カテゴリー別アーカイブ: 金沢のこと編

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など

 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 

喫茶・Eでのひさびさの時間

 紺屋坂を上りきると、兼六園と金沢城公園への入り口である石川門とで方向は左右に分かれる。

 実際は左右という感覚ではないし、四方に道が伸びているといった感じだ。

 その中の左に直角に曲がる道を歩いていくと、いくつかの店を過ぎたところに喫茶・Eがある。

 タクシーが並び、公衆トイレも昔からあってよく利用させてもらったが、やはり喫茶・Eの存在の方が当然のように麗しい。

 喫茶・Eには久方ぶりに入った。

 クルマを止めておいた駐車場の方へ近道をしようと歩いていた時、前を通ったのだ。

 ボクのアタマの中では、喫茶・Eは店じまいをしたというイメージがあった。

 しかし、今は白く塗られた壁の中の窓から見える店内には明かりがつけられ、女性客二人が笑い合っている様子が見えた。

 玄関には「珈琲」と書かれたアナログ看板も立てられてある。

 なぜか少し躊躇しつつ、店に入った。

 そして、さらになぜか「よろしいですか?」と声を発した。

 すぐに眼鏡をかけた店の方が出てきてくれ、どうぞどうぞ……

 お時間はありますか?と問われる。

 コーヒーは豆を挽いてからなので、お急ぎの方はちょっと…ということなのだ。

 こっちは少々時間がかかるぐらい問題ではなく、これから畑へ行って豆を採ってきますと言われると考えたかもしれないが、豆を挽く時間など惜しくはなかった。

 外から見えた二人連れは、入れ違いに出て行った。

 店はボクの独占状態になったが、コーヒーを注文してからしばらくすると、今度は観光客らしいミドルの五人組女性グループが入ってきた。

 ちょっとウルサくなるなと思ったが、ちょっとどころではなく、かなりウルサくなった。

 時間もたっぷりあるらしく、雑誌やらを広げて芸能界のどうでもいいようなニュースを話題にして盛り上がっていく。

 わざわざ金沢でこんな話をと思うが、聞き流すことに専念する。

 店に入ったところで、自分が来たのは四十年ぶりぐらいだということを店の方に告げた。

 すると、やさしいまなざしの店のお母さんが、店はできてから五十年くらいになりますかねと答えてくれる。

 ということは、開店後十年あたりからの数年間に何度となくお邪魔していたことになる。

 

 読みかけの文庫本を取り出して読み始めるが、なかなか軌道に乗らない。

 ようやく少し活字に目が慣れた頃になってコーヒーが来た。

 横にはデザートみたいなものが… 手作りだそうだ。

 店のお母さんの醸し出す雰囲気が、こうしたものを連想させるに十分だった。

 コーヒーも美味い、いやこの場合は、「美味しい」だ。

 

 記憶では、この店にいたのはいつも冬の寒い夜だったような気がする。

 いや、思い違いかもしれない。なにしろ四十年ほど前の話だ。

 外の階段を上って、二階の店内に多くいたような……

 一階はいつもいっぱいで、にぎやか過ぎたような……

 タバコを吸っていた。セブンスターという銘柄だった。

 ZIPPOのライターを使い、使い終わった後の蓋の閉め方には一応こだわっていた。

 当時、喫茶・Eにはどんな音楽が流れていただろうか?

 クラシックだったような気もするし、そうでなかったような気もするが、記憶は完全に曖昧だ。

 

 そして、ボクはここで活字を追っていた。

 と言っても、神経質な読書家ではなかった。

 その頃、ボクが読んでいたのは何だったか?

 いろいろ濫読の時期だったから、具体的にはわからないが、この店の当時の雰囲気からすると、日本の近代文学ものを中心に気合十分で読んでいたに違いない。

 いや、それも卒業し、紀行ものやさまざまなドキュメンタリーものを読んでいたかもしれない。

 体育会系のブンガク及びジャズ・セーネンであったボクは、それなりに緊張感のある、それでいて趣味の世界などでは、それなりに楽しい日々を過ごしていたような気もする。

 

 喫茶・Eでのことは、そんな日々の一部でしかない。

 しかし、ある意味で、この店の中にいた自分の奥の方には、なぜか今から振り返っても深いものが潜んでいたのだと思う。

 人生というと大げさだが、それなりに考えなければならないことがあった。

 その答えを出せないまま、少しというか、かなり投げやり状態になっていた。

 そのことが、いつも冬の夜だったという印象になっている感じもする。

 少し青が色褪せ始めたセーシュンの日々であった………

  

 そんなわけで、今回二階には上がれなかったが十分だった。

 窓の外には、新緑の木の葉がいっぱいに生い茂り、少しだけ開けられた窓から入ってくる風が心地いい。

 ウグイスの啼き声が聞こえたりもする。

 それなりにとてもいい時間を過ごせた気がした。

 今度はしっかりと活字を追うことにして店を出ると、うしろから、またどうぞの声。

 春の日差しがまぶしかった………

ねじめ正一氏と玉谷長武クン

ユリイカ

1997年4月発行の『ユリイカ』。

161ページから169ページにかけて綴られた、ねじめ正一氏渾身(だと思う)のエッセイに心が撃たれた。

喫茶店でしか原稿が書けない氏が、喫茶店のトイレに「大」のために入るが、固体を出そうとして意図せず大きな音を伴う気体を出してしまったという焦りが、リアルに綴られていた。

音が出た後に期せずして起きた店内での笑い。

自分(の尻)が発した音と、その笑いの相関について悩む筆者……

喫茶店

このエッセイで、さらにねじめ氏が大好きになったボクは、1999年の金沢市観光協会50周年のイベントに氏を呼び、金沢市民芸術村のドラマ工房でトークショーをやっていただいた。

紡績工場を再利用した市民芸術村ドラマ工房は、特有の構造と空気感を持ち、会場入りしたばかりの氏が、「いい場所ですねえ」と言われたのを覚えている。

氏はそこで、商店街の魅力はさつま揚げの美味さで決まるとか、長嶋茂雄さんの職業は長嶋茂雄だとか、ひたすらねじめ節を語り、そして、創作中の長い詩を東京からFAXで送らせ、『詩のボクシング』風に即興で読んでくれたりした。

ボクがステージに用意したのは、かつての小学校の教室にあった小さな机と牛乳瓶に入れた一本の花だけ。

工房の道具部屋を見回し、ボクも発作的にそれに決めた。

知り合いも大勢来てくれて、なかなかいい企画だったと思う………

 

このことを今語りたいのは、あの時ボクの机の上にこの『ユリイカ』を置いていったある後輩の命日月が2月であったからだ。

玉谷長武(たまたにおさむ)という、奥能登門前町出身のナイスガイは、ボクに色々と余計なお世話的言葉を発しながら、27歳という若さでこの世を去った………

彼の稀有な存在を綴った拙文を、必ずこの時季に読み返す。

今でも、彼がもし生きていたら、自分の人生も途中から何らかの形で変わったのではないかと思ったりする。

それくらいに、彼が好きだった………

 

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

金沢の高尾山を初冬らしく歩く

登山道1

12月中頃の土曜の午後、つまり初冬の休日の午後である。

金沢の奥座敷こと湯涌温泉から高尾山方面を歩いてきた。

特に計画らしきものもなく、いつもの湯涌ゲストハウスに立ち寄って、前に見せてもらっていた簡単なマップをもらっていこうと考えていた。

念のため、湯涌ゲストハウスの小屋番・A立クンに電話を入れると、相変わらず週末は客が殺到して、その準備に忙しいとのこと。

久しぶりの晴れ間の中、初冬にしてはやや温(ぬる)い空気が温泉街に漂っている。

邪魔にならないよう、マップをもらったらすぐに山入りしようと思っていたが、いつものように誘われるままカウンターに座ってしまい、彼の淹れてくれた美味い珈琲をいただくことに……

ピアノ・トリオの演奏が聞こえる中、しばらく世間話をし、マップのルートについて彼から話を聞いた。

高尾山…東京にある人気の低山と同名だがカンペキに違う。

湯涌温泉から旧江戸村跡地まで上がり、公園になっている場所の駐車場にクルマを置いた。

途中には、かつて東洋一の豪華さを誇ったと言われる「白雲楼ホテル」の跡地もあり、まだ営業していた時代(自分も20代だったろうか)に仕事で来ていたことを思い出す。

客として来たこともあって、風呂場へ行く道中が妙に怖かったのをぼんやりと覚えていた。

公園の駐車場にはクルマが一台、初冬らしき静寂の中、いかにも淋しそうに止まっていた。

ホントはもっと上までクルマで上がれて、そこから登山道が始まるらしいのだが、何となく長い時間歩きたいという気持ちもあったので、自分もそこにクルマを置くことにした。

A立クンも言っていたが、この季節はやはり早めの下山がお勧めだ。

最初の道2

路面は濡れた落ち葉が重なっているし、すでに陽は西の方に傾き始めている。

途中で引き返すこともアタマに置いて、舗装された道路を歩いた。

日陰に入ると、空気はさすがにひんやりとして顔のあたりにへばりつく。

フリースのファスナーを上げ切り、かなり早いペースで歩くことにする。

一応、小さなリュックにはもう一枚防寒着も。

炭焼き小屋炭焼き小屋の周辺

しばらくして登りと下りの分岐があり、そこを過ぎると炭焼き小屋が目に入ってきた。

もう冬季閉鎖中なのだが、小屋と言うには立派過ぎる。

周囲の木立の間には素朴なベンチも置かれていて、寛ぎのスペースといった上品さだ。

道から外れ、炭焼き小屋周辺の落ち葉の中をわざと音を立てながら歩きまわった。

道に戻ると、しばらくでこれまで登りの流れだったのが一気に下りに変わる。

やや躊躇しながらも、さらに暗くなっていく道を進んだ。

夏であれば、涼味が溢れるのであろうなあと思う。

そう思いながら、ここはまだ登山道ではないということを意識する。

そして、さらに進んで行ったところにある小さなスペースに、三台のクルマが止まっているのを見た時には少々拍子抜けがした。

やはり、ここまでクルマで来る人たちがいるのだ。

登山口の表示があった。

そうか、ここからが登山道なのかと納得するが、ここまでの道も登山道にしていいのではないかと、ふと思う。

そんなことはどうでもいいのだが、やはり土の上に出て山歩きらしくなったのは言うまでもない。

こじんまりとはしているが、それなりに急登もあったりして、なかなかやるじゃないかと気持ちも高ぶってくる。

最近、テレビでも“山番組”が多くあり、自分が忘れていた山歩きのバリエーションなどに懐かしさを感じたりするが、こういう山に来るとそれが肌で感じられる。

しかも、初冬の締まった空気のせいだろうか、余計にグッとくるのだ。

杉木立の道登山道2

急登の途中でようやくヒトと出会った。

意外にもやさしそうな若者だった。

両手にきれいに伐採された枝を持ち、ストック代わりなのだろう。

やや不安そうにこちらが上がって来るのを待っている様子だ。

山やっているナといった感じを受けない分、この山の身近さが伝わってくる。

簡単な言葉を交わして急登を過ぎると、今度はやや高齢な二人組と擦れ違った。

別に期待していたわけでもないが、コンニチワに頷いてくれただけだった。

最後に、今度は山やってます的雰囲気がたっぷり伝わってくる同年代(オトコ)と擦れ違う。

向うから開口一番、「今頃から登るんけ?」の声。

瞬間的にこのヒトは、この山のことを知っているナと感じる。

大概こういうヒトたちがこうした山を守ったり、広く案内したりしているのだ。

足を止め、ええ、行ってみようかと…と答え、そしてすぐに、早足のピッチに戻す。

3時間もあれば、最高地点(奥高尾山)まで行って下りて来ることができると考えていたが、それは登山口からのことで、自分はさらにその下から登っていたことを思い出した。

やや不安になってきた。

マップを見て、とりあえず前高尾山(763.1m)までにしようとほぼココロを決めた。

倒木

倒木が道をふさいだ急登の途中に、奥高尾山と前高尾山の分岐があった。

左上方に向かう滑りやすい不安定な斜面に足をかけ慎重に登った。

すぐに道は平坦になり、落ち葉が一層深くなっていく。

さらに行くと、今度は緩い下りになった。

そして、あれが前高尾かと木立の中の小さなピークを確認した時、前方が開けてきた。

前高尾のピークよりもこの稜線(と言っていいかどうか?)上にいた時の方が印象深いのは、どこかにあった焦りみたいなものが、ここからの眺めで和らいだからだろう。

谷間の風景遠景

まだ空は明るかったが、風は冷たかった。

山にいる実感が、その風の冷たさで湧いてきたような気がした。

もうかなり前のことだが、テレマークスキーで医王山の林の中を滑り降りたことがあった。

滑り降りたというとカッコいいが、実際は転がり下りて来たというのが正しく、最後はルートを誤り、スキーを外して登り返した。

そして、雪明りにほぼ助けられながら、何とか下山したことがあった。

その時も、登り返した場所で顔に当たる冷気が山にいることを実感させた。

カラダは汗をかいていたが、顔だけが冷たかった。

谷間の風景2

伐採され、分断された木がゴロゴロと一応並べられてある。

高くはないが、山域がそれなりの深さを持っていることが実感できる眺めだ。

カラダが一気にまた冷え込んできた。

尾根には初冬の風が吹いているなあと周囲を見回す。

谷間の葉っぱ2

下りも速足ピッチでスタートした。

しかし、さすがに落ち葉の上で何度も足を取られながらのやや難行だった。

特に急な場所では岩の上や泥の上の落ち葉が滑る。

朽ち果てようとしているかつての大木を見ていると、来年の春までこの木は残っているだろうかと余計なことを考えたりする。

辛うじて差し込んでくる木漏れ日の中で、木々が輝いていたりもする。

木洩れ日1 木洩れ日2

登山口までは、あっという間に戻れた。

アスファルトの道は、百名山を自力で完全踏破したアドベンチャー・田中ヨーキ君ばりに駆け足で進んだりもした(もちろん、ちょっとだけだが)。

駐車場に戻った頃には、もう夕暮れが始まっていた。

A立小屋番にメールしたが、返事がこないところをみると、湯涌ゲストハウスは、ゲストたちでにぎわっているのだろう。

湯涌ゲストハウスの美味珈琲をあきらめながら、こういうカタチの山歩きもそれなりに楽しいし、年齢やら体調やら、時間的余裕やらを考えると、もっとやっていこうかなと思ったりする。

初冬らしい締まった空気の中で、無理やり背伸びをしてやった……

西日落ち葉の道葉っぱ5-1葉っぱ6葉っぱ7葉っぱ8緑の葉っぱ

 

 

 

金沢文芸館~五木寛之文庫の仕事記

正面

金沢市尾張町にある「金沢文芸館」がこの11月で10年を迎えていた。

もっと歳月が過ぎているような感じだったのだが、意外だった。

そして、10年を迎えたすぐあと、数年ぶりにお邪魔させてもらっている。

館の建物は昭和4年(1929)に建設されたもので、かつては銀行だった。

平成17年(2005)に文芸館になるが、その前の年に国の有形文化財に登録されている。

工事に入る前に中を見せてもらったが、まるで映画のセットのようで面白かった。

特に2階のフロアから、階下のかつての店内を見下ろした時、なぜか西部劇に出て来る酒場を思い出した。

3階の窓からは金沢の素朴な街並み風景も見え、建物の存在自体にストーリーのようなものを感じたことを覚えている。

 

金沢文芸館での主たる仕事は、2階にある「金沢五木寛之文庫」の展示計画だった。

3階の「泉鏡花文学賞」のコーナーも含まれていたが、はっきり言って2階に比べれば“おまけ”に近かった。

この仕事も企画競争で勝ち取ったものだが、実を言うと、この仕事を他人に渡すようでは「おしまい」だと思っていた。

金沢に五木寛之に関する展示空間をつくるという話を聞いた時から、ボクは激しいプレッシャーに襲われた。

と言うより、自から自分にプレッシャーをかけていたように思う。

それは何と言っても、自分自身がかつて大の五木ファンであったからだ。

初期(自分が20代だった頃に読んだ)の小説やエッセイは、出た本すべて読んでいたと言っていい。

特に学生時代、東京で読む金沢の話などのエッセイは何とも言えずセンチメンタルで、ボクの中の金沢に対する印象に別な一面を作っていったと思う。

犀星の金沢世界も読み込んだが、時代も違い、五木氏のそれはまさに、“現代の、少し気だるい金沢”だった。

文芸館パンフ

そして、五木氏との接点で言えば、何よりも、自分があの内灘のニンゲンであるということを上げねばならない。

ボクは初期の代表作である『内灘夫人』の舞台となった、石川県河北郡内灘で生まれ育ったニンゲンだ

早稲田の学生だった五木氏が、初めて内灘の砂丘に立ったのはボクが生まれる2年ほど前。

五木氏は何かの中で、自分と内灘の関係を強く意識していることを書かれていた。

実は金沢文芸館の7年前、その内灘町で開催された「第1回内灘砂丘フェスティバル」(現在も継続)で、初めて五木氏に関わる仕事をした。

当時、内灘町では文学館建設の計画があり、その調査研究の仕事に関わっていた。

そして、その一環として文学に関するイベント事業の企画を上げ、その第1回目のゲストに五木氏を呼ぼうとしたのである。

ただ、「五木寛之論楽会」という名でそのイベントは開催されたが、正直言って全く関われる余地はなかった。

五木氏がすべてご自身で仕込まれた内容だったからだ。

唯一、ポスターとチラシの制作だけが全体予算の一部を削っていただいて我々にもたらされたに過ぎない。

その時の自分の企画はと言うと、町の文化会館を五木寛之一色にするというものだった。

五木氏のプロフィールを多面的に紹介し、内灘と五木氏との関係を広く知ってもらう最高の機会と位置付けた。

しかし、五木氏からあっさりとその企画は不採用とされた。

横浜、福岡、金沢(順番は忘れた)以外でこのような企画はやれないということだったが、それには素直に頷くしかなかった。

イベント内の冒頭のミニ講演会で、内灘との関わりについて五木氏自身の言葉で語っていただけたらと提案したことも、全くそうはならなかったと記憶している。

もちろん、天下の大作家にお願いをすること自体が無謀だったのだと反省もした。

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そんなことがあってからの、金沢文芸館だった。

企画提案の説明(プレゼン)には自信をもって臨んだ。

いつものように作品等よりも人物周辺を紹介するというスタンスを選び、手応えを十分に感じていた。

そして、採用の知らせを受けてから、五木氏との顔合わせと打ち合わせが決まった。

夜の品川プリンスホテル。

地下喫茶室のテーブルで、ボクは五木氏の真向かいにいた。

横には、ホテルで合流した金沢市の担当者と上司である課長さんが座っていた。

しかし、名刺交換は済ませたが、五木氏がマネジャー?の方とスケジュールなどの確認を行い、なかなか本題には入れない。

人気作家とはこういうものなんだと、ボクはその時漠然と思っていた。

やや長い時間が過ぎたあと、打ち合わせが始まった。

最初は企画の説明、そして、途中からは五木氏がご自身の考えを語り始め、こちらがその話の聞き手となっていく……

その時、ボクはあるモノをじっと見つめていた。

それは目の前で五木氏がメモを記す、ちょっと大きめなコースターだった。

万年筆の太いペン先で撫でるように記された“五木文字”が、ひっくり返されたコースターの上で踊っていた。

これは絶対いただいて帰ろう……

聞き覚えのあるあの声を聞き取り、自分のノートにメモをしながら、ボクはそのコースターの居場所をずっと追っていたのだ。

しかし、結論から言うと、このコースターは手に入らなかった。

打合せが本調子になってきた頃、ウエイトレスさんがやって来て、テーブルの上を綺麗にしていったのだ。

その時、ボクは資料か何かを出そうとして、床に置いたバッグの中を覗きこんでいた。

しかも、なかなか目当てのものを見つけられないでいた。

そして、気が付いた時には、すでにテーブルはすっきり……

時間にすれば3,40分の打合せであったが、五木氏の静かでやさしい語り口に終始リラックスしていられた。

今度は金沢でと言われ、テーブルの資料などを片付け終えた時だ。

思い切って五木氏に告げた。

「先生、私、内灘生まれの内灘育ちなんです」

最後に、この言葉を伝えようとずっと考えてきた。

特にそのこととこの仕事とが強くつながるわけではなかったが、とにかくボクは少し前のめりになりながらそう言った。

「え、そりゃあ、凄い人と一緒にやることになったなあ」

五木氏は少し照れたように笑った。

玄関まわり

それから数日後、新神戸駅前にあるアンチークの店にいた。

広い店内で、シンプルな椅子たちを見つめていた。

これらは採用されなかったが、当初、五木氏から聞かされていた展示室のイメージの椅子に近かった。

それからまたしばらくしたある日、東京・丸善丸の内店にもいた。

万年筆など執筆道具のディスプレイ方法を見るのが目的であった。

愛用した筆記用具類をどのように見せるかで、五木氏のお気に入りだった丸善のやり方を参考にさせてもらった。

現在設置されている展示什器のうち、いくつかは丸善からヒントを得ている。

玄関

五木氏のかなり細部にまでおよぶ指示の下、展示室のデザインが固まる頃、2階フロアだけとして「金沢五木寛之文庫」という名が付けられるということに、何か特別なものを感じた。

