🖋 独りよがりの頃


  ここまで強調するほどでもないが……
☞振り返ると、それなりに偉そうなコトを言っている自分がいる。

 会社にいながら、自分のやり方で他の人より多く働き成果を出す人がいる。ボク自身もついこの前まではその部類に入っていたなと、図々しくも思っている。

 自分なりに働いて結果を出し、そのことによる自信と成長を感じているという、若く、熱く、そして青き時代があった。

 しかし、自から社内にチームをつくり、リーダーとして仕事をするようになると、その状態、つまり自分のやり方だけで長続きさせてはダメだということを感じ始める。

 チーム外のエキスパートたちとコラボすること。元気のいい若手に委ねてみること。全体を見渡して、しっかりとした指示を出すこと。コトが終わったら、皆で打ち上げをやること…など。

 そうしたサイクルを楽しみ、皆が理解してくれると、アシスタント的なスタッフから逆に煽られたりして、新鮮な頼もしさを感じるようにもなっていく。そして、その結果として、価値観や興味などを共有できる人間関係も作れるようになっていったと言っていい。

 しかし、チームで仕事をすることがしっくりといかず、自分のやり方を通すことしか出来ない人もいた。

 成果を、自分の価値観や費やした時間と比例させ、自己評価していく寂しさがそんな人にはあった。さらに、より独善的になっていくのも寂しさの極みに見えていた。

 周囲からの助言や手助けを必要としなくなると、逆に周囲から浮き上がる存在にもなる。どんどん我が道を行ってしまう。

 そして、おかしなことに、自分と同じようにやっていない人たちを軽視したり、時には蔑視したりしていく。

 そこまで来ると、何事にも楽しめないでいる自分の存在が、自分でもいやに思えてくるにちがいない。

 若い頃、自分が否定されたりすることに、どこまで耐えられたか?

 その答は個人によってちがうだろうが、例えば自分では最高だなとか、素晴らしいと確信していた思いやアイデアが、周囲に受け入れられなかった時、そのことに素直に納得できたろうか?

 ボクの場合は、はっきり〝NO〟であり、今振り返れば、まずはそれでいいとも思っている。社会に出て、これまでとはちがう明確な敗北感を受け入れる準備が、その年代では十分に出来ていないからだ。スポーツの試合で負けるのとも、それなりにちがっている。泣いてすっきりしたという単純なことでは済まされない。第三者的理由を探し出したりして勝手に自分を有利にしようともしている。

 そして、どれだけかの時をおいた後、そのようなことが受け入れられるようになっている自分に気が付く。

 どれだけかの時が過ぎていく間に、周囲にいる人やモノやコトなどが、自分の中に何かをもたらしてくれるからだ。言葉であったり、光景や空気感であったり、出来事や物語などが自分の周囲に無数に存在している。

 それは気が付かない何かである可能性が大きい。しっかりと掴みとれない何かであるかもしれない。しかし、確実にそれは生きている。

 どんなに頑張っても、今の自分には乗り越えられない壁があるということを知って、とにかくコーヒーでも飲んで、おしゃべりでもして時を過ごせば、そのうち何かが見えてくるということなのだろうと思う。乗り越えられない壁があることは普通だし……

 だから、ボクは本を読んだり、旅をしていたりしていれば、何かカタチが見えてくると思っていたにちがいない。そして、実際何とかなった…と、図々しくも思っている。もちろん、本も旅も殊の外好きだったけど。


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