カテゴリー別アーカイブ: 能登のこと編

奥能登・珠洲でやってよかった

 

 奥能登・珠洲を舞台にした「奥能登国際芸術祭2017」。

 今も心に残る、ひとつのメッセージがある。

 旧飯田駅のホームに停められた貨物車両の中。

 うす暗い空間の壁いっぱいに埋め尽くされた言葉たち。

 どれもみな、力強く、あたたかく、やさしい。

    その中に…… 「また来ますね」。

 思わず足と、息が止まった。心が震えてきた。

 手書きの文字が踊っている。

 これを書き残していった人のことなどを考えた。

 そして、しばらく見つめ……、思った。

 やっぱり奥能登の、この珠洲でやってよかったんだと。

 明日が最終日という、切なさがいっぱいに詰まった午後。

 誰もが、その切なさと淋しさを追い払おうとしている。

 見馴れた珠洲の風景が、今までとは違う風に揺れているように見えた……

 

 *これもよかった……

夏はいつも凄かったのだ。

*************************

金沢と能登をつなぐ「のと里山海道」が、

まだ「能登有料道路」と呼ばれていた頃の話だ。

終点穴水の少し手前で、道路上に光る黒い点を見つけた。

次の瞬間、その光る点は放射線状に広がったように見え、

すぐに弱い光になった。

バックミラーで後続車のいないことを確認すると、

ボクはゆっくりとブレーキを踏み、そしてクルマを停めた。

黒く光った物体は静かに、そしてかすかに動いていた。

クワガタだと分かるまでには、それほどの時間も要せず、

敢えて近づこうともせず、

その黒くて弱い光のゆっくりとした動きを見ていた。

夏は凄いなあ………

その時、そんな言葉がアタマに浮かんだ。

熱いアスファルトの上をクワガタが動いてゆく。

そのクワガタが、光を放っている。

そして、ボクはその光景を見ている。

その先には陽炎が、はっきりと目に見える。

額には、うっすらと汗がにじんでいる。

照り返しがきつい。

目をずっと開けているのは少しつらかった。

やっぱり、夏は凄いと思った。

そして、なぜか嬉しくなった。

足を開き、膝に両手をおいた。

熱くなったカラダが、またさらに熱くなっていく。

しかし、それを楽しんでもいる。

やっぱり、夏は凄いのだ。

夏の凄さが、静かにだが、ココロを躍らせている。

 

あれからもう何年も過ぎてしまった。

ただ、ずっと昔の、夏の一瞬がまだ生きている………

金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など

 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 

奥能登・珠洲蛸島を歩く

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奥能登・珠洲蛸島の入り組んだ町の中を歩いてきた。

暦で見れば秋も深まり、しかも能登半島の先端に近いとくれば、そぞろ歩きなどあまり適さないと思う人もいるだろう。

しかし、そんなことを言っていては能登の空気感は分からない。

粋がって言えば、これからが本当の能登の味が分かる季節なのだ。

と、やはり軽薄に粋がって言っているが、その日は特に肌寒さを感じることもなく、至ってのどかな、冬に向かう奥能登とは思えないほどの日であったことも事実だった。

クルマを旧蛸島駅前に止め、まず入っていいのかどうかさえはっきりしない、廃墟的なホームに出てみようと思った。

この小さな駅はかつての能登線終着駅だ。

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珠洲の街のはずれ(?)に、なつかしい黄色と黒の車両が置かれている場所があるが、この季節に見るとその姿はなんとなく哀愁を帯びていた。

ホームの方も今は当然草が伸び放題で、レールがその草の中から見え隠れしている。

しかし、その先に広がる畑地は、真夏、ここで下車した人たちの心を躍らせたにちがいないと思わせる広がりをもっていた。

この場所からは海は見えないが、海の匂いは十分すぎるほど感じられるからだ。

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詳しいことは忘れたが、蛸島(たこじま)という地名には、文字どおりタコにまつわる伝説があるらしい。

普通に考えれば、タコがよく採れたという話で済むのだが、人食い大ダコの話などもあって、やはりそうだろうなあと妙に納得したりする。

実は、一ヶ月ほど前、仕事で珠洲に来ていた。

そして、クルマで蛸島の町の中を慌ただしく見ていた。

もちろん初めてではなかったが、記憶に残っていた光景もほとんどなく、もう一度ゆっくり見ておこうと思っていたのだ。

駅舎の前から歩こうと考えていたが、クルマを港の方に運び、海辺から歩くことにした。

青空の中に白い薄い雲がたなびいている。

ゆるやかに、家々の屋根の上で踊っているようにも見える。

人の姿はなく、こちらも静かに細い道へと足を踏み入れてゆく。

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漁業や海運などでにぎわいを誇っていた雰囲気が漂い、立派な家屋の姿に目を奪われながら、知らず知らずのうちに先を急ぎたくなっていく。

今は閉められている風呂屋の玄関先に立つと、桶と手ぬぐいを手に、火照った顔付きで出てくる日焼けした漁師たちの姿が想像された。

流れが止まったような小さな川を渡ると、しばらくして勝安寺という寺のあたりに出た。

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一部に蔦が絡んだ廃屋の土壁に陽が当たって、一帯をより明るくしているように見える。

小さいながらも形のいい山門があり、その脇にこれも形のいい大木が立つ。

山門をくぐり境内に足を踏み入れると、のどかな空間が広がっていた。

再び山門をくぐって、そのまま直線的に高倉彦神社へと向かう。

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海沿いに建てられたこの神社では、日本遺産という「蛸島キリコ祭り」が行われ、能登で最も美しいと言われる16基のキリコが町なかをまわるのだそうだ。

そして、境内の舞台では、「早船狂言」という伝統芸能の披露も行われている。

境内のその先には草地を経て砂浜が見える。

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その先には当然日本海が静かに広がっていた。

この季節にしてはおだやか過ぎる海辺の気配に、ここが奥能登であるということを忘れるほどだ。

ぼーっと海を眺め、もう一度町の中の道へと戻り、しばらく歩いてから左へと折れた。

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このあたりの家並みも美しい。

空き地もそれなりに意味を成しているように思えてくる。

さっきの川をもう一度渡りながら、水面のおだやかさに、なぜか足を止めたりもしている。

この町の得体の知れない魅力(というと平凡だが)に取りつかれたか?

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それから後は、ただひたすら淡々と歩いた。

小さな家内工業の作業場があったりするが、人の気配には遭遇しない。

そして、それからしばらくして、ようやく狭い道端で午後のおしゃべりタイムを楽しんでいる、ややご高齢の女性二人組と出会うことになった。

夏であれば、もっとのんびりした空気感が漂っているのであろうが、暖かいとはいえ、やはり秋だ。

道端の段に腰かけている二人の姿にも、なんとなく少し体を丸める仕草が見える。

聞きたいことがあった。港の方に行く近道だ。

狭い路地は日陰になっていた。

「海はこの道まっすぐ行って、突き当ったら右やわ。それからはね……」

空き地を照らしている斜めの日差しが太陽の場所を想像させ、当然西の方向が海、つまり港の方になる。

女性は右に折れた後は、またまっすぐ行って、それから先はまた聞いてみてと言った。

歩いてゆくと、なんとなく日差しが明確になり、人に聞くこともなく海の方向が察知できた。

聞きたいと思っても、人影はなかったのだ。

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クルマを止めた辺りまで戻り、あらためて海の方を見る。

まだ十分に陽は差しているが、少し雲が出て、水平線から長く帯状に流れている。

船が係留されているところまで歩くと、わずかに風が冷たく感じられた。

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何年か前の夏、旧門前町の黒島という美しい場所で、能登地震によって傷ついた北前船主の館を復興する仕事に関わった。

仕事が終わりに近づいた頃の、暑い昼間、黒島の海に突き出た防波堤をずっと歩いてゆき、その先端あたりから黒島の町を撮影した。

そこは、かつて突然の嵐に見舞われ、海草採りをしていた地元の人たちが命を落とした場所だった。

海の中の岩場に供養碑が建てられていた。

そして、本当はそれを撮影するのが目的だったのだが、撮影後に見た陸地に広がる黒い屋根瓦の町に目を奪われた。

ただ青いとしか言いようのない空と、その下に広がる緑と、段違いに組み合わされた屋根瓦が美しかった。

海岸から数百メートルといった防波堤からでさえそうなのだから、漁から帰ってきた漁師たちが見る“自分たちの町”の美しさは格別だろうと想像した。

蛸島も同じだろう………

防波堤の先まで行く時間はなかったが、ほとんど波打つこともない港の水面を見ていると、気持ちが空白になっていくのが分かる。

それからしばらくして、蛸島の魅力とは何だろうか?と、俗っぽいことを考えている自分に気が付いた。

なかなか答えの糸口が見えなかったが、最近ちょっと、それらしき光明が見えてきた気がしている。

きりのない話だが、そんなことを考えてしまうのも、“日常の中の非日常的楽しみ…?” のひとつなのだ………

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語りながら自分を振り返る

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8月最後の休みの日、能登のN町U公民館で語る機会があった。

小さな会の少人数の場であったが、与えられたタイトルが男の趣味を云々というカッコよすぎるもので初めは躊躇した。

だが、地元の古い知り合い・Sさんからの要請でもあり、やらせていただくことにしたのだ。

かなり前のことだが、N町のあるプロジェクトに関わらせていただいた。その後、隣の町村と合併し町は大きくなったのだが、本質は変わっていないと思っている。

そのプロジェクトの時の町の担当者が、現在のU公民館長であるSさんだった。

静かに故郷を見つめる、素朴な姿勢が頼もしかった。

役場を退職後、今はあごひげを実にかっこよく伸ばし、渋みを増している。

U公民館は、図書館や観光情報センター、特産品の販売ショップなどが一体化された施設の一画を占める。

 

趣味の話など、ひたすらN居さんの好きなようにやってもらえたらいいんですよ………

最初に電話をもらった時、Sさんがそう言った。

そう言われても、戸惑うのは当の本人だ。

公的にはたまにやってきたが、私的一本でいいと言われたことはない。

たしかに公的にやっていても、終わる頃になると、私的な匂いに包まれていくというパターンもあった。

だが、私的でいいというのは、やはり申し訳ないというか……

最大の理由は、自分の“品質”で、そうした堅気の皆さんのお役に立てるのかどうかという疑問である。

かつて、“私的エネルギーを追求する!”などと吠えていた時代、周囲にいたニンゲンたちは、自分のことをそれなりに知ってくれていた。

だからそれなりに好きなようにやってこれたのだが………

最近、特に感じていたことがあった。

この雑文集を読んでいただいている人たちからの突然のメールなどに、やっぱり文章が自分の基本だなと思うようになっていたことだ。

できれば多くの人たちに読んでもらいたいが、それと同じように、自分でも死に近づいた床の中で、じっくりと読み返してみるのもいいなあと思うようになった。

とにかくなんだか急に、そして、おかしなくらいに「自分回帰」(大袈裟だが)みたいな思いが湧いてきていたのだけは事実だった。

そして、今回N町での話のテーマは、こうしたことに対する自分の気付きから始まったと言っていい。

このサイトの中にある「自記・中居ヒサシ論」という長文プロフィールの中から、わずかに話をピックアップし、仕事の上での「黒子」という立ち位置から離れた、自己表現の場としての「書く」という世界にのめり込んでいった経緯などを取っ掛かりにした(またややこしいことを書いている…)。

 

本題に入る前、「最近、自分という存在の、その一部を自覚させてくれる出来事がありました…」と、ややまじめに切り出す。

それは自分がかつて書いていた、稲見一良という作家に関する話に触れられた方からお便りをいただいたことだった。

素晴らしい経歴をもつその方からの言葉が、何か刺激のようなものをもたらしたように感じた。

稲見一良という作家に共鳴した自分の感性をストレートに理解してくれる人がいたということなのだが、その作家自身の、そして作品自体の魅力について、この雑文集の中以外で、あまり誰かに語ろうとしていたわけではなかった。

無理に「大人のココロ」を持とうとしていた少年が、そのまま中途半端な大人へと成長し、そして、さらにその中途半端さに磨きのかかった大人へとハマり込んでいく中で、初めて自分の中の「少年のココロ」に気が付く……

これは今の自分のことである。そして、そんな人生の機微(の一部)みたいなものを、稲見一良の作品は教えてくれていた。

そして、話は進んだ。

稲見一良だけでなく、辻まことや椎名誠、そして、星野道夫など…… 歴史や音楽などの世界と違ったカタチで、感性をぶるぶると震わせてくれた人たちのことを話していくうちに、どんどん自分自身も見えてくる。

その他のさまざまな物事に対して費やしてきた時間の話などを絡めていくと、自分自身を説明していくのは却ってむずかしくなるばかりだが、今自分の中に生きている人たちの話から、逆に自分が理解してもらえるということが掴めてくるのである。

そんな話をきっかけにして、黒子としてやってきた様々な仕事のことなどにも話が広がった。

自分では絶対に同一視したくなかったのだが、自分の中の私的エネルギーが、多分に仕事の取り組み方にも影響していたのは間違いなく、聞き手の皆さんも十分にそのことを感じ取ってくれたみたいだった。

いろんなことに興味を持ってきたが、行動という意味では何もかもが中途半端だったことは否定できない。

満足できたことは、まったくなかったように思う。

第三者に自分のことを語りながら、そのことを強く認識している自分自身がおかしくさえもあった。

そして、少年時代のことをただ思い返すのはノスタルジーだが、青年時代に考えていたことを振り返るのはまだいいのでは……と思えるようになっていると語った。

なぜなら、青年時代には少しだけだが、現実を踏まえた将来のことを考えていたからだ。

 

帰り道、美しい海の風景を見ながら、久しぶりにカラダの中がきれいになっていくのを感じていた。

もう残された時間は少ないし、エネルギーも乏しくなっていくばかりだが、昔の合言葉だった「ポレポレ」(スワヒリ語~のんびり、ゆっくり)という言葉がアタマをよぎっていく。

あの時代の自分が懐かしい………

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

能登黒島・旧嘉門家跡

 このエッセイを読んでいただいたという、北海道の方からメールが来た。

 お名前が嘉門さんと言って、詳しいことは全く分からないが、亡き祖父が旧門前黒島の出らしいとのことだった。

 石川からは鰊漁が盛んだった頃、多くの人たちが北海道に渡っている。

 実を言うと、ボクの祖父も北海道の海へ出漁し、それなりの規模の漁業をやっていた。

 門前黒島の嘉門家と言えば、ブリヂストン美術館の館長されていた嘉門安雄氏が有名だ。

 嘉門家に限らず、黒島からは優秀な人たちが多く輩出され、かつての天領、そして北前船で栄えた地域性を物語っている。

 今ある旧嘉門家(平成11年に町に寄付)の跡は、能登地震の後に火災で焼失したのを受け、トイレの付いたきれいな板塀で被われた駐車場になっている。

 かつては、一段高くなったところに蔵が並び、壮観であったと言われる。

 角海家の展示関係の仕事に携わっていた頃、旧嘉門家の一画に残された小さな庵のような建物の一室で、地元の人たちに昔の思い出などを語ってもらった。

 久しぶりに嘉門家跡に足を踏み入れ、石段を登ってみると、春の日差しを受けて海が柔らかく光っていた。

 通りかかった地元の人からも話を聞いたが、やはり黒島の文化の趣は他と異なり、今現在が何かもどかしいような思いにさせる。

 自分など考えても仕方ないことなのだが、やはりどこか寂しいのだ……

石川さゆりを、また聴く

  

