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北越に加賀藩士たちの墓

 新潟県長岡市の郊外にある不動院という寺の前に着いたのは、午後2時を少し過ぎた頃だった。

 6月の初め、辺りの雰囲気がすでに夕方近くのように感じられたのは、小高い山並みの間に入って来たせいだろう。日陰となった場所の空気は少しひんやりとしていた。

 静かだなと思った瞬間に、横の広場で遊ぶ子供たちの声が聞こえた。男の子と女の子が仲良さそうに遊んでいる。懐かしい光景のように感じられ、気持ちが晴れやかになった。

 この寺には、戊辰戦争最後の激戦と言われる北越戦争で命を落とした、加賀藩士たちの墓がある。この寺だけでなく、他にも加賀藩士の墓があることは知っているが、いちばん歴史観に浸れそうな気がしたのでこの寺に行こうと思った。その狙いは、周囲の落ち着いた雰囲気を感じ、当たった。

 今年が明治維新から150年であることは、昨年能登のある町の古くて小さな資料館に入った時、そこに展示してあった維新時の高札を見て知った。村からの出入りについて厳しく禁止するといった新政府からのお達しが、太い文字で書かれていた。

 それからしばらくして、金沢の兼六園の横にある博物館の先生から、いきなり「北越、南会津のこと詳しかったよね?」といった電話が入り、にわかに明治維新の四文字がアタマを駆け巡ることになる。

 南会津が詳しいというか、秘境と言われる檜枝岐村(福島県)について仕事で昨年出かけており、その空気感は認識していた。もちろん新潟北越あたりも同じくといった感じだった。

 先生が言うには、明治維新と石川県という企画展をやるんだが、北越戦争の話は面白いよ… せっかくあっちのこと詳しいんだから行って来たら…という提言みたいな電話だったのだ。

 それから数ヶ月後、仕事のお手伝いもさせていただき、その企画展は始まった。あらかじめ電話を入れて出かけると、先生直々で特別じっくりと解説していただいた。実に楽しい時間だった。

 そして、それからまた時間が過ぎ、ようやく長岡行きのチャンスがやってきたのだ。

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 子供たちの声を耳にとどめながら、寺の左側に延びる道をゆっくり登っていく。

 道の左側が切れ落ち、その下に子供たちの遊ぶ広場がある。気持ちのいいカーブと、登りつつ見る素朴な山里風景に心がなごむ。こういうのに弱い。

 気が付くと、右手の斜面に解説文の入った看板が見えた。「加賀藩士の墓」と記載され、その奥に短い石段。そして、その上にいくつかの墓石が見えている。

 石段を上ると、左右に広がった墓石の列に驚いた。この寺だけでも藩士41名と人夫12名が葬られたとあるが、見渡すとかなりの列であることが分かる。

 刻まれた文字は読み取りにくいが、よく見ていくと、富山の「砺波」の文字などが確認できる。

 石川と富山の若い藩士たちが犠牲者であり、幕末の混乱期に、加賀藩の優柔不断さがもたらした新政府軍からの当てつけみたいな出兵命令だったらしい。

 元来、幕府側にいた加賀藩だが、新政府側の圧倒的な力に朝敵になることを恐れ立ち位置を変える。そんなことだから、もともと信頼を得ていない加賀藩は当然出兵に応じざるを得なかっただろう。思いは、大久保利通が元加賀藩士に暗殺されたりした事件に繋がっていったりもする……

 約7600名が藩の強力な軍備品とともに出兵し(させられ)、103名が戦死した。死者の中には十代の若者もいたという。

 ふと、会津の白虎隊のことを思い出した。彼らが自決した場所に立ち、そこから彼らも見た城の方向に目をやった時のもどかしさみたいなものが蘇ってきた。

 明治維新とは何だったのかな? そんな疑問がたまに起きる。薩長が権力を握り、それから半世紀あまりを経て、あの忌まわしい大戦争に突入していった事実と、明治維新は繋がっているのではと思ってしまう。

 日本という国はまだ本当の意味の維新を達成しないまま、アメリカという一国によって都合のいいように作り変えられていったのでは……… そんなむずかしい話は置いておこう。

 ゆっくりと素朴な墓石のひとつひとつを見ていた。それからさらに奥へと上り、北越のこの小さな寺の風情を感じ取ろうと歩いたりした。

 ひたすら静かだった。それもそのはずで、もう子供たちの姿はなくなっている。木陰の中にいるからだろうか、空気はさっきよりさらにひんやりと感じられた。

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 話は飛ぶ。

 金沢・卯辰山にも、この戦死者たちを祀った招魂社というのが建てられた。その後、西南戦争や日清、日露などの戦死者たちも祀られていったが、その後移転する。現在は兼六園奥にある護国神社にまとめられた感じだ。卯辰山には、当初の趣旨を残すようにその記念碑と墓石が雑木の中に建っている。

