🖋 マイルス・デイビスが金沢にいた1973年7月1日の夜と それを30年後に再確認しようとしたイベントの話など 


目次

あの金沢コンサートから50年…… 

上の写真は、2003年当時2年がかりでやっていた自主企画・自主運営イベントを紹介するNHK-FMの録音テープだ。翌年の本番に向けたイベントの準備などを追って、ボクを取材してくれていたNHK金沢放送局のC野アナと、もう一人女性アナ(名前は忘れた)の番組に、ボクがゲスト出演し30分ほど語っている。土曜午後の東海北陸向けの特別番組で、録音してくれたのは、金沢・柿木畠、喫茶「ヒッコリー」のマスター水野弘一さんだ。

北國新聞から購入したコンサートの写真

ボクが企画していたのは、ジャズ界のリーダー、マイルス・デイビスが1973年7月1日に金沢で行ったコンサートを振り返り、常にジャズシーンをリードしてきたマイルスが、当時金沢でどのような演奏をしていたのかを再確認しよう!というイベントだった。

簡単に書いてしまったが、たぶん、ジャズのことなんか知らないの…という人には、どうでもいい話だろうし、自分でもこのことをきちんと伝えることのむずかしさは骨の髄まで痛感している。最近ジャズが好きになったの…という人にも全く解りづらいだろう。つまり、ボクはそんなことをやろうとしていた。

30年前のコンサートを再現するようなイベントというと、誰でもコピーバンドを入れたらいいと思うに違いない。しかし、コピーバンドではダメだった。マイルス・デイビスそのものでないとダメだった。しかし、マイルスはもうすでにこの世にいない。もし生きていたとしても、もう演奏スタイルは違うし、それに根本的にボクがマイルスを金沢へ呼ぶなんてことは不可能だった。

で、どうするかと言うと、残されたレコードやCDをとおして、当時の演奏を再確認するしかないのだが、1973年の日本公演ツアーは“正規”録音がされていなかった。だから、その前後の録音モノから金沢での演奏スタイルを想像するしかなかった。

話は、ますますややこしくなる…… なんで、録音が残されていないか? そんなこと知るか…と、ここまできて開き直るのも申し訳ないから、もうちょっと書こう。

紹介してくれた北國新聞記事

マイルス・デイビスというミュージシャンは、とてつもない創造者だった。常に変化し続けていた。マイルスの音楽は、いつも先を行っていて、実験的で批評しにくく、ライブ自体が彼の創造活動になっていて、スタジオでの録音ですらも即興型のライブ形式で出来上がっていた。それも73年あたりでは、もうスタジオでの録音はほとんどなくなっていたのだ。つまり、マイルスはもうステージでの演奏でしか、自分の音楽を表現できなくなっていて、一曲が何十分にも及ぶ演奏で、聴き手にメッセージをぶつけていたと言っていい。ちょっと、一休みしよう…

🖋 マイルス・デイビスが金沢にいた1973年7月1日の夜と それを30年後に再確認しようとしたイベントの話など 

マイルスが金沢にやってきた当時、ボクは午前中家の手伝い(アルバイト)をし、午後からは、当時大手町にあった市立図書館で受験勉強に打ち込むという、ビートたけし風に言えば、刑務所の模範囚に値する優良浪人生だった。

余談だが、この頃のボクの切り替えの素早さには、自分でも凄いものを感じていた。アタマを丸刈りにし(といっても、元野球部だったから特に傍目の違和感はなかっただろうが)、裾が閉まった綿パンにTシャツ、素足にサンダル履きというスタイルで、時間をキッチリと配分し毎日を過ごしていた。図書館での勉強スタイルも予備校組よりはるかに効率的にこなしていたし、勉強時間は昼から夕方までと決めていて、帰りにYORKに寄ったりすることは、ボクの中では正しい息抜き兼充電のひとときでもあった。マスターの今は亡き奥井進さんとは、その頃すでに親しくなっていたから、YORKではかなりのんびりできたと言っていい。

