hisashinakai
笠谷から 葛西へ
ソチ・オリンピック、男子ジャンプ陣の活躍が嬉しかった。
長野大会ではバカ騒ぎしたが、今回の感動は静かに、そしてジワーッとくるものがあった。
ジワーッときたその一番の要因は言うと、リアルタイムで見ていなかったことになる。
しかし、それ以上にレジェンドと呼ばれた葛西紀明と、若手・中堅ジャンパーたちとの深い結びつきが、少しずつ明らかになっていったことが大きかった。
ところで、ボクにとって日本のジャンプと言えば、やはり笠谷幸生の存在から始まる。
札幌オリンピックで金メダルを取る少し前から、笠谷が大好きになっていた。
今はもうなくなってしまったが、当時高校生だったボクは、笠谷の活躍を知らせる新聞記事でスクラップ・ブックを作っていた。
金メダルを取った日の数日後、クラスの当番がまわってきて、ボクは学級日誌?に笠谷を称える短文を綴った。
内容は忘れたが、次の当番だった女の子が、ボクの文章に同感するようなことを書いてくれて嬉しくなったのを覚えている。
今でもジャンプは超短い時間の中での競技だと思うが、当時はもっと短いように感じられた。
今のノーマルヒルのK点が90mくらいであることを考えると、当時70m級ジャンプで、笠谷の84mと79mのジャンプは、それこそアッという間の出来事だった。
今と比べると、ふわりと浮いたというような印象がない。
脇を絞り、両手を前に突き出すようにしてアプローチを滑り降りてくる笠谷。
何となく“日本人らしく表現された気合”が伝わってくる。
そして、踏切からきれいなフォームで空中に飛び出すと、高くというより、すーっと一気に、美しく落ちて行く。
V字飛行ではなく、スキーは揃えられている。
当時のテレマークの深さは今の選手とは比較にならない。
折った膝はほとんどスキーの上にあり、体勢的には、スキーの上にしゃがみ込んでいると言った方が当たっているかも知れない。
テレマークスキーをやる者としての経験から言わせていただくと、とにかくあの膝の折れ方は尋常ではないのだ。
今のようなV字飛行だとテレマークも入れにくいのかも知れないが、笠谷の着地とテレマークはそれこそ“レジェンド級”だった。
笠谷のカッコよさは、クールで照れ屋さんだった一面にもあったとボクは思っている。
スクラップした新聞の中にあった、表彰式のあと、金メダルを無造作にバッグに放り込んで帰路に就いたという記事。
ジャンプという競技は自然相手だからと、優勝にも驕らなかった。
そして、90m級での敗北。風で大きくスキーが乱れた瞬間をカメラがとらえ、翌日の朝刊一面にその写真が載った。
笠谷は片方の腕をくの字に曲げて、顔を隠し、そしてブレーキングゾーンにしゃがみ込んだ。
テレビでその瞬間を見ていたボクにとっても、それはショッキングなシーンだった。
普通に飛べば、楽々2個目の金メダルが手に入った…はずだった。
ボクは自分でも分かるくらいに茫然となり、その時吹いた“風”というものに激しい怒りを感じた。
しかし、笠谷は敗北を風のせいにはしなかった。
1回目風に恵まれて大ジャンプをした(2回目は失敗)、フォルトナという19歳の少年ジャンパーに金メダルが贈られるのを、笠谷は人ごみの中からじっと見つめていた。
ところで、冬のスポーツ競技の中で、ボクは特に複合やジャンプの団体戦が好きだ。
個人競技でありながら、チームとして戦うスタイルに、本来のチームスポーツとは異なるものを感じる。
それは、力量に差がある個人が同じことをしながらチームとして順位を競っていくという点だ。駅伝も似ている。
そして、もう一つ大きなこととして挙げたいのは、戦い終えた後に見せる選手同士のさまざまな交流の姿だ。
喜びだけでなく、悔しさや無念さ、そして互いの健闘…、分かち合うものの大きさにこちらも感動をもらう。
笠谷が優勝した70m級ジャンプでは、誰もが知っている「日の丸飛行隊」という名前が生まれた。
団体戦ではなかったが、表彰台を独占したあの誇らしい光景は、日本というチームがいかに素晴らしい絆で結ばれていたかを物語るものだった。
笠谷・金野・青地といったメダル獲得選手だけでなく、その他の選手、スタッフや関係者、そして応援する人たちが一体化するスポーツの凄さに、感情を控えめに表現してきた日本人自身が驚かされた。
そして時間を経て、無念ではあったがリレハンメルでの団体銀、長野の団体金、今回ソチでの銅と、日本チームは常に世界の中で実績を残していく。
やはり日本ジャンプの礎は札幌までの笠谷個人の活躍にあり、さらにその後の団体戦での実績を考えると、札幌での日本人選手によるメダル独占がもたらしたものだなと思える。
葛西紀明が団体戦終了後に流した涙も、いかにチームとしての日本を、彼が心の中で大切にしてきたかの証だった。
さらに葛西の前を飛んだ三人の“勇者たち”が、それぞれに体を張って果敢な挑戦を見せてくれたことにも、そのことが表れている。
思えば70年代のはじめ、笠谷が本場ヨーロッパを遠征しながら優勝を重ねていくニュースも、当時の日本人にとってはある意味不思議な出来事であっただろう。
そして、アジアの小さな国のスキーチームが、世界で戦うチカラを維持しているという今も、その思いがどこかにあったりする。
最近あまり顔を見ることもなくなった笠谷幸生だが、日本チームの活躍に目を細める表情も見たかった……
いつも読んでくれている青年から、
「日の丸飛行隊のこと知りませんでした…」という話を聞かされた。
今回のオリンピックでも紹介されていたが、
実感として持っているのは、やはり長野の記憶なのだろう。
当時の笠谷幸生は、今の高梨みたいに、連戦連勝でオリンピックに臨んでいた。
どの段階から自分にとってのヒーローになったのかは覚えていないが、
その後、自分が明治大学に進学することになった時も、
笠谷が明大スキー部に所属していたということに親しみをもった。
オリンピックは終わったが、葛西も高梨もW杯参戦のために、また飛び立っていく。
ウインタースポーツの世界には、冬旅を続けていくセンチメンタルな思いもあるが、
戦う選手たちには自分を表現する限られたチャンスなのだ。
夏の白馬で、Tシャツ姿で飛ぶ選手たちに声をかけた時、
彼らの明るさにこちらも爽やかな気分になれたことがある。
何となくだが、夏の緑と青空の中で飛ぶジャンパーたちの姿が、
シーズン(冬)の原点であるような、そんな気がするのだ……