🖋 地域の小さな図書館 その存在理由 ~ 図書館を見直す時


◆ 門前図書館と柳田教養文化館が黙示する……「ふるさとの図書館」というポジション

🖋 図書館という不思議な世界 

能登半島の先端に近いあたり、「奥能登」と呼ばれる地域に〝時折おじゃまする図書館〟がある。これから書こうとしている輪島市立門前図書館と能登町立柳田教養文化館は自分にとってそんな図書館であり、文字どおりただ時折おじゃまし、それなりに満足して出てくる……といった図書館だ。

最近は新しい感覚の図書館が各地で誕生し、いろいろと話題を振りまいている。
しかし、個人的見解としてこのふたつの図書館(その他にあるだろう)はそうした類に入らない。入れない。
そうした類へのアンチテーゼ的匂いを感じ、それによって勝手に救われたような気分になっていたりもする。
もちろん新しい図書館にも人並み以上の関心がある。利用もしている。規模をベースにして、一般的な図書館の将来を考えると物理的な面での充実はすごいと思う。

そしてさらに最近では、独自の価値観や山村に近いエリアで書店をやり始めた人たちなど、本を真ん中に置いて展開するさまざまな活動の話題が飛び交ってもいる。


かなり前から、図書館という言葉の響きに独特な何かを感じてきた。
それは図書館のこれまでの位置づけとは違うものだが、図書館であるからこそ生まれるものでもある……と思っている。

このふたつの図書館では本を棚から取り出し読むことはあっても、借りたりはしない。家からクルマで2時間ほどかけて行くところにあるので、本を借りてもいつ返せるか分からないというのが根本的な理由だ。
そういうのを一般的に〝図書館を利用している〟と言っていいのか分からないが、自分の中ではこのふたつの図書館には特別な存在理由があるようだ。
漠然としてはいるが、そんな気がしてならない。

存在していること自体に風土(…のようなもの)を感じたり、存在自体がその土地の魅力のひとつになっていると思えたり、逆にどんな図書館があるかで、その土地の空気感が分かるような気がしたり。

このふたつの図書館は、黙ったままそんなことを語りかける。

🖋 地域の小さな図書館 その存在理由 ~ 図書館を見直す時

その1 門前図書館のこと

✎ 古刹と図書館

輪島市立門前図書館は合併によって門前町立図書館から正式名称を変えた。〝町立〟という響きが消えて戸惑いもあったが、今はそんな話ではない。

一般的に合併による名称変更はやむなくして起こっても、図書館は旧町村にそのまま残り、名前も継承されているものが多い。ひとつの地域にひとつの図書館、そういう大切な認識も今のところ変わっていないようだ。
複数の自治体が合併でひとつになったとしても、図書館はひとつにしない。その考え方はずっと残していってほしい。

門前図書館はどこにでもある、ごく普通の〝小さな図書館〟だ。
そんな図書館だが、その界隈には図書館の存在に大きな影響を与える空気がある。

それは奥能登の古刹・總持寺祖院の横にあるという環境がもたらすものだ。
1321年(元亨元)創建という長い歴史を刻む禅寺と、その界隈のまちが育んできた特有の空気感の中に、2004年(平成16)移転新築されたまだまだ若い図書館が控えめに佇む。その関わり方がシンプルに嬉しく感じさせる。

總持寺は、1898年(明治31)に起きた大火災がきっかけとなって横浜市鶴見区に本山を移した。しかし、この奥能登の町がれっきとした開創の地であることに変わりはない。本山を失った地元の人たちが、すぐに「祖院」として復興させた思いも生き続けている。

總持寺を、地元の人たちは親しみを込めて「本山さん」と呼んでいたという。今も〝大本山壱里〟と彫られた小さな道標が、町から外れた何でもない道端の畑に残っていたりするが、總持寺と地域、そして人々とを繋げるオブジェのような存在だ。そして、そうしたさまざまなエピソードが、門前図書館の存在そのものにも何かを宿しているように思えたりする。

かつて、この道標を見つけた時には心が躍った。地元歴史家の先生からアバウトな位置をお聞きしその付近を歩いていたが、半分ほどはあきらめていたと思う。この場所はそれ以来何度も通り過ぎてきたが、ほとんど毎回スピードを緩め存在を確認している。多くに知ってもらいたいという思いと、そっとしておきたいという思いが今もぶつかり合ったままになっている。



✎ 図書館前の小川に沿って歩く

門前図書館の前には小さな川が流れ、それに沿って横に延びる細い道は祖院の山門前に通じている。

全盛時の總持寺の伽藍は、今とは比べものにならないほど大きかった。
今山門の前に建つ芳春院(名のとおり前田利家の妻・まつが建立)という寺は、かつて現在の図書館と祖院との間に建っていた。図書館を出て今は駐車場などになっている空間に立つと、その大きさを十分実感できる。

