カテゴリー別アーカイブ: 好きな本と作家編

山里歩きの独り言

  

 ただ山里を歩きたいという衝動(欲求)に駆られる。

 誰もなぜ?と聞いてこないので、こちらも敢えて説明することはないのだが、普通そんな衝動に駆られることはないであろうことは十分承知している。

 衝動とまではいかなくても、いつ頃からそういった方面に興味を持つようになったのだろうかと考えると、10年近く前に遡ることになる。
 根本的なきっかけは、それまで続けてきた本格的な山行や旅などに出かけられなくなったからだ。仕事が徐々に私的な時間に入り込み、大事な楽しみを邪魔しはじめていた。邪魔という表現は自分勝手なものだが、心情的にはそれに近かった。

 それでも半日、いや二三時間の隙間を見つけると、とにかく自然の中の道を求めて出かけた。幸いにも家からクルマで20分ほどのところに森林公園があり、そこは微かながらも欲求のはけ口に なってくれた。

 しかし、山との付き合いはそんな簡単に諦められるほど希薄なものではなかった。ハイキングみたいなお出かけに5年ほど甘んじてきたが、やっぱり山へ行こう、いや行かねばなるまいという気持ちは抑えきれなかった。
 そして、思い切って出かけた勝手知ったる北ア薬師岳方面への一泊山行。5年ぶり…、だがそこで事件は起こった。

 下りで、カラダ全体が硬直したようになり足が前に出なくなった。登りも調子が良かったわけではないが、すっかり親父を抜いて山女になりきっている長女に、なんとか引っ張ってもらった。そして、結局その長女に重いリュックを二つも持たせ、情けない姿かたちで下山したのだ。

 そのことでどうやら本格的な山行は無理なのかもしれないと思うようになった。
 正直、現在もまだあきらめてはいないが、現実的には登る山から、少しだけ登って懐かしく眺める山に志向が変わろうとしている。それは確かである。

(しかし、しつこいが、来年は「MILLET」のリュックを新調するつもりだし、テレマークのブーツなども……と考えている)

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 話は長くなったが、そういうことで今、山里歩きが主になり、有り余ったエネルギーが衝動を起こしているのである。

 しかし、山里はボクにとってネガティブな存在ではない。
 山里そのものに強い興味を覚えたのは、はるか昔だ。すでに20代の初めには自分の中の好きな風景として、高原や山里は高い存在感をもっていた。
 まず強く意識するようになったのは、山里自体にある背景的な歴史だった。歴史的な背景ではなく、背景的な歴史である。
ひたすら歴史の舞台といったことがモノを言った。カタチで残っていれば、その関心度はより高まった。

 そんな意味で、今でもなになにの里というと、まず京都の大原を思い浮かべてしまう。
 40年以上も前に敦賀から山越えし出かけた初めての大原は、強い印象を残した。
 すでに別の雑文でも綴っているので控えるが、清々しい開放感と高貴な静寂に包まれていた。
 歩く時も観光の地であることに甘えながら、足音を忍ばせることは怠らなかった。

 同じ頃に出かけた奈良の柳生の里も印象深かった。春日大社の裏?から滝坂の道を登り、そのまま山越えしたが、体力勝負の充実した道のりだった。

 今は、背景的な歴史をそれほど重要視してはいない。
 いつからかそこで暮らす人たちの暮らしの匂いのようなものの方が、より深い何かを語りかけてくれるように感じ始めた。
 素朴な自然風景や家々の佇まい、森や林や田畑や川や橋や道や、それらの季節や一日の時の推移によって変わっていく表情に敏感になっていった。
 
ほとんどは名もない小さな山里だった。近くで言えば、石川県内や富山県の西部、岐阜県の飛騨地方、石川で言えば特に能登の山里など心に沁みる場所が多い。

 ただつらいのは、山里から人の姿が消えていくことである。この夏も、奥能登のわずか数軒しかない里で、一軒の大きな家が完全に閉めきられたようすを目にした。庭先から周辺一帯に雑草が生い茂り、かすかにタイヤの跡だけが残っていた。そこは春先に訪れた山里だった。こういう状況を目の当たりにするたび、平凡な言い方だが心が痛む。
 だから、特に何も要求しない。してはいけないと思うようになっていく。ときどき、現代の上塗りや合理性に小さな落胆を覚えたりしたが、それも今は静かに頷けるようになっている。
 そこにも現代の生活がある。むしろ、スクールバスから体操着を着て、イヤホンで音楽を聴きながら降りてくる女子中学生の姿を見た時などは、なぜかホッとした。

 いつもクルマの中ではジャズを流し、歩いている時はアタマの中で目に映る風景を言葉に変えようとしている。自分の中で情景とか光景という言葉に敏感になっていくのは、風景が心にまで染み入るようになったからだ。

 不思議なことだが、本格的な山行の時などはクマへの恐怖心など持ったことはなかった。が、今は森の中にいるとその恐怖心を感じる。情報が多くなってきたからだろうか。山は多くが単独行だった。体力にも自信があったから、独りがちょうどよかった。山里歩きも独りがいい。わざわざ一緒に行こうなんて言うやつは誰もいないだろうし……

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 今ふと思い返してみると、きっかけは歴史と旅という意味での、司馬遼太郎の『街道をゆく』であり、心的な面で大きく自分を煽ったのは『旅に出る日』や『山村を歩く』などの岡田喜秋の本たちであったと思う。さらに辻まことや星野道夫や、その他時代や環境を超えて無数の人たちが残してくれた自然とヒトとの繋がりを綴った本たちが、ボクを動かしていた。

 だから…、できるだけ山里は歩くのである。特に名もない山里になればなるほど、なんでもない場所にクルマを置き、よそ者が歩いていてはおかしいと思える道を歩くのである。もちろん主たる道は幹線道路だから、たまにクルマが行き来し、すれ違ったり追い越したりして行く。ドライバーたちの不審げな表情を想像できたりするが、それには無頓着を装う。地元の人かなと思えば、小さく会釈する。

 そして、できれば集落の人に一度は声を掛ける。声を掛けられる時もある。カメラを持っていることが話のきっかけになる場合も多い。不思議がられながらも、そこで交わす言葉によって、山里の本当の姿をより感じるのである

 ところで、最近「里山に暮らしています」という人に出会うことがある。が、「里山」に暮らしているというのは変で、「山里」に暮らしているというのが正解に近い。以前にも書いたが、里山という新しい(しかも響きのいい)言葉が出現したことによって、勘違いしている人が多くなってしまった。どうでもいい話だが、つい言いたくなったので。

 最後にいつも思うことがあるので書いておく。それは山里行きの多くの場合、自分がどこにいるのか分からなくなる…ということだ。

 目的地を特定して出かけるわけではなく、せいぜいでどこどこ方面くらいだ。そして、なんとなくこの辺りで歩き始めようと思う。だから、そこから山の奥へと入っていけばいくほど、具体的な居場所が本当に分からなくなっていく。スマホのマップでも本当にアバウトになる。そして、そんな時に思うことがある。それは、オレがこんなところにいるなんて、家族が知ったら何て言うだろうか…ということだ。もしここで何らかの事故によって死んだとしても、家族は探しようもないだろう。そういう意味で、クルマは幹線道路沿いの小さなパーキングや公民館の前などに置くようにしているのだが……

 この前もたまたまパトロールしていたというミニパトカーの若いおまわりさんが、わざわざ地図を出してきて詳しく周辺の説明をしてくれた。やはり、カタチはしっかりとしたトレッキングスタイルなのだが、場所的なことから想像される実態としてはかなり怪しく映っているのかもしれない………

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

  

 

朽木街道を行く

 久しぶりに京都・大原の里をゆっくり歩き、翌日も奥嵯峨の方まで足を延ばして来よう…という旅に出た。

 と言っても、その上り下りの道中は、30年ぶりぐらいの「朽木(くつき)街道」であって、どちらかと言えば、その道中の方 に重きがあったと言ってもいいかも知れない。もちろん、そのようなことは助手席の家人にも言っておいた……

 「朽木街道」を知らない人でも、「鯖街道」と言えば知っているにちがいない。かつて、越前から京へと鯖が運ばれた道だ。

 最初に朽木街道のことを知ったのは、今から40年以上前である。この雑文集にも再々出てくる司馬遼太郎の『街道をゆく』でだ。この街道をめぐる紀行は、19711月から週刊朝日で連載が始まったが、その3・4回目が朽木街道の話だったと思う。

 当然、その時をリアルタイムに知っているわけはなく、その後に文庫本の第1号が出てから知ったのである。

 そして、当初この街道への関心は、京都大原に抜けられるという話から始まった。大原や比叡山の方に、金沢から日帰りができるというのが魅力だった。

 京都へつながるというのは、かつて織田信長が浅井・朝倉軍に敗れ、家来たちを置いて逃げ走ったという話で有名?であり、信長嫌いのボクとしては、その意味でも痛快な道であった。司馬遼太郎もこの話を詳しく書いている。

 ボクはその話よりも、深い谷の道とか、街道らしい美しい水の流れがあるということに惹かれていた。

 当時(40年前)の道は今のように整備されていなかった。観光道路ではなかった。大型車とすれ違う時などは少し怖い思いをしたし、もちろん道の駅などもあるはずがない。

 ただ、静かで、季節感にあふれた道だった。

 そんな道(朽木街道)を何度も走った。これも『街道をゆく』からの影響だが、大原から鞍馬街道へ抜け、あちこちをめぐりながら、最後は嵐山に宿をとったこともあった。鞍馬への途中には杉木立の中の細い道があり、林業の人たちにご迷惑をかけまいと、ひたすらアクセルを踏み続けていたのを覚えている。そう言えば、あの時も今のように新緑が美しい季節だった。

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 金沢から高速をつなぎ、若狭街道と名付けられている道を走ると、滋賀県に入る前、つまりここはまだ福井県なんだなと思うあたりに熊川宿がある。

 先はまだあるからと、宿場のはずれにある道の駅でわずかな休憩をとるのみにする。

 ご高齢ライダーたちが、こうしないとカッコが付かないのだよ…と言わんばかりに煙草を口にくわえている。その集団を横目にトイレへと行かねばならない。

 こういう時よく使うギャグが、タバコ吸ってもいいけど、吐いちゃダメだよというセリフだ。特に、吸っていいすか?と問われた時などには、よく受ける………

 まだ昼には時間がたっぷりある。その日は気温が30度を超えるらしいと聞いていたが、このあたりもすでに陽射しが強く新緑が眩しかった。

 熊川宿を過ぎるとすぐに滋賀県に入り、若狭街道から分岐していよいよ朽木街道へと入っていく。

 ところで、一般の地図上には朽木街道という表記はなかったような気がする。『街道をゆく』の中にあった地図には、明確に記されているが、その堂々とした表記がいい感じでよかった。

 クルマに加えてオートバイが多いのは、この道の気持ちのよさのせいだろうと思うが、京都の人たちが海に出るのに便利な道であることも想像できる。奈良はもちろん、京都の中心部も海とは縁遠いイメージがあって、高貴な歴史文化には海とつながる道が必要なのだ…と、勝手に思ったりした。

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 朽木の中心部であると思われる「市場」という町の中でクルマを止めた。

 朽木の杣人(木こり)たちが四方の山々からこの市場へと降りてくる…と、司馬遼太郎が書いていたように、ここには現在の高島市の支所や学校、商店などが集まっている。道の駅もあった。

 その古い家々が並ぶ光景は実に不思議な世界で、百貨店と名付けられたユニークな外観のお店や旧商家、郵便局なども目を引き何度となくカメラを構えさせる。家人もクルマを降り、この古い町並みを楽しんでいた。

 大原までの道はここからさらに山深くなっていく感じで、それにしては道がいいなあと思っていると、見下ろす集落の中に延びている狭い道が、かつて自分が走っていた道なんだろうと想像させた。

 「花折」という懐かしい地名が出てくるのは、その名のついたトンネルに入る時だ。琵琶湖大橋まで通じているという道と分かれるのが「途中」。この地名も見覚えがあり懐かしい。

 峠を過ぎて道は当然下りになり、しばらく行くと美しい白い花たちに迎えられる。林間のゆるやかなカーブが続く、快適な道が待っていた。

 もう京都府にいる。

 それからまたしばらく行くと、果てしなく青い空の下に、大原の里が広がっていた……… 

 ※続編『朽木街道を帰る』『朽木街道で大原へ』へと続く予定……

 

 

ジャズは読書の友なのである

 街なかの珈琲屋さんなどで、独り本を読む人がいたりすると何となく嬉しくなる。しかも、それが若者だったりすると、なお嬉しい。

 昔は当たり前のような光景だったと思うが、今はスマートホンを覗いたりするのが圧倒的多数派になっていて、恥ずかしながら自分も手持ちのものが何もない時は、それに頼ったりすることがたまにある。

 本を読むためだけに珈琲屋さんに入るというのは、学生時代であれば普通で、たとえば紀伊國屋さんで何か買った後には、裏手のジャズの店「D」などに直行した。

 そのまま中央線で吉祥寺のジャズの店「F」へということもあったが、後者の方は書店直行というより、いつでも文庫本一冊ポケットに突っ込んで行くというスタイルだった。

 金沢でも片町のうつのみやさんで本を買ったりすると、すぐ近くのジャズの店「Y」へと行くのが、正しい書店退店後の習慣だった。

 「Y」は言うまでもなく、「YORK(ヨーク)」である。マスター奥井氏と買ってきた本について語るのも、楽しいひとときであった。そう言えば、うつのみやさんもYORKも、片町から今は香林坊に移っている。

 ジャズは読書の偉大なる、いやそんな大げさではなく、かけがいのない友だった。

 今から思えば、やはりジャズという音楽のもつ多様な感性の集合体みたいな要素が、いかに日々の重要なスパイスになっていたかが分かる。

 特に学生時代の濫読状況とジャズを聴く時間というのは絶妙なマッチングだったと思う。

 ジャズの店に入って、2~3時間。コーヒーカップはとっくに下げられているが、LPレコードで言えば、片面で4~6枚分ぐらいは聴いていたことになる。

 聴き流しているといった感じでもあるが、あの空気感があるからこそ、文章読みも進んだに違いない………

 今年から、ある小さな協会の機関誌で巻頭エッセイみたいなものを書いているが、最初の号では年の初めの一冊の大切さみたいなことを短く綴った。

 その年の一冊目がその年の読書事情を左右するという、自分のことを書いた小文だ。

 その中で最近の読書について、仕事のためが多くなり、文章を読むという素朴な楽しみが薄れてきた……といったことを書いている。

 著者(というよりも作者とか書き手という方が好きだが)の表現の仕方が、本来文章そのものを面白くし、読むことの楽しみを創り出しているという思いがあるからだ。

 そうした情緒的に響いてこない文章は、正直言って読み甲斐がない。

 ジャズと一緒に追っていた文章が面白かったのは、そういう感性が瑞々しく、どんどん磨かれていたからなのだろう。

 最近、妙な読み方というか、ちょっとハマっているのが、図書館で短編集を借りてくることだ。

 読みだして、面白いなあと思う作品だけ読む。そして、飽きてくるとすぐに図書館へ行き、返却してそのまままた新しいものを借りてくる。

 すでに一ヶ月で、五冊以上は借りてきた。あまりいい傾向だとは思わないが、何となく日々の潤いをそうした読書に求めているような気もする。

 と言っても、きちんと書店買いもしており、やはりここぞというやつは自分のモノにしておく。

 そういう類のモノは、最近 YouTube で流れるジャズと一緒に読んだりするのである………

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

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 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

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 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

 旅ごころが自分の中に根付いたきっかけは何だったのか? 

 この古い本は最近になってヤマケイ文庫で復刻したものだが、その中に懐かしい答えがあったような気がした。

 岡田喜秋著『旅に出る日』。90歳を越えた著者の青春時代の出来事を綴ったエッセイが、旅と人生とをつなぐ素朴な何かの存在を教えてくれる。

 いくつかの作品に心を動かされたが、特に『常念岳の黙示』という短い文章から感じ取ったものは、かなり心の奥にまで届いているように思う。

 東京人の著者が、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだ理由が、どこか清々しく、そして、なぜか切なくもあって、読んでいる者(つまりボクだが)の心に迫るのだ。

 それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしたのかもしれないと考えさせたりする。

 そして、“自分に黙示してくれるもの”として常念岳を見つめていた著者の姿を想像し、どこか切迫感に襲われたりもするのだ。

  『常念岳の黙示』の中で、特に山に傾倒していく著者の、山は動かない…つまり、山は黙ってすべてを分かってくれている…そうした解釈と、そのことによる安堵の心境表現がとても好きだ。

 山を含め、風景にはこのような黙示のチカラがある。

 星野道夫もどこかで書いていたが、このチカラが何かの決断に作用することもある。ヒトの心情を動かし、さらにヒト自身の形成に影響を及ぼすとさえ思える。

 そして、ヒトが旅をするのは、そうしたチカラに促されるからなのだろうと思う。

 ボクは人に自慢できるような大それた旅など経験していないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。だからこそ、風景(や情景)などに素直に向き合おうとしていたのだと思う。

 風景にはすべてが止まったままで、動きがないということはありえない。上空の雲たちや、山里の家並みからのぼる炊事の煙や川の流れも形を変えていく。時間の経過などから、その色や陰影をかえていくことも普通の現象だ。

 しかし、底辺にはやはり動かないものがあり、それ自体にまず大きなチカラを感じ取るのだと思う。

 二十代のはじめ、上高地を初めて訪れ、穂高の連峰を見上げた時の感動は今でも忘れないが、その根底にあったのは圧倒される山岳風景の偉大さだったのだろう。そして、あの時から確かに自分の中の何かが変わっていった。

 ボクはあの時以降、本格的に山に向かうようになった。山に登るだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ちだした。

 すでにずっと購読していたジャズ誌に加え、『山と渓谷』も購読し始めた。

 さらに、街にいて仕事をしていても、山のことを考えるようになり、実行できなかった計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送っていた。

 今から振り返ると、仕事で様々なことをやらかしてきたが、何をやっていても山の世界に憧れてばかりいるニンゲンという認識を持たれていたとも思う。

 山はそうした意味で、奥深く、やはりあこがれの対象になり得たのだ。

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 常念岳から黙示された著者も、あくまでも山=常念岳そのものを見た。

 常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたというラストには純粋に感動を覚える。

 「黙示」の意味を考えながら、久しぶりに何度も読み返した。そして、またあらためて旅について考えようとしていた。しかし、なぜかアタマの中が整理できなくなり、ついには山のことに対する後悔ばかりを考えるようになってしまった。

 ただ、今自分が毎日の煩わしい時間の隙間に実行している、山里歩きや森林歩きなどを思うと、その素朴な楽しみが旅の延長上にあったのかもしれないと思う。

 そして、こういう心持に決して今の自分は満足していないということも事実で、またそのうち、北アルプスのどこかに自分という存在を置いてみたいと考えてもいる。

 何がそうさせるのかは分からないが、とにかくあこがれが絶えることは自分にはないような気がするのである………

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※岡田喜秋氏は、月刊誌「旅」の元編集長。ボクにとっての氏の存在は、『山村を歩く』から始まった。氏の話にはとても付いていけないスケール感もあったりするが、ボクが求めている小さな旅心みたいなものと共通する何かもあって、最近では、大体手の届くところに氏の本が置かれていたりしているのだ………

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

秋のはじめのジャズ雑話-1

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前にも書いたことがあるが、久しぶりにまたマイルスが聴きたい症候群がやって来て聴き込んだ。

一年に数回か… こうしたことが起きる。

9月の金沢ジャズストリートに、再びチック・コリアが来るというニュースを聞いたのはかなり前のことだったと思う。

今回はトリオ編成だし、ニューヨークの若手を連れてくるのだろうから行ってみようかなと思っていたが、8000円と聞いてやめにした。

そこまで払って行く気はしなかった。

ギターのリー・リトナーも来ていたが、昔、渡辺貞夫と来た時に聴いたことがあって、関心はありつつ、結局チックに行かずにリトナーだけ行くというのもなんだからとやめにした。

チックのコンサート時間には、家で昔の演奏を聴いていた。

少なくとも今よりはるかに若いし、しかもベースはミロスラフ・ヴィトウスで、ドラムスはロイ・ヘインズだから見劣り、いや聴き劣りはしない。

それどころか、圧倒的にこっちの方がいいに決まっているだろうと音量も高めにしてライブ感を出し、かなりのめり込んで聴いたように思う。

その後、続けてサークル時代のパリ・コンサートを聴いたが、「ネフェルティティ」だけ聴いてやめた。

何となく空虚になり、その後は一転して(?)なぜかレスター・ヤングになったのだ。

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ジャズストリートがあった9月の連休最終日には、朝から『巨匠たちの青の時代』(NHK-BS)の再々(だったと思う)放送があって、これもまた久しぶりに新鮮だった。

ジャズの巨匠と言えば、マイルス。

いや待て、エリントンもパーカーもコルトレーンも、ロリンズもかと心は揺れ動いたが、やはりマイルスだった。

マイルスについては、2003年に金沢でぶち上げたイベントの企画をとおして、かなりの研究家(もどき)になっていたが、その時に仕込んださまざまなデータも、今はもうテーブル板の下に眠っている。

ただ、その時の多様な出来事は、私的イベントとしての自己ベストに位置づけられる。この雑文集にもその時の話は何度か書かせてもらった。

ボクが最初にマイルスにやられたのは、『フォア&モア』の、「ソー・ホワット」と、間髪入れずの二曲目「ウォーキン」だ。

急カーブを、タイヤを軋ませながら走り抜けてゆく… マイルスのトランペットソロはそんな感じで、ジャズ少年の血を燃え上がらせた。

まだ高校生になったばかりで、ジャズを聴き始めて二年目くらいの頃だったが、最初に出会ったコルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」以来の衝撃だったと思う。

とにかくそれから後はマイルス中心に聴き込んでいったような覚えがある。

話はテレビの方に戻るが、番組の最後に流れたマイルスの最後の演奏と言われる「ハンニバル」は、一時周辺でも話題になった記憶がある。

ボクは正直どうでもよかったが、音だけ聴いていると、やはり何となく押し寄せてくるものがあって… 切なかった。

駆け出しの頃のマイルスが、憧れであったディジー・ガレスピの演奏スタイルから離れ、自身のスタイルを創り上げていく…… その物語がぼんやりと思い起こされる音だなと思えたのも事実だった。

マイルスは、少年時代に森の中(だったか)で聞いた女性の歌声が自分にとって永遠に求めていた音だったと語っていたらしいが、そんな話はなんだかマイルスらしくない(と、ボクは勝手に思っている)。

マイルスは反骨もあったし、だからこそ力強いビートも求め、アフリカ的な音世界に自分を置くなどして、空に向かい(70年代にはよく下を向いていたが)叫び(吹き)まくっていたのだとも思う。

高校時代、授業中にマイルスの音楽についてノートに書き綴っていたことがある。

今でも覚えているが、『ビッチェズ・ブリュー』の中の「スパニッシュ・キー」という曲について、リズムがリズムだけでメロディにもなり、リズムだけで強いメッセージになっている。さらに、曲全体をとおして高まったり抑えられたりしていくサウンドに、どこか遠い世界へと連れて行かれるような錯覚を覚える………と。

こんな生意気なことを本当に思っていたのであるから、ボク自身の当時の感性もそれなりのものだったのかもしれないが、かなりはっきりと覚えているから衝撃も大きかったのだろう。

ちなみに、マイルスのトランペットはタイトルどおりスペイン的であったが、ボクが想像した遠い世界とは、当然?アフリカであった……

※マイルスの雑文は、以下でも書いている。

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

語りながら自分を振り返る

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8月最後の休みの日、能登のN町U公民館で語る機会があった。

小さな会の少人数の場であったが、与えられたタイトルが男の趣味を云々というカッコよすぎるもので初めは躊躇した。

だが、地元の古い知り合い・Sさんからの要請でもあり、やらせていただくことにしたのだ。

かなり前のことだが、N町のあるプロジェクトに関わらせていただいた。その後、隣の町村と合併し町は大きくなったのだが、本質は変わっていないと思っている。

そのプロジェクトの時の町の担当者が、現在のU公民館長であるSさんだった。

静かに故郷を見つめる、素朴な姿勢が頼もしかった。

役場を退職後、今はあごひげを実にかっこよく伸ばし、渋みを増している。

U公民館は、図書館や観光情報センター、特産品の販売ショップなどが一体化された施設の一画を占める。

 

