奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ


この文章は、1998年5月に創刊したプライベート誌『ヒトビト』に綴ったものだ。ほんのちょっとだけ加筆した。

「ヨーク」のマスターとして、多くの人たちに愛された奥井サンが、亡くなる五年前に語ってくれた自分自身の一部だ。

暗い開店前の店で、途中からノリが悪いからとビールを飲みながらのセッションになった。

6月17日は、奥井サンの命日だ。そして、奥井さん夫妻の結婚記念日でもあった……

**************

「ジャズ人生から ジャズ的人生へ」 ~ 近くでトーク

●八尾に生まれる……

金沢の東部にある神宮寺という町から、奥井サンは歩いて香林坊の自分の店へとやって来る。所要時間は約一時間、ひどい雨降りや特別なことがないかぎり、とにかく歩くことにしている。

ただ歩いとるだけや

と、奥井サンは言う。見る方からしても、いかにもただ歩いているだけのように見えるから、やはりただ歩いているだけなのかも知れない。

しかし、実は意外(失礼だが)とそうでもないのだ。やはりと言うか、さすがにと言うか、とにかく、奥井サンはただ歩いているだけではないのであった。

奥井サンは、昭和19年(1944)10月22日、富山県婦負郡保内村字松原に生まれた。風の盆で有名な現在の八尾町である。ちなみにイチローと同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山市内に出た頃からジャズに染まり始め、それ以後、今日に至るまで、ジャズとの付き合いが続いている。

『 オレも小さい頃は子供やったんや。電気も水道もない、山の中の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。

 東京で、和菓子職人の修業をしていたおやじが、体が弱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった土地を譲り受け、そこに家を建てた。

 そこら辺は、引き揚げ者や農家の次男坊、街からの入植者などが開いた所やったんやな。

 電気がないから、ランプ生活。水は手押しポンプの井戸やった。スイカやトマトが冷たくて美味かったわ。

 晴れ渡ると、目の前に立山連峰が広がって、毎日その雄大な景色を見とったせいで、視力は4.0やった(当然測っていない)。今も目はいいんや。

 小さい頃、何をして遊んでいたか覚えとらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。下(の村)まで行かないと、子供もいなかったし…。小学校に入るまで、字は読めんかった。

 町に近い所におふくろの里があったんやが、そこまではアイスキャンデー屋が来た。そこまで来るんやけど、そこでみんな売り切れてしまって、うちまでは来ないんや。だから、夏おふくろの里へ行くのが楽しみやったなァ。

 魚の行商というのも来たわ。朝の早くに町を出て昼頃にうちの辺りへ来るんやねェ。それでうちが最後やから、売れ残ったもん全部置いていくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べとったな。魚の行商人は、それからうちで弁当を食べるんや。そして食べ終わると、夕方近くまで昼寝をした。そして目が覚めると、「あんやと~」と言って帰って行く。

 なんか、今から考えると、のんびりとした時代やったんやねェ。おやじの小学校の同級生に、町で床屋をやっている人がいて、その人が二ヶ月に一回ぐらい村にやって来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登って来るんやね。今で言うボランティアだったんか、それとも商売だったんかは知らんけど、とにかく、そんなとこでオレは育ったんやわ。

 初恋? そんな相手もおらんがいね…… 』

***************

17歳で富山市へと出た奥井サンは、ジャズと出会う。当時ジャズファンの間で人気のあったNHK・FMの「ジャズ・フラッシュ」という番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の中で育った奥井少年にとって、ジャズとは一体何だったのだろうか?

