カテゴリー別アーカイブ: 小さな旅編

小さな山行の思い出

「あるトレッキングにて」

あまりにも雄大で そして美しすぎた世界を前に

その人はどうしても涙をとめられないでいた

深く濃い青の空 雪と氷におおわれた緩やかな峪(たに)

雄大さも美しさも すべてが信じられないまま

ここまでの道を歩いてきたのだろう

そして今 この場所に自分がいるという事実に

その人の心は 大きく動かされていたに違いなかった

すべてを映しこんだサングラスの縁から涙が流れ落ちる

こんなところに自分がいるなんて と言う

ここへ来ることを許してくれた者たちすべてに

感謝しなければ とも言う そしてこの世界のすべてを

いつか必ず その者たちにも見せてあげたい……

涙声のまま その人は話し出した

日常は すべてにおいて自分を敗者にし哀れんだ

それは現実という意味では仕方のないことだった しかし

自分自身もそれらによって狭く そして

息を殺して生きていくことに馴らされていく

そんなふうに生きていくしか 道はないのだと思い込んでいく

この空の青さも この雪の白さも そしてすべての雄大さも

それらは知る術もなければ知る必要もなかった しかし

まちがいなく来てよかったと思った

そんな単純な表現では追い付かないくらいに心が動いた

こんな自分でも さも当たり前のように 大自然は

迎えてくれるんだという嬉しさがカラダ中から湧き上がってきた

何千年 何万年と続いてきたこの場所の時の流れの中に

ちっぽけな自分の存在がだぶっていく そしてその人は

視線の方向を変えた もう一度この場所へ来るために

自分らしくやっていこうと思う と言った

サングラスの奥の目は きっと笑っていたに違いなかった

 

 この小文は、2000115日発行の「ヒトビト」第8号に掲載したものだ。北アルプスの某山へ数人の山仲間と一緒に登った時、連れの中に初めての山という人がいて、その人の言動をもとに書いた。いろいろとつらい時期にいたらしい人で、突然の涙を見たときは正直びっくりした。山はその人に再び生きる勇気を与えた。犠牲にしてきた家族が行って来たらいいと送り出してくれたという。あの時のことを思うと、こちらもなんだか切なくなる。 

 山にはいくつもの思い出があるが、今でもときどき振り返る話だ………

 

三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も徐々に不要な人物が出てくるほど続いている。

 今回は生粋の勝沼人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空…… 納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

 “””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 

 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

***************************

 

 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

**************************

 

 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

****************************

 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

 

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

この正月の日常……

 過ぎてしまえば、やはり慌ただしく時間は流れていたのだと思う。正月とは、だいたいそういうものなのかも知れない。

 元旦の午前中から仕事関係の会合に出かけ、午後の遅い時間に戻り、堅苦しい洋服を脱いで、それから正月らしくあろう…と、酒を飲み始める。

 だが、長続きはしない。酔いを追うようにしてやってきた眠気が、酔いを飲み込んで、目を開けているために必要なエネルギーを抜き取っていく。

 その間、家人は翌日迎える娘たち夫婦への料理づくりでずっとキッチンに居た。

 そして、その翌日。昼過ぎ着の電車で大阪からやって来る次女夫婦を、K駅へと迎えに行った。

 駅周辺は、初売りで大混雑。ちょっと離れた駐車場を利用して、自分の好判断に満足した。

 家に戻ると、地元K市に住む長女夫婦もやって来て、家の中が久しぶりににぎやかになった。

 この二組の夫婦は、去年の春と晩秋に出来たばかりで、俗に言う新婚である。

 ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒… みなよく飲む。さらに、テレビでは箱根駅伝と大学ラグビー準決勝。

 飲み食いとお喋りの間に、それぞれ母校の勝利のための声援が入り、当方は母校ラグビー部の久しぶりの決勝進出に酒の味が急上昇し、当然さらに進んだ……

 そして、気が付くと、三日目の朝であった。

 娘たち夫婦はその日の午後、それぞれの住処へと帰って行った。

 おまけの話は、宴の最中に大学ラグビーの決勝戦に行くことが決まったことである。最近はチケット購入も電車の予約も簡単になった。一月七日、朝の新幹線で東京へ。

 家人と超アクティブ派の長女夫婦が同行し、何年ぶりかの秩父宮ラグビー場に胸が躍った。

 ゲームは一点差の敗戦だったが、セーターの上から紫紺と白のTシャツを着て、久しぶりに校歌を熱唱し、ひたすら大声で叫び、雄叫びも一回。そして、本気のガッツポーズを何回もした。

 四人とも手のひらが充血していた。

 大好きなラグビーの面白さをあらためて認識した一日であり、その夜の丸の内における打ち上げ会も観戦談で盛り上がり、最終の新幹線で帰ってきた。

 正直、これが今年の正月のハイライトだったみたいだ。

 慌ただしく時間は流れていたのは間違いないが、やはり正月とはそういうものでなければならないと痛感したのである……

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

ノーサイドの後も、ゲームの余韻に……

奥能登・珠洲でやってよかった

 

 奥能登・珠洲を舞台にした「奥能登国際芸術祭2017」。

 今も心に残る、ひとつのメッセージがある。

 旧飯田駅のホームに停められた貨物車両の中。

 うす暗い空間の壁いっぱいに埋め尽くされた言葉たち。

 どれもみな、力強く、あたたかく、やさしい。

    その中に…… 「また来ますね」。

 思わず足と、息が止まった。心が震えてきた。

 手書きの文字が踊っている。

 これを書き残していった人のことなどを考えた。

 そして、しばらく見つめ……、思った。

 やっぱり奥能登の、この珠洲でやってよかったんだと。

 明日が最終日という、切なさがいっぱいに詰まった午後。

 誰もが、その切なさと淋しさを追い払おうとしている。

 見馴れた珠洲の風景が、今までとは違う風に揺れているように見えた……

 

 *これもよかった……

昼から夕方にかけての山村谷歩き

 

 山村歩きをしながら、必ず考えてしまうのが「シャンソン」のことである。

 どうでもいいようなダジャレなのだが、昔流行ったギャグである「新春シャンソン・ショー」をもじって、「山村シャンソン・ショー」とアタマの中で呟いている。

 アタマの中だから、結構派手に両手を広げショーの司会者ぶった言い方もしたりする。客席からの拍手なども聞こえてきて、アタマの中はかなり盛り上がるのだ。

 しかし…、実際の山村はいつも静まり返っている。

 鳥の鳴き声がたまに聞こえたり、もっとたまにクルマのエンジン音が遠くに聞こえたりするくらいだ。

 しっかりと、それなりの気合を入れて山村歩きを楽しむのは三ヶ月ぶりだろうか。

 地域的には二度目で、富山県の山田村あたりだろうと、いい加減に位置付けている。ちょうど一年前ほど前、もう少し秋が深まっていたような時季に初めてこの辺りを訪れた。

 その時のことは実は書いていない。とても感動的だったのだが、なぜか書く気にならず、結局書こうとすらしなかった。

 とても感動したから、気力が湧いてこないと書けないことがある。このあたりは、いくら雑文と言えども情けないくらいに心が折れ、書き切れなかったことを悔やむのである。

 

 今回はやや遅い時間の出発だった。

 前回は最初からクルマで少し登り、それから深い谷に下りて、視線の先に浮いているような水田(稲刈りは終わっていた)を見ながら、畦の上で「握り飯」と「いなり寿司」(双方ともコンビニ)を食するという贅沢なランチタイムだったが、今回は道路脇のちょっと歩道が膨らんだようなスペースにクルマを置き、同じものを慌ただしく呑み込んでいた。

 歩き始めたのはちょうど昼頃だったろうか。

 相変わらず、ほとんど先を見越していない山村歩きだ。いつでも引き返す心の準備は出来ている。

 登り口からすぐに急な道になったが、民家が道沿いに数軒並んでいる。

 白山麓の白峰にあるように、このあたりの民家にも屋号が付けられている。地元の文化を愛する人たちが住んでいるのだろうと推測できる。少し奥まったところの民家の庭では、十人ほどの人たちが集まって、何らかの会合が開かれてもいた。

 いきなりの坂道を、まだ調子の出ない足取りで登った。

 本格的な山行から遠ざかること数年。もう足元はトレッキングシューズばかりとなり、生涯四足目?のまだ新しい登山用ブーツは、部屋の中でずっと眠っている。

 かなり以前、太郎平小屋までの道で足に馴染んでいた靴(高かった)の底がはがれ、翌朝、太郎の小屋から薬師沢へ向かう際に、小屋の五十嶋マスターのゴム長靴を借りていったことがある。軽かったが、やはり石だらけの道では足の裏が痛かった。

 結局、帰路、登山靴はテーピングによってほとんど白一色になったまま、登山口の折立まで辛うじて持ったが、手入れがされていないといくら高価な靴でもダメなのだ…ということを、その時思い知らされた。マスターの長靴を一日履かせてもらったという喜びとともに、どこか虚しい記憶でもある。

 そういうことを思い出しながらのスタートだった。

 畑が過ぎたあたりからの道は、しっかりと整備された林道のイメージとなった。畑の中にトランジスターラジオがまるで巣箱のようにしてカッコよく置かれていた。クマ除けだと思うが、農作業しながらラジオを楽しむというセンスの良さみたいなものも感じられて、こちらもスマホに納めてある音楽を鳴らした。

 もちろんイヤホンなどは使わない。ズボンの後ろポケットに差し込んで、ここはやはりいつものベイシー・オーケストラで、クマを近づけないようにと配慮?した。

 木立に挟まれながらまっすぐに坂道が延び、その後左の方へと折れていく。天気はとてもよいというわけではないが、十分に汗をかかせてくれそうだ。

 いつも思う。こういう場所を歩いている理由を聞かれたら、なんて答えようかと。

 一応、カメラをぶら下げているから写真家とか、研究家とか、そうした類のニンゲンだと思ってくれるかもしれない…。そんなことを考えているのである。

 歩き始めから見れば、かなり登ったかなと思えるほどの道を歩いていた。

 林の中にぽつんと畑があったりする。何か観光的に造られたのではないかと思えるバンガローのような小さな建物もあったりする。

 どちらにしても、いつものように静かな歩きだ。スイングしまくるベイシー・オーケストラはすでに消してある。クマには遭いたくないが、静けさもやはり大事なのである。

  三十分ほど来たところで道が分岐した。

 一方は高い方へと延びていたが、谷に下る方へと向かう。なんとなく上の道は予測できた。これを行ってしまうと、今日の帰りは相当遅くなるかもしれない、そう判断した。それとずっと先には前回歩いた道が繋がっているはずだった。一年前、道がなくなるところまで登ったことを思い出した。

 それを理由にして、ゆっくりと下ってゆく道をたどった。正解だったのは、その先に美しい森があったことだ。

 下って行くと、奥にポツンと一軒だけが立つ民家を見上げながらの明るい道に出た。左手は、急な傾斜となって下っている。真下には鳥居が見える。栗の木があるのは、民家の方が植えたものだろう。

 グッと下って、水田の道を歩き、さらにしばらくして森に入って行く道をたどる。

 森と言っても、歩いて行く道はしっかりと舗装されている。ただ、地元の農家の人たちが通るだけの道だろうから、それらしく暗くて、通り過ぎてゆくクルマなどない。路上は落ち葉でいっぱいだ。

 一段と静まり返る森の中で、美しい緑色の何かが映えていた。よく見ると、切り株の上に生えた苔の緑だった。

 道から森の中へと足を踏み入れ、しばらく枯れ草の感触を味わう。湿った空気が一気にカラダ全体を包み込むような、そんな感じだ。汗ばんでいたのが、少し涼しくなった。あたりも静まり返り、息を殺すように足を進めては立ち止まる。

 愉しい森歩きはしばらくして終わった。

 そして、森を抜けると、のどかな風景が広がった。

 それもまた、見事だったのだ。

 蕎麦の花が咲いている。奥行きの深い谷あいに広々とした空間があり、思わず深呼吸をしてしまうくらいの正しいのどかさだ。

 ぽつんと人家らしきものがあったりするが、実際に人が住んでいるのかは分からない。農作業の休憩所を兼ねた別荘みたいな存在なのかもしれない。

 気持ちのいい開放感に浸りながら、のんびりとした気分で下ってゆく。相変らず人影は全くない。

 人家が見える。だから山村であり、山里なのだとアタマの中で呟いている。

 こうしたことが山村歩きの楽しみだ。本格的な山の世界から遠のいたあと、こうした楽しみに救いを求めたようだが、本来は街道歩きのように、こうしたスタイルも嫌いではなかったのだ。むしろ好きでもあったわけだ。最近テレビでよく見る“ロングトレイル”なるものへの興味も、こういうことの延長上にあるのだろうと、自分で思っている。

 しかし、日常しか見ていない人は、こういうボクの姿を見たらなんて言うだろうか?

 いや、待て…、家族ですらボクがこんな場所でうつつを抜かしていることなど想像もしていないだろう。

 かつて、岡田喜秋氏の本を読んでほくそ笑んだ記憶がよみがえってきた。

*****************************

 下って、さらに下って、先が分からないような谷の中で“単独”を楽しむ。

 “孤独”ではない。“単独”なのである。

 相変わらず、イノシシたちの行儀の悪さをいたる所で見た。しかし、この山村に住む誰かが植えたのであろう素朴な花々が、そんな傷跡など構うことなしに咲いている。

 もう道は下るばっかりになっていった。少し外れて、道草をする余裕も出てきた。

 ふと蕎麦の花が咲き広がる平地を見つけたりする。木々の隙間に、傾斜を登る細い道が見えたりもする。すでに、二時間半ほど歩き、さらにまた下った。

 もう一度幹線道路に戻って、また新しい道を探すのもいい。一瞬そう思ったが、今から登り返す元気はなかった………

 

 

 

 

 

 

 

蕎麦畑のそばにて


 蕎麦の花が咲き広がる風景というのは、山村にひっそりと存在するものだと思っていた。

 そして先日、富山の南砺市で出合った風景によって、その思いは変わった。

 その蕎麦畑は、とても新鮮だった。単なるボクのせまい見識の中でのことだったのかも知れないが、その爽やかに広がった風景は、まるで昔話の世界のように感じた。

 普通の道をクルマで走ってきた。そして、なんとなくアタマの中に予感が来た次の瞬間、周囲が蕎麦の花だらけになった。

 人家もあり、神社もあり、当然その鳥居もあり、おまけに青空があって、水の流れもあった。

 蕎麦の花にこれほど惹かれたのは初めてだった。

 すぐに細い脇道へとハンドルを切り、しばらくしてエンジンを切った。カメラを持って来ていてよかったと心の底から(と言うと、ちょっと大げさだが)思った。

 辺りをうろつきながら、何枚も写真を撮る。通り過ぎていくクルマの人たちが、不思議そうに見ていたりするのが分かる。

 しかし、こっちはその人たちの視線に構ってはいられない。

 時間にすると、二十分ほどいただけだろうか。

 蕎麦の花から、「ざるそば」や「もりそば」、ましてや「おろしそば」などを想像することはできない。まったく別モノだ。

 花は「蕎麦」という漢字で表現する方がよくて、食べるときは「そば」とひらがながいい。

 恥かしながら(と言うべきか?)、ボクと蕎麦との出合は、小田急沿線の駅にあった立ち食いの『箱根そば』であった。

 ただ、それは名称としての「そば」との出合であり、実際に食べていたのは「うどん」だった。一杯が百数十円の「たぬきうどん」が定番メニューだったのである。

 カネがなくなると、一日三食「たぬきうどん」だったこともある。

 富山のブラックラーメンの上をいくような濃い汁が、セーシュンの味だった。

 店員は無造作な仕草で、天かすをどっさりとうどんの上にかけてくれた。これもまたセーシュンの味であり、うどんと一緒に口の中で混ざり合った時の満ち足りた瞬間は、セーシュンの味の絶妙なインタープレイ体験(?)だったのである。

 正真正銘の「そば」との出合はいつだったのだろうか?

 たぶん、大学を卒業して社会人になり、金沢のそば屋さんで食べた「にしんそば」が最初だっただろうと思う。

 人生のナビゲーターの一人である、ヨーク(金沢ジャズの老舗)の亡き奥井進さんと、金沢のそば屋と言えば的存在であった『砂場』で食べたのである。

 どういう状況でそうなったかは忘れたが、ヨークがまだ片町にあった頃の遅い昼飯だったか…?

 奥井さんが店員に「にしんそば」と言った時、ボクも同じく…と言った。正直、本当は「いなりそば」あたりにしたかったはずだが、あの頃は奥井さんに追随する気持ちが強く、これも人生経験みたいな感じで注文したのだった。

 しかし、「そば」はボクにとって、その後しばらく強く望むような食べ物ではなかった。

 「そば」好きになったのは、いつの頃からか分からない。

 

 食材に恵まれなかった山あいの人たちが蕎麦を作っていたという話も、二十代の中頃、信州へ頻繫に出かけていた頃に知った。

 あの頃食べていたそばは、今ほど美味くはなかったような気がするが、単なる味音痴の的外れな話かもしれない。

 今は、あたたかい「いなりそば」か、冷たい「おろしそば」が好きである。ただ、そのことと蕎麦の花の風景とは特に何ら関係はない………

 

晩夏っぽい初秋の白川郷雑歩

 

 思い立ったように、家人と白川郷へと向かう。

 若い頃の思い立ったという状況には、ときどきクルマを走らせてから咄嗟に決めるということがあったが、齢を食うと、そんなことはほとんどない。

 今回は、なんとなくアタマの中でどこへ行こうかと迷いつつ、前夜のうちにほぼ決めていた。ただ、なかなか踏ん切りがつかず、一応朝決めたみたいな状況になったために、“思い立ったように”と書いたまでである。

 そういうことはどうでもよくて、久しぶりの白川郷は、まずとにかく暑かった。

 木陰も気持ちよかったが、歩いている途中で見つけた休憩所になった旧民家の畳の間も気持ちよくて、横になっていると、そのまま浅い昼寝状態に落ちていった。

 最初は我々だけだった。しかし、我々の気持ちよさそうな姿を見つけた往来の観光客たちは、当然のように、しかも怒涛の如くなだれ込んで来て(ややオーバーだが)、しばらくすると、かなりの混み具合になっていたのだ。

 さすがに世界遺産・白川郷なのである。

 今回も金沢から福光へと抜け、城端から五箇山へと山越えし、岐阜県に入ったり富山県に戻ったりを繰り返した。途中、五箇山の道の駅「ささら館」で昼飯を食べた。

 ささら館の店では久しぶりに岩魚のにぎり寿しを食べたのだが、早めに入ったおかげで、ゆとりのある昼食タイムになった。あとからあとからと客が入って来て、一時ほどではないにしろ、相変わらず高い人気であることがうかがえる。

 初めて来たのは、NHKの人気番組で紹介された後だった。あまりの客の多さに、店員さんたち自身が怯えているように見えたほどだった。

 白川郷に着いても、特に焦って動くほどでもなく、駐車場の奥の方にあったスペースにクルマを置いてゆっくりと歩きだす。

 庄川にかかる長い吊り橋には相変わらずすごい人が歩いている。真ん中が下がって見えるから、人の多さに吊り橋が緩んでいるのかと錯覚してしまうほどだ。言うまでもないが、実際にはそんなことはない。

 9月の終わりだからコスモスが目立つ。

 最近見なくなっていると、自分の尺度で珍しがっている。

 街なかの住宅地の空き地にコスモスが植えられていると、そのことが「しばらくここには家は建ちません」といったお知らせ代わりになっている…そんな話をこの前聞いた。

 コスモスはやはり高原とか、畑地に咲いているといったイメージがあり、ボクにはそうした場所で見るコスモスに強い親しみを感じたりする。だから、住宅地に無理やり凝縮型に植えられたコスモスを想像すると、なんだか情けなく感じる。

 そういえば、いつか能登の道沿いで出会ったコスモスのいっぱい咲く畑に居たおばあさんはまだ元気だろうか……と、白川郷のおばあさんを見ながら、能登のおばあさんのことを思い出したりした。

 もう何度も来ているから、白川郷のほとんどの場所は行き尽くしている。見学できる有料の合掌家屋なども、世界遺産になる以前に入っていたりするから、今さらながらだ。

 そんな中でまだ入ったことのない(であろう)一軒の家屋を見つけた。

 今回は特にメインの道というよりも、田んぼの畦に近いような脇道を歩いていたせいだろうか、その家屋はふと今まで見たことのなかった視界にあった。

 地元の人ではないような?… 都会的な匂いのするスタッフがいた。てきぱきと受け答えをし、忙しそうだったが、この家が生活の場でもあると確認し、ああやっぱり白川郷だなあと思った。

 世界遺産になって初めて訪れた時、こんなにも違うのかと、目を疑うほど観光客が増えていたのに驚いた。ちょうど今回と同じような夏の終り頃だったと思う。

 そして、集落の中を歩いていた時、部活から帰ってきたらしい中学生の女の子が、畑にいた母親の手伝いをしに行く様子を見た。

 すぐそこにあるといった日常の光景だった。

 周囲には自分も含めた観光客たちが、かっこよく言うと非日常を求め彷徨っている。しかし、その母娘の姿はまぎれもない白川郷の日常だった。

 もともと、日常が見えるからこそ旅は面白いのだという感覚があった。この集落を歩く時にも、なんとなく地元の人たちの日常を探すようになっていた。

 ずいぶん前のことだが、年の瀬の木曽で、年の瀬らしい日常を見せつけられ、独り淋しい旅の夜を過ごしたことがあった。学生時代の帰省と合わせた旅であったから、そこで見せられた民宿の中の日常の光景に望郷の念(大袈裟だが)が高まったのかもしれない。

 若かったが、冷たい冬の空気が体の芯にまで沁みていた夜だった。

 旅人が非日常を求めるというのは、そこで暮らす人たちの日常を見るということだとよく言われたが、それはさりげなくであるのがいい。

 ただ、自然などの普遍的なものとともにある生活様式も、時代とともに変化して当然だ。

 中学生の女の子が着ていた、どこででも見るような体操着。母親のおしゃれな帽子。どれもが日常である。

 暑さも増した午後、水田では稲刈りが普通に行われていた。

 こちらはただその場を通り過ぎていくというだけでいい。なんとなく感じるものがある。

 白川郷でいつも新鮮な思いを抱かせてくれるのが“水”だ。特に暑い日には、道端のその流れの様子そのものが爽やかさを伝えてくれる。

 道端の水が勢いよく流れているのを目にすると、その土地の豊かさを感じる。どこの山里でも同じで、それは単に農業や生活への恵みなどといったものを超越した豊かさのように思える。水の持つパワーは偉大なのだ。

 何気なくといった感じで、白川郷を訪れ、何気なくといった感じで白川郷を後にした。

 いつも立ち寄っていたコーヒー屋さんが閉まっていたのを、行くときに見ていたので、どこかで新しいコーヒー屋さんを見つけようと思っていたが、果たせなかった。

 国道を走ると、高速への分岐を過ぎたところで喧騒が消える。

 走っているクルマは極端に少なくなる、特に五箇山方面は。

 静かな五箇山の、村上家の近くで、ソフトクリームを食った。

 家人は「美味しい」を連発していた。自分もまあそれなりに美味いと思い、適当に相槌を打っていた。

 神社ではお祭りの準備が整っている。こきりこの祭りだ。 

 慌ただしそうで、それなりにのんびりとした時間が流れているなあと思っていた………

湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇

 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

****************************

 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

*****************************

 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 

北信濃・温泉町のひまわり

 今年の夏、北信濃の湯田中という温泉の、ある古い宿に泊まった。家族と一緒だった。宿に入ってすぐ地震があって、短い時間だがかなり揺れた。なんとそこが震源地だった。生まれてはじめて、震源地で地震を体験したのだった。

 その宿は風呂場がトテツもなく凄かった。なにしろ有形文化財の指定を受けており、豪壮な木造建築がそのまま浴場になったような感じで、とにかくトテツもなかったのだ。

 そして、翌朝早く、朝飯前の単独行(散歩)で出合ったひまわりにも感激した。

 それは当然文化財ではなかった(…と思う)が、質素に静かに温泉町らしい空気感を醸し出していた。

 最近では、ひまわりを広く団体で植えて迷路を作ったりするのが流行っていて、ああいうのもそれなりにいいのだが、今回出合ったそのひまわりは、数本の仲間とともに、趣のある和風の家の庭から咲き出していて、特に板塀の上から、こちらを逆に覗き込もうとしている様子がよかった。

 出合ってすぐ「おはようございます」と、あいさつをされているような気分にもなり、ひまわり特有の天然の明るさに親しみを感じた。

 そして、しばらく佇んで見ていると、さらにまた何か話しかけられているような、そんな気もしてくるのであった。

 板塀がいいと思った。それも竹で作られたような板塀で、都会にあるようなイメージのものではなく、やはり北信濃らしいというか、素朴な材料が使われている感じがしていいと思った。

 その奥に建つ家屋も非常に雰囲気が良くて、そこに住んでいる人たちの、麗しい夏の生活が目に浮かんでくるような気がした。

 

 一度だけ、我が家でもひまわりを植えたことがあったことを思い出していた。

 一気に10本ほどのひまわりが咲いてくれたが、自分から見て美しく咲いてくれたのはわずかで、多くは美しい咲き方をしてくれなかった。

 成長していくスピードにムラがあって、大きさもアンバランスだった。

 満開になってからの数日はそれなりに嬉しかったが、だんだんみすぼらしくなっていくと、人に見られるのも嫌な気がして早めに切ってしまった。あれ以来、ひまわりは他の誰かが植えたものを見るようになる。

 そして、夏の終わりごろの、かなり落ちぶれたひまわりを見ては、こうなる前に何とかしてやればよかったのにと思うようにもなっていた。

 

 泊まった宿は温泉町の奥深いところに位置していて、宿の周辺は静かな住宅地といっていいような雰囲気だった。俗に言う「温泉街」ではなかった。

 ひまわりに出合う前、すぐ近くにあった寺に寄った。

 小林一茶の句碑がある…

 子ども等が雪喰いながら湯治哉

 草履もない貧しい農家の子供らの、温泉に入りに行く楽しみ…… そんな光景を詠んだ句とか……… なんとなく目に浮かんできて切なくなる。

 一茶の気持ちを少しだけ理解した思いで、本堂の前に立ち手を合わせた。

 境内を出て、少し歩き、高台から見下ろす夜間瀬川の方向と反対側の小高い山並みを見た。そして、特に目引くものはないなあと思いながら引き返して、宿の前を通り過ぎた。

 夜間瀬川は「よませがわ」と読む…ということを後で知った。

 それからしばらく歩いて、一本脇道に入ったあたりで、ひまわりと出合ったのだ。

 こうした旅の際にときどき思うのだが、この脇道に入るといった感じが大切だ。

 特にどうということもない生活空間だが、旅のニンゲンからすればあくまでも非日常の空間である。

 必ずと言っていいほど、得した気分になれるシーンがある。だから、勇気を出して(というほどでもなく)足を踏み入れるのがいい。空気感だけでも、心に響くのだ……

 ひまわりの家の前あたりから、細い道はゆるやかに曲がっていく。

 曲がった先は見えず、さらに歩いていくと、またその先もゆるやかに曲がっていた。

 明け方だろうか、少しだけ降った雨の水たまりがある。

 空き地に不規則に建つ民家が、静けさを一層助長しているように見えている。

 どこかで感じた空気の匂いがしたが、ここでは思い出せず……

 その後、二十代の頃、信州方面の行き当たりばったり旅で、泊まるところがなく、山あいの湯治場の宿に入れてもらった時のことを思い出した。

 少し違ったが、あの時、日が暮れた山村の道をクルマで走らせながら見ていた風景は、あんな感じだったかもしれない。

 ほんの一瞬のことだったろうが、かなり寂しい風景だった。

 ただ、そんな風景も翌朝見た時には夏の強烈な朝日を受けて輝いていた。

 

 これはいつか深く書きたいと思っているが、「信州」というこの二文字に弱い。

 二十代の頃から、この二文字を目にするとココロが躍った。

 ココロが焦ることもあった。その焦りは異常なほどに膨れ上がって、胸を苦しめたりもした。

 ときどきどこかで書いているが、山岳や高原や森林や田園や河原や山里や…、自分の好きなものがすべて信州にあった。

 今こうして家族旅行で訪れた温泉町も、どこかにそんな思いがあって選んだ場所なのだと思う。

 

 ぐるりと回って、またひまわりの前に来ると、さっきよりもいくらか明るくなった気配の中に、ひまわりも少し姿勢をよくしているように見えた。

 見ていて飽きないが、家の中の人から見ると怪しい通行人の存在にちがいないだろう。

 しかし、このひまわりは、どこか他のひまわりと違う… そう思えてならなかった。

 とにかくどこか大らかで、やさしくて、ものに動じないような逞しさもあって、信州の北信濃の美しい風に揺られながら、夏の一日一日を楽しく過ごしているのだろうと思えた。

 離れがたかったが、その場を去る時が来た。

 そして、大げさすぎる思いを、もう一度ひまわりへの視線に託した。

 もうお会いすることもないでしょうが、お元気で。

 ひまわりがそう言っているような気がして、なんだか寂しかったのである……

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

 旅ごころが自分の中に根付いたきっかけは何だったのか? 

 この古い本は最近になってヤマケイ文庫で復刻したものだが、その中に懐かしい答えがあったような気がした。

 90歳を越えた著者の青春時代の出来事を綴ったエッセイが、旅と人生とをつなぐ素朴な何かの存在を教えてくれる。

 いくつかの作品に心を動かされたが、特に『常念岳の黙示』という短い文章から感じ取ったものは、かなり心の奥にまで届いているように思う。

 東京人の著者が、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだ理由が、どこか清々しく、そして、なぜか切なくもあって、読んでいる者(つまりボクだが)の心に迫るのだ。

 それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしたのかもしれないと考えさせたりする。

 そして、“自分に黙示してくれるもの”として常念岳を見つめていた著者の姿を想像し、どこか切迫感に襲われたりもするのだ。

  『常念岳の黙示』の中で、特に山に傾倒していく著者の、山は動かない…つまり、山は黙ってすべてを分かってくれている…そうした解釈と、そのことによる安堵の心境表現がとても好きだ。

 山を含め、風景にはこのような黙示のチカラがある。

 星野道夫もどこかで書いていたが、このチカラが何かの決断に作用することもある。ヒトの心情を動かし、さらにヒト自身の形成に影響を及ぼすとさえ思える。

 そして、ヒトが旅をするのは、そうしたチカラに促されるからなのだろうと思う。

 ボクは人に自慢できるような大それた旅など経験していないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。だからこそ、風景(や情景)などに素直に向き合おうとしていたのだと思う。

 風景にはすべてが止まったままで、動きがないということはありえない。上空の雲たちや、山里の家並みからのぼる炊事の煙や川の流れも形を変えていく。時間の経過などから、その色や陰影をかえていくことも普通の現象だ。

 しかし、底辺にはやはり動かないものがあり、それ自体にまず大きなチカラを感じ取るのだと思う。

 二十代のはじめ、上高地を初めて訪れ、穂高の連峰を見上げた時の感動は今でも忘れないが、その根底にあったのは圧倒される山岳風景の偉大さだったのだろう。そして、あの時から確かに自分の中の何かが変わっていった。

 ボクはあの時以降、本格的に山に向かうようになった。山に登るだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ちだした。

 すでにずっと購読していたジャズ誌に加え、『山と渓谷』も購読し始めた。

 さらに、街にいて仕事をしていても、山のことを考えるようになり、実行できなかった計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送っていた。

 今から振り返ると、仕事で様々なことをやらかしてきたが、何をやっていても山の世界に憧れてばかりいるニンゲンという認識を持たれていたとも思う。

 山はそうした意味で、奥深く、やはりあこがれの対象になり得たのだ。

***************************** 

 常念岳から黙示された著者も、あくまでも山=常念岳そのものを見た。

 常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたというラストには純粋に感動を覚える。

 「黙示」の意味を考えながら、久しぶりに何度も読み返した。そして、またあらためて旅について考えようとしていた。しかし、なぜかアタマの中が整理できなくなり、ついには山のことに対する後悔ばかりを考えるようになってしまった。

 ただ、今自分が毎日の煩わしい時間の隙間に実行している、山里歩きや森林歩きなどを思うと、その素朴な楽しみが旅の延長上にあったのかもしれないと思う。

 そして、こういう心持に決して今の自分は満足していないということも事実で、またそのうち、北アルプスのどこかに自分という存在を置いてみたいと考えてもいる。

 何がそうさせるのかは分からないが、とにかくあこがれが絶えることは自分にはないような気がするのである………

*****************************

※岡田喜秋氏は、月刊誌「旅」の元編集長。ボクにとっての氏の存在は、『山村を歩く』から始まった。氏の話にはとても付いていけないスケール感もあったりするが、ボクが求めている小さな旅心みたいなものと共通する何かもあって、最近では、大体手の届くところに氏の本が置かれていたりしているのだ………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

***************************** 

 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

 *****************************

 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

 *****************************

 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

****************************

 

 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

*****************************

 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

***************************** 

 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

まぶしいほどの新緑の中で夏を考えた

 静かな沼の脇にあるベンチに腰かけ、まぶしいほどの新緑に浸っていると、ふと、そろそろまた夏が来て、その夏が去っていく頃、また少し寂しいというか、空虚な気持ちになるのかもしれないなあと考えている。

 まだまだ夏は来ないのだが、それでも来るのは確実に決まっている。そして、そのままずうっと夏が続くのではなく、去ってゆくのも確実に決まっているのである。

 その夏に対して、何ら計画もなく、ただ薄らぼんやりと過ごしてしまう予感が今年もある。

 しかし、実行できないのはかなりの確率で予感できるのだが、まだ春の余韻の中にいる時季だから少し自分らしい夏について考えてみようと思ったりもする。

 夏は若者のイメージだから、夏に執着するのはオトッつぁんらしくないが、少し違う何かが自分の中にあったりするものだから、敢えて考えてみるのである。

 

 かつて、『ポレポレ通信』という無分別書き下ろし型プライベート紙(誌ではない)を出していた頃、よく夏のことを書いた。

 夏に向けての計画についても、夏の終わりのレポート的雑文なども書いていた。ただ今と違うのは、当時はほとんどが実現する(した)話だったのだ。

 普通(上辺は)のサラリーマンであったボクには、普通に夏休みの時間があり、普通にそして身軽に何でもできる環境があった。基本的にほぼ自分のやりたいように夏は組み立てられていた……と言っていい。

 その頃の夏は、たとえば八ヶ岳山麓や、信州の高原などの自然の中で過ごす一週間などに賭けていた。そこでの夏休みは、今でも最高のもので、社会人になって以降、秘かに(近い)将来ここに住もうと考えていたほどだ。

 そう言えば、今年の夏はその八ヶ岳山麓に行きたい…と、正月あたりだったか、誰かに語っていた記憶がある。

 なぜ八ヶ岳山麓への思いが再燃したのかははっきりしないが、たしかに“再び八ヶ岳へ”へと、自分の中に旅行代理店の「八ヶ岳キャンペーン」みたいな風が吹いていたのだ。

 しかし、今年の夏にはすでに予定があって、その構想は実現に至らないことも予想している。

 その予定というのは信州方面への家族旅行である。その意味では文句など言ったら罰が当たるといった類のものだから、素直にというか前向きに受け止めなければならない。

 それに八ヶ岳は無理としても、うまくいけば上高地あたりのワンディ散策くらいは実現するかもしれない。

 楽しい夏になる可能性はそれなりにかなり高いのである。

 そう思って振り返ると、去年の夏は旧軽井沢にて美酒に酔い、かなりクリエイティブな早朝森林歩きでアタマとカラダの浄化を果たしてきた。

 本格的な山行から遠ざかる日々の中、山里歩きや森林歩きなどはより深みを増していると強く感じるが、かつて吸い込んでいた信州や八ヶ岳周辺の空気が、自分に何かいいものを残していてくれたのだろう。

 そんな風に考えながら、もう一度夏について考えてみると、今の下品な日々などもかなり払拭されていく。

 まだまだ成長途中の新緑の中で、夏への思いも同じように中途半端でいいのだと、今は自分に言い聞かせている。

 日差しが強くなり、緑の草が放つ夏らしい匂いを感じるようになってきた………

 

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

*****************************************************************

 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

 *********************************************************

 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

奥能登・珠洲蛸島を歩く

%e5%8f%a4%e3%81%84%e5%ae%b6%e5%b1%8b%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%ae%e8%84%87%e9%81%93

奥能登・珠洲蛸島の入り組んだ町の中を歩いてきた。

暦で見れば秋も深まり、しかも能登半島の先端に近いとくれば、そぞろ歩きなどあまり適さないと思う人もいるだろう。

しかし、そんなことを言っていては能登の空気感は分からない。

粋がって言えば、これからが本当の能登の味が分かる季節なのだ。

と、やはり軽薄に粋がって言っているが、その日は特に肌寒さを感じることもなく、至ってのどかな、冬に向かう奥能登とは思えないほどの日であったことも事実だった。

クルマを旧蛸島駅前に止め、まず入っていいのかどうかさえはっきりしない、廃墟的なホームに出てみようと思った。

この小さな駅はかつての能登線終着駅だ。

dsc_0612%e8%9b%b8%e5%b3%b6%e9%a7%85%e3%81%ae%e7%b7%9a%e8%b7%af%e8%9b%b8%e5%b3%b6%e9%a7%85%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%81%8b%e3%82%89%e7%95%91

珠洲の街のはずれ(?)に、なつかしい黄色と黒の車両が置かれている場所があるが、この季節に見るとその姿はなんとなく哀愁を帯びていた。

ホームの方も今は当然草が伸び放題で、レールがその草の中から見え隠れしている。

しかし、その先に広がる畑地は、真夏、ここで下車した人たちの心を躍らせたにちがいないと思わせる広がりをもっていた。

この場所からは海は見えないが、海の匂いは十分すぎるほど感じられるからだ。

************************************************************************

詳しいことは忘れたが、蛸島(たこじま)という地名には、文字どおりタコにまつわる伝説があるらしい。

普通に考えれば、タコがよく採れたという話で済むのだが、人食い大ダコの話などもあって、やはりそうだろうなあと妙に納得したりする。

実は、一ヶ月ほど前、仕事で珠洲に来ていた。

そして、クルマで蛸島の町の中を慌ただしく見ていた。

もちろん初めてではなかったが、記憶に残っていた光景もほとんどなく、もう一度ゆっくり見ておこうと思っていたのだ。

駅舎の前から歩こうと考えていたが、クルマを港の方に運び、海辺から歩くことにした。

青空の中に白い薄い雲がたなびいている。

ゆるやかに、家々の屋根の上で踊っているようにも見える。

人の姿はなく、こちらも静かに細い道へと足を踏み入れてゆく。

%e6%9c%89%e5%90%8d%e3%81%aa%e5%8f%a4%e3%81%84%e5%ae%b6%e5%b1%8b%e9%ab%98%e7%a0%82%e6%b9%af

漁業や海運などでにぎわいを誇っていた雰囲気が漂い、立派な家屋の姿に目を奪われながら、知らず知らずのうちに先を急ぎたくなっていく。

今は閉められている風呂屋の玄関先に立つと、桶と手ぬぐいを手に、火照った顔付きで出てくる日焼けした漁師たちの姿が想像された。

流れが止まったような小さな川を渡ると、しばらくして勝安寺という寺のあたりに出た。

%e5%af%ba%e3%81%ae%e5%89%8d%e3%81%ae%e9%a2%a8%e6%99%af%e5%b1%b1%e9%96%80%e3%81%a8%e6%9c%a8

一部に蔦が絡んだ廃屋の土壁に陽が当たって、一帯をより明るくしているように見える。

小さいながらも形のいい山門があり、その脇にこれも形のいい大木が立つ。

山門をくぐり境内に足を踏み入れると、のどかな空間が広がっていた。

再び山門をくぐって、そのまま直線的に高倉彦神社へと向かう。

%e9%ab%98%e5%80%89%e5%bd%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be

海沿いに建てられたこの神社では、日本遺産という「蛸島キリコ祭り」が行われ、能登で最も美しいと言われる16基のキリコが町なかをまわるのだそうだ。

そして、境内の舞台では、「早船狂言」という伝統芸能の披露も行われている。

境内のその先には草地を経て砂浜が見える。

%e9%ab%98%e5%80%89%e5%bd%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e8%a3%8f%e3%81%ae%e6%b5%b7%e5%b2%b8%e9%ab%98%e5%80%89%e5%bd%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e8%a3%8f%e3%81%ae%e3%81%ae%e3%81%a9%e3%81%8b%e3%81%aa%e6%b5%b7%e5%b2%b8

その先には当然日本海が静かに広がっていた。

この季節にしてはおだやか過ぎる海辺の気配に、ここが奥能登であるということを忘れるほどだ。

ぼーっと海を眺め、もう一度町の中の道へと戻り、しばらく歩いてから左へと折れた。

%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e4%bd%8f%e5%ae%85

このあたりの家並みも美しい。

空き地もそれなりに意味を成しているように思えてくる。

さっきの川をもう一度渡りながら、水面のおだやかさに、なぜか足を止めたりもしている。

この町の得体の知れない魅力(というと平凡だが)に取りつかれたか?

