カテゴリー別アーカイブ: ジャズ的な話編

湯けむりの中で口笛を吹く

 新潟の月岡温泉にある某旅館で、早朝の大浴場を独り占めしていた。自分以外に誰もいないわけは、この旅館には二つの浴場があり、もうひとつの方が圧倒的に人気が高いからだ。    

 ボクはとにかく朝は広々とした風呂で、ひたすらのんびりするのが好きだ。いくら情緒的に劣るとしても、肩を寄せ合うようにして湯に浸かっているよりはかなりいい。それにもうひとつの方の風呂には、昨日のうちにたっぷりと入ってもいた。

 しかし、独り占めはやや出来過ぎのようでもあり、居心地がいいかというとそうとも言えない。

 外は氷点下だが、とりあえず露天風呂に行く。さすがに湯の中は温かく、岩に背中を押し付けながら冬の空を見上げていると、室内の風呂の方に誰か入って来ないかと気になる。せっかく独りだけだったのにと、入って来た人を恨んだりするかも知れない……。あるいは、入って来た人も、あれ確かにスリッパが一足あったと思ったけど誰もいないのかと勘違いしてしまい、ボクが戻った時にガッカリさせるかもしれない。これらはボクにとって決してよいことではなかった。

 しばらくして露天風呂から室内の方に戻った。相変わらず独りで、浴槽に身を沈めながら、ゆったりと湯の面が揺れているのを見ている。

 足を前に投げ出し、両手をアタマの後ろの方に回すと実に解放的な気分になり、これがα波かと納得するのである。

 かつて、銭湯の活性化の仕事に関わったことがあって、「銭湯開始」というコピーでポスターやら仕掛けたことがあった。それとどちらが先だったか忘れたが、入浴剤の商品開発にも関わり、α波の存在を知った。窮屈な風呂よりも、広くてのびのびと手足が伸ばせる風呂の方が、はるか彼方的にα波の存在は大きい(こういう表現が正しいのかどうか?)ということだった。そして、そのことを知ってから、家の風呂に入っていても満足度は上がらなくなってしまったが、たまに温泉へ来ると、出来るかぎり半径二メートルほどの周囲には人を入れないよう努めてきた。

 そんなわけで、今回は二メートルどころか、激しく泳ぎまくってもいいほどの文句のない空間が与えられていた。

 当然だが、そうしたことはするはずがない。せっかく伸ばした手足の先端にまで、脳が認識した“いい気持ち感”をフィードバックさせて(というか、届けて)やりたかっただけだ。

 そして、ときどき手足を動かしたりしながら中空を見上げ、気が付けば口笛を吹いていた。その旋律が、あのナット・キング・コールの『モナリザ』であったことに自分で驚き、途中から正式に吹き直した。

 いつだったかのラジオで、風呂の中で歌う曲について語られていたのを思い出しながら、自分は時折口笛を吹いているなあと思った。そして、いつも『モナリザ』を吹いていたのかと不思議な感覚に陥った。多くの人はやはり歌らしい。口笛はめずらしいのかもしれないが、ボクとしても人前で吹くことはない。

 ナット・キング・コールの存在は、小学生の頃兄の影響で知った。それから二十年ほど過ぎてから彼のベストアルバムのようなLPを自分で買ったが、この『モナリザ』も当然その中に入っていた。なんとなくだが自分では最も好きな曲で、恥ずかしながら、いい加減に出版した拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中にも使わせてもらっている。片田舎の小学生がなんでこんな音楽を聞いていたのか? 世の中は面白いのである。

 そんなわけで、口笛の『モナリザ』は湯けむりの中にそれなりの美しさで響き渡った。気持ちよかった。フルコーラス終わってもまだ誰ひとり入って来ず、もう一度やろうかとも思ったがやめた。口笛の方が歌うより疲れることを知ったのだ。

 戻った静寂の中で、口笛と言えば、やはり『さすらいの口笛』だなと考えたりした。言わずと知れたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主題曲だ。昔、うちには山ほどの映画音楽のレコードがあった。『大脱走』や『戦場にかける橋』なども口笛だったが、団体で吹く口笛よりもソロの口笛が好きだった。そう言えば、加山雄三の『夕陽は赤く』も間奏部分が口笛でカッコよかったなあ………

 浴場には、その後一人、二人と入って来た。しかし、総勢まだ三名。それぞれ散り散りに身を沈め、むずかしそうな顔をしたり、欠伸をしたりしている。ついさっきまで浴場内に『モナリザ』の口笛が響き渡っていたのをこの人たちは知らないのだ。

 ボクは静かに立ち上がり、α波がしっかり沁み込んだカラダを湯から上げた。そして、そのまま洗い場の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ふと、もう一度『モナリザ』の旋律が出そうになった。もちろん口笛で………

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

イーストウッドも ボクもジャズ的だったのだ

 <大それたタイトルに自問しつつ……>

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く姿を、先日初めて見た。

 NHKの、親しみやすくてとてもいい番組でのことだ。アーカイブだから、かなり前の番組だったと思う。そして、彼のピアノは驚くほどの腕前のように見えた。

 後方に、デューイ・レッドマンの息子であるジョシュア・レッドマンなどが立っていて、イーストウッドは長身の体を捻じるようにしながら軽快に鍵盤を叩いていた。

 高校時代、家の近くの店でジャズピアノを弾き、家計を助けていたという。

 そんなエピソードが、イーストウッドをさらに好きにさせた。

 ボクは『荒野の用心棒』で彼のファンになった。細めた目で短く細い葉巻を噛む表情がたまらなかった。まだ小学生だったが、あの表情を真似しようとしていたことは事実だ。

 それから『ダーティ・ハリー』でも、あらためて彼を好きになり、彼のトラッドファッションに強く憧れた。腰を屈めて銃を構える定番ポーズも、裾を萎めたスラックス姿にまず目がいったほどだ。

 

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾く。

 そのことと、映画監督としての共通点について彼は語っていた。そして、そのことが自分にも当てはまっているなと感じ嬉しくなった。

 イーストウッドが語っていたのは、映画を作る上で大切にしている「直感性」と「即興性」が、ジャズをやってきたことの影響かもしれないということだった。

 この言葉は、ガツンと胸を突いた。胸を突いてから、いい意味で胸を苦しくした。

 久しぶりに味わう名言だった………

 

 ジャズを聴くようになったのは中学生の頃だ。まわりにはそういう友達はいなかった。

 その後もずっとジャズを聴き、ジャズ的に趣味の幅を広げ、ジャズ的な価値観を軸にして生きてきたように思う。

 自分には他の連中とは異なる感覚みたいなものがあると今も思っているし、どれだけ頑張ってもカンペキな同調など求められないと感じるケースがよくある。

 そして、ジャズ的感性はニンゲン関係やそこから発展していった趣味・嗜好の世界、そして、仕事の世界でも存分に威力を発揮してきたと思う。

 面白い発見もあれば戸惑う場面などもたくさんあったが、それらはボクのそうした感性がもたらしたものではないかと思ったりする。

 そして、趣味の世界ではそれをコントロールできても、仕事の世界では何度もマズかったかな?という場面に遭遇した。

 

 何年か前、あるイベントでパネルディスカッションを任された時だ。

 つまり、よくあるコーディネーター役をやってくれと頼まれたのだが、ボクは一週間前のパネラーたちとの打ち合わせに紙切れ一枚の資料しか持参しなかった。

 そして、堅苦しいネーミングをやめ、「トークセッション」とし、自分の役割も「ナビゲーター」としてくださいと主催者に告げた。

 なんとなく、そんな感じがよかった。そして、いつも通って(入り浸って)いた「香林坊ヨーク」というジャズの店の、奥井進マスターとのやりとりをアタマに描いていた。

 トークを「遠く」と重ね、“ 近くでトーク ”などと表現したりしていた。

 打合せで、全く説明らしきものもないまま、自分はこんなスタンスで進めていくので、皆さんにはその場の雰囲気でお答えいただければ…みたいなことを話した。

 すぐに主催者側からクレームが出た。もう少し詳しい説明をお願いします…などと怪訝そうな顔つきで言われた。

 が、ボクは通常の仕事でパネルディスカッションというものの“つまらなさ”を実感していたこともあり、説明はそれ以上しなかった。

 実はこの役目は私的にオファーがあったもので、ボクはかなり挑戦的でもあった。

 ゲストたちも自分で選んだ金沢のクリエイターたちで、そんな彼らが持っているであろう感性に期待し、本番ではシナリオなどのない臨場感に満ちたトークを求めていた。

 そして、彼らは期待に応えてくれ、本番はそれなりの思いを残してフィナーレを迎えた。

 打ち上げの時、普段あまり褒めてくれることのない某大学教授が、真っ先にビールを注ぎに来てくれた。

 しかし、その時のトークセッションは、今カタチになって残っていたりはしない。

 それはN居というナビゲーターが、たいした地位になかったからに過ぎず、もしそれなりの地位にある人が同じことをやっていたら、活字化されたりして広がっていたかもしれないと思う。

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 あの時のことを振り返ると、自分はジャズ的だったなあ…とはっきりと意識する。

 そして、今も当然変わりようはないのだが、そういう感覚をいつも好意的に受け入れてきたという認識もない。

 いや、逆に人生の重要なポイントみたいなところでは、その感覚によって損をしていたかもしれない。先を見て生きていくということが得意ではなかった。

 しかし、それがジャズ的だった…なのだ。

 エリントンが、レコーディングのやり直しを迫るコルトレーンに、ジャズは即興だから…と諭したというエピソードがすべてを物語っている。

 ボクはずっとジャズ的だ。今は亡きヨークの奥井さんにつけたキャッチ……「ジャズ人生からジャズ的人生へ」の意味を、今まさに自分に当てはめている。

 クリント・イーストウッドがジャズピアノを弾いていたこと。

 直感的に、即興的に…… 何の意味もない創作話をこしらえたり、今こうして、自分のなんでもない周辺話を綴っているのも、まさにジャズ的なのだと思う…………

秋のはじめのジャズ雑話-2

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『POPEYE』の9月号が、「ジャズと落語」という特集を組んでいて、能登へ仕事で行った時に、トイレを借りに入った商業施設の中の書店でほぼ衝動的に買いこんだ。

眠い目をこすりながらも、ゆっくりと時間をかけて(なかなか読む時間もなく)読んでいくと、それなりに面白い。

ジャズと落語は同時に聴けないが、スタンダードなひとつの曲が演奏者によってさまざまに変化していくような要素などは、落語にも共通する楽しみかも知れない・・・などと書いてある。

どこかのページに誰かも書いていたが、ボクもやはりジャズ喫茶の大音量の中で、じっくりと本を読むという時間が好きだった。

音がうるさくて本など読んでいられるかという理論(というほどもないが)は、ジャズ喫茶の中では通用しない。

むしろジャズという音楽がつくりだす空気感は、すぐれた文章の抑揚などとも合っていたのかもしれない。

もちろん声を発するのは厳禁だった。

70年代初め頃のジャズ喫茶は大音量が当たり前で、ボクはそうした中、外見からは想像できないような近代の純文学を読み耽っていた。

今から思えば、明治の青年たちの苦悩みたいなものを、ニューヨークの黒人たちが、自由と束縛との葛藤の中で創造する音楽に浸りながら理解しようとしていたわけだ……

そんな大げさな話でもないか。

特に吉祥寺の老舗「F」が多かったが、たまに新宿の「D」などにも出かけた。

「F」は密室に近い空間で、視野に入ってくるスピーカーの図体を見ただけで怖気づくが、「D」はそれに比べるとややのびのびとしたイメージがあり、好きなレコードがかかると思わずちょっと足を鳴らしたりする。

すると、店員さんがこっちを向いて、人差し指を口にあてる仕草を見せるのである。

「D」に入る時は、だいたいすぐ近くの紀伊國屋に先に寄っていて、真新しい文庫本なんぞを持っていた。

そうした一冊を、「D」で読み始めるという楽しみ方もあったのだ。

ところで、POPEYE-9月号を読んでいて最も意気消沈したのが、JJこと植草甚一の本についての記事だ。

そこに紹介されていた10冊ほどの著書は、学生の頃にすべて持っていたはずだったが、今はどこへ行ったのか分からないでいる。

そんな部類の本などは無数にあり、今になって、もう一度読み返したいなどと都合のいいことを思ったりするのだが、当然それはできない話になっている。

最近よく、ある時期から自分の中に“無風期”ができていたのだなあということを思う。

無風期というのは、文字どおり何の楽しみもない平凡な時期とで言おうか。

そういう時期に、大切なものがどんどん自分から離れていったような気がしている。

偏屈ともとれるコダワリみたいなものが、日々を愉快にしていた。

時々、少しでも戻ってみようかなという思いがふっと湧いてくる。

ジャズと本読みも、そのシンボル的存在の一部なのだが、別にそれらに限っているわけでもない。

以前にも書いたことがあるが、60歳を過ぎて感受性にまた火がつくというのは本当なのだ。

ところで、ジャズと落語なのだが、無理やり接点を求めようとすると、どこか言い訳じみて納得感が生まれない。

お寺やお茶屋さんでジャズをやったりしていることと、同じようなことを言われても、100パーセント同調できないし、見た目ではない部分がやはり大切な要素なのだろうと思う。

ジャズも好きだし、落語も好き。それでいいのでは…ということにする。

そんなわけで、今更モダンジャズがどうのこうのと語ったりするのもいやだから、キースの『生と死の幻想~Death & Flower』に身を委ねつつ、かつて、志ん生の「火焔太鼓」に爆笑していた自分を振り返ったりしているのである………

秋のはじめのジャズ雑話-1

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前にも書いたことがあるが、久しぶりにまたマイルスが聴きたい症候群がやって来て聴き込んだ。

一年に数回か… こうしたことが起きる。

9月の金沢ジャズストリートに、再びチック・コリアが来るというニュースを聞いたのはかなり前のことだったと思う。

今回はトリオ編成だし、ニューヨークの若手を連れてくるのだろうから行ってみようかなと思っていたが、8000円と聞いてやめにした。

そこまで払って行く気はしなかった。

ギターのリー・リトナーも来ていたが、昔、渡辺貞夫と来た時に聴いたことがあって、関心はありつつ、結局チックに行かずにリトナーだけ行くというのもなんだからとやめにした。

チックのコンサート時間には、家で昔の演奏を聴いていた。

少なくとも今よりはるかに若いし、しかもベースはミロスラフ・ヴィトウスで、ドラムスはロイ・ヘインズだから見劣り、いや聴き劣りはしない。

それどころか、圧倒的にこっちの方がいいに決まっているだろうと音量も高めにしてライブ感を出し、かなりのめり込んで聴いたように思う。

その後、続けてサークル時代のパリ・コンサートを聴いたが、「ネフェルティティ」だけ聴いてやめた。

何となく空虚になり、その後は一転して(?)なぜかレスター・ヤングになったのだ。

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ジャズストリートがあった9月の連休最終日には、朝から『巨匠たちの青の時代』(NHK-BS)の再々(だったと思う)放送があって、これもまた久しぶりに新鮮だった。

ジャズの巨匠と言えば、マイルス。

いや待て、エリントンもパーカーもコルトレーンも、ロリンズもかと心は揺れ動いたが、やはりマイルスだった。

マイルスについては、2003年に金沢でぶち上げたイベントの企画をとおして、かなりの研究家(もどき)になっていたが、その時に仕込んださまざまなデータも、今はもうテーブル板の下に眠っている。

ただ、その時の多様な出来事は、私的イベントとしての自己ベストに位置づけられる。この雑文集にもその時の話は何度か書かせてもらった。

ボクが最初にマイルスにやられたのは、『フォア&モア』の、「ソー・ホワット」と、間髪入れずの二曲目「ウォーキン」だ。

急カーブを、タイヤを軋ませながら走り抜けてゆく… マイルスのトランペットソロはそんな感じで、ジャズ少年の血を燃え上がらせた。

まだ高校生になったばかりで、ジャズを聴き始めて二年目くらいの頃だったが、最初に出会ったコルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」以来の衝撃だったと思う。

とにかくそれから後はマイルス中心に聴き込んでいったような覚えがある。

話はテレビの方に戻るが、番組の最後に流れたマイルスの最後の演奏と言われる「ハンニバル」は、一時周辺でも話題になった記憶がある。

ボクは正直どうでもよかったが、音だけ聴いていると、やはり何となく押し寄せてくるものがあって… 切なかった。

駆け出しの頃のマイルスが、憧れであったディジー・ガレスピの演奏スタイルから離れ、自身のスタイルを創り上げていく…… その物語がぼんやりと思い起こされる音だなと思えたのも事実だった。

マイルスは、少年時代に森の中(だったか)で聞いた女性の歌声が自分にとって永遠に求めていた音だったと語っていたらしいが、そんな話はなんだかマイルスらしくない(と、ボクは勝手に思っている)。

マイルスは反骨もあったし、だからこそ力強いビートも求め、アフリカ的な音世界に自分を置くなどして、空に向かい(70年代にはよく下を向いていたが)叫び(吹き)まくっていたのだとも思う。

高校時代、授業中にマイルスの音楽についてノートに書き綴っていたことがある。

今でも覚えているが、『ビッチェズ・ブリュー』の中の「スパニッシュ・キー」という曲について、リズムがリズムだけでメロディにもなり、リズムだけで強いメッセージになっている。さらに、曲全体をとおして高まったり抑えられたりしていくサウンドに、どこか遠い世界へと連れて行かれるような錯覚を覚える………と。

こんな生意気なことを本当に思っていたのであるから、ボク自身の当時の感性もそれなりのものだったのかもしれないが、かなりはっきりと覚えているから衝撃も大きかったのだろう。

