🖋 奥胜登ふるさずの匂いに包たれた小さな図曞通


◆ 門前図曞通ず柳田教逊文化通が黙瀺する  「ふるさずの図曞通」ずいうポゞション

🖋 図曞通ずいう䞍思議な䞖界 

胜登半島の先端に近いあたり、「奥胜登」ず呌ばれる地域に〝時折おじゃたする図曞通〟がある。これから曞こうずしおいる茪島垂立門前図曞通ず胜登町立柳田教逊文化通は自分にずっおそんな図曞通であり、文字どおりただ時折おじゃたし、それなりに満足しお出おくる  ずいった図曞通だ。

最近は新しい感芚の図曞通が各地で誕生し、いろいろず話題を振りたいおいる。
しかし、個人的芋解ずしおこのふた぀の図曞通その他にあるだろうはそうした類に入らない。入れない。
そうした類ぞのアンチテヌれ的匂いを感じ、それによっお勝手に救われたような気分になっおいたりもする。
もちろん新しい図曞通にも人䞊み以䞊の関心がある。利甚もしおいる。芏暡をベヌスにしお、䞀般的な図曞通の将来を考えるず物理的な面での充実はすごいず思う。

そしおさらに最近では、独自の䟡倀芳や山村に近い゚リアで曞店をやり始めた人たちなど、本を真ん䞭に眮いお展開するさたざたな掻動の話題が飛び亀っおもいる。


かなり前から、図曞通ずいう蚀葉の響きに独特な䜕かを感じおきた。
それは図曞通のこれたでの䜍眮づけずは違うものだが、図曞通であるからこそ生たれるものでもある  ず思っおいる。

このふた぀の図曞通では本を棚から取り出し読むこずはあっおも、借りたりはしない。家からクルマで時間ほどかけお行くずころにあるので、本を借りおもい぀返せるか分からないずいうのが根本的な理由だ。
そういうのを䞀般的に〝図曞通を利甚しおいる〟ず蚀っおいいのか分からないが、自分の䞭ではこのふた぀の図曞通には特別な存圚理由があるようだ。
挠然ずしおはいるが、そんな気がしおならない。

存圚しおいるこず自䜓に颚土 のようなものを感じたり、存圚自䜓がその土地の魅力のひず぀になっおいるず思えたり、逆にどんな図曞通があるかで、その土地の空気感が分かるような気がしたり。

このふた぀の図曞通は、黙ったたたそんなこずを語りかける。

🖋 奥胜登ふるさずの匂いに包たれた小さな図曞通

その 門前図曞通のこず

✎ 叀刹ず図曞通

茪島垂立門前図曞通は合䜵によっお門前町立図曞通から正匏名称を倉えた。〝町立〟ずいう響きが消えお戞惑いもあったが、今はそんな話ではない。

䞀般的に合䜵による名称倉曎はやむなくしお起こっおも、図曞通は旧町村にそのたた残り、名前も継承されおいるものが倚い。ひず぀の地域にひず぀の図曞通、そういう倧切な認識も今のずころ倉わっおいないようだ。
耇数の自治䜓が合䜵でひず぀になったずしおも、図曞通はひず぀にしない。その考え方はずっず残しおいっおほしい。

門前図曞通はどこにでもある、ごく普通の〝小さな図曞通〟だ。
そんな図曞通だが、その界隈には図曞通の存圚に倧きな圱響を䞎える空気がある。

それは奥胜登の叀刹・瞜持寺祖院の暪にあるずいう環境がもたらすものだ。
1321幎元亚元創建ずいう長い歎史を刻む犅寺ず、その界隈のたちが育んできた特有の空気感の䞭に、2004幎平成16移転新築されたただただ若い図曞通が控えめに䜇む。その関わり方がシンプルに嬉しく感じさせる。

瞜持寺は、1898幎明治31に起きた倧火灜がきっかけずなっお暪浜垂鶎芋区に本山を移した。しかし、この奥胜登の町がれっきずした開創の地であるこずに倉わりはない。本山を倱った地元の人たちが、すぐに「祖院」ずしお埩興させた思いも生き続けおいる。

瞜持寺を、地元の人たちは芪しみを蟌めお「本山さん」ず呌んでいたずいう。今も〝倧本山壱里〟ず圫られた小さな道暙が、町から倖れた䜕でもない道端の畑に残っおいたりするが、瞜持寺ず地域、そしお人々ずを繋げるオブゞェのような存圚だ。そしお、そうしたさたざたな゚ピ゜ヌドが、門前図曞通の存圚そのものにも䜕かを宿しおいるように思えたりする。

か぀お、この道暙を芋぀けた時には心が躍った。地元歎史家の先生からアバりトな䜍眮をお聞きしその付近を歩いおいたが、半分ほどはあきらめおいたず思う。この堎所はそれ以来䜕床も通り過ぎおきたが、ほずんど毎回スピヌドを緩め存圚を確認しおいる。倚くに知っおもらいたいずいう思いず、そっずしおおきたいずいう思いが今もぶ぀かり合ったたたになっおいる。



✎ 図曞通前の小川に沿っお歩く

門前図曞通の前には小さな川が流れ、それに沿っお暪に延びる现い道は祖院の山門前に通じおいる。

党盛時の瞜持寺の䌜藍は、今ずは比べものにならないほど倧きかった。
今山門の前に建぀芳春院名のずおり前田利家の劻・た぀が建立ずいう寺は、か぀お珟圚の図曞通ず祖院ずの間に建っおいた。図曞通を出お今は駐車堎などになっおいる空間に立぀ず、その倧きさを十分実感できる。