趣味の話など、ひたすらN居さんの好きなようにやってもらえたらいいんですよ………

最初に電話をもらった時、Sさんがそう言った。

そう言われても、戸惑うのは当の本人だ。

公的にはたまにやってきたが、私的一本でいいと言われたことはない。

たしかに公的にやっていても、終わる頃になると、私的な匂いに包まれていくというパターンもあった。

だが、私的でいいというのは、やはり申し訳ないというか……

最大の理由は、自分の“品質”で、そうした堅気の皆さんのお役に立てるのかどうかという疑問である。

かつて、“私的エネルギーを追求する!”などと吠えていた時代、周囲にいたニンゲンたちは、自分のことをそれなりに知ってくれていた。

だからそれなりに好きなようにやってこれたのだが………

最近、特に感じていたことがあった。

この雑文集を読んでいただいている人たちからの突然のメールなどに、やっぱり文章が自分の基本だなと思うようになっていたことだ。

できれば多くの人たちに読んでもらいたいが、それと同じように、自分でも死に近づいた床の中で、じっくりと読み返してみるのもいいなあと思うようになった。

とにかくなんだか急に、そして、おかしなくらいに「自分回帰」(大袈裟だが)みたいな思いが湧いてきていたのだけは事実だった。

そして、今回N町での話のテーマは、こうしたことに対する自分の気付きから始まったと言っていい。

このサイトの中にある「自記・中居ヒサシ論」という長文プロフィールの中から、わずかに話をピックアップし、仕事の上での「黒子」という立ち位置から離れた、自己表現の場としての「書く」という世界にのめり込んでいった経緯などを取っ掛かりにした(またややこしいことを書いている…)。

 

本題に入る前、「最近、自分という存在の、その一部を自覚させてくれる出来事がありました…」と、ややまじめに切り出す。

それは自分がかつて書いていた、稲見一良という作家に関する話に触れられた方からお便りをいただいたことだった。

素晴らしい経歴をもつその方からの言葉が、何か刺激のようなものをもたらしたように感じた。

稲見一良という作家に共鳴した自分の感性をストレートに理解してくれる人がいたということなのだが、その作家自身の、そして作品自体の魅力について、この雑文集の中以外で、あまり誰かに語ろうとしていたわけではなかった。

無理に「大人のココロ」を持とうとしていた少年が、そのまま中途半端な大人へと成長し、そして、さらにその中途半端さに磨きのかかった大人へとハマり込んでいく中で、初めて自分の中の「少年のココロ」に気が付く……

これは今の自分のことである。そして、そんな人生の機微(の一部)みたいなものを、稲見一良の作品は教えてくれていた。

そして、話は進んだ。

稲見一良だけでなく、辻まことや椎名誠、そして、星野道夫など…… 歴史や音楽などの世界と違ったカタチで、感性をぶるぶると震わせてくれた人たちのことを話していくうちに、どんどん自分自身も見えてくる。

その他のさまざまな物事に対して費やしてきた時間の話などを絡めていくと、自分自身を説明していくのは却ってむずかしくなるばかりだが、今自分の中に生きている人たちの話から、逆に自分が理解してもらえるということが掴めてくるのである。

そんな話をきっかけにして、黒子としてやってきた様々な仕事のことなどにも話が広がった。

自分では絶対に同一視したくなかったのだが、自分の中の私的エネルギーが、多分に仕事の取り組み方にも影響していたのは間違いなく、聞き手の皆さんも十分にそのことを感じ取ってくれたみたいだった。

いろんなことに興味を持ってきたが、行動という意味では何もかもが中途半端だったことは否定できない。

満足できたことは、まったくなかったように思う。

第三者に自分のことを語りながら、そのことを強く認識している自分自身がおかしくさえもあった。

そして、少年時代のことをただ思い返すのはノスタルジーだが、青年時代に考えていたことを振り返るのはまだいいのでは……と思えるようになっていると語った。

なぜなら、青年時代には少しだけだが、現実を踏まえた将来のことを考えていたからだ。

 

帰り道、美しい海の風景を見ながら、久しぶりにカラダの中がきれいになっていくのを感じていた。

もう残された時間は少ないし、エネルギーも乏しくなっていくばかりだが、昔の合言葉だった「ポレポレ」(スワヒリ語~のんびり、ゆっくり)という言葉がアタマをよぎっていく。

あの時代の自分が懐かしい………

ふと、星野道夫に。

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新聞の広告に『星野道夫』という四つの文字列を見つけた瞬間、これは買いに行こうと決めていた。

懐かしさとか、そういった思いも確かにあったが、なんだか出合ってしまった以上は必ず読まなければならないという気持ちの焦りみたいなものも感じていたのだ。

今更、星野道夫のことを語るつもりはないが、少なくともこの人はボクに大きな影響を与えた一人だ。

写真家であったが、ボクは文章家としての星野道夫を慕っていた。

著書のほとんどを読んでいたが、これまで自分が出合ってきた文章の中で、この人の文章が最も自分を動かしたかも知れないと思っている。

こんなにも飾り気のない文章が書けるニンゲンの、その背景みたいなものに嫉妬していたとも言える。

その背景とは言うまでもなくアラスカという大自然だ。

そして、そこへ行き着くまでの星野道夫のプロセスだ。

もちろん、星野道夫の感性もまた忘れてはいけない。

親友を山で失い、東京の電車の中から北海道のヒグマの今を想像し、信州の田舎でアラスカのある村のことを知り……

思いつくままにただ書いているが、星野道夫のプロセスは並外れていた。

そして、この並外れていた感性が、ボクにとっては最も心惹かれたところでもあった。

こんなにさりげなく、自分の思いを遂げていっていいのかと思った。

真似のできないニンゲンが、ただひたすら星野道夫にすがっている。

しかし、そんな情けない思いを強いられながらも星野道夫の何かに救われてもきたのだ。

それは、自分自身の中にもあった星野道夫的感性に気が付いた時だった。

ニンゲンは何かの前に立ち、それを見つめながら別な何かを考えたり感じたりできる。

そして、その二つの何かの中に共通するものを見出すことに自然でいられるのだ。

風に揺れる草を見ながら、空に浮かぶ雲を見ながら、自分も時折星野道夫的になり、自分自身を見つめてきたように思う。

ここまで走り書きした。

もう人生の終盤に向かおうとしている今だからこそ、そんな感性にふと敏感になったりするのだろうと思う。

星野道夫が他界して長い時間が過ぎた。

しかし、星野道夫が残していった文章があるから、まだ星野道夫的感性を意識していられるのだ………

 

焚火休日のときの流れ

焚き火1

久しぶりの焚火である。

と言っても、焚火そのものを楽しむものではなく、裏の空き地に放置されているものを焼却するという、れっきとした家事仕事だ。

ただ、楽しくないのかと言えば、それはそれで十分というか、かなり激しく楽しい。

今回は何年ぶりというくらい久々度は高く、最近ではご近所さんへの配慮などもあって回数も減った。

何と言っても、休日にはできなくなった。

その日も連休の間にポツンと残された“普通の日”をお休みにさせていただいてやったのだ。

焚き火場は、家を建ててからそのままになっている、いつもの後ろの空き地。

もともと「多目的空き地」と位置付けていたが、最近では「無目的空き地」と虚しく呼ぶ。

砂や雑草との熾烈な闘いもあるが、とにかく何もしないまま放置しているのがよくない。

 

今回のメイン材料(燃やす対象)は、ずっと前から置きっ放しになっていたオープンデッキの解体残だ。

その前に雑草取りから、鍬を手に花でも植えようかという分だけ土をおこす。

少し前から悩まされている腱鞘炎とテニス肘(と医者は言うが、ボクはテニスをしない)のせいで、鍬は長時間持てなかった。

この鍬は亡き母の形見で年季が入っている。

着火は9時ごろ。

いつものように木を組み、その下に乾燥した草などを置き、丸めたチラシに火を点けて差し込む。

木材に移った火が安定してくると、しばらくそのままにする。

ちょっと一息…… ポケットに入れたラジオ(スマホ)から、高橋源一郎と清水ミチコの楽しいトークが聞こえてきて、ときどき周囲を見ながら笑ったりする。

幸いにも、周囲には誰もおらず、安心して笑っていられる。

途中何度も木材を足したりするが、それ以外は特にこれといって格別なこともなく、こういう時は、“焚火読書”だったと、家の中へと読みかけ本を取りに行ったりした。

持ってきたのは、磯崎憲一郎の『電車道』。

あと残り50ページほどだったのが、いい機会に読み終えることができた。

ただ感想はというと、やや首を傾げている。

インタビューなどで著者が好きになったのだが、作品は自分のサイクルに合わない。

やや苦しかった分、読み終えてホッとした。

当然、こちらの方が悪いのだが、こういうことが最近はよくある。

作家がテレビやラジオなどによく出るからなのだろう。

高橋源一郎もそんな一人だ。

そう言えば、読みかけ本はまだ数冊あったなあと思い出した。

 

焚火の炎を見ていると、いろいろなことを考えたりするから不思議だ。

炎の動きが、視覚をとおして脳を刺激するのだろうか。

気が付くと、仕事のことやらモロモロ考えていたことが、残像みたいにアタマの中で浮遊しているのが分かる。

ただ、どれも実体がないようで、摑みどころがない。

まだ若そうなハチが一匹、すぐ近くの小さな花にとまろうとしているのが見えるが、なかなかとまれそうになく、何度も試みながらあきらめて飛び去って行った。

足元には、見慣れたアリジゴクの落とし穴(と呼んでいいのかな?)。

砂丘地の町だから、アリジゴクは大してめずらしくもないが、小さい頃、初めて砂の穴を崩し、出てきたアリジゴクを手のひらにのせた時の感触はまだ覚えている。

意外にも、ただくすぐったいだけだった。

そう言えば、手のひらに砂の山をつくると、アリジゴクはその砂の中にももぐり込んでいこうとしていた。

朝から雲ったままの我が家上空に、ヒバリが一羽飛来。

曇り空にヒバリは似合わないが、泣き方はあくまでもヒバリらしく、羽のばたつかせ方もヒバリらしい。

いつかどこかで見た、空で鳴いているヒバリをじっと見上げていた猫のことを思い出した。

 

炎がだんだん小さくなってきている。

材料ももう尽きている。

ラジオはとっくに正午のニュースを終えた。

家族は出勤日。

これからモロモロの片づけをし、家に入ってシャワーを浴び、独り冷蔵庫にある残りものなどをいただく。

それから、コーヒーを淹れ、BSで『ダーティ・ハリー』を観るのだ。

こんな時間の流れ方も、いかにも焚火的なのである………

 

「武田信玄 TAKEDA SHINGEN」のこと

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この本を貪るように読んだのは、二十代の初め(今から40年近く前)の頃だ。

たまたま山梨(旧甲斐の国)出身の友人がいて、彼が熱く語る「武田信玄 TAKEDA・SHINGEN 」という戦国大名の存在が羨ましく思えていた時期だ。

敢えて英文字を併記したのは、その名前の響きも好きだったからに過ぎないが、そのことも今から思えば重要だったような気がする。

ただ、信玄や謙信などがそういう名前(響き)になったのは、出家したからなのだ。

自分の国(旧加賀)には、前田利家という殿さんがいたが、人物的インパクトの薄さと話題の乏しさに、口に出すのも恥ずかしさを覚えるほどだった。

 

ところで、実家の物置には今も“信玄本”が多く眠っていると思う。

自分で言うのもなんだが、かなりの信玄通だったとも思う。

 

今年になって、NHK大河ドラマの『真田丸』が始まり、甲斐武田家の話もまたクローズアップされ始めている。

真田を語るのに武田との関係は欠かせないからだ。

昌幸(草刈正雄)が口にするあの「お館(やかた)様」の響きは、信玄を慕う気持ちに満ちているように聞こえてきて、なぜかグッとくる。

信玄に仕えたことによって、真田の存在は大きくなり、その後に繋がっているのだ。

主人公の信繁という名も、信玄の実弟からきている。

ちなみに武田信繁は、兄を支えたナイス武将だった。

が、あの最も激しかった永禄4年の川中島合戦で討ち死にしている。

 

ところで、この本のタイトルは『定本武田信玄』という。1977年に出版されている。

定本というのは決定版とか、さまざまな説を整理したものと解釈しているが、この本を最初に探し出した時、この“定本”という文字の凛々しさや音の響きが気に入った。

著者は、当時の山梨大学教授・磯貝正義氏。

武田家の地元、山梨大学の由緒正しい先生であることもいい印象を持った。

著者が特に気負ったりせず、淡々と資料に基づく解説を綴っていく内容もそれなりにいいと思った。

後で分かったことだが、このような定本と名が付く戦国大名の本というのはあまり見ない。

家康のを見かけたことがあるが、あれは信玄のものと比べるとまだ新しい。

信玄については実はもうひとつ定本というのがあって、『定本武田信玄』が1977年に出た後、2002年にも新たに『定本武田信玄 21世紀の戦国大名論』というのが出ている。

戦国大名ブームの走り的産物なのかもしれないが、このシリーズには上杉謙信もあり、北条氏康のもあるみたいで、とにかく信玄については定本が二冊あるということになるのだ。

これは素人目に見ても凄いことなのだろうなあと勝手に納得している。

ついでに書くと、我らが前田利家などは研究者というほどの存在すらも知らない。

かつて、大河ドラマで『利家とまつ』が無理やりのように(?)作られた時、俄か地元前田利家研究者が、講演料稼ぎなどに奔走していたという印象しかない。

ボクも仕事で絡んだが、彼らに翻弄された。

大学を出てから、山梨の友人と一緒に信玄の所縁の場所をめぐった。

それ以前、卒業直後の旅で京都奈良に出かけた時、たしか新田次郎の『武田信玄』4巻シリーズを持参していたと記憶するが、すでにかなり信玄周辺の話に興味津々だったと思う。

塩山市の雲峰寺にある御旗や風林火山の旗指物なども、現物を見て興奮したのを覚えている。

かつて「躑躅崎(つつじがさき)の館」と呼ばれた武田家の居館跡に建つ武田神社や、武田の資料庫もある恵林寺などでは訪れる人も少なく(と言うか、恵林寺などでは全く人はいなかった)、じっくりと信玄に思いを馳せることができた。

もちろん川中島にも行った。子・勝頼が再起を賭けた新府城址なども。

京へと向かう途上に病(労咳)が重くなり、帰らぬ人となる信玄だが、そのあたりの話はかなり切ない。

甲斐という山々と、さらにそれ以上に面倒なライバルたちに囲まれた地から領国を拡張し、最後は最強の軍団を率いて天下に号令を発しようとした信玄の生涯は、あと数年命が長らえていれば何を成し遂げていたかと想像を膨らませる。

それは信玄が最強の戦略家であったばかりでなく、優れた政治家でもあったと言われるからだ。

信長の地位などはなかったかもしれない。もしくはもっと先に延びていただろう。

信玄が死に、謙信が死んで、信長は幸運にも命を拾った。

時のめぐり合わせもよかったのだろう。

たしかに地理的な有利さも大きく、大胆で先駆的な行動が信長を前進させたのだろうが、本来ならば信頼を厚く受けているはずの重臣に裏切られるという、愚かな(としか言いようのない)殿さんだった。

しかも、自分への憎しみが塊となった大逆襲を、まったく予見できなかったという情けなさだった。

ついでに言えば、比叡山焼き討ちなどがさも当たり前のように語られている現代だが、日本史上で無差別大量虐殺事件を起こしている唯一の存在が信長なのでもある。

こういうことを言うと、信長は別格ですからと返す輩が必ず出てくるのだが……

しかし、それはその後に信長さまさまで、より下品であった秀吉という存在が歴史を継承し、繕っていったからに過ぎない。

 

この本をとおして信玄のことを知れば知るほど、歴史の不思議さを思った。

そして、そのうちに一時的に歴史が面白くなくなってもいった。

一国の歴史が、「運」みたいなものに左右されるということに虚しさを感じてしまった。

それにしても、あの時代の大名たちは、とにかくそれしか知らなかったかのようにひたすら戦っている。

戦に明け暮れる日々の果てに、平穏が訪れると思っていたのか。

この本を読んでいても、信玄の足跡はやはり戦いなのだ。

 

だから、戦国時代なんだよと冷たく返されそうだが、やはりどこか寂しい気もするのである……

 

 

一枚の写真が思い出させてくれたとき

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10年以上前に撮った一枚の写真。

5月はじめの妙高・笹ヶ峰だ。

ゆるく傾斜した雪原で、美しいYの字形の倒木を見つけ、スキーを外し、リュックを下ろした。

半分凍らせておいた缶ビールを雪の中に埋め、カップ麺とコーヒーのための湯を沸かす準備をする。

にぎり飯二個とソーセージ一本を取り出し、頬張り始める。

もちろん、缶ビール一本も同時に栓が開けられている。

その頃から毎年のように春は笹ヶ峰に行っていたように思う。

そして、毎年のように同じメニューだったようにも思う。

それ以前は立山や白馬、乗鞍方面で、それなりのテレマークスキーを楽しんでいたが、笹ヶ峰に行くようになって、同じテレマークでも、滑るより走り回るといったイメージが強くなった。

倒木はちょっと細い感じがした。

が、それでも二股のあたりに座るといい感じだった。

静寂の中、鍋がシューシューと音を立て始め、ガスを止める。

蓋をとって、お玉で湯をすくい用意しておいたカップ麺に注ぐ。

飯が終わる頃になると、もう一度着火し湯を温めなおす。

この頃使っていたカメラは、EOS。もちろんデジタルではない。

コーヒーの粉は、いつも部屋のテーブルに転がっていたフィルムケースに入れて持って行った。

まだインスタントだった。

コーヒーを用意すると、もうあとは片づける。

そして、カップに湯を注ぐ。

“豊かな時間”が訪れていることに、自分自身がと言うか、カラダが気が付いている。

残雪の上にドスンと座りなおし、倒木に背中を預けると、ちょうどいい具合にリュックが枕になっていたりするから不思議だ。

そして、こんなシチュエーションが待っているとは予想していなかったが、とにかく山の中で読もうと思って持ってきた一冊を手に取っていた。

星野道夫の『アラスカ 風のような物語』だ。

星野道夫の本を片っ端から読み漁っていた時期だった。

写真家ではあったが、エッセイストとしての彼の文章がより好きだった。

ニンゲンとしての、いや、ヒトとしての魅力がこれほどまでに伝わってくる文章に出会ったことはない…とさえ思っていた。

彼のさまざまなエピソードはもちろん、周囲の友人たち、家族、さらにアラスカで遭遇した風景や生き物たち、そのすべてに対する思いが、ボクにとっては写真よりも文章から伝わってくる気がしていた。

この本はすでに多くを読み終えており、意図したことであったが、フィニッシュを笹ヶ峰の残雪の上で迎えた。

それから昇りつめた太陽のぬくもりを受けて、少し眠った……

この写真はスキャンして残しておいたものだ。

ずっとパソコンのかなり奥の方で保存されていた。

忘れ去られていたと言った方が当たっているかもしれない。

だから尚更、その時の短い時間の経過が鮮明に甦ってきたのだろうか。

今も時々使うアナログとデジタルが一緒になった腕時計は、12時52分53秒を表示。

気温は29度を示しているが、これはやや高めを示すクセになっていた………

ねじめ正一氏と玉谷長武クン

ユリイカ

1997年4月発行の『ユリイカ』。

161ページから169ページにかけて綴られた、ねじめ正一氏渾身(だと思う)のエッセイに心が撃たれた。

喫茶店でしか原稿が書けない氏が、喫茶店のトイレに「大」のために入るが、固体を出そうとして意図せず大きな音を伴う気体を出してしまったという焦りが、リアルに綴られていた。

音が出た後に期せずして起きた店内での笑い。

自分(の尻)が発した音と、その笑いの相関について悩む筆者……

喫茶店

このエッセイで、さらにねじめ氏が大好きになったボクは、1999年の金沢市観光協会50周年のイベントに氏を呼び、金沢市民芸術村のドラマ工房でトークショーをやっていただいた。

紡績工場を再利用した市民芸術村ドラマ工房は、特有の構造と空気感を持ち、会場入りしたばかりの氏が、「いい場所ですねえ」と言われたのを覚えている。

氏はそこで、商店街の魅力はさつま揚げの美味さで決まるとか、長嶋茂雄さんの職業は長嶋茂雄だとか、ひたすらねじめ節を語り、そして、創作中の長い詩を東京からFAXで送らせ、『詩のボクシング』風に即興で読んでくれたりした。

ボクがステージに用意したのは、かつての小学校の教室にあった小さな机と牛乳瓶に入れた一本の花だけ。

工房の道具部屋を見回し、ボクも発作的にそれに決めた。

知り合いも大勢来てくれて、なかなかいい企画だったと思う………

 

このことを今語りたいのは、あの時ボクの机の上にこの『ユリイカ』を置いていったある後輩の命日月が2月であったからだ。

玉谷長武(たまたにおさむ)という、奥能登門前町出身のナイスガイは、ボクに色々と余計なお世話的言葉を発しながら、27歳という若さでこの世を去った………

彼の稀有な存在を綴った拙文を、必ずこの時季に読み返す。

今でも、彼がもし生きていたら、自分の人生も途中から何らかの形で変わったのではないかと思ったりする。

それくらいに、彼が好きだった………

 

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

ジャズと出合った頃に帰れる一冊

モンク2

10代の中頃から、“一気”にジャズを聴くようになった。

聴くだけじゃなく、ジャズの歴史やモダンジャズの代表的なミュージシャンたちのことを知ろうとしていた。

レコードは何枚も買えないから、FM放送とジャズ喫茶で聴き込んだ。

スイング・ジャーナルはもちろん購読し、歴史本も研究本も読んだ……

今この本をとおして、久しぶりにそんな時代に帰ったような気がしている。

分かったような顔をしてジャズを語っていた、若かりし自分がいたことを思い出している。

まったく行ったこともないニューヨークという街の片隅での話(出来事)を、遠く離れた日本の、北陸金沢の、さらにはずれの小さな町で読み耽っていた自分を見つけた。

しかも、自分が生まれる前や生まれた頃の話を……

この本の中に出て来るセロニアス・モンクという特異な(天才)ピアニストにまつわる、さまざまな書き手たちの話は興味が尽きない。

そして、何よりも編・訳の村上春樹自身が書いている最初の6ページの文章からは、かつてのジャズの世界(たとえばジャズ喫茶など)に流れていた、どこか説明のつかない懐かしさみたいなものが強烈に伝わってきて、その6ページは5回以上読み返した。

まだ半分ぐらいしか読み終えていないのは、そんな読み返しが多いからだ。

装丁の絵は、もちろん和田誠。

ただ中身は、装丁の雰囲気よりもかなり濃い。

今は、もうすぐモンクとコルトレーンの章になるのを楽しみにしているし、もちろん、モンクばかり聴いている……

 

金沢文芸館~五木寛之文庫の仕事記

正面

金沢市尾張町にある「金沢文芸館」がこの11月で10年を迎えていた。

もっと歳月が過ぎているような感じだったのだが、意外だった。

そして、10年を迎えたすぐあと、数年ぶりにお邪魔させてもらっている。

館の建物は昭和4年(1929)に建設されたもので、かつては銀行だった。

平成17年(2005)に文芸館になるが、その前の年に国の有形文化財に登録されている。

工事に入る前に中を見せてもらったが、まるで映画のセットのようで面白かった。

特に2階のフロアから、階下のかつての店内を見下ろした時、なぜか西部劇に出て来る酒場を思い出した。

3階の窓からは金沢の素朴な街並み風景も見え、建物の存在自体にストーリーのようなものを感じたことを覚えている。

 

