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香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ

この文章は、1998年5月に創刊したプライベート誌『ヒトビト』に綴ったものだ。ほんのちょっとだけ加筆した。

「ヨーク」のマスターとして、多くの人たちに愛された奥井サンが、亡くなる五年前に語ってくれた自分自身の一部だ。

暗い開店前の店で、途中からノリが悪いからとビールを飲みながらのセッションになった。

6月17日は、奥井サンの命日だ。そして、奥井さん夫妻の結婚記念日でもあった……

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「ジャズ人生から ジャズ的人生へ」 ~ 近くでトーク

●八尾に生まれる……

金沢の東部にある神宮寺という町から、奥井サンは歩いて香林坊の自分の店へとやって来る。所要時間は約一時間、ひどい雨降りや特別なことがないかぎり、とにかく歩くことにしている。

ただ歩いとるだけや

と、奥井サンは言う。見る方からしても、いかにもただ歩いているだけのように見えるから、やはりただ歩いているだけなのかも知れない。

しかし、実は意外(失礼だが)とそうでもないのだ。やはりと言うか、さすがにと言うか、とにかく、奥井サンはただ歩いているだけではないのであった。

奥井サンは、昭和19年(1944)10月22日、富山県婦負郡保内村字松原に生まれた。風の盆で有名な現在の八尾町である。ちなみにイチローと同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山市内に出た頃からジャズに染まり始め、それ以後、今日に至るまで、ジャズとの付き合いが続いている。

『 オレも小さい頃は子供やったんや。電気も水道もない、山の中の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。

 東京で、和菓子職人の修業をしていたおやじが、体が弱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった土地を譲り受け、そこに家を建てた。

 そこら辺は、引き揚げ者や農家の次男坊、街からの入植者などが開いた所やったんやな。

 電気がないから、ランプ生活。水は手押しポンプの井戸やった。スイカやトマトが冷たくて美味かったわ。

 晴れ渡ると、目の前に立山連峰が広がって、毎日その雄大な景色を見とったせいで、視力は4.0やった(当然測っていない)。今も目はいいんや。

 小さい頃、何をして遊んでいたか覚えとらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。下(の村)まで行かないと、子供もいなかったし…。小学校に入るまで、字は読めんかった。

 町に近い所におふくろの里があったんやが、そこまではアイスキャンデー屋が来た。そこまで来るんやけど、そこでみんな売り切れてしまって、うちまでは来ないんや。だから、夏おふくろの里へ行くのが楽しみやったなァ。

 魚の行商というのも来たわ。朝の早くに町を出て昼頃にうちの辺りへ来るんやねェ。それでうちが最後やから、売れ残ったもん全部置いていくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べとったな。魚の行商人は、それからうちで弁当を食べるんや。そして食べ終わると、夕方近くまで昼寝をした。そして目が覚めると、「あんやと~」と言って帰って行く。

 なんか、今から考えると、のんびりとした時代やったんやねェ。おやじの小学校の同級生に、町で床屋をやっている人がいて、その人が二ヶ月に一回ぐらい村にやって来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登って来るんやね。今で言うボランティアだったんか、それとも商売だったんかは知らんけど、とにかく、そんなとこでオレは育ったんやわ。

 初恋? そんな相手もおらんがいね…… 』

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17歳で富山市へと出た奥井サンは、ジャズと出会う。当時ジャズファンの間で人気のあったNHK・FMの「ジャズ・フラッシュ」という番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の中で育った奥井少年にとって、ジャズとは一体何だったのだろうか?

『 ジャズが好きになったってことだけやね。何となく、自然に身に付いとった。もう死んでしまった巨匠たちが、その頃は現役のバリバリやったしね。

 ニューポート(富山市のジャズ喫茶)に出入りするようになり、常連になっていくうちに、何となく店を手伝うようになったんやわ。それで、そのまま従業員として働くようになって……』

奥井サンは、当時住み込みである仕事をしていたが、どうもそちらには本腰が入ってなかったらしい。ジャズとの出会いは、そんな奥井サンにとって、新しい何かの発見だったのかも知れない。

『 もともと何か目的があったという訳でもないし、そういうものがあったとしたら、富山ではなく、東京へ行ってたかも知れんね…』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコードを持っていたという。すでにかなりのジャズ通になっていたようだ。