ちなみに、マイルスのトランペットはタイトルどおりスペイン的であったが、ボクが想像した遠い世界とは、当然?アフリカであった……

※マイルスの雑文は、以下でも書いている。

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

雨の日の草刈り

細かな雨の降る中、家のまわりの草刈り。

山用のややごついTシャツ。

作業用にしている、これもまたごついパンツ。

これらは細かい粒子のような雨くらいなら負けない。

それに気温も高いから、ちょっと濡れるぐらいがちょうどいい。

ポケットから聞えてくるのは、スマホが発する「Basie in London」。

これはポケットから聞えてくるというのがいい。

イヤホーンではいけない。

ズボンの後ろポケットから、いかにもアナログ的、モノラル的に聞こえてくるのがいいのだ。

だから、流すのもカウント・ベイシー・オーケストラなのでもある。

ただ単に、尻(ケツとも言う)の感触もいいだけではなく、なぜかベイシーサウンドに押されて、作業もはかどっているような感覚にもなったりする。

それにしても、久しぶりに雨に濡れるという感覚を味わった。

これは驚異的な久しぶり度合いだと思い、ニンゲンらしく生きていない近年の日々のことを思ったりしながら草を刈った。

60年に及ぶ人生で、最も激しく雨に濡れたというのは、あの「剣岳・梅雨ド真ん中豪雨逆上山行」(このタイトルは今考えた)の時だろうと振り返ったりもしている。

初めての本格山行だったが、若き日の「憧れと試練」が入り混じった思い出だ。

番場島から当時の伝蔵小屋までの登りで、パンツの中までずぶ濡れになった。

まさにカラダの芯が冷えてしまうくらいのずぶ濡れ度だった。

これには深い事情があって、同行者たちよりもはるかに体力的優位さを持っていた自分が、その時のリーダーから日本酒の入ったポリタンを担がされ、自分自身の荷物は他のメンバーに分配されていたのだ。

つまり、自分の雨具を携帯していなかった。ついでに書くと、ポリタンはキスリングの大きなリュックに入れられ、パイプの背負子で背負っていた。

この大量の日本酒は、その夜少しだけ減ったが、翌日は剣の登り下りで誰も口にしようなどとは言わなくなり、結局下山するまでほとんどが残っていた。

そんなことを思い出しながら作業していると、最初は適当なところでやめにしておこうと考えていた思いが徐々に薄れていき、じっくり腰を据えてやっていくスタンスに変わっていく。

そのことに気が付くと、これもまた雨の中をひたすら黙々と歩いていた山行と同じだなと思ったりする。

雨で草が重くなっていた。

最後にかき集めながら一ヶ所に寄せていく作業は、なかなかチカラが要る。

ポケットからのベイシーは、ボーカルが加わってますます元気がよくなっている感じだ。

そういえば、ベイシー・オーケストラは二度コンサートに行ったなあと思い出す。

今年の金沢のジャズイベントに、またチック・コリアが来るらしいことも思い出し、今年はトリオだから行ってみるかなと考えていることも思い出した。

この間、何かの拍子にチックのソロピアノが耳に飛び込んできて、そのタイミングの良さもあってか、チックのピアノにまた興味を持ち始めている。

「CIRCLE」なんかも、なぜか最近たまに聴き直している。

こういうことは良い傾向だなと思っているうちに、雨が激しさを増してきた。

そろそろフィニッシュに向けて仕上げなければならない。

最後はやや雑になったが、なんとか終わった。

顔や腕なんかの濡れ具合もいい感じになってきていた。

それにしても、隣の空き地は草ボウボウなのである………

 

ジャズと出合った頃に帰れる一冊

モンク2

10代の中頃から、“一気”にジャズを聴くようになった。

聴くだけじゃなく、ジャズの歴史やモダンジャズの代表的なミュージシャンたちのことを知ろうとしていた。

レコードは何枚も買えないから、FM放送とジャズ喫茶で聴き込んだ。

スイング・ジャーナルはもちろん購読し、歴史本も研究本も読んだ……

今この本をとおして、久しぶりにそんな時代に帰ったような気がしている。

分かったような顔をしてジャズを語っていた、若かりし自分がいたことを思い出している。

まったく行ったこともないニューヨークという街の片隅での話(出来事)を、遠く離れた日本の、北陸金沢の、さらにはずれの小さな町で読み耽っていた自分を見つけた。

しかも、自分が生まれる前や生まれた頃の話を……

この本の中に出て来るセロニアス・モンクという特異な(天才)ピアニストにまつわる、さまざまな書き手たちの話は興味が尽きない。

そして、何よりも編・訳の村上春樹自身が書いている最初の6ページの文章からは、かつてのジャズの世界(たとえばジャズ喫茶など)に流れていた、どこか説明のつかない懐かしさみたいなものが強烈に伝わってきて、その6ページは5回以上読み返した。

まだ半分ぐらいしか読み終えていないのは、そんな読み返しが多いからだ。

装丁の絵は、もちろん和田誠。

ただ中身は、装丁の雰囲気よりもかなり濃い。

今は、もうすぐモンクとコルトレーンの章になるのを楽しみにしているし、もちろん、モンクばかり聴いている……

 

自分の葬式に流す曲

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今年も「金澤ジャズストリート」は遠い存在で終わった。

連休初日の真昼間から、尾山町の「穆然Bokunen」でコルトレーンとドルフィーを聴いたら、もうどうでもよくなった。

今年は渡辺貞夫、山下洋輔、坂田明、それにスガダイローなど、昔よく聴きに行っていた人や、最近よく聴くようになった人などが来ていて、少しは関心があった。

しかし、わざわざ出かけるといった気持ちに至らないまま、穆然のスーパーサウンドで聴いたコルトレーンとドルフィーのライブ盤が十分に満たしてくれたのだった。

いきなり寂しい話だが、この夏、身近にいた60代のまだ若い先輩たちがこの世を去っていた。

中には、音楽をやっていた人もいて、その葬儀の会場に流れる音楽がとても印象に残った。

通夜に出る機会が二ヶ月間に十回近くあると、そんなことに敏感になったりもする。

そして、ついに自分の時には何を流すかにまで考えが及ぶようになると、読経の響きさえも意識から遠のいていくのだ。

実は通夜の会場に流す音楽のことを考える前に、遺影に関する話も以前に聞いていた。

お世話になっている方の奥さんが亡くなった時、その遺影が奥さんの決めていた写真であったという話を聞いたのだ。

奥さんは定期的に写真を撮ってもらっていて、それらは遺影用だったという。

さらに祭壇には自分が指定した花が飾られ、とても個性的な雰囲気を演出していた。

ニンゲン、いつ死ぬか分からない。

それから後、これから撮る写真はいつか遺影になると思うようになった。

だから、最近では、山で長女に写真を撮ってもらう時でも、「遺影にするかも知れんから、しっかり撮れよ」と言ったりする。

それもかなり本気で。

そして、音楽だ。

もう亡くなってから十年以上が経つ、YORKのマスター・奥井進サンの葬儀の時には、追悼のCDが作られ、その中の曲が会場に流された。

始まる前の焼香の時や出棺の時には、やはりそれなりの音量で流すのがいいが、奥井サンの時はそれがとても効果的でいい感じだった……と聞いた。

実は裏方をやっていたので、会場には出られなかったのだが、曲も演奏ももともと素晴らしかったのだ。

勿体ぶってきたが、今考えている自分の曲は、コルトレーンの「I want to talk about you」だ。

君のことを語りたい…… 自分のことを語ってくれるヒトビトが、それなりに来てくれたらいいなという思いもあるが、やはりコルトレーンの演奏が好きだからだ。

特にスタジオ録音より、50年ほど前のニューポート・ジャズフェスティバルでの豪放なライブ録音がいい。

一応、長女にもその曲を聴かせ伝えたが、CDに入れておいてと至って事務的な返事だった。

本当は、自分が十代半ばでジャズと出合った同じコルトレーンの「My favorite things」をやってほしいのだが、あれは烈しすぎて遺族も参列者も引いてしまうだろう。

ちなみに前の曲もこっちの曲も、同じ野外でのライブ録音だ。

前者は一応バラードなのだが、コルトレーンをモノクロ映像で初めて見た時、とてもバラード演奏とは思えないほどに烈しく吹きまくっている光景に感動した。

今ではオシャレなお店なんぞで流されているコルトレーンのバラードだが、当時、カルテットはダークスーツにネクタイで決めながら、吹き出る汗を拭こうともせず熱く煮えたぎっていたのだ。

そんなわけで(?)、今のところこの路線に落ち着きそうである。

それで、一曲じゃもたないから、もう一曲と言われたら、「Violets for your furs」。

邦題があって、「コートにすみれを」という同じくコルトレーンのバラードなのだが、こちらはスタジオでの素朴な演奏で、これも好きな曲だ。

ただ、最初の曲との繋がりで言えば、ちょっとテンションが異なるかも知れない。

しかし、この曲はピアノのレッド・ガーランドもよくて、通夜にはぴったり(?)なのである。

こんなことを考えていると、早く自分の番が来ないかなあと楽しみにしている自分に気付いたりする。

そして、現実に戻ると、これから本格的に歯の治療に入るのに今死んだのでは勿体ないないではないかとも考える。

そして、さらに思うのは、その場の臨場感を自分自身が味わえないのではないかという侘しさというか、怒りみたいなもの、いや虚しさか…… とにかくそういうものだ。

仮に棺桶の中でその音楽を聴いているにしても、その時の自分にはどういう感情が宿っているのだろう。

そんなこともちらりと思ったりしながら、今75年のマイルス「Agarta」を超デカ音で聴いているのである………

モンク短文

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1月も半ばなのに、今年初めての日銀裏。

カウンターの隅に置かれた、古ぼけたレコードジャケット。

その数日前、映像屋の仕事仲間から、「今度モンクでも聞きながら飲みましょう」というメールが来ていたのを思い出した。

言うまでもなく、このジャケットを目にしたからだ。

このジャケットは、この店のサインにも使われている。

店主としばらくセロニアス・モンクについて喋った。

この奇才ピアニストの名を知ったのは15歳の頃だ。

「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」でその名を知り、最初はモダンジャズ発祥時の歴史的存在として認識していた。

が、少しずつ耳に触れるにつれ、その特異性が気になり始める。

これから本格的にジャズにのめり込んでいこうとしていた純粋少年には、かなり耳障りな音楽でしかなく、マイルスから「オレの演奏中は伴奏するな」と言われたというエピソードが、痛快にアタマに残っていた。

しかし、それからまた数年後、そんな思いなど全くなかったかのようにモンクの世界が普通になっていく。

ミュージシャンだけでなく、リスナーというポジションにも挑戦的な姿勢がある。

特にフリージャズを聴き始める頃には、それが強くなったりする。

今でも自分の中では主流ではないが、それがまたジャズピアニストとしてのモンクらしさなのだろう。

そんな思いの一端に、このミュージシャンの存在があったのだと、今、思う。

実を言うと、モンクの顔がアップになったTシャツを持っていて、かなり気に入ってもいるのだ・・・・・・

……

“ I Want MILES ”のとき

we want

一年に数回はこのアルバムを聴く。

最初の「ジャンピエール 」と、最後の「キックス 」だけだが。

この前の休日もそうだった。

何の前兆もなく? 何となくCDを取り出すと、いつものように大きめの音で聴いた。

いつも先に「キックス」を聴く。

イントロから懐かしい気分になってくる。

30年ほど前、このアルバムがNHK-FMのジャズ番組で紹介された時、DJでスイング・ジャーナル編集長だったKK氏が、マイルスの復活を告げた。

70年代中頃から、マイルスは病気療養のため引退状態にあった。

だから、流れてきた「キックス」はKK氏の言葉を裏付けるものだった。

聴きながら熱くなった。

マイルスが、マイルスらしくトランペットを吹いている。

特に、後半(12分あたり)からのソロは痛快だ。

ハイテンポのバックに乗せられながら、マイルスのトランペットが伸び伸びと歌い始める。

マイルスの普通のスタイルからすれば、たいして目新しいわけではないが、それでもその時は嬉しかった……

カラダが前へ前へといく……

マイルスはこのアルバムで、ボクに対して何度目かの“偉大さ”を示した。

今でもマイルスは別格である。

マイルスに初めて感化された時、ボクは15歳の終わり頃で、その5年前(64年)に録音された「フォア&モア 」というライブアルバムに狂っていた。

振り返ってみると、その一年前、FMラジオで、コルトレーンの「マイ フェバリット シングス」(「セルフレスネス」)と、エバンスの「ワルツフォーデビー」を同時に聴き、ジャズへ本格的になだれ込み始めていた。

考えてみれば、両方ともライブ録音だった。

今でもジャズは特にライブ録音(もちろん名演)がいい。

そして、マイルスがセッションやライブ録音によるアルバムのみに移っていったことにも、ボクとしては十分納得できるわけを感じていた。

話を戻す。

「フォア&モア」に狂っていた頃、リアルタイムのマイルスはすでに「ビッチェズ・ブリュー 」(69年)を世に出し、ジャズに新しい息吹を植え付け始めていた。

ボクはそれから何とかリアルタイム(5年先)のマイルスに追い付こうとし、そうすることに成功する。

特に「ビッチェズ・ブリュー」を本気で聴いた時には、かなり感動的な気分になっていた。

そして、「ライブ・イビル」(70年)やその他のアルバムも実に見事だった。

あれはやはり、バックに「ビッチェズ・ブリュー」のメンバーたちが残っていたせいだろう。

(1973年の金沢初コンサートで目の当たりにしたマイルスサウンドには、正直後ずさり……)

「アガルタ 」(75年)や「パンゲア 」(同年同日)にも完璧に納得。

そして、「 We Want MILES 」(81年)だ。

マイルスはトランペット奏者のジャズマンではなく、ミュージシャン、コンポーザーになっていたが、このアルバムで、もう一度トランペット奏者に戻っていた。

しかし…、ボクにとってのマイルスはそこまでだった。

仕方ないが、マイルスもまた年齢と共に衰えていくしかなかった。

ただ、このようなことを語れるのは、ジャズシーンの中でもマイルスしかいなかったとボクは思っている。

別にマイルスのようなやり方をしなくても、ジャズは多くの人たちに愛されてきたのだ。

たとえば、ドルフィーやコルトレーンの寿命がもっと長かったらと考えてみても仕方がない。

60年代の演奏スタイルとして際立っていた彼らの個性は、その後どのように発展していっただろうか。

想像してみるのは楽しいが、当然楽しくない結末もあったかもしれない。

マイルスはたまたま長生きした。

そして、自分がマイルスから離れていったのは、進化や変化や挑戦などといった形容が相応しかったマイルスだったからだ。

ボクにとって「キックス」という曲は、そうしたマイルスとの付き合いの中で、一度だけ体験した救いの一曲だったような気がする。

マイルスについては、いつまでも書ききれないもどかしさがある。

ジャズがとても身近な音楽になっている今だから、なおさら語るのが難しくなってきた。

何だかさびしくて、疲れる話だ……

音楽はそれなりの音で聴く

21美のラッパ

珈琲屋さんで、小うるさいオッカさんたち、いや、賑やかなご婦人たちと隣席になった時などには、潔くイヤホンで音楽を聴く。

本を読んだり、考え事をする程度なら少しは我慢するが、仕事の書類を作ったり、私的に文章を書いていたりする場合は、カンペキに耳の穴をふさぐことにしている。

この前も、運悪くそれなりの四人組が横に座り、株の話かなんかで盛り上がってしまった。

その中の一人(いちばん派手な)が株で当てたらしく、まるで人生に勝ち誇ったような口ぶりなのだ。

他の三人に、夢を叶えるには、ずっと毎日夢を描いていなければダメなのよと、いかにも成金的雰囲気丸出しでけしかけている。

そのあたりまで、くっきりスッキリと耳に届いてきて、ついにイヤホンを取り出すことにした。

こういう時はデヴィッド・マレーでも聴くのがいいと思ったが、一週間ほど前に中身を入れ替えていて、それなりに優しい音楽ばかりにライブラリーが変わっている。

仕方なく、残っていたロイ・ヘインズ・トリオをと思い、いつもより少し音量を上げて聴きはじめる。

そして、にわかに嬉しくなった。

それは、ご婦人たちの声が聞こえなくなったからだけではなく、久々に聴いたR・H3の演奏が実に良かったからだ。

そして、音量を上げて聴くというのは、音楽を聴く上でとても重要なことなのだというのを思い出した。

ジャズ喫茶の大音量に耳が慣れていた時代、音を聴いているという感覚よりも、音に包まれているといった感覚が強かったような気がする。

ハイテンポのスティックに弾かれるシンバルの微動、ベースの弦のしなり、スネアに叩きつけられるブラシの抑制された躍動感など、あげれば切りがないくらいの音的感動があった。

音楽イベントをいくつか企画運営したが、その中でいつも思ったのが、大きくて鮮明な音で音楽を聴くことの大切さだった。

金沢芸術村での音楽イベントで、ある著名な音楽関係者の方とトークセッションをすることになり、ステージに上がっていただく前、ツェッペリンの『胸いっぱいの愛』をかけた。

