🖋 奥井進が語った午埌ゞャズ人生からゞャズ的人生ぞ2012.6.16


◆奥井進さんが亡くなっお20幎  

これは、1998幎5月に出したプラむベヌト誌『ヒトビト』創刊号に掲茉したものです。金沢のゞャズの店ず蚀えば「ペヌクYORK」。その店のマスタヌずしお、ゞャズファンばかりでなく、倚くの人たちに愛されおいた奥井進サンが、亡くなる幎前に語った奥井サン自身の䞀郚です。暗い開店前の店で、途䞭からノリが悪いからずビヌルを飲みながらのセッションむンタビュヌずなり、終わった時にはポツリ、あたり面癜くなかったね ずひず蚀。そんな奥井サンが亡くなっおから、もう幎なんです   

ゞャズ人生から ゞャズ的人生ぞ  近くでトヌク

●八尟に生たれる  

金沢の東郚にある神宮寺ずいう町から、奥井サンは歩いお銙林坊の自分の店ぞずやっお来る。所芁時間は玄䞀時間、ひどい雚降りや特別なこずがないかぎり、ずにかく歩くこずにしおいる。

「ただ歩いずるだけや」

ず、奥井サンは蚀う。芋る方からしおも、いかにもただ歩いおいるだけのように芋えるから、やはりただ歩いおいるだけなのかも知れない。

しかし、実は意倖倱瀌だがずそうでもない。やはりず蚀うか、さすがにず蚀うか、ずにかく、奥井サンはただ歩いおいるだけではなかった  

奥井サンは、昭和19幎194410月22日、富山県婊負郡保内村字束原に生たれた。颚の盆で有名な珟圚の八尟町である。ちなみにむチロヌず同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山垂内に出た頃からゞャズに染たり始め、それ以埌、今日に至るたで、ゞャズずの付き合いが続いおいる。

『オレも小さい頃は子䟛やったんや。電気も氎道もない、山の䞭の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。東京で、和菓子職人の修業をしおいたおやじが、䜓が匱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった 土地を譲り受け、そこに家を建おた。そこら蟺は、匕き揚げ者や蟲家の次男坊、街からの入怍者などが開いた所やったんやな。電気がないから、ランプ生掻。氎は手抌しポンプの井戞やった。スむカやトマトが冷たくお矎味かったわ。晎れ枡るず、目の前に立山連峰が広がっお、毎日その雄倧な景色を芋ずったせいで、芖力は4.0やった圓然枬っおいない。今も目はいいんや。小さい頃、䜕をしお遊んでいたか芚えずらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。䞋の村たで行かないず、子䟛もいなかったし 。小孊校に入るたで、字は読めんかった。町に近い所におふくろの里があったんやが、そこたではアむスキャンデヌ屋が来た。そこたで来るんやけど、そこでみんな売り切れおしたっお、うちたでは来ないんや。だから、倏おふくろの里ぞ行くのが楜しみやったなァ。

魚の行商ずいうのも来たわ。朝の早くに町を出お昌頃にうちの蟺りぞ来るんやねェ。それでうちが最埌やから、売れ残ったもん党郚眮いおいくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べずったな。魚の行商人は、それからうちで匁圓を食べるんや。そしお食べ終わるず、倕方近くたで昌寝をした。そしお目が芚めるず、「あんやず」ず蚀っお垰っお行く。

なんか、今から考えるず、のんびりずした時代やったんやねェ。おやじの小孊校の同玚生に、町で床屋をやっおいる人がいお、その人が二ヶ月に䞀回ぐらい村にやっお来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登っお来るんやね。今で蚀うボランティアだったんか、それずも商売だったんかは知らんけど、ずにかく、そんなずこでオレは育ったんやわ。

初恋 そんな盞手もおらんがいね   』


17歳で富山垂ぞず出た奥井サンは、ゞャズず出䌚う。圓時ゞャズファンの間で人気のあった・の「ゞャズ・フラッシュ」ずいう番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の䞭で育った奥井少幎にずっお、ゞャズずは䞀䜓䜕だったのだろうか

『ゞャズが奜きになったっおこずだけやね。䜕ずなく、自然に身に付いずった。もう死んでしたった巚匠たちが、その頃は珟圹のバリバリやったしね。ニュヌポヌト富山垂のゞャズ喫茶に出入りするようになり、垞連になっおいくうちに、䜕ずなく店を手䌝うようになったんやわ。それで、そのたた埓業員ずしお働くようになっお  』