平凡だが、らしくて…いいなと思った。

特に「文庫」という二文字に愛着が湧いた。

そして、内装工事が終わると展示品が送り込まれ、それらは少しずつだが空間の構成に彩りを添えていった。

特に見覚えのある本の装丁やさまざまな写真などが気持ちを高ぶらせた。

最初の構想からはかなり変わってしまったが、ああ、いい仕事と出会えたなあと、柄にもそんなことを思ったりもした。

側面

2005年11月23日、オープン当日のことを書こう。

セレモニーは1階の小さなホールで、たしか昼の12時から挙行されることになっていたと思う。

狭い空間にそれなりの人たちが揃い、開始の時間を待っていた。

今でもはっきりと覚えている。

腕時計を見ると、セレモニーまであと10分ほどしかなかった。

しかし、五木氏はまだ2階にいて、自筆原稿のレイアウトなどについてずっと思案されている。

それまでにも何度も位置を変えたりしながら時間を要してきたが、もう残り時間はなく、さすがに階下から「先生、お時間ですので」の声がかかっていた。

「よし、これでいこうか」

最後の指示を確認し、スタッフたちが原稿を並べ直し、ショーケースの扉を閉じた。

そして、関係者たちがホッとした顔つきで佇む中、五木氏は狭い階段を下りて行った。

今でも、個人的には展示室自体、少し上品過ぎるような感じがある。

それは自分にとっての五木寛之像が、若い頃のイメージに沿っているからだ。

指示を受け、アンチークの家具などを探しに行った時には、そんな五木氏のイメージが自分の抱いていたものと合っていたように感じていたが、そうしたものは使用されず、実際に出来上がった展示空間はかなりピカピカしていている。

今から振り返れば、なぜか、そのあたりのことにずっと悩まされ続けた、むずかしい仕事だったようにも思う。

特にデザイナーたちは大変だっただろう。

そして、それ以前から関わり、同時進行していた別物件との両立で苦心した仕事だった。

恥ずかしながら、ボクはその五年後に内灘を舞台にした中途半端な物語~『ゴンゲン森と海と砂とを少年たちのものがたり』を本にした。

その本を出そうと決めた背景に、品川プリンスホテルでの五木氏との時間があったと、その本のあとがきで書いた。

久しぶりに文芸館にお邪魔したが、今更名乗るまでもなく、昔の一五木ファンとしてぶらぶらしてきた。

仕事は今でもスタッフの皆が、しっかりと繋いでくれている。

それにしても、まだ10年しか過ぎていない出来事だったのだ………

 

 

母の笠を吊るした足軽屋敷

足軽1

金沢長町の大野庄用水沿いに、二棟の足軽住宅がひっそりと佇んでいる。

二つを合わせて「金沢市足軽資料館」という。

1997年現在地へ移転され、足軽たちの生活や仕事などを紹介する展示計画をさせていただいた。

笠

今も玄関に吊り下げられている古い笠は、当時母が畑作業などで実際に使っていたものだ。

時代考証などというむずかしい話を通さないまま、生活感を出すための演出として笠を吊るした。

ちなみに横にある蓑については記憶がない。

母は、何も言わずに自分の笠を譲ってくれた。

しかし、後日代わりにとちょっとおしゃれな麦藁帽子を買って行ったが、結局一度もその帽子を被った母の姿を見ることはなかった。

老いた母にはやはり派手だったのだろうかと思った。

そして、何だか申し訳ない気持ちになったまま、それからしばらくして母は畑にも出られない身体となってしまった………

 

ところで、加賀藩の足軽たちは庭付きの一軒家に住んでいて、城下にはいくつかの足軽町が形成されていた。

庭があったのは野菜や果物などの食料を自給するためだ。

展示されている二棟は、清水家と高西家という。

特に屋敷道明先生と調査に出かけた清水家では、刀箪笥が現代まで使われていたり、古い証文などが見つかったりと楽しい思い出がある。

清水家の方は実際に住まわれていて、その分、資料が残されていたのだろう。

高西家からは展示資料らしきものは出てなく、展示は加賀藩の足軽に関する解説が主になった。

納戸

屋敷先生から教えていただいた足軽たちの日常は、まさに生活感が生々しいくらいに伝わってきて興味深かった。

内職などで何とか家計をやりくりしながらも、家族寄り添い平和な毎日を過ごしていた様子が想像できた。

納戸1

参考にと新潟県新発田市に残されていた足軽の住まいを見に行ったが、それはまさに長屋であり、加賀藩の足軽たちの境遇がいかに恵まれていたのかを知った。

そして、さらに驚いたのは、戦後の住宅がこの足軽屋敷の間取りなどを参考に造られたといった話だった。

たしかにオープン前日、周辺住民に公開された時、何人かの見学の方が「昔のうちもこんなんやったねえ」と語り合っていた。

納戸(なんど)などの部屋の呼び方も懐かしく、自分自身でも子供の頃の生活空間の温もりのようなものが蘇ってくるような気がしていた。

この後、近所の長屋門が残る高田家の仕事も続いた。

そして、長町の武家文化紹介に少しだけだが貢献できたような、そんな錯覚が今も続いているのだ………………

メモ

金沢城・江戸末期のビッグイベントと寺島蔵人のこと

寺島蔵人D

今から10年以上も前、毎年6月に開催される金沢最大の祭りの、その仕組み全般を見直すという仕事に3年間関わっていたことがある。

ほぼ無関心であったその祭りについて考えていくことは、いろいろな意味でかなりの苦痛を伴った。

山のようにある課題の中で、武者行列の行程や構成を変えて、最終的に城の中へ、しかもパフォーマンスを交えながらスムースに入れることが最大の難題だった。

それは苦労した甲斐もあって何とかなったが、ボクはさらに城の中を祭りのシンボルゾーン的な場所にすることも重要課題としていた。

同時期に、金沢城公園も完成していたから十分にその必然性もあった。

行列が城に入るというのは史実によって裏打ちされていて、祭りでも実際に「入城行列」とネーミングされていたのだ。

が、城内行事は何となく広場があるから、そうするのがいいだろうくらいの話で進んでいた。

それで特に問題があったわけではないが、自分としてはちゃんとした根拠(史実)が欲しかった。

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ある日、玉川図書館の近世史料館で、タイトル写真にある本の著者である長山直治先生に偶然お会いした。

先生はその頃、わざわざ定時制高校の教員に転向し、昼間は地元の歴史調査研究に没頭されていたのだ。

ボクはひさしぶりにお会いした先生に相談した。

実は先生は高校三年の時の担任だ。

恩師であり、歴史の面白さを教えてくれた人だ。

そんな話なら任せておきなさい……

そうは言わなかったが、先生は昔から変わらない眼鏡の奥の垂れ下がった目にチカラを込め、ボクを見た。

そして数日後あらためてお会いした時、この本の中に紹介されている、藩政末期の金沢城内における能の開催に関する話を聞かせてくれた。

それは驚きと同時に、しめたと思わせる内容のものだった。

文化8年(1811)、12代藩主・斉広(なりなが)が催した能の話だ。

その時の能は金沢城二の丸の再建と、斉広の家督相続と入国の祝いとして挙行された。

むずかしい話は省略するが、11日にわたり、藩士や宝円寺、天徳院の僧侶など、さらになんと庶民も白洲に招かれている。

その数、藩士・寺方で約2500人。白洲に造られた仮屋から見物した町方庶民は、ほぼ1万人だったという。

前者には料理が、後者にも赤飯や酒が振る舞われたらしい。

そして、この能のために出仕した徒歩や足軽たちも万単位の数となり、役者とともにその人たちにも賄が出ているとある。

これがなナカイ、かつて金沢で行われた最大のイベントやろな…と、先生は得意そうに、そして軽く言われた。

それ以前にも、能をこよなく愛した藩主たちによって、かなり盛大に開かれていたという。

ここまで話を聞いて、さすが金沢だなと思う前に、さすが長山先生だなとボクは思った。

いつも熱っぽく歴史を語っていた先生からこういう話が聞けたことも、また嬉しかった。

金沢と言えば、やはり能なんだわ……

そうなんですね……

ボクはかなり感動し、その後最終的にまとめた提言の中にも、この話を引用した。

ただ、かなりチカラを込めたつもりだったが、祭りの人気行事としての「薪能」は、特にそんな歴史的背景などどうでもよかったかのように、金沢城内で“普通”に開催された。

金沢城内での初回だけは、はるか後方からぼんやりと見た記憶があるが、それ以降は見ていない。

まだ仕事の真っ只中にいた頃、旧中央公園の舞台を特等席から見させていただいたことがある。

こっそりと蔭から見ていたら主催者の偉い方に見つけられて、テントの中へと入れられたのだ。

藩政時代で言えば、藩士の席から見ていたことになるのかも知れない。

ところで、この本の主題である「寺島蔵人(くらんど)」という藩士は、前田斉広の時代に側近として仕えたが、民を思うあまり藩政批判をし、能登島に流刑になった人だ。

流されて半年もしないうちに61歳で病死した。もちろん能登島でだ。

寺島門

大手町の静かな屋敷の佇まいが今は観光名所になっているが、かつては一本裏道の住民ですらその存在を知らず、観光客からクレームを聞いたこともある。

表通りの和菓子屋さんの二階から、鬱蒼とした庭木を見ることができるが、それもあまり知られていないようだ。

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藩政時代の金沢の祭りの取材から、長山先生と偶然再会し、金沢での能のポジションをあらためて知り、先生が寺島蔵人を研究されていることを知った。

祭りに関わった中で、この本との出会いがいちばんの出来事だったように今思ったりもする。

先日、何年ぶりかで寺島蔵人邸に入ったが、スタッフの方々が丁寧に対応されていて気持ちがよかった。

相変わらずの余計なお世話だが、少なくとも、長山先生の本から想像する寺島蔵人という人には大いに興味が湧く。

一、二年前に見た『蜩(ひぐらし)の記』という映画にとても感動したが、何となくああいう物語のイメージに近いものを感じたりもする。

せっかく屋敷も残っているのだから、もう少し取り上げられてもいい。

ところで、先生はお元気だろうか。

なかなか行けないが、たまに近世史料館に顔を出してみるとお会いできるかもしれない………

寺島塀寺島邸1L

小林輝冶先生の想い出

小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……

西茶屋資料館の仕事‐2 茶屋の風情

座敷

西茶屋資料館は小さな展示館だ。

自分が関わった展示施設の中では最も小さな部類に入る。

ところで、茶屋街は「にし茶屋」なのに、資料館ではなぜか「西茶屋」と表記する。

「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」という場合、このひらがな表記のもつ趣や空気感みたいなものが伝わるが、資料館の名前には敢えて漢字を使っている。

そうなった背景を今思い出そうとしているが、カンペキに忘れた。

一階の話は-1で書いた。今回は二階。

「茶屋の風情」というタイトルで括った座敷空間の話だ。

一階テーマの「島田清次郎の世界」と比べると、二階はついでのような感じで捉えていた仕事と言っていい。

段取りとしても、かなり後回しにしていたところがあった。

しかし、市の担当者と、廃業(だったか)した茶屋を一緒に見に行ってからだろうか、全く興味もなかった茶屋の中の様子に関心が湧いてくる。

展示に面白味が見出せるようになっていった。

その茶屋には何度も入らせていただいた。

記憶がかなり薄まってはいるが、入ってすぐの幅の広い階段や、ゆったりとした座敷、食材や飲み物などを保管しておく地下室など、茶屋の表と裏の世界のようなものをストレートに感じた気がした。

何でもない小さな飾りなどを見つけては、カメラに収めていたこともよく覚えている。

それから後、建築工事が終わった資料館の二階に上がると、何となくそれらしい展示のイメージが湧いてきた。

真ん中にテーブル、そして座布団と肘掛けを置き、太鼓と三味線、それに屏風……

狭い空間だから、これで十分それらしくなると考えた。

そして、それらをさっきの茶屋から持って来て置けばいいと思い実行していく。

太鼓

これは意外と簡単に事足りた。

その茶屋に残されていたものも、それなりに立派なものばかりで、屏風も火鉢も太鼓も、それと豪華な造りの小さな棚なども、さすがにうまく雰囲気づくりに貢献してくれた。

そして、またボクの思いは一階の島田清次郎の世界へと重きを置いていったのだ………

何となく館内全体がカタチを成してきて、もうだいたいやり尽くしたかなと思っていた頃だった。

座敷と廊下

一人で二階へと上がり、初めてじっくりと座敷空間を前にして座った。

するとすぐに、奥の朱塗りの壁に何かを置きたいという思いが湧いた。

現実感のない演出だけのイメージなのだが、そのアイテムがすぐに扇子だと、自分のアタマの中では決められていった。

またさっきの茶屋へと足を向け、片付けられていた扇子を持ち出して展示した。

何となく見栄え的にはどうなのかなと思ったが、扇子は扇子と、簡単に割り切れた。

そして、今度は手前の小さな間ではなく、座敷内の客が座る座布団の上に堂々と座ったのだ。

横には肘掛があった。

正座をしたが、何となくぎこちなく、胡坐をかいてみる。

しかし、どうやっても落ち着かず、また手前の間に戻ってしまった。

自分がこのような場には、カンペキに相応しくないニンゲンなんだなと思ったかどうか覚えていないが、それも間違いない。

そして、ふと思ったのだ……

金屏風と三味線

自分が得意?とするところの“物語”がない。

訪れた人たちは、ただボーッと見回すだけで、すぐにこの場を立ち去るだろう… そう思った。

ただ、茶屋の物語はなかなか切り口がむずかしい。

堅苦しい歴史の話なんかでは面白みがない。

さらに階下の島田清次郎の物語と合わせられると、まったく暗いイメージそのものになってしまう。

その辺のところは、-1を読んでいただくとよく分かると思うのだが、とにかくただひたすら虚しく陰湿なのである。

廊下 座敷前から振り返る

ボクはその時、市の担当者の方とよく相談に行っていた、茶屋の女将・みねさんの顔を思い浮かべていた。

みねさんとは、金沢の茶屋文化を代表するパフォーマンス『一調一管』の、横笛の名手である。

あの演奏スタイルはジャズ的だ。

セッション風であり、インタープレイ的である。

話はそれたが、とにかく、その頃のボクはそんな笛の名手とも知らず、何度かお会いしていた。

第一印象は、小うるさく(すいません)、扱いにくく(以下同文)、とにかく怖いおばさんだった。

しかし、何度もお会いしていくうちに、叱られてばかりではあったが、その奥にある温かいものを感じるようになっていく。

そして、二階の茶屋を再現した空間に、みねさんの思い出みたいなものを書かせていただき置きたいと強く思った。

何度かお会いしていくうちに、みねさんから子供の頃すでに西茶屋で下働きをしていたという話を聞いていたからだ。

そんな時代の話を、紹介できないだろうか。

実を言うと、この辺りの話は過去に書いた 『みねさんは、やっぱドルフィーだった』 という雑文の中に詳しく書いている(から、そちらを読んでいただきたい)。

市の担当者にその話を持ちかけると、それはN居さんの口からどうぞ…と言われた。

そして、決して快くといった感じではなかった(少なくとも表面的には)が、みねさんは取材に応じてくれた。

三月の終わりとは言え、まだ寒い日のお昼前で、脇で鉄瓶の湯気が心地よく舞っていた。

そして、みねさんは、両手で覆った湯呑の中の、熱いお茶をすすりながら、昔を懐かしむように語ってくれたのだ。

ボクにとっては、それを受けて書き上げた文章の奥に広がる、みねさんの幼い頃の思い出が、この展示空間のすべてに生気を沁み込ませると思えた。

みねさんの淹れてくれたお茶が心にも沁みていくようだった。

ボクはずっと、こうした生の語りが伝える匂いみたいなものを大事にしてきたが、まさにこの時の自分のやり方も、そんな自分自身を大いに納得させるものだったと思う。

座敷の手前に置かれた一枚の板に記された、下手ながらも渾身の一文だ。

芸妓の話

それから、みねさんは開館直前になって、壁に展示したあった例の扇子に大いにケチをつけ、私のをしばらくだけ貸すから、取りにおいでと言ってくれた。

開館記念のセレモニーにも関わらせていただいたが、にしの芸妓さんたち全員による素晴らしい踊りも披露されて賑やかだった。

もちろん、その交渉もみねさんとだ。

西茶屋資料館は、当時からほとんど展示は変わっていない。

金沢の場合、茶屋そのもので言えばやはり「ひがし」に圧倒的に人が多く集まり、「にし」はかなり遅れてしまった。

仕方がないが、金沢の象徴的な匂いを醸し出す場としての存在感は、何と言っても大きいのだと思う。

一月の終わり頃、ふらっと立ち寄った資料館で、二十代後半から三十代初めだろうかと思われる女性が、独りで二階の間の前に座っているのを見た。

たしかに、みねさんのあの話を読んでくれていた。

ボクが上がってきたことによって、邪魔をしたみたいだった。

この静かで小さな空間には、わずかな数の人ですら相応しくない。

そんな場所を、開館する前、独占していたのだなと思った。

今から思えば、ここには贅沢な時間があったのだ……

扇子

 

みねさんの話は、こちらへ。

『みねさんは、やっぱドルフィーだ…』   http://htbt.jp/?p=3308

西茶屋資料館の仕事‐1 「島田清次郎の世界」

清次郎肖像画

金沢三茶屋街のひとつ、にし茶屋街の奥に「金沢市西茶屋資料館」がある。1996年の春にオープンした。

今はどうか知らないが、出来てしばらくの頃はほとんど誰に聞いても行ったことはないと言われた。

最近は茶屋街の中に人気のお菓子屋が出来て、ウィークデーでも人の気配が多くなったりしているみたいだ。

この資料館の仕事は、自分自身の中では大きなターニングポイントになったもので、小さな資料館ながら今でもそれなりに思い入れがある。

テーマとなっているのは、島田清次郎という大正時代の作家の生涯だ。

島田清次郎の世界

清次郎については、今多くの場で紹介されているから省略するが、31歳という若さで死ぬまでの間に、さまざまな苦難と栄光と没落を経験した人物だ。

ただ、人間的には決して一般に好かれるタイプではなかった。これは間違いない。

資料館の建物は清次郎の母方の祖父が営み、清次郎自身も母親と住んでいた「吉米楼(よしよねろう)」という茶屋を復元したものである。

入り口二階から

一階は清次郎について紹介・解説する展示空間で、二階には茶屋の風情を再現した展示もされているが、チカラの入れ方の比重で言えば、一階の清次郎空間への方が圧倒的に強かった。

こういう場合、仕事だから個人的な思いなんぞ入れることは出来ないだろうと言う人もいるが、そんなことはない。

人をテーマにした資料館などは、人物史が最も重要だと思っているので、それをどれだけ吸収するかだと思う。でないと、まず面白くない。

西茶屋資料館に関わったのは四十歳の頃だが、実を言うとボクは二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいた。

映画化もされた、一般的に言う第一部(四部構成)の話だ。

今では想像もつかない大正時代の大ベストセラーで、新潮社のビルが、この作品一本の儲けで建ったと言われる。

地上紹介パネル

ボクがそれを読んでいたことが、展示計画の監修者であった小林輝冶先生(当時北陸大学教授)にまず気に入られた理由だ。

読んでいたということ自体も驚かれたが、それ以上に二十歳の頃というのが凄かったみたいだ。

先生からは、なんで清次郎なんか読んだの?と、聞かれたほどだ。

それくらい不思議なことだったのかも知れないが、ボクにとっても、たまたま本好きだった友人が、読んでみたらいいと言って貸してくれた一冊だったに過ぎない。

実を言うと、大して面白くはなかった。

大正時代の青年たちとは違い、彼をヒーローなんぞには出来なかった。

その思いが後に鮮明になっていく。

貸してくれた友人が、さらにその清次郎の波乱万丈の生涯を書いた、杉森久英の『天才と狂人の間』という直木賞作品も薦めてくれた。

これは俗っぽい好奇心みたいなものを伴って、それなりに読み込んでしまった。

読みモノとして面白かったからではない。

島田清次郎というニンゲンの、恐ろしいほどの極悪非道ぶりが強調されていて、その毒々しさがついつい文章を追わせただけだった。

その後味の悪さは、読後のシミのようになって体に残ったような気がした。

そして、『地上』の異常に美化された虚偽の世界が余計に気に入らなくなっていく。

島田清次郎というニンゲンが恐ろしくなった。

それまで金沢の文学は、鏡花であり、犀星であり、秋声であった。

そこに清次郎という存在が現れてきたことは、少なくとも自分の中では「招かれざる客」がやって来たようなものだった。

パネル1パネル2

 