dsc_0582

それから後は、ただひたすら淡々と歩いた。

小さな家内工業の作業場があったりするが、人の気配には遭遇しない。

そして、それからしばらくして、ようやく狭い道端で午後のおしゃべりタイムを楽しんでいる、ややご高齢の女性二人組と出会うことになった。

夏であれば、もっとのんびりした空気感が漂っているのであろうが、暖かいとはいえ、やはり秋だ。

道端の段に腰かけている二人の姿にも、なんとなく少し体を丸める仕草が見える。

聞きたいことがあった。港の方に行く近道だ。

狭い路地は日陰になっていた。

「海はこの道まっすぐ行って、突き当ったら右やわ。それからはね……」

空き地を照らしている斜めの日差しが太陽の場所を想像させ、当然西の方向が海、つまり港の方になる。

女性は右に折れた後は、またまっすぐ行って、それから先はまた聞いてみてと言った。

歩いてゆくと、なんとなく日差しが明確になり、人に聞くこともなく海の方向が察知できた。

聞きたいと思っても、人影はなかったのだ。

dsc_0607

クルマを止めた辺りまで戻り、あらためて海の方を見る。

まだ十分に陽は差しているが、少し雲が出て、水平線から長く帯状に流れている。

船が係留されているところまで歩くと、わずかに風が冷たく感じられた。

dsc_0606

何年か前の夏、旧門前町の黒島という美しい場所で、能登地震によって傷ついた北前船主の館を復興する仕事に関わった。

仕事が終わりに近づいた頃の、暑い昼間、黒島の海に突き出た防波堤をずっと歩いてゆき、その先端あたりから黒島の町を撮影した。

そこは、かつて突然の嵐に見舞われ、海草採りをしていた地元の人たちが命を落とした場所だった。

海の中の岩場に供養碑が建てられていた。

そして、本当はそれを撮影するのが目的だったのだが、撮影後に見た陸地に広がる黒い屋根瓦の町に目を奪われた。

ただ青いとしか言いようのない空と、その下に広がる緑と、段違いに組み合わされた屋根瓦が美しかった。

海岸から数百メートルといった防波堤からでさえそうなのだから、漁から帰ってきた漁師たちが見る“自分たちの町”の美しさは格別だろうと想像した。

蛸島も同じだろう………

防波堤の先まで行く時間はなかったが、ほとんど波打つこともない港の水面を見ていると、気持ちが空白になっていくのが分かる。

それからしばらくして、蛸島の魅力とは何だろうか?と、俗っぽいことを考えている自分に気が付いた。

なかなか答えの糸口が見えなかったが、最近ちょっと、それらしき光明が見えてきた気がしている。

きりのない話だが、そんなことを考えてしまうのも、“日常の中の非日常的楽しみ…?” のひとつなのだ………

dsc_0604%e6%b0%91%e5%ae%b6%e3%81%ae%e5%ba%ad%e9%ab%98%e5%80%89%e5%bd%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e7%a4%be%e5%b0%8f%e3%81%95%e3%81%aa%e6%b5%81%e3%82%8c%e8%9b%b8%e5%b3%b6%e4%bd%8f%e5%ae%85

秋は山里歩きなのであった

%e7%94%b0%e3%81%a8%e5%ae%b6%e4%b8%a6%e3%81%bf

自分の住んでいる内灘という町と、河北潟干拓地でつながっている津幡という町は、石川県河北郡に残った二つの同朋みたいな町である…と、勝手に思っている。

残ったというのは、かつての河北郡にはさらに三つの町があったのだが、その三つの町は徒党を組んで?「かほく市」という新しいグループを作り、我々から離れていったからだ。

当然残ったのには妥当な理由があり、何といっても内灘と津幡は他の三つの町よりも財政的に余裕があり、ステータスも高かったからだ…と、勝手に思ってもいる。

しかし、内灘と津幡には大きな違いがある。

それは、内灘が日本海の海岸線に沿って伸びる砂丘台地上の小さな町であるのに対し、津幡は富山県や他の市町との境をもつスケールの大きな町であるという点だ。

だから、ボクにとって津幡は果てしなく冒険心を煽る町である。

山里が深く続いていて、その風景の大らかさにいつも癒されてきた。

きっかけとなったのは、瓜生(うりゅう)という地区を訪れたことだった。

輪島市門前にある總持寺ゆかりの、峨山という名僧の生まれたところが瓜生であり、門前で建設された「櫛比の庄・禅の里交流館」という資料館の展示計画をやっていた時、瓜生まで石碑の撮影に出かけた。

予想をはるかに越える深い山里に入っていき、最後はこの先クルマは入れないといった感じのところまで行った。

田んぼや畑には人影はあったが、たまに見る家屋の周辺では全く人を見ることはなかった。

初めてが仕事絡みだったせいか、その後にゆっくりと山里の空気感に浸りたくて休日にも出かけるようになる。

そして、津幡の山里の不思議な魅力に少しずつ惹かれていったのだ。

廃校になった小学校校舎や、その向かいの高台に上って眺める風景なども気に入った。

ゆるやかな起伏が続く水田と畑が広がった丘陵地なども、大好きな眺めになった。

そして、いつの間にか、そんな風景の中を歩いてみたいという思いが生まれてきた。

前置きが長くなったが、今回のKという地区の周辺も、そんな中で好きになった場所だ。

このあたりは、午後から出かけ、太陽が西に傾いていくのに合わせながら、風景の変化を楽しむのに適している。

人の生活感が漂う山村よりも、自然だけの山里の方が歩くのには気軽でいいと思っていたのだが、いつの間にか、そんなことに気を使わなくなっている。

もともとの好きな風景にはいつも人家の存在があったようにも思う。

ただ、遠望として見る方に傾倒していたに過ぎない。

ところで、最近は水田や畑の中の道でもほとんどが舗装されていて、土の上を石や草を踏みながら歩くことが少ない。

軽トラが走れるように、そして機械が入れるようにと道は固められている。

しかし、そんな舗装の道もひび割れなどが激しくなると、それがまた自然の中の風景のように見えてくるからおもしろい。

今回歩いた道は、緩い登りをゆっくり三十分も行けばキャンプ場に出る。

夏にはにぎわうのかも知れないが、11月の初めともなればまったく人の気配はなく、池に冬鳥たちが浮かんでいるくらいしか生き物の存在を感じない。

そんな雰囲気の中、あちこちに目を向けながら歩いている自分の姿を第三者の感覚で想像すると、妙に落ち着けなくなったりもする。

いつもの、自分がなぜここにいるのかを説明しなければならない的症候群に襲われたりもする。

ここでもしクマに襲われたりしても、自分が悪いだけで、山でよく考えていたクマの目を指で刺し、その隙に逃げるといった意味不明な作戦までも考えている。

しかし、あたりは静まり返ったままで、そのうちススキの穂先に差し込む陽光にぬくもりを感じたりして、ほのぼのとしてくるのだ。

登りの道に架かった水道橋や、道から見下ろしたところにある小さな池とそのほとりに建つ小屋、そして、そこから視線をわずかに上げたところに見える枯れ木たち。

楽しませてくれるものはいっぱいある。

西日の角度が徐々に強くなるにつれ、山里の家並みがより浮かび上がってきた。

影が濃くなり、畑の畝ひとつひとつも鮮明になっていく。

とにかく説明のつかない何かに惹かれながら、なぜかこうした道を歩いている。

そして、不思議だが、とてつもなく満たされている………

瓜生(うりゅう)までの道

%e3%81%99%e3%81%99%e3%81%8d%e3%81%a8%e7%93%a6%e5%b1%8b%e6%a0%b9%e6%b1%a0%e3%81%a8%e5%b0%8f%e5%b1%8b %e6%b1%a0%e3%81%a8%e4%ba%8c%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%9e%af%e6%9c%a8%e7%95%9d%e3%81%a8%e7%95%91%e7%95%9d%e6%b0%b4%e9%81%93%e6%a9%8b%ef%bc%93%e6%b0%b4%e9%81%93%e6%a9%8b%ef%bc%92%e6%b0%b4%e9%81%93%e6%a9%8b%ef%bc%91%e6%b0%b4%e7%94%b0%e3%81%ab%e3%81%99%e3%81%99%e3%81%8d%e3%82%b9%e3%82%b9%e3%82%ad%e3%81%a8%e6%97%a5%e5%b7%ae%e3%81%97%e3%81%99%e3%81%99%e3%81%8d%e3%81%a8%e6%95%a3%e6%ad%a9

白山麓~ 尾口の想い出話

%e9%9b%aa%e5%9b%b2%e3%81%84

白山麓の最奥部・旧白峰村の一つ手前にあったのが、旧尾口村である。

季節がはっきり夏から秋へと切り替わった頃、久しぶりに出かけてきた。

尾口は、白山麓の1町5村の中でいちばん思い入れが強かった地域だったかもしれない。

仕事でお付き合いさせていただいた人たちへの思いも、それなりに深かったような気がする。

白山麓の1町5村では最も小さな自治体であり、そのことがどこかに親しみみたいなものを感じさせていたのだろう。

頻繁に出向いていた頃の村の人口は、800人ほどだったのではないだろうか。

しかし、接点を持った人たちは皆、高い地域感覚とやさしさを持ち合わせていた。

そんなひとりが、Mさんだ。

今は道の駅になっている、瀬女(せな)の施設の仕事がお付き合いの始まりだった。

地元の伝統工芸であった桧細工で、大きなオブジェを天井から吊るしたいという提案をした。

それを喜んでくれたのが、当時村の収入役であったMさんで、すぐに協力していただけることになった。

Mさんが連れて行ってくれたのは、地元の名人だった深瀬地区のKさんという方のお宅で、お会いした早々そこで意外な事実が判明した。

実はKさんはその何年か前まで同じ会社で働いていた女性社員のお母さんだったのだ。

そんなこともあってか、Kさんはいろいろと無理を聞いてくれたが、最後まで制作費用を受け取ってはくれなかった。

それまで作ったことがないというとんでもない大きな作品だったにも関わらず、しかも打合せにお邪魔するたびに、養殖されていたイワナの稚魚の甘露煮(だったと思う)をどんぶりに一杯いただいていたにも関わらず…だ。

それにしても、あれはとても美味だった。

一緒に行った若いデザイナーたちがどんどん手を伸ばしていくのですぐになくなるのだが、打合せをしながら指をなめていたあの時のあの味は忘れられない。

Kさんの家は白峰に通じる国道沿い、手取川を見下ろす谷間の傾斜地にあった。

かつての深瀬の村は、道を下った川の底に眠っている。

昭和53年(1979)に完成した手取川ダムによって水没していた。

当時、村には50戸あまり、200~300人ほどが暮らしていたというが、多くの人たちが旧鶴来町へと下りている。

残ったのは5戸だけらしく、Kさんの家もこの土地を離れなかった。

イワナの養殖と関係があったのかは分からないが、同じように水没した白峰の桑島地区では、地区ごと高台に移り住んだような印象があり、深瀬はその点やはりどこか寂しい感じが拭い去れなかった。

制作途中を広い居間で何度か見せていただいた。

夏だったと思うが、涼しい風が吹き抜けていたような記憶がある。

そして、素晴らしい作品が出来上がっていったのだ。

それはどこかに力強さや逞しさみたいなものを匂わせ、普段はやさしい表情のKさんが作り出しているということを忘れさせた。

Kさんの畳の上に広げた作品を見る表情が印象的だった。

%e3%82%aa%e3%83%96%e3%82%b8%e3%82%a7

桧細工のオブジェが吊るされたその施設では、地元の産物が並べられ売られた。

二階は狭い空間だったが、地元出身の画家の作品を展示した。

そして、仕事はとにかく楽しかった。

現地にいる間には近くにカモシカが現れたり、サルの集団が木立を揺すったりして野性味にあふれた毎日が続いた。

工事で掘り出された岩を、知り合いだった業者の親方に頼んで家まで運んでもらったりもした。

%e7%9f%b3%e5%9e%a3

尾口村との付き合いは長く続けさせてもらった。

白山麓全体を一つの観光エリアとして建国された「白山連峰合衆国」のサイン計画にも関わっていたおかげで、とにかく頻繁に山域に入ることが多かったのだ。

自然はもちろん、季節ごとに空気感が変わっていく小さな集落の情景を見るのも好きだった。

すでに金沢市内に日常の住まいを移しておられたMさんが、実家があるという尾添という地区の話をしてくれたことがあった。

そして、それからしばらくしたある日、その尾添にいた。

真夏の強い日差しが地区の中の坂道を照らしていた。

Mさんの言葉どおり、本当に静かだった。

誰一人ともすれ違ったりはしなかった。

%e8%8a%b1%e3%80%85 %e8%8a%b1 %e7%b4%ab%e3%81%ae%e8%8a%b1%ef%bc%91

今回も尾添でクルマを止め、ぶらぶらと地区の中を歩いてきた。

秋らしい(?)花が咲き、栗が道端に落ちていた。

実がしっかり入っているものもあり、そのまま拾っていってもいいのだろうかと思ったりしたが、さすがにそこまではしなかった。

とちの実が干されてあったり、野菜を洗うための水道(地下水だろう)が出しっ放しになっていたりと、生活の匂いがある。

%e3%81%a8%e3%81%a1%e3%81%ae%e5%ae%9f%e6%b0%b4

*****************************

%e6%8f%90%e7%81%af

下った先にある神社には、終わったばかりの祭りの残り香も漂っていた。

せせらぎの音が聞こえている。

この辺りも、人形浄瑠璃「でくのまい」の芝居小屋がある東二口、さらに女原(おなはら)なども、山村らしい独特の空気感をもつ。

相当前だが、生暖かい強風が吹き荒れるこのあたりの道で、黒い大きなヘビを見たことを思い出した。

木々の枝が揺れ、葉っぱが舞い、草が波打っていた。

その中を緩く動いていくヘビの表面が、異様に渇いているように見えたことも思い出した。

夜には台風が通過するという日の午後だった。

自分には、山里などという言葉に対して異常なほどに反応するセンサーが備わっていると、ずっと思っている。

最近さらにその感度が高くなったような気もしている。

旧尾口村の中の小さな情景は、まさにそんな自分にとってのモチーフみたいな存在となっているのかもしれない。

 

%e5%a2%93%e3%83%a2%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%88

 

白山麓~ 白峰の想い出話

 %e7%99%bd%e5%b1%b1

かつて白山麓には一つの町と五つの村があり、最も奥にあったのが白峰村で、その手前が尾口村であった。

そして、そのあたりは山麓というよりは、もう山域の奥深くに入ったような場所で独特の空気感を持っていた。

もちろんその空気感は今も変わらないが、白山市という、ごくごく普通の地名の中に吸収されてしまってからは、以前のような特異性を感じなくなった気がして少し寂しい。

思い出すと懐かしい。三十年以上も前、真冬の白峰村役場を朝一番に訪れた時、開口一番に言われた(怒られた)のが、「N居さん、このあたりをなめたらダメやわ」という一言だった。

不覚にも「短い靴」を履いていた。一応、ビブラム底のゴツイやつだったのだが、役場のYさんの目には問題外の装備に映っていた。

その朝は前夜からの雪で、白峰の村には一メートルほどの新しい積雪があった。金沢を出る時にも当然雪はあったのだが、全く次元が違っていた。

Yさんが村の中の道を、雪を蹴散らすようにして歩いていく。ボクは、その後ろを雪を踏むようにして歩いていた。

その時に見たのが、二階の屋根まで伸びた、大きくて無骨な梯子だった。

多くの家が軽量なアルミ製の段梯子というのを家屋に固定していて、いつでも屋根の雪下ろしに上がれるようにしてあったが、そんな中に丸太を縦に切り分け、その間に太い鉄筋を何本も嵌めて作られた梯子を目にした。

すでに使われていないようにも見えたが、まるで家そのものを支えているように堂々としていた。

地元の山で切り出したトチの木で作られているらしいと聞いた。そんな話が雄々しさを一段と高めるような気がして、しばらくその梯子を見上げていた。

それから、この梯子の階段の部分も、昔はトチの木で作られていたなどという話を聞き、興味はますます高まっていった。

形状が上から見ると「H」の変形になるなあとか、どうでもいいようなことまで考えたりするようになり、この地域の村並づくりのサイン計画に関わった時には、この梯子の特徴をデザインに反映させたら面白いだろうなあと思ったりしていた。

白峰は、言うまでもなく白山登山のメインの入り口である。

ボクにとって、二十代の馬力だけで山を登っていた頃には白山は対象外の山だった。

初めて登ったのが春の残雪期で、その後もずっと雪のある時季だけ、それも日帰りの単独山行だったような気がする。

それから夏に二度ほど、珍しく山ビギナーを連れて登ったが、また北アルプス中心の山行へと戻っていき、そのまま白山はあまり感慨のない山になってしまった。

%e5%a3%81

話がそれたが、白峰の、特に白峰地区にはまだまだ特有の個性が残っていて、歩いていても楽しい。かつて白峰型住宅(だったと思う)と呼んで整備された家々が美しい村並の風景を作っている。

%e6%9e%97%e8%a5%bf%e5%af%ba

その間に建つ寺院なども立派で、全国に広がった白山信仰の起点らしい風格がある。

家々の前に吊るされた屋号が記された札などもいいアイデアだ。

%e9%96%80%e3%81%a8%e7%9f%b3%e5%9e%a3%e3%81%ae%e3%81%82%e3%82%8b%e5%b1%8b%e6%95%b7

最近ではスキー場がダメになり、総湯が移転して様子が変わったが、名物の「とちもち」は相変わらず美味い。若い頃には一パック買って、昼飯にしていた。

もう一つの名物である堅豆腐を使った「堅豆腐かつ丼」なども、新しい白峰の味になっていてかなり満足できる。

ボクとしては、特に後者が非常に気に入っているのだ。

%e9%9a%99%e9%96%93%ef%bc%92

白峰からは、前述のとおり白山登山の入り口となる市ノ瀬・別当出合へ向かう道が伸びているが、もうひとつ福井の勝山へとつながる立派な道も通っている。

最近では高速道路を使うことが多くなってきたが、かつては勝山の平泉寺はもちろん、永平寺に行くのにもその道を利用していた。

10年以上も前だろうか、石川県の仏壇に関する仕事をさせられていた時、白峰のあるお宅を数人の調査団(?)で訪問したことがある。

そして、そこで見せていただいた仏壇の立派さに皆驚かされたが、それ以上に心を打ったのは、その仏壇をかつて勝山の里から峠(谷峠)を越え、白峰の自宅まで担いで運んできたという、信じられないような話だった。

仏壇を運んだという何代か前のご当主の写真が座敷に飾られ、その時に使った背負子も床の間に置かれてあったと記憶する。

峠を越えて村に近づくと、村人たちは道沿いに並んで読経し迎えたという話も聞いた。

強力(ごうりき)という山男たちのことを知っているが、やはり白峰の山男も凄かったのである。

あの梯子と、仏壇を背負って峠を越えてきたという男……

どこかに共通するものがあるように思う。

白峰にはさまざまな出合いがあったが、やはり「このあたりをなめたらダメやぞ」の魂が、どこかにしっかりと根ざしている、そんな気がするのだ………

%e6%a2%af%e5%ad%90%ef%bc%92%e5%b1%8b%e5%8f%b7%e9%80%9a%e3%82%8a

井波の小散歩と小雑想

%e3%82%ac%e3%83%a9%e3%83%91%e3%82%b4%e3%82%b9%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%ae%e7%8b%9b%e7%8a%acs

富山の井波といえば、よく知られた彫刻の町だ。

最初に立ち寄ったのはまだウラ若き青年の頃だったが、二度目か三度目あたりの、やや埃をかぶった世代の頃には、余裕も持って近くの高瀬神社に寄ったりもしてした。

ただ、立ち寄ると言っても、大抵ぶらりと来てしまったというケースが多かった。

井波の町の面白さを知ったのは、仕事絡みで訪れるようになってからだ。

それはやはり地元人との出会いがあったからで、そのおかげで一気に井波ファンになっていた。

いずれも彫刻家で、いずれも面白い話を聞かせてくれる人たちだった。

工房にお邪魔して話を聞いたり、井波の代名詞である瑞泉寺の隅々までを案内してもらったりと、その人たちとの出会いがなければできない経験もさせてもらった。

特に瑞泉寺の中の見学は楽しい時間だった。

それからもちょっとした仕事にかこつけて、ぶらりと訪れたりすることがあり、仕事を片付けた後、町の中を無作為に歩くことが多くなった。

メイン通りはほとんど通らず、裏道から裏道へと狭い道を歩く。

瑞泉寺の横に城があったことはそんな時に知った。

一向一揆の拠点であった瑞泉寺が佐々成政に攻められ、その後その家臣によって寺の横に小さな城が整備された。16世紀の後半、まだ戦国時代のことだ。

その後、その城は前田利家によって取り壊された。

%e7%9f%b3%e5%9e%a3%e3%81%ae%e8%8a%b1

9月中頃のある日の午後、近くまで来ていたのでまた井波の町に寄った。

豪壮な瑞泉寺の山門は見るだけにして、石垣沿いの道を左に行くと、石垣はすぐに終わるが、石と石の間にきれいな花が咲いていたりして、山里の空気感を味わいながらの散策を始める。

井波のメインストリートであるそこまでの参道は、ただ何も考えずに歩いていた気がする。

右に折れてから、高台の方へと緩い傾斜を登っていくと、すぐ先に、大きな神社へとつながる石段が見える。井波八幡宮だ。

%e4%ba%95%e6%b3%a2%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%9f%b3%e6%ae%b5

道はYの字型になって左右に分かれていくのだが、その間の石段の前に立つと、鳥居越しに堂々とした社殿が見えてきて、深呼吸などをする。正しく気持ちが引き締っている証拠だ。

境内に入ると、鬼気迫る表情の狛犬に目がいく。

いろいろな狛犬を見てきたが、ここの狛犬は独特の個性を持っている。

タイトル写真にあるように、苔だけではなく、体のあちこちから草が生えていたりしているのだ。

“ガラパゴスから来た狛犬”と名付けたが、なかなかのネーミングだと自画自賛した。

白いクルマが一台止められているが、人の気配はない。

本殿にお参りし、それほど広くもない苔に覆われた境内を歩き、脇から抜けた。

右手が石垣、左手が板塀になったいい雰囲気の道がある。

%e7%9f%b3%e5%9e%a3%e3%81%ae%e9%81%93%e6%b3%89

石垣の方には門があり、中に入ると臼浪水(きゅうろうすい)と呼ばれる霊泉がある。

瑞泉寺の名前はこの湧水からきているとのことだ。

これといって特別な思いもないが、道に戻ると曇り空の下の空気が少し冴えてきたように感じた。

まっすぐ前が古城公園と呼ばれ、二の丸の跡らしい。

%e3%83%a4%e3%83%9e%e3%83%88%e3%82%bf%e3%82%b1%e3%83%ab

ヤマトタケル(だと思う)の立派な像が、周囲とうまくバランスを取りながら建っている。

それにしても静か。初めてではないのに、なぜか新鮮な感覚に陥っている。

一応、奥に建つ招魂社まで足を運び、そのまま戻ることに。

%e5%a4%a7%e6%9d%89

途中、太い幹をまっすぐに伸ばした大杉が立っている。

周囲はやはり城跡であることを思わせる石垣や土塁が続く感じで、家々の間の空き地にも特有の空気感が漂っている。

%e7%a9%ba%e3%81%8d%e5%9c%b0

さらに行くと、井波らしいアートとして創られた彫刻が置かれた公園がある。

%e5%83%8f

ようやく犬と散歩する高齢の女性と出会った。

こんにちわと、よそ者である自分の方からあいさつすると、やさしい笑顔で答えてくれた。

やはり文化度の高い土地の人たちには気品があるなあと、知ったかぶりで感心する。

思わず足も軽くなったように感じたが、逆に言えば、よそ者であることに強い自覚が生まれて、その場を早く立ち去りたいという気持ちになったのかもしれない。

特に観光客などがあまり足を運ばない所でのよそ者は、なぜ今自分がこの場所にいるのかを説明しなければならないような思いを抱いてしまう。

このことは自分の中での永遠のテーマ(大袈裟だが)みたいなものだ。

%e9%96%80

今は南砺市という括りでまとめられたこの地域には、個性的な町が多い。

五箇山から白川、さらに荘川、そして郡上八幡へと繋がっていくのだから誰も文句は言えない。

ある意味、日本を象徴するエリアなのである。

道そのものもそうだが、その道から少しそれていくと現れる素朴な風景にも、飽きない面白さがある。

ただ、そうした場所には、もう一度行こうかと思っても、なかなか行けなかったりするから厄介なのだ。

このあたりに来ると、まだまだ自分には知らない風景や、味わったことのない空気感が残されていることをいつも思う。

そして、若い頃にやたらと感動していた山域の風景にもう一度出会いたいと、自分に熱いものを吹き込もうとしたりしている。

その日の帰りは、瑞泉寺の前まで戻りはしたものの、参道は下らず、もちろん境内にも入らず、そのまままっすぐ進み、途中から右に折れて家々の間の道を歩いてきた。

空は曇ったまま、空気はいつの間にかまた静かに湿気を含み始め、町なかがひんやりと、そしてしっとりと落ち着いていく感じがした。

自分の最も好きなスタイルに近い町歩きが、ここ井波にもある。

それはどんな小さなカタチでもよくて、ただ歴史の匂いと素朴な風景と人の生活感があることだ。

あらためてそんな思いを抱きながら、駐車場のトイレに立ち寄り、井波を後にしたのである………

%e5%b0%8f%e5%b7%9d%e7%93%a6%e7%9f%b3%e6%ae%b5%ef%bc%92%e6%b1%a0%e7%9f%b3%e6%ae%b5%ef%bc%93

夏・森の朝の匂い


DSC_0429

朝の五時過ぎに風呂に行き、六時頃だろうか、カメラを持って旅館を出た。

小さなロビーには人影もなく、静かに玄関を出て、目の前に止めさせてもらったクルマから歩き用の履物を出す。

外に出た瞬間、空気の冷たさに多少驚いたが、ここは避暑地なのだと納得。

山の朝はもちろん、高原や山麓の朝も体験しているが、避暑地と呼ばれる場所の朝というのは、なぜか特別な響きを感じさせる。

そういう場所に不似合いなニンゲンだからなのだろうとも思う。

前日は、江戸時代の浅間山大噴火で出来た「鬼押出し」へと二十年ぶりくらいに出かけ、以前とはかなり様相が変わったみたいだなあ…などといった感想なんぞを抱いたのだが、その頃の記憶もいい加減なもので、最近はこうした感想を抱きつつ首を傾げたりすることが多くなった。

ただ、雲に一部被われていた浅間山の裾野の美しさは記憶も明快に残っていて、多少見えなくても十分想像できたのがうれしかった。

それでとにかく前日の午後、かつて多くの文人たちに愛されたという老舗の某旅館に入り、なんだかんだでそのまま翌朝を迎えたというわけである。

 

玄関前から右手に緩く道は下っている。

逆の言い方をすれば、左手に緩く上っていることになる。

両サイドに個性的なお店が並ぶ下りの通りは、明治時代からの開業というところも多くあるそうで、この辺りでは人気のエリアになっている。

昨日の午後の人だかりも凄かった。別荘地の代名詞になっている理由がよく分かる。

まだまだ早朝の静寂の中にあるその通りをちらりと見下ろしてから、こちらは左側のやや上りになった道に足を進めた。

「旧中山道」である。冴えた空気感が漂う。山道への入り口といった感じで、ちょうど旅館がその境目にある。

かつて加賀藩の参勤交代行列はここを歩いた。

旅館の中にそのルート全体を描いた絵が掲示されてあったが、出発地である金沢周辺の絵に、自分の住んでいる場所も描かれていた。

しばらく歩くと、右手の小さな流れに架けられた橋を渡ったところに、ひっそりとした一軒の店が見える。見えると言っても、木立に中に隠れながらだ。

昨夜の晩餐の場所だった。

静かにライブレコーディングのジャズが流れていた。

ガイドブックやネットなんかに載っていないイタリア料理の店(普段はほとんど興味がない)なのだが、その店が素晴らしく良い店だったのだ。

店の造りも広いわりにはシンプルで、料理にもシェフの思いが伝わってくる感じがした。

そして、それだけではなく、店に入った時に、ここをどうやって知ったんですか?と、問いかけられたこともなぜかとても新鮮だった。

当然、出発前に予約しておいたのだが、この店を見つけたのは長女であり、長女もとにかくひたすら深く切り込んでいったらしい。

夜は予約数をかなり限定しているような感じで、最初はあまり積極的ではなかったようだ。しかし、ちょっと早めの時間であれば何とか対応してくれるというので、とにかくそうさせてもらうことにした。

シェフは独りで切り盛りしながらの奮闘だったみたいだ。

実を言うと、今回は定番型の“夏のかぞく旅”であると同時に、ちょっとした意味深い背景もあったりする旅でもあった。

だから、長女も忙しい中、わずかな隙間をついてこの店まで辿り着いてくれたのだ。

 有名な礼拝堂のあたりを過ぎてからは、濃い緑の世界に包まれていく。

DSC_0388

特に意味はなかったが、とりあえずこの道を上ったところにある「室生犀星碑」のあたりまで行ってみることにした。

避暑地とはいえ、昼間は三十度超えの暑さになるのだが、果たして今は何度ぐらいだろうかと考える。

日差しが全く遮られた場所では涼しいを通り越す。Tシャツに半ズボンの軽装を悔やむほどだ。

DSC_0402

たまにすれ違う人たちが、観光の人か地元あるいは別荘の人なのかということも少しずつ分かってくる。

自分と同じ方向に歩いている一般観光客はほとんどなく、分岐のところで、人のかたまりは今自分が歩いている道ではない方向へと流れている。

だから、今歩いている道ですれ違うわずかな人は、なんとなく地元か別荘の人だということなのだ。

決定づけるのは、たとえば連れている犬などの種類や着ているモノ、そしてさらに、すれ違った後に残ったりする香水の匂い。

これは間違いなく別荘のお方だという風に決めつけられる。

流れを左に見下ろすようになってからしばらくで、一応目当てにしていた犀星碑のサインと出合った。

流れの方へと斜めに下っていくと、碑があった。写真で何度も見ているが、初めてナマを見た。

崖面に付けられたレリーフの詩は、かつてなんとなく好きだったもので、今読み返すと、なぜか今の方がグサリとくる感じがして驚く。

“我は張りつめたる氷を愛す……”というやつだ。

DSC_0409

そう言えば、今春、卒論のテーマが犀星だったという学芸員の大卒女子が入社した。

犀星については、こちらはあくまで金沢への切ない思いと重なる人物像にばかり目を向けてきたが、そんな感覚はどうも自分の独特なものだということが最近になって分かってきている。

特に学芸員さんたちのような世界ともなると、作品そのものからいろいろと究めていくことが普通みたいで、素性や育った環境なんかは語られないのでさびしいのだ。

ただ、それでは犀星のニンゲン物語はつまらないと思う。

こんな別荘地で穏やか過ぎるような日々を過ごしていた犀星には、あまり興味がない。

そんなこともついでに思いながら、レリーフの詩を二度読み返してその場を去った。

DSC_0415DSC_0428

せせらぎの音と森の奥から届く野鳥たちの声。

もちろんそんな絵に描いたような世界ばかりではなく、時折クルマのエンジン音なんかも聞こえるのだが、自分の中にある“森が好きだ感”のはっきりと反応している様子が掴みとれる。

それにしても緑の深さがいい。広がりもいい。新緑が深緑に変わっていく頃、よく緑しかない世界に遭遇したりするが、今感じている緑感もカンペキに凄まじいのだ。

そして時折、木漏れ日が夏草の上や苔むした石の上などに強烈に差し込んでいたりすると、ああ夏だなァ…と思う。

そんな瞬間との出合いを、いつも憧れをもって待っていた自分がいた。

DSC_0431

戻り道で外国人の女性とすれ違った。薄手のコートをはおり、さっそうと坂道を上ってきた。

すれ違う際、おはようございま~す…という、美しい日本語の響きを聞き、木漏れ日を受けた笑顔を見た。

ただそれだけだったが、気分がより爽やかになった。

 DSC_0435

もう一時間ほど歩いている。

別荘の小窓に明かりが灯り、人影が動く。

下ってくると、もう多くの人たちがボクが上がったのとは違う方向へ列を作り歩いていた。そちらの方がポピュラーなのだろう。

かなり下ると、流れの反対側に昨夜の店がまた見えてくる。

DSC_0439

この角度から見ると、本当にひっそりと建つという表現が似合う。樹木などが適度に店の全景を隠しているのだ。

そう言えば、最初はテラスを用意していてくれたのだが、外の空気の冷たさを知り店内のテーブルにしてもらったのだった。

せせらぎの音が異様なほど近くに感じられたわけは、今見ている光景から理解できる。

店を出る時に、シェフとほんの短い時間話した。

山梨県小淵沢出身のシェフは、今年の秋に小淵沢に戻り、新しいことを始めるらしい。

今も休みには小淵沢に戻り、地元の野菜などをもとに料理を出しているらしいが、一人でやりくりしていくのは大変らしく、故郷でじっくりやりたい様子だった。

こちらも山梨には友人もいるし、甲州ワインなどにもかなり親しんでいるなどと切り出すと話がはずんだ。

小淵沢にも何度も行った。牧場が多く、大河ドラマの合戦シーンなどにも使われるいいところだ。

名刺ももらい、こちらの住所を残してきた。

出来れば、来夏には行ってみたいと思う。

今回の“夏のかぞく旅”には特別な事情があったからでもあり、そして、この店やシェフとの出合いが、そんな今回の旅に特別な色を添えてくれたような気がするからでもある。

秋に届くであろう便りが楽しみになった………

もう避暑地の朝歩きは終わっている。

旅館の前まで戻ると、通りに少しだけ人の塊が見えた。

あと二時間ほどすれば、ゆっくり歩けないほどの数になるのだろう。

旅館に戻って、朝飯なのであった…………

DSC_0418DSC_0399DSC_0394DSC_0377DSC_0405

 

長女が奥穂高へ行く前の日に思い出したこと

玄関

朝靄に朝日が差し込み、夏の朝らしい気配をカラダ全体で感じとる。

かつて飛騨から信州へと抜ける道すがら、上宝という村で見ていた風景だ。

何でもない早朝の山間(やまあい)。その一帯に漂う空気感に包まれながら、ラジオ体操を終えた少年たちが、石垣の上に腰を下ろし、さも当たり前のように漫画を読んでいた。

そのややダラーっとした並び方がよかった。夏休みらしい、のんびりとした空気感が漂っていた。

まだ暗いうちに家を出た。

助手席には、カメラとアルミホイールに包まれた握り飯が三個。

後部座席にはリュック。足元にはひたすら重い登山靴がある。

握り飯は、山へ行くとき、旅に出るとき、母が前の晩にいつも作ってくれた。

道と平行して流れる川のほとりに出て、その握り飯を食べる。

朝靄がまだわずかに残っているが、日差しから逃げられない空間はすでに夏らしい熱気に包まれ始めている。

家を出て2時間以上が過ぎていた。

今日が梅雨の明ける日になるかもしれない……

なんとなくそんな予感がしている。

空は文句なしの青一色だし、もう梅雨をイメージさせるものは何もない。

再びクルマを走らせ、かつての平湯温泉バスターミナルから満員のバスに揺られて上高地に入った………

長女が、翌日から奥穂高へ行くという日………

あれこれと準備している長女を見ながら、自分が初めて奥穂高を登った夏の暑い日のことを思い出している。

その年の梅雨は、その日の正午頃に明けた。

横尾の山荘の前で、昼飯のためのお湯を沸かしていた時、布団干しをしていた小屋のアルバイトらしき青年が、大きな声で叫んだのだ。

梅雨が明けました~

梓川の輝きと大きな歓声の響きを今も覚えている…………

 

 

「武田信玄 TAKEDA SHINGEN」のこと

DSC_0281

この本を貪るように読んだのは、二十代の初め(今から40年近く前)の頃だ。

たまたま山梨(旧甲斐の国)出身の友人がいて、彼が熱く語る「武田信玄 TAKEDA・SHINGEN 」という戦国大名の存在が羨ましく思えていた時期だ。

敢えて英文字を併記したのは、その名前の響きも好きだったからに過ぎないが、そのことも今から思えば重要だったような気がする。

ただ、信玄や謙信などがそういう名前(響き)になったのは、出家したからなのだ。

自分の国(旧加賀)には、前田利家という殿さんがいたが、人物的インパクトの薄さと話題の乏しさに、口に出すのも恥ずかしさを覚えるほどだった。

 

ところで、実家の物置には今も“信玄本”が多く眠っていると思う。

自分で言うのもなんだが、かなりの信玄通だったとも思う。

 

今年になって、NHK大河ドラマの『真田丸』が始まり、甲斐武田家の話もまたクローズアップされ始めている。

真田を語るのに武田との関係は欠かせないからだ。

昌幸(草刈正雄)が口にするあの「お館(やかた)様」の響きは、信玄を慕う気持ちに満ちているように聞こえてきて、なぜかグッとくる。

信玄に仕えたことによって、真田の存在は大きくなり、その後に繋がっているのだ。

主人公の信繁という名も、信玄の実弟からきている。

ちなみに武田信繁は、兄を支えたナイス武将だった。

が、あの最も激しかった永禄4年の川中島合戦で討ち死にしている。

 

ところで、この本のタイトルは『定本武田信玄』という。1977年に出版されている。

定本というのは決定版とか、さまざまな説を整理したものと解釈しているが、この本を最初に探し出した時、この“定本”という文字の凛々しさや音の響きが気に入った。

著者は、当時の山梨大学教授・磯貝正義氏。

武田家の地元、山梨大学の由緒正しい先生であることもいい印象を持った。

著者が特に気負ったりせず、淡々と資料に基づく解説を綴っていく内容もそれなりにいいと思った。

後で分かったことだが、このような定本と名が付く戦国大名の本というのはあまり見ない。

家康のを見かけたことがあるが、あれは信玄のものと比べるとまだ新しい。

信玄については実はもうひとつ定本というのがあって、『定本武田信玄』が1977年に出た後、2002年にも新たに『定本武田信玄 21世紀の戦国大名論』というのが出ている。

戦国大名ブームの走り的産物なのかもしれないが、このシリーズには上杉謙信もあり、北条氏康のもあるみたいで、とにかく信玄については定本が二冊あるということになるのだ。

これは素人目に見ても凄いことなのだろうなあと勝手に納得している。

ついでに書くと、我らが前田利家などは研究者というほどの存在すらも知らない。

かつて、大河ドラマで『利家とまつ』が無理やりのように(?)作られた時、俄か地元前田利家研究者が、講演料稼ぎなどに奔走していたという印象しかない。

ボクも仕事で絡んだが、彼らに翻弄された。

大学を出てから、山梨の友人と一緒に信玄の所縁の場所をめぐった。

それ以前、卒業直後の旅で京都奈良に出かけた時、たしか新田次郎の『武田信玄』4巻シリーズを持参していたと記憶するが、すでにかなり信玄周辺の話に興味津々だったと思う。

塩山市の雲峰寺にある御旗や風林火山の旗指物なども、現物を見て興奮したのを覚えている。

かつて「躑躅崎(つつじがさき)の館」と呼ばれた武田家の居館跡に建つ武田神社や、武田の資料庫もある恵林寺などでは訪れる人も少なく(と言うか、恵林寺などでは全く人はいなかった)、じっくりと信玄に思いを馳せることができた。

もちろん川中島にも行った。子・勝頼が再起を賭けた新府城址なども。

京へと向かう途上に病(労咳)が重くなり、帰らぬ人となる信玄だが、そのあたりの話はかなり切ない。

甲斐という山々と、さらにそれ以上に面倒なライバルたちに囲まれた地から領国を拡張し、最後は最強の軍団を率いて天下に号令を発しようとした信玄の生涯は、あと数年命が長らえていれば何を成し遂げていたかと想像を膨らませる。

それは信玄が最強の戦略家であったばかりでなく、優れた政治家でもあったと言われるからだ。

信長の地位などはなかったかもしれない。もしくはもっと先に延びていただろう。

信玄が死に、謙信が死んで、信長は幸運にも命を拾った。

時のめぐり合わせもよかったのだろう。

たしかに地理的な有利さも大きく、大胆で先駆的な行動が信長を前進させたのだろうが、本来ならば信頼を厚く受けているはずの重臣に裏切られるという、愚かな(としか言いようのない)殿さんだった。

しかも、自分への憎しみが塊となった大逆襲を、まったく予見できなかったという情けなさだった。

ついでに言えば、比叡山焼き討ちなどがさも当たり前のように語られている現代だが、日本史上で無差別大量虐殺事件を起こしている唯一の存在が信長なのでもある。

こういうことを言うと、信長は別格ですからと返す輩が必ず出てくるのだが……

しかし、それはその後に信長さまさまで、より下品であった秀吉という存在が歴史を継承し、繕っていったからに過ぎない。

 

この本をとおして信玄のことを知れば知るほど、歴史の不思議さを思った。

そして、そのうちに一時的に歴史が面白くなくなってもいった。

一国の歴史が、「運」みたいなものに左右されるということに虚しさを感じてしまった。

それにしても、あの時代の大名たちは、とにかくそれしか知らなかったかのようにひたすら戦っている。

戦に明け暮れる日々の果てに、平穏が訪れると思っていたのか。

この本を読んでいても、信玄の足跡はやはり戦いなのだ。

 

だから、戦国時代なんだよと冷たく返されそうだが、やはりどこか寂しい気もするのである……

 

 

一枚の写真が思い出させてくれたとき

名称未設定 2

10年以上前に撮った一枚の写真。

5月はじめの妙高・笹ヶ峰だ。

ゆるく傾斜した雪原で、美しいYの字形の倒木を見つけ、スキーを外し、リュックを下ろした。

半分凍らせておいた缶ビールを雪の中に埋め、カップ麺とコーヒーのための湯を沸かす準備をする。

にぎり飯二個とソーセージ一本を取り出し、頬張り始める。

もちろん、缶ビール一本も同時に栓が開けられている。

その頃から毎年のように春は笹ヶ峰に行っていたように思う。

そして、毎年のように同じメニューだったようにも思う。

それ以前は立山や白馬、乗鞍方面で、それなりのテレマークスキーを楽しんでいたが、笹ヶ峰に行くようになって、同じテレマークでも、滑るより走り回るといったイメージが強くなった。

倒木はちょっと細い感じがした。

が、それでも二股のあたりに座るといい感じだった。

静寂の中、鍋がシューシューと音を立て始め、ガスを止める。

蓋をとって、お玉で湯をすくい用意しておいたカップ麺に注ぐ。

飯が終わる頃になると、もう一度着火し湯を温めなおす。

この頃使っていたカメラは、EOS。もちろんデジタルではない。

コーヒーの粉は、いつも部屋のテーブルに転がっていたフィルムケースに入れて持って行った。

まだインスタントだった。

コーヒーを用意すると、もうあとは片づける。

そして、カップに湯を注ぐ。

“豊かな時間”が訪れていることに、自分自身がと言うか、カラダが気が付いている。

残雪の上にドスンと座りなおし、倒木に背中を預けると、ちょうどいい具合にリュックが枕になっていたりするから不思議だ。

そして、こんなシチュエーションが待っているとは予想していなかったが、とにかく山の中で読もうと思って持ってきた一冊を手に取っていた。

星野道夫の『アラスカ 風のような物語』だ。

星野道夫の本を片っ端から読み漁っていた時期だった。

写真家ではあったが、エッセイストとしての彼の文章がより好きだった。

ニンゲンとしての、いや、ヒトとしての魅力がこれほどまでに伝わってくる文章に出会ったことはない…とさえ思っていた。

彼のさまざまなエピソードはもちろん、周囲の友人たち、家族、さらにアラスカで遭遇した風景や生き物たち、そのすべてに対する思いが、ボクにとっては写真よりも文章から伝わってくる気がしていた。

