カテゴリー別アーカイブ: 内灘のこと編

白いワンピースの少女

 海につながる道にさしかかると、よくドキドキした。

 今は全くそういうことはない。

 かつて、誰かの小説に、白いワンピースに麦藁帽子をかぶった清楚な少女が海辺から歩いてくる…といった内容の話があり、はるか以前、つまり小学校の頃、同じような少女にわがゴンゲン(権現)森の浜で出会ったことがあって、この一致があって以来、どうもそのような場所には白いワンピースの少女がいそうな気がしていた。

 出会ったその少女も、白いワンピースがかなり似合っていた。

 余計なお世話的に書いておくと、ワンピースはフォーマルっぽいのではない。風にひらひらと靡くようなものだった。

 しかし、はっきり言って、廃れ果てた魚捕りの孫的少年には、身分や育ちやその他モロモロの違いが歴然としており、半径約五メートル以内にはなかなか入っていけなかった。

 少女はボクよりいくつか年上だったように思う。街の子であることは間違いなく、一緒にいたお母さんも完ぺきに街のお母さんだった。

 なにしろ、おやつのお菓子を持っていた。

 われわれ(急に構える)みたいに、海に潜って採ってきた貝を、砂の上で焼き、熱いのをそのまま海水に浸して頬張るなどといった輩とは違った。

 ふかふかして見えるハンカチも持っていた。それを額にあてたりしながら、ちょっとまぶしそうな顔をすると、その表情が天使の可愛い怒りのようにも見えた。

 もちろん彼女は怒っていたわけではない。

 街から来たであろうと思われる海水浴の少年少女たちは、たまに海の中でやや臆病そうな素振りを見せたりした。すると、われわれは近づいて行き、わざとバタ足でしぶきを上げ、そして、そのまま周辺に潜ったりした。

 こうした街の子たちは、浜茶屋が出来た頃から自家用車に乗って、わがゴンゲン森海水浴場にも来るようになっていた。当時のボクには新鮮な存在だった。

 が、そんな中でも、白いワンピースの少女は別格だったような気がする。彼女は、それまでの十年ほどに及ぶボクの人生の中で、最も輝いていた女性だったと言っていい………?

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 そんなわけで、八月の下旬のよく晴れた暑い午後、いつもの志賀町図書館で用事を済ませた帰路、柴垣の海に出る細い道に入り、そのまま海岸までクルマで乗り入れさせていただいた。

 その途中にあった海に出るあたりの光景が、なぜかとても懐かしく、ちょうど西に傾きかけていた陽光もまだまだ鋭くて、やっぱり夏だなあといった心持にさせてくれた。

 腰紐をうしろで縛った白いワンピースの清楚な少女が、両手を軽く腹の前あたりで重ねながら歩いてきても不思議ではないと思ったが、当然そんなことはなかった。

 砂浜に革靴で立つ…… 海を見る。空を見る。白い雲たちが好き勝手に流れ、実にアヴァンギャルドな光景を描いている。

 青い海に白い波、青い空に白い雲、夏は青と白でできている。

 海で育った少年時代の思い出の中に、白いワンピースのちょっと大人っぽい少女の姿があるのも、たしかに正当な存在なのであるなあと納得する。

 砂浜に立っていたのは、ほんの五分ほど。白いワンピースの少女の思い出は、その後すぐに、寂しく消えていった………

 

内灘の風景~河北潟放水路周辺のこと

 今さらのような話を先にすると、ボクが生まれ育ち、今も住んでいる石川県の内灘というところは、南北に細く長く伸びた小さな町なのである。

 なぜ南北に細く長く伸びているかというと、東西に河北潟と日本海という水圏があり、それらに挟まれた砂地の上にできているからだ。

 地学かなんかで習ったとおりだが、ずうっと大昔、海水によって陸の土が削られた後、沖合に堆積され細長い陸地ができた。

 つまりそうした事情により、内灘は南北にしか伸びようのなかった町なのであり、ついでに言うと、河北潟も砂丘が形成されていくのに合わせ、海水の抜け道がなくなり、そのまま淡水化してできたという水圏なのである。

 昭和の中頃、諸般の事情を経て河北潟干拓という一大事業がスタートしたが、それによって河北潟はそれまでの三分の一くらいの大きさになってしまった。

 歴史などという感覚を通り越す、気の遠くなるような時の積み重ねを経て出来上がった河北潟が、それに費やされた時の積み重ねとは比べようもならないくらいの微かな瞬間に小さくなった。

 その時、河北潟に流れ込んでいた河川からの水を捌くために日本海に抜ける水路、つまり今の放水路が造られたのである。

 

南北に伸びた町の真ん中(あたり)に放水路ができ、なんとなく町が二分されたような空気が漂った……かどうかは知らない。少なくとも少年だったボクには、放水路ができようができまいが、どうでもいいことであったのは間違いない。

 ただ、今砂丘台地の道路をつないでいる「サンセット・ブリッジ」という橋ができるまで、放水路周辺に対して積極的な仕掛けや施しなどはなかったように思う。

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 もともと放水路について、あれこれ思いを巡らせていたわけではない。

 放水路ができていく過程のことも、あまりにも時間がかかっていて薄らぼんやりとしか認識がない。

 少年のボクにとって、干拓と放水路は別物であり、干拓工事の中の遊び場は水っぽく、放水路工事の中の遊び場は砂っぽかった。そして、どちらにせよ、非常に稀な環境の中にいるという自覚などあるはずもなく、たぶん町の人たちの中にも(風景的なこととして)大した思いを抱いていた人はいなかっただろう。

 

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 出来てからもう何十年も経っている河北潟放水路に、あらためて足を運んでみるようになったのはたまたまだ。

 正直、内灘の風景が全国に誇れる魅力を持っているなどとはカンペキに思っていない。

 さまざまな風景に強い憧れを抱いてきた自分にとって、それを満たしてくれるだけの強くて心地よい要素が内灘にあるとも感じていない。

 内灘の風景と言えばずっと海だった。それが当たり前だった。

 ただ海では、能登には勝てない。別に勝負するわけではないが、能登の海にあるような普遍的な要素は内灘の海にはない。

 魚を追い求めたボクの祖父たちのように、海を生きるための場としてきたオトコたちもいなくなった。

 海を軽視するのではないが、そろそろ内灘の新しい風景論みたいなものが見えてきたのではないか 自分の故郷としての風景(もちろん良質のだ)を、とりあえずマジメ(素直)に見つめてみるのもいいのではないか そう思う。

 内灘の今の姿は、自分が子供の頃に想像していたもの(大した想像でもないが)を超えているとボクは思う。

 開発とはこうしたものなのだろうが、生活の場が拡大していくと町の風景そのものも変わっていくことを、内灘というところは特に強く物語る。

 内灘では生活の場が砂丘台地上に広がっていくにつれ、風景も根本的に変わっていったのだ。

 南北に伸びた高台、つまり砂丘地が激変し、そこから眺める東西の風景がより魅力的になった。

 北アルプスの稜線から昇る朝日と、日本海に沈む夕日………

 よく使われてきた内灘の情景表現だが、かつて生活の場が砂丘台地の東側斜面下、つまり河北潟沿岸にしかなかった頃にはあまり味わえなかった風景だろう。

 砂丘地の畑などではところどころから見ることができたかも知れないが、しかし日常の生活の場ではなかった。

 そういう風景のことをあらためて思い、もし河北潟が干拓されいなかったらと考えた人たちがいたことも当然だ。

 しかし、今は敢えてそんなことは蒸し返さない。

 人がその土地の特徴を語る時、一番先に出てくるのが風景であるとボクは思う。

 当たり前だが、風景は普遍的要素の最たるものだと。

 人の営みは繋がれていくものだが、風景の土台にあるものはじっとしている。

 だから、風景に敏感であるということは、その土地の魅力を知る第一歩に違いないとも思う。

 河北潟周辺、放水路を含めた一帯の風景は、まちがいなく稀有であり美しいと言えないか…………

 二月終わりの休日。陽が少し高く昇り始めた頃………

 河北潟に張り出すように造られた「蓮湖渚公園」の駐車場にクルマを置き、公園の道から放水路に付けられた道へと歩いた。

 蓮湖とは河北潟のかつての名前であり、この名前の方がなんとなく好きだ。

 水際の道は気持ちがいい。

 湖面がおだやかに揺れ、宝達山、医王山、犀奥と呼ばれる山域のの山並みや白山、さらにはるか東方の奥に雪を頂いた北アルプスの稜線が見えている時などは、風景に心が押されている自分に焦燥のようなものを覚える。

 

 そして、空の広さや深さがそれにまた追い打ちをかける。

 心の中で微かに声を出している自分が分かる。

 このあたりに、美味いコーヒーが飲める店があったらいいと思うようになったのはつい最近のことだが、この眺望なら、コーヒーの味には文句は言わない……かも知れない。

 

 サンセット・ブリッジが近くに迫ってくると、公園から離れ、県道を横切り、いよいよ放水路横の道へと入っていく。

 全国的に見て、特に大きい部類に入る橋なのかどうかは知らないが、真下あたりに来ると、やはりその威圧感はすごい。

 もし「全日本デカ橋をひたすら見上げる会」というのがあるとしたら、たぶん多くの会員たちは歓声を上げるに違いないと思ったりもする。

 橋は本来、上から眺める風景に価値を見出すものだろうが、サンセット・ブリッジには残念ながらその機能がない。

 だから、せめて下から見上げて、オオ~などと感動の声を上げてやりたいと思うのである………

 

