カテゴリー別アーカイブ: 寺社が好き編

10月のミイラの肖像画と仏像について

 部屋の床に、本が一冊落ちていた。鋭い朝の光が、斜めに並んだ二つの小さな窓から差し込み、瞬間的にミステリーの始まりを予感させる……かと妄想したが、妄想は2秒ほどで終わった。見ると、据え付けのテーブル板に不安定なカタチで積まれていた本の中の一冊だったということが、すぐに分かった。何かの拍子に滑り落ちたのだろう。

 取り上げ、表紙を見た。そして思わず、「すみません」と、もちろん口には出さず、カラダの中のどこか(多分胸のあたりだったのでは)で呟いた。つまり、その本に謝ったのだ。仏像の写真が装丁に使われていたからだろう

 それまで一応目の付くところに置いてあったのだが、特に意識はしていなかったようだ。しかし、床に落としてしまうと、その存在(の大きさ)がはっきりと戻ってくる。

 あらためて見てみると、表紙にあったのは薬師寺の聖観世音菩薩立像だ。国宝である。数年前の展覧会で実際にあの美しい姿を見た記憶もあった。

 しかし、咄嗟に謝ったりするところは我ながら信心深く、清楚な気持ちの表れだったのだろうかと思う。ついでに言うと、自室の据え付けテーブルの正面壁には、宇治平等院の国宝「雲中供養菩薩」という横笛を吹く仏像の写真が置いてある。平等院で買ったカードだが、ジャズのエリック・ドルフィーを連想させるところが気に入っていて、ポーズがとても美しく好きである……

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 ところで、本題のタイトルにある写真だが、今年のルーブル美術館展のカレンダーに掲載されていたものである。10月のページだから今まだ現役だ。

 2世紀あたりのエジプトの女性の肖像画である。知られたことだが、古代エジプトでは死者の亡骸を、来世でまた生を受けることを確約するためにとミイラにした。そして、板の上に描いた死者の肖像画でミイラの顔を覆っていたらしい。この絵がまさにそれだ。この時代の肖像画はかなり写実的であったらしく、そのとおりだとしたらとても美しい女性であったことが想像できる。

 ちなみに、さらに古い時代ではミイラの顔にマスクを被せていたらしいが、それほど美しくなかった女性でもそれなりにマスクの顔を美化して描いていたという。余計なお世話だが、事実だとすると、本当に美しかった女性はかわいそうだ。

 このカレンダーは会社の部屋の壁、しかもボクの左側頭部から1m足らずしか離れていないところに太く長いピンで留められてある。

 それまで、つまり1月から9月までもあまり注意深く見ることはなかったが、この写真が出てきた10月に入っても、大した意識などせずカレンダーとしての数字ばかり見ていた。ちなみに数字が目線にあり、写真はややその上にある。

 ところが、10月に入って数日が過ぎた頃、何かの拍子にふと目に留まった。と言っても、手の届くようなところにあるから立ち上がればすぐに目に入ってくる。立ち上がったまま電話で話をしていた。そして、その間の分ぐらいだろうか、まるで村上春樹の小説に出てくる主人公のように、ずっとボクは彼女の顔を見ていたような気がする(…まったくボクのイメージだが)。

 どれも同じだが、ボクはこの手の絵画にも詳しいわけではない。むしろカンペキに素人だ。感じるのはせいぜいで、アラブのお姫様だろうか?といった程度である。

 電話が終わったあと、あらためて下に記されている解説を読んだ。ミイラになった女性の肖像画か…… と言われてもピンとこないが、可愛らしさも含んだ顔立ちにどこか親しみを覚えた。

 それからというもの、毎朝出社すると彼女の顔を見るようになった。垂れ気味の大きな瞳はポール・マッカートニーに少し似ていると感じた。太い眉とせまい額が凛々しさや逞しさも漂わせていた。

 いつの間にか10月も半分が過ぎ、後半のさらにまた後半に入ってきた。そして、当然ながら10月はそのうち終わるのである。そう思うと、彼女の存在というか、カレンダーの中のこの顔の存在が気になり始めた。

 約1900年前に生きていた女性の顔がというよりも、その時ミイラになった女性の顔がすぐ横にあるというのはなかなか複雑だ。仕事の邪魔にはならないにしても、立ち上がったりすると必ず目が行く。気があるのかもと思われかねない。

 見慣れてきた頃から、その顔の裏側に実際にはミイラ化した女性の顔があるということを想像するようになっていた。カレンダーをめくっても11月と12月のページがあるだけだが、ミイラの方の想像はかなり具体的になった。

 ちなみに残された2カ月の写真を見てみたが、それほど期待はできそうになかった。このカレンダーは10月で十分その役割を果たすであろうと思った。

 ところで、京都や奈良などで仏像と相対する時、ボクたちは信仰の対象としてその前に立っているのだろうか? それとも美術品として、あるいは歴史的資料として捉え、その前に立っているのだろうか? その両方もあるだろう…… ふと、そんなことを考えた。

 特に展覧会などになると完全に後者のスタンスになり、ボクたちは鑑賞者になっている。もちろん鑑賞することにより、仏像のもつチカラを実感することも多い。四方から見るとか、普通ではできない相対し方でより仏像の実態を感じ取っている。

 ミイラの女性肖像画は、美術品になって今日人々の前に公開されている。普通、絵画の中のモデルとなった女性(男性もだが)たちは、画家からの申し入れなどを受け、完成後さまざまな場所で人目に触れられることを了解している(と思う)。しかし、ミイラの女性は当然、いや多分了解などしていないだろう。

 約1900年も前のことだから、そんなこと知るかとなるが、どうもボクはそのようなことにこだわりを持っているに違いない。

 勝手に公開しやがってということではなく、彼女には彼女なりの人生があって、そのことを彼女はボクたちに想像させようとしているように思える。メッセージがあるような気がしている。名前どころか素性も知らないひとりの人物の、亡骸の上に覆われた肖像画………

 ボクが日常その写真に目向けるのは、多分そうしたメッセージを感じるからだろう。ただ、美しく保存されていたからとか、描かれていた女性が美人だったからというだけではない(…ということも強調しておく必要がある)。

 そういうわけで、床に落ちた一冊の本と、10月のカレンダーに現れた一枚の写真から発展した話だ。残された数日間、彼女の人生について考えて(想像)みようと思っているのだが………

 

 

北越に加賀藩士たちの墓

 新潟県長岡市の郊外にある不動院という寺の前に着いたのは、午後2時を少し過ぎた頃だった。

 6月の初め、辺りの雰囲気がすでに夕方近くのように感じられたのは、小高い山並みの間に入って来たせいだろう。日陰となった場所の空気は少しひんやりとしていた。

 静かだなと思った瞬間に、横の広場で遊ぶ子供たちの声が聞こえた。男の子と女の子が仲良さそうに遊んでいる。懐かしい光景のように感じられ、気持ちが晴れやかになった。

 この寺には、戊辰戦争最後の激戦と言われる北越戦争で命を落とした、加賀藩士たちの墓がある。この寺だけでなく、他にも加賀藩士の墓があることは知っているが、いちばん歴史観に浸れそうな気がしたのでこの寺に行こうと思った。その狙いは、周囲の落ち着いた雰囲気を感じ、当たった。

 今年が明治維新から150年であることは、昨年能登のある町の古くて小さな資料館に入った時、そこに展示してあった維新時の高札を見て知った。村からの出入りについて厳しく禁止するといった新政府からのお達しが、太い文字で書かれていた。

 それからしばらくして、金沢の兼六園の横にある博物館の先生から、いきなり「北越、南会津のこと詳しかったよね?」といった電話が入り、にわかに明治維新の四文字がアタマを駆け巡ることになる。

 南会津が詳しいというか、秘境と言われる檜枝岐村(福島県)について仕事で昨年出かけており、その空気感は認識していた。もちろん新潟北越あたりも同じくといった感じだった。

 先生が言うには、明治維新と石川県という企画展をやるんだが、北越戦争の話は面白いよ… せっかくあっちのこと詳しいんだから行って来たら…という提言みたいな電話だったのだ。

 それから数ヶ月後、仕事のお手伝いもさせていただき、その企画展は始まった。あらかじめ電話を入れて出かけると、先生直々で特別じっくりと解説していただいた。実に楽しい時間だった。

 そして、それからまた時間が過ぎ、ようやく長岡行きのチャンスがやってきたのだ。

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 子供たちの声を耳にとどめながら、寺の左側に延びる道をゆっくり登っていく。

 道の左側が切れ落ち、その下に子供たちの遊ぶ広場がある。気持ちのいいカーブと、登りつつ見る素朴な山里風景に心がなごむ。こういうのに弱い。

 気が付くと、右手の斜面に解説文の入った看板が見えた。「加賀藩士の墓」と記載され、その奥に短い石段。そして、その上にいくつかの墓石が見えている。

 石段を上ると、左右に広がった墓石の列に驚いた。この寺だけでも藩士41名と人夫12名が葬られたとあるが、見渡すとかなりの列であることが分かる。

 刻まれた文字は読み取りにくいが、よく見ていくと、富山の「砺波」の文字などが確認できる。

 石川と富山の若い藩士たちが犠牲者であり、幕末の混乱期に、加賀藩の優柔不断さがもたらした新政府軍からの当てつけみたいな出兵命令だったらしい。

 元来、幕府側にいた加賀藩だが、新政府側の圧倒的な力に朝敵になることを恐れ立ち位置を変える。そんなことだから、もともと信頼を得ていない加賀藩は当然出兵に応じざるを得なかっただろう。思いは、大久保利通が元加賀藩士に暗殺されたりした事件に繋がっていったりもする……

 約7600名が藩の強力な軍備品とともに出兵し(させられ)、103名が戦死した。死者の中には十代の若者もいたという。

 ふと、会津の白虎隊のことを思い出した。彼らが自決した場所に立ち、そこから彼らも見た城の方向に目をやった時のもどかしさみたいなものが蘇ってきた。

 明治維新とは何だったのかな? そんな疑問がたまに起きる。薩長が権力を握り、それから半世紀あまりを経て、あの忌まわしい大戦争に突入していった事実と、明治維新は繋がっているのではと思ってしまう。

 日本という国はまだ本当の意味の維新を達成しないまま、アメリカという一国によって都合のいいように作り変えられていったのでは……… そんなむずかしい話は置いておこう。

 ゆっくりと素朴な墓石のひとつひとつを見ていた。それからさらに奥へと上り、北越のこの小さな寺の風情を感じ取ろうと歩いたりした。

 ひたすら静かだった。それもそのはずで、もう子供たちの姿はなくなっている。木陰の中にいるからだろうか、空気はさっきよりさらにひんやりと感じられた。

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 話は飛ぶ。

 金沢・卯辰山にも、この戦死者たちを祀った招魂社というのが建てられた。その後、西南戦争や日清、日露などの戦死者たちも祀られていったが、その後移転する。現在は兼六園奥にある護国神社にまとめられた感じだ。卯辰山には、当初の趣旨を残すようにその記念碑と墓石が雑木の中に建っている。

