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三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も徐々に不要な人物が出てくるほど続いている。

 今回は生粋の勝沼人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空…… 納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

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 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

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 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

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 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

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 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

 

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

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 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

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 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

ねじめ正一氏と玉谷長武クン

ユリイカ

1997年4月発行の『ユリイカ』。

161ページから169ページにかけて綴られた、ねじめ正一氏渾身(だと思う)のエッセイに心が撃たれた。

喫茶店でしか原稿が書けない氏が、喫茶店のトイレに「大」のために入るが、固体を出そうとして意図せず大きな音を伴う気体を出してしまったという焦りが、リアルに綴られていた。

音が出た後に期せずして起きた店内での笑い。

自分(の尻)が発した音と、その笑いの相関について悩む筆者……

喫茶店

このエッセイで、さらにねじめ氏が大好きになったボクは、1999年の金沢市観光協会50周年のイベントに氏を呼び、金沢市民芸術村のドラマ工房でトークショーをやっていただいた。

紡績工場を再利用した市民芸術村ドラマ工房は、特有の構造と空気感を持ち、会場入りしたばかりの氏が、「いい場所ですねえ」と言われたのを覚えている。

氏はそこで、商店街の魅力はさつま揚げの美味さで決まるとか、長嶋茂雄さんの職業は長嶋茂雄だとか、ひたすらねじめ節を語り、そして、創作中の長い詩を東京からFAXで送らせ、『詩のボクシング』風に即興で読んでくれたりした。

ボクがステージに用意したのは、かつての小学校の教室にあった小さな机と牛乳瓶に入れた一本の花だけ。

工房の道具部屋を見回し、ボクも発作的にそれに決めた。

知り合いも大勢来てくれて、なかなかいい企画だったと思う………

 

このことを今語りたいのは、あの時ボクの机の上にこの『ユリイカ』を置いていったある後輩の命日月が2月であったからだ。

玉谷長武(たまたにおさむ)という、奥能登門前町出身のナイスガイは、ボクに色々と余計なお世話的言葉を発しながら、27歳という若さでこの世を去った………

彼の稀有な存在を綴った拙文を、必ずこの時季に読み返す。

今でも、彼がもし生きていたら、自分の人生も途中から何らかの形で変わったのではないかと思ったりする。

それくらいに、彼が好きだった………

 

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

金沢城・江戸末期のビッグイベントと寺島蔵人のこと

寺島蔵人D

今から10年以上も前、毎年6月に開催される金沢最大の祭りの、その仕組み全般を見直すという仕事に3年間関わっていたことがある。

ほぼ無関心であったその祭りについて考えていくことは、いろいろな意味でかなりの苦痛を伴った。

山のようにある課題の中で、武者行列の行程や構成を変えて、最終的に城の中へ、しかもパフォーマンスを交えながらスムースに入れることが最大の難題だった。

それは苦労した甲斐もあって何とかなったが、ボクはさらに城の中を祭りのシンボルゾーン的な場所にすることも重要課題としていた。

同時期に、金沢城公園も完成していたから十分にその必然性もあった。

行列が城に入るというのは史実によって裏打ちされていて、祭りでも実際に「入城行列」とネーミングされていたのだ。

が、城内行事は何となく広場があるから、そうするのがいいだろうくらいの話で進んでいた。

それで特に問題があったわけではないが、自分としてはちゃんとした根拠(史実)が欲しかった。

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ある日、玉川図書館の近世史料館で、タイトル写真にある本の著者である長山直治先生に偶然お会いした。

先生はその頃、わざわざ定時制高校の教員に転向し、昼間は地元の歴史調査研究に没頭されていたのだ。

ボクはひさしぶりにお会いした先生に相談した。

実は先生は高校三年の時の担任だ。

恩師であり、歴史の面白さを教えてくれた人だ。

そんな話なら任せておきなさい……

そうは言わなかったが、先生は昔から変わらない眼鏡の奥の垂れ下がった目にチカラを込め、ボクを見た。

そして数日後あらためてお会いした時、この本の中に紹介されている、藩政末期の金沢城内における能の開催に関する話を聞かせてくれた。

それは驚きと同時に、しめたと思わせる内容のものだった。

文化8年(1811)、12代藩主・斉広(なりなが)が催した能の話だ。

その時の能は金沢城二の丸の再建と、斉広の家督相続と入国の祝いとして挙行された。

むずかしい話は省略するが、11日にわたり、藩士や宝円寺、天徳院の僧侶など、さらになんと庶民も白洲に招かれている。

その数、藩士・寺方で約2500人。白洲に造られた仮屋から見物した町方庶民は、ほぼ1万人だったという。

前者には料理が、後者にも赤飯や酒が振る舞われたらしい。

そして、この能のために出仕した徒歩や足軽たちも万単位の数となり、役者とともにその人たちにも賄が出ているとある。

これがなナカイ、かつて金沢で行われた最大のイベントやろな…と、先生は得意そうに、そして軽く言われた。

それ以前にも、能をこよなく愛した藩主たちによって、かなり盛大に開かれていたという。

ここまで話を聞いて、さすが金沢だなと思う前に、さすが長山先生だなとボクは思った。

いつも熱っぽく歴史を語っていた先生からこういう話が聞けたことも、また嬉しかった。

金沢と言えば、やはり能なんだわ……

そうなんですね……

ボクはかなり感動し、その後最終的にまとめた提言の中にも、この話を引用した。

ただ、かなりチカラを込めたつもりだったが、祭りの人気行事としての「薪能」は、特にそんな歴史的背景などどうでもよかったかのように、金沢城内で“普通”に開催された。

金沢城内での初回だけは、はるか後方からぼんやりと見た記憶があるが、それ以降は見ていない。

まだ仕事の真っ只中にいた頃、旧中央公園の舞台を特等席から見させていただいたことがある。

こっそりと蔭から見ていたら主催者の偉い方に見つけられて、テントの中へと入れられたのだ。

藩政時代で言えば、藩士の席から見ていたことになるのかも知れない。

ところで、この本の主題である「寺島蔵人(くらんど)」という藩士は、前田斉広の時代に側近として仕えたが、民を思うあまり藩政批判をし、能登島に流刑になった人だ。

流されて半年もしないうちに61歳で病死した。もちろん能登島でだ。

寺島門

大手町の静かな屋敷の佇まいが今は観光名所になっているが、かつては一本裏道の住民ですらその存在を知らず、観光客からクレームを聞いたこともある。

表通りの和菓子屋さんの二階から、鬱蒼とした庭木を見ることができるが、それもあまり知られていないようだ。

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藩政時代の金沢の祭りの取材から、長山先生と偶然再会し、金沢での能のポジションをあらためて知り、先生が寺島蔵人を研究されていることを知った。

祭りに関わった中で、この本との出会いがいちばんの出来事だったように今思ったりもする。

先日、何年ぶりかで寺島蔵人邸に入ったが、スタッフの方々が丁寧に対応されていて気持ちがよかった。

相変わらずの余計なお世話だが、少なくとも、長山先生の本から想像する寺島蔵人という人には大いに興味が湧く。

一、二年前に見た『蜩(ひぐらし)の記』という映画にとても感動したが、何となくああいう物語のイメージに近いものを感じたりもする。

せっかく屋敷も残っているのだから、もう少し取り上げられてもいい。

ところで、先生はお元気だろうか。

なかなか行けないが、たまに近世史料館に顔を出してみるとお会いできるかもしれない………

寺島塀寺島邸1L

小林輝冶先生の想い出

小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……

勝沼~ブドウとワインと友のこと

勝沼ワイン

今から35年ほど前の話である。

大学時代の親友Mの実家のある山梨県勝沼町(現甲州市)で、貴重な体験をした。

彼の実家には現役時代にも何度もお邪魔していたが、卒業してからも毎年夏になると出かけていた。

勝沼と言えば、ブドウである。

と言っても、学生時代に彼と会わなかったら、そんな知識も希薄なものだっただろう。

初めて中央線の勝沼駅に降り立った時の驚きは今でも忘れない。

眼下に広がった勝沼の町は、ブドウ畑で覆われていた。

ブドウ畑の棚の隙間に家々の屋根が見えているといった感じだった。

南アルプスの逞しく美しい姿にも圧倒された。

当たり前だが、彼の家へ行けば必ずブドウ酒が出た。

彼の家もまた、ブドウ栽培の農家であった。

まだワインという呼び方も定番ではなかったと思う。

何度目かの訪問の時、そのブドウ酒一升瓶6本入の木箱を予約し、石川の自分の実家へ送ったこともある。

市場では一本が千円あまりで、飲みやすいブドウ酒だった。実家でも好評で、それから何度か送っていた。

大学を卒業してから、毎年夏には信州から八ヶ岳山麓へと出かけるようになった。

そして、その際にはいつもMの家に寄り、同行もよくしていた。

その最初か二回目あたりだったと思う。勝沼に着いた日にMから、夜、地元の愛好家たちで結成されている「ワインの会?」に一緒に出ないかと誘われた。

彼の家に独りでいるわけにはいかない。面倒だが行くことにした。

勝沼町内のペンションが会場だった。そのペンションには数年後に泊まったこともある。

昼間は暑さの厳しい甲府盆地だが、夜になると涼しい風が吹き始め、グッと過ごしやすくなる。その夜もそんな感じだった。

ペンション一階のレストランには、大きなテーブルに向かう十人ほどのワイン愛好家たちがいた。

年齢はばらばら、知的な匂いが漂う若い女性も独りだけだがいた。

天井では優雅にプロペラがまわっている。

今なら普通であろうが、その頃にワインの会と聞かされると緊張度は異常に高まるのだ。

嫌な予感どおり、ボクはテーブルの真ん中あたりに座らされ、金沢からのスペシャルゲストのような紹介をされた。

たしかにゲストではあっただろうが、その後の情けない行動からすれば、実にみじめな数時間のスタートであった。

テーブルの真ん中に、ハムや新鮮な野菜などが並べられていた。

そして、会の代表らしき男性が話し始める。これから十種類ほどのワインを飲み、ランク付けをする……というのだ。

何? ボクはたしか左横にいたMの顔を見た。彼は笑いながら、まあまあといった顔をしている。

困った。お遊びでやっていい会なのかどうなのかと、Mに問おうとしたが、彼は相変わらず楽しそうに笑っている。

ワインが、いやボクの認識ではブドウ酒がどんどんグラスに注がれて運ばれてくる。

グラスの下に番号が書かれたカードが置かれていて、その番号をランク表に記入していくのだ。

何だかよく分からないうちに、ひと通り口に運んだ。そして、ランク表に何とか数字を入れた。

慣れていないせいもあって、どれも酸味が強く感じられた。正直、積極的に飲みたいと思ったものはなかった。

その中で、なんとか口に合ったブドウ酒がひとつだけあった。

全く口に合わないブドウ酒も明解に自覚できた。

先に後者(つまり最下位)から言うと、恥ずかしながら、それはボルドーの最高級ワインらしかった。

赤のフルボディ、うま味など全く感じ取れなかった。

そして、前者、つまり口に合った唯一のブドウ酒が地元勝沼産。

例の一升瓶で販売されているブドウ酒だったのである。

正直言って、赤のフルボディは“まずい”とさえ感じた。

咽喉を通すのもかなりの労力と勇気を必要とした(少なくとも当時の自分には)。

さすがに、地元の人たちはボクが最下位にしたワインを一番にしていた。

見た目だけで判別がつくくらいの人たちばかりだった。

紅一点、大学で日本文学を専攻していたという女性も、柔らかな物腰のイメージを吹き飛ばすほどの酒豪、いやワイン通であった。

その利き酒会的なイベントの終わりに、代表の方がやさしく言った。

たぶん、今日のゲストであるボクの感覚(無知か未知かの)が、今の日本人の平均的なワイン感覚なのであろうと。

救われたのか、いやその逆なのかと一瞬戸惑いながら、グラスに残ったままの高級赤ワインを見た。

Mが横で笑っていた。

甲州シュールリーアジロン

話は一気にその数年後に飛ぶ。

クリスマス・イブの夜、金沢の行きつけになっていたバーで、ワイン・パーティをやることにした。

その店はマスターの高齢化でとっくに閉じられているが、初めてシングルモルトの美味さを教えてもらった店で、その後ボクにとっては貴重な場所でもあった。

パーティのことはマスターに一任した。

すると、テーブルの真ん中にワインの入った小さな樽が置かれるという、なかなかオシャレな趣向になっていて、マスターに感謝した。

参加者である会社の同僚たちも喜んでいたが、ワインなどほとんど飲む機会はない。正直企画した者としては大いに不安でもあったのだ。

樽はお店用の簡易な水道栓が付いたもので、中の小さなタンクが取り外し可能になっている。

空っぽになったら、マスターがそのタンクを裏へと持って行きワインを補充するのだ。

小さめのグラスにワインが注がれると、皆珍しそうにその“ 液体 を眺めている。

そして、乾杯。全員が美味いとか、飲みやすいとか、とにかく初めてのワインに驚きの声を上げた。

ボクはちょっと誇らしげだった。皆のグラスにどんどんワインが注がれていく。

マスターの作ってくれる料理との相性もいいみたいだ。

そして、ワイン補充の頻度も高くなってきた。

手の回らないマスターに言われて、ボクが裏へと入りそのタンクを取りに行くことになる。

そして、カウンターを抜けて裏へと入った時、そこにあったワイン、いやブドウ酒を見て驚いた。

あの懐かしい勝沼の一升瓶がそこにあった。

しかも、我が家に送ったこともある木箱に入っていた。

その時、思った。

あの夏の日の、勝沼のペンションでの感覚は決して間違いではなかったのだな……と。

たしかに日本においても、昔から高級ワインを飲んでいる人たちはいただろうが、平たく言えば、普通の日本人にはこのブドウ酒が“最も馴染めるワイン”の味なのかも知れない……と。

そして、あの会で代表の方が最後に言ってくれた言葉をあらためて思い出していた………。

それから後、いつの間にか一気にワインブームが来た。

誰もがワイン愛好家になっていた。

昔の勝沼の想い出話をしても、誰も信じてくれないような時代になった。

それどころか、半分バカにされたりもする始末だ。

若い女性たちが、ワイン評論家になる時代なのだ。

シトラス甲州シャトーメルシャンの甲州

今勝沼のワインは、「甲州」というブランドでヨーロッパでも非常に高い評価を得ている。

Mは大学卒業後、地元公務員になり、20代の頃から勝沼のワインを普及するための研究に力を注いできた。

ヨーロッパやアメリカ西海岸などの産地に渡り、そこでの成果を地元の農家やワイナリーの人たちとの研究材料にもしていた。

若かった彼が記したそれらのレポートには、単にブドウ栽培やワインづくりの話ばかりではなく、ブドウ畑が作り出す美しい自然景観の話などが活き活きと綴られている。

ついでに書くと、ボクがかつて出していた『ヒトビト』という雑誌にも、彼は創刊から協力してくれ、勝沼からの季節感あふれるレポートを送ってくれていた。

その文章も、今風に言えば、ふるさと愛に満ちた温かく素晴らしい内容のものだった。

実際、勝沼におけるブドウの存在は完全に地域の文化だ。

今のワインブームの中では忘れられがちな、土地(地域)の匂いのようなものが伝わってくる。

それは、8世紀とか12世紀とかいう発祥説が物語る、勝沼のブドウの歴史そのものでもあるからだ。

勝沼グラス

そして、明治の初め、ワインづくりのためにフランスへ若者二人を送り込んだという剛健な気質にも、それは示されている。

その気候風土に合った文化を継承するワイナリーオーナーたちも見識が高い。

今、テレビをとおして国産ウイスキーの物語が人気を博しているが、ブドウづくりとワインづくりの歴史にも、多くの物語があったに違いない。

もうそろそろ5年前のことになるが、ボクは金沢の茶屋で甲州ワインを飲む会を催した。

そのために勝沼にMを訪ね、何軒かのワイナリーを巡ったが、あらためて感じ入ったのは、それぞれのワイナリーが実に個性的(平凡かつ軽薄な表現で恥ずかしいが)であったことだ。

そして、とても日本的であった?ということにも驚かされた。

明治の農村にあった「和と洋」。

……というとまた違っているかもしれないが、その独特の空気感は初めて味わうものだったのだ。

それもまた、ブドウやワインと言う日本国内では特殊な性格をもつ産物のせいとも言えた。

会は一応盛況だった。勝沼で買い込んだ数種類の甲州ワインを順番に出した。

ボクはMからもらった資料をもとに、勝沼の土地柄などの話を交えながら会をナビゲートした。

すでに世の中ワイン通だらけで、今さら国産ワインなどと言う人も多くいたが、一口飲んだだけで皆その口当たりの良さに驚いていた。

ただ、その時失敗したと思ったのは、茶屋という場を意識しすぎて、妙な高級感が出てしまったことだ。

口当たりが良くて、食べ物も進み、おしゃべりも弾むという、そんな生活感のあるワインの場にするべきだった。

それが自分が知っている勝沼らしい魅力の発信に繋がっただろうに…と、ずっと後悔している。

日本酒ももちろんだが、国産ワインにもその土地の個性がある。

こと国産ワインについて言えば、勝沼ほどそれが顕著な場所はないだろうと思う。

ブドウ畑が作り出すのどかな風景は、その第一の要素だ。

だから、本当のことを言えば、やはり甲州ワインは勝沼の地で楽しむのが一番いいと思う。

あのブドウ畑が広がる風景や、ワイナリーの新旧の香りが漂う佇まいなどを目にすると、ワインの味が確実に大きく広がっていくのは間違いない。

最近は我が家でも外国産のワインが普通になっているが、やはり甲州ワイン、いや勝沼のワインは別モノだ。

ボクにとっては、たくさんの大事なものが詰まっている、特別なモノであることは間違いない。

ここまで書いてきたら、飲みたくなってきたのだ………

ルバイヤート甲州勝沼の甲州

※使った写真は、たまたま最近飲んだ銘柄のもの。

勝沼ボトル

 

 

 

『島の時間』 赤瀬川原平の粋

 

嶋の時間

赤瀬川原平死すというニュースを、ネット上で知った。

別に個人的な知り合いであるわけではなく、単なる一読者及びファンなのであるが、ネット上で知ったことにちょっと淋しさを感じた。

この人の死はもっとアナログな媒体をとおして知るべきであったと思った。

 

一ヶ月ぶりの東京で、さっきまで神田のジャズの店にいた。

ジャズに詳しくない連中を前に、久しぶりに熱を入れて語っていた。

そして、ホテルで独りになり、赤瀬川原平のことを思い返している。

植草甚一や赤瀬川原平や別役実(まだいそうだが、今は思い浮かばない)は、ボクにとって特別な存在だ。

うまく説明は出来ないが、ボクの中の表舞台ではないところで楽しい時間を提供してくれた人たちだ。

だから、植草甚一の死からはかなりの間を置いたが、赤瀬川原平もいなくなってしまい、自分自身の老い(…そんな大袈裟な感覚ではないが)を思い知らされている。

そして、そんな感傷を蹴飛ばして赤瀬川原平のことを書こうと思ったが、ここは家に帰ってあの人の本の中から、自分がいちばん好きだった『島の時間』という一冊を取り出し再読するのが一番いいという結論に至る………

 

以下の文章は、13年前(2011)の初冬、当時有り余る作文意欲とかすかに降りそそがれたわずかな時間の中で作り上げていた、私的エネルギー追求誌『ヒトビト~雪の便りと第6号』に掲載したものだ。

 

≪ ヒトビト的BOOK REVIEW 『島の時間』赤瀬川原平 ≫

 

…………。今回はまたしてもの赤瀬川原平サンである。いかに筆者が赤瀬川サンを好いているか、あるいは気にしているか、あるいは羨ましく思っているか、その他これで十分理解していただけるだろうと思う。

しかし、最近というか近年というか、赤瀬川サンは本人の意志とは関係なく売れっ子になってしまった気がする。意志というより自覚というべきか、とにかく広範な角度から注目されてしまった。その根源となったのが、ご存じ『老人力』かも知れない。

あの本は誤解されていると筆者は思う。誤解がそのまま通ってしまい、赤瀬川サンのエキスが抜けきったまま世の中を徘徊していったような気がしてならない。出た当初、コソコソと、そしてニタニタと読んでいた純正赤瀬川ファンはガッカリしてしまった。

ボクの中では、赤瀬川サンは90年代始め、もしくは80年代の終わりあたりから変わったのだという感じがある。本当に前衛芸術家らしかった頃のものは正直こっちもキツネにつままれたようで、こんな本読んでいてオレ大丈夫かなって気にもなったもんだ。だから露骨に一線を引いた状態で読んでいたところもある。

しかし、路上観察あたりから赤瀬川サンはボクの味方になった。安心して人前で読めるようになった。そうなるとトコトン付いていける。安心は大きなパートナー。一旦信じ込むと赤瀬川サンの魅力は一気に膨らんだ。特に面白いのが連載もの。とにかく赤瀬川サンには連載ものがそのまま本になったというやつが多くて、そういうものの中に魅力がカッ詰まっているのである。自分の身の回りにある、ちょっとした専門誌などに目を透してみてほしい。ふと赤瀬川サンのミニエッセイに出会えるかも知れない。

 

たとえば、赤瀬川サンの表現は心憎いほどの「平坦さ」でもって、ぐぐっと迫ってきたりする。これが分かるには年季が要る。ここで敢えて文字にしている自分自身もいやになる。ただの年季ではない。少なくとも落語や漫才の笑いを知らない人間には伝わらないかも知れない。ボケがいかに知的な演出の上に成り立っているか… いやそんなことも敢えて文字にするのは無意味だ。

だから敢えて、ここは『島の時間』なのである。

しかもこの本、九州博多の某デパートの会員誌に連載していたものを平凡社がまとめたという「平坦さ」でもって、そのタイトルも、本人のあとがきでは「本にまとめる時に苦しまぎれにポンとつけた名前…」というぐらいに凄いのである。これが赤瀬川サンのエキスの一部。

さらに解説(そんなお堅いものではなく、これもまた愉しいエッセイだが)には、あの、ねじめ正一氏が登場し、「もうひとつのお天道さま」と題して赤瀬川サンのエキスを語っている。 (注:ちなみに赤瀬川サンにとっての本命のお天道様は、長嶋茂雄だったのだ)

「どこにも力がはいっていない。常態のままである。常態人間。……見ているだけでのどかな気分にさせてくれる。」

まさに赤瀬川サンのそのまま原寸大写実描写ではないか。そういえば、ねじめ氏は南伸坊氏も含めた三人の対談集『こいつらが日本語をダメにした』とかいう本の一員だったな。

 

ということで、この本は沖縄周辺の島々をめぐって書かれた紀行エッセイである。たぶん旅行雑誌などで十分に紹介された所ばかりであろうが、赤瀬川サンならではの目と耳と鼻と肌と舌などによって楽しい世界が表現されていく。観光キャンペーン用に使えるかというと、ほとんど向いていない。

一見(読)、例えば「種子島」の章のように司馬遼太郎の『街道をゆく』っぽく感じるところもあったりするが、鉄砲の話がロケットの話になったあたりからおかしくなってきて、読んでいる当方としては妙に嬉しくなったりする。それはこうだ。

「アメリカのロケットは垂直にしっかり立てて、どーんと垂直に昇っていく。それが日本のは斜めで、ちょっとコソコソと昇っていくみたいで、こんなことはロケット関係者にとっては的外れなことだろうが、何となく幼稚っぽい感じがしていた。

こんど種子島の宇宙センターに行ってみると、巨大な発射台はちゃんと垂直に立っている。ああ日本もとうとう垂直のところまできたか、という感慨をもった。もちろん専門家に聞いてみると、打ち上げる衛星の軌道とか種類によって垂直や斜めがあるらしくて、別にそれがステイタスに関わる問題ではないという。まあそれはそうだろうが、一般国民としてはやはり堂々と垂直に、という思いがあるのである。

垂直がなぜ堂々なんだ。と問い詰められても答えに窮するけれど、とにかくそんな感じがするじゃありませんか。」

愉しいなア………

冥福を祈る。

 

 

金沢湯涌ゲストハウスにて

GH外観

 今年も数日間の旧盆休暇がやってきた。

 我が家では、この時期にちゃんとした連休があるのは自分だけで、あとの家族はみなカレンダーどおりに仕事をしている。

 だから、申し訳ないが休暇期間中のウィークデーは自分一人の時間となるわけだ。

 と言っても、自由を満喫するなどといった余裕があるわけではない。

 初日は、先日在庫切れとなった山の水を補充にと、いつもの湯涌までやって来た。

 夏なので大量に持って帰っても保存が大変なので、今は40リットルほどを汲んで帰る。

 気候が涼しくなれば、その倍くらいは汲む。

 かなり蒸し暑かったが、水を汲んでいる時は涼感たっぷりで爽快である。

 最後にいただく一杯も、相変わらずいい味だった。

 湯涌まで来れば、当然「湯涌ゲストハウス」に立ち寄り、番頭さんのA立クンと語らって行くことになる。

 あらかじめ連絡を入れておいた。なにしろ多くの関心が集まり、なかなか好調なスタートらしいのだ。

 午後一時近くに行ってみると、すでに泊まり客は帰っていたが、予約なしの飛び込み客が多くて、嬉しいながらも困ったナ的表情をしていた。

 一応自炊だから、食料の仕込みとかは特に必要ないみたいだが、やはり布団を用意したりするなど飛び込みではきついらしい。

 それに今はまだ不慣れな上に、独りでやり繰りしなければならないから大変だろう。

 たぶんこんな状態の中で客数が増えていき、そのうちやり方も安定していくのだろうなあ…などと勝手に思ってしまった。

 忙しいのは、何よりいいことだ。

 聞いていたが、しばらくして地元テレビ局の若いディレクターが来店。

 近々、現場からの中継をやってくれるという話だ。さすがに注目度は高い。

 軽い雰囲気の打ち合わせが始まったので、勝手知ったるなんとか、ボクは購買部の部屋に隠れる。

購買部

 実はこの雑文、その六畳ほどの部屋で書下ろし中なのだ。

 購買部といっても、それらしきものは奥の小さなショーケースにあるカップ麺とオリジナルタオルくらいか。

 やたらとジャズのCDと山関係の本がカッ詰まっていたり、カヌーのパドルなどもあったりで、十分にそれらしくない。

 しかし、そこがこの湯涌ゲストハウスのいいところで、購買部はボクの大好きな空間となっている。

 欲を言えば、イスとテーブル、さらにオーディアがあればと思う。

 床に座って小さなちゃぶ台のようなテーブルに向かうのは、ちょっときつかったりする。

 このような場所は、ある意味いい仕事場にもなる。

 昔、バリバリに現場で頑張っていた頃には、企画書を書き下ろすのにこういう場所をよく使わせてもらった。

 金沢市内にある某ビルの一室では、共同で金(もちろん自前)を出し合い、空いている時にはいつでも使えるというシステムで利用していたことがある。

 ちょっと郊外にある自然の中の展望のいい、そして人が滅多に来ない東屋みたいなところで、涼しい風を受けながらのお仕事タイムもあった。

 怖いのは熊ぐらいで、コーヒーもその場で淹れるという用意周到さだった。

 さすがに今はそんな大胆な?ことはしないが、私的な部分ではまだまだ感覚はそれに近かったりする。

 だから、この湯涌ゲストハウスの存在は重要なのだが、たぶんそのうちゆっくりできなくなるだろう。

 ボクにとっては、泊りよりも休日の昼間にちょっと長めの滞在をさせてもらうというシステムがいい。

 眺望はないが、A立クンが淹れてくれるコーヒーも美味いし、ジャズも聴こえてくるし、至れり尽くせりなのである。もちろん有料だ。

 ところで、まだ整理できていないまま書いてしまうが、この湯涌ゲストハウスの個性というのは土地柄はもちろん、A立クンというニンゲンの存在にかかっているような気がしている。

 前にも書いたが、湯涌は「山里の農村」なのである。そして、今風に言えば「里山の遊び場」なのでもある。

 街なかのゲストハウスとの違いを明確にしていけば、自然遊びにも通じたA立クンのチカラははますます発揮されていくだろう。

 もちろん歴史があり温泉があるが、音楽や文学や、その他趣味・雑学の話題にも事欠かないゲストハウスがいい。

 そんなゲストハウスになってくれたらいいなあ…と、これも勝手に思っている。

 創作の森も、夢二館も、江戸村も、そして、その他のさまざまな活動団体もあって文化度も低くない。

 表の幕に記されている「Micasa,Tucasa」は、「私の家は、あなたの家」という意味らしい。

 あまり伝わっていないが、これからこのキャッチの意味が活かされていくことだろう。

 打ち合わせはそろそろ終盤に入っているらしく、A立クンの吸うたばこの匂いが漂ってきた。

 そろそろこっちも、体勢に疲れてきたところ。

 コーヒーをもう一杯いただきに、向うへ移ることにする………

幕湯涌ゲスト音

 

 

 

吉祥寺ジャズが懐かしい

ドルフィー

 東京・お茶の水周辺にジャズの聴ける店があることは、ご当地大学の学生だった時代から知っていた。

 むしろ、その頃の方が今よりジャズがジャズ的だったし、学生街にジャズ喫茶などがないというのは、ボクにとってはむしろ違和感を覚える環境だった。

 最近、東京へ出かけると、夜の遅い時間、その辺りにあるジャズの店に時々立ち寄るようになった。

 昔はなかった今風の店だが、美味いシングルモルトも飲めて、それなりに安らげるようになってきた。

 かつてのジャズの店では、会話禁止とか、リズムに合わせてテーブルをコツコツやっていても怒られるという店もあったが、今では聴くことよりも会話を楽しめるように店が出来ている。

 だから音量もまあまあ、昔のようにスピーカーそのもので圧倒するようなレイアウトもない。

 カウンターの後ろにはレコード、CDがずらりと並ぶが、レコードはきれいなビニールに入れられていたりする。

 歴史を感じさせるような名盤のレコードといったイメージも強調されていないし、実際にはそういうレコードは置いてないのかも知れない。

 この前は、チコ・ハミルトンの超懐かしい『ブルー・サンズ』(CD)がかかっていたりして嬉しかった。

 ところで、先日、東京でお会いしたある人が、かつて井の頭線の永福町に住んでいたという話をされた。

 反射的に、自分の東京生活は同じ井の頭線の三鷹台から始まったんだということを思い出した。

 そして、その仮の住まいからすぐのところに井の頭公園への入り口があり、公園の中を歩いて吉祥寺の街へと出ると、東京へ行ったら必ず行ってみようと考えていたジャズ喫茶があったこともあらためて思い出した。

 東京に着いた三日目のことだった。ついでに書くと、二日目は新宿に出て、紀伊國屋で長時間の立ち読み(もちろん買い物もした)を楽しんでいた。

 金沢のジャズ喫茶に慣れてしまっていたボクは、相席も構わずに空いた席に座らなければならないシステムに少し戸惑った。

 店の中がイスとテーブルで埋め尽くされているといった感じだった。

 しかし、それに慣れていくと、その店の居心地は最高のものとなり、ボクはそれ以来、この店を自分の東京の最も好きな場所のひとつにしていく。

 カンペキなリスニングルーム。有名メーカーのスピーカーから遠慮なく響き渡る音は強さがあり、キレがあり、一曲一曲、一音一音を、じっくりと身体中に感じさせてくれた。

 だからか、ボクは心地よくそこで本を読むことができた。ジャズに包まれている感じだった。

 演奏者たちと自分との間に隙間がなかったような、いや、その奏でられた音の層と自分との間にか……、よくは分からないがそんな錯覚?さえあったような気がする。

 東京一の保有数を誇ると言われるレコード(スタジオ)室のカッコいいお兄さんとも仲良く?なり、リクエストは当然のこと、いろいろな質問なども浴びせられるようになったのは、夏になってからだった。と言っても、もちろん長々と話したりする時間はない。

 お兄さんはトレーナーやジーンズ。大きなエプロンが短い頭髪に似合っていた。

 ボクはきびきびした動作と、いつも笑顔で対応してくれるそのお兄さんが大好きになっていく。

 結局、大学の四年間、ボクはその店に何度となく足を運んだ。

 住いが三鷹台から変わった後も、店へ行く頻度はそれほど変わらず、クラブの合宿などで長期間行っていない時などは、久しぶりに顔を出すと、オッという顔をされ、「帰省?」などと聞かれたりした。

 金沢にもジャズの師を得ていたが、東京でのジャズ生活は、そのお兄さんのおかげで楽しく充実したものになったのだとボクは思う。

 しかし、卒業以来、その店には一度も足を向けなかった。有名なオーナーもなくなり、今はもう形態そのものが変わってしまっている。

 それでも、できれば近いうちに、その周辺にだけでも行ってみたいと思う。

 かつては気持ちの中で近く感じていた吉祥寺だが、今はなぜか遠い街にしてしまっているのだ……

バット名人との思い出

久保田さん

 この春、バット作りの名人・久保田五十一さんが現役を退くという。

 2005年の11月8日、岐阜県養老町のMIZUNOバット工場で、久保田さんとお会いしたことが当時のノートに走り書きされていた。

 しかし、それ以上に鮮明な記憶がアタマに残っている。

 早朝に金沢を発ち、約束時間よりもかなり早めに到着していた。

 空には雲ひとつなく、近くの河川敷や広大な平野と丘陵が美しかった。

 一ヶ月後に開館を控えた松井秀喜BBMに、松井選手が使ってきたバットの変遷を紹介しようと企画していた。

 そのための最終打ち合わせが目的だった。松井BBMの仕事というだけでボクは手厚く迎えられ、早々に久保田さんの作業場へと案内された。

 久保田さんに会った瞬間、飾らない性格がそのまま言動に表れる人だと思った。

 名人はボクの目の前で、当時の松井モデルを一本作ってくれた。その作業風景をボクはカメラに収めた。腰をかがめながら、定規を当てて微妙な寸法を調整していく。回転刃から弾き飛ばされる木が、作業場に独特の匂いを放つ。

 ネームの入っていない出来たてバットは、“これがあの松井のバットか?”と思うほどに細く、軽く感じるものだった。

 名人はそのバットをビニールの専用袋に入れて渡してくれた。

 工場を回りながら、バットのことをいろいろな角度から説明してくれる名人は、多くのプロ野球選手たちの特性やクセのようなものを感じ取っているように見える。

 落合モデルのバット、イチローモデルのバット… ずらりと並んだ有名選手たちのバットたちは壮観な印象を醸し出し、何だかとんでもない空気の中にいるように感じさせる。

 名人は、「松井さんは、一年に一度もバットを修正しませんでしたね。不振になっても、バットのせいにしなかったですよ。他の人はよくシーズン中に修正しましたが……。バットの重さの感じ方で、自分の調子を見てるという話もされてましたね…」と話した。

 正午に近づいた頃、名人は松井さんが訪れた時に必ず行ったという近くの食堂へ連れて行ってくれた。

 同じメニューの定食をご馳走してくれ、その席でも松井さんの話を楽しそうに語ってくれた。

 「松井さんが来ると、店に近所の人たちがたくさん集まってくるんです。松井さんは一人一人と握手したり、サインしたりしてましたね。とにかく人柄も素晴らしかったです…」

 そうこうしているうちに、店が少し賑やかになった。入り口の方からこちらを覗き込むような人が数人いる。

 名人が、「松井記念館のプロデューサーさんです」と、その人たちに紹介してくれると、その人たちも松井さんの印象などの話をしてくれた。

 バットを作る名人と、そのバットで一年を野球に打ち込む松井さんとの関係とはどういうものか?