 昨年暮れ、能登を舞台に作られた歌のことを知る機会があり、突然CDをもらった。

 その中で、坂本冬美の『能登はいらんかいね』と、石川さゆりの『能登半島』がとても印象に残り、特に後者については、ググッと迫るものを感じて何度も聴き入ってしまった。

 ボクのことをよく知っている人たちは、ボクが幼少より洋楽に親しみ、中学生の頃からは、ジャズ的音楽にハゲしく共感するようになったと認識している。

 なのになぜ、今更演歌の話題を持ち出すのかと疑問を感じられるかも知れない。

 しかし、さらにボクのことをよく知っている人たちは、かつて片町の「YORK」というジャズ喫茶で、閉店後、秘かに『津軽海峡冬景色』なる名曲を、名器ALTECが発する大音響とともに合唱していた(と言っても、マスターと二人でだが)という事実も、このエッセイ集をとおして認識されているはずだ。

 つまり、『津軽海峡冬景色』のシリーズである、この『能登半島』にボクが強く共感することには、深いワケとか事情とかもあったわけだ。

 デューク・エリントンが言ったように、世の中には、いい音楽と悪い音楽の2種類があり、今話題にしているのはもちろん前者の類の話なのである。

 さらに先に言っておくと、歌のタイトルや内容が能登を舞台にしていることとは、あまり関係はない。

 夜明け間近 北の海は 波も荒く

 心細い旅の女 泣かせるよう

 ほつれ髪を 指に巻いて ためいきつき

 通り過ぎる 景色ばかり 見つめていた

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 ここにいると 旅の葉書 もらった時

 胸の奥で何か急に はじけたよう

 一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり

 熱い胸に とびこみたい 私だった

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 すべて すべて投げ出し 駈けつける

 夏から秋への 能登半島

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 『能登半島』の歌詞である。

 作詞は、われらが阿久悠。作曲は、三木たかし。詩も曲も、素晴らしくいい。トランペットのかなり定番的イントロから入っていくが、それも何ら問題ない。

 そして、もちろん若き石川さゆりの熱唱には、ほぼカンペキにやられてしまう。

 歌詞にもだぶるが、たぶん、二十歳頃のレコーディングだろう。

 夜明け間近の海を見ている主人公は、上野発の夜行列車で金沢に向かったのだろうか。このあたりは、阿久悠作、まるで『津軽海峡冬景色』と同じだ。

 東京発だとすれば、ボクも経験があるが、親不知あたりの海を見ているに違いない。

 『津軽海峡…』の場合は、下りた「青森駅は雪の中」だったが、『能登半島』の場合は、夏から秋にかけてで、日の出は早いのだ。

 主人公は、十九歳。それまで恋を知らなかったが、つい最近になって恋を知ったらしい。

 この静かにサビに入っていく歌い方には、若き石川さゆりの健気さを感じる。

 二十歳とは思えない気持ちの入れ様と、そして歌の巧さだ。

 余計なお世話だが、今どきの安売り軽薄ジャズとは違う。

 ここで聴き逃していけないのは、歌の背景に流れる一本のバイオリンの切ない響きだ。

 1コーラス目では、なかなかキャッチできないが、2コーラス目ではしっかりとキャッチできる。

 そのことに気が付くと、思わず編曲者の名前を探したりする。

 そして、若草恵という男だか女だか分からない名前に戸惑ってしまうが、まあどっちでもいいやと早めに歌の世界に戻るのがいい。

 石川さゆりは、「あなた、あなた訪ねてェ、行く旅は~」と熱唱に入っていく。

 ここの聴きどころは、“行く旅は”のあたりで、行くの“ゆ”から“く”へと流れていく表現(歌唱)は、尋常ではない。

 文字化するのはむずかしく、強いて書けば“ゆ・くゅう”、いや“ゆ・ぅ・く”か?

 とにかく、“く”の後半の音(声)は、上下の歯を軽く閉じ、口ではなく鼻の中で響いているような感じなのだ。

 石川さゆりの歌への思いと、歌の巧さとが見事に合体していき、歌のチカラというものを体感させる。

 後半の歌詞は、阿久悠の世界に、石川さゆり自身が融け込んでゆくような切なさがたまらない。

 「一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり  熱い胸に 飛び込みたい 私だった…」

 「すべて すべて投げ出し 駈けつける  夏から 秋への 能登半島…」

 十九才の真っ直ぐな気持ちが、文字どおり真っ直ぐに伝わってきて、どうしていいか分からなくなり、つい周囲を見回したりする。

 そんなわけで、ボクは最近、出勤時クルマを出すとすぐにコレを三回連続して聴く。

 それから一気に、マイルスの60年代後半あたりに切り替えて、自分をクールダウンさせながら会社へと向かう。この切り替えがまた実に気持ちいい。

 少し偉そうなことを平気で言うが、演歌と言うよりも、世の中に流れていた歌を“流行歌”と呼んでいた時代の感覚は、実に日本人的な気がする。

 作家の五木さんや、伊集院さんもよく語っているが、この感覚をもう一度見つめ直す必要があるのではないかと思ったりする。

 切ないとか、寂しいとか、やるせないとか、そういったものをみんな忘れてしまったのだろうか。

 そこから、本当のやさしさとか思いやりとかが生まれてくることもあるのだということを、しっかりと知る必要がある。

 “情緒”というものなのだろう。

 そんな意味で、とりあえず、「石川さゆりを聴く」のである……

稲架木や、稲架のこと

 稲架木(はさぎ)というものに興味をもってしまった。

 先日、石川県立美術館で「村田省蔵展」を見てからだ。

 氏が絵の題材にされていて、その特徴的な姿が印象深く記憶に残った。

 稲架木は、文字どおり水田近くに並んで立つ。

 刈り入れの時、それらの幹に竹などが何段も組まれて、刈り取った稲を自然乾燥させる。

 ただ、その用途がない時は、当然普通の木として立っている。

 新潟の弥彦(やひこ)あたりに多く見られるらしい。

 機械化が進み、稲架もそのまま消滅していくみたいだが、氏の作品に描かれた、整然と並んで立つ稲架木の姿からは、自然と同化したヒトの知恵みたいなものを強く感じた。

 チカラの抜けた、まさに自然体の、自然的人工物。いや、人工的自然物と言うべきか?

 どちらでもいいが、刈取りが終わり静まり返った秋の夕暮れの風景や、雪が融けはじめた早春の頃の風景の中(もちろん絵の)にあると、稲架木たちはまるでオブジェのように、また生きもののように見える。

 絵を見ながら、自分がなぜ、こういうものに興味を抱くのだろうかという不思議な思いも重なった。

 そして、絵を見ているということを時々忘れ、旅をしているような想像が飛んだ。

 あれから数日が過ぎ、新しい年になって二度目の能登行きの日。

 もともと稲架木のようなものを能登でも見ていたような記憶があり、それらしき場所では目を凝らしてクルマを運転していた。

 そして、もう帰り道に入った旧門前から穴水へと抜ける道沿いで、それを見つけた。

 金沢を出たのが遅い時間だったせいもあり、仕事の合間では無理だろうと思っていたのだ。

 水田の奥の、杉並木に整然と横棒が組まれている姿はすぐに視認できた。

 道沿いと言っても、かなり奥。村田省蔵氏の絵にあった、弥彦の稲架木みたいなカッコよさはなかったが、一応稲架木形式である。

 もともとは防風のための杉並木だったのかも知れないが、低い部分の枝打ちをして稲架木として使っているのだろう。

 ところで、ボクの中にある稲架というのは、必要な時にちょっと太い木を立て、それに竹を這わしていくか、縄を結んでいくようなものだった。

 弥彦の稲架のように、木そのものが存在感を持っているものではなかった。

 考え方としては、非常に合理的なやり方であり、ごく自然な感じがする。

 能登の里山には稲架が年中建てられたままになっている風景が多く見られる。

 野菜などを干すためのものもあるみたいで、これらもなかなかの味わいを感じてしまう。

 風が吹こうが、雪が降ろうがといった感じで、田畑の道沿いに踏ん張り立っていたりする。

 別に能登に限ったものではないだろうが、里山系農村風景には欠かせない一品であり、文化的財産として大事に見つめてあげてもいいのではあるまいか?と、秘かに思っている。

 そんなわけで、突然こんなことを考えてしまうクセは今年も健在なのである……

捨てられない通行許可証

クルマのダッシュボードに取ってあった「通行許可証」。

日付は平成19年10月3日。

その年の3月25日に起きた能登半島地震で、しばらく陸の孤島となった、門前深見に向かうためにもらったものだ。

当時、2月から始めていた地元・總持寺の歴史などを紹介する「禅の里交流館」の仕事のために、深見の奥にある桜滝の撮影に行かなければならなかった。

地震発生から3ヶ月ほどは全く仕事が止まり、再開されると、一気に進めなければならなくなった。

国道249号線から鹿磯(かいそ)、そして深見に向かう道の崖は完全に崩れ落ちていた。

深見の住民たちは、地震発生の数日後に舟で脱出している。

そのことは、深見の人たち、特に老人たちの美しい地域愛と勇気を世の中に示した。

10月、大工事が行われていた。

“崩落”という漢字と、“復興”という漢字が頭に浮かんだ。

そして何よりも、工事にあたっていた人たちの意気込みが、車窓をとおして、はっきりと伝わってくるような気がした。

この「通行許可証」は、いつまでも処分できない。

多分、ずっと身近などこかに置いていくのだと思う……

石動山。かつての記憶

 かなりの久しぶりさで、石動山(せきどうざん)に行ってきた。

 中能登町の仕事に関わることになりそうなので、記憶の財産を再確認しておこうと思ったからだ。

 初めて石動山に上がったのは、今から二十年前だ。

 当時まだ合併する前の鹿島町からの依頼で、標高565mの頂上下に造られた「石動山資料館」という小さな展示館の仕事をしていた。

 役場での、資料や展示の企画などの打ち合わせはよかったが、一旦山に上がると、なかなか飲料も食料も手に入らないから、途中の「すしべん」で買い出しをし、山に入る。それがまたそれなりに楽しかったりした。

 六月初めの、暑い日の昼前だった。

 途中で敢えて鹿島バイパス(現在の国道159号線)を離れ、元の国道である道(現在は県道)に入った。

 この道は前からずっと好きで、宿場町的な匂いにはかなり惚れ込んでいたのだ。

 家々の佇まいや樹木にも趣があるし、道の緩い上り下りやカーブなども、たまらなくいい気分にさせてくれた。

 合併して同じ中能登町になったが、JR線を挟んで海側になる旧鹿西町(ろくせいまち)や鳥屋町などでも、現在の幹線道を離れ、旧道に入れば、見事な佇まいの家々や寺院があったりして驚かされる。

 はっきり言って注目度としては低い中能登町だが、こういった素朴な風景を財産として活かしていけば…と、考えてしまう。

 話がそれたが、今回も二宮という地区にある入り口から上がった。

 この道はいきなり、ダンプカー群との遭遇を覚悟しなければならない課題をもつのだが、正式な入り口なので、そこは我慢して行くしかない。

 入り口に立つ石柱は、金沢長町に資料館がある前田土佐守が建てたものと後に聞かされた。よくクルマが当たるのか傷の修復跡が生々しい。

 ダンプカー群から解放されて静かになったと思っても、油断はできない。

 雑草で幅が狭められた山道をひたすら走って行く。交差はかなり厳しい。前に来た時よりも雑草の処理がされていないと感じる。

 そのことも後で以前行われていた「石動山マラソン」が廃止となり、除草も行われなくなったからだと聞かされた。

 実は昔からこういう道を走ることに慣れていたが、二十年前の仕事の時には、応援を頼んだ若手社員たちが来るのを嫌がった。

 それはこの道のせいだった。特に初冬の雪の降り始めの頃には、かなりの危険度もあって、こっちも気を遣った。

 しかし、あの当時は除草がされ、道もすっきりとして今よりはかなり広く感じられたのだ。今だったら誰も来てくれないかも知れない。

 先に言っておくと、今はこの道を使わなくても鹿島バイパスのアルプラザのある交差点を金沢方面からだと右折して真っ直ぐ氷見方向へ向かうと、途中で石動山への道が左に延びている。

 決して近いという雰囲気ではないが、今であれば緑がふんだんの景色もきれいだ。

 山頂への歩道の入り口に立つ「石動山」と彫られた石碑の横を通り過ぎ、伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)の碑が立つ前の駐車場にクルマを止める。