スーパー・オーディオで再生するのであるから、音としての質的な意味では、生で聴いているよりは鮮明に響いていたはずだった。

そして、ステージに上がったその方はこう言った。

「この曲には、パーカッションが入ってたんですね…」

プロでもこういうことがある。

ましてや、普通の人たちにとって、こういうことはごくごく日常的な感覚でしかない。

言うまでもなく、ツェッペリンは四人組のロックバンド。

ギター、ベース、ドラムにボーカル。基本的にパーカッションは入っていない。

だから、先入観が働けば聴こえなくても仕方ない。

しかし、音の厚みなどをこのパーカッションが担っていたのは間違いのない事実だった。

だからどうなのだ?と言われても困るが、一応そういうことなので、出来れば音楽は大きい音で聴いた方がいいよということなのである。

ボクが46年程聴いてきたジャズは個性を大切にする音楽である。

つまり、演奏メンバーが誰であるかということを重視する。

それは演奏者の個性を大切にしているからであり、ジャズは個性の集まりによって創られるということを、大切な楽しみ方の要素にしている音楽なのだと思う(表現が難解?)。

だから、ベースは誰だ?とか、ドラムは誰?などといったことが知りたくなる。

この人のベースの方が、あの人のベースより好きだとか、このグループに合っているといった感覚が生まれる。

昔、金沢片町の某ジャズ喫茶で、そこのマスターがこう言った。

「音楽は大きな音で聴いてあげないと、ミュージシャンに失礼だよ。少なくとも、生で聴いているくらいの音量で聴いてあげないとねえ………」

誰かも言っていたが、録音の技術がなかった時代には、音楽はすべて生だった。

レコードやCDが出来てオーディオが発達して、当たり前のように自分自身で音量を調節出来るようになった。

BGMといった音楽も生まれたし、自分自身もそれ系のものにお世話になることも多い。

珈琲屋さんで隣席となった賑やかご婦人たちの話から大きく脱線して、音楽はそれなりの音量で聴くべし的話題へと移行したが、書いている自分自身もそれなりに納得した内容となってきた(ホントは尽きてきた)ので、ここらへんでやめておこうと思う……

アジフライと、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」と

マイルス

 店名のわりにはそれほど入り口の戸が大きくないなあと思うある店で、夏メニューだという“アジフライ定食”を食べた。

 実は中学二年の夏頃から、にわかにアジフライ好きになり今日に至っている。

 今は亡き母が、突然アジフライを作るようになった。

 もともとが漁師の家だから、アジなどは簡単に手に入ったのかもしれないが、よく大皿に山のように盛られた小ぶりのアジフライが出てきたものである。

 中学三年の時、野球の試合中にケガをし二ヶ月ほど入院したことがあるが、その時、退院間近になって食欲も出てきた頃の母の差し入れはアジフライだった。

 それも大量に持ってきて、同室のご近所さんたちに配ったりしていた。

 大人になってからも、漁港のある町などで食堂に入ったりすると、アジフライ定食の存在が気になった。

 最近では金沢市内にある小さな大衆食堂と、ちょっと足を伸ばし、県境越えをしたあたりにある某所のアジフライ定食が特に好きだ。

 それで、店名のわりには入り口の戸がそれほど大きくないある店のアジフライなのだが、これもまたそれなりにいい感じだなと思った。おしゃれなアジフライだった。

 ソースがユニークで、洋風と和風の二種類が楽しめるようになっている。

 最初は洋風で食べ始めたが、途中から和風に切り替えると、その新鮮な食感に納得した。夏メニューの意味が理解できた。

 早い話が見た目は大根おろしなのだ。が、味は大根なます。つまり醤油ではなく酢が味の決め手になっている感じだ。

 それをアジフライの上にふわりと乗せて、オオ~ッと、といった具合に口に運ぶ。

 この場合のオオ~ッとは、こぼしちゃいけないという意味で出てくる感じである。

 ただひとつ残念だったことがあった。それは開きのフライでなかったことだ。

 やはりアジフライは、大らかに開かれたシンメトリー的形状のもので、箸にあのふっくら感が伝わってくるものが自分にとっては基本になっている。

 というわけで、待つこと数分で夏のアジフライ定食が届けられた。

 開きでないことでの違和感は拭い去れないが、二種類のソースに興味が移る。

 健康のためにと最近家人からも言われているので、まず“野菜の先食い”からだ。

 そして、ひと切れ目のアジフライを先程の要領で…… 味には十分満足。

 そして、食べ終えた時のことだ。

 店内に流れるBGMが聴覚をじわりと刺激した。一応味覚の後でよかったとも言える。

 やや聴きづらいながらも、懐かしきそのサウンドは鼓膜を震わせカンペキに脳まで伝わってくる。

 マイルスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」だ。

 最近はどこでもジャズブームで、ジャズを流さないと世間体が悪いのだろうか。

 それはいいとして、あのミュートソロを聴覚で意識しながら、一方で大根なますを乗せたアジフライを、味覚の方でエンジョイする。これはなかなかむずかしい。

 しかも、ほとんど覚えてしまっているメロディラインだから、どんどん先走って脳ミソがソロでハミングしていく。

 気が付くと、アジフライは知らぬ間に(?)二切れ減っていた。

 気を取り直して、最後の一切れに集中したが、やはりうまくいっていない。

 それに、あのクールで研ぎ澄まされたマイルスのミュートソロが終わって、豪放なコルトレーンのテナーに移るあたりで、またしても脳が活性化した。

 そう言えば、マイルスのぐっと抑えたソロのあと、あのアンサンブルはないわナア~と、かつて周辺の偏屈ジャズ通たちは語っていたのだ。そのことが俄かに蘇ってくる。

 マイルスからコルトレーンへのソロの繋ぎ。曲はモンクの名作「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」。

 レッド・ガーランドのピアノがシンプルに響いたあと、ここであのチャッ、チャッ、チャー、チャッ、チャッはなア~なのだ。

 それほどまでに、想定内の、さらにその中心に近いあたりの平凡な展開で、時間がなかったのか、あまり考慮のあとを感じさせない編曲であった……

 そのあたりのところ、もしレコードやCDのない方は、香林坊・ヨークや、尾山町・穆然、柿木畠・もっきりや、さらに湯涌ゲストハウス・自炊部あたりで確かめてもらえればいい。

 ただ、モダンジャズが誕生して15年ほど、これからジャズが一気に音楽性を高めていく時代の歴史的転換期を示す演奏と知れば、それも納得できる。

 演奏は聞けるが、湯涌ゲストハウス・自炊部はもちろん、その他の店にもアジフライがないことは了解しておこう……

 話は戻る。コルトレーンのソロが始まると少し解放感に浸れて、気分的にも肉体的にも楽になったような気がしてきた。

 しかし、せっかくのアジフライが十分に堪能できないまま胃の中へと行ってしまったことで、やや消化不良の感。

 この場合、もしアジフライが開き状態で来ていたら、様子は変わったかも知れないなと振り返る。

 明確にアジフライを意識させ、箸でコロモと身を裂きながらという本来の食べ方の習性が活かされていれば、もう少し集中できたに違いないのだ。

 それに開きの場合には、骨に注意するなどのことも求められるし、集中力はさらに増す。

 気が付くと、またマイルスのソロに戻って、そして静かにゆっくりと演奏は消えていった。

 残されたわずかな味噌汁とお新香と、それにひと掻きほどのご飯をランダムにいただいて、夏のアジフライ定食は終了した。

 ただ、出だしに感じたあの爽やかな夏の風味は忘れていなかった。

 あとから近くに座ったご婦人たちの一人も、夏のアジフライ定食を注文している。

 しっかりと気をそらさないように食べなくちゃダメですよと、余計なお世話的に思う。

 自分ももう一回来てみようと思った。

 レジを済ませて外へと出た。体中を包み込む夏の熱気が凄まじい。

 もう、店の戸の大きさのことは忘れていた………

 

 

吉祥寺ジャズが懐かしい

ドルフィー

 東京・お茶の水周辺にジャズの聴ける店があることは、ご当地大学の学生だった時代から知っていた。

 むしろ、その頃の方が今よりジャズがジャズ的だったし、学生街にジャズ喫茶などがないというのは、ボクにとってはむしろ違和感を覚える環境だった。

 最近、東京へ出かけると、夜の遅い時間、その辺りにあるジャズの店に時々立ち寄るようになった。

 昔はなかった今風の店だが、美味いシングルモルトも飲めて、それなりに安らげるようになってきた。

 かつてのジャズの店では、会話禁止とか、リズムに合わせてテーブルをコツコツやっていても怒られるという店もあったが、今では聴くことよりも会話を楽しめるように店が出来ている。

 だから音量もまあまあ、昔のようにスピーカーそのもので圧倒するようなレイアウトもない。

 カウンターの後ろにはレコード、CDがずらりと並ぶが、レコードはきれいなビニールに入れられていたりする。

 歴史を感じさせるような名盤のレコードといったイメージも強調されていないし、実際にはそういうレコードは置いてないのかも知れない。

 この前は、チコ・ハミルトンの超懐かしい『ブルー・サンズ』(CD)がかかっていたりして嬉しかった。

 ところで、先日、東京でお会いしたある人が、かつて井の頭線の永福町に住んでいたという話をされた。

 反射的に、自分の東京生活は同じ井の頭線の三鷹台から始まったんだということを思い出した。

 そして、その仮の住まいからすぐのところに井の頭公園への入り口があり、公園の中を歩いて吉祥寺の街へと出ると、東京へ行ったら必ず行ってみようと考えていたジャズ喫茶があったこともあらためて思い出した。

 東京に着いた三日目のことだった。ついでに書くと、二日目は新宿に出て、紀伊國屋で長時間の立ち読み(もちろん買い物もした)を楽しんでいた。

 金沢のジャズ喫茶に慣れてしまっていたボクは、相席も構わずに空いた席に座らなければならないシステムに少し戸惑った。

 店の中がイスとテーブルで埋め尽くされているといった感じだった。

 しかし、それに慣れていくと、その店の居心地は最高のものとなり、ボクはそれ以来、この店を自分の東京の最も好きな場所のひとつにしていく。

 カンペキなリスニングルーム。有名メーカーのスピーカーから遠慮なく響き渡る音は強さがあり、キレがあり、一曲一曲、一音一音を、じっくりと身体中に感じさせてくれた。

 だからか、ボクは心地よくそこで本を読むことができた。ジャズに包まれている感じだった。

 演奏者たちと自分との間に隙間がなかったような、いや、その奏でられた音の層と自分との間にか……、よくは分からないがそんな錯覚?さえあったような気がする。

 東京一の保有数を誇ると言われるレコード(スタジオ)室のカッコいいお兄さんとも仲良く?なり、リクエストは当然のこと、いろいろな質問なども浴びせられるようになったのは、夏になってからだった。と言っても、もちろん長々と話したりする時間はない。

 お兄さんはトレーナーやジーンズ。大きなエプロンが短い頭髪に似合っていた。

 ボクはきびきびした動作と、いつも笑顔で対応してくれるそのお兄さんが大好きになっていく。

 結局、大学の四年間、ボクはその店に何度となく足を運んだ。

 住いが三鷹台から変わった後も、店へ行く頻度はそれほど変わらず、クラブの合宿などで長期間行っていない時などは、久しぶりに顔を出すと、オッという顔をされ、「帰省?」などと聞かれたりした。

 金沢にもジャズの師を得ていたが、東京でのジャズ生活は、そのお兄さんのおかげで楽しく充実したものになったのだとボクは思う。

 しかし、卒業以来、その店には一度も足を向けなかった。有名なオーナーもなくなり、今はもう形態そのものが変わってしまっている。

 それでも、できれば近いうちに、その周辺にだけでも行ってみたいと思う。

 かつては気持ちの中で近く感じていた吉祥寺だが、今はなぜか遠い街にしてしまっているのだ……

金沢ジャズ・ストリート

 今年の金沢ジャズストリートに、“チック・コリア氏が来る”という記事が載っていた。

 全盛期はすでに過ぎているとは言え、ビッグである。

 ただ、氏は余計だ。グラミー賞をとったということで氏が付いたのかも知れないが、ジャズの世界ではグラミー賞などどうでもいい(…と思っている)。

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 カウント・ベイシー・オーケストラも来る。

 すでに御大カウント・ベイシーは他界しているが、ビッグバンド・ジャズの神髄を知りたい人は、是非聴いておくべきだ。

 実は第一回目に優秀な大学ビッグバンドを呼ぶことを提言したのは、何を隠そう?この自分である。もちろん裏の、さらにその奥での話だ。

 東京などの学生ビッグバンドは真摯にジャズをやっていて、彼らの参加を促し、支援していくことは金沢の催し物として、いい効果をもたらすかも知れないと思ったからだ。

 彼らが、それなりの力量を持っていることも当然背景にあった。

 話を無理やり母校のビッグバンドの方向へと繋げるわけではないが、このカウント・ベイシー・オーケストラの演奏スタイルを、何十年にもわたってベースにしているのが、わが「明治大学ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラ」だ。

 第一回のコンサートで、明治のビッグバンドの演奏に、思わずカラダを揺らせてしまった人たちが大勢いたと思うが、あれがカウント・ベイシーのスタイルなのである。

 楽しさは自信を持って請け負う。安心して、コンサートに行ってください……

 ついでに、余計なお世話的話を書くと、明治を含めたいくつかの大学のビッグバンドが、二回目以降呼ばれなくなった。

 ビッグバンドは大勢だから経費がかかるのは分かるが、あのしっかりとした演奏を聴かせてくれた威勢のいい若者たちのステージがなくなってしまってから、ボクはもうこの催し物に魅力を感じなくなっている。

 明治大学は地元で、『お茶の水ジャズ』というイベントを毎年やっているが、ビッグバンドの連中は、次の年の参加も楽しみにしていた……

 話を戻す。

yousuke trio

 もう一人のビッグなゲストは、我らが山下洋輔(本当は「さん」を付けたい)。

 これは一応覚悟をして行くべきである。

 と言っても、最近のヒトビトはいろいろな音楽が氾濫しているから、何を聴いても驚かなくなっているだろうが。

 何度も書いているが、昔、片町に「YORK」(現在は香林坊日銀裏)という店があり、その店では、若き山下洋輔トリオの爆発的痛快及び奇想天外白熱ライブが時々行われていた。

 フリージャズなど、ごく限られた人しか聴いていない時代、このトリオのナマは実にハゲしくカラダに迫ってきて圧倒された。

 こんな音楽を聴いていることは、絶対に人には話してはいけないと思った……というのは嘘だが、誰かに教えてやろうなどとも全く思わなかった。

 山下洋輔は、ちょっと前にも石川音楽堂でガーシュインを演奏していたが、売れない時代、いや堅気には受けない時代に、よく金沢のYORKで演奏していたということを覚えておこう。

 そう思って、コンサートを聴くと、またそれなりにいい感じなのである。

 ところで、もともとジャズストリートは小さな発想から生まれた音楽イベントだった。

 しかし、金沢にはラフォル・ジュルネというクラシックの音楽祭があったことによって、一気に企画が膨らんでしまった。

 春がクラシックで、夏の終わりはジャズといった具合だ。

 そして、模索状態のまま第一回が開催され、それはそれで、それなりに良かったりしたのだ。

 ただその後、ボクが最も嫌いなイメージへと、この催し物は流れていく。

 ジャズが、大人たちの上品な世界?に嵌め込まれていったように感じた。

 自慢したって特に意味はないが、そろそろ60歳に近付くボクは、14歳の頃からジャズを聴いてきた。

 ある夜、ラジオのNHK-FMで聴いた、コルトレーンの「マイ フェイバリット シングス」にアタマをガツンと打たれ、その後のエバンスの定番「ワルツ フォー デビー」で未来を確信した。

 オレは、この音楽と共に生きていくのであろうなあ~と。

 16歳になったばかりの頃、アート・ブレーキ-&ジャズ・メッセンジャーズのコンサートに行った。

 ミントンハウスという、モダンジャズ発祥に深く関わった店での歴史的セッションに参加していた、ドン・バイアスというテナーサックス奏者がいて、彼の演奏に何も分からないまま痛く感動したのを覚えている。

 先ほど出てきた金沢ジャズのメッカ「YORK」にも通い出す。

 今は亡き、マスター・奥井進サンとの付き合いはそれから何十年も続いた。

 その奥井サンと初めて?二人で行ったコンサートが、実はチック・コリアだった。

 当時はよく招待券というのがあって、奥井サンから誘われて何度か一緒に行った。

 「リターン・トゥ・フォーエバー」という話題作を引っ提げての金沢公演だったが、ボクが一生懸命聴いている横で、奥井サンは時折ぐっすりと眠っていた。

 奥井サン流にいうところの、“いい音楽を聴くと、よく眠れる”というやつだった。

 チック・コリアはたしかにジャズ界のエリートであり、マイルスのグループで活躍した後、一時深く音楽を追究するフリー系に走ったが、その反動のようにして「リターン・トゥ・フォーエバー」を発表した。

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 その表現は実に爽やか、知的、そして美しく、シンプルだった。

 苦悩したジャズ・ミュージシャンには、時折そういったシーンを見ることがある。

 ジャズは、オシャレな音楽になってしまった。

 ある時、チケットの押し売り?を頼まれて、知り合いにお願いしようとしたら、「ジャズのコンサートって、何着て行けばいいんですか?」と、質問された。

 そんなことどうでもいいよと言ったが、その人にとって、それは重要な問題みたいだった。

 ジャズのコンサートには、出来ればシューズだとか軽めのサンダル系のものさえ履いていれば、あとはどうでもいいとボクは思っている。

 一度、最悪のことを経験したのが、コンサートの途中に聞こえてきた女性の足音。

 どうしても、トイレが我慢できなくなったのだろうか。

 あれは絶対に良くない。くしゃみをしたり、咳き込んでも、神経質なミュージシャンは嫌な顔をする。

 あのK・Jなどは、咳が止まらなくなった客に集中力を奪われて、途中でコンサートを中止したと言われるくらいなのだ。

 話はかなり方向を見失ってきたが、今のところ、金沢ジャズストリートにあまり興味はない。

 いろいろと啓発的な活動をしている人たちも知っていて、その人たちには敬意を表するが、楽譜を見ながらアドリブもどきを演っているプレイヤーたちには、同情的になったりするだけで、芯から楽しめなかったりする。