 そんなことも感じ取ってみたいと思ったが、その場では結論らしきものは出ず、ボクはその後の展示プランを作成する際になって初めて、すべては一本のホームランなのではないかと思ったりした。

 ニューヨークデビュー戦で打ったグランドスラムの時の話を思い出したからだ。

 「嬉しかったです。ホッとしましたね…」

 名人の思いのこもった一言だった……

92年秋の薬師岳閉山山行

 ※この文章は、『山と渓谷』1993年3月号に掲載された「薬師如来感謝祭 快晴の秋山行」に加筆したものです……

薬師

 北アルプス・薬師岳に初めて出かけたのは、もう10年近く前のことだ。

 恒例になっている夏山開きの登頂会に参加し、雨の中をひたすら歩いた記憶がある。

 翌日の快晴を期待しながら、太郎平小屋での豪勢な夕食と酒に酔っている間に、天気はますます悪化し、結局登頂は断念させられた。そして翌日、そのまま雨の中を下ったのだ。

 それから何年も、薬師岳はボクにとって遠い存在になってしまった。

 薬師岳の頂上に立てなかったことに対する思い残しも、いつの間にか消え失せていた。

 そして、二年前の夏山開山祭に参加するまで、ボクにとっての薬師岳は雨の中の記憶だけが残った山であった。

 それまでも、そう多くの山を登ってきたわけではなかったが、なんとなく山慣れしてきた自分にも自信のようなものが芽生え始めていた。雨の中の登行も、それなりに楽しめるという思いもあったのである。

 しかし、何年ぶりかの薬師は、またしても激しい雨の中の登行を強いてきた。仲直りの握手を求めて差し出した手を、思い切り振り払われたようなそんな仕打ちにも思われた。

 ボクは、ほとんど山は初めてという会社の同僚5人を誘い、彼らに山の素晴らしさを教えてやろうと意気込んでいた。しかし、あまりの厳しい条件に内心不安でいっぱいになっていた。

 ところが、その翌日は、見違えるような青空がボクたちを待っていてくれた。

 残雪を踏みながら、みるみる切れていく白い雲に目をやっていると、はじめに槍の穂先が姿を現した。有頂天になったボクは、パーティのみんなに「見ろ、あれが槍ヶ岳だ」と指さし、正真正銘のほがらか人間へと変身していたのだ。

 ボクの薬師岳に対する思いは、このときをきっかけにして大きく変わった。

 山は晴れてくれさえすれば素晴らしいところという自分勝手さによって、単純に薬師もボクにとっては、好きな山ということになってしまったのだった。

 それから2年後の今年、好きになった山・薬師岳に、また出かけることとなった。

 今度は夏山ではなく、10月の秋深き山行であり、なによりも薬師岳の地元・大山町山岳会が中心となった「薬師岳如来感謝祭」という記念登行会であった。

 夏のはじめに行われる開山祭で、地元・大川寺の住職が頂上に納めた薬師如来を、秋の山小屋閉鎖と同時に大川寺に戻す。その役目を地元の山岳会が担っているのだ。

 開山祭との違いは、何と言っても参加人員の少なさである。当然のことながら山では10月中旬といえば厳しい環境に見舞われる。中途半端な登山者にとっては、思わぬ事故に巻き込まれる危険性もあり、そのあたりは地元山岳会の適切なチェックがされていた。

 ボクは一般参加という立場にあったが、山岳会の会員で会社の大先輩であるTさんに連れられての参加であった。

 出発の二日前、Tさんから防寒具などの確認の電話が入った。一応準備は整っていたのだが、Tさんの入念な確認に、ボクもそれなりの対応をした。

 10月中旬の本格的な山行は何年ぶりかのことであり、かつて涸沢で味わった切ない記憶を蘇らせながら、予備の衣類などに気を配った。

 下界の天気予報では、山行予定の二日間とも雨。

 こうなれば、我慢の登行を強いられるのは覚悟しなければならない。

 ただ、今回の山行に対して、ボクはあまり天候を気にしなかった。それは、漠然としていたが、開山祭と違って少数の、しかも山慣れした人たちとの山行であるという別の意味の緊張感によるものだったのかも知れない。

 出発の朝の空は、二日前の予報に反して快晴だった。

 剣・立山・薬師のシルエットが朝焼けの空にくっきりと浮かび上がり、晴れ上がったにしてはさほど冷え込みも感じられない。絶好の秋山日和となった。

 大山町の役場の前でタバコを吹かしていると、いかにも山慣れした雰囲気の男たちがぽつぽつと集まってくる。山岳会のリーダー的存在であるKさんが、登山口までの車の配分を決めるために忙しく動き回っている。

 ボクとTさんは、大阪からやって来たカメラマン・Mさんのワゴンカーに便乗させてもらうことになった。Mさんは一見スリムで、山とは縁遠い人のように思えたが、途中の車の中での会話で、想像をはるかに超えた山屋さんであることがわかり、意外なことでつい嬉しくなった。

 登山口である折立に着くと、先発隊がすでに出発したあとだった。折立の小屋の前には、Kさんと太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんが立っている。Mさんの都合でちょっと遅くなってしまったボクたちを、ふたりは待っていてくれたのだった。

 「じゃあ、ぼちぼち行こうか……」 Kさんが余裕のある声で言った。枯葉が落ちた樹林帯の登り道は、まさに秋山の静かな雰囲気に満たされていた。

 真夏の草いきれなど忘れさせるような冷気が心地よいくらいに漂い、歩きながら交わされている五十嶋さんとKさんとの素朴な会話も耳に快く届いてくる。

 登り始めてしばらくのところで先発隊に追いつくと、一団はにわかに賑やかになった。山岳会のナンバーワンアタッカーと思われるEさんは、どうやら会のムードメーカー的存在でもあり、十一月にヒマラヤへ行くという健脚ぶりをいかんなく発揮している。Eさんの身のこなしを見ていると、もうほとんど平地との区別がないように感じられ、年齢的にはまだ若いボクを驚かせた。

 森林限界を越えた三角点のすぐ上で休憩をとり、ゆっくりと剣・立山の眺望を楽しむ。なんとなくよそ者的な自分を感じながらタバコを吹かし、会のメンバーの会話を聞いていた。

 五十嶋さんの言った、「今日でこの道歩くの今年18回目だよ……」という言葉が耳に残っていた。

 今回の山行はかなりハードな行程が組まれていた。太郎平小屋に着いて昼食をとった後、すぐに頂上を目指すという計画であって、とにかくその日のうちに薬師如来を小屋まで下ろすことが目標になっていたのだった。

 Tさんは、しんどかったらやめりゃいいさと軽く言ってはいたが、そう言われれば言われたなりに、やはり頂上へと言ってきたいと思ってしまう。休憩のあと、ちょっと出遅れて出発したボクは、やや焦る気持ちとは裏腹にゆっくりと歩くことにした。

 太郎平小屋に着いたのは正午過ぎだった。EさんやKさんはもうかなり前に着いていたらしく、外のテーブルの上には空っぽになったビールの缶が二、三本置かれている。Kさんは時計を見ながら、もう頂上へ向かう段取りをしているようだ。

 慌ただしく昼食をすませると、防寒具一式をリュックから取り出し、着込んだ。

 Kさんを先頭に頂上へと向かう。一旦、キャンプ場のある谷に下り、そこからは一気の急登となる。ボクは、キャンプ場に新しくできたばかりの真新しいトイレに立ち寄ったために、またしても遅れをとることになった。

 ようやく先行の一団に追いつきはしたが、休憩も思うように取れないまま登り続けなければならなかった。

 しばらく行くと、数日前に降り積もった雪の上の登行が待っていた。「肩の小屋」と会の人たちが呼ぶ薬師岳山荘で一息ついたが、さらにまた雪上の直登が待つ。ここはさらに切なかった。

 「往年の馬力はなくなったなあ……」と、Tさんがボクに言う。たしかにTさんがボクの前を歩くなど、これまでなかったことだった。

 やっとの思いで頂上に辿り着くと、Kさんが相変わらずの余裕の顔で迎えてくれた。

 祠の戸が開けられ、薬師如来像を直に見ながら合掌する。何度も山に登っているが、こんな経験は初めてのことだ。

 Tさんが呼ばれた。実はTさんは閉山祭にはなくてはならない存在なのだ。それはTさんが山岳会の中で、唯一お経の読める人だからであり、会では秘かに「権化さん」と呼ばれている。

 その権化さんが詠む般若心経が厳かに響きはじめると、薬師岳山頂付近が急に聖地に化した。読経が進むと、お神酒代わりのブランデーがまわってきた。小さなボトルのキャップ一杯だが、実に美味かった。

 早々に下山に移る。下りに入るとさっきまでのつらさも忘れ、今年から始めたテレマークスキーの真似事に興じた。

 太郎平に着いたのは、雲海が夕陽に染まり始めた頃だった。

 その夜、太郎平小屋は今年最後のにぎわいに沸いた。開山祭とは比べものにならない豪勢な料理が、テーブルを片付け、畳を敷いた食堂に並んでいた。中央には祭壇が作られ、再びTさんがお勤めをしたあと、全員で焼香した。

 にぎやかな語らいの中で、五十嶋さんの満足そうな顔が印象的だった。

 夜が更けても、空は明るく、かすかに薬師岳の稜線が見えていた。

 

秋、山の文化館に立寄る

吊るし柿2

 久しぶりに訪れた「深田久弥山の文化館」で、20年ほど前に書いた自分の文章三篇を見つけた。

 山の話を書くのが好きだったことを、あらためて思い出した。

 秋の色が染み込んだ館の回廊には、柿が吊るされている。庭に柿の木があって、今年はたくさん実を付けたらしい。

 案内してくれた館の女性が、「渋柿なんですよ」と、楽しそうに教えてくれた。

 以前は、この館にはよく知っているスタッフがいて、ゆっくりと話などをしたのだが、今は時折訪れても、何となく時間を過ごすだけだ。

 それでも、この場所はいい。周辺の気配も館の佇まいもグッとくる。ほんとは、もっとゆっくりできるというか、ボーっとできるくらいのスペースがあってもいいなあなどと思ったりするのだが、贅沢だ。

ミニコ~2

 数年前の暑い夏の日だった。

 太陽が照りつける旧大聖寺川沿いの道を歩いていると、どこからかオカリナらしき音色が聞こえてきた。

 特に興味があったわけではないが、その音色が山の文化館の方から聞こえてくるような気がしたので、やはり行ってみることにした。

 一緒にいたのは、ボクシングに挫折し、俳句とジャズに自身の日常を求めていた一人の青年だった。

 ボクはこの青年の持つ独特の感性に興味を抱き、彼にいろいろなモノ・コトを体感させようとしていた。

 彼は悪く言えば、世間知らずでもあった。

 しかし、そのことがまた、ボクの興味に火をつけた。そして、彼は中途半端だったそれまでの日々に終止符を打ち、一応社会人として人の役に立つことを覚え始める。

 その後、やさしくて、可愛くて知性に溢れた一人の女性と知り合い結婚もした。

 数ヶ月後には子供の親にもなる……

 夏の日差しを受けながら、山の文化館の門を過ぎると、左手のデッキにオカリナ奏者の姿が見えた。

 わずか数人の聴き手しかいなかったが、それがまたこの場所にふさわしい雰囲気を作り出し、ボクらも静かに聴き入ることにする。

 気が付くと、彼は数歩前に歩み寄っている。そして、何かに取りつかれたようなその姿を見たとき、ボクはこのニンゲンはホンモノだなと感じた。

 いつも前向きでなくては世の中面白くないということを、彼は今もボクに教えてくれている……

吊るし柿4

疲れた夜によくある雑想

スポットを浴びたような新緑

久しぶりに訪ねた友人の事務所に、山の本が、文字どおり山積みになって置かれていた。

彼は、その本を通販で、しかも古本で買う。

ジャズのCDは新品(輸入盤が多い)で買うが、本はほとんどが中古本である。

自宅ではなく、事務所に届くという点が羨ましい。

彼はその事務所で、軽くジャズを流しながら仕事をし、仕事の合間に好きな本を開いて、その世界に自分を置いたりする…のだろう。

そのような世界は、若かりし頃の自分にも憧れとしてあったものだ。

そして、そろそろ時間の先取り的に“リタイア”した後の自分を考えたりする時、少しだけ現実味を帯びてくることでもある。

しかし、あと何年かは、ひたすら微量の脳ミソをかき混ぜながら、一途にやっていかねばならないポジションにもある。

元来、性分が「やり始めると、とことんやってしまう」というタイプなので、ある意味ではかなり損をしてきたところもある。

しかし、今さら悔やんでも仕方がない。

学生時代、将来は八ヶ岳山麓に住まいして、そこでカッコよく仕事をしながら過ごそうと考えていた話は、ずっと以前この雑文集で書いた。

そこまでの回帰はないが、やはりどうせなら、山があって(見えて)、家を出たらすぐに自然があるといった環境がいい。

雪も降り、リビングから、いや縁側からでもいいが、すぐにスキーを付けて歩き出せるくらいでないといけない。

朝日でも夕日でもいいから、家に差し込んでくることもそれなりに重要だ。

庭でコーヒーを淹れ、家の中から聴こえてくるラルフ・タウナーのギターや、ヨーヨー・マのチェロなどにボーっとすると言うのも、かなり心地よいことだろう。

本も読み、文章も書き、カメラを持って歩きまわりもする。

どこかにそんな人が何人かいた。

ただ、ボクが考えるシンプルさとはちょっと違っていた。

だから、自分自身が求めることも、どこまでが真実なのか不明でもある。

誰かが何か言ってくれても、自分自身がどれだけ踏ん張っても、人生の時間的な制約は変えられない。

だからこそ、今自分が置かれている立場でとにかくやるだけやり、その後は自分を出来るかぎり解放させてやりたいと思う。

 

どっと疲れた仕事の帰り。

一杯のコーヒーにホッとしながら、こんな文章を書いている自分に、今気付いた……

詩人・大野直子さん

 大野直子さんが第22回日本詩人クラブ新人賞を受賞された。凄い。

以前に中日新聞で見ていたのだが、先日、日本経済新聞の北陸欄(写真)にも紹介されていて、お顔も久しぶりに拝見した。

ボクとの交流だけで言うと、大野さんは、小誌『ヒトビト』の大変重要なエッセイストで、その文章はボク中心のガサツな文体ばかりの中にあって、爽やかな光を放っていた。

創刊号を出した時、どこで見つけたのか、わざわざ家まで来てくれて、一年分の予約と、こういうのが出るのを待っていたんです…、私も是非参加させてください!といった強いメッセージをくれた。

当時、大野さんの存在はもちろん、その非凡なる才能にも、お茶目な性格にも全く無知だったボクは、少し面倒臭かったので適当な返事をした。

しかし、大野さんはその後、積極的に寄稿され、『ヒトビト』知性及び情操担当局長的なポジションで、無くてはならない存在となっていく。

ただ、大野さんの本当の文章の凄さは、『ヒトビト』なんかよりも、それ以外の雑誌でのエッセイ風の読み物やご自身の詩集などで発揮されていった。

ボクがお願いしたものでは、金沢市発行の「金沢のにしを歩く」という小冊子での文章がまず燦然と輝いている。

西茶屋街を起点にして旅する多感な女性になりきり、好奇心旺盛な心情が伝わる美しくて、そして、どこか逞しさを感じさせる文章だった。

ボクはそのテキストを読ませてもらった時、何だか妙に落ち着きを失ってしまったのを覚えている。

それは、それまで日常的な、主婦的な視点で周囲を見つめ、言葉を編んできた大野さんとは、まったく違う何かを感じたからだ。

演技という表現手法があるが、文章によって大野さんは役者(女優)になりきっているように感じた。

演技力と文章力は似ている。文章が演技になっている…? 大野さんの好きな鏡花の世界に似ているではないか…?

何だかよく分からないまま、ボクはこうして大野さんの凄さに圧倒されていく。

その後の、金沢を中心にして発行されている雑誌などにおける文章でも、大野さんらしい、やさしくて研ぎ澄まされた文体がとてもよいと感じた。

処女詩集『寡黙な家』は、北陸現代詩人奨励賞、中日詩賞新人賞、日本海文学大賞で佳作を受賞している。

そんな意味では、あの無責任雑誌『ヒトビト』などでの執筆に対し、大野さんの名を汚し、かなり申し訳なく情けない気分でいたのも確かなのだった。

大野さんは最近まで、お母上、お父上の看病・介護に日常の多くの時間を費やしてきた。

しかし、その中で物書きとしての本性は失ってはいなかった。それが今回の受賞になっているからだ。

ただ、今回の『化け野』と、一作目の『寡黙な家』とでは、大きく周辺環境が違っていた。

『寡黙な家』の方は、日常的で平和な主婦的視点で編まれた詩集だったが、『化け野』では、死に向かう両親を支え、見守りながらの娘的視点が色濃く映る。

いや、映るなどといった曖昧な表現ではない。しっかりと刻み込まれているといった方がいい。

これらの苦痛や絶望や怒りや、その他多くの悲観的な要素の中での創作には、あらためてアタマが下がる。

そして、大野さんは間違いなく強いオンナであり、強いヒトになっているに違いない。

勝手な期待はいけないのだろうが、まだまだ、かつての大野直子調で綴ってもらいたい“もの”や“こと”が、この世の中にはたくさんあるような気がしている。

しかし、それはあくまでも小さな、控えめな期待だ。

家のポストに入っていた、ちょっと膨らんだ茶封筒。

中を開けると、一冊の本。もちろん『化け野』だった。

雨の中、わざわざ届けてくれたみたいだった。

後ろから、そして、そのままランダムに読んでみる……。

しかし、当然、自分の中では取掛かりになる言葉すら見つかっていない。

ひょっとすると、永遠に見つからないのかも知れない。

とても重いものが、深いものが、濃いものが、遠いものが、言葉ひとつひとつに託されているように感じる。

だから、これ以上は書かない。

とりあえずとして、大野さんには、もう一度「やっぱ、凄いなあ」とだけ言っておこう……

奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ

この文章は、1998年5月に創刊したプライベート誌『ヒトビト』に綴ったものだ。ほんのちょっとだけ加筆した。

「ヨーク」のマスターとして、多くの人たちに愛された奥井サンが、亡くなる五年前に語ってくれた自分自身の一部だ。

暗い開店前の店で、途中からノリが悪いからとビールを飲みながらのセッションになった。

6月17日は、奥井サンの命日だ。そして、奥井さん夫妻の結婚記念日でもあった……

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「ジャズ人生から ジャズ的人生へ」 ~ 近くでトーク

●八尾に生まれる……

金沢の東部にある神宮寺という町から、奥井サンは歩いて香林坊の自分の店へとやって来る。所要時間は約一時間、ひどい雨降りや特別なことがないかぎり、とにかく歩くことにしている。

ただ歩いとるだけや

と、奥井サンは言う。見る方からしても、いかにもただ歩いているだけのように見えるから、やはりただ歩いているだけなのかも知れない。

しかし、実は意外(失礼だが)とそうでもないのだ。やはりと言うか、さすがにと言うか、とにかく、奥井サンはただ歩いているだけではないのであった。

奥井サンは、昭和19年(1944)10月22日、富山県婦負郡保内村字松原に生まれた。風の盆で有名な現在の八尾町である。ちなみにイチローと同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山市内に出た頃からジャズに染まり始め、それ以後、今日に至るまで、ジャズとの付き合いが続いている。

『 オレも小さい頃は子供やったんや。電気も水道もない、山の中の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。

 東京で、和菓子職人の修業をしていたおやじが、体が弱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった土地を譲り受け、そこに家を建てた。

 そこら辺は、引き揚げ者や農家の次男坊、街からの入植者などが開いた所やったんやな。

 電気がないから、ランプ生活。水は手押しポンプの井戸やった。スイカやトマトが冷たくて美味かったわ。

 晴れ渡ると、目の前に立山連峰が広がって、毎日その雄大な景色を見とったせいで、視力は4.0やった(当然測っていない)。今も目はいいんや。

 小さい頃、何をして遊んでいたか覚えとらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。下(の村)まで行かないと、子供もいなかったし…。小学校に入るまで、字は読めんかった。

 町に近い所におふくろの里があったんやが、そこまではアイスキャンデー屋が来た。そこまで来るんやけど、そこでみんな売り切れてしまって、うちまでは来ないんや。だから、夏おふくろの里へ行くのが楽しみやったなァ。

 魚の行商というのも来たわ。朝の早くに町を出て昼頃にうちの辺りへ来るんやねェ。それでうちが最後やから、売れ残ったもん全部置いていくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べとったな。魚の行商人は、それからうちで弁当を食べるんや。そして食べ終わると、夕方近くまで昼寝をした。そして目が覚めると、「あんやと~」と言って帰って行く。

 なんか、今から考えると、のんびりとした時代やったんやねェ。おやじの小学校の同級生に、町で床屋をやっている人がいて、その人が二ヶ月に一回ぐらい村にやって来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登って来るんやね。今で言うボランティアだったんか、それとも商売だったんかは知らんけど、とにかく、そんなとこでオレは育ったんやわ。

 初恋? そんな相手もおらんがいね…… 』

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17歳で富山市へと出た奥井サンは、ジャズと出会う。当時ジャズファンの間で人気のあったNHK・FMの「ジャズ・フラッシュ」という番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の中で育った奥井少年にとって、ジャズとは一体何だったのだろうか?

『 ジャズが好きになったってことだけやね。何となく、自然に身に付いとった。もう死んでしまった巨匠たちが、その頃は現役のバリバリやったしね。

 ニューポート(富山市のジャズ喫茶)に出入りするようになり、常連になっていくうちに、何となく店を手伝うようになったんやわ。それで、そのまま従業員として働くようになって……』

奥井サンは、当時住み込みである仕事をしていたが、どうもそちらには本腰が入ってなかったらしい。ジャズとの出会いは、そんな奥井サンにとって、新しい何かの発見だったのかも知れない。

『 もともと何か目的があったという訳でもないし、そういうものがあったとしたら、富山ではなく、東京へ行ってたかも知れんね…』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコードを持っていたという。すでにかなりのジャズ通になっていたようだ。

そして、24歳の時、「ニューポート」が金沢に店を出すことになり、その店の店長として金沢へ行くことになったのである。

「ヨーク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのジャズ人生がスタートする。

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●金沢のジャズのメッカへ

ヨーク片町の開店は、1969年の12月22日。マイルス・デイビスが歴史的な名作「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、ジャズ界が大きな転換期を迎えようとしていた年だ。

もちろん、そんなこととヨークの開店とがリンクしているのではないが、とにかくジャズがハゲしく熱気を帯び続けていた時代、そんな時代に、ヨークは金沢に新しい風を吹き込んだのである。

当時、金沢には「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ヨークより二年前にオープンした聴かせ派の店で、狭い店内にJBLの名器から弾き出されたジャズが蔓延する、密室っぽい雰囲気に満ちた店だった。

ヨーク片町もまた、当時のそんなジャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば百人は入れる広いスペースを持っていた。ライブをやる時には、テーブルの間に丸椅子を置き、立ち見も入ると、立錐の余地もないほどまでに客で膨れ上がった。

『 片町時代は。完全なリスニングルームやった。当時はやはりジャズを聴く人間がたくさんおって、コーヒー一杯で二、三時間というのが普通やったね。メニューの種類なんてコーヒーとコーラ、それに紅茶とミルクぐらいや。酒はビールぐらいやったな。

 今みたいに、客としゃべったりする必要もなかったから、カウンターの中のターンテーブルの前で本ばっかり読んどったわ。活字中毒になったのも、そんなとこからかも知れん。純文学はもちろん、手当たり次第、何でも読んどったって感じやね… 』

片町時代の奥井サンには、突っ張った一面があった。リクエスト・アルバムのA面・B面が指定されていないと、敢えてB面をかけたりした(筆者もやられたことがある)。

70年代の中頃に、ジャズファンのみならず広く大ヒットし、その後のソロピアノ・ブームの火付けとなったキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」などは、あまりのリクエストの多さに、そのレコード自体を店に置かないことにしてしまった。それでもファンは集まったのだ。

『 昔のジャズファンと言うのは、ジャズ一辺倒が多かった。一旦、オレはジャズファンだと言ってしまうと、後へは退けないという雰囲気があった。

 他のジャンルの音楽を聴いとっても、聴き方が違うんやね。特に当時の若い連中には、そんなコダワリが強かったわ。(ジョン・)コルトレーンのハゲしいのを聴いていながら、歌謡曲なども聴いてた者もおったやろけど、何でか、ジャズになると皆それなりに一生懸命やった。だから、こっちも突っ張れたんや。

 オレは、決して啓蒙的なマスターじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざと反対の意見を言ったりしたこともあったしね…… 』

当時の店ではよくライブが行われた。特に山下洋輔トリオは、オリジナルの最強メンバーでヨークへ乗り込んできては、とてつもなくハゲしく、そして徹底的に愉しいコンサートで盛り上げてくれた。

コンサートホールでのライブも、今とは比較にならないほど行われており、あのマイルス・デイビスが金沢の観光会館ホールで繰り広げた圧倒的な演奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そして、そんなコンサートがあると、ミュージシャンたちの多くがヨークを訪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな彼らとの写真はおろか、サインなども全く残されていない。

●香林坊へ

1984年12月、ヨークは香林坊の日銀裏へと移転した。十五年を経ての移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ジャズをガンガン聴かせると言う雰囲気も薄くなっていった。営業主体も夜型へと移行した。

若者だったジャズファンは結婚し、家庭をもち、ヨーク(ジャズ)から離れていかざるを得ない者もいた。そして、ジャズというよりも、ジャズを受け入れる社会そのものもまた、はっきりと様相を変えようとしていた。

『 まだジャズの店やっとるという強い意識を持っとったけど、昔ほどではなかった。突っ張っても返ってくるものもなくなったしね。客商売としての難しさも見えてきたんやわ。ジャズファンも含めて、軟弱になっていったんやねェ。

 突っ張り学生も来なくなった。生意気なのもね。サラリーマンとなって、仕事に追われ、家庭サービスにも気を遣うようになっていくと、気持ちがジャズ的ではなくなるんやね。

 金沢の大学にいた時によく来てたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たまに出張で金沢に来ると、必ず寄ってくんやね。そして、決まってリクエストするんやわ。家に持っとるレコードなんにね。

 要するに、家はジャズを聴く場ではなくなったということなんやな。ところが面白いことに、そうやって比較的若い人たちよりも、さらに年配になってくると、子離れもすんでゆとりが生まれてくる。今更カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう一度ジャズでも聴いてみようかといった人たちも出てくるんやね。

 仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次会や三次会のあと、ひとりになってやって来るんやわ。そして、たまに部下なんかも連れてきて、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ジャズのこととか、学生運動時代のこととかね…… 』

香林坊に移ってから、ヨークはコミュニケーションの場的匂いを強めていく。奥井サン自身も、ジャズ的な感覚で得られるさまざまな愉しみなどに手を広めていった。

『 シャイな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ジャズもおかしな風に流されていったように感じるんやね。ジャズって下種(ゲス)な音楽やったもんや。それが何だか、気取って、大人ぶって聴かなければならんものになってしまったもん。

 何にも分かっちゃいない連中が、ジャズを変な風に解釈してるんやわ。ジャズが好きやから、ジャズなら何でもいいと言うのとは違うんやけど、どうもそこらへんがおかしいんやね。

 だから、最近金沢でやってるジャズのコンサート行っても感動せん。ジャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でジャズを語りたくもないけど…

 ジャズの店には、ジャズの店にしかないことってあるんやねェ。例えばレコードのジャケットを見せることとか。ジャズの話を始めたカップルがいると、ちょっと変わったものをかけてみる。ジャケットを見ることで話も弾むんやわ…… 』

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●ジャズ的人生の始まり

ヨークには個性的なニンゲンが集まる。特に香林坊に移ってからは、ジャズそのものよりも奥井サンとのコミュニケーションを求めて来る客が多くなった。個性的なマスターに、個性的な客が集まるという典型だ。

『 毎日、同じ日がないという愉しみを知ったね。同じ客が来ても、同じ愉しさは生まれないけど、別な愉しさは生まれる。毎日がジャムセッションなんやね。

 でも、最近、若い女の子があまり来なくなったな。昔の娘さんばっかり。現役の娘さんが来なくなって、古いのばっかりやね……』

奥井サンの雑学博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、記憶力もかなり凄まじい。活字中毒がもたらした知識の蓄積と、興味をもったものに対する飽くなき追究……?

『 だいたい五時半頃に店開けるんやけど、始めの時間帯って客も来ないわね。そんな時、独りでカウンターの椅子に座って、本読んどるんやけど、そのままなかなか誰も来ない時がたまにあるんやわ。

 そんな時は、活字中毒に火がつく。とにかく何でも読むんやわ。棚に置いてあるものを引っ張り出してね。

 広辞苑だろうが、植物図鑑だろうが、とにかく何でも、広辞苑は飽きないし、読み尽くすということがないからいいねェ。

 読むものは古いとか新しいとか、和洋など問わないで、とにかく面白いと思った本を買って読むんやね。時折、中味が難しすぎて、一日数ページしか進めなかったということもあるけど、それもまたいいんやわ…… 』

黒髪をアップで束ね夏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやってきた。俳号は「酔生虫」という。これは「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉からとったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、また夢を見ているように、無意味に一生を送ること」ということだ。

しかし、実に全くこんなに的を射たネーミングはないと思ってしまう。言葉の意味はもちろんのこと、こんな言葉を探し出してきた奥井サンらしさに敬服してしまうからだ。

『 俳句は、きちんとした会の中で始めた。その後は、店の中で客たちとやるようになったけど、とんでもない理屈こきが多くてね。先生の言うことなんか全然聞こうともせん。ほんとにまあ、たちの悪い門下生ばっかりやわ。

 ここ十年ぐらいの間に、いろんなことをやるようになったね。山野草にも相当のめり込んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きとるね。母親からもいろいろな名前を教わっていたせいか、目に見える花の名前は、ほとんど知っとったもんね…… 』

奥井サンは、よく酔っ払う。

店のマスターなのに、かなりハゲしく酔っていたりして、客なのかマスターなのか区別がつかなくなったりする。だから二日酔いの日も必然的に多くなる。

しかし、奥井サンは奥さんと一緒によく近場の低山へと出かけているのだ。バードウォッチングへの傾倒も、その延長線上にあったものだろう。

『 ヨークは、自然に趣味の話が出来る場になっとったねェ。別にグループを作って、何かやろうというのではなく、各個人のこととしてね。

 今、カメラやっとるけど、あれも奥が深いわ。最近あんまり撮れんようになった。前は何でも撮っとったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし…… 』

奥井サンの写真には、何か独特な雰囲気がある。それが一体何なのかというと難しいのだが、技術などといった俗な評価軸では済ましたくない。そして、それもまた、少年時代の奥井サンに沁み込んだままの何かなのかも知れない。

『 基本的にあるもんは、自分で愉しむってことなんやわ。それができんかったら、何も意味ないわね。他人に強制したりもせんしね、面倒くさいことも、とにかくしない…… 』

あの人は、現代の仙人みたいや…と、奥井サンのことを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街という煩雑な空間の中に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに左右されない何かが潜んでいる。

『 休みかあ…、そんなもん考えたことないなあ。毎年、大晦日から元旦の朝にかけてオールナイトやって、元旦の夜だけは店閉めるけど、あとは全く休まんね。休みという感覚そのものがないんやわ。

 旅行なんてものも、ほとんどしたことない。新婚旅行も行ってないし、大阪(奥さんの実家がある)へも、結婚後一回も行っとらん…… 』

金沢に来て三年後、27歳の時に奥井サンは結婚している。優秀な息子が二人。当然二人とも成人している。

『 分かるやろけど、とにかく父親らしいことはしてないんやわ。教育なんて認識はナシ。夜は全く家にいないし。行楽などもない。

 母親の教育が良かったんやろと思うけど、父親を軽蔑するような息子たちではなかったね。意見がましいことも言わんし、そんな意味じゃ、二人とも男でよかったわ。

 「お父さんは、のんびりしてていいねえ…」なんて生意気なこと言うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡まれて大変なんやぞ。だから、それを紛らすのに酒を飲むんや」などと、言い返したりする。説得力なしやけどね。

 でも、「お父さんは好きなことやってればいいよ」なんて、いいこと言うしねェ。やっぱ、頭が上がらんわ…… 』

来年(1999)の12月で、ヨークは30年になる。今でも新しい客が訪れ、潜在的な部分でヨークは確実に変化している。

奥井サンは今53歳。いつもオープンな店でいたいと言う。“個性派の集まり”という店の個性も奥井サン自身が作り上げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどといったも考えていない。にじみ出てくるものというのは、単なる店の内装だとかといった単純なものからではないということを、奥井サンが教えてくれる。

『 元気なうちは店をやっていく。でも、そんなことも考えたくないね。ジャスを広めたいという気持ちもないし、息子たちにもそんなこと求めんわ。

 ジャズの店はもう再生しないと思うんや。音を絞ったりして聴くジャズは、やっぱりちょっと違うんやね。ライブでもパワーが感じられない演奏を、皆がそんなもんかと聴いとるわね。あれはもうオレにはジャズじゃない。

 もっきりや(ヨークの二年後にオープンした金沢柿木畠のジャズの店)は頑張ってるけど、やっぱり昔みたいに、大きなホールで、バリバリなのがコンサートやるようにならんと、金沢のジャズシーンは元に戻らんわ。それも、むずかしい話やけど…。

 これから? 

