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能登半島に踏みあとを残していくこと
✍ 消えていく道と 山里からの黙示 ~能登の山里をただ歩き始めるまでの自分記
~こんな なんもないとこへ なんしに来たがいね~
1 ブリの頭を分け合う人たち
『──石川県能登半島の南山というところであった。そこは貧しい村であった。生産力が低いからである。一年間かかって適当な木を見つけてつくっても、二〇〇本をこえることはなかった。それを一年に二回ほどひらかれる海岸の正院の市へ持っていって売るのだが、それが一年中の主要な金銭収入だったのである。生産力の低さのためにろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋に入れてたいていると隣りの家からやってきて、「ブリの匂いがするが、ブリの頭を買って来たのか、一とおりダシを出したら貸してくれまいか」とたのむ。するとその頭を隣家へ貸してやる。隣家ではそれをおかずのなかに入れてたく。その匂いをかいで、そのまた隣りの者が借りに来る。そうして三軒もの者がブリの頭をたくと、頭はこなごなになって骨だけがのこったものであるという。魚を食べるといってもその程度のことが一ばんごちそうであったという。それほどまで貧乏して山の中に住まねばならぬことはないはずであるが鍬柄を必要とする者のあるために、そうした村がおのずから発生したものであろう。─── 』

本棚に置いていた2011年発行の文庫本 ※本書は1964年に発行されている
✍ 山の本に書かれた能登の人々
冒頭の話は、民俗学者・宮本常一が『山に生きる人びと』の中で書いていたものだ。あの地震の後、ニュースで被災地の人たちの姿を見た時、不意にこの話が頭に浮かんできた。その後も、孤立しながら自分たちのやり方で暮らしを続けようとする人たちを目にするたび、この話は何度も頭をよぎった。はじめて読んだ時の自分自身とともに。
震源地からかなり離れていたにも拘らず、自分自身の周辺でも、液状化による大きな被害が出ていた。そのエリアから五〇メートルも離れていない自分の家は無事だったが、しばらくすると、自宅に住めないことを知った周辺の人たち──その中には肉親もいた──の多くが、避難所から仮の住まいを求めて移動を始めた。そして、引っ越しや、やむを得ず処分しなければならなくなった家財道具の運び出しなどに追い立てられていく。
今から思えば、なぜあんなに焦っていたのだろうかと思う。何も変わらない日々がその後長く続いただけだった。
✍ その本
1ヶ月ほどが過ぎ、ようやく落ち着きらしきものを得たある日。ふと、その本の、その話の載ったページを探してみようと思った。
久しぶりの自分の部屋…… 萎んでいた山岳用のリュックを見て、地震の翌々日、避難所に持って行くシュラフを取りに来たことを思い出す。リュックの中でシュラフはもう長い間眠らされていた。そして部屋には戻ってきたものの、リュックではなく部屋の隅に置かれたままだった。
本を手にすると、すぐにそのページが開く。古い名刺が挟まれていたからだ。短い文章を立ったまま読み、椅子に座り直してもう一度読んだ。
本棚には手にしているものと対を成す『海に生きる人びと』が横に並んでいた。それにはタイトルにふさわしい能登の舳倉島の話が書かれていたが、敢えて手にすることはなかった。
『山に生きる人びと』は、2012年頃に読んでいたと思う。本書は1964年1月発行とあるから今年で60年になる。
✍ その集落
話に出てくる「南山」とは、現在の珠洲市若山町南山だ。宮本常一が能登滞在について同じ本の中で書いている内容から、訪れたのは七〇年ほど前だろうと思う。
なぜか初めは「なんざん」と読んでいた。道路標識に記されてあった英文字表記で「みなみやま」と読むことを知った……と記憶するがあやしい。知っているかぎりでは、同じ若山町に「北山きたやま」があり、輪島市と志賀町に「西山にしやま」さらに、輪島市に「東山ひがしやま」もある。それなのになぜ「南山なんざん」と決めつけたのか、今でも不思議だ。
何度もその辺りをクルマで走っていた。しかし、南山の集落に入っていたかどうかは分からない。能登に限らず山間地にはそんなところが多い。
最近では、奥能登国際芸術祭の作品を観るために訪れた人も多いだろう。地震後に再放送された、NHKの名番組『新日本紀行~雪ん子のたより』(一九八二年制作)を見て知った人もいるかもしれない。雪深い山里として紹介されていたが、〝豪雪〟や〝出稼ぎ〟という言葉の響きに、能登半島の〝山に生きる人びと〟を再認識させられた番組だった。
✍ その暮らし
文中の〝 適当な木を見つけてつくっても 〟というのは、農具の鍬を作ることだ。作ると言っても、とてもシンプルだが。
まず、山で枝が適度な角度で伸びた木を見つける。枝は鍬の柄(棒)になる。枝を柄の長さに合わせて切り落とし、枝が出ている幹の部分を鍬の刃になるよう板状に削り出す。するとそのまま鍬の形状になる。詳細は分からないが、そういうものだったらしい。柄と刃が1本の木の枝と幹(の表面)で繋がってできていたのだ。しかし、最初から適度な角度で伸びた枝をもつ木は少ない。そこで幹と枝を縄で引き寄せ矯正することもあったという。
南山の人たちは、そうやって作った鍬を年に2回ほど正院の市で売っていた。ただ、そのような鍬だから、大したお金にはならなかったにちがいない。それでも現金を得るには何かを作り、それを売りに山を下るしかなかった。そして現金を得ると、必要な物を買い求め山に戻るのだ。必要な物とは、たとえば家族の季節の衣類などであったかもしれない。
こういう場合、買う人たちも売る人たちの事情を承知していて、その時必要としていなくても買っていたと宮本常一は書いている。ブリの頭は目的の買い物を終えた後、残ったお金で買ったのだろうか。そして、それはそれでまた隣家にまで渡り歩き、それぞれの夕飯に花を添えたのだろう。囲炉裏を囲む家族の火照った笑顔が想像できる。
✍ 不思議な空気感
本を棚に戻し能登のことを思った。
地震後に送っておいた安否確認や見舞いのメッセージには、何人もから気丈な言葉が返ってきていた。しかし、その人たちがそれほど饒舌でないことは知っていた。心の奥に仕舞い込んだ感情を、そう容易く洩らしたりしないことも知っているつもりだった。そのことがまた心を重くする。
ところで、宮本常一はこの話の最後に『それほどまで貧乏して山の中に住まねばならぬことはないはず………』と書いていた。最初に読んだ時、その部分に違和感をもった。
能登半島は、山村に比べ漁村の方には現金収入の術もあり、少なくともより恵まれた暮らしがあったのではないかと思う。派手な祭りなども海沿いが舞台になっている場合が多い。そんなことを思いながら、それでも山里に暮らす人たちがいる、その人たちをそうさせていたのは何だったのか…と、ぼんやり考えるようになった。
能登半島の山里に不思議な空気感のようなものを感じていた当時の私にとって、それは能登へ来るたびに浮かんでくる小さな考え事のテーマだった。
あのページに名刺を挟んでいた理由もそんなところにあったのだろう。
そして今は、山里で出会う人々とブリの頭を分け合う人々とが繋がる。
2 能登との関わりのはじまり

能登は海であることを思い知らされた場所
金沢の広告会社に──バツイチで──拾ってもらったその年、上司に連れられ輪島の景勝地・西保海岸を訪れた。若い頃、カメラマン志望だったらしい上司は、入社したての私を能登での仕事に同行させ、その後自然な流れで、私を地域事業の担当にした。私の中にそれらしき匂いを感じ取ってくれていたのだろうか。最初の仕事は西保海岸をめぐる観光情報サインの企画製作。クライアントは輪島市。
リサーチに出かけた西保海岸の美しさは想像をはるかに超えていた。それまで漠然と思い描いていた能登半島のイメージは、一気に具現化する。金沢のタウン誌に私的な文章を書かせてもらっていた当時の私は、デザイナーが描いた観光マップにコピー風のタイトルをつけ提案した。それが予想以上に気に入ってもらえ、単純にその仕事と自分の世界とに接点を感じるようになる。そして、その後能登半島の幹線道路に、ポケットパークを整備するという石川県のモデル事業に関わることになった。それが能登半島のほぼ全域を俯瞰し、さらに言うと、半島内陸部へ、ほんのわずかだが意識が向くきっかけとなる。
幹線道路である国道二四九号線は内陸部にも延びていた。ただ、やはり能登は何と言っても海岸線であり、内陸部はあくまでも半島の中の通過地だったに過ぎない。
✍ 自分は山派だった
プライベートでは山岳を中心にした自然系の世界に、かなりの度合いで嵌っていた。北アルプスのある山小屋オーナーに憧れ、その周辺で活動させてもらったりもしていた。山岳雑誌に投稿するなどもしていて、単に山域に入るだけではない活動にも積極的だった。夏休みなどは信州から八ヶ岳方面へと足を延ばし、一週間ほど過ごす。漠然とだが、将来はそんな環境の中に棲家を得たいと考えていた。 後に、そうやって得た知見を活かしながら立山山麓、白山麓での仕事を企画し、さらに新潟や長野、群馬あたりまで足を延ばした。春先などは山岳用スキーを積んでいくなど、休日絡みのスケジュールを組んだりしたものだ。ただ仕事エリアとしては、金沢を中心として石川県内が最も多かったのは言うまでもない。
今から思えば、海がベースになる能登半島でも山域に興味を持ったことは自然な流れだったのかもしれない。
───実は海のある町で生まれ育っている。尊敬する祖父は北海道や山陰の海でならした、明治生まれの頑強な漁夫の頭《かしら》でもあった。
✍ 能登半島を俯瞰する仕事
モデル事業のポケットパークにはトイレや電話ボックスとともに、観光情報を発信するサインの配備が計画されていた。課せられたのは能登半島観光の周遊性を高めるための、半島全体と各市町村の観光情報の整理と連携する仕組づくり、そして、分かりやすく魅力的に伝えるためのデザインと製作設置までのすべてだった。スタートにあたってマークやロゴなどの制作を先行させ、相棒のデザイナーがいい作品を創ってくれていた。 ところが、面白くなりそうな予感がし始めた矢先、出鼻を挫かれるようなことに遭遇した。県に観光に特化された公式マップがないことが分かったのだ。観光の部署ではっきりそう言われたのだから仕方がなかったが、ベースとなる資料がないということにそれなりのショックを受けた。
当時の石川県庁《現県政記念しいのき迎賓館》の真ん中が擦り減った階段を、ぼおっとしながら下り、そのまま担当部署へと向かった───はずだ。
何年も後になって『ほっと石川』という大キャンペーンが始まるが、その頃は市町村が個々に発信している観光情報で対応していたのだろう。どちらにせよ、作業の計画が大幅に狂ったことにまちがいはなかった。
担当部署に戻って報告すると、担当者も驚いていた。しかし───
いい機会やし、新しいのを作ればいいがいね‥‥‥。
担当者から生々しい金沢弁で、あっさりとそう言われた。こちらも、そこからやれって言うがかいね……と言いたかったが言えない。何とかしてやるしかなかった。
そして、外に出てしばらく考えていると、とにかく自分が動けば何とかなるなと思えてきた。気になる経費面なども、ほとんど自分の判断で抑えられるという気にもなってくる。根が楽観的だった。
そして、作業はスタートする。半島の各市町村が発行している観光パンフレットなどをもとにして、県の公式地図から能登半島をトリミングしたものに観光ポイントをプロットしていく。訪れたこともないところばかり、さらに初めて見るような名前もあり、想像以上に確信の持てない作業が続いた。
しかし、今から思えば、担当者のあの一言がなかったら、能登との長い付き合いも生まれなかっただろう。あの一言によって、この仕事に対するスタンスが変わったのは言うまでもなく、能登への新たな意識が生まれた。担当者とはその後も何度か仕事をさせてもらう機会があったが、いつも大らかに任せてくれる人だった。
その頃はまだ自覚していなかったが、仕事の中にどんどん個人が持つスキルを活かしていくというスタイルを導入し始めてもいた。後に〝私的エネルギー〟とネーミングした、個人の能力を最大限に活用するやり方だ。
ポケットパークの最初の計画地は、後に道の駅に昇格する千枚田。そして、旧門前町の道下とうげ──海岸だった。双方を行き来するためには二四九号線の山間の道を利用する。旧門前町の町域の多くは山地で、海岸線からすぐに山間に入る変化とその奥深さに驚かされた。
残念なことに、今現在その道は地震とその後の豪雨被害で厳しい状況にある。
✍ 能登半島はおもしろい
観光情報は、二種類のマップを組み合わせるシステムにした。半島全域の情報とポケットパークのある地域周辺の情報との二本立てで、後者は市町村発行の管内図と観光パンフレットなどから素案づくりを始める。旅行雑誌などのメディアはそれなりにあったが、さまざまな資料を取り寄せたり、探しに出かけたりしながら作業を進めた。
そして、観光ポイントの呼称の整理や、紹介するテキストづくりなども始める。すぐにマニュアル化されるということはなかったが、新しく情報を整理するにはそれなりの精度が求められた。
得意のフィールドワークは、そこまで必要か?という上の方からの声も聞こえる中、自分で見聞してくるやり方にこだわった。要は、行きたかった。自前のトレッキング装備で荒磯や猿山などの自然遊歩道はもちろん、少しでも見映えのしそうな場所を見つけると実際に歩いたりした。
このまま延長していけば、能登半島のトレイル・コースができるかもしれない。山岳誌で齧った程度の知識しかなかったが、そんな妄想に近いところまで思いが及んだ。そして、その意味もよく分からないまま、ただ自作のマップを眺め半島を俯瞰する日々だった。仕事は確実におもしろくなっていく。
国道二四九号線から派生していく、地域内の細かなルートにも注目した。自分としては、このことがとても重要だと感じていた。それまでの定番的な観光地めぐりでなく、ルート上にも、能登半島の新しい魅力を感じてもらえそうな場所をいくつも見つけていたからだ。もちろん自分だけの観点だったが、かつて、通過地のイメージしかなかった場所が、少しずつそうではなくなっていく。
最初はメモ書きから始まった観光ポイントのテキストが、気が付くとどんどん数を増していた。風景はもちろん、歴史、産物、祭り、行事など、それらは集めた資料と撮影してきた写真などとともに、その後の大切なツール、そして財産になっていったものだ。