 二月の終わりにしては暖かい午前だった。

 橋の陰になった放水路の水面に冬鳥たちが多くいるが、彼らも少し陽気がよすぎて日陰に集まっているのだろうか。

 放水路横の道は、厳密に言うとわずかにカーブがあるが、ほぼまっすぐに伸びている。

 川とは違うが、水が河北潟から日本海の方へと流れるのだから、今は左岸を歩いていることになるなどと考えている。

 水辺だから時折冷たい風を感じたりするが、すでにカラダは十分に出来上がっていて快調な足の運びなのだ。

 歩いていることよりも、放水路の地形を楽しんでいるということの方にアタマがシフトしているのも分かる。

 一般的に放水路と言えば、単に河川の流れを分散させるようなイメージではないだろうかと想像する。

 だから、そこにある風景は川のイメージだろう。

 しかし、ここは違う。ここは、標高50mほどの砂丘が削られたその最下部なのだ。

 急角度の斜面(専門的には法面)が両岸に広がっている。

 風景としては非常に稀な特徴をもっている。

 ただ、今ははっきり言って放水路の斜面は雑である。

 裸木と枯れたままの雑草が放置状態になっていて、特に道端の草の中に散乱するゴミも捨てられ方が遠慮がちではない。

 目線をできるだけ水平以上にしてさらに歩く………

 

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 ここは、今最も内灘を魅力的に伝えることのできるスポットかも知れないと、ふと思う。

 風景は眺望だ。視覚からココロに入り込むものだ。

 その要素にこの場所は適っている。

 さらに、広い空を繋いで振り返ると、日本海がすぐそこにあるという恵まれた環境を加えれば、かなりいい感じがする。

 言い換えれば、これはこの場所の個性なのだと思う。

 周辺のストーリーもドラマチックではないだろうか……と、勝手に想像が膨らむ。

 河北潟が干拓され放水路ができたということは、土地の表情が変わったということだ。

 つまり、内灘の風景がその時に変わったのだ。

 そして、もともと住んでいた内灘人たちが思いもしなかった、新しい眺望が生まれたのである。

 内灘はもともと何もなかった小さな漁村だったのだから、特に粋がる必要もない。できあがった風景を素直に楽しめばいいと、ここに立てば思える。

それを眺めて、ココロを休めればいい。

………むずかしい話になってきたので、クールダウンしよう。

 

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左岸を歩いていくと、右岸斜面の上に立つ風車が常に目に入ってくる。

      

 澄み切った青い空に、静止したままのスリムで白い姿が美しい。かすかに聞こえてくるのは、そのすぐ横にある「恋人の聖地」の鐘の音だ。誰かが鳴らしているのだろうが、その奥に自転車競技場があり、そこで鳴らされるラスト一周の鐘の音かも知れないと、余計なことを考えたりもしている。

 

 

 海へと出ると、砂浜は冬の風物詩とも言えるゴミの山だった。

 この季節、浸食された砂浜を見ると心が揺れるが、冬の日にしては海の風が気持ちよかった。

 放水路に戻り、今度は右岸をサンセット・ブリッジに向かって歩く。舗装されていない、水たまりだらけの道からのスタートだ。たまにクルマなどがやって来ると、ちょっと面倒なことになる。しかし、すぐに舗装された道に出た。

 放水路の水の流れに逆行していることになるが、水面は風になびいているだけで流れているわけではない。

      

 しばらく行くと、風車の下の斜面に細い階段が造られており、一気に斜面の上まで登れるようになっている。

 上から下りたことはあったが、初めて下から登ってみた。

 斜面の中間部は草が刈られていて、地元の高校生たちがお花畑を作っていると誰かから聞いた。

 佇んでみると、ここからの眺めもそれなりにいい。

 放水路斜面の中間部には、ずっとテラスのようになった平地が続いている。これはまさに中間部の散策路候補だ。

 もったいないゾ…… 腹の中でそう思って空を見上げた………

 

 空に浮かんだ雲たちが自由に遊んでいる。

 オマエもたまにはのんびりしろと言われているみたいだ。

 この前医者にも言われたが、副交感神経を思い切り休ませてあげなさいと諭されているようだ。

 手持無沙汰なまま、とりあえず背伸びをしてみた。

 首をひねり、肩をぐるぐる回し、両腕を前後に振った。

 カラダの四分の三ほどを覆っている日常が、放水路の風に乗って空へと抜けていった……かどうか?

 

 階段を下り、また歩き始め、また放水路周辺について考え始めた。

 人造湖という湖も、いつの間にか自然の中の一部になっている。

 放水路もそれと同じではないか……と、短絡的に考えている。

 すでに数十年がたち、これからもこの放水路はこの土地に、さも当たり前のように存在していくのである。そして、この土地の象徴的な風景として親しまれてもいくだろう。

 そう思えば、積極的に風景としての放水路周辺を見つめ直すことにも意味がある。それ以上に、磨きをかけてやらなければならないかも知れない。

 先にも書いたが、風景ができあがるまでの物語なども紹介していかなければならないかも知れない。

 内灘は海だとずっと思ってきた人たちも、海ばかりでない内灘に目を向けてくれるだろう。

 「内灘・河北潟放水路周辺」というキーワードで再考か……

 

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 そんなわけで、蓮湖渚公園から放水路両岸の道を往復すれば約6キロの距離だった。あとは、海岸に出たり斜面の上り下りなどのおまけもあり、それらもそれなりによかったりする。

 道の駅もあるし、ちょっとクルマで河北潟干拓地まで移動すれば、牛乳やアイスクリームなどで大人気のH牧場さんもある。

 忘れてはいけない温泉「ほのぼの湯」も、きれいになってこの春再開される。

 砂丘台地の美しいニュータウン「白帆台」も、将来の生活設計のために見ておくことをお薦めしたい。

 最後は何だか町の定住促進キャンペーンや、不動産屋の広告みたいになってしまったが、サンセット・ブリッジや金沢医科大学病院のモニュメント的建造物も合わせて、このあたりには多面的な顔があふれている。

 あとは、文化を生み出そうというヒトビト的ココロ……かな?

 ということにして、ひとまず中締めとするのであった………

 

冬の朝の小さな奇跡

2011年12月24日の朝。

こういう言い方が正しいのか分からないが、クリスマス・イブの朝である。

冷え込み、目覚めると天気予報どおりに雪がうっすらと積もっていた。

土曜の朝でもあった。

いつもより遅く起き、階下の居間のカーテンを開ける。

そして、外の光景に一瞬目を奪われた。

そして、しばらくなぜこのような光景が起きているのかと考えた。

と言っても、ほんの数秒のことだった。

すぐに状況を飲み込むことができたのだ。

カメラを手にすぐに外へ出る。

わが家の方へと差し込む朝日は、ずっと東方へと目を向けた北アルプス北部の稜線から放たれてくるものだ。

富山平野の上空をまっすぐに伸びて、石川との県境の山並みも軽く通り越し、河北潟干拓地の平原上を経てやってくる。

夜明けからはすでに三十分ほどが過ぎていただろう。

朝の太陽は稜線の少し上へと昇っているが、それでも十分なくらいの鋭い角度で光を放っている。

その時の空は、ほとんど黒に近い濃いねずみ色に全体を被われていた。

そして、稜線上にはわずかな雲の隙間。

朝の太陽はちょうどその隙間の真ん中にいて、日差しを送ってきている。

遠く北アルプスの上空から届いた光が、わが家の後ろにある雪をかぶった斜面だけを照らし出し、暗い冬の朝に幻想的な光景を生み出している。

雪のついた電柱が光の中に立ち、電線もまた白くその存在を高めている。

しばらくして、周囲はまた一気に暗くなった。

太陽が雲の中へと吸い込まれていくようにして消えてしまったからだ。

もう寒さに耐えながら立っている必要もなくなっていた。

五分もいなかっただろう。

ただ、朝のほんのちょっとした光景だったにも拘わらず、どこか荘厳で異次元の世界にいたような気分だった。

 

冬になると、今でもこの写真をよく見る。

しかし、あれからもう何年も過ぎているのに、あの時ほどの美しい生の光景とは再会していない。

ときどき、それらしき朝すぐにカーテンを開けてみたりするが、なかなかああいう具合のシーンには遭遇しないのだ。

大げさだが、あれはわが家周辺における奇跡的光景だったのかもしれない………

金沢文芸館~五木寛之文庫の仕事記

正面

金沢市尾張町にある「金沢文芸館」がこの11月で10年を迎えていた。

もっと歳月が過ぎているような感じだったのだが、意外だった。

そして、10年を迎えたすぐあと、数年ぶりにお邪魔させてもらっている。

館の建物は昭和4年(1929)に建設されたもので、かつては銀行だった。

平成17年(2005)に文芸館になるが、その前の年に国の有形文化財に登録されている。

工事に入る前に中を見せてもらったが、まるで映画のセットのようで面白かった。

特に2階のフロアから、階下のかつての店内を見下ろした時、なぜか西部劇に出て来る酒場を思い出した。

3階の窓からは金沢の素朴な街並み風景も見え、建物の存在自体にストーリーのようなものを感じたことを覚えている。

 

