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三月 勝沼にて

 三月のはじめ、快晴の「勝沼ぶどう郷駅」に降り立つ。長野から塩尻を経由し、ゆっくりと旅の行程も楽しんできた。八ヶ岳、甲斐駒、北岳、そして富士……心を熱くする車窓の風景だった。

 約十年ぶりの山梨県勝沼。大学時代の仲間の集まりだ。どこにでもあるごく普通の小集団なのだが、メンバー表の職業欄も徐々に不要な人物が出てくるほど続いている。

 今回は生粋の勝沼人・Mが世話係だ。大学を卒業した後、彼は地元で公務員となり、地元の代名詞であるぶどうやワインの普及などに、彼らしいまじめさで取り組んできた。

 定年後はその歴史文化を伝える資料館に籍を置いたが、自ら開設に関わったその施設もこの三月で退職する。

 高台にあるこの駅のホームに初めて立ったのは、今から四十年以上も前のことになる。眼下に広がったぶどう畑の情景に感動した。それは驚きにも近く、素朴で素直な感覚だった。

 さすがに今はそこまでのことはないが、しかし、背後に構える雄大な南アルプスの名峰たちとも合わせ、いつも何かを訴えてくる。単なる視覚的なメッセージではない。平凡な表現だが、心に迫るものだ。今回は皆より早く勝沼入りし、いろいろと見ておきたかった。

 Mが下の改札で待っているのを知りながら、ホームから再確認するかのように周囲を見回す。甲府盆地と南アルプス、それに青い空…… 納得してから階段を下った。

 改札口の先の明るみにMの姿があった。元気そうだ。

 時計は午後一時をまわっている。まだ昼食にありついていない。Mにはそのことを伝えていた。

 クルマに乗せてもらうと、Mがいきなり「おふくろが会いたがっているから…」と言う。あらかじめ伝えておいたら是非にということになったらしい。

 さっそく勝沼の町にあるMの実家へと向かった。十年前に来た時にはお会いしただろうかと考えるが、分からない。そうでないとしたら何年ぶりだろう……

 学生時代、Mの帰省に合わせて家によくお邪魔し、美味い料理を腹いっぱいいただいた。もちろん、ぶどうもワイン(当時の呼称はまだ「ぶどう酒」だった)もいただいた。甲州ぶどうの房の大きさと瑞々しい美味さに驚き、ぶどう酒はとにかく喉をとおすのに苦労した。卒業後も何度となくお邪魔していた。いつもあたたかく迎えていただき、一度はボクの実家にも金沢観光中のハプニング訪問的に来ていただいたこともある。あれは大学時代のことだったろうか?

 Mの実家、元の化粧品店の中に入った。店じまいをしてから久しいが、ここがMの母君のホームグラウンドだった。すでに他界された父君の方はぶどう栽培に勤しむ物静かな農業人で、その二人の長男であるMの今を思うと、両親の存在の大きさに納得する。

 九十一歳だという母君は、とても若々しく、相変わらずのお元気な声で迎えてくれた。久しぶりの再会だったが、話は日常会話のように弾んだ。短い時間だったが、思い出される出来事や光景がすぐに言葉になって出てきた。いただいた甘酒が美味かった。

 去り際、お元気でという代わりに、「また来ます」と告げた。旧友の母という存在を強く意識した一瞬だった。

 それからすぐ近くにある小さなカフェへと移動した。「まち案内&Cafe つぐら舎」とある。今地元でたくさんの仲間たちと取り組んでいるという「勝沼フットパスの会」の拠点らしい。

 「フットパス」というのは、“歩くことを楽しむための道”という意味らしく、イギリスで生まれたものだということだ。Mたちは、故郷・勝沼の歴史や文化などを自分たちで掘り起こし、立派な案内サインやガイドパンフなどを整備し、自ら解説ガイドとなって来客をもてなしているということだった。ぶどうやワインを楽しむために訪れる人の多い土地だから、こうした活動は勝沼の風土をさらに広く深くする。なんだか羨ましくなる話だ。

 適度な広さの店内に入ると、すぐ右手奥に厨房が延び、Mが主人らしい女性に挨拶をしていた。と言っても慣れた感じで、ボクたちはそのまま進みテーブル席に腰を下ろした。

 古い建物を再利用した手作り感いっぱいの店には、クラフト商品などがディスプレイされている。よく見ると、自分がいるテーブルの脚にあたる部分は、ミシン台を再利用したものだった。

 ようやくの昼食ということで、ボクはメニューの中から「黒富士農場たまごの親子オムライス」という、文字面だけでいかにも健康になれそうなものを注文した。メニューには、となりの塩山で生まれた元気なたまごとも書かれていた。元気なたまごというのも妙に嬉しくさせる表現だった。

 その間に、店を切り盛りしながらさまざまなイベントなどでも活躍されているKさんが出てきてくれ、いろいろと話した。Kさんは、石川県や金沢のことについてもかなり詳しそうで、よく能登の旅などもこなしているといった感じだった。昨年、奥能登珠洲市で開催された芸術祭に、チケットを持っていながら行けなかったことをとても悔やんでいた。

 スープもサラダも、そして、もちろんオムライスも美味かった。ところで、「つぐら」だが、念のために書いておくと、藁を編んで作った猫の寝床のことだ。あたたかそうな名前のとおりの店と店の人たちだった。

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 勝沼という町のことは、Mと遭遇しなければ知り得なかったのは間違いない。そして、その独特の美しい風景やぶどうやワインなどが醸し出す空気感をとおして、その奥の方に広がる何かへの気付きを教えてくれたのが勝沼であったような気がしている。

 仕事の上で、地域の観光や歴史・文化などに関わっていった経緯を振り返ると、学生時代に勝沼と出会ったことがひとつのきっかけだと思えるのである。もちろん、社会人になってからの勝沼体験の方が、より中身の濃いものであり、実際に富山県の某町の人たちを勝沼へと研修として連れてきたこともあった。ぶどうやワインを通じて地域のイメージづくりを進めていた勝沼での勉強会だった。その窓口になってくれたのはもちろんMである。

 社会人になりクルマで出かけるようになると、「甲州街道」という道が気になり始めた。街道という言葉の響きに敏感になっていた頃で、勝沼を通る甲州街道の風景にも強く興味を持ち惹かれていく。Mの実家も街道沿いにあり、ゆるい坂道になっていた。

 甲府盆地からの登り斜面にあるからだろうが、そんな中でも勝沼の町の中の起伏は複雑だった。登ったかと思えばすぐに下り、そのアップダウンも右に折れ左に折れした。しかし、甲州街道だけはひたすらゆるやかに、勝沼を悠々と貫いている… そんな印象が強かった。ところで、勝沼には「日川」という川が流れているが、正式には「ひかわ」とあるのに、Mはなぜか「にっかわ」と呼ぶ。最初の頃から、その呼び方を教えてもらっていたのだが、今回初めて正式には「ひかわ」であることを知った……

 フットパスの会の話を楽しそうに語るMだったが、「つぐら舎」を出ると、甲州街道沿いに見せたいものがあると誘った。活動の豊かさと楽しさがMの言葉や表情からからも伝わってくる。

 街道沿いの空き地みたいな駐車場にクルマを停め歩く。駐車スペースは向かい側の床屋さんの客用だったが、Mが一声かけると簡単に停めさせてもらえた。

 当初は勝沼郵便電信局舎、その後銀行になったという建物が再活用され、ミニ博物館になっていた。建物は明治31年頃に建設されたとある。中を見せてもらう。こじんまりとした建物だが、いくつかのエピソードを持ち、二階の小空間がいい雰囲気を出している。地元の大工が手掛けた洋館の建物らしい。細部に手が加えられている。二階からは街道を挟んで向かい側の古い商家の佇まいも眺められた。

 もう一度街道に戻る。何気ないところで、街道に突き刺さるようにして細く延びてくる小路があったりする。こうしたものが、戦国の武田家によって作り出されたこの地方の歴史を物語る。

 この道は「小佐手(おさで)小路」と呼ばれる。当然甲州街道よりも歴史は古く、武田信玄の叔父にあたる勝沼五郎信友の館の大手門からまっすぐに延びる道であると、Mたちが製作した解説板が伝えている。当時はこの狭い道の両側に家臣たちの屋敷が並んでいたという。そうした道がもう一本あり、そこはかつての花街だったとMが言った。どちらも盆地から山裾へと登る細い道だった。

 甲州街道・勝沼宿は江戸時代のはじめに設けられているが、今見せてもらったものは、どちらもその時代ではなく、ひとつは明治に入ってから、もうひとつは戦国時代以前からの遺産的なものだ。

 大小などを問わず、歴史の背景を知れば町の表情が違って見えてくる。そんなことをまた改めて知った思いがした。

 

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 勝沼ぶどう郷駅と同じような高さにある「ぶどうの丘」がその日の宿、つまり集合場所だった。文字どおりうずたかく盛り上がった小山のてっぺんに、その施設は建っている。駅のホームからもすぐに目に入る。ぶどうの丘からも駅はしっかり視界に入ってくる。ここに泊まるのは二度目だが、最初はまだ古い建物の時で、今ほど洗練されたイメージはなかった。

 今はぶどうとワインと料理、そして温泉と美しい風景が楽しめる勝沼のビジターセンターとして多くの利用者を迎える。露天風呂からの南アルプスの眺望は格別で、素直に嬉しくなる。

 懐かしい面々がにぎやかに再会し、南アルプスを眺めながらの温泉に浮かれた後には、Mが厳選した勝沼ワイン・オールスターズがテーブルに並び、さらに浮かれた。数えると人数を本数が上回っている。勝沼のシンボルが付けられたオリジナルグラスを一人に二個、赤と白用に用意してくれた。

 相変わらず決して上品ではなく、とにかくただひたすら楽しい一夜をかなりランダムに過ごした。

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 そして、前日に劣らずの快晴となった翌朝は、かねてからの宿願であった「宮光園」という勝沼ワインの歴史資料館へと向かった。もちろん小規模団体行動である。

 その前に隣接地で開催されている「かつぬま朝市」に立ち寄り、Mたちが作り上げたとてつもないイベントの威力を肌で感じてくる。フットパスといい、朝市といい、何もかもがホンモノだと実感できる。この朝市のスケールはなんだ…… 

 そして付け加えると、これらの多くに他の町から勝沼に移住してきた人たちのパワーが生きていることも知った。そう言えば「しぐら舎」のKさんも近くの町から通っているという。

 「宮光園」というのは、日本で最初に作られたワイン醸造会社の、その建物を再利用した資料館だ。ワインづくりの先駆者である、宮崎光太郎という人の宮と光をとってネーミングされている。

 勝沼におけるワインづくりの歴史についてはここで詳しく書かないが、まず、奈良時代にまで遡るぶどうづくりという基盤があるということが特徴だ。そして、ワインづくりの習得のためにフランスへ派遣された二人の青年のエピソードなど、とても面白く興味深い。

 成功はしなかったが、彼らが明治の初めに遠いフランスへと派遣され、そこで経験した苦労は想像しがたいものだったという。その労をねぎらい勇気をたたえる意味で、勝沼では彼らのシルエットがシンボル化されている。

 そして今や、勝沼を中心とする甲州市には四十に近いワイナリーがあり、その中にはレストランも併設された施設もあって、多くの人を楽しませているのである。

 国産ウイスキーの「マッサン」というドラマがあったが、あれよりも勝沼のワインづくりのドラマの方が絶対面白いとボクは思っている。勝沼周辺の自然風土も物語のベースとして生きるだろう。いっそのこと、Mが何か書けばいいのだ。

 実はM自身がこの宮光園の開設に関わっていて、オープン後はここで素晴らしいナビゲーターぶりを発揮している。この春からその仕事を終え、ぶどうの仕事に専念するらしいが、晴耕雨読ならぬ“晴耕雨書”の日々が待っているぞ……と、彼に強く言っておきたい。

