内灘が町になって50年


生まれたところであり、今住んでいるところでもある「内灘」が、今年町制五十周年なのである。

まだ五十年しか経っていないのかと意外に思われるのだが、内灘は町になってまだ半世紀の歴史しかもたない、今の時代で言えばまだ若い町と言える。

不覚にも今や五十七歳となっているボクが生まれた時には、内灘はまだ村だった。七歳、つまり小学校一年の時に内灘村は内灘町になり、ボクはもう一人の友人と一緒に記念式典で剣舞をやらされた記憶がある。

その時は何のための式典だったのかも認識できないまま、古い小学校の講堂の舞台で凛々しく(たぶん)舞ったのだ。

ボクの記憶では、うちは経済状態もそれほどよくなかったのか、剣舞にふさわしい着衣を自前で用意できず、もう一人の裕福な友人宅からボクの分も借りたような気がする。刀だけは、どこかで買ってもらったおもちゃのやつがあり、子供心にもちょっと貧相な印象だったが、愛用のものを使った。

ところで、町制五十周年というと当然記念事業が行われ、それを検討する委員会が編成される。その委員会に、ちょっと変則的な形で去年の夏頃から参加してきた。

そして、ふと思ったのが、今や内灘はボクたち原住民の子孫たちだけの町ではなく、外から転入して来た多くの人たちやモノゴトによって動かされている町なのだということだった。町外からの転入者は、人口の半分どころか、かなりの割合を占めているという。

内灘は、全国的に見ても戦後大きく変貌した町の代表格にあると思っている。金沢のベッドタウンという位置づけは、昨年、市になった野々市よりもいい印象で捉えられていたのではないだろうか。

砂丘台地の畑や林がなくなり、道路と団地ができ、さらに医科大学病院などの大規模な施設が出来ていった過程は、気が付けばいつの間に?といったイメージがある。もちろん、そんな一朝一夕の出来事ではなかったが、内灘の変貌はそれに近いものだった。

しかし、内灘の歴史は、町になった以降の五十年だけではない。

何度も書いてきたが、内灘の歴史の重みは、町になる前にあったと思う。

実際にその時代のことを肌で感じてきた世代ではないが、ボクはやはり内灘の歴史の中のイメージは“貧しい村”という言葉で集約されると思っている。

祖父たちが築いていた強い漁業の時代が過ぎてから、陸に上がらざるを得なくなった海の男たちの、ある意味“みじめな姿”が、内灘という村の象徴であったような気がする。

ボクの中では、祖父は偉大な人物であり、さまざまなエピソードから尊敬できる身内なのだが、晩年近くで感じていた存在感も幼心に不動の強さを持っていたように思う。

しかし、そんな祖父たちがかつての繁栄を失い、日々の食い扶ちのために砂丘にサツマイモを作り、それを河北潟の向かい岸にある、豊かな米どころの町に売りに行かなければならなかった状況は、まさにその時代の内灘の象徴であっただろう。

ボクの中にも、母に連れられ祖父が操縦する小さな舟に乗り、水田の中の水路みたいなところを遡って行った記憶がかすかに残っている。そして、その中の最も強烈な記憶は、サツマイモが米と交換されることだった。

毎日食べているご飯のどれだけかが、こうやって交換された米を炊いたものだったと知ったことと、それを腰を折り、頭を下げながら受け取る祖父の姿が印象的だった。

ボクが生まれてすぐ後に、長兄は高校へ進学したが、同級生で高校へ進んだ者は一握りしかいなかったという。長兄も高校進学をあきらめていたが、成績が優秀だったこともあって、中学の担任が親を説得しに訪れ、渋々そうさせたと聞いた。

同僚などいない長兄は、時々金沢の学校から内灘の家まで歩いて帰ったらしい。交通費もままならなかった頃のことだ。

 

米軍による内灘砂丘の接収も、今更言うまでもなく重要な出来事だった。

さんざん書いてきたから、敢えてまた繰り返したくはないが、やはりあの出来事の本質の中に、内灘の貧しさがあったのは否定できない。

事実、あの後内灘は貧しさの沼から足を脱け出し、それ以後の発展へとひたすら突っ走ることになる。あの出来事による恩恵が、今の内灘の土台になった。

ボクは自分の拙著にも子供の視点から書いたつもりだが、貧しかった時代に生きた親を持つ子供たちであったからこそ、のびのびと生きてこられたのではないかとも思っている。

 

生まれて六年間、ボクは内灘村で育った。そして、内灘町になってからもそんなことには全く無頓着に生きてきた。たぶん、同じ世代の内灘の人たちもいっしょだったろう。

最近になって思うのは、人が住む町としての内灘のよさについてだ。

能登や白山麓など、厳しい環境にあるさまざまな土地を見てきた中で、内灘がもっている、そして植えつけてきたその優れた要素を、絶対活かさなければならない責任があるということだ。

たとえば、内灘には能登の人たちが多く転入しているらしいが、その人たちが単に金沢にも近く、能登にもアクセスしやすいという地理的なメリットを感じるだけではない何かを、内灘として創り出していく責任だ。

ユニークな視点で内灘を見てくれている人たちの存在もある。内灘は空が美しいという友人のクリエイターは、内灘のファンでもある。

明日の記念式典に案内状が届いている。かつて、町制施行記念式典で、剣舞をやったハナ垂れ少年が、その五十年後の式典に参加する。何だか妙な、不思議な思いに揺れている……

http://htbt.jp/?cat=28 『祖父のこと・・・』


“内灘が町になって50年” への1件の返信

  1. ふるさとへの想いって、
    それぞれにいろいろな角度から生まれているんですよね。
    私にも、まだまだはっきりしたものはないけど、
    そのうち何かが生まれてくるのかあ・・・・・

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