カテゴリー別アーカイブ: 何気に思い・考えた編

アラン・ドロンよりも ジョン・ウエインだった

 アラン・ドロンが現役を引退するというニュースを聞いて、なぜかいろいろなことがアタマの中に蘇ってきた。

 小さい頃から洋楽・洋画の世界が身近にあったせいで、かなりませた田舎少年へと成長していったのだが、アラン・ドロンという存在はどうも苦手で、家にいつもあった映画雑誌に写真が出てくると(大概必ず出ていた)、なぜか目をそらしたり、すぐにページをめくったりしていた。

 それは、彼には必ず女優の匂い(こんなの田舎少年の実感ではないが)が付きまとい、そこら辺のところで、まだ小学生の身にはちょっと正視できない雰囲気があったからだと思う。

 そして、“したり顔”で二枚目を誇っているような様子などで、ひたすら不健全なイメージしか持ちようがなかった。

 アラン・ドロン系のことでいい印象というと、『太陽がいっぱい』のテーマ音楽だ。

 あのサウンド・トラックだけはよく聴いた。シングル盤だったと思うが、子供心にも、三拍子のリズムがキラキラと輝く海面と、その上で揺れ動くヨットを思い浮かべさせた。自分が海で育ったせいだろうか。『地下室のメロディ』のテーマなんかも家ではよくかかっていたような気もする。

 ついでに書くと、この手の音楽では『鉄道員』というかなり切ない映画のテーマも好きだった。いや、好きだったかどうかは分からないが、よく聴かされていて、耳に馴染んでいくうちに少年のココロにもそれなりに何かが届くようになっていったのかもしれない。

 最近ほとんど聴く機会はないが、ボクにとっての切ない系音楽の代表格と言えるかもしれない。懐かしい。

 『太陽がいっぱい』も『鉄道員』も、映画そのものは見ていなかったが、ストーリーは読み込んでいて、子供ながらもそれなりに理解していたつもりだった。

 アラン・ドロンから始まったが、本来フランスの俳優(映画も)にまったく興味がなかったのは、西部劇を中心にして活劇ものばかりを見ていたからだ。

 もちろん兄の影響があってのことだが、ボクの最大のヒーローはジョン・ウエインだった。

 つまり、強くて、頑固で、口下手で、女なんか面倒臭せえ…みたいな、最近そういう人物像を描いても全く受けないであろうことは十分に予測できるが、そうしたジョン・ウエインの役どころが好きだった。

 ちょっと高めのハット、しかめっ面で、首に巻いていたあれはバンダナだろう、チョッキには保安官バッチが光り、ライフルをだらりと下げ、やや肩を傾けながら歩く姿は全くカンペキにかっこよかった。

 本場アメリカの西部劇が、ただ分かりやすいだけの単純な活劇から脱皮していく過程で、マカロニ・ウエスタンなるものが西部劇を変えるようになっていくが、ボクが西部劇に求めていた要素のひとつは、スクリーンに広がる壮大な風景描写でもあった。

 アメリカでのロケがむずかしくなり、スペインなどで撮ったという話もあったが、あの広々とした大地での活劇そのものが、ボクにとっての西部劇の魅力だったのだと思う。

 音楽もマカロニ・ウエスタンになってからは、一層濃くなった。いや個性的になったと言うべきかもしれない。

 ハリウッド時代の西部劇テーマも名作ばかりで、うちにはほとんどのレコードがあった。そして、それらはほとんどが先に音楽だけを聴いていて、実際の映画は大学生になってから見たり、テレビの洋画劇場で見るしかなかったものもあった。

 マカロニの方が流行り始めた頃のエンニオ・モリコーネの音楽は、最近でもたまにラジオから流れてきたりすると嬉しくなる。

 マカロニの俳優では、イーストウッドよりも、ジェンマよりも、フランコ・ネロが好きだった。

『真昼の用心棒』のフランコ・ネロは、少し弱さも併せもったガンマンの役で、そういう意味ではジェンマにも共通するものがあったが、ネロの方がはるかに人間臭く、男臭く、役者的匂いも強力だった。ついでに言うと、ネロは顔も凛々しくて好きだった。

 最後にアラン・ドロンについて、自分の中の数少ないエピソードをもうひとつ書くと、三船敏郎、チャールズ・ブロンソンと共演した異色の西部劇『レッド・サン』で、ボクのイメージに合ったドロンらしい役を演じていたが、あの中での最も軽い存在感には充分納得したのを覚えている。

 ただ、なんとなくあのあたりからドロンに対する偏見(?)は、急激に修まっていったような気がする。

 まったく西部劇的ではないとするドロンを思いながら、そう言えば、武士役で出ていた三船などもカンペキに西部劇的ではないな……と、当たり前のように考えていくと、やはり映画の世界での大物俳優たちの存在感は共通するものなのだと、子供の時に感じたことを引きずってきた自分を反省した。

 しかし、アラン・ドロンの出演した映画は、結局『レッド・サン』しか見ていない。正式に言うと、映画館でということだが、あの『太陽がいっぱい』も、BSの映画劇場で見ただけだった。

 本来、アラン・ドロンについて考えても、つまるところはジョン・ウエインなどの話になってしまう、そういうことなのだろうと思う………

内灘の風景~河北潟放水路周辺のこと

 今さらのような話を先にすると、ボクが生まれ育ち、今も住んでいる石川県の内灘というところは、南北に細く長く伸びた小さな町なのである。

 なぜ南北に細く長く伸びているかというと、東西に河北潟と日本海という水圏があり、それらに挟まれた砂地の上にできているからだ。

 地学かなんかで習ったとおりだが、ずうっと大昔、海水によって陸の土が削られた後、沖合に堆積され細長い陸地ができた。

 つまりそうした事情により、内灘は南北にしか伸びようのなかった町なのであり、ついでに言うと、河北潟も砂丘が形成されていくのに合わせ、海水の抜け道がなくなり、そのまま淡水化してできたという水圏なのである。

 昭和の中頃、諸般の事情を経て河北潟干拓という一大事業がスタートしたが、それによって河北潟はそれまでの三分の一くらいの大きさになってしまった。

 歴史などという感覚を通り越す、気の遠くなるような時の積み重ねを経て出来上がった河北潟が、それに費やされた時の積み重ねとは比べようもならないくらいの微かな瞬間に小さくなった。

 その時、河北潟に流れ込んでいた河川からの水を捌くために日本海に抜ける水路、つまり今の放水路が造られたのである。

 

南北に伸びた町の真ん中(あたり)に放水路ができ、なんとなく町が二分されたような空気が漂った……かどうかは知らない。少なくとも少年だったボクには、放水路ができようができまいが、どうでもいいことであったのは間違いない。

 ただ、今砂丘台地の道路をつないでいる「サンセット・ブリッジ」という橋ができるまで、放水路周辺に対して積極的な仕掛けや施しなどはなかったように思う。

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 もともと放水路について、あれこれ思いを巡らせていたわけではない。

 放水路ができていく過程のことも、あまりにも時間がかかっていて薄らぼんやりとしか認識がない。

 少年のボクにとって、干拓と放水路は別物であり、干拓工事の中の遊び場は水っぽく、放水路工事の中の遊び場は砂っぽかった。そして、どちらにせよ、非常に稀な環境の中にいるという自覚などあるはずもなく、たぶん町の人たちの中にも(風景的なこととして)大した思いを抱いていた人はいなかっただろう。

 

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 出来てからもう何十年も経っている河北潟放水路に、あらためて足を運んでみるようになったのはたまたまだ。

 正直、内灘の風景が全国に誇れる魅力を持っているなどとはカンペキに思っていない。

 さまざまな風景に強い憧れを抱いてきた自分にとって、それを満たしてくれるだけの強くて心地よい要素が内灘にあるとも感じていない。

 内灘の風景と言えばずっと海だった。それが当たり前だった。

 ただ海では、能登には勝てない。別に勝負するわけではないが、能登の海にあるような普遍的な要素は内灘の海にはない。

 魚を追い求めたボクの祖父たちのように、海を生きるための場としてきたオトコたちもいなくなった。

 海を軽視するのではないが、そろそろ内灘の新しい風景論みたいなものが見えてきたのではないか 自分の故郷としての風景(もちろん良質のだ)を、とりあえずマジメ(素直)に見つめてみるのもいいのではないか そう思う。

 内灘の今の姿は、自分が子供の頃に想像していたもの(大した想像でもないが)を超えているとボクは思う。

 開発とはこうしたものなのだろうが、生活の場が拡大していくと町の風景そのものも変わっていくことを、内灘というところは特に強く物語る。

 内灘では生活の場が砂丘台地上に広がっていくにつれ、風景も根本的に変わっていったのだ。

 南北に伸びた高台、つまり砂丘地が激変し、そこから眺める東西の風景がより魅力的になった。

 北アルプスの稜線から昇る朝日と、日本海に沈む夕日………

 よく使われてきた内灘の情景表現だが、かつて生活の場が砂丘台地の東側斜面下、つまり河北潟沿岸にしかなかった頃にはあまり味わえなかった風景だろう。

 砂丘地の畑などではところどころから見ることができたかも知れないが、しかし日常の生活の場ではなかった。

 そういう風景のことをあらためて思い、もし河北潟が干拓されいなかったらと考えた人たちがいたことも当然だ。

 しかし、今は敢えてそんなことは蒸し返さない。

 人がその土地の特徴を語る時、一番先に出てくるのが風景であるとボクは思う。

 当たり前だが、風景は普遍的要素の最たるものだと。

 人の営みは繋がれていくものだが、風景の土台にあるものはじっとしている。

 だから、風景に敏感であるということは、その土地の魅力を知る第一歩に違いないとも思う。

 河北潟周辺、放水路を含めた一帯の風景は、まちがいなく稀有であり美しいと言えないか…………

 二月終わりの休日。陽が少し高く昇り始めた頃………

 河北潟に張り出すように造られた「蓮湖渚公園」の駐車場にクルマを置き、公園の道から放水路に付けられた道へと歩いた。

 蓮湖とは河北潟のかつての名前であり、この名前の方がなんとなく好きだ。

 水際の道は気持ちがいい。

 湖面がおだやかに揺れ、宝達山、医王山、犀奥と呼ばれる山域のの山並みや白山、さらにはるか東方の奥に雪を頂いた北アルプスの稜線が見えている時などは、風景に心が押されている自分に焦燥のようなものを覚える。

 

 そして、空の広さや深さがそれにまた追い打ちをかける。

 心の中で微かに声を出している自分が分かる。

 このあたりに、美味いコーヒーが飲める店があったらいいと思うようになったのはつい最近のことだが、この眺望なら、コーヒーの味には文句は言わない……かも知れない。

 

 サンセット・ブリッジが近くに迫ってくると、公園から離れ、県道を横切り、いよいよ放水路横の道へと入っていく。

 全国的に見て、特に大きい部類に入る橋なのかどうかは知らないが、真下あたりに来ると、やはりその威圧感はすごい。

 もし「全日本デカ橋をひたすら見上げる会」というのがあるとしたら、たぶん多くの会員たちは歓声を上げるに違いないと思ったりもする。

 橋は本来、上から眺める風景に価値を見出すものだろうが、サンセット・ブリッジには残念ながらその機能がない。

 だから、せめて下から見上げて、オオ~などと感動の声を上げてやりたいと思うのである………

 

 二月の終わりにしては暖かい午前だった。

 橋の陰になった放水路の水面に冬鳥たちが多くいるが、彼らも少し陽気がよすぎて日陰に集まっているのだろうか。

 放水路横の道は、厳密に言うとわずかにカーブがあるが、ほぼまっすぐに伸びている。

 川とは違うが、水が河北潟から日本海の方へと流れるのだから、今は左岸を歩いていることになるなどと考えている。

 水辺だから時折冷たい風を感じたりするが、すでにカラダは十分に出来上がっていて快調な足の運びなのだ。

 歩いていることよりも、放水路の地形を楽しんでいるということの方にアタマがシフトしているのも分かる。

 一般的に放水路と言えば、単に河川の流れを分散させるようなイメージではないだろうかと想像する。

 だから、そこにある風景は川のイメージだろう。

 しかし、ここは違う。ここは、標高50mほどの砂丘が削られたその最下部なのだ。

 急角度の斜面(専門的には法面)が両岸に広がっている。

 風景としては非常に稀な特徴をもっている。

 ただ、今ははっきり言って放水路の斜面は雑である。

 裸木と枯れたままの雑草が放置状態になっていて、特に道端の草の中に散乱するゴミも捨てられ方が遠慮がちではない。

 目線をできるだけ水平以上にしてさらに歩く………

 

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 ここは、今最も内灘を魅力的に伝えることのできるスポットかも知れないと、ふと思う。

 風景は眺望だ。視覚からココロに入り込むものだ。

 その要素にこの場所は適っている。

 さらに、広い空を繋いで振り返ると、日本海がすぐそこにあるという恵まれた環境を加えれば、かなりいい感じがする。

 言い換えれば、これはこの場所の個性なのだと思う。

 周辺のストーリーもドラマチックではないだろうか……と、勝手に想像が膨らむ。

 河北潟が干拓され放水路ができたということは、土地の表情が変わったということだ。

 つまり、内灘の風景がその時に変わったのだ。

 そして、もともと住んでいた内灘人たちが思いもしなかった、新しい眺望が生まれたのである。

 内灘はもともと何もなかった小さな漁村だったのだから、特に粋がる必要もない。できあがった風景を素直に楽しめばいいと、ここに立てば思える。

それを眺めて、ココロを休めればいい。

………むずかしい話になってきたので、クールダウンしよう。

 

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左岸を歩いていくと、右岸斜面の上に立つ風車が常に目に入ってくる。

      

 澄み切った青い空に、静止したままのスリムで白い姿が美しい。かすかに聞こえてくるのは、そのすぐ横にある「恋人の聖地」の鐘の音だ。誰かが鳴らしているのだろうが、その奥に自転車競技場があり、そこで鳴らされるラスト一周の鐘の音かも知れないと、余計なことを考えたりもしている。

 

 

 海へと出ると、砂浜は冬の風物詩とも言えるゴミの山だった。

 この季節、浸食された砂浜を見ると心が揺れるが、冬の日にしては海の風が気持ちよかった。

 放水路に戻り、今度は右岸をサンセット・ブリッジに向かって歩く。舗装されていない、水たまりだらけの道からのスタートだ。たまにクルマなどがやって来ると、ちょっと面倒なことになる。しかし、すぐに舗装された道に出た。

 放水路の水の流れに逆行していることになるが、水面は風になびいているだけで流れているわけではない。

      

 しばらく行くと、風車の下の斜面に細い階段が造られており、一気に斜面の上まで登れるようになっている。

 上から下りたことはあったが、初めて下から登ってみた。

 斜面の中間部は草が刈られていて、地元の高校生たちがお花畑を作っていると誰かから聞いた。

 佇んでみると、ここからの眺めもそれなりにいい。

 放水路斜面の中間部には、ずっとテラスのようになった平地が続いている。これはまさに中間部の散策路候補だ。

 もったいないゾ…… 腹の中でそう思って空を見上げた………

 

 空に浮かんだ雲たちが自由に遊んでいる。

 オマエもたまにはのんびりしろと言われているみたいだ。

 この前医者にも言われたが、副交感神経を思い切り休ませてあげなさいと諭されているようだ。

 手持無沙汰なまま、とりあえず背伸びをしてみた。

 首をひねり、肩をぐるぐる回し、両腕を前後に振った。

 カラダの四分の三ほどを覆っている日常が、放水路の風に乗って空へと抜けていった……かどうか?

 

 階段を下り、また歩き始め、また放水路周辺について考え始めた。

 人造湖という湖も、いつの間にか自然の中の一部になっている。

 放水路もそれと同じではないか……と、短絡的に考えている。

 すでに数十年がたち、これからもこの放水路はこの土地に、さも当たり前のように存在していくのである。そして、この土地の象徴的な風景として親しまれてもいくだろう。

 そう思えば、積極的に風景としての放水路周辺を見つめ直すことにも意味がある。それ以上に、磨きをかけてやらなければならないかも知れない。

 先にも書いたが、風景ができあがるまでの物語なども紹介していかなければならないかも知れない。

 内灘は海だとずっと思ってきた人たちも、海ばかりでない内灘に目を向けてくれるだろう。

 「内灘・河北潟放水路周辺」というキーワードで再考か……

 

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 そんなわけで、蓮湖渚公園から放水路両岸の道を往復すれば約6キロの距離だった。あとは、海岸に出たり斜面の上り下りなどのおまけもあり、それらもそれなりによかったりする。

 道の駅もあるし、ちょっとクルマで河北潟干拓地まで移動すれば、牛乳やアイスクリームなどで大人気のH牧場さんもある。

 忘れてはいけない温泉「ほのぼの湯」も、きれいになってこの春再開される。

 砂丘台地の美しいニュータウン「白帆台」も、将来の生活設計のために見ておくことをお薦めしたい。

 最後は何だか町の定住促進キャンペーンや、不動産屋の広告みたいになってしまったが、サンセット・ブリッジや金沢医科大学病院のモニュメント的建造物も合わせて、このあたりには多面的な顔があふれている。

 あとは、文化を生み出そうというヒトビト的ココロ……かな?

 ということにして、ひとまず中締めとするのであった………

 

ふと、星野道夫に。

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新聞の広告に『星野道夫』という四つの文字列を見つけた瞬間、これは買いに行こうと決めていた。

懐かしさとか、そういった思いも確かにあったが、なんだか出合ってしまった以上は必ず読まなければならないという気持ちの焦りみたいなものも感じていたのだ。

今更、星野道夫のことを語るつもりはないが、少なくともこの人はボクに大きな影響を与えた一人だ。

写真家であったが、ボクは文章家としての星野道夫を慕っていた。

著書のほとんどを読んでいたが、これまで自分が出合ってきた文章の中で、この人の文章が最も自分を動かしたかも知れないと思っている。

こんなにも飾り気のない文章が書けるニンゲンの、その背景みたいなものに嫉妬していたとも言える。

その背景とは言うまでもなくアラスカという大自然だ。

そして、そこへ行き着くまでの星野道夫のプロセスだ。

もちろん、星野道夫の感性もまた忘れてはいけない。

親友を山で失い、東京の電車の中から北海道のヒグマの今を想像し、信州の田舎でアラスカのある村のことを知り……

思いつくままにただ書いているが、星野道夫のプロセスは並外れていた。

そして、この並外れていた感性が、ボクにとっては最も心惹かれたところでもあった。

こんなにさりげなく、自分の思いを遂げていっていいのかと思った。

真似のできないニンゲンが、ただひたすら星野道夫にすがっている。

しかし、そんな情けない思いを強いられながらも星野道夫の何かに救われてもきたのだ。

それは、自分自身の中にもあった星野道夫的感性に気が付いた時だった。

ニンゲンは何かの前に立ち、それを見つめながら別な何かを考えたり感じたりできる。

そして、その二つの何かの中に共通するものを見出すことに自然でいられるのだ。

風に揺れる草を見ながら、空に浮かぶ雲を見ながら、自分も時折星野道夫的になり、自分自身を見つめてきたように思う。

ここまで走り書きした。

もう人生の終盤に向かおうとしている今だからこそ、そんな感性にふと敏感になったりするのだろうと思う。

星野道夫が他界して長い時間が過ぎた。

しかし、星野道夫が残していった文章があるから、まだ星野道夫的感性を意識していられるのだ………

 

電車に乗ると

電車

電車に乗ると、やはり基本は窓の外の風景を見ることだと思う。

風景は流れ去っていくもの。

本の中の活字や写真はいつでも見ることができるが、風景は待ってくれない。

最近特に、昼間の車中では本を読まないようにしている。

懐かしい風景や、意外な風景などに出会う瞬間を見逃さないよう気にかけている。

北陸新幹線が開業して、トンネルが多すぎるという声をよく聞くようになった。

が、あれはどうやら風景を見ることができないことへの不満ではないらしい。

電話やネットが使えないことへの不満らしいのだ。

さびしい話なのである……

股引について

芽吹き1

恥ずかしながら、たまァに今風の股引(ももひき)を穿くようになった。

が、自分の感覚では、それを穿いても決して暖かいといった感じがしない。

それどころか、余計に足がヒンヤリとした感じになる場合が多く、穿いてしまったことを悔いたりする。

そもそも、股引については中途半端な思いを抱いてきた。

中途半端ではない思いというのも説明できないが、冒頭にも書いたように、股引にはどこか羞恥心みたいなものを抱かせる性格があり、そのことによって積極的に利用したくないといった思いがあった気がする。

たしかに、最近の股引はデザインもそれなりに施されていて、昔とはかなり違う(つまり、ラクダの・・・ではない)受け止め方がされているみたいだ。

だがどうしても、股引を穿いているという状態はよろしくない。

どうやっても股引だからだ。

その名も、何となく侘しい。

ももひき…という音の響きは侘しく、そして、せつないのである。

さらに、漢字では「股(また)を引く」と書くところにも奇妙な感じを受ける。

たしかに、「股」には「もも」という読み方もあるようだが、この場合の「もも」と言えば、太腿などの「腿」を連想するのが普通だろう。

だから、本来ならば「腿引」という漢字にするか、もしくは「またひき」という呼び方になっていてもよかったわけだ。

それがなぜ、股引(ももひき)なのだろうか。

 

ところで、股引の話題を出すと、必ず突っ込まれるのが、小倉百人一首のあの歌である。

「ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」

この歌の出だしの「ももしきや…」に、思わず赤面してしまったとか、吹き出しそうになったという経験を持つ人は多いだろう。

これは、「ももしき」が、宮中の意味であることを知っていれば何でもないのに、その響きから「ももひき」と聞き間違えたり、またはモロに「股引」そのものだと勘違いしてしまったことが原因である。

ちなみに、この「ももしき」は「百敷」と書くのだそうだ。

多くの石が敷かれているというとかで、宮中とか御所とかを表す。

そういうわけで、少し寒さも和らいできたせいか、股引を穿くことはほとんどなくなった。

そのことで、なんだかアタマの中のモヤモヤが取れたような、奇妙な思いも抱いたりしている。

なくなったから、堂々と股引に関する思い(不信に近い)も書いていられるのだろう。

また寒さがぶり返した時にはどうするかだが、今のところまず穿く予定はない………

ガムとインフルエンザ

ガム

ガムについて考えたのは、インフルエンザが流行し始めたぞというニュースが、会社内に流れた日の夜のことだ。

社内に感染患者が数名発生し、予防に関する情報が各自のパソコンに送られていた。

その中のたくさんの項目の中に、“ガムを噛む、飴を舐めて口に潤いを!”とあった。

ガムがこのような効能を持っているということについては、実はずっと前から知っていたのだが、実際にこうして公式(?)な文書として出ているのを見ると嬉しくなった。

自分の場合、知っていたというより経験していたという方が正しく、そのこと自体の精度の高さについてもかなり自信を持っていたのだ。

しかし、そのことは(少なくとも周辺では)なかなか信じてもらえなかった。

ガムには何と言っても虫歯のモトだとか、所詮、二日酔いの朝の臭い消し(特にニンニク対策)といった偏見があり、潤いという言葉との関連性を受け入れるのは難しかったのかも知れない。

 

自分には、春頃になると軽い喘息のような症状が訪れる。

花粉症みたいなものだが、お医者さんからもお墨付きをもらった“れっきとした持病”らしく、かなり長いこと欝な思いをしていた時があった。

よくある目を充血させ、カラダを捩じりながら烈しく咳き込むというのとは違うが、ただ風邪を引いて咳が出始めると、ダラダラと続くということがあるのだ。

乾燥してくるとテキメンであった。

だから、根本的に喉にはそれなりの注意を払ってもきた。

とにかく咳が出ない状況を維持していくことが肝心だった。

そして、そんな中で発見したのがガムの効能だ。

口とか咽を潤すというと、誰もが水やお茶を飲むと考えるだろう。

しかし、本当にムズムズが昂じてくると、たった一秒か二秒くらいの快感ではすまなくなる。

ずっと、その快感(と言っても普通のことだが)が継続的であってほしいという強い欲求が生まれる。

そんな時、ふとガムを噛もうと思った。

ガムを噛んでいれば唾液が出る。

その唾液を定期的に喉の方へと送る。

この場合のガムはキシリトールである。

ついでに書くと、ボクの場合は、ガムに味はなくてもいい。

かつて最初から味のないガムが存在していたが、ボクはそういうのが気に入っていた。

今もあるのだろうか?

キシリトールガムにも、本当は味は要らない。

 

この唾液が喉を通っていくことだけで、ボクの咳はほとんどカンペキに出鼻をくじかれていた。

もちろん喉が真っ赤に腫れてしまっている時などはむずかしいが、たとえば朝クルマの中で、小さなガム一個を口に放り込むだけで、起き始めの頃から気にしていたムズムズ(イガイガとも言う)感は見事に消え去った。

さらに、いい意味の副作用もあり、唾液が送られた胃はその活動を活発にし、昼飯を美味しくしてくれたりもした(ようだ)。

こうして、ガムとの信頼関係は深く結ばれていったのである。

今もバッグの中やクルマの中にガムがある。

 

ところで、ガムと一緒に取り上げられていた飴についてだが……

まず、飴にはそれほど期待していない。

やはり飴はどうしても甘すぎる。

あの甘さは、本気でないように思えて信用できない。

あの甘味で喉をやさしく包み込んでいるかのごとき印象を持つが、喉自身を錯覚させているように思えるだけだ。

その点、ガムには唾液を出すという重要な働きをしながら、なんとか噛み手の役に立とうという姿勢が見えたりするのである。

そういうわけで、とにかくやはり、何と言うか…

“喉にはガム派”なのであった………

自分の葬式に流す曲

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今年も「金澤ジャズストリート」は遠い存在で終わった。

連休初日の真昼間から、尾山町の「穆然Bokunen」でコルトレーンとドルフィーを聴いたら、もうどうでもよくなった。

今年は渡辺貞夫、山下洋輔、坂田明、それにスガダイローなど、昔よく聴きに行っていた人や、最近よく聴くようになった人などが来ていて、少しは関心があった。

しかし、わざわざ出かけるといった気持ちに至らないまま、穆然のスーパーサウンドで聴いたコルトレーンとドルフィーのライブ盤が十分に満たしてくれたのだった。

いきなり寂しい話だが、この夏、身近にいた60代のまだ若い先輩たちがこの世を去っていた。

中には、音楽をやっていた人もいて、その葬儀の会場に流れる音楽がとても印象に残った。

通夜に出る機会が二ヶ月間に十回近くあると、そんなことに敏感になったりもする。

そして、ついに自分の時には何を流すかにまで考えが及ぶようになると、読経の響きさえも意識から遠のいていくのだ。

実は通夜の会場に流す音楽のことを考える前に、遺影に関する話も以前に聞いていた。

お世話になっている方の奥さんが亡くなった時、その遺影が奥さんの決めていた写真であったという話を聞いたのだ。

奥さんは定期的に写真を撮ってもらっていて、それらは遺影用だったという。

さらに祭壇には自分が指定した花が飾られ、とても個性的な雰囲気を演出していた。

ニンゲン、いつ死ぬか分からない。

それから後、これから撮る写真はいつか遺影になると思うようになった。

だから、最近では、山で長女に写真を撮ってもらう時でも、「遺影にするかも知れんから、しっかり撮れよ」と言ったりする。

それもかなり本気で。

そして、音楽だ。

もう亡くなってから十年以上が経つ、YORKのマスター・奥井進サンの葬儀の時には、追悼のCDが作られ、その中の曲が会場に流された。

始まる前の焼香の時や出棺の時には、やはりそれなりの音量で流すのがいいが、奥井サンの時はそれがとても効果的でいい感じだった……と聞いた。

実は裏方をやっていたので、会場には出られなかったのだが、曲も演奏ももともと素晴らしかったのだ。

勿体ぶってきたが、今考えている自分の曲は、コルトレーンの「I want to talk about you」だ。

君のことを語りたい…… 自分のことを語ってくれるヒトビトが、それなりに来てくれたらいいなという思いもあるが、やはりコルトレーンの演奏が好きだからだ。

特にスタジオ録音より、50年ほど前のニューポート・ジャズフェスティバルでの豪放なライブ録音がいい。

一応、長女にもその曲を聴かせ伝えたが、CDに入れておいてと至って事務的な返事だった。

本当は、自分が十代半ばでジャズと出合った同じコルトレーンの「My favorite things」をやってほしいのだが、あれは烈しすぎて遺族も参列者も引いてしまうだろう。

ちなみに前の曲もこっちの曲も、同じ野外でのライブ録音だ。

前者は一応バラードなのだが、コルトレーンをモノクロ映像で初めて見た時、とてもバラード演奏とは思えないほどに烈しく吹きまくっている光景に感動した。

今ではオシャレなお店なんぞで流されているコルトレーンのバラードだが、当時、カルテットはダークスーツにネクタイで決めながら、吹き出る汗を拭こうともせず熱く煮えたぎっていたのだ。

そんなわけで(?)、今のところこの路線に落ち着きそうである。

それで、一曲じゃもたないから、もう一曲と言われたら、「Violets for your furs」。

邦題があって、「コートにすみれを」という同じくコルトレーンのバラードなのだが、こちらはスタジオでの素朴な演奏で、これも好きな曲だ。

ただ、最初の曲との繋がりで言えば、ちょっとテンションが異なるかも知れない。

しかし、この曲はピアノのレッド・ガーランドもよくて、通夜にはぴったり(?)なのである。

こんなことを考えていると、早く自分の番が来ないかなあと楽しみにしている自分に気付いたりする。

そして、現実に戻ると、これから本格的に歯の治療に入るのに今死んだのでは勿体ないないではないかとも考える。

そして、さらに思うのは、その場の臨場感を自分自身が味わえないのではないかという侘しさというか、怒りみたいなもの、いや虚しさか…… とにかくそういうものだ。

仮に棺桶の中でその音楽を聴いているにしても、その時の自分にはどういう感情が宿っているのだろう。

そんなこともちらりと思ったりしながら、今75年のマイルス「Agarta」を超デカ音で聴いているのである………

音楽はそれなりの音で聴く

21美のラッパ

珈琲屋さんで、小うるさいオッカさんたち、いや、賑やかなご婦人たちと隣席になった時などには、潔くイヤホンで音楽を聴く。

本を読んだり、考え事をする程度なら少しは我慢するが、仕事の書類を作ったり、私的に文章を書いていたりする場合は、カンペキに耳の穴をふさぐことにしている。

この前も、運悪くそれなりの四人組が横に座り、株の話かなんかで盛り上がってしまった。

その中の一人(いちばん派手な)が株で当てたらしく、まるで人生に勝ち誇ったような口ぶりなのだ。

他の三人に、夢を叶えるには、ずっと毎日夢を描いていなければダメなのよと、いかにも成金的雰囲気丸出しでけしかけている。

そのあたりまで、くっきりスッキリと耳に届いてきて、ついにイヤホンを取り出すことにした。

こういう時はデヴィッド・マレーでも聴くのがいいと思ったが、一週間ほど前に中身を入れ替えていて、それなりに優しい音楽ばかりにライブラリーが変わっている。

仕方なく、残っていたロイ・ヘインズ・トリオをと思い、いつもより少し音量を上げて聴きはじめる。

そして、にわかに嬉しくなった。

それは、ご婦人たちの声が聞こえなくなったからだけではなく、久々に聴いたR・H3の演奏が実に良かったからだ。

そして、音量を上げて聴くというのは、音楽を聴く上でとても重要なことなのだというのを思い出した。

ジャズ喫茶の大音量に耳が慣れていた時代、音を聴いているという感覚よりも、音に包まれているといった感覚が強かったような気がする。

ハイテンポのスティックに弾かれるシンバルの微動、ベースの弦のしなり、スネアに叩きつけられるブラシの抑制された躍動感など、あげれば切りがないくらいの音的感動があった。

音楽イベントをいくつか企画運営したが、その中でいつも思ったのが、大きくて鮮明な音で音楽を聴くことの大切さだった。

金沢芸術村での音楽イベントで、ある著名な音楽関係者の方とトークセッションをすることになり、ステージに上がっていただく前、ツェッペリンの『胸いっぱいの愛』をかけた。

スーパー・オーディオで再生するのであるから、音としての質的な意味では、生で聴いているよりは鮮明に響いていたはずだった。

そして、ステージに上がったその方はこう言った。

「この曲には、パーカッションが入ってたんですね…」

プロでもこういうことがある。

ましてや、普通の人たちにとって、こういうことはごくごく日常的な感覚でしかない。

言うまでもなく、ツェッペリンは四人組のロックバンド。

ギター、ベース、ドラムにボーカル。基本的にパーカッションは入っていない。

だから、先入観が働けば聴こえなくても仕方ない。

しかし、音の厚みなどをこのパーカッションが担っていたのは間違いのない事実だった。

だからどうなのだ?と言われても困るが、一応そういうことなので、出来れば音楽は大きい音で聴いた方がいいよということなのである。

ボクが46年程聴いてきたジャズは個性を大切にする音楽である。

つまり、演奏メンバーが誰であるかということを重視する。

それは演奏者の個性を大切にしているからであり、ジャズは個性の集まりによって創られるということを、大切な楽しみ方の要素にしている音楽なのだと思う(表現が難解?)。

だから、ベースは誰だ?とか、ドラムは誰?などといったことが知りたくなる。

この人のベースの方が、あの人のベースより好きだとか、このグループに合っているといった感覚が生まれる。

昔、金沢片町の某ジャズ喫茶で、そこのマスターがこう言った。

「音楽は大きな音で聴いてあげないと、ミュージシャンに失礼だよ。少なくとも、生で聴いているくらいの音量で聴いてあげないとねえ………」

誰かも言っていたが、録音の技術がなかった時代には、音楽はすべて生だった。

レコードやCDが出来てオーディオが発達して、当たり前のように自分自身で音量を調節出来るようになった。

BGMといった音楽も生まれたし、自分自身もそれ系のものにお世話になることも多い。

珈琲屋さんで隣席となった賑やかご婦人たちの話から大きく脱線して、音楽はそれなりの音量で聴くべし的話題へと移行したが、書いている自分自身もそれなりに納得した内容となってきた(ホントは尽きてきた)ので、ここらへんでやめておこうと思う……

不思議な距離

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 仕事で自分の生まれ育った町と関わりを持つというのは、何だか奇妙なものだ。

 自分自身、その類の仕事で満足したことは一度もない。

 不思議なことに、最終的には投げやりに近い状態になっていることが多く、やはり何となく寂しい気持ちになるのだ。

 なぜなんだろうと、今あらためて新しい関わり(仕事)を持つことになったのをきっかけに考え直している。

 ふと思うのは、自分自身が自分の故郷である町に対して、それほどの愛情や親しみを持っていないのではないかということだ。

 これはある意味で当たっている気がしないでもない。

 しかし、誰しもが持つ正反対の心象のようでもあるし、それを第一の要因にするのは適当でないと思うのである。

 皆、少なからずそのようなものを持っていながら、故郷のことを思っているのだと思う。

 小さい頃からかなりのませガキであったボクは、さも当然のように大人になったら都会へ出て、自分の好きなことを自分のやり方でやるのだという強い思いを持っていた。

 都会というのは、小学校中学年の頃は東京であり、中学の頃には生意気にもニューヨークあたりになった。

 その後は趣を変えてまた国内に戻り、八ヶ岳山麓あたりに移行していき都会志向は消えていったが、とにかく故郷で生活するという選択はなかった。

 それが直接的になぜこうなったかは今書かないが、いざそうなってしまうと、逆に身動きがとれなくなるものらしい。

 大学を卒業する時には、ボクは完全にUターン志向になっていて、東京の暮らしには興味を失っていた。

 趣味の世界では東京に多くの未練はあったが、それ以外には何も魅力を感じなかった。

 しかし、今になって思うのは、ただ単に見つめる世界が少年時代より狭くなっていただけではなかったかということだ。

 もちろんそれは、大人になったからこそ分かる世界であったのかも知れないが、基本的なところでボクにはそれほど深い考えはなかった。

 Uターンした後、新たに見つけた趣味の世界に没頭していったが、本質的なところで大事なものを見失っていったのだと思う。

 当然見失っていることには気が付かなかったし、周囲は趣味の世界を楽しむボクのことを好意的に見てくれていた………

 故郷の町の仕事をする時には、少し腰を浮かせている自分に気が付く。

 悪い言い方をすると、完全は望めないと思っている(ように思う)。

 そして、望まれていないようにも思える。

 そうではない町では、もっとチカラが入っているのに、なぜかこの町ではそうならないのである。

 自分がこの町を見くびっていたニンゲンだった…?…からだろうか?

 あるいは、思いが強すぎる…?…のだろうか?

 どちらにせよ、また新しい関わりが始まる。年齢も、立場も環境もそれなりに変わっている中で。

 ボクの故郷である町は、「内灘」という………

会津を旅するということは

 

石垣と堀と枯れゆく草

会津若松は不思議な街だった。

NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。

司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。

圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。

藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。

そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。

その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。

廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。

会津城

 会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。

今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。

大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。

会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。

西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。

何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……

 

白虎隊の墓日新館1西郷頼母邸御薬園山川健次郎

 

歴史が好きだから思うこと

歴博の夏

 

夏真っ盛りの午後、本多の森の歴博の展示室を緑の隙間から見ていた。

中を見たかったというわけではなく、周囲を歩きたかった。

煉瓦壁の、夏でも涼しげな雰囲気が好きだ。

汗もかかず、いつもサラサラとした肌触りをイメージさせる。

歴博の窓の奥には明かりが見えた。その下で、石川の歴史が語られている……

 

もともと歴史、特に日本の歴史が大好きだった。

NHK出版の「知られざる古代」などから始まり、武田信玄を軸にした戦国時代が最も盛り上がった。

奈良や京都の古寺や古道もめぐり歩いた。

司馬遼太郎との出会いによって、街道めぐりもした。

宮本常一を知って、さらに農村や漁村、一般民衆社会の歴史にも心を傾けた。

宿場はずれの松の木を見ていると、そこを通り過ぎて行った旅人たちの思いも伝わってくるような、そんな感性も持ち合わせているような気がした。

ずっと信州の上高地を、自分にとっての聖地のように位置付けてきたが、それは風景の美しさだけでなく、上高地の歴史を知るようになったことも大きかった。

たとえば、人気のない梓川の川原に立つと、旧松本藩の林業に携わっていた杣人たちの姿や、W・ウエストンを導いた上条嘉門次など山案内人たちの表情が想像できた。

空気がその時代に戻ったような感覚になり、どのような場所にいても、今自分は時の流れの中にいるのだと考えるようになった。不思議な感覚だった。

ついでに見境なく書くと、野球の歴史やジャズの歴史などにもかなりのめり込んだ。

仕事の上でも、展示施設の計画などには、まず歴史を第一に考えるようになる。

ヒトにも、土地にも必ず歴史があり、それは絶対に外すことのできないものであると認識していた。

歴史とはそんな存在だったのだ。

 

…… 最近、「歴史認識」という言葉をよく耳にするようになっている。

歴史にはひとつの事実しかなかったはずだが、後に何とおりもの解釈が生まれる。

それで普通だと自分では思っていたのだが、どうやら「歴史認識への認識」という点にポイントをおくと、歴史を考えるということが少し面倒臭くなった感じだ。

歴史小説の作家たちが、自分の解釈であれやこれやと物語化していくのを読み、それはないだろうと思っても、それを歴史認識が……とは言わない。

政治家が動くと、歴史認識がどうのこうのといった話になる。

だから、身近に戦争、特に第二次大戦とか太平洋戦争という事件を考えさせられると、そのことを歴史というカテゴリーに入れることそのものに、ボクは抵抗してしまうのだ。

もともと平安期と、明治から昭和の戦前までが、唯一好きになれない日本史のゾーンだった。

明治維新後、清もロシアも打ち破って、日本は一応強国の一員となっていくが、そのことにより却って少しずつおかしくもなっていく。

司馬遼太郎も書いているように、日本にとっては、帝国陸軍の横暴さが増長していく暗い時代なのだ。

明治維新はそういう意味で、どうも胡散臭い。

アジアへの侵攻などという言葉には寒気がするし、現にそういったことが新政府の課題として生まれてきたことに大きな疑問が生じる。

古くは白村江の戦いというのがあり、秀吉の朝鮮出兵もあったが、日本人は何を基本に考えてきたのだろう。

明治政府軍の将兵たちは新式兵器の効き目に陶酔し、無力な反体制派(彼らが称した朝敵)の国を徹底的にぶちのめして、のし上がっていった。

歴史という言葉を使うから、美しく聞こえたり、同情的に解釈されたりするが、こういったひとつひとつの“事件”は、かなり恐ろしい要素を持っている。

たとえば、信長の比叡山焼き討ちなどの行為を、信長ファンどころか、一般の人たちも決して否定的に見ていないことにずっと疑問を抱いてきた。

武田信玄の武将としての才能と、為政者としての才能を中心に据えてきたボクとしては、信長は軽石みたいな存在としてしか見えない。

そして、日本における最初で最後の無差別大量殺人の首謀者であるのに、現代ではヒーローなのである。

さらに、信長は重要な家臣であったはずの明智光秀によって殺されている。

つまり、信長は人望もなかった。あのように無残な反抗を受けるくらいであったということは、かなり低次元な指導者であったとも考えられる。

ただ高圧的に、家臣たちを押さえつけていただけで、情けをかけることも知らなかった。

北条早雲や斎藤道三のような下剋上の例はあっても、憎しみや切迫感だけによって、あのような最期を遂げたのは信長くらいではないか。

日本人は、そんな男をヒーローにしている。

その後の秀吉も家康も、信長派の流れを汲むことから、歴史は、信長を悪人にしないまま甘やかし、そしてヒーローにしてきたのだ。

ちなみに、信長がかなりの強運のもとに命拾いをしてきたことは、戦国時代に造詣の深い人なら知っているだろう。

戦国最強と言われた信玄は、信長を都から蹴散らすために軍を進めていた途上、持病の労咳が悪化し死んだ。

もうひとりの猛将・上杉謙信も、その数年後にこの世を去り、信長は蹴散らされずにすんだ。

信玄上洛の報を受けた時の信長は、間違いなく乱心したことだろう。

 

話はちょっと外れ気味に進むが、ボクは、ジャズも好きだし、ベースボールも好きだし、西部劇も好きで、もっと言うとカリフォルニアのワインも好きだ。

アメリカという国と仲良くなかったら、ボクの人生は決して楽しいモノにはならなかったかも知れない。

しかし、今この話題の中で語るアメリカという国には大いに疑問がある。

アメリカ自体へというよりは、アメリカに対する日本人への疑問と言えばいいのかも知れない。

アメリカはかつて、大戦末期に日本本土の多くを空襲し焦土化させた。

とどめは、広島と長崎へ原爆まで落としていった……

一般市民の犠牲者数は、歴史の上でもケタ外れである。

しかし、日本人はやはりアメリカを、多くの自国民を殺害した国として見ていない。

アメリカの攻撃は仕方なかったという思いなのだろうか?

だとすれば、自分たちが近隣諸国にしたとされる愚行の責任も認めているということなのか?