トレイルの名にふさわしい場面…選択肢は歩く以外にない
✍ 英文表記のはじまり
ところでその頃は、能登はもちろん、金沢でも外国人観光客はたまに目にする程度だった。外国人向けの観光ガイドづくりなどまだ本格的に始まっていない。この事業を機会にやってみたいと考えたのは自分にとって自然な流れで、県の担当者に提案してみるとすぐにOKが出る。
すでに、ある団体を通じてイギリス人の若い女性を紹介してもらっていた。イギリスの名門大学──C大かO大のどちらかだったが忘れた──を出たインテリだ。
彼女は普通の日本人女性と変わらぬ背丈で、白いTシャツにジーンズの短パン、大きなリュックを背負い、チリチリの金髪をポニーテールにして現われた。全くと言っていいほど日本語は話せなかったが、明るく、かなりのアクティブ系であることが伝わってくる。ちなみに、こちらの英語力がほぼ適用しないことも承知させられた。
作業は、日本文のテキストを通訳の方をとおしてより理解してもらい、持ち帰って英文にする。写真や資料も渡し、分かりにくいところはさらに詳しく伝えてもらった。彼女はとても意欲的で研究熱心だった。英語による分かりやすい伝え方をとおして、外国人の興味を誘うような表現にしたいとよくユニークな提案をしてきた。観光ポイントの名称などでも、単純に英語に置き換えることはせず、その特徴などを伝えられるような英文にした。最終的にボツになったものの方が多いが、それらのアイデアはとても新鮮で、その後の仕事に活かされていった。
✍ 能登にワタシの名前があるよ…
ある時、打ち合わせが終わって、制作途中のマップを見ていた彼女が驚いたような顔をしてこっちを見た。そしてすぐに、嬉しそうに笑った。
指差していたのは、珠洲市の真浦海岸───── 〝Maura Beach〟と手書きで記しておいた。
彼女のファーストネームは〝モーラMaura〟だ………
ぜひ行ってみたいと言っていたが、実際に行ったかどうかは知らない。しかし、彼女のことだから滞在中に得意のヒッチハイクで出かけて行った可能性は高い。通訳の方が、危ないからやめておくようにとしきりに言っていたが、彼女がしっかり首を横に振っていたのを覚えている。
彼女にはその後も仕事を依頼したが、ある仕事で事件が起きた。彼女に依頼した英訳文の上に赤インクで二重線が引かれ、さらに書き換えられてあったのだ。しばらく見つめた後で、彼女は悲しい顔をした。こんな古い表現はもう誰も使わないと言う。そして、自分に求めたのは生きた英語の表現ではなかったのか……と顔を紅潮させ、こんなことをされるなら、もうやめたいと言い出す。目を潤ませたその表情から、自分が残していくものを有意義なものにしたいと言っていた彼女の悔しさが感じ取れた。
数日後、彼女の言い分が通りほっとする。イギリスに留学経験があるという、いかにもエリート候補といった若い職員はそれっきりその仕事に顔を出さなくなった。このような話は数多くあり、デザイナーがカッコつけのために英語表記を加えたものなども世の中に出回っていた。
彼女のような資質を備えた外国人たちが、写真や現地まで出向いて検証し、歴史や背景などを理解しながら英訳を実践してくれたおかげで、こちらの初期の試みも具体的で先進的な意味合いを深めたのはまちがいない。
ひたすら慌ただしく、不完全な部分も多く残ったが、スリル感いっぱいの充実した仕事だった。そして、このモデル事業の中で試行したアイデアは、自分の中でその後の仕事にも活かされていく。
能登では風景や人はもちろん、出先での昼食や休憩スポットなどもインプットされていき、どこへでも行けるスタンスが身に付いていた。地元の人たちでさえ知らないようなニッチなポイントを見つけるのも楽しみになった。そして、その後も多くの事業に関わらせていただき、能登半島についてはだいたいのことが分かってくる。それがまたアイデアを生み、その後のエリアやジャンルの広がりにつながった。
そういう意味で、能登は私にとって重要なスタート地点であったと言える。リュックを肩にかけ、いつも日焼けした顔でやって来るヤツ───。何年も過ぎてから、そう言って思い出してくれる人もいた。
3 17年前の震災を経て
✍ 總持寺祖院の爪痕

あっ、傾いている!
二〇〇七年三月二十五日の地震。数日後に、輪島~門前へと向かった。新年度を前にして、ある文化施設の仕事に取り掛かろうとしていた時だ。
かつての曹洞宗大本山・總持寺の歴史や、地元との結び付きを紹介する施設の展示計画の仕事だ。施設名は、櫛比の庄禅の里交流館。櫛比くしひ──は、当地の古い呼称だ。
旧役場から總持寺前の立町・横町と呼ばれる道沿いを歩いた。崩れ落ちた寺院、傾いた古い店などはもちろん、仮設トイレに躊躇する女性の姿など、震災被害というものを初めて実感した時だ。
仕事開始は数ヶ月遅れ、その間に、傷だらけの祖院の中を案内していただいた。山門を過ぎてすぐ、右手奥にある勅使門の大きな扉が傾いているのを目にした。本山移転のきっかけとなった明治三十一年(一八九八)四月の大火災の際、門前の住民たちが決死の覚悟で運び出し、焼失から守り抜いたという大きな扉だ。 その話は自分の中で重く残り、地震以前に確認していた。展示ストーリーのシナリオにもしっかり書き込んでいて、門前の人たちと總持寺との関係を物語る、重要なエピソードのひとつに位置づけていた。
石垣や灯篭が崩れ、太祖堂の床には亀裂。廊下は傾いていた。後日、僧堂が解体されたが、その現場に係の方と一緒に居合わせた。重機の爪が屋根に掛かったと同時に、前にいた僧侶の背中から読経の声が聞こえた。思わず手を合わせたが、復興への道のりの長さはもちろん、これからの仕事の重大さを感じた瞬間だった。

