カテゴリー別アーカイブ: 仕事絡みの話編

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

イーストウッドも ボクもジャズ的だったのだ

 <大それたタイトルに自問しつつ……>

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く姿を、先日初めて見た。

 NHKの、親しみやすくてとてもいい番組でのことだ。アーカイブだから、かなり前の番組だったと思う。そして、彼のピアノは驚くほどの腕前のように見えた。

 後方に、デューイ・レッドマンの息子であるジョシュア・レッドマンなどが立っていて、イーストウッドは長身の体を捻じるようにしながら軽快に鍵盤を叩いていた。

 高校時代、家の近くの店でジャズピアノを弾き、家計を助けていたという。

 そんなエピソードが、イーストウッドをさらに好きにさせた。

 ボクは『荒野の用心棒』で彼のファンになった。細めた目で短く細い葉巻を噛む表情がたまらなかった。まだ小学生だったが、あの表情を真似しようとしていたことは事実だ。

 それから『ダーティ・ハリー』でも、あらためて彼を好きになり、彼のトラッドファッションに強く憧れた。腰を屈めて銃を構える定番ポーズも、裾を萎めたスラックス姿にまず目がいったほどだ。

 

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く。

 そのことと、映画監督としての共通点について彼は語っていた。そして、そのことが自分にも当てはまっているなと感じ嬉しくなった。

 イーストウッドが語っていたのは、映画を作る上で大切にしている「直感性」と「即興性」が、ジャズをやってきたことの影響かもしれないということだった。

 この言葉は、ガツンと胸を突いた。胸を突いてから、いい意味で胸を苦しくした。

 久しぶりに味わう名言だった………

 

 ジャズを聴くようになったのは中学生の頃だ。まわりにはそういう友達はいなかった。

 その後もずっとジャズを聴き、ジャズ的に趣味の幅を広げ、ジャズ的な価値観を軸にして生きてきたように思う。

 自分には他の連中とは異なる感覚みたいなものがあると今も思っているし、どれだけ頑張ってもカンペキな同調など求められないと感じるケースがよくある。

 そして、ジャズ的感性はニンゲン関係やそこから発展していった趣味・嗜好の世界、そして、仕事の世界でも存分に威力を発揮してきたと思う。

 面白い発見もあれば戸惑う場面などもたくさんあったが、それらはボクのそうした感性がもたらしたものではないかと思ったりする。

 そして、趣味の世界ではそれをコントロールできても、仕事の世界では何度もマズかったかな?という場面に遭遇した。

 

 何年か前、あるイベントでパネルディスカッションを任された時だ。

 つまり、よくあるコーディネーター役をやってくれと頼まれたのだが、ボクは一週間前のパネラーたちとの打ち合わせに紙切れ一枚の資料しか持参しなかった。

 そして、堅苦しいネーミングをやめ、「トークセッション」とし、自分の役割も「ナビゲーター」としてくださいと主催者に告げた。

 なんとなく、そんな感じがよかった。そして、いつも通って(入り浸って)いた「香林坊ヨーク」というジャズの店の、奥井進マスターとのやりとりをアタマに描いていた。

 トークを「遠く」と重ね、“ 近くでトーク ”などと表現したりしていた。

 打合せで、全く説明らしきものもないまま、自分はこんなスタンスで進めていくので、皆さんにはその場の雰囲気でお答えいただければ…みたいなことを話した。

 すぐに主催者側からクレームが出た。もう少し詳しい説明をお願いします…などと怪訝そうな顔つきで言われた。

 が、ボクは通常の仕事でパネルディスカッションというものの“つまらなさ”を実感していたこともあり、説明はそれ以上しなかった。

 実はこの役目は私的にオファーがあったもので、ボクはかなり挑戦的でもあった。

 ゲストたちも自分で選んだ金沢のクリエイターたちで、そんな彼らが持っているであろう感性に期待し、本番ではシナリオなどのない臨場感に満ちたトークを求めていた。

 そして、彼らは期待に応えてくれ、本番はそれなりの思いを残してフィナーレを迎えた。

 打ち上げの時、普段あまり褒めてくれることのない某大学教授が、真っ先にビールを注ぎに来てくれた。

 しかし、その時のトークセッションは、今カタチになって残っていたりはしない。

 それはN居というナビゲーターが、たいした地位になかったからに過ぎず、もしそれなりの地位にある人が同じことをやっていたら、活字化されたりして広がっていたかもしれないと思う。

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 あの時のことを振り返ると、自分はジャズ的だったなあ…とはっきりと意識する。

 そして、今も当然変わりようはないのだが、そういう感覚をいつも好意的に受け入れてきたという認識もない。

 いや、逆に人生の重要なポイントみたいなところでは、その感覚によって損をしていたかもしれない。先を見て生きていくということが得意ではなかった。

 しかし、それがジャズ的だった…なのだ。

 エリントンが、レコーディングのやり直しを迫るコルトレーンに、ジャズは即興だから…と諭したというエピソードがすべてを物語っている。

 ボクはずっとジャズ的だ。今は亡きヨークの奥井さんにつけたキャッチ……「ジャズ人生からジャズ的人生へ」の意味を、今まさに自分に当てはめている。

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾いていたこと。

 直感的に、即興的に…… 何の意味もない創作話をこしらえたり、今こうして、自分のなんでもない周辺話を綴っているのも、まさにジャズ的なのだと思う…………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など

 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 

白山麓~ 尾口の想い出話

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白山麓の最奥部・旧白峰村の一つ手前にあったのが、旧尾口村である。

季節がはっきり夏から秋へと切り替わった頃、久しぶりに出かけてきた。

尾口は、白山麓の1町5村の中でいちばん思い入れが強かった地域だったかもしれない。

仕事でお付き合いさせていただいた人たちへの思いも、それなりに深かったような気がする。

白山麓の1町5村では最も小さな自治体であり、そのことがどこかに親しみみたいなものを感じさせていたのだろう。

頻繁に出向いていた頃の村の人口は、800人ほどだったのではないだろうか。

しかし、接点を持った人たちは皆、高い地域感覚とやさしさを持ち合わせていた。

そんなひとりが、Mさんだ。

今は道の駅になっている、瀬女(せな)の施設の仕事がお付き合いの始まりだった。

地元の伝統工芸であった桧細工で、大きなオブジェを天井から吊るしたいという提案をした。

それを喜んでくれたのが、当時村の収入役であったMさんで、すぐに協力していただけることになった。

Mさんが連れて行ってくれたのは、地元の名人だった深瀬地区のKさんという方のお宅で、お会いした早々そこで意外な事実が判明した。

実はKさんはその何年か前まで同じ会社で働いていた女性社員のお母さんだったのだ。

そんなこともあってか、Kさんはいろいろと無理を聞いてくれたが、最後まで制作費用を受け取ってはくれなかった。

それまで作ったことがないというとんでもない大きな作品だったにも関わらず、しかも打合せにお邪魔するたびに、養殖されていたイワナの稚魚の甘露煮(だったと思う)をどんぶりに一杯いただいていたにも関わらず…だ。

それにしても、あれはとても美味だった。

一緒に行った若いデザイナーたちがどんどん手を伸ばしていくのですぐになくなるのだが、打合せをしながら指をなめていたあの時のあの味は忘れられない。

Kさんの家は白峰に通じる国道沿い、手取川を見下ろす谷間の傾斜地にあった。

かつての深瀬の村は、道を下った川の底に眠っている。

昭和53年(1979)に完成した手取川ダムによって水没していた。

当時、村には50戸あまり、200~300人ほどが暮らしていたというが、多くの人たちが旧鶴来町へと下りている。

残ったのは5戸だけらしく、Kさんの家もこの土地を離れなかった。

イワナの養殖と関係があったのかは分からないが、同じように水没した白峰の桑島地区では、地区ごと高台に移り住んだような印象があり、深瀬はその点やはりどこか寂しい感じが拭い去れなかった。

制作途中を広い居間で何度か見せていただいた。

夏だったと思うが、涼しい風が吹き抜けていたような記憶がある。

そして、素晴らしい作品が出来上がっていったのだ。

それはどこかに力強さや逞しさみたいなものを匂わせ、普段はやさしい表情のKさんが作り出しているということを忘れさせた。

Kさんの畳の上に広げた作品を見る表情が印象的だった。

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桧細工のオブジェが吊るされたその施設では、地元の産物が並べられ売られた。

二階は狭い空間だったが、地元出身の画家の作品を展示した。

そして、仕事はとにかく楽しかった。

現地にいる間には近くにカモシカが現れたり、サルの集団が木立を揺すったりして野性味にあふれた毎日が続いた。

工事で掘り出された岩を、知り合いだった業者の親方に頼んで家まで運んでもらったりもした。

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尾口村との付き合いは長く続けさせてもらった。

白山麓全体を一つの観光エリアとして建国された「白山連峰合衆国」のサイン計画にも関わっていたおかげで、とにかく頻繁に山域に入ることが多かったのだ。

自然はもちろん、季節ごとに空気感が変わっていく小さな集落の情景を見るのも好きだった。

すでに金沢市内に日常の住まいを移しておられたMさんが、実家があるという尾添という地区の話をしてくれたことがあった。

そして、それからしばらくしたある日、その尾添にいた。

真夏の強い日差しが地区の中の坂道を照らしていた。

Mさんの言葉どおり、本当に静かだった。

誰一人ともすれ違ったりはしなかった。

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今回も尾添でクルマを止め、ぶらぶらと地区の中を歩いてきた。

秋らしい(?)花が咲き、栗が道端に落ちていた。

実がしっかり入っているものもあり、そのまま拾っていってもいいのだろうかと思ったりしたが、さすがにそこまではしなかった。

とちの実が干されてあったり、野菜を洗うための水道(地下水だろう)が出しっ放しになっていたりと、生活の匂いがある。

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下った先にある神社には、終わったばかりの祭りの残り香も漂っていた。