金沢文芸館での主たる仕事は、2階にある「金沢五木寛之文庫」の展示計画だった。

3階の「泉鏡花文学賞」のコーナーも含まれていたが、はっきり言って2階に比べれば“おまけ”に近かった。

この仕事も企画競争で勝ち取ったものだが、実を言うと、この仕事を他人に渡すようでは「おしまい」だと思っていた。

金沢に五木寛之に関する展示空間をつくるという話を聞いた時から、ボクは激しいプレッシャーに襲われた。

と言うより、自から自分にプレッシャーをかけていたように思う。

それは何と言っても、自分自身がかつて大の五木ファンであったからだ。

初期(自分が20代だった頃に読んだ)の小説やエッセイは、出た本すべて読んでいたと言っていい。

特に学生時代、東京で読む金沢の話などのエッセイは何とも言えずセンチメンタルで、ボクの中の金沢に対する印象に別な一面を作っていったと思う。

犀星の金沢世界も読み込んだが、時代も違い、五木氏のそれはまさに、“現代の、少し気だるい金沢”だった。

文芸館パンフ

そして、五木氏との接点で言えば、何よりも、自分があの内灘のニンゲンであるということを上げねばならない。

ボクは初期の代表作である『内灘夫人』の舞台となった、石川県河北郡内灘で生まれ育ったニンゲンだ

早稲田の学生だった五木氏が、初めて内灘の砂丘に立ったのはボクが生まれる2年ほど前。

五木氏は何かの中で、自分と内灘の関係を強く意識していることを書かれていた。

実は金沢文芸館の7年前、その内灘町で開催された「第1回内灘砂丘フェスティバル」(現在も継続)で、初めて五木氏に関わる仕事をした。

当時、内灘町では文学館建設の計画があり、その調査研究の仕事に関わっていた。

そして、その一環として文学に関するイベント事業の企画を上げ、その第1回目のゲストに五木氏を呼ぼうとしたのである。

ただ、「五木寛之論楽会」という名でそのイベントは開催されたが、正直言って全く関われる余地はなかった。

五木氏がすべてご自身で仕込まれた内容だったからだ。

唯一、ポスターとチラシの制作だけが全体予算の一部を削っていただいて我々にもたらされたに過ぎない。

その時の自分の企画はと言うと、町の文化会館を五木寛之一色にするというものだった。

五木氏のプロフィールを多面的に紹介し、内灘と五木氏との関係を広く知ってもらう最高の機会と位置付けた。

しかし、五木氏からあっさりとその企画は不採用とされた。

横浜、福岡、金沢(順番は忘れた)以外でこのような企画はやれないということだったが、それには素直に頷くしかなかった。

イベント内の冒頭のミニ講演会で、内灘との関わりについて五木氏自身の言葉で語っていただけたらと提案したことも、全くそうはならなかったと記憶している。

もちろん、天下の大作家にお願いをすること自体が無謀だったのだと反省もした。

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そんなことがあってからの、金沢文芸館だった。

企画提案の説明(プレゼン)には自信をもって臨んだ。

いつものように作品等よりも人物周辺を紹介するというスタンスを選び、手応えを十分に感じていた。

そして、採用の知らせを受けてから、五木氏との顔合わせと打ち合わせが決まった。

夜の品川プリンスホテル。

地下喫茶室のテーブルで、ボクは五木氏の真向かいにいた。

横には、ホテルで合流した金沢市の担当者と上司である課長さんが座っていた。

しかし、名刺交換は済ませたが、五木氏がマネジャー?の方とスケジュールなどの確認を行い、なかなか本題には入れない。

人気作家とはこういうものなんだと、ボクはその時漠然と思っていた。

やや長い時間が過ぎたあと、打ち合わせが始まった。

最初は企画の説明、そして、途中からは五木氏がご自身の考えを語り始め、こちらがその話の聞き手となっていく……

その時、ボクはあるモノをじっと見つめていた。

それは目の前で五木氏がメモを記す、ちょっと大きめなコースターだった。

万年筆の太いペン先で撫でるように記された“五木文字”が、ひっくり返されたコースターの上で踊っていた。

これは絶対いただいて帰ろう……

聞き覚えのあるあの声を聞き取り、自分のノートにメモをしながら、ボクはそのコースターの居場所をずっと追っていたのだ。

しかし、結論から言うと、このコースターは手に入らなかった。

打合せが本調子になってきた頃、ウエイトレスさんがやって来て、テーブルの上を綺麗にしていったのだ。

その時、ボクは資料か何かを出そうとして、床に置いたバッグの中を覗きこんでいた。

しかも、なかなか目当てのものを見つけられないでいた。

そして、気が付いた時には、すでにテーブルはすっきり……

時間にすれば3,40分の打合せであったが、五木氏の静かでやさしい語り口に終始リラックスしていられた。

今度は金沢でと言われ、テーブルの資料などを片付け終えた時だ。

思い切って五木氏に告げた。

「先生、私、内灘生まれの内灘育ちなんです」

最後に、この言葉を伝えようとずっと考えてきた。

特にそのこととこの仕事とが強くつながるわけではなかったが、とにかくボクは少し前のめりになりながらそう言った。

「え、そりゃあ、凄い人と一緒にやることになったなあ」

五木氏は少し照れたように笑った。

玄関まわり

それから数日後、新神戸駅前にあるアンチークの店にいた。

広い店内で、シンプルな椅子たちを見つめていた。

これらは採用されなかったが、当初、五木氏から聞かされていた展示室のイメージの椅子に近かった。

それからまたしばらくしたある日、東京・丸善丸の内店にもいた。

万年筆など執筆道具のディスプレイ方法を見るのが目的であった。

愛用した筆記用具類をどのように見せるかで、五木氏のお気に入りだった丸善のやり方を参考にさせてもらった。

現在設置されている展示什器のうち、いくつかは丸善からヒントを得ている。

玄関

五木氏のかなり細部にまでおよぶ指示の下、展示室のデザインが固まる頃、2階フロアだけとして「金沢五木寛之文庫」という名が付けられるということに、何か特別なものを感じた。

平凡だが、らしくて…いいなと思った。

特に「文庫」という二文字に愛着が湧いた。

そして、内装工事が終わると展示品が送り込まれ、それらは少しずつだが空間の構成に彩りを添えていった。

特に見覚えのある本の装丁やさまざまな写真などが気持ちを高ぶらせた。

最初の構想からはかなり変わってしまったが、ああ、いい仕事と出会えたなあと、柄にもそんなことを思ったりもした。

側面

2005年11月23日、オープン当日のことを書こう。

セレモニーは1階の小さなホールで、たしか昼の12時から挙行されることになっていたと思う。

狭い空間にそれなりの人たちが揃い、開始の時間を待っていた。

今でもはっきりと覚えている。

腕時計を見ると、セレモニーまであと10分ほどしかなかった。

しかし、五木氏はまだ2階にいて、自筆原稿のレイアウトなどについてずっと思案されている。

それまでにも何度も位置を変えたりしながら時間を要してきたが、もう残り時間はなく、さすがに階下から「先生、お時間ですので」の声がかかっていた。

「よし、これでいこうか」

最後の指示を確認し、スタッフたちが原稿を並べ直し、ショーケースの扉を閉じた。

そして、関係者たちがホッとした顔つきで佇む中、五木氏は狭い階段を下りて行った。

今でも、個人的には展示室自体、少し上品過ぎるような感じがある。

それは自分にとっての五木寛之像が、若い頃のイメージに沿っているからだ。

指示を受け、アンチークの家具などを探しに行った時には、そんな五木氏のイメージが自分の抱いていたものと合っていたように感じていたが、そうしたものは使用されず、実際に出来上がった展示空間はかなりピカピカしていている。

今から振り返れば、なぜか、そのあたりのことにずっと悩まされ続けた、むずかしい仕事だったようにも思う。

特にデザイナーたちは大変だっただろう。

そして、それ以前から関わり、同時進行していた別物件との両立で苦心した仕事だった。

恥ずかしながら、ボクはその五年後に内灘を舞台にした中途半端な物語~『ゴンゲン森と海と砂とを少年たちのものがたり』を本にした。

その本を出そうと決めた背景に、品川プリンスホテルでの五木氏との時間があったと、その本のあとがきで書いた。

久しぶりに文芸館にお邪魔したが、今更名乗るまでもなく、昔の一五木ファンとしてぶらぶらしてきた。

仕事は今でもスタッフの皆が、しっかりと繋いでくれている。

それにしても、まだ10年しか過ぎていない出来事だったのだ………

 

 