 路上など、たしかに演奏しているのはジャズの曲だったり、ジャズのアレンジだったりするが、自然と発散されるジャズ的な感覚はそれだけでは感じ取れない。確かに違うのだ。

 そのあたりが、ちょっと残念な気もして、何でもかんでも、ジャズって、なんかいいんじゃない? と言ってしまっている人たちを、斜めから見てしまう。

 こんな自分に誰がしたのか…? やっぱ、自分でしょ…なのである。

 むずかしい話はしたくないが、やはり、名盤・名演というやつを、レコードやCDで聴いているのがいちばんなのかも知れない……と、あらためて思ったりしている・・・・・・

奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ

この文章は、1998年5月に創刊したプライベート誌『ヒトビト』に綴ったものだ。ほんのちょっとだけ加筆した。

「ヨーク」のマスターとして、多くの人たちに愛された奥井サンが、亡くなる五年前に語ってくれた自分自身の一部だ。

暗い開店前の店で、途中からノリが悪いからとビールを飲みながらのセッションになった。

6月17日は、奥井サンの命日だ。そして、奥井さん夫妻の結婚記念日でもあった……

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「ジャズ人生から ジャズ的人生へ」 ~ 近くでトーク

●八尾に生まれる……

金沢の東部にある神宮寺という町から、奥井サンは歩いて香林坊の自分の店へとやって来る。所要時間は約一時間、ひどい雨降りや特別なことがないかぎり、とにかく歩くことにしている。

ただ歩いとるだけや

と、奥井サンは言う。見る方からしても、いかにもただ歩いているだけのように見えるから、やはりただ歩いているだけなのかも知れない。

しかし、実は意外(失礼だが)とそうでもないのだ。やはりと言うか、さすがにと言うか、とにかく、奥井サンはただ歩いているだけではないのであった。

奥井サンは、昭和19年(1944)10月22日、富山県婦負郡保内村字松原に生まれた。風の盆で有名な現在の八尾町である。ちなみにイチローと同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山市内に出た頃からジャズに染まり始め、それ以後、今日に至るまで、ジャズとの付き合いが続いている。

『 オレも小さい頃は子供やったんや。電気も水道もない、山の中の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。

 東京で、和菓子職人の修業をしていたおやじが、体が弱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった土地を譲り受け、そこに家を建てた。

 そこら辺は、引き揚げ者や農家の次男坊、街からの入植者などが開いた所やったんやな。

 電気がないから、ランプ生活。水は手押しポンプの井戸やった。スイカやトマトが冷たくて美味かったわ。

 晴れ渡ると、目の前に立山連峰が広がって、毎日その雄大な景色を見とったせいで、視力は4.0やった(当然測っていない)。今も目はいいんや。

 小さい頃、何をして遊んでいたか覚えとらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。下(の村)まで行かないと、子供もいなかったし…。小学校に入るまで、字は読めんかった。

 町に近い所におふくろの里があったんやが、そこまではアイスキャンデー屋が来た。そこまで来るんやけど、そこでみんな売り切れてしまって、うちまでは来ないんや。だから、夏おふくろの里へ行くのが楽しみやったなァ。

 魚の行商というのも来たわ。朝の早くに町を出て昼頃にうちの辺りへ来るんやねェ。それでうちが最後やから、売れ残ったもん全部置いていくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べとったな。魚の行商人は、それからうちで弁当を食べるんや。そして食べ終わると、夕方近くまで昼寝をした。そして目が覚めると、「あんやと~」と言って帰って行く。

 なんか、今から考えると、のんびりとした時代やったんやねェ。おやじの小学校の同級生に、町で床屋をやっている人がいて、その人が二ヶ月に一回ぐらい村にやって来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登って来るんやね。今で言うボランティアだったんか、それとも商売だったんかは知らんけど、とにかく、そんなとこでオレは育ったんやわ。

 初恋? そんな相手もおらんがいね…… 』

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17歳で富山市へと出た奥井サンは、ジャズと出会う。当時ジャズファンの間で人気のあったNHK・FMの「ジャズ・フラッシュ」という番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の中で育った奥井少年にとって、ジャズとは一体何だったのだろうか?

『 ジャズが好きになったってことだけやね。何となく、自然に身に付いとった。もう死んでしまった巨匠たちが、その頃は現役のバリバリやったしね。

 ニューポート(富山市のジャズ喫茶)に出入りするようになり、常連になっていくうちに、何となく店を手伝うようになったんやわ。それで、そのまま従業員として働くようになって……』

奥井サンは、当時住み込みである仕事をしていたが、どうもそちらには本腰が入ってなかったらしい。ジャズとの出会いは、そんな奥井サンにとって、新しい何かの発見だったのかも知れない。

『 もともと何か目的があったという訳でもないし、そういうものがあったとしたら、富山ではなく、東京へ行ってたかも知れんね…』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコードを持っていたという。すでにかなりのジャズ通になっていたようだ。

そして、24歳の時、「ニューポート」が金沢に店を出すことになり、その店の店長として金沢へ行くことになったのである。

「ヨーク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのジャズ人生がスタートする。

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●金沢のジャズのメッカへ

ヨーク片町の開店は、1969年の12月22日。マイルス・デイビスが歴史的な名作「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、ジャズ界が大きな転換期を迎えようとしていた年だ。

もちろん、そんなこととヨークの開店とがリンクしているのではないが、とにかくジャズがハゲしく熱気を帯び続けていた時代、そんな時代に、ヨークは金沢に新しい風を吹き込んだのである。

当時、金沢には「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ヨークより二年前にオープンした聴かせ派の店で、狭い店内にJBLの名器から弾き出されたジャズが蔓延する、密室っぽい雰囲気に満ちた店だった。

ヨーク片町もまた、当時のそんなジャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば百人は入れる広いスペースを持っていた。ライブをやる時には、テーブルの間に丸椅子を置き、立ち見も入ると、立錐の余地もないほどまでに客で膨れ上がった。

『 片町時代は。完全なリスニングルームやった。当時はやはりジャズを聴く人間がたくさんおって、コーヒー一杯で二、三時間というのが普通やったね。メニューの種類なんてコーヒーとコーラ、それに紅茶とミルクぐらいや。酒はビールぐらいやったな。

 今みたいに、客としゃべったりする必要もなかったから、カウンターの中のターンテーブルの前で本ばっかり読んどったわ。活字中毒になったのも、そんなとこからかも知れん。純文学はもちろん、手当たり次第、何でも読んどったって感じやね… 』

片町時代の奥井サンには、突っ張った一面があった。リクエスト・アルバムのA面・B面が指定されていないと、敢えてB面をかけたりした(筆者もやられたことがある)。

70年代の中頃に、ジャズファンのみならず広く大ヒットし、その後のソロピアノ・ブームの火付けとなったキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」などは、あまりのリクエストの多さに、そのレコード自体を店に置かないことにしてしまった。それでもファンは集まったのだ。

『 昔のジャズファンと言うのは、ジャズ一辺倒が多かった。一旦、オレはジャズファンだと言ってしまうと、後へは退けないという雰囲気があった。

 他のジャンルの音楽を聴いとっても、聴き方が違うんやね。特に当時の若い連中には、そんなコダワリが強かったわ。(ジョン・)コルトレーンのハゲしいのを聴いていながら、歌謡曲なども聴いてた者もおったやろけど、何でか、ジャズになると皆それなりに一生懸命やった。だから、こっちも突っ張れたんや。

 オレは、決して啓蒙的なマスターじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざと反対の意見を言ったりしたこともあったしね…… 』

当時の店ではよくライブが行われた。特に山下洋輔トリオは、オリジナルの最強メンバーでヨークへ乗り込んできては、とてつもなくハゲしく、そして徹底的に愉しいコンサートで盛り上げてくれた。

コンサートホールでのライブも、今とは比較にならないほど行われており、あのマイルス・デイビスが金沢の観光会館ホールで繰り広げた圧倒的な演奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そして、そんなコンサートがあると、ミュージシャンたちの多くがヨークを訪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな彼らとの写真はおろか、サインなども全く残されていない。

●香林坊へ

1984年12月、ヨークは香林坊の日銀裏へと移転した。十五年を経ての移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ジャズをガンガン聴かせると言う雰囲気も薄くなっていった。営業主体も夜型へと移行した。

若者だったジャズファンは結婚し、家庭をもち、ヨーク(ジャズ)から離れていかざるを得ない者もいた。そして、ジャズというよりも、ジャズを受け入れる社会そのものもまた、はっきりと様相を変えようとしていた。

『 まだジャズの店やっとるという強い意識を持っとったけど、昔ほどではなかった。突っ張っても返ってくるものもなくなったしね。客商売としての難しさも見えてきたんやわ。ジャズファンも含めて、軟弱になっていったんやねェ。

 突っ張り学生も来なくなった。生意気なのもね。サラリーマンとなって、仕事に追われ、家庭サービスにも気を遣うようになっていくと、気持ちがジャズ的ではなくなるんやね。

 金沢の大学にいた時によく来てたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たまに出張で金沢に来ると、必ず寄ってくんやね。そして、決まってリクエストするんやわ。家に持っとるレコードなんにね。

 要するに、家はジャズを聴く場ではなくなったということなんやな。ところが面白いことに、そうやって比較的若い人たちよりも、さらに年配になってくると、子離れもすんでゆとりが生まれてくる。今更カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう一度ジャズでも聴いてみようかといった人たちも出てくるんやね。

 仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次会や三次会のあと、ひとりになってやって来るんやわ。そして、たまに部下なんかも連れてきて、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ジャズのこととか、学生運動時代のこととかね…… 』

香林坊に移ってから、ヨークはコミュニケーションの場的匂いを強めていく。奥井サン自身も、ジャズ的な感覚で得られるさまざまな愉しみなどに手を広めていった。

『 シャイな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ジャズもおかしな風に流されていったように感じるんやね。ジャズって下種(ゲス)な音楽やったもんや。それが何だか、気取って、大人ぶって聴かなければならんものになってしまったもん。

 何にも分かっちゃいない連中が、ジャズを変な風に解釈してるんやわ。ジャズが好きやから、ジャズなら何でもいいと言うのとは違うんやけど、どうもそこらへんがおかしいんやね。

 だから、最近金沢でやってるジャズのコンサート行っても感動せん。ジャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でジャズを語りたくもないけど…

 ジャズの店には、ジャズの店にしかないことってあるんやねェ。例えばレコードのジャケットを見せることとか。ジャズの話を始めたカップルがいると、ちょっと変わったものをかけてみる。ジャケットを見ることで話も弾むんやわ…… 』

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●ジャズ的人生の始まり

ヨークには個性的なニンゲンが集まる。特に香林坊に移ってからは、ジャズそのものよりも奥井サンとのコミュニケーションを求めて来る客が多くなった。個性的なマスターに、個性的な客が集まるという典型だ。

『 毎日、同じ日がないという愉しみを知ったね。同じ客が来ても、同じ愉しさは生まれないけど、別な愉しさは生まれる。毎日がジャムセッションなんやね。

 でも、最近、若い女の子があまり来なくなったな。昔の娘さんばっかり。現役の娘さんが来なくなって、古いのばっかりやね……』

奥井サンの雑学博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、記憶力もかなり凄まじい。活字中毒がもたらした知識の蓄積と、興味をもったものに対する飽くなき追究……?

『 だいたい五時半頃に店開けるんやけど、始めの時間帯って客も来ないわね。そんな時、独りでカウンターの椅子に座って、本読んどるんやけど、そのままなかなか誰も来ない時がたまにあるんやわ。

 そんな時は、活字中毒に火がつく。とにかく何でも読むんやわ。棚に置いてあるものを引っ張り出してね。

 広辞苑だろうが、植物図鑑だろうが、とにかく何でも、広辞苑は飽きないし、読み尽くすということがないからいいねェ。

 読むものは古いとか新しいとか、和洋など問わないで、とにかく面白いと思った本を買って読むんやね。時折、中味が難しすぎて、一日数ページしか進めなかったということもあるけど、それもまたいいんやわ…… 』

黒髪をアップで束ね夏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやってきた。俳号は「酔生虫」という。これは「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉からとったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、また夢を見ているように、無意味に一生を送ること」ということだ。

しかし、実に全くこんなに的を射たネーミングはないと思ってしまう。言葉の意味はもちろんのこと、こんな言葉を探し出してきた奥井サンらしさに敬服してしまうからだ。

『 俳句は、きちんとした会の中で始めた。その後は、店の中で客たちとやるようになったけど、とんでもない理屈こきが多くてね。先生の言うことなんか全然聞こうともせん。ほんとにまあ、たちの悪い門下生ばっかりやわ。

 ここ十年ぐらいの間に、いろんなことをやるようになったね。山野草にも相当のめり込んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きとるね。母親からもいろいろな名前を教わっていたせいか、目に見える花の名前は、ほとんど知っとったもんね…… 』

奥井サンは、よく酔っ払う。

店のマスターなのに、かなりハゲしく酔っていたりして、客なのかマスターなのか区別がつかなくなったりする。だから二日酔いの日も必然的に多くなる。

しかし、奥井サンは奥さんと一緒によく近場の低山へと出かけているのだ。バードウォッチングへの傾倒も、その延長線上にあったものだろう。

『 ヨークは、自然に趣味の話が出来る場になっとったねェ。別にグループを作って、何かやろうというのではなく、各個人のこととしてね。

 今、カメラやっとるけど、あれも奥が深いわ。最近あんまり撮れんようになった。前は何でも撮っとったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし…… 』

奥井サンの写真には、何か独特な雰囲気がある。それが一体何なのかというと難しいのだが、技術などといった俗な評価軸では済ましたくない。そして、それもまた、少年時代の奥井サンに沁み込んだままの何かなのかも知れない。

『 基本的にあるもんは、自分で愉しむってことなんやわ。それができんかったら、何も意味ないわね。他人に強制したりもせんしね、面倒くさいことも、とにかくしない…… 』

あの人は、現代の仙人みたいや…と、奥井サンのことを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街という煩雑な空間の中に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに左右されない何かが潜んでいる。

『 休みかあ…、そんなもん考えたことないなあ。毎年、大晦日から元旦の朝にかけてオールナイトやって、元旦の夜だけは店閉めるけど、あとは全く休まんね。休みという感覚そのものがないんやわ。

 旅行なんてものも、ほとんどしたことない。新婚旅行も行ってないし、大阪(奥さんの実家がある)へも、結婚後一回も行っとらん…… 』

金沢に来て三年後、27歳の時に奥井サンは結婚している。優秀な息子が二人。当然二人とも成人している。

『 分かるやろけど、とにかく父親らしいことはしてないんやわ。教育なんて認識はナシ。夜は全く家にいないし。行楽などもない。

 母親の教育が良かったんやろと思うけど、父親を軽蔑するような息子たちではなかったね。意見がましいことも言わんし、そんな意味じゃ、二人とも男でよかったわ。

 「お父さんは、のんびりしてていいねえ…」なんて生意気なこと言うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡まれて大変なんやぞ。だから、それを紛らすのに酒を飲むんや」などと、言い返したりする。説得力なしやけどね。

 でも、「お父さんは好きなことやってればいいよ」なんて、いいこと言うしねェ。やっぱ、頭が上がらんわ…… 』

来年(1999)の12月で、ヨークは30年になる。今でも新しい客が訪れ、潜在的な部分でヨークは確実に変化している。

奥井サンは今53歳。いつもオープンな店でいたいと言う。“個性派の集まり”という店の個性も奥井サン自身が作り上げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどといったも考えていない。にじみ出てくるものというのは、単なる店の内装だとかといった単純なものからではないということを、奥井サンが教えてくれる。

『 元気なうちは店をやっていく。でも、そんなことも考えたくないね。ジャスを広めたいという気持ちもないし、息子たちにもそんなこと求めんわ。

 ジャズの店はもう再生しないと思うんや。音を絞ったりして聴くジャズは、やっぱりちょっと違うんやね。ライブでもパワーが感じられない演奏を、皆がそんなもんかと聴いとるわね。あれはもうオレにはジャズじゃない。

 もっきりや(ヨークの二年後にオープンした金沢柿木畠のジャズの店)は頑張ってるけど、やっぱり昔みたいに、大きなホールで、バリバリなのがコンサートやるようにならんと、金沢のジャズシーンは元に戻らんわ。それも、むずかしい話やけど…。

 これから? 