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 時間がなくなっていた。皆よりも早い時間に勝沼を発たなければならず、隣にあるワインセラーで慌ただしくグラスワインをいただき、Mに送られて駅へと向かった。

 なんだか駆け足過ぎたなあと思いながらの車中だった。

 昨日の昼降り立ったばかりの勝沼ぶどう郷駅には、それなりの人がいた。外国人のカップルなどもいて勝沼の人気ぶりを思わせる。駅舎の前から見るぶどうの丘は、ぽかぽか陽気の中、くっきりと浮かんで見えていた。駅前のサインを見ながら、勝沼フットパスの会の本領を次回は肌で感じなければならないと思う。

 ホームに上ると、春の日差しがより一層まぶしく感じられた。勝沼はやはりいいところだ。こうして穏やかに晴れ渡った日にはなおさらそのことを感じる。

 これから春になれば、ぶどう栽培の活動が本格的にスタートする。ボクたちのようなよそ者にその苦労は分からないが、自然の風景にプラスされるぶどう栽培とワインづくり、それに素朴な歴史や人々の生活の匂いは勝沼のはっきりとした個性であり、日本中どこを探してもないような独特な親しみを感じさせる。

 ワインの酔いがかすかに残っている中、中央本線の列車が来た。韮崎まで普通で行き「あずさ」に乗り換え、上諏訪でまた普通に乗る。旅気分を満喫しながら、最後は長野から新幹線で金沢まで。四時間半ほどで帰れるのである………

 

次回がまた楽しみになった、勝沼だった………

山と人生のあれこれは 沢野ひとしから学ぼう

 沢野ひとしの山の本というのは、『山と渓谷』で連載された『てっぺんで月を見る』が最初だった。

 関係の深い椎名誠の本も同誌で連載された『ハーケンと夏みかん』が最初で、お二人の山に関する本には大変お世話になってきた。

 『てっぺんで月を見る』は連載中からとても愉しく読んだ。

 連載というのは新聞だと毎日だが、月刊誌だと一ヶ月の間を置いて読むことになる。当たり前のことだが、この一ヶ月はかなり長くて、一回一回が初めて接するような感覚になるのだ。続きものでないからなおさらだ。

 ところが、その連載物が一冊の単行本としてまとめられると、それは全く違ったものとなってよみがえる。とても新鮮な発見をもたらしてくれる。

 それは多分、まとめて一度に読むことによって、書き手の思いや、日常の過ごし方、好き嫌いや趣向その他モロモロが伝わってくるからだろう。

 『てっぺんで月を見る』を単行本で読んだとき、そのことを痛感した。たしか、一週間ほどで読み終えたような記憶がある。これはボクにとって非常に速いペースだ。

 沢野ひとしという人が、いかに山が好きかということが分かり、かなり感動的に嬉しくなったのを覚えている。正直、そこまで山を愛し、山と接している人だとは思っていなかった。

 こういう発見は文句なしに気分のいいものだ。

 と言っておきながら、実は『てっぺんで月を見る』の本は今手元にない。

 数年前、金沢の某茶屋街の一角で開かれた古本市で、山を好きになったという女子大学生に売ってしまった。

 自分が売ってしまったのではない。ちょっとの時間、店番を頼んだ某青年が売ってしまったのだ。箱の中に並べておいたから当然売って当たり前なのだが、まさか本当に売れるとは思っていなかった。飾りみたいに置いといたのである。

 実はその時に『槍穂高連峰』という、一高山岳部の古い登山記録がつづられた一冊も売れてしまった。あれもショックだった。

 今のような山ガール全盛の頃ではない。そんな頃の山が好きになったという女子大生だから、喜ばしい話でもあったわけである……?

 それからすぐ後だろうか、なんと沢野ひとしご本人と金沢でバッタリ遭遇するという事件が起きた。

 本多の森にある石川県歴史博物館の前だった。

 ボクは仕事で訪れていて、帰り際のことだ。ホンモノを見るのは実はその時が二度目で、その前は『本の雑誌』が主催するイベントでだったと思う。

 それは東京でのことだから特にどうということはないのだが、まさか金沢でご本人と遭遇するなどとは思ってもいなかった。

 遠目に、アッ、沢野ひとしだとすぐに分かった。背が高い。腕も長い。黒縁の眼鏡をかけている。写真や、特に椎名誠の著書の中にある外見的特徴の記述を思い出し、沢野ひとしにまちがいないと確信した。

 近づいていき、ボクはすぐに「沢野さんですね?」と声を発した。

 当然ビックリされたようすだった。そうです…と答えられた。

 その場で少し立ち話をさせてもらったが、金沢でこうしたファンに声を掛けられるなど想像もされていなかったのだろう。照れくさそうに笑った表情もまた、思い描いていたとおりの沢野ひとし像と一致していた。

 別れ際、ふと『てっぺんで月を見る』のことがアタマに浮かんだ。

 愛読書です!と伝えようとして、もう手元にないことを思った。結局そのことを話せないまま見送り、会えたということだけで満足することにした。このことはその後しばらく後悔として残っていた。

 

 金沢東山にある「あうん堂」という古本と美味しいコーヒーの店には、沢野ひとしのイラストが飾られていた。遭遇事件の後、そのイラストを見た時、金沢に来る目的と、その店とのことがアタマをよぎったことも鮮明に覚えている。

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 そして、いよいよこの本のことである。

 『人生のことはすべて山から学んだ』

 なんとも大胆なタイトルであり、やはり沢野ひとし的だなあと思ったりもした。それはまた椎名誠的でもあり、二人の関係を思うと納得なのであった。

 この本を読んで、ボクはますます沢野ひとしが好きになったと言わざるを得ない。

 『てっぺんで月を見る』よりもさらに深く、山の書としての風格さえ感じる。

 こんな風にして、ヒトは山に憧れ、山を好きになり、山に入りたいと思うようになるのだと思った。

 山での過ごし方、山への思いの寄せ方など、すべてが詰まっているように感じた。

 少年の頃、山への遠足で単独行動をし、道に迷ったという出来事から、友達や山への強い憧れを抱くきっかけとなった、信頼する兄との山行。

 本格的に山をやっていたという兄との話には、山へ出かける朝、寝床から、カメラ持って行っていいぞ…と呟いた話を読んだ記憶がある。あれも『てっぺんで月を見る』だったのか、今は確認のしようがない。とにかく、グッときた話だった。

 そして、父親となり、息子と出かけるようになった山行など。

 時の流れとともに移り変わっていく自身の山行スタイルの中で、山に対する思いの変化が伝わってくる。そんな、ほのぼのとしてあたたかい読み物なのである。

 『てっぺんで月を見る』で感じた、“こだわり”と“愉しみ”が、より一層渋みを増して綴られていた。その後の一連の本からすれば、酒の話が少なくなったような気もするが……

 そして、忘れてはいけないのがいつものイラストである。相変わらず、何とも言えない沢野ワールドなのだ。

 読んでいない人、それに沢野ひとしを知らない人に説明するのは当然むずかしいのだが、このさまざまな要素の混在こそが、“沢野ひとしの山の世界”なのだと、あらためて確信した。

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 ところで、山への憧れというのは人それぞれだろうが、ボクの場合における山への憧れは、やはり上高地から見上げた穂高の稜線だったと思う。

 平凡かもしれないが、かつての上高地というところは、そういうところだったのだろう。スーパー観光地となった今では、そうした魅力から少し縁遠くなったような気がしている。

 ボクは山にも歴史物語を求めていた。それは登山としての歴史だけではなく、もっと民俗的な意味合いの歴史だった。

 生活の糧を求めて山に入っていた人たちの歴史みたいなものだ。今、山村歩きなどという妙な愉しみの世界にハマっているのもその延長上のことだと思っている。

 だから、上高地でも松本藩の材木切り出しで働いていた人たちの様子や、岩魚採りの様子などが書かれたものを読み耽った。富山の立山山麓の人たちの生活文化などにも興味をもっていった。

 そして、その後は登山史のような世界に入っていったり、黎明期と言われる時代の山行の話に興味をもつようになる。

 特に明治・大正、昭和の戦前の頃の山での記録は、文章自体も面白く大好きだった。

 ヤマケイ文庫で復刻された田部重治の本などは、沢野ひとしも絶賛しているが、実に最高なのである。

 山小屋の話や登山道整備の話なども、とても好きだった。特にボクの場合、「北アルプスのド真ん中」という形容を付けてガイドなどを作らせていただいた、太郎平小屋への強い思いもあり、山小屋の歴史などには興味が尽きなかった。そう言えば、五十嶋マスターはご健在だろうか。ご無沙汰している……

 

 沢野ひとしも、山の本を読むことを薦めていた。

 山歩きをしながら何を考えているかとか、さまざまな切り口の話に思わず共感している自分がいた。

 そんなわけで、もう本格的な山は難しくなってきたが、この本の効能は今のところ非常に健全なカタチで継続している。

 “山があるから登り、酒があるから飲む。”

 別の一冊『山の帰り道』の帯に記された名言である………

 

福島南会津・檜枝岐に行く

 南会津と聞いて、北陸に住むニンゲンがどこまで想像を広げることができるだろうか? と考えてしまった。

 会津といえば、会津若松や磐梯山などを想像するのが一般的で、南会津と言われると、会津若松の南のはずれぐらいかなと考えた。だから、“秘境”と言われる福島県南会津郡檜枝岐村の名前を聞いた時には、その位置関係をイメージできなかった。

 金沢からであれば、トンネル利用で楽に行けるルートがある。しかし、新潟・長岡を起点にして組まれた今回のルートは、遠回りながらも、またそれなりに興味を誘うものであった。 

 そんな檜枝岐村に行くきっかけとなったのは、仕事で村の事業にいろいろと関わらせていただいているからだ。

 平家の落人伝説もある檜枝岐の歴史文化や自然風土などは、NHKの『新日本風土記』にも紹介され、私的にも大きな興味をもっていた。

 もっと分かりやすい話で言うと、山好きなら尾瀬の入口であるということで決定的認識を生むのであるが、自他ともに認める山好きが、尾瀬にそれほど積極的でなかったのも事実で、檜枝岐の存在まで認識が回らなかった。

 前置きはこれくらいか、もしくは後にも少しまわすことにして本題に入る。

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 六月の終わり。梅雨時らしいはっきりしない空模様の朝、会社の新鋭企画女史であるTを伴い、金沢を七時半頃出発した。

 Tは、T県のT市にあるT大学出身のT奏者である。最後のTはトランペットだ。

 大学の吹奏楽団で親分を務めていたというだけあって、一度だけ、たまたまコルネットの俄かソロを聞いたが、軽やかで実に見事な吹きっぷりだった。ジャズは専門ではないが、彼女は「マイ・ファニー・バレンタイン」が分かる。それは、マイルスのミュートソロが気に入っているからだと言う。実になかなかの感性なのである。

 話は大幅にそれたが、そうした親子以上も年齢差のある彼女は今、能登半島で地域の仕事に携わっている。檜枝岐の事業はそうした意味で非常に最適な教材なのである。

 そんな話などをしながらの道中の果てに、長岡に着いたのが十一時頃。ここで会社の新潟支店からやって来た、檜枝岐村の企画担当チーフであるHと合流し、三人で向かうことになっていた。

 自分の性分からすると、人任せの旅にはいい思い出はできないことになっている。しかし、ここは行き慣れたHに任せることとし、静かに彼のクルマの助手席へと座り込んだ。

 長岡の街からはすぐに山あいの道へと移り、これからいくつかの山里を越えて行くのだなということを予感させた。が、早々に栃尾の里に入り、栃尾といえば誰もが思い浮かべるところの、いわゆる“油揚げ”で昼食をとることとなった。と言っても、それが絡んだメニューを選んだのは自分とTだけで、Hは全く油揚げとは無関係なカレーライスを注文していた。

