🖋 キゴ山で雪に遊ばれた日
二月最後の日は土曜日で、それまでの忙(せわ)しなさと、それからの間違いなく訪れる慌ただしさに挟まれた、完全休みの一日だった。
二月の終わりという響きも何となくいい感じで、加えて天気もそれなりによさそうな雰囲気になっており、数日前から自然(特に雪)の中へと出かけようと決めていた。
しかし、そう思いつつも、二三日前になると、よく予定が埋まっていく。
しかも、一日のうちの二、三時間という埋まり方もあったりして油断はできない。
その日も前日の昼間はおとなしくしていて、夜家に戻ってからも静かに酒を飲んで過ごしていた。
そして、当日の朝。まだ電話、メールはない。
家人がめずらしく出勤の日となっていて、しかも半ドンの後、お友達とランチに行く予定だと言う。
家人も最近の亭主のお疲れ度というか、楽しみの不足度について理解を示していたので、ここは大好きな雪の山なんぞへ行って来た方が、心身共によいのよと言ってくれた。
ところがである……
家人が出かけた後、速やかに準備に入ったところで、スキーのストックがいつもの位置にないことに気が付く。
二畳半の自分の部屋に、整然とカッ詰められている山の道具のうち、テレマークスキー用の皮のブーツに差し込んである(はずの)ストックがないのだ。
物置なども念のために見てみるがない。
そして、思い出した。
昨年の夏、薬師岳でのトレーニング不足による苦闘の際に、ストックに頼りすぎて、繋ぎ目などを壊していたのだ。
その壊したストックはどこへやったのか……?
とにかく、これでテレマークは出来ないことが分かった。
こうなったら、登りに行くだけだと腹を括る。
行き先も曖昧なままクルマを走らせた……
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時計は9時半をまわっている。
一番行きたいのは立山山麓だが、今からではきつい。
しかもスキーが出来ないのであれば意味もなく、近くの低山を登り歩いて来るくらいでいいだろう。
というわけで、医王山方面へととりあえずクルマを走らせることにした。
医王山の手前に位置するキゴ山には金沢市営のスキー場がある。
その駐車場にクルマを置いて、キゴ山のてっぺんまで登って来ようと決めた。
裸木には、うっすらと雪が載っている。
昨夜は冷え込んだから、いくらかの降雪があったみたいで、雪面の白さも強烈だ。
一応、軽い雪中行軍の出で立ちになって歩き始めた。
そして、除雪された道から奥へと進もうとしていたが、すぐにいつものクセでいきなり雪の中へ。
たしかに近道ではあるが、スキーもカンジキも持っていないのはかなり辛い。
予想していた以上に積雪も多く、しかもアップダウンもあったりして思いのほか苦戦を強いられる。
時間的には無意味に近かったが、一応、距離的には大幅にショートカットして、再び登りの除雪された道に出た。
このすぐ上で、キゴ山スキー場の最上部から滑り降りてくる林道コースと出合う。
このコースは市民スキー場らしく、超ファミリー向けで超ゆったりしているのが特徴だ。
案内板があり、その横にカンジキによる踏み跡を見つけた。
コースに沿って歩かずに、直登している二人組のカンジキ跡だ。
シメたと思って、その踏み跡をトレースさせていただくことに。
しかし、最初の傾斜の緩いところは良かったが、徐々に傾斜がきつくなってくると、足の取られ方が予想以上に激しくなっていく。
一歩ごとに深く、膝どころか太腿あたりまで潜り込んでしまうと、身動きもとれなくなる始末だ。
まだ先は長そうだと覚悟を決めて行く。
ようやく一旦コースに飛び出して、一息つく。
上から幼い女の子を従えてのママさんスキーヤーが降りてきた。
女の子が奇声を上げたりすると、ガマンよガマンよと振り返りもせずに叫ぶ。
こっちの姿に驚いたのか、女の子が転んだ。
こういう場合、手を差し伸べてあげるべきかどうか迷うが、厳しい母親に叱られそうなのでやめにした。
その代り、ニコリと笑って頑張れと小声で女の子に伝える。
女の子は倒れたまま戸惑っていた……
コースはほんのわずかに登ったところで右に大きくカーブしていて、その真正面にまた直登の踏み跡が見えた。
そこへ着くまで迷っていたが、そこまで来てしまうと、足が自然と直登の方へと動き出す。
しかし、そこからの直登はさっきよりも一段ときつくなり、途中で引き返しコースを歩こうかと思った。