信長もアメリカも、日本ではヒーローなのだ。

このことがボクの考える“歴史認識”という認識には、どこかおかしな認識があるということなのかも知れない。

 

これ以上むずかしく考えたくないので、これくらいにしておく。

やはり日常に歴史がないと面白くない……、そのことだけは確かなのだ。

 

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

控えめな黒子でなかった

せせらぎのミニ公園

 

ドイツの黒ビールを前にして、ある大先輩から、

「アンタも私も、基本は黒子(くろこ)なんやて…」と言われた。

ボクはその時、たまたま同じドイツの白ビールという、

よく分からないものを飲んでいたのだが、

あらためて振り返って見ると、それは間違いないことでもあった。

仕組みが出来ていなかった時代、

いろいろと悩み考え、試行していたことは、

正式に仕組みが出来上がった段階で

初めて世の中に認められるようになる。

そして、その仕組みだけが走り続けていく。

そんなことが、よく知らないところで起きていた。

今更そんなことをア~だコ~だと言いたいわけでもないが、

何にも知らない人たちが、正論(仕組み)だけで

語り合っているのを横で聞いているのも、

それなりに辛かったりするものだ……

 

カンペキに余談だが、

広辞苑には、「くろこ」という言葉は載っていない。

自分が今書いた意味の「くろこ」は、

「黒衣(くろごう)」のことをさす。

もともとの意味は分かるだろう。

漢字の「黒子」では、「こくし」とか「ほくろ」。

ほくろはそのままだが、

とても小さなものの例え…みたいなものに使われるらしい。

そんなことを、また改めて知ってしまうと、

黒子的存在感は、ますます惨めなものになっていく。

高級食材となってデカい面してる「白子」と比較しても、

黒子は、やはりちょっと寂しいのであった……V

疲れた夜によくある雑想

スポットを浴びたような新緑

久しぶりに訪ねた友人の事務所に、山の本が、文字どおり山積みになって置かれていた。

彼は、その本を通販で、しかも古本で買う。

ジャズのCDは新品(輸入盤が多い)で買うが、本はほとんどが中古本である。

自宅ではなく、事務所に届くという点が羨ましい。

彼はその事務所で、軽くジャズを流しながら仕事をし、仕事の合間に好きな本を開いて、その世界に自分を置いたりする…のだろう。

そのような世界は、若かりし頃の自分にも憧れとしてあったものだ。

そして、そろそろ時間の先取り的に“リタイア”した後の自分を考えたりする時、少しだけ現実味を帯びてくることでもある。

しかし、あと何年かは、ひたすら微量の脳ミソをかき混ぜながら、一途にやっていかねばならないポジションにもある。

元来、性分が「やり始めると、とことんやってしまう」というタイプなので、ある意味ではかなり損をしてきたところもある。

しかし、今さら悔やんでも仕方がない。

学生時代、将来は八ヶ岳山麓に住まいして、そこでカッコよく仕事をしながら過ごそうと考えていた話は、ずっと以前この雑文集で書いた。

そこまでの回帰はないが、やはりどうせなら、山があって(見えて)、家を出たらすぐに自然があるといった環境がいい。

雪も降り、リビングから、いや縁側からでもいいが、すぐにスキーを付けて歩き出せるくらいでないといけない。

朝日でも夕日でもいいから、家に差し込んでくることもそれなりに重要だ。

庭でコーヒーを淹れ、家の中から聴こえてくるラルフ・タウナーのギターや、ヨーヨー・マのチェロなどにボーっとすると言うのも、かなり心地よいことだろう。

本も読み、文章も書き、カメラを持って歩きまわりもする。

どこかにそんな人が何人かいた。

ただ、ボクが考えるシンプルさとはちょっと違っていた。

だから、自分自身が求めることも、どこまでが真実なのか不明でもある。

誰かが何か言ってくれても、自分自身がどれだけ踏ん張っても、人生の時間的な制約は変えられない。

だからこそ、今自分が置かれている立場でとにかくやるだけやり、その後は自分を出来るかぎり解放させてやりたいと思う。

 

どっと疲れた仕事の帰り。

一杯のコーヒーにホッとしながら、こんな文章を書いている自分に、今気付いた……

私的エネルギーが希薄になってきた

毎年恒例にしてきた、妙高・笹ヶ峰エリアでのスキーハイク。

今年はどうやら行けそうにないことがはっきりしてきた。

かなり以前から、何となくそんな気配が漂い始め、自分自身がすでにあきらめムードに入っていたと言っていい。

唐突だが、こういう日々のことを、30年以上前から“下品な日々”と呼んできた。

そして、今は“かなり”が付くくらいの“下品な日々”であって、自分史上、最悪に近い下品さかもしれないと思っている。

では、“上品な日々”とはどういう日々を言うかなのだが、この場合簡単に言うと、自分の楽しみをしっかり確保している日々ということになる。

つまり、どんなに仕事が忙しかろうが、自分のための時間をしっかりと持って、それなりに有意義に、楽しく過ごしているという日々が“上品な日々”なのである。

そして、その源を、「私的エネルギー」と呼んできた。

対語である公的エネルギーが、仕事などのためのエネルギーだとすれば、私的エネルギーは趣味などのためのエネルギーであって、その両者のバランスが崩れては、ヒトは正しく生きていけないのだとハゲしく思ってきたのだ。

それも、かなり入れ込んだ私的エネルギーがボクは好きだった。

しかし、世の中にはこの私的エネルギーの意味を理解してくれる人は多くない。

この四月から、住んでいる小さな地区の役員になってしまったのだが、初めての会合で、これからの会合には欠席しないようにと、しつこく要請された。

「N居さんは、本まで書いている人だから、時間はたっぷりあるんでしょ?」などと言われ、当然ながらカチン!ときた。

文章を書いているということ=時間のある人と解釈できるアタマの構造を疑った。

ボクには私的エネルギーによって日々活動してきたことがたくさんあり、そのことをイチイチ説明したりすることは難しいのだが、かと言って、公的エネルギーもふんだんに使っている。

だから、当然のように時間は乏しいのだ。

物理的?に言えば、カラダはひとつしかないから一ヶ所にしか居られないが、アタマ(の中身)は、それなりにあちらこちらへと行ける。

だから、いろいろなことにアタマを突っ込ませて、何となくいろいろな場で、ああだこうだと言っていられたりもする。

しかし、そんなことで、N居さんには時間のゆとりがあるのね…などと思われては困る。

ボクのこの忙しさ?を、本当に理解しているのはほんのわずかな人たちだけだ。

そんなわけで、好きな山へ出かけ、雪の上にいっぱい何やら広げて、ビールをあおりながらボーッとしていたって、それはそれなりに忙しい時間なのであり、それはそれなりに意味のある、つまり“上品な日々”のための時間なのだということを強調し、今回の話を締めることにする…

湯涌江戸村にいた

湯涌江戸村。もう10年以上前だったか…

現在の場所への移転計画が進められている中、その計画書の中の30ページほどを受け持った。

仰々しい仕組みの仕事ではあったが、なかなか刺激的な仕事でもあった。

その中でも、フィールドワークは特に刺激が濃く、印象は深い。

眩しすぎるほどの新緑に包まれた白川や、荘川などの保存施設を見学に行った時などは、

得意の想像力で、時空の狭間にいるような錯覚に陥った。

アタマの中での会話は、なぜか東北の言葉で進められていて、囲炉裏の煙の向こうには、おしんがいたような気がする。

閉鎖された旧の江戸村では、明かりのない屋敷の中で震え上がるような霊感や、不謹慎ながら、盗人気分なども味わったりした。

解体が始まると、ある大きな屋敷の中の足場に上らせていただいた。

そして、そこで見た内側構造の素朴さや大胆さ、さらに、巧みさや力強さに胸が躍った。

解体中であったから、グロテスクさがより一層目に焼きついた。

数えきれないほどの季節を経て染み付いた、材料そのものの匂いも刺激的だった。

風雪に耐え抜き、そこに生活する人たちを代々守ってきた、昔の屋敷の逞しさみたいなものも感じた。

つい先日の、春らしく晴れたある日。

美しく装いを変えていく江戸村の屋敷たちを見ていた。

あの時見ていた荒々しい解体の光景は、すぐには甦ってこないが、しばらくすると、自分の中で鮮明に再生されはじめた。

今はみな、きれいになり過ぎて? 落ち着き払い、ちょっと澄ました感じさえする。

しかし、それはそれなりに、またいい風景でもある。

外観よりも中に入って見る生活空間が、より印象深いからだ。

民衆の歴史は、やはり生活空間にあるのだ。と、かなり過分に偉ぶっている。

屋敷から目を離すと、高台からの眺望も文句なしの清く正しい山里風景。

ここは能登ではないから、里山とは呼ばない。と、勝手にまた偉ぶる。

そして、この眺望、温泉街とは逆方向なのがいいのだろうと、勝手に納得する。

そして、なぜかのんびりとし、しばらく静かに眺めている。

 

そう言えば、お会いした江戸村村長のT屋先生とも、かなりの久しぶり的再会であった。

夢二館館長のO田先生といい、江戸村村長のT屋先生といい、お付き合いのある先生方が湯涌で頑張っていらっしゃる。

あと一人、Aという“自然の民”系プランナーの友人もいるのだが、彼の存在もこれから湯涌では必要になってくるだろう。

が、しかし、今湯涌は得体の知れない、妙な、つまりその、何と言うか軽薄な風に吹かれている? と聞く。

偉そうなことは言えないが、こののどかさはそれに耐えられるのだろうか?

いや、耐えなくてもいいのだろうか?

太陽が西に傾き、斜面から伸びたゼンマイに鋭く陽光が当たっている。風も冷たくなってきた。

これから始まりそうなことに、少しいい気分になったりしながら、一緒に行った二人と帰路についたのであった……

ああ、危険運転なのである

 前号「信号無視…」の続編みたいな話。

 カンペキに“携帯メールをしながらの運転”だと分かる、前のクルマ。

 かなり不安定な走行をしている。

 こっちも運転しながら、もちろん携帯デンワで警察へ通報してやろうかと考えるが、その場合の自分の行為にも嫌疑がかけられる。

 なにしろ、当方(なぜか、急に謙虚になる)、ついこの前、信号無視(実際は軽視)で捕まり、長年無事故無違反だったゴールド免許に泥を塗ったばかりだ。

 メールもそうだが、運転中の危険行為としては他にも数多くある。

 中でも万人が認めるのは、“コンビニおにぎりの包装を取りながら運転”だろう。

 あれは極めて危険であり、携帯メールに十分匹敵する。面倒でもあり、海苔が散乱するというおまけまで付く。

 このことについては今までいろいろと書いてきたし、詳しく書くと、また原稿用紙30枚ほどになりそうなので省略するが、それでも強いて言えば、せめて「運転中の包装紙めくりはやめましょう」ぐらいの表示が、包装紙の表面あたりにあってもいいかも知れない。

 変わったところでは、運転中の“シンガー気取り歌唱”も危険な場合がある。

 かつて、金沢市内のあるT字路で信号が赤になり停車した瞬間、若奥さま風の上品そうな女性が運転する、白いクルマがボクの横をすーっと走り抜けていった。

 おやっと思ったら、後ろからサイレンが聞こえ、白バイが無情にも?その白いクルマを止めた。

 その時は全くカンペキに赤信号で、あの若奥さま風女性は、カンペキに信号無視をしたのだ。軽視でもないし、蔑視でもないだろう。

 横を通り過ぎた時、あの若奥さま風女性が、カンペキに歌を歌っていたのをボクは見た。

 それも、まるで松田聖子にでもなり切っているかのように顔を少し斜めに傾け、口の開け方もそれらしく歌っていたのを確実に見た。

 やはり、ああいうのも危険なのだろう。

 まだまだたくさんありそうな危険運転の話なのだ…

信号無視ではなく、軽視だった

 いい歳をして、信号無視で捕まった。

 ゆっくり走っているダンプカーの後方にいて、信号が黄色になると思ったところで加速して付いていったのだが、すぐそこに警察官が立っていた。

 そしてその彼は、信号が赤なのに交差点へ侵入してきたと判断した。

 ゴールドの免許証を持つ清く正しいドライバーで通してきたが、一度に前科者、世の中のあぶれ者となってしまった。

 たしかに彼の判断は正しかったのかも知れない。しかし、彼や彼の同僚たちは、全くこちらの事情を聴き取ろうとせず、一刀両断に罪人にしていく。

 「信号無視!」

 どこからか大きな声がした。

 待ってくれ。こっちは信号無視なんかしていない。

 途中まではっきりと信号は見ていて、最後も見ようとしたが、ダンプのすぐ後ろだったので見にくかった。無視なんてとんでもない。

 もちろん、そんな言い分は聞いてもらえるとも思っていない。

 せいぜいで、仕事の約束時間を10分ほど過ぎていたという状況に同情だけはしてくれた。

 「最近、死亡事故がとても増えておりまして、取り締まりも厳しくなってるんです」と、若い真面目そうな警官が言う。

 しかし、同情はあくまでも同情。罰金が二割引きとかポイントが三倍付くとかではない。

 若い警官の同情に慰められているわけにもいかず、諸々の手続きを済ませると、当然だがすぐにその場を離れた。

 激しく自虐的になりつつ運転に戻ると、不意にあることがアタマに浮かぶ。

 それは、かつてコント・レオナルドという、文字どおりの名コント・コンビがあって、彼らのネタに「信号無視」を題材にしたものがあったということだった。

 このコンビは、今は亡きレオナルド熊と、現在役者として渋い脇役をこなす石倉三郎との絶妙なやりとりが人気を博していた。

 ボクが好きだったのは、おまわりと運転手のやりとりという定番的なネタで、その中に信号無視した運転手(熊)と警官(石倉)とが押し問答するシーンがあった。

 「今、信号無視したでしょ?」

 「なにィ? 俺は信号無視なんかしてないよ」

 「だって、今、信号無視したじゃないか」

 「俺は信号無視はしてない。信号はちゃんと見ていた」

 「だったら、余計悪いじゃないか」

 このようなやりとりが続くのだが、レオナルド・熊のとぼけた演技が堪らなく笑えて素晴らしかったのだ。

 心が少し和らいだ。それから、ボクはしみじみと今回の不祥事について考え始めた。

 レオナルド・熊が演じた運転手とは違うが、自分も信号無視はしていなかった。

 だが、ちょっと甘く見ていたのかも知れない。

 強いて言えば、信号無視ではなく、信号軽視だったのだ。

 信号のやつ、もう少し黄色で待ってくれているだろうと勝手に解釈し、その分気持ちを大きくしていたのかも知れない。

 ニンゲン、どこでどうなるか分からない。自分は特別無茶な運転をするドライバーではないし、それどころか、どちらかと言えばおとなしい方に位置付けられると思ってきた。

 しかし、これからは初心に戻り、正しく“更生の道”を歩もうと思う。

 社会のルールというやつは、そんなに甘くはないのだ……

“寿”のテーブルに座る

 全くもってカンペキに、どうでもいい話だ。

 実を言うと、ボクの正式な名前は「寿(ひさし)」と書く。

 世の中的には、かなりおめでたい場合に使われている漢字なのである。

 昔、寿司屋の寿だからと、「中居・す」さんと呼ばれたことがある。

 言った本人もかなり困窮していただろう。

 これがホントの「呼び捨て」だと、その時発作的に思った。

 ところで、宴席に出ると、よく「寿」のテーブルというのがある。

 しかし、これまでその名のテーブルには、一度も当たったことがなかった。

 それが、つい先日のことだ。

 苦節?五十数年、生まれて初めて、自分の名前を冠したテーブルに着くことになった。

 くじ引きみたいなことをさせられたわけではなく、事前に決められていたのだ。

 ひょっとすると、ボクの名前を見て、この人は是非「寿」のテーブルについてもらおうと考えたのだろうか。

 いや、そのようなことはありえない。

 そんなことを薄らぼんやりと考えながら、三回ほど名札の紙切れを確認した。

 そして、テーブルを見つけると、一応、さりげない顔をして椅子を引いた。

 座っている間も、テーブル上に無造作に置いた名札が、やたらと気になった。

 何度、目をやったことだろう。

 幸いにも、その上に何かがこぼされたりすることもなく、白い紙きれは、閉宴まで置かれたところにじっとしていたのだ。

 帰り際…、その名札をそっとポケットにしまったのは言うまでもない。

 その名札を家人に見せ、家人からバカにされたのも言うまでもない。

 ニンマリしながら飲み直したのも言うまでもなく、

 数日たった今、まだ我が家のテーブルの隅に置かれているのも、当然、言うまでもないのである……

稲架木や、稲架のこと

 稲架木(はさぎ)というものに興味をもってしまった。

 先日、石川県立美術館で「村田省蔵展」を見てからだ。

 氏が絵の題材にされていて、その特徴的な姿が印象深く記憶に残った。

 稲架木は、文字どおり水田近くに並んで立つ。

 刈り入れの時、それらの幹に竹などが何段も組まれて、刈り取った稲を自然乾燥させる。

 ただ、その用途がない時は、当然普通の木として立っている。

 新潟の弥彦(やひこ)あたりに多く見られるらしい。

 機械化が進み、稲架もそのまま消滅していくみたいだが、氏の作品に描かれた、整然と並んで立つ稲架木の姿からは、自然と同化したヒトの知恵みたいなものを強く感じた。

 チカラの抜けた、まさに自然体の、自然的人工物。いや、人工的自然物と言うべきか?

 どちらでもいいが、刈取りが終わり静まり返った秋の夕暮れの風景や、雪が融けはじめた早春の頃の風景の中(もちろん絵の)にあると、稲架木たちはまるでオブジェのように、また生きもののように見える。

 絵を見ながら、自分がなぜ、こういうものに興味を抱くのだろうかという不思議な思いも重なった。

 そして、絵を見ているということを時々忘れ、旅をしているような想像が飛んだ。

 あれから数日が過ぎ、新しい年になって二度目の能登行きの日。

 もともと稲架木のようなものを能登でも見ていたような記憶があり、それらしき場所では目を凝らしてクルマを運転していた。

 そして、もう帰り道に入った旧門前から穴水へと抜ける道沿いで、それを見つけた。

 金沢を出たのが遅い時間だったせいもあり、仕事の合間では無理だろうと思っていたのだ。

 水田の奥の、杉並木に整然と横棒が組まれている姿はすぐに視認できた。

 道沿いと言っても、かなり奥。村田省蔵氏の絵にあった、弥彦の稲架木みたいなカッコよさはなかったが、一応稲架木形式である。

 もともとは防風のための杉並木だったのかも知れないが、低い部分の枝打ちをして稲架木として使っているのだろう。

 ところで、ボクの中にある稲架というのは、必要な時にちょっと太い木を立て、それに竹を這わしていくか、縄を結んでいくようなものだった。

 弥彦の稲架のように、木そのものが存在感を持っているものではなかった。

 考え方としては、非常に合理的なやり方であり、ごく自然な感じがする。

 能登の里山には稲架が年中建てられたままになっている風景が多く見られる。

 野菜などを干すためのものもあるみたいで、これらもなかなかの味わいを感じてしまう。

 風が吹こうが、雪が降ろうがといった感じで、田畑の道沿いに踏ん張り立っていたりする。

 別に能登に限ったものではないだろうが、里山系農村風景には欠かせない一品であり、文化的財産として大事に見つめてあげてもいいのではあるまいか?と、秘かに思っている。

 そんなわけで、突然こんなことを考えてしまうクセは今年も健在なのである……

恵まれた学生たち

金沢市でもどこでも、大学生たちは大事にされ(過ぎ)ていると、少し斜め目線で思うときがある。

彼らのやることは、自由な発想とかで、いつもピカピカに輝いて見えているに違いないと……。

それも確かだが、地元で頑張っている“経験豊かなやり手たち”はもっと凄い。

ただ、なかなかそのことが表には見えてこないだけだ。

みんな、いつもは仕事という制限されたしがらみの中で自分を表現するしかないから、自由な発想など忘れてしまったと思われているのだろう。

昼間から喫茶店をハシゴしながら、ウンチクを語るおじさんたちの話を、学生たちは聞いたことがあるだろうか。

みんな本気になったら、凄いのだ。

学生は行政に育てられるのではなく、「まちのヒトビト」が学生を育てる。

地元の学生の活動のためのハコを造ることも大事だが、まちのヒトビトの魅力を引き出す場にも目を向けたい。そこに学生を呼んで学んでもらえばいい。

商売はもちろん、趣味・遊びの世界を語れる「まちのヒトビト」を忘れてはいけない。

時々、カリュキュラム的にやり過ごされる学生パフォーマンスを目にしていると、ふと思うことなのである……

 

捨てられない通行許可証

クルマのダッシュボードに取ってあった「通行許可証」。

日付は平成19年10月3日。

その年の3月25日に起きた能登半島地震で、しばらく陸の孤島となった、門前深見に向かうためにもらったものだ。

当時、2月から始めていた地元・總持寺の歴史などを紹介する「禅の里交流館」の仕事のために、深見の奥にある桜滝の撮影に行かなければならなかった。

地震発生から3ヶ月ほどは全く仕事が止まり、再開されると、一気に進めなければならなくなった。

国道249号線から鹿磯(かいそ)、そして深見に向かう道の崖は完全に崩れ落ちていた。

深見の住民たちは、地震発生の数日後に舟で脱出している。

そのことは、深見の人たち、特に老人たちの美しい地域愛と勇気を世の中に示した。

10月、大工事が行われていた。

“崩落”という漢字と、“復興”という漢字が頭に浮かんだ。

そして何よりも、工事にあたっていた人たちの意気込みが、車窓をとおして、はっきりと伝わってくるような気がした。

この「通行許可証」は、いつまでも処分できない。

多分、ずっと身近などこかに置いていくのだと思う……

ビールは体育実技だ

もう一ヶ月も前になるんだと思いながら、7月30日の深夜、京都四条の某ホテル8階817号室で綴っていた文章を読み返している。

狭い机に向かって、『ビールの科学』という本の読後感想文を書こうとしていて、途中でやめた。

その一時間ほど前まで、高台寺の近くの「T界」という、いかにも京都らしい古い佇まいのお店で、ひたすら冷たいビールと好奇心をくすぐるクリエイティブな料理をいただいていた。

案内してくれたのは、F見クンというクリエイターで、その店は彼の会社の社長さんがオーナーらしかった。

F見クンは、店内の襖や壁、座布団などに施されている、非常に繊細なプリントを手掛けていた。

金沢美大に入った頃から大学院を卒業するまでは、ボクの会社でアルバイトをしている。

なかなか機転が利いて、突っ込みも鋭い優秀なスタッフだったが、本業が染色という特異な分野だったこともあり、結局その能力を活かせる会社に就職した。

それ以来だから、もう十年近く会っていなかったことになるが、「T界」から八坂神社を抜け、四条通を烏丸まで語りながら歩いた。いい時間だった。

彼の創作や実直で子煩悩な人柄については、また今度4000字ほどに簡単にまとめて書くことにしよう。

 

ホテルに戻ってシャワーをすると、37度の猛暑に耐えてきた体が汗臭さから解放された。

それにしても、午後三時すぎ、烏丸御池から四条烏丸まで歩いた時に見た人々の表情たるや、あれはすでに苦痛を通り越し、最早、どうにでもしてよ的茹だり顔であった。さすが京都だ。

これからビールのことを書こうとしているのだからと、外から買って来た缶ビールをまず一本開ける。

缶の半分ほどを飲んでから、風呂上がりの汗をもう一度拭き、さらにまた缶ビールを手にすると、あっという間に一本が空になった。

昔、今日みたいな猛暑の京都で、四条のビルの屋上広告塔に付いていたデジタル温度表示が40℃を示しているのを見て驚いたことがある。

四条大橋の上から、何人かの人がその表示を指さしていた。

その時のボクは、四条通りのN村証券京都支店の前で「からくり時計」をじっくり観察した後だった。

当時、金沢の某商店街に提案しようとしていた「からくり時計」については、その時も伏見の商店街へ行ったりして、なぜか京都が先進地だったのだ。

で、四条大橋を渡った後、八坂神社に向かい、八坂から高台寺などを経て、清水寺まで歩いた。

ここまで来れば、最早観光でしかなく、仕事成果はカメラの中にしっかり納まっていたのだ。

とにかく暑かった。扇子を一つ持ってはいたが、扇いでも熱風が顔に当たるぐらいで、とても涼気を感じるなどといった雰囲気ではなかった。

ただ、その頃のボクは、野球と山岳と失恋とで鍛えた体力と忍耐力(根性)には自信があり、生半可なことではヘコたれることもなかったのだ。

そのことを支えていた大きな力?のひとつに、“汗をかけばビール”という安直だが心強い依存物があった。

これは、山でもよくあることで、例えば朝四時に麓の小屋を出発し、同九時近くに中継点の山小屋に着くと、そこでまず缶ビールを空けた。

喉が渇けばビールといった感じで、飲み物=ビールが普通になった。

しかし、一旦飲むと、その後が辛くなってくる。

特に長い行程を歩くときや、岩場の連続などといった時は、ビールを飲んだことを後悔したりした。

京都でも同じだった。

午前中からではなかったが、特に高台寺から清水にかけては、赤い大きな和傘が見えてくると、毛氈の敷かれた床几に腰を下ろし、中ジョッキの生を注文する。

傘があっても、具合悪く日陰になっていない所もあったりするが、それでもとりあえず中ジョッキだった。

当然、アタマはカンペキにボーッとしていた。

 

そんなことを思い出しながら、『ビールの科学』をもう一度手に取った。

そして、表紙を見ながらじっと考えた。

結局、この本はボクにとって何だったのだろうか?

何となく覚えているのは、コクとキレのこと。

ウグウグッ、ウッグゥ~と喉を鳴らしながら飲みこんで、胃にまですべて到着したかなと思った瞬間に、ウッ、ウップァァァ~と濃い息を吐く。

このウグウグがコクで、ウパ~がキレだということで、これがビールの決め手だということだった。

なるほどとかなり激しく納得した。

あとは、皆で楽しくやる時にはビールがいいということ。

シャンパンも炭酸が入っているから、乾杯に使われるが、ビールはいかにもめでたい系や、憂さ晴らし系にもってこいだということ。

これもひたすら納得した。

それ以外は、ホップがどうのこうのとか、麦芽がどうだとかと言われても、大いなる納得には結び付かなかった。

つまり、途中からかなり読むのも辛くなり、とりあえず一応…的に読み終えたが、アタマには何も残っていない。

ボクは思うのだが、ビールはしみじみ飲むものでもないから、何も考えなくてもいいのではないかと。

それに、ビールには科学は似合わないのではないかとも。

ビールに合うのは、科学ではなく、体育実技とか英会話ではないかとも。

そんなわけで、『ビールの科学』の読後感想文は、やはり書けないと言う結論に至り、これから体育実技的に、缶ビールを思いっきり力強く開けようかと思った次第なのであった………

 

自分たちのスタイルで勝つことのむずかしさ

 ロンドンのオリンピックをとおして、競技としてのスポーツに対するさまざまな思いが再燃してきた気がする。

 惨敗した日本柔道のあり方や、銀メダルを手にした“なでしこジャパン”のゲームスタイルなど、いくつかの現象の中から、スポーツに対してもってきたイメージを再確認することがあった。

 勝てなかった柔道には、当然だが多くの疑問を投げかけられた。

 一方で、なでしこは自国からは称賛されつつ、相手国からはあまりいい評価を得ていなかったりもする。

 たとえば日本に負けたブラジルの監督は、日本チームをチャンピオンに相応しくないといった意味の言葉で表現していた。

 ボクはもともとサッカーに関しては、アンフェアがそのまま当たり前のように通ってしまう、かなりおかしなスポーツだと思っている。

 相手選手のユニフォームを摑んだり、大した衝撃でもないのに、大袈裟に倒れたりする、あのような行為は実にアンフェアでおかしい。

 レフェリーが見ていなければ何でもやる。見えにくければ、オーバーアクションで訴える。

 スポーツの世界に限らず、ああいうことが許されることはめずらしい。

 超国際的とも言えるサッカーだからこそ、それがまた罷り通っているのだろう。

そう言う意味で、その不可思議なスポーツの最強国のひとつであるブラジルチームの監督が、自国のスタイルを正当化し、日本を非難するのは、一方でなるほどなと納得もできるのだ。

 柔道については、発祥国としてのそもそも論が日本にはある。

 しっかりと組んで、一本を取る…。日本柔道は、当然のようにしてそのことを重視する。しかし、それでは勝てなくなった…?

 競技としてのスポーツ、特にオリンピックのような四年に一度しかない大舞台はもちろんのこと、普通に一年に一度開催される大会などにも、多くの選手たちの目標が宿っていて複雑な要素があるのは当然だ。

 ずっと苦しい練習に耐えてきて、簡単に一度の勝負に屈するわけにはいかない使命のようなものもあり、勝つための方法論が重視されていく。

 たとえば……

 大学時代、我々の明治は、常に早稲田と大学ラグビー界のナンバーワンを争っていた。

 毎年12月の第一日曜日に行われる、伝統の「早明戦」は国立を満員にし、チケットを手に入れるのも難しい人気カードになっていた。

 両校の部員たちにとっても、その一戦への思い入れは深く、その試合のために一年間練習してきたといってもいい緊張感があった。

 応援していた学生たちも、OBも学校関係者も皆そうだった。

 明治には、もうすでに故人となった北島忠治という名物監督がいた。

 有名な「前へ」を徹底した名指導者だった。

 明治ラグビーを象徴する、その「前へ」は、ボールを持ったら、ひたすら真っ直ぐゴールラインをめざして進めといったもので、フォワードを中心にした単純明快なラグビーの凄味をボクたちに見せてくれた。

 それに対して、早稲田はバックス中心のチームで、前へというよりはパスによって横へ展開するという、表現としては「華麗な」ラグビーを実践した。

 この両チームが激突するわけだから、勝利はチームカラーが強く現れた方に傾く。

 明治の全盛の頃は体力的に早稲田を圧倒し、試合はいつも明治の攻撃中心に進んでいたような感じだった。

 当時試合は、テレビばかりでなくラジオでも放送されていたが、こんな感じである。

 「ゴールまであと五メートルでの、明治ボールのスクラム。ボールが入った! 明治、押す! 明治、押す! 早稲田、懸命に堪える! 押す、明治! 堪える、早稲田!」

 アナウンサーが何度も同じことを繰り返す。

 明治はスクラムからボールを出して展開すれば、簡単にトライが奪えそうなのに、そうはしない。

 何度も何度もスクラムから、フォワード中心でゴールラインを越えようとしている。

 そして、試合が終わってみると、あれだけ圧倒していた明治だが、僅差の勝利か引き分けか、ひどい時は負けていたりもする。

 しかし、どんな時でも、試合後の北島監督のインタビューはこうだった。

 「選手らは、明治らしいラグビーをやってくれましたわ…」

 応援していたボクたちには、なんとまあ歯痒い言葉だったが、北島監督はいつも勝ったか負けたかではなく、自分たちがやって きたスタイルを、しっかりと表現できたかについてのみ語った。

 柔道で金メダルをとったフランスの選手が、やはり日本には優れた柔道家がいる、柔道は日本だといった意味のことを語っている。

 しかし、競技としての柔道は、今、日本式では通用しないのかもしれない。

 サッカーもそうだが、そのスポーツの発祥国は、基本を示すことはできても、完全な勝利から徐々に遠ざかっていく。

 イングランドは常に上位に入ることはできても、ナンバーワンにはなれない。

 WBCで日本がアメリカに勝つ。攻撃よりも守備。ホームラン一発よりも、シングルヒットにバント、その積み重ねが勝利を導き、日本は二大会連続ナンバーワンになった。

 日本が本場アメリカの野球に勝つために仕掛けてきたものは、まさしく外国の柔道家たちが日本の柔道家たちに仕掛けてくるポイントをとる柔道と同じではないか。

 前述の、あの明治のラグビー精神などは今や理解されにくい。

 ブラジル女子サッカーチームの監督が口にした言葉も、今では情けない響きしか持たない。

 身体の小さい国の選手たちが、大きい国の選手たちに勝つために、さまざまな戦法を考えていくのは当たり前のことでもある。

 正直、なでしこの試合を見ていて、サッカーチームとしての力はすべて相手の方が上のように思えた。

 近い将来、あのデカい図体をしたフランスなどは日本を叩きのめすほどのチームになるのかも知れない。

 しかし、なでしこたちもまた考えていくだろう。何をどうすれば、自分たちは相手よりも一点でも多く取れるかを。

 大袈裟な言い方だが、ボクはスポーツの美学というものも信じる。

 競技スポーツの中で、絶対に勝利を得なければならないという使命は、どこかに歪をつくると思っている。

 甲子園で松井秀喜が五打席連続敬遠された事件があった時も、当時の山下智茂監督は、後年このように語っている。

 相手校である明徳義塾監督との野球観の違いだが、しかし、自分は負けても勝負させる。

 勝負して負けたことによって、投手もまた成長できると。

 特に、松井の前に走者もいない場面での敬遠に、山下前監督は大きな違和感をもったと語っている。

 競技スポーツは、よほど相手が反則でもしないかぎり、相手より多く得点するとか、相手より早くゴールに辿り着くとかが求められるものだ。

 そういう競技スポーツの発祥国のチームとか、チャンピオンになったチームとか、伝統を重んじるチームとか、そういった宿命みたいなものを持ち合わせたチームが、自分たちのシチュエーションをどう維持したり発展させたりするかには、大いに興味がある。

 そして、スポーツの美学を語る上でも、そういった宿命を背負いつつ勝つことも求められたチームのチャレンジを、ずっと見つめていきたいと思う。

 柔道は言うまでもなく、なでしこも、ついでに明治のラグビーも、基本的には「自分たちのスタイル」を大切にするチームである。

 できるならば、その自分たちのスタイルのまま勝利を勝ち取っていけるチームでいてほしい。

 まとまり切らないが、眠い目をこすり、いつも以上にボーっとするアタマを叩きながら、ここまで書いてみた……

伝えることの大切さ・・・について

先日、県庁で開かれた「ブランディング」に関するセミナーに参加して、ふと思ったことがある。

講師の女性の感性と自分の感性とに妙な共通点があるような気がして、その裏にある共通の何かを探ろうと話に聞き入った。

ちなみに、連れは和菓子屋ご主人兼ジャズトランペッターのカーさん。プランナー兼野外活動家のアーさんなどで、眠気との戦いを念頭において一緒に参加しようと提案したのだった…

さらについでの話をすると、ボクのために空けておいてくれた席には、なぜかセミナーとは全く無関係の「モンタレー・ジャズ・フェスティバル in NOTO」のチラシが置かれていた。

粋な計らいは、カーさんの仕業だったのは間違いない。

で、共通点のことなのだが、しばらく聞いているうちに、“ストーリーをどう伝えるか?ということが大切だ”という話に至って、案外簡単に、あッそうか!と理解できた。

女史は、自分はもの書きだと言った。事実、某大手企業の社員でありながら著書が多い。

ボクもまた、某中小企業のプランナー兼役員でありながら、もの書きをしている。

正式に名前の明記された本は一冊しか出していないが、公私混同型で、あちこちさまざまなメディアに書きまくってきた。

伝えることの重要性というのは、その対象となるモノやコトに秘められたストーリーを知ってもらうことであり、そうすることによって、そのモノやコトにより深い趣を添えられるということだ。

つまり、その先生も同じようなことを言っていたのだ。

この場合、ボクの方が先生より後発ではないと自信を持って言えるのだが、世の中はそういう風には見てくれないので余計なことは言わない(そのことが余計かな?)。それに“レディ・ファースト”という言葉もある。

 

「松井秀喜から学んだ野球文化…」の中でも書いたが、ボクはストーリーをかなり重要視するタイプだ。

無理やり人目を引こうなどとは考えずに、そのことそのものをしっかりと伝えることだけを考える。

すると、不思議にその核心は確実に得られる。

例え話をすると、知り合いの山岳写真家の写真展を企画する時、その写真家の詳しいプロフィールと山への入り方、写真を撮る時のスタンスや、実際にこの写真はこういう状況で撮ったということを伝える(文章で)と、観ている人たちはとても感動してくれる。

アマチュア写真家や山好きの人たちは、ちょっとした自分との共通点、そして非共通点に納得し、そのことを喜んでくれる。

金沢21世紀美術館の展覧会のレセプションなんかに参加してもよく分かることがある。

それは作家の意図らしきものを学芸員から聞くだけで、作品への愛着が思った以上に膨らむということだ。

やはり、理解できたという思いはかなり強く作用するのだ。

A元館長から、いくら“感じてください”と言われても、その感じ方そのものに自信が持てない時もある。

 

 ところで、今の世の中、モノ・コトはかなり経済で価値判断されるようになっている。しかし、その度合いの良し悪しもまたむずかしい。

経済の観念が大きくなり過ぎて、嫌気がさし、去って行ったという人も知っている。

ここでいう経済とは、社会的な知名度も含むような気がする。

その時に感じるのが、それを求める露骨な話には、ちょっと大きかったり、嘘っぽかったりする要素が多いということだ。

広告屋的には、モノ・コトすべて肯定的な視点が必要なのだが、それだけではなくなってきた感もある。

特に3.11からは、問題提起しないと世の中から置いてきぼりにされてしまうと思い込んだ人たちが多くなったようだ。

事象が似ていても、根本的に違うこともある。

昨年の9.11の時、3.11と同じ次元で語っているニンゲンを何人か見たが、あれは大いなる間違いだと思う。

そういう間違いが問題提起型ニンゲンには多いようなのだ。

社会的な問題提起に多くの力を注ぐ必要はそれほどないと思う。

自分自身のスタンスをしっかりと持っていれば、まったく不自然さはない。

少なくとも、ボク自身もまた何人かの被災者を大切な友人としてもち、その彼らに対する思いだけでも自分自身を高揚できるし、純化できている。

しっかりと彼らのことを考えていれば、自分のやらなければならないことも素直に見えてくる。

話がちょっと固くなったが、このことは地域づくりからお店づくりなど、また商品開発などにも応用されるし、博物館や資料館をつくる上でも絶対的に必要なものになる。

ないものを作り上げる努力も大事だが、あるものやあったものを探し出す(光をあてる)努力もまた価値は高いとボクは思っている。

ずっと生きてきて、仕事をし、それなりに考え、音楽を聴いたり、旅をしたり、本を読んだり、その他モロモロ興味を抱くものを、人よりはちょっと多く持ってきた。

まだまだ結論を出せるような域には至っていないが、モノ・コトに潜んでいる臭いにはかなり敏感になっている。

講師の話が終わることになって、そんなことがはっきりと分かってきた気がしていた…

自分の世界とは何なのかな?

この雑文を読んでくれているという人(30代オトコ)から、突然、「ナカイさんの世界が少し分かってきたような気がします…」などと言われた。

今までほとんど言葉も交わしたことのなかった人からそんなことを言われると、ちょっと動揺する。

さらに、ナカイさんの世界なんて言われるのも同じで、こういうことがあると、じっくり自分の世界とは何だったのかと考えたりする。

人にはそれぞれに世界というのがあるのだろうが、他人から言われると少しコソバユイ。

しかし、じっくりと考えていくと、すぐそれは何でもないことなのだとも思う。

周囲を見回すと、人それぞれに、人それぞれの世界があることの普通さが分かる。

ところが、ほとんど知らない人から、少しわかってきたような感じがします…といった表現で言われると、かなりニュアンスが変わってくるのも事実だ。

つまり、その人はボクに関心を持ってくれていて、それでこの雑文に接しながら、ボクの世界を知ってしまったのだ…などと、訳の分からないことを思ったりするのだ。

そして、そうなると何となくその世界とやらに責任みたいなものも感じてきて、その世界の責任者であるボクとしては、それなりに背筋を正したりしなければならないのである。

その彼は、この雑文ページのことを、Facebookを通じて知ったらしい。

最初は、写真に興味を持ってくれていたみたいだったが、時々リンクさせているサイトを読んだのだろう。

当然、こちらとしても読んでほしいからリンクさせるのだが、ストレートにそういう人が目の前に現れると、ちょっと戸惑うのも事実だ。

実は、このことを書くかも知れないよと彼には言ってある。

彼は楽しみにしています!と言ったが、そのこと自体もナカイの世界の一部と受け取るのだろうか。

何となく、無機質なトラック五周型持久走的日々を送る中で、ふと自分を見つめるひとときがあったような、そんな気もした時間だった……

ひたすらせつない青春の歌

「告白の 出来ない恋は 五分咲きの キンモクセイの ただ香りだけ」
日曜の朝、某所で偶然手に取った朝日新聞。
16歳の高校球児が詠んだという淡い恋の歌。
練習の後の静かな夜の気配。
漂ってきたキンモクセイの香りと、それに誘発される切ない思い。
憎たらしいほど、ひたすらな、青春なのであった……

この冬、白い世界から始まるもの

去年まで、五年ほど続けて京都駅の大きなクリスマスツリーを見てきたのに、今年は見ていない。

別にそのツリーを見るために京都へ行っていたのではないが、もうクリスマスも間近になってしまった今頃になって、何となく後悔のような淋しい気持ちになっている。

去年の今頃書いた文章には、クリスマスについての自分の思いを書き、自分たちのバカバカしさみたいなことと、単なるロマンチックなイメージづくりへの皮肉みたいなことを綴った。

それはそれで自分の感じ方なのだから仕方ないのだが、今年は少し違っている。

それは、やはりあの震災があったからで、こういう状況下でのクリスマスには、違った意味のようなものを感じている。

サンタクロースも、そのサンタが届けてくれるプレゼントも、ツリーの明かりも、それらがすべて、今はそれなりに必要なものなのだと思っている。

先週、銀座や有楽町などで見たイルミネーションの光などにも、ボクは特別な何かを感じてしまった。

節電への無配慮とか空虚な演出みたいな思いもあったのだが、それは不思議と消えていた。

職業柄、ああいうものにはいつも敏感でいるのだが、あんなに見入ったのは初めてだったかも知れない。

そのことを力強く意味づけたのは、何よりも子供たちの笑顔だった。そして、それを見て喜ぶ大人たちの表情だった。

雪が舞い始めて、年の瀬の慌ただしさとクリスマスの賑やかさに拍車をかける。

家の前の馬繋ぎと、その周辺の枯れ草たちにも雪がうっすらと乗った。

雪は何もかもを覆い隠すように白い世界を作ってくれる。

この冬が、もういちど新しい何かを生み出してくれるターニングポイントになればいいと思う。

すべてを白くしたあと、また新しい色を塗りたくっていくのは、絆で繋がれた日本人であるボクたち自身だ………

鬼たちは、なぜ来年の話を笑うのか?

そろそろ来年のことを考えようと、「印は無いけど良い品」を売るという店で手帳を買った。

まともな手帳を買ったのは久しぶりのことだ。と言うのも、基本的に簡単なスケジュールだけメモっておければいいというタイプだから、これまで片手で簡単に丸めることができるくらいの超薄型手帳しか持っていなかったのだ。

手帳を入手すると、せっかくだから11月のページから使おうかなと思ったりもした。しかし、実際には12月から使い始めている。

その理由はと言うと、手帳用として使うための筆記具、つまりペンがなかったからだ。なぜか、そんな筆記具にはかなり激しいこだわりを持ったりする。手帳の紙質を見て、できるだけスムースに書けるものを選ぼうと思う。手がだるくなるような硬いペンは好かない。

そして、ようやく手帳購入後三週間にして一本のボールペンと出会った。出会ったと言っても、長女に買ってきてもらっただけなのだが、それなりに気に入った。よくは知らなかったが、ドイツのボールペンだということだ。

ボールペンと言えば、やっぱ、ドイツやろ…と、長女が言う。そう言えば、去年の春長女は旅行でドイツ辺りにいて、そこで買ってきてくれたボールペンは、ごくごく普通のものだったが、かなり書きやすく気に入っていた。

そんなこともあってか、ボクは新しいドイツ製のボールペンと早く打ち解けようと努力を始めた。最近、それが何となくうまくいっているような実感があり、手帳ともよい関係にある。

ところで、冒頭にも書いたように、手帳を買ったきっかけは来年のことを考えようと思ったからだ。

だが、いざ手帳を利用するようになると、あまり来年のことは考えなくなった。

予定を書き込んだりは当然するのだが、特に何かを考えているわけでもない。

来年のことを言うと、鬼が笑うと言われているからでも当然なかったのだが、なぜかそのことに興味が湧いた。

そう言えば、鬼は来年の話を聞くと、なぜ笑うのだろうか?(ようやく本題だ…)

 

 鬼たちは、来年の話のどの辺が可笑しいのだろう?

笑いにもいろいろなきっかけがあるだろうし、笑い方などにも違いがある。だいたい鬼たちが笑うのだから、頬にえくぼを作ってニッコリすることなどあり得ない。

一般的なイメージとしては、豪放に体をのけ反らせ、歯茎をむき出しにして笑うくらいが普通だ。

それに鬼たちはいつも酔っ払っているような印象があって、大声で笑いそうだ。

とすると、この場合でも、鬼たちは来年の話を聞いて体をのけ反らせ、歯茎をむき出しにして笑うのだ。よほど可笑しいことなのだろうと推測できる。

それほどまでにして笑える背景とは一体何なのか?

