたりする。

 金沢の卯辰山には、ところどころに竹林か竹藪かといった感じの場所があるが、どこもあまり整備されているとは言えず、かなり中途半端な様相だ。

 金沢といえば、やはり別所などの竹林が有名で、その美しさは卯辰山の比ではない。

 それはやはりよく整備されているからで、タケノコの産地であるということがそのことを裏付けてもいる。

 しかし、前にも書いたが、竹林というのは何となく日本の象徴的な風景をつくり出していて、その点でも卯辰山はちょっともったいない。

 たとえば、小さな社が三つ並ぶ卯辰三社周辺の竹藪はかなり傷んでいる。

 山麓の寺院群をめぐる「心の道」周辺も然りだ。

 傷んでいるから、整備されていないから竹林ではなく、竹藪なのだろうと勝手に思ってもいる。

 「心の道」の仕事に携わっていた頃、旧鶯町の松尾神社を抜け、そこから先、右に上るか左に下るかで結論を待たされたことがあった。

 ボクには当然決定権などなかったが、圧倒的に右行き派で、そこからの風景や空気感がこのルートの核心部になるとさえ思っていた。

 現にガイドを作った際、ボクはこの場所に向かう道の石柱と山門を撮影し使用している。

 小さな寺院と墓地。道は辛うじて木漏れ日が差す程度の明るさで静まり返っている。

西養寺墓地の道

 しかし、薄暗く荒れた墓地の中の道であることや、最後は厳しい下り坂となることもあって、雨の日の調査により、その道は危険と判断された。

 ルートは松尾神社を出て、左に下ることに決まったのだ。

 その辺りにも竹藪が続いていた。とても大きな竹が笹を垂れながら揺れていた。

 そして、それはそれなりに豪快で美しいものでもあった。

 竹藪というのは、なかなか手を入れるというのもむずかしいのだろうが、とにかく手を入れる価値が見出されていないのが本当のところなのかも知れない。

 卯辰山の瓢箪池から苔むした石段を登り、卯辰三社に上がると右手に深い竹藪が見えてくるが、その中の様子も荒れている。

竹藪の道

 しかし、竹藪に目をやりながら短い道を歩き、その途中に架かる小さなアーチ形の橋から見下ろすと、その竹藪が意外と深い広がりをもっていることに気が付く。

 その辺りまで来ると、少し竹藪が竹林になっているのではと期待ももたせてくれ、足を運ばせようとする。

 卯辰山は金沢市民にとって、あまりにも身近な存在だ。

 ボク自身も小学生の頃、天神橋の脇の旧御歩町に親戚があって、そこへ遊びに来ると、すぐに卯辰山に上った。

 もちろん歩いてであり、頂上?付近のグラウンドで遊んでいた。

 今から思えば、田舎から出てきた少年が、何の懸念もなく上り下りしていたのだから、やはりごく普通の丘みたいな山だったのだろう。

 墓地や健民公園や相撲場などがあって、今も日常の中にもそれなりに位置付けられているのはまちがいない。

 かつては相撲場で野外コンサートがあったりして、国内のそれなりに有名なジャズミュージシャンなどが来演していたこともあった。

 竹藪の話にまた戻すと、ボクはやはり、卯辰山の場合はもう少し手を入れて、せめて竹林と呼んでもおかしくないくらいにしたらどうだろうかと思う。

 前にも書いたとおり、「金沢らしさ」は「日本らしさ」なのだ。

 兼六園も武家屋敷も茶屋街も、伝統工芸も伝統料理も伝統芸能も、みな「日本らしさ」であり、今ははるかに及ばないが、卯辰山の竹藪、いや竹林もまた「日本らしさ」になる。

 卯辰山へ出かけたが、桜の印象は全くなく、ただ竹のことばかり考えて歩いていた……

卯辰山三社の石段と鳥居散策路の桜と

山里の陽だまりと、読本と、春眠と

福光の道

 福光からの帰り道、持って出ていた本を読もうとクルマを止める。

 日差しも温もりも春の兆し。

 運転しながら、瞬間的に目に飛び込んできた光景が、まさにその雰囲気に合う場所であると感じさせた。

 早春の陽だまりを求めての、三連休最後の日に訪れた短い自分時間。

 できるだけそれらしい雰囲気を自分自身にも課して、短い時間を楽しもうとしている。

 久しぶりだった医王山富山県側山麓の道も、飛越の山並みにまだまだ残雪が光っていて、手前の青麦畑やこれから始動する水田とのコントラストが美しかった。

青麦と残雪の山水田と残雪の山

 IOX-AROSAのゲレンデにも十分な残雪。

 来週は、立山山麓へ出かけるつもりでいる…と、敢えて自分に言い聞かせたりする。

 無造作に部屋の壁に立てかけられ、静かに息を殺しているテレマークの板たちのことを思う。

 彼らにはまだ十分な楽しみを与えていない。

 ただでさえ古い道具たちだ。

 このまま老いていかせるには勿体なく、自分自身を責めたりもする。

 陽はかなり西に傾いてきたが、さすがに春が近づいていると見えて、一日は確実に長くなっている。

 クルマのエンジンを切って、まずは周辺を散策する。

早春風景

 小川が流れ、そこに付けられたコンクリートの橋を渡ると、広くはないが美しい水田の空間がある。

 その手前には素朴な小屋が建てられていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。

 ただ近くまで来ると、トタン葺きだったりして少しがっかりした。

 畦道の草はまだ秋に枯れたままの状態で、雪の下で冬を過ごしてきたものたちだ。

 雪の重みに耐えた後の乾いた草の感触もなぜか懐かしい。

 しばらく歩き、写真も撮って、何度か振り返りながらクルマに戻る。

 フロントガラスいっぱいに、今見ていた風景が広がるようにクルマを移動。

北への旅

 シートをゆったりめにして、先日買った三冊のうちの一冊、『北への旅』(椎名誠著)を開く。

 分厚い。さらに、文庫だが紙質が重く手応えも心地よい。

 五十二ページまで一気にいく。といっても、四十二ページまでが写真。

 カメラマン・シーナ氏のちょっとクールで温かい写真に集中してしまった。

 話は、いや文章は津軽半島から始まり、いつものようにテンポよく進む。

 本当はキルギスへ行く予定だったが、なぜか津軽へと向かう。

 そのあたりの事情は読めば分かるので省略。

 五能線というローカル線で、五所川原に着いたところから本題に入っていくが、そのあたりのことも読めば分かるので省略したい。

 とにかく、夜になってコンビニのあんちゃんから聞いたうまいラーメン屋で体を温め、その温もりが冷めないうちにホテルに戻って寝たというところで序章は終わった。

土手の青草

 一段落したところで休憩。最近疲れ気味の目を休めようと、フロントガラスの光景をもう一度眺める。

 そして、そのまま眠ってしまった。

 春の陽だまりの中で活字(写真もだが)を追うというのは、最終的にこうなるのが正しい。

 しばらくだったが、目が覚めるとかすかに汗をかいていた。

 時計は五時少し前。クルマを降りて、身体を伸ばす。

 空気は少し冷えてきた。が、春がそこにあって気持ちが柔軟になっているのは間違いない。

 冬はすでに遠い空の果てから宇宙のどこかへと消え去っていったのだと、宮沢賢治的?に思ったりもする。

 やはり、春はいいのかも知れないのである……

南砺の里

3月のありがとう

3月

  「3月のありがとう」はいつもより少し重い。

 高校生の間、通勤がてら二人の娘をほぼ毎朝学校の近くまで乗せていった。

 ほとんど会話らしきものはなかったが、当たり前の日課だった。

 そして、二人とも3月の初めのある朝、「3年間ありがとう」と照れ臭そうに父に言って車を降りて行った。

 家人から事前に聞いてはいたが、知らなかったふりをした。

 そして、わざとらしく「おっ、そうやったっけ」と、とぼけた。

 二人とも高校を出ると、京都へと巣立った。

 長女の引っ越しの時は、母親を残して独りで先に帰らねばならず、こっちも敢えて急を装うようにして帰ってしまった。

 翌日、母親を京都駅まで送った長女は、バスに乗ろうとした母親に「お母さん、いろいろありがとう」と礼を言ったという。

 バスの中、涙が止まらなかったと母親が言った。

 … 二年後、次女を京都に置いてくる時も、車で立ち去る直前になって「いろいろ、ありがとね」と言われた。

 ただそれだけの言葉だったが、母親の目には涙があふれていた。不覚にもこっちもグッときた……

 今朝、父と高校生の娘らしき二人が車で通り過ぎていくのを見た。

 かつての「3月のありがとう」を思い出し、そろそろ、あの父娘にも同じような「3月のありがとう」が訪れるのだろうなと思ったのだ……

風邪ひき午後の味噌煮込みうどん

yagi

 年の始めからの過密?スケジュールが災いしたのか、一月の終わりになって風邪をひいてしまった。

 今の風邪は、ちょっと治ったかなと思っても会社などからは来なくていいと言われるので、その辺で喜んでいいのかどうか浮ついたりするのである。

 しかし、知り合いが風邪で休んでいたりすると、しっかりクスリを飲んで寝て、いいモノを食い、いい音楽といい文章に囲まれていれば、すぐに風邪なんか飛んで行ってしまうのだよ……とカッコいいことを言っているが、いざ自分の番になると、なかなかそんな美しい境遇には恵まれなくなる。

 予測なく鼻水がタラ~ッと出て来そうな雰囲気の時などには、いい音楽もいい文章もあったものではない。

 ましてや、咳に上半身を煽られ、体全体が熱に冒され始めたりすると、音も活字も神経を逆撫でする補助凶器にさえなってしまうのだ。

 昨日早退、本日お休みとなった今など、一応昨日医者にも行ってきたので、ひたすらじっとしているといったことなどが要求されている。

 しかし、人間、そうじっとしてはいられないし、たまには体を動かすことも求められる。

 そういう時に、忘れていたものとの再会や、また大きな発見などもあったりするのだ。

 そんなわけで、先ほど冷蔵庫にあったうどん一袋にネギその他を放り込み、味噌煮込みうどんを作って食った。

 もともとは醤油煮込み味だったのだが、そのスープは引き出しにしまって、味噌汁用の味噌を使った。

 味噌の量が少し多過ぎて塩っぽさが強調されたが、タマゴの絶妙な崩れ具合が、自分としてもかなりの満足度だったので、まあまあ良しとしておくことにした。

 かつて白山麓・O村にあった小さな食堂の味噌ラーメンは、家庭の味噌の味だった。

 ボクはその味噌ラーメンが大好きで、20~30代の頃は、月に二度以上は食っていたような気がする。

 それは家庭の味噌汁のような風味のラーメンだった。

 北海道でも、東京吉祥寺でも同じような味噌ラーメンと出会ったことがあるが、その店のものは「素朴度」が違った。

 飾らない正真正銘の“味噌”でスープが作られていたに違いない。

 あれ以来、味噌ラーメンの懐かしさは、あの味に還ることになってしまう。

 そして、今日ボクは風邪で休ませていただいたおかげで、そのことを再確認する機会を得た。

 味噌煮込みうどんのあとは、家人が用意してくれた伊予かんなども食った。

 味噌煮込みと一緒に、昨夜のおかずの残り、肉じゃがも食っていたので、もう腹はいっぱいだ。

 さらに見渡せば、正月明けのせいか、我が家にはさまざまな食材が散在していることも発見。

 現代日本における、雑食文化の煽りを実感。反省しつつ、賞味期限ギリギリ待ったなし状態の金沢伝統和菓子も、ついでにいただいた。

 この満腹感は、風邪で休ませていただいている者としてはどうも心苦しい。

 アタマはボーっとしているが、満腹過ぎて、すぐベッドに入るのも少し控えなければならないほどだ。

 この無作為な文章も、腹ごなしのつもりで打っているのだが、どうも収拾がつかなくなってきたので、このあたりで終わりにしよう……

92年秋の薬師岳閉山山行

 ※この文章は、『山と渓谷』1993年3月号に掲載された「薬師如来感謝祭 快晴の秋山行」に加筆したものです……

薬師

 北アルプス・薬師岳に初めて出かけたのは、もう10年近く前のことだ。

 恒例になっている夏山開きの登頂会に参加し、雨の中をひたすら歩いた記憶がある。

 翌日の快晴を期待しながら、太郎平小屋での豪勢な夕食と酒に酔っている間に、天気はますます悪化し、結局登頂は断念させられた。そして翌日、そのまま雨の中を下ったのだ。

 それから何年も、薬師岳はボクにとって遠い存在になってしまった。

 薬師岳の頂上に立てなかったことに対する思い残しも、いつの間にか消え失せていた。

 そして、二年前の夏山開山祭に参加するまで、ボクにとっての薬師岳は雨の中の記憶だけが残った山であった。

 それまでも、そう多くの山を登ってきたわけではなかったが、なんとなく山慣れしてきた自分にも自信のようなものが芽生え始めていた。雨の中の登行も、それなりに楽しめるという思いもあったのである。

 しかし、何年ぶりかの薬師は、またしても激しい雨の中の登行を強いてきた。仲直りの握手を求めて差し出した手を、思い切り振り払われたようなそんな仕打ちにも思われた。

 ボクは、ほとんど山は初めてという会社の同僚5人を誘い、彼らに山の素晴らしさを教えてやろうと意気込んでいた。しかし、あまりの厳しい条件に内心不安でいっぱいになっていた。

 ところが、その翌日は、見違えるような青空がボクたちを待っていてくれた。

 残雪を踏みながら、みるみる切れていく白い雲に目をやっていると、はじめに槍の穂先が姿を現した。有頂天になったボクは、パーティのみんなに「見ろ、あれが槍ヶ岳だ」と指さし、正真正銘のほがらか人間へと変身していたのだ。

 ボクの薬師岳に対する思いは、このときをきっかけにして大きく変わった。

 山は晴れてくれさえすれば素晴らしいところという自分勝手さによって、単純に薬師もボクにとっては、好きな山ということになってしまったのだった。

 それから2年後の今年、好きになった山・薬師岳に、また出かけることとなった。

 今度は夏山ではなく、10月の秋深き山行であり、なによりも薬師岳の地元・大山町山岳会が中心となった「薬師岳如来感謝祭」という記念登行会であった。

 夏のはじめに行われる開山祭で、地元・大川寺の住職が頂上に納めた薬師如来を、秋の山小屋閉鎖と同時に大川寺に戻す。その役目を地元の山岳会が担っているのだ。

 開山祭との違いは、何と言っても参加人員の少なさである。当然のことながら山では10月中旬といえば厳しい環境に見舞われる。中途半端な登山者にとっては、思わぬ事故に巻き込まれる危険性もあり、そのあたりは地元山岳会の適切なチェックがされていた。

 ボクは一般参加という立場にあったが、山岳会の会員で会社の大先輩であるTさんに連れられての参加であった。

 出発の二日前、Tさんから防寒具などの確認の電話が入った。一応準備は整っていたのだが、Tさんの入念な確認に、ボクもそれなりの対応をした。

 10月中旬の本格的な山行は何年ぶりかのことであり、かつて涸沢で味わった切ない記憶を蘇らせながら、予備の衣類などに気を配った。

 下界の天気予報では、山行予定の二日間とも雨。

 こうなれば、我慢の登行を強いられるのは覚悟しなければならない。

 ただ、今回の山行に対して、ボクはあまり天候を気にしなかった。それは、漠然としていたが、開山祭と違って少数の、しかも山慣れした人たちとの山行であるという別の意味の緊張感によるものだったのかも知れない。

 出発の朝の空は、二日前の予報に反して快晴だった。

 剣・立山・薬師のシルエットが朝焼けの空にくっきりと浮かび上がり、晴れ上がったにしてはさほど冷え込みも感じられない。絶好の秋山日和となった。

 大山町の役場の前でタバコを吹かしていると、いかにも山慣れした雰囲気の男たちがぽつぽつと集まってくる。山岳会のリーダー的存在であるKさんが、登山口までの車の配分を決めるために忙しく動き回っている。

 ボクとTさんは、大阪からやって来たカメラマン・Mさんのワゴンカーに便乗させてもらうことになった。Mさんは一見スリムで、山とは縁遠い人のように思えたが、途中の車の中での会話で、想像をはるかに超えた山屋さんであることがわかり、意外なことでつい嬉しくなった。

 登山口である折立に着くと、先発隊がすでに出発したあとだった。折立の小屋の前には、Kさんと太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんが立っている。Mさんの都合でちょっと遅くなってしまったボクたちを、ふたりは待っていてくれたのだった。

 「じゃあ、ぼちぼち行こうか……」 Kさんが余裕のある声で言った。枯葉が落ちた樹林帯の登り道は、まさに秋山の静かな雰囲気に満たされていた。

 真夏の草いきれなど忘れさせるような冷気が心地よいくらいに漂い、歩きながら交わされている五十嶋さんとKさんとの素朴な会話も耳に快く届いてくる。

 登り始めてしばらくのところで先発隊に追いつくと、一団はにわかに賑やかになった。山岳会のナンバーワンアタッカーと思われるEさんは、どうやら会のムードメーカー的存在でもあり、十一月にヒマラヤへ行くという健脚ぶりをいかんなく発揮している。Eさんの身のこなしを見ていると、もうほとんど平地との区別がないように感じられ、年齢的にはまだ若いボクを驚かせた。

 森林限界を越えた三角点のすぐ上で休憩をとり、ゆっくりと剣・立山の眺望を楽しむ。なんとなくよそ者的な自分を感じながらタバコを吹かし、会のメンバーの会話を聞いていた。

 五十嶋さんの言った、「今日でこの道歩くの今年18回目だよ……」という言葉が耳に残っていた。

 今回の山行はかなりハードな行程が組まれていた。太郎平小屋に着いて昼食をとった後、すぐに頂上を目指すという計画であって、とにかくその日のうちに薬師如来を小屋まで下ろすことが目標になっていたのだった。

 Tさんは、しんどかったらやめりゃいいさと軽く言ってはいたが、そう言われれば言われたなりに、やはり頂上へと言ってきたいと思ってしまう。休憩のあと、ちょっと出遅れて出発したボクは、やや焦る気持ちとは裏腹にゆっくりと歩くことにした。

 太郎平小屋に着いたのは正午過ぎだった。EさんやKさんはもうかなり前に着いていたらしく、外のテーブルの上には空っぽになったビールの缶が二、三本置かれている。Kさんは時計を見ながら、もう頂上へ向かう段取りをしているようだ。

 慌ただしく昼食をすませると、防寒具一式をリュックから取り出し、着込んだ。

 Kさんを先頭に頂上へと向かう。一旦、キャンプ場のある谷に下り、そこからは一気の急登となる。ボクは、キャンプ場に新しくできたばかりの真新しいトイレに立ち寄ったために、またしても遅れをとることになった。

 ようやく先行の一団に追いつきはしたが、休憩も思うように取れないまま登り続けなければならなかった。

 しばらく行くと、数日前に降り積もった雪の上の登行が待っていた。「肩の小屋」と会の人たちが呼ぶ薬師岳山荘で一息ついたが、さらにまた雪上の直登が待つ。ここはさらに切なかった。

 「往年の馬力はなくなったなあ……」と、Tさんがボクに言う。たしかにTさんがボクの前を歩くなど、これまでなかったことだった。

 やっとの思いで頂上に辿り着くと、Kさんが相変わらずの余裕の顔で迎えてくれた。

 祠の戸が開けられ、薬師如来像を直に見ながら合掌する。何度も山に登っているが、こんな経験は初めてのことだ。

 Tさんが呼ばれた。実はTさんは閉山祭にはなくてはならない存在なのだ。それはTさんが山岳会の中で、唯一お経の読める人だからであり、会では秘かに「権化さん」と呼ばれている。

 その権化さんが詠む般若心経が厳かに響きはじめると、薬師岳山頂付近が急に聖地に化した。読経が進むと、お神酒代わりのブランデーがまわってきた。小さなボトルのキャップ一杯だが、実に美味かった。

 早々に下山に移る。下りに入るとさっきまでのつらさも忘れ、今年から始めたテレマークスキーの真似事に興じた。

 太郎平に着いたのは、雲海が夕陽に染まり始めた頃だった。

 その夜、太郎平小屋は今年最後のにぎわいに沸いた。開山祭とは比べものにならない豪勢な料理が、テーブルを片付け、畳を敷いた食堂に並んでいた。中央には祭壇が作られ、再びTさんがお勤めをしたあと、全員で焼香した。

 にぎやかな語らいの中で、五十嶋さんの満足そうな顔が印象的だった。

 夜が更けても、空は明るく、かすかに薬師岳の稜線が見えていた。

 

ボクらの浜のゴミ拾い

砂浜

6月最後の日曜日は、6月最後の日でもあった。

が、そんなこととは特に関係ないと思うが、わが内灘町では、町の代名詞とも言える海岸の一斉清掃に、朝から町民たちは汗を流していたのだ。

と言っても、当然ながら内灘28000人の町民が全員海岸に押しかけたのではない。

もし、内灘町民全員が海岸に集まってしまったら、砂浜は立錐の余地もなくなり、ゴミ拾いどころか、身動きもとれない状態になってしまって大変なのだ。

そんなわけで、有志と各種団体、家族連れなどが参加し、それでもかなりの人数で賑々しく砂浜のゴミ拾いが続けられたのである。

公式開始時間は、午前7時。

しかし、ボクなどの地区役員はなぜか6時集合と聞かされていた。

ボクたちの拠点となるのは、権現(ゴンゲン)森海水浴場だ。

小さな海水浴場だが、夏真っ盛りの頃になると、それなりに金沢などから客が来る。

会社などのレクリエーションなどにも使われるケースが多く、人気がある。

海水浴場はというか、最初の浜茶屋がボクが小学生だった頃、地元のよく知っている人たちによって作られたと記憶する。

それまでは何にもない、ただの広い砂浜だった。

海水浴場が作られる時、権現森に一台のブルドーザーが入り込んで、まるでバリカンでアタマを刈るようにしながら森の中に一本の道を造ったのだ。

あの時代は、自然保護がどうのこうのなどと言う人もいなかったのだろう?

実を言うと、我々「悪ガキ隊」(もしくは「全ガキ連」とも言う)は、いち早くそのニュースをキャッチしていた。

そして、工事の始まるその日、すぐに権現森の手前にあったニセアカシヤの林の入り口へと走っていたのだ。

真新しいブルドーザーに跨り(実際、運転席に座っていたのは言うまでもないが)、颯爽と道を切り開いていく運転手のお兄さんとは、すぐに仲良しとなっていた。

それからは、毎日学校が終わると権現森に出かけ、ブルドーザーにも乗せてもらったりした。

その日の作業が終わり、開いた道を戻る時に乗せてもらったのだと思う。

樹木や雑草などで暗く薄気味悪かった権現森が、明るく開放的なイメージになり、もうビクビクしながら森の細い道を歩いて行かなくていいと思うと、高いブルドーザーの席から勝ち誇ったような気持ちで森を見下ろしていた。

本題とはあまり関係ないが、そんなわけで、とにかく権現森海水浴場は出来たという話である。

時計は6時半になっていた。しかし、ボクを入れて四人が集まっているだけで、あとは誰も来ない。

どうせ7時からだし、みんなはまだだろうと思っていると、後から来た一人が手にゴミ袋を持って砂浜に下りて行った。

聞くと、海水浴場駐車場のずっと手前で、ゴミ袋が渡されているという。

つまり、我々は事務局よりもちょっと早く来すぎていたのだ。

一人がわざわざゴミ袋を取りに戻ってくれた。

いよいよ浜茶屋あたりから砂浜に下り、ゴミ拾いをしながら進んで行くと、先の方には大勢の人だかりが見える。

あの集団はいい時間に来たので、そのままゴミ袋を手にゴミ拾いを始めていた。

早く来ていながら不覚をとったと、川中島の合戦における武田軍の山本勘助になった心境でいる……(それほど深くはない)

ゴミは無数に、しかも時折悪意のようなものを匂わせながら、ボクたちの足元に落ちていた。

しかも砂浜だから、ほとんどは砂に埋まっている。

ハングル文字の入ったものも多くある。

悪意を感じるのは、四駆車が入り込んできたあとに散乱しているペットボトル類だ。

大きなものが、海浜植物の隙間に多く散乱している様は、目にしただけでも気分が悪くなる。

と言っても、ゴミ拾いの面々は地元の仲間だ。やらねばならぬ的にやるしかないと思っている。

7時を過ぎてからか、雲が切れ、本格的に太陽が出はじめた。

海の朝はそれなりに空気も冷たいが、東からの陽光を受けるようになると一気に暑くなる。

鼻が高いせいだろうか、いつの間にか鼻のアタマに熱気を感じるようにもなっていた。

数百メートルにわたって、人のかたまりが動いて行く。

清掃部隊に少し遠慮しがちな釣り人たちも増えてきた。

ところどころに設置された、ゴミの集積場に流木などと一般的なゴミなどが分けられ、その量は見る見るうちに増えていく。

見た目に分かるほどに、砂浜はきれいになった。

そして、そろそろゴミも目途が立ち、少し身体も疲れてくると、そこかしこに立ち話チームが出てきた。

昨日の夜は一緒に飲んでいたという人たちもいれば、久しぶりに会ったということで会話が弾んでいるグループもある。

役場の中の委員会に参加したりして、かなりストレスが溜まったりするケースもあるのだが、こういった場はむずかしく考えなくていいから楽だ。

クルマに戻ろうと、砂浜をずっと歩いて行くと、砂の上に朽ち果てた椰子の実があった。

実は朝一番に目に付き、これはゴミではないと自分で決めていた椰子の実だった。

誰もこれをゴミ袋に入れようとしなかったことに、なぜかホッとした。

陽が出る前は、小さく波打っていたような海面が、今はもう穏やかに揺れている。

すぐには帰らずに、海浜植物の群れの中を高台に登ってみた。

かつては、完全に砂の山で、一気に浜へ駆け下りるといった醍醐味があったが、今は植物が執拗に拒む。

狭く小さくなった砂浜を見下ろしたが、特に何の感慨もなかった。

沖には小さなボートが浮かび、釣り人の赤いウエアがあざやかに浮かび上がっている。

小さかった頃は、毎日のようにこのあたりで遊んでいたような気がするが、こうして海岸清掃という行事をとおして来てみると、地元の人たちの顔もあってか、急にその思い出も濃くなったような気がする。