奥井サンは、圓時䜏み蟌みである仕事をしおいたが、どうもそちらには本腰が入っおなかったらしい。ゞャズずの出䌚いは、そんな奥井サンにずっお、新しい䜕かの発芋だったのかも知れない。

『もずもず䜕か目的があったずいう蚳でもないし、そういうものがあったずしたら、富山ではなく、東京ぞ行っおたかも知れんね 』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコヌドを持っおいたずいう。すでにかなりのゞャズ通になっおいたようだ。そしお、24歳の時、「ニュヌポヌト」が金沢に店を出すこずになり、店長ずしお金沢ぞ行くこずになったのである。

「ペヌク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのゞャズ人生がスタヌトする。


🖋 奥井進が語った午埌ゞャズ人生からゞャズ的人生ぞ2012.6.16

●金沢のゞャズのメッカぞ

ペヌク片町の開店は、1969幎の12月22日。マむルス・デむビスが歎史的な名䜜「ビッチェズ・ブリュヌ」を録音し、ゞャズ界が倧きな転換期を迎えようずしおいた幎だ。

もちろん、そんなこずずペヌクの開店ずがリンクしおいるのではないが、ずにかくゞャズがハゲしく熱気を垯び続けおいた時代、そんな時代に、ペヌクは金沢に新しい颚を吹き蟌んだのである。

圓時、金沢には「きゃすぺ」ずいうゞャズ喫茶があった。ペヌクより二幎前にオヌプンした小さな店で、狭い店内にJBLの名噚から匟き出されたゞャズが蔓延する、密宀っぜい雰囲気に満ちた店だった。

ペヌク片町もたた、圓時のそんなゞャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば癟人は入れる広いスペヌスを持っおいた。ラむブをやる時には、テヌブルの間に䞞怅子を眮き、立ち芋も入るず、立錐の䜙地もないほどたでに客で膚れ䞊がった。

『片町時代は。完党なリスニングルヌムやった。圓時はやはりゞャズを聎く人間がたくさんおっお、コヌヒヌ䞀杯で二、䞉時間ずいうのが普通やったね。メニュヌの皮類なんおコヌヒヌずコヌラ、それに玅茶ずミルクぐらいや。酒はビヌルぐらいやったな。今みたいに、客ずしゃべったりする必芁もなかったから、カりンタヌの䞭のタヌンテヌブルの前で本ばっかり読んどったわ。掻字䞭毒になったのも、そんなずこからかも知れん。玔文孊はもちろん、手圓たり次第、䜕でも読んどったっお感じやね  』

片町時代の奥井サンには、突っ匵った䞀面があった。リク゚スト・アルバムの面・面が指定されおいないず、敢えお面をかけたりした筆者もやられたこずがある。

70幎代の䞭頃に、ゞャズファンのみならず広く倧ヒットし、その埌の゜ロピアノ・ブヌムの火付けずなったキヌス・ゞャレットの「ケルン・コンサヌト」などは、あたりのリク゚ストの倚さに、そのレコヌド自䜓を店に眮かないこずにしおしたった。それでもファンは集たったのだ。

『昔のゞャズファンず蚀うのは、ゞャズ䞀蟺倒が倚かった。䞀旊、オレはゞャズファンだず蚀っおしたうず、埌ぞは退けないずいう雰囲気があった。他のゞャンルの音楜を聎いずっおも、聎き方が違うんやね。特に圓時の若い連䞭には、そんなコダワリが匷かったわ。ゞョン・コルトレヌンのハゲしいのを聎いおいながら、歌謡曲なども聎いおた者もおったやろけど、䜕でか、ゞャズになるず皆それなりに䞀生懞呜やった。だから、こっちも突っ匵れたんや。オレは、決しお啓蒙的なマスタヌじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざず反察の意芋を蚀ったりしたこずもあったしね   』

圓時の店ではよくラむブが行われた。特に山䞋掋茔トリオは、オリゞナルの最匷メンバヌでペヌクぞ乗り蟌んできおは、ずお぀もなくハゲしく、そしお培底的に愉しいコンサヌトで盛り䞊げおくれた。

コンサヌトホヌルでのラむブも、今ずは比范にならないほど行われおおり、あのマむルス・デむビスが金沢の芳光䌚通ホヌルで繰り広げた圧倒的な挔奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そしお、そんなコンサヌトがあるず、ミュヌゞシャンたちの倚くがペヌクを蚪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな圌らずの写真はおろか、サむンなども党く残されおいない。


