小林輝冶先生の想い出


小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……


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