 立ち寄った道の駅のレストランは、ウィークデーにも関わらず、それなりの人で混んでいる。油揚げの焼いたのをおかずにして食べたが、それなりの味だった。

 道はHに任せており、こちらとしてはとにかく山里風景を存分に楽しめるのがとにかくいい。

 魚沼とか山古志(やまこし)などといった地名が見えてきて、懐かしい気分になったりもする。しかし、それらの中心部は通過しない。山古志という村は中越地震で大きな被害の出たところだが、地名の由来が山越(やまこし)からきているのだろうということを素直に想像させた。

 緩やかな起伏が気持ちいい。天気はなんとか持ちそうである。途中からは只見線と並行して走るようになった。と言っても、本数の少ない車両の姿を見ることはなく、稀なチャンスを逃したと残念がったのは言うまでもない。

 このあたりからは、その日のハイライト的山越えドライブとなった。標高1585.5mという浅草岳ピークから伸びる稜線だろうか、かなりの高度感で走るのだが、その後半、展望地から見下ろす山岳風景が美しかった。

 一気に下って、只見の町にたどり着くが、めざす檜枝岐はまだ先。

 沼田街道と名付けられたのどかな道が続き、伊南川という流れを横に見ながらの道中になる。こんな平坦な道を走っているのだから、檜枝岐は近いはずがないと自分に言い聞かせている。

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 ここを曲がって、この前宇都宮まで行ってきました…と、Hが言う。

 一本の脇道がある。山あいに抜けるその気配が、いかにも遠い町にまでつながっているのだということを想像させる。檜枝岐に通っているHは忙しいヤツだから、これくらいは大したことではないようだ。

 かつての自分のことを思い出す。

 長野県内の山岳自然系の自治体や、群馬の水上、嬬恋など、金沢からやたらと足を延ばしては、公私混同型の企画提案を繰り返していた。

 春先にはクルマの後部にスキーを積み、最終日は休みにして、もう営業を終えたゲレンデをテレマークで駆け回っていた。雪はかなり緩んで汚れていたが、量はたっぷり残っていて、野性味満点のスキー山行が体験できた。もちろん仕事も、それなりにカタチになっていった。

 兵庫の城崎へ、志賀直哉ゆかりの文芸館のヒヤリングに出かけた時には、とにかく自分自身の最終目的地を同じ県の日高町におき、ただひたすらその地にある植村直己冒険館をめざしてスケジュールを組んでいた。暖かい雨によって、満開の桜たちが散り始めた時季だったが、この時の必死さと穏やかな旅情みたいなものの交錯は今も忘れてはいない。

 大袈裟だが、一生に一度は行っておきたい場所として位置付けていたから、自分の中でもかなり充実した出張旅だったと思っている。

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 もう地理的感覚はなくなっていた。

 福島県に入っているのはかなり前に知っていたが、群馬も新潟もすぐそこという場所だ。

 まだ雪を残した美しい山の上部が見えたりする。その山が、会津駒ケ岳であることは後から知った。

 道の両脇に太い幹を持つ木立が並び、そろそろ檜枝岐に近づきつつあるという予感がし始めていた………

 そして、それこそごく自然に、われわれは檜枝岐村に入った。

 特に何ら驚くべくもなく、普通に谷あいの家並みの中をクルマで走りすぎた。もっと、じっくりと村を見ていなければならないという変な焦りがあった。しかし、とにかく不思議なほどにあっけなく、村並みは終わった。

 躊躇してしまいそうなほど、その時間は短く、ひとつの村の佇まいの中を通り過ぎたという実感はなかった。

 われわれは、人工的に造られた尾瀬のミニ公園にクルマを止め、花の時季を終えた水芭蕉の群落につけられた木道を歩いた。尾瀬の雰囲気を少しでも味わえるようにと工夫されてはいるが、どこか気持ちが乗っていかない。それが、さっきの中途半端な村並み通過のせいであることは確かだった。

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 それから近くに何棟か置かれている板倉という倉庫のような小さな建物を見た。穀物の保存用のもので、火災から守るために、わざと民家から離れた場所に建てられたのだという。

 奈良の正倉院と同じ様式で造られており、その技法が伝えられていた檜枝岐の歴史の深さを物語るものだ。

 木の板を積み上げた「井籠(せいろう)造り」と呼ばれる。檜枝岐はもちろん、この周辺ではこうした板壁の建物をよく目にするが、土壁を作れなかったからであるらしい。

 それにしても、この板壁は板そのものの厚みが頼もしく映り、質感を高めている。当然釘などは使われておらず、板を組み立てていく素朴さがいい。手に触れた時の温もりも頼もしさを増した

 こうしたものが檜枝岐の風土を表しているのだということを初めて感じとった。

  あとで知ったが、檜枝岐の産業と言えば林業であった。木はふんだんにあり、この恵みを活かさない手はなかった。

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 村の家並みの中に戻り、クルマを置いた。あとは、やはり歩きである。

 檜枝岐の家並みは正直言って物足りない。秘境と呼ばれるにふさわしい家屋のカタチなどを期待するのだが、各家は“普通”である。そして、屋根は赤色にほぼ統一されている。これは村民の合意でそうなったものらしい。できるだけ明るく村を演出しようという気持ちの表れなのだろう。その意識は十分なくらいに理解できる。

 実は、檜枝岐は明治26年に村全体を燃えつくすような大きな火災に見舞われた。だから、板倉などを除いて、家屋などはそれ以降に建てられたものだということだ。

 今は民宿が多く、尾瀬観光との結びつきを強くしているのだという。

 

 道の脇に立つ小さな鳥居をくぐって奥へと進むと、狭い道にカラフルな幟が並び、すぐ左手に「橋場のばんば」と呼ばれる奇妙な石像が置かれてあった。

 ピカピカのよく切れそうなハサミと、錆びついてあまり切れそうではないハサミが、祠の両サイドに置かれている。両方ともかなりの大きさだ。

 元来は、子供を水難から守る神様だったらしいが、なぜか、縁結びと縁切りの願掛け場にもなり、切れないハサミと切れるハサミを、それぞれの願い事に応じて供えていくということになったそうだ。よくわからないが、檜枝岐であればこその奇怪な場所というものだろう。Tも興味深げに見ていた。

 

 その奥にあるのが、檜枝岐のシンボル、その名も「檜枝岐の舞台」である。

 観光で訪れたらしいご婦人方の一団が、この異様な空間の中で声を上げている。そして、そのざわめきが素直に受け入れられるだけの空気感に、こちらも息をのむ。

 村民から「舞殿(めえでん)」と呼ばれ、国指定重要有形民俗文化財である歌舞伎の舞台がある。

  それを背にして目を凝らすと、急な斜面に積まれた石段席が覆い被さるようにそびえている。木立も堂々として美しい。とにかく登るしかないと煽られ、そして、途中まで登ると、石段席の間に立つ大木が恐ろしく威圧的に感じられた。妙に不安定な心持にもなっていく。

 さまざまに混乱させられ、この空間の中に置き去りにされていくような感じになっている。急ぎたくても、ここは簡単に上昇も下降も許してはくれない。てっぺんで、しばらく立ち往生した。

 古い写真では、まだ石段はなく、人々は土の上などに腰を下ろしていたのだろうと思えるが、この石段席が出来てからは整然とした雰囲気に変わったことが想像できる。

 舞台と同じように、国指定重要無形民俗文化財である歌舞伎が上演される五月と八月の祭礼時には、この石段席を含め千人を越える人たちが陣取るのだそうだ。写真で見たが、その光景そのものが何かのエネルギーのような気がした。

 正直この場所はかなり深くココロに沁みた。少しの予備知識はあったが、実物はかなりのパワーを秘めていた。

 檜枝岐の先祖たちが、伊勢参りで見た檜舞台での歌舞伎を再現したという言い伝えだが、このようなパワーはこうした土地ならではの結束力のもと、より強く個性的に育てられていくのだということをあらためて知った気がした。

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 檜枝岐エキスが十分に体中に沁み込んでいるのがわかる。

 斜面につけられた急な石段の上に鳥居が見える。そこを登ると、その先にまた石段が伸びている。こういう状況はよく目にしているが、谷あいの里ではよくあることだ。

 再び村の中の道を歩き始めると、道端に岩魚たちが泳ぐ生け簀があった。やや大きめの岩魚が無数に泳いでいた。檜枝岐の水の良さを象徴する光景だ。

 道端に立つ墓の数々が、檜枝岐の不思議な世界観をまたさまざまな方向へと膨らませている。

 村の人口は約600人。その多くの人の姓は、「平野さん」「星さん」「橘さん」の三つで構成されていて、墓に刻まれた名前がそのことをストレートに告げている。

 谷あいを深く入った地に形作られた村であるからこその、不思議なストーリーが見えてきて、ますます檜枝岐エキスが体中をめぐっていく。

 秘境ならではの数々のエピソードについては、民俗学研究の宮本常一氏や、雑誌『旅』の編集長・岡田喜秋氏などが書いていた。もう相当に古い話ばかりだが、今もその気配はかなり残っていると思った。問題は、それらを見る目、感じる目なのだと思う。ただ、当たり前だが、活字からから得ていたものと、今ここで肌で得ているものは違う。時代は変わったとしても、想像できる時代の様相は実に明快なのだ。

 道端や小さな畑の中の無数の墓が、土地と村の人たちとの結び付きを強く感じさせていた。

 米も作ることができない貧しい村であった昔の檜枝岐(今もそうだが)では、子供を育てることも儘ならなかったという。

 そうした厳しい自然環境によって犠牲となった稚児たちの霊と、その母親たちの悲しみを慰めるため六体の地蔵が置かれていた。春にはすぐ横にある桜が、この地蔵たちをやさしく包み込むのだそうだ。

 六地蔵を見送り、そのままゆっくりと下ってゆくと「檜枝岐村立檜枝岐小學校」。現代の檜枝岐の子供たちが、元気よくグラウンドを走っている。

 檜枝岐では、特に子供たちを大事に育てていると聞いた。その精神を受けた子供たちの宣言文が学校の前に建てられてあり、その内容に思わず胸が嬉しくなる。

 

 夕刻になろうとしている村の中に、より深い静寂を感じはじめていた。目にする小さな情景にも何かを感じた。

 ほどなくして、村役場の方に予約していただいた民宿に入った。そこから近くの「燧の湯」という温泉施設へと向かい、檜枝岐温泉のありがたいお湯にカラダをひたした。広い浴槽にはまだ人も少なく、ひたすらのんびりの幸せな時間だった。

 燧(ひうち)とは、言うまでもなく尾瀬の名峰・燧ケ岳からとったネーミングだ……

 あたりが薄暗くなり、民宿での豪華な自然の幸と美味い酒に酔いながら語った。

 岩魚の塩焼きの歯ごたえと美味さはバツグンだった。腹が120パーセントくらいに充たされ、これはまずいなと思っていると、

 「明日の朝食はまた凄いですよ」Hが言った。いつも、昼飯食わないですみますからとも付け加えた。

 楽しい会話を終えて、部屋に入った頃から雨が降り出した。

 そして、翌朝まで降っていた雨だったが、噂どおりの美味い朝飯を終え、役場へと出かける頃には上がっていた。そして、そのまま空が明るくなっていく。

 Hがデザインした、村の歓迎モニュメントが真新しい光を放っている。

 今更だが、すでに濃くなった緑が村全体を覆っているのである。冬は豪雪にすっぽり覆われる村だが、今は生気に満ちている感じだ。秘境と呼ばれる不思議な山あいの村も、ちょっとしたリゾートのイメージを見せる。そして、聞こえる水の流れの音が、檜枝岐の日常を浮かび上がらせているかのように絶え間ない。