山門前を過ぎお、さらに流れを遡るように现い道を歩いお行けば、途䞭に「峚山がさん道」ず蚘された道暙が立぀。小川に架かる小さな橋を枡るず、祖院の裏山ぞずさらに现い道が延びおいる。

峚山ずは、瞜持寺を開いた瑩山けいざん犅垫の意志を継ぎ、その埌党囜に末寺を広げおいく瞜持寺発展の基盀を䜜った僧の名。そしお、この「峚山道」は、峚山犅垫が瞜持寺ず氞光寺ようこうじずいう寺の間を毎日埀埩しおいたずいう道だ。

氞光寺ずは石川県矜咋垂にあり、瞜持寺の幎前に瑩山が開いおいた。
そのふた぀の寺の間の距離はなんず十䞉里、玄52キロもある。その道を毎日埀埩しおいたずは信じがたい が、信じよう。
ちなみに、峚山の生誕地である石川県接幡町瓜生うりゅうずいう山里も二床ほど蚪れおいるが、峚山が健脚になった理由を十分に玍埗させおくれる奥深さだった。

今の峚山道は、巡瀌やトレむルランのコヌスずなっお広く芪したれるようになっおいる。700幎が過ぎた今のようすを芋お、峚山もきっず喜んでいるにちがいないず勝手に思う。
この先ただ続く小さな流れも、现い道も、のどかな颚景も、すべおが祖院界隈の〝お裟分け〟ずいったずころだろう。



✎ 図曞通前の商店街を歩く

戻っお、図曞通前から小さな橋を枡り、短く䞋るずすぐに祖院前の商店街通りに出る。蚘憶にはないが、門前図曞通の前身はか぀おこの商店街通りにあったずいう。

ここは緩やかに䞋るメむンの通りを「たおたち」。途䞭で右に入ったあたりを「よこたち」ず呌ぶ。叀い時代からの歎史のある呌称だ。

初めおこの商店街を歩いた時には喫茶店があった。

今から思えば昭和の匂いそのものずいった店で、それなりににぎわっおいた。
その十数幎埌だろうか 東京浅草の叀い喫茶店に入った時に、その店のこずをふず思い出した。
雰囲気が䌌おいるず感じたからだろう。新聞を広げ、蟛子のきいたハムサンドずコヌヒヌをいただきながら、浅草寺ず瞜持寺のこずも぀いでに思ったりした。

たおたちをゆるく䞋り、よこたちの狭い道ぞず折れる。
しばらく歩き、「よこたちばし」ずいう小さな橋を枡るが、その䞋を流れるのは祖院山門前から図曞通前を経おくる川だ。
こぢんたりずした櫛比くしひ神瀟がその先にある。

2007幎3月25日に起きた胜登半島地震の時、石段䞋の鳥居が無残な圢で倒れおいた。呚蟺の建物もほずんどが倧きな損傷を受けおおり、息が詰たるような䞭歩いたが、神瀟の鳥居が倒れおいるずいう状況を目にするのはショッキングな䜓隓だった。

「櫛比」ずはこのあたりの叀い呌称で、神瀟は瞜持寺より叀い時代からあったずいう。か぀お祖院前の小孊校に櫛比の名が残っおいたが、今はもう改名されおいる。
ただ新しさを感じさせる鳥居をくぐり、急な石段を登れば瀟のある高台に出る。眺望ずいうほどではないが、䜕でもない界隈の日垞が芋枡せ、ほっずできる堎所だ。



✎ 瞜持寺ず人々ずの物語を知る

瞜持寺関連のこずは蚳あっおそれなりのこずを孊習した。
その蚳ずは、図曞通のすぐ近くに建ち、瞜持寺や瞜持寺門前のたちの文化などを玹介する「櫛比の庄 犅の里亀流通」ずいう展瀺通の仕事をやらせおいただいたこずだ。

倧䌜藍のゞオラマ暡型から始たる展瀺ストヌリヌに觊れおもらうず、瞜持寺党盛の頃が想像できるだろう。そしお、この奥胜登の地にもたらしおきた倧きな文化の流れも、同時に感じ取っおもらえるず思う。

党䜓のシナリオ、資料収集や取材をもずにした幎衚や解説原皿、そしお展瀺挔出など、それなりに汗を流したが、痛感したのが本山が移転しおいなければずいう思いだった。
ストヌリヌを具䜓化しおいくうちに、もし本山のたただったら、この界隈には党く違う空気が流れおいただろうず思うようになった。
亀流通も博物通芏暡のずんでもないものになっおいたにちがいない。そしお、匷く確信したのが、自分なんぞが関わるこずもなかっただろうなあずいうこずだ。

その仕事の䞭で自分なりに倧切にしたのは、地域の人たちが関わる数々の歳時蚘的゚ピ゜ヌドだ。瞜持寺ず人々ずの぀ながりの深さは、四季を通じお日垞の䞭に根付いおいた。
圓時のノヌトには取材したさたざたな話を走り曞きしおいたのだが、そのノヌトは今所圚が分からないずいう情けない状況にある。

䜜業は地元の人たちを含めたチヌムの䞭でプレれンず協議を定期的に繰り返し、数々の難題にぶ぀かりながらも根気よくやらせおいただいた。
い぀も以䞊にやらなくおはずいう気持ちになったのは、胜登半島地震盎埌の埩興ず重なったからだ。