この本はすでに多くを読み終えており、意図したことであったが、フィニッシュを笹ヶ峰の残雪の上で迎えた。

それから昇りつめた太陽のぬくもりを受けて、少し眠った……

この写真はスキャンして残しておいたものだ。

ずっとパソコンのかなり奥の方で保存されていた。

忘れ去られていたと言った方が当たっているかもしれない。

だから尚更、その時の短い時間の経過が鮮明に甦ってきたのだろうか。

今も時々使うアナログとデジタルが一緒になった腕時計は、12時52分53秒を表示。

気温は29度を示しているが、これはやや高めを示すクセになっていた………

岳沢~晴れときどき曇らずの秋

 奥穂から前穂

上高地については、かなりうるさかった。

20代の中頃に行きはじめてから、多い時には一年に10回以上行っていたこともある。

それも最初の頃は登山のための通過点ではなく、上高地そのものを目的地に行っていたので隅々まで歩き込んでいた。

上高地に関する本もかなり読み込んだ。

「上高地」という名前や字面、その組み合わせのカタチ、そして「かみこうち」という名前の響きなど、何もかもが好きになっていた。

風景はもちろんだが、最初は歴史の話などに強く惹かれていたように思う。

里から登った杣人や岩魚を採る人々の日常を想像した。

そして、槍ヶ岳を開いた播隆上人、上高地と言えばのウオルター・ウエストンや上条嘉門次、内野常次郎、小林喜作、木村殖など、上高地を舞台にして活躍した山人たちの話に、今から思えば自分でも不思議なくらいのめり込んでいく。

上高地に入って最初に登ったのが、現代のように釜トンネルのない時代の徒歩ルート・徳本(とくごう)峠だったということからも、歴史からのアプローチにこだわっていたことが少しは理解してもらえるだろう。

古い話だが、かつて一緒に仕事させていただいた某広告代理店の、某大学山岳部OBの方との酒の席で、徳本峠の話で盛り上がったことがある。

こちらは20代、その方は40歳くらいだったろうか。

冬の上高地でのテント生活や、同じく槍ヶ岳で岩にヘバリ付いたまま一睡もせず過ごした話など、その人の話に若い自分はかなり強い刺激を受けた。

そして、そんな話の中で、この前徳本峠に登ってきましたと口にした時だ。

ええっ、穂高に登る前に、徳本に登っちゃったの? 凄いねぇ。

山のベテランが目を丸くして驚きの視線を送ってきた。

名古屋のちょっとオシャレなバーのカウンターで、生々しい山の話に花が咲いたのだ……

夕方河童橋

上高地に入り始めの頃はマイカー規制のない時期があった。

釜トンネルは今のようなきれいなものではなく、ただ削り掘っただけの岩盤むき出しで、路面も舗装されておらず、中では交差できないから手前で待機という場面によく遭遇した。

そして、そんな時期にはよく出かけていたのだが、マイカー規制がオールシーズンになってからは、八ヶ岳方面に向かう回数が増えて行く。

今の上高地は異常に近い感じの人の数で、もう静かに梓川や穂高の山並みを眺めるといった感じではない。

多分、徳沢から横尾あたりまで行けばまだ静かな雰囲気に浸れるのだろう。

思い切って季節外れのウィークデーを狙うのもいいのかも知れない。

二三年前に晩秋の上高地に入ったが、その時はさすがに人の数は少なかったように思う。

****************************

河童橋付近から岳沢

なかなか本文に入れないでいたが、ここからが本文………

上高地の岳沢を終着点とする登山者はまずほとんどいないだろう。

涸沢までならいるかも知れないが、岳沢となると登って来たという実感も生まれにくい。

涸沢は奥が深く、周囲の風景も圧倒的だ。

しかし、時間的ゆとりがないとか、カラダに支障があって無理が出来ないという場合、岳沢も決して悪くないということを今回改めて知らされた。

今回出かけてきたのは、まさにその二つの因果関係からの選択だ。

あと強いて言えば、パートナーである家人の体力・経験も関係しており、その上で穂高の山岳風景をしっかりと見ることができるという場所を選んだ。

いつものように平湯の「あかんだ駐車場」からバスに乗る。

座席は最後尾……混んでいる。

話はまた飛ぶ………

昔、薬師岳の閉山山行に行っていた頃、空調もよくなく、全く快適ではないバスの最後尾に座らされたことがあった。

雪混じりの雨が降る冷え切った下山時で、バスの中は異様なくらいに暖められていた。

そして、有峰林道のくねくねした細い下りである。

ほとんどの人が車酔いし、バスを下りると道端に嘔吐していた。

そんなどうでもいいようなことを思い出したが、今のバスは違う。

しかも、今の上高地行バスは、安房峠のあの超ジグザグ道を通らないのであるから素晴らしく快適なのだ。

上高地に着くと、予想していたとおりのヒトの山だった。

トイレを済ませてすぐに河童橋へと向かう。時計は10時過ぎだったろうか。

河童橋を渡って梓川の右岸にまわり、写真を数枚撮ってから歩き出した。

自分の感覚では、この右岸側の木道は新しい上高地だ。

だからかどうか、しばらく歩いて行くうちに、目的にしている岳沢への登り口がどこなのか分からなくなった。

湿地のあたりで確認できたが、30年以上前に岳沢方面に入って以来、今まで足を踏み入れていないことに気が付く。

相変わらず遊歩道の木道には多くの人たちが、国籍も入り交えて歩いている。

かつては、道行く人たちの間で交わされていた「こんにちは」の声も今はほとんど聞くことはなくなった。

これだけの人たちと挨拶していたら、声も枯れてしまうだろうし、日本語で言っていいのかも問題だ。

登り口の池1

いつ見ても美しい湿地の風景を眺めた後、岳沢への登りに入るとまったく空気が変わった。

すぐに、自分の息づかいも感じ取れるくらいの静寂に包まれはじめる。

葉を落とし始めた大木の隙間から木洩れ日が差し込み、多くの倒木や苔などに注がれている。

登り口の苔

不意に驚かされるほどの野鳥たちの鳴き声や飛び立つ羽音、そして嘴で幹を突く音などが響く。

道は適度にアップダウンを繰り返し、ところどころに木道や簡易な木の階段なども備えられてある。

登山道3

山の人たちの心配りが嬉しい。

どこか神聖な気持ちになって足を運んでいる。

ほとんど人の声がしないまま登って行くと、はじめて上から下りてくる人影が見えた。

外国人の、いかにも自然好きといった男が独り歩いてきた。

上にある岳沢の小屋に泊まっていたのだろうか。

軽装だから、穂高からの下山のようには見えない。

静かに挨拶を交わすと、家人が「やっと人に遭ったね」と言った。

上高地の喧騒を経て来ると、この静けさは寂しさにも通じるのかも知れない。

時々、樹林の切れ間があると、西穂高の山並みが見えたりする。

途中にある「風穴」も、文字どおり斜面の石と石の間から冷気を感じて楽しい。

風穴

岳沢の小屋までではなく、その手前の展望のきくところまでを目的にしていた。

予想タイムでは一時間半もあれば到着する。

家人もそろそろ疲れはじめたかと思った頃、今度は若者が独り軽快に下りて来た。

その雰囲気から、小屋のアルバイトあたりではないだろうかと勝手に思う。

森林限界は近い?というような聞き方で、樹林帯から抜けるまでの距離を確認したかったのだが、彼は首を傾げてすぐには答えてくれなかった。

こちらが岳沢の先端の展望が開けるところと言い換えると、ああ、それならすぐですと明快な答えが返ってくる。

このあたりの森林限界と言われると、どこなのかよく分からないので…と彼は言った。

なるほど、彼の言うとおりだった。

展望1

そして、若者に言われたとおり、少し急な上りになった先に岳沢の先端部分が見えてきた。

思わず声が出るくらいに、見事な、文句なしの青空が待ち構えている。

石ころだらけの岳沢をあらためて認識しながら、西穂高と奥穂高を見上げる。

色付いている木々の葉も山岳風景の大きなアクセントとなり、しばらく感動の目で周囲を見回していた。

黄色の木

今流行の山ガール二人組の先客がいた。

ピカピカの道具を出して、お湯を沸かしている。

コンニチハの代わりに、サイコーですね!が挨拶になった。

彼女たちを通りこして、より高いところへと登った。

ここは登山ルートではない。ルートは樹林帯の中に延びていて、そのまま岳沢小屋へと繋がっていく。

適当な場所で、ランチタイムとした。

朝作ってくれた握り飯も玉子焼きも格別に美味い。

彼女たちのように温かいものを作ろうと最初は道具を用意したのだが、前夜の段階でそこまではいいかということになった。

リュックも小さいものにしていた。

だが、無理してでも持ってくれば良かったかなと後悔………

家人は、下った後の「五千尺」のコーヒーとケーキに思いを馳せている。

ランチの後、家人を残しボクはさらに大きな石の上を登った。

特に風景が変わるというほどではなかったが、それでも少しずつ近付いて来る穂高の壁が気持ちを高ぶらせる。

西穂と木

二年前の秋、久々の本格的な山行で自分の膝がおかしくなっていることを悟った。

同行した娘の厄介になりながらの無残な下山だった。

少しずつ馴らしていこうという企みもなかなか順調とは言えず、かつての通過地点が今の自分には目的地点になっていることに納得した。

今夏の美ヶ原も、秋の始めの八方尾根もそんな山行である。

ただ、目に届くものは本格的な山を感じさせるものにしたいと思っていた。

そういう意味で、岳沢はさすがに上高地を出発点とする山の世界を実感させてくれた。

こんな山岳風景を見るのは今年最後だろうなあと思いながら、カメラのシャッターを切る。

奥穂の肌

振り返って見下ろすと梓川と上高地のバスターミナルあたりが霞んで見えている。

そして、目線を上げると霞沢岳方面の山並み。

あの山並みの延長に徳本峠がある…… ふとそんなことを思った。

何十年も前の独身時代、徳本峠へ登った。

その時のパートナーは、今岳沢の岩の上に座っている家人だった。

今と違って登山中すれ違う人もなく、古い徳本峠小屋には、ヒマラヤ帰りでたまたま留守番をしているという男が独りいた。

何もなかったが、丸太によって支えられた上高地の歴史の中の小屋に来ることができただけで自分は満足していた。

しかし、今から思えば、いくら自分の趣味や憧れとは言え、あのような場所へうら若き乙女を連れて行くのは普通ではなかったのかも知れない。

上高地見おろし

そんなことを考えていると、上高地の方からゆるやかに風が一団昇ってきた。

大きな薄い布を広げて、その上を風が吹きあがって来るような感じだった。

昔のことなのだなあと思い、上高地が好きだったのだなあと思う………

再び樹林帯の道に戻って下り、そして、遊歩道に出て雑踏の中を明神まで歩いたが、そこで感じた俗っぽさにはかなり落胆した。

上高地をそのように思うのはよくない……

自分自身にそう言い聞かせながら、さらに長い歩きの時間に耐えなければならなかった。

そして、来年は春の上高地から始めたい…と思ったりもしていたのだ。

植物1梓川1木々

 

 

美ヶ原の夏歩き

美ヶ原の道

深田久弥は、『日本百名山』の中で、山には登る山と遊ぶ山があると書いていた(と思う)。

そして、遊ぶ山の代表格として霧ヶ峰や、この美ヶ原のことを書いていた(と思う)。

カッコ書きが続くのは、もう内容を忘れてしまったからで、その本自体もどこへいったか分からなくなっている。

そんなことを後で振り返りながら、8月の初め、30年ほどぶりに信州の美ヶ原へ出かけた話を書いている。

美ヶ原はカンペキな遊ぶ山だ。

その美ヶ原に、30年以上行っていなかった。

回数で言えば、3回以上は確実に出かけた記憶がある。

ただ、本格的な山行に出かけるようになってからは、美ヶ原は目的地の対象にならなくなっていた。

美ヶ原は、霧ヶ峰の延長にあるイメージだ。

白樺湖から車山高原へと上り、ビーナスラインを走り続けて霧ヶ峰から美ヶ原に辿り着く。

このルートは、20代の頃の夏のシンボルのひとつだったと言っていい。

真夏の高原道を歩いた記憶は、鮮明に残っている。

で、美ヶ原なのだが、今回は松本側から上がった。

上がったと書いたのは、もちろんクルマでだからだ。

松本の街中をスルーし、浅間温泉からのらりくらりと、そして何度も何度も深いカーブを曲がりながら、一気に高原地帯へと上がって行く。

申し訳ないくらいに楽をさせていただきながら、最後の駐車場からも、わずかに歩いただけでもう2000m近い山岳風景だ。

同じルートで一度美ヶ原に来たことがあったことを思い出したが、いつのことか覚えていない。

頂上

王ヶ鼻から、最高地点の王ヶ頭へ。

特に厳しくもない緩やかな登行だが、容赦なしの直射日光だけが難敵になってくる。

同行の家人は、今や父親を抜いて山の強者となりつつある長女の山ハットを深めにかぶり、360度に広がる高原風景に目をやりながら暑さに耐えている。

王ヶ頭へは途中からトレッキングルートに入り、出来るかぎり山歩き気分を保持しようということになった。

短い急登を経て、難なく王ヶ頭に到着。

汗を拭きながら、しばし眼下から目線高までの風景を楽しんだ。

一気にせり上がっているこの山域では、眼下に見える風景の立体感がとてもいい感じだ。

眼下のどかな草原風景と、削り落とされた壁に突き出る岩場のコントラストが山岳景観の醍醐味を感じさせる。

岩と眼下

楽(ラク)して、こんな風景に浸っていてはと申し訳ない思いもしないではない。

のんびり眺望を楽しんでいると、若い女性三人組からシャッター要請が来てますと家人。

スマホによる撮影は苦手だが、何とか無事済ませると、今度は向こうからお撮りしましょうか的返礼があった。

ではと、夫婦で石碑を挟み、お言葉に甘えることに。

山ではやはりいいニンゲンたちばかりだ……

夏の木立

美ヶ原そのものは、やはり台地状の高原に広がる牧場がメインイメージだろう。

すぐ横にあった山頂ホテルの脇を抜けて、その目抜き通り的道を歩くことにした。

昨年の9月(山ではもちろん深い秋だった)、北アルプスの薬師岳で痛めた両足の爪や膝や、その上の筋肉やら、さらに同行の長女にかけた迷惑による屈辱や自分自身への情けなさやらが、どれくらい克服されているか?

今回の美ヶ原行きにはそのチェック的意味合いも含まれていた。

しかし、歩き始める前、ベンチで一人一個ずつのおにぎりを頬張っているうち、こんなところで諸々の痛みと遭遇していたのでは問題外だなという思いが湧いた。

時間は昼過ぎくらいだったろうか。

いよいよ、これこそ美ヶ原そのものという空間へと歩き始めた。

人の数は案外少ない。後で分かるのだが、人はこれから増えることになっている……

牧場

牛たちが見えてきた。

歩きながらその牛たちを見ていると、黒牛が一頭グループから離れはじめ、そのうち歩きが走りに変わって、どんどん山の方へと登って行く。

黒牛のたて

なんだかおかしんじゃないかと家人と話していると、その黒牛はさらにスピードを上げ、テレビ塔がある最高地点にまでよじ登ろうとしていた。

多くの牛たちは、この楽園のような高原で、自分たちには食い尽くせないほどの牧草と水と塩さえあればいいと思っている……と思えるのだが、彼(彼女かも?)にはそれだけでは満足できない何かがあるのだろうか?

もはや小さな黒い点のようにしか見えなくなった。

そうこうしているうちに、急に対向してくる人の数が多くなったのを感じた。

そうか、やはり美ヶ原はビーナスラインからのお客さんが圧倒的に多いのだ。

かつて自分もそうだったように、ビーナスラインの上品な高原ドライブを経て、さらにこの美ヶ原の上品さに浸る……

それがより美ヶ原を魅力的に見せる演出になっているのかも知れない。

とまた、そんなことを考えているうちに、鐘の音がうるさいくらいに響き渡る「美しの塔」付近に到着。

うるさいくらいに聞こえるのは、鐘が壊れているからではなく、人が連続して鳴らしてゆくからだ。

特に子供たちが集まると、はっきり言ってかなりうるさい。

ようやく静かになり、昔、ここで撮った写真の情景を思い出している。

モデルチェンジしたホンダ・アコード(ハッチバック)を走らせていた頃だ…と、そんなことも思い出した。

一緒にいたのはM森という大学の親友で、彼の家がある山梨の町からこの辺りまでの山域を旅していた。

二十代の自分の旅趣味の中では、珠玉の類に位置される豪華なエリアであり、数日間のパラダイスだったのだ。

美しの塔から離れ、戻ることにした。

平凡な牧場の道より、トレッキングのコースの方がいいと家人が言う。

当然こちらもそう思っていた。

スポーツセンターに通っている家人は、最近メキメキと体力増進を図っていて心強くなっている。

左側がすっぱりと切れ落ちた崖の上に道が延びる…… と言うと大袈裟だが、一応地形上はそんな感じで、突き出た岩の方へと足を進めると、それなりにスリルがあったりする。

高山植物が美しく、蝶などもその上で上品に舞ったりしていて至れり尽くせりだ。

蝶1

 

かなり本格的に身を固めたトレッカーや、最近流行りの山を駆けめぐる青年たちもいて、美ヶ原のバリエーションに富んだ楽しみ方に納得した。

そう言えば、ビーナスライン方面から入った自転車チームは、美ヶ原を縦断し、反対側(松本方面)に下って行った。

美ヶ原が、遊ぶ山であることの証を見せつけられたような楽しい光景だった。

夏道1岩と眼下2風景

トレッキングコースは、気持ちのいいアップダウンを繰り返しながら谷を巻いて続いていた。

夏道2

かなり歩いたところで、また急登の道に出合い、そこを登って頂上のホテルへ。

遅くなったが、ちゃんとしたランチは、そのレストランのハヤシライスになった。

しかし、食後に考えていた、ちゃんとしたデザートとしてのソフトクリームは最後の歩きを考慮して、駐車場横にあった店でいただくことに。

食後はテラスの方に出て、標高2000mから見上げる久々の夏空を楽しむ。

入道雲と平坦な雲

入道雲が少しずつ形を変えていくのを、高原の風に吹かれながら眺めるという懐かしい時間が訪れていた。

ビーナスラインの方から入り、歩いてきた多くの人たちにとってはこの辺りが終着点だ。

ここから来た道を戻る。そのせいか、ほとんどの人たちがこの場所で大休止する。

花1

駐車場までの下りで、足先に少し痛みを感じた。

去年の長女のように、家人が先をどんどん下って行く。

今回の美ヶ原は、秋の北アルプス山行のための足慣らしと位置づけているが、果たして大丈夫だろうかと、家人のうしろ姿を見ながら不安な気持ちになる。

しかし、まあ何とかなるだろうと、いつものようにラッカン的思考に切り替えると、最後の木立の中の道の涼しさが予想以上に増したように感じた。

残念ながら、駐車場横の店にはソフトクリームはなく、家人は落胆しながら普通のカップアイスを食べていた。

午後の遅い時間。日差しはまだまだ強かった。

ゆっくりと下った先に浅間温泉があり、そこの小さな旅館に予約を入れてあった。

冷房が間に合わないくらい、盆地の熱にその小さな旅館は侵されていたが、その熱に対抗するくらいの熱湯温泉がまた痛快であった。

もちろん風呂上がりの冷やしビールも格別で、少し痛みの残る足先を指で揉みながら、秋の北アルプスに思いを馳せていたのだ………

オレ

勝沼~ブドウとワインと友のこと

勝沼ワイン

今から35年ほど前の話である。

大学時代の親友Mの実家のある山梨県勝沼町(現甲州市)で、貴重な体験をした。

彼の実家には現役時代にも何度もお邪魔していたが、卒業してからも毎年夏になると出かけていた。

勝沼と言えば、ブドウである。

と言っても、学生時代に彼と会わなかったら、そんな知識も希薄なものだっただろう。

初めて中央線の勝沼駅に降り立った時の驚きは今でも忘れない。

眼下に広がった勝沼の町は、ブドウ畑で覆われていた。

ブドウ畑の棚の隙間に家々の屋根が見えているといった感じだった。

南アルプスの逞しく美しい姿にも圧倒された。

当たり前だが、彼の家へ行けば必ずブドウ酒が出た。

彼の家もまた、ブドウ栽培の農家であった。

まだワインという呼び方も定番ではなかったと思う。

何度目かの訪問の時、そのブドウ酒一升瓶6本入の木箱を予約し、石川の自分の実家へ送ったこともある。

市場では一本が千円あまりで、飲みやすいブドウ酒だった。実家でも好評で、それから何度か送っていた。

大学を卒業してから、毎年夏には信州から八ヶ岳山麓へと出かけるようになった。

そして、その際にはいつもMの家に寄り、同行もよくしていた。

その最初か二回目あたりだったと思う。勝沼に着いた日にMから、夜、地元の愛好家たちで結成されている「ワインの会?」に一緒に出ないかと誘われた。

彼の家に独りでいるわけにはいかない。面倒だが行くことにした。

勝沼町内のペンションが会場だった。そのペンションには数年後に泊まったこともある。

昼間は暑さの厳しい甲府盆地だが、夜になると涼しい風が吹き始め、グッと過ごしやすくなる。その夜もそんな感じだった。

ペンション一階のレストランには、大きなテーブルに向かう十人ほどのワイン愛好家たちがいた。

年齢はばらばら、知的な匂いが漂う若い女性も独りだけだがいた。

天井では優雅にプロペラがまわっている。

今なら普通であろうが、その頃にワインの会と聞かされると緊張度は異常に高まるのだ。

嫌な予感どおり、ボクはテーブルの真ん中あたりに座らされ、金沢からのスペシャルゲストのような紹介をされた。

たしかにゲストではあっただろうが、その後の情けない行動からすれば、実にみじめな数時間のスタートであった。

テーブルの真ん中に、ハムや新鮮な野菜などが並べられていた。

そして、会の代表らしき男性が話し始める。これから十種類ほどのワインを飲み、ランク付けをする……というのだ。

何? ボクはたしか左横にいたMの顔を見た。彼は笑いながら、まあまあといった顔をしている。

困った。お遊びでやっていい会なのかどうなのかと、Mに問おうとしたが、彼は相変わらず楽しそうに笑っている。

ワインが、いやボクの認識ではブドウ酒がどんどんグラスに注がれて運ばれてくる。

グラスの下に番号が書かれたカードが置かれていて、その番号をランク表に記入していくのだ。

何だかよく分からないうちに、ひと通り口に運んだ。そして、ランク表に何とか数字を入れた。

慣れていないせいもあって、どれも酸味が強く感じられた。正直、積極的に飲みたいと思ったものはなかった。

その中で、なんとか口に合ったブドウ酒がひとつだけあった。

全く口に合わないブドウ酒も明解に自覚できた。

先に後者(つまり最下位)から言うと、恥ずかしながら、それはボルドーの最高級ワインらしかった。

赤のフルボディ、うま味など全く感じ取れなかった。

そして、前者、つまり口に合った唯一のブドウ酒が地元勝沼産。

例の一升瓶で販売されているブドウ酒だったのである。

正直言って、赤のフルボディは“まずい”とさえ感じた。

咽喉を通すのもかなりの労力と勇気を必要とした(少なくとも当時の自分には)。

さすがに、地元の人たちはボクが最下位にしたワインを一番にしていた。

見た目だけで判別がつくくらいの人たちばかりだった。

紅一点、大学で日本文学を専攻していたという女性も、柔らかな物腰のイメージを吹き飛ばすほどの酒豪、いやワイン通であった。

その利き酒会的なイベントの終わりに、代表の方がやさしく言った。

たぶん、今日のゲストであるボクの感覚(無知か未知かの)が、今の日本人の平均的なワイン感覚なのであろうと。

救われたのか、いやその逆なのかと一瞬戸惑いながら、グラスに残ったままの高級赤ワインを見た。

Mが横で笑っていた。

甲州シュールリーアジロン

話は一気にその数年後に飛ぶ。

クリスマス・イブの夜、金沢の行きつけになっていたバーで、ワイン・パーティをやることにした。

その店はマスターの高齢化でとっくに閉じられているが、初めてシングルモルトの美味さを教えてもらった店で、その後ボクにとっては貴重な場所でもあった。

パーティのことはマスターに一任した。

すると、テーブルの真ん中にワインの入った小さな樽が置かれるという、なかなかオシャレな趣向になっていて、マスターに感謝した。

参加者である会社の同僚たちも喜んでいたが、ワインなどほとんど飲む機会はない。正直企画した者としては大いに不安でもあったのだ。

樽はお店用の簡易な水道栓が付いたもので、中の小さなタンクが取り外し可能になっている。

空っぽになったら、マスターがそのタンクを裏へと持って行きワインを補充するのだ。

小さめのグラスにワインが注がれると、皆珍しそうにその“ 液体 を眺めている。

そして、乾杯。全員が美味いとか、飲みやすいとか、とにかく初めてのワインに驚きの声を上げた。

ボクはちょっと誇らしげだった。皆のグラスにどんどんワインが注がれていく。

マスターの作ってくれる料理との相性もいいみたいだ。

そして、ワイン補充の頻度も高くなってきた。

手の回らないマスターに言われて、ボクが裏へと入りそのタンクを取りに行くことになる。

そして、カウンターを抜けて裏へと入った時、そこにあったワイン、いやブドウ酒を見て驚いた。

あの懐かしい勝沼の一升瓶がそこにあった。

しかも、我が家に送ったこともある木箱に入っていた。

その時、思った。

あの夏の日の、勝沼のペンションでの感覚は決して間違いではなかったのだな……と。

たしかに日本においても、昔から高級ワインを飲んでいる人たちはいただろうが、平たく言えば、普通の日本人にはこのブドウ酒が“最も馴染めるワイン”の味なのかも知れない……と。

そして、あの会で代表の方が最後に言ってくれた言葉をあらためて思い出していた………。

それから後、いつの間にか一気にワインブームが来た。

誰もがワイン愛好家になっていた。

昔の勝沼の想い出話をしても、誰も信じてくれないような時代になった。

それどころか、半分バカにされたりもする始末だ。

若い女性たちが、ワイン評論家になる時代なのだ。

シトラス甲州シャトーメルシャンの甲州

今勝沼のワインは、「甲州」というブランドでヨーロッパでも非常に高い評価を得ている。

Mは大学卒業後、地元公務員になり、20代の頃から勝沼のワインを普及するための研究に力を注いできた。

ヨーロッパやアメリカ西海岸などの産地に渡り、そこでの成果を地元の農家やワイナリーの人たちとの研究材料にもしていた。

若かった彼が記したそれらのレポートには、単にブドウ栽培やワインづくりの話ばかりではなく、ブドウ畑が作り出す美しい自然景観の話などが活き活きと綴られている。

ついでに書くと、ボクがかつて出していた『ヒトビト』という雑誌にも、彼は創刊から協力してくれ、勝沼からの季節感あふれるレポートを送ってくれていた。

その文章も、今風に言えば、ふるさと愛に満ちた温かく素晴らしい内容のものだった。

実際、勝沼におけるブドウの存在は完全に地域の文化だ。

今のワインブームの中では忘れられがちな、土地(地域)の匂いのようなものが伝わってくる。

それは、8世紀とか12世紀とかいう発祥説が物語る、勝沼のブドウの歴史そのものでもあるからだ。

勝沼グラス

そして、明治の初め、ワインづくりのためにフランスへ若者二人を送り込んだという剛健な気質にも、それは示されている。

その気候風土に合った文化を継承するワイナリーオーナーたちも見識が高い。

今、テレビをとおして国産ウイスキーの物語が人気を博しているが、ブドウづくりとワインづくりの歴史にも、多くの物語があったに違いない。

もうそろそろ5年前のことになるが、ボクは金沢の茶屋で甲州ワインを飲む会を催した。

そのために勝沼にMを訪ね、何軒かのワイナリーを巡ったが、あらためて感じ入ったのは、それぞれのワイナリーが実に個性的(平凡かつ軽薄な表現で恥ずかしいが)であったことだ。

そして、とても日本的であった?ということにも驚かされた。

明治の農村にあった「和と洋」。

……というとまた違っているかもしれないが、その独特の空気感は初めて味わうものだったのだ。

それもまた、ブドウやワインと言う日本国内では特殊な性格をもつ産物のせいとも言えた。

会は一応盛況だった。勝沼で買い込んだ数種類の甲州ワインを順番に出した。

ボクはMからもらった資料をもとに、勝沼の土地柄などの話を交えながら会をナビゲートした。

すでに世の中ワイン通だらけで、今さら国産ワインなどと言う人も多くいたが、一口飲んだだけで皆その口当たりの良さに驚いていた。

ただ、その時失敗したと思ったのは、茶屋という場を意識しすぎて、妙な高級感が出てしまったことだ。

口当たりが良くて、食べ物も進み、おしゃべりも弾むという、そんな生活感のあるワインの場にするべきだった。

それが自分が知っている勝沼らしい魅力の発信に繋がっただろうに…と、ずっと後悔している。

日本酒ももちろんだが、国産ワインにもその土地の個性がある。

こと国産ワインについて言えば、勝沼ほどそれが顕著な場所はないだろうと思う。

ブドウ畑が作り出すのどかな風景は、その第一の要素だ。

だから、本当のことを言えば、やはり甲州ワインは勝沼の地で楽しむのが一番いいと思う。

あのブドウ畑が広がる風景や、ワイナリーの新旧の香りが漂う佇まいなどを目にすると、ワインの味が確実に大きく広がっていくのは間違いない。

最近は我が家でも外国産のワインが普通になっているが、やはり甲州ワイン、いや勝沼のワインは別モノだ。

ボクにとっては、たくさんの大事なものが詰まっている、特別なモノであることは間違いない。

ここまで書いてきたら、飲みたくなってきたのだ………

ルバイヤート甲州勝沼の甲州

※使った写真は、たまたま最近飲んだ銘柄のもの。

勝沼ボトル

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編その2

土塀屋根の紅葉

京・高雄方面は実に深いのである。

市の中心部からすると、その奥まり方はかなりな印象がある。

さらに、クルマを下りてからの道も、さらにまだ奥があったのかと思わせる。

急な石段登りは、断片的に登山に近い印象を与える。

晩秋京旅の二日目は高雄に決めていた。

予習資料には厳しい道とあった。

午前10時頃、阪急桂駅前で娘たちと合流した。

大阪豊中に住む次女のところに、前日一緒に来て、JR山科駅から電車に乗り換え大阪で友達と会っていた長女が泊まりに行き、その日の朝阪急で桂まで二人一緒に来た。

桂はこの前まで次女が住んでいた町だ。

こっちも少しは土地勘のあるところだったので、待ち合わせ地点になった。

到着が予定よりも一本遅れた電車になったのは、多分朝が早かったせいだろう。

久しぶりに四人が揃った… と言っても特に儀式などないが。

高雄までは道中が長い。

それに何しろ、晩秋京旅である。

しばらく走って、すぐに渋滞らしき雰囲気。

まあこんなもんだろうと覚悟を決める。

ところが、途中から交通事情は恐れたほどのこともなくスムーズになった。

周辺の風景は、高雄に向かっていることを少しずつ印象付けるものとなっていく。

この先はたしか周山街道と呼ばれる道だ。

かなり山間に入って、周辺が騒がしくなってきたあたりが神護寺へと向かう拠点だった。

無理やりのように、民家の庭がそのまま駐車場になったスペースにクルマを突っ込む。

このあたりの民家は、この時季いい稼ぎになるのだろうなあと余計なことを考える。

清滝川

神護寺へは混み合う道路をしばらく歩き、それから左に折れて清滝川沿いを行く。

清流を見下ろしながら歩くうちに、西明寺への道を右に見送ってまっすぐ進む。

西明寺は帰りに寄ることになる。

しばらく歩くと、左手に急な石段が延びている。

目にした瞬間から、家人が神妙な顔付きになった。

家人にとってはかなりきつそうな登りである。

山で鍛えている長女は、屁みたいなものといった顔で登り始め、毎日自分の住まいと駅とのアップダウンを自転車で往復している次女も同じように登り始めた。

家人をサポートしながら、次女の大学入学式の翌日(だったか)、三人で鞍馬山に登ったのを思い出した。

履物が適合しておらず、二人は苦労したみたいだったが、天候にも恵まれいい思い出になったという話題が出て懐かしかった。

神護寺への道は厳しい…というほどではないが、やはり普通に考えれば楽な道ではない。

笠

途中には休憩処が何軒かあり、その前を通るたびに出ているメニューを覗き込む。

昼に近い時間であるから、団子などのおやつ系よりも、うどんや丼物などのメシ系に目が行く。

秘かに「きつねうどん」に目を付けておいた。

ただ出来れば、「いなりうどん」の方がネーミングとしてはいい。

立ち寄るのは帰りだ。

楼門と呼ばれる、神護寺の正門が、最強に急な石段の向こうに見えてきた。

その前に、道から見下ろす休憩処の情景に目を奪われる。

モミジ食堂

強弱の光に包まれた全面紅葉の中に、食事する人たちの影が動いている。

あの人たちは自分たちの置かれた素晴らしい状況を理解した上で、食事をしているのだろうか?

もしそうでないとすれば、実に不幸なことかも知れない。

同じ状況下で後ほど食事をしようと考えている者としては、しっかりと今目に焼き付けておく必要があった。

神護寺正門

先を行く娘たちの後姿を追い、家人を励ましながら石段を登った。

ほどなく山門に辿り着く。

境内には山里の寺らしい、のどかな空気が流れていて、ふんわりと落ち着く。

金堂石段引き金堂より

当たり前だが、周囲に街中の寺でよく見られる現代建築などは見えず、そのことが新鮮に感じられる。

昔、街道探索などをしていた頃、視覚的な静寂というものを感じたことがあったが、まさにそれに近い感覚が蘇ってきた。

さらに石段を登ったところにある金堂を見上げていると、周囲の人たちの声も聞こえなくなった。

天気ののどかさが何よりだった。

金堂1神護寺境内2

神護寺は、約1200年前に出来たと言われる寺だ。

日本史に出てくる和気清麻呂(すぐに変換されて快感)ゆかりの寺で、後世では、空海や最澄とも深い縁があるらしい。

最も高い位置にある金堂前で、石段の下から写真を撮ってもらった。

家族四人の写真など久しぶりのことだ。

娘たちが進学で京都に移ってからは、そんなショットはすべて京都が舞台となっている。

ヒトは確かに多いのだが、前日の永観堂で見たうねりのような流れもなく、山寺の空気感もたまらなくいい。

金堂石段

金堂からの石段を下ると、またぶらぶらしたり、佇んだりを繰り返す。

だが、そのうち、例の「きつねうどん」のことが気になり始めた。

坂道を下りながら、上から数えて二軒目の店に入った。

屋根のあるテーブルと露天のテーブルが、それなりに整然?と並んでいて、すでに多くのテーブルが埋まっていた。

どのテーブルにも紅葉が舞い落ち、手元も足元も周囲は紅の斑模様だ。

きつねうどん

きつねうどんに、小さな松茸ご飯が付いた、上品な昼飯をいただく。

しかし、環境的にはそれなりにワイルドでもある。

京都らしい“はんなり”系の出汁が美味い。

そのやさしさを何かに例えようと考えたが、なかなかむずかしいので考えるのをやめた。

それくらいにやさしい味であるということにした。

大阪で独り住まいの次女だけが、とろとろ卵の親子丼を選び、残りの加賀の国内灘村からのお上り三人組はきつねうどんを食った。

何気なく、次女の日頃の食料事情について思う……

******************************

再び清滝川沿いの道に下り、しばらくして西明寺への急坂を上る。

この急坂はかなりな角度である。

またしても家人の不安そうな顔に悩まされるが、ここは行くしかない。

あとで分かったのだが、最初に通り過ぎた分岐の道から上がるのが正しいアプローチらしかった。

だましだまし、いややさしく励ましながら、何とか急坂を上った。

想像していたよりも距離は短かった。

西明寺

西明寺は空海の弟子によって、9世紀の初め神護寺の別院として創建されたとある。

その後鎌倉時代に独立した寺になったらしい。

それほどの広さは感じないが、ここでも山里の空気感が存在感を高めている。

苔むした灯篭が並び、その上にふわりと乗っかった葉っぱたちが、どこか子供たちの無邪気に遊ぶ姿のようにも見えてくる。

灯篭に紅葉西明寺の下り

本堂にある釈迦如来さんたちは重要文化財であった。

本来の参道を逆に下って、現世とあの世との境目になるという橋を渡った。

この手の橋はよく渡っているので、何度もあの世に行ってきたことになるが、あの世の印象は全く残っていない。

茶屋のトイレを借りるかどうか、家族内でしばらく検討の時間があったが、まだ大丈夫ということで、もうひとつの目的地・高山寺へと向かう。

周山街道に戻って、さらに奥へと歩く。

少しずつヒトの数が減っていくのが分かる。

***************************************

 

高山寺石碑高山寺入り口

高山寺は「こうざんじ」や「こうさんじ」と呼ぶのだそうだ。

平安時代から山岳信仰の小さな寺が存在していたらしいが、鎌倉時代の明恵という僧によって開かれたとある。

街道から脇に登り始めた頃から、その凄さが予感できる空気感だ。

なぜか妙に懐かしさに駆られる。

参道に立つと、森の深さが静寂のためのエネルギーを醸し出しているのが分かる。

敷石

みな、声を落として話している。

しつこいが、境内は森の中であり、われわれが歩いている道は、その森の空気によって守られてきた聖なる道なのだ(と、神妙な思いが生まれた)。

どこかで味わった空気感だと何度も試みるが、やはり思い出せない。

家人に聞いたりもするが、知らないと言う。

その空気感は、ずっと若い頃に感じたものだったのかも知れなかった。

娘たちも、この空気感が気に入っている様子だった。

高山寺下石段高山寺

金堂への高い石段を上り、またその石段を下って、聖なる道を進む。

グッと現実に戻って、トイレにも立ち寄る。

そして、国宝の石水院へと足を向けた。

予習資料には、ここに置かれてある善財童子の像が美しく紹介されていた。

京都国立博物館で鳥獣戯画展が開かれていたが、その原本は高山寺所蔵のものだった。

(翌日、最終日のその展覧会行きを予定していたのだが、あまりの混乱に入館はやめにした)

石水院縁側

縁側に腰をおろし、晩秋の山並み風景に目をやるのは、かなりの贅沢さだった。

座敷の展示ケースの中に、申し訳なさそうに展示されていた「鳥獣戯画」も色あせて見えた。

善財童子の像は、屋久杉の床板が張られた“廂(ひさし)の間”に置かれてある。

童子童子2

床板は創建時(鎌倉初期)のものだそうだ。

高雄の山の深さとともに、その文化を生み育て、そして継承してきた人たちの思いの深さも感じる。

周囲の濃淡が続く晩秋の気配に包まれながら、中央に置かれた「善財童子」のシルエットに目を凝らした。

紅、橙、黄…… 石水院を出てからも、圧倒的な色のインタープレイに惑わされていた。

高山寺境内2案内板の屋根

池に紅葉樹間の紅葉

樹木に残った葉っぱたち、地上に落ちた葉っぱたち、その途中の何かの上に乗っかった葉っぱたち、それらが一帯を埋め尽くす彩は“圧倒的”という以外に表現言葉がないと思わせる(もちろん、ボクの場合であるが)。

今日めぐった三つの寺は、「三尾(さんび)の山寺」と言われるらしい。

この辺りが、高雄(高尾/たかお)・槇尾(まきのお)・栂尾(とがのお)と呼ばれるからだ。

たしかに見ごたえ十分な山寺めぐりだと感じた。

視覚だけでなく、カラダ全体が、もちろん精神も含めて、しっかりと充足感に浸れる場所だった。

大した足の疲れもなく、周山街道に戻った。

まだ晩秋の洛北の空は明るい。

歩きながらも、眩しいくらいの美しい大樹に長女がカメラを向けている。

家人と次女は何やら楽しそうに話し合っている。

午後のやや遅い時間。われわれはまた雑踏を求めて、京都市街のど真ん中へと向かった。家族四人で泊まる宿へと………

 

石水院からの紅葉

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編 その1

永観堂の日差しの中の紅葉

京都の歴史と季節感を、同時に楽しみに行くというのは壮大なプランである。

しかも圧倒的な紅葉の時季に訪ねるというのは、一種の冒険に近い。

京都はすでに人(観光客という種類の)の受け入れに相当な寛容さを持っている都市であるが、訪ねる方からすれば、その度を過ぎた(ような)人の波は簡単に受け入れがたい。

しかし、と言いつつ、いざ京都となると覚悟は決まる。

不思議だが、そこが京都のチカラの証だ。

少し前、「日本に京都があってよかった」というコピーがあったが、ボクは激しく同感している。

出だしで少しカッコつけたが、そんなわけで、一年と一ヶ月ぶりの京都なのであった。

めずらしく、最初の目的地は平安神宮近くの某カフェになっていた。

もちろん家人のリクエストであり、その店の何とかという洋菓子をいただくというので、開店直前の店の前で名前まで書かされ並ぶことになった。

最近はこうした列のできる店がステイタスを持っていて、客を並ばせることを喜びにしているように見えたりする。

「おもてなし」などと片方で言っておきながら、客を長時間待たせるのはどこかおかしいと思うので、ボクは単独の時は絶対にこうした列には加わらない。

ほどなく開店した店でいただいた菓子も珈琲もごくごく普通であった(少なくともボクには)。

この店が最初の目的地となったせい(?)で、近くの南禅寺と永観堂が今回の寺めぐりのスタートになった。

二つの寺とも名前のよく知られた名刹であるが、南禅寺は十年以上行っていないし、永観堂は恥ずかしながら初めてとなる。

クルマは岡崎公園の地下駐車場に入れた。

この平安神宮を含む一帯は、かつて次女が学生時代に参画していた「京都学生の祭典」という、学生の自主イベントとしてはとてつもないスケールのイベント会場になっていて、構造はそれなりに分かっていた。

その時、次女と待ち合わせした店もまだ健在で、スタッフジャンパーを着込み歩道に立っていた次女の姿が思い浮かぶ。

まだまだ幼いもんだと思っていた次女が、初めて逞しく見えた時だった。

南禅寺へ向かう道に、長蛇の列となった客たちを待たせる店がある。

まだ開店まで一時間ほどもあるというのに、歩道は完全に占拠されている。

こんな客たちを受け入れなければならない店側も、味を維持していくのは大変だろうなあと思うが、そんなこと気にしていても始まらない。

動物園の横を通って、川沿いの道を歩き、南禅寺へのアプローチ。

ヒトもクルマも半端ではない。

何とか境内に入って、早速山門に上ろうということになったが、階段もその上の展望台もヒトの波。

上から見下ろしてもヒトの波。紅葉ももちろんそれなりに美しい。

南禅寺山門から

この圧倒的なヒトと紅葉の融合が京都の京都たる所以なのだと、あらためて納得した。

七百年ほどの歴史を持つ南禅寺だが、百年ちょっと前に出来た、ご存じレンガ造りの水道橋の存在が大きい(少なくともボクにとっては)。

あれを見ると、南禅寺に来たなと思う。

水道橋

それに宗教には関係なく、しかも六百年ほどの時代の差があるというのに、水道橋はかなり南禅寺に馴染んでいるなとも思う。

レンガは不思議なチカラを持っているのだ。

南禅院の庭を見て歩いていると、地元人らしき老紳士の「もうピークは過ぎたなあ。この前来た時はもっと凄かった…」という独り言が耳に届いた。

観光客の前で、いくら地元とは言え、このような発言は軽率および無責任だ。

こちらはひたすら楽しんでいるのであるから。

それにしても池に映る紅葉は見事だった。

南禅院

時間の関係で、久しぶりに水道沿いの道を歩けなかったのが残念だったが、また今度ということにして永観堂へと向かう。

 

永観堂は、「禅林寺」という古刹の通称だとある。

今は京都を代表する紅葉の名所として高い人気を誇る。

それゆえ、歴史や宗教文化の遺産に加え、紅葉の凄さが備わったこの永観堂をゆっくりと堪能しようというのは浅はかな考えだ。

ヒトでごった返す総門を抜け、中門(券売所がある)に至るだけにも気合が要る。

人ごみ

あちこちで必要以上に(と思えるほどに)写真を撮りたがる人たちが、塀に体を擦りつけるようにしてカメラを向けている。

しかし、その姿はかなり醜く、アルバイトの俄か係員たちが大声で制止したりしている。

何事も度が過ぎるとよくないのだ。

葉っぱだけ撮るなら、近くの公園でもいいよとアドバイスしたくなる。

さすがに京都を代表する紅葉の名所、境内は圧倒的な混み具合だった。

混み具合も凄いが、やはり紅葉の美しさも凄い。

質的にも量的にも気合が入っている。

永観堂の紅葉

重なり合う部分の深さや、木の大きさなども心に響いてくる。

陽光を透かして見せる美しさなども唸らせるものがある。

ところで、永観堂には季節に関係なく、もうひとつ人々を惹きつけているものがあるのだ。

「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像(重要文化財)だ。

鎌倉時代に作られた仏像だが、写真などで紹介されているイメージからすると、かなり大きな像を想像する。

が、実際は(その小ささに)多少ガッカリさせられる。

家人などはかなりその度合いが強かったらしく、最初にボクが指さした時(不謹慎だが)には信じられないという顔をした。

名前のとおり顔を左横に向けて立つ仏像で、わざわざその方向に拝顔できる場を設けてある。

そこには当然列ができていた。

空に突き上げる紅葉

諸堂めぐりを終えてまた外に出ると、そこは前にも増してのヒトの数(量)。

放生池という紅葉を映す水面に、カメラが無数に向けられている。

日本の今夜のFacebookが、永観堂の紅葉で被い尽くされるのではないかと心配になる。

家人が、わざわざ空いている場所を見つけて手招きしてくれた。

ならばと、こちらもカメラを構えてシャッターを押した。

放生池の紅葉

振り返ると、茶店の広いスペースもヒトでいっぱいだ。

毛氈の敷かれた無数の床几に、ヒトがまた無数に腰掛け、顔を中空に向けている。

紅い葉蔭から差し込む柔らかな陽光に、その顔たちが揺れて見えている。

永観堂には、広い空間がない分、ヒトの密度も高くなっているのかも知れないと思う。

そして、それはちょっと当たっているような気がした。

落葉の黄色

 

十一月の下旬とは思えない、もったいないような日差し。

周辺はクルマが列を作り、その間隙をぬってヒトが動く。

岡崎公園の地下駐車場にクルマを入れたのは、大が三つ付くくらいの正解だった。

次女がイベントをやってくれたおかげだ。

戻ってくる途中には、さっきの店でいまだに長い行列を作っているヒトたちの姿を見た。

せっかく穏やかな晩秋の京都にいながら、他に行くところはないのだろうか?