せせらぎの音が聞こえている。

この辺りも、人形浄瑠璃「でくのまい」の芝居小屋がある東二口、さらに女原(おなはら)なども、山村らしい独特の空気感をもつ。

相当前だが、生暖かい強風が吹き荒れるこのあたりの道で、黒い大きなヘビを見たことを思い出した。

木々の枝が揺れ、葉っぱが舞い、草が波打っていた。

その中を緩く動いていくヘビの表面が、異様に渇いているように見えたことも思い出した。

夜には台風が通過するという日の午後だった。

自分には、山里などという言葉に対して異常なほどに反応するセンサーが備わっていると、ずっと思っている。

最近さらにその感度が高くなったような気もしている。

旧尾口村の中の小さな情景は、まさにそんな自分にとってのモチーフみたいな存在となっているのかもしれない。

 

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ねじめ正一氏と玉谷長武クン

ユリイカ

1997年4月発行の『ユリイカ』。

161ページから169ページにかけて綴られた、ねじめ正一氏渾身(だと思う)のエッセイに心が撃たれた。

喫茶店でしか原稿が書けない氏が、喫茶店のトイレに「大」のために入るが、固体を出そうとして意図せず大きな音を伴う気体を出してしまったという焦りが、リアルに綴られていた。

音が出た後に期せずして起きた店内での笑い。

自分(の尻)が発した音と、その笑いの相関について悩む筆者……

喫茶店

このエッセイで、さらにねじめ氏が大好きになったボクは、1999年の金沢市観光協会50周年のイベントに氏を呼び、金沢市民芸術村のドラマ工房でトークショーをやっていただいた。

紡績工場を再利用した市民芸術村ドラマ工房は、特有の構造と空気感を持ち、会場入りしたばかりの氏が、「いい場所ですねえ」と言われたのを覚えている。

氏はそこで、商店街の魅力はさつま揚げの美味さで決まるとか、長嶋茂雄さんの職業は長嶋茂雄だとか、ひたすらねじめ節を語り、そして、創作中の長い詩を東京からFAXで送らせ、『詩のボクシング』風に即興で読んでくれたりした。

ボクがステージに用意したのは、かつての小学校の教室にあった小さな机と牛乳瓶に入れた一本の花だけ。

工房の道具部屋を見回し、ボクも発作的にそれに決めた。

知り合いも大勢来てくれて、なかなかいい企画だったと思う………

 

このことを今語りたいのは、あの時ボクの机の上にこの『ユリイカ』を置いていったある後輩の命日月が2月であったからだ。

玉谷長武(たまたにおさむ)という、奥能登門前町出身のナイスガイは、ボクに色々と余計なお世話的言葉を発しながら、27歳という若さでこの世を去った………

彼の稀有な存在を綴った拙文を、必ずこの時季に読み返す。

今でも、彼がもし生きていたら、自分の人生も途中から何らかの形で変わったのではないかと思ったりする。

それくらいに、彼が好きだった………

 

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

金沢文芸館~五木寛之文庫の仕事記

正面

金沢市尾張町にある「金沢文芸館」がこの11月で10年を迎えていた。

もっと歳月が過ぎているような感じだったのだが、意外だった。

そして、10年を迎えたすぐあと、数年ぶりにお邪魔させてもらっている。

館の建物は昭和4年(1929)に建設されたもので、かつては銀行だった。

平成17年(2005)に文芸館になるが、その前の年に国の有形文化財に登録されている。

工事に入る前に中を見せてもらったが、まるで映画のセットのようで面白かった。

特に2階のフロアから、階下のかつての店内を見下ろした時、なぜか西部劇に出て来る酒場を思い出した。

3階の窓からは金沢の素朴な街並み風景も見え、建物の存在自体にストーリーのようなものを感じたことを覚えている。

 

金沢文芸館での主たる仕事は、2階にある「金沢五木寛之文庫」の展示計画だった。

3階の「泉鏡花文学賞」のコーナーも含まれていたが、はっきり言って2階に比べれば“おまけ”に近かった。

この仕事も企画競争で勝ち取ったものだが、実を言うと、この仕事を他人に渡すようでは「おしまい」だと思っていた。

金沢に五木寛之に関する展示空間をつくるという話を聞いた時から、ボクは激しいプレッシャーに襲われた。

と言うより、自から自分にプレッシャーをかけていたように思う。

それは何と言っても、自分自身がかつて大の五木ファンであったからだ。

初期(自分が20代だった頃に読んだ)の小説やエッセイは、出た本すべて読んでいたと言っていい。

特に学生時代、東京で読む金沢の話などのエッセイは何とも言えずセンチメンタルで、ボクの中の金沢に対する印象に別な一面を作っていったと思う。

犀星の金沢世界も読み込んだが、時代も違い、五木氏のそれはまさに、“現代の、少し気だるい金沢”だった。

文芸館パンフ

そして、五木氏との接点で言えば、何よりも、自分があの内灘のニンゲンであるということを上げねばならない。

ボクは初期の代表作である『内灘夫人』の舞台となった、石川県河北郡内灘で生まれ育ったニンゲンだ

早稲田の学生だった五木氏が、初めて内灘の砂丘に立ったのはボクが生まれる2年ほど前。

五木氏は何かの中で、自分と内灘の関係を強く意識していることを書かれていた。

実は金沢文芸館の7年前、その内灘町で開催された「第1回内灘砂丘フェスティバル」(現在も継続)で、初めて五木氏に関わる仕事をした。

当時、内灘町では文学館建設の計画があり、その調査研究の仕事に関わっていた。

そして、その一環として文学に関するイベント事業の企画を上げ、その第1回目のゲストに五木氏を呼ぼうとしたのである。

ただ、「五木寛之論楽会」という名でそのイベントは開催されたが、正直言って全く関われる余地はなかった。

五木氏がすべてご自身で仕込まれた内容だったからだ。

唯一、ポスターとチラシの制作だけが全体予算の一部を削っていただいて我々にもたらされたに過ぎない。

その時の自分の企画はと言うと、町の文化会館を五木寛之一色にするというものだった。

五木氏のプロフィールを多面的に紹介し、内灘と五木氏との関係を広く知ってもらう最高の機会と位置付けた。

しかし、五木氏からあっさりとその企画は不採用とされた。

横浜、福岡、金沢(順番は忘れた)以外でこのような企画はやれないということだったが、それには素直に頷くしかなかった。

イベント内の冒頭のミニ講演会で、内灘との関わりについて五木氏自身の言葉で語っていただけたらと提案したことも、全くそうはならなかったと記憶している。

もちろん、天下の大作家にお願いをすること自体が無謀だったのだと反省もした。

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そんなことがあってからの、金沢文芸館だった。

企画提案の説明(プレゼン)には自信をもって臨んだ。

いつものように作品等よりも人物周辺を紹介するというスタンスを選び、手応えを十分に感じていた。

そして、採用の知らせを受けてから、五木氏との顔合わせと打ち合わせが決まった。

夜の品川プリンスホテル。

地下喫茶室のテーブルで、ボクは五木氏の真向かいにいた。

横には、ホテルで合流した金沢市の担当者と上司である課長さんが座っていた。

しかし、名刺交換は済ませたが、五木氏がマネジャー?の方とスケジュールなどの確認を行い、なかなか本題には入れない。

人気作家とはこういうものなんだと、ボクはその時漠然と思っていた。

やや長い時間が過ぎたあと、打ち合わせが始まった。

最初は企画の説明、そして、途中からは五木氏がご自身の考えを語り始め、こちらがその話の聞き手となっていく……

その時、ボクはあるモノをじっと見つめていた。

それは目の前で五木氏がメモを記す、ちょっと大きめなコースターだった。

万年筆の太いペン先で撫でるように記された“五木文字”が、ひっくり返されたコースターの上で踊っていた。

これは絶対いただいて帰ろう……

聞き覚えのあるあの声を聞き取り、自分のノートにメモをしながら、ボクはそのコースターの居場所をずっと追っていたのだ。

しかし、結論から言うと、このコースターは手に入らなかった。

打合せが本調子になってきた頃、ウエイトレスさんがやって来て、テーブルの上を綺麗にしていったのだ。

その時、ボクは資料か何かを出そうとして、床に置いたバッグの中を覗きこんでいた。

しかも、なかなか目当てのものを見つけられないでいた。

そして、気が付いた時には、すでにテーブルはすっきり……

時間にすれば3,40分の打合せであったが、五木氏の静かでやさしい語り口に終始リラックスしていられた。

今度は金沢でと言われ、テーブルの資料などを片付け終えた時だ。

思い切って五木氏に告げた。

「先生、私、内灘生まれの内灘育ちなんです」

最後に、この言葉を伝えようとずっと考えてきた。

特にそのこととこの仕事とが強くつながるわけではなかったが、とにかくボクは少し前のめりになりながらそう言った。

「え、そりゃあ、凄い人と一緒にやることになったなあ」

五木氏は少し照れたように笑った。

玄関まわり

それから数日後、新神戸駅前にあるアンチークの店にいた。

広い店内で、シンプルな椅子たちを見つめていた。

これらは採用されなかったが、当初、五木氏から聞かされていた展示室のイメージの椅子に近かった。

それからまたしばらくしたある日、東京・丸善丸の内店にもいた。

万年筆など執筆道具のディスプレイ方法を見るのが目的であった。

愛用した筆記用具類をどのように見せるかで、五木氏のお気に入りだった丸善のやり方を参考にさせてもらった。

現在設置されている展示什器のうち、いくつかは丸善からヒントを得ている。

玄関

五木氏のかなり細部にまでおよぶ指示の下、展示室のデザインが固まる頃、2階フロアだけとして「金沢五木寛之文庫」という名が付けられるということに、何か特別なものを感じた。

平凡だが、らしくて…いいなと思った。

特に「文庫」という二文字に愛着が湧いた。

そして、内装工事が終わると展示品が送り込まれ、それらは少しずつだが空間の構成に彩りを添えていった。

特に見覚えのある本の装丁やさまざまな写真などが気持ちを高ぶらせた。

最初の構想からはかなり変わってしまったが、ああ、いい仕事と出会えたなあと、柄にもそんなことを思ったりもした。

側面

2005年11月23日、オープン当日のことを書こう。

セレモニーは1階の小さなホールで、たしか昼の12時から挙行されることになっていたと思う。

狭い空間にそれなりの人たちが揃い、開始の時間を待っていた。

今でもはっきりと覚えている。

腕時計を見ると、セレモニーまであと10分ほどしかなかった。

しかし、五木氏はまだ2階にいて、自筆原稿のレイアウトなどについてずっと思案されている。

それまでにも何度も位置を変えたりしながら時間を要してきたが、もう残り時間はなく、さすがに階下から「先生、お時間ですので」の声がかかっていた。

「よし、これでいこうか」

最後の指示を確認し、スタッフたちが原稿を並べ直し、ショーケースの扉を閉じた。

そして、関係者たちがホッとした顔つきで佇む中、五木氏は狭い階段を下りて行った。

今でも、個人的には展示室自体、少し上品過ぎるような感じがある。

それは自分にとっての五木寛之像が、若い頃のイメージに沿っているからだ。

指示を受け、アンチークの家具などを探しに行った時には、そんな五木氏のイメージが自分の抱いていたものと合っていたように感じていたが、そうしたものは使用されず、実際に出来上がった展示空間はかなりピカピカしていている。