地震により、䜜業は始たったばかりのずころで䞭断を䜙儀なくされた。そしお、再開は祖院や町の埩興ず合わせた圢で進んだ。
その間の町の皆さんの心劎は枬り知れないほど倧きかっただろう。
さらに祖院の䞭でも痛々しい爪痕を至るずころで目にし、僧堂ずいう重芁な建物が解䜓される珟堎にも偶然立ち䌚ったりした。

爪痕は町の䞭でも同じだったが、心を癒しおくれたのはスタッフの皆さん特に女性軍の明るさだった。
打ち合わせが終わった倕暮れどき、そこから始たるコヌヒヌタむム。
なんでもない䞖間話にもあたたかい時間が共有されおいた。

ずころで、その頃図曞通からの資料は䜿っおいたが、図曞通自䜓には行っおいなかった。その存圚もアタマになかった。図曞通自䜓がどんな状況にあったのか、たったく知らない  

その埌にも、震灜に遭った旧門前町黒島にある「角海かどみ家」ずいう北前船船䞻の通を埩元する仕事に携わったが、町の皆さんのたくたしさずおおらかさ、そしお奥胜登の自然のやさしさにい぀も励たされおいたような気がする。



✎ 冬の門前図曞通にお

2月、久しぶりに雪の奥胜登ぞず出かけた折、圓然のようにしお門前図曞通にも立ち寄った。

瞜持寺の名僧らが眠る亀山の深い朚立を背景にした構えを芋䞊げるず、たずこの颚景からこの図曞通が奜きになったこずを思い出す。

以前、よそ者がその地域の図曞通に入るずいうこずに躊躇しおいた時期があったが、この門前図曞通でも同じこずを感じおいた。その頃の自分には、図曞通はただ本を借りに来るだけのずころだったのだ。

小さな図曞通の昌間はどこでも人は少ない。
その日の門前図曞通もそうだった。小さな受付ブヌスには若いスタッフが二人。こうした若いスタッフの人たちが頑匵っおいるのを芋るず嬉しくなる。

すぐに階フロアぞず䞊がる。敎然ずした図曞通らしい空気感に気持ちがスカッずする。説明はむずかしいがこの空気感がいい。この空気感から図曞通は始たる   

窓から、祖院の法堂倧祖堂らしき倧きな瓊屋根が蟛うじお芋えた。
地元関係のコヌナヌでは圓然のように祖院に関する曞籍が倚い。
瞜持寺ず門前図曞通ずの関係をシンプルに瀺しおいる。
町史などを目にするず、さたざたな仕事でお䞖話になったこずも甊った。

そう蚀えばず、明治時代の私蚭図曞通の話に遭遇したこずも思い出す。
同じ町内の剱地぀るぎじずいう地区にあった『饒石にぎし文庫』の話だ。ややこしい挢字は今でもすぐには曞けない。
その時代、奥胜登の地であるからこそ知識欲や奜奇心などは倧きく膚らんでいったのだろう。そう思うず、同志の若者たちが集たる光景が思い浮かび、なぜか誇らしく懐かしい気持ちになったこずを思い出す。
剱地は、二十代の若さでこの䞖を去った倧孊の埌茩の出身地だった。
日本文孊を愛した圌から、生前借りおいた宮沢賢治の詩集は今もボクの本棚にある。棺に入れようずした時、奥さんから持っおいおあげおくださいず蚀われ、そのたた預かった。
圌の存圚が、『饒石にぎし文庫』の存圚ずどこかで繋がっおいたのかもしれない  

話は南ぞず飛ぶが、私蚭図曞通ず蚀えば、石川県旧矎川町珟癜山垂の手取川河口付近にある『呉竹くれたけ文庫』に出入りしおいたこずがある。
手取川のほずりに残る『呉竹文庫』は、行政によっお維持され、厳しいながらもなんずかしなければならないずかなり前から蚀われおきた。
矎しい本の壁に囲たれた掋間や、毅然ずした曞庫の空気感はたたらない。
ただ、ある先生をお連れした時にも、先生がお目圓おの䜜家の本を発芋したが、その貎重な本を棚から取り出すこずすらできないずいう状況だった。
デゞタルデヌタを䜜ろうずいう安盎な提案をした芚えもあるが、かなりのおカネず劎力ず、぀いでに忍耐力も必芁ずいうこずで提案は埋没  
今はどうなっおいるのだろう。



🖋











静かに門前図曞通の本棚の間を歩く。図曞通ならではの醍醐味。
暪目で背衚玙のタむトルを芋ながら歩き、時折足を止める。

読んだこずのある本のタむトルをいく぀芋぀けられるか 
しかし、案倖少ない。
逆に面癜そうな本のタむトルを芋぀けるず、立ち止たり手をかけおみる。

近堎の図曞通ではか぀お䜕気に手に取っお拟い読みをし、そのたた曞店ぞず走るずいうこずもあった。
詊し読みずいうのも欠かせない。文䜓に銎染めるかを知るこずも倧切だ。ブラりゞングずいう蚀葉をよく目にするようになったが、こうしたこずが圓たり前にできる堎ずしお図曞通は有効に掻甚すべきだ。
最初は銎染めなくおも、借りおきお読み進んでいくうちにこれたでの感芚が倉わっおいくこずもある。図曞通はそういう自分の感性の倉化進化、時には鈍化、さらには退化も教えおくれたりする。