 これからは、ますます趣味の世界やし、死んだら終わりやけど、死ぬまでは店もやる。毎日は愉しいね…。やっぱ、ジャズ・フィーリングなんやねェ。

 いつやったか、もう店やっとるのがイヤになったことがあるんやわ。

 その時、(山下)洋輔さんから、「毎日、違うお客さんが来て、毎日、アドリブですね。そういうことを愉しみながら、毎日、エヘラエヘラとやっていけばいいんじゃないですか。金沢にヨークがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第一、儲けようなんて思ってないでしょ…」なんて言われてね。

 金はあった方がいいけど、たまに若い女の子も来るから、また頑張るかなって思った。

 あんまり、面白い話にならんかったねェ…… 』 (終わり)

・・・・・・・ いつも普通に話していたのだが、その日の会話は特別なものだった。

二時間半の、特別な時間。そして、セッションは終わったのだ……

ヨークは、今も香林坊日銀裏で奥井サンの妻・禎子さんによって営業を続けている・・・・・・

キースの即興ソロ・・・

久しぶりにじっくりと『ケルン・コンサート』を聴いた。

しみじみと春が青かった時代が蘇ってきた。

キース・ジャレットの生ソロは、大学4年の秋、このアルバムの出た後のNHKホールで聴いている。

当然ながら満席で、ボクの横の席には、有名な何とかさんと言うクラシックの評論家が座っていた。

その人は、前半が終わると席を立ち、休憩時間が過ぎても戻ってこなかった。

立ち上がり、唸り声を上げながら鍵盤を叩く、キースの演奏スタイルに耐えられなかったのだろうか。

キースにショパンを重ねるような評価もあったようだが、ボクはマイルス時代のエレクトリックピアノを弾くキースも好きだったので、全く違和感なしに座っていられた。もちろんそれだけの理由ではないが。

若き山下洋輔さんも身近で見て聴いていたことを思えば、立ち上がってピアノを弾くくらい何でもなかったのだ。

このコンサートは札幌から福岡まで七都市をめぐるツアーのひとつだった。

しかし、出来は今一つで、その証拠に、その後発売された全国各地のライブを集めた10枚組アルバム『サンベア・コンサート』には、NHKホールのものが入っていなかった。

その夜、ボクは大阪出身の友人・H本クンと渋谷駅で待ち合わせ、一緒に出かけた。

彼にジャズを勧めたのはボクで、四年になると、彼は当然かなりのジャズ通になっていた。

肌寒かった夜、NHKホールに向かう途中で、パルコにあったレストランに入り、超高いスパゲティ(当時はパスタと言わない)を食う。

そして、一万円だったかの、学生の身分では破格値チケットを手に、NHKホール2階席の前列真ん中に陣取った。

緊張するボクたちを相手に、キースは即興を演った。しかし、もがいているようにも見えた。

ところで、『ケルン・コンサート』が出た時、ジャズ喫茶に三時間ほど居ると、必ず二回は聴いた。

たとえば吉祥寺ファンキーを出て、同じくファミリーに場所替えしたりすると、一日に三度くらい聴くこともあった。

片町時代のヨークでは、そのレコードを店に置かないことにしていた。それほどまでにリクエストが多かったのだ。

特にFMの深夜番組「ジェット・ストリーム」のテーマに使われてからは、異常と思えるほどの人気となった。

ジャズを聴いていなかった人たちも、このレコードを持っていた。ジャズピアニストの即興演奏ということなどどうでもよかった。

よくそういう人たちから、これはジャズじゃないよねと言われた。

ボクはジャズだと答えた。ジャズってね、そういう音楽なんだよ…と。

それにしても、このキースは完璧すぎた……。

 

深夜のラジオから懐かしい声が

 

 冬の寒い夜には、寝床に入るとラジオを聴いた。

 三十分ほどのおやすみタイマーにしておくと、ほどよい頃に眠気が満ちてきて、すんなり寝入っているということが多かった。

ある土曜の夜だった。

いつものように深夜のNHK-FMを流しながら寝床に入った。

いつも音量を抑え気味にしているから、床に入ってすぐには番組の内容が聴き取れない。

枕のアタマの位置が定まるまでにまた少しの時間を要し、ようやくラジオの音に耳を慣らそうとした時、懐かしい声が耳の奥にまで届いてきた。

児山紀芳氏のジャズ番組での語りだった。

児山氏は、今は休刊中?のジャズ専門誌「スイングジャーナル」の元編集長である。

ボクの中での42年間のジャズ歴で、児山氏の存在は非常に重要だ。

初めてジャズの魅力、いや凄さというものに触れたのが、14か15の時に聴いた「ジャズフラッシュ」という番組で、その時のDJが児山氏だったのである。

周囲の友達の多くがグループサウンズとかの音楽を聴いていた時代。ませガキだったボクはジャズに目覚め始めていた。

そして、毎週木曜の夜八時から放送されていたその番組を聴くのが楽しみだった。録音もし、何度も聴き返したりもした。

そんな中、ボクが聴いた何回目かの放送は、“幸運”にもリクエスト特集だった。

リクエスト特集というと、だいたい名盤というのが流される。入門者にとっては、この上ないチャンスなのである。

その夜、兄の部屋に置かれたコロムビアだったか、ビクターだったかの大型ステレオの前に陣取ったボクは、初めて耳にする児山氏のトークを必死にメモった。

そして、その時はほとんど名前も知らなかったミュージシャンの名演を聴いた。

強く印象に残ったのが、今はジャズファン以外の人たちにも広く愛されているらしい、ビル・エバンスの「ワルツ・フォー・デビー」だった。

そして、さらに強く印象に残った、いや激しく印象に残った名演があった。

ジョン・コルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」だった。

「セルフレスネス」というライブ盤に収められた、この17分余りに及ぶ緊張感に満ちた演奏で、ボクの音楽観はカンペキに変わった。

後に、ジャズを深く掘り下げていった原点が、この時にあったといっても過言ではない。

エバンスの演奏ももちろん、ジャズミュージシャンたちの音楽に対する姿勢にボクはかなりの感銘を受けた。

それからジャズの歴史本を買って読み、そして、児山氏が編集長のスイング・ジャーナルを毎月購読し始めた。

児山氏の声は、当時のボクにとって、かなりホンワカとした老人の声に近い響きがあった。

しかし、誌上で見た写真などから、自分が思っている以上に児山氏が若いことを知ると、なぜだかとても嬉しくなったのを覚えている。

そして、このラジオ番組に接してから、ボクは年齢のわりに稀なジャズ通になっていく。

ジャズ喫茶に行くようになったのが16歳の冬で、坊主頭の高校生(ボクは野球少年でもありました)が月に二三度、暗い店の中でペプシコーラをストローで吸い上げながら、目を閉じて大音量のジャズを聴いていた。

念のために、ボクは決して俗に言う不良ではなかった。だが、その頃には必要のないことなどを知っていたりして、理屈こきだったかも知れず、中学の後半あたりからは、学業の方も鋭角的に右下がり状態になったのは言うまでもない。

よく言えば、はっきりとした自分なりの価値観を持ち、悪く言えば、そのことにしか目を向けない少年でいた。

 

暖かくなってきて、なぜか深夜のラジオは聴かなくなっている。

児山氏の声もしばらく耳にしていない。

しかし、この冬に耳にした児山氏の昔と変わらない大らかで温かな声は、ボクの中にとてもやさしいものを残していった。

今、激しいコルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」をイヤホーンで聴きながら、この原稿を書いているが、音の向こうに児山氏の声も聴こえている。

「みなさん、ご機嫌いかがですか? ジャズフラッシュの時間です。今週の担当は、ワタクシ、児山紀芳……」

 

『津軽海峡冬景色』at YORK

ボクの話によく出てくる金沢の古いジャズ喫茶・YORKが、まだ片町にあった時代の、ちょうど今頃の季節の、ある夜のこと……

深夜12時が過ぎ、一応閉店時間を迎えた店に短い静寂が訪れていた。

切れのいいジャズを、ガンガンと店内に吐き出していたALTECの大きなスピーカーが、おとなしくなっている。

あれ聴くけ? マスターの奥井さんが言った。

ボクは何と答えたか覚えていない。ただ、あらかじめ聴くことにしていたのは間違いなかった。

奥井さんが手を伸ばして、棚の上からそのLPレコードを取り出した。

しばしの緊張に、息を殺す。そして、次の瞬間…、哀愁を帯びた演歌のイントロが流れてきた。

“上野発の 夜行列車 おりたときから~”

そう、ご存じ『津軽海峡冬景色』の切ないメロディーだった。歌うのは、もちろん石川さゆり。

再び鳴り響いたALTECも、ちょっと戸惑い気味だったが、すぐにこちらも慣れていく。

ボクと、奥井さんはレコードに合わせて歌い始めた。

最初は少し照れ臭かったが、少しずつ歌うことにも慣れてくる。

カラオケとは違い、ここはジャズ喫茶だ。

徐々に声が大きくなると、歌いながら、なぜか胸が熱くなってきた。

2コーラス目になると、歌詞が覚束なくなったが、トーンダウンしながらも、

“津軽海峡 冬景色~”のところだけは、見事に歌い切る。

ボクにとって、モダンジャズは音的に言うと、やや乾いた感じがしていた。

それに対し、津軽海峡冬景色の音には、何となく潤いを感じた。いい意味の湿っぽさがあった。

こんな感覚は初めてだ…、ボクはヨークの薄汚れた天井を見上げながらそう思っていた。

 

インフルエンザ風邪の最中や、病み上がりの途上中、何をしても中途半端でどうしようもなく面白くない時間が続いた。

当たり前なのだが、まず体力がない。もともと乏しかった思考力もますます低下している。

体力や思考力の低下は、持久力の低下にもつながっていくし、何よりも感性を鈍らせた。。

たとえば音楽などは、何となくダメだった。

垂れ流し的にかけていようとしたアルバムが、途中からなぜか煩わしくなってくる。いつものようにはシックリこない。

音楽はやはり、感覚に左右されるものなのだろう。

体調の悪い時には、いい音楽もダメなのが分かった。

一曲に絞り込んで決め聴きするみたいな場合はまだいいが、ただ垂れ流していては余計に神経を逆撫でされてしまう。

音楽との長い付き合いの中で、こんな感覚を味わうのは初めてだった。

そして、その時に、あの夜の『津軽海峡冬景色』を思い出したのだ。

あの時、YORKという場所で聴いた(そして歌った)あの歌は、本来なら全く異質だったはずなのに、ひたひたと胸に迫るものをもっていた。

本当に心に沁みてくる歌というのは、こういうものなんだなあと柄にもなく思ったりもした。

あれ以来、実はあの『津軽海峡冬景色』が大好きになった。

あの夜、自分に一体何があったのかは覚えていない。

何かがあって、それを忘れるためとか、吹き飛ばすためにYORKにいたとも思えない。

しかし、やはり、あの歌は心に沁みた。

“さよなら あなた 私は 帰ります~”

何とも切ない歌詞がアタマに浮かんでくる。石川さゆりの悲しい表情が、その歌詞とだぶる。

そう言えば、最近あの歌を聴いていない………

 

 

みねさんは、やっぱドルフィーだ・・・

 

1月28日土曜の北國新聞朝刊に、「一調一管」の乃莉(のり)さんと、峯子さんが紹介されていた。以前にもNHKが制作した番組で二人のことが紹介され、その反響も大きく英訳されて世界で放映されたというから凄い。

今更必要ないかとも思うが、県外の読者の皆さんのために書いておこう。

この二人は、金沢のにし茶屋街で茶屋を営む間柄であり、それぞれが鼓と横笛の名手でもある。

「一調一管」というのは、打楽器と笛とのデュオ(二重奏)をさすが、二人の演奏は凄まじいくらいの緊張感にあふれていて、最近金沢の街中で開催されているジャズ何とかの連中のよりも、はるかに“ジャズ的音楽”である。いっそのこと、そのジャズ何とかに出てもらって、金沢のジャズ的感性の粋を街の人たちに感じてもらうのもいいかもしれない。

特に峯子さんは、まるでE・ドルフィーであって、彼のフルートに負けないくらい、峯子さんの横笛の音には全身を凍らせるようなシャープさがある。

 

ボクにとって、その峯子さんには懐かしい思い出がある。

それは、にし茶屋街に平成8年(1996)にオープンした「金沢西茶屋資料館」の仕事に関わっていた頃のことだ。

その資料館では、一階で大正時代、20歳にして『地上』という大ベストセラー小説を発表し、一躍時代の寵児的地位にのし上がった島田清次郎の生涯を紹介している。

清次郎の祖父がかつて茶屋を営んでいたところで、現在の白山市美川に生まれた清次郎が、父を失い、まだ幼い頃に母と二人この茶屋に移り住んだ場所だ。検番の隣り、甘納豆のかわむらさんのお向かいさんになる。

清次郎のことは最近になってそれなりに知られるようになっているが、ドロドロしたところは不鮮明なままだ。

極貧から這い上がり英雄になったはずの清次郎は、『地上』による大出世後の傲慢な言動などから、世の中を敵に回すようになり、最後は狂人扱いされたまま、31歳の若さで死ぬ。

清次郎研究の第一人者である小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)は、最後に収容(監禁)されていた保養院から出した手紙(徳富蘇峰あて)に、清次郎の思いがすべて凝縮されているとされた。ボクもそう思った。

清次郎はもう一度、世の中に戻って頑張りたかったのだと……

そのことが展示ストーリーに色濃く映し出されている。

実を言うと、ボクは学生時代、東京で『地上』を読んでいた。本好きだった金沢の友人が、読んでみない?と貸してくれたのだ。しかも、その後、清次郎の生涯を題材にして書かれた『天才と狂人の間』(七尾市出身の杉森久英著で直木賞受賞)という本まで貸してくれて、ボクは非常に稀な清次郎通になっていた。

そのことに小林先生も驚かれ、今でもボクのことを可愛がってくれているきっかけになったのだ。

 

ところで、清次郎の歪んだ精神には、幼い頃から見てきた茶屋での芸者たちの扱いなども反映していると言われるが、そのことを頭に置きつつ、実際に現在の茶屋の女将から話を聞くというのは複雑だった。

資料館の二階には、茶屋の雰囲気が再現された一室がある。

その部屋の手前に、木板の上に記されたちょっと長めの文章があるが、それはボクが当時、峯子さんから聞き取った話をもとに書いたものだ。

今84歳の峯子さんは、あの頃68歳。今もお元気そうだが、あの頃は当然さらにお元気で、峯子さんのお店である「美音」へ行く際に同行してくれる市役所の担当者の方も、よくやり込まれておろおろになっていた。

峯子さんのことは、ミネさんと呼んでいて、何度もお邪魔し、展示したいものを借りられないかとか、開館セレモニーの際の詳細な打ち合わせなどをさせてもらった。

ボクはずっと、資料館二階の部屋の壁に物足りなさを感じていて、そこに扇子を何本か置きたいと思っていたのだが、なかなか思うようなものは手に入らずにいた。

仕方なく、練習用だという扇子を三本壁に置き、それらしい雰囲気を醸し出そうとやってみた。もともとボクにはそういうものを愛でる趣味もなかったせいか、何となくそれらしく見え、ボクはもうこのままいこうと思っていたのだ。

すると、ある時、峯子さんが二階に上がってきて、

「あんな安物(もん)出しといたらダメや。あんたに開館からしばらくだけ、これ貸すさけえ、ちゃんと盗られんように展示しとけんぞ」

と、上等そうな扇子を三本置いていってくれた。眼鏡の奥の目が最後に愛らしく笑っていたのを、ボクは忘れない。

そして、前に書いた、峯子さんの話をもとに書いたという文章なのだが、この企画は展示の仕事も終わりに近い付いた頃、ボクが思いつきで言い出したことだった。

それは、昔のにし茶屋街の風情を、下働きの少女の日常生活をとおして伝えようというもので、峯子さんから話を聞くのがベストだとボクは思った。

しかし、そのことを市役所の担当の方に話すと、そういう話はなかなか難しいのではないかと言われた。しかも、そういう世界では、複雑な事情もあるかも知れないと。

結局、ボクが直接峯子さんにお願いすることになり、恐る恐る問い合わせた。返事はとりあえずOKだった。

「美音」の居間に置かれた長火鉢を囲んで、いつものように鉄瓶から注がれたお湯が急須に渡り、そして熱いお茶が前に置かれた。

それから40分間ほど、峯子さんの話を聞いた。

峯子さんは、たしか幼い頃東京から来たと言った。戦前のことだが、当然、その事情は聞けなかった。

朝早く起き、いろいろと仕事が待っていたが、その頃は、小学校(野町)に行けることが嬉しくて、小学校にいる間は、店の仕事のことを忘れられるから楽しかったなどと、茶目っ気たっぷりに話してくれた。

もともとが童顔の愛くるしい峯子さんだから、そう言う話を聞いていくうちに、幼い頃の峯子さんが想像できた。本人は淡々と話していたが、あの時ボクは妙にセンチメンタルになっていたかも知れない。

 

NHKの放送で見た時、当たり前だが、たしかに峯子さんはその年齢に相応していた。自分の芸も謙遜しながら語っていた。

茶屋などはまったく縁がないから行けないが、機会があれば、また生で聴いてみたい。

ボクはジャズプレイヤー・峯子さんの大ファンなのである……

タサイであったことについて

気が付くと、多くの人から“タサイなニンゲン”と呼ばれるようになっていたのである。タに濁点は付けないでほしい。

この“タサイ”とは、“多彩”とか“多才”のことであって、当然ながら“多妻”のことではない。

ただ自分としては、一応“多彩”に留めておくくらいが適当だと思っており、それでもまだ自分を過大評価しているように聞こえるかも知れないが、そうでないとも言い切れない。

“多彩”を敢えて“多才”としないのも、そのとおりだからだ。両者は似ているようで異なる。それに、多才には一定レベルの評価がなければならない。

 

自分自身の多感とか、多趣味とか、そういうことをしっかりと意識し始めたのは18歳の頃である。

その頃から生まれた自分の中の矛盾にも、時折苦しめられた。

今の時代は、みなが多彩のように見える。そういられることが羨ましい面もある。

多彩であっても、何らおかしなことでなく、正々堂々と清く正しく多彩でいたりしている。

もし今の時代の多彩さが真実だとすれば、ボクはかなり進んだニンゲンだったと思う。

やってきたことは周辺の同世代人よりは、かなり前にも横にも斜めにも行っていた。

しかし、そんな多彩さとは一体何だったのだろう?