今から振り返れば、なぜか、そのあたりのことにずっと悩まされ続けた、むずかしい仕事だったようにも思う。

特にデザイナーたちは大変だっただろう。

そして、それ以前から関わり、同時進行していた別物件との両立で苦心した仕事だった。

恥ずかしながら、ボクはその五年後に内灘を舞台にした中途半端な物語~『ゴンゲン森と海と砂とを少年たちのものがたり』を本にした。

その本を出そうと決めた背景に、品川プリンスホテルでの五木氏との時間があったと、その本のあとがきで書いた。

久しぶりに文芸館にお邪魔したが、今更名乗るまでもなく、昔の一五木ファンとしてぶらぶらしてきた。

仕事は今でもスタッフの皆が、しっかりと繋いでくれている。

それにしても、まだ10年しか過ぎていない出来事だったのだ………

 

 

母の笠を吊るした足軽屋敷

足軽1

金沢長町の大野庄用水沿いに、二棟の足軽住宅がひっそりと佇んでいる。

二つを合わせて「金沢市足軽資料館」という。

1997年現在地へ移転され、足軽たちの生活や仕事などを紹介する展示計画をさせていただいた。

笠

今も玄関に吊り下げられている古い笠は、当時母が畑作業などで実際に使っていたものだ。

時代考証などというむずかしい話を通さないまま、生活感を出すための演出として笠を吊るした。

ちなみに横にある蓑については記憶がない。

母は、何も言わずに自分の笠を譲ってくれた。

しかし、後日代わりにとちょっとおしゃれな麦藁帽子を買って行ったが、結局一度もその帽子を被った母の姿を見ることはなかった。

老いた母にはやはり派手だったのだろうかと思った。

そして、何だか申し訳ない気持ちになったまま、それからしばらくして母は畑にも出られない身体となってしまった………

 

ところで、加賀藩の足軽たちは庭付きの一軒家に住んでいて、城下にはいくつかの足軽町が形成されていた。

庭があったのは野菜や果物などの食料を自給するためだ。

展示されている二棟は、清水家と高西家という。

特に屋敷道明先生と調査に出かけた清水家では、刀箪笥が現代まで使われていたり、古い証文などが見つかったりと楽しい思い出がある。

清水家の方は実際に住まわれていて、その分、資料が残されていたのだろう。

高西家からは展示資料らしきものは出てなく、展示は加賀藩の足軽に関する解説が主になった。

納戸

屋敷先生から教えていただいた足軽たちの日常は、まさに生活感が生々しいくらいに伝わってきて興味深かった。

内職などで何とか家計をやりくりしながらも、家族寄り添い平和な毎日を過ごしていた様子が想像できた。

納戸1

参考にと新潟県新発田市に残されていた足軽の住まいを見に行ったが、それはまさに長屋であり、加賀藩の足軽たちの境遇がいかに恵まれていたのかを知った。

そして、さらに驚いたのは、戦後の住宅がこの足軽屋敷の間取りなどを参考に造られたといった話だった。

たしかにオープン前日、周辺住民に公開された時、何人かの見学の方が「昔のうちもこんなんやったねえ」と語り合っていた。

納戸(なんど)などの部屋の呼び方も懐かしく、自分自身でも子供の頃の生活空間の温もりのようなものが蘇ってくるような気がしていた。

この後、近所の長屋門が残る高田家の仕事も続いた。

そして、長町の武家文化紹介に少しだけだが貢献できたような、そんな錯覚が今も続いているのだ………………

メモ

金沢城・江戸末期のビッグイベントと寺島蔵人のこと

寺島蔵人D

今から10年以上も前、毎年6月に開催される金沢最大の祭りの、その仕組み全般を見直すという仕事に3年間関わっていたことがある。

ほぼ無関心であったその祭りについて考えていくことは、いろいろな意味でかなりの苦痛を伴った。

山のようにある課題の中で、武者行列の行程や構成を変えて、最終的に城の中へ、しかもパフォーマンスを交えながらスムースに入れることが最大の難題だった。

それは苦労した甲斐もあって何とかなったが、ボクはさらに城の中を祭りのシンボルゾーン的な場所にすることも重要課題としていた。

同時期に、金沢城公園も完成していたから十分にその必然性もあった。

行列が城に入るというのは史実によって裏打ちされていて、祭りでも実際に「入城行列」とネーミングされていたのだ。

が、城内行事は何となく広場があるから、そうするのがいいだろうくらいの話で進んでいた。

それで特に問題があったわけではないが、自分としてはちゃんとした根拠(史実)が欲しかった。

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ある日、玉川図書館の近世史料館で、タイトル写真にある本の著者である長山直治先生に偶然お会いした。

先生はその頃、わざわざ定時制高校の教員に転向し、昼間は地元の歴史調査研究に没頭されていたのだ。

ボクはひさしぶりにお会いした先生に相談した。

実は先生は高校三年の時の担任だ。

恩師であり、歴史の面白さを教えてくれた人だ。

そんな話なら任せておきなさい……

そうは言わなかったが、先生は昔から変わらない眼鏡の奥の垂れ下がった目にチカラを込め、ボクを見た。

そして数日後あらためてお会いした時、この本の中に紹介されている、藩政末期の金沢城内における能の開催に関する話を聞かせてくれた。

それは驚きと同時に、しめたと思わせる内容のものだった。

文化8年(1811)、12代藩主・斉広(なりなが)が催した能の話だ。

その時の能は金沢城二の丸の再建と、斉広の家督相続と入国の祝いとして挙行された。

むずかしい話は省略するが、11日にわたり、藩士や宝円寺、天徳院の僧侶など、さらになんと庶民も白洲に招かれている。

その数、藩士・寺方で約2500人。白洲に造られた仮屋から見物した町方庶民は、ほぼ1万人だったという。

前者には料理が、後者にも赤飯や酒が振る舞われたらしい。

そして、この能のために出仕した徒歩や足軽たちも万単位の数となり、役者とともにその人たちにも賄が出ているとある。

これがなナカイ、かつて金沢で行われた最大のイベントやろな…と、先生は得意そうに、そして軽く言われた。

それ以前にも、能をこよなく愛した藩主たちによって、かなり盛大に開かれていたという。

ここまで話を聞いて、さすが金沢だなと思う前に、さすが長山先生だなとボクは思った。

いつも熱っぽく歴史を語っていた先生からこういう話が聞けたことも、また嬉しかった。

金沢と言えば、やはり能なんだわ……

そうなんですね……

ボクはかなり感動し、その後最終的にまとめた提言の中にも、この話を引用した。

ただ、かなりチカラを込めたつもりだったが、祭りの人気行事としての「薪能」は、特にそんな歴史的背景などどうでもよかったかのように、金沢城内で“普通”に開催された。

金沢城内での初回だけは、はるか後方からぼんやりと見た記憶があるが、それ以降は見ていない。

まだ仕事の真っ只中にいた頃、旧中央公園の舞台を特等席から見させていただいたことがある。

こっそりと蔭から見ていたら主催者の偉い方に見つけられて、テントの中へと入れられたのだ。

藩政時代で言えば、藩士の席から見ていたことになるのかも知れない。

ところで、この本の主題である「寺島蔵人(くらんど)」という藩士は、前田斉広の時代に側近として仕えたが、民を思うあまり藩政批判をし、能登島に流刑になった人だ。

流されて半年もしないうちに61歳で病死した。もちろん能登島でだ。

寺島門

大手町の静かな屋敷の佇まいが今は観光名所になっているが、かつては一本裏道の住民ですらその存在を知らず、観光客からクレームを聞いたこともある。

表通りの和菓子屋さんの二階から、鬱蒼とした庭木を見ることができるが、それもあまり知られていないようだ。

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藩政時代の金沢の祭りの取材から、長山先生と偶然再会し、金沢での能のポジションをあらためて知り、先生が寺島蔵人を研究されていることを知った。

祭りに関わった中で、この本との出会いがいちばんの出来事だったように今思ったりもする。

先日、何年ぶりかで寺島蔵人邸に入ったが、スタッフの方々が丁寧に対応されていて気持ちがよかった。

相変わらずの余計なお世話だが、少なくとも、長山先生の本から想像する寺島蔵人という人には大いに興味が湧く。

一、二年前に見た『蜩(ひぐらし)の記』という映画にとても感動したが、何となくああいう物語のイメージに近いものを感じたりもする。

せっかく屋敷も残っているのだから、もう少し取り上げられてもいい。

ところで、先生はお元気だろうか。

なかなか行けないが、たまに近世史料館に顔を出してみるとお会いできるかもしれない………

寺島塀寺島邸1L

加賀大介さんの写真

歌碑

100年目を迎えたという夏の甲子園大会が終わった。

多くの人たちが語っていたように、今年の大会は見応えのあるゲームが多かった。

先入観で考えがちな地域差のようなものが、今年の大会ではなくなっていたように思う。

かつての強豪校が、あれれと思うような学校(しかも公立校)に敗れていくなど、もうそういった感覚で高校野球は語れなくなったようだ。

もちろん野球留学が増えた影響も大であるが、野球そのものの質が高くなったことによる楽しみも大きくなったと思う。

石川で高校野球と言えば、星稜である。

その中でも特筆されるのは、やはり松井秀喜さんの存在だろう。

ところで、その松井秀喜さんのベースボール・ミュージアムも今年の12月で10年になる。

松井さん自身の甲子園物語は今更書くまでもないだろうが、ミュージアムの展示ストーリーを考えていく中で、特に高校編において強く残しておこうと思ったことがひとつあった。