余計なお世話的に、わざと珍しいものを見るような顔をして通り過ぎてやる。

ここへ来てあらためて分かったのだが、ボクは京都の紅葉を見に来ているのではなく、京都の文化を見に(感じに)来ているのだ。

だから、この行列も、ある意味、京都の文化が成したコトなのだろうと思う。

ずっと昔、都へ上った地方の人たちが、その様子に驚いたであろうヒトの波。

見上げる大きな神社仏閣や、豊かな物品など。

こうしたモノゴトに出会うのが京都の文化の感触のようにも思えてくる。

複雑な思いのまま、今日の宿がある烏丸あたりへ………

 

四角の石2

 

 

 

 

布橋とプモリと芦峅寺と

布橋1

めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。

当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。

当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。

それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。

立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。

天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。

目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。

布とあるが、アーチ型の木橋だ。

数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。

布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。

そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。

もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。

ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。

それが自分にとっての常道?でもあった。

ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。

今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。

緊急の決断が求められた。

遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。

彼女の目はそう訴えていた。

その目に家人は負けた。

正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。

たしか、家人も一度見ているはずである。

ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。

そのことに期待することとした。

われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。

そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。

遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。

正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。

予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。

畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。

それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。

遥望館

 

トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。

この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。

 

まんだらのブリッジ

 

遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。

このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。

ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。

恐れていたことが現実となった。

ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。

もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。

両方共が当たった。見事に。

空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。

二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。

ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。

うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。

こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。

久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。

覚えていてくれるかも半信半疑だ。

予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。

ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。

家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。

プモリのテーブルと窓

砂糖入れ

 

相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。

もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。

中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。

その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。

帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。

実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。

そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。

Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。

真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。

大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。

名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。

外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……

プモリの庭の花

プモリの庭

 

グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。

懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。

ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。

先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。

その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。

その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。

布橋タイトル

明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。

その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。

この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。

いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。

橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。

家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。

ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。

帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。

石仏坂

上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。

これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。

立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。

それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。

教算坊

立山大宮

すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。

芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。

今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。

立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。

そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……

 

金沢湯涌ゲストハウスにて

GH外観

 今年も数日間の旧盆休暇がやってきた。

 我が家では、この時期にちゃんとした連休があるのは自分だけで、あとの家族はみなカレンダーどおりに仕事をしている。

 だから、申し訳ないが休暇期間中のウィークデーは自分一人の時間となるわけだ。

 と言っても、自由を満喫するなどといった余裕があるわけではない。

 初日は、先日在庫切れとなった山の水を補充にと、いつもの湯涌までやって来た。

 夏なので大量に持って帰っても保存が大変なので、今は40リットルほどを汲んで帰る。

 気候が涼しくなれば、その倍くらいは汲む。

 かなり蒸し暑かったが、水を汲んでいる時は涼感たっぷりで爽快である。

 最後にいただく一杯も、相変わらずいい味だった。

 湯涌まで来れば、当然「湯涌ゲストハウス」に立ち寄り、番頭さんのA立クンと語らって行くことになる。

 あらかじめ連絡を入れておいた。なにしろ多くの関心が集まり、なかなか好調なスタートらしいのだ。

 午後一時近くに行ってみると、すでに泊まり客は帰っていたが、予約なしの飛び込み客が多くて、嬉しいながらも困ったナ的表情をしていた。

 一応自炊だから、食料の仕込みとかは特に必要ないみたいだが、やはり布団を用意したりするなど飛び込みではきついらしい。

 それに今はまだ不慣れな上に、独りでやり繰りしなければならないから大変だろう。

 たぶんこんな状態の中で客数が増えていき、そのうちやり方も安定していくのだろうなあ…などと勝手に思ってしまった。

 忙しいのは、何よりいいことだ。

 聞いていたが、しばらくして地元テレビ局の若いディレクターが来店。

 近々、現場からの中継をやってくれるという話だ。さすがに注目度は高い。

 軽い雰囲気の打ち合わせが始まったので、勝手知ったるなんとか、ボクは購買部の部屋に隠れる。

購買部

 実はこの雑文、その六畳ほどの部屋で書下ろし中なのだ。

 購買部といっても、それらしきものは奥の小さなショーケースにあるカップ麺とオリジナルタオルくらいか。

 やたらとジャズのCDと山関係の本がカッ詰まっていたり、カヌーのパドルなどもあったりで、十分にそれらしくない。

 しかし、そこがこの湯涌ゲストハウスのいいところで、購買部はボクの大好きな空間となっている。

 欲を言えば、イスとテーブル、さらにオーディアがあればと思う。

 床に座って小さなちゃぶ台のようなテーブルに向かうのは、ちょっときつかったりする。

 このような場所は、ある意味いい仕事場にもなる。

 昔、バリバリに現場で頑張っていた頃には、企画書を書き下ろすのにこういう場所をよく使わせてもらった。

 金沢市内にある某ビルの一室では、共同で金(もちろん自前)を出し合い、空いている時にはいつでも使えるというシステムで利用していたことがある。

 ちょっと郊外にある自然の中の展望のいい、そして人が滅多に来ない東屋みたいなところで、涼しい風を受けながらのお仕事タイムもあった。

 怖いのは熊ぐらいで、コーヒーもその場で淹れるという用意周到さだった。

 さすがに今はそんな大胆な?ことはしないが、私的な部分ではまだまだ感覚はそれに近かったりする。

 だから、この湯涌ゲストハウスの存在は重要なのだが、たぶんそのうちゆっくりできなくなるだろう。

 ボクにとっては、泊りよりも休日の昼間にちょっと長めの滞在をさせてもらうというシステムがいい。

 眺望はないが、A立クンが淹れてくれるコーヒーも美味いし、ジャズも聴こえてくるし、至れり尽くせりなのである。もちろん有料だ。

 ところで、まだ整理できていないまま書いてしまうが、この湯涌ゲストハウスの個性というのは土地柄はもちろん、A立クンというニンゲンの存在にかかっているような気がしている。

 前にも書いたが、湯涌は「山里の農村」なのである。そして、今風に言えば「里山の遊び場」なのでもある。

 街なかのゲストハウスとの違いを明確にしていけば、自然遊びにも通じたA立クンのチカラははますます発揮されていくだろう。

 もちろん歴史があり温泉があるが、音楽や文学や、その他趣味・雑学の話題にも事欠かないゲストハウスがいい。

 そんなゲストハウスになってくれたらいいなあ…と、これも勝手に思っている。

 創作の森も、夢二館も、江戸村も、そして、その他のさまざまな活動団体もあって文化度も低くない。

 表の幕に記されている「Micasa,Tucasa」は、「私の家は、あなたの家」という意味らしい。

 あまり伝わっていないが、これからこのキャッチの意味が活かされていくことだろう。

 打ち合わせはそろそろ終盤に入っているらしく、A立クンの吸うたばこの匂いが漂ってきた。

 そろそろこっちも、体勢に疲れてきたところ。

 コーヒーをもう一杯いただきに、向うへ移ることにする………

幕湯涌ゲスト音

 

 

 

地下40mにあった夏の夢・JR筒石駅

駅名サイン

 上越の海岸線、国道八号線を時速五十キロほどで走っている。

 砂浜にはところどころに海水浴場があり、駐車場へ誘導しようとするお兄さんたちと目を合わさないようにしながらの運転だ。

 朝の海は穏やかながら、気温は三十五度を超える予想。まだ九時前だが、その予想をフロントガラスに広がる青い空と日差しが裏付けている。

 しばらく快適なドライブが続いた。そして、そろそろ左へ進路を変える頃に。

 目的地は、JRの筒石(つついし)という駅。

 そこから汽車に乗って、旅に出ようというのではない。

 地下四十メートルにあるという、その駅のホームを見てみたかった。数年前から考えていたことだ。

 そのホームの存在は新潟への出張時、特急「北越」の車窓からかすかに確認していた。同じ特急でも、上越新幹線と繋がる「はくたか」では速すぎて、ほとんど分からない。

 どちらにせよ、そのホームの存在を知り、さらにそのホームの駅舎が急峻な崖道を登ったところにあって、改札から長いトンネルの階段を下りてホームに出るということを知ってからは、いつか必ず出かけなくてはならないなと考えてきた。

 そして、チャンスは意外にも身近な月一予定の歪みから生まれた。

 クルマでの新潟出張の帰路、翌日富山県某町のイベントに立ち寄ることにしていたが、その付近にホテルがなく手前の上越市にホテルをとった。

 あとで上越市ではなく、糸魚川市にとった方が得策だったと気付いたが仕方ない。

 夜の八時半頃、上越のホテルに着き、部屋の弾力のないベッドに腰を下ろしたところで急に閃いた。

 明日少し早く出れば、あの筒石の駅に立ち寄ることができるかも……

 パソコンを開いてすぐに間違いないことを確認すると、星ひとつ半だったホテルが三ツ半くらいにまでに変わる………

 翌朝は快晴。分厚いカーテンを透して日差しの熱が伝わってきた。

 窓が東側に向いているのは間違いなく、カーテンをちょっとだけ開けてみて、思わずウッと唸っていた。

 ナビが言うように「筒石駅」の表示が目に入ってくる。

 えっと思うほどの急な進路変更。少なくともそう感じた。さらに入り込んだところは、洗濯ものだらけの家並みが続く狭い道だった。

 しばらくゆっくり走ったところで、漁港らしき雰囲気となり、道は左へと曲がる。そして、クルマを止めた。

 ナビはこのまま真っ直ぐ行けと言っている。しかし、どう見てもこのまま真っ直ぐ行っていいのか戸惑うのが普通だろう。急な斜面に家々が並び、その隙間を縫うように狭い道が上に向かって一気に延びている。

 クルマを下りてみると、上から電動車イスに乗ったおばあさんが下りて来た。

 筒石駅へはこの道を登ればいいんですかと聞いてみると、普通にそうですよと答える。

 何を聞くのかと思ったら、なあんだ、そうなこと? といった顔だ。

 これ上がると小学校があって、そこからどうのこうのとかで、すぐだと言う。

 皆さんここ登って行くんですか?と、執拗にもう一回聞くと、そうそうと、こちらの心配を察したかのように笑って答えてくれた。

 坂道は短いが、急で狭かった。が、その急で狭い坂を過ぎると、地元小学校の脇を通り、一気に山の中の道といった雰囲気になる。このあたりの、海岸から一気に突き上がった地形を肌で感じとることができる。

 しばらく進むと、左手に筒石駅を示す看板があった。

駅舎

 下りて行くと、すでに写真で見ていたが、駅舎の味気ない建ち方に改めて消沈。しかし、ここまで来るまでの焦燥と期待感を思えば、そんなことに落胆などしてはいられない。

 クルマを止め外に出ると、一気に真夏の熱気に身体中が包み込まれた。

 しかし、その感触は懐かしい何かとの再会を思わせ、吸い込んだ空気の匂いもそのことを煽るものだった。

 まずは駅舎の写真をと道に戻ってみる。深い緑の中の小さな、そして平凡な駅舎がぼんやりと夏を思わせる。

 そうだ、さっき懐かしく感じたのは、夏の空気のことだったのかと思う。

 駅舎に入ると、中は小さな待合室といった感じだ。若者カップルが一組。電車の待ち時間なのだろうか。女の子の方はかなり疲れ気味で、ベンチに座ってうな垂れていた。

 さっそく入場券を買おうと窓口に立つが、誰もいない。横に回ってみて奥に駅員がいるのを確認して声をかけた。

 そうこうしているうち、振り返ると待合室にまたもう一組の若者カップルがいた。彼らは地下のホームの方から上がってきたみたいだ。 彼らも少し疲れている。

 入場券と入場証明書も兼ねた絵ハガキをもらい、自分も下のホームへと向かう。

 しばらく歩き、すぐに足が止まった。凄いのだ…… 想像を超える凄さなのだ。

最初の階段

 目が慣れ始めると、撮影道具を背負った青年が独り、階段をゆっくり登って来るのが見えた。こっちはカメラを構えたが、彼を焦らせてはいけないと、ゆっくりでいいよと声をかける。

 さっき待合室で見た若者たちの疲れた様子が、ここで理解できた。彼らもこの階段を登ってきたんだ。

 撮影道具を担いで上がってきた青年はかなりの量の汗を浮かべ、いやあ、ここは凄いですと話しかけてきた。

 実はこの青年との出会いがなかったら、この“探検”はかなり味気ないものになっていたかもしれない。この鉄道マニアの青年が、その後いろいろと教えてくれたおかげで、これからの一時間足らずが、とても素晴らしい時間になったのだ。

 では、行ってきます。そう言って青年と離れ、ボクは階段を下りた。

 階段は決して高くはなく、むしろ登る人のためにか低く造られていた。

 それにしても深い。しかも、真っ直ぐに下って行くトンネル壁面のラインが、より一層落ちてゆくイメージをデフォルメする。

 誰ひとりすれ違うこともなく、登ってきた人を見送った自分としては、何となく淋しい気持ちにもなるが、その分楽しみも増えていく。

 トンネルに向かって、トンネルを下る。地下鉄の駅に向かって階段を下るのとは、完全に何かが違っている。

 下り切ると、左にまたトンネルが延びる。「富山・金沢方面」と「直江津方面」の乗り場が案内されている。このふたつの乗り場(ホーム)は、向かい合って造られていない。何か理由があるのだろう。

のりば案内ガスの通路

 ガスが通路、いやトンネルの奥でうごめいている。まるで映画の世界だなと、平凡な感慨に耽った。

 遠い方から先に行って来ようと、富山・金沢方面のホームへと向かった。

 ホームへ出るには、また一段と深い急な階段を下りなければならない。一度下り切ったと思ったら、さらにまた左に折れてまた下る。

 そこにはイスが並び、出口戸はしっかりと閉じられていた。電車はここで待つのだ。

ホームへの階段

 少し躊躇しながらも、すぐに戸を開けてみる。

 そこは非日常的で、異次元的で、何もかもすべて失われたような、多くは閉鎖的だが、ある意味開放的で、そして、ただ素朴に暗くて静かな……そんな空間だった。不思議な空気感が漂っていた。

ホーム

 稲見一良の小説に出て来るように、廃線になった線路の上を走ってくる幻の蒸気機関車が、今にも飛び出して来そうな気配が漂う。

 ホームは狭い。黄色い線の内側などと言っていたら、すぐに壁にぶつかってしまいそうな感じだ。

 端から端まで歩いてまた椅子の並んだ空間に戻り、今度は急な階段を登り返した。

 地上が暑かった分、中は快適過ぎるくらいの気温となっている。冬は逆に暖かいのだろうと想像する。

 このホームを利用する多くは地元の生徒たちだと聞いたが、彼らの日常はなんとドラマチックなんだろうと勝手に思ったりしている。

 次は直江津方面のホームだ。階段を登り、ほぼ平坦なトンネル通路を戻って行くと、ホームへ下る階段の手前に、さっきの鉄道マニア青年が立っていた。

 もうすぐ、「北越」がホームを通過しますと言う。その言葉になぜか一瞬動揺し、この絶好の機会を見逃すわけにはいかないと思う。

 ボクと青年はホームに出た。若い女性駅員がいて、思わず、コンチワと挨拶。

 ちなみに、筒石駅には大きさの割に多くの駅員さんが働いている。事情は十分理解できる。

 さっきのホームとほとんど区別がつかない風景が眼前に広がっていた。いや左右に延びていたと言う方が正しい。

 「北越」は反対側の線路を通過すると青年が教えてくれた。そして、青年は三脚を用意し始めた。

 ボクは彼から二十メートルほど離れた場所で、カメラをテストする。鼓動が少し小刻みになったのが分かる。久々の緊張感。青年と何度 も目を合わせたように思うが、実際は暗くてよく見えていない。

 青年があらためてこっちを見た。その時だ。

北越が来た北越通過

 風が、いや空気の波のようなものがトンネルを通して流れ込んでくるのを、しっかりと全身で感じた。いや、感じたなどという生易しいものではなかった。大きな空気のうねりに全身が襲われた。恐怖感のようなものが、いや恐怖感そのものが背中を走った。

 次の瞬間、線路を滑りながら近づいてくる大きな物体の音が重なった。ライトが光っている。それだけを見ているとそれほどのスピード 感ではなかったが、目の前を通り過ぎる頃にはかなりの速さで流れ去って行った。

 いい歳をしたオトッつぁんの言うセリフではないが、夢のように「特急北越」は過ぎ去っていったのだ。さらに加えれば、銀河鉄道のようにとも言えた。

 ここは、やはり凄いです。青年が言う。こちらは写真撮影どころではなかった。

 そしてすぐに、今度は「はくたか」が来ますとも言った。さらに、今度はこのホームを通過するから、凄い迫力ですよとも言った。ボクはまた動揺した。

はくたかが来た

 「はくたか」の通過は、これまでの人生の中で片手に入るくらいのド迫力だった。

 「北越」の時を上まわる空気のうねりがあり、大音響があり、そして乗っていた人たちの顔など全く認識できないほどのスピードがあった。

 ただひたすら、身体をホームの壁側に傾け、風圧に耐えていなければならなかった。

 青年が言ったように、それはまさにこの駅だからこそ体験できる冒険だった。さっきの「北越」と比べると、スピードの違いが歴然としていて、「はくたか」の車窓からこのホームが確認しにくいということをあらためて理解した。

 青年に近寄ると、青年はまた、ここは凄いですと言った。

 そして、しばらく興奮を慰め合うと、あと何分後かに、今度は普通列車がここで停車しますよと、とんでもないことを口にしたのだ。

 それはもう至れり尽くせりのプレゼントだった。これこそ、筒石駅の“おもてなし”だ。

 その電車に乗ろうとする若者たちも下りてきて、にわかにホームはにぎやかになる。といっても、総勢十名足らずなのだが。

 さっきまでの特急と違って、普通列車は落ち着いた素振りでホームに入ってきた。乗客たちの中にはこの不思議な光景に一度下車する人もいた。

普通電車が来た

 若い母親が、周囲を見回している子供たちを促し出口へと向かう。

 旅人らしき中年夫婦が、しきりに感嘆の声を上げている。

 そして、普通列車が去って行くと、ホームはまた静かになった。

 青年が、ではお先に上がりますと、この駅らしい表現で出て行く。

 ボクは最後までホームに留まり、女性駅員さんになぜか礼を言って出口へと向かった。

 このトンネルの名が「頚城トンネル」であるということは、あとから知った。

 JR能生駅と名立駅の間、11,353メートルがすべてトンネルであり、筒石駅は、そのトンネルの中にホームをもつのだ。分かったようで、分かっていないような話だ。

 かつて地滑りによって、急な崖の下に造られていた筒石駅は何度も破壊されたという。

 しかし、1963年3月から1966年9月にかけてのトンネル工事とともにホームが完成。

 トンネルの中にあるホームへと下りるためのトンネルは、工事用に掘られたトンネルを、そのまま使っているとのことだ。

 地上から四十メートル下に造られたホームというより、地下ホームから四十メートル上の地上に造られた駅というのが本来のような気がする。

 後ろ髪を引かれるような思いのまま、最後の長い階段を見上げた。

帰りの上り

 そして、空気が変わったと思った。地上の熱気が流れ落ちてきていた。

 外に出ると、さっきの普通列車で下車した母子を、子供たちの祖母らしき婦人が迎えに来ていた。これから楽しい夏休みなのだろう。海が待っている。

 一緒に下りたソロの若者は、大きなリュックを担ぎ、そのまま徒歩で海沿いの町へと下るみたいだ。

 中年夫婦は、駅員にこの辺りで食事できる場所はないかと尋ねている。駅員が、ここは観光地ではないので…と説明している。

 鉄道マニアの青年はと言うと、すでにその姿は見えなくなっていた。

 まだ午前中だと言うのに、日差しはすでにピークに近く感じた。

 夏だなあと思う。ずっと昔のことだが、いつもこんな夏があったんだと思う。

 何かを思い出させてくれた、夏の、五十数分間の、胸躍る大冒険だったのだ………

水滴

 

秋、山の文化館に立寄る

吊るし柿2

 久しぶりに訪れた「深田久弥山の文化館」で、20年ほど前に書いた自分の文章三篇を見つけた。

 山の話を書くのが好きだったことを、あらためて思い出した。

 秋の色が染み込んだ館の回廊には、柿が吊るされている。庭に柿の木があって、今年はたくさん実を付けたらしい。

 案内してくれた館の女性が、「渋柿なんですよ」と、楽しそうに教えてくれた。

 以前は、この館にはよく知っているスタッフがいて、ゆっくりと話などをしたのだが、今は時折訪れても、何となく時間を過ごすだけだ。

 それでも、この場所はいい。周辺の気配も館の佇まいもグッとくる。ほんとは、もっとゆっくりできるというか、ボーっとできるくらいのスペースがあってもいいなあなどと思ったりするのだが、贅沢だ。

ミニコ~2

 数年前の暑い夏の日だった。

 太陽が照りつける旧大聖寺川沿いの道を歩いていると、どこからかオカリナらしき音色が聞こえてきた。

 特に興味があったわけではないが、その音色が山の文化館の方から聞こえてくるような気がしたので、やはり行ってみることにした。

 一緒にいたのは、ボクシングに挫折し、俳句とジャズに自身の日常を求めていた一人の青年だった。

 ボクはこの青年の持つ独特の感性に興味を抱き、彼にいろいろなモノ・コトを体感させようとしていた。

 彼は悪く言えば、世間知らずでもあった。

 しかし、そのことがまた、ボクの興味に火をつけた。そして、彼は中途半端だったそれまでの日々に終止符を打ち、一応社会人として人の役に立つことを覚え始める。

 その後、やさしくて、可愛くて知性に溢れた一人の女性と知り合い結婚もした。

 数ヶ月後には子供の親にもなる……

 夏の日差しを受けながら、山の文化館の門を過ぎると、左手のデッキにオカリナ奏者の姿が見えた。

 わずか数人の聴き手しかいなかったが、それがまたこの場所にふさわしい雰囲気を作り出し、ボクらも静かに聴き入ることにする。

 気が付くと、彼は数歩前に歩み寄っている。そして、何かに取りつかれたようなその姿を見たとき、ボクはこのニンゲンはホンモノだなと感じた。

 いつも前向きでなくては世の中面白くないということを、彼は今もボクに教えてくれている……

吊るし柿4

今回の京都(4/4) ここでお終いにしよう

大徳寺の境内

 四条まで歩いて地下鉄に乗る。京都駅に戻ると、もう夕暮れ時だった。

 伊勢丹の地下、つまり「デパ地下」でおかずを調達し、コンビニでビールも揃えてホテルへと向かう。

 京都ではめずらしいワイルドなディナーになりそうでワクワクする。家人も心の底から楽しそうだ。

   ホテルのロビーは多国籍宿泊者で、昼来た時以上に混雑状態。持ち込み荷物を極力控えめに抱え、満員のエレベーターに乗り込んだ。

 翌朝は、桂の次女宅へ。そして、次女も連れてまず広隆寺へと向かった。

 例の弥勒菩薩(半跏思惟像)さんに会いたかったのだ。ただ、実際に宝物館に入ってみると、心を奪われたのは弥勒菩薩さんよりも、大きな千手観音さんたちであった。

 ここでも合掌しながら「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟く自分がいた。

 見上げる視線の先に、見下ろす仏様の高貴な目がある。すべてを見透かされているかのようなその目の奥へと、自分の中にある何かが吸い上げられていく力を感じる。じっと見つめていれば、その吸い上げられていく何かが「自分自身の悪」のようなものにも感じられて、しばらくじっと目を離せなくなる。

 特にかなり傷みの激しい巨大な坐像には、ひたすら従順になるしかなかった。

 こういうところに立たされていると、素直に仏の力は偉大なのだと感じる。何を教えられてきたわけでもないのに、その目に見えない説得力に自分を押さえてしまう作用がはたらく。そして、何だか急に自分自身を反省したり、未来を安泰にしたがったりするのである。

 そして、さらに言うならば、日本人にとっての仏様という存在は、世界中のどんな宗教環境においても、最も静かで奥ゆかしいものではないかと勝手に思ったりする。

 見つめるとか、合掌するといった行為の美しさを、我々日本人はもっと大切に受け止めるべきなのかも知れないのだ。

 外は前日に続いて快晴。空が眩しい。

 大徳寺へと向かう。大徳寺は、北区の紫野(むらさきの)という美しい名の付いた町にある。

 このサイトの名前にもなっている『ヒトビト』という雑誌を出していた頃、京都の出版社に勤務する女性ライターが寄稿してくれていた。その彼女が住んでいたのが、この紫野で、大徳寺のすぐ近くだとよく語っていたのを思い出す。

 背がかなり高く、酒もかなり強く、言葉にかなりチカラがあり、今風に言えば、かなりのアナログ派で、自然の成り行きなどを素直に受け入れながら優雅に生きている人だった。

 もう一人、同僚の女性も寄稿してくれていたが、この二人が揃うと実にパワフルであった。二人とも、もうかなりのおばさんのはずだ。

 大徳寺は二度目だ。一度目は、金沢の前田家についての仕事をしていた時。大徳寺の中にある、おまつさんの芳春院を見に来た。ただ、その時は中に入ることもできずに、外観だけを見て帰ったのを覚えている。

 今回は、大徳寺の多くの塔頭が公開されていた。一応目的場所にしていたのが高桐院(こうとういん)という小さな寺。

 細川家の菩提寺であり、ガラシャさんの墓があることで有名らしいが、こちらはそのことをあまり期待していたわけではない。何となくこじんまりとした寺の雰囲気などに浸りたいだけだった。

 しかし、京都の連休、しかも塔頭が公開されているという大徳寺。静かな散歩などは望むべくもなく、ましてや落ち着いて庭を眺めるなどといった贅沢も期待してはいけない。

 それでも広い境内の中の道を歩いて行くと、まず大徳寺という寺の凄さが感じられてきた。広さだ。前に来た時に全く感じなかった不思議さを思いながら、足を進める。ずっと奥に、めざす高桐院があった。

 高桐院はアプローチが美しい。その美しさを一度は見ておきたいと思ってきた。境内の道から少し入ったところで、左に折れながら門をくぐる。すでに見えているが、その奥の竹林が美しく、門をくぐってすぐにまた右に曲がる。距離は全く短い。

 その道がこじんまりとまとめられた、何とも言えない美しさを醸し出している。目で見ているだけの美しさではない、何か体で感じ取るような美しさだ。多くの人が列を作って進んでいく。中には写真を撮るために立ち止まり、列の流れを止める人もいる。せっかく来たのだから、写真ぐらい撮らせてやろうと思う。

 そういう自分もちょっと脇に外れる場所があったので、そこからゆっくりとカメラを構えさせてもらった。人がいない時のイメージが強く、かなりがっかりしているが、贅沢は言えない。

高桐院参道

 中へ入ると、これまた凄い人。昔のこの古い佇まいでは、入場制限でもしないと床が抜けたりはしないのだろうかと余計なお世話に思いがゆく。

 少なくとも、自分の周囲にいる多くの人たちはアジア系だ。京都が、アメリカの旅行雑誌が選んだアジア第一の観光都市であるということを裏付ける光景だ。中国か台湾の観光客たちが、中国の影響を強く受けた日本人の絵画や書を見るというのは、どういう感情なんだろうと、また余計なことを考えた。

 高桐院の庭は質素で、一旦体を庭の方に向け腰を下ろしてしまうと、妙に落ち着いた。

高桐院庭

 灯篭が立つが、ガラシャの墓を模したものだという。本物はさらに奥、庭に下りてすぐのところにある。

 詩仙堂でも感じたが、この小さな佇まいと、それを囲む想像以上に広い庭のバランスがいい。しかも樹木に被われた庭は一望できずに、その奥行き感は歩いてみないと分からない。

 かつてここに住んでいた人たちは、その奥行き感を当然知っていて、隅々にまで神経を注ぎ花々などを楽しんだのだろうと想像する。もちろん、もうすぐ訪れるであろう紅葉のあざやかさも、降り積もる雪がもたらす静寂の中の空気感も楽しんでいたことだろう。

 今はとてもそのような状況ではないが、ひたすらゆっくりと自分を制し、想像力を働かせるしかない。

 次女が空腹を訴え始めるが、何とか宥めて、せっかくだからとあと二つ三つ見て来ようということになった。

 緩やかな斜面に並ぶ塔頭の間の真っ直ぐな長い道を、ゆっくりと歩く。学生時代にこの辺りを歩いたことがあるという次女も、ここがこれほど広かったのかと不思議がっている。

 我々三人は、それから割りとこじんまりとした寺院ばかりを選んで中に入った。そして、そのどこでも美しい庭や質素な佇まいと出会った。

 京都は頑固に思いを整えてくれば、やはりそれなりに楽しみを提供してくれる。今回はこじんまりとした寺にこだわってきた。建仁寺のように単体として大きなところもあったが、お目当ての一品や庭などに的を絞れば、それもまたこだわりであった。

 腹が減った我々は、それから北山の方へとクルマを走らせ、青空の下で京野菜の畑が並ぶ中に建つ、地元健康食材が売り物らしきこじんまりとしたレストランで、ガーリックライスのランチとしたのである………

ガラシャの墓高桐院屋根石の鉢・龍院の庭・龍院の小さな庭

今回の京都(3/4)今日の終いは、建仁寺

建仁寺の瓦

 今日はまだ終わっていない。

 強い日差しを受けながら、詩仙堂・小有門のちょっと上にある駐車場まで戻り、クルマでとりあえずホテルに向かうことにした。クルマの運転から解放されたいのだ。

 当然すぐにでも昼ご飯を食べなくてはならない。全く当てもなく坂道を下っていくと、突然小さな看板が目に入った。いかにも京都らしいメニュー写真。

 “中谷”という歴史のあるお菓子屋さんだった。お菓子屋さんにカフェがあり、昼ご飯セットもある。咄嗟に隣席の家人が、駐車場のあることを確認した。狭い駐車場の三台のうちの一台が空いていた。食事中か買い物中のお客さんを待つタクシーの運転手が、わざわざスペースを空けてくれる。京都の“おもてなし”だ。

 お粥と餅の入った味噌味?の吸い物と、豆腐と…、それから食後は栗のモンブランと上品な味のコーヒーをいただいた。この店は、和洋両方の菓子を製造販売している。

 いい気分になれる店だった。若い何代目かのご主人も、いかにもお菓子屋さんの跡取りといった柔らかな雰囲気で家人を喜ばせていた。

 さて、駅近くのホテルにとりあえずチェックイン。目的はクルマを置きたいだけだったが、大きなホテルだけあって人が大勢いる。クルマを横づけにして、ボーイさんに聞いてみると、クルマはすぐ目の前のかなり幸運な場所に停めることが出来た。時間が異様に早かったので、そのことが却ってよかったみたいだ。

 再びホテルを出たのが、3時半頃だったろうか。もうひとつ楽しみにしている寺があった。禅寺・建仁寺だ……

 場外馬券の売り場も隣接し、人でごった返す花見小路の方から入り、いきなり法堂で本日の目玉と対面。

 撮影は自由ですと、敢えて大きな声で案内を受ける。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』が正面に見え、その左手前にダウン症の女流書道家・金澤翔子さんの書『風神雷神』が展示されている。

風神雷神・屏風風神雷神

 最新のデジタルプリント技術によって複製された屏風の美しさに見入る。金箔のテイストが本物以上に金という色の特性を現しているような、もちろん本質的なことは分かっていないのだが、そんな錯覚?に陥った。

 自分の仕事柄や、何人かの友人たちにこのような関係の仕事をする者がいるが、自分としては、これは正しいやり方だと思っている。作品の素晴らしさを製作時の雰囲気と合わせて伝えることには、文句なしに意味があると思う。

 本物の展示は、時として本質を伝えていない時がある。特に褪色や傷み防止などに厳しい条件が付けられ、明るさの制限など、鑑賞する者にとっては決して望ましい状況でないことが多い。

 しかし、この屏風にはそんな心配は要らないのだ。前に立って、堂々とカメラを構え、鑑賞することよりも撮影することだけを目的にしたような人たちも大勢いた。

 人の波が一度静かになったところで、ゆっくりとカメラを手にした。真正面にしゃがんでカメラを構えると、とりあえず瞬間的に人は入って来られなくなる。何度もシャッターを押した。レプリカとは言え、国宝に向かってこれだけシャッターを押せるなど滅多にない。

 さて、金澤翔子さんの書である。屏風の絵をそのまま書で表現したような文字のレイアウトに“なるほど”と、まず唸る。それから表現された筆致について、“ふむ”と考えた。

 もう一度、屏風に目をやり、そして“そうか”と納得。この筆致は、雷神・風神という二人の神の表情や動作などがインスパイア-されたものだと確信した。

 800年を越えた臨済宗の本山。京都という都市の中で生かされていく、偉大な寺院のポテンシャルというのはこういうものなのだろうかと思う。奥へ進もう。

 人の数に京都の、しかも連休の初日を思った。これまでにも何度もこういった状況の中で京都を楽しんできた。無理して二人の娘を京都の大学に送り込んだことで、我々は京都にかなり慣れ親しんでいる。親としては、それなりに“してやったり?”なのかも知れない。

 さて、建仁寺は庭もいい。それも中庭がいいと聞いている。

 四方から眺められる「潮音庭」が気に入った。人の多さにじっくりと座れるまでには時間を要したが、中央に「三尊石」と呼ばれる庭石を眺めるのは格別だった。その隣には「座禅石」。まだ紅葉には早いが、質素で頑固な禅庭のイメージを強く意識させられる。ぐるりと回って回廊を下るあたりも上品で、脇の小さな部屋で写経する人たちの押し殺した息が伝わってくるようだ。

庭石を見る庭と回廊回廊退き

 建仁寺はまだ終わらない。もう西日が色濃く差しはじめ、空気もやや冷たく感じられるようになった頃、法堂であの天井画と初の対面だ。

 入ってすぐに、大きな柱の間から10年ほど前に作られたという巨大な双竜の図を見上げる。開創800年を記念しての一大事業。こうしたことが現代において実行されているのが京都の凄いところなのだ。やはり都だ。やはり、日本に京都があって良かった。

天井画と明かり

 足を進めていくと、正面奥に釈迦如来坐像が光り輝いていた。自分でもこの建仁寺に今まで来ていなかったことを不思議に思いながら、ゆっくりと合掌した。

 生まれて初めて、「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟いた。一瞬だが、まわりの人の声も聞こえなくなった気がした。今回の京都は、まだ終わらない……

勅使門木魚と屋根庭石と日差し天井画庭を見ている人たち天井画と仏像

今回の京都(2/4) そして、曼殊院門跡へ

曼殊院門跡前

 詩仙堂から15分も歩けば、曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)に着く。

 15分というのは大した時間ではないが、この日は10月の半ばだというのに30度位の気温があり、日差しも強く、さらに空腹も手伝ってか、思った以上にきつく感じた。

 道は山裾の住宅地のはずれをゆく。右手が小高い傾斜になっていて、左手には見下ろすというほどではないにしろ、京都の街並みが見えている。途中にも寺などがあったりして、静かな場所だ。

 最後の曼殊院道に出て坂道をしばらく行くと、両側に木立が並び参道の雰囲気が濃くなった。左手の神社で、幼い子供が父親と一緒に遊んでいる。この近所に住んでいるのだろうかと想像するだけで、その環境のよさに羨ましさが募った。

勅使門

 奥の石段の上に山門が見える。由緒正しさが伝わる凛々しい勅使門だ。何しろ「門跡」というのは、皇族・貴族などが出家して居住した寺院のことをさすのだから、凛々しいのは当たり前だ。

 その勅使門前を左に折れ、さらに右に折れると通用口。入り口になる庫裡は重要文化財だという。

 曼殊院がこの地に移ったのは江戸のはじめの明暦2年(1656)。8世紀におこり、12世紀のはじめに現在の名を称するようになった。

 虎の間で、狩野永徳筆の虎の絵が描かれた襖などを薄らぼんやりと眺めた後、奥へと進む。ガラス張りのぽかぽかする回廊を通って、大書院へ。江戸時代初期の代表的書院建築というだけあって、バランスの良さに心地よさを感じる。

 庭園を見るその視界の構成がいい。レベルの高い京都の寺では、こうしたことが当たり前のように出来ていて、だからこそ飽きさせないのだと思ったりする。

 大書院には、本尊の阿弥陀如来さんが静かに立たれていた。

 縁側には赤い毛氈が敷かれていて、その赤さが日差しを受けて眩しいくらいに際立つ。すぐには座ろうとはせず、先の小書院の方にも足を向けてみた。やや寂れた感じが、この京の中心からかなり離れた位置関係とも合うような気がして、余計に心を落ち着かせる。

 もう名前も忘れてしまったが、大学を出たばかりの頃、奈良の山寺に出かけたことがあった。バスに乗り、一日にひとつの寺しか行けないような行程だったが、とても満足したことをよく覚えている。今はクルマで自由に動けるが、その時はそれが精一杯だった。そして、それがよかった。

 ほんの短い時間、そんな思いに浸った。そして、あらためてゆっくりと庭を眺める。

 水の流れのような白砂の美しさなのである。樹齢400年という五葉の松は、鶴をかたどり、地を這うように幹を伸ばしているのである。

 日差しは強く、空は普通に青い。白くて柔らかそうな雲たちが、甍の上を流れていく。

 しかし、何とも言えない幸福感に文句などないはずなのだが、如何せん、無情にも、ただひたすら腹が減っていたのだ。

 曼殊院という名前の響きから、白くて中にあんこの入った、あの丸い和菓子を想像してしまった自分にも責任はあったのだが、このことは致命的だった……

曼殊院門跡庭白砂五葉の松曼殊院門跡廊下甍と雲

今回の京都(1/4) 詩仙堂から

小有洞

 今回の京都は、詩仙堂の小さな門から、いきなり始まったような気がする。

 京都東インターから山科あたりの混雑も、南禅寺周辺の慌ただしい気配も、一乗寺という土地に近付いていくうちに、何となく目的地への予感みたいなものに変わっていた。そして、狭い道へと右折して登りに差しかかった頃からは、それは現実のものとなった。

 小有洞(しょうゆうどう)の門というのが正式らしいが、その小さな門は苔むした屋根にさらに夏草を茂らせ、背景の緑と溶け込んで見える。門の奥へと緩く登る石段の参道もシンプルで美しい。

