カテゴリー別アーカイブ: スポーツが好きだ編

この正月の日常……

 過ぎてしまえば、やはり慌ただしく時間は流れていたのだと思う。正月とは、だいたいそういうものなのかも知れない。

 元旦の午前中から仕事関係の会合に出かけ、午後の遅い時間に戻り、堅苦しい洋服を脱いで、それから正月らしくあろう…と、酒を飲み始める。

 だが、長続きはしない。酔いを追うようにしてやってきた眠気が、酔いを飲み込んで、目を開けているために必要なエネルギーを抜き取っていく。

 その間、家人は翌日迎える娘たち夫婦への料理づくりでずっとキッチンに居た。

 そして、その翌日。昼過ぎ着の電車で大阪からやって来る次女夫婦を、K駅へと迎えに行った。

 駅周辺は、初売りで大混雑。ちょっと離れた駐車場を利用して、自分の好判断に満足した。

 家に戻ると、地元K市に住む長女夫婦もやって来て、家の中が久しぶりににぎやかになった。

 この二組の夫婦は、去年の春と晩秋に出来たばかりで、俗に言う新婚である。

 ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒… みなよく飲む。さらに、テレビでは箱根駅伝と大学ラグビー準決勝。

 飲み食いとお喋りの間に、それぞれ母校の勝利のための声援が入り、当方は母校ラグビー部の久しぶりの決勝進出に酒の味が急上昇し、当然さらに進んだ……

 そして、気が付くと、三日目の朝であった。

 娘たち夫婦はその日の午後、それぞれの住処へと帰って行った。

 おまけの話は、宴の最中に大学ラグビーの決勝戦に行くことが決まったことである。最近はチケット購入も電車の予約も簡単になった。一月七日、朝の新幹線で東京へ。

 家人と超アクティブ派の長女夫婦が同行し、何年ぶりかの秩父宮ラグビー場に胸が躍った。

 ゲームは一点差の敗戦だったが、セーターの上から紫紺と白のTシャツを着て、久しぶりに校歌を熱唱し、ひたすら大声で叫び、雄叫びも一回。そして、本気のガッツポーズを何回もした。

 四人とも手のひらが充血していた。

 大好きなラグビーの面白さをあらためて認識した一日であり、その夜の丸の内における打ち上げ会も観戦談で盛り上がり、最終の新幹線で帰ってきた。

 正直、これが今年の正月のハイライトだったみたいだ。

 慌ただしく時間は流れていたのは間違いないが、やはり正月とはそういうものでなければならないと痛感したのである……

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

ノーサイドの後も、ゲームの余韻に……

明治ラグビーの復活… 早明戦の復活

2015の早明戦は近年にない白熱した好ゲームだった。

明治ラグビー復活の道筋は、監督・丹羽政彦と、今シーズンから就任したFWコーチ・阮申騎(げん・しんき)が作ったと言えるかもしれない。

コンタクトの強さを前面に出す明治らしい選手がいなくなった…と嘆いていた阮。

しかし、しっかりと新しい明治らしさを見た気がした。

そして、そのことで早明戦の本当の姿を復活させてくれたと思った。

試合終了間際、ゴールライン付近での攻防は、かつての早明戦の定番だった。

ただかつては、FWで執拗に攻める明治に対して必死に守る早稲田というパターン。

しかし今年は、攻める早稲田に守る明治……

 

