石川さゆりを、また聴く


  

 昨年暮れ、能登を舞台に作られた歌のことを知る機会があり、突然CDをもらった。

 その中で、坂本冬美の『能登はいらんかいね』と、石川さゆりの『能登半島』がとても印象に残り、特に後者については、ググッと迫るものを感じて何度も聴き入ってしまった。

 ボクのことをよく知っている人たちは、ボクが幼少より洋楽に親しみ、中学生の頃からは、ジャズ的音楽にハゲしく共感するようになったと認識している。

 なのになぜ、今更演歌の話題を持ち出すのかと疑問を感じられるかも知れない。

 しかし、さらにボクのことをよく知っている人たちは、かつて片町の「YORK」というジャズ喫茶で、閉店後、秘かに『津軽海峡冬景色』なる名曲を、名器ALTECが発する大音響とともに合唱していた(と言っても、マスターと二人でだが)という事実も、このエッセイ集をとおして認識されているはずだ。

 つまり、『津軽海峡冬景色』のシリーズである、この『能登半島』にボクが強く共感することには、深いワケとか事情とかもあったわけだ。

 デューク・エリントンが言ったように、世の中には、いい音楽と悪い音楽の2種類があり、今話題にしているのはもちろん前者の類の話なのである。

 さらに先に言っておくと、歌のタイトルや内容が能登を舞台にしていることとは、あまり関係はない。

 夜明け間近 北の海は 波も荒く

 心細い旅の女 泣かせるよう

 ほつれ髪を 指に巻いて ためいきつき

 通り過ぎる 景色ばかり 見つめていた

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 ここにいると 旅の葉書 もらった時

 胸の奥で何か急に はじけたよう

 一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり

 熱い胸に とびこみたい 私だった

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 すべて すべて投げ出し 駈けつける

 夏から秋への 能登半島

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 『能登半島』の歌詞である。

 作詞は、われらが阿久悠。作曲は、三木たかし。詩も曲も、素晴らしくいい。トランペットのかなり定番的イントロから入っていくが、それも何ら問題ない。

 そして、もちろん若き石川さゆりの熱唱には、ほぼカンペキにやられてしまう。

 歌詞にもだぶるが、たぶん、二十歳頃のレコーディングだろう。

 夜明け間近の海を見ている主人公は、上野発の夜行列車で金沢に向かったのだろうか。このあたりは、阿久悠作、まるで『津軽海峡冬景色』と同じだ。

 東京発だとすれば、ボクも経験があるが、親不知あたりの海を見ているに違いない。

 『津軽海峡…』の場合は、下りた「青森駅は雪の中」だったが、『能登半島』の場合は、夏から秋にかけてで、日の出は早いのだ。

 主人公は、十九歳。それまで恋を知らなかったが、つい最近になって恋を知ったらしい。

 この静かにサビに入っていく歌い方には、若き石川さゆりの健気さを感じる。

 二十歳とは思えない気持ちの入れ様と、そして歌の巧さだ。

 余計なお世話だが、今どきの安売り軽薄ジャズとは違う。

 ここで聴き逃していけないのは、歌の背景に流れる一本のバイオリンの切ない響きだ。

 1コーラス目では、なかなかキャッチできないが、2コーラス目ではしっかりとキャッチできる。

 そのことに気が付くと、思わず編曲者の名前を探したりする。

 そして、若草恵という男だか女だか分からない名前に戸惑ってしまうが、まあどっちでもいいやと早めに歌の世界に戻るのがいい。

 石川さゆりは、「あなた、あなた訪ねてェ、行く旅は~」と熱唱に入っていく。

 ここの聴きどころは、“行く旅は”のあたりで、行くの“ゆ”から“く”へと流れていく表現(歌唱)は、尋常ではない。

 文字化するのはむずかしく、強いて書けば“ゆ・くゅう”、いや“ゆ・ぅ・く”か?

 とにかく、“く”の後半の音(声)は、上下の歯を軽く閉じ、口ではなく鼻の中で響いているような感じなのだ。

 石川さゆりの歌への思いと、歌の巧さとが見事に合体していき、歌のチカラというものを体感させる。

 後半の歌詞は、阿久悠の世界に、石川さゆり自身が融け込んでゆくような切なさがたまらない。

 「一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり  熱い胸に 飛び込みたい 私だった…」

 「すべて すべて投げ出し 駈けつける  夏から 秋への 能登半島…」

 十九才の真っ直ぐな気持ちが、文字どおり真っ直ぐに伝わってきて、どうしていいか分からなくなり、つい周囲を見回したりする。

 そんなわけで、ボクは最近、出勤時クルマを出すとすぐにコレを三回連続して聴く。

 それから一気に、マイルスの60年代後半あたりに切り替えて、自分をクールダウンさせながら会社へと向かう。この切り替えがまた実に気持ちいい。

 少し偉そうなことを平気で言うが、演歌と言うよりも、世の中に流れていた歌を“流行歌”と呼んでいた時代の感覚は、実に日本人的な気がする。

 作家の五木さんや、伊集院さんもよく語っているが、この感覚をもう一度見つめ直す必要があるのではないかと思ったりする。

 切ないとか、寂しいとか、やるせないとか、そういったものをみんな忘れてしまったのだろうか。

 そこから、本当のやさしさとか思いやりとかが生まれてくることもあるのだということを、しっかりと知る必要がある。

 “情緒”というものなのだろう。

 そんな意味で、とりあえず、「石川さゆりを聴く」のである……


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