 長岡に行ってから三ヶ月後、つまり9月の初め、雨上がりの卯辰山に出かけ、久しぶりに苔むした石段を登った。

 そこで、独りの外国人と三人の日本人学生と遭遇した。これはかなりの驚きだった。

 彼らになぜここへ?と尋ねると、特に深い理由もなく来たということだったが、学生の一人がこの上にある卯辰三社に興味があったと語った。

 不思議だが、人気の波に一度乗ると一気に広がりが生まれる。今の金沢にはそんな力が宿り始めた。卯辰三社など、かつてはほとんど訪れる人はいなかった。

 生半可にちょっと知識があるものだから、いろいろな話をしてみた。彼らは楽しそうに話に乗ってきてくれた。そして、やはり金沢らしいですねみたいなことを語った。金沢の奥の深さを認識させたみたいな、少し誇りたい気持ちにもなり、しばらくして、いや、でしゃばるでないと自戒したりもした。

 かつて観光企画の仕事でここへ外国人を連れてきた時、彼らは竹林の雰囲気などに大いに感激していた。もちろん招魂碑のことなど興味もないだろうと説明もしなかった。

 しかし、今の内外の観光客はどうだろう? 彼らのように、ひょっとして強い関心を持ってくれるかも知れない。

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 ところで、北越戦争で越後軍が新政府軍を苦しめたのは、越後に河井継之助という偉い人物がいたからだ。彼のことは地元の人たちが誇らしげに語る。上杉謙信と河井継之助は越後の英雄だ。

 彼の記念館は長岡市と福島の只見町にあるが、両方とも行っていない。特に只見の方はすぐ近くまで行ったにも関わらず、早く家に帰りたくてハンドルを切る勇気が出てこなかった記憶がある。情けないことだとずっと反省している。

 ちなみに、その河井継之助を主人公にした司馬遼太郎の名作『峠』の映画化が決まったらしい。主人公役は、役所広司。『蜩ノ記』が印象深いが、監督も同じ小泉尭史だという。

 実はこの話を最初に聞いたのも新潟の友人からだが、なかなかいいニュースだ。

 ちょうど今、大河ドラマは『西郷どん』。あのややこしい時代の出来事に対する大げさな表現にいつも首をかしげてしまうが、それは自分の感想であって、ドラマとしては面白い(これも感想)。

 ただ、金沢にいて思うのは、江戸時代に作られた文化によって、今金沢の魅力は成り立っているわけで、維新後のモタモタを思うと、やはり明治維新というド派手な出来事はなくてもよかったのではないかなあ…ということ。

 あのままでも日本はそれなりに変わっていったのではと思ったりする。あのままでもジャズと出会っていただろうし、ベースボールもサッカーもラグビーも、映画もファッションも、とにかくそれなりに受け入れていったのではと思う(…個人的な感想ですが)。

 そんなわけで、今金沢は江戸文化のおかげで人気を博しているということを考えさせられたのでもあった。それにしても、こうした旅の面白さは果てしない………

白虎隊の墓前に立って

白虎隊の墓

 

白虎隊の墓の前には、いつも人がいます。

と、地元の人らしい誰かの声が聞こえた。

一見、観光地としてしか見えない飯盛山。

わずか、140年ほど前か…と、

頭の中で、何度も呟いている自分がいる。

十代半ば過ぎの少年たちが、図らずも、

美しい日本人の心情を示すことになり、

美しい日本人の象徴のひとつとなってしまった。

この出来事を知らない日本人は少ないだろう。

ただ、悔しいのは、彼らがあまりにも若過ぎて、

奪われたものは、誇りなどだけでなく、

“未来”だったということだ。

普通に考えれば、残されていた人生の方が、

ずっと長かったということだ。

彼らが自決した場所からの会津城は、

予想していたよりも、はるかに小さく見えた。

そのことがまた胸を打ち、彼らの決意を想像させる。

その城や城下の惨状から彼らは自国の敗北を悟り、

生き恥をさらしてはいけないという教えを守って、

自ら命を絶つことを決意した。

わずか、140年ほど前の出来事なのに、

はるかずっと昔のことのように思えるのは、

日本がその直後から急激に変貌していくからだろう。

しかし、墓の前に立ち、

目を閉じて深々と手を合わせる人たちを見ていると、

日本人はやはり何も変わっていないのではないだろうか、

と、思ってしまう。

やはり、会津は不思議な国だ……

 

会津を旅するということは

 

石垣と堀と枯れゆく草

会津若松は不思議な街だった。

NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。

司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。

圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。

藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。

そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。

その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。

廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。

会津城

 会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。

今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。

大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。

会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。

西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。

何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……

 

白虎隊の墓日新館1西郷頼母邸御薬園山川健次郎