攻守は入れ変わったが、両チームの懸命な姿勢は変わっていなかった。

かつて国立を満員にした早明戦、その人気を、いや大学ラグビーそのものの人気を失墜させたのは明治だ。

明治が弱くなったからだ。

一年の終わりの早明対決を楽しみにしてきたファンを裏切ってきたのも明治だ。

早稲田の関係者たちから、明治が強くならないとダメだと言われながらも、明治は復活の道を見つけられないでいた。

ようやく前監督(吉田義人)によって陽は差しはじめ、そして、現監督(丹羽政彦)が現実のものにしていく。

40年あまり、最初は国立だったが、その後はほとんどテレビ観戦で応援し続けてきた早明戦。

説明のつかない切迫感と、歓喜と落胆を繰り返す80分間。

勝てば心の底から喜び、負ければ虚しさのどん底へと落とされる。

特に負けた時には、まるで自分の価値観が握りつぶされたような、そんな絶望に似た苦痛が迫ってきた。

そんなことを毎年繰り返してきたのだ。

テレビの前でも、国立のスタンドにいるように立ち上がり、大声を出して突進する選手に檄を飛ばす。

互いのチームカラーがはっきりと違っているからこそ、互いが自分たちのスタイルで勝つことにこだわる姿が美しかった。

これから正月に向けて、明治ラグビーは新しい時代へのチャレンジャーにならなくてはならない。

これまで代表に多くのOB選手の名を連ねてきたように、もう一度明治ラグビーの魂に火をつけてほしい。

これまでの空白の時間を埋めてくれなくてもいい。

これからの時間を楽しませてくれればいい。

今だから言う、はっきり言ってW杯は勝っても負けてもどうでもよかった。

日本のラグビーが世界に羽ばたいても、早明戦がかつてのように白熱し、強いて自分の都合で言えば、明治が早稲田に勝てばそれでよかった。

大学ラグビーらしい必死さ、そして爽快感を久々に味わった12月6日。

来年の早明戦を、かつてのように優勝を争う一戦にしてほしい。

心からそう思っている……

笠谷から 葛西へ

笠谷photo6

 ソチ・オリンピック、男子ジャンプ陣の活躍が嬉しかった。

 長野大会ではバカ騒ぎしたが、今回の感動は静かに、そしてジワーッとくるものがあった。

 ジワーッときたその一番の要因は言うと、リアルタイムで見ていなかったことになる。

 しかし、それ以上にレジェンドと呼ばれた葛西紀明と、若手・中堅ジャンパーたちとの深い結びつきが、少しずつ明らかになっていったことが大きかった。

 ところで、ボクにとって日本のジャンプと言えば、やはり笠谷幸生の存在から始まる。

 札幌オリンピックで金メダルを取る少し前から、笠谷が大好きになっていた。

 今はもうなくなってしまったが、当時高校生だったボクは、笠谷の活躍を知らせる新聞記事でスクラップ・ブックを作っていた。

 金メダルを取った日の数日後、クラスの当番がまわってきて、ボクは学級日誌?に笠谷を称える短文を綴った。

 内容は忘れたが、次の当番だった女の子が、ボクの文章に同感するようなことを書いてくれて嬉しくなったのを覚えている。

 今でもジャンプは超短い時間の中での競技だと思うが、当時はもっと短いように感じられた。

 今のノーマルヒルのK点が90mくらいであることを考えると、当時70m級ジャンプで、笠谷の84mと79mのジャンプは、それこそアッという間の出来事だった。

 今と比べると、ふわりと浮いたというような印象がない。

 脇を絞り、両手を前に突き出すようにしてアプローチを滑り降りてくる笠谷。

 何となく“日本人らしく表現された気合”が伝わってくる。

 そして、踏切からきれいなフォームで空中に飛び出すと、高くというより、すーっと一気に、美しく落ちて行く。

 V字飛行ではなく、スキーは揃えられている。

 当時のテレマークの深さは今の選手とは比較にならない。

 折った膝はほとんどスキーの上にあり、体勢的には、スキーの上にしゃがみ込んでいると言った方が当たっているかも知れない。

 テレマークスキーをやる者としての経験から言わせていただくと、とにかくあの膝の折れ方は尋常ではないのだ。

 今のようなV字飛行だとテレマークも入れにくいのかも知れないが、笠谷の着地とテレマークはそれこそ“レジェンド級”だった。

 笠谷のカッコよさは、クールで照れ屋さんだった一面にもあったとボクは思っている。

