カテゴリー別アーカイブ: 山が好きだ編

上高地に初めて泊まる

 40年ほど前から何度も足を踏み入れてきた上高地で、この夏初めて一泊した。

 家人と昨秋嫁いだ長女という妙な組み合わせだったが、その一ヶ月ほど前、突然決まったのだ。

 自分にとっての上高地初期時代、つまりマイカーで入ることができた頃はいつも日帰りだった。

 そして、その後山に入るようになる頃には、日帰りではなくなり、朝早く足早に通り過ぎていく場所であったり、また疲れ切って帰りのバス乗り場へと歩き過ぎていくだけの場所であったりした。

 ところで、超が付くほどの人気観光地となった上高地だが、何かの拍子にそこで泊まるということが知られると、すぐにあのホテルか?と聞かれる。お世辞めいた質問だと知りつつ、とんでもないと否定する。

 もちろん、上高地で一泊と言っても、河童橋の下や小梨平でツェルトにくるまって寝るわけではないのであって、あのホテルではないホテルに泊まった。

 一応、あのホテルも確認の対象になっていたのだが、夏山シーズン最盛期の土日、しかも一か月前に部屋が取れるわけがなかった…と、言い訳にしている……

 しかし、たまたま空き室と遭遇したホテルもよかった。さすがに上高地である。これを書くとすぐに分かってしまうだろうが、上高地の代名詞である某池のほとりに建つホテルだった。

 午前のうちに上高地入りした一日目は、河童橋から明神を経て徳沢まで歩き、帰り道は明神から右岸の道に変え、そのまままた戻ってきた。

 上高地は一応1500メートルほどの標高なのだから、少しは涼しいはずと思っていたが、今年の夏は上高地でも異常だった。

 ホテルでチェックインする時に、フロントでそのことを強調されたが、部屋に入った時の室温の凄さに驚いたほどだ。当然、山岳地では冷房などないのが当たり前だ。ただ、部屋にはしっかりと扇風機が置かれていた。

 だが、窓を開けていても一向に部屋は涼しくはならず、山岳地であることを意識させてくれたのは、夜も更けてからだった。

 梓川左岸の道を久しぶりに歩いた。木立の中を歩いているときは、暑さも少しは和らぐ。

 明神館の前までは思いの外速いペースで歩いた。

 途中の明神岳を見上げる川原で足を止め、強い日差しの中でお決まりのように顔を上げる。明神岳は正面から見上げると、ゴリラの顔のようなカタチをしている。ずっと何十年も思っていたことを、今更のようにして長女に話すと、今はすっかり山ウーマンになっている長女が頷いていた。

 明神館前のベンチで当たり前のように休憩した。

 単に上高地を歩いていた(今はトレッキングというが)だけの頃は、ここは休憩しなければならないという場所だった。

 しかし、さらに奥の本格的な山岳地帯に入っていくようになると、この場所も通り過ぎるだけになった。この次にある徳沢でも休憩せず、梓川沿いでは横尾でザックを一度下す程度で、そこからは例えば涸沢ぐらいであればノンストップで登った。

 今は本格的な山行は自重しているからそれどころではないが、単独行の頃の馬力はどこへ行ってしまったのだろう。いや、自覚とか諦めとかが足りないだけかも知れない。

 明神から徳沢への道にはサルたちが大勢出てきていた。非常に友好的にというか、まったく気兼ねすることもなく我々の前を歩いていたりした。同じ祖先をもつということに、サルたちの方が深い理解を持っているのかも知れない。

 生まれてまだ日の浅い子ザルが、母ザルにしっかり抱き着いている姿も数組見た。幼いサルの顔というか、特に目にはさわやかに惹きつけられるものを感じた。

 サルたちとの並行(と言ってもほとんど蛇行であったが)は、かなり続いた。外国人のトレッカーたちも興味深げに彼らを見ていた。

 別に不思議なことでもないが、徳沢は変わっていた。

 いや、そう見えただけなのかもしれない。記憶などはいい加減なものだが、しかし、やはり変わって見えた。

 徳沢ではカレーを食べることになっていた。長女が決めていたのだが、やはり山岳地の昼飯はカレーで文句ない。しかも、徳沢のカレーは今有名らしく、こちらも一度は食べてみたいと思っていた。

 かっこいい食堂の隅っこのテーブルに、カレーライスが三皿並ぶ。長女は当然生ビールのジョッキも置きたかったと思うが、こちらが帰路の足への影響を考え自重したために遠慮したみたいだった。

 その代わり? カレーの食後にアイスクリームを追加した。これも徳沢の人気メニューらしい。そう言えば、徳沢は昔から牧場だった場所だ。食事を終えたテーブルの上を、徳沢の木立ちを抜けてきた風が流れる。

 結局、ビールは河童橋まで戻ったあと、閉店間際の店の前でいただいた。当然、美味であった………

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 ずっと以前に、徳沢を歩きながら、こんなところまでどうやって牛たちを運んだのだろうと考えていたことがある。上高地の歴史に興味を持ち出した頃で、松本藩の材木を管理する役人たちや杣人たちの日常なども思い浮かべたりした。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人なども重要な想像世界の登場人物の一人だった。

 

 暑苦しくて眠れない山小屋の思い出は、この上高地から登った涸沢ヒュッテでの一夜である。

 それこそ、35年ほど前の初穂高山行だった。

 横尾の小屋の前で、母の握り飯を頬張りながらラーメンを作っていた時、小屋のアルバイトらしき青年が、二階の窓から梅雨が明けましたァと叫んだ。

 周辺にいた人たちがおおッと声を上げ、熱気が動いたように感じた。

 その日は、上高地を出発した時からとにかく暑いと感じていて、梅雨明けの予感は十分あった。

 そして、横尾から一気に涸沢まで登った後、小屋の予約を早々に済ませたが、その人の多さに少々気後れした。

 案の定、眠れなかった。11時半頃には窮屈な寝床から這い出し、ザックを持って廊下に出ていた。それからどうしていたかは覚えていない。その後テラスに出て、4時前にコーヒーを沸かしクラッカーで朝食にした。どうでもいいが、商品名でいうと「リッツ」だ。それを三枚だけ食べた。小屋の朝食には行かず、外のトイレだけ借りて歩き始めていた。

 夜中、着込んではいたせいもあってか、全く寒さを感じなかった。

 

 上高地の眠れない夜は、早朝4時半頃で終わりにした。窓辺に立つと、対岸の焼岳山頂付近に朝日が当たっている。見下ろすと、某池のほとりに人の姿も見える。

 すぐにカメラを手に外に出ることにした。なんと立地条件に恵まれたホテルだろうと今更ながらに思う。

  上高地に来るようになって40年ほど。この美しい光景は、見てみたいけども、どうしてもというわけではない…… といったいい加減さでやり過ごしてきた。

 しかし、実際にこの目で見てしまうと、そんないい加減だった自分を悔いた。初めて上高地に足を踏み入れた時の、梓川の美しさに圧倒された時の自分を思い出していた。

 

 日が昇り、上高地はまた暑くなった。

 大きなザックを担いだ長女と、小さなリュックを担ぐ家人が並んで歩いていく。その後ろ姿を見ながら、歳月の経過を思う。

 いつものことだが、今回もまた、近いうちにまた来ようと歩きながら考えていた。

 河童橋の周辺は相変わらずのにぎわいで、岳沢から穂高の稜線にかけては薄い雲がかかっている。河原に下りて、梓川の水に手を入れた。

 もう少し静かになったら、顔を出してやるよ…… そんな奥穂高のぼやきが聞こえる。

 いや、聞こえたような気がした………

 

自分なりの旅について…の2

 ひとつの旅が、その人の生き方を変えてしまったという話を聞くと、正直言って少しうらやましくなる。ボクにはそれほど激しい思いを残した旅はない。

 しかし、その分、数日だろうが日帰りだろうが、ちょっとした旅の中にでも、自分自身をいつも研ぎすませていたような確かな思いがある。

 山を登るということに固執し始める前だが、ボクは日本の山の聖地である信州の上高地へと頻繁に出かけている。ちょうど20代の真ん中あたりの頃だ。

 今あの衝動が何だったのかと振り返ってみても、どこか不思議な感じがしてはっきりとはしない。ただ上高地が書かれた多くの本を読み耽り、そして毎日、上高地へ出かけることを楽しみにしている自分がいた。自分が上高地を歩いていることをはっきりと想像できた。

 まだマイカーでも入れる期間があった頃、多い時で一ヶ月に4回ほど通っている。そして、早朝の河童橋あたりから明神、徳沢、横尾へと足を延ばし、上高地というひとつのエリアについてはかなり精通したニンゲンになっていた。

 当時も多くの人たちが上高地を訪れていたが、大正池や河童橋周辺を抜けてしまうと、あとは静かな散策ができた。ボク自身、まだヤマ屋スタイルでもなかったが、歩くことにはまったく問題を持っていなかった。

 ボクは上高地に、すでに藩政の時代から多くの杣人たちが入っていたという事実を知り、すごく心を動かされていた。

 たとえば、梓川の流れを底辺にして、岳沢からせり上がっていく穂高の稜線を、すでにその人たちはその時代に見ていたのだということが、何だかとてもすごいことのように思えていた。

 考えてみれば、海に面した村の人々が海にその恵みを求めるのと同じように、山に抱かれた村の人々は山へと入っていく。そんな当たり前のことが、この上高地でもなされていたというだけなのだが。

 しかし、ボクはこんなことも考えていた。自分たち現代人が現代の街などの風景を知りつつ見る上高地と、昔の杣人たちが閉ざされた山村の風景しか知らないで見た上高地の違いは何か。

 そんなことを考えていくと、昔の杣人たちへの興味はどんどんと膨らんでいった。この地で、どのようにして彼らの日常が組み立てられ、そして流れていったのか。

 旅は非日常を求めていくものだなどといった決まり文句があったが、ボクは自分自身の非日常よりも、かつてそこに住んでいたとか、暮らしていたとかといった昔の人たちの日常を考えるのが好きだった。もちろん、そのことが自分自身の非日常にも繋がっていたのだが。

 史実として知る部分と自分の想像をはたらかす部分とを重ね合わせていくと、上高地というひとつの地理的空間が、歴史的な世界へと広がっていくような気がしていた。

 特に上高地の深遠な美しさは、想像することの愉しみを倍増させた。

 《時空を超える》という言葉が、雄大で動かしがたい自然の中では生きているような気がした。

 ボクは梓川左岸の道を歩き、時折河原に下りて、岩の上にすわった。広い河原に出ると、目に見えるのはどの時代の風景なのか判らなくなった。

 自分はひょっとして、数百年前の上高地にタイムスリップしているのかも知れない。そして、今振り返ると、あの杣人たちが煙管を吹かしながら語り合う光景に出会えるのかも知れない。そんなことを身体中で感じたりした。

 特に梅雨の晴れ間や秋空の下で、鋭く冴えわたった清々しい風に吹かれた時などは、今自分の周囲にある空気全体が、現代のものではないような錯覚に陥った。

 (……実は、翌朝上高地入りする予定でいる)

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 ボクの旅は、いつもこのような感覚の中で成立していたような気がしている。

 好奇の目によって見据えられたものは、すぐに旅の対象となり、その周辺を知りたいという軽い願望を生んでいった。

 それは衝動というほどではなかったが、例えば風景や歴史や生活という文字、響きそのものに心を奪われ、さまざまにそれらを巡ったりした。そして、キーワードが変わると、それまでにも何度か訪れたことのある土地が違って見えてくる感覚も味わった。

 例えば、それまで漠然と見ていた道沿いの一本の木にも、かつての街道という視点で見ると大切な要素が見えてきた。そこに何らかの《ものがたり》が想像されたりし、そしてまた、道から眺める山里の風景にも、街道という言葉が生きていた時代の風を感じさせた。

 実はボクにはずっと前から、見ているだけでグッと胸が締め付けられるような、そんな風景の存在がある。

 それらは、ほとんどが民家の散在する山里で、背後に小高い山並みがあり、またはその山並みに囲まれ、そして、手前には深くえぐられた谷川が流れている。

 ボクは必ず川の対岸にいて、時折息をとめながら、じっとその風景を見つめる。風以外には動いているもののない風景なのだが、風が動いているのははっきりと見ている。

 そんな風景を思い浮かべると、それらのすべてがボクの旅の産物なのかと思う。そして、その反面で、ひょっとして、自分は自分の前世を旅の中で見ているのかも知れないゾ…などと、考えたりもするのである。

 今もそうしたものを求める小さな旅を続けている。たぶん、まだ当分は続くと予想しているのだ……… 

 

 ※古い文章に加筆した……

 

 

自分なりの旅について…の1

 旅というものを考える機会があって、自分なりに“自分の旅”について思いを巡らしていた。すると、自分の旅というのはどちらかと言えば地味で、当然今風でもなくて、人に勧めてもあまり乗ってこないものなのだということが改めて分かってきた。

 旅が好きだと言っても、恥ずかしながら海外経験は二回だけ。定番のような新婚旅行と、仕事の研修旅行だけだ。

 こんな状態なのであるから、所謂、旅は海外しかないというニンゲンたちと旅談義などをしていても何だか落ち着かなくなり、敢えてこちらからは話に入っていかないようにしてきた…… 実は周囲に、ボクのことを世界の観光地に行き慣れたニンゲンだと勘違いする人が数人いた。そういった何の根拠もない勘違いは、ボクにとってはある意味非常に迷惑であり、そこでまた余計な言い訳なんぞを求められたりするのが嫌だった。

 ボクはただセーヨーの都よりも、ニッポンの田舎の方が好きだったのだ。

 そんな中で、いつも旅のスタイルは大切にしていた。どんなところへ出かける時でも、できるだけ自分が求める旅のスタンスを基本において、主たる目的が仕事であろうと何であろうと、自分の中の旅というものに結び付けていた。

 その基本は、歩くことだった。そして、それはその土地の歴史などといった要素に直結することもあったが、土地そのものをただ漠然と見て歩くだけということでもあった。

 振り返ってみると、そのきっかけとなったのは、学生時代に上州のある山間の温泉場へ行った時、ふらふらと周辺を歩いたことだったように思う。まだ二十歳の頃で、しかもその時は大学の体育会の行事かなんかで行っていた記憶があり、旅情を求めるなんてことはない。しかし、漠然と歩いていながら、今まで全く知らなかった空気を感じた。

 晩春だったが、気が付くと土埃をかぶった雪がまだ残っていた。突き刺すような冷たい風が吹く朝に、元気に登校していく子供たちを見た。足元の雪解け水の激しい流れに身体を震わせながら、野菜を干す老婆の手にはめられた軍手に妙な温もりを感じた。

 そういうものたちが目に焼き付いていた。あれはいったい自分にとって何だったのか。

 その年の暮れだったろうか、年末のアルバイトを終えたあと、ボクは新宿から松本を経由して金沢に向かう帰省の計画をたて、その途中寄り道をして、木曽街道を歩こうと決めていた。島崎藤村を読み耽ったあとということもあり、木曽は憧れの土地でもあった。しかし、中途半端な年の暮れ、寒さと寂しさが身に沁みた旅だった。

 翌年から年末の帰省はこのルートにし、松本で三時間半ほどの時間を作って、まち歩きや好きな喫茶店での本読みに充てた。これはなかなかのリッチなひと時であった。そして、大糸線松本発金沢行き(糸魚川で新潟行きとに分かれる)の急行列車に揺られ、時折無人駅のホームで、長い停車時間が与えられるという出来事なども楽しみながらの上品極まりない旅であったのだ。

 大学卒業の春には京都・奈良へと出かけ、旅の締めくくりに柳生街道をカンペキに歩いた。一日がかりの山歩きといった感じだったが、最後に高台(峠)から夕暮れが近づく柳生の里を見下ろした時の胸の高まりは今も忘れていない。

 柳生の里ではすっかり日が落ち、奈良市内へ戻るバスを待つ間、地元のやさしい酒屋さんの店先で休ませてもらったのを覚えている。

 その四ヶ月後に出かけた同じ奈良の山辺の道は、しっかり二日がかりの歩き旅だった。

 入ったばかりの会社を三ヶ月ほどでやめ、ふらふらしていた頃で、気持ちとしては完全な解放状態とは言えなかった。しかし、のちに山へも頻繫に出かけるようになる親友Sとの最初の旅が山辺の道であり、その後のドタバタを予感させるに十分な愉しさに満ちていた。

 大きな古墳のある町で予約していた旅館。たしか道中には、他にユースホステルしかなく、そっちはいろいろ面倒だからと、その旅館に予約を入れておいた。

 歩き疲れて旅館に着くと、ボクたちには三つの部屋が与えられ、食事はここ、寛ぐのはここ、寝るのはここと案内された。

 ボクたちが行ったのは九月。宿帳が出され記帳しようとすると、ボクたちの前は六月の日付が記されていた。

 ゆっくりしようとクーラーのスイッチを入れると、白い埃とともにカッツンという音がし、クーラーはそのまま止まった。寛ぐ部屋は使用不可となり、食事する部屋へと移動。こちらのクーラーは問題なかった。

 トイレに行くと紙が置かれていないので当然もらいに行く。風呂は浴槽となる大きな桶が真ん中にドスンと置かれ、それ自体はもちろん、セメントの床もカラカラに乾いていた。もちろん湯は入っていない。どうすればよいかと聞きに行くと、自分で入れてくださいと言われた。ボクたちは当然浴室掃除もした……

 その反動もあってか、夕食時間は二人で異様に盛り上がった。その旅館は本業が仕出し屋さんで料理は質量ともに申し分なく、しばらくすると飲めや歌えとなり、床の間に置かれてあった太鼓と三味線までが持ち出された。Sが太鼓でボクが三味線を受け持ってのジャムセッション……ところが、乗ってきてトレモロ弾きをしたところで三味線の糸が切れてしまった。なぜか異様におかしく、二人してただ笑い転げていた。

 そのうち、立ち上がろうとして浴衣の裾を踏みつけると、下半分が切れ落ちてしまうなど、とにかく何が何だか分からなくなったが、それでもひたすら笑っていた。その後、隣の寝る部屋へとなだれ込んだのだろうが覚えていない……

 その後、再就職も決まって日々に落ち着きが生まれると、ボクの旅も少しずつ色を変えていった。歴史系からどんどん自然系に走っていった。しかし、道中の街道探訪や土地歩きなども欠かさず、旅に出ているという気持ちのあり方は今でも変わっていない。ディスにーランドへ行くというのを旅だとは思わないが、その道中は十分に旅にできる。そんなふうに考えられるようにもなったのである………

 

※古い文章に少しだけ加筆した……

 

 

小さな山行の思い出

「あるトレッキングにて」

あまりにも雄大で そして美しすぎた世界を前に

その人はどうしても涙をとめられないでいた

深く濃い青の空 雪と氷におおわれた緩やかな峪(たに)

雄大さも美しさも すべてが信じられないまま

ここまでの道を歩いてきたのだろう

そして今 この場所に自分がいるという事実に

その人の心は 大きく動かされていたに違いなかった

すべてを映しこんだサングラスの縁から涙が流れ落ちる

こんなところに自分がいるなんて と言う

ここへ来ることを許してくれた者たちすべてに

感謝しなければ とも言う そしてこの世界のすべてを

いつか必ず その者たちにも見せてあげたい……

涙声のまま その人は話し出した

日常は すべてにおいて自分を敗者にし哀れんだ

それは現実という意味では仕方のないことだった しかし

自分自身もそれらによって狭く そして

息を殺して生きていくことに馴らされていく

そんなふうに生きていくしか 道はないのだと思い込んでいく

この空の青さも この雪の白さも そしてすべての雄大さも

それらは知る術もなければ知る必要もなかった しかし

まちがいなく来てよかったと思った

そんな単純な表現では追い付かないくらいに心が動いた

こんな自分でも さも当たり前のように 大自然は

迎えてくれるんだという嬉しさがカラダ中から湧き上がってきた

何千年 何万年と続いてきたこの場所の時の流れの中に

ちっぽけな自分の存在がだぶっていく そしてその人は

視線の方向を変えた もう一度この場所へ来るために

自分らしくやっていこうと思う と言った

サングラスの奥の目は きっと笑っていたに違いなかった

 

 この小文は、2000115日発行の「ヒトビト」第8号に掲載したものだ。北アルプスの某山へ数人の山仲間と一緒に登った時、連れの中に初めての山という人がいて、その人の言動をもとに書いた。いろいろとつらい時期にいたらしい人で、突然の涙を見たときは正直びっくりした。山はその人に再び生きる勇気を与えた。犠牲にしてきた家族が行って来たらいいと送り出してくれたという。あの時のことを思うと、こちらもなんだか切なくなる。 

 山にはいくつもの思い出があるが、今でもときどき振り返る話だ………

 

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

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 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

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 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

昼から夕方にかけての山村谷歩き

 

 山村歩きをしながら、必ず考えてしまうのが「シャンソン」のことである。

 どうでもいいようなダジャレなのだが、昔流行ったギャグである「新春シャンソン・ショー」をもじって、「山村シャンソン・ショー」とアタマの中で呟いている。

 アタマの中だから、結構派手に両手を広げショーの司会者ぶった言い方もしたりする。客席からの拍手なども聞こえてきて、アタマの中はかなり盛り上がるのだ。

 しかし…、実際の山村はいつも静まり返っている。

 鳥の鳴き声がたまに聞こえたり、もっとたまにクルマのエンジン音が遠くに聞こえたりするくらいだ。

 しっかりと、それなりの気合を入れて山村歩きを楽しむのは三ヶ月ぶりだろうか。

 地域的には二度目で、富山県の山田村あたりだろうと、いい加減に位置付けている。ちょうど一年前ほど前、もう少し秋が深まっていたような時季に初めてこの辺りを訪れた。

 その時のことは実は書いていない。とても感動的だったのだが、なぜか書く気にならず、結局書こうとすらしなかった。

 とても感動したから、気力が湧いてこないと書けないことがある。このあたりは、いくら雑文と言えども情けないくらいに心が折れ、書き切れなかったことを悔やむのである。

 

 今回はやや遅い時間の出発だった。

 前回は最初からクルマで少し登り、それから深い谷に下りて、視線の先に浮いているような水田(稲刈りは終わっていた)を見ながら、畦の上で「握り飯」と「いなり寿司」(双方ともコンビニ)を食するという贅沢なランチタイムだったが、今回は道路脇のちょっと歩道が膨らんだようなスペースにクルマを置き、同じものを慌ただしく呑み込んでいた。

 歩き始めたのはちょうど昼頃だったろうか。

 相変わらず、ほとんど先を見越していない山村歩きだ。いつでも引き返す心の準備は出来ている。

 登り口からすぐに急な道になったが、民家が道沿いに数軒並んでいる。

 白山麓の白峰にあるように、このあたりの民家にも屋号が付けられている。地元の文化を愛する人たちが住んでいるのだろうと推測できる。少し奥まったところの民家の庭では、十人ほどの人たちが集まって、何らかの会合が開かれてもいた。

 いきなりの坂道を、まだ調子の出ない足取りで登った。

 本格的な山行から遠ざかること数年。もう足元はトレッキングシューズばかりとなり、生涯四足目?のまだ新しい登山用ブーツは、部屋の中でずっと眠っている。

 かなり以前、太郎平小屋までの道で足に馴染んでいた靴(高かった)の底がはがれ、翌朝、太郎の小屋から薬師沢へ向かう際に、小屋の五十嶋マスターのゴム長靴を借りていったことがある。軽かったが、やはり石だらけの道では足の裏が痛かった。

 結局、帰路、登山靴はテーピングによってほとんど白一色になったまま、登山口の折立まで辛うじて持ったが、手入れがされていないといくら高価な靴でもダメなのだ…ということを、その時思い知らされた。マスターの長靴を一日履かせてもらったという喜びとともに、どこか虚しい記憶でもある。

 そういうことを思い出しながらのスタートだった。

 畑が過ぎたあたりからの道は、しっかりと整備された林道のイメージとなった。畑の中にトランジスターラジオがまるで巣箱のようにしてカッコよく置かれていた。クマ除けだと思うが、農作業しながらラジオを楽しむというセンスの良さみたいなものも感じられて、こちらもスマホに納めてある音楽を鳴らした。

 もちろんイヤホンなどは使わない。ズボンの後ろポケットに差し込んで、ここはやはりいつものベイシー・オーケストラで、クマを近づけないようにと配慮?した。

 木立に挟まれながらまっすぐに坂道が延び、その後左の方へと折れていく。天気はとてもよいというわけではないが、十分に汗をかかせてくれそうだ。

 いつも思う。こういう場所を歩いている理由を聞かれたら、なんて答えようかと。

 一応、カメラをぶら下げているから写真家とか、研究家とか、そうした類のニンゲンだと思ってくれるかもしれない…。そんなことを考えているのである。

 歩き始めから見れば、かなり登ったかなと思えるほどの道を歩いていた。

 林の中にぽつんと畑があったりする。何か観光的に造られたのではないかと思えるバンガローのような小さな建物もあったりする。

 どちらにしても、いつものように静かな歩きだ。スイングしまくるベイシー・オーケストラはすでに消してある。クマには遭いたくないが、静けさもやはり大事なのである。

  三十分ほど来たところで道が分岐した。

 一方は高い方へと延びていたが、谷に下る方へと向かう。なんとなく上の道は予測できた。これを行ってしまうと、今日の帰りは相当遅くなるかもしれない、そう判断した。それとずっと先には前回歩いた道が繋がっているはずだった。一年前、道がなくなるところまで登ったことを思い出した。

 それを理由にして、ゆっくりと下ってゆく道をたどった。正解だったのは、その先に美しい森があったことだ。

 下って行くと、奥にポツンと一軒だけが立つ民家を見上げながらの明るい道に出た。左手は、急な傾斜となって下っている。真下には鳥居が見える。栗の木があるのは、民家の方が植えたものだろう。

 グッと下って、水田の道を歩き、さらにしばらくして森に入って行く道をたどる。

 森と言っても、歩いて行く道はしっかりと舗装されている。ただ、地元の農家の人たちが通るだけの道だろうから、それらしく暗くて、通り過ぎてゆくクルマなどない。路上は落ち葉でいっぱいだ。

 一段と静まり返る森の中で、美しい緑色の何かが映えていた。よく見ると、切り株の上に生えた苔の緑だった。

 道から森の中へと足を踏み入れ、しばらく枯れ草の感触を味わう。湿った空気が一気にカラダ全体を包み込むような、そんな感じだ。汗ばんでいたのが、少し涼しくなった。あたりも静まり返り、息を殺すように足を進めては立ち止まる。

 愉しい森歩きはしばらくして終わった。

 そして、森を抜けると、のどかな風景が広がった。

 それもまた、見事だったのだ。

 蕎麦の花が咲いている。奥行きの深い谷あいに広々とした空間があり、思わず深呼吸をしてしまうくらいの正しいのどかさだ。

 ぽつんと人家らしきものがあったりするが、実際に人が住んでいるのかは分からない。農作業の休憩所を兼ねた別荘みたいな存在なのかもしれない。

 気持ちのいい開放感に浸りながら、のんびりとした気分で下ってゆく。相変らず人影は全くない。

 人家が見える。だから山村であり、山里なのだとアタマの中で呟いている。

 こうしたことが山村歩きの楽しみだ。本格的な山の世界から遠のいたあと、こうした楽しみに救いを求めたようだが、本来は街道歩きのように、こうしたスタイルも嫌いではなかったのだ。むしろ好きでもあったわけだ。最近テレビでよく見る“ロングトレイル”なるものへの興味も、こういうことの延長上にあるのだろうと、自分で思っている。

 しかし、日常しか見ていない人は、こういうボクの姿を見たらなんて言うだろうか?

 いや、待て…、家族ですらボクがこんな場所でうつつを抜かしていることなど想像もしていないだろう。

 かつて、岡田喜秋氏の本を読んでほくそ笑んだ記憶がよみがえってきた。

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 下って、さらに下って、先が分からないような谷の中で“単独”を楽しむ。

 “孤独”ではない。“単独”なのである。

 相変わらず、イノシシたちの行儀の悪さをいたる所で見た。しかし、この山村に住む誰かが植えたのであろう素朴な花々が、そんな傷跡など構うことなしに咲いている。

 もう道は下るばっかりになっていった。少し外れて、道草をする余裕も出てきた。

 ふと蕎麦の花が咲き広がる平地を見つけたりする。木々の隙間に、傾斜を登る細い道が見えたりもする。すでに、二時間半ほど歩き、さらにまた下った。

 もう一度幹線道路に戻って、また新しい道を探すのもいい。一瞬そう思ったが、今から登り返す元気はなかった………

 

 

 

 

 

 

 

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

 旅ごころが自分の中に根付いたきっかけは何だったのか? 

 この古い本は最近になってヤマケイ文庫で復刻したものだが、その中に懐かしい答えがあったような気がした。

 90歳を越えた著者の青春時代の出来事を綴ったエッセイが、旅と人生とをつなぐ素朴な何かの存在を教えてくれる。

 いくつかの作品に心を動かされたが、特に『常念岳の黙示』という短い文章から感じ取ったものは、かなり心の奥にまで届いているように思う。

 東京人の著者が、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだ理由が、どこか清々しく、そして、なぜか切なくもあって、読んでいる者(つまりボクだが)の心に迫るのだ。

 それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしたのかもしれないと考えさせたりする。

 そして、“自分に黙示してくれるもの”として常念岳を見つめていた著者の姿を想像し、どこか切迫感に襲われたりもするのだ。

  『常念岳の黙示』の中で、特に山に傾倒していく著者の、山は動かない…つまり、山は黙ってすべてを分かってくれている…そうした解釈と、そのことによる安堵の心境表現がとても好きだ。

 山を含め、風景にはこのような黙示のチカラがある。

 星野道夫もどこかで書いていたが、このチカラが何かの決断に作用することもある。ヒトの心情を動かし、さらにヒト自身の形成に影響を及ぼすとさえ思える。

 そして、ヒトが旅をするのは、そうしたチカラに促されるからなのだろうと思う。

 ボクは人に自慢できるような大それた旅など経験していないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。だからこそ、風景(や情景)などに素直に向き合おうとしていたのだと思う。

 風景にはすべてが止まったままで、動きがないということはありえない。上空の雲たちや、山里の家並みからのぼる炊事の煙や川の流れも形を変えていく。時間の経過などから、その色や陰影をかえていくことも普通の現象だ。

 しかし、底辺にはやはり動かないものがあり、それ自体にまず大きなチカラを感じ取るのだと思う。

 二十代のはじめ、上高地を初めて訪れ、穂高の連峰を見上げた時の感動は今でも忘れないが、その根底にあったのは圧倒される山岳風景の偉大さだったのだろう。そして、あの時から確かに自分の中の何かが変わっていった。

 ボクはあの時以降、本格的に山に向かうようになった。山に登るだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ちだした。

 すでにずっと購読していたジャズ誌に加え、『山と渓谷』も購読し始めた。

 さらに、街にいて仕事をしていても、山のことを考えるようになり、実行できなかった計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送っていた。

 今から振り返ると、仕事で様々なことをやらかしてきたが、何をやっていても山の世界に憧れてばかりいるニンゲンという認識を持たれていたとも思う。

 山はそうした意味で、奥深く、やはりあこがれの対象になり得たのだ。

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 常念岳から黙示された著者も、あくまでも山=常念岳そのものを見た。

 常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたというラストには純粋に感動を覚える。

 「黙示」の意味を考えながら、久しぶりに何度も読み返した。そして、またあらためて旅について考えようとしていた。しかし、なぜかアタマの中が整理できなくなり、ついには山のことに対する後悔ばかりを考えるようになってしまった。

 ただ、今自分が毎日の煩わしい時間の隙間に実行している、山里歩きや森林歩きなどを思うと、その素朴な楽しみが旅の延長上にあったのかもしれないと思う。

 そして、こういう心持に決して今の自分は満足していないということも事実で、またそのうち、北アルプスのどこかに自分という存在を置いてみたいと考えてもいる。

 何がそうさせるのかは分からないが、とにかくあこがれが絶えることは自分にはないような気がするのである………

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※岡田喜秋氏は、月刊誌「旅」の元編集長。ボクにとっての氏の存在は、『山村を歩く』から始まった。氏の話にはとても付いていけないスケール感もあったりするが、ボクが求めている小さな旅心みたいなものと共通する何かもあって、最近では、大体手の届くところに氏の本が置かれていたりしているのだ………

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

まぶしいほどの新緑の中で夏を考えた

 静かな沼の脇にあるベンチに腰かけ、まぶしいほどの新緑に浸っていると、ふと、そろそろまた夏が来て、その夏が去っていく頃、また少し寂しいというか、空虚な気持ちになるのかもしれないなあと考えている。

 まだまだ夏は来ないのだが、それでも来るのは確実に決まっている。そして、そのままずうっと夏が続くのではなく、去ってゆくのも確実に決まっているのである。

 その夏に対して、何ら計画もなく、ただ薄らぼんやりと過ごしてしまう予感が今年もある。

 しかし、実行できないのはかなりの確率で予感できるのだが、まだ春の余韻の中にいる時季だから少し自分らしい夏について考えてみようと思ったりもする。

 夏は若者のイメージだから、夏に執着するのはオトッつぁんらしくないが、少し違う何かが自分の中にあったりするものだから、敢えて考えてみるのである。

 

 かつて、『ポレポレ通信』という無分別書き下ろし型プライベート紙(誌ではない)を出していた頃、よく夏のことを書いた。

 夏に向けての計画についても、夏の終わりのレポート的雑文なども書いていた。ただ今と違うのは、当時はほとんどが実現する(した)話だったのだ。

 普通(上辺は)のサラリーマンであったボクには、普通に夏休みの時間があり、普通にそして身軽に何でもできる環境があった。基本的にほぼ自分のやりたいように夏は組み立てられていた……と言っていい。

 その頃の夏は、たとえば八ヶ岳山麓や、信州の高原などの自然の中で過ごす一週間などに賭けていた。そこでの夏休みは、今でも最高のもので、社会人になって以降、秘かに(近い)将来ここに住もうと考えていたほどだ。

 そう言えば、今年の夏はその八ヶ岳山麓に行きたい…と、正月あたりだったか、誰かに語っていた記憶がある。

 なぜ八ヶ岳山麓への思いが再燃したのかははっきりしないが、たしかに“再び八ヶ岳へ”へと、自分の中に旅行代理店の「八ヶ岳キャンペーン」みたいな風が吹いていたのだ。

 しかし、今年の夏にはすでに予定があって、その構想は実現に至らないことも予想している。

 その予定というのは信州方面への家族旅行である。その意味では文句など言ったら罰が当たるといった類のものだから、素直にというか前向きに受け止めなければならない。

 それに八ヶ岳は無理としても、うまくいけば上高地あたりのワンディ散策くらいは実現するかもしれない。

 楽しい夏になる可能性はそれなりにかなり高いのである。

 そう思って振り返ると、去年の夏は旧軽井沢にて美酒に酔い、かなりクリエイティブな早朝森林歩きでアタマとカラダの浄化を果たしてきた。

 本格的な山行から遠ざかる日々の中、山里歩きや森林歩きなどはより深みを増していると強く感じるが、かつて吸い込んでいた信州や八ヶ岳周辺の空気が、自分に何かいいものを残していてくれたのだろう。

 そんな風に考えながら、もう一度夏について考えてみると、今の下品な日々などもかなり払拭されていく。

 まだまだ成長途中の新緑の中で、夏への思いも同じように中途半端でいいのだと、今は自分に言い聞かせている。

 日差しが強くなり、緑の草が放つ夏らしい匂いを感じるようになってきた………

 

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

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 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

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 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

白山麓~ 白峰の想い出話

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かつて白山麓には一つの町と五つの村があり、最も奥にあったのが白峰村で、その手前が尾口村であった。

そして、そのあたりは山麓というよりは、もう山域の奥深くに入ったような場所で独特の空気感を持っていた。

もちろんその空気感は今も変わらないが、白山市という、ごくごく普通の地名の中に吸収されてしまってからは、以前のような特異性を感じなくなった気がして少し寂しい。

思い出すと懐かしい。三十年以上も前、真冬の白峰村役場を朝一番に訪れた時、開口一番に言われた(怒られた)のが、「N居さん、このあたりをなめたらダメやわ」という一言だった。

不覚にも「短い靴」を履いていた。一応、ビブラム底のゴツイやつだったのだが、役場のYさんの目には問題外の装備に映っていた。

その朝は前夜からの雪で、白峰の村には一メートルほどの新しい積雪があった。金沢を出る時にも当然雪はあったのだが、全く次元が違っていた。

Yさんが村の中の道を、雪を蹴散らすようにして歩いていく。ボクは、その後ろを雪を踏むようにして歩いていた。

その時に見たのが、二階の屋根まで伸びた、大きくて無骨な梯子だった。

多くの家が軽量なアルミ製の段梯子というのを家屋に固定していて、いつでも屋根の雪下ろしに上がれるようにしてあったが、そんな中に丸太を縦に切り分け、その間に太い鉄筋を何本も嵌めて作られた梯子を目にした。

すでに使われていないようにも見えたが、まるで家そのものを支えているように堂々としていた。

地元の山で切り出したトチの木で作られているらしいと聞いた。そんな話が雄々しさを一段と高めるような気がして、しばらくその梯子を見上げていた。

それから、この梯子の階段の部分も、昔はトチの木で作られていたなどという話を聞き、興味はますます高まっていった。

形状が上から見ると「H」の変形になるなあとか、どうでもいいようなことまで考えたりするようになり、この地域の村並づくりのサイン計画に関わった時には、この梯子の特徴をデザインに反映させたら面白いだろうなあと思ったりしていた。