金沢文芸館での主たる仕事は、2階にある「金沢五木寛之文庫」の展示計画だった。

3階の「泉鏡花文学賞」のコーナーも含まれていたが、はっきり言って2階に比べれば“おまけ”に近かった。

この仕事も企画競争で勝ち取ったものだが、実を言うと、この仕事を他人に渡すようでは「おしまい」だと思っていた。

金沢に五木寛之に関する展示空間をつくるという話を聞いた時から、ボクは激しいプレッシャーに襲われた。

と言うより、自から自分にプレッシャーをかけていたように思う。

それは何と言っても、自分自身がかつて大の五木ファンであったからだ。

初期(自分が20代だった頃に読んだ)の小説やエッセイは、出た本すべて読んでいたと言っていい。

特に学生時代、東京で読む金沢の話などのエッセイは何とも言えずセンチメンタルで、ボクの中の金沢に対する印象に別な一面を作っていったと思う。

犀星の金沢世界も読み込んだが、時代も違い、五木氏のそれはまさに、“現代の、少し気だるい金沢”だった。

文芸館パンフ

そして、五木氏との接点で言えば、何よりも、自分があの内灘のニンゲンであるということを上げねばならない。

ボクは初期の代表作である『内灘夫人』の舞台となった、石川県河北郡内灘で生まれ育ったニンゲンだ

早稲田の学生だった五木氏が、初めて内灘の砂丘に立ったのはボクが生まれる2年ほど前。

五木氏は何かの中で、自分と内灘の関係を強く意識していることを書かれていた。

実は金沢文芸館の7年前、その内灘町で開催された「第1回内灘砂丘フェスティバル」(現在も継続)で、初めて五木氏に関わる仕事をした。

当時、内灘町では文学館建設の計画があり、その調査研究の仕事に関わっていた。

そして、その一環として文学に関するイベント事業の企画を上げ、その第1回目のゲストに五木氏を呼ぼうとしたのである。

ただ、「五木寛之論楽会」という名でそのイベントは開催されたが、正直言って全く関われる余地はなかった。

五木氏がすべてご自身で仕込まれた内容だったからだ。

唯一、ポスターとチラシの制作だけが全体予算の一部を削っていただいて我々にもたらされたに過ぎない。

その時の自分の企画はと言うと、町の文化会館を五木寛之一色にするというものだった。

五木氏のプロフィールを多面的に紹介し、内灘と五木氏との関係を広く知ってもらう最高の機会と位置付けた。

しかし、五木氏からあっさりとその企画は不採用とされた。

横浜、福岡、金沢(順番は忘れた)以外でこのような企画はやれないということだったが、それには素直に頷くしかなかった。

イベント内の冒頭のミニ講演会で、内灘との関わりについて五木氏自身の言葉で語っていただけたらと提案したことも、全くそうはならなかったと記憶している。

もちろん、天下の大作家にお願いをすること自体が無謀だったのだと反省もした。

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そんなことがあってからの、金沢文芸館だった。

企画提案の説明(プレゼン)には自信をもって臨んだ。

いつものように作品等よりも人物周辺を紹介するというスタンスを選び、手応えを十分に感じていた。

そして、採用の知らせを受けてから、五木氏との顔合わせと打ち合わせが決まった。

夜の品川プリンスホテル。

地下喫茶室のテーブルで、ボクは五木氏の真向かいにいた。

横には、ホテルで合流した金沢市の担当者と上司である課長さんが座っていた。

しかし、名刺交換は済ませたが、五木氏がマネジャー?の方とスケジュールなどの確認を行い、なかなか本題には入れない。

人気作家とはこういうものなんだと、ボクはその時漠然と思っていた。

やや長い時間が過ぎたあと、打ち合わせが始まった。

最初は企画の説明、そして、途中からは五木氏がご自身の考えを語り始め、こちらがその話の聞き手となっていく……

その時、ボクはあるモノをじっと見つめていた。

それは目の前で五木氏がメモを記す、ちょっと大きめなコースターだった。

万年筆の太いペン先で撫でるように記された“五木文字”が、ひっくり返されたコースターの上で踊っていた。

これは絶対いただいて帰ろう……

聞き覚えのあるあの声を聞き取り、自分のノートにメモをしながら、ボクはそのコースターの居場所をずっと追っていたのだ。

しかし、結論から言うと、このコースターは手に入らなかった。

打合せが本調子になってきた頃、ウエイトレスさんがやって来て、テーブルの上を綺麗にしていったのだ。

その時、ボクは資料か何かを出そうとして、床に置いたバッグの中を覗きこんでいた。

しかも、なかなか目当てのものを見つけられないでいた。

そして、気が付いた時には、すでにテーブルはすっきり……

時間にすれば3,40分の打合せであったが、五木氏の静かでやさしい語り口に終始リラックスしていられた。

今度は金沢でと言われ、テーブルの資料などを片付け終えた時だ。

思い切って五木氏に告げた。

「先生、私、内灘生まれの内灘育ちなんです」

最後に、この言葉を伝えようとずっと考えてきた。

特にそのこととこの仕事とが強くつながるわけではなかったが、とにかくボクは少し前のめりになりながらそう言った。

「え、そりゃあ、凄い人と一緒にやることになったなあ」

五木氏は少し照れたように笑った。

玄関まわり

それから数日後、新神戸駅前にあるアンチークの店にいた。

広い店内で、シンプルな椅子たちを見つめていた。

これらは採用されなかったが、当初、五木氏から聞かされていた展示室のイメージの椅子に近かった。

それからまたしばらくしたある日、東京・丸善丸の内店にもいた。

万年筆など執筆道具のディスプレイ方法を見るのが目的であった。

愛用した筆記用具類をどのように見せるかで、五木氏のお気に入りだった丸善のやり方を参考にさせてもらった。

現在設置されている展示什器のうち、いくつかは丸善からヒントを得ている。

玄関

五木氏のかなり細部にまでおよぶ指示の下、展示室のデザインが固まる頃、2階フロアだけとして「金沢五木寛之文庫」という名が付けられるということに、何か特別なものを感じた。

平凡だが、らしくて…いいなと思った。

特に「文庫」という二文字に愛着が湧いた。

そして、内装工事が終わると展示品が送り込まれ、それらは少しずつだが空間の構成に彩りを添えていった。

特に見覚えのある本の装丁やさまざまな写真などが気持ちを高ぶらせた。

最初の構想からはかなり変わってしまったが、ああ、いい仕事と出会えたなあと、柄にもそんなことを思ったりもした。

側面

2005年11月23日、オープン当日のことを書こう。

セレモニーは1階の小さなホールで、たしか昼の12時から挙行されることになっていたと思う。

狭い空間にそれなりの人たちが揃い、開始の時間を待っていた。

今でもはっきりと覚えている。

腕時計を見ると、セレモニーまであと10分ほどしかなかった。

しかし、五木氏はまだ2階にいて、自筆原稿のレイアウトなどについてずっと思案されている。

それまでにも何度も位置を変えたりしながら時間を要してきたが、もう残り時間はなく、さすがに階下から「先生、お時間ですので」の声がかかっていた。

「よし、これでいこうか」

最後の指示を確認し、スタッフたちが原稿を並べ直し、ショーケースの扉を閉じた。

そして、関係者たちがホッとした顔つきで佇む中、五木氏は狭い階段を下りて行った。

今でも、個人的には展示室自体、少し上品過ぎるような感じがある。

それは自分にとっての五木寛之像が、若い頃のイメージに沿っているからだ。

指示を受け、アンチークの家具などを探しに行った時には、そんな五木氏のイメージが自分の抱いていたものと合っていたように感じていたが、そうしたものは使用されず、実際に出来上がった展示空間はかなりピカピカしていている。

今から振り返れば、なぜか、そのあたりのことにずっと悩まされ続けた、むずかしい仕事だったようにも思う。

特にデザイナーたちは大変だっただろう。

そして、それ以前から関わり、同時進行していた別物件との両立で苦心した仕事だった。

恥ずかしながら、ボクはその五年後に内灘を舞台にした中途半端な物語~『ゴンゲン森と海と砂とを少年たちのものがたり』を本にした。

その本を出そうと決めた背景に、品川プリンスホテルでの五木氏との時間があったと、その本のあとがきで書いた。

久しぶりに文芸館にお邪魔したが、今更名乗るまでもなく、昔の一五木ファンとしてぶらぶらしてきた。

仕事は今でもスタッフの皆が、しっかりと繋いでくれている。

それにしても、まだ10年しか過ぎていない出来事だったのだ………

 

 

文章は志賀直哉から

志賀直哉

文章を書くのが趣味のひとつと、ずっと言ってきた。

この雑文集がそれだ。

一応、仕事でも数多くの文章を書いてきたから、比較してみると、意外と仕事で書いた文章の方が多いかもしれない。

が、仕事で書いてきた文章は、一部を除き自分自身ではない。

ところで、若い頃はもっと多趣味だったが、最近はそれらのいくつかが過去の遺物みたいに思えて、時々情けなくなることがある。

いくつかは体力的なものがあるが、多くは時間を作れないとか、やる気が湧いてこないという理由で、その理由そのものが情けないのだ。

文章は、そういう意味では肉体的に疲れることもなく、たいしたものも書いていないから、精神や神経を病むといったものでもない。

ボクに文章を書く面白さを教えてくれたのは、志賀直哉だ。

当然直接教わったのではないが、何となくいつの間にか志賀直哉の文章の潔さのようなものを手本にするようになった。

偉そうに言っているが、そのようなことは多くの作家たちが書いている。

文章ばかりではなく、その顔付きも気に入っていて、特に老いてからの風貌はきわめてかっこいいと勝手に思っているのである。

先日、駅のうつのみやさんで買い、何十年ぶりかで志賀作品を読んだ。

と言っても、長編大作の『暗夜行路』を再び読む気力には自信がなく、真骨頂と言える短編集だ。

二十歳くらいの頃に読んだものばかりで、その頃の本は当然行方知れずになっており、新しく買うしかなかった。もちろん、文庫だ。

代名詞になっている『城崎にて』は、自分自身も実際に城崎を訪れる直前に読み返していたが、それ以外はなんと四十年ぶりくらいの再読である。

そして、その再読は自分でも驚くほどのスピードで進んだ。

それが志賀作品なのだとあらためて思ったが、久しぶりに読中読後の爽快感を味わった。

今でも覚えているが、昔、『或る朝』という短編の半分ほどをそんぐりそのまま書き写したことがある。

志賀直哉の文章を自分自身の手で体感せよと、何かに書かれていたことを実践したのだ。

その作品は、何でもない朝の出来事(というほどのことでもない日常事)を淡々と綴ったものだが、紙と鉛筆があればそのまま文章にするという、素朴な楽しみを教えてくれた。

詩的な表現や、形容詞の段重ねといった技法もなく、そのままをそのままに書くという、スケッチのようなものだ。

そして、その夏。ボクは金沢の中央公園で見た若い母親と幼い女の子の何でもない姿を目に焼き付け、原稿用紙20枚の短文にした。

一般教養で受けていた日本文学の先生にそれを読んでもらうと、それなりの言い方で褒めてくれた。

筋がいいから、書きつづけなさいよ………

しかし、ボクはその後、さまざまな方向への道に言い訳を見つけ、自分自身の究極を詰めるといったことから逃避してしまう。

そして、志賀直哉の顔を見るたびに目を逸らしてきた。

ただ、今回作品を再読し、久しぶりにその顔を見て思い出したことがある。

それは、志賀直哉の顔付きに当時の文学青年たちの“ひ弱さ”を感じなかったということだ。

そのことはとても重要なことだった。

このようなことを書くと怒られそうだが、体育会系のやや異色の文学セーネンであったボクにとって、志賀直哉や梶井基次郎などは同朋的存在(失礼ながら)であったのだ。

 

この齢になって、再び志賀直哉への尊敬の気持ちと親しみとに気付かされるとは思ってもみなかった。

そして、このような感動らしき何かがまだ待っているんだナと思うと、もう少し緻密に毎日を過ごしていかなくてはならないぞ…とも考えてしまうのである。

『島の時間』 赤瀬川原平の粋

 

嶋の時間

赤瀬川原平死すというニュースを、ネット上で知った。

別に個人的な知り合いであるわけではなく、単なる一読者及びファンなのであるが、ネット上で知ったことにちょっと淋しさを感じた。

この人の死はもっとアナログな媒体をとおして知るべきであったと思った。

 

一ヶ月ぶりの東京で、さっきまで神田のジャズの店にいた。

ジャズに詳しくない連中を前に、久しぶりに熱を入れて語っていた。

そして、ホテルで独りになり、赤瀬川原平のことを思い返している。

植草甚一や赤瀬川原平や別役実(まだいそうだが、今は思い浮かばない)は、ボクにとって特別な存在だ。

うまく説明は出来ないが、ボクの中の表舞台ではないところで楽しい時間を提供してくれた人たちだ。

だから、植草甚一の死からはかなりの間を置いたが、赤瀬川原平もいなくなってしまい、自分自身の老い(…そんな大袈裟な感覚ではないが)を思い知らされている。

そして、そんな感傷を蹴飛ばして赤瀬川原平のことを書こうと思ったが、ここは家に帰ってあの人の本の中から、自分がいちばん好きだった『島の時間』という一冊を取り出し再読するのが一番いいという結論に至る………

 

以下の文章は、13年前(2011)の初冬、当時有り余る作文意欲とかすかに降りそそがれたわずかな時間の中で作り上げていた、私的エネルギー追求誌『ヒトビト~雪の便りと第6号』に掲載したものだ。

 

≪ ヒトビト的BOOK REVIEW 『島の時間』赤瀬川原平 ≫

 

…………。今回はまたしてもの赤瀬川原平サンである。いかに筆者が赤瀬川サンを好いているか、あるいは気にしているか、あるいは羨ましく思っているか、その他これで十分理解していただけるだろうと思う。

しかし、最近というか近年というか、赤瀬川サンは本人の意志とは関係なく売れっ子になってしまった気がする。意志というより自覚というべきか、とにかく広範な角度から注目されてしまった。その根源となったのが、ご存じ『老人力』かも知れない。

あの本は誤解されていると筆者は思う。誤解がそのまま通ってしまい、赤瀬川サンのエキスが抜けきったまま世の中を徘徊していったような気がしてならない。出た当初、コソコソと、そしてニタニタと読んでいた純正赤瀬川ファンはガッカリしてしまった。

ボクの中では、赤瀬川サンは90年代始め、もしくは80年代の終わりあたりから変わったのだという感じがある。本当に前衛芸術家らしかった頃のものは正直こっちもキツネにつままれたようで、こんな本読んでいてオレ大丈夫かなって気にもなったもんだ。だから露骨に一線を引いた状態で読んでいたところもある。

しかし、路上観察あたりから赤瀬川サンはボクの味方になった。安心して人前で読めるようになった。そうなるとトコトン付いていける。安心は大きなパートナー。一旦信じ込むと赤瀬川サンの魅力は一気に膨らんだ。特に面白いのが連載もの。とにかく赤瀬川サンには連載ものがそのまま本になったというやつが多くて、そういうものの中に魅力がカッ詰まっているのである。自分の身の回りにある、ちょっとした専門誌などに目を透してみてほしい。ふと赤瀬川サンのミニエッセイに出会えるかも知れない。

 

たとえば、赤瀬川サンの表現は心憎いほどの「平坦さ」でもって、ぐぐっと迫ってきたりする。これが分かるには年季が要る。ここで敢えて文字にしている自分自身もいやになる。ただの年季ではない。少なくとも落語や漫才の笑いを知らない人間には伝わらないかも知れない。ボケがいかに知的な演出の上に成り立っているか… いやそんなことも敢えて文字にするのは無意味だ。

だから敢えて、ここは『島の時間』なのである。

しかもこの本、九州博多の某デパートの会員誌に連載していたものを平凡社がまとめたという「平坦さ」でもって、そのタイトルも、本人のあとがきでは「本にまとめる時に苦しまぎれにポンとつけた名前…」というぐらいに凄いのである。これが赤瀬川サンのエキスの一部。

さらに解説(そんなお堅いものではなく、これもまた愉しいエッセイだが)には、あの、ねじめ正一氏が登場し、「もうひとつのお天道さま」と題して赤瀬川サンのエキスを語っている。 (注:ちなみに赤瀬川サンにとっての本命のお天道様は、長嶋茂雄だったのだ)

「どこにも力がはいっていない。常態のままである。常態人間。……見ているだけでのどかな気分にさせてくれる。」

まさに赤瀬川サンのそのまま原寸大写実描写ではないか。そういえば、ねじめ氏は南伸坊氏も含めた三人の対談集『こいつらが日本語をダメにした』とかいう本の一員だったな。

 

ということで、この本は沖縄周辺の島々をめぐって書かれた紀行エッセイである。たぶん旅行雑誌などで十分に紹介された所ばかりであろうが、赤瀬川サンならではの目と耳と鼻と肌と舌などによって楽しい世界が表現されていく。観光キャンペーン用に使えるかというと、ほとんど向いていない。

一見(読)、例えば「種子島」の章のように司馬遼太郎の『街道をゆく』っぽく感じるところもあったりするが、鉄砲の話がロケットの話になったあたりからおかしくなってきて、読んでいる当方としては妙に嬉しくなったりする。それはこうだ。

「アメリカのロケットは垂直にしっかり立てて、どーんと垂直に昇っていく。それが日本のは斜めで、ちょっとコソコソと昇っていくみたいで、こんなことはロケット関係者にとっては的外れなことだろうが、何となく幼稚っぽい感じがしていた。

こんど種子島の宇宙センターに行ってみると、巨大な発射台はちゃんと垂直に立っている。ああ日本もとうとう垂直のところまできたか、という感慨をもった。もちろん専門家に聞いてみると、打ち上げる衛星の軌道とか種類によって垂直や斜めがあるらしくて、別にそれがステイタスに関わる問題ではないという。まあそれはそうだろうが、一般国民としてはやはり堂々と垂直に、という思いがあるのである。

垂直がなぜ堂々なんだ。と問い詰められても答えに窮するけれど、とにかくそんな感じがするじゃありませんか。」

愉しいなア………

冥福を祈る。

 

 

二冊のうちの一冊を閉じて

二冊の本

眠気と闘いながら本屋で本を選ぶというのは実にきつい作業だ。

ただ漠然と本棚の前に立ち、タイトルと作家の名前を見比べながら、少しでも興味が湧きそうな本がないかと目を這わせる。

こんな場合、ほとんどは平積みになった表紙の見える本に目が集中し、背表紙しか見せていない棚の中の本には、目が行っても神経は届かない。

しかも、もともと探している本などなく、行き当たりばったりで選ぼうとしているのだから、平積みの本にさえも集中力はそれほど高くはならない。

ましてや、今は眠いのだ。

二冊で千円ちょっとという文庫を買ったのは、ほとんど居直り型衝動買いといってよかった。

早く帰りたかったのだ。だったら、真っ直ぐ帰ればいいのに…なのだが。

クルマに戻って、二冊の本をそれぞれ開いてみるが、それほど興味深いというほどのものではないことにあらためて納得した。

特に一冊はカンペキにそうだった。

大正生まれで文章表現が実に巧みと言われる某作家の作品だ。

当然知ってはいたが、初体験である。

その本をなぜ買ったのかというと、いつもの気まぐれで、巧みな表現と言われる文章を機械的に読んでみようという思いからだ。

かつて活字中毒という言葉が流行ったが、その菌に侵されていた頃はどんな本でも、読んでいれば何事も知識や思いや考え方や表現などに繋がっていき楽しかった。

まあ、世の中そのものが楽しかったのだ。

しかし、今は違う。

世の中が、少なくとも自分の周辺がそれほど楽しくないから、せめて本には楽しいことを期待する。

いや、楽しくなくてもいい。

日常から離れて、どうでもいいような話にのめり込んだり、何か小さな発見や納得みたいなものを得ることが出来たらいい。

この本に求めた小さな納得は、文章表現の巧みさの実感だった。

こっちを先にしようと、その夜から読み始めた。

機械的に読んだ。感情にほとんど動きが生じないまま読み進んだ。

そして、短編の一話を読み終えた時思った……もう読むのはやめようと。

文章表現の巧みさだけでは、やはり楽しくなかった。

やはり今自分に当てはめた時の何かが足りない。

 

もう一冊の方は、よく読んできた作家の作品だ。

そう言えば、この間またN賞を逃した。

全くのなんとなく的意見だが、この人にはN賞は似合わないような気がしている。

受賞できればそれなりに凄いことだが、この人の文章はN賞ッぽくないような気がしてならない。

そもそもN賞っぽいとは何かと言われても巧く言えないし、いい加減なことは言えないが、この作家はそういうものと一線を引くところにいるということがいいのだと思っている。

いろいろあるが、これ以上書くとボロが出そうだ。

この人の場合、新作はまったく読んでいない。

どちらかというと、小説よりもエッセイの方が好きで、小説も若い頃のモノしか読んでいない。

ただ、だいたい雰囲気は熟知しているつもりなので、こちらは安心して相対することができる。

この本も同時進行で読み始めた。

相変わらずの、淡々とした、そして軽快な文体で行が進んでいく。

このスピード感は文章読みの楽しさの大きな要素であると思う。

もちろん、スピード感は軽快さだけではない。

スローというスピード感もいい。

問題は、心地いいかだ。

文章の中の時空の流れなどと、文章そのものとが一体化して伝わってくるものは、とにかく心地いい。

だから、話がややこしくなってきても、何となく読み続けようとしてしまう。

ここを乗り越えれば、また話は面白くなるだろうと勝手に思い込む。

そんなわけで、先の一冊は途中棄権し、この一冊に集中することにした。

読み進むと、やはりサイクルが合ってくる。

音楽で言えば、適度に転調していくように、話題がスムーズに移動してモチベーションが新しく作り出されていく……

この作家の文章から離れていくきっかけとなったある小説のことを思い出す。

あれはなんと、昔会社の女の子の バレンタインデー・プレゼントでもらった一冊だった。

ああいうのを本命というのかどうか知らないが、ああいうプレゼントは最高に嬉しくなるものだ。

ちょうど新作が出て、ボクがその本を買おうとしているのを知ってくれてたんだろう。

しかし、あの小説は面白くなかった。

ボクにはなんとなく、書くのに飽きていたのか、もしくは行き詰まっていたのかと思わせる内容だった。

読者というのも、自分勝手でいい加減なものだ。

この作家と出会う前の話だが、ジャズと映画と本の話を自由気ままに書き綴る某氏の本に傾倒していた時代がある。

主に東京にいた頃だ。

いろいろなモノゴトを吸収したが、その頃に文章の読み方としての心地よさみたいなものを知ったような気がする。

その頃から自分も好きなことを好きなように文章にしていいいのだなあと思い始めた。

ただ才能が凡庸だっただけだ。

その頃のような、見境なしの濫読時代は二度と訪れないだろう。

しかも今は仕事の上での読み物たちが周囲で自分を見張っているような状況でもある。

だから、せめて趣味の世界では、無理してややこしい本は手にしないようにしていこうと思う。

書くことも、ゆったりと構えていけばいい。

二冊のうちの一冊を閉じて、心地よさを取り戻し、とりあえず気が楽になった………

 

山里の陽だまりと、読本と、春眠と

福光の道

 福光からの帰り道、持って出ていた本を読もうとクルマを止める。

 日差しも温もりも春の兆し。

 運転しながら、瞬間的に目に飛び込んできた光景が、まさにその雰囲気に合う場所であると感じさせた。

 早春の陽だまりを求めての、三連休最後の日に訪れた短い自分時間。

 できるだけそれらしい雰囲気を自分自身にも課して、短い時間を楽しもうとしている。

 久しぶりだった医王山富山県側山麓の道も、飛越の山並みにまだまだ残雪が光っていて、手前の青麦畑やこれから始動する水田とのコントラストが美しかった。

青麦と残雪の山水田と残雪の山

 IOX-AROSAのゲレンデにも十分な残雪。

 来週は、立山山麓へ出かけるつもりでいる…と、敢えて自分に言い聞かせたりする。

 無造作に部屋の壁に立てかけられ、静かに息を殺しているテレマークの板たちのことを思う。

 彼らにはまだ十分な楽しみを与えていない。

 ただでさえ古い道具たちだ。

 このまま老いていかせるには勿体なく、自分自身を責めたりもする。

 陽はかなり西に傾いてきたが、さすがに春が近づいていると見えて、一日は確実に長くなっている。

 クルマのエンジンを切って、まずは周辺を散策する。

早春風景

 小川が流れ、そこに付けられたコンクリートの橋を渡ると、広くはないが美しい水田の空間がある。

 その手前には素朴な小屋が建てられていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。

 ただ近くまで来ると、トタン葺きだったりして少しがっかりした。

 畦道の草はまだ秋に枯れたままの状態で、雪の下で冬を過ごしてきたものたちだ。

 雪の重みに耐えた後の乾いた草の感触もなぜか懐かしい。

 しばらく歩き、写真も撮って、何度か振り返りながらクルマに戻る。

 フロントガラスいっぱいに、今見ていた風景が広がるようにクルマを移動。

北への旅

 シートをゆったりめにして、先日買った三冊のうちの一冊、『北への旅』(椎名誠著)を開く。

 分厚い。さらに、文庫だが紙質が重く手応えも心地よい。

 五十二ページまで一気にいく。といっても、四十二ページまでが写真。

 カメラマン・シーナ氏のちょっとクールで温かい写真に集中してしまった。

 話は、いや文章は津軽半島から始まり、いつものようにテンポよく進む。

 本当はキルギスへ行く予定だったが、なぜか津軽へと向かう。

 そのあたりの事情は読めば分かるので省略。

 五能線というローカル線で、五所川原に着いたところから本題に入っていくが、そのあたりのことも読めば分かるので省略したい。

 とにかく、夜になってコンビニのあんちゃんから聞いたうまいラーメン屋で体を温め、その温もりが冷めないうちにホテルに戻って寝たというところで序章は終わった。

土手の青草

 一段落したところで休憩。最近疲れ気味の目を休めようと、フロントガラスの光景をもう一度眺める。

 そして、そのまま眠ってしまった。

 春の陽だまりの中で活字(写真もだが)を追うというのは、最終的にこうなるのが正しい。

 しばらくだったが、目が覚めるとかすかに汗をかいていた。

 時計は五時少し前。クルマを降りて、身体を伸ばす。

 空気は少し冷えてきた。が、春がそこにあって気持ちが柔軟になっているのは間違いない。

 冬はすでに遠い空の果てから宇宙のどこかへと消え去っていったのだと、宮沢賢治的?に思ったりもする。

 やはり、春はいいのかも知れないのである……

南砺の里

室生犀星記念館  「桃色の電車」との再会

犀星

 

 

 

 

 

 

会社で展示リニューアルの仕事をさせていただいた、室生犀星記念館を訪ねた。

出る時まで名乗らず、普通に入って一時間近くもいた。

犀星については、思い入れがある。

その分、正直言って自分の考える犀星の世界と、記念館が描く世界には大きな差があったりもする……

鏡花よりも、犀星の方が金沢そのものだと思ってきた。

初期小説の中に描かれる、素朴で美しい金沢風景の描写を知らない金沢人は不幸だ……

今日本中の人たちが向き合っている「ふるさと」への思いにも、犀星の世界は切なくもしっかりと通じている………

二階に上がり、閲覧コーナーで全集を引っ張り出し、「桃色の電車」という随筆を探した。

と言っても、随筆だったか詩だったかの記憶もなく、ただ漠然と探していたら、第2巻の中にあった。

久々の対面。二十歳の頃、激しく心を揺さぶられた出だしの文章に、青かった時代の自分を投影する。

詳細なことは書く気にもならないが、この文章を読んだ時感じたのは、詩のような随筆…みたいなことだった。

ジャズ・活字・映画・芸術・歴史・野球・ファッション…手当たり次第に向き合っていたその時代の感性が、あの「桃色の電車」という不思議な?文章との出会いに繋がったのかも知れないと思う。

このことは実に稀有。

数年前、地元文学の権威である小林輝冶先生に聞いた時も、先生は首をかしげられた。

犀星の世界で「桃色の電車」を語るのは、自分だけかもしれない?