小林輝冶先生は、島田清次郎研究の第一人者だ。

清次郎は二十歳にして『地上』を世に出し、大ベストセラー作家となり、天才と褒めたたえられ、貧乏のどん底から大きな富を得るまでの大成功をおさめた。

しかし、並はずれた高慢さで、茶屋に育った背景からか女性を軽視する傾向もあり、後に大スキャンダルを犯し、そして最後は思想的にも危険分子とされて、精神を病んだまま東京巣鴨の保養院(精神病院)で独り死んでいったことになっている。

小林先生がこの仕事の中でこだわっていらっしゃったのは、彼の最期についてのところだ。

清次郎が本当に精神を病んだまま死んでいったのか? 先生はそのことに強い疑問を持っておられた。

徳富蘇峰への書簡

これ読んでよ…と言って渡された、保養院から徳富蘇峰あてに書いた手紙を読んだ時、ボクも先生の言われる意味が少し分かったような気持ちになった。

走り書きのような、ところどころ書き直されたその手紙、いや文章には清次郎の真実のようなものがあるような気がした。

それでも完全に認めることはできなかったが、展示のストーリーは、この文章を読んですぐにボクのアタマの中に展開されていったのだ。

島田清次郎を好きになっていったのではないが、ドラマは明確になった。

玄関に下げられている「島田清次郎の世界」というのは、ボクのネーミングだ。

平凡ではあるが、ほとんど知られていない清次郎の生涯のことを思うと、その素朴なタイトルがふさわしいと思えた。

清次郎の顔も、彼の残された写真の中から、もっともやさしさを感じさせるものを選び、当時スタッフだったイラストレーター・森田加奈子クンに描いてもらった。

本展示

中の展示空間は、ほとんどが文字と写真とイメージデザインだけで構成されている。

年表形式の一般的なものだが、大正という時代や清次郎の残した詩などからイメージする色などに気を使った。

ただ、小林先生といろいろやりとりしながら、いつも気持ちは複雑だった。

それは、やはり島田清次郎という人物をどう表現しようとも、美しいストーリーにはなりえないだろうなという思いだった。

しかし、せめて金沢に育った一人の天才作家が、紆余曲折の末に最期は精神の病で死んでいったという切ない結末から解放され、かすかに残されていたのかも知れないその希望に光を当てていく…… そういった思いになっていった。

大袈裟だが、小林先生の思いを具現化し、あの島田清次郎に少しでも温かい目が注がれるようにする… ボクはスタッフたちにそんな半分冗談みたいなことを語っていた。

地元の金沢商業に通学していた頃に、清次郎に強い影響を与えた橋場忠三郎という人の日記が貴重な資料となっているが、そのご子息がいつもお世話になっていた方だったという不思議な縁もあり、親しみもいくらか増した。

橋場ノート

オープンの日の朝、展示室の中にある小さなケースの中に、赤いバラを一本入れた。

今はっきりとは思い出せないが、どこかで彼の作品に描かれていた赤いバラだったと思う。

当然、今はもう置かれていない。

しかし、ずっとオープンの朝にはそうしようと考えていたことだった。そのことはなぜか忘れていない。

ところで、今、石川近代文学館で開催されている企画展・『彷徨の作家 島田清次郎』へ行くと、赤い風船が入場記念?にもらえる。

これは、『明るいペシミストの唄』という詩に出てくる、“わたしは昨日昇天した風船である”の一節からのものだろうと思っている。

詩の後半に赤い風船と、色を伝えている。

実は、西茶屋資料館の展示でもこの詩を紹介しているのだが、近代文学館の受付でそれをもらった時、ドキッとした。

何か通じるものがあったのかと、ドキドキしながら嬉しくなった。

こういう仕事にはやり残し感がつきものである。時間がたてばたつほど、それが積み重なっていくのはやむを得ないことなのかも知れない。

徳富蘇峰宛ての書簡については、近代文学館の企画展の中でもはっきりと問題提起されていたような気がするし、別にボクがどうのこうの言っても始まらないが、小林先生の思いには忠実にいようと思う………

入院記事

その2 茶屋空間の話につづく。

 

ある古い洋風の家

袋町の洋館だ

子供の頃、この家に友だちがいて、中で遊んどったことがあるよ……

近所にお住まいの、七十才を過ぎたある方がそう言った。

板壁の塗装は褪色し、木肌も傷み、窓の飾りもいくつか朽ち落ちている。

何よりも傾きが気になると、その方は屋根を見上げていた。

ある著名な作家さんも、偶然この家を見つけて、何とか残して活かせればいいと言ったそうだ。

かつて金沢の街並みを取材する仕事で、このような洋風の家がいくつも残っていることを知った。

しかし、歴史と絡んだテーマが主であったから、あまり大きく取り上げられなかった。

この家もそのひとつだ。

あの時よりも、はるかに傷みはひどくなっていた。

今から思えば、町家もいいが、こんな洋風の家も捨てがたい。

私的感覚で言えば、無理して畳の上でジャズをやっているより、フローリングの床でやってくれる方がいいように、このような建物には新たなそれらしい使い道を見つけてやるべきなのだろう。

いろいろと課題もあるだろうが、まずは柔軟に、普通に、当たり前に思い描くのがいいのかもしれない。

ボクもその方も、かなり大雑把な方なのでこれ以上は言わない。

隣りにある、江戸時代の建物を補強したという古風で小さな店の二階で、お昼ご飯をいただいた後、一部に陽の当たった洋風の家の前で、その方と長く立ち話をした。

話はこの建物から始まって、京都の町家の方向へと流れた。

そして、もう一度この家の話に戻り、ではまた…ということになった。

狭い路地に、秋の風が一筋、二筋と吹いていたのだ………

袋町の洋館

 

 

 

金沢湯涌ゲストハウスにて

GH外観

 今年も数日間の旧盆休暇がやってきた。

 我が家では、この時期にちゃんとした連休があるのは自分だけで、あとの家族はみなカレンダーどおりに仕事をしている。

 だから、申し訳ないが休暇期間中のウィークデーは自分一人の時間となるわけだ。

 と言っても、自由を満喫するなどといった余裕があるわけではない。

 初日は、先日在庫切れとなった山の水を補充にと、いつもの湯涌までやって来た。

 夏なので大量に持って帰っても保存が大変なので、今は40リットルほどを汲んで帰る。

 気候が涼しくなれば、その倍くらいは汲む。

 かなり蒸し暑かったが、水を汲んでいる時は涼感たっぷりで爽快である。

 最後にいただく一杯も、相変わらずいい味だった。

 湯涌まで来れば、当然「湯涌ゲストハウス」に立ち寄り、番頭さんのA立クンと語らって行くことになる。

 あらかじめ連絡を入れておいた。なにしろ多くの関心が集まり、なかなか好調なスタートらしいのだ。

 午後一時近くに行ってみると、すでに泊まり客は帰っていたが、予約なしの飛び込み客が多くて、嬉しいながらも困ったナ的表情をしていた。

 一応自炊だから、食料の仕込みとかは特に必要ないみたいだが、やはり布団を用意したりするなど飛び込みではきついらしい。

 それに今はまだ不慣れな上に、独りでやり繰りしなければならないから大変だろう。

 たぶんこんな状態の中で客数が増えていき、そのうちやり方も安定していくのだろうなあ…などと勝手に思ってしまった。

 忙しいのは、何よりいいことだ。

 聞いていたが、しばらくして地元テレビ局の若いディレクターが来店。

 近々、現場からの中継をやってくれるという話だ。さすがに注目度は高い。

 軽い雰囲気の打ち合わせが始まったので、勝手知ったるなんとか、ボクは購買部の部屋に隠れる。

購買部

 実はこの雑文、その六畳ほどの部屋で書下ろし中なのだ。

 購買部といっても、それらしきものは奥の小さなショーケースにあるカップ麺とオリジナルタオルくらいか。

 やたらとジャズのCDと山関係の本がカッ詰まっていたり、カヌーのパドルなどもあったりで、十分にそれらしくない。

 しかし、そこがこの湯涌ゲストハウスのいいところで、購買部はボクの大好きな空間となっている。

 欲を言えば、イスとテーブル、さらにオーディアがあればと思う。

 床に座って小さなちゃぶ台のようなテーブルに向かうのは、ちょっときつかったりする。

 このような場所は、ある意味いい仕事場にもなる。

 昔、バリバリに現場で頑張っていた頃には、企画書を書き下ろすのにこういう場所をよく使わせてもらった。

 金沢市内にある某ビルの一室では、共同で金(もちろん自前)を出し合い、空いている時にはいつでも使えるというシステムで利用していたことがある。

 ちょっと郊外にある自然の中の展望のいい、そして人が滅多に来ない東屋みたいなところで、涼しい風を受けながらのお仕事タイムもあった。

 怖いのは熊ぐらいで、コーヒーもその場で淹れるという用意周到さだった。

 さすがに今はそんな大胆な?ことはしないが、私的な部分ではまだまだ感覚はそれに近かったりする。

 だから、この湯涌ゲストハウスの存在は重要なのだが、たぶんそのうちゆっくりできなくなるだろう。

 ボクにとっては、泊りよりも休日の昼間にちょっと長めの滞在をさせてもらうというシステムがいい。

 眺望はないが、A立クンが淹れてくれるコーヒーも美味いし、ジャズも聴こえてくるし、至れり尽くせりなのである。もちろん有料だ。

 ところで、まだ整理できていないまま書いてしまうが、この湯涌ゲストハウスの個性というのは土地柄はもちろん、A立クンというニンゲンの存在にかかっているような気がしている。

 前にも書いたが、湯涌は「山里の農村」なのである。そして、今風に言えば「里山の遊び場」なのでもある。

 街なかのゲストハウスとの違いを明確にしていけば、自然遊びにも通じたA立クンのチカラははますます発揮されていくだろう。

 もちろん歴史があり温泉があるが、音楽や文学や、その他趣味・雑学の話題にも事欠かないゲストハウスがいい。

 そんなゲストハウスになってくれたらいいなあ…と、これも勝手に思っている。

 創作の森も、夢二館も、江戸村も、そして、その他のさまざまな活動団体もあって文化度も低くない。

 表の幕に記されている「Micasa,Tucasa」は、「私の家は、あなたの家」という意味らしい。

 あまり伝わっていないが、これからこのキャッチの意味が活かされていくことだろう。

 打ち合わせはそろそろ終盤に入っているらしく、A立クンの吸うたばこの匂いが漂ってきた。

 そろそろこっちも、体勢に疲れてきたところ。

 コーヒーをもう一杯いただきに、向うへ移ることにする………

幕湯涌ゲスト音

 

 

 

石段

トマソン的石段

 金沢観光の仕事にチカラを入れ始めた頃、「ひがし」はまだそれほどでもなかった。

 今の「ひがし」ではなく、「東山界隈」というイメージを重視していたくらいだった。

 しかし、「ひがし」の人気が急激に上昇し始めると、実は西もなかなかいいのだヨ的空気が漂い始めた。

 依頼されて文学をベースにしたストーリーを作り、室生犀星から始まって、島田清次郎、松尾芭蕉、それに中原中也などといったゆかりの文人たちをめぐるコースを企画した。

 タイトルは「金沢のにしを歩く」にした……。

 室生犀星が育った雨宝院の前から、にし茶屋街の方向へ抜ける狭い道がある。

 左手に高い石垣が続く、なかなか雰囲気のいい道だ。

 そして、その道に入ってしばらく歩いたところにこの石段はあった。

 しばらく眺めていると、あやしげな曲がり方をした手すりにも、微妙な組み合わせで成立してしまっている石段そのものにも、誰かの思いが込められているような気がしてきた。

 かつて、一度だけこの石段を上ってみようと思ったことがある。

 しかし、これは鑑賞のためにあるのだと自分に言い聞かせてやめた……

卯辰山の竹藪のこと

燃える竹

 枯れた竹が放置されたままの藪では、陽が差し込むと、突然その隙間に伸びていた新緑が輝き出す。

 春の始めだったりすると、その勢いも激しく、目がくらむというと大袈裟だが、ちょっとびっくりしたりする。

 金沢の卯辰山には、ところどころに竹林か竹藪かといった感じの場所があるが、どこもあまり整備されているとは言えず、かなり中途半端な様相だ。

 金沢といえば、やはり別所などの竹林が有名で、その美しさは卯辰山の比ではない。

 それはやはりよく整備されているからで、タケノコの産地であるということがそのことを裏付けてもいる。

 しかし、前にも書いたが、竹林というのは何となく日本の象徴的な風景をつくり出していて、その点でも卯辰山はちょっともったいない。

 たとえば、小さな社が三つ並ぶ卯辰三社周辺の竹藪はかなり傷んでいる。

 山麓の寺院群をめぐる「心の道」周辺も然りだ。

 傷んでいるから、整備されていないから竹林ではなく、竹藪なのだろうと勝手に思ってもいる。

 「心の道」の仕事に携わっていた頃、旧鶯町の松尾神社を抜け、そこから先、右に上るか左に下るかで結論を待たされたことがあった。

 ボクには当然決定権などなかったが、圧倒的に右行き派で、そこからの風景や空気感がこのルートの核心部になるとさえ思っていた。

 現にガイドを作った際、ボクはこの場所に向かう道の石柱と山門を撮影し使用している。

 小さな寺院と墓地。道は辛うじて木漏れ日が差す程度の明るさで静まり返っている。

西養寺墓地の道

 しかし、薄暗く荒れた墓地の中の道であることや、最後は厳しい下り坂となることもあって、雨の日の調査により、その道は危険と判断された。

 ルートは松尾神社を出て、左に下ることに決まったのだ。

 その辺りにも竹藪が続いていた。とても大きな竹が笹を垂れながら揺れていた。

 そして、それはそれなりに豪快で美しいものでもあった。

 竹藪というのは、なかなか手を入れるというのもむずかしいのだろうが、とにかく手を入れる価値が見出されていないのが本当のところなのかも知れない。

 卯辰山の瓢箪池から苔むした石段を登り、卯辰三社に上がると右手に深い竹藪が見えてくるが、その中の様子も荒れている。

竹藪の道

 しかし、竹藪に目をやりながら短い道を歩き、その途中に架かる小さなアーチ形の橋から見下ろすと、その竹藪が意外と深い広がりをもっていることに気が付く。

 その辺りまで来ると、少し竹藪が竹林になっているのではと期待ももたせてくれ、足を運ばせようとする。

 卯辰山は金沢市民にとって、あまりにも身近な存在だ。

 ボク自身も小学生の頃、天神橋の脇の旧御歩町に親戚があって、そこへ遊びに来ると、すぐに卯辰山に上った。

 もちろん歩いてであり、頂上?付近のグラウンドで遊んでいた。

 今から思えば、田舎から出てきた少年が、何の懸念もなく上り下りしていたのだから、やはりごく普通の丘みたいな山だったのだろう。

 墓地や健民公園や相撲場などがあって、今も日常の中にもそれなりに位置付けられているのはまちがいない。

 かつては相撲場で野外コンサートがあったりして、国内のそれなりに有名なジャズミュージシャンなどが来演していたこともあった。

 竹藪の話にまた戻すと、ボクはやはり、卯辰山の場合はもう少し手を入れて、せめて竹林と呼んでもおかしくないくらいにしたらどうだろうかと思う。

 前にも書いたとおり、「金沢らしさ」は「日本らしさ」なのだ。

 兼六園も武家屋敷も茶屋街も、伝統工芸も伝統料理も伝統芸能も、みな「日本らしさ」であり、今ははるかに及ばないが、卯辰山の竹藪、いや竹林もまた「日本らしさ」になる。

 卯辰山へ出かけたが、桜の印象は全くなく、ただ竹のことばかり考えて歩いていた……

卯辰山三社の石段と鳥居散策路の桜と

室生犀星記念館  「桃色の電車」との再会

犀星

 

 

 

 

 

 

会社で展示リニューアルの仕事をさせていただいた、室生犀星記念館を訪ねた。

出る時まで名乗らず、普通に入って一時間近くもいた。

犀星については、思い入れがある。

その分、正直言って自分の考える犀星の世界と、記念館が描く世界には大きな差があったりもする……

鏡花よりも、犀星の方が金沢そのものだと思ってきた。

初期小説の中に描かれる、素朴で美しい金沢風景の描写を知らない金沢人は不幸だ……

今日本中の人たちが向き合っている「ふるさと」への思いにも、犀星の世界は切なくもしっかりと通じている………

二階に上がり、閲覧コーナーで全集を引っ張り出し、「桃色の電車」という随筆を探した。

と言っても、随筆だったか詩だったかの記憶もなく、ただ漠然と探していたら、第2巻の中にあった。

久々の対面。二十歳の頃、激しく心を揺さぶられた出だしの文章に、青かった時代の自分を投影する。

詳細なことは書く気にもならないが、この文章を読んだ時感じたのは、詩のような随筆…みたいなことだった。

ジャズ・活字・映画・芸術・歴史・野球・ファッション…手当たり次第に向き合っていたその時代の感性が、あの「桃色の電車」という不思議な?文章との出会いに繋がったのかも知れないと思う。

このことは実に稀有。

数年前、地元文学の権威である小林輝冶先生に聞いた時も、先生は首をかしげられた。

犀星の世界で「桃色の電車」を語るのは、自分だけかもしれない?