 長岡に行ってから三ヶ月後、つまり9月の初め、雨上がりの卯辰山に出かけ、久しぶりに苔むした石段を登った。

 そこで、独りの外国人と三人の日本人学生と遭遇した。これはかなりの驚きだった。

 彼らになぜここへ?と尋ねると、特に深い理由もなく来たということだったが、学生の一人がこの上にある卯辰三社に興味があったと語った。

 不思議だが、人気の波に一度乗ると一気に広がりが生まれる。今の金沢にはそんな力が宿り始めた。卯辰三社など、かつてはほとんど訪れる人はいなかった。

 生半可にちょっと知識があるものだから、いろいろな話をしてみた。彼らは楽しそうに話に乗ってきてくれた。そして、やはり金沢らしいですねみたいなことを語った。金沢の奥の深さを認識させたみたいな、少し誇りたい気持ちにもなり、しばらくして、いや、でしゃばるでないと自戒したりもした。

 かつて観光企画の仕事でここへ外国人を連れてきた時、彼らは竹林の雰囲気などに大いに感激していた。もちろん招魂碑のことなど興味もないだろうと説明もしなかった。

 しかし、今の内外の観光客はどうだろう? 彼らのように、ひょっとして強い関心を持ってくれるかも知れない。

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 ところで、北越戦争で越後軍が新政府軍を苦しめたのは、越後に河井継之助という偉い人物がいたからだ。彼のことは地元の人たちが誇らしげに語る。上杉謙信と河井継之助は越後の英雄だ。

 彼の記念館は長岡市と福島の只見町にあるが、両方とも行っていない。特に只見の方はすぐ近くまで行ったにも関わらず、早く家に帰りたくてハンドルを切る勇気が出てこなかった記憶がある。情けないことだとずっと反省している。

 ちなみに、その河井継之助を主人公にした司馬遼太郎の名作『峠』の映画化が決まったらしい。主人公役は、役所広司。『蜩ノ記』が印象深いが、監督も同じ小泉尭史だという。

 実はこの話を最初に聞いたのも新潟の友人からだが、なかなかいいニュースだ。

 ちょうど今、大河ドラマは『西郷どん』。あのややこしい時代の出来事に対する大げさな表現にいつも首をかしげてしまうが、それは自分の感想であって、ドラマとしては面白い(これも感想)。

 ただ、金沢にいて思うのは、江戸時代に作られた文化によって、今金沢の魅力は成り立っているわけで、維新後のモタモタを思うと、やはり明治維新というド派手な出来事はなくてもよかったのではないかなあ…ということ。

 あのままでも日本はそれなりに変わっていったのではと思ったりする。あのままでもジャズと出会っていただろうし、ベースボールもサッカーもラグビーも、映画もファッションも、とにかくそれなりに受け入れていったのではと思う(…個人的な感想ですが)。

 そんなわけで、今金沢は江戸文化のおかげで人気を博しているということを考えさせられたのでもあった。それにしても、こうした旅の面白さは果てしない………

井波の小散歩と小雑想

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富山の井波といえば、よく知られた彫刻の町だ。

最初に立ち寄ったのはまだウラ若き青年の頃だったが、二度目か三度目あたりの、やや埃をかぶった世代の頃には、余裕も持って近くの高瀬神社に寄ったりもしてした。

ただ、立ち寄ると言っても、大抵ぶらりと来てしまったというケースが多かった。

井波の町の面白さを知ったのは、仕事絡みで訪れるようになってからだ。

それはやはり地元人との出会いがあったからで、そのおかげで一気に井波ファンになっていた。

いずれも彫刻家で、いずれも面白い話を聞かせてくれる人たちだった。

工房にお邪魔して話を聞いたり、井波の代名詞である瑞泉寺の隅々までを案内してもらったりと、その人たちとの出会いがなければできない経験もさせてもらった。

特に瑞泉寺の中の見学は楽しい時間だった。

それからもちょっとした仕事にかこつけて、ぶらりと訪れたりすることがあり、仕事を片付けた後、町の中を無作為に歩くことが多くなった。

メイン通りはほとんど通らず、裏道から裏道へと狭い道を歩く。

瑞泉寺の横に城があったことはそんな時に知った。

一向一揆の拠点であった瑞泉寺が佐々成政に攻められ、その後その家臣によって寺の横に小さな城が整備された。16世紀の後半、まだ戦国時代のことだ。

その後、その城は前田利家によって取り壊された。

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9月中頃のある日の午後、近くまで来ていたのでまた井波の町に寄った。

豪壮な瑞泉寺の山門は見るだけにして、石垣沿いの道を左に行くと、石垣はすぐに終わるが、石と石の間にきれいな花が咲いていたりして、山里の空気感を味わいながらの散策を始める。

井波のメインストリートであるそこまでの参道は、ただ何も考えずに歩いていた気がする。

右に折れてから、高台の方へと緩い傾斜を登っていくと、すぐ先に、大きな神社へとつながる石段が見える。井波八幡宮だ。

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道はYの字型になって左右に分かれていくのだが、その間の石段の前に立つと、鳥居越しに堂々とした社殿が見えてきて、深呼吸などをする。正しく気持ちが引き締っている証拠だ。

境内に入ると、鬼気迫る表情の狛犬に目がいく。

いろいろな狛犬を見てきたが、ここの狛犬は独特の個性を持っている。

タイトル写真にあるように、苔だけではなく、体のあちこちから草が生えていたりしているのだ。

“ガラパゴスから来た狛犬”と名付けたが、なかなかのネーミングだと自画自賛した。

白いクルマが一台止められているが、人の気配はない。

本殿にお参りし、それほど広くもない苔に覆われた境内を歩き、脇から抜けた。

右手が石垣、左手が板塀になったいい雰囲気の道がある。

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石垣の方には門があり、中に入ると臼浪水(きゅうろうすい)と呼ばれる霊泉がある。

瑞泉寺の名前はこの湧水からきているとのことだ。

これといって特別な思いもないが、道に戻ると曇り空の下の空気が少し冴えてきたように感じた。

まっすぐ前が古城公園と呼ばれ、二の丸の跡らしい。

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ヤマトタケル(だと思う)の立派な像が、周囲とうまくバランスを取りながら建っている。

それにしても静か。初めてではないのに、なぜか新鮮な感覚に陥っている。

一応、奥に建つ招魂社まで足を運び、そのまま戻ることに。

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途中、太い幹をまっすぐに伸ばした大杉が立っている。

周囲はやはり城跡であることを思わせる石垣や土塁が続く感じで、家々の間の空き地にも特有の空気感が漂っている。

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さらに行くと、井波らしいアートとして創られた彫刻が置かれた公園がある。

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ようやく犬と散歩する高齢の女性と出会った。

こんにちわと、よそ者である自分の方からあいさつすると、やさしい笑顔で答えてくれた。

やはり文化度の高い土地の人たちには気品があるなあと、知ったかぶりで感心する。

思わず足も軽くなったように感じたが、逆に言えば、よそ者であることに強い自覚が生まれて、その場を早く立ち去りたいという気持ちになったのかもしれない。

特に観光客などがあまり足を運ばない所でのよそ者は、なぜ今自分がこの場所にいるのかを説明しなければならないような思いを抱いてしまう。

このことは自分の中での永遠のテーマ(大袈裟だが)みたいなものだ。

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今は南砺市という括りでまとめられたこの地域には、個性的な町が多い。

五箇山から白川、さらに荘川、そして郡上八幡へと繋がっていくのだから誰も文句は言えない。

ある意味、日本を象徴するエリアなのである。

道そのものもそうだが、その道から少しそれていくと現れる素朴な風景にも、飽きない面白さがある。

ただ、そうした場所には、もう一度行こうかと思っても、なかなか行けなかったりするから厄介なのだ。

このあたりに来ると、まだまだ自分には知らない風景や、味わったことのない空気感が残されていることをいつも思う。

そして、若い頃にやたらと感動していた山域の風景にもう一度出会いたいと、自分に熱いものを吹き込もうとしたりしている。

その日の帰りは、瑞泉寺の前まで戻りはしたものの、参道は下らず、もちろん境内にも入らず、そのまままっすぐ進み、途中から右に折れて家々の間の道を歩いてきた。

空は曇ったまま、空気はいつの間にかまた静かに湿気を含み始め、町なかがひんやりと、そしてしっとりと落ち着いていく感じがした。

自分の最も好きなスタイルに近い町歩きが、ここ井波にもある。

それはどんな小さなカタチでもよくて、ただ歴史の匂いと素朴な風景と人の生活感があることだ。

あらためてそんな思いを抱きながら、駐車場のトイレに立ち寄り、井波を後にしたのである………

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晩秋京旅・圧倒編 その1

永観堂の日差しの中の紅葉

京都の歴史と季節感を、同時に楽しみに行くというのは壮大なプランである。

しかも圧倒的な紅葉の時季に訪ねるというのは、一種の冒険に近い。

京都はすでに人(観光客という種類の)の受け入れに相当な寛容さを持っている都市であるが、訪ねる方からすれば、その度を過ぎた(ような)人の波は簡単に受け入れがたい。

しかし、と言いつつ、いざ京都となると覚悟は決まる。

不思議だが、そこが京都のチカラの証だ。

少し前、「日本に京都があってよかった」というコピーがあったが、ボクは激しく同感している。

出だしで少しカッコつけたが、そんなわけで、一年と一ヶ月ぶりの京都なのであった。

めずらしく、最初の目的地は平安神宮近くの某カフェになっていた。

もちろん家人のリクエストであり、その店の何とかという洋菓子をいただくというので、開店直前の店の前で名前まで書かされ並ぶことになった。

最近はこうした列のできる店がステイタスを持っていて、客を並ばせることを喜びにしているように見えたりする。

「おもてなし」などと片方で言っておきながら、客を長時間待たせるのはどこかおかしいと思うので、ボクは単独の時は絶対にこうした列には加わらない。

ほどなく開店した店でいただいた菓子も珈琲もごくごく普通であった(少なくともボクには)。

この店が最初の目的地となったせい(?)で、近くの南禅寺と永観堂が今回の寺めぐりのスタートになった。

二つの寺とも名前のよく知られた名刹であるが、南禅寺は十年以上行っていないし、永観堂は恥ずかしながら初めてとなる。

クルマは岡崎公園の地下駐車場に入れた。

この平安神宮を含む一帯は、かつて次女が学生時代に参画していた「京都学生の祭典」という、学生の自主イベントとしてはとてつもないスケールのイベント会場になっていて、構造はそれなりに分かっていた。