白峰は、言うまでもなく白山登山のメインの入り口である。

ボクにとって、二十代の馬力だけで山を登っていた頃には白山は対象外の山だった。

初めて登ったのが春の残雪期で、その後もずっと雪のある時季だけ、それも日帰りの単独山行だったような気がする。

それから夏に二度ほど、珍しく山ビギナーを連れて登ったが、また北アルプス中心の山行へと戻っていき、そのまま白山はあまり感慨のない山になってしまった。

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話がそれたが、白峰の、特に白峰地区にはまだまだ特有の個性が残っていて、歩いていても楽しい。かつて白峰型住宅(だったと思う)と呼んで整備された家々が美しい村並の風景を作っている。

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その間に建つ寺院なども立派で、全国に広がった白山信仰の起点らしい風格がある。

家々の前に吊るされた屋号が記された札などもいいアイデアだ。

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最近ではスキー場がダメになり、総湯が移転して様子が変わったが、名物の「とちもち」は相変わらず美味い。若い頃には一パック買って、昼飯にしていた。

もう一つの名物である堅豆腐を使った「堅豆腐かつ丼」なども、新しい白峰の味になっていてかなり満足できる。

ボクとしては、特に後者が非常に気に入っているのだ。

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白峰からは、前述のとおり白山登山の入り口となる市ノ瀬・別当出合へ向かう道が伸びているが、もうひとつ福井の勝山へとつながる立派な道も通っている。

最近では高速道路を使うことが多くなってきたが、かつては勝山の平泉寺はもちろん、永平寺に行くのにもその道を利用していた。

10年以上も前だろうか、石川県の仏壇に関する仕事をさせられていた時、白峰のあるお宅を数人の調査団(?)で訪問したことがある。

そして、そこで見せていただいた仏壇の立派さに皆驚かされたが、それ以上に心を打ったのは、その仏壇をかつて勝山の里から峠(谷峠)を越え、白峰の自宅まで担いで運んできたという、信じられないような話だった。

仏壇を運んだという何代か前のご当主の写真が座敷に飾られ、その時に使った背負子も床の間に置かれてあったと記憶する。

峠を越えて村に近づくと、村人たちは道沿いに並んで読経し迎えたという話も聞いた。

強力(ごうりき)という山男たちのことを知っているが、やはり白峰の山男も凄かったのである。

あの梯子と、仏壇を背負って峠を越えてきたという男……

どこかに共通するものがあるように思う。

白峰にはさまざまな出合いがあったが、やはり「このあたりをなめたらダメやぞ」の魂が、どこかにしっかりと根ざしている、そんな気がするのだ………

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長女が奥穂高へ行く前の日に思い出したこと

玄関

朝靄に朝日が差し込み、夏の朝らしい気配をカラダ全体で感じとる。

かつて飛騨から信州へと抜ける道すがら、上宝という村で見ていた風景だ。

何でもない早朝の山間(やまあい)。その一帯に漂う空気感に包まれながら、ラジオ体操を終えた少年たちが、石垣の上に腰を下ろし、さも当たり前のように漫画を読んでいた。

そのややダラーっとした並び方がよかった。夏休みらしい、のんびりとした空気感が漂っていた。

まだ暗いうちに家を出た。

助手席には、カメラとアルミホイールに包まれた握り飯が三個。

後部座席にはリュック。足元にはひたすら重い登山靴がある。

握り飯は、山へ行くとき、旅に出るとき、母が前の晩にいつも作ってくれた。

道と平行して流れる川のほとりに出て、その握り飯を食べる。

朝靄がまだわずかに残っているが、日差しから逃げられない空間はすでに夏らしい熱気に包まれ始めている。

家を出て2時間以上が過ぎていた。

今日が梅雨の明ける日になるかもしれない……

なんとなくそんな予感がしている。

空は文句なしの青一色だし、もう梅雨をイメージさせるものは何もない。

再びクルマを走らせ、かつての平湯温泉バスターミナルから満員のバスに揺られて上高地に入った………

長女が、翌日から奥穂高へ行くという日………

あれこれと準備している長女を見ながら、自分が初めて奥穂高を登った夏の暑い日のことを思い出している。

その年の梅雨は、その日の正午頃に明けた。

横尾の山荘の前で、昼飯のためのお湯を沸かしていた時、布団干しをしていた小屋のアルバイトらしき青年が、大きな声で叫んだのだ。

梅雨が明けました~

梓川の輝きと大きな歓声の響きを今も覚えている…………

 

 

雨の日の草刈り

細かな雨の降る中、家のまわりの草刈り。

山用のややごついTシャツ。

作業用にしている、これもまたごついパンツ。

これらは細かい粒子のような雨くらいなら負けない。

それに気温も高いから、ちょっと濡れるぐらいがちょうどいい。

ポケットから聞えてくるのは、スマホが発する「Basie in London」。

これはポケットから聞えてくるというのがいい。

イヤホーンではいけない。

ズボンの後ろポケットから、いかにもアナログ的、モノラル的に聞こえてくるのがいいのだ。

だから、流すのもカウント・ベイシー・オーケストラなのでもある。

ただ単に、尻(ケツとも言う)の感触もいいだけではなく、なぜかベイシーサウンドに押されて、作業もはかどっているような感覚にもなったりする。

それにしても、久しぶりに雨に濡れるという感覚を味わった。

これは驚異的な久しぶり度合いだと思い、ニンゲンらしく生きていない近年の日々のことを思ったりしながら草を刈った。

60年に及ぶ人生で、最も激しく雨に濡れたというのは、あの「剣岳・梅雨ド真ん中豪雨逆上山行」(このタイトルは今考えた)の時だろうと振り返ったりもしている。

初めての本格山行だったが、若き日の「憧れと試練」が入り混じった思い出だ。

番場島から当時の伝蔵小屋までの登りで、パンツの中までずぶ濡れになった。

まさにカラダの芯が冷えてしまうくらいのずぶ濡れ度だった。

これには深い事情があって、同行者たちよりもはるかに体力的優位さを持っていた自分が、その時のリーダーから日本酒の入ったポリタンを担がされ、自分自身の荷物は他のメンバーに分配されていたのだ。

つまり、自分の雨具を携帯していなかった。ついでに書くと、ポリタンはキスリングの大きなリュックに入れられ、パイプの背負子で背負っていた。

この大量の日本酒は、その夜少しだけ減ったが、翌日は剣の登り下りで誰も口にしようなどとは言わなくなり、結局下山するまでほとんどが残っていた。

そんなことを思い出しながら作業していると、最初は適当なところでやめにしておこうと考えていた思いが徐々に薄れていき、じっくり腰を据えてやっていくスタンスに変わっていく。

そのことに気が付くと、これもまた雨の中をひたすら黙々と歩いていた山行と同じだなと思ったりする。

雨で草が重くなっていた。

最後にかき集めながら一ヶ所に寄せていく作業は、なかなかチカラが要る。

ポケットからのベイシーは、ボーカルが加わってますます元気がよくなっている感じだ。

そういえば、ベイシー・オーケストラは二度コンサートに行ったなあと思い出す。

今年の金沢のジャズイベントに、またチック・コリアが来るらしいことも思い出し、今年はトリオだから行ってみるかなと考えていることも思い出した。

この間、何かの拍子にチックのソロピアノが耳に飛び込んできて、そのタイミングの良さもあってか、チックのピアノにまた興味を持ち始めている。

「CIRCLE」なんかも、なぜか最近たまに聴き直している。

こういうことは良い傾向だなと思っているうちに、雨が激しさを増してきた。

そろそろフィニッシュに向けて仕上げなければならない。

最後はやや雑になったが、なんとか終わった。

顔や腕なんかの濡れ具合もいい感じになってきていた。

それにしても、隣の空き地は草ボウボウなのである………

 

一枚の写真が思い出させてくれたとき

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10年以上前に撮った一枚の写真。

5月はじめの妙高・笹ヶ峰だ。

ゆるく傾斜した雪原で、美しいYの字形の倒木を見つけ、スキーを外し、リュックを下ろした。

半分凍らせておいた缶ビールを雪の中に埋め、カップ麺とコーヒーのための湯を沸かす準備をする。

にぎり飯二個とソーセージ一本を取り出し、頬張り始める。

もちろん、缶ビール一本も同時に栓が開けられている。

その頃から毎年のように春は笹ヶ峰に行っていたように思う。

そして、毎年のように同じメニューだったようにも思う。

それ以前は立山や白馬、乗鞍方面で、それなりのテレマークスキーを楽しんでいたが、笹ヶ峰に行くようになって、同じテレマークでも、滑るより走り回るといったイメージが強くなった。

倒木はちょっと細い感じがした。

が、それでも二股のあたりに座るといい感じだった。

静寂の中、鍋がシューシューと音を立て始め、ガスを止める。

蓋をとって、お玉で湯をすくい用意しておいたカップ麺に注ぐ。

飯が終わる頃になると、もう一度着火し湯を温めなおす。

この頃使っていたカメラは、EOS。もちろんデジタルではない。

コーヒーの粉は、いつも部屋のテーブルに転がっていたフィルムケースに入れて持って行った。

まだインスタントだった。

コーヒーを用意すると、もうあとは片づける。

そして、カップに湯を注ぐ。

“豊かな時間”が訪れていることに、自分自身がと言うか、カラダが気が付いている。

残雪の上にドスンと座りなおし、倒木に背中を預けると、ちょうどいい具合にリュックが枕になっていたりするから不思議だ。

そして、こんなシチュエーションが待っているとは予想していなかったが、とにかく山の中で読もうと思って持ってきた一冊を手に取っていた。

星野道夫の『アラスカ 風のような物語』だ。

星野道夫の本を片っ端から読み漁っていた時期だった。

写真家ではあったが、エッセイストとしての彼の文章がより好きだった。

ニンゲンとしての、いや、ヒトとしての魅力がこれほどまでに伝わってくる文章に出会ったことはない…とさえ思っていた。

彼のさまざまなエピソードはもちろん、周囲の友人たち、家族、さらにアラスカで遭遇した風景や生き物たち、そのすべてに対する思いが、ボクにとっては写真よりも文章から伝わってくる気がしていた。

この本はすでに多くを読み終えており、意図したことであったが、フィニッシュを笹ヶ峰の残雪の上で迎えた。

それから昇りつめた太陽のぬくもりを受けて、少し眠った……

この写真はスキャンして残しておいたものだ。

ずっとパソコンのかなり奥の方で保存されていた。

忘れ去られていたと言った方が当たっているかもしれない。

だから尚更、その時の短い時間の経過が鮮明に甦ってきたのだろうか。

今も時々使うアナログとデジタルが一緒になった腕時計は、12時52分53秒を表示。

気温は29度を示しているが、これはやや高めを示すクセになっていた………

金沢の高尾山を初冬らしく歩く

登山道1

12月中頃の土曜の午後、つまり初冬の休日の午後である。

金沢の奥座敷こと湯涌温泉から高尾山方面を歩いてきた。

特に計画らしきものもなく、いつもの湯涌ゲストハウスに立ち寄って、前に見せてもらっていた簡単なマップをもらっていこうと考えていた。

念のため、湯涌ゲストハウスの小屋番・A立クンに電話を入れると、相変わらず週末は客が殺到して、その準備に忙しいとのこと。

久しぶりの晴れ間の中、初冬にしてはやや温(ぬる)い空気が温泉街に漂っている。

邪魔にならないよう、マップをもらったらすぐに山入りしようと思っていたが、いつものように誘われるままカウンターに座ってしまい、彼の淹れてくれた美味い珈琲をいただくことに……

ピアノ・トリオの演奏が聞こえる中、しばらく世間話をし、マップのルートについて彼から話を聞いた。

高尾山…東京にある人気の低山と同名だがカンペキに違う。

湯涌温泉から旧江戸村跡地まで上がり、公園になっている場所の駐車場にクルマを置いた。

途中には、かつて東洋一の豪華さを誇ったと言われる「白雲楼ホテル」の跡地もあり、まだ営業していた時代(自分も20代だったろうか)に仕事で来ていたことを思い出す。

客として来たこともあって、風呂場へ行く道中が妙に怖かったのをぼんやりと覚えていた。

公園の駐車場にはクルマが一台、初冬らしき静寂の中、いかにも淋しそうに止まっていた。

ホントはもっと上までクルマで上がれて、そこから登山道が始まるらしいのだが、何となく長い時間歩きたいという気持ちもあったので、自分もそこにクルマを置くことにした。

A立クンも言っていたが、この季節はやはり早めの下山がお勧めだ。

最初の道2

路面は濡れた落ち葉が重なっているし、すでに陽は西の方に傾き始めている。

途中で引き返すこともアタマに置いて、舗装された道路を歩いた。

日陰に入ると、空気はさすがにひんやりとして顔のあたりにへばりつく。

フリースのファスナーを上げ切り、かなり早いペースで歩くことにする。

一応、小さなリュックにはもう一枚防寒着も。

炭焼き小屋炭焼き小屋の周辺

しばらくして登りと下りの分岐があり、そこを過ぎると炭焼き小屋が目に入ってきた。

もう冬季閉鎖中なのだが、小屋と言うには立派過ぎる。

周囲の木立の間には素朴なベンチも置かれていて、寛ぎのスペースといった上品さだ。

道から外れ、炭焼き小屋周辺の落ち葉の中をわざと音を立てながら歩きまわった。

道に戻ると、しばらくでこれまで登りの流れだったのが一気に下りに変わる。

やや躊躇しながらも、さらに暗くなっていく道を進んだ。

夏であれば、涼味が溢れるのであろうなあと思う。

そう思いながら、ここはまだ登山道ではないということを意識する。

そして、さらに進んで行ったところにある小さなスペースに、三台のクルマが止まっているのを見た時には少々拍子抜けがした。

やはり、ここまでクルマで来る人たちがいるのだ。

登山口の表示があった。

そうか、ここからが登山道なのかと納得するが、ここまでの道も登山道にしていいのではないかと、ふと思う。

そんなことはどうでもいいのだが、やはり土の上に出て山歩きらしくなったのは言うまでもない。

こじんまりとはしているが、それなりに急登もあったりして、なかなかやるじゃないかと気持ちも高ぶってくる。

最近、テレビでも“山番組”が多くあり、自分が忘れていた山歩きのバリエーションなどに懐かしさを感じたりするが、こういう山に来るとそれが肌で感じられる。

しかも、初冬の締まった空気のせいだろうか、余計にグッとくるのだ。

杉木立の道登山道2

急登の途中でようやくヒトと出会った。

意外にもやさしそうな若者だった。

両手にきれいに伐採された枝を持ち、ストック代わりなのだろう。

やや不安そうにこちらが上がって来るのを待っている様子だ。

山やっているナといった感じを受けない分、この山の身近さが伝わってくる。

簡単な言葉を交わして急登を過ぎると、今度はやや高齢な二人組と擦れ違った。

別に期待していたわけでもないが、コンニチワに頷いてくれただけだった。

最後に、今度は山やってます的雰囲気がたっぷり伝わってくる同年代(オトコ)と擦れ違う。

向うから開口一番、「今頃から登るんけ?」の声。

瞬間的にこのヒトは、この山のことを知っているナと感じる。

大概こういうヒトたちがこうした山を守ったり、広く案内したりしているのだ。

足を止め、ええ、行ってみようかと…と答え、そしてすぐに、早足のピッチに戻す。

3時間もあれば、最高地点(奥高尾山)まで行って下りて来ることができると考えていたが、それは登山口からのことで、自分はさらにその下から登っていたことを思い出した。

やや不安になってきた。

マップを見て、とりあえず前高尾山(763.1m)までにしようとほぼココロを決めた。

倒木

倒木が道をふさいだ急登の途中に、奥高尾山と前高尾山の分岐があった。

左上方に向かう滑りやすい不安定な斜面に足をかけ慎重に登った。

すぐに道は平坦になり、落ち葉が一層深くなっていく。

さらに行くと、今度は緩い下りになった。

そして、あれが前高尾かと木立の中の小さなピークを確認した時、前方が開けてきた。

前高尾のピークよりもこの稜線(と言っていいかどうか?)上にいた時の方が印象深いのは、どこかにあった焦りみたいなものが、ここからの眺めで和らいだからだろう。

谷間の風景遠景

まだ空は明るかったが、風は冷たかった。

山にいる実感が、その風の冷たさで湧いてきたような気がした。

もうかなり前のことだが、テレマークスキーで医王山の林の中を滑り降りたことがあった。

滑り降りたというとカッコいいが、実際は転がり下りて来たというのが正しく、最後はルートを誤り、スキーを外して登り返した。

そして、雪明りにほぼ助けられながら、何とか下山したことがあった。

その時も、登り返した場所で顔に当たる冷気が山にいることを実感させた。

カラダは汗をかいていたが、顔だけが冷たかった。

谷間の風景2

伐採され、分断された木がゴロゴロと一応並べられてある。

高くはないが、山域がそれなりの深さを持っていることが実感できる眺めだ。

カラダが一気にまた冷え込んできた。

尾根には初冬の風が吹いているなあと周囲を見回す。

谷間の葉っぱ2

下りも速足ピッチでスタートした。

しかし、さすがに落ち葉の上で何度も足を取られながらのやや難行だった。

特に急な場所では岩の上や泥の上の落ち葉が滑る。

朽ち果てようとしているかつての大木を見ていると、来年の春までこの木は残っているだろうかと余計なことを考えたりする。

辛うじて差し込んでくる木漏れ日の中で、木々が輝いていたりもする。

木洩れ日1 木洩れ日2

登山口までは、あっという間に戻れた。

アスファルトの道は、百名山を自力で完全踏破したアドベンチャー・田中ヨーキ君ばりに駆け足で進んだりもした(もちろん、ちょっとだけだが)。

駐車場に戻った頃には、もう夕暮れが始まっていた。

A立小屋番にメールしたが、返事がこないところをみると、湯涌ゲストハウスは、ゲストたちでにぎわっているのだろう。

湯涌ゲストハウスの美味珈琲をあきらめながら、こういうカタチの山歩きもそれなりに楽しいし、年齢やら体調やら、時間的余裕やらを考えると、もっとやっていこうかなと思ったりする。

初冬らしい締まった空気の中で、無理やり背伸びをしてやった……

西日落ち葉の道葉っぱ5-1葉っぱ6葉っぱ7葉っぱ8緑の葉っぱ

 

 

 

岳沢~晴れときどき曇らずの秋

 奥穂から前穂

上高地については、かなりうるさかった。

20代の中頃に行きはじめてから、多い時には一年に10回以上行っていたこともある。

それも最初の頃は登山のための通過点ではなく、上高地そのものを目的地に行っていたので隅々まで歩き込んでいた。

上高地に関する本もかなり読み込んだ。

「上高地」という名前や字面、その組み合わせのカタチ、そして「かみこうち」という名前の響きなど、何もかもが好きになっていた。

風景はもちろんだが、最初は歴史の話などに強く惹かれていたように思う。

里から登った杣人や岩魚を採る人々の日常を想像した。

そして、槍ヶ岳を開いた播隆上人、上高地と言えばのウオルター・ウエストンや上条嘉門次、内野常次郎、小林喜作、木村殖など、上高地を舞台にして活躍した山人たちの話に、今から思えば自分でも不思議なくらいのめり込んでいく。

上高地に入って最初に登ったのが、現代のように釜トンネルのない時代の徒歩ルート・徳本(とくごう)峠だったということからも、歴史からのアプローチにこだわっていたことが少しは理解してもらえるだろう。

古い話だが、かつて一緒に仕事させていただいた某広告代理店の、某大学山岳部OBの方との酒の席で、徳本峠の話で盛り上がったことがある。

こちらは20代、その方は40歳くらいだったろうか。

冬の上高地でのテント生活や、同じく槍ヶ岳で岩にヘバリ付いたまま一睡もせず過ごした話など、その人の話に若い自分はかなり強い刺激を受けた。

そして、そんな話の中で、この前徳本峠に登ってきましたと口にした時だ。

ええっ、穂高に登る前に、徳本に登っちゃったの? 凄いねぇ。

山のベテランが目を丸くして驚きの視線を送ってきた。

名古屋のちょっとオシャレなバーのカウンターで、生々しい山の話に花が咲いたのだ……

夕方河童橋

上高地に入り始めの頃はマイカー規制のない時期があった。

釜トンネルは今のようなきれいなものではなく、ただ削り掘っただけの岩盤むき出しで、路面も舗装されておらず、中では交差できないから手前で待機という場面によく遭遇した。

そして、そんな時期にはよく出かけていたのだが、マイカー規制がオールシーズンになってからは、八ヶ岳方面に向かう回数が増えて行く。

今の上高地は異常に近い感じの人の数で、もう静かに梓川や穂高の山並みを眺めるといった感じではない。

多分、徳沢から横尾あたりまで行けばまだ静かな雰囲気に浸れるのだろう。

思い切って季節外れのウィークデーを狙うのもいいのかも知れない。

二三年前に晩秋の上高地に入ったが、その時はさすがに人の数は少なかったように思う。

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河童橋付近から岳沢

なかなか本文に入れないでいたが、ここからが本文………

上高地の岳沢を終着点とする登山者はまずほとんどいないだろう。

涸沢までならいるかも知れないが、岳沢となると登って来たという実感も生まれにくい。

涸沢は奥が深く、周囲の風景も圧倒的だ。

しかし、時間的ゆとりがないとか、カラダに支障があって無理が出来ないという場合、岳沢も決して悪くないということを今回改めて知らされた。

今回出かけてきたのは、まさにその二つの因果関係からの選択だ。

あと強いて言えば、パートナーである家人の体力・経験も関係しており、その上で穂高の山岳風景をしっかりと見ることができるという場所を選んだ。

いつものように平湯の「あかんだ駐車場」からバスに乗る。

座席は最後尾……混んでいる。

話はまた飛ぶ………

昔、薬師岳の閉山山行に行っていた頃、空調もよくなく、全く快適ではないバスの最後尾に座らされたことがあった。

雪混じりの雨が降る冷え切った下山時で、バスの中は異様なくらいに暖められていた。

そして、有峰林道のくねくねした細い下りである。

ほとんどの人が車酔いし、バスを下りると道端に嘔吐していた。

そんなどうでもいいようなことを思い出したが、今のバスは違う。

しかも、今の上高地行バスは、安房峠のあの超ジグザグ道を通らないのであるから素晴らしく快適なのだ。

上高地に着くと、予想していたとおりのヒトの山だった。

トイレを済ませてすぐに河童橋へと向かう。時計は10時過ぎだったろうか。

河童橋を渡って梓川の右岸にまわり、写真を数枚撮ってから歩き出した。

自分の感覚では、この右岸側の木道は新しい上高地だ。

だからかどうか、しばらく歩いて行くうちに、目的にしている岳沢への登り口がどこなのか分からなくなった。

湿地のあたりで確認できたが、30年以上前に岳沢方面に入って以来、今まで足を踏み入れていないことに気が付く。

相変わらず遊歩道の木道には多くの人たちが、国籍も入り交えて歩いている。

かつては、道行く人たちの間で交わされていた「こんにちは」の声も今はほとんど聞くことはなくなった。

これだけの人たちと挨拶していたら、声も枯れてしまうだろうし、日本語で言っていいのかも問題だ。

登り口の池1

いつ見ても美しい湿地の風景を眺めた後、岳沢への登りに入るとまったく空気が変わった。

すぐに、自分の息づかいも感じ取れるくらいの静寂に包まれはじめる。

葉を落とし始めた大木の隙間から木洩れ日が差し込み、多くの倒木や苔などに注がれている。

登り口の苔

不意に驚かされるほどの野鳥たちの鳴き声や飛び立つ羽音、そして嘴で幹を突く音などが響く。

道は適度にアップダウンを繰り返し、ところどころに木道や簡易な木の階段なども備えられてある。

登山道3

山の人たちの心配りが嬉しい。

どこか神聖な気持ちになって足を運んでいる。

ほとんど人の声がしないまま登って行くと、はじめて上から下りてくる人影が見えた。

外国人の、いかにも自然好きといった男が独り歩いてきた。

上にある岳沢の小屋に泊まっていたのだろうか。

軽装だから、穂高からの下山のようには見えない。

静かに挨拶を交わすと、家人が「やっと人に遭ったね」と言った。

上高地の喧騒を経て来ると、この静けさは寂しさにも通じるのかも知れない。

時々、樹林の切れ間があると、西穂高の山並みが見えたりする。

途中にある「風穴」も、文字どおり斜面の石と石の間から冷気を感じて楽しい。

風穴

岳沢の小屋までではなく、その手前の展望のきくところまでを目的にしていた。

予想タイムでは一時間半もあれば到着する。

家人もそろそろ疲れはじめたかと思った頃、今度は若者が独り軽快に下りて来た。

その雰囲気から、小屋のアルバイトあたりではないだろうかと勝手に思う。

森林限界は近い?というような聞き方で、樹林帯から抜けるまでの距離を確認したかったのだが、彼は首を傾げてすぐには答えてくれなかった。

こちらが岳沢の先端の展望が開けるところと言い換えると、ああ、それならすぐですと明快な答えが返ってくる。

このあたりの森林限界と言われると、どこなのかよく分からないので…と彼は言った。

なるほど、彼の言うとおりだった。

展望1

そして、若者に言われたとおり、少し急な上りになった先に岳沢の先端部分が見えてきた。

思わず声が出るくらいに、見事な、文句なしの青空が待ち構えている。

石ころだらけの岳沢をあらためて認識しながら、西穂高と奥穂高を見上げる。

色付いている木々の葉も山岳風景の大きなアクセントとなり、しばらく感動の目で周囲を見回していた。

黄色の木

今流行の山ガール二人組の先客がいた。

ピカピカの道具を出して、お湯を沸かしている。

コンニチハの代わりに、サイコーですね!が挨拶になった。

彼女たちを通りこして、より高いところへと登った。

ここは登山ルートではない。ルートは樹林帯の中に延びていて、そのまま岳沢小屋へと繋がっていく。

適当な場所で、ランチタイムとした。

朝作ってくれた握り飯も玉子焼きも格別に美味い。

彼女たちのように温かいものを作ろうと最初は道具を用意したのだが、前夜の段階でそこまではいいかということになった。

リュックも小さいものにしていた。

だが、無理してでも持ってくれば良かったかなと後悔………

家人は、下った後の「五千尺」のコーヒーとケーキに思いを馳せている。

ランチの後、家人を残しボクはさらに大きな石の上を登った。

特に風景が変わるというほどではなかったが、それでも少しずつ近付いて来る穂高の壁が気持ちを高ぶらせる。

西穂と木

二年前の秋、久々の本格的な山行で自分の膝がおかしくなっていることを悟った。

同行した娘の厄介になりながらの無残な下山だった。

少しずつ馴らしていこうという企みもなかなか順調とは言えず、かつての通過地点が今の自分には目的地点になっていることに納得した。

今夏の美ヶ原も、秋の始めの八方尾根もそんな山行である。

ただ、目に届くものは本格的な山を感じさせるものにしたいと思っていた。

そういう意味で、岳沢はさすがに上高地を出発点とする山の世界を実感させてくれた。

こんな山岳風景を見るのは今年最後だろうなあと思いながら、カメラのシャッターを切る。

奥穂の肌

振り返って見下ろすと梓川と上高地のバスターミナルあたりが霞んで見えている。

そして、目線を上げると霞沢岳方面の山並み。

あの山並みの延長に徳本峠がある…… ふとそんなことを思った。

何十年も前の独身時代、徳本峠へ登った。

その時のパートナーは、今岳沢の岩の上に座っている家人だった。

今と違って登山中すれ違う人もなく、古い徳本峠小屋には、ヒマラヤ帰りでたまたま留守番をしているという男が独りいた。

何もなかったが、丸太によって支えられた上高地の歴史の中の小屋に来ることができただけで自分は満足していた。

しかし、今から思えば、いくら自分の趣味や憧れとは言え、あのような場所へうら若き乙女を連れて行くのは普通ではなかったのかも知れない。

上高地見おろし

そんなことを考えていると、上高地の方からゆるやかに風が一団昇ってきた。

大きな薄い布を広げて、その上を風が吹きあがって来るような感じだった。

昔のことなのだなあと思い、上高地が好きだったのだなあと思う………

再び樹林帯の道に戻って下り、そして、遊歩道に出て雑踏の中を明神まで歩いたが、そこで感じた俗っぽさにはかなり落胆した。

上高地をそのように思うのはよくない……

自分自身にそう言い聞かせながら、さらに長い歩きの時間に耐えなければならなかった。

そして、来年は春の上高地から始めたい…と思ったりもしていたのだ。

植物1梓川1木々

 

 

美ヶ原の夏歩き

美ヶ原の道

深田久弥は、『日本百名山』の中で、山には登る山と遊ぶ山があると書いていた(と思う)。

そして、遊ぶ山の代表格として霧ヶ峰や、この美ヶ原のことを書いていた(と思う)。

カッコ書きが続くのは、もう内容を忘れてしまったからで、その本自体もどこへいったか分からなくなっている。

そんなことを後で振り返りながら、8月の初め、30年ほどぶりに信州の美ヶ原へ出かけた話を書いている。

美ヶ原はカンペキな遊ぶ山だ。

その美ヶ原に、30年以上行っていなかった。

回数で言えば、3回以上は確実に出かけた記憶がある。

ただ、本格的な山行に出かけるようになってからは、美ヶ原は目的地の対象にならなくなっていた。

美ヶ原は、霧ヶ峰の延長にあるイメージだ。

白樺湖から車山高原へと上り、ビーナスラインを走り続けて霧ヶ峰から美ヶ原に辿り着く。

このルートは、20代の頃の夏のシンボルのひとつだったと言っていい。

真夏の高原道を歩いた記憶は、鮮明に残っている。

で、美ヶ原なのだが、今回は松本側から上がった。

上がったと書いたのは、もちろんクルマでだからだ。

松本の街中をスルーし、浅間温泉からのらりくらりと、そして何度も何度も深いカーブを曲がりながら、一気に高原地帯へと上がって行く。

申し訳ないくらいに楽をさせていただきながら、最後の駐車場からも、わずかに歩いただけでもう2000m近い山岳風景だ。

同じルートで一度美ヶ原に来たことがあったことを思い出したが、いつのことか覚えていない。

頂上

王ヶ鼻から、最高地点の王ヶ頭へ。

特に厳しくもない緩やかな登行だが、容赦なしの直射日光だけが難敵になってくる。

同行の家人は、今や父親を抜いて山の強者となりつつある長女の山ハットを深めにかぶり、360度に広がる高原風景に目をやりながら暑さに耐えている。

王ヶ頭へは途中からトレッキングルートに入り、出来るかぎり山歩き気分を保持しようということになった。

短い急登を経て、難なく王ヶ頭に到着。

汗を拭きながら、しばし眼下から目線高までの風景を楽しんだ。

一気にせり上がっているこの山域では、眼下に見える風景の立体感がとてもいい感じだ。

眼下のどかな草原風景と、削り落とされた壁に突き出る岩場のコントラストが山岳景観の醍醐味を感じさせる。

岩と眼下

楽(ラク)して、こんな風景に浸っていてはと申し訳ない思いもしないではない。

のんびり眺望を楽しんでいると、若い女性三人組からシャッター要請が来てますと家人。

スマホによる撮影は苦手だが、何とか無事済ませると、今度は向こうからお撮りしましょうか的返礼があった。

ではと、夫婦で石碑を挟み、お言葉に甘えることに。

山ではやはりいいニンゲンたちばかりだ……

夏の木立

美ヶ原そのものは、やはり台地状の高原に広がる牧場がメインイメージだろう。

すぐ横にあった山頂ホテルの脇を抜けて、その目抜き通り的道を歩くことにした。

昨年の9月(山ではもちろん深い秋だった)、北アルプスの薬師岳で痛めた両足の爪や膝や、その上の筋肉やら、さらに同行の長女にかけた迷惑による屈辱や自分自身への情けなさやらが、どれくらい克服されているか?

今回の美ヶ原行きにはそのチェック的意味合いも含まれていた。

しかし、歩き始める前、ベンチで一人一個ずつのおにぎりを頬張っているうち、こんなところで諸々の痛みと遭遇していたのでは問題外だなという思いが湧いた。

時間は昼過ぎくらいだったろうか。

いよいよ、これこそ美ヶ原そのものという空間へと歩き始めた。

人の数は案外少ない。後で分かるのだが、人はこれから増えることになっている……

牧場

牛たちが見えてきた。

歩きながらその牛たちを見ていると、黒牛が一頭グループから離れはじめ、そのうち歩きが走りに変わって、どんどん山の方へと登って行く。

黒牛のたて

なんだかおかしんじゃないかと家人と話していると、その黒牛はさらにスピードを上げ、テレビ塔がある最高地点にまでよじ登ろうとしていた。

多くの牛たちは、この楽園のような高原で、自分たちには食い尽くせないほどの牧草と水と塩さえあればいいと思っている……と思えるのだが、彼(彼女かも?)にはそれだけでは満足できない何かがあるのだろうか?

もはや小さな黒い点のようにしか見えなくなった。

そうこうしているうちに、急に対向してくる人の数が多くなったのを感じた。

そうか、やはり美ヶ原はビーナスラインからのお客さんが圧倒的に多いのだ。

かつて自分もそうだったように、ビーナスラインの上品な高原ドライブを経て、さらにこの美ヶ原の上品さに浸る……

それがより美ヶ原を魅力的に見せる演出になっているのかも知れない。

とまた、そんなことを考えているうちに、鐘の音がうるさいくらいに響き渡る「美しの塔」付近に到着。

うるさいくらいに聞こえるのは、鐘が壊れているからではなく、人が連続して鳴らしてゆくからだ。

特に子供たちが集まると、はっきり言ってかなりうるさい。

ようやく静かになり、昔、ここで撮った写真の情景を思い出している。

モデルチェンジしたホンダ・アコード(ハッチバック)を走らせていた頃だ…と、そんなことも思い出した。

一緒にいたのはM森という大学の親友で、彼の家がある山梨の町からこの辺りまでの山域を旅していた。

二十代の自分の旅趣味の中では、珠玉の類に位置される豪華なエリアであり、数日間のパラダイスだったのだ。

美しの塔から離れ、戻ることにした。

平凡な牧場の道より、トレッキングのコースの方がいいと家人が言う。

当然こちらもそう思っていた。

スポーツセンターに通っている家人は、最近メキメキと体力増進を図っていて心強くなっている。

左側がすっぱりと切れ落ちた崖の上に道が延びる…… と言うと大袈裟だが、一応地形上はそんな感じで、突き出た岩の方へと足を進めると、それなりにスリルがあったりする。

高山植物が美しく、蝶などもその上で上品に舞ったりしていて至れり尽くせりだ。

蝶1

 

かなり本格的に身を固めたトレッカーや、最近流行りの山を駆けめぐる青年たちもいて、美ヶ原のバリエーションに富んだ楽しみ方に納得した。

そう言えば、ビーナスライン方面から入った自転車チームは、美ヶ原を縦断し、反対側(松本方面)に下って行った。

美ヶ原が、遊ぶ山であることの証を見せつけられたような楽しい光景だった。

夏道1岩と眼下2風景

トレッキングコースは、気持ちのいいアップダウンを繰り返しながら谷を巻いて続いていた。

夏道2

かなり歩いたところで、また急登の道に出合い、そこを登って頂上のホテルへ。

遅くなったが、ちゃんとしたランチは、そのレストランのハヤシライスになった。

しかし、食後に考えていた、ちゃんとしたデザートとしてのソフトクリームは最後の歩きを考慮して、駐車場横にあった店でいただくことに。

食後はテラスの方に出て、標高2000mから見上げる久々の夏空を楽しむ。

入道雲と平坦な雲

入道雲が少しずつ形を変えていくのを、高原の風に吹かれながら眺めるという懐かしい時間が訪れていた。

ビーナスラインの方から入り、歩いてきた多くの人たちにとってはこの辺りが終着点だ。

ここから来た道を戻る。そのせいか、ほとんどの人たちがこの場所で大休止する。

花1

駐車場までの下りで、足先に少し痛みを感じた。

去年の長女のように、家人が先をどんどん下って行く。

今回の美ヶ原は、秋の北アルプス山行のための足慣らしと位置づけているが、果たして大丈夫だろうかと、家人のうしろ姿を見ながら不安な気持ちになる。

しかし、まあ何とかなるだろうと、いつものようにラッカン的思考に切り替えると、最後の木立の中の道の涼しさが予想以上に増したように感じた。

残念ながら、駐車場横の店にはソフトクリームはなく、家人は落胆しながら普通のカップアイスを食べていた。

午後の遅い時間。日差しはまだまだ強かった。

ゆっくりと下った先に浅間温泉があり、そこの小さな旅館に予約を入れてあった。

冷房が間に合わないくらい、盆地の熱にその小さな旅館は侵されていたが、その熱に対抗するくらいの熱湯温泉がまた痛快であった。

もちろん風呂上がりの冷やしビールも格別で、少し痛みの残る足先を指で揉みながら、秋の北アルプスに思いを馳せていたのだ………

オレ

キゴ山で雪に遊ばれた日

雪平線

二月最後の日は土曜日で、それまでの忙(せわ)しなさと、それからの間違いなく訪れる慌ただしさに挟まれた、完全休みの一日だった。

二月の終わりという響きも何となくいい感じで、加えて天気もそれなりによさそうな雰囲気になっており、数日前から自然(特に雪)の中へと出かけようと決めていた。

しかし、そう思いつつも、二三日前になると、よく予定が埋まっていく。

しかも、一日のうちの二、三時間という埋まり方もあったりして油断はできない。

その日も前日の昼間はおとなしくしていて、夜家に戻ってからも静かに酒を飲んで過ごしていた。

そして、当日の朝。まだ電話、メールはない。

家人がめずらしく出勤の日となっていて、しかも半ドンの後、お友達とランチに行く予定だと言う。

家人も最近の亭主のお疲れ度というか、楽しみの不足度について理解を示していたので、ここは大好きな雪の山なんぞへ行って来た方が、心身共によいのよと言ってくれた。

ところがである……

家人が出かけた後、速やかに準備に入ったところで、スキーのストックがいつもの位置にないことに気が付く。

二畳半の自分の部屋に、整然とカッ詰められている山の道具のうち、テレマークスキー用の皮のブーツに差し込んである(はずの)ストックがないのだ。

物置なども念のために見てみるがない。

そして、思い出した。

昨年の夏、薬師岳でのトレーニング不足による苦闘の際に、ストックに頼りすぎて、繋ぎ目などを壊していたのだ。

その壊したストックはどこへやったのか……?