先生がやって来て、ボクは空振りした。

真夏の青空と雲

小学校に行き始めた頃だろうか、いやもっと前かも知れない。

「ギョーセードーロ」という言葉を何気に覚えていた。

それは、今普通に県道と呼ばれている道路のことで、昔はそう呼ばれていた。

「ギョーセードーロ」とは「行政道路」のことで、ボクが生まれた町の史上最大の事件であった米軍試射場問題(1950年代前半)の補償で造られたという道路だった。

町の東側は河北潟というそれなりに大きい潟、西側は日本海。

町はその水域に挟まれ、家並みは河北潟の岸辺に沿い南北に延びていた。

面積で言えば、とても小さな町だった(今も同じだが)。

で、行政道路なのだが、ボクたちの住む小さな地区では、河北潟の岸辺を埋めて盛土をし、その上に砂利を敷いて造られていた。

それが出来た頃の話は知らないので、河北潟の端っこを埋めて造ったというのは後から知った。

今それを確認しようとしても、ほとんどその面影は残っていない。

ただ、まだカンペキに田舎のハナタレ小僧(仮の表現である)であった頃、家の前の細い道を行くと家と家の間にまた細い道があった。

その細い道の両側は小さな水田になっていて、最後に葦に被われた小さな登りを過ぎると砂利の敷かれた立派な道(路)に出る。

それが行政道路で、路線バスはそこを走っていた。

水田になっていた所は、かつて河北潟の岸辺だったのかも知れない。

そのことも確認のしようがないが、行政道路に繋がる細い道は今でも残っている。

ただ、平坦になっているだけだ。

走るクルマの数は少なかった。

そう思うのは、何となくいつも静かだったという記憶が残っているからだ。

たまに走ってくるクルマが砂利を弾き、弾かれた砂利が道の反対側に残る水路みたいな川みたいな部分に飛び込むと、ドブンという鈍い音を響かせた。

ここでよく、“独り野球”をやった。

木の棒か竹の棒を持ち、適当な大きさの石を拾ってノックのようにして打つ。

それをするのに適した場所は、潟の中に出島のように造らえた水田と道路との間の水路の、特に広くなった部分で、打った石が水路を越えて出島の方に入るとホームラン。

あとは適当に内野のラインを水面に決めて、石を打つのだ。

なかなか説明しても理解してもらえないが、河北潟というのはその頃今よりはるかに大きくて、そのすぐ後から徐々に小さくなっていく。

干拓が始まったからだ。

ついでに書くと、ボクたち全ガキ連にとっては、干拓も初めは「カンタク」であった。

独り野球は試合形式で、カードはいつも巨人・阪神戦だった。

当然、四番サード・長嶋の打順の時は、何回打ち直してもいいことになっていた。

長嶋は何度も四打席連続ホームランを打ち、ほとんどが長嶋のサヨナラ・ホームランで巨人が勝つというパターンだったように思う。

小学校三年の時だ。

夏休みが終わって、二学期が始まったばかりの午後の遅い頃だ。

担任だったN先生(もちろん美人先生)が、ボクが独り野球に興じている横を、ホンダ・カブで走り抜けていったことがあった。

あまりクルマの走らない道だったから、バイクが来ただけでもすぐにエンジンの音で分かる。

しばらくして、学校から帰宅するN先生であることも分かったが、どうしたらいいのか分からない。

ボクはそのまま分からないふりをしてやり過ごそうとした。

先生はすでに結婚されていたが、学校では他の追随を許さない美しさとやさしさと、時折見せるはにかんだような仕草や表情などで圧倒的な人気を誇っていた(と記憶する)。

それはともかく、先生のバイクが近付いて来ていた。

その時、ボクのアタマにマヌケな考えが浮かんだ。

先生にいいところを見せようという、男の子から少年になろうという頃合いならではの(?)余計な思いが浮かんだのだった。

緊張しながら、ボクはちょうど手にしていた適度な大きさの石を見た(と思う)。

そして、いつもより少し余裕を持った感じでその石を上げた(とも思う)。

まだ先生のバイクは先にいたが、先生の視界にはクッキリとボクが入っているはずだった。

そして、ボクは長嶋茂雄風にバットを振った。

見事な空振りだった。

それも長嶋茂雄風と言えば言えなくもないが、ここではそれは許せないことだった。

ボクは思わず体を先生の方に向けた。

“さよならァ~”

白いヘルメットを被り、運転の緊張のせいだろうか、いつものやさしい表情は消えていたが、先生の澄みきった声が色の付いた風のようにボクの顔の前を通り過ぎていった。

ボクは先生の背中に、サヨナラ~と告げた。

先生に空振りを見られたくはなかったが、先生も自分がバイクに乗っている姿を見られたくなかったのかも知れないと思った。

ボクにとって、その日は何か特別な日になった。

先生と互いのヒミツを共有したような気持ちになっていた。

見上げた空はまだ夏のようだったが、赤とんぼが数えきれないほど浮かんでいた。

翌日、教室で見た先生の顔は、いつもと同じだった。

ボクはなぜか少しガッカリしたが、先生のあの色の付いたような声を思い出し、ひとり幸せな気持ちに浸っていたのだった・・・・・・・・・

 

無花果とミミズと少年の頃の夏

無花果

6月なのに、真夏のような熱気が支配する午後だった。

山里の田園風景をぼーっと眺めていると、急に無花果の匂いがしたような気がして周囲を見回した。

が、それらしきものはどこにもない。

無花果の匂いが脳を刺激すると、反射的に小学校の頃の夏休みを思い出す。

近所にあった無花果の木の下を小枝で掘って、ミミズをかき出し、魚釣りの餌にしていた。

ミミズは十匹くらい獲れると十分で、餌がなくなればそれで終わりという釣りだった。

今でも無花果があまり好きではない。

それは、木の根っこの部分に、ミミズがいっぱいいたからなのだろうと思う。

家を建ててからの最初の夏、朝になると砂の上に物凄い数のミミズたちがいるのを見た。

不規則に移動してきたその形跡が、砂の上にはっきりと残されていた。

特に二階から見下ろしていたから、それは鮮明でもあった。

しかし、彼らは徐々に昇ってくる太陽の存在を知らないでいたのか、気温の上昇とともに動かなくなり、そのまま干からびていく。

毎日それが繰り返されると、砂の上はミミズの干物だらけになった。

夥しい数に不快感が募り、休みになるとまた砂の中へと返したりしていた。

そんな夏は長く続かなかったが、それから何年かして、家人の実家から無花果の枝を一本もらうことになった。

挿し木しておくと、それは腰の高さほどまで伸び、その段階でついに実を一個だけつけた。

しかし、特に大事にしていたわけでもなく、いつの間にか木は弱っていき、その後何かの機会に切り倒している。

その小さな無花果の木を見る度にも、いつもミミズのことがアタマに浮かんでいた。

居なくなっていたミミズたちが、またその無花果の木の下に集まっているのではないだろうかと思ったりした。

 

無花果の匂いは、少年の頃の夏へとつながっている。

特に男の子から少年へと変わっていくことの、ひとつの証としても、ミミズを平気で手で掴み、ビニール袋に入れては河北潟へと通っていた思い出が強く残っているのだろうと思う。

それにしても、あの熱気の中で感じた無花果の匂いは、どこから来たのだろうか………

内灘・私的メッセージ

内灘海岸

内灘といえば、海です。

ただ、さまざまな表情があって、

どれが内灘の海だとは

簡単に言えません。

渚夕陽波白い船

はまなすハマエンドウ

筋雲と海岸uchinada beach

落日砂紋

 

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トーチカ

内灘の海には

ちょっとつらい歴史がありました。

1950年代初めの頃です。

アメリカ軍の砲弾を試射する場所として

内灘の海岸が選ばれてしまったのです。

内灘の人々は、自分たちの“浜”を守ろうと

座り込みをして抵抗しました。

しかし、その甲斐もなく

砲弾は浜に突き刺さり、砂を蹴散らし、

人々を恐れさせたのです。

今は、かすかな残像として

その時代の遺構が立ち尽くしています。

砂浜の枯草

 

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白い波の上の小鳥

内灘の海は今も

たくさんの人たちに愛されています。

内灘の海を見つめながら、

それぞれの時代を振り返る人もいれば、

内灘の海を見つめながら、

それぞれの未来を夢見る人もいます。

多くの人たちが、内灘の海に何かを語りかけ、

内灘の海から、

何かを語りかけられてきたのだと思います。

問いかけも、叫びも、歓びも、

すべてを受け入れてくれる、内灘の海です。

黄金の海井上靖文学碑

 

 

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水面と鳥

河北潟の半分ほどが干拓されるまで、

内灘は文字どおり水域に挟まれた町でした。

その面影は、

今もはっきりと残っています。

そして、大地として生まれ変わった後には、

それまで見ることのなかった美しい風景が、

私たちの目と心を楽しませてくれるようになっています。

美しい風景がまた美しい風景を生み、

今多くの人々が、

その大地に集っています。

西日水田林立麦たちのサンバ

麦の緑2草原3

下流

 

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行くぞ、白獅子

内灘はかつて貧しい村でした。

しかし、もうその貧しさの記憶を

甦らせるものはありません。

古くは加賀の殿様のご加護を

いただいたという神社が砂丘にあり、

その神社がいくつかの変遷を経て

人里に下りたという物語もありました。

大きな遊園地ができ、

電車が走り始めたという出来事もありました。

そして、内灘闘争―。

今、内灘は恵まれた環境の中で

そこに住む人々や

訪れる人々に安らぎを提供しています。

そして、内灘の人々はいつも元気です。

遊園ゲート小浜神社跡と医科大など

浅電が来る朝日の中の遊園地

 