山門前を過ぎて、さらに流れを遡るように細い道を歩いて行けば、途中に「峨山(がさん)道」と記された道標が立つ。小川に架かる小さな橋を渡ると、祖院の裏山へとさらに細い道が延びている。

峨山とは、總持寺を開いた瑩山(けいざん)禅師の意志を継ぎ、その後全国に末寺を広げていく總持寺発展の基盤を作った僧の名。そして、この「峨山道」は、峨山禅師が總持寺と永光寺(ようこうじ)という寺の間を毎日往復していたという道だ。

永光寺とは石川県羽咋市にあり、總持寺の9年前に瑩山が開いていた。
そのふたつの寺の間の距離はなんと十三里、約52キロもある。その道を毎日往復していたとは信じがたい…が、信じよう。
ちなみに、峨山の生誕地である石川県津幡町瓜生(うりゅう)という山里も二度ほど訪れているが、峨山が健脚になった理由を十分に納得させてくれる奥深さだった。

今の峨山道は、巡礼やトレイルランのコースとなって広く親しまれるようになっている。700年が過ぎた今のようすを見て、峨山もきっと喜んでいるにちがいないと勝手に思う。
この先まだ続く小さな流れも、細い道も、のどかな風景も、すべてが祖院界隈の〝お裾分け〟といったところだろう。



✎ 図書館前の商店街を歩く

戻って、図書館前から小さな橋を渡り、短く下るとすぐに祖院前の商店街通りに出る。記憶にはないが、門前図書館の前身はかつてこの商店街通りにあったという。

ここは緩やかに下るメインの通りを「たてまち」。途中で右に入ったあたりを「よこまち」と呼ぶ。古い時代からの歴史のある呼称だ。

初めてこの商店街を歩いた時には喫茶店があった。

今から思えば昭和の匂いそのものといった店で、それなりににぎわっていた。
その十数年後だろうか? 東京浅草の古い喫茶店に入った時に、その店のことをふと思い出した。
雰囲気が似ていると感じたからだろう。新聞を広げ、辛子のきいたハムサンドとコーヒーをいただきながら、浅草寺と總持寺のこともついでに思ったりした。

たてまちをゆるく下り、よこまちの狭い道へと折れる。
しばらく歩き、「よこまちばし」という小さな橋を渡るが、その下を流れるのは祖院山門前から図書館前を経てくる川だ。
こぢんまりとした櫛比(くしひ)神社がその先にある。

2007年3月25日に起きた能登半島地震の時、石段下の鳥居が無残な形で倒れていた。周辺の建物もほとんどが大きな損傷を受けており、息が詰まるような中歩いたが、神社の鳥居が倒れているという状況を目にするのはショッキングな体験だった。

「櫛比」とはこのあたりの古い呼称で、神社は總持寺より古い時代からあったという。かつて祖院前の小学校に櫛比の名が残っていたが、今はもう改名されている。
まだ新しさを感じさせる鳥居をくぐり、急な石段を登れば社のある高台に出る。眺望というほどではないが、何でもない界隈の日常が見渡せ、ほっとできる場所だ。



✎ 總持寺と人々との物語を知る

總持寺関連のことは訳あってそれなりのことを学習した。
その訳とは、図書館のすぐ近くに建ち、總持寺や總持寺門前のまちの文化などを紹介する「櫛比の庄 禅の里交流館」という展示館の仕事をやらせていただいたことだ。

大伽藍のジオラマ模型から始まる展示ストーリーに触れてもらうと、總持寺全盛の頃が想像できるだろう。そして、この奥能登の地にもたらしてきた大きな文化の流れも、同時に感じ取ってもらえると思う。

全体のシナリオ、資料収集や取材をもとにした年表や解説原稿、そして展示演出など、それなりに汗を流したが、痛感したのが本山が移転していなければという思いだった。
ストーリーを具体化していくうちに、もし本山のままだったら、この界隈には全く違う空気が流れていただろうと思うようになった。
交流館も博物館規模のとんでもないものになっていたにちがいない。そして、強く確信したのが、自分なんぞが関わることもなかっただろうなあということだ。

その仕事の中で自分なりに大切にしたのは、地域の人たちが関わる数々の歳時記的エピソードだ。總持寺と人々とのつながりの深さは、四季を通じて日常の中に根付いていた。
当時のノートには取材したさまざまな話を走り書きしていたのだが、そのノートは今所在が分からないという情けない状況にある。

作業は地元の人たちを含めたチームの中でプレゼンと協議を定期的に繰り返し、数々の難題にぶつかりながらも根気よくやらせていただいた。
いつも以上にやらなくてはという気持ちになったのは、能登半島地震直後の復興と重なったからだ。