 これからは、ますます趣味の世界やし、死んだら終わりやけど、死ぬまでは店もやる。毎日は愉しいね…。やっぱ、ジャズ・フィーリングなんやねェ。

 いつやったか、もう店やっとるのがイヤになったことがあるんやわ。

 その時、(山下)洋輔さんから、「毎日、違うお客さんが来て、毎日、アドリブですね。そういうことを愉しみながら、毎日、エヘラエヘラとやっていけばいいんじゃないですか。金沢にヨークがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第一、儲けようなんて思ってないでしょ…」なんて言われてね。

 金はあった方がいいけど、たまに若い女の子も来るから、また頑張るかなって思った。

 あんまり、面白い話にならんかったねェ…… 』 (終わり)

・・・・・・・ いつも普通に話していたのだが、その日の会話は特別なものだった。

二時間半の、特別な時間。そして、セッションは終わったのだ……

ヨークは、今も香林坊日銀裏で奥井サンの妻・禎子さんによって営業を続けている・・・・・・

2月。立山山麓の穏やかな午後

立山山麓の「ロッジ太郎」へ、忙中閑あり的速攻で行って来た。

北アルプス「太郎平小屋」のスキー場版ロッジで、極楽坂スキー場に爽やかなレモン色の建物で佇んでいる。

立山インターから立山方面へと向かい、山深く入ってから、立山大橋を渡るとすぐ目の前だ。

天気は申し分ないほどの快晴。寒くもない。積雪は1m以上ある。

本当はいけないのだが、立山大橋のド真ん中でちょっとだけクルマを停め、カメラを手に下りてみた。

相変わらず素晴らしい眺めだ。当然この季節は銀世界が広がっている。

下流方向には黒い川筋が伸び、青空に飛行機雲がくっきり見えている。

上流方向には、青空に映える大日岳の真っ白な頂が美しい。

ロッジに着くと、駐車場に子供たちがあふれていた。スキー遠足なのだろうか、にぎやかだ。

御大・五十嶋博文マスターが、にこやかに迎えてくれる。

スキーシーズンはずっとロッジにいて、相変わらず多忙な日々を過ごしているみたいだ。

なにしろ、五十嶋マスターは全日本スキー連盟などの役員をやってきた人だ。

今の体形から想像するのはかなり厳しいが、スキーの腕前は並はずれている。

下の写真は、薬師岳(2926m)の頂上直下、金作谷カールを滑るマスターである。もちろん今よりかなり若い頃だが、想像を絶する急斜面であることは言うまでもなく、技術に度胸が付いて回らないとできない芸当である。

「おお、来たか。飯は?」と、マスター。

「途中で済ませてきました」と答えて、奥の喫茶室の方へと向かった。

実はそろそろ今年の山岳シーズンに向けて、太郎平小屋のガイド(パンフ)を再整理しなければならず、ついでがあれば寄ってくれと前回訪問した時に言われていた。

マスターから、原稿の修正箇所などが記されたペーパーを見ていると、最近では太郎平小屋の新しい顔となっている一樹さんが現れた。

直接メールをくれたのは一樹さんだ。精悍な顔立ちの一樹さんは、北米の最高峰マッキンリー登頂の経験をもつ。

太郎平小屋の将来を、そのガッチリした背中に負っている。

いろいろと写真の選択などをしているうちに、Facebookの話になり、“友達”になろうということになった。実は前から検索をしてはいたのだが、名前が英文字になっていたためにヒットしなかったことが分かった。

マスターの実兄・一晃さんがまた本を出していた。

その名もズバリ『越中 薬師岳登山史』。

まだ内容は読んでいないが、キメ細かい調査に基づく記述がびっしりと詰まっている。

一晃さんの旺盛な文筆意欲は、知っているかぎりこれで三冊目の出版となっている。

山への愛着の深さには脱帽だ。

 

帰りには、自家製という“わさび漬け”をいただいた。

休憩中のスタッフに交じって、マスターの奥さんのお顔も見え、立ち上がって挨拶された。

いつ見ても、本当に仲がいいというか、自然体の家族やスタッフたちだなあと思う。

マスターに挨拶して、こちらは慌ただしく、バタバタとロッジを後にした。

空は薄青く、明るい陽を受けた雪がまだまだ眩しかった……

じっくりと能登に浸る

二月だというのに日本海は穏やかに凪いでいた。

能登有料道路をM子Kタローの運転で、まずは志賀町へと向かっている。

助手席に乗って、ゆったりと凪いだ海が眺められるのもいいものだ。

久々の能登半島・ヒトビトめぐりだ・・・・・・。

志賀町は、いつもの図書館へ行き、これまたいつものM・Kコンビと打ち合わせ。

図書館は今一部改装中。隣の文化センター二階に仮設図書館が開設されていて、まずそこへと向かう。

事務所は三階にあり、Mさんこと森さんと、Kさんこと金井さんがいた。温かいコーヒーと小さな大福がお盆に入れられて出てきた。大福がかなり美味い。どこに売っているんですかと聞いてみると、かほくイオンと言われてちょっと拍子抜けした。

ここでは三月二十七日の再開に向けて、二階に開設するギャラリーのディスプレイなどをお手伝いする。

今までの企画展的活用ではなく、今度は常設。志賀町が生んだ“イケメン画家”南政善の作品を掲示し、その人物像も紹介するのだ。

森さんの独壇場的企画に基づいて、ボクらはそのアシストをする。

現地で概要がつかめた段階で、ひとり改装中の閲覧室へと下りた。

誰もいない本棚の間をじっくりと歩いてみた。とてつもなく多いというほどではないが、それでもこれだけの本が周囲にあると、ちょっとした興奮に陥る。

気になる本があると、すぐに手に取ってみる。先が長そうだから、じっくりと読んだりはしないが、パラパラとめくっては次の本へと手を伸ばす。

途中でそんな読み方にも疲れてきて、最後は挫折。だが、贅沢なひとときだった。

昨年製作した、志賀・富来出身の文学者や芸術家たちのタペストリーも、今春から掲示していく。これはなかなかいいものだ。いい企画だったと自画自賛。

昼飯は、近くの温泉施設の食堂で手作り定食をと出かけたが、メニューを見て急遽変更。ボクにとっては昨夜と同じメニューだったからだ。M子Kタローはそれでもいいと言ったが、却下。そこからすぐの中華の店へと移動した。

ボクがチャーハン大と言ったのに、身の程知らずのM子Kタローはカニチャーハン大などをオーダーする。さっきの腹いせだろうか。それなりに美味かったが、店の中が寒いのにはちょっと困った。

再び能登有料に戻って、輪島へと向かう。羽咋あたりではほとんどなくなっていた雪だが、さすがに穴水から輪島にかけての山沿いでは多い。

輪島では漆器販売の「しおやす」さんへと顔出し。

しおやすさんも、春の完全オープンに向けて改装工事が始まった。部分的に営業しながら店のイメージを変えていく。

最初に提案させていただいてから五年がかりだろうか、ようやく一歩踏み出した感じだ。

ボクとしては、単に店を直すということ以上に、しっかりと見つめていきたいこともあり、これから夏場にかけての“店の顔づくり”みたいな方向を模索している。

輪島塗のことは、いろいろと勉強させてもらった。ボクなんぞ及びもつかないむずかしい問題もあるみたいだが、輪島には前向きなヒトビトもたくさんいて、それなりに面白そうだ。

店や作品(商品)についても、それぞれのスタンスで個性化が進めばいいのではと思う。

カニチャーハンが合わなかったのか、M子Kタローがしおやすさんのトイレに入ったきり出てこない。

スッキリした顔でようやく出て来ると、すぐに国道249号線を山越えする。門前黒島の角海家へと向かうのだ。

空は薄曇り。広々とした田園地帯が真っ白な世界に変わっていて目を奪われる。

道下(とうげ)あたりから目に入ってくる海も、見事に穏やかだった。

角海家の前で、保存会のK端会長と今年初めてお会いした。取材の打ち合わせ中みたいだった。

中に入ると、YさんとKさんがお留守番中で、Yさんが広間にお雛さんが飾ってあるよと言う。

さっそく上がらせてもらい、拝見。昭和初期に作られたという、まだ不完全な雛人形たちだったが、それでも十分な貫禄を示している。

実は角海家には江戸時代に作られたものがあったらしいのだが、今は東京にあるとのこと。惜しいねえとYさんも話していたが、こんどの三月三日には、何か雛祭りらしい行事をやりたいと意気込んでいた。

Yさんがコーヒーを淹れてくれて、海の見える部屋の炬燵を囲み、しばらく「ふるさと談義」に暮れる。

昔の風習や、子供の頃の思い出話などを二人が語ってくれた。こういう時間を共有できるのがいい。

イベントをやろうという話も、少し具体性を帯びてきて、二人の表情も明るい。

まだ暗くならないうちにと、角海家を出たのが四時過ぎ。海は相変わらず見事なくらいに静かで、深見という入り江の地区に回り込む岬も、くっきりと浮かんで見えていた。

 

旧門前町剱地から、仁岸川に沿って山道に入る。いつもの富来へと抜ける道。

雪は道にまだ残っているだろうが、せっかくだからと行ってみる。

運転手のM子Kタローが、山の深さに驚いたりビビったりしながらクルマを進める。アイツも能登の山里の魅力が少しは分かったことだろう。

羽咋・滝のロードパークに寄って、久しぶりに夕陽がきれいな田園風景を見た。葦が逆光に映えている。

Nikonを持ってこなかったのを後悔しながら、CONTAXで撮影。先着の若い女の子もひとり、小さなデジカメを構えていた。

汐風の市場・滝みなとにO戸さんを訪ねる。

時間は五時過ぎ。マスクを付けていたせいか、入ったすぐには気が付いてもらえなかった。

柿木畠ヒッコリーのM野さんが、先日わざわざ自宅まで届けてくれた油揚げがあったので、豆腐と薄あげと一緒に購入。

志賀町の豆腐屋さんが一旦店じまいしたということだったのだが、体調を壊していただけで再開したとのことだった。その話を聞いたM野さんが、わざわざすぐに買いに来たというのだ。そして、我が家にもおすそ分けしてくれたのだ。

M野さんも相変わらず、凄いリアクションだと嬉しくなった。

O戸さんから面白い話を聞いた。それは何と海水が売れているということだった。滅菌した滝の海水が、いろいろな用途に使われ始めたらしいのだ。

少しだけ飲ませてもらった。子供の頃、ゴンゲン森の海で思わず飲んでしまった、あの時のような濃い塩の味がした。風邪の予防にもなりそうだった。

そして、その水を利用したカレイの日干しも買った。手触りがソフトで新鮮な感じのする日干しだった。(タイトル写真)

今流行の「塩糀」も売れているらしい。海藻なども滅菌海水を使って新鮮な味で提供できるとのこと。それと前にも紹介したナマコもたくさんあった。

O戸さんも相変わらず元気で頼もしい。ズシリとした大人の雰囲気と、少年のような探究心が同居していて、ついつい話に引き込まれていく。

何よりも、地場スタンスであるところがボクは好きだ。

夏にはこの港周辺で何かイベントらしきことをやりたいと、以前から話し合ってきた。何とかサポートしたいと思う。

もうすっかり夕暮れだった。湾の中の水面はまったく波を立てていない。

こんな静かな海も久しぶりやわ…とO戸さんも言っていた。

長いようで短いようで、短いようで長いような・・・そんな一日が終わろうとしていた。

明日は早朝の電車で東京だ…。だが、とりあえず今夜は、今日のいろいろな出会いの余韻にひたることだけ考えよう…ということで、O戸さんにも「頑張ってください!」と声をかけて去った。

みんな、頑張ってるんだなあ……

金沢らしさは、日本らしさだった

竹林

 もう古い話で、金沢市やいくつかの市町村で観光CIやサイン計画などの仕事をしていた頃のことだ。

 ボクにはJというアメリカ人と、もうひとり彼ほど親しくはなかったが、彼の友人でG(だったと思う)というドイツ人の友人がいた。

 ある人の紹介で、金沢の飲み屋さんで知り合った。

 二人は金沢に住み、特にJは金沢のまちにかなり融け込んだ日々を送っていた。

 お察しのとおり、ボクの英語は、彼らの日本語ぐらいで、むずかしい表現は分からなかった。

 互いに日英の会話を勉強(ボクはそれほどでもなかったが)していたといった方がいい。

 観光の仕事の中でモニターをしてもらう時には、あらかじめ日本語のテキストを渡しておくと、彼らは自分で英訳(Gも日常は英語だった)した。

 二人ともかなりのインテリだったから、予備知識もかなり広く深く叩き込んでいてくれた。

 そして、レポートを書いてくれると、こちらが和訳した。

 Jは、凄く金沢びいきのオトコだった。

 というのもビジネスで東京に転勤で来た時に、日本の文化にショックを受け、もっと深く日本を知りたいと思ったという。

 それで詳しい経緯は忘れたが、誰かに日本を知るなら金沢へ行けと教えられ、金沢に来た後すぐに会社をやめて、金沢に住み始めたと言った。

 収入は英会話の講師料などだったが、両親が大学教授と弁護士とかで仕送りもあったのだと思う。

 いつも大きなザックを肩にかけ、当時としてはめずらしい電子辞書を手にしていた。

 彼らとは、まず羽咋市の曹洞宗の名刹・永光寺(ようこうじ)に出かけ、まだ今のように整備される前の永光寺の森で、ひたすらボーっとしていた?のを覚えている。

 彼らは永光寺を絶賛した。寺の建築的な魅力自体ではなく、森や水の流れや石段やその他、ボクが予想していた以上の、深い感想をレポートに書いてきた。

 残念ながら手元には何も残っていないが、特にGのレポートは、ちょっと哲学的だったような記憶がある。

 永光寺はその後、周辺整備が一気に進み、今のような素晴らしい環境になったのだ。

 金沢については、仕事そのものよりも、余暇の時間にぶらぶらと出かけた場所の方が印象に残っている。

 特に印象深かったのが、竹林のある別所というところと、卯辰山の中腹にある卯辰三社(前田家にゆかりのある三神社が建つ)へ出かけた時のことだ。

 別所が観光地であるという認識は、金沢の人にはないと思う。

 筍の季節でない時には、特に用事もなかったりする。

 実際に三人で行った時も、ただクルマを走らせているだけで、あっという間に通り過ぎてしまった。

 彼らはどこかで降ろされ、竹林の中を歩けると思っていたのだろう。

「降リナイノ?」とJが言ったかどうか、Gもそんな感じの顔をしていた。

 ボクは多分その時、「これだけだよ」と言ったはずだ。それにたまたまこの辺りまで来ただけという思いもあった。

 卯辰三社も、途中の苔むした長い石段がちょっと危険で、さらに夏には薄暗い坂道に蚊の大群が発生するという難所?だった。

 そこへ敢えて行ったのは、石段の風情がもともと気に入っていて、そこを見せてやろうと思ったからだ。

 とにかく少し登ったところの曲がり角で、上を見上げて戻ればいいと思っていた。

 ところが、二人とも石段を登ろうという。

 そして、ボクたちはゆっくり、それぞれが少しずつ間隔を置いて石段を登って行った。

「素晴ラシィー。サスガ金沢デスネェ~」 うしろから声がした。

 この石段は、その後にも金沢の三寺院群を歩く道の取材で再認識することになり、そこで出会った旅行者の青年が、やはり金沢は凄い!などと同じことを口にしていた。

 数日後、木倉町の居酒屋で金沢観光についての感想語りが始まり、その後、日銀ウラ「 Y 」でウイスキーを飲みながら続けた。

 その日は茶屋街の話をする予定だったと思うが、それよりも、二人は別所の竹藪と卯辰三社に通じる石段に強く魅かれたと言った。

 よく分かったのは、彼らは敢えて「金沢的なもの」を求めているのではなく、「日本的なもの」を求めていたということだった。

 金沢は日本的だからこそ、人気のもとがあるということなのだろうかとその時思った。

 その頃はまだ、大河ドラマで「利家とまつ」が放映されるなど、夢のまた夢のさらにまた夢ぐらいな時であったし、今のような海外からの観光客なども全く想定していない。

 だから、「日本的」などといった考え方は全くなかったと言っていい。

 その後、大河ドラマを経て「公家の京都」「武家の金沢」といった、日本史全体的視点からの話が金沢だけでちょっと盛り上がったりしたが、それも大したことはなかった。

 ボクにとっては彼ら二人だけの感覚でしかなかったが、先に書いた羽咋の永光寺の話を加味してみても、やはり日本的であるということのインパクトはかなり大きいと思えたのだ。

 そこらへんを履き違えて、金沢、金沢と声を張り上げていても、外国人は理解してくれない気がするなと、その時思った。

 何年か前、観光関連の人から、この話の場所を確認したいと電話が来た。

 教えはしたが、それなりの準備が要る。季節も大切だ。

 アジアの金持ちの人たちは、買い物が主で、日本的なものとしては鎧や兜や日本刀も欲しがると、東京の人に聞いたことがある。

 歴史や風土はまだまだ理解してもらえないだろうと。

 秋葉原の電気屋の空きスペースに工芸品を置くと、確実に売れるよと言った人もいた。

 石川の伝統工芸であれば、間違いなく売れるのかも知れない。しかし、そこまでする必要はない。してもいけない。

 ところで、金沢を離れたらしいGの消息は簡単に途絶えたが、Jとはそれから後も長く続いた。

 最後は中国に渡り、北上してシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに着いてから、再びアメリカに戻ると言っていた。

 今頃はアメリカで弁護士になっているはずだ。

 飛行機で日本を発つとき、突然会社に電話が入った。

 早口なのと、顔が見えないのとで、何を言っているのか分からず、結局、

 「Good luck  J!」とテレながら言っていたのだけ覚えている。

 彼が今いたら、金沢をどう語るだろう。

 また彼らと金沢のまちを歩いてみたいと、ときどき思う……

みねさんは、やっぱドルフィーだ・・・

 

1月28日土曜の北國新聞朝刊に、「一調一管」の乃莉(のり)さんと、峯子さんが紹介されていた。以前にもNHKが制作した番組で二人のことが紹介され、その反響も大きく英訳されて世界で放映されたというから凄い。

今更必要ないかとも思うが、県外の読者の皆さんのために書いておこう。

この二人は、金沢のにし茶屋街で茶屋を営む間柄であり、それぞれが鼓と横笛の名手でもある。

「一調一管」というのは、打楽器と笛とのデュオ(二重奏)をさすが、二人の演奏は凄まじいくらいの緊張感にあふれていて、最近金沢の街中で開催されているジャズ何とかの連中のよりも、はるかに“ジャズ的音楽”である。いっそのこと、そのジャズ何とかに出てもらって、金沢のジャズ的感性の粋を街の人たちに感じてもらうのもいいかもしれない。

特に峯子さんは、まるでE・ドルフィーであって、彼のフルートに負けないくらい、峯子さんの横笛の音には全身を凍らせるようなシャープさがある。

 

ボクにとって、その峯子さんには懐かしい思い出がある。

それは、にし茶屋街に平成8年(1996)にオープンした「金沢西茶屋資料館」の仕事に関わっていた頃のことだ。

その資料館では、一階で大正時代、20歳にして『地上』という大ベストセラー小説を発表し、一躍時代の寵児的地位にのし上がった島田清次郎の生涯を紹介している。

清次郎の祖父がかつて茶屋を営んでいたところで、現在の白山市美川に生まれた清次郎が、父を失い、まだ幼い頃に母と二人この茶屋に移り住んだ場所だ。検番の隣り、甘納豆のかわむらさんのお向かいさんになる。

清次郎のことは最近になってそれなりに知られるようになっているが、ドロドロしたところは不鮮明なままだ。

極貧から這い上がり英雄になったはずの清次郎は、『地上』による大出世後の傲慢な言動などから、世の中を敵に回すようになり、最後は狂人扱いされたまま、31歳の若さで死ぬ。

清次郎研究の第一人者である小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)は、最後に収容(監禁)されていた保養院から出した手紙(徳富蘇峰あて)に、清次郎の思いがすべて凝縮されているとされた。ボクもそう思った。

清次郎はもう一度、世の中に戻って頑張りたかったのだと……

そのことが展示ストーリーに色濃く映し出されている。

実を言うと、ボクは学生時代、東京で『地上』を読んでいた。本好きだった金沢の友人が、読んでみない?と貸してくれたのだ。しかも、その後、清次郎の生涯を題材にして書かれた『天才と狂人の間』(七尾市出身の杉森久英著で直木賞受賞)という本まで貸してくれて、ボクは非常に稀な清次郎通になっていた。

そのことに小林先生も驚かれ、今でもボクのことを可愛がってくれているきっかけになったのだ。

 

ところで、清次郎の歪んだ精神には、幼い頃から見てきた茶屋での芸者たちの扱いなども反映していると言われるが、そのことを頭に置きつつ、実際に現在の茶屋の女将から話を聞くというのは複雑だった。

資料館の二階には、茶屋の雰囲気が再現された一室がある。

その部屋の手前に、木板の上に記されたちょっと長めの文章があるが、それはボクが当時、峯子さんから聞き取った話をもとに書いたものだ。

今84歳の峯子さんは、あの頃68歳。今もお元気そうだが、あの頃は当然さらにお元気で、峯子さんのお店である「美音」へ行く際に同行してくれる市役所の担当者の方も、よくやり込まれておろおろになっていた。

峯子さんのことは、ミネさんと呼んでいて、何度もお邪魔し、展示したいものを借りられないかとか、開館セレモニーの際の詳細な打ち合わせなどをさせてもらった。

ボクはずっと、資料館二階の部屋の壁に物足りなさを感じていて、そこに扇子を何本か置きたいと思っていたのだが、なかなか思うようなものは手に入らずにいた。

仕方なく、練習用だという扇子を三本壁に置き、それらしい雰囲気を醸し出そうとやってみた。もともとボクにはそういうものを愛でる趣味もなかったせいか、何となくそれらしく見え、ボクはもうこのままいこうと思っていたのだ。

すると、ある時、峯子さんが二階に上がってきて、

「あんな安物(もん)出しといたらダメや。あんたに開館からしばらくだけ、これ貸すさけえ、ちゃんと盗られんように展示しとけんぞ」

と、上等そうな扇子を三本置いていってくれた。眼鏡の奥の目が最後に愛らしく笑っていたのを、ボクは忘れない。

そして、前に書いた、峯子さんの話をもとに書いたという文章なのだが、この企画は展示の仕事も終わりに近い付いた頃、ボクが思いつきで言い出したことだった。

それは、昔のにし茶屋街の風情を、下働きの少女の日常生活をとおして伝えようというもので、峯子さんから話を聞くのがベストだとボクは思った。

しかし、そのことを市役所の担当の方に話すと、そういう話はなかなか難しいのではないかと言われた。しかも、そういう世界では、複雑な事情もあるかも知れないと。

結局、ボクが直接峯子さんにお願いすることになり、恐る恐る問い合わせた。返事はとりあえずOKだった。

「美音」の居間に置かれた長火鉢を囲んで、いつものように鉄瓶から注がれたお湯が急須に渡り、そして熱いお茶が前に置かれた。

それから40分間ほど、峯子さんの話を聞いた。

峯子さんは、たしか幼い頃東京から来たと言った。戦前のことだが、当然、その事情は聞けなかった。

朝早く起き、いろいろと仕事が待っていたが、その頃は、小学校(野町)に行けることが嬉しくて、小学校にいる間は、店の仕事のことを忘れられるから楽しかったなどと、茶目っ気たっぷりに話してくれた。

もともとが童顔の愛くるしい峯子さんだから、そう言う話を聞いていくうちに、幼い頃の峯子さんが想像できた。本人は淡々と話していたが、あの時ボクは妙にセンチメンタルになっていたかも知れない。

 

NHKの放送で見た時、当たり前だが、たしかに峯子さんはその年齢に相応していた。自分の芸も謙遜しながら語っていた。

茶屋などはまったく縁がないから行けないが、機会があれば、また生で聴いてみたい。

ボクはジャズプレイヤー・峯子さんの大ファンなのである……

辻まこと~というヒトがいた

辻まことを知っていますか?

 と聞いて、すぐさま知っていると答えた人はほとんどいなかった。別に知らなくても日々の生活に困ることはないので心配ないのだが、ボクの場合、二十四年も前に知ってしまったおかげで、随分と幸せな気分にさせてもらった一人である。

 1987年の『山と渓谷』12月号。「辻まこと」がその中で特集されていた。

 画家であり、グラフィックデザイナーであり、詩人であり、エッセイストであり、ギタリストであり、山歩きの達人であり、イワナ釣りの名人であり、山岳スキーの名手であり……と、さまざまに紹介されていながら、そのどれもが奥義を究めたものだったと言われる辻まこと。

 何とおりもの人物像をもちながら、どの分野においても強烈な印象を与えていたと言われる。

 1913年に生まれ、75年に他界。父は放浪癖の翻訳家として知られる辻潤。母は婦人運動家であり、潤と離婚したのち、無政府主義者・大杉栄と同棲し、後に関東大震災後の戒厳令下、大杉と共に虐殺された伊藤野枝である。日本史をちょっと深めに勉強した人なら、聞いた覚えはあるだろう(甘粕事件)。こんな話はボクにとってどうでもいいことだと思ってきたが、やはり辻まことを知る上で重要だった。

 三歳になる前に両親が離婚したまことは、父のもとにおかれるが、父が放浪していた間は叔母に養われた。15歳で父とパリに滞在。当時から絵描きになりたいという思いを持っていたが、ルーブル美術館を一ヶ月間見て、すっかり絶望的になったという。

 帰国した後は、昼働き夜は学校という生活になったが、その学校も中退。デザイン関係の仕事に就いたりもした。

 そしてその間、どういうわけか竹久夢二の次男・不二彦らと金鉱探しに夢中になり、東北や信越の山々を駆け巡ったという。このことが後の山歩きの達人の素養を作った。

 大戦中は東亜日報の記者として中国に渡ったが、後に徴用され報道班員として従軍している。

 辻まことが、その所謂“辻まこと”的イメージを作り始めるのは、戦後、奥鬼怒や会津、信州などの山々に入るようになってかららしい。スキーも習得して活動フィールドを広めた。スキーはフランスのアルペン技術を研究し、国内の大会で入賞するまでになった。

 フリーのグラフィックデザイナーとして多くの雑誌広告を手掛けるようにもなり、さらに画文を発表したり、個展を開くなどの活動を続けてきたが、72年、59歳の時に、胃の切除手術を受け、療養生活の中での創作をなおも続けながら、75年、62歳でこの世を去っている。

 辻まことを知った当時、ボクは結婚していたが、それでもまだ山への憧れを強く抱く非日常志向型のニンゲンだった。

 北アルプスの麓・富山の山男たちと一緒に活動していたせいもあって、周囲にはヒマラヤや北米マッキンリーなどを登ってきた豪傑がいた。山岳パトロール隊や山小屋のおやじさんなど、山の生情報がいつも耳に入ってくる環境にいたのだ。

 しかし、ボク自身が極地まで足を踏み込むような野望をもっていたわけでは当然なく、ただひたすら山でビールでも飲みながらのんびりできればそれでいいか…みたいな感じだった。

 そんな時に辻まことと出会った(知った)ことは、ボクにとって幸い?でもあった。時代が違っても、心置きなく山を楽しむ心が、辻まことの発するあらゆるものにあふれていて、ボクを勇気づけてくれた。それ以前の、椎名誠や沢野ひとし等が繰り広げた山紀行なども大好きだったのは言うまでもない。

 その7、8年ほど前からだろうか、ボクは単独で山に入るようになっていたが、山のスタイルにはこのマイペースが最も相応しいと思うようになっていた。別な角度から言えば、それまで一緒に山に入っていた親友が、仕事が忙しくなり同行できなくなっていた。それまでドタバタ山行を繰り返してきたニンゲンが、独りでドタバタできなくなったということでもあったのだ。

 辻まことの絵は、ボクにとって温かい。専門的なことは分からないが、とにかく無性に温かくなって心が逆にざわめく。文章もさり気なく、温かみが増し、さらにざわめきを憧れに変えていく。

 描(書)いている本人の、いかにも楽しそうな雰囲気が伝わってきて羨ましくなってくる。

 タイトル写真にある『山からの言葉』という本は、ボクにとって大切な一冊だ。

 山岳雑誌の表紙の絵と、巻末に書いていたコラムを一緒にした素晴らしい本である。1982年に白日社から出ている(写真のものは平凡社ライブラリー1996発刊)が、辻まことの人生を締めくくる時期に書いた名著だと自信を持って言える。

 この本の中では、自由人・辻まことの一断面を知るに過ぎないが、単に山好きニンゲンたちだけのための面白話と、愉快でほのぼのとする絵の詰め合わせという枠ははるかに超えている。

 それは彼がピークハンター的な登山家ではなく、ポーターや猟師や釣り人などとしても、山と接してきたからに他ならない。絵とセットされた1ページの短い文章に接していくと、何となくそれが分かってくる。ゆったりとして、ユーモアも溢れんばかりだ。

 山でのさまざまなことが書かれているが、そこには「自分の眼でしか物を見ない本当の自由人」としての生き方が感じられる。いや、生き方というのは大袈裟だ。モノゴトのやり方や感じ方、思い方といった程度が相応しい。チカラが入っていない。

 心がざわめく温かさの正体は、そんなところにあるのだろう。

  数奇な少年時代を過ごしていながら、彼には暗さがない。敢えて明るくしていたという見方もあるが、彼はそんな単純な人ではなかったと思う。だから、自分の世界を求めた。絵はプロ級でありながら、敢えてその道一筋の芸術家にならなかったのも納得できる。

「夢中になるためには、相当量の馬鹿らしさが必要だ」と言った彼の言葉の中に、そんなことへの答えが見え隠れしている。

 そして、実際に眼で見るその絵からは、少年のような楽しさへの憧れと、常にユーモアを忘れなかった大人の匂いが漂ってくる。

“森林限界をぬけると、あとは雪と岩と青空だけの世界になる。つまり鉱物の世界だ。これ以上にサッパリして清潔な環境はちょっと考えられない。(中略) 快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持だ”

 山岳雑誌だから、山の話が中心なのは当然だが、雪と岩と、そして「青空」を最後に書くあたりが、辻まことの辻まことたるところだ。やはり、山には青空がいる。そんな当たり前のことを、当たり前のように彼は書いた。

“人は皆、「この時代」に生きなければならないと、あくせくしているようだが、考えようによっては、勝手に自分の好きな時代を選んで生きることだってできるのである”・・・・・・ボクには、この文章が彼にとって、自分の世界のあり方を書いた一節のように読める。

 それが辻まことの世界なんだと、ボクは思う。

 なぜ辻まことを好きになったか?