とにかく、これでテレマークは出来ないことが分かった。

こうなったら、登りに行くだけだと腹を括る。

行き先も曖昧なままクルマを走らせた……

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時計は9時半をまわっている。

一番行きたいのは立山山麓だが、今からではきつい。

しかもスキーが出来ないのであれば意味もなく、近くの低山を登り歩いて来るくらいでいいだろう。

というわけで、医王山方面へととりあえずクルマを走らせることにした。

医王山の手前に位置するキゴ山には金沢市営のスキー場がある。

その駐車場にクルマを置いて、キゴ山のてっぺんまで登って来ようと決めた。

新雪の木々雪の中の小屋

裸木には、うっすらと雪が載っている。

昨夜は冷え込んだから、いくらかの降雪があったみたいで、雪面の白さも強烈だ。

一応、軽い雪中行軍の出で立ちになって歩き始めた。

そして、除雪された道から奥へと進もうとしていたが、すぐにいつものクセでいきなり雪の中へ。

足跡

たしかに近道ではあるが、スキーもカンジキも持っていないのはかなり辛い。

予想していた以上に積雪も多く、しかもアップダウンもあったりして思いのほか苦戦を強いられる。

時間的には無意味に近かったが、一応、距離的には大幅にショートカットして、再び登りの除雪された道に出た。

このすぐ上で、キゴ山スキー場の最上部から滑り降りてくる林道コースと出合う。

このコースは市民スキー場らしく、超ファミリー向けで超ゆったりしているのが特徴だ。

登り口トレイル

案内板があり、その横にカンジキによる踏み跡を見つけた。

コースに沿って歩かずに、直登している二人組のカンジキ跡だ。

シメたと思って、その踏み跡をトレースさせていただくことに。

しかし、最初の傾斜の緩いところは良かったが、徐々に傾斜がきつくなってくると、足の取られ方が予想以上に激しくなっていく。

一歩ごとに深く、膝どころか太腿あたりまで潜り込んでしまうと、身動きもとれなくなる始末だ。

まだ先は長そうだと覚悟を決めて行く。

ようやく一旦コースに飛び出して、一息つく。

上から幼い女の子を従えてのママさんスキーヤーが降りてきた。

女の子が奇声を上げたりすると、ガマンよガマンよと振り返りもせずに叫ぶ。

こっちの姿に驚いたのか、女の子が転んだ。

こういう場合、手を差し伸べてあげるべきかどうか迷うが、厳しい母親に叱られそうなのでやめにした。

その代り、ニコリと笑って頑張れと小声で女の子に伝える。

女の子は倒れたまま戸惑っていた……

コースはほんのわずかに登ったところで右に大きくカーブしていて、その真正面にまた直登の踏み跡が見えた。

そこへ着くまで迷っていたが、そこまで来てしまうと、足が自然と直登の方へと動き出す。

しかし、そこからの直登はさっきよりも一段ときつくなり、途中で引き返しコースを歩こうかと思った。

だが、なかなかそう簡単に自分自身が許してくれない。

芽吹き1大木と雪

まるで人生そのものだ……などと、半分諦めながら直登を繰り返す。

膝辺りまで潜ってしまうくらいはほとんど平気だが、それ以上に足が入り込んでしまうと、それから抜け出すたびに片方の足が深く潜り込む。

木の幹や枝などが手元にあればまだいいが、何もない場所では拳を雪面に突っ込んでチカラを入れる。

なぜ、カンジキを持って来ないのだと、山に理解のある人は必ず言うだろうなあと思いながら、情けない登りが続いた。

そんなところへ、上の方から話し声が聞こえてきた。

姿はまだ見えないが、ひょっとするとこの踏み跡の持ち主たちかも知れない。

そう思いながら、悪戦苦闘しているうちに、上品そうな熟年夫婦が下りて来た。

カンジキが心地よく雪面をとらえて快適に下山中といった雰囲気だ。

互いの距離が10mを切った辺りになって、トレースさせてもらったこと、その踏み跡を穴だらけにしてしまったことなどを詫びた。

ご夫人の方からは、寛大なお許しの言葉をいただき、ご主人の方からは、「ゴボッって、大変でしょう」と、嬉しい励ましの言葉をいただいた。

特にご主人からの「ゴボる」という言葉にはホッとした。

自分自身の状況を、「カンジキがないと、やはりゴボりますねえ」と伝えたかったのだが、その地元言葉が通じるかと懸念していたのだ。

安心して「こんなにゴボるとは、甘くみてました…」と答える。

気持ちを入れ直して、最後の短い急登へ。

雪原と青空医王山

久しぶりにたどり着いたキゴ山のてっぺんは、予想以上に晴れ渡り、金沢市内も日本海も、医王山の山並みも美しく見渡せた。

雪に半分ほど埋もれた展望台に登って、コンビニおにぎり三個で昼飯。

そしてコーヒーと、デザートは小さなドーナツと柿の種一袋。

山で食う柿の種は、なぜかコーヒーにもよく合う。

靴で踏み固めた雪上ベンチは快適だったが、長く座っているとケツが冷たくなる。

“凍ケツ(結)”状態になる前に立ちあがり、雪が凍って滑りそうな階段をゆっくりと下った。

ウサギ足跡縦断ウサギ足跡横断

あとは、台地上になっている雪野原を思い切り歩きまわるだけ。

何年か前に来た時は、テレマークスキーを履いてここまで登り、そのまま奥まで入って、そこで雪上ランチを作って食べた。

そのあたりまで行ってみようと、とりあえず緩やかな雪原を下ることにする。

しばらくして、下りは上りに変わり、ここでも雪は深く、ミニラッセル状態だ。

てっぺんの足跡遠いスキーヤーと青空

近くで自分を見た人は、こんなオッサンだったのかと驚くに違いないと思う。

それほどまでに気持ちははしゃいでいる。

しゃがみ込んでカメラを構えたり、大きく背伸びしたり、本人はとにかく楽しくて仕方がない。

まだまだ楽しもうと足を踏み込んでいった矢先、遠くから独りの山スキーオトコが近付いてくるのが見えた。

蛇の道は蛇。一目でそれと分かる同類の匂いがプンプンしてくる。

しかし、彼はこっちを同類と見てくれなかったみたいだ。

距離はあるが、こっちの視線を無視してすれ違って行く。

それもそのはず、こんな雪原をカンジキもスキーも履かずに彷徨っているなど正気の沙汰ではない。

彼のツンと吊り上ったようなクロカンスキーの先端が凛々しく見えた。

まっさらな雪原に残した自分のズタズタなトレイルを振り返りながら、彼の雄々しい姿も見つめた。

縄張り争いに負けた狼のような気分だ。

青空とクロスカントリークロスカントリーの男

休み明け、ストックを買いに行くことをその場で決めた。

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下山はまた樹林帯に入っていった。

コースをのんびり下ればいいのにと、もう一人の自分が言っているのだが、もう一人の自分は、いやもう一度難コースへ行けと言っていたのだ。

ニンゲン、ふたつの道が目の前にあったら、より険しい方の道を行けと誰か偉い方が言っていたのを思い出した。

そんな青年向けの言葉を真に受けなくても…と、またもう一人の自分が言っていたが、もう引き返すこともできなかった。

太陽と雪平原

下山の途中、荒い息を弾ませながら、湯涌ゲストハウス自炊部へ電話を入れると、番頭・Aが洗い物中ですとのこと。

彼の淹れてくれる美味いコーヒーが飲みたくて、雪を踏む足にチカラを込めたのだが、時間短縮には全く至らなかった………

雪の上の影

 

18年ぶり父娘山行の反省

おねえと剣岳

還暦山行…… どこかでこんな言葉を聞いたことがあると思ったのは、その山行から帰って三日後だ。

行く前は、そんなことなど考えてもいなかった。

しかし、久しぶりの山行でズタズタになって下山してきたことを思った時、自分の年齢を考えた。

そして気が付いた時には、自分が60歳であり、一般的に還暦であって、そんな自分が登山をするのであるから、これはもう還暦山行で間違いないと思うしかなかったのだ。

何だかいきなり初老の無気力オトッツァンの書く文章みたいになってしまったが、とにかく、そういうところから話を始めるしかない……

 

今から18年前の夏休み、翌日9歳の誕生日を迎えるという長女を連れ、北アルプス薬師岳へとつながる登山口・折立にボクはいた。

未明に石川県内灘の自宅を出て、一気に折立まで来ていた。

幼い頃からとにかく足が強かった長女は、まだ幼稚園に入る前に夏のスキー場の斜面を一気に登って行ったり、一輪車なども自由に乗りこなした。

小1の時には長距離走で2位に入るなど、そのパワーの凄さを見せつけていた。

山へ連れて行きたいという思いも、すでに早いうちから持っていた。

どうして9歳になろうという時にしたのかというと、その年の誕生日が月曜日で、日月で登山ができるめぐり合わせだったからだ。

ボクは月曜日を休みにし、少しでも小屋の混み具合が緩むと思われる日曜日に小屋泊まりの予約をした。

その頃、すでに薬師岳登山のベースとなる太郎平小屋の五十嶋博文マスターと親しくさせていただいており、それがあって気持ち的には楽だったのだ。

日帰り用の小さなリュックを背負った長女は、ボクの想像したとおり、全く弱音を吐かないまま黙々と最初の樹林帯を登った。

飴を持たせていて、自分でそれを取り出しては口にし、いつも口をモグモグさせながら歩いていた。

「アラレちゃん」の看板が目印となっている最初の休憩場所でも、長女は疲れた表情ひとつ見せず、カメラを向けると照れ臭そうに笑った。

樹林帯を抜けて太郎小屋までの登山道は、長女にとって単調なだけだったかも知れない。

ボクは気が付かなかったが、やはりまだ美しい山岳風景に感激するといった感じではなかったのだろう。

石が敷かれた登山道の、その石を囲うためにある角材の上を長女は楽しいのかどうなのか、こちらには分からないまま歩いていた。

石の上を歩いたほうがいいよと言っても、こっちの方が歩きやすいと長女は答えた。

左手には、明日登る薬師岳の美しい稜線が見えている。

天気は全く心配なかった。

太郎小屋に着くと、マスターが「おお、来たか」といつもの笑顔で迎えてくれた。

ボクたちは二階の山岳警備隊の向かい側にある個室にお世話になった。

ボクも初めて使わせてもらう部屋で、二人で使うには勿体くらいの広さだった。

日曜ではあっても、やはり夏休みだ。

夕食が数回に分けられるなど、混み具合はさすがだ。

マスターから夕食はスタッフと一緒にと言われていたので、長女は少し腹を減らしていたみたいだったが、ボクたちは客の食事が終わるのを待った。

山の夕食時間は早い。バイトさんに呼ばれて一階の食堂へと向かう。

奥の窓際のテーブルに皆が勢ぞろいしている。

正直言って、夕食は何を食べたのか、ビール以外は覚えていない。

長女はカンペキに緊張していた。

マスターが大きな握り飯を、モルツの500mlと一緒に食べていた。

その横で本当に小さい長女が、静かに箸を動かしていた……

 

部屋の窓からは、自分でもそれまで目にしたことがないほどの星空が見えていた。

窓辺に長女を呼んだが、しばらく見上げていただけですぐに部屋の布団の上へ。

持ってきた夏休みの宿題?を広げ始める。

そして、それが終わると、ゲーム。

何を話したのか、何を思ったのか覚えていない。

ただ、時間が過ぎていき小屋の明かりが消えた……

 

翌朝、つまり長女の9回目の誕生日の朝、マスターが貸してくれたナップザックに防寒具などを入れて、小屋を出発した。

6時半頃だろうか。

テント場を過ぎた岩場の急登に少し緊張したみたいだったが、小さな流れを渡る時には楽しそうにも見えた。

薬師平では、遠くに槍ヶ岳が見えていた。

長女はその奥へと足を進め、目の前に広がった雄大な風景に見入っているようすだ。

ガレ場の登りが続くが、長女はしっかりとボクについて来る。

途中の薬師岳山荘で水分補給をし、その上のジグザグ登行に備えて上着を着せる。

ここからは吹きさらしの稜線歩きだ。

単調にジグザグを繰り返すと、いよいよ頂上への最後のアプローチ。

岩がごろごろする子供には少し危険な場所もあるが、特に気を遣わせることもなく進んだ。

そして、もう頂上まで残りわずかというところで、長女に前を歩けと告げた。

全く問題ないように長女はボクの前に立ち、そのままどんどん歩いて行く。

その姿を見て、やはりボクも親バカになってしまった。

目頭が熱くなってくるのだ。

そして、ついに登頂。

直前に擦れ違ったパーティの女性から、「凄いねえ、何歳?」と問われ、今日が9歳の誕生日であることを告げると、そのパーティはわざわざ引き返して、ボクたちを、いや長女を祝福してくれた。

ただ長女は、自分が男の子と間違えられたことに釈然としない顔をしている。

そう言えば、マスターも最初、男の子やったっけ?と聞いてきた。

 

太郎小屋に戻ったのは昼少し前。

長女は眠いのだろう、小屋の前のベンチに寝そべっている。

またマスターはじめ、スタッフたちと昼食をとり、マスターから記念のバッヂをもらい、小屋前でマスターとお世話してくれたバイトの女の子と一緒に記念撮影。

午後になって、下山を始めた。快調な足取りだった。

 

18年後、27歳になった長女との二度目の山行が実現した。

ボクは少なくとも5年以上は、本格的な山から遠ざかり、靴なども傷んだままにしていた。

長女との山行を決めてから、生涯で4足目の山靴を買った。

しかし、カラダの準備はほとんどしていなかったと言わざるを得ない。

スポーツセンターで、マシーンの角度を最大限にして歩行訓練などをしていたが、3000m級はそんなに甘くはなかった。

今回の薬師岳山行で、自分の肉体的な弱さを実感した。

登りはまだしも、下りでは全く歯が立たなくなっていた。

かつてはコースタイムの半分近い時間で歩いていたといっても、それは今の長女の話になっていた。

ボクは太郎小屋からの下山道で、ガレ場で踏ん張れなくなり、樹林帯の下りでは、大きな木の根っこのある段差を下りることができなくなっていた。

二度も転んだ。膝が崩れたと言った方がいい。

最後は、長女がボクの重いリュックを前で担ぎ、ふたつのリュックを持っての下山となったのだ。

薄暗くなった樹林帯の下りは、正直言って焦った。

そんな時には、また熊のことなども考えたりして冷静さも欠く。

下山のコースタイムを一時間もオーバーして、折立に戻ったのは午後5時過ぎ。

クルマも長女が運転して、夕闇の迫る有峰の谷間を下った。

 

長女には申し訳ない山行だった。

思い出の薬師岳であったのに、最後にはつらい思いをさせてしまった。

そういう結果を招いた父親の責任は重大である。

ただ、少しの救いは、太郎小屋の前でいただいた生ビールの美味さや、そのあと好天の中で楽しむことができた美しい山岳景観など、長女も北アルプスを大いに楽しんでくれただろうという思いだ。

そして、もう一度、なまったカラダを鍛え直すことにした。

リベンジは来年夏の山行。それまでにもスキーではない春山行もあるだろう…?

長女にもう一度、強い父親を見せない限り、リベンジはあり得ない。

もう二週間ほどが過ぎたし、そろそろ山靴の汚れなど落とさねば。

当然、長女の靴も父がしなければならないと思っている……・

薬師岳

薬師平

太郎山の道1

頂上から槍

 

布橋とプモリと芦峅寺と

布橋1

めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。

当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。

当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。

それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。

立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。

天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。

目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。

布とあるが、アーチ型の木橋だ。

数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。

布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。

そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。

もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。

ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。

それが自分にとっての常道?でもあった。

ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。

今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。

緊急の決断が求められた。

遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。

彼女の目はそう訴えていた。

その目に家人は負けた。

正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。

たしか、家人も一度見ているはずである。

ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。

そのことに期待することとした。

われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。

そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。

遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。

正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。

予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。

畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。

それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。

遥望館

 

トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。

この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。

 

まんだらのブリッジ

 

遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。

このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。

ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。

恐れていたことが現実となった。

ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。

もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。

両方共が当たった。見事に。

空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。

二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。

ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。

うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。

こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。

久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。

覚えていてくれるかも半信半疑だ。

予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。

ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。

家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。

プモリのテーブルと窓

砂糖入れ

 

相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。

もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。

中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。

その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。

帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。

実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。

そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。

Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。

真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。

大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。

名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。

外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……

プモリの庭の花

プモリの庭

 

グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。

懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。

ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。

先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。

その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。

その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。

布橋タイトル

明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。

その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。

この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。

いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。

橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。

家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。

ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。

帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。

石仏坂

上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。

これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。

立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。

それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。

教算坊

立山大宮

すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。

芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。

今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。

立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。

そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……

 

山の空と妄想と

山の雲

今でも山を見ていると、不思議と永遠な何かを思ったりする。

山は空に繋がっているからだと思っている。

空にある雲も同じだ。

雲はそんな空に浮かんでいたり、空を流れていたりするからだろう。

昔のメモを見ながら書く……

かなり前のことだが、北アルプス奥黒部の山々を見渡せる場所で、岩の上に寝っころがり空を見ていた。

午後の空は、青が一層濃くなったように感じられ、わずかに浮かんでいた雲たちもどこか遠慮しがちだった。

しかし、時間がたつにつれ、その雲たちの存在がぽつんぽつんと空に広がり始めた。

気が付くと、自分より少しだけ高い位置で、並びながら静かに浮かんでいるようになった。

そして、その様子を見続けていると、なぜか激しい無力感に襲われ始めたのだ。

それは自分の中で、死後の世界のようなものに繋がっていた。

そして、西日が薄く広がってくると、あまりにもその気配が強くなりすぎ、息苦しささえ感じるようになってきた。

空の上に、また空がある。

その空はもうどこまでも続く空で、下界で見ていた空とは違った。

雲の上にも、また雲がある。さらに、その上にも。

宇宙が昼間の状態で明るく広がっているのだ。

実際はそうではないことも知っているつもりだが、その昼間の宇宙が永遠という感覚を煽っている。

そして、自分はその昼間の宇宙の永遠の中に、ぽっかりと浮かんでいて、二度と戻れない……

ふと、家族のことを思った。

自分が死んでいく時の家族のことだ。

そんなことを思うこと自体で、すでに自分が弱い存在として今あることも感じた。

空を見ていることに耐えられなくなり体を起こすと、空はやや前方に広がり始める。

ダイナミックな稜線が、広い視野の中に戻ってくると少しホッとした。

身体が冷え込み始めていることにも気が付く。

傍らには、空っぽになって握りつぶされたモルツの空き缶とカメラ。

現実に戻ったのかどうか、山にいるから、その感覚もおかしいのだが、とにかく下の山小屋に向かって、来た道を下り始めた………

山旅の歴史も面白い

100年前…

 年末の金沢駅は予想していたほどの混雑ではなかった。帰省する次女を迎えに来たのだが、駅に着いた途端、バスが20分ほど遅れているらしいとメールが入ってくる。

 少し荒れ気味の天候だった分、ちょっとは覚悟してきたのだが20分は長い。何しろ到着予定の時間にもまだ10分ほど達していないのだ。

 こうなると行くところはコーヒー屋さんしかない。ただ、ぼんやりとコーヒーを飲んでばかりではつまらないので、その前にコーヒー屋さんでの時間を有効に過ごすための本が必要だ。

 幸いにも金沢駅の商業ゾーンには本屋さんがある。すぐにそこへと向かった。

 意外とこういう時にいい本との出会いがあったりする。思惑どおり文庫のコーナーに向かって行くと、すぐに平置きになった一冊の本が目に飛び込んできた。

 『百年前の山を旅する』。タイトルも装丁もよかったのは言うまでもなく、中をパラパラめくってみると、さらに確信が深まった。すぐに決めた。

 出張の電車に乗る前とか、都会の街中のように歩いている最中の書店立ち寄りには、いい本との出会いがあったりするのだ。気持ちが、短時間でいい本との出会いを…と緊張するのかも知れない。

 コーヒー屋さんに入って、すぐにページをめくった。予想どおりなかなか面白い。著者は、山岳雑誌「岳人」の編集に携わっていたという服部文祥という人なのだが、ボクがかつて山に足を向けるようになった動機に近いものを持ち合わせているかのように感じた。もちろん、服部氏はK2などに登頂した凄い山岳家でもあるので、レベルは全く違う。

 それほど大袈裟な話でもないが、ボクは20代の中頃から長野や山梨などの高原地帯へ出かけるようになり、その中でも特に上高地が気に入って以降は、その隅々まで歩き尽くすくらいの頻度で出かけていた。

 それ以前の旅の基本は主に歴史だったのだが、それに自然の美しさや生活感みたいなものが加わっていき、いつの間にか歴史と自然とか、歴史と自然と民俗とか、何だかそういった要素が自分の興味の主流になっていったのだ。

 どこかでも同じことを書いたが、そうなってくると、例えば上高地の歴史みたいなことに好奇心が向くようになり、旧松本藩の杣人たちや梓川のイワナ採りの人たちの話なんかが気になり始め、そのうち槍ヶ岳を開山した播隆(ばんりゅう)上人の話や、この本にも出てくる上条嘉門次やその他の山案内人たちの話など興味の輪は無制限に広がっていった。

 そして、そのまま自分自身が山に入るようにもなっていったのだ。

 この本では、日本の山岳紀行の草分けとも言える田部重治が明治の頃に辿った稜線や、日本アルプスを世界に紹介した有名なウォルター・ウエストン、そして彼を案内した上条嘉門次の登山ルートなどを、今の時代に体験しながら、自然と人間、過去と現代などといった視点から考察がされている。

 同じ装備で同じものを食しながら、その困難さなどを記しているが、現代人である自分が便利というものを得た上で感じていることなどを力を抜きつつ書いているのがいい。昔の人は強かったということだが、現代人には必要がなくなった当時の苦労を振り返ることもなくなり、その弱さに気が付く機会も失っていったということか…と思ったりする。

 福井の小浜と京都を結んだ今の「鯖街道」の、原形の山道を歩くというのも興味深くて面白かった。ボクもよく知っているが、鯖街道なる名称は、ついこの前出来たもので歴史的には存在しない。

 たしかに、鯖などを運んだ道らしいが、ボクは「朽木(くつぎ)街道」という名前で認識していて、何度も書いているが、そのことは司馬遼太郎の『街道をゆく』でも詳しく紹介されていた。

 今の時代の著者が、昔のように鯖の入った籠を背に担ぎ、一昼夜で京都に辿り着けるかという試みはそれほどの成果を見なかったみたいだが、当時と同じ服装で、しかも当時のルートを歩くという設定など、多少バカバカしさもあるがそれでも楽しいのだ。

 読書がいよいよ佳境に入ってきたところで、バスの到着時間となった。続きがますます楽しみになってきたのだが、実は師走からの読書は徐々に乱読傾向に偏っていき、この本もまだ完読には至っていない。断片的に読み続けている。数冊同時進行の中で、雪解け前には完読となるのであろう……

92年秋の薬師岳閉山山行

 ※この文章は、『山と渓谷』1993年3月号に掲載された「薬師如来感謝祭 快晴の秋山行」に加筆したものです……

薬師

 北アルプス・薬師岳に初めて出かけたのは、もう10年近く前のことだ。

 恒例になっている夏山開きの登頂会に参加し、雨の中をひたすら歩いた記憶がある。

 翌日の快晴を期待しながら、太郎平小屋での豪勢な夕食と酒に酔っている間に、天気はますます悪化し、結局登頂は断念させられた。そして翌日、そのまま雨の中を下ったのだ。

 それから何年も、薬師岳はボクにとって遠い存在になってしまった。

 薬師岳の頂上に立てなかったことに対する思い残しも、いつの間にか消え失せていた。

 そして、二年前の夏山開山祭に参加するまで、ボクにとっての薬師岳は雨の中の記憶だけが残った山であった。

 それまでも、そう多くの山を登ってきたわけではなかったが、なんとなく山慣れしてきた自分にも自信のようなものが芽生え始めていた。雨の中の登行も、それなりに楽しめるという思いもあったのである。

 しかし、何年ぶりかの薬師は、またしても激しい雨の中の登行を強いてきた。仲直りの握手を求めて差し出した手を、思い切り振り払われたようなそんな仕打ちにも思われた。

 ボクは、ほとんど山は初めてという会社の同僚5人を誘い、彼らに山の素晴らしさを教えてやろうと意気込んでいた。しかし、あまりの厳しい条件に内心不安でいっぱいになっていた。

 ところが、その翌日は、見違えるような青空がボクたちを待っていてくれた。

 残雪を踏みながら、みるみる切れていく白い雲に目をやっていると、はじめに槍の穂先が姿を現した。有頂天になったボクは、パーティのみんなに「見ろ、あれが槍ヶ岳だ」と指さし、正真正銘のほがらか人間へと変身していたのだ。

 ボクの薬師岳に対する思いは、このときをきっかけにして大きく変わった。

 山は晴れてくれさえすれば素晴らしいところという自分勝手さによって、単純に薬師もボクにとっては、好きな山ということになってしまったのだった。

 それから2年後の今年、好きになった山・薬師岳に、また出かけることとなった。

 今度は夏山ではなく、10月の秋深き山行であり、なによりも薬師岳の地元・大山町山岳会が中心となった「薬師岳如来感謝祭」という記念登行会であった。

 夏のはじめに行われる開山祭で、地元・大川寺の住職が頂上に納めた薬師如来を、秋の山小屋閉鎖と同時に大川寺に戻す。その役目を地元の山岳会が担っているのだ。

 開山祭との違いは、何と言っても参加人員の少なさである。当然のことながら山では10月中旬といえば厳しい環境に見舞われる。中途半端な登山者にとっては、思わぬ事故に巻き込まれる危険性もあり、そのあたりは地元山岳会の適切なチェックがされていた。

 ボクは一般参加という立場にあったが、山岳会の会員で会社の大先輩であるTさんに連れられての参加であった。

 出発の二日前、Tさんから防寒具などの確認の電話が入った。一応準備は整っていたのだが、Tさんの入念な確認に、ボクもそれなりの対応をした。

 10月中旬の本格的な山行は何年ぶりかのことであり、かつて涸沢で味わった切ない記憶を蘇らせながら、予備の衣類などに気を配った。

 下界の天気予報では、山行予定の二日間とも雨。

 こうなれば、我慢の登行を強いられるのは覚悟しなければならない。

 ただ、今回の山行に対して、ボクはあまり天候を気にしなかった。それは、漠然としていたが、開山祭と違って少数の、しかも山慣れした人たちとの山行であるという別の意味の緊張感によるものだったのかも知れない。

 出発の朝の空は、二日前の予報に反して快晴だった。

 剣・立山・薬師のシルエットが朝焼けの空にくっきりと浮かび上がり、晴れ上がったにしてはさほど冷え込みも感じられない。絶好の秋山日和となった。

 大山町の役場の前でタバコを吹かしていると、いかにも山慣れした雰囲気の男たちがぽつぽつと集まってくる。山岳会のリーダー的存在であるKさんが、登山口までの車の配分を決めるために忙しく動き回っている。

 ボクとTさんは、大阪からやって来たカメラマン・Mさんのワゴンカーに便乗させてもらうことになった。Mさんは一見スリムで、山とは縁遠い人のように思えたが、途中の車の中での会話で、想像をはるかに超えた山屋さんであることがわかり、意外なことでつい嬉しくなった。

 登山口である折立に着くと、先発隊がすでに出発したあとだった。折立の小屋の前には、Kさんと太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんが立っている。Mさんの都合でちょっと遅くなってしまったボクたちを、ふたりは待っていてくれたのだった。

 「じゃあ、ぼちぼち行こうか……」 Kさんが余裕のある声で言った。枯葉が落ちた樹林帯の登り道は、まさに秋山の静かな雰囲気に満たされていた。

 真夏の草いきれなど忘れさせるような冷気が心地よいくらいに漂い、歩きながら交わされている五十嶋さんとKさんとの素朴な会話も耳に快く届いてくる。

 登り始めてしばらくのところで先発隊に追いつくと、一団はにわかに賑やかになった。山岳会のナンバーワンアタッカーと思われるEさんは、どうやら会のムードメーカー的存在でもあり、十一月にヒマラヤへ行くという健脚ぶりをいかんなく発揮している。Eさんの身のこなしを見ていると、もうほとんど平地との区別がないように感じられ、年齢的にはまだ若いボクを驚かせた。

 森林限界を越えた三角点のすぐ上で休憩をとり、ゆっくりと剣・立山の眺望を楽しむ。なんとなくよそ者的な自分を感じながらタバコを吹かし、会のメンバーの会話を聞いていた。

 五十嶋さんの言った、「今日でこの道歩くの今年18回目だよ……」という言葉が耳に残っていた。

 今回の山行はかなりハードな行程が組まれていた。太郎平小屋に着いて昼食をとった後、すぐに頂上を目指すという計画であって、とにかくその日のうちに薬師如来を小屋まで下ろすことが目標になっていたのだった。

 Tさんは、しんどかったらやめりゃいいさと軽く言ってはいたが、そう言われれば言われたなりに、やはり頂上へと言ってきたいと思ってしまう。休憩のあと、ちょっと出遅れて出発したボクは、やや焦る気持ちとは裏腹にゆっくりと歩くことにした。

 太郎平小屋に着いたのは正午過ぎだった。EさんやKさんはもうかなり前に着いていたらしく、外のテーブルの上には空っぽになったビールの缶が二、三本置かれている。Kさんは時計を見ながら、もう頂上へ向かう段取りをしているようだ。

 慌ただしく昼食をすませると、防寒具一式をリュックから取り出し、着込んだ。

 Kさんを先頭に頂上へと向かう。一旦、キャンプ場のある谷に下り、そこからは一気の急登となる。ボクは、キャンプ場に新しくできたばかりの真新しいトイレに立ち寄ったために、またしても遅れをとることになった。

 ようやく先行の一団に追いつきはしたが、休憩も思うように取れないまま登り続けなければならなかった。

 しばらく行くと、数日前に降り積もった雪の上の登行が待っていた。「肩の小屋」と会の人たちが呼ぶ薬師岳山荘で一息ついたが、さらにまた雪上の直登が待つ。ここはさらに切なかった。

 「往年の馬力はなくなったなあ……」と、Tさんがボクに言う。たしかにTさんがボクの前を歩くなど、これまでなかったことだった。

 やっとの思いで頂上に辿り着くと、Kさんが相変わらずの余裕の顔で迎えてくれた。

 祠の戸が開けられ、薬師如来像を直に見ながら合掌する。何度も山に登っているが、こんな経験は初めてのことだ。

 Tさんが呼ばれた。実はTさんは閉山祭にはなくてはならない存在なのだ。それはTさんが山岳会の中で、唯一お経の読める人だからであり、会では秘かに「権化さん」と呼ばれている。

 その権化さんが詠む般若心経が厳かに響きはじめると、薬師岳山頂付近が急に聖地に化した。読経が進むと、お神酒代わりのブランデーがまわってきた。小さなボトルのキャップ一杯だが、実に美味かった。

 早々に下山に移る。下りに入るとさっきまでのつらさも忘れ、今年から始めたテレマークスキーの真似事に興じた。

 太郎平に着いたのは、雲海が夕陽に染まり始めた頃だった。

 その夜、太郎平小屋は今年最後のにぎわいに沸いた。開山祭とは比べものにならない豪勢な料理が、テーブルを片付け、畳を敷いた食堂に並んでいた。中央には祭壇が作られ、再びTさんがお勤めをしたあと、全員で焼香した。

 にぎやかな語らいの中で、五十嶋さんの満足そうな顔が印象的だった。

 夜が更けても、空は明るく、かすかに薬師岳の稜線が見えていた。

 

雪国の車中で、星野道夫と植村直己を思う

 2000年3月のはじめ、ボクは新潟の直江津から長野に向かう快速列車の中にいた。

 前夜からの大雪のためダイヤは乱れていたが、ボクはそのことを幸運に思っていた。

 星野道夫の本が手元にあったからだ。遠いアラスカの話を、信州の雪原を眺めながら読む…… そんな状況を楽しみにしていた。

 列車が走り出してしばらくすると、雪の降り方が一段と激しさを増した。

 屋根のない吹雪のホームで、ヤッケの帽子に雪をのせて突っ立っている人たちがいた。

 雪をつけた裸木が重なる樹林地帯。

 そして視界はそれほど深くはないが、雪原は永遠のような広がりを感じさせている。

 晴れた日、ヒールフリーのスキーで駆けめぐったら愉しいだろうな…などと考える。

 雪の中の軌道を走って行く独特の静けさが懐かしかった。

 そしてボクは、その中で星野道夫の飾らない素顔が車窓の風景に溶け込んでいく心地よさを感じつつ、ゆっくりとその文章を追っていったのだ。

 その四年前、星野道夫はすでにこの世を去っていたが、それまでのボクは、星野道夫という人間を、知性派の、凄く特異な動物カメラマンとしてしか見ていなかったような気がする。

 たしかに、彼の写真から伝わってくるものには、アラスカという地域の特異性や、撮影に費やされた計画の特異性などが感じられ、自然を相手にした写真家としての、かなりしっかりとしたこだわりのようなものを好きになっていたと思う。

 しかし、ある日、本屋で何気なく手にした彼の一冊の文庫本によって、ボクにとっての星野道夫観はすっかり変えられてしまった。

 と言うよりも、それは一気に大きく膨らみ始め、気が付くと原形をとどめないくらいになっていたと言っていい。

 文章にして彼が伝えてきたものは、アラスカという遠く離れた土地の大自然の美しさや厳しさだけではなかった。

 そこにはアラスカそのものがあり、何よりも星野道夫そのものがあった。

 彼が一人の少年としてどのような感性をもち、どのような青春時代を生き、その後、日本はもちろんのこと、アラスカでどのような人間たちと出会って、そしてどれだけ満ち足りた日々を過ごしてきたか。

 そして、それらのことが星野道夫にとってどれだけ素晴らしいことだったか。

 写真家としての作品だけからは知る由もなかった多くのことを、文章の中の彼の言葉が教えてくれた。

 星野道夫の多くの本と出会ってから、植村直己のふるさと兵庫県日高町に出かけた時のことが、よく思い出されるようになった。

 あの時、胸に迫ってきた何かが、星野道夫の言葉の中からも同じように伝わってくるような気がした。

 星野道夫と植村直己は、静と動の両極にあったと思う。

 しかし、二人とも大きな意味で共通した動機をもっていた。

 安らげる、自分らしくいられる、そんな場所を求めていたのだ。

 生命の脆さも、互いに違った形で知っていた。

 北米の最高峰・マッキンリーのどこかに植村直己が眠っており、毎日のようにその山並みを眺めていた星野道夫は不思議な気持ちになったという。

 あの植村直己でさえ、脆い生命のもとに生きてきたのだ。

 自然を征服するのではない冒険。日本人らしいやさしさの中で培われた自然との接し方。

 そして、何よりもヒトとヒトとの関わり方、すべてのことが今は亡き二人の素顔から見えてきた。

 快速列車が、夕刻近くの長野駅に近付いていく。

 もう雪の世界はとっくに通り抜け、星野道夫の本も、カバンの中へと放り込んだ……

 ※2000年に書いた文章の一部に加筆。

平泉寺に白山を見る

何年ぶりだろうかと考えつつ、旧白峰村の谷峠(トンネル)を越え福井県勝山市へと向かっていた。隣りの大野へ行ったのが一昨年で、その時も長いこと勝山へは言ってないと思っていた。

ボクの場合、勝山へ何度も行っていたというのは、すべてが平泉寺へ行くためだ。そういう意味では、かなり平泉寺が好きだったと言っていい。きっかけは、ボクの定番、司馬遼太郎の『街道をゆく』だった。