ちょっと恐ろしいことのように響いてきた。

実に、稀有なのだ……

金沢的広告景観雑記

寺島邸1L

1.サインにおける「金沢らしさ」

もう25年ほど前の話である。金沢市に歩行者用の本格的な観光サイン計画を提案し、さまざまなプロセスを経て実施が決まった。そして、サイン本体には指揮者の譜面台をモチーフにしたデザインが採用された。その後、そのデザインはどんどんとバリエーションを増していく。イメージが固定化されていき、特に決まり事ができたわけではないが、さらに広く応用、展開されるようになった。金沢らしい空間の一隅で、金沢のサインはどうあるのが好ましいか? ちょっと大袈裟だが、少なくとも、それに近い観点での思慮が生まれた。

その時には気が付いていなかったが、それは間違いなくサインにおける「金沢らしさ」を考える起点にもなっていた。

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金沢には、その歴史文化の匂いを軽視できない空気がある。そのことを踏まえていくと、金沢の観光サインにはそれなりの役割が課せられていることに直面する。そして、その最も端的な要素が、“控えめに”というニュアンスだったように思う。もちろん質感などに対する配慮は言うまでもなく、表示の基準づくりなどについても、地方都市としてはかなり先を行っていたのは間違いない。ただ、狭い路地や歴史空間などにおけるサインのポジションを考える時、そこにはやはり、シンプルであることの重要性が共通認識として存在していった。

元来、金沢にはデザインを議論する環境があった。多くのクリエイターたちは、自身のメッセージと表現手法に苦心しながら、そのことを楽しんでもいた。景観という言葉も使うことはなかったが、このようなことが原点になって、金沢らしい景観という課題を考えるようになっていったのだと思う。

2.低さのこだわり…兼六園周辺などにおける展開

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金沢の代名詞とも言える兼六園周辺ゾーンでは、“控えめに”の典型的な例を見ることができる。近年、金沢城公園や21世紀美術館、しいのき迎賓館などのスポットが人気を集め、さらに歴史博物館など古い施設の再生が計画される中、一帯は「文化の森」と称され整備が進められてきた。

大木が並び豊かな季節感を醸し出す森。用水と散策路。そして憩いの象徴となる広場。それらの中に美術館や博物館などが建つ。言わば、金沢文化を直接的間接的に感受できる場所である。サインも、県と市によって鋭意検討されてきたが、ここでのサインは、既存の継続使用は別として、基本的にすべてが色調や高さに条件を付けたものばかりである。

特にサインの高さについては、特有のこだわりが幅を利かせている。それは、景観を視野に確保するという、非常にシンプルな目的のためだ。

景観を視野に確保するということは、サインはそのための妨げにならない、つまり視界を遮らないということである。そして、それらの考え方をとおして到達したのが、傾斜型の表示面を持つ、高さを抑制したサインである。つまり“譜面台型”の応用であった。

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サインを見る人は、サインの前に立つが、視界は広がっている。周囲の景観や状況を把握しながら情報を得ている。何でもないことだが、素朴にそのことに向き合い、そのことに徹した。さらにここでは、北陸特有の積雪状況についても検討され、平均積雪量を考慮するなどして根拠を持たせている。

高さと言うより、“低さの維持”を基準に置いた考え方だった。サイン自体への積雪も、それ自体にひとつの景観美があると考えた。敢えて強調したわけではないが、表示面に雪が積もった場合でも、それを手で払うという仕草そのものに、金沢らしさがあるとまで考えた。

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このようなサインの考え方には、特に際立ったデザイン性は必要とされない。繰り返すが、前述のように出来るかぎりシンプルであろうとする。そういう意味で、グラフィックの精度は別にして、本体の製作上では特に問題が発生しないようにとも考慮されている。

金沢の街中を流れる無数の用水や庭園などを紹介するサインにも、この考え方は応用され、街歩きの観光客などに親しまれている。

3.元気の表現…片町商店街などにおける展開

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前述のように、金沢では特に文化的な匂いを醸し出すデザインが歓迎される。しかし、商業ゾーンでは、景観への認識をどのように捉えるかが課題であった。

筆者は、金沢市に景観行政のセクションが生まれてすぐ、その仕事に関わるようになったが、市担当者との意見(感覚?)の違いに何度も戸惑った。よくある認識の違いで、良い景観を創るのは大きさや面積や素材でなく良いデザインである……、そのような考えの説得に、多くのエネルギーを費やしていたように思う。実際、調査対象となった地域の住民や商業者などに事例を示すと、自分が予想していたとおりの答えが返ってくることが多かった。

しかし、筆者の考えも決して深かったとは言えない。良いデザインという意味を説明しきれないでいたのも事実だった。景観の仕事はそれほど甘くはなかった。ただ、金沢市は粛々と景観行政を前進させてきている。時折、首を傾げざるを得ない時もあるが、長い歳月を経て、商業サイン環境をもしっかりと「金沢的」にまとめつつあると思う。

ところで、金沢の中心、北陸一の繁華街と言われる片町エリアでは、再開発事業が決まった。新幹線がやって来る都市らしく、その動きにますます加速がついている。それに先立ち、片町商店街では既存アーケードのサイン約100台をLED化し、両面発光の薄型でスマートなものに統一した。夜間は、お店や、商店街が金沢のPRのために掲載した、金沢市のキャッチコピー「いいね金沢」のロゴが浮かび上がっている。(※この一連のサインは、いしかわ広告景観賞・知事賞を受賞)

また、6月のはじめ、同じ片町にコカ・コーラの新しい広告サインが披露された。これも、金沢における広告景観の在り方に、ひとつのヒントを示唆するものとなっている。

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これまでにも議論されてきた「活性化と景観づくり」という、一見相反する繁華街での広告物のデザインに可能性を示したと言える。

ブランド力に負うところはもちろん大きいが、それゆえに誰もがイメージするビジュアルをシンプルにアレンジした広告サインは、大人の手法として評価されるべきだと思う。金沢という厳しい景観環境の中で、大らかにイメージを発信している。また、金沢最大のイベント「金沢百万石まつり」とスケジュールを合わせ、地元片町商店街のイベントの中でお披露目式を開催するなども、広告サインが街や地域と一体化し、歓迎される術を示した絶妙のアイデアであった。

もちろん、そのセレモニーを受け入れた地元も見事というしかない。

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その他の商店街で見られるサインにおいても、すでに整備イメージが定着する中、独自に個性的な展開を図ろうという動きが進んでいる。商店街関係者たちの意識は非常に高いレベルにあると言っていい。だからこそ、金沢の商業サイン環境は進んでいるのだ。

4.自発力の再生…新竪町周辺における展開

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片町から若者の街として人気の竪町を抜け、さらに進むと、今静かに注目を集める「新竪町通り」がある。多分何も知らずに入り口に立った人は、ただの寂れゆく、もしくはすでに寂れてしまった商店街としか見ないだろう。今は三丁目しかないという妙にドラマチックな?町だが、ここもまた若者たちの町である。

ただ、竪町と大きく違うのはその気配。竪町がよりトレンド系だとすると、新竪町は“我が道をゆく”系。気負わず自分たちのペースを守っている町なのである。もともと骨董品店などが多くあった通りだが、最近は古い店をアレンジした個性的な商品(作品)を売る店や、ユニークな飲食店ができ、訪れる人たちも個性派が多い。

金沢を普通にイメージした「古い町並み」ではないが、その町並みの中に、隠れた新しさみたいなものを感じさせる。店のファサードやウインドーなどを見ているだけでも楽しめる。金沢には美大をはじめとして、多くの大学があるということを思い浮かべさせてくれる。伝統工芸も、芸能も盛んなのであったと、何となく気付かせてもくれる。こういった通りが生まれ、息づいていくということが、金沢に特有のエネルギーが存在している証なのかも知れない。

54新竪ウインドー

 

 

 

 

 

筆者にも、たまに出かける店があるが、その店をやっている夫婦は、二人とも金沢美大の卒業生だ。しかも、二人とも県外から美大に入り、卒業後も金沢にそのまま住みついている。そういう人間たちの集まりだから、町は思慮深く、サインも実にシンプルに、さり気なく気取らず、さらに自分たち自身と、お店と、通りの雰囲気に溶け込んでいる。もちろん主張もしながら。

古くなった商店街のアーチも、新調される話が進行中らしい。ちなみに、新しいロゴもアーチ自体のデザインも、美大卒の女性クリエイターが担当している。筆者は、こういうパワーのことを“自発力”と呼んでいるが、“自発力”をもった町がいい文化を創り出していく。

かつて金沢には、ジャズや演劇やアートその他ユニークなこだわり人間たちが集う店があった。新竪町にはそんなポテンシャルがあるような気がする。歴史文化の気骨を武器にする金沢にあって、この町は欠かせない存在になっていくだろう。

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5.金沢の金沢による金沢のための表現

3年前、建築家たちが主催するフォーラムで、『トークセッション~「私たちが描く金澤とKANAZAWA」』のコーディネイターをさせていただいた。金沢で活躍する若手(一部古手もいたが)気鋭の、建築家、広告プランナー、映像プロデューサー、コミュニケーション・デザイナー、コピーライター等々に声をかけ、それぞれの立場から金沢の表現手法について語ってもらう企画を立てた。

我々の世界では、金沢が、「金澤」にも、「かなざわ」にも、「カナザワ」にもなる。また「KANAZAWA」になることもある。つまり、金沢はいろいろな顔をもつようになってきている。そのことを考えようとした。そして、セッションをとおして、それぞれが素晴らしい才能とアイデアをもち、日常の仕事の中でそのことを活かしているという頼もしさを感じた。以前、主催者の代表に筆者はこう語っていた。

「街の要素の中で視覚的な部分での建築家の責任が最も大きい。なのに建築家の皆さんは、建築のことしか考えていないのでは? クリエイターの中で、いちばん知的水準が高いのは建築家なのだから、建築家は建築と同時に、街を考えるべきです。そのお手伝いを我々は十分にできますよ…」

酒の席での放言であったが、忘れられてはいなかった。その後、このセッションの成果が十分に活かされてきたわけではないが、景観というものを考えるについても、いかに多様な感性の関与が必要かを痛感する機会となった。

金沢には優秀なクリエイターたちが数多くいる。一般の市民の中にも、ユニークな感性の持ち主が盛り沢山だ。その感性を活用しない手はない。

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金沢と景観。歴史文化都市なのであるから、その関係は深く永遠に続くものである。新幹線による国内からの流入ばかりでなく、観光の国際化もますます進み、金沢の表現はさらに多様化していくことだろう。

我々が関わっていく広告というジャンルにも、その多様性が求められていくのは明白だ。そのことにいち早く着目し、金沢らしい表現の手法を広げていくことが大切である。

 

風景は普遍的な要素の上に面白味をもち、景観は成長していく過程に面白味をもつもの…と思う。そのバランスが大切である。そういうふうに考えていくと、金沢の課題は大きいものになる。両者が重要な役割のもとに共存しているからだ。

100年と言わず、10年後の金沢を想像するだけでも、それなりになかなかスリルがある。そのスリルを楽しみながら、もう少し金沢を見ていきたいと思う。

 

※この文章は、サイン専門誌「SIGNS 2013-Autumn」に寄稿したものの原文です。

金沢ジャズ・ストリート

 今年の金沢ジャズストリートに、“チック・コリア氏が来る”という記事が載っていた。

 全盛期はすでに過ぎているとは言え、ビッグである。

 ただ、氏は余計だ。グラミー賞をとったということで氏が付いたのかも知れないが、ジャズの世界ではグラミー賞などどうでもいい(…と思っている)。

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 カウント・ベイシー・オーケストラも来る。

 すでに御大カウント・ベイシーは他界しているが、ビッグバンド・ジャズの神髄を知りたい人は、是非聴いておくべきだ。

 実は第一回目に優秀な大学ビッグバンドを呼ぶことを提言したのは、何を隠そう?この自分である。もちろん裏の、さらにその奥での話だ。

 東京などの学生ビッグバンドは真摯にジャズをやっていて、彼らの参加を促し、支援していくことは金沢の催し物として、いい効果をもたらすかも知れないと思ったからだ。

 彼らが、それなりの力量を持っていることも当然背景にあった。

 話を無理やり母校のビッグバンドの方向へと繋げるわけではないが、このカウント・ベイシー・オーケストラの演奏スタイルを、何十年にもわたってベースにしているのが、わが「明治大学ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラ」だ。

 第一回のコンサートで、明治のビッグバンドの演奏に、思わずカラダを揺らせてしまった人たちが大勢いたと思うが、あれがカウント・ベイシーのスタイルなのである。

 楽しさは自信を持って請け負う。安心して、コンサートに行ってください……

 ついでに、余計なお世話的話を書くと、明治を含めたいくつかの大学のビッグバンドが、二回目以降呼ばれなくなった。

 ビッグバンドは大勢だから経費がかかるのは分かるが、あのしっかりとした演奏を聴かせてくれた威勢のいい若者たちのステージがなくなってしまってから、ボクはもうこの催し物に魅力を感じなくなっている。

 明治大学は地元で、『お茶の水ジャズ』というイベントを毎年やっているが、ビッグバンドの連中は、次の年の参加も楽しみにしていた……

 話を戻す。

yousuke trio

 もう一人のビッグなゲストは、我らが山下洋輔(本当は「さん」を付けたい)。

 これは一応覚悟をして行くべきである。

 と言っても、最近のヒトビトはいろいろな音楽が氾濫しているから、何を聴いても驚かなくなっているだろうが。

 何度も書いているが、昔、片町に「YORK」(現在は香林坊日銀裏)という店があり、その店では、若き山下洋輔トリオの爆発的痛快及び奇想天外白熱ライブが時々行われていた。

 フリージャズなど、ごく限られた人しか聴いていない時代、このトリオのナマは実にハゲしくカラダに迫ってきて圧倒された。

 こんな音楽を聴いていることは、絶対に人には話してはいけないと思った……というのは嘘だが、誰かに教えてやろうなどとも全く思わなかった。

 山下洋輔は、ちょっと前にも石川音楽堂でガーシュインを演奏していたが、売れない時代、いや堅気には受けない時代に、よく金沢のYORKで演奏していたということを覚えておこう。

 そう思って、コンサートを聴くと、またそれなりにいい感じなのである。

 ところで、もともとジャズストリートは小さな発想から生まれた音楽イベントだった。

 しかし、金沢にはラフォル・ジュルネというクラシックの音楽祭があったことによって、一気に企画が膨らんでしまった。

 春がクラシックで、夏の終わりはジャズといった具合だ。

 そして、模索状態のまま第一回が開催され、それはそれで、それなりに良かったりしたのだ。

 ただその後、ボクが最も嫌いなイメージへと、この催し物は流れていく。

 ジャズが、大人たちの上品な世界?に嵌め込まれていったように感じた。

 自慢したって特に意味はないが、そろそろ60歳に近付くボクは、14歳の頃からジャズを聴いてきた。

 ある夜、ラジオのNHK-FMで聴いた、コルトレーンの「マイ フェイバリット シングス」にアタマをガツンと打たれ、その後のエバンスの定番「ワルツ フォー デビー」で未来を確信した。

 オレは、この音楽と共に生きていくのであろうなあ~と。

 16歳になったばかりの頃、アート・ブレーキ-&ジャズ・メッセンジャーズのコンサートに行った。

 ミントンハウスという、モダンジャズ発祥に深く関わった店での歴史的セッションに参加していた、ドン・バイアスというテナーサックス奏者がいて、彼の演奏に何も分からないまま痛く感動したのを覚えている。

 先ほど出てきた金沢ジャズのメッカ「YORK」にも通い出す。

 今は亡き、マスター・奥井進サンとの付き合いはそれから何十年も続いた。

 その奥井サンと初めて?二人で行ったコンサートが、実はチック・コリアだった。

 当時はよく招待券というのがあって、奥井サンから誘われて何度か一緒に行った。

 「リターン・トゥ・フォーエバー」という話題作を引っ提げての金沢公演だったが、ボクが一生懸命聴いている横で、奥井サンは時折ぐっすりと眠っていた。

 奥井サン流にいうところの、“いい音楽を聴くと、よく眠れる”というやつだった。

 チック・コリアはたしかにジャズ界のエリートであり、マイルスのグループで活躍した後、一時深く音楽を追究するフリー系に走ったが、その反動のようにして「リターン・トゥ・フォーエバー」を発表した。

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 その表現は実に爽やか、知的、そして美しく、シンプルだった。

 苦悩したジャズ・ミュージシャンには、時折そういったシーンを見ることがある。

 ジャズは、オシャレな音楽になってしまった。

 ある時、チケットの押し売り?を頼まれて、知り合いにお願いしようとしたら、「ジャズのコンサートって、何着て行けばいいんですか?」と、質問された。

 そんなことどうでもいいよと言ったが、その人にとって、それは重要な問題みたいだった。

 ジャズのコンサートには、出来ればシューズだとか軽めのサンダル系のものさえ履いていれば、あとはどうでもいいとボクは思っている。

 一度、最悪のことを経験したのが、コンサートの途中に聞こえてきた女性の足音。

 どうしても、トイレが我慢できなくなったのだろうか。

 あれは絶対に良くない。くしゃみをしたり、咳き込んでも、神経質なミュージシャンは嫌な顔をする。

 あのK・Jなどは、咳が止まらなくなった客に集中力を奪われて、途中でコンサートを中止したと言われるくらいなのだ。

 話はかなり方向を見失ってきたが、今のところ、金沢ジャズストリートにあまり興味はない。

 いろいろと啓発的な活動をしている人たちも知っていて、その人たちには敬意を表するが、楽譜を見ながらアドリブもどきを演っているプレイヤーたちには、同情的になったりするだけで、芯から楽しめなかったりする。

 路上など、たしかに演奏しているのはジャズの曲だったり、ジャズのアレンジだったりするが、自然と発散されるジャズ的な感覚はそれだけでは感じ取れない。確かに違うのだ。

 そのあたりが、ちょっと残念な気もして、何でもかんでも、ジャズって、なんかいいんじゃない? と言ってしまっている人たちを、斜めから見てしまう。

 こんな自分に誰がしたのか…? やっぱ、自分でしょ…なのである。

 むずかしい話はしたくないが、やはり、名盤・名演というやつを、レコードやCDで聴いているのがいちばんなのかも知れない……と、あらためて思ったりしている・・・・・・

能楽堂で脳しんとうの話

兼六園の周辺を見てまわる用事があって、本多の森にある能楽堂付近にも足を運んだ。能楽堂前の小さな広場の、その隅っこ。

新緑に囲まれ、「杜若(かきつばた)」像がひっそりと建っている。

この像はかつて、金沢駅前にあったのだが、駅前広場の整備でこの場所へと移設された。

今、金沢駅前には「鼓門」が建つが、金沢と能とのつながりは永遠に不滅なのだ。

数年前の冬の終わり頃。仕事で能楽堂を訪れ、この杜若像を見つけた。

周囲にはまだ残雪が散在していたが、なぜか嬉しくなり、写真をバシャバシャと撮った。

そして、いざ帰ろうとした時だ。

ちょっと高くなっている広場から、直接脇の細い道に出ようと、小さな斜面を下ろうとした…その時。

凍って固くなったままの雪の上に足を載せた瞬間、仰向けに体ごとひっくり返ってしまった。

午後の時間だったが、気温は低く残雪は緩んでいなかった。

雪か芝かに後頭部を強く打った。

視界が真っ暗に?なり、一瞬何が起きたのか分からない。

まずいッと、ただそれだけ思った。

朦朧としたまま、ゆっくりと立ち上がるが、数少ない脳ミソがすべて前方へと移動したような気がして不気味だ。

思わず、自分の名前を口にした。住所も血液型も口にしていた。

好きな食べ物はと自問し、ハタハタと油揚げと、これはアタマの中だけで答えた。

立山周辺での単独スキーツアーの時の事故を思い出す。

岩と岩の窪みの上に積もっていた雪を踏み抜き、尾テイ骨を激しく打って動けなくなったことがあった。ケツとアタマの違いを真面目に考えてしまう。

その夜の家人の警告もあり、翌朝、脳神経外科へ向かったのは言うまでもない。

輪切りにされたアタマの写真を見せられたが、特に異常は見当たりませんねえと、先生は面倒臭そうに答えた。

ボクもそれ以上は考えないことにした。そして、今に至っている。

普通に生活できているのだから、何ともなかったのだろう。

久しぶりに杜若像と再会し、思い出してしまった話だ……

湯涌江戸村「ケムダシ」談

 金沢の山里・二俣で、19世紀の初めに建てられたという旧S田家屋敷。

 今でも二俣で続けられている大らかな紙漉きの、その源を示すお屋敷だ。

 まだ公開されていないが、かつて旧江戸村時代に隅々まで見せていただいていて、今回化粧直しをしたその外観に驚いた。

 さらに驚いたのは、屋根の正面に作られているソレ(写真)。

 曲線的な、というより、カンペキに曲線形の優雅な美しさに見惚れる…

 新築の頃にはこんな風だったのかと思うと、200年近く前の二俣辺りの空気が欲しくなる。

 で、村長のT屋先生に「アレは、何て言うんですか?」とお尋ねした。

 アレとは、つまりソレのことである。

 すると先生が、「ケムダシだよ…」と言われる。

 「それって、煙を出すという意味の…?」 「そう…」。

 はっきり言って、あまりにも安直な答えだったので、こっちは半信半疑気味。

 このまま引き下がってはいけないのだと思い、もう一度お聞きした。

  「あそこから煙を出すから、煙出し(ケムダシ)なんだよ…」

 先生は何でもないような顔で、何回同じことを聞くのだと言わんばかりに答えられた。

 そう言われれば、何でもないことなのだ。

 煙を出すから「ケムダシ」で別に悪いわけではない。

 文句があるなら、表へ出ろ! と言われる前に、すでに表にいる。

 そんなわけで、世のモノゴトは至って簡単な仕組みで出来ているのである…ということを、あらためて痛感させられた、春の晴れたある日の、午後のやや遅い時間の、ほんのひと時の出来事であったのだ。

湯涌江戸村にいた

湯涌江戸村。もう10年以上前だったか…

現在の場所への移転計画が進められている中、その計画書の中の30ページほどを受け持った。

仰々しい仕組みの仕事ではあったが、なかなか刺激的な仕事でもあった。

その中でも、フィールドワークは特に刺激が濃く、印象は深い。

眩しすぎるほどの新緑に包まれた白川や、荘川などの保存施設を見学に行った時などは、

得意の想像力で、時空の狭間にいるような錯覚に陥った。

アタマの中での会話は、なぜか東北の言葉で進められていて、囲炉裏の煙の向こうには、おしんがいたような気がする。

閉鎖された旧の江戸村では、明かりのない屋敷の中で震え上がるような霊感や、不謹慎ながら、盗人気分なども味わったりした。

解体が始まると、ある大きな屋敷の中の足場に上らせていただいた。

そして、そこで見た内側構造の素朴さや大胆さ、さらに、巧みさや力強さに胸が躍った。

解体中であったから、グロテスクさがより一層目に焼きついた。

数えきれないほどの季節を経て染み付いた、材料そのものの匂いも刺激的だった。

風雪に耐え抜き、そこに生活する人たちを代々守ってきた、昔の屋敷の逞しさみたいなものも感じた。

つい先日の、春らしく晴れたある日。

美しく装いを変えていく江戸村の屋敷たちを見ていた。

あの時見ていた荒々しい解体の光景は、すぐには甦ってこないが、しばらくすると、自分の中で鮮明に再生されはじめた。

今はみな、きれいになり過ぎて? 落ち着き払い、ちょっと澄ました感じさえする。

しかし、それはそれなりに、またいい風景でもある。

外観よりも中に入って見る生活空間が、より印象深いからだ。

民衆の歴史は、やはり生活空間にあるのだ。と、かなり過分に偉ぶっている。

屋敷から目を離すと、高台からの眺望も文句なしの清く正しい山里風景。

ここは能登ではないから、里山とは呼ばない。と、勝手にまた偉ぶる。

そして、この眺望、温泉街とは逆方向なのがいいのだろうと、勝手に納得する。

そして、なぜかのんびりとし、しばらく静かに眺めている。

 

そう言えば、お会いした江戸村村長のT屋先生とも、かなりの久しぶり的再会であった。

夢二館館長のO田先生といい、江戸村村長のT屋先生といい、お付き合いのある先生方が湯涌で頑張っていらっしゃる。

あと一人、Aという“自然の民”系プランナーの友人もいるのだが、彼の存在もこれから湯涌では必要になってくるだろう。

が、しかし、今湯涌は得体の知れない、妙な、つまりその、何と言うか軽薄な風に吹かれている? と聞く。

偉そうなことは言えないが、こののどかさはそれに耐えられるのだろうか?