それは夏の甲子園大会の大会歌『栄冠は君に輝く』の作詞者のことだ。

もうすでに多くの人に知られている、加賀大介さんである。

松井秀喜さんが育った石川県根上町(現能美市)の根上球場には、『栄冠は君に輝く』の歌碑が建つ。

歌碑全体

高校時代、松井さんはその球場の10周年記念試合で、愛工大名電の投手から2本のホームランを放っていた。

特に2本目はサヨナラホームランで、左中間側にあるスコアボードの上を鋭く越えていく特大ホームランだったらしい。

バックスクリーン

バックネット裏にはプロのスカウトたちが陣取っており、その豪快なホームランによって、松井秀喜の評価は固まったという話も聞いた。

ボクはその話を聞いたと同時に、松井秀喜さんと加賀大介さんとの間に目に見えない何かがあったのでないかという思いに襲われた。

もしかしたら、片足を失い野球選手としての道を断念した加賀さんの野球への思いが、松井秀喜さんにあのホームランを打たせたのかも知れないと思った。

同じ町で、しかも加賀さんの家は、松井秀喜さんも通った小学校の横にあった。

人一倍体が大きかった秀喜少年を、加賀さんはずっと空の上から見つめ続けていたのかも知れない。

そして、プロの選手としての道を決定づけるあのホームランを、ふるさとのあの球場で打たせたのかも知れなかった。

幸いにも、加賀さんの妻・道子さんは松井秀喜の大ファンであった。

同じ町内から出たヒーロー・松井秀喜のファンでなくして、加賀大介の妻は務まらないといった、気概付きのファンみたかった。

ある日、ボクはミュージアムで加賀さんと松井さんとの物語を紹介するため、加賀家を訪ねた。

すでにミュージアム資料の中にあった写真で道子さんのお顔は分かっていたが、初対面の時、その若々しさにびっくりした。

活き活きと、あの歌の詞のように生きてきた女性のカッコよさみたいなものを感じた。

あの加賀大介の妻なんだからと、気丈に生きる使命も持ち合わせていたのかも知れないと思った。

そして、何よりも道子さんはやさしさや知的さも兼ね備えた素敵な女性だった。

当時、ボクはこの仕事の上では、どこへ行ってもある程度の歓迎を受けていた。

多くの著名人との接点を導いてくれていた。

加賀大介さんの妻・道子さんは、とてもさり気なくボクを迎え入れてくれた。

夫と松井秀喜との関係をそんな風に捉えてくれたということを、とても喜んでくれているようだった。

ボクはいろいろなお話をさせていただきながら、最後に大介さんの作詞をされた当時の写真がないかと尋ねてみた。

道子さんは、自分も見たことはないと言われた。

そういうふうに言われても、はいそうですかと引き下がれないのが、こういう仕事をしてきたニンゲンの性分だ。

ボクは、よくあるパターンのひとつである仏壇の中のことを思った。

思い切って、仏壇の抽斗(ひきだし)とか探してみてもいいでしょうかと尋ねると、道子さんは快諾してくれた。

そして、その数分後になんと抽斗の中の一番下だったかに仕舞われてあった、若い頃の大介さんの写真を見つけたのだ。

加賀さん

 

その写真は、お経の本のようなものに挟んであった。

道子さんはとても喜んでくれた。

それまでの時間の中で見せてくれた写真は、それなりに年齢を重ねた頃のものばかりで、道子さんご自身も、こういう写真しか残っていないんですと話しておられたのだ。

自分で撮った球場の写真に、加賀さんの写真を組み合わせ、星稜高校の山下智茂前監督のもとでじっくり取材させていただいた、あのホームランにまつわる話を短い文章にまとめた。

そして、一枚のパネルが出来上がった。

パネル1

あの5打席連続敬遠のコーナーにある阿久悠氏の詩と共に、ボクはなぜかそのパネルの存在を自身で誇らしげに思った。

その後の伊集院静氏なども含め、松井秀喜という素晴らしい野球人にまつわる文人たちの存在が何か特別なものを意味していると思えたからだ。

今年の夏の大会では、特にこの大会歌の話が多く取り上げられていたような気がする。

加賀さんと大会歌の本も出たらしかった。

そんな話を聞くたびに、道子さんのことが頭に浮かんだ。

最近になって、ミュージアム館長からも中居さんの大切なエピソードだし、その写真を見つけたということがとにかく凄いことだったという言葉もいただいた。

いつかまた、加賀道子さんを訪ねてみたいと思っているが、10年という節目だから、それも許してもらえるかも知れない。

左中間から

……

小林輝冶先生の想い出

小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……

西茶屋資料館の仕事‐2 茶屋の風情

座敷

西茶屋資料館は小さな展示館だ。

自分が関わった展示施設の中では最も小さな部類に入る。

ところで、茶屋街は「にし茶屋」なのに、資料館ではなぜか「西茶屋」と表記する。

「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」という場合、このひらがな表記のもつ趣や空気感みたいなものが伝わるが、資料館の名前には敢えて漢字を使っている。

そうなった背景を今思い出そうとしているが、カンペキに忘れた。

一階の話は-1で書いた。今回は二階。

「茶屋の風情」というタイトルで括った座敷空間の話だ。

一階テーマの「島田清次郎の世界」と比べると、二階はついでのような感じで捉えていた仕事と言っていい。

段取りとしても、かなり後回しにしていたところがあった。

しかし、市の担当者と、廃業(だったか)した茶屋を一緒に見に行ってからだろうか、全く興味もなかった茶屋の中の様子に関心が湧いてくる。

展示に面白味が見出せるようになっていった。

その茶屋には何度も入らせていただいた。

記憶がかなり薄まってはいるが、入ってすぐの幅の広い階段や、ゆったりとした座敷、食材や飲み物などを保管しておく地下室など、茶屋の表と裏の世界のようなものをストレートに感じた気がした。

何でもない小さな飾りなどを見つけては、カメラに収めていたこともよく覚えている。

それから後、建築工事が終わった資料館の二階に上がると、何となくそれらしい展示のイメージが湧いてきた。

真ん中にテーブル、そして座布団と肘掛けを置き、太鼓と三味線、それに屏風……

狭い空間だから、これで十分それらしくなると考えた。

そして、それらをさっきの茶屋から持って来て置けばいいと思い実行していく。

太鼓

これは意外と簡単に事足りた。

その茶屋に残されていたものも、それなりに立派なものばかりで、屏風も火鉢も太鼓も、それと豪華な造りの小さな棚なども、さすがにうまく雰囲気づくりに貢献してくれた。

そして、またボクの思いは一階の島田清次郎の世界へと重きを置いていったのだ………

何となく館内全体がカタチを成してきて、もうだいたいやり尽くしたかなと思っていた頃だった。

座敷と廊下

一人で二階へと上がり、初めてじっくりと座敷空間を前にして座った。

するとすぐに、奥の朱塗りの壁に何かを置きたいという思いが湧いた。

現実感のない演出だけのイメージなのだが、そのアイテムがすぐに扇子だと、自分のアタマの中では決められていった。

またさっきの茶屋へと足を向け、片付けられていた扇子を持ち出して展示した。

何となく見栄え的にはどうなのかなと思ったが、扇子は扇子と、簡単に割り切れた。

そして、今度は手前の小さな間ではなく、座敷内の客が座る座布団の上に堂々と座ったのだ。

横には肘掛があった。

正座をしたが、何となくぎこちなく、胡坐をかいてみる。

しかし、どうやっても落ち着かず、また手前の間に戻ってしまった。

自分がこのような場には、カンペキに相応しくないニンゲンなんだなと思ったかどうか覚えていないが、それも間違いない。

そして、ふと思ったのだ……

金屏風と三味線

自分が得意?とするところの“物語”がない。

訪れた人たちは、ただボーッと見回すだけで、すぐにこの場を立ち去るだろう… そう思った。

ただ、茶屋の物語はなかなか切り口がむずかしい。

堅苦しい歴史の話なんかでは面白みがない。

さらに階下の島田清次郎の物語と合わせられると、まったく暗いイメージそのものになってしまう。

その辺のところは、-1を読んでいただくとよく分かると思うのだが、とにかくただひたすら虚しく陰湿なのである。

廊下 座敷前から振り返る

ボクはその時、市の担当者の方とよく相談に行っていた、茶屋の女将・みねさんの顔を思い浮かべていた。

みねさんとは、金沢の茶屋文化を代表するパフォーマンス『一調一管』の、横笛の名手である。

あの演奏スタイルはジャズ的だ。

セッション風であり、インタープレイ的である。

話はそれたが、とにかく、その頃のボクはそんな笛の名手とも知らず、何度かお会いしていた。

第一印象は、小うるさく(すいません)、扱いにくく(以下同文)、とにかく怖いおばさんだった。

しかし、何度もお会いしていくうちに、叱られてばかりではあったが、その奥にある温かいものを感じるようになっていく。

そして、二階の茶屋を再現した空間に、みねさんの思い出みたいなものを書かせていただき置きたいと強く思った。

何度かお会いしていくうちに、みねさんから子供の頃すでに西茶屋で下働きをしていたという話を聞いていたからだ。

そんな時代の話を、紹介できないだろうか。

実を言うと、この辺りの話は過去に書いた 『みねさんは、やっぱドルフィーだった』 という雑文の中に詳しく書いている(から、そちらを読んでいただきたい)。

市の担当者にその話を持ちかけると、それはN居さんの口からどうぞ…と言われた。

そして、決して快くといった感じではなかった(少なくとも表面的には)が、みねさんは取材に応じてくれた。

三月の終わりとは言え、まだ寒い日のお昼前で、脇で鉄瓶の湯気が心地よく舞っていた。

そして、みねさんは、両手で覆った湯呑の中の、熱いお茶をすすりながら、昔を懐かしむように語ってくれたのだ。

ボクにとっては、それを受けて書き上げた文章の奥に広がる、みねさんの幼い頃の思い出が、この展示空間のすべてに生気を沁み込ませると思えた。

みねさんの淹れてくれたお茶が心にも沁みていくようだった。

ボクはずっと、こうした生の語りが伝える匂いみたいなものを大事にしてきたが、まさにこの時の自分のやり方も、そんな自分自身を大いに納得させるものだったと思う。

座敷の手前に置かれた一枚の板に記された、下手ながらも渾身の一文だ。

芸妓の話

それから、みねさんは開館直前になって、壁に展示したあった例の扇子に大いにケチをつけ、私のをしばらくだけ貸すから、取りにおいでと言ってくれた。

開館記念のセレモニーにも関わらせていただいたが、にしの芸妓さんたち全員による素晴らしい踊りも披露されて賑やかだった。

もちろん、その交渉もみねさんとだ。

西茶屋資料館は、当時からほとんど展示は変わっていない。

金沢の場合、茶屋そのもので言えばやはり「ひがし」に圧倒的に人が多く集まり、「にし」はかなり遅れてしまった。

仕方がないが、金沢の象徴的な匂いを醸し出す場としての存在感は、何と言っても大きいのだと思う。

一月の終わり頃、ふらっと立ち寄った資料館で、二十代後半から三十代初めだろうかと思われる女性が、独りで二階の間の前に座っているのを見た。

たしかに、みねさんのあの話を読んでくれていた。

ボクが上がってきたことによって、邪魔をしたみたいだった。

この静かで小さな空間には、わずかな数の人ですら相応しくない。

そんな場所を、開館する前、独占していたのだなと思った。

今から思えば、ここには贅沢な時間があったのだ……

扇子

 

