カテゴリー別アーカイブ: 気に入った施設・店編

喫茶・Eでのひさびさの時間

 紺屋坂を上りきると、兼六園と金沢城公園への入り口である石川門とで方向は左右に分かれる。

 実際は左右という感覚ではないし、四方に道が伸びているといった感じだ。

 その中の左に直角に曲がる道を歩いていくと、いくつかの店を過ぎたところに喫茶・Eがある。

 タクシーが並び、公衆トイレも昔からあってよく利用させてもらったが、やはり喫茶・Eの存在の方が当然のように麗しい。

 喫茶・Eには久方ぶりに入った。

 クルマを止めておいた駐車場の方へ近道をしようと歩いていた時、前を通ったのだ。

 ボクのアタマの中では、喫茶・Eは店じまいをしたというイメージがあった。

 しかし、今は白く塗られた壁の中の窓から見える店内には明かりがつけられ、女性客二人が笑い合っている様子が見えた。

 玄関には「珈琲」と書かれたアナログ看板も立てられてある。

 なぜか少し躊躇しつつ、店に入った。

 そして、さらになぜか「よろしいですか?」と声を発した。

 すぐに眼鏡をかけた店の方が出てきてくれ、どうぞどうぞ……

 お時間はありますか?と問われる。

 コーヒーは豆を挽いてからなので、お急ぎの方はちょっと…ということなのだ。

 こっちは少々時間がかかるぐらい問題ではなく、これから畑へ行って豆を採ってきますと言われると考えたかもしれないが、豆を挽く時間など惜しくはなかった。

 外から見えた二人連れは、入れ違いに出て行った。

 店はボクの独占状態になったが、コーヒーを注文してからしばらくすると、今度は観光客らしいミドルの五人組女性グループが入ってきた。

 ちょっとウルサくなるなと思ったが、ちょっとどころではなく、かなりウルサくなった。

 時間もたっぷりあるらしく、雑誌やらを広げて芸能界のどうでもいいようなニュースを話題にして盛り上がっていく。

 わざわざ金沢でこんな話をと思うが、聞き流すことに専念する。

 店に入ったところで、自分が来たのは四十年ぶりぐらいだということを店の方に告げた。

 すると、やさしいまなざしの店のお母さんが、店はできてから五十年くらいになりますかねと答えてくれる。

 ということは、開店後十年あたりからの数年間に何度となくお邪魔していたことになる。

 

 読みかけの文庫本を取り出して読み始めるが、なかなか軌道に乗らない。

 ようやく少し活字に目が慣れた頃になってコーヒーが来た。

 横にはデザートみたいなものが… 手作りだそうだ。

 店のお母さんの醸し出す雰囲気が、こうしたものを連想させるに十分だった。

 コーヒーも美味い、いやこの場合は、「美味しい」だ。

 

 記憶では、この店にいたのはいつも冬の寒い夜だったような気がする。

 いや、思い違いかもしれない。なにしろ四十年ほど前の話だ。

 外の階段を上って、二階の店内に多くいたような……

 一階はいつもいっぱいで、にぎやか過ぎたような……

 タバコを吸っていた。セブンスターという銘柄だった。

 ZIPPOのライターを使い、使い終わった後の蓋の閉め方には一応こだわっていた。

 当時、喫茶・Eにはどんな音楽が流れていただろうか?

 クラシックだったような気もするし、そうでなかったような気もするが、記憶は完全に曖昧だ。

 

 そして、ボクはここで活字を追っていた。

 と言っても、神経質な読書家ではなかった。

 その頃、ボクが読んでいたのは何だったか?

 いろいろ濫読の時期だったから、具体的にはわからないが、この店の当時の雰囲気からすると、日本の近代文学ものを中心に気合十分で読んでいたに違いない。

 いや、それも卒業し、紀行ものやさまざまなドキュメンタリーものを読んでいたかもしれない。

 体育会系のブンガク及びジャズ・セーネンであったボクは、それなりに緊張感のある、それでいて趣味の世界などでは、それなりに楽しい日々を過ごしていたような気もする。

 

 喫茶・Eでのことは、そんな日々の一部でしかない。

 しかし、ある意味で、この店の中にいた自分の奥の方には、なぜか今から振り返っても深いものが潜んでいたのだと思う。

 人生というと大げさだが、それなりに考えなければならないことがあった。

 その答えを出せないまま、少しというか、かなり投げやり状態になっていた。

 そのことが、いつも冬の夜だったという印象になっている感じもする。

 少し青が色褪せ始めたセーシュンの日々であった………

  

 そんなわけで、今回二階には上がれなかったが十分だった。

 窓の外には、新緑の木の葉がいっぱいに生い茂り、少しだけ開けられた窓から入ってくる風が心地いい。

 ウグイスの啼き声が聞こえたりもする。

 それなりにとてもいい時間を過ごせた気がした。

 今度はしっかりと活字を追うことにして店を出ると、うしろから、またどうぞの声。

 春の日差しがまぶしかった………

西茶屋資料館の仕事‐2 茶屋の風情

座敷

西茶屋資料館は小さな展示館だ。

自分が関わった展示施設の中では最も小さな部類に入る。

ところで、茶屋街は「にし茶屋」なのに、資料館ではなぜか「西茶屋」と表記する。

「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」という場合、このひらがな表記のもつ趣や空気感みたいなものが伝わるが、資料館の名前には敢えて漢字を使っている。

そうなった背景を今思い出そうとしているが、カンペキに忘れた。

一階の話は-1で書いた。今回は二階。

「茶屋の風情」というタイトルで括った座敷空間の話だ。

一階テーマの「島田清次郎の世界」と比べると、二階はついでのような感じで捉えていた仕事と言っていい。

段取りとしても、かなり後回しにしていたところがあった。

しかし、市の担当者と、廃業(だったか)した茶屋を一緒に見に行ってからだろうか、全く興味もなかった茶屋の中の様子に関心が湧いてくる。

展示に面白味が見出せるようになっていった。

その茶屋には何度も入らせていただいた。

記憶がかなり薄まってはいるが、入ってすぐの幅の広い階段や、ゆったりとした座敷、食材や飲み物などを保管しておく地下室など、茶屋の表と裏の世界のようなものをストレートに感じた気がした。