      ※コンサートの夜のことを語る奥井さん

実はマイルスのコンサートを振り返る時、奥井さんが地元紙の夕刊に書いたコンサート評の記事がボクにとって貴重な資料となった。当時ボクはジャズがかなり解り始めた頃だったから、マイルスがロック志向に走っていることに大いに不満を持っていた。分かりやすく言うと、ロックはガキの音楽なのに、なぜ偉大なマイルスがロック志向になっているのか…などと、生意気なことを思っていたのだ。実際には、マイルスの演奏スタイルはロックをベースにしたサウンドになってはいたが、そんな安直な解釈だけでは説明できないものだった。さらに高い次元の音楽が創造されていたのだ。

そのことを、われらが奥井さんは見抜いていた。そして、素直にあのコンサートでのマイルスのサウンドに驚いたことを新聞に書いていた。

何のMCもないオープニング。緞帳が上がるのと同時に始まった演奏。大音量が音の風になって、最前列ど真ん中にいたボクの顔面にぶち当たり吹き抜けていく。一気に緊張を強いられたボクは、そのまま金縛りにあったかのようにして時間を忘れていた。

ボクはかつての感触を蘇らせた。奥井さんのコンサート評から、たしかにそうだったと振り返ることができた。

奥井さんは、ボクが企画したイベントのプレの第1回目に出演してくれて、ボクとトークセッションをやってくれている。二人で語ると、普段はほとんど漫才みたいになるのだが、この時だけは妙に真面目にやっていて、後で可笑しくなったのを覚えている。プレの2回目にも、観客席の真ん中に腰を据えて、金沢のジャズシーンの中心人物らしく、ボクのやっていることを見守ってくれていた。

しかし、本番まであと3週間ほどという日の夕刻だった。

2003年6月17日、ボクを残して奥井さんは帰らぬ人となってしまった。食道ガンだった。“絶対、本番には会場に来てや”“行けるか、分からんぞ”そんな会話が最後になった。

このあたりの話は、73年7月初めからの朝日新聞金沢版の『金沢アンダンテ』というコーナーに一週間連載で寄稿した。奥井さんの死とボクのこのイベントへの思いは、とにかく頑張っていた自分の中で、深く繋がっていたと言っていい。

カセットテープの中では、ボクは30年前のコンサートのことを話している。そして、その再体験をしようとするイベントについても、その目的ややり方などについて語っている。ついでに書いておくが、我ながらいい声だ。女性アナウンサーからもそう言ってもらえた。

30年前の音を再現しようという試みは、想像していた以上に広く多くの人たちの共感を呼んだみたいだった。自分自身でも努力したが、1973年7月初め前後のマイルス音楽が録音された、俗にいう“海賊版”CDなどが手に入ってきた。当時のコンサートの写真(隠し撮り)も出てきた。凄かったのは、名古屋のジャズクラブ(店ではなく、愛好家の集まり)の方から企画を評価していただき、当時のライブ映像が入ったDVDや写真、パンフレット類などが届いたことだった。

YORKの仲間たちのネットワークも強力で、手伝ってくれるメンバーも増えてきていた。そして、なんといってもイベントのもうひとつの目玉になったのが、スーパーオーディオの存在だった。マイルスの圧倒的な音を再現するには、生半可なオーディオでは不十分で、しかもいいオーディオを揃えると言っても物理的に不可能なことだった。

会場は、閉館となった映画館を改造して運営し始めていた「香林坊ハーバー」。実はボクのイベントが本格的な使い始めと言ってもよかった。不備だらけだった。

映画館にはもともとスピーカーがある。しかも「ALTEC」というとてつもなく高級メーカーのものが残されていた。しかし、ボクのイベントでは、それをはるかに凌ぐスーパーオーディオが準備された。高岡にある「audio shop abc」のオーナー飴谷太さんが、その名の通りの太っ腹で無料レンタルしてくれたのだ。メーカーはマッキントッシュ。総額2000万は超えるであろうマッキントッシュのスーパーな機材がステージに並んだ。

『マイルスを訊(き)け』という、マイルス・デイビスのバイブルとも言える本の著者中山康樹氏からも激励と、金沢公演での裏話が詰まった長いメールをいただいた。

さらに、本番の数日前、今度は全国版のNHKラジオ番組でインタビューを受け、それが放送されると、全国そして、アメリカ在住の日本人ジャズファンの方からも電話が入った。みな、やろうとしていることに驚いていると異口同音に話してくれた。