みねさんの話は、こちらへ。

『みねさんは、やっぱドルフィーだ…』   http://htbt.jp/?p=3308

西茶屋資料館の仕事‐1 「島田清次郎の世界」

清次郎肖像画

金沢三茶屋街のひとつ、にし茶屋街の奥に「金沢市西茶屋資料館」がある。1996年の春にオープンした。

今はどうか知らないが、出来てしばらくの頃はほとんど誰に聞いても行ったことはないと言われた。

最近は茶屋街の中に人気のお菓子屋が出来て、ウィークデーでも人の気配が多くなったりしているみたいだ。

この資料館の仕事は、自分自身の中では大きなターニングポイントになったもので、小さな資料館ながら今でもそれなりに思い入れがある。

テーマとなっているのは、島田清次郎という大正時代の作家の生涯だ。

島田清次郎の世界

清次郎については、今多くの場で紹介されているから省略するが、31歳という若さで死ぬまでの間に、さまざまな苦難と栄光と没落を経験した人物だ。

ただ、人間的には決して一般に好かれるタイプではなかった。これは間違いない。

資料館の建物は清次郎の母方の祖父が営み、清次郎自身も母親と住んでいた「吉米楼(よしよねろう)」という茶屋を復元したものである。

入り口二階から

一階は清次郎について紹介・解説する展示空間で、二階には茶屋の風情を再現した展示もされているが、チカラの入れ方の比重で言えば、一階の清次郎空間への方が圧倒的に強かった。

こういう場合、仕事だから個人的な思いなんぞ入れることは出来ないだろうと言う人もいるが、そんなことはない。

人をテーマにした資料館などは、人物史が最も重要だと思っているので、それをどれだけ吸収するかだと思う。でないと、まず面白くない。

西茶屋資料館に関わったのは四十歳の頃だが、実を言うとボクは二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいた。

映画化もされた、一般的に言う第一部(四部構成)の話だ。

今では想像もつかない大正時代の大ベストセラーで、新潮社のビルが、この作品一本の儲けで建ったと言われる。

地上紹介パネル

ボクがそれを読んでいたことが、展示計画の監修者であった小林輝冶先生(当時北陸大学教授)にまず気に入られた理由だ。

読んでいたということ自体も驚かれたが、それ以上に二十歳の頃というのが凄かったみたいだ。

先生からは、なんで清次郎なんか読んだの?と、聞かれたほどだ。

それくらい不思議なことだったのかも知れないが、ボクにとっても、たまたま本好きだった友人が、読んでみたらいいと言って貸してくれた一冊だったに過ぎない。

実を言うと、大して面白くはなかった。

大正時代の青年たちとは違い、彼をヒーローなんぞには出来なかった。

その思いが後に鮮明になっていく。

貸してくれた友人が、さらにその清次郎の波乱万丈の生涯を書いた、杉森久英の『天才と狂人の間』という直木賞作品も薦めてくれた。

これは俗っぽい好奇心みたいなものを伴って、それなりに読み込んでしまった。

読みモノとして面白かったからではない。

島田清次郎というニンゲンの、恐ろしいほどの極悪非道ぶりが強調されていて、その毒々しさがついつい文章を追わせただけだった。

その後味の悪さは、読後のシミのようになって体に残ったような気がした。

そして、『地上』の異常に美化された虚偽の世界が余計に気に入らなくなっていく。

島田清次郎というニンゲンが恐ろしくなった。

それまで金沢の文学は、鏡花であり、犀星であり、秋声であった。

そこに清次郎という存在が現れてきたことは、少なくとも自分の中では「招かれざる客」がやって来たようなものだった。

パネル1パネル2

 

小林輝冶先生は、島田清次郎研究の第一人者だ。

清次郎は二十歳にして『地上』を世に出し、大ベストセラー作家となり、天才と褒めたたえられ、貧乏のどん底から大きな富を得るまでの大成功をおさめた。

しかし、並はずれた高慢さで、茶屋に育った背景からか女性を軽視する傾向もあり、後に大スキャンダルを犯し、そして最後は思想的にも危険分子とされて、精神を病んだまま東京巣鴨の保養院(精神病院)で独り死んでいったことになっている。

小林先生がこの仕事の中でこだわっていらっしゃったのは、彼の最期についてのところだ。

清次郎が本当に精神を病んだまま死んでいったのか? 先生はそのことに強い疑問を持っておられた。

徳富蘇峰への書簡

これ読んでよ…と言って渡された、保養院から徳富蘇峰あてに書いた手紙を読んだ時、ボクも先生の言われる意味が少し分かったような気持ちになった。

走り書きのような、ところどころ書き直されたその手紙、いや文章には清次郎の真実のようなものがあるような気がした。

それでも完全に認めることはできなかったが、展示のストーリーは、この文章を読んですぐにボクのアタマの中に展開されていったのだ。

島田清次郎を好きになっていったのではないが、ドラマは明確になった。

玄関に下げられている「島田清次郎の世界」というのは、ボクのネーミングだ。

平凡ではあるが、ほとんど知られていない清次郎の生涯のことを思うと、その素朴なタイトルがふさわしいと思えた。

清次郎の顔も、彼の残された写真の中から、もっともやさしさを感じさせるものを選び、当時スタッフだったイラストレーター・森田加奈子クンに描いてもらった。

本展示

中の展示空間は、ほとんどが文字と写真とイメージデザインだけで構成されている。

年表形式の一般的なものだが、大正という時代や清次郎の残した詩などからイメージする色などに気を使った。

ただ、小林先生といろいろやりとりしながら、いつも気持ちは複雑だった。

それは、やはり島田清次郎という人物をどう表現しようとも、美しいストーリーにはなりえないだろうなという思いだった。

しかし、せめて金沢に育った一人の天才作家が、紆余曲折の末に最期は精神の病で死んでいったという切ない結末から解放され、かすかに残されていたのかも知れないその希望に光を当てていく…… そういった思いになっていった。

大袈裟だが、小林先生の思いを具現化し、あの島田清次郎に少しでも温かい目が注がれるようにする… ボクはスタッフたちにそんな半分冗談みたいなことを語っていた。

地元の金沢商業に通学していた頃に、清次郎に強い影響を与えた橋場忠三郎という人の日記が貴重な資料となっているが、そのご子息がいつもお世話になっていた方だったという不思議な縁もあり、親しみもいくらか増した。

橋場ノート

オープンの日の朝、展示室の中にある小さなケースの中に、赤いバラを一本入れた。

今はっきりとは思い出せないが、どこかで彼の作品に描かれていた赤いバラだったと思う。

当然、今はもう置かれていない。

しかし、ずっとオープンの朝にはそうしようと考えていたことだった。そのことはなぜか忘れていない。

ところで、今、石川近代文学館で開催されている企画展・『彷徨の作家 島田清次郎』へ行くと、赤い風船が入場記念?にもらえる。

これは、『明るいペシミストの唄』という詩に出てくる、“わたしは昨日昇天した風船である”の一節からのものだろうと思っている。

詩の後半に赤い風船と、色を伝えている。

実は、西茶屋資料館の展示でもこの詩を紹介しているのだが、近代文学館の受付でそれをもらった時、ドキッとした。

何か通じるものがあったのかと、ドキドキしながら嬉しくなった。

こういう仕事にはやり残し感がつきものである。時間がたてばたつほど、それが積み重なっていくのはやむを得ないことなのかも知れない。

徳富蘇峰宛ての書簡については、近代文学館の企画展の中でもはっきりと問題提起されていたような気がするし、別にボクがどうのこうの言っても始まらないが、小林先生の思いには忠実にいようと思う………

入院記事

その2 茶屋空間の話につづく。

 

金沢的広告景観雑記

寺島邸1L

1.サインにおける「金沢らしさ」

もう25年ほど前の話である。金沢市に歩行者用の本格的な観光サイン計画を提案し、さまざまなプロセスを経て実施が決まった。そして、サイン本体には指揮者の譜面台をモチーフにしたデザインが採用された。その後、そのデザインはどんどんとバリエーションを増していく。イメージが固定化されていき、特に決まり事ができたわけではないが、さらに広く応用、展開されるようになった。金沢らしい空間の一隅で、金沢のサインはどうあるのが好ましいか? ちょっと大袈裟だが、少なくとも、それに近い観点での思慮が生まれた。

その時には気が付いていなかったが、それは間違いなくサインにおける「金沢らしさ」を考える起点にもなっていた。

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金沢には、その歴史文化の匂いを軽視できない空気がある。そのことを踏まえていくと、金沢の観光サインにはそれなりの役割が課せられていることに直面する。そして、その最も端的な要素が、“控えめに”というニュアンスだったように思う。もちろん質感などに対する配慮は言うまでもなく、表示の基準づくりなどについても、地方都市としてはかなり先を行っていたのは間違いない。ただ、狭い路地や歴史空間などにおけるサインのポジションを考える時、そこにはやはり、シンプルであることの重要性が共通認識として存在していった。