 時計は午前11時過ぎ。まだ人もまばらだと石段を登る。石段を登ってすぐに通路は直角に折れ、さらに門をくぐって堂の中へ。

 人はまばらと思っていたが、やはりそれなりにいた。小さな、そして至って質素な庭に向かい座っている。

 凹凸窠(おうとつか)というのが全体の名称であり、詩仙堂というのはその一室のことをさす……ということが、パンフレットを開けてすぐに分かった。凹凸窠というのは、で こぼこした土地に建つ住いを意味するのだそうだ。

 そのことは、庭に下りてみるとよく分かる。堂は小さいが、庭は意外にも広い。しかも堂から離れれば離れるほど、下っていくことになっている。小さな堂は、庭木に阻まれて屋根が見える程度だ。

 獅子おどしの音が痛快に響き渡っていて、10月半ばとはいえ、秋にはほど遠い完璧な緑の中に吸い込まれていく。ところどころに咲く花たちも上品だ。

 もともとは徳川家の臣であった、石川丈山(じょうさん)という人が造営した。人生の最後を、と言っても30余年という長い年月を、清貧の中に文人として過ごし、90歳まで生きたとある。隷書、漢詩の大家、煎茶の開祖とも紹介されている。

 そんな丈山の生きざまは、もう一度堂に戻り、庭を見た時に薄っすらと想像できた。座敷の細く見える柱も、小さな灯篭も、清貧の中で学ぼうとする丈山そのものに見えてくる。

 書き忘れていたが、造営されたのは江戸初期の寛永18年(1641)。丈山、59歳の時。まさに今の自分と同じ歳。

 愚かにも、今からの30年をこれほどに濃いものにできるかと自問するが、答は当然、できませんだ。

 帰りにもう一度、小有洞の門の外から石段を振り返る。また静かな時に来いと、丈山が言ってくれているような、いないような……、とにかくどちらにせよ、また行くことになるのは間違いないとだけ思った……

堂

石垣上品な花獅子おどし花の道灯篭と柱庵質素な庭

白虎隊の墓前に立って

白虎隊の墓

 

白虎隊の墓の前には、いつも人がいます。

と、地元の人らしい誰かの声が聞こえた。

一見、観光地としてしか見えない飯盛山。

わずか、140年ほど前か…と、

頭の中で、何度も呟いている自分がいる。

十代半ば過ぎの少年たちが、図らずも、

美しい日本人の心情を示すことになり、

美しい日本人の象徴のひとつとなってしまった。

この出来事を知らない日本人は少ないだろう。

ただ、悔しいのは、彼らがあまりにも若過ぎて、

奪われたものは、誇りなどだけでなく、

“未来”だったということだ。

普通に考えれば、残されていた人生の方が、

ずっと長かったということだ。

彼らが自決した場所からの会津城は、

予想していたよりも、はるかに小さく見えた。

そのことがまた胸を打ち、彼らの決意を想像させる。

その城や城下の惨状から彼らは自国の敗北を悟り、

生き恥をさらしてはいけないという教えを守って、

自ら命を絶つことを決意した。

わずか、140年ほど前の出来事なのに、

はるかずっと昔のことのように思えるのは、

日本がその直後から急激に変貌していくからだろう。

しかし、墓の前に立ち、

目を閉じて深々と手を合わせる人たちを見ていると、

日本人はやはり何も変わっていないのではないだろうか、

と、思ってしまう。

やはり、会津は不思議な国だ……

 

会津を旅するということは

 

石垣と堀と枯れゆく草

会津若松は不思議な街だった。

NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。

司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。

圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。

藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。

そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。

その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。

廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。

会津城

 会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。

今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。

大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。

会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。

西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。

何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……

 

白虎隊の墓日新館1西郷頼母邸御薬園山川健次郎

 

小浜の国宝めぐり

 

福井県の小浜と言えば、もうほとんど京都府に近い。金沢方面からだと、敦賀から天橋立へ行く道すがらの街といったイメージも強かったりする。これはボクだけの感覚かもしれないが、実際にクルマで走ってみた印象としては、それほど特徴を感じなかった場所なのである。

かなり古い話になるが、かつて兵庫県の城崎文芸館に仕事で出かけた際に、この道を走った。季節も同じ春。ただあの時は、桜がもう散り始めた頃だった。仕事で城崎町へと出かけたが、“裏の本命”は、城崎のさらに先にあった『植村直己冒険館』で、小糠雨の中を行くセンチメンタルな旅であった。

今回小浜へ行こうと思ったきっかけは、もともと天橋立行きプランが先にあり、しかし、連休の雑踏で帰り道に落とし穴が待っているのでは…と考えたからだ。その結果、一歩半ほど手前の小浜あたりではどうだろうか?という安直な結論に至り、俄かに学習を始めたのである。学習の成果はすぐに出てきた。

小浜の市街に入ることなく、いくつかの古刹をめぐることが出来る。それらには国宝の建築物や重文の仏像などが残されている…、期待が持てそうだった。しかし、不安にさせたのは、この辺りがボクの愛読書であった司馬遼太郎の『街道をゆく』には紹介されていないことだった。

敦賀から京都大原へと抜ける「朽木(くつぎ)街道」(今風に言うと「鯖街道」)は、信長が京まで敗走(かなり必死に)した道として、最初の単行本で紹介されたが、小浜の方には司馬遼太郎も足を運ばなかった?みたいだ。そのせいもあって、朽木街道には四、五回行ったが、若狭の海沿いにはあまり出かけていない。

六時半に家を出ようと思っていたのに、結局七時ちょっと前に出発。大型連休で異常な混み具合の北陸道を、南へと進んだ。敦賀インターで下りてからは、国道27号線をひたすら迷うことなく走り続ける。のどかではあるが、何となくかつて朽木街道で感じていたのどかさとは違う。朽木の方が谷間(あい)といった雰囲気があって、自然の奥深さや歴史の匂いが強かったなと勝手に解釈している。

やはり、司馬遼太郎が足を運ぶ趣としては、朽木街道の方が深かったのだ。

敦賀インターから一時間も走らないうちに、最初の目的地である明通寺への分岐に近付いてきた。ほどなく、27号線を左に入る。ナビのマップにも明通寺は記されている。道は一本の川と水田の中を進む。視界が広がり、奥に小高い山。その隙間を縫っていくのだろうと予測できる。

風景が、ぐっと期待感を高め始めた。そして、しばらく走ると明通寺の駐車場だった。一気に山里深く入ったなあと実感させる木立とせせらぎがある。

クルマを出て思い切り背伸びをする。空気は少し冷たいが、青空が気持ちいい。車中で温められた体が一気に引き締まる感じだ。

せせらぎの橋を渡り、しばらく歩くと、急な石段を控えた山門を見上げる。なかなかではないかと、ますます期待感が高まる。駐車場にはすでに四、五台のクルマがいて、そのこともちょっとした驚きであった。ほとんど来る人はいないであろうなあと、失礼ながら軽視していた自分を戒める。

十時頃であったろうか。用を足してから、ゆっくりと石段を登った。山門で拝観料を払うと、奥の本堂で説明があると言われた。

ここから本堂へ向けてのアプローチもいい。寺への興味がますます高まっていく。

明通寺自体は、806年に坂上田村麻呂によって創建されたと言われるが、本堂は1265年に落成されたらしい。規模は際立って大きくはないが、檜皮葺きの屋根の勾配が美しく、どっしりと落ち着いた感じがいい。

堂の中に入ると、住職さんだろうか、親しみやすい語り口で寺の話を聞かせてくれた。薬師如来さんは重要文化財。平安末期から鎌倉初期の作と言う。しばらくの時間だが、対面していると落ち着いてくる。

奥の三重塔も今開放しているとのことで、見せていただいた。ここも国宝だ。1270年に上棟されたとある。

明治期に屋根が瓦葺きになったらしいが、1957年(昭和32)に檜皮葺に戻されたという。いい話だ。数年前に能登の總持寺の全盛期を再現するジオラマを製作した際、恥ずかしながら屋根を瓦で作ろうとしたことを思い出した。監修の先生に言われて初めて気が付いたが、檜皮葺の価値観みたいなものをそのとき初めて知った。

外に出て、あらためて本堂と三重塔を見たが、美しい勾配をもつ檜皮葺の屋根がいい。

建物自体も新緑の中に古風な佇まいが調和している。驚いたのは、いつの間にと思うほどの人の数だ。あらためてこの寺の存在感を知った気がした。

二十代の頃、奈良の山中の寺などに立ち寄った旅のことを思い出す。これほど人の多い時季に行っていたわけではなかったが、それでも必ず何人かの人と擦れ違ったりして、こういう類には日本人は必ず感応する何かを持っているのだと思ったりした。

本堂前からの眺めは、正面の新緑の小高い山並みが美しく、しばらく眺めていたくなる。明通寺の山号は「棡山(ゆずりさん)」というが、その棡という木が境内に植えられていた。

明通寺を見て、このまま小浜を去るわけにはいかないなあと思い始めた。小浜市が“国宝めぐり”と謳っている意味も理解できてきた。とりあえずと、多田寺という寺へ向かう。明通寺からも近く山間の集落の中にあった。ちょっと道に迷ったが、すぐにたどり着く。

真言宗の寺院で、創建は749年とある。最盛期には広大な敷地を有していたみたいだが、現在は静かに質素に佇んでいる。ここでも山門で拝観料を払い、人の良さそうな老人から中で説明がある旨を伝えられる。

現在の本堂は、1807年に再建されたものという。小さな建物ではあるが、中にいらっしゃる平安時代の作と言われる薬師如来さんは立像。2メートル近い一木造りで、いかにも見守ってくださっているという印象だ。もちろん重文である。その他にも、木造十一面観音立像や、木造菩薩立像も重文の指定を受けている。ここでも数組の拝観者と一緒になった。ますます“小浜の真実”みたいなものに憑(と)りつかれていく…?

空が少しずつ雲に覆われ始めていた。青空の下の爽快だった空気が、徐々に湿り気を帯びて気懸かり的不安要素になっていく。だが、やはり小浜をもっと見たいと思った。

若狭姫神社に着いたのは、多田寺を出てすぐだ。とにかくそれぞれが大した距離を隔てていない。さらに山奥に若狭彦神社という上社があり、その下社である。

若狭彦神社の創建は714年。若狭姫神社の方は、721年というから文句なしに古い。いったい小浜市はどうなってるんだ?と、鳥居の前に立って唖然としてしまう。一礼して境内に入ると、これまた圧倒的だ。

正面に本殿が美しく、静かに佇む。右手には舞台。大木と緑に包まれた境内は、気持ちを正しくさせるに十分な空気で満ちている。同時に入った三人組の同世代グループが、数歩進み佇むたびに感嘆の声を上げている。めずらしいと思うのだが、若狭彦神社は畳や絨毯などの神ともされているのだそうだ。

一方、普通と言えば不謹慎ながら、若狭姫神社は、安産育児の神だという。森閑とする広い境内の真ん中に立つと、いい緊張感が強いられ、こういった場所へ来たことの価値のようなものを感じたりする。そのような思いを、久しぶりに抱いた。

最後のおまけは国分寺もう小さな雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。国道脇にすぐ見つけ、それなりに外観だけを見て写真を撮った。

それにしても、明通寺や若狭姫神社などだけも小浜へ足を運んだ甲斐があったなと、ハゲしく思う。我が家からクルマで約三時間。帰りは27号線の渋滞に捕まったが、大した距離(時間)ではない。いろいろと行きたい場所はまだまだあるのだが、小浜にもまだ宿題を残してきたといったところだ。深い歴史観や、寺社の佇まい、山里の風景などが目に焼き付いている。そして、もうひとつ。暗くなりかけた帰り道、小浜の帰りらしく口の中がサバ臭かったのだ……

能登黒島・旧嘉門家跡

 このエッセイを読んでいただいたという、北海道の方からメールが来た。

 お名前が嘉門さんと言って、詳しいことは全く分からないが、亡き祖父が旧門前黒島の出らしいとのことだった。

 石川からは鰊漁が盛んだった頃、多くの人たちが北海道に渡っている。

 実を言うと、ボクの祖父も北海道の海へ出漁し、それなりの規模の漁業をやっていた。

 門前黒島の嘉門家と言えば、ブリヂストン美術館の館長されていた嘉門安雄氏が有名だ。

 嘉門家に限らず、黒島からは優秀な人たちが多く輩出され、かつての天領、そして北前船で栄えた地域性を物語っている。

 今ある旧嘉門家(平成11年に町に寄付)の跡は、能登地震の後に火災で焼失したのを受け、トイレの付いたきれいな板塀で被われた駐車場になっている。

 かつては、一段高くなったところに蔵が並び、壮観であったと言われる。

 角海家の展示関係の仕事に携わっていた頃、旧嘉門家の一画に残された小さな庵のような建物の一室で、地元の人たちに昔の思い出などを語ってもらった。

 久しぶりに嘉門家跡に足を踏み入れ、石段を登ってみると、春の日差しを受けて海が柔らかく光っていた。

 通りかかった地元の人からも話を聞いたが、やはり黒島の文化の趣は他と異なり、今現在が何かもどかしいような思いにさせる。

 自分など考えても仕方ないことなのだが、やはりどこか寂しいのだ……

日本に京都があって

 久しぶりの京都。

 いつ以来だろうかと考えてみたら、去年の秋の終わりに醍醐寺へ来ていたから、大したご無沙汰でもないことに気付く。

 天気は快晴。だが日陰では寒い。前日まで春から初夏みたいな陽気で緩んでいた体が、久しぶりの冷気に引き締まる。

 目的は、京都駅前のキャンパスクラブで開催される日本サイン学会の「デザインフォーラム」。

 サインデザインを学問的に考える会で、ボクは会員ではないが、いろいろと関係している人たちがいて、もちろん仕事の上でも大事な会なので、時折参加している。

 京都で開かれるフォーラムには、これが二度目の参加だ。今回のテーマは、「古都から考える日本の景観づくり」。

 京都と金沢と奈良という、三つの“古都”からそれぞれの取り組みの発表があった。ちょっと金沢を古都と呼んでいいのかと後ろめたさもあったが、考え方の根本は一緒だろう。

 行政の担当者や大学教授、そして業界の発表はいつもどおりだったが、京都のというより、日本の代表的観光名所・先斗町の地元からの発表は興味深かった。

 特にお店のサインを整理しなくても、十分におつりがくるくらい優れた風景をもっているのだが、京都市が景観対策に力を入れ始めて、その流れに乗ったといった具合だ。

 あの狭い道にはみ出すようにして、かなり乱立状態にあったお店のサインが、行政からの指導の下で地元によって整理されたという、活動としては理想的なパターンの報告だった。

 大袈裟だが、世の中の不思議な仕組みが、日本一の歴史都市の一画で具現化されている。

 古い街ほど、新しい。古くなったものも、かつては新しかったということを、現代が証明している。

 先斗町の話を聞いていると、自分たちの存在が文化そのものだと自負している人たちは強いのだと感じてくる。

 街を美しくしようという作業を、さり気なくやってのけている。

 東京理科大の先生が講演したテーマの「CIVIC PRIDE(シビック・プライド)」という概念に合致している。

 実にカッコいい。要は未来に引き継いでいくために今を美しくしておこうということなのだろう。

 京都の至る所で『日本に京都があって良かった』というコピーの入ったポスターを目にした。

 明治維新で日本は別の国に生まれ変わったが、首都を京都へ戻さなかったことは結果オーライ的に良かったのかもしれない。

 京都の1000年以上に及ぶ歴史文化がそのことによって守られたのだと思う。

 京都が東京のようになっていたらと想像すると、背筋が寒くなる。やはり、日本に京都があって本当に良かったのだ。

 ところで、金沢はどうなんだろう…?

 ボクはたまたま金沢市が景観対策の部署を立ち上げた時から、三年間ほど駆り出されて関係する仕事に参画した。

 その時に感じたのは、景観という言葉への妙な“よそよそしさ”で、景観には、“いい”とか“悪い”という形容詞しか付かないような気がした。

 ボクの身近にあったのは風景という言葉で、風景には“切ない”や“寂しい”や、“愉しい”や“爽やかな”などといった形容詞が付く……。

 だから、根本的にはあまり力が入らなかったということだ。

 その反対にとでも言おうか、ボクは広告業界のニンゲンのくせに、自分の業界を批判するような論文を書いて、賞までいただいたが、その時審査委員長から、勇気を讃えられた?ような記憶がある。

 それはどうでもいい話だが、とにかくそういうことで夕方までフォーラムは続き、夜は夜で四条烏丸あたりの居酒屋で飲み一日は終わった。

 烏丸のホテルまで歩く帰り道は、何となく寒さも和らいだ気がしたが、飲んでいたせいだろう。

 ホテルのカフェでコーヒーを大きいサイズで頼み、ボーっとしてから、部屋に入ったのは11時頃。まあ早い時間だ。

 京都に、特に京都のこの辺りに何となく馴れた感じでいられるのは、長女が四条に住んでいたからだ。

 四条烏丸まで歩いて五分という環境に住んでいた長女は贅沢をしていたと思うが、長女もバイト代を部屋代にあてたりして、自分なりに頑張っていた。

 今は、桂に次女がいて、京都との縁は不思議と長く続いている。

 快晴の翌朝は、ちょっと早起きして京都駅へと向かった。

 出張・京都は、小さな寺ひとつ訪れることもなく帰路に、というわけだ。

 せめて春の京都の日差しを浴びながら、京都らしい名前の入ったバスターミナルの表示でも見ておこうと、駅前の日陰から日向へと足を伸ばす。

 日向はさすがに暖かい。特にどうということもなく、時計を見る。

 桜を見に来れるかは分からないが、どっちにしても、また来ることになるだろうと改札へと向かった……

雪国の車中で、星野道夫と植村直己を思う

 2000年3月のはじめ、ボクは新潟の直江津から長野に向かう快速列車の中にいた。

 前夜からの大雪のためダイヤは乱れていたが、ボクはそのことを幸運に思っていた。

 星野道夫の本が手元にあったからだ。遠いアラスカの話を、信州の雪原を眺めながら読む…… そんな状況を楽しみにしていた。

 列車が走り出してしばらくすると、雪の降り方が一段と激しさを増した。

 屋根のない吹雪のホームで、ヤッケの帽子に雪をのせて突っ立っている人たちがいた。

 雪をつけた裸木が重なる樹林地帯。

 そして視界はそれほど深くはないが、雪原は永遠のような広がりを感じさせている。

 晴れた日、ヒールフリーのスキーで駆けめぐったら愉しいだろうな…などと考える。

 雪の中の軌道を走って行く独特の静けさが懐かしかった。

 そしてボクは、その中で星野道夫の飾らない素顔が車窓の風景に溶け込んでいく心地よさを感じつつ、ゆっくりとその文章を追っていったのだ。

 その四年前、星野道夫はすでにこの世を去っていたが、それまでのボクは、星野道夫という人間を、知性派の、凄く特異な動物カメラマンとしてしか見ていなかったような気がする。

 たしかに、彼の写真から伝わってくるものには、アラスカという地域の特異性や、撮影に費やされた計画の特異性などが感じられ、自然を相手にした写真家としての、かなりしっかりとしたこだわりのようなものを好きになっていたと思う。

 しかし、ある日、本屋で何気なく手にした彼の一冊の文庫本によって、ボクにとっての星野道夫観はすっかり変えられてしまった。

 と言うよりも、それは一気に大きく膨らみ始め、気が付くと原形をとどめないくらいになっていたと言っていい。

 文章にして彼が伝えてきたものは、アラスカという遠く離れた土地の大自然の美しさや厳しさだけではなかった。

 そこにはアラスカそのものがあり、何よりも星野道夫そのものがあった。

 彼が一人の少年としてどのような感性をもち、どのような青春時代を生き、その後、日本はもちろんのこと、アラスカでどのような人間たちと出会って、そしてどれだけ満ち足りた日々を過ごしてきたか。

 そして、それらのことが星野道夫にとってどれだけ素晴らしいことだったか。

 写真家としての作品だけからは知る由もなかった多くのことを、文章の中の彼の言葉が教えてくれた。

 星野道夫の多くの本と出会ってから、植村直己のふるさと兵庫県日高町に出かけた時のことが、よく思い出されるようになった。

 あの時、胸に迫ってきた何かが、星野道夫の言葉の中からも同じように伝わってくるような気がした。

 星野道夫と植村直己は、静と動の両極にあったと思う。

 しかし、二人とも大きな意味で共通した動機をもっていた。

 安らげる、自分らしくいられる、そんな場所を求めていたのだ。

 生命の脆さも、互いに違った形で知っていた。

 北米の最高峰・マッキンリーのどこかに植村直己が眠っており、毎日のようにその山並みを眺めていた星野道夫は不思議な気持ちになったという。

 あの植村直己でさえ、脆い生命のもとに生きてきたのだ。

 自然を征服するのではない冒険。日本人らしいやさしさの中で培われた自然との接し方。

 そして、何よりもヒトとヒトとの関わり方、すべてのことが今は亡き二人の素顔から見えてきた。

 快速列車が、夕刻近くの長野駅に近付いていく。

 もう雪の世界はとっくに通り抜け、星野道夫の本も、カバンの中へと放り込んだ……

 ※2000年に書いた文章の一部に加筆。

秋の寺歩き~醍醐寺

 京都の醍醐寺と滋賀の石山寺を、11月の連休を利用して訪れるという、かなり贅沢な寺めぐりをやってきた。

 二人の娘が京都にいた六年間には季節に一度くらい出掛け、それなりの京都を味わうことが出来たのだが、今は二人とも京都を離れていて、京都へ行くぞといったモチベーションはかなりトーンダウンした感じだ。

 ただ、下の娘がお隣の滋賀県草津市に住んでいるものだから、なんだかんだと言っては、それなりに京都はまだ身近な存在でもある。

 初日、大津インターで下りて京都に入り、ナビに導かれるまま、かなり狭い住宅街の道を通って醍醐寺に辿り着く。

 どうやら大津から入ったことが正解だったらしく、その道から行くと意外と空いていた。臨時みたいな駐車場にも簡単に入れて、ラッキーだったと言うべきだろう。

 空はどんより冬色。ちょっと肌寒い。周りを見るとダウンなんぞを着た連中もいる。

 しかし、こっちはセーターだけ。過敏すぎる都会の連中のファッション重視志向と勝手に決めつけて歩き出した。

 しばらくして、密度は低いが、細かい霧雨のようなものが舞い始めてきた。しかし、なんとかなりそうだと前進。

 醍醐寺と言えば、やはり桜だろう。

 秀吉が催した『醍醐の花見』は、この寺の代名詞になっている。

 加賀國の住人としてついでに書いておくと、その中のメインイベントである「お茶会」のホスト的役割を務めたのが前田利家だったはずで、この頃の利家はかなりの重鎮だった。

 かつて、石川の菓子文化の展示計画を手掛けた際、石川、特に金沢において菓子づくりが発展したのは、利家がお茶に通じていたからで、そのことを証明するのが『醍醐の花見』でのホスト役だったという話を参考にしたと記憶する。

 今は秋。それも晩秋に近い。もちろん桜ではない。紅葉だ。花見でなく、強いて言えば「紅葉見」だ。

 境内に入って行くと、やはりその広さに納得する。京都の寺の凄さは、まず境内の大きさにあって、そのことにより山門の大きさや、その他の建物などの大きさが比例して一様に驚きの源になる。

 多くの観光客が、五重塔の前で写真撮影に興じる。しかし、その後ろにある、こじんまりとしながらも見事なバランスで建つお堂の存在には気が付かないでいる。これも重文のひとつなのだ。

 ゆっくりと五重塔の裏側にまわり、紅葉の大木を眺め、自分もその木の下に入って、紅葉をとおして五重塔を見上げた。空が暗いせいか、今一つの感動とまでは行かない。

 メインの道に戻るとすぐに、左手に太祖堂。その前の紅葉が美しい。

 やはり皆さん、当たり前のように紅葉を求めている。中空を見上げたりしながら、美しい紅葉のシーンを見つけると足を向けカメラを構える。

 一本の木がその美しさを際立たせていると、すぐに人が集まり、いろいろな角度から撮影を始める。

 デジカメの普及で一億総カメラマン化が強まったなあと、今更のように思う。

 小学生の頃、カメラ好きでもあった兄に影響され、Kodakの箱型カメラを触らせてもらえるようになった。シャッターを切る時、カチャッと軽い音がして、おもちゃみたいだと感じたことは忘れない。

 その後、兄からメーカーは忘れたが一眼レフのとんでもないカメラをもらった。まだバカちょんが出る前だ。小学生が持つようなカメラではなかったし、小学生が写真に興味を持つということ自体も、少なくとも田舎の小さな町では普通でなかった。

 白黒だったが、写真は自宅の部屋で現像していた。竹のピンセット(はさみと言うべきか)で、トレイから印画紙を引き上げる感触は今でも覚えている。

 そして、今そのことがどれだけ影響していたのかは分からないが、人一倍の写真好きになっている。

 奥へと進むと池があり、ぐるりと回り込むようにさらに進む。ちょっとまとまり過ぎた風景に、モチベーションはそれほど上がらない。

 池に注ぎ込む流れに沿って上ってみた。写真のことばかりがアタマにあって、本来の観光の気持ちが萎えている。

「観光」と言えば、これも昔、『おあしす』という上質な雑誌に寄稿させていただいていた頃、『光を観る』という、生意気な巻頭エッセイを書かせてもらったことがある。

 観光と物見の違いについて、分かったような文体で書いた。大学を出たばっかりの頃だから、二十代の前半。身の程知らずもいいとこだ。

 物見はその字面からして何となく意味が分かるだろう。

 しかし、観光は意味が深い。ボクは自分で調べた「光を観る」という仏教的表現について書いたのだ。

 光を観る…、それは真実を観るということ。つまり、観光と言うのは、単に美しい風景や壮大な寺社などを見るということだけではなく、その場所の歴史や文化や風土などを感じ取るという意味を持っている。

 そういったことを図々しく書いていた。

 だから、今の状況のように、いい写真を撮るためにこの醍醐寺に来ているというのは、本来の観光をしていないことになる…のかも知れない。

 ……と、その場でそんなことを考えていたわけでは当然ない。

 何となくもう行き止まりというところまで来て、ずっと気になっていたフェンスの存在について思った。

 上ってきた右側、小さな流れがあって、その向こう側に素朴な道があった。

 その道を観光客ではない、普段着に近い人たちが歩いている。その光景が気になっていた。

 戻って、三宝院の庭に見入る。先日、郡上八幡でも美しい庭を見てきたが、基本的に庭は部屋の奥から見るのが好きで、ここでもとんでもない襖絵などが設えられた部屋からそうして見た。

 しかし、庭を見る人たちの数が違う。縁にずらりと並んだ背中ばかりを見ることになる。

 それにしても、部屋ひとつひとつから伝わってくる三宝院の歴史観はさすがに凄かった。相変わらず京都はさすがなのだ。

 仏像を数多く安置した施設にも満足した。近くでガラス越しでもない仏像に接することが出来るのは、何だかとても新鮮だった。

 ここで帰ろうかと思ったが、さっき見たフェンスの向こうの素朴な道が気になっている。

 その道は、醍醐寺の核心部とも言うべき「上醍醐」への道。

 ここまで来たら、行かなくてはならない……(つづく)

余呉湖と、街道をゆくの旅

 司馬遼太郎の『街道をゆく』にかなり影響を受けたという話は、何度か書いている。

 1971年、週刊朝日で連載が始まり、ボクはその7、8年後には読み始めていた。

 金沢の老舗ジャズ喫茶「ヨーク」に置いてあったのが、読むきっかけだった。

 マスターの奥井サンが最初に「これ面白いよ」と言って教えてくれ、それからは新しい号が出るたびに、今週はどこそこだと言って渡してくれた。

 歴史や旅も好きだったボクは、タイトルの素朴な響きのよさとともに、その内容の深さが気に入り、いつの間にこの旅スタイルに憧れのようなものさえ感じるようになっていた。

 まだ二十代の中頃の話だ。

 週刊誌で書かれていたものが単行本になっているのを知ると、すぐに書店で買い求める。

 国内紀行のものはほとんど買ったような記憶がある(今手許に一冊も残っていないのはなぜか?)。その後に文庫も出て話題となった。

 そして、その頃ボクは初めて『街道をゆく』をベースにした旅をした。

 大袈裟なことではない。とにかく、司馬遼太郎が辿った街道を自分の目で確かめたくなったのだ。

 地図を買い込み、本の中の話と合わせながらいろいろと調べた。

 もちろん、そんなに遠くへ出かけるつもりはなかったが、まず第一巻からスタートしようと思っていた。

 そして、その旅のスタイルはかなり続いた。今も近場だが、それがきっかけとなって通い続けている場所も多い。

 タイトルにある余呉湖に寄ったのは、記念すべき第一回目の「街道をゆく旅」の途中でだ。

 福井県から京都の大原に抜ける道は、朽木谷に沿った「朽木街道」と呼ばれていた。

 今は「鯖街道」という方が通りがいい。もちろん道路も見違えるほど美しくなっている。

 話は、ここから始まる。敦賀で北陸自動車道を下りて、田園の中の道を南下。

 バスなどが来ると、やっと交差できるような狭い道もある。

 信長が戦に負けて、京都までの決死の逃亡に使った道だという。かなり厳しい道のりだったことが当時の道を思うと分かった。

 大原に着いて、早速次なる道を探す。

 鞍馬へ抜けようと考えている。司馬遼太郎が実際に書き記してある道だ。地図には薄い線で描かれている。

 ところが、京都の街から来ているバスの運転手に聞いても知らないと言われた。

 そして、何台目かの運転手に話すと、「林業の人たちが使っている道がある。けど、その道で鞍馬まで行けるのかは分からない…」とのこと。

 とにかく、その道しかないのだから、それが鞍馬へ抜ける道だと勝手に決めて走った。

 大きくて真っ直ぐな杉の木が、傾斜のかかった山肌に、無数に立ち並んでいた。

 そして、道は斜面に一本。山肌に合わせて蛇行しながら細く伸びていた。

 交差はところどころの広い場所まで行かないと全く出来ない。

 その後、どういうルートを通ったのかは全く覚えていない。地図を見れば何か思い出すのかも知れないと思ったがダメだった。

 ただ、今の地図にはたしかに大原と鞍馬を繋ぐ道路が、立派に描かれている。

 道端にシャクナゲ?が咲き乱れる場所があった。シャクナゲについては、司馬遼太郎も書いていたのではなかったかと思う。

 シャクナゲの咲く場所には霊気が漂うようなことが書いてあって? そのことはずっと予備知識的に頭に残っていた?のだ。

 それからたしかに鞍馬街道に出た。陽が真上から西の方に傾き始めていた頃合いだ。

 意外とその時の鞍馬の記憶はない。その後、数年前に鞍馬山に登ったが、懐かしさもなかったので、その時の印象は薄かったのだろう。

 やはり、道中の風景などがボクにはよかったのだと思う。

 それから、明智光秀について書かれた亀岡街道に出た。シャクナゲは、ここだったかもしれないとも思える。

 石積みの段々畑が続く風景を見ていたような記憶がある。大家族が畑で仕事をしている光景を見ていた記憶もある。

 下ってその夜嵐山、渡月橋近くの旅館に泊まった。

 翌日、嵯峨野を歩いたことは間違いないが、帰路として京都の街中からどこをどうやって走ったのか、記憶はないままだ。

 ただボクの中には、滋賀県の余呉湖という小さな湖へ行くという目的だけが明確に刻まれていて、そのことばかりを考えていたように思える。

 穏やかな田舎の風景の中に、その余呉湖はあった。午後の遅い時間だった。

 空気の流れが止まり、湖面は波ひとつ立てずに静まり返っている。

 向かい側の小高い山並みが、美し過ぎるほどに湖面に映っていて、定番的な日本の風景に、こちらが照れ臭くなるくらいだ。

 そこには、天女伝説があった。そのことを司馬遼太郎は詳しく書いていた。

 滞在時間は三十分ほどだったろうか。いや、二十分ほどか。

 余呉湖(よごこ)だが、古い時代の「よごのうみ」という呼び方の方が好きである。

 あれから三十年ほどが過ぎて、つい数日前、余呉湖へ行こうと決めた。

 北陸高速の木之本インターを通るたびに、この奥に余呉湖があるということを意識していたが、なかなか踏ん切りがつかないでいた。

 決めてしまえば、意外とあっさりコトは運ぶ。

 そして、念願?の再会となった。

 三十年ぶりの余呉湖は、かつてよりも、釣り場としての整備が進んでいるように見えた。

 しかし、相変わらずの静けさと、湖面の美しさは記憶と変わっておらず、周囲を少し歩くと、逆に当時のことが蘇ってくる。

 クルマの中で聴いていた音楽は、ラルフ・タウナー率いる「OREGON」のライブ盤の録音テープだった。

 当時、ラルフ・タウナーのギターが好きで、よく聴いていた。何だか、思い出すとすぐに聴きたくなったが、もうレコードは手元にない。

 もうひとつ蘇ってきたのは、余呉湖のあまりの静けさに押しつぶされていったことだった。

 帰り道の北国街道は切なかった。

 山の中の道は、特に夕暮れ時ということもあって、気持ちを落ち込ませたのだ。

 余呉湖は、そういう意味で、不思議な思い出とともに記憶の中に残っていた場所だ。

 自分の中で存在感を示している。

 それにしても、旅の話は尽きない……

いつの間にか、郡上八幡仕様になっていく

 一年二ヶ月ぶりに郡上八幡へとやって来た。

 数日前までは、長野の小布施へ行こうかと考えていたのだが、何となく“栗おこわ”が頭に浮かび、口の中がごわごわする感触に襲われたので、水の綺麗な郡上八幡に変更したのだ。妙な理由だ…

 出るのが遅かった。一週間前、桂湖まで行っており、同じ東海北陸道を走ったのだが、郡上八幡は五箇山よりはるかに遠い。

 白川を過ぎて、荘川も過ぎて清見も過ぎる。ひるが野も過ぎ、さらに行かないと郡上八幡には着けない。

 分かっていたはずなのに、到着時刻が正午前になったこともあってか、随分と時間を要した気になる。

 さらに、途中の山中における黄葉たちの美しさが一級品であったこともあって、その美しさを堪能できないまま、通過していくもどかしさにも苦しめられている。

 ようやくにして郡上インターに下りると、すぐに城山へと向かった。

 ただ何となく、“まず一番高いところへ”となったわけだ。

 途中の無料駐車場にクルマを置き、歩く。

 紅葉はまだ早いが、黄葉はまずまずかな? と思いつつ坂道を上ると、ほどなくして城の入り口に着いた。

 もう少し時間がかかった方が、その土地への順応作用的には良かったのだが、これもまあまあ素っ気なくやり過ごしてしまった。

 城の中には前に一度入っているので、今回は周辺をぐるりと回るだけにした。

 ボクはどうも城の中を見るのは好きではない。城は外から見るのがいいと思っている。

 それはどこの城に行っても同じだ。中はあまりにも味気ない。

 引っ切りなしに、たくさんの観光客が登って来るが、とりあえず下ることにする。

 クルマで街へと下り、すぐ下の安養寺という寺の境内にある駐車場に入った。ここは有料(500円)。

 係のおじさんたちが、丁寧に対応してくれるのがいい。

 まずはやはり腹ごしらえということになり、芸もなく前回と同じウナギを食わせる店に入った。

 待ち時間は十分くらいだったろうか。

 席に着くと、さっきまで気にかけていなかった大声でバカ笑いする一団が気になり始める。

 ウナギ丼を食いながらも、突発的に起こる超が付くくらいのバカ笑いに、一瞬自分は何を食しているのかさえアタマから消えそうになったりする。

 話を聞いていると、村の消防団秋季慰安会・宴会翌日の昼食編だということが分かってきた。

 少々は大目に見てやるかと思いつつ、警戒しながらの「ウナギ丼定食」が終わった。

 さて、どこへ行くか? ここからが勝負だ。心身ともに、まだ郡上八幡が沁み込んでいない。

 とりあえず左へ。だいたいは見ているようで、まだ見ぬところもまだまだありそうな感じなのだが、深くは考えない。

 左の方向、つまり吉田川に向かうことにする。

 橋の上からの見慣れた景色にあらたな満足を得て、川べりへと下る。

 見慣れた水の美しさにも、あらためて満足。

 のどかな生活感にも、あらためて満足。

 郡上八幡の郡上八幡たるところは、こんなさまざまな要素の見事な調和にあるなと、ここでまたあらたな満足が生まれる。

 川べりから旧庁舎記念館の前に上ると、たくさんの人たちが行き来している。

 慈恩禅寺という庭の美しい寺があるという案内板を見つけて、そこはまだ見ぬ郡上八幡だなと行ってみることにした。

 記念館の後方に回る。ふと見ると、寺とは違う方向に「いがわこみち」という小さな案内が出ている。

 当然、そこもまた、まだ見ぬ郡上八幡。行くしかない。

 名前の由来は分からないが、そこは家々の裏側を流れる小さな用水に沿った、文字どおり小さな道だった。

 途中から流れの中に大きな鯉が何匹も、かなりの数で泳いでいるのが目に入ってきた。

 美しい流れと鯉のコラボ、どこにでもありそうなセッティングだが、この狭い空間を縫うような流れはちょっと違う世界を創出してくれる。

 小太りの観光オカアサンが、何だか怖いわねえと呟いた意味も分からないではない。

 夜、独りで歩いていて、鯉たちがドドッと動いたりした時のことを想像すると、驚くだろうなあとも思う。

 しかし、ほんの数十メートルしかないこの空間には、郡上八幡の郡上八幡たる何かがあるように感じて、しばらくこの場を離れたくなくなった。

 もう一度入り口に戻って、慈恩禅寺へと向かう。

 わずかに上り気味の小路を歩くと、ちょっと広い通りに出た。

 広いと言っても、クルマがやっと交差するくらいの通りで、軒下にぶら下がった「常磐町」と書かれた古い看板に目がいく。

 長屋風の町家、この辺りは昔、郡上八幡城下の足軽町だったところだろうと想像。

 金沢城下の見事な足軽町のことを思い出したが、今は百万石の足軽たちの恵まれた境遇など考えていても意味がない。

 左右をじっくりと見てから、また小路に入り、慈恩禅寺をめざす。

 いや、郡上八幡では、「めざす」などとは言ってはいけない。

 のんびり歩いていれば、いずれそのうち着いてしまうのだから、めざさなくていい。

 徐々に郡上八幡仕様になってきたなと嬉しくなる。

 あっ気なく慈恩禅寺前に着いた。

 いや、郡上八幡では「あっ気なく」などとも言ってはいけない。

 では何と言えばいいのかと問われると困るのだが、「さり気なく」か、「気が付いたら」みたいなところだろうか。

 石段のすぐ奥に山門があり、その右手前に「鍾山(しょうざん)慈恩護国禅寺」と彫られた石柱が建つ。

 山門をくぐると、すぐ参道は左に曲がりその奥にまた山門がある。

 鐘楼を見上げると、その屋根の先を飛行機雲が伸びていた。

 庭を見るのは有料(300円)なんですが…と、申し訳なさそうに係の女性が言う。さらに、撮影も禁止だとのこと。

 そんなことぐらいなんだ…と、毅然とした態度で入らせていただく。

 腹の中では、これでつまらない庭だったら覚えてろ的な思いも芽生えつつあるのだが、そこも冷静に対応する。

 そして、その後……、驚く。あるいは息を止める。さらに感嘆する。

 なんと美しい光景なんだろうと、まず畳の上に腰を下ろし、それから縁側の方へと進み、さらに部屋の奥へとまた下がり、いろいろとビューポイントを変えながら、その庭や部屋の雰囲気に浸った。

 特にボクの好きなビューポイントである、部屋の奥から部屋と庭を観るというシチュエーションには、果てしなく参った。

 残念ながら写真撮影が許されていないので、読み手の皆さんには、とにかく行ってみてくださいと言うしかないのを許していただきたい。

 高速代やらウナギ丼代やらと、いろいろと出費もあるが、この寺の庭は実に見事、背景の巨岩や大木や滝、さらに庵の風情など文句を言ったら罰が当たる。

 いい場所と出会えたことの喜びを噛みしめ、本堂でお参りし、仏様に感謝しながら慈恩禅寺を後にする。

 そしてまた、町をぶらぶら。

 有名な食品サンプルの店は、相変わらずの人気だ。

 奥の壁にギターが飾られた、以前から気になっている楽器屋さんには、今日も客がいない。

 郡上八幡で楽器屋を営むというのはかなり無謀なのではと、前を通るたびに余計なお世話的な心配をしてしまうが、多分しっかりと本業があったりするのだろう。

 そんなことなどを思いながら歩いていると、心持ちは、カンペキに郡上八幡仕様になっている。不思議だが、やはり、いい町なのだ……

秋の定番・桂湖にまた行く

五箇山から白川村へと向かう途中に、桂湖への道がある。

一気に高度を稼ぎながら境川ダムまで登り、あとは湖を見ながら水平に進むと、湖畔の公園が見えてくる。

家からだと、金沢森本インターから北陸自動車道、東海北陸自動車道を経て、一時間強もあれば桂湖に着いてしまう。

もの凄く得をしたような気分にさせてくれる場所だ。

得をしたと感じるのは、その短い時間で、こんなにも素晴らしい風景に出会えると思うからで、贅沢を言えばきりがないが、何度来てものんびりできる場所で好きだ。

今回は途中の城端サービスエリアで、一応名物になっているおにぎりを食ったせいもあり、二時間近くかかった。しかし、それも得の一部なのだ。

ついでに言っておくと、このサービスエリアの奥には桜ヶ池というスポットもあって、ぶらぶら歩くのにいい。

 