 それは少年のような心を大人の表現で見せてくれるからだ。時代は異なるが、稲見一良にもちょっと共通すると思ったりする。彼らに共通するのは、大人の中に潜む少年と、少年の中に潜む大人があるということだ。それが“大人のオトコ”なのだと最近思うようになった。

 学生時代、ジャズと映画を語る植草甚一(JJ)の本も好きだった。余裕があるように見せて、実際はひたすら走っていただけだったのかも知れないが、ホンモノって何か?と粋がっていた気がする。そんなに深くもなかったが…

 ところで、今なぜ、辻まことだったのだろうか・・・なのだが、それは、とりあえず・・・ヒミツとしか言いようがない………

『 あてのない絵はがき』

『多摩川探検隊』

 

 

 

秋はまだ始まったばかり

某ショッピングセンター内の書店で面白そうだと手に取った一冊の本。チラチラと読んでいくと、予想どおり面白い。立ち読みは辛いので周囲を見回すと、本棚の角、いいところに椅子がある。腰を据え、ほとんど走り読みながらも七割ほどは読み終えてしまった。

談志師匠の最新本(にあたるだろう)だと思う。といっても、去年出た本だ。帯にもあるが、買うのはよしたほうがいいと言っているので、とにかく走り読みに徹しようと思っていた。しかし、三割を残して制限時間いっぱい、店を出なければならないこととなった。しかも走り読みだから、中身ももうひとつ体にというかアタマにというか沁み込み方が足りないまま・・・

帰ってから飯を食っていても、歯を磨いていても気になり、寝床に入ってからも気になっていたので、ついに我慢できなくなり、翌日、某デパート内の書店で買ってしまった。本はやはり自分のものにして読むのがいちばん。かつては本とレコードと洋服、そして山の道具と小さな旅のために金を使ってきた。今は少ないが、本のためにいちばん金を使っているかもしれない。

買ってからじっくりと二回読んだ。「やかん」というのは落語の題目だが、『世間はやかん』というタイトルは単なるゴロ合わせだろうか。全編にわたって、長屋のご隠居と住人・八っつあんとの対話形式で進んでいく。べらんめえ調の文章だから、読み方もべらんめえ調になる。内容は一言で言っていい加減。しかし、そのいい加減さが徹底されて、そこに真実が見えてくる・・・と言えば大袈裟か? とにかく立川談志の世界なのである。

短いジョークがいい。ひとつだけ紹介すると・・・

「ねえ、おにぎり恵んでくださいよ。ここ三年ばかり、満足にコメの味、味わってェないんですよ」 「心配するな、変わってねぇから」

おまけに、もうひとついく。

「お前はいつも電話が長いね。一時間二時間平気で喋ってんだから。でも今日は短かったじゃないか、三十分だったよ。だれだったの、電話?」 「間違い電話」

まあ、こんな具合にというか、矢継ぎ早にジョークが弾んでいく。弾け砕けながらの約二百ページだ。

去年だろうか、NHKの夜のラジオ番組にレギュラーで出ていた談志師匠は、声もやっと出るくらいの調子で、言っていることはおかしくてたまらないのだが、言葉少なで可哀想だった。

一九三六年生まれだから、もう七十五歳。若い頃は正直言って、どこか憎たらしい感じもあったが、今では自分も談志師匠とほぼ同類科に属しているような感覚にもなっていて、大いに親しみを感じているのだ。

そんなわけで秋の始まりを感じている。

秋晴れの午後、いい気分で、お向かいの津幡町にある森林公園へ歩きに出かけた。しかし、コース選択を間違えて予定をはるかに上回る時間を要してしまった。山で鍛えられたから普通ならそれくらい平気なのだが、歩き始めが遅かったので、駐車場の閉鎖時間に間に合わないかと焦ってしまった。

原因は、サイクリングロードを歩いたからだ。道は舗装されているが、歩行コースよりははるかに長い。当たり前だが、そこを歩くということは時間がかかるということだった。

冷え込み始めた山間の向こうから、超低質なスピーカーをとおして『蛍の光』が聞こえていた。最初は重機の異常音かなんかだと思ったが、よく聞いていくと『蛍の光』だと分かった。ただ、分かってからは焦りが増したのは言うまでなく、そのおかげもあってか、何とか駐車場にたどり着くことができたのである。

しかし、音響システムも悪いが、案内システムもよくないのではないかと思ってしまった。現在地が分からない森は、慣れない人にとってパニックになる恐れがある・・・と、思う。

森林公園には「どんぐりの道」というエリアがある。まだ九月の下旬、道にはぽつぽつとどんぐりが落ちていたが、まだまだ半熟状況で、大きさも色ももうちょっとといった具合だった。

それよりもどんぐり以上に目立ったのがカマキリだ。いたる所に待ち構えていて、アスファルトの路上まで危険な狩りに出ていた。中には蜂をカマに刺した雄々しいのもいて、秋の勇者は健在だった。ただ数があまりに多くて、「どんぐりの道」よりも、「カマキリの道」にした方がいいのではと、余計なこともついでに考えてしまったのである。前にも書いたことがあるが、ボクはカマキリが好きだ。木板張りの我が家の壁にも、カマキリたちは卵を産む。そして、そこから無数の子供たちが巣立っていく。

若いファミリーが歩いて来て、若いお父さんが一匹のカマキリを捕まえた。小さな男の子に、これが本当のカマキリだよと見せている。本当のカマキリとはどういう意味なのだろう? ちょっと考えたが、面倒臭いのでそのまま考えるのをやめた。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

空も秋になりつつあった。帰路、河北潟干拓地の道から内灘の空が赤く染まっているのを遠く眺める。中空に雲が薄く浮かんで見えて、何か爽やかで尊いものを見ているような気持ちになった。

砂丘の公園にある展望台に向かい、その階段を昇った。内灘の海に落ちていく太陽を追って、多くの人がやって来ていた。皆が海の方を向いている中、ボクは反対側に見える北アルプス北部の山並みに目をやっていた。剣岳がごつごつした山容をくっきりと浮かび上がらせている。そう言えば、来月は薬師岳の閉山だったことを思い出した。

夏や冬は焦るが、秋は焦らないで過ごせるからいい。談志師匠のスタンスで、今年の秋はやり過ごしてみようかと思う・・・・・・

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

門前黒島の 素晴らしき人たち

かなり性格が歪んでいたと思われる台風6号の影響が消え去りつつあった日。旧門前町(輪島市)黒島の空には、久しぶりの夏の青空があった。金沢は一日曇りだったり、雨もチラついたらしいが、ボクたちはとにかく汗を拭きながらの状況下で仕事に追われていた。

といっても、仕事は屋内での映像の収録で、まだ我慢のしようがあったが、午前午後合わせて五時間近く緊張が続いた。話していると唇が渇いた。話が面白くて、何度も仕事を忘れた。何度も書いている、「角海家」の展示に使う地元の人たちの思い出話を収録するという作業だった。

午前は男性六名、午後は女性五名。最高齢は九十歳、最も若い人で八十歳という凄まじい布陣だ。男性の部では後半から、女性の部は最初からとボクも直接参加してナビゲーター役をさせていただいた。高齢化が極端に進んでいる黒島には、その分元気な老人たちが多い。しかも、江戸時代は天領であり、北前船による廻船業で財をなした地域である。誇りもある。

廻船業の衰退後も漁業を続けたり、その子孫たちは働く場を海に求め、ほとんどの男たちは海外航路の船員となって広く活躍してきた。今回集まっていただいた男性陣も、角海家のご当主さん以外は全員そんな船員OBである。中には商船大学を出られ、大型船の船長をされていた方もいる。そういう意味で、その時語られていたことの多くは、黒島の“船員文化”みたいなものだった。

父親の背中を見、海で育ってきた少年たちにとって、海で働くことは至極当然のことであったろう。戦前から昭和の中頃過ぎまでは、給料も非常によかったらしく、家を長期にわたって留守にしながら、男たちは船の上で働いてきた。家には外国からの土産で買ってきた品々が今でも多く残っていると言う。

同じ旧門前町剣地という地区で住職をされ、今回の展示解説についてアドバイスをいただいているK越先生から、こんな話をお聞きしたことがある。

子供の頃に、黒島の子供が「ドックへ行く」というのをよく聞かされ、自分は船員の子供でなかったから、その子たちが凄く羨ましかったという話だ。ドックとは造船所のことだ。定期的に受けなければならない点検のために船は、そのドックへ入れられる。その間に船員である父親に会いに、横浜や神戸などの都会へ家族で出かけるという習慣があったというのである。

都会へ行くということは、よい洋服を着せてもらえる。美味しいものも食べれる。流行などの生活感覚も吸収する。特に黒島という地区は先にも書いたとおり、廻船問屋の子孫が多くいたりして気概も高かった。周辺の地区の人たちもそういう目で見ていた。

今回集まっていただいた人たちは、そういう意味で黒島の中でもさらに上流の皆さんということになる。しかし、さまざまな生活習慣などをとおして語られることの多くは、“奥能登のひとつの村”である黒島を舞台にしたものばかりだった。大正から昭和の初めにかけて生まれた人たちにとって、多感だった時代は戦前戦中になる。そして、朝から夜まで“よく働く母親”を見てきた。家の主がいない中で、母親たちは、何でもやりこなさなければならなかったという。団結する村の人たちも見てきた。自分たち子供もまた、縦と横のバランスのとれた環境下で、兄貴分たちの言うことに服従し、友達同士のつながりを深めていたという。

最近はどこにでもある話だが、黒島でも祭りの衰退が悲痛な問題となっている。黒島には有名な「天領祭り」と、「船方祭り」というふたつの祭りが受け継がれてきたが、かつては多くの若者が祭りだということで故郷に戻っていた。たとえば行列に配置される役割などをみても、贅沢なほど豊かだった。若い娘たちは地毛で日本髪を結うために髪を伸ばし、着飾ったという。ある方から一枚の写真を見せていただいたが、十七歳という娘時代の姿に思わず見惚れてしまった。黒島ではなく、京都の祇園だと言ってもいいような雰囲気が漂っていた。

昔は、黒島同士の縁組が多く、そのことが黒島を維持していくことのできた理由でもあったという。「昨日の晩、どこどこの娘もろうたわいや…」というような話が、当たり前のようにあったと聞かされた。新郎が船乗りで、海外航路から帰っておらず、新婦だけが家に入るということもあったとらしい。ある日、突然知らない男が家に入って来て、それが自分の夫であったと初めて知った・・・そんなこともあったとか。

嫁入りする時の風習なども面白かった。特に嫁ぎ先の家の前に何本も縄が張られ、花嫁を家に入れないようにする風習があったという。そして、その縄をといてもらうには縄を張っている人たちにお金を渡さなければならなかったというのだ。

黒島の人たちは、かつての繁栄やその後の海外航路の船員という職業をとおして、自分の子供や孫に高い教育を受けさせるようにあっていく。そして、船乗りの仕事がアジアなどの船員たちの進出によって低収入化していくと、船員になる子供たちもいなくなった。多くが都会の大学などに進み、そのまま戻らなくなった。もちろん、奥能登に職場がないことも大きな理由のひとつだった。

都会へと出ていった黒島の次世代たちは、そこで結婚相手と出会い、そこで家庭を築く。別にどうということもない当たり前の現象だ。しかし、お嫁さんが黒島や、黒島でなくても能登や石川県の人であればまだいいが、全く異郷の人だと黒島は見向きもされない。先に書いた、昔は黒島同士の縁組が多かったということの意味がそこにある。最近、娘が婿を連れて帰郷してくるという現象が多くなっていると言うが、黒島の場合、やはりそれも定年後の移住などが今のところ考えられる最高のことでしかない。

実は、男性陣の取材の最後に、九十歳の最高齢だった方が、来春神奈川の息子さんのところへ行くことにした・・・と、淋しく語られた。その他の人たちにも、その時初めて話されたような気配だった。終始、俯きながら話す様子に、そう選択せざるを得なかった無念さが伝わってきて、その場がしんみりとした。

やはり、思ってしまう…、こんな素晴らしい黒島を、このままにしておくことは許せない…。 “能登はやさしや土までも”という言葉がある。土までもがやさしい…ということは、人はもっともっと、ハゲしくやさしい・・・ということだ。今回の取材だけでなく、そのことは最近になってまた多くの場面で認識させられる。

取材の終わり際、ボクは皆さんに自分の思いを少し語らせてもらった。角海家をとおして黒島を知ってもらい、黒島をとおして能登の一画を知ってもらう。能登の原点は自然と一体化した歴史や風土であるということだ。そのことをもう一度しっかり認識しなければ、能登という大きな地域性は中身のない空虚なものになってしまう。小さなことから始めないと・・・なのだと。

皆さんを、今回の会場になった旧嘉門家という廻船問屋の屋敷跡から見送る際、是非角海家に足を運んでくださいと告げた。この人たちの魅力が角海家や黒島の魅力を語ってくれると、ボクは何となく思っていた。

お世辞でもまったくなく、ボクは、正直あまりにも皆さんが快活で、知的で、そして楽しい人たちばかりであったことに感動した。

帰る前に、角海家を見に行く。中に入って、いちばん好きな、海の見える古いガラス窓の部屋に足を踏み入れる。それから外に出て、黒島の小さくなった砂浜に下りたり、周辺を少し歩いたりした。復元された佇まいと、海へとつながる石畳の道を見つめながら思ったのは、自分に何が出来るのだろうか・・・ということだった。今日お会いした素晴らしい人たちに、どうやって報いたらいいのか、はっきりと答えは見えなかったが、さらに入りこんでみる好奇心は確実に感じた。

まだ、あの人たちから離れて二十四時間も過ぎていないが、もういちど皆さんにお会いしたい・・・・・

香林坊に会社があった頃~その2

 

その1を書いてから、この話には多くの反響があり、早くつづき、つまりその2を書けといった内容のメールなどが多くきた。反響が多くて、それなりに話のタネになるのは嬉しいのだが、早く書けと言われると、なかなかその気にならないのが性格上の特徴で、そのまましばらく放っておいたことになる。

で、いざ書こうかと思うと、またあれこれいろいろと考えてしまい、とりあえず書き始めるのだが、書き切れなくなったら、その3に回すことにする。

その1の終わりに、YORKが日銀ウラにやって来た頃のことを書こうか…と書いたが、まずやはりその話を始めよう。

ボクがヨシダ宣伝に入社したのが、七〇年代の終わり頃。その十年ほど前、富山からやって来た奥井進さんが店長となって、YORKが片町にオープンした。正式には、一九六九年の十二月二十二日のことだ。

今はなくなったが、カメラのB丹堂という店の二階、狭く暗い階段を上がったところに店はあった。細長く、それなりに広い店内にはピアノが置かれ、ジャズがガンガン流れていた。奥井さんとボクとの出会いは、それから少し後になるが、その辺りの話は長くなるので別の機会にしておこう。

それから一五年後の同じ十二月、YORKは香林坊日銀ウラへと移転する。この出来事は、ボクの人生の中でもかなり重要で、今振り返ってもトテツもない大きなものをもたらしてくれたとはっきり言える。

実は、会社に入ってサラリーマン生活に妙に馴染んでくると、ボクは一時YORKから遠ざかるようになっていた。行っても、女の子を連れて行ったりして、奥井さんは喜んだかも知れないが、ボクは何だか真面目なリスナーではなくなっていた気がする。

会社の連中と飲む機会などが増えて、それがそのままカラオケやら、気取ったパブやらへの志向に変わっていた。ジャズを聴くのはクルマの中だけ、いや、クルマの中でもジャズばかり聴いていないという時期もある。何を聴いていたか、それは秘密だ…。

旅をしたり、山へ行ったりするのは変わってなかった。本を読むことも変わってなかった。仕事の中で、文章も書いていた。だが、その頃YORKに足を向けなかったのは本当になぜなのだろう…。やはり、何となく…なのだとしか言えない。

香林坊にYORKが来るという話は、ジャズ好きの友人から聞いたと思う。それをはじめて耳にした時、ボクは正直言うとガッカリした。片町のYORKが、YORKなのだと勝手に位置付けていたボクとしては、香林坊に移り狭い店になってしまうことで、ジャズの本格的な店ではなくなるという思いがあったのだ。

その辺りのことも書けば長くなるので別の機会にするが、ただ言えるのは、ボクの自分勝手な思いであったに過ぎない。大袈裟だが、ジャズという音楽を取り巻く環境が大きく変わっていたということもあっただろう。ジャズに求める、突っ張り精神みたいなものがかっこ悪くなり、表向きマイルスやコルトレーンを聴いていながら、家でこっそり天地真理も聴いている。真理ちゃん、大好き!…などといった輩が増えていた。

YORKが香林坊日銀ウラにやって来ると、ボクの日常は全くカンペキに変わった。奥井さんが店にやって来る夕方の五時半から六時頃にかけて、ふらりと店へ行ってみる。六時を過ぎていれば店は完全に開いていて、そうでなくても奥井さんはボクを迎え入れてくれた。

神宮寺の自宅から、カメラをぶら下げてのんびり歩いてくる奥井さんは、まず店の掃除などを簡単に済ませる。先に買い物に行ったりもする。近くの本屋にも行く。

まだ仕事の合間であるボクは、ずっと親しんできたいつものコーヒーを頼み、夕刊に目を通す。その前に交わす言葉は、「なんか、面白いことあったけ?」で、この言葉はその後もずっと奥井さんとの慣用句みたいになっていく。晩期の見舞いの時にも、まずどちらかともなくこの言葉が出ていた。

そんな間に、まじめそうな酒屋のおとっツァンが注文を聞きに来て、ひょうきんな氷屋のあんチャンが氷を運んできては、その日の出来事などを語って行った。特に氷屋のあんチャンの話は、時に二十分ほどの長編になったりして、軽トラの中の氷が融けないかと心配したりもした。

この時間は、ボクにとって最高に楽しい、高級クラブ風に言えば“珠玉のひととき”であった。現在の自分の中に沁み込んでいる多くのモノが、このひとときの中で育成されていったのではあるまいかと、かなりの確信で断定できる。

ある一日のひとときを振り返ると、新聞に出ていた魚のアンコウの話を皮切りに、レコード棚の上に置かれている書籍類の中から『食材図鑑』という分厚い本を取り出す。その中の魚編のアンコウが紹介されたページを探し、アンコウについて語り合うのである。

アンコウは当然海の中に居て、魚を食べている。その食べ方というか、餌となる魚の捕らえ方が面白い。アンコウは海中でじっとして、目の前にやって来た魚を、あっという間に口に頬張ってしまうのだ。

ボクと奥井さんの間には、なぜそんなことが簡単に出来てしまうのかが問題となる。そして、図鑑をあらためて見直し、アンコウの正面から撮った写真に見入るのだ。

アンコウの正面から見た顔は、はっきり言ってマヌケそのものだ。分厚い唇(なのか知らないが)に象徴されるあまりのマヌケぶりに、呆れて声も出なくなる。そして、ボクたちは納得する。アンコウの前に来た魚は、このあまりにもマヌケな顔に、不可避的脱力感を禁じ得なくなり、そのまま放心したように立ち尽くす(魚だから、ちょっとニュアンスは違うが)。その魚も呆れて声も出ない。そこをアンコウは図々しくもパクリと頬張ってしまうということなのだ……と、結論付けるのである。

俳句や写真の話題もまた、店では必ず出て来るものだった。奥井さんの俳句や写真には凄くジャズ的なものを感じた。伝統と自由さと、妙な掛け合いや組み合わせや、その世界は独特なものだった。

奥井さんの俳号は、『酔生虫』。もとは『酔生夢死』といって、程頤(ていこう)という中国の古い時代の先生の書に出てくる言葉だ。広辞苑によると、読んで字のごとく、“何のなす所もなく、いたずらに一生を終ること。”とある。その「夢死」の部分を「虫」にしたわけだ。

博学の奥井さんらしい俳号であったが、YORKではその頃俳句ブームとなっていて、奥井さんのもとには俳句好きが集まっていた。中には単なるお客から俳句仲間になった人もいた。

ボクが始めていた私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』の中に、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」というページがあったが、皆が作る俳句を、酔生虫先生が批評していくというパターンで好評を博した。ボクが先生のアシスタントという設定で、ボクの方から先生にあれこれと質問しながら進めていく内容だった。もちろんギャグ満載の楽しいコーナーであったのは言うまでもない。

『ポレポレ通信』が進化した?『ヒトビト』の創刊号の構想は、YORKのカウンターで練っていったものだ。ずっと続けた「ヒトビト的インタビュー」という重要なページでは、その第一回目を奥井さんにさせてもらった。開店前のYORKで、奥井さんは、しみじみと静かに、いろいろなことを話してくれた。昼間に店にいるということがあまりなく、ドアのガラスの外が明るかったのが珍しかった。

香林坊日銀ウラは、YORKの移転によって、ボクにとっても新しい界隈になった。会社からYORKまでが徒歩で約三十秒。六時に店に入って、そのまま夜中の十二時までいたということもたびたびあった。

その後、ヨシダ宣伝がお隣の野々市町に営業部隊を移転させるまで、ボクの日銀ウラ界隈におけるこうした日課は続いた。移転してからも、月に何度かはあった。香林坊はいつの間にか、YORKを連想させる街になっていたのだ。

やはり、YORKの話だけになってしまった。その3につづくかも知れぬ……。

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

門前黒島で頑張る時が来た

 

再び能登・旧門前町(現輪島市)の仕事に足を踏み入れ、とりあえず真っすぐに取り組んでいかねばならない状況下にあることを、数日前から悟りつつある。なにしろ、能登地震の震災復興最後の事業なのだ。

仕事の内容は、石川県の文化財に指定されている「角海家」という、かつて北前船で財をなした旧家における展示の計画と実施だ。数年前に同じ門前で総持寺に関する展示施設「禅の里交流館」というのをやらせてもらったが、門前の二大文化遺産を担当できるというのは実に幸せなことだ。ただ、今回の仕事は果てしなく厳しい。なにしろ六月のはじめにスタートしてから、八月中旬のオープンまで時間がないのだ。

角海家があるのは、黒島という地区。かつては天領であり、北前船の船主も多く、能登では最も廻船業の盛んな土地だった。今では昔の威勢はないが、それでも古い家々などを見ていくと、その面影に納得したりする。人々の気質も高く感じられるし、ボクたちのような中途半端な地域性しか持ち合わせていない者からすれば、その文化性はカンペキに高いと納得する。

ところで総持寺の住職さんは、代々輪番制で門前にやって来たわけだが、昔はもちろん船が交通手段だったわけで、能登の上陸地点は黒島だった。沖で小舟に移り、浜に上がると、そのまま黒島村の森岡さんという廻船業者(総持寺の御用商)の屋敷に入り、旅の疲れを落としたという。そこから総持寺の裏手にある小さな寺まで、お伴の者を引き連れての大行列。多いときには五百人くらいの行列となったそうだから壮観、凄い。このように黒島は門前の発展の礎となった総持寺の存在とも深く関わっていて、そういう意味でも貴重な地域性を持ってきたわけだ。

ちなみに総持寺は曹洞宗発展の基点となったとてつもない寺だが、明治に入って大火災で多くを焼失してから、横浜市鶴見に本山を移転した。移転された方は大打撃になり、祖院として存在を継続させたが、それほどまでに総持寺の存在は門前にとって大きかった。

しかし、先に書いた禅の里交流館の仕事をしている時にも思ったが、能登半島の先端に近い場所に、なぜあれだけ大勢力を張った寺院の本山が存在できたか?・・・なのだ。その答えが黒島にある。つまり、海運業だ。

昔は、少なくとも江戸時代までは、陸運といっても馬や荷車程度だから軽量な荷物の運搬しかできない。しかし、海運は船によって大量の荷物を動かすことが出来た。しかし、明治に入り日本にも産業革命の恩恵が押し寄せてくると、鉄道が敷かれ運送業のスタイルは一気に変わっていく。そういう時代の変化で海運業が廃れていくのに合わせ、総持寺の本山移転が実行されたのには、それなりの大きな理由があったわけだ。能登は東京から遠すぎた。

角海家の展示をとおして、ボクはこのような黒島の存在を伝えねばならぬゾ…と、秘かに思ってきた。なぜ、能登の先端にこのような豊かな文化が息づいたのか? これを伝えないで、黒島も角海家もない。そして、さらに黒島の人たちの誇りをいい方向へ向けてほしいとも思う。

先日行われた打ち合わせ会(委員会)で、資料調査を担当された神奈川大学のチームや、家屋復元の設計監理を担当された建築家のM先生、地元寺院の住職さんで、さすがだなあと唸らされた歴史家のK先生、さらに黒島区長さんであるKさんなどから、大変ためになる話をお聞きした。それらに返す言葉として、ボクも演出担当としていっぱしの話をさせてもらったが、やはり、根幹に置きたいのは“なぜ黒島が?”というテーマだった。そのことを平易にわかりやすく伝えられればと…

それにしても、黒島のまちは美しい。昔はなかった国道が海岸線にあり、あれがなかったらもっと素晴らしい景色が見れたのだがなあ…と、どこかの野暮な景観先生みたいなことは言わないが、何もないようで何かを感じさせる…、そんな“よいまち”のエキスが漂っている。高台にある神社や寺も、ちょっと歩くというだけの楽しみを誘発する。潮風に強いという板張りの家々も徹底していていい。

角海家は素朴さがいい。規模はそれなりに大きいが、決して豪邸ではない。とてつもない造りへのこだわりというより、普通に海が見えるとか、庭が見えるといった質素な目的が感じられて、安心したりする。廻船業が衰退した後、魚そのものや加工品などでの商いが続き、周辺の地区などで魚を売り歩いていたという、黒島の人たちのシンプルな生き方も角海家を通じて伝わってくる。地元のK先生が言われていた“黒島のカアカ(母ちゃん)”たちの働きぶりもまた浮かんできて、ボクなどはひたすら嬉しくなるのだ。

そんなわけで、この一件は今後ますます佳境に入って行き、いつものようにバタバタ・ズタズタ系の真剣勝負に突入していくだろう。かつて、地震の一週間後に門前入りした時、角海家は大きく崩れ、周辺の鳥居は折れて無残な姿だった。あれから地元の人たちは復興に向けて頑張った。その頑張り自体に意味があった。そのことを忘れず、そして、真夏の太陽がガンガンと照った空の下、黒島の砂浜で美味いビールが飲める日を、秘かにアタマの片隅に描いて、ボクたちも頑張るのだ…

油揚げを枕に柿木畠のヤキメシ

能登の羽咋で買ってきた油揚げが美味いと書いたら、それを読んでくれた金沢・柿木畠の喫茶「ヒッコリー」のマスター・水野弘一さんもそれを買い求めに出掛けられ、そして大量に買い込み、大変美味かったとコメントをくれた。

とにかく美味いのだから仕方がない。それに前には書かなかったが、姿形もいい。

油揚げらしい“ふくよかさ”があって、煮汁をたっぷり吸いこんでいけるだけの“器の大きさ”を感じさせている。

そのことを感じ取ってくれた水野さんは、行動力も凄いが、嗅覚も凄かった。

水野さんにはもうひとつ大きなニュースがあった。それは、二十五年以上も前に、金沢香林坊にあった洋食屋「大洋軒」という店の看板メニューを受け継いだことだ。

その店は、今の香林坊109が建つ場所にあった、本当に小さな店で、数人しか座れない狭いカウンターがあるだけだった。

ボクは高校生の頃に親友のSとよく一緒に行った。店に入ると、ほとんど横歩き状態で、カウンター客の背中を擦りながら奥へと進む。

定番メニューは「焼き飯」だ。

カウンターを挟んだ厨房に夫婦が入り、おっかさんがご飯を渡すと、受け取ったおとっつあんがフライパンにあけ、ほぐしながら激しく煽る。フライパンとお玉のぶつかり合う音が響き、時折上がる炎に、オオッとのけ反ったりした。

出来上がった焼き飯は、所謂“洋食屋の焼き飯”で、ちょっと脂ぎった飯の上に目玉焼きが乗っかっていた。

飯の盛り方がボコボコしていて、ボクとSは決まって目玉焼きの真上、つまり黄身のど真ん中からソースをかけるのだが、そのソースはすぐに目玉焼きから流れ落ち、飯に沁み込んでいく。

本当はこうなることぐらい分かっていたのに、仕方がないな~と、飯をクシャクシャと混ぜながら目玉焼きもついでにクシャクシャにしていき、黄身が完全に崩れる頃を見計らってスプーンで掬うと、そのまま一気に口に運ぶのだ。

ほくほくとした、しかし中華の所謂「チャーハン」とは違う風味が口の中に広がる。

味はソースが効いてシャープだった。特に夏の暑い日には、汗をタラタラかきながら焼き飯をモゴモゴと食った。

食後の口の中には、何となくというよりは、はっきりとしたヒリヒリ感も残っていたりして、とにかく美味かったなあという喜びと、ワレワレはついに食ったのだという満足感があった。

そんな焼き飯は、香林坊の再開発と同時に店じまいし、その後某所において続けられてきたらしいが、一般には接することは出来ないままいた。

そして、その某所での継続も終わり、かつての大洋軒の二代目さんから、なんと水野さんに継いでもらいたいという依頼があったということだ。

水野さんは、敢えて自分に白羽の矢が立ったのは、自分が半プロみたいな存在だったからだろうと言っていた。

焼き飯は、今流行の「B級グルメ」を代表するメニューだ。だから、とんでもない一流には逆に出せない味だという意味なのだろう。それと水野さんの人柄を知る者には、何となく納得できる話でもある。

始めたばかりの、その焼き飯を先日いただいた。美味かった。懐かしかった。

ヒッコリーという店が昔の大洋軒でないことを除き、あの脂ぎったような風味は逆に出せないことを考慮してボクは味わった。ご飯粒よりも大きくはしないという具たち。焼き飯はご飯がすべてという思いが込められていた。でも、やはり庶民の味なのである。

人気が出過ぎると逆効果になって、水野さんは自分の首を絞めることになるのだが、このニュースは、六月二十二日の地元紙で報道されることになっている。

ちょっとだけ余計な心配をしたりしながらも、次はいつ行くかなと考えたりもするのだった……

稲見一良… オトコ、そして少年のこころ

稲見一良という作家の存在は、広く知られているというわけではないだろう。だいたい、「一良」と書いて「いつら」と読むこともめずらしく、ほとんどの人はそのとおりに読めないに違いない。知っていればこそ読める名前なのだ。

ボクと稲見一良との出会いは、もう二十年くらい前になる。神田・三省堂本店の一階フロアで手に取った一冊の本から、ボクにとっては稀なケースと言える付き合いが始まった。

その本が『ダック・コール』である。タイトル写真にあるのは文庫で、ボクは当時出たばかりの単行本を買って、すぐに近くの喫茶店に入り、そのまま出張帰りの新幹線の中でも読み耽った。特に買おうと思った理由というのは、その中の第一話『望遠』の出だしに気持ちを奪われたからだ。

“ 腕時計のアラームが、フィルムの空缶の上で躍るように鳴った。若者は、たった今まで熟睡していたとは思えない素早い動きで、寝袋から腕を伸ばしてアラームを止めた。「四時半」若者は夜光の文字盤を読み、頭をおこしてまずカメラの方を見た。ゆっくりと起きだした。…………………”

ボクの頭の中でもアラームが躍るように鳴っていた。そして予感は予感を呼び、これは絶対に面白いと、ボクは勝手に決め込んでいた。やはり予感どおりだった。そのストーリーはボクの単細胞にストレートな衝撃を与えた。

まだ一人前とは言えない映像カメラマンの若者が、大プロジェクトの中のワンシーンの撮影を任される。それは、三年前に撮影されたと同じ月日、同じ時刻の日の出を撮り、街の変貌を伝えるという内容の企画だった。そして、若者の仕事と言うのは、絶対動かしてはいけない固定されたカメラのスイッチを単に入れるだけのことだったのだが、若者はその直前にカメラの向きを変えてしまう。若者が向けたカメラの先には、幻の鳥と言われる「シベリヤ・オオハシシギ」がいた……

プロダクションの中などの人間模様と、正義感や理想に燃える純粋な若者との葛藤もそれほど濃くもなく表現されており、この話は圧倒的にボクの胸を打った。こうして、一応ボクと稲見一良との付き合いは始まったのだが、どんどん読み続けていくと言うほど作品はなく、断片的な付き合いだったと言える。

それから何年かが過ぎた頃のこと、いつもの香林坊YORKで、マスターの故奥井進さんから一冊の本を見せられた。これ面白いよと言ってカウンターに置かれたのが、なんと『ダック・コール』の文庫本だった。ボクの記憶では、三省堂で買って帰った後日、ボクはたしかに奥井さんにその本を見せていたと思う。奥井さんとは、ほとんど互いに読んでいる本のことは知っていたはずだった。

ボクはすぐに、その本のことを話したが、奥井さんは覚えていなかった。ただ、同じ本を奥井さんがボクに勧めるなんて、やはり共通の好みがあるなあと嬉しくなったりもした。

そして、その後、奥井さんもボクも、稲見一良の本を何となく気が付いた頃になると読んでいたということを繰り返していく。

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稲見一良の物語には、大人の男の世界に少年の世界が深く沁み込んでいて、読んだ後夢を見ていたような気持ちになったりする。どこにそれを実証するものがあるのだろうと現実を考えたりするが、それは当然創作であり、幻想の世界でもあるのだと納得しながら楽しまなければならない。

たとえば、『セント・メリーのリボン』に収められている『花見川の要塞』という物語には、現代から戦時中へとタイムスリップしていくカメラマンの話が綴られているが、その非現実性は、まさに少年の心があるからこそ受け入れられるものだ。かつて敷かれていたという軍用列車が、深夜、白煙を上げながら夏草や蔓に被われた現在の花見川の土手に現れる……。

どこかで聞いたような話ではあるが、稲見一良のストーリーには、自然風景はもちろん、銃や機関車やカメラなどの詳細な解説・描写が絡み、どんどんと読者をリードしていく何かがある。好奇心を煽るような、ウキウキさせてくれるパワーに酔わされていく。

『花見川のハック』という同じ花見川の名を冠した短編があるが、ハックという冒険好きで、正義感が強く、そして心優しい少年が、花見川でアヤメという少女と出会い、最後はお婆ちゃんが待つ京都へ旅立つという話だ。なんの変哲のない話に見えるが、ハックとアヤメはゴンドラに乗って京都へ行く。そのゴンドラを運ぶのが、なんとナス(野菜の)なのである。面倒なので詳しくは書かないが、そんな結末を聞かされると、かえって読む気も起きなくなるかもしれない。しかし、実際読んでいくと、これがまた実に楽しくなり、嬉しくなっていくから不思議だ。

このような世界こそが、ボクにとっての稲見一良の素晴らしき世界なのだ。自然や趣味や男臭さや少年の心や、空想や理想や夢やこだわりやと、とにかくたくさんのものが凝縮されている。

稲見一良の世界から、ボクは多くの記憶を蘇らせることができた。

十歳くらいのことだろう。裏の雑木林の斜面を登った所に、木の板で組んだ隠れ家みたいなものを作り(作ってもらったのかも)、そこで漫画本を読み、お菓子を食べ、そして友達が家から持ってきたタバコを吸ったりしていた。クワの実やグミなどを採って来ては、そこでみなで食べた。

砂浜に埋まっていた不発弾を掘り起こし、三人がかりで抱えて友達の家の裏に埋め、自衛隊が回収に来たこともあった。自慢したくて学校で口が滑ってしまったことがボクたちだけの大騒動につながった。もちろん、もし爆発の危険性があったら、ボクたちだけの大騒動で済んでいなかったのだ。

カモの子を河北潟かどこかで生け捕りにし、使われなくなった鳩小屋に入れて飼おうとした。そのカモに餌として与える虫などを、必死になって採りに行っていたことなども鮮明に思い出した。音楽やら映画やらいろいろとませたことも身につけていたが、こういう遊びは絶対的な事としてなくなることはなかった。

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本当は最初に書くべきことなのかも知れないが、稲見一良は自らが癌に侵されていることを知ってから、敢えて作家になったという稀な人なのだ。一九八五年に発癌しデビューしたとのことだ。そして、その後一九九四年に亡くなるまでの短い作家活動で、稲見一良の独特な世界を作り上げている。

ボクは今、稲見一良のファンであると公言できるが、これまで本当にそうであったのかというと、正直どこかに単発的なファンみたいな自覚しかなかったように思う。しかし、今年に入ってから、再び無性に稲見一良の作品、いや物語を読みたくなった。

何がそうさせたのかは分からないが、自分自身を純粋に見据えていくためとか、自分の素性や血を知るためとか、どこかそういうものに近い何かが自分を動かしたように思う。

少年、男気…。自然、夢、憧れ…。趣味、余計な気苦労…? そんな青臭い何かが、やはりどこかに生きていないと、ニンゲン、特に男はダメなのではあるまいか?