よくは分からないが、とにかく不思議なものだ……

狭くなった海岸海を背景にしたスコップヤシの実穏やかな海に釣り船砂の感触

雪国の車中で、星野道夫と植村直己を思う

 2000年3月のはじめ、ボクは新潟の直江津から長野に向かう快速列車の中にいた。

 前夜からの大雪のためダイヤは乱れていたが、ボクはそのことを幸運に思っていた。

 星野道夫の本が手元にあったからだ。遠いアラスカの話を、信州の雪原を眺めながら読む…… そんな状況を楽しみにしていた。

 列車が走り出してしばらくすると、雪の降り方が一段と激しさを増した。

 屋根のない吹雪のホームで、ヤッケの帽子に雪をのせて突っ立っている人たちがいた。

 雪をつけた裸木が重なる樹林地帯。

 そして視界はそれほど深くはないが、雪原は永遠のような広がりを感じさせている。

 晴れた日、ヒールフリーのスキーで駆けめぐったら愉しいだろうな…などと考える。

 雪の中の軌道を走って行く独特の静けさが懐かしかった。

 そしてボクは、その中で星野道夫の飾らない素顔が車窓の風景に溶け込んでいく心地よさを感じつつ、ゆっくりとその文章を追っていったのだ。

 その四年前、星野道夫はすでにこの世を去っていたが、それまでのボクは、星野道夫という人間を、知性派の、凄く特異な動物カメラマンとしてしか見ていなかったような気がする。

 たしかに、彼の写真から伝わってくるものには、アラスカという地域の特異性や、撮影に費やされた計画の特異性などが感じられ、自然を相手にした写真家としての、かなりしっかりとしたこだわりのようなものを好きになっていたと思う。

 しかし、ある日、本屋で何気なく手にした彼の一冊の文庫本によって、ボクにとっての星野道夫観はすっかり変えられてしまった。

 と言うよりも、それは一気に大きく膨らみ始め、気が付くと原形をとどめないくらいになっていたと言っていい。

 文章にして彼が伝えてきたものは、アラスカという遠く離れた土地の大自然の美しさや厳しさだけではなかった。

 そこにはアラスカそのものがあり、何よりも星野道夫そのものがあった。

 彼が一人の少年としてどのような感性をもち、どのような青春時代を生き、その後、日本はもちろんのこと、アラスカでどのような人間たちと出会って、そしてどれだけ満ち足りた日々を過ごしてきたか。

 そして、それらのことが星野道夫にとってどれだけ素晴らしいことだったか。

 写真家としての作品だけからは知る由もなかった多くのことを、文章の中の彼の言葉が教えてくれた。

 星野道夫の多くの本と出会ってから、植村直己のふるさと兵庫県日高町に出かけた時のことが、よく思い出されるようになった。

 あの時、胸に迫ってきた何かが、星野道夫の言葉の中からも同じように伝わってくるような気がした。

 星野道夫と植村直己は、静と動の両極にあったと思う。

 しかし、二人とも大きな意味で共通した動機をもっていた。

 安らげる、自分らしくいられる、そんな場所を求めていたのだ。

 生命の脆さも、互いに違った形で知っていた。

 北米の最高峰・マッキンリーのどこかに植村直己が眠っており、毎日のようにその山並みを眺めていた星野道夫は不思議な気持ちになったという。

 あの植村直己でさえ、脆い生命のもとに生きてきたのだ。

 自然を征服するのではない冒険。日本人らしいやさしさの中で培われた自然との接し方。

 そして、何よりもヒトとヒトとの関わり方、すべてのことが今は亡き二人の素顔から見えてきた。

 快速列車が、夕刻近くの長野駅に近付いていく。

 もう雪の世界はとっくに通り抜け、星野道夫の本も、カバンの中へと放り込んだ……

 ※2000年に書いた文章の一部に加筆。

雪のある、東京の思い出

東京に大雪が降って、銀座の街に雪ダルマの姿があった。

もう何年も前のニュース映像の中の記憶だ。

異様な光景ではあったが、何となく東京人の雪への思いを知った気がした。

そして、東京に降る雪も金沢に降る雪も同じはずだが、東京の雪の方がオシャレに見えたのはなぜだろうか、と考えていた。

もう35年ほども前だが、大学の卒業式が終わった夜のことだ。

当然のように、親友たちと飲んでいた。場所は中野。足もとから底冷えのする夜だった。

その数日前、東京に季節外れの大雪が降った。

ほとんどは融けてなくなっていたが、それでも所々に凍り付いたままの雪が残っていた。

かなり酔っ払った後、ボクたちは線路沿いに出ていた屋台でラーメンを食う。

酔っ払っていたのと寒かったのとで、そのラーメンは感動的にウマかった。

ボクたちはドンブリを持ったまま、ウロウロと歩き回ったり、何だか訳の分からない奇声を上げたりしながら、そのラーメンを食っていたのだった。

突然、そんなボクたちの横を轟音とともに中央線の電車が通り過ぎて行った。

まさに不意を突かれたといった感じで、そのときのボクたちの周囲にあったすべてのものが、一度に吹き飛ばされてしまったように感じた。

事実、その轟音によってボクたちのラーメンに対する感動はコッパ微塵にブチ壊され、冷たい風がボクたちの全身から温もりさえも奪い去っていったのだ。

ふっと訪れた白々しい静寂。ドンブリから上がっていた湯気さえも、虚しそうに冷気の中へと吸い込まれていく。

ああ、東京ともこれでお別れか……と、急にセンチメンタルな気分に襲われ、胸が痛くなってくる。

残されたラーメンの麺をすすろうとすると、カジかんだ手から割り箸が落ちた。

ふと見下ろすと、足元に小さな雪のかたまり。

東京の雪はすべてがアスファルトの上に積もっているのだなあと、その時何気なく思った。

東京では、雪融けが春を告げるものではないのだとも思った。

雪そのものも冬の風物詩ではなく、単なる冬の間の一時に訪れる珍客に過ぎないとも思った。

東京の雪は交通をマヒさせることはあっても、生活様式を変えてしまうようなものではない。

それが、あの銀座の雪ダルマに象徴されていたと思う。

当たり前だが、雪に埋もれた日々を送る人たちが持っている雪への思いと、東京の人たちが持っている雪への思いは違うのである。

そろそろ、こちらでは本格的に雪が積もり始める時節。そして、新年のあいさつにと東京の仕事先へ出向く頃でもある。

東京の冬は、やはり青空が似合う。東京で、雪は見たくない……

ちょっと真面目な正月

 今年の正月は、例年になく真面目な数日間であった。

 その兆候は年末から続いており、大晦日に年賀状を何とか完成させ、毎年恒例となっている浴室の掃除はもちろん、神棚についても、何となくいつもと違うチカラの入れ方だったと思うのである。

 もちろん年が明けてからも、仕事先への挨拶まわりなどに意欲的に出かけ、親戚でいただくお酒も素直におよばれになった。

 元旦の早朝に、地元の黒船神社に初詣に行ったというのも、ここ最近では珍事であった。

 神社の中には区内の役員の面々が揃っていたが、幼馴染みをはじめ、皆顔見知りばかりで落ち着くのである。

 ここ最近は、二日や三日あたりにのそのそと神社へ出向くものだから、こういう雰囲気を味わっていなかった。

 これがやはり大きかったのかも知れない。一気に正月型心持ちに包まれ始め、正月なんだなあとしみじみ思えるようになっていったのだろう。

 そんなわけで、2013年はどことなくいつもと違った展開で動き始めたのだが、どんな一年になることやら…なのであった……

秋の寺歩き~醍醐寺

 京都の醍醐寺と滋賀の石山寺を、11月の連休を利用して訪れるという、かなり贅沢な寺めぐりをやってきた。

 二人の娘が京都にいた六年間には季節に一度くらい出掛け、それなりの京都を味わうことが出来たのだが、今は二人とも京都を離れていて、京都へ行くぞといったモチベーションはかなりトーンダウンした感じだ。

 ただ、下の娘がお隣の滋賀県草津市に住んでいるものだから、なんだかんだと言っては、それなりに京都はまだ身近な存在でもある。

 初日、大津インターで下りて京都に入り、ナビに導かれるまま、かなり狭い住宅街の道を通って醍醐寺に辿り着く。

 どうやら大津から入ったことが正解だったらしく、その道から行くと意外と空いていた。臨時みたいな駐車場にも簡単に入れて、ラッキーだったと言うべきだろう。

 空はどんより冬色。ちょっと肌寒い。周りを見るとダウンなんぞを着た連中もいる。

 しかし、こっちはセーターだけ。過敏すぎる都会の連中のファッション重視志向と勝手に決めつけて歩き出した。

 しばらくして、密度は低いが、細かい霧雨のようなものが舞い始めてきた。しかし、なんとかなりそうだと前進。

 醍醐寺と言えば、やはり桜だろう。

 秀吉が催した『醍醐の花見』は、この寺の代名詞になっている。

 加賀國の住人としてついでに書いておくと、その中のメインイベントである「お茶会」のホスト的役割を務めたのが前田利家だったはずで、この頃の利家はかなりの重鎮だった。

 かつて、石川の菓子文化の展示計画を手掛けた際、石川、特に金沢において菓子づくりが発展したのは、利家がお茶に通じていたからで、そのことを証明するのが『醍醐の花見』でのホスト役だったという話を参考にしたと記憶する。

 今は秋。それも晩秋に近い。もちろん桜ではない。紅葉だ。花見でなく、強いて言えば「紅葉見」だ。

 境内に入って行くと、やはりその広さに納得する。京都の寺の凄さは、まず境内の大きさにあって、そのことにより山門の大きさや、その他の建物などの大きさが比例して一様に驚きの源になる。

 多くの観光客が、五重塔の前で写真撮影に興じる。しかし、その後ろにある、こじんまりとしながらも見事なバランスで建つお堂の存在には気が付かないでいる。これも重文のひとつなのだ。

 ゆっくりと五重塔の裏側にまわり、紅葉の大木を眺め、自分もその木の下に入って、紅葉をとおして五重塔を見上げた。空が暗いせいか、今一つの感動とまでは行かない。

 メインの道に戻るとすぐに、左手に太祖堂。その前の紅葉が美しい。

 やはり皆さん、当たり前のように紅葉を求めている。中空を見上げたりしながら、美しい紅葉のシーンを見つけると足を向けカメラを構える。

 一本の木がその美しさを際立たせていると、すぐに人が集まり、いろいろな角度から撮影を始める。

 デジカメの普及で一億総カメラマン化が強まったなあと、今更のように思う。

 小学生の頃、カメラ好きでもあった兄に影響され、Kodakの箱型カメラを触らせてもらえるようになった。シャッターを切る時、カチャッと軽い音がして、おもちゃみたいだと感じたことは忘れない。

 その後、兄からメーカーは忘れたが一眼レフのとんでもないカメラをもらった。まだバカちょんが出る前だ。小学生が持つようなカメラではなかったし、小学生が写真に興味を持つということ自体も、少なくとも田舎の小さな町では普通でなかった。

 白黒だったが、写真は自宅の部屋で現像していた。竹のピンセット(はさみと言うべきか)で、トレイから印画紙を引き上げる感触は今でも覚えている。

 そして、今そのことがどれだけ影響していたのかは分からないが、人一倍の写真好きになっている。

 奥へと進むと池があり、ぐるりと回り込むようにさらに進む。ちょっとまとまり過ぎた風景に、モチベーションはそれほど上がらない。

 池に注ぎ込む流れに沿って上ってみた。写真のことばかりがアタマにあって、本来の観光の気持ちが萎えている。

「観光」と言えば、これも昔、『おあしす』という上質な雑誌に寄稿させていただいていた頃、『光を観る』という、生意気な巻頭エッセイを書かせてもらったことがある。

 観光と物見の違いについて、分かったような文体で書いた。大学を出たばっかりの頃だから、二十代の前半。身の程知らずもいいとこだ。

 物見はその字面からして何となく意味が分かるだろう。

 しかし、観光は意味が深い。ボクは自分で調べた「光を観る」という仏教的表現について書いたのだ。

 光を観る…、それは真実を観るということ。つまり、観光と言うのは、単に美しい風景や壮大な寺社などを見るということだけではなく、その場所の歴史や文化や風土などを感じ取るという意味を持っている。

 そういったことを図々しく書いていた。

 だから、今の状況のように、いい写真を撮るためにこの醍醐寺に来ているというのは、本来の観光をしていないことになる…のかも知れない。

 ……と、その場でそんなことを考えていたわけでは当然ない。

 何となくもう行き止まりというところまで来て、ずっと気になっていたフェンスの存在について思った。

 上ってきた右側、小さな流れがあって、その向こう側に素朴な道があった。

 その道を観光客ではない、普段着に近い人たちが歩いている。その光景が気になっていた。

 戻って、三宝院の庭に見入る。先日、郡上八幡でも美しい庭を見てきたが、基本的に庭は部屋の奥から見るのが好きで、ここでもとんでもない襖絵などが設えられた部屋からそうして見た。

 しかし、庭を見る人たちの数が違う。縁にずらりと並んだ背中ばかりを見ることになる。

 それにしても、部屋ひとつひとつから伝わってくる三宝院の歴史観はさすがに凄かった。相変わらず京都はさすがなのだ。

 仏像を数多く安置した施設にも満足した。近くでガラス越しでもない仏像に接することが出来るのは、何だかとても新鮮だった。

 ここで帰ろうかと思ったが、さっき見たフェンスの向こうの素朴な道が気になっている。

 その道は、醍醐寺の核心部とも言うべき「上醍醐」への道。

 ここまで来たら、行かなくてはならない……(つづく)

秋の定番・桂湖にまた行く

五箇山から白川村へと向かう途中に、桂湖への道がある。

一気に高度を稼ぎながら境川ダムまで登り、あとは湖を見ながら水平に進むと、湖畔の公園が見えてくる。

家からだと、金沢森本インターから北陸自動車道、東海北陸自動車道を経て、一時間強もあれば桂湖に着いてしまう。

もの凄く得をしたような気分にさせてくれる場所だ。

得をしたと感じるのは、その短い時間で、こんなにも素晴らしい風景に出会えると思うからで、贅沢を言えばきりがないが、何度来てものんびりできる場所で好きだ。

今回は途中の城端サービスエリアで、一応名物になっているおにぎりを食ったせいもあり、二時間近くかかった。しかし、それも得の一部なのだ。

ついでに言っておくと、このサービスエリアの奥には桜ヶ池というスポットもあって、ぶらぶら歩くのにいい。

 

桂湖は四回目だと思うが、記憶は定かではない。

きっかけは、カヌーが出来るということだったが、あの広い水面を見て独りでのカヌーはやめた。

ほとんど人がいなくて、初心者みたいな自分にはかなりの決断と慣れた同乗者が必要だった。

クルマを下りて、ゆっくりと見回す。

去年の同じ時季に来た時ほど紅葉は熟しておらず、ちょっとがっかりした。

去年の紅葉は凄かった。正確には黄葉と紅葉で、前者の存在感も大きい。

ボクとしては、黄葉にもなかなかの好感をもっており、紅葉は鮮やかすぎると少しいやになる。

そんなわけで、桂湖周辺で見る紅葉と黄葉にはいいバランスがあり、かなり好きなのだった。

ところで、桂湖の奥には、石川県から言うところの「犀奥の山々」への登山道が伸びている。

最奥というのは、犀川上流のその奥のことで、山々が石川と富山の県境になっている。

金沢からだと熊走の奥、かつて倉谷という村があった場所を経て登る。

実際に登ったことはないが、かなり厳しい道だということだ。

桂湖奥からも、いきなりハシゴ状の登りになり、切れ落ちた台地状の道を最初に進む。

ハシゴ状の登りもスリルがあるが、その後で出くわすマムシやトカゲなどの爬虫類たちの多さにもかなりスリルを感じる。

決して楽しいスリルではない分、途中でイヤになる。

ボクもそうして途中から引き返した。

特にその時は山登りに来たわけでもなかったから、装備も全くなくて、一時間も歩かずに戻ったのだが、仮に登山準備万端で来ていても逃げ出したかも知れない。

それほどに足元でガサガサ動くアヤツらには参った。

ところで、桂湖はダムによってできた貯水湖だ。

そして、察しのとおり、その底にはかつての桂という村が眠っている。

五戸の合掌造りの家があったという。

初めて訪れた時、水が少し涸れていて、奥の方にまで来た時に何となく人工的な道のようなものが目に飛び込んできた。

湖の底にかつての生活の場が眠っていることを想像した。

白山麓の深瀬や桑島、大日岳の麓の村など、近場にもいくつもそういった土地があって、その場の空気のようなものを感じたことがある。

ビジターズハウスで、展示紹介されているそんな情報をあらためて確認しながら、少し離れた湖畔にある大きなログハウスの店に初めて入った。

知的な老紳士が、奥様だろうと思える人と一緒に立って、もう一組の老夫婦に話しかけている。

後で分かったのだが、その老紳士はこの地域にあった小学校の先生だったらしく、その日の午前中、かつての住人達が集まり、 その先生の講演があったということだった。

桂に語呂がよく似た加須良(かずら)という村が、今の湖の反対側上部にあったらしく、桂よりも多くの人たちが住んでいたということだ。加須良は、岐阜県に入る村だった。

                       ※お店に掲示されていた写真

桂には五軒しか家がなく、屋根の茅葺きなど多くのことを加須良の人たちとの助け合いでやっていたらしい。

しかし、厳しい生活環境から、加須良は村自体を解散することにした。

それによって、桂の人たちもそこで生活ができなくなった。

桂村の美しい夏の風景が写真に残されているが、生活の厳しさは想像を絶するものだったのだろう。

 

独りで店を切り盛りしているらしいおカアさんに、コーヒーを頼んだ。

するとオカアさん手作りの漬物などが、まるでスイーツのセットメニューみたいにしてテーブルに届けられた。

何もかもが美味い。根本的に苦手としているミョウガすらも、アッと驚くような後味を残して、ボクの中に好印象をもたらした。

我が家風に言うと「クサムシ」、一般的に言う「カメムシ」もアッと驚くほど多かったが、ミョウガの後味ほど印象深くはなかった。

そして、おカアさんは最後に青い葉っぱのいっぱい付いた赤カブを持ってきた。

これ、邪魔でなかったら持って行って…。

そして、漬物にしても、煮て食べても美味しいよとビニール袋に入れた。

コーヒーもそれなりに美味かったが、味わっているゆとりがなかった。

おカアさんは、店の外まで出て、見送ってくれた。

また、来られよ。

境川ダムのすぐ上に、ススキの繁茂する崖があるが、ちょうど山に隠れる太陽の光が差し込む時間だった。

秋には必ずここのススキを撮影している。

いつもそれほど長い時間滞在しているわけではないが、ここへ来た時はいつもいい気分になる。

今回もそのことに納得した桂湖であったのだった……

 

 

 

 

笹ヶ峰~残雪の上で書き下ろす

 恒例になった毎春の笹ヶ峰スキートレッキング。

 ちょっと空白があったが、二年前に復活して、その時から現地書き下ろしを始めた。

 だから、今もボクは笹ヶ峰の雪原の岩の上に座り、ノートを広げているのだ。

 快晴である。暖かくて、雪面の照り返しもきつい。

 今のところ、前方に見える山の頂上付近に、綿をちぎったような白い雲が緩やかに浮いているだけで、空は全くの青。

 文句の付けようのない日になっている。

 昼飯を終え、雪の上に置いたノンアルコール・ビールの残りを飲みながら、ノートを広げた。

 時間は12時45分。

 8時半、いや9時近くだったろうか、いつもとちょっと違う場所にクルマを停めてスキーを履いた。

 白樺の樹林帯を抜けて、雪原に出ると、いつものように宇棚の清水と呼ばれる湧水のせせらぎに沿って登る。

 澄んだせせらぎの脇に水芭蕉が咲いていて、何度も足を止めてはカメラを手にした。

  今年は去年より雪も多いような気がする。

 昼飯の定位置となっていた大きな岩もまだ雪の中に埋まっているのか、見つからなかった。

 だから、今年はいつもと違うちょっと低めの岩を腰掛け代わりにしている。

 それにしても、相変わらず見事なくらいに静かだ。

 聞こえてくるのは遠くの鳥のさえずりや沢のせせらぎぐらいで、ノートの上を滑るペンの音さえが鮮明に聞き取れる。

 暖かいせいか、雪もやわらかい。

 しかも、例年と比較すると雪が新しい感じがして、スキーの滑りも何となくよかったりするのだ。

 下界の最高気温が25度と言っていたくらいだから、防寒着など全く不要だ。

 いつものようにスキーで笹ヶ峰牧場を隅から隅まで歩き、登り、滑る。

 この広々とした雪原を、今日は自分が独占しているといった感じで、申し訳ない気にもなる。

 たしかにクロスカントリーの練習コースになっているところには、何人かのスキーヤーがいたが、そこを抜けるとまったく人影は見えなくなった。

 例年なら四五人程度だが、人影を見るのだ。

 山の方に入る時、車道を横切ったが、その時に三人組の運転手が手を上げて挨拶して行った。

 サングラスで顔はよく分からなかったが、ニコリと笑っていた。

 ジープの屋根にはボクと同じテレマークスキーが三セット載せられていて、同じ仲間という感覚で手を上げてくれたのだろう。

 こっちも手を上げて笑い返した。

 ただ、彼らのテレマークはボクのとは違い、新しいスタイルのものだったな。

 コンビニおにぎりには相変わらず苦戦したが、ゆったりと昼飯を食い終えた。

 そして、ゆっくりコーヒーでもと思っていたのだが、持ってくるのを忘れて白湯で我慢。

 このことはかなりテンションを下げてしまった。だが、仕方ない。

 これから、下の方に滑り下りて、清水ヶ池から樹林帯を通ってクルマの方へと戻るが、クルマを置いた周辺にも広く開けた雪原があり、そこでも一登り・一滑りをして来ようと思っている。

 日焼け止めは、妙高高原ICで下りてから、いつものコンビニで買った。

 しかし、今日みたいな日は日焼けするぐらいでいいのだ。

 それにしても、こんなにのんびり穏やかな気分でいられるのは、笹ヶ峰に通うようになってから初めてかも知れない。

 雪の中に突き刺しておいたスキーの雪も、とっくに乾いている。

 時計は、13時5分。そろそろスタートしょうかな……

3月が終わろうとしている頃の諸々話

三月は慌ただしく過ぎていき、気が付くともう月末(勝手を言いますが、「つきずえ」と読んでいただきたい……)と言った具合に終わりを迎えつつある。

次女の就職に伴う引っ越しや卒業式などといった身内的事情もあったが、この季節はやはり何かが動く時期で、それらに直面したりすると、とにかくひたすら慌ただしいと感じることになっているのである。

しかし、スケジュール表をあらためて見てみても、決して書き込みがすごいわけでもない。むしろ、一月や二月の方がぎっしりと予定が入っていた。

やはり、ちょっと気になることや心配を伴う予定があったりすると、ニンゲンは以前からそのことを気にかけるようになり、同時にまだ訪れていない慌ただしさも背負ってしまうのだろう。

三月も終わりに近づいて、玄関にはもうテレマークスキーの板もブーツもストックも用意されている。

長女のボードも置かれているが、あれは単なる片付け遅れで、こちらのテレマークとは立場が異なる。こちらはいよいよこれからが活動なのである。

三月も後半になると、少しずつ体が疼き始める。晴れる日が来そうになると、何はともあれ、会社を休むためのシミュレーションをすることにしていて、若い頃はそのとおりにできた。確実に休みをとっていたと言っていい。

しかし、最近では歳も喰ってきて、仕事もそれなりにズシリと肩から背中の真ん中あたりにのし掛かってくるものだから、ほとんどがシミュレーションで終わる。

家で、明日休んで行ってっかな…などと口にしても、家人は「日焼け止め、持って行かんなんよ」と言うくらいで、絶対に行けないと見透かしている。で、実際にはやはり行けないのである。

『四月になれば彼女が来る…』といったサイモン&ガーファンクルの名曲があったが、ボクにとっては四月になれば山へ行く・・・なのであった。

 

次女の引っ越しは、京都から草津(滋賀)という約一時間弱くらいの移動だった。

長女の時は京都から内灘(石川)で、引っ越し業界の雄・Sカイさんが見事なチームワークと気合の入れ方でコトを済ませてくれたが、今回の場合は就職先が提携している運送屋さんが独りでやってきて、ウ~とか、ア~とか言いながら、とにかく時間がないんです的に頑張っていた。

おかげでボクも荷物の積み降ろしを手伝い、久しぶりに鈍っていた体に緊張を与えることができたのは喜ばしいことだった。

休日の京都は、入るにも出るにも大いに時間がかかる。そこで、ひたすら時間がない運送屋さんが教えてくれたのは、比叡山を経て大津へと抜ける「山中越え」というルートだった。

我が家のマイカー史上、初の搭載となったカーナビゲーションとかいう文明の機器が威力を発揮した。と言っても自分のクルマではなく、家人のクルマのである。

京都はかなり行き尽くしていたが、「山中越え」を利用するのは初めてだった。

昔、朽木街道(今は鯖街道の方が名が通っているか)を経て大原へ行ったり、千日回峰という修験の道に興味を抱いて比叡山へ出かけたりしたことは何度もある。

さらに、大原から林業関係車両しか通らないような杉林の中の道を経て、最後は鞍馬まで行ったこともあった。しかし、「山中越え」の道の存在はなぜか知らなかった。

時々小雨が降ったりする山道は急カーブの連続で、ちょっと緊張が強いられた。

しかし、沿道の風情は時折ドキッとするくらいに気を引いたりもした。

 

草津という街は、国道1号線がズバッと突き抜けていて、一見分かりやすいところだった。

次女がこれから住む街だからと、それなりに思い入れも持ってきたつもりだったが、引っ越しの慌ただしさの中では当然そんなことに執着していることもできない。

ただ、生活していけるだけの空間づくりを手伝って買い出しに行き、スーパーの前にあった小さな洋食屋さんで昼飯を食い、それから持ち帰るものを積んだりしているうちに時間はなくなった。

それから一週間後には、また京都にいた。今度は卒業式だ。

長女は卒業後いつも京都行きに付いてくるが、ほとんど大学時代の友達と会うためで、交通費を浮かしている。今回も京都に着くとすぐ大阪にいる友人たちとのランチに向かっていた。