ちょっと恐ろしいことのように響いてきた。

実に、稀有なのだ……

山旅の歴史も面白い

100年前…

 年末の金沢駅は予想していたほどの混雑ではなかった。帰省する次女を迎えに来たのだが、駅に着いた途端、バスが20分ほど遅れているらしいとメールが入ってくる。

 少し荒れ気味の天候だった分、ちょっとは覚悟してきたのだが20分は長い。何しろ到着予定の時間にもまだ10分ほど達していないのだ。

 こうなると行くところはコーヒー屋さんしかない。ただ、ぼんやりとコーヒーを飲んでばかりではつまらないので、その前にコーヒー屋さんでの時間を有効に過ごすための本が必要だ。

 幸いにも金沢駅の商業ゾーンには本屋さんがある。すぐにそこへと向かった。

 意外とこういう時にいい本との出会いがあったりする。思惑どおり文庫のコーナーに向かって行くと、すぐに平置きになった一冊の本が目に飛び込んできた。

 『百年前の山を旅する』。タイトルも装丁もよかったのは言うまでもなく、中をパラパラめくってみると、さらに確信が深まった。すぐに決めた。

 出張の電車に乗る前とか、都会の街中のように歩いている最中の書店立ち寄りには、いい本との出会いがあったりするのだ。気持ちが、短時間でいい本との出会いを…と緊張するのかも知れない。

 コーヒー屋さんに入って、すぐにページをめくった。予想どおりなかなか面白い。著者は、山岳雑誌「岳人」の編集に携わっていたという服部文祥という人なのだが、ボクがかつて山に足を向けるようになった動機に近いものを持ち合わせているかのように感じた。もちろん、服部氏はK2などに登頂した凄い山岳家でもあるので、レベルは全く違う。

 それほど大袈裟な話でもないが、ボクは20代の中頃から長野や山梨などの高原地帯へ出かけるようになり、その中でも特に上高地が気に入って以降は、その隅々まで歩き尽くすくらいの頻度で出かけていた。

 それ以前の旅の基本は主に歴史だったのだが、それに自然の美しさや生活感みたいなものが加わっていき、いつの間にか歴史と自然とか、歴史と自然と民俗とか、何だかそういった要素が自分の興味の主流になっていったのだ。

 どこかでも同じことを書いたが、そうなってくると、例えば上高地の歴史みたいなことに好奇心が向くようになり、旧松本藩の杣人たちや梓川のイワナ採りの人たちの話なんかが気になり始め、そのうち槍ヶ岳を開山した播隆(ばんりゅう)上人の話や、この本にも出てくる上条嘉門次やその他の山案内人たちの話など興味の輪は無制限に広がっていった。

 そして、そのまま自分自身が山に入るようにもなっていったのだ。

 この本では、日本の山岳紀行の草分けとも言える田部重治が明治の頃に辿った稜線や、日本アルプスを世界に紹介した有名なウォルター・ウエストン、そして彼を案内した上条嘉門次の登山ルートなどを、今の時代に体験しながら、自然と人間、過去と現代などといった視点から考察がされている。

 同じ装備で同じものを食しながら、その困難さなどを記しているが、現代人である自分が便利というものを得た上で感じていることなどを力を抜きつつ書いているのがいい。昔の人は強かったということだが、現代人には必要がなくなった当時の苦労を振り返ることもなくなり、その弱さに気が付く機会も失っていったということか…と思ったりする。

 福井の小浜と京都を結んだ今の「鯖街道」の、原形の山道を歩くというのも興味深くて面白かった。ボクもよく知っているが、鯖街道なる名称は、ついこの前出来たもので歴史的には存在しない。

 たしかに、鯖などを運んだ道らしいが、ボクは「朽木(くつぎ)街道」という名前で認識していて、何度も書いているが、そのことは司馬遼太郎の『街道をゆく』でも詳しく紹介されていた。

 今の時代の著者が、昔のように鯖の入った籠を背に担ぎ、一昼夜で京都に辿り着けるかという試みはそれほどの成果を見なかったみたいだが、当時と同じ服装で、しかも当時のルートを歩くという設定など、多少バカバカしさもあるがそれでも楽しいのだ。

 読書がいよいよ佳境に入ってきたところで、バスの到着時間となった。続きがますます楽しみになってきたのだが、実は師走からの読書は徐々に乱読傾向に偏っていき、この本もまだ完読には至っていない。断片的に読み続けている。数冊同時進行の中で、雪解け前には完読となるのであろう……

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

室生犀星の金沢的世界

 ここ最近、室生犀星の初期小説を読み返したくてウズウズしている。

 ヒトには時々何かを思い立ったり、無性に何かが恋しくなったりする時がある。

 昔買って読んだ本たちは、当然?どこかへ消えた。

 今どきの本屋さんには、そういったかつての文学モノは置いてない。

 誰も買わない(読まない)から仕方がない。

 ボクは大学時代に室生犀星を読み尽くしていた。

 そのことは多分、非常に稀なケースであり、当時周囲にはそんな輩はいなかった。

 ただ、ボクとしては特に犀星だけを読んでいたわけではなく、その他多くの純文学モノも読んでいたので、自分自身を特異な存在とは思っていなかっただけである。

 ましてや、犀星は金沢出身であった。しかも、金沢そのものを描写した作家としては最も美しい作品を書いているとボクは思ってきた。

 金沢の三文豪では、泉鏡花の人気が圧倒的に高い。

 金沢市が鏡花にだけ文学賞の名を付けているのをみても、そのことが分かる。

 仕事柄的視点から、文学館としての要素をみても、鏡花作品は坂東玉三郎が演じたとかという付加価値を数多く生んでいて、その衣装やシナリオやスチールや映像など、見るものを楽しませるモノが豊富だ。

 あまり持論をぶつと怒られそうだから控えめに書くが、そういう意味では文学館という価値は微妙に短絡的でもある。

 地元と直結しないとか、本質とは違うストーリーがあったりもする……

 犀星について言いたいのは、金沢に生まれ、金沢を描いた詩人・作家としての土着性(言葉は不適かな)が最も高いと感じることだ。

 言い換えれば、最も金沢をふるさととして愛してきた金沢の作家と思えるのだ。

 犀星が詩人から小説家としてデビューした初期の作品、『幼年時代』と『性に目覚める頃』の二作品は、金沢の人たちや金沢が好きな人たちにもっと知ってほしいと思う。

 極端に言えば、そうではない人たちにはお薦めもしない。評価軸が異なるからだ。

 例えば、『性に目覚める頃』の冒頭から綴られた犀川の描写は、金沢の日常の風景を描いた文章としては絶品である。

 多くが認めるところであり、あの文章を読んで、ボクは金沢が好きになったと言っても過言ではない。

 さらに、犀星を好きにさせたのもこれらの作品だ。

 金沢の風景(心象も季節感なども含めて)の繊細さが、切ないくらいにやさしく迫ってきた。

 さらに犀星の生い立ちなどを知っていれば、あの美しい表現を犀星がどういう心情で綴ったのかも想像できる。

 文壇とか中央の評価などという視点は、地元金沢の視点と違っていていいのだと思う。

 自分たちのまちを、美しく、懐かしく、切なく描いた、表現した作家がいたということが財産なのだ。

 そんな意味からは、金沢を視覚的(映像的)に再現するいい素材でもあると思う。

 最近、金沢の話を題材にした武家の映画が作られているが、大正時代の金沢の街を描いた犀星作品の映像化も大いに期待できる。

 文学というのは、根本的に人懐っこいものではない。

 絵画などの美術や工芸などは、パッと見ていいなあと言えるが、文学は読まなければならない。

 ただ、読み込めば、そこに綴られている文章に深い感動や共感を得ることが出来る。

 しかし、金沢の多くの人たちにしても、鏡花も犀星もあまり読んではいないだろう。

 秋声になると申し訳ないが、存在を知っているかの方が問題になったりする。

 先にも書いたとおり、たまたま鏡花はよく知られているように見えるが、作品自体を読んでいるかというと決してそうではないだろうし、あの文体はもう現代人にはかなり厳しい気もする。

 そんな視点からも、犀星のシンプルな表現は親しみやすい。

 金沢にはプライドもあり、それが鏡花的価値観の方がカッコいいという評価に繋がっているのも理解している。

 しかし、そういう高度な視点は置いておき、金沢の人たちや金沢が好きな人たちには、是非犀星の金沢的世界を感じてほしいと思う。

 ところで今、読売新聞が犀星の名を冠した文学賞を実施している。

 ボクは犀星の文学賞には「ふるさと」というテーマが強くあってほしいと思う。

 ふるさとを愛しながら、ふるさとを離れる……

 そんな人たちの作品が対象となった賞が、犀星の文学賞には相応しい気がする。

 金沢的視点からは、犀星はやはり「ふるさと」だ。

 犀星が綴った金沢の世界は、やはり心に沁みてくる……

紀伊國屋に立ち寄る

 新宿へ行ったついでに、何年ぶりかで紀伊國屋に立ち寄った。

 前を通るとちょうど開店したばかりで、吸い込まれるように二階へのエスカレーターに乗っていた。

 思えば、大学に行くために東京生活を始めた二日目の午後、初めて新宿の街に出た。

 目指したのは紀伊國屋だった。なぜか、東京へ出たら紀伊國屋と、FUNKY(吉祥寺にあったジャズ喫茶)と、神宮球場へ行かねばならぬという強い使命感があり、まず手始めとして新宿へ乗り込み、紀伊國屋で本に埋もれてみようと思った。

 春を迎えたばかりの新宿駅東口は人が溢れ、雑然としていた。

 人が厚い層を成し、その人の波が一気に横断歩道を揺れながら流れるように渡って行く。

 その時あらためて、東京を感じた。

 何となく地理的には理解していた紀伊國屋に向けて緩い坂を上る。

 しかし、紀伊國屋を見つけたと同時に、ボクはその向かい側にあった洋服屋に入っていた。

 MITSUMINEだ。衝動的に、白と、からし色のボタンダウンのシャツ2枚を買った。

 店員さんとのスピーディな会話も楽しく、衝動買いの要因はそこにもあった。

 今はもうその店はないが、MITSUMINEとの関係はシンプルに続いている。

 金沢でも二年ほど前に店はなくなり、なかなか新しいモノを買う機会はなくなった。

 だが、20~30代の頃に買い、今も着ている洋服には、MITSUMINEのロゴの入ったモノがいくつかある。

 そのロゴを見るたびに、新宿のあの店を思い出すのだ。

 仕事の合間の紀伊國屋だから、久しぶりと言え時間はほんのわずかしかない。

 いきなり安部公房の『題未定』が目に飛び込んできたが、ぐっと堪える。

 結構分厚い未発表の短編集で、読んでみたいと思っていたものだ。

 だが、帰りの電車の中で読み切れるくらいの本にしようと、何となく決めていた。

 慌ただしく奥へ奥へと進んで行くと、最も奥に「ハルキ文庫」という小さなコーナーがあった。

 「ハルキ」は、角川春樹氏の「ハルキ」である。

 本の種類は少ないが、梶井基次郎の『檸檬(れもん)』がある。

 梶井は大正後期から昭和初めにかけていくつかの短編を残した人だ。31歳の若さで早死にしている。

 『檸檬』は、梶井の代名詞的短編で、ボクはこの本を金沢の友人に教えてもらった。

 その友人は、ボクに金沢出身の島田清次郎も教えてくれたのだが、梶井も島田も同じような時代に早死にしていた。

 しかし、ボクは圧倒的に梶井の方が好きになった。島田のことを知っている人なら、その理由はよく理解できるだろう。

 それに、もうひとつ大きな決め手があった。

 それは、顔だ。梶井のあの男臭い顔立ちが好きだったのだ。

 そんなことを思い出しながら、一冊しかなかったので、誰かに先を越されるとまずいと思い、すぐに『檸檬』を本棚から抜き取った。

 値段の安さに驚く。税別267円。

 こんな安い本を一冊だけ買って帰るのは申し訳ないと他に探すが、時間がなく気持ち的に慌ただしいだけだ。

 開店したばかりというのに、店の中にはそれなりの人がいた。

 客の一人が何だかマニアックな本の名前を言って、店員さんを困らせて?いる。

 しばらくすると、ようやく見つけたらしく、客の方へと店員が小走りに駆け寄っていった。

 若い店員の嬉しそうな顔が何とも言えない。書店員としての誇りなのだろう。さすがというべきか。

 学生時代はここで多くの本を買った。大学生協の書籍部でもかなり買ったが、今も変わらないあのブックカバーが決め手になっていたかも知れない。

 最近は、上京すると三省堂や丸善にも時間があれば立ち寄る。

 やはり本の種類が豊富で、何とも言えず愉しい。

 金沢では絶対に遭遇しなかったであろうと思われる本を手にした時の喜びは、普通ではない。

 そう言えば、かつて紀伊國屋で本を買った後は、近くにあったnewDUGというジャズ喫茶に寄って、その本を読んだりした。

 ボクは体育会系の文学青年で、いつも最低二冊以上は同時進行で読んでいた。

 外出時には必ずポケットに文庫本を入れていき、ジャズ喫茶にも必ず本を持ちこんだ。読む本は何でもよかった。

 活字中毒という言葉はあまり好きではないが、今でも手元に読む本があると安心できる。

 ところで、一応曲がりなりにも“著書をもつ者”としては、地元の書店の温もりも忘れていないのは当然だ。

 地元の作家を応援するのは、地元の書店として当たり前ですと、広告を出してくれたり、店頭の話題の本のコーナーに並べたりしてくれた書店のありがたさは身に染みている。

 全く置いてくれなかった近県出の書店(例えば、県庁近くの)もあったが、本をただ商品としてしか見ることができないというのも淋しい気がする。

 だんだんいい歳になってくると、書店の本棚を見ているのがつらくなってきた。

 それは、目が疲れるとか腰がだるくなるという意味ではない。

 新しい本ではないが、まだまだ読みたいものがいっぱい残っているのに、時間がどんどんなくなっていく焦りみたいなものだ。

 音楽、特にジャズも文学も、新しいものに興味もなく期待もしていない。

 ただそんな時に、ちょっといい書店に入って味わう感覚が、とても懐かしかったり、ホッとできたりするというのも、素直に受け入れられる事実なのだ……

雪国の車中で、星野道夫と植村直己を思う

 2000年3月のはじめ、ボクは新潟の直江津から長野に向かう快速列車の中にいた。

 前夜からの大雪のためダイヤは乱れていたが、ボクはそのことを幸運に思っていた。

 星野道夫の本が手元にあったからだ。遠いアラスカの話を、信州の雪原を眺めながら読む…… そんな状況を楽しみにしていた。

 列車が走り出してしばらくすると、雪の降り方が一段と激しさを増した。

 屋根のない吹雪のホームで、ヤッケの帽子に雪をのせて突っ立っている人たちがいた。

 雪をつけた裸木が重なる樹林地帯。

 そして視界はそれほど深くはないが、雪原は永遠のような広がりを感じさせている。

 晴れた日、ヒールフリーのスキーで駆けめぐったら愉しいだろうな…などと考える。

 雪の中の軌道を走って行く独特の静けさが懐かしかった。

 そしてボクは、その中で星野道夫の飾らない素顔が車窓の風景に溶け込んでいく心地よさを感じつつ、ゆっくりとその文章を追っていったのだ。

 その四年前、星野道夫はすでにこの世を去っていたが、それまでのボクは、星野道夫という人間を、知性派の、凄く特異な動物カメラマンとしてしか見ていなかったような気がする。

 たしかに、彼の写真から伝わってくるものには、アラスカという地域の特異性や、撮影に費やされた計画の特異性などが感じられ、自然を相手にした写真家としての、かなりしっかりとしたこだわりのようなものを好きになっていたと思う。

 しかし、ある日、本屋で何気なく手にした彼の一冊の文庫本によって、ボクにとっての星野道夫観はすっかり変えられてしまった。

 と言うよりも、それは一気に大きく膨らみ始め、気が付くと原形をとどめないくらいになっていたと言っていい。

 文章にして彼が伝えてきたものは、アラスカという遠く離れた土地の大自然の美しさや厳しさだけではなかった。

 そこにはアラスカそのものがあり、何よりも星野道夫そのものがあった。

 彼が一人の少年としてどのような感性をもち、どのような青春時代を生き、その後、日本はもちろんのこと、アラスカでどのような人間たちと出会って、そしてどれだけ満ち足りた日々を過ごしてきたか。

 そして、それらのことが星野道夫にとってどれだけ素晴らしいことだったか。

 写真家としての作品だけからは知る由もなかった多くのことを、文章の中の彼の言葉が教えてくれた。

 星野道夫の多くの本と出会ってから、植村直己のふるさと兵庫県日高町に出かけた時のことが、よく思い出されるようになった。

 あの時、胸に迫ってきた何かが、星野道夫の言葉の中からも同じように伝わってくるような気がした。

 星野道夫と植村直己は、静と動の両極にあったと思う。

 しかし、二人とも大きな意味で共通した動機をもっていた。

 安らげる、自分らしくいられる、そんな場所を求めていたのだ。

 生命の脆さも、互いに違った形で知っていた。

 北米の最高峰・マッキンリーのどこかに植村直己が眠っており、毎日のようにその山並みを眺めていた星野道夫は不思議な気持ちになったという。

 あの植村直己でさえ、脆い生命のもとに生きてきたのだ。

 自然を征服するのではない冒険。日本人らしいやさしさの中で培われた自然との接し方。

 そして、何よりもヒトとヒトとの関わり方、すべてのことが今は亡き二人の素顔から見えてきた。

 快速列車が、夕刻近くの長野駅に近付いていく。

 もう雪の世界はとっくに通り抜け、星野道夫の本も、カバンの中へと放り込んだ……

 ※2000年に書いた文章の一部に加筆。

朝の珈琲屋さんにて

 雪の影響を心配して、早めに金沢駅まで来たが、電車はダイヤどおりに走っているとのこと。

 数年前には、東京に四時頃着の予定で金沢を出た電車が、夜の十時頃やっと着いたということもあり、そうなってからでは遅いのである。

 どこかにコーヒーが飲める店はないかと、心当たりを探っていくと、やはりあった。

 なんだかんだと、時々お世話になっているその店は、他の店はまだ開いてないのにやっている。多分、商売上手で熱心なオーナーの店なのだろうと納得しつつ、ブレンドコーヒーを注文。

 特に際立った特徴があるわけではないが、ボクにとっては何となく落ち着ける。それに、特に際立つ必要もないのかも知れないとも思う。

 電車の時刻までは、一時間弱ある。

 カバンのポケットから、ヤマケイのスペシャルブックカバー(大袈裟だ)に包まれた文庫本を取り出す。

 中身は、またしても出張の友にして持ってきた伊集院静氏のエッセイ集『ねむりねこ』だ。

 昨夜、積まれたままの蔵書の中から、何を持って行こうかと十五分ほど迷い、やはりという感じでこの本をさっきのブックカバーに包み直しカバンに入れた。

 もう一冊候補に上がったのは、椎名誠氏の『かえる場所』だったが、前者の方が短編集である点で有利だと判断した。

 しかし、双方とも朝の読み物としては、何というか少し、いやかなり重い感じがしないでもない。ちょっと切なく人生経験豊かな二人のエッセイを、モーニングコーヒーを飲みながら読み流すというのは、真意に沿わない。

 ただ、そんなむずかしいことを考えていても始まらないので、とにかく無作為に読み始める。

 あっという間に、三話ほどを読み終えると、真意に沿わないと言っておきながらの没頭読みにちょっと驚き、少し目を止めて、コーヒーカップに手を伸ばす。

 このまま読み進んでは、何だかいけないような気になってくる。

 この手の話は、夜のホテルや黄昏時か夜更けの静かな店、さらに帰りの電車の中などで読むのが正しいのだ。これまでもそうしてきた。

 それを朝から読んでいてはいけない。

 これから東京で仕事が待っているのに、椿は、花が落ちた後の姿がはかないから、花よりも葉の方が好きだとか、毎晩のように酒に明け暮れている…などといった話を読み耽っていてはいけないのだ。

 店の中を見渡してみた。いつの間にか、横の横の席には女子高生のような制服を着た女の子が座っている。

 学校はどうしたのだろうなどと、余計なお世話的雑念がアタマをよぎるが、深く考えないことにする。

 目の前の石風タイル貼りの柱を見上げると、三枚の額がかかっていた。中はよく見えないが、写真の切り抜きみたいな感じがする。なかなかいいレイアウトでもある。

 朝日が差し込んでもいる。その陽の当たり具合もいい感じで目にさわやかなのだ。

 朝の喫茶店に入り、いきなり本を読んで時間をつぶすというのは久しぶりだ。

 こんな時間がいいのだと、何だか妙に嬉しくなった……

余呉湖と、街道をゆくの旅

 司馬遼太郎の『街道をゆく』にかなり影響を受けたという話は、何度か書いている。

 1971年、週刊朝日で連載が始まり、ボクはその7、8年後には読み始めていた。

 金沢の老舗ジャズ喫茶「ヨーク」に置いてあったのが、読むきっかけだった。

 マスターの奥井サンが最初に「これ面白いよ」と言って教えてくれ、それからは新しい号が出るたびに、今週はどこそこだと言って渡してくれた。

 歴史や旅も好きだったボクは、タイトルの素朴な響きのよさとともに、その内容の深さが気に入り、いつの間にこの旅スタイルに憧れのようなものさえ感じるようになっていた。

 まだ二十代の中頃の話だ。

 週刊誌で書かれていたものが単行本になっているのを知ると、すぐに書店で買い求める。

 国内紀行のものはほとんど買ったような記憶がある(今手許に一冊も残っていないのはなぜか?)。その後に文庫も出て話題となった。

 そして、その頃ボクは初めて『街道をゆく』をベースにした旅をした。

 大袈裟なことではない。とにかく、司馬遼太郎が辿った街道を自分の目で確かめたくなったのだ。

 地図を買い込み、本の中の話と合わせながらいろいろと調べた。

 もちろん、そんなに遠くへ出かけるつもりはなかったが、まず第一巻からスタートしようと思っていた。

 そして、その旅のスタイルはかなり続いた。今も近場だが、それがきっかけとなって通い続けている場所も多い。

 タイトルにある余呉湖に寄ったのは、記念すべき第一回目の「街道をゆく旅」の途中でだ。

 福井県から京都の大原に抜ける道は、朽木谷に沿った「朽木街道」と呼ばれていた。

 今は「鯖街道」という方が通りがいい。もちろん道路も見違えるほど美しくなっている。

 話は、ここから始まる。敦賀で北陸自動車道を下りて、田園の中の道を南下。

 バスなどが来ると、やっと交差できるような狭い道もある。

 信長が戦に負けて、京都までの決死の逃亡に使った道だという。かなり厳しい道のりだったことが当時の道を思うと分かった。

 大原に着いて、早速次なる道を探す。

 鞍馬へ抜けようと考えている。司馬遼太郎が実際に書き記してある道だ。地図には薄い線で描かれている。

 ところが、京都の街から来ているバスの運転手に聞いても知らないと言われた。

 そして、何台目かの運転手に話すと、「林業の人たちが使っている道がある。けど、その道で鞍馬まで行けるのかは分からない…」とのこと。

 とにかく、その道しかないのだから、それが鞍馬へ抜ける道だと勝手に決めて走った。

 大きくて真っ直ぐな杉の木が、傾斜のかかった山肌に、無数に立ち並んでいた。

 そして、道は斜面に一本。山肌に合わせて蛇行しながら細く伸びていた。

 交差はところどころの広い場所まで行かないと全く出来ない。

 その後、どういうルートを通ったのかは全く覚えていない。地図を見れば何か思い出すのかも知れないと思ったがダメだった。

 ただ、今の地図にはたしかに大原と鞍馬を繋ぐ道路が、立派に描かれている。

 道端にシャクナゲ?が咲き乱れる場所があった。シャクナゲについては、司馬遼太郎も書いていたのではなかったかと思う。

 シャクナゲの咲く場所には霊気が漂うようなことが書いてあって? そのことはずっと予備知識的に頭に残っていた?のだ。

 それからたしかに鞍馬街道に出た。陽が真上から西の方に傾き始めていた頃合いだ。

 意外とその時の鞍馬の記憶はない。その後、数年前に鞍馬山に登ったが、懐かしさもなかったので、その時の印象は薄かったのだろう。

 やはり、道中の風景などがボクにはよかったのだと思う。

 それから、明智光秀について書かれた亀岡街道に出た。シャクナゲは、ここだったかもしれないとも思える。

 石積みの段々畑が続く風景を見ていたような記憶がある。大家族が畑で仕事をしている光景を見ていた記憶もある。

 下ってその夜嵐山、渡月橋近くの旅館に泊まった。

 翌日、嵯峨野を歩いたことは間違いないが、帰路として京都の街中からどこをどうやって走ったのか、記憶はないままだ。

 ただボクの中には、滋賀県の余呉湖という小さな湖へ行くという目的だけが明確に刻まれていて、そのことばかりを考えていたように思える。

 穏やかな田舎の風景の中に、その余呉湖はあった。午後の遅い時間だった。

 空気の流れが止まり、湖面は波ひとつ立てずに静まり返っている。

 向かい側の小高い山並みが、美し過ぎるほどに湖面に映っていて、定番的な日本の風景に、こちらが照れ臭くなるくらいだ。

 そこには、天女伝説があった。そのことを司馬遼太郎は詳しく書いていた。

 滞在時間は三十分ほどだったろうか。いや、二十分ほどか。

 余呉湖(よごこ)だが、古い時代の「よごのうみ」という呼び方の方が好きである。

 あれから三十年ほどが過ぎて、つい数日前、余呉湖へ行こうと決めた。

 北陸高速の木之本インターを通るたびに、この奥に余呉湖があるということを意識していたが、なかなか踏ん切りがつかないでいた。

 決めてしまえば、意外とあっさりコトは運ぶ。

 そして、念願?の再会となった。

 三十年ぶりの余呉湖は、かつてよりも、釣り場としての整備が進んでいるように見えた。

 しかし、相変わらずの静けさと、湖面の美しさは記憶と変わっておらず、周囲を少し歩くと、逆に当時のことが蘇ってくる。

 クルマの中で聴いていた音楽は、ラルフ・タウナー率いる「OREGON」のライブ盤の録音テープだった。

 当時、ラルフ・タウナーのギターが好きで、よく聴いていた。何だか、思い出すとすぐに聴きたくなったが、もうレコードは手元にない。

 もうひとつ蘇ってきたのは、余呉湖のあまりの静けさに押しつぶされていったことだった。

 帰り道の北国街道は切なかった。

 山の中の道は、特に夕暮れ時ということもあって、気持ちを落ち込ませたのだ。

 余呉湖は、そういう意味で、不思議な思い出とともに記憶の中に残っていた場所だ。

 自分の中で存在感を示している。

 それにしても、旅の話は尽きない……

詩人・大野直子さん

 大野直子さんが第22回日本詩人クラブ新人賞を受賞された。凄い。

以前に中日新聞で見ていたのだが、先日、日本経済新聞の北陸欄(写真)にも紹介されていて、お顔も久しぶりに拝見した。

ボクとの交流だけで言うと、大野さんは、小誌『ヒトビト』の大変重要なエッセイストで、その文章はボク中心のガサツな文体ばかりの中にあって、爽やかな光を放っていた。

創刊号を出した時、どこで見つけたのか、わざわざ家まで来てくれて、一年分の予約と、こういうのが出るのを待っていたんです…、私も是非参加させてください!といった強いメッセージをくれた。