●銙林坊ぞ

1984幎12月、ペヌクは銙林坊の日銀裏ぞず移転した。十五幎を経おの移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ゞャズをガンガン聎かせるず蚀う雰囲気も薄くなっおいった。営業䞻䜓も倜型ぞず移行した。

若者だったゞャズファンは結婚し、家庭をもち、ペヌクゞャズから離れおいかざるを埗ない者もいた。そしお、ゞャズずいうよりも、ゞャズを受け入れる瀟䌚そのものもたた、はっきりず様盞を倉えようずしおいた。

『ただゞャズの店やっずるずいう匷い意識を持っずったけど、昔ほどではなかった。突っ匵っおも返っおくるものもなくなったしね。客商売ずしおの難しさも芋えおきたんやわ。ゞャズファンも含めお、軟匱になっおいったんやねェ。突っ匵り孊生も来なくなった。生意気なのもね。サラリヌマンずなっお、仕事に远われ、家庭サヌビスにも気を遣うようになっおいくず、気持ちがゞャズ的ではなくなるんやね。

金沢の倧孊にいた時によく来おたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たたに出匵で金沢に来るず、必ず寄っおくんやね。そしお、決たっおリク゚ストするんやわ。家に持っずるレコヌドなんにね。芁するに、家はゞャズを聎く堎ではなくなったずいうこずなんやな。ずころが面癜いこずに、そうやっお比范的若い人たちよりも、さらに幎配になっおくるず、子離れもすんでゆずりが生たれおくる。今曎カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう䞀床ゞャズでも聎いおみようかずいった人たちも出おくるんやね。仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次䌚や䞉次䌚のあず、ひずりになっおやっお来るんやわ。そしお、たたに郚䞋なんかも連れおきお、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ゞャズのこずずか、孊生運動時代のこずずかね   』


銙林坊に移っおから、ペヌクはコミュニケヌションの堎的匂いを匷めおいく。奥井サン自身も、ゞャズ的な感芚で埗られるさたざたな愉しみなどに手を広めおいった。

『シャむな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ゞャズもおかしな颚に流されおいったように感じるんやね。ゞャズっお䞋皮ゲスな音楜やったもんや。それが䜕だか、気取っお、倧人ぶっお聎かなければならんものになっおしたったもん。䜕にも分かっちゃいない連䞭が、ゞャズを倉な颚に解釈しおるんやわ。ゞャズが奜きやから、ゞャズなら䜕でもいいず蚀うのずは違うんやけど、どうもそこらぞんがおかしいんやね。だから、最近金沢でやっおるゞャズのコンサヌト行っおも感動せん。ゞャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でゞャズを語りたくもないけど ゞャズの店には、ゞャズの店にしかないこずっおあるんやねェ。䟋えばレコヌドのゞャケットを芋せるこずずか。ゞャズの話を始めたカップルがいるず、ちょっず倉わったものをかけおみる。ゞャケットを芋るこずで話も匟むんやわ   』


🖋 奥井進が語った午埌ゞャズ人生からゞャズ的人生ぞ2012.6.16

●ゞャズ的人生の始たり

ペヌクには個性的なニンゲンが集たる。特に銙林坊に移っおからは、ゞャズそのものよりも奥井サンずのコミュニケヌションを求めお来る客が倚くなった。個性的なマスタヌに、個性的な客が集たるずいう兞型だ。

『毎日、同じ日がないずいう愉しみを知ったね。同じ客が来おも、同じ愉しさは生たれないけど、別な愉しさは生たれる。毎日がゞャムセッションなんやね。でも、最近、若い女の子があたり来なくなったな。昔の嚘さんばっかり。珟圹の嚘さんが来なくなっお、叀いのばっかりやね  』

奥井サンの雑孊博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、蚘憶力もかなり凄たじい。掻字䞭毒がもたらした知識の蓄積ず、興味をもったものに察する飜くなき远究  

『だいたい時半頃に店開けるんやけど、始めの時間垯っお客も来ないわね。そんな時、独りでカりンタヌの怅子に座っお、本読んどるんやけど、そのたたなかなか誰も来ない時がたたにあるんやわ。そんな時は、掻字䞭毒に火が぀く。ずにかく䜕でも読むんやわ。棚に眮いおあるものを匕っ匵り出しおね。広蟞苑だろうが、怍物図鑑だろうが、ずにかく䜕でも、広蟞苑は飜きないし、読み尜くすずいうこずがないからいいねェ。読むものは叀いずか新しいずか、和掋など問わないで、ずにかく面癜いず思った本を買っお読むんやね。時折、䞭味が難しすぎお、䞀日数ペヌゞしか進めなかったずいうこずもあるけど、それもたたいいんやわ   』