地震により、作業は始まったばかりのところで半年近くの中断を余儀なくされた。そして、再開は祖院や町の復興と合わせた形で進んだ。
その間の町の皆さんの心労は測り知れないほど大きかっただろう。
さらに祖院の中でも痛々しい爪痕を至るところで目にし、僧堂という重要な建物が解体される現場にも偶然立ち会ったりした。

爪痕は町の中でも同じだったが、心を癒してくれたのはスタッフの皆さん(特に女性軍)の明るさだった。
打ち合わせが終わった夕暮れどき、そこから始まるコーヒータイム。
なんでもない世間話にもあたたかい時間が共有されていた。

ところで、その頃図書館からの資料は使っていたが、図書館自体には行っていなかった。その存在もアタマになかった。図書館自体がどんな状況にあったのか、まったく知らない……

その後にも、震災に遭った旧門前町黒島にある「角海(かどみ)家」という北前船船主の館を復元する仕事に携わったが、町の皆さんのたくましさとおおらかさ、そして奥能登の自然のやさしさにいつも励まされていたような気がする。



✎ 冬の門前図書館にて

2月、久しぶりに雪の奥能登へと出かけた折、当然のようにして門前図書館にも立ち寄った。

總持寺の名僧らが眠る亀山の深い木立を背景にした構えを見上げると、まずこの風景からこの図書館が好きになったことを思い出す。

以前、よそ者がその地域の図書館に入るということに躊躇していた時期があったが、この門前図書館でも同じことを感じていた。その頃の自分には、図書館はただ本を借りに来るだけのところだったのだ。

小さな図書館の昼間はどこでも人は少ない。
その日の門前図書館もそうだった。小さな受付ブースには若いスタッフが二人。こうした若いスタッフの人たちが頑張っているのを見ると嬉しくなる。

すぐに2階フロアへと上がる。整然とした図書館らしい空気感に気持ちがスカッとする。説明はむずかしいがこの空気感がいい。この空気感から図書館は始まる………

窓から、祖院の法堂(大祖堂)らしき大きな瓦屋根が辛うじて見えた。
地元関係のコーナーでは当然のように祖院に関する書籍が多い。
總持寺と門前図書館との関係をシンプルに示している。
町史などを目にすると、さまざまな仕事でお世話になったことも甦った。

そう言えばと、明治時代の私設図書館の話に遭遇したことも思い出す。
同じ町内の剱地(つるぎじ)という地区にあった『饒石(にぎし)文庫』の話だ。ややこしい漢字は今でもすぐには書けない。
その時代、奥能登の地であるからこそ知識欲や好奇心などは大きく膨らんでいったのだろう。そう思うと、同志の若者たちが集まる光景が思い浮かび、なぜか誇らしく懐かしい気持ちになったことを思い出す。
剱地は、二十代の若さでこの世を去った大学の後輩の出身地だった。
日本文学を愛した彼から、生前借りていた宮沢賢治の詩集は今もボクの本棚にある。棺に入れようとした時、奥さんから持っていてあげてくださいと言われ、そのまま預かった。
彼の存在が、『饒石(にぎし)文庫』の存在とどこかで繋がっていたのかもしれない……

話は南へと飛ぶが、私設図書館と言えば、石川県旧美川町(現白山市)の手取川河口付近にある『呉竹(くれたけ)文庫』に出入りしていたことがある。
手取川のほとりに残る『呉竹文庫』は、行政によって維持され、厳しいながらもなんとかしなければならないとかなり前から言われてきた。
美しい本の壁に囲まれた洋間や、毅然とした書庫の空気感はたまらない。
ただ、ある先生をお連れした時にも、先生がお目当ての作家の本を発見したが、その貴重な本を棚から取り出すことすらできないという状況だった。
デジタルデータを作ろうという安直な提案をした覚えもあるが、かなりのおカネと労力と、ついでに忍耐力も必要ということで提案は埋没……
今はどうなっているのだろう。



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静かに門前図書館の本棚の間を歩く。図書館ならではの醍醐味。
横目で背表紙のタイトルを見ながら歩き、時折足を止める。

読んだことのある本のタイトルをいくつ見つけられるか? 
しかし、案外?少ない。
逆に面白そうな本のタイトルを見つけると、立ち止まり手をかけてみる。

近場の図書館ではかつて何気に手に取って拾い読みをし、そのまま書店へと走るということもあった。
試し読みというのも欠かせない。文体に馴染めるかを知ることも大切だ。ブラウジングという言葉をよく目にするようになったが、こうしたことが当たり前にできる場として図書館は有効に活用すべきだ。
最初は馴染めなくても、借りてきて読み進んでいくうちにこれまでの感覚が変わっていくこともある。図書館はそういう自分の感性の変化(進化、時には鈍化、さらには退化)も教えてくれたりする。