当時、大野さんの存在はもちろん、その非凡なる才能にも、お茶目な性格にも全く無知だったボクは、少し面倒臭かったので適当な返事をした。

しかし、大野さんはその後、積極的に寄稿され、『ヒトビト』知性及び情操担当局長的なポジションで、無くてはならない存在となっていく。

ただ、大野さんの本当の文章の凄さは、『ヒトビト』なんかよりも、それ以外の雑誌でのエッセイ風の読み物やご自身の詩集などで発揮されていった。

ボクがお願いしたものでは、金沢市発行の「金沢のにしを歩く」という小冊子での文章がまず燦然と輝いている。

西茶屋街を起点にして旅する多感な女性になりきり、好奇心旺盛な心情が伝わる美しくて、そして、どこか逞しさを感じさせる文章だった。

ボクはそのテキストを読ませてもらった時、何だか妙に落ち着きを失ってしまったのを覚えている。

それは、それまで日常的な、主婦的な視点で周囲を見つめ、言葉を編んできた大野さんとは、まったく違う何かを感じたからだ。

演技という表現手法があるが、文章によって大野さんは役者(女優)になりきっているように感じた。

演技力と文章力は似ている。文章が演技になっている…? 大野さんの好きな鏡花の世界に似ているではないか…?

何だかよく分からないまま、ボクはこうして大野さんの凄さに圧倒されていく。

その後の、金沢を中心にして発行されている雑誌などにおける文章でも、大野さんらしい、やさしくて研ぎ澄まされた文体がとてもよいと感じた。

処女詩集『寡黙な家』は、北陸現代詩人奨励賞、中日詩賞新人賞、日本海文学大賞で佳作を受賞している。

そんな意味では、あの無責任雑誌『ヒトビト』などでの執筆に対し、大野さんの名を汚し、かなり申し訳なく情けない気分でいたのも確かなのだった。

大野さんは最近まで、お母上、お父上の看病・介護に日常の多くの時間を費やしてきた。

しかし、その中で物書きとしての本性は失ってはいなかった。それが今回の受賞になっているからだ。

ただ、今回の『化け野』と、一作目の『寡黙な家』とでは、大きく周辺環境が違っていた。

『寡黙な家』の方は、日常的で平和な主婦的視点で編まれた詩集だったが、『化け野』では、死に向かう両親を支え、見守りながらの娘的視点が色濃く映る。

いや、映るなどといった曖昧な表現ではない。しっかりと刻み込まれているといった方がいい。

これらの苦痛や絶望や怒りや、その他多くの悲観的な要素の中での創作には、あらためてアタマが下がる。

そして、大野さんは間違いなく強いオンナであり、強いヒトになっているに違いない。

勝手な期待はいけないのだろうが、まだまだ、かつての大野直子調で綴ってもらいたい“もの”や“こと”が、この世の中にはたくさんあるような気がしている。

しかし、それはあくまでも小さな、控えめな期待だ。

家のポストに入っていた、ちょっと膨らんだ茶封筒。

中を開けると、一冊の本。もちろん『化け野』だった。

雨の中、わざわざ届けてくれたみたいだった。

後ろから、そして、そのままランダムに読んでみる……。

しかし、当然、自分の中では取掛かりになる言葉すら見つかっていない。

ひょっとすると、永遠に見つからないのかも知れない。

とても重いものが、深いものが、濃いものが、遠いものが、言葉ひとつひとつに託されているように感じる。

だから、これ以上は書かない。

とりあえずとして、大野さんには、もう一度「やっぱ、凄いなあ」とだけ言っておこう……

山には、悲劇も喜劇もある・・・

今年の春も北アルプスで何人かの登山者が死んだ。

厳冬期の遭難事故は少なくなったように感じられるが、春山での事故は一向に減っていないのではないだろうかと思ったりもする。

それになんと言っても、最近は高齢登山者の事故だ。

冬に比べれば、当然春の方が安定しているのは間違いない。

しかし、その分、春の山には大きな落とし穴が待っているということだ。

体感的には、真夏と真冬が同時に来ると言ってもいい。

そんな中での冷静な判断や体力などは、生死を分ける分岐点上にある。

 

この本は、25年ほど前に山と渓谷社から出版されたものだ。

その頃のボクは、この本の中に出てくる富山県警山岳パトロールの人たちや、薬師岳方面遭難対策協議会の人たちとよく山で出会い、一緒に歩く機会もたびたびあった。

だから、登場人物の名前はだいたい分かる。

実際に本の中に記されている救助活動の話もナマで聞いた。

山小屋で停滞する時などは、よくそういう話になり、信じられないような遭難救助の実態を知らされた。

吹雪の中、腕を中空に突き上げ硬直したままの遺体や、もう衣服だけが辛うじて残った遺体、発狂したように叫びだす大学山岳部の青年、雪に埋もれたパートナーの横で財布の中のお金を数えていたという女性登山者、稜線から転落死した父の下山を待つ幼い兄弟…

今思い出すことのできる話だけでも、無数にある。

しかし、そんな中で、ホッとさせられた話がひとつあった。

生きとるぞーッ! 救助に向かった現場で遭難者がまだ生きていると分かった時の、何としてでも助けようという思いが遭難救助の原点にあるという話だった。

実際に大雨による黒部源流の濁流の中で繰り広げられた救助活動の話は、よく知っている人たちの体験であったせいもあり、固唾をのんで聞き入った。

救助隊員自身も死と相対しながらの決死の活動だったという。

とにかく山での話は、想像をはるかに超えた過酷さに驚かされる。

 

大好きな太郎平小屋のオヤジ・五十嶋博文さんも、高校を出て小屋の手伝いをするようになり、二十代半ばで山でやっていこうと決めた…と、いつか話してくれた。

日本の山岳史上最大の事故となった、昭和38年(1963)正月の愛知大学パーティの遭難が、そのきっかけだった。

猛吹雪の薬師岳稜線で進むべき方向を誤り、パーティ全員が遭難した。

死者13名。最後の遺体を発見したのがその年の10月。

オヤジさんはまだ新婚だったが、最後の遺体発見まで山を歩き回った。

当時は遭難者の遺体は山で荼毘にされていた。

しかし、荼毘そのものよりも、人がこの美しい山で死ぬという事実の方が衝撃だったとオヤジさんは言った。

そして、それ以降、50年に及ぶ山小屋のオヤジとしての日々の中で、一体何人の遭難者、ケガ人を背負ってきたことだろう。

山には、喜劇と悲劇が同居するとボクは思っている。

楽しいことはとことん楽しい。酒を飲んで陽気に語り合うこともあれば、しみじみと顔を寄せ合い語ることもある。

ひたすら美しく、雄々しく、そして永遠を感じさせる風景の中にいるだけで、どれだけ大らかにいられることか…。

しかし、悲しい出来事もまた待っている。それが山だ。

特に何かを告げたいわけではなく、ただ、新聞やニュースで報道される遭難事故に、かつての想い出話がだぶったという、それだけの話なのだ……

能登の山びとの一端を知る

『山に生きる人びと』(民俗学者宮本常一著)。

少なくともボクにとって、この本には、人が山とのつながりを作っていった、さまざまな過程がきめ細かく紹介されていて、ぐんぐん引き込まれていく魅力がある。

信仰、狩り、杣から大工、そして木地、杓子・鍬柄づくり、落人村、鉄山師、炭焼き、などへと、人が山を仕事の場にしたり、生活の場にしていった話は尽きることがないみたいだ。

普段何気なく見ている山里の風景の中にも、そういった時空の匂いがプンプンしている。

山は動かないし、それほど大きく形を変えることもないから、平凡にも見えるが、そうであるからこそ、心を静かに燃え上がらせるパワーを感じる。

ところで、この本の中に、わずかなスペースしか割いていないが、石川県能登半島の南山というところで聞いたという話が記されている。

それは、近くの山で鍬の柄を作るための木を探し、それを売ってわずかな現金収入を得ていたという人たちの話だ。

 

『…… そこは貧しい村であった。生産力が低いからである。一年間かかって適当な木を見つけてつくっても、二〇〇本をこえることはむずかしかった。それを一年に二回ほどひらかれる海岸の正院の市へ持って売るのだが、それが一年中の主要な金銭収入だったのである。生産力の低さのためにろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋に入れてたいていると隣りの家からやってきて、

「ブリの匂いがするが、ブリの頭を買ってきたのか、一とおりダシを出したらかしてくれまいか」

とたのむ。するとその頭を隣家へ貸してやる。隣家ではそれをおかずのなかに入れてたく。その匂いをかいで、そのまた隣りの者が借りに来る。そうして三軒もの者がブリの頭をたくと、頭はこなごなになって骨だけがのこったものであるという。魚を食べるといってもその程度のことが一ばんごちそうであったという。……』

 

いつ頃取材された話なのかは、詳しく読みとれない。

しかし、この本は1964年に刊行されており、1907年生まれの宮本常一がずっと取材調査してきたことが綴られているわけだから、明治以降、戦後のことと言ってもおかしくはない。

鍬は今でこそ鉄の刃(正式には、床と呼ぶらしい)が付いていて当たり前だが、鉄が貴重な頃は、木の板が普通だった。

この話に出てくる鍬というのも、まさにそれなのだが、面白いのは、木の枝が柄になり、その枝がくっ付いている幹の一部を削り出すことによって、そのまま鍬の形にしてしまうやり方もあったということだ。

つまり、幹からいい角度で伸びている枝があったら、そのまま幹の適当な部分を抉り取り、枝も適度な長さに切って、それなりに処理をすれば鍬になったということだ。

ここに出てくる南山の人たちというのは、そのような鍬になる木を山から探し出し、市で年に二回ほど売っていたということなのだろう。

ところで、南山なのだが、これはボクの知る限りのことだが、現在の能登町、旧内浦町にある南山のことだろうと思う。

正院は、珠洲市正院のことであると思っている。

 

この本の中では、落人村の章の中に非常に面白い話があった。

特に、山里の奥にさらに小さな集落があり、その集落からさらに奥に一軒だけ家があったりするという光景は、ボクもかつて目にしたことのある不思議なものだった。

最近は、道路がやたらと多く造られ、そんな一軒家がその道路の近くになったりして不便さはなくなるケースもあるみたいだが、元来、そこにたどり着くには相当な時間を要していたはずだ。

そして、不思議なのは、そんな一軒だけの家は広い敷地の中で、大きな構えの立派な造りになっているということだ。

墓なども家から少し離れた場所にあって、小さな盆地状の土地が、静かな桃源郷のような印象さえ持たせたりする。

ボクは現実に、能登のそういう場所を知っているが、旧富来などの山中には驚くようなところがある。

昨年、旧門前で「いしる」を造っている人の話を聞いたが、昔は、いしるが出来ると、夕方背中に担いで山越えし、翌朝山中のお客さんに届けたという。

女の仕事であったというが、夜歩きとおして、旧富来の山中の集落に着いたらしい。

そこにも山中に一軒しかないお客さんの家もあったと聞いた。

詳しいことは分からないが、興味だけはひたすら湧いてくる。

 

かつて、富山の有峰の人たちの話を聞いたことがあるが、かなり次元を超えたものを感じた。

祖父が熊撃ちだったという人の話には、自然の中で生きるというよりも、自然に生きるという“生き方”を教わったような気がした。

ただ、言葉では理解できても、それ以上の域には当然行けるはずもなかった。

 

この本と対をなす『海に生きる人びと』という書が、同年に出されているらしい。

次は、それにチャレンジしてみようと思っている……

風邪の日の雑想と宮本常一

二月に入ったばかり、そのアタマから不覚にも風邪の餌食になってしまい、三十九度の熱を出してしまった。

そのために仕事にも行けず、自宅で隠遁中なのである。で、ハッキリ言ってヒマ…

朝、九時から始まる近くのC谷医院に三十分前から押しかけて、ひょっとすると、あのインフル…なんとかというやつではないかと先生に迫ったが、朝になって熱が三十七度後半にまで下がっているから、今のところ陰性とのことだった。

もちろん、鼻の穴にあの奇妙で怪しい物体が入れられ、なかなか鼻出んなあ~と、入れたり出したり数回往復させられたが、とにかくあの物体には参った。涙が滲んで仕方なかったのだ。

それにしても、今のところとはどういう意味なのか?

なんでも、また三十八度を超えるようになったら、すぐ来なさいと言う。再検査で、陽性になることもよくあるのだと。

実は、その一週間前にも腸炎を起こして先生に診てもらったばかりで、その時も風邪から来てるなと言われていた。

それに、風邪には全くもって完璧に縁のない存在だと思っていた、N良野マキ女史も先日それらしき魔物に取りつかれたという噂もあった……

ところで今回も思ったのだが、先生はここのところ見ていると、あまりヒゲをきれいに剃っていない。

面倒臭がりなのだろうか? こちらとしてはそういう先生の方が親しみがあっていいのだが…

薬をもらって医院を出たのが、十時少し前、凍結した路面に気をかけながらクルマを運転し、家に戻った。

すぐに横になる気にもなれず、ジョン・アバークロンビーの「OPEN LAND」を流しながら、宮本常一著「山に生きる人々」を読む。

何を聴こうかと迷ったが、何となくこういう時は、アバークロンビーになることが多い。なぜなのかは、自分でもよく分からない。

医院の駐車場や、待合室でも「山に生きる人々」は読んでいた。この本は、実に今のボクの心を捉えている。

企画屋兼野外活動家兼南米音楽及びジャズ愛好家である、友人のA立クンなどは、

「今までナカイさんが、宮本常一を読んでいなかったというのが不思議でありますナ…」

と、太い首をやや斜めにかしげたくらいに、ボクにとっては興味深い存在であったのだが、とにかく読むべく本が山ほどあった時代に、宮本さんにまでは手が伸びなかったということだ。

で、何がボクの心をつかんでいるかなのだが、それはひとことで言って、素朴な実録であることだろう。

当たり前と言えば、当たり前だが、やはり自身の足で全国を歩き取材してきた話は、ドラマチックで想像をかきたてる。

それに一九六四年に刊行されたという、この本の歴史性も惹かれる。

二十代から三十代の頃、異様なほど関心を持っていた旅紀行の読み物も思い出す。

その頃ボクは、司馬遼太郎の「街道をゆく」や、NHK出版局の「新日本紀行」「知られざる古代」などのシミジミ紀行モノから、椎名誠らに代表されるドタバタ紀行モノにいたるまで、何でも手当たり次第に読み耽っていた。

上高地の話でも書いたが、そんな中でも、山で暮らす人たちの歴史や生活には、なぜか強く興味が湧いた。もちろん現代においても、山里の風景には不思議と心が惹かれる。

 

しばらく鼻水の垂れるのも忘れて没頭していると、屋根雪の落ちる音で我に帰った。

うちの屋根は、このあたり半径五キロ周囲の中でも有数の勾配かも知れないので、雪が落ちる勢いもかなり激しかったりする。

今日は、太平洋側でも積雪があったとか。

それにしても、東京に雪が降った時には、民放テレビの朝の番組はほとんど首都圏の鉄道の遅れや、路面凍結などで時間を割いていた。

上越や東北の豪雪についても、ぬくぬくとしたスタジオの中で、アアだコウだと軽薄なことをコメンテーターたち が話している。

震災の時もそうだったが、なんかシックリこない。

 

しばらく風邪ひきオトッつァんであることを忘れていた。何となく、朦朧としてきてもいる。

C谷先生は、鼻はあまり出とらんなあ~と言っていたが、ボクにとっては、これだけ鼻水を意識するのはめずらしいのだ。

コーヒーでも飲むかと立ち上がると、加湿器が朝から気合を入れて頑張っていた……

 

ヤマケイと山人の歴史を読む

今しみじみと、わずかにしたり顔をしながら読んでいる本がある。

『山と渓谷1.2.3復刻撰集』という、ちょっとマニアックで厚めの文庫だ。

ご存じのように、『山と渓谷』というのは日本の由緒正しい山岳専門誌のことである。山に興味のない人でもその名前くらいは知っているだろう。そんな雑誌であるから、山に興味のあるボクのようなニンゲンにはとても大切な存在でもあった。

過去形で書いているのは、二十代の中頃から続けてきた購読を、数年前にやめたからだが、その存在の大きさは変わっていない。もちろん立ち読みなどでのチェックは欠かしたこともない。

以下、愛称の「ヤマケイ」で行こう…

この文庫本は、ヤマケイの創刊号、つまり第一号から第三号までの掲載内容を、文庫に再編集したものとなっている。

ヤマケイ創刊は、一九三〇(昭和五)年五月。二号は七月、三号は九月に出ている。

その時代に出版されたものを複写したのがこの本で、印刷の汚れなどはそのまま。書体も時代を感じさせるものだ。当然それぞれの文体や言い回しなども時代がかった味がある。

そんなノスタルジックな印象もいいのだが、やはり何と言っても凄いのはその内容だ。

昭和初期の山での滞在記や紀行。思いを綴ったエッセイ。ようやく誕生し始めた山小屋に関するレポート。さらに山に関する出版物の書評など、まとめて言ってしまうと今とそれほど変わってはいないみたいだが、やはりその内容が実に激しくいいのだ。

創刊号の冒頭に、発刊の「信条」が書かれている。

“要は「正しきアルピニズムの認識」を前提として真面目に「人と山との」対象を思索して行かねばならぬと信じます。”と…

当時の山岳界の在り様や、山を愛する人たちのさまざまなアプローチなどが語られ、昭和初期にしてすでに、これほどまでに登山は人々に親しまれようとしていたのかと驚かされる。

昭和の初めというと、もうすでに当時の近代登山が隆盛を極めていて、大学山岳部や一般社会人の山岳会の活動は活発だった。

当時の紀行の中に、たとえば甲州の山へと向かう人たちを乗せた新宿駅発の列車がいっぱいであることが記されていたりもする。

それ以前の信仰登山と違い、登山は文字どおり登ることそのものに意味を見出すようにもなっていた。

たとえば、冬季の山ではスキー山行なども行われていた。当時の大学生たちには、それなりの家庭に育った者が多かっただろうし、山に入れることはそれなりにステータスを持っていたことが分かる。

この本の中にも出てくるが、厳冬期における初登頂を競い合う大学山岳部のそうした活動は、時として互いに登攀技術や安全のための重要事項をオープンにしない動きに流れていったのだろう。

ヤマケイは、そういうことを広く一般に広めるためという目的をもって発行されたとある。また、さまざまなスタイルで山を楽しむ姿勢を、ニュートラルに受け入れる柔軟さも示している。高価な書を入手できない登山者たちのために、廉価で山の情報を提供するという目的も持っていた。

ところで、こういう読み物に接していると、いつも不思議な思いに流されていく。

それは、山という厳しい世界の中での人間の感覚と、使われてきた道具類の進化についてだ。

たとえば厳冬期の山行における道具類、さらに山小屋の安全性など、この本の中に記されている時代の人たちは、なんと大らかにそれらを享受していたことかと感心させられる。

そういうものしかなかったのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そうであったが故の強靭さやのどかさにホッとしたりもする。

黒部渓谷を歩きとおし、その成果を世に紹介したことで有名な冠松次郎が書いた北アルプス蓮華岳付近の山小屋での話などは、完璧に痛快で面白い。

十月の山小屋で寒さに震えながら眠っているうちに、屋根がめくれたのだろうか、天井から雪が入ってきて、そのうち部屋のあちこちに白い雪が砂糖のように積もっていく…。

“蒲団の上食卓の上を嫌はずに降り積る、雪を掃くのがまるで粉末でも掃き落すよう溶けないだけ始末がよい。”と、こんな調子だ。

そして、そういう状況にありながらも、蒲団に入って寝ていられることを彼は喜んでいる。

今ではそんな山小屋の存在も考えられないが、冠氏はさらにその後も、外に出てその雪の中に大便をするなどした話につなげている。大便が雪の中に沈んでいく時の表現は完璧すぎて、ちょっとここでは書けない……。

また冬季の上高地・徳沢あたりをベースにして行われる、涸沢や岳沢あたりでの大学山岳部のスキー山行記などを読んでいると、ボクなどは当時の道具類でよくそこまでやれるものだと驚いてしまう。

最も驚くべきは、単純に寒さに対する強さなのかもしれないと思ったりもする。

それほど本格的ではないが、自身のわずかな雪山体験からも、温度計の赤い棒が下にめり込んでしまうような寒さの中では、もうかなりニンゲンは消耗してしまうものだと実感できる。

雪と共に突風が吹き荒れ、身体の体温が一気に下がっていく感覚は今も昔も変わらないだろう。

あの時代の人たちの使っていた道具類は、今とは比較にならないほど寒さなどに弱かったはずだ。スキーのビンディングにしても安定感は乏しかったろう。ブーツは皮だろうし、それに何と言ってもウエアなどは、今とは全く比較にならないものだったはずだ。ブーツの中の指先が冷たくなっていく感覚など、今の時代ですらも当然感じるものだ。

そういった当時の状況の中で、山そのものを、そして山にいる時間を愛する人たちの行動や思いが、この雑誌に込められている。

ただ、そういう厳しい山行の記録ばかりが綴られているのでは当然ない。

富山生まれで、ふるさとの山を愛し、多くの書を残した田部重治氏が綴る「山の想い出」という短い文章からは、のんびりとした山そのものを楽しむ思いが伝わってくる。

幼い頃から見上げていた立山連峰など、山の存在が氏の生き方そのものを形作っていることを教えてくれる。山を歩くことが至福の時間であることを、氏は素朴に伝えているのだ。

余談だが、ボクの大好きな太郎平小屋に掲げられている表札の文字は、この田部重治氏の書だ。

 

まだ、完読していないが、この本に綴られている話を読んでいくと、いつも山のことを考えていた自分を思い出した。

街を歩いていたり、クルマを運転していたり、どんな場面でも山のちょっとした情景を思い出せるチカラ?が、ボクにはあったように思う。

森林の中のぬかるみ、縦走中の岩の上、木道のちょっとした滑り具合…。雨降り、強風、雪、そして抜けるような濃い青空。それらがいとも簡単に蘇ってくる。

足の裏や、手のひらなどに山での感覚が再生される。さらには行ったこともない山のことも想像できた。

山小屋のテラスやベンチで、ただボーっと眺めた景色は、どんな季節でも、ひたすら美しく浮かんできた。

そして、もともとが歴史好きのニンゲンだったせいもあり、山の世界でもその歴史的な匂いをいつも嗅ぎまわっていたように思う。

山は近代登山によって開かれたのではなく、先にも書いたが、信仰や、林業、イワナの採取など、その目的はいくつかあり、近代以前から開かれた山は数多くあった。

何度か書いているが、もともとボクが山を登るきっかけとなったのは、社会人になった一年目の梅雨真っ盛りの頃に連れて行かれた剣岳山行である。

土砂降りの中、川のようになった早月尾根の道を登って当時の伝蔵小屋(現早月小屋)に入り、翌朝も悪天の中、剣の岩場で情けない思いをしながら、何とか登頂を果たした。

その時に残ったもののひとつが体力に対する自信だった。

その後、北アルプスに頻繁に出掛けるようになり、体力任せのコースタイム破り山行に楽しみ?がシフトしていく。ただそれだけなのに、山でやれる自信は相当に深まった。

しかし、その頃本当に山を好きになっていたのかどうかは、今でも分からない。いつも登りながら、辛い、苦しい、なんでこんなことやってるんだろ?と、そんなことばかり考えていたような気がする。

山の本当の楽しさを知ったのは、薬師岳・奥黒部方面に出掛け、太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんと出会えたことによる。

山をゆっくり登る。山でゆったり過ごす。適度に酒を飲む。ボーっとできる自分だけの場所があれば、頂上などどうでもよくなった。

 

『山と渓谷』を購読し始めたのは、その方面への関心が高まった二十代の中頃だった。

音楽をはじめとして、スポーツや文芸、歴史・自然紀行まで含め、これまでいろいろな雑誌を購読してきた。立ち読み型のものまで入れると、その数はかなりになると思う。

その中でこの雑誌は、ロングラン購読のひとつだった。

そして、ボクにとってヤマケイは、自分の文章で直接原稿料というものをいただいた最初の出版物でもある。2ページほどの紀行エッセイを三度掲載させてもらっている。

そんな意味でも、ボクにとってやはり大切な存在なのである。

ところで、この本の栞として使っているカードは、少し前に知り合った元ヤマケイスタッフだという某氏からいただいたものだ。

上高地のインバウンド情報が詰め込まれたカードだ。外国人向けの多言語情報が入っている。

ますます、山の世界にも新しい仕組みが導入されている現実を、この古い本を読みながら実感しているのだ……

辻まこと~というヒトがいた

辻まことを知っていますか?