何でもない小さな飾りなどを見つけては、カメラに収めていたこともよく覚えている。

それから後、建築工事が終わった資料館の二階に上がると、何となくそれらしい展示のイメージが湧いてきた。

真ん中にテーブル、そして座布団と肘掛けを置き、太鼓と三味線、それに屏風……

狭い空間だから、これで十分それらしくなると考えた。

そして、それらをさっきの茶屋から持って来て置けばいいと思い実行していく。

太鼓

これは意外と簡単に事足りた。

その茶屋に残されていたものも、それなりに立派なものばかりで、屏風も火鉢も太鼓も、それと豪華な造りの小さな棚なども、さすがにうまく雰囲気づくりに貢献してくれた。

そして、またボクの思いは一階の島田清次郎の世界へと重きを置いていったのだ………

何となく館内全体がカタチを成してきて、もうだいたいやり尽くしたかなと思っていた頃だった。

座敷と廊下

一人で二階へと上がり、初めてじっくりと座敷空間を前にして座った。

するとすぐに、奥の朱塗りの壁に何かを置きたいという思いが湧いた。

現実感のない演出だけのイメージなのだが、そのアイテムがすぐに扇子だと、自分のアタマの中では決められていった。

またさっきの茶屋へと足を向け、片付けられていた扇子を持ち出して展示した。

何となく見栄え的にはどうなのかなと思ったが、扇子は扇子と、簡単に割り切れた。

そして、今度は手前の小さな間ではなく、座敷内の客が座る座布団の上に堂々と座ったのだ。

横には肘掛があった。

正座をしたが、何となくぎこちなく、胡坐をかいてみる。

しかし、どうやっても落ち着かず、また手前の間に戻ってしまった。

自分がこのような場には、カンペキに相応しくないニンゲンなんだなと思ったかどうか覚えていないが、それも間違いない。

そして、ふと思ったのだ……

金屏風と三味線

自分が得意?とするところの“物語”がない。

訪れた人たちは、ただボーッと見回すだけで、すぐにこの場を立ち去るだろう… そう思った。

ただ、茶屋の物語はなかなか切り口がむずかしい。

堅苦しい歴史の話なんかでは面白みがない。

さらに階下の島田清次郎の物語と合わせられると、まったく暗いイメージそのものになってしまう。

その辺のところは、-1を読んでいただくとよく分かると思うのだが、とにかくただひたすら虚しく陰湿なのである。

廊下 座敷前から振り返る

ボクはその時、市の担当者の方とよく相談に行っていた、茶屋の女将・みねさんの顔を思い浮かべていた。

みねさんとは、金沢の茶屋文化を代表するパフォーマンス『一調一管』の、横笛の名手である。

あの演奏スタイルはジャズ的だ。

セッション風であり、インタープレイ的である。

話はそれたが、とにかく、その頃のボクはそんな笛の名手とも知らず、何度かお会いしていた。

第一印象は、小うるさく(すいません)、扱いにくく(以下同文)、とにかく怖いおばさんだった。

しかし、何度もお会いしていくうちに、叱られてばかりではあったが、その奥にある温かいものを感じるようになっていく。

そして、二階の茶屋を再現した空間に、みねさんの思い出みたいなものを書かせていただき置きたいと強く思った。

何度かお会いしていくうちに、みねさんから子供の頃すでに西茶屋で下働きをしていたという話を聞いていたからだ。

そんな時代の話を、紹介できないだろうか。

実を言うと、この辺りの話は過去に書いた 『みねさんは、やっぱドルフィーだった』 という雑文の中に詳しく書いている(から、そちらを読んでいただきたい)。

市の担当者にその話を持ちかけると、それはN居さんの口からどうぞ…と言われた。

そして、決して快くといった感じではなかった(少なくとも表面的には)が、みねさんは取材に応じてくれた。

三月の終わりとは言え、まだ寒い日のお昼前で、脇で鉄瓶の湯気が心地よく舞っていた。

そして、みねさんは、両手で覆った湯呑の中の、熱いお茶をすすりながら、昔を懐かしむように語ってくれたのだ。

ボクにとっては、それを受けて書き上げた文章の奥に広がる、みねさんの幼い頃の思い出が、この展示空間のすべてに生気を沁み込ませると思えた。

みねさんの淹れてくれたお茶が心にも沁みていくようだった。

ボクはずっと、こうした生の語りが伝える匂いみたいなものを大事にしてきたが、まさにこの時の自分のやり方も、そんな自分自身を大いに納得させるものだったと思う。

座敷の手前に置かれた一枚の板に記された、下手ながらも渾身の一文だ。

芸妓の話

それから、みねさんは開館直前になって、壁に展示したあった例の扇子に大いにケチをつけ、私のをしばらくだけ貸すから、取りにおいでと言ってくれた。

開館記念のセレモニーにも関わらせていただいたが、にしの芸妓さんたち全員による素晴らしい踊りも披露されて賑やかだった。

もちろん、その交渉もみねさんとだ。

西茶屋資料館は、当時からほとんど展示は変わっていない。

金沢の場合、茶屋そのもので言えばやはり「ひがし」に圧倒的に人が多く集まり、「にし」はかなり遅れてしまった。

仕方がないが、金沢の象徴的な匂いを醸し出す場としての存在感は、何と言っても大きいのだと思う。

一月の終わり頃、ふらっと立ち寄った資料館で、二十代後半から三十代初めだろうかと思われる女性が、独りで二階の間の前に座っているのを見た。

たしかに、みねさんのあの話を読んでくれていた。

ボクが上がってきたことによって、邪魔をしたみたいだった。

この静かで小さな空間には、わずかな数の人ですら相応しくない。

そんな場所を、開館する前、独占していたのだなと思った。

今から思えば、ここには贅沢な時間があったのだ……

扇子

 

みねさんの話は、こちらへ。

『みねさんは、やっぱドルフィーだ…』   http://htbt.jp/?p=3308

しばらく行ってない珈琲屋

ブラジル倶楽部

しばらく行っていない珈琲屋さんがある。

JR松任駅から真っ直ぐ。

二つ目の交差点で、カックンと右に曲がったところにある本当に小さな珈琲屋さんだ。

椅子は11脚しかないが、それがまた丁度いい。

知ったかぶりをしているが、三度しか行ったことはない。

二度目の時に、「有機栽培 鈴木さん」という銘柄の珈琲を淹れてもらった。

鈴木さんとは、ブラジルで有機JAS認証コーヒーを生産する有名な人だ。

店ではそのままの名前で豆を販売している。

それがまた新鮮でよかった。

もちろんいい味だったので、100gだけ挽いてもらった。

たしかに家で飲んでも美味しかった。

細長くて狭い店には、金沢美大生の作品などもさり気なく展示されている。

店は飾らない女性主人が切り盛りしているらしく、客はご近所の、ちょっと立ち寄ったという人ばかりのようにも思える。

なかなか四度目に至っていないのは、こっちが慌ただしくしているせいだ。

心地よく過ごせるいい店だと気に入っているから、しばらく顔を出さないでいると余計に行きにくくなる。

こういうことは時折あって、次に行く頃合いがむずかしいのだ。

ただ、夏も終わりかけているし、そろそろ足を運んでもいい頃だと、少し焦り始めているのも事実なのだ………

 

 