そのことの以前に、だいたい鬼たちの存在そのものを疑ってしまうのも仕方がないが、それはもうちょっと先に置いておくことにする。

 

考えついでに思うところを書こう…。

実を言うと、ボクは鬼たちには特に強い現実主義者が多いのではないかと思っている。

どちらかと言えば、悲観主義的で、顔に似合わない?ネガティブさを潜めている奴らが多いのではないだろうか。

ストレスの発散が苦手で、どんどん体内にそれを溜めているのかもしれない。

その証拠に、あの大きな角も、ストレスで出来た吹き出物みたいなものだと推測できる。

「全日本角型吹出物群研究学会」などといった学会があったとしたら、そのことはすでに発表されているだろう。そう思って、一応調べてみたが、Googleや、Yahooでは検索できなかった。

というわけで、だからなぜ鬼たちは来年の話を聞くと笑うかなのだが…

つまり、来年のことを楽しそうに語るニンゲンたちに、鬼たちは羨望や妬み、さらに不愉快さや息苦しさを感じ、とりあえず的に笑って済ませようとしているだけなのかも知れない。

あの能面なんかを見ても、怒りと笑いのちょうど中間にある表情だと見てとれる。

泣き笑いと言ってもいい。つまり鬼たちは切ないのだ。

だから、われわれニンゲンとしては、そんな鬼たちの心情をよく理解してやることにも配慮しなければならない。

とりあえず的に笑って済ませようとしているだけの鬼たちに対し、無意味に笑い返してもいけない。

われわれとしては、むしろ温かな気持ちをもち、鬼たちの笑いに対してちょっと首をすくめてやるくらいが丁度いいのだ。

そして、出来れば今年の話をしよう。去年の話でもいい。来年を通り越して、再来年の話などはもっての外だ。ついつい口を滑らすなどいうのも気を付けなければいけない。

そういうわけで、この時季は周囲に鬼がいないかを確認しながら、話をするように心掛けたいものなのである……のだろう。

※鬼の絵は、森田加奈子さんの作品

どうでもいいようで、よくなかった話

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の春、金沢武蔵にある「Sタバ」とかいう茶店での出来事…。

店内は混んでいて、辛うじて確保したテーブルに、めずらしく娘といた…。

若い夫婦が赤ん坊をベビーカーに乗せて入って来る。ベビーカーをカウンター前に止めて、メニューか何かを見ていた。

突然赤ん坊がけたたましく泣いた。母親が赤ん坊に話しかける。だが、話しかけるだけ。赤ん坊は泣きやまない。その時間がちょっと長く感じられ、正直不愉快にもなった頃だ…。

「私は、本が読みたくてここへ来てるのよ」と、近くにいた老婦人が言った。細い銀縁の眼鏡をかけた、白髪の小柄なおばあさんだった。

言い方はまったく激しくはなく、むしろやさしかった。が、その言葉で店内はしーんと静まり返り、ボクと娘も顔を見合わせていた。

若い夫婦は、何か悪いことでもした? というような顔をしながら、混んでいたこともあってか、そのうち店を出て行った…。

そのことがあってから、なぜかそういうシーンに敏感になった。

たとえばMスドとか、Sタバのような店では時折そんなシーンに遭遇した。オトッつァんたちやオッカさんたちが話している時などは、まあまあ許せるが、ちょっと仕事や勉強などをしている人たちには堪ったもんじゃない。

ボクも原稿書きに時折使わせてもらっている。

先日見たシーンも、見るにも聞くにも耐えがたいものだった。

五人で入ってきた、いかにも若きスタイリッシュな母親たち。それぞれが一人ずつ小さな子供を連れている。ほとんどがようやく歩き始めたばかりといった、普通に言えば可愛くてたまらない子供たちだ。

しかし、五人も集まれば、まず母親たちが静でない。はっきり言って、うるさい。さらにそんな母親たちが子供たちをまったく見てないから、子供たちも解放的になり、うろうろと、いや、よちよちと店内を歩き回る。

歩いているだけならいいが、喚いたり、叫んだりもする。機嫌が悪くなると、当然泣いたりもして、店内はさらに騒々しくなる。

近くまで来れば、ちょっと愛想笑いもしなければならないし、気を使う。

しかし、母親たちはほとんど極限状態にならないと腰を上げず、ひどいのになると自分の席から、

「・・ちゃん、こっちおいで」とか、「静かにしてなきゃ、ダメでしょ」などと言うだけだ。

パソコンに向かってレポートでも書いていたのだろう、女子大生風の女の子は母親たちの方を一回睨んでから、イヤホーンを耳に当てた。

外国語の辞書か何かを広げていた女性も、それをバタンと閉じてフーッと息を吐く。

ここで、「おいコラッ、責任者出てこい!」などと、もう三十年も前に他界した、ぼやき漫才の人生幸朗(古い!)みたいにはボクも言えない。

思うのは、若いこうした親たちは、しばらくの間こういう店には出入りしない方がいいということだ。

子供たちがもう少し大きくなって、幼稚園でも行くようになるまで我慢なのだ…と。

他人に迷惑をかけているという意識をもたないといけないなと思う。

いくら子供でも・・・なのだ。

最近、ある町で企画しているイベントでは、「子育て」をテーマに進めていたが、途中から「親育て」にテーマが変わった。

今大切なのは、よい子供を育成していくために、よい親を育てなければならないということだった。

高校球界のある有名監督さんから、選手を育てる前に、親の方に神経を使っていたという話を聞かされたこともある。

たまたま、こっそり練習を見に来た母親が、自分の息子がファールグラウンドの草取りをしていたのを見て、学校に電話してきたという。

「うちの息子は、草取りをさせるために、そちらの学校に入れたのではありません」と。

草取りは当番制で、たまたまその日が当番の日だった。こういうことから野球、いやスポーツ、いや社会は始まるのではないか・・・。

どうでもいいようで、やはり自分の経験からしてもよくなかった話だった……

孤独と単独

誰でもそうであるように、「孤独」という言葉よりは、「単独」という言葉の方が好きだ。

単独には、自分自身の意思があり、孤独にはそれがないと思うからだ。

独り旅、単独行…など、心をくすぐる響きをもった言葉も、いつもボクを煽ってきた。

そして、いつも素直にその言葉の意味を受け入れ、それなりにそのことを楽しんでもきた。

心の赴くままに…というほどかっこよくはなく、別に大したことをしてきたわけでもないが、そうしたスタイルは、「らしい」ものにもなっていったのだろう。

今以上にまだ青臭い大人だった頃、「N居は、孤独を愛するオトコなんだな…」と言われた。

答えに困り、さらに正確に答えられる準備もしていないまま、黙って笑ってすませた。答えるのが面倒だっただけだ。

孤独なんか、愛してない…。孤独を愛するなんて言葉そのものが嫌いだ。 その後で、激しくそう思った。

そんな寂しい人間じゃない…とも。

しかし、時折だが、かつての小さくても単独行だった旅を振り返ると、切ない気持になったこともあった。

独りでいたことが、自分の中で何を意味していたのだろうかと、余計なことを考えるようになっていた。

独りでいたことが、そんなに楽しかったのかと、自分に問いかけるようにもなった・・・・・・

しかし、やはり楽しかったとしか言えなかった。楽しいというだけとはちょっと違うが。

古くは、小説『孤高の人』のモデルとなった加藤文太郎。

そして植村直己や星野道夫などを思い浮かべると、単独を実行した人たちが、いかにむずかしい環境の中に自分を置いていたかが理解できる。

当然ボクはそんな環境にいなかった。しかし、独りで行き場所を探し、独りで足を向け、独りでその地に立って考える・・・。そんなことに楽しさを感じていたのは間違いない。

独りで自然や歴史などの空気に触れていることは、それらと自分自身との接点を確認するみたいなことだった。

そして、忘れてはならないのが、その対極で、いつもヒトビトとの酒盛りや語らいやバカ笑いがあったことでもある。

最近、孤独という言葉には、独り暮らしの老人などを対象に使われるだけの感じしかしなくなった。

都会の中の孤独とかいう言葉も聞かなくなった。

その分、単独と言う言葉にも味がなくなってしまったような気がするのだ……

B級風景のこと

 “B級風景”という勝手な名前を付け、身近にあって自分の好きな風景を大切にしている。先日、柿木畠でこういう話をしたら、横で聞いていたご婦人が、なかなか面白そうやねえと興味を示してくれた。“B級グルメ”と言う言葉がやたらと流行り始めてから、このネーミングを思い付いたのだが、実はずっと以前からこういう概念(というほどのものではないが)と、楽しみ方を持っていた。

 それは司馬遼太郎氏の『街道をゆく』に影響された街道と歴史をめぐる旅や、信州などへの自然を求める旅、さらに奈良京都などへの古い寺社をめぐる旅などから得た道中の楽しみ方の発展したものだった。

 ボクの場合、単独での行動が多かったこともあってか、気の向くままに足(クルマ)を止め、その場に佇んでボーッと何かを眺めるということができた。そういう時に眺めているものというと、ほとんどが深い山里の風景などで、そんな中でも少し生活の匂いのする場所が好きだった。

 たとえば、川を挟んで向かい側にぽつんぽつんと家があり、それらの家の背後に小高い山があったりすると、ボクのセンサーは鋭く反応した。それが川というよりも谷を挟んでいたりすると申し分なかった。山並みの角度や家々の建ち方にもこだわりはあった…が、それらはすべて全体の風景を構成する一部であったと思う。

 こういう風景は、観光地でも、まちづくりで整備された地域の中でもない。ごくごく普通の道すがらにあった。上高地行きの話でも書いたが、途中にある村の風景は、いつも心の中に秒速五メートル半ほどの風を吹かせた。高い山並みに囲まれた谷沿いの道、その道沿いにつづく石垣や畑や家々、道のカーブの仕方ひとつにもボクの胸は躍った。

 上高地へは登山で行くことが多くなると時間が勿体なくなり、ただひたすら若干の徐行で我慢せざるを得なくなった。夏の季節が多かったせいもあり、のびのびと子供たちが遊んでいる風景が印象として残っている。

 また、糸魚川から白馬方面へと上る国道沿いにある山里も強く印象に残り、姫川の流れを挟んで、よく向かい側ののどかな山村風景を眺めたりした。弁当を買っていき、河原から風景を眺めながら食べたこともある。ある晩秋の黄昏時、農家の屋根からゆったりと昇り始めた煙を目にした時などは、野良仕事を終え一番風呂に浸かるお父さんの姿が浮かんできた。あああ~ッという、その日一日分の疲れを吐き出す声も聞こえてきた気がした。風呂上りには、冷たいビールが待っているんだろうなあと、余計なことも考えた。しみじみと自分の人生などを思った時であった…?

 こういう状況に自覚症状が表れ始めると、敢えて遠くまで足を延ばさなくても自分を満たしてくれる風景があることに気が付きはじめる。しかも、何となく日常の中にそういうものの存在を発見し、暇を見つけて近場にも出かけるようになる。

 仕事でもそんな流れが出来ていくのは当然だ…?

 加賀から始まった観光の計画に関わる仕事は、まさに打ってつけのモチーフとなる。白山麓全体の観光計画に関わり、村々をめぐっていた頃には、プライベートでも山道に深く入り込んで、とにかく新しい発見に没頭した。能登でも一応全域の道をめぐった。仕事で行くことができたという運の良さ(自分で企画したから)もあり、仕事と趣味とを合体させるお手本のような至福の日々であった。

 当然のごとく、金沢でもよく歩いた。某大学の先生とのコラボとなった古い家並みを紹介するための旧城下の調査取材。卯辰山山麓や小立野、寺町の三寺院群をそれぞれにめぐる道の調査取材などは、とにかく四方に目をやりながらの風景探しだった。もちろん、こういう仕事には撮影や文章書きが付いてまわり、それらはいくつかの印刷物などに残っている。

 そして、その時に見つけたのが、まちの一画にある何でもない素朴な風景だった。寺院群の取材では、卯辰山山麓に最も時間を費やしたが、「こころの道」という名前で知られているルートには、隠れた魅力(いい場所)がいっぱいあった。

 小立野の寺院群をめぐるルートは「いし曳きの道」と名付けられたが、ボクは三寺院群めぐりの中で、この道がいちばん優れていると思っている。それはさまざまな坂道が生活空間の中に自然と絡み合っていて、風景をより立体的に見せているという点だ。そして、素朴な寺院の存在はもちろんのこと、何気なく建っている小さな石像なども印象的だった。

 寺町は「静音のみち」と名付けられた。“しずね”と読む。ここでは願成寺という、松尾芭蕉ゆかりの寺の周辺がハイライトとなった。寺の前の細い道をこの一帯のシンボルとして捉えたが、その後この場所は多くのメディアに取り上げられて、目新しさを感じなくなってしまった。

 金沢のように元来が観光地であると、そこにある風景には何かが宿っているといった見方が生まれる。しかし、それは兼六園であり、武家屋敷であり、茶屋街などでのことだ。それら以外の場所には、生活の匂いをプンプンさせながら独特の雰囲気を醸し出しているまちの風景がある。

 金沢のまちの場合は、それこそがB級風景と言えるものだと思う。猫が横切って行く小路、用水に架けられた小さな橋など…。

 かつて、ボクは金沢のそう言った場所ばかりを探し歩いていたことがある。尊敬する写真家でもあった故奥井進氏(ヨークのマスター)にも協力を依頼して、そういう記事を『ヒトビト』に発表していた。奥井さんの場合、特に依頼していたというより奥井さんも好きで撮っていたと言った方が正しい。

 しかし、ボクのB級風景と言う概念(というほどのものではないが)には、どうしても金沢の風景は入りにくくなってきている。街が美しくなっていき、いくら頑張っても? B級にはなれない宿命のようなものを感じている。

 そのことが悪いとかいいとかと言うのではない。金沢は日本を代表する観光のまちなのだから、B級の場所は隠れていくのだろう…?

 ボクは今、能登の町や村、そしてそこに生きる人たちのことを何気なく思っている。何気なくと言うとちょっと違うが、いろいろと書いたりしているから、読んでくれている人はそのことに気が付いているだろう。

 B級風景への思いは、能登から始まった。能登の中の都会、例えばW市やN市、特に前者に関わる仕事をしながら、その逆説的な意味での素朴な風景の話に救いを求めた。一般的な観光地としての魅力とは違う別なものが、そこにはあると思った。

 ボクは、能登は風景がそのすべての源にあると思っている。自然そのものである海や山に人の営みが絡みついて、どこからか独特の空気をブレンドし漂わせてきたと思っている。それはある意味重くて何物にも代えられないことでもあり、そのことが過疎を生み、観光の衰退などにも繋がったのかもしれない。

 しかし、その風景はこれからもずっと残っていく。そして、見る人たちに何らかの安らぎや高まりなどをもたらし続けるとも思っている。そこに能登のB級風景の凄さと、それによる真髄みたいなものを感じる。そして、ボクが最も引っ掛かるのは、その場所に人の営みが残っていくかだ。このことはまた別な機会に書く・・・。

 S枚田とかだけが特化されるような風景の話には、どこか違うのではないだろうか?と、勝手に思ったりもしている。あそこはA級もしくはS級で、しかも人の営みは感じさせない。

 文化などというとすぐに観光資源としての評価に結び付けてしまうから、この風景論は文化を語るものにしたくはない。しかし、身のまわりにあるような、素朴で生活の匂いを感じさせる自然風景の存在には、何らかの評価があっていいのではないかと思う。

 そんなむずかしいことを考えているわけでは全くなく、B級風景を楽しもうという素朴な思いを書きたかったのだが、意味もなく固い話になってきたので、続きは、今度また書くことにするかな…。

 生まれ育った内灘の風景にも、B級の匂いを感じ始めてきたのだ……

秋はまだ始まったばかり

某ショッピングセンター内の書店で面白そうだと手に取った一冊の本。チラチラと読んでいくと、予想どおり面白い。立ち読みは辛いので周囲を見回すと、本棚の角、いいところに椅子がある。腰を据え、ほとんど走り読みながらも七割ほどは読み終えてしまった。

談志師匠の最新本(にあたるだろう)だと思う。といっても、去年出た本だ。帯にもあるが、買うのはよしたほうがいいと言っているので、とにかく走り読みに徹しようと思っていた。しかし、三割を残して制限時間いっぱい、店を出なければならないこととなった。しかも走り読みだから、中身ももうひとつ体にというかアタマにというか沁み込み方が足りないまま・・・

帰ってから飯を食っていても、歯を磨いていても気になり、寝床に入ってからも気になっていたので、ついに我慢できなくなり、翌日、某デパート内の書店で買ってしまった。本はやはり自分のものにして読むのがいちばん。かつては本とレコードと洋服、そして山の道具と小さな旅のために金を使ってきた。今は少ないが、本のためにいちばん金を使っているかもしれない。

買ってからじっくりと二回読んだ。「やかん」というのは落語の題目だが、『世間はやかん』というタイトルは単なるゴロ合わせだろうか。全編にわたって、長屋のご隠居と住人・八っつあんとの対話形式で進んでいく。べらんめえ調の文章だから、読み方もべらんめえ調になる。内容は一言で言っていい加減。しかし、そのいい加減さが徹底されて、そこに真実が見えてくる・・・と言えば大袈裟か? とにかく立川談志の世界なのである。

短いジョークがいい。ひとつだけ紹介すると・・・

「ねえ、おにぎり恵んでくださいよ。ここ三年ばかり、満足にコメの味、味わってェないんですよ」 「心配するな、変わってねぇから」

おまけに、もうひとついく。

「お前はいつも電話が長いね。一時間二時間平気で喋ってんだから。でも今日は短かったじゃないか、三十分だったよ。だれだったの、電話?」 「間違い電話」

まあ、こんな具合にというか、矢継ぎ早にジョークが弾んでいく。弾け砕けながらの約二百ページだ。

去年だろうか、NHKの夜のラジオ番組にレギュラーで出ていた談志師匠は、声もやっと出るくらいの調子で、言っていることはおかしくてたまらないのだが、言葉少なで可哀想だった。

一九三六年生まれだから、もう七十五歳。若い頃は正直言って、どこか憎たらしい感じもあったが、今では自分も談志師匠とほぼ同類科に属しているような感覚にもなっていて、大いに親しみを感じているのだ。

そんなわけで秋の始まりを感じている。

秋晴れの午後、いい気分で、お向かいの津幡町にある森林公園へ歩きに出かけた。しかし、コース選択を間違えて予定をはるかに上回る時間を要してしまった。山で鍛えられたから普通ならそれくらい平気なのだが、歩き始めが遅かったので、駐車場の閉鎖時間に間に合わないかと焦ってしまった。

原因は、サイクリングロードを歩いたからだ。道は舗装されているが、歩行コースよりははるかに長い。当たり前だが、そこを歩くということは時間がかかるということだった。

冷え込み始めた山間の向こうから、超低質なスピーカーをとおして『蛍の光』が聞こえていた。最初は重機の異常音かなんかだと思ったが、よく聞いていくと『蛍の光』だと分かった。ただ、分かってからは焦りが増したのは言うまでなく、そのおかげもあってか、何とか駐車場にたどり着くことができたのである。

しかし、音響システムも悪いが、案内システムもよくないのではないかと思ってしまった。現在地が分からない森は、慣れない人にとってパニックになる恐れがある・・・と、思う。

森林公園には「どんぐりの道」というエリアがある。まだ九月の下旬、道にはぽつぽつとどんぐりが落ちていたが、まだまだ半熟状況で、大きさも色ももうちょっとといった具合だった。

それよりもどんぐり以上に目立ったのがカマキリだ。いたる所に待ち構えていて、アスファルトの路上まで危険な狩りに出ていた。中には蜂をカマに刺した雄々しいのもいて、秋の勇者は健在だった。ただ数があまりに多くて、「どんぐりの道」よりも、「カマキリの道」にした方がいいのではと、余計なこともついでに考えてしまったのである。前にも書いたことがあるが、ボクはカマキリが好きだ。木板張りの我が家の壁にも、カマキリたちは卵を産む。そして、そこから無数の子供たちが巣立っていく。

若いファミリーが歩いて来て、若いお父さんが一匹のカマキリを捕まえた。小さな男の子に、これが本当のカマキリだよと見せている。本当のカマキリとはどういう意味なのだろう? ちょっと考えたが、面倒臭いのでそのまま考えるのをやめた。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

空も秋になりつつあった。帰路、河北潟干拓地の道から内灘の空が赤く染まっているのを遠く眺める。中空に雲が薄く浮かんで見えて、何か爽やかで尊いものを見ているような気持ちになった。

砂丘の公園にある展望台に向かい、その階段を昇った。内灘の海に落ちていく太陽を追って、多くの人がやって来ていた。皆が海の方を向いている中、ボクは反対側に見える北アルプス北部の山並みに目をやっていた。剣岳がごつごつした山容をくっきりと浮かび上がらせている。そう言えば、来月は薬師岳の閉山だったことを思い出した。

夏や冬は焦るが、秋は焦らないで過ごせるからいい。談志師匠のスタンスで、今年の秋はやり過ごしてみようかと思う・・・・・・

柿木畠で能登を語り 主計町でぼ~っとした

台風の煽りを受けた冷たい雨が降り続く日の、午後の遅い時間、ズボンの裾を濡らしながら柿木畠へと足を向けた。

ちょっと久しぶりだったので、駐輪場の前に立つ掲示板を見に行くと、長月、つまり九月の俳句が貼られている。

「少年の 声変わりして 鰯雲」

たみ子さんらしいやさしい癒しの句だ。傘を首で支えながらCONTAXを取り出しシャッターを押す。毎月のことだが、ここへ来る楽しみは変わらない。

ところで、この句をどう解釈しようか? ナカイ流に言うと、夏の間に、誰か分からないが少年は逞しく成長していた…。声変わりもして…。ふと空を見上げると、夏は終わりを告げ、空には鰯雲が浮かんでいた…。夏が少年を大きくしたのだろう…。こんなことだろうか。

いつものヒッコリーで、マスターの水野さんに角海家のパンフレットを手渡し、能登の話をはじめた。

ボクは最近すぐに能登の話をする。自分の中に生まれつつある能登の在り方みたいなものが、すぐに口に出る。その時も、能登は素朴な海や山里の風景が原点ではあるまいかと、一応分かったような顔をして語っていた。

途中から輪島の曽々木あたりの話になり、地元の県立町野高校が廃校となり、民間の宿泊施設がほとんど廃業してしまった現状を憂いていた。そこへもう帰り仕度で立ち上がった先客の方が歩み寄ってきた。

その方は、かつて町野高校で教員をされ、野球部の顧問をされていたということだった。かつて、ボクは町野高校の隣にあるT祢さんという建設会社の社長さんとの出会いによって、曽々木の現状を知った。そして、そのことに対する思いを抱くようになったのだが、その先客の方もT祢さんのことをよく知っていた。

カウンター席でボクの横にいた年配のご婦人も、七尾生まれの方だった。現在の能登町の中心・宇出津のことを、ボクたちは「うしつ」と呼んでいるが、その方は「うせつ」と呼んだ。そして、小さい頃は舟で七尾から宇出津に渡ったと話してくれ、人力車にも乗ったということだった。かなり上級のお嬢様だったのだろう。

「年齢が分かってしもうね」と言って笑っておられたが、ボクの“未完的能登ふるさと復活論”がお気にめされたみたいで、いろいろと話が広がった。

その後にも、今度はまた曽々木出身のご婦人が入って来られ、ヒッコリーは一時能登の話でもちきりになった。

能登の話は、輪島、旧門前、旧富来、志賀、旧能都、羽咋など多面的で面白い。ただ、ボクには課題的に何らかのアドバイスを求められていたりする件があったりして、ただぼんやりと自分の思いだけを語っているわけにはいかない。

たとえば角海家の運営などを考えていく経緯で、故郷を去っていかなければならない老人たちの姿を見せつけられると、寂しさなどといった平凡な思いを通り越した憤りみたいなものに行きつく。もっと別な考え方があるんじゃないかと思ってしまう。

もうひとつは、世界農業遺産に選ばれたということの本質を見失ってはいけないという、これも未完のままの考えだ。前にも書いたが、里海と里山の素朴な風景こそが能登の原点だ。輪島塗は銀座でも売られている能登だが、素朴な風景は能登そのものにしかない。

むずかしい話にならないうちに、柿木畠をあとにする。

そんなわけで、ちょっと楽しい気分にもなれた後、久しぶりに主計町に足を運び、イベントなどを任されている「茶屋ラボ」を覗いた。連休の間にお酒のミニイベントで使いたいという人がいて、その打合せ前に下見に来たのだ。

実を言うと、昨年春、新聞などに仰々しく紹介されて以来、その後は単発になり、大した活動もしてこなかったのだが、ここへきて改めてその使い方を見直そうとボクは考えている。名称も変えようと思っている。もちろん、オーナーは別にいらっしゃるからその認可は必要なのだが、とにかく眠らせておくのは勿体ないのだ。

さしあたり自分でも自主企画の催しをやるつもりで、これからスタッフを固め、企画運営のベースをつくりたいと思っている。まず自分が使うことで、より楽しく有効な用途が見つけられると思う。忘年会の募集もクリスマスの集まりの募集もやりたい。ここには、茶屋らしからぬ“洋”もあったりする。

ところで、外ははげしい雨、独りで茶屋にいるというのは不思議な感覚に陥る。何とも言えない殺風景さがいい。そんな言い方をすると怒られるかもしれないが、何もかもがアタマから消えていくような、いい感じの殺風景さなのだ。

雨戸を開けると、雨音が一段とはげしく耳に届く。浅野川は黄土色の流れとなり風情もない。もう一度雨戸を閉め、静けさを取り戻すと、またぼんやりできる。

茶屋のよさなどを語る柄ではないが、これだけのんびりできるのはさすがだと思う。ただ矛盾しているのは、せっかくこれほどまでの静けさを得られるのに、なぜイベントなどを持ち込もうとしているのだろう?ということ。頼まれてもいるのだから、仕方ないだろうと思うしかない。

夕方、いつもより雨降りのせいで暗くなるのが早いなあと感じつつ、茶屋街を歩く。暗がり坂を上がると、久保市乙剣宮境内の大木から大きな雨粒がぽたりぽたりと落ちてくる。一気に秋になったみたいで、肌寒い。

早足で新町の細い通りを歩き、また袋町方面へと向かったのだが、雨は一向に弱まる気配を見せなかった……

休筆ではない日々

ちょっと気合の入った文章書きに没頭し始めてから一ヶ月半くらいが過ぎた。その間、当ページが疎かになり、数人のご贔屓さんから体調でも壊したのか?とか、仕事が忙しいのか?とか、そういった内容の便りや声かけをいただいている。

ボクの場合は、仕事が忙しいから文章が書けないということはあまりない。切り替えが上手いというのとは少し違うと思うが、書かねばならないとか、書いていたいという気持ちが強いような気がする。

このページも、お便りコーナーのつもりで書いている普通のブロガーの人たちとはスタンスが少し違うのだと感じている。絵が描きたい人が絵を描く、楽器が好きな人が楽器を弾く、歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る…。それと同じなのだ。

というわけで、最新バックナンバーが八月の中旬という、当ページ始まって以来の長期無断休筆を続けてきたわけだが、また小説を書いていて、十一月末を目途にかなり気合を入れている状況なのだ。

といっても、処女作『ゴンゲン森と……』の最終追い込みと比べれば、まだまだ甘い一日四、五枚ペースで、アマチュア作家の兼業スタイルとしても、かなり遅い進捗なのだ。現在百八十枚ほどまで積み上がって来たが、最後にもうひと踏ん張りする余力を残しておかねばならないので、かなりの急ピッチ化が求められるのでもある。

八月のある暑い日の、夕刻十六時八分頃、香林坊D百貨店七階にあるK書店で買った、姜尚中(かん・さんじゅう)著『トーキョー・ストレンジャー』について、ずっと書きたいと思ってきた。買った時の詳しい情報を記したのは、ブックマーカー代わりに使っている書店のレシートのせいだ。こんなことは滅多にないのだが、こういう使い方があったのかと、最近ちょっと嬉しくなったりしている。

ボクはかねてより、姜先生には絶対的服従型の信頼感を抱いており、先生の言うこと、書くことには基本的に何の異論・反論もない。こんなに賢くて、素朴で強くて、そしてやさしい人は非常に稀な存在だと思っている。

例えるならば、王貞治氏の存在と似ていると思う。あの野球への思いと、そしてひとにやさしく厳しく接してきた無口の王さんの生き方が重なる。

ご存じのように、この二人には共通点がある。姜さんは在日であり、王さんも中国人の血をひく。二人とも自分自身の存在を微妙な位置に置いて生きてきた人たちだ。出しゃばることなく、しかし真剣に一生懸命に生きてきた人たちだ。

姜さんの本との本格的な出会いは、あのベストセラー『悩む力』からだが、テレビでのコメントや雑誌の記事などをとおして、考え方やスタンスはかなり以前から理解していたつもりだった。あの眼鏡の奥から届く、鋭くクールな眼差しを受けてしまうと、自分に嘘がつけなくなるような気になるから不思議だ。

『トーキョー・ストレンジャー』は、東京のまちやいろいろな施設を訪れて、その場所の空気や思い出、さらにそこから洞察される姜尚中特有の発展的思いなどが綴られている。その展開はさすがだと唸らされるばかりで、自分などは足元にも及ばないことをあらためて痛感し、またまたうな垂れるだけなのである。

熊本から上京した「田舎者」が見たトーキョー。“トーキョーは人を自由にするどころか、むしろ欲望の奴隷にする魔界に思えてならなかった…”とする姜さんは、高層ビルの林立する窓辺で働く人たちに、悲しくも切ない感動を覚えたという。そして今。日本はというか、その象徴であったトーキョーは、“アジアの新興都市にその圧倒的な地位を譲りつつある。トーキョーはやっとバブルの「欲ボケ」から醒め、身の丈の姿に戻ろうとしていた。”のだ。そこへ東日本をというか、日本を大自然の脅威が襲った。

トーキョーの存在について、“よそ者(ストレンジャー)にさりげなく目配せし、そっと抱きかかえるようなトーキョー。それが私の願うトーキョーの未来だ”と姜さんは言う。

“そんな都市へと近づきつつあるのかもしれない。今ほど、暗がりの中で人のぬくもりが恋しいときはないのだから。”と。

本の中では、明治神宮から始まり、紀伊国屋ホール、六本木ヒルズ、千鳥ヶ淵、神保町古本屋街、末廣亭、神宮球場、山谷などバラエティに富んだトーキョーが紹介されていく。ひとつひとつに姜尚中とその場所との接点があり、その中に浸透している姜さん自身の思いにはぐぐっと引きつけられていくばかりだ。そして、その接点というか介入していく話がいかにも姜尚中的で面白い。

純粋な思考と知力が合体すると、こんなにも豊かで強いものが生まれるのか…と、姜尚中の世界に触れると思ってしまう。この本は、そういう姜尚中の世界に触れる絶好の書だ。

ところで、この本の中で意外な企画になっているのは、小泉今日子との対談だ。彼女は『原宿百景』(もちろん読んでないが)という本を最近出していて、書評など文筆家としても活動している。この対談を読んで、小泉今日子観が少し変わった。首都の引っ越しなどにも言及する彼女の考えは、それなりに面白そうだ。

たしかに仕事も中身の濃い状況が続いている中、この本の余韻はいい形で残っていった。私物の文章を書きながら、このような本が手元にあるんだという思いが余裕を持たせてくれたりする。

今ひたすら前に向かっているという意識はあるが、もうやめようかと思っていたものに、別の誰かが声をかけてくれて、再び始めてみるかと思ったこともあった。地元の文化に関する再整理や古いものの再活用など…。世の中は不思議だ。過去にやってきたことは、よいものであれば誰かがまた声をかけてくる。

これから先まだまだ関わりが続くであろう能登門前黒島の角海家で、かつて同じ町の禅の里交流館で苦労を共にしたEさん・Yさんという二人のベテラン女史と再会できたのも、嬉しい出来事だった。明るく快活な二人から元気をもらった。ボクの大好きなカッコいい女性たちだ。

たとえば・・・、角海家や羽咋滝の港の駅周辺、そして金沢のいくつかの拠点など、それらが燻っている。考えればキリがないが、自分から焦ったりはしない。

そんな中、県境・富山県南砺市の山間にある『Nの郷』の湯に浸かりに行ってきた。ここの露天は空ばかりが見えるからいい。太陽は陰っていたが、白い雲と青空が気持ちよかった。露天の淵にある石に座って、見下ろすと稲刈り前の水田が見える。きれいな黄金色がかった穂が垂れ、刈られるのを待っているといった感じだ。

素っ裸で平らな石に座り、秋を感じさせる風を身体に受けた。トーキョーもカナザワもノトも、どこでもこんな形でいいじゃないか…と思ったりする。

そろそろ秋だなあ…

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

富来から門前への道~その1

旧富来町から旧門前町に通じる道にはいくつかあるが、最も知られていないのが、今回のこの道なのではないだろうか…、と秘かに思い、嬉しくなった。

一般的に富来から門前への道と言えば、国道二四九号線だろう。能登観光のルートとしては、増穂浦から西海、ヤセの断崖などを通る道もある。このルートは観光用途であり、最終的に門前に入る時には前者と合流する。

旧門前黒島に堂々と復原された角海家の仕事のために、八月に入ってからもよく門前行きを続けた。始めの頃は、同時に富来というか、志賀町図書館の仕事も並行していて、富来経由門前行きというパターンも数回あった。

初めてこの道を走った日は、富来で行きつけとなった超大衆食堂・Eさん(前に正式名で紹介したような気もするが…)で、いつもの「野菜ラーメン」を、いつも付けている「おにぎり」を付けずに食べてから、ふと考えてクルマを走らせた。

いつも同じ道から門前へと向かっているが、たまには違う道から行ってみたいと思った。そして、ある話を思い出した。

それは角海家の仕事で地元の歴史・民俗に関する文章のチェックをお願いしている、門前のK先生が言われていたことだ。ボクが能登の農村風景が好きだと話していた時、先生が富来から中島(現七尾市)に抜ける道にある農村風景は、特に素晴らしいよと語ってくれた。ボクは門前もかなりいい線いっていると思っていたのだが、先生の言葉にはかなりの説得力があり、是非一度そのことの再確認に出掛けてみたいと思った。

再確認としたのは、何年も前にその道を走ったことがあったからだ。しかし、記憶には残っていない。多分行ってみると、懐かしさに心を震わせたりするのかも知れないが、どうもピンときてはいなかった。

実際に走る道は、中島へ抜ける道から門前の馬場・剱地方面へと分岐していくのだが、その雰囲気は味わえるかも知れない…と思った。それに新しい道というのは、知ってしまうといつも好奇心をくすぐる。さらに、ボクには特別な意味合いもある。

しかし、初めての日は慌ただしかった……

二度目は、富来を代表する超大衆食堂・Eさんが休みで、かねてより少しだけ気になっていた、町の中心部にある古い佇まいの大衆食堂(名前が出てこない…)で、「カツ丼」を食べてからクルマを走らせた。

古い佇まいの食堂では、テレビももうすでに地デジ放送になったのを知らないかのように、夏の甲子園をハレーション化していた。小さなお子さんたちにはかなり目に悪いのではないだろうかと思われたが、そんなお子さんたちがやって来るような店でもないからと安心して、「カツ丼」を注文。

玉子とじ状況が予想をはるかに超えるくらいに著しく過激な「カツ丼」が届いた頃には、ボク以外にまだ誰も他の客はいなかった。が、すぐに、一人また一人と入って来ては、それぞれが四人掛けのテーブルに一人ずつ座っていく。ボクが食い終わらないと、次に入ってくる客は相席となり、当然このままでは順番からしてボクの前に座ることになるであろう。そのことは明白だった。

ボクはそのような空気の中で、とりあえず普通にその「カツ丼」を平らげ、残っていたミョウガとアサリの味噌汁を飲み干して外に出た。素朴に美味かった。これだから富来は凄いのだ……。

味噌汁が効いたのか、汗が胸と背中に均等に流れ落ちていった。いや、どちらかと言えば、背中の方がやや多かったかもしれない。ゴツい造りの店内を見回し、店のお母さんに勘定を払う。“ありがとねェ”と親しみをいっぱいに感じさせる言葉が返って来た。

その言葉がエネルギーとなり、ボクは熱気ムンムンのクルマに乗り込んだ。そう言えば誰かが言っていたなあ。黒いクルマは熱いんだと……。でも仕方がないではないか。

今日は、あの道を究めよう。気温は三十五度近くまで上がっているに違いない。アスファルトが白く見える。

住宅地を抜け広々とした田園地帯に出ると、進行方向の低い山並みの上に見事な入道雲。その先端が、風に揺らされ靡いている。ゆっくりとした動きが感じ取れる。クルマを止めカメラを構えた。〈タイトル写真〉

トラックが通り過ぎていき、熱気が右から左へと移動していく。質量とも半端ではない。鼻のアタマがあっという間にヒリヒリし始めた。いきなりいい場面に遭遇できたことに嬉しくなった。

道は山越えバージョンに入って行く。

能登は海なのだが、能登は山でもある。今風に言えば、里海でもあり里山でもあるという優等生なのである。実はボクにはそのことに関して、ずっと持って来た自分なりの思いがあるのだが、今ここで書くかは分からない。なりゆきでいこう……

陸上をひたすら進んでいくには、真っ直ぐな道がいいに決まっている。昔は海運の発達で海辺にある村が発展するのだが、山里の人たちはそのような海辺の村に行くためにただ山道を歩いていった。

ただ、山道はときどきいくつにも分岐しているから、逆にいろいろな方向へと行けるメリットがあった。海沿いの道には全く分岐がないのを見れば分かるだろう。片側が海だから十字路など存在しない。

しばらく走ると、例えば北海道や信州の山道の何分の一かのスケールで、見事なダウン・アンド・アップの直線道が現れる。本当はカナダやアラスカなどの壮大な例えを出したいのだが、新婚旅行のハワイと万国博の上海しか行ったことのない、幅の狭いボクにはそんな例えが精一杯だ。

しかし、実に爽快なドライブ感覚でもある。下りはアクセルを踏まなくても一〇〇キロ近くまで出た。しばらくは人の生活感を全く感じさせない人工的な道が続いた。次第にあまりにも味気ないので退屈になる。対向車もかなりまばらで、沿線の草は伸び放題になっていた。

待ちに待った山里らしき気配、農村風景への期待が高まってきたのは、下りがずっと続いた後だった……

※後篇につづく……

夏のはじめの雑想

真夏日の夜、飲み会の帰りにYORKに寄ると、カウンターに懐かしいジャケットが置かれていた。スイングジャズの代表的なピアニストであるテディ・ウイルソンの、1955年のアルバム『for quiet lovers』だ。ジャケットを見ているだけで、涼しい気分になれる。

よく “ジャケ(ット)買い”の名盤とも言われるようだが、ボクは恥ずかしくてこんなレコードは買わなかった。もちろん演奏の好みも違っているので買わなかったのだが、今聴いてみると、それなりに良かったりする。静かな恋人たちのために…などというタイトルが付いているが、演奏はやはりスイングしているのである。

それにしてもジャケットの二人は、実に幸せそうだ。1955年というと、ボクが生まれた一年後、アメリカ以外にどこの場所なのかも想像つかないが、休日のデートなのだろうか。大人の恋といった雰囲気がプンプンと漂ってきて、じっと見てしまう自分が情けなくなる。二人の服装から、夏を感じた。

 夏は、ガンガン照ってくる日差しと、青い空と入道雲だと常日頃から言っているが、金沢のド真ん中・香林坊の交差点を歩いていたら、美しい夏の風景に出会った。文句のつけようのないバランスで、都会(一応)の中の夏空が描かれていた。

早速、久しぶりの気分転換として担いできたACEのカバンから、CONTAXを出して構える。一枚撮ってからしばらく様子を見ていると、また少し変わっていく。次から次へと少しずつだが、雲が変化していき、最後は写真のようなところで落ち着きシャッターを切った。

近くの中央公園では、大して夏は感じなかった。いや、夏は夏なのだが、この場所の夏は死んでいると思った。昔、芝生が豊かで、その上に寝っ転がって本を読んだりできた頃には、大きな木陰が存在感を示し、夏休みで帰省した学生たちが集まってきたりなどしていた。小さな子供を連れた若い母親なんかが、汗を拭きながらも、幸せいっぱいな顔で子供と遊んでいた。

しかし、今は禿げあがった芝がかすかに残るだけで、土埃が舞うような有様である。いい加減に何とかしないのかなあと思うが、今では芝の上に座るなどといった行為自体が下品なのだろうか。一画を占める四高記念館のレンガづくりの建物も美しく、芝生に寝っ転がって真横の視線から眺めるのも一興なのだが、ホームレスの皆さんへの配慮などもあって出来なくしているのだろう…と、勝手に好意的な解釈をしている。

 ところで、レンガの建物と夏空とは非常にいい関係にあると、ボクはずっと感じてきた。レンガには汗をかかないイメージがある。吸汗性 の高いアウトドア用のシャツのようなイメージがあり、それが爽やかな印象をもたらし、美しい青空とマッチしている。金沢にはここ以外にも玉川の近世史料館や歴史博物館、そして市民芸術村などがあって、そこら辺へ行くと爽やかな夏を感じて嬉しくなったりするのである。

柿木畠には、駐輪場の入口あたりの鞍月用水の脇に一枚の掲示板があり、いつもそこを通るのを楽しみにしてきた。そこへ来ると、季節感を詠ませる俳句が一句だけ掲示されていて、たまにはニタニタしながら、ちょっと小声で読んだりするのだ。

作者のたみ子さんというのは、名字はM野さんといって、何を隠そう喫茶ヒッコリーのマスター・M野K一さん(今さらイニシャルでもないが)のお母さんだ。ボクはいつも“お母さん”と呼ばせていただいているが、森光子を連想させる可愛らしさと、好奇心旺盛な素敵な人だ。フラダンスやらフォークダンスから俳句やその他、多くの趣味をお持ちで、当然、お元気で、爽やかで、若々しい。

「子守唄 団扇の風に 眠らせよ」 かつての日銀ウラ界隈での俳句からは想像もつかないやさしさに満ちている。たみ子さん流の夏なんだなあ…

 金沢の東の果て?、ボクの大好きな犀川上流の駒帰という町には、古びた小学校が残っていて、夏の風景としてはちょっとうら寂しい一面があるにしろ、ときどき足を向けている。

この奥にはかつて倉谷という村があって、友だちの先祖がそこの出だということでこの辺りへ連れて来てもらったのが最初だ。もう三十年も前のことになる。

初めて来てから、ボクは凄くその場所が気に入ってしまった。それ以後、何度も何度も出かけるようになった。開けてはいないが、その分の寂れた感じがよかったのかもしれない。深い谷を流れる水も濃い緑も気に入っている。

 ボクが生まれ、今も住んでいる内灘町宮坂では夏に祭が行われる。今年は久しぶりにその祭をどっぷりと楽しんだ。特に地元が誇る獅子舞の凄さには、あらためて納得し唸った。

金沢の百万石まつりに関する仕事をしていた時期、実は金沢市内の獅子舞の情けなさにボクは開いた口が塞がらなくなり、三日間ほど間抜けにも口を開けっ放しにしていたことがある(ウソだ…)。

あんな軽々しい獅子舞で、金沢の獅子舞の伝統がどうのこうのと言ってきたのかと、無性に腹立たしくもなった。

もちろん祭そのものや、参加者たちの価値観などいろいろな面があるのだが、少なくとも我が宮坂の、正式には黒船神社の獅子舞を見たら、金沢市内の軽薄獅子舞連中は三ヶ月半ほど開いた口が塞がらなくなるのは間違いない。

黒船神社の獅子舞は、白(木地)と黒のふたつの獅子がそれぞれ上(かみ)と下(しも)に分かれて登場する。これはかつて、宮坂が実際にふたつの地区に分かれていたからだ。

ボクたちが子供の頃から当たり前のように感じていたことで、今あらためて認識させられることがある。それはやはり、内灘という土地柄か神社が砂地でできており、砂の上で舞われることによる豪快さや凄みがあるということだ。

小刻みに動きながら、じっと一点を凝視し獲物を捕らえようとするかのような獅子の表情が小さい頃には恐ろしくもあった。口が砂を食み、そして砂の上を執拗に横に這っていく。方向を変える時に発する口を閉じる時の音は迫力満点だった。

こういう祭の中の芸や技というものは、地域の誇りでもあるし、何とかして正しく残し伝えていく必要がある。その担い手たちにもしっかりとした評価をしてあげなければならない。子供の時に見ていた、瞬間心臓が止まったかのように驚いた技は、今の子供たちにも伝わるはずだ。

 

 さて、夏はやはりビールなのだが、今年は何となく面白いビールとの出会いが多く、ベルギーのビールがなくなったなあと思っていたところに、また新たなビールがやって来た。やって来たと言っても、ビールが自分で歩いてきて、こんばんは、ビールです…と言ったわけではないのは言うまでもない。

 ひとつは鉄砲玉の長女が、突然ベトナム行ってくるわと行ってきて、帰りカバンの中に忍ばせてきた缶ビール二種。もうひとつは結婚の祝い返しにもらった三重県伊賀市の地ビール三種だ。これらにモルツ・プレミアムも加わって、今夏はとても濃厚なビールに囲まれているのである。ベトナムのビールは非常に日本的だった。黒ラベルやスーパードライやラガーなどと一緒に呑んでいても区別がつかない。

台風が水を差しているが、まだまだ夏は本気ではないような気がしている。なでしこの沢穂希キャプテンが、優勝の夜に送ったという地元ドイツのマスコミへのメッセージにも触れ、今日本のすべてが、直面している大きなものを軸にして動いているのだと思った。素晴らしいメッセージだった。

暑い夏だからこそ、日本はもう一度何かを思い出さなければならないのだ……

ひるがの高原・夏

 

ふらりと、「ひるがの高原」へ行ってきた。不覚にも初めてだった。

東海北陸自動車道を一つ手前の荘川インターで下りて、道の駅に寄り、そこから一旦何を思ったか逆コースに走り出し、途中のガソリンスタンドのやさしそうなご主人に教えられて正しい方向に戻ることができた。早朝の道の駅には、多くの人たちが採れたて野菜などを求めに来ていたが、夏の朝らしい、ボクの大好きな光景だった。

夏はやはり高原だ。海の近くの村に生まれたにも関わらず、いつの間にか平坦な海を眺めているより、起伏にあふれた山並みを見る方が好きになっていた。

高原という場所のよさを知ったのは、三十年くらい前に八ヶ岳山麓に通い始めた頃、信州の車山高原に行ったことがきっかけだった。その後立て続けに足を運ぶようになった美ヶ原高原も、雄大な景色と、広くて青い空や真っ白な入道雲を満喫するためには最高の場所で、夏になると絶対に行かねばならぬといった、妙な使命感?に後押しされていたと思う。

そんなわけで、今年は特に震災の影響を受けた節電対策もあり、暑ければ高原へ行こうというかつての思いが俄かに再燃した。日帰りで、簡単に行って来ることができる高原…。そして思い立ったのが、岐阜郡上の「ひるがの高原」だったのだ。

東海北陸自動車が開通して以来、五箇山や白川、高山などがかなり至近距離化した。それまでのことを思うと、あっという間に着いてしまうといった感じだ。さらに荘川村やひるがの高原あたりも同じ感覚で、特に白川から荘川へ抜けるまでの道(国道一五六号)は、走ること自体と風景を楽しむゆとりがないと走れなかった。

この辺りでは清見村も大好きだった。前にも何かで書いたが、オークビレッジの工房にふらりと立ち寄っては、適当に気に入ったものを買って帰ったりした。しかし、ひるがの高原まではなかなか足を延ばす気になれなかった。距離が中途半端で、日帰りをベースに考えると、どうもそれほど魅力を感じなかったのかも知れない。

 ひるがの高原の名前が、頻繁にボクの耳に入ってくるようになったのは、ひるがの高原に別荘ブーム?が起こった頃だろうか…。

もう退会したが、かつて北アルプスの薬師岳・奥黒部方面を中心に活動していた「大山町山岳会」の一員だった頃、その会の会長をされていたE山さんという豪傑から、「ひるがの高原に家(別荘)を建てっからよ、遊びに来られや!」と誘われた時だ。

E山さんといえば苦くて懐かしい思い出がある。強靭な肉体と、口の悪さが合体した、自然児そのものといった山オトコだった。ヒマラヤでの失敗もあってか、山では厳しかった。一度山スキーツアーでルートから外れ、皆を四十分ほども待たせてしまったボクは、E山さんからこっぴどく叱られたことがある。しかし、その後雪の上で肉を焼いて食っていたとき、ボクのとっていたルートに雪崩の兆候が見えていたから叱ったのだと、缶ビールを呷りながら語ってくれた。笑うと、少年のような顔になる。ボクはそんなE山さんが大好きだった。

そのE山さんが、ひるがの高原に別荘を建てるからと誘ってくれたが、ボクにはピンとこなかった。ひるがの高原の名前は当然知っていた。が、身近に感じられる場所ではなかったと思う。しかし、やはり高速道路の開通は大きい。別荘開発も当然、そのことが要因で始まったのだろうが、E山さんから話を聞いた時には、高速が出来ることなど、はるか彼方先のことだという感覚しかなかったのだ。

 荘川村から、ひるがの高原には二十分くらいで着いてしまう。あたりが何となくそれらしい雰囲気になってくると、国道沿線にクルマや人影が目に付き始める。わずかな予備知識しかない訪問者としては、とにかくどこかに寄って情報収集が必要だ。

牛乳やチーズ、アイスクリームなどを売っている店の前に、人だかりがあり、その店に入ってみることにする。ソフトクリームを買い、情報源となる簡単なマップが店の入ってすぐの場所にあったので一枚もらい出た。

マップはウォーキングコースのものだった。七キロというコースがマップ上に線描きされてある。歩きたいと思うのだが、今日は日帰りだ。クルマでも廻れそうだと判断。まず、すぐ目の前にある「分水嶺公園」という場所に行ってみることにした。