 二日目も昼近くまで、不思議なチカラが漂うこの檜枝岐にいた。村役場や道の駅などでの語らいが新鮮だった。

 帰りも、ただ静かに、そしていつの間にか村を離れていたような気がした。次はいつ来れるだろうか……

 いつも抱く思いが、今回は特に切なく胸に残っていた………

         

 

大野の“おおのびと”たち

大野のことを書くのは二度目だ。

訪れたのは四度目で、大野は深く知れば知るほど、その魅力にはまっていくところであるということを再確認した。

前にも同じようなことを書いていると思うが、大野には心地よいモノやコトがコンパクトに納められている。

特に無理をしなくても、たとえば天気が良かったりするだけで元気になれたり、十分な楽しみに出会えるような、そんな気にさせてくれる。

そういうことが、ボクにとっては“いいまち”とか、“好きなまち”とかの証なのだ。

大野には荒島岳という美しい山を眺める楽しみがある。

今回は特に、正月は荒島岳のてっぺんで迎えるという主みたいな方ともお会いしたが、ふるさとの山は当たり前のように大きく存在しているということを、当たり前のように教えていただいた。

福井唯一の百名山であり、眺めるのにも、登るにも手頃な大きさを感じさせる。

まちの至るところで目にする水の美しさも、そんな感じだ。

語るだけ野暮になる。

言葉にするのに時間をかけている自分がバカに思えてくる。

それは多分、ちょうどいい具合だからだ。

あまりにいい具合だと、その度合いを表現する言葉がなかなか見つからないのだ。

そんな、ちょうどいい具合の自然観を大野は抱かせてくれる。

忘れてはいけない丘の上の城や、素朴で落ち着いた街並みなども、無理強いをしない歴史的な遺産として大野らしさを表している。

城は、大野のまちに入ってゆく道すがらドラマチックに見えてくる。

まちを歩いていても、屋根越しや家々の隙間からその姿が見えてくると、なぜかほっとする。

まち並みは華やかではないが、長方形に区切られ、整然とした空間を意識させる。

建物などだけでなく、小さな交差点で道が少しズレていたりなど、城下町らしい時代の刻印が明確に残されている。

これらの存在が、大野を大好きなまちにしているのだが、今回、真冬の青空の下で、よりグサリと胸に刺さったことがあった。

それは、大野人(オオノビト)…………

今回ボクを案内してくれたのは、かつて金沢のデザイン事務所で活躍されていたYN女史。

引退され、故郷の大野に戻られてからもう数年が過ぎている。

金沢時代、大きなイベントなどがあると、彼女のボスの下に仕えてボクも仕事をした。

その頃のことを、いつも黒子だったんですねえ…などと、今回の大野でも懐かしく思い返していたような気がする。

Nさんは、プロデューサーであるボスの優秀なアシスタントで、ボクにとっては頼れる姐御的存在だった。

大野に戻られてからは、Nさんらしいというか、Nさんにぴったりなというか、地元で観光ガイドなどの仕事をしているとのことだった。

そして、ボクはずっと大野へと誘われていた。

Nさんは、市役所やさまざまなところで顔見知りと出会うと、すぐにボクを紹介してくれた。

おかげで、急に大野への親しみも増し、まちを歩いている間いつもゆったりとした気分でいられた。

清水にしか棲めないイトヨという魚の生態を観察する施設で、じっくりと大野ならではの話を聞き、時間差を設けておいた昼飯タイムに。

そばにするかカツ丼にするかで迷っていたが、そばはこれまでの大野ランチの定番だった。

とすると、カツ丼なのだが、ソースの方ばかり食べてきた。

だから、今回は同じカツ丼でも、醤油の方のカツ丼にした。

大野には美味しい醤油屋さんがあり、当然そのおかげで醤油カツ丼も美味しくいただける。

柔らかな感じのする醤油味カツ丼に、文句などなくひたすら満足の心持ちだったのだ……

ふと見ると、入ったお店の壁には、造りとは一見合わないような絵が飾られている。

観光ガイド・Nさんが言う… 1955年頃、若手作家を支援する「小コレクター運動」というのが全国的に広まり、大野ではその運動に参加する人が多かった。

堀栄治さんという地元の美術の先生がけん引され、その精神は今でも大野に生きているのだと。

だから、池田満寿夫や岡本太郎など、有名な画家の絵がたくさん残っているらしいのだ。

NHKの「あさイチ」という番組で紹介されていたのを、チラッと見たような気がしたが、まさか大野の話だったとは……と、またしてもうれしくなってきたのは言うまでもない。

そして、再び…大野歩きだ。

二千体ものひな人形が飾られた平成大野屋を覗いて、双眼鏡を置いた方がいいと余計なアドバイス(?)もし、大野城を何度も見上げ、外へ出て、かつてその下にNさんの母校である福井県立大野高校があったという話を聞いた。

今頃の季節には、体育の授業になると城のすぐ下の斜面をスキーで滑らされたんだよと、Nさん。

本当にいやだったんだなあ……と、Nさんの横顔を見ながら、かつて面倒な仕事をテキパキこなしていた頃の表情を思い出す。

なんだか懐かしい気がした。

城は文句なしの青空の中に、それこそ毅然とした態度(当たり前だが)で存在していた。

城の上を流れる白い雲たちが、どこか演出的に見えるほど凛々しい眺めだった。

城を背にしてぶらぶらと歩き、五番六軒という交差点の角にある小さなコーヒーショップに着く。

「モモンガコーヒー」というロゴマークの入った小さなサインが、歩道に低く置かれている。

この店の話、いやこの店の若きオーナーの話は、途中歩きながら聞かされていた。

かなりこだわりのコーヒー屋さんであることが、店に入った瞬間に分かる。

三年前に、大野で初めての自家焙煎の店としてオープンしたらしい。

聞いてはいたが、オーナーが思っていた以上に若く感じられた。

大野に本当に美味しいコーヒーが飲める店を作りたいという思いには、人が集まってくる店、そして、さらに自分が大野に根付くための店という思いがあったのだろう……

とてつもなく美味いコーヒーを口にし、陽の当たる席から表通りを眺めながら、そんなことを強く思った。

ボクたち以外にも何人もの客が出入りしている。

豆を買う人、コーヒーや軽い食事を楽しむ人、ボクの隣の隣の席には、地元らしい若い女性が文庫本を広げている。

先ほど市役所で紹介していただいた職員さんたちも訪れ、オーナーと何か話し込んでいる。

実は翌日、冬のイベントが開催されるため、その準備にまちなかが慌ただしいのだ。

Nさんの話では、大野には活動的な若者たちが多く、さまざまな形で自分たちのまちの盛り上げ方を模索しているとのことだ。

あとで、もう使われていない小さなビルの二階に明かりが灯っているのを見たが、若者たちが集まっているのだという。

Nさんと、コーヒーをおかわりした。

最初に飲んだのが、モモンガコーヒー。次は東ティモール・フェアトレードコーヒー。

後者は、代金の10パーセントが東ティモールへの支援に使われるというもので、やはりどこかドラマチックな感じのオーナーなのであった。

ちなみに、Nさんはボクと反対のオーダーだった……

大野の話から、少しずつかつての金沢時代の話に移っていく。

博覧会の準備に追われていた頃のエピソードが、やはり最も濃く残っていて、その頃周囲ににいた人たちは今何をしているかとか、そんなごく普通の想い出話がかなり長く続いたようにも思う。

もう西日と呼んだ方がいいような角度で、大野のまちが照らされ始めていた。

これまでのように、定番中の定番といった名所を見てきたわけではなく、大野のまったくこれまでと違う顔を見てきたような思いがしていた。

帰路、クルマを止めて荒島岳をゆっくりと眺め直す。

春になったら、また来たい。

ここでも強くそう思った…………

 

 

 

井波の小散歩と小雑想

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富山の井波といえば、よく知られた彫刻の町だ。

最初に立ち寄ったのはまだウラ若き青年の頃だったが、二度目か三度目あたりの、やや埃をかぶった世代の頃には、余裕も持って近くの高瀬神社に寄ったりもしてした。

ただ、立ち寄ると言っても、大抵ぶらりと来てしまったというケースが多かった。

井波の町の面白さを知ったのは、仕事絡みで訪れるようになってからだ。

それはやはり地元人との出会いがあったからで、そのおかげで一気に井波ファンになっていた。

いずれも彫刻家で、いずれも面白い話を聞かせてくれる人たちだった。

工房にお邪魔して話を聞いたり、井波の代名詞である瑞泉寺の隅々までを案内してもらったりと、その人たちとの出会いがなければできない経験もさせてもらった。

特に瑞泉寺の中の見学は楽しい時間だった。

それからもちょっとした仕事にかこつけて、ぶらりと訪れたりすることがあり、仕事を片付けた後、町の中を無作為に歩くことが多くなった。

メイン通りはほとんど通らず、裏道から裏道へと狭い道を歩く。

瑞泉寺の横に城があったことはそんな時に知った。

一向一揆の拠点であった瑞泉寺が佐々成政に攻められ、その後その家臣によって寺の横に小さな城が整備された。16世紀の後半、まだ戦国時代のことだ。

その後、その城は前田利家によって取り壊された。

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9月中頃のある日の午後、近くまで来ていたのでまた井波の町に寄った。

豪壮な瑞泉寺の山門は見るだけにして、石垣沿いの道を左に行くと、石垣はすぐに終わるが、石と石の間にきれいな花が咲いていたりして、山里の空気感を味わいながらの散策を始める。

井波のメインストリートであるそこまでの参道は、ただ何も考えずに歩いていた気がする。

右に折れてから、高台の方へと緩い傾斜を登っていくと、すぐ先に、大きな神社へとつながる石段が見える。井波八幡宮だ。

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道はYの字型になって左右に分かれていくのだが、その間の石段の前に立つと、鳥居越しに堂々とした社殿が見えてきて、深呼吸などをする。正しく気持ちが引き締っている証拠だ。

境内に入ると、鬼気迫る表情の狛犬に目がいく。

いろいろな狛犬を見てきたが、ここの狛犬は独特の個性を持っている。

タイトル写真にあるように、苔だけではなく、体のあちこちから草が生えていたりしているのだ。

“ガラパゴスから来た狛犬”と名付けたが、なかなかのネーミングだと自画自賛した。

白いクルマが一台止められているが、人の気配はない。

本殿にお参りし、それほど広くもない苔に覆われた境内を歩き、脇から抜けた。

右手が石垣、左手が板塀になったいい雰囲気の道がある。

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石垣の方には門があり、中に入ると臼浪水(きゅうろうすい)と呼ばれる霊泉がある。

瑞泉寺の名前はこの湧水からきているとのことだ。

これといって特別な思いもないが、道に戻ると曇り空の下の空気が少し冴えてきたように感じた。

まっすぐ前が古城公園と呼ばれ、二の丸の跡らしい。

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ヤマトタケル(だと思う)の立派な像が、周囲とうまくバランスを取りながら建っている。

それにしても静か。初めてではないのに、なぜか新鮮な感覚に陥っている。

一応、奥に建つ招魂社まで足を運び、そのまま戻ることに。

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途中、太い幹をまっすぐに伸ばした大杉が立っている。

周囲はやはり城跡であることを思わせる石垣や土塁が続く感じで、家々の間の空き地にも特有の空気感が漂っている。

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さらに行くと、井波らしいアートとして創られた彫刻が置かれた公園がある。

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ようやく犬と散歩する高齢の女性と出会った。

こんにちわと、よそ者である自分の方からあいさつすると、やさしい笑顔で答えてくれた。

やはり文化度の高い土地の人たちには気品があるなあと、知ったかぶりで感心する。

思わず足も軽くなったように感じたが、逆に言えば、よそ者であることに強い自覚が生まれて、その場を早く立ち去りたいという気持ちになったのかもしれない。

特に観光客などがあまり足を運ばない所でのよそ者は、なぜ今自分がこの場所にいるのかを説明しなければならないような思いを抱いてしまう。

このことは自分の中での永遠のテーマ(大袈裟だが)みたいなものだ。

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今は南砺市という括りでまとめられたこの地域には、個性的な町が多い。