その時、次女と待ち合わせした店もまだ健在で、スタッフジャンパーを着込み歩道に立っていた次女の姿が思い浮かぶ。

まだまだ幼いもんだと思っていた次女が、初めて逞しく見えた時だった。

南禅寺へ向かう道に、長蛇の列となった客たちを待たせる店がある。

まだ開店まで一時間ほどもあるというのに、歩道は完全に占拠されている。

こんな客たちを受け入れなければならない店側も、味を維持していくのは大変だろうなあと思うが、そんなこと気にしていても始まらない。

動物園の横を通って、川沿いの道を歩き、南禅寺へのアプローチ。

ヒトもクルマも半端ではない。

何とか境内に入って、早速山門に上ろうということになったが、階段もその上の展望台もヒトの波。

上から見下ろしてもヒトの波。紅葉ももちろんそれなりに美しい。

南禅寺山門から

この圧倒的なヒトと紅葉の融合が京都の京都たる所以なのだと、あらためて納得した。

七百年ほどの歴史を持つ南禅寺だが、百年ちょっと前に出来た、ご存じレンガ造りの水道橋の存在が大きい(少なくともボクにとっては)。

あれを見ると、南禅寺に来たなと思う。

水道橋

それに宗教には関係なく、しかも六百年ほどの時代の差があるというのに、水道橋はかなり南禅寺に馴染んでいるなとも思う。

レンガは不思議なチカラを持っているのだ。

南禅院の庭を見て歩いていると、地元人らしき老紳士の「もうピークは過ぎたなあ。この前来た時はもっと凄かった…」という独り言が耳に届いた。

観光客の前で、いくら地元とは言え、このような発言は軽率および無責任だ。

こちらはひたすら楽しんでいるのであるから。

それにしても池に映る紅葉は見事だった。

南禅院

時間の関係で、久しぶりに水道沿いの道を歩けなかったのが残念だったが、また今度ということにして永観堂へと向かう。

 

永観堂は、「禅林寺」という古刹の通称だとある。

今は京都を代表する紅葉の名所として高い人気を誇る。

それゆえ、歴史や宗教文化の遺産に加え、紅葉の凄さが備わったこの永観堂をゆっくりと堪能しようというのは浅はかな考えだ。

ヒトでごった返す総門を抜け、中門(券売所がある)に至るだけにも気合が要る。

人ごみ

あちこちで必要以上に(と思えるほどに)写真を撮りたがる人たちが、塀に体を擦りつけるようにしてカメラを向けている。

しかし、その姿はかなり醜く、アルバイトの俄か係員たちが大声で制止したりしている。

何事も度が過ぎるとよくないのだ。

葉っぱだけ撮るなら、近くの公園でもいいよとアドバイスしたくなる。

さすがに京都を代表する紅葉の名所、境内は圧倒的な混み具合だった。

混み具合も凄いが、やはり紅葉の美しさも凄い。

質的にも量的にも気合が入っている。

永観堂の紅葉

重なり合う部分の深さや、木の大きさなども心に響いてくる。

陽光を透かして見せる美しさなども唸らせるものがある。

ところで、永観堂には季節に関係なく、もうひとつ人々を惹きつけているものがあるのだ。

「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像(重要文化財)だ。

鎌倉時代に作られた仏像だが、写真などで紹介されているイメージからすると、かなり大きな像を想像する。

が、実際は(その小ささに)多少ガッカリさせられる。

家人などはかなりその度合いが強かったらしく、最初にボクが指さした時(不謹慎だが)には信じられないという顔をした。

名前のとおり顔を左横に向けて立つ仏像で、わざわざその方向に拝顔できる場を設けてある。

そこには当然列ができていた。

空に突き上げる紅葉

諸堂めぐりを終えてまた外に出ると、そこは前にも増してのヒトの数(量)。

放生池という紅葉を映す水面に、カメラが無数に向けられている。

日本の今夜のFacebookが、永観堂の紅葉で被い尽くされるのではないかと心配になる。

家人が、わざわざ空いている場所を見つけて手招きしてくれた。

ならばと、こちらもカメラを構えてシャッターを押した。

放生池の紅葉

振り返ると、茶店の広いスペースもヒトでいっぱいだ。

毛氈の敷かれた無数の床几に、ヒトがまた無数に腰掛け、顔を中空に向けている。

紅い葉蔭から差し込む柔らかな陽光に、その顔たちが揺れて見えている。

永観堂には、広い空間がない分、ヒトの密度も高くなっているのかも知れないと思う。

そして、それはちょっと当たっているような気がした。

落葉の黄色

 

十一月の下旬とは思えない、もったいないような日差し。

周辺はクルマが列を作り、その間隙をぬってヒトが動く。

岡崎公園の地下駐車場にクルマを入れたのは、大が三つ付くくらいの正解だった。

次女がイベントをやってくれたおかげだ。

戻ってくる途中には、さっきの店でいまだに長い行列を作っているヒトたちの姿を見た。

せっかく穏やかな晩秋の京都にいながら、他に行くところはないのだろうか?

余計なお世話的に、わざと珍しいものを見るような顔をして通り過ぎてやる。

ここへ来てあらためて分かったのだが、ボクは京都の紅葉を見に来ているのではなく、京都の文化を見に(感じに)来ているのだ。

だから、この行列も、ある意味、京都の文化が成したコトなのだろうと思う。

ずっと昔、都へ上った地方の人たちが、その様子に驚いたであろうヒトの波。

見上げる大きな神社仏閣や、豊かな物品など。

こうしたモノゴトに出会うのが京都の文化の感触のようにも思えてくる。

複雑な思いのまま、今日の宿がある烏丸あたりへ………

 

四角の石2

 

 

 

 

布橋とプモリと芦峅寺と

布橋1

めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。

当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。

当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。

それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。

立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。

天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。

目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。

布とあるが、アーチ型の木橋だ。

数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。

布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。

そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。

もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。

ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。

それが自分にとっての常道?でもあった。

ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。

今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。

緊急の決断が求められた。

遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。

彼女の目はそう訴えていた。

その目に家人は負けた。

正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。

たしか、家人も一度見ているはずである。

ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。

そのことに期待することとした。

われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。

そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。

遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。

正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。

予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。

畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。

それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。

遥望館

 

トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。

この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。

 

まんだらのブリッジ

 

遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。

このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。

ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。

恐れていたことが現実となった。

ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。

もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。

両方共が当たった。見事に。

空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。

二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。

ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。

うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。

こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。

久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。

覚えていてくれるかも半信半疑だ。

予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。

ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。

家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。

プモリのテーブルと窓

砂糖入れ

 

相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。

もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。

中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。

その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。

帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。

実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。

そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。

Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。

真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。

大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。

名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。

外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……

プモリの庭の花

プモリの庭

 

グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。

懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。

ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。

先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。

その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。

その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。

布橋タイトル

明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。

その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。

この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。

いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。

橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。

家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。

ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。

帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。

石仏坂

上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。

これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。

立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。

それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。

教算坊

立山大宮

すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。

芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。

今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。

立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。

そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……

 

今回の京都(4/4) ここでお終いにしよう

大徳寺の境内

 四条まで歩いて地下鉄に乗る。京都駅に戻ると、もう夕暮れ時だった。

 伊勢丹の地下、つまり「デパ地下」でおかずを調達し、コンビニでビールも揃えてホテルへと向かう。

 京都ではめずらしいワイルドなディナーになりそうでワクワクする。家人も心の底から楽しそうだ。

   ホテルのロビーは多国籍宿泊者で、昼来た時以上に混雑状態。持ち込み荷物を極力控えめに抱え、満員のエレベーターに乗り込んだ。

 翌朝は、桂の次女宅へ。そして、次女も連れてまず広隆寺へと向かった。

 例の弥勒菩薩(半跏思惟像)さんに会いたかったのだ。ただ、実際に宝物館に入ってみると、心を奪われたのは弥勒菩薩さんよりも、大きな千手観音さんたちであった。

 ここでも合掌しながら「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟く自分がいた。

 見上げる視線の先に、見下ろす仏様の高貴な目がある。すべてを見透かされているかのようなその目の奥へと、自分の中にある何かが吸い上げられていく力を感じる。じっと見つめていれば、その吸い上げられていく何かが「自分自身の悪」のようなものにも感じられて、しばらくじっと目を離せなくなる。

 特にかなり傷みの激しい巨大な坐像には、ひたすら従順になるしかなかった。

 こういうところに立たされていると、素直に仏の力は偉大なのだと感じる。何を教えられてきたわけでもないのに、その目に見えない説得力に自分を押さえてしまう作用がはたらく。そして、何だか急に自分自身を反省したり、未来を安泰にしたがったりするのである。

 そして、さらに言うならば、日本人にとっての仏様という存在は、世界中のどんな宗教環境においても、最も静かで奥ゆかしいものではないかと勝手に思ったりする。

 見つめるとか、合掌するといった行為の美しさを、我々日本人はもっと大切に受け止めるべきなのかも知れないのだ。

 外は前日に続いて快晴。空が眩しい。

 大徳寺へと向かう。大徳寺は、北区の紫野(むらさきの)という美しい名の付いた町にある。

 このサイトの名前にもなっている『ヒトビト』という雑誌を出していた頃、京都の出版社に勤務する女性ライターが寄稿してくれていた。その彼女が住んでいたのが、この紫野で、大徳寺のすぐ近くだとよく語っていたのを思い出す。

 背がかなり高く、酒もかなり強く、言葉にかなりチカラがあり、今風に言えば、かなりのアナログ派で、自然の成り行きなどを素直に受け入れながら優雅に生きている人だった。

 もう一人、同僚の女性も寄稿してくれていたが、この二人が揃うと実にパワフルであった。二人とも、もうかなりのおばさんのはずだ。

 大徳寺は二度目だ。一度目は、金沢の前田家についての仕事をしていた時。大徳寺の中にある、おまつさんの芳春院を見に来た。ただ、その時は中に入ることもできずに、外観だけを見て帰ったのを覚えている。

 今回は、大徳寺の多くの塔頭が公開されていた。一応目的場所にしていたのが高桐院(こうとういん)という小さな寺。

 細川家の菩提寺であり、ガラシャさんの墓があることで有名らしいが、こちらはそのことをあまり期待していたわけではない。何となくこじんまりとした寺の雰囲気などに浸りたいだけだった。

 しかし、京都の連休、しかも塔頭が公開されているという大徳寺。静かな散歩などは望むべくもなく、ましてや落ち着いて庭を眺めるなどといった贅沢も期待してはいけない。

 それでも広い境内の中の道を歩いて行くと、まず大徳寺という寺の凄さが感じられてきた。広さだ。前に来た時に全く感じなかった不思議さを思いながら、足を進める。ずっと奥に、めざす高桐院があった。

 高桐院はアプローチが美しい。その美しさを一度は見ておきたいと思ってきた。境内の道から少し入ったところで、左に折れながら門をくぐる。すでに見えているが、その奥の竹林が美しく、門をくぐってすぐにまた右に曲がる。距離は全く短い。

 その道がこじんまりとまとめられた、何とも言えない美しさを醸し出している。目で見ているだけの美しさではない、何か体で感じ取るような美しさだ。多くの人が列を作って進んでいく。中には写真を撮るために立ち止まり、列の流れを止める人もいる。せっかく来たのだから、写真ぐらい撮らせてやろうと思う。