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空が広い

内灘の砂丘台地からは、

遠く北アルプスの山並みから登る朝日も

穏やかに日本海へと沈む

夕陽も見ることができます。

空は360度の広がりを見せ、

青く澄みきった空に浮かぶ雲たちにも

心安らぐ表情があったりします。

空が広いこと……

それは内灘の〝タカラ〞です。

朝霧の河北潟

剣岳・立山薬師岳2

 

 

 

 

 

 

不思議な距離

DSC_0031

 仕事で自分の生まれ育った町と関わりを持つというのは、何だか奇妙なものだ。

 自分自身、その類の仕事で満足したことは一度もない。

 不思議なことに、最終的には投げやりに近い状態になっていることが多く、やはり何となく寂しい気持ちになるのだ。

 なぜなんだろうと、今あらためて新しい関わり(仕事)を持つことになったのをきっかけに考え直している。

 ふと思うのは、自分自身が自分の故郷である町に対して、それほどの愛情や親しみを持っていないのではないかということだ。

 これはある意味で当たっている気がしないでもない。

 しかし、誰しもが持つ正反対の心象のようでもあるし、それを第一の要因にするのは適当でないと思うのである。

 皆、少なからずそのようなものを持っていながら、故郷のことを思っているのだと思う。

 小さい頃からかなりのませガキであったボクは、さも当然のように大人になったら都会へ出て、自分の好きなことを自分のやり方でやるのだという強い思いを持っていた。

 都会というのは、小学校中学年の頃は東京であり、中学の頃には生意気にもニューヨークあたりになった。

 その後は趣を変えてまた国内に戻り、八ヶ岳山麓あたりに移行していき都会志向は消えていったが、とにかく故郷で生活するという選択はなかった。

 それが直接的になぜこうなったかは今書かないが、いざそうなってしまうと、逆に身動きがとれなくなるものらしい。

 大学を卒業する時には、ボクは完全にUターン志向になっていて、東京の暮らしには興味を失っていた。

 趣味の世界では東京に多くの未練はあったが、それ以外には何も魅力を感じなかった。

 しかし、今になって思うのは、ただ単に見つめる世界が少年時代より狭くなっていただけではなかったかということだ。

 もちろんそれは、大人になったからこそ分かる世界であったのかも知れないが、基本的なところでボクにはそれほど深い考えはなかった。

 Uターンした後、新たに見つけた趣味の世界に没頭していったが、本質的なところで大事なものを見失っていったのだと思う。

 当然見失っていることには気が付かなかったし、周囲は趣味の世界を楽しむボクのことを好意的に見てくれていた………

 故郷の町の仕事をする時には、少し腰を浮かせている自分に気が付く。

 悪い言い方をすると、完全は望めないと思っている(ように思う)。

 そして、望まれていないようにも思える。

 そうではない町では、もっとチカラが入っているのに、なぜかこの町ではそうならないのである。

 自分がこの町を見くびっていたニンゲンだった…?…からだろうか?

 あるいは、思いが強すぎる…?…のだろうか?

 どちらにせよ、また新しい関わりが始まる。年齢も、立場も環境もそれなりに変わっている中で。

 ボクの故郷である町は、「内灘」という………

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

ボクらの浜のゴミ拾い

砂浜

6月最後の日曜日は、6月最後の日でもあった。

が、そんなこととは特に関係ないと思うが、わが内灘町では、町の代名詞とも言える海岸の一斉清掃に、朝から町民たちは汗を流していたのだ。

と言っても、当然ながら内灘28000人の町民が全員海岸に押しかけたのではない。

もし、内灘町民全員が海岸に集まってしまったら、砂浜は立錐の余地もなくなり、ゴミ拾いどころか、身動きもとれない状態になってしまって大変なのだ。

そんなわけで、有志と各種団体、家族連れなどが参加し、それでもかなりの人数で賑々しく砂浜のゴミ拾いが続けられたのである。

公式開始時間は、午前7時。

しかし、ボクなどの地区役員はなぜか6時集合と聞かされていた。

ボクたちの拠点となるのは、権現(ゴンゲン)森海水浴場だ。

小さな海水浴場だが、夏真っ盛りの頃になると、それなりに金沢などから客が来る。

会社などのレクリエーションなどにも使われるケースが多く、人気がある。

海水浴場はというか、最初の浜茶屋がボクが小学生だった頃、地元のよく知っている人たちによって作られたと記憶する。

それまでは何にもない、ただの広い砂浜だった。

海水浴場が作られる時、権現森に一台のブルドーザーが入り込んで、まるでバリカンでアタマを刈るようにしながら森の中に一本の道を造ったのだ。

あの時代は、自然保護がどうのこうのなどと言う人もいなかったのだろう?

実を言うと、我々「悪ガキ隊」(もしくは「全ガキ連」とも言う)は、いち早くそのニュースをキャッチしていた。

そして、工事の始まるその日、すぐに権現森の手前にあったニセアカシヤの林の入り口へと走っていたのだ。

真新しいブルドーザーに跨り(実際、運転席に座っていたのは言うまでもないが)、颯爽と道を切り開いていく運転手のお兄さんとは、すぐに仲良しとなっていた。

それからは、毎日学校が終わると権現森に出かけ、ブルドーザーにも乗せてもらったりした。

その日の作業が終わり、開いた道を戻る時に乗せてもらったのだと思う。

樹木や雑草などで暗く薄気味悪かった権現森が、明るく開放的なイメージになり、もうビクビクしながら森の細い道を歩いて行かなくていいと思うと、高いブルドーザーの席から勝ち誇ったような気持ちで森を見下ろしていた。

本題とはあまり関係ないが、そんなわけで、とにかく権現森海水浴場は出来たという話である。

時計は6時半になっていた。しかし、ボクを入れて四人が集まっているだけで、あとは誰も来ない。

どうせ7時からだし、みんなはまだだろうと思っていると、後から来た一人が手にゴミ袋を持って砂浜に下りて行った。

聞くと、海水浴場駐車場のずっと手前で、ゴミ袋が渡されているという。

つまり、我々は事務局よりもちょっと早く来すぎていたのだ。

一人がわざわざゴミ袋を取りに戻ってくれた。

いよいよ浜茶屋あたりから砂浜に下り、ゴミ拾いをしながら進んで行くと、先の方には大勢の人だかりが見える。

あの集団はいい時間に来たので、そのままゴミ袋を手にゴミ拾いを始めていた。

早く来ていながら不覚をとったと、川中島の合戦における武田軍の山本勘助になった心境でいる……(それほど深くはない)

ゴミは無数に、しかも時折悪意のようなものを匂わせながら、ボクたちの足元に落ちていた。

しかも砂浜だから、ほとんどは砂に埋まっている。

ハングル文字の入ったものも多くある。

悪意を感じるのは、四駆車が入り込んできたあとに散乱しているペットボトル類だ。

大きなものが、海浜植物の隙間に多く散乱している様は、目にしただけでも気分が悪くなる。

と言っても、ゴミ拾いの面々は地元の仲間だ。やらねばならぬ的にやるしかないと思っている。

7時を過ぎてからか、雲が切れ、本格的に太陽が出はじめた。

海の朝はそれなりに空気も冷たいが、東からの陽光を受けるようになると一気に暑くなる。

鼻が高いせいだろうか、いつの間にか鼻のアタマに熱気を感じるようにもなっていた。

数百メートルにわたって、人のかたまりが動いて行く。

清掃部隊に少し遠慮しがちな釣り人たちも増えてきた。

ところどころに設置された、ゴミの集積場に流木などと一般的なゴミなどが分けられ、その量は見る見るうちに増えていく。

見た目に分かるほどに、砂浜はきれいになった。

そして、そろそろゴミも目途が立ち、少し身体も疲れてくると、そこかしこに立ち話チームが出てきた。

昨日の夜は一緒に飲んでいたという人たちもいれば、久しぶりに会ったということで会話が弾んでいるグループもある。

役場の中の委員会に参加したりして、かなりストレスが溜まったりするケースもあるのだが、こういった場はむずかしく考えなくていいから楽だ。

クルマに戻ろうと、砂浜をずっと歩いて行くと、砂の上に朽ち果てた椰子の実があった。

実は朝一番に目に付き、これはゴミではないと自分で決めていた椰子の実だった。

誰もこれをゴミ袋に入れようとしなかったことに、なぜかホッとした。

陽が出る前は、小さく波打っていたような海面が、今はもう穏やかに揺れている。

すぐには帰らずに、海浜植物の群れの中を高台に登ってみた。

かつては、完全に砂の山で、一気に浜へ駆け下りるといった醍醐味があったが、今は植物が執拗に拒む。

狭く小さくなった砂浜を見下ろしたが、特に何の感慨もなかった。

沖には小さなボートが浮かび、釣り人の赤いウエアがあざやかに浮かび上がっている。

小さかった頃は、毎日のようにこのあたりで遊んでいたような気がするが、こうして海岸清掃という行事をとおして来てみると、地元の人たちの顔もあってか、急にその思い出も濃くなったような気がする。