いや、耐えなくてもいいのだろうか?

太陽が西に傾き、斜面から伸びたゼンマイに鋭く陽光が当たっている。風も冷たくなってきた。

これから始まりそうなことに、少しいい気分になったりしながら、一緒に行った二人と帰路についたのであった……

室生犀星の金沢的世界

 ここ最近、室生犀星の初期小説を読み返したくてウズウズしている。

 ヒトには時々何かを思い立ったり、無性に何かが恋しくなったりする時がある。

 昔買って読んだ本たちは、当然?どこかへ消えた。

 今どきの本屋さんには、そういったかつての文学モノは置いてない。

 誰も買わない(読まない)から仕方がない。

 ボクは大学時代に室生犀星を読み尽くしていた。

 そのことは多分、非常に稀なケースであり、当時周囲にはそんな輩はいなかった。

 ただ、ボクとしては特に犀星だけを読んでいたわけではなく、その他多くの純文学モノも読んでいたので、自分自身を特異な存在とは思っていなかっただけである。

 ましてや、犀星は金沢出身であった。しかも、金沢そのものを描写した作家としては最も美しい作品を書いているとボクは思ってきた。

 金沢の三文豪では、泉鏡花の人気が圧倒的に高い。

 金沢市が鏡花にだけ文学賞の名を付けているのをみても、そのことが分かる。

 仕事柄的視点から、文学館としての要素をみても、鏡花作品は坂東玉三郎が演じたとかという付加価値を数多く生んでいて、その衣装やシナリオやスチールや映像など、見るものを楽しませるモノが豊富だ。

 あまり持論をぶつと怒られそうだから控えめに書くが、そういう意味では文学館という価値は微妙に短絡的でもある。

 地元と直結しないとか、本質とは違うストーリーがあったりもする……

 犀星について言いたいのは、金沢に生まれ、金沢を描いた詩人・作家としての土着性(言葉は不適かな)が最も高いと感じることだ。

 言い換えれば、最も金沢をふるさととして愛してきた金沢の作家と思えるのだ。

 犀星が詩人から小説家としてデビューした初期の作品、『幼年時代』と『性に目覚める頃』の二作品は、金沢の人たちや金沢が好きな人たちにもっと知ってほしいと思う。

 極端に言えば、そうではない人たちにはお薦めもしない。評価軸が異なるからだ。

 例えば、『性に目覚める頃』の冒頭から綴られた犀川の描写は、金沢の日常の風景を描いた文章としては絶品である。

 多くが認めるところであり、あの文章を読んで、ボクは金沢が好きになったと言っても過言ではない。

 さらに、犀星を好きにさせたのもこれらの作品だ。

 金沢の風景(心象も季節感なども含めて)の繊細さが、切ないくらいにやさしく迫ってきた。

 さらに犀星の生い立ちなどを知っていれば、あの美しい表現を犀星がどういう心情で綴ったのかも想像できる。

 文壇とか中央の評価などという視点は、地元金沢の視点と違っていていいのだと思う。

 自分たちのまちを、美しく、懐かしく、切なく描いた、表現した作家がいたということが財産なのだ。

 そんな意味からは、金沢を視覚的(映像的)に再現するいい素材でもあると思う。

 最近、金沢の話を題材にした武家の映画が作られているが、大正時代の金沢の街を描いた犀星作品の映像化も大いに期待できる。

 文学というのは、根本的に人懐っこいものではない。

 絵画などの美術や工芸などは、パッと見ていいなあと言えるが、文学は読まなければならない。

 ただ、読み込めば、そこに綴られている文章に深い感動や共感を得ることが出来る。

 しかし、金沢の多くの人たちにしても、鏡花も犀星もあまり読んではいないだろう。

 秋声になると申し訳ないが、存在を知っているかの方が問題になったりする。

 先にも書いたとおり、たまたま鏡花はよく知られているように見えるが、作品自体を読んでいるかというと決してそうではないだろうし、あの文体はもう現代人にはかなり厳しい気もする。

 そんな視点からも、犀星のシンプルな表現は親しみやすい。

 金沢にはプライドもあり、それが鏡花的価値観の方がカッコいいという評価に繋がっているのも理解している。

 しかし、そういう高度な視点は置いておき、金沢の人たちや金沢が好きな人たちには、是非犀星の金沢的世界を感じてほしいと思う。

 ところで今、読売新聞が犀星の名を冠した文学賞を実施している。

 ボクは犀星の文学賞には「ふるさと」というテーマが強くあってほしいと思う。

 ふるさとを愛しながら、ふるさとを離れる……

 そんな人たちの作品が対象となった賞が、犀星の文学賞には相応しい気がする。

 金沢的視点からは、犀星はやはり「ふるさと」だ。

 犀星が綴った金沢の世界は、やはり心に沁みてくる……

金沢城石垣回廊のこと

 土曜の昼過ぎ、駅前のホテルで会合に出たあと、街中の方へと向かう。

 最終的にめざすのは金沢城公園の「石垣回廊」。

 数日前にクルマの中から眺めて、何だか久しぶりに歩きたくなった。

 特に尾山神社側の鼠多門あたりのきれいになったところには、ゆっくりと足を踏み入れていないと思っていて、何となく消化不良気味だったのだ。

 クルマを会社の駐車場に止め、外へ出てから、上着を脱ぎ、ネクタイを外した。

 本当はシャツもズボンも靴もすべて変えたいが、そうはいかない。

 もうすぐ11月だというのに空気は暖かかった。

 用意してきたカメラを手に、金沢城公園へと歩く。

 市街地ではできるだけ裏通りを歩いて、特に仕事関係の人とは顔を合わさないように速足で行く。

 香林坊で裏に抜け、中央公園に辿り着けば、こっちのものだ。

 先日、中央公園を通った時には薄曇りで、何だか寒々しかったが、今日は陽だまりがくっきりと映えて、木の幹や地面がところどころで光り輝いて見える。

 二人の少女がけたたましく笑いながら、走りまわっている。

 よく見ていると、枯葉が枝から落ちてくるのを待っていて、落ちてきたのを見つけると、ワァーと駆け出した。

 その様子が天真爛漫でテンションを最高に上げてくれた。

 中央公園を出て、金沢城公園の方向へと向かうと、石垣がぼちぼち見え始める。

 尾山神社の裏側に出て、右手に石垣を見上げながら歩く。

 この辺りはきれいに掘り起こされ、整備されていて、以前よりは見違えるほどきれいになった。

 崩れかけていた石垣も補修され、安心して通れる。

 クルミの木が石垣の下の法面から突き出していて、歩道にクルミの実の皮だけが落ちている。

 こんなところでクルミを拾っていけるなんて、街中にも自然はあるのだなと改めて感心していると、コツンいう音がして、振り返ると新しい実が一個落ちていた。

 すぐに通りすがりの若い二人連れが見つけて、男の方が足で皮をむこうとしている。

 こっちはあきらめる。

 いもり掘の方からは石段を上り、二層になった一段上の道に出る。

 ここから見る「しいのき迎賓館」の姿は美しい。旧県庁の裏側だが、ガラス張りになっていて現代的な雰囲気だ。手前の芝の広場とともに、実に上品なのだ。

 そして、反対側から眺める雰囲気はもっといい。

 城下ではいちばんの広々とした感があって、背景の石垣が壮観だ。

 その雰囲気は、金沢でも絶品だと思っている。

 何年も前に、世界遺産になった後の姫路城を見に行ったが、今から思えば、この金沢城の石垣の方が重みを感じる。

 城址というイメージや、森のイメージも重なって、金沢城の方が凄いと思っている。

 金沢城の石垣は、“石垣の博物館”と呼ばれるように、さまざまな組み方などを学習できるのだそうだ。

 公園整備中のサイン計画で、その専門的な解説文などをよく読んだ。

 石にはさまざまな彫り文字や印がある。

 石垣を見上げていると、それがよく目に付き、卍などの記号は特によく見る。

 余談だが、かつて尾山神社の山門の下から横に広がる低い石垣の石段には、墓石なども使われていたといったことを聞かされた。

 事実かどうかは知らないが、上ってみると、まんざら嘘でもないような気がしていた。

 そんなことはどうでもいいが、この石垣回廊はとにかく素晴らしくいい風情を持っているのだ。

 自分だけの感覚だから、ほとんどあてにならないが、茶屋街なんぞよりもはるかに優れた文化遺産的匂いを醸し出していると思っている。

 金沢が世界遺産を目指すなら、この石垣回廊をもっともっと広く知ってもらい、その価値を高めることが先決ではあるまいかとさえ思う。

 兼六園周辺文化ゾーンだったかという概念があったが、根本的に面的な魅力づくりなど何も出来ていないような気がするのだ。

 そろそろ21世紀美術館にも馴れてきたし、原点回帰的に石垣を特化させるのも手だ。

 さっき書いた「しいのき迎賓館」の裏側からの広がりを有効に使い、金沢城公園の石垣の壮観さをより強力に伝え、さらにアクセスさせる……

 それくらいの面的な魅力を演出する仕掛けがほしいのだが……

 回廊で多くの人と擦れ違った。

 その数は土曜日とは言え、少なくともボクには驚くほどの数だった。

 ラテン系やヨーロッパ系の若いカップルや、日本人の親子連れ、カメラガールの女子、さらに同じくカップル、学生のグループ、そして場馴れした感じの普段着姿の老夫婦などがいた。

 そして、そんな中で独り旅らしい若者と出会った。

 若者というよりも青年と呼ぶ方が似合っているかも知れない。

 ちょっと、一昔前の雰囲気をもった凛々しくてイケメンな、いやハンサムな青年だった。

 青年はすらりと伸びた体を少しのけ反らせ、腕を組み、石垣をじっと見上げていた。

「旅行?」と、聞いたことから会話が始まったが、青年の、

「ここは凄いです。深いです」

 という言葉で、すべての会話が途絶えた。いや、意味を失った。

 それだけ、その言葉には重みを感じた。

「やるな、青年…」

 心の中で、そう呟いていた。

 いい気分で、石段を下り、いもり堀の奥行き感を味わう。そして、身の程知らず的に思った。

 このあたりは石川県が管理している。管理は県でいいが、石垣回廊を含めた周辺全体は金沢市が企画を練るべきではないかと。

 少なくとも、ここは金沢市だ。金沢の戦略でコトを起こす方がいい……と?

 そんなむずかしい話もほどほどにして中央公園に戻って来ると、四高記念館の裏側のレンガ壁を背景に、美しい黄葉の枝が映えていたのだった……

恵まれた学生たち

金沢市でもどこでも、大学生たちは大事にされ(過ぎ)ていると、少し斜め目線で思うときがある。

彼らのやることは、自由な発想とかで、いつもピカピカに輝いて見えているに違いないと……。

それも確かだが、地元で頑張っている“経験豊かなやり手たち”はもっと凄い。

ただ、なかなかそのことが表には見えてこないだけだ。

みんな、いつもは仕事という制限されたしがらみの中で自分を表現するしかないから、自由な発想など忘れてしまったと思われているのだろう。

昼間から喫茶店をハシゴしながら、ウンチクを語るおじさんたちの話を、学生たちは聞いたことがあるだろうか。

みんな本気になったら、凄いのだ。

学生は行政に育てられるのではなく、「まちのヒトビト」が学生を育てる。

地元の学生の活動のためのハコを造ることも大事だが、まちのヒトビトの魅力を引き出す場にも目を向けたい。そこに学生を呼んで学んでもらえばいい。

商売はもちろん、趣味・遊びの世界を語れる「まちのヒトビト」を忘れてはいけない。

時々、カリュキュラム的にやり過ごされる学生パフォーマンスを目にしていると、ふと思うことなのである……

 

中の橋が好きである

浅野川大橋より、天神橋の方が好きだし、ドラマの舞台にもなりやすい。

同じように、梅ノ橋よりも中の橋の方が好きなのだが、理由は同じようで、それだけではない。

こじんまりした橋そのものの造りや、その狭い幅や長さなどがちょうどよくて、とても情緒的だ。

西日が差す頃合いには、川面はさらに静まりかえって、上流にある浅野川大橋が浮かび上がっている。

主計町の反対側は、ちょっと見た目的によろしくなかったりもするが、それでもいい感じだ。

下流の方は、さらにぐっといい。川面の静けさは言葉では表現しがたいくらいだ。

流れの曲線が美しく、川に迫るような住宅の佇まいもいい。

柄にもなく、人恋しくなったりもして、思わず手すりに寄りかかったりするのだ……

金沢らしさは、日本らしさだった

竹林

 もう古い話で、金沢市やいくつかの市町村で観光CIやサイン計画などの仕事をしていた頃のことだ。

 ボクにはJというアメリカ人と、もうひとり彼ほど親しくはなかったが、彼の友人でG(だったと思う)というドイツ人の友人がいた。

 ある人の紹介で、金沢の飲み屋さんで知り合った。

 二人は金沢に住み、特にJは金沢のまちにかなり融け込んだ日々を送っていた。

 お察しのとおり、ボクの英語は、彼らの日本語ぐらいで、むずかしい表現は分からなかった。

 互いに日英の会話を勉強(ボクはそれほどでもなかったが)していたといった方がいい。

 観光の仕事の中でモニターをしてもらう時には、あらかじめ日本語のテキストを渡しておくと、彼らは自分で英訳(Gも日常は英語だった)した。

 二人ともかなりのインテリだったから、予備知識もかなり広く深く叩き込んでいてくれた。

 そして、レポートを書いてくれると、こちらが和訳した。

 Jは、凄く金沢びいきのオトコだった。

 というのもビジネスで東京に転勤で来た時に、日本の文化にショックを受け、もっと深く日本を知りたいと思ったという。

 それで詳しい経緯は忘れたが、誰かに日本を知るなら金沢へ行けと教えられ、金沢に来た後すぐに会社をやめて、金沢に住み始めたと言った。

 収入は英会話の講師料などだったが、両親が大学教授と弁護士とかで仕送りもあったのだと思う。

 いつも大きなザックを肩にかけ、当時としてはめずらしい電子辞書を手にしていた。

 彼らとは、まず羽咋市の曹洞宗の名刹・永光寺(ようこうじ)に出かけ、まだ今のように整備される前の永光寺の森で、ひたすらボーっとしていた?のを覚えている。

 彼らは永光寺を絶賛した。寺の建築的な魅力自体ではなく、森や水の流れや石段やその他、ボクが予想していた以上の、深い感想をレポートに書いてきた。

 残念ながら手元には何も残っていないが、特にGのレポートは、ちょっと哲学的だったような記憶がある。

 永光寺はその後、周辺整備が一気に進み、今のような素晴らしい環境になったのだ。

 金沢については、仕事そのものよりも、余暇の時間にぶらぶらと出かけた場所の方が印象に残っている。

 特に印象深かったのが、竹林のある別所というところと、卯辰山の中腹にある卯辰三社(前田家にゆかりのある三神社が建つ)へ出かけた時のことだ。

 別所が観光地であるという認識は、金沢の人にはないと思う。

 筍の季節でない時には、特に用事もなかったりする。

 実際に三人で行った時も、ただクルマを走らせているだけで、あっという間に通り過ぎてしまった。

 彼らはどこかで降ろされ、竹林の中を歩けると思っていたのだろう。

「降リナイノ?」とJが言ったかどうか、Gもそんな感じの顔をしていた。

 ボクは多分その時、「これだけだよ」と言ったはずだ。それにたまたまこの辺りまで来ただけという思いもあった。

 卯辰三社も、途中の苔むした長い石段がちょっと危険で、さらに夏には薄暗い坂道に蚊の大群が発生するという難所?だった。

 そこへ敢えて行ったのは、石段の風情がもともと気に入っていて、そこを見せてやろうと思ったからだ。

 とにかく少し登ったところの曲がり角で、上を見上げて戻ればいいと思っていた。

 ところが、二人とも石段を登ろうという。

 そして、ボクたちはゆっくり、それぞれが少しずつ間隔を置いて石段を登って行った。

「素晴ラシィー。サスガ金沢デスネェ~」 うしろから声がした。

 この石段は、その後にも金沢の三寺院群を歩く道の取材で再認識することになり、そこで出会った旅行者の青年が、やはり金沢は凄い!などと同じことを口にしていた。

 数日後、木倉町の居酒屋で金沢観光についての感想語りが始まり、その後、日銀ウラ「 Y 」でウイスキーを飲みながら続けた。

 その日は茶屋街の話をする予定だったと思うが、それよりも、二人は別所の竹藪と卯辰三社に通じる石段に強く魅かれたと言った。

 よく分かったのは、彼らは敢えて「金沢的なもの」を求めているのではなく、「日本的なもの」を求めていたということだった。

 金沢は日本的だからこそ、人気のもとがあるということなのだろうかとその時思った。

 その頃はまだ、大河ドラマで「利家とまつ」が放映されるなど、夢のまた夢のさらにまた夢ぐらいな時であったし、今のような海外からの観光客なども全く想定していない。

 だから、「日本的」などといった考え方は全くなかったと言っていい。

 その後、大河ドラマを経て「公家の京都」「武家の金沢」といった、日本史全体的視点からの話が金沢だけでちょっと盛り上がったりしたが、それも大したことはなかった。

 ボクにとっては彼ら二人だけの感覚でしかなかったが、先に書いた羽咋の永光寺の話を加味してみても、やはり日本的であるということのインパクトはかなり大きいと思えたのだ。

 そこらへんを履き違えて、金沢、金沢と声を張り上げていても、外国人は理解してくれない気がするなと、その時思った。

 何年か前、観光関連の人から、この話の場所を確認したいと電話が来た。

 教えはしたが、それなりの準備が要る。季節も大切だ。

 アジアの金持ちの人たちは、買い物が主で、日本的なものとしては鎧や兜や日本刀も欲しがると、東京の人に聞いたことがある。

 歴史や風土はまだまだ理解してもらえないだろうと。

 秋葉原の電気屋の空きスペースに工芸品を置くと、確実に売れるよと言った人もいた。

 石川の伝統工芸であれば、間違いなく売れるのかも知れない。しかし、そこまでする必要はない。してもいけない。

 ところで、金沢を離れたらしいGの消息は簡単に途絶えたが、Jとはそれから後も長く続いた。

 最後は中国に渡り、北上してシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに着いてから、再びアメリカに戻ると言っていた。

 今頃はアメリカで弁護士になっているはずだ。

 飛行機で日本を発つとき、突然会社に電話が入った。

 早口なのと、顔が見えないのとで、何を言っているのか分からず、結局、

 「Good luck  J!」とテレながら言っていたのだけ覚えている。

 彼が今いたら、金沢をどう語るだろう。

 また彼らと金沢のまちを歩いてみたいと、ときどき思う……

みねさんは、やっぱドルフィーだ・・・

 

1月28日土曜の北國新聞朝刊に、「一調一管」の乃莉(のり)さんと、峯子さんが紹介されていた。以前にもNHKが制作した番組で二人のことが紹介され、その反響も大きく英訳されて世界で放映されたというから凄い。

