新聞の広告に『星野道夫』という四つの文字列を見つけた瞬間、これは買いに行こうと決めていた。
懐かしさとか、そういった思いも確かにあったが、なんだか出合ってしまった以上は必ず読まなければならないという気持ちの焦りみたいなものも感じていたのだ。
今更、星野道夫のことを語るつもりはないが、少なくともこの人はボクに大きな影響を与えた一人だ。
写真家であったが、ボクは文章家としての星野道夫を慕っていた。
著書のほとんどを読んでいたが、これまで自分が出合ってきた文章の中で、この人の文章が最も自分を動かしたかも知れないと思っている。
こんなにも飾り気のない文章が書けるニンゲンの、その背景みたいなものに嫉妬していたとも言える。
その背景とは言うまでもなくアラスカという大自然だ。
そして、そこへ行き着くまでの星野道夫のプロセスだ。
もちろん、星野道夫の感性もまた忘れてはいけない。
親友を山で失い、東京の電車の中から北海道のヒグマの今を想像し、信州の田舎でアラスカのある村のことを知り……
思いつくままにただ書いているが、星野道夫のプロセスは並外れていた。
そして、この並外れていた感性が、ボクにとっては最も心惹かれたところでもあった。
こんなにさりげなく、自分の思いを遂げていっていいのかと思った。
真似のできないニンゲンが、ただひたすら星野道夫にすがっている。
しかし、そんな情けない思いを強いられながらも星野道夫の何かに救われてもきたのだ。
それは、自分自身の中にもあった星野道夫的感性に気が付いた時だった。
ニンゲンは何かの前に立ち、それを見つめながら別な何かを考えたり感じたりできる。
そして、その二つの何かの中に共通するものを見出すことに自然でいられるのだ。
風に揺れる草を見ながら、空に浮かぶ雲を見ながら、自分も時折星野道夫的になり、自分自身を見つめてきたように思う。
ここまで走り書きした。
もう人生の終盤に向かおうとしている今だからこそ、そんな感性にふと敏感になったりするのだろうと思う。
星野道夫が他界して長い時間が過ぎた。
しかし、星野道夫が残していった文章があるから、まだ星野道夫的感性を意識していられるのだ………