能登半島に踏みあとを残していくこと 


✍ 消えていく道と山里からの黙示 ~能登の山里をただ歩き始めるまでの自分記

  ~こんな なんもないとこへ なんしに来たがいね~

1 ブリの頭を分け合う人たち

『……石川県能登半島の南山というところであった。そこは貧しい村であった。生産力が低いからである。一年間かかって適当な木を見つけてつくっても、二〇〇本をこえることはなかった。それを一年に二回ほどひらかれる海岸の正院の市へ持っていって売るのだが、それが一年中の主要な金銭収入だったのである。生産力の低さのためにろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋に入れてたいていると隣りの家からやってきて、「ブリの匂いがするが、ブリの頭を買って来たのか、一とおりダシを出したら貸してくれまいか」とたのむ。するとその頭を隣家へ貸してやる。隣家ではそれをおかずのなかに入れてたく。その匂いをかいで、そのまた隣りの者が借りに来る。そうして三軒もの者がブリの頭をたくと、頭はこなごなになって骨だけがのこったものであるという。魚を食べるといってもその程度のことが一ばんごちそうであったという。

それほどまで貧乏して山の中に住まねばならぬことはないはずであるが、鍬柄を必要とする者のあるために、そうした村がおのずから発生したものであろう。』

本棚に置いていた2011年発行の文庫本 ※本書は1964年に発行されている

✍ 山の本に書かれた能登の人々

 冒頭の話は、民俗学者・宮本常一の『山に生きる人びと』の中に書かれていたもの。元日のあの地震の後、テレビのニュースで被災地の人たちの姿を見ていると、不意にこの話が頭に浮かんだ。その後も、孤立しながら自分たちのやり方で暮らしを続けようとする人たちを目にするたび、この話のことが何度も思い出された。
 自分自身の周辺では、震源地からかなり離れていたにも拘らず、液状化による大きな被害が出ていた。50メートルほどのちがいで我が家は無事だったが、しばらくすると、自宅に住めないことを知った周辺の人たちが…その中には肉親もいた…避難所から仮の住まいを求めて移動を始めた。そして、引っ越しや、やむを得ず処分しなければならなくなった家財道具の運び出しなどに追い立てられていく。

 その本
 1ヶ月ほどが過ぎ、ようやく落ち着きらしきものを得たある日。ふと、その本の、その話の載ったページを探してみようと思った。
 久しぶりの自分の部屋…… 萎んでいた山岳用のリュックを見て、地震の翌々日、避難所に持って行くシュラフを取りに来たことを思い出す。リュックの中でシュラフはもう長い間眠らされていた。そして部屋には戻ってきたものの、リュックではなく部屋の隅に置かれたままだった。
 本を手にすると、すぐにそのページが開く。古い名刺が挟まれていたからだ。短い文章を立ったまま読み、椅子に座り直してもう一度読んだ。
 本棚には手にしているものと対を成す『海に生きる人びと』が横に並んでいた。それにはタイトルにふさわしい能登の舳倉島の話が書かれていたが、敢えて手にすることはなかった。
『山に生きる人びと』は、2012年頃に読んでいたと思う。本書は1964年1月発行とあるから今年で60年になる。

 その集落
 話に出てくる「南山」とは、現在の珠洲市若山町南山。民俗学者である宮本常一が能登滞在について同じ本の中で書いている内容から、訪れたのは70年ほど前だろう。
 初めは、南山を「なんざん」だと思い込んでいた。理由は分からない。「みなみやま」と読むことは、道路標識の英文字表記で知った…と記憶するが、それもあやしい。知っているかぎりで言えば、同じ若山町には北山(きたやま)があり、輪島市と志賀町とに西山(にしやま)、さらに輪島市に東山(ひがしやま)もある。それを思えば、なぜ「なんざん」だと思ったのか不思議だ。
 何度もその辺りをクルマで走っていた。しかし、南山の集落に入っていたかどうかは分からない。能登に限らず山間地にはそんなところが多い。

 最近では、奥能登国際芸術祭の作品を観るために訪れた人もいるだろう。地震後に再放送された、NHKの『新日本紀行~雪ん子のたより』(1982年制作)を見て知った人もいるかもしれない。雪深い山里として紹介されていたが、〝豪雪〟や〝出稼ぎ〟という言葉に、能登半島の〝山に生きる人びと〟を再認識させられた番組だった。

 その暮らし
 文中の〝 適当な木を見つけてつくっても 〟というのは、農具の鍬を作ることだ。作ると言っても、とてもシンプルだが。
 まず、山で枝が適度な角度で伸びた木を見つける。枝は鍬の柄(棒)になる。枝を柄の長さに合わせて切り落とし、枝が出ている幹の部分を鍬の刃になるよう板状に削り出す。するとそのまま鍬の形状になる。詳細は分からないが、そういうものだったらしい。柄と刃が1本の木の枝と幹(の表面)で繋がってできていたのだ。しかし、最初から適度な角度で伸びた枝をもつ木は少ない。そこで幹と枝を縄で引き寄せ矯正することもあったという。
 南山の人たちは、そうやって作った鍬を年に2回ほど正院の市で売っていた。ただ、そのような鍬だから、大したお金にはならなかったにちがいない。それでも現金を得るには何かを作り、それを売りに山を下るしかなかった。そして現金を得ると、必要な物を買い求め山に戻るのだ。必要な物とは、たとえば家族の季節の衣類などであったかもしれない。
 こういう場合、買う人たちも売る人たちの事情を承知していて、その時必要としていなくても買っていたと宮本常一は書いている。ブリの頭は目的の買い物を終えた後、残ったお金で買ったのだろうか。そして、それはそれでまた隣家にまで渡り歩き、それぞれの夕飯に花を添えたのだろう。囲炉裏を囲む家族の火照った笑顔が想像できる。

 不思議な空気感
 本を棚に戻し能登のことを思った。
 地震後に送っておいた安否確認や見舞いのメッセージには、何人もから気丈な言葉が返ってきていた。しかし、その人たちがそれほど饒舌でないことは知っていた。心の奥に仕舞い込んだ感情を、そう容易く洩らしたりしないことも知っているつもりだった。そのことがまた心を重くする。
 ところで、宮本常一はこの話の最後に『それほどまで貧乏して山の中に住まねばならぬことはないはず………』と書いていた。最初に読んだ時、その部分に違和感をもった。
 能登半島は、山村に比べ漁村の方には現金収入の術もあり、少なくともより恵まれた暮らしがあったのではないかと思う。派手な祭りなども海沿いが舞台になっている場合が多い。そんなことを思いながら、それでも山里に暮らす人たちがいる、その人たちをそうさせていたのは何だったのか…と、ぼんやり考えるようになった。 
 能登半島の山里に不思議な空気感のようなものを感じていた当時の私にとって、それは能登へ来るたびに浮かんでくる小さな考え事のテーマだった。

 あのページに名刺を挟んでいた理由もそんなところにあったのだろう。
 そして今は、山里で出会う人々とブリの頭を分け合う人々とが繋がる。

2 能登との関わりのはじまり

能登は海であることを思い知らされた場所

✍ 能登は海

 能登に足を運ぶようになってから45年ほどになる。ありきたりだが最初は仕事からだ。
 金沢の広告会社に…バツイチで…拾ってもらった最初の年、上司に連れられ輪島の景勝地・西保海岸を訪れた。上司は翌年転勤していくが、入社したての私を能登での仕事に同行させ、その後自然な流れで引き継ぐことになる。最初の仕事は西保海岸をめぐる観光情報サインの製作。クライアントは輪島市だった。

 その時目にした西保海岸の美しさは想像を超えていた。そして、それまで漠然と思い描いていた能登半島のイメージを、分かりやすく形づくってくれた。プライベートでタウン誌に拙文を掲載させてもらっていた当時の私は、デザイナーが描いた観光マップにコピー風のタイトルをつけ提案した。それが予想以上に気に入っていただき、その手の仕事が好きになる。
 そして、その後能登半島の幹線道路に、ポケットパークを整備するという石川県のモデル事業に関わることになった。それが能登半島全域を俯瞰し、さらに言うと、半島内陸部(山間地)へ…まだ、ほんのわずかだが…意識が向くきっかけとなる。
 幹線道路である国道249号線は内陸部にも延びていた。ただ、やはり能登は何と言っても海岸線であり、内陸部はあくまでも半島の中の通過地だったに過ぎない。

 自分は山派だった
 プライベートでは山岳を中心にした自然系の世界に、かなりの度合いで嵌っていた。北アルプスのある山小屋オーナーに憧れ、その周辺でも活動させてもらっていた。山岳雑誌に投稿するなどもしていて、単に山域に入るだけではない活動にも積極的だった。後の話だが、山小屋やスキー場ロッジのオーナーたちで組織された観光団体と町づくりの仕事もさせていただくようになる。
 さらにそれからは活動エリアが信州から八ヶ岳周辺にまで広がり、夏休みなどは1週間ほどそうした場所で過ごすことも何年か続いた。漠然とだが、将来はそんなエリアに棲家を得たいと考えていたほどだった。だから、海をベースに捉える能登半島は真逆の世界と言ってもよかった。
 ただそう言いながらも、実は海のある町で生まれ育っている。尊敬する祖父は北海道や山陰の海でならした、明治生まれの頑強な漁夫の頭《かしら》でもあった。

 能登半島を俯瞰する仕事
 モデル事業のポケットパークにはトイレや電話ボックスとともに、観光情報を発信するサインの配備が計画されていた。課せられたのは能登半島観光の周遊性を高めるための、半島全体と各市町村の観光情報の整理と連携する仕組づくり、そして、分かりやすく魅力的に伝えるためのデザインと製作設置までの作業だった。スタートにあたってマークやロゴなどの制作を先行させ、相棒のデザイナーがいい作品を創ってくれていた。
 ところが、面白くなりそうな予感がし始めた矢先に出鼻を挫かれる。県には観光に特化された公式マップがないということが分かったのだ。観光部署ではっきりそう言われたのだから受け入れざるを得なかったが、ベースとなる資料がないということにそれなりのショックを受ける。
 当時の石川県庁(現石川県政記念しいのき迎賓館)の、真ん中が擦り減った古い階段を、とぼとぼと下りて担当部署へと向かった…はずだ。