そして、24歳の時、「ニューポート」が金沢に店を出すことになり、その店の店長として金沢へ行くことになったのである。

「ヨーク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのジャズ人生がスタートする。

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●金沢のジャズのメッカへ

ヨーク片町の開店は、1969年の12月22日。マイルス・デイビスが歴史的な名作「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、ジャズ界が大きな転換期を迎えようとしていた年だ。

もちろん、そんなこととヨークの開店とがリンクしているのではないが、とにかくジャズがハゲしく熱気を帯び続けていた時代、そんな時代に、ヨークは金沢に新しい風を吹き込んだのである。

当時、金沢には「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ヨークより二年前にオープンした聴かせ派の店で、狭い店内にJBLの名器から弾き出されたジャズが蔓延する、密室っぽい雰囲気に満ちた店だった。

ヨーク片町もまた、当時のそんなジャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば百人は入れる広いスペースを持っていた。ライブをやる時には、テーブルの間に丸椅子を置き、立ち見も入ると、立錐の余地もないほどまでに客で膨れ上がった。

『 片町時代は。完全なリスニングルームやった。当時はやはりジャズを聴く人間がたくさんおって、コーヒー一杯で二、三時間というのが普通やったね。メニューの種類なんてコーヒーとコーラ、それに紅茶とミルクぐらいや。酒はビールぐらいやったな。

 今みたいに、客としゃべったりする必要もなかったから、カウンターの中のターンテーブルの前で本ばっかり読んどったわ。活字中毒になったのも、そんなとこからかも知れん。純文学はもちろん、手当たり次第、何でも読んどったって感じやね… 』

片町時代の奥井サンには、突っ張った一面があった。リクエスト・アルバムのA面・B面が指定されていないと、敢えてB面をかけたりした(筆者もやられたことがある)。

70年代の中頃に、ジャズファンのみならず広く大ヒットし、その後のソロピアノ・ブームの火付けとなったキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」などは、あまりのリクエストの多さに、そのレコード自体を店に置かないことにしてしまった。それでもファンは集まったのだ。

『 昔のジャズファンと言うのは、ジャズ一辺倒が多かった。一旦、オレはジャズファンだと言ってしまうと、後へは退けないという雰囲気があった。

 他のジャンルの音楽を聴いとっても、聴き方が違うんやね。特に当時の若い連中には、そんなコダワリが強かったわ。(ジョン・)コルトレーンのハゲしいのを聴いていながら、歌謡曲なども聴いてた者もおったやろけど、何でか、ジャズになると皆それなりに一生懸命やった。だから、こっちも突っ張れたんや。

 オレは、決して啓蒙的なマスターじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざと反対の意見を言ったりしたこともあったしね…… 』

当時の店ではよくライブが行われた。特に山下洋輔トリオは、オリジナルの最強メンバーでヨークへ乗り込んできては、とてつもなくハゲしく、そして徹底的に愉しいコンサートで盛り上げてくれた。

コンサートホールでのライブも、今とは比較にならないほど行われており、あのマイルス・デイビスが金沢の観光会館ホールで繰り広げた圧倒的な演奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そして、そんなコンサートがあると、ミュージシャンたちの多くがヨークを訪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな彼らとの写真はおろか、サインなども全く残されていない。

●香林坊へ

1984年12月、ヨークは香林坊の日銀裏へと移転した。十五年を経ての移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ジャズをガンガン聴かせると言う雰囲気も薄くなっていった。営業主体も夜型へと移行した。

若者だったジャズファンは結婚し、家庭をもち、ヨーク(ジャズ)から離れていかざるを得ない者もいた。そして、ジャズというよりも、ジャズを受け入れる社会そのものもまた、はっきりと様相を変えようとしていた。

『 まだジャズの店やっとるという強い意識を持っとったけど、昔ほどではなかった。突っ張っても返ってくるものもなくなったしね。客商売としての難しさも見えてきたんやわ。ジャズファンも含めて、軟弱になっていったんやねェ。