桂湖は四回目だと思うが、記憶は定かではない。

きっかけは、カヌーが出来るということだったが、あの広い水面を見て独りでのカヌーはやめた。

ほとんど人がいなくて、初心者みたいな自分にはかなりの決断と慣れた同乗者が必要だった。

クルマを下りて、ゆっくりと見回す。

去年の同じ時季に来た時ほど紅葉は熟しておらず、ちょっとがっかりした。

去年の紅葉は凄かった。正確には黄葉と紅葉で、前者の存在感も大きい。

ボクとしては、黄葉にもなかなかの好感をもっており、紅葉は鮮やかすぎると少しいやになる。

そんなわけで、桂湖周辺で見る紅葉と黄葉にはいいバランスがあり、かなり好きなのだった。

ところで、桂湖の奥には、石川県から言うところの「犀奥の山々」への登山道が伸びている。

最奥というのは、犀川上流のその奥のことで、山々が石川と富山の県境になっている。

金沢からだと熊走の奥、かつて倉谷という村があった場所を経て登る。

実際に登ったことはないが、かなり厳しい道だということだ。

桂湖奥からも、いきなりハシゴ状の登りになり、切れ落ちた台地状の道を最初に進む。

ハシゴ状の登りもスリルがあるが、その後で出くわすマムシやトカゲなどの爬虫類たちの多さにもかなりスリルを感じる。

決して楽しいスリルではない分、途中でイヤになる。

ボクもそうして途中から引き返した。

特にその時は山登りに来たわけでもなかったから、装備も全くなくて、一時間も歩かずに戻ったのだが、仮に登山準備万端で来ていても逃げ出したかも知れない。

それほどに足元でガサガサ動くアヤツらには参った。

ところで、桂湖はダムによってできた貯水湖だ。

そして、察しのとおり、その底にはかつての桂という村が眠っている。

五戸の合掌造りの家があったという。

初めて訪れた時、水が少し涸れていて、奥の方にまで来た時に何となく人工的な道のようなものが目に飛び込んできた。

湖の底にかつての生活の場が眠っていることを想像した。

白山麓の深瀬や桑島、大日岳の麓の村など、近場にもいくつもそういった土地があって、その場の空気のようなものを感じたことがある。

ビジターズハウスで、展示紹介されているそんな情報をあらためて確認しながら、少し離れた湖畔にある大きなログハウスの店に初めて入った。

知的な老紳士が、奥様だろうと思える人と一緒に立って、もう一組の老夫婦に話しかけている。

後で分かったのだが、その老紳士はこの地域にあった小学校の先生だったらしく、その日の午前中、かつての住人達が集まり、 その先生の講演があったということだった。

桂に語呂がよく似た加須良(かずら)という村が、今の湖の反対側上部にあったらしく、桂よりも多くの人たちが住んでいたということだ。加須良は、岐阜県に入る村だった。

                       ※お店に掲示されていた写真

桂には五軒しか家がなく、屋根の茅葺きなど多くのことを加須良の人たちとの助け合いでやっていたらしい。

しかし、厳しい生活環境から、加須良は村自体を解散することにした。

それによって、桂の人たちもそこで生活ができなくなった。

桂村の美しい夏の風景が写真に残されているが、生活の厳しさは想像を絶するものだったのだろう。

 

独りで店を切り盛りしているらしいおカアさんに、コーヒーを頼んだ。

するとオカアさん手作りの漬物などが、まるでスイーツのセットメニューみたいにしてテーブルに届けられた。

何もかもが美味い。根本的に苦手としているミョウガすらも、アッと驚くような後味を残して、ボクの中に好印象をもたらした。

我が家風に言うと「クサムシ」、一般的に言う「カメムシ」もアッと驚くほど多かったが、ミョウガの後味ほど印象深くはなかった。

そして、おカアさんは最後に青い葉っぱのいっぱい付いた赤カブを持ってきた。

これ、邪魔でなかったら持って行って…。

そして、漬物にしても、煮て食べても美味しいよとビニール袋に入れた。

コーヒーもそれなりに美味かったが、味わっているゆとりがなかった。

おカアさんは、店の外まで出て、見送ってくれた。

また、来られよ。

境川ダムのすぐ上に、ススキの繁茂する崖があるが、ちょうど山に隠れる太陽の光が差し込む時間だった。

秋には必ずここのススキを撮影している。

いつもそれほど長い時間滞在しているわけではないが、ここへ来た時はいつもいい気分になる。

今回もそのことに納得した桂湖であったのだった……

 

 

 

 

河北潟の端っこを探検する

 

河北潟の端っこで見つけた漕艇場から延びていく水路に、何だかとても興味が湧いていた。

そして、その第一次探検の時を迎えたのは、十月の下旬に入ろうかという休日の朝。

と言っても、時計はもう9時半を回り、晴天と同時に気温も少しずつ上昇の気配を見せていた。

すでに水面には、多くのボートが浮かんでいて練習が始まろうとしている。

一線に並んだボートに、その奥のボートからコーチらしき青年が指示を出している。

よく見ると、ボートの漕ぎ手たちは中学生みたいだ。

最初に女子から、そして男子へとスタートの指示が出される。

水面を滑っていくボートを見ているのはなかなか気持ちがいい。

 

しかし、今日はじっとそんな光景を見ているわけにはいかないのだった。

すぐにパーゴラのある土手に上がって、そのさらに上に伸びている道らしき場所に足を踏み入れる。

刈られた草の感触がトレッキングシューズの底から伝わってきて嬉しくなる。

この状況は、自分の中に微かに残っていた冒険心みたいなものに火をつける。

そんな大袈裟な…と思われるかもしれないが、そうなのだから仕方がない。

まっすぐに伸びた土手の道。

空は青く、10月も半ばを過ぎたというのに、雲はまだ入道雲のカタチで白く浮かんでいる。

左手は、水路沿いの葦の原、右手は刈り入れの終った水田。

申し分ない。ほぼカンペキだ。

しばらく歩くと、水門があり、その上に上ってみる。

大して高くもなく、別に風景が大きく変化して見えるというほどでもないのだが、こういう場合は一応、その高場から見下ろすという儀式が必要なのだ。

 

葦原は少しずつ幅を広げ、水路が視界から消えていく。

しかし、すぐ近くに水の流れる音がする。それも豪快にだ。

しばらくして、それが風にそよぐ葦たちの擦れ合う音だと分かった。

なんと凄いのだろうと思いながら、かつて一世を風靡した時代劇『木枯らし紋次郎』を思い出す。

三度笠に長い楊枝をくわえ、風を切って歩いて行く紋次郎の姿が浮かんでくる。

紋次郎が行くところは、いつも木枯らしが吹いていた…

土手のすぐ下で、南天の赤い実が無数に風に揺れている。紫色の花たちも一緒だ。

水路は完全に視界から消えた。

仕方がないので、水田の方に目を遣ると、その広大な田園風景にも足を止めてしまう。

再び目を葦原の方に向けながら歩く。

何という名前なのかも知らないが、木が一本、斜に構えて立っている。

何の目的でそうさせられたのか、鉄柱も立っていたりする。

目を下に向けると、意外なものを見つけた。

小さなアケビだった。

かつて、ゴンゲン森で多く見られたアケビだったが、正直好きではなかった。

唇や舌に当たるあの感触も、中途半端なあの味も馴染めなかった。

他の木の実などは何でも食べて育ったくせに、アケビだけはなぜかダメだったのだ。

他の連中が美味そうに食べているのを見て、自分が仲間外れになったような、そんな気持ちにもさせられた。

そんな子供の頃のことを思い出しながら、アケビの写真を撮った。

先で、道が右に折れているのが見えてくる。

水路も見えてきて、右手の道に沿って合流してくる水路とT字型に交わっているのが分かる。

その水辺で、いきなり釣竿を持った若者の姿を見つけた。

こんにちわと声をかけると、若者は驚いたように振り返った。

ブラックバスや雷魚が釣れると、若者は話してくれた。

もちろん、キャッチ&リリースなので身軽だ。

その若者から、今まで見てきた水路が「東部承水路」という名前であることを教えられ、

さらに、右手に延びている水路は「津幡川」であることも教えてもらった。

その川は、名前のとおり、津幡の奥の山間から流れてきている。

そして、東部承水路はそのまま北へと延びていき、途中でああなってこうなってと詳しく説明されたが、イメージだけが広がっていき、想像は青い空の中へと吸い込まれていく…

 

ヤマカガシに気を付けた方がいいですよ。とも言う。

ええ、あの毒のある?と聞き返す。

青大将ならまだいいけど、ヤマカガシは咬みついてくる怖いヘビだ。

時折干拓地の水路の近くに黒くて太いのが寝そべっていたりするのを見た。

あとで分かったのだが、あれも黒いヤマカガシなのだそうだ。

対処方法を知らないから、咬まれたら大変だ。

若者は、竿を肩にしてゆっくり土手に上がってきた。

ボクは、いい歳をしてこの辺りを歩いて回りたいのだがと伝えた。

若者は驚いた様子でボクの顔を見ると、でも、道らしきものはこの辺まででしょうと答えた。

とりあえず、今日は津幡川沿いに少し行ってみようと思い、風が気持ちいい土手の道を進んだ。

場所を変えます…と言った若者は反対方向に歩いて行く。

ヤマカガシのことがアタマに浮かんで、足元の草むらに敏感になった。

ススキの穂が太陽を受けて光っている。

上流の先にある橋の下にも、若者が独りで竿を垂らしていた。

さっきの若者が、この辺りは結構釣り好きには知られていますよと言った時、知り合いの釣りバカが、かつて最近河北潟にはまってますと言っていたのを思い出していた。

しかし、この辺りを、ただ歩いて回りたいだけというただのバカは、オレぐらいかな?とも思う。

歩いていた時間はたったの一時間半ぐらいだろう。

うっすらと汗をかいてきて、もう一度空を見上げる。

申し分ない気分に浸りながら、もう少し事前研究が必要だと反省。

冬、積雪のある時季にスキーを履いてトレッキングする楽しみも見えてきた。

それにしても、恥ずかしくなるほど楽しい。

その日の夜は、本棚から取り出した『花見川のハック』を久しぶりに読みたくなったのだった……

 

平泉寺に白山を見る

何年ぶりだろうかと考えつつ、旧白峰村の谷峠(トンネル)を越え福井県勝山市へと向かっていた。隣りの大野へ行ったのが一昨年で、その時も長いこと勝山へは言ってないと思っていた。

ボクの場合、勝山へ何度も行っていたというのは、すべてが平泉寺へ行くためだ。そういう意味では、かなり平泉寺が好きだったと言っていい。きっかけは、ボクの定番、司馬遼太郎の『街道をゆく』だった。

この歴史紀行によって、どれほど多くの土地を訪ねたり、多くの土地に思いを馳せたりしただろうと考えると、今は亡き司馬遼太郎大先生には深く感謝をしなければならない。

平泉寺までの道路は基本的に何も変わっていなかった。非常に分かりやすく、簡単に辿り着ける。

たぶん二度目の時からだろうか、下にクルマを置き、菩提林と呼ばれる見事な大木の参道を歩くようになった。だが、時間のかかる長い道であったこともあり、そのうち石段直下の駐車場までクルマで上がるようになる。もともとそれほど多くの人が訪れていたわけでもないが、今でも参道を歩く人が二、三人ほどいて、その人たちの姿を見た時は、ちょっと気後れがした。

もう有名なのだろうが、平泉寺の歴史は古い。717年(養老元)、泰澄(たいちょう)によって開かれている。泰澄と言えば、白山を開いた人であり、石川県でもたくさんの伝説や像を目にする。

その泰澄が夢の中でお告げを受け、白山へ向かう途中にやって来たと言われる池が境内に残っているが、その雰囲気がとても神秘的でいい。今でも、その池に向かって深くお祈りをする人たちの姿を見ることができる。

 

平泉寺は正式には平泉寺白山神社というくらいで、石段の途中に鳥居がある。そこがちょうど、仏の世界と神の世界の境界であるらしく、その場所で一度足を止めるのが正しい参拝の仕方なのだそうだ。

今は観光ボランティアの人たちも大勢いて、そういった話を丁寧に聞かせてくれている。相変わらず杉木立と苔が見事で、木漏れ日が差し込んでくるあたりは、その濃淡が美しい。

閉めきられた拝殿の裏をさらに上ると、三つの宮が並んでいる。白山連峰の三つの峰になぞらえてあるらしい。と言うと、大汝と御前峰、そして別山か。かなり傷んだ感じはするが、彫刻などは素晴らしい。

楠木正成の墓に続く長い石段の道なども、平泉寺の魅力を伝える場所だ。石段を上り切ったところの社の裏に白山への禅定道が伸びている。

白山の禅定道は、石川県では一里野の奥にあり、あとは岐阜県側にもあるとのことだ。

なぜか、かつてはただ漠然と歩いてきた場所に、今はとても深い思い入れみたいなものを感じる。その不思議な思いをアタマの片隅に置きながら、苔庭にゆっくりと目を遣ったりする。

老若男女が、それぞれの体力に合わせながら歩いている。娘と母親、孫娘と祖母、そんな組み合わせをなぜだか多く目にする。

「私はここまででいいから、アンタ行っておいでや」そんな会話が耳に届く。

先に書いた御手洗池に下ると、若い家族とその父親の母だろうか、後から追うようにしてやって来た。母親が息子の家族にこの池から龍が出てくるという内容の話を始め、息子夫婦が石段をさらに下りて、丁寧にお祈りを始めた。

言葉から地元福井の人であろうと推察し、彼らが去った後、じっくりと合掌した。

平泉寺は今、大規模な発掘調査を進めている。これらが日の目を見るようになれば、さらに一層この一帯はとんでもない歴史的遺産になる。すでに発掘の見学もできるようになっていて、先が楽しみだ。前日に開館した「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」の展示の仕事にも少しだけ関わり、この地への愛着も倍増した。

かつて、某シンクタンクに片足の膝ぐらいまでだが入っていた頃、富山には立山博物館があるのに、石川には白山博物館がないことについて提言したことがある。石川県の人たちと、富山県の人たちでは山に対する思い入れが全く違う。富山の人たちは、山としっかりと付き合っている。そう思っていた。提言し、たしかにそこから何かが生まれたが、白山に関しては福井県側の方が深いのかも知れないと思った。

平泉寺に行くようになってから、そのことを強く感じていたのだ。

今はもう世界遺産登録への夢も、そう遠くないような気がする。ただ、我がままを言わせてもらえば、あまり大きな存在にはなってほしくない。

入り口の茶店で買ったあんこの入った餅を、「まほろば」の外のテーブルで食べた。勝山市役所の横の店で、ソースかつ丼とやまかけそばも食べた。

それなりに美味であった……

大糸線の思い出

夕刻の金沢駅でこのポスターを見つけた。

「JAZZ at紺屋坂」へ行ってきた帰りだった。

大糸線の全線開通55周年。

学生時代、なぜか正月前の帰省の際にだけ大糸線を利用していた。

ほとんど一日がかり、早朝中央線で新宿を発ち、松本へ向かい、松本から糸魚川へ経て金沢に着くのは夜だった。

この旅での楽しみのひとつは、三時間半ほどの松本滞在だった。

昼飯を食べ、街をたむろして、「山小屋」という喫茶店でコーヒーを飲んでから駅に戻る。

午後の急行「白馬」に乗る。

急行とは言え、鈍行みたいなのんびりさで行く。

正月に近い時はスキーヤーでいっぱいになり、後悔するが、そうでない時は一車両に二人だけといった時もあった。

同じ車両に乗り合わせた老人から、ウイスキーの角をストレートで勧められ、ガブ飲みしてひどい目に遭ったこともある。

NHKの撮影チームと一緒になり、やたらと長い無人駅での停車時間中のロケを見ていたこともあった。

ホームに降りて、初冬の風景を見るのもよかった。

当時は地名もあまり知らず、漠然と風景の素晴らしさに酔っていたと言っていい。

何よりも風景の素晴らしさが一番で、文庫本一冊を持って行っても、なかなか読み切れなかった。

急行「白馬」は、その数年後に廃止となった。

あんな旅を今味わうだけのゆとりもないが、あののどかさを求めることもむずかしいだろうなあ……

ビールは体育実技だ

もう一ヶ月も前になるんだと思いながら、7月30日の深夜、京都四条の某ホテル8階817号室で綴っていた文章を読み返している。

狭い机に向かって、『ビールの科学』という本の読後感想文を書こうとしていて、途中でやめた。

その一時間ほど前まで、高台寺の近くの「T界」という、いかにも京都らしい古い佇まいのお店で、ひたすら冷たいビールと好奇心をくすぐるクリエイティブな料理をいただいていた。

案内してくれたのは、F見クンというクリエイターで、その店は彼の会社の社長さんがオーナーらしかった。

F見クンは、店内の襖や壁、座布団などに施されている、非常に繊細なプリントを手掛けていた。

金沢美大に入った頃から大学院を卒業するまでは、ボクの会社でアルバイトをしている。

なかなか機転が利いて、突っ込みも鋭い優秀なスタッフだったが、本業が染色という特異な分野だったこともあり、結局その能力を活かせる会社に就職した。

それ以来だから、もう十年近く会っていなかったことになるが、「T界」から八坂神社を抜け、四条通を烏丸まで語りながら歩いた。いい時間だった。

彼の創作や実直で子煩悩な人柄については、また今度4000字ほどに簡単にまとめて書くことにしよう。

 

ホテルに戻ってシャワーをすると、37度の猛暑に耐えてきた体が汗臭さから解放された。

それにしても、午後三時すぎ、烏丸御池から四条烏丸まで歩いた時に見た人々の表情たるや、あれはすでに苦痛を通り越し、最早、どうにでもしてよ的茹だり顔であった。さすが京都だ。

これからビールのことを書こうとしているのだからと、外から買って来た缶ビールをまず一本開ける。

缶の半分ほどを飲んでから、風呂上がりの汗をもう一度拭き、さらにまた缶ビールを手にすると、あっという間に一本が空になった。

昔、今日みたいな猛暑の京都で、四条のビルの屋上広告塔に付いていたデジタル温度表示が40℃を示しているのを見て驚いたことがある。

四条大橋の上から、何人かの人がその表示を指さしていた。

その時のボクは、四条通りのN村証券京都支店の前で「からくり時計」をじっくり観察した後だった。

当時、金沢の某商店街に提案しようとしていた「からくり時計」については、その時も伏見の商店街へ行ったりして、なぜか京都が先進地だったのだ。

で、四条大橋を渡った後、八坂神社に向かい、八坂から高台寺などを経て、清水寺まで歩いた。

ここまで来れば、最早観光でしかなく、仕事成果はカメラの中にしっかり納まっていたのだ。

とにかく暑かった。扇子を一つ持ってはいたが、扇いでも熱風が顔に当たるぐらいで、とても涼気を感じるなどといった雰囲気ではなかった。

ただ、その頃のボクは、野球と山岳と失恋とで鍛えた体力と忍耐力(根性)には自信があり、生半可なことではヘコたれることもなかったのだ。

そのことを支えていた大きな力?のひとつに、“汗をかけばビール”という安直だが心強い依存物があった。

これは、山でもよくあることで、例えば朝四時に麓の小屋を出発し、同九時近くに中継点の山小屋に着くと、そこでまず缶ビールを空けた。

喉が渇けばビールといった感じで、飲み物=ビールが普通になった。

しかし、一旦飲むと、その後が辛くなってくる。

特に長い行程を歩くときや、岩場の連続などといった時は、ビールを飲んだことを後悔したりした。

京都でも同じだった。

午前中からではなかったが、特に高台寺から清水にかけては、赤い大きな和傘が見えてくると、毛氈の敷かれた床几に腰を下ろし、中ジョッキの生を注文する。

傘があっても、具合悪く日陰になっていない所もあったりするが、それでもとりあえず中ジョッキだった。

当然、アタマはカンペキにボーッとしていた。

 

そんなことを思い出しながら、『ビールの科学』をもう一度手に取った。

そして、表紙を見ながらじっと考えた。

結局、この本はボクにとって何だったのだろうか?

何となく覚えているのは、コクとキレのこと。

ウグウグッ、ウッグゥ~と喉を鳴らしながら飲みこんで、胃にまですべて到着したかなと思った瞬間に、ウッ、ウップァァァ~と濃い息を吐く。

このウグウグがコクで、ウパ~がキレだということで、これがビールの決め手だということだった。

なるほどとかなり激しく納得した。

あとは、皆で楽しくやる時にはビールがいいということ。

シャンパンも炭酸が入っているから、乾杯に使われるが、ビールはいかにもめでたい系や、憂さ晴らし系にもってこいだということ。

これもひたすら納得した。

それ以外は、ホップがどうのこうのとか、麦芽がどうだとかと言われても、大いなる納得には結び付かなかった。

つまり、途中からかなり読むのも辛くなり、とりあえず一応…的に読み終えたが、アタマには何も残っていない。

ボクは思うのだが、ビールはしみじみ飲むものでもないから、何も考えなくてもいいのではないかと。

それに、ビールには科学は似合わないのではないかとも。

ビールに合うのは、科学ではなく、体育実技とか英会話ではないかとも。

そんなわけで、『ビールの科学』の読後感想文は、やはり書けないと言う結論に至り、これから体育実技的に、缶ビールを思いっきり力強く開けようかと思った次第なのであった………

 

石動山。かつての記憶

 かなりの久しぶりさで、石動山(せきどうざん)に行ってきた。

 中能登町の仕事に関わることになりそうなので、記憶の財産を再確認しておこうと思ったからだ。

 初めて石動山に上がったのは、今から二十年前だ。

 当時まだ合併する前の鹿島町からの依頼で、標高565mの頂上下に造られた「石動山資料館」という小さな展示館の仕事をしていた。

 役場での、資料や展示の企画などの打ち合わせはよかったが、一旦山に上がると、なかなか飲料も食料も手に入らないから、途中の「すしべん」で買い出しをし、山に入る。それがまたそれなりに楽しかったりした。

 六月初めの、暑い日の昼前だった。

 途中で敢えて鹿島バイパス(現在の国道159号線)を離れ、元の国道である道(現在は県道)に入った。

 この道は前からずっと好きで、宿場町的な匂いにはかなり惚れ込んでいたのだ。

 家々の佇まいや樹木にも趣があるし、道の緩い上り下りやカーブなども、たまらなくいい気分にさせてくれた。

 合併して同じ中能登町になったが、JR線を挟んで海側になる旧鹿西町(ろくせいまち)や鳥屋町などでも、現在の幹線道を離れ、旧道に入れば、見事な佇まいの家々や寺院があったりして驚かされる。

 はっきり言って注目度としては低い中能登町だが、こういった素朴な風景を財産として活かしていけば…と、考えてしまう。

 話がそれたが、今回も二宮という地区にある入り口から上がった。

 この道はいきなり、ダンプカー群との遭遇を覚悟しなければならない課題をもつのだが、正式な入り口なので、そこは我慢して行くしかない。

 入り口に立つ石柱は、金沢長町に資料館がある前田土佐守が建てたものと後に聞かされた。よくクルマが当たるのか傷の修復跡が生々しい。

 ダンプカー群から解放されて静かになったと思っても、油断はできない。

 雑草で幅が狭められた山道をひたすら走って行く。交差はかなり厳しい。前に来た時よりも雑草の処理がされていないと感じる。

 そのことも後で以前行われていた「石動山マラソン」が廃止となり、除草も行われなくなったからだと聞かされた。

 実は昔からこういう道を走ることに慣れていたが、二十年前の仕事の時には、応援を頼んだ若手社員たちが来るのを嫌がった。

 それはこの道のせいだった。特に初冬の雪の降り始めの頃には、かなりの危険度もあって、こっちも気を遣った。

 しかし、あの当時は除草がされ、道もすっきりとして今よりはかなり広く感じられたのだ。今だったら誰も来てくれないかも知れない。

 先に言っておくと、今はこの道を使わなくても鹿島バイパスのアルプラザのある交差点を金沢方面からだと右折して真っ直ぐ氷見方向へ向かうと、途中で石動山への道が左に延びている。

 決して近いという雰囲気ではないが、今であれば緑がふんだんの景色もきれいだ。

 山頂への歩道の入り口に立つ「石動山」と彫られた石碑の横を通り過ぎ、伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)の碑が立つ前の駐車場にクルマを止める。

 一帯の美しく整備された姿は、二十年前から着々と進められてきたものだ。

 初夏に近い日差しが、石動山を被うブナの緑を輝かせている。

 久しぶりに来たぞという思いが、自分を少し煽っているのが分かる。

 さっそく、伊須流岐比古神社の石段を上った。

 夫婦だろうか、スケッチブックを広げた二人が何か話をしながら、奥の拝殿に向かって手を動かしている。挨拶すると、にこやかに二人が言葉を返してくれた。

 さらに広い素朴な石段を上ると拝殿だ。真上から陽が差しこんでいる。

 この薄暗さと明るさのコントラストが、かつて写真撮影の時にはカメラマンを困らせたことを思い出す。

 ぐっと気持ちが引き締まったところで、拝殿の裏側へと回った。

 ここはある意味、石動山の歴史の酷さを伝える場のように感じられるところで、薄気味悪いが、どうしても見たいと思ってしまう場所だ。

 奥に大師堂跡の白い木柱が立つ。しかし、その周辺には崩れた墓石や、首がとれた石仏が並ぶ。いや、それらも倒れているものの方が多い。

 まったく廃墟の様相を呈しているが、これらには手を付けないらしい。神仏分離令や廃仏毀釈の洗礼なのだろう。

 かつて、比叡山などと並び称された石動山の無言の抵抗のようにも見える。

 奥には五重塔跡を見下ろすが、戦国時代の戦火によって焼失して以来、その権威を恐れて再建されなかったということだ。

 権威を恐れたのは、この地を一旦滅ぼした前田家らしい。

 この火災で黒焦げになった建物の一部木材は、資料館に展示した。

 拝殿前に戻り、そこから日差しを浴びながら少し下って、大宮坊という大きな建物を覗く。

 前に来た時は、建築工事中だった建物だ。

 大宮坊は石動山の中心的な坊であり、寺務を取り仕切る役所みたいなところだったという。

 当時のまま、当時の大工の子孫によって復元されたということだ。

 「中へ、どうぞ」 奥から女性の声がした。

 出て来たT口さんは、石動山のボランティアガイドだった。

 山の下の二宮という地区にお住まいがあり、大宮坊で周辺の歴史などを伝える案内人をされている。

 かつて資料館の仕事をした者だと自己紹介し、T口さんからいろいろな話を聞いた。

 そして、二十年前、鹿島町役場の教育委員会に勤務され、資料館開設の担当だったY本さんが元気でいらっしゃることも聞いた。

 Y本さんというのは、当時のボクには不思議な人だった。自宅が資料館のすぐ近くにあり、先祖は伊須流岐比古神社の氏子か何かであったのだろうかと想像させた。

 しかし、T口さんから聞いたのは意外な話だった。

 かつては(といっても、いつ頃か聞かなかった)、この石動山に数十軒の家があり、大きな集落を成していたということだった。

 開拓民として入山した人たちのうち多くが山を去ったが、Y本家はこの地に残ったらしい。

 当然だが、今でも当時のY本さんの顔ははっきりと覚えている。

 T口さんと三十分近く話して、最後に資料館へ。

 外で犬と一緒にいた管理人の方に、中を見たいと告げ、受付で二百円を支払った。

 展示室は二階にある。上る階段の壁には、写真パネルが並ぶ。残念だが、当時と変わっているような気はしない。

 展示室の中も特に変わったという感じはなかった。

 T口さんから、能登半島地震の時に、展示ケースの天井が落ち、仏像の足元かが折れてしまったという話を聞かされていた。

 その仏像たちはケースの床に寝かされている。

 基本どおり、時代の流れを軸にして展示ストーリーを組んでいった当時のことが浮かんでくる。

 いくつもの財産があったはずなのだが、とにかく石動山から一旦離れていったものが多過ぎた。それと、あるモノ、そして帰って来たモノも、保存状態が悪かった。

 しかし、ここに展示されているものすべてに、明確な記憶があり、その手触り感などが蘇ってくるように感じた。

 学芸担当の方(残念ながら名前が出てこない)と一緒に書いた展示解説のテキストにも、強い愛着があった。

 とにかく、この場所での展示作業は楽しかった。結局、多く関わったのはスタッフ二人とボクだけだったが、毎日夕方になると、石動山を下りるのがいやになったのだ。

 一階に展示されている懐かしい地元の神輿に触れて、それからトイレも借りて資料館を出た。またぶらぶらと歩き出す。

 そう言えば昼飯をまだ食べていない…。

 時計は一時半を過ぎ、二時近くになっている。時間も計算せず、弁当も持たずに来るとこういうことになる。

 そんなことは、二十年前にはしっかりとアタマに入っていたのに、不覚にも第一回目に来た時と同じ過ち?をおかしていた。

 急に腹が減ってきた。駐車場に戻る。

 そして、最後に整備された公園の写真を一枚撮りクルマを走らせた。

 ほどなく、Y本さんの家の前を通過。Y本さんのお母上だろうか、畑で腰を折り、何か作業をされていた。

 その姿を見た瞬間、石動山に関するボクの中の記憶の財産が、完全に復活したような思いがした。

 そして、また中能登にやって来る機会をいただいたのだと思った。

 帰り道は二宮に下らなかった。なぜか、ゆっくりと走れる芹川に抜ける道を選んでいたのだ……

能登の山里をめぐる道… 門前~富来~中島

「里山里海」という文字をよく目にするようになった。

しかし、この「里山里海」という表現があまり好きではなかった。

特に日本にはもともと「山里」という言葉があり、なぜ敢えて漢字をひっくり返しただけの「里山」という表現に変える必要があったのかと、ネーミング担当者にかなりハゲしく疑念を抱いたりした。

しかし、海と合わせた表現であることを考えた時、「山里海里」よりも、「里山里海」の方が響きもよく、特に、日本海に突き出た能登半島らしい表現かもしれないとも思えるようになった。

ただ、一つだけ言いたいのは、「里山里海」の響きでは、何となく能登の厳しさが伝わらないなと思うことだ。

そんなことはまあ置いておくとして、日本民俗学の今は亡き宮本常一先生の著書に後押しされながら、ボクは最近また、正しい日本の農村風景に思いを馳せたりし始めている。

いや、正確に言えば、これまで自分で感じてきたものを改めて整理し直そうとしている。

大学時代からだろうか、自分にはどうもそういう風景に弱い血が流れていて、車窓から見える風景にも、思わず心が奪われるといった傾向があったみたいだ。

そういった積み重ねが、どうも今頃ピークを迎えつつあるのかも知れないと思う。恥ずかしながら……

 

さて、能登の農村風景が日本の代表的な農村風景にあたるかどうかについては、大それたことは言わない。

しかし、単なる田園地帯の広がりとか、山深く高い山々に囲まれているといった感覚ではなく、能登の農村風景にはこじんまりとして心が通った素朴さがあり、それが独特の生活感などを生んで心を打つのだと思っている。

 

五月の下旬、輪島からの帰りに、旧門前町から山越えし、旧富来町に抜け、さらにまた山越えして旧中島町に至る道をクルマで走った。

一昨年前の夏から、このルートの一部を何度も走ったが、その時の感動は今は少し薄まりかけていて、さらに新しい刺激を求めていたのだ。

 旧門前町(現輪島市)の海岸線道路(国道249号)を折れて、仁岸川に沿いに山間に入っていく。

このあたりの海岸線の地区は横に伸びていて、奥行きはあまりない。すぐ後ろが高台だったり崖だったりもするが、この山間に向かう道は仁岸川に沿っていて、人家の集中する場所を通り過ぎても、その後方には広々とした水田地帯が広がっている。何度来ても、気持ちの良いところだ。

田植えを終えて水の張られた水田にシラサギがいる。

その姿が凛々しく、クルマを止め、助手席の窓を開けてカメラを構えた。

川にかかる小さな橋を二つ渡ると、道は二つに分かれ、右の方へとハンドルを切る。

しばらくすると、川は小さな渓流のような様相に変わり、木立の中に道が吸い込まれていく。

このまま道なりに行くと、馬渡という地区を経て、ひたすら旧富来町へと進むのだが、ちょっと脇道へとそれることにする。

舗装はされているが、薄暗く狭い上りの林道だ。あまりクルマが走っているとは思えない。

道はしばらくで鬱蒼とした木立を抜けた。立体的な大きな道路が見える。

ここで自分の居場所が分からなくなった。相変わらず地図など持ち合わせていない。カーナビなどは、仮に付いていたとしてもあまり役を果たさないだろう。

小さな道がカーブを描きながらの上りになり、大きな道路につながった。

狐に騙されたみたいになってクルマを降りると、大きな道路は上に伸びているが、バリケードで通行禁止になっている。

そして、自分が走ってきた狭い道は、大きな道路を突き抜けて脇へと上っていた。

その先に一軒の民家があった。こういう光景は何度か見たことがある。

昨年の夏、いしるを造る作業を取材した時、かつて出来立てのいしるを樽に入れて背負い、山を越えて売りに行ったという話を聞いた。

主に女性の仕事で、夕方に出て、翌朝届け先に着くのだと言われた。その時に、山の中に一軒だけぽつんとある家とかもあって、今から思えば大変な重労働だったという話だ。

今見えている家は、まだまだ近い方なのだろうが、さらに山深いところにもこういった家々があるのだろう。

それにしても、その一軒の家につながるための道の存在に、妙に心を打たれる。

そのまま道路を下った。また分岐があり、そこでもクルマを止める。狭い畑に、見るからに高齢のおばあさんが立って作業をしていた。

あのおばあさんは、この山間からどこへ帰るのだろう?

時間を考え、左に折れてさらに下っていくと、途中の水田横の斜面に夫婦らしき二人が座っている。

その様子が文句なしにのどかで、写真を撮らせてもらおうかとブレーキに足をかけた。しかし、タイヤの音に二人が驚いたみたいだったので、そのまま下ることにした。その日最大の後悔であった。

下った先は、さっき仁岸川にかかる二つ目の橋を渡って分岐した道につながっていた。

つまり、元に戻ったことになる。別に狐に騙されたわけではないのだが、思わず苦笑い。

傾斜の高台から眺めると、水田の先に家々があり、その先には日本海が見えている。

畦の草を燃やす煙がぼんやりと立ち、“日本”を感じる。実にいい空気感だ。

能登の農村と漁村とが共存する姿がここにあるのだと、妙に納得したりしている。

一旦下に戻り、分岐を今度は左折して上りに入った。

ここから馬渡という地区にある十字路までは、左手に広がる水田とその奥の小高い山の斜面が美しい。緑が圧倒的にきれいなのだ。

十字路の左方向は立派な道で、緩い上りだが、バリケードで一応通行禁止になっている。しかし、ちょっとだけ隙間があり、その間隔がいかにも「行きたい人は行ってもいいのだよ」と言った感じに見えている。

それではと、ちょっと百メートル ほど侵入してみることにした。

素晴らしい山里風景だ。西日が逆光的に差し込んでいて、水田に陽光が反射している。

この出会いには、大いに感謝だ。

戻って、十字路を直進してみると小さな集落があった。道端のおばあさんが何か作業をしているが、こっちには目もくれない。

さらに奥へと進むと、家は途絶え、狭くなった道は上の方へと延びていたが、犬を連れて散歩中のご婦人が下りて来たので、こっちも方向転換し、もとの道へと戻った。

自分がかなりの不審者に見えるであろうことは、当然自覚していたのだ。

十字路に戻り、左折して旧富来方面へと向かう。

すぐに窕(かまど)トンネルを抜け、道は徐々に上りの角度を強くしていく。

しばらく行くと、右手にまた一軒の家が見える。建物はいくつかあるが、住まいと作業小屋などだろうか。

今クルマを走らせているのは、広域農道の立派な道路だが、ここにもその家のための小さな道がついている。

広域農道を挟んで反対側の斜面には墓も建っていて、家と墓をつなぐ道が広域農道で寸断されている形だ。行き来は、農道を横切らなければならない。

去年の旧盆の頃、墓参りする人の姿を見た時に、なぜかほっとしたのを思い出す。

見下ろす水田と湾曲した小道が美しかった。

 

道路はすでに旧富来町に入っていて、栢木という地区で、右手の小山の麓に建つ小さな愛宕神社を見ながら下っていく。

神社の姿はずっとここを通るたびに気になっていて、雪融けの頃、思い切って境内にまで行ってきたばかりだった。

アップダウンを繰り返す。このあたりはかなり高品質な現代的道路で、歴史もクソもなく80キロほどでぶっ飛ばしていく。対向車もほとんどいない。

そして平地に下りてくると、貝田というあたりで左の道に入り、さらに進んだT字路で、また左に曲がった。

二台がやっと擦れ違えるくらいの道が山里風景の中に伸びている。

大きな寺と美しい家並みが連なる場所があった。

敢えて近寄らず、水田を挟んだ距離からじっくり眺めると、素晴らしくいい調和感に嬉しくなった。

ここもまた、なんと素晴らしい出会いなのだろう。しばらく右へ左へと歩いて移動しながら、眺めを楽しむ。

どんどん奥へと進むと、右手が緩い棚田。左手には平地に水田が広がっていく。ここでも一人のお母さんが忙しそうに田んぼの中を歩き回っていた。忙しない足の運びが、水を切る音でも感じられる。

陽が大きく西に傾き、水田を斜めから照らしている。

もう人家も見えなくなったので、途中で引き返すことにする。

戻って広い道路にぶち当たると左折。右へ行けば富来の中心部だ。

左折した道は、山の方へと向かっている。道なりに行くと、旧中島町(現七尾市)に通じる。

クルマから下りると、ちょっと肌寒さを感じるくらいになっていた。

かなり長い山道だと感じた。特にこれと言った特徴はないが、風景には素朴な空気と生活感が匂っていた。

あらためて広い水田地帯を見ていると、これが日本的な農村、山里風景なんだろうなあと思ったりもする。

 かつて、門前剱地・光琳寺のご住職で、歴史研究家でもある木越祐馨先生から、能登の山里について話を聞いたことがある。

その時先生は、今いる辺りの風景も能登を代表するものだと言われていた。

旧門前から旧富来や旧志賀、そして旧中島。さらに、かつて何度も訪れた旧能都町や旧柳田村、そして輪島や珠洲や内浦などの山里風景には、ほっとするというよりも、ハッとするといったものとの出会いを感じたりもする。

生活感覚は変わっても、やはり変わらないものはある。それは自然をベースにしたものだ。

しかし、過疎という不気味な現象によって、自然をベースにしたものたちが、何かに形を変えようとしているようにも感じる。

奥部で目にした、かつての水田の跡。道も、通るものがいなくなり、少しずつ土に被われ隠れていく。

自分の居る場所も、タイムスリップした後のように感じて怖くなった。

道が自然に消えていくというのは、恐ろしい。

単調とも言える道なりの風景。単調と思えるようになったということが、その中に溶け込んだということなのだろうと勝手に解釈する。

道沿いに立派な構えの神社があった。国指定重要文化財・藤津比古神社とある。

何気なくクルマを止め、境内に立つと、そこからも水田の眺望がある。

何があるわけでもないが、何かがある。何かがあるようで、何もなかったりもする。

人の生活というのは、本来そういうものだったのかも知れないとも思う。

時計を見て、再びクルマへ。太陽は山蔭に隠れようとしていた。

やがて能登有料道路の横田インターへと近づいていったのだ。次はどこへ行こうか……

 

 

3月が終わろうとしている頃の諸々話

三月は慌ただしく過ぎていき、気が付くともう月末(勝手を言いますが、「つきずえ」と読んでいただきたい……)と言った具合に終わりを迎えつつある。

次女の就職に伴う引っ越しや卒業式などといった身内的事情もあったが、この季節はやはり何かが動く時期で、それらに直面したりすると、とにかくひたすら慌ただしいと感じることになっているのである。

しかし、スケジュール表をあらためて見てみても、決して書き込みがすごいわけでもない。むしろ、一月や二月の方がぎっしりと予定が入っていた。

やはり、ちょっと気になることや心配を伴う予定があったりすると、ニンゲンは以前からそのことを気にかけるようになり、同時にまだ訪れていない慌ただしさも背負ってしまうのだろう。

三月も終わりに近づいて、玄関にはもうテレマークスキーの板もブーツもストックも用意されている。

長女のボードも置かれているが、あれは単なる片付け遅れで、こちらのテレマークとは立場が異なる。こちらはいよいよこれからが活動なのである。

三月も後半になると、少しずつ体が疼き始める。晴れる日が来そうになると、何はともあれ、会社を休むためのシミュレーションをすることにしていて、若い頃はそのとおりにできた。確実に休みをとっていたと言っていい。

しかし、最近では歳も喰ってきて、仕事もそれなりにズシリと肩から背中の真ん中あたりにのし掛かってくるものだから、ほとんどがシミュレーションで終わる。

家で、明日休んで行ってっかな…などと口にしても、家人は「日焼け止め、持って行かんなんよ」と言うくらいで、絶対に行けないと見透かしている。で、実際にはやはり行けないのである。

『四月になれば彼女が来る…』といったサイモン&ガーファンクルの名曲があったが、ボクにとっては四月になれば山へ行く・・・なのであった。

 

次女の引っ越しは、京都から草津(滋賀)という約一時間弱くらいの移動だった。

長女の時は京都から内灘(石川)で、引っ越し業界の雄・Sカイさんが見事なチームワークと気合の入れ方でコトを済ませてくれたが、今回の場合は就職先が提携している運送屋さんが独りでやってきて、ウ~とか、ア~とか言いながら、とにかく時間がないんです的に頑張っていた。

おかげでボクも荷物の積み降ろしを手伝い、久しぶりに鈍っていた体に緊張を与えることができたのは喜ばしいことだった。

休日の京都は、入るにも出るにも大いに時間がかかる。そこで、ひたすら時間がない運送屋さんが教えてくれたのは、比叡山を経て大津へと抜ける「山中越え」というルートだった。

我が家のマイカー史上、初の搭載となったカーナビゲーションとかいう文明の機器が威力を発揮した。と言っても自分のクルマではなく、家人のクルマのである。

京都はかなり行き尽くしていたが、「山中越え」を利用するのは初めてだった。

昔、朽木街道(今は鯖街道の方が名が通っているか)を経て大原へ行ったり、千日回峰という修験の道に興味を抱いて比叡山へ出かけたりしたことは何度もある。

さらに、大原から林業関係車両しか通らないような杉林の中の道を経て、最後は鞍馬まで行ったこともあった。しかし、「山中越え」の道の存在はなぜか知らなかった。

時々小雨が降ったりする山道は急カーブの連続で、ちょっと緊張が強いられた。

しかし、沿道の風情は時折ドキッとするくらいに気を引いたりもした。

 

草津という街は、国道1号線がズバッと突き抜けていて、一見分かりやすいところだった。

次女がこれから住む街だからと、それなりに思い入れも持ってきたつもりだったが、引っ越しの慌ただしさの中では当然そんなことに執着していることもできない。

ただ、生活していけるだけの空間づくりを手伝って買い出しに行き、スーパーの前にあった小さな洋食屋さんで昼飯を食い、それから持ち帰るものを積んだりしているうちに時間はなくなった。

それから一週間後には、また京都にいた。今度は卒業式だ。

長女は卒業後いつも京都行きに付いてくるが、ほとんど大学時代の友達と会うためで、交通費を浮かしている。今回も京都に着くとすぐ大阪にいる友人たちとのランチに向かっていた。

今回の京都行きにはそれなりに意味があった。

次女もいなくなれば、これから先京都への足も遠のくかと、思い切って町家の小さな旅館を予約したのだ。ところが、予約は何とかとれたが、当日の朝、その旅館を見つけるのに往生させられた。

すぐ近くに来ているにもかかわらず、見つけることができない。

近所のお店のお兄さんに聞いてようやく分かったが、想像した以上にひっそりと佇む宿だった。通りも歩行者と自転車だけが利用できるだけ。

客の半分ほどが外国人で、ボクが狭い階段付近で遭遇した三人の女性グループも、サンフランシスコから来たと言った。

「コンニチワ」と声をかけられ、顔が全く日本人だったので、カンペキに同朋だと思ったのだが、とにかく驚いた。

三畳間が二つくっ付いたような部屋で、四人家族が寝た。低い天井の梁には、少なくとも五回はアタマをぶつけた。バス・トイレ付だったが、着替えなどには気を遣った。

山小屋で狭い空間には慣れているが、そこは京都の宿だった。

夜は周辺を歩き回り、文句なしの京都を感じ取ってきた。もちろん、酒も飲んだ。

やはり、三月は慌ただしかったのだ。

四月になれば、この慌ただしさも何となく楽しみを伴うものに変わっていくだろう。

桜も咲けば、残雪も輝く。次女のことを時折思ったりしながら、三月が終わろうとしている……

 

 

雨の朝の山里の道・・・

前号の続きである。

つまり、羽咋の滝周辺で文化的匂いを嗅いでから、再び有料道路に乗ったのである。そして、しばらく走って今度は西山インターで下りることにした。

ここから志賀町を経て、輪島市へと向かう。

ちょっと前までの行政区分で言うと、志賀町から富来町に入り、門前町を経て輪島市に入ることになるのだが、今は表現があっ気ない。

どんなところでも小さな旅気分を味わえる…それが自分のやり方と、ちょっと自慢してきたのだが、最近のこのあっ気ない通過点の表現には寂しさを感じる。

まあ、そんなことはどうでもよく、とにかく西山で下りて、また国道249号線を北上。能登半島の外浦側を先端に向けて走るのだ。

途中で広域農道へと右折すると、その道は山間をひたすら真っ直ぐに、そしてアップダウンを繰り返しながら伸びている。

以前に『富来から門前への道1』、『・・・2』で書いた道だ。

あの日は夏真っ盛りで、山里はほぼ緑一色だった。

そのあとも何度もこの道を走ったが、ついこの前まで雪で被われていたのに、もうすっかり雪解けが進んで、北国の春らしき匂いさえ感じさせている。

山間に入り、しばらく走ると途中に小さな集落がある。水田を経て山裾にかわいい神社が見える。ずっと気になっていた小さな社だ。

思い切ってハンドルを切り、集落とは反対方向の細い道に入った。

すぐに道は行き止まりになり、小さな川に架けられた小さな橋を歩いて渡る。

愛宕神社と彫り込まれた真新しい石柱が建ち、社もそんなに古さを感じさせない。

すぐ背後が斜面となっていて、畑のようだ。以前に道路からこの畑を見た時、老婆らしき人影が立っていたのを思い出した。

誰かがいれば、それなりの物語も聞けるのであろうなあと思いつつ、そんなチャンスは滅多にないことも知っているので諦める。

いつものように、淡々とした立派な道路が申し訳ないくらいに延びていて、同じく申し訳ないくらいの少ない走行車両に恐縮しながら走る。

この高品質な道路が終わりに近づく頃から、この道中の本当の楽しみは始まる。

道のすぐ近くに三棟ほどの家屋が並ぶところがある。

金沢からの方向で言うと道の左手だが、山蔭にあるような感じで、逆走している時の方がはるかに見やすい。

この三棟はたぶん一軒の家の住まいやら小屋などではないだろうかと思うが、確認はしていない。

この家のある山間の小さな空間は、とても不思議な感覚をもたらした。

広域農道という近年整備された道路から見ていれば何でもない風景なのだが、この道路がなかった頃のこのあたりの風景とはどんなものだったのだろうと、想像を膨らませた。

昔(といっても、戦後までの話…)、旧門前の“いしる”売りの女の人たちが、山越えをして旧富来の山里にまでそれを担いで届けに行ったという話などは、この家を見ていると想像の中に具体性をもたらしてくれる。

そして、広域農道などという今風の道路がなかった時代の道はどうなっていたのだろうと、さらに想像の世界を大きくする。

去年の夏、旧盆の初めの頃に通った時、ある光景が目に飛び込んできた。

道路を挟んで、反対側のちょっと高台になった場所に、二つの墓が立っているのを見つけたのだ。広域農道は、家と墓とのど真ん中を通っていた。

キリコが下げられ、二、三人の人影が見えた。そこまで通じる小さな道らしきものも確認した。

広域農道がなかったら、家と墓は素朴に繋がっていたのだと思う。

それにしてもクルマのなかった時代の、この家の人たちの生活空間とはどんなものだったのだろう……?