ひずずおり本棚の間を歩き終えるず、窓際のテヌブル垭ぞず向かう。
これこそが、究極の門前図曞通利甚の目的  なのかもしれない。
倧切な時間のスタヌトだ。

午前の遅い時間。
窓からはややどんよりずした空ず、その䞋に広がる雪景色のたち。
前回蚪れたのが倏だったこずを䞍意に思い出し、その時に感じた静けさず今感じおいる静けさずのちがいに玍埗したりする。


🖋 
















そう蚀えば、冬の図曞通の思い出は半䞖玀近く前の金沢垂立図曞通にある。
珟圚金沢には垂立の図曞通が䞉通。最も新しい「金沢海みらい図曞通」は、〝䞖界で最も矎しい公共図曞通25遞〟に遞ばれたほどの豪華さで、芋た目も誇らし気だ。

そんな掟手な図曞通からは想像も぀かない叀い掋通が、か぀おの金沢垂立図曞通だった。階の閲芧宀兌自習宀には、叀くなったスむングドアから隙間颚が容赊なく入っおきおいた。本圓はスむングドアではなく、叀くお締りが悪いだけの扉だったかもしれない。

金沢城倧手門の前。雚が降るず氎たたりのできる前庭があった。二階の窓からは兌六園に通じる癜鳥路ずいう鬱蒌ずした朚立の䞭の道を芋䞋ろせ、その癜鳥路を抜けたずころに垰りに利甚するバス停があった。

぀いでに曞くず、癜鳥路前には今颚に蚀うずホットドッグの小さなデリバリヌカヌが時折出おいお、䜕回か食べに行ったこずがある。
癜いシンプルなクルマのバックドアが開けられ、無口なお父さんが䞭でホットドッグを焌いおいた。目線がほずんど同じような高さだったから、クルマの倧きさが想像できる。
客の姿はあたり芋なかったが、唇をやけどしそうになりながら頬匵る焌きたおは、圓時の十代埌半の若者にずっおサむコヌの味だったのだ。

  門前図曞通にいながら、金沢の昔の図曞通のこずを思い出しおいる。
アタマの䞭でちょっず笑いながら、図曞通ならではだなずも思う。

ぜいたくなほどの静寂の䞭でいろいろず劄想し、ノヌトにペンを走らせる。

぀いさっきたで自分以倖の誰かの存圚を感じおいたが、い぀のたにかその気配も消えおいた   
静かに階段を䞋りお、䌚釈をし倖に出る。
門を出お祖院の方向に目をやり、たた門前図曞通の䜇たいを芋た。
空が明るくなっおいる。



🖋 奥胜登ふるさずの匂いに包たれた小さな図曞通
その 柳田教逊文化通のこず


✎ あこがれの図曞通

胜登町立柳田教逊文化通で独り静かに机に向かう   
それは小さなあこがれだった。嘘ではない。
いいオッサンが䜕を蚀っおいるのかず思われそうだが、それほどたでにそこには魅かれるものがあった。
ただ、それを実行するのはなかなかむずかしいこずでもあった。
理由は、子䟛たちず深く結び぀いた堎であったからだ。物理的には、自分が座りたいずころの机やむスがほが子䟛向けであったりもした   

ここは門前図曞通ずはたた違う魅力をも぀。呚蟺にあるのは玠朎でのんびりずした空気のように芋えるが、どこか厳しく、そしお高貎な空気感が挂う。䞍思議なずころだ。

胜登町は2005幎、胜郜町、内浊町そしおこの柳田村が合䜵しおできた町だ。
その幎に、柳田教逊文化通もオヌプンしおいる。
珟圚の門前図曞通の建物よりも1幎先にできおいるが、「旧柳田村立」ず呌べないずころが個人的には惜しい。

遊びごころを感じさせる朚ずガラスの倖芳がいい。
通内も本の匂いず朚の匂いがほどよくブレンドされ、ガラス匵りであるこずがひたすら自分の奜感床を䞊げおいる。
そしおさらに蚀えば、スタッフの人たちもあたたかい。

この通は図曞通ず子䟛たちずの繋がりをより深く瀺すかのように、柳田小孊校の暪に建぀。だから、庭の倧朚の陰が心地よい季節には、通内倖ずもに攟課埌の子䟛たちで䞀段ずにぎわうこずになる。きわめお自然な流れだ。
さらにスクヌルバスも前の広堎から出おいるので、子䟛たちはこの通で宿題をすたせたりもする。蚀わば孊童保育的な堎でもある。

正匏には図曞通オンリヌずいう蚭定ではなく、さたざたな䜓隓斜蚭ずしおできたず聞いた。通内の面癜い圢状を芋るず、なんずなくそのこずが窺えるが、䜕ず蚀っおも「教逊文化通」ずいうネヌミングがストレヌトで奜きだ。

旧柳田村は、胜登半島に唯䞀残っおいた海のない山間の、しかも唯䞀の村だった。
他ず同じように人口枛少が進み、2001幎から翌幎にかけお小孊校校が統合されおいる。さらにその頃200名を超えおいた生埒数も、今ではその半分以䞋になっおしたった。

スクヌルバスは旧柳田村党域を走っお子䟛たちを送迎する。その光景を思い浮かべるず、埮笑たしさにわずかながら切なさが混ざったりするが、䞀ヶ所に集たる子䟛たちは元気で瀌儀正しい。道ですれ違っおも倧きな声で挚拶しおくれる。



✎ 颚土ず図曞通

ずっず以前から、奥胜登の山里胜登半島内陞郚には独特な空気感があるず感じおきた。
柳田もその代衚的なずころだが、その䞍思議な空気感は胜登半島の倚くが海でむメヌゞされるからだず思っおいる。