だが、なかなかそう簡単に自分自身が許してくれない。
まるで人生そのものだ……などと、半分諦めながら直登を繰り返す。
膝辺りまで潜ってしまうくらいはほとんど平気だが、それ以上に足が入り込んでしまうと、それから抜け出すたびに片方の足が深く潜り込む。
木の幹や枝などが手元にあればまだいいが、何もない場所では拳を雪面に突っ込んでチカラを入れる。
なぜ、カンジキを持って来ないのだと、山に理解のある人は必ず言うだろうなあと思いながら、情けない登りが続いた。
そんなところへ、上の方から話し声が聞こえてきた。
姿はまだ見えないが、ひょっとするとこの踏み跡の持ち主たちかも知れない。
そう思いながら、悪戦苦闘しているうちに、上品そうな熟年夫婦が下りて来た。
カンジキが心地よく雪面をとらえて快適に下山中といった雰囲気だ。
互いの距離が10mを切った辺りになって、トレースさせてもらったこと、その踏み跡を穴だらけにしてしまったことなどを詫びた。
ご夫人の方からは、寛大なお許しの言葉をいただき、ご主人の方からは、「ゴボッって、大変でしょう」と、嬉しい励ましの言葉をいただいた。
特にご主人からの「ゴボる」という言葉にはホッとした。
自分自身の状況を、「カンジキがないと、やはりゴボりますねえ」と伝えたかったのだが、その地元言葉が通じるかと懸念していたのだ。
安心して「こんなにゴボるとは、甘くみてました…」と答える。
気持ちを入れ直して、最後の短い急登へ。
久しぶりにたどり着いたキゴ山のてっぺんは、予想以上に晴れ渡り、金沢市内も日本海も、医王山の山並みも美しく見渡せた。
雪に半分ほど埋もれた展望台に登って、コンビニおにぎり三個で昼飯。
そしてコーヒーと、デザートは小さなドーナツと柿の種一袋。
山で食う柿の種は、なぜかコーヒーにもよく合う。
靴で踏み固めた雪上ベンチは快適だったが、長く座っているとケツが冷たくなる。
“凍ケツ(結)”状態になる前に立ちあがり、雪が凍って滑りそうな階段をゆっくりと下った。
あとは、台地上になっている雪野原を思い切り歩きまわるだけ。
何年か前に来た時は、テレマークスキーを履いてここまで登り、そのまま奥まで入って、そこで雪上ランチを作って食べた。
そのあたりまで行ってみようと、とりあえず緩やかな雪原を下ることにする。
しばらくして、下りは上りに変わり、ここでも雪は深く、ミニラッセル状態だ。
近くで自分を見た人は、こんなオッサンだったのかと驚くに違いないと思う。
それほどまでに気持ちははしゃいでいる。
しゃがみ込んでカメラを構えたり、大きく背伸びしたり、本人はとにかく楽しくて仕方がない。
まだまだ楽しもうと足を踏み込んでいった矢先、遠くから独りの山スキーオトコが近付いてくるのが見えた。
蛇の道は蛇。一目でそれと分かる同類の匂いがプンプンしてくる。
しかし、彼はこっちを同類と見てくれなかったみたいだ。
距離はあるが、こっちの視線を無視してすれ違って行く。
それもそのはず、こんな雪原をカンジキもスキーも履かずに彷徨っているなど正気の沙汰ではない。
彼のツンと吊り上ったようなクロカンスキーの先端が凛々しく見えた。
まっさらな雪原に残した自分のズタズタなトレイルを振り返りながら、彼の雄々しい姿も見つめた。
縄張り争いに負けた狼のような気分だ。
休み明け、ストックを買いに行くことをその場で決めた。
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下山はまた樹林帯に入っていった。
コースをのんびり下ればいいのにと、もう一人の自分が言っているのだが、もう一人の自分は、いやもう一度難コースへ行けと言っていたのだ。
ニンゲン、ふたつの道が目の前にあったら、より険しい方の道を行けと誰か偉い方が言っていたのを思い出した。
そんな青年向けの言葉を真に受けなくても…と、またもう一人の自分が言っていたが、もう引き返すこともできなかった。
下山の途中、荒い息を弾ませながら、湯涌ゲストハウス自炊部へ電話を入れると、番頭・Aが洗い物中ですとのこと。
彼の淹れてくれる美味いコーヒーが飲みたくて、雪を踏む足にチカラを込めたのだが、時間短縮には全く至らなかった………
先輩、ひな祭りに雪中行軍とはオツです。セブンイレブンのコーヒーも捨てたものじゃないので、近々お持ちしますね。