 その気になれば深く入って行けそうな道が伸びていたが、人が歩いたような気配は、もう何年も前に消えてしまったような雰囲気だ。水場に石碑があった。太平洋と日本海、長良川と庄川という意味だろう。流れが、ひるがの高原の奥にそびえる大日岳という山を源流にして、ここで分流しているのだという。

日差しを遮る木立の存在感が夏らしさを強調していた。

 クルマで源流のあたりまで行こうとして、途中で引き返した。どうも道に同化してない。ウォーキングコースであるということも、モチベーションを下げる要因になっていた。おろおろと国道に戻り、近くの「夫婦滝」に向かうことにした。国道から二百メートルとマップに書いてある。

その数字のとおり、夫婦滝にはあっけないくらい簡単にたどり着いた。もうちょっと歩きたいなあ…と、勝手なことを思ったりもする。

 しかし、滝は美しかった。高度感などは大してないが、静かにはまっている感じだ。夫婦滝の名のとおり、二本の滝が並ぶ。その間の岩場に紫陽花の花が咲いているのが見える。

 滝に着いて、岩の上を飛びながら奥へと渡った。滝つぼに最接近できる辺りまで来ると、水の美しさは格別だった。飛沫が顔にあたって、涼しい。

 せっかくひるがの高原へ来たのだから、当然高原歩きの気分を味わいたい。もともと歩くことを目的にきたのだ。そんな時、植物公園の案内を見つけ、躊躇することなく入ってみることにした。それほど広くはないが、眺望がいい。水辺の花々も美しい。短い時間だったが、太陽をいっぱいに浴びて歩いている間は幸せだった。

 そのあとも、クルマで移動してはぽつぽつと歩く。木曽馬の牧場に足を踏み入れたりしながら、ふと見上げる空が青くて、眩しくて、嬉しくなる。高原歩きはこうでなくてはならない・・・などと、大して歩いてもいないくせに一応納得している。しかし、ひるがの高原には、もう一度必ず、近いうちに来なければならないなあとも思っている。美ヶ原のような圧倒的な解放感はないが、落ち着ける何かがある。それを正しく感じ取るには、やはりしっかりと歩く準備をしてこなければならないのだ。ぶらりとやって来るだけではもったいない。

 帰り道。高速は使わず、ゆっくりと庄川に沿って国道一五六号線を走った。荘川から白川、白川では久しぶりに「AKARIYA」さんで美味いコーヒーもいただき、五箇山、福光を経て帰った・・・・・・。

翌朝は、三時半に起床。もちろん、なでしこたちの応援のためだ。疲れなど、どこにも残ってなかった・・・・・・

一年の折り返しあたりでの雑想

 

輪島・旧門前黒島で復元に関わっている角海家が、建築の方の完了を間近にしていた。畳がすべての部屋に敷かれ、そろそろ展示演出の仕事にかかれる段階に入っている。

もちろん、こちらはまだまだ仕込み段階にも手をつけていない状況で、終わるのは開館直前の八月の上旬になる。輪島で打ち合わせがあるたびに、当然現地にも足を運んできたが、建築としての形が整ってくると、こちらとしては焦るのだ。

廃校になった小学校や保育所には、かつて角海家にあった民具や道具類、その他さまざまな資料(多くは展示用)が山ほどあり、それらの洗浄や燻蒸などの作業はすでに始めている。ちょっと気の遠くなるような作業だが、うちのスタッフたちは黙々とコトを進めていて頼もしい。それらを屋敷内に搬入した後、今度は地元の旧役場や周辺の美術館などに一時的に納めてある美術品を搬入して、いよいよそのディスプレイに入っていく。映像取材などもいい加減段取りしないとヤバいことになる。

蔵の中で、スタッフの一人・T橋が脅えていた。三層になった蔵の二階部分に上がった時のことだ。床板が不安定なために足が動かなくなり立ち往生しているのだ。もともとが賑々しいやつなので、とにかくやたらとうるさい。もう一人のK谷も似たような感じだった。先が思いやられる。何しろ、その蔵は企画展示のための重要な場所になり、この場所での作業時間もかなり必要となるのだ。

おさらいのように屋敷内をぐるぐる回り、三人で外観をしみじみと眺め尽くした後、夕方近くになってようやく帰路に就いた。

帰りのクルマの中で、携帯が鳴った。なんとなく見たような番号だ・・・と思っていたら、やはり某新聞社の記者からだった。「柿木畠のヒッコリーのマスターから、中居さんに電話したらと言われたもので・・・」と言う。ピンときた。例の焼き飯の話だ。翌日の朝刊に掲載する記事を書くところだと言う。

中居さんの感じたことをお聞きしたいのですが・・・と言われ、すぐにこのサイトを検索してくれたら、その中に大洋軒の焼き飯復活に関する文章を載せていると告げた。幸いなことにその記者は、ボクのサイトのことを知ってくれていた。すぐに立ち上げ、読み始めているようすだった。

翌日(土曜)の朝、早速その記事は掲載されていた。

 

 新聞には、ボクのコメントもほんのわずかだけ載っていた。すぐに水野さんからお礼的メールが届いたが、昼過ぎになって、ご飯がすぐになくなり、大きめの釜を買いに行くという意味のメールも届いていた。

話は前後するが、ボクが文章を載せたあと、何人かの人たちから問い合わせ的メールやコメントをいただいていた。さすがに反響が大きく、行っても売り切れていたという話も聞いた。場所を確認するものもあった。水野さんからは忙しくなったというメールも届いたが、日曜の定休日に、遠方から来てくれたお客さんに申し訳ないことをしたと心を痛めていた。特に輪島から来たという老夫婦の話には、水野さんもかなり気の毒がり、あらためて来てくれないだろうかと話していた。

年配の人たちには、やはり懐かしい味だったのだろう。若い人たちからも行く先々で焼き飯の話題が出る。そして、ついさっきまた、水野さんからこんなメールが届いていた。

“毎日、多くの方が食べに来られます。世の中、暗い話題ばかりです。でも、このチャーハンによって、当時の話題で店は盛り上がっています。お客様の笑顔を見るだけで、本当に継承して良かったと、しみじみ思います”

 柿木畠と言えば、京都で大学生をやっている娘からもらったベルギーのビールについて、広坂ハイボールの宮川元気マスターから講釈をいただいていた。いただいたというと仰々しいが、さすがに百戦錬磨の元気マスター。とっくにその味を経験していた。ボクのはアサヒビールが出している「世界ビール紀行」というシリーズものだが、ジューシーでアルコール度も高い上品なビールだった。元気マスターが、グラスで飲むと一段と美味いと言っていたので、そうしてみるとさすがに美味さが増した。

後日、店のカウンターに座っていると、商店街の七夕まつりだから短冊に何か書いて行ってくれと頼まれた。七夕にお願いを書くなんぞ何十年ぶりのことだろうか。半世紀も前のことだと分かると思わず赤面しそうになる。照れまくりながら、うちのひまわりが立派に咲いてくれるように・・・などといった、小っ恥ずかしいお願い?を書いて渡した。これは今、ハイボールの前に飾られてある。

ところで、このビールといっしょに食べたタコの茹でたやつがハゲしく美味くて、この夏はまりそうである。

 ハイボールのカウンターにあった一冊の本。『村上春樹の雑文集』。

元気マスターがこの本を読んでいることは、前から知っていた。実はボクもこの本を書店立ち読みで七十五パーセントほど読み尽していたのだが、ハイボールへ行った翌日の土曜の午後、ついに自分の手元に置くことにした。これで安心して読めると思い、じっくりと初めから読み返しているが、手元にあるというのは、やはりいいのだ。

もう何年前だろうか・・・。奥井進大先生と村上春樹について語り合ったのは。この人についてはうるさいニンゲンが多くいた。ジャズ喫茶出身?の小説家。あの柔らかい文章にボクたちは酔わされていたのだ。かつて、会社の女の子から、誕生日に『TVピープル』という氏の小説をプレゼントされたこともあり、一時期ボクは周囲に分かるくらいこの人に傾倒していた。その魅力とは何なのかなと考えるが、あの頃と今とは大きく違うような気がする。今の村上春樹は身近な存在ではなくなった。シンプルに偉い人になったように思う。それが悪いというわけではないが・・・・・

そんな意味で、この雑文集には普段着の村上春樹があるような気がして、リラックスしながら読んでいる。

 話はまた前後する・・・

梅雨明けしたような美しい朝を迎えた。夏至の日の朝だった。家を出てすぐ、砂丘の高台にある交差点の信号は赤。空は果てしなく青で、その先にあるゴンゲン森には新緑が輝いていたことだろう。そしてさらにその奥には、また海の青があったに違いない。

一年の半分が終わろうとしていた・・・・・・。 夏山用のシューズを買いに行こう。生涯五足目のシューズをと、何気に思っていた・・・・・・

門前黒島で頑張る時が来た

 

再び能登・旧門前町(現輪島市)の仕事に足を踏み入れ、とりあえず真っすぐに取り組んでいかねばならない状況下にあることを、数日前から悟りつつある。なにしろ、能登地震の震災復興最後の事業なのだ。

仕事の内容は、石川県の文化財に指定されている「角海家」という、かつて北前船で財をなした旧家における展示の計画と実施だ。数年前に同じ門前で総持寺に関する展示施設「禅の里交流館」というのをやらせてもらったが、門前の二大文化遺産を担当できるというのは実に幸せなことだ。ただ、今回の仕事は果てしなく厳しい。なにしろ六月のはじめにスタートしてから、八月中旬のオープンまで時間がないのだ。

角海家があるのは、黒島という地区。かつては天領であり、北前船の船主も多く、能登では最も廻船業の盛んな土地だった。今では昔の威勢はないが、それでも古い家々などを見ていくと、その面影に納得したりする。人々の気質も高く感じられるし、ボクたちのような中途半端な地域性しか持ち合わせていない者からすれば、その文化性はカンペキに高いと納得する。

ところで総持寺の住職さんは、代々輪番制で門前にやって来たわけだが、昔はもちろん船が交通手段だったわけで、能登の上陸地点は黒島だった。沖で小舟に移り、浜に上がると、そのまま黒島村の森岡さんという廻船業者(総持寺の御用商)の屋敷に入り、旅の疲れを落としたという。そこから総持寺の裏手にある小さな寺まで、お伴の者を引き連れての大行列。多いときには五百人くらいの行列となったそうだから壮観、凄い。このように黒島は門前の発展の礎となった総持寺の存在とも深く関わっていて、そういう意味でも貴重な地域性を持ってきたわけだ。

ちなみに総持寺は曹洞宗発展の基点となったとてつもない寺だが、明治に入って大火災で多くを焼失してから、横浜市鶴見に本山を移転した。移転された方は大打撃になり、祖院として存在を継続させたが、それほどまでに総持寺の存在は門前にとって大きかった。

しかし、先に書いた禅の里交流館の仕事をしている時にも思ったが、能登半島の先端に近い場所に、なぜあれだけ大勢力を張った寺院の本山が存在できたか?・・・なのだ。その答えが黒島にある。つまり、海運業だ。

昔は、少なくとも江戸時代までは、陸運といっても馬や荷車程度だから軽量な荷物の運搬しかできない。しかし、海運は船によって大量の荷物を動かすことが出来た。しかし、明治に入り日本にも産業革命の恩恵が押し寄せてくると、鉄道が敷かれ運送業のスタイルは一気に変わっていく。そういう時代の変化で海運業が廃れていくのに合わせ、総持寺の本山移転が実行されたのには、それなりの大きな理由があったわけだ。能登は東京から遠すぎた。

角海家の展示をとおして、ボクはこのような黒島の存在を伝えねばならぬゾ…と、秘かに思ってきた。なぜ、能登の先端にこのような豊かな文化が息づいたのか? これを伝えないで、黒島も角海家もない。そして、さらに黒島の人たちの誇りをいい方向へ向けてほしいとも思う。

先日行われた打ち合わせ会(委員会)で、資料調査を担当された神奈川大学のチームや、家屋復元の設計監理を担当された建築家のM先生、地元寺院の住職さんで、さすがだなあと唸らされた歴史家のK先生、さらに黒島区長さんであるKさんなどから、大変ためになる話をお聞きした。それらに返す言葉として、ボクも演出担当としていっぱしの話をさせてもらったが、やはり、根幹に置きたいのは“なぜ黒島が?”というテーマだった。そのことを平易にわかりやすく伝えられればと…

それにしても、黒島のまちは美しい。昔はなかった国道が海岸線にあり、あれがなかったらもっと素晴らしい景色が見れたのだがなあ…と、どこかの野暮な景観先生みたいなことは言わないが、何もないようで何かを感じさせる…、そんな“よいまち”のエキスが漂っている。高台にある神社や寺も、ちょっと歩くというだけの楽しみを誘発する。潮風に強いという板張りの家々も徹底していていい。

角海家は素朴さがいい。規模はそれなりに大きいが、決して豪邸ではない。とてつもない造りへのこだわりというより、普通に海が見えるとか、庭が見えるといった質素な目的が感じられて、安心したりする。廻船業が衰退した後、魚そのものや加工品などでの商いが続き、周辺の地区などで魚を売り歩いていたという、黒島の人たちのシンプルな生き方も角海家を通じて伝わってくる。地元のK先生が言われていた“黒島のカアカ(母ちゃん)”たちの働きぶりもまた浮かんできて、ボクなどはひたすら嬉しくなるのだ。

そんなわけで、この一件は今後ますます佳境に入って行き、いつものようにバタバタ・ズタズタ系の真剣勝負に突入していくだろう。かつて、地震の一週間後に門前入りした時、角海家は大きく崩れ、周辺の鳥居は折れて無残な姿だった。あれから地元の人たちは復興に向けて頑張った。その頑張り自体に意味があった。そのことを忘れず、そして、真夏の太陽がガンガンと照った空の下、黒島の砂浜で美味いビールが飲める日を、秘かにアタマの片隅に描いて、ボクたちも頑張るのだ…

油揚げを枕に柿木畠のヤキメシ

能登の羽咋で買ってきた油揚げが美味いと書いたら、それを読んでくれた金沢・柿木畠の喫茶「ヒッコリー」のマスター・水野弘一さんもそれを買い求めに出掛けられ、そして大量に買い込み、大変美味かったとコメントをくれた。

とにかく美味いのだから仕方がない。それに前には書かなかったが、姿形もいい。

油揚げらしい“ふくよかさ”があって、煮汁をたっぷり吸いこんでいけるだけの“器の大きさ”を感じさせている。

そのことを感じ取ってくれた水野さんは、行動力も凄いが、嗅覚も凄かった。

水野さんにはもうひとつ大きなニュースがあった。それは、二十五年以上も前に、金沢香林坊にあった洋食屋「大洋軒」という店の看板メニューを受け継いだことだ。

その店は、今の香林坊109が建つ場所にあった、本当に小さな店で、数人しか座れない狭いカウンターがあるだけだった。

ボクは高校生の頃に親友のSとよく一緒に行った。店に入ると、ほとんど横歩き状態で、カウンター客の背中を擦りながら奥へと進む。

定番メニューは「焼き飯」だ。

カウンターを挟んだ厨房に夫婦が入り、おっかさんがご飯を渡すと、受け取ったおとっつあんがフライパンにあけ、ほぐしながら激しく煽る。フライパンとお玉のぶつかり合う音が響き、時折上がる炎に、オオッとのけ反ったりした。

出来上がった焼き飯は、所謂“洋食屋の焼き飯”で、ちょっと脂ぎった飯の上に目玉焼きが乗っかっていた。

飯の盛り方がボコボコしていて、ボクとSは決まって目玉焼きの真上、つまり黄身のど真ん中からソースをかけるのだが、そのソースはすぐに目玉焼きから流れ落ち、飯に沁み込んでいく。

本当はこうなることぐらい分かっていたのに、仕方がないな~と、飯をクシャクシャと混ぜながら目玉焼きもついでにクシャクシャにしていき、黄身が完全に崩れる頃を見計らってスプーンで掬うと、そのまま一気に口に運ぶのだ。

ほくほくとした、しかし中華の所謂「チャーハン」とは違う風味が口の中に広がる。

味はソースが効いてシャープだった。特に夏の暑い日には、汗をタラタラかきながら焼き飯をモゴモゴと食った。

食後の口の中には、何となくというよりは、はっきりとしたヒリヒリ感も残っていたりして、とにかく美味かったなあという喜びと、ワレワレはついに食ったのだという満足感があった。

そんな焼き飯は、香林坊の再開発と同時に店じまいし、その後某所において続けられてきたらしいが、一般には接することは出来ないままいた。

そして、その某所での継続も終わり、かつての大洋軒の二代目さんから、なんと水野さんに継いでもらいたいという依頼があったということだ。

水野さんは、敢えて自分に白羽の矢が立ったのは、自分が半プロみたいな存在だったからだろうと言っていた。

焼き飯は、今流行の「B級グルメ」を代表するメニューだ。だから、とんでもない一流には逆に出せない味だという意味なのだろう。それと水野さんの人柄を知る者には、何となく納得できる話でもある。

始めたばかりの、その焼き飯を先日いただいた。美味かった。懐かしかった。

ヒッコリーという店が昔の大洋軒でないことを除き、あの脂ぎったような風味は逆に出せないことを考慮してボクは味わった。ご飯粒よりも大きくはしないという具たち。焼き飯はご飯がすべてという思いが込められていた。でも、やはり庶民の味なのである。

人気が出過ぎると逆効果になって、水野さんは自分の首を絞めることになるのだが、このニュースは、六月二十二日の地元紙で報道されることになっている。

ちょっとだけ余計な心配をしたりしながらも、次はいつ行くかなと考えたりもするのだった……

稲見一良… オトコ、そして少年のこころ

稲見一良という作家の存在は、広く知られているというわけではないだろう。だいたい、「一良」と書いて「いつら」と読むこともめずらしく、ほとんどの人はそのとおりに読めないに違いない。知っていればこそ読める名前なのだ。

ボクと稲見一良との出会いは、もう二十年くらい前になる。神田・三省堂本店の一階フロアで手に取った一冊の本から、ボクにとっては稀なケースと言える付き合いが始まった。

その本が『ダック・コール』である。タイトル写真にあるのは文庫で、ボクは当時出たばかりの単行本を買って、すぐに近くの喫茶店に入り、そのまま出張帰りの新幹線の中でも読み耽った。特に買おうと思った理由というのは、その中の第一話『望遠』の出だしに気持ちを奪われたからだ。

“ 腕時計のアラームが、フィルムの空缶の上で躍るように鳴った。若者は、たった今まで熟睡していたとは思えない素早い動きで、寝袋から腕を伸ばしてアラームを止めた。「四時半」若者は夜光の文字盤を読み、頭をおこしてまずカメラの方を見た。ゆっくりと起きだした。…………………”

ボクの頭の中でもアラームが躍るように鳴っていた。そして予感は予感を呼び、これは絶対に面白いと、ボクは勝手に決め込んでいた。やはり予感どおりだった。そのストーリーはボクの単細胞にストレートな衝撃を与えた。

まだ一人前とは言えない映像カメラマンの若者が、大プロジェクトの中のワンシーンの撮影を任される。それは、三年前に撮影されたと同じ月日、同じ時刻の日の出を撮り、街の変貌を伝えるという内容の企画だった。そして、若者の仕事と言うのは、絶対動かしてはいけない固定されたカメラのスイッチを単に入れるだけのことだったのだが、若者はその直前にカメラの向きを変えてしまう。若者が向けたカメラの先には、幻の鳥と言われる「シベリヤ・オオハシシギ」がいた……

プロダクションの中などの人間模様と、正義感や理想に燃える純粋な若者との葛藤もそれほど濃くもなく表現されており、この話は圧倒的にボクの胸を打った。こうして、一応ボクと稲見一良との付き合いは始まったのだが、どんどん読み続けていくと言うほど作品はなく、断片的な付き合いだったと言える。

それから何年かが過ぎた頃のこと、いつもの香林坊YORKで、マスターの故奥井進さんから一冊の本を見せられた。これ面白いよと言ってカウンターに置かれたのが、なんと『ダック・コール』の文庫本だった。ボクの記憶では、三省堂で買って帰った後日、ボクはたしかに奥井さんにその本を見せていたと思う。奥井さんとは、ほとんど互いに読んでいる本のことは知っていたはずだった。

ボクはすぐに、その本のことを話したが、奥井さんは覚えていなかった。ただ、同じ本を奥井さんがボクに勧めるなんて、やはり共通の好みがあるなあと嬉しくなったりもした。

そして、その後、奥井さんもボクも、稲見一良の本を何となく気が付いた頃になると読んでいたということを繰り返していく。

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稲見一良の物語には、大人の男の世界に少年の世界が深く沁み込んでいて、読んだ後夢を見ていたような気持ちになったりする。どこにそれを実証するものがあるのだろうと現実を考えたりするが、それは当然創作であり、幻想の世界でもあるのだと納得しながら楽しまなければならない。

たとえば、『セント・メリーのリボン』に収められている『花見川の要塞』という物語には、現代から戦時中へとタイムスリップしていくカメラマンの話が綴られているが、その非現実性は、まさに少年の心があるからこそ受け入れられるものだ。かつて敷かれていたという軍用列車が、深夜、白煙を上げながら夏草や蔓に被われた現在の花見川の土手に現れる……。

どこかで聞いたような話ではあるが、稲見一良のストーリーには、自然風景はもちろん、銃や機関車やカメラなどの詳細な解説・描写が絡み、どんどんと読者をリードしていく何かがある。好奇心を煽るような、ウキウキさせてくれるパワーに酔わされていく。

『花見川のハック』という同じ花見川の名を冠した短編があるが、ハックという冒険好きで、正義感が強く、そして心優しい少年が、花見川でアヤメという少女と出会い、最後はお婆ちゃんが待つ京都へ旅立つという話だ。なんの変哲のない話に見えるが、ハックとアヤメはゴンドラに乗って京都へ行く。そのゴンドラを運ぶのが、なんとナス(野菜の)なのである。面倒なので詳しくは書かないが、そんな結末を聞かされると、かえって読む気も起きなくなるかもしれない。しかし、実際読んでいくと、これがまた実に楽しくなり、嬉しくなっていくから不思議だ。

このような世界こそが、ボクにとっての稲見一良の素晴らしき世界なのだ。自然や趣味や男臭さや少年の心や、空想や理想や夢やこだわりやと、とにかくたくさんのものが凝縮されている。

稲見一良の世界から、ボクは多くの記憶を蘇らせることができた。

十歳くらいのことだろう。裏の雑木林の斜面を登った所に、木の板で組んだ隠れ家みたいなものを作り(作ってもらったのかも)、そこで漫画本を読み、お菓子を食べ、そして友達が家から持ってきたタバコを吸ったりしていた。クワの実やグミなどを採って来ては、そこでみなで食べた。

砂浜に埋まっていた不発弾を掘り起こし、三人がかりで抱えて友達の家の裏に埋め、自衛隊が回収に来たこともあった。自慢したくて学校で口が滑ってしまったことがボクたちだけの大騒動につながった。もちろん、もし爆発の危険性があったら、ボクたちだけの大騒動で済んでいなかったのだ。

カモの子を河北潟かどこかで生け捕りにし、使われなくなった鳩小屋に入れて飼おうとした。そのカモに餌として与える虫などを、必死になって採りに行っていたことなども鮮明に思い出した。音楽やら映画やらいろいろとませたことも身につけていたが、こういう遊びは絶対的な事としてなくなることはなかった。

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本当は最初に書くべきことなのかも知れないが、稲見一良は自らが癌に侵されていることを知ってから、敢えて作家になったという稀な人なのだ。一九八五年に発癌しデビューしたとのことだ。そして、その後一九九四年に亡くなるまでの短い作家活動で、稲見一良の独特な世界を作り上げている。

ボクは今、稲見一良のファンであると公言できるが、これまで本当にそうであったのかというと、正直どこかに単発的なファンみたいな自覚しかなかったように思う。しかし、今年に入ってから、再び無性に稲見一良の作品、いや物語を読みたくなった。

何がそうさせたのかは分からないが、自分自身を純粋に見据えていくためとか、自分の素性や血を知るためとか、どこかそういうものに近い何かが自分を動かしたように思う。

少年、男気…。自然、夢、憧れ…。趣味、余計な気苦労…? そんな青臭い何かが、やはりどこかに生きていないと、ニンゲン、特に男はダメなのではあるまいか?

そんなところまで考えてしまっているのである………

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

香林坊に会社があった頃(1)

ボクが勤めている会社は、かつて金沢の繁華街・香林坊の日銀金沢支店の裏側にあり、ボクはその辺りのことを「香林坊日銀ウラ界隈」と呼んでいた。

今は東京・渋谷から来た大ブランドがこの辺りの代名詞のように図々しく(すいません)建っているが、ボクが入社した頃、つまり今から三十年以上も前にはまだその存在はなくて、雑然とした賑やかさとともに、どこかしみじみとしたうら寂しさも同居する、今風に言えば“昭和の元気のいい匂い”がプンプンする界隈だった。

会社は大雑把に言えば広告業。詳しく言えば、サイン、ディスプレイ、催事、展博、イベント、店づくりや展示、それに媒体広告などを手掛けていて、それなりに多くの社員がいた。今は中心部隊を隣の野々市町に移し、本社機能だけを辛うじて市内中央通町に残しているが、やっている内容と全体の規模はそれほど変わってはいない。

入社したての頃は、この“地の利”で街にすぐに出られた。それが入社の決め手であったと言ってもいい。会社の玄関を出るともうそこが街だった。玄関から二十歩圏内に花屋さんやら駄菓子屋さんなどがあった。五十歩圏内には喫茶店やおでん屋、うどん屋に中華料理屋、パン屋に洋食屋にラーメン屋。さらにお好み焼き屋や、ドジョウのかば焼き屋、そして何と言っても、多種多彩な飲み屋と映画街があった。さらにもう百五十歩圏内ともなれば何でもありで、本屋も洋服屋も呉服屋もデパートも、とにかく何でも揃った。

その分、街を歩けばほとんどの人がお客さまといった感じでもあり、店のご主人さんや奥さんや店員さんとはほとんど顔見知りで、歩いていると挨拶ばかりしていた。昼飯を食いにどこかの店に入ると、大概会社のお客さんがいて、そういう雰囲気の中で、いつも“我が社”の社員たちも徒党を組みつつ、ラーメンなどを啜っていたように思う。

会社の仕事も千差万別で、時折社員総出で風船づくりをするといった、今から思えば何とものどかなことをやっていたこともある。お祭りやら何かキャンペーンやらがあると、風船が定番であり、利用時間に条件があるから社員が皆出て、一気にヘリウムガスを注入する。あの当時は水素だったかも知れない。それを受けて風船を縛り、さらに紐を付ける。ガスを入れられるのは資格を持った人だけで、ボクたちは決まって風船に紐か棒を付けたりする係だった。

その膨らんだ風船をライトバンに詰め込み、イベントの会場まで走るのも若い社員の仕事で、ボクはすぐ上の先輩M田T朗さんと一緒によく風船を運んだ。走っている途中でよく風船は割れ、割れるとクルマの中であの大きな音が当然する。

ボクと、ボクに輪をかけたように大雑把で、柔道二段?の肉太トラッドボーイだったM田先輩は、その音に首をすくめてビックリするのだが、風船の割れる音が、意外に乾いた無機質な音であることをボクはその時に知った。

何百個とか千個とかの注文になると、当然現場まで出かけて詰めた。今は専門の業者さんにやってもらっているが、当時は“我が社”の専売特許のひとつだったのである。

近くのD百貨店では、季節ディスプレイの切り替えがあると、そこでも社員が総出に近い数で集結し、閉店後の店内に乗り込むという風景もよくあった。その時には社員に五百円の食券が出て、それを持って近くのそれが使える店へと夕食を食べに行く。

実はこの食券、残業などをすると必ず付いてきた。そして、食事をせずに食券だけを貯めていくということが社員の間では当たり前にもなっていた。当然二枚出せば千円分、四枚出せば二千円分を食べることが出来る。十枚ほど貯まってくると、近くの超大衆中華料理屋「R」などでは、ビールにギョーザ、野菜炒めや酢豚などで十分に楽しみ、最後はチャーハンかラーメンなどで仕上げたとしても、この食券はカネなしサラリーマンに大いにゆとりある食生活を保障してくれる魔法の紙切れだったのだ。

このような行為を、ボクは「食券(職権)乱用」と呼んでいた。特にM田先輩とは、食券を貯めては乱用していたと記憶する。

ボクとM田先輩とは、後輩であったボクから見ても“よい関係”にあった。入社して配属されたのが営業部営業二課。ユニークな人たちばかりだったが、ボクはすぐに二つ年上のM田先輩と組ませてもらった。と言っても、これには深い事情があり、実はボクが入ったと同時にM田先輩の“運転免許停止”、通称“メンテー”期間が始まっていたのだ。ボクはまずM田先輩の運転手役となったわけだ。

M田先輩には大らかさと、小さいことにこだわらない男っ気があったが、時折アクセルも大らかに踏み過ぎたりしていたのだと思われる。自分を捕まえる白バイのおまわりさんに対しても、自分と同じような大らかさを求めていた。

ファッションにもうるさかった。ボクとM田先輩が息の合った“よい関係”でいられた理由の一つに、互いにトラッド志向が強くあったということが上げられる。VANやKENT、NEWYORKERなどのジャケットをカネもないのに着込んでいた。それともうひとつの大きな理由は、ボクがM大、M田先輩がH大という六大学の同じ沿線に通っていて、遊びも新宿歌舞伎町あたりが主だったということもある。さらに互いに読書好き、音楽好き、映画好きとか、とにかくボクは入社早々よき先輩に恵まれたのだった。

M田先輩は、もうかなり前に脱サラし、小松市で念願だった居酒屋のおやじをやっている。

ところで、会社のあった裏通りは一般に「香林坊下」と呼ばれていた。今、商店街は「香林坊せせらぎ通り商店街」と呼ばれており、犀川から引かれた「鞍月用水」が並行して流れる、なかなかいい感じの通りになっている。金沢の有名な観光スポット・武家屋敷跡がすぐ近くにあり、道の狭さや曲がり具合などで、運転テクニックもかなり鍛えられた。

特に冬場の豪雪があった時などは、三十メートル進むのに一時間かかるといったことが普通にあった。雪かきしても捨てる場所がないせいか、狭い道に雪が積もる。その雪の上を滑りながらクルマが行き来するために、歪(いびつ)な轍(わだち)が出来て運転がスムーズにいかない。それに輪をかけて一方通行になっていない小路もあったりして悪循環がさらに悪循環をもたらした。

なかなかクルマが出せず、帰れない夜は、近くの喫茶店SSで時間をつぶした。その店はもうとっくになくなっているが、いつ行っても社員の誰かがいて、チケットケースには社員の名前がずらりと並んでいた。綺麗なお姉さんもいて、よく話し相手にもなってくれた。あのお姉さんは今、どうしているのだろうか……。もう、完璧に、ばあさんだろうが。

ところで、ボクたちが駆けずり回っていた頃には、鞍月用水の流れはあまり見えなかった。というのも、暗渠(あんきょ)といって、流れの上に蓋がされ、その上にお店が並んでいたからだ。

駄菓子屋も時計屋もおでん屋も、用水の上にあった。かといって、目の前にあった駄菓子屋・Mやさんに入って、愛想のいいおばちゃんと話していても、床がガタガタ揺れるということは全くなく、用水の上に造られているといった感覚はない。

おでん屋・Yのカウンターで、コップに並々と注がれた燗酒も、揺れて零れ落ちるということはなかった。この店では、よく千円会費の俄か飲み会が行われた。ボクの上司、つまり営業二課のH中課長が一声発すると(実はこそこそと行くことが多かったが)、いつの間にかいつものメンバーが集まり、おでん一皿半ほどとビール一本ぐらいで盛り上がっていたのだ。絶対千円しか使わない。だから深酒はしない。というか出来ない。それで細く長く日々のストレスが発散されていたのかというと、ボクの場合は決してそうではなかったが、今から思えば、それはそれで十分に緊張感のある(?)楽しい時間でもあった。

そんな土地柄の影響は、会社がそこにあった間中続いた。入社当初は、ほとんど残業などというものがなかった。今からだと信じられないが、なぜか残業などしたことはなかったのだ。しかし、それから少しずつ自分らの世代に主流が移り始めると、徐々に残業をするのが当たり前になってきた。

しかし、残業はしつつも、時々残業のために夕飯を食べに出ると、そのまま会社には戻らないというケースがよくあった。六時頃、軽く飯食いに出たはずなのに、十時になっても帰って来ない。帰って来たかと思ったら、赤い顔して、ホォーッと臭い息を吐いている。他人事のように書いているが、当の自分にもはっきりと身に覚えがある。

今、会社があった場所は、広場風の公園になっている。かつてここに“ヨシダ宣伝株式会社”があったのだという小さな石のレリーフがあるが、はっきりと文字は読み取れない。

ああ、このあたりにオレの机があって、このあたりにあったソファに寝ていたら、そのまま朝になり、朝礼の一声で目が覚めるまでひっくり返っていたなあ…といった思い出が蘇ったりする。

話のネタはまだまだ山ほどある。今度は、日銀ウラの方に「YORK」がやって来た頃の話を書こうかなと思う……

 

カーネーションと古い鍬と母のこと

 赤いカーネーションが、窓辺に置かれている。ボクにはもう母親はいないが、子どもたちが自分たちの母親のために買ってきたものだ。

 ふと、母が死んでから何年が過ぎただろうか…と思った。実は、ボクは人が死んでから何年が過ぎたかということに関して、非常に記憶力の弱いニンゲンだ。

 父のことも母のことも、実兄のことも、義兄のことも、後輩のことも確かな答えが出てこない。およそ何年ぐらい前というのは分かるが、どうしても正式な年月は出てこないのだ。ただ、そうかといって、当然のことながら、その人たちのことを忘れていることはなく、いつもボクの中には大切な存在として残っている。

 母の日にカーネーションを贈ったりするようになったのは、結婚してからだ。それまではほとんど何もしたことはなく、畑仕事の際に使う麦藁帽子のようなものを買ってあげたことがあったが、母はそれをほとんど使わなかった。恥ずかしかったのだろう。

 母が一般的に言うおしゃれとかをしている姿を、ボクは一度も見たことはなかった。ボクは母が四十歳の時に生まれた子で、元来漁師だった家に嫁に来た気丈夫な母の姿しか知らなかった。小さい頃はただ一日中働きっ放しの母しか知らず、世の母親とはすべてこんなものなんだろうと思っていた。

 ところが、ある時、友達の母親を見てショックを受けた。その母親は化粧をしていた。当たり前と言えばそれまでだが、母親というものは化粧などする人種ではないと思っていたので、完璧に驚いていた。

 母は、たぶん友人たちの母親の中でも最も齢を食った一人だったかもしれない。化粧どころか、手もカサカサで顔はしっかり日焼けしていた。着ているものも女らしいというか、そういう類の小ぎれいなものではなかった。

 授業参観に母が来ると、何人かの友達が“ばあちゃんが来とらんか?”と聞いてきた。中学の時、骨盤骨折で入院していた時も、母が来ると同部屋のおじさんたちから、“ばあちゃん来たぞ”と言われた。今ではそれも仕方なかったろうと思うが、その当時は何となくイヤだった。恥ずかしかった……

 東京の大学に行くようになって、ボクの母親像は変わる。日常的に身近にいなくなることによって変わっていくというのは皮肉だが、現実はそういうものなのかも知れない。一年に何回しか顔を見ない母の存在は、自分でも驚くほどに大きなものになっていく。子供の頃に母に求めていたものが、何気ないことから蘇ってきたりする。

 周辺の状況はほとんど覚えていないが、まだ保育所に行くようになったばかりのことだろうか…。

 ある日、家からかなり離れたところで遊んでいたボクは、目の前を走り過ぎていくトラックの荷台に母の姿を見つけた。何人かの女の人たちと一緒に母もボクを見ていた。

 ボクは母がどこか遠くへ行ってしまうと思ったに違いない。とにかく一目散に走りだした。わんわんと泣き喚きながら、トラックを追いかけはじめていた。その当時のトラックだから、それほどスピードが出ることもなかったのだろう。ボクはそれから百メートル以上走った。

 トラックが止まった。運転手がボクを見つけたのか、荷台にいた誰かが運転手に止まるように頼んだのか、とにかくトラックはボクのかなり前で止まり、ボクは何人かの人に担ぎあげられるようにして荷台に立っていた。

 母たちは、金沢の大野港に水揚げされる魚の処理などで動員されていたのだろうと思う。かつて一時代を築いた漁業の達人たちの村・内灘だ。大漁の知らせが入ると、魚の処理に慣れた女たちが召集され、港へと運ばれていったのだろう。

 それからどうなったかは、とにかく断片的にしか覚えておらず、ボクは港の近くの知り合い(ボク自身は全く知らなかったが)の家に置いて行かれた。はっきりと覚えているのは、その家のそれほど明るくない居間で、同じ年頃の娘さんらしき少女と、タマゴごはんをひたすら食べていたことだ。湿った冷やご飯にかけられた生タマゴの味も忘れてはいない。

 大人になってから、母の存在はこの話が原点になった。あの時ボクは真剣に母がいなくなると思っていたに違いない…と思うようになった。母を追って必死に走っていた自分を、生来の甘えん坊なのだと思うようにしていたのかも知れない。

 母は、ばあさんになってからやさしくなった。もともと持ち合わせていたのかも知れないが、見た目にも、はっきりとやさしさが感じられるようになった。いつもニコニコするようになり、照れ隠しのような笑い方なのだが、ボクはその表情にはじめて母の幸福感を思ったりした。朝から晩まで働き続け、何の楽しみもなかったような母にようやく静かな日々が訪れたのだ。

 母が体調不良を訴えたのは、父の初七日のあくる日だったと思う。休日の病院へ運び、翌日の朝、様子を見に行った兄から母の異常が知らされてきた。そして、そのまま母は半身不随になり、二度と立ち上がることも歩くこともできなくなった。

 しかし、それからまた母は母なりに長い年月を必死に生き、最期を迎えるまでの間、ボクは完璧に母の子供に戻ることが出来たと思う。そして、亡骸(なきがら)となった母が家を去る日、ボクにとっては最初で最後の、化粧をした母を見ることも出来た……

 ボクの家の物置には、古ぼけた一本の鍬(くわ)が入っている。

 ほとんどの物が現代の道具類である中、その鍬だけが丸みを帯びた木の柄の部分や、朽ちかけた刃の部分に時代がかったものを感じさせている。

 連休の終わり、ボクは二年ぶりに家の周りの空き地に花を植えようと思い、その鍬を持ち出していた。

 母が昔から使ってきた鍬だ。内灘の砂丘が一面の畑だった頃、時々母に連れられて遠くの畑まで歩いた。乾いた畑で鍬を打つ母を常に視界に入れながら、まだ幼かったボクは映画か漫画のヒーローを自演する遊びをしていたように思う。

 空にはヒバリが飛んでいた。ヒバリは巣のある場所から離れたところに降り、そこから地上を走って巣のある場所へと移動する。そうやって、巣の在りかをカムフラージュしているのだということを、ボクはその頃どういうわけか知っていた。母が教えてくれたのかどうかははっきりしないが、ボクは母と一緒にいた畑で、羽を細かく動かしながら鳴くヒバリを見上げていたのだ。

 それからもう少し大きくなり、小学校の高学年くらいになると、ボクがその鍬を持って畑の土をおこすようになっていた。小さいながらも、畑全体を何等分化する線を足で引き、その線に合わせて畑の土を耕していく。それはかなりの労力を要する作業で、ボクはいつも途中でダウンしそうになっていたように思う。

 ボクの担当はきれいな砂の場所で、土をおこすのも無理なくできたが、母が鍬を打つ場所では、たまに雑草や小さな木の根っこが混ざっていた。そんな時には、鍬の手を一度止め、耕した砂の中から草や木の根っこなどを取り出し放り投げる。

 今、自分の家の荒れ気味になった空き地を耕すとき、ボクはかつて母がやっていた、その仕草を自分がやっていることに気付く。そして、ちょっと不思議な感覚で、もう一度鍬を持ち直し、その柄の部分に母の手の感触を感じたりする。

 母はよく言われる苦労人という人種だ。あの時代の人には、よくあるパターンなのかも知れない。大正四年に生まれ、高等小学校を出て神戸の大学教授の家に奉公に出され、うちに嫁に来て、戦争、漁業の衰退による貧困、そして病による夫との死別を経験した。そして、まだ若かった母は、義父(ボクの祖父)に説得され、亡き夫の弟(ボクの父)と再婚する。させられたと言うべきか…。その時代の田舎では、よくある話だとも言われる。

 そんな母だったが、気丈夫な一面だけでひたすら頑張ってきたのだろう。一度だけ、祖父母の前で泣く母を見たことがあったが、幼かったボクはただぽつんと横に座っていた。ボクの存在は大したものでもなかったのだろうが、今でもその時の母の泣き声は、はっきりと耳に残っている。母はまた、祖父にとっても頼りになる存在だったようだ。

 母は、この世での最後の夜を、ボクの長姉である自分の長女と過ごした。すでにその時が来ていると聞かされてからは、兄弟姉妹が交代で付き添っていたのだが、長姉だけは事情があって戻れず、ようやく駆け付けたのだった。

 すでに意識のない母だったが、これで安心したのだろう。早朝、静かに息を引き取った。93歳の秋だった………

港の駅ができた

かねてより意気盛んな動きを見せていた羽咋滝町の“郷士”たちが、ついにその意志を形にしてしまった。

五月五日、子供の日。羽咋滝港を目の前にした、と言うよりも、滝港の中にといった感じで「港の駅」がオープンしたのだ。もともと毎週日曜にやっていたテント市が母体なのだが、常設の販売所を持ちたいという地元の人たちの強い意志が、立派にそのことを成し遂げてしまった。倉庫を改装した、小さいながらもそれなりにカッコいい店で、地域の手作り品などが並ぶ。近くにはこの港の駅のオープンによって派生しそうな勢いも見えている。この日は、地元の意気盛んなオトッつァん・おっかさんたちが集まり、子供のように目を輝かせていたことだろう。

ボクは翌日のもう夕方近く、旧富来町へ行っていた帰りに立ち寄った。実は前にも紹介した、このあたりの大親分・福野勝彦さんにお会いして、おめでとうございますを言いたかったのだ。しかし、福野さんは春先から金沢の病院に入院しており、オープン当日には来ていたが、すぐにまた病院の方に戻ったらしかった。入院中の福野さんとは何度かメールのやりとりをし、例の折口信夫関連のことなどを進めようとしていたのだが、五月に入ったら退院できるから、その頃にしようということになっていた。しかし、四月の終わりになって、港の駅オープンには何とか抜け出すが、入院はもう少し延びると連絡が来た。

そしてやはり、福野さんは港の駅のオープンに駆け付けていた。新聞にも福野さんが挨拶したという記事が載っている。

港の駅で迎えてくれたのは、『地域活性化団体・「創性・滝」』の理事長・折戸利弘さんだった。一度、福野さんの自宅ですれ違ったことがあるが、ほとんど初対面だった。福野さんと堅くタッグを組む、弟分のような存在なのだろうと感じた。嬉しいことに、折戸さんはボクの拙著『ゴンゲン森と・・・少年たちのものがたり』を読んでくれていた。

店では売り物になっているコーヒーを、折戸さんがわざわざ淹れてくれ、いただく。美味しいコーヒーだった。ボクだけベンチに座らせてもらい、もう閉店時間がきている雰囲気の店内で折戸さんとしばらく話した。話しているうち、脱サラして生まれ故郷に戻ったという折戸さんの言葉や表情から、この場所で、この地域の人たちと何とか楽しくやっていきたいという思いが伝わってきた。自分だけではなく、周辺の人たちにも、故郷である地域そのものにも、何らかの発信を求めている気持ちが、よく分かった。

“姫丸の一夜干し”という珍味を出している地元の東寿郎さんとも会い、しばらく話す。姫丸とは、明治からつい数年前まで大きな漁業を営んできた船の名前らしく、一夜干しは姫丸の歴代ばあちゃんたちが受け継いできた食文化とのことだ。今、こういう形の食文化が至る所で芽吹いている。差別化も大変だろうと思う。“活〆”の輪島の刀祢さんや、“こんかこんか”の金沢の池田さんなど、ボクの周辺にもいろいろな人たちが絡み合う。このような珍味と酒屋さんとかが、さらに絡めばもっと相乗的な拡がりや深みが増すのではないだろうか…と、それほど真剣ではないが、それでもそれなりに考えたりもしている。

ところで、東さんの自宅(お店)は美術館でもあり、カフェや食事処にもなっているらしい。このあたりの文化度はやはり相当高いぞ…とあらためて思ったりもし、折口信夫ゆかりの藤井家の佇まいのこともアタマを過(よ)ぎった。

話し込んでいるうちに、新しい来客があり外に出た。港の気配に夕方の匂いがしてくる。夏だったら、もっと凄いだろうなあと、夏の夕暮れ時の光景がアタマに浮かんできた。子供たちが走り回り、黒く日焼けしたオトッつァんたちがタバコをふかしながら語り合う。おっかさんたちは身体を揺すりながら笑い合っている。

福野さんが描いている生まれ故郷の町の姿はどんなんだろうか? ふと、そんなことも思ったりしたのであった………

笹ヶ峰のスキートレッキング

 

一年ぶりの妙高・笹ヶ峰である。正確に言うと、一年と一日ぶりで笹ヶ峰に来ている。

朝は、それほどよい天気とは言えず、一時は雨が来るかも知れないと覚悟させられたが、その心配もなく、昼になった今は風はわずかにあるものの、陽も照って気持ちがいい。

ついさっき、リュックからノートと万年筆を取り出した。ノートは九十七年の夏に岐阜県清見村のオークビレッジで買ったもので、表装が木の板で出来ている。その時同じようなボールペンも買った。ペンはなくなってしまったが、ノートはずっと本棚に入れておいた。昨年の笹ヶ峰行きに久々に持ち出し、岩の上でペンを走らせた。その時が十年ぶりに開いたという具合で、ボクはずっとこのノートとはご無沙汰していたのだ。何となく、今年もこのノートをリュックに入れてきた。だから、この文章は笹ヶ峰での現地書き下ろしなのである・・・・・