崩れ落ちていく屋根
✍ 疲れていたはずの人たち
仕事は行政担当者や有識者、そして地元の人たちなどで構成されるミーティングを運用しながら進めた。こちらからの展示ストーリー案を説明し承認を得ていくパターンだったが、思うようには進まなかった。地元関係者の多くは被災者であり、はっきり言って、むずかしい歴史の話などに耳を傾けている余裕などなかっただろう。資料調査から進めていく上で監修者の存在も曖昧だった。たまにあることで、覚悟はしていたが、テーマは七〇〇年の歴史を誇る能登半島の宝だ。私たちの提案だけでそのまま進めていくわけにはいかない。その後、教育委員会にも直接説明に行き、監修者を正式に置いてもらうことなど何とか善処していただいたが、不完全燃焼が続いた。被災地のど真ん中ということもあって遠慮もある。企画の先には、復興と絡めた周辺地域との連携を模索するストーリーなども用意していたが、そこまではいけなかった。
焦りの表情がはっきり見えていたのだろうか、旧役場のスタッフで、いつも明るく元気いっぱいだったベテラン女性陣たちが、こちらの思いを察してくれていた。
長いミーティングが終わって担当部署に戻ると、インスタントやけど……と言いながらコーヒーを出してくれる人たちがいた。もう気楽に話せるようになってはいたが、いつも明るく振る舞ってくれるその人たちの存在は大きかった。コーヒーを啜りながら過ごした雑談の時間が好きだった。後になって思ったのは、本当はあの人たちがいちばん疲れていたはずだったということだ。
終わってみれば、厳しくも濃い仕事だったと思う。作業をとおして、總持寺という古刹の周辺だけでなく、奥能登全体の文化──輪島塗や北前船から庶民の生活のことなど──との繋がりなど、能登半島の奥深いところに潜んでいるものをさらに感じるようになる。
通行許可証をいただいての、かつて修行の場であったという滝の撮影。托鉢への同行。修行僧の一日の密着取材。蚊との格闘であった非公開座像の撮影。そして、總持寺ゆかりの名僧《峨山》が生まれた、能登ではないある町の山深い集落への探検(撮影)など──記憶は無数に蘇る。
✍ 本山が奥能登にあったということ
總持寺の偉大さを知っていくと、本山が移転したことによる奥能登の損失の大きさに気がつく。横浜市鶴見区の現本山にも行ったが、日本海に突き出た能登半島のなんでもない村に開かれ、七〇〇年続いてきたという事実の方が重く、そして、どう考えてもドラマチックだった。眼前にかつての大伽藍が広がる光景を想像してみれば、そのことはすぐに理解できるだろう。そのために、禅の里交流館の一階には苦心作のジオラマが置かれている──手前みそだが。
ところで、大火があった明治三十一年(一八九八)とは、東京・新橋から米原を経由して金沢、そして能登の七尾までが鉄道で結ばれた年でもある。大火も鉄道開業も、その年の四月の出来事だった。奥能登にとっては、半島の利点が生かされてきた海運から、陸運へと輸送の主流が変わっていく辛い分岐点でもあったわけだ。大火災に見舞われた總持寺が、そうした時代の流れにも吞み込まれていったことを強く感じた。

最後にセッティングした大伽藍のジオラマ
✍ 嬉しい発見
そんな中、嬉しい出来事があった。それは、大本山まで一里と刻まれた古い小さな標柱を見つけたことだ。何かですでに読んでいたが、地元の郷土史研究家で『能登總持寺物語』などの著者であるT先生にお会いしたことがきっかけだった。ずっと頭から離れず、ある日教えてもらった場所をめざして出かけてみた。
一里、つまり約四キロだから大した距離ではない。ところが、見つけられなかった。そんなはずはないと、後日クルマのメーターを見ながら再チャレンジ。そして、ついに見つけた。何度も通っていた道端の小さな畑の中に、ぽつんとその標柱は立っていた。
実は今回の地震の後も、その標柱が無事であることを自分の目で確認している。地震を経て、今までよりもさらに大切な存在になったような気がしてならない。

「大本山壱里」の道標(2024春)
そして、祖院が重要文化財に指定されるというニュースが流れてきた─────。
✍ 角海家復原とその周辺のこと

この道を歩いて行くのが好きだった(復原開館前日)
總持寺関連が終了した後、間をおいて、同じ旧門前町黒島にある北前船船主・角海家の復原事業にも関わらせていただくことになった。今回の地震ほどではないにしろ、その時の角海家も大きな傷を負っていた。しかし、復原工事にあたった関係者の熱意と努力はすさまじく、建物が見事に蘇っていく姿に感動を覚える。
いよいよ自分たちの仕事が始まるという時、長く角海家を調査されてきた某大学教授から、あとはあなた方に命を吹き込んでいただくだけですと言われた。この種の仕事に関わる者にとって、それはシンプルだが重い言葉だ。地元の人たちの期待も伝わってくる。
美術館で保管されている美術品などを除き、航海道具や屋敷内の家財道具の多くが、地震の後、町内の内陸部にある旧の小学校や保育所に保管されていた。それらの確認に行く際、今更のように感じたのは閉じられた教育施設の多さだった。能登と関わるようになった頃から感じてきた「過疎」の流れを、こんな時にこんな場所で再認識させられるとは思ってもみなかった。そして、若くして亡くなられた地元のある方と、過疎について話し込んでいた昔のことを思い出した。青臭さ満載の私の提案をいつも静かに頷きながら聞いてくれる人だった。過疎対策については、今現実に行われていることも、その頃は安易に言葉にしない方がいいとよく諭された記憶がある。
廊下の〝静かに!〟と書かれた貼り紙、図書室の本の返却日を知らせる卓上札、音楽室の作曲家たちの肖像画など。子供たちはいないが、学校はまだ生きているように思えた。
頼りになるスタッフたちのガンバリによって、仕事は無事終った。地震から四年後の二〇一一年夏のことだ。今ほどではないだろうが、それでもただひたすら暑い夏だった。
黒島周辺もよく散策した。かつて天領であった地区内はそれなりに把握していたつもりだ。目の前にあった神社への階段は何度も上り、黒瓦と海を眺めた。公民館にも何度か行ったが、緑陰の下を歩く、ゆったりとした坂道が好きだった。更地になった場所もあったが、住人のいない立派な屋敷も多く残っていた。北前船船主などの屋敷だ。そんな中に古い床屋さんの店があり、その前ではいつも足が止まった。見るたびに寅さんが出て来そうだと思った。そして考えていたのは、何かに使えそうだなあ……ということ。
✍ 失われていく記憶を残す
完成式典が相変わらずの暑さの中で行われていた。会場の端に立って、数週間前のことを思い出している。
お世話になっていた当時の区長さんにお願いし、地元の高齢の男女一〇名あまりの方に集まっていただいた。皆さんの平均年齢は八〇歳を軽く超えていたはずだ。目的は皆さんに少年少女時代の思い出から、地区の儀式や祭礼のことなどを語ってもらうこと───。
二台のカメラを入れ、途中からナビゲート役を務めた。収録した場所は解体された屋敷跡に建てられた小さな集会所。畳の部屋に半円形に座ってもらい、およそ三時間。緊張が解けてくると、なんでもない日常のようすが、その人たちによって明るく楽しく語られていく。貴重で楽しい時間だった。
───兄弟で裏山へ薪拾いに行かされたという話。弁当にはご飯の上に梅干し。そして、家で作った小糠(こんか)イワシ一本を持たされる。昼になって、それを焚火に炙って食べるのが楽しみだったという。
昭和初期に起きた海難事故。その時、中学のグラウンドで野球をしていたという方は、七〇年ほど前の自分自身をしっかりと覚えていた。家族が巻き込まれているかもしれないと先生に言われ、学校から一目散に海岸へと向かったことを臨場感たっぷりに話してくれる。その語り口がはっきりと耳に残っていた。
その現場は、今回の地震で隆起した、まさにあの黒島の岩場。前回の地震でもいくらか隆起していた。収録が終わった後、映像に挿入する写真を撮りに防波堤の先まで行き、さらにその先の岩場に立つ小さな遭難碑を確認し撮影した。そして、振り返って見た夏空とその下の瓦屋根。風が強くなり足元がふらつく中、その美しさにしばらく目を奪われていた。
式典会場に来ていたその人たちの顔を見ながら、収録が遠い昔のことだったように感じていたのは、あの時の童心に戻ったような表情を思い出していたからだろう。
映像は自分も立ち合って短い期間に編集しⅮⅤⅮに収めた。当初は角海家の居間に置かれていた。角海家も今、黒島の美しい町並みとともに厳しい状況にある。震災後初めて訪れ、崩れ落ちた建物の先に座敷の照明器具や古いガラス戸が見えた時には、地元の方から送られていた、心が折れます…というメッセージがあらためて浮かんできた。

沖が見える居間…冬には炬燵が置かれた

多くの人たちの顔が浮かんだとき…(※2024年春)
四季それぞれ角海家には何度も立ち寄らせていただいた。出窓から海を眺められる部屋で、ただボーっと過ごした時間や、居間のこたつで地元の人たちと話し込んでいた時間が懐かしい。黒島の日常が角海家の中で語られていた。すべてにおいて復活は並大抵のことではない。しかし、あの時も力強く蘇ったことを忘れない。
────二〇〇七年の震災発生後、その後の復興の動きとともに大きな事業に関わらせていただいたことは、再び能登への思いを大きくさせた。
大袈裟だが、それは能登への恩返しみたいなものに似ていて、漠然と、もっと能登の素の部分を感じてみたいとも思うようになった。そして現場からは離れていったが、定期的に能登に出向くことだけは続けていく。
4 山里歩きのはじまり

『山村を歩く』岡田喜秋著《1976年》 後に文庫を買い傍に置くようになった
時間はごく当たり前のように流れ、仕事上《会社》での責任も想定を超え増大していく。気が付くと抜け道はなくなっていた。あり余った私的エネルギーも注入先を失っていく。どこにでもある、ごく普通の話なのだが。
そして、少しでも時間がとれると、近場のなんでもない山域に、とりあえず‥‥‥という感覚で出かけるようになる。休日、自由な時間が半日ほどもあれば、ここぞとばかりにデイパックにカメラを詰めて出かけた。その時間の使い道だけは緩やかに決めていた。
✍ 歩く旅
そんな自分を一冊の本がサポートしてくれた。かつて月刊誌『旅』の編集長だった岡田喜秋の著書だ。東京に生まれ、山への思いから旧制松本高等学校へと進み、その後東北大学を卒業。山への憧れと、戦争へと向かう時代との葛藤を綴った青春時代の短編エッセイ「常念岳の黙示」などから影響を受けた。そしてさらに、ヒントと檄とを一束にして与えてくれた著書『山村を歩く』に書かれた〝歩く旅〟というスタイルが気になっていく。宮本常一も同じスタイルだったが、研究者的匂いが強かったせいか、読みものとしては深く親しめなかった。その点、岡田喜秋のものは紀行エッセイそのものであり、自分の山岳系志向も重なって素直に好きになった。
思い返すと、大学を卒業した春、奈良の柳生街道を歩いていた。春日大社の裏から「滝坂の道」の石畳を登り、すれ違う人もないまま、柳生の里に着いたのは夕暮れ時。空気も冷たくなっていた。里の中を歩いた後、奈良市街へ戻るためのバスを確認すると、一時間ほど待たなければならない。バス停の前にあった酒屋に入ると、女将さん…だと思うが、店の中で待っていていいよと言ってくれた。しかも日本酒のワンカップ付きで。
その年の夏には、就職したばかりの会社を、何かの拍子で突然辞め、その数週間後、同じ奈良の山の辺の道を二日がかりで歩いている。今とちがって通しで歩いている人は少なく、予約しておいた仕出屋旅館の宿帳には三ヶ月前から記載がなかった。わずかな酒で酔っぱらい、立ち上がろうとして踏みつけていた浴衣を上下に分裂させたり、床の間にあった三味線の弦を切ってしまったりした。しかし、その分は乾き切っていた浴室を自分で掃除し、お湯はりもやったということで相殺させていただいた……つもりだ。最後の日の昼食で、三輪素麺の味に感動したが、今から思えば〝素麺開眼の旅〟でもあった。
とにかく若き日に、すでに歩く旅らしきことを体験していたということで、もともと資質があったのはまちがいない──と勝手に思うことにしていた。