ひととおり本棚の間を歩き終えると、窓際のテーブル席へと向かう。
これこそが、究極の門前図書館利用の目的……なのかもしれない。
大切な時間のスタートだ。

午前の遅い時間。
窓からはややどんよりとした空と、その下に広がる雪景色のまち。
前回訪れたのが夏だったことを不意に思い出し、その時に感じた静けさと今感じている静けさとのちがいに納得したりする。


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そう言えば、冬の図書館の思い出は半世紀近く前の金沢市立図書館にある。
現在金沢には市立の図書館が三館。最も新しい「金沢海みらい図書館」は、〝世界で最も美しい公共図書館25選〟に選ばれたほどの豪華さで、見た目も誇らし気だ。

そんな派手な図書館からは想像もつかない古い洋館が、かつての金沢市立図書館だった。2階の閲覧室兼自習室には、古くなったスイングドアから隙間風が容赦なく入ってきていた。本当はスイングドアではなく、古くて締りが悪いだけの扉だったかもしれない。

金沢城大手門の前。雨が降ると水たまりのできる前庭があった。二階の窓からは兼六園に通じる白鳥路という鬱蒼とした木立の中の道を見下ろせ、その白鳥路を抜けたところに帰りに利用するバス停があった。

ついでに書くと、白鳥路前には今風に言うとホットドッグの小さなデリバリーカーが時折出ていて、何回か食べに行ったことがある。
白いシンプルなクルマのバックドアが開けられ、無口なお父さんが中でホットドッグを焼いていた。目線がほとんど同じような高さだったから、クルマの大きさが想像できる。
客の姿はあまり見なかったが、唇をやけどしそうになりながら頬張る焼きたては、当時の十代後半の若者にとってサイコーの味だったのだ。

……門前図書館にいながら、金沢の昔の図書館のことを思い出している。
アタマの中でちょっと笑いながら、図書館ならではだなとも思う。

ぜいたくなほどの静寂の中でいろいろと妄想し、ノートにペンを走らせる。

ついさっきまで自分以外の誰かの存在を感じていたが、いつのまにかその気配も消えていた…… 
静かに階段を下りて、会釈をし外に出る。
門を出て祖院の方向に目をやり、また門前図書館の佇まいを見た。
空が明るくなっている。



🖋 地域の小さな図書館 その存在理由 ~ 図書館を見直す時
その2 柳田教養文化館のこと


✎ あこがれの図書館

能登町立柳田教養文化館で独り静かに机に向かう………
それは小さなあこがれだった。嘘ではない。
いいオッサンが何を言っているのかと思われそうだが、それほどまでにそこには魅かれるものがあった。
ただ、それを実行するのはなかなかむずかしいことでもあった。
理由は、子供たちと深く結びついた場であったからだ。物理的には、自分が座りたいところの机やイスがほぼ子供向けであったりもした………

ここは門前図書館とはまた違う魅力をもつ。周辺にあるのは素朴でのんびりとした空気のように見えるが、どこか厳しく、そして高貴な空気感が漂う。不思議なところだ。

能登町は2005年、能都町、内浦町そしてこの柳田村が合併してできた町だ。
その年に、柳田教養文化館もオープンしている。
現在の門前図書館の建物よりも1年先にできているが、「旧柳田村立」と呼べないところが個人的には惜しい。

遊びごころを感じさせる木とガラスの外観がいい。
館内も本の匂いと木の匂いがほどよくブレンドされ、ガラス張りであることがひたすら自分の好感度を上げている。
そしてさらに言えば、スタッフの人たちもあたたかい。

この館は図書館と子供たちとの繋がりをより深く示すかのように、柳田小学校の横に建つ。だから、庭の大木の陰が心地よい季節には、館内外ともに放課後の子供たちで一段とにぎわうことになる。きわめて自然な流れだ。
さらにスクールバスも前の広場から出ているので、子供たちはこの館で宿題をすませたりもする。言わば学童保育的な場でもある。

正式には図書館オンリーという設定ではなく、さまざまな体験施設としてできたと聞いた。館内の面白い形状を見ると、なんとなくそのことが窺えるが、何と言っても「教養文化館」というネーミングがストレートで好きだ。

旧柳田村は、能登半島に唯一残っていた海のない山間の、しかも唯一の村だった。
他と同じように人口減少が進み、2001年から翌年にかけて小学校8校が統合されている。さらにその頃200名を超えていた生徒数も、今ではその半分以下になってしまった。

スクールバスは旧柳田村全域を走って子供たちを送迎する。その光景を思い浮かべると、微笑ましさにわずかながら切なさが混ざったりするが、一ヶ所に集まる子供たちは元気で礼儀正しい。道ですれ違っても大きな声で挨拶してくれる。



✎ 風土と図書館

ずっと以前から、奥能登の山里(能登半島内陸部)には独特な空気感があると感じてきた。
柳田もその代表的なところだが、その不思議な空気感は能登半島の多くが海でイメージされるからだと思っている。