『 ジャズが好きになったってことだけやね。何となく、自然に身に付いとった。もう死んでしまった巨匠たちが、その頃は現役のバリバリやったしね。

 ニューポート(富山市のジャズ喫茶)に出入りするようになり、常連になっていくうちに、何となく店を手伝うようになったんやわ。それで、そのまま従業員として働くようになって……』

奥井サンは、当時住み込みである仕事をしていたが、どうもそちらには本腰が入ってなかったらしい。ジャズとの出会いは、そんな奥井サンにとって、新しい何かの発見だったのかも知れない。

『 もともと何か目的があったという訳でもないし、そういうものがあったとしたら、富山ではなく、東京へ行ってたかも知れんね…』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコードを持っていたという。すでにかなりのジャズ通になっていたようだ。

そして、24歳の時、「ニューポート」が金沢に店を出すことになり、その店の店長として金沢へ行くことになったのである。

「ヨーク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのジャズ人生がスタートする。

*************

●金沢のジャズのメッカへ

ヨーク片町の開店は、1969年の12月22日。マイルス・デイビスが歴史的な名作「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、ジャズ界が大きな転換期を迎えようとしていた年だ。

もちろん、そんなこととヨークの開店とがリンクしているのではないが、とにかくジャズがハゲしく熱気を帯び続けていた時代、そんな時代に、ヨークは金沢に新しい風を吹き込んだのである。

当時、金沢には「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ヨークより二年前にオープンした聴かせ派の店で、狭い店内にJBLの名器から弾き出されたジャズが蔓延する、密室っぽい雰囲気に満ちた店だった。

ヨーク片町もまた、当時のそんなジャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば百人は入れる広いスペースを持っていた。ライブをやる時には、テーブルの間に丸椅子を置き、立ち見も入ると、立錐の余地もないほどまでに客で膨れ上がった。

『 片町時代は。完全なリスニングルームやった。当時はやはりジャズを聴く人間がたくさんおって、コーヒー一杯で二、三時間というのが普通やったね。メニューの種類なんてコーヒーとコーラ、それに紅茶とミルクぐらいや。酒はビールぐらいやったな。

 今みたいに、客としゃべったりする必要もなかったから、カウンターの中のターンテーブルの前で本ばっかり読んどったわ。活字中毒になったのも、そんなとこからかも知れん。純文学はもちろん、手当たり次第、何でも読んどったって感じやね… 』

片町時代の奥井サンには、突っ張った一面があった。リクエスト・アルバムのA面・B面が指定されていないと、敢えてB面をかけたりした(筆者もやられたことがある)。

70年代の中頃に、ジャズファンのみならず広く大ヒットし、その後のソロピアノ・ブームの火付けとなったキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」などは、あまりのリクエストの多さに、そのレコード自体を店に置かないことにしてしまった。それでもファンは集まったのだ。

『 昔のジャズファンと言うのは、ジャズ一辺倒が多かった。一旦、オレはジャズファンだと言ってしまうと、後へは退けないという雰囲気があった。

 他のジャンルの音楽を聴いとっても、聴き方が違うんやね。特に当時の若い連中には、そんなコダワリが強かったわ。(ジョン・)コルトレーンのハゲしいのを聴いていながら、歌謡曲なども聴いてた者もおったやろけど、何でか、ジャズになると皆それなりに一生懸命やった。だから、こっちも突っ張れたんや。

 オレは、決して啓蒙的なマスターじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざと反対の意見を言ったりしたこともあったしね…… 』

当時の店ではよくライブが行われた。特に山下洋輔トリオは、オリジナルの最強メンバーでヨークへ乗り込んできては、とてつもなくハゲしく、そして徹底的に愉しいコンサートで盛り上げてくれた。

コンサートホールでのライブも、今とは比較にならないほど行われており、あのマイルス・デイビスが金沢の観光会館ホールで繰り広げた圧倒的な演奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そして、そんなコンサートがあると、ミュージシャンたちの多くがヨークを訪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな彼らとの写真はおろか、サインなども全く残されていない。

●香林坊へ

1984年12月、ヨークは香林坊の日銀裏へと移転した。十五年を経ての移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ジャズをガンガン聴かせると言う雰囲気も薄くなっていった。営業主体も夜型へと移行した。

若者だったジャズファンは結婚し、家庭をもち、ヨーク(ジャズ)から離れていかざるを得ない者もいた。そして、ジャズというよりも、ジャズを受け入れる社会そのものもまた、はっきりと様相を変えようとしていた。