今回の京都行きにはそれなりに意味があった。

次女もいなくなれば、これから先京都への足も遠のくかと、思い切って町家の小さな旅館を予約したのだ。ところが、予約は何とかとれたが、当日の朝、その旅館を見つけるのに往生させられた。

すぐ近くに来ているにもかかわらず、見つけることができない。

近所のお店のお兄さんに聞いてようやく分かったが、想像した以上にひっそりと佇む宿だった。通りも歩行者と自転車だけが利用できるだけ。

客の半分ほどが外国人で、ボクが狭い階段付近で遭遇した三人の女性グループも、サンフランシスコから来たと言った。

「コンニチワ」と声をかけられ、顔が全く日本人だったので、カンペキに同朋だと思ったのだが、とにかく驚いた。

三畳間が二つくっ付いたような部屋で、四人家族が寝た。低い天井の梁には、少なくとも五回はアタマをぶつけた。バス・トイレ付だったが、着替えなどには気を遣った。

山小屋で狭い空間には慣れているが、そこは京都の宿だった。

夜は周辺を歩き回り、文句なしの京都を感じ取ってきた。もちろん、酒も飲んだ。

やはり、三月は慌ただしかったのだ。

四月になれば、この慌ただしさも何となく楽しみを伴うものに変わっていくだろう。

桜も咲けば、残雪も輝く。次女のことを時折思ったりしながら、三月が終わろうとしている……

 

 

雨の朝の山里の道・・・

前号の続きである。

つまり、羽咋の滝周辺で文化的匂いを嗅いでから、再び有料道路に乗ったのである。そして、しばらく走って今度は西山インターで下りることにした。

ここから志賀町を経て、輪島市へと向かう。

ちょっと前までの行政区分で言うと、志賀町から富来町に入り、門前町を経て輪島市に入ることになるのだが、今は表現があっ気ない。

どんなところでも小さな旅気分を味わえる…それが自分のやり方と、ちょっと自慢してきたのだが、最近のこのあっ気ない通過点の表現には寂しさを感じる。

まあ、そんなことはどうでもよく、とにかく西山で下りて、また国道249号線を北上。能登半島の外浦側を先端に向けて走るのだ。

途中で広域農道へと右折すると、その道は山間をひたすら真っ直ぐに、そしてアップダウンを繰り返しながら伸びている。

以前に『富来から門前への道1』、『・・・2』で書いた道だ。

あの日は夏真っ盛りで、山里はほぼ緑一色だった。

そのあとも何度もこの道を走ったが、ついこの前まで雪で被われていたのに、もうすっかり雪解けが進んで、北国の春らしき匂いさえ感じさせている。

山間に入り、しばらく走ると途中に小さな集落がある。水田を経て山裾にかわいい神社が見える。ずっと気になっていた小さな社だ。

思い切ってハンドルを切り、集落とは反対方向の細い道に入った。

すぐに道は行き止まりになり、小さな川に架けられた小さな橋を歩いて渡る。

愛宕神社と彫り込まれた真新しい石柱が建ち、社もそんなに古さを感じさせない。

すぐ背後が斜面となっていて、畑のようだ。以前に道路からこの畑を見た時、老婆らしき人影が立っていたのを思い出した。

誰かがいれば、それなりの物語も聞けるのであろうなあと思いつつ、そんなチャンスは滅多にないことも知っているので諦める。

いつものように、淡々とした立派な道路が申し訳ないくらいに延びていて、同じく申し訳ないくらいの少ない走行車両に恐縮しながら走る。

この高品質な道路が終わりに近づく頃から、この道中の本当の楽しみは始まる。

道のすぐ近くに三棟ほどの家屋が並ぶところがある。

金沢からの方向で言うと道の左手だが、山蔭にあるような感じで、逆走している時の方がはるかに見やすい。

この三棟はたぶん一軒の家の住まいやら小屋などではないだろうかと思うが、確認はしていない。

この家のある山間の小さな空間は、とても不思議な感覚をもたらした。

広域農道という近年整備された道路から見ていれば何でもない風景なのだが、この道路がなかった頃のこのあたりの風景とはどんなものだったのだろうと、想像を膨らませた。

昔(といっても、戦後までの話…)、旧門前の“いしる”売りの女の人たちが、山越えをして旧富来の山里にまでそれを担いで届けに行ったという話などは、この家を見ていると想像の中に具体性をもたらしてくれる。

そして、広域農道などという今風の道路がなかった時代の道はどうなっていたのだろうと、さらに想像の世界を大きくする。

去年の夏、旧盆の初めの頃に通った時、ある光景が目に飛び込んできた。

道路を挟んで、反対側のちょっと高台になった場所に、二つの墓が立っているのを見つけたのだ。広域農道は、家と墓とのど真ん中を通っていた。

キリコが下げられ、二、三人の人影が見えた。そこまで通じる小さな道らしきものも確認した。

広域農道がなかったら、家と墓は素朴に繋がっていたのだと思う。

それにしてもクルマのなかった時代の、この家の人たちの生活空間とはどんなものだったのだろう……?

広域農道が終わって、仁岸川上流の山村集落に来ると、夏は緑一色だった山間の水田も、今は雪解けの季節で、灰色の空を映し込んだりしているだけだ。

ここは何度も通り抜けたりしているが、正直言って、まだ人の姿を見たことがない。

水田で農作業をしている人の姿は遠目に見たことはあるが、道を歩いている人などはお目にかかっていないのだ。

夏や秋には道端にきれいな花も咲いたりしていて目を和ませてくれたが、今は色気のあるモノは何もない。

集落のはずれ、ちょっと下ったあたりにクルマを止め、仁岸川の橋を渡ってみた。

特に何があるわけでもないが、何となく地形によって変則的に作られた水田を見たくなった。

奥能登は今、千枚田をイメージシンボルみたいにして、里山里海なんとかに力が注れている。

しかし、ボクは奥能登の農村風景を語る時には、この場所のような風景を軸にするべきだなどと思っている。

古い話だが、都会のある小学生が、夏休みの宿題の図画で能登半島ドライブ旅行のことを描いたが、山の中に道路を一本描いて提出した。

先生はそれを見て、「能登って海でしょ。なぜ海で遊んだことを描かなかったの?」と聞いた。

そしたら、その生徒は「だって、ずっと山ばっかだったよ」と答えたというのだ。

その生徒にとっては、海よりも山の方が印象深かったのだろう。そんなこともあるのだ。

山ばっかりとは当然言えないが、能登は山間を経て海へ抜けるというか、逆に言えば、海岸線の漁村と山間の農村によって成り立っている文化をもってきたのだ。

ところで、ボクは「里山」という表現よりも「山里」の方が好きだ。

なんで今更、里山なのだろうか?と、首を17度ほど傾げてしまう。

たぶんその方がオシャレなのだろうが、本質を伝える言葉としては、山里にボクは軍配を上げる。人の生活を感じさせる響きがある。

 

小粒の雨が、またぽつりぽつりと落ちてきていた。

しかし、山肌からは、少し明るくなった空へと水蒸気が勢いよく昇っている。

山の世界では、これから晴れていく兆候だと教えられた光景だ。

ビギナーの頃、梅雨真っ盛りの剣岳登山で、川のようになった早月尾根の道を登りながら、虚しく聞いた思い出がある。

クルマを下りて、勢いを増す水蒸気たちを見上げた。

仁岸川を下って、日本海……。

しばらく走ると、いつもは堂々と聳えるはるか前方の猿山岬に雲がかかっていた。

まるで、日本海沖へと突っ走る蒸気機関車のようだ。

またしても、クルマを下りずにはいられなくなった……

 

(次号に、つづく)

『津軽海峡冬景色』at YORK

ボクの話によく出てくる金沢の古いジャズ喫茶・YORKが、まだ片町にあった時代の、ちょうど今頃の季節の、ある夜のこと……

深夜12時が過ぎ、一応閉店時間を迎えた店に短い静寂が訪れていた。

切れのいいジャズを、ガンガンと店内に吐き出していたALTECの大きなスピーカーが、おとなしくなっている。

あれ聴くけ? マスターの奥井さんが言った。

ボクは何と答えたか覚えていない。ただ、あらかじめ聴くことにしていたのは間違いなかった。

奥井さんが手を伸ばして、棚の上からそのLPレコードを取り出した。

しばしの緊張に、息を殺す。そして、次の瞬間…、哀愁を帯びた演歌のイントロが流れてきた。

“上野発の 夜行列車 おりたときから~”

そう、ご存じ『津軽海峡冬景色』の切ないメロディーだった。歌うのは、もちろん石川さゆり。

再び鳴り響いたALTECも、ちょっと戸惑い気味だったが、すぐにこちらも慣れていく。

ボクと、奥井さんはレコードに合わせて歌い始めた。

最初は少し照れ臭かったが、少しずつ歌うことにも慣れてくる。

カラオケとは違い、ここはジャズ喫茶だ。

徐々に声が大きくなると、歌いながら、なぜか胸が熱くなってきた。

2コーラス目になると、歌詞が覚束なくなったが、トーンダウンしながらも、

“津軽海峡 冬景色~”のところだけは、見事に歌い切る。

ボクにとって、モダンジャズは音的に言うと、やや乾いた感じがしていた。

それに対し、津軽海峡冬景色の音には、何となく潤いを感じた。いい意味の湿っぽさがあった。

こんな感覚は初めてだ…、ボクはヨークの薄汚れた天井を見上げながらそう思っていた。

 

インフルエンザ風邪の最中や、病み上がりの途上中、何をしても中途半端でどうしようもなく面白くない時間が続いた。

当たり前なのだが、まず体力がない。もともと乏しかった思考力もますます低下している。

体力や思考力の低下は、持久力の低下にもつながっていくし、何よりも感性を鈍らせた。。

たとえば音楽などは、何となくダメだった。

垂れ流し的にかけていようとしたアルバムが、途中からなぜか煩わしくなってくる。いつものようにはシックリこない。

音楽はやはり、感覚に左右されるものなのだろう。

体調の悪い時には、いい音楽もダメなのが分かった。

一曲に絞り込んで決め聴きするみたいな場合はまだいいが、ただ垂れ流していては余計に神経を逆撫でされてしまう。

音楽との長い付き合いの中で、こんな感覚を味わうのは初めてだった。

そして、その時に、あの夜の『津軽海峡冬景色』を思い出したのだ。

あの時、YORKという場所で聴いた(そして歌った)あの歌は、本来なら全く異質だったはずなのに、ひたひたと胸に迫るものをもっていた。

本当に心に沁みてくる歌というのは、こういうものなんだなあと柄にもなく思ったりもした。

あれ以来、実はあの『津軽海峡冬景色』が大好きになった。

あの夜、自分に一体何があったのかは覚えていない。

何かがあって、それを忘れるためとか、吹き飛ばすためにYORKにいたとも思えない。

しかし、やはり、あの歌は心に沁みた。

“さよなら あなた 私は 帰ります~”

何とも切ない歌詞がアタマに浮かんでくる。石川さゆりの悲しい表情が、その歌詞とだぶる。

そう言えば、最近あの歌を聴いていない………

 

 

冬晴れゴンゲン森の浜にて

正月が過ぎたあとにまたやって来た連休。その中日。

内灘で言うと海の方の空が、みるみる明るくなっていく。

しばらくすると、海の上の空が青で占められるようになっていた。

カメラを持ち、フリースを羽織っただけで外に出る。

まずは放水路付近からの海岸を眺め、そのあとにゴンゲン森の浜辺におりた。

風が強い。海は荒れて、波しぶきが舞う。浜では砂が飛んで顔に当たる。

カメラを構えると、体が揺れた。

なかなか安定した態勢が取れなまま、我慢しきれずにシャッターを押してしまう。

黒いマントのようなものを着たオトコが一人、砂浜をずっと歩いていた。

激しい風にあおられて、マントが翻ったりしている。

身体が右へ左へと傾き、時々大きく態勢を崩したりしている。

一時間ぐらいいただろうか?

頬も耳も手の指先も、みんな冷たくなっている。

今年初めて、海と相対した午後だった……

正月における正月的雑感・・・

 

 今年も、正月が“それなりに”やってきた。 “それなりに”やってきて、“それなりに”去っていった。

最近の正月は“厳(おごそ)かに”やってこなくなった。

一月は単に一年の最初の月であって、大晦日から元旦にかけての、あの独特な空気にも鈍感と言うか疎くなっている。

独特な空気って何ですか? と言われても簡単に説明はできないが、かつては、「そうか、いよいよ新しい年が来たのだナ」とか、「日本の正月はいいなあ」といった感慨みたいなものがあったのが、そういうものが最近はあまりない。

なぜなのだろうか?と考えていると、まず思ったのが、NHKの超年末年始番組『ゆく年くる年』を見なくなったことである。

テレビは娘たち中心に流されていて、紅白歌合戦も最近ではよくて二画面の片方。しかも歌番組なのに音無しで映されていて、聞きたい歌のところになると一画面になるといった具合だ。

さらに、紅白の勝負など問題ではなく、好きな歌が終わったらすぐにお笑いの方に戻る。一応こちらも嫌いではないので、それなりにその方向のものを楽しんでいたりもするので始末が悪い。

『ゆく年くる年』を「超年末年始番組」と位置付けるのは、まさに大晦日の切羽詰まった時間から始まり、名刹・古刹の寺で鳴らされる除夜の鐘の音(ね)を聞きながら、そのまま静かに新年の空気の中に染み入っていくあの演出が、「超」に値すると思うからだ。

実に全くカンペキなまでに、日本の正月風景(情)が、あの番組からは伝わってくる。

今年の大晦日も見れないなと録画予約をしようと思ったが、あれを録画で見ても特に意味はないだろうとやめにした。

 

もうひとつ正月が厳かにやってこなくなった理由を上げるとすれば、やはり正月に仕事関係のスケジュールが入ってきたことだろうか。

会社に長くいると、そのうちちょっとばかり偉い立場になっていき、その後に妙な役割が巡ってきたりするから、会社長くなってきたなあ~と思う人は気を付けた方がいい。

正月がいつのまにか窮屈な日々になってきたのは、そんな影響からなのだろうと最近思っている。

時々、正月なんか来なくてもいいなあと思ったりもする。来てもいいけど、すぐに去っていってほしいなあとも思ってしまう。こうなると重症と言えるかもしれない。

酒が入ると、俄かにそんなことは忘れてしまうくせにだ……

今年の正月も当然そのパターンがやってきた。元旦の午前中から礼服を着て出かける。

「あれ?オレって経済人だったの? いやたしか文化人だったはずなんだけど…」と、ネクタイを締めながらマヌケなことを考えたりしている。

そんなことは特別なことではなく、世の中には正月から働いている人もたくさんいるのだから、深く考える必要はないのです……と、言われそうだが、こちらとしても深く考えているわけではない分、余計に浅くボーっと思い耽ったりしてしまうのだ。

 

元旦の昼前、ある儀式的会合で一緒だった古い親友・A木クンと街に出た。ちなみに、A木クンは今や金沢では大手になる会社の“やり手”社長さんだ。大学時代には、少林寺拳法部の主将を務め、試合前の練習中に日本武道館のでかい(高い)ガラスを割ってしまったという愉快なエピソードを持つ。

二人でニューGホテルからブラブラ歩き、東QホテルのSタバに入ろうと思ったが、そこは休み。斜め向かいのミスDにするかと互いに顔を見合わせたが、どうもなあという表情……。結局、竪町の入り口まで歩いて、Mックに入ることになった。

若者や、ちょっと大人の夫婦連れだろうか、そういう客層の中で礼服を着たオトッつァん二人が、コーヒーとフライドポテトを口にしながら語り合う。店はいっぱいで、その雰囲気には、全く今が正月真只中という匂いもない。

何となくその空気がさびしかったなあと思いつつ店を出ると、コンビニなども客が入っていて賑やかだった………

 

話は一気に飛ぶ……。

学生時代、北海道釧路市出身で文学部英文学科の三年だったI松さんという先輩が、東京で年を越そうとした。

ボクとその先輩は某体育会クラブの寮で、当時同部屋だった。とても面白い先輩で、卒業後は釧路に戻って高校の英語の教師になり、今はどこかの校長先生をしていると聞いている。

お父上がまた破天荒的ユニークな人生を歩んだ人で、本当はかつて釧路でサントリーレッドに顔をしかめながら聞いた話などに脱線したいのだが、容量不足になりそうなのでやめとく……。

で、ボクはその年、暮れの二十八日まで麻布十番でバイトをし、二十九日の電車で帰省した。しかし、先輩は東京で正月を迎えると言って、帰省しなかった。

そして、年が明け、また学校が始まる頃、寮に戻ってみると先輩がいない。

翌日になって、大きなバッグを持って戻ってきた。釧路へ帰っていたという。

先輩は大晦日の深夜までバイトをしていた。そして、正月は布団にもぐり込んで昼を過ぎても寝ていたらしい。

当然腹が減ってくる。部屋にも食堂にも食べるものは何もない。せいぜいお湯を沸かしてインスタントコーヒーかお茶を飲むくらいだ。

とりあえず駅の方まで歩いて、どこかで何か食べて来ようと思った。

ところがだ……。駅前などにある飲食店は軒並み休みだ。商店なども完全閉店状態。飲食店には、新年営業開始は早くて三日からといった貼り紙が出ていた。

今と違ってコンビニなどまだ広まっていない。せいぜい、たすと18になる数字が名前となって、なぜか“いい気分”になるよとコマーシャルしてる店が都内に出始めた頃だ。小田急線生田という小さな駅前の商店街などには、まだその匂いすらも感じることはなかった。

先輩は電車に乗って、すぐ近くの駅にも下りてみたという。しかし、どこも店はやっていなかった。

寮に戻ると、すごい危機感みたいなものを感じたらしい。大袈裟に言えば、このままここにいたら、野垂れ死にするかもしれないみたいな……。

それですぐに荷造りし、翌日羽田からキャンセル待ちで勝ち取ったチケットを手に、釧路へと帰ったのだと……。

 

今だったらカップ麺くらい用意しておけば、何とか越年はできただろうにと思う人も多いだろう。それが普通のニーズであることも間違いない。さらに新宿まで、いや下北沢まで行けば、なんかあったのではないかと思うかもしれない。

しかし、先輩はそれ以上動かなかった。正月からみじめな思いをしたくなかったのだろうと思う。気持ちは分かる……

 

最近よく、正月になると先輩のこのエピソードを思い出す。

あの時代頃までは、やはり正月に、特に元旦にわざわざ外出するなどということはあまり考えなかった。

 

 

正月二日も午前中から初売りを始めたお店などへのあいさつ回りに出た。

着替えながら、朝のテレビで特集されていた京都・修学院の美しい姿に、しばし“厳かさ”を感じた。

そのすぐ後、正月型の顔に矯正しながら街を歩く。街はかなりの賑わいだ。

数字をたすと10になり、かけると0になるという渋谷系の某商業施設では、十代らしき若い女の子たちでごった返していた。

「おお、あけおめ~」「いやあん、あけおめ~」と、十メール半ほどの距離をおいて新年のあいさつが交わされる。

こっちは、ついつい「なんだ、おめ~」と言いそうになった。

責任転嫁せず、今年はしっかり『ゆく年くる年』を見なければならない。正月は、やはり、好きなのだ………

 

この冬、白い世界から始まるもの

去年まで、五年ほど続けて京都駅の大きなクリスマスツリーを見てきたのに、今年は見ていない。

別にそのツリーを見るために京都へ行っていたのではないが、もうクリスマスも間近になってしまった今頃になって、何となく後悔のような淋しい気持ちになっている。

去年の今頃書いた文章には、クリスマスについての自分の思いを書き、自分たちのバカバカしさみたいなことと、単なるロマンチックなイメージづくりへの皮肉みたいなことを綴った。

それはそれで自分の感じ方なのだから仕方ないのだが、今年は少し違っている。

それは、やはりあの震災があったからで、こういう状況下でのクリスマスには、違った意味のようなものを感じている。

サンタクロースも、そのサンタが届けてくれるプレゼントも、ツリーの明かりも、それらがすべて、今はそれなりに必要なものなのだと思っている。

先週、銀座や有楽町などで見たイルミネーションの光などにも、ボクは特別な何かを感じてしまった。

節電への無配慮とか空虚な演出みたいな思いもあったのだが、それは不思議と消えていた。

職業柄、ああいうものにはいつも敏感でいるのだが、あんなに見入ったのは初めてだったかも知れない。

そのことを力強く意味づけたのは、何よりも子供たちの笑顔だった。そして、それを見て喜ぶ大人たちの表情だった。

雪が舞い始めて、年の瀬の慌ただしさとクリスマスの賑やかさに拍車をかける。

家の前の馬繋ぎと、その周辺の枯れ草たちにも雪がうっすらと乗った。

雪は何もかもを覆い隠すように白い世界を作ってくれる。

この冬が、もういちど新しい何かを生み出してくれるターニングポイントになればいいと思う。

すべてを白くしたあと、また新しい色を塗りたくっていくのは、絆で繋がれた日本人であるボクたち自身だ………

ススキの滝と、一宮海岸の夕焼け

羽咋市滝町から柴垣へ抜ける道沿いの田園地帯は不思議な場所だ。奥に見える日本海と、さらにその上に広がる空とのバランスが、切ないくらい?胸に迫ってくる。

ボクにとっては、どこかの島にいる雰囲気だ。北海道の微妙な記憶とも重なる。

夏は夏らしく、青々とした草原のような輝きを放って生気に満ちたいい風景なのだが、秋口もまた、ぐぐっとくるほどのシンプルないい風景を創り出している。特にススキが生い茂る頃には、どこか幻想的なムードも漂わせ、誘い込まれていくような感覚に陥る。

背景に海があるからだろう。

午後から輪島へと向かったある日の夕方、帰りも遅くなったついでに、無理やり寄ってみることにした。

柴垣の町を過ぎ、左手奥に妙成寺の五重塔をかすかに見ながら進むと、しばらくして右手がパーっと開放的になる。その開放的な空間が過ぎる頃に、国道から滝(海)の方へと下る狭い道があり、その道へと入っていく。

左手は滝の住宅地。右手は農地。右へ入る最適な道を探しながら、小さな道があるたびに覗きこむ。何本かをやり過ごして、田圃の方に伸びた狭い道にハンドルを切った。何が決め手だったのかは、自分でも分からない。

実際にその場へと入っていくには勇気が要った。道が農作業用の様相に変わり、轍(わだち)の中には雑草が伸びたままになっている。その辺りまでクルマを乗り入れると、ちょっとした緊張感も走った。

  クルマを下りて、歩いてみることにする。道沿いに揺れるススキは、ほとんどがボクの背丈より大きい。海に向かって真っ直ぐな道の果てには太陽がある。

その太陽の下で、日本海が光っている。昼間で時間があれば、この広い空間を歩きまわりたいのだが、ススキの穂が揺れ、今は妙に切なさも募ってきた。

クルマに戻り、すぐ横にあるポケットパークに入った。その辺りからの眺望もかなりいい。思い切って来てみて、よかったと納得している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのまま滝港口から海岸の方へと向かった。

ここまで来れば、やはり滝・港の駅に寄っていくのが正しい人の道だ…。

と思って、海岸線に出ると、海がまた激しく美しかったりする。

まずやはり、写真なのだ。このまま素通りするわけにはいかないのが、正しいカメラマンの道でもあることにする。

贅沢なくらいに大きな駐車場の、いちばん海に近いところにクルマをとめた。ここから見上げる空は本当に気持ちがいい。左右にひたすら広がっている。

  海に向かって歩く。海浜植物の中に漂流物が散在する砂の上は、革靴では歩きにくいが、そのうち植物も途切れると砂浜は急に歩きやすくなる。

ここはやはり、千里浜と同じような地質なのだろうか。気持よいくらいに弾力的な砂の感触が靴底から伝わってくる。

太陽がゆっくりと落ちていくところだった。すぐ沖にいる二艘のヨットも、ハーバーに戻ろうと向きを変え始めていた。

シャッターを押しながら、その度にふーっと息を吐く。波の音もほとんど聞こえないくらい穏やかな浜辺に、逆に息を殺したりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりの浜辺は、「一宮海岸」と言うらしいことが、近くの案内板で分かった。

今まで単に滝の海岸と言う認識でいたのだが、そのネーミングの方が何となくいい感じがしないでもない。そう言えば、近くの廃校になった建物も旧一宮小学校だったことを思い出す。

ほんのしばらくで、 二艘のヨットもハーバーの中に消えた。ひたすらとにかく夕陽を見るだけとなった。

風景が止まったように見えるが、太陽は確実に移動している。

水平線のオレンジ色も少しずつだが狭くなっていく。またしばらくして、駐車場の方に戻ることにした。

ふと足元を見下ろすと、砂の上に靴底の跡がくっきりと浮かび上がっている。さらに目を前に向けると、砂の上に長い自分の影も伸びている。

 クルマに戻り、あわてて港の駅へと向かったが、店の中の電気がぼんやりと弱い光を放っているだけだった。人影も見えない。

最近食ってない激しく美味な油揚げが、お預けとなって瞼の裏から消えていく。O戸さんの顔もしばらく拝見していない。

わがままで、人の道からはずれた自分を反省した………

瓜生(うりゅう)までの道

 

 石川県河北郡津幡町瓜生。名前を聞いてピンとくる人はまずいないだろう。

 途中で道を聞いたりしてもびっくりされる。そして、「もうちょっと行ったら、また聞いてくれ」と言われたりもする。しかし、道中で聞く相手もなかなか見つけられない。

 広い面積を持つ津幡町だが、瓜生の先はもう羽咋郡やかほく市との境界だ。しかし、道は瓜生で消えてしまい、その先に進むことは出来ない。

 瓜生を知ったのは、今から四年前。旧門前町(現輪島市)に建設された「輪島櫛比の庄禅の里交流館」の展示計画がきっかけだった。

 そこは總持寺の歴史などを紹介する施設なのだが、瓜生は總持寺の第二世・峨山韶碩(がざんじょうせき)の生まれた場所で、その生誕地にある記念碑の写真を撮りに行った。

 總持寺の後を継いだ峨山は、その後、總持寺はもちろん曹洞宗の発展にとてつもない貢献をしている。總持寺は全国に一万四千あまりの末寺をもったが、その基盤は峨山が作ったものだ。