八時半過ぎにスキーを履いた。去年とは少し違うコースを歩き、走り、滑って来た。今年はスキーの滑りがいい。ワックスを入念に塗ってきたというわけでもないのに、思っていた以上にスキーが前へと出る。笹ヶ峰グリーンハウスの建物や周辺の雪原を会場にして、クロスカントリースキーのセミナーが始まったばかりで、数十人の競技スキーヤーたちがコースを走っていた。ボクもそのコースに最初に入れさせてもらったが、そのせいでスキーが滑るのかも知れない。いきなり、百メートルはある直滑降となり、危うく少年スキーヤーたちの前で転ぶところだったのだ。

よく滑るスキーに乗ってコースを外れ、緩やかな雪の斜面に大木が並ぶ笹ヶ峰牧場の方へと移動。いつものように、“岩棚の清水”からの湧水が流れる沢の音が聞こえるようになり、沢に沿ってやさしい流れを見ながら緩い登りに入って行く。去年は岩棚の清水でスキーを外し下りてみたが、水中の草を押し流すかのように透明な水がたっぷりと流れていた。ボクとしては真夏に見たこの流れに最も感動したのだが、残雪期の流れも春の躍動みたいなものを感じさせてよかった。

少し登ったところで、岩棚の清水を見下ろしながら回り込むように横に進むと、牧場の上部に出る。一度牧場の最も下まで一気に滑り降りる。一気にと言っても、春の雪の上だ。軽快にとはいかず、時折雨水が川となって流れた雪面の溝に阻まれたりして、立ち止まらなければならない。

雪解け水や沢の水が注ぎ込む清水ヶ池まで来ると、ぽつんと釣り人が独り糸を垂らしていた。邪魔をしないようそのまま樹林帯の中へとスキーを進ませる。まだ開き切らない水芭蕉が、大小いくつかの水場で目についた。

今年はやはり雪が多い。途中の山道でも両脇の雪の多さは近年にないのではと感じた。そう言えば、去年昼飯を食った大岩も今年はまだ雪に埋まっていて、先端が少し見えているだけだった。

去年、その岩の上でボクはコンビニおにぎりの包装ビニールと格闘し、その苦闘の最中に、せっかく沸かしたお湯をカップヌードルに入れておきながら、カップごとひっくり返してしまうという失敗をしでかした。風が突然吹いて、手にしていたおにぎりの包装ビニールがめくり上がったのだ。

カップヌードルは半分ほどが辛うじて残り、何とか腹の中に入れることが出来たが、それ以上に笹ヶ峰の雪をカップヌードルのスープで汚してしまったことの方が虚しかった。そしてボクは、あれ以来というか、実は前々からだったが、コンビニおにぎりの包装に関する余計なお世話的外し方について、疑問を露わにしたのだった。

わざわざあんな面倒臭い外し方にしなくてもいいのではあるまいか…と、久しぶりに、そして真面目に、どうでもいいことを真剣に考えてしまった。海苔もあんなにパリパリしてなくてもいいのではないかとも思った。

立山山麓にあるコンビニ風の店では、その日の朝、店のお母さんが握ったというおにぎりが売られていた。でかくて、何よりもサランラップに巻いて置いてあった。食べる時はペロンとはがすだけだ。コンビニおにぎりにある順番①とか②とか③とかがない。①があるだけ。おにぎりは元来、おふくろ、またはお母さんの味とかが基本である。それにはパリパリ海苔など全く完璧に必要ない。そして、そのために考案されたのであろう、あの包装についても、特に意味を感じていないのである。あれを考案したニンゲンはさぞかし鼻高々だろうが……

そんなことを言っておきながら、今年もまたボクは昼用にとコンビニおにぎりを買ってきてしまった。鮭と昆布の二個で、おかずは家の冷蔵庫から持って来た魚肉ソーセージ一本だけにした。コンロも持たずに軽量化に踏み切ったのだ。コッヘルもないからリュックも小さめで済ました。ただひとつ、去年と変えたのは、リュックの隅っこに、なんとノンアルコールビールを入れてきたことだった。

これは今年の笹ヶ峰スキートレッキングにおける最重要研究テーマなのだ。山行におけるビールの重要性を強く訴え続けきた?ボクにとって、特に日帰り山行において、ノンアルコールがその満足度に近づけるかということが最大の関心事であった。

昼飯タイムに入る前、ボクは車道を越えた山の斜面に入っていた。スキーを脱ぎ、雪に埋もれて斜めになったままの木の幹に腰かけ、ぼんやりとそのことを考えていた。気になり始めると、ますます早めに味見したくてウズウズしてくる。目の前の樹林帯への陽の照り方も強く感じられるようになると、ボクはすぐにスキーを履き直した。そしてまた下って、車道を渡り牧場の雪原へと戻っていた。

少し滑り降りて、手頃な岩を見つけた。夏ならば、黒や茶色などの大きな牛たちが、ゴロンとしながら午後のひと時を過ごしている場所だ。日差しと木陰との明暗バランスも見事に調和していて、緑と空の青さ、雲の白さなど高原の夏の美しさを実感させてくれる。

 ボクはすぐにリュックからノンアルコールを出し、雪の中に缶の三分の二ほどを埋め、そして指先でその缶を素早く回転させる。これは『伊東家の…』(テレビ番組)でやっていた裏ワザだ。これだと、温い缶でも五分もかけずに冷やすことが出来る。雪のある山では、ボクはよくこの手を使う。ノンアルコールはすぐに“かなりの状態”になった。早速、実験に入る・・・

結論から言えば、やはりノンアルコールは、ビールではなかった。当たり前と言えばそれまでだが、大きな期待をしてはいけないことを知った。ただ、口に入れた時の感触的にはビールに似たものがあり、後味さえ無頓着でいれば、それなりにウーロン茶を飲んでいるよりもはるかに満足度は高いことも知った。

それほど落胆するほどのこともなく、ボクは魚肉ソーセージを片手に缶に記されたノンアルコールの成分を眺めていた。アルコールが入っていないということは、即ち酔うこともないということなのだが、喉元を通り過ぎていく時に、もう少しビールらしい後味があればと思っていた。

ノンアルコールの一口目を仰ぐようにして飲んだ時だった。アタマの上まで来ていた太陽が目に入った。太陽の周りに円状の薄い虹の輪が出来ていた。

それからボクは、コンビニおにぎりを、去年の因縁も忘れ穏やかな気持ちで口にした。パリパリ海苔が一部崩れ、雪の上に飛散していったことが残念だったが、それでものどかな気分でいられた。ボクは成長していたのだ。

 目の前にそびえる、地蔵山が朝よりも少しだけ鮮明さを増しているように見える。右手には、さらに高い焼山や火打山、後方には三田原山と妙高山。標高二千メートルを越す山々に囲まれたここ笹ヶ峰は、かつて湖の底だったらしい。ボクは今その場所で、山肌の残雪の上に漂う春の空気にのんびりと浸っている。東日本で大きな地震と津波が起き、多くの人たちが苦悩の日々を送っている。ボクはボク自身の中で、そのことについても思った……

……これからどうしようかと、時計を見る。一時少し前だ。この場所にいられる時間は約六時間。六時間を楽しむために、往復六時間をかけてやって来る。何とも贅沢な一年に一度の楽しみだ。と思いつつも、来年からはテント持参、または下の民宿かロッジでもいいから一泊にしようかとも考えている。

もういちど、下部まで下りて行ってみることにした。樹林帯をできるだけ深く探検してみたくなった。とにかく、時間がもったいないのだ………

※ノートに走り書きした文章に少しだけ加筆・・・・・

むなしき誕生日の目論みであった

別に待っていたわけではないが、先日、五十七回目の誕生日が来た。

数日前から来ることは知っていて、その日は残雪深き立山の雪原にテレマークスキーを履いて立ち、そこでノンアルコール・ビアーでも飲みながら、しみじみとこれまでの人生を振り返り、さらに、これからの人生における正しい(余生の)過ごし方などについても考えてみようかな…と、目論んでいた。

週間天気予報の晴れマークを見ながら、“晴れマーク 心もはずみ テレマーク”と、我ながらなかなかいいキャッチコピー的一句も浮かんだ。モチベーションは日々高まっていたのだ。

ところが…だった。前日になって、ボクのこの小さな楽しみはあっさりと打ち砕かれてしまった。どうしても朝一番に会社へ顔を出さねばならない用事ができてしまったのだ。

どうするかな…と、一応考えた。結局、その用事を済ませてから早退し、そのまま立山へ一直線、ひたすらまっしぐらに向かおうと決めた。立山駅からのケーブル。美女平からのバス。昼には弥陀ヶ原に着ける…。少々甘いところもあったが、何とかなるだろうという気持ちと何とかせねばという気持ちが、手に手を取って協力し合う中、ボクはその朝とにかく会社へとやってきた。

ところが…だった(二度目だ)。こともあろうに、一旦出社してしまうと、別の用事がまたボクを待ち受けていた。

あのォ~、今日のォ~、午前中いっぱいまでにィ~、例の書類をォ~、提出してェ~、いただきたいのですがァ~

……昔、小松政夫がこんな言い回しでボケていたのを思い出す。

よく考えてみると、いやよく考えるまでもなく、誰も今日がボクの誕生日だなんて知らないのであった。ましてや、誕生日だからと会社を休んで山へと出かけ、そこでしみじみ考え事でもしようと目論んでいるなんぞ知る由もなく、ボクはごくごく当たり前の日常の中で、ごくごく当たり前に出社しているに過ぎない…と思われても仕方のない存在になっていた。

それでもボクは、午前中いっぱいとは言わず、昼の一時間くらい前、つまり十一時頃には、この例の書類とやらを片づけてやる…と心に決めていた。そうすれば、それからとにかく一直線。二時頃には、弥陀ヶ原の大雪原に立っていられると思った。

ところが…だった(三度目だ)。こともあろうに、その仕事はなかなか出口の見えない、ボクにとっては極めて緻密な対応…、具体的に言えば、数字の計算を求められる内容のものだった。

“緻密対応型数字計算”。この漢字九文字によって構成される作業は、ボクが完璧に不得手としている行為であった。もし、この世から無くなってほしいものを十項目出しなさいと言われたら、たぶんこの“緻密対応型数字計算”は確実に圏内に入れるだろうと確信をもって言えた。

ところで、この場合の“緻密対応型”とはどういうものなのかについてだが、分かりやすく言うと、エクセルの計算式をこしらえながら進めていくものを指している。なあんだ、そんなもんかァ~と、バカにしてはいけない。ボクの場合、そのような行為自体がすでに自分自身の標準仕様から外れている。

誤解のないように言っておくと、ボクは数字が苦手ではない。感覚的な数字の捉え方は子供の頃から人並み以上に優れていたと思っている。小学校五年生の時、S水T彦先生と言う風変わりな理数系の担任がいて、その先生によく算数テストというのをやらされた。

裏表にびっしりと、たし算や引き算、掛け算や割り算の素朴な問題が並べられた紙が渡され、それをエイ、ヤッ、タァーッと気合で解いていくのだ。ずっと、足したり、引いたり、掛けたりしていったら、最後にゼロで割るという意地悪な問題もあった。結構スリル満点で、楽しい?テストだったのだ。

そんなテストの時は、いつも一番か二番でボクは解答用紙を提出していた。答を間違ったこともなかった。今でも数字の並び方の形とかで何となく答えが見えてくるものがあったりするのは、その時の感覚が残っているせいなのかもしれない。

しかし、そういった算数が、高度な数学に変わっていったりすると、ボクの中にあった数字に強いという感覚は何(なん)の役にも立たなくなっていって…しまった。一旦いじけ出すと、ポテンシャル自体も希薄化していく。

「ごめん、実を言うと、ボクは、数字よりも、文字の方が好きなんだ」

そして、ついにボクは数字に対してそう告げた。もう数字のことを好きになれない…。だから、ボクのことは忘れてほしい…。こうしてボクは、数字とサヨナラをしたのだ。高校一年の夏の終わり頃だったろうか……。

……そういうわけで、誕生日だと言うのに、会社に残ったボクはこの緻密な計算(略した)にその後振り回されることになる。自分のデスクでは集中できず、会議室の大きな机にパソコンと書類を並べ、自販機からコーヒーを買ってきて、腰を据えはじめた。午前十一時どころか、昼になっても一向に目途は立たず、昼休み返上などしても何ら意味のないことも分かってきたので、昼飯は金沢の有名なカレー屋さんで、Lカツカレーを食ってきた。久しぶりに美味かった。

それからボクは、しっかりと昼休みをとり、午後の部へと英気を養ったりしてしまったのだった。

その緻密な計算作業が終了しようとしている頃、時計は三時半を回っていた。今から行けば、午後七時までには弥陀ヶ原に着ける…、そんなバカな事を考えたりは当然しなかった。

四月とはいえ、標高二千メートルを超える山では、夜はまだまだ冬だ。晴れていたりすれば、冷え方も半端ではない。かつて、雪原に独りテントを張り、一晩過ごしたことがあったが、その時のことを思い出す。ウイスキーの小瓶と柿の種とクラッカーとアーモンドチョコ。主食はカップめん。ヘッドランプで文庫本の小さな文字を追っていた。当たり前だが寒かった。

早朝のコーヒーに立つ湯気は、幸せ気分の象徴のように見えた。間違いなく完璧な冷え方だったが、ボクは幸せだった…。

再び現実に戻る……。いきなり(大概そうだ)机の上の携帯電話がブルブル震え出した。所謂、バイブは携帯電話を生き物のようにするから好きではない。が、音出しはもっと嫌いだ。

あのォ~、もおォ~、出来ましたでしょうかァ~

電話をポケットに入れて、ボクはすぐにパソコンを自分の机まで運び、待っている相手にメールした。緻密な計算がされた…であろう書類は、アッという間に送信済みフォルダに放り込まれた。

それからすぐに、春の医王山の雪景色が背景となったデスクトップに戻し、アア~ッと、小さいとは言えない声を上げて背伸びをした。疲れて、ぐったりし、放心状態になった。そして、再び、立山の雪原が夕陽に染まる光景が浮かんでくると、今度は激しい焦燥感に襲われる。昼間の、真っ白な山肌と真っ青な空もまた強烈に迫ってくる。“オレには、時間がねえんだぞ・・・”と、小さく胸の中で吠えた。

そう言えば、先日、今年還暦を迎えるという俳優の大杉漣が、六十歳になるということで初めて自分の“死”を考えるようになったという意味の話をしていた。余生というものは、単に時間の長さ(短さ)だけで測れるものではないのだという言葉も印象深かった。だからどうなんだと言われても困るが、つまりその、早い話が、やれるうちにやりたいことはやっておこうという、極めて単純明快なことなのだと、ボクは思っている。

そういうわけで、五十七歳にもなり、もう緻密さなんて要らないボクとしては、青空の下で思いっきり背伸びやら深呼吸やらをし、ひたすらしみじみとしたかった……という、そんな欲求を奪われた悔しさにボーゼンとするのみであったのだ。

第五十七回誕生日の一日は、こうして静かにとは言えずに黄昏ていったのである………

桜の中から~上を向いて歩こう~が聞こえた

 休日の朝、山梨にいる友人からメールが届いていた。前日の夜、こちらから送っておいた件の返事だった。そのさらに前の日だったか、茨城県ひたちなか市に住む後輩のT沼にメールを送っていた。強い余震が続いている。

 三月十一日の大地震の後、T沼にすぐメールした。が、返信が来たのは数日後だった。“無事です。また連絡します”という短い内容だった。

 そして、それからまたその数日後の夜、今度は彼から電話が来た。「T沼です。ご心配かけています」元気そうだった。

 その声を聞いた瞬間、涙が出そうになった。大丈夫だったか?と聞くと、ええ、何とか大丈夫ですと彼は答えた。家は二年前に新築したばかりだったから、何とか持ったが、周囲の家などは壊滅的ですと彼は言った。そして、勤務先の銀行の支店も建物が崩壊。その始末など、燃料も電気も水道もない状況で奔走していたという。

 それと……。彼の弟さんが東京で亡くなっていた。地震と直接関係があるのかどうか分からないが、とにかくその時に突然死し、東京まで遺体を引き取りに行ったと言う。葬式も上げられないまま葬ったとのことだった。あの大パニックの最中に、兄として弟の遺体を引き取りに行く…、そのことを考えただけで胸が痛くなった。

 負けんじゃねえぞ、T沼…。ボクは電話を耳に当て、家の階段に腰を下ろし、半分涙声でそう彼に告げた。何だか、学生時代に戻ったような気がした。

 彼は気丈夫だった。クラブでも小さい体ながら、弱音を吐かない頑張り屋の裏方で徹した。世話役もしっかりこなし、今ではボクたちの代で作っているOB会のマネージメントを引き受けてくれている。

 そんな彼だから、東北にいる他の連中のことも把握していた。皆失ったものもあったが、命は無事だと言う。

 会話が落ち着くと、T沼が今年の秋に皆で集まる予定になっているOB会の話をしはじめた。今年は無理だな…とボクが言うと、またみんなに会えることを楽しみに頑張りますよ…と彼は答えた。また、涙が出そうになった。

 さらに数日が過ぎ、強い余震の続く朝、再び送った激励のメールには、体は大丈夫だが精神的に参っているという意味の返信が来た。いくら気丈夫でも、やはり震度4とか5とかが続けば参って当然だろう。

 関東から東北の人たちは、T沼のように極限の中で今闘っているのだということが、はっきりと伝わってくる。それでもT沼は、東北はもっとひどいですから…と、自分たちはまだまだいい方ですと言っていた。

 ……街には、桜が咲いている。観光客は半分以下になったという人もいたが、桜が咲いたとなれば人出は違う。兼六園周辺も休日前日の午後はたくさんの人波が出来ていた。

 加賀の大聖寺川でも、動橋川でも桜は見事に咲いていた。昔からよく出かけていた金沢犀川奥地の熊走(くまばしり)では、何でもない里山の春の風景に心が癒され、小さな校庭に咲いていた桜をボーっと眺めていた。

 人ばかり見ているような名所ではないところでも、桜はそれなりに咲いていて、それなりの美しさを誇っている。その桜たちが、一生懸命に頑張っている人たちと重なった。

 ラジオで、福島出身の西田敏行がアカペラで歌う『上を向いて歩こう』を聞いた。司会のK沼アナウンサーも一緒になって歌っていた。生放送だった。被災地である福島の方言で話す西田敏行は泣いている。この歌を、こんなに真剣に聞いたのは初めてだ。

 涙がこぼれないように…、思い出す春の日…。幸せは、雲の上に…、幸せは空の上に…。耳の奥に今もこの歌詞が残っている……

春の、ある金曜の夜

 金曜の夜、主計町で篠笛と一人芝居を鑑賞した後、その場で軽くビールやワインなどをいただき、早々に香林坊まで歩こうと外に出た。

 前日に見た検番前の桜の花は、かなり開き始めており、その開花の早さに驚かされる。小雨の中とはいえ、茶屋街の外灯に浮かび上がる桜の木の姿は、やはり色っぽかった。

 大手町の裏筋から、店じまいしている夜の近江町市場の中を通る。特に大手町の裏筋には、古い佇まいも多くあったりして歩くこと自体も楽しい。近江町では居酒屋だけがぽつんと営業していたりしている。曇ったガラス越しに、かなり飲み、語り疲れたようなサラリーマンたちの顔がいくつも見えていた。

 武蔵ヶ辻に出ると、バス停に着いたばかりのバスに飛び乗った。香林坊まで、武蔵から乗ると百円ですむ。しかし、百円で得したと思うよりも、香林坊までの時間を短縮できたことの方が大きい。香林坊に着くと、すぐに日銀裏へと足を早めた……

 ヨークには、若い男二人がカウンターにいた。ビッグバンドでサックスを吹いている常連クンと、その友人だとすぐに分かった。久しぶりに顔を見たと思ったが、ボクの方が店に来る頻度が低いだけだ。めずらしく、マイルス・デイビス晩年のCDが流れている。

 二人がしばらくして出て行くと、その後にこれも懐かしいA木さんが入ってきた。ボクと同じく、どこかの飲み会帰りという様子だった。

 ボクの場合、かつては会社がすぐ下にあり、六時頃から夜中までヨークで過ごすという時もあったが、今はもうそんなことはなくなった。できなくなった。夜中までとは言わなくても、夕方から夜の始め頃までの時間を、しみじみと過ごすのが、かなり日常に近かった。

 A木さんは、金沢でも無類のジャズ愛好家であり、その温厚そうな顔付きや物腰からは想像できないほどのマニアだ。スーツ姿もさり気なく決まっている。

 かつて、マイルス・デイビスの金沢公演を再現しようというイベントを企画した際、最も有効で最も意味のある音源を貸してくれたのがA木さんだった。奥井さんの七回忌のライブ(スガ・ダイロー・トリオ)の時にも、ボクらと並んでカウンターの中からその演奏を熱心に聴いていた。

 ついでに書くと、ボクの拙本(「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」)の良き読者であり、理解者でもいてくれる素晴らしい人でもある。

 そんなA木さんと、その夜は寄席の話で盛り上がった。数日前あたりか、立川志の輔の落語を聞いたとかで、落語や漫才などは生(らいぶ)を聞かなきゃダメという点で意見がまとまった。

 ボクはかつて、先代の円楽の人情噺をしみじみ聞いたことがあるが、あれはまさに芸であったと今でも思っている。こんなことは敢えてボクのような者が言うセリフでもないだろうが、あの凄さは聞いた者でないと分からないだろう。高座から伝わって来る熱いものは並ではなかった。

 NHKラジオの「真打登場」の収録が、何年も前に寺井町(現能美市)であって、奥井さんと二人で行った時の話もした。ボクらも笑ったが、ボクらの前の席にいた熟年夫婦が周囲も気にせずに大笑いしていた。休憩時間に奥さんの方が、「寄席って、こんなに面白いもんやて知らんかったわ」と大喜びしていた光景は忘れない。

 やっぱり、生の演芸だからだネ…と、A木さんも言う。分かりきっていた落ちに、待ってましたとばかりに笑いを送る、そんな空気を感じて、幸せな気分になれるのが寄席なのである。

 そろそろ帰り支度(と言っても別に何もすることはないのだが)をしようとすると、本の方はどう?と聞かれた。特に大きな変化はないのだが、東京の方から、先日読み終えて、爽やかな気分になれたといった意味のお便りをもらった話をした。東日本地震の被災者の人たちに読んでもらいたいと思う…といった趣旨のことも書かれていて、ボクとしても、それが叶うならやりたいと思っていますと答えると、A木さんもそれはいいねと言ってくれた。

 北陸鉄道浅野川線の最終電車は、午後十一時。それに乗るために香林坊日銀前のバス停で、なかなか来ない金沢駅行バスを待つ……。

 その間、午後、浅野川・梅の橋沿いに建つ徳田秋聲記念館に、K先生を訪ねたことを思い返していた。

 先生としっかり一時間近く話をしたというのは、何年ぶりのことだっただろう。夢二館の館長時代は、館長室で時々ゆっくりとお話ができたが、脳梗塞で倒れてからは、あまりボクも訪ねて行かなくなった。

 昨年まで関わっていた、旧富来町(現志賀町)出身の作家・加能作次郎関係の仕事では、本来K先生と一緒にやるべきことも多かったのだが、結局先生との接点は地元の皆さんに任せてしまっていた。

 先生は七十九歳になられたという。島田清次郎の「にし茶屋資料館」をやった時からだから、もう十六年ほどのお付き合いになる。あの頃よりはかなりスマートになった感じだが、透析を続けての先生の活動には本当に頭が下がる思いだ。

 今回は、羽咋市にゆかりのある民俗学者で、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)でもある折口信夫に関することを教えていただきたくて時間をいただいた。先生はかつて、折口信夫のことで、近代文学館の館長だったSさんと動いたことがあったと言われた。

 現在は空き家となっている藤井家という旧家を、記念館として残すべきと考えられたらしい。しかし、実現どころか、藤井家にあった貴重な資料の多くが國學院大學に移されたということに、大きなショックを受けたと言われていた。

 藤井家を記念館にという話は、ボクも地元の人から聞いている。その価値と実現の可能性を先生に聞きたかったのだ。先生は、むずかしいが、地元に意欲のある人がいるなら、大いにやってみたらと言われた。そして、五月の初めに、地元の有志と藤井家見学に行くことになっていると話すと、その報告を楽しみに待っているよと目を輝かせた。

 そろそろ透析に行かなければならない時間。雨の中をタクシーがやって来る。

 ゆっくりと立ち上がりながら、こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね…と先生。こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ…と答える。

 「いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ…」別れ際の言葉がまた胸に染みていた。

 それにしても、バスはなかなか来なかった。接近マークは二つ手前で点滅したままで、小雨が降り続く中、ビニール傘を開かなければならなくなってもいた。

 “ 咲ききらぬ サクラ並木に 夜の雨 ”

 イライラの中の、久々の一句であった……

主計町の春

 

久しぶりに、主計町の「茶屋ラボ」に行ってきた。

あまり気持ちよいとは言えないくらいの生温い風が、やや強めに吹いていて、埃っぽく、上着をはおる気分にはなかなかなれない午後だった。

大手町の駐車場にクルマを置き、新町通りに出て、久保市乙剣神社から暗がり坂を下る。神社の境内に入ると、不思議に風を感じなくなり、暗がり坂に差しかかると、さらに強い温もりだけを受けるようになった。

木立や主計町の狭い道には風も入って来れないのだろう。少し霞み気味の日差しも強くなったように感じる。坂を下った検番の前に立つ桜の木は、まだ蕾(つぼみ)状態だが、それはそれなりの雰囲気を持っていて、相変わらず姿形もいい。

去年の春、ボクはこの木から無数に散っていく桜の花びらを見た。路面に敷き詰められたような花びらはそれなりに綺麗だったが、あの無数の花びらたちはあの後どこへ行ったのか……。桜の季節の後半になると、いつもそんなことを考えている。今はまだいいが、後で心配事が増えるので、やはり桜には心を許せない。

そう言えば、今年の桜はかなり遅い方だ。ボクがこんなこと言っても仕方がないが、桜は早く来て、ある程度の期間咲き続け、散り始めたら早く行ってくれればいい。桜の騒々しさはそんなに長い時間要らない。と言いつつ、今年は何とか哲学の道を桜を眺めながら歩きたいと思っているのだが、タイミング的に無理だろうか。今年がだめなら来年があるが。

そんなこんなで主計町の細い道をL字型に曲がって、浅野川沿いの道に出るとすぐ左に「茶屋ラボ」はある。もう何度も通っている道だ。と言っても、ひょっとすると今年初めてかも知れない…と一瞬冷や汗。去年の今頃は、こけら落としの「和傘と甲州ワイン」のコラボイベントで奔走していた。

新聞にも大きく取り上げられて、この先大変なことになるのでは…と、ビビってしまったのをはっきりと覚えている。本番はなかなかの内容だったが、それをベースにしてやっていくのには、やはり少々無理があったみたいだ。あれ以来、ぽつりぽつりとイベントをやってはきたが、積極さがなくなり、少しずつオーナーさんとの距離も遠くなっていってしまった。しかし、一時、管理をある人物に委ねるような話もあったが、今はまたフリーな状態に戻っている。

待ち合わせをしていたN川クンはまだ来ていなかった。

手に抱えた上着のポケットから鍵を取り出し、いつも開けにくい格子戸の鍵穴に差し込む。意外なほどに簡単に開いて拍子抜けだったが、以前はよく苦労したから気分がよくなった。

格子戸を開けると、何となく懐かしい匂いがして、すぐに中へと足を踏み入れる。奥にある分電盤のブレーカーを上げて、さっそくトイレを拝借。

このトイレは決まって、来客者に驚いてもらえるところだ。トイレをはじめとして、金沢で活躍する鬼才建築家・平口泰夫氏がデザインした内装は、建築賞も受賞した抜群のセンスで構成されている。茶屋の伝統の中に現代的な感性が息づいているといった、ちょっと定番的な表現しかできないが、まさにそうなのだから仕方がない。

一階のテーブルの上にバッグを置き、押入れの扉を開くと冷蔵庫がある。まさかと思って開けてみると、懐かしい「ハラモワイン」のラベルが付いたワインボトルが三本。フルーティな味が特徴的な美味いワインが寝かせて?ある。冷蔵庫は電源が入っていないから、ちょうどいい具合に寝かせられているのも知れない。そう言えば、少し前だがオーナーから、冷蔵庫のワイン飲んでいいかと電話があったが、その時には飲んでいないのだろうか・・・。

冷蔵庫のワインを見て、これは明日飲めるぞ…とニタリ。実は次の日の晩はここで久々のイベントなのだ。

コンニチワ。外から耳慣れた声が聞こえた。N川クンだ。横に立っているのは、大きなマスクながら見覚えがある。O澤さんです…とN川クンが言う前に、ボクはその正体を見破っていた。O江町でS屋さんを営むO澤さんだった。ちなみにSは魚ではない。

さっそく、この場所のことなら、そしてこの場所の活用のことなら何でもゴザレの説明に入る。

一階の設備をひととおり説明終えると、いよいよ二階への階段へと差しかかる。急で狭くて、しかも直角に曲がる階段は、下る際には要注意。何人かこけるのを見た。すれ違う時には、目と目で見つめ合ってしまうような微妙な距離にもなる。

一階でも感嘆の声が絶えなかったが、二階に上がるとその声は一階の三倍半くらいの頻度になった。

浅野川に面した窓からは、その流れと共に、蕾がそろそろ膨らみ始めそうな桜の木の枝が、手が届きそうなところで風に揺れている。いいではないですか…と言いたいながらも、そんな安直な言葉では表現できないと言った思いが、はっきりと伝わってきた。浅野川のさざ波が光っている。

O澤さんは、茶屋ラボで楽しいことを企んでいるらしい。その楽しいことに、さらに楽しいことを注入しようとボクも考え始めた。ここでやろうとしていることは、普通にありふれたことなのではあるが、その中に個性的な何かを付加していく。それが茶屋ラボ的な趣向なのだ…と、ボクはかつて新聞で語っていた(らしい)。

と、今は粋がっていても仕方ないので、いろいろ説明したり案内したりしながらの三十分ほどだろうか。なかなか有意義で楽しい時間が過ぎていった。

ここへ人を連れてくるといつも感じるのだが、皆さん、それなりによいイメージをもってくれる。当たり前のようで、素直な感想だと思うが、だからこそ、こちらとしても中途半端なことは言えない。管理自体にもそれなりに責任があるし、やはり茶屋建築には注意が必要なのだ。

今回のO澤さんのような個性的で、信頼できる人(ヒトビト的)たちには大いに利用してもらいたい。

二人を見送り、戸締りをして茶屋街の道に出た。浅野川を背にして建物外観をしみじみと見る。

そう言えば、「茶屋ラボ」という呼び方もこのまま続けていいのか…と、思ったりする。次の日の夜、ここで篠笛と一人芝居を鑑賞し、そのあとそれなりにビールやワインなんぞを飲むのだろうが、その時に、ボーっと考えてみようかとも思う。

帰り道、暗がり坂で、もう一度蕾の桜の木を見上げてみようと思った。が、おばさんたちの集団に圧倒されて、しばし我を見失っていた。そうか、春なのであった……

春のランナーたちがいた

春になるといつの間にかたくさんの人たちが外に出て、飛んだり跳ねたりするようになっている。そんな激しい人たちばかりでなく、適当に歩いたり、ベンチに腰を下ろしてボーっとする人たちも当然多い。

春休みのスポーツ公園は、高校生たちの凛々しい姿や表情に見惚れたりする格好の場所だ。アンツーカーのトラックを正統派のランニングフォームで走り抜けていく彼らの姿や表情からは、清々しさとメリハリの利いた元気が伝わってくる。富山の国道四十一号線、ます寿しミュージアムの奥にある、広々としたスポーツ公園・・・・・・

春だからいいのかも知れない。夏だと猛暑の中、バテ気味のランナーたちからは息苦しさと気の毒さと、それから、自分だけが楽しているみたいな罪悪感と、とにかくさまざまに複層した思いが重なって、ついつい見て見ないふりをしてしまうこともある。

 かつて、八ヶ岳山麓で合宿していた某実業団陸上部チームのランナーが、ランニング中にコースから外れ、隠れてパイプから流れていた湧き水を飲んでいるところを見たことがある。あとでコーチから激しく叱られていた時の様子は実に惨めなものだった。今だと練習中に水を補給するのは正しいことなのだが、それでも真夏の炎天下ではその過酷さの方が勝ってしまう。実を言うと、そのランナーは当時結構有名な選手だった。だからよく覚えている。

春先のランナーたちは生き生きとしていて、気持ちのよい存在だ。体のキレもシャープに見える。それほど汗をかいていないせいもあるだろう。

中距離か、長距離のランナーたちだろう、ボクの前をかなりのスピードで駆け抜けていった。勢いはコーナーから直線に入っても衰えない。速い選手がどんどん前へと出ていく。一周したところでスピードダウンし、ぐっとペースダウンする。ほとんど歩いているようなスピードになって、見ているこちらの方もホッとしたりしている。しかし、彼らはまた徐々にスピードを上げていき、そのうちまたトップスピードになった。

またボクの前を走り抜けていく。今度は息遣いも聞こえた気がした。瞬間、彼らが引っ張ってきた緊張感がボクにも伝わってくる。先頭のランナーは背の低い坊主頭の、いかにも頑張り屋という顔付きをしている。彼の気迫が後続のランナーたちを引っ張っているようにも見える。

実はボクも中学時代は中距離と長距離の選手だった。選手と言っても、本来は野球部員であり、たまたまその方面の足が速かったから大会があると駆り出されていたのだ。河北郡という単位の大会で、八百メートル一位、二千メートル二位という成績だった。駅伝大会ではアンカーを任されていた。

しかし、今の選手たちとはかなり力の差があるのは間違いない。ボクたちは、あんなに綺麗なフォームで走ってはいなかった。走るということ自体は完璧に自己流であって、小さい頃、柿を盗もうとして見つかり、力いっぱいひたすら走っていた時のフォームとほとんど変わりはなかったと思う。

ただ、戦略的(大袈裟だ)には後半まで抑えて行けとかいう指示はあった。八百メートルの時は、ラスト二百メートルまでスピードを抑え、ラストスパートで一気にトップに出て、そのままゴールのテープを切った。前半を抑えていた分、自分でも全く疲れを感じない完璧なレースであったと今でも思う。その前の大会では、それの逆をやって、その他大勢の一人になったこともある。優勝して以来、ボクはいつもラストでパワー全開するスタイルに徹した。高校の持久走でも学年でトップになったが、やはりラスト二百メートルがボクの花道だった。それ以来、誰言うとなく“ラストスパートのナカイ”と呼ばれるようになった……かと言うと、当然そんなわけはない。

今、目の前で見ているような、しっかりとした練習なんかもやったことはなかった。ただ、走っていた。今でも思い出すのは、トラックを蹴っていくときの足の裏の感触とか、特に直線コースに入った時に感じた焦りみたいなものだ。不思議だが、直線に入るとなかなか足が前に出ていかないような感覚があった。

 ところで、山に行くようになってから、とにかく黙って歩いていれば、そのうち目的地にたどり着くという感覚を知った。ただそういう心境は、山に入ってから十年ぐらいが過ぎてからで、それまではただひたすら早く目的地に着こうということばかり考えていた。それは大学時代のクラブの仲間で、長距離に強かったやつの考え方に影響を受けたからだ。

しんどいことは、早く終わらせよう。早く楽になろう。長距離のランニングとかは、早く走って早くゴールすれば早く休めるし、後続がゴールするまでゆっくり体を休めることができる。実際、二、三十キロのランニングとかになると、早くゴールしておけば三十分以上は楽していられた。軽く柔軟運動などをやりながら体を休める。この考え方で、ボクは山に入っていた。もちろん早くビールが飲めるということも重要だったが。

マラソン選手なんかは、一定のフォームで長時間効率よく走れるということが理想だろう。速く走ろうとすることばかりが、早く走れることにつながるわけでもないに違いない。

高校生たちの凛々しいランニングフォームを見ていると、いろいろなことが頭の中を過(よぎ)っていく。

 帰ろうと思い、両腕を延ばして目いっぱい背伸びをした。目の前が真っ暗になったのか、真っ白になったのかよく分からないまま、体全体が硬直したように震えた。運動不足…。こんな言葉は自分に似合わないと、ずっと思ってきたのに、最近は完璧に似合っている。

まだまだ色のついていない芝生の上を歩き出すと、すぐにちょっと速足になる。ふと、数メートル先の芝の間に小さな茶色の物体を見つける。

 どんぐりだった。ずっと深い雪の下で冬を過ごしてきたのだろう。まだ表面には艶がある。ちょっと拾い上げて指で感触を確かめ、またすぐに芝の上に戻した。

 駐車場の方に戻る途中には、緑地に青い小さな花が無数に広がっている。美しい光景だった。何だか至れり尽くせりだなあと思う。

もう一度背伸びをする。ついでに声も出て、富山の空の青さが目に染みた……

ジャズはジャズ的に聴く

三月下旬のNHK-BSで、上原ひろみがピアノを弾きまくっていた。

七九年生まれだから、もう三十歳は過ぎたのに、相変わらず可愛い笑顔をトレードマークにして、本当に楽しくて、楽しくてたまらないのです!というふうに鍵盤を叩きまくっていた。スタジオのインタビューでは、地震被災者たちのことを気遣いながら……

初めて彼女の演奏を聴いたのは彼女がまだ十代の頃だ。十七歳であのチック・コリアと協演している。明らかに普通のジャズピアニストにはない何かを彼女は持っていた。そして、彼女の音楽スタイルは、彼女の成長そのものよりも急角度で高度に、広角になり、ボクが最も好きなタイプのひとつともなって、いつ聴いても心も身体も解放させてくれる輝きを持つようになっていった。

それはピアニストとしての技術はもちろんだが、メロディやリズムを生み出す楽想や感性、演奏時のパフォーマンス(体の動きや表情)、そして即興性の追求など、すべてボク自身のサイクルを刺激するものであったということだ。

そして、それらの中でも、彼女が言うところの即興性というコトがボクには凄く重要で、即興でしか伝わらないスリルみたいなものは、いつもボクを刺激していた。彼女の演奏には、ボクの大好きな「単なるジャズではない、ジャズ的音楽」のエキスを感じたりする瞬間がたくさんあった。

「ジャズよりも、ジャズ的音楽の方が、よりジャズなのだ」と、自分でもよく分からないことをボクは考えたりしているが、最近ではラーメン屋でも居酒屋でもジャズ(一般的に言うモダンジャズだ)を聴かされているから、もうかつてジャズが醸し出していた濃いエキスは、豚骨スープや筋煮込み汁などの中に吸い込まれていき、かなり薄められている。

それも別に聴きたくもないシチュエーションでのジャズだから、どんどん垂れ流し的聞き流し的状況になっていくのである。

そんなときに聴く上原ひろみの演奏は刺激的で、ジャズは瞬間的に生まれる感性によって創造されるものなのだということを、あらためて教えてくれた。背筋がピンと伸びて、再び希望の道を与えられた迷い人の心境に近いものを感じたりした。

ボクにとって、ジャズは“ライブ”なのだ。特に冒険的なライブ感が感じられないとジャズ的ではない。だからスタジオ録音が悪いというのではないが、ライブ感があるかないかで、少なくともボクの評価は全く異なってしまう。

こんなことを言っていると、今世の中で一般的に愛されているジャズの評価とは全くかけ離れた話をしているように聞こえるかも知れない。街角で流れているジャズには人を普通に癒してくれるスイング感があるし、そのどこが悪いのだと言われると答えに窮する。それはそれでいいとしか言えない。

しかし…、なのだ…。

ジャズの世界では有名なエピソードだが、ジョン・コルトレーンとデューク・エリントンとのレコーディング時のやり取りが、ジャズのジャズたる所以を物語る……

自分のソロ演奏に満足できないで、何度もやり直したいと言うコルトレーンを、師匠格にあたるエリントンが、窘(たしな)めるという話である。

ジャズは即興性の強い音楽であり、その時その時の感じ方や演奏者の個性によってスタイルが変わっていっても不思議ではない。と言うよりも、そうだからこそジャズである。ところがコルトレーンは、再生テープを聴きながらやり直したいと言い出した。エリントンが答える…、そのままの演奏でいいのだよと。

もちろんコルトレーンだって、頭の中ではそんなことが分かっていないはずはない。ただ、エリントンの知性にあふれた強い個性に対して、当時の自分にはまだまだ満足できないもどかしさがあったのだろう…と、ボクは思っている。自分自身が許せなかった。超マジメに音楽を追究したジョン・コルトレーンという、後の泣く子も黙る偉大なミュージシャンは、こうして完成していったのかもしれない。

ところで、今では偏屈者と位置づけされるであろうジャズ愛好家が、ボクの周囲には何人もいる。自分では気が付いていないが、その偏屈ぶりは実に鮮明である。

今は金沢香林坊日銀ウラにある「ヨーク」の、亡き奥井進マスターにヘバリ付いていた連中(自分も含め)などは、その偏屈ぶりを今でも保持している。先日も、金沢市C岡町在住のY稜という偏屈者と久々に語ったが、彼はこの21世紀の世に、セシル・テイラーという超レアなジャズピアニストを聴いていると言っていた。ジャズの歴史には燦然と輝く異色の巨匠ではあるが、今では化石みたいな存在(言い過ぎか)として、久々に耳にした名だった。近いうちにCDを借りようと思っている。

ヨークの正面の壁には、今は亡き奥井進さんの写真が飾られてある。

雑誌掲載用に撮影された、よそ行きスタイルの奥井さんが店の椅子に腰を下ろしてレコードジャケットを見ている写真なのだが、持っているレコード自体が凄い。

サン・ラという、ジャズ界の奇才とも言えるミュージシャンのレコードなのである。そんなことはあり得ないが、若い娘だったら、サン・ラが好きと口にしただけで縁談も断られるであろう。逆に言えば、そういう音楽にカラダが慣れてしまっている自分たちも危ないのだが・・・・・・

奥井さんは何かレコードを持ってというカメラマンのリクエストに、なんとそのサン・ラを選んだ。もともと好きだったのは間違いないが、こういう時、普通のジャズ喫茶のマスターだったら、俗にいう名盤を手にするだろう。しかし、奥井さんは違っていた。

そう言えば、ジャズ的…と言う言葉は、ボクが奥井さんのために造った言葉だった。ジャズ的音楽、ジャズ的日常、ジャズ的人生……。自由に、のびのびと自分の個性を生き方(日常)に反映させていく奥井さんらしい言葉だと、ボクは我ながらのネーミングに満足していた。

一見ミーハーにも見える上原ひろみのピアノから、久しぶりに感じた心地よい刺激が、いろいろなものを思い起こさせてくれたのだった………

※上原ひろみのショットは、NHK-BSテレビジョンより

たけし氏の“振り子理論”に励まされ

「yomyom」19号は、北野武氏の冒頭エッセイがスタートダッシュをつけてくれた。それ以降はいつものように毎夜数ページずつの“牛歩型”本読み状態になったが、出だしの爽快さはあとにいい流れを作ってくれる。

ところで、北野武氏(以下、たけし氏とする)は、ツービート時代から崇拝していた人物の一人だ。が、今は辛うじてTBS土曜夜の『ニュースキャスター』などで見るギャグタイムでしかその名残を確認できず、ボクにとってはかなり物足りない。例えばあの番組も、そのために見ているようなものだ。司会の安住アナとの息がいい具合に合っているのは、二人が明治のOBだからだろう(と、勝手に思ったりしている)。

あの二人は異質なものがいい感じで絡み合う理想コンビのひとつである。ボケに対して朴訥に、諭すように話していく真面目な突っ込みは心地よい響きを持っていたりする。微笑ましくもなる。

ついでに書くと、もうひとつのパターンである、やたらと気が短く、ボケに対してひたすら怒鳴りながら突っ込んでいくタイプもいい。最近見なくなったが、トミーズの掛け合いなどは最高に好きだった。涙が出るくらいに嬉しくなったりする。もっとやれ、もっとやれと煽りたくなる。ダウン・タウンも漫才屋だった頃はそれに近かったが、突っ込みの方が妙に利口ぶるようになるとウザくなっていく。

漫才の話になったので、もう一つついでに書くと、リアルキッズはいったいどうなったのだろうか。老成した天才少年漫才は、他を圧するおかしさと大らかさに満ちていたのだが、もういい大人になって“普通”になってしまったのだろうか。彼らの消息も知りたい。あのボケの方は、とてつもない逸材だったと思っている…

そんなことはとりあえず置いといて……だ。たけし氏のエッセイのタイトルは『本が誘う、本屋は遊郭』となっていた。

その内容は、『書店の中を歩き回って、普段興味のなかったような本を手にする。思わぬ本との出会いもあるし、なんだこの馬鹿な本、こんなものを買うやつがいるのか、なんて茶化しながら見て回るのが、またいい。』といったものである。

そんなこと自体にも共感したりする部分は多いのだが、書き出しにある、『おいらには「振り子理論」という考え方があって、バカな事と知的な事を振り子の様に行ったり来たりしているんだ。』というあたりには、もっと腹の底から共感した。頭のてっぺんに、何かがピリピリと走っていくような快感も味わった。

知的とかという表現にはちょっと違和感を持つが、言わんとすることは大いに理解できる。ボクとしては、さすがたけし氏はいいこと言ってくれるなあ…と、両手を合わせそうになった。実にいいタイミングであった。

 というのも、最近というか、一昨年の終わり頃からボクはかなり迷走気味なのである。自分の在り方みたいなものにまで余計な思いが走ったりしている。

たけし氏の「振り子理論」は、そんな迷走状態のボクに対する檄(ゲキ)のように思えて、ハッとした。今のボクにとっての振り子とは、公と私なのである。別の言い方をすれば、仕事と自己(あまり適切な表現ではないが)なのかもしれないが、とにかく振り子のように片方に振れれば振れるほど、もう片方にも大きく振れていく。例えば、仕事にだけ振って、そこでずっと止めておいてくれというのは無理な相談なのだ。