そんなところまで考えてしまっているのである………

医王・湯涌水汲みツアーの休日

 

湯涌街道を温泉街には向かわずまっすぐ進み、福光方面への道にも折れずにまっすぐ行くと、医王山の裏手の山道へと入っていく・・・。

湯涌の住人・足立泰夫クンと後者の分岐のあたりで待ち合わせ、いつもよりグレードアップした特別編の水汲みツアーに出かけた。

八時には行くよと言っておきながら、十分ほどの遅刻。六時半に起床して、花に水をやったりしながらの慌ただしい朝だったが、前夜買ってきた“つぶ餡マーガリン”入りパンを頬張りながら新聞を読んでいたら時間が押してしまった。

というのも、最近連載が始まった日経の「私の履歴書」…現在書いているのがあの山下洋輔(ジャズピアニストです)で、ついつい今朝も読み耽ってしまった。特に今朝はまた、その下の欄の「交遊抄」が椎名誠のミニエッセイときていたから、活字拾いに忙しかった。

ところで話はそのまま脱線していくが、ボクの場合、日経などはその本来の趣旨記事から外れて、日経的に言うと番外編みたいなところばかりに目がいってしまう癖がある。かつて「日経デザイン」という同じ系列の雑誌を購読(会社で)していたが、巻頭の赤瀬川原平のエッセイが何よりも楽しみだった。実に飄々として、経済やらデザインやら難しいことは後回しにして、とにかくこれ読みなさい…と、氏が言ってくるものだから、はいそうですね・・・と、こちらも本文ページは後回しにしていた。日経はそういう意味で、なかなかボクのハートを掴んで離さない渋い存在である。かつて、松井秀喜のことを書いたある記者の本も、素晴らしく核心をついた内容でよかった。

分岐で待っていた足立クンと合流して、久々の道へと入っていく。すぐ先の集落に、かつて足立クンが住んでいた家があり、そこには小誌『ヒトビト』第八号(打止め号)のインタビュー取材で訪れたことがある。大木に囲まれた大きな家の前に愛用のカヌーが積まれていて、彼は岩魚釣りに出かけていた。すぐ目の前を流れる沢の奥に入り込み、数匹の釣果を家の前で見せてくれたのを覚えている。あの時はちょうど土砂崩れがあった翌日で、道が塞がれていたが、住民の道だけは確保されていた。

 今回の水汲みは、かつて足立クンが県の観光パンフレット制作のために取材した貴重な水場情報に基づくもので、湯涌・医王山方面の“美味しい水”を是非紹介したいという、彼の誘いに甘えさせてもらった。彼はカヌーに始まり、根っからのアウトドア青年(かつての)であった。山の世界とかではボクの方に一日の長はあったが、水の世界では若い頃からノメリ込み方が尋常ではなかった。さすらいのカヌーイスト・野田知如を崇拝し、カヌーツーリングというカッコいい遊びをこなし、水面に釣り糸を垂らしては川魚を燻製にするなどして、その楽しみを満喫してきた。もちろんそれだけではなく、ジャズや活字などにも傾倒し、その繋がりも長く付き合ってきた理由になっている。

そんな彼であったから、湧水のある場所なら、たとえ火の中水の中(例えが変かな)、ひたすらまっすぐに訪ね歩くことも何ら問題なかったのだ。

前置きがやたらと長いが、そんなわけでボクたちはとにかく医王山の裏側方向へと回り込みながら、最後は一気に高度を稼ぐように登って、「行き止まり」と書かれた案内板の方向へとクルマを走らせた。そして、文字どおり行き止まりとなった所にある水場にたどり着く。着くまでに、狭く急な道で先導の足立クンが迷走するというシーンもあり、また何度も切り返しを繰り返さなければならないなど、スリルも大いに味わった。

ところで、その場所について詳しく書かないのには理由がある。実はこの水場、足立クンが取材したパンフレットには周辺をぼかした形で掲載されているのだ。それはこの水場がこの直下の集落の人たちの飲料水となっているからで、それをとにかく無闇に取りに来られては困るという配慮があった。だったら、おめえらも行くなと言われそうだが、年に数回だけいただくということで、来ている人もごくごく少ないということだった。

水は岩がゴロゴロする山肌の窪みから湧き、取水用には二本のパイプをとおして勢いよく流れ出していた。足立クンでは水温十一度。実際、家に戻ってからもまだ容器のまわりには水滴が付いたままだった。冷たい証拠だ。

クルマからポリ容器やペットボトルなどを出す。総量としては結局八十リットルくらいになっていただろうか。最初の二十リットル容器に水がいっぱいになる時間で驚いた。いつもよりはるかに早い。勢いも量も半端ではない。あっという間に二十リットルがいっぱいになり、慌てて持ち上げようとして右腰に違和感・・・。おまけだった。

とにかくどんどん汲んでいく。足元はシューズもパンツもびしょ濡れになっている。路上では、自分の分を汲み終えた足立クンが、クルマからコンロとコッヘルやらを出してきて、新しい水を沸かし始めている。すっかりコーヒータイムの準備が整っている様子だ。

足立クンから、少しペットボトルを残しておいて、別の水場にも行ってみようという提案が出た。すぐに賛成して、クルマのダッシュボックスから、山用のマイマグを持ってくる。いい香りが山間に漂い始めると、カメラも持ち出して撮影タイム。

 コーヒーはマンデリン。足立クンご自慢?のドリッパーで、ご立派~に出来あがっていた。実に上品な味がした。今朝はこのためにと、家を出る前にコーヒーは飲んでこなかったのだ。

 かなり山深いなあと感じながら、ゆっくりと周囲を見回す。山装備をした夫婦連れらしき二人が、大きな木の下あたりの道らしきところを登っていく。近づいて、その道は奥医王の頂上に繋がっているのかと聞くと、そうだと答えてくれた。久しく奥医王には行ってない。かつては北アルプスなどに入る前には必ず医王山で足慣らしをしていったものだ。

後片付けをして山道を一気に下り、湯涌方面への抜け道である王道線を走る。頭にイメージしている距離感より長く感じる道だ。この道も好きな風景がつづく。樹林の間から見える山並みものどかだし、森も深く感じられて神秘的な雰囲気さえある。

 

湯涌街道に出る前にある、いつもの水場で小さなペットボトル二本に水を入れる。さっきの水の冷たさがはっきり感覚に残っていて、この場所の水が温く感じられた。今日二つ目の水場だった。

 さらに足立クンの案内は湯涌街道に出て金沢市街方面に向かい、すぐに左に折れた。橋を渡り、ゆっくりと水田に挟まれた狭い道を走り続ける。道は途中で山間に入って行き、美しいせせらぎと並行して進んでいく。

また小さな橋を渡ると、そこでまた急旋回の狭い道の登りになった。通常の感覚ではクルマの通る道ではない。車幅いっぱいの狭い道を登って行くと、またしても狭い中でのヘアピンまがいのカーブに出くわす。足立クンのやや小さめのクルマは難なく曲がり切ったが、ボクのクルマではちょっと面倒だ。考える間もなく、カーブする反対方向の土の中にクルマを突っ込み、バックで登ることにした。幸いにも、すぐ先に目的の場所があった。

クルマから降りてびっくり。そして、ニンマリ。そこには、いかにも手造りといった何とも言えない風情の家が建っていた。足立クンが、家の前にある石の上に腰を下ろしている。手巻きタバコがいかにも足立クンらしく、この場所の雰囲気にも激しく合っている。

 この場所は地元の知り合いの“別荘”とのことだ。いつでも水は持って行っていいと言われているらしい。よく見ると、本当にいろいろなモノが組み合わされて、ひとつの家が出来ていることが分かる。意外なところに、ステンドグラスが嵌められたりしていて、手造りの楽しさがしみじみと伝わってくる。

水場は、玄関先に綺麗なカタチで整えられていた。残りの小さなペットボトル五本ほどにまた水を入れた。石の腰かけは整然と並べられていて、真ん中にある石のカタマリがテーブルになっている。

足立クンが、またコーヒーの準備を始めた。今度はグアテマラ(タイトル写真)。さっきの山の中よりもさらに落ち着いて、その分コーヒーの味もゆっくり楽しめた。なんとも贅沢な時間だ。心地よい風の吹き方も、静けさも、ちょうどよくて文句のつけようがない。新緑と呼ぶべきか、若葉と呼ぶべきか、周囲はそんな活き活きとした生き物たちの息吹に包まれている。

ボクたちは、そんなやさしい空気の中で、いろいろな話をした。とりとめのない話ばかりだったが、久しぶりにゆっくりと会話が楽しめた時間だった。今日、三か所目の水場だ。

足立クンでは、今日の三か所は、湯涌・医王山周辺ではベストスリーなのだそうだ。彼が言うのだから間違いない。金沢でそうだと言ってもとおるのだろう。ボクの場合、やはり自然の水汲みなどはちょっとした冒険心をくすぐってくれないと意味がない。だから、水汲みを理由にして、こういう場所へ来れるというのは最高なのだ。

時計を見ると、もう昼近く。コーヒーの香りも樹間を吹く風とともに流されていき、周囲にはただ前のように静けさだけが残されていた。足立クンは、午後から事務所へ行って広告用の原稿を一本書かねばならぬとのこと。それを聞いて、ボクも二本目の創作が、五十枚くらいのところで止まっているのを思い出す。

文句なく楽しかった。これからまだまだこういうことを続けていけたらいいなあと、若葉を見上げながら思う。日本は、日本の経済は、自分たちの生活は、これから一体どうなっていくのだろうか。そんなことも一応アタマに浮かんできた。だが、すぐに腹が減っていることに思考は動く。素麺だ。今日は素麺しかあるまい。湯涌の里に下りると、広々と水田が光っていた……

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……

 

港の駅ができた

かねてより意気盛んな動きを見せていた羽咋滝町の“郷士”たちが、ついにその意志を形にしてしまった。

五月五日、子供の日。羽咋滝港を目の前にした、と言うよりも、滝港の中にといった感じで「港の駅」がオープンしたのだ。もともと毎週日曜にやっていたテント市が母体なのだが、常設の販売所を持ちたいという地元の人たちの強い意志が、立派にそのことを成し遂げてしまった。倉庫を改装した、小さいながらもそれなりにカッコいい店で、地域の手作り品などが並ぶ。近くにはこの港の駅のオープンによって派生しそうな勢いも見えている。この日は、地元の意気盛んなオトッつァん・おっかさんたちが集まり、子供のように目を輝かせていたことだろう。

ボクは翌日のもう夕方近く、旧富来町へ行っていた帰りに立ち寄った。実は前にも紹介した、このあたりの大親分・福野勝彦さんにお会いして、おめでとうございますを言いたかったのだ。しかし、福野さんは春先から金沢の病院に入院しており、オープン当日には来ていたが、すぐにまた病院の方に戻ったらしかった。入院中の福野さんとは何度かメールのやりとりをし、例の折口信夫関連のことなどを進めようとしていたのだが、五月に入ったら退院できるから、その頃にしようということになっていた。しかし、四月の終わりになって、港の駅オープンには何とか抜け出すが、入院はもう少し延びると連絡が来た。

そしてやはり、福野さんは港の駅のオープンに駆け付けていた。新聞にも福野さんが挨拶したという記事が載っている。

港の駅で迎えてくれたのは、『地域活性化団体・「創性・滝」』の理事長・折戸利弘さんだった。一度、福野さんの自宅ですれ違ったことがあるが、ほとんど初対面だった。福野さんと堅くタッグを組む、弟分のような存在なのだろうと感じた。嬉しいことに、折戸さんはボクの拙著『ゴンゲン森と・・・少年たちのものがたり』を読んでくれていた。

店では売り物になっているコーヒーを、折戸さんがわざわざ淹れてくれ、いただく。美味しいコーヒーだった。ボクだけベンチに座らせてもらい、もう閉店時間がきている雰囲気の店内で折戸さんとしばらく話した。話しているうち、脱サラして生まれ故郷に戻ったという折戸さんの言葉や表情から、この場所で、この地域の人たちと何とか楽しくやっていきたいという思いが伝わってきた。自分だけではなく、周辺の人たちにも、故郷である地域そのものにも、何らかの発信を求めている気持ちが、よく分かった。

“姫丸の一夜干し”という珍味を出している地元の東寿郎さんとも会い、しばらく話す。姫丸とは、明治からつい数年前まで大きな漁業を営んできた船の名前らしく、一夜干しは姫丸の歴代ばあちゃんたちが受け継いできた食文化とのことだ。今、こういう形の食文化が至る所で芽吹いている。差別化も大変だろうと思う。“活〆”の輪島の刀祢さんや、“こんかこんか”の金沢の池田さんなど、ボクの周辺にもいろいろな人たちが絡み合う。このような珍味と酒屋さんとかが、さらに絡めばもっと相乗的な拡がりや深みが増すのではないだろうか…と、それほど真剣ではないが、それでもそれなりに考えたりもしている。

ところで、東さんの自宅(お店)は美術館でもあり、カフェや食事処にもなっているらしい。このあたりの文化度はやはり相当高いぞ…とあらためて思ったりもし、折口信夫ゆかりの藤井家の佇まいのこともアタマを過(よ)ぎった。

話し込んでいるうちに、新しい来客があり外に出た。港の気配に夕方の匂いがしてくる。夏だったら、もっと凄いだろうなあと、夏の夕暮れ時の光景がアタマに浮かんできた。子供たちが走り回り、黒く日焼けしたオトッつァんたちがタバコをふかしながら語り合う。おっかさんたちは身体を揺すりながら笑い合っている。

福野さんが描いている生まれ故郷の町の姿はどんなんだろうか? ふと、そんなことも思ったりしたのであった………

森秀一さんと・・・

 

久しぶりのような感じで、森秀一さんと会った。一昨年の秋だったか、去年の冬だったかに某イベント会場で会って以来だ。だが、その間に電話で何度か話していたので、それほど久しぶりといった印象はなかった。一緒にいたのは映像プロデューサーのTさんで、昼飯を森さんと食べようということにしたのだ。

森さんとのことは時々書いてきたが、俗に言う長い付き合いである。今では“KAZUさん”という愛称が定着していて、しかも本業のインテリアプランナーよりも、ユニークな書道家さんとしての名声が高くなり、いろんなところで森さんの“字”が活躍している。ボクよりひとつ年上だが、ボクが知っている森さんは、昔からもうちょっと年上といった感じの兄貴分だった。

そして、何よりも、かつてボクが出していた私的エネルギー追求誌『ヒトビト』第2号でのインタビューで、森さんの少年時代からの話を書いたのが深い縁結びのきっかけとなった。

 今の森さんを知る上でも、『ヒトビト』での話は貴重なのだ。例えば、森さんはついこの前まで、小松の子供ミュージカル上演のためにTさんらとロンドンへ行っていたのだが、森さんらしく?得意の単独行動に出て地下鉄で迷い、なかなか戻れず皆に心配をかけたらしい。

このようなことは、インタビューの中の少年時代の思い出の中にも出てくる。小松の赤瀬という山里に育った秀一少年の、ちょっと好奇心旺盛な一面を知れば、ロンドンの地下鉄で迷うことぐらい、当たり前の真ん中のちょっと横ぐらいのことだと分かるだろう。

ボクは、十三年ほど前、その赤瀬に建てられた森さんの事務所(工房と言った方がいいかも知れない)で、裏の畑から差し込む陽の明かりや爽やかな風に和みながら、じっくりと森さんの話を聞いた。ただ、意外さと納得とが交互に押し寄せてくるような、奇妙な心境でいたことは今でもはっきりと覚えている。

それまでのボクの知っている森さんは、あざやかなイエローのジャケットに黒のハイネックのシャツ、そしてレイバンのサングラスをかけた、オシャレなインテリアデザイナーだった。都会派の商業施設やホテルの仕事をクールにこなしていた。

森さんが所属していた会社から独立した後、ボクは自分が参画していた博覧会の設計監理スタッフとして森さんを事務局に推薦する。それからボクと森さんとの新しい関係が生まれ、森さんの仕事へのスタンスなども少しずつ感じ取れるようになった。

しかし、その頃には、後に生まれ育った赤瀬の里に戻るなどということは全く予想も出来なかった。それは、ひょっとするとまだ森さんを理解し切れていなかったせいかも知れないが、それを差し引いても、森さんの赤瀬移転(動)は意外だったのだ。

十三年前の初夏、赤瀬に通じる山道をクルマで走りながら、ボクはまだまだ森さんとこの山里の風景を結びつけるものを見つけられないでいた。しかし、珪藻土(けいそうど)に被われた森さんの棲家を見た時、なぜかホッとし、思わず唸っていたのだ。

自然人・森秀一がいた。この場合の自然人は、アウトドアなどのネイチュア的ニュアンスではない。“自然にふるまえる人”という意味の自然人である。まだ完成されているとは思えなかったが、森さん自身が一生懸命にそれを目指しているように強く感じた。そのこと自体にも自然なスタンスが感じられた。

ボクは森さんが口にした、「スープが冷めない関係って、いいげんてねえ…」という言葉に何かを感じ、文章のタイトルを『スープの冷めない関係…』とした。それは、直接的には森さんの仕事場と、畑を挟んで向かい側にある実家との心地よい距離感を意味していた。

ご飯出来たよ…と呼ばれてから、畑を歩いて実家の食卓に向かう。いつでもその感覚の中でいられる安堵感のようなものが、仕事にもゆとりをもたらしてくれる。それが森さんの言う“スープが冷めない関係”の原点であり、日常も仕事関係もそのことを根底において相対していこうとしている…そういうふうにボクには伝わった。

 そして、森さんは、そのとおりに生きて(やって)いき、その“関係”というのをいつの間にか具現化していったのだ。ボクはちょうどいい時期に森さんと話し、森さんのことを書いたのだと思っている。あの時のことがまさに今の森さんを示唆する証(あかし)だったのだと思っている。

 だから、ボクは今の人たちのように“KAZUさん”とは呼ばない。昔のインテリア業界の人の中には、“KAZU”と呼ぶ人も多くいる。が、そうとも呼ば(べ)ない。

ボクは“森さん”と呼ぶ。ボクの知っている森さんは、旺盛な好奇心と自立心を持った少年時代の森さんであり、とことん体に沁み込ませた知識と感性によってクールにインテリアをプランする森さんであり、山里・赤瀬の空気を腹いっぱい吸い込んだ森さんだ。そして、今、縦横無尽に筆ペンを走らせながら、人の心を和ませる絵文字に自分を託している森さんでもある。

それらの何が欠けても、ボクにとっての森さんにはなりえない。

待ち合わせしたのは森さんのデザインした店だった。もう一時を過ぎているのにお客さんでいっぱいだ。

昼食をすませた後、ボクは森さんにまだ伝えていなかった『ゴンゲン森と……』の本を差し出した。すぐに森さんが、カバンの中から筆記用具がびっしり詰まった容器を取り出し、ボクにサインをと言う。

 森さん愛用の筆ペンは、素晴らしく書きやすかった。なめらかでかなり速乾性のものらしい。森さんもボクのためにすぐに何か書き始めている。森さんに書いてもらうのはこれで何枚目だろうかと思ったが、アタマの中で計算は出来なかった。

森さんとTさんがロンドンの思い出話で盛り上がっていた。ボクは森さんの得意のスケッチが詰まったクロッキー帳に見入っていたが、相変わらずシンプルで好きな絵だった・・・

ボクは、多分、今森さんの周辺にいる人たちとはちょっと違う視点を持って付き合いをさせてもらっている。それは「ヒトビト」のコンセプトでもある“意外性”が、森さんには顕在化しているからだ。森さんの変化、そしてその後の自然な成り行きが、ボクの中の森秀一というニンゲンを何となく独特な存在にしている。

ボクはある意味、森さんのように自分を変えれなかったことに後悔している。いやいや十分にN居はN居らしくやっているとも言われるが、自分の中ではそう思い切れていない。欲の深さもあってか、森さんのような変化もボクには重要なことだった。これから先、自分がどうなるのか、まだよくは分からないが、とにかく前を向いて行くことだけは間違いない。森さんと会って、そういう確信だけは十分に得たのである………

春の、ある金曜の夜

 金曜の夜、主計町で篠笛と一人芝居を鑑賞した後、その場で軽くビールやワインなどをいただき、早々に香林坊まで歩こうと外に出た。

 前日に見た検番前の桜の花は、かなり開き始めており、その開花の早さに驚かされる。小雨の中とはいえ、茶屋街の外灯に浮かび上がる桜の木の姿は、やはり色っぽかった。

 大手町の裏筋から、店じまいしている夜の近江町市場の中を通る。特に大手町の裏筋には、古い佇まいも多くあったりして歩くこと自体も楽しい。近江町では居酒屋だけがぽつんと営業していたりしている。曇ったガラス越しに、かなり飲み、語り疲れたようなサラリーマンたちの顔がいくつも見えていた。

 武蔵ヶ辻に出ると、バス停に着いたばかりのバスに飛び乗った。香林坊まで、武蔵から乗ると百円ですむ。しかし、百円で得したと思うよりも、香林坊までの時間を短縮できたことの方が大きい。香林坊に着くと、すぐに日銀裏へと足を早めた……

 ヨークには、若い男二人がカウンターにいた。ビッグバンドでサックスを吹いている常連クンと、その友人だとすぐに分かった。久しぶりに顔を見たと思ったが、ボクの方が店に来る頻度が低いだけだ。めずらしく、マイルス・デイビス晩年のCDが流れている。

 二人がしばらくして出て行くと、その後にこれも懐かしいA木さんが入ってきた。ボクと同じく、どこかの飲み会帰りという様子だった。

 ボクの場合、かつては会社がすぐ下にあり、六時頃から夜中までヨークで過ごすという時もあったが、今はもうそんなことはなくなった。できなくなった。夜中までとは言わなくても、夕方から夜の始め頃までの時間を、しみじみと過ごすのが、かなり日常に近かった。

 A木さんは、金沢でも無類のジャズ愛好家であり、その温厚そうな顔付きや物腰からは想像できないほどのマニアだ。スーツ姿もさり気なく決まっている。

 かつて、マイルス・デイビスの金沢公演を再現しようというイベントを企画した際、最も有効で最も意味のある音源を貸してくれたのがA木さんだった。奥井さんの七回忌のライブ(スガ・ダイロー・トリオ)の時にも、ボクらと並んでカウンターの中からその演奏を熱心に聴いていた。

 ついでに書くと、ボクの拙本(「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」)の良き読者であり、理解者でもいてくれる素晴らしい人でもある。

 そんなA木さんと、その夜は寄席の話で盛り上がった。数日前あたりか、立川志の輔の落語を聞いたとかで、落語や漫才などは生(らいぶ)を聞かなきゃダメという点で意見がまとまった。

 ボクはかつて、先代の円楽の人情噺をしみじみ聞いたことがあるが、あれはまさに芸であったと今でも思っている。こんなことは敢えてボクのような者が言うセリフでもないだろうが、あの凄さは聞いた者でないと分からないだろう。高座から伝わって来る熱いものは並ではなかった。

 NHKラジオの「真打登場」の収録が、何年も前に寺井町(現能美市)であって、奥井さんと二人で行った時の話もした。ボクらも笑ったが、ボクらの前の席にいた熟年夫婦が周囲も気にせずに大笑いしていた。休憩時間に奥さんの方が、「寄席って、こんなに面白いもんやて知らんかったわ」と大喜びしていた光景は忘れない。

 やっぱり、生の演芸だからだネ…と、A木さんも言う。分かりきっていた落ちに、待ってましたとばかりに笑いを送る、そんな空気を感じて、幸せな気分になれるのが寄席なのである。

 そろそろ帰り支度(と言っても別に何もすることはないのだが)をしようとすると、本の方はどう?と聞かれた。特に大きな変化はないのだが、東京の方から、先日読み終えて、爽やかな気分になれたといった意味のお便りをもらった話をした。東日本地震の被災者の人たちに読んでもらいたいと思う…といった趣旨のことも書かれていて、ボクとしても、それが叶うならやりたいと思っていますと答えると、A木さんもそれはいいねと言ってくれた。

 北陸鉄道浅野川線の最終電車は、午後十一時。それに乗るために香林坊日銀前のバス停で、なかなか来ない金沢駅行バスを待つ……。

 その間、午後、浅野川・梅の橋沿いに建つ徳田秋聲記念館に、K先生を訪ねたことを思い返していた。

 先生としっかり一時間近く話をしたというのは、何年ぶりのことだっただろう。夢二館の館長時代は、館長室で時々ゆっくりとお話ができたが、脳梗塞で倒れてからは、あまりボクも訪ねて行かなくなった。

 昨年まで関わっていた、旧富来町(現志賀町)出身の作家・加能作次郎関係の仕事では、本来K先生と一緒にやるべきことも多かったのだが、結局先生との接点は地元の皆さんに任せてしまっていた。

 先生は七十九歳になられたという。島田清次郎の「にし茶屋資料館」をやった時からだから、もう十六年ほどのお付き合いになる。あの頃よりはかなりスマートになった感じだが、透析を続けての先生の活動には本当に頭が下がる思いだ。

 今回は、羽咋市にゆかりのある民俗学者で、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)でもある折口信夫に関することを教えていただきたくて時間をいただいた。先生はかつて、折口信夫のことで、近代文学館の館長だったSさんと動いたことがあったと言われた。

 現在は空き家となっている藤井家という旧家を、記念館として残すべきと考えられたらしい。しかし、実現どころか、藤井家にあった貴重な資料の多くが國學院大學に移されたということに、大きなショックを受けたと言われていた。

 藤井家を記念館にという話は、ボクも地元の人から聞いている。その価値と実現の可能性を先生に聞きたかったのだ。先生は、むずかしいが、地元に意欲のある人がいるなら、大いにやってみたらと言われた。そして、五月の初めに、地元の有志と藤井家見学に行くことになっていると話すと、その報告を楽しみに待っているよと目を輝かせた。

 そろそろ透析に行かなければならない時間。雨の中をタクシーがやって来る。

 ゆっくりと立ち上がりながら、こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね…と先生。こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ…と答える。

 「いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ…」別れ際の言葉がまた胸に染みていた。

 それにしても、バスはなかなか来なかった。接近マークは二つ手前で点滅したままで、小雨が降り続く中、ビニール傘を開かなければならなくなってもいた。

 “ 咲ききらぬ サクラ並木に 夜の雨 ”

 イライラの中の、久々の一句であった……

主計町の春

 

久しぶりに、主計町の「茶屋ラボ」に行ってきた。

あまり気持ちよいとは言えないくらいの生温い風が、やや強めに吹いていて、埃っぽく、上着をはおる気分にはなかなかなれない午後だった。

大手町の駐車場にクルマを置き、新町通りに出て、久保市乙剣神社から暗がり坂を下る。神社の境内に入ると、不思議に風を感じなくなり、暗がり坂に差しかかると、さらに強い温もりだけを受けるようになった。

木立や主計町の狭い道には風も入って来れないのだろう。少し霞み気味の日差しも強くなったように感じる。坂を下った検番の前に立つ桜の木は、まだ蕾(つぼみ)状態だが、それはそれなりの雰囲気を持っていて、相変わらず姿形もいい。

去年の春、ボクはこの木から無数に散っていく桜の花びらを見た。路面に敷き詰められたような花びらはそれなりに綺麗だったが、あの無数の花びらたちはあの後どこへ行ったのか……。桜の季節の後半になると、いつもそんなことを考えている。今はまだいいが、後で心配事が増えるので、やはり桜には心を許せない。

そう言えば、今年の桜はかなり遅い方だ。ボクがこんなこと言っても仕方がないが、桜は早く来て、ある程度の期間咲き続け、散り始めたら早く行ってくれればいい。桜の騒々しさはそんなに長い時間要らない。と言いつつ、今年は何とか哲学の道を桜を眺めながら歩きたいと思っているのだが、タイミング的に無理だろうか。今年がだめなら来年があるが。

そんなこんなで主計町の細い道をL字型に曲がって、浅野川沿いの道に出るとすぐ左に「茶屋ラボ」はある。もう何度も通っている道だ。と言っても、ひょっとすると今年初めてかも知れない…と一瞬冷や汗。去年の今頃は、こけら落としの「和傘と甲州ワイン」のコラボイベントで奔走していた。

新聞にも大きく取り上げられて、この先大変なことになるのでは…と、ビビってしまったのをはっきりと覚えている。本番はなかなかの内容だったが、それをベースにしてやっていくのには、やはり少々無理があったみたいだ。あれ以来、ぽつりぽつりとイベントをやってはきたが、積極さがなくなり、少しずつオーナーさんとの距離も遠くなっていってしまった。しかし、一時、管理をある人物に委ねるような話もあったが、今はまたフリーな状態に戻っている。

待ち合わせをしていたN川クンはまだ来ていなかった。

手に抱えた上着のポケットから鍵を取り出し、いつも開けにくい格子戸の鍵穴に差し込む。意外なほどに簡単に開いて拍子抜けだったが、以前はよく苦労したから気分がよくなった。

格子戸を開けると、何となく懐かしい匂いがして、すぐに中へと足を踏み入れる。奥にある分電盤のブレーカーを上げて、さっそくトイレを拝借。

このトイレは決まって、来客者に驚いてもらえるところだ。トイレをはじめとして、金沢で活躍する鬼才建築家・平口泰夫氏がデザインした内装は、建築賞も受賞した抜群のセンスで構成されている。茶屋の伝統の中に現代的な感性が息づいているといった、ちょっと定番的な表現しかできないが、まさにそうなのだから仕方がない。

一階のテーブルの上にバッグを置き、押入れの扉を開くと冷蔵庫がある。まさかと思って開けてみると、懐かしい「ハラモワイン」のラベルが付いたワインボトルが三本。フルーティな味が特徴的な美味いワインが寝かせて?ある。冷蔵庫は電源が入っていないから、ちょうどいい具合に寝かせられているのも知れない。そう言えば、少し前だがオーナーから、冷蔵庫のワイン飲んでいいかと電話があったが、その時には飲んでいないのだろうか・・・。

冷蔵庫のワインを見て、これは明日飲めるぞ…とニタリ。実は次の日の晩はここで久々のイベントなのだ。

コンニチワ。外から耳慣れた声が聞こえた。N川クンだ。横に立っているのは、大きなマスクながら見覚えがある。O澤さんです…とN川クンが言う前に、ボクはその正体を見破っていた。O江町でS屋さんを営むO澤さんだった。ちなみにSは魚ではない。

さっそく、この場所のことなら、そしてこの場所の活用のことなら何でもゴザレの説明に入る。

一階の設備をひととおり説明終えると、いよいよ二階への階段へと差しかかる。急で狭くて、しかも直角に曲がる階段は、下る際には要注意。何人かこけるのを見た。すれ違う時には、目と目で見つめ合ってしまうような微妙な距離にもなる。

一階でも感嘆の声が絶えなかったが、二階に上がるとその声は一階の三倍半くらいの頻度になった。

浅野川に面した窓からは、その流れと共に、蕾がそろそろ膨らみ始めそうな桜の木の枝が、手が届きそうなところで風に揺れている。いいではないですか…と言いたいながらも、そんな安直な言葉では表現できないと言った思いが、はっきりと伝わってきた。浅野川のさざ波が光っている。

O澤さんは、茶屋ラボで楽しいことを企んでいるらしい。その楽しいことに、さらに楽しいことを注入しようとボクも考え始めた。ここでやろうとしていることは、普通にありふれたことなのではあるが、その中に個性的な何かを付加していく。それが茶屋ラボ的な趣向なのだ…と、ボクはかつて新聞で語っていた(らしい)。

と、今は粋がっていても仕方ないので、いろいろ説明したり案内したりしながらの三十分ほどだろうか。なかなか有意義で楽しい時間が過ぎていった。

ここへ人を連れてくるといつも感じるのだが、皆さん、それなりによいイメージをもってくれる。当たり前のようで、素直な感想だと思うが、だからこそ、こちらとしても中途半端なことは言えない。管理自体にもそれなりに責任があるし、やはり茶屋建築には注意が必要なのだ。