 何年も後になって『ほっと石川』という大キャンペーンが始まるが、その頃はまだ市町村が個々に発信している観光情報で対応できたのだろう。どちらにせよ、予定が大幅に狂ったことにまちがいはなかった。
 担当部署に戻って報告すると、担当者も驚いていた。しかし……
「いい機会やから、新しいのを作ってしまえばいいがいね」
 担当者の口から…生々しい金沢弁で…とんでもない提案…指示?…が飛び出す。思わず耳を疑った。今からそれをやれって言うの……ですか?
 そう思ったのは確かだが、とりあえず冷静になる。そしてしばらく考えていると、自分が動いてできる範囲であれば、ほとんど自分の判断でコト(面倒な経費も含め)は進められるし、なんとかなるかもしれないという気にもなってきた。

 半島の各市町村が発行している観光パンフレットなどをもとにして、観光ポイントをプロットしていく。行ったこともないところばかり、さらに初めて見るような名前もあり、想像以上に確信の持てない作業が続いた。
 しかし、今から思えば、担当者のあの一言がなかったら、能登との長い付き合いも生まれなかった。あの一言によって、この仕事に対するスタンスが変わったのは言うまでもなく、能登への親しみが生まれた。その頃は当然自覚していないが、仕事の中に自分の〝私的エネルギー〟を活かしていけるという可能性を見出した起点だった…ような気もする。

 ポケットパークの最初の計画地は、輪島市の千枚田(後に道の駅になる)と旧門前町の道下(とうげ)海岸だった。双方を行き来するためには249号線の山間の道を利用する。旧門前町の町域の多くは山地で、海岸線からすぐに山間に入る変化とその奥深さに驚かされた。
 …… 残念なことに、現在よく使っていた道は、地震とその後の豪雨被害で一般の通行はできなくなっている。 

 能登半島を面白くしたい
 観光情報は、2種類のマップを組み合わせるシステムにした。半島全域の情報とポケットパーク周辺の情報との2本立てで、後者は市町村発行の管内図と観光パンフレットなどから素案づくりを始める。旅行雑誌などのメディアはそれなりにあったが、さまざまな資料を取り寄せたり探しに出かけたりしながら作業を進めた。
 そして、観光ポイントの呼称の整理(表記の統一)や、紹介するテキストづくりなども始める。すぐにマニュアル化されるということはなかったが、新しく情報を整理するということにはそれなりの精度が必要だった。

 得意のフィールドワークは、そこまで必要か?という上の方からの声も聞こえる中、自分で見聞してくるやり方にこだわった。自前のトレッキング装備で荒磯や猿山などの自然遊歩道はもちろん、少しでも見映えのしそうな場所を見つけると実際に歩いたりした。
 このまま延長していけば、能登半島のトレイル・コース…山岳雑誌で齧った程度の知識しかなかったが…みたいなものができるかもしれない。そんな余計なところまで妄想的な思いが及んだ。そして、その概念もよく分からないまま自作のマップを眺め半島を俯瞰する日々だった。仕事は確実に面白くなっていった。

トレイルの名にふさわしい場面…選択肢は歩く以外にない

 国道249号線から派生していく、地域内の細かなルートにも注目した。自分としては、このことがとても重要だと感じていた。それまでの定番的な観光地めぐりでなく、それらをめぐるルート上に、能登半島の新しい魅力を感じてもらえそうな場所をいくつも見つけていたからだ。もちろん自分だけの観点だったが、かつて、通過地のイメージしかなかった場所が、少しずつそうではなくなっていく。
 気が付くと、能登を紹介するテキストがどんどん数を増していた。風景はもちろん、歴史、産物、祭り、行事など、それらは集めた資料と撮影してきた写真などとともに、その後の大切なツール、そして財産になっていったものだ。

 英文表記のはじまり
 ところでその頃は、能登はもちろん、金沢でも外国人観光客はたまに目にする程度だった。外国人向けの観光ガイドづくりなどまだ本格的に始まっていない。この事業を機会にやってみたいと考えたのは自然な流れ?で、県の担当者に提案してみるとすぐにOKが出る。
 すでに、ある団体を通じてイギリス人の若い女性を紹介されていた。イギリスの名門大学…C大、O大のどちらか…を出たインテリだ。  
 彼女は普通の日本人女性と変わらぬ背丈で、白いTシャツにジーンズの短パン、大きなリュックを背負い、チリチリの金髪をポニーテールにして現われた。全くと言っていいほど日本語は話せなかったが、明るく、超が付くほどのアクティブ系であることが伝わってくる。ちなみに、こちらの英語力がほぼ適用しないこともすぐに理解できた。

 数日後にその作業は始まり、私のテキストを通訳の方をとおして理解してもらい、持ち帰って英文にする。写真や資料も渡し、分かりにくいところはより詳しく伝えてもらった。彼女はとても意欲的で研究熱心だった。英語による分かりやすい伝え方をとおして、外国人の興味を誘うような表現にしたいとよくユニークな提案をしてきた。最終的にボツになったものも多いが、それらのアイデアはとても新鮮で、その後の仕事にも活かされていった。
 彼女のような外国人たちが、写真や現地まで出向いて確認したり、歴史や背景などを理解しながら英訳を実践してくれたおかげで、こちらの試みも具体的で先進的な意味合いを深めたのはまちがいない。

 ワタシの名前が能登にあったよ…
 ある時、打ち合わせが終わって、制作途中のマップを見ていた彼女が驚いたような顔をしてこっちを見た。そしてすぐに、嬉しそうに笑った。
 指差していたのは、珠洲市の真浦海岸。〝Maura Beach〟と手書きで記しておいた。
 彼女のファーストネームは〝モーラ=Maura〟だった………
 ぜひ行ってみたいと言っていたが、実際に行ったかどうかは知らない。しかし、彼女のことだから滞在中に得意のヒッチハイクで出かけて行った可能性は高い。通訳の方が、危ないからやめておくようにとしきりに言っていたが、彼女がしっかり首を横に振っていたのを覚えている。

 ……彼女にはその後も仕事を依頼した。そして、ある仕事で事件が起こった。彼女の英訳文の上に赤インクで二重線が引かれ、さらに書き換えられてあったのだ。しばらく見つめていた後で、彼女はこんな古い表現はもう誰も使わないと言い、悲しい顔をした。そして、自分に求めたのは生きた英語の表現ではなかったのかと顔を紅潮させ、こんなことをされるなら、もうやめたいと言い出す。目を潤ませたその表情から、自分が残していくものを有意義なものにしたいと言っていた彼女の悔しさが感じ取れた。
 数日後、彼女の言い分が通りほっとする。イギリスに留学経験があるという、いかにもエリート候補といった若い職員はそれきりその仕事に顔を出さなくなった。

 能登は面白くて不思議なところ
 この事業自体は大きく発展したわけではなかったが、さまざまなカタチで試行されたアイデアは、私自身の中でその後の事業にも活かされていった。
 ひたすら慌ただしく、そして、とてつもなく楽しく、充実した仕事だった。能登とのさまざまな出会いが生まれ、どこへでもほぼ行けるスタンスが身に付き、ときには、地元の人たちでさえ知らないようなポイントを見つけて得意になっていたりもした。そして、その後も数多くの事業に関わらせていただき、能登半島の隅々までを知っていく機会をもらった。
 リュックを肩にかけて入ってくる、いつも黒く日焼けしていた人…… 何年も経ってから、私のことをそう言って思い出してくれる人もいた。

 

3 17年前の震災を経て 

✍ 總持寺祖院の爪痕

あっ、傾いている!

  2007年3月、輪島沖を震源に大きな揺れが襲う。
 その数日後には、輪島~門前へと向かっていた。まさにこれから、ある文化施設の仕事に取り掛かろうとしていた矢先だった。輪島市と合併したての旧門前町にある、かつての曹洞宗大本山・總持寺の歴史や、地元との結び付きを紹介する施設の仕事だ。施設の名は「櫛比の庄・禅の里交流館」という。櫛比とは当地の古い呼称だ。

 仕事のスタートは遅れた。その後作業を始めるにあたり、まさに傷だらけになった祖院の中を案内していただく。山門を過ぎてすぐ、右手奥にある勅使門の大きな扉が傾いているのを見た。本山移転のきっかけとなった明治31年(1898)4月の大火の際、門前の住民たちが決死の覚悟で運び出し、火災から守り抜いたという大きな扉だ。
 その話はすでに、展示ストーリーのシナリオにしっかり書き込んでいた。門前の人たちと總持寺との関係を物語る、重要なエピソードのひとつだと思っていたからだ。
 石垣や灯篭が崩れ、太祖堂の床には亀裂が走り廊下は傾いていた。後日、座禅や食事の場であった僧堂が解体される時、係の方と一緒に居合わせた。重機の爪が屋根に掛かったと同時に、復活はいつになるのだろうかと不安がよぎったのをよく覚えている。

崩れ落ちていく屋根

✍ 疲れていたはずの人たち

 仕事は行政担当者や有識者、そして地元の人たちなどで構成されるミーティングを運用しながら進めた。こちらからの提案内容を説明し承認を得ていくパターンだったが、思うようには進まなかった。
 地元関係者の多くは被災者であり、私たちが資料調査から進めていく上で監修してもらえる人の存在も曖昧だったからだ。たまにあることであり、仕方のないことでもあったが、なにしろテーマが700年の歴史を誇る總持寺だ。そのまま安易に進めていくわけにはいかない。市の教育委員会にもお願いに行き、何とか善処していただいた。