『 まだジャズの店やっとるという強い意識を持っとったけど、昔ほどではなかった。突っ張っても返ってくるものもなくなったしね。客商売としての難しさも見えてきたんやわ。ジャズファンも含めて、軟弱になっていったんやねェ。

 突っ張り学生も来なくなった。生意気なのもね。サラリーマンとなって、仕事に追われ、家庭サービスにも気を遣うようになっていくと、気持ちがジャズ的ではなくなるんやね。

 金沢の大学にいた時によく来てたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たまに出張で金沢に来ると、必ず寄ってくんやね。そして、決まってリクエストするんやわ。家に持っとるレコードなんにね。

 要するに、家はジャズを聴く場ではなくなったということなんやな。ところが面白いことに、そうやって比較的若い人たちよりも、さらに年配になってくると、子離れもすんでゆとりが生まれてくる。今更カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう一度ジャズでも聴いてみようかといった人たちも出てくるんやね。

 仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次会や三次会のあと、ひとりになってやって来るんやわ。そして、たまに部下なんかも連れてきて、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ジャズのこととか、学生運動時代のこととかね…… 』

香林坊に移ってから、ヨークはコミュニケーションの場的匂いを強めていく。奥井サン自身も、ジャズ的な感覚で得られるさまざまな愉しみなどに手を広めていった。

『 シャイな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ジャズもおかしな風に流されていったように感じるんやね。ジャズって下種(ゲス)な音楽やったもんや。それが何だか、気取って、大人ぶって聴かなければならんものになってしまったもん。

 何にも分かっちゃいない連中が、ジャズを変な風に解釈してるんやわ。ジャズが好きやから、ジャズなら何でもいいと言うのとは違うんやけど、どうもそこらへんがおかしいんやね。

 だから、最近金沢でやってるジャズのコンサート行っても感動せん。ジャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でジャズを語りたくもないけど…

 ジャズの店には、ジャズの店にしかないことってあるんやねェ。例えばレコードのジャケットを見せることとか。ジャズの話を始めたカップルがいると、ちょっと変わったものをかけてみる。ジャケットを見ることで話も弾むんやわ…… 』

*************************

●ジャズ的人生の始まり

ヨークには個性的なニンゲンが集まる。特に香林坊に移ってからは、ジャズそのものよりも奥井サンとのコミュニケーションを求めて来る客が多くなった。個性的なマスターに、個性的な客が集まるという典型だ。

『 毎日、同じ日がないという愉しみを知ったね。同じ客が来ても、同じ愉しさは生まれないけど、別な愉しさは生まれる。毎日がジャムセッションなんやね。

 でも、最近、若い女の子があまり来なくなったな。昔の娘さんばっかり。現役の娘さんが来なくなって、古いのばっかりやね……』

奥井サンの雑学博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、記憶力もかなり凄まじい。活字中毒がもたらした知識の蓄積と、興味をもったものに対する飽くなき追究……?

『 だいたい五時半頃に店開けるんやけど、始めの時間帯って客も来ないわね。そんな時、独りでカウンターの椅子に座って、本読んどるんやけど、そのままなかなか誰も来ない時がたまにあるんやわ。

 そんな時は、活字中毒に火がつく。とにかく何でも読むんやわ。棚に置いてあるものを引っ張り出してね。

 広辞苑だろうが、植物図鑑だろうが、とにかく何でも、広辞苑は飽きないし、読み尽くすということがないからいいねェ。

 読むものは古いとか新しいとか、和洋など問わないで、とにかく面白いと思った本を買って読むんやね。時折、中味が難しすぎて、一日数ページしか進めなかったということもあるけど、それもまたいいんやわ…… 』

黒髪をアップで束ね夏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやってきた。俳号は「酔生虫」という。これは「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉からとったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、また夢を見ているように、無意味に一生を送ること」ということだ。