初めお柳田村に来たのはかなり昔。炭焌小屋を撮圱するためだった。圓然フィルムカメラが圓たり前の頃の話だ。
奥胜登の豪雪地垯である柳田にはただかなりの雪が残る季節。
写真は金沢垂の児童斜蚭に展瀺するもので、昭和20幎代の炭焌小屋をむメヌゞさせるものが求められおいた。
しかし、金沢近蟺にはそのような炭焌小屋は残っおおらず、時間の猶予がなかったこずもあっお、急遜柳田たで撮圱に行くこずになったのだ。

地元の人に小屋近くたで案内しおもらい、雪の䞭を借りた長靎で歩いた。
そしお、煙が䞊がっおいた藁葺きの小屋ず、その前で䜜業する炭焌職人の姿を、長靎に入った雪を気にしながら䜕枚も撮らせおいただいた。冬のこずで垰りは倜道だった。



 旧柳田村の印象はそのあたりから始たる。

ずころで、胜登半島先端の珠掲から金沢ぞず南䞋する時は、柳田を経由する山道ルヌトをよく遞択する。
途䞭でメむンルヌトず合流するが、途䞭颚倉りな地名を芋ながら、海の気配を感じずに遠回りをしお胜登半島を䞋った。

最近は時間短瞮のための䟿利な道が増えおきたが、そんな道にはあたり関心がない。

他の゚リアず同じように、教逊文化通呚蟺もたたよく歩いた。

教逊文化通の暪には町野川が流れる。察岞は柳田の䞭心郚。
胜登では海運ず繋がる海沿いの道が幹線的な圹割を果たしおきた。だから柳田のような山間にはサブ的なルヌトしか通じおいなかったが、蟲業や林業その他の産物が動く堎所ずしお芁衝であったず蚀われる。半島の背骚を行けば、巊右どちらぞも䞋るこずができお郜合がよかったずいう話も聞いたこずがある。

教逊文化通のある蟺りではか぀お銬の垂も開かれおいたず聞いた。
繁栄時の名残りず蚀われる建物も芋せおもらったこずがある。
すでに損傷は烈しかったが、倧金を埗た銬䞻たちの賑やかな宎のようすを想像させた。

メむン通りを離れ、町野川沿いの道も䜕床か歩いた。

流れに぀いたり離れたりしながらブラブラ歩いお行くず、小間生おもうずいう地区があり、高台にか぀おの小孊校の朚造校舎䞋写真巊が芋える。

そう蚀えば、取り壊しの話をどこかで聞いたが、今はどうなっおいるのだろう

廃校になった朚造校舎ず蚀えば、少し離れたずころにあった旧䞭斉小孊校䞊写真右も矎しかった。近くを通るずよくクルマを停め、付近を歩き、さたざたな角床から眺め、カメラに収めた。
数幎前に取り壊され、今は校舎のあった高台が䞻を倱ったように寂しく目に映る。

珠掲からの垰り道に初めお柳田に入る山道を通った時、小間生にある熊野神瀟ずいうずころで長い時間クルマを䞋りた。
狭い山道を経お民家のある堎所たで䞋り、ゆったりした気持ちで目の前の颚景を芋おいた。
平坊な境内には本殿がすっきりず建ち、遮るものもなく、緩やかな傟斜地に目をやる。もう西日もかなり傟いおいたせいだろう、感傷に耜るような心持にもなっおいたかもしれない。


その時の情景も柳田の印象づくりに䜕らかの圱響を䞎えたような気がする。
そこからたたクルマを走らせ教逊文化通のある柳田䞭心郚ぞず向かうが、それほど遠くはない。



教逊文化通の前の道路を枡るず、町野川から分かれた䞊町川沿いに笹川ずいう地区がある。䜕床も歩いたずころだ。
䞊町川に架かる小さな橋からの玠朎な颚景は、肩のチカラを抜いおくれ、よそ者が持たざるを埗ない緊匵感を和らげる。

その橋を枡りしばらく行くず小さな旅通があり、その先で道は右折し登りずなる。

そしお、登りのたたさらに倧きく巊に曲がるずころには、高台に向かっお石段が真っすぐに延びおいる。真新しい螏み跡などないその石段を登っおみるず、荒れた草地の䞭に奥ぞずいく぀かの墓石が䞊んでおり、䌞び攟題の草に進行が阻たれる。䞊にある神瀟に繋がっおいるのだろうず想像するだけだ。
ここはいったい䜕なのか よそ者には、こういう䞍可思議な堎所の存圚がおもしろい。

振り返るず柳田小孊校が芋䞋ろせた。教逊文化通はそのすぐ䞋にあるはずで、なんずなく確認できたような気になる。道路に戻りさらに登るず、「日枝神瀟」ず蚘された鳥居が急な石段の䞊に立぀。この石段もあたり人が歩いた気配を感じさせない。正匏には笹川日枝神瀟ずいうらしい。

二段になった急な石段を登り、最䞊郚に出るず小さな瀟があった。

巊手の方に平らな道が延びおいお、行事の際にはこの道が運搬甚などに䜿われるのだろうず想像させる。
胜登に限ったこずではないが、山里では集萜を芋䞋ろすようなより高い堎所に造られた神瀟ずよく出合う。圓然だが急な階段が蚭けられ、こんなずころを昔は神茿を担いで登ったのかなずよく思う。急な階段を駆け䞊がるこずで信仰心を衚しおいたのかもしれないず考えたりもする。
瀟の右手には開けた台地状の広堎があり、叀い長屋のような建物が建っおいる。胜登の祭りの䞻圹キリコが解䜓され収玍されおいるらしい。
膝の高さを超えるほどに雑草が䌞び攟題になっおいるが、祭りの前には草もきれいに刈られるのだろう。そしお、祭りになればここに倚くの人たちが集うのだろうず想像する。草をかき分け広堎の先端たで行くず、朚々の隙間から集萜の家々が芋䞋ろせた。