 總持寺を離れてからも、羽咋の永光寺(ようこうじ)に入った峨山は、毎朝その永光寺から總持寺までを往復してお勤めを果たしたと言われている。その山間の道は「峨山道」と呼ばれ、今もその道を踏破するイベントが開かれているが、その距離なんと五十キロあまり。羽咋と門前の険しい山道だ。毎朝のお勤めのために短時間で往復したという伝説は信じがたい。かなり膨らました話にまちがいない。

 ところで全くもってカンペキに余談だが、先日長女が七尾から津幡までワケあって歩いてきた。距離にして約六十キロ。途中で八番ラーメン食ってたとか、京都の友達にメールしていたとか、その他余計な時間も当然費やしてきたみたいだが、昼前に出発して津幡に着いたのが夜中の一時過ぎだった。津幡まで迎えに行くと、六十キロを歩いてきた長女が半死状態でクルマに乗り込んできた。その様子を振り返っても、やはり峨山のスピードはあり得ない……という、それだけの話だ。

  話は大きくそれたが、總持寺に関してもろもろ詳しく知りたい方は、禅の里交流館へ行くべきである。なにしろ年表中の文章やその他すべての文章は中居寿(ヒサシの方ではない)の執筆によるものだ。当然、窮めてまじめに書き下ろした文章ばかりであり、撮影した写真も含めて、しみじみと読み見てもらうのがいい。もうひとつ、資料調査などで苦労した「藩政時代の總持寺」のジオラマ模型も見どころであることを付け加えておきたい。

 さらについでに書くと、交流館の前にある小さなレストランでランチするのもお薦めだ。Uターンしてきた若き青年の作る美味しいパスタなどが味わえる。

 そんなわけで、津幡町瓜生に最初に出かけたのは四年前の七月の暑い最中だった。美しい水田風景が広がり、視界に広がる緑一面の風景に目を奪われた。

 そして今回は、十月。秋空にこれまた秋雲が浮かぶといった、正しいのどかさとやさしさに包まれながらの、のんびりドライブであった。

 瓜生に行くには、ボクの住む内灘からだと、まず森林公園に向かうのが定番だ(…と思う)。途中で津幡北バイパスに乗り、高岡方面へと向かう。しばらくして刈安という降り口でバイパスから外れ、山の方へと入っていく。

 途中、進行方向左側に古い小学校の建物が見える。廃校となった旧吉倉小学校だ。今は津幡町の歴史民俗資料収蔵庫として使われているが、簡単には中に入れてもらえない。そして、そのことを象徴するかのように? この旧校舎の前には奇妙なふたつの像がある。

 ひとつはというか、ひとりは昔の小学校の究極的シンボルで、薪を担ぎながら書に親しむ二宮金次郎(尊徳)さんなのだが、もうひとりの軍人っぽい、とぼけた風貌のオトッつァんはよく分からない。ひょっとしてとんでもない偉い人だったりすることは当然想定されるが、名前は発見できなかった。次回は何としてでも調べ上げねばならない。

 写真は帰りに撮ったもので、西日を背景にしているからちょっと暗く見えるが、この雰囲気の方がなんとなく好きだ。廃校が多くなっていくが、建物だけはこういう風に残していってもらいたい。かつて多くの子供たちの歓声が響き渡ったであろうこうした校舎は、もっともっと大切にされるべきなのだと、つくづく思う。要は活用することだ……

 クルマは美しい斜面が広がる山里の中を走る。稲刈りが終わると風景は一変するが、前に見た夏の活き活きとした生命感は消え、何となく息遣いも抑えられるような気配を感じる。しかし、クルマを降りると風が気持ちいい。

 農作業で使われる道にも秋の気配がしっかりと漂いはじめ、しばらくボーっと佇んだりした。

 T字路にぶつかる手前で、畑にいる老人に声をかけた。「瓜生に行きたいんですが、右へ行けばいいんですよね?」 帽子を取った老人が、笑顔で答えてくれる。

「瓜生? 右やけど、この先は興津(きょうづ)ってとこ目がけて行って、また、その先にT字路があっから、そこまた右に曲がって…。そっからは、ええっと、まあ、その辺の人に聞いた方がいいな」

 老人は笑い顔で言った。予想していた返事だったが、ボクはそこでハタと前に来た時のことを思い出していた。

 “峨山禅師生誕の地”だったろうか。しばらく走ればそんな表示の入った案内板が目につくはずだ、ということを思い出していた。

 礼を言って、すぐにクルマを走らせる。しばらく走ると斜面に広がる興津という集落が見えてきた。このあたりはあまり記憶にないが、視界が広がりなかなか美しく気持ちがいい。すぐに峠にさしかかり、そこから下ると国道四七一号とぶつかった。左は羽咋方面だ。

 交差点正面にあった、“峨山禅師生誕の地”。右の方に矢印が向いている。やはりそうだったなと、記憶力にあらためて納得し信号が青になるのを待った。

 国道から再び県道に入り、またしても左折や右折など、案内板の指示に従って進む。

 道は山肌に伸びてぐっと狭くなり、そのうち進行方向の右下に刈り取りの終わった水田が見下ろせるようになった。

  そして、その辺りからしばらく走ると、人家が見え始め、瓜生の集落に着く。

 初めてきた時もちょっと不思議に思ったが、この小さな集落からなぜ峨山のような人物が生まれたのだろう? 集落の大きさは関係ないだろうが、この山深さに不思議さを感じる。

 昔、富山県五箇山の赤尾というところに道宗(どうしゅう)という人がいたが、その人もまた優れたお坊さんだった。しかも妙好人といって、普通の家の人から僧になったという人物だった。赤尾には、合掌造りの岩瀬家の隣に、道宗が開いた行徳寺という寺がある。

 赤尾もそうだが、瓜生もまた山深い土地であり、時代背景的なことを思うと、七百年以上も前に生まれた峨山の生涯は想像の域を超えてしまう。

 峨山の碑は、道が途絶える前にある。小さな川が流れ、ちょっと広い駐車場?があって、その脇から階段を登ったところにある。記憶がよみがえった。

 老婆が腰を曲げ、階段に手をつきながら登ってくる。登りきったところで、こんにちはと声をかけると、曲がった腰をさらに下げ、ちょっと戸惑ったように笑い返してくる。何か言ったように思ったが、声ははっきりと聞き取れなかった。老婆はさらに上にある場所で、近所の人たちなのだろうか、一緒に何事か話し始めていた。

 そう言えば、初めてきた時には人の姿を見ることはなかった。夏の暑い日だったせいもあり、外出も控えていたのだろうか。

 特に何をするでもなく、ぼんやりと川の流れなどを見ながらぶらぶらする。道はすぐそこでなくなっている。道の果てる土地に住むというのはどういうものかなと、ちょっと大袈裟に思ったりするが、なかなか想像が膨らまない。ここにはもう若者の存在もないだろうし…と、余計なことも考えてしまうだろう。

 瓜生はただ行って来たというだけの場所だ。そこに住む人たちと話をしたとか、そういったこともなく、ただ歩いたり眺めたりするだけの場所でしかない。そして、そういう場所が自分には多くある。

 道すがらの風景の素朴さに安心しながら、やっぱりいいなあ…と、そんな思いを新たにした。目的地はもちろんだが道中の風景を大切にするやり方が、自分には合っている。

 帰り道も、焦ることなくゆっくりと初秋の風景に浸れた時間だった……

 

疲れると、青空と雲を見る

仕事でちょっと眼が疲れたりすると、席を離れ大きな窓のある部屋へ行く。

晴れた日には、そこから青空を見上げ、雲を見る。

しばらく見ていると眼の疲れが少しずつ癒されていくのが分かり、首筋から肩にかけて重い何かが抜けきったような感覚に浸れる。

山にいても、同じようなことを感じることがある。

山では眼だけが疲れるわけではなく、全身、つまり足の先から頭のてっぺんまでが完璧に疲れるのだが、そんな時にも空が癒してくれたりする。

特に好きなのは、北アルプス・太郎平小屋から黒部五郎岳方面に登り、北ノ俣(きたのまた)岳頂上直下の平らになった稜線で見上げる空だ。

この空にはただ美しく濃い青があるだけでなく、北アルプス最奥部の美しい稜線が、パノラマで空を切り抜いたような光景を見せてくれる。

このようなことは、山では当たり前なのだが、特にボクはその場所が気に入っているのだ。

ちなみに、ビールは空に十分匹敵する癒やし品なのだが、ここでは横に置いておく・・・

ところで、最近までこの癒し感覚は青空のせいだと思ってきた。

空の青さが癒やしをもたらしてくれるのだろうと思っていた。

しかし、ここへきてそれが少し違っていることに気付いている。

もちろん、青空は元気の源だし、この世には永遠になくならないものがあるんだということを教えてくれるすべてのようにも思う。

しかし・・・、疲れを癒すという意味では、雲の存在の方が大きな力になっていることを最近知った。

特に、秋のカツーンとくる(人によってはスカーンもあるらしい)ような青空の中に浮かぶ雲は、絶好の特効薬になっていたりする。

その要因は何か?と言うと、やはり雲には“ボーっとできる”エキスが漂っているということだ。

そしてそれは、雲自身がボーっとしているからに他ならない。雲は実にボーっとしている。

この季節のふんわりと柔らかそうな白い雲を見れば、十分納得できる。

どのような模様にでもすぐに変身してしまうこの時季の雲は、ひたすらのんびりしているようにも見えてくる。自主性がない。

目を凝らしていなければ分からないような弱い動きを、それほど目を凝らさずに見てみる。

すると、雲の動きの“ボーっと”につられたように、見ている眼もボーっとしてくるから不思議だ。

そして、眼がボーっとしてくると、いつの間にかカラダ全体もボーっとしてくる。この状態が凄くいい。

悟りの境地とはこの時の状況なのかも知れないと思う。

今年の秋は、理由があってよく眼が疲れ、そのために空と雲を見る機会が多っくなった。

しばらくは、そのボーっとに救われる日々が続きそうだ・・・

秋はまだ始まったばかり

某ショッピングセンター内の書店で面白そうだと手に取った一冊の本。チラチラと読んでいくと、予想どおり面白い。立ち読みは辛いので周囲を見回すと、本棚の角、いいところに椅子がある。腰を据え、ほとんど走り読みながらも七割ほどは読み終えてしまった。

談志師匠の最新本(にあたるだろう)だと思う。といっても、去年出た本だ。帯にもあるが、買うのはよしたほうがいいと言っているので、とにかく走り読みに徹しようと思っていた。しかし、三割を残して制限時間いっぱい、店を出なければならないこととなった。しかも走り読みだから、中身ももうひとつ体にというかアタマにというか沁み込み方が足りないまま・・・

帰ってから飯を食っていても、歯を磨いていても気になり、寝床に入ってからも気になっていたので、ついに我慢できなくなり、翌日、某デパート内の書店で買ってしまった。本はやはり自分のものにして読むのがいちばん。かつては本とレコードと洋服、そして山の道具と小さな旅のために金を使ってきた。今は少ないが、本のためにいちばん金を使っているかもしれない。

買ってからじっくりと二回読んだ。「やかん」というのは落語の題目だが、『世間はやかん』というタイトルは単なるゴロ合わせだろうか。全編にわたって、長屋のご隠居と住人・八っつあんとの対話形式で進んでいく。べらんめえ調の文章だから、読み方もべらんめえ調になる。内容は一言で言っていい加減。しかし、そのいい加減さが徹底されて、そこに真実が見えてくる・・・と言えば大袈裟か? とにかく立川談志の世界なのである。

短いジョークがいい。ひとつだけ紹介すると・・・

「ねえ、おにぎり恵んでくださいよ。ここ三年ばかり、満足にコメの味、味わってェないんですよ」 「心配するな、変わってねぇから」

おまけに、もうひとついく。

「お前はいつも電話が長いね。一時間二時間平気で喋ってんだから。でも今日は短かったじゃないか、三十分だったよ。だれだったの、電話?」 「間違い電話」

まあ、こんな具合にというか、矢継ぎ早にジョークが弾んでいく。弾け砕けながらの約二百ページだ。

去年だろうか、NHKの夜のラジオ番組にレギュラーで出ていた談志師匠は、声もやっと出るくらいの調子で、言っていることはおかしくてたまらないのだが、言葉少なで可哀想だった。

一九三六年生まれだから、もう七十五歳。若い頃は正直言って、どこか憎たらしい感じもあったが、今では自分も談志師匠とほぼ同類科に属しているような感覚にもなっていて、大いに親しみを感じているのだ。

そんなわけで秋の始まりを感じている。

秋晴れの午後、いい気分で、お向かいの津幡町にある森林公園へ歩きに出かけた。しかし、コース選択を間違えて予定をはるかに上回る時間を要してしまった。山で鍛えられたから普通ならそれくらい平気なのだが、歩き始めが遅かったので、駐車場の閉鎖時間に間に合わないかと焦ってしまった。

原因は、サイクリングロードを歩いたからだ。道は舗装されているが、歩行コースよりははるかに長い。当たり前だが、そこを歩くということは時間がかかるということだった。

冷え込み始めた山間の向こうから、超低質なスピーカーをとおして『蛍の光』が聞こえていた。最初は重機の異常音かなんかだと思ったが、よく聞いていくと『蛍の光』だと分かった。ただ、分かってからは焦りが増したのは言うまでなく、そのおかげもあってか、何とか駐車場にたどり着くことができたのである。

しかし、音響システムも悪いが、案内システムもよくないのではないかと思ってしまった。現在地が分からない森は、慣れない人にとってパニックになる恐れがある・・・と、思う。

森林公園には「どんぐりの道」というエリアがある。まだ九月の下旬、道にはぽつぽつとどんぐりが落ちていたが、まだまだ半熟状況で、大きさも色ももうちょっとといった具合だった。

それよりもどんぐり以上に目立ったのがカマキリだ。いたる所に待ち構えていて、アスファルトの路上まで危険な狩りに出ていた。中には蜂をカマに刺した雄々しいのもいて、秋の勇者は健在だった。ただ数があまりに多くて、「どんぐりの道」よりも、「カマキリの道」にした方がいいのではと、余計なこともついでに考えてしまったのである。前にも書いたことがあるが、ボクはカマキリが好きだ。木板張りの我が家の壁にも、カマキリたちは卵を産む。そして、そこから無数の子供たちが巣立っていく。

若いファミリーが歩いて来て、若いお父さんが一匹のカマキリを捕まえた。小さな男の子に、これが本当のカマキリだよと見せている。本当のカマキリとはどういう意味なのだろう? ちょっと考えたが、面倒臭いのでそのまま考えるのをやめた。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

空も秋になりつつあった。帰路、河北潟干拓地の道から内灘の空が赤く染まっているのを遠く眺める。中空に雲が薄く浮かんで見えて、何か爽やかで尊いものを見ているような気持ちになった。

砂丘の公園にある展望台に向かい、その階段を昇った。内灘の海に落ちていく太陽を追って、多くの人がやって来ていた。皆が海の方を向いている中、ボクは反対側に見える北アルプス北部の山並みに目をやっていた。剣岳がごつごつした山容をくっきりと浮かび上がらせている。そう言えば、来月は薬師岳の閉山だったことを思い出した。

夏や冬は焦るが、秋は焦らないで過ごせるからいい。談志師匠のスタンスで、今年の秋はやり過ごしてみようかと思う・・・・・・

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

富来から門前への道~その1

旧富来町から旧門前町に通じる道にはいくつかあるが、最も知られていないのが、今回のこの道なのではないだろうか…、と秘かに思い、嬉しくなった。

一般的に富来から門前への道と言えば、国道二四九号線だろう。能登観光のルートとしては、増穂浦から西海、ヤセの断崖などを通る道もある。このルートは観光用途であり、最終的に門前に入る時には前者と合流する。

旧門前黒島に堂々と復原された角海家の仕事のために、八月に入ってからもよく門前行きを続けた。始めの頃は、同時に富来というか、志賀町図書館の仕事も並行していて、富来経由門前行きというパターンも数回あった。

初めてこの道を走った日は、富来で行きつけとなった超大衆食堂・Eさん(前に正式名で紹介したような気もするが…)で、いつもの「野菜ラーメン」を、いつも付けている「おにぎり」を付けずに食べてから、ふと考えてクルマを走らせた。

いつも同じ道から門前へと向かっているが、たまには違う道から行ってみたいと思った。そして、ある話を思い出した。

それは角海家の仕事で地元の歴史・民俗に関する文章のチェックをお願いしている、門前のK先生が言われていたことだ。ボクが能登の農村風景が好きだと話していた時、先生が富来から中島(現七尾市)に抜ける道にある農村風景は、特に素晴らしいよと語ってくれた。ボクは門前もかなりいい線いっていると思っていたのだが、先生の言葉にはかなりの説得力があり、是非一度そのことの再確認に出掛けてみたいと思った。

再確認としたのは、何年も前にその道を走ったことがあったからだ。しかし、記憶には残っていない。多分行ってみると、懐かしさに心を震わせたりするのかも知れないが、どうもピンときてはいなかった。

実際に走る道は、中島へ抜ける道から門前の馬場・剱地方面へと分岐していくのだが、その雰囲気は味わえるかも知れない…と思った。それに新しい道というのは、知ってしまうといつも好奇心をくすぐる。さらに、ボクには特別な意味合いもある。

しかし、初めての日は慌ただしかった……

二度目は、富来を代表する超大衆食堂・Eさんが休みで、かねてより少しだけ気になっていた、町の中心部にある古い佇まいの大衆食堂(名前が出てこない…)で、「カツ丼」を食べてからクルマを走らせた。

古い佇まいの食堂では、テレビももうすでに地デジ放送になったのを知らないかのように、夏の甲子園をハレーション化していた。小さなお子さんたちにはかなり目に悪いのではないだろうかと思われたが、そんなお子さんたちがやって来るような店でもないからと安心して、「カツ丼」を注文。

玉子とじ状況が予想をはるかに超えるくらいに著しく過激な「カツ丼」が届いた頃には、ボク以外にまだ誰も他の客はいなかった。が、すぐに、一人また一人と入って来ては、それぞれが四人掛けのテーブルに一人ずつ座っていく。ボクが食い終わらないと、次に入ってくる客は相席となり、当然このままでは順番からしてボクの前に座ることになるであろう。そのことは明白だった。

ボクはそのような空気の中で、とりあえず普通にその「カツ丼」を平らげ、残っていたミョウガとアサリの味噌汁を飲み干して外に出た。素朴に美味かった。これだから富来は凄いのだ……。

味噌汁が効いたのか、汗が胸と背中に均等に流れ落ちていった。いや、どちらかと言えば、背中の方がやや多かったかもしれない。ゴツい造りの店内を見回し、店のお母さんに勘定を払う。“ありがとねェ”と親しみをいっぱいに感じさせる言葉が返って来た。

その言葉がエネルギーとなり、ボクは熱気ムンムンのクルマに乗り込んだ。そう言えば誰かが言っていたなあ。黒いクルマは熱いんだと……。でも仕方がないではないか。

今日は、あの道を究めよう。気温は三十五度近くまで上がっているに違いない。アスファルトが白く見える。

住宅地を抜け広々とした田園地帯に出ると、進行方向の低い山並みの上に見事な入道雲。その先端が、風に揺らされ靡いている。ゆっくりとした動きが感じ取れる。クルマを止めカメラを構えた。〈タイトル写真〉

トラックが通り過ぎていき、熱気が右から左へと移動していく。質量とも半端ではない。鼻のアタマがあっという間にヒリヒリし始めた。いきなりいい場面に遭遇できたことに嬉しくなった。

道は山越えバージョンに入って行く。

能登は海なのだが、能登は山でもある。今風に言えば、里海でもあり里山でもあるという優等生なのである。実はボクにはそのことに関して、ずっと持って来た自分なりの思いがあるのだが、今ここで書くかは分からない。なりゆきでいこう……

陸上をひたすら進んでいくには、真っ直ぐな道がいいに決まっている。昔は海運の発達で海辺にある村が発展するのだが、山里の人たちはそのような海辺の村に行くためにただ山道を歩いていった。

ただ、山道はときどきいくつにも分岐しているから、逆にいろいろな方向へと行けるメリットがあった。海沿いの道には全く分岐がないのを見れば分かるだろう。片側が海だから十字路など存在しない。

しばらく走ると、例えば北海道や信州の山道の何分の一かのスケールで、見事なダウン・アンド・アップの直線道が現れる。本当はカナダやアラスカなどの壮大な例えを出したいのだが、新婚旅行のハワイと万国博の上海しか行ったことのない、幅の狭いボクにはそんな例えが精一杯だ。

しかし、実に爽快なドライブ感覚でもある。下りはアクセルを踏まなくても一〇〇キロ近くまで出た。しばらくは人の生活感を全く感じさせない人工的な道が続いた。次第にあまりにも味気ないので退屈になる。対向車もかなりまばらで、沿線の草は伸び放題になっていた。

待ちに待った山里らしき気配、農村風景への期待が高まってきたのは、下りがずっと続いた後だった……

※後篇につづく……

久しぶりに上高地を歩く

かなり久しぶりに上高地に行ってきた。盆の休みに入る前、どこか予定は?と聞かれ、何もないと軽く答えたら、それはナカイらしくないと言われた。その言葉がグサリと胸に突き刺さった。やはりそうだよなと軽率な返答を反省し、それなら久しぶりに上高地にでも行くかなと、五秒ぐらいの間に決めた。

上高地は最近ずっと気になっていた場所だ。二十代の頃には春の終わりから本格的な夏の始まりの頃合いを見て、いつも足を運んでいた。多いときには、一ヶ月に五回ほどは通った。それくらい上高地が好きだった。

初めは上高地の平らなエリアを歩きまわり、梓川の美しさと樹林帯の静寂、穂高連峰など山々の圧倒的な姿に酔いしれた。平らなエリアだけでも、ほぼすべて歩いて元の位置に戻るまでには、八時間くらいかかる。早朝に着いて、夕方に上高地を出る。当時はマイカー規制のない期間があり、その期間を中心にして精力的に出かけていた。楽しい時間だった。

慣れてくると、歩きまわることよりも、どこかでゆっくりと時間を過ごすことの方に楽しみを感じるようになっていった。

特に誰もいない梓川の河原に出て、せせらぎを聞きながら山並みを眺めている時間は最高だった。想像を働かせていると、江戸時代、上高地で働いていたという樵(きこり)たちの声が聞こえてくるような気がした。新田次郎の『槍ヶ岳開山』に出てくる、槍ヶ岳の初登頂者・播隆(ばんりゅう)上人たちの一行が、近くを通り過ぎていくような気配を感じ、思わず振り返ったりもした。

それらをもたらしていたのは、空気だった。あの時ボクの周りにあった空気は、時代や日常という感覚を超越していたように思う。ボク自身が過敏になり、それを求めていたということもあろうが、そういう空気を自分が歓迎していたことは間違いない。

上高地に通ううち、途中から山深くに入るようになり、上高地は通過点みたいになっていく。それでも早朝や夕方の上高地は新鮮だった。朝は快調に早足で河童橋を出発し、そして疲れ切った翌日の夕方は、開き直りの早足で横尾からの道を戻った。

忘れもしない穂高初山行の時には、梅雨明け直後の晴天の下、一泊二日では厳しいスケジュールにも関わらず、無理やり睡眠時間を短縮して歩きとおし、放心状態で下山してきた。梓川の水が憎たらしいほど美しかった。

横尾から徳沢という場所までの道すがら、ボクは真剣に靴もソックスも脱いで、川の中に入って行き、そのまま河童橋付近までザブザブと歩いて行きたいと考えていた。今で言う熱射病に近い症状だったのだろうが、確かに飲み物というとビールとコーヒーばかりで利尿効果抜群、体内にはあまり水分は残っていなかったのだろう。冷静な思考力などおこるはずがない。

完璧なヤケクソ状態のまま河童橋までたどり着いた。が、休憩はせず、そのままバスターミナルまで進んだ。その頃のボクは休まない登山者だった。たとえば、三、四時間くらいであれば、一度も休まずに歩くということは全く普通だった。

だいたいコースには決まって休憩地点がある。しかし、そこには決まっていくつかのグループがいる。単独であるボクは、ついついそんな場所を避け、もうちょっと先で気ままに休もうと思うのだが、なかなかそんないい場所はない。そのうち休憩などどうでもいいと思うようになり、どんどん行ってしまう。そんなことを繰り返すうちに、ボクは休憩しない登山者になった。しかし、これはよくない。体力を消耗するだけだ。

上高地の思い出にはきりがない。自分でもおかしく思えるくらいに、ひとつひとつが鮮明だ。そしてもうひとつ大切で鮮明なのは、上高地周辺での思い出だ。忘れられないのが、上高地への長野県側からの入り口である沢渡(さわんど)の土産物屋さん。かつて毎年のように立ち寄っていたその店は、いつの間にか店じまいしていた。

長身で上品そうな店の奥さん(その頃からおばあさんだったが)の顔は、今でも何となく覚えている。初めて店に入った時、タバコ吸ってもいいですか?と、ボクが聞いたことから会話が始まった。そのことを奥さんはずっと覚えてくれていた。旦那さんが亡くなり、店の営業範囲が狭くなり、それから数年したら店は閉じられていたと記憶する。

そして、上高地への岐阜県側からの入り口、平湯温泉までの道にある上宝村の風景もまた忘れられない。今回もその素朴な風情に触れてきた。

久しぶりにやって来た上高地は、やはり美しかった。人が多いこと以外は、文句のつけようがないくらいに素晴らしく、さすが上高地だなあと嬉しくなった。河童橋横の五千尺さんは見事に今風に変身していて、今では「いなりうどん」を頼むような野暮なことは言えず、と言っても、登山者のニーズに応えるかのような「山賊定食」などを提供するあたり、これもさすがだなあと思ったりした。

とりあえず定番のような大正池~河童橋コースを歩かせていただいた。どこかによそよそしさを感じたりしたのは、いつも大きなザックを背負い歩いていた自分とは違う身軽さのせいだったのだろうか。何となく、穂高連峰が遠い存在に思えた。

ただ、少しずつ雲が出始めた空を見上げ、雨の気配を感じ、バスターミナルまで急いだあたりは、まだまだ山の感覚が残っていると嬉しくなったりもした。バスターミナルに着いた途端、山特有のスコールがやって来たのだ・・・・・・