 ただ、いつも不完全燃焼の中にいた。被災地のど真ん中ということもあって遠慮もあった。そんな中、焦りの表情がはっきり見え始めていたのだろうか、旧役場のスタッフで、いつも明るく元気いっぱいだったベテラン女性陣たちがこちらの思いを察してくれていた。
 長いプレゼンが終わって部屋に戻ると、インスタントだけど…と申し訳なさそうに一杯のコーヒーを出してくれた。大袈裟ではなく、その時のコーヒーの美味しさを忘れたことはない。そして、一息ついた後のなんでもない雑談の時間も好きだった。後になって思ったのは、本当はあの人たちがいちばん疲れていたはずだったということだ。

 この仕事をとおして、總持寺というひとつの古刹のことだけでなく、周辺の町やその住民のこと、そこからさらに奥能登全体の文化(輪島塗や北前船など)の繋がりなど、能登半島の奥深いところにあるものをさらに知るようになる。
 崩壊で通行止めになっていた道路の通行許可をいただき、修行の場を撮影に行ったり、托鉢に同行したり、修行僧の一日を取材したりもした。地元の方々とも展示内容の説明などで交流している。

 本山が奥能登にあったということ
 總持寺の偉大さを知っていくと、本山が移転したことによる奥能登の損失の大きさも実感するようになった。
 横浜市鶴見区の現本山にも行ったが、日本海に突き出た能登半島のなんでもない村に開かれ、700年続いてきたという事実の方が重く、そしてドラマチックだと感じた。眼前にかつての大伽藍があることを想像してみれば、そのことはすぐに理解できるだろう。
 そのために、禅の里交流館の1階には苦心作のジオラマがある…………

最後にセッティングした大伽藍のジオラマ

 ところで、大火があった明治31年とは、東京・新橋から米原を経由して金沢、そして能登の七尾までが鉄道で結ばれた年でもある。大火も鉄道開業も、その年の4月の出来事だったことを知り、複雑な気持ちになったのを覚えている。奥能登にとっては、半島の利点が生かされてきた海運から、陸運へと輸送の主流が変わっていく辛い分岐点でもあったわけだ。大火に見舞われた總持寺が、そうした時代の流れにも吞み込まれていったことを強く感じた。

「大本山壱里」の道標(2024春)

 嬉しい発見
 仕事の最中に嬉しい出来事があった。それは、總持寺(本山)まで一里と刻まれた古い小さな標柱を道端で見つけたことだ。何かですでに読んでいたが、地元の郷土史研究家で、『能登總持寺物語』の著者であるT先生にお会いしたことがきっかけだった。
 ずっと頭から離れず、ある日その場所をめざして出かけてみた。一里(4キロ)だから大した距離ではない。しかし、聞き方が悪かったのか見つけられず、後日クルマの距離計を見ながら再チャレンジした。そして、ついにその小さな標柱と対面した。何度も通っていた道端の小さな畑の中に、ぽつんとその標柱は立っていた。
 春先になって、その標柱が無事であることを自分の目で確認してきた。輪島朝市通りの無残な姿を目にした直後だったが、少しだけほっとできた。地震を経て、今までよりもさらに大切な存在になったような気がしている。
 そして、ここへ来ての重要文化財指定のニュース。再評価には単に古刹という位置づけだけではなく、周辺との関りについてのストーリーが不可欠だと、余計なお世話ながら強く思う。


✍ 角海家復原とその周辺のこと

この道を歩いて行くのが好きだった(復原開館前日)

 總持寺関連が終了した後、同じ旧門前町黒島にある北前船船主・角海家の復原事業にも関わらせていただくことになった。
 今回の地震ほどではないが、その時の角海家も大きな傷を負っていた。しかし、復原工事にあたった関係者の熱意と努力はすさまじく、建物は見事に蘇っていく。

 いよいよ自分たちの仕事が始まるという時、長く角海家を調査されてきた某大学教授から、あとはあなた方に命を吹き込んでいただくだけですと言われた。この種の仕事に関わる者にとって、その言葉はシンプルだが重い。地元の人たちの期待も伝わってきた。
 北前船船主の屋敷だが、能登の海沿いにある一軒の大きな家というシチュエーションで日常感を醸し出したい。そんな演出の方針が自分の中に生まれ、可能なかぎりそれに近づきたいと秘かに思っていた。
 美術館で保管されている美術品などは除き、航海道具や屋敷内の家財道具の多くが、地震の後、町内の内陸部にある旧の小学校や保育所に保管されていた。
 それらの確認に行く際、今更のように感じたのは閉じられた教育施設の多さだった。能登と関わるようになった頃から感じてきた「過疎」の流れを、こんな時にこんな場所で再認識させられるとは……
 廊下の〝静かに!〟と書かれた貼り紙。図書室の本の返却日を知らせる卓上札。音楽室の作曲家たちの肖像画。すべてがまだ生き生きとして見えた。 

 そして、頼りがいのある個性的なスタッフたちの頑張りによって、角海家の復原事業は無事終わりを迎えた。地震から4年後の2011年夏のことだ。今ほどではないのだろうが、それでもとてつもなく暑い夏だったような記憶しかない。
 合間を見てはよく周辺を散策していた。そのおかげで、かつて天領であった黒島の地区内はそれなりに把握していた。少し高台にあった公民館には、何の用事かは忘れたが、何度か行った覚えがある。ゆったりとした坂道のわずかな緑陰が気持ちよかった。北前船主の屋敷がいくつも残っていたが、古い床屋さんのお店などは、何かに使えそうだなあとよく眺めていたものだ。

 失われていく記憶を残す

 完成式典が相変わらずの暑さの中で行われていた。会場の端っこに立って、ぼんやりと数週間前のことを思い出している。
 お世話になってきた区長さん(当時)にお願いし、地元の高齢の男女10名あまりの方に集まっていただいた日のことだ。平均年齢は80歳を優に超えていたはずだ。少年少女時代の思い出や、儀式や祭礼、そして、なんでもない日常のようすがその人たちによって明るく語られた。
 兄弟で裏山へ薪拾いに行かされた話…… 弁当にはご飯の中に梅干し。そして、家で作った小糠(こんか)イワシ一本を持たされた。それを焚火に炙って食べるのが楽しみであったという。
 昭和初期に起きた海難事故の際、中学のグラウンドで野球をしていたという方は、その時の自分自身をしっかりと覚えていた。家族が巻き込まれているかもしれないと先生に言われ、学校から一目散に海岸へと向かったと話す。その時の語り口がはっきりと耳に残っていた。
 その現場は、今回の地震で隆起した、まさにあの黒島の岩場。収録の後、映像に挿入する写真を撮りに防波堤の先まで行き、岩場に立つ小さな遭難碑を確認した。そして、振り返って見た夏空の下の瓦屋根。風が強くなり足元がふらつく中、その美しさに目を奪われていた。

 収録場所は地震で解体された屋敷跡に建てられた小さな集会所。畳の部屋に2台のカメラを入れ、ナビゲーター役を務めておよそ3時間。楽しい時間だった。
 式典会場に来ていたその人たちの顔を見ながら、収録が遠い昔のことだったように感じていたのは、あの時の童心に戻ったような表情を思い出していたからだろう。映像は自分も立ち合って短い期間に編集し、DVDに収めた。

沖が見える居間…冬には炬燵が置かれた

✍ 能登への新たな思い

 角海家も今、黒島の美しい町並みとともに厳しい状況にある。崩れ落ちた建物の先に、座敷の照明器具や古いガラス戸が見えた時には、地震後に地元の人から送られてきた、心が折れます……というメッセージを思い出した。
 四季それぞれ角海家には何度も立ち寄らせていただいた。出窓から海を眺められる部屋で、ぼーっと過ごした時間や、居間のこたつで地元の人たちと話し込んでいた時間が懐かしい。

多くの人たちの顔が浮かんだとき…(※2024年春)

 すべてにおいて復活は並大抵のことではない。しかし、あの時も力強く蘇ったことを忘れない。
 ………地震後の大きな事業に関わらせていただいたことは、再び能登への思いを大きくした。そして、現場からは離れていったが、定期的に能登に出向くことだけは続けていた。

4 山里歩きのはじまり

『山村を歩く』岡田喜秋著《1976年》 後に文庫を買い傍に置くようになった

 時間はごく当たり前のように流れ、社内での責任も急速に増大していく中、気が付くとあり余った私的エネルギーは注入先を失っていた…ということになる。どこにでもある話なのだが、そのまま流されていくのもあまり好きではなかった。

 そして、少しでも時間がとれると、とりあえず近場のなんでもない山域に出かけるようになる。休日、自由な時間が半日でもあれば…それもいい方だが…ここぞとばかりにデイパックにカメラを詰めて出かけた。その時間だけは絶対確保しておこうと、緩やかに決めていた。

 歩く旅という時間

 時間はごく当たり前のように流れ、仕事上での責任も急速に増大していく中、気が付くとあり余った私的エネルギーは注入先を失っていた…ということになる。どこにでもある話なのだが、そのまま流されるのも好きではなかった。

 そして、少しでも時間がとれると、とりあえず近場のなんでもない山域に出かけるようになる。休日、自由な時間が半日でもあれば…それもいい方だが…ここぞとばかりにデイパックにカメラを詰めて出かけた。それくらいの時間だけは絶対確保しておこうと決めていた。

 そんな自分を1冊の本がサポートしてくれた。かつて月刊誌『旅』の編集長だった岡田喜秋の著書だ。東京に生まれ、山への思いから旧制松本高等学校へと進み(その後東北大学卒)、山への憧れと、戦争へと向かう時代との葛藤に苦しみながら過ごした青春時代の短編エッセイに、グッとくるものを感じていた。
 そして、チカラを与えてくれた著書『山村を歩く』に書かれた〝歩く旅〟というスタイルが気になっていく。宮本常一も同じスタイルだったが、研究者的匂いが強かったせいか読みものになると親しめなかった。その点、岡田喜秋のものは紀行エッセイそのものであり、それが自分のサイクルに合っていたのだろう。