元来、金沢にはデザインを議論する環境があった。多くのクリエイターたちは、自身のメッセージと表現手法に苦心しながら、そのことを楽しんでもいた。景観という言葉も使うことはなかったが、このようなことが原点になって、金沢らしい景観という課題を考えるようになっていったのだと思う。

2.低さのこだわり…兼六園周辺などにおける展開

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金沢の代名詞とも言える兼六園周辺ゾーンでは、“控えめに”の典型的な例を見ることができる。近年、金沢城公園や21世紀美術館、しいのき迎賓館などのスポットが人気を集め、さらに歴史博物館など古い施設の再生が計画される中、一帯は「文化の森」と称され整備が進められてきた。

大木が並び豊かな季節感を醸し出す森。用水と散策路。そして憩いの象徴となる広場。それらの中に美術館や博物館などが建つ。言わば、金沢文化を直接的間接的に感受できる場所である。サインも、県と市によって鋭意検討されてきたが、ここでのサインは、既存の継続使用は別として、基本的にすべてが色調や高さに条件を付けたものばかりである。

特にサインの高さについては、特有のこだわりが幅を利かせている。それは、景観を視野に確保するという、非常にシンプルな目的のためだ。

景観を視野に確保するということは、サインはそのための妨げにならない、つまり視界を遮らないということである。そして、それらの考え方をとおして到達したのが、傾斜型の表示面を持つ、高さを抑制したサインである。つまり“譜面台型”の応用であった。

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サインを見る人は、サインの前に立つが、視界は広がっている。周囲の景観や状況を把握しながら情報を得ている。何でもないことだが、素朴にそのことに向き合い、そのことに徹した。さらにここでは、北陸特有の積雪状況についても検討され、平均積雪量を考慮するなどして根拠を持たせている。

高さと言うより、“低さの維持”を基準に置いた考え方だった。サイン自体への積雪も、それ自体にひとつの景観美があると考えた。敢えて強調したわけではないが、表示面に雪が積もった場合でも、それを手で払うという仕草そのものに、金沢らしさがあるとまで考えた。

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このようなサインの考え方には、特に際立ったデザイン性は必要とされない。繰り返すが、前述のように出来るかぎりシンプルであろうとする。そういう意味で、グラフィックの精度は別にして、本体の製作上では特に問題が発生しないようにとも考慮されている。

金沢の街中を流れる無数の用水や庭園などを紹介するサインにも、この考え方は応用され、街歩きの観光客などに親しまれている。

3.元気の表現…片町商店街などにおける展開

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前述のように、金沢では特に文化的な匂いを醸し出すデザインが歓迎される。しかし、商業ゾーンでは、景観への認識をどのように捉えるかが課題であった。

筆者は、金沢市に景観行政のセクションが生まれてすぐ、その仕事に関わるようになったが、市担当者との意見(感覚?)の違いに何度も戸惑った。よくある認識の違いで、良い景観を創るのは大きさや面積や素材でなく良いデザインである……、そのような考えの説得に、多くのエネルギーを費やしていたように思う。実際、調査対象となった地域の住民や商業者などに事例を示すと、自分が予想していたとおりの答えが返ってくることが多かった。

しかし、筆者の考えも決して深かったとは言えない。良いデザインという意味を説明しきれないでいたのも事実だった。景観の仕事はそれほど甘くはなかった。ただ、金沢市は粛々と景観行政を前進させてきている。時折、首を傾げざるを得ない時もあるが、長い歳月を経て、商業サイン環境をもしっかりと「金沢的」にまとめつつあると思う。

ところで、金沢の中心、北陸一の繁華街と言われる片町エリアでは、再開発事業が決まった。新幹線がやって来る都市らしく、その動きにますます加速がついている。それに先立ち、片町商店街では既存アーケードのサイン約100台をLED化し、両面発光の薄型でスマートなものに統一した。夜間は、お店や、商店街が金沢のPRのために掲載した、金沢市のキャッチコピー「いいね金沢」のロゴが浮かび上がっている。(※この一連のサインは、いしかわ広告景観賞・知事賞を受賞)

また、6月のはじめ、同じ片町にコカ・コーラの新しい広告サインが披露された。これも、金沢における広告景観の在り方に、ひとつのヒントを示唆するものとなっている。

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これまでにも議論されてきた「活性化と景観づくり」という、一見相反する繁華街での広告物のデザインに可能性を示したと言える。

ブランド力に負うところはもちろん大きいが、それゆえに誰もがイメージするビジュアルをシンプルにアレンジした広告サインは、大人の手法として評価されるべきだと思う。金沢という厳しい景観環境の中で、大らかにイメージを発信している。また、金沢最大のイベント「金沢百万石まつり」とスケジュールを合わせ、地元片町商店街のイベントの中でお披露目式を開催するなども、広告サインが街や地域と一体化し、歓迎される術を示した絶妙のアイデアであった。

もちろん、そのセレモニーを受け入れた地元も見事というしかない。

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その他の商店街で見られるサインにおいても、すでに整備イメージが定着する中、独自に個性的な展開を図ろうという動きが進んでいる。商店街関係者たちの意識は非常に高いレベルにあると言っていい。だからこそ、金沢の商業サイン環境は進んでいるのだ。

4.自発力の再生…新竪町周辺における展開

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片町から若者の街として人気の竪町を抜け、さらに進むと、今静かに注目を集める「新竪町通り」がある。多分何も知らずに入り口に立った人は、ただの寂れゆく、もしくはすでに寂れてしまった商店街としか見ないだろう。今は三丁目しかないという妙にドラマチックな?町だが、ここもまた若者たちの町である。

ただ、竪町と大きく違うのはその気配。竪町がよりトレンド系だとすると、新竪町は“我が道をゆく”系。気負わず自分たちのペースを守っている町なのである。もともと骨董品店などが多くあった通りだが、最近は古い店をアレンジした個性的な商品(作品)を売る店や、ユニークな飲食店ができ、訪れる人たちも個性派が多い。

金沢を普通にイメージした「古い町並み」ではないが、その町並みの中に、隠れた新しさみたいなものを感じさせる。店のファサードやウインドーなどを見ているだけでも楽しめる。金沢には美大をはじめとして、多くの大学があるということを思い浮かべさせてくれる。伝統工芸も、芸能も盛んなのであったと、何となく気付かせてもくれる。こういった通りが生まれ、息づいていくということが、金沢に特有のエネルギーが存在している証なのかも知れない。

54新竪ウインドー

 

 

 

 

 

筆者にも、たまに出かける店があるが、その店をやっている夫婦は、二人とも金沢美大の卒業生だ。しかも、二人とも県外から美大に入り、卒業後も金沢にそのまま住みついている。そういう人間たちの集まりだから、町は思慮深く、サインも実にシンプルに、さり気なく気取らず、さらに自分たち自身と、お店と、通りの雰囲気に溶け込んでいる。もちろん主張もしながら。

古くなった商店街のアーチも、新調される話が進行中らしい。ちなみに、新しいロゴもアーチ自体のデザインも、美大卒の女性クリエイターが担当している。筆者は、こういうパワーのことを“自発力”と呼んでいるが、“自発力”をもった町がいい文化を創り出していく。

かつて金沢には、ジャズや演劇やアートその他ユニークなこだわり人間たちが集う店があった。新竪町にはそんなポテンシャルがあるような気がする。歴史文化の気骨を武器にする金沢にあって、この町は欠かせない存在になっていくだろう。

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5.金沢の金沢による金沢のための表現

3年前、建築家たちが主催するフォーラムで、『トークセッション~「私たちが描く金澤とKANAZAWA」』のコーディネイターをさせていただいた。金沢で活躍する若手(一部古手もいたが)気鋭の、建築家、広告プランナー、映像プロデューサー、コミュニケーション・デザイナー、コピーライター等々に声をかけ、それぞれの立場から金沢の表現手法について語ってもらう企画を立てた。

我々の世界では、金沢が、「金澤」にも、「かなざわ」にも、「カナザワ」にもなる。また「KANAZAWA」になることもある。つまり、金沢はいろいろな顔をもつようになってきている。そのことを考えようとした。そして、セッションをとおして、それぞれが素晴らしい才能とアイデアをもち、日常の仕事の中でそのことを活かしているという頼もしさを感じた。以前、主催者の代表に筆者はこう語っていた。

「街の要素の中で視覚的な部分での建築家の責任が最も大きい。なのに建築家の皆さんは、建築のことしか考えていないのでは? クリエイターの中で、いちばん知的水準が高いのは建築家なのだから、建築家は建築と同時に、街を考えるべきです。そのお手伝いを我々は十分にできますよ…」

酒の席での放言であったが、忘れられてはいなかった。その後、このセッションの成果が十分に活かされてきたわけではないが、景観というものを考えるについても、いかに多様な感性の関与が必要かを痛感する機会となった。

金沢には優秀なクリエイターたちが数多くいる。一般の市民の中にも、ユニークな感性の持ち主が盛り沢山だ。その感性を活用しない手はない。

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金沢と景観。歴史文化都市なのであるから、その関係は深く永遠に続くものである。新幹線による国内からの流入ばかりでなく、観光の国際化もますます進み、金沢の表現はさらに多様化していくことだろう。

我々が関わっていく広告というジャンルにも、その多様性が求められていくのは明白だ。そのことにいち早く着目し、金沢らしい表現の手法を広げていくことが大切である。

 

風景は普遍的な要素の上に面白味をもち、景観は成長していく過程に面白味をもつもの…と思う。そのバランスが大切である。そういうふうに考えていくと、金沢の課題は大きいものになる。両者が重要な役割のもとに共存しているからだ。

100年と言わず、10年後の金沢を想像するだけでも、それなりになかなかスリルがある。そのスリルを楽しみながら、もう少し金沢を見ていきたいと思う。

 