広域農道が終わって、仁岸川上流の山村集落に来ると、夏は緑一色だった山間の水田も、今は雪解けの季節で、灰色の空を映し込んだりしているだけだ。

ここは何度も通り抜けたりしているが、正直言って、まだ人の姿を見たことがない。

水田で農作業をしている人の姿は遠目に見たことはあるが、道を歩いている人などはお目にかかっていないのだ。

夏や秋には道端にきれいな花も咲いたりしていて目を和ませてくれたが、今は色気のあるモノは何もない。

集落のはずれ、ちょっと下ったあたりにクルマを止め、仁岸川の橋を渡ってみた。

特に何があるわけでもないが、何となく地形によって変則的に作られた水田を見たくなった。

奥能登は今、千枚田をイメージシンボルみたいにして、里山里海なんとかに力が注れている。

しかし、ボクは奥能登の農村風景を語る時には、この場所のような風景を軸にするべきだなどと思っている。

古い話だが、都会のある小学生が、夏休みの宿題の図画で能登半島ドライブ旅行のことを描いたが、山の中に道路を一本描いて提出した。

先生はそれを見て、「能登って海でしょ。なぜ海で遊んだことを描かなかったの?」と聞いた。

そしたら、その生徒は「だって、ずっと山ばっかだったよ」と答えたというのだ。

その生徒にとっては、海よりも山の方が印象深かったのだろう。そんなこともあるのだ。

山ばっかりとは当然言えないが、能登は山間を経て海へ抜けるというか、逆に言えば、海岸線の漁村と山間の農村によって成り立っている文化をもってきたのだ。

ところで、ボクは「里山」という表現よりも「山里」の方が好きだ。

なんで今更、里山なのだろうか?と、首を17度ほど傾げてしまう。

たぶんその方がオシャレなのだろうが、本質を伝える言葉としては、山里にボクは軍配を上げる。人の生活を感じさせる響きがある。

 

小粒の雨が、またぽつりぽつりと落ちてきていた。

しかし、山肌からは、少し明るくなった空へと水蒸気が勢いよく昇っている。

山の世界では、これから晴れていく兆候だと教えられた光景だ。

ビギナーの頃、梅雨真っ盛りの剣岳登山で、川のようになった早月尾根の道を登りながら、虚しく聞いた思い出がある。

クルマを下りて、勢いを増す水蒸気たちを見上げた。

仁岸川を下って、日本海……。

しばらく走ると、いつもは堂々と聳えるはるか前方の猿山岬に雲がかかっていた。

まるで、日本海沖へと突っ走る蒸気機関車のようだ。

またしても、クルマを下りずにはいられなくなった……

 

(次号に、つづく)

雨の朝 小さな町にて

小雨の朝、輪島に向かってかなり早めに家を出る。

早めに出るのは、羽咋の滝町周辺に立ち寄りたいからだ。

八時前には完璧に羽咋にいた。そして、国道249号線を走りながらあるものを見つけた。

志賀町方面へ向かう右手、気多大社の上り口のすぐ手前あたりだ。

こじんまりとしながらも、堂々とした立派な山門が視界のほんの一画に飛び込んできた。

こういう時は、通り過ぎた直後にピーンと来るものだ。戻ってみよう…と。

ご存知の方も多いと思うが、石川県羽咋市というのは文化財の多いまちだ。

重要文化財の数では金沢より多く、石川県では最多を誇るのではなかったろうか。かつて羽咋の観光の仕事をしていた頃聞いたことがあるのだが。

そんな羽咋だから、これくらいの山門があっても不思議ではないと思いつつ、自分が初めて見るものだということにも、正直ちょっと驚く。

あとで地元の生き字引的ご意見番・F野K彦さんに聞くと、これは気多大社の随身門というのだと教えてくれた。

藩政時代の1787年、大工の清水次左衛門により建てられたものだという。

県の重要文化財で、「おいでまつり」という祭礼で、馬に乗った神主が、町を回った後だろうか、勢いよくこの門を走りぬけ大社に戻る。その際に近くの住民らが道路に塩をまき迎えるということだった。

それにしても、この辺りはやはり文化的匂いがプンプンする。

その門をじっくり見ていたら、藤井家にも久しぶりに寄ってみたくなった。

藤井家は、民俗学者・国文学者であり、釈迢空(しゃくちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった、折口信夫が一時住んでいたという旧家だ。もう空き家になってから久しいが、近くの親戚の方が管理されているという。

ちょっと前に新聞で紹介され、少しは名前が知れたかとも思うが、やはりまだまだ知らない人が多いだろう。

正直、折口信夫自身に強く惹かれているわけではないが、周辺の空気や家そのものに興味がある。

いつもなら気多大社の駐車場にクルマを止めて歩くのだが、さすがに時間が乏しく、家の近くまでクルマで行かせてもらう。

狭い道に恐縮しながら、なんとかクルマを止め、開けられてある門から前庭に入った。

ここへ初めて来てから何年が過ぎただろうか。観光資源の取材で外観だけ見に来たのだが、その頃は大して評価していなかったと思う。

しかし、その後、小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)の話などを聞いていくうちに、それなりの価値観が生まれ、さらに地元のF野さんやO戸さんたちとの親交が深まるにつれ、藤井家の存在はぐっと身近なものになった。

貴重な資料などはほとんど残っていないらしいが、小林先生もその価値を認めていた。

藤井家を記念館的に開放活用しようなんて、そんなこと考えるのナカイさんぐらいだよと言われるが、暖かくなったら、中をゆっくり見せてもらうことにしており、三十年ぶりという先生もお連れするつもりだ。

いつもの滝町の方へと向かうことにして、再び国道に戻り、そのまま海沿いの道へと入った。

汐さい市場・滝みなとは、やはり開店前。

前日、O戸さんから九時開店と聞いていたので諦めてはいたが、何となく店の前にクルマを止めて、漁港の方を眺めたりした。

一宮の海岸も静かだった。まだ小さな雨が落ちていたが、波は穏やかで、地元の人だろうか、傘をさした男の人が独り砂浜を歩いていた。

もう一度、汐さい市場・滝みなとへと行ってみたが、まだ九時までには時間があった。

有料道路に戻り、しばらく走ると雨も完全に上がっていた……

(この続きは、次号に…)

秋の終わりの上高地を歩く

秋の終わりの上高地へと出かけてきた。

八月にも夏真っ盛りの上高地に出かけてきたが、その空気の違いに納得しつつ、どこか奇妙な感覚にもなった。

それは、秋の終わりなのに冬の始まりの匂いを感じなかったことだ。

かつて何度となく足を踏み入れた上高地だが、何かがおかしい。

これは当然上高地に限ったことではないが、大好きな山の世界のことなので、少々拍子抜けなのだ。

本来あっておかしくない雪は、奥穂高の稜線にわずかに薄らと載っかっている程度だった。

暖かくて、歩くには申し分ない。しかし…と、余計なことを考える。

河童橋の脇に立ち、岳沢から突き上げるようにして聳える穂高連峰を見上げた。青空の下に秋の岩肌が鈍い光を放っている。かつて秋の白馬で、岩肌に西日が当たる重厚な山容を目の当たりにしたことがあったが、今の穂高も陽を受けて美しい。

岳沢まで登って見上げれば、その雄々しさに言葉を失うだろうなあ…と、強く思う。

トイレを済ませて、すぐに小梨平から明神の方へと向かった。

梓川左岸の道は、左岸と言うほど川と接していない。鬱蒼とした森の中の道というイメージがメインだが、今は葉も落ちて裸木が無数に立ちつくしている。その裸木の肌を木漏れ日が浮かび上がらせる。

ひたすら歩いて、ひたすら秋の終わりらしい光景を探し、ひたすらファインダーを覗いてシャッターを切ることにした。

しばらく歩くと、明神岳のごつごつした山容がはっきりしてくる。

かつて、そのゴリラの顔のような山容に親しみを抱き、じっと見上げていた場所があった。その場所がかつてのようなのどかさを失って荒れている。自然の世界では不思議なことではない。

河童橋から約一時間。明神池の入り口に建つ「明神館」の前の陽だまりで昼飯を食った。

そして、明神館の売店に入る。シーズンも終わりに近く、中はがらんとしている。スタッフらしい若い女の子に、明神館名物?の手ぬぐいがあるかと聞いた。ありますよという元気な声が返ってきた。ずっと欲しいと思いつつ、買い込んでなかった手ぬぐいだ。ようやく手にして、何だか妙に嬉しくなった。

明神池は秋の真っ盛りをとうに過ぎていた。

美しいが、さらに美しい秋の風景を知っている。だが、この風景もまた明神池だ。

背後の山をくっきりと映し込む穏やかな水面をマガモのツガイが泳いでいた。しばらくすると、すぐ足もとまで近付いてくる。人慣れしたマガモにこっちが照れる。

午後に入って、空が曇り始めてきた。

河童橋に向かって、右岸の道を戻ることにする。

途中、上高地の名物ガイドだった上条嘉門次ゆかりの「嘉門次小屋」があるが、以前より拡張して大きくなっていた。囲炉裏から流れていた煙など見えない。

道はぐねぐねと曲線を描いたりしながら、梓川に近付いたり離れたりを繰り返す。

夏は多くの人のすれ違いでうんざりする木道も、ゆったりと歩けて、気の向くままにカメラを構えたりしている。

周囲を見回す視線もゆったり、そのせいか枯れ木や倒木などの造形や、沢のせせらぎの変化などに敏感になれる。

こんな開放的な気分に浸れる上高地は何年ぶりだろうかと考えた。

上高地を通過点にしていた時期。朝早くに急ぎ足で歩いていた頃にも、たしかにゆったりとできる時間があったはずだが、その頃は目的地が山だった。今いるような場所への関心は薄らいでいた。

時も過ぎて、今は上高地の別な顔を見出している自分に納得している。

ブラブラと歩きながら、時折道から少し離れてカメラを構える。それを繰り返しているうちに河童橋へと戻ってきた。

見上げる穂高連峰は、西穂高から流れてきた雲によって、奥穂高あたりまでが姿をぼかし始めていた。

人のいない河童橋を渡り、もう十分だと、五千尺のカフェでコーヒーを飲んだ。

窓際に座ると、ガスに巻かれた穂高の山並みが見えていた。

今回の上高地で、強く思ったことがある。それはこれからもずっとここへ通おうということで、あらためて自分の原点みたいなものが上高地にあるような気になった。

文句なしに美しく雄々しいものを前にした時、ニンゲンはひたすら素直になれることを、いい歳をして再確認した。

上高地…。相変わらずいい響きなのだ……

 

門前黒島で、いしるづくりを見る

 

朝九時、快晴。通い慣れた山里や海沿いの道を経て、また門前黒島へとやって来た。

クルマを角海家裏に止め、背伸びしながらまずは目の前の海に目をやる。猿山岬が鮮明に見える。先端の灯台も白く光っていた。

いつもお世話になっている黒島区長のK端さん宅へと向かう。相棒は学芸員・K谷だ。

歩き慣れた黒島の町中だが、すれ違う人の多さに新鮮な感じを抱く。といってもほんの数人のこと。朝だからだろうか。それとも秋になって過ごしやすくなってきたからかもしれない。皆さんが、おはようございますと、にこやかに声をかけてくれるのも嬉しい。

当たり前のことに気持ちがリラックスしてくる。

K端さんと行くのは、“いしる”を作っている作業場だ。ちょうど今が仕上げの段階で、瓶詰していく最終工程が見れるということだった。

K端さんから急な電話をもらってから、その日が空いていることにホッとして、他の予定は入れないようにした。

とてつもなく心弾む?仕事だ。角海家の蔵を紹介する映像システムに画像を補充するという重要な使命がある。

国道249号線、黒島は変則的な区域になっているが、国道の海岸沿いに、いしるや糠漬けなどを作る作業場が二軒並ぶ。大きい方の一軒はT谷さん、そしてもう一軒がその日お邪魔したSさんという作業場だった。

空気が澄んでいて空も海も青い。十月の下旬に入ったとは思えないほどの日差しもある。

クルマを降りると、すぐに独特の匂いが漂ってきた。外の窯に載せられた鍋から白い湯煙りが上がっている。

近付くと、匂いは明確に魚の風味をもったものと認識できるようになり、鍋で温められた液体の中から、アクのようなものを取る作業が続けられていた。

いしるについて今更説明する必要はないだろうが、この辺りでは、かつてほとんどの家庭で作られていたという。それぞれの家で特有の味があったとK端さんも話していた。

夏、黒島の老人たちに集まってもらい、昔の生活風景などを語ってもらった(その時の映像は角海家で見ることが出来る)が、この辺りのいしるの原料となるイワシに関する話は特に楽しいものだった。

その中でも“こんかいわし”の話には、老人たちの少年時代の思い出がいっぱい詰まっていた。

山へ薪拾いに行くのが仕事のひとつだったという少年たちは、目一杯詰め込まれたご飯に梅干しが入れられた弁当箱と、家で作った“こんかいわし”を持たされた。そして、昼どきになると枯れ枝などで火をおこし、その火で“こんかいわし”を炙ってご飯の上にのせ食べたという。

その光景を思い浮かべただけで、口の中に唾液が湧いてきて困った。

戦後すぐにはイワシの大漁が続いた。戦争から戻ってきた男たちはすぐにそのイワシを追って海に出た。浜辺にはイワシを捕る漁船が並び、大漁に沸いた。大漁は五年ほど続いたが、乱獲が影響したのか、そのままイワシ漁は終わりを迎える。

いしるは、イワシの最後のエキスみたいなものだ。新鮮で形のいいものは、当然そのまま食用となる。そして、少し傷のついたものはこんかいわしに加工される。さらにかなりひどい状態になったものが搾られて、いしるを出すのである。ついでに言うと、そのカスは肥料にもなった。

この作業場では、アクを取ってきれいになったいしるを、さらに布で漉(こ)し、それを一升瓶に詰め、出荷するという。一般の店には置いていないらしい。

訪れた作業場では、海外航路の船員を引退したKさんが一人で作業をしていた。すでに七十歳を過ぎているという。冬の寒い時季には腰を曲げたりしながらの辛い仕事だろうと推測でき、もう自分で終わりになるだろうという意味の話も聞かされた。

作業場は古い木造の建物だ。能登の大震災の時には激しいダメージを受け、修復のために長く仕事はできなかったらしい。

小さな電燈と窓外からの明かりだけが、作業場に生気を与えているが、その息を潜めた生気に逆にほっとしたりもする。

中で使われている樽やさまざまな道具類が、地道な仕事であることを物語る。こういう作業場でよく言われる菌の存在も、なるほどと肌で感じるほどだ。建物の梁や柱、そして積まれた樽などがナニモノかを醸し出している。

すでに新しい道具類で作られているところが多いらしいが、ここでは年季の入った道具が目立っていた。

 外に出ると、日差しが眩しかった。屋根瓦も太陽の光を反射している。その上の青空には、ぼんやりと月が浮かんでいる。

この辺りの砂浜では、かつて塩も作られていた。今は観光化された塩田が輪島と珠洲にあるが、とにかく海の恩恵を受けられるものは何でもやっていた…と、海浜植物で埋め尽くされた作業場の裏を見ながら、K端さんが話してくれた。

一時間近い取材を終えて、Kさんに礼を言う。次は冬の作業の取材をお願いしますと申し込むと、ああ、またどうぞと、Kさんは笑って応えてくれた。

 

K端さんのクルマで黒島の町中をめぐり、角海家へと戻った。

のどかそのものといった真昼の黒島。日差しを受けた古い町並みは静寂に包まれている。そんな中での立ち話は三十分ほど続いた。

話題は角海家を中心としたこの地区の近い将来のことなどだった。相変わらずむずかしい課題が待つ。K端さんと別れて中に入ってからも、角海家に勤めるY内さんらと同じような話題になった。

 

自分自身も、まだその考え方が整理できず歯がゆい。そして、その歯がゆさはどんどんエスカレートしていくばかりだ。

もう一度日差しの中に出て、いつものように角海家横の石畳の道を、海に向かって歩いた。腹が減っていた。

K端さんも帰り際に言っていたが、何となく “いしるの匂い”が鼻から離れなかった……

郡上八幡~あれこれの一日

恥ずかしながら、この歳になって初めて郡上八幡を歩いてきた。そして、今更ながらになかなかいいところだなあと思ったりもした。

普通この歳になって初めてというと、パリのなんとか通りに七回も通って、やっと自分に合った美味しいカフェと出会ったよ…などというのが正しいのだろうが、残念ながら今のところも、近い将来もそういったことは考えられない。

さて、五箇山、白川、荘川、清見、ひるがの・・・、そして、郡上。順番は曖昧だが、このあたりは東海北陸自動車道や国道156号で繋がれていて、とても分かりやすい。そればかりか、風景も生活の匂いも似通っていて、昔から安心して訪れることのできる大好きな一帯だ。

秋も深まりつつある十月の、ある快晴の一日。まだまだ紅葉には早いが、夏の暑さからも解放された飛騨路には、相変わらず多くの人がやって来る。ちょうど秋の高山祭の日と重なったせいだろうか、名古屋方面からのクルマは見事に数珠つなぎだった。

行きは高速、帰りは低速(下道)が、このあたりに来る時の決まりになっている。当然、帰りの方が楽しい。

快適に行きの高速をこなして、九時半頃には郡上八幡インターで下りた。家を出て約二時間。

とりあえず行き当たりばったりの行程だから、いきなり方向を間違う。これもほぼ想定内のことだが、リカバリーが重要だ。それと不幸中の幸いと言うやつも、ないよりはあった方がいい。

ああもう間違っているなあ…と分かった頃に、幸いと遭遇した。長良川鉄道の郡上八幡駅に着いたのだ。予定していなかった場所なのだが、できればやはり見ておきたい場所である。

なかなか雰囲気のある駅舎が、背後の小高い山並みを背景にして静かに建つ。若い女の子がひとり佇んでいる。一人旅、しかも鉄道利用というところがいい。見た目だけでなく、心も逞しそうな女の子であった。

駅の中もシックで、待合室では駅員と地元の利用者らしき男性とが、普段着のままの会話を繰り返している。奥には古い鉄道資料の展示コーナーがあったりする。電車は来なかったが、ホームの雰囲気もひたすらよかった。

郡上八幡と言えば、まず郡上八幡城へと登るのが正しいと思って来た。それがどういうわけか、まず駅に行ってしまったのだが、小さな町なので案ずることはない。城への登り口を見つけると、一気に登り詰める。

クルマで行ってもいいのだろうかという狭い道なのだが、城の真下まで来るとちゃんと駐車場があった。それに一方通行になっていて、帰りは反対側に下ればいい。

周辺がきれいに整備されていた。城郭を見上げたり、城下のまちを見下ろしたりする見せ場がある。城自体も美しい。歴史的にはさほど重要とは思えない城だが、やはり山城の雰囲気は好きだ。

永禄二年(1559)の建造らしい。というと、武田信玄・上杉謙信が戦った川中島の合戦の最激戦があった永禄四年の二年前か…と知見を披露しようとしたりする。このあたりの話にピンとくるのは、よほどの戦国通だが、そんな時代にこの城が出来たことなど、歴史には出てこない。

思いっきり話を脱線させるが・・・・・・・・、永禄四年の川中島の合戦では、武田軍の有名な戦術家・山本勘助が戦死した。勘助の作戦によって信玄の弟信繁も戦死。武田軍は上杉軍よりもはるかに多くの死者を出した。世の中の多くは両者互角などといった非現実的な評価を下しているが、あの壮烈な戦いの中で最後に川中島一帯の雄大な土地を有したのがどっちであったかを考えれば、勝敗ははっきりしている。武田軍が勝ったのだ。

武田信玄と上杉謙信。戦国時代、最も強かったと言われるこの両者の中では、常に謙信が美化されてきた。大河ドラマでも石坂浩二やガクトなどが演じてビジュアル系は謙信の方だった。

しかし、現実の謙信は毛深くて男色(生涯独身…)で、戦でも常に大義名分や正義ばかりを唱え、自分を毘沙門天の生まれ変わりみたいに錯覚していたと言われている。要するに統治能力のない、戦争好きの、この前まで戦争ばかりしていたどっかの国の大統領みたいなものだったのだ(かなり個人的な感情も入っているが)。政治が上手く、家臣たちを大事にした信玄とは人間の器が違っていた。

ついでに書くと、信長も家康も武田軍の前では、NYヤンキースと横浜ベイスターズみたいなもので、戦は五回コールド。

家康は三方ケ原というところでボロクソに蹴散らされ、わずかな家来と共に城に逃げ帰った。武田の軍は巣に逃げ帰った子狸など追いもしなかった。

信長は最強の武田軍が上洛する報せを聞いて、逃げる手段や命乞いの言い訳に苦慮していたが、信玄はその途上に駒場というところで病死し、天下統一の夢は果ててしまう……。

歴史は信玄の味方をしてくれなかった。もし、信玄が天下を取っていたら、あの下品極まりない秀吉も世に出てこなかった。前田利家なんぞは、愛知の山の中で兼業農家をしていたかもしれない。

金沢も今のような金沢にはなれなかっただろう。兼六園もなく、武家屋敷もなく、伝統工芸も伝統芸能もなく…とは言わないが、平凡なひとつの都市になっていたにちがいない。

 大学時代の最期の方から、社会人の初めにかけて、ボクは山梨の友人の影響を受けて、武田信玄の足跡を追った。それもかなり並はずれた追い方で、多くの本を読み、ゆかりの土地にもほとんど出かけた。さっきの川中島合戦の実況中継も、できないことはない。

 ………そんなことを思い出すきっかけとなった郡上八幡城。 城内は幾層にもなっていて、最上階から眺める城下のまち並みが美しい。やはり川の流れが特徴的だ。

城を後に一気に下ると、山内一豊と妻の千代の像があったりする。大河ドラマで仲間由紀恵が演じて有名になった千代だが、その父親が郡上八幡城の初代城主だったという。

町中の狭い道をたどって、郡上八幡博覧館という施設の後ろにクルマを置き、そこを見学してから柳町と言う古い家並みが続く裏道を歩く。安養寺と言う大きな寺があり、その前に湧水が出ていた。カップも置かれていて、飲もうかなとちょっと躊躇していると、後ろから来た若い女の子たちが一気に前に出てきて、がぶがぶと飲んでいった。

ここで飲むと間接なんとかになってしまう。さらに躊躇し、結局飲むのをやめた。

昼飯はというと、もちろん郡上八幡では“うなぎ”ということになっている。吉田屋さんという名前の知れた?うなぎ屋さんがあって、迷うことなくそこへと歩く。

予想どおり待たなくてはならない。ただ待っていても仕方ないので、名前を書いてから外に出て、すぐ横にあるおみやげ品のスーパーみたいなところをブラブラする。店もでかいが、その商品構成たるやも凄い。それと、郡上八幡はサンプル品のメッカらしく、食品のサンプルがずらっと並ぶ。専門店もあったりして、その精巧さに驚かされた。

出てきたうな丼は、豪快な盛り方で、脂ののった美味い昼飯となった。

クルマを取りに戻り、今度は本町の駐車場に入れる。さっきは無料だったが、今度は五百円止め放題。

ようやく郡上八幡らしい古いまち並みと川の流れを、たっぷりと楽しむことにする。

川は、長良川に注ぎ込む吉田川というのが町の中心部を流れ、その吉田川に小駄良川という小さな川が流れ込む。それも美しい。

まず、郡上八幡のシンボルと言われる宗祇水という湧水のあるところへ下りて、小駄良川にかかる清水橋という朱塗りの橋を渡る。しばらくして吉田川と合流する河原に出ると、子供たちの水遊びをしている歓声が聞こえてきた。まるで演出されてでもいるかのような光景だ。石の上を渡りながら、流れの中の方へと行ってみる。流れは早く、水はあくまでも透明だった。

吉田川の流れも格別に、ただひたすら美しい。親水遊歩道と名付けられた道を歩きながら、あまりの水の綺麗さに何度も唸る。白い大きな犬が水の上を泳いでいる。

子供たちが川に飛び込む光景で知られる新橋に立つと、あまりの高さに足がすくんだ。これはちょっとどころか、かなり勇気が要るぞと驚く。四万十川の橋から飛び込むのは、まだやれそうな気がしたが、ここは無理だと腰を引いた。

郡上八幡旧庁舎会館をぶらついた後、町中に戻るようにして、乙姫川という可愛らしい名の付いた川沿いの道に入る。川というよりは整備された用水みたいな小さな流れだ。このあたりの佇まいも落ち着いた歴史感というか、もっとシンプルで静かな生活感みたいなものを漂わせていた。

人が多いのに本当に驚かされる。小さな美術館もあったりして、一ヶ所に落ち着かせてくれない。

古い商家の座敷が喫茶になった店に入って、ようやくコーヒーブレイク。ボーっと庭を見ながら…と思ったが、この中もひっきりなしの客で慌ただしかった。

ひたすらぶらぶらしながらの郡上八幡。人の流れは夕方近くになっても変わらない。人気の蕎麦屋さんなのだろうか、昼からの列がまだ引いていなかった。

クルマに戻って、ゆっくりと郡上八幡の町を出た。下道をひたすら走る。白川辺りで日は完全に暮れる。真っ暗になった、白川郷を過ぎて、白川インターから高速に乗った。

飛騨古川も変貌した当時唸ったが、郡上八幡はそれ以上だ。城下町であったことが大きいのだろう。福井の大野に似た水のきれいな城下町だが、ボクの中では郡上八幡の方がはるかに上だった。

やはりそれは、飛騨だからだろう。昔から、ボクは信州とか飛騨とかという名前に弱かった。その漢字を見ただけでも参っていた。

次回はいつにしようか? いつも簡単に出かけているエリアだ。いつでも行けるが、もう、また行きたくなっている………

 

瓜生(うりゅう)までの道

 

 石川県河北郡津幡町瓜生。名前を聞いてピンとくる人はまずいないだろう。

 途中で道を聞いたりしてもびっくりされる。そして、「もうちょっと行ったら、また聞いてくれ」と言われたりもする。しかし、道中で聞く相手もなかなか見つけられない。

 広い面積を持つ津幡町だが、瓜生の先はもう羽咋郡やかほく市との境界だ。しかし、道は瓜生で消えてしまい、その先に進むことは出来ない。

 瓜生を知ったのは、今から四年前。旧門前町(現輪島市)に建設された「輪島櫛比の庄禅の里交流館」の展示計画がきっかけだった。

 そこは總持寺の歴史などを紹介する施設なのだが、瓜生は總持寺の第二世・峨山韶碩(がざんじょうせき)の生まれた場所で、その生誕地にある記念碑の写真を撮りに行った。

 總持寺の後を継いだ峨山は、その後、總持寺はもちろん曹洞宗の発展にとてつもない貢献をしている。總持寺は全国に一万四千あまりの末寺をもったが、その基盤は峨山が作ったものだ。

 總持寺を離れてからも、羽咋の永光寺(ようこうじ)に入った峨山は、毎朝その永光寺から總持寺までを往復してお勤めを果たしたと言われている。その山間の道は「峨山道」と呼ばれ、今もその道を踏破するイベントが開かれているが、その距離なんと五十キロあまり。羽咋と門前の険しい山道だ。毎朝のお勤めのために短時間で往復したという伝説は信じがたい。かなり膨らました話にまちがいない。

 ところで全くもってカンペキに余談だが、先日長女が七尾から津幡までワケあって歩いてきた。距離にして約六十キロ。途中で八番ラーメン食ってたとか、京都の友達にメールしていたとか、その他余計な時間も当然費やしてきたみたいだが、昼前に出発して津幡に着いたのが夜中の一時過ぎだった。津幡まで迎えに行くと、六十キロを歩いてきた長女が半死状態でクルマに乗り込んできた。その様子を振り返っても、やはり峨山のスピードはあり得ない……という、それだけの話だ。

  話は大きくそれたが、總持寺に関してもろもろ詳しく知りたい方は、禅の里交流館へ行くべきである。なにしろ年表中の文章やその他すべての文章は中居寿(ヒサシの方ではない)の執筆によるものだ。当然、窮めてまじめに書き下ろした文章ばかりであり、撮影した写真も含めて、しみじみと読み見てもらうのがいい。もうひとつ、資料調査などで苦労した「藩政時代の總持寺」のジオラマ模型も見どころであることを付け加えておきたい。

 さらについでに書くと、交流館の前にある小さなレストランでランチするのもお薦めだ。Uターンしてきた若き青年の作る美味しいパスタなどが味わえる。

 そんなわけで、津幡町瓜生に最初に出かけたのは四年前の七月の暑い最中だった。美しい水田風景が広がり、視界に広がる緑一面の風景に目を奪われた。

 そして今回は、十月。秋空にこれまた秋雲が浮かぶといった、正しいのどかさとやさしさに包まれながらの、のんびりドライブであった。

 瓜生に行くには、ボクの住む内灘からだと、まず森林公園に向かうのが定番だ(…と思う)。途中で津幡北バイパスに乗り、高岡方面へと向かう。しばらくして刈安という降り口でバイパスから外れ、山の方へと入っていく。

 途中、進行方向左側に古い小学校の建物が見える。廃校となった旧吉倉小学校だ。今は津幡町の歴史民俗資料収蔵庫として使われているが、簡単には中に入れてもらえない。そして、そのことを象徴するかのように? この旧校舎の前には奇妙なふたつの像がある。

 ひとつはというか、ひとりは昔の小学校の究極的シンボルで、薪を担ぎながら書に親しむ二宮金次郎(尊徳)さんなのだが、もうひとりの軍人っぽい、とぼけた風貌のオトッつァんはよく分からない。ひょっとしてとんでもない偉い人だったりすることは当然想定されるが、名前は発見できなかった。次回は何としてでも調べ上げねばならない。

 写真は帰りに撮ったもので、西日を背景にしているからちょっと暗く見えるが、この雰囲気の方がなんとなく好きだ。廃校が多くなっていくが、建物だけはこういう風に残していってもらいたい。かつて多くの子供たちの歓声が響き渡ったであろうこうした校舎は、もっともっと大切にされるべきなのだと、つくづく思う。要は活用することだ……

 クルマは美しい斜面が広がる山里の中を走る。稲刈りが終わると風景は一変するが、前に見た夏の活き活きとした生命感は消え、何となく息遣いも抑えられるような気配を感じる。しかし、クルマを降りると風が気持ちいい。

 農作業で使われる道にも秋の気配がしっかりと漂いはじめ、しばらくボーっと佇んだりした。

 T字路にぶつかる手前で、畑にいる老人に声をかけた。「瓜生に行きたいんですが、右へ行けばいいんですよね?」 帽子を取った老人が、笑顔で答えてくれる。

「瓜生? 右やけど、この先は興津(きょうづ)ってとこ目がけて行って、また、その先にT字路があっから、そこまた右に曲がって…。そっからは、ええっと、まあ、その辺の人に聞いた方がいいな」

 老人は笑い顔で言った。予想していた返事だったが、ボクはそこでハタと前に来た時のことを思い出していた。

 “峨山禅師生誕の地”だったろうか。しばらく走ればそんな表示の入った案内板が目につくはずだ、ということを思い出していた。

 礼を言って、すぐにクルマを走らせる。しばらく走ると斜面に広がる興津という集落が見えてきた。このあたりはあまり記憶にないが、視界が広がりなかなか美しく気持ちがいい。すぐに峠にさしかかり、そこから下ると国道四七一号とぶつかった。左は羽咋方面だ。

 交差点正面にあった、“峨山禅師生誕の地”。右の方に矢印が向いている。やはりそうだったなと、記憶力にあらためて納得し信号が青になるのを待った。

 国道から再び県道に入り、またしても左折や右折など、案内板の指示に従って進む。

 道は山肌に伸びてぐっと狭くなり、そのうち進行方向の右下に刈り取りの終わった水田が見下ろせるようになった。

  そして、その辺りからしばらく走ると、人家が見え始め、瓜生の集落に着く。

 初めてきた時もちょっと不思議に思ったが、この小さな集落からなぜ峨山のような人物が生まれたのだろう? 集落の大きさは関係ないだろうが、この山深さに不思議さを感じる。

 昔、富山県五箇山の赤尾というところに道宗(どうしゅう)という人がいたが、その人もまた優れたお坊さんだった。しかも妙好人といって、普通の家の人から僧になったという人物だった。赤尾には、合掌造りの岩瀬家の隣に、道宗が開いた行徳寺という寺がある。

 赤尾もそうだが、瓜生もまた山深い土地であり、時代背景的なことを思うと、七百年以上も前に生まれた峨山の生涯は想像の域を超えてしまう。

 峨山の碑は、道が途絶える前にある。小さな川が流れ、ちょっと広い駐車場?があって、その脇から階段を登ったところにある。記憶がよみがえった。

 老婆が腰を曲げ、階段に手をつきながら登ってくる。登りきったところで、こんにちはと声をかけると、曲がった腰をさらに下げ、ちょっと戸惑ったように笑い返してくる。何か言ったように思ったが、声ははっきりと聞き取れなかった。老婆はさらに上にある場所で、近所の人たちなのだろうか、一緒に何事か話し始めていた。

 そう言えば、初めてきた時には人の姿を見ることはなかった。夏の暑い日だったせいもあり、外出も控えていたのだろうか。

 特に何をするでもなく、ぼんやりと川の流れなどを見ながらぶらぶらする。道はすぐそこでなくなっている。道の果てる土地に住むというのはどういうものかなと、ちょっと大袈裟に思ったりするが、なかなか想像が膨らまない。ここにはもう若者の存在もないだろうし…と、余計なことも考えてしまうだろう。

 瓜生はただ行って来たというだけの場所だ。そこに住む人たちと話をしたとか、そういったこともなく、ただ歩いたり眺めたりするだけの場所でしかない。そして、そういう場所が自分には多くある。

 道すがらの風景の素朴さに安心しながら、やっぱりいいなあ…と、そんな思いを新たにした。目的地はもちろんだが道中の風景を大切にするやり方が、自分には合っている。

 帰り道も、焦ることなくゆっくりと初秋の風景に浸れた時間だった……

 

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

富来から門前への道~その1

旧富来町から旧門前町に通じる道にはいくつかあるが、最も知られていないのが、今回のこの道なのではないだろうか…、と秘かに思い、嬉しくなった。

一般的に富来から門前への道と言えば、国道二四九号線だろう。能登観光のルートとしては、増穂浦から西海、ヤセの断崖などを通る道もある。このルートは観光用途であり、最終的に門前に入る時には前者と合流する。

旧門前黒島に堂々と復原された角海家の仕事のために、八月に入ってからもよく門前行きを続けた。始めの頃は、同時に富来というか、志賀町図書館の仕事も並行していて、富来経由門前行きというパターンも数回あった。

初めてこの道を走った日は、富来で行きつけとなった超大衆食堂・Eさん(前に正式名で紹介したような気もするが…)で、いつもの「野菜ラーメン」を、いつも付けている「おにぎり」を付けずに食べてから、ふと考えてクルマを走らせた。

いつも同じ道から門前へと向かっているが、たまには違う道から行ってみたいと思った。そして、ある話を思い出した。

それは角海家の仕事で地元の歴史・民俗に関する文章のチェックをお願いしている、門前のK先生が言われていたことだ。ボクが能登の農村風景が好きだと話していた時、先生が富来から中島(現七尾市)に抜ける道にある農村風景は、特に素晴らしいよと語ってくれた。ボクは門前もかなりいい線いっていると思っていたのだが、先生の言葉にはかなりの説得力があり、是非一度そのことの再確認に出掛けてみたいと思った。

再確認としたのは、何年も前にその道を走ったことがあったからだ。しかし、記憶には残っていない。多分行ってみると、懐かしさに心を震わせたりするのかも知れないが、どうもピンときてはいなかった。

実際に走る道は、中島へ抜ける道から門前の馬場・剱地方面へと分岐していくのだが、その雰囲気は味わえるかも知れない…と思った。それに新しい道というのは、知ってしまうといつも好奇心をくすぐる。さらに、ボクには特別な意味合いもある。

しかし、初めての日は慌ただしかった……

二度目は、富来を代表する超大衆食堂・Eさんが休みで、かねてより少しだけ気になっていた、町の中心部にある古い佇まいの大衆食堂(名前が出てこない…)で、「カツ丼」を食べてからクルマを走らせた。

古い佇まいの食堂では、テレビももうすでに地デジ放送になったのを知らないかのように、夏の甲子園をハレーション化していた。小さなお子さんたちにはかなり目に悪いのではないだろうかと思われたが、そんなお子さんたちがやって来るような店でもないからと安心して、「カツ丼」を注文。

玉子とじ状況が予想をはるかに超えるくらいに著しく過激な「カツ丼」が届いた頃には、ボク以外にまだ誰も他の客はいなかった。が、すぐに、一人また一人と入って来ては、それぞれが四人掛けのテーブルに一人ずつ座っていく。ボクが食い終わらないと、次に入ってくる客は相席となり、当然このままでは順番からしてボクの前に座ることになるであろう。そのことは明白だった。

ボクはそのような空気の中で、とりあえず普通にその「カツ丼」を平らげ、残っていたミョウガとアサリの味噌汁を飲み干して外に出た。素朴に美味かった。これだから富来は凄いのだ……。

味噌汁が効いたのか、汗が胸と背中に均等に流れ落ちていった。いや、どちらかと言えば、背中の方がやや多かったかもしれない。ゴツい造りの店内を見回し、店のお母さんに勘定を払う。“ありがとねェ”と親しみをいっぱいに感じさせる言葉が返って来た。

その言葉がエネルギーとなり、ボクは熱気ムンムンのクルマに乗り込んだ。そう言えば誰かが言っていたなあ。黒いクルマは熱いんだと……。でも仕方がないではないか。

今日は、あの道を究めよう。気温は三十五度近くまで上がっているに違いない。アスファルトが白く見える。

住宅地を抜け広々とした田園地帯に出ると、進行方向の低い山並みの上に見事な入道雲。その先端が、風に揺らされ靡いている。ゆっくりとした動きが感じ取れる。クルマを止めカメラを構えた。〈タイトル写真〉