 そういう自分もちょっと脇に外れる場所があったので、そこからゆっくりとカメラを構えさせてもらった。人がいない時のイメージが強く、かなりがっかりしているが、贅沢は言えない。

高桐院参道

 中へ入ると、これまた凄い人。昔のこの古い佇まいでは、入場制限でもしないと床が抜けたりはしないのだろうかと余計なお世話に思いがゆく。

 少なくとも、自分の周囲にいる多くの人たちはアジア系だ。京都が、アメリカの旅行雑誌が選んだアジア第一の観光都市であるということを裏付ける光景だ。中国か台湾の観光客たちが、中国の影響を強く受けた日本人の絵画や書を見るというのは、どういう感情なんだろうと、また余計なことを考えた。

 高桐院の庭は質素で、一旦体を庭の方に向け腰を下ろしてしまうと、妙に落ち着いた。

高桐院庭

 灯篭が立つが、ガラシャの墓を模したものだという。本物はさらに奥、庭に下りてすぐのところにある。

 詩仙堂でも感じたが、この小さな佇まいと、それを囲む想像以上に広い庭のバランスがいい。しかも樹木に被われた庭は一望できずに、その奥行き感は歩いてみないと分からない。

 かつてここに住んでいた人たちは、その奥行き感を当然知っていて、隅々にまで神経を注ぎ花々などを楽しんだのだろうと想像する。もちろん、もうすぐ訪れるであろう紅葉のあざやかさも、降り積もる雪がもたらす静寂の中の空気感も楽しんでいたことだろう。

 今はとてもそのような状況ではないが、ひたすらゆっくりと自分を制し、想像力を働かせるしかない。

 次女が空腹を訴え始めるが、何とか宥めて、せっかくだからとあと二つ三つ見て来ようということになった。

 緩やかな斜面に並ぶ塔頭の間の真っ直ぐな長い道を、ゆっくりと歩く。学生時代にこの辺りを歩いたことがあるという次女も、ここがこれほど広かったのかと不思議がっている。

 我々三人は、それから割りとこじんまりとした寺院ばかりを選んで中に入った。そして、そのどこでも美しい庭や質素な佇まいと出会った。

 京都は頑固に思いを整えてくれば、やはりそれなりに楽しみを提供してくれる。今回はこじんまりとした寺にこだわってきた。建仁寺のように単体として大きなところもあったが、お目当ての一品や庭などに的を絞れば、それもまたこだわりであった。

 腹が減った我々は、それから北山の方へとクルマを走らせ、青空の下で京野菜の畑が並ぶ中に建つ、地元健康食材が売り物らしきこじんまりとしたレストランで、ガーリックライスのランチとしたのである………

ガラシャの墓高桐院屋根石の鉢・龍院の庭・龍院の小さな庭

今回の京都(3/4)今日の終いは、建仁寺

建仁寺の瓦

 今日はまだ終わっていない。

 強い日差しを受けながら、詩仙堂・小有門のちょっと上にある駐車場まで戻り、クルマでとりあえずホテルに向かうことにした。クルマの運転から解放されたいのだ。

 当然すぐにでも昼ご飯を食べなくてはならない。全く当てもなく坂道を下っていくと、突然小さな看板が目に入った。いかにも京都らしいメニュー写真。

 “中谷”という歴史のあるお菓子屋さんだった。お菓子屋さんにカフェがあり、昼ご飯セットもある。咄嗟に隣席の家人が、駐車場のあることを確認した。狭い駐車場の三台のうちの一台が空いていた。食事中か買い物中のお客さんを待つタクシーの運転手が、わざわざスペースを空けてくれる。京都の“おもてなし”だ。

 お粥と餅の入った味噌味?の吸い物と、豆腐と…、それから食後は栗のモンブランと上品な味のコーヒーをいただいた。この店は、和洋両方の菓子を製造販売している。

 いい気分になれる店だった。若い何代目かのご主人も、いかにもお菓子屋さんの跡取りといった柔らかな雰囲気で家人を喜ばせていた。

 さて、駅近くのホテルにとりあえずチェックイン。目的はクルマを置きたいだけだったが、大きなホテルだけあって人が大勢いる。クルマを横づけにして、ボーイさんに聞いてみると、クルマはすぐ目の前のかなり幸運な場所に停めることが出来た。時間が異様に早かったので、そのことが却ってよかったみたいだ。

 再びホテルを出たのが、3時半頃だったろうか。もうひとつ楽しみにしている寺があった。禅寺・建仁寺だ……

 場外馬券の売り場も隣接し、人でごった返す花見小路の方から入り、いきなり法堂で本日の目玉と対面。

 撮影は自由ですと、敢えて大きな声で案内を受ける。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』が正面に見え、その左手前にダウン症の女流書道家・金澤翔子さんの書『風神雷神』が展示されている。

風神雷神・屏風風神雷神

 最新のデジタルプリント技術によって複製された屏風の美しさに見入る。金箔のテイストが本物以上に金という色の特性を現しているような、もちろん本質的なことは分かっていないのだが、そんな錯覚?に陥った。

 自分の仕事柄や、何人かの友人たちにこのような関係の仕事をする者がいるが、自分としては、これは正しいやり方だと思っている。作品の素晴らしさを製作時の雰囲気と合わせて伝えることには、文句なしに意味があると思う。

 本物の展示は、時として本質を伝えていない時がある。特に褪色や傷み防止などに厳しい条件が付けられ、明るさの制限など、鑑賞する者にとっては決して望ましい状況でないことが多い。

 しかし、この屏風にはそんな心配は要らないのだ。前に立って、堂々とカメラを構え、鑑賞することよりも撮影することだけを目的にしたような人たちも大勢いた。

 人の波が一度静かになったところで、ゆっくりとカメラを手にした。真正面にしゃがんでカメラを構えると、とりあえず瞬間的に人は入って来られなくなる。何度もシャッターを押した。レプリカとは言え、国宝に向かってこれだけシャッターを押せるなど滅多にない。

 さて、金澤翔子さんの書である。屏風の絵をそのまま書で表現したような文字のレイアウトに“なるほど”と、まず唸る。それから表現された筆致について、“ふむ”と考えた。

 もう一度、屏風に目をやり、そして“そうか”と納得。この筆致は、雷神・風神という二人の神の表情や動作などがインスパイア-されたものだと確信した。

 800年を越えた臨済宗の本山。京都という都市の中で生かされていく、偉大な寺院のポテンシャルというのはこういうものなのだろうかと思う。奥へ進もう。

 人の数に京都の、しかも連休の初日を思った。これまでにも何度もこういった状況の中で京都を楽しんできた。無理して二人の娘を京都の大学に送り込んだことで、我々は京都にかなり慣れ親しんでいる。親としては、それなりに“してやったり?”なのかも知れない。

 さて、建仁寺は庭もいい。それも中庭がいいと聞いている。

 四方から眺められる「潮音庭」が気に入った。人の多さにじっくりと座れるまでには時間を要したが、中央に「三尊石」と呼ばれる庭石を眺めるのは格別だった。その隣には「座禅石」。まだ紅葉には早いが、質素で頑固な禅庭のイメージを強く意識させられる。ぐるりと回って回廊を下るあたりも上品で、脇の小さな部屋で写経する人たちの押し殺した息が伝わってくるようだ。

庭石を見る庭と回廊回廊退き

 建仁寺はまだ終わらない。もう西日が色濃く差しはじめ、空気もやや冷たく感じられるようになった頃、法堂であの天井画と初の対面だ。

 入ってすぐに、大きな柱の間から10年ほど前に作られたという巨大な双竜の図を見上げる。開創800年を記念しての一大事業。こうしたことが現代において実行されているのが京都の凄いところなのだ。やはり都だ。やはり、日本に京都があって良かった。

天井画と明かり

 足を進めていくと、正面奥に釈迦如来坐像が光り輝いていた。自分でもこの建仁寺に今まで来ていなかったことを不思議に思いながら、ゆっくりと合掌した。

 生まれて初めて、「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟いた。一瞬だが、まわりの人の声も聞こえなくなった気がした。今回の京都は、まだ終わらない……

勅使門木魚と屋根庭石と日差し天井画庭を見ている人たち天井画と仏像

今回の京都(2/4) そして、曼殊院門跡へ

曼殊院門跡前

 詩仙堂から15分も歩けば、曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)に着く。

 15分というのは大した時間ではないが、この日は10月の半ばだというのに30度位の気温があり、日差しも強く、さらに空腹も手伝ってか、思った以上にきつく感じた。

 道は山裾の住宅地のはずれをゆく。右手が小高い傾斜になっていて、左手には見下ろすというほどではないにしろ、京都の街並みが見えている。途中にも寺などがあったりして、静かな場所だ。

 最後の曼殊院道に出て坂道をしばらく行くと、両側に木立が並び参道の雰囲気が濃くなった。左手の神社で、幼い子供が父親と一緒に遊んでいる。この近所に住んでいるのだろうかと想像するだけで、その環境のよさに羨ましさが募った。

勅使門

 奥の石段の上に山門が見える。由緒正しさが伝わる凛々しい勅使門だ。何しろ「門跡」というのは、皇族・貴族などが出家して居住した寺院のことをさすのだから、凛々しいのは当たり前だ。

 その勅使門前を左に折れ、さらに右に折れると通用口。入り口になる庫裡は重要文化財だという。

 曼殊院がこの地に移ったのは江戸のはじめの明暦2年(1656)。8世紀におこり、12世紀のはじめに現在の名を称するようになった。

 虎の間で、狩野永徳筆の虎の絵が描かれた襖などを薄らぼんやりと眺めた後、奥へと進む。ガラス張りのぽかぽかする回廊を通って、大書院へ。江戸時代初期の代表的書院建築というだけあって、バランスの良さに心地よさを感じる。

 庭園を見るその視界の構成がいい。レベルの高い京都の寺では、こうしたことが当たり前のように出来ていて、だからこそ飽きさせないのだと思ったりする。

 大書院には、本尊の阿弥陀如来さんが静かに立たれていた。

 縁側には赤い毛氈が敷かれていて、その赤さが日差しを受けて眩しいくらいに際立つ。すぐには座ろうとはせず、先の小書院の方にも足を向けてみた。やや寂れた感じが、この京の中心からかなり離れた位置関係とも合うような気がして、余計に心を落ち着かせる。

 もう名前も忘れてしまったが、大学を出たばかりの頃、奈良の山寺に出かけたことがあった。バスに乗り、一日にひとつの寺しか行けないような行程だったが、とても満足したことをよく覚えている。今はクルマで自由に動けるが、その時はそれが精一杯だった。そして、それがよかった。