 と聞いて、すぐさま知っていると答えた人はほとんどいなかった。別に知らなくても日々の生活に困ることはないので心配ないのだが、ボクの場合、二十四年も前に知ってしまったおかげで、随分と幸せな気分にさせてもらった一人である。

 1987年の『山と渓谷』12月号。「辻まこと」がその中で特集されていた。

 画家であり、グラフィックデザイナーであり、詩人であり、エッセイストであり、ギタリストであり、山歩きの達人であり、イワナ釣りの名人であり、山岳スキーの名手であり……と、さまざまに紹介されていながら、そのどれもが奥義を究めたものだったと言われる辻まこと。

 何とおりもの人物像をもちながら、どの分野においても強烈な印象を与えていたと言われる。

 1913年に生まれ、75年に他界。父は放浪癖の翻訳家として知られる辻潤。母は婦人運動家であり、潤と離婚したのち、無政府主義者・大杉栄と同棲し、後に関東大震災後の戒厳令下、大杉と共に虐殺された伊藤野枝である。日本史をちょっと深めに勉強した人なら、聞いた覚えはあるだろう(甘粕事件)。こんな話はボクにとってどうでもいいことだと思ってきたが、やはり辻まことを知る上で重要だった。

 三歳になる前に両親が離婚したまことは、父のもとにおかれるが、父が放浪していた間は叔母に養われた。15歳で父とパリに滞在。当時から絵描きになりたいという思いを持っていたが、ルーブル美術館を一ヶ月間見て、すっかり絶望的になったという。

 帰国した後は、昼働き夜は学校という生活になったが、その学校も中退。デザイン関係の仕事に就いたりもした。

 そしてその間、どういうわけか竹久夢二の次男・不二彦らと金鉱探しに夢中になり、東北や信越の山々を駆け巡ったという。このことが後の山歩きの達人の素養を作った。

 大戦中は東亜日報の記者として中国に渡ったが、後に徴用され報道班員として従軍している。

 辻まことが、その所謂“辻まこと”的イメージを作り始めるのは、戦後、奥鬼怒や会津、信州などの山々に入るようになってかららしい。スキーも習得して活動フィールドを広めた。スキーはフランスのアルペン技術を研究し、国内の大会で入賞するまでになった。

 フリーのグラフィックデザイナーとして多くの雑誌広告を手掛けるようにもなり、さらに画文を発表したり、個展を開くなどの活動を続けてきたが、72年、59歳の時に、胃の切除手術を受け、療養生活の中での創作をなおも続けながら、75年、62歳でこの世を去っている。

 辻まことを知った当時、ボクは結婚していたが、それでもまだ山への憧れを強く抱く非日常志向型のニンゲンだった。

 北アルプスの麓・富山の山男たちと一緒に活動していたせいもあって、周囲にはヒマラヤや北米マッキンリーなどを登ってきた豪傑がいた。山岳パトロール隊や山小屋のおやじさんなど、山の生情報がいつも耳に入ってくる環境にいたのだ。

 しかし、ボク自身が極地まで足を踏み込むような野望をもっていたわけでは当然なく、ただひたすら山でビールでも飲みながらのんびりできればそれでいいか…みたいな感じだった。

 そんな時に辻まことと出会った(知った)ことは、ボクにとって幸い?でもあった。時代が違っても、心置きなく山を楽しむ心が、辻まことの発するあらゆるものにあふれていて、ボクを勇気づけてくれた。それ以前の、椎名誠や沢野ひとし等が繰り広げた山紀行なども大好きだったのは言うまでもない。

 その7、8年ほど前からだろうか、ボクは単独で山に入るようになっていたが、山のスタイルにはこのマイペースが最も相応しいと思うようになっていた。別な角度から言えば、それまで一緒に山に入っていた親友が、仕事が忙しくなり同行できなくなっていた。それまでドタバタ山行を繰り返してきたニンゲンが、独りでドタバタできなくなったということでもあったのだ。

 辻まことの絵は、ボクにとって温かい。専門的なことは分からないが、とにかく無性に温かくなって心が逆にざわめく。文章もさり気なく、温かみが増し、さらにざわめきを憧れに変えていく。

 描(書)いている本人の、いかにも楽しそうな雰囲気が伝わってきて羨ましくなってくる。

 タイトル写真にある『山からの言葉』という本は、ボクにとって大切な一冊だ。

 山岳雑誌の表紙の絵と、巻末に書いていたコラムを一緒にした素晴らしい本である。1982年に白日社から出ている(写真のものは平凡社ライブラリー1996発刊)が、辻まことの人生を締めくくる時期に書いた名著だと自信を持って言える。

 この本の中では、自由人・辻まことの一断面を知るに過ぎないが、単に山好きニンゲンたちだけのための面白話と、愉快でほのぼのとする絵の詰め合わせという枠ははるかに超えている。

 それは彼がピークハンター的な登山家ではなく、ポーターや猟師や釣り人などとしても、山と接してきたからに他ならない。絵とセットされた1ページの短い文章に接していくと、何となくそれが分かってくる。ゆったりとして、ユーモアも溢れんばかりだ。

 山でのさまざまなことが書かれているが、そこには「自分の眼でしか物を見ない本当の自由人」としての生き方が感じられる。いや、生き方というのは大袈裟だ。モノゴトのやり方や感じ方、思い方といった程度が相応しい。チカラが入っていない。

 心がざわめく温かさの正体は、そんなところにあるのだろう。

  数奇な少年時代を過ごしていながら、彼には暗さがない。敢えて明るくしていたという見方もあるが、彼はそんな単純な人ではなかったと思う。だから、自分の世界を求めた。絵はプロ級でありながら、敢えてその道一筋の芸術家にならなかったのも納得できる。

「夢中になるためには、相当量の馬鹿らしさが必要だ」と言った彼の言葉の中に、そんなことへの答えが見え隠れしている。

 そして、実際に眼で見るその絵からは、少年のような楽しさへの憧れと、常にユーモアを忘れなかった大人の匂いが漂ってくる。

“森林限界をぬけると、あとは雪と岩と青空だけの世界になる。つまり鉱物の世界だ。これ以上にサッパリして清潔な環境はちょっと考えられない。(中略) 快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持だ”

 山岳雑誌だから、山の話が中心なのは当然だが、雪と岩と、そして「青空」を最後に書くあたりが、辻まことの辻まことたるところだ。やはり、山には青空がいる。そんな当たり前のことを、当たり前のように彼は書いた。

“人は皆、「この時代」に生きなければならないと、あくせくしているようだが、考えようによっては、勝手に自分の好きな時代を選んで生きることだってできるのである”・・・・・・ボクには、この文章が彼にとって、自分の世界のあり方を書いた一節のように読める。

 それが辻まことの世界なんだと、ボクは思う。

 なぜ辻まことを好きになったか?

 それは少年のような心を大人の表現で見せてくれるからだ。時代は異なるが、稲見一良にもちょっと共通すると思ったりする。彼らに共通するのは、大人の中に潜む少年と、少年の中に潜む大人があるということだ。それが“大人のオトコ”なのだと最近思うようになった。

 学生時代、ジャズと映画を語る植草甚一(JJ)の本も好きだった。余裕があるように見せて、実際はひたすら走っていただけだったのかも知れないが、ホンモノって何か?と粋がっていた気がする。そんなに深くもなかったが…

 ところで、今なぜ、辻まことだったのだろうか・・・なのだが、それは、とりあえず・・・ヒミツとしか言いようがない………

『 あてのない絵はがき』

『多摩川探検隊』

 

 

 

秋はまだ始まったばかり

某ショッピングセンター内の書店で面白そうだと手に取った一冊の本。チラチラと読んでいくと、予想どおり面白い。立ち読みは辛いので周囲を見回すと、本棚の角、いいところに椅子がある。腰を据え、ほとんど走り読みながらも七割ほどは読み終えてしまった。

談志師匠の最新本(にあたるだろう)だと思う。といっても、去年出た本だ。帯にもあるが、買うのはよしたほうがいいと言っているので、とにかく走り読みに徹しようと思っていた。しかし、三割を残して制限時間いっぱい、店を出なければならないこととなった。しかも走り読みだから、中身ももうひとつ体にというかアタマにというか沁み込み方が足りないまま・・・

帰ってから飯を食っていても、歯を磨いていても気になり、寝床に入ってからも気になっていたので、ついに我慢できなくなり、翌日、某デパート内の書店で買ってしまった。本はやはり自分のものにして読むのがいちばん。かつては本とレコードと洋服、そして山の道具と小さな旅のために金を使ってきた。今は少ないが、本のためにいちばん金を使っているかもしれない。

買ってからじっくりと二回読んだ。「やかん」というのは落語の題目だが、『世間はやかん』というタイトルは単なるゴロ合わせだろうか。全編にわたって、長屋のご隠居と住人・八っつあんとの対話形式で進んでいく。べらんめえ調の文章だから、読み方もべらんめえ調になる。内容は一言で言っていい加減。しかし、そのいい加減さが徹底されて、そこに真実が見えてくる・・・と言えば大袈裟か? とにかく立川談志の世界なのである。

短いジョークがいい。ひとつだけ紹介すると・・・

「ねえ、おにぎり恵んでくださいよ。ここ三年ばかり、満足にコメの味、味わってェないんですよ」 「心配するな、変わってねぇから」

おまけに、もうひとついく。

「お前はいつも電話が長いね。一時間二時間平気で喋ってんだから。でも今日は短かったじゃないか、三十分だったよ。だれだったの、電話?」 「間違い電話」

まあ、こんな具合にというか、矢継ぎ早にジョークが弾んでいく。弾け砕けながらの約二百ページだ。

去年だろうか、NHKの夜のラジオ番組にレギュラーで出ていた談志師匠は、声もやっと出るくらいの調子で、言っていることはおかしくてたまらないのだが、言葉少なで可哀想だった。

一九三六年生まれだから、もう七十五歳。若い頃は正直言って、どこか憎たらしい感じもあったが、今では自分も談志師匠とほぼ同類科に属しているような感覚にもなっていて、大いに親しみを感じているのだ。

そんなわけで秋の始まりを感じている。

秋晴れの午後、いい気分で、お向かいの津幡町にある森林公園へ歩きに出かけた。しかし、コース選択を間違えて予定をはるかに上回る時間を要してしまった。山で鍛えられたから普通ならそれくらい平気なのだが、歩き始めが遅かったので、駐車場の閉鎖時間に間に合わないかと焦ってしまった。

原因は、サイクリングロードを歩いたからだ。道は舗装されているが、歩行コースよりははるかに長い。当たり前だが、そこを歩くということは時間がかかるということだった。

冷え込み始めた山間の向こうから、超低質なスピーカーをとおして『蛍の光』が聞こえていた。最初は重機の異常音かなんかだと思ったが、よく聞いていくと『蛍の光』だと分かった。ただ、分かってからは焦りが増したのは言うまでなく、そのおかげもあってか、何とか駐車場にたどり着くことができたのである。

しかし、音響システムも悪いが、案内システムもよくないのではないかと思ってしまった。現在地が分からない森は、慣れない人にとってパニックになる恐れがある・・・と、思う。

森林公園には「どんぐりの道」というエリアがある。まだ九月の下旬、道にはぽつぽつとどんぐりが落ちていたが、まだまだ半熟状況で、大きさも色ももうちょっとといった具合だった。

それよりもどんぐり以上に目立ったのがカマキリだ。いたる所に待ち構えていて、アスファルトの路上まで危険な狩りに出ていた。中には蜂をカマに刺した雄々しいのもいて、秋の勇者は健在だった。ただ数があまりに多くて、「どんぐりの道」よりも、「カマキリの道」にした方がいいのではと、余計なこともついでに考えてしまったのである。前にも書いたことがあるが、ボクはカマキリが好きだ。木板張りの我が家の壁にも、カマキリたちは卵を産む。そして、そこから無数の子供たちが巣立っていく。

若いファミリーが歩いて来て、若いお父さんが一匹のカマキリを捕まえた。小さな男の子に、これが本当のカマキリだよと見せている。本当のカマキリとはどういう意味なのだろう? ちょっと考えたが、面倒臭いのでそのまま考えるのをやめた。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

空も秋になりつつあった。帰路、河北潟干拓地の道から内灘の空が赤く染まっているのを遠く眺める。中空に雲が薄く浮かんで見えて、何か爽やかで尊いものを見ているような気持ちになった。

砂丘の公園にある展望台に向かい、その階段を昇った。内灘の海に落ちていく太陽を追って、多くの人がやって来ていた。皆が海の方を向いている中、ボクは反対側に見える北アルプス北部の山並みに目をやっていた。剣岳がごつごつした山容をくっきりと浮かび上がらせている。そう言えば、来月は薬師岳の閉山だったことを思い出した。

夏や冬は焦るが、秋は焦らないで過ごせるからいい。談志師匠のスタンスで、今年の秋はやり過ごしてみようかと思う・・・・・・

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

稲見一良… オトコ、そして少年のこころ

稲見一良という作家の存在は、広く知られているというわけではないだろう。だいたい、「一良」と書いて「いつら」と読むこともめずらしく、ほとんどの人はそのとおりに読めないに違いない。知っていればこそ読める名前なのだ。

ボクと稲見一良との出会いは、もう二十年くらい前になる。神田・三省堂本店の一階フロアで手に取った一冊の本から、ボクにとっては稀なケースと言える付き合いが始まった。

その本が『ダック・コール』である。タイトル写真にあるのは文庫で、ボクは当時出たばかりの単行本を買って、すぐに近くの喫茶店に入り、そのまま出張帰りの新幹線の中でも読み耽った。特に買おうと思った理由というのは、その中の第一話『望遠』の出だしに気持ちを奪われたからだ。

“ 腕時計のアラームが、フィルムの空缶の上で躍るように鳴った。若者は、たった今まで熟睡していたとは思えない素早い動きで、寝袋から腕を伸ばしてアラームを止めた。「四時半」若者は夜光の文字盤を読み、頭をおこしてまずカメラの方を見た。ゆっくりと起きだした。…………………”

ボクの頭の中でもアラームが躍るように鳴っていた。そして予感は予感を呼び、これは絶対に面白いと、ボクは勝手に決め込んでいた。やはり予感どおりだった。そのストーリーはボクの単細胞にストレートな衝撃を与えた。

まだ一人前とは言えない映像カメラマンの若者が、大プロジェクトの中のワンシーンの撮影を任される。それは、三年前に撮影されたと同じ月日、同じ時刻の日の出を撮り、街の変貌を伝えるという内容の企画だった。そして、若者の仕事と言うのは、絶対動かしてはいけない固定されたカメラのスイッチを単に入れるだけのことだったのだが、若者はその直前にカメラの向きを変えてしまう。若者が向けたカメラの先には、幻の鳥と言われる「シベリヤ・オオハシシギ」がいた……

プロダクションの中などの人間模様と、正義感や理想に燃える純粋な若者との葛藤もそれほど濃くもなく表現されており、この話は圧倒的にボクの胸を打った。こうして、一応ボクと稲見一良との付き合いは始まったのだが、どんどん読み続けていくと言うほど作品はなく、断片的な付き合いだったと言える。

それから何年かが過ぎた頃のこと、いつもの香林坊YORKで、マスターの故奥井進さんから一冊の本を見せられた。これ面白いよと言ってカウンターに置かれたのが、なんと『ダック・コール』の文庫本だった。ボクの記憶では、三省堂で買って帰った後日、ボクはたしかに奥井さんにその本を見せていたと思う。奥井さんとは、ほとんど互いに読んでいる本のことは知っていたはずだった。

ボクはすぐに、その本のことを話したが、奥井さんは覚えていなかった。ただ、同じ本を奥井さんがボクに勧めるなんて、やはり共通の好みがあるなあと嬉しくなったりもした。

そして、その後、奥井さんもボクも、稲見一良の本を何となく気が付いた頃になると読んでいたということを繰り返していく。

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稲見一良の物語には、大人の男の世界に少年の世界が深く沁み込んでいて、読んだ後夢を見ていたような気持ちになったりする。どこにそれを実証するものがあるのだろうと現実を考えたりするが、それは当然創作であり、幻想の世界でもあるのだと納得しながら楽しまなければならない。

たとえば、『セント・メリーのリボン』に収められている『花見川の要塞』という物語には、現代から戦時中へとタイムスリップしていくカメラマンの話が綴られているが、その非現実性は、まさに少年の心があるからこそ受け入れられるものだ。かつて敷かれていたという軍用列車が、深夜、白煙を上げながら夏草や蔓に被われた現在の花見川の土手に現れる……。

どこかで聞いたような話ではあるが、稲見一良のストーリーには、自然風景はもちろん、銃や機関車やカメラなどの詳細な解説・描写が絡み、どんどんと読者をリードしていく何かがある。好奇心を煽るような、ウキウキさせてくれるパワーに酔わされていく。

『花見川のハック』という同じ花見川の名を冠した短編があるが、ハックという冒険好きで、正義感が強く、そして心優しい少年が、花見川でアヤメという少女と出会い、最後はお婆ちゃんが待つ京都へ旅立つという話だ。なんの変哲のない話に見えるが、ハックとアヤメはゴンドラに乗って京都へ行く。そのゴンドラを運ぶのが、なんとナス(野菜の)なのである。面倒なので詳しくは書かないが、そんな結末を聞かされると、かえって読む気も起きなくなるかもしれない。しかし、実際読んでいくと、これがまた実に楽しくなり、嬉しくなっていくから不思議だ。

このような世界こそが、ボクにとっての稲見一良の素晴らしき世界なのだ。自然や趣味や男臭さや少年の心や、空想や理想や夢やこだわりやと、とにかくたくさんのものが凝縮されている。

稲見一良の世界から、ボクは多くの記憶を蘇らせることができた。

十歳くらいのことだろう。裏の雑木林の斜面を登った所に、木の板で組んだ隠れ家みたいなものを作り(作ってもらったのかも)、そこで漫画本を読み、お菓子を食べ、そして友達が家から持ってきたタバコを吸ったりしていた。クワの実やグミなどを採って来ては、そこでみなで食べた。

砂浜に埋まっていた不発弾を掘り起こし、三人がかりで抱えて友達の家の裏に埋め、自衛隊が回収に来たこともあった。自慢したくて学校で口が滑ってしまったことがボクたちだけの大騒動につながった。もちろん、もし爆発の危険性があったら、ボクたちだけの大騒動で済んでいなかったのだ。

カモの子を河北潟かどこかで生け捕りにし、使われなくなった鳩小屋に入れて飼おうとした。そのカモに餌として与える虫などを、必死になって採りに行っていたことなども鮮明に思い出した。音楽やら映画やらいろいろとませたことも身につけていたが、こういう遊びは絶対的な事としてなくなることはなかった。

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本当は最初に書くべきことなのかも知れないが、稲見一良は自らが癌に侵されていることを知ってから、敢えて作家になったという稀な人なのだ。一九八五年に発癌しデビューしたとのことだ。そして、その後一九九四年に亡くなるまでの短い作家活動で、稲見一良の独特な世界を作り上げている。

ボクは今、稲見一良のファンであると公言できるが、これまで本当にそうであったのかというと、正直どこかに単発的なファンみたいな自覚しかなかったように思う。しかし、今年に入ってから、再び無性に稲見一良の作品、いや物語を読みたくなった。

何がそうさせたのかは分からないが、自分自身を純粋に見据えていくためとか、自分の素性や血を知るためとか、どこかそういうものに近い何かが自分を動かしたように思う。

少年、男気…。自然、夢、憧れ…。趣味、余計な気苦労…? そんな青臭い何かが、やはりどこかに生きていないと、ニンゲン、特に男はダメなのではあるまいか?