湯涌江戸村にいた

湯涌江戸村。もう10年以上前だったか…

現在の場所への移転計画が進められている中、その計画書の中の30ページほどを受け持った。

仰々しい仕組みの仕事ではあったが、なかなか刺激的な仕事でもあった。

その中でも、フィールドワークは特に刺激が濃く、印象は深い。

眩しすぎるほどの新緑に包まれた白川や、荘川などの保存施設を見学に行った時などは、

得意の想像力で、時空の狭間にいるような錯覚に陥った。

アタマの中での会話は、なぜか東北の言葉で進められていて、囲炉裏の煙の向こうには、おしんがいたような気がする。

閉鎖された旧の江戸村では、明かりのない屋敷の中で震え上がるような霊感や、不謹慎ながら、盗人気分なども味わったりした。

解体が始まると、ある大きな屋敷の中の足場に上らせていただいた。

そして、そこで見た内側構造の素朴さや大胆さ、さらに、巧みさや力強さに胸が躍った。

解体中であったから、グロテスクさがより一層目に焼きついた。

数えきれないほどの季節を経て染み付いた、材料そのものの匂いも刺激的だった。

風雪に耐え抜き、そこに生活する人たちを代々守ってきた、昔の屋敷の逞しさみたいなものも感じた。

つい先日の、春らしく晴れたある日。

美しく装いを変えていく江戸村の屋敷たちを見ていた。

あの時見ていた荒々しい解体の光景は、すぐには甦ってこないが、しばらくすると、自分の中で鮮明に再生されはじめた。

今はみな、きれいになり過ぎて? 落ち着き払い、ちょっと澄ました感じさえする。

しかし、それはそれなりに、またいい風景でもある。

外観よりも中に入って見る生活空間が、より印象深いからだ。

民衆の歴史は、やはり生活空間にあるのだ。と、かなり過分に偉ぶっている。

屋敷から目を離すと、高台からの眺望も文句なしの清く正しい山里風景。

ここは能登ではないから、里山とは呼ばない。と、勝手にまた偉ぶる。

そして、この眺望、温泉街とは逆方向なのがいいのだろうと、勝手に納得する。

そして、なぜかのんびりとし、しばらく静かに眺めている。

 

そう言えば、お会いした江戸村村長のT屋先生とも、かなりの久しぶり的再会であった。

夢二館館長のO田先生といい、江戸村村長のT屋先生といい、お付き合いのある先生方が湯涌で頑張っていらっしゃる。

あと一人、Aという“自然の民”系プランナーの友人もいるのだが、彼の存在もこれから湯涌では必要になってくるだろう。

が、しかし、今湯涌は得体の知れない、妙な、つまりその、何と言うか軽薄な風に吹かれている? と聞く。

偉そうなことは言えないが、こののどかさはそれに耐えられるのだろうか?

いや、耐えなくてもいいのだろうか?

太陽が西に傾き、斜面から伸びたゼンマイに鋭く陽光が当たっている。風も冷たくなってきた。

これから始まりそうなことに、少しいい気分になったりしながら、一緒に行った二人と帰路についたのであった……

紀伊國屋に立ち寄る

 新宿へ行ったついでに、何年ぶりかで紀伊國屋に立ち寄った。

 前を通るとちょうど開店したばかりで、吸い込まれるように二階へのエスカレーターに乗っていた。

 思えば、大学に行くために東京生活を始めた二日目の午後、初めて新宿の街に出た。

 目指したのは紀伊國屋だった。なぜか、東京へ出たら紀伊國屋と、FUNKY(吉祥寺にあったジャズ喫茶)と、神宮球場へ行かねばならぬという強い使命感があり、まず手始めとして新宿へ乗り込み、紀伊國屋で本に埋もれてみようと思った。

 春を迎えたばかりの新宿駅東口は人が溢れ、雑然としていた。

 人が厚い層を成し、その人の波が一気に横断歩道を揺れながら流れるように渡って行く。

 その時あらためて、東京を感じた。

 何となく地理的には理解していた紀伊國屋に向けて緩い坂を上る。

 しかし、紀伊國屋を見つけたと同時に、ボクはその向かい側にあった洋服屋に入っていた。

 MITSUMINEだ。衝動的に、白と、からし色のボタンダウンのシャツ2枚を買った。

 店員さんとのスピーディな会話も楽しく、衝動買いの要因はそこにもあった。

 今はもうその店はないが、MITSUMINEとの関係はシンプルに続いている。

 金沢でも二年ほど前に店はなくなり、なかなか新しいモノを買う機会はなくなった。

 だが、20~30代の頃に買い、今も着ている洋服には、MITSUMINEのロゴの入ったモノがいくつかある。

 そのロゴを見るたびに、新宿のあの店を思い出すのだ。

 仕事の合間の紀伊國屋だから、久しぶりと言え時間はほんのわずかしかない。

 いきなり安部公房の『題未定』が目に飛び込んできたが、ぐっと堪える。

 結構分厚い未発表の短編集で、読んでみたいと思っていたものだ。

 だが、帰りの電車の中で読み切れるくらいの本にしようと、何となく決めていた。

 慌ただしく奥へ奥へと進んで行くと、最も奥に「ハルキ文庫」という小さなコーナーがあった。

 「ハルキ」は、角川春樹氏の「ハルキ」である。

 本の種類は少ないが、梶井基次郎の『檸檬(れもん)』がある。

 梶井は大正後期から昭和初めにかけていくつかの短編を残した人だ。31歳の若さで早死にしている。

 『檸檬』は、梶井の代名詞的短編で、ボクはこの本を金沢の友人に教えてもらった。

 その友人は、ボクに金沢出身の島田清次郎も教えてくれたのだが、梶井も島田も同じような時代に早死にしていた。

 しかし、ボクは圧倒的に梶井の方が好きになった。島田のことを知っている人なら、その理由はよく理解できるだろう。

 それに、もうひとつ大きな決め手があった。

 それは、顔だ。梶井のあの男臭い顔立ちが好きだったのだ。

 そんなことを思い出しながら、一冊しかなかったので、誰かに先を越されるとまずいと思い、すぐに『檸檬』を本棚から抜き取った。

 値段の安さに驚く。税別267円。

 こんな安い本を一冊だけ買って帰るのは申し訳ないと他に探すが、時間がなく気持ち的に慌ただしいだけだ。

 開店したばかりというのに、店の中にはそれなりの人がいた。

 客の一人が何だかマニアックな本の名前を言って、店員さんを困らせて?いる。

 しばらくすると、ようやく見つけたらしく、客の方へと店員が小走りに駆け寄っていった。

 若い店員の嬉しそうな顔が何とも言えない。書店員としての誇りなのだろう。さすがというべきか。

 学生時代はここで多くの本を買った。大学生協の書籍部でもかなり買ったが、今も変わらないあのブックカバーが決め手になっていたかも知れない。

 最近は、上京すると三省堂や丸善にも時間があれば立ち寄る。

 やはり本の種類が豊富で、何とも言えず愉しい。

 金沢では絶対に遭遇しなかったであろうと思われる本を手にした時の喜びは、普通ではない。

 そう言えば、かつて紀伊國屋で本を買った後は、近くにあったnewDUGというジャズ喫茶に寄って、その本を読んだりした。

 ボクは体育会系の文学青年で、いつも最低二冊以上は同時進行で読んでいた。

 外出時には必ずポケットに文庫本を入れていき、ジャズ喫茶にも必ず本を持ちこんだ。読む本は何でもよかった。

 活字中毒という言葉はあまり好きではないが、今でも手元に読む本があると安心できる。

 ところで、一応曲がりなりにも“著書をもつ者”としては、地元の書店の温もりも忘れていないのは当然だ。

 地元の作家を応援するのは、地元の書店として当たり前ですと、広告を出してくれたり、店頭の話題の本のコーナーに並べたりしてくれた書店のありがたさは身に染みている。

 全く置いてくれなかった近県出の書店(例えば、県庁近くの)もあったが、本をただ商品としてしか見ることができないというのも淋しい気がする。

 だんだんいい歳になってくると、書店の本棚を見ているのがつらくなってきた。

 それは、目が疲れるとか腰がだるくなるという意味ではない。

 新しい本ではないが、まだまだ読みたいものがいっぱい残っているのに、時間がどんどんなくなっていく焦りみたいなものだ。

 音楽、特にジャズも文学も、新しいものに興味もなく期待もしていない。

 ただそんな時に、ちょっといい書店に入って味わう感覚が、とても懐かしかったり、ホッとできたりするというのも、素直に受け入れられる事実なのだ……

五箇山から桂湖 そしてまた出会った店

五箇山は合掌づくりだけじゃない。山間(やまあい)の豊かな自然との接点で言えば、桂(かつら)湖がいい。

桂湖へは、五箇山から白川郷へと向かう国道156号線を右手に折れ、山手の方に入っていく。しっかりとした道はあるが、意外に知られていないような気がするところだ。ボクにとっては、あまり知られてほしくないところでもある。11月中旬に出かけた時も、紅葉最盛期にも関わらず、国道とは打って変わって道は静かだった。