 一帯の美しく整備された姿は、二十年前から着々と進められてきたものだ。

 初夏に近い日差しが、石動山を被うブナの緑を輝かせている。

 久しぶりに来たぞという思いが、自分を少し煽っているのが分かる。

 さっそく、伊須流岐比古神社の石段を上った。

 夫婦だろうか、スケッチブックを広げた二人が何か話をしながら、奥の拝殿に向かって手を動かしている。挨拶すると、にこやかに二人が言葉を返してくれた。

 さらに広い素朴な石段を上ると拝殿だ。真上から陽が差しこんでいる。

 この薄暗さと明るさのコントラストが、かつて写真撮影の時にはカメラマンを困らせたことを思い出す。

 ぐっと気持ちが引き締まったところで、拝殿の裏側へと回った。

 ここはある意味、石動山の歴史の酷さを伝える場のように感じられるところで、薄気味悪いが、どうしても見たいと思ってしまう場所だ。

 奥に大師堂跡の白い木柱が立つ。しかし、その周辺には崩れた墓石や、首がとれた石仏が並ぶ。いや、それらも倒れているものの方が多い。

 まったく廃墟の様相を呈しているが、これらには手を付けないらしい。神仏分離令や廃仏毀釈の洗礼なのだろう。

 かつて、比叡山などと並び称された石動山の無言の抵抗のようにも見える。

 奥には五重塔跡を見下ろすが、戦国時代の戦火によって焼失して以来、その権威を恐れて再建されなかったということだ。

 権威を恐れたのは、この地を一旦滅ぼした前田家らしい。

 この火災で黒焦げになった建物の一部木材は、資料館に展示した。

 拝殿前に戻り、そこから日差しを浴びながら少し下って、大宮坊という大きな建物を覗く。

 前に来た時は、建築工事中だった建物だ。

 大宮坊は石動山の中心的な坊であり、寺務を取り仕切る役所みたいなところだったという。

 当時のまま、当時の大工の子孫によって復元されたということだ。

 「中へ、どうぞ」 奥から女性の声がした。

 出て来たT口さんは、石動山のボランティアガイドだった。

 山の下の二宮という地区にお住まいがあり、大宮坊で周辺の歴史などを伝える案内人をされている。

 かつて資料館の仕事をした者だと自己紹介し、T口さんからいろいろな話を聞いた。

 そして、二十年前、鹿島町役場の教育委員会に勤務され、資料館開設の担当だったY本さんが元気でいらっしゃることも聞いた。

 Y本さんというのは、当時のボクには不思議な人だった。自宅が資料館のすぐ近くにあり、先祖は伊須流岐比古神社の氏子か何かであったのだろうかと想像させた。

 しかし、T口さんから聞いたのは意外な話だった。

 かつては(といっても、いつ頃か聞かなかった)、この石動山に数十軒の家があり、大きな集落を成していたということだった。

 開拓民として入山した人たちのうち多くが山を去ったが、Y本家はこの地に残ったらしい。

 当然だが、今でも当時のY本さんの顔ははっきりと覚えている。

 T口さんと三十分近く話して、最後に資料館へ。

 外で犬と一緒にいた管理人の方に、中を見たいと告げ、受付で二百円を支払った。

 展示室は二階にある。上る階段の壁には、写真パネルが並ぶ。残念だが、当時と変わっているような気はしない。

 展示室の中も特に変わったという感じはなかった。

 T口さんから、能登半島地震の時に、展示ケースの天井が落ち、仏像の足元かが折れてしまったという話を聞かされていた。

 その仏像たちはケースの床に寝かされている。

 基本どおり、時代の流れを軸にして展示ストーリーを組んでいった当時のことが浮かんでくる。

 いくつもの財産があったはずなのだが、とにかく石動山から一旦離れていったものが多過ぎた。それと、あるモノ、そして帰って来たモノも、保存状態が悪かった。

 しかし、ここに展示されているものすべてに、明確な記憶があり、その手触り感などが蘇ってくるように感じた。

 学芸担当の方(残念ながら名前が出てこない)と一緒に書いた展示解説のテキストにも、強い愛着があった。

 とにかく、この場所での展示作業は楽しかった。結局、多く関わったのはスタッフ二人とボクだけだったが、毎日夕方になると、石動山を下りるのがいやになったのだ。

 一階に展示されている懐かしい地元の神輿に触れて、それからトイレも借りて資料館を出た。またぶらぶらと歩き出す。

 そう言えば昼飯をまだ食べていない…。

 時計は一時半を過ぎ、二時近くになっている。時間も計算せず、弁当も持たずに来るとこういうことになる。

 そんなことは、二十年前にはしっかりとアタマに入っていたのに、不覚にも第一回目に来た時と同じ過ち?をおかしていた。

 急に腹が減ってきた。駐車場に戻る。

 そして、最後に整備された公園の写真を一枚撮りクルマを走らせた。

 ほどなく、Y本さんの家の前を通過。Y本さんのお母上だろうか、畑で腰を折り、何か作業をされていた。

 その姿を見た瞬間、石動山に関するボクの中の記憶の財産が、完全に復活したような思いがした。

 そして、また中能登にやって来る機会をいただいたのだと思った。

 帰り道は二宮に下らなかった。なぜか、ゆっくりと走れる芹川に抜ける道を選んでいたのだ……

能登の山里をめぐる道… 門前~富来~中島

「里山里海」という文字をよく目にするようになった。

しかし、この「里山里海」という表現があまり好きではなかった。

特に日本にはもともと「山里」という言葉があり、なぜ敢えて漢字をひっくり返しただけの「里山」という表現に変える必要があったのかと、ネーミング担当者にかなりハゲしく疑念を抱いたりした。

しかし、海と合わせた表現であることを考えた時、「山里海里」よりも、「里山里海」の方が響きもよく、特に、日本海に突き出た能登半島らしい表現かもしれないとも思えるようになった。

ただ、一つだけ言いたいのは、「里山里海」の響きでは、何となく能登の厳しさが伝わらないなと思うことだ。

そんなことはまあ置いておくとして、日本民俗学の今は亡き宮本常一先生の著書に後押しされながら、ボクは最近また、正しい日本の農村風景に思いを馳せたりし始めている。

いや、正確に言えば、これまで自分で感じてきたものを改めて整理し直そうとしている。

大学時代からだろうか、自分にはどうもそういう風景に弱い血が流れていて、車窓から見える風景にも、思わず心が奪われるといった傾向があったみたいだ。

そういった積み重ねが、どうも今頃ピークを迎えつつあるのかも知れないと思う。恥ずかしながら……

 

さて、能登の農村風景が日本の代表的な農村風景にあたるかどうかについては、大それたことは言わない。

しかし、単なる田園地帯の広がりとか、山深く高い山々に囲まれているといった感覚ではなく、能登の農村風景にはこじんまりとして心が通った素朴さがあり、それが独特の生活感などを生んで心を打つのだと思っている。

 

五月の下旬、輪島からの帰りに、旧門前町から山越えし、旧富来町に抜け、さらにまた山越えして旧中島町に至る道をクルマで走った。

一昨年前の夏から、このルートの一部を何度も走ったが、その時の感動は今は少し薄まりかけていて、さらに新しい刺激を求めていたのだ。

 旧門前町(現輪島市)の海岸線道路(国道249号)を折れて、仁岸川に沿いに山間に入っていく。

このあたりの海岸線の地区は横に伸びていて、奥行きはあまりない。すぐ後ろが高台だったり崖だったりもするが、この山間に向かう道は仁岸川に沿っていて、人家の集中する場所を通り過ぎても、その後方には広々とした水田地帯が広がっている。何度来ても、気持ちの良いところだ。

田植えを終えて水の張られた水田にシラサギがいる。

その姿が凛々しく、クルマを止め、助手席の窓を開けてカメラを構えた。

川にかかる小さな橋を二つ渡ると、道は二つに分かれ、右の方へとハンドルを切る。

しばらくすると、川は小さな渓流のような様相に変わり、木立の中に道が吸い込まれていく。

このまま道なりに行くと、馬渡という地区を経て、ひたすら旧富来町へと進むのだが、ちょっと脇道へとそれることにする。

舗装はされているが、薄暗く狭い上りの林道だ。あまりクルマが走っているとは思えない。

道はしばらくで鬱蒼とした木立を抜けた。立体的な大きな道路が見える。

ここで自分の居場所が分からなくなった。相変わらず地図など持ち合わせていない。カーナビなどは、仮に付いていたとしてもあまり役を果たさないだろう。

小さな道がカーブを描きながらの上りになり、大きな道路につながった。

狐に騙されたみたいになってクルマを降りると、大きな道路は上に伸びているが、バリケードで通行禁止になっている。

そして、自分が走ってきた狭い道は、大きな道路を突き抜けて脇へと上っていた。

その先に一軒の民家があった。こういう光景は何度か見たことがある。

昨年の夏、いしるを造る作業を取材した時、かつて出来立てのいしるを樽に入れて背負い、山を越えて売りに行ったという話を聞いた。

主に女性の仕事で、夕方に出て、翌朝届け先に着くのだと言われた。その時に、山の中に一軒だけぽつんとある家とかもあって、今から思えば大変な重労働だったという話だ。

今見えている家は、まだまだ近い方なのだろうが、さらに山深いところにもこういった家々があるのだろう。

それにしても、その一軒の家につながるための道の存在に、妙に心を打たれる。

そのまま道路を下った。また分岐があり、そこでもクルマを止める。狭い畑に、見るからに高齢のおばあさんが立って作業をしていた。

あのおばあさんは、この山間からどこへ帰るのだろう?

時間を考え、左に折れてさらに下っていくと、途中の水田横の斜面に夫婦らしき二人が座っている。

その様子が文句なしにのどかで、写真を撮らせてもらおうかとブレーキに足をかけた。しかし、タイヤの音に二人が驚いたみたいだったので、そのまま下ることにした。その日最大の後悔であった。

下った先は、さっき仁岸川にかかる二つ目の橋を渡って分岐した道につながっていた。

つまり、元に戻ったことになる。別に狐に騙されたわけではないのだが、思わず苦笑い。

傾斜の高台から眺めると、水田の先に家々があり、その先には日本海が見えている。

畦の草を燃やす煙がぼんやりと立ち、“日本”を感じる。実にいい空気感だ。

能登の農村と漁村とが共存する姿がここにあるのだと、妙に納得したりしている。

一旦下に戻り、分岐を今度は左折して上りに入った。

ここから馬渡という地区にある十字路までは、左手に広がる水田とその奥の小高い山の斜面が美しい。緑が圧倒的にきれいなのだ。

十字路の左方向は立派な道で、緩い上りだが、バリケードで一応通行禁止になっている。しかし、ちょっとだけ隙間があり、その間隔がいかにも「行きたい人は行ってもいいのだよ」と言った感じに見えている。

それではと、ちょっと百メートル ほど侵入してみることにした。

素晴らしい山里風景だ。西日が逆光的に差し込んでいて、水田に陽光が反射している。

この出会いには、大いに感謝だ。

戻って、十字路を直進してみると小さな集落があった。道端のおばあさんが何か作業をしているが、こっちには目もくれない。

さらに奥へと進むと、家は途絶え、狭くなった道は上の方へと延びていたが、犬を連れて散歩中のご婦人が下りて来たので、こっちも方向転換し、もとの道へと戻った。

自分がかなりの不審者に見えるであろうことは、当然自覚していたのだ。

十字路に戻り、左折して旧富来方面へと向かう。

すぐに窕(かまど)トンネルを抜け、道は徐々に上りの角度を強くしていく。

しばらく行くと、右手にまた一軒の家が見える。建物はいくつかあるが、住まいと作業小屋などだろうか。

今クルマを走らせているのは、広域農道の立派な道路だが、ここにもその家のための小さな道がついている。

広域農道を挟んで反対側の斜面には墓も建っていて、家と墓をつなぐ道が広域農道で寸断されている形だ。行き来は、農道を横切らなければならない。

去年の旧盆の頃、墓参りする人の姿を見た時に、なぜかほっとしたのを思い出す。

見下ろす水田と湾曲した小道が美しかった。

 

道路はすでに旧富来町に入っていて、栢木という地区で、右手の小山の麓に建つ小さな愛宕神社を見ながら下っていく。

神社の姿はずっとここを通るたびに気になっていて、雪融けの頃、思い切って境内にまで行ってきたばかりだった。

アップダウンを繰り返す。このあたりはかなり高品質な現代的道路で、歴史もクソもなく80キロほどでぶっ飛ばしていく。対向車もほとんどいない。

そして平地に下りてくると、貝田というあたりで左の道に入り、さらに進んだT字路で、また左に曲がった。

二台がやっと擦れ違えるくらいの道が山里風景の中に伸びている。

大きな寺と美しい家並みが連なる場所があった。

敢えて近寄らず、水田を挟んだ距離からじっくり眺めると、素晴らしくいい調和感に嬉しくなった。

ここもまた、なんと素晴らしい出会いなのだろう。しばらく右へ左へと歩いて移動しながら、眺めを楽しむ。

どんどん奥へと進むと、右手が緩い棚田。左手には平地に水田が広がっていく。ここでも一人のお母さんが忙しそうに田んぼの中を歩き回っていた。忙しない足の運びが、水を切る音でも感じられる。

陽が大きく西に傾き、水田を斜めから照らしている。

もう人家も見えなくなったので、途中で引き返すことにする。

戻って広い道路にぶち当たると左折。右へ行けば富来の中心部だ。

左折した道は、山の方へと向かっている。道なりに行くと、旧中島町(現七尾市)に通じる。

クルマから下りると、ちょっと肌寒さを感じるくらいになっていた。

かなり長い山道だと感じた。特にこれと言った特徴はないが、風景には素朴な空気と生活感が匂っていた。

あらためて広い水田地帯を見ていると、これが日本的な農村、山里風景なんだろうなあと思ったりもする。

 かつて、門前剱地・光琳寺のご住職で、歴史研究家でもある木越祐馨先生から、能登の山里について話を聞いたことがある。

その時先生は、今いる辺りの風景も能登を代表するものだと言われていた。

旧門前から旧富来や旧志賀、そして旧中島。さらに、かつて何度も訪れた旧能都町や旧柳田村、そして輪島や珠洲や内浦などの山里風景には、ほっとするというよりも、ハッとするといったものとの出会いを感じたりもする。

生活感覚は変わっても、やはり変わらないものはある。それは自然をベースにしたものだ。

しかし、過疎という不気味な現象によって、自然をベースにしたものたちが、何かに形を変えようとしているようにも感じる。

奥部で目にした、かつての水田の跡。道も、通るものがいなくなり、少しずつ土に被われ隠れていく。

自分の居る場所も、タイムスリップした後のように感じて怖くなった。

道が自然に消えていくというのは、恐ろしい。

単調とも言える道なりの風景。単調と思えるようになったということが、その中に溶け込んだということなのだろうと勝手に解釈する。

道沿いに立派な構えの神社があった。国指定重要文化財・藤津比古神社とある。

何気なくクルマを止め、境内に立つと、そこからも水田の眺望がある。

何があるわけでもないが、何かがある。何かがあるようで、何もなかったりもする。

人の生活というのは、本来そういうものだったのかも知れないとも思う。

時計を見て、再びクルマへ。太陽は山蔭に隠れようとしていた。

やがて能登有料道路の横田インターへと近づいていったのだ。次はどこへ行こうか……

 

 

雨の朝の山里の道・・・

前号の続きである。

つまり、羽咋の滝周辺で文化的匂いを嗅いでから、再び有料道路に乗ったのである。そして、しばらく走って今度は西山インターで下りることにした。

ここから志賀町を経て、輪島市へと向かう。

ちょっと前までの行政区分で言うと、志賀町から富来町に入り、門前町を経て輪島市に入ることになるのだが、今は表現があっ気ない。

どんなところでも小さな旅気分を味わえる…それが自分のやり方と、ちょっと自慢してきたのだが、最近のこのあっ気ない通過点の表現には寂しさを感じる。

まあ、そんなことはどうでもよく、とにかく西山で下りて、また国道249号線を北上。能登半島の外浦側を先端に向けて走るのだ。

途中で広域農道へと右折すると、その道は山間をひたすら真っ直ぐに、そしてアップダウンを繰り返しながら伸びている。

以前に『富来から門前への道1』、『・・・2』で書いた道だ。

あの日は夏真っ盛りで、山里はほぼ緑一色だった。

そのあとも何度もこの道を走ったが、ついこの前まで雪で被われていたのに、もうすっかり雪解けが進んで、北国の春らしき匂いさえ感じさせている。

山間に入り、しばらく走ると途中に小さな集落がある。水田を経て山裾にかわいい神社が見える。ずっと気になっていた小さな社だ。

思い切ってハンドルを切り、集落とは反対方向の細い道に入った。

すぐに道は行き止まりになり、小さな川に架けられた小さな橋を歩いて渡る。

愛宕神社と彫り込まれた真新しい石柱が建ち、社もそんなに古さを感じさせない。

すぐ背後が斜面となっていて、畑のようだ。以前に道路からこの畑を見た時、老婆らしき人影が立っていたのを思い出した。

誰かがいれば、それなりの物語も聞けるのであろうなあと思いつつ、そんなチャンスは滅多にないことも知っているので諦める。

いつものように、淡々とした立派な道路が申し訳ないくらいに延びていて、同じく申し訳ないくらいの少ない走行車両に恐縮しながら走る。

この高品質な道路が終わりに近づく頃から、この道中の本当の楽しみは始まる。

道のすぐ近くに三棟ほどの家屋が並ぶところがある。

金沢からの方向で言うと道の左手だが、山蔭にあるような感じで、逆走している時の方がはるかに見やすい。

この三棟はたぶん一軒の家の住まいやら小屋などではないだろうかと思うが、確認はしていない。

この家のある山間の小さな空間は、とても不思議な感覚をもたらした。

広域農道という近年整備された道路から見ていれば何でもない風景なのだが、この道路がなかった頃のこのあたりの風景とはどんなものだったのだろうと、想像を膨らませた。

昔(といっても、戦後までの話…)、旧門前の“いしる”売りの女の人たちが、山越えをして旧富来の山里にまでそれを担いで届けに行ったという話などは、この家を見ていると想像の中に具体性をもたらしてくれる。

そして、広域農道などという今風の道路がなかった時代の道はどうなっていたのだろうと、さらに想像の世界を大きくする。

去年の夏、旧盆の初めの頃に通った時、ある光景が目に飛び込んできた。

道路を挟んで、反対側のちょっと高台になった場所に、二つの墓が立っているのを見つけたのだ。広域農道は、家と墓とのど真ん中を通っていた。

キリコが下げられ、二、三人の人影が見えた。そこまで通じる小さな道らしきものも確認した。

広域農道がなかったら、家と墓は素朴に繋がっていたのだと思う。

それにしてもクルマのなかった時代の、この家の人たちの生活空間とはどんなものだったのだろう……?