しかし、実に全くこんなに的を射たネーミングはないと思ってしまう。言葉の意味はもちろんのこと、こんな言葉を探し出してきた奥井サンらしさに敬服してしまうからだ。

『 俳句は、きちんとした会の中で始めた。その後は、店の中で客たちとやるようになったけど、とんでもない理屈こきが多くてね。先生の言うことなんか全然聞こうともせん。ほんとにまあ、たちの悪い門下生ばっかりやわ。

 ここ十年ぐらいの間に、いろんなことをやるようになったね。山野草にも相当のめり込んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きとるね。母親からもいろいろな名前を教わっていたせいか、目に見える花の名前は、ほとんど知っとったもんね…… 』

奥井サンは、よく酔っ払う。

店のマスターなのに、かなりハゲしく酔っていたりして、客なのかマスターなのか区別がつかなくなったりする。だから二日酔いの日も必然的に多くなる。

しかし、奥井サンは奥さんと一緒によく近場の低山へと出かけているのだ。バードウォッチングへの傾倒も、その延長線上にあったものだろう。

『 ヨークは、自然に趣味の話が出来る場になっとったねェ。別にグループを作って、何かやろうというのではなく、各個人のこととしてね。

 今、カメラやっとるけど、あれも奥が深いわ。最近あんまり撮れんようになった。前は何でも撮っとったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし…… 』

奥井サンの写真には、何か独特な雰囲気がある。それが一体何なのかというと難しいのだが、技術などといった俗な評価軸では済ましたくない。そして、それもまた、少年時代の奥井サンに沁み込んだままの何かなのかも知れない。

『 基本的にあるもんは、自分で愉しむってことなんやわ。それができんかったら、何も意味ないわね。他人に強制したりもせんしね、面倒くさいことも、とにかくしない…… 』

あの人は、現代の仙人みたいや…と、奥井サンのことを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街という煩雑な空間の中に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに左右されない何かが潜んでいる。

『 休みかあ…、そんなもん考えたことないなあ。毎年、大晦日から元旦の朝にかけてオールナイトやって、元旦の夜だけは店閉めるけど、あとは全く休まんね。休みという感覚そのものがないんやわ。

 旅行なんてものも、ほとんどしたことない。新婚旅行も行ってないし、大阪(奥さんの実家がある)へも、結婚後一回も行っとらん…… 』

金沢に来て三年後、27歳の時に奥井サンは結婚している。優秀な息子が二人。当然二人とも成人している。

『 分かるやろけど、とにかく父親らしいことはしてないんやわ。教育なんて認識はナシ。夜は全く家にいないし。行楽などもない。

 母親の教育が良かったんやろと思うけど、父親を軽蔑するような息子たちではなかったね。意見がましいことも言わんし、そんな意味じゃ、二人とも男でよかったわ。

 「お父さんは、のんびりしてていいねえ…」なんて生意気なこと言うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡まれて大変なんやぞ。だから、それを紛らすのに酒を飲むんや」などと、言い返したりする。説得力なしやけどね。

 でも、「お父さんは好きなことやってればいいよ」なんて、いいこと言うしねェ。やっぱ、頭が上がらんわ…… 』

来年(1999)の12月で、ヨークは30年になる。今でも新しい客が訪れ、潜在的な部分でヨークは確実に変化している。

奥井サンは今53歳。いつもオープンな店でいたいと言う。“個性派の集まり”という店の個性も奥井サン自身が作り上げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどといったも考えていない。にじみ出てくるものというのは、単なる店の内装だとかといった単純なものからではないということを、奥井サンが教えてくれる。

『 元気なうちは店をやっていく。でも、そんなことも考えたくないね。ジャスを広めたいという気持ちもないし、息子たちにもそんなこと求めんわ。

 ジャズの店はもう再生しないと思うんや。音を絞ったりして聴くジャズは、やっぱりちょっと違うんやね。ライブでもパワーが感じられない演奏を、皆がそんなもんかと聴いとるわね。あれはもうオレにはジャズじゃない。

 もっきりや(ヨークの二年後にオープンした金沢柿木畠のジャズの店)は頑張ってるけど、やっぱり昔みたいに、大きなホールで、バリバリなのがコンサートやるようにならんと、金沢のジャズシーンは元に戻らんわ。それも、むずかしい話やけど…。

 これから? 