半世紀以上も生きてきて、今更何か自分を変えるようなものを植え付けようとしたところで無理だ。自分の考え方・感じ方があって、それが自分のやり方になってきた。どんな環境になっても、そんな自分のスタンスは根本的に変えられない。

最近自分の目が行き届かなくなって、このままいたら、自分の手から逃げて行ってしまいそうだと感じる“コト”が多くなってきた。さまざまなヒトビト(人々ではない)とのやりとりもそうだし、自分自身の行動もそうだ。

たとえば、昨年の春、金沢主計(かずえ)町のお茶屋さんを舞台にした『茶屋ラボ』という企画をスタートさせたが、結局関わっていく時間が乏しくなり、アタマも体も回り切らずの尻切れトンボになってしまった。自分自身もそうだったが、周りからもかなりの期待や羨望が注がれていたはずだった。特にボクにとっては、これまであまり関わりたくなかった世界だったが、その分また違う新しいものを創り出してみようという意欲もあって、楽しみのひとつにもしていた。まさに振り子の一方側だったのだ。

しかし、世の中そんなにうまくは回してくれない。当てにしていたサポートもいなくなり、今の自分だけではパワーの限界も見えてきた。ただやり過ごしていくしかなく、とうとうというか、やはりというか、この話はボクの手から離れていこうとしている。

そんなことが目に見える形で現れてくるのはまだしも、ボクの中にはまだまだいろいろなことが燻(くすぶ)っている。特に面白いヒトビトとの接点の中で生まれてきたコト(仕事とは直接呼びたくない)には、自分をとことん試してみたい気持ちが大きい。

先日も面白いことがあった。あるお店のリニューアルの話で、オーナーの奥さんの夢を聞かせてもらった。その夢と店づくりとをリンクさせたいと奥さんは考えていた。おどおどしながら、そのことをいつボクに切り出そうか、どういうふうに切り出そうかと考えている雰囲気が伝わってきていた。

ボクはその夢と、自分自身がやれることとの接点を探した。何でもないことだった。すぐに答えらしきものが見つかり、ボクはそれほど筋道を整理しないまま語り出した。語りながら筋道を整理しようという、いつものやり方だった。

すぐに意気投合した。それはまだまだ具体性を帯びたものとは言えなかったが、何となく方向性のようなものだけは示せるものになっていった。つまり商品販売を抜きにした個性的な部分を作るということで、その部分に活かせる特異な趣味の世界が、奥さんにはあるということだった。

ボクはそのことをオーナーにも話し、オーナー自身にもある若い頃の趣味から発展した仕事の世界をどこかで表現しましょうと提案した。それがどういうものなのかはまだ分からないが、少なくとも伝統工芸とは真逆の境地にあるその世界に、絶対面白い何かが潜んでいると思い始めた。これで打ち合わせが一気に面白くなった。ギャグが通じるようにもなった。

ボクの中にあるのは、いつもこうした自分自身の中のエネルギーというか、楽しみというか、そういう類のコトを軸の一部にして考えていくスタンスだ。だから、それらが感じられないと、ボクの仕事ではなくなる。誰か代わりの人に振ってあげればいいことになる。勇み足もしなくて済む。

たけし氏の“振り子理論”は、途中で左右だけでなく前後や斜め左右、斜め前後といった具合に収拾がつかなくなっていったが、それはそれなりに面白く楽しい時間をもたらしてくれた。アッと言う間に読み終えたが、活字を追いながら、ボクは自分が読んでいた活字以上に、自分の思いを巡らしていたように思う。

かつて、たけし氏の「コマネチ!」という研究本みたいなやつを読んだが、その時も思えば、振り子になっていたような気がする。

そう言えば、新幹線の中に忘れそうになり、立ち上がった際、隣の席にいた女子学生風の女の子に声をかけられたことがあった。彼女は体を傾け、ボクの座席の前のネットからその本を取り出すと、渡す前に表紙を目にし、吹き出すように笑った。表紙は、もろ“たけし”であり、“コマネチ”のロゴが踊っていた。

「おネエちゃん。笑っちゃいけないよ…。この本には深くて重い人の世の道が説かれているのだからね……」

……などとは言わなかったが、それに近い顔付きをして、ボクは「ありがとう」と答えた。そして、最後は笑い返した。

たけし氏という超強烈な“風”を得て、久々にボクの“振り子理論”は元気付いた。自信を持って、これからも図々しく振れてやろうと思う。なんか言われたら、「なんだ、バカやろー」と言ってしまえばいいのだから………

言葉のチカラを知った

地震が来る前、「yom yom」の19号(隔月刊)を買い求め、恒例の就寝直前型読書を楽しもうと思っていた。

地震が来て、その楽しみは打ち消された。日常が戻らなくなった。多くの人がそうであったように、地震の情報に日常のすべてが支配されていき、大袈裟に言うと自分を見失うくらいに、被災地や被災された人たちのことが気になり始めた。

能登半島地震で、その酷(むご)さ、特にニンゲンの心の部分に及ぶ酷さを目の当たりにしてからだろうか、ボクは人一倍そのようなことが気になるようになっていた。例えば“可哀想”などというようなストレートな感情を通り越し、必要もないのに絶望を自分自身に重ね合わせ、自分の無力さや存在感の無さに極度の脱力感を覚えるようになった。

しかし、今回の地震(と津波と原発事故)で、また何かが変わったと思っている。ボクを変えてくれた直接の要因はラジオの存在だ。

本来こういう言い方は、情報入手の手段を失った被災者に当てはまるものだろう。まだまだ被災者の人たちにとって、ラジオは大きな心の支えであるに違いない。しかし、今回ラジオを聞いていて感じたのは、被災者ではない全国の人たちが、ラジオに向かって多くのメッセージを発信していることの凄さだった。そして、そのメッセージが被災者はもちろんのこと、全国の被災者を気遣う人たち自身にも大きな勇気を与えているということに、正直、驚いた。

言葉のチカラ……。物資も何も届けられない中でまずできること、それが言葉によるメッセージを送ることだ。そして、それを受けとった人が、それを送ってくれた人に感謝の気持ちを伝えるメッセージが、さらに多くの心を動かし、大きなサイクルになっていく。

ボクが素直に感動したのは、今、本当に多くの言葉が日本中を駆け巡っているという事実だ。しかも、ひとつのテーマで、ひとつの目的をもって綴られたメッセージが、日本の空を無数に飛び交っている。そして、それらが、すべて美しい言葉の数々で綴られているということだ。

人を思いやる言葉の美しさ……。それはどんなに優れた作家でも詩人でも及ばないチカラをもっている。

今ようやく、「yom yom」が読めるようになった。それも、ラジオの中で誰かが語っていたことがきっかけだった。ボクたちが出来ることは日常の中にある。しかし、その日常もいつ失うか分からない。だから、その自分自身の日常を大切にしていかなければならないのだと……

薄雪・湯涌水汲みの朝

カーテンを開けると、前夜からの冷え込みで、家の周りの土の部分に薄っすらと雪が積もっている。ほとんどが土の部分だから、薄っすらとした雪の白さが柔らかそうで、しばらくボーっと眺めていたくなった。

休日の朝は、のんびりと起きることができ、外の様子などにもゆったりと目をやることができるからいい。仕事の日の朝は、今の季節だとまだ暗い。会社まで平均四十五分ほどの通勤時間を要する身としては、明るくなる前の起床もやむを得ないのだ。

その点、休日の朝はいつもよりかなり明るく平和な感じがして、陽が差していたりすると、かなり得をした気分にもなれる。

三月はまだまだ冬と決めているボクとしては、その日の朝の、新雪の薄化粧も、当たり前の真ん中のちょっと横くらいのもので、全く驚くほどのことではなかった。ただ、少し頭をよぎったのは、午前中に決行しようと心の片隅で決めていた、恒例のお勤め“湯涌の水汲み”に無事行けるだろうかということで、前にも最後の山道に入ろうかという場所で前進を拒まれたことを思い出していた。

しかし、ボクは決めた。今は亡き写真家・星野道夫が、悠久を思わせるアラスカの空を見上げた時のように…とはいかないが、内灘町字宮坂上空から、医王山、さらに県境の山々を経て白山などに続く青い空を見上げた時、ボクは「そうだ。やはり湯涌へ水を汲みに行こう!」と、短い睫毛を揺らせながら決めたのだった。

前週は“氷見のうどん”を食べに行こうと決め、やや勇んで出かけた。が、いざ氷見に着いてみると、気が変わって刺身と焼き魚のセットになった定食を食べてしまった。その時も、風は冷たかったが天気は良く、絶好のドライブ日和となり、帰り道は七尾湾の方へと迂回した。春を思わせる日本海はひたすらのどかで美しかったが、眠気との戦いがきつい試練だった。この話は、特に今回のこととは関係ない…。

十時少し前だろうか、水入れ容器をいつものようにクルマに積み込む。二十リットルのポリ容器が二個。二リットルのペットボトルが約十五本。それに一リットルから五百ミリリットルのペットボトルなどが無数……。とにかく家にあるモノは何でも積んで行って、ひたすらそれらに水を入れ、一滴もこぼさぬようにして家まで持ち帰るのである。

家を出ると、まず河北潟干拓地の端に造られた真っ直ぐな道を、ただそのとおりに進む。途中干拓地の中心部に向かう道二本を無視し、競馬場方面への長い橋にも目もくれないで進む。さらにクルマを走らせ、右手に曲がる橋を渡って津幡町西端の団地の中へと入っていく。

しばらくして高架化された八号線に乗り、すぐに山側環状道路へと車線変更する。ボクの理想としては初めの景色のように、そのまま山の中へと吸い込まれていけるといいのだが、この道はそのうち杜の里付近の明るくにぎやかな街の中の混雑に吸い込まれてしまう。そこからしばらく進んでから医王山・湯涌方面の道に入って行くのだが、そこまで来てボクはいつもホッするのだ。

実は出かける前、湯涌の善良なる住人・A立Y夫青年(かつての)にメールを入れ、今から水汲みに行く旨を伝えておいた。いつも水汲みに行く際には、地元の住人である彼に連絡している。ただ行くよとだけ連絡するのだが、何となくよそ者が黙って水汲みに行くことに申し訳なさを感じていて、ただ一人知っているA立青年(かなり前の)に一報を入れるのだ。彼も湯涌の水の愛飲者であるのは言うまでもない。

彼からは、“薄雪の医王山きれいですぜ”という返事が届いていた。その日は仕事らしく、かなり気合が入ってるみたいだナ…と、文面から察せられるものがあった。

クルマを走らせながら、彼のメッセージを確かめるように、湯涌の山里の雪景色に目をやる。見慣れてはいるのだが、小さな風景ながらの新鮮な感動に浸れる。この辺りも、ボクがずっと親しんできた場所のひとつなのである。

すうっと伸びていく青の空。どこからかただ流されてきただけのような柔らかな白い雲。それらが春に近い冬の晴れ間らしい空気を山里に漂わせていて、ついつい目線を上の方へと持っていかれる。眩しいが我慢する。

山王線という最後の山道に入るところで、またしてもたじろいだ……

道に雪が残っている。今朝の新雪が重なっている。細い山道はすぐに左に大きくカーブするのだが、その先まで雪が残っていて、先の見えない道筋に大きな不安がよぎった。

しかし、今日は何だかそんなに悪いことは起きそうにないみたいだという安易な思い込みがあり、ドアを開けて雪を手で触ってみたあと、特に躊躇(ちゅうちょ)することもなくボクは山道へとクルマを乗り入れた。

しばらくすると、道の雪はタイヤの踏み跡部分だけ消えた状態になり、微かな不気味さの中をゆっくりと静かに進んで行く。対向車が来たらどうするかな?と、のんびりと考えていたが、当然何とかなるだろうぐらいにしか思っていなかった。

そのとおりに何もないまま水場にたどり着く。誰も来ないうちにと、タイヤを滑らせながらクルマをUターンさせ、バックで雪に被われた水場の脇へともぐり込む。

空気が冷たい。新雪を両手ですくい上げると、その冷たい感触が心地よく、その塊を斉藤祐樹のピッチングフォームで、約二十メートル先まで投げてみた。塊は途中で空中分解し、身体の硬さだけが実感として残った。思わず、笑ってしまった。

この水場は、しっかりとした水道栓になっていて非常に便利になっている。ここまで整備してくれた地元の人たちに感謝しなければならない。そのおかげで、内灘くんだりから来ている我々でも恩恵が受けられるのだ。奥に立つお地蔵さんに、では汲ませていただきますと手を合わせて、いよいよ水汲み開始だ。

二つある水道栓を使って、手際よく容器を入れ替えていく。水は出しっ放しにしておき、容器を順番に置き換えていくのである。しかし、時間がたってくると、素手にかかる水の冷たさが徐々に厳しく感じられてきて、かなりしんどい状況になる。指の辺りはピンク色になってきて、そのうち感覚も鈍っていく。白い息を手にかけるが、全く効果はない。

しかし、当然のことながら、そんなことに気を留めているわけにもいかないのである。

二十リットル容器に入れる時は少し余裕もあり、周囲の雪景色などを眺めていたり、カメラを構えたりもできるが、ペットボトルになると、そんなのんびりとはしていられない。どんどん水を入れては、蓋をしての連続となる。かといって何も考えてないわけではなく、一連の単調な動きの中でも、ふと前夜ビデオで見たNHK-BSの『仏像の魅力』のワンシーンを思い返したりしている。

自分の冷たく腫れ上がった指を見ながら、仏像の手は赤ん坊の手のようにふっくらと作られていて、特に指先の爪などは、まったく赤ん坊のものとそっくり同じに作られているという話を思い出したりしている。

仏像の手の指の爪は、赤ん坊のものと同じように反っている。仏様は赤ん坊と同じく純粋無垢な存在であり、ニンゲンたちに赤ん坊のような無垢な気持ちを持ちなさいというメッセージになっているものらしい。なんと、素晴らしい話だろうかと、前夜ボクはますます仏像が好きになっていく予兆に気持ちを高ぶらせていた。ときどき爪を立てたりする大人(特に女の)もいるが、赤ん坊の時は爪は立てられない。そして仏様のように穏やかな心を持った人は、爪を立てない…(話が飛んだ?)。

あれよこれよとオロオロ・モタモタしているうちに、ようやくすべての容器に水が入り切ると、クルマの荷台に運ぶ作業に移る。無理やりクルマを水場近くまで潜り込ませておいたのが功を奏して、快適なうちに積み込みは終了。

登りの対向車が来ないようにと思いながら、雪の坂道を下る。街道に出ると、ホッと一息つき、当然のことながら、このまま帰ってしまう手はないと帰路の逆方向へとハンドルを切っている。

しばらく走って、「創作の森」への登り口あたりにクルマを止めて歩き出した。何となく、その反対側の風景が昔から好きで、何となくそのあたりを歩いてしまう。足元の履物はトレッキング用の浅い靴なので、ちょっと失敗したなあと後悔したりしているが、せっかくの好天の下、歩かないのは損だと思っていた。

青空が気持ちよかった。何がどうなんだと聞かれても、うまく答えることはできないが、とにかく青空があり、その下に雪の山里があるということに満足していれば文句ないではないかと自分自身に語っている。

ボクには、いつもではないが、自分が今感動していることをどう表現して人に伝えようかと考えるクセがある。その時もふと、そんな思いに襲われ、ちょっと戸惑っていたが、そんなことを思うより前に、青空があっさりとその思いに勝ってしまった。

木の枝から、融けた雪のしずくが数滴落ちてきて、雪の上に小さなあとをつけるのを見た。残雪の下に垂れ下がったツララからも、ひっきりなしに水滴が流れ落ちている。

新雪が降ったとはいえ、雪融けは確実に進んでいて、自分自身が寒さを感じなくなっていることにも気付かないでいる。

カメラを遠くの小高い山並みに向けたり、ジェット機が飛ぶ空に向けたり、ぽっかりと雪融けでできた穴から見える緑の草に向けたり、何だか慌ただしくなった。しばらくカメラのシャッターを押し続け、そのあとはのんびりと雪景色をまた眺める。

う~む・・・と唸った。水汲みに来る湯涌には、まだまだ魅力がいっぱいあるなあ・・・とも、あらためて満足。これから先、どれだけこの場所を眺めるのかと、ふと思ったりし、ゆっくりと帰路に就いたのは午後ののどかな時間帯だった……

サイトが開かなくなり・・・

先日このサイトが何の前触れもなく開かなくなった。開かないよというメールがいくつか入ってきて、ちょっと焦ったというか、戸惑ってしまった。リニューアルしたばかりだったので、関係方面にはご心配をかけたみたいだ。

自分では手元にパソコンがなくて確認できず、的確に答えることもできない。そのうち何とかなるだろうとやり過ごしていたが、かなり長く不通状態が続いたらしい。

突然このような状況に陥ると、ニンゲンは勝手に想像を膨らませたりする。例えばナカイの身に何かあったのではないか…とか。

地元内灘放水路に架かるサンセット・ブリッジから身を投げ、今頃は淡水と塩水が混ざり合った冷たい水面にボーっと浮いているのではないか…。そんなことを積極的に想像しようとする、輩たちの顔などが浮かんできたりする。

そう言えば、そのすぐ近くの砂浜で行方不明になっていた主婦の遺体が発見されたばかりであった。内灘闘争以来久しぶりに?内灘の名前が全国へと発信され、東京のあるゴンゲン森読者からは、凄く身近に感じられましたというメールも届いていた。どう解釈していいのか戸惑った……。

数日後には、偶然出くわした地元某テレビ局報道記者の知り合いから、地元のニンゲンとして、あの場所に遺体を埋めようと思った犯人の心理が分かりますか?と尋ねられた。

これまでの人生で遺体をどこかに埋めたという経験はなかったが、あんな場所に埋めるなんて馬鹿げていると思うよと答えておいた。何が馬鹿げているかというと、砂は風によって飛ばされていく、そんな場所に遺体を埋めてもすぐに出てくるに決まっているよということだった。内灘砂丘を甘く見てはいけないと、ボクは久しぶりに会った彼に、なぜか妙に力を込めて語っていた。

それで…、サイトが突然出てこなくなった、いや開かなくなった話に戻るが、自分自身はとにかく妙に冷めていたのだ。成り行き任せにしておくばかりだった。一日以上不通状態が続いたと思う。

そのうち“開いたゾ~”というメールが届いても、それほど感動することなく、そうか、まあよかったという程度でいることが不思議だった。

正直なところを書くと、今ボクはこのエッセイをペーパーにしようと思っていて、そのための心の準備に入っていたばかりだった。このままサイトが消えてしまうとしたら、いっそのこと、このデジタルエッセイを止めにしてもいい……。そうも思っていた。

しかし、それはやはりできない。これを始めたすべてが自分自身の真実というか、自分自身を見失わないためだったということに改めて気付かされたからだ。自分を投げ出すわけにはいかない。

だから、開通したことを自分自身で確認した時、それまでの冷めていた思いよりも何十倍もの安堵を感じた。

それからまた数日後、久しぶりに高校時代の野球部の後輩であり、今は大手有名書籍販売会社の金沢支社長をしているHクンに会った際、突然、しばらくブログ開きませんでしたね…と言われた。彼が読んでいてくれたとは、まったく思いも寄らなかったことで、かなりハゲしく嬉しい気分になった。

彼は真面目にバカがやれる?好青年だった。彼との思い出で、いつも頭に浮かぶのは、雨の日の練習で、体育館でバレーボールをやっていた時、イヌタ!イヌタ!と叫びながらトスを上げていたシーンだ。当時ミュンヘン五輪で金メダルを取った日本男子バレーボールチームに猫田(ネコタ)という名セッターがいたが、彼はそれに引っかけて自分のことを「犬田(イヌタ)」と叫んでいたのだ。どうもボクの周りには、いつもそんなニンゲンが集まっていたみたいだ。

そんなわけで、サイト不通事件は一件落着し、今は遠く、はるか彼方的な話になったのである……

動橋川 冬の朝

滅多にない機会が突然訪れるというのはいいことだ。しかも、思い描くことすらなかった機会となるとワクワクする…。

二月も後半に入ろうかという好天の朝、ボクは野暮用で小松の某温泉地にいた。満月に近い美形の月が、まだ完全な明るさには至っていない空に堂々と浮かんでいた。好天であり、大気は冷え込んでいる。

早く出たせいもあって用事までには四十分ほど時間があった。その時、ふと思い立つ。近くに法皇山古墳跡がある…と。前にも書いたが、その辺りはボクにとって“いい気分になれる場所”のひとつである。しかも、冬の晴れた朝などという条件は、それこそが“滅多にない機会”そのものだった。

こういうことは、とにかくすぐに行動に移すのがいい。道はすぐに加賀市へと入り、左手奥に小高い山並みを見ながら進む。程なく見慣れた町の風景となって、すぐに法皇山古墳跡の駐車場へとクルマを乗り入れる。資料館はまだ冬季閉鎖中。駐車場にはボク以外のクルマはない。バッグの中のカメラの存在を確認したが、なかった。

ハーフコートを着込み、動橋(いぶりばし)川に架かる橋まで歩いた。ちょっと下流側の堤に入って、朝霞の中の白山やその周辺の山並み、それから川の流れに目をやる。相変わらずの水の美しさに安堵したりしながら、もう一度山並みに目を戻すと、山の霞み具合が余計に濃くなったような錯覚に陥る。

今、橋の上流の方、右岸の堤にはきれいな道が作られている。去年の終わり頃に来た時、何だか工事が始まりそうだなと感じていたのだが、今回来てみて、すでに堤の上が道らしくなっていることを確認できた。ここに道が出来れば、その奥にある洞窟のような場所まで、気持ちよく行けるようになる。これまではあまり気持ちよくは行けなかった。靴やズボンの裾がかなり汚れた。

この洞窟のような場所というのは、実に神秘的…とまではいかないが、少なくとも予備知識がない身としては、興味津々といった心境になれる場所だ。法皇山という歴史的な匂いが漂うこともあり、来た人の目を楽しませるだけでなく、好奇心などをそそるものになるだろう。ただ、ボクとしては、この整備がきっかけとなって、自分だけ(?)の世界が失われていくことになるかも知れないことに危惧もしている。ちょっと大袈裟だが……。

橋を渡り、川の左岸を上流方向へと向けて歩く。法皇山の低いながらも急な山肌を左手に見ながら、道は川沿いを右の方へとゆっくり曲がっていく。もちろん川が曲がっているから道が曲がっているのであり、低い山並みが曲がっているから川も曲がっている。

道沿いには桜の木が植えられている。当然、今は裸木状態だ。朝靄の中、その立ち方がいいなあと納得したりする。春先には思わず赤面したくなるくらいの花を咲かせるのだろうが、そういう頃にはあまり来たくはない。桜そのもので、この場所を評価したくないといった、いつもの我が儘だ。

それにしても川の流れがとてつもなく美しい。川面からはかすかに湯気も上がっている。空気がきっちりと冷えている証拠だ。農道のような(なのかもしれない)道の脇にある草むらには霜が降りていて、それに朝日が当たった光景も美しい。

この道はどこまで続いているのか知らないが、いつか完全踏破してみたい道だなあ…とあらためて思ったりしている。なにしろ、もう二十年以上も前から知っている風景なのだ。

それにしても、後半とはいえ、まだ二月なのに春の匂いがプンプンしてくる。山里でも木立の深い場所ではまだ深い残雪があるが、水田地帯では雪解けが進み、顔を出してきた水面が春の光を浴びたかのように輝いていたりする。毎年同じようなことを言っているが、やはりもう少し冬でいていいのではないかと思う。ついこの前まで、雪すかしは大変だとかという話題で盛り上がって(?)いたのに、ちょっと性急すぎる。もう一回ぐらい、雪すかししてやってもいいよと言いたくもなる。そういえば去年の今頃、誰かから“道沿いの雪が眩しいです”という内容のメールをもらったことを思い出した。山里を走る道沿いの雪が、まだまだしっかりと存在している光景こそ、今どきの正しい風景なのだと思う。

クルマに戻って、また元の道を引き返すことにした。橋の上からもう一度川の中を見下ろし、魚でもいないかと目を凝らしてみるが、動くものは何も見えない。夏だったら団体行動で泳ぎまくっている魚たちも、冬の冷たい水の中でじっとしているのだろうか。猫も炬燵で丸くなるように、魚たちもそうなのだろう…と、どうでもいいことを考えたりした。

クルマの中からだが、少しずつ白山の姿が見え始めている。霞の中に光を受けた雪面だけが浮かび上がり、なかなか幻想的だ。いくつかの自分なりのビューポイントを持っているが、そこを通るたびに目をやっている。

ニコンもコンタックスも持ち合わせていなくて、携帯電話のカメラしか使えないことを激しく後悔した。最近ちょっと写真の手抜きがはなはだしい。もっと執拗にカメラを持ち出さねば。

こんな滅多にない機会をもらったのに…と、自分を叱りつつ、もう一度動橋川沿いの道に思いを馳せたりしているのだった……

早朝 冬の車中にて

朝6時08分に金沢を発ち、東京へ向かうための電車に乗る。そのために5時前には起き、最近東京から直送に変えたばかりのコーヒーも飲まずに、髭を剃ったり歯を磨いたりするだけで家を出、未明の道にクルマを出す。

浅野川という小さな河川の堤防上に伸びる、勝手知ったるいつもの道だが、未明にそれほど走るものではない。夜はよく走るが、夜明け前にこの道を走るのは、早朝出発の出張時くらいのものだ。

雲ひとつない未明の空には、星がまだ輝いていたりする。冷たい透明な空気が空から川面に下りてきて、水の中へと吸い込まれていくようにも見える。まだ朝の陽光のカケラも感じられないが、暗さではなく明るさという表現を使いたくなるほど、空は微妙にやさしく見えたりしている。久々に凛とした冬の朝を迎えていた。

通称「時計台」とか呼ばれる立体駐車場にクルマを入れ、エレベーターを使わずに階段を駆け下りる。その日の体調を推し量るのにちょうどいい運動だ。途中、ちょっとリズムを崩したが、まあまあのペースで下りた。外へ出ると、とにかく寒い。

大概、少し早目に駅に着くから、改札を過ぎて階段を上り、ホームへ出る前のショップでコーヒーを飲む。この時間の電車に乗る時は他に店はやってないから、そこで飲むのがいつものことだ。

ホームに出ると、耳たぶが痛くなるくらいの冷気に晒された。今日の晴天を約束してくれる代わりの過激な冷たさに首をすくめる。電車は金沢発だから早めに来てくれる。意外に乗客は多かった。

……動き始めて40分くらいが過ぎた頃、高岡を過ぎて小さなトンネルを抜けた辺りで、左手前方に立山連峰が見えてくる。背後に、そろそろ昇りはじめようとしている朝日を、はっきりと感じ取ることができる。まだ遠くに見えるという感じだが、晴れた日の連峰のシルエットは完璧に美しい。立山連峰などと素人みたいな表現をしてしまったが、毛勝三山、剣岳と、雄山などの立山の山並み、さらに薬師岳など、主だった山の名前を頭の中で呼んだりしている。

電車はすぐに富山駅に着き、富山駅を出ると、今度は連峰が右の窓の景色に変わっていく。初めて高速で富山を走り過ぎた時、この山の位置の変化が不思議だった。単に道路が深くカーブしているだけなのだが、あの大きな山岳風景が左手から右手に変わっていくことを、すぐには受け入れられないでいた。

飛騨の山地や北アルプスの山並みから、富山には大きな水の流れが注ぎ込まれる。電車はそうした庄川や常願寺川など広々とした河原に架けられた鉄橋を通り過ぎていく。真っ白な河原に犬とともに散歩する人影。締まった雪の上を、犬が全身をバネにしたかのように撓(しな)らせて走っていく。人は首にマフラーを巻きつけ、両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで速足で歩いていた。雪が締まっていることをはっきり伝えてくれる足の動きだ。サクッ、サクッという靴音が聞こえてきそうだった。

白衣川という小さな河川を過ぎると、剣岳があの独特なギザギザ感を示しながら迫ってきた。朝焼けを背景にして、ちょっと斜に構えた、そのとてつもない立体感を見せつけられると、ヘビに睨まれたカエルのように心まで吸い取られていくようだ。やはり剣岳にはひたすら従順になる。その反対に、薬師岳には大らかな気持ちになれるが、剣岳はどうもおっかないのだ。

左手に日本海が見えはじめ、魚津の水族館の観覧車が目に飛び込んでくる。そして7時05分、山からの日の出とともに、客車内がくっきりと明るくなった。電車は黒部を走っている。海の対岸に見えるのは氷見から能登半島の方だろうか。向こうから見る風景を想像すると、自分がこちら側にいることを悔やんだりする。

しばらく眠った……

8時を過ぎ、電車は直江津を通って上越の豪雪地帯へと入っていた。深々とした雪原風景に、朝の強烈な日差しがあたり眩しい。しかし、久しぶりの日差し、しかも雪に反射する強い日差しは心をウキウキさせてくれるからと窓外の風景に目を向ける。

何年か前、直江津から長野行の普通列車に乗った。真冬の真昼間だったが、雪降りのために窓外の風景はあまり見えなかった。無人駅に停まると、雪を全身に被った学生たちがホームに突っ立っていて、彼らや彼女らが車内に入って来ると、蒸気が立って周囲が霞んだ。時折見える景色は、よく見ないとただの白い世界で、雪の中の起伏などは見落としてしまう。しかし、その世界は美しかった。1時間ほどの短い時間だったが、ボクにとっては、その時読んでいた星野道夫のエッセイとともに強烈な思い出となっている。

もうすぐ、越後湯沢…。窓の外を見つめているだけで、いい旅ができる。こんな旅もいいもんだ……。

祖父のこと

  何だか物騒な見出しの新聞記事。実はこの記事の中にボクの祖父の名前が出ている。逮捕者の一人として…。

昭和28年(1953)の事件だったと思う。

この記事を見つけたのは昨年の秋。内灘にある歴史民俗資料館「風と砂の館」で開催されていた企画展・『写真で見る内灘闘争』の中で、だ。一緒に行っていた相棒が、「ナカイトクタロ―って名前出てますけど、知ってる人ですか?」と、何気に聞いてきた。

そこには、内灘の漁民たちが逮捕されたという記事があり、その逮捕された八人の中に、祖父の名前があったのだ。

「オレの祖父さんだよ」なぜか誇らしげに、ボクは答えた。

身内に逮捕歴のある者がいるなどというのは、どう考えても尋常ではない。しかし、ボクはこの事件を知っていた。かつて自分たちの海を、国の政府を通じて米軍に奪われた男たちが、一泡吹かせようととった行動。その行動を犯罪と呼ぶのは、あまりにも安直過ぎた。だから、ボクはいくらか微笑ましいという感覚ももちながら、その記事の内容を追っていた。

記事によれば、米軍に接収された内灘の海岸に強行出漁した地元(内灘村黒津船・宮坂地区)の漁師が、国警石川県本部捜査課、河北地区署の捜査により逮捕されたとあり、地元民100人が釈放を求めて河北地区署に押し寄せたと記されている。逮捕された者たちは、取り調べが終わると、翌日釈放されたらしい。その中に当時61歳だった祖父の名前があった。

ボクの祖父は、中居徳太郎という。明治19年(1886)に生まれ、昭和47年(1972)まで生きた。

生まれた時代はようやく明治維新の混乱から安定期に入った頃で、新生日本に初代総理大臣(伊藤博文)が誕生した一年後だ。大日本帝国憲法が発布される三年前でもある。日本がかなりの勢いで強国に近付こうともがいていた頃なのだ。もちろん、祖父がそんなことに絡んでいたわけでもないし、日本はどうなるのか…?などと考えていたなんてこともあろうはずがないが、その後の祖父の生き方やらを思うと、漁業という生業の中で、自由に伸び伸びと力を発揮していった背景が見えないでもない。

話が中途半端に展開しているが、祖父はなぜ逮捕されたかだ。それには、厄介だが、まず「内灘闘争」という事件を説明しなければならない。

………昭和25年(1950)6月、朝鮮半島で戦争が起こった。国連軍の主力を成していた米軍は、戦争で使用する砲弾の製造を石川県の某企業に依頼するが、そこで製造された砲弾を試射する場が必要だった。そこで目をつけたのが、なんと当時貧しい漁村だった内灘なのだ。

政府がそのことを決めるや、当然のごとく村中が大騒ぎとなり、その抵抗運動は新聞報道や労働団体、学生たちの動きもあって全国へと広がった。地元住民たちにとっては、細々と続けてきた沿岸での漁業を奪われる死活問題でもあった。

しかし、昭和28年3月には試射が開始される。住民たちは大反対し、その年の6月には座り込みなどの抗議活動が激しくなっていく。しかし、結局当時の日本経済が朝鮮戦争による特需の恩恵を受けていたということや、貧しい内灘にさまざまな補償の話がもたらされていく中、試射場の使用は続けられ、昭和32年(1957)に返還されるまで続いた……

この出来事は、ある人たちから、今沖縄などで起きている米軍基地問題の走りとか先駆けなどとも言われ、日本で起きた最初の対米軍闘争という位置づけもされている。これまで、そういう難しい視点に縛られたくなかったこともあり、ボクは五木寛之氏初期の小説『内灘夫人』などで表現された青春小説の中の内灘の姿などに目を向けてきた。しかし、最近になって、この出来事にあるような住民たちの当時の日常などに関心が高まっている。

拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』のあとがきにも書いたが、自分の身近な人たちが、あのとき何をしていたか、何を考え、何を感じていたか…などについて、深く思いを馳せるようになっている。

もうこの世にはいないが、当時若い母親だった叔母は、すぐ近くで砂煙を上げながら炸裂する砲弾が怖くて、座り込みに行くのがいやだったと言った。幼かった兄は、親が座り込みに行っている間、大学生たちがギターやアコーディオンで歌を歌ってくれたり、紙芝居を見せてくれたりして楽しかったと振り返った。日常の生活は、このようにしてごく普通に流れていたのだ。

祖父の話に戻ろう。この頃、祖父は何をしていたのだろう。たぶんすでに衰退していた遠征漁業からは手を引き、河北潟や日本海沿岸での地引網などで、辛うじてかつての海の男としての面目を保持していたと思う。

戦前から祖父は、いや祖父たちは、漁船を駆使して日本海を北上したり南下したりして魚を追っていた。わずかに残っている若い頃の写真からは、逞しい体つきをした祖父の姿を見ることができる。

幼い頃から寝起きしていた生家の座敷には、北海道の“松前水産組合”という組織から送られた、中居徳太郎あての感謝状が飾られていた。すでにかなり時代がかった色になっていたが、その内容は漁獲方法の指導や改良などの貢献に対するものだったと記憶している。その堂々とした筆跡や大きな額は、見ているだけでも気持ちを高ぶらせてくれた。

誰からも、祖父は凄い男だったという話も聞かされていた。祖父たちは漁業で財をなしていた。親分肌であったろうボクの祖父もまた、魚を獲るということに関しては天才的な感覚をもち、人一倍の努力を惜しまなかったことだろう。早く漁場へたどり着くために、いち早く最新のエンジンを導入したりすることも忘れなかった。そのような話は『内灘町史』にも名前入りで出てくる。

一度、金沢から家まで乗ったタクシーの年配の運転手さんがこんなことを言っていた。「私の父親が、昔、黒津船の人の船に乗っていたらしいですがね。あの辺の男たちはとにかく、キッツイ(強い)者ばかりやったと言ってましたわ」と・・・

先に書いたボクの生まれた家は、祖父が大工を呼び、現金を目の前に積んで「これで頼む」と建てさせたと聞いた。二階の“あま”という屋根裏空間には、網などの漁具と一緒に数多くの火鉢やお膳などが並んでいた。かつて家の座敷から居間にかけての広い空間で、宴会などがよく行われていたのかも知れない。

ボクが生まれたとき、祖父は62歳か63歳だった。まだまだ元気だったが、かつてのような逞しさは影を潜め、無口で力持ちでモノに動じない、そしてやさしい祖父さんだった。ボクは祖父のことを“ジジ”と呼んでいた。最近、同じような呼び方が流行っているみたいだが、少しニュアンスが違う。

最近のは“ジィジィ”だ。見ての通り前にも後ろにも小さな“イ”が入っている。口にしてみるとすぐに分かるが、最近の呼び方には、“甘さ”がにじみ出ている。ちょっと語尾を延ばすことで“ねえねえ”みたいな甘ったるさが見えてくる。最近のおじいさんたちは、おしゃれでカッコよくて、孫のためなら何でも言うことを聞くらしいので、それでいいのかも知れない。

しかし、ボクの祖父さんは語尾を延ばしてはいけなかった。“ジジ”と、シンコペーションを効かすくらいでしか、あの武骨でクソ真面目で飾り気のない老人を呼ぶ方法はなかった。ちなみに、祖母は“バァバ”と呼んだ。小さな“ア”が一個だけ付くのが、ジジとは違う愛着の表れだったのかも知れない。

忙しかった母の代わりに、ボクは祖父に子守をしてもらって育った。大きな背中に背負われたボクのことを、近所の人たちは大木に縛られているみたいだと言っていた…と、よく聞かされた。まだ保育所にも入る前だろうか、近くの寺の報恩講などに連れていかれ、寺の近くにあった駄菓子屋でキャラメルか何かを買ってもらい、祖父の横に小さくなって座っていたのを、かすかな記憶として覚えている。昔の、五右衛門風呂をコンクリートで固めた、今となってはどう表現していいのかと悩んでしまう我が家の風呂にも、祖父と一緒に入っていた。子供にはかなり高い階段を二段ほど上って浴槽に入るという、ますます複雑怪奇な風呂場であったが、ある時祖父はその浴槽の縁から後ろ向きに落ちた。が、何食わぬ顔で起き上がると、何事もなかったかのようにして、また浴槽に体を沈めていた。

祖父は毎晩コップ一杯の日本酒を飲んだ。そのコップを出すのがボクの役割だった。時々、祖父のその酒をボクは舐めたりもした。

その頃、祖父は未明に河北潟に舟を出し、細々とした漁を繰り返していた。もちろん、河北潟が今のように干拓される前のことで、その頃は内灘の名が示すとおり、前にも後ろにも大きな水域があった。漁ではハネと呼ばれた淡水魚が多く獲れ、家の前まで運ばれた網を広げて、早朝家族で魚を網から外す作業が行われていた。近所の人たちが小さな鍋や籠のようなものを持って集まり、その場で一匹いくらかで買って帰っていった。

魚がすべて網から外され、きれいに整理されて箱詰めにされると、それは隣の地区にある漁協に運ばれる。運ぶのは姉の仕事だった。姉は中学生ぐらいだったろうか。自転車の荷台に箱を縛り付け、15分ほどかけて、いやもっと時間がかかったかも知れないが、とにかく漁港へと向かった。その自転車にはボクも便乗していた。姉の息を頭のてっぺんで感じながら、ボクは必死にハンドルにしがみ付いていたが、当時まだ道路は舗装されておらず、その乗り心地は凄まじいものだった。

魚はその場で現金決済されたのだろうか。といっても、ほんのわずかな金であったことは間違いなかった。しかし、そのお金の中からだろう、姉はボクに必ず何かお菓子を買ってくれた。今から思えば、ボクはとにかくみんなから可愛がられていたのだ…

ところで、ハネという魚は子供の記憶でもはっきりと覚えているほど、激しく美味い魚であった。醤油で煮たやつは、いつも食卓に出ていたが、ハタハタに目覚める前はこのハネに惚れていたように思う。幼い頃の初恋のようなものか…

祖父のことで最も印象深く覚えているのは、河北潟の対岸の町にさつまいもを売りに行った時のことだ。この話は『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中でも書いている。

当時の内灘の砂丘地では、さつまいもがよく作られていた。他にもいろいろあったように記憶するが、現金収入の乏しかった時代、このさつまいもが唯一よそへ持って行っても何とか売れるものだったのかもしれない。

祖父の小舟に笊に入れられたさつまいもが積まれ、祖父が操縦して対岸の町へとひたすら真っ直ぐ向かう。舟には母と親戚の叔母だったろうか、とにかく何人かが乗っていた。そして、ボクはその舟の先端の尖ったあたりに背中を押し付け、早く陸にたどり着けと願いつつ、静かにまたしても便乗していた。

舟は行くときは大して揺れなかったが、帰りにはそれなりに揺れた。あんな潟の水面なのだが、夕暮れ時の風には小舟は敏感だった。

ボクがそこで見た光景は、後にかなり物事が分かるようになってからひとつの感慨となって残ったものだ。小説の中では、主人公のナツオがその場で感じたように書かれているが、ボクは当時その光景を、ただぼんやりと見ていたに過ぎない。しかし、後に感じたことは、自分でも不思議なくらいに切なく悲しいものだった。

人生の最も華やかな時代を海の男としてならした祖父が、さつまいもごときを売り歩くためにペコペコと頭を下げていた。額に汗を浮かべ、その汗を首に巻いた手拭いで拭く姿は、かなり疲れているようにも見えた。対岸の町と言えば、水田が広がり米の多く獲れるところだった。米を作っている人たちの、どこか落ち着いた、もっと言えば品の良さそうな表情が、ボクには眩しく映っていた。その町の人の中には金ではなく米で支払う人もいたが、その頃の自分たちが、それほどまでに貧しかったのかと、それから後に思い返したりもしていた。

ボクはあの時の祖父の姿に何か特別な思いを持っている。それほど深い意味はないと言ってしまえばそれまでだし、たしかに自然体な祖父からすれば、さつまいもを売り歩くこともひとつの人生だったのかも知れない。しかし、ボクはそんな祖父にどこか虚しいものを感じて仕方がなかった。

祖父はボクが18歳の時に死んだ。全く病気などしたことはなく、老衰と言う祖父らしい自然体の死に方で息を引き取った。ボクが生まれて初めて体験する身内の死でもあった。

高校三年であったボクは、帰宅した時に祖父の死を知った。普通の家では信じられないと思われるかも知れないが、ボクには祖父の死は知らされなかった。だから、バス停から歩いて家の近くまで来た時、家の前が異様に明るいのに気付き、そのことを察知したのだ。わざわざ学校を早退してまで帰って来なくてもいいという、当時の田舎の素朴な生活感覚が匂ってきて、この話にはボク自身も違和感がないから不思議だ。

祖父の屍が焼かれようとしている時、母が何か一言口にして泣き顔になった。母はかなり苦労した人であったが、その心の支えとなったのが祖父だったのは明白で、どっしりと構えた義父としての祖父の存在が、母をずっと勇気づけてきたことは間違いなかった。

ボクは、祖父が煙となって空に昇っていくのを斎場の脇から見上げていた。ボクの前にはすぐ上の兄がいた。肩が震え、今にも嗚咽が聞こえてきそうだった。涙は出なかったが、ボクはその時はじめて、自分の祖父の存在と、その祖父の死を実感したように思っていた。

祖父の名は、中居徳太郎。大らかないい名前だ……

雪のある東京の思い出

これから読んでもらうのは、何年も前に書き、かつて『ポレポレ通信』(第44号)というプライベート紙に掲載した短いエッセイだ。今の季節に、ふと思ったりすることを書いた。少し書き直してみようかとも思ったが、とりあえずそのまま読んでもらおうと思う。

「雪のある、東京の思い出…」。

東京に雪が降って、銀座の街に雪ダルマの姿があった。異様な光景ではあったが、何となく東京人の洒落っ気を思い、心憎ささえ感じてしまった。

そして、東京に降る雪の方がオシャレに見えたのはなぜだろうか、とボクは考えていた。

すると古い話だが、親友たちと飲みふけっていた大学の卒業式の夜のことが思い浮かんできた。場所は中野だったと思う。底冷えのする寒い夜だった。

その数日前、東京に季節外れの雪が降った。ほとんどは融けてなくなっていたが、それでも所々に凍り付いたままの雪が残っていた。

かなり酔っ払った後、ボクたちは線路沿いに出ていた屋台でラーメンを食う。酔っ払っていたのと寒かったのとで、そのラーメンは感動的にウマかった。

ボクたちはドンブリを持ったままウロウロと歩き回ったり、何だか訳の分からない歓声を上げたりしながら、そのラーメンを食っていたのだった。

突然、そんなボクたちの横を轟音とともに電車が通り過ぎて行った。まさに不意を突かれたといった感じで、そのときボクたちの周囲にあったすべてのものが、一度に吹き飛ばされてしまったように感じた。

事実、その轟音によってボクたちのラーメンに対する感動はコッパ微塵にブチ壊され、冷たい風がボクたちの全身から温もりさえも奪い去っていったのだ。

ふっと訪れた冷たく白々しい静寂。ドンブリから上がっていた湯気さえも、虚しそうに冷気の中へと吸い込まれていく。

ああ、東京ともこれでお別れか……と急にセンチメンタルな気分に襲われ、胸が痛くなってくる。

残されたラーメンの麺をすすろうとすると、カジかんだ手から割り箸が落ちた。

ふと見下ろすと、足元に小さな雪の塊。

東京の雪はすべてがアスファルトの上に積もっているのだなアと、その時ボクは何気なく思った。当たり前のことだが、東京では雪融けが春を告げるものでないのだとも思った。

雪そのものも冬の風物詩ではなく、単なる冬の間の一時に訪れる珍客に過ぎないとも思った。

東京の雪は交通をマヒさせることはあっても、生活様式を変えてしまうようなものではない。それがあの銀座の雪ダルマに象徴されていたとボクは思う。

当たり前だが、雪に埋もれた日々を送る人たちが持っている雪への思いと、東京の人たちが持っている雪への思いは違うのである。

二月の終わり、何となく春めいていく日々の中で、雪への思いが逆に募っていく……(終わり)

ボクはとにかく雪が好きだ。雪のある山里の風景には涙が出るくらい感動するし、雪の世界に足を踏み入れていく遊びには、かなりポジティブになれる。雪のある場所をわざわざ選んで歩くことも無性に好きだ。よく、子供みたいだと言われた。

石川県に戻ってから、東京に雪が降り都内の交通がストップした時、はっきり“ざまァ見ろ”と思ったことがある。大人げない話だが、その時ボクは完璧にそう思った。

北欧や南太平洋の国々などは別にして、どこの国に行っても寒い地域と暖かい地域のあるのは普通だ。そのどちらかに人は住みつき生きている。ボクはたまたま雪の降る土地に生まれ、雪の降らない土地にしばらく住んだ後、また雪の降る土地に戻った。雪が降るとか、雪があるというのは当たり前のことで、雪のない土地のことを羨ましく思ったことはない。