桂湖周辺がきれいに整備され、カヌーやキャンプの楽しめる場所として生まれ変わったのは最近のことだ。ボクもその頃に最初に来た。偶然目に入った標識に従い、そのまま山道を登った。何があるのかも全く知らなかった。

しかし、来てみて驚いた。想像をはるかにこえる美しい風景が広がっていた。ダム湖だから人口の湖なのだが、周囲の山々も美しく、歩いてみてもほどよい広がりがあった。ビジターセンターも立派だった。デッキからの眺めもよく、貸しカヌーの装備などかなり充実していると見た。

 実はここからは石川と富山の県境の山々を歩く登山道が伸びている。始めから険しくスリル満点なルートなのだが、そんなスリルよりも40分ほど歩いてみてマムシの多いのに閉口した。登山道の脇の草むらにガサガサと音がして、トカゲやマムシが次から次へと出てくる。ヘビの嫌いさでは絶対的な自信をもつ者としては、もう歩けたものではない。登山口に戻って、小屋に置いてあったノートを見たら、「マムシの多いのには参った」という意味のコメントが多く記されていた。

桂湖周辺の紅葉は黄葉も交じって果てしなく美しい。湖があるから尚更のことだが、山の木々の色や空の色がよく映える。

 夏休みなどにはオートキャンプ場がいっぱいになり、何とかのひとつ覚え的な肉焼き風景が広がったりするが、秋はそんな喧噪(けんそう)もない。奥へと足を運べば、人の姿を見ることも少なくなる。初めて来たときも静かな季節であり、歩き疲れると、ボーっと湖面や山並みを見ていたりしていたのを思い出した。

さすがに陽が当たっているところは暖かいが、木陰や山影などに入ったりすると一気に冷え込んでくる。夫婦連れだろうか、あまり山慣れしている風には見えない若いカップルが、湖を見下ろす道沿いに腰を下ろし、弁当を食べていた。脇を静かに通り過ぎる。大した靴も履いていないから、本格的な山道に入ることはやめたが、最近は熊に注意しなければならないから消極的になってしまう。

ほとんど人のいないビジターセンターの美しいトイレを借り、桂湖を後にした…

 

 国道まで戻り、もう少し足を延ばしてみようかと思った。白川郷まで行けば、美味いコーヒーにもありつけるだろう。それに白川郷にしても、ここしばらく行ってない。

大した距離でもない。そろそろ西に傾き始めた陽の具合を見ながら、アクセルをちょっと強めに踏んだ。

白川に入り、しばらく走ったあたりで、不意に見慣れたものが目に止まった。それが何だったかすぐに分からなかったが、それのあった店らしき建物がアタマに残った。2、300メートルは走っただろうか。どうしてもそれが気になった。それに美味いコーヒーが飲めるかもしれないという期待も交差する。

クルマを止め、Uターンする。しばらく戻って店の駐車場にクルマを入れた。

目に止まったものが分かったが、まだ確信は持てなかった。それよりも美味いコーヒーが飲めそうであることは間違いなかった。

 店の名は「AKARIYA」。古い蔵のような建物と民家とが一緒になった造りだった。中に入ると、和洋のアンチークな内装イメージで、手前がテーブルの並んだ喫茶、奥は個性的なクラフトなどが並ぶ小さなショップになっていた。落ち着いた雰囲気だった。母と娘といった感じの女性二人が店を切り盛りしていた。

店の中を見回し、壁に飾られていた一枚の額を見て、その中のスケッチと外で見た見慣れたものがボクの中で一致した。なんとそれはあの森秀一さんのタッチだったのだ。外で見たものとはサインの文字で、額に入っていたスケッチもボクがもう見慣れている森さんのものだった。

ボクは確信を得て、店の人にそのことを聞いた。間違いないことが分かった。しかも、ボクが森さんの知り合いだと知って驚いていた。

 後日、森さんにそのことを電話すると、白川のあたりで10軒ほどの店づくりに関わっていると話していた。そして、「それにしてもナカイさんもいろいろなとこ行ってるから、よく見つけるね」と笑っていた。

コーヒーは予想どおりの上品さで美味かった。忘れてしまったが、豆の名前とかもあれこれ話してくれた。

3、40分ほどいて店を出る頃には、もう空気も冷えてきていた。もう白川へは向かうつもりもなかった。秋も深まると、このような地域では冬支度の匂いを感じる。かつて、12月の押し詰まった頃に白川へ来たことがあるが、民宿などでは客への気遣いよりも、冬支度の方に神経が行っているように感じたことがあった。

しかし、そのとき、そのことに何の違和感ももたなかった。信州の木曽でも同じことを経験したが、やはりこういう地域の人たちの生活には、どうしてもやっておかなくてはならないことがあるのだと思った。そのことを感じ取れたことがよかったのだと思った。

店の前に立っていると、中からお母さんの方が出てきて、一礼し歩いて行った。山里の風景の中に、ゆったりと歩いていく後ろ姿が印象的だった。

また冬が来るんだなあ… そう思ってクルマのドアを開けた…

野菜ラーメンを運ぶおばあさんと文学好きのおじいさんたち

 

O野先生から検査入院されているという知らせを受けた数日後、富来図書館へと向かった。

七尾の病院だが、午後からなら外出してもいいので、都合のいい時間に来てくださいとのことだった。

いつものように、ちょっと早めに着き、国道249号から富来の町中への入り口にある、超大衆食堂「Eびす屋」さんに入る。いつものように適度な数の客が散在し、いつものようにうるさくもなく、かといって静かでもなく、のどかだが、それなりに緊張感も漂うといった店内に入った。

 Eびす屋さんは、何と言ってもフロア担当のおばあさんで持っている・・・・とボクは思っている。“それなりの緊張感”というのも、このおばあさんあってのことだからだ。

実は、ボクはこの店で“野菜ラーメン”と“おにぎり”以外のものを食ったことがない。いや、少し前、魔がさして?“塩ラーメン”を注文してしまったのだが、味はほとんど同じようなものだった。だから、ボクの感覚では同じラーメンなのだ。

ところで、“それなりの緊張感”についてだが、このフロアチーフ(担当から昇格)のおばあさんは、注文を聞いた後1分以内に、もう一回確認に来るということがしばしばある。当然、何となく注文したものが届くまでに不安が走る。その、「いくらなんでも、二度聞いたものを間違うはずがない」といった決め付け感に自信がなくなっていくあたりが・・・・“それなりの緊張感”なのである。