ひまわりが咲いた

ひまわりが咲いた。家の南側後方に十五本ほど植えてあるうちの、七本が蕾を開いた。家の前方付近にもかなり植えてあるが、こちらはまだ背も低く蕾も固い。しかし、背丈は関係なく、咲くやつは小さいままでも咲いてしまうみたいだ。

同じ場所に植えても、前方か後方かで蕾の向きは違う。前号で太陽は西にあるのに花は東に向いたままだと書いたが、花は十分な重みを持っているから、一旦どちらかに向いてしまうと、なかなか方向転換は出来ないのだろう。うちのひまわりたちも東向きと西向き、一部南向きなど、それぞれに性格や生き方があるのか方向が異なっている。

ひまわりは、漢字で書くと“向日葵”になる。

漢字の方がかっこいいが、うちのは敢えて、ひらがなにしたい。何となく漢字にしてしまうと、何か大きな深い意味を持ち合わせてしまい、素朴な感じがなくなるように思う。

たとえばゴッホのひまわりは、「向日葵」でもいいのだろうが、うちのひまわりは「ひまわり」のままで、敢えて漢字変換しなくていい。カマキリの赤ん坊に葉っぱを好きなだけ食わせてしまったことでもあるし、そのボロボロなイメージは、向日葵という表記にふさわしくない。

昔、「バラが咲いた」というフォークソングが大ヒットした。その中に“寂しかった僕の庭が明るくなった”という意味の歌詞があった。

ひまわりもまさにそうだなとボクは思う。特定の目的もなく、ただ薄らぼんやりと存在していた砂の空き地(ボクはそこを“多目的空地”と呼んでいる)に、ひまわりが咲いて、空き地がというか家の周囲が明るくなった。辺り一面除草し、枯草を燃やしたのも功を奏したが、ひまわりがもたらしてくれる目に見えないウキウキ感は計り知れない。

ただ、ここ最近のはっきりしない夏の様子や、ゲリラ的豪雨をもたらす異常気象は、この平和なひまわり感に影を落としてもいる。ひまわりたちも、開花のスピードを落とされ、申し訳なさそうに見えていたのは気のせいか・・・。

しかし、やはりひまわりは夏の情緒をカンペキに表現する花だと思う。敢えて情緒としたのも、ただ単なる見た目だけの要素ではない何かが、あの黄色と茶色の花全体に凝縮されていると感じるからだ。

文句のつけようがない清々しさがある。堂々として潔く、物事に動じないような大らかさがある。だから、見ている者に勇気を与え、今日を頑張ろうとか、明日への活力などといった美しい響きの言葉を連想させたりするのだ。

ところで、今は亡き酔生虫先生の俳句でボクが最も好きなものに、「黒髪をアップで束ね夏野ゆく」というのがある。その句の中では、かっこいい女の子が闊歩していく草原の道の脇に、美しいひまわりが立っているという情景が、ボクのイメージだ。とにかくひたすら元気を発信する、ひまわりなのだ。

そんなわけで、ボクの家のひまわりは咲いたのだが、賢明な読者の皆さんには、あのライバル?N西さんちの畑に植えられたひまわりは一体どうなったか? さぞかし気になっていることだろう。

実はほぼ同時に花は開いたと言っていい。しかし、N西さんちのひまわりは、うちよりもちょっと小ぶりの、花の色もレモンイエローに近かった。ちょっと明朗さに欠ける・・・。うちのはイエローそのものだ。しかも花は大型ではなく中型。よく大型で、だらりと花自体を垂らしているだらしないのを目にするが、あそこまでいかない精悍さを持っている。直立した姿も凛々しく映る。

そういう意味で、やはり僕の住む石川県内灘町宮坂南部エリアにおいては、うちのひまわりが最も上品に出来ていると言えるのではないだろうか。

咲き始めてから二日後、咲いた中では最も背の低いやつをハサミで切り取り、食卓の上に置いてやった。食卓に黄色の花が映えて、なかなか食事に集中できなくなった。ビールなどは、気が付いたら空っぽになっていたりして、ついついまたもう一本と本数が増えていく。横を向いていたりすると、ちょっとすねているみたいで、どうしたんだよ・・・などと、声をかけてやりたくもなる。

また夏が再燃しそうだが、我が家周辺のひまわりたちも、これから先ますます花数を増やしつつ、元気を発信していくのだろう。そう言えば、久しぶりに河北潟干拓地の中のジョギングを再開した。これも、ひまわりのパワーのおかげかな・・・・・・

※「ひまわりを待つ・・・」も読んでくれ。 http://htbt.jp/?p=2765

ひまわりを待つ

河北潟干拓地にある「ひまわり村」では、ひまわりが満開だ。なぜだか、陽が西から差しているのに、みな東の方を向いていたが、単なる鈍感なのか、反骨精神に満ち溢れた連中ばかりなのか分からない。しかし、とにかくひまわりたちは黄色く丸く開いていた。

実を言うと、ボクはひまわりを待っている。正確に言うと、我が家のひまわりの咲くのを待っている。

五月に種を植えてから、いよいよあともう少しで開花というところまで来た。うちの周りに植えたのは、大型のひまわりではなく、中型のひまわり。背丈は高いものでも一五〇センチくらい。成長のイマイチなものは五〇センチくらいしか伸びていない。特に七月の後半は天気がちょっと夏らしくなく、夏の代名詞として君臨しているひまわりとしては、さぞ歯がゆい思いをしていることだろう。

ボクも当然歯がゆい思いをしている。毎朝早く起きて水やりをする。ひまわり以外の花は苗から植えたもので、当然満開中だ。ちょっと液肥をやったりすると、花の咲き方に勢いがつく。特に純真で素直な花はすぐに順応する。逆に少しへそ曲がりな花は、せっかく液肥をやったのにそっぽを向くような態度に出たりもする。ニンゲンにも味噌ラーメンよりも豚骨ラーメンの方が好きというのがいるように、花たちにもそれなりの好みがあるのだろう。

苗から植えた花たちは、初めその上を簡単に跨ぐことができたが、最近はちょっとヨイショと力を入れないと跨げないほどになった。それも嬉しいことだ。

朝の水やりは気持ちがいい。時間は五時半ごろ。今は完全にサマータイム化していて、鼻歌も無理やりギル・エバンス編曲風の「Summer Time」にしている。水やりを終えると、その後にシャワーをし、コーヒーを淹れる。そう言えば、長女がベトナムで買ってきた、ベトナム版家庭の味的コーヒーに先日から変わったのだが、なんだかカラメルのような香りがきつくて、慣れるまでに時間がかかった。正直あまり好きなタイプのコーヒーではないが、飲み慣れてくると、ああホーチミンの朝の風の匂いがする・・・などと、行ったこともない土地のことを思ったりして、それなりに楽しんでいるのだ。

話を戻す・・・・・・ 朝起きると、まず家の前の馬つなぎの周辺に咲く、マリーゴールドなどの花たちにホースで水をまく。このあたりにもひまわりを植えてあるのだが、この場所のひまわりたちは陽の当たり方が弱いせいか、成長は鈍い。

馬つなぎの周辺が終わると、横に回っていくつかの岩を伝い奥へと向かう。岩というのは、この家を建てた翌年、白山の麓の工事の時に掘り出されたものだ。知り合いの土建屋さんに頼んでおいたら、我が家まで運んできてくれた。正直嬉しかったが、ちょっと戸惑ったのも事実で、とりあえずここに置いといて…と言って置かれたまま、ずっと場所は変わっていない。

岩を伝い奥へ行くというのは、別にそうしないと奥へは行けないという意味ではない。通れるスペースはたっぷりある。しかし、敢えてこの岩に順番に乗っていき、一番大きな岩の上にわざとらしく立って一呼吸おくというのが日課なのである。岩はやはり山を連想させてくれる。ちょっとでも山にいる気分に浸れるから、毎朝必ずこれをやる。岩があるとすぐに飛び乗りたくなる性分と、岩の感覚を足の裏に残しておきたいという思いにも、よいバランスで満足感をもたらしてくれているのだ。

もう一度、話を戻す・・・ 奥には、何とかという白い花と何とかという黄色い花、それと赤白のナデシコや紫のサルビアなどが狭いスペースに咲いている。先にも書いたとおり、かなりボリュームが出てきて、もっとゆったりと植えてやれば良かったと悔いている。そのさらに奥に、ひまわりが十五本ほど種から出てきた。花の名前を思い出せないのと、花への思いとは比例していない。

この場所のひまわりたちは、日当たりもよく成長は著しい。頑張っているのである。カマキリの悪ガキどもに葉っぱをかじられたりしながらも、余裕を感じさせている。奥ではジョウロで水をやる。六リットル入りのジョウロで二回水をやるが、カマキリの悪ガキどもは水をまくと葉っぱの裏側などに身を隠したりする。そのあたりが、ちょっと人をバカにしたような態度に見えるので、時々カチンとくる。

ボクはもともと小さい頃からカマキリが好きだった。ハチなどの危険分子を、あの鋭いカマで突き刺し、誇らしげに掲げている様などは昆虫界の王者にも思えた。ボクの家の木の壁には、ところどころにカマキリの卵がある。それが解体されると、ちょっと言葉では表現しがたい光景が現れ、五ミリぐらいの透明感に溢れたカマキリの子供たちが、集団でどっと社会に出てくるのである。

そのうちのいくつかが、幸運なことにひまわりの葉っぱにたどり着き、居付いたのだろう。半月くらいの間に、幼かったカマキリたちは、すっかり声変わりも済ませたように大きくなっている。

ところで、我が家の周辺には何軒かでひまわりが植えられており、なぜか我が家から北の方にある家では、ほとんどが満開になっている。育て方がよいと言ってしまえばそれまでだが、我が家から南の方では、激しいひまわり戦争が勃発しているような感じで、ボクとしては何とか南地区のトップに立ちたいと秘かに力を入れているのである。

ライバルはN西さんだ。南側の最も近い場所にあるN西さんちの畑のひまわりも、うちと似たような状況で一触即発的状況だ。N西さんというのは家庭菜園の模範的成功者とも言うべき人で、奥さんと一緒に畑にいる姿は、日本の正しい家庭菜園夫婦といった感じだ。そういう人が育てているひまわりなので勝ち目は薄いのだが、“なでしこジャパン”のこともあるので、最後まで諦めないのだ。

というわけで、もうすぐ我が家のひまわりは確実に開花する。本当は開花した時に、その喜びを綴るのが普通だろうが、ボクの場合は今のこの緊張感が実にいい感じだ。だったら、ずっと咲かなければいいではないかと言われそうだが、そんなこともない。

もうすぐ七月もフィナーレだ。何とか八月に入る前に、開花してほしいのだが……なあ~

※ ひまわり村のひまわりたち・・・ 陽は西にあったが、ひまわりたちはなぜか東に向いていた・・・?

夏のはじめの雑想

真夏日の夜、飲み会の帰りにYORKに寄ると、カウンターに懐かしいジャケットが置かれていた。スイングジャズの代表的なピアニストであるテディ・ウイルソンの、1955年のアルバム『for quiet lovers』だ。ジャケットを見ているだけで、涼しい気分になれる。

よく “ジャケ(ット)買い”の名盤とも言われるようだが、ボクは恥ずかしくてこんなレコードは買わなかった。もちろん演奏の好みも違っているので買わなかったのだが、今聴いてみると、それなりに良かったりする。静かな恋人たちのために…などというタイトルが付いているが、演奏はやはりスイングしているのである。

それにしてもジャケットの二人は、実に幸せそうだ。1955年というと、ボクが生まれた一年後、アメリカ以外にどこの場所なのかも想像つかないが、休日のデートなのだろうか。大人の恋といった雰囲気がプンプンと漂ってきて、じっと見てしまう自分が情けなくなる。二人の服装から、夏を感じた。

 夏は、ガンガン照ってくる日差しと、青い空と入道雲だと常日頃から言っているが、金沢のド真ん中・香林坊の交差点を歩いていたら、美しい夏の風景に出会った。文句のつけようのないバランスで、都会(一応)の中の夏空が描かれていた。

早速、久しぶりの気分転換として担いできたACEのカバンから、CONTAXを出して構える。一枚撮ってからしばらく様子を見ていると、また少し変わっていく。次から次へと少しずつだが、雲が変化していき、最後は写真のようなところで落ち着きシャッターを切った。

近くの中央公園では、大して夏は感じなかった。いや、夏は夏なのだが、この場所の夏は死んでいると思った。昔、芝生が豊かで、その上に寝っ転がって本を読んだりできた頃には、大きな木陰が存在感を示し、夏休みで帰省した学生たちが集まってきたりなどしていた。小さな子供を連れた若い母親なんかが、汗を拭きながらも、幸せいっぱいな顔で子供と遊んでいた。

しかし、今は禿げあがった芝がかすかに残るだけで、土埃が舞うような有様である。いい加減に何とかしないのかなあと思うが、今では芝の上に座るなどといった行為自体が下品なのだろうか。一画を占める四高記念館のレンガづくりの建物も美しく、芝生に寝っ転がって真横の視線から眺めるのも一興なのだが、ホームレスの皆さんへの配慮などもあって出来なくしているのだろう…と、勝手に好意的な解釈をしている。

 ところで、レンガの建物と夏空とは非常にいい関係にあると、ボクはずっと感じてきた。レンガには汗をかかないイメージがある。吸汗性 の高いアウトドア用のシャツのようなイメージがあり、それが爽やかな印象をもたらし、美しい青空とマッチしている。金沢にはここ以外にも玉川の近世史料館や歴史博物館、そして市民芸術村などがあって、そこら辺へ行くと爽やかな夏を感じて嬉しくなったりするのである。

柿木畠には、駐輪場の入口あたりの鞍月用水の脇に一枚の掲示板があり、いつもそこを通るのを楽しみにしてきた。そこへ来ると、季節感を詠ませる俳句が一句だけ掲示されていて、たまにはニタニタしながら、ちょっと小声で読んだりするのだ。

作者のたみ子さんというのは、名字はM野さんといって、何を隠そう喫茶ヒッコリーのマスター・M野K一さん(今さらイニシャルでもないが)のお母さんだ。ボクはいつも“お母さん”と呼ばせていただいているが、森光子を連想させる可愛らしさと、好奇心旺盛な素敵な人だ。フラダンスやらフォークダンスから俳句やその他、多くの趣味をお持ちで、当然、お元気で、爽やかで、若々しい。

「子守唄 団扇の風に 眠らせよ」 かつての日銀ウラ界隈での俳句からは想像もつかないやさしさに満ちている。たみ子さん流の夏なんだなあ…

 金沢の東の果て?、ボクの大好きな犀川上流の駒帰という町には、古びた小学校が残っていて、夏の風景としてはちょっとうら寂しい一面があるにしろ、ときどき足を向けている。

この奥にはかつて倉谷という村があって、友だちの先祖がそこの出だということでこの辺りへ連れて来てもらったのが最初だ。もう三十年も前のことになる。

初めて来てから、ボクは凄くその場所が気に入ってしまった。それ以後、何度も何度も出かけるようになった。開けてはいないが、その分の寂れた感じがよかったのかもしれない。深い谷を流れる水も濃い緑も気に入っている。

 ボクが生まれ、今も住んでいる内灘町宮坂では夏に祭が行われる。今年は久しぶりにその祭をどっぷりと楽しんだ。特に地元が誇る獅子舞の凄さには、あらためて納得し唸った。

金沢の百万石まつりに関する仕事をしていた時期、実は金沢市内の獅子舞の情けなさにボクは開いた口が塞がらなくなり、三日間ほど間抜けにも口を開けっ放しにしていたことがある(ウソだ…)。

あんな軽々しい獅子舞で、金沢の獅子舞の伝統がどうのこうのと言ってきたのかと、無性に腹立たしくもなった。

もちろん祭そのものや、参加者たちの価値観などいろいろな面があるのだが、少なくとも我が宮坂の、正式には黒船神社の獅子舞を見たら、金沢市内の軽薄獅子舞連中は三ヶ月半ほど開いた口が塞がらなくなるのは間違いない。

黒船神社の獅子舞は、白(木地)と黒のふたつの獅子がそれぞれ上(かみ)と下(しも)に分かれて登場する。これはかつて、宮坂が実際にふたつの地区に分かれていたからだ。

ボクたちが子供の頃から当たり前のように感じていたことで、今あらためて認識させられることがある。それはやはり、内灘という土地柄か神社が砂地でできており、砂の上で舞われることによる豪快さや凄みがあるということだ。

小刻みに動きながら、じっと一点を凝視し獲物を捕らえようとするかのような獅子の表情が小さい頃には恐ろしくもあった。口が砂を食み、そして砂の上を執拗に横に這っていく。方向を変える時に発する口を閉じる時の音は迫力満点だった。

こういう祭の中の芸や技というものは、地域の誇りでもあるし、何とかして正しく残し伝えていく必要がある。その担い手たちにもしっかりとした評価をしてあげなければならない。子供の時に見ていた、瞬間心臓が止まったかのように驚いた技は、今の子供たちにも伝わるはずだ。

 

 さて、夏はやはりビールなのだが、今年は何となく面白いビールとの出会いが多く、ベルギーのビールがなくなったなあと思っていたところに、また新たなビールがやって来た。やって来たと言っても、ビールが自分で歩いてきて、こんばんは、ビールです…と言ったわけではないのは言うまでもない。

 ひとつは鉄砲玉の長女が、突然ベトナム行ってくるわと行ってきて、帰りカバンの中に忍ばせてきた缶ビール二種。もうひとつは結婚の祝い返しにもらった三重県伊賀市の地ビール三種だ。これらにモルツ・プレミアムも加わって、今夏はとても濃厚なビールに囲まれているのである。ベトナムのビールは非常に日本的だった。黒ラベルやスーパードライやラガーなどと一緒に呑んでいても区別がつかない。

台風が水を差しているが、まだまだ夏は本気ではないような気がしている。なでしこの沢穂希キャプテンが、優勝の夜に送ったという地元ドイツのマスコミへのメッセージにも触れ、今日本のすべてが、直面している大きなものを軸にして動いているのだと思った。素晴らしいメッセージだった。

暑い夏だからこそ、日本はもう一度何かを思い出さなければならないのだ……

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

梅雨明けは、なぜ宣言されなくなったか?

真夏の青空と雲

  どんよりとした空のねずみ色とぴったりマッチする湿気。降り続く雨が描く数えきれない縦の直線。雨粒を受けるあじさいや新緑の葉っぱの絶妙な輝き。廂からぽたりぽたりと落ちてくる雨のしずく。やたらと立派に見える他人の雨傘など、この季節は多感にさせるものであふれている。

 今書くのは、“梅雨明け宣言は、なぜ消えてしまったのか?”に関する自己整理である。自己整理がどういうことを意味するのかは、至って簡単だ。今までいろいろと語ってきたことを、活字でしっかりと残し、自分自身の疑問、そして世の多くの人たちの疑問に少しでもお答えしようということだ。

 これは、ボクのことを少しでも知っている人には、待ちに待った真説の登場ということになろう。

 かつて、何となく耳にしてきたこの話の顛末…、それは今から二十年ほども前の、もちろん季節は梅雨どきだったが、もう晴天の日が二日ほど過ぎたにもかかわらず、いまだ梅雨が明けたというニュースが流れてこないという、そんなある日の夕暮れ時であった。

 ボクは香林坊日銀ウラで、今は亡き奥井進大先生に向かって語っていた……

 ある年の梅雨明け間近、ある地方の気象台の一室で、「もう雨も上がってきたし、太陽もギンギラギンにさり気なくなってきたから、今年は派手にやりましょか?」「うん、そうやな。明日準備して明後日あたり一発カマシたろか……」といった会話が囁かれていた。

 ある年とはいつをさすのか? それはわからない。ボクの推測では昭和三十三年あたりでないだろうかと思う。なにしろ長嶋茂雄が立教大学から読売巨人軍に入団し、世の中は長嶋のあの溌剌としたプレイ、今風に言えばパフォーマンスに酔っていた。日本中が元気になっていった頃だ。

 話は若干寄り道するが、この辺りの話は、作家で詩人のねじめ正一氏が詳しい。かつて氏をトークショーに呼んだ際、氏はいきなり長嶋茂雄の話を切り出した。長嶋茂雄の職業はプロ野球選手ではない。長嶋茂雄の職業は“長嶋茂雄だ!”と氏は言われた。ちょっと意味不明にも聞き取れるが、ボクにはその真意が分かった。氏はさらに、商店街はさつま揚げの味で決まるとも言われていたが、それについても大いに納得した。

 話を戻そう……

 ある年が昭和三十三年として、ある気象台とは、多分関西地区にある気象台だろうと推測する。こんなことは関西人らしい発想だ。そして、そんな時代背景を受けて、その気象台では、全国をアッと言わせようという企画をたてていたのだ。

 それは、気象台の玄関前に紅白幕を張り、タスキを付けた職員がお立ち台に立って、にわか音楽隊のファンファーレのあと、力強く梅雨明け宣言をするといったものだった。つまり、お立ち台から「梅雨明け、宣言!」とやるわけである。これには地域ごとに違った設定があり、音楽隊ではなく和太鼓だったという所もある。なぜ和太鼓なのかというと、人々の話題になるようにと、和太鼓と話題をかけたのだというわけだ。他愛ないおやじギャグのようにも聞こえるが、そのけなげさを笑うわけにはいかない。

 そのようにして、実際多くの見物人の前で宣言が初めて実行されるや、見物人からは拍手喝采、一躍そのニュースは翌日の新聞に載り全国へと発信された。

 全国の気象台がそれを真似しようとしたのは言うまでもない。そして、当然のごとく我らが金沢気象台でもそれを行う準備が進められていた。全国初の梅雨明け宣言が実行されてから、それをやらないのは国益に反するとまで言われ、各地の気象台では、より容姿のいい職員、より声のいい職員を選んで宣言させた。

 宣言する職員は、いつの間にか「宣言人(せんげんにん)」と呼ばれるようになり、独身の宣言人などには多くの女性ファンがついた。中にはそれが縁で結婚までしてしまったカップルもいたという。世間では、こういうカップルのことを「梅雨明けカップル」と呼び、“ジメジメしない、さわやかな関係”などと褒めたたえた。

 特に全国に名を知らしめたのは、京都気象台のある宣言人だったといわれている。彼は平安貴族風の衣装でお立ち台に立ち、雅楽の奏でられる中で、華麗に蹴鞠(けまり)を披露した後、その最後のキックで鞠を空中高く蹴り上げ、それが落ちてくるまでの間に、麗しい声で「梅雨明け、宣言!」と叫んだという。そして、体をクルリと一回転させたあと、落ちてきた鞠を左の手のひらで優雅に受け止めたというのだ。見物の輪の中に居た若い女性たちが次々と失神し、病院に担ぎ込まれたのは言うまでもない。

 この華麗な宣言人の出現は、すでにとっくに梅雨が明けてしまっていた九州などの気象台職員たちに衝撃を与えた。中には、もう一度梅雨入りさせ、梅雨明け宣言をやらかそうとした気象台もあったという。しかし、一般市民の反対にあい、それはできなかった。やはり市民にとって梅雨は一日でも早く明けてほしいものだったのだ。

 そして、この梅雨明け宣言ブームはいよいよ北陸へと移ってくる。金沢でも明日あたりがその日だろうという噂が広まると、街中がそわそわし始め、気象台への問い合わせも殺到したという。

 ところが…、当時の金沢気象台には大きな問題があった。それはどう見ても宣言人に相応しい職員がいないということだった。悩んだ末に、気象台の責任者は、職員ではなく用務員をしていたある若者にその務めを任そうとした。職員ではなかったが、彼はまあまあの風貌をしており、背も高く、一見良さそうに思えた。

 責任者は秘かに若者を呼び、宣言人になることを告げた。驚いたのは若者だった。強く辞退した。「わし、そんなこと出来んわいね…」と。責任者はそれでもしつこく若者に説得を試みる。次第にやさしかった口調が命令調になり、最後は強制的に若者を納得させた。

 そして、梅雨明け宣言しようという当日。若者は半ばあきらめの心境のまま出勤し、いつものように庭の掃除などをすませた。職員たちが出勤する前、一度練習しようとして声を出してみたが、なかなかうまくいかない。もともと口ごもって話すような癖もあり、語尾をはっきり言えないのが致命的だった。そして、ついにその時が来る。

 舞台はできていた。新品で糊のきいた紅白幕がビシッバシッと張られていた。風はなく、太陽は容赦ないまでに燦々と照っていた。誰が見ても、もうカンペキに梅雨明けだった。若者は、別に宣言しなくても梅雨明けぐらい、この空を見れば分かるのにと思った。汗が吹き出てくる。その汗が冷や汗に変わっていく……

 若者が責任者から猫背の姿勢を注意されながら、お立ち台に立つ。しかし、正面を向いた瞬間に、すぐにまた猫背になっていた。そんなこととは関係なく、拍手が起こった。歓声も上がった。そしてすぐに訪れる静寂と緊張…。若者の猫背は、二度と元には戻れないかのように硬直して見えた。

 「梅雨、明け、せんげん……」

 か細く力のない声がした。どう考えても宣言というものではなかった。見物人たちからは、もっとしっかりやらんかいとか、女みたいな声出しとんなとか罵声が飛び交った。

 「梅雨明けェ…せんげん……」若者がもう一度言う。猫背は直らず、相変わらず、はっきりしない語尾。そして、悲劇は起きる。

 見物人たちは耳を疑った。「梅雨明けせんげん、やとォ…」口々に怒りをぶつける。「お前、何言うとるんや。こんないい天気なんに、梅雨明けせんてか!」

 「いえ、わし…、今、梅雨明け、せんげん…て、言ってんけど…」「だから、なんで梅雨明けせんがやて、おい、はっきり説明せえま!」「だから、わし、梅雨明けせんげんって、言うたがに…」

 若者はお立ち台から引きずり降ろされると、見物人たちに体を押され、そのまま紅白幕の方まで押し込まれていった。危険を感じた責任者が止めようとして手を伸ばす。その手がまずいことに見物人の一人の右側頭部に当たって、たまたま右側にいた全く関係のない見物人と小競り合いが始まった。小競り合いはまた小競り合いを呼び、さらにまた小競り合いを誘発し、ついに警察の出動に至る大騒動になったのである。