なのに、なぜ“ざまァ見ろ”と思ったのか。答えは簡単だった。その時、あの人たちは雪で遊べない人たちなんだと感じたからだった。かつて見た銀座の雪ダルマはたしかにオシャレであったが、それだけでしかなかったと思った。

雪で苦労するというのは、そんな生易しいものではない。ボクたちはそのことを体中に染み付けながら、敢えて雪を楽しむ術も知っている。ボクはそんな雪国に生まれてよかったと思っている……

八重洲で、もの想い・・・

八重洲にある某巨大ビルの一階に、シンプルな木調の内装と大きなガラス張りが特徴の、日当たりのいいコーヒー屋さんがある。コーヒーが特に気に入っているわけではないが、何気にその店の雰囲気が好きになり、出張帰りの新幹線待ちの時間に30分ほど余裕を持たせて入ったりする。

一月のアタマ、相変わらず冬の太平洋側らしい晴れの日、工事中の東京駅周辺をぼんやり眺めていると、歩道のあたりで写真の撮影をしている一団が目に入った。撮影されているのは、ロックバンドのメンバーのような連中だ。分かる人には分かるのだろうが、こっちは分かるはずもない。しばらく見ていると、連中は歩道に座ったり、カメラに向かって決めポーズをとったりして、かなり悪乗り的な雰囲気になってきた。見ている方が恥ずかしくなってきたが、彼らには彼らなりの思いやらスタンスがあるのだろうとも思い、それからは敢えて見ないようにしていた。

・・・・・話は一気に飛ぶが、初めて北アルプスの穂高に登った時、単独行のボクは缶詰め状態になった涸沢ヒュッテの小屋の中で妙に落ち着かないでいた。夕食が終わり宿泊部屋に集まると、山小屋のスタッフが、一人ひとり名前を呼び、寝る順番と言うか、位置を示していく。畳一枚に三人が寝るという、夏山ピーク時にはよくある光景だが、ボクの名前だけが呼ばれなかった。

「まだ名前呼ばれてない方いらっしゃいますか?」 ハイと手を上げると、当然、名前を聞かれた。しかし、「ナニさんですか?」と聞かれたので、思わず「ナカイさんです」と答えてしまった。アッと言う間に首から上が熱くなり、その場のシラッとした空気のすべてが自分のせいだという思い込みと、恥ずかしさに潰されそうになった。

“ホントは、こんなこと言うオトコじゃないんですよ、皆さん” ボクは必死にその場の空気を入れ替えようとしたのだったが、すでに遅かった。スタッフは事務的にボクの位置を決め、では皆さんよろしくお願いしまあすと言って去って行った。

ボクは結局、自己嫌悪と人いきれの熱気の中で眠りにつけなくなり、12時頃には山小屋を出て、1時には冷え込んだ外の岩の上でコーヒーを沸かし、携帯食のリッツを出して、それまでの生涯で最も早目の朝食にした。この自己記録はもちろん今でも破られていない。そして雨具などを着込み、岩に寄りかかって仮眠して、3時半にはザイテングラートと呼ばれる急峻な登山道に向けて歩き始めていた。二泊三日コースを家からの往復時間も含めて一泊二日でやっつけようという、当時のボクとしては、当たり前の真ん中のちょっと横といった感じの山行スケジュールだったのだ。当然のごとく、かなりしんどい思いをしていた。

今でも、あの「ナカイさんです」は痛恨の極みだ。野球には痛恨の一球というのがあるが、痛恨の一言というのはああいうことを言うのだろうと思う。旅の恥はかき捨てとも言われる。しかし、あの時の状況は、そのまま皆さんと一緒に寝ることを許さなかったのだ。

話は相変わらず寄り道だらけになったが、八重洲の連中を見ていた時に、ボクはそんなことを思い出していた。もちろんそうしたくもなかったのだが、そうなってしまった。何が共通していたのだろうか。あの連中のはしゃぎ方が、ボクの「ナカイさんです」にどう繋がっていたのだろうか。少なくとも、ボクが両者を同類項にしていたのは間違いなかった。

ボクは、はしゃぐのは得意ではない。“ボケ”は得意だが、根本的にはしゃぐのは不得手だ。別な言い方をすれば、自分をしっかり出すというやり方しかできない。たとえば最近流行りのネット社会における匿名文化みたいなものにも、どうも感覚的についていけない。名前や素性を隠して、意見を述べたりするのは性に合わないし、そういう言葉を、じっくり読もうという気持ちもボクには起きない。もちろんTPO に応じての使い分けは理解できているが。

言葉は、その人の素性などが背後にあってこそ生きたものになるのではないか。写真や絵画、音楽や文学、さらにスポーツ……たとえば、アジア杯決勝で素晴らしいゴールを決めた日本代表の李忠成。まだ若いながら在日から帰化の道を選んだ彼のこれまでの生き方を知ることで、余計にあの一本のシュートの重みを感じ取れるのではないか。涙を流して喜んだという彼の母親の思いもまた分かるのではないか。彼の放ったあのボレーシュートもまた、彼の言葉だったのだ。そう考えるから、言葉はその人の素性や根本的な考え方に裏付けされているものなのだと思える。

むずかしく考える必要はないだろうが、ふと目にしたなんでもない出来事から、自分自身の思いの一端をあらためて考えさせられたような気がした。

2月のアタマにも、ボクはまた、あのガラス張りのコーヒー屋さんで、短いながらも、ゆったりとした温もりの時間を一冊の本と共に過ごしていた。他にも客はたくさんいたが、それぞれがそれぞれの空間を大切にしているように見えた。

窓の外には、速足で歩いていくビジネスマンや、楽しそうに笑いながら歩いていくご婦人たちの姿が見えていた。

ボクはひたすらのんびり構えようとしていた。歳を食っても、自分流の考え方や感じ方の中に、まだまだ整理のつかないことがあるのだということを、ほんのちょっとだけだが、また考えていた。そんなもんだろう・・・・・・・

イブの夜の独り言

 

病院での長い検査の帰り道、年末ジャンボ宝くじが当たったら、いよいよ京都にでも移住しようか、いやあ、やっぱァ、初心のとおり八ヶ岳山麓がいいかなあ…などと考えていたら、いきなりラジオから『聖しこの夜』が流れてきた。しかもあのカラヤンが指揮する何とかというオーケストラの伴奏に、何とかと言うオペラ歌手が歌っているという荘厳さで、移住先の思いがウィーンあたりに飛びそうになった。

そうか、今日はクリスマスの前日、つまりよく言われるところの“クリスマス・イブ”なのだということを思った……。

ところで、何かに書いてあったのだが、若者たちの間でクリスマス・イブは恋人と過ごすのが当たり前としているのは、日本と韓国と中国だけらしい。その三国では、その日に若いのが一人でいると“淋しい人”というレッテルを貼られるらしく、クリスマスまでには、連れを作っておかねばならぬよと、後ろ指をさされたりするらしい。

ある意味マヌケな男たちが、また別な意味でマヌケな女たちから、さも当たり前のようにプレゼントをせがまれたりしている。そして、さも当たり前のように何万円もするプレゼントを買い求め、与え、自らもそれに満足し、「メリークリスマス…」などと意味もよく知らずに呟いたりしている。

キリスト教徒の人たちが不信に思うのは、クリスマス・イブは家族と過ごすのが当然と考えているからで、恋人同士がイチャイチャしたり、熱く燃え上がったりするのを、クリスマスにかこつけているのがおかしいというわけだ。そう言われればそうだ。なにしろ、キリストの生まれた日なんだから、そのこと自体に何の意味もない異教徒の人たちが祝うことすらもおかしい。それになんだかんだでイチャイチャされたりするのでは、キリストも迷惑だ。

我々仏教徒は、お釈迦(しゃか)さんの生誕の日を知っているか、祝っているか。その日は4月8日なのだが、答えは明白だ。

なぜ、こういうことが日本では当たり前になったのだろうか。商業的な仕掛けにすぐ負けてしまう弱点が、かつての高度成長期の浮ついた流れに飲み込まれた。今の中国を見ていたら、日本的なクリスマスの誕生の経緯みたいなものが見えてくる。逆に、韓国や中国に悪影響を及ぼしてしまった張本人が日本人だったとも言える。

子供が小さかった頃には、我が家でもクリスマスの真似事が行われていた。夜中にサンタクロースが家へやって来ることになっていた。父親であるボクは、その夜起きていて、サンタさんが来ると、「アンタが、サンタ?」と、身元を確認してから家に入れていると子供たちに伝えた。それで子供たちはサンタの存在を実感として捉えていた、と思っていた。しかし、賢い上の娘はそのノンフィクション的演出をフィクションと察知し、不信に思い、翌年には鼻で笑った。負けん気の強かった上の娘に鼻で笑われながら、その見抜かれ方が嬉しかったりもした。

寺で生まれた古い友人がいるが、幼い頃から当然クリスマスや初詣などは関係なかった。長く付き合っているが、当然クリスマスなどしたことはなく、息子が出来てからもクリスマスはしなかった。“できた息子”は、成長しながらも、“メリー・クリスマス”という言葉を口にすること自体に強い違和感をもっていたと言う。話は飛ぶが、今テレビでやっている司馬遼太郎の『坂の上の雲』を見ていると、そういうことにも納得できそうな気がする。

前にも書いたことがあるが、ボクはアートや音楽などの世界にあるクリスマスに共感する。クリスマス・ツリーやイルミネーション、その小さな飾り物ひとつひとつに温かいものを感じる。夢とか希望とかが潜んでいるような錯覚を覚える。だから、たくさんの人と一緒に見たくないと思ったりもする。

以前に書いた京都駅の大きなツリーを、階段の端っこから一人きりで見つめている女の子や男の子をよく見かける。あの若者たちは誰にも邪魔されずに、自分の夢や自分の日常、挫折ややる気などをあのツリーの中に見出しているように感じる。それは、日本の仏像や寺院建築や庭園などと通じるものだと思っている。季節が、きりりとした冷たい空気に包まれているからもあるが、余計に熱いものを感じる人が多いのだと思う。

そして、クルマのラジオなどで聞くクリスマス・ソングも癒してくれるものだ。カーラジオだからこそ、よかったりする。あれが家の中のオーディオでは何となくダメだ。街の慌ただしさやネオンなどと一緒に流れてくるクリスマス・ソングがいい。ナット・キング・コールの「ザ・クリスマス・ソング」などはカーラジオで聴く最高の一曲だし、ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス・アンド・・・・」もいいし、ヤマシタ・タツローの“雨は夜更け過ぎに~”も、それなりによかったりする。とにかくみな、情緒的になるのがクリスマスソングなのだ。

学生時代、クリスマスは当然のごとくバイトの最盛期だった。麻布十番の家具屋(大学野球部のOBが経営していた)で夜まで働き、渋谷までバスで移動し、渋谷から下北沢まで井の頭線、そして下北沢から生田まで小田急線と乗り継いでの帰り道。特に25日の深夜などは、渋谷の駅前で売れ残りのケーキが2個1000円とかで売られていた。一緒に働いていた同僚とそのケーキを買い込み、そこからさらに一時間ほどかけてクラブの合宿所へと帰る。途中から電話すると、そこには同じくバイト帰りで腹を空かした仲間たちが待っていた。酒はなかったが、コーヒーが淹れられ、ケーキはアッと言う間になくなった。

いろいろと考えていたが、今夜はクリスマス・イブ。それに相応しくボクの晩御飯のおかずは、“ハタハタの煮たやつ”だった。

NHK総合テレビでは、今年の『ザ・名古屋・JAZZ 』の名場面集が放送されていた。テレビ購入後初めて、ボリュームの数値を30にして聴いた。素晴らしかった。前号のマイルスのところでも書いたが、名古屋は日本でいちばんジャズが分かっている、愛している街だと思う。金沢のなんとかストリートなどバカバカしくなって、情けなくなって、穴があったら入りたくなった。詳しくはまた書こう。今夜はこのあたりにして、なにしろクリスマス・イブなんだから。アーメン……

メダカとツリーと地ビール&つばらつばら

尼崎市にある三菱電機の研究所で、石川県産業創出機構が主催する“技術提案展示会”があり、その会場づくりを受け持った。一ヶ月ほど前に大阪の日立造船所でもやってきたが、いろいろと情報を得たりできて、思いがけない出会いもあったりする。

大阪で久々にお会いし、尼崎でもご一緒できた大西健吾さんは、現在の石川県大阪事務所長さんで、大阪では知事に同行もされていた。大西さんとは実はかなり古い付き合いになる。石川県で国体が開かれた時の重要スタッフのお一人で、未知の仕事に一生懸命力を注いでおられた。かなりしんどい要求もあったが、大西さんの一生懸命さに負けて、ボクもひたすら頑張ったような気がする。大阪でも尼崎でも、ゆっくりお話はできなかったが、こちらに戻った後に、すぐ電話もいただいて、ボクとしては恐縮しているのだ。

尼崎はポカポカを通り越したような、かなりのんびりとした陽気だった。大阪から、JR宝塚線の猪名寺(いなでら)という駅で降り、線路沿いに10分ほど歩くと三菱電機の研究所の正門前に着く。と言っても、その敷地はとてつもなく広くて、駅の隣からすでにダァーんと研究所の施設が並んでいる。正門前が踏切になっているのも面白い。正門までの普通の道自体が研究所の敷地内らしい。写真撮影はできないという注意サインがあったりした。

 ポカポカを通り越しているのだから、歩いているだけでも首筋が何となく汗ばむ感覚がある。今の季節としては、さらに雪国ニンゲンとしては、思わず違和感を持ってしまうような状況なのだが、なんとも、ありがたいことであるまいか・・・と自分に言い聞かせて足を進める。

それに道の横を流れる小さな用水のような流れの中に、きらきらと光る小さな魚影なども見えたりして、それ自体も、なんでこんなところに、美しい小魚たちが泳いでいるのだろうと疑問を持たせつつ、和らいだ気分にさせてくれていた。

あとで分かったのだが、三菱電機では水の浄化に関する研究開発が進んでいる。一見、生活用水の流れる側溝(そっこう)と言ってもいいようなところを、小魚たちの棲める完璧に清らかな水の流れの場に変えていくのは、その成果の現れなのだろう。構内に入って、さらに何でもない小さな流れの中にメダカたちの姿を見つけた時は、足を止めて、しばらく懐かしい光景に見入ってしまった。撮影禁止だったので、写真で見せられないのがちょっと残念だ。

帰りに京都に寄り、夕方に近い頃、京都駅で冬のイルミネーション装飾を見てきた。駅だけで見ると、特に毎年変わったことをやっている気配はないのだが、毎年見てきただけに、どうしても続けて見たくなる。ある意味仕事的視点で見てしまうことに抵抗は感じるのだが、まず見なければコトは始まらない。相変わらず美しいツリーだった。

 ボクにとって、クリスマスツリーというのは、美しいものを見るという視点で存在しているしかない・・・というものだ。へそ曲がり屋的視点からだと、真実味のない“西洋かぶれ”の象徴みたいで、キリスト教徒でもないアジアのニンゲンが、よくここまでやれるなあと思ってしまうのだが、美しいものを見てうっとりするとか、夢を描くとか、そういう視点からは、それなりの存在価値があると思う。ジャズを聴くとか、イタリアンを食べるとかとは、かなり違う意味で。

最近ますます興味を深くしているのは、日本の仏教美術の凄さだ。特に仏像には果てしない力が備わっていると、あらためて感じるようになってきた。京都駅の階段状になった例のスペースから、大きなツリーを眺めている、あるいは見つめている老若男女たちも、家へ帰ると仏壇が置いてあるにも関わらず、うっとりとその美しさに見とれている。たぶん、その中に何かしらの自分を投影したり、誰かのことを投影したりしているのだろう。そういう意味で、ツリーが街に登場する時は、一年の終わりでもあり、何かを考えさせるシンボルにもなっているのかも知れない。

 数日前に、柿木畠の「広坂ハイボール」で、元気親分がつくる、ハイボールの合間に長野県志賀高原産の地ビールを飲んだ。美味かった。柄にもない表現をさせていただくと、“フルーティな美味しさ”のビールだった。今や世界に羽ばたく甲州ワインにも、同じような感覚に誘われるようなものがあるが、何となくそれを思い出した。ビールにも、日本的な解釈が生まれ、日本人好みのビールが出来上がったのだろうが、さらに日本でしかできない味で楽しめるビールが出来ていくというのはいいことだ。日本人的解釈は無限なのだし、そこにも自分が発見できる何かがあるかも知れない・・・・

尼崎で見たメダカたち、京都駅で見ているツリー、その時に思い出した長野県志賀高原産の地ビール・・・ 何だかアタマの中が整理出来ていないまま、伊勢丹地下の「鶴屋吉信」で『つばらつばら』という菓子を買った。特に強い意志などなく、何となく名前が気に入って買ってしまった。

 「つばらつばら」とは、“しみじみと、心ゆくままに、あれこれと”といった意味の万葉言葉であるとのこと。万葉集で大伴家持が詠んだ句に、物思いにふける様子として、この言葉が使われているらしいのだ。味よりも、このネーミングが優先した。ボクは、こういう言葉に弱い。

「ポレポレ=pole pole」もそうだった。スワヒリ語で“のんびり、ゆっくり”ときた。受け入れざるを得なかった。参ったと思った。あとで店の名前やホテルの名前にも登場してきたが、自分では相当前から注目していた言葉で、ご存知?『ポレポレ通信』の名は、そこから生まれたのだった・・・・・

滝港と福野勝彦さんとまちづくりと

世の中には面白ヒトビトがたくさんいて、そういうヒトビトと出会う機会を多く持っていることが、楽しい人生に繋がるひとつなのだと思ってきた。そして、いつもそういうヒトビトとの出会いを待っていると感じたりする。

能登半島の中ほど、羽咋市滝町に住んでいらっしゃる福野勝彦さんは、活躍畑の豊富さや深さやスケールの大きさなどからして、久々に出会った面白ヒトビトの一人だ。最初にお会いしたのが、もう二年ほども前なのだが、それからなかなかゆっくりお話ができる状況を作れないでいた。そうこうしているうちに、「寄ります」とメールしたら、「いつでも寄ってや」と返事が来たので、11月の終わりの晴れた日に出かけてきた。

福野さんの家は、魚港に面した道沿いに建つ。港の名は「滝港」。福野さんの家は、「海の家」と呼ぶ。なぜ、そういう固有名詞が付いているのかというと、その家は、生まれ育った家ではあるが、本来は金沢に住まいがあるため、福野さんはその家、つまり実家を隠れ家?として使っているのだ(と、勝手に解釈している…)。

その名前を聞いたときは、てっきり民宿とかペンションのような佇まいを想像していた。その割には、名前が当たり前的にシンプル過ぎるなとも思ったが、それ以上は考えてなかった。そして、実際に「海の家」に来てみると、そのシンプルさに却って安心した。

ついでにもう少し詳しく説明すると、「海の家」は平屋建ての、間口は狭いが奥に長く伸びた住宅だった。築約60年という。福野さんはここからすぐ近くにあった一宮小学校を卒業し、高校時代までをその家で過ごした。言わば、滝町暮らしは、誕生から青年期始めまでの一期と、現在の二期に分かれることになる。

 ところで、一宮小学校はすでに廃校となり、校舎は公民館として建て替えられているが、木造の体育館は残っていて、なかなかいい雰囲気を醸し出している。石碑には『明治・・年』と記されていた。二宮金次郎の像も残っており、できれば、校舎の方も残っていれば…と、部外者の勝手な思いが込み上げる懐かしい風景だ。

福野さんは67歳だと言われた。地元のテレビ局で報道記者やニュースデスク、番組づくりのプロデューサーなどを経て、7年前に引退(定年退職)。その後、故郷の滝町に戻り、「海の家」を拠点として、自由なスタンスでこの町の“未来創造”一派をリードしている様子だ。エッセー集「能登・ 加賀 東風(あいのかぜ)に吹かれて」(回天蒼生塾発行)の著者であり、講演などの活動されている。

簾(すだれ)がかかった玄関戸を開け中に入ると、上りのところに紙きれが一枚・・・・散歩中だから、ここへ電話せよとのメッセージが書いてある。しかし、福野さんはいた。その紙切れは外出時に玄関に貼っておくのだろう。

 まっすぐに奥に伸びた薄暗い廊下の手前に、坂本龍馬の絵がさりげなく置いてある。墨で描かれたような独特なトーンで古めかしい印象のする絵だ。

実は福野さんは、全国にある坂本龍馬を愛する人たちの集まりの、金沢版とも言うべき「金沢龍馬の会」という組織の設立に参画し、事務局をされている。もちろん、今のNHK大河ドラマの影響などとは無関係で、後で聞いたが、『龍馬伝』は全く見ていないらしい。

これはボクにも覚えのあることで、ボクの場合は、学生時代に山梨の友人の影響を受けて以来、戦国最強の武将(と決めつけている)武田信玄に心酔。信玄に関する本は読みあさり、史跡も見て回った。もし、「武田信玄ものしりクイズ・石川県大会」などが開催されたりしたら、上位入賞の自信がある。北陸大会でもいい。北信越大会だとかなり危ないが、準々決勝あたりまでは行けるかもしれない。そんなことはどうでもいいのだが、とにかくそういう自分は、武田信玄が出てくるドラマは積極的に見ないようにしている。自分の中にかつて具象化した武田信玄があり、それを崩すようなドラマは見る気がしない。ついでに言うと、信玄のライバル上杉謙信も同じで、最近のいい加減な人物像づくりには付いていけない。と言いつつも、文句言いながら結構見ていたりするのだが・・・・・

福野さんにとっても、龍馬はもう出来上がっていて、今更何を…的なものなんだろう。しかも、あんな野郎にやってほしくないという思いもあったかもしれない。勝手な想像だが・・・・

 囲炉裏のある薄暗い部屋が玄関から上がってすぐ右手にあり、福野さんが手招きされている。デスクトップ型の年季の入ったパソコンを前に胡坐(あぐら)をかき、フィルターのない煙草を指に挟んでいた。部屋はと言うと、かなり出来上がった、完成度の高い雑然さで構成されていた。

ボクも囲炉裏の前に腰を下ろす。コーヒーが小さなカップに入れられていた。

福野さんとは互いに間接的な知識しかなかったが、話し込んでいくうちに共通の話題が続々と出てくる。仕事や趣味や、その共通な話題は、ボクにとっても福野さんにとっても懐かしいものが多く、どんどんと話が膨らんでいく。

かつて小誌『ヒトビト』でインタビューさせていただいた面白ヒトビトたちが、共通の知り合いだったり、山や旅の話、本の話、まちづくりの話……。それらに福野さんの縦横無尽だった活動から生まれた話が重なった。ネパールをはじめとするアジアの山々や樺太、さらには東欧やその他世界各国を旅した話、それらにほとんど行かないところはなかったという国内の旅の話、そして密度の濃い地元の話などが交錯した。上品にも下品にもなった。取材した政治家の話もあれば、一緒に仕事をした芸能人たちとのエピソードもあった。好奇心というと少し意味が違うかもしれないが、ある情熱を持ったニンゲンの、自由に行動できる真っ直ぐな生き方みたいなものを感じた。・・・・書き忘れていたが、日本山岳会の会員でもある・・・・。

そして、印象深く残ったのが、福野さんの“ふるさとに対する思い”だった。そんな平凡な言葉で、福野さんの情熱を的確に表現できないのは分かっているのだが、とりあえずそう言わせていただく。今、福野さんは地元の同志の人たちと、地元の海の幸や山の幸を、広く多くの人たちに提供できる場を構築中だ。すでに休日には滝町会館前で「朝市」を開催していて、ちょっとユニークな展開が注目を集めている。12月最初の日曜日に顔を出してくる予定をしているが、福野さんたちは、こういう場を常設のものにしようと考えており、そのための手法についてはボクの方にもいろいろとアイデアがあって、整理してみることにした。

さらに、地元ゆかりの歌人・折口信夫(おりぐちしのぶ)を紹介するための文学館の開設のために、折口信夫が住んでいた藤井家を活用しようと構想されている話にも共感した。ボクはとなり町の志賀町で、加能作次郎や坪野哲久(つぼのてっきゅう)の文学館開設に参画してきたが、折口信夫については、客観的にみて、それ以上の価値を持っていると思っている。志賀町には、前にも紹介した熱心な人たちがいて、優秀なスタッフがその人たちを支えていた。そんな関係が福野さんたち周辺にも必要なのだと思う。旧一宮小学校の建物なども、そういう意味でこの地域の文化づくりの素晴らしい拠点になる。

 福野さんは、今日はもう外出しないからと、もらったばかりだというお酒を飲み始められた。朝から天気は良かったのだが、夕方近くになってちょっと雲が出てきていた。そろそろ失礼しようと立ち上がると、部屋の中に置かれた古い映像カメラが目に入った。ふたつあったが、ひとつは福野さんが実際に使っていたものだということだった。とにかく面白い部屋だ。この部屋では、近々囲炉裏を囲み「芋煮会」が開かれるとのこと。奥の部屋には布団もあるから、来なさいよと誘われた。とにかくにぎやかなのだ。

外に出ると、海風が冷たく感じた。港に上げられたボートの先には、北アルプス北部の山並みが見えた。楽しい時間だった・・・・・・

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

金沢・中央公園で思い出したこと

金沢・片町にある「宇宙軒」で「豚バラ定食大(ご飯大盛り)」を食ってから、香林坊のホテルで開かれる「中心市街地活性化フォーラム」まで30分以上時間があったので、久々に中央公園へと足を運んだ。

特別な目的があったわけではない。何となく、宇宙軒におけるご飯の大盛りが心残りとなり、朝、大和さんの地下で青汁の試飲をして身体にいいことをしたばかりだったのにと、小さな罪悪感に心を痛めていたのだった。

せめて中央公園にでも行って、色づき始めた木々を眺めるふりをしながら、カロリーを消費させよう・・・。そう思っていた。

そういう安直な思いでやって来たのだったが、思いがけなく、あまりにも色づいた木々が美しいのにボクは驚いてしまった。

あまりにも思いがけなかったので、驚きはかすかな喜びに変った。そして、かすかな喜びは果てしない郷愁へと変化し、ボクは青春時代の自分の姿を、その郷愁の中に見つけていたのだった。

何だか、昔の堀辰雄の文章みたいな雰囲気になってきたが、大学一年の夏、ボクはこの中央公園で見た光景を原稿用紙20枚にまとめた。それは初めてのエッセイらしきもので、ハゲしく志賀直哉大先生から五木寛之御大に至るまでの大作家たちの文体を真似た一品だった。

体育会系文学青年の走りだったその頃、ボクは経営学を専攻しながら、日本文学のゼミにも顔を出していた。先生は、奈良橋・・・(下の名前が出て来ない)という名で、作曲家の山本直純を若くし、さらに髭を剃って、二日半ほど絶食したような顔をしていた。果てしないヘビースモーカーで、ゼミの間は煙草が絶えることはなかった。

夏休み前の最後の授業の時に、先生はヤニで茶に近い色になった歯をむき出しにしながら、「夏休みの間に、何でもいいから、ひとつ書いてきなさい」という意味のことを言った。もちろんボクにだけ言ったのではなく、15人ほどいた学生全員に言ったのだ。

ボクはその言葉を忘れないでいた。しかし、夏合宿が始まり、精も魂も尽き果てていく日々の中で、そんなことはどうでもよくなっていった。

そんなある日、ボクは練習で腰を悪くした。もともと中学三年のとき、野球部に在籍しながら陸上部に駆り出されていた時の疲労が溜まり、身体に無理をさせたことが原因となって右の骨盤を骨折したことがあった。それがまた腰に負担をかける原因にもなり、ボクは時々腰が異様に重くなるような症状を感じていた。

久々に感じた症状だった。しかし、一旦それを感じてしまうと、身体はどんどん硬くなっていった。というより重くなっていったという方が当たっている。その年、チームは四国で行われる全日本選手権に出場することになっていたが、その出発の一週間ほど前に、ボクは石川に帰らされた。一度身体を休めて、遠征に向かう新幹線でまた合流しろというキャプテンの指示だった。

帰省してからの日々は退屈だった。金もない。ただボクは身体を休めることもせず、街をぶらぶらしていた。文庫本一冊を綿パンの後ろポケットに入れて、中央公園へとよく行った。

芝生に寝転がって本を読む。今では考えられないかも知れないが、当時の中央公園の芝はきれいだった。たくさんの人たちが芝に腰を下ろしていた。

 ある時、仰向けになり両手で持ち上げるようにして本を読んでいると、足元にボールが飛んできた。ボクはそのボールを起き上がって投げ返したが、そのままもう一度本の方に戻る気になれずにいた。そして、身体を横向きにして、また芝の上に寝転んだのだ。

ずっと向こうに近代文学館(現四高記念館)の赤レンガの建物があった。芝も木々の葉も緑だったが、同じ緑ではなかった。

そして、ボクはその中に小さな男の子と、涼しそうなワンピースを着た母親の姿を見つけた。見つけたというより、目に入ってきたという方が合っていたが、ボクは何度も転びそうになりながら走り続けている男の子の姿を目でしっかりと追っていたのだった。

どんな動きだったのかはもう覚えていないが、ボクはその時のことを文章にした。今から思えば、エッセイというよりは超短編小説といった方がいいかもしれない。なにしろ、その中のボクは「榊純一郎」という名前を付けられていたのだ。純一郎は、どこかに脱力感を漂わせる青年だった。その純一郎が、純粋な子供の仕草と母親の動きに目を奪われ、そこから何かを感じ取る・・・・。そんな話だったのだ。その時の自分に何があったのかは分からない。

帰省している間に、ボクはそれを書き終えた。そして、夏休みが終わって、学校が始まると(といっても10月だが)、最初のゼミの時間に先生に渡した。先生は驚いたような顔をしていたが、じっくりと読ませてもらうよと、また茶に近い色の歯を見せて笑っていた。

そして、次の授業の時間、先生がボクに近づいてきて言った。「なかなか見る目を持っているよ。こういうことをしっかり見て文章にできるということが大事なんだ。どんどん書きなさい」 この言葉は今でも忘れていない。

久々に来た短い時間だったが、ボクは中央公園でのことを思い出した。どんどん書きなさいと言われた言葉は、今の自分にも当てはまっていると思った。今、ただひたすら書くことによって安らいでいられる。思ってもみなかった中央公園での時間が、そのことを納得させてくれたのだった・・・・・

湯涌の水汲みで、秋山の雨を思った

関東に台風が近づいていた休日の朝、いつものお勤めである「湯涌の水汲み」に出かけた。ひと月に一回のお勤めだ。

内灘にある家からは、河北潟を横断して津幡から国道に乗り、途中から山側環状に移って、ひたすらそのまま走る。そして、途中から医王山・湯涌温泉方面への道へと向かうのだ。いつもの素朴な風景に和みながらの時間だ。

雨が降り出していた。水を汲み始める頃には本降りになってきた。よく整備された水場だから濡れることもなく、蛇口から勢いよく出る水を容器に入れていく。20ℓのポリ容器2個と、1ℓの容器10本ほど。時間にすれば20分ぐらいだろうか。

水を汲みながら、あることに気が付く。それは山の雨の匂いだった。秋も深まった山の空気に触れる雨が放つ匂いか、雨を受けた樹木の葉や幹や枝、もしくは雨が落ちてきた土の匂いか、何だかわからないが特有の匂いを発する秋山の雨を感じた。懐かしい匂いだと思った。

 ふと、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんの顔が浮かんだ。もう何十年ものお付き合いをさせていただいている北アルプスの名物オヤジさんと、何度も秋の山を歩かせていただいた。と言っても二人だけではなく、いろいろな人たちが一緒だったが、ゆっくりと山道を踏みしめるようにして登って行く五十嶋さんの後ろを歩くのは快適だった。

毎年10月の終わりには、薬師岳の閉山山行が行われる。太郎平小屋を経由して、すでに初冬と言っていい薬師岳の頂上をめざし、頂上の祠(ほこら)から、薬師如来像を下ろす。その夜は太郎平小屋での最後の宴となり、酒もいつもの数倍の量で飲み尽くす。

もちろん雪が舞ってもおかしくはない。今までにもわずか一、二時間で腰あたりまでの積雪になったことがあった。

しかし、登山口である折立(おりたて)付近ではまだ雪はなく、すでに紅葉は終わりかけているが、登山道に落ちたどんぐりの実などを見ながらの登行が続く。小雨が降り続く朝などは、上は雪だろうなあと話しながら行く。秋山の雨の匂いに包まれている。

そんなときに、いつも五十嶋さんはただ黙々と歩いていた。一年に何度も往復するという道だ。歩き慣れたという次元をはるかに超えた独特の雰囲気が漂う。背中に担いだリュックの下に手をまわし、少し前かがみでゆっくりと足を運ぶ。その姿を見ているだけで、こちらにも、心にゆとりが生まれたりする。

水場の雨は少しずつ強くなってきた。見上げると、大きな木の葉っぱから雨水が垂れてくるのが見える。

帰りを急ごうと思った・・・・・

※タイトル写真は、携帯電話で撮影。

伊集院静氏は、なぜ怖いのか?について

東京への出張の行き帰り、電車の中のお伴として、久々に伊集院静氏の本を一冊持って行った。

『ねむりねこ』という可愛いタイトルの付いた文庫のエッセイ集で、一度読んではいるのだが、内容的にほとんど覚えていないので、あらためて読み返してみるのも面白いだろうと思った。文章も音楽も、絵画も写真も、時にはニンゲンも含めて、その時のさまざまな環境要素により感じ方が異なるものだ。『ねむりねこ』というタイトルから内容を連想できないでいるこの文庫本一冊でも、ひょっとして新鮮な何かをもたらしてくれるかも知れない。それほどテンションを高くしてという意味でもないが、とにかく少し楽しみながら読もうと思っていた。

いろいろなところで書いたり話したりしているが、伊集院さんはボクの好きな作家である。そして、これが重要なのだが、もうひとつ怖い存在でもある。それは、伊集院さんが立教大学の硬式野球部に籍を置いていたという事実に、ボクが勝手にかなりのプレッシャーを感じていることから始まっている。

本当は美術系の道に進みたかったらしいが、大学体育会の硬式野球部にいて作家になったという、そのプロセスに怖さを感じるのだ。そして、好きだというのはその裏返しみたいなもので、体育会の野球部にいた人が、なんであんなに美しい文章、物語が書けるのかということが発端となっている。

その辺をよく知っていないと、伊集院さんの本質は見抜けないのではないか。ボクはずうっとそう思ってきた。夏目雅子の前の夫で今は篠ひろ子の夫だとか、「ギンギラギン・・・」の作詞家だとか、そんなことで伊集院さんを語っていてはケツの穴の小さな話で終わってしまう。

野球をやめるひとつの要因でもあった自分の偏屈?な考え方や、野球をやめた後の挫折感がその後の生き方にもたらしてきたこと、それらは一般的に言う“よくないこと”だった。

伊集院さんの言葉を借りれば、“裏切り”や“卑屈”や、“家庭崩壊”や“酔いどれ”など、いい表現が全く出てこない。もともと恵まれた境遇があったにも関わらず、そこから抜け出ようとした思い。とにかくそれなりの成功はあったのだろうが、それが本当の喜びではなかったのだろうと、勝手に推測したりする。心の奥底まで知る由もない。

そんなモヤモヤとしたものが、『ねむりねこ』を読んでいくうちに、少し分かってきたような気にもなってきた。やはり、寂しいんだろうなあ・・・と、自分自身も胸に手を当ててみたりする。

『手の中の重み』という短いエッセイの中に、大学時代、野球をやめたいきさつが簡単に書かれている。少年野球の頃から変化球を投げ続けてきたツケが、肘に異状をもたらしボールが異様に重く感じるようになった。それは致命的な傷となり、その三ヶ月後に野球部を退部する。しかし、伊集院さんは、この時マネージャーとしてでもいいから野球部に残るべきだったと悔やんでいる。

その悔やみを忘れず、二十年後、野球を素材にした小説『受け月』で直木賞を取った。もし大学時代野球を続けていられたら、伊集院さんの人生は変わっていただろうことは間違いない。“伊集院静”という女性みたいな名前自体も存在していなかったかも知れない(実はこの名前にも面白いエピソードがある)。『手の中の重み』を読みながら、そうならなかったことが良かったのかどうか・・・と、無駄なことを考えた。

『一瞬の夢 揚子江』という短編では、泥酔したまま揚子江を下る船に乗り込み、深夜に目覚めた時の妄想?が綴られている。旅を日常にしているような、伊集院さんにとっての旅に対する思いが語られている。簡単な内容ではないが、旅の中に身を置く自分がその中で体験する自身への問いかけや、その土地土地がもたらす懐かしさや安らぎなどをとおして、旅を求める思いのようなものを探ろうとしている。 美しいと感じるものや、懐かしいと思うものに憧れる人の思いが、旅に結び付いているということだろう。

そして、揚子江の上を船で滑りながら、背後に去っていく風景のような“一瞬のはかない時間(とき)の流れ”を伊集院さんは書いている。水の音、風の音、木々の揺れる音、砂が流れる音、それらは詩であり、“その詩は人が誕生する以前から、土地土地で言葉を紡ぎ、美しい旋律を奏でているのではないだろうか。”と言う。時間(とき)の過ぎゆく早さと、その背景にある自然などの永遠なものとの矛盾がもどかしい。時間(とき)の流れを忘れようとし、自然などの永遠性に憧れるのだろうか。

読みながら、自分もボーっとしてきた。『ねむりねこ』は、決してそんなにむずかしい本ではないのだ。深刻になる必要もない。後半では、伊集院さんと親交の厚い松井秀喜選手の話などが出てきたりして、野球人・伊集院静の血が騒ぐ様子が感じ取れたりする。

伊集院さんは女性を主人公にした小説を書いたり、花についても詳しかったりする。野球に関わる小説も多いが、もちろん単なるスポーツものではない。野球はさりげないが、しっかりとしたストーリーの軸や背景にあったりする。そして、どこかに影がある。やさしい女性が登場する。子供向けにも書く。いや、子供を主人公にして大人たちに読ませるのかも知れない。やさしく力を抜いた物語の展開、表現の細(こま)やかさなど、女子大生が涙するというくらいに、その表現は美しい。そして、なんと言っても日本的だ。

『ねむりねこ』は、特急電車と新幹線の中と、アメ横の居酒屋と、ホテルのベッドの上と、地下鉄の車内と、八重洲のカフェで完読した。何気なく大人になった気分(当たり前だが)で読み切った。伊集院さんは、表面的な少女趣味っぽい要素が誤解されていると時々思うことがある。渡辺淳一あたりと同じように見ている人がいたりするが、そんな人は本質が感じ取れない悲しい人だと、ボクはハゲしく思ったりもする。

そんな思いを抱いたりする、表面しか知らない読者がいるくらいだから、ボクはやはり伊集院さんが怖いのだ・・・・

今年いちばんの、コスモスだった

能登・志賀町の国道を走っていると、視界の隅っこに突然カラフルな空間らしきものが現れ、そのまますぐに後方へと流れ過ぎていった。

慌てて顔を向けると、それはコスモスの一群で、無造作な咲き方ではあったが、それなりの美しさで目を引いた。20mほど通り過ぎてから、クルマをバックさせ、写真を撮ろうと思った。今年はまだコスモスにカメラを向けていないことを、その数日前から漠然と考えていたのだ。

 クルマを止め、コスモスが咲く場所への入り口を探した。道路沿いに延びた白いフェンスによって、その場所へは簡単に行けなくなっている。しかし、ちょっと目を凝らすと、フェンスの先に入口らしき場所を見つけた。自転車がそこに停められていた。

道らしきものはなく、ちょっと深めの草の上を歩いていく。無造作にコスモスが咲いていると思った場所は一応畑になっていた。そして、コスモスが咲く中におばあさんが一人しゃがみ込み、草取りをしている姿が目に入った。

 背中を向けているおばあさんに、「こんにちわ」と声をかけると、不思議そうな顔をしながら向き直り立ち上がる。すかさず「コスモスの写真、撮らせてください」と言うと、さらに驚いたような顔になり、「こんなもん撮ったって、なんになるいね・・・」と答えた。

ボクはまた、「すごいキレイですよ」と言った。おばあさんは口元に少し笑みを浮かべているようだった。

しばらくウロウロと撮影していると、「どこから来なすったいね・・・」と、おばあさんの方から話しかけてきた。振り返ると、背中を向けたまま、両手でまた雑草を取っている。「内灘からです」と答えたが、おばあさんは「ほぉ」と言っただけで、手は休めない。

畑には、もう最盛期を過ぎたミニトマトと茄子がまだ実を付けていた。「ここは、おばあさんの畑なんけ?」 「そうやァ・・・、でももう歳やし、なんもできんがやわいね・・・」。

 おばあさんの話では、国道が整備されてから畑が分断され、今いるこの場所は、切り離されたような形になり、それ以降あまり力が入らなくなったということだ。

「今年また、久しぶりに畑しとるがや・・・」

前の年とその前の年、この畑には何も植えなかったらしい。娘さんが病気になり、その看病などで畑に出られなかったらしかった。娘さんの病気のことを聞こうかと思ったが、それ以上のことはやめにする。

おばあさんが顔を上げていた。手も休めている。カメラを向けようとすると、ダメダメと手を振り、すぐにまた手を動かし始める。

ボクは自分の母親も、身体を動かせる間はいつも家の後ろの畑に出て、砂の上にどさりと座り込み、草取りをしていたのを思い出していた。声をかけると、にこにこと笑い返し、小さい頃には見たこともなかったやさしい顔なった。そんな母が死んで10月で2年、三回忌をすませたばかりだ。

 そのようなことをおばあさんに話すと、「こんなことは年寄りの仕事やさけえねえ・・・」と答える。自転車に乗ってやって来るのだから、畑にいた頃のボクの母親よりは、まだまだ若いおばあさんだったが、どこかに淋しい気配も感じさせた。

「ばあちゃんの家、この近くけ?」「この辺の部落の外れやわいね・・・・」 それがどの辺りなのか全く見当もつかないが、一人ぽつんと、コスモスの花の中に埋もれて草取りを続ける姿は、余計なお世話ながら、やはり淋しいのだ。

ボクはもう一度カメラを手に、コスモスの方に足を向けた。背丈も伸び、大きな花びらをつけたコスモスが、秋の日差しと風を受けて、愉快そうに楽しそうに揺れている。その柔らかな身のこなしが、カメラを向けるボクをからかっているようにも見える。

そう言えばと、何年か前に我が家の南側側面をコスモスだらけにしたことを思い出した。圧巻的な光景だったが、台風が来て、ほとんどが倒れてしまった。しかし、コスモスは強かった。一度斜めに傾いたところから、また真っすぐに空に向かい始め、我が家周辺の“多目的空き地(ボクはそう呼んでいた)”は、L字型コスモスの一団で再び活気を取り戻した。

コスモスは可憐なだけではないということを、その時初めて知った。そして、それ以来、ボクはコスモスに一目置くようになった。

 シャッターを押していると、おばあさんが言う。「あんた、金沢の方に帰るんやろ? そんなんやったら、羽咋に休耕田利用してコスモス植えとるとこあっから、そこ行ってみっこっちゃ・・・」 「どの辺?」と聞くと、猫の目(柳田IC)から市内の方に向けて行き、歯医者さんの角を左に折れて・・・・と、説明を始めた。弥生時代の遺跡に造られた公園の近くということが分かった。それで場所は推測できた。

しかし、行っては見たが、おばあさんの畑のコスモスほど心を和ませてはくれなかった。

それからまた後日、砺波の夢の平へ、スキー場のゲレンデ一面に植えられたコスモスを見にも出かけた。たしかに壮観な風景だったが、ここも今ひとつだった。

志賀町のおばあさんの畑に勝てるコスモスはなかったのだ。カッコつけているわけでもなく、感傷に浸っているわけでもないが、今年は志賀町のおばあさんの畑のコスモスがナンバーワンだと決めてしまった。歴代でもかなり上位に入ると思った。

そういうことで、秋ののどかな一日であったのだった・・・・・・

夢の平のコスモス

永光寺と、今年初めてのどんぐり

大学の後輩に「明彦」と書いて「あきよし」と読む名前のやつがいた。初対面の人は必ず「あきひこ」と読んだ。ボクもそうだった。

 石川県羽咋市にある曹洞宗の名刹・永光寺。「永光寺」と書いていながら「ようこうじ」と読ませる。こちらも絶対的に「えいこうじ」と読まれる宿命にあるが、そうは読ませてくれない。しかもそのくせ、どれだけへそ曲がりな読み方をしようが、ボケて間違えたふりをしようが、絶対「ようこうじ」とは読めない。

永光寺と出会ったのは、今からちょうど20年前。地元羽咋市の観光サイン計画に取りかかった頃だ。当然「えいこうじ」と読んだ。さも当然のように、正々堂々と、自信たっぷりに「エーコージ」と読んだ。

そして、「ようこうじ」と読むのだということを知らされてから、いろいろと資料を調べていき、なんだか凄い寺らしいぞということが分かってくると、なぜか、「ようこうじ」と読む方が正しいように思えてきた。足を運ぶのが楽しみになった。

羽咋市内の、観光スポット評価のための見て歩きが始まった。羽咋市といえば、石川県で最多の文化財を誇るところであることも知り、なるほどと気多大社や妙成寺などの存在が頭に浮かんだ。しかし、名前も知らなかった永光寺の存在を教えられ、興味はかなり高まっていた。

 季節は、春と言うには暖かく、夏と言うには暑くない。かといって梅雨と言うには雨の気配は感じられず・・・、つまり初夏の日差しと爽やかな空気が、何とも心地よい頃だったように思う。

同じ羽咋市内にある名所、妙成寺などには観光客が大勢いた。観光バスが何台も入っていて、休憩所みたいなところも賑わっていた。しかし、永光寺にはボクとスタッフ、合わせて三人だけ。