五箇山から白川、さらに荘川、そして郡上八幡へと繋がっていくのだから誰も文句は言えない。

ある意味、日本を象徴するエリアなのである。

道そのものもそうだが、その道から少しそれていくと現れる素朴な風景にも、飽きない面白さがある。

ただ、そうした場所には、もう一度行こうかと思っても、なかなか行けなかったりするから厄介なのだ。

このあたりに来ると、まだまだ自分には知らない風景や、味わったことのない空気感が残されていることをいつも思う。

そして、若い頃にやたらと感動していた山域の風景にもう一度出会いたいと、自分に熱いものを吹き込もうとしたりしている。

その日の帰りは、瑞泉寺の前まで戻りはしたものの、参道は下らず、もちろん境内にも入らず、そのまままっすぐ進み、途中から右に折れて家々の間の道を歩いてきた。

空は曇ったまま、空気はいつの間にかまた静かに湿気を含み始め、町なかがひんやりと、そしてしっとりと落ち着いていく感じがした。

自分の最も好きなスタイルに近い町歩きが、ここ井波にもある。

それはどんな小さなカタチでもよくて、ただ歴史の匂いと素朴な風景と人の生活感があることだ。

あらためてそんな思いを抱きながら、駐車場のトイレに立ち寄り、井波を後にしたのである………

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甲州ブドウが信玄本を導く

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大河ドラマ『真田丸』で、ついに真田昌幸が死んだ。

(タイトル写真は真田昌幸 『戦国大名武田氏の家臣団』より)

幻覚の中、馬の嘶きと近づいてくる蹄の音に起き上がり、「おやかたさまァ」と叫んだ後、そのまま息を引き取るという、グッとくるような演出であった。

草刈正雄の野性味の効いた演技もよかったと思う。

死に場所は真田からほど遠い九度山だったが、信濃の山野を駆け巡った戦国武将らしい最後だったようにも感じられた。

そして、昌幸が叫んだ「お館様」こそが、あの武田信玄であり、信玄によって戦略家・智将としての才能を開花された昌幸の、信玄への思いがあの場面に描かれていたのだ。

ただ、このあたりの背景表現については、『真田丸』は全く中途半端だったのではと思う。

昌幸は七歳の時に信玄のもとへと人質に出されている。

つまり、真田は元来、信玄から本当の信頼を得てはいなかった。

しかし、信玄は昌幸を大切に扱った。

その結果、昌幸は信玄の下でその才能を開花させ、国衆の三男坊から武田家譜代の家臣として取り立てられるまでになる。

信玄が死んだ後も、武田と真田のために踏ん張った。

本気で甲斐の国を再興させようとしていたのではないか………

と、ここまで書くと、ついこの前、武田信玄について書いていたのに、またその話かよ~と思う人もいるかもしれない。

今頃、気がついても遅い。実は、そうなのである。

しかし、今回はむずかしい話ではない。

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今年もまた、山梨県甲州市勝沼に住む親友Mからブドウ便が届いた。

9月のはじめ、いつもよりちょっと早い到着であったが、今年は猛暑のせいか収穫が少し早くなったらしい。

いつも畑で採れたものをすぐに箱詰めして送ってくれるもので、柄の部分はきれいな緑色をしている。

もちろんバツグンに美味い。

持つべきものは、よい友だちだ… ついでに書くと、静岡県三ケ日のみかん農家の次男坊も学生時代の親友で、こちらも初冬には採れたてが送られてくる…………

信玄本の記事

それで、今回勝沼から届いた箱の中に敷かれていた地元・山梨日日新聞。

いつもこういう新聞には必ず目をとおす。

土地柄のニュースが載っていたりして、なんとなく楽しい気分にさせてくれるからだ。

そして、今回も興味をそそるニュースが載っていた。

地元ゆかりの出版物を紹介する記事だ。

まず、「武田家臣団の構造解説」という見出しに注目させられ、丸島和洋氏の名前も目に止まった。

丸島氏と言えば、武田家と真田家に詳しい研究家だ。

『真田丸』の歴史考証も担当している。

これはすぐに買い込んで、読まねばなるまいと気持ちが昂る。

そして、すぐに買ったが、正直言うと、こちらの書店にはどこにも置いてなく、通販を利用させてもらった(なぜか、通販だと何となく申し訳ない気持ちになるのである)。

すぐに読みたかった。

二十代の頃、武田信玄に関する本をひたすら読み込んだが、その時の衝動が甦ってきた感じだった。

噛りついて読んでいるわけではないが、じっくりと今も読み続けている。

ところで、『真田丸』を見ていて感じる人もいると思うが、主人公の信繁(のちの幸村)と同じように、昌幸の方も面白い物語になると思うのである。

本音で言えば、昌幸の方が信玄との絡みが多くあって戦国の物語としては絶対内容は濃くなるはずだ。

秀吉やら家康、その周辺には深いストーリーが感じられない。

だから、幸村のようなヒーローが出来上がったような気もする。

秀吉・家康なら、今回のようにコメディっぽいのがちょうどいいくらいで、今回もそれが面白い要素になっていたりする。

まあどちらにしても、勝沼のブドウが一緒に届けてくれたような一冊の本が、今は実に愛おしく、ときどき気持ちをぐっと引き上げてくれるような気がして嬉しいのである…………

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「武田信玄 TAKEDA SHINGEN」のこと

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この本を貪るように読んだのは、二十代の初め(今から40年近く前)の頃だ。

たまたま山梨(旧甲斐の国)出身の友人がいて、彼が熱く語る「武田信玄 TAKEDA・SHINGEN 」という戦国大名の存在が羨ましく思えていた時期だ。

敢えて英文字を併記したのは、その名前の響きも好きだったからに過ぎないが、そのことも今から思えば重要だったような気がする。

ただ、信玄や謙信などがそういう名前(響き)になったのは、出家したからなのだ。

自分の国(旧加賀)には、前田利家という殿さんがいたが、人物的インパクトの薄さと話題の乏しさに、口に出すのも恥ずかしさを覚えるほどだった。

 

ところで、実家の物置には今も“信玄本”が多く眠っていると思う。

自分で言うのもなんだが、かなりの信玄通だったとも思う。

 

今年になって、NHK大河ドラマの『真田丸』が始まり、甲斐武田家の話もまたクローズアップされ始めている。

真田を語るのに武田との関係は欠かせないからだ。

昌幸(草刈正雄)が口にするあの「お館(やかた)様」の響きは、信玄を慕う気持ちに満ちているように聞こえてきて、なぜかグッとくる。

信玄に仕えたことによって、真田の存在は大きくなり、その後に繋がっているのだ。

主人公の信繁という名も、信玄の実弟からきている。

ちなみに武田信繁は、兄を支えたナイス武将だった。

が、あの最も激しかった永禄4年の川中島合戦で討ち死にしている。

 

ところで、この本のタイトルは『定本武田信玄』という。1977年に出版されている。

定本というのは決定版とか、さまざまな説を整理したものと解釈しているが、この本を最初に探し出した時、この“定本”という文字の凛々しさや音の響きが気に入った。

著者は、当時の山梨大学教授・磯貝正義氏。

武田家の地元、山梨大学の由緒正しい先生であることもいい印象を持った。

著者が特に気負ったりせず、淡々と資料に基づく解説を綴っていく内容もそれなりにいいと思った。

後で分かったことだが、このような定本と名が付く戦国大名の本というのはあまり見ない。

家康のを見かけたことがあるが、あれは信玄のものと比べるとまだ新しい。

信玄については実はもうひとつ定本というのがあって、『定本武田信玄』が1977年に出た後、2002年にも新たに『定本武田信玄 21世紀の戦国大名論』というのが出ている。

戦国大名ブームの走り的産物なのかもしれないが、このシリーズには上杉謙信もあり、北条氏康のもあるみたいで、とにかく信玄については定本が二冊あるということになるのだ。

これは素人目に見ても凄いことなのだろうなあと勝手に納得している。

ついでに書くと、我らが前田利家などは研究者というほどの存在すらも知らない。

かつて、大河ドラマで『利家とまつ』が無理やりのように(?)作られた時、俄か地元前田利家研究者が、講演料稼ぎなどに奔走していたという印象しかない。

ボクも仕事で絡んだが、彼らに翻弄された。

大学を出てから、山梨の友人と一緒に信玄の所縁の場所をめぐった。

それ以前、卒業直後の旅で京都奈良に出かけた時、たしか新田次郎の『武田信玄』4巻シリーズを持参していたと記憶するが、すでにかなり信玄周辺の話に興味津々だったと思う。

塩山市の雲峰寺にある御旗や風林火山の旗指物なども、現物を見て興奮したのを覚えている。

かつて「躑躅崎(つつじがさき)の館」と呼ばれた武田家の居館跡に建つ武田神社や、武田の資料庫もある恵林寺などでは訪れる人も少なく(と言うか、恵林寺などでは全く人はいなかった)、じっくりと信玄に思いを馳せることができた。

もちろん川中島にも行った。子・勝頼が再起を賭けた新府城址なども。

京へと向かう途上に病(労咳)が重くなり、帰らぬ人となる信玄だが、そのあたりの話はかなり切ない。

甲斐という山々と、さらにそれ以上に面倒なライバルたちに囲まれた地から領国を拡張し、最後は最強の軍団を率いて天下に号令を発しようとした信玄の生涯は、あと数年命が長らえていれば何を成し遂げていたかと想像を膨らませる。

それは信玄が最強の戦略家であったばかりでなく、優れた政治家でもあったと言われるからだ。

信長の地位などはなかったかもしれない。もしくはもっと先に延びていただろう。

信玄が死に、謙信が死んで、信長は幸運にも命を拾った。

時のめぐり合わせもよかったのだろう。

たしかに地理的な有利さも大きく、大胆で先駆的な行動が信長を前進させたのだろうが、本来ならば信頼を厚く受けているはずの重臣に裏切られるという、愚かな(としか言いようのない)殿さんだった。

しかも、自分への憎しみが塊となった大逆襲を、まったく予見できなかったという情けなさだった。

ついでに言えば、比叡山焼き討ちなどがさも当たり前のように語られている現代だが、日本史上で無差別大量虐殺事件を起こしている唯一の存在が信長なのでもある。

こういうことを言うと、信長は別格ですからと返す輩が必ず出てくるのだが……

しかし、それはその後に信長さまさまで、より下品であった秀吉という存在が歴史を継承し、繕っていったからに過ぎない。

 

この本をとおして信玄のことを知れば知るほど、歴史の不思議さを思った。

そして、そのうちに一時的に歴史が面白くなくなってもいった。

一国の歴史が、「運」みたいなものに左右されるということに虚しさを感じてしまった。

それにしても、あの時代の大名たちは、とにかくそれしか知らなかったかのようにひたすら戦っている。

戦に明け暮れる日々の果てに、平穏が訪れると思っていたのか。

この本を読んでいても、信玄の足跡はやはり戦いなのだ。

 

だから、戦国時代なんだよと冷たく返されそうだが、やはりどこか寂しい気もするのである……

 

 