今更必要ないかとも思うが、県外の読者の皆さんのために書いておこう。

この二人は、金沢のにし茶屋街で茶屋を営む間柄であり、それぞれが鼓と横笛の名手でもある。

「一調一管」というのは、打楽器と笛とのデュオ(二重奏)をさすが、二人の演奏は凄まじいくらいの緊張感にあふれていて、最近金沢の街中で開催されているジャズ何とかの連中のよりも、はるかに“ジャズ的音楽”である。いっそのこと、そのジャズ何とかに出てもらって、金沢のジャズ的感性の粋を街の人たちに感じてもらうのもいいかもしれない。

特に峯子さんは、まるでE・ドルフィーであって、彼のフルートに負けないくらい、峯子さんの横笛の音には全身を凍らせるようなシャープさがある。

 

ボクにとって、その峯子さんには懐かしい思い出がある。

それは、にし茶屋街に平成8年(1996)にオープンした「金沢西茶屋資料館」の仕事に関わっていた頃のことだ。

その資料館では、一階で大正時代、20歳にして『地上』という大ベストセラー小説を発表し、一躍時代の寵児的地位にのし上がった島田清次郎の生涯を紹介している。

清次郎の祖父がかつて茶屋を営んでいたところで、現在の白山市美川に生まれた清次郎が、父を失い、まだ幼い頃に母と二人この茶屋に移り住んだ場所だ。検番の隣り、甘納豆のかわむらさんのお向かいさんになる。

清次郎のことは最近になってそれなりに知られるようになっているが、ドロドロしたところは不鮮明なままだ。

極貧から這い上がり英雄になったはずの清次郎は、『地上』による大出世後の傲慢な言動などから、世の中を敵に回すようになり、最後は狂人扱いされたまま、31歳の若さで死ぬ。

清次郎研究の第一人者である小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)は、最後に収容(監禁)されていた保養院から出した手紙(徳富蘇峰あて)に、清次郎の思いがすべて凝縮されているとされた。ボクもそう思った。

清次郎はもう一度、世の中に戻って頑張りたかったのだと……

そのことが展示ストーリーに色濃く映し出されている。

実を言うと、ボクは学生時代、東京で『地上』を読んでいた。本好きだった金沢の友人が、読んでみない?と貸してくれたのだ。しかも、その後、清次郎の生涯を題材にして書かれた『天才と狂人の間』(七尾市出身の杉森久英著で直木賞受賞)という本まで貸してくれて、ボクは非常に稀な清次郎通になっていた。

そのことに小林先生も驚かれ、今でもボクのことを可愛がってくれているきっかけになったのだ。

 

ところで、清次郎の歪んだ精神には、幼い頃から見てきた茶屋での芸者たちの扱いなども反映していると言われるが、そのことを頭に置きつつ、実際に現在の茶屋の女将から話を聞くというのは複雑だった。

資料館の二階には、茶屋の雰囲気が再現された一室がある。

その部屋の手前に、木板の上に記されたちょっと長めの文章があるが、それはボクが当時、峯子さんから聞き取った話をもとに書いたものだ。

今84歳の峯子さんは、あの頃68歳。今もお元気そうだが、あの頃は当然さらにお元気で、峯子さんのお店である「美音」へ行く際に同行してくれる市役所の担当者の方も、よくやり込まれておろおろになっていた。

峯子さんのことは、ミネさんと呼んでいて、何度もお邪魔し、展示したいものを借りられないかとか、開館セレモニーの際の詳細な打ち合わせなどをさせてもらった。

ボクはずっと、資料館二階の部屋の壁に物足りなさを感じていて、そこに扇子を何本か置きたいと思っていたのだが、なかなか思うようなものは手に入らずにいた。

仕方なく、練習用だという扇子を三本壁に置き、それらしい雰囲気を醸し出そうとやってみた。もともとボクにはそういうものを愛でる趣味もなかったせいか、何となくそれらしく見え、ボクはもうこのままいこうと思っていたのだ。

すると、ある時、峯子さんが二階に上がってきて、

「あんな安物(もん)出しといたらダメや。あんたに開館からしばらくだけ、これ貸すさけえ、ちゃんと盗られんように展示しとけんぞ」

と、上等そうな扇子を三本置いていってくれた。眼鏡の奥の目が最後に愛らしく笑っていたのを、ボクは忘れない。

そして、前に書いた、峯子さんの話をもとに書いたという文章なのだが、この企画は展示の仕事も終わりに近い付いた頃、ボクが思いつきで言い出したことだった。

それは、昔のにし茶屋街の風情を、下働きの少女の日常生活をとおして伝えようというもので、峯子さんから話を聞くのがベストだとボクは思った。

しかし、そのことを市役所の担当の方に話すと、そういう話はなかなか難しいのではないかと言われた。しかも、そういう世界では、複雑な事情もあるかも知れないと。

結局、ボクが直接峯子さんにお願いすることになり、恐る恐る問い合わせた。返事はとりあえずOKだった。

「美音」の居間に置かれた長火鉢を囲んで、いつものように鉄瓶から注がれたお湯が急須に渡り、そして熱いお茶が前に置かれた。

それから40分間ほど、峯子さんの話を聞いた。

峯子さんは、たしか幼い頃東京から来たと言った。戦前のことだが、当然、その事情は聞けなかった。

朝早く起き、いろいろと仕事が待っていたが、その頃は、小学校(野町)に行けることが嬉しくて、小学校にいる間は、店の仕事のことを忘れられるから楽しかったなどと、茶目っ気たっぷりに話してくれた。

もともとが童顔の愛くるしい峯子さんだから、そう言う話を聞いていくうちに、幼い頃の峯子さんが想像できた。本人は淡々と話していたが、あの時ボクは妙にセンチメンタルになっていたかも知れない。

 

NHKの放送で見た時、当たり前だが、たしかに峯子さんはその年齢に相応していた。自分の芸も謙遜しながら語っていた。

茶屋などはまったく縁がないから行けないが、機会があれば、また生で聴いてみたい。

ボクはジャズプレイヤー・峯子さんの大ファンなのである……

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

夏のはじめの雑想

真夏日の夜、飲み会の帰りにYORKに寄ると、カウンターに懐かしいジャケットが置かれていた。スイングジャズの代表的なピアニストであるテディ・ウイルソンの、1955年のアルバム『for quiet lovers』だ。ジャケットを見ているだけで、涼しい気分になれる。

よく “ジャケ(ット)買い”の名盤とも言われるようだが、ボクは恥ずかしくてこんなレコードは買わなかった。もちろん演奏の好みも違っているので買わなかったのだが、今聴いてみると、それなりに良かったりする。静かな恋人たちのために…などというタイトルが付いているが、演奏はやはりスイングしているのである。

それにしてもジャケットの二人は、実に幸せそうだ。1955年というと、ボクが生まれた一年後、アメリカ以外にどこの場所なのかも想像つかないが、休日のデートなのだろうか。大人の恋といった雰囲気がプンプンと漂ってきて、じっと見てしまう自分が情けなくなる。二人の服装から、夏を感じた。

 夏は、ガンガン照ってくる日差しと、青い空と入道雲だと常日頃から言っているが、金沢のド真ん中・香林坊の交差点を歩いていたら、美しい夏の風景に出会った。文句のつけようのないバランスで、都会(一応)の中の夏空が描かれていた。

早速、久しぶりの気分転換として担いできたACEのカバンから、CONTAXを出して構える。一枚撮ってからしばらく様子を見ていると、また少し変わっていく。次から次へと少しずつだが、雲が変化していき、最後は写真のようなところで落ち着きシャッターを切った。

近くの中央公園では、大して夏は感じなかった。いや、夏は夏なのだが、この場所の夏は死んでいると思った。昔、芝生が豊かで、その上に寝っ転がって本を読んだりできた頃には、大きな木陰が存在感を示し、夏休みで帰省した学生たちが集まってきたりなどしていた。小さな子供を連れた若い母親なんかが、汗を拭きながらも、幸せいっぱいな顔で子供と遊んでいた。

しかし、今は禿げあがった芝がかすかに残るだけで、土埃が舞うような有様である。いい加減に何とかしないのかなあと思うが、今では芝の上に座るなどといった行為自体が下品なのだろうか。一画を占める四高記念館のレンガづくりの建物も美しく、芝生に寝っ転がって真横の視線から眺めるのも一興なのだが、ホームレスの皆さんへの配慮などもあって出来なくしているのだろう…と、勝手に好意的な解釈をしている。

 ところで、レンガの建物と夏空とは非常にいい関係にあると、ボクはずっと感じてきた。レンガには汗をかかないイメージがある。吸汗性 の高いアウトドア用のシャツのようなイメージがあり、それが爽やかな印象をもたらし、美しい青空とマッチしている。金沢にはここ以外にも玉川の近世史料館や歴史博物館、そして市民芸術村などがあって、そこら辺へ行くと爽やかな夏を感じて嬉しくなったりするのである。

柿木畠には、駐輪場の入口あたりの鞍月用水の脇に一枚の掲示板があり、いつもそこを通るのを楽しみにしてきた。そこへ来ると、季節感を詠ませる俳句が一句だけ掲示されていて、たまにはニタニタしながら、ちょっと小声で読んだりするのだ。

作者のたみ子さんというのは、名字はM野さんといって、何を隠そう喫茶ヒッコリーのマスター・M野K一さん(今さらイニシャルでもないが)のお母さんだ。ボクはいつも“お母さん”と呼ばせていただいているが、森光子を連想させる可愛らしさと、好奇心旺盛な素敵な人だ。フラダンスやらフォークダンスから俳句やその他、多くの趣味をお持ちで、当然、お元気で、爽やかで、若々しい。

「子守唄 団扇の風に 眠らせよ」 かつての日銀ウラ界隈での俳句からは想像もつかないやさしさに満ちている。たみ子さん流の夏なんだなあ…

 金沢の東の果て?、ボクの大好きな犀川上流の駒帰という町には、古びた小学校が残っていて、夏の風景としてはちょっとうら寂しい一面があるにしろ、ときどき足を向けている。

この奥にはかつて倉谷という村があって、友だちの先祖がそこの出だということでこの辺りへ連れて来てもらったのが最初だ。もう三十年も前のことになる。

初めて来てから、ボクは凄くその場所が気に入ってしまった。それ以後、何度も何度も出かけるようになった。開けてはいないが、その分の寂れた感じがよかったのかもしれない。深い谷を流れる水も濃い緑も気に入っている。

 ボクが生まれ、今も住んでいる内灘町宮坂では夏に祭が行われる。今年は久しぶりにその祭をどっぷりと楽しんだ。特に地元が誇る獅子舞の凄さには、あらためて納得し唸った。

金沢の百万石まつりに関する仕事をしていた時期、実は金沢市内の獅子舞の情けなさにボクは開いた口が塞がらなくなり、三日間ほど間抜けにも口を開けっ放しにしていたことがある(ウソだ…)。

あんな軽々しい獅子舞で、金沢の獅子舞の伝統がどうのこうのと言ってきたのかと、無性に腹立たしくもなった。

もちろん祭そのものや、参加者たちの価値観などいろいろな面があるのだが、少なくとも我が宮坂の、正式には黒船神社の獅子舞を見たら、金沢市内の軽薄獅子舞連中は三ヶ月半ほど開いた口が塞がらなくなるのは間違いない。

黒船神社の獅子舞は、白(木地)と黒のふたつの獅子がそれぞれ上(かみ)と下(しも)に分かれて登場する。これはかつて、宮坂が実際にふたつの地区に分かれていたからだ。

ボクたちが子供の頃から当たり前のように感じていたことで、今あらためて認識させられることがある。それはやはり、内灘という土地柄か神社が砂地でできており、砂の上で舞われることによる豪快さや凄みがあるということだ。

小刻みに動きながら、じっと一点を凝視し獲物を捕らえようとするかのような獅子の表情が小さい頃には恐ろしくもあった。口が砂を食み、そして砂の上を執拗に横に這っていく。方向を変える時に発する口を閉じる時の音は迫力満点だった。

こういう祭の中の芸や技というものは、地域の誇りでもあるし、何とかして正しく残し伝えていく必要がある。その担い手たちにもしっかりとした評価をしてあげなければならない。子供の時に見ていた、瞬間心臓が止まったかのように驚いた技は、今の子供たちにも伝わるはずだ。

 

 さて、夏はやはりビールなのだが、今年は何となく面白いビールとの出会いが多く、ベルギーのビールがなくなったなあと思っていたところに、また新たなビールがやって来た。やって来たと言っても、ビールが自分で歩いてきて、こんばんは、ビールです…と言ったわけではないのは言うまでもない。

 ひとつは鉄砲玉の長女が、突然ベトナム行ってくるわと行ってきて、帰りカバンの中に忍ばせてきた缶ビール二種。もうひとつは結婚の祝い返しにもらった三重県伊賀市の地ビール三種だ。これらにモルツ・プレミアムも加わって、今夏はとても濃厚なビールに囲まれているのである。ベトナムのビールは非常に日本的だった。黒ラベルやスーパードライやラガーなどと一緒に呑んでいても区別がつかない。

台風が水を差しているが、まだまだ夏は本気ではないような気がしている。なでしこの沢穂希キャプテンが、優勝の夜に送ったという地元ドイツのマスコミへのメッセージにも触れ、今日本のすべてが、直面している大きなものを軸にして動いているのだと思った。素晴らしいメッセージだった。

暑い夏だからこそ、日本はもう一度何かを思い出さなければならないのだ……

香林坊に会社があった頃~その2

 

その1を書いてから、この話には多くの反響があり、早くつづき、つまりその2を書けといった内容のメールなどが多くきた。反響が多くて、それなりに話のタネになるのは嬉しいのだが、早く書けと言われると、なかなかその気にならないのが性格上の特徴で、そのまましばらく放っておいたことになる。

で、いざ書こうかと思うと、またあれこれいろいろと考えてしまい、とりあえず書き始めるのだが、書き切れなくなったら、その3に回すことにする。

その1の終わりに、YORKが日銀ウラにやって来た頃のことを書こうか…と書いたが、まずやはりその話を始めよう。

ボクがヨシダ宣伝に入社したのが、七〇年代の終わり頃。その十年ほど前、富山からやって来た奥井進さんが店長となって、YORKが片町にオープンした。正式には、一九六九年の十二月二十二日のことだ。

今はなくなったが、カメラのB丹堂という店の二階、狭く暗い階段を上がったところに店はあった。細長く、それなりに広い店内にはピアノが置かれ、ジャズがガンガン流れていた。奥井さんとボクとの出会いは、それから少し後になるが、その辺りの話は長くなるので別の機会にしておこう。

それから一五年後の同じ十二月、YORKは香林坊日銀ウラへと移転する。この出来事は、ボクの人生の中でもかなり重要で、今振り返ってもトテツもない大きなものをもたらしてくれたとはっきり言える。

実は、会社に入ってサラリーマン生活に妙に馴染んでくると、ボクは一時YORKから遠ざかるようになっていた。行っても、女の子を連れて行ったりして、奥井さんは喜んだかも知れないが、ボクは何だか真面目なリスナーではなくなっていた気がする。

会社の連中と飲む機会などが増えて、それがそのままカラオケやら、気取ったパブやらへの志向に変わっていた。ジャズを聴くのはクルマの中だけ、いや、クルマの中でもジャズばかり聴いていないという時期もある。何を聴いていたか、それは秘密だ…。

旅をしたり、山へ行ったりするのは変わってなかった。本を読むことも変わってなかった。仕事の中で、文章も書いていた。だが、その頃YORKに足を向けなかったのは本当になぜなのだろう…。やはり、何となく…なのだとしか言えない。

香林坊にYORKが来るという話は、ジャズ好きの友人から聞いたと思う。それをはじめて耳にした時、ボクは正直言うとガッカリした。片町のYORKが、YORKなのだと勝手に位置付けていたボクとしては、香林坊に移り狭い店になってしまうことで、ジャズの本格的な店ではなくなるという思いがあったのだ。

その辺りのことも書けば長くなるので別の機会にするが、ただ言えるのは、ボクの自分勝手な思いであったに過ぎない。大袈裟だが、ジャズという音楽を取り巻く環境が大きく変わっていたということもあっただろう。ジャズに求める、突っ張り精神みたいなものがかっこ悪くなり、表向きマイルスやコルトレーンを聴いていながら、家でこっそり天地真理も聴いている。真理ちゃん、大好き!…などといった輩が増えていた。

YORKが香林坊日銀ウラにやって来ると、ボクの日常は全くカンペキに変わった。奥井さんが店にやって来る夕方の五時半から六時頃にかけて、ふらりと店へ行ってみる。六時を過ぎていれば店は完全に開いていて、そうでなくても奥井さんはボクを迎え入れてくれた。

神宮寺の自宅から、カメラをぶら下げてのんびり歩いてくる奥井さんは、まず店の掃除などを簡単に済ませる。先に買い物に行ったりもする。近くの本屋にも行く。

まだ仕事の合間であるボクは、ずっと親しんできたいつものコーヒーを頼み、夕刊に目を通す。その前に交わす言葉は、「なんか、面白いことあったけ?」で、この言葉はその後もずっと奥井さんとの慣用句みたいになっていく。晩期の見舞いの時にも、まずどちらかともなくこの言葉が出ていた。

そんな間に、まじめそうな酒屋のおとっツァンが注文を聞きに来て、ひょうきんな氷屋のあんチャンが氷を運んできては、その日の出来事などを語って行った。特に氷屋のあんチャンの話は、時に二十分ほどの長編になったりして、軽トラの中の氷が融けないかと心配したりもした。

この時間は、ボクにとって最高に楽しい、高級クラブ風に言えば“珠玉のひととき”であった。現在の自分の中に沁み込んでいる多くのモノが、このひとときの中で育成されていったのではあるまいかと、かなりの確信で断定できる。

ある一日のひとときを振り返ると、新聞に出ていた魚のアンコウの話を皮切りに、レコード棚の上に置かれている書籍類の中から『食材図鑑』という分厚い本を取り出す。その中の魚編のアンコウが紹介されたページを探し、アンコウについて語り合うのである。

アンコウは当然海の中に居て、魚を食べている。その食べ方というか、餌となる魚の捕らえ方が面白い。アンコウは海中でじっとして、目の前にやって来た魚を、あっという間に口に頬張ってしまうのだ。

ボクと奥井さんの間には、なぜそんなことが簡単に出来てしまうのかが問題となる。そして、図鑑をあらためて見直し、アンコウの正面から撮った写真に見入るのだ。

アンコウの正面から見た顔は、はっきり言ってマヌケそのものだ。分厚い唇(なのか知らないが)に象徴されるあまりのマヌケぶりに、呆れて声も出なくなる。そして、ボクたちは納得する。アンコウの前に来た魚は、このあまりにもマヌケな顔に、不可避的脱力感を禁じ得なくなり、そのまま放心したように立ち尽くす(魚だから、ちょっとニュアンスは違うが)。その魚も呆れて声も出ない。そこをアンコウは図々しくもパクリと頬張ってしまうということなのだ……と、結論付けるのである。

俳句や写真の話題もまた、店では必ず出て来るものだった。奥井さんの俳句や写真には凄くジャズ的なものを感じた。伝統と自由さと、妙な掛け合いや組み合わせや、その世界は独特なものだった。

奥井さんの俳号は、『酔生虫』。もとは『酔生夢死』といって、程頤(ていこう)という中国の古い時代の先生の書に出てくる言葉だ。広辞苑によると、読んで字のごとく、“何のなす所もなく、いたずらに一生を終ること。”とある。その「夢死」の部分を「虫」にしたわけだ。

博学の奥井さんらしい俳号であったが、YORKではその頃俳句ブームとなっていて、奥井さんのもとには俳句好きが集まっていた。中には単なるお客から俳句仲間になった人もいた。

ボクが始めていた私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』の中に、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」というページがあったが、皆が作る俳句を、酔生虫先生が批評していくというパターンで好評を博した。ボクが先生のアシスタントという設定で、ボクの方から先生にあれこれと質問しながら進めていく内容だった。もちろんギャグ満載の楽しいコーナーであったのは言うまでもない。

『ポレポレ通信』が進化した?『ヒトビト』の創刊号の構想は、YORKのカウンターで練っていったものだ。ずっと続けた「ヒトビト的インタビュー」という重要なページでは、その第一回目を奥井さんにさせてもらった。開店前のYORKで、奥井さんは、しみじみと静かに、いろいろなことを話してくれた。昼間に店にいるということがあまりなく、ドアのガラスの外が明るかったのが珍しかった。

香林坊日銀ウラは、YORKの移転によって、ボクにとっても新しい界隈になった。会社からYORKまでが徒歩で約三十秒。六時に店に入って、そのまま夜中の十二時までいたということもたびたびあった。