 思い返すと、自分自身も大学の卒業旅行(そんな認識はなかったが)で奈良の柳生街道を歩いていた。春日大社の裏から石畳の「滝坂の道」を登り、すれ違う人もないまま、柳生の里に着いたのは夕暮れ時。空気も冷たかった。里の中を歩いた後、バス停で奈良市街へ戻るためのバスを確認すると、1時間ほど待たなければならない。するとバス停の前にあった酒屋の奥さんが、店の中で待っていいよと手招きしてくれた。おまけに日本酒のカップまでいただくことに………
 さらに、その年の夏には就職したばかりの会社を、何かの拍子?で突然辞め、その数週間後、同じ奈良の山の辺の道を2日がかりで歩きに出かけている。今とちがって通しで歩いている人は少なく、予約しておいた仕出屋旅館の宿帳には3ヶ月前から記載がなかった。酔っぱらって浴衣を破いたり、床の間にあった三味線の弦を切ってしまったが、その分は乾き切った浴室を自分で掃除し、お湯はりもやったということで自主的に相殺させてもらったつもりだ。最後の日、三輪そうめんの味に感動したが、今から思えば〝そうめん開眼〟の旅でもあった。
 とにかくそんな若い頃すでに歩く旅らしきことを体験していたということで、もともと資質があったのはまちがいない…と思う。

初めて山里歩きの楽しさを知った某所

✍ 山里をただ歩くということ………

 振り返れば、まだ15年ほど前のことでしかない。〝自分なりの思いを持った山里ソロ歩き〟が始まった。自分ではそんな位置づけでいたが、本格的な山行や山域での活動から離れて長い時間が過ぎ、とにかく自分らしい新しいスタイルを見つけたかったのだろう。フィジカルの問題もあり、『山村を歩く』から得たヒントはそういう意味で大きかった。
 それにしても、自分なりの思いとは何だったか? 〝ただ歩く〟ということぐらいのことだったかもしれない。
 それ以前からもそのような行動はとっていたように思うが、それらとのちがいは明確な目的などを持っていなかったということだ。歩いていることに満足したかった…少しちがうが…とも言える。

 ………稲刈りもほぼ終わりに近づき、秋の気配が色濃くなり始めた頃。ずっと燻っていたものを振り払うかのように、前夜突然決めた隣県の山間地へと出かけていた。
 ランチの食材を買い忘れ、途中から遠いコンビニまで引き返すという間抜けなミスもあったが、とにかく一目散だったのだろう。県境を越え、クルマで一気に奥深くまで入ると、幹線道路沿いにあった小さな公民館の前から歩き始める。数年前に一度来ていて、なんとなく周辺の雰囲気は把握していたつもりだった。
 大きな道路を300メートルほど歩き、そこから民家のそばの急な道を登って、ただ高みをめざした。特に目標も、計画もない。時間が許すかぎり歩く。そんなことだけが、自分の中で決められていた。

✍ 敢えて道を外れる

 そばの花が咲く緩やかな斜面に出たり、静かな深い森を歩いたりしながら、アップダウンを繰り返していくと、いつの間にか少しずつ標高は上がっていた。一旦、高台の人里に繋がる道路に出ると、小さな棚田が狭い谷に向けて続いているのが見えた。その間を簡単に舗装されただけの小さな道が、縫うようにして下へと延びていて、そこへとまた下ることにする。農機や軽トラくらいは通れそうな道だが、ほとんどがとにかく舗装されていて驚く。

 昼も近いのに、ようやく陽が差し込み始めたらしい場所まで下りると、ほぼ真上からの光を感じた。小さな沢があり、害獣捕獲の檻が置かれた暗い谷だった。泥濘には無数のイノシシの足あと。奥に進むのはやめにして、行き着いたところからまた上へとまた登り返す。

日が差す時間はわずかしかないのに

 途中の崖縁に白い花がひっそりと咲いていた。こんなところで咲いていたって誰も見てくれないよ…… 心の中でそう語りかけて、立ったまま少し休む。 道ではないが、とにかく棚田の斜面の端を登る。登り切ると周囲に目をやった。少し上には、家がわずかに見える。人影も見えた。そして、その人影に近づいて行き、背後からこんにちはと声をかけた。
 一旦背中を丸め、ゆっくりと振り返ったおかあさんが驚いていた。突然ひょっこり裏の畑に現れたニンゲン(私のことだが)の姿に、信じられないというような顔をされている。声のかけ方が適切ではなかったと、すぐに謝ったのは言うまでもない。 どこから来たのかとやさしく問われ、ここを登って来ましたと後方を指差す。

娯楽と安全のための必需品

 おかあさんは、そんな人は初めてだと言って呆れたような表情になり、熊に出遭わなくてよかったと腰に手を当てながらさらに言った。熊を見たという人がその頃何人かいたらしい。

 途中の木立の隙間を利用した小さな畑に、古めかしいラジオが雨除けを施され木に取り付けられてあったが、熊除けも兼ねて置かれていたのはまちがいなかった。電池を入れ作業時に流しているのだろう。

✍ 豊かな日常の予感

 家の裏のなだらかな斜面につくられた畑には、勢いよく水が湧き、多くの野菜が植えられていた。
 何よりも谷を経ての眺めが素晴らしい。その時は雲に隠れていたが、剣・立山・薬師など、大好きな北アルプス北部の稜線も視界にあったはずだ。
 しばらくおかあさんと話した。なぜこんな場所に来るのか?という質問を受けるのは、この時から始まった気がする。首から下げたカメラを持ち上げながら、なんとなくこういう場所が好きなんですと答えるようになったのも、この時からかもしれない。今ではそれに、こういう所を歩いていること自体が好きだということを付け加えている。
 もうこの上には人家はないが、道は続いているとおかあさんが言う。それではと、そのまま立派な車道を歩いてみることにした。つづら折りになった上下の道の間に細長い畑が見下ろされ、古びた小屋の前に放置された農具、木製の車輪などが並ぶ風景を楽しむ。後日、チベット帰りの友人がその時の写真を見て、どこか懐かしいと言ってくれた風景だ。
 あちこちから湧き水が流れ落ち、見たこともないグロテスクな色調のヘビが水と戯れているのを見た。ヘビは大の苦手だった。

裏の畑からにしては凄すぎる眺め

✍ 山里歩きに傾倒していく予感 

 この体験で、よく知る近場に今の自分を満たしてくれる〝歩く場所〟があることを知った。さらに楽しさと厳しさも合わせて歩けそうな期待も持たせる。岡田喜秋の歩く道には歴史上の出来事などの背景があったが、自分の歩く道にはその類のものは求めない。さらに絶対日帰りにする。そんな負け惜しみっぽい決め事も生まれていく。
 大切なのは人が住む山里があること………

 それ以来、県内の近場(T町から隣県O市~N市など)、さらに奥部の山里によく足を運ぶようになる。そして、そこで感じたものはどこか新鮮で、それまでになかった不思議な充足感をもたらしてくれた。
 歩くことそのものが楽しかった。山行はもちろん、そのプロセスで見てきた奥深くてスケール感のある山里には及ぶはずはない。白山麓や立山山麓、そして飛騨や信州、さらに南会津や東北などで見てきた山里風景には畏敬の念すら感じてしまうパワーがあった。しかし、より身近にあった小さな風景の中を歩いていると、自分の中にあるちっぽけな思いなどがすんなりと浮かび上がってくる。そんな瞬間に何度も遭遇した。考え事をしている……という感覚も、なつかしさを併せ持つ新鮮さだった。

 …………そしていつの頃からか、能登の山里を歩くことを思い描くようになっていく。

5 消えていくものからの伝言 

地図を広げるのは楽しい

能登の山里には何もない…?

 能登の山里歩き。そのことを具体的に考えるようになり、以前にクルマで往来していたところを地図で確認する機会が増えた。地図は珠洲市や輪島市、さらに能登町などで購入したオフィシャルな大判ものを使った。折りたたんであるものを広げ、俯瞰するように見る時の感覚が好きだった。
 いくつかの場所では周辺を散策以上のレベルで歩いていたこともあり、その延長線上に想像をふくらませていく。出会った人たちからよく言われた、何もないところという言葉を念頭に歩いてみたらどうだろう?
 ひょっとすると、それが正しい能登の山里の歩き方に繋がるかもしれない。そんなことなどを考えながら、見終わった地図をたたんでいた。

 洲巻、唐笠、東山中、金蔵、馬繋、泥の木、小間生、笹川、五十里、鮭尾、曽又、鶴町、藤ノ瀬、爼倉、上山、町野、西円山、浦上、別所、五十洲、馬場、馬渡、上町、合鹿、椎木、鉈打などなど。
 はっきりとした繋がりは確認できないが、記憶の中にたくさんの地名が出てくる。地図と、もう20年以上前から撮り溜めてきた写真(デジタル~それ以前のアナログはほとんど手元にない)とを見比べていると、いくつものシーンが断片的に思い浮かんできた。