初めて柳田村に来たのはかなり昔。炭焼小屋を撮影するためだった。当然フィルムカメラが当たり前の頃の話だ。
奥能登の豪雪地帯である柳田にはまだかなりの雪が残る季節。
写真は金沢市の児童施設に展示するもので、昭和20年代の炭焼小屋をイメージさせるものが求められていた。
しかし、金沢近辺にはそのような炭焼小屋は残っておらず、時間の猶予がなかったこともあって、急遽柳田まで撮影に行くことになったのだ。

地元の人に小屋近くまで案内してもらい、雪の中を借りた長靴で歩いた。
そして、煙が上がっていた藁葺きの小屋と、その前で作業する炭焼職人の姿を、長靴に入った雪を気にしながら何枚も撮らせていただいた。冬のことで帰りは夜道だった。

…… 旧柳田村の印象はそのあたりから始まる。

ところで、能登半島先端の珠洲から金沢へと南下する時は、柳田を経由する山道ルートをよく選択する。
途中でメインルートと合流するが、途中風変りな地名を見ながら、海の気配を感じずに遠回りをして能登半島を下った。

最近は時間短縮のための便利な道が増えてきたが、そんな道にはあまり関心がない。

他のエリアと同じように、教養文化館周辺もまたよく歩いた。

教養文化館の横には町野川が流れる。対岸は柳田の中心部。
能登では海運と繋がる海沿いの道が幹線的な役割を果たしてきた。だから柳田のような山間にはサブ的なルートしか通じていなかったが、農業や林業その他の産物が動く場所として要衝であったと言われる。半島の背骨を行けば、左右どちらへも下ることができて都合がよかったという話も聞いたことがある。

教養文化館のある辺りではかつて馬の市も開かれていたと聞いた。
繁栄時の名残りと言われる建物も見せてもらったことがある。
すでに損傷は烈しかったが、大金を得た馬主たちの賑やかな宴のようすを想像させた。

メイン通りを離れ、町野川沿いの道も何度か歩いた。

流れについたり離れたりしながらブラブラ歩いて行くと、小間生(おもう)という地区があり、高台にかつての小学校の木造校舎(下写真左)が見える。

そう言えば、取り壊しの話をどこかで聞いたが、今はどうなっているのだろう?

廃校になった木造校舎と言えば、少し離れたところにあった旧中斉小学校(上写真右)も美しかった。近くを通るとよくクルマを停め、付近を歩き、さまざまな角度から眺め、カメラに収めた。
数年前に取り壊され、今は校舎のあった高台が主を失ったように寂しく目に映る。

珠洲からの帰り道に初めて柳田に入る山道を通った時、小間生にある熊野神社というところで長い時間クルマを下りた。
狭い山道を経て民家のある場所まで下り、ゆったりした気持ちで目の前の風景を見ていた。
平坦な境内には本殿がすっきりと建ち、遮るものもなく、緩やかな傾斜地に目をやる。もう西日もかなり傾いていたせいだろう、感傷に耽るような心持にもなっていたかもしれない。


その時の情景も柳田の印象づくりに何らかの影響を与えたような気がする。
そこからまたクルマを走らせ教養文化館のある柳田中心部へと向かうが、それほど遠くはない。



教養文化館の前の道路を渡ると、町野川から分かれた上町川沿いに笹川という地区がある。何度も歩いたところだ。
上町川に架かる小さな橋からの素朴な風景は、肩のチカラを抜いてくれ、よそ者が持たざるを得ない緊張感を和らげる。

その橋を渡りしばらく行くと小さな旅館があり、その先で道は右折し登りとなる。

そして、登りのままさらに大きく左に曲がるところには、高台に向かって石段が真っすぐに延びている。真新しい踏み跡などないその石段を登ってみると、荒れた草地の中に奥へといくつかの墓石が並んでおり、伸び放題の草に進行が阻まれる。上にある神社に繋がっているのだろうと想像するだけだ。
ここはいったい何なのか? よそ者には、こういう不可思議な場所の存在がおもしろい。

振り返ると柳田小学校が見下ろせた。教養文化館はそのすぐ下にあるはずで、なんとなく確認できたような気になる。道路に戻りさらに登ると、「日枝神社」と記された鳥居が急な石段の上に立つ。この石段もあまり人が歩いた気配を感じさせない。正式には笹川日枝神社というらしい。