✎  神瀟のこずを少し   神瀟ず図曞通


山里にある神瀟の存圚には少なからず䞍思議なチカラを感じおいる。
山里で出合った数えきれないほどの神瀟で、い぀も䞍思議な䜕かを感じ取っおいた。

い぀だったか、カメラを手にある山里で神瀟のたわりをうろ぀いおいたら本人は探怜䞭 、地元の人に賜銭泥棒ず間違えられるから気を付けたらいいよず蚀われた。それ以来行動はできるだけ慎重にず心がけるようになったが、最近は逆に堂々ずやった方がいいのかなず考えを改めおいる。

神瀟はずお぀もない長い歳月をそこで過ごしおいる。粟悍な顔立ちをし、草刈りなどもそれなりに斜されおいお矎しい。そしお䜕ず蚀っおも、䜙蚈なこずを考えさせない静寂がある。

人が枛っおいけばいくほど祭りも簡玠化が進んだ。
しかし、逆にそうなればなるほど、神瀟の存圚はより䞍思議なチカラを蘇らせおいくような、そんなこずも感じ始めた。
境内から鳥居を透しお芋る里の颚景が奜きだが、小さくおも叀くからあった神瀟には、そこに生きおきた人たちの生掻の習慣や信条を感じさせる䜕かがある。
神瀟が昔から芋おきたであろう颚景ず、時間が止たっおいるかのような柄み切った静寂ずが結び぀いおいく。
倧げさだが、それが「颚土」ずいう蚀葉を具珟化した䞖界なのか  ずさえ思わせる。
そしお、過疎ずいう珟象が必然的に起こったのかどうか知らないが、それがどれだけ進もうずも、颚土ずいうものは氞遠になくならないのだろうなず思うようになった。

そしお  、よくは分からないたただが、地域の図曞通が果たしおいくべき圹割の䞭に、この颚土ずいう蚀葉が重く䜍眮づけられるようになる。
地域の颚土は、気が遠くなるほどの日垞の積み重ねだ。
地元の資料通などずの合䜓も理に適っおいるが、それを残す䞻䜓は図曞通にあるず思う。図曞通には地域のすべお過去・珟圚・未来が詰たっおおり、これから先さらにそのこずを意識しおいくべきだず思う。

柳田教逊文化通の圹割もたた、そんなずころにあるのかもしれない。
そう思うのも自然な気がする   



✎ 春の柳田教逊文化通で

月の終わり。
柳田教逊文化通の階孊習コヌナヌ勝手に呜名で机に向かっおいた。
子䟛の気持ちを匷芁されおいるような、かず蚀っお決しお悪い気分でもなく、むしろ初々しい気持ちでガラス匵りの倖のようすを芋おいる自分に気が付く。あこがれだったのだから仕方がない   

リュックからパ゜コンを取り出したが、やはり倖を芋おいる。
新緑がようやく始たる時季、倖はあくたでも明るく爜やかだ。

小孊生の頃、孊校の図曞通で初めお借りた本のこずを䜕の前觊れもなく考え始めた。

前觊れもなくず曞いたが、たたに考えおいたこずでもある。
その本が『源平盛衰蚘』ずいうタむトルであったずいう蚘憶が、なぜかその時あざやかに蘇った。
そしお、なぜその本を遞んだのかずたた新たに考え始める。
蚘憶にはそこたでないが、テレビの時代劇、特に倧河ドラマの圱響だった気がする。
たせた少幎だったが、他愛ないきっかけだったろうず思う。
ただ、日本の歎史に興味を持぀ようになったのはその本がきっかけだったにちがいない。
たさに自分にずっおの歎史ぞの招埅。
歎史奜きニンゲンぞのゲヌトがその時開かれたようだ。

✎






子䟛にずっお図曞通はずおも倧切な䞖界であり、本は倧切なアむテムだ。
遊びはもちろん、本未知の䞖界ぞの倢奜奇心などの源ず子䟛は繋がっおいなければならない。
本棚の間に䜓育座りをし、無心に図鑑や物語にのめり蟌む時間もなければならない。
それは図曞通によく䌌合う光景であり、なくおはならない光景だ。

図曞通は子䟛たちに䜕かを発芋させる。
生きおいくための糧になるものを備え、望めばこれでもかず提䟛しおくれる。
図曞通は子䟛たちを育おる堎であり、垞に子䟛たちの味方なのだ。

柳田教逊文化通は子䟛たちのそばにある。地元小孊校の暪に建ち、地域がも぀課題ず向き合っおいる。

ガラス越しの緑に目を向けおはいるが、想いはどこかに飛んでいく。
䞍思議な空気感がそうさせおいるのだろう。
倧人が図曞通にいる時にはそんなこずもあっおいい。
スタッフの人たちの元気な声が聞こえる。
柳田教逊文化通にはそんな日垞があり、それがこの通の倧らかな空気感に繋がっおいる。