 スクラップした新聞の中にあった、表彰式のあと、金メダルを無造作にバッグに放り込んで帰路に就いたという記事。

 ジャンプという競技は自然相手だからと、優勝にも驕らなかった。

 そして、90m級での敗北。風で大きくスキーが乱れた瞬間をカメラがとらえ、翌日の朝刊一面にその写真が載った。

 笠谷は片方の腕をくの字に曲げて、顔を隠し、そしてブレーキングゾーンにしゃがみ込んだ。

 テレビでその瞬間を見ていたボクにとっても、それはショッキングなシーンだった。

 普通に飛べば、楽々2個目の金メダルが手に入った…はずだった。

 ボクは自分でも分かるくらいに茫然となり、その時吹いた“風”というものに激しい怒りを感じた。

 しかし、笠谷は敗北を風のせいにはしなかった。

 1回目風に恵まれて大ジャンプをした(2回目は失敗)、フォルトナという19歳の少年ジャンパーに金メダルが贈られるのを、笠谷は人ごみの中からじっと見つめていた。

 ところで、冬のスポーツ競技の中で、ボクは特に複合やジャンプの団体戦が好きだ。

 個人競技でありながら、チームとして戦うスタイルに、本来のチームスポーツとは異なるものを感じる。

 それは、力量に差がある個人が同じことをしながらチームとして順位を競っていくという点だ。駅伝も似ている。

 そして、もう一つ大きなこととして挙げたいのは、戦い終えた後に見せる選手同士のさまざまな交流の姿だ。

 喜びだけでなく、悔しさや無念さ、そして互いの健闘…、分かち合うものの大きさにこちらも感動をもらう。

 笠谷が優勝した70m級ジャンプでは、誰もが知っている「日の丸飛行隊」という名前が生まれた。

 団体戦ではなかったが、表彰台を独占したあの誇らしい光景は、日本というチームがいかに素晴らしい絆で結ばれていたかを物語るものだった。

 笠谷・金野・青地といったメダル獲得選手だけでなく、その他の選手、スタッフや関係者、そして応援する人たちが一体化するスポーツの凄さに、感情を控えめに表現してきた日本人自身が驚かされた。

皆嬉しかった

 そして時間を経て、無念ではあったがリレハンメルでの団体銀、長野の団体金、今回ソチでの銅と、日本チームは常に世界の中で実績を残していく。

 やはり日本ジャンプの礎は札幌までの笠谷個人の活躍にあり、さらにその後の団体戦での実績を考えると、札幌での日本人選手によるメダル独占がもたらしたものだなと思える。

 葛西紀明が団体戦終了後に流した涙も、いかにチームとしての日本を、彼が心の中で大切にしてきたかの証だった。

 さらに葛西の前を飛んだ三人の“勇者たち”が、それぞれに体を張って果敢な挑戦を見せてくれたことにも、そのことが表れている。

 思えば70年代のはじめ、笠谷が本場ヨーロッパを遠征しながら優勝を重ねていくニュースも、当時の日本人にとってはある意味不思議な出来事であっただろう。

 そして、アジアの小さな国のスキーチームが、世界で戦うチカラを維持しているという今も、その思いがどこかにあったりする。

 最近あまり顔を見ることもなくなった笠谷幸生だが、日本チームの活躍に目を細める表情も見たかった……

バット名人との思い出

久保田さん

 この春、バット作りの名人・久保田五十一さんが現役を退くという。

 2005年の11月8日、岐阜県養老町のMIZUNOバット工場で、久保田さんとお会いしたことが当時のノートに走り書きされていた。

 しかし、それ以上に鮮明な記憶がアタマに残っている。

 早朝に金沢を発ち、約束時間よりもかなり早めに到着していた。

 空には雲ひとつなく、近くの河川敷や広大な平野と丘陵が美しかった。

 一ヶ月後に開館を控えた松井秀喜BBMに、松井選手が使ってきたバットの変遷を紹介しようと企画していた。

 そのための最終打ち合わせが目的だった。松井BBMの仕事というだけでボクは手厚く迎えられ、早々に久保田さんの作業場へと案内された。

 久保田さんに会った瞬間、飾らない性格がそのまま言動に表れる人だと思った。

 名人はボクの目の前で、当時の松井モデルを一本作ってくれた。その作業風景をボクはカメラに収めた。腰をかがめながら、定規を当てて微妙な寸法を調整していく。回転刃から弾き飛ばされる木が、作業場に独特の匂いを放つ。