今回のO澤さんのような個性的で、信頼できる人(ヒトビト的)たちには大いに利用してもらいたい。

二人を見送り、戸締りをして茶屋街の道に出た。浅野川を背にして建物外観をしみじみと見る。

そう言えば、「茶屋ラボ」という呼び方もこのまま続けていいのか…と、思ったりする。次の日の夜、ここで篠笛と一人芝居を鑑賞し、そのあとそれなりにビールやワインなんぞを飲むのだろうが、その時に、ボーっと考えてみようかとも思う。

帰り道、暗がり坂で、もう一度蕾の桜の木を見上げてみようと思った。が、おばさんたちの集団に圧倒されて、しばし我を見失っていた。そうか、春なのであった……

ジャズはジャズ的に聴く

三月下旬のNHK-BSで、上原ひろみがピアノを弾きまくっていた。

七九年生まれだから、もう三十歳は過ぎたのに、相変わらず可愛い笑顔をトレードマークにして、本当に楽しくて、楽しくてたまらないのです!というふうに鍵盤を叩きまくっていた。スタジオのインタビューでは、地震被災者たちのことを気遣いながら……

初めて彼女の演奏を聴いたのは彼女がまだ十代の頃だ。十七歳であのチック・コリアと協演している。明らかに普通のジャズピアニストにはない何かを彼女は持っていた。そして、彼女の音楽スタイルは、彼女の成長そのものよりも急角度で高度に、広角になり、ボクが最も好きなタイプのひとつともなって、いつ聴いても心も身体も解放させてくれる輝きを持つようになっていった。

それはピアニストとしての技術はもちろんだが、メロディやリズムを生み出す楽想や感性、演奏時のパフォーマンス(体の動きや表情)、そして即興性の追求など、すべてボク自身のサイクルを刺激するものであったということだ。

そして、それらの中でも、彼女が言うところの即興性というコトがボクには凄く重要で、即興でしか伝わらないスリルみたいなものは、いつもボクを刺激していた。彼女の演奏には、ボクの大好きな「単なるジャズではない、ジャズ的音楽」のエキスを感じたりする瞬間がたくさんあった。

「ジャズよりも、ジャズ的音楽の方が、よりジャズなのだ」と、自分でもよく分からないことをボクは考えたりしているが、最近ではラーメン屋でも居酒屋でもジャズ(一般的に言うモダンジャズだ)を聴かされているから、もうかつてジャズが醸し出していた濃いエキスは、豚骨スープや筋煮込み汁などの中に吸い込まれていき、かなり薄められている。

それも別に聴きたくもないシチュエーションでのジャズだから、どんどん垂れ流し的聞き流し的状況になっていくのである。

そんなときに聴く上原ひろみの演奏は刺激的で、ジャズは瞬間的に生まれる感性によって創造されるものなのだということを、あらためて教えてくれた。背筋がピンと伸びて、再び希望の道を与えられた迷い人の心境に近いものを感じたりした。

ボクにとって、ジャズは“ライブ”なのだ。特に冒険的なライブ感が感じられないとジャズ的ではない。だからスタジオ録音が悪いというのではないが、ライブ感があるかないかで、少なくともボクの評価は全く異なってしまう。

こんなことを言っていると、今世の中で一般的に愛されているジャズの評価とは全くかけ離れた話をしているように聞こえるかも知れない。街角で流れているジャズには人を普通に癒してくれるスイング感があるし、そのどこが悪いのだと言われると答えに窮する。それはそれでいいとしか言えない。

しかし…、なのだ…。

ジャズの世界では有名なエピソードだが、ジョン・コルトレーンとデューク・エリントンとのレコーディング時のやり取りが、ジャズのジャズたる所以を物語る……

自分のソロ演奏に満足できないで、何度もやり直したいと言うコルトレーンを、師匠格にあたるエリントンが、窘(たしな)めるという話である。

ジャズは即興性の強い音楽であり、その時その時の感じ方や演奏者の個性によってスタイルが変わっていっても不思議ではない。と言うよりも、そうだからこそジャズである。ところがコルトレーンは、再生テープを聴きながらやり直したいと言い出した。エリントンが答える…、そのままの演奏でいいのだよと。

もちろんコルトレーンだって、頭の中ではそんなことが分かっていないはずはない。ただ、エリントンの知性にあふれた強い個性に対して、当時の自分にはまだまだ満足できないもどかしさがあったのだろう…と、ボクは思っている。自分自身が許せなかった。超マジメに音楽を追究したジョン・コルトレーンという、後の泣く子も黙る偉大なミュージシャンは、こうして完成していったのかもしれない。

ところで、今では偏屈者と位置づけされるであろうジャズ愛好家が、ボクの周囲には何人もいる。自分では気が付いていないが、その偏屈ぶりは実に鮮明である。

今は金沢香林坊日銀ウラにある「ヨーク」の、亡き奥井進マスターにヘバリ付いていた連中(自分も含め)などは、その偏屈ぶりを今でも保持している。先日も、金沢市C岡町在住のY稜という偏屈者と久々に語ったが、彼はこの21世紀の世に、セシル・テイラーという超レアなジャズピアニストを聴いていると言っていた。ジャズの歴史には燦然と輝く異色の巨匠ではあるが、今では化石みたいな存在(言い過ぎか)として、久々に耳にした名だった。近いうちにCDを借りようと思っている。

ヨークの正面の壁には、今は亡き奥井進さんの写真が飾られてある。

雑誌掲載用に撮影された、よそ行きスタイルの奥井さんが店の椅子に腰を下ろしてレコードジャケットを見ている写真なのだが、持っているレコード自体が凄い。

サン・ラという、ジャズ界の奇才とも言えるミュージシャンのレコードなのである。そんなことはあり得ないが、若い娘だったら、サン・ラが好きと口にしただけで縁談も断られるであろう。逆に言えば、そういう音楽にカラダが慣れてしまっている自分たちも危ないのだが・・・・・・

奥井さんは何かレコードを持ってというカメラマンのリクエストに、なんとそのサン・ラを選んだ。もともと好きだったのは間違いないが、こういう時、普通のジャズ喫茶のマスターだったら、俗にいう名盤を手にするだろう。しかし、奥井さんは違っていた。

そう言えば、ジャズ的…と言う言葉は、ボクが奥井さんのために造った言葉だった。ジャズ的音楽、ジャズ的日常、ジャズ的人生……。自由に、のびのびと自分の個性を生き方(日常)に反映させていく奥井さんらしい言葉だと、ボクは我ながらのネーミングに満足していた。

一見ミーハーにも見える上原ひろみのピアノから、久しぶりに感じた心地よい刺激が、いろいろなものを思い起こさせてくれたのだった………

※上原ひろみのショットは、NHK-BSテレビジョンより

八ヶ岳山麓に憧れていた・・・

本棚の隅っこから、また懐かしい本が出てきた。レコードとか本とかはすでにかなり多くのものが手元から離れていて、時々本屋や図書館などで、これはかつて自分が持っていたものだと気が付いたりすることがある。

今回出てきたこの本の存在も、すでに遠く忘れ去られていたもののひとつだった。

著者の加藤則芳氏。ボクより五歳年上の尊敬すべき人だ。

かつて感覚やスタンスの違いを見せつけられ、一種の絶望感とともにこの本を読んでいた記憶がある。今から二十年ほど前のことだ。

そのさらに十年ほど前だろうか、加藤氏は八ヶ岳に移り住み『ドンキーハウス』というペンションを始めていた。

それまで東京の大手出版社に勤務し都会の雑踏の中にいたという、その180度の転換ぶりに、ボクは激しい羨望や嫉妬?を感じていた。当時のボクからすれば、氏はあまりにも簡単に自分のやりたかったことを実現させてしまった人だったのだ。

しかし、氏のことをボクがさらに尊敬していったのは、この本を出した後、人気のあったペンションをさっぱりと止めてしまったことだった。

経営的に行き詰まったというのではない。逆に多くの人に愛されていたペンションだった。その辺りのことは、この本を読めばよく分かる。

ペンション経営自体が、もともと氏の性格には合わず、氏の目的ではなかったということに過ぎない。このあたりも、自分に当てはまる話であると、奥歯で歯ぎしりしながら読んでいた。

氏はその後、八ヶ岳を生活のベースにしながら自然をテーマにした執筆活動を続けてきた(現在は横浜市在住らしい)。

また国内外でのさまざまな自然の場における活動などは、出版ばかりでなく、テレビなどでも広く紹介されてきた。細かいことは書き切れないが、もっと知りたい人は「加藤則芳」で検索してみてほしい。

去年の三月と四月、ボクは久々に八ヶ岳山麓に足を運んでいた。といっても、甲州市の友人と会うために出掛けた際、ちょっと立ち寄ったというくらいの滞在時間で、しかも清里周辺の超安全地帯をぶらぶらしただけだった。

清里周辺は両日とも雨や雪が降っていた。気温も低く人影も少なかった。特に清泉寮のあたりは全くと言っていいほど人の姿はなく、個性的な木工品が並ぶショップの中を遠慮がちに歩いてきた。夏の賑わいが嘘のような静けさだった。

遠望の山々も霞む中、小海線の清里駅にクルマを止め、日本の最高地点を走る車両を見ようと思った。

かつて日本で最も標高の高い駅である野辺山駅に立ち寄り、入場券を買ってホームに入った時のことを思い出していた。

列車が来ると、何気にその列車の写真を撮った。特に鉄道ファンでもなかったが、その時に見た列車はそれまでに自分が見てきたものの中でも深い印象として残った。

夏のきつい日差しの中で、熱を帯びた線路から舞い上がる陽炎も目に焼き付いていた。

ホームに入ってきた車両は、かつて見たものとは大きく違いカラフルで美しかった。

ただ見過ごしていたが、車両が走り去った後、どうせなら、一駅だけでも乗ってくればよかったと後悔していた。相変わらず思い切りが悪い……

二十代の多くの夏、ボクはこの本のタイトルみたいなわけではないが、八ヶ岳山麓で一週間近い夏休みを過ごしていた。

旧盆の休みとかに敢えて仕事をして、その分の振替え休暇を八月二〇日前後にとる。そんなことを当時は平気でやっていた。そして、その時間はボクの日常の中に非日常をもたらす、夏の恒例行事でもあった。

はじめは、特に八ヶ岳を意識していたわけではない。白樺湖の雑踏を抜け、車山高原からのビーナスラインを走り、途中の湿原地帯や高原の道をトレッキングするというスタイルだった。

ただ、もうすでに山の世界に足を突っ込んでいたボクは、もう少しハードなものを求めるようにもなっていた。

八ヶ岳の麓に来ると、十分にそれを満たすというほどではないにしろ、何となく自然と一体となれる瞬間があった。それは瑞々しい感覚で、樹木一本、野草一つが持っている目に見えないパワーみたいなものが伝わってくる気がした。

森の中を歩いていると、自分自身がそれまでとは違う何かに引き寄せられてでもいるかのように感じられた。

実際、当時のボクは、北アルプスの北部や上高地を起点とする山域に足を運び始めていたが、南アルプスや中央アルプスなどの山域の空気を知らないでいた。

ひょっとすると、その空気というのは、今感じているものなのかもしれない…、ボクはそんなことを思ったりもしていた。北と比べると、南の方はジメジメしていない、爽やかな印象があった。どこか垢抜けしていてセンスもいいような感じがした。

ボクは結局、八ヶ岳には一度も登らなかった。じっくりと腰を据えているといった印象もなく、いつもただ慌ただしく移動し、歩き回っていただけだった。

今の自分の家が出来つつあったとき、ボクはわざわざ八ヶ岳山麓を訪れ、地元のクラフト作家たちのアトリエを見て回った。

何年ぶりかのことだった。そして、そのとき、家を建てている自分のことを振り返り、ふと思った。

オレッて、かつてはこの土地に、家を建てようとしていたのではなかったっけ……と。

そんな思いはすぐに消え去っていったが、ボクは懐かしい森の中に、ちょっとだけ足を踏み入れ、車内に積み込んだ多くの品とともに、そこで切られていた白樺の木の枝を一本もらってきた。

ボクにとっては、それがその日一番の収穫だったような気がした。

しかし、それからまたボクは少し虚しい気分に落ちていく自分を感じた。

妥協したんだなあ…。いやあ、妥協なんてもんじゃないだろう…。

今は十分に落ち着いて振り返られるが、その時のボクは、二度と戻ることのない時代への激しい後悔に襲われていた。

この後、“私的エネルギーを追求する”などといった、胡散臭いコンセプトの雑誌を出していくひとつのきっかけが、その時のボクの感情の中にあったことは間違いないだろう。そんなことぐらいでお茶を濁していこうとしている自分も情けなかった。

ボクは自分の性分が、かなりの楽天主義で、さらに面倒臭いことにはできる限り関わらずに生きていこうとしているタイプであった…ということを、四十になろうかという頃、確信した。

その少し前から、そうなんではあるまいかと薄々認識し始めていたのだが、どうやらそれが正しいのだなあと悟った。

振り返ると、いろいろなことに深い関心をもち、人一倍好奇心と知識とを持とうとし、さらに行動にも移していたと思っていたが、そんな自己満足は何の意味も持っていなかった。

自分が本当に求めていたものは、目には見えないものであるということを忘れていた。

ニンゲンそんなに簡単に目的は果たせない。そんなことは分かっている。しかし、その目的を果たすための思い入れや、努力や、思い切りまでもを忘れてしまっていた自分が情けなかった。

“八ヶ岳”という名前、いや文字の形を見るだけで、今でもボクは気恥ずかしい気持ちになる。ましてや、加藤則芳氏のように、自然体で八ヶ岳を自分のものにし、そしてそこからまた羽ばたいていった人を見ると、もう自分自身の小ささが腹立たしくもなる。

そんなことを振り替えさせられた苦い味の一冊だった、と、また読み返しているのであった……

ストーブ当番の思い出

夢の中で誰かにハゲしくブン殴られた。夢の中だが、頬の骨に拳が当たって、顔全体が瞬間的にネジ曲がったような気がした。そして、その痛み(のようなもの)がしばらく感覚の中に残っていた。

その朝、ボクは通勤のクルマの中で、中学の頃の、「ストーブ当番」の日の出来事を思い出していたのだ………

ストーブ当番というのは、別名、石炭当番ともいった。石炭ストーブが当たり前だったボクたちの時代には、毎日二名ずつが当番にあてられていた。

役割はというと、石炭が置かれている倉庫のようなところから一日に何回か石炭を運び、ストーブの状況を見ながら、その石炭を補充することだった。もちろん授業が終わった後の灰の始末もあった。それとバケツに消火用の水を入れておくことも重要な仕事だった。

ちょうどその時は、バケツにわずかに石炭が残っているだけで、次の休み時間には石炭を補充に行かなければならないという状況にあった。そして、そのわずかに残っている石炭が無性に邪魔に感じられていた。

しかし、ボクはストーブの中がいっぱいなのを確認して、面倒くさいと思いつつも、その残りをそのままにしておくことにしていたのだ。

ところが、当番のもう一人の相棒というのは、短絡的というかいい加減というか、ついでに言うと、とにかく音痴で、しかも足が臭くて、当然女の子にもモテるわけもなく、その上に牛乳ビン底型レンズ付きメガネなどまでかけているといった、個人的には好きでも、ストーブ当番の相棒としては問題の多いヤツだった。

ボクが石炭バケツをそのままにしていた理由に気が付かず、単に、バケツを空にするということだけしか考えられない…魚で言えばアンコウみたいな、ただひたすらウスラボンヤリとしているだけのヤツだったのだ(、それくらいイイやつでもあった……)。

彼は、その休み時間の終了間際、余計なお世話にも関わらず、ストーブ当番としての責務に気付いてしまった。ボクにしては、ちょっとした油断、彼にすれば、自分も当番なのだという参加意識のようなものだったのだろう。

ボクは彼が石炭の残りをストーブの中に放り込んだという事実を知らないまま、次の授業を迎えることになったのである。

次の授業は社会だった。しかも運悪くというか、ボクが所属していた野球部の顧問のO野先生が担当の授業だった。

授業が始まってしばらくは平穏無事な時間が過ぎた。しかし、それも束の間……。

いつしか教室には石炭独特の黒い煙が立ち込み始め、教室の至る所からゴホンゴホン、あるいはエホンオホン、はてまたアハンウフンといった咳やうめき声などが聞こえるようになっていった。

先生が教室内の異変に気付くまでには、さほどの時間を要しなかった。

立ち上る黒煙は、単にストーブの石炭投入口からという生易しい段階をはるかに越え、煙突のつなぎ目などからもハゲしく吹き出ていた。

教室の天井付近に黒い煙が怪しくうごめいていくと、皆の目がその方向へと移り、不安や恐怖の表情が色濃く見えてくるのだった。とにもかくにも尋常ではない段階に入っていたのだ。

はじめは、ボクもその光景をいたって冷静に見ていた。というのも、ボクにはいくらストーブ当番という役目があったにせよ、今起こっている事態には当番としての責任はないと思っていたのだ。

しかし、情勢はボクを平穏に守ってくれる段階をすでに過ぎており、ボク自身にもそのことはヒシヒシと伝わってきていた。そして、表面的には冷静を装っていたが、すでにかなり動揺もし始めていた。

「当番は、いったいどいつだッ!」

先生の吐き捨てるような声が、ついに教室中に響き渡った。突き出た下唇が、荒い息づかいと一緒のリズムで揺れていた。

右手に持った石炭を汲むミニスコップ(シャベルというべきか)が小刻みに震え、それがあてがわれた投入口から、ボクには覚えのない石炭がガラガラと取り出されていく。

O野先生というのは、体重が九十キロ、いや百キロはあるかも知れない巨漢だった。そんなバカでかい体を、ホンダカブに無理やり乗せて通勤していた。

ホンダカブに乗っていたわりには、質実剛健を絵に描いたようなタイプであり、狭い額の上で、オールバックにされたテカテカの太い黒髪と、黒ブチ眼鏡(敢えて漢字にしている)が威嚇的で、丸みを帯びた下唇を突き出しながら独特な叱り方をした。

ボクは野球部員であり、先生とは毎日グラウンドで接していたから、先生が今どういう精神状態でいるかぐらいすぐに解った。

覚悟を決めて立ち上がった。相棒も立ち上がっていた。

「こんだけ石炭入れりゃ、どうなるかぐらい解るやろがァ、アホッ! 前へ出ろッ」

前へ出ろが何を意味するのか、当然解っている。もはやジタバタできる状況でもなく、すでに次の指令までもが予測できた。

「そこに立てッ」ボクと相棒はストーブの横に突っ立ち、ボクは意識的に顔を上の方に向けて、先生を見た。

「歯を食いしばれッ」待ってましたと、半ばヤケクソ気味に頭の中でつぶやく。先生の殴る時の決まり文句だったのだ。

ビシッ、ベタン。それからすぐだった。ボクの頬は一瞬のうちに熱を帯びた。身体もでかいが、当然手もでかい。体がでかい分、パワーも凄い。

最初に左の頬にマヌケなくらいの衝撃が走り、そのすぐ後に右の頬が大きく窪んだ気がした。顔がネジ曲がったかのようだった。

この哀れな出来事は、いつもこの季節になると思いだす。先生は、元気だろうか………

◆この文章は、ヒトビト第5号「編集長 冬の思い出を語る…『ストーブ当番の思い出』」に、ちょこっとだけ加筆したものです。

祖父のこと

  何だか物騒な見出しの新聞記事。実はこの記事の中にボクの祖父の名前が出ている。逮捕者の一人として…。

昭和28年(1953)の事件だったと思う。

この記事を見つけたのは昨年の秋。内灘にある歴史民俗資料館「風と砂の館」で開催されていた企画展・『写真で見る内灘闘争』の中で、だ。一緒に行っていた相棒が、「ナカイトクタロ―って名前出てますけど、知ってる人ですか?」と、何気に聞いてきた。

そこには、内灘の漁民たちが逮捕されたという記事があり、その逮捕された八人の中に、祖父の名前があったのだ。

「オレの祖父さんだよ」なぜか誇らしげに、ボクは答えた。

身内に逮捕歴のある者がいるなどというのは、どう考えても尋常ではない。しかし、ボクはこの事件を知っていた。かつて自分たちの海を、国の政府を通じて米軍に奪われた男たちが、一泡吹かせようととった行動。その行動を犯罪と呼ぶのは、あまりにも安直過ぎた。だから、ボクはいくらか微笑ましいという感覚ももちながら、その記事の内容を追っていた。

記事によれば、米軍に接収された内灘の海岸に強行出漁した地元(内灘村黒津船・宮坂地区)の漁師が、国警石川県本部捜査課、河北地区署の捜査により逮捕されたとあり、地元民100人が釈放を求めて河北地区署に押し寄せたと記されている。逮捕された者たちは、取り調べが終わると、翌日釈放されたらしい。その中に当時61歳だった祖父の名前があった。

ボクの祖父は、中居徳太郎という。明治19年(1886)に生まれ、昭和47年(1972)まで生きた。

生まれた時代はようやく明治維新の混乱から安定期に入った頃で、新生日本に初代総理大臣(伊藤博文)が誕生した一年後だ。大日本帝国憲法が発布される三年前でもある。日本がかなりの勢いで強国に近付こうともがいていた頃なのだ。もちろん、祖父がそんなことに絡んでいたわけでもないし、日本はどうなるのか…?などと考えていたなんてこともあろうはずがないが、その後の祖父の生き方やらを思うと、漁業という生業の中で、自由に伸び伸びと力を発揮していった背景が見えないでもない。

話が中途半端に展開しているが、祖父はなぜ逮捕されたかだ。それには、厄介だが、まず「内灘闘争」という事件を説明しなければならない。

………昭和25年(1950)6月、朝鮮半島で戦争が起こった。国連軍の主力を成していた米軍は、戦争で使用する砲弾の製造を石川県の某企業に依頼するが、そこで製造された砲弾を試射する場が必要だった。そこで目をつけたのが、なんと当時貧しい漁村だった内灘なのだ。

政府がそのことを決めるや、当然のごとく村中が大騒ぎとなり、その抵抗運動は新聞報道や労働団体、学生たちの動きもあって全国へと広がった。地元住民たちにとっては、細々と続けてきた沿岸での漁業を奪われる死活問題でもあった。

しかし、昭和28年3月には試射が開始される。住民たちは大反対し、その年の6月には座り込みなどの抗議活動が激しくなっていく。しかし、結局当時の日本経済が朝鮮戦争による特需の恩恵を受けていたということや、貧しい内灘にさまざまな補償の話がもたらされていく中、試射場の使用は続けられ、昭和32年(1957)に返還されるまで続いた……

この出来事は、ある人たちから、今沖縄などで起きている米軍基地問題の走りとか先駆けなどとも言われ、日本で起きた最初の対米軍闘争という位置づけもされている。これまで、そういう難しい視点に縛られたくなかったこともあり、ボクは五木寛之氏初期の小説『内灘夫人』などで表現された青春小説の中の内灘の姿などに目を向けてきた。しかし、最近になって、この出来事にあるような住民たちの当時の日常などに関心が高まっている。

拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』のあとがきにも書いたが、自分の身近な人たちが、あのとき何をしていたか、何を考え、何を感じていたか…などについて、深く思いを馳せるようになっている。

もうこの世にはいないが、当時若い母親だった叔母は、すぐ近くで砂煙を上げながら炸裂する砲弾が怖くて、座り込みに行くのがいやだったと言った。幼かった兄は、親が座り込みに行っている間、大学生たちがギターやアコーディオンで歌を歌ってくれたり、紙芝居を見せてくれたりして楽しかったと振り返った。日常の生活は、このようにしてごく普通に流れていたのだ。

祖父の話に戻ろう。この頃、祖父は何をしていたのだろう。たぶんすでに衰退していた遠征漁業からは手を引き、河北潟や日本海沿岸での地引網などで、辛うじてかつての海の男としての面目を保持していたと思う。

戦前から祖父は、いや祖父たちは、漁船を駆使して日本海を北上したり南下したりして魚を追っていた。わずかに残っている若い頃の写真からは、逞しい体つきをした祖父の姿を見ることができる。

幼い頃から寝起きしていた生家の座敷には、北海道の“松前水産組合”という組織から送られた、中居徳太郎あての感謝状が飾られていた。すでにかなり時代がかった色になっていたが、その内容は漁獲方法の指導や改良などの貢献に対するものだったと記憶している。その堂々とした筆跡や大きな額は、見ているだけでも気持ちを高ぶらせてくれた。

誰からも、祖父は凄い男だったという話も聞かされていた。祖父たちは漁業で財をなしていた。親分肌であったろうボクの祖父もまた、魚を獲るということに関しては天才的な感覚をもち、人一倍の努力を惜しまなかったことだろう。早く漁場へたどり着くために、いち早く最新のエンジンを導入したりすることも忘れなかった。そのような話は『内灘町史』にも名前入りで出てくる。

一度、金沢から家まで乗ったタクシーの年配の運転手さんがこんなことを言っていた。「私の父親が、昔、黒津船の人の船に乗っていたらしいですがね。あの辺の男たちはとにかく、キッツイ(強い)者ばかりやったと言ってましたわ」と・・・

先に書いたボクの生まれた家は、祖父が大工を呼び、現金を目の前に積んで「これで頼む」と建てさせたと聞いた。二階の“あま”という屋根裏空間には、網などの漁具と一緒に数多くの火鉢やお膳などが並んでいた。かつて家の座敷から居間にかけての広い空間で、宴会などがよく行われていたのかも知れない。

ボクが生まれたとき、祖父は62歳か63歳だった。まだまだ元気だったが、かつてのような逞しさは影を潜め、無口で力持ちでモノに動じない、そしてやさしい祖父さんだった。ボクは祖父のことを“ジジ”と呼んでいた。最近、同じような呼び方が流行っているみたいだが、少しニュアンスが違う。

最近のは“ジィジィ”だ。見ての通り前にも後ろにも小さな“イ”が入っている。口にしてみるとすぐに分かるが、最近の呼び方には、“甘さ”がにじみ出ている。ちょっと語尾を延ばすことで“ねえねえ”みたいな甘ったるさが見えてくる。最近のおじいさんたちは、おしゃれでカッコよくて、孫のためなら何でも言うことを聞くらしいので、それでいいのかも知れない。

しかし、ボクの祖父さんは語尾を延ばしてはいけなかった。“ジジ”と、シンコペーションを効かすくらいでしか、あの武骨でクソ真面目で飾り気のない老人を呼ぶ方法はなかった。ちなみに、祖母は“バァバ”と呼んだ。小さな“ア”が一個だけ付くのが、ジジとは違う愛着の表れだったのかも知れない。

忙しかった母の代わりに、ボクは祖父に子守をしてもらって育った。大きな背中に背負われたボクのことを、近所の人たちは大木に縛られているみたいだと言っていた…と、よく聞かされた。まだ保育所にも入る前だろうか、近くの寺の報恩講などに連れていかれ、寺の近くにあった駄菓子屋でキャラメルか何かを買ってもらい、祖父の横に小さくなって座っていたのを、かすかな記憶として覚えている。昔の、五右衛門風呂をコンクリートで固めた、今となってはどう表現していいのかと悩んでしまう我が家の風呂にも、祖父と一緒に入っていた。子供にはかなり高い階段を二段ほど上って浴槽に入るという、ますます複雑怪奇な風呂場であったが、ある時祖父はその浴槽の縁から後ろ向きに落ちた。が、何食わぬ顔で起き上がると、何事もなかったかのようにして、また浴槽に体を沈めていた。

祖父は毎晩コップ一杯の日本酒を飲んだ。そのコップを出すのがボクの役割だった。時々、祖父のその酒をボクは舐めたりもした。

その頃、祖父は未明に河北潟に舟を出し、細々とした漁を繰り返していた。もちろん、河北潟が今のように干拓される前のことで、その頃は内灘の名が示すとおり、前にも後ろにも大きな水域があった。漁ではハネと呼ばれた淡水魚が多く獲れ、家の前まで運ばれた網を広げて、早朝家族で魚を網から外す作業が行われていた。近所の人たちが小さな鍋や籠のようなものを持って集まり、その場で一匹いくらかで買って帰っていった。

魚がすべて網から外され、きれいに整理されて箱詰めにされると、それは隣の地区にある漁協に運ばれる。運ぶのは姉の仕事だった。姉は中学生ぐらいだったろうか。自転車の荷台に箱を縛り付け、15分ほどかけて、いやもっと時間がかかったかも知れないが、とにかく漁港へと向かった。その自転車にはボクも便乗していた。姉の息を頭のてっぺんで感じながら、ボクは必死にハンドルにしがみ付いていたが、当時まだ道路は舗装されておらず、その乗り心地は凄まじいものだった。

魚はその場で現金決済されたのだろうか。といっても、ほんのわずかな金であったことは間違いなかった。しかし、そのお金の中からだろう、姉はボクに必ず何かお菓子を買ってくれた。今から思えば、ボクはとにかくみんなから可愛がられていたのだ…

ところで、ハネという魚は子供の記憶でもはっきりと覚えているほど、激しく美味い魚であった。醤油で煮たやつは、いつも食卓に出ていたが、ハタハタに目覚める前はこのハネに惚れていたように思う。幼い頃の初恋のようなものか…

祖父のことで最も印象深く覚えているのは、河北潟の対岸の町にさつまいもを売りに行った時のことだ。この話は『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中でも書いている。

当時の内灘の砂丘地では、さつまいもがよく作られていた。他にもいろいろあったように記憶するが、現金収入の乏しかった時代、このさつまいもが唯一よそへ持って行っても何とか売れるものだったのかもしれない。

祖父の小舟に笊に入れられたさつまいもが積まれ、祖父が操縦して対岸の町へとひたすら真っ直ぐ向かう。舟には母と親戚の叔母だったろうか、とにかく何人かが乗っていた。そして、ボクはその舟の先端の尖ったあたりに背中を押し付け、早く陸にたどり着けと願いつつ、静かにまたしても便乗していた。

舟は行くときは大して揺れなかったが、帰りにはそれなりに揺れた。あんな潟の水面なのだが、夕暮れ時の風には小舟は敏感だった。

ボクがそこで見た光景は、後にかなり物事が分かるようになってからひとつの感慨となって残ったものだ。小説の中では、主人公のナツオがその場で感じたように書かれているが、ボクは当時その光景を、ただぼんやりと見ていたに過ぎない。しかし、後に感じたことは、自分でも不思議なくらいに切なく悲しいものだった。

人生の最も華やかな時代を海の男としてならした祖父が、さつまいもごときを売り歩くためにペコペコと頭を下げていた。額に汗を浮かべ、その汗を首に巻いた手拭いで拭く姿は、かなり疲れているようにも見えた。対岸の町と言えば、水田が広がり米の多く獲れるところだった。米を作っている人たちの、どこか落ち着いた、もっと言えば品の良さそうな表情が、ボクには眩しく映っていた。その町の人の中には金ではなく米で支払う人もいたが、その頃の自分たちが、それほどまでに貧しかったのかと、それから後に思い返したりもしていた。

ボクはあの時の祖父の姿に何か特別な思いを持っている。それほど深い意味はないと言ってしまえばそれまでだし、たしかに自然体な祖父からすれば、さつまいもを売り歩くこともひとつの人生だったのかも知れない。しかし、ボクはそんな祖父にどこか虚しいものを感じて仕方がなかった。

祖父はボクが18歳の時に死んだ。全く病気などしたことはなく、老衰と言う祖父らしい自然体の死に方で息を引き取った。ボクが生まれて初めて体験する身内の死でもあった。

高校三年であったボクは、帰宅した時に祖父の死を知った。普通の家では信じられないと思われるかも知れないが、ボクには祖父の死は知らされなかった。だから、バス停から歩いて家の近くまで来た時、家の前が異様に明るいのに気付き、そのことを察知したのだ。わざわざ学校を早退してまで帰って来なくてもいいという、当時の田舎の素朴な生活感覚が匂ってきて、この話にはボク自身も違和感がないから不思議だ。

祖父の屍が焼かれようとしている時、母が何か一言口にして泣き顔になった。母はかなり苦労した人であったが、その心の支えとなったのが祖父だったのは明白で、どっしりと構えた義父としての祖父の存在が、母をずっと勇気づけてきたことは間違いなかった。

ボクは、祖父が煙となって空に昇っていくのを斎場の脇から見上げていた。ボクの前にはすぐ上の兄がいた。肩が震え、今にも嗚咽が聞こえてきそうだった。涙は出なかったが、ボクはその時はじめて、自分の祖父の存在と、その祖父の死を実感したように思っていた。

祖父の名は、中居徳太郎。大らかないい名前だ……

滝港と福野勝彦さんとまちづくりと

世の中には面白ヒトビトがたくさんいて、そういうヒトビトと出会う機会を多く持っていることが、楽しい人生に繋がるひとつなのだと思ってきた。そして、いつもそういうヒトビトとの出会いを待っていると感じたりする。

能登半島の中ほど、羽咋市滝町に住んでいらっしゃる福野勝彦さんは、活躍畑の豊富さや深さやスケールの大きさなどからして、久々に出会った面白ヒトビトの一人だ。最初にお会いしたのが、もう二年ほども前なのだが、それからなかなかゆっくりお話ができる状況を作れないでいた。そうこうしているうちに、「寄ります」とメールしたら、「いつでも寄ってや」と返事が来たので、11月の終わりの晴れた日に出かけてきた。

福野さんの家は、魚港に面した道沿いに建つ。港の名は「滝港」。福野さんの家は、「海の家」と呼ぶ。なぜ、そういう固有名詞が付いているのかというと、その家は、生まれ育った家ではあるが、本来は金沢に住まいがあるため、福野さんはその家、つまり実家を隠れ家?として使っているのだ(と、勝手に解釈している…)。

その名前を聞いたときは、てっきり民宿とかペンションのような佇まいを想像していた。その割には、名前が当たり前的にシンプル過ぎるなとも思ったが、それ以上は考えてなかった。そして、実際に「海の家」に来てみると、そのシンプルさに却って安心した。

