🖋 壁時計が消えて知った 時間という安心
居間の壁から時計がなくなって、もう三週間ほどが過ぎた。
なんと、ある日突然…、まるで昔の歌のタイトルのようにその時計は落下した。
真っ直ぐに落ちて、文字盤を被っていた透明のガラスを割った。
たぶん、年末の大掃除の時にいい加減に取り付けたのだろう。
落ちたところがテレビの裏側だったので、ガラスが飛び散ることはなかったが、その破壊的な音の響きには正直驚いてしまった。
時計は一辺が30センチの正方形をしていた。
木製フレームの形としては非常にオーソドックスなもので、どこといって特徴があったわけではない。
ただその分、見やすくて時計の本来の機能からすれば、文句のつけようはなかった。
当然のように次の休みには時計を買いに出かけた。
しかし、思うようなものとの出会いはなかった。
そのうち、だんだん見に行くのも億劫になってきて、居間のそこら中に置時計を散在させるようになると、壁の時計はなくても、何となく時間は分かるようになる。
これでいいんじゃないのと、家族たちもしばらくはそう思ったみたいだ。
しかし、何気なく壁を見る癖は、二十年近い我が家の歴史とともに家族全員に植え付けられたもの。
目線の先にあるべき時計がないということに、不便さ以上のものを思い知らされていく。
ちょっと腹が減ったなと目をやる癖。寝ようかと立ち上がりながら目をやる癖。日々の癖は留まることを知らない。
そして、その癖は限りなく身体に染みつき、簡単には抜けきらない。
やはり、日常は時間(時計)とともに動いているのだなあと思った。
そろそろ真面目に、あるべきものを壁に戻さなければならないとも思いはじめた。
これまで壁にあったのは、時計という道具ではなく、時間という大袈裟にいえば“安心”みたいなものだったのかも知れない。
次の休みには、絶対に時計を、いや時間という安心を買いに行こうと思う……
時計の存在はとても重要です。
小さな空間を住まいとしている身にとって、
時計とかテレビとかは、今まさに動いている情報。
腕時計とかスマホとか、時間を教えてくれるものはたくさんありますが、
やはり、まずいつも机の上の置時計に目がいきます。
今思えば、これも安心なんですかね・・・
時計には、思い出がいっぱい詰まっていたりするんですよ。