広域農道が終わって、仁岸川上流の山村集落に来ると、夏は緑一色だった山間の水田も、今は雪解けの季節で、灰色の空を映し込んだりしているだけだ。

ここは何度も通り抜けたりしているが、正直言って、まだ人の姿を見たことがない。

水田で農作業をしている人の姿は遠目に見たことはあるが、道を歩いている人などはお目にかかっていないのだ。

夏や秋には道端にきれいな花も咲いたりしていて目を和ませてくれたが、今は色気のあるモノは何もない。

集落のはずれ、ちょっと下ったあたりにクルマを止め、仁岸川の橋を渡ってみた。

特に何があるわけでもないが、何となく地形によって変則的に作られた水田を見たくなった。

奥能登は今、千枚田をイメージシンボルみたいにして、里山里海なんとかに力が注れている。

しかし、ボクは奥能登の農村風景を語る時には、この場所のような風景を軸にするべきだなどと思っている。

古い話だが、都会のある小学生が、夏休みの宿題の図画で能登半島ドライブ旅行のことを描いたが、山の中に道路を一本描いて提出した。

先生はそれを見て、「能登って海でしょ。なぜ海で遊んだことを描かなかったの?」と聞いた。

そしたら、その生徒は「だって、ずっと山ばっかだったよ」と答えたというのだ。

その生徒にとっては、海よりも山の方が印象深かったのだろう。そんなこともあるのだ。

山ばっかりとは当然言えないが、能登は山間を経て海へ抜けるというか、逆に言えば、海岸線の漁村と山間の農村によって成り立っている文化をもってきたのだ。

ところで、ボクは「里山」という表現よりも「山里」の方が好きだ。

なんで今更、里山なのだろうか?と、首を17度ほど傾げてしまう。

たぶんその方がオシャレなのだろうが、本質を伝える言葉としては、山里にボクは軍配を上げる。人の生活を感じさせる響きがある。

 

小粒の雨が、またぽつりぽつりと落ちてきていた。

しかし、山肌からは、少し明るくなった空へと水蒸気が勢いよく昇っている。

山の世界では、これから晴れていく兆候だと教えられた光景だ。

ビギナーの頃、梅雨真っ盛りの剣岳登山で、川のようになった早月尾根の道を登りながら、虚しく聞いた思い出がある。

クルマを下りて、勢いを増す水蒸気たちを見上げた。

仁岸川を下って、日本海……。

しばらく走ると、いつもは堂々と聳えるはるか前方の猿山岬に雲がかかっていた。

まるで、日本海沖へと突っ走る蒸気機関車のようだ。

またしても、クルマを下りずにはいられなくなった……

 

(次号に、つづく)

雨の朝 小さな町にて

小雨の朝、輪島に向かってかなり早めに家を出る。

早めに出るのは、羽咋の滝町周辺に立ち寄りたいからだ。

八時前には完璧に羽咋にいた。そして、国道249号線を走りながらあるものを見つけた。

志賀町方面へ向かう右手、気多大社の上り口のすぐ手前あたりだ。

こじんまりとしながらも、堂々とした立派な山門が視界のほんの一画に飛び込んできた。

こういう時は、通り過ぎた直後にピーンと来るものだ。戻ってみよう…と。

ご存知の方も多いと思うが、石川県羽咋市というのは文化財の多いまちだ。

重要文化財の数では金沢より多く、石川県では最多を誇るのではなかったろうか。かつて羽咋の観光の仕事をしていた頃聞いたことがあるのだが。

そんな羽咋だから、これくらいの山門があっても不思議ではないと思いつつ、自分が初めて見るものだということにも、正直ちょっと驚く。

あとで地元の生き字引的ご意見番・F野K彦さんに聞くと、これは気多大社の随身門というのだと教えてくれた。

藩政時代の1787年、大工の清水次左衛門により建てられたものだという。

県の重要文化財で、「おいでまつり」という祭礼で、馬に乗った神主が、町を回った後だろうか、勢いよくこの門を走りぬけ大社に戻る。その際に近くの住民らが道路に塩をまき迎えるということだった。

それにしても、この辺りはやはり文化的匂いがプンプンする。

その門をじっくり見ていたら、藤井家にも久しぶりに寄ってみたくなった。

藤井家は、民俗学者・国文学者であり、釈迢空(しゃくちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった、折口信夫が一時住んでいたという旧家だ。もう空き家になってから久しいが、近くの親戚の方が管理されているという。

ちょっと前に新聞で紹介され、少しは名前が知れたかとも思うが、やはりまだまだ知らない人が多いだろう。

正直、折口信夫自身に強く惹かれているわけではないが、周辺の空気や家そのものに興味がある。

いつもなら気多大社の駐車場にクルマを止めて歩くのだが、さすがに時間が乏しく、家の近くまでクルマで行かせてもらう。

狭い道に恐縮しながら、なんとかクルマを止め、開けられてある門から前庭に入った。

ここへ初めて来てから何年が過ぎただろうか。観光資源の取材で外観だけ見に来たのだが、その頃は大して評価していなかったと思う。

しかし、その後、小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)の話などを聞いていくうちに、それなりの価値観が生まれ、さらに地元のF野さんやO戸さんたちとの親交が深まるにつれ、藤井家の存在はぐっと身近なものになった。

貴重な資料などはほとんど残っていないらしいが、小林先生もその価値を認めていた。

藤井家を記念館的に開放活用しようなんて、そんなこと考えるのナカイさんぐらいだよと言われるが、暖かくなったら、中をゆっくり見せてもらうことにしており、三十年ぶりという先生もお連れするつもりだ。

いつもの滝町の方へと向かうことにして、再び国道に戻り、そのまま海沿いの道へと入った。

汐さい市場・滝みなとは、やはり開店前。

前日、O戸さんから九時開店と聞いていたので諦めてはいたが、何となく店の前にクルマを止めて、漁港の方を眺めたりした。

一宮の海岸も静かだった。まだ小さな雨が落ちていたが、波は穏やかで、地元の人だろうか、傘をさした男の人が独り砂浜を歩いていた。

もう一度、汐さい市場・滝みなとへと行ってみたが、まだ九時までには時間があった。

有料道路に戻り、しばらく走ると雨も完全に上がっていた……

(この続きは、次号に…)

じっくりと能登に浸る

二月だというのに日本海は穏やかに凪いでいた。

能登有料道路をM子Kタローの運転で、まずは志賀町へと向かっている。

助手席に乗って、ゆったりと凪いだ海が眺められるのもいいものだ。

久々の能登半島・ヒトビトめぐりだ・・・・・・。

志賀町は、いつもの図書館へ行き、これまたいつものM・Kコンビと打ち合わせ。

図書館は今一部改装中。隣の文化センター二階に仮設図書館が開設されていて、まずそこへと向かう。

事務所は三階にあり、Mさんこと森さんと、Kさんこと金井さんがいた。温かいコーヒーと小さな大福がお盆に入れられて出てきた。大福がかなり美味い。どこに売っているんですかと聞いてみると、かほくイオンと言われてちょっと拍子抜けした。

ここでは三月二十七日の再開に向けて、二階に開設するギャラリーのディスプレイなどをお手伝いする。

今までの企画展的活用ではなく、今度は常設。志賀町が生んだ“イケメン画家”南政善の作品を掲示し、その人物像も紹介するのだ。

森さんの独壇場的企画に基づいて、ボクらはそのアシストをする。

現地で概要がつかめた段階で、ひとり改装中の閲覧室へと下りた。

誰もいない本棚の間をじっくりと歩いてみた。とてつもなく多いというほどではないが、それでもこれだけの本が周囲にあると、ちょっとした興奮に陥る。

気になる本があると、すぐに手に取ってみる。先が長そうだから、じっくりと読んだりはしないが、パラパラとめくっては次の本へと手を伸ばす。

途中でそんな読み方にも疲れてきて、最後は挫折。だが、贅沢なひとときだった。

昨年製作した、志賀・富来出身の文学者や芸術家たちのタペストリーも、今春から掲示していく。これはなかなかいいものだ。いい企画だったと自画自賛。

昼飯は、近くの温泉施設の食堂で手作り定食をと出かけたが、メニューを見て急遽変更。ボクにとっては昨夜と同じメニューだったからだ。M子Kタローはそれでもいいと言ったが、却下。そこからすぐの中華の店へと移動した。

ボクがチャーハン大と言ったのに、身の程知らずのM子Kタローはカニチャーハン大などをオーダーする。さっきの腹いせだろうか。それなりに美味かったが、店の中が寒いのにはちょっと困った。

再び能登有料に戻って、輪島へと向かう。羽咋あたりではほとんどなくなっていた雪だが、さすがに穴水から輪島にかけての山沿いでは多い。

輪島では漆器販売の「しおやす」さんへと顔出し。

しおやすさんも、春の完全オープンに向けて改装工事が始まった。部分的に営業しながら店のイメージを変えていく。

最初に提案させていただいてから五年がかりだろうか、ようやく一歩踏み出した感じだ。

ボクとしては、単に店を直すということ以上に、しっかりと見つめていきたいこともあり、これから夏場にかけての“店の顔づくり”みたいな方向を模索している。

輪島塗のことは、いろいろと勉強させてもらった。ボクなんぞ及びもつかないむずかしい問題もあるみたいだが、輪島には前向きなヒトビトもたくさんいて、それなりに面白そうだ。

店や作品(商品)についても、それぞれのスタンスで個性化が進めばいいのではと思う。

カニチャーハンが合わなかったのか、M子Kタローがしおやすさんのトイレに入ったきり出てこない。

スッキリした顔でようやく出て来ると、すぐに国道249号線を山越えする。門前黒島の角海家へと向かうのだ。

空は薄曇り。広々とした田園地帯が真っ白な世界に変わっていて目を奪われる。

道下(とうげ)あたりから目に入ってくる海も、見事に穏やかだった。

角海家の前で、保存会のK端会長と今年初めてお会いした。取材の打ち合わせ中みたいだった。

中に入ると、YさんとKさんがお留守番中で、Yさんが広間にお雛さんが飾ってあるよと言う。

さっそく上がらせてもらい、拝見。昭和初期に作られたという、まだ不完全な雛人形たちだったが、それでも十分な貫禄を示している。

実は角海家には江戸時代に作られたものがあったらしいのだが、今は東京にあるとのこと。惜しいねえとYさんも話していたが、こんどの三月三日には、何か雛祭りらしい行事をやりたいと意気込んでいた。

Yさんがコーヒーを淹れてくれて、海の見える部屋の炬燵を囲み、しばらく「ふるさと談義」に暮れる。

昔の風習や、子供の頃の思い出話などを二人が語ってくれた。こういう時間を共有できるのがいい。

イベントをやろうという話も、少し具体性を帯びてきて、二人の表情も明るい。

まだ暗くならないうちにと、角海家を出たのが四時過ぎ。海は相変わらず見事なくらいに静かで、深見という入り江の地区に回り込む岬も、くっきりと浮かんで見えていた。

 

旧門前町剱地から、仁岸川に沿って山道に入る。いつもの富来へと抜ける道。

雪は道にまだ残っているだろうが、せっかくだからと行ってみる。

運転手のM子Kタローが、山の深さに驚いたりビビったりしながらクルマを進める。アイツも能登の山里の魅力が少しは分かったことだろう。

羽咋・滝のロードパークに寄って、久しぶりに夕陽がきれいな田園風景を見た。葦が逆光に映えている。

Nikonを持ってこなかったのを後悔しながら、CONTAXで撮影。先着の若い女の子もひとり、小さなデジカメを構えていた。

汐風の市場・滝みなとにO戸さんを訪ねる。

時間は五時過ぎ。マスクを付けていたせいか、入ったすぐには気が付いてもらえなかった。

柿木畠ヒッコリーのM野さんが、先日わざわざ自宅まで届けてくれた油揚げがあったので、豆腐と薄あげと一緒に購入。

志賀町の豆腐屋さんが一旦店じまいしたということだったのだが、体調を壊していただけで再開したとのことだった。その話を聞いたM野さんが、わざわざすぐに買いに来たというのだ。そして、我が家にもおすそ分けしてくれたのだ。

M野さんも相変わらず、凄いリアクションだと嬉しくなった。

O戸さんから面白い話を聞いた。それは何と海水が売れているということだった。滅菌した滝の海水が、いろいろな用途に使われ始めたらしいのだ。

少しだけ飲ませてもらった。子供の頃、ゴンゲン森の海で思わず飲んでしまった、あの時のような濃い塩の味がした。風邪の予防にもなりそうだった。

そして、その水を利用したカレイの日干しも買った。手触りがソフトで新鮮な感じのする日干しだった。(タイトル写真)

今流行の「塩糀」も売れているらしい。海藻なども滅菌海水を使って新鮮な味で提供できるとのこと。それと前にも紹介したナマコもたくさんあった。

O戸さんも相変わらず元気で頼もしい。ズシリとした大人の雰囲気と、少年のような探究心が同居していて、ついつい話に引き込まれていく。

何よりも、地場スタンスであるところがボクは好きだ。

夏にはこの港周辺で何かイベントらしきことをやりたいと、以前から話し合ってきた。何とかサポートしたいと思う。

もうすっかり夕暮れだった。湾の中の水面はまったく波を立てていない。

こんな静かな海も久しぶりやわ…とO戸さんも言っていた。

長いようで短いようで、短いようで長いような・・・そんな一日が終わろうとしていた。

明日は早朝の電車で東京だ…。だが、とりあえず今夜は、今日のいろいろな出会いの余韻にひたることだけ考えよう…ということで、O戸さんにも「頑張ってください!」と声をかけて去った。

みんな、頑張ってるんだなあ……

能登の山びとの一端を知る

『山に生きる人びと』(民俗学者宮本常一著)。

少なくともボクにとって、この本には、人が山とのつながりを作っていった、さまざまな過程がきめ細かく紹介されていて、ぐんぐん引き込まれていく魅力がある。

信仰、狩り、杣から大工、そして木地、杓子・鍬柄づくり、落人村、鉄山師、炭焼き、などへと、人が山を仕事の場にしたり、生活の場にしていった話は尽きることがないみたいだ。

普段何気なく見ている山里の風景の中にも、そういった時空の匂いがプンプンしている。

山は動かないし、それほど大きく形を変えることもないから、平凡にも見えるが、そうであるからこそ、心を静かに燃え上がらせるパワーを感じる。

ところで、この本の中に、わずかなスペースしか割いていないが、石川県能登半島の南山というところで聞いたという話が記されている。

それは、近くの山で鍬の柄を作るための木を探し、それを売ってわずかな現金収入を得ていたという人たちの話だ。

 