この歴史紀行によって、どれほど多くの土地を訪ねたり、多くの土地に思いを馳せたりしただろうと考えると、今は亡き司馬遼太郎大先生には深く感謝をしなければならない。

平泉寺までの道路は基本的に何も変わっていなかった。非常に分かりやすく、簡単に辿り着ける。

たぶん二度目の時からだろうか、下にクルマを置き、菩提林と呼ばれる見事な大木の参道を歩くようになった。だが、時間のかかる長い道であったこともあり、そのうち石段直下の駐車場までクルマで上がるようになる。もともとそれほど多くの人が訪れていたわけでもないが、今でも参道を歩く人が二、三人ほどいて、その人たちの姿を見た時は、ちょっと気後れがした。

もう有名なのだろうが、平泉寺の歴史は古い。717年(養老元)、泰澄(たいちょう)によって開かれている。泰澄と言えば、白山を開いた人であり、石川県でもたくさんの伝説や像を目にする。

その泰澄が夢の中でお告げを受け、白山へ向かう途中にやって来たと言われる池が境内に残っているが、その雰囲気がとても神秘的でいい。今でも、その池に向かって深くお祈りをする人たちの姿を見ることができる。

 

平泉寺は正式には平泉寺白山神社というくらいで、石段の途中に鳥居がある。そこがちょうど、仏の世界と神の世界の境界であるらしく、その場所で一度足を止めるのが正しい参拝の仕方なのだそうだ。

今は観光ボランティアの人たちも大勢いて、そういった話を丁寧に聞かせてくれている。相変わらず杉木立と苔が見事で、木漏れ日が差し込んでくるあたりは、その濃淡が美しい。

閉めきられた拝殿の裏をさらに上ると、三つの宮が並んでいる。白山連峰の三つの峰になぞらえてあるらしい。と言うと、大汝と御前峰、そして別山か。かなり傷んだ感じはするが、彫刻などは素晴らしい。

楠木正成の墓に続く長い石段の道なども、平泉寺の魅力を伝える場所だ。石段を上り切ったところの社の裏に白山への禅定道が伸びている。

白山の禅定道は、石川県では一里野の奥にあり、あとは岐阜県側にもあるとのことだ。

なぜか、かつてはただ漠然と歩いてきた場所に、今はとても深い思い入れみたいなものを感じる。その不思議な思いをアタマの片隅に置きながら、苔庭にゆっくりと目を遣ったりする。

老若男女が、それぞれの体力に合わせながら歩いている。娘と母親、孫娘と祖母、そんな組み合わせをなぜだか多く目にする。

「私はここまででいいから、アンタ行っておいでや」そんな会話が耳に届く。

先に書いた御手洗池に下ると、若い家族とその父親の母だろうか、後から追うようにしてやって来た。母親が息子の家族にこの池から龍が出てくるという内容の話を始め、息子夫婦が石段をさらに下りて、丁寧にお祈りを始めた。

言葉から地元福井の人であろうと推察し、彼らが去った後、じっくりと合掌した。

平泉寺は今、大規模な発掘調査を進めている。これらが日の目を見るようになれば、さらに一層この一帯はとんでもない歴史的遺産になる。すでに発掘の見学もできるようになっていて、先が楽しみだ。前日に開館した「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」の展示の仕事にも少しだけ関わり、この地への愛着も倍増した。

かつて、某シンクタンクに片足の膝ぐらいまでだが入っていた頃、富山には立山博物館があるのに、石川には白山博物館がないことについて提言したことがある。石川県の人たちと、富山県の人たちでは山に対する思い入れが全く違う。富山の人たちは、山としっかりと付き合っている。そう思っていた。提言し、たしかにそこから何かが生まれたが、白山に関しては福井県側の方が深いのかも知れないと思った。

平泉寺に行くようになってから、そのことを強く感じていたのだ。

今はもう世界遺産登録への夢も、そう遠くないような気がする。ただ、我がままを言わせてもらえば、あまり大きな存在にはなってほしくない。

入り口の茶店で買ったあんこの入った餅を、「まほろば」の外のテーブルで食べた。勝山市役所の横の店で、ソースかつ丼とやまかけそばも食べた。

それなりに美味であった……

山には、悲劇も喜劇もある・・・

今年の春も北アルプスで何人かの登山者が死んだ。

厳冬期の遭難事故は少なくなったように感じられるが、春山での事故は一向に減っていないのではないだろうかと思ったりもする。

それになんと言っても、最近は高齢登山者の事故だ。

冬に比べれば、当然春の方が安定しているのは間違いない。

しかし、その分、春の山には大きな落とし穴が待っているということだ。

体感的には、真夏と真冬が同時に来ると言ってもいい。

そんな中での冷静な判断や体力などは、生死を分ける分岐点上にある。

 

この本は、25年ほど前に山と渓谷社から出版されたものだ。

その頃のボクは、この本の中に出てくる富山県警山岳パトロールの人たちや、薬師岳方面遭難対策協議会の人たちとよく山で出会い、一緒に歩く機会もたびたびあった。

だから、登場人物の名前はだいたい分かる。

実際に本の中に記されている救助活動の話もナマで聞いた。

山小屋で停滞する時などは、よくそういう話になり、信じられないような遭難救助の実態を知らされた。

吹雪の中、腕を中空に突き上げ硬直したままの遺体や、もう衣服だけが辛うじて残った遺体、発狂したように叫びだす大学山岳部の青年、雪に埋もれたパートナーの横で財布の中のお金を数えていたという女性登山者、稜線から転落死した父の下山を待つ幼い兄弟…

今思い出すことのできる話だけでも、無数にある。

しかし、そんな中で、ホッとさせられた話がひとつあった。

生きとるぞーッ! 救助に向かった現場で遭難者がまだ生きていると分かった時の、何としてでも助けようという思いが遭難救助の原点にあるという話だった。

実際に大雨による黒部源流の濁流の中で繰り広げられた救助活動の話は、よく知っている人たちの体験であったせいもあり、固唾をのんで聞き入った。

救助隊員自身も死と相対しながらの決死の活動だったという。

とにかく山での話は、想像をはるかに超えた過酷さに驚かされる。

 

大好きな太郎平小屋のオヤジ・五十嶋博文さんも、高校を出て小屋の手伝いをするようになり、二十代半ばで山でやっていこうと決めた…と、いつか話してくれた。

日本の山岳史上最大の事故となった、昭和38年(1963)正月の愛知大学パーティの遭難が、そのきっかけだった。

猛吹雪の薬師岳稜線で進むべき方向を誤り、パーティ全員が遭難した。

死者13名。最後の遺体を発見したのがその年の10月。

オヤジさんはまだ新婚だったが、最後の遺体発見まで山を歩き回った。

当時は遭難者の遺体は山で荼毘にされていた。

しかし、荼毘そのものよりも、人がこの美しい山で死ぬという事実の方が衝撃だったとオヤジさんは言った。

そして、それ以降、50年に及ぶ山小屋のオヤジとしての日々の中で、一体何人の遭難者、ケガ人を背負ってきたことだろう。

山には、喜劇と悲劇が同居するとボクは思っている。

楽しいことはとことん楽しい。酒を飲んで陽気に語り合うこともあれば、しみじみと顔を寄せ合い語ることもある。

ひたすら美しく、雄々しく、そして永遠を感じさせる風景の中にいるだけで、どれだけ大らかにいられることか…。

しかし、悲しい出来事もまた待っている。それが山だ。

特に何かを告げたいわけではなく、ただ、新聞やニュースで報道される遭難事故に、かつての想い出話がだぶったという、それだけの話なのだ……

笹ヶ峰~残雪の上で書き下ろす

 恒例になった毎春の笹ヶ峰スキートレッキング。

 ちょっと空白があったが、二年前に復活して、その時から現地書き下ろしを始めた。

 だから、今もボクは笹ヶ峰の雪原の岩の上に座り、ノートを広げているのだ。

 快晴である。暖かくて、雪面の照り返しもきつい。

 今のところ、前方に見える山の頂上付近に、綿をちぎったような白い雲が緩やかに浮いているだけで、空は全くの青。

 文句の付けようのない日になっている。

 昼飯を終え、雪の上に置いたノンアルコール・ビールの残りを飲みながら、ノートを広げた。

 時間は12時45分。

 8時半、いや9時近くだったろうか、いつもとちょっと違う場所にクルマを停めてスキーを履いた。

 白樺の樹林帯を抜けて、雪原に出ると、いつものように宇棚の清水と呼ばれる湧水のせせらぎに沿って登る。

 澄んだせせらぎの脇に水芭蕉が咲いていて、何度も足を止めてはカメラを手にした。

  今年は去年より雪も多いような気がする。

 昼飯の定位置となっていた大きな岩もまだ雪の中に埋まっているのか、見つからなかった。

 だから、今年はいつもと違うちょっと低めの岩を腰掛け代わりにしている。

 それにしても、相変わらず見事なくらいに静かだ。

 聞こえてくるのは遠くの鳥のさえずりや沢のせせらぎぐらいで、ノートの上を滑るペンの音さえが鮮明に聞き取れる。

 暖かいせいか、雪もやわらかい。

 しかも、例年と比較すると雪が新しい感じがして、スキーの滑りも何となくよかったりするのだ。

 下界の最高気温が25度と言っていたくらいだから、防寒着など全く不要だ。

 いつものようにスキーで笹ヶ峰牧場を隅から隅まで歩き、登り、滑る。

 この広々とした雪原を、今日は自分が独占しているといった感じで、申し訳ない気にもなる。

 たしかにクロスカントリーの練習コースになっているところには、何人かのスキーヤーがいたが、そこを抜けるとまったく人影は見えなくなった。

 例年なら四五人程度だが、人影を見るのだ。

 山の方に入る時、車道を横切ったが、その時に三人組の運転手が手を上げて挨拶して行った。

 サングラスで顔はよく分からなかったが、ニコリと笑っていた。

 ジープの屋根にはボクと同じテレマークスキーが三セット載せられていて、同じ仲間という感覚で手を上げてくれたのだろう。

 こっちも手を上げて笑い返した。

 ただ、彼らのテレマークはボクのとは違い、新しいスタイルのものだったな。

 コンビニおにぎりには相変わらず苦戦したが、ゆったりと昼飯を食い終えた。

 そして、ゆっくりコーヒーでもと思っていたのだが、持ってくるのを忘れて白湯で我慢。

 このことはかなりテンションを下げてしまった。だが、仕方ない。

 これから、下の方に滑り下りて、清水ヶ池から樹林帯を通ってクルマの方へと戻るが、クルマを置いた周辺にも広く開けた雪原があり、そこでも一登り・一滑りをして来ようと思っている。

 日焼け止めは、妙高高原ICで下りてから、いつものコンビニで買った。

 しかし、今日みたいな日は日焼けするぐらいでいいのだ。

 それにしても、こんなにのんびり穏やかな気分でいられるのは、笹ヶ峰に通うようになってから初めてかも知れない。

 雪の中に突き刺しておいたスキーの雪も、とっくに乾いている。

 時計は、13時5分。そろそろスタートしょうかな……

雨の千寿ヶ原で・・・・・

土曜の朝、立山山麓へと向かう。

お手伝いをしている太郎平小屋のパンフが出来上がり、それを届けに行くというのが直接的な目的だった。

第一弾を作ってから、もう何年過ぎただろうと考えながらクルマを走らせたが、結局確たる記憶が戻らぬまま、高速道路から道は谷あいに入って行き、そのまま気が付いた頃には立山大橋を渡っていた。

金沢ではすでに上がっていた雨が、まだ降り続いている。

残雪から湧き上がる霧も深かった。

かなり落胆した。間接的とはいえ、どちらかと言えば本命の目的だったスキーが出来ないのだ。

テレマークスキーが、後部座席を半分倒したスペースに寝かされている。

極楽坂スキー場下のロッジ太郎にまず寄って、モノを降ろす。

ロッジの賢二さんが喫茶の方から出てきて、手伝ってくれた。

みな千寿ヶ原に行ってると言う。モノを降ろすと、すぐにそっちの方へと向かうことにした。

4月に入り、スキー場周辺は当然静まり返っている。

まだまだ雪はたっぷり残っていて、この雪は我らのために残されているといった思いの強いボクとしては、この最高の時季を逃すわけにはいかないのである。

しかし、しっかりとした雨だ。なおさらその静けさも際立つ。

立山へ向かうケーブルの発着駅がある千寿ヶ原も、数日前に弥陀ヶ原まで開通したとは言え、やはり室堂までの全線開通までは静かだ。

かつては、この短い期間を狙って、ガラガラのケーブルとバスを乗り継ぎ、弥陀ヶ原まで行った。

それから先はスキー歩行で室堂まで頑張ったこともある。

そこまで頑張らなくても、弥陀ヶ原の周辺を歩いたり滑ったりと自由に楽しんだり、そのままケーブルの駅まで滑り降りたこともあった。

いろいろな思い出が蘇ってくる。

缶ビールを忘れたまま山に入り、失意のどん底へと落とされていた時、一緒に上がった老夫婦が、ビニール袋に持っていたビールを分けてくれたことがあった。

大袈裟だが、あの時の感動は今でも忘れることはない。

あの時、ボクは、そのビールどこで買ったんですか?と尋ねた。

当然、下で買って来ましたよと言われたが、その時のボクの表情が相当無念そうだったのだろう。

夫婦は気持ちよく袋から二本取り出し、ボクに差し出した。お金も受け取らなかった。

もう温くなっていた缶ビールは、その後すぐ雪の中に埋め、目印にブーツで大きな十字を雪面に描いておいた。

そして、三時間あまりほどその場から離れた。

 汗だくで戻ってきた後の、部分的にシャーベット状になったビールもまた格別だった。

 立山カルデラ博物館の入口付近にある五十嶋商店の中で、五十嶋マスターと太郎平小屋の一樹さんとで談笑。

 本格的にカメラ撮影を始めている一樹さんの写真の話や、新しい山岳コースの話など、とりとめもなく時間が過ぎた。

 マスターの長年の思いが感じ取られる話にも興味が湧き、嬉しくもなった。

 たとえば今、木道の整備などが進められているが、あれは自然を壊すことなのか、自然を守ることなのか、その狭間で理論が分かれているという。

 一方からは、あれは自然破壊を助長するものだと言われている。

 しかし、マスターはあれを作らないともっと自然は破壊されると言った。

 木道を作ることで、歩いていいのはこの上だけだという意識づけができるというのである。登山者は確実に増えている。

 たしかに太郎平小屋から薬師沢小屋へ通じる道には木道が多い。

 かつて、木道がなかった頃は、単に歩きづらいということもあったが、道に外れて歩いていても平気だった。

 ひどいヤツらは、沢から入り込んだ場所にテントを張り、平気で残飯を流し、食器などを洗ったりしていた。

 しかし、木道は行動範囲をいい意味で規制させるはたらきをもつ。

 雨の日に靴底が滑りやすいという課題もあるが、それは岩の上も同じだ。個人の技術と気構えがものを言う。

 高齢者や山ガールなど、さまざまな人たちが山に入ってくる昨今では、小屋のスタッフたちが担う役割はさらに複雑になってきたという。

 夏のピーク時にケガ人が出たとしても、それを放っておくわけにはいかず、何らかの対応をしなければならないのは当然だ。

 そのために、二百人近くにもなる宿泊者たちの世話に支障をきたすわけにはいかない。

 しかし、食事が遅いとかクレームを付ける“登山客”が増えている。

 かつては、山に来るものは“登山者”だった。山小屋のオヤジの存在に憧れすら持っていたし、叱られてもそれがまた嬉しかった。

 これからの山小屋はどうなるのか? マスターの白髪も増えるわけだ。

 お昼には、油揚げが浮いた温かい素麺と炊き込みご飯をいただいた。

 五十嶋家でいただくものは、なんでも温かい。

 その温かさは単に湯気が上がっているという温かさだけではなく、素朴でありながらも心がこもった温かさだ。

 外はまだ雨が降り続いていた。

 スキー積んでるんか? と、マスターに聞かれて、ええと返事をし、今日はあきらめて写真でも撮って帰りますと答えた。

 お茶をいただき、また少し山の話をし、自分の失敗談ばかりが出始めた頃、そろそろ失礼しようと思った。

 忙しいやろけど、夏には、山、上がって来られ……。

 マスターがこの季節、必ずかけてくれる言葉だ。

 この人と出会ってなかったら、ボクはこれほどまでに山を好きにならなかっただろう。

 いつも、マスターと会うとそう思うのだ……

大正時代の壮大な夢・・・・・

 

大正12年から13年にかけて、伊藤孝一という人物が計画し実行した、北アルプス積雪期登攀の映画撮影山行。

伊藤たちは始めに「雪の立山・針ノ木越え」の撮影山行に入り、その成果を上映会で発表した。

その時の入場券が、写真のものらしい。

そのすぐ後に「雪の薬師・槍越え」の撮影山行に入っている。

周到な準備が図られ、特に後者の映画には多くの人・装備が費やされたという。

現在の金額にして数十億円を要したというから驚きだ。

しかし、このフィルムは後に行方不明になる。伊藤家が破産したためだ。

戦後、フィルムの存在は確認されたが、昭和40年まで人目に触れることはなかったという。

その貴重な資料が、先日訪問した太郎平小屋などのオーナー・五十嶋博文氏の手元にあった。

思わずシャッターを切らせていただいたが、あとでじっくりと見つめ直し、そのとてつもない野望に驚いている。

ボクは五十嶋さんからお借りしたDVDで、一度見た記憶があるが、平成10年に、立山博物館で上映されているそうだ。

それにしても、今から思えば、なんと壮大な夢、計画だったんだろう・・・・・

 

2月。立山山麓の穏やかな午後

立山山麓の「ロッジ太郎」へ、忙中閑あり的速攻で行って来た。

北アルプス「太郎平小屋」のスキー場版ロッジで、極楽坂スキー場に爽やかなレモン色の建物で佇んでいる。

立山インターから立山方面へと向かい、山深く入ってから、立山大橋を渡るとすぐ目の前だ。

天気は申し分ないほどの快晴。寒くもない。積雪は1m以上ある。

本当はいけないのだが、立山大橋のド真ん中でちょっとだけクルマを停め、カメラを手に下りてみた。

相変わらず素晴らしい眺めだ。当然この季節は銀世界が広がっている。

下流方向には黒い川筋が伸び、青空に飛行機雲がくっきり見えている。

上流方向には、青空に映える大日岳の真っ白な頂が美しい。

ロッジに着くと、駐車場に子供たちがあふれていた。スキー遠足なのだろうか、にぎやかだ。

御大・五十嶋博文マスターが、にこやかに迎えてくれる。

スキーシーズンはずっとロッジにいて、相変わらず多忙な日々を過ごしているみたいだ。

なにしろ、五十嶋マスターは全日本スキー連盟などの役員をやってきた人だ。

今の体形から想像するのはかなり厳しいが、スキーの腕前は並はずれている。

下の写真は、薬師岳(2926m)の頂上直下、金作谷カールを滑るマスターである。もちろん今よりかなり若い頃だが、想像を絶する急斜面であることは言うまでもなく、技術に度胸が付いて回らないとできない芸当である。

「おお、来たか。飯は?」と、マスター。

「途中で済ませてきました」と答えて、奥の喫茶室の方へと向かった。

実はそろそろ今年の山岳シーズンに向けて、太郎平小屋のガイド(パンフ)を再整理しなければならず、ついでがあれば寄ってくれと前回訪問した時に言われていた。

マスターから、原稿の修正箇所などが記されたペーパーを見ていると、最近では太郎平小屋の新しい顔となっている一樹さんが現れた。

直接メールをくれたのは一樹さんだ。精悍な顔立ちの一樹さんは、北米の最高峰マッキンリー登頂の経験をもつ。

太郎平小屋の将来を、そのガッチリした背中に負っている。

いろいろと写真の選択などをしているうちに、Facebookの話になり、“友達”になろうということになった。実は前から検索をしてはいたのだが、名前が英文字になっていたためにヒットしなかったことが分かった。

マスターの実兄・一晃さんがまた本を出していた。

その名もズバリ『越中 薬師岳登山史』。

まだ内容は読んでいないが、キメ細かい調査に基づく記述がびっしりと詰まっている。

一晃さんの旺盛な文筆意欲は、知っているかぎりこれで三冊目の出版となっている。

山への愛着の深さには脱帽だ。

 

帰りには、自家製という“わさび漬け”をいただいた。

休憩中のスタッフに交じって、マスターの奥さんのお顔も見え、立ち上がって挨拶された。

いつ見ても、本当に仲がいいというか、自然体の家族やスタッフたちだなあと思う。

マスターに挨拶して、こちらは慌ただしく、バタバタとロッジを後にした。

空は薄青く、明るい陽を受けた雪がまだまだ眩しかった……

森林公園をテレマークで

 

津幡町にある石川県森林公園には、家から河北潟干拓地の道を縦断して、20分もあれば着く。

もちろんクルマでであって、公園の南口にあるインフォメーションセンター前駐車場までは、何とか入っていける。

そこにクルマを置き、スキーを片手に林道までわずかに歩くと、あとはもうずっと雪道と雪野原と木立の中の雪原だ。

スノーシューなどで雪上歩行を楽しむ人たちもいるみたいで、道の真ん中には踏み跡がある。

そのトレールをたどって行けば、多少ガタつきながらもスキーはそれなりに滑ってくれる。

踏み跡のない雪原に出ると、ブーツの半分ぐらいは埋まるが、こちらもそれなりに楽しいウォーキングとなる。

午後から家を出たので、今回は軽く小手調べといったところ。

何となく雰囲気だけ掴んで、次回からは本格的に道なきところまで行ってみようと考えてきた。

正味2時間ぐらいだったが、出会った人は一人だけ。朝のうちに引き上げてしまったのだと思われる。

しかし、家から20分でこんな静かな世界に来れるのが嬉しい。

鳥たちの囀りや、枝から雪が落ちる音ぐらいしか聞こえてこない。

時折、薄雲に太陽は陰るが、基本的に日差しがあって気持ちよかった。

次回はクルマを途中にデポして、自由に走り回るつもり。楽しみが増えた・・・・・・

雪山と雪焼けと顔のシミなどについて

生まれつきかどうかは分からないが、乾燥肌である。手の甲や指先などは、この季節いつもざらざらしている。

さらに昔から太陽に晒してきたせいか、シワやシミがひどい。よく「年寄みたいな手をしているではないか」と言われたりもした。

その辺のところでは、顔もひどい。雪山の乱反射などをまともに受けてきたこともあって、でかいシミがあちこちに溢れている。

かつては一年中黒かったから、特に目立つことはなかったが、最近は自分でもこんなに色白だったのかと思うほどに色が抜けてきて、その分シミの方がより鮮明になってきたわけだ。

シミにはミカンなのよと言ってくれた人もいたが、年柄年中ミカンを食っているわけにもいかなかった。

神社でもらった絵馬に「シミがなくなりますように」と冗談で書き記したりもした。が、神様の担当枠外であるらしく、何のご利益もなかった。

冗談でもそんなことに執着していたのは、人からよくシミについて質問されたからだ。たまに会う実の姉でさえも、ボクのシミには毎回驚いた顔をした。皮膚科へ行った方がいいと何度も言った。

当然だが、いいオトコが台無しだ…と言う意見もなかったわけではない。

 

雪山で滑落し、アイゼンの刃でズボンやスパッツを切り裂いたという傷跡ならカッコいい。初代のスパッツは未だに補修せず、自分の部屋の壁にぶら下げられていたりもする。

しかし、顔の雪焼けのシミが残ったということに関しては、ドラマチックなストーリー性などない。

かと言って、いちいちシミが出来た原因について語っているのも様にならず、相手の視線がシミに行ったりする時は、顔の向きを変えたりもした。

しかし、最近はそんなことに気を遣っているのもバカバカしくなり、かなり無頓着になってきたし、相手も単なる加齢によるシミぐらいにしか思っていないのも事実だろう。

そういうふうに考え始めると、今度は手のざらざら感の方が気になり始め、そこにクリームなんぞを塗るようになってきた。もちろん自分の知恵ではなく、家人の指導の下だ。

ところで、初めて雪山に挑んだ(と言うほどもないが)のは、今からちょうど30年ほど前の春先のことだ。

北アルプスの剣岳前方に聳える標高2600mほどの大日岳に、親友Sと富山在住の“山のコーチ役”T本さんとで出かけた。

清らかに若かったボクは、その前年から雪のある山へ強い憧れを抱くようになっていて、とにかく翌年の春先には雪の北アルプスへ行くぞと、激しく鼻の孔から空気を吹き出していたのだ。

そのことをT本さんに告げると、まず耳鼻科へ行った方がいい…などとは言わずに、いろいろとアドバイスをくれ、そして最後に「オレも一緒に連れてケ」と言った。

一緒に行ってくれるのは当然大歓迎だった。とにかく氷点下まで冷え込んだ人っ子独りいない、称名の滝の脇から、表面が凍った雪の壁をよじ登るのだ。まずもって、ルートファインディング自体、T本さんがいなければ話にならない。

しかし、T本さんは山での技術や、酒の正しい飲み方、缶詰の中身を素手で食べるお点前、それにミカンを皮ごと食べたりする時の作法などには凄い見識があるのだが、ちょっとデリケートなことになると全くダメだった。

それが日焼けの予防などにモロに影響した。

たくさんあったT本さんからのアドバイスのうち、雪焼けに関しては「なんかクリームみたいなもん、持ってこられよ」だけ…だったのだ。

サングラスが必携というのも強調していて、それは何とか忘れずに持って行ったのだが、実はクルマの屋根に置いたまま歩き始めてしまった。もちろん、それはボクが悪いのであって、下山後、雪目と言うやつでひどい目に遭ったことは自業自得だった。

さて、なんかクリームみたいなもん…なのだが、ボクは家のテーブルにたまたま置いてあった「Nベア」という綺麗な青色の缶に入ったやつを持って出た。

まさに、なんかクリームみたいなもん…だったのだ。

白い息を吐きながら、深い谷間の道を一時間ほど詰め、いよいよ登山開始というところで入念に塗りたくった。万全だった。しかも、一時間おきに。しかし……

実は、Nベアは全く逆の効果をもたらす、クリームみたいなもん…だった。

紫外線をぐんぐんと吸収?して、顔面から皮膚の奥へとその怪しい成分を送り続けた?のである。もちろん、Nベアには何の罪もない……

悲惨な結果は、唇にも及んだ。

今でこそUVカットの高性能リップクリームは当たり前のように必携するのだが、その頃、ボクの認識には全くカケラも存在していなかった。

登山自体も苦しい雪山歩行が強いられたが、登頂もでき、稜線から谷を挟んで剣岳の雄姿も仰いだ。

登頂を個人的に断念して、途中の大岩の上で昼飯作るわと言っていたTさんのランチも賞味できた。雪のロックも腸(はらわた)に沁みた。

そして、ボクが投稿したそのレポートは、ヤマケイにも掲載された。いただいた原稿料を資金にピッケルも買った。

しかしなのだ…。下山後の半月は周囲の異様な視線と、顔面ヒキツリおよび唇ヒリヒリ状況の中で過ごさなければならなかった。

顔の皮は二度むけた。黒光りし乾いてくると、パリパリと表面の皮の割れるのが分かった。洗面所で顔を洗うと、下から出てくる顔もやはり黒かった。

唇も思うように開けられず、うどんは二本、ラーメンは五本ほどが一度に啜ることのできる限度だった。さらに汁も沁みて、かなりの困難と情けなさが強いられた。

たまたまサングラスを忘れていったために、パンダ状態にはならなかったが、目そのものは真っ赤に充血していたのは言うまでもない。

ついでに書くと、その後の雪山山行ではサングラスによって顔は鼻から上、眉毛あたりまでがクッキリと白く残るようになった。紫外線の侵入を完全に防ぐゴーグルみたいなやつを付けるのだから、尚更その威力が発揮されるのだ。

唇には当初白いUVカットを塗っていたが、そのうち透明のUVカットが出てきて、白いのを落とさずに下界に来て、変な目で見られるようなこともなくなった。

今は顔面全体にUVカットを塗って、日焼けそのものをしない対策が普通になっている。

いかにも山へ行ってきたことを隠しているみたいで、ボクとしては不本意なのだが、皮膚ガンやら何やらと言われて、渋々塗ったりしている今日この頃である。

こうした、雪焼け騒動も最近では全くなくなり、淋しいかぎりだ。黒光りの顔が懐かしい……

エベレストへは行ってくるべきであった

 

コタツでひっくり返りながら、素晴らしく緊張した九十分を過ごした。

二月十一日に放送された、NHK-BS『グレートサミッツ「エベレスト~世界最高峰を撮る」後編』の録画を、翌日の午後じっくりと見ていたのだ。

大型のハイビジョンカメラを担いで登頂した、NHKのスタッフ五人とシェルパ十人だったろうか、彼らが残した美しい映像は素晴らしかった。

そして、そのことと共に凄かったのが、登頂への行程が見事に記録されていたことだ。

ルートの分かりやすい映像、そしてチャレンジした彼らの息遣い、足の運び、疲労や安堵や歓びなどが、本当に見事に伝わってきた。

そして、この番組を見ていて、正直、自分にもエベレストを登れるチャンスはあったかもしれないとも思ってしまった。

図々しい話かもしれないが、危険度やそれに伴う緊張の度合い、そして冷静な判断や体力、考えてみれば、鍛えれば何とかなるものばかりだった。

そして、今回見た映像によって、それらの度合いを詳しく分析して対処すれば、自分にもエベレストに挑むチャンスがあったような気になったのだ。

簡単ではないことも、十分に分かっている。

実際、ボクに山のことをいろいろと教えてくれた富山の山男たちからは、かつてヒマラヤの恐ろしさを存分に聞かされた。

岸壁にへばり付きながら、ただひたすらベースキャンプからの指示を待つ。

そのうち指示が間違っているとか、何を言われているのか理解できなくなったりとか、さらに早く指示を出せと逆切れしたりとか、いらいらしながら山に相対している自分に気が付く。

しかし、そんな自分を止められない。高山病の一種に自分の頭が冒されていることに気が付かないまま、何もかも分からなくなっていく。

結局、彼らは六千数百メートルほどで退却し、遠征は失敗に終わった。

そんな話を、ボクに語ってくれたのはE山さんという純粋な山男だった。

E山さんは、遭難救助の現場で二重遭難に直面し、命を落としかけたり、その後の山でも大きな試練に遭遇している。

そんな時、ヒマラヤで失敗した恥ずかしい思い出が重なると語っていた。

極地と呼ばれる場所には、その名が示す次元を超えた恐怖があるという。

北アルプスの冬山でさえも、放心状態になったり、思考能力を失ったりする登山者はいる。

それがヒマラヤ、エベレストともなれば想像を絶するものなのだろう。

ただ、ボクは今回の記録映像でエベレストへの行程をある程度理解できたと思った。

失敗は大いにあり得るが、それでもチャレンジできる可能性も見えた。

もちろん、この年齢になって本気でやろうなどとは考えていない。

しかし、こんなボクにそう考えさせたということは、これからエベレストを目指そうという若者たちに、とてもいい教材になるのではないだろうか。

あの記録映像を見ながら、長くてきつい登高のイメージも描けるだろう。

そして何よりも、スタッフたちの頂上での涙に、こちらもウルウルしながら頷いたと同じような感動を得ることもできるに違いない。

そんな意味でも、今回のNHKのチャレンジは意義があったと思う。

やはり、山はいい……

ヤマケイと山人の歴史を読む

今しみじみと、わずかにしたり顔をしながら読んでいる本がある。

『山と渓谷1.2.3復刻撰集』という、ちょっとマニアックで厚めの文庫だ。

ご存じのように、『山と渓谷』というのは日本の由緒正しい山岳専門誌のことである。山に興味のない人でもその名前くらいは知っているだろう。そんな雑誌であるから、山に興味のあるボクのようなニンゲンにはとても大切な存在でもあった。

過去形で書いているのは、二十代の中頃から続けてきた購読を、数年前にやめたからだが、その存在の大きさは変わっていない。もちろん立ち読みなどでのチェックは欠かしたこともない。

以下、愛称の「ヤマケイ」で行こう…

この文庫本は、ヤマケイの創刊号、つまり第一号から第三号までの掲載内容を、文庫に再編集したものとなっている。

ヤマケイ創刊は、一九三〇(昭和五)年五月。二号は七月、三号は九月に出ている。

その時代に出版されたものを複写したのがこの本で、印刷の汚れなどはそのまま。書体も時代を感じさせるものだ。当然それぞれの文体や言い回しなども時代がかった味がある。

そんなノスタルジックな印象もいいのだが、やはり何と言っても凄いのはその内容だ。

昭和初期の山での滞在記や紀行。思いを綴ったエッセイ。ようやく誕生し始めた山小屋に関するレポート。さらに山に関する出版物の書評など、まとめて言ってしまうと今とそれほど変わってはいないみたいだが、やはりその内容が実に激しくいいのだ。

創刊号の冒頭に、発刊の「信条」が書かれている。

“要は「正しきアルピニズムの認識」を前提として真面目に「人と山との」対象を思索して行かねばならぬと信じます。”と…

当時の山岳界の在り様や、山を愛する人たちのさまざまなアプローチなどが語られ、昭和初期にしてすでに、これほどまでに登山は人々に親しまれようとしていたのかと驚かされる。

昭和の初めというと、もうすでに当時の近代登山が隆盛を極めていて、大学山岳部や一般社会人の山岳会の活動は活発だった。

当時の紀行の中に、たとえば甲州の山へと向かう人たちを乗せた新宿駅発の列車がいっぱいであることが記されていたりもする。

それ以前の信仰登山と違い、登山は文字どおり登ることそのものに意味を見出すようにもなっていた。

たとえば、冬季の山ではスキー山行なども行われていた。当時の大学生たちには、それなりの家庭に育った者が多かっただろうし、山に入れることはそれなりにステータスを持っていたことが分かる。

この本の中にも出てくるが、厳冬期における初登頂を競い合う大学山岳部のそうした活動は、時として互いに登攀技術や安全のための重要事項をオープンにしない動きに流れていったのだろう。

ヤマケイは、そういうことを広く一般に広めるためという目的をもって発行されたとある。また、さまざまなスタイルで山を楽しむ姿勢を、ニュートラルに受け入れる柔軟さも示している。高価な書を入手できない登山者たちのために、廉価で山の情報を提供するという目的も持っていた。

ところで、こういう読み物に接していると、いつも不思議な思いに流されていく。

それは、山という厳しい世界の中での人間の感覚と、使われてきた道具類の進化についてだ。

たとえば厳冬期の山行における道具類、さらに山小屋の安全性など、この本の中に記されている時代の人たちは、なんと大らかにそれらを享受していたことかと感心させられる。

そういうものしかなかったのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そうであったが故の強靭さやのどかさにホッとしたりもする。

黒部渓谷を歩きとおし、その成果を世に紹介したことで有名な冠松次郎が書いた北アルプス蓮華岳付近の山小屋での話などは、完璧に痛快で面白い。

十月の山小屋で寒さに震えながら眠っているうちに、屋根がめくれたのだろうか、天井から雪が入ってきて、そのうち部屋のあちこちに白い雪が砂糖のように積もっていく…。

“蒲団の上食卓の上を嫌はずに降り積る、雪を掃くのがまるで粉末でも掃き落すよう溶けないだけ始末がよい。”と、こんな調子だ。

そして、そういう状況にありながらも、蒲団に入って寝ていられることを彼は喜んでいる。

今ではそんな山小屋の存在も考えられないが、冠氏はさらにその後も、外に出てその雪の中に大便をするなどした話につなげている。大便が雪の中に沈んでいく時の表現は完璧すぎて、ちょっとここでは書けない……。

また冬季の上高地・徳沢あたりをベースにして行われる、涸沢や岳沢あたりでの大学山岳部のスキー山行記などを読んでいると、ボクなどは当時の道具類でよくそこまでやれるものだと驚いてしまう。

最も驚くべきは、単純に寒さに対する強さなのかもしれないと思ったりもする。

それほど本格的ではないが、自身のわずかな雪山体験からも、温度計の赤い棒が下にめり込んでしまうような寒さの中では、もうかなりニンゲンは消耗してしまうものだと実感できる。

雪と共に突風が吹き荒れ、身体の体温が一気に下がっていく感覚は今も昔も変わらないだろう。

あの時代の人たちの使っていた道具類は、今とは比較にならないほど寒さなどに弱かったはずだ。スキーのビンディングにしても安定感は乏しかったろう。ブーツは皮だろうし、それに何と言ってもウエアなどは、今とは全く比較にならないものだったはずだ。ブーツの中の指先が冷たくなっていく感覚など、今の時代ですらも当然感じるものだ。

そういった当時の状況の中で、山そのものを、そして山にいる時間を愛する人たちの行動や思いが、この雑誌に込められている。

ただ、そういう厳しい山行の記録ばかりが綴られているのでは当然ない。

富山生まれで、ふるさとの山を愛し、多くの書を残した田部重治氏が綴る「山の想い出」という短い文章からは、のんびりとした山そのものを楽しむ思いが伝わってくる。

幼い頃から見上げていた立山連峰など、山の存在が氏の生き方そのものを形作っていることを教えてくれる。山を歩くことが至福の時間であることを、氏は素朴に伝えているのだ。

余談だが、ボクの大好きな太郎平小屋に掲げられている表札の文字は、この田部重治氏の書だ。

 