なぜか、江戸川乱歩の世界……時間が止まっている

✍ 坂の下の家

 いきなり強烈な印象をもった記憶(写真)と遭遇する。詳細は覚えていないが、走り書きを手繰ってみる。
 とにかく、奥能登からの帰り道…… 午後の遅い時間だったが、遠まわりを覚悟して山間の道に入っていた。いつ頃からか、急ぎでない時や特に遅い時間でないかぎり、そんなルートを選んでいた。
 すれ違うクルマもなくなった狭い道で、右手に急な角度で下っていく、さらに狭い脇道を見つけた。木立に囲まれた暗い坂道の先に鈍い光を放つ瓦屋根が見え行ってみようと思う。
 少し進んだ先でなんとかクルマを置き、速足で坂道へと向かった。
 しかし、坂道の途中で下に見えている家には生活の匂いがしないことを感じ取る。道には雑草が下から湧き上がるように伸びてきていた。脇に積み上がった枯枝もすでに乾き切っている。
 空気が急に冷たくなったように感じた。その冷たさが周辺を覆う静寂をより重苦しいものにしているようだった。
 ここはもう時が止まっている。ふとそんなことを思う。
 時はすでに存在していない。時を必要とするものがもうないのだ……… 
 頭の中が、江戸川乱歩の世界(具体性はないが)になっていく。
 このまま進めば、あの家と同じように、自分もこの場所に取り残されてしまう………
 足が止まった。足だけではない、全身が動かなくなった。
 自分が今ここにいる理由は何か? よくそういうことを考えるが、そこでも同じことを考えた。
 そして、理由なんかない、そんなことはどうでもいいと。  
 すぐに振り返り、坂道を上り返していた。上り切ったところから見下ろすと、谷が闇の中へと続いているように見え身震いする。
 これは初期の特異な例だが、その時の記憶というよりも感覚はいつまでも消えない。単純に言えば、状況に対応しきれなかった。怖かっただけ…とも言える。

✍ ハッとさせられる風景

 漠然と、ただ断片的な記憶を追っていても始まらない。
 かつて門前へ行くのに、旧富来町(現志賀町)の谷神(やちかみ)から国道249号線を外れ、山越えをして門前の剱地(つるぎじ)に出るルートを利用していたことがあり、その時に見ていた光景を頭に浮かべていた。以前に書いていた雑文も読み返してみる。
 山間地を貫く大規模農道から、最後は門前の海に流れ込む仁岸(にぎし)川に沿いながら、山里風景の中を緩やかに下る。道沿いに小さな神社や寺などがある風景も気に入っていた。剱地で海沿いの249号線に乗るが、夏であれば、緑一色の山里風景の先に、キラキラと光る日本海が見えてくるという能登らしい眺めも好きだった。
 ちなみに帰り道では、富来から中島の鉈打(なたうち)方面へと向かい、そこから現在の、のと里山海道を利用(横田インター)したこともよくある。その辺りの空気感もお気に入りだった。
 その体験を能登に詳しい郷土史研究家のK先生にお話したことがあった。仕事の打ち合わせの合間だったと思う。
 先生は奥能登の地名をいくつも上げ、それらを繋ぐ山里の風景も奥能登を代表するものだという意味のことを言われた。〝山里風景も〟と言われたのは、やはり能登は海沿いの風景がメインということなのだろうと理解した。
 そして、先生はこんなことも言われた。奥能登の山里風景には、ほっとするというよりも、ハッとするといったものとの出会いを感じる……と。その表現はずっと頭に残った。『能登はやさしや土までも』という有名なフレーズがあるが、先生のお話を聞いた後、その意味について考えていた。頭の中で、〝土〟と山里が繋がっていた………

家があるから道がある……

✍ いしるを届けに行く家

 そのルート上ではこんなことがあった。
 山道へと入り、もう人家などほとんどなくなったあたりに、もう何年も前から空き家だと思って眺めていた家があった。ある夏の日のこと、家の反対側の斜面に小さな光を見つけた。道を中心にして右側に家、左側に小さな光といった具合だ。

 時間はまだ早かったと思うが、山間ではすでに夕暮れの気配が漂う。そして、光るものがキリコらしいと分かり、旧盆のはじまりの日であることに気が付く。
 クルマを降りて、家の前から繋がっている小さな道があるはずだと目を凝らした。しかし、黒に近くなった緑の一面の中にその道を見つけることはできなかった。
 すぐに、あることが頭に浮かんだ。海岸沿いにあった「いしる(魚醤)」を作る小さな工場へ撮影にお邪魔した際、聞いた話だ。昔は「いしる」ができると樽に詰め、背中に担いで〝山奥の〟お得意さんの家まで届けに行ったという。
 あの時聞いた山奥の家というのは、今見ているこういう家のことなのかもしれない。薄暗くなっていく家の周辺を眺めながらそう思った。
 話してくれた職人さんのおばあさんが、まだ若かった頃のことらしく、何時に家を出たのか、夜の明ける頃には山奥の家に着いていたと言う。戦前から戦後にかけてだろうかと思って聞いていると、その家で朝ごはんをいただき、身体を休め、また山道を戻ったということだった。

海が見える山里の道に能登を感じる

✍ 山人と海人の交流 

 ………ところで、宮本常一の『山に生きる人びと』には、能登における内陸の人たちと海沿いの人たちとの交流の話も書かれてあった。現在の能登町鶴町の話だ。
『能登半島の今は能都町になっている鶴町という山中の村……』 
 鶴町はこう紹介されていた。現在の能登町だから場所的には半島の北側なのだが、鶴町の人たちは、南側の海岸(外浦~輪島・珠洲)に多く見られた塩づくりに欠かせない薪を、人馬で運んでいたという。半島の北側と南側とでは人々の交流も生まれ、当然のように結婚などもあったらしい。鶴町はまた舟を作るために必要な木材が豊富で、近場の海沿いの村へ大量に下ろしてもいたらしい。

 半島の北側から南側へと向かう道は「塩木道」と呼ばれていたらしく、半島の山間の集落を通っていた。旧柳田村の石井で、かつて家畜の市が開かれ賑やかだったという話を地元の人から聞いた。市で得た金を懐にした男たちの宴の場であったという建物なども残っていた。中を見せていただき、その造りに驚かされたこともある。2階に上がると、古いガラス窓を透して町野川が見下ろせる座敷があった。
 ちなみに、宮本常一が訪れる前は神野(じんの)村鶴町と言った。1955年宇出津町などとの合併によって〝能都町〟が誕生しているから、その後に訪れたのだろう。ちなみに、能都町は〝のとまち〟能登町は〝のとちょう〟と呼ぶ。
 冒頭に宮本常一が珠洲南山を訪れたのを70年ほど前と書いたが、鶴町と同時期だろうという推測からだ。

 ………ついでに書くと、鶴町一帯は旧能都町時代からよく通っていた。宇出津への近道であると地元の人に教えてもらった。幹線道路を途中から外れ、緩やかに下り、丘陵地のような穏やかな里に出て、杉木立に囲まれた鶴町神社に立ち寄ったりしながらクルマを走らせる。そして、宇出津に出る最後の急坂を一気に海沿いへと下るのだ。帰りには鶴町まで上ると、往きとルートを替え小さく山越えなどもした。途中にはのどかな里の風景が広がり、かつて林業が盛んであったことを思わせる木立の中に道は延びていた。

 ……… 山越えを終える辺りに残されていた、ある小学校の木造校舎を見上げるのが好きだったが、何年か前に解体され、今は主を失った高台だけがぼんやりと残る。淋しいなどと言ってはいられない現実がここにもある。

美しいからと言って、そのまま残されていくとはかぎらない

✍ 道の写真

 記憶をたどっていくうちに、能登の山里を歩くことは〝決定事項〟になっていく。頭の中に積み上げられたエントリーエリアはそれなりの数になった。そして、あることに気が付く。
 それは保存されていた写真の中に占める、道を撮ったものの多さだった。それらの中には、すでに使われなくなっている道もある。その延長上にある小さな橋なども同じだ。

隠れていく道…… これも道なのだ

 家と家とを結んでいた道も、家に住む人がいなくなれば草に被われていく。飛ばされた砂や枯葉にも埋もれていく。田んぼや畑に行くために架けられていた小川の小さな橋も、その先へ行く人がいなくなればそのうち朽ちていくだけだ。
 カタチだけは残ってきた小さな道を無数に見てきたが、それらのほとんどは消えていく運命にある………

小さな橋が見えるが、橋までの道が見えない

 ……… かつて、昔からあるという山裾の水田で、自分の田まで行くのに、他人の田の畦の上を通って行かなければならないという話を聞いたことがあった。そのことの何がおかしいのかと聞いてみると、今ではほとんどが区画整理などで水田の間に道がある、だが、昔のままのところではそんな道はなく、だから不便なのだと。今では農作業用の機械はもちろん、軽トラなども走れるような道があって当たり前なのだろう。ふと「畦道」というのは何か?などと考えたりしたが、すぐにやめた。よく歩いてきた深い谷間にまで延びた水田のための狭い道も、多くが簡単に舗装されているのを思い出していた。道は使う目的とともに生きているものだ。

………時が経て、ある年の冬の終わりが近づく頃、能登の山里を歩こうと決めていた。

基本的に晴れた日しか歩かない

6 能登の山里をただ歩くときがきた

 ✍ なん( 何)もないけど、歩く

 春が訪れた能登半島の背骨にあたる辺りから、低い山並みに囲まれた静かな山里に下りて来ていた。
 すでに拘束されていた時間から身も心もフリーになり、足元には真新しいトレッキングシューズ。北米大陸の山脈を縦走するレースで優勝者が使用し、その機能性を実証した…信頼できるショップスタッフの能書きによる…という、その時のモチベーションを象徴するシューズだった。ちなみに山靴としては生涯6足目であり、超過剰品質と言われるかもしれないが、心の奥底ではまだ山岳復帰も視野に入れていた。

 今から思えば、ずっと前のことのようにも感じる。しかし、まだ数年前のことでしかない。もう何度もクルマで通り過ぎていたところで、以前に短い時間だがぶらぶら歩いたこともある。
 小さな集会所の前にクルマを置かせていただき、高台から里の道に出た。
 しばらく歩いてから道を外れ、挨拶代わりに畑で談笑しているおばあさんたちに声をかける。近くには満開をわずかに過ぎたような桜の木があった。

こんな、なん(何)もないとこに、なん(何)しに来たがいね?
 よくされる質問に小さく笑い返した。何か話したはずだがあまり覚えていない。
 3人が畝に沿い、しゃがみ込んで手を動かしているように見えた。農作業用にしてはそれぞれカラフルな服装で春らしい。ただ話は途切れず、作業の方もあまりはかどっていないようすだ。こちらも相手にしてもらえそう雰囲気ではないので、その場を離れることに。
 青空が気持ちよく、どこからか流れ下りてくる小さな流れに目と耳が癒されている。

✍ 歩くこと

 それは自分にとって、もの思いに耽ったり、考え事をしたりするということでもある。無理にそうしなくても、多くの場合自然にそうなってしまう。
 もともと歩くことと思索することは似ていると誰かも書いていたし、自分もそう実感してきた。特に自然の中では、歩くことでクリエイティブになったり、文学的になったり、たまには哲学的になったり……
 もっと砕いていけばコント作家になったりもして、考え事のテーマはさまざまだ。その頃はふと気が付くと、短歌をつくろうとしていたこともある。しかし、最も多いのは日常の何でもないこと。
 金沢の観光事業でお世話になっていたボランティアグループのある女性ガイドの方が話していた。観光スポットをめぐる途中、家族の話題などで話し込んでいた時がとても楽しかったという感想をもらうと。そして、そういう観光客は、次の機会にも自分を指名してくれるのだと。ニンゲンとは…大袈裟だが…所詮そういうものなのだろう……?