初めて山里歩きの楽しさを知った某所
✍ 山里をただ歩くということ………
自分なりの思いを持った山里ソロウォークがまず頭の中で動き始めた。振り返れば、まだ十五年ほど前のことでしかない。自分でもはっきりしていないが、本格的な山行や山域での活動から離れて長い時間が過ぎ、とにかく自分らしいスタイルを見つけたかったのだろう。『山村を歩く』から得たヒントは、そういう意味で大きかった。
ここでは明確な目的など持たなかった。逆に言えば、持つほどの目的もなかったということだ。
稲刈りもほぼ終わりに近づき、秋の気配が色濃くなり始めた頃。ずっと燻っていたものを振り払うかのようにして、いやそれほど大袈裟ではなく、前夜突然思い立った隣県西部の山間地へと出かけていた───。
ランチの食材を買い忘れ、途中で遠いコンビニまで引き返すという間抜けなミスもあったが、とにかくウキウキしていた。県境を越え、クルマで一気に奥部まで入ると、幹線道路沿いにあった小さな公民館の前から歩き始める。数年前に一度来ていて、なんとなく周辺の雰囲気は把握していたつもりだった。山中の大きな道路を三〇〇メートルほど歩き、そこから民家の脇の道を登って、ただ高みをめざす。時間が許すかぎり歩く。
そばの花が咲く緩やかな斜面に出たり、人の営みも感じさせる深い森を歩いたりしながら、アップダウンを繰り返していく。いつの間にか少しずつ標高は上がっていた。



一旦、高台の人里に繋がる道路に出ると、小さな棚田が狭い谷に向けて続いているのが見えた。その間を狭い道が縫うようにして下へと延びている。そこへとまた下ることにした。軽トラくらいは通れる道だが、ほとんどがとにかく簡易ながらも舗装されていて驚く。
真上から差す光に、ようやく陽が差し込み始めたらしい場所まで下りたことを感じた。小さな沢があり、害獣捕獲の檻が置かれた暗い谷だった。泥濘には無数のイノシシの足あと。奥に入り込むのはやめにして、行き着いたところからまた上へと登り返す。
陽が差す時間はわずかだが、途中の崖縁に白い花がひっそりと咲いていた。こんなところで咲いていても誰も見てくれないのにと思いながら、立ち止り息を整える。
それからまた斜面を登った。そして、棚田の端にたどり着くと開けた周囲に目をやった。少し上には家が数軒あり、人影も見える。足早に登り、その人影に近づいた。そして、後方から声をかける。
こちらの声に首をすくめたおかあさんがそのままゆっくりと振り返った。突然裏の畑に現れた〝ニンゲン〟の姿に驚き、表情が固まっている──という状況だ。すぐに謝った。
──どっから来たがけ? やさしくそう問われ、ここを登って来ましたと後方を指差す。おかあさんは、そんな人は初めてだと言って表情を緩め、熊に出遭わなくてよかったと腰に手を当てながら言った。熊出没の情報がその頃近くであったらしい。そう言えば、木立の隙間を利用した小さな畑の木に、雨除けを施された古いラジオが取り付けられてあったことを思い出す。

日が差す時間はわずかしかないのに

娯楽と安全のための必需品
✍ 豊かな日常の予感
家の庭や裏のなだらかな斜面につくられた畑には、勢いよく水が湧き、多くの野菜が植えられてあった。そして何よりも、谷を経ての眺めが素晴らしい。その時は雲に隠れていたが、毛勝・剣・立山・薬師と繋がる北アルプス北部の稜線も視界にあったはずだ。
短い時間、おかあさんと話した。なぜこんなところに来るのかという質問を受けるのは、この時から始まった気がする。首から下げたカメラを持ち上げながら、なんとなくこういう場所が好きなんですと答えるようになったのも、この時からかもしれない。おかあさんのやさしい話し方が心地よかった。さっき見た白い花たちは、こういう人たちのために咲いているのだろうと思う。
この上には人家はないが、道は続いているらしい。それではと、そのまま車道に出て上へと向かうことにした。
つづら折りになった上下の道の間に細長い畑が見下ろされ、古びた小屋の前に放置された農具、木製の車輪などが並ぶ風景を楽しむ。数日後に、チベット帰りの友人がその時の写真を見て、どこか懐かしいと言ってくれた風景だ。
あちこちから湧き水が流れ落ち、見たこともないグロテスクな色調のヘビが水と戯れているのを見た。ヘビの生態など知る由もないが、あれを戯れていると言わないで何て言うのか。とにかくヘビを横目にその場を立ち去る。

裏の畑からにしては凄すぎる眺め
✍ 傾倒していく予感
よく知る近場に、今の自分を満たしてくれそうな〝歩く場所〟があることを再認識していた。さらに楽しさと少々の厳しさも合わせ歩けそうな期待も持たせる。自分の歩く場所には歴史上の出来事や絶景などの類のものは求めず、むしろ何でもない日常の空気感の方を優先しようなどと、適当な軸らしきものも見えてきた
短期間に周辺のさまざまな山里へと足を運ぶようになった。感じたのは不思議な充足感。歩くことそのものが楽しかった。これまで数多く見てきた、奥深いスケール感も備えた山里には及ぶはずはない。白山麓や立山山麓、飛騨や信州、さらに南会津や東北など、そこで見てきた山里風景には畏敬の念すら感じてきた。しかし、より身近にあった小さな山里には、それらとは異なる何かがあった。
冬が近くなったある日の夕暮れ時、この先は県境という川沿いの集落で、落ち葉を集める住民の方と出会った。竹箒を持つ立ち姿が美しく見える老人だった。行ける所までと歩いてみたが県境手前であきらめ、下の施設に置いたクルマまで戻る途中であると告げた。案の定驚かれた。
上部に向けて歩いていた時、後方からミニパトカーがやって来て、若い警察官が地図のコピーをくれた。現在地を示し、くれぐれも気を付けてくださいと念を押す。上りでこの集落を通り過ぎる時、道沿いに腰を下ろしていたおばあさんと少し話をした。そのおばあさんから、妙なオトコが上の方へと歩いて行ったと聞いたのだろう。警察官としては、交番に戻って地図のコピーを持って追いかけて来るしかなかったにちがいない。申し訳ないことをしてしまった。帰り道、おばあさんの姿はなかったが、心配してくれたのかなと思うと心がポカポカとしてきた。
──ここもそのうち誰もいなくなる。落ち葉を集める住民の方が言う。好きな道です……と返すと、自分たちも大切にしていきたいと思っていると答えた。
別れ際、春になったらまた歩きに来てくださいと言われた。そのようなことを言われたのは初めてだった。道を下りながら、不思議な思いに包まれていく。そして、どこか懐かしい場所を頭に思い浮かべていた。
能登半島の、静かな山里だ───────
5 消えていくものからの伝言

地図を広げるのは楽しい
✍ 能登の山里には何もない…?
能登の山里を歩く──そのことを具体的に考えるようになった。以前にクルマで通り、少しだけ歩いていたところなどを地図で確認する時間が増えた。地図は珠洲市や輪島市、さらに能登町などで購入したオフィシャルなものを使った。折りたたまれた地図を広げ、俯瞰するように見る時の感覚が好きだった。いくつかの場所では周辺を散策以上のレベルで歩いていたこともあり、その延長線上に想像をふくらませていく。それが自分の考える能登の山里の歩き方なのかもしれない……、そんなことを考えながら、見終わった地図をたたんでいた。
はっきりとした繋がりは確認できないが、記憶の中にたくさんの地名が出てくる。地図と写真──デジタル前のアナログはほとんど手元にない──とを見比べていると、さまざまなシーンが思い浮かんできた────

なぜか、江戸川乱歩の世界……時間が止まっている
✍ 坂の下の家
一枚の写真が、いきなり強烈な記憶を甦らせた。走り書きのメモを繋いでみる。
珠洲からの帰り道。午後の遅い時間だったが、遠まわりを覚悟して山間の道を選んでいた。いつ頃からか、急ぎでない時や特に遅い時間でないかぎり、そんなルートにしていたと思う。
すれ違うクルマもなくなった狭い道で、右手に急な角度で下っていく、さらに狭い脇道が目に入った。木立に囲まれた暗い坂道の先に鈍い光を放つ瓦屋根が──。少し進んだ先でなんとかクルマを置き、速足で坂道へと向かう。
しかし、坂道の途中で下に見えている家に生活の匂いがしないことを感じ取る。それもかなり前から──。道には雑草が下から湧き上がるように伸びてきていた。脇に積み上がった枯枝もすでに乾き切っている。
空気が急に冷たくなった。周辺を覆う静寂も冷たく固まっているように感じる。
頭の中で言葉が蠢く──。ここはもう時間が止まっている。時間はすでに存在していない。時間を必要とするものがすでにないのだ。
このまま進めば、あの家のように、自分もこの場所に取り残されてしまう。足はすでに止まっていた。
自分が今ここにいる理由を簡潔に述べよ‥‥‥。
よくあることだが、ここでも、もうひとりの自分がいつもの質問を投げかけてきた。理由などない、そんなことはどうでもいいと、本当の自分がもうひとりの自分を突き放そうとする。どっちが本当の自分なのか───?
すぐに坂道を上り返した。そして、上り切ったところで振り返り、道が闇の中へ消えていくのを見た。消えていく道が、何かを伝えようとしている。
そう見えたが、ここに居続けることはできなかった。この記憶はずっと残っている。
✍ ハッとさせられる風景
漠然と断片的な記憶を追っていても始まらない。
かつて門前へ行くのに、旧富来町の谷神やちかみ─から国道二四九号線を外れ、山の中を通って門前の剱地つるぎじ─に出るルートを利用していた。その時に見ていた光景を頭に浮かべ、以前に書いていた雑文も読み返してみる。
山間地を貫く大規模農道から、最後は門前の海に流れ込む仁岸川に沿いながら、山里風景の中を緩やかに下る。道沿いに小さな神社や寺などがある風景も気に入っていた。剱地で海沿いの二四九号線に乗るが、夏であれば、緑一色の山里風景の先に、陽を浴びた日本海が見えてくるという奥能登らしい眺めとも出会えた。
ちなみに帰り道は、富来から中島の鉈打なたうち─方面へと向かい、そこから現在の、のと里山海道を利用していたこともよくある。その辺りの空気感も気に入っていて、郷土史研究家のある先生に話したことがあった。仕事の打ち合わせの合間だったと思う。
先生は奥能登の地名をいくつも上げ、それらを繋ぐ山里の風景も奥能登を代表するものだという意味のことを言われた。山里風景も……と言われたのは、やはり能登は海の風景がメインになるという認識からだろうと理解した。 そして、先生はこんなことも言われた。奥能登の山里風景には、ほっとするというよりも、ハッとするといったものとの出会いを感じる……と。その表現はずっと頭に残った。《能登はやさしや土までも》という誰もが知るフレーズがあるが、先生の話を聞いた後、その意味について考えていた。〝土〟と〝山里〟が繋がっていた─────。