よくは分からないが、とにかく不思議なものだ……

狭くなった海岸海を背景にしたスコップヤシの実穏やかな海に釣り船砂の感触

ボクらの不発弾事件

不発弾

先日の、東京・不発弾処理の記事。

不発弾のことなら、黙っていられない。

早速、本題に入る……小学校四年の頃のことだ。

その十数年前、ボクたちの育った内灘の砂浜は、

アメリカ軍の砲弾試射場として接収されていた。

特にわがゴンゲン(権現)森の海岸は、着弾地点になっていて、

そこでは座り込む地元の母ちゃんたちのそばで、

轟音、そして地響きとともに砂塵が舞っていたのだ。

この事件は、日本中を揺るがし、当時の貧乏な漁村は一躍有名になった。

しかし、ボクらはそんなことなど、な~んにも知らないまま育ち、

一応子供としての社会的地位?を得るようになると、

ごくごく普通に砂浜で遊ぶようになっていた。

夏休み終わりがけのある日。

ボクと、一つ年上のTと、もうひとつ年上のYは、

砂浜に埋まっていた不発弾を見つける。

信じてもらえないかもしれないが、ボクたちの砂浜には、

このような不発弾がいっぱい?埋まっていて、

ボクらはこれらを「バクダン」と呼んでいた。

今から思えば、当たり前すぎる呼び方だが、

その響きは、子供心にもなかなか痺れるものがあった。

ボクたちが見つけたバクダンは、いつも見るものとは

少し変形?して見えていた。

後部の方が抜け落ち、そこには芯棒のようなものがあった。

その棒が、子供心にも持ち運びの利便性を認識させていたのだった。

夏休みの終わり頃と言うのは、

少年たちにとって、夢や希望が一度に消え失せ、

もうすぐ訪れる二学期への疑念や、極度の脱力感に襲われる時だ。

……誰言うとなく、このバクダンを持って帰ろうということになる。

ボクたちは代わる代わる持つところを変えながら、

ゴンゲン森を抜け、砂丘の畑の中を歩いた。

当然だが、何度も何度も足を止め、バクダンを砂の上に放り投げ、

自分たちもその度にドスンと座り込んでいた。

普通であれば、三十分ほどの行程が、その何倍もの時間を要した。

そして、夕暮れ近くになって、ようやくYの家の後ろの崖に辿り着き、

そこにバクダンを埋めたのだった。

数日後、全く何事も無かったかのように二学期が始まった。

しかし、学校で久しぶりに友人たちの顔を見てしまうと、

あの“偉業”について、黙ってはいられなくなった……。

そのまた数日後、Yの家の前に二台の軍用トラックが止まる。

数人の自衛隊員が、ボクたちが埋めたバクダンを調べている。

そして、バクダンは、そのままトラックに載せられて行ってしまった。

当然、当たり前のように、ボクたちは超大目玉を喰らった。

もし、もし、あれがああなって、こうなっていたらと考えると、

今でも背筋が寒くなるのである。

ついでに、最近知った話だが、昔使われていたバクダン、

いや砲弾にはテスト用に砂が詰められていたものもあったそうだ。

それには、SANDの頭文字「S」と記されていたらしい……

砂浜の枯草-1024x685

ゴンゲン森で、子どもたちに語った

九月のアタマあたりだったろうか、町役場から突然電話があって、「うちなだ夢教室」の講師をやってくれないかと頼まれた。

一応、こちらのことをいろいろと調べてあって、断わる理由もなく引き受けることにした。

「うちなだ夢教室」というのは、内灘町が主催する小学生やその親たち向けのイベントで、内灘の主に自然について勉強しようというテーマで開催されていた。

ボクの場合は、「ゴンゲン森」がテーマになっていて、ボクは自分の本の中に描かれているような内灘の子供たちのことを語りましょうと担当者に告げた。

担当者はそれなりに喜んでくれてもいた。

ところが、どうなったかよく分からないまま、役場から案内が届き、その内容を見た途端、これでは引き受けられないと思ってしまった。

そこに書かれていたのは、ゴンゲン森の木々や動物などについて学ぼうというもので、ボクが伝えていた内容とは異なっていたのだ。

なにしろ、ボクはゴンゲン森に限らず動植物などに詳しいわけではない。

話してみようと思ったのは、自分たちの小学生の頃、ゴンゲン森や砂丘で何をしていたか、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』に描かれたことそのものだったのだ。

ボクは担当者にメールを入れ、与えられたテーマでは自分は不適任であることを伝えておいた。

休日を隔てて電話が入っていた。

いろいろあったが、結局引き受けることになり、当日を迎える。

 

三十人ぐらいの子供たちと十人弱のお父さんとお母さんたち。

それに初めて会った元気印の担当者Wさんと、以前から存じ上げていた町の文化活動をリードするTさん。

そして、ボクの未知の部分、つまり動植物について教えてくださるI氏や、その他スタッフの人たち。

かつては砂丘の中の畑か、ニセアカシヤの林だったところに建つ白帆台公民館に集合した。

紹介されたあと、それではとゴンゲン森の入り口に向かって歩く。

森への入り口は小さな坂道になっていたとか、子供にとっては森に入り込むことは非常に勇気が要ったという話をし、すぐに頭上のクルミの木を指さす。

植物のことはIさんが詳しく話してくれるので、こちらも聞き手にまわる。

森に下ってしばらく行くと、左手の崖になっている方を見上げながら、上部はかつて大きな砂の台地だったというようなことを語る。

すると、自分自身もその記憶の中に入り込んでいく。

もう体感するのはむずかしいが、ボクたちはその砂の大きな台地からゴンゲン森を見下ろしていたのだ。

そして、その台地で野球をし、その台地から海の方に下って、米軍試射場があった時の残骸である着弾観測所で遊び、そこからまた砂丘に植えられていたグミの実を取りに下ったりもした。

ボクたちが野球をしていた砂の台地の先で、試射に反対する母親たちが座り込みをしていたといったことなど、知る由もなかった。

ボクは、砂のことを話し始めた。

砂の感触が、子供の頃の強烈な記憶なのだ。

裸足になって、砂山から駆け下りる爽快さを、ちょっと力を入れて語ったが、実際に子供たちには伝わっただろうか?

 

道がまた下りになっていくと、海が見えてくる。

しかし、ボクの子供の頃、つまりゴンゲン森がまだ生きていた頃は、森から海は見えなかった。

海はゴンゲン森を抜け、その出口を塞ぐようにしていた砂山を登らないと見えなかった。

小学生の頃、たった独りでこの森を駆け抜けた経験の中では、この最後の坂道が最も興奮する場所だったと思う。

恐怖心から解放されるという思いで、一気に下った。

一度だけ飲んだ記憶のある森の中の湧水は、今何でもない平凡な場所にある。

そこに皆が集まり、ボクは貝殻に水をため、それを飲んだ時の話をした。

ゴンゲン森に廃屋があり、そこに何か恐ろしい者がいる?

そんな話がゴンゲン森をより恐ろしい場所にしていたことなども話した。

ボクたちは、恐(畏)ろしいものは何でも「オーカミ」と呼んでいた。

この湧水は、ゴンゲン森のオーカミの水で、水を飲むところを見られると、オーカミに殺される。

そんな想像がはたらいた。

 