『…… そこは貧しい村であった。生産力が低いからである。一年間かかって適当な木を見つけてつくっても、二〇〇本をこえることはむずかしかった。それを一年に二回ほどひらかれる海岸の正院の市へ持って売るのだが、それが一年中の主要な金銭収入だったのである。生産力の低さのためにろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋に入れてたいていると隣りの家からやってきて、

「ブリの匂いがするが、ブリの頭を買ってきたのか、一とおりダシを出したらかしてくれまいか」

とたのむ。するとその頭を隣家へ貸してやる。隣家ではそれをおかずのなかに入れてたく。その匂いをかいで、そのまた隣りの者が借りに来る。そうして三軒もの者がブリの頭をたくと、頭はこなごなになって骨だけがのこったものであるという。魚を食べるといってもその程度のことが一ばんごちそうであったという。……』

 

いつ頃取材された話なのかは、詳しく読みとれない。

しかし、この本は1964年に刊行されており、1907年生まれの宮本常一がずっと取材調査してきたことが綴られているわけだから、明治以降、戦後のことと言ってもおかしくはない。

鍬は今でこそ鉄の刃(正式には、床と呼ぶらしい)が付いていて当たり前だが、鉄が貴重な頃は、木の板が普通だった。

この話に出てくる鍬というのも、まさにそれなのだが、面白いのは、木の枝が柄になり、その枝がくっ付いている幹の一部を削り出すことによって、そのまま鍬の形にしてしまうやり方もあったということだ。

つまり、幹からいい角度で伸びている枝があったら、そのまま幹の適当な部分を抉り取り、枝も適度な長さに切って、それなりに処理をすれば鍬になったということだ。

ここに出てくる南山の人たちというのは、そのような鍬になる木を山から探し出し、市で年に二回ほど売っていたということなのだろう。

ところで、南山なのだが、これはボクの知る限りのことだが、現在の能登町、旧内浦町にある南山のことだろうと思う。

正院は、珠洲市正院のことであると思っている。

 

この本の中では、落人村の章の中に非常に面白い話があった。

特に、山里の奥にさらに小さな集落があり、その集落からさらに奥に一軒だけ家があったりするという光景は、ボクもかつて目にしたことのある不思議なものだった。

最近は、道路がやたらと多く造られ、そんな一軒家がその道路の近くになったりして不便さはなくなるケースもあるみたいだが、元来、そこにたどり着くには相当な時間を要していたはずだ。

そして、不思議なのは、そんな一軒だけの家は広い敷地の中で、大きな構えの立派な造りになっているということだ。

墓なども家から少し離れた場所にあって、小さな盆地状の土地が、静かな桃源郷のような印象さえ持たせたりする。

ボクは現実に、能登のそういう場所を知っているが、旧富来などの山中には驚くようなところがある。

昨年、旧門前で「いしる」を造っている人の話を聞いたが、昔は、いしるが出来ると、夕方背中に担いで山越えし、翌朝山中のお客さんに届けたという。

女の仕事であったというが、夜歩きとおして、旧富来の山中の集落に着いたらしい。

そこにも山中に一軒しかないお客さんの家もあったと聞いた。

詳しいことは分からないが、興味だけはひたすら湧いてくる。

 

かつて、富山の有峰の人たちの話を聞いたことがあるが、かなり次元を超えたものを感じた。

祖父が熊撃ちだったという人の話には、自然の中で生きるというよりも、自然に生きるという“生き方”を教わったような気がした。

ただ、言葉では理解できても、それ以上の域には当然行けるはずもなかった。

 

この本と対をなす『海に生きる人びと』という書が、同年に出されているらしい。

次は、それにチャレンジしてみようと思っている……

東京で志賀の油揚げを考えた

これは、東京・新丸の内ビルディング、通称「新丸ビル」の一階にあり、東京駅の煉瓦造りの建物を眺めながらコーヒーが飲める、天井が高くてガラス張りになった某カフェの中で走り書きしている文章である。

念のために言っておくと、東京駅の駅舎はまだ工事中で、仮設のプレハブや仮囲いで覆われていて、ほんの一部しか見えない。ただし、見えている部分はそれなりにかっこいい。

いつの間にか、このあたりはかなり歩き慣れてきた。さっきも道を尋ねられたが、なぜかすらすらと伝えられるから不思議だ。

一年に五、六回しか入らないであろうこの店も、陽の当たり具合とかが分かるようになっていて、直射日光を避けられる隅っこの席を確保したりする。

で…、ここで、東京駅前の人通りを眺めながら書くのは、石川県能登半島の志賀町にあった小さな豆腐屋さんがやめてしまったことについての、かなりセンチメンタルな雑感および雑想である。

なのだが…、本題に入る前に、やむなく不幸にもこのページへと来てしまった読者の皆さんのために、予備知識的な話をしておかなければならない。

(と、ここまで書いたところで約束時間となり、続きはまた後にする…)

 

(続きは、有楽町国際フォーラムの、だだっ広いカフェでとなった…)

それ(つまり、予備知識的な話)は、ボクがいかに豆腐屋さんの作り出す食材と親しく付き合ってきたかだ。

モノ心が付いた頃、ボクは自分の家の親戚に豆腐さんがあることを何となく知った。

それはUノ気という隣町にあり、歩いても走っても行けるところではなかったが、時々バスに乗って、母と出かけることがあった。

親戚はH田さんと言った。その家に着くと、ぷゥ~んといい匂いが漂ってくる。ボクはすぐにおろおろと豆腐づくりの現場をうろついたりした。

居間に上がると、お菓子が出ていたが、そんなお菓子よりも、店の商品の方に強く激しく魅かれていたのだ。

行くと、帰りには必ず新聞紙にくるまれ、さらにそれをビニール袋に入れたおみやげが渡された。

H田のおばちゃんが愛想よく笑いながら、母に渡すのだ。すると、母はすぐにそれをボクに回す。

それとは、油揚げだった。何度も書いてきたし話もしてきたが、ボクは小さい頃から、油揚げが大好きな子供だったのだ(小さい頃から子供だったというのは妙だが、ここは思い入れの強さが露見したということで理解してもらうしかあるまい……)。

その好きさ加減としては、たとえば正月のおせち料理に、我が家では油揚げが大量に煮られたが、その約九十五パーセントはボクが食っていた。おかずと空食いの比率は六:四くらいで、純粋に油揚げの味を理解していた証と言える…?

ボクは母から回された油揚げの入った袋を膝にのせて、バスの座席に座っていた。

ほのかな温もりはボクを幸せにしてくれた。が、大好きなあの匂いはすぐにバスの中に漂い始め、それがかなりの範囲に行き渡っているなと感じられた時には、ちょっと恥ずかしくもなった。

今何かに活かされているというものではないが、貴重な体験だった。

相変わらず前置きが非常に長いが、そんな油揚げ大好きニンゲンにとって、昨年羽咋市滝町の「港の駅たき」(当時の名)で見つけた一品の美味さは格別で、ボクの情報を入手した金沢柿木畠・「ヒッコリー」のマスター、M野K一さんが激しく反応したという話は、昨年の重大ニュースのひとつになっている。もちろんヒッコリー内部でのことで、カウンター席周辺で大いに話題になったものだ。

ヒッコリー・M野K一さんといえば、ご存じあの「大洋軒の焼き飯」を復活させた人だ。

人のやさしさと庶民の味に敏感なM野さんが、あの油揚げの味に飛び上がったのも当然で、それから何度も愛用のオートバイで風を切りながら(かどうか知らないが)、頻繁に出かけていたのである。

その油揚げこそが、志賀町の田舎にあった某豆腐屋さんで作られていたもので、材料も吟味されたいいものを使い、油揚げらしい素朴な風味を余すところなく出した絶品だったのである。

先日、「汐風の市場滝みなと」(これが港の駅たきの新名称)に立ち寄った時、棚にはその油揚げが並んでいなかった。

豆腐を入れる四角いビニール容器に、小さく三角に切った油揚げを無作為に入れたものだが、歯応え十分、口の中に残るあの雑然とした感触は、素朴な油揚げの象徴でもある。

厚揚げの方がもてはやされている今日(「こんにち」と読んでほしい))では、あの感触はなかなか味わいにくい。

棚になかったのを確認した時、夕方だったこともあって、もう売り切れたのだろうと普通に思っていた。

その代りに(でもないが)、地元の元潜水夫さんが目の前の防波堤付近に潜って採ってきたという「寒ナマコ」がバケツに入れて置いてあり、店のO戸さんとの話はそっちの方に多く時間を割いていたのだ。

そして結局、豆腐屋さん営業取りやめのニュースは、後日ヒッコリーで聞くに至ったのだった。

ボクはカウンターの椅子から落ちそうになった。

M野さんの話では、その豆腐屋さんは決して営業的に行き詰ったというわけではないらしかった。

もちろん生活に困窮しているわけでもなく、むしろ豆腐屋稼業は一種こだわりの中でやってきたものであって、原材料の確保などで無理があったのかも知れない。

ただ言えるのは、油揚げや豆腐を生活の中の大切な友としてきた者たち(たとえば、ボクのような)は、これから先一体どうすればいいのだろう…?ということである。

 

誰か志賀町で、あの豆腐屋さんのあとを継ぐような青年はいないだろうか?

青年でなくてもいい。オトッつァんでも許す。当然おっかさんでもいいのだ。

テメエがやりゃいいじゃねえかという人もいるかも知れないが、どうも朝早く起きれる自信がないし、出来たものをついつい摘み食いばかりしてしまいそうな予感がする。

ボクには豆腐屋になる適性はない…。食べる方の適性は完璧にあるが……

それにしても、あの油揚げがこの世から消えていくことは、能登の文化のひとつの損失である…と言えるかもしれない。

ボクの知る限り、穴水や輪島には、美味いいなりそば(うどん)を食べさせてくれる店がまだまだ存在しているが、どうも「いしる」などと同じように、自家製っぽさの風土が消えていきそうな危機感がある。

よそ者の、都合のいい戯言なのだが、なんかセンチメンタルなのである………

http://htbt.jp/?p=2558  「B級風景と港の駅の油揚げ・・・」

 

門前黒島で、いしるづくりを見る

 

朝九時、快晴。通い慣れた山里や海沿いの道を経て、また門前黒島へとやって来た。

クルマを角海家裏に止め、背伸びしながらまずは目の前の海に目をやる。猿山岬が鮮明に見える。先端の灯台も白く光っていた。

いつもお世話になっている黒島区長のK端さん宅へと向かう。相棒は学芸員・K谷だ。

歩き慣れた黒島の町中だが、すれ違う人の多さに新鮮な感じを抱く。といってもほんの数人のこと。朝だからだろうか。それとも秋になって過ごしやすくなってきたからかもしれない。皆さんが、おはようございますと、にこやかに声をかけてくれるのも嬉しい。

当たり前のことに気持ちがリラックスしてくる。

K端さんと行くのは、“いしる”を作っている作業場だ。ちょうど今が仕上げの段階で、瓶詰していく最終工程が見れるということだった。

K端さんから急な電話をもらってから、その日が空いていることにホッとして、他の予定は入れないようにした。

とてつもなく心弾む?仕事だ。角海家の蔵を紹介する映像システムに画像を補充するという重要な使命がある。

国道249号線、黒島は変則的な区域になっているが、国道の海岸沿いに、いしるや糠漬けなどを作る作業場が二軒並ぶ。大きい方の一軒はT谷さん、そしてもう一軒がその日お邪魔したSさんという作業場だった。

空気が澄んでいて空も海も青い。十月の下旬に入ったとは思えないほどの日差しもある。

クルマを降りると、すぐに独特の匂いが漂ってきた。外の窯に載せられた鍋から白い湯煙りが上がっている。

近付くと、匂いは明確に魚の風味をもったものと認識できるようになり、鍋で温められた液体の中から、アクのようなものを取る作業が続けられていた。

いしるについて今更説明する必要はないだろうが、この辺りでは、かつてほとんどの家庭で作られていたという。それぞれの家で特有の味があったとK端さんも話していた。

夏、黒島の老人たちに集まってもらい、昔の生活風景などを語ってもらった(その時の映像は角海家で見ることが出来る)が、この辺りのいしるの原料となるイワシに関する話は特に楽しいものだった。

その中でも“こんかいわし”の話には、老人たちの少年時代の思い出がいっぱい詰まっていた。

山へ薪拾いに行くのが仕事のひとつだったという少年たちは、目一杯詰め込まれたご飯に梅干しが入れられた弁当箱と、家で作った“こんかいわし”を持たされた。そして、昼どきになると枯れ枝などで火をおこし、その火で“こんかいわし”を炙ってご飯の上にのせ食べたという。

その光景を思い浮かべただけで、口の中に唾液が湧いてきて困った。

戦後すぐにはイワシの大漁が続いた。戦争から戻ってきた男たちはすぐにそのイワシを追って海に出た。浜辺にはイワシを捕る漁船が並び、大漁に沸いた。大漁は五年ほど続いたが、乱獲が影響したのか、そのままイワシ漁は終わりを迎える。

いしるは、イワシの最後のエキスみたいなものだ。新鮮で形のいいものは、当然そのまま食用となる。そして、少し傷のついたものはこんかいわしに加工される。さらにかなりひどい状態になったものが搾られて、いしるを出すのである。ついでに言うと、そのカスは肥料にもなった。

この作業場では、アクを取ってきれいになったいしるを、さらに布で漉(こ)し、それを一升瓶に詰め、出荷するという。一般の店には置いていないらしい。

訪れた作業場では、海外航路の船員を引退したKさんが一人で作業をしていた。すでに七十歳を過ぎているという。冬の寒い時季には腰を曲げたりしながらの辛い仕事だろうと推測でき、もう自分で終わりになるだろうという意味の話も聞かされた。

作業場は古い木造の建物だ。能登の大震災の時には激しいダメージを受け、修復のために長く仕事はできなかったらしい。

小さな電燈と窓外からの明かりだけが、作業場に生気を与えているが、その息を潜めた生気に逆にほっとしたりもする。

中で使われている樽やさまざまな道具類が、地道な仕事であることを物語る。こういう作業場でよく言われる菌の存在も、なるほどと肌で感じるほどだ。建物の梁や柱、そして積まれた樽などがナニモノかを醸し出している。

すでに新しい道具類で作られているところが多いらしいが、ここでは年季の入った道具が目立っていた。

 外に出ると、日差しが眩しかった。屋根瓦も太陽の光を反射している。その上の青空には、ぼんやりと月が浮かんでいる。

この辺りの砂浜では、かつて塩も作られていた。今は観光化された塩田が輪島と珠洲にあるが、とにかく海の恩恵を受けられるものは何でもやっていた…と、海浜植物で埋め尽くされた作業場の裏を見ながら、K端さんが話してくれた。

一時間近い取材を終えて、Kさんに礼を言う。次は冬の作業の取材をお願いしますと申し込むと、ああ、またどうぞと、Kさんは笑って応えてくれた。

 

K端さんのクルマで黒島の町中をめぐり、角海家へと戻った。

のどかそのものといった真昼の黒島。日差しを受けた古い町並みは静寂に包まれている。そんな中での立ち話は三十分ほど続いた。

話題は角海家を中心としたこの地区の近い将来のことなどだった。相変わらずむずかしい課題が待つ。K端さんと別れて中に入ってからも、角海家に勤めるY内さんらと同じような話題になった。

 