 突っ張り学生も来なくなった。生意気なのもね。サラリーマンとなって、仕事に追われ、家庭サービスにも気を遣うようになっていくと、気持ちがジャズ的ではなくなるんやね。

 金沢の大学にいた時によく来てたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たまに出張で金沢に来ると、必ず寄ってくんやね。そして、決まってリクエストするんやわ。家に持っとるレコードなんにね。

 要するに、家はジャズを聴く場ではなくなったということなんやな。ところが面白いことに、そうやって比較的若い人たちよりも、さらに年配になってくると、子離れもすんでゆとりが生まれてくる。今更カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう一度ジャズでも聴いてみようかといった人たちも出てくるんやね。

 仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次会や三次会のあと、ひとりになってやって来るんやわ。そして、たまに部下なんかも連れてきて、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ジャズのこととか、学生運動時代のこととかね…… 』

香林坊に移ってから、ヨークはコミュニケーションの場的匂いを強めていく。奥井サン自身も、ジャズ的な感覚で得られるさまざまな愉しみなどに手を広めていった。

『 シャイな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ジャズもおかしな風に流されていったように感じるんやね。ジャズって下種(ゲス)な音楽やったもんや。それが何だか、気取って、大人ぶって聴かなければならんものになってしまったもん。

 何にも分かっちゃいない連中が、ジャズを変な風に解釈してるんやわ。ジャズが好きやから、ジャズなら何でもいいと言うのとは違うんやけど、どうもそこらへんがおかしいんやね。

 だから、最近金沢でやってるジャズのコンサート行っても感動せん。ジャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でジャズを語りたくもないけど…

 ジャズの店には、ジャズの店にしかないことってあるんやねェ。例えばレコードのジャケットを見せることとか。ジャズの話を始めたカップルがいると、ちょっと変わったものをかけてみる。ジャケットを見ることで話も弾むんやわ…… 』

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●ジャズ的人生の始まり

ヨークには個性的なニンゲンが集まる。特に香林坊に移ってからは、ジャズそのものよりも奥井サンとのコミュニケーションを求めて来る客が多くなった。個性的なマスターに、個性的な客が集まるという典型だ。

『 毎日、同じ日がないという愉しみを知ったね。同じ客が来ても、同じ愉しさは生まれないけど、別な愉しさは生まれる。毎日がジャムセッションなんやね。

 でも、最近、若い女の子があまり来なくなったな。昔の娘さんばっかり。現役の娘さんが来なくなって、古いのばっかりやね……』

奥井サンの雑学博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、記憶力もかなり凄まじい。活字中毒がもたらした知識の蓄積と、興味をもったものに対する飽くなき追究……?

『 だいたい五時半頃に店開けるんやけど、始めの時間帯って客も来ないわね。そんな時、独りでカウンターの椅子に座って、本読んどるんやけど、そのままなかなか誰も来ない時がたまにあるんやわ。

 そんな時は、活字中毒に火がつく。とにかく何でも読むんやわ。棚に置いてあるものを引っ張り出してね。

 広辞苑だろうが、植物図鑑だろうが、とにかく何でも、広辞苑は飽きないし、読み尽くすということがないからいいねェ。

 読むものは古いとか新しいとか、和洋など問わないで、とにかく面白いと思った本を買って読むんやね。時折、中味が難しすぎて、一日数ページしか進めなかったということもあるけど、それもまたいいんやわ…… 』

黒髪をアップで束ね夏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやってきた。俳号は「酔生虫」という。これは「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉からとったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、また夢を見ているように、無意味に一生を送ること」ということだ。

しかし、実に全くこんなに的を射たネーミングはないと思ってしまう。言葉の意味はもちろんのこと、こんな言葉を探し出してきた奥井サンらしさに敬服してしまうからだ。

『 俳句は、きちんとした会の中で始めた。その後は、店の中で客たちとやるようになったけど、とんでもない理屈こきが多くてね。先生の言うことなんか全然聞こうともせん。ほんとにまあ、たちの悪い門下生ばっかりやわ。

 ここ十年ぐらいの間に、いろんなことをやるようになったね。山野草にも相当のめり込んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きとるね。母親からもいろいろな名前を教わっていたせいか、目に見える花の名前は、ほとんど知っとったもんね…… 』