家があるから道がある……
✍ いしるを届けに行く家
その道ではこんなことがあった。
山道へと入り、もう人家などほとんどなくなったあたりに、もう何年も前から空き家だと思って眺めていた家があった。ある夏の日のこと、その家の反対側の斜面に小さな光が見えてクルマを止めた。道路を中心にして右側に家、左側に小さな光がある。
時間はまだ早かったと思うが、山間ではすでに夕暮れの気配が漂っている。光るものがキリコらしいと分かると、旧盆のはじまりの日であることにも気が付く。
クルマを降りて、家の前から繋がっている小さな道があるはずだと目を凝らした。しかし、わからない。黒に近くなった緑の一面に、道は溶け込んでしまっていたのだろう。
すぐに、あることが頭に浮かんだ。
その前年の夏、いしる(魚醤)づくりの取材をしていた。その時、昔は出来立てのいしるを樽に入れて背負い、山を越えて売りに行ったという話を聞いた。それは主に女性の仕事で、夕方に出て、翌朝届け先に着くのだと言われた。山の中に一軒だけある家などもあって、今から思えば大変な重労働だったという。
今見えている家はまだ近い方だが、さらに山深いところにこういった家々があるのだろう。一軒の家につながる道の存在が不思議に思えた。話してくれた方は当時七〇歳半ば。亡くなったおばあさんが、まだ若かった頃の話だと言っていた。

海が見える山里の道に能登を感じる
✍ 山人と海人の交流
ところで、宮本常一の『山に生きる人びと』には、能登における内陸の人たちと海沿いの人たちとの交流の話が書かれてあった。現在の能登町鶴町の話だ。
能登半島の今は能都町になっている鶴町という山中の村───。鶴町はこう紹介されていた。位置的には内浦側なのだが、鶴町の人たちは、外浦側の海岸──富来・門前・輪島・珠洲──に多く見られた塩づくりに欠かせない薪を、人馬で運んでいたという。半島の北側と南側とでは人々の交流も生まれ、当然のように婚姻などもあったらしい。鶴町はまた舟を作るために必要な木材が豊富で、近場の海沿いの村へ大量に下ろしてもいたという。半島の北側から南側へと向かう道は「塩木道」と呼ばれ、半島の山間の集落を通っていた。
旧柳田村の中心部で、かつて家畜の市が開かれ賑やかだったという話を地元の人から聞いた。市で得た金を懐にした男たちの、宴の場であったという建物などもまだ残っていた。中を見せていただいたが、幅広の階段を上った二階には、古いガラス板の入った窓を透して町野川が見下ろせる座敷があった。
ちなみに、宮本常一が訪れる前は神野村鶴町。一九五五年、宇出津町などとの合併によって〝能都町〟が誕生しているから、宮本常一はその後に訪れたのだろう。
冒頭に宮本常一が珠洲南山を訪れたのを七〇年ほど前と書いたが、鶴町と同時期だろうという推測からだ。
────ついでに書くと、鶴町一帯は旧能都町時代からよく通っていた。宇出津への近道であると地元の人に教えてもらった。幹線道路を途中から外れ、緩やかに下り、丘陵地のような穏やかな里に出て、杉木立に囲まれた鶴町神社に立ち寄ったりしながらクルマを走らせる。そして、宇出津に出る最後の急坂を一気に海沿いへと下るのだ。帰りには鶴町まで上ると、往きとルートを替え小さく山越えなどもした。途中にはゆるやかで、のどかな里の風景が広がり、かつて林業が盛んであったことを思わせる木立の中に道が延びていた。
山越えを終える辺りに残されていた木造校舎が好きだったが、何年か前に解体され、今は主を失った高台だけがぼんやりと残る。淋しいなどと言ってはいられない現実だ。

美しいからと言って、そのまま残されていくとはかぎらない
✍ 道の写真
記憶をたどっていくうち、能登の山里を歩くことを具体的に想像するようになった。頭の中に積み上げられたエントリーエリアはそれなりの数になり、そして同時に、あることに気が付く。
それは溜めておいた写真の中に占める、道を撮ったものの多さだった。それらの中には、すでに使われなくなっていると思われた道もある。その延長線上にある小さな橋なども同じだ。家と家とを結んでいた道も、家に住む人がいなくなれば草に被われていく。飛ばされた砂や枯葉にも埋もれていく。田んぼや畑に行くために架けられていた小川の小さな橋も、その先へ行く人がいなくなればそのうち朽ちていくだけだ。
カタチだけ残った小さな道を無数に見てきたが、それらのほとんどは消えていく運命にあることをあらためて思い知らされる。当たり前だが、道と人とには深い結びつきがあることを考えるようになった。 ────そして、また時をおき、漠然とだが、ごく自然に能登半島の山里を歩こうと考えていた。
記憶をたどっていくうちに、能登の山里を歩くことは〝決定事項〟になっていく。頭の中に積み上げられたエントリーエリアはそれなりの数になった。そして、あることに気が付く。
それは保存されていた写真の中に占める、道を撮ったものの多さだった。それらの中には、すでに使われなくなっている道もある。その延長上にある小さな橋なども同じだ。

隠れていく道…… これも道なのだ

小さな橋が見えるが、橋までの道が見えない

基本的に晴れた日しか歩かない
6 能登の山里をただ歩くときがきた
✍ なん( 何)もないけど、歩く
春が訪れた能登半島の背骨にあたる道から、低い山並みに囲まれた静かな山里に下りて来ていた。すでに拘束されていた時間から身も心もフリーになり、足元には真新しいトレッキングシューズ。信頼できるショップスタッフの能書きによると、北米大陸の山脈縦走レースで優勝者が使用し、その機能性を実証したとか。山靴としては通算六足目。心の奥底でまだ山岳復帰を目論んでいた。
ずっと前のことのように感じるが、まだ一〇年ほどしか過ぎていない。このエリアは何度もクルマで通り過ぎていたところで、仕事帰りの短い時間にぶらぶら歩いたこともある。
集落の端にある小さな集会所を出発点とし、里の道へと下りた。しばらく歩いてから道を外れ、挨拶代わりに畑で作業しているおばあさんたちに声をかける。近くには満開をわずかに過ぎたような桜の木があった。
こんな なん(何)もないとこに なん(何)しに来たがいね
よくされる問いかけに、小さく笑い返す。何か話したはずだがあまり覚えていない。
三人が畝に沿い、しゃがみ込んで手を動かしているように見える。農作業用にしてはそれぞれカラフルな服装で春らしい。ただ話は途切れず、作業の方もあまりはかどっていないようすだ。こちらも相手にしてもらえそうな雰囲気ではないので、先へと急ぐことに。
青空が気持ちよく、どこからか流れ下りてくる小さな流れが耳にやさしい。時計を見ると一〇時前───。



✍ 歩くこと
自分にとって、それはもの思いに耽ったり、考えごとをしたりするということでもある。無理にそうしなくても、多くの場合自然にそうなってしまう。
もともと歩くことと思索したりすることは似ていると誰かも書いていたし、自分もそう実感してきた。特に自然の中では、歩くことでクリエイティブになったり、文学的になったり──。俄か評論家やコント作家にもなる。言葉遊びが好きだから、何の意味もないような創作を楽しんでいたりもする。しかし最も多いのは、日常のなんでもないことを考えている時間かもしれない。
金沢城下の三寺院群─卯辰山麓・寺町・小立野─の周辺を歩く道づくりの事業で、ルートガイドや寺社の由来などを紹介する仕事に関わった。取材で何度も歩き、書いた。その際に、ボランティアグループのベテラン女性ガイドから聞いた話が記憶に残る。コースめぐりを終え別れ際───、なんでもない道を、互いの家族の話をしながらただ歩いていた時間がとても楽しかったです。歩くっていいですね……と。まさにそれだ。ところで、寺院群の道にはそれぞれ名前が付いていて、今は金沢の奥深さを知る残された場所だと思う。最も好きなのは、小立野寺院群の「いし曳の道」だ。
山里歩きを始めた頃、よく思ったことがある。
今自分がこういうところを独りで歩いている。そのことを誰も知らない。家族にも話していない。本格的な山行なら、めざす山と小屋の名前、それに最低限の予定くらいは伝えておくが、山里歩きはほとんど伝えていない。通信機器のおかげで安心もある。しかし、山里歩きを繰り返すうち、山行の時のように無事に帰ることをまじめに考えたりするようになった。
高台に、ほぼ完全に近い廃屋がある。近づいてみると、それはそれなりの美しさを持ち、まるで自然の中で創作されたアートのように見えた。無数の廃屋を見てきたが、例えば美しい自然が絡むと、それは新たな生命を得たかのように変化する。かつてそこに人──家族──の暮らしがあったことを想像させるからだろうか。それらはいつの間にか消えていき、何ごともなかったかのようにして、土=自然に帰っていくのだ。
そんなことを想うことも何か意味があるような気持ちになってくる。空を見上げると、今日がいい日になるような予感がしてきた。


