🖋 やはり “山里”を歩いているのだと思う


農村に対して漁村という言葉はあるが、山村に対する海辺の村を表現する言葉を知らない。

最近、山里(あるいは山村)歩きをかなり本気になって楽しんでいるが、そんな中から気が付いたことがある。

それは海辺に対して、山中にはかなり閉鎖的な印象があり、そのことがわずかな民家によって形成される、特有の村のイメージを作りやすくしているのではないかということだ。

ボクの目には、海辺の村はそれなりに家の数も多く、海に面している点で開放的に見える。

だから、山里のようなイメージは希薄なのだと思える。

山里が閉鎖的というのは、単なる地形的な面からの印象に過ぎない。

逆に言えば、こんなところにも人の生活(営み)があるという驚きと安堵みたいなものが、暖かい気持ちにさせてくれたりもするのである。

 

最近になって「里山」とか「里海」という言葉が多く使われるようになった。

前にも書いたことがあるが、ボクには「里山」より「山里」の方がピンとくるものがあって、ずっとこの表現を使っている。

そして、この言葉に対する「海里(うみざと)」という言葉がなかったことにも納得している。

今「里山・里海」という言葉を使い、山と海を同じ扱いにしようとしている背景には、「山里」をそのままにして「山里・海里」にしたのでは、後者が“かいり”という別の意味の言葉になるという、ややこしい事情があったのだろう。

特にどうでもいい話ではあるが、「山里」は山の中の村(人)に軸を置いた言葉であり、「里山」は村に隣接する森林などを意味する言葉だ。

大して変わらないようにも読み取れるが、後者には“かつて人と深い関わりがあった…”という意味深な形容が付いてくる。

そのあたりに、実は少し、いやかなり違和感をもつのである。

 

ボクの歩いているところには、人の息吹がまだまだ残っている。

水田があり、畑があり、水が引かれ、木も植えられ、墓が立ち、道の舗装が進み、時にはコーヒーのいい香りなども漂ってきたりする。

だから、ボクは間違いなく“「山里」歩き”をしていると思っている。


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