黒髪をアップで束ね倏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやっおきた。俳号は「酔生虫」ずいう。これは「酔生倢死すいせいむし」ずいう蚀葉からずったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、たた倢を芋おいるように、無意味に䞀生を送るこず」ずいうこずだ。

しかし、実に党くこんなに的を射たネヌミングはないず思っおしたう。蚀葉の意味はもちろんのこず、こんな蚀葉を探し出しおきた奥井サンらしさに敬服しおしたうからだ。

『俳句は、きちんずした䌚の䞭で始めた。その埌は、店の䞭で客たちずやるようになったけど、ずんでもない理屈こきが倚くおね。先生の蚀うこずなんか党然聞こうずもせん。ほんずにたあ、たちの悪い門䞋生ばっかりやわ。ここ10幎ぐらいの間に、いろんなこずをやるようになったね。山野草にも盞圓のめり蟌んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きずるね。母芪からもいろいろな名前を教わっおいたせいか、目に芋える花の名前は、ほずんど知っずったもんね   』

奥井サンは奥さんず䞀緒によく近堎の䜎山ぞず出かけおいる。バヌドりォッチングぞの傟倒も、その延長線䞊にあったものだろう。

『ペヌクは、自然に趣味の話が出来る堎になっずったねェ。別にグルヌプを䜜っお、䜕かやろうずいうのではなく、各個人のこずずしおね。今、カメラやっずるけど、あれも奥が深いわ。最近あんたり撮れんようになった。前は䜕でも撮っずったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし   』

奥井サンの写真には、䜕か独特な雰囲気がある。それが䞀䜓䜕なのかずいうず難しいのだが、技術などずいった俗な評䟡軞では枈たしたくない。そしお、それもたた、少幎時代の奥井サンに沁み蟌んだたたの䜕かなのかも知れない。

『基本的にあるもんは、自分で愉しむっおこずなんやわ。それができんかったら、䜕も意味ないわね。他人に匷制したりもせんしね、面倒くさいこずも、ずにかくしない   』

あの人は、珟代の仙人みたいや ず、奥井サンのこずを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街ずいう煩雑な空間の䞭に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに巊右されない䜕かが朜んでいる。

『䌑みかあ 、そんなもん考えたこずないなあ。毎幎、倧晊日から元旊の朝にかけおオヌルナむトやっお、元旊の倜だけは店閉めるけど、あずは党く䌑たんね。䌑みずいう感芚そのものがないんやわ。旅行なんおものも、ほずんどしたこずない。新婚旅行も行っおないし、倧阪奥さんの実家があるぞも、結婚埌回も行っずらん   』

金沢に来お幎埌、27歳の時に奥井サンは結婚しおいる。優秀な息子が二人。圓然二人ずも成人しおいる。

『分かるやろけど、ずにかく父芪らしいこずはしおないんやわ。教育なんお認識はナシ。倜は党く家にいないし。行楜などもない。母芪の教育が良かったんやろず思うけど、父芪を軜蔑するような息子たちではなかったね。意芋がたしいこずも蚀わんし、そんな意味じゃ、人ずも男でよかったわ。

「お父さんは、のんびりしおおいいねえ 」なんお生意気なこず蚀うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡たれお倧倉なんやぞ。だから、それを玛らすのに酒を飲むんや」などず、蚀い返したりする。説埗力なしやけどね。でも、「お父さんは奜きなこずやっおればいいよ」なんお、いいこず蚀うしねェ。やっぱ、頭が䞊がらんわ   』

来幎1999の12月で、ペヌクは30幎になる。今でも新しい客が蚪れ、朜圚的な郚分でペヌクは確実に倉化しおいる。

奥井サンは今53歳。い぀もオヌプンな店でいたいず蚀う。“個性掟の集たり”ずいう店の個性も奥井サン自身が䜜り䞊げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどずいったこずも考えおいない。にじみ出おくるものずいうのは、単なる店の内装だずかずいった単玔な芋た目のものからではないずいうこずを、奥井サンが教えおくれる。

『元気なうちは店をやっおいく。でも、そんなこずも考えたくないね。ゞャスを広めたいずいう気持ちもないし、息子たちにもそんなこず求めんわ。ゞャズの店はもう再生しないず思うんや。音を絞ったりしお聎くゞャズは、やっぱりちょっず違うんやね。ラむブでもパワヌが感じられない挔奏を、皆がそんなもんかず聎いずるわね。あれはもうオレにはゞャズじゃない。』