ついでにもう少し詳しく説明すると、「海の家」は平屋建ての、間口は狭いが奥に長く伸びた住宅だった。築約60年という。福野さんはここからすぐ近くにあった一宮小学校を卒業し、高校時代までをその家で過ごした。言わば、滝町暮らしは、誕生から青年期始めまでの一期と、現在の二期に分かれることになる。

 ところで、一宮小学校はすでに廃校となり、校舎は公民館として建て替えられているが、木造の体育館は残っていて、なかなかいい雰囲気を醸し出している。石碑には『明治・・年』と記されていた。二宮金次郎の像も残っており、できれば、校舎の方も残っていれば…と、部外者の勝手な思いが込み上げる懐かしい風景だ。

福野さんは67歳だと言われた。地元のテレビ局で報道記者やニュースデスク、番組づくりのプロデューサーなどを経て、7年前に引退(定年退職)。その後、故郷の滝町に戻り、「海の家」を拠点として、自由なスタンスでこの町の“未来創造”一派をリードしている様子だ。エッセー集「能登・ 加賀 東風(あいのかぜ)に吹かれて」(回天蒼生塾発行)の著者であり、講演などの活動されている。

簾(すだれ)がかかった玄関戸を開け中に入ると、上りのところに紙きれが一枚・・・・散歩中だから、ここへ電話せよとのメッセージが書いてある。しかし、福野さんはいた。その紙切れは外出時に玄関に貼っておくのだろう。

 まっすぐに奥に伸びた薄暗い廊下の手前に、坂本龍馬の絵がさりげなく置いてある。墨で描かれたような独特なトーンで古めかしい印象のする絵だ。

実は福野さんは、全国にある坂本龍馬を愛する人たちの集まりの、金沢版とも言うべき「金沢龍馬の会」という組織の設立に参画し、事務局をされている。もちろん、今のNHK大河ドラマの影響などとは無関係で、後で聞いたが、『龍馬伝』は全く見ていないらしい。

これはボクにも覚えのあることで、ボクの場合は、学生時代に山梨の友人の影響を受けて以来、戦国最強の武将(と決めつけている)武田信玄に心酔。信玄に関する本は読みあさり、史跡も見て回った。もし、「武田信玄ものしりクイズ・石川県大会」などが開催されたりしたら、上位入賞の自信がある。北陸大会でもいい。北信越大会だとかなり危ないが、準々決勝あたりまでは行けるかもしれない。そんなことはどうでもいいのだが、とにかくそういう自分は、武田信玄が出てくるドラマは積極的に見ないようにしている。自分の中にかつて具象化した武田信玄があり、それを崩すようなドラマは見る気がしない。ついでに言うと、信玄のライバル上杉謙信も同じで、最近のいい加減な人物像づくりには付いていけない。と言いつつも、文句言いながら結構見ていたりするのだが・・・・・

福野さんにとっても、龍馬はもう出来上がっていて、今更何を…的なものなんだろう。しかも、あんな野郎にやってほしくないという思いもあったかもしれない。勝手な想像だが・・・・

 囲炉裏のある薄暗い部屋が玄関から上がってすぐ右手にあり、福野さんが手招きされている。デスクトップ型の年季の入ったパソコンを前に胡坐(あぐら)をかき、フィルターのない煙草を指に挟んでいた。部屋はと言うと、かなり出来上がった、完成度の高い雑然さで構成されていた。

ボクも囲炉裏の前に腰を下ろす。コーヒーが小さなカップに入れられていた。

福野さんとは互いに間接的な知識しかなかったが、話し込んでいくうちに共通の話題が続々と出てくる。仕事や趣味や、その共通な話題は、ボクにとっても福野さんにとっても懐かしいものが多く、どんどんと話が膨らんでいく。

かつて小誌『ヒトビト』でインタビューさせていただいた面白ヒトビトたちが、共通の知り合いだったり、山や旅の話、本の話、まちづくりの話……。それらに福野さんの縦横無尽だった活動から生まれた話が重なった。ネパールをはじめとするアジアの山々や樺太、さらには東欧やその他世界各国を旅した話、それらにほとんど行かないところはなかったという国内の旅の話、そして密度の濃い地元の話などが交錯した。上品にも下品にもなった。取材した政治家の話もあれば、一緒に仕事をした芸能人たちとのエピソードもあった。好奇心というと少し意味が違うかもしれないが、ある情熱を持ったニンゲンの、自由に行動できる真っ直ぐな生き方みたいなものを感じた。・・・・書き忘れていたが、日本山岳会の会員でもある・・・・。

そして、印象深く残ったのが、福野さんの“ふるさとに対する思い”だった。そんな平凡な言葉で、福野さんの情熱を的確に表現できないのは分かっているのだが、とりあえずそう言わせていただく。今、福野さんは地元の同志の人たちと、地元の海の幸や山の幸を、広く多くの人たちに提供できる場を構築中だ。すでに休日には滝町会館前で「朝市」を開催していて、ちょっとユニークな展開が注目を集めている。12月最初の日曜日に顔を出してくる予定をしているが、福野さんたちは、こういう場を常設のものにしようと考えており、そのための手法についてはボクの方にもいろいろとアイデアがあって、整理してみることにした。

さらに、地元ゆかりの歌人・折口信夫(おりぐちしのぶ)を紹介するための文学館の開設のために、折口信夫が住んでいた藤井家を活用しようと構想されている話にも共感した。ボクはとなり町の志賀町で、加能作次郎や坪野哲久(つぼのてっきゅう)の文学館開設に参画してきたが、折口信夫については、客観的にみて、それ以上の価値を持っていると思っている。志賀町には、前にも紹介した熱心な人たちがいて、優秀なスタッフがその人たちを支えていた。そんな関係が福野さんたち周辺にも必要なのだと思う。旧一宮小学校の建物なども、そういう意味でこの地域の文化づくりの素晴らしい拠点になる。

 福野さんは、今日はもう外出しないからと、もらったばかりだというお酒を飲み始められた。朝から天気は良かったのだが、夕方近くになってちょっと雲が出てきていた。そろそろ失礼しようと立ち上がると、部屋の中に置かれた古い映像カメラが目に入った。ふたつあったが、ひとつは福野さんが実際に使っていたものだということだった。とにかく面白い部屋だ。この部屋では、近々囲炉裏を囲み「芋煮会」が開かれるとのこと。奥の部屋には布団もあるから、来なさいよと誘われた。とにかくにぎやかなのだ。

外に出ると、海風が冷たく感じた。港に上げられたボートの先には、北アルプス北部の山並みが見えた。楽しい時間だった・・・・・・

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

朝から大気が澄みわたったままの、完璧な秋の青空だった。

どこかのどかで、冷たさを感じさせない気持ちのよい風の流れもあった。

普通なら午後になると大気は霞みはじめるのだが、ひたすら澄んだままで、素朴に秋なのだ…と思わせる。

かつて砂丘だった内灘の高台から、はるか東方に聳える北アルプス北部の山並みがくっきりと見えていた。陽の当たり具合もちょうどよく、急峻で雪が付きにくい剣岳以外は、毛勝(けがち)三山も、立山連峰も、そして薬師岳も白く輝いていた。

一年に何度見ることができるだろうかという、素晴らしい光景だ。この季節ならではということもあり、クルマを止めて車窓から眺めている人もいる。ボクは仕事で内灘の役場へ向かっていたが、まだ時間があったので役場を通り過ぎ、近くの公園の展望台の階段を少しだけ登って“鑑賞”した。

生まれ育った内灘が、再来年1月1日で町制50周年を迎えるという。そう言えばと振り返ると、町になったのは小学一年の時で、その記念式典(元旦だった)の仰々しい舞台の上で剣舞を踊ったのを思い出した。ボクとN村君という同じ学年の男子二人だけの剣舞だった。実は、その時何が行われていたのか、小学一年生のボクは理解できていない。三年生ぐらいになって初めて知ったと思う。

歳も喰い、その内灘でボクは記念事業の仕事に関わろうとしている。「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」という話を本にし、図らずも、内灘という自分のふるさとを再認識することになった。だからというわけではないが、少し内灘についてやってやろうではないか…とも思い始めている。

その週末、さらにまたポカポカとした陽気の休日…

家の周囲に下品さ極まりなく広がっていた雑草を刈った。

もう生気も失っている乾いた雑草を刈りとり、以前に『今年いちばんのコスモスだった…』の話で紹介した多目的空地の一角に集め、夏に壊したオープンデッキの残材とともに火をつけた。

かつて、家の後ろがニセアカシヤの林だった頃にはよくやったが、久しぶりの焚火(たきび)だった。

 ……今から13年前、内灘に家を構え、しっかり者の姉さん女房と、生まれたばかりの息子の三人で幸せな暮らしを始めていた男が死んだ。玉谷長武(おさむ)という男だ。27歳という若さで、彼を死に追いやったのは胃ガンだった。

奥能登・門前町に生まれた彼は、明治大学で日本文学を専攻し、大手旅行代理店に就職した後、退職し金沢へ来た。縁あってボクのいる会社の子会社に入り、一緒に何度か仕事もした。

大学では石川啄木や太宰治に親しみ、本をよく読んだ。カラオケでは、テレサ・テンを歌った。時には、これ面白かったです、読んでみてください…と、『ユリイカ』などのマニアックな雑誌をボクの机の上に置いていった。風貌は若々しかったが、20代にして老成した雰囲気を持った彼は、その勢い?で多くの客をつかむ独特の力を潜在させていた。清々しい青年の顔と、人生を見つめるような老成した顔の両方を持ち合わせていた。もちろん、ボクにはいい“助監督”だった。

彼のそういった個性には、高校まで野球部にいたという一面も作用していた。少なくともボクはそう思っていた。ときどき出会うことのある、意外性に富んだニンゲンのいい見本だった。

大学の後輩であり、ボクが当時『ポレポレ通信』というお遊び冊子を出していたこともあって、彼はボクに関心を持ってくれた。文章はまだまだだったが、ボクは彼に大学時代に体験した、東京から門前までの徒歩旅行の話を書けと告げた。彼はなんだかんだと言いながら、結構嬉しそうだった。

かなり手直しをしてから彼の紀行文を載せた。タイトルは「東京~モンゼン・徒歩ホの旅」、ボクが付けた。この紀行文は「ポレポレ通信」創刊以来の“つづきもの”で、それは彼の人懐っこい図々しさが遺憾なく発揮されたものだった。彼はその顔に似合わない図々しさで、ページをジャックすると、「ナカイさんも、いつまでもこんなもんやってないで、ちゃんとしたもの書けばいいじゃないですか」と、ボクに言った。そのあとで、「いいもの書けるんだから」とも言った。いとしの「ポレポレ通信」を、“こんなもん”と言った。

表面的には元気だったが、入退院を繰り返すうち、彼の体はかなり決定的なところまで追い込められていた。今度入院したら(転移が見つかったら)、もうダメだと言われてます…。彼は笑いながらそう言った。夏が過ぎ、秋も過ぎて、一年が終わろうとしていた。

御用納めの大掃除の日。彼はなぜか出社していない二人の先輩の分も含めて、自分たちの部屋の片づけをしていた。昼飯に誘いに行くと、疲れているはずなのに元気な素振りを見せ、行きましょうと答えた。

その日、ボクはあることを彼に告げようと思っていた。傘をさし、冷たい雨の降る年の瀬の街へと出る。彼が広島風のお好み焼きが食べたいと言った。

柿木畠にその店はあった。彼は一人前を頼んだが、ほんのちょっとしか残っていない彼の胃には、それはあまりにも多過ぎた。彼はもう、わずかに舌の上で味を楽しむことしかできなかった。ボクが半分以上を食べ、彼は会社に戻ってからトイレへと行き、そこで食べたものを吐き出すのだ。

お好み焼き屋を出ると、同じ柿木畠の喫茶ヒッコリーで話を切り出した。体を重視して、彼をボクの部署に異動させようという話だった。しかし、話は中途半端になり、夕方また時間を作ることにした。

そして、六時半ごろだったろうか…、ボクたちは香林坊・日銀裏のYORKのカウンターにいた。

「年が明けたら、オレんとこへ来るか」 少しぶっきらぼうな言い方をした。もう話し尽くしていて、気怠さが漂っていた。彼は正面を向いたまま「入れていただけますか」と静かに答えた。そのやりとりだけで、すべてが解決したような思いがした。少しでも体が回復するなら、どんなことでもやろうと決めていた。

ボクたちはまた雨の降る街へと出ると、しばらく歩いてから、“じゃあ、年が明けたら…”“はい、よろしくお願いします”と言葉を交わし、別れた。

しかし、年が明けた新年の顔合わせの式に彼の姿はなかった。ボクたちが年末に交わした約束など誰も知らない。それにボクたちは一対一の会話ばかり繰り返してきたから、会えなくなると彼の近況を知ることもできない。今と違って携帯電話もそれほど身近な存在ではなかった。

結局、彼が正式に入院したという知らせは、二週間近くが過ぎたある日耳に届いた。すぐに病院へ会いに行ったが、彼は疲れたのかぐっすり休んでいると奥さんから言われた。話しているうちに、奥さんの目には涙が滲みはじめていた。そして、“悔しいです…”と、唇をかむと、それ以上言葉は出なくなった。

聞くと、前日、早明の対決となった大学ラグビーの決勝戦を、早稲田OBの友人と見ていて、明治の勝利に凄く喜んでいたとのことだった。そうか、まだそんな元気があるのかと、ボクは少し嬉しくなった。

それから何度か見舞いに行った。が、結局彼とは話せないままだった。二月に入り、また病院へと出かけた。ナースセンターで様子を聞くと、「お母さんがいらっしゃいますから、聞いてきます」とのことだった。容態の悪さが察知できた。ほどなく、お母さんが来られた。寝ているが、起こすから会ってやってくださいと言われた。そのあとで、調子がいいみたいなんですとも言われた。

しかし、その一言がボクを油断させた。調子がいいなら、明日また来ればいい。せっかく休んでいるんだから起こさないでやってほしい。調子がいいという言葉が、ボクにまた少し元気をくれた。「明日また来ますよ。彼にそう言っておいてください」ボクはそう言って病院をあとにした。

次の日、彼は息を引き取った……

彼の亡骸(なきがら)を追って、家まで急ぎ行ってみたが、家は真っ暗だった。薄く降り積もった霰(あられ)の上に、真新しいタイヤの跡がくっきりと残っていた。

翌日の通夜には、午後の早い時間から門前町剱地(つるぎじ)の大きな寺の本堂にいた。彼が家へ遊びに来たときに撮った写真を奥さんに渡した。彼から借りていた「宮沢賢治詩集」も渡そうとしたが、それはナカイさんが持っていてくださいと戻された。

葬儀の日も早い時間から寺へと向かった。しかし、彼の棺が出るとすぐに、ボクは誰よりも早く帰路についていた。寒かったが、能登の空は晴れていた。

昼過ぎだったろうか。家に着くなり、ボクは居間の丸柱に背中を押しつけて泣いた。大粒の涙が自然に出てきた。こんな簡単に涙は出るものなのかと、なぜかその時思った。当然だが、二度と彼と言葉を交わすことはないのだとも思った。彼が座っていたソファを見た。彼が立っていたオープンデッキも見ていた……

夕闇が迫ってあたりが暗くなってくると、焚火の炎がより鮮明になってくる。オープンデッキの残材も乾いていたせいか、すぐに火がつき勢いよく燃え出す。

玉谷長武のことは時々こうして思い出すのだ。彼はよく言っていた「なんか、こうスカッとするようなことって、ないすかネエ~」と。背伸びしながら、遠くを見るような目でそう言った。その声がまだ聞こえてくる。生きていれば、一緒に内灘の仕事もできただろうにと思う。

焚火は暗くなっても続いた。炎で明るくなった空間に、灰色の煙が上っていくのが見えた。そういえば、来年のボクの歳は、YORKのマスター奥井さんが死んだ歳と、青年期を外国航路の船員として過ごし、ボクに大きな影響を与えた兄の死んだ歳と同じになる。二人とも普通に言えば若くして死んだのだが、ボクももうそんなことを考える歳になったのだ…

翌日はまた晴れた。しかし、北アルプス北部の山々は見えなかった。

夕方、海に落ちていく太陽を見た。振り返ると、東の空にきれいな満月があった。

贅沢な風景だなあと思いながら、今年もあと一ヶ月になったのだという現実も忘れなかった……

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

湯涌の水汲みで、秋山の雨を思った

関東に台風が近づいていた休日の朝、いつものお勤めである「湯涌の水汲み」に出かけた。ひと月に一回のお勤めだ。

内灘にある家からは、河北潟を横断して津幡から国道に乗り、途中から山側環状に移って、ひたすらそのまま走る。そして、途中から医王山・湯涌温泉方面への道へと向かうのだ。いつもの素朴な風景に和みながらの時間だ。

雨が降り出していた。水を汲み始める頃には本降りになってきた。よく整備された水場だから濡れることもなく、蛇口から勢いよく出る水を容器に入れていく。20ℓのポリ容器2個と、1ℓの容器10本ほど。時間にすれば20分ぐらいだろうか。

水を汲みながら、あることに気が付く。それは山の雨の匂いだった。秋も深まった山の空気に触れる雨が放つ匂いか、雨を受けた樹木の葉や幹や枝、もしくは雨が落ちてきた土の匂いか、何だかわからないが特有の匂いを発する秋山の雨を感じた。懐かしい匂いだと思った。

 ふと、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんの顔が浮かんだ。もう何十年ものお付き合いをさせていただいている北アルプスの名物オヤジさんと、何度も秋の山を歩かせていただいた。と言っても二人だけではなく、いろいろな人たちが一緒だったが、ゆっくりと山道を踏みしめるようにして登って行く五十嶋さんの後ろを歩くのは快適だった。

毎年10月の終わりには、薬師岳の閉山山行が行われる。太郎平小屋を経由して、すでに初冬と言っていい薬師岳の頂上をめざし、頂上の祠(ほこら)から、薬師如来像を下ろす。その夜は太郎平小屋での最後の宴となり、酒もいつもの数倍の量で飲み尽くす。

もちろん雪が舞ってもおかしくはない。今までにもわずか一、二時間で腰あたりまでの積雪になったことがあった。

しかし、登山口である折立(おりたて)付近ではまだ雪はなく、すでに紅葉は終わりかけているが、登山道に落ちたどんぐりの実などを見ながらの登行が続く。小雨が降り続く朝などは、上は雪だろうなあと話しながら行く。秋山の雨の匂いに包まれている。

そんなときに、いつも五十嶋さんはただ黙々と歩いていた。一年に何度も往復するという道だ。歩き慣れたという次元をはるかに超えた独特の雰囲気が漂う。背中に担いだリュックの下に手をまわし、少し前かがみでゆっくりと足を運ぶ。その姿を見ているだけで、こちらにも、心にゆとりが生まれたりする。

水場の雨は少しずつ強くなってきた。見上げると、大きな木の葉っぱから雨水が垂れてくるのが見える。

帰りを急ごうと思った・・・・・

※タイトル写真は、携帯電話で撮影。

今年いちばんの、コスモスだった

能登・志賀町の国道を走っていると、視界の隅っこに突然カラフルな空間らしきものが現れ、そのまますぐに後方へと流れ過ぎていった。

慌てて顔を向けると、それはコスモスの一群で、無造作な咲き方ではあったが、それなりの美しさで目を引いた。20mほど通り過ぎてから、クルマをバックさせ、写真を撮ろうと思った。今年はまだコスモスにカメラを向けていないことを、その数日前から漠然と考えていたのだ。

 クルマを止め、コスモスが咲く場所への入り口を探した。道路沿いに延びた白いフェンスによって、その場所へは簡単に行けなくなっている。しかし、ちょっと目を凝らすと、フェンスの先に入口らしき場所を見つけた。自転車がそこに停められていた。

道らしきものはなく、ちょっと深めの草の上を歩いていく。無造作にコスモスが咲いていると思った場所は一応畑になっていた。そして、コスモスが咲く中におばあさんが一人しゃがみ込み、草取りをしている姿が目に入った。

 背中を向けているおばあさんに、「こんにちわ」と声をかけると、不思議そうな顔をしながら向き直り立ち上がる。すかさず「コスモスの写真、撮らせてください」と言うと、さらに驚いたような顔になり、「こんなもん撮ったって、なんになるいね・・・」と答えた。

ボクはまた、「すごいキレイですよ」と言った。おばあさんは口元に少し笑みを浮かべているようだった。

しばらくウロウロと撮影していると、「どこから来なすったいね・・・」と、おばあさんの方から話しかけてきた。振り返ると、背中を向けたまま、両手でまた雑草を取っている。「内灘からです」と答えたが、おばあさんは「ほぉ」と言っただけで、手は休めない。

畑には、もう最盛期を過ぎたミニトマトと茄子がまだ実を付けていた。「ここは、おばあさんの畑なんけ?」 「そうやァ・・・、でももう歳やし、なんもできんがやわいね・・・」。

 おばあさんの話では、国道が整備されてから畑が分断され、今いるこの場所は、切り離されたような形になり、それ以降あまり力が入らなくなったということだ。

「今年また、久しぶりに畑しとるがや・・・」

前の年とその前の年、この畑には何も植えなかったらしい。娘さんが病気になり、その看病などで畑に出られなかったらしかった。娘さんの病気のことを聞こうかと思ったが、それ以上のことはやめにする。

おばあさんが顔を上げていた。手も休めている。カメラを向けようとすると、ダメダメと手を振り、すぐにまた手を動かし始める。

ボクは自分の母親も、身体を動かせる間はいつも家の後ろの畑に出て、砂の上にどさりと座り込み、草取りをしていたのを思い出していた。声をかけると、にこにこと笑い返し、小さい頃には見たこともなかったやさしい顔なった。そんな母が死んで10月で2年、三回忌をすませたばかりだ。

 そのようなことをおばあさんに話すと、「こんなことは年寄りの仕事やさけえねえ・・・」と答える。自転車に乗ってやって来るのだから、畑にいた頃のボクの母親よりは、まだまだ若いおばあさんだったが、どこかに淋しい気配も感じさせた。

「ばあちゃんの家、この近くけ?」「この辺の部落の外れやわいね・・・・」 それがどの辺りなのか全く見当もつかないが、一人ぽつんと、コスモスの花の中に埋もれて草取りを続ける姿は、余計なお世話ながら、やはり淋しいのだ。

ボクはもう一度カメラを手に、コスモスの方に足を向けた。背丈も伸び、大きな花びらをつけたコスモスが、秋の日差しと風を受けて、愉快そうに楽しそうに揺れている。その柔らかな身のこなしが、カメラを向けるボクをからかっているようにも見える。

そう言えばと、何年か前に我が家の南側側面をコスモスだらけにしたことを思い出した。圧巻的な光景だったが、台風が来て、ほとんどが倒れてしまった。しかし、コスモスは強かった。一度斜めに傾いたところから、また真っすぐに空に向かい始め、我が家周辺の“多目的空き地(ボクはそう呼んでいた)”は、L字型コスモスの一団で再び活気を取り戻した。

コスモスは可憐なだけではないということを、その時初めて知った。そして、それ以来、ボクはコスモスに一目置くようになった。

 シャッターを押していると、おばあさんが言う。「あんた、金沢の方に帰るんやろ? そんなんやったら、羽咋に休耕田利用してコスモス植えとるとこあっから、そこ行ってみっこっちゃ・・・」 「どの辺?」と聞くと、猫の目(柳田IC)から市内の方に向けて行き、歯医者さんの角を左に折れて・・・・と、説明を始めた。弥生時代の遺跡に造られた公園の近くということが分かった。それで場所は推測できた。

しかし、行っては見たが、おばあさんの畑のコスモスほど心を和ませてはくれなかった。

それからまた後日、砺波の夢の平へ、スキー場のゲレンデ一面に植えられたコスモスを見にも出かけた。たしかに壮観な風景だったが、ここも今ひとつだった。

志賀町のおばあさんの畑に勝てるコスモスはなかったのだ。カッコつけているわけでもなく、感傷に浸っているわけでもないが、今年は志賀町のおばあさんの畑のコスモスがナンバーワンだと決めてしまった。歴代でもかなり上位に入ると思った。

そういうことで、秋ののどかな一日であったのだった・・・・・・

夢の平のコスモス

学生祭典 京都が熱いのは、京都だからだ

 

10月の連休は京都にいた。主な目的は、8回目を迎えるという「京都学生祭典」を見るためだった。

そこで予想をはるかに超えた凄さにまず驚かされ、そのあと京都という街のパワーについて、しみじみと考えさせられた。

実はうちの二人の娘は、二人とも京都の大学に進学している。上は今年の春卒業したが、下は関西の学生風に言うと“三回生”で、現役だ。その下の娘、つまり戸籍上とか親との間柄的にいうところの次女が、昨年このイベントに補助スタッフとして参加した。そして、今年はさらに企画段階からも関わるなどといった図々しい役目まで担っていると聞き、では、その本番ぐらいは見てやるか的親(バカ)心で、京都までやって来たわけだ。

 次女が関わる行事は「Dream Orchestra=ドリームオーケストラ」という名で、関西の大学の有志で結成される一日限りのオーケストラが、わずか一回だけ行うコンサートを企画運営するというものだった。すでに春先から打ち合わせやミーティングなどに忙しく走り回っていた様子だったが、特に、大阪や兵庫などの京都以外の大学にも足を運び、その打ち合わせなどの緻密さは学生としては、かなりしんどいレベルに感じられた。

京都府や京都市はもちろん、京都商工会議所や関西の企業なども共催となっており、打ち合わせ時の服装もスーツ着用と決められていた。その分、時間もとられ、遅くまでのミーティングや打ち合わせに追われてアルバイトもできず、洋服なども一切買っていないということだった。本人は、痩せたことで喜んでいたが…

そういうわけで、目的としてはまず「Dream Orchestra」であったが、その会場である京都会館の臨時バス停でバスを下された瞬間から、一応兼業だがイベント屋の第六感がはたらいてしまったのだ。

この気配はなんだ…。全体の会場となっている平安神宮と岡崎公園一帯が、異様な空気に包まれている。それもまだ始まったわけではない、独特のざわめく空気とでも言おうか。イベントをやるニンゲンなら分かるだろうが、これから一斉に動き出す何かが、今その動きのためのウォーミングアップをしている雰囲気だ。

そのざわめきで、ボクはこのイベントがかなりの爆発力を持っていることを察知した。すべてを吸収していかねばなるまいなと思った。だから、次女が関係するコンサートは始めの方をちらりと聴いただけで、申し訳なく思いながら、途中から外に出た。

 平安神宮の大きな鳥居から正面の門にいたる長い「神宮道」での踊りの競演。いくつかの路上ステージで、120ほどのチームがパフォーマンスし、上位4チームが選出されるらしい。どのステージも多くのギャラリーでなかなか正面から見ることが出来ないほどだ。

 相変わらず「よさこい」が多くて興醒めではあったが、その中に面白いグループもいくつかあり、そのうちの愛知県から参加していた某グループのリーダーと親しくなった。金沢で是非パフォーマンスをと誘うと、必ず行きますので呼んでくださいと威勢のいい言葉が返ってきた。とにかく、なかなか面白いのだ。

9月に、京都駅・室町広場で、212グループが参加しジャンルのない音楽コンテストの予選が行われたが、二次予選に残った10グループが、10月9日グランプリをかけて同じ会場で競演した。そして1グループがすでにグランプリの座を獲得していた。

そして、踊りの方の決勝と、音楽のグランプリチームの演奏会が、10日の夜、なんと平安神宮の本殿前ステージで行われるとのことだった。会場の設定がすばらしい。京都ならではだ。

 イベントはもちろんそれだけではなかった。岡崎公園の野球場では、知恵と体力とを使って遊ぶ、子供たち向けのスペースがグラウンド一面に設けられていた。これは企業協賛の催しだったが、スケールが大きく、京都の女子プロ野球チームの選手たちが子供たちと野球を楽しむなど、その仕掛けも面白かった。

 

そして何と言っても凄かったのは、どこへ行っても学生たちが一生懸命に運営にあたり、例えば、立ち入り禁止のゾーンを通って近道しようとする人に厳しく相対していたり、その誘導には逆に親切丁寧に対応したりする行動そのものだった。

もちろんプログラムの運営や進行、司会その他も受け持ち、指導的立場の大人たちにも真剣に質問し、そのアドバイスにも真摯な姿勢で聞き入っている姿が印象的だった。

 野球場の奥にはさらに各大学の露店が並んでいたが、ここでもひとつの目玉があった。それはゴミの分別とリユース食器を使うことで、環境に対する負荷を減らそうという試みがされていた。学生たちは、中央に設けられたコーナーで、返却された食器を自分たちで洗い、リユースする。その精神は、「KYO-SENSEプロジェクト」というネーミングでオーソライズされた活動となっており、学生たちの間で新しいライフスタイルへの提案と位置づけされているらしい。

自主的な取り組みは強い。これは、かつて自分自身も能登のある町で経験したことだったが、言うまでもなくパワーは違っていた。

夕暮れが近づき、少し落ち着き始めた会場にフィナーレの空気が漂う───

近くのガラス張りの店でコーヒーを飲んで休憩していると、平安神宮前に長い列が出来始めていた。

 

「グランド・フィナーレ」と名付けられた、平安神宮でのクライマックスだ。

一度閉められていた門が開き、一列ずつ中に人が入っていく。すでにステージは準備が整っていて、境内がいっぱいになった頃にいよいよスタートした。知事も市長も、この学生イベントのためにステージからメッセージを送る。あらためてこのイベントのパワーを感じさせる。

 オーケストラから太鼓や踊りなど、何色にも激しく変化する本殿を背景にして、パフォーマンスが盛り上がり、際立っていく。ステージは決して見やすくはないが、活気は周囲からもガンガンと伝わってきた。久しぶりに体もココロも騒いだ。濃紺の空に浮かび上がる平安神宮本殿がなんとも美しい…。

あとでしみじみ思ったが、京都の借景は“ホンモノ”だった。当たり前すぎて、今さら何言ってんだと言われるだろうが、やはり凄いと言ってしまうのだ。昼間見た、あの朱色の大鳥居や平安神宮そのものを背景にして行われた踊りのパフォーマンス。遠景的な視野の中に、パフォーマーたちや見物人たちが小さく存在する、スケールの大きさ。そのこと自体で会場そのもののスケールも感じることのできる凄さがある。そして夜、ライトアップされた歴史文化の真実味など。

そして、京都を選び、京都にやってきた学生たちのパワーが、京都の文化に活力を与えている。そのことが京都の凄さを象徴している。

 ああ、京都だなあ…と、思わず絶句。どこにも真似できない“底知れない文化”が、やはり京都にはあるのだなあ…と、また絶句。こういう街だからこそ、ある意味、学生たちも憧れるのだなあ…と、今度は絶句しながら納得した。

楽しい…。やるなあ、京都。さすがだなあ、京都…と、開き直っていきながら、最後は、トホホと情けない含み笑いなんぞをする。こんなことが金沢で出来るんかなあ…と、考えてしまう。金沢らしく、そう言って逃げるのだなあ…と、思う。

いつもそんな答えしかないのだが、京都にいる間は、考えないことにした。

実は、ボクはイベントの成功の基準がよく分からない。よく分からないというより、いつも中途半端さを感じている。

それは、主催者側にも立つし、業者側にも立つからで、両者が満足できるイベントの成功はなかなか実現しにくいのだ。ボクを支えてくれるスタッフたちの手前、あまり現実的な話はしないが、やはり小さなイベントでも、チーフ・ディレクターとかの立場になると、すべてを仕切っての勝負になったりする。その両立はかなりむずかしいのだ。

しかし、今自分に課せられているいくつかの現実的な話に当てはめていくと、自分はやはりどんどん前へと、明大ラグビー部(例えが極端だ)のように突き進むしかないのだろうとも思うのだ。

 学生たちのパワーはそのことを示している。本来、イベントは参加している人たちが喜んだり楽しんだり、もっと言えば感動したりしてくれるのが一番なのだ。だからそれをサポートできる人たち(スタッフ)がいないと成り立たない。学生たちはその意味で、とにかく頑張ってくれるのだろう。

ついでに書くと、ボクは地方の昔からある祭礼で、神輿の担ぎ手などに学生をあてにしている、あのやり方は嫌いだ。そこまでする必要はないと思っている。祭礼とイベントは違う。それをするなら、祭礼ではない、町内の運動会の時などにやるべきだ。

もうひとつ、ついでに書くと、ボクは京都から帰った翌日から東京へと出張した。そこで感じたのは、東京の果てしのない軽薄さだった。電車の中で、携帯(スマートフォン)の画面を指先で撫でているサラリーマンなどを見ていると、東京の文化は埃(ほこり)の下に埋もれてしまっているのだろうなあと思った。そして、その埃とは東京のニンゲンたちではないだろうかと思った。

 もうひとつ、ついでに書くと、京都の最後の日、久しぶりに哲学の道を歩いてきた。下鴨神社の広くて暗い参道も歩いてきた。そして、東寺の美しい仏像たちも見てきた。昨日の“動”と今日の“静”。文化のある街とは、こういう街のことを言うのだなあ…と、気持ちがすっきりしていたのだ。

さらについでに書くと、東京では帰り際、明治大学に寄り、「お茶の水ジャズ」のスタッフと軽く話すことができた。年内にゆっくり話す機会がもらえた。神田の商店街とタイアップして行われるイベント。これから金沢のある地域で考えていくことに関連して、楽しみは増えたが何となく思いは色褪せていた。

京都の学生たちの活き活きとした表情が、今もアタマから離れないのだ…

野菜ラーメンを運ぶおばあさんと文学好きのおじいさんたち

 