まだ、完読していないが、この本に綴られている話を読んでいくと、いつも山のことを考えていた自分を思い出した。

街を歩いていたり、クルマを運転していたり、どんな場面でも山のちょっとした情景を思い出せるチカラ?が、ボクにはあったように思う。

森林の中のぬかるみ、縦走中の岩の上、木道のちょっとした滑り具合…。雨降り、強風、雪、そして抜けるような濃い青空。それらがいとも簡単に蘇ってくる。

足の裏や、手のひらなどに山での感覚が再生される。さらには行ったこともない山のことも想像できた。

山小屋のテラスやベンチで、ただボーっと眺めた景色は、どんな季節でも、ひたすら美しく浮かんできた。

そして、もともとが歴史好きのニンゲンだったせいもあり、山の世界でもその歴史的な匂いをいつも嗅ぎまわっていたように思う。

山は近代登山によって開かれたのではなく、先にも書いたが、信仰や、林業、イワナの採取など、その目的はいくつかあり、近代以前から開かれた山は数多くあった。

何度か書いているが、もともとボクが山を登るきっかけとなったのは、社会人になった一年目の梅雨真っ盛りの頃に連れて行かれた剣岳山行である。

土砂降りの中、川のようになった早月尾根の道を登って当時の伝蔵小屋(現早月小屋)に入り、翌朝も悪天の中、剣の岩場で情けない思いをしながら、何とか登頂を果たした。

その時に残ったもののひとつが体力に対する自信だった。

その後、北アルプスに頻繁に出掛けるようになり、体力任せのコースタイム破り山行に楽しみ?がシフトしていく。ただそれだけなのに、山でやれる自信は相当に深まった。

しかし、その頃本当に山を好きになっていたのかどうかは、今でも分からない。いつも登りながら、辛い、苦しい、なんでこんなことやってるんだろ?と、そんなことばかり考えていたような気がする。

山の本当の楽しさを知ったのは、薬師岳・奥黒部方面に出掛け、太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんと出会えたことによる。

山をゆっくり登る。山でゆったり過ごす。適度に酒を飲む。ボーっとできる自分だけの場所があれば、頂上などどうでもよくなった。

 

『山と渓谷』を購読し始めたのは、その方面への関心が高まった二十代の中頃だった。

音楽をはじめとして、スポーツや文芸、歴史・自然紀行まで含め、これまでいろいろな雑誌を購読してきた。立ち読み型のものまで入れると、その数はかなりになると思う。

その中でこの雑誌は、ロングラン購読のひとつだった。

そして、ボクにとってヤマケイは、自分の文章で直接原稿料というものをいただいた最初の出版物でもある。2ページほどの紀行エッセイを三度掲載させてもらっている。

そんな意味でも、ボクにとってやはり大切な存在なのである。

ところで、この本の栞として使っているカードは、少し前に知り合った元ヤマケイスタッフだという某氏からいただいたものだ。

上高地のインバウンド情報が詰め込まれたカードだ。外国人向けの多言語情報が入っている。

ますます、山の世界にも新しい仕組みが導入されている現実を、この古い本を読みながら実感しているのだ……

雪を待つ・・・

山に雪が来た…などというニュースを見聞きすると、毎年必ずやることがある。

それは、自分の二畳半の部屋に置かれてあるテレマークスキーの道具類に目を向けることだ。

目を向けるというのは、まさに言葉のとおりで、何気なくモノの存在を確認するといった方が正しいかもしれない。

そして、さらに強いてやることと言えば、それらに軽く手を触れ、「やあ」とかというふうに声掛けするくらいだ。

ボクがテレマークスキーに、文字どおり乗り換えたのはもう二十年ほど前だ。

それ以前は普通のゲレンデスキーをやっていたのだが、山や雪野原を駆けめぐるという、ただひたすら楽しそうな誘惑に負けて(そんなに受身的ではなかったが)、切り替えた。

買った時のことははっきりと覚えている。一月の会社の社員旅行(ハワイ行き)のために積み立ててあった金を、そのまま道具一式の費用にまわしたのだ。

もちろん社員旅行には参加しなかった。今がチャンスと思い、十一月の終わり頃から、当時住んでいた金沢のアパートの近くにあったK-ジツ(今はない)へと通っていた。

店長のNさんとは山系グッズの買い物などですでに顔見知りになっていて、テレマークの買い物の時も当然いろいろとアドバイスをくれた。

会社の連中が何グループかに分かれてハワイへと旅立っていく頃、ボクはその店では八人目のテレマークスキー購入者になった。Nさんが言った。

「どうせ、他では売ってないから、たぶんナカイさんが石川県で八番目のテレマーカーでしょう…」

それはなかなかいい響きで、ボクは当然、そうか、やはりそうなのかと納得した。

スキーの板に素朴なビンディング、伸縮ストックに革製のブーツ。それにツアーの登りに板の裏側に張り付けるシール。ついでにツアー用のザック。なかなか心強い道具たちが揃った。

しかし、それからテレマーク独特の技術を習得していくまでは、苦労とは言わないまでも、それなりに大変な日々が続く。

なにしろお手本というのは、ヤマケイなどの山岳雑誌に出ている写真だけ。教則本を注文すると二週間は要し、それまでは家の畳の上で感触を確認し、そして肝心の雪を待った。

教則本が届くとじっくりとイメージをつくる。初体験は忘れもしない白山一里野スキー場だった。

ゲレンデの端。ほとんどスキーヤーの入って来ない場所を選んで、そこを練習場にする。頭の上をリフトが通っていて、その視線は気になるが、贅沢は言えない。

教則本のコピーをクリアファイルに挟んで持ち込み、上部の雪の上に置く。そしてひたすらイメージを頭に叩き込んでから、ゆっくりと滑り降りてみる。

板が細く、軽い。その分不安定な感じもする。テレマークスキーは、簡単に言うと後方にある足の踵を浮かせて、膝を曲げながらターンする。ジャンプ競技の着地の時の姿勢をテレマークというが、それと同じだ。ついでに言うと、踵がフリーであるということは歩行をより有利にしてくれるということでもある。

何度か滑っていくうちに、テレマークターンができるようになった。大袈裟に言えば、テレマークターンが決まった。ゆっくりと曲がっていったあの時の感触は、今もはっきりと覚えている。

それからひたすらスキー場の端っこへと通った。しかし、当然休日しか来れない。街にいても、横断歩道で信号待ちしていると膝が曲がった。ちょっとした坂道を下りる時でも、蛇行するような歩き方をして、テレマークターンのイメージを身体に沁み込ませていた。もちろん無意識にやっていた場合が多い。

そんなこんなで、何とか滑れるようになると、今度は教則本の止まった写真ではなく、実際に生のテレマーカーを見たいと思うようになった。

赤倉に行けば、動くテレマーカーを見ることができると知ると、早速赤倉へと向かった。そこで見たテレマーカーたちは凄かった。まだそれほど人数も少なかった頃だが、想像をはるかに超える自在さで、いろいろな斜面、そして雪質にも対応していく姿を目の当たりにして、かなりビビった。

あれからもう二十年近くの歳月が過ぎている。その間に立山、白山、白馬、妙高、そして地元の医王山や立山山麓の雪原に出かけたが、どこへ行っても満足した経験はない。それは常に、技術や安全との背中合わせだったからだろう。

数百メートルの急な斜面をゆっくり大きな弧を描いて下りて(行かざるを得ない)行く時のスリル。ほとんど凍っている表面の雪を割るようにして進む勇気。今思い出しても、ゾーッとする。単独が多かったせいもあって、寒風の中で立ち往生していた自分を想像するだけで、妙に恥ずかしくなったりもする。

そんな時の救いは、岩陰で沸かした一杯のコーヒーの味や、雪と戯れる雷鳥の姿だったりした。

最近は妙高笹ヶ峰の高原をスキーで歩き、走り、滑るのが唯一の楽しみなのだが、今年は雪が来ると、まず津幡の森林公園に出かけてみようと思っている。去年くらいの雪が降ってくれれば、森林公園は格好のフィールドになる。

板はもちろん、ブーツにもかなり痛みがあり、もうそれほど長い期間は使えないことが分かってきた。その手入れのことを聞きに、今度Nに会いに行くつもりだ。久しぶりに昔の話でもしようかと思う。

この話は、まだ続きそうな予感がする……

山に雪が来た日の想い出

初冬の山の気配が好きだ。そこには独特な空気が漂い、緊張感をも含んだ山らしい世界がある。

本格的な山となれば、十月には間違いなく初雪が来る。記憶に強烈に残っているのは、十月の半ば二、三時間のうちに五十センチくらい降られた経験だ。

北アルプス・薬師岳の最後の登りに入る小屋(薬師岳山荘)の前で停滞中だった。

朝、登山口である折立にいた頃は、冷え込みながら空は晴れていた。昼過ぎに太郎平小屋を出た後だ。途中から降り始めた雪が積もりはじめ、このままでは危ないということになった。

降りしきる雪の中、薬師岳山荘までは来たが、閉められた小屋の外に吊るされた温度計はもう計測不能状態になっている。山仲間たちはみな元気だったが、とにかくリーダーの指示を待っていた。

薬師岳を閉山する毎年最後の山行だ。頂上を目指したのは十数名のパーティだったが、その時の一般登山者の中に、経験を偽って参加していた人がいた。

拠点である太郎平小屋で、この時季の三千メートル級の経験がある人だけというのが登頂同行者の条件にされたが、その人はその条件を無視か、意味が分からなかったか? とにかくパーティに入って来たのだ。

三十代後半くらいの女性だった。すでに唇は紫色に近く、顔から表情が消えていた。

顔が痛い。まつ毛どころか涙が凍る。気温は氷点下十度以下だと誰かが言う。

ボクは一応、その時のサポートスタッフの一人だった。リーダーが言った。

「この人連れて、太郎小屋まで戻ってくれや」

一瞬耳を疑ったが、太郎平小屋の五十嶋博文マスターからの指示でもあった。そのサポートがボクになった。

残りのメンバーは、雪の中頂上を目指すことになっていた。

勝手知ったる登山道とはいえ、この雪の中を経験がほとんどない、しかも女性をサポートして下るのはかなり重大なこと。

特に小屋までの後半の下りは、雪のない時季でも急な歩行となり、バランスを崩して転んだ人を二度見ていた。そこを降ったばかりの雪を踏みながら下りるのだ。

雪は完璧なパウダーで、岩の上などに膝あたりまで積もっていた。さすがに標高が下がれば降雪は少なくなるが、それでも安心などできない。

ボクは足で軽い雪を払いのけ、岩肌や土の表面を出すようにしながら前進した。幸い登りの段階からスパッツを装着していたのが役に立った。

しかし、寒さは半端ではなかった。声をかけてもほとんど返事をしない女性は、ただ無心に崖を下った。土の上はまだいいが、大きな岩の上を伝ったりする時にはほとんど座ったまま下りなければならない。雪でほとんどが真っ白になっていた。

午後の三時半頃だろうか。時計も見ず、時折思い出したように降り始める細かな雪と湿ったガスの中を歩いた。

薬師峠という夏はテントが張られるところまで下ると、ほっと息が抜けた。そこからは急な登り返しが続くのだが、身体が冷えている分、登りになって体温が回復する方がいいと思った。

登り切ってしばらく行くと、太郎平小屋の明かりがはっきりと見えてくる。あとは平らな道が続く。下界は雲の下だ。その時になって初めて「ありがとうございました」と、その女性が口をきいた。

自分が何を言い返したのかは忘れたが、夏の立山を登った経験があったことだけは分かった。たしかに立山は三千メートル級だ……

小屋に着いて、三十分もしないうちに頂上へ向かったはずのメンバーも小屋に戻ってきた。登頂はあきらめ引き返したという。まだ時間は早かったが、周囲はすっかり暗くなっていた。

リーダーがボクを見つけて、「途中で雪に埋まっとらんでないかと、心配しながら下りて来たがやぞ」と言って笑った。

その夜は、太郎平小屋の食堂で一年の無事を感謝し、ドンチャン騒ぎをし、二階の大部屋に静かに集まり、かなりのほろ酔い状態で冷たい布団にもぐり込んだ。

夜中に用足しに起きると、上下の歯が激しくガタガタと鳴った。

いや実際には噛み合わずに鳴っていなかったかも知れない。ただ、顎は痛くなった。

用足し中は、目の前が見えないくらいの湯気?に包まれ、このまま天国にでも行ってしまうのではないかと焦ったりもした。

薄く凍りついた窓ガラスを指でこすると、星が無数に光っているのが見える。

そして翌朝は、予想どおり見事な青空だった。身支度を整え外に出ると、二日酔いもあっという間に吹っ飛んだ。

小屋周辺の積雪は大したことない。その分、霜柱が大きいもので十センチ近い高さで立っている。童心に帰ったように、そこら中を歩き回ったりした。

黙々と、ひたすら足を前へと出していくだけの下山。

ふと昨夜の酒の場や、布団にもぐり込んだ直後の会話を断片的に思い出す。

剣沢の小屋で、かつて大学山岳部の一年生が合宿中に逃げ込んできたとか、自然を守るというのはオレたちの意識や感覚にはないけど、同化していれば自ずとそうなっているんじゃないかとか…。

そんなむずかしい話ばかりではないが、とにかく断片的過ぎて記憶が繋がっていかない。

そして、そんな時になって初めて、大部屋の真ん中に小さな電気炬燵が置いてあったのを思い出し、布団にもぐる前にその炬燵で暖まっていたのだと振り返る。

何人かが無言のまま、炬燵に体を突込み、丸まっていた……。

あの時のあの沈黙が懐かしい。

廊下の下駄箱に並んだ汚れた登山靴、無造作に置かれたリュック、着込んだヤッケの擦れる音、どこからか聞こえてくる笑い声、それらが胸に記憶となって刻まれている。

冬を迎え入れた山の空気の感覚は、あの時の切なさみたいなものなのかもしれない。夏とは違った空気に、山のもうひとつの顔が見えてくる。

街にいるある瞬間に、ふとそういったことを思い出すのがクセだったような気がする。

今は少し症状も薄れてきているが、そのクセはおそらく死ぬまで直らないのだろうと思う……

小屋閉め間近の風景【写真:太郎平小屋・河野一樹さん】

秋の終わりの上高地を歩く

秋の終わりの上高地へと出かけてきた。

八月にも夏真っ盛りの上高地に出かけてきたが、その空気の違いに納得しつつ、どこか奇妙な感覚にもなった。

それは、秋の終わりなのに冬の始まりの匂いを感じなかったことだ。

かつて何度となく足を踏み入れた上高地だが、何かがおかしい。

これは当然上高地に限ったことではないが、大好きな山の世界のことなので、少々拍子抜けなのだ。

本来あっておかしくない雪は、奥穂高の稜線にわずかに薄らと載っかっている程度だった。

暖かくて、歩くには申し分ない。しかし…と、余計なことを考える。

河童橋の脇に立ち、岳沢から突き上げるようにして聳える穂高連峰を見上げた。青空の下に秋の岩肌が鈍い光を放っている。かつて秋の白馬で、岩肌に西日が当たる重厚な山容を目の当たりにしたことがあったが、今の穂高も陽を受けて美しい。

岳沢まで登って見上げれば、その雄々しさに言葉を失うだろうなあ…と、強く思う。

トイレを済ませて、すぐに小梨平から明神の方へと向かった。

梓川左岸の道は、左岸と言うほど川と接していない。鬱蒼とした森の中の道というイメージがメインだが、今は葉も落ちて裸木が無数に立ちつくしている。その裸木の肌を木漏れ日が浮かび上がらせる。

ひたすら歩いて、ひたすら秋の終わりらしい光景を探し、ひたすらファインダーを覗いてシャッターを切ることにした。

しばらく歩くと、明神岳のごつごつした山容がはっきりしてくる。

かつて、そのゴリラの顔のような山容に親しみを抱き、じっと見上げていた場所があった。その場所がかつてのようなのどかさを失って荒れている。自然の世界では不思議なことではない。

河童橋から約一時間。明神池の入り口に建つ「明神館」の前の陽だまりで昼飯を食った。

そして、明神館の売店に入る。シーズンも終わりに近く、中はがらんとしている。スタッフらしい若い女の子に、明神館名物?の手ぬぐいがあるかと聞いた。ありますよという元気な声が返ってきた。ずっと欲しいと思いつつ、買い込んでなかった手ぬぐいだ。ようやく手にして、何だか妙に嬉しくなった。

明神池は秋の真っ盛りをとうに過ぎていた。

美しいが、さらに美しい秋の風景を知っている。だが、この風景もまた明神池だ。

背後の山をくっきりと映し込む穏やかな水面をマガモのツガイが泳いでいた。しばらくすると、すぐ足もとまで近付いてくる。人慣れしたマガモにこっちが照れる。

午後に入って、空が曇り始めてきた。

河童橋に向かって、右岸の道を戻ることにする。

途中、上高地の名物ガイドだった上条嘉門次ゆかりの「嘉門次小屋」があるが、以前より拡張して大きくなっていた。囲炉裏から流れていた煙など見えない。

道はぐねぐねと曲線を描いたりしながら、梓川に近付いたり離れたりを繰り返す。

夏は多くの人のすれ違いでうんざりする木道も、ゆったりと歩けて、気の向くままにカメラを構えたりしている。

周囲を見回す視線もゆったり、そのせいか枯れ木や倒木などの造形や、沢のせせらぎの変化などに敏感になれる。

こんな開放的な気分に浸れる上高地は何年ぶりだろうかと考えた。

上高地を通過点にしていた時期。朝早くに急ぎ足で歩いていた頃にも、たしかにゆったりとできる時間があったはずだが、その頃は目的地が山だった。今いるような場所への関心は薄らいでいた。

時も過ぎて、今は上高地の別な顔を見出している自分に納得している。

ブラブラと歩きながら、時折道から少し離れてカメラを構える。それを繰り返しているうちに河童橋へと戻ってきた。

見上げる穂高連峰は、西穂高から流れてきた雲によって、奥穂高あたりまでが姿をぼかし始めていた。

人のいない河童橋を渡り、もう十分だと、五千尺のカフェでコーヒーを飲んだ。

窓際に座ると、ガスに巻かれた穂高の山並みが見えていた。

今回の上高地で、強く思ったことがある。それはこれからもずっとここへ通おうということで、あらためて自分の原点みたいなものが上高地にあるような気になった。

文句なしに美しく雄々しいものを前にした時、ニンゲンはひたすら素直になれることを、いい歳をして再確認した。

上高地…。相変わらずいい響きなのだ……

 

辻まこと~というヒトがいた

辻まことを知っていますか?

 と聞いて、すぐさま知っていると答えた人はほとんどいなかった。別に知らなくても日々の生活に困ることはないので心配ないのだが、ボクの場合、二十四年も前に知ってしまったおかげで、随分と幸せな気分にさせてもらった一人である。

 1987年の『山と渓谷』12月号。「辻まこと」がその中で特集されていた。

 画家であり、グラフィックデザイナーであり、詩人であり、エッセイストであり、ギタリストであり、山歩きの達人であり、イワナ釣りの名人であり、山岳スキーの名手であり……と、さまざまに紹介されていながら、そのどれもが奥義を究めたものだったと言われる辻まこと。

 何とおりもの人物像をもちながら、どの分野においても強烈な印象を与えていたと言われる。

 1913年に生まれ、75年に他界。父は放浪癖の翻訳家として知られる辻潤。母は婦人運動家であり、潤と離婚したのち、無政府主義者・大杉栄と同棲し、後に関東大震災後の戒厳令下、大杉と共に虐殺された伊藤野枝である。日本史をちょっと深めに勉強した人なら、聞いた覚えはあるだろう(甘粕事件)。こんな話はボクにとってどうでもいいことだと思ってきたが、やはり辻まことを知る上で重要だった。

 三歳になる前に両親が離婚したまことは、父のもとにおかれるが、父が放浪していた間は叔母に養われた。15歳で父とパリに滞在。当時から絵描きになりたいという思いを持っていたが、ルーブル美術館を一ヶ月間見て、すっかり絶望的になったという。

 帰国した後は、昼働き夜は学校という生活になったが、その学校も中退。デザイン関係の仕事に就いたりもした。

 そしてその間、どういうわけか竹久夢二の次男・不二彦らと金鉱探しに夢中になり、東北や信越の山々を駆け巡ったという。このことが後の山歩きの達人の素養を作った。

 大戦中は東亜日報の記者として中国に渡ったが、後に徴用され報道班員として従軍している。

 辻まことが、その所謂“辻まこと”的イメージを作り始めるのは、戦後、奥鬼怒や会津、信州などの山々に入るようになってかららしい。スキーも習得して活動フィールドを広めた。スキーはフランスのアルペン技術を研究し、国内の大会で入賞するまでになった。

 フリーのグラフィックデザイナーとして多くの雑誌広告を手掛けるようにもなり、さらに画文を発表したり、個展を開くなどの活動を続けてきたが、72年、59歳の時に、胃の切除手術を受け、療養生活の中での創作をなおも続けながら、75年、62歳でこの世を去っている。

 辻まことを知った当時、ボクは結婚していたが、それでもまだ山への憧れを強く抱く非日常志向型のニンゲンだった。

 北アルプスの麓・富山の山男たちと一緒に活動していたせいもあって、周囲にはヒマラヤや北米マッキンリーなどを登ってきた豪傑がいた。山岳パトロール隊や山小屋のおやじさんなど、山の生情報がいつも耳に入ってくる環境にいたのだ。

 しかし、ボク自身が極地まで足を踏み込むような野望をもっていたわけでは当然なく、ただひたすら山でビールでも飲みながらのんびりできればそれでいいか…みたいな感じだった。

 そんな時に辻まことと出会った(知った)ことは、ボクにとって幸い?でもあった。時代が違っても、心置きなく山を楽しむ心が、辻まことの発するあらゆるものにあふれていて、ボクを勇気づけてくれた。それ以前の、椎名誠や沢野ひとし等が繰り広げた山紀行なども大好きだったのは言うまでもない。

 その7、8年ほど前からだろうか、ボクは単独で山に入るようになっていたが、山のスタイルにはこのマイペースが最も相応しいと思うようになっていた。別な角度から言えば、それまで一緒に山に入っていた親友が、仕事が忙しくなり同行できなくなっていた。それまでドタバタ山行を繰り返してきたニンゲンが、独りでドタバタできなくなったということでもあったのだ。

 辻まことの絵は、ボクにとって温かい。専門的なことは分からないが、とにかく無性に温かくなって心が逆にざわめく。文章もさり気なく、温かみが増し、さらにざわめきを憧れに変えていく。

 描(書)いている本人の、いかにも楽しそうな雰囲気が伝わってきて羨ましくなってくる。

 タイトル写真にある『山からの言葉』という本は、ボクにとって大切な一冊だ。

 山岳雑誌の表紙の絵と、巻末に書いていたコラムを一緒にした素晴らしい本である。1982年に白日社から出ている(写真のものは平凡社ライブラリー1996発刊)が、辻まことの人生を締めくくる時期に書いた名著だと自信を持って言える。

 この本の中では、自由人・辻まことの一断面を知るに過ぎないが、単に山好きニンゲンたちだけのための面白話と、愉快でほのぼのとする絵の詰め合わせという枠ははるかに超えている。

 それは彼がピークハンター的な登山家ではなく、ポーターや猟師や釣り人などとしても、山と接してきたからに他ならない。絵とセットされた1ページの短い文章に接していくと、何となくそれが分かってくる。ゆったりとして、ユーモアも溢れんばかりだ。

 山でのさまざまなことが書かれているが、そこには「自分の眼でしか物を見ない本当の自由人」としての生き方が感じられる。いや、生き方というのは大袈裟だ。モノゴトのやり方や感じ方、思い方といった程度が相応しい。チカラが入っていない。

 心がざわめく温かさの正体は、そんなところにあるのだろう。

  数奇な少年時代を過ごしていながら、彼には暗さがない。敢えて明るくしていたという見方もあるが、彼はそんな単純な人ではなかったと思う。だから、自分の世界を求めた。絵はプロ級でありながら、敢えてその道一筋の芸術家にならなかったのも納得できる。

「夢中になるためには、相当量の馬鹿らしさが必要だ」と言った彼の言葉の中に、そんなことへの答えが見え隠れしている。

 そして、実際に眼で見るその絵からは、少年のような楽しさへの憧れと、常にユーモアを忘れなかった大人の匂いが漂ってくる。

“森林限界をぬけると、あとは雪と岩と青空だけの世界になる。つまり鉱物の世界だ。これ以上にサッパリして清潔な環境はちょっと考えられない。(中略) 快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持だ”

 山岳雑誌だから、山の話が中心なのは当然だが、雪と岩と、そして「青空」を最後に書くあたりが、辻まことの辻まことたるところだ。やはり、山には青空がいる。そんな当たり前のことを、当たり前のように彼は書いた。

“人は皆、「この時代」に生きなければならないと、あくせくしているようだが、考えようによっては、勝手に自分の好きな時代を選んで生きることだってできるのである”・・・・・・ボクには、この文章が彼にとって、自分の世界のあり方を書いた一節のように読める。

 それが辻まことの世界なんだと、ボクは思う。

 なぜ辻まことを好きになったか?

 それは少年のような心を大人の表現で見せてくれるからだ。時代は異なるが、稲見一良にもちょっと共通すると思ったりする。彼らに共通するのは、大人の中に潜む少年と、少年の中に潜む大人があるということだ。それが“大人のオトコ”なのだと最近思うようになった。

 学生時代、ジャズと映画を語る植草甚一(JJ)の本も好きだった。余裕があるように見せて、実際はひたすら走っていただけだったのかも知れないが、ホンモノって何か?と粋がっていた気がする。そんなに深くもなかったが…

 ところで、今なぜ、辻まことだったのだろうか・・・なのだが、それは、とりあえず・・・ヒミツとしか言いようがない………

『 あてのない絵はがき』

『多摩川探検隊』

 

 

 

疲れると、青空と雲を見る

仕事でちょっと眼が疲れたりすると、席を離れ大きな窓のある部屋へ行く。

晴れた日には、そこから青空を見上げ、雲を見る。

しばらく見ていると眼の疲れが少しずつ癒されていくのが分かり、首筋から肩にかけて重い何かが抜けきったような感覚に浸れる。

山にいても、同じようなことを感じることがある。

山では眼だけが疲れるわけではなく、全身、つまり足の先から頭のてっぺんまでが完璧に疲れるのだが、そんな時にも空が癒してくれたりする。

特に好きなのは、北アルプス・太郎平小屋から黒部五郎岳方面に登り、北ノ俣(きたのまた)岳頂上直下の平らになった稜線で見上げる空だ。

この空にはただ美しく濃い青があるだけでなく、北アルプス最奥部の美しい稜線が、パノラマで空を切り抜いたような光景を見せてくれる。

このようなことは、山では当たり前なのだが、特にボクはその場所が気に入っているのだ。

ちなみに、ビールは空に十分匹敵する癒やし品なのだが、ここでは横に置いておく・・・

ところで、最近までこの癒し感覚は青空のせいだと思ってきた。

空の青さが癒やしをもたらしてくれるのだろうと思っていた。

しかし、ここへきてそれが少し違っていることに気付いている。

もちろん、青空は元気の源だし、この世には永遠になくならないものがあるんだということを教えてくれるすべてのようにも思う。

しかし・・・、疲れを癒すという意味では、雲の存在の方が大きな力になっていることを最近知った。

特に、秋のカツーンとくる(人によってはスカーンもあるらしい)ような青空の中に浮かぶ雲は、絶好の特効薬になっていたりする。

その要因は何か?と言うと、やはり雲には“ボーっとできる”エキスが漂っているということだ。

そしてそれは、雲自身がボーっとしているからに他ならない。雲は実にボーっとしている。

この季節のふんわりと柔らかそうな白い雲を見れば、十分納得できる。

どのような模様にでもすぐに変身してしまうこの時季の雲は、ひたすらのんびりしているようにも見えてくる。自主性がない。

目を凝らしていなければ分からないような弱い動きを、それほど目を凝らさずに見てみる。

すると、雲の動きの“ボーっと”につられたように、見ている眼もボーっとしてくるから不思議だ。

そして、眼がボーっとしてくると、いつの間にかカラダ全体もボーっとしてくる。この状態が凄くいい。

悟りの境地とはこの時の状況なのかも知れないと思う。

今年の秋は、理由があってよく眼が疲れ、そのために空と雲を見る機会が多っくなった。

しばらくは、そのボーっとに救われる日々が続きそうだ・・・

久しぶりに上高地を歩く

かなり久しぶりに上高地に行ってきた。盆の休みに入る前、どこか予定は?と聞かれ、何もないと軽く答えたら、それはナカイらしくないと言われた。その言葉がグサリと胸に突き刺さった。やはりそうだよなと軽率な返答を反省し、それなら久しぶりに上高地にでも行くかなと、五秒ぐらいの間に決めた。

上高地は最近ずっと気になっていた場所だ。二十代の頃には春の終わりから本格的な夏の始まりの頃合いを見て、いつも足を運んでいた。多いときには、一ヶ月に五回ほどは通った。それくらい上高地が好きだった。

初めは上高地の平らなエリアを歩きまわり、梓川の美しさと樹林帯の静寂、穂高連峰など山々の圧倒的な姿に酔いしれた。平らなエリアだけでも、ほぼすべて歩いて元の位置に戻るまでには、八時間くらいかかる。早朝に着いて、夕方に上高地を出る。当時はマイカー規制のない期間があり、その期間を中心にして精力的に出かけていた。楽しい時間だった。

慣れてくると、歩きまわることよりも、どこかでゆっくりと時間を過ごすことの方に楽しみを感じるようになっていった。

特に誰もいない梓川の河原に出て、せせらぎを聞きながら山並みを眺めている時間は最高だった。想像を働かせていると、江戸時代、上高地で働いていたという樵(きこり)たちの声が聞こえてくるような気がした。新田次郎の『槍ヶ岳開山』に出てくる、槍ヶ岳の初登頂者・播隆(ばんりゅう)上人たちの一行が、近くを通り過ぎていくような気配を感じ、思わず振り返ったりもした。

それらをもたらしていたのは、空気だった。あの時ボクの周りにあった空気は、時代や日常という感覚を超越していたように思う。ボク自身が過敏になり、それを求めていたということもあろうが、そういう空気を自分が歓迎していたことは間違いない。

上高地に通ううち、途中から山深くに入るようになり、上高地は通過点みたいになっていく。それでも早朝や夕方の上高地は新鮮だった。朝は快調に早足で河童橋を出発し、そして疲れ切った翌日の夕方は、開き直りの早足で横尾からの道を戻った。

忘れもしない穂高初山行の時には、梅雨明け直後の晴天の下、一泊二日では厳しいスケジュールにも関わらず、無理やり睡眠時間を短縮して歩きとおし、放心状態で下山してきた。梓川の水が憎たらしいほど美しかった。

横尾から徳沢という場所までの道すがら、ボクは真剣に靴もソックスも脱いで、川の中に入って行き、そのまま河童橋付近までザブザブと歩いて行きたいと考えていた。今で言う熱射病に近い症状だったのだろうが、確かに飲み物というとビールとコーヒーばかりで利尿効果抜群、体内にはあまり水分は残っていなかったのだろう。冷静な思考力などおこるはずがない。

完璧なヤケクソ状態のまま河童橋までたどり着いた。が、休憩はせず、そのままバスターミナルまで進んだ。その頃のボクは休まない登山者だった。たとえば、三、四時間くらいであれば、一度も休まずに歩くということは全く普通だった。

だいたいコースには決まって休憩地点がある。しかし、そこには決まっていくつかのグループがいる。単独であるボクは、ついついそんな場所を避け、もうちょっと先で気ままに休もうと思うのだが、なかなかそんないい場所はない。そのうち休憩などどうでもいいと思うようになり、どんどん行ってしまう。そんなことを繰り返すうちに、ボクは休憩しない登山者になった。しかし、これはよくない。体力を消耗するだけだ。

上高地の思い出にはきりがない。自分でもおかしく思えるくらいに、ひとつひとつが鮮明だ。そしてもうひとつ大切で鮮明なのは、上高地周辺での思い出だ。忘れられないのが、上高地への長野県側からの入り口である沢渡(さわんど)の土産物屋さん。かつて毎年のように立ち寄っていたその店は、いつの間にか店じまいしていた。

長身で上品そうな店の奥さん(その頃からおばあさんだったが)の顔は、今でも何となく覚えている。初めて店に入った時、タバコ吸ってもいいですか?と、ボクが聞いたことから会話が始まった。そのことを奥さんはずっと覚えてくれていた。旦那さんが亡くなり、店の営業範囲が狭くなり、それから数年したら店は閉じられていたと記憶する。

そして、上高地への岐阜県側からの入り口、平湯温泉までの道にある上宝村の風景もまた忘れられない。今回もその素朴な風情に触れてきた。

久しぶりにやって来た上高地は、やはり美しかった。人が多いこと以外は、文句のつけようがないくらいに素晴らしく、さすが上高地だなあと嬉しくなった。河童橋横の五千尺さんは見事に今風に変身していて、今では「いなりうどん」を頼むような野暮なことは言えず、と言っても、登山者のニーズに応えるかのような「山賊定食」などを提供するあたり、これもさすがだなあと思ったりした。

とりあえず定番のような大正池~河童橋コースを歩かせていただいた。どこかによそよそしさを感じたりしたのは、いつも大きなザックを背負い歩いていた自分とは違う身軽さのせいだったのだろうか。何となく、穂高連峰が遠い存在に思えた。

ただ、少しずつ雲が出始めた空を見上げ、雨の気配を感じ、バスターミナルまで急いだあたりは、まだまだ山の感覚が残っていると嬉しくなったりもした。バスターミナルに着いた途端、山特有のスコールがやって来たのだ・・・・・・

ひるがの高原・夏

 

ふらりと、「ひるがの高原」へ行ってきた。不覚にも初めてだった。

東海北陸自動車道を一つ手前の荘川インターで下りて、道の駅に寄り、そこから一旦何を思ったか逆コースに走り出し、途中のガソリンスタンドのやさしそうなご主人に教えられて正しい方向に戻ることができた。早朝の道の駅には、多くの人たちが採れたて野菜などを求めに来ていたが、夏の朝らしい、ボクの大好きな光景だった。

夏はやはり高原だ。海の近くの村に生まれたにも関わらず、いつの間にか平坦な海を眺めているより、起伏にあふれた山並みを見る方が好きになっていた。

高原という場所のよさを知ったのは、三十年くらい前に八ヶ岳山麓に通い始めた頃、信州の車山高原に行ったことがきっかけだった。その後立て続けに足を運ぶようになった美ヶ原高原も、雄大な景色と、広くて青い空や真っ白な入道雲を満喫するためには最高の場所で、夏になると絶対に行かねばならぬといった、妙な使命感?に後押しされていたと思う。

そんなわけで、今年は特に震災の影響を受けた節電対策もあり、暑ければ高原へ行こうというかつての思いが俄かに再燃した。日帰りで、簡単に行って来ることができる高原…。そして思い立ったのが、岐阜郡上の「ひるがの高原」だったのだ。

東海北陸自動車が開通して以来、五箇山や白川、高山などがかなり至近距離化した。それまでのことを思うと、あっという間に着いてしまうといった感じだ。さらに荘川村やひるがの高原あたりも同じ感覚で、特に白川から荘川へ抜けるまでの道(国道一五六号)は、走ること自体と風景を楽しむゆとりがないと走れなかった。

この辺りでは清見村も大好きだった。前にも何かで書いたが、オークビレッジの工房にふらりと立ち寄っては、適当に気に入ったものを買って帰ったりした。しかし、ひるがの高原まではなかなか足を延ばす気になれなかった。距離が中途半端で、日帰りをベースに考えると、どうもそれほど魅力を感じなかったのかも知れない。

 ひるがの高原の名前が、頻繁にボクの耳に入ってくるようになったのは、ひるがの高原に別荘ブーム?が起こった頃だろうか…。

もう退会したが、かつて北アルプスの薬師岳・奥黒部方面を中心に活動していた「大山町山岳会」の一員だった頃、その会の会長をされていたE山さんという豪傑から、「ひるがの高原に家(別荘)を建てっからよ、遊びに来られや!」と誘われた時だ。

E山さんといえば苦くて懐かしい思い出がある。強靭な肉体と、口の悪さが合体した、自然児そのものといった山オトコだった。ヒマラヤでの失敗もあってか、山では厳しかった。一度山スキーツアーでルートから外れ、皆を四十分ほども待たせてしまったボクは、E山さんからこっぴどく叱られたことがある。しかし、その後雪の上で肉を焼いて食っていたとき、ボクのとっていたルートに雪崩の兆候が見えていたから叱ったのだと、缶ビールを呷りながら語ってくれた。笑うと、少年のような顔になる。ボクはそんなE山さんが大好きだった。

そのE山さんが、ひるがの高原に別荘を建てるからと誘ってくれたが、ボクにはピンとこなかった。ひるがの高原の名前は当然知っていた。が、身近に感じられる場所ではなかったと思う。しかし、やはり高速道路の開通は大きい。別荘開発も当然、そのことが要因で始まったのだろうが、E山さんから話を聞いた時には、高速が出来ることなど、はるか彼方先のことだという感覚しかなかったのだ。

 荘川村から、ひるがの高原には二十分くらいで着いてしまう。あたりが何となくそれらしい雰囲気になってくると、国道沿線にクルマや人影が目に付き始める。わずかな予備知識しかない訪問者としては、とにかくどこかに寄って情報収集が必要だ。

