心は 密でいい


「感染」と「繋がり」 群れの中の 生命と心……

 新型コロナウィルス感染予防のための自粛が、その程度を変えつつも続いている。少しずつ数値的な改善が見え始め、自粛の締りが緩み始めてもいるが、これから先がどうなるのか、心配のタネは一向に減っていかない。

 グッとズームインしてみると、この自分もまた忌まわしいウィルスにペースを狂わされている。いや、ペースなんてものではなく、もっと言えばニンゲンらしさみたいなものまでが試されているような感覚になり、気分は当然よくない。

 今回のことで、自分が「ヒト」という、地球に生きる生物の一種で、その単なる一個体であったのだということを認識させられた。

 言葉の使い方が正しいかどうか自信はないが、これはある意味新鮮なことでもあった。が、別な意味で、自分の生命の小ささというか、いつ消えてもおかしくない脆弱な生命体(細胞)のもとに生かされているんだ…という認識にも繋がっていった。

 群れを成して生きる動物たちのように、ニンゲンも群れを成して生きている。どう見ても、家族はもちろん、町や村などにいるニンゲンたちが群れを成していることは間違いない。

 都会は孤独だぜ…と言いながら、とてつもない群れの中で窮屈さを楽しむかのようにして生きている、そんな都会人の認識とは何なのか? 余計なお世話に近いことなども思わずアタマに浮かんでくる。

 サバンナのライオンは、群れを成したシマウマなどを襲う。猛禽類も、無数の鳥の群れの中に突っ込んでいき、その中から一羽だけを絞り追い続け獲物にする。こうした群れを成し獲物になる側の動物たちと、今回の騒動の中のニンゲンとが、どこかで結び付いているように思えてきた。

 自分が狙われているということに、群れの中の獲物は最初は気が付かない。気が付くと、なんでオレなんだよと焦るだろうが、それまではまさか自分がとか、そうなったらそうなった時ぐらいしにしか考えていないのだろう。そこもよく似ている。

 しかし、ライオンの餌食になるシマウマの場合と、ウイルスに感染する今回のニンゲンの場合との違いは、シマウマは群れの中の一頭だけだが、ウイルスにやられるニンゲンは群れの中の集団になることだ。もちろんシマウマだってウイルスに感染すれば集団でやられるのは言うまでもない。

 群れを成しているということは、一個一個が繋がっているということでもある。今回「感染」という言葉から学んだこととして、生命とは繋がっているものなんだという認識がある。正直、この「感染」という言葉から「繋がる」という言葉を連想したくはなかったが、生きものとして自覚する上では当然のことだと思った。

 ところで、ニンゲンの世界には心が繋がるという美しい言葉があったが、生命が繋がるという言葉はあまり聞いたことがなかった。そして今思うのは、ニンゲンの世界では生きるということよりも死ぬということの方に、生命の繋がりは強いものを感じさせるということだ。そう思った時、少しさびしい気持ちになってしまった。

 しかし、生きものたちは群れでいることを絶対に捨てない。ずっとそうしてきたように、群れそのものを維持しながら、生命を守る方法をこれから先もずっと考えていく。

 もちろん、ニンゲンもだ。家族があり、学ぶ場があり、働く場があり、遊ぶ場がありと、群れでいることは日常でもある。

 戦争で、相手の生命を奪うことでしか、自分たちの生命を守れないと考えているニンゲンたちも、この機会に改めてくれればいい。自分たちは大きな群れの中にいる。心が繋がっていることはもちろん、生命も繋がっているということを認識しなければならないのだと。そして、それはイコールなのだと。

 そして、さらに、その生命はみなで守っていく、いや守り合っていくべきものなのだということだ。殺し合っている場合ではないのだ。それがニンゲン、いや強いて書き直せば「人間」なのだ。

 そして最後に、生命を守るために働く医療従事者たちや、ワクチンなどの開発研究者たち。コロナ禍によって追い込まれた弱者を、さまざまな形で励まそうと活動している人たちなど。そんな直接間接を問わない熱い行動が湧き上がってくるのは、生命の繋がりのための心の繋がりを、人間はしっかりと知っているということを意味している。

 心はやはり密であっていい………

ところで、ソーシャルディスタンスは、わずか2メートルほど。 心の繋がりを心配するほどの間隔ではない。


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