O野先生から検査入院されているという知らせを受けた数日後、富来図書館へと向かった。

七尾の病院だが、午後からなら外出してもいいので、都合のいい時間に来てくださいとのことだった。

いつものように、ちょっと早めに着き、国道249号から富来の町中への入り口にある、超大衆食堂「Eびす屋」さんに入る。いつものように適度な数の客が散在し、いつものようにうるさくもなく、かといって静かでもなく、のどかだが、それなりに緊張感も漂うといった店内に入った。

 Eびす屋さんは、何と言ってもフロア担当のおばあさんで持っている・・・・とボクは思っている。“それなりの緊張感”というのも、このおばあさんあってのことだからだ。

実は、ボクはこの店で“野菜ラーメン”と“おにぎり”以外のものを食ったことがない。いや、少し前、魔がさして?“塩ラーメン”を注文してしまったのだが、味はほとんど同じようなものだった。だから、ボクの感覚では同じラーメンなのだ。

ところで、“それなりの緊張感”についてだが、このフロアチーフ(担当から昇格)のおばあさんは、注文を聞いた後1分以内に、もう一回確認に来るということがしばしばある。当然、何となく注文したものが届くまでに不安が走る。その、「いくらなんでも、二度聞いたものを間違うはずがない」といった決め付け感に自信がなくなっていくあたりが・・・・“それなりの緊張感”なのである。

それにしても、Eびす屋さんの客は、よく野菜ラーメンを注文する。その日も来る客来る客と、野菜ラーメンを注文し、いかに野菜ラーメンが人気メニューなのかが分かる。そして、これでいくらなんでもボクの注文も間違うことはないだろうと、完璧に確信できたりもするのであった。

かなりの安堵感とともに新聞を読んでいると、そこへ打ち合わせメンバーのお一人で、地元の民話に詳しいH多先生が入ってこられた。ひとことふたこと言葉を交わすうちに、さっきフロアチーフに昇格したばかりのおばあさんがやって来て、お茶を置く。「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」とH多先生が言う。確信のない他人事のような言い方ではあったが、またしても野菜ラーメンの注文が入った。H多先生もいつも野菜ラーメンを注文しているに違いなかった。メニューなど全く見ていない。しかも、あの「野菜ラーメンにすっかなあ・・・・」の語尾のあたりに、やや照れながらも充分言い慣れた雰囲気が漂っていた。

それから数分後、ボクの前に間違いなく野菜ラーメンとおにぎりが置かれた。いつもように素朴に美味かった。7月のエッセイ 『富山で入道雲を見て、ちゃんぽんめんを食ったことについて・・・』 でも書いたが、なんでもない普通の食堂で出てくる、ある意味的個性派ラーメンには逸材が多い。

このラーメンもその代表格にあたる。この富来の町にあるからこそ、このラーメンには味がある。これが金沢のK林坊Sせらぎ通りあたりにあったのでは、この味が出ない。それにこのフロアチーフの存在だ。

1時、富来図書館。いつものメンバーが待っている、と思ったが、H中さんがいない。用事でちょっと遅れるとのこと。しかし、しばらくしてH中さんはすぐに来られた。

O野先生は、気のせいか少し元気がないように見えた。先生によると、身体の栄養バランスが崩れていて、点滴を打っているとのこと。夏バテもあるのだろう。それでも書庫へ行って、本を探して来るだの、コピーを取って来るだのと忙しく動き回っている。さすがに、先生あまり動かなくていいですよと言ってしまった。

この三人は、年齢を合計すると200歳を軽く超えているはずで、普通だったらしんみりとした雰囲気にもなったりするのだが、それぞれ個性的に活躍されており、こちらとしてもそれなりに楽しくなったりする。書き忘れたが、H中さんは地元の由緒正しき旅館「湖月館」のご主人で、なんと日本最高峰の某芸術大学を卒業されたアーチストでもあるのだ。毎日、カメラを持って自転車で町を走りまわり、撮影した写真をホームページに掲載されている。富来の今を知る人なのである。

ああだこおだと打合せが順調にフィナーレを迎えた頃、O野先生が、ああ、また退屈な病院へ戻らなきゃならんのやな・・・・と呟(つぶや)かれた。まわりから、いい機会だからよく体を休めておいた方がいいという声が盛んに上がり、O野先生も帰り支度を始められた。

これから加能作次郎文学賞の発表など、まだまだ忙しいスケジュールが詰まっている。大事をとって自重していてもらわないと、あとが大変だ。そんなことぐらい分かっているよと先生は言うだろうが、分かっているなら余計に“ご自愛”いただきたいのだ。

 久しぶりに記念室に入り、図書館を出たのが3時少し前。天気はそれほどでもなかったが、増穂浦は相変わらず美しい。

それにしても、Eびす屋のフロアチーフのおばあさん、および野菜ラーメン。そして、あの知的好奇心旺盛なご老体3名。富来には濃い“味”がしみじみと溢れているのであった・・・・・・・・

※タイトル写真 左から O野先生 H多先生 H中さん

ちょっとカッコいい本でかなりいい話を読ませてもらった

 地場産センターで開かれた某デザイン展の審査員を頼まれて参加してきた。昨年に続いて二回目だった。

そこで、応募作品の中でふと目にした本がこれなのだが、、実は「ゴンゲン森・・・」と同じ頃に発行され、金沢美大の環境デザインの先生方が制作されたものだった。御大T中、S本、K谷、Tバ・・・と、お歴々が颯爽と名前を連ね、かっこいい表紙デザインとともにすぐに目にとまった。

 審査自体にはもちろん客観的評価をさせてもらったが、一応全体の審査が終わって、点数を集計している間中、手にとって立ち読みさせていただく。正直、審査よりも集中していたかも…

T中先生のエッセイが特に面白かった。東京では、雨降りに出かけたいとは思わないが、金沢では雨降りにでも出かけたくなる・・・というところから話が始まり、さまざまな話の展開が続いた。

また、学生時代の思い出を綴った文章なども、素晴らしくいい。竪町入口にあったという喫茶店(たぶん「郭公」だろう)での、時間が止まったような描写や、内灘の海の話など、しみじみとしてくる内容だった。先生の感性というか、ものの見方、感じ方にあらためて驚き、嬉しくなったりした。

T中先生は、ある飲み屋さんで隣に座らせていただいた時、ボクの本の話になり、この業界から、小説家が生まれるというところに金沢を感じるなあ・・・・という意味のことを言われた。そして、頑張りなさいよ、もちろん作家としてね…と、茶目っ気たっぷりに含み笑いをされた。

先生は、そろそろ東京へ帰られると聞いている。ユニークな存在が消えてしまうが、ひょんなところで、先生のいい文章が読めてよかった……

※写真は、携帯のカメラなので、ご容赦を。

深田久弥山の文化館にて~初秋

 

クルマの中はまだ夏だったが、クルマを降りて、見上げた空は秋だった。九月の下旬だから、暑いと言ってもさほどではない。日陰に入れば、風も気持ちいい。

深田久弥山の文化館には約一ヶ月ぶりだろうか。一ヶ月前は、離れの喫茶室にいても、窓からは一切風らしきものは流れて来なかったのに、今は涼しい風が入ってくる。深田久弥の会の事務局長さんもしきりに、いつもの夏だったら風が入って涼しいんだけどねえ…と言われていたが、そんなことなど想像できないほどに、前回来た時はじっとしてもひたすら暑かった。

 デッキのテーブルが変わっていた。丸い大きなサイズのものに変っていて、ちょっとした会合や、大皿を並べた食事会でもやったのだろうかと想像させる。

今回は山中の方からの寄り道なのだが、同行しているM川にどうしても見せておきたくて来た。イベント会場づくりのプロであるM川に見せておくことで、今後主催者になるクライアントへサテライト会場としての提案もできるからだ。M川は早速、物置にある上品そうな椅子を見つけ、モノはあるとほくそ笑んでいた。

ギャラリー展示的な空間になっている「聴山房」も見せたが、えェーとか、うゥーとか言いながら、フムフムとそれなりに、ここはこうして、そこはああしてと、独り言らしきことをつぶやいていた。それにしても、聴山房の室内も涼しい。ガラス越しに見る庭も、今はゆっくりと心を落ち着かせて見回せる感じだ。一ヶ月前の冷房なし状況を思うと、今は極楽のような空間だと言っていい。畳の上に寝っ転がってみたい気持ちにもなったが、M川の手前やめた。

 その日は昼からの出勤になっていて会えなかったが、館の事務長・M出さんが前々から言っていた背後の広いスペースは、草刈りも済ませすっきりとした空間になっていた。大木が日陰を作ってくれて、そこでも何かできそうだ。イメージが湧いてくる。

しかし、イメージを膨らませながらも、小さな蚊にまとわり付かれて往生もした。身体のあちこちが痒かった。

 

 

山の文化館展示室につながる回廊も、何だか秋めいて落ち着いた雰囲気だった。 この場所は、これからだな…と実感した。

加賀市には残してきた宿題らしきものがたくさんある。忙しく走り回っていた20年ほど前に見ていたもので、その美しさやのどかさや、さらにうまく表現できないいくつかのものが、不意に目に飛び込んできたり、アタマに閃いてきたりする。そんな自分がどこか面白いとも思うが、それなりに自分らしい原点を思い返してくれそうでもあって、足を運びたくなる。

M出さんによろしくお伝えくださいと事務室にあいさつし、館の玄関でパンフレットやグッズなどを見ていたM川を促し、外に出る。

空はますます秋めいて、一層涼しげだった。が、クルマに乗ろうとすると、クルマの中にはまだ夏が潜んでいた・・・・・・

小松のちょっといいカフェには、森秀一さんの匂いがした…

小松駅前の大通りから、ちょっと入った「れんが通り」と呼ばれる道すがらにある、カフェ蔵「心」という喫茶店に行ってきた。商店街通りの再整備?によって道路が拡張となり、それによって前面の建物がとり壊され、後に残った蔵を再利用した店だ。

有線でモダンジャズが静かに流れていて、ボクが入った時には、マイルスの名演「枯葉」がちょうど始まったところだった。秋らしい。

 明治24年(1891)に造られた蔵だが、20年来お付き合いさせていただいている森秀一さんがデザイン設計し甦らせた。森さんは小松の赤瀬という山の中の町に住むインテリアプランナーだが、その活動域はインテリアを飛び越し、テーマパークやイベントの企画など多岐にわたっている。中でも、“書”については森さん独自の世界が作られ、ボクもその初期段階からいろいろ書いてもらった。というのもボクが発行していた『ヒトビト』という雑誌の、「ヒトビト的インタビュー」に登場いただいたのがきっかけとなって、ボク自身が森さんの生き方などに、かなり共鳴していたからだ。赤瀬の住宅兼事務所にもお邪魔して、森さんのホンモノぶりは十分認識している。

 店は森さんらしさに満ちている。蔵の喫茶店というと、ボクはすぐに飛騨高山にある古い店を思い出すのだが、そこは端正な仕上げで小奇麗な印象を受けるが、ここはそうではない。店の前にぽつんと立つ金庫の扉のような物体(たぶん前面の建物を壊す時、それだけを残したのだろう)。玄関の重々しい古いままの引き戸。店内の天井の梁や壁に下げられた古い帳簿など……

 それらは少々薄汚さを残してはいるが、かなりの存在感をもって何かを訴えかけてくる。店番をされているのが、かなり年配の男の人であるところもいい。若い女の子でもいいが、特にサービス精神も感じさせない店番であるところにホッとしたりもする。コーヒーの味は、ボク的にはそつなく上品に感じられ、自分自身の特別な好みとはちょっと違うが、それは余計なお世話というものだ。ただ、ひとつ気になったのが、せっかくモダンジャズを流しているのに、カウンターの中に置いてあるデカいテレビがちょっとうるさいことだった。

まあそんなことは差し引いても、ボクはそれなりに気に入っているのだ……

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……

加賀のサッカー少年が、サッカー青年になって、子供たちに伝えていくこと…

8月の始めに、加賀市の国道8号線沿いに出来たフットサルコート『AUPA』を初めて訪ねた。8月1日オープンしたばかり、すべてが新しい施設だった。

すべては新しかったが、何よりもカンペキに新鮮だったのは、施設運営会社の代表取締役である、八嶋将輝(やしま しょうき=タイトル写真)さんの存在だった。“さん”付けで呼ぶよりは、“クン”付けで呼びたいくらいにすがすがしい存在感をもった若者だったのだ(失礼)。

輪島の廃校の話でも書いたが、ボクにとって、ワクワクさせてくれる“何か”との出会いは、いつも行動の原点にある。私的な場合は、その出会いから自分の楽しみを感じ取り、仕事の場合は、相手が求めるものを探し、創り上げていくことに、いつも気持ちを注いできた。八嶋さんとの出会いは正式には後者であったが、いつもの公私混同型思考がベースだ。そして、それ以降のつながりは続いている。

八嶋さんは、来年の1月に30歳になるというセーネンであり、まだ1歳になっていないという子供を持つ父親でもある。サッカーに情熱を注ぎ、海外でも修行してきたという筋金入りだが、言葉や表情からその自信が感じ取れる。そして、スポーツマンらしい謙虚さもまたいい感じだ。地元に戻って、NPO法人スポーツクラブ「リオペードラ加賀」を立上げ、少年サッカーの指導者はもちろん、スポーツイベントの企画運営に携わっている。そして、このボクもそんな中に、少しは入れてもらえそうになってきた。

 初めて訪問した日、夕方になっても激しい暑さが続いていた。西に傾いた陽の光を受けながら、多くの少年たちがコートの中でボールを蹴っていた。額というより、顔中から吹き出た汗が首筋を流れていく、その様がはっきりと感じ取れるくらいの熱気が周囲を被っていた。

スポーツはいつも何かを感じさせてくれる。

少年たちの汗と真剣な表情を見ていると、世代は違うが、大学時代の夏合宿のことを思い出した。体育会の準硬式野球部に所属していたボクは、四年の間に一度だけ夏の強化合宿を経験している。その他の三年は運よく全日本大会に出場していて、その遠征のために夏の強化合宿はなかった。しかし、三年生の時は全日本に出場できず、地獄の夏合宿が待っていたのだ。

場所は、なんと石川県の小松だった。小松末広球場が練習グラウンドになり、寝泊まりは体育館の中の宿泊施設を利用した。食事は近くの店だったろうか、仕出し料理が届けられていた。

一週間くらいの日程だったが、雨どころか、曇りの日もまったくなかった。激しい日差しの下での強化合宿。朝の6時から夕方の6時まで、朝食と昼食の時間がそれぞれ一時間はあったが、それ以外は球場にいて、ひたすら練習に明け暮れた。外野手だったボクは、個人ノックになると、ボールに飛びつくようにして、わざと芝生の上に倒れ込むのを楽しみにしていた。いや、楽しみなんて言えるほどではなく、せいぜいそれをすることによって、ほんの一瞬でもカラダを休められるということに愚かな喜びを感じていた。それほど思考能力も失っていたのかも知れなかった。

昼飯をかき込むようにしてすませると、球場の外にある松林だったろうか、とにかくかすかに日陰があり、風が通りそうな場所を求めては、少しでも有意義な休息時間を過ごすことに専念した。カラダはパンパンに張り、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。球場のちょっとした階段を昇るのもきつく、春合宿とはまったく違う夏合宿の厳しさに参っていたのを覚えている。

最終日、練習は早めに切り上げられ、みなで銭湯へと歩いて行った。狭い宿舎の風呂とは違い、解放感いっぱいの銭湯であるはずだったが、誰もしゃべる元気がなく異様な静けさだった。その夜の打ち上げでは、一瞬にして気配が逆転したのは言うまでもないが…

  ジュニア野球の監督をしている後輩も言っていたが、今の子供たちは健康第一に育てられていて、練習中の水分補給も当たり前になっている。だから、ときどき腹の中でポチャポチャと音をさせながら走っている子供もいたりするらしい。7月に金沢で開かれたジュニア野球の大会で来ていた、愛知県のチームの指導者も同じようなことを言っていて、いろんな意味での精神力は、昔の子供たちの方がはるかに強いでしょうと話していた。水が飲めない辛さを、今の子供たちは知らないのだ。便所の水や田んぼの水を口に含む…そんなスリルいっぱいの美味さ?も知らないのだ。

いつものように話はそれてきたが、スポーツはたしかにスマートになった。着ているものもかっこいいし、プレーも上手い。しかし、何かがおかしくもなっている。松井秀喜選手に関する仕事をさせてもらっていて、ある著名な高校野球指導者の方とゆっくり話をさせてもらったことがあるが、たとえば選手たちの親たちの方に気を使わなければならないなどは論外だ、と思う。いろんな意味でのサポートは必要だが、スポーツ自体の厳しさとか虚しさとかといった“耐える部分”を、もうちょっと含んでいかないとダメなんではないだろうか…と、思ったりするのだ。

八嶋さんと話していて、八嶋さんが直接そのようなことを口にしたわけではないが、ボクは彼のもつ、スポーツをやるニンゲンとしてのすがすがしさから、スポーツを楽しむエキスみたいなものを感じ取った。泥臭く努力してきたニンゲンでないと、本当の楽しさは伝えられない。そのエキスが八嶋さんには全身に詰まっている。そんな気がした。

ボクたちが苦しかった合宿の話などで、今でも盛り上がり、互いにケナし合ったり、褒め合ったり(あまりないが)できる楽しさを維持しているのも、あの極限的な過酷さがあったからだろう。時代は変わったが、スポーツから厳しさや虚しさをとったら、やはり何も残らない。

  ところで、うちの会社には、元だが、優秀なサッカー選手もいたり、中途半端に若くて威勢だけはいいという輩もいるので、ここはひとつフットサルチームなんぞを作り、『AUPA』に乗り込んでみようかと思うのだが、どんな按配だろうか。あのサッカー少年たちから笑われるだけかな……

輪島の暑い夏と廃校

 

 夏らしい活動が復活し始めている。そんなことをはっきり感じ取る瞬間がある。気持ちの上でも、自分らしいなあと思うことがあったりして、図々しながらも10歳以上若返ったような、我田引水型の錯覚に陥(おちい)ったりする。

 何か考えてくれないか… ボクの仕事の中では、このような問いかけは日常茶飯事のことと言っていいのだが、ここ最近はどうも仕事的匂いがプンプンし過ぎていて面白くなかった。しかし、ここへきて、少しその匂いが変わってきた気がしている。と言うよりも、何だか以前に戻っていくような気がして、N居的アドレナリンがかつてのように騒ぎ始めてきたといった感じなのだ。

それは、ボクの前に現れてくる人やモノや、物語などが、新鮮であったり、奥深かったり、好奇心に満ちていたり、ワクワクさせてくれたりするからで、こういう状況にいると、ボク自身もどんどんその世界へと身体を乗り出していってしまう。ずっとそうやって、仕事的な中にも自分を融け込ませてきた。

 能登半島の先端、輪島の市街地を離れた海沿いの道には、海と人里との深い結びつきを伝える“能登らしい”風景が続く。

真夏の日差しの中、その風景を楽しみながら進んでいくと、小さな高校のグラウンドと校舎が見えてきた。

2002年の春に廃校になった旧県立町野高校だ。グラウンドは雑草がかなりの大きさにまで伸び、かつてプロ野球選手まで輩出した野球部の名残りであるバックネットも錆びついている。

目的地はその場所ではなかったが、その場所を活用できないかというある人の話を聞くために出かけてきた。しかし、その場所をじっくりと眺めてみて、そのあまりの状況に心の方までもが寂しくなってしまった。

話はとても興味深かった。お会いした地元の方は、廃(すた)れ気味になっているこの辺りの活性化に、この廃校の活用をと考えていた。この辺りとは、能登半島ではかなりの人気スポットである「曽々木海岸」のことで、かつてはホテルや旅館、民宿などが数多く営業していたが、今はぐっと数が減っている。古い看板だけが残ったような建物を見ていくと、その状況が想像できる。重い現実感が、明るい真夏の日差しの中なのに、はっきりと目に焼き付いてくる。

しかし、ボクはいつも思っているのだが、地元の人たちが楽しい顔をしていなければ、やって来る人たちも楽しくなれないはずだから、まずは自分たちが楽しくなれることを、どんどんやってみることから始めるべきだと。そのために旧町野高校の校舎やグラウンドを活用させてもらおうという発想から始めれば、最も素直で素朴な意見として切り口が作れる。そう思い、その人にそう話した。

その人は、ボクなんかよりも人生の大先輩にあたり、かなり大局的な見地でモノゴトを考えるタイプの人だった。出来あがりの理想形がすでに頭の中に描かれている雰囲気だった。ボクは“オイラたちやアタイたち”レベルでの活動に、まず活路を見出すべきではないかと思ったのだが、そのことがどれだけ伝わったのかは微妙だった。

紙に描いた絵や綴った文章だけでは、なかなかうまくいかない。それも根本的には大事だが、小さな活動からでもいいから、自分たちが楽しくやれることをやってみればいい。そのためのお手伝いならナンボでもやりますよと、ボクは告げた。告げた後で、ちょっと後悔なんぞもしたが、まあ何とかなるだろう…とも思った。

帰り際に、もう一度、今度はじっくりとグラウンドとその奥の校舎を眺めた。

そうだ、草むしりから始めよう。草むしりは除草(じょそう)だから、男ばかりで女装(じょそう)してやったりするのもいいな。タイトルには「女装で除草大会」的なんだぞの表現を入れて、コンテスト形式にしてもいいなあ。そして、その後、みんなで魚や肉なんぞを冷たいビールなんぞと一緒にいただいたりするのもいいなあ……と思った。

学校の建築物には、耐震のことやらでむずかしい課題があり、再利用というのには厳しい条件が付いて回ることは理解している。しかし、かといって、今のようなままで放置?されていたのでは、周囲のせっかくの美しい風景も蝕(むしば)まれてしまうような感じがする。

ここはひとつ、来年の夏に向けた宿題として、頭の右隅あたりに常に在庫しておこうかと思っている。活きのいい若者とまではいかなくても、元気いっぱいのオトッつァんやオッカさんあたりで、考えていきたい話だ。適度に、そして、それなりに絡ませていただく……

植村直己は、なぜ“どんぐり”だったのか…

8月某日、NHKテレビで興味深い番組がふたつ放送された。

ひとつが、総合テレビの“冷奴のおいしい食べ方”についてをテーマにした『ためしてガッテン』。そして、もうひとつが、教育テレビの『こだわり人物伝~笑顔の冒険家・植村直己~どんぐりからの脱却』だった。両方とも見たという人は少ないと思う。

前者は、名前負けの、何ら得るもののない無意味な番組だった。冷奴はどのようにしたら美味いかなど、考えるだけムダで、そのまま生姜を少々のせて醤油をかけ食べる。できれば、少し砕き気味にして食べるとなお美味い。それだけだから、5分もあれば番組は終わってしまうくらいのものだったが、それをクドクドと45分もやった。当然ボクは途中で見るのをやめた。その点、さすがに後者の内容は濃く、嬉しく懐かしく、しっかりと見た。

植村さんが北米の最高峰・マッキンリーで消息を絶ってから何年が過ぎたんだろう? なかなか思い出せない。“まさか、あの植村直己が…”と、誰もが疑った冬の遭難。

当時、植村さんはどこかで生きているということを、多くの人が思った。こんなことぐらいで死ぬわけがないと。しかし、植村さんはそのまま帰って来なかった。

学生時代、大学の先輩にあたる植村さんが、北極圏の極点を目指したとき、ボクたち現役学生も多くのカンパをした。一口1000円だった。そして世界初の成功をおさめた時には、お茶の水の大学正門前で振る舞い酒が出たのを覚えている。

それ以来、植村さんはボクの中でのヒーローの一人となった。

 植村さんの足跡はすごい。29歳で世界の5大陸の最高峰すべてに登頂。日本人最初のエベレスト登頂者という栄誉も得ている。また、アマゾン川を筏(いかだ)で下ったり、犬ぞりで北極の極点に単独で立つなど、登山家・冒険家としての地位は世界でもナンバーワンだった。

そんな植村さんだったが、学生時代は山岳部の落ちこぼれで、あだ名が「どんぐり」だったという話は有名だ。とにかく田舎者を絵に書いたような素朴な青年で、山では全く弱かったという。

しかし、合宿で自分の弱さを知ってからの努力は凄まじいものがあり、植村さんは自分を力強く鍛え上げていった。毎日9キロのランニング。冬の立山連峰に単独で入り、テントを使わず、雪洞を掘って過ごしながら縦走するという離れ業も成し遂げた。

卒業後は就職もせず、アメリカに渡って果樹園でのアルバイト生活。最終目的はヨーロッパ・アルプスに行くことだった。そして、ヨーロッパ・アルプスではスキー場で働きながら山歩きに没頭した。ヨーロッパの最高峰モンブランに登頂。南米の最高峰アコンガグア、アフリカの最高峰キリマンジャロなどにも登った。

もうかなり前になるが、植村さんの生まれ故郷である兵庫県日高町に出かけたことがある。

春の暖かい雨の降る午後だった。日高川の穏やかな流れと、川沿いに咲く桜の並木に目をやりながら、ボクはめざす「植村直己冒険館」へ思いを馳せていた。そして、そこで見たり聞いたりした植村直己の世界に強い衝撃を受けてもいた。無線で叫んでいる植村さんの声は、いつまでも耳から離れなかった。

植村さんは負けず嫌いだった。それも無類の負けず嫌いで、さらにそのことをあまり表には出さなかった。そして、人並み外れた努力家でもあった。

番組の中で案内役を務めた登山家・野口健は、植村さんの著書『青春を山にかけて』で登山家を目指すようになったという。高校を中退して人生の迷路に立っていた時期だった。

植村さんもまた、山の世界へと足を踏み入れていく中で、決してそのことをすべて肯定していたわけではなかった。植村さんには、自分が世の中の普通の流れに乗って行けない人間であるという、大きな不安がのしかかってもいた。同僚たちがサラリーマンとして会社勤めをする中、自分はアメリカに渡り、ヨーロッパに渡り、定職にも付かず、山で暮らしている。そのことは“どんぐり”植村直己にとって、ある意味許せないことだったのかも知れなかった。それほど、植村さんは“真面目”でもあったのだ。

番組のサブタイトルは、「どんぐりからの脱却」であったが、ボクは、植村さんは“どんぐり”のままだったと思っている。ずっと、どんぐりのまま、世界の5大陸最高峰の最初の登頂者にもなり、北極点にも立ったのだと思っている。

だからこそ、「笑う冒険家」だったのだ。笑うこと、つまり“笑顔とどんぐり”には共通するものがあり、その素朴さの中に本当の強さが隠されているのだとボクは思う。

 ところで、この番組は続いているのだ……

※写真は、我が家に来たての50インチTV~NHK教育の画面より…

「金沢まちづくりサロンにゲスト参加…」

 こんなことを書くと、怒られてしまうが、金澤かずえまち茶屋ラボ二階和室に集まった、あやしい面々。

 なんと、金沢市のM副市長をはじめ、古い付き合いの市役所O田さん、S大学のS先生と、B大学のS本先生に、まちづくりプランナーのRさんと、Y江さんなどのお歴々がずらり。N居の顔も見える。O田さんの顔が見えないのは、カメラを持っているから。

 N居は心なしか緊張の面持ち。それもそのはず、「金沢まちづくりサロン」メンバーに囲まれての一夜だったのである。

 で、ゲストであるN居はそこで何を語ったか? 気が向いたときに今度じっくり書くことにする……

 

「月曜の朝、山からメールがきた…」

 「おはようございます。

  今、焼岳山頂にいます。穂高~槍~笠が岳のパノラマが圧巻です。

      今度冷たいBを是非とも。」

 友人で建築家のKさんから携帯メールが届いた。驚いた。羨ましくなった。そして、嬉しくなった。

 いつもニュートラルなKさんの生き方は、ボクに素朴なメッセージとなって響いてくる。

 ちなみに文中に「B」とあるのは、もちろんビールのことなのだ……

「あうん堂にて…」   

  初めて「あうん堂」へ行ってきた。金沢東山三丁目、ひがし茶屋街の大通りを挟んだ反対側。一方通行の狭い路地に入って、やっと見つけられるような小さな店だ。きっかけとなったのは、ボクの本が置かれているという話と、ヨークで見つけた「そらあるき」という小冊子。その小冊子の編集スタッフの一人が、店主の本多博行さんで、その小冊子を直販しているのが、あうん堂だ。

もう少し詳しく?説明すると、あうん堂は、「出版と古本とカフェの」というキャッチコピーが付けられているように、「そらあるき」でも分かるような出版と、個性的な古本が並ぶ書店、そして、奥さんが淹(い)れてくれる美味しいコーヒーが飲めるカフェ、これらの三つで構成されている。そして、それぞれが力みもなく、自然体で成されているというところに、あうん堂の、あうん堂たる“空気”があるのだなあと感じた。いずれにしても、まだボク自身よく把握しきれていないのも事実。ただ、テレビ朝日の「人生の楽園」という人気番組で紹介されるなど、それなりに立派にやられていることは間違いないのだ。

日曜の昼に近い午前。家人と二人、近くにある駐車場にクルマを停め、雨の中を狭い玄関へと向かう。雨が本降りになってきて、気温も朝から上がっていない。GWの終わりに、急きょトンボ帰りで京都へ行ってきたが、その時と同じ紺のシャツと綿パン。その時はポカポカ陽気で、腕まくりをしながらだったのに、今日はそんなわけにはいかない。ひたすら冷えていた。ガラスの扉を開けて中へと入る。靴を脱いで、フローリングの店内に足を踏み入れると、右手に本棚が見えている。まるで図書館の一角を見る感じだ。店は奥に深く、狭いという印象をもつが、この狭さ?が、この店を訪れる人たちの個性を物語っているのだろうと感じた。先客が一人いたが、その客と本多さんが話している内容も、なんとなく、それを感じさせるものだった。

 

ボクはまず古本が整然と並ぶ本棚を見て回った。そして、すぐにウキウキしてきた。なんと、懐かしき晶文社の植草甚一シリーズ本、そして、われらが椎名誠の本などがいっぱいあるではないか。いくつか本に目をとおし、価格なども確認しながら、ふ~んと納得。こんな世界が金沢にもあったんだなあと嬉しくなった。

そして、奥のテーブルへと。コーヒーを注文してから、時計を見る。もう昼に近い。小腹も空いてきたので、めずらしくケーキセットに変更した。コーヒーも美味しく、生クリームと小豆が付いたやや大きめの抹茶シフォンケーキも充分満たしてくれた。

  ふと壁の方を見上げると、懐かしい絵が掛っている。沢野ひとしのイラストの入った額があった。「槍ヶ岳への道」とかいうタイトルがついていたが、この絵のどこが槍ヶ岳への道なのかなあ?と、余計なことを瞬間考えてしまう。しかし、そんなことはどうでもいい。ここに沢野ひとしの絵が飾られているということが凄いのだ。聞くと、沢野ひとしはたびたび訪れているということ。ついこの間まで、絵の展示会もやっていたとのことだった。

 そういえば、この冬、歴史博物館の前で、ボクは沢野ひとしと遭遇していたのだ。その時のことは鮮明に覚えている。ボクは向かい側から歩いてくる本人を確認すると、「沢野ひとしさんですよね?」と、すぐにたずねた。びっくりしたような顔した本人は、そうですよと答えたが、なんでオレなんか知ってるの?という顔をしていた。ボクは椎名誠らとの発作的座談会の話などをした。そして、なんだか物足りなさを感じながら、これからも頑張ってくださいと、定番的言葉を口にし、握手してもらって、その場を去った。そのすぐ後、無性になぜ沢野ひとしが歴史博物館にいたのだろうと気になり、歴史博物館の担当スタッフに確認したほどだった。しかし、よくは分からなかった。

「実は、私、ゴンゲン森…とかいう本を出したんですが、こちらの店に置かせていただいてると聞きまして……」

 しばらく沢野ひとしの絵を眺めてから、奥さんに言った。奥さんはびっくりしたような表情になり、「それを早く言ってくださいよ」と言ってカウンターから出て行った。そして、ご主人にそのことを告げると、また戻ってきて、「私は、すぐに読ませてもらいましたよ。とても面白かったですよ」と言ってくれた。方言の使い方が凄く楽しかったとも言ってくれて、店の本棚に並んでいるという場所を教えてくれた。

 それからボクは持参した「ヒトビト」1~8号を取り出し、渡した。ヒトビトにも高い関心を示してくれた。ヒトビトに出てくる共通の知人も多くいて、もう古くなった話で盛り上がったが、最後は、継続していく苦労話が締めだった。そして、ヒトビトもお店に置いてもらえることになった。ヒトビトは売り物と言うより、お客さんにコーヒーを飲みながら読んでもらうというスタンスが合う気がして、そう話すと、本多さんも納得してくれたみたいだった。

 一時間ほどいただろうか。最後は、本多さんと向かい合って、いろいろな話をした。ボクが、主計町の茶屋ラボの話をしだすと、本多さんもよく知っていてくれて、以前に展示会のようなものをやったらしく、近いうちに何かやりたいと考えていることも語ってくれた。

 ナカイさんとは、これからも何か楽しいことがやれそうですね。本多さんが名刺を出しながら、ボクに言った。そして、ボクが自分の名刺を渡す時に、「固い名刺なんですけど…」と言うと、本多さんは、「名刺は固く、やることは柔らかくですよ…」と答えて笑った。

 ボクはなんだか清々しい気持ちになっていた。平凡な言い方だが、いい出会いだなあとも思い、懐かしさに似た何かを感じていた。日々それなりに過ごしていけば、またそれなりにいいことがありそうな気がして、なぜか、このことを遠くにいる友人たちに伝えたいなあと思ったりもした。

外へ出ると、雨はまだまだ降り続いていた。駐車場に向かいながら、こんなところへクルマで来るなんて、と自分を叱りつつ、愉しい時間だったことに満足もしていたのだ……