自分自身も、まだその考え方が整理できず歯がゆい。そして、その歯がゆさはどんどんエスカレートしていくばかりだ。

もう一度日差しの中に出て、いつものように角海家横の石畳の道を、海に向かって歩いた。腹が減っていた。

K端さんも帰り際に言っていたが、何となく “いしるの匂い”が鼻から離れなかった……

ススキの滝と、一宮海岸の夕焼け

羽咋市滝町から柴垣へ抜ける道沿いの田園地帯は不思議な場所だ。奥に見える日本海と、さらにその上に広がる空とのバランスが、切ないくらい?胸に迫ってくる。

ボクにとっては、どこかの島にいる雰囲気だ。北海道の微妙な記憶とも重なる。

夏は夏らしく、青々とした草原のような輝きを放って生気に満ちたいい風景なのだが、秋口もまた、ぐぐっとくるほどのシンプルないい風景を創り出している。特にススキが生い茂る頃には、どこか幻想的なムードも漂わせ、誘い込まれていくような感覚に陥る。

背景に海があるからだろう。

午後から輪島へと向かったある日の夕方、帰りも遅くなったついでに、無理やり寄ってみることにした。

柴垣の町を過ぎ、左手奥に妙成寺の五重塔をかすかに見ながら進むと、しばらくして右手がパーっと開放的になる。その開放的な空間が過ぎる頃に、国道から滝(海)の方へと下る狭い道があり、その道へと入っていく。

左手は滝の住宅地。右手は農地。右へ入る最適な道を探しながら、小さな道があるたびに覗きこむ。何本かをやり過ごして、田圃の方に伸びた狭い道にハンドルを切った。何が決め手だったのかは、自分でも分からない。

実際にその場へと入っていくには勇気が要った。道が農作業用の様相に変わり、轍(わだち)の中には雑草が伸びたままになっている。その辺りまでクルマを乗り入れると、ちょっとした緊張感も走った。

  クルマを下りて、歩いてみることにする。道沿いに揺れるススキは、ほとんどがボクの背丈より大きい。海に向かって真っ直ぐな道の果てには太陽がある。

その太陽の下で、日本海が光っている。昼間で時間があれば、この広い空間を歩きまわりたいのだが、ススキの穂が揺れ、今は妙に切なさも募ってきた。

クルマに戻り、すぐ横にあるポケットパークに入った。その辺りからの眺望もかなりいい。思い切って来てみて、よかったと納得している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのまま滝港口から海岸の方へと向かった。

ここまで来れば、やはり滝・港の駅に寄っていくのが正しい人の道だ…。

と思って、海岸線に出ると、海がまた激しく美しかったりする。

まずやはり、写真なのだ。このまま素通りするわけにはいかないのが、正しいカメラマンの道でもあることにする。

贅沢なくらいに大きな駐車場の、いちばん海に近いところにクルマをとめた。ここから見上げる空は本当に気持ちがいい。左右にひたすら広がっている。

  海に向かって歩く。海浜植物の中に漂流物が散在する砂の上は、革靴では歩きにくいが、そのうち植物も途切れると砂浜は急に歩きやすくなる。

ここはやはり、千里浜と同じような地質なのだろうか。気持よいくらいに弾力的な砂の感触が靴底から伝わってくる。

太陽がゆっくりと落ちていくところだった。すぐ沖にいる二艘のヨットも、ハーバーに戻ろうと向きを変え始めていた。

シャッターを押しながら、その度にふーっと息を吐く。波の音もほとんど聞こえないくらい穏やかな浜辺に、逆に息を殺したりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりの浜辺は、「一宮海岸」と言うらしいことが、近くの案内板で分かった。

今まで単に滝の海岸と言う認識でいたのだが、そのネーミングの方が何となくいい感じがしないでもない。そう言えば、近くの廃校になった建物も旧一宮小学校だったことを思い出す。

ほんのしばらくで、 二艘のヨットもハーバーの中に消えた。ひたすらとにかく夕陽を見るだけとなった。

風景が止まったように見えるが、太陽は確実に移動している。

水平線のオレンジ色も少しずつだが狭くなっていく。またしばらくして、駐車場の方に戻ることにした。

ふと足元を見下ろすと、砂の上に靴底の跡がくっきりと浮かび上がっている。さらに目を前に向けると、砂の上に長い自分の影も伸びている。

 クルマに戻り、あわてて港の駅へと向かったが、店の中の電気がぼんやりと弱い光を放っているだけだった。人影も見えない。

最近食ってない激しく美味な油揚げが、お預けとなって瞼の裏から消えていく。O戸さんの顔もしばらく拝見していない。

わがままで、人の道からはずれた自分を反省した………

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

富来から門前への道~その1

旧富来町から旧門前町に通じる道にはいくつかあるが、最も知られていないのが、今回のこの道なのではないだろうか…、と秘かに思い、嬉しくなった。

一般的に富来から門前への道と言えば、国道二四九号線だろう。能登観光のルートとしては、増穂浦から西海、ヤセの断崖などを通る道もある。このルートは観光用途であり、最終的に門前に入る時には前者と合流する。

旧門前黒島に堂々と復原された角海家の仕事のために、八月に入ってからもよく門前行きを続けた。始めの頃は、同時に富来というか、志賀町図書館の仕事も並行していて、富来経由門前行きというパターンも数回あった。

初めてこの道を走った日は、富来で行きつけとなった超大衆食堂・Eさん(前に正式名で紹介したような気もするが…)で、いつもの「野菜ラーメン」を、いつも付けている「おにぎり」を付けずに食べてから、ふと考えてクルマを走らせた。

いつも同じ道から門前へと向かっているが、たまには違う道から行ってみたいと思った。そして、ある話を思い出した。

それは角海家の仕事で地元の歴史・民俗に関する文章のチェックをお願いしている、門前のK先生が言われていたことだ。ボクが能登の農村風景が好きだと話していた時、先生が富来から中島(現七尾市)に抜ける道にある農村風景は、特に素晴らしいよと語ってくれた。ボクは門前もかなりいい線いっていると思っていたのだが、先生の言葉にはかなりの説得力があり、是非一度そのことの再確認に出掛けてみたいと思った。

再確認としたのは、何年も前にその道を走ったことがあったからだ。しかし、記憶には残っていない。多分行ってみると、懐かしさに心を震わせたりするのかも知れないが、どうもピンときてはいなかった。

実際に走る道は、中島へ抜ける道から門前の馬場・剱地方面へと分岐していくのだが、その雰囲気は味わえるかも知れない…と思った。それに新しい道というのは、知ってしまうといつも好奇心をくすぐる。さらに、ボクには特別な意味合いもある。

しかし、初めての日は慌ただしかった……

二度目は、富来を代表する超大衆食堂・Eさんが休みで、かねてより少しだけ気になっていた、町の中心部にある古い佇まいの大衆食堂(名前が出てこない…)で、「カツ丼」を食べてからクルマを走らせた。

古い佇まいの食堂では、テレビももうすでに地デジ放送になったのを知らないかのように、夏の甲子園をハレーション化していた。小さなお子さんたちにはかなり目に悪いのではないだろうかと思われたが、そんなお子さんたちがやって来るような店でもないからと安心して、「カツ丼」を注文。

玉子とじ状況が予想をはるかに超えるくらいに著しく過激な「カツ丼」が届いた頃には、ボク以外にまだ誰も他の客はいなかった。が、すぐに、一人また一人と入って来ては、それぞれが四人掛けのテーブルに一人ずつ座っていく。ボクが食い終わらないと、次に入ってくる客は相席となり、当然このままでは順番からしてボクの前に座ることになるであろう。そのことは明白だった。

ボクはそのような空気の中で、とりあえず普通にその「カツ丼」を平らげ、残っていたミョウガとアサリの味噌汁を飲み干して外に出た。素朴に美味かった。これだから富来は凄いのだ……。

味噌汁が効いたのか、汗が胸と背中に均等に流れ落ちていった。いや、どちらかと言えば、背中の方がやや多かったかもしれない。ゴツい造りの店内を見回し、店のお母さんに勘定を払う。“ありがとねェ”と親しみをいっぱいに感じさせる言葉が返って来た。

その言葉がエネルギーとなり、ボクは熱気ムンムンのクルマに乗り込んだ。そう言えば誰かが言っていたなあ。黒いクルマは熱いんだと……。でも仕方がないではないか。

今日は、あの道を究めよう。気温は三十五度近くまで上がっているに違いない。アスファルトが白く見える。

住宅地を抜け広々とした田園地帯に出ると、進行方向の低い山並みの上に見事な入道雲。その先端が、風に揺らされ靡いている。ゆっくりとした動きが感じ取れる。クルマを止めカメラを構えた。〈タイトル写真〉

トラックが通り過ぎていき、熱気が右から左へと移動していく。質量とも半端ではない。鼻のアタマがあっという間にヒリヒリし始めた。いきなりいい場面に遭遇できたことに嬉しくなった。

道は山越えバージョンに入って行く。

能登は海なのだが、能登は山でもある。今風に言えば、里海でもあり里山でもあるという優等生なのである。実はボクにはそのことに関して、ずっと持って来た自分なりの思いがあるのだが、今ここで書くかは分からない。なりゆきでいこう……

陸上をひたすら進んでいくには、真っ直ぐな道がいいに決まっている。昔は海運の発達で海辺にある村が発展するのだが、山里の人たちはそのような海辺の村に行くためにただ山道を歩いていった。

ただ、山道はときどきいくつにも分岐しているから、逆にいろいろな方向へと行けるメリットがあった。海沿いの道には全く分岐がないのを見れば分かるだろう。片側が海だから十字路など存在しない。

しばらく走ると、例えば北海道や信州の山道の何分の一かのスケールで、見事なダウン・アンド・アップの直線道が現れる。本当はカナダやアラスカなどの壮大な例えを出したいのだが、新婚旅行のハワイと万国博の上海しか行ったことのない、幅の狭いボクにはそんな例えが精一杯だ。

しかし、実に爽快なドライブ感覚でもある。下りはアクセルを踏まなくても一〇〇キロ近くまで出た。しばらくは人の生活感を全く感じさせない人工的な道が続いた。次第にあまりにも味気ないので退屈になる。対向車もかなりまばらで、沿線の草は伸び放題になっていた。

待ちに待った山里らしき気配、農村風景への期待が高まってきたのは、下りがずっと続いた後だった……

※後篇につづく……

門前黒島の 素晴らしき人たち

かなり性格が歪んでいたと思われる台風6号の影響が消え去りつつあった日。旧門前町(輪島市)黒島の空には、久しぶりの夏の青空があった。金沢は一日曇りだったり、雨もチラついたらしいが、ボクたちはとにかく汗を拭きながらの状況下で仕事に追われていた。

といっても、仕事は屋内での映像の収録で、まだ我慢のしようがあったが、午前午後合わせて五時間近く緊張が続いた。話していると唇が渇いた。話が面白くて、何度も仕事を忘れた。何度も書いている、「角海家」の展示に使う地元の人たちの思い出話を収録するという作業だった。

午前は男性六名、午後は女性五名。最高齢は九十歳、最も若い人で八十歳という凄まじい布陣だ。男性の部では後半から、女性の部は最初からとボクも直接参加してナビゲーター役をさせていただいた。高齢化が極端に進んでいる黒島には、その分元気な老人たちが多い。しかも、江戸時代は天領であり、北前船による廻船業で財をなした地域である。誇りもある。

廻船業の衰退後も漁業を続けたり、その子孫たちは働く場を海に求め、ほとんどの男たちは海外航路の船員となって広く活躍してきた。今回集まっていただいた男性陣も、角海家のご当主さん以外は全員そんな船員OBである。中には商船大学を出られ、大型船の船長をされていた方もいる。そういう意味で、その時語られていたことの多くは、黒島の“船員文化”みたいなものだった。

父親の背中を見、海で育ってきた少年たちにとって、海で働くことは至極当然のことであったろう。戦前から昭和の中頃過ぎまでは、給料も非常によかったらしく、家を長期にわたって留守にしながら、男たちは船の上で働いてきた。家には外国からの土産で買ってきた品々が今でも多く残っていると言う。

同じ旧門前町剣地という地区で住職をされ、今回の展示解説についてアドバイスをいただいているK越先生から、こんな話をお聞きしたことがある。

子供の頃に、黒島の子供が「ドックへ行く」というのをよく聞かされ、自分は船員の子供でなかったから、その子たちが凄く羨ましかったという話だ。ドックとは造船所のことだ。定期的に受けなければならない点検のために船は、そのドックへ入れられる。その間に船員である父親に会いに、横浜や神戸などの都会へ家族で出かけるという習慣があったというのである。

都会へ行くということは、よい洋服を着せてもらえる。美味しいものも食べれる。流行などの生活感覚も吸収する。特に黒島という地区は先にも書いたとおり、廻船問屋の子孫が多くいたりして気概も高かった。周辺の地区の人たちもそういう目で見ていた。

今回集まっていただいた人たちは、そういう意味で黒島の中でもさらに上流の皆さんということになる。しかし、さまざまな生活習慣などをとおして語られることの多くは、“奥能登のひとつの村”である黒島を舞台にしたものばかりだった。大正から昭和の初めにかけて生まれた人たちにとって、多感だった時代は戦前戦中になる。そして、朝から夜まで“よく働く母親”を見てきた。家の主がいない中で、母親たちは、何でもやりこなさなければならなかったという。団結する村の人たちも見てきた。自分たち子供もまた、縦と横のバランスのとれた環境下で、兄貴分たちの言うことに服従し、友達同士のつながりを深めていたという。

最近はどこにでもある話だが、黒島でも祭りの衰退が悲痛な問題となっている。黒島には有名な「天領祭り」と、「船方祭り」というふたつの祭りが受け継がれてきたが、かつては多くの若者が祭りだということで故郷に戻っていた。たとえば行列に配置される役割などをみても、贅沢なほど豊かだった。若い娘たちは地毛で日本髪を結うために髪を伸ばし、着飾ったという。ある方から一枚の写真を見せていただいたが、十七歳という娘時代の姿に思わず見惚れてしまった。黒島ではなく、京都の祇園だと言ってもいいような雰囲気が漂っていた。

昔は、黒島同士の縁組が多く、そのことが黒島を維持していくことのできた理由でもあったという。「昨日の晩、どこどこの娘もろうたわいや…」というような話が、当たり前のようにあったと聞かされた。新郎が船乗りで、海外航路から帰っておらず、新婦だけが家に入るということもあったとらしい。ある日、突然知らない男が家に入って来て、それが自分の夫であったと初めて知った・・・そんなこともあったとか。

嫁入りする時の風習なども面白かった。特に嫁ぎ先の家の前に何本も縄が張られ、花嫁を家に入れないようにする風習があったという。そして、その縄をといてもらうには縄を張っている人たちにお金を渡さなければならなかったというのだ。

黒島の人たちは、かつての繁栄やその後の海外航路の船員という職業をとおして、自分の子供や孫に高い教育を受けさせるようにあっていく。そして、船乗りの仕事がアジアなどの船員たちの進出によって低収入化していくと、船員になる子供たちもいなくなった。多くが都会の大学などに進み、そのまま戻らなくなった。もちろん、奥能登に職場がないことも大きな理由のひとつだった。

都会へと出ていった黒島の次世代たちは、そこで結婚相手と出会い、そこで家庭を築く。別にどうということもない当たり前の現象だ。しかし、お嫁さんが黒島や、黒島でなくても能登や石川県の人であればまだいいが、全く異郷の人だと黒島は見向きもされない。先に書いた、昔は黒島同士の縁組が多かったということの意味がそこにある。最近、娘が婿を連れて帰郷してくるという現象が多くなっていると言うが、黒島の場合、やはりそれも定年後の移住などが今のところ考えられる最高のことでしかない。