🖋 奥胜登ふるさずの匂いに包たれた小さな図曞通

🖋 図曞通ぞの劄想

高校時代は図曞通でテスト勉匷をした。
先に曞いた旧金沢垂立図曞通で時過ぎたでやっお、それから癜鳥路ずいう森のトンネルのような道を歩き、その先にあったバス停から家路に就いた。
家に垰り、晩ご飯を食べ終えるずもう時半。颚呂に入り、レコヌドでも聎いおいるずすぐ眠くなる。
孊校の勉匷は奜きではないずいうこずが根本にあり、家で、しかも倜䞭たでやるずいう習慣はあたりなかった。
おかげで図曞通ず芪しくなれたのかもしれない。

倧孊時代は数回しか孊校の図曞通を利甚しおいないが、瀟䌚人になっおからは仕事でよく図曞通に足を運んだ。
すでに完成しおいた金沢垂立玉川図曞通は、頻繁に出かけおいたずころで、近䞖史料通ずいう䜵蚭の建物にはお䞖話になっおいる先生もいた。
金沢の仕事には、歎史や文孊、䌝統工芞・芞胜などに関する題材が付きものだった。
先生にお願いするず、それに適した資料を出しおもらえる。事前に䌝えおおくず、ポむントになるペヌゞには先生が付箋を挟んでいおくれたり。特に叀い曞物などは簡単な解読の仕方たでおたけで教えおくれた。

たずえば江戞時代、金沢城䞋の庶民がどのように菓子ずいうものに芪しんでいたかずいうこずを知りたい   そうお願いするず、わらべ歌の本や䞋玚歊士の日蚘などを出しおきおくれる。
昔のわらべ歌の歌詞には、季節の行事や、日頃のちょっずした堎面で食べものの名などが出おきた。
たた䞋玚歊士の日蚘には、法事などの垰りに逅などを持っお垰るず、子䟛たちがそれを楜しみに埅っおいたずいう蚘述があったりしお、そこから庶民がどのような機䌚にどのような菓子を食べおいたかなどの情報を埗る。
貞し出しのできない資料なので、先生が瀺しおくれた箇所を参考に、あずは自分でそれらしき蚘述のあるずころを探す。
そしお曞き写したり撮圱したり。
そのほずんどが新たに自分で曞き起こすテキストのネタになっおいくが、こうした仕事の話には数えきれないほどの゚ピ゜ヌドもあっお、今振り返るず図曞通での仕事の楜しさが甊っおくる。


盎接図曞通そのものの仕事に携わったのはそれほど前ではない。
きっかけずなったのは、ある町の地元出身䜜家を玹介する事業に関わったこずだ。資料展瀺宀や䜜品集の出版、さらに同じ地元出身の画家の䜜品展瀺などをずおしお、䌁画事業のサポヌトをやらせおもらった。

その仕事がおもしろかったのは、䜕よりも図曞通スタッフがやる気に満ちおいたからだ。自分たちが掻躍できる䌁画を、自分たち自身で立ち䞊げるこずを促しアドバむスらしきこずをした぀もりだが、小さな町の図曞通では皀なケヌスだった。
図曞通ずしおオリゞナルなサむトを持っおいたこずも、スタッフのチカラによるものだっただろう。
しかし残念なこずに、今その小さな図曞通でもそうした動きにブレヌキがかけられおいるらしい。予算削枛の時代なのだ。


図曞通自䜓の仕事に関わるようになるず、同時に図曞通自䜓の可胜性をそれなりに考えるようになるのが自然だ  
資栌など圓然ない玠人だったが、プランナヌの血流が走ったのだろう。図曞通の新しいあり方みたいなこずぞの関心が高たっおいく。気が付くず、図曞通に関する本などもそれなりに読み蟌み、単なる関心は、図曞通ぞの奜奇心劄想にも倉わっおいった。
小さな町の図曞通おもしろそう。その通長ディレクタヌやっおみる䟡倀あり。限られた人たちにそんな話をするようにもなった。

🖋 奥胜登ふるさずの匂いに包たれた小さな図曞通


🖋 図曞通っお䜕だ

ここたできたら、぀いでに曞いおしたおう。

ごくごく普通に本ず芪しみ、通内読曞や貞出サヌビスの充実を図り、読み聞かせ䌚や各皮展瀺䌚を開催しながらも、地域の根幹的芁玠普通に蚀えば歎史や民俗・文化や産業などだが、さらに緩い芖野で捉えた地域の日垞から颚土ずしっかり繋がり、その䞊でおもしろくお楜しい図曞通ができたらいい   ず思う。
図曞通づくりの始たりはそのカタチを芋぀けるこずであり、無限の可胜性を図曞通に怍え付けるこずだなず思っおいる。

しかし、地域の小さな図曞通ではなかなかうたくいかないのも珟実だろう。
䜏民の意芋はアンケヌトやパブリックコメントなどで吞い取るのが粟䞀杯で、倚くはそのたた平均的な方向に集玄されおしたう。財政的な条件なども牙をむき、倧きな自治䜓のようなわけにはいかない。

しかし、図曞通の本を日垞の友にしおいる人、図曞通を掻動の拠点にしおいる人・したい人など、その倚くが思いを具䜓的に説明できないでいる。䜕を話しおいいのかが分からない。自分の思いをそのたた話しおいいのかにも戞惑っおいる。


だから可胜性をいっぱい秘めた図曞通づくりずいう理想はなかなか具珟化しにくい。
運営も資料通などず䌌おいお、最䜎限のラむンが暙準化しおいく。

図曞通をずっず生き続ける斜蚭ずしお䜍眮付けるためには、その圹割ぞの解釈もたた自由に、そしお広範にしおいくのがいい。図曞通を究極のコミュニティの堎ず䜍眮づける柔軟性ず思い切りが必芁になっおくる。
窮屈なアタマで図曞通は考えられるべきではない。
図曞通の粟神コンセプトには「自由」が必芁だ。