母の笠を吊るした足軽屋敷

足軽1

金沢長町の大野庄用水沿いに、二棟の足軽住宅がひっそりと佇んでいる。

二つを合わせて「金沢市足軽資料館」という。

1997年現在地へ移転され、足軽たちの生活や仕事などを紹介する展示計画をさせていただいた。

笠

今も玄関に吊り下げられている古い笠は、当時母が畑作業などで実際に使っていたものだ。

時代考証などというむずかしい話を通さないまま、生活感を出すための演出として笠を吊るした。

ちなみに横にある蓑については記憶がない。

母は、何も言わずに自分の笠を譲ってくれた。

しかし、後日代わりにとちょっとおしゃれな麦藁帽子を買って行ったが、結局一度もその帽子を被った母の姿を見ることはなかった。

老いた母にはやはり派手だったのだろうかと思った。

そして、何だか申し訳ない気持ちになったまま、それからしばらくして母は畑にも出られない身体となってしまった………

 

ところで、加賀藩の足軽たちは庭付きの一軒家に住んでいて、城下にはいくつかの足軽町が形成されていた。

庭があったのは野菜や果物などの食料を自給するためだ。

展示されている二棟は、清水家と高西家という。

特に屋敷道明先生と調査に出かけた清水家では、刀箪笥が現代まで使われていたり、古い証文などが見つかったりと楽しい思い出がある。

清水家の方は実際に住まわれていて、その分、資料が残されていたのだろう。

高西家からは展示資料らしきものは出てなく、展示は加賀藩の足軽に関する解説が主になった。

納戸

屋敷先生から教えていただいた足軽たちの日常は、まさに生活感が生々しいくらいに伝わってきて興味深かった。

内職などで何とか家計をやりくりしながらも、家族寄り添い平和な毎日を過ごしていた様子が想像できた。

納戸1

参考にと新潟県新発田市に残されていた足軽の住まいを見に行ったが、それはまさに長屋であり、加賀藩の足軽たちの境遇がいかに恵まれていたのかを知った。

そして、さらに驚いたのは、戦後の住宅がこの足軽屋敷の間取りなどを参考に造られたといった話だった。

たしかにオープン前日、周辺住民に公開された時、何人かの見学の方が「昔のうちもこんなんやったねえ」と語り合っていた。

納戸(なんど)などの部屋の呼び方も懐かしく、自分自身でも子供の頃の生活空間の温もりのようなものが蘇ってくるような気がしていた。

この後、近所の長屋門が残る高田家の仕事も続いた。

そして、長町の武家文化紹介に少しだけだが貢献できたような、そんな錯覚が今も続いているのだ………………

メモ

金沢城・江戸末期のビッグイベントと寺島蔵人のこと

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今から10年以上も前、毎年6月に開催される金沢最大の祭りの、その仕組み全般を見直すという仕事に3年間関わっていたことがある。

ほぼ無関心であったその祭りについて考えていくことは、いろいろな意味でかなりの苦痛を伴った。

山のようにある課題の中で、武者行列の行程や構成を変えて、最終的に城の中へ、しかもパフォーマンスを交えながらスムースに入れることが最大の難題だった。

それは苦労した甲斐もあって何とかなったが、ボクはさらに城の中を祭りのシンボルゾーン的な場所にすることも重要課題としていた。

同時期に、金沢城公園も完成していたから十分にその必然性もあった。

行列が城に入るというのは史実によって裏打ちされていて、祭りでも実際に「入城行列」とネーミングされていたのだ。

が、城内行事は何となく広場があるから、そうするのがいいだろうくらいの話で進んでいた。

それで特に問題があったわけではないが、自分としてはちゃんとした根拠(史実)が欲しかった。

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ある日、玉川図書館の近世史料館で、タイトル写真にある本の著者である長山直治先生に偶然お会いした。

先生はその頃、わざわざ定時制高校の教員に転向し、昼間は地元の歴史調査研究に没頭されていたのだ。

ボクはひさしぶりにお会いした先生に相談した。

実は先生は高校三年の時の担任だ。

恩師であり、歴史の面白さを教えてくれた人だ。

そんな話なら任せておきなさい……

そうは言わなかったが、先生は昔から変わらない眼鏡の奥の垂れ下がった目にチカラを込め、ボクを見た。

そして数日後あらためてお会いした時、この本の中に紹介されている、藩政末期の金沢城内における能の開催に関する話を聞かせてくれた。

それは驚きと同時に、しめたと思わせる内容のものだった。

文化8年(1811)、12代藩主・斉広(なりなが)が催した能の話だ。

その時の能は金沢城二の丸の再建と、斉広の家督相続と入国の祝いとして挙行された。

むずかしい話は省略するが、11日にわたり、藩士や宝円寺、天徳院の僧侶など、さらになんと庶民も白洲に招かれている。

その数、藩士・寺方で約2500人。白洲に造られた仮屋から見物した町方庶民は、ほぼ1万人だったという。

前者には料理が、後者にも赤飯や酒が振る舞われたらしい。

そして、この能のために出仕した徒歩や足軽たちも万単位の数となり、役者とともにその人たちにも賄が出ているとある。

これがなナカイ、かつて金沢で行われた最大のイベントやろな…と、先生は得意そうに、そして軽く言われた。

それ以前にも、能をこよなく愛した藩主たちによって、かなり盛大に開かれていたという。

ここまで話を聞いて、さすが金沢だなと思う前に、さすが長山先生だなとボクは思った。

いつも熱っぽく歴史を語っていた先生からこういう話が聞けたことも、また嬉しかった。

金沢と言えば、やはり能なんだわ……

そうなんですね……

ボクはかなり感動し、その後最終的にまとめた提言の中にも、この話を引用した。

ただ、かなりチカラを込めたつもりだったが、祭りの人気行事としての「薪能」は、特にそんな歴史的背景などどうでもよかったかのように、金沢城内で“普通”に開催された。

金沢城内での初回だけは、はるか後方からぼんやりと見た記憶があるが、それ以降は見ていない。

まだ仕事の真っ只中にいた頃、旧中央公園の舞台を特等席から見させていただいたことがある。

こっそりと蔭から見ていたら主催者の偉い方に見つけられて、テントの中へと入れられたのだ。

藩政時代で言えば、藩士の席から見ていたことになるのかも知れない。

ところで、この本の主題である「寺島蔵人(くらんど)」という藩士は、前田斉広の時代に側近として仕えたが、民を思うあまり藩政批判をし、能登島に流刑になった人だ。

流されて半年もしないうちに61歳で病死した。もちろん能登島でだ。

寺島門

大手町の静かな屋敷の佇まいが今は観光名所になっているが、かつては一本裏道の住民ですらその存在を知らず、観光客からクレームを聞いたこともある。

表通りの和菓子屋さんの二階から、鬱蒼とした庭木を見ることができるが、それもあまり知られていないようだ。

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藩政時代の金沢の祭りの取材から、長山先生と偶然再会し、金沢での能のポジションをあらためて知り、先生が寺島蔵人を研究されていることを知った。

祭りに関わった中で、この本との出会いがいちばんの出来事だったように今思ったりもする。

先日、何年ぶりかで寺島蔵人邸に入ったが、スタッフの方々が丁寧に対応されていて気持ちがよかった。

相変わらずの余計なお世話だが、少なくとも、長山先生の本から想像する寺島蔵人という人には大いに興味が湧く。

一、二年前に見た『蜩(ひぐらし)の記』という映画にとても感動したが、何となくああいう物語のイメージに近いものを感じたりもする。

せっかく屋敷も残っているのだから、もう少し取り上げられてもいい。

ところで、先生はお元気だろうか。

なかなか行けないが、たまに近世史料館に顔を出してみるとお会いできるかもしれない………

寺島塀寺島邸1L

布橋とプモリと芦峅寺と

布橋1

めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。

当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。

当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。

それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。

立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。

天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。

目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。

布とあるが、アーチ型の木橋だ。

数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。

布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。

そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。

もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。

ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。

それが自分にとっての常道?でもあった。

ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。

今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。

緊急の決断が求められた。

遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。

彼女の目はそう訴えていた。

その目に家人は負けた。

正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。

たしか、家人も一度見ているはずである。

ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。

そのことに期待することとした。

われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。

そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。

遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。

正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。

予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。

畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。

それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。

遥望館

 

トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。

この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。

 

まんだらのブリッジ

 

遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。

このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。

ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。

恐れていたことが現実となった。

ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。

もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。

両方共が当たった。見事に。

空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。

二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。

ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。

うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。

こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。

久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。

覚えていてくれるかも半信半疑だ。

予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。

ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。

家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。

プモリのテーブルと窓

砂糖入れ

 

相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。

もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。

中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。

その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。

帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。

実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。

そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。

Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。

真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。

大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。

名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。

外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……

プモリの庭の花

プモリの庭

 

グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。

懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。

ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。

先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。

その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。

その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。

布橋タイトル

明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。

その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。

この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。

いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。

橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。

家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。

ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。

帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。

石仏坂

上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。

これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。

立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。

それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。

教算坊

立山大宮

すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。

芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。

今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。

立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。

そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……

 

東向きは神々しい

朝日のさす部屋

 小雪のちらつく休日の朝。

 用足しに寝室を出ると、少し開いた自分の部屋のドアの隙間から、オレンジ色の明かりが洩れている。

 ドアを開けると、三段になった小さな窓がオレンジ色の光で膨張しているように見えた。

 足を踏み入れ、小さな窓から外を見れば、雪雲の中に横に広がる明るい空間がある。

 そして、遠く東に聳える北アルプスの剣・立山・薬師の稜線がちょうど見え隠れしている。

 出てきたばかりの朝日がその細長い空間にあって、真っ直ぐに部屋へと光を差し込んでいるのだ。

 むかし、NHKの『知られざる古代』という番組に夢中になり、出版局が出した同名の分厚い本を買って読んだ。

 そして、神仏は東か南に向いているということを知り、日本の仏様も大陸の仏様も同じ向きに置かれているということに激しく感動したが、そのことを思い出していた。

 例えば、太平洋の水平線に向いた日本の寺院の仏像の顔に朝日が当たる。

 それは当然大陸からの教えに倣ったことであり、大陸でも同じように仏像の顔に朝日が当たるようになっていた。もちろん、暦上などの何らかのことと関係してだったと思う…

 このような話を、具体的に、そしてドラマチックに証明していくこの番組の凄さは、当時の自分の中では格別な冒険ドラマ的存在だった。

 そして、この番組と本との出会いによって、その後奈良の「山の辺の道」を歩き、さらに京などの古寺を探索するという上質な旅にも駆り出されていく。

 そこまでその時思い出していたかは曖昧だが、とにかく自分の部屋の、あまりの“神々しさ”に、部屋にあったカメラでそれを撮影しようと思ったのは当然であった。

 そう言えば、我が家も東に向いていたのだと、あらためて思った。

 家を建てるなら、やはり東側に向けて建てるべきだなとも思った。

 やはり、何と言ってもそれなりに神々しいのだ。

 ただ残念なことには、年末に瞬間物置状態になってからの自分の部屋は、年が明けてもまだその状況を改善していなかった。

 だから、その日明るくなるにつれ、明け方の畏れ多き神々しさは徐々に化けの皮がはがれていき、朝飯が終わった頃には、古代からのロマンなんぞも一気に失せていったのである……

白虎隊の墓前に立って

白虎隊の墓

 

白虎隊の墓の前には、いつも人がいます。

と、地元の人らしい誰かの声が聞こえた。

一見、観光地としてしか見えない飯盛山。

わずか、140年ほど前か…と、

頭の中で、何度も呟いている自分がいる。

十代半ば過ぎの少年たちが、図らずも、

美しい日本人の心情を示すことになり、

美しい日本人の象徴のひとつとなってしまった。

この出来事を知らない日本人は少ないだろう。

ただ、悔しいのは、彼らがあまりにも若過ぎて、

奪われたものは、誇りなどだけでなく、

“未来”だったということだ。

普通に考えれば、残されていた人生の方が、

ずっと長かったということだ。

彼らが自決した場所からの会津城は、

予想していたよりも、はるかに小さく見えた。

そのことがまた胸を打ち、彼らの決意を想像させる。

その城や城下の惨状から彼らは自国の敗北を悟り、

生き恥をさらしてはいけないという教えを守って、

自ら命を絶つことを決意した。

わずか、140年ほど前の出来事なのに、

はるかずっと昔のことのように思えるのは、

日本がその直後から急激に変貌していくからだろう。

しかし、墓の前に立ち、

目を閉じて深々と手を合わせる人たちを見ていると、

日本人はやはり何も変わっていないのではないだろうか、

と、思ってしまう。

やはり、会津は不思議な国だ……

 