それにしても、Eびす屋さんの客は、よく野菜ラーメンを注文する。その日も来る客来る客と、野菜ラーメンを注文し、いかに野菜ラーメンが人気メニューなのかが分かる。そして、これでいくらなんでもボクの注文も間違うことはないだろうと、完璧に確信できたりもするのであった。

かなりの安堵感とともに新聞を読んでいると、そこへ打ち合わせメンバーのお一人で、地元の民話に詳しいH多先生が入ってこられた。ひとことふたこと言葉を交わすうちに、さっきフロアチーフに昇格したばかりのおばあさんがやって来て、お茶を置く。「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」とH多先生が言う。確信のない他人事のような言い方ではあったが、またしても野菜ラーメンの注文が入った。H多先生もいつも野菜ラーメンを注文しているに違いなかった。メニューなど全く見ていない。しかも、あの「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」の語尾のあたりに、やや照れながらも充分言い慣れた雰囲気が漂っていた。

それから数分後、ボクの前に間違いなく野菜ラーメンとおにぎりが置かれた。いつもように素朴に美味かった。7月のエッセイ 『富山で入道雲を見て、ちゃんぽんめんを食ったことについて・・・』 でも書いたが、なんでもない普通の食堂で出てくる、ある意味的個性派ラーメンには逸材が多い。

このラーメンもその代表格にあたる。この富来の町にあるからこそ、このラーメンには味がある。これが金沢のK林坊Sせらぎ通りあたりにあったのでは、この味が出ない。それにこのフロアチーフの存在だ。

1時、富来図書館。いつものメンバーが待っている、と思ったが、H中さんがいない。用事でちょっと遅れるとのこと。しかし、しばらくしてH中さんはすぐに来られた。

O野先生は、気のせいか少し元気がないように見えた。先生によると、身体の栄養バランスが崩れていて、点滴を打っているとのこと。夏バテもあるのだろう。それでも書庫へ行って、本を探して来るだの、コピーを取って来るだのと忙しく動き回っている。さすがに、先生あまり動かなくていいですよと言ってしまった。

この三人は、年齢を合計すると200歳を軽く超えているはずで、普通だったらしんみりとした雰囲気にもなったりするのだが、それぞれ個性的に活躍されており、こちらとしてもそれなりに楽しくなったりする。書き忘れたが、H中さんは地元の由緒正しき旅館「湖月館」のご主人で、なんと日本最高峰の某芸術大学を卒業されたアーチストでもあるのだ。毎日、カメラを持って自転車で町を走りまわり、撮影した写真をホームページに掲載されている。富来の今を知る人なのである。

ああだこおだと打合せが順調にフィナーレを迎えた頃、O野先生が、ああ、また退屈な病院へ戻らなきゃならんのやな・・・・と呟(つぶや)かれた。まわりから、いい機会だからよく体を休めておいた方がいいという声が盛んに上がり、O野先生も帰り支度を始められた。

これから加能作次郎文学賞の発表など、まだまだ忙しいスケジュールが詰まっている。大事をとって自重していてもらわないと、あとが大変だ。そんなことぐらい分かっているよと先生は言うだろうが、分かっているなら余計に“ご自愛”いただきたいのだ。

 久しぶりに記念室に入り、図書館を出たのが3時少し前。天気はそれほどでもなかったが、増穂浦は相変わらず美しい。

それにしても、Eびす屋のフロアチーフのおばあさん、および野菜ラーメン。そして、あの知的好奇心旺盛なご老体3名。富来には濃い“味”がしみじみと溢れているのであった・・・・・・・・

※タイトル写真 左から O野先生 H多先生 H中さん

小松のちょっといいカフェには、森秀一さんの匂いがした…

小松駅前の大通りから、ちょっと入った「れんが通り」と呼ばれる道すがらにある、カフェ蔵「心」という喫茶店に行ってきた。商店街通りの再整備?によって道路が拡張となり、それによって前面の建物がとり壊され、後に残った蔵を再利用した店だ。

有線でモダンジャズが静かに流れていて、ボクが入った時には、マイルスの名演「枯葉」がちょうど始まったところだった。秋らしい。

 明治24年(1891)に造られた蔵だが、20年来お付き合いさせていただいている森秀一さんがデザイン設計し甦らせた。森さんは小松の赤瀬という山の中の町に住むインテリアプランナーだが、その活動域はインテリアを飛び越し、テーマパークやイベントの企画など多岐にわたっている。中でも、“書”については森さん独自の世界が作られ、ボクもその初期段階からいろいろ書いてもらった。というのもボクが発行していた『ヒトビト』という雑誌の、「ヒトビト的インタビュー」に登場いただいたのがきっかけとなって、ボク自身が森さんの生き方などに、かなり共鳴していたからだ。赤瀬の住宅兼事務所にもお邪魔して、森さんのホンモノぶりは十分認識している。

 店は森さんらしさに満ちている。蔵の喫茶店というと、ボクはすぐに飛騨高山にある古い店を思い出すのだが、そこは端正な仕上げで小奇麗な印象を受けるが、ここはそうではない。店の前にぽつんと立つ金庫の扉のような物体(たぶん前面の建物を壊す時、それだけを残したのだろう)。玄関の重々しい古いままの引き戸。店内の天井の梁や壁に下げられた古い帳簿など……

 それらは少々薄汚さを残してはいるが、かなりの存在感をもって何かを訴えかけてくる。店番をされているのが、かなり年配の男の人であるところもいい。若い女の子でもいいが、特にサービス精神も感じさせない店番であるところにホッとしたりもする。コーヒーの味は、ボク的にはそつなく上品に感じられ、自分自身の特別な好みとはちょっと違うが、それは余計なお世話というものだ。ただ、ひとつ気になったのが、せっかくモダンジャズを流しているのに、カウンターの中に置いてあるデカいテレビがちょっとうるさいことだった。

まあそんなことは差し引いても、ボクはそれなりに気に入っているのだ……

富山の入道雲とチャンポンめん

 石川県で見る入道雲は、富山県などの北アルプス上空で生まれたものを見ているのだということを、滋賀県の長浜市大手門通りにある珈琲専門店で考えていた。

 7月某日の猛暑の日。富山県上市町を訪れ、見上げた入道雲のボリュームにあらためて納得したのだ。金沢から東の空を眺め、最近の入道雲の迫力のなさに憂いていたのだが、富山へ来て少しは気が晴れていた。

 上市といえば、ご存じあの剣岳の登山口、泣く子も黙る“馬場島(ばんばじま)”のあるところだ。「試練と憧れ」の碑が山の厳しさを伝えるかのように建つ。空気が澄んでいれば、あの逞(たくま)しく、雄々しい剣岳の姿を見ることができるのだが、今日は白い雲の中に隠れている。しかし、ボクには想像だけで剣岳の存在を感じとることができる。もう目に焼き付いていると言ってもいい。それに何と言っても、剣岳は、ボクの山の出発点だったのだ。美しさも恐ろしさも教えてくれたのだ。