その後、ヨシダ宣伝がお隣の野々市町に営業部隊を移転させるまで、ボクの日銀ウラ界隈におけるこうした日課は続いた。移転してからも、月に何度かはあった。香林坊はいつの間にか、YORKを連想させる街になっていたのだ。

やはり、YORKの話だけになってしまった。その3につづくかも知れぬ……。

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

油揚げを枕に柿木畠のヤキメシ

能登の羽咋で買ってきた油揚げが美味いと書いたら、それを読んでくれた金沢・柿木畠の喫茶「ヒッコリー」のマスター・水野弘一さんもそれを買い求めに出掛けられ、そして大量に買い込み、大変美味かったとコメントをくれた。

とにかく美味いのだから仕方がない。それに前には書かなかったが、姿形もいい。

油揚げらしい“ふくよかさ”があって、煮汁をたっぷり吸いこんでいけるだけの“器の大きさ”を感じさせている。

そのことを感じ取ってくれた水野さんは、行動力も凄いが、嗅覚も凄かった。

水野さんにはもうひとつ大きなニュースがあった。それは、二十五年以上も前に、金沢香林坊にあった洋食屋「大洋軒」という店の看板メニューを受け継いだことだ。

その店は、今の香林坊109が建つ場所にあった、本当に小さな店で、数人しか座れない狭いカウンターがあるだけだった。

ボクは高校生の頃に親友のSとよく一緒に行った。店に入ると、ほとんど横歩き状態で、カウンター客の背中を擦りながら奥へと進む。

定番メニューは「焼き飯」だ。

カウンターを挟んだ厨房に夫婦が入り、おっかさんがご飯を渡すと、受け取ったおとっつあんがフライパンにあけ、ほぐしながら激しく煽る。フライパンとお玉のぶつかり合う音が響き、時折上がる炎に、オオッとのけ反ったりした。

出来上がった焼き飯は、所謂“洋食屋の焼き飯”で、ちょっと脂ぎった飯の上に目玉焼きが乗っかっていた。

飯の盛り方がボコボコしていて、ボクとSは決まって目玉焼きの真上、つまり黄身のど真ん中からソースをかけるのだが、そのソースはすぐに目玉焼きから流れ落ち、飯に沁み込んでいく。

本当はこうなることぐらい分かっていたのに、仕方がないな~と、飯をクシャクシャと混ぜながら目玉焼きもついでにクシャクシャにしていき、黄身が完全に崩れる頃を見計らってスプーンで掬うと、そのまま一気に口に運ぶのだ。

ほくほくとした、しかし中華の所謂「チャーハン」とは違う風味が口の中に広がる。

味はソースが効いてシャープだった。特に夏の暑い日には、汗をタラタラかきながら焼き飯をモゴモゴと食った。

食後の口の中には、何となくというよりは、はっきりとしたヒリヒリ感も残っていたりして、とにかく美味かったなあという喜びと、ワレワレはついに食ったのだという満足感があった。

そんな焼き飯は、香林坊の再開発と同時に店じまいし、その後某所において続けられてきたらしいが、一般には接することは出来ないままいた。

そして、その某所での継続も終わり、かつての大洋軒の二代目さんから、なんと水野さんに継いでもらいたいという依頼があったということだ。

水野さんは、敢えて自分に白羽の矢が立ったのは、自分が半プロみたいな存在だったからだろうと言っていた。

焼き飯は、今流行の「B級グルメ」を代表するメニューだ。だから、とんでもない一流には逆に出せない味だという意味なのだろう。それと水野さんの人柄を知る者には、何となく納得できる話でもある。

始めたばかりの、その焼き飯を先日いただいた。美味かった。懐かしかった。

ヒッコリーという店が昔の大洋軒でないことを除き、あの脂ぎったような風味は逆に出せないことを考慮してボクは味わった。ご飯粒よりも大きくはしないという具たち。焼き飯はご飯がすべてという思いが込められていた。でも、やはり庶民の味なのである。

人気が出過ぎると逆効果になって、水野さんは自分の首を絞めることになるのだが、このニュースは、六月二十二日の地元紙で報道されることになっている。

ちょっとだけ余計な心配をしたりしながらも、次はいつ行くかなと考えたりもするのだった……

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……

 

春の、ある金曜の夜

 金曜の夜、主計町で篠笛と一人芝居を鑑賞した後、その場で軽くビールやワインなどをいただき、早々に香林坊まで歩こうと外に出た。

 前日に見た検番前の桜の花は、かなり開き始めており、その開花の早さに驚かされる。小雨の中とはいえ、茶屋街の外灯に浮かび上がる桜の木の姿は、やはり色っぽかった。

 大手町の裏筋から、店じまいしている夜の近江町市場の中を通る。特に大手町の裏筋には、古い佇まいも多くあったりして歩くこと自体も楽しい。近江町では居酒屋だけがぽつんと営業していたりしている。曇ったガラス越しに、かなり飲み、語り疲れたようなサラリーマンたちの顔がいくつも見えていた。

 武蔵ヶ辻に出ると、バス停に着いたばかりのバスに飛び乗った。香林坊まで、武蔵から乗ると百円ですむ。しかし、百円で得したと思うよりも、香林坊までの時間を短縮できたことの方が大きい。香林坊に着くと、すぐに日銀裏へと足を早めた……

 ヨークには、若い男二人がカウンターにいた。ビッグバンドでサックスを吹いている常連クンと、その友人だとすぐに分かった。久しぶりに顔を見たと思ったが、ボクの方が店に来る頻度が低いだけだ。めずらしく、マイルス・デイビス晩年のCDが流れている。

 二人がしばらくして出て行くと、その後にこれも懐かしいA木さんが入ってきた。ボクと同じく、どこかの飲み会帰りという様子だった。

 ボクの場合、かつては会社がすぐ下にあり、六時頃から夜中までヨークで過ごすという時もあったが、今はもうそんなことはなくなった。できなくなった。夜中までとは言わなくても、夕方から夜の始め頃までの時間を、しみじみと過ごすのが、かなり日常に近かった。

 A木さんは、金沢でも無類のジャズ愛好家であり、その温厚そうな顔付きや物腰からは想像できないほどのマニアだ。スーツ姿もさり気なく決まっている。

 かつて、マイルス・デイビスの金沢公演を再現しようというイベントを企画した際、最も有効で最も意味のある音源を貸してくれたのがA木さんだった。奥井さんの七回忌のライブ(スガ・ダイロー・トリオ)の時にも、ボクらと並んでカウンターの中からその演奏を熱心に聴いていた。

 ついでに書くと、ボクの拙本(「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」)の良き読者であり、理解者でもいてくれる素晴らしい人でもある。

 そんなA木さんと、その夜は寄席の話で盛り上がった。数日前あたりか、立川志の輔の落語を聞いたとかで、落語や漫才などは生(らいぶ)を聞かなきゃダメという点で意見がまとまった。

 ボクはかつて、先代の円楽の人情噺をしみじみ聞いたことがあるが、あれはまさに芸であったと今でも思っている。こんなことは敢えてボクのような者が言うセリフでもないだろうが、あの凄さは聞いた者でないと分からないだろう。高座から伝わって来る熱いものは並ではなかった。

 NHKラジオの「真打登場」の収録が、何年も前に寺井町(現能美市)であって、奥井さんと二人で行った時の話もした。ボクらも笑ったが、ボクらの前の席にいた熟年夫婦が周囲も気にせずに大笑いしていた。休憩時間に奥さんの方が、「寄席って、こんなに面白いもんやて知らんかったわ」と大喜びしていた光景は忘れない。

 やっぱり、生の演芸だからだネ…と、A木さんも言う。分かりきっていた落ちに、待ってましたとばかりに笑いを送る、そんな空気を感じて、幸せな気分になれるのが寄席なのである。

 そろそろ帰り支度(と言っても別に何もすることはないのだが)をしようとすると、本の方はどう?と聞かれた。特に大きな変化はないのだが、東京の方から、先日読み終えて、爽やかな気分になれたといった意味のお便りをもらった話をした。東日本地震の被災者の人たちに読んでもらいたいと思う…といった趣旨のことも書かれていて、ボクとしても、それが叶うならやりたいと思っていますと答えると、A木さんもそれはいいねと言ってくれた。

 北陸鉄道浅野川線の最終電車は、午後十一時。それに乗るために香林坊日銀前のバス停で、なかなか来ない金沢駅行バスを待つ……。

 その間、午後、浅野川・梅の橋沿いに建つ徳田秋聲記念館に、K先生を訪ねたことを思い返していた。

 先生としっかり一時間近く話をしたというのは、何年ぶりのことだっただろう。夢二館の館長時代は、館長室で時々ゆっくりとお話ができたが、脳梗塞で倒れてからは、あまりボクも訪ねて行かなくなった。

 昨年まで関わっていた、旧富来町(現志賀町)出身の作家・加能作次郎関係の仕事では、本来K先生と一緒にやるべきことも多かったのだが、結局先生との接点は地元の皆さんに任せてしまっていた。

 先生は七十九歳になられたという。島田清次郎の「にし茶屋資料館」をやった時からだから、もう十六年ほどのお付き合いになる。あの頃よりはかなりスマートになった感じだが、透析を続けての先生の活動には本当に頭が下がる思いだ。

 今回は、羽咋市にゆかりのある民俗学者で、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)でもある折口信夫に関することを教えていただきたくて時間をいただいた。先生はかつて、折口信夫のことで、近代文学館の館長だったSさんと動いたことがあったと言われた。

 現在は空き家となっている藤井家という旧家を、記念館として残すべきと考えられたらしい。しかし、実現どころか、藤井家にあった貴重な資料の多くが國學院大學に移されたということに、大きなショックを受けたと言われていた。

 藤井家を記念館にという話は、ボクも地元の人から聞いている。その価値と実現の可能性を先生に聞きたかったのだ。先生は、むずかしいが、地元に意欲のある人がいるなら、大いにやってみたらと言われた。そして、五月の初めに、地元の有志と藤井家見学に行くことになっていると話すと、その報告を楽しみに待っているよと目を輝かせた。

 そろそろ透析に行かなければならない時間。雨の中をタクシーがやって来る。

 ゆっくりと立ち上がりながら、こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね…と先生。こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ…と答える。

 「いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ…」別れ際の言葉がまた胸に染みていた。

 それにしても、バスはなかなか来なかった。接近マークは二つ手前で点滅したままで、小雨が降り続く中、ビニール傘を開かなければならなくなってもいた。

 “ 咲ききらぬ サクラ並木に 夜の雨 ”

 イライラの中の、久々の一句であった……

金沢・中央公園で思い出したこと

金沢・片町にある「宇宙軒」で「豚バラ定食大(ご飯大盛り)」を食ってから、香林坊のホテルで開かれる「中心市街地活性化フォーラム」まで30分以上時間があったので、久々に中央公園へと足を運んだ。

特別な目的があったわけではない。何となく、宇宙軒におけるご飯の大盛りが心残りとなり、朝、大和さんの地下で青汁の試飲をして身体にいいことをしたばかりだったのにと、小さな罪悪感に心を痛めていたのだった。

せめて中央公園にでも行って、色づき始めた木々を眺めるふりをしながら、カロリーを消費させよう・・・。そう思っていた。

そういう安直な思いでやって来たのだったが、思いがけなく、あまりにも色づいた木々が美しいのにボクは驚いてしまった。

あまりにも思いがけなかったので、驚きはかすかな喜びに変った。そして、かすかな喜びは果てしない郷愁へと変化し、ボクは青春時代の自分の姿を、その郷愁の中に見つけていたのだった。

何だか、昔の堀辰雄の文章みたいな雰囲気になってきたが、大学一年の夏、ボクはこの中央公園で見た光景を原稿用紙20枚にまとめた。それは初めてのエッセイらしきもので、ハゲしく志賀直哉大先生から五木寛之御大に至るまでの大作家たちの文体を真似た一品だった。

体育会系文学青年の走りだったその頃、ボクは経営学を専攻しながら、日本文学のゼミにも顔を出していた。先生は、奈良橋・・・(下の名前が出て来ない)という名で、作曲家の山本直純を若くし、さらに髭を剃って、二日半ほど絶食したような顔をしていた。果てしないヘビースモーカーで、ゼミの間は煙草が絶えることはなかった。

夏休み前の最後の授業の時に、先生はヤニで茶に近い色になった歯をむき出しにしながら、「夏休みの間に、何でもいいから、ひとつ書いてきなさい」という意味のことを言った。もちろんボクにだけ言ったのではなく、15人ほどいた学生全員に言ったのだ。

ボクはその言葉を忘れないでいた。しかし、夏合宿が始まり、精も魂も尽き果てていく日々の中で、そんなことはどうでもよくなっていった。

そんなある日、ボクは練習で腰を悪くした。もともと中学三年のとき、野球部に在籍しながら陸上部に駆り出されていた時の疲労が溜まり、身体に無理をさせたことが原因となって右の骨盤を骨折したことがあった。それがまた腰に負担をかける原因にもなり、ボクは時々腰が異様に重くなるような症状を感じていた。

久々に感じた症状だった。しかし、一旦それを感じてしまうと、身体はどんどん硬くなっていった。というより重くなっていったという方が当たっている。その年、チームは四国で行われる全日本選手権に出場することになっていたが、その出発の一週間ほど前に、ボクは石川に帰らされた。一度身体を休めて、遠征に向かう新幹線でまた合流しろというキャプテンの指示だった。

帰省してからの日々は退屈だった。金もない。ただボクは身体を休めることもせず、街をぶらぶらしていた。文庫本一冊を綿パンの後ろポケットに入れて、中央公園へとよく行った。

芝生に寝転がって本を読む。今では考えられないかも知れないが、当時の中央公園の芝はきれいだった。たくさんの人たちが芝に腰を下ろしていた。

 ある時、仰向けになり両手で持ち上げるようにして本を読んでいると、足元にボールが飛んできた。ボクはそのボールを起き上がって投げ返したが、そのままもう一度本の方に戻る気になれずにいた。そして、身体を横向きにして、また芝の上に寝転んだのだ。

ずっと向こうに近代文学館(現四高記念館)の赤レンガの建物があった。芝も木々の葉も緑だったが、同じ緑ではなかった。

そして、ボクはその中に小さな男の子と、涼しそうなワンピースを着た母親の姿を見つけた。見つけたというより、目に入ってきたという方が合っていたが、ボクは何度も転びそうになりながら走り続けている男の子の姿を目でしっかりと追っていたのだった。

どんな動きだったのかはもう覚えていないが、ボクはその時のことを文章にした。今から思えば、エッセイというよりは超短編小説といった方がいいかもしれない。なにしろ、その中のボクは「榊純一郎」という名前を付けられていたのだ。純一郎は、どこかに脱力感を漂わせる青年だった。その純一郎が、純粋な子供の仕草と母親の動きに目を奪われ、そこから何かを感じ取る・・・・。そんな話だったのだ。その時の自分に何があったのかは分からない。

帰省している間に、ボクはそれを書き終えた。そして、夏休みが終わって、学校が始まると(といっても10月だが)、最初のゼミの時間に先生に渡した。先生は驚いたような顔をしていたが、じっくりと読ませてもらうよと、また茶に近い色の歯を見せて笑っていた。

そして、次の授業の時間、先生がボクに近づいてきて言った。「なかなか見る目を持っているよ。こういうことをしっかり見て文章にできるということが大事なんだ。どんどん書きなさい」 この言葉は今でも忘れていない。

久々に来た短い時間だったが、ボクは中央公園でのことを思い出した。どんどん書きなさいと言われた言葉は、今の自分にも当てはまっていると思った。今、ただひたすら書くことによって安らいでいられる。思ってもみなかった中央公園での時間が、そのことを納得させてくれたのだった・・・・・

「 JAZZ AT 紺屋坂 (2) ちょい柔らかい話編 」

 

 「JAZZ AT 紺屋坂vol.2」の初日。

 ボクはそれとはまったく関係ない用事で朝の四時半に起き、五時過ぎにはクルマを走らせていた。行き先は新潟。前日は金沢で用事があり、どうしても出発を当日の朝にした。余計な疲労がたまることは分かっていたが仕方なかった。

 そう言えば、前夜のメールのやり取りで、体調を悪くしているYに大事にしろとメッセージを送っておいた。他人のこと言えた状況ではないくせに。

 とまあ、そんなことで一日は始まったが、新潟に一時間半ほどいて、すぐにトンボ帰りした。金沢に戻ったのが二時半頃。会社にクルマを置き、会場の紺屋坂まで歩く間に、「金沢ジャズストリート」の街なかライブをちらっと聴いたが、ゆっくりもしていられず、慌ただしい中、会場入りした。昼飯は結局食えず。朝もコンビニの乾いた菓子パン二個だけで、情けなさは果てしなかった。

 四時から初日の本番。出るのはまず、兼六中学校吹奏楽部に県立工業高校吹奏楽部という二回目を迎えた「JAZZ AT 紺屋坂」の、ある意味での目玉だ。ジャズとしての演奏内容は期待していないが、とにかく一回出てもらって、さらに来年も出てもらい、ジャズに目覚めてもらおうという魂胆。両学校側からも“出たい”という強い意欲が感じられ、参加となった。  

 新聞にもこのニュースは大きく取り上げてもらった。前日の取材で自分としては少々言ってることに違和感を持ったりしたが、こうなったら、とことん行こうと決めたのだった。詳しいことは、「JAZZ AT 紺屋坂1 やや固い話編」に書いた。

 その次が、一回目に引き続いてのデキシー・ユニオン・ジャズ・バンドだ。何の心配も要らない完熟オトッつァんバンド。ひたすら“お好きにどうぞ”と告げておいた。初日のトリは、これもまた一回目に引き続いての登場となるアイユール。直接のライブとしては久々だが、こちらも心配無用で、むしろ久々だから楽しみでもあった。

 今回は音響も照明も昨年より質を高め、司会も金沢大学放送研究会に打診。是非やらせてくださいとの要望に応えた。未来のアナウンサーたちの鍛錬の場的匂いをチラつかせ、その初々しさで盛り上げてもらおうとしたのだが、やはり仕込み不足で物足りなかった。次回への課題のひとつだ。

 初日の本番── 兼六中学校は、演奏曲が全くもって完璧にジャズではないという点で、いくら綺麗事を並べても、企画人として、今ひとつ気恥ずかしいものがあった。思わず赤面してしまった、というほどではなかったにしろ、それに近いものがあり、ボクは白クマのようにひたすら会場を右往左往していた。もちろん、これからジャズに目覚めてくれればいいのだが、運動会で演奏するマーチや、トトロの何とかではなあ…… いや、しかし、校長先生はじめ、ご父兄の方々の熱い声援もあって、よいステージであったのは言うまでもない。後日、顧問の先生を訪ねると「来年は必ずジャズの曲をやります」と言ってくれたので、期待していよう。

 二番手の県立工業高校も、総体的には兼六中に似たものがあったが、そこはやはり高校生。より自由な、音楽を楽しむ雰囲気が感じられた。特にラストには、定番中の定番、映画『スイングガールズ』スタイルの『シング・シング・シング』を演ってくれたが、ドラムの女の子(ほとんどメンバーは女子)が元気よくて、聴く側も盛り上がった。ライブ自体の雰囲気も十分理解できただろうから、こちらも来年に期待しよう。

 中高校生たちの出演でよかったのは、聴き手を増やしてくれることだ。本番前にイス席がほぼ満杯状態になるというのは、非常にいいことだ。やはり、スタートはこうでなくてはいけない。しかも、そのまま残ってくれる人も多くいて、なかなかの企画効果であった。

 デキシー・ユニオン・ジャズ・バンドの演奏が始まる頃には、日も暮れ始め、いい雰囲気になってきた。相変わらず息の合ったデキシーランドジャズを聴かせてくれるメンバーの皆さんには、ただただ感嘆するばかり。演奏の上手さはもちろんだが、おしゃべりにも、すべてのパフォーマンスにも、ショーマンシップが満ち満ちている。二日目のパフォーマンスでも聴き手を十分に楽しませてくれた。企画人としては、さまざまな可能性を見出せるバンドで、いろいろと企画の中に充て込んでいきたい存在だ。

 そして、アイユールだ。彼らは、聴くたびに上手くなっているような感じを受ける。リーダーのIさんのギターは言うまでもなく、ボーカルのYさんの歌声は絶対的に個性を増した。Yさん流の、ひとつの世界を作りつつあると感じた。そして、テナーサックス、ベースと絡めた四人編成による演奏スタイルは、かなり完成度を高めているとボクは思ったのだ。