実は、男性陣の取材の最後に、九十歳の最高齢だった方が、来春神奈川の息子さんのところへ行くことにした・・・と、淋しく語られた。その他の人たちにも、その時初めて話されたような気配だった。終始、俯きながら話す様子に、そう選択せざるを得なかった無念さが伝わってきて、その場がしんみりとした。

やはり、思ってしまう…、こんな素晴らしい黒島を、このままにしておくことは許せない…。 “能登はやさしや土までも”という言葉がある。土までもがやさしい…ということは、人はもっともっと、ハゲしくやさしい・・・ということだ。今回の取材だけでなく、そのことは最近になってまた多くの場面で認識させられる。

取材の終わり際、ボクは皆さんに自分の思いを少し語らせてもらった。角海家をとおして黒島を知ってもらい、黒島をとおして能登の一画を知ってもらう。能登の原点は自然と一体化した歴史や風土であるということだ。そのことをもう一度しっかり認識しなければ、能登という大きな地域性は中身のない空虚なものになってしまう。小さなことから始めないと・・・なのだと。

皆さんを、今回の会場になった旧嘉門家という廻船問屋の屋敷跡から見送る際、是非角海家に足を運んでくださいと告げた。この人たちの魅力が角海家や黒島の魅力を語ってくれると、ボクは何となく思っていた。

お世辞でもまったくなく、ボクは、正直あまりにも皆さんが快活で、知的で、そして楽しい人たちばかりであったことに感動した。

帰る前に、角海家を見に行く。中に入って、いちばん好きな、海の見える古いガラス窓の部屋に足を踏み入れる。それから外に出て、黒島の小さくなった砂浜に下りたり、周辺を少し歩いたりした。復元された佇まいと、海へとつながる石畳の道を見つめながら思ったのは、自分に何が出来るのだろうか・・・ということだった。今日お会いした素晴らしい人たちに、どうやって報いたらいいのか、はっきりと答えは見えなかったが、さらに入りこんでみる好奇心は確実に感じた。

まだ、あの人たちから離れて二十四時間も過ぎていないが、もういちど皆さんにお会いしたい・・・・・

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

門前黒島で頑張る時が来た

 

再び能登・旧門前町(現輪島市)の仕事に足を踏み入れ、とりあえず真っすぐに取り組んでいかねばならない状況下にあることを、数日前から悟りつつある。なにしろ、能登地震の震災復興最後の事業なのだ。

仕事の内容は、石川県の文化財に指定されている「角海家」という、かつて北前船で財をなした旧家における展示の計画と実施だ。数年前に同じ門前で総持寺に関する展示施設「禅の里交流館」というのをやらせてもらったが、門前の二大文化遺産を担当できるというのは実に幸せなことだ。ただ、今回の仕事は果てしなく厳しい。なにしろ六月のはじめにスタートしてから、八月中旬のオープンまで時間がないのだ。

角海家があるのは、黒島という地区。かつては天領であり、北前船の船主も多く、能登では最も廻船業の盛んな土地だった。今では昔の威勢はないが、それでも古い家々などを見ていくと、その面影に納得したりする。人々の気質も高く感じられるし、ボクたちのような中途半端な地域性しか持ち合わせていない者からすれば、その文化性はカンペキに高いと納得する。

ところで総持寺の住職さんは、代々輪番制で門前にやって来たわけだが、昔はもちろん船が交通手段だったわけで、能登の上陸地点は黒島だった。沖で小舟に移り、浜に上がると、そのまま黒島村の森岡さんという廻船業者(総持寺の御用商)の屋敷に入り、旅の疲れを落としたという。そこから総持寺の裏手にある小さな寺まで、お伴の者を引き連れての大行列。多いときには五百人くらいの行列となったそうだから壮観、凄い。このように黒島は門前の発展の礎となった総持寺の存在とも深く関わっていて、そういう意味でも貴重な地域性を持ってきたわけだ。

ちなみに総持寺は曹洞宗発展の基点となったとてつもない寺だが、明治に入って大火災で多くを焼失してから、横浜市鶴見に本山を移転した。移転された方は大打撃になり、祖院として存在を継続させたが、それほどまでに総持寺の存在は門前にとって大きかった。

しかし、先に書いた禅の里交流館の仕事をしている時にも思ったが、能登半島の先端に近い場所に、なぜあれだけ大勢力を張った寺院の本山が存在できたか?・・・なのだ。その答えが黒島にある。つまり、海運業だ。

昔は、少なくとも江戸時代までは、陸運といっても馬や荷車程度だから軽量な荷物の運搬しかできない。しかし、海運は船によって大量の荷物を動かすことが出来た。しかし、明治に入り日本にも産業革命の恩恵が押し寄せてくると、鉄道が敷かれ運送業のスタイルは一気に変わっていく。そういう時代の変化で海運業が廃れていくのに合わせ、総持寺の本山移転が実行されたのには、それなりの大きな理由があったわけだ。能登は東京から遠すぎた。

角海家の展示をとおして、ボクはこのような黒島の存在を伝えねばならぬゾ…と、秘かに思ってきた。なぜ、能登の先端にこのような豊かな文化が息づいたのか? これを伝えないで、黒島も角海家もない。そして、さらに黒島の人たちの誇りをいい方向へ向けてほしいとも思う。

先日行われた打ち合わせ会(委員会)で、資料調査を担当された神奈川大学のチームや、家屋復元の設計監理を担当された建築家のM先生、地元寺院の住職さんで、さすがだなあと唸らされた歴史家のK先生、さらに黒島区長さんであるKさんなどから、大変ためになる話をお聞きした。それらに返す言葉として、ボクも演出担当としていっぱしの話をさせてもらったが、やはり、根幹に置きたいのは“なぜ黒島が?”というテーマだった。そのことを平易にわかりやすく伝えられればと…

それにしても、黒島のまちは美しい。昔はなかった国道が海岸線にあり、あれがなかったらもっと素晴らしい景色が見れたのだがなあ…と、どこかの野暮な景観先生みたいなことは言わないが、何もないようで何かを感じさせる…、そんな“よいまち”のエキスが漂っている。高台にある神社や寺も、ちょっと歩くというだけの楽しみを誘発する。潮風に強いという板張りの家々も徹底していていい。

角海家は素朴さがいい。規模はそれなりに大きいが、決して豪邸ではない。とてつもない造りへのこだわりというより、普通に海が見えるとか、庭が見えるといった質素な目的が感じられて、安心したりする。廻船業が衰退した後、魚そのものや加工品などでの商いが続き、周辺の地区などで魚を売り歩いていたという、黒島の人たちのシンプルな生き方も角海家を通じて伝わってくる。地元のK先生が言われていた“黒島のカアカ(母ちゃん)”たちの働きぶりもまた浮かんできて、ボクなどはひたすら嬉しくなるのだ。

そんなわけで、この一件は今後ますます佳境に入って行き、いつものようにバタバタ・ズタズタ系の真剣勝負に突入していくだろう。かつて、地震の一週間後に門前入りした時、角海家は大きく崩れ、周辺の鳥居は折れて無残な姿だった。あれから地元の人たちは復興に向けて頑張った。その頑張り自体に意味があった。そのことを忘れず、そして、真夏の太陽がガンガンと照った空の下、黒島の砂浜で美味いビールが飲める日を、秘かにアタマの片隅に描いて、ボクたちも頑張るのだ…

油揚げを枕に柿木畠のヤキメシ

能登の羽咋で買ってきた油揚げが美味いと書いたら、それを読んでくれた金沢・柿木畠の喫茶「ヒッコリー」のマスター・水野弘一さんもそれを買い求めに出掛けられ、そして大量に買い込み、大変美味かったとコメントをくれた。

とにかく美味いのだから仕方がない。それに前には書かなかったが、姿形もいい。

油揚げらしい“ふくよかさ”があって、煮汁をたっぷり吸いこんでいけるだけの“器の大きさ”を感じさせている。

そのことを感じ取ってくれた水野さんは、行動力も凄いが、嗅覚も凄かった。

水野さんにはもうひとつ大きなニュースがあった。それは、二十五年以上も前に、金沢香林坊にあった洋食屋「大洋軒」という店の看板メニューを受け継いだことだ。

その店は、今の香林坊109が建つ場所にあった、本当に小さな店で、数人しか座れない狭いカウンターがあるだけだった。

ボクは高校生の頃に親友のSとよく一緒に行った。店に入ると、ほとんど横歩き状態で、カウンター客の背中を擦りながら奥へと進む。

定番メニューは「焼き飯」だ。

カウンターを挟んだ厨房に夫婦が入り、おっかさんがご飯を渡すと、受け取ったおとっつあんがフライパンにあけ、ほぐしながら激しく煽る。フライパンとお玉のぶつかり合う音が響き、時折上がる炎に、オオッとのけ反ったりした。

出来上がった焼き飯は、所謂“洋食屋の焼き飯”で、ちょっと脂ぎった飯の上に目玉焼きが乗っかっていた。

飯の盛り方がボコボコしていて、ボクとSは決まって目玉焼きの真上、つまり黄身のど真ん中からソースをかけるのだが、そのソースはすぐに目玉焼きから流れ落ち、飯に沁み込んでいく。

本当はこうなることぐらい分かっていたのに、仕方がないな~と、飯をクシャクシャと混ぜながら目玉焼きもついでにクシャクシャにしていき、黄身が完全に崩れる頃を見計らってスプーンで掬うと、そのまま一気に口に運ぶのだ。

ほくほくとした、しかし中華の所謂「チャーハン」とは違う風味が口の中に広がる。

味はソースが効いてシャープだった。特に夏の暑い日には、汗をタラタラかきながら焼き飯をモゴモゴと食った。

食後の口の中には、何となくというよりは、はっきりとしたヒリヒリ感も残っていたりして、とにかく美味かったなあという喜びと、ワレワレはついに食ったのだという満足感があった。

そんな焼き飯は、香林坊の再開発と同時に店じまいし、その後某所において続けられてきたらしいが、一般には接することは出来ないままいた。

そして、その某所での継続も終わり、かつての大洋軒の二代目さんから、なんと水野さんに継いでもらいたいという依頼があったということだ。

水野さんは、敢えて自分に白羽の矢が立ったのは、自分が半プロみたいな存在だったからだろうと言っていた。

焼き飯は、今流行の「B級グルメ」を代表するメニューだ。だから、とんでもない一流には逆に出せない味だという意味なのだろう。それと水野さんの人柄を知る者には、何となく納得できる話でもある。

始めたばかりの、その焼き飯を先日いただいた。美味かった。懐かしかった。

ヒッコリーという店が昔の大洋軒でないことを除き、あの脂ぎったような風味は逆に出せないことを考慮してボクは味わった。ご飯粒よりも大きくはしないという具たち。焼き飯はご飯がすべてという思いが込められていた。でも、やはり庶民の味なのである。

人気が出過ぎると逆効果になって、水野さんは自分の首を絞めることになるのだが、このニュースは、六月二十二日の地元紙で報道されることになっている。

ちょっとだけ余計な心配をしたりしながらも、次はいつ行くかなと考えたりもするのだった……

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

港の駅ができた

かねてより意気盛んな動きを見せていた羽咋滝町の“郷士”たちが、ついにその意志を形にしてしまった。

五月五日、子供の日。羽咋滝港を目の前にした、と言うよりも、滝港の中にといった感じで「港の駅」がオープンしたのだ。もともと毎週日曜にやっていたテント市が母体なのだが、常設の販売所を持ちたいという地元の人たちの強い意志が、立派にそのことを成し遂げてしまった。倉庫を改装した、小さいながらもそれなりにカッコいい店で、地域の手作り品などが並ぶ。近くにはこの港の駅のオープンによって派生しそうな勢いも見えている。この日は、地元の意気盛んなオトッつァん・おっかさんたちが集まり、子供のように目を輝かせていたことだろう。

ボクは翌日のもう夕方近く、旧富来町へ行っていた帰りに立ち寄った。実は前にも紹介した、このあたりの大親分・福野勝彦さんにお会いして、おめでとうございますを言いたかったのだ。しかし、福野さんは春先から金沢の病院に入院しており、オープン当日には来ていたが、すぐにまた病院の方に戻ったらしかった。入院中の福野さんとは何度かメールのやりとりをし、例の折口信夫関連のことなどを進めようとしていたのだが、五月に入ったら退院できるから、その頃にしようということになっていた。しかし、四月の終わりになって、港の駅オープンには何とか抜け出すが、入院はもう少し延びると連絡が来た。

そしてやはり、福野さんは港の駅のオープンに駆け付けていた。新聞にも福野さんが挨拶したという記事が載っている。

港の駅で迎えてくれたのは、『地域活性化団体・「創性・滝」』の理事長・折戸利弘さんだった。一度、福野さんの自宅ですれ違ったことがあるが、ほとんど初対面だった。福野さんと堅くタッグを組む、弟分のような存在なのだろうと感じた。嬉しいことに、折戸さんはボクの拙著『ゴンゲン森と・・・少年たちのものがたり』を読んでくれていた。

店では売り物になっているコーヒーを、折戸さんがわざわざ淹れてくれ、いただく。美味しいコーヒーだった。ボクだけベンチに座らせてもらい、もう閉店時間がきている雰囲気の店内で折戸さんとしばらく話した。話しているうち、脱サラして生まれ故郷に戻ったという折戸さんの言葉や表情から、この場所で、この地域の人たちと何とか楽しくやっていきたいという思いが伝わってきた。自分だけではなく、周辺の人たちにも、故郷である地域そのものにも、何らかの発信を求めている気持ちが、よく分かった。

“姫丸の一夜干し”という珍味を出している地元の東寿郎さんとも会い、しばらく話す。姫丸とは、明治からつい数年前まで大きな漁業を営んできた船の名前らしく、一夜干しは姫丸の歴代ばあちゃんたちが受け継いできた食文化とのことだ。今、こういう形の食文化が至る所で芽吹いている。差別化も大変だろうと思う。“活〆”の輪島の刀祢さんや、“こんかこんか”の金沢の池田さんなど、ボクの周辺にもいろいろな人たちが絡み合う。このような珍味と酒屋さんとかが、さらに絡めばもっと相乗的な拡がりや深みが増すのではないだろうか…と、それほど真剣ではないが、それでもそれなりに考えたりもしている。

ところで、東さんの自宅(お店)は美術館でもあり、カフェや食事処にもなっているらしい。このあたりの文化度はやはり相当高いぞ…とあらためて思ったりもし、折口信夫ゆかりの藤井家の佇まいのこともアタマを過(よ)ぎった。

話し込んでいるうちに、新しい来客があり外に出た。港の気配に夕方の匂いがしてくる。夏だったら、もっと凄いだろうなあと、夏の夕暮れ時の光景がアタマに浮かんできた。子供たちが走り回り、黒く日焼けしたオトッつァんたちがタバコをふかしながら語り合う。おっかさんたちは身体を揺すりながら笑い合っている。