 このニュースは翌日すぐに全国へと発信される。“金沢で梅雨明け宣言失敗!”そして、“金沢では梅雨明け宣言は無理だったのか?”といった見出しが新聞紙上を賑わした。

 詳しくはこう書かれていた。

 “全国でブームをおこしてきた梅雨明け宣言が、金沢では通用しなかった。いや金沢では否定的にとらえられた。金沢気象台が、昨日午前十時三十二分頃に行おうとした梅雨明け宣言の会場で、職員が発した宣言に一部の見物人からおかしいという声が上がり、そのことが発端となって、その見物人たちが暴徒化。職員を追い詰めるなどしながら、さらに乱闘騒ぎをおこした。金沢中警察署から警官十人が出動し、騒ぎは三十分後に収まったが、数人が軽いケガをした……”

 “警察では、職員の発した梅雨明け宣言の、特に「宣言」の部分が不明瞭だったため、金沢の方言である○○せんげん(○○しないの意)と誤解されたことが騒動の原因と見ている。見物人たちの中の生粋の金沢人たちは、職員の発表を「梅雨明けしない」と解釈したらしい。また、金沢気象台では、この職員が正規の気象台職員ではなかったにも関わらず、所謂、宣言人として任命していたことも陳謝した。”

 このようにして、金沢の方言が梅雨明け宣言の全国的なブームに水をさし、この社会現象はすぐに消滅したのである。宣言人が容姿端麗で美声でなければならないという風潮を生んだことも、金沢の悲劇を生み、このようなことで気象台の権威を汚してはいけないという世論も高まった。

 今、梅雨が明ける時、どこでも宣言などしていないのに、なぜか「梅雨明け宣言」と言っているのには、こういった背景がある……という強い仮想的寓話だった。

 話はここでひとまず打ち切るが、久しぶりに延べ三時間を要する執筆となった……

 ※梅雨に関する前出エッセイ 『もうすぐ梅雨明けかな?の日に・・・』 http://htbt.jp/?p=416

写真エッセイ「雨の大原にて・・・」

 

 娘たちが京都の大学に行ったおかげ?で、ここ何年かの間に京都は行き尽くしていたと思っていた。ところが、一ヶ所だけ、はるか昔に行ったきりのところがあることを思い出した。それが、麗しの大原の里だった。

 大原には二十代の頃から何度となく来ていた。司馬遼太郎の『街道をゆく』の影響を受けて、福井の方から朽木(くつぎ)街道を下って大原に入るという渋いコースを知っていた。今では鯖街道と言って立派な道になっているらしいが、その頃はバスとすれ違うのもやっとというところがあった。途中で飯を食うようなところもほとんどなかったと思う。それがまたよかったのだが……

 朽木街道は、織田信長が越前の朝倉の軍勢に敗れて京都まで逃げ帰ったという、信長にしては屈辱の道だった。かねてから武田信玄を深く愛してしていたボクは、その話だけでも痛快な気分になり、その街道を走ることに快感さえ覚えていた。

 その街道を使って、大原や比叡山に何度も来るようになると、今度は大原を起点にした新しい道を求めた。すると、司馬遼太郎の『街道をゆく』は、すぐにまた新しい楽しみを教えてくれた。それは大原から鞍馬に抜けるという、その時のボクとしては画期的な新しいルートの発見であった。

 杉木立の中の細い一本道。地図には点線で表記され、地元のバスの運転手もほとんど知らないと言った。その中で、ひとりだけあの道ではないかと教えてくれた人がいた。教えてもらったとおり思い切って行ってみると、素晴らしい雰囲気のある道だった。地元の林業関係者が主に利用するという細い道で、交差する場面が来てしまうのを恐れながら進んだ。が、杉木立の道では一台もすれ違うクルマはなかった。道は杉木立の中を過ぎると、シャクナゲの咲くのどかな雰囲気に変わっていた。シャクナゲが咲くところには霊が漂っていると、司馬遼太郎は書いていたが、そのことでボクは意味もなく息を殺していたように思う。空は晴れていて、無性に暑いという印象だけがあった。今と同じような季節だったのだ。

 それからとにかくひたすら走り、山里のさまざまな風景と地元の人々の表情を見ながら進んだ。鞍馬への道に出て、その日の最終目的地である嵐山に着いたのは夕方だったと記憶する……

 大原には細かい雨が降りはじめていた。初めて訪れた時も雨だったかも知れない。寒かった。湯豆腐を食べて暖まった記憶がある。今回、その雨が大原のよさを助長してくれた。京都市内から初めてクルマで入ったが、北山からは意外に簡単に着いてしまうのでびっくりした。驚いたのはもうひとつ、三千院の庭の凄さだ。雨ではあったが、こんなにゆっくりと歩いたのは初めてだったと思う。三千院までのアプローチの道も静かでよかった。

 帰り道、盆地の真ん中あたりに立って見回すと、大原の里は小雨に洗われたように静かな時間を刻んでいた。やはり、京都は深い。自分次第で、そのことの価値観を認められる。のんびりと周辺を眺めていると、京ことばのやさしい響きが耳に届いてきた。

 雨、あがったみたいどすなあ……

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

写真エッセイ「やっぱり今頃は、白川郷だな・・・」

 

今どきの季節には、決まって五箇山や白川郷あたりに出掛ける。目的はたっぷりの山里の新緑と、雪解け水のせせらぎと、水田や畑などののんびりした風景が、とにかくこれでもかと楽しませてくれるからだ。

今年はちょっと遅めで、かなり焦りの日々を送っていた。特に水田には機を逸したかも知れないという諦め感もあったのだが、全く落胆することはなかった。

出掛ける前までは、その日の最初の目的地が五箇山なのか白川なのか、明解ではなかった。特にいつものことなので、どうってことはないのだが、北陸道から東海北陸道に入り、五箇山インター手前で突然白川郷に決まった。奥から戻るというのもいいのではないかと思ったのだ。

白川郷にはもう数え切れないくらい来ているのだが、今回初めて全域を歩いたような気がする。集落の、山手にあるちょっと高台の道や、展望台にも歩いて初めて登った。

世界遺産になってからは、とにかく賑やかになったようだ。アジアの集団旅人たちでいっぱいだ。お店もひたすら増えていく。しかし、ユニークな店がたくさん出来て、自然に歩く距離も延びたのかと思ったが、そうでもなく、昔からのんびりと歩いていたエリアとあまり変わりはないのでホッとしたりもしている。

このあたりは真冬以外はすべての季節に来ている。それぞれにいいが、この時季が最も好きだ。この時季の季節感を味わうのには、白川・五箇山がいちばんだと思う。大らかで、文句のつけようがない。人が少ない方がいいなあと思ったりもするが、まあ仕方ないだろう。そういうわけで、今年もまたやって来ましたといった感じの白川郷なのであった・・・・・・・・

カーネーションと古い鍬と母のこと

 赤いカーネーションが、窓辺に置かれている。ボクにはもう母親はいないが、子どもたちが自分たちの母親のために買ってきたものだ。

 ふと、母が死んでから何年が過ぎただろうか…と思った。実は、ボクは人が死んでから何年が過ぎたかということに関して、非常に記憶力の弱いニンゲンだ。

 父のことも母のことも、実兄のことも、義兄のことも、後輩のことも確かな答えが出てこない。およそ何年ぐらい前というのは分かるが、どうしても正式な年月は出てこないのだ。ただ、そうかといって、当然のことながら、その人たちのことを忘れていることはなく、いつもボクの中には大切な存在として残っている。

 母の日にカーネーションを贈ったりするようになったのは、結婚してからだ。それまではほとんど何もしたことはなく、畑仕事の際に使う麦藁帽子のようなものを買ってあげたことがあったが、母はそれをほとんど使わなかった。恥ずかしかったのだろう。

 母が一般的に言うおしゃれとかをしている姿を、ボクは一度も見たことはなかった。ボクは母が四十歳の時に生まれた子で、元来漁師だった家に嫁に来た気丈夫な母の姿しか知らなかった。小さい頃はただ一日中働きっ放しの母しか知らず、世の母親とはすべてこんなものなんだろうと思っていた。

 ところが、ある時、友達の母親を見てショックを受けた。その母親は化粧をしていた。当たり前と言えばそれまでだが、母親というものは化粧などする人種ではないと思っていたので、完璧に驚いていた。

 母は、たぶん友人たちの母親の中でも最も齢を食った一人だったかもしれない。化粧どころか、手もカサカサで顔はしっかり日焼けしていた。着ているものも女らしいというか、そういう類の小ぎれいなものではなかった。

 授業参観に母が来ると、何人かの友達が“ばあちゃんが来とらんか?”と聞いてきた。中学の時、骨盤骨折で入院していた時も、母が来ると同部屋のおじさんたちから、“ばあちゃん来たぞ”と言われた。今ではそれも仕方なかったろうと思うが、その当時は何となくイヤだった。恥ずかしかった……

 東京の大学に行くようになって、ボクの母親像は変わる。日常的に身近にいなくなることによって変わっていくというのは皮肉だが、現実はそういうものなのかも知れない。一年に何回しか顔を見ない母の存在は、自分でも驚くほどに大きなものになっていく。子供の頃に母に求めていたものが、何気ないことから蘇ってきたりする。

 周辺の状況はほとんど覚えていないが、まだ保育所に行くようになったばかりのことだろうか…。

 ある日、家からかなり離れたところで遊んでいたボクは、目の前を走り過ぎていくトラックの荷台に母の姿を見つけた。何人かの女の人たちと一緒に母もボクを見ていた。

 ボクは母がどこか遠くへ行ってしまうと思ったに違いない。とにかく一目散に走りだした。わんわんと泣き喚きながら、トラックを追いかけはじめていた。その当時のトラックだから、それほどスピードが出ることもなかったのだろう。ボクはそれから百メートル以上走った。

 トラックが止まった。運転手がボクを見つけたのか、荷台にいた誰かが運転手に止まるように頼んだのか、とにかくトラックはボクのかなり前で止まり、ボクは何人かの人に担ぎあげられるようにして荷台に立っていた。

 母たちは、金沢の大野港に水揚げされる魚の処理などで動員されていたのだろうと思う。かつて一時代を築いた漁業の達人たちの村・内灘だ。大漁の知らせが入ると、魚の処理に慣れた女たちが召集され、港へと運ばれていったのだろう。

 それからどうなったかは、とにかく断片的にしか覚えておらず、ボクは港の近くの知り合い(ボク自身は全く知らなかったが)の家に置いて行かれた。はっきりと覚えているのは、その家のそれほど明るくない居間で、同じ年頃の娘さんらしき少女と、タマゴごはんをひたすら食べていたことだ。湿った冷やご飯にかけられた生タマゴの味も忘れてはいない。

 大人になってから、母の存在はこの話が原点になった。あの時ボクは真剣に母がいなくなると思っていたに違いない…と思うようになった。母を追って必死に走っていた自分を、生来の甘えん坊なのだと思うようにしていたのかも知れない。

 母は、ばあさんになってからやさしくなった。もともと持ち合わせていたのかも知れないが、見た目にも、はっきりとやさしさが感じられるようになった。いつもニコニコするようになり、照れ隠しのような笑い方なのだが、ボクはその表情にはじめて母の幸福感を思ったりした。朝から晩まで働き続け、何の楽しみもなかったような母にようやく静かな日々が訪れたのだ。

 母が体調不良を訴えたのは、父の初七日のあくる日だったと思う。休日の病院へ運び、翌日の朝、様子を見に行った兄から母の異常が知らされてきた。そして、そのまま母は半身不随になり、二度と立ち上がることも歩くこともできなくなった。

 しかし、それからまた母は母なりに長い年月を必死に生き、最期を迎えるまでの間、ボクは完璧に母の子供に戻ることが出来たと思う。そして、亡骸(なきがら)となった母が家を去る日、ボクにとっては最初で最後の、化粧をした母を見ることも出来た……

 ボクの家の物置には、古ぼけた一本の鍬(くわ)が入っている。

 ほとんどの物が現代の道具類である中、その鍬だけが丸みを帯びた木の柄の部分や、朽ちかけた刃の部分に時代がかったものを感じさせている。

 連休の終わり、ボクは二年ぶりに家の周りの空き地に花を植えようと思い、その鍬を持ち出していた。

 母が昔から使ってきた鍬だ。内灘の砂丘が一面の畑だった頃、時々母に連れられて遠くの畑まで歩いた。乾いた畑で鍬を打つ母を常に視界に入れながら、まだ幼かったボクは映画か漫画のヒーローを自演する遊びをしていたように思う。

 空にはヒバリが飛んでいた。ヒバリは巣のある場所から離れたところに降り、そこから地上を走って巣のある場所へと移動する。そうやって、巣の在りかをカムフラージュしているのだということを、ボクはその頃どういうわけか知っていた。母が教えてくれたのかどうかははっきりしないが、ボクは母と一緒にいた畑で、羽を細かく動かしながら鳴くヒバリを見上げていたのだ。

 それからもう少し大きくなり、小学校の高学年くらいになると、ボクがその鍬を持って畑の土をおこすようになっていた。小さいながらも、畑全体を何等分化する線を足で引き、その線に合わせて畑の土を耕していく。それはかなりの労力を要する作業で、ボクはいつも途中でダウンしそうになっていたように思う。

 ボクの担当はきれいな砂の場所で、土をおこすのも無理なくできたが、母が鍬を打つ場所では、たまに雑草や小さな木の根っこが混ざっていた。そんな時には、鍬の手を一度止め、耕した砂の中から草や木の根っこなどを取り出し放り投げる。

 今、自分の家の荒れ気味になった空き地を耕すとき、ボクはかつて母がやっていた、その仕草を自分がやっていることに気付く。そして、ちょっと不思議な感覚で、もう一度鍬を持ち直し、その柄の部分に母の手の感触を感じたりする。

 母はよく言われる苦労人という人種だ。あの時代の人には、よくあるパターンなのかも知れない。大正四年に生まれ、高等小学校を出て神戸の大学教授の家に奉公に出され、うちに嫁に来て、戦争、漁業の衰退による貧困、そして病による夫との死別を経験した。そして、まだ若かった母は、義父(ボクの祖父)に説得され、亡き夫の弟(ボクの父)と再婚する。させられたと言うべきか…。その時代の田舎では、よくある話だとも言われる。

 そんな母だったが、気丈夫な一面だけでひたすら頑張ってきたのだろう。一度だけ、祖父母の前で泣く母を見たことがあったが、幼かったボクはただぽつんと横に座っていた。ボクの存在は大したものでもなかったのだろうが、今でもその時の母の泣き声は、はっきりと耳に残っている。母はまた、祖父にとっても頼りになる存在だったようだ。

 母は、この世での最後の夜を、ボクの長姉である自分の長女と過ごした。すでにその時が来ていると聞かされてからは、兄弟姉妹が交代で付き添っていたのだが、長姉だけは事情があって戻れず、ようやく駆け付けたのだった。

 すでに意識のない母だったが、これで安心したのだろう。早朝、静かに息を引き取った。93歳の秋だった………

笹ヶ峰のスキートレッキング

 

一年ぶりの妙高・笹ヶ峰である。正確に言うと、一年と一日ぶりで笹ヶ峰に来ている。

朝は、それほどよい天気とは言えず、一時は雨が来るかも知れないと覚悟させられたが、その心配もなく、昼になった今は風はわずかにあるものの、陽も照って気持ちがいい。

ついさっき、リュックからノートと万年筆を取り出した。ノートは九十七年の夏に岐阜県清見村のオークビレッジで買ったもので、表装が木の板で出来ている。その時同じようなボールペンも買った。ペンはなくなってしまったが、ノートはずっと本棚に入れておいた。昨年の笹ヶ峰行きに久々に持ち出し、岩の上でペンを走らせた。その時が十年ぶりに開いたという具合で、ボクはずっとこのノートとはご無沙汰していたのだ。何となく、今年もこのノートをリュックに入れてきた。だから、この文章は笹ヶ峰での現地書き下ろしなのである・・・・・

八時半過ぎにスキーを履いた。去年とは少し違うコースを歩き、走り、滑って来た。今年はスキーの滑りがいい。ワックスを入念に塗ってきたというわけでもないのに、思っていた以上にスキーが前へと出る。笹ヶ峰グリーンハウスの建物や周辺の雪原を会場にして、クロスカントリースキーのセミナーが始まったばかりで、数十人の競技スキーヤーたちがコースを走っていた。ボクもそのコースに最初に入れさせてもらったが、そのせいでスキーが滑るのかも知れない。いきなり、百メートルはある直滑降となり、危うく少年スキーヤーたちの前で転ぶところだったのだ。

よく滑るスキーに乗ってコースを外れ、緩やかな雪の斜面に大木が並ぶ笹ヶ峰牧場の方へと移動。いつものように、“岩棚の清水”からの湧水が流れる沢の音が聞こえるようになり、沢に沿ってやさしい流れを見ながら緩い登りに入って行く。去年は岩棚の清水でスキーを外し下りてみたが、水中の草を押し流すかのように透明な水がたっぷりと流れていた。ボクとしては真夏に見たこの流れに最も感動したのだが、残雪期の流れも春の躍動みたいなものを感じさせてよかった。

少し登ったところで、岩棚の清水を見下ろしながら回り込むように横に進むと、牧場の上部に出る。一度牧場の最も下まで一気に滑り降りる。一気にと言っても、春の雪の上だ。軽快にとはいかず、時折雨水が川となって流れた雪面の溝に阻まれたりして、立ち止まらなければならない。

雪解け水や沢の水が注ぎ込む清水ヶ池まで来ると、ぽつんと釣り人が独り糸を垂らしていた。邪魔をしないようそのまま樹林帯の中へとスキーを進ませる。まだ開き切らない水芭蕉が、大小いくつかの水場で目についた。

今年はやはり雪が多い。途中の山道でも両脇の雪の多さは近年にないのではと感じた。そう言えば、去年昼飯を食った大岩も今年はまだ雪に埋まっていて、先端が少し見えているだけだった。

去年、その岩の上でボクはコンビニおにぎりの包装ビニールと格闘し、その苦闘の最中に、せっかく沸かしたお湯をカップヌードルに入れておきながら、カップごとひっくり返してしまうという失敗をしでかした。風が突然吹いて、手にしていたおにぎりの包装ビニールがめくり上がったのだ。

カップヌードルは半分ほどが辛うじて残り、何とか腹の中に入れることが出来たが、それ以上に笹ヶ峰の雪をカップヌードルのスープで汚してしまったことの方が虚しかった。そしてボクは、あれ以来というか、実は前々からだったが、コンビニおにぎりの包装に関する余計なお世話的外し方について、疑問を露わにしたのだった。

わざわざあんな面倒臭い外し方にしなくてもいいのではあるまいか…と、久しぶりに、そして真面目に、どうでもいいことを真剣に考えてしまった。海苔もあんなにパリパリしてなくてもいいのではないかとも思った。

立山山麓にあるコンビニ風の店では、その日の朝、店のお母さんが握ったというおにぎりが売られていた。でかくて、何よりもサランラップに巻いて置いてあった。食べる時はペロンとはがすだけだ。コンビニおにぎりにある順番①とか②とか③とかがない。①があるだけ。おにぎりは元来、おふくろ、またはお母さんの味とかが基本である。それにはパリパリ海苔など全く完璧に必要ない。そして、そのために考案されたのであろう、あの包装についても、特に意味を感じていないのである。あれを考案したニンゲンはさぞかし鼻高々だろうが……

そんなことを言っておきながら、今年もまたボクは昼用にとコンビニおにぎりを買ってきてしまった。鮭と昆布の二個で、おかずは家の冷蔵庫から持って来た魚肉ソーセージ一本だけにした。コンロも持たずに軽量化に踏み切ったのだ。コッヘルもないからリュックも小さめで済ました。ただひとつ、去年と変えたのは、リュックの隅っこに、なんとノンアルコールビールを入れてきたことだった。

これは今年の笹ヶ峰スキートレッキングにおける最重要研究テーマなのだ。山行におけるビールの重要性を強く訴え続けきた?ボクにとって、特に日帰り山行において、ノンアルコールがその満足度に近づけるかということが最大の関心事であった。

昼飯タイムに入る前、ボクは車道を越えた山の斜面に入っていた。スキーを脱ぎ、雪に埋もれて斜めになったままの木の幹に腰かけ、ぼんやりとそのことを考えていた。気になり始めると、ますます早めに味見したくてウズウズしてくる。目の前の樹林帯への陽の照り方も強く感じられるようになると、ボクはすぐにスキーを履き直した。そしてまた下って、車道を渡り牧場の雪原へと戻っていた。

少し滑り降りて、手頃な岩を見つけた。夏ならば、黒や茶色などの大きな牛たちが、ゴロンとしながら午後のひと時を過ごしている場所だ。日差しと木陰との明暗バランスも見事に調和していて、緑と空の青さ、雲の白さなど高原の夏の美しさを実感させてくれる。

 ボクはすぐにリュックからノンアルコールを出し、雪の中に缶の三分の二ほどを埋め、そして指先でその缶を素早く回転させる。これは『伊東家の…』(テレビ番組)でやっていた裏ワザだ。これだと、温い缶でも五分もかけずに冷やすことが出来る。雪のある山では、ボクはよくこの手を使う。ノンアルコールはすぐに“かなりの状態”になった。早速、実験に入る・・・

結論から言えば、やはりノンアルコールは、ビールではなかった。当たり前と言えばそれまでだが、大きな期待をしてはいけないことを知った。ただ、口に入れた時の感触的にはビールに似たものがあり、後味さえ無頓着でいれば、それなりにウーロン茶を飲んでいるよりもはるかに満足度は高いことも知った。

それほど落胆するほどのこともなく、ボクは魚肉ソーセージを片手に缶に記されたノンアルコールの成分を眺めていた。アルコールが入っていないということは、即ち酔うこともないということなのだが、喉元を通り過ぎていく時に、もう少しビールらしい後味があればと思っていた。

ノンアルコールの一口目を仰ぐようにして飲んだ時だった。アタマの上まで来ていた太陽が目に入った。太陽の周りに円状の薄い虹の輪が出来ていた。

それからボクは、コンビニおにぎりを、去年の因縁も忘れ穏やかな気持ちで口にした。パリパリ海苔が一部崩れ、雪の上に飛散していったことが残念だったが、それでものどかな気分でいられた。ボクは成長していたのだ。

 目の前にそびえる、地蔵山が朝よりも少しだけ鮮明さを増しているように見える。右手には、さらに高い焼山や火打山、後方には三田原山と妙高山。標高二千メートルを越す山々に囲まれたここ笹ヶ峰は、かつて湖の底だったらしい。ボクは今その場所で、山肌の残雪の上に漂う春の空気にのんびりと浸っている。東日本で大きな地震と津波が起き、多くの人たちが苦悩の日々を送っている。ボクはボク自身の中で、そのことについても思った……

……これからどうしようかと、時計を見る。一時少し前だ。この場所にいられる時間は約六時間。六時間を楽しむために、往復六時間をかけてやって来る。何とも贅沢な一年に一度の楽しみだ。と思いつつも、来年からはテント持参、または下の民宿かロッジでもいいから一泊にしようかとも考えている。

もういちど、下部まで下りて行ってみることにした。樹林帯をできるだけ深く探検してみたくなった。とにかく、時間がもったいないのだ………

※ノートに走り書きした文章に少しだけ加筆・・・・・

むなしき誕生日の目論みであった

別に待っていたわけではないが、先日、五十七回目の誕生日が来た。

数日前から来ることは知っていて、その日は残雪深き立山の雪原にテレマークスキーを履いて立ち、そこでノンアルコール・ビアーでも飲みながら、しみじみとこれまでの人生を振り返り、さらに、これからの人生における正しい(余生の)過ごし方などについても考えてみようかな…と、目論んでいた。

週間天気予報の晴れマークを見ながら、“晴れマーク 心もはずみ テレマーク”と、我ながらなかなかいいキャッチコピー的一句も浮かんだ。モチベーションは日々高まっていたのだ。

ところが…だった。前日になって、ボクのこの小さな楽しみはあっさりと打ち砕かれてしまった。どうしても朝一番に会社へ顔を出さねばならない用事ができてしまったのだ。

どうするかな…と、一応考えた。結局、その用事を済ませてから早退し、そのまま立山へ一直線、ひたすらまっしぐらに向かおうと決めた。立山駅からのケーブル。美女平からのバス。昼には弥陀ヶ原に着ける…。少々甘いところもあったが、何とかなるだろうという気持ちと何とかせねばという気持ちが、手に手を取って協力し合う中、ボクはその朝とにかく会社へとやってきた。

ところが…だった(二度目だ)。こともあろうに、一旦出社してしまうと、別の用事がまたボクを待ち受けていた。

あのォ~、今日のォ~、午前中いっぱいまでにィ~、例の書類をォ~、提出してェ~、いただきたいのですがァ~

……昔、小松政夫がこんな言い回しでボケていたのを思い出す。

よく考えてみると、いやよく考えるまでもなく、誰も今日がボクの誕生日だなんて知らないのであった。ましてや、誕生日だからと会社を休んで山へと出かけ、そこでしみじみ考え事でもしようと目論んでいるなんぞ知る由もなく、ボクはごくごく当たり前の日常の中で、ごくごく当たり前に出社しているに過ぎない…と思われても仕方のない存在になっていた。

それでもボクは、午前中いっぱいとは言わず、昼の一時間くらい前、つまり十一時頃には、この例の書類とやらを片づけてやる…と心に決めていた。そうすれば、それからとにかく一直線。二時頃には、弥陀ヶ原の大雪原に立っていられると思った。

ところが…だった(三度目だ)。こともあろうに、その仕事はなかなか出口の見えない、ボクにとっては極めて緻密な対応…、具体的に言えば、数字の計算を求められる内容のものだった。

“緻密対応型数字計算”。この漢字九文字によって構成される作業は、ボクが完璧に不得手としている行為であった。もし、この世から無くなってほしいものを十項目出しなさいと言われたら、たぶんこの“緻密対応型数字計算”は確実に圏内に入れるだろうと確信をもって言えた。

ところで、この場合の“緻密対応型”とはどういうものなのかについてだが、分かりやすく言うと、エクセルの計算式をこしらえながら進めていくものを指している。なあんだ、そんなもんかァ~と、バカにしてはいけない。ボクの場合、そのような行為自体がすでに自分自身の標準仕様から外れている。