 ネームの入っていない出来たてバットは、“これがあの松井のバットか?”と思うほどに細く、軽く感じるものだった。

 名人はそのバットをビニールの専用袋に入れて渡してくれた。

 工場を回りながら、バットのことをいろいろな角度から説明してくれる名人は、多くのプロ野球選手たちの特性やクセのようなものを感じ取っているように見える。

 落合モデルのバット、イチローモデルのバット… ずらりと並んだ有名選手たちのバットたちは壮観な印象を醸し出し、何だかとんでもない空気の中にいるように感じさせる。

 名人は、「松井さんは、一年に一度もバットを修正しませんでしたね。不振になっても、バットのせいにしなかったですよ。他の人はよくシーズン中に修正しましたが……。バットの重さの感じ方で、自分の調子を見てるという話もされてましたね…」と話した。

 正午に近づいた頃、名人は松井さんが訪れた時に必ず行ったという近くの食堂へ連れて行ってくれた。

 同じメニューの定食をご馳走してくれ、その席でも松井さんの話を楽しそうに語ってくれた。

 「松井さんが来ると、店に近所の人たちがたくさん集まってくるんです。松井さんは一人一人と握手したり、サインしたりしてましたね。とにかく人柄も素晴らしかったです…」

 そうこうしているうちに、店が少し賑やかになった。入り口の方からこちらを覗き込むような人が数人いる。

 名人が、「松井記念館のプロデューサーさんです」と、その人たちに紹介してくれると、その人たちも松井さんの印象などの話をしてくれた。

 バットを作る名人と、そのバットで一年を野球に打ち込む松井さんとの関係とはどういうものか?

 そんなことも感じ取ってみたいと思ったが、その場では結論らしきものは出ず、ボクはその後の展示プランを作成する際になって初めて、すべては一本のホームランなのではないかと思ったりした。

 ニューヨークデビュー戦で打ったグランドスラムの時の話を思い出したからだ。

 「嬉しかったです。ホッとしましたね…」

 名人の思いのこもった一言だった……

自分たちのスタイルで勝つことのむずかしさ

 ロンドンのオリンピックをとおして、競技としてのスポーツに対するさまざまな思いが再燃してきた気がする。

 惨敗した日本柔道のあり方や、銀メダルを手にした“なでしこジャパン”のゲームスタイルなど、いくつかの現象の中から、スポーツに対してもってきたイメージを再確認することがあった。

 勝てなかった柔道には、当然だが多くの疑問を投げかけられた。

 一方で、なでしこは自国からは称賛されつつ、相手国からはあまりいい評価を得ていなかったりもする。

 たとえば日本に負けたブラジルの監督は、日本チームをチャンピオンに相応しくないといった意味の言葉で表現していた。

 ボクはもともとサッカーに関しては、アンフェアがそのまま当たり前のように通ってしまう、かなりおかしなスポーツだと思っている。

 相手選手のユニフォームを摑んだり、大した衝撃でもないのに、大袈裟に倒れたりする、あのような行為は実にアンフェアでおかしい。

 レフェリーが見ていなければ何でもやる。見えにくければ、オーバーアクションで訴える。

 スポーツの世界に限らず、ああいうことが許されることはめずらしい。

 超国際的とも言えるサッカーだからこそ、それがまた罷り通っているのだろう。

そう言う意味で、その不可思議なスポーツの最強国のひとつであるブラジルチームの監督が、自国のスタイルを正当化し、日本を非難するのは、一方でなるほどなと納得もできるのだ。

 柔道については、発祥国としてのそもそも論が日本にはある。

 しっかりと組んで、一本を取る…。日本柔道は、当然のようにしてそのことを重視する。しかし、それでは勝てなくなった…?