『これから これからは、たすたす趣味の䞖界やし、死んだら終わりやけど、死ぬたでは店もやる。毎日は愉しいね 。やっぱ、ゞャズ・フィヌリングなんやねェ。い぀やったか、もう店やっずるのがむダになったこずがあるんやわ。その時、山䞋掋茔さんから、「毎日、違うお客さんが来お、毎日、アドリブですね。そういうこずを愉しみながら、毎日、゚ヘラ゚ヘラずやっおいけばいいんじゃないですか。金沢にペヌクがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第䞀、儲けようなんお思っおないでしょ 」なんお蚀われおね。金はあった方がいいけど、たたに若い女の子も来るから、たた頑匵るかなっお思った  』

ここで時間切れずなり、

『あんたり、面癜い話にならんかったねェ  』 

奥井進 1969.12.222003.6.17


🖋 奥井進が語った午埌ゞャズ人生からゞャズ的人生ぞ2012.6.16

い぀も普通に話しおいたのだが、その日の䌚話は特別なものだった。

時間半の、特別な時間。そしお、セッションは終わった  

ペヌクは、今も銙林坊日銀裏で奥井サンの劻・T子さんによっお続けられおいる  

むベントで語る奥井サン 聞き手はℕ居でした。


“🖋 奥井進が語った午埌ゞャズ人生からゞャズ的人生ぞ2012.6.16” ぞの7件の返信

  1.  呜日ず結婚蚘念日が同じ日だずは、党く知りたせんでした。                   䜕か因果を感じたす。知らないマスタヌの䞀面を垣間芋お、たた懐かしく思えたす。    

  2. 氎野さんず、奥井さんの遺䜓を運んだんでしたね。
    あの倜のこずは忘れないです。

  3. 驚きたしたの䞀蚀です。楜しく読たさせおいただきたした。小生は孊生時代にペヌク片町で
    幎間アルバむトをしおいたものです、奥井さんや奥さんずの銎れ初めなどもよく知っおおり
    奥さんずも今でも知り合いです、銙林坊時代のこずは知りたせん、関西に就職でおからは
    ほずんど亀流がなかったもので・・・やあ懐かしいです・・・ほんず驚きたした、小生は64才です

  4. ご寄皿ありがずうございたした。やはり奥井さん関係者はたくさんいたすね。圓方は今60歳で奥井さんずは10歳違いでした。16歳の頃から片町ペヌクに行っおたしたから、ひょっずしおお䌚いしおいるかもですね。自分にずっお奥井さんはゞャズずゞャズ的感性を教わったかけがえのない存圚でした。この文章もか぀お倚くの人たちに読んでいただき、ある倧孊の先生からは、よくぞ曞いおくれたずお耒めをいただいたほどでした。お元気で。

  5. 銙林坊時代から気たぐれにゞャズを聎きに来おいたした。
    店内は小気味がよい皋、殺颚景でしたが吠えるような音だけがどんどん身䜓に入っおくる気がしたしたっけ。

    圓時、私もたたにくる若いコの䞀人だったのかな(笑

    たたに顔を出すず気さくに声をかけおくださいたした。

    そんな私も結婚し、子育おに远われペクぞ行く事はできなくなりたしたが、もう䞀床行きたいずいう思いがずっずありたした。
    その埌、神宮寺から倧暋町経由で歩いお行かれるのを䜕床かお芋かけしたした。
    声をかけ、
    真っ昌間、立ち話をさせおもらいたした。倪陜の䞋で芋る奥井さんはたた味のあるお方でしたよ

    奥井さんはご病気で亡くなられたのでしょうか

  6. 確認が遅くなり申し蚳ありたせん。
    奥井さんは食道ガンで亡くなりたした。
    い぀もりむスキヌをストレヌトで飲んでいたから、
    よくなかったんだろうず思いたす。
    この文章はかなり叀くなっおいたすが、
    その埌、ボクが自䞻䌁画したマむルス・デむビス関連の
    むベントなんかにもご意芋番ずしおいおくれたした。
    しかし、長い準備期間を経た本番2003.7.1を盎前にしお
    逝っおしたったんです。
    この雑文集の「ゞャズ的な話線」ずいうカテゎリヌの䞭に、
    奥井さんのこずや写真なんかが出おくる話がありたすので、
    よろしければ読んでみおください。

  7. 懐かしい、ヒップずよく䞀緒に行きたした。

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