二段になった急な石段を登り、最上部に出ると小さな社があった。

左手の方に平らな道が延びていて、行事の際にはこの道が運搬用などに使われるのだろうと想像させる。
能登に限ったことではないが、山里では集落を見下ろすようなより高い場所に造られた神社とよく出合う。当然だが急な階段が設けられ、こんなところを昔は神輿を担いで登ったのかなとよく思う。急な階段を駆け上がることで信仰心を表していたのかもしれないと考えたりもする。
社の右手には開けた台地状の広場があり、古い長屋のような建物が建っている。能登の祭りの主役キリコが解体され収納されているらしい。
膝の高さを超えるほどに雑草が伸び放題になっているが、祭りの前には草もきれいに刈られるのだろう。そして、祭りになればここに多くの人たちが集うのだろうと想像する。草をかき分け広場の先端まで行くと、木々の隙間から集落の家々が見下ろせた。



✎  神社のことを少し………神社と図書館


山里にある神社の存在には少なからず不思議なチカラを感じている。
山里で出合った数えきれないほどの神社で、いつも不思議な何かを感じ取っていた。

いつだったか、カメラを手にある山里で神社のまわりをうろついていたら(本人は探検中…)、地元の人に賽銭泥棒と間違えられるから気を付けたらいいよと言われた。それ以来行動はできるだけ慎重にと心がけるようになったが、最近は逆に堂々とやった方がいいのかなと考えを改めている。

神社はとてつもない長い歳月をそこで過ごしている。精悍な顔立ちをし、草刈りなどもそれなりに施されていて美しい。そして何と言っても、余計なことを考えさせない静寂がある。

人が減っていけばいくほど祭りも簡素化が進んだ。
しかし、逆にそうなればなるほど、神社の存在はより不思議なチカラを蘇らせていくような、そんなことも感じ始めた。
境内から鳥居を透して見る里の風景が好きだが、小さくても古くからあった神社には、そこに生きてきた人たちの生活の習慣や信条を感じさせる何かがある。
神社が昔から見てきたであろう風景と、時間が止まっているかのような澄み切った静寂とが結びついていく。
大げさだが、それが「風土」という言葉を具現化?した世界なのか……とさえ思わせる。
そして、過疎という現象が必然的に起こったのかどうか知らないが、それがどれだけ進もうとも、風土というものは永遠になくならないのだろうなと思うようになった。

そして……、よくは分からないままだが、地域の図書館が果たしていくべき役割の中に、この風土という言葉が重く位置づけられるようになる。
地域の風土は、気が遠くなるほどの日常の積み重ねだ。
地元の資料館などとの合体も理に適っているが、それを残す主体は図書館にあると思う。図書館には地域のすべて(過去・現在・未来)が詰まっており、これから先さらにそのことを意識していくべきだと思う。

柳田教養文化館の役割もまた、そんなところにあるのかもしれない。
そう思うのも自然な気がする………



✎ 春の柳田教養文化館で

4月の終わり。
柳田教養文化館の1階学習コーナー(勝手に命名)で机に向かっていた。
子供の気持ちを強要されているような、かと言って決して悪い気分でもなく、むしろ初々しい気持ちでガラス張りの外のようすを見ている自分に気が付く。あこがれだったのだから仕方がない………

リュックからパソコンを取り出したが、やはり外を見ている。
新緑がようやく始まる時季、外はあくまでも明るく爽やかだ。

小学生の頃、学校の図書館で初めて借りた本のことを何の前触れもなく考え始めた。

前触れもなくと書いたが、たまに考えていたことでもある。
その本が『源平盛衰記』というタイトルであったという記憶が、なぜかその時あざやかに蘇った。
そして、なぜその本を選んだのか?とまた新たに考え始める。
記憶にはそこまでないが、テレビの時代劇、特に大河ドラマの影響だった気がする。
ませた少年だったが、他愛ないきっかけだったろうと思う。
ただ、日本の歴史に興味を持つようになったのはその本がきっかけだったにちがいない。
まさに自分にとっての歴史への招待。
歴史好きニンゲンへのゲートがその時開かれたようだ。

✎………………
子供にとって図書館はとても大切な世界であり、本は大切なアイテムだ。
遊びはもちろん、本(未知の世界への夢~好奇心などの源)と子供は繋がっていなければならない。
本棚の間に体育座りをし、無心に図鑑や物語にのめり込む時間もなければならない。
それは図書館によく似合う光景であり、なくてはならない光景だ。

図書館は子供たちに何かを発見させる。
生きていくための糧になるものを備え、望めばこれでもかと提供してくれる。
図書館は子供たちを育てる場であり、常に子供たちの味方なのだ。

柳田教養文化館は子供たちのそばにある。地元小学校の横に建ち、地域がもつ課題と向き合っている。

ガラス越しの緑に目を向けてはいるが、想いはどこかに飛んでいく。
不思議な空気感がそうさせているのだろう。
大人が図書館にいる時にはそんなこともあっていい。
スタッフの人たちの元気な声が聞こえる。
柳田教養文化館にはそんな日常があり、それがこの館の大らかな空気感に繋がっている。