 上市に入ったところで、入道雲に納得しつつも、昼飯を食べるところがなくウロウロしていた。すると小さな中華屋さんの看板が目に入ってきた。訪問先との約束時間を考えると、もうここで食べるしかない。狭い駐車場に無理やりクルマを突っ込み、店の中へ。カウンターの真ん中あたりに座った。メニューをしばらく見つめ、ひとつ隣の席でスポーツ新聞を見ながら、美味そうにラーメンをすすっているサラリーマン風の男性を見た。そのラーメンがそれなりに美味そうに見えた。

 あれは、チャンポンめん(だろう)! 勝手にそう思い込み、厨房の奥さん(だろう)に、“チャンポンめん!”と告げる。が、届けられたのは隣の男性が食べているものとは明らかに違っていた。

 しかしだ。ボクが自信を持って注文したチャンポンめんは、実に素朴でやさしい味がした。塩味のスープと野菜などの具と麺とが、ぎこちなくも親密に、そして互いを認め合うように身を寄せ合っている印象だった。当店の“チャンポンめん”です。そう言ってくれたわけではないが、やさしい表情の奥さん(だろう)が、最後になくなったコップの水を足してくれる… スープをいつもより多めにすすり、コップの冷たい水も一気に飲み干す。その日の昼食を終えたボクを、富山県上市町の猛暑がまた待ち受けていた。

 富山はやはり天気予報士さんの言うとおり暑いのだ。外に出ると、フーッと軽く息を吐き、もう一度空に目をやった。

 入道雲がますます増幅していくように見えていた。いい姿だなあ、と思った。美味いチャンポンめんだったなあ、とも思った。

 入道雲とチャンポンめん。なかなかやるなあ、とも思い、やっぱり富山は偉い… と、何気に嬉しくなった。

 北アルプスが育むのは豊かな水などばかりでなく、入道雲をつくり出すエネルギーでもあるのだ。そう思うと、なかなかいい気分がした……

梅雨が明け、聴山房にてペンを走らせた…

またしても加賀市大聖寺を訪れ、

またしても旧大聖寺川沿いの道を歩き、

またしても深田久弥山の文化館の門をくぐった。

道を歩きながら、どこからか聞こえてくる、

優しい笛の音が気になっていた。

そして、門をくぐって足を進めたところで、

その笛の音が、この場所から聞こえていたことを知った。

オカリナの音色だった。

 今日告げられた梅雨明けの空の下、

木立の日陰の中に、オカリナ奏者のKさんが立ち、

その前に何人かの人たちが、そのやさしい音色に耳を傾けていた。

ボクはその人たちから一人離れた場所に立ち、そのミニコンサートのようすを観察し、

それから、先日お会いした事務長のMさんに挨拶した。

演奏が終わると、奥の聴山房(ちょうさんぼう)で、

里山の自然観察と名付けられた写真展を見、美味しいアイスコーヒーをいただいた。

汗が吹き出るほどの暑さに、夏が来たんだということを再認識しながら、

庭の木に止まっているセミたちの、

まだ力強いとは言えない鳴き声を聞いていた。

最後にいただいた、山中の奥から汲んで来たという水もまた、

喉ごしのいい、やさしい味だった… 

       

久しぶりに深田久弥・山の文化館を訪ねると…

  七夕の日の午後、一年ぶりぐらいに“深田久弥・山の文化館”に立ち寄った。

福井からの帰り道、加賀インターチェンジで高速を降りて、加賀市役所に向かった。しかし、何年ぶりかで会おうとしていたお目当てのYさんが予定外の外出中で、ちょっと考えた末に、ここはやはり山の文化館へ行くべきだろうということにした。

山の文化館も実は仕事のターゲットのひとつなのだが、なにしろ、山をやる人で深田久弥を知らない人はいないし、自分自身もそんな一人として、その日も敢えて仕事のスタンスを柔らかめにしていた。それぐらいでないと、この施設には逆に足が向けられない。

加賀市は、大袈裟に言うと、ボクの仕事史では非常に重要なまちで、今から20年くらい前に市全域の観光CIみたいなことをやらせていただいた。観光地の調査をし、観光ルートをつくり、観光のブランドデザインを整理した上でサイン計画を作った。その中には観光ポイントそれぞれの紹介文などを日英2ヶ国語で整備するなど、文章づくりや写真撮影の仕事も含まれ、そのための取材もあって市内の多くの地を訪れたりしたのだ。この計画はその後実施され、ボクのその後の道を開く大きな事業となった。ボクがプランナーという仕事のポジションを認識した最初の仕事だったのだ。

当時は地域のそういう事業が盛んに始められた時期だったが、加賀市は石川県どころか、全国的に見ても先進的に取り組んだ都市だった。その基本プランを、なんとこのボクが作ったのだから、それはもう“大変なことをしでかしてしまう…”みたいなものだった。

ボクはそのために約5年にわたって加賀市に足を運んだ。

加賀海岸の遊歩道や、城下町大聖寺の山の下寺院群や古い街並み、温泉街やその周辺などを歩きまわり、それこそ加賀市の隅から隅までを知り尽くした感があった。鴨料理のフルコース?もその頃初めて食わせてもらったし、どこのランチが美味いとか、どこのコーヒーがいい味出しているなどといったことはもちろん、白山を眺めるならあそこだとか、ちょっと木陰で昼寝するならあそこがいいといった情報などもかなり仕込んでいた。

そして、加賀市の成果が発端となり、次が羽咋市に呼ばれ、そして富山の旧大山町、さらに能登の旧能都町、白山麓の広域ユニット「白山連峰合衆国」、志賀町などへと出向いた。むずかしかったが、楽しい時期でもあった。

加賀市へ通っていた頃、市役所観光課の担当だったのがYさんで、元気ハツラツのYさんとボクは、地図やパンフレットなどを持って走り回っていた。ヤンチャ坊主がそのまま大人になったというパターンの見本みたいなYさんは、いつも愛車パジェロの自慢話ばかりしていた。一本数十万円のタイヤがどうのこうのと言いながら、きれいな道しか走らない主義?で、クルマが汚れるのを最も気にしているのではないかという、変わった4WDフリークだったのである。

勝手知ったる加賀市だ。特に古くからの街並みが続く辺りは、好きだし、詳しい。

ボクは旧大聖寺川の対岸から、よくパンフレットなどで見る長流亭の上品な姿を久しぶりに見て、そのまますぐ近くの駐車場にクルマを停めた。背後は錦城山だ。

 そのまま江沼神社の境内へと進み、長流亭の前を通った。置かれたサインの文章は、ボクが書いたもののはずだが… と読み返すが思い出せない。長流亭は、旧大聖寺藩主の休憩所として建てられたもので、国の重要文化財だ。対岸からの眺めは素晴らしい。江沼神社の境内には、深田久弥の文学碑があるが、久しぶりの対面だった。

裏口から入って正面に抜けようとすると、鳥居の下で草取りをするおばあさんがいた。

 「おばあちゃん、暑いのにお疲れさんですね」通り抜けながら声をかけると、おばあさんは驚いたように顔を上げ、「あ、はい、どうも…」と、上品そうなやさしい笑顔で答えてくれた。いい気持ちがした。おばあさんの可愛い目が何となく印象的だった。