 ほんの短い時間、そんな思いに浸った。そして、あらためてゆっくりと庭を眺める。

 水の流れのような白砂の美しさなのである。樹齢400年という五葉の松は、鶴をかたどり、地を這うように幹を伸ばしているのである。

 日差しは強く、空は普通に青い。白くて柔らかそうな雲たちが、甍の上を流れていく。

 しかし、何とも言えない幸福感に文句などないはずなのだが、如何せん、無情にも、ただひたすら腹が減っていたのだ。

 曼殊院という名前の響きから、白くて中にあんこの入った、あの丸い和菓子を想像してしまった自分にも責任はあったのだが、このことは致命的だった……

曼殊院門跡庭白砂五葉の松曼殊院門跡廊下甍と雲

今回の京都(1/4) 詩仙堂から

小有洞

 今回の京都は、詩仙堂の小さな門から、いきなり始まったような気がする。

 京都東インターから山科あたりの混雑も、南禅寺周辺の慌ただしい気配も、一乗寺という土地に近付いていくうちに、何となく目的地への予感みたいなものに変わっていた。そして、狭い道へと右折して登りに差しかかった頃からは、それは現実のものとなった。

 小有洞(しょうゆうどう)の門というのが正式らしいが、その小さな門は苔むした屋根にさらに夏草を茂らせ、背景の緑と溶け込んで見える。門の奥へと緩く登る石段の参道もシンプルで美しい。

 時計は午前11時過ぎ。まだ人もまばらだと石段を登る。石段を登ってすぐに通路は直角に折れ、さらに門をくぐって堂の中へ。

 人はまばらと思っていたが、やはりそれなりにいた。小さな、そして至って質素な庭に向かい座っている。

 凹凸窠(おうとつか)というのが全体の名称であり、詩仙堂というのはその一室のことをさす……ということが、パンフレットを開けてすぐに分かった。凹凸窠というのは、で こぼこした土地に建つ住いを意味するのだそうだ。

 そのことは、庭に下りてみるとよく分かる。堂は小さいが、庭は意外にも広い。しかも堂から離れれば離れるほど、下っていくことになっている。小さな堂は、庭木に阻まれて屋根が見える程度だ。

 獅子おどしの音が痛快に響き渡っていて、10月半ばとはいえ、秋にはほど遠い完璧な緑の中に吸い込まれていく。ところどころに咲く花たちも上品だ。

 もともとは徳川家の臣であった、石川丈山(じょうさん)という人が造営した。人生の最後を、と言っても30余年という長い年月を、清貧の中に文人として過ごし、90歳まで生きたとある。隷書、漢詩の大家、煎茶の開祖とも紹介されている。

 そんな丈山の生きざまは、もう一度堂に戻り、庭を見た時に薄っすらと想像できた。座敷の細く見える柱も、小さな灯篭も、清貧の中で学ぼうとする丈山そのものに見えてくる。

 書き忘れていたが、造営されたのは江戸初期の寛永18年(1641)。丈山、59歳の時。まさに今の自分と同じ歳。

 愚かにも、今からの30年をこれほどに濃いものにできるかと自問するが、答は当然、できませんだ。

 帰りにもう一度、小有洞の門の外から石段を振り返る。また静かな時に来いと、丈山が言ってくれているような、いないような……、とにかくどちらにせよ、また行くことになるのは間違いないとだけ思った……

堂

石垣上品な花獅子おどし花の道灯篭と柱庵質素な庭

小浜の国宝めぐり

 

福井県の小浜と言えば、もうほとんど京都府に近い。金沢方面からだと、敦賀から天橋立へ行く道すがらの街といったイメージも強かったりする。これはボクだけの感覚かもしれないが、実際にクルマで走ってみた印象としては、それほど特徴を感じなかった場所なのである。

かなり古い話になるが、かつて兵庫県の城崎文芸館に仕事で出かけた際に、この道を走った。季節も同じ春。ただあの時は、桜がもう散り始めた頃だった。仕事で城崎町へと出かけたが、“裏の本命”は、城崎のさらに先にあった『植村直己冒険館』で、小糠雨の中を行くセンチメンタルな旅であった。

今回小浜へ行こうと思ったきっかけは、もともと天橋立行きプランが先にあり、しかし、連休の雑踏で帰り道に落とし穴が待っているのでは…と考えたからだ。その結果、一歩半ほど手前の小浜あたりではどうだろうか?という安直な結論に至り、俄かに学習を始めたのである。学習の成果はすぐに出てきた。

小浜の市街に入ることなく、いくつかの古刹をめぐることが出来る。それらには国宝の建築物や重文の仏像などが残されている…、期待が持てそうだった。しかし、不安にさせたのは、この辺りがボクの愛読書であった司馬遼太郎の『街道をゆく』には紹介されていないことだった。

敦賀から京都大原へと抜ける「朽木(くつぎ)街道」(今風に言うと「鯖街道」)は、信長が京まで敗走(かなり必死に)した道として、最初の単行本で紹介されたが、小浜の方には司馬遼太郎も足を運ばなかった?みたいだ。そのせいもあって、朽木街道には四、五回行ったが、若狭の海沿いにはあまり出かけていない。

六時半に家を出ようと思っていたのに、結局七時ちょっと前に出発。大型連休で異常な混み具合の北陸道を、南へと進んだ。敦賀インターで下りてからは、国道27号線をひたすら迷うことなく走り続ける。のどかではあるが、何となくかつて朽木街道で感じていたのどかさとは違う。朽木の方が谷間(あい)といった雰囲気があって、自然の奥深さや歴史の匂いが強かったなと勝手に解釈している。

やはり、司馬遼太郎が足を運ぶ趣としては、朽木街道の方が深かったのだ。

敦賀インターから一時間も走らないうちに、最初の目的地である明通寺への分岐に近付いてきた。ほどなく、27号線を左に入る。ナビのマップにも明通寺は記されている。道は一本の川と水田の中を進む。視界が広がり、奥に小高い山。その隙間を縫っていくのだろうと予測できる。

風景が、ぐっと期待感を高め始めた。そして、しばらく走ると明通寺の駐車場だった。一気に山里深く入ったなあと実感させる木立とせせらぎがある。

クルマを出て思い切り背伸びをする。空気は少し冷たいが、青空が気持ちいい。車中で温められた体が一気に引き締まる感じだ。

せせらぎの橋を渡り、しばらく歩くと、急な石段を控えた山門を見上げる。なかなかではないかと、ますます期待感が高まる。駐車場にはすでに四、五台のクルマがいて、そのこともちょっとした驚きであった。ほとんど来る人はいないであろうなあと、失礼ながら軽視していた自分を戒める。

十時頃であったろうか。用を足してから、ゆっくりと石段を登った。山門で拝観料を払うと、奥の本堂で説明があると言われた。

ここから本堂へ向けてのアプローチもいい。寺への興味がますます高まっていく。

明通寺自体は、806年に坂上田村麻呂によって創建されたと言われるが、本堂は1265年に落成されたらしい。規模は際立って大きくはないが、檜皮葺きの屋根の勾配が美しく、どっしりと落ち着いた感じがいい。

堂の中に入ると、住職さんだろうか、親しみやすい語り口で寺の話を聞かせてくれた。薬師如来さんは重要文化財。平安末期から鎌倉初期の作と言う。しばらくの時間だが、対面していると落ち着いてくる。

奥の三重塔も今開放しているとのことで、見せていただいた。ここも国宝だ。1270年に上棟されたとある。

明治期に屋根が瓦葺きになったらしいが、1957年(昭和32)に檜皮葺に戻されたという。いい話だ。数年前に能登の總持寺の全盛期を再現するジオラマを製作した際、恥ずかしながら屋根を瓦で作ろうとしたことを思い出した。監修の先生に言われて初めて気が付いたが、檜皮葺の価値観みたいなものをそのとき初めて知った。

外に出て、あらためて本堂と三重塔を見たが、美しい勾配をもつ檜皮葺の屋根がいい。

建物自体も新緑の中に古風な佇まいが調和している。驚いたのは、いつの間にと思うほどの人の数だ。あらためてこの寺の存在感を知った気がした。

二十代の頃、奈良の山中の寺などに立ち寄った旅のことを思い出す。これほど人の多い時季に行っていたわけではなかったが、それでも必ず何人かの人と擦れ違ったりして、こういう類には日本人は必ず感応する何かを持っているのだと思ったりした。

本堂前からの眺めは、正面の新緑の小高い山並みが美しく、しばらく眺めていたくなる。明通寺の山号は「棡山(ゆずりさん)」というが、その棡という木が境内に植えられていた。

明通寺を見て、このまま小浜を去るわけにはいかないなあと思い始めた。小浜市が“国宝めぐり”と謳っている意味も理解できてきた。とりあえずと、多田寺という寺へ向かう。明通寺からも近く山間の集落の中にあった。ちょっと道に迷ったが、すぐにたどり着く。

真言宗の寺院で、創建は749年とある。最盛期には広大な敷地を有していたみたいだが、現在は静かに質素に佇んでいる。ここでも山門で拝観料を払い、人の良さそうな老人から中で説明がある旨を伝えられる。

現在の本堂は、1807年に再建されたものという。小さな建物ではあるが、中にいらっしゃる平安時代の作と言われる薬師如来さんは立像。2メートル近い一木造りで、いかにも見守ってくださっているという印象だ。もちろん重文である。その他にも、木造十一面観音立像や、木造菩薩立像も重文の指定を受けている。ここでも数組の拝観者と一緒になった。ますます“小浜の真実”みたいなものに憑(と)りつかれていく…?

空が少しずつ雲に覆われ始めていた。青空の下の爽快だった空気が、徐々に湿り気を帯びて気懸かり的不安要素になっていく。だが、やはり小浜をもっと見たいと思った。

若狭姫神社に着いたのは、多田寺を出てすぐだ。とにかくそれぞれが大した距離を隔てていない。さらに山奥に若狭彦神社という上社があり、その下社である。

若狭彦神社の創建は714年。若狭姫神社の方は、721年というから文句なしに古い。いったい小浜市はどうなってるんだ?と、鳥居の前に立って唖然としてしまう。一礼して境内に入ると、これまた圧倒的だ。

正面に本殿が美しく、静かに佇む。右手には舞台。大木と緑に包まれた境内は、気持ちを正しくさせるに十分な空気で満ちている。同時に入った三人組の同世代グループが、数歩進み佇むたびに感嘆の声を上げている。めずらしいと思うのだが、若狭彦神社は畳や絨毯などの神ともされているのだそうだ。

一方、普通と言えば不謹慎ながら、若狭姫神社は、安産育児の神だという。森閑とする広い境内の真ん中に立つと、いい緊張感が強いられ、こういった場所へ来たことの価値のようなものを感じたりする。そのような思いを、久しぶりに抱いた。

最後のおまけは国分寺もう小さな雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。国道脇にすぐ見つけ、それなりに外観だけを見て写真を撮った。

それにしても、明通寺や若狭姫神社などだけも小浜へ足を運んだ甲斐があったなと、ハゲしく思う。我が家からクルマで約三時間。帰りは27号線の渋滞に捕まったが、大した距離(時間)ではない。いろいろと行きたい場所はまだまだあるのだが、小浜にもまだ宿題を残してきたといったところだ。深い歴史観や、寺社の佇まい、山里の風景などが目に焼き付いている。そして、もうひとつ。暗くなりかけた帰り道、小浜の帰りらしく口の中がサバ臭かったのだ……