誤解のないように言っておくと、ボクは数字が苦手ではない。感覚的な数字の捉え方は子供の頃から人並み以上に優れていたと思っている。小学校五年生の時、S水T彦先生と言う風変わりな理数系の担任がいて、その先生によく算数テストというのをやらされた。

裏表にびっしりと、たし算や引き算、掛け算や割り算の素朴な問題が並べられた紙が渡され、それをエイ、ヤッ、タァーッと気合で解いていくのだ。ずっと、足したり、引いたり、掛けたりしていったら、最後にゼロで割るという意地悪な問題もあった。結構スリル満点で、楽しい?テストだったのだ。

そんなテストの時は、いつも一番か二番でボクは解答用紙を提出していた。答を間違ったこともなかった。今でも数字の並び方の形とかで何となく答えが見えてくるものがあったりするのは、その時の感覚が残っているせいなのかもしれない。

しかし、そういった算数が、高度な数学に変わっていったりすると、ボクの中にあった数字に強いという感覚は何(なん)の役にも立たなくなっていって…しまった。一旦いじけ出すと、ポテンシャル自体も希薄化していく。

「ごめん、実を言うと、ボクは、数字よりも、文字の方が好きなんだ」

そして、ついにボクは数字に対してそう告げた。もう数字のことを好きになれない…。だから、ボクのことは忘れてほしい…。こうしてボクは、数字とサヨナラをしたのだ。高校一年の夏の終わり頃だったろうか……。

……そういうわけで、誕生日だと言うのに、会社に残ったボクはこの緻密な計算(略した)にその後振り回されることになる。自分のデスクでは集中できず、会議室の大きな机にパソコンと書類を並べ、自販機からコーヒーを買ってきて、腰を据えはじめた。午前十一時どころか、昼になっても一向に目途は立たず、昼休み返上などしても何ら意味のないことも分かってきたので、昼飯は金沢の有名なカレー屋さんで、Lカツカレーを食ってきた。久しぶりに美味かった。

それからボクは、しっかりと昼休みをとり、午後の部へと英気を養ったりしてしまったのだった。

その緻密な計算作業が終了しようとしている頃、時計は三時半を回っていた。今から行けば、午後七時までには弥陀ヶ原に着ける…、そんなバカな事を考えたりは当然しなかった。

四月とはいえ、標高二千メートルを超える山では、夜はまだまだ冬だ。晴れていたりすれば、冷え方も半端ではない。かつて、雪原に独りテントを張り、一晩過ごしたことがあったが、その時のことを思い出す。ウイスキーの小瓶と柿の種とクラッカーとアーモンドチョコ。主食はカップめん。ヘッドランプで文庫本の小さな文字を追っていた。当たり前だが寒かった。

早朝のコーヒーに立つ湯気は、幸せ気分の象徴のように見えた。間違いなく完璧な冷え方だったが、ボクは幸せだった…。

再び現実に戻る……。いきなり(大概そうだ)机の上の携帯電話がブルブル震え出した。所謂、バイブは携帯電話を生き物のようにするから好きではない。が、音出しはもっと嫌いだ。

あのォ~、もおォ~、出来ましたでしょうかァ~

電話をポケットに入れて、ボクはすぐにパソコンを自分の机まで運び、待っている相手にメールした。緻密な計算がされた…であろう書類は、アッという間に送信済みフォルダに放り込まれた。

それからすぐに、春の医王山の雪景色が背景となったデスクトップに戻し、アア~ッと、小さいとは言えない声を上げて背伸びをした。疲れて、ぐったりし、放心状態になった。そして、再び、立山の雪原が夕陽に染まる光景が浮かんでくると、今度は激しい焦燥感に襲われる。昼間の、真っ白な山肌と真っ青な空もまた強烈に迫ってくる。“オレには、時間がねえんだぞ・・・”と、小さく胸の中で吠えた。

そう言えば、先日、今年還暦を迎えるという俳優の大杉漣が、六十歳になるということで初めて自分の“死”を考えるようになったという意味の話をしていた。余生というものは、単に時間の長さ(短さ)だけで測れるものではないのだという言葉も印象深かった。だからどうなんだと言われても困るが、つまりその、早い話が、やれるうちにやりたいことはやっておこうという、極めて単純明快なことなのだと、ボクは思っている。

そういうわけで、五十七歳にもなり、もう緻密さなんて要らないボクとしては、青空の下で思いっきり背伸びやら深呼吸やらをし、ひたすらしみじみとしたかった……という、そんな欲求を奪われた悔しさにボーゼンとするのみであったのだ。

第五十七回誕生日の一日は、こうして静かにとは言えずに黄昏ていったのである………

桜の中から~上を向いて歩こう~が聞こえた

 休日の朝、山梨にいる友人からメールが届いていた。前日の夜、こちらから送っておいた件の返事だった。そのさらに前の日だったか、茨城県ひたちなか市に住む後輩のT沼にメールを送っていた。強い余震が続いている。

 三月十一日の大地震の後、T沼にすぐメールした。が、返信が来たのは数日後だった。“無事です。また連絡します”という短い内容だった。

 そして、それからまたその数日後の夜、今度は彼から電話が来た。「T沼です。ご心配かけています」元気そうだった。

 その声を聞いた瞬間、涙が出そうになった。大丈夫だったか?と聞くと、ええ、何とか大丈夫ですと彼は答えた。家は二年前に新築したばかりだったから、何とか持ったが、周囲の家などは壊滅的ですと彼は言った。そして、勤務先の銀行の支店も建物が崩壊。その始末など、燃料も電気も水道もない状況で奔走していたという。

 それと……。彼の弟さんが東京で亡くなっていた。地震と直接関係があるのかどうか分からないが、とにかくその時に突然死し、東京まで遺体を引き取りに行ったと言う。葬式も上げられないまま葬ったとのことだった。あの大パニックの最中に、兄として弟の遺体を引き取りに行く…、そのことを考えただけで胸が痛くなった。

 負けんじゃねえぞ、T沼…。ボクは電話を耳に当て、家の階段に腰を下ろし、半分涙声でそう彼に告げた。何だか、学生時代に戻ったような気がした。

 彼は気丈夫だった。クラブでも小さい体ながら、弱音を吐かない頑張り屋の裏方で徹した。世話役もしっかりこなし、今ではボクたちの代で作っているOB会のマネージメントを引き受けてくれている。

 そんな彼だから、東北にいる他の連中のことも把握していた。皆失ったものもあったが、命は無事だと言う。

 会話が落ち着くと、T沼が今年の秋に皆で集まる予定になっているOB会の話をしはじめた。今年は無理だな…とボクが言うと、またみんなに会えることを楽しみに頑張りますよ…と彼は答えた。また、涙が出そうになった。

 さらに数日が過ぎ、強い余震の続く朝、再び送った激励のメールには、体は大丈夫だが精神的に参っているという意味の返信が来た。いくら気丈夫でも、やはり震度4とか5とかが続けば参って当然だろう。

 関東から東北の人たちは、T沼のように極限の中で今闘っているのだということが、はっきりと伝わってくる。それでもT沼は、東北はもっとひどいですから…と、自分たちはまだまだいい方ですと言っていた。

 ……街には、桜が咲いている。観光客は半分以下になったという人もいたが、桜が咲いたとなれば人出は違う。兼六園周辺も休日前日の午後はたくさんの人波が出来ていた。

 加賀の大聖寺川でも、動橋川でも桜は見事に咲いていた。昔からよく出かけていた金沢犀川奥地の熊走(くまばしり)では、何でもない里山の春の風景に心が癒され、小さな校庭に咲いていた桜をボーっと眺めていた。

 人ばかり見ているような名所ではないところでも、桜はそれなりに咲いていて、それなりの美しさを誇っている。その桜たちが、一生懸命に頑張っている人たちと重なった。

 ラジオで、福島出身の西田敏行がアカペラで歌う『上を向いて歩こう』を聞いた。司会のK沼アナウンサーも一緒になって歌っていた。生放送だった。被災地である福島の方言で話す西田敏行は泣いている。この歌を、こんなに真剣に聞いたのは初めてだ。

 涙がこぼれないように…、思い出す春の日…。幸せは、雲の上に…、幸せは空の上に…。耳の奥に今もこの歌詞が残っている……

春の残雪テレマーク

 

四月の第二日曜あたりと言うと、だいたい春めき方にも気合が乗り、セーターは当然として、コーデュロイのパンツなんかも思わず躊躇してしまうくらいになっている。そのような頃合いに、全く躊躇することもなく、朝からテレマークスキーを担いで医王山へと出かけるというのは、ボクにとって、ごくごく当然のことであった。

朝からというのは少々オーバーで、実際は九時頃であった。担いで出かけたというのもかなりオーバーで、実際はクルマで出かけたのだから担いでなんかいない。クルマまでは担いだのではと気を遣っていただけるかも知れないが、テレマークスキーの特徴は軽いことであり、担ぐというほどの大袈裟な行為は必要ないのだ。ただ、背中のリュックやらの関係で担ぐことはあるから、担ぐ必要がないというのは正しくない。

相変わらずそんなことは全くどうでもよくて、今シーズン初めてのミニ山スキーツアーに出かけたのである。今冬のドカ雪の時期に、家の周辺を人目をはばかりながら駆け回ったことはあったが、今度は全くはばかる必要はない。それどころか、どこでひっくり返ろうが、喚(わめ)こうが、こっちの勝手だ。それが山スキーツアーの醍醐味なのだ(敢えて強調するほどのことでもない…)。

そういうわけで、わが内灘から最も近い手頃なフィールドしては、まずこの金沢市と福光町との県境に伸びる医王山周辺がピックアップされるのである。

しかし、最近は雪が少なく楽しみがなかった。医王山の春は、襟裳岬みたいに何もない春だった。ところがだ。今年の冬は久しぶりに気合の入った雪が降り、医王山周辺の白さが際立っていた。戸室山も白兀(しらはげ)山も奥医王山(最高地点)も白さが強かった。特に白兀山は、頂上近くに岩や土が露出した場所があり、その場所が冬の降雪で完璧に白くなるところから、そう呼ばれている。

今年はまさにその白兀(しらはげ)だったのだ。逆に言えば、その樹林帯の切れた場所の白さ具合で積雪も把握できるということであり、樹林帯でも低木たちは雪の下にあるということだった。十年ほど前までは、それが普通だったとも思う…。

 山麓のスキー場や放牧場あたりでも、想像したとおり四月としてはかなりの積雪があった。陽光を受けて光る雪原を目にすると心が躍る。それもかなり激しく躍るので、抑えるのに苦労する。

何年も前、仕事で立山山麓に出掛けた時にも、もう営業を終えた粟巣野スキー場で心が躍った。当時、立山山麓の大山町(現富山市)のまちづくり的な仕事をしていたのだが、太郎のマスター・五十嶋さんに委員になってもらい、ボクとしては最高の舞台だった。その日はスキー場のロッジ経営者たちと会合があり、夕方からの会合前の時間に、ふらふらと周辺を散策していた…と記憶する。

粟巣野スキー場というのは、立山山麓のスキー場の中で、最も奥にあり、そこから先は道もない。ボクは駐車場から、まだたっぷり雪が残っているゲレンデを見上げていたのだが、そのうち我慢が出来なくなり、そのまま雪の中へと足を踏み入れて行った。

その頃は、普段でも山靴に近いものを履いていたので、雪原歩きはちょっと注意すれば大丈夫だった。雪もこの季節になるとある程度締まっていて、埋まったりする心配はない。

気が付くと、ボクはかなり奥まで来ていた。始めはゲレンデの中央部を歩き、途中からは出来るだけ登りの緩い斜面を登ろうと脇の方へと移動した。本格的な登山靴を持っていれば、とてつもない快適な雪山歩行が楽しめたが、贅沢は言えない。

ちょっと大きめの斜面を登り切って、緩やかな雪原に出た時だった。大木が並んだ(と記憶するが)場所を歩いていると、いきなり木の陰から山スキーヤーが現れた。何となく、ゆっくりと滑り降りてくる緩いエッジの音が聞こえているような感覚があったのだが、目の前に現れたスキーヤーにボクは驚いた。

しかし、ボク以上に驚いたのは、そのスキーヤーだったに違いない。彼はボクを上から下までじっくりと見てから、コンニチワと普通に挨拶した。ボクも答えた。サイコーですねと付け加えたが、彼はそれには答えなかった。

小さなリュックを背負ったスキーヤーの後姿を追いながら、ボクはさっきの彼の視線を思い返した。そして、自分の着ているものにハッと気が付いた。ネクタイを締めジャケット姿のビジネスマン・スタイル…、TPOを全く逸脱したそのスタイルは実に奇妙に映ったに違いない。ひょっとして、自殺者とでも思われたかも知れないと、ボクは自分自身にゾッとした。

 スキー場の前の道路の横に、わずかばかりの空き地があり、そこにクルマを止める。

リアドアを開け荷台に腰を下ろし、ブーツを履き、スパッツを装着する。今では骨董品みたいな革製のブーツは出がけに防水処理はしてきたが、日頃の手入れが行き届いてなくて乾いた感じだ。帰ったら、たっぷりオイルを塗って上げようと心に誓う。

傷だらけのスキーも痛々しいが、これは宿命だと毅然とした姿勢を示す。木の枝があろうと石ころがあろうと、雪の上であればとにかく進む。時にはアスファルトの上でも、面倒くさいから行っていいよと、かつて読んだ『スキーツアーのすすめ』というガイドブックには書いてあった。立山の超長い下りや笹ヶ峰牧場辺りでは実際にそうしたこともある。

 ゲレンデには、朝から来ているのだろう競技選手っぽい二人がいた。この時季、彼らにとってもゲレンデは天国だ。ポールを立て、互いにビデオを撮って練習をしていたが、ボクがスキーを付けて歩き始めた頃には、その二人も片づけを開始していた。

 去年コンビニで買った日焼け止めクリームを、顔と手の甲に塗った。たしか三百円ほどのものだったが、結構効果があった。UVカットのリップクリームも、割かし丁寧に塗る。これは二百円ほどだが、昔からの愛用品。

 そしていよいよ、雪の上をひたすら歩き回ったり、走り回ったりを開始。ゲレンデの斜面を途中まで登っては滑り下りること数回。その間には二三回転んだ。いや、三回転んだ。どうも右回りの時に、内側のスキーを強く後ろに引いていない…。つまりテレマーク姿勢が出来ていないのだ。もう歳なのだから、無理するなということか。テレマークは片方の膝を曲げながら滑るのが特徴。それでバランスをとる。だから、その形が出来ていないとバランスが崩れるのは当然なのである。

スキーに慣れてくると、さらに奥へと進み、広い台地上の場所で、何の脈略もないまま動き回る。ここはたぶん畑だろうと、しばらくして分かる。高台の端に行き当たると、急な樹林帯の斜面を下って遊具の並んだ公園に出たりもした。そこはもう夏になると、小さな子供のいる家族連れが楽しそうに遊んでいたり、弁当を広げたりしている場所だ。この季節だと歩くスキーの格好のフィールドになる(している)。

 雪融けが進んでいる場所では、露出した草の上を透明な水がさらさらと流れていた。陽の光を受けて眩しい。リュックから冷たくない湯涌の水を取り出し、口に含む。ほっと一息。

再び登りかえして、スキー場の方へと向かう頃には、じっとりと汗ばんできた。こんなことをもう何年も続けてきたんだなあ…と、我ながらちょっと恥じらいなどを感じたが、だからどうなんだとすぐに開き直る。

ゲレンデの方に戻るようにかなり滑り歩いて、木立の中にあった石の上で大休止。ゲレンデを見上げながら至福のひと時を過ごしているうちに、若い夫婦連れ(だと思う)の山スキーヤーが大きなリュックを背負って登って行く。

途中、振り返ってコンニチワと言葉をかけてきた。雪の上に刺してあったボクのスキーを見たのだろう。テレマークですか?と聞いてくる。そうです!と答えると、ヘェーッと言ってのけ反って見せた。どういう意味なのだろうか……

うちの向かいの若いお父さんも、実は昨年あたりから本格的に山を始めて、今シーズンからは山スキーにも熱を上げ始めていた。学生時代は相撲部にいたという豪傑なのだが、でかいリュックを背負う姿はなかなか決まっている。

 そう言えば、彼もボクがテレマークだと言ったら、強い関心を示していた。ただ、どうやら自分には適さないと思ったらしく、それはテレマークのあの独特な滑り方にあるのだろうとボクは勝手に推測した。かなり柔軟さが必要と感じているのだろうか…。さっきの若いスキーヤーも、たしかに体がごつかった。

スキーを履いてからちょうど三時間。適度に疲れも出てきて、そろそろラスト一本決めに行くかと、また斜面を登り始めた。こういう時は、なかなかしぶといのがボクの信条だ。

しかし、なかなか…、とにかく疲れ切っているから、すぐに足が止まる。休んでばかりいる。大息をついて、体の向きを変えると斜面の下に向かって咳まで出た。行くか…

真っ直ぐに滑り降りはじめ、左にテレマークターンを一発決め、そのまま深いテレマーク姿勢を保って、すぐに次のターンに。いい感じで締め括れそうだと気が緩んだところでまたまた態勢が崩れそうになる。何とか辛うじて転ぶことはなく下方へ。ゆっくりとスキーを滑らせながらクルマの位置を確認し、スキーの方向を変えた。

スキーが止まって、フーッと長い息を吐く。今日はこれで終わりだが、これからまた楽しい季節にしよう。そう思うと、またしても心が躍った。それにしても…、太陽が、眩しいなあ……

帰り、山麓の道の脇には、桜が咲き始めてもいた……

春の、ある金曜の夜

 金曜の夜、主計町で篠笛と一人芝居を鑑賞した後、その場で軽くビールやワインなどをいただき、早々に香林坊まで歩こうと外に出た。

 前日に見た検番前の桜の花は、かなり開き始めており、その開花の早さに驚かされる。小雨の中とはいえ、茶屋街の外灯に浮かび上がる桜の木の姿は、やはり色っぽかった。

 大手町の裏筋から、店じまいしている夜の近江町市場の中を通る。特に大手町の裏筋には、古い佇まいも多くあったりして歩くこと自体も楽しい。近江町では居酒屋だけがぽつんと営業していたりしている。曇ったガラス越しに、かなり飲み、語り疲れたようなサラリーマンたちの顔がいくつも見えていた。

 武蔵ヶ辻に出ると、バス停に着いたばかりのバスに飛び乗った。香林坊まで、武蔵から乗ると百円ですむ。しかし、百円で得したと思うよりも、香林坊までの時間を短縮できたことの方が大きい。香林坊に着くと、すぐに日銀裏へと足を早めた……

 ヨークには、若い男二人がカウンターにいた。ビッグバンドでサックスを吹いている常連クンと、その友人だとすぐに分かった。久しぶりに顔を見たと思ったが、ボクの方が店に来る頻度が低いだけだ。めずらしく、マイルス・デイビス晩年のCDが流れている。

 二人がしばらくして出て行くと、その後にこれも懐かしいA木さんが入ってきた。ボクと同じく、どこかの飲み会帰りという様子だった。

 ボクの場合、かつては会社がすぐ下にあり、六時頃から夜中までヨークで過ごすという時もあったが、今はもうそんなことはなくなった。できなくなった。夜中までとは言わなくても、夕方から夜の始め頃までの時間を、しみじみと過ごすのが、かなり日常に近かった。

 A木さんは、金沢でも無類のジャズ愛好家であり、その温厚そうな顔付きや物腰からは想像できないほどのマニアだ。スーツ姿もさり気なく決まっている。

 かつて、マイルス・デイビスの金沢公演を再現しようというイベントを企画した際、最も有効で最も意味のある音源を貸してくれたのがA木さんだった。奥井さんの七回忌のライブ(スガ・ダイロー・トリオ)の時にも、ボクらと並んでカウンターの中からその演奏を熱心に聴いていた。

 ついでに書くと、ボクの拙本(「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」)の良き読者であり、理解者でもいてくれる素晴らしい人でもある。

 そんなA木さんと、その夜は寄席の話で盛り上がった。数日前あたりか、立川志の輔の落語を聞いたとかで、落語や漫才などは生(らいぶ)を聞かなきゃダメという点で意見がまとまった。

 ボクはかつて、先代の円楽の人情噺をしみじみ聞いたことがあるが、あれはまさに芸であったと今でも思っている。こんなことは敢えてボクのような者が言うセリフでもないだろうが、あの凄さは聞いた者でないと分からないだろう。高座から伝わって来る熱いものは並ではなかった。

 NHKラジオの「真打登場」の収録が、何年も前に寺井町(現能美市)であって、奥井さんと二人で行った時の話もした。ボクらも笑ったが、ボクらの前の席にいた熟年夫婦が周囲も気にせずに大笑いしていた。休憩時間に奥さんの方が、「寄席って、こんなに面白いもんやて知らんかったわ」と大喜びしていた光景は忘れない。

 やっぱり、生の演芸だからだネ…と、A木さんも言う。分かりきっていた落ちに、待ってましたとばかりに笑いを送る、そんな空気を感じて、幸せな気分になれるのが寄席なのである。

 そろそろ帰り支度(と言っても別に何もすることはないのだが)をしようとすると、本の方はどう?と聞かれた。特に大きな変化はないのだが、東京の方から、先日読み終えて、爽やかな気分になれたといった意味のお便りをもらった話をした。東日本地震の被災者の人たちに読んでもらいたいと思う…といった趣旨のことも書かれていて、ボクとしても、それが叶うならやりたいと思っていますと答えると、A木さんもそれはいいねと言ってくれた。

 北陸鉄道浅野川線の最終電車は、午後十一時。それに乗るために香林坊日銀前のバス停で、なかなか来ない金沢駅行バスを待つ……。

 その間、午後、浅野川・梅の橋沿いに建つ徳田秋聲記念館に、K先生を訪ねたことを思い返していた。

 先生としっかり一時間近く話をしたというのは、何年ぶりのことだっただろう。夢二館の館長時代は、館長室で時々ゆっくりとお話ができたが、脳梗塞で倒れてからは、あまりボクも訪ねて行かなくなった。

 昨年まで関わっていた、旧富来町(現志賀町)出身の作家・加能作次郎関係の仕事では、本来K先生と一緒にやるべきことも多かったのだが、結局先生との接点は地元の皆さんに任せてしまっていた。

 先生は七十九歳になられたという。島田清次郎の「にし茶屋資料館」をやった時からだから、もう十六年ほどのお付き合いになる。あの頃よりはかなりスマートになった感じだが、透析を続けての先生の活動には本当に頭が下がる思いだ。

 今回は、羽咋市にゆかりのある民俗学者で、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)でもある折口信夫に関することを教えていただきたくて時間をいただいた。先生はかつて、折口信夫のことで、近代文学館の館長だったSさんと動いたことがあったと言われた。

 現在は空き家となっている藤井家という旧家を、記念館として残すべきと考えられたらしい。しかし、実現どころか、藤井家にあった貴重な資料の多くが國學院大學に移されたということに、大きなショックを受けたと言われていた。

 藤井家を記念館にという話は、ボクも地元の人から聞いている。その価値と実現の可能性を先生に聞きたかったのだ。先生は、むずかしいが、地元に意欲のある人がいるなら、大いにやってみたらと言われた。そして、五月の初めに、地元の有志と藤井家見学に行くことになっていると話すと、その報告を楽しみに待っているよと目を輝かせた。

 そろそろ透析に行かなければならない時間。雨の中をタクシーがやって来る。

 ゆっくりと立ち上がりながら、こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね…と先生。こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ…と答える。

 「いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ…」別れ際の言葉がまた胸に染みていた。

 それにしても、バスはなかなか来なかった。接近マークは二つ手前で点滅したままで、小雨が降り続く中、ビニール傘を開かなければならなくなってもいた。

 “ 咲ききらぬ サクラ並木に 夜の雨 ”

 イライラの中の、久々の一句であった……

主計町の春

 

久しぶりに、主計町の「茶屋ラボ」に行ってきた。

あまり気持ちよいとは言えないくらいの生温い風が、やや強めに吹いていて、埃っぽく、上着をはおる気分にはなかなかなれない午後だった。

大手町の駐車場にクルマを置き、新町通りに出て、久保市乙剣神社から暗がり坂を下る。神社の境内に入ると、不思議に風を感じなくなり、暗がり坂に差しかかると、さらに強い温もりだけを受けるようになった。

木立や主計町の狭い道には風も入って来れないのだろう。少し霞み気味の日差しも強くなったように感じる。坂を下った検番の前に立つ桜の木は、まだ蕾(つぼみ)状態だが、それはそれなりの雰囲気を持っていて、相変わらず姿形もいい。

去年の春、ボクはこの木から無数に散っていく桜の花びらを見た。路面に敷き詰められたような花びらはそれなりに綺麗だったが、あの無数の花びらたちはあの後どこへ行ったのか……。桜の季節の後半になると、いつもそんなことを考えている。今はまだいいが、後で心配事が増えるので、やはり桜には心を許せない。

そう言えば、今年の桜はかなり遅い方だ。ボクがこんなこと言っても仕方がないが、桜は早く来て、ある程度の期間咲き続け、散り始めたら早く行ってくれればいい。桜の騒々しさはそんなに長い時間要らない。と言いつつ、今年は何とか哲学の道を桜を眺めながら歩きたいと思っているのだが、タイミング的に無理だろうか。今年がだめなら来年があるが。

そんなこんなで主計町の細い道をL字型に曲がって、浅野川沿いの道に出るとすぐ左に「茶屋ラボ」はある。もう何度も通っている道だ。と言っても、ひょっとすると今年初めてかも知れない…と一瞬冷や汗。去年の今頃は、こけら落としの「和傘と甲州ワイン」のコラボイベントで奔走していた。

新聞にも大きく取り上げられて、この先大変なことになるのでは…と、ビビってしまったのをはっきりと覚えている。本番はなかなかの内容だったが、それをベースにしてやっていくのには、やはり少々無理があったみたいだ。あれ以来、ぽつりぽつりとイベントをやってはきたが、積極さがなくなり、少しずつオーナーさんとの距離も遠くなっていってしまった。しかし、一時、管理をある人物に委ねるような話もあったが、今はまたフリーな状態に戻っている。

待ち合わせをしていたN川クンはまだ来ていなかった。

手に抱えた上着のポケットから鍵を取り出し、いつも開けにくい格子戸の鍵穴に差し込む。意外なほどに簡単に開いて拍子抜けだったが、以前はよく苦労したから気分がよくなった。