※この文章は、サイン専門誌「SIGNS 2013-Autumn」に寄稿したものの原文です。

湯涌江戸村にいた

湯涌江戸村。もう10年以上前だったか…

現在の場所への移転計画が進められている中、その計画書の中の30ページほどを受け持った。

仰々しい仕組みの仕事ではあったが、なかなか刺激的な仕事でもあった。

その中でも、フィールドワークは特に刺激が濃く、印象は深い。

眩しすぎるほどの新緑に包まれた白川や、荘川などの保存施設を見学に行った時などは、

得意の想像力で、時空の狭間にいるような錯覚に陥った。

アタマの中での会話は、なぜか東北の言葉で進められていて、囲炉裏の煙の向こうには、おしんがいたような気がする。

閉鎖された旧の江戸村では、明かりのない屋敷の中で震え上がるような霊感や、不謹慎ながら、盗人気分なども味わったりした。

解体が始まると、ある大きな屋敷の中の足場に上らせていただいた。

そして、そこで見た内側構造の素朴さや大胆さ、さらに、巧みさや力強さに胸が躍った。

解体中であったから、グロテスクさがより一層目に焼きついた。

数えきれないほどの季節を経て染み付いた、材料そのものの匂いも刺激的だった。

風雪に耐え抜き、そこに生活する人たちを代々守ってきた、昔の屋敷の逞しさみたいなものも感じた。

つい先日の、春らしく晴れたある日。

美しく装いを変えていく江戸村の屋敷たちを見ていた。

あの時見ていた荒々しい解体の光景は、すぐには甦ってこないが、しばらくすると、自分の中で鮮明に再生されはじめた。

今はみな、きれいになり過ぎて? 落ち着き払い、ちょっと澄ました感じさえする。

しかし、それはそれなりに、またいい風景でもある。

外観よりも中に入って見る生活空間が、より印象深いからだ。

民衆の歴史は、やはり生活空間にあるのだ。と、かなり過分に偉ぶっている。

屋敷から目を離すと、高台からの眺望も文句なしの清く正しい山里風景。

ここは能登ではないから、里山とは呼ばない。と、勝手にまた偉ぶる。

そして、この眺望、温泉街とは逆方向なのがいいのだろうと、勝手に納得する。

そして、なぜかのんびりとし、しばらく静かに眺めている。

 

そう言えば、お会いした江戸村村長のT屋先生とも、かなりの久しぶり的再会であった。

夢二館館長のO田先生といい、江戸村村長のT屋先生といい、お付き合いのある先生方が湯涌で頑張っていらっしゃる。

あと一人、Aという“自然の民”系プランナーの友人もいるのだが、彼の存在もこれから湯涌では必要になってくるだろう。

が、しかし、今湯涌は得体の知れない、妙な、つまりその、何と言うか軽薄な風に吹かれている? と聞く。

偉そうなことは言えないが、こののどかさはそれに耐えられるのだろうか?

いや、耐えなくてもいいのだろうか?

太陽が西に傾き、斜面から伸びたゼンマイに鋭く陽光が当たっている。風も冷たくなってきた。

これから始まりそうなことに、少しいい気分になったりしながら、一緒に行った二人と帰路についたのであった……

能登黒島・旧嘉門家跡

 このエッセイを読んでいただいたという、北海道の方からメールが来た。

 お名前が嘉門さんと言って、詳しいことは全く分からないが、亡き祖父が旧門前黒島の出らしいとのことだった。

 石川からは鰊漁が盛んだった頃、多くの人たちが北海道に渡っている。

 実を言うと、ボクの祖父も北海道の海へ出漁し、それなりの規模の漁業をやっていた。

 門前黒島の嘉門家と言えば、ブリヂストン美術館の館長されていた嘉門安雄氏が有名だ。

 嘉門家に限らず、黒島からは優秀な人たちが多く輩出され、かつての天領、そして北前船で栄えた地域性を物語っている。

 今ある旧嘉門家(平成11年に町に寄付)の跡は、能登地震の後に火災で焼失したのを受け、トイレの付いたきれいな板塀で被われた駐車場になっている。

 かつては、一段高くなったところに蔵が並び、壮観であったと言われる。

 角海家の展示関係の仕事に携わっていた頃、旧嘉門家の一画に残された小さな庵のような建物の一室で、地元の人たちに昔の思い出などを語ってもらった。

 久しぶりに嘉門家跡に足を踏み入れ、石段を登ってみると、春の日差しを受けて海が柔らかく光っていた。

 通りかかった地元の人からも話を聞いたが、やはり黒島の文化の趣は他と異なり、今現在が何かもどかしいような思いにさせる。

 自分など考えても仕方ないことなのだが、やはりどこか寂しいのだ……

金沢城石垣回廊のこと

 土曜の昼過ぎ、駅前のホテルで会合に出たあと、街中の方へと向かう。

 最終的にめざすのは金沢城公園の「石垣回廊」。

 数日前にクルマの中から眺めて、何だか久しぶりに歩きたくなった。

 特に尾山神社側の鼠多門あたりのきれいになったところには、ゆっくりと足を踏み入れていないと思っていて、何となく消化不良気味だったのだ。

 クルマを会社の駐車場に止め、外へ出てから、上着を脱ぎ、ネクタイを外した。

 本当はシャツもズボンも靴もすべて変えたいが、そうはいかない。

 もうすぐ11月だというのに空気は暖かかった。

 用意してきたカメラを手に、金沢城公園へと歩く。

 市街地ではできるだけ裏通りを歩いて、特に仕事関係の人とは顔を合わさないように速足で行く。

 香林坊で裏に抜け、中央公園に辿り着けば、こっちのものだ。

 先日、中央公園を通った時には薄曇りで、何だか寒々しかったが、今日は陽だまりがくっきりと映えて、木の幹や地面がところどころで光り輝いて見える。

 二人の少女がけたたましく笑いながら、走りまわっている。

 よく見ていると、枯葉が枝から落ちてくるのを待っていて、落ちてきたのを見つけると、ワァーと駆け出した。

 その様子が天真爛漫でテンションを最高に上げてくれた。

 中央公園を出て、金沢城公園の方向へと向かうと、石垣がぼちぼち見え始める。

 尾山神社の裏側に出て、右手に石垣を見上げながら歩く。

 この辺りはきれいに掘り起こされ、整備されていて、以前よりは見違えるほどきれいになった。

 崩れかけていた石垣も補修され、安心して通れる。

 クルミの木が石垣の下の法面から突き出していて、歩道にクルミの実の皮だけが落ちている。

 こんなところでクルミを拾っていけるなんて、街中にも自然はあるのだなと改めて感心していると、コツンいう音がして、振り返ると新しい実が一個落ちていた。

 すぐに通りすがりの若い二人連れが見つけて、男の方が足で皮をむこうとしている。

 こっちはあきらめる。

 いもり掘の方からは石段を上り、二層になった一段上の道に出る。

 ここから見る「しいのき迎賓館」の姿は美しい。旧県庁の裏側だが、ガラス張りになっていて現代的な雰囲気だ。手前の芝の広場とともに、実に上品なのだ。

 そして、反対側から眺める雰囲気はもっといい。

 城下ではいちばんの広々とした感があって、背景の石垣が壮観だ。

 その雰囲気は、金沢でも絶品だと思っている。

 何年も前に、世界遺産になった後の姫路城を見に行ったが、今から思えば、この金沢城の石垣の方が重みを感じる。

 城址というイメージや、森のイメージも重なって、金沢城の方が凄いと思っている。

 金沢城の石垣は、“石垣の博物館”と呼ばれるように、さまざまな組み方などを学習できるのだそうだ。

 公園整備中のサイン計画で、その専門的な解説文などをよく読んだ。

 石にはさまざまな彫り文字や印がある。

 石垣を見上げていると、それがよく目に付き、卍などの記号は特によく見る。

 余談だが、かつて尾山神社の山門の下から横に広がる低い石垣の石段には、墓石なども使われていたといったことを聞かされた。

 事実かどうかは知らないが、上ってみると、まんざら嘘でもないような気がしていた。

 そんなことはどうでもいいが、この石垣回廊はとにかく素晴らしくいい風情を持っているのだ。

 自分だけの感覚だから、ほとんどあてにならないが、茶屋街なんぞよりもはるかに優れた文化遺産的匂いを醸し出していると思っている。

 金沢が世界遺産を目指すなら、この石垣回廊をもっともっと広く知ってもらい、その価値を高めることが先決ではあるまいかとさえ思う。

 兼六園周辺文化ゾーンだったかという概念があったが、根本的に面的な魅力づくりなど何も出来ていないような気がするのだ。

 そろそろ21世紀美術館にも馴れてきたし、原点回帰的に石垣を特化させるのも手だ。

 さっき書いた「しいのき迎賓館」の裏側からの広がりを有効に使い、金沢城公園の石垣の壮観さをより強力に伝え、さらにアクセスさせる……

 それくらいの面的な魅力を演出する仕掛けがほしいのだが……

 回廊で多くの人と擦れ違った。

 その数は土曜日とは言え、少なくともボクには驚くほどの数だった。

 ラテン系やヨーロッパ系の若いカップルや、日本人の親子連れ、カメラガールの女子、さらに同じくカップル、学生のグループ、そして場馴れした感じの普段着姿の老夫婦などがいた。

 そして、そんな中で独り旅らしい若者と出会った。

 若者というよりも青年と呼ぶ方が似合っているかも知れない。

 ちょっと、一昔前の雰囲気をもった凛々しくてイケメンな、いやハンサムな青年だった。

 青年はすらりと伸びた体を少しのけ反らせ、腕を組み、石垣をじっと見上げていた。

「旅行?」と、聞いたことから会話が始まったが、青年の、

「ここは凄いです。深いです」

 という言葉で、すべての会話が途絶えた。いや、意味を失った。

 それだけ、その言葉には重みを感じた。

「やるな、青年…」

 心の中で、そう呟いていた。

 いい気分で、石段を下り、いもり堀の奥行き感を味わう。そして、身の程知らず的に思った。

 このあたりは石川県が管理している。管理は県でいいが、石垣回廊を含めた周辺全体は金沢市が企画を練るべきではないかと。

 少なくとも、ここは金沢市だ。金沢の戦略でコトを起こす方がいい……と?