そんなところまで考えてしまっているのである………

たけし氏の“振り子理論”に励まされ

「yomyom」19号は、北野武氏の冒頭エッセイがスタートダッシュをつけてくれた。それ以降はいつものように毎夜数ページずつの“牛歩型”本読み状態になったが、出だしの爽快さはあとにいい流れを作ってくれる。

ところで、北野武氏(以下、たけし氏とする)は、ツービート時代から崇拝していた人物の一人だ。が、今は辛うじてTBS土曜夜の『ニュースキャスター』などで見るギャグタイムでしかその名残を確認できず、ボクにとってはかなり物足りない。例えばあの番組も、そのために見ているようなものだ。司会の安住アナとの息がいい具合に合っているのは、二人が明治のOBだからだろう(と、勝手に思ったりしている)。

あの二人は異質なものがいい感じで絡み合う理想コンビのひとつである。ボケに対して朴訥に、諭すように話していく真面目な突っ込みは心地よい響きを持っていたりする。微笑ましくもなる。

ついでに書くと、もうひとつのパターンである、やたらと気が短く、ボケに対してひたすら怒鳴りながら突っ込んでいくタイプもいい。最近見なくなったが、トミーズの掛け合いなどは最高に好きだった。涙が出るくらいに嬉しくなったりする。もっとやれ、もっとやれと煽りたくなる。ダウン・タウンも漫才屋だった頃はそれに近かったが、突っ込みの方が妙に利口ぶるようになるとウザくなっていく。

漫才の話になったので、もう一つついでに書くと、リアルキッズはいったいどうなったのだろうか。老成した天才少年漫才は、他を圧するおかしさと大らかさに満ちていたのだが、もういい大人になって“普通”になってしまったのだろうか。彼らの消息も知りたい。あのボケの方は、とてつもない逸材だったと思っている…

そんなことはとりあえず置いといて……だ。たけし氏のエッセイのタイトルは『本が誘う、本屋は遊郭』となっていた。

その内容は、『書店の中を歩き回って、普段興味のなかったような本を手にする。思わぬ本との出会いもあるし、なんだこの馬鹿な本、こんなものを買うやつがいるのか、なんて茶化しながら見て回るのが、またいい。』といったものである。

そんなこと自体にも共感したりする部分は多いのだが、書き出しにある、『おいらには「振り子理論」という考え方があって、バカな事と知的な事を振り子の様に行ったり来たりしているんだ。』というあたりには、もっと腹の底から共感した。頭のてっぺんに、何かがピリピリと走っていくような快感も味わった。

知的とかという表現にはちょっと違和感を持つが、言わんとすることは大いに理解できる。ボクとしては、さすがたけし氏はいいこと言ってくれるなあ…と、両手を合わせそうになった。実にいいタイミングであった。

 というのも、最近というか、一昨年の終わり頃からボクはかなり迷走気味なのである。自分の在り方みたいなものにまで余計な思いが走ったりしている。

たけし氏の「振り子理論」は、そんな迷走状態のボクに対する檄(ゲキ)のように思えて、ハッとした。今のボクにとっての振り子とは、公と私なのである。別の言い方をすれば、仕事と自己(あまり適切な表現ではないが)なのかもしれないが、とにかく振り子のように片方に振れれば振れるほど、もう片方にも大きく振れていく。例えば、仕事にだけ振って、そこでずっと止めておいてくれというのは無理な相談なのだ。

半世紀以上も生きてきて、今更何か自分を変えるようなものを植え付けようとしたところで無理だ。自分の考え方・感じ方があって、それが自分のやり方になってきた。どんな環境になっても、そんな自分のスタンスは根本的に変えられない。

最近自分の目が行き届かなくなって、このままいたら、自分の手から逃げて行ってしまいそうだと感じる“コト”が多くなってきた。さまざまなヒトビト(人々ではない)とのやりとりもそうだし、自分自身の行動もそうだ。

たとえば、昨年の春、金沢主計(かずえ)町のお茶屋さんを舞台にした『茶屋ラボ』という企画をスタートさせたが、結局関わっていく時間が乏しくなり、アタマも体も回り切らずの尻切れトンボになってしまった。自分自身もそうだったが、周りからもかなりの期待や羨望が注がれていたはずだった。特にボクにとっては、これまであまり関わりたくなかった世界だったが、その分また違う新しいものを創り出してみようという意欲もあって、楽しみのひとつにもしていた。まさに振り子の一方側だったのだ。

しかし、世の中そんなにうまくは回してくれない。当てにしていたサポートもいなくなり、今の自分だけではパワーの限界も見えてきた。ただやり過ごしていくしかなく、とうとうというか、やはりというか、この話はボクの手から離れていこうとしている。

そんなことが目に見える形で現れてくるのはまだしも、ボクの中にはまだまだいろいろなことが燻(くすぶ)っている。特に面白いヒトビトとの接点の中で生まれてきたコト(仕事とは直接呼びたくない)には、自分をとことん試してみたい気持ちが大きい。

先日も面白いことがあった。あるお店のリニューアルの話で、オーナーの奥さんの夢を聞かせてもらった。その夢と店づくりとをリンクさせたいと奥さんは考えていた。おどおどしながら、そのことをいつボクに切り出そうか、どういうふうに切り出そうかと考えている雰囲気が伝わってきていた。

ボクはその夢と、自分自身がやれることとの接点を探した。何でもないことだった。すぐに答えらしきものが見つかり、ボクはそれほど筋道を整理しないまま語り出した。語りながら筋道を整理しようという、いつものやり方だった。

すぐに意気投合した。それはまだまだ具体性を帯びたものとは言えなかったが、何となく方向性のようなものだけは示せるものになっていった。つまり商品販売を抜きにした個性的な部分を作るということで、その部分に活かせる特異な趣味の世界が、奥さんにはあるということだった。

ボクはそのことをオーナーにも話し、オーナー自身にもある若い頃の趣味から発展した仕事の世界をどこかで表現しましょうと提案した。それがどういうものなのかはまだ分からないが、少なくとも伝統工芸とは真逆の境地にあるその世界に、絶対面白い何かが潜んでいると思い始めた。これで打ち合わせが一気に面白くなった。ギャグが通じるようにもなった。

ボクの中にあるのは、いつもこうした自分自身の中のエネルギーというか、楽しみというか、そういう類のコトを軸の一部にして考えていくスタンスだ。だから、それらが感じられないと、ボクの仕事ではなくなる。誰か代わりの人に振ってあげればいいことになる。勇み足もしなくて済む。

たけし氏の“振り子理論”は、途中で左右だけでなく前後や斜め左右、斜め前後といった具合に収拾がつかなくなっていったが、それはそれなりに面白く楽しい時間をもたらしてくれた。アッと言う間に読み終えたが、活字を追いながら、ボクは自分が読んでいた活字以上に、自分の思いを巡らしていたように思う。

かつて、たけし氏の「コマネチ!」という研究本みたいなやつを読んだが、その時も思えば、振り子になっていたような気がする。

そう言えば、新幹線の中に忘れそうになり、立ち上がった際、隣の席にいた女子学生風の女の子に声をかけられたことがあった。彼女は体を傾け、ボクの座席の前のネットからその本を取り出すと、渡す前に表紙を目にし、吹き出すように笑った。表紙は、もろ“たけし”であり、“コマネチ”のロゴが踊っていた。

「おネエちゃん。笑っちゃいけないよ…。この本には深くて重い人の世の道が説かれているのだからね……」

……などとは言わなかったが、それに近い顔付きをして、ボクは「ありがとう」と答えた。そして、最後は笑い返した。

たけし氏という超強烈な“風”を得て、久々にボクの“振り子理論”は元気付いた。自信を持って、これからも図々しく振れてやろうと思う。なんか言われたら、「なんだ、バカやろー」と言ってしまえばいいのだから………

八ヶ岳山麓に憧れていた・・・

本棚の隅っこから、また懐かしい本が出てきた。レコードとか本とかはすでにかなり多くのものが手元から離れていて、時々本屋や図書館などで、これはかつて自分が持っていたものだと気が付いたりすることがある。

今回出てきたこの本の存在も、すでに遠く忘れ去られていたもののひとつだった。

著者の加藤則芳氏。ボクより五歳年上の尊敬すべき人だ。

かつて感覚やスタンスの違いを見せつけられ、一種の絶望感とともにこの本を読んでいた記憶がある。今から二十年ほど前のことだ。

そのさらに十年ほど前だろうか、加藤氏は八ヶ岳に移り住み『ドンキーハウス』というペンションを始めていた。

それまで東京の大手出版社に勤務し都会の雑踏の中にいたという、その180度の転換ぶりに、ボクは激しい羨望や嫉妬?を感じていた。当時のボクからすれば、氏はあまりにも簡単に自分のやりたかったことを実現させてしまった人だったのだ。

しかし、氏のことをボクがさらに尊敬していったのは、この本を出した後、人気のあったペンションをさっぱりと止めてしまったことだった。

経営的に行き詰まったというのではない。逆に多くの人に愛されていたペンションだった。その辺りのことは、この本を読めばよく分かる。

ペンション経営自体が、もともと氏の性格には合わず、氏の目的ではなかったということに過ぎない。このあたりも、自分に当てはまる話であると、奥歯で歯ぎしりしながら読んでいた。

氏はその後、八ヶ岳を生活のベースにしながら自然をテーマにした執筆活動を続けてきた(現在は横浜市在住らしい)。

また国内外でのさまざまな自然の場における活動などは、出版ばかりでなく、テレビなどでも広く紹介されてきた。細かいことは書き切れないが、もっと知りたい人は「加藤則芳」で検索してみてほしい。

去年の三月と四月、ボクは久々に八ヶ岳山麓に足を運んでいた。といっても、甲州市の友人と会うために出掛けた際、ちょっと立ち寄ったというくらいの滞在時間で、しかも清里周辺の超安全地帯をぶらぶらしただけだった。

清里周辺は両日とも雨や雪が降っていた。気温も低く人影も少なかった。特に清泉寮のあたりは全くと言っていいほど人の姿はなく、個性的な木工品が並ぶショップの中を遠慮がちに歩いてきた。夏の賑わいが嘘のような静けさだった。

遠望の山々も霞む中、小海線の清里駅にクルマを止め、日本の最高地点を走る車両を見ようと思った。

かつて日本で最も標高の高い駅である野辺山駅に立ち寄り、入場券を買ってホームに入った時のことを思い出していた。

列車が来ると、何気にその列車の写真を撮った。特に鉄道ファンでもなかったが、その時に見た列車はそれまでに自分が見てきたものの中でも深い印象として残った。

夏のきつい日差しの中で、熱を帯びた線路から舞い上がる陽炎も目に焼き付いていた。

ホームに入ってきた車両は、かつて見たものとは大きく違いカラフルで美しかった。

ただ見過ごしていたが、車両が走り去った後、どうせなら、一駅だけでも乗ってくればよかったと後悔していた。相変わらず思い切りが悪い……

二十代の多くの夏、ボクはこの本のタイトルみたいなわけではないが、八ヶ岳山麓で一週間近い夏休みを過ごしていた。

旧盆の休みとかに敢えて仕事をして、その分の振替え休暇を八月二〇日前後にとる。そんなことを当時は平気でやっていた。そして、その時間はボクの日常の中に非日常をもたらす、夏の恒例行事でもあった。

はじめは、特に八ヶ岳を意識していたわけではない。白樺湖の雑踏を抜け、車山高原からのビーナスラインを走り、途中の湿原地帯や高原の道をトレッキングするというスタイルだった。

ただ、もうすでに山の世界に足を突っ込んでいたボクは、もう少しハードなものを求めるようにもなっていた。

八ヶ岳の麓に来ると、十分にそれを満たすというほどではないにしろ、何となく自然と一体となれる瞬間があった。それは瑞々しい感覚で、樹木一本、野草一つが持っている目に見えないパワーみたいなものが伝わってくる気がした。

森の中を歩いていると、自分自身がそれまでとは違う何かに引き寄せられてでもいるかのように感じられた。

実際、当時のボクは、北アルプスの北部や上高地を起点とする山域に足を運び始めていたが、南アルプスや中央アルプスなどの山域の空気を知らないでいた。

ひょっとすると、その空気というのは、今感じているものなのかもしれない…、ボクはそんなことを思ったりもしていた。北と比べると、南の方はジメジメしていない、爽やかな印象があった。どこか垢抜けしていてセンスもいいような感じがした。

ボクは結局、八ヶ岳には一度も登らなかった。じっくりと腰を据えているといった印象もなく、いつもただ慌ただしく移動し、歩き回っていただけだった。

今の自分の家が出来つつあったとき、ボクはわざわざ八ヶ岳山麓を訪れ、地元のクラフト作家たちのアトリエを見て回った。

何年ぶりかのことだった。そして、そのとき、家を建てている自分のことを振り返り、ふと思った。

オレッて、かつてはこの土地に、家を建てようとしていたのではなかったっけ……と。

そんな思いはすぐに消え去っていったが、ボクは懐かしい森の中に、ちょっとだけ足を踏み入れ、車内に積み込んだ多くの品とともに、そこで切られていた白樺の木の枝を一本もらってきた。

ボクにとっては、それがその日一番の収穫だったような気がした。

しかし、それからまたボクは少し虚しい気分に落ちていく自分を感じた。

妥協したんだなあ…。いやあ、妥協なんてもんじゃないだろう…。

今は十分に落ち着いて振り返られるが、その時のボクは、二度と戻ることのない時代への激しい後悔に襲われていた。

この後、“私的エネルギーを追求する”などといった、胡散臭いコンセプトの雑誌を出していくひとつのきっかけが、その時のボクの感情の中にあったことは間違いないだろう。そんなことぐらいでお茶を濁していこうとしている自分も情けなかった。

ボクは自分の性分が、かなりの楽天主義で、さらに面倒臭いことにはできる限り関わらずに生きていこうとしているタイプであった…ということを、四十になろうかという頃、確信した。

その少し前から、そうなんではあるまいかと薄々認識し始めていたのだが、どうやらそれが正しいのだなあと悟った。

振り返ると、いろいろなことに深い関心をもち、人一倍好奇心と知識とを持とうとし、さらに行動にも移していたと思っていたが、そんな自己満足は何の意味も持っていなかった。

自分が本当に求めていたものは、目には見えないものであるということを忘れていた。

ニンゲンそんなに簡単に目的は果たせない。そんなことは分かっている。しかし、その目的を果たすための思い入れや、努力や、思い切りまでもを忘れてしまっていた自分が情けなかった。

“八ヶ岳”という名前、いや文字の形を見るだけで、今でもボクは気恥ずかしい気持ちになる。ましてや、加藤則芳氏のように、自然体で八ヶ岳を自分のものにし、そしてそこからまた羽ばたいていった人を見ると、もう自分自身の小ささが腹立たしくもなる。

そんなことを振り替えさせられた苦い味の一冊だった、と、また読み返しているのであった……

秋の五箇山で思ったこと

これまでの秋の話は、なんだか雨や嵐のことが多くて、もう言うことなし的に晴れ渡った正しい秋空など縁がないのかと思われているかも知れない。当然全くそんなことはないわけで、秋の青空もいつも味方に付いてくれているのは言うまでもない。

身近な秋の風情となると、ボクの頭の中にはすぐ五箇山あたりが浮かんできて、すぐに足が向いてしまう。この前も素早く出かけた。別に秋に限ったことではなく、四季それぞれに出かけたりしている。

特にこの地方での春の始まりの頃は、田植え直前の水田に、輝きを増し始めた太陽の光が注ぎ込んだりして、その美しさはまさに世界遺産そのものといった上品さだ。もちろん秋もいい。

 ボクにとって五箇山は、今は亡き司馬遼太郎大先生の歴史紀行・『街道をゆく』によって開かれたところだ。今から何年前になるだろうか。週刊朝日に連載され、その後単行本化されていった。週刊朝日に接するようになったのは、YORKに置いてあったからで、マスターの奥井さんもよく読んでいた。その後文庫にもなって話題を巻いたが、単行本の方をボクは数冊持っていたのだ。

外国へ行ったり、都会へ行ったりするよりも、もっともっと日本的で、歴史を感じたり、人を感じたり、自然や暮らしを感じたりする旅が好きだったボクにとって、この本はちょっと旅に出るかな的モチベーションを高める最高のシリーズだった。

第何巻だったかは忘れた。五箇山については、かつての上平村(現在南砺市)赤尾という地区にある浄土真宗の行徳寺(こうとくじ)という寺周辺の話が印象的だった。

その本は多分今、実家の納屋の段ボールの中で眠っていると思う。今確認することは不可能だが、行徳寺を開いた道宗(どうしゅう)さんという僧の話に、自分でも不思議なくらいに興味を持った。

道宗さんというのは、妙好人(みょうこうにん)といって、普通の世俗の人だが、信心が篤くお坊さんになったという、とにかく偉い人だった。なぜその話に深く興味をもったかは、いずれどこかで書くとして、とにかくボクは行徳寺へ行こうと思った。そして、その週末だったか、さっそくクルマを走らせていたのだ。

当時は東海北陸自動車などない。福光から城端を通って山越えし、平村から上平村へと入る。庄川沿いの国道156号線。相倉(あいのくら)集落や村上家などを過ぎ、さらに菅沼集落も過ぎてしばらく行ったところに行徳寺があった。

合掌造りの見学ができる家として人気のある岩瀬家の隣なのだが、象徴的なのは、茅葺(かやぶ)きの山門だ。意識的にそれを目当てにして走っていたが、やはり岩瀬家の隣という方が効き目大だった。

行徳寺は、言わば何の変哲もない寺だ。今では小ぎれいになってはいるが、当時は本当に素朴な印象で、茅葺きの山門が、“静かに佇(たたず)めよ”と言っているだけのように感じた。今は、観光の寺ではないから…といった、直接的なメッセージが書かれた看板すら出ている。

寺の前に、どこにでもあるような小さな食堂があった(…今もあるが)。実は、司馬先生は、そこで「熊肉うどん」を食べていた。メニューのタイトルが正式に「熊肉うどん」であったかは忘れたが、とにかく熊の肉が入ったうどんを食べたと書いていた。

尊敬する司馬先生が食べた「熊肉うどん」を、自分も食べるというのは必然的な行為だった。が、生まれて初めて口にした熊肉は、とにかくひたすら硬かった。うどんの柔らかい歯応えに比べて、その硬さはかなりの面倒臭さを感じさせた。うどんがほとんどズルズルと口の奥に運ばれ、二度三度モグモグとすれば喉を通り過ぎていくのに対し、熊肉は箸につまんで口に運んでから、うどんの三十倍ほど噛みこんで喉の方へと送らねばならなかった。

熊肉をとにかくひたすら噛み続けていると、アタマがボーっとしてくる。なにしろ行徳寺の門前だ。無の心境に近づいていく…?

・・・・その年の冬のある出来事が蘇(よみがえ)ってきた。それは金沢市と富山の福光町との境にある医王山に、雪深い2月に登った時のことで、降り積もった腰あたりまでの深雪をかき分けながら、ボクたちは冬山気分に浸っていた。一緒にいた相棒はS。二人とも体力だけには自信があり、ただ無邪気に雪をかき分け登っていた。

そろそろ最後の急な登りに入ろうかという時だった。上からガッチリとした体格のいい男の人が下りてきた。雪面を背にして下りてくるから、顔はほとんど見えない。ただ帽子も被ってなくて、アタマが“スキンヘッド状態”であることだけは、その光り具合ですぐに分かった。雪の反射光の加減で真っ黒だと思っていた顔は、近くで見ても黒かった。

その人はアタマの状況が示すとおり、自分たちよりもかなり年配であった。「若いのに偉いのォ」と、汗で顔を黒光りさせながら、開口一番言った。なんて答えていいか分からないでいると、指さしながら「あの峰まで行く気はないかのォ」とも言った。Sと顔を見合わせた。

その人の話では、奥医王から横谷だったかの稜線の雪の中に熊を埋めてあり、それを運びたいだったか、解体するんだったか、とにかく一緒に手伝ってくれないかということだった。

Sが彼独特の薄ら笑いを浮かべながら、ボクの顔を見ていた。それが何を意味しているのかちょっと考えたが、ボクもすぐにSのような薄ら笑いを浮かべ、「ボクら、今日は白兀(しらはげ)の頂上まで行ってくるだけなんで…」と語尾を濁しながら答えた。白兀山とは、医王山の手前にあるピークだ(戸室山の奥にあり、積雪期には木が生えてないので、そこだけ白く見える)。

熊肉の話から大いに外れていったが、この話は印象深くボクの記憶に残っていた。今でも覚えているくらいだから、司馬先生の真似をして熊肉うどんを口にしたときには、かなり鮮明な記憶として蘇っていたことだろうと思う。

特にこれといった感慨もないまま、「熊肉うどん」を食べ終えると、ボクはデイパックの中から、徐(おもむろ)に『街道をゆく』を取り出していた。実際にその地を訪れ、しばらく自分自身の感覚でその地を確認した後、その部分を読み返すのが楽しみだったのだ。

 五箇山の秋は相変わらずのどかで、静かで、意識すればするほど安らいだ気分になれた。五箇山であることを自分に言い聞かせながら歩くのがいいのだ。人がいても、人を背にすれば、自分が一人になったような気分にもなれる。特に秋は、訪れている人たちが皆同じ思いでいるような錯覚にも陥ったりして安心できたりするのだ。

昼飯は、熊肉うどんではなく、今秘かに?大人気の「いわな寿し」を食べて、いざ次の目的地へと・・・・・その2へとつづく。

 

 

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

伊集院静氏は、なぜ怖いのか?について

東京への出張の行き帰り、電車の中のお伴として、久々に伊集院静氏の本を一冊持って行った。

『ねむりねこ』という可愛いタイトルの付いた文庫のエッセイ集で、一度読んではいるのだが、内容的にほとんど覚えていないので、あらためて読み返してみるのも面白いだろうと思った。文章も音楽も、絵画も写真も、時にはニンゲンも含めて、その時のさまざまな環境要素により感じ方が異なるものだ。『ねむりねこ』というタイトルから内容を連想できないでいるこの文庫本一冊でも、ひょっとして新鮮な何かをもたらしてくれるかも知れない。それほどテンションを高くしてという意味でもないが、とにかく少し楽しみながら読もうと思っていた。

いろいろなところで書いたり話したりしているが、伊集院さんはボクの好きな作家である。そして、これが重要なのだが、もうひとつ怖い存在でもある。それは、伊集院さんが立教大学の硬式野球部に籍を置いていたという事実に、ボクが勝手にかなりのプレッシャーを感じていることから始まっている。

本当は美術系の道に進みたかったらしいが、大学体育会の硬式野球部にいて作家になったという、そのプロセスに怖さを感じるのだ。そして、好きだというのはその裏返しみたいなもので、体育会の野球部にいた人が、なんであんなに美しい文章、物語が書けるのかということが発端となっている。

その辺をよく知っていないと、伊集院さんの本質は見抜けないのではないか。ボクはずうっとそう思ってきた。夏目雅子の前の夫で今は篠ひろ子の夫だとか、「ギンギラギン・・・」の作詞家だとか、そんなことで伊集院さんを語っていてはケツの穴の小さな話で終わってしまう。

野球をやめるひとつの要因でもあった自分の偏屈?な考え方や、野球をやめた後の挫折感がその後の生き方にもたらしてきたこと、それらは一般的に言う“よくないこと”だった。

伊集院さんの言葉を借りれば、“裏切り”や“卑屈”や、“家庭崩壊”や“酔いどれ”など、いい表現が全く出てこない。もともと恵まれた境遇があったにも関わらず、そこから抜け出ようとした思い。とにかくそれなりの成功はあったのだろうが、それが本当の喜びではなかったのだろうと、勝手に推測したりする。心の奥底まで知る由もない。

そんなモヤモヤとしたものが、『ねむりねこ』を読んでいくうちに、少し分かってきたような気にもなってきた。やはり、寂しいんだろうなあ・・・と、自分自身も胸に手を当ててみたりする。

『手の中の重み』という短いエッセイの中に、大学時代、野球をやめたいきさつが簡単に書かれている。少年野球の頃から変化球を投げ続けてきたツケが、肘に異状をもたらしボールが異様に重く感じるようになった。それは致命的な傷となり、その三ヶ月後に野球部を退部する。しかし、伊集院さんは、この時マネージャーとしてでもいいから野球部に残るべきだったと悔やんでいる。

その悔やみを忘れず、二十年後、野球を素材にした小説『受け月』で直木賞を取った。もし大学時代野球を続けていられたら、伊集院さんの人生は変わっていただろうことは間違いない。“伊集院静”という女性みたいな名前自体も存在していなかったかも知れない(実はこの名前にも面白いエピソードがある)。『手の中の重み』を読みながら、そうならなかったことが良かったのかどうか・・・と、無駄なことを考えた。

『一瞬の夢 揚子江』という短編では、泥酔したまま揚子江を下る船に乗り込み、深夜に目覚めた時の妄想?が綴られている。旅を日常にしているような、伊集院さんにとっての旅に対する思いが語られている。簡単な内容ではないが、旅の中に身を置く自分がその中で体験する自身への問いかけや、その土地土地がもたらす懐かしさや安らぎなどをとおして、旅を求める思いのようなものを探ろうとしている。 美しいと感じるものや、懐かしいと思うものに憧れる人の思いが、旅に結び付いているということだろう。

そして、揚子江の上を船で滑りながら、背後に去っていく風景のような“一瞬のはかない時間(とき)の流れ”を伊集院さんは書いている。水の音、風の音、木々の揺れる音、砂が流れる音、それらは詩であり、“その詩は人が誕生する以前から、土地土地で言葉を紡ぎ、美しい旋律を奏でているのではないだろうか。”と言う。時間(とき)の過ぎゆく早さと、その背景にある自然などの永遠なものとの矛盾がもどかしい。時間(とき)の流れを忘れようとし、自然などの永遠性に憧れるのだろうか。

読みながら、自分もボーっとしてきた。『ねむりねこ』は、決してそんなにむずかしい本ではないのだ。深刻になる必要もない。後半では、伊集院さんと親交の厚い松井秀喜選手の話などが出てきたりして、野球人・伊集院静の血が騒ぐ様子が感じ取れたりする。

伊集院さんは女性を主人公にした小説を書いたり、花についても詳しかったりする。野球に関わる小説も多いが、もちろん単なるスポーツものではない。野球はさりげないが、しっかりとしたストーリーの軸や背景にあったりする。そして、どこかに影がある。やさしい女性が登場する。子供向けにも書く。いや、子供を主人公にして大人たちに読ませるのかも知れない。やさしく力を抜いた物語の展開、表現の細(こま)やかさなど、女子大生が涙するというくらいに、その表現は美しい。そして、なんと言っても日本的だ。

『ねむりねこ』は、特急電車と新幹線の中と、アメ横の居酒屋と、ホテルのベッドの上と、地下鉄の車内と、八重洲のカフェで完読した。何気なく大人になった気分(当たり前だが)で読み切った。伊集院さんは、表面的な少女趣味っぽい要素が誤解されていると時々思うことがある。渡辺淳一あたりと同じように見ている人がいたりするが、そんな人は本質が感じ取れない悲しい人だと、ボクはハゲしく思ったりもする。

そんな思いを抱いたりする、表面しか知らない読者がいるくらいだから、ボクはやはり伊集院さんが怖いのだ・・・・

秋だから 椎名誠のトークが聞きたくなった

10月の下旬、丸善丸の内店とジュンク堂池袋店で、椎名誠さんのトークイベントなどがあると聞いた。今のところ、両方とも行けそうにないが、そんな情報を耳にした途端、椎名さんの顔が見たくてたまらなくなった。