 ただ、自分が今こういうところを独りで歩いているという、そのこと自体が不思議に思える時が何度もやってくる。家族にも詳しくは話していないなあと突然気が付いたりする。山行なら、めざす山と小屋の名前と最低限の予定くらいは伝えておくが、山里歩きはそこまでのことはしない。スマホのおかげで安心もあるが、逆に、山行時のように無事に帰らなければならないとまじめに考えたりもする。

 ちょっとした高台に、ほぼ完全に近い廃屋が見えた。近づいてみると、それはそれなりに美しく、まるで自然の中で創作されたアートのようにも見えてくる。廃屋は数えきれないほど見てきたが、自然が絡むと荒廃したというイメージではなくなるといつも感じる。
 今日は何だかいい日になるような予感がした。

✍ 山里びととの対話

 左手に広がる畑や水田を見ながら歩いて行くうちに、道がまた山の方に入り傾斜もややきつくなってきた。
 大きなカーブを曲がってすぐに、道端でカートに腰掛け、タオルで汗を拭うおじいさんと出会った。上着をカートのハンドルにかけ、ランニングシャツだけになっている。
 挨拶をすませ、どこから下りて来たんですか?と聞いてみた。
 おじいさんが振り向きながら下だと示す。斜面の下にはビニールハウスと畑が広がっていた。そこに下りるためらしいやや急な道が付いている。下りて来たのではなく、その道を登って来たのだ。
 吹き出る汗と、機嫌の悪そうな顔つきの理由が理解できた。
 急な道ですね…と言うと、毎日のことや…と、相変わらず素っ気ない。かなりの高齢と見えたが、年齢を聞くと困った顔をし、そのうち、分からん…と首を横に振った。話すことそのものが面倒臭いのだろう……?

 使われなくなった道のこと

 そんな道ならいっぱいある…そんな道だらけや…… 聞いてみると、おじいさんはそう答えた。
 少し登ったところに右に分かれる道がある。おまえさんが見たがっとるもんが、その先にあるわいや……
 おじいさんは表情を変えずにそう付け加え、また顔の汗を拭った。
 少し間をおいてから、じゃあ、行ってみます…と告げた。
 歩いて行くがか? 近ねえぞ…… そう言われたが、大丈夫ですと答えた。
 おじいさんの方は、好きにせえやという表情で横を向いていた。

淡々と

 教えてくれた脇道の入り口を確認すると、一旦通り過ぎ、そのまま峠まで登った。クルマで走っている道だが、歩くと全く別な道になる。そして、道と周囲と自分とが、ぼんやりとだが一体化するのを感じ、ひたすら歩いているだけの自分に気が付く。傾斜はそれなりにあったが、大した距離ではなかった。

 下って、おじいさんが教えてくれた脇道に入ると、林の中の緩い登りが続いた。林の中といっても初めは落葉樹ばかりで、陽ざしも強いから明るい。落葉や土によって路面がところどころ隠れている。後ろからエンジン音がし、驚いて体を端に寄せると、軽トラが1台追い越して行った。あの運転手には、自分がどう映ったのだろうか?

黙々と

 しばらく登って行くと左右は美しい杉林になった。そう言えば、海辺の漁師たちの舟は内陸部の杉で造られていたと宮本常一が書いていたことを思い出し、杉はこういう山から伐り出されたのだろうかと周囲を見まわした。伐られた丸太は狭い道を人が担いで下りるしかなく、担ぎ手にはかなりの体力と技術が求められたらしい。

✍ 丸太を担いで笑っていた人

 1枚の写真が頭に浮かんできた。お世話になってきた山小屋の、初代の小屋が建てられた時のものだ。今は大きな山小屋だが、質素な造りだった初期の頃の建設には人力…歩荷…が当たり前だった。写真には太い丸太を一本担ぎ、麓から裸足で山道を登っていたある人の、若き日の姿が写っている。
 山小屋を建てようと決めた父を手伝い、にこやかな表情で歩荷中だ。あの人も今は80代の中頃を過ぎているはず。大学、社会人の山岳部で馴らし、後に日本山岳会の会員になり地元の山の歴史や自然についての著述も多くされている。山への厳しさと深い愛情に満ちた姿勢が文章に表れていた。山小屋のパンフレットづくりのお手伝いをしていた時、助言をいただいたりもした。その山小屋もそろそろ70周年を迎える頃だ。お元気だろうか………… 

 道はゆっくりと下りになり、いつの間にか小さなせせらぎが横に寄り添っていた。その湧き水の流れを、冬の間の雪の重みで落ちた杉の葉が押し止めようとしているが、水も負けてはいない。青空を映す淵をつくり、その先から木漏れ日をチカチカと反射させながら流れ出ていく。木立が途切れる坂道の下が明るかった。

✍ 知らない里に出

 春の陽ざしをいっぱいに浴びた細長い里に下りていた。
 下って来た道に沿って水田が延び、風もなく暖かい。道がカーブし木立に隠れていく辺りに一軒の家が見える。
 ぶらぶらと周辺を歩き、水辺の適当な場所に腰を下ろした。少し早めのランチタイムだ。小さな流れの対岸には、きれいに咲き揃った桜の木と、複雑に枝を絡ませた裸木が対照的なポーズで立っている。

今日の折り返し地点

✍ ジャズ的人生

  裸木がアバンギャルドに立ち尽くす 
 20年ほど前に亡くなったある人の俳句を思い出した。と言うより、落葉し枝を複雑に絡ませた木を見ると、いつもその句が浮かんでくる。気に入った句だからだろう。なぜかカタカナが入った句を好んでいた傾向もあり、その人にはよく、そんな句をリクエストしていた。
 その句を詠んだ人の俳号は「酔生虫(すいせいちゅう)」といった。広辞苑にも出ている『酔生夢死』という古い言葉をアレンジしたものだが、見たとおりの意味だ。

 16歳の冬、その人がカウンターに立つ金沢のジャズ喫茶に飛び込み、事前に調べてきたアルバムをリクエストした。しかし、アルバムの中の聴きたかった曲はなかなか流れてこない。勇気を出して確認に行くと、さっきかけたよと言われる。
 リクエストしたアルバムはB面がかけられていて、聴きたかった曲はA面に入っていた。だが、そんなことは知らない。FMのジャズ番組で聴いただけだ。古い録音のものでレコード店にもなく、店員のお姉さんがその店を教えてくれたのだ。どんなレコードでもあるよ、しかも、ドリンクひとつで何枚もレコード聴けるし……と。 
 A面って、そう言ってくれたらよかったのに……… そう言われた時、試されたと思った。タートルネックの黒いセーターを着て大人の雰囲気を出していったつもりだったが、丸刈り頭がよくなかったのかもしれない……野球部だったのだ。しかし、それからその人が亡くなるまでの30年あまり、長い付き合いが続いた。見境のないセッション…雑談と言えばそれまでだが…から培われた自分自身の私的エネルギーのエキスは、その人との関わりからどんどん増幅していったものだと言っていい。
 その人は私が2年半がかりで取り組んできた、あるジャズイベントの開催を1ヶ月後に控えたある日、57歳という若さで逝ってしまった。最後に会った時…亡くなる数日前…には、ベッドで小さな紙に鉛筆で何かを書いていた。聞くと、短い歌をつくっとる…と言う。短歌であることはすぐに分かった。店の小さな黒板に、冷奴のことを「冷たい奴」と書いていた人だ。

 その人の生き方を、ジャズという音楽の多様性と合わせて〝ジャズ的人生〟と形容していたが、自分にとって絶対に欠かせない人…存在…だった。
 実はその人は隣県の山里生まれだ。それも筋金入りの山里だ。幼い頃は電気もなく、自転車の荷台に箱を積んだアイスキャンデー屋は、それが融けるというので家の周辺まで来れなかったそうだ。まだ元気だった頃、開ける前の店の中で、そんな話を二人だけでしたことがある。
 もしその人が生きていたら、その後も自分らしさということにマジメに向き合っていただろうなあと思う。

 そんなことを思い出しながら淡々と箸を進める。ランチはチンしてタッパーに詰め込んできた昨夜のおかずとご飯で構成されている。ご飯に沁み込んだ煮物の汁の度合いが程よくて美味い。
 ランチも終了し片付けを始めた頃、山間からウグイスの鳴き声が響きわたった。未完のさえずりだなと思いながら、コーヒーの道具を持って来なかったことを悔む。

