🖋 平口泰夫氏が残していた一文


金沢の個性派建築家、平口泰夫さんがこの11月16日に亡くなられた。74歳だった。どう書けばいいかむずかしいが、平口さんとは不思議な関係だったように思う。一緒に仕事をしたということもあるが、仕事そのものよりも〝語り相手〟的な存在として、平口さんがボクを受け入れてくれていた… そんな感じがする。こちらの方がぐっと年下で、且つ平口さんの名声からすれば雲上の存在的目線でお付き合いさせていただいたと言っていい。平口さんはとにかく理論派だったが、建築家という枠などなく、そういうスタンスの人間に激しく共感していたボクは、さまざまなカタチで言葉のやりとりをさせていただいた。平口さんの底辺にあったのは〝好奇心〟ではなかったかと思う。金沢香林坊日銀ウラ、YORKに毎晩のように顔を出し、ボクを含めた多くの〝ヒトビト〟と、さまざまな話のネタを肴に語り合った。下の文章は、ボクがかつて発行していた『私的エネルギー追求誌・ヒトビト』の〝薫風爽やか第7号(2000年6月)〟に寄稿いただいたもの。平口さんらしい、平口さん的文章だ。冥福を祈る。

どですかでん的こころ

平口泰夫

 予定表の罪悪は時間の配分の消化にある。そのことの為に時間を忘れる没頭は介在しない。

 日課という言い方には多少その罪悪は軽くなるけれども、行動領域の狭さと反復行為を窺い知る。

 しかしながら、大概はそうした予定表や日課といった配分的生活を強いられ過ごしていることは否定し難い。そこでは空間に対峙する己を確認する際立つ遑(いとま)を見出すことは出来ない。それが現実といえば現実なのであるが、その現実を果たして信じて良いものであろうか。はたまた本当に現実なのであろうか。「夢か真か」なる言葉があるが、夢を描くことが現実なのか、真実をあばくことが現実なのか。

 建築家は心に描いたものを平面あるいは立体という媒体を作成することによって確認し、現実に地球の皮膚に建築として実現するのであるが、それを体感する他人がそのまま建築家が描いた象を心の中に描いてくれるかどうかは分からない。しかし、固有に心の中に描いた象がその人にとっては、その建築の現実なのであろう。

 実像が現実なのか、仮象が現実なのか、少なくとも心の中に描かれたものを信じることが、生き様としての現実なのだと思うのである。

「どですかでん」は、三十年ほど前(※)の「四騎の会」の企画映画である。先日NHK・BSで放映されているのを懐かしく観賞した。原作は山本周五郎の「季節のない街」である。

 周五郎は「極貧者が風の吹き溜りに塵芥が集まるように自分たちの街を作り、住人達は街という概念では団結して他に当たるけれども、個別的には孤独であり、煩瑣(はんさ)論的な自尊心を固持している。その人たちの経験する悲喜劇の極めて普遍的な相似性がある」ということを描いているのであるが、その描かれた人間模様の中に「運転手の六ちゃん」がいる。

 映画のタイトルの「どですかでん」は、六ちゃんの運転する電車の擬音なのだが、六ちゃんの運転する電車は現実には存在しないし、それを発車させ、運転し、終電に至って入庫させるまでの作業は、すべて架空なのである。

 周五郎も言っているのだが、「各種のクルマが往来している。それは皆、現実の運転手によって現実に運転されているのであり、その事実には些かの疑問もないが、しかし、果たしてそのまま信じていいのだろうか」ということである。つまり、どれだけ運転に打ち込んでいるか、没頭できているか、ということである。

 人は六ちゃんのことを「電車ばか」と呼ぶ。小学校六年の間、教室ではただもう電車の絵だけを描き、家にいるときは電車の運転に没頭しようとしたのである。そして今でも六ちゃんは「まさしく精神的にも肉体的にも、市電を運転することに打ち込んでおり、そのことに情熱を感じ、誇りと喜びを感じているのである。」

 たとえその全てが架空であっても。

 もう一つ描かれた人間模様の中に、四十歳ぐらいの父親と六歳ぐらいの男の子が出てくる。二人はいつか建てる筈である自分たちの家について語り合う。

「家を建てる場所は丘の上がいいな」から始まる親子の会話は、子供の死に際には「大丈夫。きっと作るよ。君がねだったのはプールを作ることだけだからな。君はもっと欲しいものを何でもねだれば良かったのに。」で終わるのだが、親父が心に描いた設計図を語りかけると、男の子は「うん、いいね。ほんとにいいね。」という具合に応答するのである。心に描いたイメージを、言葉を媒体として共有し得ているのである。 

 運転手・六ちゃんの場合もこの親子の場合も極貧者の作った季節のない街という共同体に生活するという現実にいながら、その現実はあたかも仮であるかのように、心の中に描かれた架空に依っている。それはたしかに日課のようであるが、描くことに情熱を感じ、誇りと喜びを感じているのであり、そのことが彼らにとっての現実なのである。

 とかく現実という言葉は厭世的に使われがちであるが、そうではなく創造的なのであり、固有的なものである。

 人は自然と隔たるにつれ、現実を歪曲してしまった。

 ヒトビト的人々には、釈迦に説法だと思うけれど。

(※)この文章は2000年に書かれたものです。


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