🖋 地域の小さな図書館 その存在理由 ~ 図書館を見直す時

🖋 図書館への妄想

高校時代は図書館でテスト勉強をした。
先に書いた旧金沢市立図書館で8時過ぎまでやって、それから白鳥路という森のトンネルのような道を歩き、その先にあったバス停から家路に就いた。
家に帰り、晩ご飯を食べ終えるともう9時半。風呂に入り、レコードでも聴いているとすぐ眠くなる。
学校の勉強は好きではないということが根本にあり、家で、しかも夜中までやるという習慣はあまりなかった。
おかげで図書館と親しくなれたのかもしれない。

大学時代は数回しか学校の図書館を利用していないが、社会人になってからは仕事でよく図書館に足を運んだ。
すでに完成していた金沢市立玉川図書館は、頻繁に出かけていたところで、近世史料館という併設の建物にはお世話になっている先生もいた。
金沢の仕事には、歴史や文学、伝統工芸・芸能などに関する題材が付きものだった。
先生にお願いすると、それに適した資料を出してもらえる。事前に伝えておくと、ポイントになるページには先生が付箋を挟んでいてくれたり。特に古い書物などは簡単な解読の仕方までおまけで教えてくれた。

たとえば江戸時代、金沢城下の庶民がどのように菓子というものに親しんでいたかということを知りたい…… そうお願いすると、わらべ歌の本や下級武士の日記などを出してきてくれる。
昔のわらべ歌の歌詞には、季節の行事や、日頃のちょっとした場面で食べものの名などが出てきた。
また下級武士の日記には、法事などの帰りに餅などを持って帰ると、子供たちがそれを楽しみに待っていたという記述があったりして、そこから庶民がどのような機会にどのような菓子を食べていたかなどの情報を得る。
貸し出しのできない資料なので、先生が示してくれた箇所を参考に、あとは自分でそれらしき記述のあるところを探す。
そして書き写したり撮影したり。
そのほとんどが新たに自分で書き起こすテキストのネタになっていくが、こうした仕事の話には数えきれないほどのエピソードもあって、今振り返ると図書館での仕事の楽しさが甦ってくる。


直接図書館そのものの仕事に携わったのはそれほど前ではない。
きっかけとなったのは、ある町の地元出身作家を紹介する事業に関わったことだ。資料展示室や作品集の出版、さらに同じ地元出身の画家の作品展示などをとおして、企画事業のサポートをやらせてもらった。

その仕事がおもしろかったのは、何よりも図書館スタッフがやる気に満ちていたからだ。自分たちが活躍できる企画を、自分たち自身で立ち上げることを促しアドバイスらしきことをしたつもりだが、小さな町の図書館では稀なケースだった。
図書館としてオリジナルなサイトを持っていたことも、スタッフのチカラによるものだっただろう。
しかし残念なことに、今その小さな図書館でもそうした動きにブレーキがかけられているらしい。予算削減の時代なのだ。


図書館自体の仕事に関わるようになると、同時に図書館自体の可能性をそれなりに考えるようになるのが自然だ……?
資格など当然ない素人だったが、プランナーの血流が走ったのだろう。図書館の新しいあり方みたいなことへの関心が高まっていく。気が付くと、図書館に関する本などもそれなりに読み込み、単なる関心は、図書館への好奇心(=妄想)にも変わっていった。
小さな町の図書館=おもしろそう。その館長(ディレクター)=やってみる価値あり。限られた人たちにそんな話をするようにもなった。

🖋 地域の小さな図書館 その存在理由 ~ 図書館を見直す時


🖋 図書館って何だ?

ここまできたら、ついでに書いてしまおう。

ごくごく普通に本と親しみ、館内読書や貸出サービスの充実を図り、読み聞かせ会や各種展示会を開催しながらも、地域の根幹的要素(普通に言えば歴史や民俗・文化や産業などだが、さらに緩~い視野で捉えた地域の日常から風土)としっかり繋がり、その上でおもしろくて楽しい図書館ができたらいい………と思う。
図書館づくりの始まりはそのカタチを見つけることであり、無限の可能性を図書館に植え付けることだなと思っている。

しかし、地域の小さな図書館ではなかなかうまくいかないのも現実だろう。
住民の意見はアンケートやパブリックコメントなどで吸い取るのが精一杯で、多くはそのまま平均的な方向に集約されてしまう。財政的な条件なども牙をむき、大きな自治体のようなわけにはいかない。

しかし、図書館の本を日常の友にしている人、図書館を活動の拠点にしている人・したい人など、その多くが思いを具体的に説明できないでいる。何を話していいのかが分からない。自分の思いをそのまま話していいのかにも戸惑っている。


だから可能性をいっぱい秘めた図書館づくりという理想はなかなか具現化しにくい。
運営も資料館などと似ていて、最低限のラインが標準化していく。

図書館をずっと生き続ける施設として位置付けるためには、その役割への解釈もまた自由に、そして広範にしていくのがいい。図書館を究極のコミュニティの場と位置づける柔軟性と思い切りが必要になってくる。
窮屈なアタマで図書館は考えられるべきではない。
図書館の精神(コンセプト)には「自由」が必要だ。

図書館を活用していくこと=自分たちが活性化していくことでもある。
自分たちがクリエイティブに、そしてアクティブになり、その空気が地域の可能性をカタチにし、地域の精神をカタチにしていく……。そんなことが図書館づくり(考えること)が永続的に目指すことではないだろうか?