奥井サンは、よく酔っ払う。

店のマスターなのに、かなりハゲしく酔っていたりして、客なのかマスターなのか区別がつかなくなったりする。だから二日酔いの日も必然的に多くなる。

しかし、奥井サンは奥さんと一緒によく近場の低山へと出かけているのだ。バードウォッチングへの傾倒も、その延長線上にあったものだろう。

『 ヨークは、自然に趣味の話が出来る場になっとったねェ。別にグループを作って、何かやろうというのではなく、各個人のこととしてね。

 今、カメラやっとるけど、あれも奥が深いわ。最近あんまり撮れんようになった。前は何でも撮っとったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし…… 』

奥井サンの写真には、何か独特な雰囲気がある。それが一体何なのかというと難しいのだが、技術などといった俗な評価軸では済ましたくない。そして、それもまた、少年時代の奥井サンに沁み込んだままの何かなのかも知れない。

『 基本的にあるもんは、自分で愉しむってことなんやわ。それができんかったら、何も意味ないわね。他人に強制したりもせんしね、面倒くさいことも、とにかくしない…… 』

あの人は、現代の仙人みたいや…と、奥井サンのことを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街という煩雑な空間の中に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに左右されない何かが潜んでいる。

『 休みかあ…、そんなもん考えたことないなあ。毎年、大晦日から元旦の朝にかけてオールナイトやって、元旦の夜だけは店閉めるけど、あとは全く休まんね。休みという感覚そのものがないんやわ。

 旅行なんてものも、ほとんどしたことない。新婚旅行も行ってないし、大阪(奥さんの実家がある)へも、結婚後一回も行っとらん…… 』

金沢に来て三年後、27歳の時に奥井サンは結婚している。優秀な息子が二人。当然二人とも成人している。

『 分かるやろけど、とにかく父親らしいことはしてないんやわ。教育なんて認識はナシ。夜は全く家にいないし。行楽などもない。

 母親の教育が良かったんやろと思うけど、父親を軽蔑するような息子たちではなかったね。意見がましいことも言わんし、そんな意味じゃ、二人とも男でよかったわ。

 「お父さんは、のんびりしてていいねえ…」なんて生意気なこと言うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡まれて大変なんやぞ。だから、それを紛らすのに酒を飲むんや」などと、言い返したりする。説得力なしやけどね。

 でも、「お父さんは好きなことやってればいいよ」なんて、いいこと言うしねェ。やっぱ、頭が上がらんわ…… 』

来年(1999)の12月で、ヨークは30年になる。今でも新しい客が訪れ、潜在的な部分でヨークは確実に変化している。

奥井サンは今53歳。いつもオープンな店でいたいと言う。“個性派の集まり”という店の個性も奥井サン自身が作り上げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどといったも考えていない。にじみ出てくるものというのは、単なる店の内装だとかといった単純なものからではないということを、奥井サンが教えてくれる。

『 元気なうちは店をやっていく。でも、そんなことも考えたくないね。ジャスを広めたいという気持ちもないし、息子たちにもそんなこと求めんわ。

 ジャズの店はもう再生しないと思うんや。音を絞ったりして聴くジャズは、やっぱりちょっと違うんやね。ライブでもパワーが感じられない演奏を、皆がそんなもんかと聴いとるわね。あれはもうオレにはジャズじゃない。

 もっきりや(ヨークの二年後にオープンした金沢柿木畠のジャズの店)は頑張ってるけど、やっぱり昔みたいに、大きなホールで、バリバリなのがコンサートやるようにならんと、金沢のジャズシーンは元に戻らんわ。それも、むずかしい話やけど…。

 これから? 