 踏みあと《トレイル》が消えている

 戻ろうと立ち上がり、リュックのベルトに腕をとおして振り返った時だ。
 下ってきた山道の脇に、角度を変え山の中へと向かう踏みあとらしきものが目に入った。
 近くまで行ってみると、奥へと延びているはずのその踏みあとが、被いかぶさるようにして蔓延る枯枝や枯草たちの中に消えている。まるで彼らに呑み込まれたかのようだ。そのまま足を踏み入れて行くと、その彼らも雑木の中に吸い込まれていた。もうすでに踏みあと…トレイル…道…はない。

こんな道ならいっぱいある

 ………このことを言っていたのか。
 あんたが見たがっとるもん…… そう言ったおじいさんの顔が浮かぶ。   
 使わなくなった道といっても、ここまでは思い描いていなかった。
 ひょっとすると、あのおじいさんもそうかもしれない。
 歩く人がいなくなれば、道は道でなくなる。道…トレイル…は、どこかとどこかを結び、誰かと誰かを繋いでいた。

 人やモノがすれ違い、言葉や思いが交わされ、コトが始まる場でもあった。
 だから道…トレイル…がなくなれば、そんな繋がりも消えていく。再び木立の中の道を登り返しながら、そんなことを考えていた。クルマですれ違うだけの道には、そんな芸当はできないな……とも。

のどかにトレイルが延びていく

✍ 小さくても凛とした神社の存在……

 スタートした集落に戻った。
 家がわずかに並ぶ狭い道に入り、横目で里を見下ろすようにして歩いた。この道を歩くのは初めてではない。普段見ているよりもかなり立派に育った水仙の集団に敬意を表し、カメラを構えシャッターを切る。
 小道は曲がりくねりながら延び、その小道をおばあさんが歩いている。多くの人が「懐かしい」「日本的だなあ」と呟くにちがいない風景だ。道の途中には、美しいカタチをした柿の木が立つ。前に来た時は実をひとつだけ残して立っていた。

ほぼカンペキな空気感

 道はそのまま続いて行くが、山裾にこの里の神社がある。何年か前に初めて行った時、その控えめな存在感に文句なしの凛々しさを感じてしまった。
 神社のさらに奥へと延びる道沿いには家が一軒あるだけ。小さな境内から木立や鳥居をとおして山里を振り返ると、木漏れ日が時折揺れ、山里全体に広がる静寂の源がこの神社にあるような、そんな気にさせられる。その静けさはもうパワーとしか言いようがないくらいだ。
 能登の山里では数えきれないほどの神社を見てきた。そして、神社が漂わせる何かが、能登の山里の重要なエッセンスになっていると感じてきた。

静寂ほど強いパワーはない

 無機質なようにも捉えられる空気感、飾り気のない人たちがいて、無口な神社の存在がある。その繋がりが説明のつかない何かを伝えているような気になる。そして、その繋がりは自然の永遠性に近い……と、そんなことまで考えさせる。

………地震後に訪れると、鳥居は倒れたままだった。近所の方と話し込んでいると、軽トラが奥から下りて来た。キノコ採りの帰りだと言う。神社の静寂は一気に飛び去ったが、なんでもない日常の話に気持ちが和んだ。

7 能登の山里をただ歩くときが…またきた

小さな集落にかつての道が延びている

 それから数週間後の、またよく晴れたある日。狭い窪地に10軒ほどの民家が並ぶ小さな集落にいた。海沿いからの道を辿れば、牧場や小さなダム湖の下を通って標高の高さが実感できる場所だ。
 直線距離で5キロほど離れた別な集落の公民館にクルマを置かせていただき、家が散在する脇道や雑木林の中へと延びる道に足を踏み入れたりしながらここまで歩いて来た。幹線道路はクルマではときどき往来していた場所だった。

こういうシーンに遭遇することも

 集落に下って行くと、ここにも小さな神社があり、一礼してから水田に沿って延びていた脇道に進んだ。そして、しばらく行くと、地元の方の姿を見つける。道が聞けたらと声をかけると、水田からわざわざ上がって来てくれた。そこから長い立ち話が始まる。
 そしてまた、使われなくなった道の話に繋がった。

 学校への道………

 もう半世紀以上前のことだという、小学校時代の通学のようすから話してくれた。この辺りも奥能登の豪雪エリアだ。大雪の朝の集団登校は厳しかった。大人たちが雪を踏み固めながら前を行き、黒いマントに身を包んだ小学生たちがその後ろにつく。通常でも1時間近くを要する道のりだから、雪の日はその倍ほどの時間をかけて歩いたことだろう。
 学校に着くと、一限目の授業はすでに始まっていた。雪をはたきマントを脱いで教室に入ると、ストーブのまわりの席が自分たちのために空けられていたという。やさしい先生だったのだろう。

渇いた空気と 一瞬の何もない感

 小高い山の斜面に、まっすぐな道が見えた。狭いが以前の主要な道であり、今はほとんど使われていないと教えてくれる。今目の前にある立派な道路はそれに代わるものらしい。

 坂道の入り口にあった土壁の蔵の前を通り、とりあえず峠の方に向かってその坂道を歩いてみた。春になっているとはいえ、そこにはまだ瑞々しさを感じさせる気配はなかった。路面も傍らに建つ空き家の壁板もすべてが渇き切っているように見え、冬枯れの空気感が漂っている。
 子供たちは、どんな話をしながらこのような道を歩いていたのだろう。雪の日は話などする余裕もなく、ただ下を向き、前を行く友の踏みあとを見ながら歩いていただけだったかもしれない。自分にも少し覚えのある感覚が蘇ってくる。

これはいったい何か?

✍ 歴史の狭間に絡む

 いろいろなことを思いながら足を進めて行くと、木立の隙間に古い石碑らしきものが見えてきた。これが〝石神(いしがみ)〟かと、住民の方から聞いていた話を思い出す。言い伝えなどもはっきりしないまま、ただ大事にしておけと言われるままに守ってきたものらしい。
 家は30代以上続いているらしいという。檀家になっている寺(すでに建物は集落内にない)の過去帳で分かるらしい。ただ、それは分かる範囲でのことであり、実際はもっと古いのかもしれない。能登に限らず、さまざまな場所でそういう話はよく聞いた。落人伝説もありうるだろう。そう言ってみたが、興味はなさそうだった。

 ……ところで最近のことだが、上杉謙信の能登遠征に伴い焼き討ちにあったという寺社のいくつかを探索してきた。某町の図書館スタッフの方から聞いた話で興味が湧き、その町内にあるいくつかの寺社と周辺を歩いて来たのだが、地元の人たちがそのことをよく知っていたことに驚いた。
 こちらの方は上杉軍の通ったという道そのものにも興味があり、それも確認したかったのだが、ある神社では、社のすぐ上にある山道の存在を教えてもらった。もちろん実際に歩いてきたが、獣道のような狭いその道で正しかったのかは分からない。ただ、本当にそういう道があったりするから面白いのだ。地元の歴史通の方は、馬と人が通れればいいのだから、あんなものではないかと話していた。

 自分の代で

 祖父の時代までは林業で食っていけた。しかし、今は山に生産性など求められない。ただ最低限の手入れだけは継続していく。すぐ前には小高い山並みが延びている。いつかその山の中の道も歩いてみたいと思った。
 夜になって明かりが灯るのは数軒のみ。そこに残る人たちの暮らしは時の流れのままに続いていくが、ひとつの区切りは必ず訪れる。その区切りをどう捉えるかだ。
 自分の代で終わりかもしれない… その言葉もよく耳にした。しかし、すべてが消えるはずはないと大した根拠もなく思ってきた。
 さまざまな話を聞かせてもらった。地図には載っていない道が無数にあることに驚いていると、いつでも案内してくれそうな心強い言葉ももらう。今は使われなくなった道だが、使っていたのはここの人間だけだからと笑う。使われなくなった道を辿れば、それらの道でこの辺りの人たちすべてが繋がっていたことが分かるということか。だとすれば、なんと素晴らしいことかと心の奥の方が温かくなる。
 その話を聞いているうちに、自分の中にあった小さな疑問が、わずかだが解かれていく。とにかく道がすべてなのだろう。
 アスファルトの上に、落ちていた石で書いてくれた周辺の位置図。それをカメラに収め、その方と別れた。

作ったばかりの注連縄だったから

✍ 地震後の再会

 地震から半年近くが過ぎた頃、その集落に再び向かった。クルマで…だ。そしてその方と再会している。数年ぶりだったが、こちらのことははっきりと覚えていてくれた。そして、相変わらずの〝自然体〟に安心させられる。

 初めて来た時に石段で休憩させてもらった、小さな神社の鳥居が足元から折れていた。しかし、注連縄(しめなわ)は両側の大木からしっかりと張り直され、それが逆に凛々しく、誇らしくも見えた。石神も土台から落ちたが、近いうちに元に戻すということだった。

 地震後だっただけに、慎重に言葉を選んだつもりだった。しかし、生まれたところが、たまたまここだったというだけ。生まれ育った大事なふるさとだから、ここが好きだからというような言葉は相変わらず出てこなかった。

 逆に、自分がこの場所にいることへの不思議さの方が増幅した。よく分からないが、ひたすら自然体の空気感に押され、自分自身がもどかしいばかりだったのだ。

✍ かつての日常を求めて

 こういうところを、ただ歩くのが好きなんですよと、出会った人によく言う。

 そして、〝こういうところ〟と言ってしまうことにいつも自分で違和感を持つ。

 ポツンと何とかというテレビ番組があるが、スタジオで、ああだこうだと語り合っている連中の方が普通で、そこをボーっと歩いたりしているのは普通じゃない…… ときどきだが、そう思う。

 自分は非日常を求めて歩いているのか? いや、本当はその場所の日常を求めて歩いているはずだ。

日常だった風景が、非日常の風景に変わっていく

8 能登の素は山里にある…?

