晩秋京旅・圧倒編 その1


永観堂の日差しの中の紅葉

京都の歴史と季節感を、同時に楽しみに行くというのは壮大なプランである。

しかも圧倒的な紅葉の時季に訪ねるというのは、一種の冒険に近い。

京都はすでに人(観光客という種類の)の受け入れに相当な寛容さを持っている都市であるが、訪ねる方からすれば、その度を過ぎた(ような)人の波は簡単に受け入れがたい。

しかし、と言いつつ、いざ京都となると覚悟は決まる。

不思議だが、そこが京都のチカラの証だ。

少し前、「日本に京都があってよかった」というコピーがあったが、ボクは激しく同感している。

出だしで少しカッコつけたが、そんなわけで、一年と一ヶ月ぶりの京都なのであった。

めずらしく、最初の目的地は平安神宮近くの某カフェになっていた。

もちろん家人のリクエストであり、その店の何とかという洋菓子をいただくというので、開店直前の店の前で名前まで書かされ並ぶことになった。

最近はこうした列のできる店がステイタスを持っていて、客を並ばせることを喜びにしているように見えたりする。

「おもてなし」などと片方で言っておきながら、客を長時間待たせるのはどこかおかしいと思うので、ボクは単独の時は絶対にこうした列には加わらない。

ほどなく開店した店でいただいた菓子も珈琲もごくごく普通であった(少なくともボクには)。

この店が最初の目的地となったせい(?)で、近くの南禅寺と永観堂が今回の寺めぐりのスタートになった。

二つの寺とも名前のよく知られた名刹であるが、南禅寺は十年以上行っていないし、永観堂は恥ずかしながら初めてとなる。

クルマは岡崎公園の地下駐車場に入れた。

この平安神宮を含む一帯は、かつて次女が学生時代に参画していた「京都学生の祭典」という、学生の自主イベントとしてはとてつもないスケールのイベント会場になっていて、構造はそれなりに分かっていた。

その時、次女と待ち合わせした店もまだ健在で、スタッフジャンパーを着込み歩道に立っていた次女の姿が思い浮かぶ。

まだまだ幼いもんだと思っていた次女が、初めて逞しく見えた時だった。

南禅寺へ向かう道に、長蛇の列となった客たちを待たせる店がある。

まだ開店まで一時間ほどもあるというのに、歩道は完全に占拠されている。

こんな客たちを受け入れなければならない店側も、味を維持していくのは大変だろうなあと思うが、そんなこと気にしていても始まらない。

動物園の横を通って、川沿いの道を歩き、南禅寺へのアプローチ。

ヒトもクルマも半端ではない。

何とか境内に入って、早速山門に上ろうということになったが、階段もその上の展望台もヒトの波。

上から見下ろしてもヒトの波。紅葉ももちろんそれなりに美しい。

南禅寺山門から

この圧倒的なヒトと紅葉の融合が京都の京都たる所以なのだと、あらためて納得した。

七百年ほどの歴史を持つ南禅寺だが、百年ちょっと前に出来た、ご存じレンガ造りの水道橋の存在が大きい(少なくともボクにとっては)。

あれを見ると、南禅寺に来たなと思う。

水道橋

それに宗教には関係なく、しかも六百年ほどの時代の差があるというのに、水道橋はかなり南禅寺に馴染んでいるなとも思う。

レンガは不思議なチカラを持っているのだ。

南禅院の庭を見て歩いていると、地元人らしき老紳士の「もうピークは過ぎたなあ。この前来た時はもっと凄かった…」という独り言が耳に届いた。

観光客の前で、いくら地元とは言え、このような発言は軽率および無責任だ。

こちらはひたすら楽しんでいるのであるから。

それにしても池に映る紅葉は見事だった。

南禅院

時間の関係で、久しぶりに水道沿いの道を歩けなかったのが残念だったが、また今度ということにして永観堂へと向かう。

 

永観堂は、「禅林寺」という古刹の通称だとある。

今は京都を代表する紅葉の名所として高い人気を誇る。

それゆえ、歴史や宗教文化の遺産に加え、紅葉の凄さが備わったこの永観堂をゆっくりと堪能しようというのは浅はかな考えだ。

ヒトでごった返す総門を抜け、中門(券売所がある)に至るだけにも気合が要る。

人ごみ

あちこちで必要以上に(と思えるほどに)写真を撮りたがる人たちが、塀に体を擦りつけるようにしてカメラを向けている。

しかし、その姿はかなり醜く、アルバイトの俄か係員たちが大声で制止したりしている。

何事も度が過ぎるとよくないのだ。

葉っぱだけ撮るなら、近くの公園でもいいよとアドバイスしたくなる。

さすがに京都を代表する紅葉の名所、境内は圧倒的な混み具合だった。

混み具合も凄いが、やはり紅葉の美しさも凄い。

質的にも量的にも気合が入っている。

永観堂の紅葉

重なり合う部分の深さや、木の大きさなども心に響いてくる。

陽光を透かして見せる美しさなども唸らせるものがある。

ところで、永観堂には季節に関係なく、もうひとつ人々を惹きつけているものがあるのだ。

「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像(重要文化財)だ。

鎌倉時代に作られた仏像だが、写真などで紹介されているイメージからすると、かなり大きな像を想像する。

が、実際は(その小ささに)多少ガッカリさせられる。

家人などはかなりその度合いが強かったらしく、最初にボクが指さした時(不謹慎だが)には信じられないという顔をした。

名前のとおり顔を左横に向けて立つ仏像で、わざわざその方向に拝顔できる場を設けてある。

そこには当然列ができていた。

空に突き上げる紅葉

諸堂めぐりを終えてまた外に出ると、そこは前にも増してのヒトの数(量)。

放生池という紅葉を映す水面に、カメラが無数に向けられている。

日本の今夜のFacebookが、永観堂の紅葉で被い尽くされるのではないかと心配になる。

家人が、わざわざ空いている場所を見つけて手招きしてくれた。

ならばと、こちらもカメラを構えてシャッターを押した。

放生池の紅葉

振り返ると、茶店の広いスペースもヒトでいっぱいだ。

毛氈の敷かれた無数の床几に、ヒトがまた無数に腰掛け、顔を中空に向けている。

紅い葉蔭から差し込む柔らかな陽光に、その顔たちが揺れて見えている。

永観堂には、広い空間がない分、ヒトの密度も高くなっているのかも知れないと思う。

そして、それはちょっと当たっているような気がした。

落葉の黄色

 

十一月の下旬とは思えない、もったいないような日差し。

周辺はクルマが列を作り、その間隙をぬってヒトが動く。

岡崎公園の地下駐車場にクルマを入れたのは、大が三つ付くくらいの正解だった。

次女がイベントをやってくれたおかげだ。

戻ってくる途中には、さっきの店でいまだに長い行列を作っているヒトたちの姿を見た。

せっかく穏やかな晩秋の京都にいながら、他に行くところはないのだろうか?

余計なお世話的に、わざと珍しいものを見るような顔をして通り過ぎてやる。

ここへ来てあらためて分かったのだが、ボクは京都の紅葉を見に来ているのではなく、京都の文化を見に(感じに)来ているのだ。

だから、この行列も、ある意味、京都の文化が成したコトなのだろうと思う。

ずっと昔、都へ上った地方の人たちが、その様子に驚いたであろうヒトの波。

見上げる大きな神社仏閣や、豊かな物品など。

こうしたモノゴトに出会うのが京都の文化の感触のようにも思えてくる。

複雑な思いのまま、今日の宿がある烏丸あたりへ………

 

四角の石2

 

 

 

 


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