……… いつかノートに走り書きしたメモには以下のようなことが記されてある。


図書館は、地域の空気感、ブランドetc.そのものであるべき……
→ 建っている場所はその地域の物語の舞台。地理的・景観的etc.~
→ 地域文化とそれを知るための資料が充実しているべき…自分たちを知る場
→ 子供たちの日常と繋がっているべき…
コミュニティの中心にいるような図書館であるべき……
→ 集うための自然さがある…芝の広場と木、眺望・ガラス張り、複合用途…
→ スタッフが活発に意見を出し合い企画運営する~※個性的なスタッフ
→ ボランティアの自主性による参画を尊重すべき。
→ 地元研究家、各種愛好家たちを支える………などとある。

さらに、図書館の既成概念を超える(ここは字がデカい)
これからの図書館は、何か新しい言葉が必要になるくらいに多様性に富む……

(今追記するとしたら、図書館こそが SDG’sの対象?)


自身の無責任な発言でありながらも、なかなかいいことを言っているなとそれなりに納得してしまった。

以上のメモだが、最後は図書館という呼び名も変えた方がいいというようなことを言っている。


🖋🖋……………………………………………

どこの図書館が好きか?と問われたら、小声で門前図書館と柳田教養文化館の名を上げる(…と言っても、ほとんど聞かれたことはないので答えたこともないが)。
ただその名を上げたとしても、理由は言葉にできず、個人的な感想ですなどと濁すにちがいない。
図書館は不思議なところですから…と、さらに逃げ道も作るだろう。
ひょっとすると、先にも書いた地域の空気感、文化やそうした類のものとどこか溶け込んでいる図書館だということだけは口にするかもしれない。 
それだけでは満足できないが………

能登半島のある石川県では新しい県立図書館がオープンする。 
金沢の歴史文化ゾーンの奥にできるが、郊外の町に住む自分にはちょっと行きづらい。それだけの理由ではないが、自分の中では行ってみたいという気持ちもまだ生まれていない。行くとしてもそのうち一度ぐらいはの見物気分でだろう。
奥能登のように金沢から離れた地域の人たちには、さらに行きづらいにちがいない。県庁や県立の中央病院が金沢市の郊外に並んであり、アクセスなどでは図書館もそうしたロケーションが相応しかったと思うが、県立の威厳や風格ともなるとそんなことは問題外になるのだろうか。

ところで、小さな図書館も永遠になくならないと思っているが、それはそこに人がいるからだ。人がいてその土地の歴史や文化などを振り返ったり、英知や娯楽や安らぎを求めたりするからこそ図書館は残っていく。
だからこれからの図書館に求められるのは、その地域に残る人たちやさらに地域を離れた人たち、さらに言えばUターンやその地域に移住してくる人たちに対しても、さまざまな情報を提供することだ。子供たちにもしっかりとそのことを徹底していく。そして、とにかく図書館に行ってみよう…という可能性を感じてもらうこと。

「ふるさとの図書館」 そんな図書館が永遠に残っていくのだと思う。

奥能登に限らず、小さな図書館はどれも寡黙だ。
だが地域の空気感とともに、静かにその存在を示している。
いつまでも可能なかぎり立ち寄らせていただく。

そしていつか、この話のつづきが書けるような新たな図書館とも出合いたい……………


“🖋 地域の小さな図書館 その存在理由 ~ 図書館を見直す時” へぎ1件の返信

  1. 楽しく読ませていただきました。
    最近、町の本屋さんが少なくなってきているということはよく耳にします。
    本を読まない人が多くなったと思いたくはないのですが、残念な結果です。
    私の家の前にも図書館があります。ただ残念なことに、近所の方でも入ったことが無いという話を聞きます。
    図書館をうまく利用して、本に親しむ、文字に親しむことが楽しくなってくれる人が増えたらいいなと思っています。
    3年前、神保町の岩波ホールで、ドキュメンタリー映画「ニューヨーク公共図書館」を観ました。単なる、本を読む、本を貸すだけの図書館ではないことに衝撃を受けました。その岩波ホールも今月で閉館です。
    私は、日本古典文学が好きで、中でも、和歌文学に興味を持っています。あしたは「たなばた」です。「たなばたに貸す」という歌に気付き、調べてみたら、約100首の歌を見つけました。「貸す」の解釈も様々です。

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