小さな橋を渡り、しばらく静かな住宅地の道を行くと、左に小道が伸びる。その道へと折れると、旧大聖寺川沿いに道はさらに蛇行して伸びている。

 大好きな文句なしの青空とまではいかないが、梅雨の合間の晴天日としては充分な暑さがあった。大きな木立の間からは旧大聖寺川の水面が見える。梅雨時のせいだろうか、水は決してきれいとは言えない。しかし、歩いていること自体気持ちがよく、それはあまり気にならなかった。木陰に入ると、わずかだが涼しい風も感じられた。

大して歩かずに、館の方に通じる橋の手前に着く。

ふと見下ろすと、流し舟が繋がれている。乗船料千円。11月から2月まで以外は、いつでも乗れるみたいだ。桜の頃は賑わうんだろうなあと、その情景を思い浮かべた。

 橋を渡りながら、もう一度流し舟の繋がれた場所を見る。ごく自然な風情を残す旧大聖寺川に、しばらく見入っていると、日傘をさした女性が足早に脇を通り過ぎて行った。

“こんな暑いところで、何をボーッと見てるんですか?”とでも言いたそうな早足だったので、“舟はボート。ボーッとボート見てるんです”とアタマの中で答えて、身体の向きを変えた。

 山の文化館の周囲は塀で囲われている。その塀に沿ってまっすぐ進むと立派な門があり、何となくそこで一度息を整えた。門は、国の登録有形文化財になっている。

門の中は木立の日蔭だ。左手の庭にある木板のデッキらしきものが目を引いた。以前からこういう場所があっただろうか? と考えてみたが、しっかりとした記憶はなかった。

 まあ、どっちでもいいと思い、足を向ける。そのとき、「いらっしゃいませ」と、不意に声をかけられた。スーツ姿の女性が館の前に立っていた。立っていたことは分かっていたが、声をかけられるとは思わなかった。

ボクが戸惑っていると、「こちらは展示場になっています」と、さらに女性は続け、昨日で絵画展が終わり、今は何もないが、きれいな庭を見ることができるからとボクを案内してくれた。

「聴山房(ちょうさんぼう)」と名付けられた古い建物がデッキの奥にあった。入ってすぐのところが、喫茶室になっており、奥が畳の敷かれたギャラリーになっている。ガラス戸を透して庭が見えた。それほど広いスペースではないが、なかなかいい雰囲気だ。

「前に一度、お目にかかってますよね…」

突然そう尋ねられたが、答えようがない。ボクにはまったく記憶はなかった。しかし、この加賀市ではボクはかつてかなりの人たちと出会っている。その中にその人がいたとしても不思議ではない。その旨と、自分自身がこういう施設の企画運営に関する仕事もしているということを告げると、さらに納得したみたいだった。

なんと、その人はあのYさんのかつての同僚で、どの学校だったか聞き洩らしたが、同級生だと言った。元市の職員で、そう考えれば、かつてどこかでお会いしていても不思議ではなかった。そしてさらには、ボクが自分の公私分別のない仕事やモロモロについて語っていくと、ますます興味をもたれたのか、「ここのコーヒーは美味しいですから、どうぞ召し上がっていってください」と強く勧められた。

一応、名刺交換をしなければならない気配になっていた。しかし、その時、ボクは名刺を持っていなかった。こんなつもりはなかったので、上着をクルマの中に置いてきていたのだ。

一旦クルマに戻ることにした。そのことを告げ、すぐに出ようとすると、「コーヒー淹れて、お待ちしてます」との声。ボクは門を出て、橋を渡ったあたりから走った。

結局、クルマごと戻って来て、館の前の駐車場に停めた。

女性は、Mさんと言った。Yさんの同級生ということは、ボクよりも数歳上である。肩書は「事務長」さん。しっかりとした口調で対応され、気配りのできる、そして仕事のできる女性とみた。

  リラックスして、Mさんと喫茶室で話し合っているうちに、この施設の活用などについて、その可能性を問われるようになった。

ボクにとっては、こういう場所は大好きだし、自分でも得意だと自負しているので、少しずつ自然に力が入っていくのが分かる。

外に出て、デッキに立つ。大木を見上げ、木板デッキの足裏の感触を再確認する。さらに木(敢えて、「もく」と読む)のテーブルに手を触れる。いい感じだ。

こういうシチュエーションに直面して、ワクワクしないなどということはボクにはあり得ない。アイデアが湧いてくる… イメージが膨らむ…「いいではないですか」思わず上ずりそうになる声を抑え、ボクはクールに答えた… つもりだった。

Mさんが裏庭にも案内してくれる。この場所の活用についても話してくれた。フムフムと頷(うなず)きながら、アタマの中では深田久弥との関連、山の文化からの関連、そして加賀市との関連など、どこにどのような接点を見出していけばよいか…などと考えていた。といっても、そんなにむずかしいことを思っているわけではなく、この場所に相応しい行事とは何か?というくらいで、ここに集まってくる人たちが、何で楽しめるかということを、いろいろと想像してみる。

当たり前のように、音楽を聴く、お話を聞く、美味しいものを食べる、自由に語り合う…などといったイメージが見えてくる。それらをいかに特徴づけていくか、“らしく”させていくかといったことが、思いの中で広がっていく。どんなスタッフが必要か、どんな趣向が必要か、いろいろと“そもそも的なこと”を考えていく。

Mさんから、今度、館の関係者が全員揃う時に是非来てくださいという話が出た。嬉しいことだ。何かやらせていただけるなら、やってみたいと思う。

 再び正面に戻り、展示室を見せていただくことにした。その前に正面玄関の前で、建物を見上げる。明治43年に建てられた織物会社の事務所だった建物だ。昭和50年代半ばまで実際に操業していたという。二階の窓ガラスの半分は昔のガラスで、よく見ると、少し波打っているのが分かる。展示室につながる回廊の屋根などには赤い瓦が使われているが、昔のものを再利用したものだ。

 Mさんに導かれて玄関へ。ちょっと気が引き締まるような空気を味わい、料金300円を払う。左には、山に関するさまざまな本を集めた図書室があるが、あとで寄ることにして、廊下を右に折れて展示室へと向かった。

 パイプをくわえた深田久弥の写真と、その横の窓外の様子とがマッチして、ボクの好きな空間を作り出している。何度も訪れているから、だいたい展示内容は分かっているが、また敢えて見てしまうのが不思議だ。上がったことはないが、この建物の二階には「談話室」と名付けられた畳敷きの部屋がある。そこでは山に関するミニ講演会などが行われているらしく、その活用などもかなりしっかりと行われていると、Mさんは言っていた。

Mさんの話を聞きながら、震災で大きな被害を受けた、旧門前町(現輪島市)の総持寺前の通りにある「旧酒井家」の建物を思い出した。あの建物も蔵のホールがあったり、開放するとちょっとした広さになる座敷などがあったりして、素晴らしい施設だと思っている。最近は、地元の人たちによって活用が盛んに行われているとのことだ。自分が金沢の主計町で直接関わっている「茶屋ラボ」など、世の中にはまだまだ、よくは知られていない“いいところ”がいっぱいあるのだ。