 そんなむずかしい話もほどほどにして中央公園に戻って来ると、四高記念館の裏側のレンガ壁を背景に、美しい黄葉の枝が映えていたのだった……

松井秀喜から学んだ野球文化

4月15日のメジャーリーグ。プレイする選手たちの背番号が「42」だった。

黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューした日のメモリアルである。

また、21日には、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの100周年記念試合で、Rソックスとヤンキースの選手たちは、背番号のない100年前のユニホームを着てプレーした。

日常の試合の中でも、メジャーリーグには大胆で印象深いシーンが数多く見られる。

野球に対する何かが、そのパフォーマンスに表れている。

ボクはこういうのを『野球文化』と呼んでいる。

もちろん、ボクが言い出した言葉ではない。

しかし、ボクはある時から確信を持って、この言葉を口にするようになった。

そのある時とは…、野球人・松井秀喜と出会った時だ。

 

2005年12月8日、石川県能美市に『松井秀喜ベースボール・ミュージアム』がオープンした。

松井選手がアメリカに渡り、大活躍した二年目のシーズンオフ初冬だ。

ボクはそのミュージアム全体の展示計画を担当し、具体的に展示品や資料を調べ選択し、松井選手の人物史はもちろん、数々のエピソードなども独自に取材して文章化した。

映像のシナリオも書いた。松井選手と所縁のある多くの人たちとも交流した。

滅多に触れることのできない貴重な品々も手にした。

オープニングイベントはもちろん、その後のミュージアムが主催するイベントも企画し、スタッフたちと実行してきた。

そんな数多い貴重な経験の中で感じ取ったのが、野球が醸成してきた文化というものだった。

単純な言葉で言えば、野球文化とは、野球をすることを楽しみ、野球を観ることを楽しむ文化だ。

もっと単純に言うと、打者がホームランを打った時の喜びや、投手が三振を取った時の喜び、ファンがホームランを打った選手を称賛する喜びや、三振を取った投手を称賛する喜びだ。

ファインプレーをした時の喜びも、その選手を称賛する喜びもある。

さらに、野球を観ながら冷たいビールを飲むとか、美味しいハンバーガーを食べるというのもそうであることは言うまでもない。

そして、そういう風にして育まれてきた、もっと強い文化……、たとえば、日本の高校野球に見られる地域などへの思いなども野球文化のひとつだ。

今春の選抜大会、甲子園球場のホームプレート前から発せられたあの選手宣誓の言葉に、心を揺さぶられた人は無数にいたに違いない。

野球をとおして培われ、発せられる思いが、多くの人たちに感動や勇気を与えるということを、あの宣誓があらためて教えてくれた。

偉大な野球文化の結晶なのだ。

 

実は、ボクにはアメリカでメジャーリーグの観戦をした経験がない。

いつかいつかと思いながら、松井選手がNYヤンキースを去ってからは、その思いも薄れてきた。

しかし、松井選手関係のさまざまな、そして生々しい資料や写真や映像などを多く見る機会に恵まれていたから、臨場感のある野球文化を普通の人以上にかなり感受できたと思っている。

展示計画を進めていくうち、ボクは一枚の写真と出会った。

そして、その写真が大好きな一枚になった。

それは、ヤンキースタジアムでホームランを打ち、三塁ベースをまわってホームへと向かう松井選手を捉えた写真だ。

背景にはファンが総立ちになり、松井選手を讃えている姿が写っている。

ほとんどの人たちが拍手をしたり、両腕を突き上げ歓声を上げている。

金髪の若い女性は、口を目いっぱい開けて何かを叫んでいる。

髭のオジサンも、若者も少年も、みなが喜びを精一杯に表している。

しかし、松井選手は目を足元に落とし、その歓声に照れているような、その歓声に戸惑っているような、そんな素振りでホームへと向かっている。

この一枚のショットが、ボクのアタマの中に強く残った。

野球という試合の中で遭遇する期待を込めた緊張感。

チャンスが訪れた時の高まる気持ちが、ホームランを打ってくれたことへの喜びと称賛に変わる。

こんな素朴で爆発的な喜びは、日常の中でも滅多にない。

この場に遭遇した、あるいはテレビで観戦したりした者だけにしか味わえないものだ。

松井選手は下を向いてゆっくりと走っているが、その姿にも観衆はさらにまた違う何かを感じていると思える。

野球そのものを楽しむ自然発生的な喜びの表現。

ファンそれぞれが、それぞれの個性で表現する、それらももちろん野球文化なのだ。

 

ところで、メジャーリーグの試合で見られる七回の「7th inning Stretch」などは、テレビ中継を見て初めて知った。応援スタイルも日本とは全く違う。

野球はまず楽しみながら観戦するというスタンスが明解になっている。

その延長上に、応援というスタイルがあるような感じがする。

スタンディング・オベーションの文化=讃える文化もメジャーには基本的に生きていて、選手への敬意も忘れていない。

野茂英雄やイチロー、そして松井秀喜と続いた日本人メジャーリーガーの活躍を経て、日本のプロ野球に少し違和感を持った人たちも多かったはずだ。

 

しかし、大袈裟な言い方で気恥ずかしいが、ボクにはどうしても伝えていかなければならないと思う野球文化が、もうひとつある。

それは、松井選手にもイチロー選手にも共通することだが、打者がボールを捉えるという感覚的な、そして技術に関する文化だ。

松井選手のことをいろいろと調べていくうちに、ボクは松井選手がアウトコースの投球を強く左に打つという表現に注目していた。

左バッターの場合、アウトコースは軽く当てて流し打ちするというのが、これまでの普通の感覚だったのではないか?

そう思った時、こういう小さな発見が多くの野球少年たちやファンに何かをアピールするような気になった。

松井選手の言葉はメジャーに挑戦し、さらに実感したものだったに違いない。

メジャーデビュー戦で三遊間にタイムリーヒットを打っているが、まさにあのバッティングはそのことの始まりだったような気がする。

そして、MVPをとったあのワールドシリーズ。

DHのない敵地で代打で登場し、レフトへ豪快なホームランを打ったバッティングなどは、その理想形だったような気がしている。

ボクはこのようなこともまた、野球文化の象徴だと思い始めた。

伝統工芸の名工たちが身に付けた技術や気構えと同じものがあると思っている。

将来、プロを目指す少年たち、高校野球の選手たち、特にスラッガーたちには、この松井選手の言葉は新鮮に響くに違いない。

さらに、どういう思いで打席に入り、どういう思いでボールを待ち、どういう思いでバットを振りにいくか…から、日常をどう過ごすかに至るまで、この継承には意味がある。

まだまだ書き足りていないが、すべてのことが野球文化に通じていく。

 

ミュージアムの企画がスタートする時、そのコンセプトを

「松井秀喜という野球人をとおして、野球文化を伝える…」とした。

そのためには、すでに実感していた松井選手のニンゲン的な凄さを、きっちり伝える必要があると思い、人物評伝みたいことに力を注いだ。

著名な方々からも話を聞き、そのことをさらに強く感じていた。

たとえば、松井選手のバットを作り続けていた名人・久保田五十一氏を、岐阜県養老町にあるミズノバット工場に訪ねた時も、よく一緒に行ったという近くの食堂で、久保田氏から松井選手のバットに対する信頼感について聞かされた。

一年間、自分のバットを信じて絶対に途中で手を加えなかったという話には、自分自身の感覚や技術、フォームなどを第一に考えた松井選手の強い意志を感じた。

野球の直接的な関係者ばかりでなく、篠山紀信氏や阿久悠氏、さらに伊集院静氏などが表した松井選手の人物評価も、ボクをさらに後押しした。

メジャーリーグ機構が、松井選手のニンゲン的な魅力を高く評価してくれたことも嬉しく心強かった。

ミュージアム構想に賛同し協力してくれたことは、展示計画に大きなバックボーンとなっている。

現在、ミュージアムで流れている映像などは、メジャーリーグの協力支援なくしては完成しなかったものだ。

 

ミュージアムの企画に関わらせてもらった長い時間は、何もかも夢のように過ぎていったような気がする。

オープンの前夜、松井選手は最終便で帰郷し、そのまま空港からミュージアムに立ち寄った。

あまり表情を変えずに館内を歩いていたが、今から思えば、かなり照れ臭かったのだろう。

そして、翌朝…。北陸の空はまさに冬の到来そのものだった。

取材オファーは、180社を超えていた。

館内でのセレモニーを終え、テープカットのために松井選手が外に出る。

ボクは中からエスコートした。その時だった・・・

不思議なことに雲が切れ、その隙間から太陽の光が流れ出しミュージアムを照らした。

このことは、今でも関わってきたスタッフたちの語り草となっている、“松井ミュージアムの奇跡”だ。

長かったその日のすべてが終わり、ボクは運営に携わってきた多くの関係者たちを前にして礼を言った。

ボクの横には、大きな松井選手がときどき口元を緩ませながら立っていた。

ボクはもちろん、十分に誇らしげだったに違いない。

 

オープン後の最初の休日だったろうか。外にはパトカーも巡回し、最高の入館者数に達した日のことだ。

ボクは、ずっと一人の入館者に注目していた。すぐにかなりの高齢と分かるおばあさんだった。

少し離れながら後方を付いていくと、おばあさんはあるコーナーで立ち止まり、人ごみの中で曲がった背筋をぐっと伸ばした。その姿は凛々しくも見えた。

おばあさんに近寄っていき、大丈夫ですか?と声をかける。

腕章に気が付いたのか、おばあさんが語りかける。

「この子(松井選手)はね、ほんと偉かったんですよねえ…」

おばあさんの視線の先には、スポーツニッポンから贈られた「五打席連続敬遠」を伝える新聞一面のパネルがあった。

大阪から娘さんと来たというおばあさん。娘さんもすでにおばあさんの域にあった。

星稜高校時代の五打席連続敬遠の試合を見てから、松井選手が大好きになり、それ以後、ずっと松井選手に関する新聞記事をスクラップしてきたと言う。

手を添える娘さんも、母はここへ来るのを本当に心待ちにしていたんですと言って笑った。

野球が生んだ物語が、またもうひとつの物語を生む。

その物語こそ、文化なのだ・・・・・・・

こういう仕事を続けてきて、世の中に存在し、人々から愛されてきたものには、すべてに「文化」があるのだと思えるようになった。

逆に言えば、文化がないものは、仮に存在はしていても愛されることはないのだと思うようになった。

奇を衒ったり、無理に衆目を引こうと考える必要は特にない。

それよりも、じっと見つめ深く掘り下げていく過程を大事にする方がいい。

いろいろな機会をいただき、ボクはこういう話を何度もした。松井選手を横にして話したこともある。

今、現在も、関わっている仕事のすべてがそんな思いに支えられている。

そう言えば、最近、野球が面白くないのは、松井秀喜がグラウンドに立っていないからなのだ……

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……