 競技としてのスポーツ、特にオリンピックのような四年に一度しかない大舞台はもちろんのこと、普通に一年に一度開催される大会などにも、多くの選手たちの目標が宿っていて複雑な要素があるのは当然だ。

 ずっと苦しい練習に耐えてきて、簡単に一度の勝負に屈するわけにはいかない使命のようなものもあり、勝つための方法論が重視されていく。

 たとえば……

 大学時代、我々の明治は、常に早稲田と大学ラグビー界のナンバーワンを争っていた。

 毎年12月の第一日曜日に行われる、伝統の「早明戦」は国立を満員にし、チケットを手に入れるのも難しい人気カードになっていた。

 両校の部員たちにとっても、その一戦への思い入れは深く、その試合のために一年間練習してきたといってもいい緊張感があった。

 応援していた学生たちも、OBも学校関係者も皆そうだった。

 明治には、もうすでに故人となった北島忠治という名物監督がいた。

 有名な「前へ」を徹底した名指導者だった。

 明治ラグビーを象徴する、その「前へ」は、ボールを持ったら、ひたすら真っ直ぐゴールラインをめざして進めといったもので、フォワードを中心にした単純明快なラグビーの凄味をボクたちに見せてくれた。

 それに対して、早稲田はバックス中心のチームで、前へというよりはパスによって横へ展開するという、表現としては「華麗な」ラグビーを実践した。

 この両チームが激突するわけだから、勝利はチームカラーが強く現れた方に傾く。

 明治の全盛の頃は体力的に早稲田を圧倒し、試合はいつも明治の攻撃中心に進んでいたような感じだった。

 当時試合は、テレビばかりでなくラジオでも放送されていたが、こんな感じである。

 「ゴールまであと五メートルでの、明治ボールのスクラム。ボールが入った! 明治、押す! 明治、押す! 早稲田、懸命に堪える! 押す、明治! 堪える、早稲田!」

 アナウンサーが何度も同じことを繰り返す。

 明治はスクラムからボールを出して展開すれば、簡単にトライが奪えそうなのに、そうはしない。

 何度も何度もスクラムから、フォワード中心でゴールラインを越えようとしている。

 そして、試合が終わってみると、あれだけ圧倒していた明治だが、僅差の勝利か引き分けか、ひどい時は負けていたりもする。

 しかし、どんな時でも、試合後の北島監督のインタビューはこうだった。

 「選手らは、明治らしいラグビーをやってくれましたわ…」

 応援していたボクたちには、なんとまあ歯痒い言葉だったが、北島監督はいつも勝ったか負けたかではなく、自分たちがやって きたスタイルを、しっかりと表現できたかについてのみ語った。