 これからは、ますます趣味の世界やし、死んだら終わりやけど、死ぬまでは店もやる。毎日は愉しいね…。やっぱ、ジャズ・フィーリングなんやねェ。

 いつやったか、もう店やっとるのがイヤになったことがあるんやわ。

 その時、(山下)洋輔さんから、「毎日、違うお客さんが来て、毎日、アドリブですね。そういうことを愉しみながら、毎日、エヘラエヘラとやっていけばいいんじゃないですか。金沢にヨークがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第一、儲けようなんて思ってないでしょ…」なんて言われてね。

 金はあった方がいいけど、たまに若い女の子も来るから、また頑張るかなって思った。

 あんまり、面白い話にならんかったねェ…… 』 (終わり)

・・・・・・・ いつも普通に話していたのだが、その日の会話は特別なものだった。

二時間半の、特別な時間。そして、セッションは終わったのだ……

ヨークは、今も香林坊日銀裏で奥井サンの妻・禎子さんによって営業を続けている・・・・・・

香林坊に会社があった頃~その2

 

その1を書いてから、この話には多くの反響があり、早くつづき、つまりその2を書けといった内容のメールなどが多くきた。反響が多くて、それなりに話のタネになるのは嬉しいのだが、早く書けと言われると、なかなかその気にならないのが性格上の特徴で、そのまましばらく放っておいたことになる。

で、いざ書こうかと思うと、またあれこれいろいろと考えてしまい、とりあえず書き始めるのだが、書き切れなくなったら、その3に回すことにする。

その1の終わりに、YORKが日銀ウラにやって来た頃のことを書こうか…と書いたが、まずやはりその話を始めよう。

ボクがヨシダ宣伝に入社したのが、七〇年代の終わり頃。その十年ほど前、富山からやって来た奥井進さんが店長となって、YORKが片町にオープンした。正式には、一九六九年の十二月二十二日のことだ。

今はなくなったが、カメラのB丹堂という店の二階、狭く暗い階段を上がったところに店はあった。細長く、それなりに広い店内にはピアノが置かれ、ジャズがガンガン流れていた。奥井さんとボクとの出会いは、それから少し後になるが、その辺りの話は長くなるので別の機会にしておこう。

それから一五年後の同じ十二月、YORKは香林坊日銀ウラへと移転する。この出来事は、ボクの人生の中でもかなり重要で、今振り返ってもトテツもない大きなものをもたらしてくれたとはっきり言える。

実は、会社に入ってサラリーマン生活に妙に馴染んでくると、ボクは一時YORKから遠ざかるようになっていた。行っても、女の子を連れて行ったりして、奥井さんは喜んだかも知れないが、ボクは何だか真面目なリスナーではなくなっていた気がする。

会社の連中と飲む機会などが増えて、それがそのままカラオケやら、気取ったパブやらへの志向に変わっていた。ジャズを聴くのはクルマの中だけ、いや、クルマの中でもジャズばかり聴いていないという時期もある。何を聴いていたか、それは秘密だ…。

旅をしたり、山へ行ったりするのは変わってなかった。本を読むことも変わってなかった。仕事の中で、文章も書いていた。だが、その頃YORKに足を向けなかったのは本当になぜなのだろう…。やはり、何となく…なのだとしか言えない。

香林坊にYORKが来るという話は、ジャズ好きの友人から聞いたと思う。それをはじめて耳にした時、ボクは正直言うとガッカリした。片町のYORKが、YORKなのだと勝手に位置付けていたボクとしては、香林坊に移り狭い店になってしまうことで、ジャズの本格的な店ではなくなるという思いがあったのだ。

その辺りのことも書けば長くなるので別の機会にするが、ただ言えるのは、ボクの自分勝手な思いであったに過ぎない。大袈裟だが、ジャズという音楽を取り巻く環境が大きく変わっていたということもあっただろう。ジャズに求める、突っ張り精神みたいなものがかっこ悪くなり、表向きマイルスやコルトレーンを聴いていながら、家でこっそり天地真理も聴いている。真理ちゃん、大好き!…などといった輩が増えていた。

YORKが香林坊日銀ウラにやって来ると、ボクの日常は全くカンペキに変わった。奥井さんが店にやって来る夕方の五時半から六時頃にかけて、ふらりと店へ行ってみる。六時を過ぎていれば店は完全に開いていて、そうでなくても奥井さんはボクを迎え入れてくれた。

神宮寺の自宅から、カメラをぶら下げてのんびり歩いてくる奥井さんは、まず店の掃除などを簡単に済ませる。先に買い物に行ったりもする。近くの本屋にも行く。

まだ仕事の合間であるボクは、ずっと親しんできたいつものコーヒーを頼み、夕刊に目を通す。その前に交わす言葉は、「なんか、面白いことあったけ?」で、この言葉はその後もずっと奥井さんとの慣用句みたいになっていく。晩期の見舞いの時にも、まずどちらかともなくこの言葉が出ていた。