とりとめもなく時間が過ぎ、公民館に戻った後、もう一度みんなの前で話すことになっていた。

話は、大人向けの方に転化していき、ボクは自分の本を読んで感想を綴ってくれた人たちの話などをした。

子供たちに話すという機会は今までほとんどなく、少し戸惑ったが、やはり大人が子供たちに伝えていくことの大切さを知らされた。

内灘も含め、多くの土地では子供たちに日常の歴史、あるいは歴史の中の日常というものを伝えていない。

あらためて、そういうことを思った時間だった……

内灘闘争の伝え方を再考

内灘闘争60周年がテーマだった、今年の「内灘砂丘フェスティバル」。

会場となった文化会館のロビーで、ある写真と再会した。

米軍の砲弾試射の轟音に怯える、 若い母親たちの表情が強く印象に残った、一枚の写真だ。

この砂丘フェスティバルは、第1回、つまり立ち上げ時の企画やポスターデザインなどに参加しただけだが、 今回のテーマの表現としては違和感をもった…

内灘の話を、内灘の人たち、 特に若者たちや子供たちに伝えていくような、 そういった内容がいいと思うのだが、 いつも社会運動や沖縄の話などへと繋がっていく。

ボクたちでさえ大人になるまで、詳しいことはほとんど知らなかった。

今の若者たちや子供たちも同じだろう。

いや、もっと現実味を失っているに違いない。

まず内向きに、町やその周辺の人たちに歴史やその時代の日常を伝えていくのがいいと思う。

わずか60年前のことだ。

当時の自分の身内や近所の人たちが何を思い、何をしていたか、 こういう写真を見ると、そんなことを知ることの意味が見えてくる……

あらためて書きたい…

漕艇場あたりの、のどかな風景

何度か書いてきた河北潟の話の中で、どちらと言えば、いつも干拓されてしまったことへのセンチメンタルな気持ちを綴ってきたように思う。

しかし、関心が全くなかった時は、その言葉どおり、どうでもよかったのだが、一度関心を持つようになるとスタンスは変わる。

河北潟を干拓地として見るようになったのも、そのことに拍車をかけ、最近は身近な存在として、そのいいところを探そうという気持ちにもなっている。

そんな中で、少しマンネリ化してきたかなと思っていた矢先に、漕艇場の存在を知った。

いや、知ったというのはかなり前からで、そこへ初めて行ってみたというのが正しい。

内灘からすれば対岸になる津幡町の、水路のように残された水域がその場所だ。

九月のはじめで、広い田園地帯では稲刈りが始まっていた。

その中のメイン道路から細い道に入ると、生産者の人たちのクルマが道の脇につながり、そこを通るにはかなりの遠慮が強いられる。

しかし、漕艇場に向かうという大義名分があるということを、生産者の人たちは認識されているのだろう。

誰も変な目でボクを見ない。それどころか、首から下げたタオルで汗を拭きながら、刈り取り作業に精を出しておられる。

学生たちが一生懸命に練習しているということも、あの人たちは十分に知っているのかも知れない。

意外と狭い駐車場にクルマを止め、外に出た。

稲刈機の音だとばかり思っていた、エンジン音が頭上からも聞こえる。

数台のクルマが止められたグラウンドの方で、ラジコンヘリだろうか、かなりのハイスピードで飛び回っている。

垂直に下降したりして、アクロバット的な飛行を楽しんでいるのだろう。

ちょっとした土手を上ると、芝生の広い空間が目の前に現れ、その向こうが漕艇コースの水域、そして高いものなど何もないその先には、すぐに白い雲を浮かべた青空がある。

思わず、オオッと小さく唸り、すぐに土手を駆け下りた。

一角に、釣り人が二人だけ。

さっきのヘリも無事着陸したのか、周辺は物音ひとつ聞こえない。

いや、厳密に言えば、何か音はしているのだが、それは音とは認識させない音なのだ。

水場や芝生などの植物のせいなのだろうか、音がみな水中や地中に吸収されたのではと思わせる。

ゆっくりと水場に近付く。

波のない静かな水面に白い雲を浮かべた青空がそのまま映っている。

釣り人たちの話し声が、ようやく微かに耳に届く。

それなりに大きな声で話しているようだが、不思議にもその声は聞き取れない。

 

いいところを見つけたと、すぐに思って、かなりの度合いで嬉しくなった。

さっそく、芝生の切れ目に沿って散策を開始。足元に白い小さな花が一輪。

気分は、稲見一良の小説「花見川のハック」に出てくる冒険少年。場所もピッタリだ。

それにしても暑い。気象用語的には「暑い」だろうが、感じられる空気は「熱い」の方が合っていると思う。

そんなことを考えながら、とにかく歩く。

芝生がかなり汚れているのは、数日前から続くゲリラ豪雨のような夕立があったからだろう。

水かさが芝の上まで上がったのに違いない。

その臭いが懐かしかった。

子供の頃、水の汚さでは定評があった河北潟。

今も決してきれいとは言えないだろうが、岸辺の土が漂わせる臭いは、こんなふうだったなあと思い出す。

それにしてもの暑さなのだが、静けさが暑さを少しだけ負かしてくれる。

と、思ったところへ、どこか遠くから声が聞こえた。

あたりを見回すが、すぐに声の主がわからない。

ようやくわかったのは、反対側の岸辺近くで五人乗りのボートが滑って行くのを見つけた時だ。

「そんなに後ろにのけ反らない方がいい。力はそんなに変わらないし、後半疲れるよ」

「さあ、ここから最後、気持ちを一つにして行こう」

コーチだろうか、最後尾に座ったメンバーが声を出している。

しかし、水をかく音など聞こえてこない。

ボートは静かに水面を滑っていき、そのうち視界のはるか遠くへと去って行った。

特に何をするでもなく、パーゴラのあるベンチに腰を下ろして、得意のボーっとする状態に入った。

何度も書くが、とにかく静かなのである。

音や声がしても、まるでTANNOYの大きなスピーカーで聴くチェロの演奏のような感じ(?)で、まろやかなのだ。

一時間はいただろうか、さらなる水路の奥への探検を次回のお楽しみにして、クルマに戻ろうとした。

ちょうど、学生たちの別のチームが水路に出るところだった。

実際に漕ぎ出すところを見たいと、土手の上から見つめた。

担いでいたボートが水面に置かれ、そのボートに向かって全員がアタマを下げ、何かの儀式が簡単に行われる。

いいなあと素朴に思い、彼らを見送った。

それにしても、暑かったが、そのことをカンペキにブッ飛ばす、いい時間だった………

風景に焦る朝について

毎朝七時十五分から二十分頃には家を出る。

その時間に出ておいた方が、道も空いていて、それほど気分を害することもなく出社できるからだ。

我が家のある石川県内灘町から、勤務地のある同県野々市市堀内までは、とにかく近くはない。

今頃は、若干早起きして、プランターや直植えした花たちに水をやることもある。

早く帰ることが出来れば、暮れる直前に水やりも出来るのだが、それはなかなか至難の技(と言うほどでもないが)で、やはり朝の水やりが多くなる。

クルマで家を出て二百メートルほど行くと、小さな十字路を右折し、高台の方へと上っていく。

緩やかというか、本当はかなり角度があると思うのだが、距離が長いせいもあってか、なかなか気分のいい登り坂なのである。

説明すると長くなるので省略的に書くが、ここはずっと砂丘台地だったところだ。それが少しずつ削られ、平地が後方(海の方)へと広がっていった。

今我が家は平地に建っているが、その場所どころか、そこから五十メートル手前辺りまで、かつては砂丘台地だった。

紀元前三千年とかの話ではない。ほんの四十年ほど前までの話だ。

日本という国が元気だった時代の土木・建設ラッシュなどで、砂がワンサカと必要となり、そのために我が家周辺の砂たちも、お国のためにと採取されていったわけである。

と、こんな話をしても、ほとんど理解してもらえないだろうから、説明はこのあたりでやめとこう。

 

登り坂の半分ほど来たところで、右手には河北潟干拓地の、六月から七月初めにかけての今頃であれば、ウスラぼんやりと霞がかったような風景が目に入ってくる。

梅雨の晴れ間的朝であっても、すでに高く上がりつつある太陽の光を受けていれば、そのぼんやり度がいい按配的に美しかったりもする。

もう少し前であれば、刈り入れ前の麦畑もかなり美しい。毎朝、ううむと唸る。

と同時に、チキショー…と口にはしないまでも、腹の中では思ったりもする。

写真に収めたくなるからで、焦りはかなりハゲしく募るのだ。

五月から六月の初めにかけては、晴れている朝は、毎朝唸り、そして焦っていた。

高台の通りに出るところで、だいたい決まって信号待ちになる。

交差点の正面方向は、かつてのゴンゲン森と海。道は真っ直ぐに伸びている。

左折して大通りに出ると、河北潟干拓地はさらに高度感を増した眺望となって、ますます唸らせる。

ここ(白帆台)に家を建てた人たちが羨ましい。

「ここに、わしらの畑があってんぞ!」などと言ったところで、負け惜しみか…

今度は左手になった風景が凄い。

はるか東の方向に、北アルプス北部の山並みも見え、さらに南に目を移すと、霊峰白山なども視界に入って来る。こうなると、もうカンペキだ。

今自分が会社へ向かってクルマを走らせているということに、罪悪感さえ抱いてしまう。

しかし、ぐっと堪える。

この短い葛藤の時間が、朝の日課になっている……

河北潟干拓地への雑感

冬には少ないながらもそれなりに雪が積もり、その雪が解け始める頃になると、雪の下にあった青々とした麦たちが、薄く張られたような雪解け水から顔を出す。

さらにそれらは春の陽気と共に一気に成長し、風に揺れるくらいになると、すぐに黄金色になって刈り採られていく。

梅雨に入った時季の河北潟干拓地にはいろいろな顔があり、人工的に作られた農地とは言え、大らかな自然の息吹を感じさせるものがある。

この干拓地をずっと好きになれずにいた。

河北潟は広い水域をもってこその宝であり、そこから簡単に水を抜いて作られた土地にはどうしても馴染めなかった。

小学校の低学年から中学年にかけての頃だろうか、河北潟に奇妙な形の船が浮かび始め、秋田県や滋賀県から転校生がやって来た。

干拓が始まろうとしていたのだ。

転校生たちは、それぞれが八郎潟や琵琶湖の干拓従事者たちの子供らで、彼らは中学の頃までいただろうか。

正直言って、初めの頃は何をしていたのか、まったく分かっていなかった。

小学校に入学する頃には、すでに岸に近いところに出島のようにして水田が作られ、潟そのものはやや遠い存在になっていたが、それでも道路と出島型水田の間には、川のような場所があり、藻が張って大きなフナたちが泳いでいた。