 紺屋坂のジャズライブを象徴する演奏スタイルは、アイユールにあるのかも知れないなあと、ボクは思った。ボクの横で聴いていた商店街関係者の方も、「ナカイさん、いいグループ探してきてくれましたね」と言ってくれた。

 夜になって、「JAZZ AT 紺屋坂」はその魅力を発揮し始めた。会場である「ホテル兼六城下町」の建物、その奥に見える兼六園の森と古い木造建築、ほぼまん丸に近い美形の月も浮かんで、アイユールのアコースティックサウンドと、Yさんのシンプルな歌声がライブに活き活きとした空気を注ぎ込んでいく。何かが見えてきた感じがした…… アイユールも二日目に再登場してくれ、そこでも見事な演奏を聴かせてくれた。

 二日目にはさらに、金沢工大軽音楽部のMAJOというモダンジャズのコンボが参加してくれ、トップを務めてくれた。エレクトリック・ピアノのケーブルか何かを忘れて取りに戻るというハプニングはあったが、何とか本番に間に合った。演奏ははっきり言って発展途上。しかし、意欲がありそうで、チック・コリアのむずかしい曲『スペイン』にチャレンジするなど期待が持てた。来年も声をかけようと思う。

 そして、金沢ラテン・ジャズ・オーケストラ。芸術村で活動している新しいバンドだ。ほとんど練習だけの活動のようだったが、演奏内容はレベルが高く、練習そのものをベースにしている分、技術的にも優れたものがあると感じた。リーダーのアルトサックスやトランペットのソロが印象に残っている。ある意味、デキシー・ユニオンに近いパフォーマンス性も感じられ、これからの付き合いが楽しみになってきた。

 二日間をとおして、天候に恵まれた。特に二日目には雨の心配があり、少しでも雨が落ちてきたら、即中止と決めていたが、ほとんどその心配は無用に終わった。誰が晴らしてくれたんだろう…… とにかく感謝しよう。

 ボクは相変わらず忙しくしていて、打ち上げにも出られなかったが、商店街の人たちは多分満足してくれたと思う。課題も多く見つけられたし、それに向けてボクの仕事も明確になった。ジャズによって人の心が繋がっていくようなイベントになれば凄い、と思う。紺屋坂界隈のヒトビトと、そこに集まるヒトビトに、そのことを伝えていきたい。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、兼六園の紅葉シーズンに合わせてもう一回やる。アイユールに出てもらう。

 その頃には風も冷たくなっているだろうけど、心の少しの部分くらいは温められるだろうと思っている…

「 JAZZ AT 紺屋坂(1) やや硬い話編・・・」

 去年に引き続いて二回目となった「JAZZ AT 紺屋坂」。金沢市の中心部で始まった「金沢ジャズストリート」に合わせて始めたものだ。

 本体である後者のスタート時にも少し関わり、大学ビッグバンドを呼ぶことを提案させてもらったが、初回の大好評の割りには、今年の二回目には主なビッグバンドは参加していなかった。それは多分、東京などの大学ビッグバンドを呼ぶと、人数と距離の関係で経費がかさむからだったのだろう。ボク自身にとっては、母校のビッグバンドの連中と交わした約束は見事に破れていってしまい、大変申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、去年のことでよく理解できたが、やはり、大学ビッグバンドの優秀な連中を集めることは、今風のジャズの息吹を知る上で重要なのではないだろうか?と、ボクは思っている。国際的なジャズイベントを目指すならいざ知らず、国内の、いや県民や市民を対象として、街なかの賑わいを図るという趣旨であれば、わざわざアメリカなどからプロを呼ばなくても、大学生の意気のいいビッグバンドの演奏で十分だ。と言うよりその方が最も適している。

 「ジャズストリート」の話を初めて聞かされた時、金沢は“学都”とか“文化都市”と、自分たちから名乗っているわけだから、ジャズをきちんと勉強するような、そんな環境も作ればどうかとも提案した。それによって、全国で金太郎飴みたいに広がっているジャズなどの音楽イベントに、金沢らしい特色を付けられるのではないかとも思った。

 ところが、答えは“ノー”だった。そんな難しいことはどうでもよくて、普段あまりジャズなど聴く機会のない人たちにも、楽しく聴いてもらい、街に賑わいを作ることが主目的なのだとあらためて聞かされた。

 つまり、ジャズがどういう歴史的背景の中から生まれ、ジャズメンたちがどのようにしてジャズを今日のような最も創造的な音楽(せいぜい80年代までかな?)にまで成長させたかなどについてはどうでもよくて、とにかく街なかで何かやっていれば人が集まって来る── それがジャズだとかと言っておくと、“なんかカッコよさそうでない? 行って見っかいね”といった人たちが寄って来るし、マスコミも騒いで、街なかが賑やかになった、よかった、よかった的に話がまとまる── といった感じだったのだ。

 だからこそ、大学ビッグバンドがよいと、ボクは思ったのだが、どうも“ジャズ的ジャズ”を感じ取れない人たちには、その辺のところが理解されにくいのだと諦めるしかなかった。

 こうなったら、その路線を貫いてやろう。それほど大袈裟な話でもないが、いい年をしてボクは心を決めた。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、そんなボクの思いを背景にして第二回目を迎えたのだ。金沢城兼六園商店会という組織の主催であり、商店街活性化事業のお金を主にして実現しているのだが、こういう時こそ、公私混同型の潜在的能力を有したニンゲンの勝負になるとボクは思っている。そのとおりやっていくための原動力がそこにある。こういう類のイベントに自分が積極的に関わっていくなど、つい一年ほど前まで考えてもみなかった。やりたいという思いは少しあったが、自分自身の徒労ばかり考えていた。しかし、いい助監督との出会いがボクの背中を押した。やれそうな気がしてきた。ボクは一歩前に出ることができ、その勢いのまま歩き始めた。今はもう助監督はいなくなったが、背中にあった支えが外れたのに気が付かないふりをして、とにかくやっている。

 というわけで、ボクはこのイベントをこれから発展させていきたいと考えている。むずかしく考えるのはやめにして、自分自身も試しながら? それなりにやっていく。

 実を言うと、今ちょっと関心を持っているのが、10月10日に明治大学周辺で開催される「お茶の水ジャズ」だ。実行委員会と明治大学が主催し、地元の商店街などが協力している。2008年から始まっているが、イベントとしての質も非常にいいものだと聞いた。しかし、今年こそ行って来ようと計画していたのに、先客があった。関西の学生たちが自主的に企画運営するクラシックの音楽祭に行くことにしてあったのだ。

 東京と金沢ではスケールが違い過ぎるが、「東京ジャズ」という国際的なジャズイベントが行われている中で、「お茶の水ジャズ」という、さらに小さな単位のジャズイベントも行われているという点に注目している。なかなかいい感じだ。

 ところで、11月の紅葉シーズン、兼六園の無料開放時期に合わせて、今年もう一回、一晩きりの「JAZZ AT 紺屋坂」をやるつもりだ。

 ちょっと肌寒くて、演奏者も辛いかも知れないけど、聴いてくれる人たちの心をホットにする自信はある。柄にもなく、キザなことを言ってしまった…

水かけ神輿と一箱古本市

8月最後の日曜日は、猛暑もなんのその、とにかくひたすら慌ただしい一日であった。

まず、10時に始まる『第1回一箱古本市』に出店するために、九時半頃、主計町の源法院という小さな寺に出かけた。

この古本市は、2005年、今注目を浴びている東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まり、金沢のあうん堂さんたちがこちらにも呼ぼうと企画したものだ。駅弁売り用の木箱が一個千円で配られ、それに古本などを好きなだけ並べるだけという、シンプルを絵に描いたような売り方をする。谷根千のさまざまな面白いコト・モノに興味を持ち始めてきた最近、あうん堂のご主人Hさんからご案内いただき、まずこれを取っ掛かりにしようと決めたのだ。

主たる店番担当のKは、ボクより少し遅れて会場に到着した。彼の友人であるOクンも後から来ることになっていた。しかし、ボクはゆっくりとはしていられない。すぐに主計町から柿木畠へと移動しなければならなかった。というのも、柿木畠の人たちが数年前から始めた「水かけ神輿まつり」の様子も窺いに行かねばならなかったからだ。

KとHさんに、場を離れることを告げ、ボクはすぐに歩き出した。

主計町から柿木畠。金沢を知る人であれば、それほど近い距離でないことはすぐに分かるだろう。しかも、すでに気温は猛暑と呼ぶにふさわしいあたりまで達している。案の定、大手町あたりでTシャツは汗でびっしょりになった。かなりの早歩きのせいもあるが、日向も日蔭も関係なく熱風に全身が包まれていく。

柿木畠に着いたが、神輿の姿はなかった。そうかと納得し、広坂の石浦神社へと向かう。歴史はないとは言え、神輿は神輿、神社でお祓いをした上で街に繰り出すのが正しい道だ。こちらがちょっと遅れたせいもあり、神輿とは21世紀美術館で遭遇した。お祓いをすませ、戻りの途中だった。いつもの面々が先頭を歩いていて、手を上げて挨拶してくれる。Mさん、Iさん、Gくんなど、いつもとはちょっと違う出で立ち(Iさんは同じか)で、勇ましい。まだ勢いは付いてないが、これから街に繰り出して水の掛け合いになるのだ。

 柿木畠は、ボクにとって商店街仕事の原点みたいなところで、楽しく元気に、そしてセンスよくやりましょう…の精神でやってきた大好きなところでもある。そして、何よりも公私混同が実を結んでいった典型的なパターンの代表なのだった。

当時、21世紀美術館がオープンするのに合わせて進めた企画は、かなり自信をもってお薦めできたものだった。商店街の皆さんが凄い勢いで頑張ったし、今は亡き当時のN理事長さんやMさんにはアタマが上がらなかった(今もそうだが…)。そして、企画はさらにその後も広がっていったのだ。

 水かけ神輿は21世紀美術館から知事公舎へとまわって一暴れ(水かけ)し、広坂通りを通って、香林坊アトリオ前、東急ホテル前でも水かけして、せせらぎ通りへと移動していった。その間には何人もの知り合いと出会い、挨拶などを交わした。

時間は限界だった。Kに電話すると「いい雰囲気です」と、なんだか微妙な返事。柿木畠の面々に挨拶し、大和デパ地下で弁当を買いこみ、すぐに主計町の古本市会場へ戻ることに。

バスを利用し主計町にたどり着くと、古本市会場はそれなりに賑わっていた。

 「売れてます」とK。「えっ」と箱を覗くと、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』が減っている。基本的には古本市であったが、新刊に近いものもよいというお墨付きがあったので置かせてもらった。Kいわく、「皆さん興味があるらしく、真っ先に手にとってくれるんですヨ」とのことだ。拙著は、たまたまクルマに置いてあった四冊という中途半端な数だったが、早い時間に完売してしまった。こう言う場所へ来るお客さんたちはよい感性を持っている、さすがだなあ……と、数が少なかったことを悔いた。

山関係の本が結構売れた。売れて困った。こんな本買う人はいないだろうと思って、ダシに使っていた『槍・穂高連峰』(山と渓谷社)というかなり古い本が売れた。いや、売れてしまった。しかも最近山好きになったという、若い女性が買っていったらしかった。東大山岳部の部員たちが書いた、かなり滑稽で面白い本だった。冬山の体験などが実に笑える内容で綴られていて、ボクは素朴な装丁とともに愛読書のひとつにしていた。しかし、売れてしまったのでは仕方ない。

そう言えば、スポーツサイクルで颯爽(さっそう)と登場したOクンもまた、最近山を始めたと言っていた。Oクンには、『北アルプス山小屋物語』という山小屋のオヤジの話が満載された本をあげた。

 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』という、表装がなく薄汚くなった本も売れた。『剣岳・点の記』でまた人気が復活した新田次郎だが、実は富士山の気象観測所で働いていたことは有名で、気象庁の仕事の傍ら小説を書いていた。そんな新田次郎が有名作家になった後で書いた自伝ということで、ボクは当時異常な関心を持ってこの本を読んだ。というのも、自分自身がサラリーマンをしながら作家になることを夢に描いていたからだ。しかし、ボクはその後になって、この本を読んだことを後悔した。そんな甘いものではなかったと思い始めたからだ。この本を読んでいなければ、ボクは貧乏しながらも一応作家を目指して、頑張ったかも知れない。そんな思いに揺れ動いてもいたのだ。自分勝手なものだ。

新しいものでは辻仁成の小説本も売れた。これは内容がまったく自分に合ってなく途中でやめたものだ。売れて別に文句はないのだが、帯付きのピカピカの本だったのに、Kのやつがなんと200円で売ってしまった。そのことがちょっとショックだった。

 そんなこんなで、箱の中はかなり隙間が目立ち始め、それなりに売り上げがあったが、ボクにとっては、東京千駄木から来ていた「不思議」という店の店主Hさんとの出会いもまた楽しかった。「不思議」と書いて「はてな」と呼ぶ。千代田線千駄木駅からブラブラ歩いてくださいねという古本・古道具の店。Hさんの風貌も親しみやすく、おしゃべり自体も実に面白い。

 ボクは何気に置かれていた『東京文学散歩下町編』という定価100円の本を、300円で買った。今見てもほとんどよくは分からないのだが、1955年発行というところに魅かれて買ってしまった。

それと何と言っても興味を惹いたのが“ガラスペン”だった。竹製の年代がかった柄の部分と、ガラスで作られたペン先とがアンバランスながらに釣り合い、独特なムードを醸し出していた。旅行者風の若い女の子が「ええっ、なぜこんなところにガラスペンがあるの?」と声を上げ、Hさんが千駄木から来ていることを告げると、その女の子は納得した表情を見せた。谷根千の威力をまざまざと見せつけられた瞬間だった。

ボクは釣られるようにガラスペンを買った。包装はペン先がティッシュで包帯のように包まれただけのシンプルさで、それがまた“谷根千的”でいい味を出していた。

狭い境内とその前の狭い道に、人だかりができ、話し声や笑い声が絶えない。

暑い暑い夏の、午後の遅い時間。ちょっとお疲れ気味の店主たちは、それぞれの場を離れたりしながら語り合っていた。女性だけのグループ型、小さな子供を連れた家族型、単独オトッつぁん・オッカさん型など、さまざまな店主の形態があったが、みなそれぞれ立派な個性のもとに輝いていた。

古本市は楽しい。じっとしているのは辛いが、また今度も参加したり、自分で企画してみたりしようかと、秘かに思い始めてしまった。

帰り際、浅野川大橋のたもとに立っていると、西日がもろに顔に当たった。目を開けていられないほどだったが、その眩しさが妙に嬉しかった……

「あうん堂にて…」   

  初めて「あうん堂」へ行ってきた。金沢東山三丁目、ひがし茶屋街の大通りを挟んだ反対側。一方通行の狭い路地に入って、やっと見つけられるような小さな店だ。きっかけとなったのは、ボクの本が置かれているという話と、ヨークで見つけた「そらあるき」という小冊子。その小冊子の編集スタッフの一人が、店主の本多博行さんで、その小冊子を直販しているのが、あうん堂だ。

もう少し詳しく?説明すると、あうん堂は、「出版と古本とカフェの」というキャッチコピーが付けられているように、「そらあるき」でも分かるような出版と、個性的な古本が並ぶ書店、そして、奥さんが淹(い)れてくれる美味しいコーヒーが飲めるカフェ、これらの三つで構成されている。そして、それぞれが力みもなく、自然体で成されているというところに、あうん堂の、あうん堂たる“空気”があるのだなあと感じた。いずれにしても、まだボク自身よく把握しきれていないのも事実。ただ、テレビ朝日の「人生の楽園」という人気番組で紹介されるなど、それなりに立派にやられていることは間違いないのだ。

日曜の昼に近い午前。家人と二人、近くにある駐車場にクルマを停め、雨の中を狭い玄関へと向かう。雨が本降りになってきて、気温も朝から上がっていない。GWの終わりに、急きょトンボ帰りで京都へ行ってきたが、その時と同じ紺のシャツと綿パン。その時はポカポカ陽気で、腕まくりをしながらだったのに、今日はそんなわけにはいかない。ひたすら冷えていた。ガラスの扉を開けて中へと入る。靴を脱いで、フローリングの店内に足を踏み入れると、右手に本棚が見えている。まるで図書館の一角を見る感じだ。店は奥に深く、狭いという印象をもつが、この狭さ?が、この店を訪れる人たちの個性を物語っているのだろうと感じた。先客が一人いたが、その客と本多さんが話している内容も、なんとなく、それを感じさせるものだった。

 

ボクはまず古本が整然と並ぶ本棚を見て回った。そして、すぐにウキウキしてきた。なんと、懐かしき晶文社の植草甚一シリーズ本、そして、われらが椎名誠の本などがいっぱいあるではないか。いくつか本に目をとおし、価格なども確認しながら、ふ~んと納得。こんな世界が金沢にもあったんだなあと嬉しくなった。

そして、奥のテーブルへと。コーヒーを注文してから、時計を見る。もう昼に近い。小腹も空いてきたので、めずらしくケーキセットに変更した。コーヒーも美味しく、生クリームと小豆が付いたやや大きめの抹茶シフォンケーキも充分満たしてくれた。

  ふと壁の方を見上げると、懐かしい絵が掛っている。沢野ひとしのイラストの入った額があった。「槍ヶ岳への道」とかいうタイトルがついていたが、この絵のどこが槍ヶ岳への道なのかなあ?と、余計なことを瞬間考えてしまう。しかし、そんなことはどうでもいい。ここに沢野ひとしの絵が飾られているということが凄いのだ。聞くと、沢野ひとしはたびたび訪れているということ。ついこの間まで、絵の展示会もやっていたとのことだった。

 そういえば、この冬、歴史博物館の前で、ボクは沢野ひとしと遭遇していたのだ。その時のことは鮮明に覚えている。ボクは向かい側から歩いてくる本人を確認すると、「沢野ひとしさんですよね?」と、すぐにたずねた。びっくりしたような顔した本人は、そうですよと答えたが、なんでオレなんか知ってるの?という顔をしていた。ボクは椎名誠らとの発作的座談会の話などをした。そして、なんだか物足りなさを感じながら、これからも頑張ってくださいと、定番的言葉を口にし、握手してもらって、その場を去った。そのすぐ後、無性になぜ沢野ひとしが歴史博物館にいたのだろうと気になり、歴史博物館の担当スタッフに確認したほどだった。しかし、よくは分からなかった。

「実は、私、ゴンゲン森…とかいう本を出したんですが、こちらの店に置かせていただいてると聞きまして……」

 しばらく沢野ひとしの絵を眺めてから、奥さんに言った。奥さんはびっくりしたような表情になり、「それを早く言ってくださいよ」と言ってカウンターから出て行った。そして、ご主人にそのことを告げると、また戻ってきて、「私は、すぐに読ませてもらいましたよ。とても面白かったですよ」と言ってくれた。方言の使い方が凄く楽しかったとも言ってくれて、店の本棚に並んでいるという場所を教えてくれた。

 それからボクは持参した「ヒトビト」1~8号を取り出し、渡した。ヒトビトにも高い関心を示してくれた。ヒトビトに出てくる共通の知人も多くいて、もう古くなった話で盛り上がったが、最後は、継続していく苦労話が締めだった。そして、ヒトビトもお店に置いてもらえることになった。ヒトビトは売り物と言うより、お客さんにコーヒーを飲みながら読んでもらうというスタンスが合う気がして、そう話すと、本多さんも納得してくれたみたいだった。

 一時間ほどいただろうか。最後は、本多さんと向かい合って、いろいろな話をした。ボクが、主計町の茶屋ラボの話をしだすと、本多さんもよく知っていてくれて、以前に展示会のようなものをやったらしく、近いうちに何かやりたいと考えていることも語ってくれた。

 ナカイさんとは、これからも何か楽しいことがやれそうですね。本多さんが名刺を出しながら、ボクに言った。そして、ボクが自分の名刺を渡す時に、「固い名刺なんですけど…」と言うと、本多さんは、「名刺は固く、やることは柔らかくですよ…」と答えて笑った。

 ボクはなんだか清々しい気持ちになっていた。平凡な言い方だが、いい出会いだなあとも思い、懐かしさに似た何かを感じていた。日々それなりに過ごしていけば、またそれなりにいいことがありそうな気がして、なぜか、このことを遠くにいる友人たちに伝えたいなあと思ったりもした。

外へ出ると、雨はまだまだ降り続いていた。駐車場に向かいながら、こんなところへクルマで来るなんて、と自分を叱りつつ、愉しい時間だったことに満足もしていたのだ……