✍ 山里びととの対話
緩やかに広がる畑や水田を見ながら歩いて行くうちに、道がまた山の方に入り傾斜がきつくなってきた。
大きなカーブを曲がると、道端でカートに腰掛け、タオルで汗を拭うおじいさんがいた。上着をカートのハンドルにかけ、ランニングシャツだけになっている。
挨拶をし、どこから下りて来たんですかと聞くと、振り向きながら下を示す。背後の斜面の下にはビニールハウスと畑が広がっていた。斜面に急な道が付いている。下りて来たのではなく登って来たのだ。止まらない汗と、機嫌の悪そうな顔つきの理由が理解できた。
急な道ですねと言うと、毎日のことや……と、相変わらず素っ気ない。かなりの高齢と見えたが、年齢を聞くと困った顔をし、そのうち、分からん……と首を横に振った。
────山をはじめて数年たった頃、知り合いになった山岳カメラマンの方に連れられ、立山山麓に住むある人の家に立ち寄ったことがあった。庭に積まれた薪を見て、ひと冬にどれくらい薪は必要なのかという話題になる。しかし、その人は話の中に全く入って来なかった。黙々と薪を割り続けていた。
翌年、山ではもう冬の訪れを感じ始める頃、あと数日で閉めるという山小屋の食堂で、酔っぱらったその人の横に座った。私も岩魚の骨酒のおかげでかなり酔っている。
むずかしい話は勘弁な……。温くなったやかんの酒を湯飲み茶碗に注ごうとすると、うつろな目でそう言う。私のことは覚えていてくれた。むずかしい話などするつもりはない。超が付くほど無口なその人は苦手だった。そのうち窓に大粒の雪が貼りつきはじめた。明日の朝は積もるぞと、その人が言った。そうですねと答え、少しだけだが会話が成立した。とても嬉しかった。
その頃から、山と深く向き合う人たちから受ける〝自然さ〟という感覚を意識するようになっていた。それを持ち合わせた人たちから話を聞くのが楽しみのひとつだった。そして、自分が得たのは、その人たちはただシンプルに自然に順応している──という結論だ。自然に対する自然体──その流れに任せている。それが自然の中で生きる人たちの〝自然なカタチ〟なのだと思うようになった。
たとえば、北アルプス最深部に広がる湿地帯で山小屋の食事に出すクレソンを探している時、ふと我に返って腰を上げ、周辺の山と空を見上げる。すると、何だか不思議な感覚に陥る。今、ニンゲンに戻った──かのように感じ、さっきまでの自分は何だったのかと、ふと思う───。
電気もない山小屋で小屋番をしていた人から聞かされた話だ。しかし、小屋に戻って食事の支度をしながらラジオで山の気象情報を聞いていると、昨日タイガース勝ったんやろか……という声が聞こえてくる。そんな時、言葉を発すること自体が面倒臭くなっている自分に気が付くのだそうだ。
身体中に沁みついた〝自然さ〟とは、そういうものなのだろう。 今目の前にいるこのおじいさんも、ひょっとすると、そんな〝自然さ〟を持ち合わせているのかもしれない……。そう思い、あらためておじいさんの顔を見た。
✍ 使われなくなった道のこと
そんな道ならいっぱいある、そんな道だらけや……。
こちらからの問いかけに、おじいさんはそう答えた。少し登ったところに、右に分かれる道があるらしい。おまえさんの見たがっとるもんが、その先にあるわいや。
おじいさんはそう付け加え、また顔の汗を拭った。少し間をおいてから、じゃあ行ってみますと告げる。
歩いて行くがか? はい。
近ねえぞ‥‥‥。大丈夫です。
おじいさんが表情を変えずに横を向いた。その仕草が、好きにせえやという意味にも見えた。
教えてくれた脇道の入り口を確認すると一旦通り過ぎて、そのまま峠まで登る。クルマではたまに通る道だが、歩くと全く別な道になる。そして、道と周囲と自分とが、ぼんやりとだが一体化するのを感じ、ただ歩いている──ということに気付かされる。傾斜はそれなりにあったが、大した距離ではなかった。
下って、おじいさんが教えてくれた脇道に入ると、林の中の緩い登りが続く。林の中といっても落葉樹ばかりで、 陽ざしもあり明るい。落葉や土によって路面がところどころ隠れている。後方からエンジン音がし、体を端に寄せると、軽トラが一台追い越して行った。
しばらく登って行くと左右は美しい杉林になった。そう言えばと、海辺の漁師たちの舟は内陸部の杉で造られていたと宮本常一が書いていたことを思い出す。杉はこういう山から伐り出されたのだろうかなどと考える。伐られた丸太は狭い道を人が担いで下りるしかなく、担ぎ手にはかなりの体力と技術が求められたらしい。想像すればそのことは理解できた。

淡々と

黙々と
✍ 丸太を担いで笑っていた人
一枚のモノクロ写真が頭に浮かんできた。お世話になってきた山小屋の、初代の小屋が建てられた時のものだ。簡素な造りだった頃の荷揚げは人力──歩荷ぼっか──が普通だ。写真には太い丸太を一本担ぎ、裸足で山道を登っていたある人の青年時代の姿が写っている。
山小屋建設を決めた父親を手伝い、にこやかな表情で歩荷中だ。その人も今は八〇代半ば過ぎのはず。大学社会人と山岳部で馴らし、後に日本山岳会の会員になり、地元の山の歴史や自然についての著述も多くされている。山への厳しさとやさしさを併せ持ち、それらを裏付ける姿勢が文章に表れていた。山小屋のガイドづくりをしていた時、小屋の前を流れる沢を見ながら助言をもらったことがある。頑固おやじと呼ばれながら皆に愛されてきた人だ。
その山小屋もそろそろ七〇年を迎える頃だ。
道は少しずつ下っていく。いつの間にか湧き水が小さなせせらぎとなって道に寄り添っている。その流れを、冬の間の雪の重みで落ちた杉の葉が押し止めようとするが、水も負けてはいない。青空を映す小さな淵をつくり、その先端から木漏れ日を反射させながら流れ出ていく。下り道の木立が途切れる先は明るかった。



春の陽ざしをいっぱいに浴びた細長い里に下りていた。
下って来た道に沿って水田が延び、風もなく暖かい。道がカーブし木立に隠れていく辺りに一軒の家が見える。
ぶらぶらと周辺を歩き、水辺の適当な場所に腰を下ろした。少し早めのランチタイムだ。小さな流れの対岸には、きれいに咲き揃った桜の木と、複雑に枝を絡ませた裸木が対照的なポーズで立っている。

今日の折り返し地点
✍ ジャズ的人生
裸木がアバンギャルドに立ち尽くす
二〇年ほど前に亡くなった、ある人の俳句を思い出している。葉を落とした後、枝を複雑に絡ませている木を見ると、いつもその句が浮かんでくる。
その句を詠んだのは、酔生虫《すいせいちゅう》という人だ──もちろん俳号。広辞苑にもある『酔生夢死』という古い言葉をアレンジしたもので、意味は見たとおりだ──。
十六歳の冬、その人がカウンターに立つ金沢片町のジャズ喫茶に飛び込み、事前に調べてきたアルバムをリクエストした。しかし、その中の聴きたかった曲はなかなか流れてこない。勇気を出して確認すると、さっきかけたよ……。
リクエストしたアルバムはB面がかけられていて、聴きたかった曲はA面に入っていた。そんなことは知らない。FMのジャズ番組で聴いたが、古い録音のものでレコード店にはなかった。すると、いつも試聴ばかりしていた私に、店員のお姉さんがその店を教えてくれた。どんなレコードでもあるよ、飲みもの一杯で、何枚もレコード聴けるしね……と。
A面って、言ってくれたらよかったのに……。 そう言われた時、試されたと思った。A面をかけるのが普通ではないかとも思ったが、何も言わ(え)なかった。タートルネックの黒いセーターを着て、大人の雰囲気を出していったつもりだったが、丸刈り頭がよくなかったのかもしれない───。野球部だったのだ。
それからその人が亡くなるまでの三十数年、それなりに濃い付き合いをさせてもらった。ジャズはもちろんだが、見境なく広がっていく雑談の時間が楽しかった。当時から雑文書きを始め、雑誌を出したりしていった自分自身の私的エネルギーは、その人との関わり──周囲の愉快なヒトビトも含め──からどんどん増幅していったものだ。
しかし、 その人は私が二年半がかりで取り組んできた、ジャズイベントの開催を一ヶ月後に控えたある日の夕方、五十七歳という若さで逝ってしまう。最後に会ったのは亡くなる数日前。病室のベッドで小さな紙に何かを書いていた。聞くと、短い歌──念のため…短歌のこと──を作っとる……と答える。店の小さな黒板に、冷奴のことを「冷たい奴」と書いていた人だ。ほっとしながらも、やるせない気持ちになった。
その人の生き方、いや日々の過ごし方を、ジャズという音楽の即興性や多様性などと合わせ、〝ジャズ的〟と形容していた。亡くなった後になって、自分には絶対に欠かせない存在だったことを思い知る。
実は隣県の山里生まれだった。それも筋金入りの山里だ。幼い頃は電気もなく、自転車でやって来るアイスキャンデー屋も、商品が溶けてしまうからと下の村まで来て帰ったという。そして、真っすぐ先に聳える立山を歩く人たちの顔まではっきりと分かった。視力は四.〇ほどあったのではないかなあと、いつものボケに入る─────。
まだ元気だった頃、開店前の店で、それまでの人生について、いつになく真面目に話を聞いた。『近くでトーク』というセッションだった。その時の話はプライベート誌の記念すべき創刊号に掲載し、周囲から、よくぞここまで書いてくれたという賞賛メッセージ?をもらったりした。
もう少し生きていてくれたら、今の自分はどうなっていたか。今でもまだ、そんなことを考えさせる人だ。
✍ 踏みあと《トレイル》が消えている
ポカポカと背中が暖かかった。立ち上がり、リュックを担いで振り返った時だ。下ってきた道の脇から、角度を変えて山の中へと向かう踏みあとらしきものが目に入った。
近くまで行くと、奥へと延びているはずの踏みあとが、被いかぶさるようにして蔓延る枯枝や枯草たちの中に消えている。まるで彼らに呑み込まれたかの ようだ。そのまま足を踏み入れていくと、その彼らも雑木の中に吸い込まれていた。もう踏みあとは見えない。
あのおじいさんの顔が浮かんだ。
このことを言っていたのか………。

こんな道ならいっぱいある
────木立の中の道を登り返し、最初の集落に戻った。
山道を下ると、わずかに家屋が並ぶ狭い道に入り、横目で田畑を見下ろすようにして歩く。この道を歩くのは初めてではない。
小道は緩くカーブしながら延び、その小道をおばあさんが腰に手をまわし歩いていた。多くの人が懐かしい、日本的だ……と呟く風景だ。道には、美しいカタチをした柿の木が一本。前に来た時はひとつだけ実を残し立っていた。
道はそのまま続いていくが、山裾にこの里の神社がある。何年か前に初めて来た時、その凛々しさに気が引き締まった。
神社のさらに奥へと延びる道沿いには、家が一軒あるだけ。小さな境内から木立や鳥居をとおして振り返ると、木漏れ日が差し、山里全体に広がる静寂の源がこの神社にあるような、そんな気にさせられる。その静けさはもうパワーとしか言いようがないくらいだ。
能登の山里では数えきれないほどの神社を見てきた。そして神社の存在が、能登の山里の重要なエッセンスになっていると感じてきた。無機質なようにも感じられる空気感、静かな人たちと静かな神社の存在がそれを醸し出している。そして、説明のつかないバランスでその繋がりが保たれている。その繋がりは自然の永遠性に近いなどと考えてしまう自分に、今リアルな非日常感が降りてきていることを感じさせた。

静寂というチカラを感じる
ある神社で、集落のおばあさんから賽銭泥棒にまちがえられるから気を付けらいいと言われたことがあったが、それ以来、本殿の中を覗いたりすることはやめにしている。
────地震後に訪れた時、鳥居は倒れたままだった。近所の犬に吠えられ、家の人が出てきて、それから毎度のごとく立ち話が始まった。若い頃、金沢で働いていたというおじいさんは、今年は田んぼもできなかったからと、あまり元気がないような表情で話してくれた。しかし、話している最中に軽トラが奥の山から下りて来て、運転手が知り合いだと分かると急に元気になった。
キノコ採りの帰りだという地元出身の人らしく、気掛かりだったが、キノコは大丈夫だったと言って喜び合っていた。神社の静寂は一気に飛び去ったが、二人が演出してくれたなんでもない日常の空気感に気持ちが緩む。
そして──────。