秋の寺歩き~醍醐寺

 京都の醍醐寺と滋賀の石山寺を、11月の連休を利用して訪れるという、かなり贅沢な寺めぐりをやってきた。

 二人の娘が京都にいた六年間には季節に一度くらい出掛け、それなりの京都を味わうことが出来たのだが、今は二人とも京都を離れていて、京都へ行くぞといったモチベーションはかなりトーンダウンした感じだ。

 ただ、下の娘がお隣の滋賀県草津市に住んでいるものだから、なんだかんだと言っては、それなりに京都はまだ身近な存在でもある。

 初日、大津インターで下りて京都に入り、ナビに導かれるまま、かなり狭い住宅街の道を通って醍醐寺に辿り着く。

 どうやら大津から入ったことが正解だったらしく、その道から行くと意外と空いていた。臨時みたいな駐車場にも簡単に入れて、ラッキーだったと言うべきだろう。

 空はどんより冬色。ちょっと肌寒い。周りを見るとダウンなんぞを着た連中もいる。

 しかし、こっちはセーターだけ。過敏すぎる都会の連中のファッション重視志向と勝手に決めつけて歩き出した。

 しばらくして、密度は低いが、細かい霧雨のようなものが舞い始めてきた。しかし、なんとかなりそうだと前進。

 醍醐寺と言えば、やはり桜だろう。

 秀吉が催した『醍醐の花見』は、この寺の代名詞になっている。

 加賀國の住人としてついでに書いておくと、その中のメインイベントである「お茶会」のホスト的役割を務めたのが前田利家だったはずで、この頃の利家はかなりの重鎮だった。

 かつて、石川の菓子文化の展示計画を手掛けた際、石川、特に金沢において菓子づくりが発展したのは、利家がお茶に通じていたからで、そのことを証明するのが『醍醐の花見』でのホスト役だったという話を参考にしたと記憶する。

 今は秋。それも晩秋に近い。もちろん桜ではない。紅葉だ。花見でなく、強いて言えば「紅葉見」だ。

 境内に入って行くと、やはりその広さに納得する。京都の寺の凄さは、まず境内の大きさにあって、そのことにより山門の大きさや、その他の建物などの大きさが比例して一様に驚きの源になる。

 多くの観光客が、五重塔の前で写真撮影に興じる。しかし、その後ろにある、こじんまりとしながらも見事なバランスで建つお堂の存在には気が付かないでいる。これも重文のひとつなのだ。

 ゆっくりと五重塔の裏側にまわり、紅葉の大木を眺め、自分もその木の下に入って、紅葉をとおして五重塔を見上げた。空が暗いせいか、今一つの感動とまでは行かない。

 メインの道に戻るとすぐに、左手に太祖堂。その前の紅葉が美しい。

 やはり皆さん、当たり前のように紅葉を求めている。中空を見上げたりしながら、美しい紅葉のシーンを見つけると足を向けカメラを構える。

 一本の木がその美しさを際立たせていると、すぐに人が集まり、いろいろな角度から撮影を始める。

 デジカメの普及で一億総カメラマン化が強まったなあと、今更のように思う。

 小学生の頃、カメラ好きでもあった兄に影響され、Kodakの箱型カメラを触らせてもらえるようになった。シャッターを切る時、カチャッと軽い音がして、おもちゃみたいだと感じたことは忘れない。

 その後、兄からメーカーは忘れたが一眼レフのとんでもないカメラをもらった。まだバカちょんが出る前だ。小学生が持つようなカメラではなかったし、小学生が写真に興味を持つということ自体も、少なくとも田舎の小さな町では普通でなかった。

 白黒だったが、写真は自宅の部屋で現像していた。竹のピンセット(はさみと言うべきか)で、トレイから印画紙を引き上げる感触は今でも覚えている。

 そして、今そのことがどれだけ影響していたのかは分からないが、人一倍の写真好きになっている。

 奥へと進むと池があり、ぐるりと回り込むようにさらに進む。ちょっとまとまり過ぎた風景に、モチベーションはそれほど上がらない。

 池に注ぎ込む流れに沿って上ってみた。写真のことばかりがアタマにあって、本来の観光の気持ちが萎えている。

「観光」と言えば、これも昔、『おあしす』という上質な雑誌に寄稿させていただいていた頃、『光を観る』という、生意気な巻頭エッセイを書かせてもらったことがある。

 観光と物見の違いについて、分かったような文体で書いた。大学を出たばっかりの頃だから、二十代の前半。身の程知らずもいいとこだ。

 物見はその字面からして何となく意味が分かるだろう。

 しかし、観光は意味が深い。ボクは自分で調べた「光を観る」という仏教的表現について書いたのだ。

 光を観る…、それは真実を観るということ。つまり、観光と言うのは、単に美しい風景や壮大な寺社などを見るということだけではなく、その場所の歴史や文化や風土などを感じ取るという意味を持っている。

 そういったことを図々しく書いていた。

 だから、今の状況のように、いい写真を撮るためにこの醍醐寺に来ているというのは、本来の観光をしていないことになる…のかも知れない。

 ……と、その場でそんなことを考えていたわけでは当然ない。

 何となくもう行き止まりというところまで来て、ずっと気になっていたフェンスの存在について思った。

 上ってきた右側、小さな流れがあって、その向こう側に素朴な道があった。

 その道を観光客ではない、普段着に近い人たちが歩いている。その光景が気になっていた。

 戻って、三宝院の庭に見入る。先日、郡上八幡でも美しい庭を見てきたが、基本的に庭は部屋の奥から見るのが好きで、ここでもとんでもない襖絵などが設えられた部屋からそうして見た。

 しかし、庭を見る人たちの数が違う。縁にずらりと並んだ背中ばかりを見ることになる。

 それにしても、部屋ひとつひとつから伝わってくる三宝院の歴史観はさすがに凄かった。相変わらず京都はさすがなのだ。

 仏像を数多く安置した施設にも満足した。近くでガラス越しでもない仏像に接することが出来るのは、何だかとても新鮮だった。

 ここで帰ろうかと思ったが、さっき見たフェンスの向こうの素朴な道が気になっている。

 その道は、醍醐寺の核心部とも言うべき「上醍醐」への道。

 ここまで来たら、行かなくてはならない……(つづく)

平泉寺に白山を見る

何年ぶりだろうかと考えつつ、旧白峰村の谷峠(トンネル)を越え福井県勝山市へと向かっていた。隣りの大野へ行ったのが一昨年で、その時も長いこと勝山へは言ってないと思っていた。

ボクの場合、勝山へ何度も行っていたというのは、すべてが平泉寺へ行くためだ。そういう意味では、かなり平泉寺が好きだったと言っていい。きっかけは、ボクの定番、司馬遼太郎の『街道をゆく』だった。

この歴史紀行によって、どれほど多くの土地を訪ねたり、多くの土地に思いを馳せたりしただろうと考えると、今は亡き司馬遼太郎大先生には深く感謝をしなければならない。

平泉寺までの道路は基本的に何も変わっていなかった。非常に分かりやすく、簡単に辿り着ける。

たぶん二度目の時からだろうか、下にクルマを置き、菩提林と呼ばれる見事な大木の参道を歩くようになった。だが、時間のかかる長い道であったこともあり、そのうち石段直下の駐車場までクルマで上がるようになる。もともとそれほど多くの人が訪れていたわけでもないが、今でも参道を歩く人が二、三人ほどいて、その人たちの姿を見た時は、ちょっと気後れがした。

もう有名なのだろうが、平泉寺の歴史は古い。717年(養老元)、泰澄(たいちょう)によって開かれている。泰澄と言えば、白山を開いた人であり、石川県でもたくさんの伝説や像を目にする。

その泰澄が夢の中でお告げを受け、白山へ向かう途中にやって来たと言われる池が境内に残っているが、その雰囲気がとても神秘的でいい。今でも、その池に向かって深くお祈りをする人たちの姿を見ることができる。

 

平泉寺は正式には平泉寺白山神社というくらいで、石段の途中に鳥居がある。そこがちょうど、仏の世界と神の世界の境界であるらしく、その場所で一度足を止めるのが正しい参拝の仕方なのだそうだ。

今は観光ボランティアの人たちも大勢いて、そういった話を丁寧に聞かせてくれている。相変わらず杉木立と苔が見事で、木漏れ日が差し込んでくるあたりは、その濃淡が美しい。

閉めきられた拝殿の裏をさらに上ると、三つの宮が並んでいる。白山連峰の三つの峰になぞらえてあるらしい。と言うと、大汝と御前峰、そして別山か。かなり傷んだ感じはするが、彫刻などは素晴らしい。

楠木正成の墓に続く長い石段の道なども、平泉寺の魅力を伝える場所だ。石段を上り切ったところの社の裏に白山への禅定道が伸びている。

白山の禅定道は、石川県では一里野の奥にあり、あとは岐阜県側にもあるとのことだ。

なぜか、かつてはただ漠然と歩いてきた場所に、今はとても深い思い入れみたいなものを感じる。その不思議な思いをアタマの片隅に置きながら、苔庭にゆっくりと目を遣ったりする。

老若男女が、それぞれの体力に合わせながら歩いている。娘と母親、孫娘と祖母、そんな組み合わせをなぜだか多く目にする。

「私はここまででいいから、アンタ行っておいでや」そんな会話が耳に届く。

先に書いた御手洗池に下ると、若い家族とその父親の母だろうか、後から追うようにしてやって来た。母親が息子の家族にこの池から龍が出てくるという内容の話を始め、息子夫婦が石段をさらに下りて、丁寧にお祈りを始めた。

言葉から地元福井の人であろうと推察し、彼らが去った後、じっくりと合掌した。

平泉寺は今、大規模な発掘調査を進めている。これらが日の目を見るようになれば、さらに一層この一帯はとんでもない歴史的遺産になる。すでに発掘の見学もできるようになっていて、先が楽しみだ。前日に開館した「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」の展示の仕事にも少しだけ関わり、この地への愛着も倍増した。

かつて、某シンクタンクに片足の膝ぐらいまでだが入っていた頃、富山には立山博物館があるのに、石川には白山博物館がないことについて提言したことがある。石川県の人たちと、富山県の人たちでは山に対する思い入れが全く違う。富山の人たちは、山としっかりと付き合っている。そう思っていた。提言し、たしかにそこから何かが生まれたが、白山に関しては福井県側の方が深いのかも知れないと思った。