会津を旅するということは

 

石垣と堀と枯れゆく草

会津若松は不思議な街だった。

NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。

司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。

圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。

藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。

そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。

その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。

廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。

会津城

 会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。

今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。

大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。

会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。

西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。

何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……

 

白虎隊の墓日新館1西郷頼母邸御薬園山川健次郎

 

歴史が好きだから思うこと

歴博の夏

 

夏真っ盛りの午後、本多の森の歴博の展示室を緑の隙間から見ていた。

中を見たかったというわけではなく、周囲を歩きたかった。

煉瓦壁の、夏でも涼しげな雰囲気が好きだ。

汗もかかず、いつもサラサラとした肌触りをイメージさせる。

歴博の窓の奥には明かりが見えた。その下で、石川の歴史が語られている……

 

もともと歴史、特に日本の歴史が大好きだった。

NHK出版の「知られざる古代」などから始まり、武田信玄を軸にした戦国時代が最も盛り上がった。

奈良や京都の古寺や古道もめぐり歩いた。

司馬遼太郎との出会いによって、街道めぐりもした。

宮本常一を知って、さらに農村や漁村、一般民衆社会の歴史にも心を傾けた。

宿場はずれの松の木を見ていると、そこを通り過ぎて行った旅人たちの思いも伝わってくるような、そんな感性も持ち合わせているような気がした。

ずっと信州の上高地を、自分にとっての聖地のように位置付けてきたが、それは風景の美しさだけでなく、上高地の歴史を知るようになったことも大きかった。

たとえば、人気のない梓川の川原に立つと、旧松本藩の林業に携わっていた杣人たちの姿や、W・ウエストンを導いた上条嘉門次など山案内人たちの表情が想像できた。

空気がその時代に戻ったような感覚になり、どのような場所にいても、今自分は時の流れの中にいるのだと考えるようになった。不思議な感覚だった。

ついでに見境なく書くと、野球の歴史やジャズの歴史などにもかなりのめり込んだ。

仕事の上でも、展示施設の計画などには、まず歴史を第一に考えるようになる。

ヒトにも、土地にも必ず歴史があり、それは絶対に外すことのできないものであると認識していた。

歴史とはそんな存在だったのだ。

 

…… 最近、「歴史認識」という言葉をよく耳にするようになっている。

歴史にはひとつの事実しかなかったはずだが、後に何とおりもの解釈が生まれる。

それで普通だと自分では思っていたのだが、どうやら「歴史認識への認識」という点にポイントをおくと、歴史を考えるということが少し面倒臭くなった感じだ。

歴史小説の作家たちが、自分の解釈であれやこれやと物語化していくのを読み、それはないだろうと思っても、それを歴史認識が……とは言わない。

政治家が動くと、歴史認識がどうのこうのといった話になる。

だから、身近に戦争、特に第二次大戦とか太平洋戦争という事件を考えさせられると、そのことを歴史というカテゴリーに入れることそのものに、ボクは抵抗してしまうのだ。

もともと平安期と、明治から昭和の戦前までが、唯一好きになれない日本史のゾーンだった。

明治維新後、清もロシアも打ち破って、日本は一応強国の一員となっていくが、そのことにより却って少しずつおかしくもなっていく。

司馬遼太郎も書いているように、日本にとっては、帝国陸軍の横暴さが増長していく暗い時代なのだ。

明治維新はそういう意味で、どうも胡散臭い。

アジアへの侵攻などという言葉には寒気がするし、現にそういったことが新政府の課題として生まれてきたことに大きな疑問が生じる。

古くは白村江の戦いというのがあり、秀吉の朝鮮出兵もあったが、日本人は何を基本に考えてきたのだろう。

明治政府軍の将兵たちは新式兵器の効き目に陶酔し、無力な反体制派(彼らが称した朝敵)の国を徹底的にぶちのめして、のし上がっていった。

歴史という言葉を使うから、美しく聞こえたり、同情的に解釈されたりするが、こういったひとつひとつの“事件”は、かなり恐ろしい要素を持っている。

たとえば、信長の比叡山焼き討ちなどの行為を、信長ファンどころか、一般の人たちも決して否定的に見ていないことにずっと疑問を抱いてきた。

武田信玄の武将としての才能と、為政者としての才能を中心に据えてきたボクとしては、信長は軽石みたいな存在としてしか見えない。

そして、日本における最初で最後の無差別大量殺人の首謀者であるのに、現代ではヒーローなのである。

さらに、信長は重要な家臣であったはずの明智光秀によって殺されている。

つまり、信長は人望もなかった。あのように無残な反抗を受けるくらいであったということは、かなり低次元な指導者であったとも考えられる。

ただ高圧的に、家臣たちを押さえつけていただけで、情けをかけることも知らなかった。

北条早雲や斎藤道三のような下剋上の例はあっても、憎しみや切迫感だけによって、あのような最期を遂げたのは信長くらいではないか。

日本人は、そんな男をヒーローにしている。

その後の秀吉も家康も、信長派の流れを汲むことから、歴史は、信長を悪人にしないまま甘やかし、そしてヒーローにしてきたのだ。

ちなみに、信長がかなりの強運のもとに命拾いをしてきたことは、戦国時代に造詣の深い人なら知っているだろう。

戦国最強と言われた信玄は、信長を都から蹴散らすために軍を進めていた途上、持病の労咳が悪化し死んだ。

もうひとりの猛将・上杉謙信も、その数年後にこの世を去り、信長は蹴散らされずにすんだ。

信玄上洛の報を受けた時の信長は、間違いなく乱心したことだろう。

 

話はちょっと外れ気味に進むが、ボクは、ジャズも好きだし、ベースボールも好きだし、西部劇も好きで、もっと言うとカリフォルニアのワインも好きだ。

アメリカという国と仲良くなかったら、ボクの人生は決して楽しいモノにはならなかったかも知れない。

しかし、今この話題の中で語るアメリカという国には大いに疑問がある。

アメリカ自体へというよりは、アメリカに対する日本人への疑問と言えばいいのかも知れない。

アメリカはかつて、大戦末期に日本本土の多くを空襲し焦土化させた。

とどめは、広島と長崎へ原爆まで落としていった……

一般市民の犠牲者数は、歴史の上でもケタ外れである。

しかし、日本人はやはりアメリカを、多くの自国民を殺害した国として見ていない。

アメリカの攻撃は仕方なかったという思いなのだろうか?

だとすれば、自分たちが近隣諸国にしたとされる愚行の責任も認めているということなのか?

信長もアメリカも、日本ではヒーローなのだ。

このことがボクの考える“歴史認識”という認識には、どこかおかしな認識があるということなのかも知れない。

 

これ以上むずかしく考えたくないので、これくらいにしておく。

やはり日常に歴史がないと面白くない……、そのことだけは確かなのだ。

 

小浜の国宝めぐり

 

福井県の小浜と言えば、もうほとんど京都府に近い。金沢方面からだと、敦賀から天橋立へ行く道すがらの街といったイメージも強かったりする。これはボクだけの感覚かもしれないが、実際にクルマで走ってみた印象としては、それほど特徴を感じなかった場所なのである。

かなり古い話になるが、かつて兵庫県の城崎文芸館に仕事で出かけた際に、この道を走った。季節も同じ春。ただあの時は、桜がもう散り始めた頃だった。仕事で城崎町へと出かけたが、“裏の本命”は、城崎のさらに先にあった『植村直己冒険館』で、小糠雨の中を行くセンチメンタルな旅であった。

今回小浜へ行こうと思ったきっかけは、もともと天橋立行きプランが先にあり、しかし、連休の雑踏で帰り道に落とし穴が待っているのでは…と考えたからだ。その結果、一歩半ほど手前の小浜あたりではどうだろうか?という安直な結論に至り、俄かに学習を始めたのである。学習の成果はすぐに出てきた。

小浜の市街に入ることなく、いくつかの古刹をめぐることが出来る。それらには国宝の建築物や重文の仏像などが残されている…、期待が持てそうだった。しかし、不安にさせたのは、この辺りがボクの愛読書であった司馬遼太郎の『街道をゆく』には紹介されていないことだった。

敦賀から京都大原へと抜ける「朽木(くつぎ)街道」(今風に言うと「鯖街道」)は、信長が京まで敗走(かなり必死に)した道として、最初の単行本で紹介されたが、小浜の方には司馬遼太郎も足を運ばなかった?みたいだ。そのせいもあって、朽木街道には四、五回行ったが、若狭の海沿いにはあまり出かけていない。

六時半に家を出ようと思っていたのに、結局七時ちょっと前に出発。大型連休で異常な混み具合の北陸道を、南へと進んだ。敦賀インターで下りてからは、国道27号線をひたすら迷うことなく走り続ける。のどかではあるが、何となくかつて朽木街道で感じていたのどかさとは違う。朽木の方が谷間(あい)といった雰囲気があって、自然の奥深さや歴史の匂いが強かったなと勝手に解釈している。

やはり、司馬遼太郎が足を運ぶ趣としては、朽木街道の方が深かったのだ。

敦賀インターから一時間も走らないうちに、最初の目的地である明通寺への分岐に近付いてきた。ほどなく、27号線を左に入る。ナビのマップにも明通寺は記されている。道は一本の川と水田の中を進む。視界が広がり、奥に小高い山。その隙間を縫っていくのだろうと予測できる。

風景が、ぐっと期待感を高め始めた。そして、しばらく走ると明通寺の駐車場だった。一気に山里深く入ったなあと実感させる木立とせせらぎがある。

クルマを出て思い切り背伸びをする。空気は少し冷たいが、青空が気持ちいい。車中で温められた体が一気に引き締まる感じだ。

せせらぎの橋を渡り、しばらく歩くと、急な石段を控えた山門を見上げる。なかなかではないかと、ますます期待感が高まる。駐車場にはすでに四、五台のクルマがいて、そのこともちょっとした驚きであった。ほとんど来る人はいないであろうなあと、失礼ながら軽視していた自分を戒める。

十時頃であったろうか。用を足してから、ゆっくりと石段を登った。山門で拝観料を払うと、奥の本堂で説明があると言われた。

ここから本堂へ向けてのアプローチもいい。寺への興味がますます高まっていく。

明通寺自体は、806年に坂上田村麻呂によって創建されたと言われるが、本堂は1265年に落成されたらしい。規模は際立って大きくはないが、檜皮葺きの屋根の勾配が美しく、どっしりと落ち着いた感じがいい。

堂の中に入ると、住職さんだろうか、親しみやすい語り口で寺の話を聞かせてくれた。薬師如来さんは重要文化財。平安末期から鎌倉初期の作と言う。しばらくの時間だが、対面していると落ち着いてくる。

奥の三重塔も今開放しているとのことで、見せていただいた。ここも国宝だ。1270年に上棟されたとある。

明治期に屋根が瓦葺きになったらしいが、1957年(昭和32)に檜皮葺に戻されたという。いい話だ。数年前に能登の總持寺の全盛期を再現するジオラマを製作した際、恥ずかしながら屋根を瓦で作ろうとしたことを思い出した。監修の先生に言われて初めて気が付いたが、檜皮葺の価値観みたいなものをそのとき初めて知った。

外に出て、あらためて本堂と三重塔を見たが、美しい勾配をもつ檜皮葺の屋根がいい。

建物自体も新緑の中に古風な佇まいが調和している。驚いたのは、いつの間にと思うほどの人の数だ。あらためてこの寺の存在感を知った気がした。

二十代の頃、奈良の山中の寺などに立ち寄った旅のことを思い出す。これほど人の多い時季に行っていたわけではなかったが、それでも必ず何人かの人と擦れ違ったりして、こういう類には日本人は必ず感応する何かを持っているのだと思ったりした。

本堂前からの眺めは、正面の新緑の小高い山並みが美しく、しばらく眺めていたくなる。明通寺の山号は「棡山(ゆずりさん)」というが、その棡という木が境内に植えられていた。

明通寺を見て、このまま小浜を去るわけにはいかないなあと思い始めた。小浜市が“国宝めぐり”と謳っている意味も理解できてきた。とりあえずと、多田寺という寺へ向かう。明通寺からも近く山間の集落の中にあった。ちょっと道に迷ったが、すぐにたどり着く。

真言宗の寺院で、創建は749年とある。最盛期には広大な敷地を有していたみたいだが、現在は静かに質素に佇んでいる。ここでも山門で拝観料を払い、人の良さそうな老人から中で説明がある旨を伝えられる。

現在の本堂は、1807年に再建されたものという。小さな建物ではあるが、中にいらっしゃる平安時代の作と言われる薬師如来さんは立像。2メートル近い一木造りで、いかにも見守ってくださっているという印象だ。もちろん重文である。その他にも、木造十一面観音立像や、木造菩薩立像も重文の指定を受けている。ここでも数組の拝観者と一緒になった。ますます“小浜の真実”みたいなものに憑(と)りつかれていく…?