トラックが通り過ぎていき、熱気が右から左へと移動していく。質量とも半端ではない。鼻のアタマがあっという間にヒリヒリし始めた。いきなりいい場面に遭遇できたことに嬉しくなった。

道は山越えバージョンに入って行く。

能登は海なのだが、能登は山でもある。今風に言えば、里海でもあり里山でもあるという優等生なのである。実はボクにはそのことに関して、ずっと持って来た自分なりの思いがあるのだが、今ここで書くかは分からない。なりゆきでいこう……

陸上をひたすら進んでいくには、真っ直ぐな道がいいに決まっている。昔は海運の発達で海辺にある村が発展するのだが、山里の人たちはそのような海辺の村に行くためにただ山道を歩いていった。

ただ、山道はときどきいくつにも分岐しているから、逆にいろいろな方向へと行けるメリットがあった。海沿いの道には全く分岐がないのを見れば分かるだろう。片側が海だから十字路など存在しない。

しばらく走ると、例えば北海道や信州の山道の何分の一かのスケールで、見事なダウン・アンド・アップの直線道が現れる。本当はカナダやアラスカなどの壮大な例えを出したいのだが、新婚旅行のハワイと万国博の上海しか行ったことのない、幅の狭いボクにはそんな例えが精一杯だ。

しかし、実に爽快なドライブ感覚でもある。下りはアクセルを踏まなくても一〇〇キロ近くまで出た。しばらくは人の生活感を全く感じさせない人工的な道が続いた。次第にあまりにも味気ないので退屈になる。対向車もかなりまばらで、沿線の草は伸び放題になっていた。

待ちに待った山里らしき気配、農村風景への期待が高まってきたのは、下りがずっと続いた後だった……

※後篇につづく……

久しぶりに上高地を歩く

かなり久しぶりに上高地に行ってきた。盆の休みに入る前、どこか予定は?と聞かれ、何もないと軽く答えたら、それはナカイらしくないと言われた。その言葉がグサリと胸に突き刺さった。やはりそうだよなと軽率な返答を反省し、それなら久しぶりに上高地にでも行くかなと、五秒ぐらいの間に決めた。

上高地は最近ずっと気になっていた場所だ。二十代の頃には春の終わりから本格的な夏の始まりの頃合いを見て、いつも足を運んでいた。多いときには、一ヶ月に五回ほどは通った。それくらい上高地が好きだった。

初めは上高地の平らなエリアを歩きまわり、梓川の美しさと樹林帯の静寂、穂高連峰など山々の圧倒的な姿に酔いしれた。平らなエリアだけでも、ほぼすべて歩いて元の位置に戻るまでには、八時間くらいかかる。早朝に着いて、夕方に上高地を出る。当時はマイカー規制のない期間があり、その期間を中心にして精力的に出かけていた。楽しい時間だった。

慣れてくると、歩きまわることよりも、どこかでゆっくりと時間を過ごすことの方に楽しみを感じるようになっていった。

特に誰もいない梓川の河原に出て、せせらぎを聞きながら山並みを眺めている時間は最高だった。想像を働かせていると、江戸時代、上高地で働いていたという樵(きこり)たちの声が聞こえてくるような気がした。新田次郎の『槍ヶ岳開山』に出てくる、槍ヶ岳の初登頂者・播隆(ばんりゅう)上人たちの一行が、近くを通り過ぎていくような気配を感じ、思わず振り返ったりもした。

それらをもたらしていたのは、空気だった。あの時ボクの周りにあった空気は、時代や日常という感覚を超越していたように思う。ボク自身が過敏になり、それを求めていたということもあろうが、そういう空気を自分が歓迎していたことは間違いない。

上高地に通ううち、途中から山深くに入るようになり、上高地は通過点みたいになっていく。それでも早朝や夕方の上高地は新鮮だった。朝は快調に早足で河童橋を出発し、そして疲れ切った翌日の夕方は、開き直りの早足で横尾からの道を戻った。

忘れもしない穂高初山行の時には、梅雨明け直後の晴天の下、一泊二日では厳しいスケジュールにも関わらず、無理やり睡眠時間を短縮して歩きとおし、放心状態で下山してきた。梓川の水が憎たらしいほど美しかった。

横尾から徳沢という場所までの道すがら、ボクは真剣に靴もソックスも脱いで、川の中に入って行き、そのまま河童橋付近までザブザブと歩いて行きたいと考えていた。今で言う熱射病に近い症状だったのだろうが、確かに飲み物というとビールとコーヒーばかりで利尿効果抜群、体内にはあまり水分は残っていなかったのだろう。冷静な思考力などおこるはずがない。

完璧なヤケクソ状態のまま河童橋までたどり着いた。が、休憩はせず、そのままバスターミナルまで進んだ。その頃のボクは休まない登山者だった。たとえば、三、四時間くらいであれば、一度も休まずに歩くということは全く普通だった。

だいたいコースには決まって休憩地点がある。しかし、そこには決まっていくつかのグループがいる。単独であるボクは、ついついそんな場所を避け、もうちょっと先で気ままに休もうと思うのだが、なかなかそんないい場所はない。そのうち休憩などどうでもいいと思うようになり、どんどん行ってしまう。そんなことを繰り返すうちに、ボクは休憩しない登山者になった。しかし、これはよくない。体力を消耗するだけだ。

上高地の思い出にはきりがない。自分でもおかしく思えるくらいに、ひとつひとつが鮮明だ。そしてもうひとつ大切で鮮明なのは、上高地周辺での思い出だ。忘れられないのが、上高地への長野県側からの入り口である沢渡(さわんど)の土産物屋さん。かつて毎年のように立ち寄っていたその店は、いつの間にか店じまいしていた。

長身で上品そうな店の奥さん(その頃からおばあさんだったが)の顔は、今でも何となく覚えている。初めて店に入った時、タバコ吸ってもいいですか?と、ボクが聞いたことから会話が始まった。そのことを奥さんはずっと覚えてくれていた。旦那さんが亡くなり、店の営業範囲が狭くなり、それから数年したら店は閉じられていたと記憶する。

そして、上高地への岐阜県側からの入り口、平湯温泉までの道にある上宝村の風景もまた忘れられない。今回もその素朴な風情に触れてきた。

久しぶりにやって来た上高地は、やはり美しかった。人が多いこと以外は、文句のつけようがないくらいに素晴らしく、さすが上高地だなあと嬉しくなった。河童橋横の五千尺さんは見事に今風に変身していて、今では「いなりうどん」を頼むような野暮なことは言えず、と言っても、登山者のニーズに応えるかのような「山賊定食」などを提供するあたり、これもさすがだなあと思ったりした。

とりあえず定番のような大正池~河童橋コースを歩かせていただいた。どこかによそよそしさを感じたりしたのは、いつも大きなザックを背負い歩いていた自分とは違う身軽さのせいだったのだろうか。何となく、穂高連峰が遠い存在に思えた。

ただ、少しずつ雲が出始めた空を見上げ、雨の気配を感じ、バスターミナルまで急いだあたりは、まだまだ山の感覚が残っていると嬉しくなったりもした。バスターミナルに着いた途端、山特有のスコールがやって来たのだ・・・・・・

門前黒島の 素晴らしき人たち

かなり性格が歪んでいたと思われる台風6号の影響が消え去りつつあった日。旧門前町(輪島市)黒島の空には、久しぶりの夏の青空があった。金沢は一日曇りだったり、雨もチラついたらしいが、ボクたちはとにかく汗を拭きながらの状況下で仕事に追われていた。

といっても、仕事は屋内での映像の収録で、まだ我慢のしようがあったが、午前午後合わせて五時間近く緊張が続いた。話していると唇が渇いた。話が面白くて、何度も仕事を忘れた。何度も書いている、「角海家」の展示に使う地元の人たちの思い出話を収録するという作業だった。

午前は男性六名、午後は女性五名。最高齢は九十歳、最も若い人で八十歳という凄まじい布陣だ。男性の部では後半から、女性の部は最初からとボクも直接参加してナビゲーター役をさせていただいた。高齢化が極端に進んでいる黒島には、その分元気な老人たちが多い。しかも、江戸時代は天領であり、北前船による廻船業で財をなした地域である。誇りもある。

廻船業の衰退後も漁業を続けたり、その子孫たちは働く場を海に求め、ほとんどの男たちは海外航路の船員となって広く活躍してきた。今回集まっていただいた男性陣も、角海家のご当主さん以外は全員そんな船員OBである。中には商船大学を出られ、大型船の船長をされていた方もいる。そういう意味で、その時語られていたことの多くは、黒島の“船員文化”みたいなものだった。

父親の背中を見、海で育ってきた少年たちにとって、海で働くことは至極当然のことであったろう。戦前から昭和の中頃過ぎまでは、給料も非常によかったらしく、家を長期にわたって留守にしながら、男たちは船の上で働いてきた。家には外国からの土産で買ってきた品々が今でも多く残っていると言う。

同じ旧門前町剣地という地区で住職をされ、今回の展示解説についてアドバイスをいただいているK越先生から、こんな話をお聞きしたことがある。

子供の頃に、黒島の子供が「ドックへ行く」というのをよく聞かされ、自分は船員の子供でなかったから、その子たちが凄く羨ましかったという話だ。ドックとは造船所のことだ。定期的に受けなければならない点検のために船は、そのドックへ入れられる。その間に船員である父親に会いに、横浜や神戸などの都会へ家族で出かけるという習慣があったというのである。

都会へ行くということは、よい洋服を着せてもらえる。美味しいものも食べれる。流行などの生活感覚も吸収する。特に黒島という地区は先にも書いたとおり、廻船問屋の子孫が多くいたりして気概も高かった。周辺の地区の人たちもそういう目で見ていた。

今回集まっていただいた人たちは、そういう意味で黒島の中でもさらに上流の皆さんということになる。しかし、さまざまな生活習慣などをとおして語られることの多くは、“奥能登のひとつの村”である黒島を舞台にしたものばかりだった。大正から昭和の初めにかけて生まれた人たちにとって、多感だった時代は戦前戦中になる。そして、朝から夜まで“よく働く母親”を見てきた。家の主がいない中で、母親たちは、何でもやりこなさなければならなかったという。団結する村の人たちも見てきた。自分たち子供もまた、縦と横のバランスのとれた環境下で、兄貴分たちの言うことに服従し、友達同士のつながりを深めていたという。

最近はどこにでもある話だが、黒島でも祭りの衰退が悲痛な問題となっている。黒島には有名な「天領祭り」と、「船方祭り」というふたつの祭りが受け継がれてきたが、かつては多くの若者が祭りだということで故郷に戻っていた。たとえば行列に配置される役割などをみても、贅沢なほど豊かだった。若い娘たちは地毛で日本髪を結うために髪を伸ばし、着飾ったという。ある方から一枚の写真を見せていただいたが、十七歳という娘時代の姿に思わず見惚れてしまった。黒島ではなく、京都の祇園だと言ってもいいような雰囲気が漂っていた。

昔は、黒島同士の縁組が多く、そのことが黒島を維持していくことのできた理由でもあったという。「昨日の晩、どこどこの娘もろうたわいや…」というような話が、当たり前のようにあったと聞かされた。新郎が船乗りで、海外航路から帰っておらず、新婦だけが家に入るということもあったとらしい。ある日、突然知らない男が家に入って来て、それが自分の夫であったと初めて知った・・・そんなこともあったとか。

嫁入りする時の風習なども面白かった。特に嫁ぎ先の家の前に何本も縄が張られ、花嫁を家に入れないようにする風習があったという。そして、その縄をといてもらうには縄を張っている人たちにお金を渡さなければならなかったというのだ。

黒島の人たちは、かつての繁栄やその後の海外航路の船員という職業をとおして、自分の子供や孫に高い教育を受けさせるようにあっていく。そして、船乗りの仕事がアジアなどの船員たちの進出によって低収入化していくと、船員になる子供たちもいなくなった。多くが都会の大学などに進み、そのまま戻らなくなった。もちろん、奥能登に職場がないことも大きな理由のひとつだった。

都会へと出ていった黒島の次世代たちは、そこで結婚相手と出会い、そこで家庭を築く。別にどうということもない当たり前の現象だ。しかし、お嫁さんが黒島や、黒島でなくても能登や石川県の人であればまだいいが、全く異郷の人だと黒島は見向きもされない。先に書いた、昔は黒島同士の縁組が多かったということの意味がそこにある。最近、娘が婿を連れて帰郷してくるという現象が多くなっていると言うが、黒島の場合、やはりそれも定年後の移住などが今のところ考えられる最高のことでしかない。

実は、男性陣の取材の最後に、九十歳の最高齢だった方が、来春神奈川の息子さんのところへ行くことにした・・・と、淋しく語られた。その他の人たちにも、その時初めて話されたような気配だった。終始、俯きながら話す様子に、そう選択せざるを得なかった無念さが伝わってきて、その場がしんみりとした。

やはり、思ってしまう…、こんな素晴らしい黒島を、このままにしておくことは許せない…。 “能登はやさしや土までも”という言葉がある。土までもがやさしい…ということは、人はもっともっと、ハゲしくやさしい・・・ということだ。今回の取材だけでなく、そのことは最近になってまた多くの場面で認識させられる。

取材の終わり際、ボクは皆さんに自分の思いを少し語らせてもらった。角海家をとおして黒島を知ってもらい、黒島をとおして能登の一画を知ってもらう。能登の原点は自然と一体化した歴史や風土であるということだ。そのことをもう一度しっかり認識しなければ、能登という大きな地域性は中身のない空虚なものになってしまう。小さなことから始めないと・・・なのだと。

皆さんを、今回の会場になった旧嘉門家という廻船問屋の屋敷跡から見送る際、是非角海家に足を運んでくださいと告げた。この人たちの魅力が角海家や黒島の魅力を語ってくれると、ボクは何となく思っていた。

お世辞でもまったくなく、ボクは、正直あまりにも皆さんが快活で、知的で、そして楽しい人たちばかりであったことに感動した。

帰る前に、角海家を見に行く。中に入って、いちばん好きな、海の見える古いガラス窓の部屋に足を踏み入れる。それから外に出て、黒島の小さくなった砂浜に下りたり、周辺を少し歩いたりした。復元された佇まいと、海へとつながる石畳の道を見つめながら思ったのは、自分に何が出来るのだろうか・・・ということだった。今日お会いした素晴らしい人たちに、どうやって報いたらいいのか、はっきりと答えは見えなかったが、さらに入りこんでみる好奇心は確実に感じた。

まだ、あの人たちから離れて二十四時間も過ぎていないが、もういちど皆さんにお会いしたい・・・・・

ひるがの高原・夏

 

ふらりと、「ひるがの高原」へ行ってきた。不覚にも初めてだった。

東海北陸自動車道を一つ手前の荘川インターで下りて、道の駅に寄り、そこから一旦何を思ったか逆コースに走り出し、途中のガソリンスタンドのやさしそうなご主人に教えられて正しい方向に戻ることができた。早朝の道の駅には、多くの人たちが採れたて野菜などを求めに来ていたが、夏の朝らしい、ボクの大好きな光景だった。

夏はやはり高原だ。海の近くの村に生まれたにも関わらず、いつの間にか平坦な海を眺めているより、起伏にあふれた山並みを見る方が好きになっていた。

高原という場所のよさを知ったのは、三十年くらい前に八ヶ岳山麓に通い始めた頃、信州の車山高原に行ったことがきっかけだった。その後立て続けに足を運ぶようになった美ヶ原高原も、雄大な景色と、広くて青い空や真っ白な入道雲を満喫するためには最高の場所で、夏になると絶対に行かねばならぬといった、妙な使命感?に後押しされていたと思う。

そんなわけで、今年は特に震災の影響を受けた節電対策もあり、暑ければ高原へ行こうというかつての思いが俄かに再燃した。日帰りで、簡単に行って来ることができる高原…。そして思い立ったのが、岐阜郡上の「ひるがの高原」だったのだ。

東海北陸自動車が開通して以来、五箇山や白川、高山などがかなり至近距離化した。それまでのことを思うと、あっという間に着いてしまうといった感じだ。さらに荘川村やひるがの高原あたりも同じ感覚で、特に白川から荘川へ抜けるまでの道(国道一五六号)は、走ること自体と風景を楽しむゆとりがないと走れなかった。

この辺りでは清見村も大好きだった。前にも何かで書いたが、オークビレッジの工房にふらりと立ち寄っては、適当に気に入ったものを買って帰ったりした。しかし、ひるがの高原まではなかなか足を延ばす気になれなかった。距離が中途半端で、日帰りをベースに考えると、どうもそれほど魅力を感じなかったのかも知れない。

 ひるがの高原の名前が、頻繁にボクの耳に入ってくるようになったのは、ひるがの高原に別荘ブーム?が起こった頃だろうか…。

もう退会したが、かつて北アルプスの薬師岳・奥黒部方面を中心に活動していた「大山町山岳会」の一員だった頃、その会の会長をされていたE山さんという豪傑から、「ひるがの高原に家(別荘)を建てっからよ、遊びに来られや!」と誘われた時だ。

E山さんといえば苦くて懐かしい思い出がある。強靭な肉体と、口の悪さが合体した、自然児そのものといった山オトコだった。ヒマラヤでの失敗もあってか、山では厳しかった。一度山スキーツアーでルートから外れ、皆を四十分ほども待たせてしまったボクは、E山さんからこっぴどく叱られたことがある。しかし、その後雪の上で肉を焼いて食っていたとき、ボクのとっていたルートに雪崩の兆候が見えていたから叱ったのだと、缶ビールを呷りながら語ってくれた。笑うと、少年のような顔になる。ボクはそんなE山さんが大好きだった。

そのE山さんが、ひるがの高原に別荘を建てるからと誘ってくれたが、ボクにはピンとこなかった。ひるがの高原の名前は当然知っていた。が、身近に感じられる場所ではなかったと思う。しかし、やはり高速道路の開通は大きい。別荘開発も当然、そのことが要因で始まったのだろうが、E山さんから話を聞いた時には、高速が出来ることなど、はるか彼方先のことだという感覚しかなかったのだ。

 荘川村から、ひるがの高原には二十分くらいで着いてしまう。あたりが何となくそれらしい雰囲気になってくると、国道沿線にクルマや人影が目に付き始める。わずかな予備知識しかない訪問者としては、とにかくどこかに寄って情報収集が必要だ。

牛乳やチーズ、アイスクリームなどを売っている店の前に、人だかりがあり、その店に入ってみることにする。ソフトクリームを買い、情報源となる簡単なマップが店の入ってすぐの場所にあったので一枚もらい出た。

マップはウォーキングコースのものだった。七キロというコースがマップ上に線描きされてある。歩きたいと思うのだが、今日は日帰りだ。クルマでも廻れそうだと判断。まず、すぐ目の前にある「分水嶺公園」という場所に行ってみることにした。

 その気になれば深く入って行けそうな道が伸びていたが、人が歩いたような気配は、もう何年も前に消えてしまったような雰囲気だ。水場に石碑があった。太平洋と日本海、長良川と庄川という意味だろう。流れが、ひるがの高原の奥にそびえる大日岳という山を源流にして、ここで分流しているのだという。

日差しを遮る木立の存在感が夏らしさを強調していた。

 クルマで源流のあたりまで行こうとして、途中で引き返した。どうも道に同化してない。ウォーキングコースであるということも、モチベーションを下げる要因になっていた。おろおろと国道に戻り、近くの「夫婦滝」に向かうことにした。国道から二百メートルとマップに書いてある。

その数字のとおり、夫婦滝にはあっけないくらい簡単にたどり着いた。もうちょっと歩きたいなあ…と、勝手なことを思ったりもする。

 しかし、滝は美しかった。高度感などは大してないが、静かにはまっている感じだ。夫婦滝の名のとおり、二本の滝が並ぶ。その間の岩場に紫陽花の花が咲いているのが見える。

 滝に着いて、岩の上を飛びながら奥へと渡った。滝つぼに最接近できる辺りまで来ると、水の美しさは格別だった。飛沫が顔にあたって、涼しい。

 せっかくひるがの高原へ来たのだから、当然高原歩きの気分を味わいたい。もともと歩くことを目的にきたのだ。そんな時、植物公園の案内を見つけ、躊躇することなく入ってみることにした。それほど広くはないが、眺望がいい。水辺の花々も美しい。短い時間だったが、太陽をいっぱいに浴びて歩いている間は幸せだった。

 そのあとも、クルマで移動してはぽつぽつと歩く。木曽馬の牧場に足を踏み入れたりしながら、ふと見上げる空が青くて、眩しくて、嬉しくなる。高原歩きはこうでなくてはならない・・・などと、大して歩いてもいないくせに一応納得している。しかし、ひるがの高原には、もう一度必ず、近いうちに来なければならないなあとも思っている。美ヶ原のような圧倒的な解放感はないが、落ち着ける何かがある。それを正しく感じ取るには、やはりしっかりと歩く準備をしてこなければならないのだ。ぶらりとやって来るだけではもったいない。

 帰り道。高速は使わず、ゆっくりと庄川に沿って国道一五六号線を走った。荘川から白川、白川では久しぶりに「AKARIYA」さんで美味いコーヒーもいただき、五箇山、福光を経て帰った・・・・・・。

翌朝は、三時半に起床。もちろん、なでしこたちの応援のためだ。疲れなど、どこにも残ってなかった・・・・・・

門前黒島で頑張る時が来た

 

再び能登・旧門前町(現輪島市)の仕事に足を踏み入れ、とりあえず真っすぐに取り組んでいかねばならない状況下にあることを、数日前から悟りつつある。なにしろ、能登地震の震災復興最後の事業なのだ。

仕事の内容は、石川県の文化財に指定されている「角海家」という、かつて北前船で財をなした旧家における展示の計画と実施だ。数年前に同じ門前で総持寺に関する展示施設「禅の里交流館」というのをやらせてもらったが、門前の二大文化遺産を担当できるというのは実に幸せなことだ。ただ、今回の仕事は果てしなく厳しい。なにしろ六月のはじめにスタートしてから、八月中旬のオープンまで時間がないのだ。

角海家があるのは、黒島という地区。かつては天領であり、北前船の船主も多く、能登では最も廻船業の盛んな土地だった。今では昔の威勢はないが、それでも古い家々などを見ていくと、その面影に納得したりする。人々の気質も高く感じられるし、ボクたちのような中途半端な地域性しか持ち合わせていない者からすれば、その文化性はカンペキに高いと納得する。

ところで総持寺の住職さんは、代々輪番制で門前にやって来たわけだが、昔はもちろん船が交通手段だったわけで、能登の上陸地点は黒島だった。沖で小舟に移り、浜に上がると、そのまま黒島村の森岡さんという廻船業者(総持寺の御用商)の屋敷に入り、旅の疲れを落としたという。そこから総持寺の裏手にある小さな寺まで、お伴の者を引き連れての大行列。多いときには五百人くらいの行列となったそうだから壮観、凄い。このように黒島は門前の発展の礎となった総持寺の存在とも深く関わっていて、そういう意味でも貴重な地域性を持ってきたわけだ。

ちなみに総持寺は曹洞宗発展の基点となったとてつもない寺だが、明治に入って大火災で多くを焼失してから、横浜市鶴見に本山を移転した。移転された方は大打撃になり、祖院として存在を継続させたが、それほどまでに総持寺の存在は門前にとって大きかった。

しかし、先に書いた禅の里交流館の仕事をしている時にも思ったが、能登半島の先端に近い場所に、なぜあれだけ大勢力を張った寺院の本山が存在できたか?・・・なのだ。その答えが黒島にある。つまり、海運業だ。

昔は、少なくとも江戸時代までは、陸運といっても馬や荷車程度だから軽量な荷物の運搬しかできない。しかし、海運は船によって大量の荷物を動かすことが出来た。しかし、明治に入り日本にも産業革命の恩恵が押し寄せてくると、鉄道が敷かれ運送業のスタイルは一気に変わっていく。そういう時代の変化で海運業が廃れていくのに合わせ、総持寺の本山移転が実行されたのには、それなりの大きな理由があったわけだ。能登は東京から遠すぎた。

角海家の展示をとおして、ボクはこのような黒島の存在を伝えねばならぬゾ…と、秘かに思ってきた。なぜ、能登の先端にこのような豊かな文化が息づいたのか? これを伝えないで、黒島も角海家もない。そして、さらに黒島の人たちの誇りをいい方向へ向けてほしいとも思う。

先日行われた打ち合わせ会(委員会)で、資料調査を担当された神奈川大学のチームや、家屋復元の設計監理を担当された建築家のM先生、地元寺院の住職さんで、さすがだなあと唸らされた歴史家のK先生、さらに黒島区長さんであるKさんなどから、大変ためになる話をお聞きした。それらに返す言葉として、ボクも演出担当としていっぱしの話をさせてもらったが、やはり、根幹に置きたいのは“なぜ黒島が?”というテーマだった。そのことを平易にわかりやすく伝えられればと…

それにしても、黒島のまちは美しい。昔はなかった国道が海岸線にあり、あれがなかったらもっと素晴らしい景色が見れたのだがなあ…と、どこかの野暮な景観先生みたいなことは言わないが、何もないようで何かを感じさせる…、そんな“よいまち”のエキスが漂っている。高台にある神社や寺も、ちょっと歩くというだけの楽しみを誘発する。潮風に強いという板張りの家々も徹底していていい。

角海家は素朴さがいい。規模はそれなりに大きいが、決して豪邸ではない。とてつもない造りへのこだわりというより、普通に海が見えるとか、庭が見えるといった質素な目的が感じられて、安心したりする。廻船業が衰退した後、魚そのものや加工品などでの商いが続き、周辺の地区などで魚を売り歩いていたという、黒島の人たちのシンプルな生き方も角海家を通じて伝わってくる。地元のK先生が言われていた“黒島のカアカ(母ちゃん)”たちの働きぶりもまた浮かんできて、ボクなどはひたすら嬉しくなるのだ。

そんなわけで、この一件は今後ますます佳境に入って行き、いつものようにバタバタ・ズタズタ系の真剣勝負に突入していくだろう。かつて、地震の一週間後に門前入りした時、角海家は大きく崩れ、周辺の鳥居は折れて無残な姿だった。あれから地元の人たちは復興に向けて頑張った。その頑張り自体に意味があった。そのことを忘れず、そして、真夏の太陽がガンガンと照った空の下、黒島の砂浜で美味いビールが飲める日を、秘かにアタマの片隅に描いて、ボクたちも頑張るのだ…

写真エッセイ「雨の大原にて・・・」

 

 娘たちが京都の大学に行ったおかげ?で、ここ何年かの間に京都は行き尽くしていたと思っていた。ところが、一ヶ所だけ、はるか昔に行ったきりのところがあることを思い出した。それが、麗しの大原の里だった。

 大原には二十代の頃から何度となく来ていた。司馬遼太郎の『街道をゆく』の影響を受けて、福井の方から朽木(くつぎ)街道を下って大原に入るという渋いコースを知っていた。今では鯖街道と言って立派な道になっているらしいが、その頃はバスとすれ違うのもやっとというところがあった。途中で飯を食うようなところもほとんどなかったと思う。それがまたよかったのだが……

 朽木街道は、織田信長が越前の朝倉の軍勢に敗れて京都まで逃げ帰ったという、信長にしては屈辱の道だった。かねてから武田信玄を深く愛してしていたボクは、その話だけでも痛快な気分になり、その街道を走ることに快感さえ覚えていた。

 その街道を使って、大原や比叡山に何度も来るようになると、今度は大原を起点にした新しい道を求めた。すると、司馬遼太郎の『街道をゆく』は、すぐにまた新しい楽しみを教えてくれた。それは大原から鞍馬に抜けるという、その時のボクとしては画期的な新しいルートの発見であった。

 杉木立の中の細い一本道。地図には点線で表記され、地元のバスの運転手もほとんど知らないと言った。その中で、ひとりだけあの道ではないかと教えてくれた人がいた。教えてもらったとおり思い切って行ってみると、素晴らしい雰囲気のある道だった。地元の林業関係者が主に利用するという細い道で、交差する場面が来てしまうのを恐れながら進んだ。が、杉木立の道では一台もすれ違うクルマはなかった。道は杉木立の中を過ぎると、シャクナゲの咲くのどかな雰囲気に変わっていた。シャクナゲが咲くところには霊が漂っていると、司馬遼太郎は書いていたが、そのことでボクは意味もなく息を殺していたように思う。空は晴れていて、無性に暑いという印象だけがあった。今と同じような季節だったのだ。

 それからとにかくひたすら走り、山里のさまざまな風景と地元の人々の表情を見ながら進んだ。鞍馬への道に出て、その日の最終目的地である嵐山に着いたのは夕方だったと記憶する……

 大原には細かい雨が降りはじめていた。初めて訪れた時も雨だったかも知れない。寒かった。湯豆腐を食べて暖まった記憶がある。今回、その雨が大原のよさを助長してくれた。京都市内から初めてクルマで入ったが、北山からは意外に簡単に着いてしまうのでびっくりした。驚いたのはもうひとつ、三千院の庭の凄さだ。雨ではあったが、こんなにゆっくりと歩いたのは初めてだったと思う。三千院までのアプローチの道も静かでよかった。

 帰り道、盆地の真ん中あたりに立って見回すと、大原の里は小雨に洗われたように静かな時間を刻んでいた。やはり、京都は深い。自分次第で、そのことの価値観を認められる。のんびりと周辺を眺めていると、京ことばのやさしい響きが耳に届いてきた。

 雨、あがったみたいどすなあ……

医王・湯涌水汲みツアーの休日

 

湯涌街道を温泉街には向かわずまっすぐ進み、福光方面への道にも折れずにまっすぐ行くと、医王山の裏手の山道へと入っていく・・・。

湯涌の住人・足立泰夫クンと後者の分岐のあたりで待ち合わせ、いつもよりグレードアップした特別編の水汲みツアーに出かけた。

八時には行くよと言っておきながら、十分ほどの遅刻。六時半に起床して、花に水をやったりしながらの慌ただしい朝だったが、前夜買ってきた“つぶ餡マーガリン”入りパンを頬張りながら新聞を読んでいたら時間が押してしまった。

というのも、最近連載が始まった日経の「私の履歴書」…現在書いているのがあの山下洋輔(ジャズピアニストです)で、ついつい今朝も読み耽ってしまった。特に今朝はまた、その下の欄の「交遊抄」が椎名誠のミニエッセイときていたから、活字拾いに忙しかった。

ところで話はそのまま脱線していくが、ボクの場合、日経などはその本来の趣旨記事から外れて、日経的に言うと番外編みたいなところばかりに目がいってしまう癖がある。かつて「日経デザイン」という同じ系列の雑誌を購読(会社で)していたが、巻頭の赤瀬川原平のエッセイが何よりも楽しみだった。実に飄々として、経済やらデザインやら難しいことは後回しにして、とにかくこれ読みなさい…と、氏が言ってくるものだから、はいそうですね・・・と、こちらも本文ページは後回しにしていた。日経はそういう意味で、なかなかボクのハートを掴んで離さない渋い存在である。かつて、松井秀喜のことを書いたある記者の本も、素晴らしく核心をついた内容でよかった。

分岐で待っていた足立クンと合流して、久々の道へと入っていく。すぐ先の集落に、かつて足立クンが住んでいた家があり、そこには小誌『ヒトビト』第八号(打止め号)のインタビュー取材で訪れたことがある。大木に囲まれた大きな家の前に愛用のカヌーが積まれていて、彼は岩魚釣りに出かけていた。すぐ目の前を流れる沢の奥に入り込み、数匹の釣果を家の前で見せてくれたのを覚えている。あの時はちょうど土砂崩れがあった翌日で、道が塞がれていたが、住民の道だけは確保されていた。

 今回の水汲みは、かつて足立クンが県の観光パンフレット制作のために取材した貴重な水場情報に基づくもので、湯涌・医王山方面の“美味しい水”を是非紹介したいという、彼の誘いに甘えさせてもらった。彼はカヌーに始まり、根っからのアウトドア青年(かつての)であった。山の世界とかではボクの方に一日の長はあったが、水の世界では若い頃からノメリ込み方が尋常ではなかった。さすらいのカヌーイスト・野田知如を崇拝し、カヌーツーリングというカッコいい遊びをこなし、水面に釣り糸を垂らしては川魚を燻製にするなどして、その楽しみを満喫してきた。もちろんそれだけではなく、ジャズや活字などにも傾倒し、その繋がりも長く付き合ってきた理由になっている。

そんな彼であったから、湧水のある場所なら、たとえ火の中水の中(例えが変かな)、ひたすらまっすぐに訪ね歩くことも何ら問題なかったのだ。

前置きがやたらと長いが、そんなわけでボクたちはとにかく医王山の裏側方向へと回り込みながら、最後は一気に高度を稼ぐように登って、「行き止まり」と書かれた案内板の方向へとクルマを走らせた。そして、文字どおり行き止まりとなった所にある水場にたどり着く。着くまでに、狭く急な道で先導の足立クンが迷走するというシーンもあり、また何度も切り返しを繰り返さなければならないなど、スリルも大いに味わった。

ところで、その場所について詳しく書かないのには理由がある。実はこの水場、足立クンが取材したパンフレットには周辺をぼかした形で掲載されているのだ。それはこの水場がこの直下の集落の人たちの飲料水となっているからで、それをとにかく無闇に取りに来られては困るという配慮があった。だったら、おめえらも行くなと言われそうだが、年に数回だけいただくということで、来ている人もごくごく少ないということだった。

水は岩がゴロゴロする山肌の窪みから湧き、取水用には二本のパイプをとおして勢いよく流れ出していた。足立クンでは水温十一度。実際、家に戻ってからもまだ容器のまわりには水滴が付いたままだった。冷たい証拠だ。

クルマからポリ容器やペットボトルなどを出す。総量としては結局八十リットルくらいになっていただろうか。最初の二十リットル容器に水がいっぱいになる時間で驚いた。いつもよりはるかに早い。勢いも量も半端ではない。あっという間に二十リットルがいっぱいになり、慌てて持ち上げようとして右腰に違和感・・・。おまけだった。

とにかくどんどん汲んでいく。足元はシューズもパンツもびしょ濡れになっている。路上では、自分の分を汲み終えた足立クンが、クルマからコンロとコッヘルやらを出してきて、新しい水を沸かし始めている。すっかりコーヒータイムの準備が整っている様子だ。

足立クンから、少しペットボトルを残しておいて、別の水場にも行ってみようという提案が出た。すぐに賛成して、クルマのダッシュボックスから、山用のマイマグを持ってくる。いい香りが山間に漂い始めると、カメラも持ち出して撮影タイム。

 コーヒーはマンデリン。足立クンご自慢?のドリッパーで、ご立派~に出来あがっていた。実に上品な味がした。今朝はこのためにと、家を出る前にコーヒーは飲んでこなかったのだ。

 かなり山深いなあと感じながら、ゆっくりと周囲を見回す。山装備をした夫婦連れらしき二人が、大きな木の下あたりの道らしきところを登っていく。近づいて、その道は奥医王の頂上に繋がっているのかと聞くと、そうだと答えてくれた。久しく奥医王には行ってない。かつては北アルプスなどに入る前には必ず医王山で足慣らしをしていったものだ。

後片付けをして山道を一気に下り、湯涌方面への抜け道である王道線を走る。頭にイメージしている距離感より長く感じる道だ。この道も好きな風景がつづく。樹林の間から見える山並みものどかだし、森も深く感じられて神秘的な雰囲気さえある。

 

湯涌街道に出る前にある、いつもの水場で小さなペットボトル二本に水を入れる。さっきの水の冷たさがはっきり感覚に残っていて、この場所の水が温く感じられた。今日二つ目の水場だった。

 さらに足立クンの案内は湯涌街道に出て金沢市街方面に向かい、すぐに左に折れた。橋を渡り、ゆっくりと水田に挟まれた狭い道を走り続ける。道は途中で山間に入って行き、美しいせせらぎと並行して進んでいく。

また小さな橋を渡ると、そこでまた急旋回の狭い道の登りになった。通常の感覚ではクルマの通る道ではない。車幅いっぱいの狭い道を登って行くと、またしても狭い中でのヘアピンまがいのカーブに出くわす。足立クンのやや小さめのクルマは難なく曲がり切ったが、ボクのクルマではちょっと面倒だ。考える間もなく、カーブする反対方向の土の中にクルマを突っ込み、バックで登ることにした。幸いにも、すぐ先に目的の場所があった。

クルマから降りてびっくり。そして、ニンマリ。そこには、いかにも手造りといった何とも言えない風情の家が建っていた。足立クンが、家の前にある石の上に腰を下ろしている。手巻きタバコがいかにも足立クンらしく、この場所の雰囲気にも激しく合っている。

 この場所は地元の知り合いの“別荘”とのことだ。いつでも水は持って行っていいと言われているらしい。よく見ると、本当にいろいろなモノが組み合わされて、ひとつの家が出来ていることが分かる。意外なところに、ステンドグラスが嵌められたりしていて、手造りの楽しさがしみじみと伝わってくる。

水場は、玄関先に綺麗なカタチで整えられていた。残りの小さなペットボトル五本ほどにまた水を入れた。石の腰かけは整然と並べられていて、真ん中にある石のカタマリがテーブルになっている。

足立クンが、またコーヒーの準備を始めた。今度はグアテマラ(タイトル写真)。さっきの山の中よりもさらに落ち着いて、その分コーヒーの味もゆっくり楽しめた。なんとも贅沢な時間だ。心地よい風の吹き方も、静けさも、ちょうどよくて文句のつけようがない。新緑と呼ぶべきか、若葉と呼ぶべきか、周囲はそんな活き活きとした生き物たちの息吹に包まれている。

ボクたちは、そんなやさしい空気の中で、いろいろな話をした。とりとめのない話ばかりだったが、久しぶりにゆっくりと会話が楽しめた時間だった。今日、三か所目の水場だ。

足立クンでは、今日の三か所は、湯涌・医王山周辺ではベストスリーなのだそうだ。彼が言うのだから間違いない。金沢でそうだと言ってもとおるのだろう。ボクの場合、やはり自然の水汲みなどはちょっとした冒険心をくすぐってくれないと意味がない。だから、水汲みを理由にして、こういう場所へ来れるというのは最高なのだ。

時計を見ると、もう昼近く。コーヒーの香りも樹間を吹く風とともに流されていき、周囲にはただ前のように静けさだけが残されていた。足立クンは、午後から事務所へ行って広告用の原稿を一本書かねばならぬとのこと。それを聞いて、ボクも二本目の創作が、五十枚くらいのところで止まっているのを思い出す。

文句なく楽しかった。これからまだまだこういうことを続けていけたらいいなあと、若葉を見上げながら思う。日本は、日本の経済は、自分たちの生活は、これから一体どうなっていくのだろうか。そんなことも一応アタマに浮かんできた。だが、すぐに腹が減っていることに思考は動く。素麺だ。今日は素麺しかあるまい。湯涌の里に下りると、広々と水田が光っていた……

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

写真エッセイ「やっぱり今頃は、白川郷だな・・・」

 

今どきの季節には、決まって五箇山や白川郷あたりに出掛ける。目的はたっぷりの山里の新緑と、雪解け水のせせらぎと、水田や畑などののんびりした風景が、とにかくこれでもかと楽しませてくれるからだ。

今年はちょっと遅めで、かなり焦りの日々を送っていた。特に水田には機を逸したかも知れないという諦め感もあったのだが、全く落胆することはなかった。

出掛ける前までは、その日の最初の目的地が五箇山なのか白川なのか、明解ではなかった。特にいつものことなので、どうってことはないのだが、北陸道から東海北陸道に入り、五箇山インター手前で突然白川郷に決まった。奥から戻るというのもいいのではないかと思ったのだ。

白川郷にはもう数え切れないくらい来ているのだが、今回初めて全域を歩いたような気がする。集落の、山手にあるちょっと高台の道や、展望台にも歩いて初めて登った。

世界遺産になってからは、とにかく賑やかになったようだ。アジアの集団旅人たちでいっぱいだ。お店もひたすら増えていく。しかし、ユニークな店がたくさん出来て、自然に歩く距離も延びたのかと思ったが、そうでもなく、昔からのんびりと歩いていたエリアとあまり変わりはないのでホッとしたりもしている。

このあたりは真冬以外はすべての季節に来ている。それぞれにいいが、この時季が最も好きだ。この時季の季節感を味わうのには、白川・五箇山がいちばんだと思う。大らかで、文句のつけようがない。人が少ない方がいいなあと思ったりもするが、まあ仕方ないだろう。そういうわけで、今年もまたやって来ましたといった感じの白川郷なのであった・・・・・・・・

笹ヶ峰のスキートレッキング

 

一年ぶりの妙高・笹ヶ峰である。正確に言うと、一年と一日ぶりで笹ヶ峰に来ている。

朝は、それほどよい天気とは言えず、一時は雨が来るかも知れないと覚悟させられたが、その心配もなく、昼になった今は風はわずかにあるものの、陽も照って気持ちがいい。

ついさっき、リュックからノートと万年筆を取り出した。ノートは九十七年の夏に岐阜県清見村のオークビレッジで買ったもので、表装が木の板で出来ている。その時同じようなボールペンも買った。ペンはなくなってしまったが、ノートはずっと本棚に入れておいた。昨年の笹ヶ峰行きに久々に持ち出し、岩の上でペンを走らせた。その時が十年ぶりに開いたという具合で、ボクはずっとこのノートとはご無沙汰していたのだ。何となく、今年もこのノートをリュックに入れてきた。だから、この文章は笹ヶ峰での現地書き下ろしなのである・・・・・

八時半過ぎにスキーを履いた。去年とは少し違うコースを歩き、走り、滑って来た。今年はスキーの滑りがいい。ワックスを入念に塗ってきたというわけでもないのに、思っていた以上にスキーが前へと出る。笹ヶ峰グリーンハウスの建物や周辺の雪原を会場にして、クロスカントリースキーのセミナーが始まったばかりで、数十人の競技スキーヤーたちがコースを走っていた。ボクもそのコースに最初に入れさせてもらったが、そのせいでスキーが滑るのかも知れない。いきなり、百メートルはある直滑降となり、危うく少年スキーヤーたちの前で転ぶところだったのだ。

よく滑るスキーに乗ってコースを外れ、緩やかな雪の斜面に大木が並ぶ笹ヶ峰牧場の方へと移動。いつものように、“岩棚の清水”からの湧水が流れる沢の音が聞こえるようになり、沢に沿ってやさしい流れを見ながら緩い登りに入って行く。去年は岩棚の清水でスキーを外し下りてみたが、水中の草を押し流すかのように透明な水がたっぷり