 

ボクが持ち出した例ではないが、サッカーの中田英寿を見ていると、今の彼にはサッカー選手だった頃とは全く方向の違う生き方が見える。

生き方というと同じになるかもしれないが、少なくとも関心の対象が変わった(変えた?)ことによって、その日常も周辺も変わってきた。

彼は優秀な、そして人気サッカー選手だったことによって、自分の存在を広く知ってもらった上で、新しい自分をまた見せようとしているのだろうと思う。

そして、ボクたちが今見ている彼は、風貌などは変わらないにしろ、どこか可能性を秘めた新しいニンゲンにも見えている。

彼の感性から、今まで気が付かなかった何か新しいものが発見できるのかも知れないと、多くの人が思うようになっている。

彼のその多彩さにも、彼なりの多感さなどが大きなモチベーションとして存在しているのは間違いない。

彼の中にあったものが、サッカーという、ある意味仕事的なものから解放されて表に出てきたのだろう。

ただ正直なところ、彼らの世界の多彩さや多才さはよく理解できない…

 

で……

ここ最近、よく自分のことを整理してみたら…みたいなことを言われるようになった。

それが、“タサイなニンゲン”と呼ばれることからの、殺し文句みたいになっている。

整理せよというのは、世の中にアピールせよということだ。

社会の中では、ボクは単なる地方の中小企業の中の、一人のニンゲンに過ぎないから、それだけでいるとN居の存在はまだまだ活かされないと言ってくる人たちがいる。

今の立場で、いろいろとやってきたのだから、素になって、そのことを本気で整理してみたらいいと言うのだ。

もっと、自分からオープンにしていけよという意味なのだろう…。

多感性多趣味エキスが、まるで樽の口から落ちる「いしる」の最後の一滴のようにポトリポトリと音を立てている。

残りわずかなエキスをどうするか…?

日々、ダラダラと考えている………

 

マイルス・デイビス没後20年特別番組

 

昨年12月に書いた『マイルスから始まった…』( http://htbt.jp/?p=1730 )。金沢で唯一行われたマイルス・デイビスのコンサートを再確認しようとしたイベントの話だが、そのイベントの中で貴重な資料として提供してもらった映像がテレビで再生・再演された。

マイルス・デイビスが他界してから9月28日で没後20年となることの記念番組で、9月30日の深夜というか、日付は10月1日になっていたが、NHK総合テレビで再放送されたのだ。

番組名は「マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973」。深夜1時40分からのスタートだったので録画し、翌日の昼飯時、インスタントラーメンなどを食べたりしながらじっくりと見た。

ところで最近、チャンポン麺に乾燥したキャベツが入ったやつをよく食べている。それにモヤシをドサッと入れて野菜ラーメンらしくすると、塩味の美味いラーメンになる。モヤシは「雪国もやし」というやつを使う。なにしろパッケージのロゴの上に、「高い理念」と記されていて、その仰々しさが心を揺さぶった。高い理念・・・マイルスに通じるではないか?

話はそれたが、放送されたものは、73年6月20日、東京新宿厚生年金会館ホールでのコンサート。約10日後の7月1日にNHKの「世界の音楽」という番組で放送された。そして、その7月1日こそが、金沢公演の日だった。だから当夜、金沢市観光会館の最前列ど真ん中で、マイルスをかじり尽くすように見ていたボクはこの番組を見ていない。こんな番組があったことも知らなかった。

部屋に当時の膨大な資料(イベント用に収集した)が置いてある。探すのが面倒だからやめておくが、後の音楽展開の起点となっていったエレクトリック・マイルスの全盛期とも言うべき当時のコンサートには賛否両論があり、ボクは生意気にも後者の方に属していた。そのあたりのことやイベントのエピソードなどは『マイルスから始まった…』で詳しく書いた。

それから30年後に、かつて金沢公演に近い音源を求め再現を試みるという無謀なイベントを企画し、かなり入れ込んでいたボクとしては、このライブ映像は超宝物に近い存在だったのだが、実は8年前すでに入手していたのでもある。名古屋のジャズ愛好家の方からもらっていた。イベントの企画に共鳴していただいたのだ。

金沢での伝説のコンサートは、実はこの頃のマイルスに録音がなく、微妙な記憶に留まっていた。その全貌を伝えてくれたのが、このDVD(NHKの番組映像)だったというわけだ。それまでにも海賊盤などで、時期的に近い演奏を確認していたが、映像は完璧にそれを超えるものを伝えてくれた。

金沢公演の新聞広告もあり、後日の夕刊に掲載されたコンサート評記事もあった。コンサート評の筆者は故奥井進氏だ。そして、コンサートの写真は北國新聞から買った。その他、当夜観光会館に乗りこんだマイルスファンが撮った写真も多く提供してもらい、それらの複写もさせてもらった。それらの写真は、金沢市尾山町のジャズクラブ「Bokunen」などに上げた。店内で見ることが出来る。

中居のコンサート評はというと、前にも書いたが決してよくはなかった。19歳のジャズリスナーは、その音量とロックビートに我を失い、最前列真正面に陣取っていながら、ただただマイルスのカッコよさに圧倒されていただけだった。

しかし、8年前、いただいたDVDを見た時、マイルスの額や鼻先から落ちる汗を見て、ボクはかなりハゲしく感動したのを思い出した。そして今回、より鮮明になった画像から、もう一度マイルスの強い意気込みを感じ取った。若いメンバーたちを鼓舞していくコンポーザーとしてのマイルスに、あらためて果てしのない凄さを感じた。

当時、ジャズ的匂いは、サックスのデイブ・リーブマンにしか感じなかった青臭いボクは、その後のジャズ的マイルスへの再認識へと進む。

 ボクの中には、この時代以降、ジャズはジャズ的ではなくなったという認識がある。つまり触発される音楽ではなくなり、現在に至っては癒やし音楽みたいになってしまったと感じている。そういう性格も当然発祥からあったし、それもそれなりに悪くないのだが、今も映像を再生させながら、もう40年になろうかとしている時の流れに戸惑っている。

当時のマイルスのサウンドのように、自由なセッションから創り上げていく手法は、ボク自身の仕事やその他物事の進め方にも通じている。こんなことをマイルスから学んだなどとは思っていないが、どこかにそんな気配を感じて嬉しくもなる。いい歳になっても、こういう感覚は変わらないのだ・・・

 ※写真一部 NHKテレビ画面より・・・

夏のはじめの雑想

真夏日の夜、飲み会の帰りにYORKに寄ると、カウンターに懐かしいジャケットが置かれていた。スイングジャズの代表的なピアニストであるテディ・ウイルソンの、1955年のアルバム『for quiet lovers』だ。ジャケットを見ているだけで、涼しい気分になれる。

よく “ジャケ(ット)買い”の名盤とも言われるようだが、ボクは恥ずかしくてこんなレコードは買わなかった。もちろん演奏の好みも違っているので買わなかったのだが、今聴いてみると、それなりに良かったりする。静かな恋人たちのために…などというタイトルが付いているが、演奏はやはりスイングしているのである。

それにしてもジャケットの二人は、実に幸せそうだ。1955年というと、ボクが生まれた一年後、アメリカ以外にどこの場所なのかも想像つかないが、休日のデートなのだろうか。大人の恋といった雰囲気がプンプンと漂ってきて、じっと見てしまう自分が情けなくなる。二人の服装から、夏を感じた。

 夏は、ガンガン照ってくる日差しと、青い空と入道雲だと常日頃から言っているが、金沢のド真ん中・香林坊の交差点を歩いていたら、美しい夏の風景に出会った。文句のつけようのないバランスで、都会(一応)の中の夏空が描かれていた。

早速、久しぶりの気分転換として担いできたACEのカバンから、CONTAXを出して構える。一枚撮ってからしばらく様子を見ていると、また少し変わっていく。次から次へと少しずつだが、雲が変化していき、最後は写真のようなところで落ち着きシャッターを切った。

近くの中央公園では、大して夏は感じなかった。いや、夏は夏なのだが、この場所の夏は死んでいると思った。昔、芝生が豊かで、その上に寝っ転がって本を読んだりできた頃には、大きな木陰が存在感を示し、夏休みで帰省した学生たちが集まってきたりなどしていた。小さな子供を連れた若い母親なんかが、汗を拭きながらも、幸せいっぱいな顔で子供と遊んでいた。

しかし、今は禿げあがった芝がかすかに残るだけで、土埃が舞うような有様である。いい加減に何とかしないのかなあと思うが、今では芝の上に座るなどといった行為自体が下品なのだろうか。一画を占める四高記念館のレンガづくりの建物も美しく、芝生に寝っ転がって真横の視線から眺めるのも一興なのだが、ホームレスの皆さんへの配慮などもあって出来なくしているのだろう…と、勝手に好意的な解釈をしている。

 ところで、レンガの建物と夏空とは非常にいい関係にあると、ボクはずっと感じてきた。レンガには汗をかかないイメージがある。吸汗性 の高いアウトドア用のシャツのようなイメージがあり、それが爽やかな印象をもたらし、美しい青空とマッチしている。金沢にはここ以外にも玉川の近世史料館や歴史博物館、そして市民芸術村などがあって、そこら辺へ行くと爽やかな夏を感じて嬉しくなったりするのである。

柿木畠には、駐輪場の入口あたりの鞍月用水の脇に一枚の掲示板があり、いつもそこを通るのを楽しみにしてきた。そこへ来ると、季節感を詠ませる俳句が一句だけ掲示されていて、たまにはニタニタしながら、ちょっと小声で読んだりするのだ。

作者のたみ子さんというのは、名字はM野さんといって、何を隠そう喫茶ヒッコリーのマスター・M野K一さん(今さらイニシャルでもないが)のお母さんだ。ボクはいつも“お母さん”と呼ばせていただいているが、森光子を連想させる可愛らしさと、好奇心旺盛な素敵な人だ。フラダンスやらフォークダンスから俳句やその他、多くの趣味をお持ちで、当然、お元気で、爽やかで、若々しい。

「子守唄 団扇の風に 眠らせよ」 かつての日銀ウラ界隈での俳句からは想像もつかないやさしさに満ちている。たみ子さん流の夏なんだなあ…

 金沢の東の果て?、ボクの大好きな犀川上流の駒帰という町には、古びた小学校が残っていて、夏の風景としてはちょっとうら寂しい一面があるにしろ、ときどき足を向けている。

この奥にはかつて倉谷という村があって、友だちの先祖がそこの出だということでこの辺りへ連れて来てもらったのが最初だ。もう三十年も前のことになる。

初めて来てから、ボクは凄くその場所が気に入ってしまった。それ以後、何度も何度も出かけるようになった。開けてはいないが、その分の寂れた感じがよかったのかもしれない。深い谷を流れる水も濃い緑も気に入っている。

 ボクが生まれ、今も住んでいる内灘町宮坂では夏に祭が行われる。今年は久しぶりにその祭をどっぷりと楽しんだ。特に地元が誇る獅子舞の凄さには、あらためて納得し唸った。

金沢の百万石まつりに関する仕事をしていた時期、実は金沢市内の獅子舞の情けなさにボクは開いた口が塞がらなくなり、三日間ほど間抜けにも口を開けっ放しにしていたことがある(ウソだ…)。

あんな軽々しい獅子舞で、金沢の獅子舞の伝統がどうのこうのと言ってきたのかと、無性に腹立たしくもなった。

もちろん祭そのものや、参加者たちの価値観などいろいろな面があるのだが、少なくとも我が宮坂の、正式には黒船神社の獅子舞を見たら、金沢市内の軽薄獅子舞連中は三ヶ月半ほど開いた口が塞がらなくなるのは間違いない。

黒船神社の獅子舞は、白(木地)と黒のふたつの獅子がそれぞれ上(かみ)と下(しも)に分かれて登場する。これはかつて、宮坂が実際にふたつの地区に分かれていたからだ。

ボクたちが子供の頃から当たり前のように感じていたことで、今あらためて認識させられることがある。それはやはり、内灘という土地柄か神社が砂地でできており、砂の上で舞われることによる豪快さや凄みがあるということだ。

小刻みに動きながら、じっと一点を凝視し獲物を捕らえようとするかのような獅子の表情が小さい頃には恐ろしくもあった。口が砂を食み、そして砂の上を執拗に横に這っていく。方向を変える時に発する口を閉じる時の音は迫力満点だった。

こういう祭の中の芸や技というものは、地域の誇りでもあるし、何とかして正しく残し伝えていく必要がある。その担い手たちにもしっかりとした評価をしてあげなければならない。子供の時に見ていた、瞬間心臓が止まったかのように驚いた技は、今の子供たちにも伝わるはずだ。

 

 さて、夏はやはりビールなのだが、今年は何となく面白いビールとの出会いが多く、ベルギーのビールがなくなったなあと思っていたところに、また新たなビールがやって来た。やって来たと言っても、ビールが自分で歩いてきて、こんばんは、ビールです…と言ったわけではないのは言うまでもない。

 ひとつは鉄砲玉の長女が、突然ベトナム行ってくるわと行ってきて、帰りカバンの中に忍ばせてきた缶ビール二種。もうひとつは結婚の祝い返しにもらった三重県伊賀市の地ビール三種だ。これらにモルツ・プレミアムも加わって、今夏はとても濃厚なビールに囲まれているのである。ベトナムのビールは非常に日本的だった。黒ラベルやスーパードライやラガーなどと一緒に呑んでいても区別がつかない。

台風が水を差しているが、まだまだ夏は本気ではないような気がしている。なでしこの沢穂希キャプテンが、優勝の夜に送ったという地元ドイツのマスコミへのメッセージにも触れ、今日本のすべてが、直面している大きなものを軸にして動いているのだと思った。素晴らしいメッセージだった。

暑い夏だからこそ、日本はもう一度何かを思い出さなければならないのだ……

香林坊に会社があった頃~その2

 

その1を書いてから、この話には多くの反響があり、早くつづき、つまりその2を書けといった内容のメールなどが多くきた。反響が多くて、それなりに話のタネになるのは嬉しいのだが、早く書けと言われると、なかなかその気にならないのが性格上の特徴で、そのまましばらく放っておいたことになる。

で、いざ書こうかと思うと、またあれこれいろいろと考えてしまい、とりあえず書き始めるのだが、書き切れなくなったら、その3に回すことにする。

その1の終わりに、YORKが日銀ウラにやって来た頃のことを書こうか…と書いたが、まずやはりその話を始めよう。

ボクがヨシダ宣伝に入社したのが、七〇年代の終わり頃。その十年ほど前、富山からやって来た奥井進さんが店長となって、YORKが片町にオープンした。正式には、一九六九年の十二月二十二日のことだ。

今はなくなったが、カメラのB丹堂という店の二階、狭く暗い階段を上がったところに店はあった。細長く、それなりに広い店内にはピアノが置かれ、ジャズがガンガン流れていた。奥井さんとボクとの出会いは、それから少し後になるが、その辺りの話は長くなるので別の機会にしておこう。

それから一五年後の同じ十二月、YORKは香林坊日銀ウラへと移転する。この出来事は、ボクの人生の中でもかなり重要で、今振り返ってもトテツもない大きなものをもたらしてくれたとはっきり言える。

実は、会社に入ってサラリーマン生活に妙に馴染んでくると、ボクは一時YORKから遠ざかるようになっていた。行っても、女の子を連れて行ったりして、奥井さんは喜んだかも知れないが、ボクは何だか真面目なリスナーではなくなっていた気がする。

会社の連中と飲む機会などが増えて、それがそのままカラオケやら、気取ったパブやらへの志向に変わっていた。ジャズを聴くのはクルマの中だけ、いや、クルマの中でもジャズばかり聴いていないという時期もある。何を聴いていたか、それは秘密だ…。

旅をしたり、山へ行ったりするのは変わってなかった。本を読むことも変わってなかった。仕事の中で、文章も書いていた。だが、その頃YORKに足を向けなかったのは本当になぜなのだろう…。やはり、何となく…なのだとしか言えない。

香林坊にYORKが来るという話は、ジャズ好きの友人から聞いたと思う。それをはじめて耳にした時、ボクは正直言うとガッカリした。片町のYORKが、YORKなのだと勝手に位置付けていたボクとしては、香林坊に移り狭い店になってしまうことで、ジャズの本格的な店ではなくなるという思いがあったのだ。

その辺りのことも書けば長くなるので別の機会にするが、ただ言えるのは、ボクの自分勝手な思いであったに過ぎない。大袈裟だが、ジャズという音楽を取り巻く環境が大きく変わっていたということもあっただろう。ジャズに求める、突っ張り精神みたいなものがかっこ悪くなり、表向きマイルスやコルトレーンを聴いていながら、家でこっそり天地真理も聴いている。真理ちゃん、大好き!…などといった輩が増えていた。

YORKが香林坊日銀ウラにやって来ると、ボクの日常は全くカンペキに変わった。奥井さんが店にやって来る夕方の五時半から六時頃にかけて、ふらりと店へ行ってみる。六時を過ぎていれば店は完全に開いていて、そうでなくても奥井さんはボクを迎え入れてくれた。

神宮寺の自宅から、カメラをぶら下げてのんびり歩いてくる奥井さんは、まず店の掃除などを簡単に済ませる。先に買い物に行ったりもする。近くの本屋にも行く。

まだ仕事の合間であるボクは、ずっと親しんできたいつものコーヒーを頼み、夕刊に目を通す。その前に交わす言葉は、「なんか、面白いことあったけ?」で、この言葉はその後もずっと奥井さんとの慣用句みたいになっていく。晩期の見舞いの時にも、まずどちらかともなくこの言葉が出ていた。

そんな間に、まじめそうな酒屋のおとっツァンが注文を聞きに来て、ひょうきんな氷屋のあんチャンが氷を運んできては、その日の出来事などを語って行った。特に氷屋のあんチャンの話は、時に二十分ほどの長編になったりして、軽トラの中の氷が融けないかと心配したりもした。

この時間は、ボクにとって最高に楽しい、高級クラブ風に言えば“珠玉のひととき”であった。現在の自分の中に沁み込んでいる多くのモノが、このひとときの中で育成されていったのではあるまいかと、かなりの確信で断定できる。