牛乳やチーズ、アイスクリームなどを売っている店の前に、人だかりがあり、その店に入ってみることにする。ソフトクリームを買い、情報源となる簡単なマップが店の入ってすぐの場所にあったので一枚もらい出た。

マップはウォーキングコースのものだった。七キロというコースがマップ上に線描きされてある。歩きたいと思うのだが、今日は日帰りだ。クルマでも廻れそうだと判断。まず、すぐ目の前にある「分水嶺公園」という場所に行ってみることにした。

 その気になれば深く入って行けそうな道が伸びていたが、人が歩いたような気配は、もう何年も前に消えてしまったような雰囲気だ。水場に石碑があった。太平洋と日本海、長良川と庄川という意味だろう。流れが、ひるがの高原の奥にそびえる大日岳という山を源流にして、ここで分流しているのだという。

日差しを遮る木立の存在感が夏らしさを強調していた。

 クルマで源流のあたりまで行こうとして、途中で引き返した。どうも道に同化してない。ウォーキングコースであるということも、モチベーションを下げる要因になっていた。おろおろと国道に戻り、近くの「夫婦滝」に向かうことにした。国道から二百メートルとマップに書いてある。

その数字のとおり、夫婦滝にはあっけないくらい簡単にたどり着いた。もうちょっと歩きたいなあ…と、勝手なことを思ったりもする。

 しかし、滝は美しかった。高度感などは大してないが、静かにはまっている感じだ。夫婦滝の名のとおり、二本の滝が並ぶ。その間の岩場に紫陽花の花が咲いているのが見える。

 滝に着いて、岩の上を飛びながら奥へと渡った。滝つぼに最接近できる辺りまで来ると、水の美しさは格別だった。飛沫が顔にあたって、涼しい。

 せっかくひるがの高原へ来たのだから、当然高原歩きの気分を味わいたい。もともと歩くことを目的にきたのだ。そんな時、植物公園の案内を見つけ、躊躇することなく入ってみることにした。それほど広くはないが、眺望がいい。水辺の花々も美しい。短い時間だったが、太陽をいっぱいに浴びて歩いている間は幸せだった。

 そのあとも、クルマで移動してはぽつぽつと歩く。木曽馬の牧場に足を踏み入れたりしながら、ふと見上げる空が青くて、眩しくて、嬉しくなる。高原歩きはこうでなくてはならない・・・などと、大して歩いてもいないくせに一応納得している。しかし、ひるがの高原には、もう一度必ず、近いうちに来なければならないなあとも思っている。美ヶ原のような圧倒的な解放感はないが、落ち着ける何かがある。それを正しく感じ取るには、やはりしっかりと歩く準備をしてこなければならないのだ。ぶらりとやって来るだけではもったいない。

 帰り道。高速は使わず、ゆっくりと庄川に沿って国道一五六号線を走った。荘川から白川、白川では久しぶりに「AKARIYA」さんで美味いコーヒーもいただき、五箇山、福光を経て帰った・・・・・・。

翌朝は、三時半に起床。もちろん、なでしこたちの応援のためだ。疲れなど、どこにも残ってなかった・・・・・・

医王・湯涌水汲みツアーの休日

 

湯涌街道を温泉街には向かわずまっすぐ進み、福光方面への道にも折れずにまっすぐ行くと、医王山の裏手の山道へと入っていく・・・。

湯涌の住人・足立泰夫クンと後者の分岐のあたりで待ち合わせ、いつもよりグレードアップした特別編の水汲みツアーに出かけた。

八時には行くよと言っておきながら、十分ほどの遅刻。六時半に起床して、花に水をやったりしながらの慌ただしい朝だったが、前夜買ってきた“つぶ餡マーガリン”入りパンを頬張りながら新聞を読んでいたら時間が押してしまった。

というのも、最近連載が始まった日経の「私の履歴書」…現在書いているのがあの山下洋輔(ジャズピアニストです)で、ついつい今朝も読み耽ってしまった。特に今朝はまた、その下の欄の「交遊抄」が椎名誠のミニエッセイときていたから、活字拾いに忙しかった。

ところで話はそのまま脱線していくが、ボクの場合、日経などはその本来の趣旨記事から外れて、日経的に言うと番外編みたいなところばかりに目がいってしまう癖がある。かつて「日経デザイン」という同じ系列の雑誌を購読(会社で)していたが、巻頭の赤瀬川原平のエッセイが何よりも楽しみだった。実に飄々として、経済やらデザインやら難しいことは後回しにして、とにかくこれ読みなさい…と、氏が言ってくるものだから、はいそうですね・・・と、こちらも本文ページは後回しにしていた。日経はそういう意味で、なかなかボクのハートを掴んで離さない渋い存在である。かつて、松井秀喜のことを書いたある記者の本も、素晴らしく核心をついた内容でよかった。

分岐で待っていた足立クンと合流して、久々の道へと入っていく。すぐ先の集落に、かつて足立クンが住んでいた家があり、そこには小誌『ヒトビト』第八号(打止め号)のインタビュー取材で訪れたことがある。大木に囲まれた大きな家の前に愛用のカヌーが積まれていて、彼は岩魚釣りに出かけていた。すぐ目の前を流れる沢の奥に入り込み、数匹の釣果を家の前で見せてくれたのを覚えている。あの時はちょうど土砂崩れがあった翌日で、道が塞がれていたが、住民の道だけは確保されていた。

 今回の水汲みは、かつて足立クンが県の観光パンフレット制作のために取材した貴重な水場情報に基づくもので、湯涌・医王山方面の“美味しい水”を是非紹介したいという、彼の誘いに甘えさせてもらった。彼はカヌーに始まり、根っからのアウトドア青年(かつての)であった。山の世界とかではボクの方に一日の長はあったが、水の世界では若い頃からノメリ込み方が尋常ではなかった。さすらいのカヌーイスト・野田知如を崇拝し、カヌーツーリングというカッコいい遊びをこなし、水面に釣り糸を垂らしては川魚を燻製にするなどして、その楽しみを満喫してきた。もちろんそれだけではなく、ジャズや活字などにも傾倒し、その繋がりも長く付き合ってきた理由になっている。

そんな彼であったから、湧水のある場所なら、たとえ火の中水の中(例えが変かな)、ひたすらまっすぐに訪ね歩くことも何ら問題なかったのだ。

前置きがやたらと長いが、そんなわけでボクたちはとにかく医王山の裏側方向へと回り込みながら、最後は一気に高度を稼ぐように登って、「行き止まり」と書かれた案内板の方向へとクルマを走らせた。そして、文字どおり行き止まりとなった所にある水場にたどり着く。着くまでに、狭く急な道で先導の足立クンが迷走するというシーンもあり、また何度も切り返しを繰り返さなければならないなど、スリルも大いに味わった。

ところで、その場所について詳しく書かないのには理由がある。実はこの水場、足立クンが取材したパンフレットには周辺をぼかした形で掲載されているのだ。それはこの水場がこの直下の集落の人たちの飲料水となっているからで、それをとにかく無闇に取りに来られては困るという配慮があった。だったら、おめえらも行くなと言われそうだが、年に数回だけいただくということで、来ている人もごくごく少ないということだった。

水は岩がゴロゴロする山肌の窪みから湧き、取水用には二本のパイプをとおして勢いよく流れ出していた。足立クンでは水温十一度。実際、家に戻ってからもまだ容器のまわりには水滴が付いたままだった。冷たい証拠だ。

クルマからポリ容器やペットボトルなどを出す。総量としては結局八十リットルくらいになっていただろうか。最初の二十リットル容器に水がいっぱいになる時間で驚いた。いつもよりはるかに早い。勢いも量も半端ではない。あっという間に二十リットルがいっぱいになり、慌てて持ち上げようとして右腰に違和感・・・。おまけだった。

とにかくどんどん汲んでいく。足元はシューズもパンツもびしょ濡れになっている。路上では、自分の分を汲み終えた足立クンが、クルマからコンロとコッヘルやらを出してきて、新しい水を沸かし始めている。すっかりコーヒータイムの準備が整っている様子だ。

足立クンから、少しペットボトルを残しておいて、別の水場にも行ってみようという提案が出た。すぐに賛成して、クルマのダッシュボックスから、山用のマイマグを持ってくる。いい香りが山間に漂い始めると、カメラも持ち出して撮影タイム。

 コーヒーはマンデリン。足立クンご自慢?のドリッパーで、ご立派~に出来あがっていた。実に上品な味がした。今朝はこのためにと、家を出る前にコーヒーは飲んでこなかったのだ。

 かなり山深いなあと感じながら、ゆっくりと周囲を見回す。山装備をした夫婦連れらしき二人が、大きな木の下あたりの道らしきところを登っていく。近づいて、その道は奥医王の頂上に繋がっているのかと聞くと、そうだと答えてくれた。久しく奥医王には行ってない。かつては北アルプスなどに入る前には必ず医王山で足慣らしをしていったものだ。

後片付けをして山道を一気に下り、湯涌方面への抜け道である王道線を走る。頭にイメージしている距離感より長く感じる道だ。この道も好きな風景がつづく。樹林の間から見える山並みものどかだし、森も深く感じられて神秘的な雰囲気さえある。

 

湯涌街道に出る前にある、いつもの水場で小さなペットボトル二本に水を入れる。さっきの水の冷たさがはっきり感覚に残っていて、この場所の水が温く感じられた。今日二つ目の水場だった。

 さらに足立クンの案内は湯涌街道に出て金沢市街方面に向かい、すぐに左に折れた。橋を渡り、ゆっくりと水田に挟まれた狭い道を走り続ける。道は途中で山間に入って行き、美しいせせらぎと並行して進んでいく。

また小さな橋を渡ると、そこでまた急旋回の狭い道の登りになった。通常の感覚ではクルマの通る道ではない。車幅いっぱいの狭い道を登って行くと、またしても狭い中でのヘアピンまがいのカーブに出くわす。足立クンのやや小さめのクルマは難なく曲がり切ったが、ボクのクルマではちょっと面倒だ。考える間もなく、カーブする反対方向の土の中にクルマを突っ込み、バックで登ることにした。幸いにも、すぐ先に目的の場所があった。

クルマから降りてびっくり。そして、ニンマリ。そこには、いかにも手造りといった何とも言えない風情の家が建っていた。足立クンが、家の前にある石の上に腰を下ろしている。手巻きタバコがいかにも足立クンらしく、この場所の雰囲気にも激しく合っている。

 この場所は地元の知り合いの“別荘”とのことだ。いつでも水は持って行っていいと言われているらしい。よく見ると、本当にいろいろなモノが組み合わされて、ひとつの家が出来ていることが分かる。意外なところに、ステンドグラスが嵌められたりしていて、手造りの楽しさがしみじみと伝わってくる。

水場は、玄関先に綺麗なカタチで整えられていた。残りの小さなペットボトル五本ほどにまた水を入れた。石の腰かけは整然と並べられていて、真ん中にある石のカタマリがテーブルになっている。

足立クンが、またコーヒーの準備を始めた。今度はグアテマラ(タイトル写真)。さっきの山の中よりもさらに落ち着いて、その分コーヒーの味もゆっくり楽しめた。なんとも贅沢な時間だ。心地よい風の吹き方も、静けさも、ちょうどよくて文句のつけようがない。新緑と呼ぶべきか、若葉と呼ぶべきか、周囲はそんな活き活きとした生き物たちの息吹に包まれている。

ボクたちは、そんなやさしい空気の中で、いろいろな話をした。とりとめのない話ばかりだったが、久しぶりにゆっくりと会話が楽しめた時間だった。今日、三か所目の水場だ。

足立クンでは、今日の三か所は、湯涌・医王山周辺ではベストスリーなのだそうだ。彼が言うのだから間違いない。金沢でそうだと言ってもとおるのだろう。ボクの場合、やはり自然の水汲みなどはちょっとした冒険心をくすぐってくれないと意味がない。だから、水汲みを理由にして、こういう場所へ来れるというのは最高なのだ。

時計を見ると、もう昼近く。コーヒーの香りも樹間を吹く風とともに流されていき、周囲にはただ前のように静けさだけが残されていた。足立クンは、午後から事務所へ行って広告用の原稿を一本書かねばならぬとのこと。それを聞いて、ボクも二本目の創作が、五十枚くらいのところで止まっているのを思い出す。

文句なく楽しかった。これからまだまだこういうことを続けていけたらいいなあと、若葉を見上げながら思う。日本は、日本の経済は、自分たちの生活は、これから一体どうなっていくのだろうか。そんなことも一応アタマに浮かんできた。だが、すぐに腹が減っていることに思考は動く。素麺だ。今日は素麺しかあるまい。湯涌の里に下りると、広々と水田が光っていた……

笹ヶ峰のスキートレッキング

 

一年ぶりの妙高・笹ヶ峰である。正確に言うと、一年と一日ぶりで笹ヶ峰に来ている。

朝は、それほどよい天気とは言えず、一時は雨が来るかも知れないと覚悟させられたが、その心配もなく、昼になった今は風はわずかにあるものの、陽も照って気持ちがいい。

ついさっき、リュックからノートと万年筆を取り出した。ノートは九十七年の夏に岐阜県清見村のオークビレッジで買ったもので、表装が木の板で出来ている。その時同じようなボールペンも買った。ペンはなくなってしまったが、ノートはずっと本棚に入れておいた。昨年の笹ヶ峰行きに久々に持ち出し、岩の上でペンを走らせた。その時が十年ぶりに開いたという具合で、ボクはずっとこのノートとはご無沙汰していたのだ。何となく、今年もこのノートをリュックに入れてきた。だから、この文章は笹ヶ峰での現地書き下ろしなのである・・・・・

八時半過ぎにスキーを履いた。去年とは少し違うコースを歩き、走り、滑って来た。今年はスキーの滑りがいい。ワックスを入念に塗ってきたというわけでもないのに、思っていた以上にスキーが前へと出る。笹ヶ峰グリーンハウスの建物や周辺の雪原を会場にして、クロスカントリースキーのセミナーが始まったばかりで、数十人の競技スキーヤーたちがコースを走っていた。ボクもそのコースに最初に入れさせてもらったが、そのせいでスキーが滑るのかも知れない。いきなり、百メートルはある直滑降となり、危うく少年スキーヤーたちの前で転ぶところだったのだ。

よく滑るスキーに乗ってコースを外れ、緩やかな雪の斜面に大木が並ぶ笹ヶ峰牧場の方へと移動。いつものように、“岩棚の清水”からの湧水が流れる沢の音が聞こえるようになり、沢に沿ってやさしい流れを見ながら緩い登りに入って行く。去年は岩棚の清水でスキーを外し下りてみたが、水中の草を押し流すかのように透明な水がたっぷりと流れていた。ボクとしては真夏に見たこの流れに最も感動したのだが、残雪期の流れも春の躍動みたいなものを感じさせてよかった。

少し登ったところで、岩棚の清水を見下ろしながら回り込むように横に進むと、牧場の上部に出る。一度牧場の最も下まで一気に滑り降りる。一気にと言っても、春の雪の上だ。軽快にとはいかず、時折雨水が川となって流れた雪面の溝に阻まれたりして、立ち止まらなければならない。

雪解け水や沢の水が注ぎ込む清水ヶ池まで来ると、ぽつんと釣り人が独り糸を垂らしていた。邪魔をしないようそのまま樹林帯の中へとスキーを進ませる。まだ開き切らない水芭蕉が、大小いくつかの水場で目についた。

今年はやはり雪が多い。途中の山道でも両脇の雪の多さは近年にないのではと感じた。そう言えば、去年昼飯を食った大岩も今年はまだ雪に埋まっていて、先端が少し見えているだけだった。

去年、その岩の上でボクはコンビニおにぎりの包装ビニールと格闘し、その苦闘の最中に、せっかく沸かしたお湯をカップヌードルに入れておきながら、カップごとひっくり返してしまうという失敗をしでかした。風が突然吹いて、手にしていたおにぎりの包装ビニールがめくり上がったのだ。

カップヌードルは半分ほどが辛うじて残り、何とか腹の中に入れることが出来たが、それ以上に笹ヶ峰の雪をカップヌードルのスープで汚してしまったことの方が虚しかった。そしてボクは、あれ以来というか、実は前々からだったが、コンビニおにぎりの包装に関する余計なお世話的外し方について、疑問を露わにしたのだった。

わざわざあんな面倒臭い外し方にしなくてもいいのではあるまいか…と、久しぶりに、そして真面目に、どうでもいいことを真剣に考えてしまった。海苔もあんなにパリパリしてなくてもいいのではないかとも思った。

立山山麓にあるコンビニ風の店では、その日の朝、店のお母さんが握ったというおにぎりが売られていた。でかくて、何よりもサランラップに巻いて置いてあった。食べる時はペロンとはがすだけだ。コンビニおにぎりにある順番①とか②とか③とかがない。①があるだけ。おにぎりは元来、おふくろ、またはお母さんの味とかが基本である。それにはパリパリ海苔など全く完璧に必要ない。そして、そのために考案されたのであろう、あの包装についても、特に意味を感じていないのである。あれを考案したニンゲンはさぞかし鼻高々だろうが……

そんなことを言っておきながら、今年もまたボクは昼用にとコンビニおにぎりを買ってきてしまった。鮭と昆布の二個で、おかずは家の冷蔵庫から持って来た魚肉ソーセージ一本だけにした。コンロも持たずに軽量化に踏み切ったのだ。コッヘルもないからリュックも小さめで済ました。ただひとつ、去年と変えたのは、リュックの隅っこに、なんとノンアルコールビールを入れてきたことだった。

これは今年の笹ヶ峰スキートレッキングにおける最重要研究テーマなのだ。山行におけるビールの重要性を強く訴え続けきた?ボクにとって、特に日帰り山行において、ノンアルコールがその満足度に近づけるかということが最大の関心事であった。

昼飯タイムに入る前、ボクは車道を越えた山の斜面に入っていた。スキーを脱ぎ、雪に埋もれて斜めになったままの木の幹に腰かけ、ぼんやりとそのことを考えていた。気になり始めると、ますます早めに味見したくてウズウズしてくる。目の前の樹林帯への陽の照り方も強く感じられるようになると、ボクはすぐにスキーを履き直した。そしてまた下って、車道を渡り牧場の雪原へと戻っていた。

少し滑り降りて、手頃な岩を見つけた。夏ならば、黒や茶色などの大きな牛たちが、ゴロンとしながら午後のひと時を過ごしている場所だ。日差しと木陰との明暗バランスも見事に調和していて、緑と空の青さ、雲の白さなど高原の夏の美しさを実感させてくれる。

 ボクはすぐにリュックからノンアルコールを出し、雪の中に缶の三分の二ほどを埋め、そして指先でその缶を素早く回転させる。これは『伊東家の…』(テレビ番組)でやっていた裏ワザだ。これだと、温い缶でも五分もかけずに冷やすことが出来る。雪のある山では、ボクはよくこの手を使う。ノンアルコールはすぐに“かなりの状態”になった。早速、実験に入る・・・

結論から言えば、やはりノンアルコールは、ビールではなかった。当たり前と言えばそれまでだが、大きな期待をしてはいけないことを知った。ただ、口に入れた時の感触的にはビールに似たものがあり、後味さえ無頓着でいれば、それなりにウーロン茶を飲んでいるよりもはるかに満足度は高いことも知った。

それほど落胆するほどのこともなく、ボクは魚肉ソーセージを片手に缶に記されたノンアルコールの成分を眺めていた。アルコールが入っていないということは、即ち酔うこともないということなのだが、喉元を通り過ぎていく時に、もう少しビールらしい後味があればと思っていた。

ノンアルコールの一口目を仰ぐようにして飲んだ時だった。アタマの上まで来ていた太陽が目に入った。太陽の周りに円状の薄い虹の輪が出来ていた。

それからボクは、コンビニおにぎりを、去年の因縁も忘れ穏やかな気持ちで口にした。パリパリ海苔が一部崩れ、雪の上に飛散していったことが残念だったが、それでものどかな気分でいられた。ボクは成長していたのだ。

 目の前にそびえる、地蔵山が朝よりも少しだけ鮮明さを増しているように見える。右手には、さらに高い焼山や火打山、後方には三田原山と妙高山。標高二千メートルを越す山々に囲まれたここ笹ヶ峰は、かつて湖の底だったらしい。ボクは今その場所で、山肌の残雪の上に漂う春の空気にのんびりと浸っている。東日本で大きな地震と津波が起き、多くの人たちが苦悩の日々を送っている。ボクはボク自身の中で、そのことについても思った……

……これからどうしようかと、時計を見る。一時少し前だ。この場所にいられる時間は約六時間。六時間を楽しむために、往復六時間をかけてやって来る。何とも贅沢な一年に一度の楽しみだ。と思いつつも、来年からはテント持参、または下の民宿かロッジでもいいから一泊にしようかとも考えている。

もういちど、下部まで下りて行ってみることにした。樹林帯をできるだけ深く探検してみたくなった。とにかく、時間がもったいないのだ………

※ノートに走り書きした文章に少しだけ加筆・・・・・

むなしき誕生日の目論みであった

別に待っていたわけではないが、先日、五十七回目の誕生日が来た。

数日前から来ることは知っていて、その日は残雪深き立山の雪原にテレマークスキーを履いて立ち、そこでノンアルコール・ビアーでも飲みながら、しみじみとこれまでの人生を振り返り、さらに、これからの人生における正しい(余生の)過ごし方などについても考えてみようかな…と、目論んでいた。

週間天気予報の晴れマークを見ながら、“晴れマーク 心もはずみ テレマーク”と、我ながらなかなかいいキャッチコピー的一句も浮かんだ。モチベーションは日々高まっていたのだ。

ところが…だった。前日になって、ボクのこの小さな楽しみはあっさりと打ち砕かれてしまった。どうしても朝一番に会社へ顔を出さねばならない用事ができてしまったのだ。

どうするかな…と、一応考えた。結局、その用事を済ませてから早退し、そのまま立山へ一直線、ひたすらまっしぐらに向かおうと決めた。立山駅からのケーブル。美女平からのバス。昼には弥陀ヶ原に着ける…。少々甘いところもあったが、何とかなるだろうという気持ちと何とかせねばという気持ちが、手に手を取って協力し合う中、ボクはその朝とにかく会社へとやってきた。

ところが…だった(二度目だ)。こともあろうに、一旦出社してしまうと、別の用事がまたボクを待ち受けていた。

あのォ~、今日のォ~、午前中いっぱいまでにィ~、例の書類をォ~、提出してェ~、いただきたいのですがァ~

……昔、小松政夫がこんな言い回しでボケていたのを思い出す。

よく考えてみると、いやよく考えるまでもなく、誰も今日がボクの誕生日だなんて知らないのであった。ましてや、誕生日だからと会社を休んで山へと出かけ、そこでしみじみ考え事でもしようと目論んでいるなんぞ知る由もなく、ボクはごくごく当たり前の日常の中で、ごくごく当たり前に出社しているに過ぎない…と思われても仕方のない存在になっていた。

それでもボクは、午前中いっぱいとは言わず、昼の一時間くらい前、つまり十一時頃には、この例の書類とやらを片づけてやる…と心に決めていた。そうすれば、それからとにかく一直線。二時頃には、弥陀ヶ原の大雪原に立っていられると思った。

ところが…だった(三度目だ)。こともあろうに、その仕事はなかなか出口の見えない、ボクにとっては極めて緻密な対応…、具体的に言えば、数字の計算を求められる内容のものだった。

“緻密対応型数字計算”。この漢字九文字によって構成される作業は、ボクが完璧に不得手としている行為であった。もし、この世から無くなってほしいものを十項目出しなさいと言われたら、たぶんこの“緻密対応型数字計算”は確実に圏内に入れるだろうと確信をもって言えた。

ところで、この場合の“緻密対応型”とはどういうものなのかについてだが、分かりやすく言うと、エクセルの計算式をこしらえながら進めていくものを指している。なあんだ、そんなもんかァ~と、バカにしてはいけない。ボクの場合、そのような行為自体がすでに自分自身の標準仕様から外れている。

誤解のないように言っておくと、ボクは数字が苦手ではない。感覚的な数字の捉え方は子供の頃から人並み以上に優れていたと思っている。小学校五年生の時、S水T彦先生と言う風変わりな理数系の担任がいて、その先生によく算数テストというのをやらされた。

裏表にびっしりと、たし算や引き算、掛け算や割り算の素朴な問題が並べられた紙が渡され、それをエイ、ヤッ、タァーッと気合で解いていくのだ。ずっと、足したり、引いたり、掛けたりしていったら、最後にゼロで割るという意地悪な問題もあった。結構スリル満点で、楽しい?テストだったのだ。

そんなテストの時は、いつも一番か二番でボクは解答用紙を提出していた。答を間違ったこともなかった。今でも数字の並び方の形とかで何となく答えが見えてくるものがあったりするのは、その時の感覚が残っているせいなのかもしれない。

しかし、そういった算数が、高度な数学に変わっていったりすると、ボクの中にあった数字に強いという感覚は何(なん)の役にも立たなくなっていって…しまった。一旦いじけ出すと、ポテンシャル自体も希薄化していく。

「ごめん、実を言うと、ボクは、数字よりも、文字の方が好きなんだ」

そして、ついにボクは数字に対してそう告げた。もう数字のことを好きになれない…。だから、ボクのことは忘れてほしい…。こうしてボクは、数字とサヨナラをしたのだ。高校一年の夏の終わり頃だったろうか……。

……そういうわけで、誕生日だと言うのに、会社に残ったボクはこの緻密な計算(略した)にその後振り回されることになる。自分のデスクでは集中できず、会議室の大きな机にパソコンと書類を並べ、自販機からコーヒーを買ってきて、腰を据えはじめた。午前十一時どころか、昼になっても一向に目途は立たず、昼休み返上などしても何ら意味のないことも分かってきたので、昼飯は金沢の有名なカレー屋さんで、Lカツカレーを食ってきた。久しぶりに美味かった。

それからボクは、しっかりと昼休みをとり、午後の部へと英気を養ったりしてしまったのだった。

その緻密な計算作業が終了しようとしている頃、時計は三時半を回っていた。今から行けば、午後七時までには弥陀ヶ原に着ける…、そんなバカな事を考えたりは当然しなかった。

四月とはいえ、標高二千メートルを超える山では、夜はまだまだ冬だ。晴れていたりすれば、冷え方も半端ではない。かつて、雪原に独りテントを張り、一晩過ごしたことがあったが、その時のことを思い出す。ウイスキーの小瓶と柿の種とクラッカーとアーモンドチョコ。主食はカップめん。ヘッドランプで文庫本の小さな文字を追っていた。当たり前だが寒かった。

早朝のコーヒーに立つ湯気は、幸せ気分の象徴のように見えた。間違いなく完璧な冷え方だったが、ボクは幸せだった…。

再び現実に戻る……。いきなり(大概そうだ)机の上の携帯電話がブルブル震え出した。所謂、バイブは携帯電話を生き物のようにするから好きではない。が、音出しはもっと嫌いだ。

あのォ~、もおォ~、出来ましたでしょうかァ~

電話をポケットに入れて、ボクはすぐにパソコンを自分の机まで運び、待っている相手にメールした。緻密な計算がされた…であろう書類は、アッという間に送信済みフォルダに放り込まれた。

それからすぐに、春の医王山の雪景色が背景となったデスクトップに戻し、アア~ッと、小さいとは言えない声を上げて背伸びをした。疲れて、ぐったりし、放心状態になった。そして、再び、立山の雪原が夕陽に染まる光景が浮かんでくると、今度は激しい焦燥感に襲われる。昼間の、真っ白な山肌と真っ青な空もまた強烈に迫ってくる。“オレには、時間がねえんだぞ・・・”と、小さく胸の中で吠えた。

そう言えば、先日、今年還暦を迎えるという俳優の大杉漣が、六十歳になるということで初めて自分の“死”を考えるようになったという意味の話をしていた。余生というものは、単に時間の長さ(短さ)だけで測れるものではないのだという言葉も印象深かった。だからどうなんだと言われても困るが、つまりその、早い話が、やれるうちにやりたいことはやっておこうという、極めて単純明快なことなのだと、ボクは思っている。

そういうわけで、五十七歳にもなり、もう緻密さなんて要らないボクとしては、青空の下で思いっきり背伸びやら深呼吸やらをし、ひたすらしみじみとしたかった……という、そんな欲求を奪われた悔しさにボーゼンとするのみであったのだ。

第五十七回誕生日の一日は、こうして静かにとは言えずに黄昏ていったのである………

春の残雪テレマーク

 

四月の第二日曜あたりと言うと、だいたい春めき方にも気合が乗り、セーターは当然として、コーデュロイのパンツなんかも思わず躊躇してしまうくらいになっている。そのような頃合いに、全く躊躇することもなく、朝からテレマークスキーを担いで医王山へと出かけるというのは、ボクにとって、ごくごく当然のことであった。

朝からというのは少々オーバーで、実際は九時頃であった。担いで出かけたというのもかなりオーバーで、実際はクルマで出かけたのだから担いでなんかいない。クルマまでは担いだのではと気を遣っていただけるかも知れないが、テレマークスキーの特徴は軽いことであり、担ぐというほどの大袈裟な行為は必要ないのだ。ただ、背中のリュックやらの関係で担ぐことはあるから、担ぐ必要がないというのは正しくない。

相変わらずそんなことは全くどうでもよくて、今シーズン初めてのミニ山スキーツアーに出かけたのである。今冬のドカ雪の時期に、家の周辺を人目をはばかりながら駆け回ったことはあったが、今度は全くはばかる必要はない。それどころか、どこでひっくり返ろうが、喚(わめ)こうが、こっちの勝手だ。それが山スキーツアーの醍醐味なのだ(敢えて強調するほどのことでもない…)。

そういうわけで、わが内灘から最も近い手頃なフィールドしては、まずこの金沢市と福光町との県境に伸びる医王山周辺がピックアップされるのである。

しかし、最近は雪が少なく楽しみがなかった。医王山の春は、襟裳岬みたいに何もない春だった。ところがだ。今年の冬は久しぶりに気合の入った雪が降り、医王山周辺の白さが際立っていた。戸室山も白兀(しらはげ)山も奥医王山(最高地点)も白さが強かった。特に白兀山は、頂上近くに岩や土が露出した場所があり、その場所が冬の降雪で完璧に白くなるところから、そう呼ばれている。

今年はまさにその白兀(しらはげ)だったのだ。逆に言えば、その樹林帯の切れた場所の白さ具合で積雪も把握できるということであり、樹林帯でも低木たちは雪の下にあるということだった。十年ほど前までは、それが普通だったとも思う…。

 山麓のスキー場や放牧場あたりでも、想像したとおり四月としてはかなりの積雪があった。陽光を受けて光る雪原を目にすると心が躍る。それもかなり激しく躍るので、抑えるのに苦労する。

何年も前、仕事で立山山麓に出掛けた時にも、もう営業を終えた粟巣野スキー場で心が躍った。当時、立山山麓の大山町(現富山市)のまちづくり的な仕事をしていたのだが、太郎のマスター・五十嶋さんに委員になってもらい、ボクとしては最高の舞台だった。その日はスキー場のロッジ経営者たちと会合があり、夕方からの会合前の時間に、ふらふらと周辺を散策していた…と記憶する。

粟巣野スキー場というのは、立山山麓のスキー場の中で、最も奥にあり、そこから先は道もない。ボクは駐車場から、まだたっぷり雪が残っているゲレンデを見上げていたのだが、そのうち我慢が出来なくなり、そのまま雪の中へと足を踏み入れて行った。

その頃は、普段でも山靴に近いものを履いていたので、雪原歩きはちょっと注意すれば大丈夫だった。雪もこの季節になるとある程度締まっていて、埋まったりする心配はない。

気が付くと、ボクはかなり奥まで来ていた。始めはゲレンデの中央部を歩き、途中からは出来るだけ登りの緩い斜面を登ろうと脇の方へと移動した。本格的な登山靴を持っていれば、とてつもない快適な雪山歩行が楽しめたが、贅沢は言えない。

ちょっと大きめの斜面を登り切って、緩やかな雪原に出た時だった。大木が並んだ(と記憶するが)場所を歩いていると、いきなり木の陰から山スキーヤーが現れた。何となく、ゆっくりと滑り降りてくる緩いエッジの音が聞こえているような感覚があったのだが、目の前に現れたスキーヤーにボクは驚いた。

しかし、ボク以上に驚いたのは、そのスキーヤーだったに違いない。彼はボクを上から下までじっくりと見てから、コンニチワと普通に挨拶した。ボクも答えた。サイコーですねと付け加えたが、彼はそれには答えなかった。

小さなリュックを背負ったスキーヤーの後姿を追いながら、ボクはさっきの彼の視線を思い返した。そして、自分の着ているものにハッと気が付いた。ネクタイを締めジャケット姿のビジネスマン・スタイル…、TPOを全く逸脱したそのスタイルは実に奇妙に映ったに違いない。ひょっとして、自殺者とでも思われたかも知れないと、ボクは自分自身にゾッとした。

 スキー場の前の道路の横に、わずかばかりの空き地があり、そこにクルマを止める。

リアドアを開け荷台に腰を下ろし、ブーツを履き、スパッツを装着する。今では骨董品みたいな革製のブーツは出がけに防水処理はしてきたが、日頃の手入れが行き届いてなくて乾いた感じだ。帰ったら、たっぷりオイルを塗って上げようと心に誓う。

傷だらけのスキーも痛々しいが、これは宿命だと毅然とした姿勢を示す。木の枝があろうと石ころがあろうと、雪の上であればとにかく進む。時にはアスファルトの上でも、面倒くさいから行っていいよと、かつて読んだ『スキーツアーのすすめ』というガイドブックには書いてあった。立山の超長い下りや笹ヶ峰牧場辺りでは実際にそうしたこともある。

 ゲレンデには、朝から来ているのだろう競技選手っぽい二人がいた。この時季、彼らにとってもゲレンデは天国だ。ポールを立て、互いにビデオを撮って練習をしていたが、ボクがスキーを付けて歩き始めた頃には、その二人も片づけを開始していた。

 去年コンビニで買った日焼け止めクリームを、顔と手の甲に塗った。たしか三百円ほどのものだったが、結構効果があった。UVカットのリップクリームも、割かし丁寧に塗る。これは二百円ほどだが、昔からの愛用品。

 そしていよいよ、雪の上をひたすら歩き回ったり、走り回ったりを開始。ゲレンデの斜面を途中まで登っては滑り下りること数回。その間には二三回転んだ。いや、三回転んだ。どうも右回りの時に、内側のスキーを強く後ろに引いていない…。つまりテレマーク姿勢が出来ていないのだ。もう歳なのだから、無理するなということか。テレマークは片方の膝を曲げながら滑るのが特徴。それでバランスをとる。だから、その形が出来ていないとバランスが崩れるのは当然なのである。

スキーに慣れてくると、さらに奥へと進み、広い台地上の場所で、何の脈略もないまま動き回る。ここはたぶん畑だろうと、しばらくして分かる。高台の端に行き当たると、急な樹林帯の斜面を下って遊具の並んだ公園に出たりもした。そこはもう夏になると、小さな子供のいる家族連れが楽しそうに遊んでいたり、弁当を広げたりしている場所だ。この季節だと歩くスキーの格好のフィールドになる(している)。

 雪融けが進んでいる場所では、露出した草の上を透明な水がさらさらと流れていた。陽の光を受けて眩しい。リュックから冷たくない湯涌の水を取り出し、口に含む。ほっと一息。

再び登りかえして、スキー場の方へと向かう頃には、じっとりと汗ばんできた。こんなことをもう何年も続けてきたんだなあ…と、我ながらちょっと恥じらいなどを感じたが、だからどうなんだとすぐに開き直る。

ゲレンデの方に戻るようにかなり滑り歩いて、木立の中にあった石の上で大休止。ゲレンデを見上げながら至福のひと時を過ごしているうちに、若い夫婦連れ(だと思う)の山スキーヤーが大きなリュックを背負って登って行く。

途中、振り返ってコンニチワと言葉をかけてきた。雪の上に刺してあったボクのスキーを見たのだろう。テレマークですか?と聞いてくる。そうです!と答えると、ヘェーッと言ってのけ反って見せた。どういう意味なのだろうか……

うちの向かいの若いお父さんも、実は昨年あたりから本格的に山を始めて、今シーズンからは山スキーにも熱を上げ始めていた。学生時代は相撲部にいたという豪傑なのだが、でかいリュックを背負う姿はなかなか決まっている。

 そう言えば、彼もボクがテレマークだと言ったら、強い関心を示していた。ただ、どうやら自分には適さないと思ったらしく、それはテレマークのあの独特な滑り方にあるのだろうとボクは勝手に推測した。かなり柔軟さが必要と感じているのだろうか…。さっきの若いスキーヤーも、たしかに体がごつかった。

スキーを履いてからちょうど三時間。適度に疲れも出てきて、そろそろラスト一本決めに行くかと、また斜面を登り始めた。こういう時は、なかなかしぶといのがボクの信条だ。

しかし、なかなか…、とにかく疲れ切っているから、すぐに足が止まる。休んでばかりいる。大息をついて、体の向きを変えると斜面の下に向かって咳まで出た。行くか…

真っ直ぐに滑り降りはじめ、左にテレマークターンを一発決め、そのまま深いテレマーク姿勢を保って、すぐに次のターンに。いい感じで締め括れそうだと気が緩んだところでまたまた態勢が崩れそうになる。何とか辛うじて転ぶことはなく下方へ。ゆっくりとスキーを滑らせながらクルマの位置を確認し、スキーの方向を変えた。