空が少しずつ雲に覆われ始めていた。青空の下の爽快だった空気が、徐々に湿り気を帯びて気懸かり的不安要素になっていく。だが、やはり小浜をもっと見たいと思った。

若狭姫神社に着いたのは、多田寺を出てすぐだ。とにかくそれぞれが大した距離を隔てていない。さらに山奥に若狭彦神社という上社があり、その下社である。

若狭彦神社の創建は714年。若狭姫神社の方は、721年というから文句なしに古い。いったい小浜市はどうなってるんだ?と、鳥居の前に立って唖然としてしまう。一礼して境内に入ると、これまた圧倒的だ。

正面に本殿が美しく、静かに佇む。右手には舞台。大木と緑に包まれた境内は、気持ちを正しくさせるに十分な空気で満ちている。同時に入った三人組の同世代グループが、数歩進み佇むたびに感嘆の声を上げている。めずらしいと思うのだが、若狭彦神社は畳や絨毯などの神ともされているのだそうだ。

一方、普通と言えば不謹慎ながら、若狭姫神社は、安産育児の神だという。森閑とする広い境内の真ん中に立つと、いい緊張感が強いられ、こういった場所へ来たことの価値のようなものを感じたりする。そのような思いを、久しぶりに抱いた。

最後のおまけは国分寺もう小さな雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。国道脇にすぐ見つけ、それなりに外観だけを見て写真を撮った。

それにしても、明通寺や若狭姫神社などだけも小浜へ足を運んだ甲斐があったなと、ハゲしく思う。我が家からクルマで約三時間。帰りは27号線の渋滞に捕まったが、大した距離(時間)ではない。いろいろと行きたい場所はまだまだあるのだが、小浜にもまだ宿題を残してきたといったところだ。深い歴史観や、寺社の佇まい、山里の風景などが目に焼き付いている。そして、もうひとつ。暗くなりかけた帰り道、小浜の帰りらしく口の中がサバ臭かったのだ……

石動山。かつての記憶

 かなりの久しぶりさで、石動山(せきどうざん)に行ってきた。

 中能登町の仕事に関わることになりそうなので、記憶の財産を再確認しておこうと思ったからだ。

 初めて石動山に上がったのは、今から二十年前だ。

 当時まだ合併する前の鹿島町からの依頼で、標高565mの頂上下に造られた「石動山資料館」という小さな展示館の仕事をしていた。

 役場での、資料や展示の企画などの打ち合わせはよかったが、一旦山に上がると、なかなか飲料も食料も手に入らないから、途中の「すしべん」で買い出しをし、山に入る。それがまたそれなりに楽しかったりした。

 六月初めの、暑い日の昼前だった。

 途中で敢えて鹿島バイパス(現在の国道159号線)を離れ、元の国道である道(現在は県道)に入った。

 この道は前からずっと好きで、宿場町的な匂いにはかなり惚れ込んでいたのだ。

 家々の佇まいや樹木にも趣があるし、道の緩い上り下りやカーブなども、たまらなくいい気分にさせてくれた。

 合併して同じ中能登町になったが、JR線を挟んで海側になる旧鹿西町(ろくせいまち)や鳥屋町などでも、現在の幹線道を離れ、旧道に入れば、見事な佇まいの家々や寺院があったりして驚かされる。

 はっきり言って注目度としては低い中能登町だが、こういった素朴な風景を財産として活かしていけば…と、考えてしまう。

 話がそれたが、今回も二宮という地区にある入り口から上がった。

 この道はいきなり、ダンプカー群との遭遇を覚悟しなければならない課題をもつのだが、正式な入り口なので、そこは我慢して行くしかない。

 入り口に立つ石柱は、金沢長町に資料館がある前田土佐守が建てたものと後に聞かされた。よくクルマが当たるのか傷の修復跡が生々しい。

 ダンプカー群から解放されて静かになったと思っても、油断はできない。

 雑草で幅が狭められた山道をひたすら走って行く。交差はかなり厳しい。前に来た時よりも雑草の処理がされていないと感じる。

 そのことも後で以前行われていた「石動山マラソン」が廃止となり、除草も行われなくなったからだと聞かされた。

 実は昔からこういう道を走ることに慣れていたが、二十年前の仕事の時には、応援を頼んだ若手社員たちが来るのを嫌がった。

 それはこの道のせいだった。特に初冬の雪の降り始めの頃には、かなりの危険度もあって、こっちも気を遣った。

 しかし、あの当時は除草がされ、道もすっきりとして今よりはかなり広く感じられたのだ。今だったら誰も来てくれないかも知れない。

 先に言っておくと、今はこの道を使わなくても鹿島バイパスのアルプラザのある交差点を金沢方面からだと右折して真っ直ぐ氷見方向へ向かうと、途中で石動山への道が左に延びている。

 決して近いという雰囲気ではないが、今であれば緑がふんだんの景色もきれいだ。

 山頂への歩道の入り口に立つ「石動山」と彫られた石碑の横を通り過ぎ、伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)の碑が立つ前の駐車場にクルマを止める。

 一帯の美しく整備された姿は、二十年前から着々と進められてきたものだ。

 初夏に近い日差しが、石動山を被うブナの緑を輝かせている。

 久しぶりに来たぞという思いが、自分を少し煽っているのが分かる。

 さっそく、伊須流岐比古神社の石段を上った。

 夫婦だろうか、スケッチブックを広げた二人が何か話をしながら、奥の拝殿に向かって手を動かしている。挨拶すると、にこやかに二人が言葉を返してくれた。

 さらに広い素朴な石段を上ると拝殿だ。真上から陽が差しこんでいる。

 この薄暗さと明るさのコントラストが、かつて写真撮影の時にはカメラマンを困らせたことを思い出す。

 ぐっと気持ちが引き締まったところで、拝殿の裏側へと回った。

 ここはある意味、石動山の歴史の酷さを伝える場のように感じられるところで、薄気味悪いが、どうしても見たいと思ってしまう場所だ。

 奥に大師堂跡の白い木柱が立つ。しかし、その周辺には崩れた墓石や、首がとれた石仏が並ぶ。いや、それらも倒れているものの方が多い。

 まったく廃墟の様相を呈しているが、これらには手を付けないらしい。神仏分離令や廃仏毀釈の洗礼なのだろう。

 かつて、比叡山などと並び称された石動山の無言の抵抗のようにも見える。

 奥には五重塔跡を見下ろすが、戦国時代の戦火によって焼失して以来、その権威を恐れて再建されなかったということだ。

 権威を恐れたのは、この地を一旦滅ぼした前田家らしい。

 この火災で黒焦げになった建物の一部木材は、資料館に展示した。

 拝殿前に戻り、そこから日差しを浴びながら少し下って、大宮坊という大きな建物を覗く。

 前に来た時は、建築工事中だった建物だ。

 大宮坊は石動山の中心的な坊であり、寺務を取り仕切る役所みたいなところだったという。

 当時のまま、当時の大工の子孫によって復元されたということだ。

 「中へ、どうぞ」 奥から女性の声がした。

 出て来たT口さんは、石動山のボランティアガイドだった。

 山の下の二宮という地区にお住まいがあり、大宮坊で周辺の歴史などを伝える案内人をされている。

 かつて資料館の仕事をした者だと自己紹介し、T口さんからいろいろな話を聞いた。

 そして、二十年前、鹿島町役場の教育委員会に勤務され、資料館開設の担当だったY本さんが元気でいらっしゃることも聞いた。

 Y本さんというのは、当時のボクには不思議な人だった。自宅が資料館のすぐ近くにあり、先祖は伊須流岐比古神社の氏子か何かであったのだろうかと想像させた。

 しかし、T口さんから聞いたのは意外な話だった。

 かつては(といっても、いつ頃か聞かなかった)、この石動山に数十軒の家があり、大きな集落を成していたということだった。

 開拓民として入山した人たちのうち多くが山を去ったが、Y本家はこの地に残ったらしい。

 当然だが、今でも当時のY本さんの顔ははっきりと覚えている。

 T口さんと三十分近く話して、最後に資料館へ。

 外で犬と一緒にいた管理人の方に、中を見たいと告げ、受付で二百円を支払った。

 展示室は二階にある。上る階段の壁には、写真パネルが並ぶ。残念だが、当時と変わっているような気はしない。

 展示室の中も特に変わったという感じはなかった。

 T口さんから、能登半島地震の時に、展示ケースの天井が落ち、仏像の足元かが折れてしまったという話を聞かされていた。

 その仏像たちはケースの床に寝かされている。

 基本どおり、時代の流れを軸にして展示ストーリーを組んでいった当時のことが浮かんでくる。

 いくつもの財産があったはずなのだが、とにかく石動山から一旦離れていったものが多過ぎた。それと、あるモノ、そして帰って来たモノも、保存状態が悪かった。

 しかし、ここに展示されているものすべてに、明確な記憶があり、その手触り感などが蘇ってくるように感じた。

 学芸担当の方(残念ながら名前が出てこない)と一緒に書いた展示解説のテキストにも、強い愛着があった。

 とにかく、この場所での展示作業は楽しかった。結局、多く関わったのはスタッフ二人とボクだけだったが、毎日夕方になると、石動山を下りるのがいやになったのだ。

 一階に展示されている懐かしい地元の神輿に触れて、それからトイレも借りて資料館を出た。またぶらぶらと歩き出す。

 そう言えば昼飯をまだ食べていない…。

 時計は一時半を過ぎ、二時近くになっている。時間も計算せず、弁当も持たずに来るとこういうことになる。

 そんなことは、二十年前にはしっかりとアタマに入っていたのに、不覚にも第一回目に来た時と同じ過ち?をおかしていた。

 急に腹が減ってきた。駐車場に戻る。

 そして、最後に整備された公園の写真を一枚撮りクルマを走らせた。

 ほどなく、Y本さんの家の前を通過。Y本さんのお母上だろうか、畑で腰を折り、何か作業をされていた。

 その姿を見た瞬間、石動山に関するボクの中の記憶の財産が、完全に復活したような思いがした。

 そして、また中能登にやって来る機会をいただいたのだと思った。

 帰り道は二宮に下らなかった。なぜか、ゆっくりと走れる芹川に抜ける道を選んでいたのだ……