この山の文化館も、やさしい大聖寺の街並みや川のイメージなどと融け込み、人を惹きつける魅力をたくさん持っているなあ…と、あらためて感じさせる。

人はもともとこういう何かに引き寄せられる生き物でもあるから、そういった場所に集った人たちは、安心して自分自身を自然体にしようとする。だから、よりそうなれる時間を提供してあげることができれば、その空間は活きているということになるのだと、ボクは思っている。

ボクたちの仕事もそんなものなんだろうと思っている。

図書室で短い時間を過ごした後、ボクは外に出た。

木立による日影の空間が、一段と色を落としたように感じた。

 「これから、何かご一緒にできればいいですね」Mさんがしっかりと手を前に組み、直立不動に近い姿勢のままで、ボクに言ってくれた。「是非、よろしくお願いいたします」ボクもそれに答えた。

門を出ると、再び日差しの下だった。Mさんが、クルマを出すまで門の前で待っていてくれ、最後は丁重に見送ってくれた。クルマの窓から、流し舟が見えた。

そして、静かな住宅地の中をゆっくりとクルマを走らせながら、加賀のまちとの結びつきを考えていると、懐かしい人たちの顔がいくつも浮かんできた。

やっぱり晴れてるのがいいなあ。

ボクはフロントガラスからの日差しの中で、素直にそう思った……

「あうん堂にて…」   

  初めて「あうん堂」へ行ってきた。金沢東山三丁目、ひがし茶屋街の大通りを挟んだ反対側。一方通行の狭い路地に入って、やっと見つけられるような小さな店だ。きっかけとなったのは、ボクの本が置かれているという話と、ヨークで見つけた「そらあるき」という小冊子。その小冊子の編集スタッフの一人が、店主の本多博行さんで、その小冊子を直販しているのが、あうん堂だ。

もう少し詳しく?説明すると、あうん堂は、「出版と古本とカフェの」というキャッチコピーが付けられているように、「そらあるき」でも分かるような出版と、個性的な古本が並ぶ書店、そして、奥さんが淹(い)れてくれる美味しいコーヒーが飲めるカフェ、これらの三つで構成されている。そして、それぞれが力みもなく、自然体で成されているというところに、あうん堂の、あうん堂たる“空気”があるのだなあと感じた。いずれにしても、まだボク自身よく把握しきれていないのも事実。ただ、テレビ朝日の「人生の楽園」という人気番組で紹介されるなど、それなりに立派にやられていることは間違いないのだ。

日曜の昼に近い午前。家人と二人、近くにある駐車場にクルマを停め、雨の中を狭い玄関へと向かう。雨が本降りになってきて、気温も朝から上がっていない。GWの終わりに、急きょトンボ帰りで京都へ行ってきたが、その時と同じ紺のシャツと綿パン。その時はポカポカ陽気で、腕まくりをしながらだったのに、今日はそんなわけにはいかない。ひたすら冷えていた。ガラスの扉を開けて中へと入る。靴を脱いで、フローリングの店内に足を踏み入れると、右手に本棚が見えている。まるで図書館の一角を見る感じだ。店は奥に深く、狭いという印象をもつが、この狭さ?が、この店を訪れる人たちの個性を物語っているのだろうと感じた。先客が一人いたが、その客と本多さんが話している内容も、なんとなく、それを感じさせるものだった。

 

ボクはまず古本が整然と並ぶ本棚を見て回った。そして、すぐにウキウキしてきた。なんと、懐かしき晶文社の植草甚一シリーズ本、そして、われらが椎名誠の本などがいっぱいあるではないか。いくつか本に目をとおし、価格なども確認しながら、ふ~んと納得。こんな世界が金沢にもあったんだなあと嬉しくなった。

そして、奥のテーブルへと。コーヒーを注文してから、時計を見る。もう昼に近い。小腹も空いてきたので、めずらしくケーキセットに変更した。コーヒーも美味しく、生クリームと小豆が付いたやや大きめの抹茶シフォンケーキも充分満たしてくれた。

  ふと壁の方を見上げると、懐かしい絵が掛っている。沢野ひとしのイラストの入った額があった。「槍ヶ岳への道」とかいうタイトルがついていたが、この絵のどこが槍ヶ岳への道なのかなあ?と、余計なことを瞬間考えてしまう。しかし、そんなことはどうでもいい。ここに沢野ひとしの絵が飾られているということが凄いのだ。聞くと、沢野ひとしはたびたび訪れているということ。ついこの間まで、絵の展示会もやっていたとのことだった。

 そういえば、この冬、歴史博物館の前で、ボクは沢野ひとしと遭遇していたのだ。その時のことは鮮明に覚えている。ボクは向かい側から歩いてくる本人を確認すると、「沢野ひとしさんですよね?」と、すぐにたずねた。びっくりしたような顔した本人は、そうですよと答えたが、なんでオレなんか知ってるの?という顔をしていた。ボクは椎名誠らとの発作的座談会の話などをした。そして、なんだか物足りなさを感じながら、これからも頑張ってくださいと、定番的言葉を口にし、握手してもらって、その場を去った。そのすぐ後、無性になぜ沢野ひとしが歴史博物館にいたのだろうと気になり、歴史博物館の担当スタッフに確認したほどだった。しかし、よくは分からなかった。

「実は、私、ゴンゲン森…とかいう本を出したんですが、こちらの店に置かせていただいてると聞きまして……」

 しばらく沢野ひとしの絵を眺めてから、奥さんに言った。奥さんはびっくりしたような表情になり、「それを早く言ってくださいよ」と言ってカウンターから出て行った。そして、ご主人にそのことを告げると、また戻ってきて、「私は、すぐに読ませてもらいましたよ。とても面白かったですよ」と言ってくれた。方言の使い方が凄く楽しかったとも言ってくれて、店の本棚に並んでいるという場所を教えてくれた。

 それからボクは持参した「ヒトビト」1~8号を取り出し、渡した。ヒトビトにも高い関心を示してくれた。ヒトビトに出てくる共通の知人も多くいて、もう古くなった話で盛り上がったが、最後は、継続していく苦労話が締めだった。そして、ヒトビトもお店に置いてもらえることになった。ヒトビトは売り物と言うより、お客さんにコーヒーを飲みながら読んでもらうというスタンスが合う気がして、そう話すと、本多さんも納得してくれたみたいだった。

 一時間ほどいただろうか。最後は、本多さんと向かい合って、いろいろな話をした。ボクが、主計町の茶屋ラボの話をしだすと、本多さんもよく知っていてくれて、以前に展示会のようなものをやったらしく、近いうちに何かやりたいと考えていることも語ってくれた。

 ナカイさんとは、これからも何か楽しいことがやれそうですね。本多さんが名刺を出しながら、ボクに言った。そして、ボクが自分の名刺を渡す時に、「固い名刺なんですけど…」と言うと、本多さんは、「名刺は固く、やることは柔らかくですよ…」と答えて笑った。

 ボクはなんだか清々しい気持ちになっていた。平凡な言い方だが、いい出会いだなあとも思い、懐かしさに似た何かを感じていた。日々それなりに過ごしていけば、またそれなりにいいことがありそうな気がして、なぜか、このことを遠くにいる友人たちに伝えたいなあと思ったりもした。

外へ出ると、雨はまだまだ降り続いていた。駐車場に向かいながら、こんなところへクルマで来るなんて、と自分を叱りつつ、愉しい時間だったことに満足もしていたのだ……