スキーが止まって、フーッと長い息を吐く。今日はこれで終わりだが、これからまた楽しい季節にしよう。そう思うと、またしても心が躍った。それにしても…、太陽が、眩しいなあ……

帰り、山麓の道の脇には、桜が咲き始めてもいた……

薄雪・湯涌水汲みの朝

カーテンを開けると、前夜からの冷え込みで、家の周りの土の部分に薄っすらと雪が積もっている。ほとんどが土の部分だから、薄っすらとした雪の白さが柔らかそうで、しばらくボーっと眺めていたくなった。

休日の朝は、のんびりと起きることができ、外の様子などにもゆったりと目をやることができるからいい。仕事の日の朝は、今の季節だとまだ暗い。会社まで平均四十五分ほどの通勤時間を要する身としては、明るくなる前の起床もやむを得ないのだ。

その点、休日の朝はいつもよりかなり明るく平和な感じがして、陽が差していたりすると、かなり得をした気分にもなれる。

三月はまだまだ冬と決めているボクとしては、その日の朝の、新雪の薄化粧も、当たり前の真ん中のちょっと横くらいのもので、全く驚くほどのことではなかった。ただ、少し頭をよぎったのは、午前中に決行しようと心の片隅で決めていた、恒例のお勤め“湯涌の水汲み”に無事行けるだろうかということで、前にも最後の山道に入ろうかという場所で前進を拒まれたことを思い出していた。

しかし、ボクは決めた。今は亡き写真家・星野道夫が、悠久を思わせるアラスカの空を見上げた時のように…とはいかないが、内灘町字宮坂上空から、医王山、さらに県境の山々を経て白山などに続く青い空を見上げた時、ボクは「そうだ。やはり湯涌へ水を汲みに行こう!」と、短い睫毛を揺らせながら決めたのだった。

前週は“氷見のうどん”を食べに行こうと決め、やや勇んで出かけた。が、いざ氷見に着いてみると、気が変わって刺身と焼き魚のセットになった定食を食べてしまった。その時も、風は冷たかったが天気は良く、絶好のドライブ日和となり、帰り道は七尾湾の方へと迂回した。春を思わせる日本海はひたすらのどかで美しかったが、眠気との戦いがきつい試練だった。この話は、特に今回のこととは関係ない…。

十時少し前だろうか、水入れ容器をいつものようにクルマに積み込む。二十リットルのポリ容器が二個。二リットルのペットボトルが約十五本。それに一リットルから五百ミリリットルのペットボトルなどが無数……。とにかく家にあるモノは何でも積んで行って、ひたすらそれらに水を入れ、一滴もこぼさぬようにして家まで持ち帰るのである。

家を出ると、まず河北潟干拓地の端に造られた真っ直ぐな道を、ただそのとおりに進む。途中干拓地の中心部に向かう道二本を無視し、競馬場方面への長い橋にも目もくれないで進む。さらにクルマを走らせ、右手に曲がる橋を渡って津幡町西端の団地の中へと入っていく。

しばらくして高架化された八号線に乗り、すぐに山側環状道路へと車線変更する。ボクの理想としては初めの景色のように、そのまま山の中へと吸い込まれていけるといいのだが、この道はそのうち杜の里付近の明るくにぎやかな街の中の混雑に吸い込まれてしまう。そこからしばらく進んでから医王山・湯涌方面の道に入って行くのだが、そこまで来てボクはいつもホッするのだ。

実は出かける前、湯涌の善良なる住人・A立Y夫青年(かつての)にメールを入れ、今から水汲みに行く旨を伝えておいた。いつも水汲みに行く際には、地元の住人である彼に連絡している。ただ行くよとだけ連絡するのだが、何となくよそ者が黙って水汲みに行くことに申し訳なさを感じていて、ただ一人知っているA立青年(かなり前の)に一報を入れるのだ。彼も湯涌の水の愛飲者であるのは言うまでもない。

彼からは、“薄雪の医王山きれいですぜ”という返事が届いていた。その日は仕事らしく、かなり気合が入ってるみたいだナ…と、文面から察せられるものがあった。

クルマを走らせながら、彼のメッセージを確かめるように、湯涌の山里の雪景色に目をやる。見慣れてはいるのだが、小さな風景ながらの新鮮な感動に浸れる。この辺りも、ボクがずっと親しんできた場所のひとつなのである。

すうっと伸びていく青の空。どこからかただ流されてきただけのような柔らかな白い雲。それらが春に近い冬の晴れ間らしい空気を山里に漂わせていて、ついつい目線を上の方へと持っていかれる。眩しいが我慢する。

山王線という最後の山道に入るところで、またしてもたじろいだ……

道に雪が残っている。今朝の新雪が重なっている。細い山道はすぐに左に大きくカーブするのだが、その先まで雪が残っていて、先の見えない道筋に大きな不安がよぎった。

しかし、今日は何だかそんなに悪いことは起きそうにないみたいだという安易な思い込みがあり、ドアを開けて雪を手で触ってみたあと、特に躊躇(ちゅうちょ)することもなくボクは山道へとクルマを乗り入れた。

しばらくすると、道の雪はタイヤの踏み跡部分だけ消えた状態になり、微かな不気味さの中をゆっくりと静かに進んで行く。対向車が来たらどうするかな?と、のんびりと考えていたが、当然何とかなるだろうぐらいにしか思っていなかった。

そのとおりに何もないまま水場にたどり着く。誰も来ないうちにと、タイヤを滑らせながらクルマをUターンさせ、バックで雪に被われた水場の脇へともぐり込む。

空気が冷たい。新雪を両手ですくい上げると、その冷たい感触が心地よく、その塊を斉藤祐樹のピッチングフォームで、約二十メートル先まで投げてみた。塊は途中で空中分解し、身体の硬さだけが実感として残った。思わず、笑ってしまった。

この水場は、しっかりとした水道栓になっていて非常に便利になっている。ここまで整備してくれた地元の人たちに感謝しなければならない。そのおかげで、内灘くんだりから来ている我々でも恩恵が受けられるのだ。奥に立つお地蔵さんに、では汲ませていただきますと手を合わせて、いよいよ水汲み開始だ。

二つある水道栓を使って、手際よく容器を入れ替えていく。水は出しっ放しにしておき、容器を順番に置き換えていくのである。しかし、時間がたってくると、素手にかかる水の冷たさが徐々に厳しく感じられてきて、かなりしんどい状況になる。指の辺りはピンク色になってきて、そのうち感覚も鈍っていく。白い息を手にかけるが、全く効果はない。

しかし、当然のことながら、そんなことに気を留めているわけにもいかないのである。

二十リットル容器に入れる時は少し余裕もあり、周囲の雪景色などを眺めていたり、カメラを構えたりもできるが、ペットボトルになると、そんなのんびりとはしていられない。どんどん水を入れては、蓋をしての連続となる。かといって何も考えてないわけではなく、一連の単調な動きの中でも、ふと前夜ビデオで見たNHK-BSの『仏像の魅力』のワンシーンを思い返したりしている。

自分の冷たく腫れ上がった指を見ながら、仏像の手は赤ん坊の手のようにふっくらと作られていて、特に指先の爪などは、まったく赤ん坊のものとそっくり同じに作られているという話を思い出したりしている。

仏像の手の指の爪は、赤ん坊のものと同じように反っている。仏様は赤ん坊と同じく純粋無垢な存在であり、ニンゲンたちに赤ん坊のような無垢な気持ちを持ちなさいというメッセージになっているものらしい。なんと、素晴らしい話だろうかと、前夜ボクはますます仏像が好きになっていく予兆に気持ちを高ぶらせていた。ときどき爪を立てたりする大人(特に女の)もいるが、赤ん坊の時は爪は立てられない。そして仏様のように穏やかな心を持った人は、爪を立てない…(話が飛んだ?)。

あれよこれよとオロオロ・モタモタしているうちに、ようやくすべての容器に水が入り切ると、クルマの荷台に運ぶ作業に移る。無理やりクルマを水場近くまで潜り込ませておいたのが功を奏して、快適なうちに積み込みは終了。

登りの対向車が来ないようにと思いながら、雪の坂道を下る。街道に出ると、ホッと一息つき、当然のことながら、このまま帰ってしまう手はないと帰路の逆方向へとハンドルを切っている。

しばらく走って、「創作の森」への登り口あたりにクルマを止めて歩き出した。何となく、その反対側の風景が昔から好きで、何となくそのあたりを歩いてしまう。足元の履物はトレッキング用の浅い靴なので、ちょっと失敗したなあと後悔したりしているが、せっかくの好天の下、歩かないのは損だと思っていた。

青空が気持ちよかった。何がどうなんだと聞かれても、うまく答えることはできないが、とにかく青空があり、その下に雪の山里があるということに満足していれば文句ないではないかと自分自身に語っている。

ボクには、いつもではないが、自分が今感動していることをどう表現して人に伝えようかと考えるクセがある。その時もふと、そんな思いに襲われ、ちょっと戸惑っていたが、そんなことを思うより前に、青空があっさりとその思いに勝ってしまった。

木の枝から、融けた雪のしずくが数滴落ちてきて、雪の上に小さなあとをつけるのを見た。残雪の下に垂れ下がったツララからも、ひっきりなしに水滴が流れ落ちている。

新雪が降ったとはいえ、雪融けは確実に進んでいて、自分自身が寒さを感じなくなっていることにも気付かないでいる。

カメラを遠くの小高い山並みに向けたり、ジェット機が飛ぶ空に向けたり、ぽっかりと雪融けでできた穴から見える緑の草に向けたり、何だか慌ただしくなった。しばらくカメラのシャッターを押し続け、そのあとはのんびりと雪景色をまた眺める。

う~む・・・と唸った。水汲みに来る湯涌には、まだまだ魅力がいっぱいあるなあ・・・とも、あらためて満足。これから先、どれだけこの場所を眺めるのかと、ふと思ったりし、ゆっくりと帰路に就いたのは午後ののどかな時間帯だった……

八ヶ岳山麓に憧れていた・・・

本棚の隅っこから、また懐かしい本が出てきた。レコードとか本とかはすでにかなり多くのものが手元から離れていて、時々本屋や図書館などで、これはかつて自分が持っていたものだと気が付いたりすることがある。

今回出てきたこの本の存在も、すでに遠く忘れ去られていたもののひとつだった。

著者の加藤則芳氏。ボクより五歳年上の尊敬すべき人だ。

かつて感覚やスタンスの違いを見せつけられ、一種の絶望感とともにこの本を読んでいた記憶がある。今から二十年ほど前のことだ。

そのさらに十年ほど前だろうか、加藤氏は八ヶ岳に移り住み『ドンキーハウス』というペンションを始めていた。

それまで東京の大手出版社に勤務し都会の雑踏の中にいたという、その180度の転換ぶりに、ボクは激しい羨望や嫉妬?を感じていた。当時のボクからすれば、氏はあまりにも簡単に自分のやりたかったことを実現させてしまった人だったのだ。

しかし、氏のことをボクがさらに尊敬していったのは、この本を出した後、人気のあったペンションをさっぱりと止めてしまったことだった。

経営的に行き詰まったというのではない。逆に多くの人に愛されていたペンションだった。その辺りのことは、この本を読めばよく分かる。

ペンション経営自体が、もともと氏の性格には合わず、氏の目的ではなかったということに過ぎない。このあたりも、自分に当てはまる話であると、奥歯で歯ぎしりしながら読んでいた。

氏はその後、八ヶ岳を生活のベースにしながら自然をテーマにした執筆活動を続けてきた(現在は横浜市在住らしい)。

また国内外でのさまざまな自然の場における活動などは、出版ばかりでなく、テレビなどでも広く紹介されてきた。細かいことは書き切れないが、もっと知りたい人は「加藤則芳」で検索してみてほしい。

去年の三月と四月、ボクは久々に八ヶ岳山麓に足を運んでいた。といっても、甲州市の友人と会うために出掛けた際、ちょっと立ち寄ったというくらいの滞在時間で、しかも清里周辺の超安全地帯をぶらぶらしただけだった。

清里周辺は両日とも雨や雪が降っていた。気温も低く人影も少なかった。特に清泉寮のあたりは全くと言っていいほど人の姿はなく、個性的な木工品が並ぶショップの中を遠慮がちに歩いてきた。夏の賑わいが嘘のような静けさだった。

遠望の山々も霞む中、小海線の清里駅にクルマを止め、日本の最高地点を走る車両を見ようと思った。

かつて日本で最も標高の高い駅である野辺山駅に立ち寄り、入場券を買ってホームに入った時のことを思い出していた。

列車が来ると、何気にその列車の写真を撮った。特に鉄道ファンでもなかったが、その時に見た列車はそれまでに自分が見てきたものの中でも深い印象として残った。

夏のきつい日差しの中で、熱を帯びた線路から舞い上がる陽炎も目に焼き付いていた。

ホームに入ってきた車両は、かつて見たものとは大きく違いカラフルで美しかった。

ただ見過ごしていたが、車両が走り去った後、どうせなら、一駅だけでも乗ってくればよかったと後悔していた。相変わらず思い切りが悪い……

二十代の多くの夏、ボクはこの本のタイトルみたいなわけではないが、八ヶ岳山麓で一週間近い夏休みを過ごしていた。

旧盆の休みとかに敢えて仕事をして、その分の振替え休暇を八月二〇日前後にとる。そんなことを当時は平気でやっていた。そして、その時間はボクの日常の中に非日常をもたらす、夏の恒例行事でもあった。

はじめは、特に八ヶ岳を意識していたわけではない。白樺湖の雑踏を抜け、車山高原からのビーナスラインを走り、途中の湿原地帯や高原の道をトレッキングするというスタイルだった。

ただ、もうすでに山の世界に足を突っ込んでいたボクは、もう少しハードなものを求めるようにもなっていた。

八ヶ岳の麓に来ると、十分にそれを満たすというほどではないにしろ、何となく自然と一体となれる瞬間があった。それは瑞々しい感覚で、樹木一本、野草一つが持っている目に見えないパワーみたいなものが伝わってくる気がした。

森の中を歩いていると、自分自身がそれまでとは違う何かに引き寄せられてでもいるかのように感じられた。

実際、当時のボクは、北アルプスの北部や上高地を起点とする山域に足を運び始めていたが、南アルプスや中央アルプスなどの山域の空気を知らないでいた。

ひょっとすると、その空気というのは、今感じているものなのかもしれない…、ボクはそんなことを思ったりもしていた。北と比べると、南の方はジメジメしていない、爽やかな印象があった。どこか垢抜けしていてセンスもいいような感じがした。

ボクは結局、八ヶ岳には一度も登らなかった。じっくりと腰を据えているといった印象もなく、いつもただ慌ただしく移動し、歩き回っていただけだった。

今の自分の家が出来つつあったとき、ボクはわざわざ八ヶ岳山麓を訪れ、地元のクラフト作家たちのアトリエを見て回った。

何年ぶりかのことだった。そして、そのとき、家を建てている自分のことを振り返り、ふと思った。

オレッて、かつてはこの土地に、家を建てようとしていたのではなかったっけ……と。

そんな思いはすぐに消え去っていったが、ボクは懐かしい森の中に、ちょっとだけ足を踏み入れ、車内に積み込んだ多くの品とともに、そこで切られていた白樺の木の枝を一本もらってきた。

ボクにとっては、それがその日一番の収穫だったような気がした。

しかし、それからまたボクは少し虚しい気分に落ちていく自分を感じた。

妥協したんだなあ…。いやあ、妥協なんてもんじゃないだろう…。

今は十分に落ち着いて振り返られるが、その時のボクは、二度と戻ることのない時代への激しい後悔に襲われていた。

この後、“私的エネルギーを追求する”などといった、胡散臭いコンセプトの雑誌を出していくひとつのきっかけが、その時のボクの感情の中にあったことは間違いないだろう。そんなことぐらいでお茶を濁していこうとしている自分も情けなかった。

ボクは自分の性分が、かなりの楽天主義で、さらに面倒臭いことにはできる限り関わらずに生きていこうとしているタイプであった…ということを、四十になろうかという頃、確信した。

その少し前から、そうなんではあるまいかと薄々認識し始めていたのだが、どうやらそれが正しいのだなあと悟った。

振り返ると、いろいろなことに深い関心をもち、人一倍好奇心と知識とを持とうとし、さらに行動にも移していたと思っていたが、そんな自己満足は何の意味も持っていなかった。

自分が本当に求めていたものは、目には見えないものであるということを忘れていた。

ニンゲンそんなに簡単に目的は果たせない。そんなことは分かっている。しかし、その目的を果たすための思い入れや、努力や、思い切りまでもを忘れてしまっていた自分が情けなかった。

“八ヶ岳”という名前、いや文字の形を見るだけで、今でもボクは気恥ずかしい気持ちになる。ましてや、加藤則芳氏のように、自然体で八ヶ岳を自分のものにし、そしてそこからまた羽ばたいていった人を見ると、もう自分自身の小ささが腹立たしくもなる。

そんなことを振り替えさせられた苦い味の一冊だった、と、また読み返しているのであった……

居ても立っても・・・テレマーク

2月最初の日曜日は、春がそろそろやって来そうだなと思わせるほどの暖かさだった。前日は昼間から酒の入る会合があり、その酒を抜くために夕方近くから雪かきをした。まだまだカチカチに凍ったままの雪を、金属製のスコップで割っていくのはきつい作業で、効率もさほどではなかった。

そして、晴れた日曜の朝、今日は今年最初の水汲みだと決めていた。朝のうちは緩み始めた雪をあらためてまた割ったりしながら過ごし、家の前に凍結状態で残っていた雪の多くをかき出した。そして、いつもの湯涌へと向かう。クルマには20リットルの容器2個と、2リットルのペットボトル20本ほどを積む。とにかく年が明けて昨年末に汲んで来た水がなくなり、スーパーの水と水道水で繋いできた。が、やはり何となく湯涌の水でないと物足りない。

しかし、この雪だ。水場まで無事にたどり着けるのかどうか分からない。雪かきをした後でもあり、クルマの中では体がポカポカしている。うっすらと汗もかいてきた。内灘からは河北潟の道路を横断し、山側環状道路に乗って湯涌方面へと向かう。

湯涌はさすがに雪が多かった。路肩に残る雪は1メートル以上ある。無理かも知れんなあと思いながら、水場の方へと登る道に差し掛かった。周辺ではブルドーザーが2台、忙しそうに動き回っている。

狭い登りの道は雪で覆われていた。入口にはクルマが止められ侵入を阻止していた。除雪作業をする人に聞いてみたが、行くのは無理だと言う。もう戻るしかない。水は来週まで我慢となった。

 

帰りのクルマの中でずっと考えていたのは、そろそろテレマークで雪の上を歩きまわりたいなあということだった。河北潟の干拓地にするか、津幡の森林公園まで足を伸ばすか、そんなことばかりを考えながら、ハンドルを握っていた。

しかし、家に戻ると、ますます雪が緩んできているのを実感し、昼食後には再びスコップを手に雪かきに汗を流し始めた。埋もれていたゴミ箱を掘り起こし、駐車場のスペースを広げる。スコップのささり具合も快調だった。

雪かきを終えると、時計は3時を過ぎていた。焦っている。しかし、今からでは時間が中途半端で、スキー歩行に行くには時間がない。それでも何とかしたい。我慢できなくなった。

二階の部屋へと、ブーツと板とストックとスパッツを取りに駆け上がる。玄関からは出ないで、居間からスキーを投げ出し、ブーツを履き、スパッツを付けて雪の上に出た。

家の周辺と言っても、狭い空間だ。しかも、こんなところでクロスカントリーみたいなスキーをやっているニンゲンなんていない。こっちに来たばかりの頃、一度だけスキー歩行をしたことはあったが、もう十年以上前のことだ。

テレマークを付けて雪の上に立つと、やけに嬉しくなった。滑る感触がたまらない。ちょっと人目を気にしながらの、コソコソ歩行だが、家の裏側300メートルほどを五往復した。

また汗が噴き出してきた。久しぶりで息が切れてくる。自分はやっぱり、こういうことに歓びを感じるのだなあと納得している。陽が西に傾き、日陰になった頃にスキーを脱いだ。雪かきも含めた筋肉痛の予感がまた嬉しかった……

八重洲で、もの想い・・・

八重洲にある某巨大ビルの一階に、シンプルな木調の内装と大きなガラス張りが特徴の、日当たりのいいコーヒー屋さんがある。コーヒーが特に気に入っているわけではないが、何気にその店の雰囲気が好きになり、出張帰りの新幹線待ちの時間に30分ほど余裕を持たせて入ったりする。

一月のアタマ、相変わらず冬の太平洋側らしい晴れの日、工事中の東京駅周辺をぼんやり眺めていると、歩道のあたりで写真の撮影をしている一団が目に入った。撮影されているのは、ロックバンドのメンバーのような連中だ。分かる人には分かるのだろうが、こっちは分かるはずもない。しばらく見ていると、連中は歩道に座ったり、カメラに向かって決めポーズをとったりして、かなり悪乗り的な雰囲気になってきた。見ている方が恥ずかしくなってきたが、彼らには彼らなりの思いやらスタンスがあるのだろうとも思い、それからは敢えて見ないようにしていた。

・・・・・話は一気に飛ぶが、初めて北アルプスの穂高に登った時、単独行のボクは缶詰め状態になった涸沢ヒュッテの小屋の中で妙に落ち着かないでいた。夕食が終わり宿泊部屋に集まると、山小屋のスタッフが、一人ひとり名前を呼び、寝る順番と言うか、位置を示していく。畳一枚に三人が寝るという、夏山ピーク時にはよくある光景だが、ボクの名前だけが呼ばれなかった。

「まだ名前呼ばれてない方いらっしゃいますか?」 ハイと手を上げると、当然、名前を聞かれた。しかし、「ナニさんですか?」と聞かれたので、思わず「ナカイさんです」と答えてしまった。アッと言う間に首から上が熱くなり、その場のシラッとした空気のすべてが自分のせいだという思い込みと、恥ずかしさに潰されそうになった。

“ホントは、こんなこと言うオトコじゃないんですよ、皆さん” ボクは必死にその場の空気を入れ替えようとしたのだったが、すでに遅かった。スタッフは事務的にボクの位置を決め、では皆さんよろしくお願いしまあすと言って去って行った。

ボクは結局、自己嫌悪と人いきれの熱気の中で眠りにつけなくなり、12時頃には山小屋を出て、1時には冷え込んだ外の岩の上でコーヒーを沸かし、携帯食のリッツを出して、それまでの生涯で最も早目の朝食にした。この自己記録はもちろん今でも破られていない。そして雨具などを着込み、岩に寄りかかって仮眠して、3時半にはザイテングラートと呼ばれる急峻な登山道に向けて歩き始めていた。二泊三日コースを家からの往復時間も含めて一泊二日でやっつけようという、当時のボクとしては、当たり前の真ん中のちょっと横といった感じの山行スケジュールだったのだ。当然のごとく、かなりしんどい思いをしていた。

今でも、あの「ナカイさんです」は痛恨の極みだ。野球には痛恨の一球というのがあるが、痛恨の一言というのはああいうことを言うのだろうと思う。旅の恥はかき捨てとも言われる。しかし、あの時の状況は、そのまま皆さんと一緒に寝ることを許さなかったのだ。

話は相変わらず寄り道だらけになったが、八重洲の連中を見ていた時に、ボクはそんなことを思い出していた。もちろんそうしたくもなかったのだが、そうなってしまった。何が共通していたのだろうか。あの連中のはしゃぎ方が、ボクの「ナカイさんです」にどう繋がっていたのだろうか。少なくとも、ボクが両者を同類項にしていたのは間違いなかった。

ボクは、はしゃぐのは得意ではない。“ボケ”は得意だが、根本的にはしゃぐのは不得手だ。別な言い方をすれば、自分をしっかり出すというやり方しかできない。たとえば最近流行りのネット社会における匿名文化みたいなものにも、どうも感覚的についていけない。名前や素性を隠して、意見を述べたりするのは性に合わないし、そういう言葉を、じっくり読もうという気持ちもボクには起きない。もちろんTPO に応じての使い分けは理解できているが。

言葉は、その人の素性などが背後にあってこそ生きたものになるのではないか。写真や絵画、音楽や文学、さらにスポーツ……たとえば、アジア杯決勝で素晴らしいゴールを決めた日本代表の李忠成。まだ若いながら在日から帰化の道を選んだ彼のこれまでの生き方を知ることで、余計にあの一本のシュートの重みを感じ取れるのではないか。涙を流して喜んだという彼の母親の思いもまた分かるのではないか。彼の放ったあのボレーシュートもまた、彼の言葉だったのだ。そう考えるから、言葉はその人の素性や根本的な考え方に裏付けされているものなのだと思える。

むずかしく考える必要はないだろうが、ふと目にしたなんでもない出来事から、自分自身の思いの一端をあらためて考えさせられたような気がした。

2月のアタマにも、ボクはまた、あのガラス張りのコーヒー屋さんで、短いながらも、ゆったりとした温もりの時間を一冊の本と共に過ごしていた。他にも客はたくさんいたが、それぞれがそれぞれの空間を大切にしているように見えた。

窓の外には、速足で歩いていくビジネスマンや、楽しそうに笑いながら歩いていくご婦人たちの姿が見えていた。

ボクはひたすらのんびり構えようとしていた。歳を食っても、自分流の考え方や感じ方の中に、まだまだ整理のつかないことがあるのだということを、ほんのちょっとだけだが、また考えていた。そんなもんだろう・・・・・・・

五十嶋博文さんとの、今年最後の時間だった・・・・

越後湯沢で上越新幹線からほくほく線に乗り換えると、空が少しずつ灰色に変化していった。二日間いた東京は晴れていた。寒くなりそうとは言っていたが、やはりまだそれほどでもない。それに晴れていれば、それなりに気分は明るくいられる。

電車が進むにつれ、空はますます暗くなり、学生時代の冬の帰省時、いつもそんな体験をしていたのを思い出した。別にそのことで損をしているとかは思わなかったが、それが故郷へ帰ることのひとつの習わしのようであり、窓外の吹雪の風景などは、気持ちも引き締まる思いがした。

上越の山々はすでに白く薄化粧を始めている。少し前だったらもう今頃はもっと雪が積もっていただろうにと思うが、この景色も悪くないと窓外に目をやったりしていた。

 12月の始め、久しぶりに北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文マスターを訪ねていた。もちろん山小屋は今閉じられていて、立山山麓の店を拠点に相変わらず忙しい毎日を過ごされている。素晴らしく天気のいい午後の遅い時間で、連絡せずに行ったのだが、五十嶋さんは事務所とお店がいっしょになったご自宅にいらっしゃった。

奥さんがたい焼きと美味いお茶を淹れてくださり、その素朴な組み合わせに唸っていると、奥からマスター(五十嶋さんは若い頃から、そう呼ばれている)が出てこられた。「おお、ナカイさん、久しぶりだねえ…」

今年最後に山を下りてから、もう一ヶ月半くらいだろうか。この時期のマスターの顔はいつも穏やかに見える。事務所のソファに向かい合って座っているだけで、大きな安心みたいなものが生まれる。初冬ののどかな立山山麓の風景の中で、マスターといられる時間というのが貴重で嬉しい。

 マスターとは約三十年前に初めてお会いした。ボクは駆け出しの登山青年で、やたらと無邪気に山に入ろうとしていた。しかし、前にも書いたが、ボクの山デビューは剣岳でさんざんな目に遭い、決して将来に期待の持てるものではなかった。そして、次に出かけたのが、マスターの太郎平小屋をベースにする薬師岳だったのだが、それも大雨に降られて登頂できず、小屋で一日停滞して、そのまま下山するという有り様だった。

ボクは当時から、五十嶋博文という北アルプスの名物おやじの存在を知っていた。初めて太郎平小屋の中で、マスターと面と向かったとき、必要以上に緊張したのを今でもはっきりと覚えている。その時は当然特に話すこともなく、ただ、こんにちはと普通のあいさつをしたに過ぎない。

しかし、それから後、毎年のように薬師岳へ行くようになり、しかも地元の町づくりのことでマスターと仕事ができるという幸運にも恵まれて、急激にその距離が縮まった。毎年秋の閉山山行のことを書いたエッセイは、専門誌『山と渓谷』に掲載され、マスターにも喜んでもらえた。

 そうこうしているうちに、太郎平小屋のパンフレットやロッジのパンフレット、絵はがきやTシャツなど、直接多くの企画に参画させていただくようにもなっていった。もちろん手弁当の仕事だ。現在使われているパンフレットは、ボクの写真と文章、そして地図などをボク自身でデザインしたものだ。一部写真の提供を受けているが、自分で山に入り撮影したものが多い。撮影で山に入った時、長く履いてきた登山ブーツの底がはがれ、マスターの長靴を借りて歩き回ったこともある。

来年はパンフレットを増刷する時期だ。マスターが新しい写真に代えなくてはならないところが多いから、「来年は、夏に山来んなんぞ、ナカイさん」と言われた。嬉しいお誘いだった。

 マスターが奥から一冊の本を持ってこられた。マスターのお兄さんである五十嶋一晃氏が書かれた『山案内人 宇治長次郎』という本だった。長次郎とは、ご存じ『剣岳・点の記』で測量隊の登頂をサポートした山案内人だ。本には、地元出身で優れた山岳技術と人間性を誇った長次郎のことが、実に詳しく記されている。特に癖のある人が多かったという山案内人の中で、長次郎については悪く書かれた資料が全く残っていないらしい。それが安心して頼める山案内人としての長次郎の評価になっていたと、マスターも話しておられた。

一晃氏とは、数年前に現在のパンフレットの撮影で山に入っていたとき、太郎平小屋のさらに奥になる薬師沢小屋で出会った。ついでに書くと、さらに奥にある高天原山荘(たかまがはら)、そしてもうひとつスゴ乗越小屋という四つの山小屋がマスターの経営下にある。北アルプスのド真ん中の、奥黒部を含む静かな一帯がエリアなのだ。

ボクは初めてだったのだが、一晃氏のことを“お兄さん”と呼ばせていただいた。お兄さんは、太郎の小屋の誕生の時、建設資材を背中に担ぎ、裸足で麓から登ったという人だ(下の写真)。当時の写真は、パンフレットの冒頭部にも使わせていただいている。法政大学山岳部OBで、卒業後は製薬会社に入られ、山岳部に所属。最後は取締役として会社を去っておられる。日本山岳会会員でもいらっしゃる。

 当然だが、山のことは詳しい。厳しさも並はずれていて、ボクがお会いした時も、これからの山小屋のあり方や山との接し方など熱く語っておられた。特に女性に優しい山小屋にならないとダメだと力説されていたのを覚えている。今はシーズンになると、山に入り小屋の仕事を手伝っておられるらしい。

それにしても、この本の内容は実に綿密な記録の集大成だ。まだすべてを読み尽くしていないが、興味のあるところから先に読んでいる。山の記録と言うのは、さまざまな想像の中で楽しめる。街の記録とは違い、その場所に簡単に行けないからこそ、面白味が増す。

五十年の歴史を通り越した太郎平小屋だが、マスターでは『50年史』を出した後、これからは毎年その年のこと記した冊子を出していこうとの思いもあるようだった。もちろんそういうことなら、なんでもお手伝いさせていただきますと答えた。

一昨年ボクは、会社の行事でマスターのトークを企画し、ボクがナビゲーターとなってやらせていただいた。山小屋のオヤジさんとして安全をどう考えるかという、堅苦しいテーマだったが、マスターが若くして経験された、薬師岳での愛知大学生遭難事故(昭和38年冬に起きた山岳史上最大の事故で、死者13名)をとおして、山小屋のオヤジとはどうあるべきかを語っていただいた。

その時のことが、マスターも好印象で残っているらしく、ああいうことを他の小屋の人たちも入れてやりたいと言われた。そんな企画も頼まれた。実はボクも、是非やってみたいと考えてきた。素朴な人たちの、素朴な話を、ただひたすら素朴に聞く。そこから生まれてくるものは、厳しくもやさしい、ニンゲンと自然とのドラマだ。むずかしいことを考える必要はない。マスターたちに、ただのんびりと語ってもらうことがすべてだ。

 それにしても、季節としては暖かく、のどかな立山山麓の夕方だった。マスターにお会いする時は、いつも帰り際で物足りない気持ちになってしまう。もちろん自分自身に対してで、もっともっといろんな話がしたいと思ってしまうのだ。

外はまだまだ肌寒さを感じるというほどでもなかった。

来年は忙しくなりそうですね・・・。ボクがそう言うと、マスターが、そうやね・・・と言って笑った。

立山山麓はすっかり夕焼けに染まっていた。帰りは急ぎ足になったが、岩肌を赤くした初冬の剣岳の姿だけは、しっかり目に焼き付けておこうと、何度も振り返っていた・・・・

秋の五箇山で思ったこと

これまでの秋の話は、なんだか雨や嵐のことが多くて、もう言うことなし的に晴れ渡った正しい秋空など縁がないのかと思われているかも知れない。当然全くそんなことはないわけで、秋の青空もいつも味方に付いてくれているのは言うまでもない。

身近な秋の風情となると、ボクの頭の中にはすぐ五箇山あたりが浮かんできて、すぐに足が向いてしまう。この前も素早く出かけた。別に秋に限ったことではなく、四季それぞれに出かけたりしている。

特にこの地方での春の始まりの頃は、田植え直前の水田に、輝きを増し始めた太陽の光が注ぎ込んだりして、その美しさはまさに世界遺産そのものといった上品さだ。もちろん秋もいい。

 ボクにとって五箇山は、今は亡き司馬遼太郎大先生の歴史紀行・『街道をゆく』によって開かれたところだ。今から何年前になるだろうか。週刊朝日に連載され、その後単行本化されていった。週刊朝日に接するようになったのは、YORKに置いてあったからで、マスターの奥井さんもよく読んでいた。その後文庫にもなって話題を巻いたが、単行本の方をボクは数冊持っていたのだ。

外国へ行ったり、都会へ行ったりするよりも、もっともっと日本的で、歴史を感じたり、人を感じたり、自然や暮らしを感じたりする旅が好きだったボクにとって、この本はちょっと旅に出るかな的モチベーションを高める最高のシリーズだった。

第何巻だったかは忘れた。五箇山については、かつての上平村(現在南砺市)赤尾という地区にある浄土真宗の行徳寺(こうとくじ)という寺周辺の話が印象的だった。

その本は多分今、実家の納屋の段ボールの中で眠っていると思う。今確認することは不可能だが、行徳寺を開いた道宗(どうしゅう)さんという僧の話に、自分でも不思議なくらいに興味を持った。

道宗さんというのは、妙好人(みょうこうにん)といって、普通の世俗の人だが、信心が篤くお坊さんになったという、とにかく偉い人だった。なぜその話に深く興味をもったかは、いずれどこかで書くとして、とにかくボクは行徳寺へ行こうと思った。そして、その週末だったか、さっそくクルマを走らせていたのだ。

当時は東海北陸自動車などない。福光から城端を通って山越えし、平村から上平村へと入る。庄川沿いの国道156号線。相倉(あいのくら)集落や村上家などを過ぎ、さらに菅沼集落も過ぎてしばらく行ったところに行徳寺があった。

合掌造りの見学ができる家として人気のある岩瀬家の隣なのだが、象徴的なのは、茅葺(かやぶ)きの山門だ。意識的にそれを目当てにして走っていたが、やはり岩瀬家の隣という方が効き目大だった。

行徳寺は、言わば何の変哲もない寺だ。今では小ぎれいになってはいるが、当時は本当に素朴な印象で、茅葺きの山門が、“静かに佇(たたず)めよ”と言っているだけのように感じた。今は、観光の寺ではないから…といった、直接的なメッセージが書かれた看板すら出ている。

寺の前に、どこにでもあるような小さな食堂があった(…今もあるが)。実は、司馬先生は、そこで「熊肉うどん」を食べていた。メニューのタイトルが正式に「熊肉うどん」であったかは忘れたが、とにかく熊の肉が入ったうどんを食べたと書いていた。

尊敬する司馬先生が食べた「熊肉うどん」を、自分も食べるというのは必然的な行為だった。が、生まれて初めて口にした熊肉は、とにかくひたすら硬かった。うどんの柔らかい歯応えに比べて、その硬さはかなりの面倒臭さを感じさせた。うどんがほとんどズルズルと口の奥に運ばれ、二度三度モグモグとすれば喉を通り過ぎていくのに対し、熊肉は箸につまんで口に運んでから、うどんの三十倍ほど噛みこんで喉の方へと送らねばならなかった。

熊肉をとにかくひたすら噛み続けていると、アタマがボーっとしてくる。なにしろ行徳寺の門前だ。無の心境に近づいていく…?