そして、その水田の中の道を歩いて潟の岸辺にまで行くと、すぐ前に太い鉄管がいくつも繋ぎ合わされ延びていた。

水面よりかなり高い位置に木で組まれた橋桁のようなものがあり、その上に鉄管は繋がれているのだ。

先端からは黒い泥のようなものが流れ出ていて、その勢いは子供たちにとって恐ろしいものでもあった。

鉄管は八郎潟や琵琶湖で使われてきたものだったに違いない。赤錆が全体を覆っているものも多くあった。

ボクたち“地元全ガキ連”の有志は、岸にまで延びてきていた鉄管の上に上り、そのまま潟の方へと歩いて行く度胸だめしみたいなことをよくやった。

砂の上ではちょっと大胆に速足などが出来たが、水上に出るとそんなわけにはいかず、十メートルも入るとすぐに足がすくんだ。そのまま引き返すのも大変だった。

今から思えば、干拓はいつの間にか終わっていた。

十年以上はかかっていたのに、見た目的にはあまりにも大らかな進捗であったせいか、干拓工事自体が日常の生活の中に溶け込んでいたような気がする。

今思えば、干拓地のど真ん中に立っていても、かつて祖父が舵を取る小舟で向かい岸の町まで出かけていたことなど想像しがたい。

北海道や山陰の海で鳴らした名物漁師の一人だった祖父は、漁業の衰退とともに河北潟の細々とした川魚漁に転じた。

それでも生活は厳しく、砂丘で作るさつまいも(五郎島金時などまだない)を向かい岸まで売りに行っていた。

さつまいもは金になるというより、米との交換品でもあり、わずかしかもらえない米のために、大量のさつまいもを置いてきた。

保育所に入った頃の自分が、なぜかその時の様子をはっきりと覚えているのは、偉大な祖父が手拭いで汗を拭きつつ、お客さんに腰を折りアタマを下げているのを見ていたからだ。

夕方の帰りには河北潟に少し波が立ち始め、舟の揺れが大きくなった。そんな時は、舟の先端に身を屈めてじっと舟底を見ていた。

干拓が進んで、潟の半分以上が陸地(農地)になった時は、ある意味の珍しさもあってか、その風景に興味も湧いた。

しかし、それ以上に、米が過剰に作られるという異様な社会の動きの中で、河北潟の干拓に何の意味があったのだろうと思うようにもなっていった。

ボクよりも年長の人たちには、その思いはもっと大きかったに違いない。

潟がそのとおりの水域として残っていたら、もっと自分たちの心に豊かな何かがもたらされたのではないか…と思うようにもなっていた。

小学校の校歌にも、中学校の校歌にも、河北潟の名はしっかりと刻まれている。

今のような半分以下になった小さな潟では、そのイメージは伝わらない。

しかし、すべては人の成したことだ。

失敗だったとしても、それを今更どうできるだろう。

子供たちは、干拓地の農場で採れた牛乳で作られるアイスクリームを、おいしいおいしいといって食べている。

十数年前に故郷に家を建て、河北潟干拓地によく足を運ぶようになった。

冬のスキーウォークを含め、四季それぞれの風景を見る、歩きながらそんな楽しみを知るようになり、いつしか干拓地そのものを認めるようにもなっていった。

少しずつビューポイントも掴んでいる。

今はただそれだけの、河北潟干拓地なのだ……

河北潟干拓地に風が吹く

最近は、休日時間があると河北潟干拓地によく足を運ぶ。

今まで近くに居ながら、夏のウォーキングや冬のスキーハイクに行くくらいで、特にそれほど深い愛着があったというわけではなかったのだが、今は変わった。

ボクらが覚えている河北潟は、広くて大らかで、嵐の時などは時々怖かったりもしたが、ひたすらのんびりとした印象だった。

だから、干拓によって失われたものはとても大きく、そうしたこと自体、過ちだったと今も思っている。

しかし、そうなったことを考えるより、今これほどまでに美しい風景として蘇っているということを思うようになった。

そう思うことで、自分の中にある河北潟への思いを忘れないようにしているのかもしれない。

今日の河北潟干拓地は、天気はいいのだが風が吹いている。

広々とした麦畑では、穂が大きく揺れ、じっと見ていると吸いこまれそうになる。

夏には「ひまわり村」になる一帯には、赤い花が無数に咲いていた。

どんな場所にいても、ここに広々と水面を輝かせていた河北潟があったのだと、いつも思う・・・・・・

 

内灘が町になって50年

生まれたところであり、今住んでいるところでもある「内灘」が、今年町制五十周年なのである。

まだ五十年しか経っていないのかと意外に思われるのだが、内灘は町になってまだ半世紀の歴史しかもたない、今の時代で言えばまだ若い町と言える。

不覚にも今や五十七歳となっているボクが生まれた時には、内灘はまだ村だった。七歳、つまり小学校一年の時に内灘村は内灘町になり、ボクはもう一人の友人と一緒に記念式典で剣舞をやらされた記憶がある。

その時は何のための式典だったのかも認識できないまま、古い小学校の講堂の舞台で凛々しく(たぶん)舞ったのだ。

ボクの記憶では、うちは経済状態もそれほどよくなかったのか、剣舞にふさわしい着衣を自前で用意できず、もう一人の裕福な友人宅からボクの分も借りたような気がする。刀だけは、どこかで買ってもらったおもちゃのやつがあり、子供心にもちょっと貧相な印象だったが、愛用のものを使った。

ところで、町制五十周年というと当然記念事業が行われ、それを検討する委員会が編成される。その委員会に、ちょっと変則的な形で去年の夏頃から参加してきた。

そして、ふと思ったのが、今や内灘はボクたち原住民の子孫たちだけの町ではなく、外から転入して来た多くの人たちやモノゴトによって動かされている町なのだということだった。町外からの転入者は、人口の半分どころか、かなりの割合を占めているという。

内灘は、全国的に見ても戦後大きく変貌した町の代表格にあると思っている。金沢のベッドタウンという位置づけは、昨年、市になった野々市よりもいい印象で捉えられていたのではないだろうか。

砂丘台地の畑や林がなくなり、道路と団地ができ、さらに医科大学病院などの大規模な施設が出来ていった過程は、気が付けばいつの間に?といったイメージがある。もちろん、そんな一朝一夕の出来事ではなかったが、内灘の変貌はそれに近いものだった。

しかし、内灘の歴史は、町になった以降の五十年だけではない。

何度も書いてきたが、内灘の歴史の重みは、町になる前にあったと思う。

実際にその時代のことを肌で感じてきた世代ではないが、ボクはやはり内灘の歴史の中のイメージは“貧しい村”という言葉で集約されると思っている。

祖父たちが築いていた強い漁業の時代が過ぎてから、陸に上がらざるを得なくなった海の男たちの、ある意味“みじめな姿”が、内灘という村の象徴であったような気がする。

ボクの中では、祖父は偉大な人物であり、さまざまなエピソードから尊敬できる身内なのだが、晩年近くで感じていた存在感も幼心に不動の強さを持っていたように思う。

しかし、そんな祖父たちがかつての繁栄を失い、日々の食い扶ちのために砂丘にサツマイモを作り、それを河北潟の向かい岸にある、豊かな米どころの町に売りに行かなければならなかった状況は、まさにその時代の内灘の象徴であっただろう。

ボクの中にも、母に連れられ祖父が操縦する小さな舟に乗り、水田の中の水路みたいなところを遡って行った記憶がかすかに残っている。そして、その中の最も強烈な記憶は、サツマイモが米と交換されることだった。

毎日食べているご飯のどれだけかが、こうやって交換された米を炊いたものだったと知ったことと、それを腰を折り、頭を下げながら受け取る祖父の姿が印象的だった。

ボクが生まれてすぐ後に、長兄は高校へ進学したが、同級生で高校へ進んだ者は一握りしかいなかったという。長兄も高校進学をあきらめていたが、成績が優秀だったこともあって、中学の担任が親を説得しに訪れ、渋々そうさせたと聞いた。

同僚などいない長兄は、時々金沢の学校から内灘の家まで歩いて帰ったらしい。交通費もままならなかった頃のことだ。

 

米軍による内灘砂丘の接収も、今更言うまでもなく重要な出来事だった。

さんざん書いてきたから、敢えてまた繰り返したくはないが、やはりあの出来事の本質の中に、内灘の貧しさがあったのは否定できない。

事実、あの後内灘は貧しさの沼から足を脱け出し、それ以後の発展へとひたすら突っ走ることになる。あの出来事による恩恵が、今の内灘の土台になった。

ボクは自分の拙著にも子供の視点から書いたつもりだが、貧しかった時代に生きた親を持つ子供たちであったからこそ、のびのびと生きてこられたのではないかとも思っている。

 

生まれて六年間、ボクは内灘村で育った。そして、内灘町になってからもそんなことには全く無頓着に生きてきた。たぶん、同じ世代の内灘の人たちもいっしょだったろう。

最近になって思うのは、人が住む町としての内灘のよさについてだ。

能登や白山麓など、厳しい環境にあるさまざまな土地を見てきた中で、内灘がもっている、そして植えつけてきたその優れた要素を、絶対活かさなければならない責任があるということだ。

たとえば、内灘には能登の人たちが多く転入しているらしいが、その人たちが単に金沢にも近く、能登にもアクセスしやすいという地理的なメリットを感じるだけではない何かを、内灘として創り出していく責任だ。

ユニークな視点で内灘を見てくれている人たちの存在もある。内灘は空が美しいという友人のクリエイターは、内灘のファンでもある。

明日の記念式典に案内状が届いている。かつて、町制施行記念式典で、剣舞をやったハナ垂れ少年が、その五十年後の式典に参加する。何だか妙な、不思議な思いに揺れている……

http://htbt.jp/?cat=28 『祖父のこと・・・』