✍ 脱力感

 この文章を書き始めたのは、5月の終わり頃。10月も終わりに近づいているのにまだ書き上げられないでいる……と言っているうちに、また1ヶ月が過ぎた。
 少し前から、これは永遠に書き上げることのできない文章だなと自覚するようにもなった。いろいろなこと…新たな情報や新たな想い…が交錯し続け、さらにまた新たな災害も起こり言葉を探すのにも疲れてしまった。8千字ほどの話を途中でイヤになって削除したりもした。合間に書いていた他の文章にも初歩的なミスをしでかしている。

風景は記憶の中にも生きる

 能登の山里を歩く……そんなひとつの楽しみ?を、自分なりのやり方で続けていこうと思っていた。しかし、正直、そのことの意味すらも疑い始めている。自分の中で形づくられてきた〝能登〟が、一気にそのベースもフレームも失った。自分と能登との関わりとは何だったのか? この齢での脱力感はタチがよくない…………

 またしても能登の仕事………

……しかし、2024年1月も、フリーランスで能登の仕事をしていた。
 志賀町教育委員会が発行する教材マンガ『加能作次郎ものがたり』(作画・藤井裕子氏)の制作で、企画から1年半をかけて進めてきた自分の作業(原作・シナリオ・編集)は、ラストスパートに入ろうとしていた。
 主人公・加能作次郎(1885~1941)は、旧西海村風戸(ふと=現志賀町西海風戸)で貧しい漁師の息子に生まれながら、東京に出て苦学の末に大学を卒業。作家、編集者として活躍し、文壇の中では地味な存在ながら「生涯をとおして ふるさとを書き続けた作家」と評された人だ。
 3月に作品は出来上がった。作次郎は自分にとってのふるさとについて、〝貧しい中で自分を支えてくれた父親こそが、ふるさとそのものだった〟と書き残していた。そして、その思いを背景に、少年少女たちだけでなく、大人たちにも自分のふるさとについて見つめ直してみようというのが作品に込めたメッセージだった。地震を経て、それがより深くなっていたのは言うまでもない。


✍ 能登の山里に…帰る

いつも、ちょっとだけ歩いてこようかな~から始まった

 マンガ制作の仕事を終えた後、ようやく奥能登の山里に向かった。
 これまで長く見てきた風景は、どこかに大なり小なりの傷を負い、日常の光景にも野晒しになったままの深い爪痕が見えた。その痛みを感じ取ろうとしたが、そこにたどり着くまでの時間のゆとりはない。カメラを向ける気持ちにもなれない。
 ただ、不思議なほど淡々としていた。人々の飾り気のない言葉を聞いていると、自分が能登の山里に立っているということを実感できた。
 長い歳月を経て感じ取ってきたものは、なくなっていないように思えた。 
 そもそもなくなるものではないだろう……とも思う。よそ者のいい加減な思いに過ぎないと理解していながら、そう思うことで、その場に自分がいる理由を重ね合わせようとしていたのかもしれない。

繰り返されてきた日常を想像する

 黙示と能登の「素」

 そんな思いを抱かせたのは、能登の山里が発していた何かが、自分の中にも少しは沁み込んでいると感じたからだろう。そうであってほしい。
 もの思いに耽りながらただ歩かせてくれた山里の道、歩きながら目にしたもの、吸ってきた空気、言葉を交わしてくれた人たちの顔や声、それらが、能登の「素(す)」のようなものを黙示してくれていた。

置き去りにされた木にも小さな命が

 言うまでもないが、能登半島の素は自然の中にある。
 そして、生まれた「自然体」……それも「究極の自然体」のようなものが、能登半島の素なのかもしれない。人々の日常も、すべてがその素によって成り立っているのではないか……?
 だから、自分たちに授けられる恩恵はもちろん、課せられる厳しい試練にも、人々は自然体でいられた。
 人々の心根にあるたくましさも、弱さも脆さも、そしてやさしさも、すべて能登半島の素によって植え付けられてきたものだ。だから、余計なことは考えなくてもいい。余計な言葉も、振る舞いも必要ない……
 そう考えていくと、目に見えていたものが一時的になくなったとしても、能登の土や水や、能登の人々に沁み込んだものは簡単になくなるはずがない。そう思える…………

✍ 朴訥

 わずかな時間だが、再び能登の山里に目を向けていると、ある言葉がまるで用意されていたかのように浮かんでくる。〝ブリの頭〟の話を読み返した後にも、何年ぶりかで思い出した2文字。
 朴訥… 質朴で無口なこと。無骨で飾りけのないこと…広辞苑第五版 。
 能登の形容詞に使うのは、当たり前のように〝素朴〟が多かった。それが能登にふさわしいと単純に思っていた。
 しかしいつの頃か、特に能登の山里では、そんな華奢な響きをもつ言葉はふさわしくないと感じ始めた。

 ……… 昔から、ここで草むしっとるがや。草ァ、毎年(まいどし)、忘れんと出てくっさけのォ……

 もうかなり前になるが、まわりをコスモスに囲まれた小さな畑に正座し、草むしりをするおばあさんがそんなことを言っていた。やさしい声で語りかけてくるおばあさんだった。娘さんが病気になって、そのために1年間畑を休んだが、また始めたのだと言う。しかし、数年後に寄ってみた時にはおばあさんの姿はなかった。畑には雑草が蔓延り、コスモスだけがたくましく花を咲かせていた。あのおばあさんも、能登の山里から黙示を受けていたのだろう。ただひたすら朴訥に、そして自然体で生きてきた能登の人だったにちがいない。

 

9 踏みあとを残すとは……

✍ 何もないから

 能登の山里で出会った人たちから言われてきた、「なん(何)もないとこ」というフレーズ。
 いつからか、そのフレーズを聞くことが快感にもなり始めていたと思う。何もないところへ出かけるということはない、何かがあるから出かけてきた。しかし、それをうまく伝えることはむずかしい。
 ただ、その言葉を口にする人たちの〝朴訥さ〟に気付いてからは、その言葉になぜか深い意味のようなものを感じるようになった。その人たち自身も気付いていない、気付く必要もない言葉の中に潜んでいるもの……それこそが自然体なのかもしれない。 

 

 そして、また歩き始めた。とりあえず小刻みなステップで。
 もう秋も深まるどころか、すでに冬が間近に迫っているのに、そして頭の中は何も片付いていないのに……だ。
 むずかしいことは考えない。ただ歩くだけ。
 何もないから見えてくるもの、感じられるもの……自分には美しすぎる響きをもつ言葉だが、敢えてそうしたものとの遭遇を求めているとでもしておこう。

 この秋、NHK-BS『こころ旅』の(火野)正平さんが亡くなった。小さな旅の最初と最後に正平さんが読む〝お手紙〟の中の何でもない話が、風景と人との繋がりを物語っていた。その風景とは決して風光明媚なものではない。むしろ日常見慣れていたものの中にこそ、長い時の流れを経て浮かび上がってくる真実…大切なもの…があることを伝えていた。

10 風景はアーカイブ

『トレイルズ「道」と歩くことの哲学』(ロバート・ムーア著 岩崎晋也訳)

✍ 歩くことそのものを考える手立てとなった本……

 

 この分厚い本を長い期間読み続けていた。過去完了形…だと思う…なのは本が分厚過ぎるのと内容が濃いせいで、あとなかなか時間がとれなかったということもある。
 著者は気の遠くなるような〝歩き〟を実践し、トレイル……道と、歩くことそのものの意味のようなものを提示している。アカデミックなたくさんの切り口を持ち合わせ、心身ともにタフ。リスペクトはもちろん、気負うことのない静かで純粋なスタンスに共感する。


 この本の中に、トレイルの神様のような存在と言われるある人物の言葉として、トレイルの究極的な目的が示されている。
1.歩くこと 
2.見ること、そして
3.自分が何を見ているのかを見ること!
 畏れ多いのだが、自分なりのスタンスと、どこかでほんのわずかに重なっていると感じた。そして1,2とも、アタマに「ひたすら」とか「ただ」とかを付ける。さらに3の後ろの「見る」は、「知る」「感じる」などに置き換える。そうした方が自分の感覚により合った。
 下手に説明を試みると却って内容を軽くしてしまうので危険だが、ただ歩くことそのものを中心に据えることが大切なのだ…と解釈した。そしてそれは、まさに自分も同じだと。
 いつだったか、そんなに歩きたいのであれば、四国のお遍路さんに行けばいいのにと言われたことがある。しかし、共通する部分はあるかもしれないが、どこかがちがっていた。使命感やそれに伴う達成感、それに決められたルートや目標などは自分にとって必要なかった。

 そしてさらに、その本の中で共感したのが次の一文だ。
『歩くことがトレイルをつくる。そしてトレイルは景観を形づくる。そして時間がたつにつれ、風景は共通の知識や象徴的な意味のアーカイブの役割を果たすようになる。』
 風景がアーカイブの役割を果たす。とてもいい響きだ。
 能登半島の山里にある何でもない風景から、そこに宿るものが、少しずつ伝わってくるような感じがする。今のような時だからこそ、尚更〝アーカイブ〟という響きにも共感するのだろう。

 ✍ 踏みあとが語るもの

 能登の山里に絶景はない。しかし………
〝能登はやさしや土までも〟に通じる自然と人とが紡いできた風景がある。能登の山里を歩くとは、朴訥な風に吹かれながら、その中に自分が溶け込むことだ。それも、いつの間にかそうなっていたというくらいがいい。だから、トレイルなどという言い方も大げさかもしれない。もっとシンプルに、〝ただ歩きに行く〟でいいのかも。

 復興とか再生とかには何の役にも立たないことは分っている。
 それどころか、こんな時に何やってんだと言われるかもしれない。それでも歩くのは、踏みあと…トレイルらしきもの…を残していくことで能登との繋がりを持ち続けていたいという思いからだけだ。
 能登半島から消え去ろうとしていた道に、いつかまた誰かの踏みあとが刻まれていく。それはそれでまた何かに繋がっていくのではないだろうか。

 ひとまず、ここまでで………

 


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