ある一日のひとときを振り返ると、新聞に出ていた魚のアンコウの話を皮切りに、レコード棚の上に置かれている書籍類の中から『食材図鑑』という分厚い本を取り出す。その中の魚編のアンコウが紹介されたページを探し、アンコウについて語り合うのである。

アンコウは当然海の中に居て、魚を食べている。その食べ方というか、餌となる魚の捕らえ方が面白い。アンコウは海中でじっとして、目の前にやって来た魚を、あっという間に口に頬張ってしまうのだ。

ボクと奥井さんの間には、なぜそんなことが簡単に出来てしまうのかが問題となる。そして、図鑑をあらためて見直し、アンコウの正面から撮った写真に見入るのだ。

アンコウの正面から見た顔は、はっきり言ってマヌケそのものだ。分厚い唇(なのか知らないが)に象徴されるあまりのマヌケぶりに、呆れて声も出なくなる。そして、ボクたちは納得する。アンコウの前に来た魚は、このあまりにもマヌケな顔に、不可避的脱力感を禁じ得なくなり、そのまま放心したように立ち尽くす(魚だから、ちょっとニュアンスは違うが)。その魚も呆れて声も出ない。そこをアンコウは図々しくもパクリと頬張ってしまうということなのだ……と、結論付けるのである。

俳句や写真の話題もまた、店では必ず出て来るものだった。奥井さんの俳句や写真には凄くジャズ的なものを感じた。伝統と自由さと、妙な掛け合いや組み合わせや、その世界は独特なものだった。

奥井さんの俳号は、『酔生虫』。もとは『酔生夢死』といって、程頤(ていこう)という中国の古い時代の先生の書に出てくる言葉だ。広辞苑によると、読んで字のごとく、“何のなす所もなく、いたずらに一生を終ること。”とある。その「夢死」の部分を「虫」にしたわけだ。

博学の奥井さんらしい俳号であったが、YORKではその頃俳句ブームとなっていて、奥井さんのもとには俳句好きが集まっていた。中には単なるお客から俳句仲間になった人もいた。

ボクが始めていた私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』の中に、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」というページがあったが、皆が作る俳句を、酔生虫先生が批評していくというパターンで好評を博した。ボクが先生のアシスタントという設定で、ボクの方から先生にあれこれと質問しながら進めていく内容だった。もちろんギャグ満載の楽しいコーナーであったのは言うまでもない。

『ポレポレ通信』が進化した?『ヒトビト』の創刊号の構想は、YORKのカウンターで練っていったものだ。ずっと続けた「ヒトビト的インタビュー」という重要なページでは、その第一回目を奥井さんにさせてもらった。開店前のYORKで、奥井さんは、しみじみと静かに、いろいろなことを話してくれた。昼間に店にいるということがあまりなく、ドアのガラスの外が明るかったのが珍しかった。

香林坊日銀ウラは、YORKの移転によって、ボクにとっても新しい界隈になった。会社からYORKまでが徒歩で約三十秒。六時に店に入って、そのまま夜中の十二時までいたということもたびたびあった。

その後、ヨシダ宣伝がお隣の野々市町に営業部隊を移転させるまで、ボクの日銀ウラ界隈におけるこうした日課は続いた。移転してからも、月に何度かはあった。香林坊はいつの間にか、YORKを連想させる街になっていたのだ。

やはり、YORKの話だけになってしまった。その3につづくかも知れぬ……。

ジャズはジャズ的に聴く

三月下旬のNHK-BSで、上原ひろみがピアノを弾きまくっていた。

七九年生まれだから、もう三十歳は過ぎたのに、相変わらず可愛い笑顔をトレードマークにして、本当に楽しくて、楽しくてたまらないのです!というふうに鍵盤を叩きまくっていた。スタジオのインタビューでは、地震被災者たちのことを気遣いながら……

初めて彼女の演奏を聴いたのは彼女がまだ十代の頃だ。十七歳であのチック・コリアと協演している。明らかに普通のジャズピアニストにはない何かを彼女は持っていた。そして、彼女の音楽スタイルは、彼女の成長そのものよりも急角度で高度に、広角になり、ボクが最も好きなタイプのひとつともなって、いつ聴いても心も身体も解放させてくれる輝きを持つようになっていった。

それはピアニストとしての技術はもちろんだが、メロディやリズムを生み出す楽想や感性、演奏時のパフォーマンス(体の動きや表情)、そして即興性の追求など、すべてボク自身のサイクルを刺激するものであったということだ。

そして、それらの中でも、彼女が言うところの即興性というコトがボクには凄く重要で、即興でしか伝わらないスリルみたいなものは、いつもボクを刺激していた。彼女の演奏には、ボクの大好きな「単なるジャズではない、ジャズ的音楽」のエキスを感じたりする瞬間がたくさんあった。

「ジャズよりも、ジャズ的音楽の方が、よりジャズなのだ」と、自分でもよく分からないことをボクは考えたりしているが、最近ではラーメン屋でも居酒屋でもジャズ(一般的に言うモダンジャズだ)を聴かされているから、もうかつてジャズが醸し出していた濃いエキスは、豚骨スープや筋煮込み汁などの中に吸い込まれていき、かなり薄められている。

それも別に聴きたくもないシチュエーションでのジャズだから、どんどん垂れ流し的聞き流し的状況になっていくのである。

そんなときに聴く上原ひろみの演奏は刺激的で、ジャズは瞬間的に生まれる感性によって創造されるものなのだということを、あらためて教えてくれた。背筋がピンと伸びて、再び希望の道を与えられた迷い人の心境に近いものを感じたりした。

ボクにとって、ジャズは“ライブ”なのだ。特に冒険的なライブ感が感じられないとジャズ的ではない。だからスタジオ録音が悪いというのではないが、ライブ感があるかないかで、少なくともボクの評価は全く異なってしまう。

こんなことを言っていると、今世の中で一般的に愛されているジャズの評価とは全くかけ離れた話をしているように聞こえるかも知れない。街角で流れているジャズには人を普通に癒してくれるスイング感があるし、そのどこが悪いのだと言われると答えに窮する。それはそれでいいとしか言えない。

しかし…、なのだ…。

ジャズの世界では有名なエピソードだが、ジョン・コルトレーンとデューク・エリントンとのレコーディング時のやり取りが、ジャズのジャズたる所以を物語る……

自分のソロ演奏に満足できないで、何度もやり直したいと言うコルトレーンを、師匠格にあたるエリントンが、窘(たしな)めるという話である。

ジャズは即興性の強い音楽であり、その時その時の感じ方や演奏者の個性によってスタイルが変わっていっても不思議ではない。と言うよりも、そうだからこそジャズである。ところがコルトレーンは、再生テープを聴きながらやり直したいと言い出した。エリントンが答える…、そのままの演奏でいいのだよと。

もちろんコルトレーンだって、頭の中ではそんなことが分かっていないはずはない。ただ、エリントンの知性にあふれた強い個性に対して、当時の自分にはまだまだ満足できないもどかしさがあったのだろう…と、ボクは思っている。自分自身が許せなかった。超マジメに音楽を追究したジョン・コルトレーンという、後の泣く子も黙る偉大なミュージシャンは、こうして完成していったのかもしれない。

ところで、今では偏屈者と位置づけされるであろうジャズ愛好家が、ボクの周囲には何人もいる。自分では気が付いていないが、その偏屈ぶりは実に鮮明である。

今は金沢香林坊日銀ウラにある「ヨーク」の、亡き奥井進マスターにヘバリ付いていた連中(自分も含め)などは、その偏屈ぶりを今でも保持している。先日も、金沢市C岡町在住のY稜という偏屈者と久々に語ったが、彼はこの21世紀の世に、セシル・テイラーという超レアなジャズピアニストを聴いていると言っていた。ジャズの歴史には燦然と輝く異色の巨匠ではあるが、今では化石みたいな存在(言い過ぎか)として、久々に耳にした名だった。近いうちにCDを借りようと思っている。

ヨークの正面の壁には、今は亡き奥井進さんの写真が飾られてある。

雑誌掲載用に撮影された、よそ行きスタイルの奥井さんが店の椅子に腰を下ろしてレコードジャケットを見ている写真なのだが、持っているレコード自体が凄い。

サン・ラという、ジャズ界の奇才とも言えるミュージシャンのレコードなのである。そんなことはあり得ないが、若い娘だったら、サン・ラが好きと口にしただけで縁談も断られるであろう。逆に言えば、そういう音楽にカラダが慣れてしまっている自分たちも危ないのだが・・・・・・

奥井さんは何かレコードを持ってというカメラマンのリクエストに、なんとそのサン・ラを選んだ。もともと好きだったのは間違いないが、こういう時、普通のジャズ喫茶のマスターだったら、俗にいう名盤を手にするだろう。しかし、奥井さんは違っていた。

そう言えば、ジャズ的…と言う言葉は、ボクが奥井さんのために造った言葉だった。ジャズ的音楽、ジャズ的日常、ジャズ的人生……。自由に、のびのびと自分の個性を生き方(日常)に反映させていく奥井さんらしい言葉だと、ボクは我ながらのネーミングに満足していた。

一見ミーハーにも見える上原ひろみのピアノから、久しぶりに感じた心地よい刺激が、いろいろなものを思い起こさせてくれたのだった………

※上原ひろみのショットは、NHK-BSテレビジョンより

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

部屋の整理をしていたら、懐かしいものが出てきた。平成14年(2002)12月21日の日付が記されたカセットテープ…。

当時2年がかりでやっていた自主企画・自主運営イベントを紹介するNHK-FMの録音テープだ。翌年の本番に向けたイベントの準備などを追って、ボクを取材してくれていたNHK金沢放送局のT野アナともう一人女性アナ(名前忘れた)の番組に、ボクがゲスト出演し30分ほど語っている。土曜午後の東海北陸向けの特別番組で、録音してくれたのは、金沢・柿木畠、喫茶「ヒッコリー」のマスター水野弘一さんだ。

 ボクが企画していたのは、ジャズ界のリーダー、マイルス・デイビスが1973年7月1日に金沢で行ったコンサートを振り返り、常にジャズシーンをリードしてきたマイルスが、当時金沢でどのような演奏をしていたのかを再確認しよう!というイベントだった。

簡単に書いてしまったが、たぶん、ジャズのことなんか知らないの…という人には、どうでもいい話だろうし、自分でもこのことをきちんと伝えることのむずかしさは骨の髄まで痛感している。最近ジャズが好きになったの…という人にも全く解りづらいだろう。つまり、ボクはそんなことをやろうとしていた。

30年前のコンサートを再現するようなイベントというと、誰でもコピーバンドを入れたらいいと思うに違いない。しかし、コピーバンドではダメだった。マイルス・デイビスそのものでないとダメだった。しかし、マイルスはもうすでにこの世にいない。もし生きていたとしても、もう演奏スタイルは違うし、それに根本的にボクがマイルスを金沢へ呼ぶなんてことは不可能だった。

で、どうするかと言うと、残されたレコードやCDをとおして、当時の演奏を再確認するしかないのだが、1973年の日本公演ツアーは“正規”録音がされていなかった。だから、その前後の録音モノから金沢での演奏スタイルを想像するしかなかった。

話は、ますますややこしくなる…… なんで、録音が残されていないか? そんなこと知るか…と、ここまできて開き直るのも申し訳ないから、もうちょっと書こう。

マイルス・デイビスというミュージシャンは、とてつもない創造者だった。常に変化し続けていた。マイルスの音楽は、いつも先を行っていて、実験的で批評しにくく、ライブ自体が彼の創造活動になっていて、スタジオでの録音ですらも即興型のライブ形式で出来上がっていた。それも73年あたりでは、もうスタジオでの録音はほとんどなくなっていたのだ。つまり、マイルスはもうステージでの演奏でしか、自分の音楽を表現できなくなっていて、一曲が何十分にも及ぶ演奏で、聴き手にメッセージをぶつけていたと言っていい。ちょっと、一休みしよう…

マイルスが金沢にやってきた当時、ボクは午前中家の手伝い(アルバイト)をし、午後からは、当時大手町にあった市立図書館で受験勉強に打ち込むという、刑務所で言えば模範囚に値する優良浪人生だった。

余談だが、この頃のボクの切り替えの素早さには、自分でも凄いものを感じていた。アタマを丸刈りにし(といっても、元野球部だったから特に傍目の違和感はなかっただろうが)、裾が閉まった綿パンにTシャツ、素足にサンダル履きというスタイルで、時間をキッチリと配分し毎日を過ごしていた。図書館での勉強スタイルも予備校組よりはるかに効率的にこなしていたし、勉強時間は昼から夕方までと決めていて、帰りにYORKに寄ったりすることは、ボクの中では正しい息抜き兼充電のひとときでもあった。マスターの今は亡き奥井進さんとは、その頃すでに親しくなっていたから、YORKではかなりのんびりできたと言っていい。

 実はマイルスのコンサートを振り返る時、奥井さんが地元紙の夕刊に書いたコンサート評の記事がボクにとって貴重な資料となった。当時ボクはジャズがかなり解り始めた頃だったから、マイルスがロック志向に走っていることに大いに不満を持っていた。分かりやすく言うと、ロックはガキの音楽なのに、なぜ偉大なマイルスがロック志向になっているのか…などと、生意気なことを思っていたのだ。実際には、マイルスの演奏スタイルはロックをベースにしたサウンドになってはいたが、そんな安直な解釈だけでは説明できないものだった。さらに高い次元の音楽が創造されていたのだ。

そのことを、われらが奥井さんは見抜いていた。そして、素直にあのコンサートでのマイルスのサウンドに驚いたことを新聞に書いていた。

何のMCもないオープニング。緞帳が上がるのと同時に始まった演奏。大音量が音の風になって、最前列ど真ん中にいたボクの顔面にぶち当たり吹き抜けていく。一気に緊張を強いられたボクは、そのまま金縛りにあったかのようにして時間を忘れていた。

ボクはかつての感触を蘇らせた。奥井さんのコンサート評から、たしかにそうだったと振り返ることができた。

奥井さんは、ボクが企画したイベントのプレの第1回目に出演してくれて、ボクとトークセッションをやってくれている。二人で語ると、普段はほとんど漫才みたいになるのだが、この時だけは妙に真面目にやっていて、後で可笑しくなったのを覚えている。プレの2回目にも、観客席の真ん中に腰を据えて、金沢のジャズシーンの中心人物らしく、ボクのやっていることを見守ってくれていた。

しかし、本番まであと3週間ほどという日の夕刻だった。2003年6月17日、ボクを残して奥井さんは帰らぬ人となってしまった。食道ガンだった。“絶対、本番には会場に来てや”“行けるか、分からんぞ”そんな会話が最後になった。

 このあたりの話は、73年7月初めからの朝日新聞金沢版の『金沢アンダンテ』というコーナーに一週間連載で寄稿した。奥井さんの死とボクのこのイベントへの思いは、とにかく頑張っていた自分の中で、深く繋がっていたと言っていい。

カセットテープの中では、ボクは30年前のコンサートのことを話している。そして、その再体験をしようとするイベントについても、その目的ややり方などについて語っている。ついでに書いておくが、我ながらいい声だ。女性アナウンサーからもそう言ってもらえた。

30年前の音を再現しようという試みは、想像していた以上に広く多くの人たちの共感を呼んだみたいだった。自分自身でも努力したが、1973年7月初め前後のマイルス音楽が録音された、俗にいう“海賊版”CDなどが手に入ってきた。当時のコンサートの写真(隠し撮り)も出てきた。凄かったのは、名古屋のジャズクラブ(店ではなく、愛好家の集まり)の方から企画を評価していただき、当時のライブ映像が入ったDVDや写真、パンフレット類などが届いたことだった。

YORKの仲間たちのネットワークも強力で、手伝ってくれるメンバーも増えてきていた。そして、なんといってもイベントのもうひとつの目玉になったのが、スーパーオーディオの存在だった。マイルスの圧倒的な音を再現するには、生半可なオーディオでは不十分で、しかもいいオーディオを揃えると言っても物理的に不可能なことだった。

会場は、閉館となった映画館を改造して運営し始めていた「香林坊ハーバー」。実はボクのイベントが本格的な使い始めと言ってもよかった。不備だらけだった。

 映画館にはもともとスピーカーがある。しかも「ALTEC」というとてつもなく高級メーカーのものが残されていた。しかし、ボクのイベントでは、それをはるかに凌ぐスーパーオーディオが準備された。高岡にある「audio shop abc」のオーナー飴谷太さんが、その名の通りの太っ腹で無料レンタルしてくれたのだ。メーカーはマッキントッシュ。総額2000万は超えるであろうマッキントッシュのスーパーな機材がステージに並んだ。

『マイルスを訊(き)け』という、マイルス・デイビスのバイブルとも言える本の著者中山康樹氏からも激励と、金沢公演での裏話が詰まった長いメールをいただいた。

さらに、本番の数日前、今度は全国版のNHKラジオ番組でインタビューを受け、それが放送されると、全国そして、アメリカ在住の日本人ジャズファンの方からも電話が入った。みな、やろうとしていることに驚いていると異口同音に話してくれた。

会場のロビーには、写真や当時のコンサートグッズなどが展示され、受付を担当してくれる仲間たちがいた。缶ビールなどの飲み物も出した。入場は無料だったが、協力金みたいな名目で飲み物を買ってもらった。飲み物は家から持ってきてくれたものも含めて、カンパされたものばかりだった。

本番は、2003年の7月5、6日、二日間にわたって行われた。初日がマイルスの名盤を時間軸で流し、特にトークは入れずにただひたすら聴くという趣向にした。二日目はボクがステージに立ち、マイルス音楽の遍歴やコンサートのことなどを話した。時効だから言うが、ステージでは突発的に、金沢へ来る一週間ほど前の新宿厚生年金ホールでの映像も流した。これにはみなも唖然とした表情で見入っていた。