ほぼカンペキな空気感
7 能登の山里をただ歩くときが…またきた
またよく晴れた日。
狭い窪地に一〇軒ほどの家が並ぶ小さな集落に来ていた。海沿いからの道を辿れば、牧場や小さなダム湖の近くを通り、標高の高さが実感できる場所だ。
直線距離で言えば、五キロほど離れたところにある公民館にクルマを置かせていただき、水田の中の道や家が散在する道──かつての主要道だろう──、さらに雑木林の中へと延びる道などにも足を踏み入れながら、ここまで歩いて来た。
集落に下って小さな神社に一礼。水田に沿って延びていた脇道を進むと、地元の方の姿を見つけた。道を聞くことができければと声をかけると、水田からわざわざ上がって来てくれる。そこから長い立ち話が始まった。もちろん道が話題になる。

小さな集落にかつての道が延びている

こういうシーンに遭遇することも
✍ 学校へつながる道………
もう半世紀以上前のことだという、小学生の頃の通学のようすから話してくれた。この辺りも奥能登の豪雪エリアだ。大雪の朝の集団登校は厳しかった。大人たちが雪を踏み固めながら前を行き、黒いマントに身を包んだ小学生たちがその後ろにつく。通常でも一時間近くを要する道のりだから、雪の日はその倍ほどの時間をかけて歩いたことだろう。
学校に着くと、一限目の授業はすでに始まっていた。雪をはたきマントを脱いで教室に入ると、ストーブのまわりの席が自分たちのために空けられていた。やさしい先生だったのだろうと、勝手に若い女性教師を想像した。
小高い山の斜面に沿って、まっすぐな道が見えた。狭いが以前の主要な道であり、今はほとんど使われていないと教えてくれる。今集落を抜けていく立派な道路はそれに代わるものらしい。
坂道の入り口にあった土蔵の前を通り、とりあえず峠の方に向かってその坂道を歩いてみた。春になっているとはいえ、そこにはまだ瑞々しさを感じさせる気配はなかった。路面も傍らに建つ空き家の壁板もすべてが渇き切っているように見え、冬枯れの空気感が漂っている。
子供たちは、どんな話をしながら歩いていたのだろう。吹雪の日などは話などする余裕もなく、ただ下を向き、前の人の踏みあとを見ながら歩いていただけだったかもしれない。自分にも覚えのある感覚が蘇ってくる。

渇いた空気と 一瞬の何もない感

これはいったい何か?
✍ 歴史の狭間に絡む
いろいろなことを思いながら足を進めて行く。すると、木立の隙間に古い石碑らしきものが見えてきた。
これが〝石神いしがみ〟かと、住民の方から聞いていた話を思い出す。言い伝えもはっきりしないまま、ただ大事にしておけと言われ守ってきたものらしい。
家も三〇代以上続いているらしく、すでに寺の建物は集落内にないが過去帳で分かるとのこと。実際はもっと古いのではないか……と勝手に思った。能登に限らず、さまざまな場所でそういう話はよく聞いた。落人伝説もありうるだろう。切り出してみたが笑われる。
✍ 人の繋がり
祖父の時代までは林業で食っていけた。しかし、今は山に生産性など求められない。ただ最低限の手入れだけは継続していく。すぐ前に小高い山並みが延びている。いつかその山の中の道も歩いてみたいと思った。
夜、明かりが灯るのは数軒のみ。時の流れのままに、そこに残る人たちの暮らしは続いていくが、ひとつの区切りは必ず訪れる。地震もその区切りになっていくだろう。
───自分の代で終わりやろね……。能登に限らず、ずっと以前からその言葉はよく耳にした。しかし、すべてが終わるはずはないと思ってもきた。大した根拠もなく。
さまざまな話を聞かせてもらった。地図には載っていない道が無数にあることに驚いていると、いつでも案内してくれそ うな心強い言葉も返ってくる。この辺りの道を使っていたのはここの人間だけだからと笑う。使われなくなった道を辿れば、この辺りの人たちすべてが繋がっていたことが分かるということか。その話を聞いているうちに、自分の中にあった小さな疑問が、わずかだが解かれていく。
人の繋がり。暮らしを続けるのはそれがあるから───。
アスファルトの上に、落ちていた石で周辺の簡単な地図を書いてくれた。それをカメラに収め、その方と別れた。
歩いていることが何かに繋がっていく───。そんな思いが何の根拠もなく湧いていた。

作ったばかりの注連縄だったから
✍ 地震後の再会
再びその集落に向かったのは、地震から半年近くが過ぎた頃だ。再会そのものは数年ぶりだったが、こちらのことははっきりと覚えていてくれた。
初めて来た時に石段で休憩させてもらった、小さな神社の鳥居が足元から折れていた。しかし、注連縄しめなわ──は両側の大木からしっかりと張り直されている。それが逆に凛々しく、誇らしくも見える。
家屋は修理してなんとか住んでいけるが、土蔵などはもう解体するしかないらしかった。
生まれたところがたまたまここだったというだけ──。何とかやっていくしかないと笑う。生まれ育った大事なふるさとだから、ここが好きだからというような言葉は相変わらず出てこないが、それが逆に頼もしくもある。ひたすら自然体なままの空気感。それに翻弄され、自分自身がもどかしくなるばかりだった。
✍ かつての日常を求めて
こういうところを、ただ歩くのが好きなんですよと、出会った人によく言う。
そして、〝こういうところ〟と言ってしまうことにいつも自分で違和感を持つ。
ポツンと何とかというテレビ番組があるが、スタジオで、ああだこうだと語り合っている連中の方が普通で、そこをボーっと歩いたりしているのは普通じゃない…… ときどきだが、そう思う。

日常だった風景が、非日常の風景に変わっていく
8 能登の素
✍ 能登での居場所
この文章を書き始めたのは、二〇二四年五月の終わり。一〇月も終わりに近づいているのにまだ書き上げられないでいる……と言っているうちに、また一ヶ月あまりが過ぎた。少し前からは、これは永遠に書き上げられないかもしれない……と真面目に思い始めてもいる。
いろいろなこと──新たな情報や新たな想い──が交錯し続ける。そして疲れた。途中に挿入しようとした八〇〇〇字ほどの話もまとまらず、フォルダの中で眠ったまま。他の雑文書きにも全く手を付けていない。
今になって書くことの意味なども考えるようになった。自分の中で形づくられてきた「能登」が、一気にそのカタチを失っていったようにも感じている。自分と能登との関わりとは何だったのだろうか……。
ただ、二〇二四年一月も、フリーランスで能登の仕事の途中にいた。志賀町教育委員会が発行する教材マンガ『加能作次郎ものがたり』(作画・藤井裕子氏)の制作で、企画から一年半をかけて取り組んできた自分の役割──原作・シナリオ・編集──も仕上げに入っていた。
主人公は、加能作次郎《一八八五~一九四一》という。旧西海村風戸《ふと=現志賀町西海風戸》で貧しい漁師の息子に生まれながら、東京に出て苦学の末に大学を卒業。作家、編集者として活躍した人物だ。地味な存在ながら、「生涯をとおしてふるさとを書き続けた作家」と評されている。二〇二一年の大学共通テストには、彼の作品『羽織と時計』が国語の問題に使われ話題になった。
作次郎は、自分にとってふるさととは、貧しさの中で支えてくれた父親そのものだったと書いている。その思いが、取材や執筆をとおして強く感じ取れるようになっていった。作品は三月に完成したが、震災を経て、物語を世に出す責任がさらに膨らんでいったと思う。
そして、その仕事を終え、ようやく能登奥部へと向かうことになる。
しかし───、野晒しになったままの爪痕を目にして思ったのは、もう能登には自分の居場所はないなあということ。
カメラを向ける気持ちにもならず、何人かの顔を見て、声を聞いてそのまま戻ることにした。カメラに収めたのは、お世話になってきた人から敢えて見て(撮って)おけと言われた、あの大火災の現場と、崩壊した自分の大切な場所の一部だけ。それ以外は状況を見たというだけだった。
ただ────、帰り道では不思議なほど気持ちが淡々としていた。自分の中に長い歳月を経て沁み込んでいたものは、簡単に抜けていかない。漠然と、そんなことを考えていた。
よそ者のいい加減な感覚だな……と、ほぼ自覚していながら、そう思うことで、自分が今ここにいる理由を見出そうとしていただけだったのかもしれない。
✍ 黙示
そんな思いを抱かせたのは、自分もまた能登半島が発している何かと繋がっていたという、独りよがりに近い自負のようなものがあったからだ。ただ歩いた道、目にしたもの、吸っていた空気、言葉を交わしてくれた人たちの表情や声。それらが、能登の素《す》のようなものを私に黙示してくれていたのだと。
───能登半島の山里に漂う風土は、能登にしかないおおらかな自然がもたらしたものであり、その中で人々が身に付けてきたのは、究極の〝自然体〟だった。
与えられるものは、恩恵であれ試練であれ、その自然体が受け容れる。強さも弱さも、たくましさも脆さも、さらには土にまで沁みわたったというやさしさまでも、すべてが自分たちの心根にあることを黙示されてきた。
余計なことは考えなくていい。目に見えていたものが一時的になくなったとしても、空気や水や風や、自分たちに沁み込んでいるものはなくならない──と。
だから、助け合いながらやっていくだけ。周囲にある何でもないものたちが、そのことを黙示していた。
✍ 朴訥
ある言葉が頭に浮かんでいた。
〝ブリの頭〟の話を読み直した後にも思い出した言葉だ。
朴訥ぼくとつ──。本棚の広辞苑第五版には『質朴で無口なこと。無骨で飾りけのないこと』とある。
能登はいつも当たり前のように〝素朴な〟と形容されてきた。今でもそれはほぼ変わっていない。しかし、山里の空気が十分に沁み込んだ者には、それは物足りなさを感じさせる表現だった。朴訥は、そんな時に出合った言葉でもある。
昔から ここで草むしっとるがや
草ァ、 毎年まいどし──忘れんと出てくっさけのォ
道路わきの、まわりをコスモスに囲まれた小さな畑で、正座をしながら草取りをするおばあさんがそんなことを言っていたのを思い出す。やさしい声で語りかけてくる、色白で細身のおばあさんだった。娘さんが病気になり、一年間畑を休んだが、また始めたのだと言っていた。
しかし、その翌々年には、畑におばあさんの姿はなかった。畑は一面雑草に蔽われていたが、その中からコスモスが伸び、美しい花を咲かせている。おばあさんの心根を見ているかのような気になり、しばらく立ち尽くした。
あのおばあさんも能登の山里から黙示を受けていたのだろう。ただひたすら朴訥に、自然体で生きてきた能登の人だったにちがいない。なぜか勇気のようなものをもらった気になった。
✍ 再び歩きはじめる

