『島の時間』 赤瀬川原平の粋
赤瀬川原平死すというニュースを、ネット上で知った。
別に個人的な知り合いであるわけではなく、単なる一読者及びファンなのであるが、ネット上で知ったことにちょっと淋しさを感じた。
この人の死はもっとアナログな媒体をとおして知るべきであったと思った。
一ヶ月ぶりの東京で、さっきまで神田のジャズの店にいた。
ジャズに詳しくない連中を前に、久しぶりに熱を入れて語っていた。
そして、ホテルで独りになり、赤瀬川原平のことを思い返している。
植草甚一や赤瀬川原平や別役実(まだいそうだが、今は思い浮かばない)は、ボクにとって特別な存在だ。
うまく説明は出来ないが、ボクの中の表舞台ではないところで楽しい時間を提供してくれた人たちだ。
だから、植草甚一の死からはかなりの間を置いたが、赤瀬川原平もいなくなってしまい、自分自身の老い(…そんな大袈裟な感覚ではないが)を思い知らされている。
そして、そんな感傷を蹴飛ばして赤瀬川原平のことを書こうと思ったが、ここは家に帰ってあの人の本の中から、自分がいちばん好きだった『島の時間』という一冊を取り出し再読するのが一番いいという結論に至る………
以下の文章は、13年前(2011)の初冬、当時有り余る作文意欲とかすかに降りそそがれたわずかな時間の中で作り上げていた、私的エネルギー追求誌『ヒトビト~雪の便りと第6号』に掲載したものだ。
≪ ヒトビト的BOOK REVIEW 『島の時間』赤瀬川原平 ≫
…………。今回はまたしてもの赤瀬川原平サンである。いかに筆者が赤瀬川サンを好いているか、あるいは気にしているか、あるいは羨ましく思っているか、その他これで十分理解していただけるだろうと思う。
しかし、最近というか近年というか、赤瀬川サンは本人の意志とは関係なく売れっ子になってしまった気がする。意志というより自覚というべきか、とにかく広範な角度から注目されてしまった。その根源となったのが、ご存じ『老人力』かも知れない。
あの本は誤解されていると筆者は思う。誤解がそのまま通ってしまい、赤瀬川サンのエキスが抜けきったまま世の中を徘徊していったような気がしてならない。出た当初、コソコソと、そしてニタニタと読んでいた純正赤瀬川ファンはガッカリしてしまった。
ボクの中では、赤瀬川サンは90年代始め、もしくは80年代の終わりあたりから変わったのだという感じがある。本当に前衛芸術家らしかった頃のものは正直こっちもキツネにつままれたようで、こんな本読んでいてオレ大丈夫かなって気にもなったもんだ。だから露骨に一線を引いた状態で読んでいたところもある。
しかし、路上観察あたりから赤瀬川サンはボクの味方になった。安心して人前で読めるようになった。そうなるとトコトン付いていける。安心は大きなパートナー。一旦信じ込むと赤瀬川サンの魅力は一気に膨らんだ。特に面白いのが連載もの。とにかく赤瀬川サンには連載ものがそのまま本になったというやつが多くて、そういうものの中に魅力がカッ詰まっているのである。自分の身の回りにある、ちょっとした専門誌などに目を透してみてほしい。ふと赤瀬川サンのミニエッセイに出会えるかも知れない。
たとえば、赤瀬川サンの表現は心憎いほどの「平坦さ」でもって、ぐぐっと迫ってきたりする。これが分かるには年季が要る。ここで敢えて文字にしている自分自身もいやになる。ただの年季ではない。少なくとも落語や漫才の笑いを知らない人間には伝わらないかも知れない。ボケがいかに知的な演出の上に成り立っているか… いやそんなことも敢えて文字にするのは無意味だ。
だから敢えて、ここは『島の時間』なのである。
しかもこの本、九州博多の某デパートの会員誌に連載していたものを平凡社がまとめたという「平坦さ」でもって、そのタイトルも、本人のあとがきでは「本にまとめる時に苦しまぎれにポンとつけた名前…」というぐらいに凄いのである。これが赤瀬川サンのエキスの一部。
さらに解説(そんなお堅いものではなく、これもまた愉しいエッセイだが)には、あの、ねじめ正一氏が登場し、「もうひとつのお天道さま」と題して赤瀬川サンのエキスを語っている。 (注:ちなみに赤瀬川サンにとっての本命のお天道様は、長嶋茂雄だったのだ)
「どこにも力がはいっていない。常態のままである。常態人間。……見ているだけでのどかな気分にさせてくれる。」
まさに赤瀬川サンのそのまま原寸大写実描写ではないか。そういえば、ねじめ氏は南伸坊氏も含めた三人の対談集『こいつらが日本語をダメにした』とかいう本の一員だったな。
ということで、この本は沖縄周辺の島々をめぐって書かれた紀行エッセイである。たぶん旅行雑誌などで十分に紹介された所ばかりであろうが、赤瀬川サンならではの目と耳と鼻と肌と舌などによって楽しい世界が表現されていく。観光キャンペーン用に使えるかというと、ほとんど向いていない。
一見(読)、例えば「種子島」の章のように司馬遼太郎の『街道をゆく』っぽく感じるところもあったりするが、鉄砲の話がロケットの話になったあたりからおかしくなってきて、読んでいる当方としては妙に嬉しくなったりする。それはこうだ。
「アメリカのロケットは垂直にしっかり立てて、どーんと垂直に昇っていく。それが日本のは斜めで、ちょっとコソコソと昇っていくみたいで、こんなことはロケット関係者にとっては的外れなことだろうが、何となく幼稚っぽい感じがしていた。
こんど種子島の宇宙センターに行ってみると、巨大な発射台はちゃんと垂直に立っている。ああ日本もとうとう垂直のところまできたか、という感慨をもった。もちろん専門家に聞いてみると、打ち上げる衛星の軌道とか種類によって垂直や斜めがあるらしくて、別にそれがステイタスに関わる問題ではないという。まあそれはそうだろうが、一般国民としてはやはり堂々と垂直に、という思いがあるのである。
垂直がなぜ堂々なんだ。と問い詰められても答えに窮するけれど、とにかくそんな感じがするじゃありませんか。」
愉しいなア………
冥福を祈る。