どの辺りだったかは覚えていないが、駐車場にクルマを置き歩いた。たぶん、今の駐車場の位置と変わっていないだろう。国道159号線から山間の道に入り、意外にちょっと深く入るんだなと思い始めた頃に駐車場があった。クルマを降りて見上げると、木立の新緑が目を和ませてくれた。

しばらく歩くと、ここは凄いゾ…と、ボクの旅人エキスが波立ち始める。薄暗い登り道を、その先に何があるのか知らないまま歩いていくのは、奈良あたりの山寺に向かっていた時と似ていた。違うのは、そばに二人の連れがいるのと、一応仕事であるということ。それから着ているモノと履いているモノと……エトセトラ。

 山門を見上げる石段の、その手前にある小さな橋に立った時は、息を落として構えてしまった。写真では見ていたが、おお、こういう風にして迎えてくれるのかと嬉しくなってきた。石段を囲む木立ちも凛々しい。

急な石段を登り、山門をくぐって境内へと入る。仕事だ、と自分に言い聞かせる。まず挨拶をと思い勝手口のようなガラス戸を開けようとした。しかし、簡単には開かない。ようやく開いたが、中から返事がない。この大きな寺に誰一人いないのだろうかと不信に思ったが、しばらく待って諦めた。後で聞いたが、当時の住職さんは90歳を超える高齢とかで、かなり耳が遠くなっていたらしく、寺の管理もよくなかったらしかった。

寺は荒れていた。荘厳なイメージこそしっかりと残っていたが、視界に入ってくるものは、かなり傷んでいた。ベースにあるものを知っているから、ついつい舌打ちしてしまう。凄い寺なのに、なぜこんな状態になっているのだろうかと勝手に怒ったりもしている。

後日、市役所の担当の方に永光寺で感じた凄さを語った。まったく知らなかった存在。あの場所に、あのような寺があるという意外な事実がまた心を動かしていた。

市の担当の方に提言して、モニター調査をやりましょうということになった。ボクの周りにいた何組かの家族やカップルや個人、それにその頃いろいろと付き合っていたアメリカ人とドイツ人の友人のグループにも頼み、羽咋へ出かけてもらうことにした。

その結果は、妙成寺や気多大社、千里浜などと並んで、永光寺が最高得点のグループに入っていた。中には、永光寺を最高の場所として位置づける人も何人かいた。敢えて事前に永光寺について宣伝しておいたわけではなく、その結果にボク自身も驚き、納得した。

それからボクはそのことをまとめたレポートを書き、市役所に出したのだが、永光寺については寺としての歴史的価値だけでなく、周辺の自然と一体化した魅力について書いた。簡単なレポートだったような気がするが、その頃のボクは「法皇山古墳…」の話でも書いたように、自分自身の提言など具現化するものとは思ってもいなかった。だから、それなりに自分の理想みたいなことを、それらしく書いていた。

 ところが、二年ほどの羽咋における仕事が終わってからすぐ、永光寺周辺を整備する事業が始まっていた。国と県と市とが一緒に行う、かなり大きなスケールの事業だった。それから後、永光寺は今のような美しい姿となった。いや取り戻したというべきか…。単にタイミングが良かったのだろうが、ボクの考えもそれなりに活かされたのかも知れなかった。そして、美しい風景などに囲まれた歴史的な場所(法皇山古墳もそのひとつ)などは、周辺に魅力を付加することがいかに大切かということがよく分かってきた。

10月の中旬、いつもの富来行きの帰り、久々に永光寺に足を伸ばしてみた。約2年ぶりだったろうか。

午後の遅い時間でもあり、下の駐車場は空っぽだった。そのまま境内の近くまで登っていくクルマも多いから、寺には先客がいるかもしれないが、やはりウィークデーのこの時間ではあまり人はいないだろうと思った。

 まだまだ周辺の木々の紅葉は早い。しかし、空気は十分肌寒さを感じさせた。いつものように石柱を過ぎて中道門(ちゅうどうもん)を通り、ゆったりとした登り坂を歩く。相変わらずの静けさと薄暗さ、寺までの道はもうちょっと長くてもいいなあと、来るたびに余計なことを考えてしまう。

寺には一人だけ先客がいた。拝観見学というより、仕事絡みみたいな人で、座禅会の申し込みか何かの打ち合わせをしていた。

ボクも実はこの寺の魅力を何とか活かした催し(この場合短絡的にイベントという言葉は使わない)を、企画したいと考えている。京都で見た学生たちのまだ青臭い感性と、メチャクチャな体力と、奉仕精神いっぱいの意欲とが合体した活動をヒントに、借景とか目に見えない力みたいなものをテーマにした、大人にもグッとくるような催しをやってみたくなっていた。

 永光寺は、1312年の創建ということで、もうすぐ700年になる。詳しい話は置いとくが、とにかく来年の春から、永光寺ではその記念行事を行っていくらしいのだ。ボクが聞いたのでは、永光寺に残されている開祖などいくつかの名僧の坐像が公開される予定にもなっていて、実はボクはすでに一度拝見させてもらっているが、これは必見の価値がある。

ところで永光寺と、旧門前町(現輪島市)の總持寺とは同じ僧によって開かれており、歴史も同時期になる。かつて總持寺に関する仕事(禅の里交流館)をさせていただいた時、地震の被害が生々しい法堂の奥にある坐像の撮影を依頼された。狭くて真っ暗な空間に照明を持ち込んで、蚊に食われながらの撮影だったが、ほとんど一般の人には目にするどころか、足を踏み入れることもできない場所に入らせてもらった。そこで見た坐像も迫力があったが、その原本が永光寺のものらしく、永光寺のものは總持寺のものよりも製作年代もかなり古いものだということだった。

 お茶とお菓子をいただきながら、そんな話などをしていると、寺を使った催しについての話にもなり、ボクは自分が思い描いていることなどを簡単に語った。かつて、荒れていた時代に訪れ、その凄さを感じた話や、ついでにボクが訪れた前年に映画のロケにも使われていたというエピソードなどについても話すと、奥から昔のファイルが出されてきて、これのことですねと言われた。観光資源として活用するのであれば、その時が大きなチャンスであったのだが、荒れた寺のイメージで使われたとしたら、あまりいいものになるはずもなかった。

地道に心に染みることをやっていくには、永光寺は非常にいい条件を備えていると、ボクは生意気にもそう思っている。

 ひとりでゆっくりと寺の中を見て回った。もちろん仏さまの前に座り手も合わせた。ちょっと贅沢な時間だった。

今度また、ゆっくり来させてもらいます。そう告げてボクは寺を去った。空が薄暗くなり始めていた。木立の中の石畳の道で何度も振り返った。20年前の時のことを思い出そうと、かなり一生懸命になってはみたが、全くと言っていいほど具体的なことは甦ってこない。もうそんなことはいいのではないか…と、もう一人の自分に言う。そうだな…と、もう一人の自分が答える。 寺務所の人たちとの語らいに何かを見出しながら、またここへと戻ってくる時が楽しみになってきたのだった。

 帰りの道すがら、夕暮れに目線を落として何かを探しながら歩く親子を見かけた。すぐにどんぐり拾いをしているのだと分かった。

クルマを停め、足を運ぶ。見事に美しいどんぐりの実が道端の草の上に落ちていた。小さな女の子が手にしたどんぐりを見せながら、母親に“ママ、ドングリ好き?”と聞くと、母親が“うん”と答える。その小さな女の子と目が合った。

“おいちゃんも、いい歳してドングリ好きなの?”と聞かれたらどうしよう…と、考えてしまう。しかし、女の子は聞いてくれなかった。“うん、大スキだよ”と、答える準備が出来つつあったのに拍子抜けだった。

今では、永光寺を「えいこうじ」と読むことはない。逆に「永」という字が出てきたときに「よう」という読み方が頭に浮かぶことがあるくらいになった。「えいこう」という言葉を思い描くときにも、「栄光」よりも「永光」の方が意味が深いようなイメージを持つようになった。

助手席に無造作に置かれたどんぐりたちを見ながら、そんなことを思い返す帰り道だった……

学生祭典 京都が熱いのは、京都だからだ

 

10月の連休は京都にいた。主な目的は、8回目を迎えるという「京都学生祭典」を見るためだった。

そこで予想をはるかに超えた凄さにまず驚かされ、そのあと京都という街のパワーについて、しみじみと考えさせられた。

実はうちの二人の娘は、二人とも京都の大学に進学している。上は今年の春卒業したが、下は関西の学生風に言うと“三回生”で、現役だ。その下の娘、つまり戸籍上とか親との間柄的にいうところの次女が、昨年このイベントに補助スタッフとして参加した。そして、今年はさらに企画段階からも関わるなどといった図々しい役目まで担っていると聞き、では、その本番ぐらいは見てやるか的親(バカ)心で、京都までやって来たわけだ。

 次女が関わる行事は「Dream Orchestra=ドリームオーケストラ」という名で、関西の大学の有志で結成される一日限りのオーケストラが、わずか一回だけ行うコンサートを企画運営するというものだった。すでに春先から打ち合わせやミーティングなどに忙しく走り回っていた様子だったが、特に、大阪や兵庫などの京都以外の大学にも足を運び、その打ち合わせなどの緻密さは学生としては、かなりしんどいレベルに感じられた。

京都府や京都市はもちろん、京都商工会議所や関西の企業なども共催となっており、打ち合わせ時の服装もスーツ着用と決められていた。その分、時間もとられ、遅くまでのミーティングや打ち合わせに追われてアルバイトもできず、洋服なども一切買っていないということだった。本人は、痩せたことで喜んでいたが…

そういうわけで、目的としてはまず「Dream Orchestra」であったが、その会場である京都会館の臨時バス停でバスを下された瞬間から、一応兼業だがイベント屋の第六感がはたらいてしまったのだ。

この気配はなんだ…。全体の会場となっている平安神宮と岡崎公園一帯が、異様な空気に包まれている。それもまだ始まったわけではない、独特のざわめく空気とでも言おうか。イベントをやるニンゲンなら分かるだろうが、これから一斉に動き出す何かが、今その動きのためのウォーミングアップをしている雰囲気だ。

そのざわめきで、ボクはこのイベントがかなりの爆発力を持っていることを察知した。すべてを吸収していかねばなるまいなと思った。だから、次女が関係するコンサートは始めの方をちらりと聴いただけで、申し訳なく思いながら、途中から外に出た。

 平安神宮の大きな鳥居から正面の門にいたる長い「神宮道」での踊りの競演。いくつかの路上ステージで、120ほどのチームがパフォーマンスし、上位4チームが選出されるらしい。どのステージも多くのギャラリーでなかなか正面から見ることが出来ないほどだ。

 相変わらず「よさこい」が多くて興醒めではあったが、その中に面白いグループもいくつかあり、そのうちの愛知県から参加していた某グループのリーダーと親しくなった。金沢で是非パフォーマンスをと誘うと、必ず行きますので呼んでくださいと威勢のいい言葉が返ってきた。とにかく、なかなか面白いのだ。

9月に、京都駅・室町広場で、212グループが参加しジャンルのない音楽コンテストの予選が行われたが、二次予選に残った10グループが、10月9日グランプリをかけて同じ会場で競演した。そして1グループがすでにグランプリの座を獲得していた。

そして、踊りの方の決勝と、音楽のグランプリチームの演奏会が、10日の夜、なんと平安神宮の本殿前ステージで行われるとのことだった。会場の設定がすばらしい。京都ならではだ。

 イベントはもちろんそれだけではなかった。岡崎公園の野球場では、知恵と体力とを使って遊ぶ、子供たち向けのスペースがグラウンド一面に設けられていた。これは企業協賛の催しだったが、スケールが大きく、京都の女子プロ野球チームの選手たちが子供たちと野球を楽しむなど、その仕掛けも面白かった。

 

そして何と言っても凄かったのは、どこへ行っても学生たちが一生懸命に運営にあたり、例えば、立ち入り禁止のゾーンを通って近道しようとする人に厳しく相対していたり、その誘導には逆に親切丁寧に対応したりする行動そのものだった。

もちろんプログラムの運営や進行、司会その他も受け持ち、指導的立場の大人たちにも真剣に質問し、そのアドバイスにも真摯な姿勢で聞き入っている姿が印象的だった。

 野球場の奥にはさらに各大学の露店が並んでいたが、ここでもひとつの目玉があった。それはゴミの分別とリユース食器を使うことで、環境に対する負荷を減らそうという試みがされていた。学生たちは、中央に設けられたコーナーで、返却された食器を自分たちで洗い、リユースする。その精神は、「KYO-SENSEプロジェクト」というネーミングでオーソライズされた活動となっており、学生たちの間で新しいライフスタイルへの提案と位置づけされているらしい。

自主的な取り組みは強い。これは、かつて自分自身も能登のある町で経験したことだったが、言うまでもなくパワーは違っていた。

夕暮れが近づき、少し落ち着き始めた会場にフィナーレの空気が漂う───

近くのガラス張りの店でコーヒーを飲んで休憩していると、平安神宮前に長い列が出来始めていた。

 

「グランド・フィナーレ」と名付けられた、平安神宮でのクライマックスだ。

一度閉められていた門が開き、一列ずつ中に人が入っていく。すでにステージは準備が整っていて、境内がいっぱいになった頃にいよいよスタートした。知事も市長も、この学生イベントのためにステージからメッセージを送る。あらためてこのイベントのパワーを感じさせる。

 オーケストラから太鼓や踊りなど、何色にも激しく変化する本殿を背景にして、パフォーマンスが盛り上がり、際立っていく。ステージは決して見やすくはないが、活気は周囲からもガンガンと伝わってきた。久しぶりに体もココロも騒いだ。濃紺の空に浮かび上がる平安神宮本殿がなんとも美しい…。

あとでしみじみ思ったが、京都の借景は“ホンモノ”だった。当たり前すぎて、今さら何言ってんだと言われるだろうが、やはり凄いと言ってしまうのだ。昼間見た、あの朱色の大鳥居や平安神宮そのものを背景にして行われた踊りのパフォーマンス。遠景的な視野の中に、パフォーマーたちや見物人たちが小さく存在する、スケールの大きさ。そのこと自体で会場そのもののスケールも感じることのできる凄さがある。そして夜、ライトアップされた歴史文化の真実味など。

そして、京都を選び、京都にやってきた学生たちのパワーが、京都の文化に活力を与えている。そのことが京都の凄さを象徴している。

 ああ、京都だなあ…と、思わず絶句。どこにも真似できない“底知れない文化”が、やはり京都にはあるのだなあ…と、また絶句。こういう街だからこそ、ある意味、学生たちも憧れるのだなあ…と、今度は絶句しながら納得した。

楽しい…。やるなあ、京都。さすがだなあ、京都…と、開き直っていきながら、最後は、トホホと情けない含み笑いなんぞをする。こんなことが金沢で出来るんかなあ…と、考えてしまう。金沢らしく、そう言って逃げるのだなあ…と、思う。

いつもそんな答えしかないのだが、京都にいる間は、考えないことにした。

実は、ボクはイベントの成功の基準がよく分からない。よく分からないというより、いつも中途半端さを感じている。

それは、主催者側にも立つし、業者側にも立つからで、両者が満足できるイベントの成功はなかなか実現しにくいのだ。ボクを支えてくれるスタッフたちの手前、あまり現実的な話はしないが、やはり小さなイベントでも、チーフ・ディレクターとかの立場になると、すべてを仕切っての勝負になったりする。その両立はかなりむずかしいのだ。

しかし、今自分に課せられているいくつかの現実的な話に当てはめていくと、自分はやはりどんどん前へと、明大ラグビー部(例えが極端だ)のように突き進むしかないのだろうとも思うのだ。

 学生たちのパワーはそのことを示している。本来、イベントは参加している人たちが喜んだり楽しんだり、もっと言えば感動したりしてくれるのが一番なのだ。だからそれをサポートできる人たち(スタッフ)がいないと成り立たない。学生たちはその意味で、とにかく頑張ってくれるのだろう。

ついでに書くと、ボクは地方の昔からある祭礼で、神輿の担ぎ手などに学生をあてにしている、あのやり方は嫌いだ。そこまでする必要はないと思っている。祭礼とイベントは違う。それをするなら、祭礼ではない、町内の運動会の時などにやるべきだ。

もうひとつ、ついでに書くと、ボクは京都から帰った翌日から東京へと出張した。そこで感じたのは、東京の果てしのない軽薄さだった。電車の中で、携帯(スマートフォン)の画面を指先で撫でているサラリーマンなどを見ていると、東京の文化は埃(ほこり)の下に埋もれてしまっているのだろうなあと思った。そして、その埃とは東京のニンゲンたちではないだろうかと思った。

 もうひとつ、ついでに書くと、京都の最後の日、久しぶりに哲学の道を歩いてきた。下鴨神社の広くて暗い参道も歩いてきた。そして、東寺の美しい仏像たちも見てきた。昨日の“動”と今日の“静”。文化のある街とは、こういう街のことを言うのだなあ…と、気持ちがすっきりしていたのだ。

さらについでに書くと、東京では帰り際、明治大学に寄り、「お茶の水ジャズ」のスタッフと軽く話すことができた。年内にゆっくり話す機会がもらえた。神田の商店街とタイアップして行われるイベント。これから金沢のある地域で考えていくことに関連して、楽しみは増えたが何となく思いは色褪せていた。

京都の学生たちの活き活きとした表情が、今もアタマから離れないのだ…

法皇山横穴古墳群を活かす動橋川の風景

 

最近、かつての仕事人的旅人、いや旅人的仕事人かな? とにかくどちらでもいいが、そんなスタンスで、身近なところにあれやこれやと出かけている。そして、ふと懐かしい風景や人に出くわしたり、かつて見逃したり見過ごしたりしていたものなどに心を打たれたりもしている。

 金沢から国道8号線で加賀市に入り、しばらくして山中温泉方面へとつながる道に入ると、動橋(いぶりばし)川にかかる橋の手前に、「史蹟法皇山横穴古墳」と彫られた石柱が建っている。広い駐車場があり、奥に小さな建物があり、その背後に小高い丘のような山がある。名のとおり、国の史跡だ。

 6~7世紀の頃に造られたといわれ、山に横穴を掘り、家族集団の首長の人たちを葬った墓なのだそうだが、花山法皇(かざんほうおう)という方が、行脚(あんぎゃ)の途中、この地に立ち寄られ、大いに気に入られたと伝えられており、その花山法皇の墓なのでは?と伝えられたこともあった。しかし、大正時代の調査で、そうでないことが判った。ただ、その法皇さんとのゆかりを残した形で、今の名前となっているのだろう。

かつて、加賀市の観光の仕事に携わっていた頃、ボクはまず、観光資源の調査というのをやった。それは市が観光パンフレットなどで紹介しているポイントを自分の目で確かめ、客観的に評価してみようという試みだった。

そのことによって、ほとんど観光客には評価されないだろうと思われるポイントと、逆に大いに見てもらおうと積極的になれるポイントとを分類した。それは観光ルートをつくるという重要な作業に結び付くもので、そこで選ばれたポイントが、加賀市の観光ルートを形成し繋がっていくというストーリーになっていた。

 ただ、こういう場合、いちばん困るのが、この法皇山古墳のような場所だった。何しろ国の史跡だ。本来ならば、市として地元として大いに誇るべき資源なのだが、そうは簡単にいかない。それは、はっきり言って人を惹(ひ)きつける魅力に欠けるからだ。国の史跡と言っても、来て見れば、ただ小高い山があり、いくつか得体の知れない穴が開いているだけ。発掘された土器などが収蔵庫に収められているが、それとて特に目を引くものではない。しかも、解説もほとんどなくて、楽しめるとかタメになるとか、そのような要素もまったく期待できない。

ボクが初めてこの場所を訪れたのは、もう20年ほども前のことだ。駐車場で市の人と待ち合わせていたが、収蔵庫はカギがかかっていて入れなかった。市役所へ電話すると、開けてもらえるということが張り紙に書かれてあった。

 ところが、先日久しぶりに収蔵庫に行ってみると、扉が開いていた。こんにちはぁ、と言って入っていくと、奥の部屋から高齢だが、生真面目そうで、かなり知的な匂いのするご婦人が出てきた。入ってもいいですか?と尋ねると、どうぞどうぞ・・・と、答える。ボクは以前のことがあったので、ここはいつも開いているんですか?と、また聞いた。すると、ご婦人は忙しそうな素振りを見せながら、11月いっぱいは開いていて、12月から翌年の3月までは閉まっています、と、しっかりとした口調で答えた。前に来た時は閉まっていましたよと言うと、それは閉館期間中だったのでしょうと、またきっぱりと言う。

ボクは自分が初めてここへ来た頃とシステムが変わったのだろうと思い、これ以上この話は続けないことにした。そこへご婦人が逆に聞き返してくる。いつ頃、おいでになったんですか? ボクは20年ほど前です、と、妙に自信たっぷりに答えた。答えた後で、そんな前のだったら、ずっと閉まっていたのかも知れませんね・・・と、申し訳なさそうな顔をするご婦人を想像し、自信たっぷりに言ってしまったことに後悔した。しかし、私はそれ以前からここに来ていますから、と、さっきの3.5倍ほどのきっぱりさで言われた時は、横穴群の穴のひとつに身を隠したいような、そんな気分になっていたのだ・・・・・。

 ご婦人は、K上さんと言った。ボクがかつて、加賀市の仕事をさせていただき、ここへもたびたび来ていたことを話すと、会話の内容も、K上さんの表情も、口調も変わっていった。

国の史跡であるから、加賀市が手が出せないこと。収蔵庫という性格上、展示館のような演出ができないこと。K上さんは、市の担当から聞かされていることをボクに話してくれた。だが最後に、私は何にも分からないが、もう少し何とかならないのかと思いますよと本音も語ってくれた。聞くと、収蔵庫内の壁に貼ってある古墳の歴史などが書かれたコピーは、K上さんが自分で準備したものだそうだ。

だって、公開している意味ないでしょう ─── そのとおりだ。K上さんの言葉に力がこもっていた。

実は、この場所には別の意味での大切さを感じていた。

それは、感覚的な表現で言うと、“もどかしさ”に似ていて、単にボクが独りで勝手に思っていたに過ぎないことであった。それは、古墳の横を流れる動橋川のやさしい流れが織りなす素朴な風景が美しかったからで、その風景と一体化した古墳の在り方みたいな・・・、何だか自分でもよくは分からないことを、ただ漠然と好きな風にイメージしていたのだ。

かつて、橋の上から見下ろしていたり、堤を歩いて眺めていたりした川の風景は、心に染みついていた。20代の頃から、自分の中に息づいていた風景へのあこがれ・・・、その中のいくつかの要素が、そこにあったのだ。蛇行する流れと水の美しさ、そこで遊ぶ子供たちの姿、大きな遠景はないが、散策したくなる適度な広さがあった。それらがこの国の史跡である古墳の魅力を引き出す要素になる・・・。

 かつて、ボクは自分の仕事としての範囲を見究められないまま、何も提案しなかった。そのときはまだ、私的な思いや理想みたいなものを、仕事に重ね合わせることはそれほどできなかったのだ。今、特にそのことをどうのこうのと言うのではない。ただ何となくだが、自分自身の風景への思いを、仕事とのバランスの中で初めて意識させられたのが、この場所であったような気がしている。国の史跡なのだから、もっともっと多くの人たちに知ってもらいたいという思いと、そのためにはもっとその場所に魅力を創らなければならいという思い。その魅力の要素が、動橋川の風景にあったとボクは思っていた。仕事的に見ていくと、こういった課題?は、いたるところにある。

今流行りのB級グルメではないが、S級やA級にはない、B級風景の中にこそ本当に安らげる要素があったりする。S級やA級風景は、山岳などの自然や寺社などの歴史的なもので、日常ではなく、身近でもない。しかし、B級風景はすぐ近くにある。そして、それらが人それぞれによって、A級にも、S級にもなるのだ・・・・・

帰り際、閉館前にもう一度来ますと、K上さんに言った。K上さんは、どうぞ、またいらしてください。それと、市に何か提案してあげてくださいよと答えた。K上さんのご自宅は、駐車場の目の前。孫を遊ばせながらでも、できるんですから・・・ 最後にK上さんの笑顔を初めて見ることできて、何だかホッとした。

秋の気配も少しずつ深まっていくし、提案もアタマの中でうごめいている。そろそろ、また行ってこなくてはならないのだ・・・・・・・

  

 

 

 

 

 ※実は、ここでの思いは、後にある寺で、たまたま活かされた・・・・・

シナリオ書きの後に映画原案の謎が蘇る

10月最初の日曜日は、朝から一日がかりの映像シナリオ書きに終始した。そして今、その流れでこの文章を打っている。

夏の間は冷房なしで無理だったが、メッキリと涼しい雰囲気になってきて、久々に自分の部屋にも籠もった。

経験的にそれほど数をこなしているわけではないが、ボクは映像などのシナリオを書くのが嫌いではない。むしろ好きな方だと思う。口語体の文章(と言っても、時には結構固いのもあるが)で綴っていくことは、たまに快感にさえなったりする。

そして、その作られた映像が多くの人たちに見られていると感じた時には、かなり素朴に嬉しくなったりもする。そういう場合は、映像を見ていながらも、それを見てくれている人たちの表情などに目を取られたりして、その反応に、こちらも反応していたりする。

ある資料館で、ジオラマにつける語りのシナリオを作った時は、方言に注文が付き、その勉強から始めた。昔、河原で遊びながら石拾いをしていた子供の頃の話を、かなり高齢の老人が振り返るという設定だった。

その時は、実際にその経験がある地元の人から話を聞き、しかも敢えて方言も交えて語ってもらった。しかし、その場で方言で話してくださいと言っても、なかなか一般の人にはすんなりできなかったりする。

そこで、それなりに話してもらったら、一度原稿を作り、その方の前で方言を真似しながら話してみるのだ。すると、聞き手はすぐに違うところを指摘してくれる。

それから内容が詰まっていくと、その方の直接指導で方言はどんどん磨きがかけられていく。方言と言っても、同じ県内のことだから、基本的にそれほど困難なことでもないのだ。

そのシナリオを書いている時は、どこかで自分も老人になっていた。でないと、息継ぎとか、間とかいうものが掴めない。老人になるというのは、子供になるよりも簡単だとボクは思っている。それは自分が老人に近いからではない。活字にしていく時には、なんとなく大人の方がやりやすいのだ。

生地の石川県内灘町・権現森を舞台にして書いた、『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』では、子供の気持ちを描写できたと思うが、第三者的になると、子供になっての表現はむずかしい気がする。

TVモニターで上映するミニドラマなどでも同じだが、たとえば俳優さんなんかを使う時には、その俳優さんの雰囲気などを知っていないとやりにくかったりする。地方の小さな話のそれほどでもないミニドラマだからと言って、ナメてはいけない。撮影期間なんかも、極端な例で言うと一日しかないという場合などは、意向など無視して仕上がってしまうケースもあり、予算が乏しい仕事などはやり直しがきかないまま、完成ということもあったのだ。

ところで、嘘みたいな話で信用してもらえないかも知れないが、幼い頃からかなりマセた環境に育ったボクは、中学生の頃、なぜだか「東宝映画友の会」というのに入会していた。そして、送られてくる機関誌を見ながら、映画の作られていく過程などの話を、分かったような顔をして読んでいた。

そんな会報の中に、毎号、新作映画のアイデアを募集するページがあった。ボクは自分でもそれなりにいろいろと考えていることがあったので、いつかこれに自分のアイデアを出してみようと考えていた。そして、ある時、ボクは自分の中にあった青春映画の小さなアイデアを膨らまし、それを原稿用紙に書いて送った。原稿用紙と言っても、わずか2枚か3枚程度のものだ。

そのアイデアはたしか次の号のコーナーに掲載された。自分が書いた文字数からすれば、その5分の1くらいに縮められていたが、ボクは掲載されたことに十分満足し、そのアイデアがその後どうなっていくのかとかには、まったく無頓着でいた。

そして、そんなこともとっくに忘れてしまった頃、つまり「東宝映画友の会」にも会費を払わなくなり、機関誌も届かなくなった頃、ある映画雑誌で、ボクは不思議な記事を見つけた。

それは『俺たちの荒野』という映画が近々上映されるというものだった。その記事を読んでいくうちに、ボクは心臓がバクバクと揺れ動くのを、息苦しくなるのと同時に感じ始めていた。

監督出目昌伸。主役は黒沢年男。相手役は酒井和歌子。さらに新人の男優(東山なんとか)・・・・・・・・ 金沢では上映されなかったと思う。

ボクがかつて出したアイデアは、米軍基地で働きながらジャズドラマ―を目指す青年を主人公に、青年の恋人になる女性と青年の弟を絡めた青春映画だった。ストーリーは敢えて書かないが、タイトルは『熱狂の荒野』。

舞台は砂塵が舞う基地。中学生の田舎者が、名前と写真だけでしか知らない基地を舞台にしたアイデアを出すなんて、今から思うと恥ずかしくて穴があったら入りたいほどだが、とにかくボクはそんなアイデアを記して送っていたのだった。

タイトルといい、舞台、登場人物の設定といい、表向きにはボクのアイデアだと言ってもおかしくはなかったと思う。しかし、やはり田舎者の、世間知らずの、ただ青臭いだけの少年にそれ以上の思いは生まれなかった。ボクは、世の中には同じことを考える人がいるんだなあと思っていただけだった。

それから5年ほどが過ぎ、大学に通っていた頃、神田の本屋さんでボクは映画の本を何気に立ち読みしていた。

その中に、映画は原作本からシナリオをおこして作られるとか、まったくゼロから原案を作り、そこから仕上げられるとか、そのような意味のことが書かれていた。そして、その文章を読んでいくうちに、ボクは自分が書いたアイデアと、あの映画のことを思い出してしまった。あれはやっぱり、オレのアイデアだろう・・・・ 何だか虚しくて、切ない思いもあったが、そのうち、オレも大したもんなんだなあと、思うようになった。

久々に部屋でシナリオ書きをしたことで、懐かしくて、情けなくて、バカバカしくて、恥ずかしい話を思い出してしまった。

ついでに、ひとつ書いておく。『俺たちの荒野』という映画の原案は、中井正という人物のものらしい。ボクの名は中居ヒサシ(寿)だ。ちなみに脚本は、重森孝子。

中井正という人物の記録はほとんど残ってなくて、最近のボクは、その人物が実存したのかも疑っている・・・・・・・・・

 

突然の秋と流れ落ちる目薬について

 

めっきり秋めいてきた…、などというにはあまりにも唐突にやって来た秋。

大袈裟に言えば、あっという間よりも短い時間で秋になってしまった日本…。

そのあまりの豹変ぶりには、呆れてものも言えないのだが、秋のことを言うよりは、夏を責めなければならない。

あのエネルギッシュだった夏はどこへ行ったのだろうか。日本中を暑くするだけしておいて、そろそろ交代しましょうかの一言もなく、まるで夜逃げのようにして突然去って行った夏。

ボクは今年のような夏が好きだったが、あの去り方にはさすがに疑問をもつ。あれではバトンを渡された秋もかわいそうだ。いきなり「あと頼むよ」では、秋だって大変だったろう。その証拠に、秋も準備不足で気温の調整などにかなり戸惑っていたところが感じられる。

東京などでは、昨日まではカンペキ真夏で、今日からはカンペキ真秋といった具合に、10℃以上も気温差が出る日が生じた。

冷奴のつもりで買っておいた豆腐を、湯豆腐に切り替えた家庭が、東京周辺では半数を超えたにちがいない。さぞかし多かったことだろう。冷奴だと生姜が少々あればいいが、湯豆腐にする場合は、ネギなどを追加しなければならなくなり、猛暑で値の上がっていたネギを控えなければならなかった悲惨な家庭もあったにちがいない。

そんないきなりトンズラ型の夏と、いきなり登場型の秋に戸惑っていたある日のこと、ボクはあることに、ハタと気が付いた。

それは、目薬を点す時のことだ。

目薬を点す時、左目は何でもないのに、右目に点すと、しばらくしたら目尻からジトッと、点したうちの六割五分ほどが流れ落ちてくるのだ。それも涙が流れ出るのに似ていて、これまでそんなことはほとんどなかったボクとしては、これはちょっとおかしいぞと思った。目薬を点すたびにいろいろと警戒するようになった。点した直後に流れ出るのではなく、しばらくしてからというところも問題だった。

ところで、ボクの目は生まれつき左右で形状が異なっている。ほとんど同じという人はいないだろうが、ボクの場合、右目は左目に比べて小さい。眉毛も鋭角的に右より下がっていて、瞼のふさがり具合が大きいとも言える。それに加えて、少し垂れ目傾向にもあり、同じ量の目薬を左右均等に点した場合、右目の容量が過剰気味になる可能性は高いのである。しかも垂れ目なのだから、容量オーバーしたものは流れ落ちやすくもなっている。

そうだったのか、とボクは一時的に納得した。が、すぐにまた疑問に襲われた。今までそんなことはなかったからだ。もっと根本的に原因があるのでは? そう思いはじめていた矢先………

久しぶりにお会いしたある人から、こんなことを言われた。

「最近、前のような眼力がなくなったね…、眼が訴えなくなってるよ…」 そう言えば、人生の大先輩であるその人やその人のスタッフの人たちは、以前からボクの眼にはパワーがあるとよく言ってくれていた。そんな眼力というものが、今のボクにはなくなっているのだろうか? それにしても眼力って何なのだろうか?

タイトル写真にある絵は、半年ほど前のボクの顔が描かれたものだ。しかし、その顔にも目がなかった。友人Dくんが何となく落書きのように描いてくれた絵で、ボクはこの絵に何となく愛着を感じているのだが、ここでもハタと気が付いてしまった。やはり、この頃からボクの目にはパワーがなくなってしまっていたのだろうかと。遠くから見ていると元気いっぱいに見えても、近くで見るとパワーがない。さらに得意な夏のパワーもそろそろトーンダウンしてき始めた、そんな感じなのだろうか…

こんなことに秋を感じていてはいけないのだが、そうかも知れないと思えるようになってきた。夏は無情にも行ってしまったが、その無情さを思いながら秋を受け入れるのには無理がある。やはり秋はしみじみと受け入れるのがいい。

だから、それらしくなってきた頃から、夜はモルトウイスキー(安もんだが)のロック一杯と、柿の種もどき型おつまみセット一袋で過ごすようになってきたし、時間はそれなりに正しい秋の過ごし方に流れているし、どちらにせよ、いろいろと抱えながらの時間になるのは夏も秋も全く同じだ。

目薬もめげずに何度でも点してやるか…… (つづく、かも知れぬ)

「 JAZZ AT 紺屋坂 (2) ちょい柔らかい話編 」

 

 「JAZZ AT 紺屋坂vol.2」の初日。

 ボクはそれとはまったく関係ない用事で朝の四時半に起き、五時過ぎにはクルマを走らせていた。行き先は新潟。前日は金沢で用事があり、どうしても出発を当日の朝にした。余計な疲労がたまることは分かっていたが仕方なかった。

 そう言えば、前夜のメールのやり取りで、体調を悪くしているYに大事にしろとメッセージを送っておいた。他人のこと言えた状況ではないくせに。

 とまあ、そんなことで一日は始まったが、新潟に一時間半ほどいて、すぐにトンボ帰りした。金沢に戻ったのが二時半頃。会社にクルマを置き、会場の紺屋坂まで歩く間に、「金沢ジャズストリート」の街なかライブをちらっと聴いたが、ゆっくりもしていられず、慌ただしい中、会場入りした。昼飯は結局食えず。朝もコンビニの乾いた菓子パン二個だけで、情けなさは果てしなかった。

 四時から初日の本番。出るのはまず、兼六中学校吹奏楽部に県立工業高校吹奏楽部という二回目を迎えた「JAZZ AT 紺屋坂」の、ある意味での目玉だ。ジャズとしての演奏内容は期待していないが、とにかく一回出てもらって、さらに来年も出てもらい、ジャズに目覚めてもらおうという魂胆。両学校側からも“出たい”という強い意欲が感じられ、参加となった。  

 新聞にもこのニュースは大きく取り上げてもらった。前日の取材で自分としては少々言ってることに違和感を持ったりしたが、こうなったら、とことん行こうと決めたのだった。詳しいことは、「JAZZ AT 紺屋坂1 やや固い話編」に書いた。

 その次が、一回目に引き続いてのデキシー・ユニオン・ジャズ・バンドだ。何の心配も要らない完熟オトッつァんバンド。ひたすら“お好きにどうぞ”と告げておいた。初日のトリは、これもまた一回目に引き続いての登場となるアイユール。直接のライブとしては久々だが、こちらも心配無用で、むしろ久々だから楽しみでもあった。

 今回は音響も照明も昨年より質を高め、司会も金沢大学放送研究会に打診。是非やらせてくださいとの要望に応えた。未来のアナウンサーたちの鍛錬の場的匂いをチラつかせ、その初々しさで盛り上げてもらおうとしたのだが、やはり仕込み不足で物足りなかった。次回への課題のひとつだ。

 初日の本番── 兼六中学校は、演奏曲が全くもって完璧にジャズではないという点で、いくら綺麗事を並べても、企画人として、今ひとつ気恥ずかしいものがあった。思わず赤面してしまった、というほどではなかったにしろ、それに近いものがあり、ボクは白クマのようにひたすら会場を右往左往していた。もちろん、これからジャズに目覚めてくれればいいのだが、運動会で演奏するマーチや、トトロの何とかではなあ…… いや、しかし、校長先生はじめ、ご父兄の方々の熱い声援もあって、よいステージであったのは言うまでもない。後日、顧問の先生を訪ねると「来年は必ずジャズの曲をやります」と言ってくれたので、期待していよう。

 二番手の県立工業高校も、総体的には兼六中に似たものがあったが、そこはやはり高校生。より自由な、音楽を楽しむ雰囲気が感じられた。特にラストには、定番中の定番、映画『スイングガールズ』スタイルの『シング・シング・シング』を演ってくれたが、ドラムの女の子(ほとんどメンバーは女子)が元気よくて、聴く側も盛り上がった。ライブ自体の雰囲気も十分理解できただろうから、こちらも来年に期待しよう。

 中高校生たちの出演でよかったのは、聴き手を増やしてくれることだ。本番前にイス席がほぼ満杯状態になるというのは、非常にいいことだ。やはり、スタートはこうでなくてはいけない。しかも、そのまま残ってくれる人も多くいて、なかなかの企画効果であった。

 デキシー・ユニオン・ジャズ・バンドの演奏が始まる頃には、日も暮れ始め、いい雰囲気になってきた。相変わらず息の合ったデキシーランドジャズを聴かせてくれるメンバーの皆さんには、ただただ感嘆するばかり。演奏の上手さはもちろんだが、おしゃべりにも、すべてのパフォーマンスにも、ショーマンシップが満ち満ちている。二日目のパフォーマンスでも聴き手を十分に楽しませてくれた。企画人としては、さまざまな可能性を見出せるバンドで、いろいろと企画の中に充て込んでいきたい存在だ。

 そして、アイユールだ。彼らは、聴くたびに上手くなっているような感じを受ける。リーダーのIさんのギターは言うまでもなく、ボーカルのYさんの歌声は絶対的に個性を増した。Yさん流の、ひとつの世界を作りつつあると感じた。そして、テナーサックス、ベースと絡めた四人編成による演奏スタイルは、かなり完成度を高めているとボクは思ったのだ。

 紺屋坂のジャズライブを象徴する演奏スタイルは、アイユールにあるのかも知れないなあと、ボクは思った。ボクの横で聴いていた商店街関係者の方も、「ナカイさん、いいグループ探してきてくれましたね」と言ってくれた。

 夜になって、「JAZZ AT 紺屋坂」はその魅力を発揮し始めた。会場である「ホテル兼六城下町」の建物、その奥に見える兼六園の森と古い木造建築、ほぼまん丸に近い美形の月も浮かんで、アイユールのアコースティックサウンドと、Yさんのシンプルな歌声がライブに活き活きとした空気を注ぎ込んでいく。何かが見えてきた感じがした…… アイユールも二日目に再登場してくれ、そこでも見事な演奏を聴かせてくれた。

 二日目にはさらに、金沢工大軽音楽部のMAJOというモダンジャズのコンボが参加してくれ、トップを務めてくれた。エレクトリック・ピアノのケーブルか何かを忘れて取りに戻るというハプニングはあったが、何とか本番に間に合った。演奏ははっきり言って発展途上。しかし、意欲がありそうで、チック・コリアのむずかしい曲『スペイン』にチャレンジするなど期待が持てた。来年も声をかけようと思う。

 そして、金沢ラテン・ジャズ・オーケストラ。芸術村で活動している新しいバンドだ。ほとんど練習だけの活動のようだったが、演奏内容はレベルが高く、練習そのものをベースにしている分、技術的にも優れたものがあると感じた。リーダーのアルトサックスやトランペットのソロが印象に残っている。ある意味、デキシー・ユニオンに近いパフォーマンス性も感じられ、これからの付き合いが楽しみになってきた。

 二日間をとおして、天候に恵まれた。特に二日目には雨の心配があり、少しでも雨が落ちてきたら、即中止と決めていたが、ほとんどその心配は無用に終わった。誰が晴らしてくれたんだろう…… とにかく感謝しよう。

 ボクは相変わらず忙しくしていて、打ち上げにも出られなかったが、商店街の人たちは多分満足してくれたと思う。課題も多く見つけられたし、それに向けてボクの仕事も明確になった。ジャズによって人の心が繋がっていくようなイベントになれば凄い、と思う。紺屋坂界隈のヒトビトと、そこに集まるヒトビトに、そのことを伝えていきたい。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、兼六園の紅葉シーズンに合わせてもう一回やる。アイユールに出てもらう。

 その頃には風も冷たくなっているだろうけど、心の少しの部分くらいは温められるだろうと思っている…

「 JAZZ AT 紺屋坂(1) やや硬い話編・・・」

 去年に引き続いて二回目となった「JAZZ AT 紺屋坂」。金沢市の中心部で始まった「金沢ジャズストリート」に合わせて始めたものだ。

 本体である後者のスタート時にも少し関わり、大学ビッグバンドを呼ぶことを提案させてもらったが、初回の大好評の割りには、今年の二回目には主なビッグバンドは参加していなかった。それは多分、東京などの大学ビッグバンドを呼ぶと、人数と距離の関係で経費がかさむからだったのだろう。ボク自身にとっては、母校のビッグバンドの連中と交わした約束は見事に破れていってしまい、大変申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、去年のことでよく理解できたが、やはり、大学ビッグバンドの優秀な連中を集めることは、今風のジャズの息吹を知る上で重要なのではないだろうか?と、ボクは思っている。国際的なジャズイベントを目指すならいざ知らず、国内の、いや県民や市民を対象として、街なかの賑わいを図るという趣旨であれば、わざわざアメリカなどからプロを呼ばなくても、大学生の意気のいいビッグバンドの演奏で十分だ。と言うよりその方が最も適している。

 「ジャズストリート」の話を初めて聞かされた時、金沢は“学都”とか“文化都市”と、自分たちから名乗っているわけだから、ジャズをきちんと勉強するような、そんな環境も作ればどうかとも提案した。それによって、全国で金太郎飴みたいに広がっているジャズなどの音楽イベントに、金沢らしい特色を付けられるのではないかとも思った。

 ところが、答えは“ノー”だった。そんな難しいことはどうでもよくて、普段あまりジャズなど聴く機会のない人たちにも、楽しく聴いてもらい、街に賑わいを作ることが主目的なのだとあらためて聞かされた。

 つまり、ジャズがどういう歴史的背景の中から生まれ、ジャズメンたちがどのようにしてジャズを今日のような最も創造的な音楽(せいぜい80年代までかな?)にまで成長させたかなどについてはどうでもよくて、とにかく街なかで何かやっていれば人が集まって来る── それがジャズだとかと言っておくと、“なんかカッコよさそうでない? 行って見っかいね”といった人たちが寄って来るし、マスコミも騒いで、街なかが賑やかになった、よかった、よかった的に話がまとまる── といった感じだったのだ。

 だからこそ、大学ビッグバンドがよいと、ボクは思ったのだが、どうも“ジャズ的ジャズ”を感じ取れない人たちには、その辺のところが理解されにくいのだと諦めるしかなかった。

 こうなったら、その路線を貫いてやろう。それほど大袈裟な話でもないが、いい年をしてボクは心を決めた。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、そんなボクの思いを背景にして第二回目を迎えたのだ。金沢城兼六園商店会という組織の主催であり、商店街活性化事業のお金を主にして実現しているのだが、こういう時こそ、公私混同型の潜在的能力を有したニンゲンの勝負になるとボクは思っている。そのとおりやっていくための原動力がそこにある。こういう類のイベントに自分が積極的に関わっていくなど、つい一年ほど前まで考えてもみなかった。やりたいという思いは少しあったが、自分自身の徒労ばかり考えていた。しかし、いい助監督との出会いがボクの背中を押した。やれそうな気がしてきた。ボクは一歩前に出ることができ、その勢いのまま歩き始めた。今はもう助監督はいなくなったが、背中にあった支えが外れたのに気が付かないふりをして、とにかくやっている。

 というわけで、ボクはこのイベントをこれから発展させていきたいと考えている。むずかしく考えるのはやめにして、自分自身も試しながら? それなりにやっていく。

 実を言うと、今ちょっと関心を持っているのが、10月10日に明治大学周辺で開催される「お茶の水ジャズ」だ。実行委員会と明治大学が主催し、地元の商店街などが協力している。2008年から始まっているが、イベントとしての質も非常にいいものだと聞いた。しかし、今年こそ行って来ようと計画していたのに、先客があった。関西の学生たちが自主的に企画運営するクラシックの音楽祭に行くことにしてあったのだ。

 東京と金沢ではスケールが違い過ぎるが、「東京ジャズ」という国際的なジャズイベントが行われている中で、「お茶の水ジャズ」という、さらに小さな単位のジャズイベントも行われているという点に注目している。なかなかいい感じだ。

 ところで、11月の紅葉シーズン、兼六園の無料開放時期に合わせて、今年もう一回、一晩きりの「JAZZ AT 紺屋坂」をやるつもりだ。

 ちょっと肌寒くて、演奏者も辛いかも知れないけど、聴いてくれる人たちの心をホットにする自信はある。柄にもなく、キザなことを言ってしまった…

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……