 これからは、ますます趣味の世界やし、死んだら終わりやけど、死ぬまでは店もやる。毎日は愉しいね…。やっぱ、ジャズ・フィーリングなんやねェ。

 いつやったか、もう店やっとるのがイヤになったことがあるんやわ。

 その時、(山下)洋輔さんから、「毎日、違うお客さんが来て、毎日、アドリブですね。そういうことを愉しみながら、毎日、エヘラエヘラとやっていけばいいんじゃないですか。金沢にヨークがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第一、儲けようなんて思ってないでしょ…」なんて言われてね。

 金はあった方がいいけど、たまに若い女の子も来るから、また頑張るかなって思った。

 あんまり、面白い話にならんかったねェ…… 』 (終わり)

・・・・・・・ いつも普通に話していたのだが、その日の会話は特別なものだった。

二時間半の、特別な時間。そして、セッションは終わったのだ……

ヨークは、今も香林坊日銀裏で奥井サンの妻・禎子さんによって営業を続けている・・・・・・


「奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ」への6件のフィードバック

  1.  命日と結婚記念日が同じ日だとは、全く知りませんでした。                   何か因果を感じます。知らないマスターの一面を垣間見て、また懐かしく思えます。    

  2. 水野さんと、奥井さんの遺体を運んだんでしたね。
    あの夜のことは忘れないです。

  3. 驚きましたの一言です。楽しく読まさせていただきました。小生は学生時代にヨーク片町で
    2年間アルバイトをしていたものです、奥井さんや奥さんとの馴れ初めなどもよく知っており
    奥さんとも今でも知り合いです、香林坊時代のことは知りません、関西に就職でてからは
    ほとんど交流がなかったもので・・・やあ懐かしいです・・・ほんと驚きました、小生は64才です

  4. ご寄稿ありがとうございました。やはり奥井さん関係者はたくさんいますね。当方は今60歳で奥井さんとは10歳違いでした。16歳の頃から片町ヨークに行ってましたから、ひょっとしてお会いしているかも?ですね。自分にとって奥井さんはジャズとジャズ的感性を教わったかけがえのない存在でした。この文章もかつて多くの人たちに読んでいただき、ある大学の先生からは、よくぞ書いてくれたとお褒めをいただいたほどでした。お元気で。

  5. 香林坊時代から気まぐれにジャズを聴きに来ていました。
    店内は小気味がよい程、殺風景でしたが吠えるような音だけがどんどん身体に入ってくる気がしましたっけ。

    当時、私もたまにくる若いコの一人だったのかな(笑

    たまに顔を出すと気さくに声をかけてくださいました。

    そんな私も結婚し、子育てに追われヨ-クへ行く事はできなくなりましたが、もう一度行きたいという思いがずっとありました。
    その後、神宮寺から大樋町経由で歩いて行かれるのを何度かお見かけしました。
    声をかけ、
    真っ昼間、立ち話をさせてもらいました。太陽の下で見る奥井さんはまた味のあるお方でしたよ

    奥井さんはご病気で亡くなられたのでしょうか

  6. 確認が遅くなり申し訳ありません。
    奥井さんは食道ガンで亡くなりました。
    いつもウイスキーをストレートで飲んでいたから、
    よくなかったんだろうと思います。
    この文章はかなり古くなっていますが、
    その後、ボクが自主企画したマイルス・デイビス関連の
    イベントなんかにもご意見番としていてくれました。
    しかし、長い準備期間を経た本番(2003.7.1)を直前にして
    逝ってしまったんです。
    この雑文集の「ジャズ的な話編」というカテゴリーの中に、
    奥井さんのことや写真なんかが出てくる話がありますので、
    よろしければ読んでみてください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です