そんな間に、まじめそうな酒屋のおとっツァンが注文を聞きに来て、ひょうきんな氷屋のあんチャンが氷を運んできては、その日の出来事などを語って行った。特に氷屋のあんチャンの話は、時に二十分ほどの長編になったりして、軽トラの中の氷が融けないかと心配したりもした。

この時間は、ボクにとって最高に楽しい、高級クラブ風に言えば“珠玉のひととき”であった。現在の自分の中に沁み込んでいる多くのモノが、このひとときの中で育成されていったのではあるまいかと、かなりの確信で断定できる。

ある一日のひとときを振り返ると、新聞に出ていた魚のアンコウの話を皮切りに、レコード棚の上に置かれている書籍類の中から『食材図鑑』という分厚い本を取り出す。その中の魚編のアンコウが紹介されたページを探し、アンコウについて語り合うのである。

アンコウは当然海の中に居て、魚を食べている。その食べ方というか、餌となる魚の捕らえ方が面白い。アンコウは海中でじっとして、目の前にやって来た魚を、あっという間に口に頬張ってしまうのだ。

ボクと奥井さんの間には、なぜそんなことが簡単に出来てしまうのかが問題となる。そして、図鑑をあらためて見直し、アンコウの正面から撮った写真に見入るのだ。

アンコウの正面から見た顔は、はっきり言ってマヌケそのものだ。分厚い唇(なのか知らないが)に象徴されるあまりのマヌケぶりに、呆れて声も出なくなる。そして、ボクたちは納得する。アンコウの前に来た魚は、このあまりにもマヌケな顔に、不可避的脱力感を禁じ得なくなり、そのまま放心したように立ち尽くす(魚だから、ちょっとニュアンスは違うが)。その魚も呆れて声も出ない。そこをアンコウは図々しくもパクリと頬張ってしまうということなのだ……と、結論付けるのである。

俳句や写真の話題もまた、店では必ず出て来るものだった。奥井さんの俳句や写真には凄くジャズ的なものを感じた。伝統と自由さと、妙な掛け合いや組み合わせや、その世界は独特なものだった。

奥井さんの俳号は、『酔生虫』。もとは『酔生夢死』といって、程頤(ていこう)という中国の古い時代の先生の書に出てくる言葉だ。広辞苑によると、読んで字のごとく、“何のなす所もなく、いたずらに一生を終ること。”とある。その「夢死」の部分を「虫」にしたわけだ。

博学の奥井さんらしい俳号であったが、YORKではその頃俳句ブームとなっていて、奥井さんのもとには俳句好きが集まっていた。中には単なるお客から俳句仲間になった人もいた。

ボクが始めていた私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』の中に、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」というページがあったが、皆が作る俳句を、酔生虫先生が批評していくというパターンで好評を博した。ボクが先生のアシスタントという設定で、ボクの方から先生にあれこれと質問しながら進めていく内容だった。もちろんギャグ満載の楽しいコーナーであったのは言うまでもない。

『ポレポレ通信』が進化した?『ヒトビト』の創刊号の構想は、YORKのカウンターで練っていったものだ。ずっと続けた「ヒトビト的インタビュー」という重要なページでは、その第一回目を奥井さんにさせてもらった。開店前のYORKで、奥井さんは、しみじみと静かに、いろいろなことを話してくれた。昼間に店にいるということがあまりなく、ドアのガラスの外が明るかったのが珍しかった。

香林坊日銀ウラは、YORKの移転によって、ボクにとっても新しい界隈になった。会社からYORKまでが徒歩で約三十秒。六時に店に入って、そのまま夜中の十二時までいたということもたびたびあった。

その後、ヨシダ宣伝がお隣の野々市町に営業部隊を移転させるまで、ボクの日銀ウラ界隈におけるこうした日課は続いた。移転してからも、月に何度かはあった。香林坊はいつの間にか、YORKを連想させる街になっていたのだ。

やはり、YORKの話だけになってしまった。その3につづくかも知れぬ……。

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……