・・・・その年の冬のある出来事が蘇(よみがえ)ってきた。それは金沢市と富山の福光町との境にある医王山に、雪深い2月に登った時のことで、降り積もった腰あたりまでの深雪をかき分けながら、ボクたちは冬山気分に浸っていた。一緒にいた相棒はS。二人とも体力だけには自信があり、ただ無邪気に雪をかき分け登っていた。

そろそろ最後の急な登りに入ろうかという時だった。上からガッチリとした体格のいい男の人が下りてきた。雪面を背にして下りてくるから、顔はほとんど見えない。ただ帽子も被ってなくて、アタマが“スキンヘッド状態”であることだけは、その光り具合ですぐに分かった。雪の反射光の加減で真っ黒だと思っていた顔は、近くで見ても黒かった。

その人はアタマの状況が示すとおり、自分たちよりもかなり年配であった。「若いのに偉いのォ」と、汗で顔を黒光りさせながら、開口一番言った。なんて答えていいか分からないでいると、指さしながら「あの峰まで行く気はないかのォ」とも言った。Sと顔を見合わせた。

その人の話では、奥医王から横谷だったかの稜線の雪の中に熊を埋めてあり、それを運びたいだったか、解体するんだったか、とにかく一緒に手伝ってくれないかということだった。

Sが彼独特の薄ら笑いを浮かべながら、ボクの顔を見ていた。それが何を意味しているのかちょっと考えたが、ボクもすぐにSのような薄ら笑いを浮かべ、「ボクら、今日は白兀(しらはげ)の頂上まで行ってくるだけなんで…」と語尾を濁しながら答えた。白兀山とは、医王山の手前にあるピークだ(戸室山の奥にあり、積雪期には木が生えてないので、そこだけ白く見える)。

熊肉の話から大いに外れていったが、この話は印象深くボクの記憶に残っていた。今でも覚えているくらいだから、司馬先生の真似をして熊肉うどんを口にしたときには、かなり鮮明な記憶として蘇っていたことだろうと思う。

特にこれといった感慨もないまま、「熊肉うどん」を食べ終えると、ボクはデイパックの中から、徐(おもむろ)に『街道をゆく』を取り出していた。実際にその地を訪れ、しばらく自分自身の感覚でその地を確認した後、その部分を読み返すのが楽しみだったのだ。

 五箇山の秋は相変わらずのどかで、静かで、意識すればするほど安らいだ気分になれた。五箇山であることを自分に言い聞かせながら歩くのがいいのだ。人がいても、人を背にすれば、自分が一人になったような気分にもなれる。特に秋は、訪れている人たちが皆同じ思いでいるような錯覚にも陥ったりして安心できたりするのだ。

昼飯は、熊肉うどんではなく、今秘かに?大人気の「いわな寿し」を食べて、いざ次の目的地へと・・・・・その2へとつづく。

 

 

涸沢の秋の冷たい思い出

 

数年前まで、紅葉というと自然の中ばかりで見てきていた。

自然の中というのは、早い話が山の世界であって、山の世界では、単純に紅葉を見に行くというイメージとはかけ離れてしまうことも多かった。当然見に行くまでが楽ではなかったし、紅葉を見るつもりが、いきなり雪を見てしまうということにもよくなった。

初めて秋深い山に出かけたのは、北アルプスの涸沢(からさわ)だ。下界では、少し秋めいてきたかなといった時季。全面的にひたすら紅葉と黄葉の世界となっていた上高地から、言わずと知れた清流・梓川左岸の道を詰め、横尾の分岐点で橋を渡り本格的な登りの道に入っていく。

天候はすでに小雨状態だった。気温は完璧に10度を下回っている。この季節の、こんな日になぜ山に入ったのかと問われても、弱冠25歳半ほどの若者には特に理由など見つけられない。ただ、とにかく行きたかったから来た…と言うしかなかった。

樹林帯の登りに入ると、雨はしっかりとした降り方になった。歩いている分、身体は辛うじて暖かいが、気分はかなり落ち込んでいる。

まだまだ“ニンゲン”が出来ていない(今もさほど変わってないが)から、雨を降らせている雲上の神様かなんかを恨んでいるのだ。それと天気予報のオジサンなんかにも、「昨日の夜、明日は晴れるよと軽く言ってくれてたら、雲たちも、ああそうなんかなあ?と、勘違いして晴らしてくれたかも知れんのによォ…」と、怒(いか)ったりしている。

上高地から歩いて約5時間弱。ほとんど休憩なしで、穂高の登山基地である、初冬の涸沢に着く。写真で見るようなとてつもなく美しい紅葉風景は全く見えない。ガス状になった雲がすぐ手の届きそうなところから、山肌を経て空へと繋がっているだけだ。

濡れた石段の道を登り詰め、2軒ある山小屋のひとつ、涸沢ヒュッテに入った。ほとんど登山客のいない、当たり前といえば当たり前の静けさだった。

玄関に入り、リュックを置き、白い息を吐きながら、上りに腰掛ける。スタッフが出てきて、「こんにちは」と山の定番的あいさつを済ませた。雨宿りと休ませてもらうのだから、何か頼もうと思ったが、咄嗟(とっさ)に何も出てこない。思わず、“ビール”と言ってしまった。

こういう時は、何もかもが歯車の狂った状態になる。ボクの悪い癖?だった。

なんで、選(よ)りにも選ってビールなんか頼んだのだろうと、悔やむ。身体が冷え始め、一気に体温が下がっていくのが分かる状態だった。

さらに追い打ちをかけるような出来事が起きた。コンロでお湯を沸かし、インスタントのスープでも飲もうと思っていたのに、リュックの中にコンロのボンベが入っていない。ワンデイ、つまり日帰りの軽装備だから、リュックの中身はすぐに確認できた。

その日のランチのメインは、恥ずかしながら“ケンタッキー・フライド・チキン”だった。それも前の晩に金沢で買っておいたもので、当然ながら、冷えに冷え切っていた。

山に出かけるようになってからは、先に言っておくと、よく母が握り飯を作ってくれた。おかずはほとんど自炊のラーメンだったから、握り飯があれば十分で、前の晩に作ってくれるものでも、ほのぼのとした“味”を感じた。玉子焼きでも付いていたりすると、“母を訪ねて三千里”にほぼ近い、二千八百八十里ほどの愛なども感じとった。

しかし、今回は違った。前の晩、もう寝る頃になって「明日、山行く」と言っただけだった。どこの山へ行くかとかは、その頃は告げていなかったが、親も聞いてはこなかった。

ビールを仰ぐようにして喉に流し込むと、ボクはチキンを無造作に頬張った。味覚的なものは何も感じない。感じるのはその冷たさだけだ。

今度スタッフが近づいて来たら、コーヒーを頼もう。ボクはそう思い、そうなる時を密かに待つことにした。しかし、スタッフはなぜか忙しそうに動き回っていて、ボクの気持ちなど察してくれそうになかった。

ビールのせいで頬っぺただけが異様に熱い。寒さに震える傷心の青年が、独り山小屋の玄関で苦悩している…。しかし、たぶん間抜けな、ほんのり赤っぽい顔をしたボクの表情からは、そんなことなどカケラも感じ取れなかっただろう。

30分足らずで、ボクはまた外に出た。

涸沢は、前穂高岳、奥穂高岳、北穂高岳という、日本を代表する3000m級の山々に囲まれた、すり鉢状の場所だ。かなりの角度で見上げながら見回すと、ダイナミックな山岳景観が楽しめる。夏でもかなりの雪が残り、山の魅力的な要素がすべて存在する。

しかし、それは晴れている時の話で、今は自分の目線の少し上部あたりまでしか視界はない。奥穂高と北穂高の間にある、涸沢槍と呼ばれる峻険な岩峰(涸沢岳)も、当然だが見えてこない。

腕を組み、しばらく雨とガスの中に佇(たたず)んでいると、雨が霙(みぞれ)に変わってきた。そして、さらにしばらくすると、霙が明解な霰(あられ)になり、湿った雪にも変わっていく。

そろそろ下るか…。簡単に気持ちは決まった。長居する意味もない。新米の若造がいい加減な装備で、恐れ多くも涸沢へと来たのだから、こんなもんだろうと腹を括(くく)る。

湿った雪が激しく重く降り始めていた。涸沢の名物と言われるナナカマドの赤い実が、降り積もった雪の重みにじっと耐えている。

登山道の石の表面が滑り始める。いい加減にそろそろ手袋を出そうかと思ったが、リュックを下したりするのが面倒臭く、なかなか踏ん切りがつかない。

その時、ふと思い出した。ボンベはクルマの後部座席の紙袋の中だ。前の晩、忘れてはいけないと思ったボンベを、先にクルマに積んでおいたのだ。それなのに……

ボクは木の陰でリュックを下し、中から手袋を出して手にはめた。暖かいとは感じなかったが、冷たさが消えた感じがした。

上高地に戻ると、小雨は上っていた。身体が感じる気温も、はるかに高くなっていた。横尾から1時間半弱で明神(みょうじん)まで来ると、もう身体はポカポカになり、明神まで来る前に手袋を外した。

薄暗くなり始めた上高地だったが、そんな中で見る紅葉と黄葉の木々が美しい。河原の石も、やけに明るい色に見える。

のんびりと山に相対する…そんなことなどまだまだ出来もしないくせに、ボクはなぜか、いっぱしのヤマ屋になった気分だった。

それから何年かが過ぎた夏、“やらねばなるまい”的心情でもって、涸沢から奥穂高の頂上に立った。それ以前も、それから以降も、ずっと続けていく単独行で、なぜだか、ひたすら自分を苦しめていた時だった。

あれから先、未だに涸沢の紅葉は生(ナマ)で見ていないが、そのうち、見に行くことになるだろうと、秘かに思っている……

湯涌の水汲みで、秋山の雨を思った

関東に台風が近づいていた休日の朝、いつものお勤めである「湯涌の水汲み」に出かけた。ひと月に一回のお勤めだ。

内灘にある家からは、河北潟を横断して津幡から国道に乗り、途中から山側環状に移って、ひたすらそのまま走る。そして、途中から医王山・湯涌温泉方面への道へと向かうのだ。いつもの素朴な風景に和みながらの時間だ。

雨が降り出していた。水を汲み始める頃には本降りになってきた。よく整備された水場だから濡れることもなく、蛇口から勢いよく出る水を容器に入れていく。20ℓのポリ容器2個と、1ℓの容器10本ほど。時間にすれば20分ぐらいだろうか。

水を汲みながら、あることに気が付く。それは山の雨の匂いだった。秋も深まった山の空気に触れる雨が放つ匂いか、雨を受けた樹木の葉や幹や枝、もしくは雨が落ちてきた土の匂いか、何だかわからないが特有の匂いを発する秋山の雨を感じた。懐かしい匂いだと思った。

 ふと、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんの顔が浮かんだ。もう何十年ものお付き合いをさせていただいている北アルプスの名物オヤジさんと、何度も秋の山を歩かせていただいた。と言っても二人だけではなく、いろいろな人たちが一緒だったが、ゆっくりと山道を踏みしめるようにして登って行く五十嶋さんの後ろを歩くのは快適だった。

毎年10月の終わりには、薬師岳の閉山山行が行われる。太郎平小屋を経由して、すでに初冬と言っていい薬師岳の頂上をめざし、頂上の祠(ほこら)から、薬師如来像を下ろす。その夜は太郎平小屋での最後の宴となり、酒もいつもの数倍の量で飲み尽くす。

もちろん雪が舞ってもおかしくはない。今までにもわずか一、二時間で腰あたりまでの積雪になったことがあった。

しかし、登山口である折立(おりたて)付近ではまだ雪はなく、すでに紅葉は終わりかけているが、登山道に落ちたどんぐりの実などを見ながらの登行が続く。小雨が降り続く朝などは、上は雪だろうなあと話しながら行く。秋山の雨の匂いに包まれている。

そんなときに、いつも五十嶋さんはただ黙々と歩いていた。一年に何度も往復するという道だ。歩き慣れたという次元をはるかに超えた独特の雰囲気が漂う。背中に担いだリュックの下に手をまわし、少し前かがみでゆっくりと足を運ぶ。その姿を見ているだけで、こちらにも、心にゆとりが生まれたりする。

水場の雨は少しずつ強くなってきた。見上げると、大きな木の葉っぱから雨水が垂れてくるのが見える。

帰りを急ごうと思った・・・・・

※タイトル写真は、携帯電話で撮影。

深田久弥山の文化館にて~初秋

 

クルマの中はまだ夏だったが、クルマを降りて、見上げた空は秋だった。九月の下旬だから、暑いと言ってもさほどではない。日陰に入れば、風も気持ちいい。

深田久弥山の文化館には約一ヶ月ぶりだろうか。一ヶ月前は、離れの喫茶室にいても、窓からは一切風らしきものは流れて来なかったのに、今は涼しい風が入ってくる。深田久弥の会の事務局長さんもしきりに、いつもの夏だったら風が入って涼しいんだけどねえ…と言われていたが、そんなことなど想像できないほどに、前回来た時はじっとしてもひたすら暑かった。

 デッキのテーブルが変わっていた。丸い大きなサイズのものに変っていて、ちょっとした会合や、大皿を並べた食事会でもやったのだろうかと想像させる。

今回は山中の方からの寄り道なのだが、同行しているM川にどうしても見せておきたくて来た。イベント会場づくりのプロであるM川に見せておくことで、今後主催者になるクライアントへサテライト会場としての提案もできるからだ。M川は早速、物置にある上品そうな椅子を見つけ、モノはあるとほくそ笑んでいた。

ギャラリー展示的な空間になっている「聴山房」も見せたが、えェーとか、うゥーとか言いながら、フムフムとそれなりに、ここはこうして、そこはああしてと、独り言らしきことをつぶやいていた。それにしても、聴山房の室内も涼しい。ガラス越しに見る庭も、今はゆっくりと心を落ち着かせて見回せる感じだ。一ヶ月前の冷房なし状況を思うと、今は極楽のような空間だと言っていい。畳の上に寝っ転がってみたい気持ちにもなったが、M川の手前やめた。

 その日は昼からの出勤になっていて会えなかったが、館の事務長・M出さんが前々から言っていた背後の広いスペースは、草刈りも済ませすっきりとした空間になっていた。大木が日陰を作ってくれて、そこでも何かできそうだ。イメージが湧いてくる。

しかし、イメージを膨らませながらも、小さな蚊にまとわり付かれて往生もした。身体のあちこちが痒かった。

 

 

山の文化館展示室につながる回廊も、何だか秋めいて落ち着いた雰囲気だった。 この場所は、これからだな…と実感した。

加賀市には残してきた宿題らしきものがたくさんある。忙しく走り回っていた20年ほど前に見ていたもので、その美しさやのどかさや、さらにうまく表現できないいくつかのものが、不意に目に飛び込んできたり、アタマに閃いてきたりする。そんな自分がどこか面白いとも思うが、それなりに自分らしい原点を思い返してくれそうでもあって、足を運びたくなる。

M出さんによろしくお伝えくださいと事務室にあいさつし、館の玄関でパンフレットやグッズなどを見ていたM川を促し、外に出る。

空はますます秋めいて、一層涼しげだった。が、クルマに乗ろうとすると、クルマの中にはまだ夏が潜んでいた・・・・・・

休みの朝 得したこと

ちょっと憂鬱な理由で休みをとった朝、NHKニュースの中で、秋を迎える北アルプスからの中継という企画があってしっかりと見た。

たまに休みをとると、こんないいことがあるんだと心を癒やしてくれた。今、眠気覚ましも兼ねてテキスト打ち中、ほとんどリアルタイムだ。いいなあ、こういうのも…

場所は、新穂高温泉から双六岳や槍ヶ岳へと向かう人気スポット・鏡平(かがみだいら)。小屋の近くにある鏡池に映る槍穂高連峰の姿が、かなり上品な美しさで有名だ。しかし、今朝は雨だった。しかもかなり激しく降っていた。中継のアナウンサーは、雨のおかげで山の静けさを余計に感じるとか言っていたが、決してそんなことは感じられないよと言いたくなるような雨の降り方だった。

晴れている風景(タイトル写真)は前日に撮影されたもので、やはりとてつもなく美しい。文句のつけようがないとは、こういう場合のことを言うのだと、あらためて納得させられたりする。それともうひとついい話だったのが、鏡平の山小屋で働く若い女の子たちの話だ。もちろん男の子もいるのだが、少ないスタッフで、一生懸命働いている姿は清々しい。

かつて、太郎平小屋で何人もの若者たちを見てきたが、さまざまな事情をもって皆働いていたのを思い出す。しかし、彼らは山の美しい景色と、小屋を訪れる人たちとの触れ合いの中で自分を自然体にしてくれるそんな環境を愛していたように思う。山へ入るボクたちのようなニンゲンも、そうだったに違いない。そんなわけで、いつか山で出会ったニンゲンたちのことを書きたいと思ってしまった。

そう言えば、今日はそんな日ではなかったのだった。

しばらくしたら町内にあるC谷医院へ行って、今度受けるS密K査の前の事前K査を受け、某県立C病院へのS介状を書いてもらうことになっているのであった。あとは家に戻って、某日本人メジャーリーガーのミュージアムに納める、新作映像のシナリオ原案をまとめなければならない。これは大仕事なので、家でじっくりやることに徹している。資料も膨大だ。昼頃には某デザイン展の作品審査にも顔を出さなければならない。それにしても、S密K査が憂鬱なのであった。ところで、話はまったくもって完璧に変わるが、ボクは憂鬱の「鬱」の字を自分が手書きできることを、先日知ったのだ。不思議なものだった。

さて、もう一度、北アルプス・鏡平のことを思い出そうかな・・・

初めての山は剣岳だった

この写真は、山岳専門誌『山と渓谷』1986年6月号に掲載された、ボクの投稿紀行だ。

本格的な山行として初めて登った剣岳との再会を記したものだが、初の雪山の感動と、剣岳との再会を喜ぶボクの心情が、恥ずかしいくらい単純明快に綴られていて懐かしい。その後も何度か読者紀行というページに投稿させていただいたが、剣岳の話はこれ以外にも、もう一度掲載されている。剣岳が初山行の山であったことは、ボクにとって大きな誇りでもあった。

北アルプス大日岳への登り途中で。左が自分、右はいつも一緒だった親友・S 

 『剣岳 点の記』のDVDをこの一週間に三回観た。

 二回目からは特に山岳シーンは巻き戻して見たりして、ストーリーよりも山の世界の描写にばかり注目していた。

根本的な理由は明白だった。今夏本格的な山に行けなかったからだ。今夏どころか今春も昨秋もそのまた前の夏も春も冬も…という具合に、ボクのヤマ屋的エキスが希薄になっていき、ボクはただ悶え続けるだけだったのだ。山に入ってきた人間には、普通の空気だけではなく、ちょっと酸素が薄めの山の空気も時々必要なのだろう。この息苦しさはそのことの証に違いない。

そんなわけで、ボクは『剣岳 点の記』を食い入るように観た。そして、唸った。時々いいものに出会うとボクは唸るのだ。唇を噛みしめ、顔を右方向に三度くらい揺すりながら口の奥の方でウゥーッと声を出す。なぜ右の方にだけ揺するのかは自分ではわからない。この前、あることで唸った時に、偶然そのことに気が付いた。

『剣岳 点の記』である。ストーリーを詳しく説明するような野暮なことはやめよう。それよりも剣岳という日本を代表する厳しい山に挑んだ人たちを描く上での、その厳しさの描写にボクは独り拍手を送りたい。

  ( TV画面より)

スタッフや俳優さんたちの努力にも拍手を送りたい。それにも理由がある。それはボク自身も本格的な山として初めて挑んだのが剣岳であり、今の俳優さんたちのように、初体験として厳しい山行を強いられた記憶がまざまざと甦ってくるからだ。

 

大学を卒業して二、三年が過ぎた頃だったろうか。今の会社の当時富山営業所長をされていたTさんがリーダーとなって、剣岳に登ろうという話が持ち上がっていた。Tさんは山岳関係者の多い旧大山町(現富山市)の方で、剣岳や薬師岳などを中心に北アルプス北部方面に足繁く通っている山男だった。ちなみに『剣岳 点の記』の主人公の一人・宇治長次郎も大山の人だ。

集まったメンバーは総勢6名。Tさんともう一人富山の山男以外はみな初心者。今思えば何とも無謀なパーティだったと言えた。Tさんの呼びかけ方もいい加減だった。

ハイキングに毛が生えた程度のもんやからよ… あの映画を観た人なら、その言葉の無責任さが分かるだろう。そして、そのいい加減さがその後の悲劇?を生む ───

メンバーの中では圧倒的に若く、そして大学体育会上がりのボクにとって体力だけは誰にも負けない自信があった。予想どおりそれはすぐに実証される。登山口である番場島から急なルートとして知られる早月尾根を登り始めて三十分、そして一時間と時間が経過するにつれ、歩く速度に大きな差が生じ始めた。しかも、Tさんたち山のベテランでさえ、ボクのスピードについて来れなくなっていた。もちろんボクの歩き方そのものも、ただ早過ぎるだけだったのかも知れない。

何度目かの休憩の時に、Tさんが背負っていた大きなリュックを交換してくれと言った。その時ボクが背負っていたリュックは、友人から借りてきたもので、まさにピクニックかハイキングレベルのものだったが、Tさんのものは本格的なキスリングザックで、アルミパイプの背負子(しょいこ)に結んで背負うものだった。

ズシリと重い感覚が両肩にかかった。ザックにはポリタンクに詰められた日本酒も入っていた。山小屋か頂上で乾杯しようと持ってきたらしい。重くはなったが、背負子のおかげでバランスが良くなり、背中に馴染み始めると何だか充実感みたいなものまで生まれ始めた。

一度に自分が本格的な登山者になったような気分になった。そして、Tさんに言われた、お前は自分のペースでどんどん行け。とにかく登っていけば山小屋にぶつかっから、そこでオレの名前言って、先に小屋に入っとりゃいい…… その言葉どおりに、ボクは歩き始めた。正直、その時のボクには疲れなどほとんどなかった。

みるみるうちに後続の姿が消えた。深い樹林帯の中の急な登りが続いていた。樹林帯の中は“草いきれ”がすごい。しかもまだ梅雨真っ盛りの時季で、湿度も高く、想像をはるかに超える汗が吹き出していた。

そして、そのうち暗い樹林帯に大粒の雨が落ち始めた。雨は一気に本降りとなり、そのまま止む気配など見せずに降り続く。山の経験を積むと、落ち着いて雨具を身に着けることぐらい普通の行動なのだが、ボクにはそんな余裕などなかった。余裕がないというよりは、そのことの必要性そのものを感じていなかったという方が当たっていた。

その時の服装は、白いTシャツに首にタオルを巻き、コーデュロイの半ズボンに普通のソックス。そして足には底のやや厚いシューズ(オニツカタイガー製)を履いていた。

雨は一向に止む様子はなく強い勢いのままだった。道は川のようになった。靴がそのまま雨水の流れの中に隠れた。帽子も被っていない。頭から雨が流れ落ちてくる。全身がびしょぬれ状態になり、そのまま歩き続けていくと、ボクの中に奇妙な思いが生まれた。

厳しい山の世界に、今自分はいるんだなあ。ヒーローになった気分だった……

しかし、その思いは山小屋に着いた途端に完璧に打ち消される。

尾根に建つ伝蔵小屋(現在の早月小屋)の玄関に立ったボクの姿を見て、アルバイトで、間違いなくボクよりも年下であろう若いスタッフが、いかにも軽蔑するような顔をした。それが山へ来るかっこうかよ、といった目をしていた。

びしょ濡れになりながらも、元気よく、お願いしますと入っていった出鼻は完璧にくじかれ、ボクは力なくTさんの名前を告げた。畳が敷かれただけで、布団などが無造作に積まれた四角い部屋に案内された。若いスタッフは、服をすぐに着替えて、身体冷えてるだろうから毛布でも巻いていてくださいと言った。

しかし、ボクのリュックはTさんが背負っていて、ボクの着替えはなかった。小屋に入ってから、身体が一気に冷え始めていくのが分かった。ボクは思い切って素っ裸になり、直に毛布を身体に巻きつけることにした。

待つこと約二時間。Tさんたちが到着した頃にはボクは浅い眠りに落ちていた。

雨と風が翌日の出発を躊躇させたが、Tさんの強い判断でボクたちは次の日無事剣岳の頂上に立った。しかし、誰もボクのキスリングの中に入っていた日本酒を飲もうとはしなかった。山の恐ろしさが身に染みていた。

反対側の剣沢へ下山する途中の“カニの横ばい”と呼ばれる岩場の難所付近では、ボクはTさんの肩に足を載せて下ることができた。雨降り状況の中の岩場の恐ろしさを知らされた。すべてはボクが履いていった、役に立たないシューズのせいだった。

ほとんど昼食らしきものをとらずにいたボクたちは、雨の岩場で缶詰を開け、汚れた手をズボンなどで拭きながら無造作にむさぼり食った。近くでヘリコプターのエンジン音が聞こえていたが、あとで聞くと、転落者の搬送に上がってきていたらしかった。

ボクたちはその後、先頭と最後尾とに大きな差をのこしたまま、剣御前から雷鳥沢を下り、室堂平に再び登り返して無事全員下山した。体力不足か、半分死にかけたような人が一名いたが、何とか無事だった。

この剣岳山行は、ボクに大きなインパクトを与えた。まず、二度と山など登らないと決意させた。しかし、その後ボクは北アルプスの山々に入っていくことになる。初めは友人と二人の山行、その後は単独での山行。そしてその後は、単独であったり、集団であったりと。

なぜ山行を続けるようになったのかと考えると、やはり山への憧れがあったからなのだろうか。

剣岳の登山口である番場島には、「試練と憧れ」と記された碑が建っているが、本来の憧れるという感覚は、普通の観光地などにはなく、やはり山などを対象にした時に生まれるものだと思う。

『剣岳 点の記』の中でも語られる、「自然の美しさは厳しさの中にしかない」という感覚は、そういう意味で試練と憧れを象徴している。そして、「人は淋しさに耐えながら生きている」といった言葉もまた、そのことを意味しているのだと思う。

山には人の生き方みたいなものが凝縮されているということを、山に入って15年ぐらい過ぎた頃になって初めて実感した。教えてくれたのは、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんだった。ただ心を落ち着かせて歩いていれば、必ずいつか目標地点にたどり着けるし、そこには雨も雪も風もあるが、それらも冷静に受け止められると。その時五十嶋さんと一緒に歩いていて、全く苦しさを感じなかった。そして、その後の山行を、ボクは自分自身のペースで力んだりせずにこなせるようになっていたのだ。

それから後も、山ではさんざん厳しい目に合わされた。しかし、山はよかった。ただ、それだけだった……

植村直己は、なぜ“どんぐり”だったのか…

8月某日、NHKテレビで興味深い番組がふたつ放送された。

ひとつが、総合テレビの“冷奴のおいしい食べ方”についてをテーマにした『ためしてガッテン』。そして、もうひとつが、教育テレビの『こだわり人物伝~笑顔の冒険家・植村直己~どんぐりからの脱却』だった。両方とも見たという人は少ないと思う。

前者は、名前負けの、何ら得るもののない無意味な番組だった。冷奴はどのようにしたら美味いかなど、考えるだけムダで、そのまま生姜を少々のせて醤油をかけ食べる。できれば、少し砕き気味にして食べるとなお美味い。それだけだから、5分もあれば番組は終わってしまうくらいのものだったが、それをクドクドと45分もやった。当然ボクは途中で見るのをやめた。その点、さすがに後者の内容は濃く、嬉しく懐かしく、しっかりと見た。

植村さんが北米の最高峰・マッキンリーで消息を絶ってから何年が過ぎたんだろう? なかなか思い出せない。“まさか、あの植村直己が…”と、誰もが疑った冬の遭難。

当時、植村さんはどこかで生きているということを、多くの人が思った。こんなことぐらいで死ぬわけがないと。しかし、植村さんはそのまま帰って来なかった。

学生時代、大学の先輩にあたる植村さんが、北極圏の極点を目指したとき、ボクたち現役学生も多くのカンパをした。一口1000円だった。そして世界初の成功をおさめた時には、お茶の水の大学正門前で振る舞い酒が出たのを覚えている。

それ以来、植村さんはボクの中でのヒーローの一人となった。

 植村さんの足跡はすごい。29歳で世界の5大陸の最高峰すべてに登頂。日本人最初のエベレスト登頂者という栄誉も得ている。また、アマゾン川を筏(いかだ)で下ったり、犬ぞりで北極の極点に単独で立つなど、登山家・冒険家としての地位は世界でもナンバーワンだった。

そんな植村さんだったが、学生時代は山岳部の落ちこぼれで、あだ名が「どんぐり」だったという話は有名だ。とにかく田舎者を絵に書いたような素朴な青年で、山では全く弱かったという。

しかし、合宿で自分の弱さを知ってからの努力は凄まじいものがあり、植村さんは自分を力強く鍛え上げていった。毎日9キロのランニング。冬の立山連峰に単独で入り、テントを使わず、雪洞を掘って過ごしながら縦走するという離れ業も成し遂げた。

卒業後は就職もせず、アメリカに渡って果樹園でのアルバイト生活。最終目的はヨーロッパ・アルプスに行くことだった。そして、ヨーロッパ・アルプスではスキー場で働きながら山歩きに没頭した。ヨーロッパの最高峰モンブランに登頂。南米の最高峰アコンガグア、アフリカの最高峰キリマンジャロなどにも登った。

もうかなり前になるが、植村さんの生まれ故郷である兵庫県日高町に出かけたことがある。

春の暖かい雨の降る午後だった。日高川の穏やかな流れと、川沿いに咲く桜の並木に目をやりながら、ボクはめざす「植村直己冒険館」へ思いを馳せていた。そして、そこで見たり聞いたりした植村直己の世界に強い衝撃を受けてもいた。無線で叫んでいる植村さんの声は、いつまでも耳から離れなかった。

植村さんは負けず嫌いだった。それも無類の負けず嫌いで、さらにそのことをあまり表には出さなかった。そして、人並み外れた努力家でもあった。

番組の中で案内役を務めた登山家・野口健は、植村さんの著書『青春を山にかけて』で登山家を目指すようになったという。高校を中退して人生の迷路に立っていた時期だった。

植村さんもまた、山の世界へと足を踏み入れていく中で、決してそのことをすべて肯定していたわけではなかった。植村さんには、自分が世の中の普通の流れに乗って行けない人間であるという、大きな不安がのしかかってもいた。同僚たちがサラリーマンとして会社勤めをする中、自分はアメリカに渡り、ヨーロッパに渡り、定職にも付かず、山で暮らしている。そのことは“どんぐり”植村直己にとって、ある意味許せないことだったのかも知れなかった。それほど、植村さんは“真面目”でもあったのだ。

番組のサブタイトルは、「どんぐりからの脱却」であったが、ボクは、植村さんは“どんぐり”のままだったと思っている。ずっと、どんぐりのまま、世界の5大陸最高峰の最初の登頂者にもなり、北極点にも立ったのだと思っている。

だからこそ、「笑う冒険家」だったのだ。笑うこと、つまり“笑顔とどんぐり”には共通するものがあり、その素朴さの中に本当の強さが隠されているのだとボクは思う。

 ところで、この番組は続いているのだ……

※写真は、我が家に来たての50インチTV~NHK教育の画面より…

「月曜の朝、山からメールがきた…」

 「おはようございます。

  今、焼岳山頂にいます。穂高~槍~笠が岳のパノラマが圧巻です。

      今度冷たいBを是非とも。」

 友人で建築家のKさんから携帯メールが届いた。驚いた。羨ましくなった。そして、嬉しくなった。

 いつもニュートラルなKさんの生き方は、ボクに素朴なメッセージとなって響いてくる。

 ちなみに文中に「B」とあるのは、もちろんビールのことなのだ……

笹ヶ峰でスキートレッキング

 5月1日、久しぶりに妙高・笹ヶ峰をテレマーク・スキーで駆け巡ってきた。

 朝の4時半過ぎに金沢を出て、スキーを履いたのが9時少し前。文句のつけようのない青空の下で、久しぶりのテレマークに戸惑いながら、夏には足を踏み入れることのできない雪に覆われた牧場と、その周辺を自由に移動していく。少々飽きてきた頃には、スキーをデポして三田原山への樹林帯の登りにも挑戦。一時間弱ほど登ってみたが、なかなか樹林帯を抜け切れず、途中で断念して下山した。  

 昼は、牧場のど真ん中にある岩をテーブル兼腰かけにしてランチタイム。牧場内に湧く「岩棚の清水」で汲んできた水でお湯をつくり、ランチを楽しんだ。焼山、火打山、妙高山などが美しく空の青とコントラストを描き、一面の雪原の中の大きな木立が凛々しい。

 ああ、これなんだなあ~と、ハゲしく納得。午後からも笑う膝に、笑うな、いや好きに笑ってろなどと、勝手なことを言いながら、ガンガン滑り(といっても、ほとんどスピードは出ないが)、また登り返し、歩き、走りと一応すべてやってきた。今回は、UVカットもしっかり顔面に塗り、毎度のごときの無残な黒焦げ状況も回避。ちょっと大人になったなあ~と、自分を褒めながらのスキートレッキングだった。しかし、駐車場に戻った時には、ほとんど放心状態。帰り道、コンビニで買ったコーラがとてつもなく美味く、そうか、そうかと唸りながら、久しぶりの贅沢に感謝していたのであった…

春山初山行の痛快編

数年前までは、ゴールデンウィークは山へ行くのが普通だった。

剣岳の圧倒的な山容を見るために、親友・Sと、山の先生・T本さんとの三人で出かけたのが初めての春山。

黒焦げになった上に擦り傷のついた顔と、ただれた唇。真っ赤になった目。

一見、何にもいいことがなかったみたいな容貌で下山してきたが、たぶん人生の中でも、あれだけの充実感は他になかったと思う。

未明の立山山麓、称名の滝へと続く道路。

その途中にクルマを置き、白い息を吐きながら、三人が歩く。

ベテランT本さんは、ボクらのような初心者に毛が生えた程度の若造に、このけわしい春山は厳しいと判断したのだろう。

いやいや、そんなことはない。

単に、久しぶりに春の雪山を楽しんできたいという、そんな思いに駆られただけかもしれない。

とにかく、ボクとSはウキウキしていた。なんとなく表情にも自信のようなものがあふれ、これからの登行を楽しみにしていた。

いよいよ、雪に覆われた急な斜面に差し掛かったところで、ベテランT本さんがその実力を発揮。

ボクたちには全く見当もつかないルートを、じっと見極めている。

そして、この方向に行け、と自信たっぷりに言った。

雪に覆われた急な斜面だ。

道などついていない。

そして、一歩その斜面に足を踏み出したところで驚いた。

全くケリが入らない。雪面は深くまでカチカチに凍っていた。

T本さんが先頭になって、一歩一歩慎重に足を運ぶ。

高く登れば登るほど、危険度は倍増していく。

下を見れば、ちょっとゾクッとする高度感だ。

しかも、足元はツルツルの氷のような雪。

徐々に斜面の角度が緩くなり、そこからまたかなりの時間を歩くと、大日平の雪原が目の前に広がった。

その奥に、目指す大日岳、奥大日岳の頂上がふたつ並んでいる。

空は真青。白い山々が、ただひたすら、とてつもなく美しい。

初めて快晴の朝であることを認識し、嬉しさで爆発しそうになる。

雪の上を歩くことが、こんなにも楽しいことだったのかと、我を忘れて戯(たわむ)れたくなった。

そして、いよいよ大日岳への登りに入った。

緩やかに伸びていく雪の大斜面に、簡易アイゼンを付けた靴が心地よく食い込む。

三人とも快調に進んだ。

しかし、半分ぐらい登った頃だろうか、ベテランT本さんが、突然、オレもう駄目だわ宣言。

お前ら若いんだから、二人だけで頂上行って来い…オレはここで昼飯作ってるから的リタイアとなった。

大きな岩の上にボクとSは、リュックを置き、身軽になってさらに頂上をめざす。

しかし、徐々にペースダウン。

Sは先行しながら、雪玉でケルンを作って、休憩のポイントにしていたが、そのペースが、最初は五十歩で休憩、三十歩で休憩となっていたのに、そのうち十歩で、五歩でと短くなっていった。

ボクが先頭を代わる。

辛かった。最後は一歩ごとに足を休め、大きく息をした。そして、急斜面が終わる最後の一歩のところで、ボクは歓声を上げた。

大日岳頂上直下の稜線に出たボクの目に、あの剣岳の雄々しい姿が飛び込んできたのだ。

言葉では語れない感動だった。

ボクとSは、肩を並べて、しばらく険しい剣岳の山肌と青い空とのコントラストに見入っていた。これがあるから、山はいいんだなあ。

頂上からの帰り道、ボクはもう一度剣岳と向き合った。

剣岳は、ボクが初めて本格的な登山を体験した山だった。

見下ろすと、中腹の大岩の上にいるT本さんの姿が小さく見えている。

鍋のようなものが置かれて、昼餉の準備が進んでいるようだ。

ボクとSは、にわかに覚えた尻セードという、早い話が、ケツで雪の斜面を滑り降りる方法で、一気にT本さんめがけ急下降した。

雪を入れたアルミカップに、ウイスキーを注いで乾杯。

昼餉は缶詰の魚や肉を煮直したりしたもので、かなり激しく美味かった。

日焼けした顔を見合い、笑い合う。

最後の下山では、雑穀谷のトラバースで足を取られ滑落した。

死ぬんではないかと、本気で思った……

もうすぐ、またそんな季節が来る。

どうしようかなあと考えている。

山は永遠なんだよと誰かが言ったが、ボクもそう思う。

空につながっているからだ。

ずっと、空まで導いてくれるような気がするからだ。

ただ、それだけなのだ…