格子戸を開けると、何となく懐かしい匂いがして、すぐに中へと足を踏み入れる。奥にある分電盤のブレーカーを上げて、さっそくトイレを拝借。

このトイレは決まって、来客者に驚いてもらえるところだ。トイレをはじめとして、金沢で活躍する鬼才建築家・平口泰夫氏がデザインした内装は、建築賞も受賞した抜群のセンスで構成されている。茶屋の伝統の中に現代的な感性が息づいているといった、ちょっと定番的な表現しかできないが、まさにそうなのだから仕方がない。

一階のテーブルの上にバッグを置き、押入れの扉を開くと冷蔵庫がある。まさかと思って開けてみると、懐かしい「ハラモワイン」のラベルが付いたワインボトルが三本。フルーティな味が特徴的な美味いワインが寝かせて?ある。冷蔵庫は電源が入っていないから、ちょうどいい具合に寝かせられているのも知れない。そう言えば、少し前だがオーナーから、冷蔵庫のワイン飲んでいいかと電話があったが、その時には飲んでいないのだろうか・・・。

冷蔵庫のワインを見て、これは明日飲めるぞ…とニタリ。実は次の日の晩はここで久々のイベントなのだ。

コンニチワ。外から耳慣れた声が聞こえた。N川クンだ。横に立っているのは、大きなマスクながら見覚えがある。O澤さんです…とN川クンが言う前に、ボクはその正体を見破っていた。O江町でS屋さんを営むO澤さんだった。ちなみにSは魚ではない。

さっそく、この場所のことなら、そしてこの場所の活用のことなら何でもゴザレの説明に入る。

一階の設備をひととおり説明終えると、いよいよ二階への階段へと差しかかる。急で狭くて、しかも直角に曲がる階段は、下る際には要注意。何人かこけるのを見た。すれ違う時には、目と目で見つめ合ってしまうような微妙な距離にもなる。

一階でも感嘆の声が絶えなかったが、二階に上がるとその声は一階の三倍半くらいの頻度になった。

浅野川に面した窓からは、その流れと共に、蕾がそろそろ膨らみ始めそうな桜の木の枝が、手が届きそうなところで風に揺れている。いいではないですか…と言いたいながらも、そんな安直な言葉では表現できないと言った思いが、はっきりと伝わってきた。浅野川のさざ波が光っている。

O澤さんは、茶屋ラボで楽しいことを企んでいるらしい。その楽しいことに、さらに楽しいことを注入しようとボクも考え始めた。ここでやろうとしていることは、普通にありふれたことなのではあるが、その中に個性的な何かを付加していく。それが茶屋ラボ的な趣向なのだ…と、ボクはかつて新聞で語っていた(らしい)。

と、今は粋がっていても仕方ないので、いろいろ説明したり案内したりしながらの三十分ほどだろうか。なかなか有意義で楽しい時間が過ぎていった。

ここへ人を連れてくるといつも感じるのだが、皆さん、それなりによいイメージをもってくれる。当たり前のようで、素直な感想だと思うが、だからこそ、こちらとしても中途半端なことは言えない。管理自体にもそれなりに責任があるし、やはり茶屋建築には注意が必要なのだ。

今回のO澤さんのような個性的で、信頼できる人(ヒトビト的)たちには大いに利用してもらいたい。

二人を見送り、戸締りをして茶屋街の道に出た。浅野川を背にして建物外観をしみじみと見る。

そう言えば、「茶屋ラボ」という呼び方もこのまま続けていいのか…と、思ったりする。次の日の夜、ここで篠笛と一人芝居を鑑賞し、そのあとそれなりにビールやワインなんぞを飲むのだろうが、その時に、ボーっと考えてみようかとも思う。

帰り道、暗がり坂で、もう一度蕾の桜の木を見上げてみようと思った。が、おばさんたちの集団に圧倒されて、しばし我を見失っていた。そうか、春なのであった……

春のランナーたちがいた

春になるといつの間にかたくさんの人たちが外に出て、飛んだり跳ねたりするようになっている。そんな激しい人たちばかりでなく、適当に歩いたり、ベンチに腰を下ろしてボーっとする人たちも当然多い。

春休みのスポーツ公園は、高校生たちの凛々しい姿や表情に見惚れたりする格好の場所だ。アンツーカーのトラックを正統派のランニングフォームで走り抜けていく彼らの姿や表情からは、清々しさとメリハリの利いた元気が伝わってくる。富山の国道四十一号線、ます寿しミュージアムの奥にある、広々としたスポーツ公園・・・・・・

春だからいいのかも知れない。夏だと猛暑の中、バテ気味のランナーたちからは息苦しさと気の毒さと、それから、自分だけが楽しているみたいな罪悪感と、とにかくさまざまに複層した思いが重なって、ついつい見て見ないふりをしてしまうこともある。

 かつて、八ヶ岳山麓で合宿していた某実業団陸上部チームのランナーが、ランニング中にコースから外れ、隠れてパイプから流れていた湧き水を飲んでいるところを見たことがある。あとでコーチから激しく叱られていた時の様子は実に惨めなものだった。今だと練習中に水を補給するのは正しいことなのだが、それでも真夏の炎天下ではその過酷さの方が勝ってしまう。実を言うと、そのランナーは当時結構有名な選手だった。だからよく覚えている。

春先のランナーたちは生き生きとしていて、気持ちのよい存在だ。体のキレもシャープに見える。それほど汗をかいていないせいもあるだろう。

中距離か、長距離のランナーたちだろう、ボクの前をかなりのスピードで駆け抜けていった。勢いはコーナーから直線に入っても衰えない。速い選手がどんどん前へと出ていく。一周したところでスピードダウンし、ぐっとペースダウンする。ほとんど歩いているようなスピードになって、見ているこちらの方もホッとしたりしている。しかし、彼らはまた徐々にスピードを上げていき、そのうちまたトップスピードになった。

またボクの前を走り抜けていく。今度は息遣いも聞こえた気がした。瞬間、彼らが引っ張ってきた緊張感がボクにも伝わってくる。先頭のランナーは背の低い坊主頭の、いかにも頑張り屋という顔付きをしている。彼の気迫が後続のランナーたちを引っ張っているようにも見える。

実はボクも中学時代は中距離と長距離の選手だった。選手と言っても、本来は野球部員であり、たまたまその方面の足が速かったから大会があると駆り出されていたのだ。河北郡という単位の大会で、八百メートル一位、二千メートル二位という成績だった。駅伝大会ではアンカーを任されていた。

しかし、今の選手たちとはかなり力の差があるのは間違いない。ボクたちは、あんなに綺麗なフォームで走ってはいなかった。走るということ自体は完璧に自己流であって、小さい頃、柿を盗もうとして見つかり、力いっぱいひたすら走っていた時のフォームとほとんど変わりはなかったと思う。

ただ、戦略的(大袈裟だ)には後半まで抑えて行けとかいう指示はあった。八百メートルの時は、ラスト二百メートルまでスピードを抑え、ラストスパートで一気にトップに出て、そのままゴールのテープを切った。前半を抑えていた分、自分でも全く疲れを感じない完璧なレースであったと今でも思う。その前の大会では、それの逆をやって、その他大勢の一人になったこともある。優勝して以来、ボクはいつもラストでパワー全開するスタイルに徹した。高校の持久走でも学年でトップになったが、やはりラスト二百メートルがボクの花道だった。それ以来、誰言うとなく“ラストスパートのナカイ”と呼ばれるようになった……かと言うと、当然そんなわけはない。

今、目の前で見ているような、しっかりとした練習なんかもやったことはなかった。ただ、走っていた。今でも思い出すのは、トラックを蹴っていくときの足の裏の感触とか、特に直線コースに入った時に感じた焦りみたいなものだ。不思議だが、直線に入るとなかなか足が前に出ていかないような感覚があった。

 ところで、山に行くようになってから、とにかく黙って歩いていれば、そのうち目的地にたどり着くという感覚を知った。ただそういう心境は、山に入ってから十年ぐらいが過ぎてからで、それまではただひたすら早く目的地に着こうということばかり考えていた。それは大学時代のクラブの仲間で、長距離に強かったやつの考え方に影響を受けたからだ。

しんどいことは、早く終わらせよう。早く楽になろう。長距離のランニングとかは、早く走って早くゴールすれば早く休めるし、後続がゴールするまでゆっくり体を休めることができる。実際、二、三十キロのランニングとかになると、早くゴールしておけば三十分以上は楽していられた。軽く柔軟運動などをやりながら体を休める。この考え方で、ボクは山に入っていた。もちろん早くビールが飲めるということも重要だったが。

マラソン選手なんかは、一定のフォームで長時間効率よく走れるということが理想だろう。速く走ろうとすることばかりが、早く走れることにつながるわけでもないに違いない。

高校生たちの凛々しいランニングフォームを見ていると、いろいろなことが頭の中を過(よぎ)っていく。

 帰ろうと思い、両腕を延ばして目いっぱい背伸びをした。目の前が真っ暗になったのか、真っ白になったのかよく分からないまま、体全体が硬直したように震えた。運動不足…。こんな言葉は自分に似合わないと、ずっと思ってきたのに、最近は完璧に似合っている。

まだまだ色のついていない芝生の上を歩き出すと、すぐにちょっと速足になる。ふと、数メートル先の芝の間に小さな茶色の物体を見つける。

 どんぐりだった。ずっと深い雪の下で冬を過ごしてきたのだろう。まだ表面には艶がある。ちょっと拾い上げて指で感触を確かめ、またすぐに芝の上に戻した。

 駐車場の方に戻る途中には、緑地に青い小さな花が無数に広がっている。美しい光景だった。何だか至れり尽くせりだなあと思う。

もう一度背伸びをする。ついでに声も出て、富山の空の青さが目に染みた……

薄雪・湯涌水汲みの朝

カーテンを開けると、前夜からの冷え込みで、家の周りの土の部分に薄っすらと雪が積もっている。ほとんどが土の部分だから、薄っすらとした雪の白さが柔らかそうで、しばらくボーっと眺めていたくなった。

休日の朝は、のんびりと起きることができ、外の様子などにもゆったりと目をやることができるからいい。仕事の日の朝は、今の季節だとまだ暗い。会社まで平均四十五分ほどの通勤時間を要する身としては、明るくなる前の起床もやむを得ないのだ。

その点、休日の朝はいつもよりかなり明るく平和な感じがして、陽が差していたりすると、かなり得をした気分にもなれる。

三月はまだまだ冬と決めているボクとしては、その日の朝の、新雪の薄化粧も、当たり前の真ん中のちょっと横くらいのもので、全く驚くほどのことではなかった。ただ、少し頭をよぎったのは、午前中に決行しようと心の片隅で決めていた、恒例のお勤め“湯涌の水汲み”に無事行けるだろうかということで、前にも最後の山道に入ろうかという場所で前進を拒まれたことを思い出していた。

しかし、ボクは決めた。今は亡き写真家・星野道夫が、悠久を思わせるアラスカの空を見上げた時のように…とはいかないが、内灘町字宮坂上空から、医王山、さらに県境の山々を経て白山などに続く青い空を見上げた時、ボクは「そうだ。やはり湯涌へ水を汲みに行こう!」と、短い睫毛を揺らせながら決めたのだった。

前週は“氷見のうどん”を食べに行こうと決め、やや勇んで出かけた。が、いざ氷見に着いてみると、気が変わって刺身と焼き魚のセットになった定食を食べてしまった。その時も、風は冷たかったが天気は良く、絶好のドライブ日和となり、帰り道は七尾湾の方へと迂回した。春を思わせる日本海はひたすらのどかで美しかったが、眠気との戦いがきつい試練だった。この話は、特に今回のこととは関係ない…。

十時少し前だろうか、水入れ容器をいつものようにクルマに積み込む。二十リットルのポリ容器が二個。二リットルのペットボトルが約十五本。それに一リットルから五百ミリリットルのペットボトルなどが無数……。とにかく家にあるモノは何でも積んで行って、ひたすらそれらに水を入れ、一滴もこぼさぬようにして家まで持ち帰るのである。

家を出ると、まず河北潟干拓地の端に造られた真っ直ぐな道を、ただそのとおりに進む。途中干拓地の中心部に向かう道二本を無視し、競馬場方面への長い橋にも目もくれないで進む。さらにクルマを走らせ、右手に曲がる橋を渡って津幡町西端の団地の中へと入っていく。

しばらくして高架化された八号線に乗り、すぐに山側環状道路へと車線変更する。ボクの理想としては初めの景色のように、そのまま山の中へと吸い込まれていけるといいのだが、この道はそのうち杜の里付近の明るくにぎやかな街の中の混雑に吸い込まれてしまう。そこからしばらく進んでから医王山・湯涌方面の道に入って行くのだが、そこまで来てボクはいつもホッするのだ。

実は出かける前、湯涌の善良なる住人・A立Y夫青年(かつての)にメールを入れ、今から水汲みに行く旨を伝えておいた。いつも水汲みに行く際には、地元の住人である彼に連絡している。ただ行くよとだけ連絡するのだが、何となくよそ者が黙って水汲みに行くことに申し訳なさを感じていて、ただ一人知っているA立青年(かなり前の)に一報を入れるのだ。彼も湯涌の水の愛飲者であるのは言うまでもない。

彼からは、“薄雪の医王山きれいですぜ”という返事が届いていた。その日は仕事らしく、かなり気合が入ってるみたいだナ…と、文面から察せられるものがあった。

クルマを走らせながら、彼のメッセージを確かめるように、湯涌の山里の雪景色に目をやる。見慣れてはいるのだが、小さな風景ながらの新鮮な感動に浸れる。この辺りも、ボクがずっと親しんできた場所のひとつなのである。

すうっと伸びていく青の空。どこからかただ流されてきただけのような柔らかな白い雲。それらが春に近い冬の晴れ間らしい空気を山里に漂わせていて、ついつい目線を上の方へと持っていかれる。眩しいが我慢する。

山王線という最後の山道に入るところで、またしてもたじろいだ……

道に雪が残っている。今朝の新雪が重なっている。細い山道はすぐに左に大きくカーブするのだが、その先まで雪が残っていて、先の見えない道筋に大きな不安がよぎった。

しかし、今日は何だかそんなに悪いことは起きそうにないみたいだという安易な思い込みがあり、ドアを開けて雪を手で触ってみたあと、特に躊躇(ちゅうちょ)することもなくボクは山道へとクルマを乗り入れた。

しばらくすると、道の雪はタイヤの踏み跡部分だけ消えた状態になり、微かな不気味さの中をゆっくりと静かに進んで行く。対向車が来たらどうするかな?と、のんびりと考えていたが、当然何とかなるだろうぐらいにしか思っていなかった。

そのとおりに何もないまま水場にたどり着く。誰も来ないうちにと、タイヤを滑らせながらクルマをUターンさせ、バックで雪に被われた水場の脇へともぐり込む。

空気が冷たい。新雪を両手ですくい上げると、その冷たい感触が心地よく、その塊を斉藤祐樹のピッチングフォームで、約二十メートル先まで投げてみた。塊は途中で空中分解し、身体の硬さだけが実感として残った。思わず、笑ってしまった。

この水場は、しっかりとした水道栓になっていて非常に便利になっている。ここまで整備してくれた地元の人たちに感謝しなければならない。そのおかげで、内灘くんだりから来ている我々でも恩恵が受けられるのだ。奥に立つお地蔵さんに、では汲ませていただきますと手を合わせて、いよいよ水汲み開始だ。

二つある水道栓を使って、手際よく容器を入れ替えていく。水は出しっ放しにしておき、容器を順番に置き換えていくのである。しかし、時間がたってくると、素手にかかる水の冷たさが徐々に厳しく感じられてきて、かなりしんどい状況になる。指の辺りはピンク色になってきて、そのうち感覚も鈍っていく。白い息を手にかけるが、全く効果はない。

しかし、当然のことながら、そんなことに気を留めているわけにもいかないのである。

二十リットル容器に入れる時は少し余裕もあり、周囲の雪景色などを眺めていたり、カメラを構えたりもできるが、ペットボトルになると、そんなのんびりとはしていられない。どんどん水を入れては、蓋をしての連続となる。かといって何も考えてないわけではなく、一連の単調な動きの中でも、ふと前夜ビデオで見たNHK-BSの『仏像の魅力』のワンシーンを思い返したりしている。

自分の冷たく腫れ上がった指を見ながら、仏像の手は赤ん坊の手のようにふっくらと作られていて、特に指先の爪などは、まったく赤ん坊のものとそっくり同じに作られているという話を思い出したりしている。

仏像の手の指の爪は、赤ん坊のものと同じように反っている。仏様は赤ん坊と同じく純粋無垢な存在であり、ニンゲンたちに赤ん坊のような無垢な気持ちを持ちなさいというメッセージになっているものらしい。なんと、素晴らしい話だろうかと、前夜ボクはますます仏像が好きになっていく予兆に気持ちを高ぶらせていた。ときどき爪を立てたりする大人(特に女の)もいるが、赤ん坊の時は爪は立てられない。そして仏様のように穏やかな心を持った人は、爪を立てない…(話が飛んだ?)。

あれよこれよとオロオロ・モタモタしているうちに、ようやくすべての容器に水が入り切ると、クルマの荷台に運ぶ作業に移る。無理やりクルマを水場近くまで潜り込ませておいたのが功を奏して、快適なうちに積み込みは終了。

登りの対向車が来ないようにと思いながら、雪の坂道を下る。街道に出ると、ホッと一息つき、当然のことながら、このまま帰ってしまう手はないと帰路の逆方向へとハンドルを切っている。

しばらく走って、「創作の森」への登り口あたりにクルマを止めて歩き出した。何となく、その反対側の風景が昔から好きで、何となくそのあたりを歩いてしまう。足元の履物はトレッキング用の浅い靴なので、ちょっと失敗したなあと後悔したりしているが、せっかくの好天の下、歩かないのは損だと思っていた。

青空が気持ちよかった。何がどうなんだと聞かれても、うまく答えることはできないが、とにかく青空があり、その下に雪の山里があるということに満足していれば文句ないではないかと自分自身に語っている。

ボクには、いつもではないが、自分が今感動していることをどう表現して人に伝えようかと考えるクセがある。その時もふと、そんな思いに襲われ、ちょっと戸惑っていたが、そんなことを思うより前に、青空があっさりとその思いに勝ってしまった。

木の枝から、融けた雪のしずくが数滴落ちてきて、雪の上に小さなあとをつけるのを見た。残雪の下に垂れ下がったツララからも、ひっきりなしに水滴が流れ落ちている。

新雪が降ったとはいえ、雪融けは確実に進んでいて、自分自身が寒さを感じなくなっていることにも気付かないでいる。

カメラを遠くの小高い山並みに向けたり、ジェット機が飛ぶ空に向けたり、ぽっかりと雪融けでできた穴から見える緑の草に向けたり、何だか慌ただしくなった。しばらくカメラのシャッターを押し続け、そのあとはのんびりと雪景色をまた眺める。

う~む・・・と唸った。水汲みに来る湯涌には、まだまだ魅力がいっぱいあるなあ・・・とも、あらためて満足。これから先、どれだけこの場所を眺めるのかと、ふと思ったりし、ゆっくりと帰路に就いたのは午後ののどかな時間帯だった……

八ヶ岳山麓に憧れていた・・・

本棚の隅っこから、また懐かしい本が出てきた。レコードとか本とかはすでにかなり多くのものが手元から離れていて、時々本屋や図書館などで、これはかつて自分が持っていたものだと気が付いたりすることがある。

今回出てきたこの本の存在も、すでに遠く忘れ去られていたもののひとつだった。

著者の加藤則芳氏。ボクより五歳年上の尊敬すべき人だ。

かつて感覚やスタンスの違いを見せつけられ、一種の絶望感とともにこの本を読んでいた記憶がある。今から二十年ほど前のことだ。

そのさらに十年ほど前だろうか、加藤氏は八ヶ岳に移り住み『ドンキーハウス』というペンションを始めていた。

それまで東京の大手出版社に勤務し都会の雑踏の中にいたという、その180度の転換ぶりに、ボクは激しい羨望や嫉妬?を感じていた。当時のボクからすれば、氏はあまりにも簡単に自分のやりたかったことを実現させてしまった人だったのだ。

しかし、氏のことをボクがさらに尊敬していったのは、この本を出した後、人気のあったペンションをさっぱりと止めてしまったことだった。

経営的に行き詰まったというのではない。逆に多くの人に愛されていたペンションだった。その辺りのことは、この本を読めばよく分かる。

ペンション経営自体が、もともと氏の性格には合わず、氏の目的ではなかったということに過ぎない。このあたりも、自分に当てはまる話であると、奥歯で歯ぎしりしながら読んでいた。

氏はその後、八ヶ岳を生活のベースにしながら自然をテーマにした執筆活動を続けてきた(現在は横浜市在住らしい)。

また国内外でのさまざまな自然の場における活動などは、出版ばかりでなく、テレビなどでも広く紹介されてきた。細かいことは書き切れないが、もっと知りたい人は「加藤則芳」で検索してみてほしい。

去年の三月と四月、ボクは久々に八ヶ岳山麓に足を運んでいた。といっても、甲州市の友人と会うために出掛けた際、ちょっと立ち寄ったというくらいの滞在時間で、しかも清里周辺の超安全地帯をぶらぶらしただけだった。

清里周辺は両日とも雨や雪が降っていた。気温も低く人影も少なかった。特に清泉寮のあたりは全くと言っていいほど人の姿はなく、個性的な木工品が並ぶショップの中を遠慮がちに歩いてきた。夏の賑わいが嘘のような静けさだった。

遠望の山々も霞む中、小海線の清里駅にクルマを止め、日本の最高地点を走る車両を見ようと思った。

かつて日本で最も標高の高い駅である野辺山駅に立ち寄り、入場券を買ってホームに入った時のことを思い出していた。

列車が来ると、何気にその列車の写真を撮った。特に鉄道ファンでもなかったが、その時に見た列車はそれまでに自分が見てきたものの中でも深い印象として残った。

夏のきつい日差しの中で、熱を帯びた線路から舞い上がる陽炎も目に焼き付いていた。

ホームに入ってきた車両は、かつて見たものとは大きく違いカラフルで美しかった。

ただ見過ごしていたが、車両が走り去った後、どうせなら、一駅だけでも乗ってくればよかったと後悔していた。相変わらず思い切りが悪い……

二十代の多くの夏、ボクはこの本のタイトルみたいなわけではないが、八ヶ岳山麓で一週間近い夏休みを過ごしていた。

旧盆の休みとかに敢えて仕事をして、その分の振替え休暇を八月二〇日前後にとる。そんなことを当時は平気でやっていた。そして、その時間はボクの日常の中に非日常をもたらす、夏の恒例行事でもあった。

はじめは、特に八ヶ岳を意識していたわけではない。白樺湖の雑踏を抜け、車山高原からのビーナスラインを走り、途中の湿原地帯や高原の道をトレッキングするというスタイルだった。

ただ、もうすでに山の世界に足を突っ込んでいたボクは、もう少しハードなものを求めるようにもなっていた。

八ヶ岳の麓に来ると、十分にそれを満たすというほどではないにしろ、何となく自然と一体となれる瞬間があった。それは瑞々しい感覚で、樹木一本、野草一つが持っている目に見えないパワーみたいなものが伝わってくる気がした。

森の中を歩いていると、自分自身がそれまでとは違う何かに引き寄せられてでもいるかのように感じられた。

実際、当時のボクは、北アルプスの北部や上高地を起点とする山域に足を運び始めていたが、南アルプスや中央アルプスなどの山域の空気を知らないでいた。

ひょっとすると、その空気というのは、今感じているものなのかもしれない…、ボクはそんなことを思ったりもしていた。北と比べると、南の方はジメジメしていない、爽やかな印象があった。どこか垢抜けしていてセンスもいいような感じがした。

ボクは結局、八ヶ岳には一度も登らなかった。じっくりと腰を据えているといった印象もなく、いつもただ慌ただしく移動し、歩き回っていただけだった。

今の自分の家が出来つつあったとき、ボクはわざわざ八ヶ岳山麓を訪れ、地元のクラフト作家たちのアトリエを見て回った。

何年ぶりかのことだった。そして、そのとき、家を建てている自分のことを振り返り、ふと思った。

オレッて、かつてはこの土地に、家を建てようとしていたのではなかったっけ……と。

そんな思いはすぐに消え去っていったが、ボクは懐かしい森の中に、ちょっとだけ足を踏み入れ、車内に積み込んだ多くの品とともに、そこで切られていた白樺の木の枝を一本もらってきた。

ボクにとっては、それがその日一番の収穫だったような気がした。

しかし、それからまたボクは少し虚しい気分に落ちていく自分を感じた。

妥協したんだなあ…。いやあ、妥協なんてもんじゃないだろう…。

今は十分に落ち着いて振り返られるが、その時のボクは、二度と戻ることのない時代への激しい後悔に襲われていた。

この後、“私的エネルギーを追求する”などといった、胡散臭いコンセプトの雑誌を出していくひとつのきっかけが、その時のボクの感情の中にあったことは間違いないだろう。そんなことぐらいでお茶を濁していこうとしている自分も情けなかった。

ボクは自分の性分が、かなりの楽天主義で、さらに面倒臭いことにはできる限り関わらずに生きていこうとしているタイプであった…ということを、四十になろうかという頃、確信した。

その少し前から、そうなんではあるまいかと薄々認識し始めていたのだが、どうやらそれが正しいのだなあと悟った。

振り返ると、いろいろなことに深い関心をもち、人一倍好奇心と知識とを持とうとし、さらに行動にも移していたと思っていたが、そんな自己満足は何の意味も持っていなかった。

自分が本当に求めていたものは、目には見えないものであるということを忘れていた。

ニンゲンそんなに簡単に目的は果たせない。そんなことは分かっている。しかし、その目的を果たすための思い入れや、努力や、思い切りまでもを忘れてしまっていた自分が情けなかった。

“八ヶ岳”という名前、いや文字の形を見るだけで、今でもボクは気恥ずかしい気持ちになる。ましてや、加藤則芳氏のように、自然体で八ヶ岳を自分のものにし、そしてそこからまた羽ばたいていった人を見ると、もう自分自身の小ささが腹立たしくもなる。

そんなことを振り替えさせられた苦い味の一冊だった、と、また読み返しているのであった……