このページのエッセイで、かつて椎名さんの著書『帰っていく場所』について書かせてもらったが、その続きを無印良品でいつも買っている、税込92円の落書き帳に綴っている。まだ納得したまとめになっていないから掲載してないが、それとは関係なく、66歳になった椎名さんの顔を見て、椎名さんの声を聞いて、その話にしみじみと懐かしく嬉しくなったりしたいと思っている。

椎名さんの顔を最後に見たのは、もう10年以上も前のことだ。椎名さんの大親友・沢野ひとしさんの顔を見たのはついこの前だが(歴史博物館前で偶然会った)、沢野さんの印象は歳食ったなあとは思わせなかった。しかし、最近写真なんかで見る椎名さんの顔は、皺(しわ)が増え、白髪も増え、歳食ったなあと思ってしまったのだ。自然の空気に晒し過ぎたせいもあるのだろうか。ボクもそうなるのかも…

ボクも人のことは言えないが、少なくとも椎名さんよりは10歳も若いわけで、同年代の人間たちよりも若さには自信を持っているが、あの椎名誠さんが想像以上に年を食っている様子を見て、なぜか焦った。まだまだ健在は続くだろうが、もう一度見ておきたいのだ。それも無性に。

そう言えば、BSハイビジョンで、久々に野田知如(ともすけ)さんの顔を見、声を聞いた。どうでもいいような番組だったが、懐かしくてただボーっと見ていた。野田さんと言うのは、日本の自然派カヌーイストのパイオニアで、アラスカのユーコン川をはじめとして、日本の川のほとんどをカヌーでやっつけてきたという人だ。椎名さんにとっても師みたいな存在であり、一時調子を崩していたような話だった(『帰っていく場所』にも書かれている)が、今は愛犬アレックス(だったかな)と一緒に四国の徳島県に住んでいる。野田さんの話では、徳島県はとても住みやすい所なのだそうだ。

自分もウイスキーのロックを飲みながら、野田さんの話を聞いていたが、カヌーのツーリングに焚き火の前で酒を飲む野田さんの、若い頃の姿が浮かんできた。ボクは本格的にカヌーはやらなかったが、自然派になろうという意識が強かったせいもあって、そのフィーリングは理解していたつもりだった。

話が少しそれてしまったが、椎名誠さんの語りを聞く機会にはこれから敏感になっていこうと思っている。金沢だと講演になってしまうが、東京だとトークになる。面倒臭さもあるが、この微妙なニュアンスの違いが大事だ。最高でも50名くらいの小さなフロアだと、椎名さんのリラックス度も違うだろう。

まあ、一応期待してみるかな……

ちょっとカッコいい本でかなりいい話を読ませてもらった

 地場産センターで開かれた某デザイン展の審査員を頼まれて参加してきた。昨年に続いて二回目だった。

そこで、応募作品の中でふと目にした本がこれなのだが、、実は「ゴンゲン森・・・」と同じ頃に発行され、金沢美大の環境デザインの先生方が制作されたものだった。御大T中、S本、K谷、Tバ・・・と、お歴々が颯爽と名前を連ね、かっこいい表紙デザインとともにすぐに目にとまった。

 審査自体にはもちろん客観的評価をさせてもらったが、一応全体の審査が終わって、点数を集計している間中、手にとって立ち読みさせていただく。正直、審査よりも集中していたかも…

T中先生のエッセイが特に面白かった。東京では、雨降りに出かけたいとは思わないが、金沢では雨降りにでも出かけたくなる・・・というところから話が始まり、さまざまな話の展開が続いた。

また、学生時代の思い出を綴った文章なども、素晴らしくいい。竪町入口にあったという喫茶店(たぶん「郭公」だろう)での、時間が止まったような描写や、内灘の海の話など、しみじみとしてくる内容だった。先生の感性というか、ものの見方、感じ方にあらためて驚き、嬉しくなったりした。

T中先生は、ある飲み屋さんで隣に座らせていただいた時、ボクの本の話になり、この業界から、小説家が生まれるというところに金沢を感じるなあ・・・・という意味のことを言われた。そして、頑張りなさいよ、もちろん作家としてね…と、茶目っ気たっぷりに含み笑いをされた。

先生は、そろそろ東京へ帰られると聞いている。ユニークな存在が消えてしまうが、ひょんなところで、先生のいい文章が読めてよかった……

※写真は、携帯のカメラなので、ご容赦を。

水かけ神輿と一箱古本市

8月最後の日曜日は、猛暑もなんのその、とにかくひたすら慌ただしい一日であった。

まず、10時に始まる『第1回一箱古本市』に出店するために、九時半頃、主計町の源法院という小さな寺に出かけた。

この古本市は、2005年、今注目を浴びている東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まり、金沢のあうん堂さんたちがこちらにも呼ぼうと企画したものだ。駅弁売り用の木箱が一個千円で配られ、それに古本などを好きなだけ並べるだけという、シンプルを絵に描いたような売り方をする。谷根千のさまざまな面白いコト・モノに興味を持ち始めてきた最近、あうん堂のご主人Hさんからご案内いただき、まずこれを取っ掛かりにしようと決めたのだ。

主たる店番担当のKは、ボクより少し遅れて会場に到着した。彼の友人であるOクンも後から来ることになっていた。しかし、ボクはゆっくりとはしていられない。すぐに主計町から柿木畠へと移動しなければならなかった。というのも、柿木畠の人たちが数年前から始めた「水かけ神輿まつり」の様子も窺いに行かねばならなかったからだ。

KとHさんに、場を離れることを告げ、ボクはすぐに歩き出した。

主計町から柿木畠。金沢を知る人であれば、それほど近い距離でないことはすぐに分かるだろう。しかも、すでに気温は猛暑と呼ぶにふさわしいあたりまで達している。案の定、大手町あたりでTシャツは汗でびっしょりになった。かなりの早歩きのせいもあるが、日向も日蔭も関係なく熱風に全身が包まれていく。

柿木畠に着いたが、神輿の姿はなかった。そうかと納得し、広坂の石浦神社へと向かう。歴史はないとは言え、神輿は神輿、神社でお祓いをした上で街に繰り出すのが正しい道だ。こちらがちょっと遅れたせいもあり、神輿とは21世紀美術館で遭遇した。お祓いをすませ、戻りの途中だった。いつもの面々が先頭を歩いていて、手を上げて挨拶してくれる。Mさん、Iさん、Gくんなど、いつもとはちょっと違う出で立ち(Iさんは同じか)で、勇ましい。まだ勢いは付いてないが、これから街に繰り出して水の掛け合いになるのだ。

 柿木畠は、ボクにとって商店街仕事の原点みたいなところで、楽しく元気に、そしてセンスよくやりましょう…の精神でやってきた大好きなところでもある。そして、何よりも公私混同が実を結んでいった典型的なパターンの代表なのだった。

当時、21世紀美術館がオープンするのに合わせて進めた企画は、かなり自信をもってお薦めできたものだった。商店街の皆さんが凄い勢いで頑張ったし、今は亡き当時のN理事長さんやMさんにはアタマが上がらなかった(今もそうだが…)。そして、企画はさらにその後も広がっていったのだ。

 水かけ神輿は21世紀美術館から知事公舎へとまわって一暴れ(水かけ)し、広坂通りを通って、香林坊アトリオ前、東急ホテル前でも水かけして、せせらぎ通りへと移動していった。その間には何人もの知り合いと出会い、挨拶などを交わした。

時間は限界だった。Kに電話すると「いい雰囲気です」と、なんだか微妙な返事。柿木畠の面々に挨拶し、大和デパ地下で弁当を買いこみ、すぐに主計町の古本市会場へ戻ることに。

バスを利用し主計町にたどり着くと、古本市会場はそれなりに賑わっていた。

 「売れてます」とK。「えっ」と箱を覗くと、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』が減っている。基本的には古本市であったが、新刊に近いものもよいというお墨付きがあったので置かせてもらった。Kいわく、「皆さん興味があるらしく、真っ先に手にとってくれるんですヨ」とのことだ。拙著は、たまたまクルマに置いてあった四冊という中途半端な数だったが、早い時間に完売してしまった。こう言う場所へ来るお客さんたちはよい感性を持っている、さすがだなあ……と、数が少なかったことを悔いた。

山関係の本が結構売れた。売れて困った。こんな本買う人はいないだろうと思って、ダシに使っていた『槍・穂高連峰』(山と渓谷社)というかなり古い本が売れた。いや、売れてしまった。しかも最近山好きになったという、若い女性が買っていったらしかった。東大山岳部の部員たちが書いた、かなり滑稽で面白い本だった。冬山の体験などが実に笑える内容で綴られていて、ボクは素朴な装丁とともに愛読書のひとつにしていた。しかし、売れてしまったのでは仕方ない。

そう言えば、スポーツサイクルで颯爽(さっそう)と登場したOクンもまた、最近山を始めたと言っていた。Oクンには、『北アルプス山小屋物語』という山小屋のオヤジの話が満載された本をあげた。

 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』という、表装がなく薄汚くなった本も売れた。『剣岳・点の記』でまた人気が復活した新田次郎だが、実は富士山の気象観測所で働いていたことは有名で、気象庁の仕事の傍ら小説を書いていた。そんな新田次郎が有名作家になった後で書いた自伝ということで、ボクは当時異常な関心を持ってこの本を読んだ。というのも、自分自身がサラリーマンをしながら作家になることを夢に描いていたからだ。しかし、ボクはその後になって、この本を読んだことを後悔した。そんな甘いものではなかったと思い始めたからだ。この本を読んでいなければ、ボクは貧乏しながらも一応作家を目指して、頑張ったかも知れない。そんな思いに揺れ動いてもいたのだ。自分勝手なものだ。

新しいものでは辻仁成の小説本も売れた。これは内容がまったく自分に合ってなく途中でやめたものだ。売れて別に文句はないのだが、帯付きのピカピカの本だったのに、Kのやつがなんと200円で売ってしまった。そのことがちょっとショックだった。

 そんなこんなで、箱の中はかなり隙間が目立ち始め、それなりに売り上げがあったが、ボクにとっては、東京千駄木から来ていた「不思議」という店の店主Hさんとの出会いもまた楽しかった。「不思議」と書いて「はてな」と呼ぶ。千代田線千駄木駅からブラブラ歩いてくださいねという古本・古道具の店。Hさんの風貌も親しみやすく、おしゃべり自体も実に面白い。

 ボクは何気に置かれていた『東京文学散歩下町編』という定価100円の本を、300円で買った。今見てもほとんどよくは分からないのだが、1955年発行というところに魅かれて買ってしまった。

それと何と言っても興味を惹いたのが“ガラスペン”だった。竹製の年代がかった柄の部分と、ガラスで作られたペン先とがアンバランスながらに釣り合い、独特なムードを醸し出していた。旅行者風の若い女の子が「ええっ、なぜこんなところにガラスペンがあるの?」と声を上げ、Hさんが千駄木から来ていることを告げると、その女の子は納得した表情を見せた。谷根千の威力をまざまざと見せつけられた瞬間だった。

ボクは釣られるようにガラスペンを買った。包装はペン先がティッシュで包帯のように包まれただけのシンプルさで、それがまた“谷根千的”でいい味を出していた。

狭い境内とその前の狭い道に、人だかりができ、話し声や笑い声が絶えない。

暑い暑い夏の、午後の遅い時間。ちょっとお疲れ気味の店主たちは、それぞれの場を離れたりしながら語り合っていた。女性だけのグループ型、小さな子供を連れた家族型、単独オトッつぁん・オッカさん型など、さまざまな店主の形態があったが、みなそれぞれ立派な個性のもとに輝いていた。

古本市は楽しい。じっとしているのは辛いが、また今度も参加したり、自分で企画してみたりしようかと、秘かに思い始めてしまった。

帰り際、浅野川大橋のたもとに立っていると、西日がもろに顔に当たった。目を開けていられないほどだったが、その眩しさが妙に嬉しかった……

『かえっていく場所』を読んで、椎名誠についての1

 この文章は、めずらしく紙の上でペンを走らせ書いている。早い話がパソコンのキーボードで直接文章を入力しているのではなく、手持ちのレポート用紙みたいなやつに万年筆で書いているのだ。最近は、下書きだとかメモだとか言われたりもするが、ボクも本来このスタイルがいちばん好きだ。

 場所は金沢百番街の中にある某カフェで、ボクはその店の半円形になったテーブル席の、ちょっと高めになったイスに腰掛け、足をイスのバーに軽く乗せたりしながらペンを走らせている。この高さがちょうどよく、目の前に置かれているオリベッティOLIVETTIのタイプライターや、百科事典などの置き物、それに壁のレンガタイルも心地よく目を慰めてくれている。右手から入ってくる大きな窓からの光も、ちょうどいい具合だ。

 ボクはここで、ボクの大好きな椎名誠さんのことを書こうとしている。椎名さんなどというと、かなりの馴れ馴れしさと、よそよそしさとが混ざり合い奇妙な感じなのだが、ここではとりあえずそうしようと思っている。椎名さんのことを書くなんて、あまりにも漠然としていて、さらに書きたいことも無尽蔵にあって、自分でも無理だろう、いや無理に決まっていると思っているのだが、今日はどうしても書きたい。書きたくてウズウズ、かつドキドキしている。と言うのも、2003年に出された『かえっていく場所』という私小説の文庫を、最近になって読み返しはじめ、何だか無性に椎名さんへの熱い思いが甦ってきたように感じているからだ。

 ボクの中に、椎名さんを求める何かが、再び生まれているのかも知れない。

 ボクと椎名さんとの出会いは、少なくとも25年くらい前のことになる。最初は、『山と渓谷』という山岳専門誌での連載と接してからで、イラストレーター兼エッセイストの親友・沢野ひとしさんらとのさまざまな山行を、あの独特な表現で綴っていたエッセイは、ボクがそれまでに出会った中でも、最も自由で、愉快で楽しいものだった。“少年のような大人”のエッセイ、そして紀行文。ボクはこの出会いを見逃さなかった。ボクは椎名さん的に言うと、“かなり激しく”椎名ワールドにのめり込んでいき、生き方自体にも椎名さん的視点を取り入れていった。そのいちばんのお手本は、≪自然との付き合い≫であり、そこから生まれてくるさまざまな楽しみは、自分自身にもあてはまる部分が多かった。自然の中で、ただ歩くこと。ただボーッとすること。ただビールを飲むこと。ただ本を読むこと。ただ語り合うこと。ただ笑い合うこと…… その他モロモロ。

 ボクもとにかくそれらを楽しんだ。そして、何よりも椎名さんほどワールドワイドではないが、“旅”に対して強い憧(あこが)れをもっていた。

 ボクの中の椎名誠という人は、とても重要な存在だったが、その中でも最も魅力的だったのは、椎名さんが“作家”であるということだ。これは何よりも大切なことで、ボクの中の作家的在り方、作家的日常生活の過ごし方などにおいても、ほぼカンペキなまでに理想の道を歩んでいた人だった。

 実を言うと、かつてボクは20代のうちに自分の本を出すという、今から思えば無謀な夢を描いていたのだが、その夢が希薄になり始めた頃?椎名さん(の本)と出会ったと記憶している。ボクと椎名さんとは十歳違いなのだが、ボクは椎名さんの生き方を知り、“オレはこれではいけないんだ”と強く自分を責めたりしたのだ。しかし、椎名さんとボクとの差はあまりにも大きかった。当たり前といえばそれまでだが、ボクはスケールの小さな世界で、自分なりの小さな成功をおさめていただけだった。

 一応、そろそろ本題に入るかな。

 『かえっていく場所』を本屋さんで初めて手にしたとき、裏表紙にあった、“たくさんの出会いと別れとを、静かなまなざしですくいとる椎名誠私小説の集大成。”という文章に、思わずドキッとした。静かなまなざしですくいとる……… これまで椎名ワールドにこのような美しい解説的表現はあったであろうか?いや、なかった。あったとしても、ちょっと茶化し風につけられたものしかなかったと確信する。だからボクは、この本は絶対読まねばならないものなのだと強く思ったわけだ。

 そして読んだ。出だしから「桜の木が枯れました」という寂しいお話が始まり、いつもと違う椎名さんのちょっとセンチメンタルな文章が続いていった。しばらく進むと、「窓のむこうの洗濯物」という話になり、得意の旅モノ的お話となって、ほっと一息つく。日本の香辛料を追う取材旅行の話に入ると、ボクも少し気持ちが乗ってきた。そして、“辛味大根”を追い、中央線「あずさ」の中で繰り返される会話のやり方などでは、その軽妙さにかなり嬉しくもなったりしていた。

 しかし、ボクはこのいつもと違う椎名ワールドに、少しずつ不安を抱き始めてもいたのだ。海外旅行の話、いつも当たり前のように読まされている話なのに、どうもいつものような楽しさを感じない。自分がおかしいのかと、ついつい我に帰ろうとしてしまう。それがまた、変な具合に話の内容をゆがめていく…………

 今、ボクはその本を読み返している。さらに言うと、『コガネムシはどれほど金持ちか』というエッセイ集も傍(かたわ)らに置いて、いつでもどこでも態勢で読めるようにしている。むずかしく考えなければ、それなりに椎名ワールドは楽しく過ごせる時間を提供してくれるのだ。それにしても、ボクはなぜこの本(『かえっていく場所』)に大いなる興味を覚え、そして、読みながら寂しさと相対しなければならなくなったのだろう?今、こうしてまた読み返していることも、ボクにとっては、この本から何かを得ようとしている自分の存在を感じられる。大好きな椎名誠さんであるがゆえに、この寂しさはボクにとって、あり得ないものだったのだろうか?椎名さんから、そんな話聞きたくなかったなァという自分の勝手な思いもある。

 ちょっと、深く入りすぎたのかな。

 一度外に出て、太陽にあたって来ようかな…(と思ったが、やめた)

 並行して読んでいる『コガネムシはどれほど金持ちか』の中で、椎名さんは生まれ故郷の東京の町より、少年時代を過ごした千葉県幕張町のことを、より強い印象で書いている。生まれたのは世田谷だから、もしそのまま世田谷で暮らしていたら、“今の椎名誠”は出来ていなかっただろうという意味のことを書いている。今、幕張メッセになってしまっている辺りは、かつて美しい砂浜だった。椎名さんはそこで少年時代を過ごしたのだ。

 つい十日ほど前のこと、ある古い知り合いから、“ナカイさんは、いつまでも少年のような心を持っているんだネ……”と言われた。照れ臭さ、恥ずかしさと同時に、どこか嬉しいような気分にもなれた。それはかつて、ボクが感じた椎名さんのイメージでもあったからだ。

 忘れてはいけないもの。とくにボクにとっての大切なものとは、そのことなのかも知れないと思ってしまった。

 椎名さんのこと、自分のこと、そして、椎名さんと自分のこと。

 ……… いずれまた続きを書こう……

奈良発のおもしろ本

平城遷都1300年記念事業が行われている奈良。この本もその事業の一環でつくられたものらしい。かつて、金沢美大大学院在学中、ボクの会社でアルバイトをし、その後京都で活躍するFクンが贈ってくれたものだ。Fクンもエディトリアル・スタッフとして参加している。『奈良で「デザイン」を考えてみました。』 というタイトルもいいが、内容もかなりいい。奈良という深くて神秘的な素材ということもあって、見応え、読み応え十分だ。興味のある方は、ボクに一報を。購入方法などお教えする。

「あうん堂にて…」   

  初めて「あうん堂」へ行ってきた。金沢東山三丁目、ひがし茶屋街の大通りを挟んだ反対側。一方通行の狭い路地に入って、やっと見つけられるような小さな店だ。きっかけとなったのは、ボクの本が置かれているという話と、ヨークで見つけた「そらあるき」という小冊子。その小冊子の編集スタッフの一人が、店主の本多博行さんで、その小冊子を直販しているのが、あうん堂だ。

もう少し詳しく?説明すると、あうん堂は、「出版と古本とカフェの」というキャッチコピーが付けられているように、「そらあるき」でも分かるような出版と、個性的な古本が並ぶ書店、そして、奥さんが淹(い)れてくれる美味しいコーヒーが飲めるカフェ、これらの三つで構成されている。そして、それぞれが力みもなく、自然体で成されているというところに、あうん堂の、あうん堂たる“空気”があるのだなあと感じた。いずれにしても、まだボク自身よく把握しきれていないのも事実。ただ、テレビ朝日の「人生の楽園」という人気番組で紹介されるなど、それなりに立派にやられていることは間違いないのだ。

日曜の昼に近い午前。家人と二人、近くにある駐車場にクルマを停め、雨の中を狭い玄関へと向かう。雨が本降りになってきて、気温も朝から上がっていない。GWの終わりに、急きょトンボ帰りで京都へ行ってきたが、その時と同じ紺のシャツと綿パン。その時はポカポカ陽気で、腕まくりをしながらだったのに、今日はそんなわけにはいかない。ひたすら冷えていた。ガラスの扉を開けて中へと入る。靴を脱いで、フローリングの店内に足を踏み入れると、右手に本棚が見えている。まるで図書館の一角を見る感じだ。店は奥に深く、狭いという印象をもつが、この狭さ?が、この店を訪れる人たちの個性を物語っているのだろうと感じた。先客が一人いたが、その客と本多さんが話している内容も、なんとなく、それを感じさせるものだった。

 

ボクはまず古本が整然と並ぶ本棚を見て回った。そして、すぐにウキウキしてきた。なんと、懐かしき晶文社の植草甚一シリーズ本、そして、われらが椎名誠の本などがいっぱいあるではないか。いくつか本に目をとおし、価格なども確認しながら、ふ~んと納得。こんな世界が金沢にもあったんだなあと嬉しくなった。

そして、奥のテーブルへと。コーヒーを注文してから、時計を見る。もう昼に近い。小腹も空いてきたので、めずらしくケーキセットに変更した。コーヒーも美味しく、生クリームと小豆が付いたやや大きめの抹茶シフォンケーキも充分満たしてくれた。

  ふと壁の方を見上げると、懐かしい絵が掛っている。沢野ひとしのイラストの入った額があった。「槍ヶ岳への道」とかいうタイトルがついていたが、この絵のどこが槍ヶ岳への道なのかなあ?と、余計なことを瞬間考えてしまう。しかし、そんなことはどうでもいい。ここに沢野ひとしの絵が飾られているということが凄いのだ。聞くと、沢野ひとしはたびたび訪れているということ。ついこの間まで、絵の展示会もやっていたとのことだった。

 そういえば、この冬、歴史博物館の前で、ボクは沢野ひとしと遭遇していたのだ。その時のことは鮮明に覚えている。ボクは向かい側から歩いてくる本人を確認すると、「沢野ひとしさんですよね?」と、すぐにたずねた。びっくりしたような顔した本人は、そうですよと答えたが、なんでオレなんか知ってるの?という顔をしていた。ボクは椎名誠らとの発作的座談会の話などをした。そして、なんだか物足りなさを感じながら、これからも頑張ってくださいと、定番的言葉を口にし、握手してもらって、その場を去った。そのすぐ後、無性になぜ沢野ひとしが歴史博物館にいたのだろうと気になり、歴史博物館の担当スタッフに確認したほどだった。しかし、よくは分からなかった。

「実は、私、ゴンゲン森…とかいう本を出したんですが、こちらの店に置かせていただいてると聞きまして……」

 しばらく沢野ひとしの絵を眺めてから、奥さんに言った。奥さんはびっくりしたような表情になり、「それを早く言ってくださいよ」と言ってカウンターから出て行った。そして、ご主人にそのことを告げると、また戻ってきて、「私は、すぐに読ませてもらいましたよ。とても面白かったですよ」と言ってくれた。方言の使い方が凄く楽しかったとも言ってくれて、店の本棚に並んでいるという場所を教えてくれた。

 それからボクは持参した「ヒトビト」1~8号を取り出し、渡した。ヒトビトにも高い関心を示してくれた。ヒトビトに出てくる共通の知人も多くいて、もう古くなった話で盛り上がったが、最後は、継続していく苦労話が締めだった。そして、ヒトビトもお店に置いてもらえることになった。ヒトビトは売り物と言うより、お客さんにコーヒーを飲みながら読んでもらうというスタンスが合う気がして、そう話すと、本多さんも納得してくれたみたいだった。

 一時間ほどいただろうか。最後は、本多さんと向かい合って、いろいろな話をした。ボクが、主計町の茶屋ラボの話をしだすと、本多さんもよく知っていてくれて、以前に展示会のようなものをやったらしく、近いうちに何かやりたいと考えていることも語ってくれた。

 ナカイさんとは、これからも何か楽しいことがやれそうですね。本多さんが名刺を出しながら、ボクに言った。そして、ボクが自分の名刺を渡す時に、「固い名刺なんですけど…」と言うと、本多さんは、「名刺は固く、やることは柔らかくですよ…」と答えて笑った。

 ボクはなんだか清々しい気持ちになっていた。平凡な言い方だが、いい出会いだなあとも思い、懐かしさに似た何かを感じていた。日々それなりに過ごしていけば、またそれなりにいいことがありそうな気がして、なぜか、このことを遠くにいる友人たちに伝えたいなあと思ったりもした。

外へ出ると、雨はまだまだ降り続いていた。駐車場に向かいながら、こんなところへクルマで来るなんて、と自分を叱りつつ、愉しい時間だったことに満足もしていたのだ……