平泉寺に行くようになってから、そのことを強く感じていたのだ。

今はもう世界遺産登録への夢も、そう遠くないような気がする。ただ、我がままを言わせてもらえば、あまり大きな存在にはなってほしくない。

入り口の茶店で買ったあんこの入った餅を、「まほろば」の外のテーブルで食べた。勝山市役所の横の店で、ソースかつ丼とやまかけそばも食べた。

それなりに美味であった……

石動山。かつての記憶

 かなりの久しぶりさで、石動山(せきどうざん)に行ってきた。

 中能登町の仕事に関わることになりそうなので、記憶の財産を再確認しておこうと思ったからだ。

 初めて石動山に上がったのは、今から二十年前だ。

 当時まだ合併する前の鹿島町からの依頼で、標高565mの頂上下に造られた「石動山資料館」という小さな展示館の仕事をしていた。

 役場での、資料や展示の企画などの打ち合わせはよかったが、一旦山に上がると、なかなか飲料も食料も手に入らないから、途中の「すしべん」で買い出しをし、山に入る。それがまたそれなりに楽しかったりした。

 六月初めの、暑い日の昼前だった。

 途中で敢えて鹿島バイパス(現在の国道159号線)を離れ、元の国道である道(現在は県道)に入った。

 この道は前からずっと好きで、宿場町的な匂いにはかなり惚れ込んでいたのだ。

 家々の佇まいや樹木にも趣があるし、道の緩い上り下りやカーブなども、たまらなくいい気分にさせてくれた。

 合併して同じ中能登町になったが、JR線を挟んで海側になる旧鹿西町(ろくせいまち)や鳥屋町などでも、現在の幹線道を離れ、旧道に入れば、見事な佇まいの家々や寺院があったりして驚かされる。

 はっきり言って注目度としては低い中能登町だが、こういった素朴な風景を財産として活かしていけば…と、考えてしまう。

 話がそれたが、今回も二宮という地区にある入り口から上がった。

 この道はいきなり、ダンプカー群との遭遇を覚悟しなければならない課題をもつのだが、正式な入り口なので、そこは我慢して行くしかない。

 入り口に立つ石柱は、金沢長町に資料館がある前田土佐守が建てたものと後に聞かされた。よくクルマが当たるのか傷の修復跡が生々しい。

 ダンプカー群から解放されて静かになったと思っても、油断はできない。

 雑草で幅が狭められた山道をひたすら走って行く。交差はかなり厳しい。前に来た時よりも雑草の処理がされていないと感じる。

 そのことも後で以前行われていた「石動山マラソン」が廃止となり、除草も行われなくなったからだと聞かされた。

 実は昔からこういう道を走ることに慣れていたが、二十年前の仕事の時には、応援を頼んだ若手社員たちが来るのを嫌がった。

 それはこの道のせいだった。特に初冬の雪の降り始めの頃には、かなりの危険度もあって、こっちも気を遣った。

 しかし、あの当時は除草がされ、道もすっきりとして今よりはかなり広く感じられたのだ。今だったら誰も来てくれないかも知れない。

 先に言っておくと、今はこの道を使わなくても鹿島バイパスのアルプラザのある交差点を金沢方面からだと右折して真っ直ぐ氷見方向へ向かうと、途中で石動山への道が左に延びている。

 決して近いという雰囲気ではないが、今であれば緑がふんだんの景色もきれいだ。

 山頂への歩道の入り口に立つ「石動山」と彫られた石碑の横を通り過ぎ、伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)の碑が立つ前の駐車場にクルマを止める。

 一帯の美しく整備された姿は、二十年前から着々と進められてきたものだ。

 初夏に近い日差しが、石動山を被うブナの緑を輝かせている。

 久しぶりに来たぞという思いが、自分を少し煽っているのが分かる。

 さっそく、伊須流岐比古神社の石段を上った。

 夫婦だろうか、スケッチブックを広げた二人が何か話をしながら、奥の拝殿に向かって手を動かしている。挨拶すると、にこやかに二人が言葉を返してくれた。

 さらに広い素朴な石段を上ると拝殿だ。真上から陽が差しこんでいる。

 この薄暗さと明るさのコントラストが、かつて写真撮影の時にはカメラマンを困らせたことを思い出す。

 ぐっと気持ちが引き締まったところで、拝殿の裏側へと回った。

 ここはある意味、石動山の歴史の酷さを伝える場のように感じられるところで、薄気味悪いが、どうしても見たいと思ってしまう場所だ。

 奥に大師堂跡の白い木柱が立つ。しかし、その周辺には崩れた墓石や、首がとれた石仏が並ぶ。いや、それらも倒れているものの方が多い。

 まったく廃墟の様相を呈しているが、これらには手を付けないらしい。神仏分離令や廃仏毀釈の洗礼なのだろう。

 かつて、比叡山などと並び称された石動山の無言の抵抗のようにも見える。

 奥には五重塔跡を見下ろすが、戦国時代の戦火によって焼失して以来、その権威を恐れて再建されなかったということだ。

 権威を恐れたのは、この地を一旦滅ぼした前田家らしい。

 この火災で黒焦げになった建物の一部木材は、資料館に展示した。

 拝殿前に戻り、そこから日差しを浴びながら少し下って、大宮坊という大きな建物を覗く。

 前に来た時は、建築工事中だった建物だ。

 大宮坊は石動山の中心的な坊であり、寺務を取り仕切る役所みたいなところだったという。

 当時のまま、当時の大工の子孫によって復元されたということだ。

 「中へ、どうぞ」 奥から女性の声がした。

 出て来たT口さんは、石動山のボランティアガイドだった。

 山の下の二宮という地区にお住まいがあり、大宮坊で周辺の歴史などを伝える案内人をされている。

 かつて資料館の仕事をした者だと自己紹介し、T口さんからいろいろな話を聞いた。

 そして、二十年前、鹿島町役場の教育委員会に勤務され、資料館開設の担当だったY本さんが元気でいらっしゃることも聞いた。

 Y本さんというのは、当時のボクには不思議な人だった。自宅が資料館のすぐ近くにあり、先祖は伊須流岐比古神社の氏子か何かであったのだろうかと想像させた。

 しかし、T口さんから聞いたのは意外な話だった。

 かつては(といっても、いつ頃か聞かなかった)、この石動山に数十軒の家があり、大きな集落を成していたということだった。

 開拓民として入山した人たちのうち多くが山を去ったが、Y本家はこの地に残ったらしい。

 当然だが、今でも当時のY本さんの顔ははっきりと覚えている。

 T口さんと三十分近く話して、最後に資料館へ。

 外で犬と一緒にいた管理人の方に、中を見たいと告げ、受付で二百円を支払った。

 展示室は二階にある。上る階段の壁には、写真パネルが並ぶ。残念だが、当時と変わっているような気はしない。

 展示室の中も特に変わったという感じはなかった。

 T口さんから、能登半島地震の時に、展示ケースの天井が落ち、仏像の足元かが折れてしまったという話を聞かされていた。

 その仏像たちはケースの床に寝かされている。

 基本どおり、時代の流れを軸にして展示ストーリーを組んでいった当時のことが浮かんでくる。

 いくつもの財産があったはずなのだが、とにかく石動山から一旦離れていったものが多過ぎた。それと、あるモノ、そして帰って来たモノも、保存状態が悪かった。

 しかし、ここに展示されているものすべてに、明確な記憶があり、その手触り感などが蘇ってくるように感じた。

 学芸担当の方(残念ながら名前が出てこない)と一緒に書いた展示解説のテキストにも、強い愛着があった。

 とにかく、この場所での展示作業は楽しかった。結局、多く関わったのはスタッフ二人とボクだけだったが、毎日夕方になると、石動山を下りるのがいやになったのだ。

 一階に展示されている懐かしい地元の神輿に触れて、それからトイレも借りて資料館を出た。またぶらぶらと歩き出す。

 そう言えば昼飯をまだ食べていない…。

 時計は一時半を過ぎ、二時近くになっている。時間も計算せず、弁当も持たずに来るとこういうことになる。

 そんなことは、二十年前にはしっかりとアタマに入っていたのに、不覚にも第一回目に来た時と同じ過ち?をおかしていた。

 急に腹が減ってきた。駐車場に戻る。

 そして、最後に整備された公園の写真を一枚撮りクルマを走らせた。

 ほどなく、Y本さんの家の前を通過。Y本さんのお母上だろうか、畑で腰を折り、何か作業をされていた。

 その姿を見た瞬間、石動山に関するボクの中の記憶の財産が、完全に復活したような思いがした。

 そして、また中能登にやって来る機会をいただいたのだと思った。

 帰り道は二宮に下らなかった。なぜか、ゆっくりと走れる芹川に抜ける道を選んでいたのだ……

永光寺の開創七百年

羽咋市の古刹・永光寺(ようこうじ)が、開創七百年の特別拝観を始めた。四月一日から十一月末までの長期開催だ。

昨年の秋に訪れ、そのことは聞いていたが、二日土曜日の新聞にもちょっと大きく取り上げられていて、早速三日の日曜日に出かけてきた。

晴れてはいたが、風が冷たかった。真面目に下にクルマを止め、いつものように石畳の坂道を、まだまだ咲きそうにもない“千年桜”の枝先にちらりと目をやったりしながら歩いた。鯉たちが泳ぐ四角い池は、いつになく透きとおっていて、鯉たちも元気そうに見えた。花粉をいっぱい貯め込んだような杉たちの群れが不気味だった。

山門の下の急階段も、いつものように休息することなく昇った。いつもより息が切れてる気がしたが、空気が冷えているせいにして、仁王像たちと数ヶ月ぶりの再会の挨拶をする。そしてすぐに受付へと向かった。

いつもより高い拝観料を払い終えると、今説明が始まったばかりだからと奥へと案内される。一番奥の部屋の襖が開けられ、中に入ると先客が二組いた。

その奥に弱い照明の当てられた透明の箱が置いてある。その中にお目当ての「毘沙門天坐像」が見えた。既に説明は進んでいて、先客の四人は真剣にそれに聞き入っている。

毘沙門天と言うと、ボクにとってはすぐに上杉謙信が頭に浮かぶ。普通は立っているものだが、坐った毘沙門天というのは珍しい。それは永光寺を開いた瑩山(けいざん)禅師の意志が反映されたものらしく、実際に禅師が最初の一刀と最後の三刀を刻んだと伝えられているらしい。黒々としていて表情は見づらいが、凛々しい顔をしている。説明によると、全体の中で、顔だけが緻密に彫られているということだった。写真撮ってもよろしいんでしょうか?と尋ねると、撮影禁止という注意書きもありませんし、そっと撮ってもらっても構いませんよ的な言葉が返ってきた。ストロボをたかずに、少し離れてシャッターを三度だけ押した。七百年の歴史で初公開ということだった。

それから一旦外に出て、今度は廻廊の階段を上り、伝燈院で開山・瑩山禅師の坐像を見せていただいた。これも今回の企画だ。堂に入る前に小さな釣鐘があり、その鐘を先客の一人が撞いた。軽やかないい音だった。この鐘を鳴らしてから入る決まりになっているらしいのだが、そのことの説明がユーモアに富んでいて面白おかしかった。