いつも、ちょっとだけ歩いてこようかな~から始まった
9 再び歩きだす
✍ 何もないから
なんもないとこ─────。能登の山里で出会った人たちから聞かされてきたその言葉。いつからか、それを耳にすることに心地よさを感じていたような気がする。しかし、被災地となった今は複雑だ。
そんな時、能登のある図書館スタッフの方から興味深い話を聞いた。地震の後、地元への愛着の深まりを感じさせる問い合わせが増えたという。
そして、その話をきっかけに、ある山里に出かけてみようという気持ちになった。そこにある小さな神社を起点にして、周辺を歩いてみようと思ったのだ。
道路沿いの空き地にクルマを置き、歩く。横は水田、その奥は低いが台地状になっている。木立は深そうで、神社はこの辺りにあるはずと目を凝らすが、すぐには見つけられない。時間がないので焦っていると、草刈り機を担いだ地元の人がいた。教えてくれた辺りを見てみると、低い台地の中間に きれいに並んだ杉の木立があり、その隙間から神社らしき気配が漂っている。もう一人来てくれて、あの神社の上には小さな道があること、そして、子供の頃はその道で遊んでいたことなど、興味深い話を聞かせてくれた。今は電力会社の管理用にも使われているから、前よりはきれいになっているが、子供の頃はちょっと怖い道だったらしい。久々に聞く道の話に気持ちが少し高ぶってきた。
水田の間の道を歩き、坂を上って神社の前に出ると、山裾に美しい道のラインが延びている。境内はきれいに草刈りなどがされているが、ここでも鳥居はないままだった。
神社の上にある道の入口には、番号が書かれた電力会社の看板が立っていた。一気に登ってみると、神社の奥山らしい原始の森の匂いを感じる。そして、すぐに小さな神社の屋根が見下ろせるところまで登った。
さらに、大した時間も要さず尾根道に出ると、すぐに道のようすが変わった。木立が覆いかぶさるほどの狭い獣道になっていく。
───ところで、能登には上杉謙信の侵攻の際、焼き討ちにされたという寺社が数多くある。実はこの神社もそのひとつだった。震災後にある高齢女性が、幼い頃聞いたという上杉謙信にまつわる話が知りたいと、地元の図書館を訪れた。伝え聞いていたという、昔謙信が家の前の道を通っていったという話。
スタッフの方からそれを聞いて、焼き討ちされた地元の寺社を調べているうち、土地勘のある山里の、この神社のことを知った。この地域だけでも他に三ヶ所あることも分かった。もちろん、図書館を訪れた女性の話との関連は不明だし、強く興味が引かれたわけでもなかったが、自分にとって、再び歩くことへのきっかけとしては面白い話だった。
馬一頭がなんとか通れる幅。五〇〇年ほど前、上杉の軍が通ったとしても不思議ではない道だった。それに〝尾根上の道〟という懐かしい響き─────────。
半島の先へ行くときは尾根の道を行き、目的地に近いところで里に下るのが効率的。どこかでそんな話を耳にしていた。奥能登ではそれが実感でき、尾根を半島の背骨と呼ぶということも知った。
上杉軍が焼き討ちした寺社周辺の歩きは、その後二ヶ所で実行した。そのうちの一ヶ所では、崩れかけている神社の前で、復興に動きまわる地元の人と出会い長い立ち話をした。今の日常を語るその人の言葉から、失われた今までの日常と、形は変わってもいいという新しい日常への思いが、複雑に絡み合っているのを感じた。とにかく今を乗り切る。今の日常はすべて新しい日常のためだという意味の言葉が、印象深く心に残った。
そこは山里というイメージでありながら、一〇分も歩けば小さな漁港のある集落に下るという場所でもあった。途中の起伏のある砂地は畑になっている。何人かの人たちを畑で見かけたが、昼頃までいて、その後は〝カセツ〟に戻るらしい。まだしばらくは、そういう日常が続くとしか言いようがない。
ところで話はまったく飛ぶが、そんな頃、俳優の火野正平さんが亡くなったというニュースを聞いた。NHK―BSの『こころ旅』という番組、その自転車旅の中で読まれる何でもない手紙の話《思い出》が、風景と人との繋がりを伝えていた。日常見慣れていた風景や、旅先で遭遇した風景の中に、時の流れを経て浮かび上がってくる真実《大切なもの》があること、そんなことを、ごくごく普通の言葉で伝えていた。
ショーヘイさん、ご苦労はんでした……







置き去りにされた木にも小さな命が
10 風景はアーカイブでサスティナブル

『トレイルズ「道」と歩くことの哲学』(ロバート・ムーア著 岩崎晋也訳)
✍ 歩くこと
一冊の本を長く読み続けていた。広範でありながら内容が深く濃い。そんなことはたまにあることとして、さらに本としては余白も小さく、文字がぎゅっと詰まっていながら分厚い。情けないが、なかなか時間がとれなかったこともあって長い時間を費やした───と言い訳。
著者ロバート・ムーアは〝気の遠くなるような歩き〟を実践し、トレイル《道》と、歩くことそのものの意味のようなものを提示している。アカデミックな切り口を数多く持ち合わせ、心身ともにタフ。そこまで言わなくてもという思いも出てくるが、リスペクトはもちろん、気負うことのない静かで純粋なスタンスに共感する。
本の中に、トレイルの神様のような存在と言われるある人物の言葉として、トレイルの究極的な目的が示されていた。
一、歩くこと──
二、見ること── そして、
三、自分が何を見ているのかを見ること───
図々しいと思いつつ、自分なりのスタンスとどこかでほんのわずかに重なっていると感じた。そして一、二とも、アタマに「ひたすら」とか「ただ」とかを付け、さらに三の後ろの「見る」は、「知る」「感じる」などに置き換えてもいいと思う。その方が自分にはより合った。
それ以上説明を試みると、却って内容を軽くしてしまうので控えるが、ただ歩くことそのものを中心に据えることが大切なのだとあらためて思った。
いつだったか、そんなに歩きたいのなら、四国のお遍路がいいとマジメに誘われたことがあった。しかし、どこかに誤解があると思った。使命感やそれに伴う達成感、それに決められたルートや目標などは、自分にとって特に必要も興味もないことだった。ただ歩くことというのは伝えにくい。そのことをあらためて実感していた。
『歩くことがトレイルをつくる。そしてトレイルは景観を形づくる。そして時間がたつにつれ、風景は共通の知識や象徴的な意味のアーカイブの役割を果たすようになる』
その本の中にはこんな一文もあった。
風景がアーカイブの役割を果たす──。その言葉はいい響きを伴って心に届いた。能登半島の山里にある何でもない風景から、そこに宿るものが少しずつ伝わってくる。そのことに通じる表現だと思った。今のような時だからこそ、尚更アーカイブという響きにも共感するのだろう。
それに言うまでもないが、風景は《サスティナブル》そのものだ。どちらにしても、自分の中で歩くことの意味らしきものが見えてくる。ただ、そんなことに縛られたくないという思いもあるが─────。






✍ 踏みあとが語るもの
能登の山里に絶景はない。しかし………
〝能登はやさしや土までも〟に通じる自然と人とが紡いできた風景がある。能登の山里を歩くとは、朴訥な風に吹かれながら、その中に自分が溶け込むことだ。それも、いつの間にかそうなっていたというくらいがいい。だから、トレイルなどという言い方も大げさかもしれない。もっとシンプルに、〝ただ歩きに行く〟でいいのかも。
忘れてはいけないことがある。それはもうすでに、多くの踏みあと、それも新しい踏みあとが能登半島のあちこちに記されているということだ。
ただボーっと歩いてきた自分とは違い、支援や復興などのために来てくれた多くの人たちの踏みあとが、能登の土の上に記され続けている。これまで地元以外の人はほとんど入ったことのなかったであろう、山里も同じだ───。
消え去ろうとしていた道に、また誰かの踏みあとが記されたかもしれない。そして、救援を求めた人たちが、その道によって救われたことも多くあったにちがいない。
踏みあととは、常に過去のものだが、未来に通じるものでもある。絶やしてはいけない大切なことがそこにも見えてくるような気がする───助け合うことだ。
そして……、自分はと言えば、踏みあとを残していくことで、能登半島との繋がりを自分なりに持ち続けていけたらいい。能登半島の、特に山里からの「黙示」を感じていたい。 それも歩いているうちに、またいつの間にかそうなっているというくらいがちょうどよく、できるだけ目立たぬよう静かに歩いていたい──────。
そうするのは、踏みあと…トレイルらしきもの…を残していくことで能登との繋がりを持ち続けていたいという思いからだけだ。
能登半島から消え去ろうとしていた道に、いつかまた誰かの踏みあとが刻まれていく。それはそれでまた何かに繋がっていくのではないだろうか。
──────────🖋
◆ 追記
消えていく道というものを初めて目の当たりにしたのは、ある山間の道でのことです。クルマを停め、雑草が生い茂ったかつての水田を見下ろしていると、脇に延びていた小さな道が途中から消えていました。そして、状況が理解できた瞬間、ゾクッとしたのです。道を吞み込んだ砂の層が手前に向けて徐々に薄くなり、まだ見えているアスファルトとの接点が、異様なほどにはっきりしていました。砂が生き物のように思え、これからもゆっくり道を吞み込んでいくことを想像させるのです。
その後、急な道をクルマでさらに下って行くと、斜面の畑で老夫婦が腰を下ろしているのが見えました。並んで座り、どこか遠くを眺めているようにも見えます。いつもだったら、すぐに話を聞きに行こうと考えますが、その時はやめました。消えていく道のことが、かなりのダメージで頭に残っていたからでしょう。
過疎という言葉に敏感になり始めた頃のことです。自分の中では、道が消えていくことと過疎とが結び付いていく、そんなきっかけとなった出来事だったと思います。ただ、あの老夫婦のところへ行かなかったことは、それから後もずっと悔やんでいました。
こんな なん(何)もないとこに なん(何)しに来たがいね
その頃はまだその言葉とは出会っていませんが、もしかするとあの時のあの二人も、そう言って朴訥に──、そしてやさしく迎えてくれたのかもしれません。
能登半島の山里に数多く足を運んできたことで、そういう思いもごく自然に生まれるようになっていったのだと思います。
十二年前、ある雑文を読んでくれた方のコメントに対し、こんなことを書いていました。
────能登の話は、まだまだ本音ではないです。
いつか本音で能登を語りたいですが、
その時はかなり勇気が要りそうです。
それに、ただ息苦しいだけだし、
行き当たりばったり的な対応で今はやり過ごします。
ただ、ボクは能登が好きなんですよ………。
すると、輪島の方から新しいコメントが届きました。
本音での語り楽しみにしています……と。
あの時の本音とは何だったのか? 今更振り返っても思い当たりません。
それに、その意味ももうなくなったように思えます。
─────お付き合いいただきありがとうございました。

繰り返されてきた日常を想像する