香林坊ハーバーは、前年のプレも含めてのべ4日使ったが、定員60名のところに、毎日160名ほどの人たちが来てくれた。知らない人たちは、こんなイベントがなぜできたのかと不思議がっていた。

ボク自身も実に不思議な感覚だった。もっと注目されてもいいんじゃないかとも思ったりしたが、このあたりが自分自身のキャパだろうと納得していた。

 書くのを忘れていたが、イベントのタイトルは「30th memorial- MILES DAVIS  in KANAZAWA」。他人から見ればどうでもいいようなことに没頭し、自ら企画して自ら制作して、自ら進行運営をやってしまった、自分の原点にあったようなイベントだった。そして、奥井進という、ボクにとっては何だか分からないけども重要なニンゲンの存在を失うことへの恐ろしさから、逃避するために一生懸命になっていた日々でもあった…のかも知れない。

この後、ボクはジャズを中心にしたいくつかのイベントを企画した。その中で多くの人たちと出会った。ただ、今、ボクの中にある冷め切らない熱は、あのマイルスの時に温められたものに違いないと思っている…

巨人 80歳のロリンズが語った

なになに界の巨人という呼び方はあまり好きではないが、今年80歳を迎えたというソニー・ロリンズは、やはりジャズ界の巨人の一人だ。しかも、ジャズ界をリードしてきたという意味では、現在生き残って活動している最後の巨人なのだ。

NHK-BSの深夜番組に、ソニー・ロリンズが出ていた。すでに来日回数は果てしない。実は前回の来日の時には金沢にも来ていて、歌劇座でコンサートを開いている。その時のパンフレットに文章を依頼されて書いたが、そのおかげで、最高の席のチケットをいただき聴いてきた(もちろん自分でも買っていくつもりだった)。

実は今回もこれが最後の日本公演になるかも知れないみたいな雰囲気を漂わせているが、前回もそうだった。特に金沢でのコンサートという意味では、かなり実感的に捉えていたと言っていい。だから、古いメンバーの一人、ベースのB・クランショーの今にも消え入りそうだった音色にも、それなりに納得して拍手を送っていた。あれから何年か過ぎたが、まだまだ元気なソニー・ロリンズはやはりタダものではないのだ。

ところで、ボクが敢えてここで書きたかったのは、ソニー・ロリンズというミュージシャンとしての素晴らしい人間性についてだ。

ジャズの世界では有名な話だが、ロリンズはかつていきなり表向きの音楽活動をとりやめ、ジャズシーンから隠れたことがある。自分の演奏スタイルに行き詰まり、突然活動を休止した。そして、独り黙々とテナーサックスの練習に励んでいたという。ひとつの楽器を究めていくというスタンスは、かつてのジャズマンたちにはよく見られた傾向だが、ロリンズもまた、そういう道を歩みつつ、さらに自分自身のスタイルを限りなく追求した一人だった。だから、彼が残してきた演奏には、妥協のない即興ソロがたくさんある。

番組は、ロリンズへのインタビューが中心だった。その中でロリンズは、どのような気持ちでテナーサックスを吹いているのかという質問に対し、“目の前にいる人が、どうしたら喜んでくれるかということを、常に考えながら演奏している”といった意味のことを答えていた。ジャズは即興演奏の結晶だ。豊かな楽想とテクニックに、気持ちや感情を織り交ぜてパフォーマンスする。それがジャズだ。ジャズ的音楽だ。同士であり、ライバルでもあったジョン・コルトレーンとは対局にあるが、コルトレーンとの違いはフリーに走らなかったことだ。つまり言い方を代えれば、常に分かりやすさを兼ね備えた即興演奏をメインにして、ジャズの主流に居続けた。

 今、80歳でありながら、彼は目標を、“もっと上の、みんなが喜んでくれる演奏”と語った。そして、人にとって大切なのは、“何かについて語り続けること、それが人それぞれに与えられた使命だ”とも言った。

インタビューの最後に司会の女性が、何か吹いてくれませんかと頼むと、何十年も使い続けているテナーサックスを、ソファーに座ったまま吹き始める。当然即興だ。表情豊かに、ロリンズらしい楽しさと感情のこもった音色、メロディが自由自在に飛び交っていく。

いつの間にか、聴いていた女性の目には涙があふれていた。演奏が終わると、その女性が言った。私はジャズとかまったく分からないのに、演奏を聴いているだけで、涙が出てきたと・・・・・・・

ジャズやジャズ的音楽とは本来そういうものなのだ。歌詞もない、楽器をとおしたメロディと音が、聴き手に何かを伝える。受け取る方は、何でもいい。自分の尺度で、自分の感性でそれに応えればいい。演奏者のメッセージと聴き手の感性とがコラボしているだけで、ジャズやジャズ的音楽は成り立っているに過ぎない。

ソニー・ロリンズはそのようなことを、易しく、そして自分流に示してきたのだ。ただ、何かについて語り続けていくこと。そのことを自分にあてはめていくと、それは、一体何なのだろう・・・・・ 見えているようで見えてこないもの、結局はそういうもので、だからこそ、語り続けるしかないのかも知れない・・・・・と、思う。

 番組が終わると、早速、ロリンズの代表作『セント・トーマス』を聴いた。夜中の静けさの中に、若きロリンズのメリハリのきいた音とメロディが流れ始めると、ボクの中には80歳のロリンズの顔は消えていた・・・・・・・・

※写真は、テレビ画面より

「 JAZZ AT 紺屋坂 vol2 」スナップ集

熱演する出演者たち。みな、なかなかいい顔してる。

■金沢工業大学軽音楽部「MAJO」

■金沢ラテンジャズオーケストラ

■金沢市立兼六中学校吹奏楽部

■石川県立工業高校吹奏楽部

■デキシー・ユニオン・ジャズ・バンド

■アイユール

 

 

 

 

 

「 JAZZ AT 紺屋坂 (2) ちょい柔らかい話編 」

 

 「JAZZ AT 紺屋坂vol.2」の初日。

 ボクはそれとはまったく関係ない用事で朝の四時半に起き、五時過ぎにはクルマを走らせていた。行き先は新潟。前日は金沢で用事があり、どうしても出発を当日の朝にした。余計な疲労がたまることは分かっていたが仕方なかった。

 そう言えば、前夜のメールのやり取りで、体調を悪くしているYに大事にしろとメッセージを送っておいた。他人のこと言えた状況ではないくせに。

 とまあ、そんなことで一日は始まったが、新潟に一時間半ほどいて、すぐにトンボ帰りした。金沢に戻ったのが二時半頃。会社にクルマを置き、会場の紺屋坂まで歩く間に、「金沢ジャズストリート」の街なかライブをちらっと聴いたが、ゆっくりもしていられず、慌ただしい中、会場入りした。昼飯は結局食えず。朝もコンビニの乾いた菓子パン二個だけで、情けなさは果てしなかった。

 四時から初日の本番。出るのはまず、兼六中学校吹奏楽部に県立工業高校吹奏楽部という二回目を迎えた「JAZZ AT 紺屋坂」の、ある意味での目玉だ。ジャズとしての演奏内容は期待していないが、とにかく一回出てもらって、さらに来年も出てもらい、ジャズに目覚めてもらおうという魂胆。両学校側からも“出たい”という強い意欲が感じられ、参加となった。  

 新聞にもこのニュースは大きく取り上げてもらった。前日の取材で自分としては少々言ってることに違和感を持ったりしたが、こうなったら、とことん行こうと決めたのだった。詳しいことは、「JAZZ AT 紺屋坂1 やや固い話編」に書いた。

 その次が、一回目に引き続いてのデキシー・ユニオン・ジャズ・バンドだ。何の心配も要らない完熟オトッつァんバンド。ひたすら“お好きにどうぞ”と告げておいた。初日のトリは、これもまた一回目に引き続いての登場となるアイユール。直接のライブとしては久々だが、こちらも心配無用で、むしろ久々だから楽しみでもあった。

 今回は音響も照明も昨年より質を高め、司会も金沢大学放送研究会に打診。是非やらせてくださいとの要望に応えた。未来のアナウンサーたちの鍛錬の場的匂いをチラつかせ、その初々しさで盛り上げてもらおうとしたのだが、やはり仕込み不足で物足りなかった。次回への課題のひとつだ。

 初日の本番── 兼六中学校は、演奏曲が全くもって完璧にジャズではないという点で、いくら綺麗事を並べても、企画人として、今ひとつ気恥ずかしいものがあった。思わず赤面してしまった、というほどではなかったにしろ、それに近いものがあり、ボクは白クマのようにひたすら会場を右往左往していた。もちろん、これからジャズに目覚めてくれればいいのだが、運動会で演奏するマーチや、トトロの何とかではなあ…… いや、しかし、校長先生はじめ、ご父兄の方々の熱い声援もあって、よいステージであったのは言うまでもない。後日、顧問の先生を訪ねると「来年は必ずジャズの曲をやります」と言ってくれたので、期待していよう。

 二番手の県立工業高校も、総体的には兼六中に似たものがあったが、そこはやはり高校生。より自由な、音楽を楽しむ雰囲気が感じられた。特にラストには、定番中の定番、映画『スイングガールズ』スタイルの『シング・シング・シング』を演ってくれたが、ドラムの女の子(ほとんどメンバーは女子)が元気よくて、聴く側も盛り上がった。ライブ自体の雰囲気も十分理解できただろうから、こちらも来年に期待しよう。

 中高校生たちの出演でよかったのは、聴き手を増やしてくれることだ。本番前にイス席がほぼ満杯状態になるというのは、非常にいいことだ。やはり、スタートはこうでなくてはいけない。しかも、そのまま残ってくれる人も多くいて、なかなかの企画効果であった。

 デキシー・ユニオン・ジャズ・バンドの演奏が始まる頃には、日も暮れ始め、いい雰囲気になってきた。相変わらず息の合ったデキシーランドジャズを聴かせてくれるメンバーの皆さんには、ただただ感嘆するばかり。演奏の上手さはもちろんだが、おしゃべりにも、すべてのパフォーマンスにも、ショーマンシップが満ち満ちている。二日目のパフォーマンスでも聴き手を十分に楽しませてくれた。企画人としては、さまざまな可能性を見出せるバンドで、いろいろと企画の中に充て込んでいきたい存在だ。

 そして、アイユールだ。彼らは、聴くたびに上手くなっているような感じを受ける。リーダーのIさんのギターは言うまでもなく、ボーカルのYさんの歌声は絶対的に個性を増した。Yさん流の、ひとつの世界を作りつつあると感じた。そして、テナーサックス、ベースと絡めた四人編成による演奏スタイルは、かなり完成度を高めているとボクは思ったのだ。

 紺屋坂のジャズライブを象徴する演奏スタイルは、アイユールにあるのかも知れないなあと、ボクは思った。ボクの横で聴いていた商店街関係者の方も、「ナカイさん、いいグループ探してきてくれましたね」と言ってくれた。

 夜になって、「JAZZ AT 紺屋坂」はその魅力を発揮し始めた。会場である「ホテル兼六城下町」の建物、その奥に見える兼六園の森と古い木造建築、ほぼまん丸に近い美形の月も浮かんで、アイユールのアコースティックサウンドと、Yさんのシンプルな歌声がライブに活き活きとした空気を注ぎ込んでいく。何かが見えてきた感じがした…… アイユールも二日目に再登場してくれ、そこでも見事な演奏を聴かせてくれた。

 二日目にはさらに、金沢工大軽音楽部のMAJOというモダンジャズのコンボが参加してくれ、トップを務めてくれた。エレクトリック・ピアノのケーブルか何かを忘れて取りに戻るというハプニングはあったが、何とか本番に間に合った。演奏ははっきり言って発展途上。しかし、意欲がありそうで、チック・コリアのむずかしい曲『スペイン』にチャレンジするなど期待が持てた。来年も声をかけようと思う。

 そして、金沢ラテン・ジャズ・オーケストラ。芸術村で活動している新しいバンドだ。ほとんど練習だけの活動のようだったが、演奏内容はレベルが高く、練習そのものをベースにしている分、技術的にも優れたものがあると感じた。リーダーのアルトサックスやトランペットのソロが印象に残っている。ある意味、デキシー・ユニオンに近いパフォーマンス性も感じられ、これからの付き合いが楽しみになってきた。

 二日間をとおして、天候に恵まれた。特に二日目には雨の心配があり、少しでも雨が落ちてきたら、即中止と決めていたが、ほとんどその心配は無用に終わった。誰が晴らしてくれたんだろう…… とにかく感謝しよう。

 ボクは相変わらず忙しくしていて、打ち上げにも出られなかったが、商店街の人たちは多分満足してくれたと思う。課題も多く見つけられたし、それに向けてボクの仕事も明確になった。ジャズによって人の心が繋がっていくようなイベントになれば凄い、と思う。紺屋坂界隈のヒトビトと、そこに集まるヒトビトに、そのことを伝えていきたい。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、兼六園の紅葉シーズンに合わせてもう一回やる。アイユールに出てもらう。

 その頃には風も冷たくなっているだろうけど、心の少しの部分くらいは温められるだろうと思っている…

「 JAZZ AT 紺屋坂(1) やや硬い話編・・・」

 去年に引き続いて二回目となった「JAZZ AT 紺屋坂」。金沢市の中心部で始まった「金沢ジャズストリート」に合わせて始めたものだ。

 本体である後者のスタート時にも少し関わり、大学ビッグバンドを呼ぶことを提案させてもらったが、初回の大好評の割りには、今年の二回目には主なビッグバンドは参加していなかった。それは多分、東京などの大学ビッグバンドを呼ぶと、人数と距離の関係で経費がかさむからだったのだろう。ボク自身にとっては、母校のビッグバンドの連中と交わした約束は見事に破れていってしまい、大変申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、去年のことでよく理解できたが、やはり、大学ビッグバンドの優秀な連中を集めることは、今風のジャズの息吹を知る上で重要なのではないだろうか?と、ボクは思っている。国際的なジャズイベントを目指すならいざ知らず、国内の、いや県民や市民を対象として、街なかの賑わいを図るという趣旨であれば、わざわざアメリカなどからプロを呼ばなくても、大学生の意気のいいビッグバンドの演奏で十分だ。と言うよりその方が最も適している。

 「ジャズストリート」の話を初めて聞かされた時、金沢は“学都”とか“文化都市”と、自分たちから名乗っているわけだから、ジャズをきちんと勉強するような、そんな環境も作ればどうかとも提案した。それによって、全国で金太郎飴みたいに広がっているジャズなどの音楽イベントに、金沢らしい特色を付けられるのではないかとも思った。

 ところが、答えは“ノー”だった。そんな難しいことはどうでもよくて、普段あまりジャズなど聴く機会のない人たちにも、楽しく聴いてもらい、街に賑わいを作ることが主目的なのだとあらためて聞かされた。

 つまり、ジャズがどういう歴史的背景の中から生まれ、ジャズメンたちがどのようにしてジャズを今日のような最も創造的な音楽(せいぜい80年代までかな?)にまで成長させたかなどについてはどうでもよくて、とにかく街なかで何かやっていれば人が集まって来る── それがジャズだとかと言っておくと、“なんかカッコよさそうでない? 行って見っかいね”といった人たちが寄って来るし、マスコミも騒いで、街なかが賑やかになった、よかった、よかった的に話がまとまる── といった感じだったのだ。

 だからこそ、大学ビッグバンドがよいと、ボクは思ったのだが、どうも“ジャズ的ジャズ”を感じ取れない人たちには、その辺のところが理解されにくいのだと諦めるしかなかった。

 こうなったら、その路線を貫いてやろう。それほど大袈裟な話でもないが、いい年をしてボクは心を決めた。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、そんなボクの思いを背景にして第二回目を迎えたのだ。金沢城兼六園商店会という組織の主催であり、商店街活性化事業のお金を主にして実現しているのだが、こういう時こそ、公私混同型の潜在的能力を有したニンゲンの勝負になるとボクは思っている。そのとおりやっていくための原動力がそこにある。こういう類のイベントに自分が積極的に関わっていくなど、つい一年ほど前まで考えてもみなかった。やりたいという思いは少しあったが、自分自身の徒労ばかり考えていた。しかし、いい助監督との出会いがボクの背中を押した。やれそうな気がしてきた。ボクは一歩前に出ることができ、その勢いのまま歩き始めた。今はもう助監督はいなくなったが、背中にあった支えが外れたのに気が付かないふりをして、とにかくやっている。

 というわけで、ボクはこのイベントをこれから発展させていきたいと考えている。むずかしく考えるのはやめにして、自分自身も試しながら? それなりにやっていく。

 実を言うと、今ちょっと関心を持っているのが、10月10日に明治大学周辺で開催される「お茶の水ジャズ」だ。実行委員会と明治大学が主催し、地元の商店街などが協力している。2008年から始まっているが、イベントとしての質も非常にいいものだと聞いた。しかし、今年こそ行って来ようと計画していたのに、先客があった。関西の学生たちが自主的に企画運営するクラシックの音楽祭に行くことにしてあったのだ。

 東京と金沢ではスケールが違い過ぎるが、「東京ジャズ」という国際的なジャズイベントが行われている中で、「お茶の水ジャズ」という、さらに小さな単位のジャズイベントも行われているという点に注目している。なかなかいい感じだ。

 ところで、11月の紅葉シーズン、兼六園の無料開放時期に合わせて、今年もう一回、一晩きりの「JAZZ AT 紺屋坂」をやるつもりだ。

 ちょっと肌寒くて、演奏者も辛いかも知れないけど、聴いてくれる人たちの心をホットにする自信はある。柄にもなく、キザなことを言ってしまった…