会場のロビーには、写真や当時のコンサートグッズなどが展示され、受付を担当してくれる仲間たちがいた。缶ビールなどの飲み物も出した。入場は無料だったが、協力金みたいな名目で飲み物を買ってもらった。飲み物は家から持ってきてくれたものも含めて、カンパされたものばかりだった。

本番は、2003年の7月5,6日、二日間にわたって行われた。初日がマイルスの名盤を時間軸で流し、特にトークは入れずにただひたすら聴くという趣向にした。二日目はボクがステージに立ち、マイルス音楽の遍歴やコンサートのことなどを話した。時効だから言うが、ステージでは突発的に、金沢へ来る一週間ほど前の新宿厚生年金ホールでの映像も流した。これにはみなも唖然とした表情で見入っていた。

香林坊ハーバーは、前年のプレも含めてのべ4日使ったが、定員60名のところに、毎日160名ほどの人たちが来てくれた。皆、こんなイベントがなぜできたのかと不思議がっていた。

ボク自身も実に不思議な感覚だった。もっと注目されてもいいんじゃないかとも思ったりしたが、このあたりが自分自身のキャパだろうと納得していた。

 書くのを忘れていたが、イベントのタイトルは「30th memorial- MILES DAVIS  in KANAZAWA」。他人から見ればどうでもいいようなことに没頭し、自ら企画して自ら制作して、自ら進行運営をやってしまった、自分の原点にあったようなイベントだった。そして、奥井進という、ボクにとっては何だか分からないけども重要なニンゲンの存在を失うことへの恐ろしさから、逃避するために一生懸命になっていた日々でもあった…のかも知れない。

この後、ボクはジャズを中心にしたいくつかのイベントを企画した。その中で多くの人たちと出会った。ただ、今、ボクの中にある冷め切らない熱は、あのマイルスの時に温められたものに違いないと思っている……

マイルスの話は以下にも。

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

秋のはじめのジャズ雑話-1


“🖋 マイルス・デイビスが金沢にいた1973年7月1日の夜と それを30年後に再確認しようとしたイベントの話など ” への6件の返信

  1. あれから7年半かぁ、、、( ̄。 ̄ )トオオイメ

    実行委員の末席に名を連ねながら当時は、何も手伝えなくてゴメンな。m(_ _)m
    あのイベントの二日目には、格闘技オフ会で知り合ったオレの稽古仲間の金沢美大生が彼女同伴で観に来ていて、「ジャズって、初めて聴きましたけど、、、これって、、、モノスゲーですよね!」って感激していたのを印象深く憶えてるよ。

    あと、奥井さんの話が出て、、、オレの周りの客席で、鼻水をすする汚ねぇ音が出まくりで、超顰蹙モンだったな、、、b(`△´)

    祥稜 拝

  2. S井さんにO本さん、
    A立くん、Y根くん、K彦くん、Uららさんとお友達、M紀くんとお友達…
    それにA木さんにもお世話になった。
    そして、名古屋のI藤さんからは、貴重な資料がどさっと届いて、
    紹介してくださったU村さんにも大感謝だった。
    名古屋ジャズの凄さに驚かされた。
    また、やりたい……、やるぞ。

  3. ・・・懐かしいですね。 思えば、はからずも奥井さん追悼のイベントにもなっていましたし、ナニより驚くべきは、あれだけ金をかけずにあれだけのモノができたということに今さらながら驚かされます。。。もちろん、N居さんの持ち出しも大変なものだったとは思いますが。

    おそらく、そのキーワードは「情熱」。 ・・・本当に好きでなければ、できないッすね。
    また、ヤリましょう。体力的支援(!)は惜しみませんゼww。

  4. 高一のときの懐かしい思いでの公演です
    当時持ち込んだカセットレコーダーに無断で録音しました
    いまもカセットテープはありますが、この20年は再生してないないのでカビが生えてるかもです(///∇///)

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