瑩山禅師の坐像と言うと、実は輪島門前の総持寺で同じものを見たことがある。禅の里交流館の展示計画をやらせてもらっていた時、能登半島地震後の総持寺で秘蔵物の撮影をしたのだが、本堂にあたる場所の奥に並べられた坐像数体を撮影した。前にも書いたかもしれないが、蚊に食われながらの貴重な体験だった。言うまでもないが、総持寺の開創は永光寺の後であり、開山は同じ瑩山禅師である。ただ、寺宝の写真集で見たイメージと、今回遠目ながらも見させていただいたイメージから、やはり永光寺のものの方が立派に見える。ボクなりの素直な感想だ。

周辺を歩き、また部屋に戻って熱いお茶とお菓子をいただく。冷え切っていた身体に熱いお茶が沁みていく。 本堂にお参りし、帰り際に事務長さんに挨拶。はじめて名刺を交わした。総持寺関係の仕事の際、間接的にお世話になった話と、かなり前に羽咋市の観光の仕事で見学に来た話などを、今頃になって長々と説明させてもらった。向こうも驚いて、また資料を用意してくださるとのことだった。

お世辞抜きにして、ボクはこの永光寺の素晴らしさは絶対広く知ってもらうべきだと思っている。個人的にはひっそりと楽しみたい気もしているが、そのことをまた認識した日だった。今度は桜が咲く頃に来るかな…と考えながら、ゆっくりと石畳の道を帰路についた午後だった・・・・

永光寺と、今年初めてのどんぐり

大学の後輩に「明彦」と書いて「あきよし」と読む名前のやつがいた。初対面の人は必ず「あきひこ」と読んだ。ボクもそうだった。

 石川県羽咋市にある曹洞宗の名刹・永光寺。「永光寺」と書いていながら「ようこうじ」と読ませる。こちらも絶対的に「えいこうじ」と読まれる宿命にあるが、そうは読ませてくれない。しかもそのくせ、どれだけへそ曲がりな読み方をしようが、ボケて間違えたふりをしようが、絶対「ようこうじ」とは読めない。

永光寺と出会ったのは、今からちょうど20年前。地元羽咋市の観光サイン計画に取りかかった頃だ。当然「えいこうじ」と読んだ。さも当然のように、正々堂々と、自信たっぷりに「エーコージ」と読んだ。

そして、「ようこうじ」と読むのだということを知らされてから、いろいろと資料を調べていき、なんだか凄い寺らしいぞということが分かってくると、なぜか、「ようこうじ」と読む方が正しいように思えてきた。足を運ぶのが楽しみになった。

羽咋市内の、観光スポット評価のための見て歩きが始まった。羽咋市といえば、石川県で最多の文化財を誇るところであることも知り、なるほどと気多大社や妙成寺などの存在が頭に浮かんだ。しかし、名前も知らなかった永光寺の存在を教えられ、興味はかなり高まっていた。

 季節は、春と言うには暖かく、夏と言うには暑くない。かといって梅雨と言うには雨の気配は感じられず・・・、つまり初夏の日差しと爽やかな空気が、何とも心地よい頃だったように思う。

同じ羽咋市内にある名所、妙成寺などには観光客が大勢いた。観光バスが何台も入っていて、休憩所みたいなところも賑わっていた。しかし、永光寺にはボクとスタッフ、合わせて三人だけ。

どの辺りだったかは覚えていないが、駐車場にクルマを置き歩いた。たぶん、今の駐車場の位置と変わっていないだろう。国道159号線から山間の道に入り、意外にちょっと深く入るんだなと思い始めた頃に駐車場があった。クルマを降りて見上げると、木立の新緑が目を和ませてくれた。

しばらく歩くと、ここは凄いゾ…と、ボクの旅人エキスが波立ち始める。薄暗い登り道を、その先に何があるのか知らないまま歩いていくのは、奈良あたりの山寺に向かっていた時と似ていた。違うのは、そばに二人の連れがいるのと、一応仕事であるということ。それから着ているモノと履いているモノと……エトセトラ。

 山門を見上げる石段の、その手前にある小さな橋に立った時は、息を落として構えてしまった。写真では見ていたが、おお、こういう風にして迎えてくれるのかと嬉しくなってきた。石段を囲む木立ちも凛々しい。

急な石段を登り、山門をくぐって境内へと入る。仕事だ、と自分に言い聞かせる。まず挨拶をと思い勝手口のようなガラス戸を開けようとした。しかし、簡単には開かない。ようやく開いたが、中から返事がない。この大きな寺に誰一人いないのだろうかと不信に思ったが、しばらく待って諦めた。後で聞いたが、当時の住職さんは90歳を超える高齢とかで、かなり耳が遠くなっていたらしく、寺の管理もよくなかったらしかった。

寺は荒れていた。荘厳なイメージこそしっかりと残っていたが、視界に入ってくるものは、かなり傷んでいた。ベースにあるものを知っているから、ついつい舌打ちしてしまう。凄い寺なのに、なぜこんな状態になっているのだろうかと勝手に怒ったりもしている。

後日、市役所の担当の方に永光寺で感じた凄さを語った。まったく知らなかった存在。あの場所に、あのような寺があるという意外な事実がまた心を動かしていた。

市の担当の方に提言して、モニター調査をやりましょうということになった。ボクの周りにいた何組かの家族やカップルや個人、それにその頃いろいろと付き合っていたアメリカ人とドイツ人の友人のグループにも頼み、羽咋へ出かけてもらうことにした。

その結果は、妙成寺や気多大社、千里浜などと並んで、永光寺が最高得点のグループに入っていた。中には、永光寺を最高の場所として位置づける人も何人かいた。敢えて事前に永光寺について宣伝しておいたわけではなく、その結果にボク自身も驚き、納得した。

それからボクはそのことをまとめたレポートを書き、市役所に出したのだが、永光寺については寺としての歴史的価値だけでなく、周辺の自然と一体化した魅力について書いた。簡単なレポートだったような気がするが、その頃のボクは「法皇山古墳…」の話でも書いたように、自分自身の提言など具現化するものとは思ってもいなかった。だから、それなりに自分の理想みたいなことを、それらしく書いていた。

 ところが、二年ほどの羽咋における仕事が終わってからすぐ、永光寺周辺を整備する事業が始まっていた。国と県と市とが一緒に行う、かなり大きなスケールの事業だった。それから後、永光寺は今のような美しい姿となった。いや取り戻したというべきか…。単にタイミングが良かったのだろうが、ボクの考えもそれなりに活かされたのかも知れなかった。そして、美しい風景などに囲まれた歴史的な場所(法皇山古墳もそのひとつ)などは、周辺に魅力を付加することがいかに大切かということがよく分かってきた。

10月の中旬、いつもの富来行きの帰り、久々に永光寺に足を伸ばしてみた。約2年ぶりだったろうか。

午後の遅い時間でもあり、下の駐車場は空っぽだった。そのまま境内の近くまで登っていくクルマも多いから、寺には先客がいるかもしれないが、やはりウィークデーのこの時間ではあまり人はいないだろうと思った。

 まだまだ周辺の木々の紅葉は早い。しかし、空気は十分肌寒さを感じさせた。いつものように石柱を過ぎて中道門(ちゅうどうもん)を通り、ゆったりとした登り坂を歩く。相変わらずの静けさと薄暗さ、寺までの道はもうちょっと長くてもいいなあと、来るたびに余計なことを考えてしまう。

寺には一人だけ先客がいた。拝観見学というより、仕事絡みみたいな人で、座禅会の申し込みか何かの打ち合わせをしていた。

ボクも実はこの寺の魅力を何とか活かした催し(この場合短絡的にイベントという言葉は使わない)を、企画したいと考えている。京都で見た学生たちのまだ青臭い感性と、メチャクチャな体力と、奉仕精神いっぱいの意欲とが合体した活動をヒントに、借景とか目に見えない力みたいなものをテーマにした、大人にもグッとくるような催しをやってみたくなっていた。

 永光寺は、1312年の創建ということで、もうすぐ700年になる。詳しい話は置いとくが、とにかく来年の春から、永光寺ではその記念行事を行っていくらしいのだ。ボクが聞いたのでは、永光寺に残されている開祖などいくつかの名僧の坐像が公開される予定にもなっていて、実はボクはすでに一度拝見させてもらっているが、これは必見の価値がある。

ところで永光寺と、旧門前町(現輪島市)の總持寺とは同じ僧によって開かれており、歴史も同時期になる。かつて總持寺に関する仕事(禅の里交流館)をさせていただいた時、地震の被害が生々しい法堂の奥にある坐像の撮影を依頼された。狭くて真っ暗な空間に照明を持ち込んで、蚊に食われながらの撮影だったが、ほとんど一般の人には目にするどころか、足を踏み入れることもできない場所に入らせてもらった。そこで見た坐像も迫力があったが、その原本が永光寺のものらしく、永光寺のものは總持寺のものよりも製作年代もかなり古いものだということだった。

 お茶とお菓子をいただきながら、そんな話などをしていると、寺を使った催しについての話にもなり、ボクは自分が思い描いていることなどを簡単に語った。かつて、荒れていた時代に訪れ、その凄さを感じた話や、ついでにボクが訪れた前年に映画のロケにも使われていたというエピソードなどについても話すと、奥から昔のファイルが出されてきて、これのことですねと言われた。観光資源として活用するのであれば、その時が大きなチャンスであったのだが、荒れた寺のイメージで使われたとしたら、あまりいいものになるはずもなかった。

地道に心に染みることをやっていくには、永光寺は非常にいい条件を備えていると、ボクは生意気にもそう思っている。

 ひとりでゆっくりと寺の中を見て回った。もちろん仏さまの前に座り手も合わせた。ちょっと贅沢な時間だった。

今度また、ゆっくり来させてもらいます。そう告げてボクは寺を去った。空が薄暗くなり始めていた。木立の中の石畳の道で何度も振り返った。20年前の時のことを思い出そうと、かなり一生懸命になってはみたが、全くと言っていいほど具体的なことは甦ってこない。もうそんなことはいいのではないか…と、もう一人の自分に言う。そうだな…と、もう一人の自分が答える。 寺務所の人たちとの語らいに何かを見出しながら、またここへと戻ってくる時が楽しみになってきたのだった。

 帰りの道すがら、夕暮れに目線を落として何かを探しながら歩く親子を見かけた。すぐにどんぐり拾いをしているのだと分かった。

クルマを停め、足を運ぶ。見事に美しいどんぐりの実が道端の草の上に落ちていた。小さな女の子が手にしたどんぐりを見せながら、母親に“ママ、ドングリ好き?”と聞くと、母親が“うん”と答える。その小さな女の子と目が合った。

“おいちゃんも、いい歳してドングリ好きなの?”と聞かれたらどうしよう…と、考えてしまう。しかし、女の子は聞いてくれなかった。“うん、大スキだよ”と、答える準備が出来つつあったのに拍子抜けだった。

今では、永光寺を「えいこうじ」と読むことはない。逆に「永」という字が出てきたときに「よう」という読み方が頭に浮かぶことがあるくらいになった。「えいこう」という言葉を思い描くときにも、「栄光」よりも「永光」の方が意味が深いようなイメージを持つようになった。

助手席に無造作に置かれたどんぐりたちを見ながら、そんなことを思い返す帰り道だった……