 柔道で金メダルをとったフランスの選手が、やはり日本には優れた柔道家がいる、柔道は日本だといった意味のことを語っている。

 しかし、競技としての柔道は、今、日本式では通用しないのかもしれない。

 サッカーもそうだが、そのスポーツの発祥国は、基本を示すことはできても、完全な勝利から徐々に遠ざかっていく。

 イングランドは常に上位に入ることはできても、ナンバーワンにはなれない。

 WBCで日本がアメリカに勝つ。攻撃よりも守備。ホームラン一発よりも、シングルヒットにバント、その積み重ねが勝利を導き、日本は二大会連続ナンバーワンになった。

 日本が本場アメリカの野球に勝つために仕掛けてきたものは、まさしく外国の柔道家たちが日本の柔道家たちに仕掛けてくるポイントをとる柔道と同じではないか。

 前述の、あの明治のラグビー精神などは今や理解されにくい。

 ブラジル女子サッカーチームの監督が口にした言葉も、今では情けない響きしか持たない。

 身体の小さい国の選手たちが、大きい国の選手たちに勝つために、さまざまな戦法を考えていくのは当たり前のことでもある。

 正直、なでしこの試合を見ていて、サッカーチームとしての力はすべて相手の方が上のように思えた。

 近い将来、あのデカい図体をしたフランスなどは日本を叩きのめすほどのチームになるのかも知れない。

 しかし、なでしこたちもまた考えていくだろう。何をどうすれば、自分たちは相手よりも一点でも多く取れるかを。

 大袈裟な言い方だが、ボクはスポーツの美学というものも信じる。

 競技スポーツの中で、絶対に勝利を得なければならないという使命は、どこかに歪をつくると思っている。

 甲子園で松井秀喜が五打席連続敬遠された事件があった時も、当時の山下智茂監督は、後年このように語っている。

 相手校である明徳義塾監督との野球観の違いだが、しかし、自分は負けても勝負させる。

 勝負して負けたことによって、投手もまた成長できると。

 特に、松井の前に走者もいない場面での敬遠に、山下前監督は大きな違和感をもったと語っている。

 競技スポーツは、よほど相手が反則でもしないかぎり、相手より多く得点するとか、相手より早くゴールに辿り着くとかが求められるものだ。

 そういう競技スポーツの発祥国のチームとか、チャンピオンになったチームとか、伝統を重んじるチームとか、そういった宿命みたいなものを持ち合わせたチームが、自分たちのシチュエーションをどう維持したり発展させたりするかには、大いに興味がある。

 そして、スポーツの美学を語る上でも、そういった宿命を背負いつつ勝つことも求められたチームのチャレンジを、ずっと見つめていきたいと思う。

 柔道は言うまでもなく、なでしこも、ついでに明治のラグビーも、基本的には「自分たちのスタイル」を大切にするチームである。

 できるならば、その自分たちのスタイルのまま勝利を勝ち取っていけるチームでいてほしい。

 まとまり切らないが、眠い目をこすり、いつも以上にボーっとするアタマを叩きながら、ここまで書いてみた……

松井秀喜から学んだ野球文化

4月15日のメジャーリーグ。プレイする選手たちの背番号が「42」だった。

黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューした日のメモリアルである。

また、21日には、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの100周年記念試合で、Rソックスとヤンキースの選手たちは、背番号のない100年前のユニホームを着てプレーした。

日常の試合の中でも、メジャーリーグには大胆で印象深いシーンが数多く見られる。

野球に対する何かが、そのパフォーマンスに表れている。

ボクはこういうのを『野球文化』と呼んでいる。

もちろん、ボクが言い出した言葉ではない。

しかし、ボクはある時から確信を持って、この言葉を口にするようになった。

そのある時とは…、野球人・松井秀喜と出会った時だ。

 

2005年12月8日、石川県能美市に『松井秀喜ベースボール・ミュージアム』がオープンした。

松井選手がアメリカに渡り、大活躍した二年目のシーズンオフ初冬だ。

ボクはそのミュージアム全体の展示計画を担当し、具体的に展示品や資料を調べ選択し、松井選手の人物史はもちろん、数々のエピソードなども独自に取材して文章化した。

映像のシナリオも書いた。松井選手と所縁のある多くの人たちとも交流した。

滅多に触れることのできない貴重な品々も手にした。

オープニングイベントはもちろん、その後のミュージアムが主催するイベントも企画し、スタッフたちと実行してきた。

そんな数多い貴重な経験の中で感じ取ったのが、野球が醸成してきた文化というものだった。

単純な言葉で言えば、野球文化とは、野球をすることを楽しみ、野球を観ることを楽しむ文化だ。

もっと単純に言うと、打者がホームランを打った時の喜びや、投手が三振を取った時の喜び、ファンがホームランを打った選手を称賛する喜びや、三振を取った投手を称賛する喜びだ。

ファインプレーをした時の喜びも、その選手を称賛する喜びもある。

さらに、野球を観ながら冷たいビールを飲むとか、美味しいハンバーガーを食べるというのもそうであることは言うまでもない。

そして、そういう風にして育まれてきた、もっと強い文化……、たとえば、日本の高校野球に見られる地域などへの思いなども野球文化のひとつだ。

今春の選抜大会、甲子園球場のホームプレート前から発せられたあの選手宣誓の言葉に、心を揺さぶられた人は無数にいたに違いない。

野球をとおして培われ、発せられる思いが、多くの人たちに感動や勇気を与えるということを、あの宣誓があらためて教えてくれた。

偉大な野球文化の結晶なのだ。

 

実は、ボクにはアメリカでメジャーリーグの観戦をした経験がない。

いつかいつかと思いながら、松井選手がNYヤンキースを去ってからは、その思いも薄れてきた。

しかし、松井選手関係のさまざまな、そして生々しい資料や写真や映像などを多く見る機会に恵まれていたから、臨場感のある野球文化を普通の人以上にかなり感受できたと思っている。