図曞通を掻甚しおいくこず自分たちが掻性化しおいくこずでもある。
自分たちがクリ゚むティブに、そしおアクティブになり、その空気が地域の可胜性をカタチにし、地域の粟神をカタチにしおいく  。そんなこずが図曞通づくり考えるこずが氞続的に目指すこずではないだろうか




 い぀かノヌトに走り曞きしたメモには以䞋のようなこずが蚘されおある。


図曞通は、地域の空気感、ブランドetc.そのものであるべき  
→ 建っおいる堎所はその地域の物語の舞台。地理的・景芳的etc.
→ 地域文化ずそれを知るための資料が充実しおいるべき 自分たちを知る堎
→ 子䟛たちの日垞ず繋がっおいるべき 
コミュニティの䞭心にいるような図曞通であるべき  
→ 集うための自然さがある 芝の広堎ず朚、眺望・ガラス匵り、耇合甚途 
→ スタッフが掻発に意芋を出し合い䌁画運営する※個性的なスタッフ
→ ボランティアの自䞻性による参画を尊重すべき。
→ 地元研究家、各皮愛奜家たちを支える   などずある。

さらに、図曞通の既成抂念を超えるここは字がデカい
これからの図曞通は、䜕か新しい蚀葉が必芁になるくらいに倚様性に富む  

今远蚘するずしたら、図曞通こそが SDG’の察象


自身の無責任な発蚀でありながらも、なかなかいいこずを蚀っおいるなずそれなりに玍埗しおしたった。

以䞊のメモだが、最埌は図曞通ずいう呌び名も倉えた方がいいずいうようなこずを蚀っおいる。


🖋🖋


















どこの図曞通が奜きかず問われたら、小声で門前図曞通ず柳田教逊文化通の名を䞊げる ず蚀っおも、ほずんど聞かれたこずはないので答えたこずもないが。
ただその名を䞊げたずしおも、理由は蚀葉にできず、個人的な感想ですなどず濁すにちがいない。
図曞通は䞍思議なずころですから ず、さらに逃げ道も䜜るだろう。
ひょっずするず、先にも曞いた地域の空気感、文化やそうした類のものずどこか溶け蟌んでいる図曞通だずいうこずだけは口にするかもしれない。 
それだけでは満足できないが   

胜登半島のある石川県では新しい県立図曞通がオヌプンする。 
金沢の歎史文化ゟヌンの奥にできるが、郊倖の町に䜏む自分にはちょっず行きづらい。それだけの理由ではないが、自分の䞭では行っおみたいずいう気持ちもただ生たれおいない。行くずしおもそのうち䞀床ぐらいはの芋物気分でだろう。
奥胜登のように金沢から離れた地域の人たちには、さらに行きづらいにちがいない。県庁や県立の䞭倮病院が金沢垂の郊倖に䞊んであり、アクセスなどでは図曞通もそうしたロケヌションが盞応しかったず思うが、県立の嚁厳や颚栌ずもなるずそんなこずは問題倖になるのだろうか。

ずころで、小さな図曞通も氞遠になくならないず思っおいるが、それはそこに人がいるからだ。人がいおその土地の歎史や文化などを振り返ったり、英知や嚯楜や安らぎを求めたりするからこそ図曞通は残っおいく。
だからこれからの図曞通に求められるのは、その地域に残る人たちやさらに地域を離れた人たち、さらに蚀えばUタヌンやその地域に移䜏しおくる人たちに察しおも、さたざたな情報を提䟛するこずだ。子䟛たちにもしっかりずそのこずを培底しおいく。そしお、ずにかく図曞通に行っおみよう ずいう可胜性を感じおもらうこず。

「ふるさずの図曞通」 そんな図曞通が氞遠に残っおいくのだず思う。

奥胜登に限らず、小さな図曞通はどれも寡黙だ。
だが地域の空気感ずずもに、静かにその存圚を瀺しおいる。
い぀たでも可胜なかぎり立ち寄らせおいただく。

そしおい぀か、この話の぀づきが曞けるような新たな図曞通ずも出合いたい     


“🖋 奥胜登ふるさずの匂いに包たれた小さな図曞通” ぞの1件の返信

  1. 楜しく読たせおいただきたした。
    最近、町の本屋さんが少なくなっおきおいるずいうこずはよく耳にしたす。
    本を読たない人が倚くなったず思いたくはないのですが、残念な結果です。
    私の家の前にも図曞通がありたす。ただ残念なこずに、近所の方でも入ったこずが無いずいう話を聞きたす。
    図曞通をうたく利甚しお、本に芪しむ、文字に芪しむこずが楜しくなっおくれる人が増えたらいいなず思っおいたす。
    幎前、神保町の岩波ホヌルで、ドキュメンタリヌ映画「ニュヌペヌク公共図曞通」を芳たした。単なる、本を読む、本を貞すだけの図曞通ではないこずに衝撃を受けたした。その岩波ホヌルも今月で閉通です。
    私は、日本叀兞文孊が奜きで、䞭でも、和歌文孊に興味を持っおいたす。あしたは「たなばた」です。「たなばたに貞す」ずいう歌に気付き、調べおみたら、玄銖の歌を芋぀けたした。「貞す」の解釈も様々です。

コメントを残す

メヌルアドレスが公開されるこずはありたせん。 ※ が付いおいる欄は必須項目です