福野さんが描いている生まれ故郷の町の姿はどんなんだろうか? ふと、そんなことも思ったりしたのであった………

永光寺の開創七百年

羽咋市の古刹・永光寺(ようこうじ)が、開創七百年の特別拝観を始めた。四月一日から十一月末までの長期開催だ。

昨年の秋に訪れ、そのことは聞いていたが、二日土曜日の新聞にもちょっと大きく取り上げられていて、早速三日の日曜日に出かけてきた。

晴れてはいたが、風が冷たかった。真面目に下にクルマを止め、いつものように石畳の坂道を、まだまだ咲きそうにもない“千年桜”の枝先にちらりと目をやったりしながら歩いた。鯉たちが泳ぐ四角い池は、いつになく透きとおっていて、鯉たちも元気そうに見えた。花粉をいっぱい貯め込んだような杉たちの群れが不気味だった。

山門の下の急階段も、いつものように休息することなく昇った。いつもより息が切れてる気がしたが、空気が冷えているせいにして、仁王像たちと数ヶ月ぶりの再会の挨拶をする。そしてすぐに受付へと向かった。

いつもより高い拝観料を払い終えると、今説明が始まったばかりだからと奥へと案内される。一番奥の部屋の襖が開けられ、中に入ると先客が二組いた。

その奥に弱い照明の当てられた透明の箱が置いてある。その中にお目当ての「毘沙門天坐像」が見えた。既に説明は進んでいて、先客の四人は真剣にそれに聞き入っている。

毘沙門天と言うと、ボクにとってはすぐに上杉謙信が頭に浮かぶ。普通は立っているものだが、坐った毘沙門天というのは珍しい。それは永光寺を開いた瑩山(けいざん)禅師の意志が反映されたものらしく、実際に禅師が最初の一刀と最後の三刀を刻んだと伝えられているらしい。黒々としていて表情は見づらいが、凛々しい顔をしている。説明によると、全体の中で、顔だけが緻密に彫られているということだった。写真撮ってもよろしいんでしょうか?と尋ねると、撮影禁止という注意書きもありませんし、そっと撮ってもらっても構いませんよ的な言葉が返ってきた。ストロボをたかずに、少し離れてシャッターを三度だけ押した。七百年の歴史で初公開ということだった。

それから一旦外に出て、今度は廻廊の階段を上り、伝燈院で開山・瑩山禅師の坐像を見せていただいた。これも今回の企画だ。堂に入る前に小さな釣鐘があり、その鐘を先客の一人が撞いた。軽やかないい音だった。この鐘を鳴らしてから入る決まりになっているらしいのだが、そのことの説明がユーモアに富んでいて面白おかしかった。

瑩山禅師の坐像と言うと、実は輪島門前の総持寺で同じものを見たことがある。禅の里交流館の展示計画をやらせてもらっていた時、能登半島地震後の総持寺で秘蔵物の撮影をしたのだが、本堂にあたる場所の奥に並べられた坐像数体を撮影した。前にも書いたかもしれないが、蚊に食われながらの貴重な体験だった。言うまでもないが、総持寺の開創は永光寺の後であり、開山は同じ瑩山禅師である。ただ、寺宝の写真集で見たイメージと、今回遠目ながらも見させていただいたイメージから、やはり永光寺のものの方が立派に見える。ボクなりの素直な感想だ。

周辺を歩き、また部屋に戻って熱いお茶とお菓子をいただく。冷え切っていた身体に熱いお茶が沁みていく。 本堂にお参りし、帰り際に事務長さんに挨拶。はじめて名刺を交わした。総持寺関係の仕事の際、間接的にお世話になった話と、かなり前に羽咋市の観光の仕事で見学に来た話などを、今頃になって長々と説明させてもらった。向こうも驚いて、また資料を用意してくださるとのことだった。

お世辞抜きにして、ボクはこの永光寺の素晴らしさは絶対広く知ってもらうべきだと思っている。個人的にはひっそりと楽しみたい気もしているが、そのことをまた認識した日だった。今度は桜が咲く頃に来るかな…と考えながら、ゆっくりと石畳の道を帰路についた午後だった・・・・

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

野菜ラーメンを運ぶおばあさんと文学好きのおじいさんたち

 

O野先生から検査入院されているという知らせを受けた数日後、富来図書館へと向かった。

七尾の病院だが、午後からなら外出してもいいので、都合のいい時間に来てくださいとのことだった。

いつものように、ちょっと早めに着き、国道249号から富来の町中への入り口にある、超大衆食堂「Eびす屋」さんに入る。いつものように適度な数の客が散在し、いつものようにうるさくもなく、かといって静かでもなく、のどかだが、それなりに緊張感も漂うといった店内に入った。

 Eびす屋さんは、何と言ってもフロア担当のおばあさんで持っている・・・・とボクは思っている。“それなりの緊張感”というのも、このおばあさんあってのことだからだ。

実は、ボクはこの店で“野菜ラーメン”と“おにぎり”以外のものを食ったことがない。いや、少し前、魔がさして?“塩ラーメン”を注文してしまったのだが、味はほとんど同じようなものだった。だから、ボクの感覚では同じラーメンなのだ。

ところで、“それなりの緊張感”についてだが、このフロアチーフ(担当から昇格)のおばあさんは、注文を聞いた後1分以内に、もう一回確認に来るということがしばしばある。当然、何となく注文したものが届くまでに不安が走る。その、「いくらなんでも、二度聞いたものを間違うはずがない」といった決め付け感に自信がなくなっていくあたりが・・・・“それなりの緊張感”なのである。

それにしても、Eびす屋さんの客は、よく野菜ラーメンを注文する。その日も来る客来る客と、野菜ラーメンを注文し、いかに野菜ラーメンが人気メニューなのかが分かる。そして、これでいくらなんでもボクの注文も間違うことはないだろうと、完璧に確信できたりもするのであった。

かなりの安堵感とともに新聞を読んでいると、そこへ打ち合わせメンバーのお一人で、地元の民話に詳しいH多先生が入ってこられた。ひとことふたこと言葉を交わすうちに、さっきフロアチーフに昇格したばかりのおばあさんがやって来て、お茶を置く。「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」とH多先生が言う。確信のない他人事のような言い方ではあったが、またしても野菜ラーメンの注文が入った。H多先生もいつも野菜ラーメンを注文しているに違いなかった。メニューなど全く見ていない。しかも、あの「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」の語尾のあたりに、やや照れながらも充分言い慣れた雰囲気が漂っていた。

それから数分後、ボクの前に間違いなく野菜ラーメンとおにぎりが置かれた。いつもように素朴に美味かった。7月のエッセイ 『富山で入道雲を見て、ちゃんぽんめんを食ったことについて・・・』 でも書いたが、なんでもない普通の食堂で出てくる、ある意味的個性派ラーメンには逸材が多い。

このラーメンもその代表格にあたる。この富来の町にあるからこそ、このラーメンには味がある。これが金沢のK林坊Sせらぎ通りあたりにあったのでは、この味が出ない。それにこのフロアチーフの存在だ。

1時、富来図書館。いつものメンバーが待っている、と思ったが、H中さんがいない。用事でちょっと遅れるとのこと。しかし、しばらくしてH中さんはすぐに来られた。

O野先生は、気のせいか少し元気がないように見えた。先生によると、身体の栄養バランスが崩れていて、点滴を打っているとのこと。夏バテもあるのだろう。それでも書庫へ行って、本を探して来るだの、コピーを取って来るだのと忙しく動き回っている。さすがに、先生あまり動かなくていいですよと言ってしまった。

この三人は、年齢を合計すると200歳を軽く超えているはずで、普通だったらしんみりとした雰囲気にもなったりするのだが、それぞれ個性的に活躍されており、こちらとしてもそれなりに楽しくなったりする。書き忘れたが、H中さんは地元の由緒正しき旅館「湖月館」のご主人で、なんと日本最高峰の某芸術大学を卒業されたアーチストでもあるのだ。毎日、カメラを持って自転車で町を走りまわり、撮影した写真をホームページに掲載されている。富来の今を知る人なのである。

ああだこおだと打合せが順調にフィナーレを迎えた頃、O野先生が、ああ、また退屈な病院へ戻らなきゃならんのやな・・・・と呟(つぶや)かれた。まわりから、いい機会だからよく体を休めておいた方がいいという声が盛んに上がり、O野先生も帰り支度を始められた。

これから加能作次郎文学賞の発表など、まだまだ忙しいスケジュールが詰まっている。大事をとって自重していてもらわないと、あとが大変だ。そんなことぐらい分かっているよと先生は言うだろうが、分かっているなら余計に“ご自愛”いただきたいのだ。

 久しぶりに記念室に入り、図書館を出たのが3時少し前。天気はそれほどでもなかったが、増穂浦は相変わらず美しい。

それにしても、Eびす屋のフロアチーフのおばあさん、および野菜ラーメン。そして、あの知的好奇心旺盛なご老体3名。富来には濃い“味”がしみじみと溢れているのであった・・・・・・・・

※タイトル写真 左から O野先生 H多先生 H中さん

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……

輪島の暑い夏と廃校

 

 夏らしい活動が復活し始めている。そんなことをはっきり感じ取る瞬間がある。気持ちの上でも、自分らしいなあと思うことがあったりして、図々しながらも10歳以上若返ったような、我田引水型の錯覚に陥(おちい)ったりする。

 何か考えてくれないか… ボクの仕事の中では、このような問いかけは日常茶飯事のことと言っていいのだが、ここ最近はどうも仕事的匂いがプンプンし過ぎていて面白くなかった。しかし、ここへきて、少しその匂いが変わってきた気がしている。と言うよりも、何だか以前に戻っていくような気がして、N居的アドレナリンがかつてのように騒ぎ始めてきたといった感じなのだ。

それは、ボクの前に現れてくる人やモノや、物語などが、新鮮であったり、奥深かったり、好奇心に満ちていたり、ワクワクさせてくれたりするからで、こういう状況にいると、ボク自身もどんどんその世界へと身体を乗り出していってしまう。ずっとそうやって、仕事的な中にも自分を融け込ませてきた。

 能登半島の先端、輪島の市街地を離れた海沿いの道には、海と人里との深い結びつきを伝える“能登らしい”風景が続く。

真夏の日差しの中、その風景を楽しみながら進んでいくと、小さな高校のグラウンドと校舎が見えてきた。

2002年の春に廃校になった旧県立町野高校だ。グラウンドは雑草がかなりの大きさにまで伸び、かつてプロ野球選手まで輩出した野球部の名残りであるバックネットも錆びついている。

目的地はその場所ではなかったが、その場所を活用できないかというある人の話を聞くために出かけてきた。しかし、その場所をじっくりと眺めてみて、そのあまりの状況に心の方までもが寂しくなってしまった。

話はとても興味深かった。お会いした地元の方は、廃(すた)れ気味になっているこの辺りの活性化に、この廃校の活用をと考えていた。この辺りとは、能登半島ではかなりの人気スポットである「曽々木海岸」のことで、かつてはホテルや旅館、民宿などが数多く営業していたが、今はぐっと数が減っている。古い看板だけが残ったような建物を見ていくと、その状況が想像できる。重い現実感が、明るい真夏の日差しの中なのに、はっきりと目に焼き付いてくる。

しかし、ボクはいつも思っているのだが、地元の人たちが楽しい顔をしていなければ、やって来る人たちも楽しくなれないはずだから、まずは自分たちが楽しくなれることを、どんどんやってみることから始めるべきだと。そのために旧町野高校の校舎やグラウンドを活用させてもらおうという発想から始めれば、最も素直で素朴な意見として切り口が作れる。そう思い、その人にそう話した。

その人は、ボクなんかよりも人生の大先輩にあたり、かなり大局的な見地でモノゴトを考えるタイプの人だった。出来あがりの理想形がすでに頭の中に描かれている雰囲気だった。ボクは“オイラたちやアタイたち”レベルでの活動に、まず活路を見出すべきではないかと思ったのだが、そのことがどれだけ伝わったのかは微妙だった。

紙に描いた絵や綴った文章だけでは、なかなかうまくいかない。それも根本的には大事だが、小さな活動からでもいいから、自分たちが楽しくやれることをやってみればいい。そのためのお手伝いならナンボでもやりますよと、ボクは告げた。告げた後で、ちょっと後悔なんぞもしたが、まあ何とかなるだろう…とも思った。

帰り際に、もう一度、今度はじっくりとグラウンドとその奥の校舎を眺めた。

そうだ、草むしりから始めよう。草むしりは除草(じょそう)だから、男ばかりで女装(じょそう)してやったりするのもいいな。タイトルには「女装で除草大会」的なんだぞの表現を入れて、コンテスト形式にしてもいいなあ。そして、その後、みんなで魚や肉なんぞを冷たいビールなんぞと一緒にいただいたりするのもいいなあ……と思った。

学校の建築物には、耐震のことやらでむずかしい課題があり、再利用というのには厳しい条件が付いて回ることは理解している。しかし、かといって、今のようなままで放置?されていたのでは、周囲のせっかくの美しい風景も蝕(むしば)まれてしまうような感じがする。

ここはひとつ、来年の夏に向けた宿題として、頭の右隅あたりに常に在庫しておこうかと思っている。活きのいい若者とまではいかなくても、元気いっぱいのオトッつァんやオッカさんあたりで、考えていきたい話だ。適度に、そして、それなりに絡ませていただく……

「水田のある風景」が好きであるということについて…

   水田が好きだという、ボクの秘かな思いを知っているのは、ごくごく一部の人だけだ。いや、誰も知らないかな。一人ぐらいいるだろうと思うのだが、もしいたとしても、そうだったっけ?と、首をかしげられるかもしれない。

 水田が好きだというのは正しい表現ではない。正式には、水田のある風景が好きだということなのだが、そんなややこしいことも、掲載した写真を見れば、一目瞭然に納得してもらえるだろう。それにしても、なぜ水田のある風景はこんなにも美しいのだろうか?

 ここでは、そんなこと考えたって仕方ないジャン…などと、妙にシティボーイっぽくなって欲しくはないのだが、どうしてもそうなってしまうという人は、荷物をまとめて去ってもらおう。

 そんなこともどうでもよくて、やはり、なぜ水田のある風景は美しいのか?なのだ。写真で一目瞭然と書いたが、やはり一目瞭然である。五枚あるから五目瞭然とも言え、五目ラーメンのように、いろいろな具が混ざって絶妙の味を醸し出している、とも言える。

  当たり前だが、水田は水があるからいい。しかも、今の季節は田植えが終わった後の、まだ水面が広々とした鏡のようなはたらきをしていて、新緑や、青空を映し出したりしているのがいい。そして、時折、風に水面が波立ったりするのもよかったりする。文句のつけようのない美しさだ。これを美しいと思わない人は、たぶん、こころのどこかに捻(ひね)くれた何かを持っている人か、素直に自分の気持ちを言えない人だ。われわれ美しき心の持ち主には、そんなことはあり得ない。上高地の梓川の清流を見た人で、美しいとは思わなかったという人はいないとよく言われるが、初夏、晴れた日の水田風景も、それに二歩半ほど及ばないものの、充分、正しい美しさを持っているのである。

 5月15日の午後、ボクは中能登のある町で、これらの写真を撮った。カメラを構えているボクの横を、地元のおじさんやおばさんたちが通り過ぎて行ったが、当然、誰も声をかけてくるわけでもなく、カメラを構える方向に、ちらりと視線を投げるだけだった。

 ボクが「水田オタク」ではないことは、みな承知だろうが、素朴な風景を好む人間としての、そのノメリ込み度は並みではない。その一環にある、「水田のある美しい風景」に出会った嬉しさを書いてみた…