展示計画を進めていくうち、ボクは一枚の写真と出会った。

そして、その写真が大好きな一枚になった。

それは、ヤンキースタジアムでホームランを打ち、三塁ベースをまわってホームへと向かう松井選手を捉えた写真だ。

背景にはファンが総立ちになり、松井選手を讃えている姿が写っている。

ほとんどの人たちが拍手をしたり、両腕を突き上げ歓声を上げている。

金髪の若い女性は、口を目いっぱい開けて何かを叫んでいる。

髭のオジサンも、若者も少年も、みなが喜びを精一杯に表している。

しかし、松井選手は目を足元に落とし、その歓声に照れているような、その歓声に戸惑っているような、そんな素振りでホームへと向かっている。

この一枚のショットが、ボクのアタマの中に強く残った。

野球という試合の中で遭遇する期待を込めた緊張感。

チャンスが訪れた時の高まる気持ちが、ホームランを打ってくれたことへの喜びと称賛に変わる。

こんな素朴で爆発的な喜びは、日常の中でも滅多にない。

この場に遭遇した、あるいはテレビで観戦したりした者だけにしか味わえないものだ。

松井選手は下を向いてゆっくりと走っているが、その姿にも観衆はさらにまた違う何かを感じていると思える。

野球そのものを楽しむ自然発生的な喜びの表現。

ファンそれぞれが、それぞれの個性で表現する、それらももちろん野球文化なのだ。

 

ところで、メジャーリーグの試合で見られる七回の「7th inning Stretch」などは、テレビ中継を見て初めて知った。応援スタイルも日本とは全く違う。

野球はまず楽しみながら観戦するというスタンスが明解になっている。

その延長上に、応援というスタイルがあるような感じがする。

スタンディング・オベーションの文化=讃える文化もメジャーには基本的に生きていて、選手への敬意も忘れていない。

野茂英雄やイチロー、そして松井秀喜と続いた日本人メジャーリーガーの活躍を経て、日本のプロ野球に少し違和感を持った人たちも多かったはずだ。

 

しかし、大袈裟な言い方で気恥ずかしいが、ボクにはどうしても伝えていかなければならないと思う野球文化が、もうひとつある。

それは、松井選手にもイチロー選手にも共通することだが、打者がボールを捉えるという感覚的な、そして技術に関する文化だ。

松井選手のことをいろいろと調べていくうちに、ボクは松井選手がアウトコースの投球を強く左に打つという表現に注目していた。

左バッターの場合、アウトコースは軽く当てて流し打ちするというのが、これまでの普通の感覚だったのではないか?

そう思った時、こういう小さな発見が多くの野球少年たちやファンに何かをアピールするような気になった。

松井選手の言葉はメジャーに挑戦し、さらに実感したものだったに違いない。

メジャーデビュー戦で三遊間にタイムリーヒットを打っているが、まさにあのバッティングはそのことの始まりだったような気がする。

そして、MVPをとったあのワールドシリーズ。

DHのない敵地で代打で登場し、レフトへ豪快なホームランを打ったバッティングなどは、その理想形だったような気がしている。

ボクはこのようなこともまた、野球文化の象徴だと思い始めた。

伝統工芸の名工たちが身に付けた技術や気構えと同じものがあると思っている。

将来、プロを目指す少年たち、高校野球の選手たち、特にスラッガーたちには、この松井選手の言葉は新鮮に響くに違いない。

さらに、どういう思いで打席に入り、どういう思いでボールを待ち、どういう思いでバットを振りにいくか…から、日常をどう過ごすかに至るまで、この継承には意味がある。

まだまだ書き足りていないが、すべてのことが野球文化に通じていく。

 

ミュージアムの企画がスタートする時、そのコンセプトを

「松井秀喜という野球人をとおして、野球文化を伝える…」とした。

そのためには、すでに実感していた松井選手のニンゲン的な凄さを、きっちり伝える必要があると思い、人物評伝みたいことに力を注いだ。

著名な方々からも話を聞き、そのことをさらに強く感じていた。

たとえば、松井選手のバットを作り続けていた名人・久保田五十一氏を、岐阜県養老町にあるミズノバット工場に訪ねた時も、よく一緒に行ったという近くの食堂で、久保田氏から松井選手のバットに対する信頼感について聞かされた。

一年間、自分のバットを信じて絶対に途中で手を加えなかったという話には、自分自身の感覚や技術、フォームなどを第一に考えた松井選手の強い意志を感じた。

野球の直接的な関係者ばかりでなく、篠山紀信氏や阿久悠氏、さらに伊集院静氏などが表した松井選手の人物評価も、ボクをさらに後押しした。

メジャーリーグ機構が、松井選手のニンゲン的な魅力を高く評価してくれたことも嬉しく心強かった。

ミュージアム構想に賛同し協力してくれたことは、展示計画に大きなバックボーンとなっている。

現在、ミュージアムで流れている映像などは、メジャーリーグの協力支援なくしては完成しなかったものだ。

 

ミュージアムの企画に関わらせてもらった長い時間は、何もかも夢のように過ぎていったような気がする。

オープンの前夜、松井選手は最終便で帰郷し、そのまま空港からミュージアムに立ち寄った。

あまり表情を変えずに館内を歩いていたが、今から思えば、かなり照れ臭かったのだろう。

そして、翌朝…。北陸の空はまさに冬の到来そのものだった。

取材オファーは、180社を超えていた。

館内でのセレモニーを終え、テープカットのために松井選手が外に出る。

ボクは中からエスコートした。その時だった・・・

不思議なことに雲が切れ、その隙間から太陽の光が流れ出しミュージアムを照らした。

このことは、今でも関わってきたスタッフたちの語り草となっている、“松井ミュージアムの奇跡”だ。

長かったその日のすべてが終わり、ボクは運営に携わってきた多くの関係者たちを前にして礼を言った。

ボクの横には、大きな松井選手がときどき口元を緩ませながら立っていた。

ボクはもちろん、十分に誇らしげだったに違いない。

 

オープン後の最初の休日だったろうか。外にはパトカーも巡回し、最高の入館者数に達した日のことだ。

ボクは、ずっと一人の入館者に注目していた。すぐにかなりの高齢と分かるおばあさんだった。

少し離れながら後方を付いていくと、おばあさんはあるコーナーで立ち止まり、人ごみの中で曲がった背筋をぐっと伸ばした。その姿は凛々しくも見えた。

おばあさんに近寄っていき、大丈夫ですか?と声をかける。

腕章に気が付いたのか、おばあさんが語りかける。

「この子(松井選手)はね、ほんと偉かったんですよねえ…」

おばあさんの視線の先には、スポーツニッポンから贈られた「五打席連続敬遠」を伝える新聞一面のパネルがあった。

大阪から娘さんと来たというおばあさん。娘さんもすでにおばあさんの域にあった。

星稜高校時代の五打席連続敬遠の試合を見てから、松井選手が大好きになり、それ以後、ずっと松井選手に関する新聞記事をスクラップしてきたと言う。

手を添える娘さんも、母はここへ来るのを本当に心待ちにしていたんですと言って笑った。

野球が生んだ物語が、またもうひとつの物語を生む。

その物語こそ、文化なのだ・・・・・・・

こういう仕事を続けてきて、世の中に存在し、人々から愛されてきたものには、すべてに「文化」があるのだと思えるようになった。

逆に言えば、文化がないものは、仮に存在はしていても愛されることはないのだと思うようになった。

奇を衒ったり、無理に衆目を引こうと考える必要は特にない。

それよりも、じっと見つめ深く掘り下げていく過程を大事にする方がいい。

いろいろな機会をいただき、ボクはこういう話を何度もした。松井選手を横にして話したこともある。

今、現在も、関わっている仕事のすべてがそんな思いに支えられている。

そう言えば、最近、野球が面白くないのは、松井秀喜がグラウンドに立っていないからなのだ……